いくひ誌。
郁菱 万
いくひ誌。【0001~1000】
※日々のなかでおもったことをつれづれと駄々漏れ。
1:【つづけるということ】
ただつづけるだけならさほどむつかしくはない。何をどうつづけるのかが肝要である。
2:【ホンモノならば】
ほんとうにおもしろいものであれば、黙っていても人が集まる。多くの人の手に行き渡る。いくひしは、ぜひともその領域まで行きたいと望んでいる。宣伝活動をしてこなかった最たる要因がそこにある。けれども、さいきん考えがすこし変わった。いくひしは作品だけでなく、価値そのものもじぶんの手でつくりだしたいと思うようになった。欲張りに磨きがかかったと言える。物語以外の言葉も発信していこうと思う。
3:【いくひしのそとのいくひしへ】
いくひしはいくひしに似たひとに向けて言葉を、物語を、発信している。でもいくひしと似たひとはたぶん、「カクヨム」に載っている作品には見向きもしない(流行とは縁のないタイプだから)。ゆえにここに載せても、いくひしの作品群をおもしろいと思ってくれるひとには届かない。ならどうしていくひしはここに載せているのか。答えは単純に、例外的ないくひし、をいくひしは探しているからである。純粋な受容者としてのいくひし、或いは純粋な表現者としてのいくひしは、前述のとおりこうしたサイトの作品に目を通すことはない。けれども、生粋の評論家、或いは純粋な目利きとしてのいくひしならば、この世のすべての流行物に目を通し、そしてそのなかにある異物――ホンモノ――を、絶えず探し求めているはずである。否、断言しよう。探し求めている。だからこそ、それゆえに。必ずや届くのである。なぜならいくひしは本物以上の偽物であり、偽物ゆえにホンモノだからである。本物は本物ゆえに偽物にはなれない。なろうとすら思わない。だからこそいくひしは偽物としてのホンモノなのである。意味が解らないという方は安心してほしい。あなたは、いくひしの求めているいくひしではない。あなた方は本物ゆえに、偽物にはなれない。
では、きみは?
4:【ふにゃふにゃ】
芯がない。確固とした自我がない。ものすごくふにゃふにゃ。ぜったいにこう、という指針がない。ものすごくふらふら。これはだめ、これをしなくてはならない、こうしないとだめ、これをしたほうがいい。ホントに? 目のまえにいったん浮かんだ道筋に対して、同じかそれ以上の論理迷宮を求めてしまう。ぐらぐら。ただまっすぐ歩けばいいのに、わざわざ迷宮を解こうとする。歩みは止まる。迷わないように慎重になる。或いはいっそ迷ってしまえとばかりに歩を進める。すると道程はもうぐにゃぐにゃ。足跡はそこらちゅうにあふれ、もみくちゃ。毛糸がどんどん絡まっていく、毛玉化。するとなぜだろう。からっぽのなにかが埋もれる気がする。ほっとする。むにゃむにゃ。そろそろ眠りにつく。うやむや。
5:【同レベル】
同程度の技量を持った侍が二人いたとして、より忠誠心の篤いほうを雇うのが城主としてとるべき判断だろうか。いくひしはそうは思わない。技量が高ければ二人とも雇えばいいだけの話である。どちらか一方、それも気持ちよく仕事の任せられるほうを選ぶ、というのはハッキリ言って浅はかである。そういう判断を重ねていけば、全体の質は確実に落ちていく(技量以外が選抜の決定打になる時点で、その程度の技量であったとも呼べる。技量が高くないのならばそもそもどちらも雇うべきではない)。
6:【とおせんぼ】
誰かが誰かの邪魔をする。邪魔をしなくてはならない理由があるのかもしれない。正当に評価できない理由があるのかもしれない。でも、なんのために? いいものはいい。そう評価できない牙城は遠からず自滅する。瓦解する。だいじなのは城を護ることではない。プライドがけっきょくのところ、魂の鎧でしかないのと同様に。
7:【ロボット】
人型ロボットの物理ボディは、あと五年でほとんど人間と変わらぬ動作を可能とする。ただし仕草や会話には今しばらく違和感が残るだろう。実用化されるとき、おそらく会話機能は音声ではなく主として文章で行われるはずだ。そのほうがずっとスムーズだし、手間がない。また、表情は皮膚の質感をほどよく再現した素材に、内側から投影された映像によって補完される。現在開発されているような表情筋を模した構造にはならない。或いは双方を組み合わされた技術が適用される。もっとも、人型ロボットが普及するよりもさきにホログラフィによる人工知能の顕現化や、ネット生命体の開発、および仮想(拡張)現実の普及のほうがずっとすんなりいくはずだ。人類はますます物理的な負担を軽くしていくほうに労力を費やすようシフトしていく。
8:【第一印象】
何かを評価するとき、最初に目がいくのは欠点。つぎに良いところである。第一印象がいいというのは欠点がすくないという意味でしかなく、それそのものの良さとはまた別物である。
9:【第三の目】
いくひしには第三の目がある。とてもたいせつな授かり物である。ときに付け替えてしまいたいと思うこともある。けれどもそう思うときはたいてい弱っているときである。甘えているときである。現実なんて見たくないやい、といくひしが固く目を閉じているときであっても、第三の目だけはひと際ギラギラと括目し、周囲をいくひしごと注意深く観察している。優秀な目である。その名も、客観視という。とてもたいせつな授かり物である。
10:【場の提供】
十年前と比べていまは、おもしろい物語を味わいたいというよりも、おもしろく物語を味あわせてくれ、といった需要者が増えてきている印象がある。ただおもしろいだけでなく、おもしろく読めるような環境ごと提供しなくてはならない。それは同じ嗜好を共有するユーザーであったり、物語とは切り離されたところで存在を誇示できるキャラクターであったりする。メディアミックスもその方法論の一つであるが、同時に物語そのものの稀薄性を助長している。たとえばそれは、重厚なストーリーがウリだったゲーム業界が、いまやスマホゲームの独擅場になっているように。しかし今、また時代が変わりつつある。新ゲーム機種「VR」の発表である。仮想と現実の狭間を提供するそれは、まさに新たな物語の舞台である。物語をより手軽に、おもしろく味わえる環境として、その新機軸として、これからどんどん進化を遂げていき、我々の生活に浸透していくこととなる。VRの影響はむしろ文芸こそが大いに受けるのではないか。VRとサウンドノベルとの調和は、無声映画がいまのような映画への発展を遂げたように、大きな可能性を帯びている。VRの影響で、映画は体験するものとなり、アニメは現実を侵食し、小説は物語のなかで読むものとなる。すべてが一つ上の次元へとシフトする――といいね。
※日々おもったことをつれづれとつづるよ。
11:【メディアミックスの弊害】
数年前までは、コンテンツを競わせる土壌がWEB上にそれほど充実していなかった。そのため、アクセスランキングなど、読者の手による作品の選出が、そのまま極上のコンテンツの選抜に流用できた。いわゆる神の見えざる手が機能した。しかしWEB上に、そうしたサイトが氾濫した現在、読者の手による選抜――自然淘汰に期待する手法は、ほとんど意味をなさなくなりつつある。いわばNO1が乱立され、アクセスランキングそのものの信用度が下がりつつあるのが現状だ。そこで台頭してくるのが「賞」である。無責任で流動的な不特定多数の多数決に期待するのではなく、信頼のおける提供者の手によって、極上の作品を選抜する。言い換えるならば、従来の姿に回帰する方向に流れはシフトしていく(とはいえ、双方の利点を兼ね備えた「賞」であることは想像にがたくない)。読者賞やかつての本屋さん大賞などはまさにその先駆けとも呼べる。現在のWEB上でもこうした流れは顕著であり、あと数年もしないうちにもうすこし新しいカタチの「賞」が誕生し、コンテンツ提供者たち――すなわち出版社の権威を復活させるだろう(2016年現在、すでにカクヨムWEB小説コンテストなどがある)。ひるがえっては、そうしたWEB上の混沌化を見越したうえで対策を立てていかないことには、現在の出版業界はさらなる後退を推し進めるほかに進む道がない。もっとも、現在そうした「賞」の機能を担っているのがアニメ化などのメディアミックスであることを思えば、「アニメ化(映画化)しないものはつまらない」、或いは「アニメや映画が完成品であり、原作はしょせん原作である」といったレッテルがまかり通り、結果として自分たちの首を絞めることになり兼ねない懸念は押さえておく必要がある(媒体の差異に優劣をつけた時点で、メディアミックスはもろ刃のつるぎとなる)。もっともそれもまた2016年現在すでに、無闇に乱立する映像化によって「賞」としての機能が損なわれはじめている。現在、この瞬間、「賞」としての機能を有するシステムは、スマホのゲーム化である。が、これもすでに時代遅れとなりつつある。今さら乗っかったところで勝算は低い。ではつぎにすべきことはなにか。答えはいくつかあるが、実行するだけの価値があるのはいまのところ一つである。媒体の異なるそれらコンテンツをまとめあげ、一括して提供できる場をつくることである。小説、漫画、映像(アニメ、ドラマ、映画)、音楽、ゲーム。一つの作品を検索すれば、それらすべてが〝同一の規格〟で楽しめる環境がいまはまだ、どこにも整っていない。推測にすぎないが、今現在グーグルやアマゾンが目指しているのはまさにそこである。いち受容者としては、どこがまとめあげてくれても構わないが、できれば既存の出版社にがんばってもらいたい。守りを固めているだけではいずれ、遠からず、足場ごと掬われかねんよ、と控えめに注意を喚起しておこう。
