第一章 春 平田さやかの憂鬱(6)
「ごめんね、こんな遠いところまで」
改札の前でマミが手を振る。二十年以上前の、渋谷駅ハチ公口改札の風景がフラッシュバックする。大学生の頃から、いつも時間ギリギリに着くさやかをマミは嫌な顔ひとつせず待っていて、改札の向こうで手を振っていた。社会人になってから待ち合わせ場所は麻布十番駅や六本木駅に変わったが、それでも毎回、先に着くのはマミだった。金曜夜、改札で待ち合わせして、西麻布の会員制のバーや六本木のクラブで遊び回った。
いったい、二人で会うのは何年ぶりだろう。久々に会うマミは少しふっくらしたように見えるが、自分も他人のことは言えない。それだけ長い年月が経ったということだろう。有給休暇を取った六月下旬の平日。日差しが照りつける中、もう梅雨は明けかけて、夏はすぐそこまできていた。
「マミ、全然変わらないね」
「さやかこそ」
お世辞でもなく、気を遣っている訳でもなく、自然と口から出た。そう、何も変わっていない。お互い四十代になっていようが、何年ぶりだろうが、顔を合わせれば一瞬で年齢も時間も関係なくなる。それが親友というものだ。ひとつだけ違うのは、ここが渋谷でも麻布十番でも六本木でもなく、流山おおたかの森駅だということだけだ。港区はおろか、東京ですらない。千葉県だ。都心から一時間離れたベッドタウン。それがマミの現在地だった。
他愛もない話をしながら歩いた先にある駐車場には、七人乗りの白いアルファードが鎮座していた。
「え、これ、マミ運転できんの?」
思わず聞いてしまう。小柄なマミが、こんな大きな車を? どうしてもイメージができなかった。
「東京と違ってここら辺だと車がないと不便でさ。こないだも横こすって旦那に嫌な顔されたけどね」
さらりと笑いながら、マミが運転席に座る。助手席から振り返ると、後頭部座席に備え付けられたチャイルドシートには泥がこびりつき、荷室からはコールマンの折りたたみ椅子が飛び出ていた。足元にはグミの空袋が転がっている。
「いやー、お恥ずかしい。何回掃除してもすぐ汚して、嫌になっちゃうよ」
バックモニターに視線を落とし、ハンドルを巧みに操りながらマミが話す。高校卒業時に免許を取ったきりでペーパードライバーのさやかとは明らかに別次元の運転で、マミは人馬一体となってアルファードを駆っていた。
埼玉の田舎の公立高から都内の女子大に進学したとき、最初のオリエンで隣の席に座ったのが千葉県我孫子市出身のマミだった。地方でもなく東京でもない、埼玉と千葉の郊外という微妙な出身地の者同士、すぐに意気投合した。早稲田とのインカレサークルで一緒に遊んだり、夏休みに沖縄でリゾートバイトしたり、四年間、何をするのも一緒だった。さやかが居酒屋バイトの同僚と三年越しの大恋愛の末に別れたとき、夜通し失恋カラオケにつきあってくれたのはマミだった。
さやかが銀行に、マミが保険会社にそれぞれ一般職として就職してからも、毎週金曜日に待ち合わせては港区で飲み歩いた。夜の港区では、少し若い女子というだけで飲み代を払ってくれる男はいくらでもいた。二人とも酒は強かったし、あの手この手で持ち帰ろうとする男たちを軽くあしらって、二人でルームシェアしていた芝浦の築古2DKのマンションまでタクシーで帰った。ほろ酔い気分でタクシーの窓から流れる夜景を見ながら、眠らぬ街、東京の一員になれた気がして誇らしかった。
翻って現在。アルファードの助手席から流れる景色を眺める。焼肉屋、ホームセンター、自動車ディーラー……どれもさやかの実家周辺と同じような、ありふれたチェーン店ばかりが並んでいる。日本全国どこでもあるような、個性の欠片もないロードサイドの街並み。
「東京と比べると、退屈な風景でしょ」
心を見透かされたようでドキッとする。謙遜するわけでもなく、卑下するわけでもなく、妙にさっぱりしたマミの横顔を見て
「ああ、降りたんだな」
と思い、寂しくなった。いつも流行の最先端を走り、二人で飲むときもチェーン店は嫌だとわざわざ雑誌でこだわりの居酒屋を探していたマミはもうどこにもいないのだ。
さやかより一足先に結婚した後も、マミはさやかの相棒であり続けた。むしろマミの息子の
「私たちはタワマンに住んだまま仕事辞めずに働き続けて、イケてるママになろうね」
湾岸の海沿いの遊歩道を二人、海外製のゴツいベビーカーを押しながら誓い合ったことを思い出す。埼玉と千葉の郊外という微妙なコンプレックスを抱えたもの同士、生まれも育ちも東京の、東京一世の子供を育てることは共通の夢だった。タワマンのローンを返し、子供を育て上げて、はじめて東京という街に勝てるような気がしていた。
けれど、そんな誓いはあっけなく破られた。
「笑っちゃうよね、双子だって」
七年前、マミが手渡してきたエコー写真には、枝豆のように二つ連なった胎児が写っていた。おめでとうと言うべきか逡巡している間、マミは独り言のように呟いた。
