28

いろいろと考えたが、最後の日はまりえの命日と同じ日にする事に決めた。

理由は幾つか有ったが、一番大きな理由は“なんと無くそうする事が一番いい“と思ったからだった。


橘凛への恋心に気がついた日からちとせの毎日は感情の乱高下の連続だった。

些細な事で嬉しくなって気分が踊り、なんて事ない仕草や言動に酷く落ち込んだり、憤ったりした。

不思議だった、自分がなぜ喜んでいるのか、なぜ怒っているのかわからないのに【喜びや怒りの原因を説明出来る時】よりもずっと嬉しくなったり、我慢出来ない程イライラしたりした。

それでもちとせを振り回した戸惑いともどかしい感情の毎日は、今になって思い返してみるとどれも大切と呼べる物だった様に思う。


【まりえ姉さんの旦那さんってどんな人だったんだろう…】


人を愛する事の煩雑さに首を傾げながら、ちとせはまりえを思って1人微笑んだ。



あらかじめ予定された【その日】を迎え、いつもと同じ様に携帯電話のアラームに起床を促されたちとせは、まず凛に宛てた手紙を書くことにした。


手紙を書く事についても前日の夜まで悩みに悩んだが、自分が死んだ後であれば許されるような気がした事と、そもそも送り出される事の無いこの手紙が凛の手元に届く可能性は極めて低い様に感じられた事、何よりも初めて感じた他人に向ける愛と言う感情をどうにか形として残しておきたいと言う中途半端に消しきれないエゴがちとせをペンを握らせる結論へと至らせた。


自分の気持ちを誰かに伝えた経験が無かったちとせは、遅々として進まない文字にヤキモキとしながら、書いては消し、また書いては消しを繰り返し、どうにか納得のいく文面を仕上げると小さく丸い丁寧な字でそれを清書し、【もし橘凛と言う男の子が訪ねてきたら渡して下さい】と祖父母に向けた付箋紙を貼り付けてテーブルの上に置き身支度を済ませて家を出た。


この日、駅に向かう道を吹き抜ける風はとても冷たく湿っていて、天気予報では今日から数日間は気圧と寒波の影響で9月の終わりにも関わらず、11月下旬並みの気温になることを伝えていた。


【10年前の今日は、どんな天気だったのかな…】


道を歩く多くの人は未だ夏を引きずった服装を身に纏い、季節外れの肌寒さに顔を顰めている。

ちとせも例に漏れず比較的薄着で家を出てしまった事を少し後悔しながら、白いワンピースから覗く足首を冷たい風に絡め取られつつ、“せめて、雨じゃなければいいな…"と思った。

投身自殺したまりえの遺体を打つ夏の終わりの冷たい雨を想像したくはなかったからだ。





       ———————————————————




バイト先に到着したちとせはスタッフルーム内の更衣室で着替えを済ませ、午前組と入れ替わる時間を待っていた。

ちとせにとってどれだけ今日が【特別】な日であっても世界は昨日までと同じ速度で進みながら予定された今日を滞りなく進めていく。

ちとせより遅れて来たスタッフ達はいつも通り【おはようございます】と挨拶をしてちとせの横を通り過ぎ、奥の更衣室で着替えを済ませると次々と控室のテーブルに座って談笑し始める。

他愛の無い会話、いつもと同じ雰囲気、ちとせは振られた話題に笑顔を浮かべつつ相槌を打ち、始業時間を待っていた。


もうそろそろフロアに降りようかと考え始めた矢先、スタッフルームの扉が開いて凛が中に入って来た。


「間に合ってよかった…あ、おはようございます」


そう呟いた凛はまるで頭上でバケツをひっくり返したかの様にずぶ濡れで、身体中ありとあらゆる所から水を滴らせている。


「ちょ、ちょっとどうしたの凛くん、びしょびしょじゃない!」


想像の右斜め上をいく凛の出立ちに、ちとせの隣に座っていた女子大生のスタッフが素っ頓狂な声を上げる。


「なんか突然降って来ちゃって…もう原付乗ってたから…あ、今外雨降ってるんですけど…」


「うん、捕捉されなくてもわかるよ?それは………」


凛の受け答えに声をかけたスタッフが呆れかえる様子で言葉に詰まる。


唐突に静まり返ったスタッフルームの扉の前で固まっていた凛が小さく“クシュン“とくしゃみをすると、堪らなくなってちとせは大声で笑い出した。


「あははは!突然降って来ちゃったの?それじゃぁしょうがないよね?いいから早く着替えておいで!風邪引いちゃうよ?」


ちとせに釣られる様に他のスタッフも凛のあまりにも散々な容姿に笑い始めると、凛は【そうだ遅刻になる】と言い残して更衣室へ向かう、ペタペタと音をさせながら歩く凛の足後を示す様に床に残る水溜りを見てちとせはもう一度声を出して笑った。




    ————————————————————





フロアに降りるとその日のヴァローリはとても混雑していて、当日の予約状況を示すブラックボードには4組の団体の名前が記されていた。


勤務中暇なよりは混雑している方がいいと考えるタイプのちとせにとって、最後の出勤日となる今日、店が混雑している事は喜ばしい事だったが店が忙しいと言う事はつまり凛と話す機会が少なくなると言う事で、それに関しては素直に喜んでいい物か判断しかねていた。


