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結論から言うと、人生との向き合い方を変えたちとせの生活は以前とは明らかに異なる物となった。


大袈裟な表現かもしれないが、それは白黒のモノトーンの世界に鮮やかな色が着いたかの様で、次から次へと押し寄せる新たな経験や感情はちとせに充実感と高揚感を日増しに強く感じさせ、終活の第一歩として始めたバルでのアルバイトはちとせにとってとても刺激的で、意識的に他人と関わる事の難しさと楽しさを実感させてくれる場所となった。


ちとせは今まで、人間関係においてトラブルを起こした事が無い。

トラブルどころかいわゆる【苦手な人】や【嫌いな人】も居なかった。

長い間それは自分が感情の起伏に乏しいせいなんだろうと考えていたが、今なら明確に理由がわかる。

自分を取り巻く人間関係に一切問題が発生しないのは他人に対して僅かな興味も無かったからだ。


極端な話、どうでも良かったのだ…

人はどこかで人に期待をしてしまう、【こうして欲しい】【こう思って欲しい】【こうであって欲しい】【こう言って欲しい】…様々なシーンで様々な理由により他人に自分が望む行動や言動を期待してしまう。

自分にとって【良い人】とはその期待に沿う言動が多い人で、自分にとって【嫌な人】とは期待に沿わない言動が多い人を指すとすれば、そもそも相手に対してどうして欲しいと言う期待が無いちとせにとって、関係を持つ全ての人々は【良い人】にも【悪い人】にもなり得なかった。

人間性が希薄で薄情な人間の様に聞こえるかもしれないが、【他人に興味がなければ他人との紛争が起こらない】この考え方は受動的なちとせにとって生き方としてはこの上無い物と言えた。


しかし、ちとせが長い時間をかけて固着させてしまったその処世術は、いざありのまま思うままの正直な人生を送ろうとしてみた結果、脆くも根底から崩れる事になる。

店が忙しくて余裕が無い時に、周りをよく見ている人間と気にも掛けない人間、ミスをして落ち込んでいる人を励ます人間と叱責する人間、饒舌に自分を語ってくる人間と頑なに距離を保とうとする人間…


【人ってこんなにも煩いうるさいものだったんだな…】


ちとせは自我を持つ事で相手の自我を強く認識できる様になり、結果、双方の意見が食い違えば衝突が起こりかねない対人関係の煩わしさに気がついた。

機嫌が良かったり悪かったり、前向きだったり後ろ向きだったり、テンションが高かったり低かったり…他人の心理に初めて向き合う事になったちとせにとって、世界は余りにも騒がしくて、同時に新しい発見の宝庫だったのだ。


衝突と和解を繰り返して喜怒哀楽を他人と分かち合い、自分とは違う考え方や行動を取る人間にも興味を持てる様になり始めた頃、ちとせは店長から初めての仕事を任された。


【新人教育係】である。


ちとせのバイト先では新人のアルバイトが入ってくると、効率よく仕事を覚えてもらう為にある程度実務経験があるスタッフと研修期間の間バディを組ませると言うルールがあり、勤務を初めて二ヶ月の間は意図的にバディの先輩と重複したシフトを組む事になっていた。


学校やバイト先において目まぐるしい日常の変化になんとか対応しているちとせにとって、最初は【また大変な仕事を任されてしまったな】と考えた新人教育係だったが、始めてみるとこれが存外面白く、結局の所、初めてみるまで憂鬱だった新人教育は結果的にちとせにとって興味深い経験を幾つも体験させてくれる貴重な時間となっていた。


ちとせが担当することになった橘凛たちばなりんと言う少年の印象はとにもかくにも【不器用】だった。

不器用と言っても細やかな作業が苦手だったり、覚えが悪かったりする訳ではなく、どうにも人間的に不器用なのだ。


まず第一に彼は感情を人に伝えるのが下手だった、始めて合う人間は総じて彼に対して【怖い】だとか【愛想がない】と言う印象を抱くが、ちとせはいくらかの時間を凛と共有する事で、それが彼の必要以上な真面目さと口数の少なさによる誤解であると気がついた。


むしろ気性に関しては店内で一番穏やかで優しいとすら言えた、例えば店内で皿が割れれば落とした人間が箒で集めている間に隣にゴミ箱を置くし、誰かがオーダーを取り間違えている事に気が付けば、誰に言われるでもなく本来のオーダーに沿ったフードやドリンクを作り始める、しかし彼はそれを他人に少しも感じさせないのだ、自分の担当新人として気にかけているちとせ以外、そういった凛の地味で目立たない優しさに気がつく人間は居なかった。


