第4話
*
夏休みが明けて、最初の二つの授業の後、食堂に向かう。A定食は生姜焼きがメインで、ご飯を大盛りにして貰ってトレーを持って席を探す。長テーブルの端の席が空いていたからそこに座る。グループで食べている人も多いけれど僕は昼食は一人がいい。これと言って何をする訳じゃない、集中したいと言うのでもない、どちらかと言うと何にも集中しないでいられる時間にしたい。トレーを置いてから忘れていた水を取りに行き、戻って心の中で「いただきます」と言ってから食べる。
半分程食べたところで、クラスメイトの
「何?」僕は手を止めて彼の顔を見る。睨まないように気を付けながら、さも平熱であると訴えるように。
木島は敵意はない、むしろいつも通り友好的な気持ちだ、と顔で示す。後ろの二人から圧力が強くなる。
「
「ここで話せる内容なら別に、いいよ」
木島は小さく頷く。食堂はまだ僕達に注目していない。彼は声を下げて、とびきりの宝物を垣間見せるように声を発する。
「おばちゃんと付き合ってるって、本当か?」
「それを知ってどうするんだ?」
木島は平静ですよと言った顔をしながら、その仮面の縁から赤い舌がチロリと覗いている。
「別に、ただの好奇心だよ」
ここで言ったことに尾ひれはひれが付いたものが学年中に撒き散らされる。それを利用して木島は誰かと少し仲良くなる。このやり方ではいずれ誰もが彼を警戒して何も言わなくなると言うことに、気付かないのが不思議だ。腹の中に黒いモヤが出る、それを気取られないように僕も声を下げる。
「おばちゃんじゃないよ。少し年上なだけ」
「それって何歳?」
「十歳。どうってことない歳の差だよ」言ってから半分にサバを読んでも覗き見者には十分に刺激的な数字だと自覚した。でももう口から放ってしまった。
「すげーな」
木島は今度は素直な驚きを顔に浮かばせている。
「普通だよ。たまたまちょっと年上だっただけの、普通の恋愛だよ」
「やっぱ夜とかもすごいの?」
「そんなの答える訳ないだろ」
木島は「そっか」と引き退った。後ろの二人は圧力からするにまだその話題でいたかったのだろうけど、三人のイニシアチブは木島が取っている。少し思案してから木島が続ける。
「結婚するの?」
「普通の恋愛が結婚する確率と同じ」
「もし、宮下のこと好きだって女子がクラスにいたらどうする?」
「え」
それはもしもの話ではないだろう。僕は慎重に言葉を選ぶ。
「普通の恋愛をしている最中と同じ。ケースバイケースだよ」
「そっか、すまんね、食事中に」
木島は立ち上がって、後ろの二人を連れて食堂を出て行った。僕達の歳の差は普通じゃない距離だし、人の目に触れれば好奇心をくすぐるのは間違いない。そんなことは分かっていた。分かっていたけど、大事なところに汚い手を突っ込まれてかき混ぜられたような胸の感覚が、混ぜられたことによって汚泥になってしまったかのような感じが、重たくここにある。ため息をつく、少しでも整うように。食堂にいた多くの人が耳を澄ませて僕のプライベートを吸い取っていただろう。気付けば拳を握り締めていた。
「でも、ちゃんと対処した」
誰にも聞こえないように口の中で呟く。残っていた食事を口に入れるけど、さっきまでと違う、血の味のようなものしかしない。食べるのをやめて下げる。努めて動きが暴力的にならないようにするから、ギクシャクした古びたロボットのようになった。
月子を連れて歩くことを恥と感じたことは一度もない。見せびらかしたいと思ったこともないけど、隠すようなことじゃない。僕達はいつだって堂々と太陽の下を歩くし、月の下を渡る。でも、今僕の中にある不均衡は、大切なものをただ穢されたと言うだけでは説明が出来ない。その大切さの裏に、他の人から隠蔽すべき秘密が、表に出せない恥部があるみたいだ。そうでなくては、午後の授業とその間にクラスメイトから控え目に僕に向けられる視線に、こんなに苛立たない筈だ。木島によって僕は僕の知らなかった月子への、扱うことが困難な想いがあることを暴かれたのかも知れない。当の木島はそんなことに気が付きもしないだろう。ただ、フレッシュなゴシップを手に入れて喜んでいるだけだ。僕はいつもよりも顔を上げることが出来ない。
帰路に就き、部屋に帰っても、まとわり付いて取れないクモの巣のように木島によってもたらせられた胸の重さは付いて来た。文庫を読んでも、音楽を聴いても、動画を見ても、集中出来ない。……これは一人ではどうにも出来ない。
月曜日に月子の部屋に行ったことはなかった。それが矜持でもあった。だけど、この重さをどうにかしないとおかしくなってしまう。部屋の中を何度も歩き回る。月子の部屋に行くか、それでも一人で耐えるか。
耐えるのはもしかしたら、月子への気持ちを試すことなのかも知れない。それと、自分の強靭さを証明することにもなり得る。僕は一人でこの重さから立ち直って、胸を張って月子に会うのだ。……でもそれが出来ると思えない。
月子の部屋に行くことは反対に自分の弱さを露呈することかも知れない。でもだとしても、僕は僕をどうにかしたい。
いや、一人でなんとかするんだ。抜け出した先にはマッチョな心が待っている。
そんなことはない。抜け出せずに壊れていくだけだ。何が? 気持ちが。心が。
僕達の安定した関係が、行くことで崩れるかも知れない。
逆に、もっと強い関係になる可能性だってある。
行くことは弱さを、いや、甘えだ。
僕は月子に甘えていい。月子にだけは甘えていい。
胸の重いものの裏側で、柔らかいものがじんわりと跳ねた。それが答えだった。部屋を出て、月子の場所に向かう。
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