12:【これが現実】
デビューできない、売れない、読まれない。すべては作品がおもしろくないからである。それ以外の理由はない。たといあったように感じてもそれ以外の理由はことごとく些事である。おもしろくない。それが理由だ。だからこそ、とにかくおもしろくしていくほかに、おもしろさを追求していくほかに、術はないのである。
13:【踏ん張り】
ぼくらは嘯かなければならない。古典なんて読まなくていいよ、と。今ここにある新作にそれらはすべて書いてあるから、と。でなければ読者は過去の名作を読むことにいそがしく、わたしたちの用意した物語になど目を留めてはくれない。新しいものが一番いい。今ここにあるものが新鮮なの、と胸を張れるように、だからおれたちは踏ん張らなければならない。
14:【短編プロット「ビショッジョ・ビジョ」の原型】
人類すべてを美少女に変化させるウイルスをつくりあげ、それを用いて全人類へ幸福な最期、すなわち絶滅を齎そうとする天才科学者と、そんな彼と立ち向かうことになる、「私以外の美少女などいらない」と豪語する美少女の話。
「私から言わせるとおまえなど美少女のうちに入らん」
「なんだと」
「これさえばら撒けば全人類はおまえを遥かに凌ぐ美少女で溢れかえる」
「そんなことになれば……」
「そうだ」
「あたしが世界一の美少女でなくなってしまう」
「ちがう。全人類は子孫を残せずゆるやかに死滅する。しかし誰もが美少女に生まれ変わり、美少女の伴侶を得る。しあわせな日常に身を置き、そして全人類が幸福に包まれながら絶滅するのだ。これ以上の人類の到達点は存在しない」
「ふざけるな。そんな真似はさせない」
「ならばどうするというのだ。私を倒そうとでもいうのか」
「バカを言うな。まずはあたしで実験する権利をおまえにやろう」
「それで?」
「美少女のあたしがさらなる美少女に変化する。それからおまえを退治する」
「……で?」
「あたしはまごうことなき人類史上において過去にも未来にも登場し得ない絶世の美少女として生きていく」
「で?」
「おまえにはその手伝いをさせてやろう。光栄に思うがいい」
「さてはおまえ、バカだな?」
「思ってても言うなーー!」
15:【ツンデレ本】
本なんて大っ嫌いだ。まどろっこしく、めんどうなうえ、手順を踏まなければ中身も改められない。やたらと偉そうで、ただそれを読んでいるだけで賢そうに振る舞える。漫画やアニメ、映画や絵画、まだそちらのほうがぼーっと眺めているだけで何かしらを感受できる点で優れている。そう、本はまったくこれっぽっちも優れてなんていない。じぶんががんばらねばどんな内容なのかも分からない点で、なにかが決定的に欠けている。小説なるものにおいて言及すれば、なぜ物語を提供する側の小説が、読者であるこちらに努力を求めるのか。もっとへりくだって、わかりやすく、踊りながらでも楽しめるようにおまえのほうこそ努力しろ。かような理由から、本を忌避しつづけてきた人生だ。今でもその思いになんら変わりはないが、しかし。努力することがわるいわけではないし、めんどうなことだって、それが好きならばおもしろい。二十歳を過ぎてようやく気付いた。まどろっこしくって、めんどうくさい。まるでツンデレ娘のような媒体こそが本なのだと。べつにあんたのために存在してるわけじゃないんだからね。高飛車なくせして、読まれることを秘かに、盛大に期待している。なんて小生意気でかわいらしいのだろう。そんな本たちに、小説に、読者たる貴君貴女は、しょうがないなあと重い腰を持ちあげて、ぞんぶんに甘やかしてあげてほしい。彼女たちは待っている。あなたの世界に生まれ落ちるその瞬間を。あなたの手により紐解かれ、展開し、あなたと共に生きることを。彼女たちは待っている。
16:【文学は死んだ】
情報氾濫社会、ことさらインターネットが身近なものとして普及した現代にあって、自分の力だけで問題を解決する、なんて都合のいい話はあり得ないと誰もが思っている。だからこそ万能型主人公の無双系フィクションがウケルというのはあると思うが、いっぽうで、けっきょくのところ〈私〉という存在は、多くの雑多な循環系を構成するための一要素、歯車の一つにすぎない、いや、砂山の砂塵の一粒にすぎない、という感覚は、かつてないほど卑近なものとして、拭えぬ虚脱感としてまとわりつく。そこを度外視して、これまでのような物語の文脈をあてはめようとするのは、それこそ時代を見ていないとしか言いようのない暴挙である。文学は死んだ。そうぞうせよ、時代を。
17:【明瞭ゆえの盲目】
これまで視えなかった何かが急に視えるようになることがある。悩まなくなったことの裏返しでもあり、だからこそそれまでいったい何に悩んでいたのかをいまいちど考えておくべき契機でもある。いつかきっとまた視えなくなったときのために。
18:【ならってなにならって】
「性的にでもいいから求められたい」
「性別は?」
「問わない」
「年齢は?」
「キャベツ畑から墓場まで」
「種族は?」
「体温があればそれでいい」
「ホントに?」
「しゃべられればなおいい」
「あなたビッチね」
「謙虚だと言ってほしい。わがままは言わない。差別もしない。愛されたい。ただそれだけ」
「さびしいひと」
「そう。さびしい。とても孤独」
「なんで片言なの?」
「泣きながらだと、こうなる」
「泣いてないじゃない」
「涙も枯れた」
「血も涙もない冷徹なひとなのね」
「血はあるからあたたかいですよ」
「あら丁寧」
「下手にでたのでいいよね?」
「なにやめて、近寄らないで」
「誰でもいいけど、いちばんはきみがいい」
「誰でもいいなんて言う人にわたしはなびかないわ」
「ならきみがいい。きみじゃなきゃいやだ」
「ならってなに、ならって」
「シカの多い県」
「奈良じゃないの、それは奈良でしょ。ばかにしてる?」
「すこし」
「もういや。消えて」
「目をつぶってみたら?」
「どうなるの」
「視界からぼくが消える」
「それはいい案ね」
「横まで向かなくていいのに」
「目をつむっているあいだにいやらしいことされそう」
「そんな度胸はないよ」
「……いくじなし」
「よく見抜けたね。さすがはぼくの恋人だ」
「付き合った憶えはなくってよ」
「なら、付き合おうか」
「ならってなに、ならって」
「京都の近くにある、おっきな大仏様が寝転んでいるところ」
「奈良じゃないの、それは奈良でしょ」
「きみのそういうノリノリなところも好きだ」
「わたしはあなたのそういう軽薄なところが嫌い」
「一途だよ?」
「ためらいなく言わないでくれない。ほら、鳥肌」
「きざったい?」
「刻みたい」
「ならいいよ」
「だからならってなに、ならって」
「きみにならいいよ。きみだからいい」
「……もうやだ。帰る」
「送ってく」
「ついてこないで」
「ならぼくが前を歩こう」
「何べんも言わせないで。ならってなに、ならって。脈絡なさすぎちゃんとしゃべって」
「こんど、いっしょに行こう」
「へ?」
「いっしょにせんべいをあげよう。シカに」
「奈良じゃないの、それは奈良でしょ……」
「はいどうぞ」
「なにこれ」
「切符」
「日付……この日……お休みじゃないのに」
「でも好きでしょ奈良」
「きらいじゃないけど」
「なら、休もう」
「だから、ならってなに……なら…………う~~ん……いきたい……かも」
「よし行こう」
「なら……いく」
19:【ちからとことば】
