逃亡の告白は道端のあなたへ

一縷 望

屈折

分厚いレンズのメガネをかけると、少し安心する。

目の前の光が屈折されるから、脳内のスクリーンに映る景色は、現実とは少し違う。

だから安心する。


本心を言うと、メガネだけじゃなくて、鏡に凹凸レンズ、水晶玉、カメラのレンズ、液晶、他人の水晶体、諸々全部を駆使して、目の前の景色を屈折させたい。世界は楽しいものだと、悲しみも苦しみも、怒ることだってありはしないのだと信じていたい。

信じていたい。


それほど、目の前には直視したくないものたちばかりが転がっている。

祖先の罪、進学、銃を抱え泣き叫ぶ大人、未来、生首、不安、そして自分。


大小関係なしの吐瀉物みたいなミックスジュースが、直視する度に流れ込んでくる。


だから私は逃げた。と言っても、走り出す勇気も力もない私の足は動かないから、顔を背け、息を止め、目線を脇道に逸らした。


首が痛い。視界の端では、血と炎が踊る。


もう嫌だ。全てが嫌だ。見たくない。


私はしゃがみこんで、目をつむった。

搾られた水分が頬を伝って、その筋を冬風が刺す。


雪が降り始めた。私の頭に。肩に。丸めた背に。

雪が降り始めた。粉塵の中泣く人の鼻頭に。

雪が降り始めた。真っ赤に焼けた砲塔に。

雪が降り始めた。寝間着で飛び出した子の舌に。

雪が降り始めた。サンタクロースのソリに。


雪が降り始めた。全ての喜びと悲しみの上に。


それは降り積もって、全てを白と黒で覆った。世界は一時のモノクロ。


冷たさで感覚を失った。辺りを覆う雪と溶け合うみたいだった。凍える結晶たちは、私の目蓋を撫でて霜焼けを作りながら言った。

「我々なら光を屈折させられる。あなたの目を私が覆ってあげよう。キミが望むなら」


「それも良いかもしれない。でも、少し考えさせて」そう答えたが、思考するには体温が低くなりすぎていた。心地よさすら感じる意識の消失に、私はすぐ、抗えなくなって、身を委ねた。


・・・


一体、どれほどの時が過ぎただろうか。

鼻を何かがくすぐる、こそばゆさと、頬に感じるゴツゴツした感触に、私は目を開けた。見れば、転倒した視界の中、アリが触角で私の鼻を軽やかに叩いていた。訳もわからぬまま、アリに微笑を返すと、彼女は安心したように、小さな地平線へと去って行った。


ひときわ暖かで強い風が私の肺臓に流れ込んで、身体じゅうがお日様で満ちる。


雪は私の応答を待つ間に溶けたらしく、目が覚めた私は路傍に優しく横たえられていた。


起き上がって、あくびを1つ、2つ。

目の辺りに違和を感じて、メガネのないことに気づいた。辺りを探るも、ない。

雪どけ水と一緒に、流れていってしまったらしい。川を下り、今頃は大洋を漂っているのだろうか。


唐突に怖さが戻ってきた。今、私の瞳孔と景色を遮るものは何もない。見るもの全てが、直接語りかけてくる。


祖先の罪、進学、銃を抱え泣き叫ぶ大人、未来、生首、不安、そして自分。


全てが大音量で、私に迫ってくる。


腰が抜けて動けない私は、辺りを手当たり次第に見て、少しでも静かなものを必死に探した。


だが、目につくもの全てが雄弁に語る。気が滅入りそうだ。


そのときだった。流した視界に優しい赤が横切った。血でも炎でもない、とっても優しい赤が。


目をめると、それは1本のヒナゲシだった。何も語らず、ほがらかに、赤子のくちびるほど薄い4枚の花弁と、細々と黒い雄しべとを、少し強い春一番になびかせて。


メガネなしで、ものに見入ったのは、これが初めてだった。ヒナゲシからは、何も聞こえてこない。

花を咲かせるまでに、幾多の悩みがあっただろうか。あの麻薬の原料を親類に持つこの人は、一体どれだけの葛藤を背負ってつぼみをもたげていたのだろうか。


だが、ヒナゲシは、そんな苦労を微塵も語らず、ただ、今だけを生きている。春風に揺られる喜びだけに、身を任せている。


花弁が1枚、もげて舞った。

ひらひらと前方へ。私が逃げた前方へ。

目線で思わず追ってしまった、優しい赤色。


私が目を背けたものたちの中に、ふわりと着地して、そのまま、「大丈夫」とでも言うかのように、ぴたりと静止した。


足はもう震えない。

うん、踏み出せる。


私は目を前方から逸らさぬまま、花弁を3枚残して未だ朗々と揺れるあなただけに聞こえる声で、ありがとう、と囁いて。歩きだした。


目の前のものを透かして見えるは、青と入道雲。


夏がくる。

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