後編
イングリーデゥが転校したのは勝負から一週間後のことだった。彼女の母親が先の大雨の際に川に流されて行方不明となり、父親が引越しを決めたのだという。
その間イングリーデゥはそのことをユリエたちに一切話そうとせず、普段通りに振る舞っていただけにクラスの動揺は激しかった。
当然、一番衝撃を受けたのはユリエである。聞いた瞬間から顔面が蒼白になり、体をガタガタと震わせ、話が終わったときには椅子から崩れ落ちそうになり、慌てて隣の席の生徒に支えられて事なきを得る。しかし、授業を受けられる状態ではなくその日は学校を早退した。
それからユリエは水跳ねをしなくなる。跳び方を教えてほしいという下級生たちには真摯に対応していたものの、他の子に勝負を挑まれても応じず、自主練をしに外出することもなくなった。
「そんなに空ばかり眺めてて楽しいの?」
部屋の窓からよく晴れた空をぼんやりと見上げたまま動こうとしないユリエに母親が声をかける。
「楽しくないけど外はもっと楽しくない」
「母親としては、あなたが無茶しなくなったのは喜ばしいけど、ちょっと元気が無さすぎね」
骨抜き状態の娘を見て母はため息をついた。
「そんなことしてても、時間は前に戻らないわよ」
「川の流れみたいに、水たまりになったりしないよね……」
「これはどうしたものかしらねぇ……」
母親があれこれと考えを巡らせていると、玄関のベルが鳴らされる。
はーい、と言いつつ母親が玄関に行くのも気にせずに空を眺め続けるユリエだったが、エミル君が来たわよ、という声が聞こえてぴくりと体を震わせた。
のろのろと玄関に行くとそこには緊張した面持ちのエミルが立っている。
「こんにちは、ユリエ」
「……どうしたの、休みに」
「……ほ、ほら、最近学校でもあんまり話してないしさ、ちょっと気分転換に一緒に散歩でもどうかな、って……」
「外はちょっと……」
「それはいいわね。ぜひ連れてってもらえるかしら」
ユリエの言葉に被せるように、母親は二つ返事でそれを勝手に承諾した。
「お、お母さん……!」
「いいんですか? おばさん」
「いいのいいの、最近のユリエは運動不足だから、慣らし運転にちょうど良いわ。さ、二人とものんびり行ってらっしゃい」
「ちょっと母さん、強引過ぎだよ!」
半ば母親に追い出されるような格好でユリエはエミルと共に外に出る。
「全く、随分なタイミングで来たわね」
「ごめん、流石にこうなるとは思ってもいなくて」
「まあ、出たからには仕方ないわ。しばらく歩きましょ? 少しばかり歩いたくらいじゃお母さんも許してくれないし」
ユリエは気持ちを切り替えると、幾分背筋を正して歩き始め、それを見ていたエミルはホッとした表情を浮かべた。
「エミル、観察は続いてる?」
「うん、最近は見るだけじゃなくて今までのまとめをしているところ」
「水って面白い?」
「面白いよ。小さな頃からずっと見ているけど、不思議なことばかりで」
明るい表情で答えるエミル。今まで何気なく見ていたその顔がユリエには眩しかった。
「そうなの? 私にはよく分からないや」
「えっと、川や海ではどんどんと水は流れていくのに、水たまりや湖では柔らかく固まっていくでしょ?」
その理由を知りたいんだ、とエミルが言う。知っている人はいるの、と更に質問すると今度は首を横に振った。
「僕と同じように疑問を持った人はたくさんいるけど、まだ理由を突き止めた人はいないんだって」
「そっか……じゃあエミルがそれを突き止めたら一番乗りだね! スゴいよ」
「そうなるといいかなって思うけど、僕はただ知りたいだけだから、順番はどうでもいいかな」
「欲がないなあ」
ユリエが残念そうに言うと、誰も知らないことを知りたいと思うだけでも欲張りなんだよ、とエミルは笑う。
「そうかなあ……そもそもなんでエミルはそんなに水のことを知りたくなったの?」
「そんなの決まってるよ」
彼は大真面目な表情でユリエを見た。
「水跳ねで高く跳びたいからさ」
「へ……?」
あまりに予想外の答えが返ってきてユリエはポカンとしたまま言葉が出てこない。
「僕も子供の頃からユリエたちと一緒に水はねをしていたけど、ずっと負けっぱなしだったじゃない?」
「そ……そうだっけ? 一回くらいは勝ってなかった?」
「君にもイングリーデゥにも一回も勝てないままさ。それが悔しくて色々考えているうちに、水のことをよく知れば勝てるんじゃないか、って思いついたんだ」
ユリエは圧倒される。無関心なように見えて自分を遥かに凌ぐ水跳ねへの情熱を抱き続けていたエミルに。
「すごい……知らなかった、エミルがそんな気持ちでいたなんて」
「まあ、知ったからと言って勝てるものでもないのはもう分かったから、今更勝負するつもりは無いけどさ」
「そんな、勿体ないよ。せっかく努力してきたのに」