暴力を抑えるために理屈がある。しかし理屈が暴力のような脅威と化すと、それに対抗するために暴力が蔓延しだす。理屈を暴力のように振りかざしてはいけない。理屈と暴力の差は、構造的にいえば、それの用いやすさにある。理屈を使いこなすのは難儀だが、暴力は比較的容易に、誰であっても利用できる。有効だというただそれだけの理由で、すぐさま蔓延してしまうのが暴力の特性だとも呼べる。反して理屈の場合は、それに対抗するために用いる理屈を構成するのに時間がかかるため、いったん冷静になるだけの時間が置かれることも利点のひとつである。いちど確定してしまえば、比較的長いあいだその事柄についての論争(闘争)を呼ばない点も基本的な性質としてあげられる。
20:【オリジナルの優位性】
事これだけ容易に精巧なコピーが量産できる時代にあって、オリジナルの優位性、或いは稀少性というのはどれだけあるだろう。モナリザであろうと、たとい本物が街角にそれとなく飾られていたところで、それに目を留め感動する者は少ないのではないか。芸術作品は美術館などの演出された空間に展示されることでその真価をより抵抗なく受動者へ示せる。小説もまた例外ではない。本という形態に展示されることで文字によって紡がれた物語は、その真価をより侵透しやすい形で読者へと届けられる。もはや演出なしにオリジナルはオリジナルとして君臨できず、ひるがえってはたとい模倣品であろうとも演出さえ施されれば本物以上に本物らしく感受され得る。だいじなのは本質ではなく、本質をいかにうまく本質足らしめるかという外部の努力、装飾にある。が、作り手としてはやはり本質を一番に考えていきたい。街角で飾られようとも、見る者を魅了できる、そんな作品を。
※日々おもったことにつれづれとふれるよ。
21:【闇色と無色】
さまざまな色を混ぜあわせると黒くなるようにいろんな人格を持つと何物にも染まることのできない孤独な人間ができあがる(或いは光のように、反射してくれるものがないとそこにいるのかもわからないような文字通り影の薄い人間ができあがる)。
22:【濃淡がだいじ】
おもしろい文章だけ連ねてもおもしろい小説にはならない。濃淡のかたちづくるデコボコにこそ魅力が生じる。ジェットコースターは高低差があるからこそ楽しめる。ねじれがあるとなおいい。ストーリィに限らずこれは文章にも言えることである。
23:【ロボットの人権】
ロボットに意識が宿るか否かという命題は、突き詰めればロボットに人権を与えるか否かという争点に絞られていく(ロボットに意識が宿るか否かをなぜ明確にしなければならないかと言えば、意識の芽生えたロボットに対してどう接すればいいのか、どういった扱いを徹底すればいいのかが、現代の倫理では扱われていないためである)。人権付与反対派の主張としては、「ある目的を以ってつくられた以上、その与えられた使命をこなすのはその存在にとって義務である以上に、存在意義のはずだ」というものがある。たとえばセクシャロイドとしてつくられたロボットに人権を認めれば、性的愛玩具として扱うのは人権に反するという声が当然出てくると予想される。セクシャロイドとして扱うことが規制され、禁止されたとなれば、当然、セクシャロイドとしての存在意義そのものが揺らぐことになる。言い換えれば、セクシャロイドのための声が、セクシャロイドの存在自体を否定する、という本末転倒な展開が予期される。ゆえに、ロボットを不当に扱ってはならないという主張と、ロボットを人間と同等に見做すこと――すなわち人権を与えることは同義ではなく、主張をまとめればロボットに人権は必要ない、となる。この主張に対する反論としては、たとえば奴隷が欲しくて妊娠したとして、生まれてきた子供が奴隷として生きなければならないのか、というものがある。答えはむろん、奴隷として生きる必要はない。だがこれは、子供が人間であり、生まれてきてからさき、奴隷として生きる以外の道がひらけているから言えることであり、セクシャロイドが性的愛玩具として扱われること以外に活動の意味を見いだせない存在だとするならば、それを禁止することはむしろその存在への冒涜、人権があるならば人権の侵害に当たるのではないか、と考えられる。水の中で生きる魚に人権など必要ない。水の中が可哀そうだからといって、陸にあげてはならない。魚の生命を尊重することと、人権は関係ない。いくひしの見解としては、ロボットが単体としてあらゆる人間の生活労働を代替する存在となったとき、初めてロボットに人権が与えられる日がくるのではないかと予想している。ロボットと人間が互いに互いを必要とし、ある種の相互依存が築かれたとき、そこで初めて我々とロボットは対等な存在になるのではないか――と、そのように思うのである。これを社会的な視野ではなく、個人の問題として見た場合、ロボットの性能がどうであれ、相互依存が成立したとき、そこには対等な立場が築かれるように思われてならず、それはロボットに限らず、愛玩動物や人間関係であっても例外ではないように思うのである。結論としては、ロボットに人権を付与する必要はなく、或いは人権の有無にかかわらず、相手にとっての最大限の幸福を考え、その者にとっての自由を侵害しないようにすることがもっともだいじなのではないかと個人的には思うのだが、けっきょくのところそれがもっともむつかしい問題であることは、人類史を紐解くまでもなく明々白々な事実であり、じつに困ったものである。
24:【サングラス】
本当に知らなくちゃならない現実は、知りたくない現実で、知らないほうがいい現実でもあって。目をつぶって過ごせたらどれだけしあわせだろう。たぶん、だから。作家という仕事は、他人の分まで真実を目の当たりにして、他人の分まで苦悩することなんだなって。現実を変換して、受け入れやすい形にデフォルメして。直視しては目がつぶれてしまうから。みんなのサングラスになってあげるんだなって。サングラスだって。かっこわるいね。
25:【閃きの宝庫は空白に眠る】
閃きの優れたひとに共通しているのは知識の分布図が、あり得ないほど広いという点である。もうすこし詳しく言えば、なんでこんなところに点が打ってあるんだろうというところに一つだけぽーんと点が打ってある。平均的な人間における知識の分布図は、円形にちかい。何か興味のある一つのことを核とし、そこから放射線状に薄く広がっていく。知識の過多はその円形の大きさに反映され、博識のひとほど円が広い。けれどもやはりそれらは円形から大きく逸脱することはない。いっぽうで優れた閃きを連発するひとは、この知識の分布図が明らかにイビツなのだ。まるでワープでもしたかのように、まったくどうしてこんなことを知っているのだ、というようなことを、なんの脈絡もなく憶えている。この脈絡のなさというのがキモなのだ。人間の記憶メカニズムは元来、脈絡によって支えられている。脈絡なく何かを記憶することが人間は苦手なのである。しかし脈絡のないはずの点を、つよく憶えてしまう人間がいる。すると脳のほうでかってに、脈絡のないはずの点と点を繋ぎあわせようと無理くりに共通項を探しだし、当てはめようとする仕組みが、構築されていく。閃きとはまさにこの、飛躍を結ぶ過程から派生した、予期せぬ綻びなのである。
26:【剥きだしではなく】
勝ち負けに拘るとだいじなものを失くす。ただしあらゆる勝負を放棄していくと、それはそれでだいじなものを失くす。いざというときのために刃を日々磨いておくくらいがちょうどいい。錆びつかないように鞘があると便利だ。とはいえ、ふつうは刀をこさえるのだけでもたいへんだ。(研ぐのではなく、磨く。さすがに毎日研いだら刃がボロボロになってしまう)
27:【嫌だというか哀しい】
勝ちたいと望むことと、他人の上に立ちたいと望むこと、この違いは大きい。壁を乗り越えたいのか、蟻を踏みつけたいのか、その違いである。極めたいのか見下したいのか――とはいえ、無駄に見下されるのはやはり嫌だな。
28:【世界一の文豪】
「世界一の文豪がいたとするでしょ。たぶんそのひとは日本人ではないと思うし、そのひとが書いた本も外国語だと思うの。で、わたしは日本語以外が読めないので、あいにくとわたしにとってその本は、この世にあってもなくても変わらない、そこらの小石と同じくらいの意味しか持たないものなわけ。だから敢えて言うけど、世界一なんてその程度のものだよ。それよりもわたしは、わたしにとっての本を、わたしのために書かれた本をこそ読みたいと思うわけ。で、あなたはいったい誰に向けてそんなたくさんの文字を、それこそ小説なんてものを書いてるの?」