「教育費も二倍、子供部屋もあと二つ必要。もう、東京に住むのは無理かな」
すべてを覚悟したであろう親友を前に、さやかは何も言葉をかけることができなかった。一時間半近く離れた実家に住む両親のサポートも受けられない中、仕事と子育てを両立することの大変さは、他でもないさやかが一番しっている。ましてや双子。上の子の小学校と同じ学区内で手頃な価格の4LDKのマンションを探すことがどれだけ大変か、想像すらつかない。
結局、マミは仕事を辞め、実家近くの千葉県流山市に引っ越した。
「マンションが結構高く売れたから、思ったより大きい一軒家を建てられそう。なんだかんだラッキーだったかも」
努めて明るく笑っていたマミだったが、それが本心じゃないことは、十五年以上一緒にいたさやかが一番よくわかっていた。レインボーブリッジの向こうで夕日が高層ビル群に沈んでいく中、引っ越しトラックとともに去るマミたち一家。なんとなく連絡を取りづらくなって、その後は年賀状の写真で三人の子供の成長を追うだけとなっていた。
今回、マミから連絡をもらったとき、正直、会うかどうか悩んで返事を丸一日返せなかった。どんな顔をすれば良いのかも、何を話したら良いのかもわからなかった。それでも、受験や仕事やPTAの雑務といった種々のストレスから逃れたいと思ったとき、ふと思い浮かんだのがマミの顔だった。
日々の生活で心がささくれ立つ中、「都落ち」した親友の現在地を見て安心したいという卑しい気持ちがなかったといえば嘘になる。歯を食いしばり、東京という街に負けずに頑張っているという自負から生じるほのかな優越感と、かつての親友にすら内心でマウントを取ってしまう自分の卑しさ。混沌とした感情を抱えていると、車が止まった。
「着いたよ、少し駅から遠くてさ」
目の前にそびえ立つ建物は、豪邸と呼んでも差し支えない代物だった。東京の狭い土地にひしめき合うペンシルハウスを勝手に想像していたさやかは、呆気にとられた。綺麗に整理された区画には、瀟洒な一軒家がズラリと並ぶ。どの家も注文住宅なのだろう、一つ一つの家に個性があり、どれ一つとして同じものはない。無機質なタワマンが並ぶ湾岸とは対象的だ。
「ただいまー。ベス、そこで寝ないの!」
木の匂いが漂う広々とした吹き抜けのリビングでは、入り口でゴールデンレトリバーがうたた寝していた。そういえば昔、将来犬を買いたいねなんて話をマミと二人でしていた気がする。犬が欲しいという充の願いを「うちは狭いからそんな余裕はないでしょ」と拒否したのと同じ口で。
この悠々とした空間に、60平米の我が家がすっぽりおさまりそうだ。70インチはあろうかという巨大なテレビ、一枚板のダイニングテーブル、アイランド式のキッチン、巨大な冷蔵庫、七面鳥が焼けそうなオーブン――。全部、私が欲しくて、それでも今の部屋ではとても無理だと諦めたものだ。
マミの案内で階段を二階に上る。三人の子供にはそれぞれ個室があり、夫婦の寝室とは別に書斎まであった。学校に通うあるじたちが不在の子供部屋にはおもちゃや本がそこかしこに散らばっていて、いまにも三人兄妹の騒がしいやりとりが聞こえてきそうだった。充と同級生である雄一君が、小学一年生になったばかりの双子の妹二人が喧嘩しているのをなだめる姿を思い浮かべる。保育園に通っていた頃、弟や妹が欲しいと騒いでいた充だったが、あるときを境に何も言わなくなった。私たちが諦めさせたんだろうか。胸の奥で、今まで見て見ぬ振りをしていた何かが蠢く。
コストコで買ったという冷凍ピザをオーブンで温めつつ、ベスに餌をやりながらマミが尋ねる。
「充君、塾とか行ってるの? 東京の教育事情は大変だって聞いたけど」
「うん、なんだかんだ毎日通ってるけど、仲良い友達とかもいるし、結構楽しいみたいよ。私は受験事情とか中学校とか全然わからないから、どこかに行ければいいやって感じなんだけど」
なんで私は親友相手に、本心を隠してよそ行きの建前を話しているんだろう。先週末も、もっとゲームがしたいと駄々をこねる充を叱りつけ、机に向かわせたのは他でもない私なのに。子供の将来のためと言いながら、自分の行為に後ろめたさを感じていることを、まだ私は認めることができていない。
「そっか、充君が楽しんでいるなら良いね。今年の春に雄一の学年に転入してきた子がいるんだけど、東京で受験ノイローゼになっちゃったから全部やめて、こっちに引っ越してきたんだって。ストレスで円形脱毛症になったらしいよ。そこまでして子供を追い詰めるって、噂には聞いてたけど東京の子育てはすごいんだね」
マミの何気ない言葉が、鋭利な刃となって突き刺さる。自分が同じ立場だったら、途中でブレーキを踏むことができただろうか。髪がポロポロと抜けて十円ハゲができた充を想像し、身震いする。
「ここのあたりは中学受験とかあんま盛んじゃないから、そこらへんの事情に疎くてさ。雄一もサッカーばっかやってるし」