「それならユリエだってそうじゃないか」
その言葉にドキッとして思わず足を止める。エミルがユリエの顔を覗き込んできた。
「最近全然跳ばなくなっちゃったじゃないか。前は凄く楽しそうに跳んでたのに」
「それは……ちょっと調子が出ないから」
「そうなの?」
「……うん」
エミルの圧力に返事に窮したユリエは、消え入りそうな声で言う。
決して跳びたくない訳では無い。しかし、あの勝負の日にイングリーデゥが見せた態度が心に突き刺さっていた。突然母親がいなくなって、辛くて仕方なかったはずなのにユリエとの約束を律儀に守り、挙句負けても悔しがる素振りも見せず一人で帰っていったイングリーデゥ。
ライバルであると同時に一番大切な友達でもあった彼女の気持ちもろくに知らないで、無邪気に水跳ねを楽しんでいた自分の幼さをユリエは許せず、無意識のうちに跳ぶのを避けるようになっていたのである。
意気消沈して俯くユリエを見て、冷静にエミルは告げた。
「ユリエ。今から僕が水跳ねするところを見ていてくれないか?」
「えっ……?」
顔を上げる。ユリエの視線の先には屈伸をするエミルとその先にある小さな水たまり。水跳ねをするには小さすぎるように見えた。
「……それは無理じゃない? 踏むには小さすぎるし、固まり過ぎよ」
忠告を送るユリエに、エミルは心配するなとでも言うように大きく頷く。
「心配いらないよ。……こうすればね」
エミルは腰にぶら下げていた水筒を開けると、その中身を水たまりに注いでいった。固まり、蒸発していくだけだった水たまりは新たな水を受けて流動性を少し取り戻し、同時に踏むのに十分な大きさに広がる。その様子をユリエは呆然と見つめていた。
エミルはそれに構うことなく水たまりの様子をじっと見つめ、状態が安定したのを確認すると後ろに下がり距離を取る。
「じゃあ、行くよ、ユリエ」
エミルが走り出した。運動が苦手なだけにフォームはバラバラ。およそ好記録など期待するほうが無理な走りではあるが、ユリエは瞬きもせず見つめ続ける。
あっと言う間に水たまりにたどり着いたエミルは迷うことなく先程の水たまりを踏み、跳んだ。
体の重心がズレまくったその跳躍はざっと20cmほど。おまけに着地がうまくいかず尻餅をついてしまう。
痛そうに体をさするエミルにユリエは苦笑いを浮かべて歩み寄った。
「大丈夫?」
「イタタ……、これでも結構練習してたんだけどね」
「もっと体の使い方を覚えないと。動きが硬すぎ」
「流石に学校一の
「そうでもないわ。記録は20点でも格好良さは90点だから」
ちゃんと両足で着地してくれてたら100点だったかな、と笑顔で言うユリエにエミルも苦笑いするしかない。
「また跳びたくなった?」
「うん、何だか足が軽くなった感じ。明日からまた練習ね」
空を見上げると雲が多くなってくる。夜は雨かもしれなかった。
エミルと別れて帰宅すると、母親が届いたばかりの手紙をユリエに手渡す。イングリーデゥからの手紙だった。
読んでみると、彼女は引越し先でも彼女なりに上手くやっているようなのだが、父親が引越しを決めたことについてはかなり不満があるらしい。
水跳ねは向こうでも続けているものの、ユリエほどの相手が居なくて退屈しており、またそちらに遊びに行きたい、と彼女らしい言葉が並んでいる。
そして最後に、あの勝負のことは気にしなくてもいい、むしろ最後の最後まで本気で勝ちに来てくれて感謝していると綴られて手紙は締めくくられていた。
手紙を読んでいるうちにユリエの中にあったわだかまりがようやく消えていく。いろいろ思うことはあるけれど、それもいつかはゆっくり流れて消えていくのだろうと考えた。
窓の外を見る。既に雨が降り始めている。雨が上がればあちこちで水跳ねをする風景が見られるに違いない。
そう思うとユリエは何だかワクワクしてきた。いつかイングリーデゥと再会したとき、彼女に笑われないように頑張ろうと心に決める。
そして、後押ししてくれたエミルにもいつかちゃんとお礼を言おう、と。
イングリーデゥの手紙が届いてから三日後に雨は止んだ。上がった当日は緩かった水たまりもその翌日にはちょうど良い具合に弾むようになり、あちこちで水跳ねに興じる人の姿が見える。
ユリエもまたその中にいた。
「ユリエ、僕から見ると二番目の水たまりが狙い目かな」
「了解! 私のいいところ、しっかり見ててね!」
練習に付き合ってくれているエミルにウィンクを添えて応えると、ユリエは前へと軽快に駆け出す。
彼の教えてくれたベストポイントを踏んで彼女は高く高く舞い上がった。
遥かな
ヴァン・スプルート・ジェンテ〜少女は水を跳び、空に舞う〜 緋那真意 @firry
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