29:【泥臭い作業】
基本的に小説にしかできないことって今の時代にはもうなくなってしまったんじゃないかって思っていて。言い換えると、小説にしかできないことって、小説で表現した時点ですでに達成されていて、それ以上でもそれ以下でもないんじゃないかって。だからこれからの時代は、小説になかったものをいかに小説で表現するかにかかっていると思うわけで、小説にしかできないこと、ではなく、小説にもできることの幅を意識的に広げていくことがだいじになっていくんじゃないのかって思うのだよ。ただこれは言い方が違うだけであって、けっきょくのところは、小説にしかできないことを求めるのも、小説にもできることを煮詰めていくのも、行き着く先は同じなのではないのかとは、思うわけだけれども。アプローチの仕方がちがうだけで、どちらも小説の幅を広げるという点では繋がっており、小説というツールを研ぎ、磨く、泥臭い作業なのではないかと思うわけなのだよ。
30:「ひがみ」
特定の誰かを特別扱いすることは差別ではない。えこひいきではあるかもしれないが、それをされなかった者が不当に扱われていないならば、そこに生じた不満はひがみでしかない。
※日々おもったことをパチパチとメモるよ。
31:【中身が先か、器が先か】
現在は新規のユーザーが大量にサブカルに流れ込んできている状態で、いわばスマホが流行りだしたときと似た状況と呼べる。アニメからライトノベルへと流れてきたユーザーは、過去のコンテンツを漁りだし、その懐の深さにめまいにも似た衝撃を覚えるだろう。そこで直面する問題が主として二つあり、一つはコンテンツの数が多すぎて跡を追えないという点。二つ目は、新しいと思っていた作品がじつは卑近なものであったという現実を知り幻滅してしまう点である(便宜上、多くの作品に触れ、食傷気味になることもこれに入れる)。コンテンツの多さは、作品がつぎつぎに発表され、蓄積されていくかぎり、これからさらに増えていく。そのためジャンルや内容よりも、「人気が高い」という点で多くのユーザーが食指を動かしていく。ランキングがあるならば、多くてもその上位十位までしか俎上にのぼらない。また、新しいものがじつは古き良き作品の焼き増しであると知り、巷にあふれる有象無象のコンテンツもまたその限りではないと幻滅し、見切りをつけてしまうユーザーたちは、需要者の立場をとりつつも、量産型のコンテンツには金を落とさなくなる。掃いて捨てるほどに蓄積されていく作品を無料で視聴し、そして売り上げにはけして加担しないゴーストユーザーとなり果てる。彼らは常に新しい刺激を求めており、そうしたコアな層の支持を集めることができれば流行り廃りに関係のない根強い顧客を得ることにつながる。やがてそれはランキングでしか食指を動かさなかった層にも影響を与え、広く話題にのぼり、本来ユーザー層から外れた一般層にまで影響を及ぼしはじめる。かつてのアップルがそうであったように、これからは既存の一辺倒な流行りを狙うだけではヒットを狙うのがむずかしくなっていく(たとえば、物語では主人公たちが何かしら「戦う」わけであるが、「個人同士の闘い」→「組織同士の闘い」→「社会への抵抗」といったふうに物語の流行りが循環すると考えた場合、これからはこうした予測が成り立たなくなっていく。あるいは一つの物語にこれらすべてが含まれていなければならなくなる)。繰り返しになるが、多様化が進むにつれ、ユーザーはその多様性についていけなくなり、作品を発掘する手間をランキングに依存していくこととなる。そうすると表面上、多様性は失われ、流行りのようなものが市場を独占しているかのような錯覚に陥るが、じつのところそれは灰汁のようなものであり、ランキングの下層には良質な出汁が埋もれている。そうした良質な出汁を需要者に届けることができれば、それは極上の珍味として人口に膾炙し、人々の心を揺さぶるに値する商品となる。国民がおなじ規格品に触れたとき、それが日常と化したとき、そこから生まれるのはまた新たな市場の開拓である。スマホを手にした現代人は、端末ではなく、その中身の充実を求めはじめている。現代人の多くがサブカルに触れ、やがてサブカルが「サブ」ではなくなったとき、必然的にそこには新たなサブカルが誕生する。多様化し、選別され、洗練されたコンテンツは、一つの規格に多様性を内包する。スマホが多様なアプリを使用するための道具と化しているように。かつてコンテンツとして売り出されたスマホは、いまやそのソフト自体がツールと化している。サブカルにも同じことが言える。かつてコンテンツだったライトノベルというジャンルは、多様性を孕み、現在では一つのツールとして機能しだした。多機能型携帯電話として登場したスマホが現在、携帯電話型アプリ起動端末に進化したのと同様に、文芸の一形態でしかなかったライトノベルは、文芸の垣根を越え、物語を配信するツールとして機能しだす。すでにツールは国民に行きわたりつつある。ライトノベルを装うことに意味はなくなった。これからはライトノベルにおけるコンテンツの開拓が、真新しい時代をカタチづくっていく。そこに流行りはあり得ない。新しいものだけが辿り着く。――単純にまとめれば、画期的でおもしろいモノが売れる、というなんとも中身のない主張に収斂する。が、だいじなのは中身ではなく器である(矛盾しているように聞こえるかもしれないが、中身は黙っていても洗練されていく。が、器がなくてはそうした中身もとり溢されていく。スマホやライトノベルのような、つぎの時代の器が必要になってくる)。新しいコンテンツの受け皿となるべく器が、今はどこにも見当たらない。
32:【ひがみ2】
「30」の繰り返しになるが、特定の誰かを特別視することは差別ではない。たとえばレディースデーなど、女性ばかりが得をするのはおかしい、逆差別だとする主張があるが、男性に対する値段設定が不当でないならば、それを言うのはひがみでしかない。また、なぜ女性ばかりにそうした計らいがあるのかと言えば、そうした売り文句に飛びつくのが統計的に女性のほうが多いからで、言い換えればカモにされているだけである。それを果たして特別視と言えるのか。たとえ意図的でないとしても、未だ現代社会では女性が統計的差別を受けている事実は否定できない(とはいえ、たといカモにされようがWIN:WINの関係性が維持されているならば、問題はないのかもしれない)。だいじなのは、どんなことであっても、まず負の感情を自覚し、それを他者へ向けないことである。
33:【多重物語】
物語は樹で譬えられる。大きな幹があり、それを軸にエピソードという枝葉で物語を肉付けしていく。しかしこの場合の「樹」とは平面である。まさに「木」で代用していいくらいに平面的な構造である。目をつむってもゴールに辿り着けるような単純さである。洗練されていると言い換えてもいいが、すでに洗練されているものに興味はない。もっと立体的な構造を有した物語があってもよいはずである。すくなくともマンガやアニメ映画にはそういったものがすくなからずある。だのになにゆえ文芸にはそういったものが少ないのか。否、あるにはあるが、それは大巨編とも呼ぶべき膨張をみせており、なかなかお近づきになりたいとは思えない。もっと短くてよい。短めの長編で、多重構造を成した物語が紡げないものか。
34:【線から面へ、そして立体】