あらかたの客がはけて閉店時間を意識する時間帯になると各スタッフにも少々余裕が出始めて、店の掃除や洗い物にスタッフを割ける様になってきた。

ちとせと凛がもはや壊滅的と言える物量で散乱しているグラスや食器類を並んで洗っている時、脈略なくちとせが問いかけた。


「ねぇ凛くん、私たちってなんで働いてるんだろうね」


「なんでって…」


「お金の為?」


「90%以上の人はそうなんじゃ無いですかね?」


「じゃぁ残りの10%の人は?」


「やりがい…とか?」


「凛くんは?」


「バイク、買いたくて」


「バイク?持ってるじゃん」


「あれ原付じゃないですか…姉貴のお下がりだし、中型に乗りたいです」


「原付ってバイクじゃないの?中型?何それ?」


「あぁーええと…うん、原付より大きなバイクです…」


「今絶対【メンドくさい】って思ったでしょ…」


「思ってないですよ…」


食器を洗う手は止めず、ちとせは肘でコツンと凛の脇腹を小突く、凛は小さく【うっ】とうめき声を出しつつ、なぜメンドくさいと考えていた事に気づかれたのかと小首を傾げた。


「じゃぁまぁとりあえず、それが凛くんの当面の目標だね」


「そんな大それた物じゃないですよ、わかんないですけど、学生がするバイトってそんなモンなんじゃないですか?欲しいものがあって、それを買う為にするっていうか…結城先輩は違うんですか?」


「んーどうなんだろう?私にとってここでのバイトは生きている証明って言うか…別にバイトだけじゃなくて、毎日の中に有る物全部がそうなんだけど…」


「また何言い出すんですか…スケールが大き過ぎますよ…結城先輩のそう言う世間ズレした部分で真面目なとこ尊敬しますけど、学生でバイトに生きる意味見出してる人なんて普通は居ないと思いますよ…」


「そう?実は人知れずのっぴきならない深い事情を抱えているのさ、結城お姉さんは!しかも私学生じゃないし!」


「はいはい、手止まってますよ?早く拭いてください、次置けないじゃないですか!」


気がつくと拭き手をしていたちとせのスペースには洗い手をしていた凛から送られたグラスや皿が溜まっていた、ふと視線を落としてそれを確認したちとせはもう一度凛の脇腹を小突く、【理不尽だ…】呟いた凛はなぜか顔を綻ばせていた。





—————————————————————





最後の客が会計を終え、机の上に椅子を上げ終わる頃には凛とちとせを除くスタッフは全員退勤し、店内には鍵閉めを任された凛とちとせだけが残っていた。


更衣室で順に着替えを済ませ裏口の鍵を閉めようと外に出ると、雨は終業時間直前に上がった様子で店の前を横切る国道を走る車のタイヤが大きく飛沫を上げながら走り去っていくのが見えた。


凛がバイクに鍵を差し込み、中々掛からないエンジンに首を捻りながらガシャガシャと何度もキックスターターを踏み込んでいるとちとせが缶コーヒーをふわっと放り投げて来た。


「何してるの?」


「エンジン掛けようとしてます」


「大変そう…」


「普通はボタン押せば掛かるんですけど…なにぶん骨董品な物で…」


「壊れてるって事?」


「俺もそんなに詳しくないからよくわからないですけど、姉貴から貰った時からこうでした」


凛はため息をついてキックレバーを蹴り下ろす事をやめ、ちとせが放り投げて来た缶コーヒーのプルタブを開けてブラックコーヒーを勢いよくその喉に流し込んだ。


「だから買い替えたいの?」


「それもあります、一々乗るたびに面倒だし…原付だから30kmしか出せないし…1人しか乗れないし…中型だとそのへん便利な事が色々あるんですよ」


「女の子乗せたいんでしょ?思春期だ思春期!」


「そういう訳じゃ無いですけど…余計なお世話です」


「ふーん、私好きだけどなその子、丸っこくてなんかレトロっぽい感じ?」


「ただ古いだけだと思いますけどね…」


“ちょっと私にもやらせて“ちとせはそういうと凛の原付にまたがり、散々凛が手こずらされたキックレバーに足をかける、“せーの“と掛け声をかけつつ地面に向けて勢いよくそれを踏み下ろすと凛の原付はいとも簡単にペンペンペンと乾いた音を響かせて振動し始めた。


「この子、私のことが好きみたい」


「絶対買い替えます…」


「あははは、拗ねちゃった」


「………」


凛は“はぁ“とちとせに聞こえる様にため息を着き、ヘルメットを被りバイクにまたがると“それじゃぁ、コーヒーごちそうさまでした“とちとせに礼をいい、バイクのヘッドライトを国道側に向き直させる。


「どういたしまして!」


親指を立てるちとせの笑顔はいつもと変わらず爛漫としていて、凛にとってはそれがなぜか可笑しくて、釣られる様に笑顔になった。


アクセルを開けて国道に合流せんとする凛の背中に、ちとせは【さよなら】と声をかけた。

声に気がついたのか凛は一瞬アクセルを戻したが、振り返る事なくそのまま国道を進んで行く、凛の原付が吐き出す白い煙は、濡れたアスファルトに反射する街灯や周りの車のヘッドライトに照らし出されていつまでも凛がいる場所をちとせに伝え続けた。


“聞こえたかな、聞こえてないといいな“そんな事を思いながらちとせは照明が全て落とされて一日の仕事を終えたヴァローリに向き直り、深々と頭を下げると凛の後を追う様に歩き出す…


誰にも気取られる事なくちとせが踏み出した【昨日までと決定的に違う一歩】は小さな水飛沫をあげ、ちとせの靴を少しだけ濡らした。


【いっそびしょ濡れになっちゃえばいいのに】


感じる事はできない程度、でも確かに濡れた分少し重さを増した靴のヒールを鳴らしながら歩くちとせの目は、強い決意と覚悟を宿していた。

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【優しくて暖かい命の終わりに願うこと】 まど @madn_0714

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