第6話
服が用意されていて、僕はそれを着る。
ダイニングテーブルに二人は向き合って座っていた。コンビニで買ってきたのであろう弁当を食べた形跡がある。真壁の呼吸の感じから、この部屋に来たのが初めてではないことが分かる。これまで想定したことがなかった、まるで災害にこれから合うような気分で、テーブルの横に立ち、麦茶を飲む。
「月子、これはどう言うこと?」鋭利に問いただすつもりが鈍器で殴るような声になった。
「星くんも座って。落ち着いて話そう」
「何を話すの」
「座って」
月子の声に僕は屈して、彼女の隣に座る。自分の息が荒くなっているのが不愉快だ。座らせたのに月子は言葉を発しない。僕は真壁の方を一度も向かずに月子をじっと睨む。まるで呼吸を止める競争をしているみたいだ。止まった分だけ場が煮込まれて、沸点を超えるのをただ待つような。秒針が刻む音、ときに風が雨を窓に殴り付ける音。有線があればいいのに。この場所と関係ない人が関係ない情緒を関係ない歌にして垂れ流せばいいのに。そしたらその中にヒントやきっかけが見付かって、膠着を解く鍵になるのに。でも、ここは静かだ。三人の鼓動の音すら響いて来そう、何でここに三人なんだ。この部屋の定員は二人だろう。
月子が麦茶を飲む。
「あのね、星くん」
「何」
「彼は真壁さん。……私とお付き合いをしたいって、言ってくれてるんだ」
「嘘だね」
月子はシャボン玉が鼻先で弾けたような顔をする。
「嘘じゃないよ」
「ここに来たのが初めてじゃないって、分かる。月子、君は二股をかけていたんだ。そうだろ?」
「本当に二股はかけてない。そう言うところはちゃんとしたい」
僕はハエが鼻先に止まったような顔になる。
「まあいいや。それで?」もう月子の言うことは分かってる。だから、腹の中が煮えたぎって来る。もう黒い重いものはそれで焼き尽くされたのか、分からなくなっている。
「私は、……真壁さんの申し出を受けたい」
「何で? 僕と付き合ってるのに?」
「同時には付き合えない」
「そうじゃなくて、何で僕じゃだめなんだよ」体から粘った汗が出ている。いつからか拳を握り締めている。
「星くんとは、将来を考えられない」
「おかしいだろ。僕には未来がたっぷりあるし、月子にだってある。ほんの二十年の差が何だってんだよ」
「星くんが一人前になる頃には、私はおばあちゃん。私、子供を産みたいの。待てないんだ」
「じゃあ、産めよ。すぐにでも作ろう」
「どうやって育てるのよ。現実的じゃないんだよ、私達、つがいになるにはアンバランス過ぎる」
「そんなこと最初から分かってるだろ。分かってて付き合ったんじゃないの?」
「だからずっと迷ってた。星くんのことは好きだよ。だけど別れるんだ。星くんの人生だってまだまだこれからじゃない。私は私の現実的な選択をしたい。ごめん。だから……別れて下さい」
月子は本気だし、彼女が言葉に嘘を絡めたことは一度だってない。だから僕がどうやったって、月子は僕の前を去るだろう。だとしても。
「じゃあさ、そいつ殺せばいいのかな?」
「もし真壁さんを殺しても、私は別れる」
そう言うに決まっている。据えかねるものをどこにぶつければいい。僕は真壁を見る。穏やかそうな人相だけど、今は限界までの緊張をそこに孕んでいる。こいつに負けたのか。本当に殺したら清々するのだろうか。……しない。欲しいものは指の間からすり抜けることが確定している。そもそも暴力は嫌いだ。嫌いなのに、そう言うことを考えている自分がいる。この握った拳で月子を打ったらどんな気持ちになるだろう。きっと最悪だ。でもこの腹の中の業火をどうすればいいんだ。
真壁が立ち上がり、まるで彼以外の全ての時が止まったかのようにスムーズに僕の横のスペースに移動する。
「星さん」気を付けの姿勢で真壁は夜にしては大き過ぎる声で僕の名を呼ぶ。
「何ですか」
真壁は速やかに正座し、額を床に付ける。
「月子さんと別れて下さい。この通りです」
大人の、と言うよりも本物の土下座を初めて目の前にした。僕は踏み付けられるし、殺そうと思えば殺せる。真壁にとって土下座が日常なのかは知らない。だけど、僕には彼の姿がとても異様で、プライドのある人間がしてはいけない行為に見えた。そこまでするか。生まれて初めてその文言が浮かんだ。彼もまた本気なのだ。いや、だから何だってんだ。ただのパフォーマンスだ。無視したっていい。いい筈なのに、僕はその圧力に呑まれている。
月子が立ち上がって、真壁の横で同じことをする。
「私と別れて下さい。お願いします」
額付いた二人の大人。僕にはこれを払い除けるだけの力がない。少しずつ付けようとしていたけど、まだ力と言うには貧弱過ぎる。この二人の願いを拒否したときに、僕には何が出来るのか。もう月子を幸せにするという曖昧な希望は消えている。僕には何もない。あるとすれば若さくらいのものだ。そんなものはこの現場で何の役にも立たない。状況は詰んでいて、どう転んでも月子は僕の元を去る、だったら、そこで駄々をこねても、惨めなのは土下座をしている二人じゃなくて、僕だ。二人がそこで並んでいるせいなのか、腹の炎が弱まっている。なくなった訳じゃない。だけど。
「二人とも顔を上げて」
真壁と月子はゆっくりと上体を起こす。しっかりとした目で、僕を見据え、次の言葉を待つ。僕は真壁に向かって言葉を放つ。
「もういいです。覚悟はよく分かりました。どうあっても別れるしかない状況だって分かりました」
月子に向かう。
「だから、別れる。でもこの腹の中のものをどうしてくれよう。……最後に一回セックスする? 見てていいから」
月子の顔がさっと青ざめる。逆に真壁の顔は真っ赤になる。
「嘘だよ。人に見せるものじゃない」
真壁はその赤い顔を力で無理矢理地面に擦らせる。
「ありがとうございます」
それを聞いて月子も力技で同じ姿勢にする。
「ありがとうございます」
二人とも声が震えていた。それは明らかに怒りの震えで、僕の炎はそれでかなり鎮火に向かった。
荷物をまとめた頃には雨は上がって、僕はキャリーバッグを引いて部屋を出た。玄関まで送りに来た月子に僕は触れずに、彼女も触れて来ずに、「さよなら」と言い合った。この道を歩くのも最後かも知れない。でも僕が歩いた記憶はこの道にずっと残る。いつか今日のことを思い出さなくなっても、歩いた記憶からは逃れられない。腹の中にはまだ炎が残っている。月子とそれを治めることはもう出来ない。……力ってのはこうやって付いていくのかも知れない。街に人はまばらで、通りかかった天界はまだ賑わっていて、あの店にはもう行けなくなるのかな、仰いだ空には星が瞬いていた。
(了)
青い部屋 真花 @kawapsyc
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