ある時先輩のスタッフに凛が叱責されるという出来事があった。

客のオーダーが正確に通っておらず、フードが提供されない客がクレームを入れるまでに発展したのだ。

凛は先輩からの叱責に深々と頭を下げて【スミマセン】と謝った。そもそも凛はミスを殆どしないタイプだったので、叱責していた先輩も特段引っ張る事無く"気をつけてね"と言う程度でその場は治ったが、ちとせはその客のオーダーを取ったのが、凛と入れ替えわりで上がった午前シフトのスタッフだと言う事に気がついていた。


その日の業務が終わり、スタッフルームで凛にその事を問いただすと、凛は【あぁ、なんか猫が具合悪いらしくて、急いでたみたいだったから…】とだけ告げた。

ちとせは初め凛が何を言っているのか理解出来なかったが、少し考えて合点がいくと、なんて難儀な生き方をする子なんだろうかと呆れ返った。

ちとせ自身にしても生き方云々に関しては決して人にどうこう言えた物ではないが、ここまで損な生き方を嫌な顔一つせずこなし続ける人間には出会った事が無かったからだ。


その一件以降、ちとせは輪をかけて凛の動向に注意する様になる、自分が直接被害を受けている訳では無かったが、なんと無く面倒を見ている凛が不条理な目に合う事に抵抗があったのだ。

初めのうち、ちとせはなぜそこまで凛の事が気になるのか良くわからなかった…教育係をしている責任感によるものなのかと考えたが、いまいちしっくり来ない…


しかし皮肉にも凛が研修期間を終えた事が、ちとせにある現実を突きつけた。

別に凛の処遇にちとせの責任が及ばなくなっても、ちとせは毎日の様に凛を目で追っていたのだ、この時ちとせは驚くほど素直に【あぁ、私好きなんだ、彼の事】と自分の感情に納得出来た。

そしてその感情に気がついた事で新たな問題が発生する。


【どうしよう、私が彼に視線を向けるのと同じかそれ以上に彼の視線を感じる…】


もしや橘凛は自分に気が有るんじゃないだろうか…この疑問に行き当たったちとせは、【非常にまずい事になった】と考えた、当たり前だ、自分は後数年でその命を終えるつもりでいるのだ。

凛の気持ちを受け入れようが受け入れなかろうが、とにかく私に好意を持たせてしまう事そのものがまずい、こんな性分の凛が万が一にも好意を寄せている女の自殺などと言う経験をしてしまったら、どんな行動を取るか想像もつかない…

橘凛が不条理な目に遭う事に抵抗を感じていたはずなのに、自身が原因で不条理どころではない理不尽な目に合わせてどうする…

ちとせは散々考え、悩み、一つの結論を出した。


【この気持ちは私が残りの人生をやり遂げられるその日まで、私の中にしまっておこう】


本来、多くの人間が中学生かそこらで経験するであろう【恋心】や【人から寄せられる好意の温かさ】をただ一度、偶然見舞われた悲劇のせいで20年以上生きて来て始めて知ることとなったちとせは、誰にも気づかれないまま、決して報われないまま、そのもどかしく暖かく優しい【初恋】と言う感情を静かに箱に詰め、決して開けられない鍵をかける事を選択した。


これはちとせにとって、自分の道を自分で選択する人生を生き始めてから、始めて経験する涙を流す程に辛い【選択】となった。

自分で決めた事なのに突然胸が締め付けられる様に苦しくなる事も、他の女性スタッフと談笑する凛に対して感じる理不尽な憤りも、自身に向けられる凛の笑顔に答えられないもどかしさも、ちとせにとっては始めての感情で経験した事が無い程に強く彼女の心を揺さぶった。


【こんな気持ちに振り回されて、どうにか想いが重なって報われて、結婚して子供が産まれて…それを突然取り上げられちゃったんだ…私今ならまりえ姉さんの気持ち、わかる気がするな…】


ちとせは彩名の言葉を反芻しながらまりえの事を考えた。


【私、好きな人が出来たよ?自分なりに精一杯生きてるよ?まりえ姉さん…私も残された時間の中で会いたくて会いたくて死にたくなるくらい、誰かを愛せるのかな?】


ちとせの問いは誰にも届かないまま声にならず消えた、もし天国があるならまりえに届いていたらいいなと願いながら…

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