第3話
月子の部屋を本拠地にしてはいけない。彼女に隷属してはいけない。だから一度も彼女を「いってらっしゃい」と送り出したことはない。泊まるのは休前日だけで、今日も時計が十時を示せば帰る。だけど僕達は来る別れを惜しまずに、映画を見ながらコーラを飲んだ。
「主題歌はよかったけど、映画自体は観る価値ないね」エンドロールは僕達に読まれない。必要なのだろうか。……誰かにとって必要なものが他の人にとって不要だなんて当然のことか。いや、そもそも必要さだけが存在を決めると考えるのがおかしい。生物だって必要だから存在している訳じゃない。
月子は頷く。
「歌はよかったね」
「映画を観る前に、自分にとって意義があるかどうかを判別する方法があればいいのに」
「それはないでしょ」
「予告編が一番面白いって悲しさを繰り返したくない」
「いっそ、予告編作ってる人が監督すればいいのにね」
彼女の顔を覗き込む。ぐりぐりと視線で顔を押し込むように。
「名案」
「でも多分、別の能力なんだと思うよ。残念ながら」
「それもそうか」僕はコーラの残りを飲み干して、エンドロールの中盤でDVDを取り出す。テレビ自体もすぐに消す。インスタントなお祭り騒ぎを見たくない。しんとしたら秒針の刻みが嫌に大きく聞こえて時計を見る。あと五分で十時。
「そろそろ帰るわ」
「そうだね」
帰り道の途中でDVDを返すから鞄に突っ込む。
月子は玄関まで見送りに来て、小さく抱き合って、もっと小さく口づけをしたら僕は出る。
夜気がふんだんに空気に含まれている、プチプチと肌を攻める。
アパートの階段を下りて、少しだけ歩いてから振り向けば、聳えるマンションは変わらずに立っている。僕達はそのふもとに生息するキノコみたいだ。でも、キノコと大樹のどちらが幸せかは分からない。あの中にどれだけの人間が棲んでいようとも、僕達の方が幸せであることは間違いない。いつまでも見下ろしていればいい。大事なのはそこじゃない。
夕食に歩いた道と同じ道を歩く。店とか住人が変わっても、道だけはずっと変わらないだろう。僕の足跡が見えないけれども残っていて、それが累積して道の上にもう一つの道を作っている。その新しい道も消えないなら、僕がこの道を歩いたと言う事実は永遠に遺される。僕はその事実から逃れられない。今は逃れるつもりはないけど、いつかの未来に今の時代を忘れたくなったとしても、逃れられない。
街の中央に近付けばすぐそこにビデオ屋はあって、ポストに返却する。気軽過ぎて本当に返せているのか心配に最初はなったけど、大丈夫だったと言う結果を何度も得る内に調教されて、平気になった。この棚にある全ての作品に作った人がいて、関わった人がいて、膨大な時間をかけて、労力をかけて作成されている。その一つ一つがパッケージの奥行きになる。
「でも、面白いかどうかは別の話だ」呟いて、かけたエネルギーが時間が、結果に比例的に影響するならどんなに楽だろう。面白くない作品は無駄を生んだだけなのだろうか。それとも数少ない誰かに届けばそれでいいのだろうか。今日観た作品も僕達には無影響なだけで、他の誰かにとっては人生を左右するものなのかも知れない。面白さを語るなら、「僕にとって」と言う接頭語がいつも必要なのかも知れない。客観的に観て、これこれこうだから面白いと説明されても首を捻ることしか出来ないだろう。僕が感じるか、そうでないか、それだけが問題だ。
煌々とした店内を一回りして外に出る。通りの暗さに眩んだけど、すぐに慣れた。
電車は空いていた。人の少ない車両に座ると、この車両が運んでいるのは僕達ではなく空間なんだと分かる。本も携帯も出さずに真っ黒な車窓の外を見ながら揺られる。一駅ずつ僕の部屋に近付くのは、同じだけ月子の部屋から遠ざかることで、望んで彼女と一緒にいるのに、自分の体に自由が満ちていく。でも、その自由には影がある。痛くはないけど、意識もしないけど、ずっと続く影だ。僕が月子の部屋からここまで引いた線は、その影を墨汁にして書かれている。
最寄り駅から部屋に戻る間に一匹だけ蝉が鳴いていた。合唱が常の彼等だから、細く長いソロに耳を最後まで取られる。途切れて、気持ちをそこに残していたらすぐに、再開した。歩く程に遠ざかって、部屋に着く前に聞こえなくなった。
「みーんみん」
小さな声で蝉の声を真似しながら玄関のドアを潜る。自分の部屋の匂いなのに、人の家のそれのように感じる。月子の部屋に入るときは逆で、彼女の部屋なのに自分の家のように鼻が感じる。だけどそれも、すぐに慣れてどちらも僕の場所になる。タバコの煙の匂いが混じるからなのかも知れない。
シャワーを浴びて、部屋着になって、ベッドに転がって文庫を広げる。明日も大学は夏休みで何もないから、時間を気にせずに読める。なのに、眠気がすぐに来た、続きは明日にして電気を消す。
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