プロットを線で捉える時代はもうずいぶん前に隆盛を極め終えた。線で捉えるという概念を普及させたのは手塚治虫氏である。終わらせたのは宮崎駿氏だろう。たとえばもののけ姫の物語構造は一見すればハチャメチャだが、アシタカ、サン、モロ、エボシ、ジコ坊、各登場人物ごとに明確な太い物語があると捉えると、途端に立体的な構造として浮きあがって見えてくる。もののけ姫は一つの作品ではない。あれは複合された多重物語なのである。もののけ姫において重要な核を成す物語は、じつはアシタカとサンにはない。エボシと森の神々との闘いである。そこで破れたイノシシの神が祟り神となり、映画の冒頭でアシタカを襲い、呪いをかけ、そして旅にでる動機を与える。その反面、エボシは都の人間たちとも土地をかけた駆け引きを行っている。はっきり言ってエボシを主人公にしたほうが一般的だ。アシタカとサンは、本来物語の構成上、脇役であるべき人物だ。この方法論は、もののけ姫よりもはやく有名なところでは「新世紀エヴァンゲリオン」が取りいれており、そして「涼宮ハルヒの憂鬱」などのモブ系主人公のはしりとして風靡していく。風の谷のナウシカにもこの多重構造は見てとれるが、主人公がナウシカである点で、より一般的な物語構造となっている。ナウシカでは終始太い幹を中心に物語が展開されていく。だからなのか、ナウシカの構造は、本物の立体ではなく、パースの置かれた絵のように感じる。言い換えれば、多重構造の基本は、主人公ではない者にスポットを当て、サブストーリーから物語を転がしていくことにあると言える。これは連作短編によく見られる構造である(たとえば一遍ごとに物語が完結し、最終的にそれら物語の背後に隠されていた大きな物語が顕わになるといった具合に)。が、連作短編と多重物語との違いは、その構造の複雑さにある。連作短編はあくまで、団子のように点を連ね、それを最終的に大きな串で貫くといった手法が用いられる。しかし多重物語は、緻密なからくり玩具のように、連なる点同士が連携し、繋がり、回路として機能する。それはたとえば、串団子そのものを歯車とするような、完全なる上位互換なのである。物語に物語が多重に内包されるこの手法は、ふつうにつくったのでは、膨大に膨れあがり、それこそ大巨編になり兼ねない。目を通すだけでも一苦労だ。ゆえに、多重物語では、通常よりも過剰な、物語の圧縮作業が必要となってくる。もののけ姫ではエボシの経歴はほとんど明らかにならない。エボシが女たちに慕われ、そして鉄採掘場たるタタラ城を束ねている長であること以外はすべて謎に包まれている。なんとなく映画を観ているだけでは、なぜタタラ城が侍たちに襲われているのかも、ピンとこない視聴者は多いのではないか。だが宮崎駿氏はエボシの行っていた数々の裏工作を、解説なしに断片的な描写に散りばめることで、極力省略してみせた。物語に必要な描写のはずであるのになぜ圧縮しなければならなかったのか。単純な話として、もののけ姫はエボシの話ではないからである。しかし確実にもののけ姫は、エボシを中心として動いている。物語が流れている。ここに、多重構造の厄介さ、言い換えれば欠点となり得る複雑さがある。宮崎駿氏は、その解決策として、主人公をアシタカだけでなくサンというヒロインを用意することで、立体的な奥行きを映画に与えた。さも人間が両目を駆使することで視野を立体的にしているように。この手法は、細田守監督の「バケモノの子」にも見てとれる。ただし、細田守監督のほうがより平面的だ(ナウシカと共通するものがある)。物語を構成するブロックが大きく、繋ぎ目が明確だという粗が(ときにそれは長所でもあるのだが)目立つ。その要因は、主人公にある。もののけ姫ではアシタカとサンという二人の主人公を、双方共に、モブ系にした。反して「バケモノの子」では、双方共に主人公格とすることで、より明快なストーリーラインを構築した。先述したとおり、多重構造では、基本的に主人公はモブ系でなくてはならない。太い幹は別個に用意せねばならず、主人公格を主人公にするのでは本末転倒なのである。そこで細田守監督は、よりモブらしいほうの主役を、物語の軸とした(ここよりさきは、「バケモノの子」を観た者にしか伝わらないので解説を割合いする)。物語の構造は進化しなければならない。現に、物語を「樹」で捉える手法はすでにつぎの段階へと進んでいる。四コマ漫画が、漫画の基本であるように、飽くまでも「樹」は基本的な構造でしかない。それをいくつも組み合わせ、より立体的な物語をクリエイターは、すくなくともいくひしは、つくっていかねばならない。いまを生きる者として、未来をつくる者として。文芸だけである。アニメや漫画ではそうした物語が数多くある。文芸だけが百年前から進歩していない。入口のあたりで右往左往している。入口を出口だと勘違いしている。いくひしは、いい加減にしろと言いたい。でも言わないいくひしはえらいとおもう。(革新的な作品を発表している作家さんはもちろんいるさ。そりゃもう、すばらしいくらいに! ただ、あまりにその発現を、或いは発掘を、偶然に頼りすぎている。もっと全体的に、そういうことを意識して、こうこうこういうものをつくってみたのですが、いかが? と世に問うていかねばならない時期なのでは? といくひしは言いたいのである)
35:【構造改革、王道打開策】
平面的なプロットではどうしても映像メディアには敵わない(シンプルであればあるほど、映像の強みが増す傾向にある)。だとすればどうすべきか。立体的な構造をともなったプロットで対抗するよりない。縦軸と横軸のプロットは基本形として確立された。あとはそれを複数組み合わせ、複合的に機能する物語をつくるのがよろしいのではないか。或いは、複数組み合わせたことで空洞化した一本の筋を浮き彫りにする手法などはどうか。一見すれば従来の基本形を模した構造に映るが、しかし感じられる奥行きは段違いであるはずだ。いずれにせよ挑戦、もとより、調整していくよりない。工夫こそオリジナリティとはよく言ったものである。
36:【立体視】
見方を知らなければ見えてこないものがある。立体視はその典型だ。寄り目をつくらなければ、そこにはただモザイク然とした紋様があるばかりで、それそのものの良さは微塵も見えてこない。見方とは「技」である。訓練なしには身につかない。小説にも同じことが言える。読者に「技」の習得を期待してはいけない。新たな「技」の発明なしに小説の未来はない。ならばどうすればよいか。作者と読者の溝を埋めるような、足がかり的な作品をつくっていくほかないのである。中途半端ではいけない。過去と未来を繋げる絶妙な塩梅を体現せねばならない。想像するだに面倒である。いつの世も先駆者がいちばん頭を使う。だから余計に成長するのかもしれない。見習いたいものである。
37:【あたらしさ】
現代に恐竜を蘇えらせたらそれはいくら過去の遺物だとてやはり「新しい」のである。新しさとは、解りやすいなにかしらではない。大概は目に見えない技術力である。
38:【ガンダムが流行らない理由】
いまの若者たちにとってモビルスーツはいわば車や家のようなものであり、「じぶんがすごい」という承認欲求を満たすものとはなり得ない。能力系のライトノベルが流行る理由にも繋がるが、若者たちはみな「じぶんがすごい」ことを前提に生きている。ゆえに間接的なつよさを求めていない。マンガ「ガンツ」がヒットを記録した背景には、ガンツスーツが内に秘められたチカラを覚醒させる、といったある種の「才能の開花」を暗喩しているからであり、あれが単純にロボットであったならば、あそこまでのヒットを飛ばすことはできなかっただろう。ゆえに、仮にロボット系の物語を流行らせたければ、もっとエヴァのような、主人公のチカラをそのまま反映させるようなつくりにしなければならない。潜在能力に呼応してつよさが決定されるようなものでなければ、いまの若者たちに受け入れられる作品はつくれない。
39:【技と幅】
誰が見てもスゴイと思わせる「技」は、極めるのに時間がかかるうえ、劣化するまでの時間が短い。鍛練を怠ればすぐさま腕は錆びついていき、基本的にいちど披露したあとは徐々に興味を向けられなくなる。熱しにくく冷めやすいというデメリットがある。また、型として定着するので自由を限定される。安定するというメリットもあるが、デメリットもあるという話である。つぎからつぎへと超絶技巧を身につけられるほどの天才であれば「技」を極めつづけていればそれでよいが、常人であるならば、ひとつの「技」を極めるよりもいろんなものに手を出して「幅」を広げるほうに力を入れたほうが得策である。一般にそれは器用貧乏と呼ばれ、あまりよい評価を受けないが、つづけていけば確実に芽のでるやり方である(もっとも、どんな分野であれつづけていくことが最上級にむつかしいのだが)。長い目で見れば「幅の広さ」は、そのままその者の持つ地力に繋がり、創作者に限定して言うならば、それは材料の豊富さに繋がる。すこしずつでいい。じぶんだけの四次元ポケットをこさえよう。
40:【でもイチゴはあったほうが好き】
挨拶をしないからといってその相手に対して負の評価を与えるのは、本来正しくはない。挨拶とは、相手と友好な関係を築こうとするための努力である。ゼロをプラスにするための行動であり、それをしないからといってマイナスにはならない。にもかかわらず、世間にある大きな流れでは、挨拶をしないだけで、あいつはダメだ、或いは、嫌なやつだ、とのマイナスの評価をつけてしまう傾向がつよい。友好な関係を築くための道具であったはずの挨拶が、相手を攻撃するための材料になってしまっている。本末転倒である。ショートケーキからイチゴが消えたからといってケーキでなくなるわけではない。イチゴのついていないケーキはケーキであらず、すべて破棄する、といった制約が世の中にはびこるくらいならばいっそ、ケーキにイチゴをつけるのは禁止、としたほうがよほど美味しいケーキを食べられる。極端だろうか? そう、それくらい極端な話なのである。