リビングの壁にはコルクボードが貼ってあり、家族写真と並んで雄一君のサッカーチームの写真が飾られていた。泥だらけになり、膝小僧をすりむいた雄一君は、よく日焼けしていた。
かつて充もサッカースクールに通っていたが、平日の塾と練習がかぶるようになり、小五の夏でサッカーは辞めた。元サッカー少年の健太は残念がっていたが、さやかは内心ほっとしていた。むしろ、そうなるように仕向けていた節すらある。
サッカーなんていくら上手くてもプロになれる訳でもないし、万一、プロになってもちゃんと稼げるのは一握りだ。その点、勉強は上位一割にいれば安定した将来が約束される。世の中のことを何もわからない子供に対し、確実性が高い方向にさり気なく誘導するのも、親の務めだ。そこに躊躇はない。ただ、写真に映っている雄一君のような、充の満面の笑顔を最後に見たのはいつだったろうか。
「私も旦那も高校まで公立だったし、子供の頃は無理に勉強するより、友達と楽しく遊んで欲しいかなって。本音ではもうちょっと頑張ってほしいけど」
マミに気負った感じはない。公立中学に進学することはリスクだという噂をを信じ「将来の選択肢を増やすため」とブリックスに充を通わせ、残酷な偏差値競争に我が子を追い立てている私の決断は本当に子供のためだったのだろうか。リビングから見える庭に鎮座するバーベキューコンロを横目に、そんな想いが頭をよぎる。
さやかの表情が暗くなったことを察してか、マミが話題を変える。
「まあ千葉の郊外で、しかも駅から遠い注文住宅だからね。タワマンと違って資産価値とか期待できないし、今から老後が不安よ」
言葉とは裏腹に、マミは明るく笑っていた。毎晩、寝る前にスマホで不動産ポータルサイトを巡回し、ローゼスタワーの中古物件が新築のときからいくら値上がりしているか含み益を確認している自分が恥ずかしかった。
「ただいまー、あれ、お客さん?」
「ママ聞いて、ユイが酷いんだよ!」
喧騒とともに、姉妹が学校から帰ってきた。最後に別れたときはまだ首が座ったばかりの乳児だったのに、もうこんなに大きくなったのか。よその子の成長は早い。気がつけば、時計の針はもう三時を回っていた。
「もう子供たちも帰ってきたし、そろそろ帰ろっかな。夕食も作んなきゃいけないし」
さやかが切り出すと、マミは
「そっか、もうそんな時間か。ユイ! サキ! ママはこれから駅行くから、遊びに行く前に宿題やっときなよ!」
とよく通る声を出していた。そういえば昔からこうやって、雄一君にチャキチャキと指示を出していた。マミは昔から変わらない。変わってしまったのは私だ。
家を出て駅まで送ってもらう途中、ハンドルを握るマミが呟いた。
「今日は久しぶりに会えて嬉しかった。私は仕事も東京での暮らしも諦めたから、今でもたまにさやかのことが羨ましくなるよ。でも、ここで千葉県民として生きていくって決めたんだ」
リーバイスのジーンズにナイキのスニーカー、ユニクロの上着。服装に気を遣っていた昔のマミからは考えられないけれど、無性に格好良かった。先日デパートで買った、よそ行きのカーディガンをここぞとばかりに羽織った自分が少し恥ずかしかった。
駅前のロータリーで降ろしてもらい、つくばエクスプレスの区間快速に乗り込む。秋葉原とつくばを結び、茨城県や千葉県、埼玉県の沿線住民を東京に送り込む地域の大動脈は平日の日中にも関わらず、多くの人で賑わっていた。みんな、東京に用事があって出かけるんだろうか、それとも、私のように東京に帰る人も混じっているんだろうか。外見からは、全く区別がつかない。
私にも、マミのように東京を出るという選択肢があったのだろうか。そんなことを思いつつも、車窓から見える田畑が住宅地で埋め尽くされ、風景に高いビルが混じるようになるのを見て、少し落ち着く自分がいる。35年ローンの返済に追われながら東京という街でウサギの寝床のような狭い家で暮らす日々に違和感を覚えながらも、郊外でのゆったりした暮らしにリアリティを感じることができない。これが、今の自分の、嘘偽らざる思いだ。
子供には子供らしく健康的に育って欲しいと願いながらも、良かれと思って過酷な受験戦争に送り出し、偏差値という無機質な数字で一喜一憂してしまう。東京というすべてが狂った異常な街で、息が詰まるようなこの場所で、私たちは何を追い求めて消耗しているのだろうか。
電車の揺れに身を任せながら、幸せとはなんだろうかぼんやり考える。ふと、スマホでおおたかの森の物件情報を探してみた。マンションも戸建てもさやかの部屋より安い物件ばかりだったが、本当に探していた答えは見つからなかった。
息が詰まるようなこの場所で 外山薫/エンターブレイン ホビー書籍編集部 @hobby
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