八月下旬
「おかしい」洗面台の鏡の前で、見越は独りごちる。
手足の生えたおたまじゃくしが出てきたのはもう二週間前だ。次はカエルだ、成体だ、それが出てきたら助かる。無理やり信じて耐えてきたのに、あれだけいがいがしていた喉は綺麗さっぱり治ってしまった。
喉から出てきた彼らの家は、戸棚の奥にしまってあった一リットルのタッパーウェアから、ついに小さめの蓋付き水槽になった。後の二匹がカエルになってしまったからだ。見越はもう、ここまできたら、成長するのを待とうと思った。半ばやけっぱちだ。初めに出てきたおたまじゃくしも、ちょろりと残る尻尾を除けばもうほぼカエルのようになった。
歯を磨き終えた見越は、朝食を食べ身支度をし、たたきへ出て靴箱の上を覗き込む。水槽の中に羽虫がいた。二番目の彼か、彼女が、陸地の上から舌を伸ばしてぺろりとたいらげる。
蓋に付けられた窓を開け、水槽の脇にある開けさしのかつおぶしをぱらぱらと撒き、見越は仕事へ向かった。
「見越さん〜喉治ったんですねえ」
小林夏樹がそう言いながら、見越の肩をぱたぱたと叩く。
「そうだね、ご迷惑おかけしました」
例に漏れず昼時だ。咀嚼していた鮭おにぎりを飲み込んで、見越は軽く頭を下げる。
「よかった〜だいぶ来てましたからね、ちょっと前ね、大変でしたねえ」小林の言葉に、見越は少し逡巡して返す。
「や、ちょっと変なもの見ちゃって」
「なんですか?」
「おたまじゃくしがね、喉から出てくるっていう」
「エッ怖い。ホラー漫画かなにか?」
「そう。それでね。参っちゃって」
「あー、見越さんご飯好きですもんね」
小林が頷く。見越の手が止まる。
「ご飯?」
「ご飯。お米って作るとき田んぼの水を抜くじゃないですか。それで田んぼにめちゃめちゃいたおたまじゃくしがみんな干からびて、肥料になっちゃって。わーそれたぶんおたまじゃくし? やカエルか、の行き場をなくした悲しみでしょう、落ちが」
「うそ」
「あれ、違います?」
「いや、その、知らなくて」
「あら。そうかーここはあんまりカエルいないですもんね。田んぼもないですし。でもねえだからお米は栄養あるんですよきっと」
うちも実家でお米作ってますよ〜。それで自分ちで食べるんですよ。
小林は当たり前のようにそう言う。
見越は手にしたままの鮭おにぎりを見つめる。
一号、二号、三号が、水槽のなかで各々自由にしている。
一号は水に半身を浸けて、二号は壁に張り付いていて、三号は喉を鳴らしていた。尻尾も消えて、すっかりカエルに成長した一号が見越を見つめる。
「そうなのか…」見越がぽつりと呟く。
喉から出てきたカエルたちは、今日も水槽で暮らしている。
見越は、変わらず米が好きでよく食べる。
ただそれきり、彼の喉からはなにもでてこない。
かえるおとこ フカ @ivyivory
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