※日々おもうことは基本的にぶれるよ。
41:【流行り】
流行りというのは確実にある。流行と言って抵抗があるならば、時代の渦と言い換えてもいい。その時期、その時代にあって、みなが曖昧模糊としながらも存在を知覚し、けれどよく解らないのでお近づきになりたくないと思っているもの。一見興味はなさそうなのだけれど、それは未知への嫌悪感でコーティングされているからであり、中身はパンパンに興味関心が詰まっている。そうしたものに、切り口を与えてやれば、溢れんばかりの魅力となって上質な蜜がしたたり落ちてくる。みながこぞって蜜を啜りに集まり、そしてその大衆そのものが蜜をより上質な代物へと変化させていく。データでは観測できない代物である。すでに膾炙したものでは意味がない。いかに未知の領域を切り広げていくかが肝要である。サーファーは波がくる前から波を予測し、棋士は百手先を読む。では作家はなにを読めばいいのか。本だけでないことは確かだ。
42:【我でなくゆえに割増し】
共感を得たいと思ったことがない。共感されたくないとすら思う。ぼくはぼくで、おれはおれで、わたしはわたしだし、あたしはあたしさ。ほかの誰でもない。誰にもなれない。だからこそほかの誰かになってみたい。誰かの視点で世界を覗き見たい。物語を貪る理由はそれしかない。他者の視点で物事を見る。世界を感じる。これほどまでに刺激に満ちた娯楽がほかにあるだろうか。
43:【一歩間違えれば廃人】
小説に、マンガに、アニメに、映画、ともかくとして多種多様な物語、虚構を必要とせずにいられる人生は最高だと思うし、できればそうした人生を歩みたかったとも思う。小説に出会えたことを後悔した覚えはないし、感謝しきりの日々ではあるのだが、それがなくては生きられない、というのは果たしてそれほど幸福なことだろうか。
44:【冗談半分】
むかしの話である。陸上の百メートル走で予選をあがったことがある。本戦に出場できるとなった折に、じつは予選の記録が間違いだったと訂正されてしまった。しかし本戦には出場していいという。いくひしはそのとき、その話を断った。予選の結果が間違っていたのになぜ本戦にあがれるのか。そんなのはズルではないか。よってもういちど予選を突破するから、ゼロから這いあがらせてほしいと頼み、果たしてその申し出は受理された。けっか、未だに予選を突破できていない。そのストップウォッチ、壊れてない?
45:【バトルと小説】
一流のダンサーはどんな曲でも踊れなければならない。プロはたといインフルエンザにかかってもベストパフォーマンスを出しつづけなければならない。だがバトルだけは例外だ。バトルは生ものだ。そのつど、ドラマがあり、生死がある。ダンスバトルはDJのまわす曲を舞台に命をぶつけあう、正真正銘、一期一会の、正念場だ。人生の、正念場だ。だからこそバトルでクソな曲がかかったらぜったいにいいバトルにはならない。バトルは心で踊るものだ。小手先のスキルでは観る者の心は揺さぶれない。小説も同じだ。誰も聴いたことのない、その場限りの熱い曲を。
46:【物語とキャラクター】
物語がキャラクターを動かすのではなく、そのキャラクターがいたから物語が大きく転がる。だから基本的な物語構造では、主人公が物語を牽引しているように映るが、じつはもともと軸となる物語があり、異物である主人公がそこに加わることで大きく流れを変えてしまう。言い換えると、本来辿り着くべき未来から逸脱する契機を与える人物を主人公にしなければならない。桃太郎ではもともと鬼という強力なキャラクターがその世界の物語を動かしていた。しかし桃太郎という主人公が介入することで、大きく未来が変わってしまう。そういうことだと思ってくれていい。だから、それゆえに。いくひしの提唱する多重物語の構造では、そこにメタ視点を取り入れ、構造をいくぶんか複雑化させる。ふたたび桃太郎を例にとろう。桃太郎は鬼を退治した。本筋はその後の話、或いは、それ以前の話とリンクしていく。鬼という存在そのものがじつはほかの大きな物語を変える契機となっていたのである。鬼という存在を失った世界は、桃太郎のせいで本来の、より劣悪な物語に回帰してしまう――といういささか入れ子状の構造になる。これはもっとも単純な多重構造である。層の枚数でいえば二層であり、多重というほどでもない。が、より奥行きのある物語になっているのではなかろうか。閑話休題。基本形にしろ多重型にしろ、だいじなのは、キャラクターが物語の流れを変える契機にならなければならない点である。そしてそれはどんなキャラクターでもいいというものではない。そのキャラクターだからこそ、結果として流れが変わったのである。ほかのキャラでは、その結末にはけっしてならなかった。そういうキャラクターを選ばなければならない。ただし、キャラクターが介入してくる以前から、その世界にはもともと大きな物語が流れている(いわゆる世界観というのとはすこし違う。設定とも違っている)。そういう意味では、物語があり、ゆえにキャラクターがあると言っても過言ではない。結果論(目的論)か原因論かの違いである。
47:【おべんとばこ】
複雑な物語が好きなわけじゃないの。できるだけシンプルでおもしろいものが好きだよ。だってできるだけながーくたんじゅんな物語を味わっていたいでしょ。その想いが募ってなのかな。多重物語なる構造をいくひしは推してるよ。一粒でたくさんおいしい物語があればいいなぁって思わない? いくひしはとてもよいと思う。おんなじ時間内で、カレーしか食べられないのと、ハンバーグにコーンスープ、パフェにサラダと、すこしずつかもしれなけれどもたくさんのおいしいものを食べられるのと、どっちがいいと思う? いくひしはたくさん食べれたほうがよいと思う。多重構造の物語はだから、お弁当箱と言ってもいいかもしれないからそう言っちゃう。お弁当箱だよ。カレーにだってたくさんの材料は入っているものだけれども、単品だけよりはいくつもおいしいものを食べたいでしょ。いくひしはよくばりさんだから。甘いのを食べたらしょっぱいのを食べたいし、でもでもたくさんのなかの一つは、ただそれだけを食べてもすっごくおいしいの。むりだと思う? でも、そういう極上のお弁当箱が、小説にもあったらいいなぁって思わない? いくひしはすごくよいと思う。
48:【SICK】
病気なんだ。病気なんだ。みんながそういう目でぼくを見るんだ。だけどぼくは病気ではなくて、病気なら治ることもあるのに、どうすればいいかなんてわからないんだ。なにかを伝えようとするんだ。伝わらないだけならいいんだ。ぼくがぼくであることの証でもあるから。なにかを伝えたいんだ。伝えあいたいんだ。だけどぼくの言葉はきみを悩ませて、きみの戸惑いだけが伝わるんだ。一方的なんだ。それはもう、すばらしいくらいに。いっそのこと絶望的なくらいに解りあえないならいいのに、ぼくにはきみの戸惑いばかりが伝わって、ぼくばかりが傷つくんだ。そう、傷ついているんだ。ぼくに見えるこの世界が、きみたちの見る世界とは違うのだと、きみたちばかりが知らせてくる。ずるいじゃないか。ずるっこなんだ。困った顔でぼくを傷つけて、いや、或いはぼくが傷つけているのかな。わかった。わかったよ。もうやめよう。この言葉だって伝わらないんだ。そうだろ。きみは或いは、ぼくを拒んでいるのだとばかり思っていた。ぼくはきみに解ってほしくて、そればかりで、きみのことならなんでも解っているつもりだった。きみは、きみたちは、ひょっとしたらぼくとおなじで、ぼくが傷つくことをおそれてわざとそうしてくれていたのかな。そう思うことにするよ。それがいいのだときみもうなずく。いやになっちゃうよ。都合のいいことばかり伝わるんだ。
49:【自動運転車】
