ヴァン・スプルート・ジェンテ〜少女は水を跳び、空に舞う〜
緋那真意
前編
ユリエは前方を睨む。見ているのは前方にある三つの水たまり。その大きさは手前から順に大・小・小。
最初が良ければ全てよし。
大きな水たまりに踏み込む。水はクッションのようにそれを受け止めて送り返した。この水たまりはまだ若い。本命は次の二つのうちどちらか。
(次ので!)
そう決めたユリエは勢いを殺さずに次の小さな水たまりに足を伸ばす。
水たまりがぐにゃりとした感触を伝えてきた次の瞬間、バネのように反発して体に浮力を与えた。
が、その反発力はユリエの想定を上回り、与えられ過ぎた浮力に体のバランスを崩してしまう。
「わわわっ! ちょっと待って待って!」
慌てて体勢を戻そうとするが、完全に体が浮き上がっている状態でそれが叶うはずもない。無情にも体は前へと突っ込んでいく。
地面に突っ込む。ユリエが覚悟したその時、目の前に映るのは先程見えていた水たまり。
水たまりに突っ込んだ顔は水に弾かれて大惨事を免れるがそれ以外の体は地面に打ち付けられた。痛いものは痛いが、顔を激突させるよりマシである。
「イタタ……また失敗かあ」
気落ちするユリエの顔に雨粒が当たった。
「あ、雨……止んだら仕切り直そっと」
慌てて体を起こすと、駆け足で家に戻る。雨はゆっくりと強まりつつあった。
水の世界、ヴァン・ラン。その四方をくまなく水が巡る世界。
人々は水に親しみ、水とともに生きている。
翌日の朝、目覚めたユリエは窓の外を見る。雨は未だ強く降り続いていた。
「こりゃ大雨になりそうね……水跳ねもお預けかしら?」
退屈そうに欠伸をしながら着替え、その上から防水着を羽織る。
「おはようユリエ。体は痛くないの?」
「あんなの痛がってたら水跳ね出来ないよ」
母親の言葉に元気に答えると朝食を手早く平らげた。いつも通り母親から「落ち着いて食べなさい」と注意されるが気にしない。
「全く、誰に似たのかしらね」
「そりゃお母さんでしょ。お父さんがこの間言ってた。昔からせっかちな
「まぁ……!」
呆れる母親をよそに目覚ましのコーヒーを一気に飲み干すと元気よく席を立つ。
「じゃ、行ってきまーす!」
「事故には気をつけなさいよ」
「大丈夫!」
雨を物ともせずに走り去る娘を母親は苦笑いをしながら見送った。
十分ほどで学校に辿り着く。
防水着を乾燥室で脱いで教室に入ると、男子生徒が一人、窓の外を熱心に眺めている。
「おっはよ、エミル。今日もいつものやってる?」
「あ、おはようユリエ」
エミルはユリエに挨拶するとにこやかに笑う。ユリエも朝が早いが彼はそれ以上に早く、教室一番乗りを果たせたことは未だにない。
「調子はどうなの?」
「うん、今回は久々に強めの雨だし、じっくり見ていたいんだ」
そういうと再び窓の方を向いた。エミルは水の観察が趣味で、雨が降るたびにこんな調子である。
「そういや、エミルって最近は水跳ねをしなくなったね。昔は一緒に遊んでたのに」
「今でもたまにやってるよ。僕にとっても大切なことだからね」
「そっか。水跳ねがつまらなくなったのかなって思ってたよ」
ホッとしたようにいうユリエにエミルは苦笑いした。
「確かにユリエほど上手くは飛べないけど、水跳ねを楽しみたい気持ちは忘れたくないな」
この地に生まれた人々にとって、水跳ねは最もポピュラーな娯楽である。三つの水たまりから一つを選び、水の反発を利用して高く飛ぶだけというシンプルさから老若男女を問わず人気があった。
「私だってまだまだだよ。昨日も失敗しちゃったし」
「ユリエだったらまだまだ高く飛べると思うよ。
「それは持ち上げすぎ」
とは言うもののユリエのほうも満更ではない。自分の好みを褒められて嬉しくない人間はいないものである。
「エミルの研究も上手くいくと良いね?」
「え? う、うん……」
エミルは照れくさそうに笑ってみせると再び雨の観察に戻っていった。ユリエも自分の席に行って授業の準備を始め、他の生徒たちも続々と登校して来て教室はあっという間に賑やかな雰囲気に包まれていく。
授業が終わり帰宅しようとしたユリエに声がかかった。
「ユリエ、今日は一緒に帰らない?」
「イングリーデゥ? また勝負のお誘いかな?」
「こんな雨の日に勝負はないでしょ」
イングリーデゥは苦笑いしながら答える。ユリエとは水跳ねで競い合う関係だが、大の仲良しでもあった。
「今日は普通に一緒に下校したいの。良いかしら?」
「いいよ。一人よりは楽しいし」
「決まりね。行きましょう」
二人は預けてあった防水着に着替えると、揃って学校を後にする。
「凄い雨だよね。最近では一番かも」
「確かに、これと同じってなると一年の間には無かったわね」
「川の氾濫とか崖崩れとか怖そう」
肩をすくめる二人。水にあふれる世界であるが故に水にまつわる災害とも隣り合わせであり、特にこのような大雨となると心配は尽きない。
「気をつけないとね……ところでユリエ、エミルとはどうなの?」
「どうって……いつも通りよ。彼、水のことで頭がいっぱいだし」
「そうなの。それは良かったわ」
納得したように頷くイングリーデゥ。
「何よその思わせぶりな態度?」
「さあね。気になるんなら自分でその理由を探してみたらどう?」
