かえるおとこ

フカ

八月上旬




「見越さん、調子悪そうですねえ」


 見越みこし真也がデスクに腰掛け、事務所で軽く咳き込んでいると、小林夏樹が声をかけてきた。

「風邪ですか? 長引いてますね」

 来月分の勤怠表の束を見越へ手渡すと、小林はこぶしを口もとに当てて軽く振ってみせる。

「うん。なんかねえずっと喉がつかえてる感じで」

 見越はマスクをつけ直し、頬のあたりをかりかりと掻いた。夏風邪なのかここ一週間ほど、彼の喉は調子がよくない。

「大変ですねえ。病院とか行きました?」

「や、まだ。このくらいじゃね。喉がちょっと悪いだけだしね」

 見越が返すと無線が鳴った。ペットボトルへ伸ばしかけた手を引っ込め、ちょっとごめんね、と手のひらを振る。

 ここは運送会社である。主に石油や、ガソリンを運ぶ。盆や夏休みで需要が高まる八月は繁忙期なのだ。

 無線の相手はドライバーの伊藤正和だった。いつもはするすると流れてゆく運送ルートが渋滞しており、山梨へと向かっていた伊藤の予定が少し、遅れるらしい。

 ルートの誤算は、運行管理の見越のミスだ。もう参っちゃうよね。こぼす伊藤に、見越は塩梅のいい謝罪をし無線を切った。

「ふー」「お疲れです」「もう参っちゃうよね」「あはは」「病院行ってる場合じゃないねえ」「そうですねえ」

 見越は肩を回して、中断していた昼食の続きに取り掛かる。事務所の人間はいつだって、食事をしながら同僚と話し、仕事をするのだ。

「あー、でも」小林の目線が見越の手元に下がる。

「喉あれなのに、ゼリーとかじゃないんですね」

 ああ、と返し、見越はツナ・マヨネーズおにぎりを飲み込んだ。

「ご飯が好きでね。食べた気がするから」

「へえ。あれ、見越さんご出身は?」

「ここ。地元でね」

「あら、いいですねえ」

「小林さんは?」

「長野です。山ばっかりでね」

「いやあいいじゃない、山。僕は好きだなあ」

「それぞれですねえ。私もここ好きですよ。たまにトイレ流れないですけど」

「海がそこだからねえ。」

 そこまで話すと、小林は所長に呼ばれて席を外した。



 そんなことを話した翌日、起床すると見越の調子はより悪くなっていた。痰が詰まったようで、どうも煩わしい。うがいをし、水を飲んでも変わらない。

 歯磨きをしているとき、盛大にむせた。歯磨き粉の泡が洗面台へと飛び散る。数度激しく咳き込んで、ようやく絡んだ痰が取れた。手のひらに出してしまったそれを排水へ流そうとして、見越は固まる。

 黒いなにかが泡に塗れてぴちぴち跳ねている。

 じっと見る。

 出てきたのはおたまじゃくしだった。



 見越は直ぐ様病院へ行った。タッパーウェアに入れて持参したおたまじゃくしをちらと見て、最寄りの医者は心療内科へ誘導するから一度帰った。15時過ぎに、別の医院の門も叩いた。内科、消化器科、呼吸器科と順にかかったが同じだった。憔悴している見越をよそに喉から出てきたおたまじゃくしは、何事もなかったように水で満たしたタッパーのなかですいすい泳いでいる。

 急病だと言い休んだので、スマホへ所長からメッセージが来ていた。喉のつかえは無くなったので、明日は出られます。なにも解決していないがそう打ち込んで返信をした。

 また次の朝、起きると喉がいがいがしている。


 上の空になりながらも見越は運行スケジュールを刷り、ドライバーへと伝え、無線に出た。こういう時に限って物損事故が起きたりなどして、ガソリンスタンドは空になり、散々だった。昼になり、夕方になり、喉の違和感は増してゆく。嫌な予感しかしなかった。

 八時を過ぎてようやく帰宅し、濃く希釈したうがい薬で音を立てながら喉を濯ぐ。あまり食欲はないが腹は減るので、チャーハンを食べた。コンビニで買ったチャーハンはぱらぱらしていて喉にはりついた。


 翌朝、一昨日と同じような喉の痛さで目が覚める。

 見越は無理やり咳き込んで、違和感を外に出す。

 やはりおたまじゃくしが出てきた。手のひらで身をよじっている。

 タッパーウェアへ移そうとして目を見開いた。

 足がはえている。



「見越さん、大丈夫ですか」小林夏樹が震えてそう言う。

 さすがに誰にも言えないので、ずいぶんと参ってしまった。マスクの奥で唾を飲み込む。ごめんね、大丈夫。それだけ返して仕事に戻る。

 ただ、理由はなにもわからないが、仕組みは理解できた気がした。あと何日かで終わるはず。それだけを薄い希望にして、見越はまた鳴り響く無線に出続ける。



 見越の自宅の直ぐ側を流れてゆく川は半淡水だ。そこに流すわけにもいかず、流してしまえばただの妄想になってしまうようで、見越は出てきたおたまじゃくしをタッパーの中にそのままにしていた。喉から出たとは思えないほど彼らは元気に泳いでいたし、散らしたかつおぶしをつついて食べている。足が生えているやつもいるから、念のため排水口用のストッキングをタッパーの上に被せた。

 今日も変わらず喉がおかしい。食欲はめっきりなくなった。しかし何も食べずにいると、暑さに体が耐えられないので、夏になるたびに飲んでいる牛乳で割った甘酒で、夕食を済ます。


 眠れはしないが寝床へ入り、そのまま朝になった。

 洗面台で咳込んだ。ぬるり、せり上がってくる。

 出てきたものにはやっぱり手足が生えている。











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