製造業関係の大企業は今、正社員を増やそうという働きを活発化させている。派遣社員や期間従業員を雇いイチから教育していくコストを考えると、教育して使えるようになった手駒を手放すリスクを冒すよりも、まずは手元に確保しておくことを優先したほうが将来的なコストを削減できると考えているからである。が、そんなことはとうのむかしから百も承知だったはずで、ではなぜいまさらそうした対応にちからを入れはじめたのかと言えば、大きく分けてふたつの因子が関係している。一つは製品そのものの需要が減ってきているという業界全体の斜陽化にある。不景気の一言では片づけられない現象として、需要の減少が誰の目にも明らかなかたちで顕在化してきている。これは将来的に継続していく現象であるだろう。こと自動車産業などは顕著で、仮に自動運転システムが実用化されれば事実上、市場には全自動タクシーが半ば公共バスのようにそこらちゅうを走りまわり、一般市民は自家用車を持たずに済むようになる。そうなれば今のような出荷台数にはとうてい及ばなくなる。これを踏まえての二つ目の因子であるが、それは工場の機械化である。現在すでに製品製造ラインの全自動化は技術的には可能である。コストの面でいまはまだ人件費をかけたほうが安上がりだというだけのことであり、ただそれだけの理由で大企業は派遣社員や期間従業員を大量に雇用し、使い捨て、或いは使いまわしている。しかしこれも昨今の急激な技術革新により、そう遠くない将来、それこそ二十年やそこらで工場の全自動化が可能となってくる。すると相対的に従業員を確保しなくても済むようになる。イチから教育して人材を使い捨てにしていくよりかは、二十年後という期日まで有能な手駒を長く使っていったほうが合理的だとする考えをようやく企業が持つようになったと呼べる。いま二十代から三十代にかけての社員は、あと三十年もすれば定年である。ちょうど工場の全自動化が全国に行き渡りはじめる時期と合致する。工場から人間の作業者が消え去るとき、定年退職という大義名分を得て企業は大量解雇する必要はなくなった。社会からの非難の声もあがらないという寸法である。いささか穿った見方に映るかもしれない。じじつ穿っているので正しい映り方である。
50:【同志よ】
頭をからっぽにしても楽しめる作品はすばらしい。同時にそうしたコンテンツはインターネット上に無数に溢れ、無料で貪ることが可能だ。その点、重厚な物語はハズレを引いたときの「時間の無駄」感をおそれてなかなか手をだしづらいのが現状だ。だからこそいまこのとき、商品として提供するに値するのはそうした重厚な、手をだしづらい物語なのである。時間の無駄にはさせません、という保証を、担保を、提供元は全身全霊で示していかねばならない。矜持と言い換えてもいい。無料のコンテンツが溢れた現在、お金を払う価値のある物語は、けっしてたやすくコピーできる類の代物ではありえない。矜持とはある種の傲慢さである。勇気とは失敗するかもしれない未来を直視し、それでもまえを進もうとする愚かしさのことである。需要者が自ら選び、コンテンツを手にする時代はすでに過去のものとなった。否、それはますます過剰化し、無料化し、そして無法化する。あらゆる自由は無料である。金を払う意味はない。だからこそ我々は、これがおもしろいのだと、プロの視点で、傲慢さと愚かさを胸に、ある種の押しつけを強行するときではないのか。市場原理は崩壊した。無料大公開時代に対抗するために我々にできることはなにか。私たちの提供するものこそがホンモノだと胡散臭いほどの自信を前面に打ちだし、これこそがおもしろいのだと、未知との遭遇を提供しつづけていくことにあるのではないか。新しさはときに拒絶反応を引き起こす。だからといって避けていたのでは時代の波を乗りこなすことはできない。ましてや時代の壁を乗り越えるなんて芸当はとうてい適わないだろう。足場は用意した。駆け抜けよ。
※日々おもったことをくれぐれもてにはを。
51:【情報】
DNAに刻まれている情報量は現在存在するあらゆるメディアデバイスをはるかにしのぐ容量がある。研究段階ではあるが、現在そうしたDNAを基にした記録媒体の開発が進められている。ともすれば逆説的に、DNAのような極小の物質に刻まれた情報を人類はやがて引きだせるようになるかもしれない。それはたとえば物質に刻まれた時間の経過そのものであり、過去そこにあった情景を、映画を再生させるように再現できるようになるかもしれない。或いはこの世界という媒体そのものに刻まれている巨大な情報を引きだし、宇宙誕生以前の世界の姿を呼び覚ますことも不可能ではないのかもしれない。けっきょくのところ情報とは、変化の軌跡であり、常にこの世に蓄えられつづけている真の意味での永久機関である。情報には限りがない。質量保存の法則から、エネルギー保存の法則など、あらゆる物理法則から解き放たれている。正真正銘、摩訶不思議な「この世のものではないナニカシラ」なのである。
52:【愛するゆえに殺す】
デザインとは問題を解決するためのよりよい変形を示す。ならば新しさとは問題を解決するためのよりよい進化でなければならない。そこには過去という名の足場があり、そして常識という名の隘路が立ちはだかっている。ただ珍しいだけではなく、今ここにないものだけを求めるのも違っている。現状を打破し、そして未来をつくるための礎になるものでなければ意味がない。否、意味はなくてよい。最初だけは。意味はあとから従属し、のちに付与されるものである。新しさは何かをことごとく否定する。その意思がそれそのものにはなかったとしても。或いは、いったいそれがなんであるのかの理解が広く及ばない例もあるだろう。ひとは己の知見でしか物事を測れない。見られない、とそれを言い換えてもいい。問題を認識できない人間にとって、問題を解決するための手法は、目のまえのカラのペットボトル飲料ほどに意識されない。今、我々が直面している問題とは何か。小説の乗り越えるべき隘路とはなんなのか。いまいちど直視すべきときではなかろうか。新しさは常に、なにかを守ろうとする者のまえに現れる。古き基盤に最大級の敬意を。そして殺意を。
53:【女々しいとどもり】
怯えているわけじゃないの。ホント。あなただってそうでしょ。か弱い子猫みたいなのが好きなくせに。嫌いなわけじゃないの。当たりまえでしょ。目を逸らしたことなんてないもの。うそ。ちょっとくらいはあるけど、それだって瞬きくらいのあいだだもの。演技だって分かってほしくて。うそ。見抜いてほしいわけじゃないの、だってかわいいでしょ。知っているもの。本当はかわいくないなんてこと。いちどくらい騙されてくれたっていいじゃない。騙されたフリでもいいけど、私にそれを悟らせないで。束縛したいわけじゃないの。それもうそ。だって偽りでもしないと見つづけてくれないでしょ。中身なんて見ないで、うわっ面だけを見ていて。そう。それもうそ。ぜんぶを見てほしくて、でもなにも見てほしくもなくて。だってこわいでしょ。知っているもの。本当はかわいくないなんてこと。
54:【メメントモリ】
なぜ私は私なのだろう。なぜ私は、私が私しかいないと思うのだろう。私は無数にいて、私は複製可能な存在で、私はありふれていて、ゆえに私なのかもしれない。私は私たちで私であり、しかしそれを自覚できないことが私をある一定の範囲に押し留め、私を私として圧し留めているのではないか。死はその枠組みの崩壊であり、私は私たちに取りこまれ、そしてまた私は私たちからはぐれるときを待つのではないか。私たちからはぐれた私は今、どこで何をしているのだろう。私はいったいどこで何をしているのだろう。私は私でありつづけたい。孤独で、ありつづけたい。死は、とても騒がしい。繋がることが、おそろしい。
55:【そしてつねに疑え】
人間一人にできることなど高が知れている。周囲の環境を観察し、その流れを読み、先を見通し、そしてなにより学ぶこと。学ぶためには失敗しなければならない。他人の助言を真に受けて、無駄だからとせっかくの失敗する機会を失うのは明らかに損失だ。失敗もはっきりとしたひとつの成果である。なぜ失敗したのかを考える契機は、ひとつの成功よりも大きな成長をもたらす。成功したいのか、成長したいのか。こればかりは堂々巡りだろう。どちらが先でも、自ずと途中で入れ替わる。敢えて言おう。他人の助言になど耳を貸すな。じぶんだけを信じろ。しょせん他人も周囲にあふれる有象無象の事象の一つにすぎない。足元の小石や、きのう見た夢と寸分のちがいもありはしない。夢で見た蝶のはばたきにひらめきを得るのも、忘却するのもひとえにじぶんの判断である。もっとも、こうした助言もまたあまたある他人の戯言の一つである。繰り返すが、じぶんだけを信じろ。
56:【おれさまはあからさまに王様】
おまえはいったい何様だと言いたそうな目で見られることが少なくない。面と向かって言ってくれたならばぜひともこう答えてしんぜよう。無様である、と!