「ズルいよ、イングリーデゥ……」
食ってかかるものの相手にされず、ユリエはむくれた。
「ユリエ、物事に一途なのは良いんだけど、それをもう少し別な方向にも活かせると良いわね」
「今日はやけに世話焼きね」
「世話の焼きがいがある人が多いもの」
「世話を焼かれてるつもりはないんだけど」
ふてくされて文句を言う。イングリーデゥと話すといつもこんな調子なのだが、相手に悪気がないことも知っているから本気では怒っていない。
「お節介にならないように気をつけないとね。雨が上がったらまた水跳ねで勝負しましょ」
「見てなさいよイングリーデゥ! コテンパンにしてやるんだから」
「あら、私も素直に負けるつもりはないわよユリエ。前回みたいに返り討ちにしてあげる」
「言ったわねぇ!」
雨に負けないほど賑やかな二人のやり取りはお互いの家が近づき別れるまで続いていた。
雨は翌日遅くに止み、その二日後ユリエとイングリーデゥは学校裏の広い野原で水跳ねの勝負に臨む。
野原では他の生徒たちも水跳ねを楽しんでいるが、二人の周りには野次馬が特に多い。
立会人を務める生徒が前に出と。
「二人とも、勝負はライン上にある三つの水たまりで行うよ」
二本の縄が置かれて作られた道の途中に、小さな水たまりが三つある。
「試行回数は二回。その間にどちらがより高く跳べるかで勝敗を決めるからね?」
ルールを確認する。水跳ねのルールとしてはスタンダードなものだ。
先攻側は手探りで最初の一回を跳ばねばならないリスクがあり、後攻側は相手を見ながら跳べるかわりに水たまりの選択肢が狭まる。そのあたりの駆け引きも水跳ねの肝だ。
「いつも通りね」
「先攻後攻を決めましょう」
ユリエとイングリーデゥはじゃんけんをして、勝ったのはイングリーデゥ。彼女は先攻を選ぶ。
「いっつも先攻選ぶわよねイングリーデゥ?」
「あなたに先に跳ばれると厄介だからね」
「何それ、私対策なの?」
「本当は後攻の方が好きよ」
そう言うとイングリーデゥはスタート地点に向かう。最初の水たまりまでは20mほど。
スタートを切った彼女は軽快な足捌きで最初の水たまりを踏み軽く跳躍した。記録は75cm。
「軽く流し過ぎじゃない?」
「賭け事は好きじゃないから。ほら、あなたの番よ」
今度はユリエがスタートに向かう。その間考えていたのは、次にどこを跳ぶか、だ。
勢い良くスタートを切ったユリエは最初の水たまりを無視して三番目に向かう。もしここの具合が悪くてもあと一回挽回の機会があるからだ。
三番目の感触はユリエにとって悪くはない。助走が長い分勢いもつけやすく、記録は1m10。
「相変わらず飛ばすのね」
「ちょっと不満。1m20は行けると思ったのに」
「それでも、私にとっては十分なプレッシャーになる記録よ。次、行くわね」
イングリーデゥは表情を引き締めると再び跳躍に向かう。
今度は開幕から勢いをつけ、初回はお互いに無視した二番目の水たまりを利用して跳び、ユリエの狙っていた1m20の記録を出した。野次馬からは歓声が湧く。
「狙ってたわね」
「あなたのために全部試してあげたのよ」
「ふーん、なら期待に添えるよう頑張ってみますか」
イングリーデゥの言葉に闘志を燃やしたユリエはゆっくりとスタートに向かった。
イングリーデゥはああ言ってはいたものの、一度揺られた水はわずかだが流動性を取り戻し弾力が薄れる。立て続けに同じ箇所で二回跳ぶのは記録を出す上で有効とは言えない。
従って実質的に残されたのはお互いの一回目で跳んだ箇所のどちらか。跳びやすさで言えば最初に跳んだ水たまりが良いが、イングリーデゥが最初に流して跳んだ場所も水の状態は良さそうだった。
スタートにつく前に心を決めるユリエ。
「ユリエの二回目、スタート!」
合図と共にユリエはダッシュを決め、一つ目の水たまりを無視して狙いは三番目、と見せかけて二番目の水たまりにむけて足を踏み切る。見ている野次馬たちのどよめきがユリエにも聞こえてきた。
ユリエは自分の実力はイングリーデゥより上だと信じている。彼女がいい記録を出した場所なら、多少水が緩くなったとしても自分のほうがいい記録を出せるはずだと。
踏んだ感触は良好。確かに多少緩くなってはいたものの、跳ぶのに十分な弾力は保たれている。
確信を抱いて柔らかい地面に着地した。
「記録、1m25! ユリエの勝ちだよ」
立会人を務めた生徒がユリエの勝利を告げると、周囲で見守っていた生徒たちからも歓声と拍手が贈られる。
「お疲れ様、ユリエ。来るかな、とは思ったけど普通に上を行かれちゃった」
イングリーデゥは困ったような微笑みを浮かべながらユリエを出迎えた。
「そっちこそお疲れ。これで前回の借りは返したからね」
「5cm差の敗戦だけど、実質は10cmくらいかな。前回は運が良かったかも知れないわ」
「またまた、そんな事言わないでまた勝負しよ?」
「あなたがそれでも良いならいつでも付き合うわ。私達、友達だもの」
そう言うとイングリーデゥは静かにその場を後にする。妙に元気が感じられない後ろ姿がユリエには気になった。
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