凍る蝉
土蛇 尚
母親だから。母親でも。
うちの冷蔵庫には蝉が入っている。
「ママ、行ってくます」
黄色い帽子を被って幼稚園のバスに乗る息子を見送る。
蝉の鳴く音が響く8月。この時期も子どもを見てくれる園で、とても助かっている。来年には5歳になる。もうどこで何を覚え何を聞きどう感じてるのか全て知る事は出来なくなってきた。
それが嬉しくて少し怖くもある。これからそんな事がどんどん増えていく。
先の事を考えても仕方がないと、頭を切り替えようとしたら、また頭の痛い事を思い出してしまった。最近こんな事が多い。毎日が忙しく常に頭を何かで圧迫される。
冷蔵庫に入っている蝉だ。死んだ蝉。
「ママ、せみさん!」
保育園に帰ってきた息子が突き出してきたのは、死んだ蝉だった。小さく丸い手をくっつけて、パカっと広げるその仕草はとても可愛らしかったのだけど、その手に乗っていたのはどうしようもなく私の苦手な『虫』だった。
その時は一瞬声を上げそうになった。それをグッとこられる。図書館で借りた教育の本に『子どもが好きな物を拒絶しない』と書いてあったから。
でも理不尽な話ではないか、私は母親である前にひとりの人間のはず。なのに嫌なものを嫌と言えない。
子どもができてからこんな事が多い。声を作る。
「蝉さんだね。ママに見てくれるの?」
「うん、あのね、あのね冷蔵庫に入れたげて」
……冷蔵庫に入れてあげて?死んだ蝉を?どう言うこと?息子はとても真剣に言ってきている。クリッとした目で私を見ている。
「蝉さんを冷蔵庫に入れるの?」
私は『子どもの話を聞く』に従ってなんで蝉を冷蔵庫に入れようと考えたのか聞く。
「うん、冷蔵庫に入れないと可哀想だから」
なんで可哀想なのか分からない。子どもの考えてくる事は分からない。話さなかった時も分からないけど、話すようになっても私には分からない。母親なのに。
嫌だったけど、もう使わないタッパーに死んだ蝉を入れた。底と蓋には大きくXと書いた。それを冷蔵庫に入れる。
「良かったね蝉さん!」
と息子は言った。
それがまだ冷蔵庫の下の方に入っている。手が空くとその存在を思い出す。何か息子が変な訳ではないと思う。優しい子だ。でも気になる。
「お母さん。ちょっといい?」
久しぶりに親に電話をかける。母の声は少し老けた気がした。冷蔵に入っている蝉の事を話す。話したかった。
「あら、懐かしいわね。あんたも子どもの頃、トンボを冷蔵庫に入れてって泣いたのよ。覚えてないでしょうけど。理由を聞いたら何て答えたと思う?」
そう母は少し笑いながら、子どもの頃の私が冷蔵庫に入れた理由を教えてくれた。
私は答え合わせの為に息子と話す。膝の上にちょこんと乗せて聞く。
「もう夏が来ないと思ったの?」
「うん。蝉さんは夏の虫さんなんでしょ。先生がもうすぐ夏が終わるって言ったから」
「だから蝉さんともう会えないと思ったのね」
「うん」
「蝉さんは夏の生き物だけど、夏が終わったら秋が来て秋が終わったら冬がくるのよ。そしてまた春が来るの。その次は夏。季節は繰り返すの」
季節が繰り返すとまだ知らない息子と多くの思い出を作りたい。私はそう思った。
冷蔵庫の蝉は息子が存在を忘れたころにひっそり捨てた。
もうすぐ秋が来る。
終わり。
凍る蝉 土蛇 尚 @tutihebi_nao
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