第5話
月子は携帯に電話をかけても出なくて、許可を待たずに電車に乗った。メールを打つ。
『今日、どうしても会いたい。電話に出ないから勝手に、部屋に向かうよ』
胸の中は重くて黒いままだけど、解決に向けて動き出した最中にあることが、少しの浮力をくれる。その浮力が浮かせるのは重さそのものではなくて、重さを抱えている僕だ。だから滑らかな動きで電車から降りて、月子の街に足を踏み入れる。メールの返信はない。このまま月子の部屋に行ったとしてもドアの前で座っているだけだから、夕食を食べることにする。天界しか浮かばない。生姜焼きと回鍋肉は似てるけど、構うものか。
街にはアノニマスな人々が闊歩していて、それは影のようでいて光の粒のようでもある。僕は一人だから誰の目も気にしない。月子といるときは、していたのかも知れない。彼女のことを恥と思わないのは、元々そう言うことを何も感じていないのではなく、恥ずかしい部分と何が別のものが打ち消しあって感じないのかも知れない。アノニマスの視線がないのではなく、あるのだけど感じているものを無視しているのかも知れない。僕が一人であるだけで、視線から自由になっているのはその証左なのではないか。ときに起こる笑い声や、派手な肯定の声が全て、自分と関わりのないものだと信じられるのも同じなのかも知れない。僕は初めて一人で天界に入る。
「いらっしゃいませ」
いつもの店員は態度を変えないで、「今日はお一人ですか?」と確認する。「そうです」と言うと「ではこちらへ」とテーブルに通された。いつも二人で向かい合わせに座るところを一人で使う。妙に広くて、悪い遊びを隠れてしているような気分になる。ついでだ、いつもと違うものを食べよう。
「大三元定食、お願いします」
「珍しいですね」
「たまには、ね」
メールの返信も着信もない。鞄から文庫を出して読もうとして、やっぱり文字が滑ってしまって、しまう。それぞれの客がそれぞれの話題に熱中している。ここに誰かがいたら、僕はどんな話をするだろうか。月子じゃないなら、誰がいいだろう。二、三、友達の顔を思い浮かべて、誰であっても今一番話したいことを話せはしないと結論する。今抱えていることは根が深過ぎて、その深いところを共有している月子じゃないと、大切なところが伝わらない。そして月子であったとしても、公の場所であるここ天界で、微妙なところについて話題にすることはあり得ない。ここでは食事と、飾りのような話をすることしか出来ない。だったら、僕が一人で食事をするのも、誰かとここにいるのも変わりはない。
窓の外がざっと色味を変えた。窓に水滴が当たる。
「お待たせしました」
杏仁豆腐、レバニラ炒め、豚キムチ、ご飯とスープ。胸の中を圧迫する黒いもののせいで感じていなかった空腹が強制的に引き出される。出されてみれば僕は腹ペコだった。自覚と同時によだれが出て、箸を取る。
食事が満足に変わって、お茶を貰う。いつも思うことだけど、満腹は気持ちをまあるくさせる。ヘドロのようなものを胸に抱えているのに、両立するようにまあるい。
雨は降り続いている。月子から連絡はない。
店内の皆の喋りにほぼ負けながら有線から昔のJ-popが流れている。
入り口のドアが開く音と、雨の音が強く聞こえたことに、反射的にそこを見たら、月子だった。スーツ姿で、後ろに誰かを連れている。月子は僕を一瞥すると顔を強張らせて、でもそれは一瞬で、不自然なくらいに自然な声で「あ、やっぱりいいです」と言ってドアを閉めた。
見間違いをすることは絶対にない。すぐに追いかけたかったが、理性が勝って、速やかにお会計をして店を出た。傘はない。構うものか。月子の部屋に向かって走る。走る。傘を差した人が雨の中にまだたくさんいて、僕だけが濡れ犬で、どうして僕を見て逃げたんだ? 後ろにいたのは男なのか? 連絡が取れないのはわざとなのか? 雨の街を駆け抜ける。
月子の部屋の呼び鈴を押しても反応がない。連絡は入っていない。でも、月子は僕がここに来ることを知っている筈だ。部屋の前に座る。体が少しずつ冷えてゆく。きっと風邪を引く。だとしても今日月子に会わなくてはならない。理由が二つになってしまった。
談笑する声が聞こえる。
月子と男の声だ。
声の方を睨む。まだ見えない。だけど睨む。
月子。手にビニール袋を持っている。その後ろには知らない男。若い中年。
月子が僕に気付いて、でも足を止めない。玄関の鍵を開けて、ドアを開く。
「星くん、風邪引くよ、中に入って」
「どう言うこと?」
僕の声はカマキリの断末魔のようだった。
「ちゃんと説明するから、シャワー浴びて」
男は良い子に待っている。僕は男の顔を見る。男も僕の顔を見ている。僕達が同じ泉に住めない者同士であることがその視線で分かった。立ち上がり、部屋に入る。月子の言うようにシャワーを浴びる。月子の声が聞こえる。「真壁さんも入って」、ドアの閉まる音がした。
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