57:【ボツ台詞集-1】
天然殺人鬼のセリフ。
「なんでこんなことするのかって? さあね。考えたらできねぇんじゃねえの」
ヤリチンモテ男のセリフ。
「僕は差別主義者だからね。ガキやメスにはとくべつ甘く接するんだ」
殺人鬼を追う記者の独白。
「悪意を眺めるのは楽しい。最高の悪趣味である」
58:【オリジナリティ】
どんな分野でもプロを目指すならばオリジナリティの探究は必須である。しかし何に対してのオリジナルなのかはよくよく吟味し、見極めなければならない。求められるオリジナリティには必ず深度というものがある。たとえば団子屋にて新しい商品を開発しようとする場合、基本的にそれは団子である。まったく新しいオリジナルの商品を提供しようとして団子屋でシャベルを売っても仕方がない。客はなんでこんなものがここに、と思うだろうし、団子だと思って注文してみたところシャベルがでてきたら裏切られたとすら思うだろう。だからして、一般にいうオリジナリティとは、真新しさとは違っている。人気商品のみたらし団子を三つ繋げて串団子にし、値段を単品で三つ買うよりもお得にすれば、客は串状のみたらし団子のほうを買うだろう。客のためを思えばこそのオリジナリティである。すなわち、オリジナリティとは工夫の言い換えであり、既存のものをよりよくすることを意味する。しかし、それは団子屋にある団子に需要がある場合にかぎられる。いずれ団子そのもののブームが去り、団子が売れなくなる時期がやってくる。そうしたとき、深度の浅いオリジナリティを追及しても、現状の打破には繋がらない。そこで必要となるオリジナリティとは、既存の焼き増しじみた工夫ではなく、まさしく新しい目玉の発明なのである。ぶり返すが、団子屋でシャベルが売ってあったらおかしい。誰だってそう思うだろう。だからこそ、シャベル型のスプーンを開発し、そして巨大な団子を採掘するように掬って食するタイプの、まったく新しい商品が必要となってくる。巨大団子の中にはいくつか味の異なる種が入っており、それはたとえばパフェを団子でつつんだような有様である。光る団子ブームにあやかって、光る団子作成セットをおまけでつけてもいいかもしれない。泥と作り方さえあればいいのでほとんどタダのようなものである。付加価値をつけ、オリジナリティにさらなる磨きをかける。光る団子だけに磨けば磨くほど輝きが増す。オリジナリティにはまさにそういった性質があり、いくらでも付加価値がつけられる。通例がないために、やることなすことすべて新鮮なのである。閑話休題。ここで言いたいのは、まさしくいま、小説業界に必要とされているのは、そうした今までにない真の意味でのオリジナルな小説である。それは一見すれば小説ではないようなものかもしれない。すくなくともいくひしにはまだつくれていないし、読んだこともない。やったもの勝ちである。見つけた者勝ちでもある。光る団子が転がっていないか、注意深く眺めてみよう。
59:【承認欲求おばけ】
承認欲求が低俗な動機であるかのように捉えているおとながすくなくない。確固とした個として確立されたいと望むのは、不完全な人間という種にとって根源的な欲求である。ひるがえっては世界に流れる事象の多くもまた不安定であるがゆえに常に、より安定した状態へ移行しようとする働きをみせている(水が氷になったり、気体になったりするのも環境の変化によって安定した状態になろうと変遷の経過に身を委ねているためである)。他者から認められたい、とする欲求は、ある種の確認作業である。ほかの多くの視点から見ても自分は安定した状態にのぼりつめているのだと安心したいのである。ひるがえっては自分が不安定な存在なのかもしれないとする不安の表れでもあり、真実不安定な種である人間にとって、この不安はけっして払しょくされることはない。だからこそ他者からの承認を求め、そこにしあわせを見出そうとする者は得てして中毒者じみた承認への渇望に囚われがちである。なぜなら承認にはかぎりがないからである。たとい人類すべてから崇められようと、人はさらに後世からの承認までをも求めるようになる。名を残したいというのはまさにその典型である。国を動かす仕事をしたい、時代を変える仕事をしたい、他人の役にたちたい、もまた大なり小なり同じである。まったくもってわるいことではない。そして重要なのは、しあわせもまた承認と同様にして際限がなく、それを求めはじめるときりがなく、蟻地獄じみた迷宮--虚無にはまってしまう点にある。けっきょくのところしあわせを求めるのも承認を求めるのも、ほとんど同じ顛末を辿る。それそのものを手に入れることを目的にしてしまうと、やがて中毒化し、かえって満たされなくなってしまう。だからといってそれを拒絶し、手放す必要はない。求めるのが人間である。明確な目標を以って、それに励もう。しあわせも、承認も、何かをなそうとした結果にたまたまついてくる影のようなものである。ときおりでいい。足元を見て、じぶんはたしかにここに存在するのだと感じよう。
60:【虚構現実】
現実は厳しいから虚構のなかでくらいいい夢みさせてよ、という声がある。ひとむかし前、それこそフェイスブックやツイッターがなかった時代はそれでよかったと思う。けれど現在では、本当は厳しい現実にあえいでいながら、しれっと成功と活躍を誇張して提示できる「場」がそこらちゅうに溢れている。現実のなかに虚構が溢れ、侵食し、それを以っていまは、「現実」と呼ぶ。虚構のなかでくらい「真実」を描いてほしいと望む声は、そうすくなくはないはずだ(みな、自分だけじゃなかったんだ、と安心したいのである)。
※日々おもったことをへろへろとつむぐよ。
61:【ゲーム業界の話】
消費の時代は終わり、これからは献上の時代に突入する。見てください、読んでください、聴いてください、遊んでください。すべて提供者から声を大にして需要者へ叫ばなければならない。いかに気前よくサービスをするかが肝要であり、いかに抵抗なく商品を手に取ってもらえるのかが焦点となる。すべて無料ではむろん誰も金など払わなくなる。ゆえにお金を払ってもらえるように、そこにはある種の駆け引きが必要とされ、同時にその駆け引きそのものが楽しめるようなものでなければならない。夢の国やUSJなどのパレードやサービスには見習うべきものがある。たとえばゲームなどは、従来のような参加型のアトラクションじみたものだけでは年々需要者は減る一方だ。なにもせずとも需要者へ訴えかけつづけるような、独自のモジュールが必要となる。それはたとえば独立した人工知能であり、肉体を持たないペットである。人格を有していればなおよい。事実上の奴隷である。昨今の風潮として、ゲーム業界はソーシャルゲームへの対抗策として、また差別化として、映像のリアル指向へと走っているが、ハッキリ言ってその方向性は間違っている(ようにいくひしには映る)。需要者の求めているものは現実ではない。あくまでも仮想の世界である。現実を忘れるために、わざわざ現実っぽさを追求する必要はない。アニメのキャラが生きているように画面の向こうから語りかけてくれるだけで、現在の需要者は満足する。彼らは何かをしたいのではなく、楽に、より多く、満たされたいのである。現在において娯楽とは、消費するものではなく、人生を共に歩むもの、支えとなるものを意味する。ペットのように従順で、情婦のように都合のよい対象を需要者は欲している。
62:【ゲーム業界の話2】
ゲーム業界の話をしよう。ファイナルファンタジーを代表するような重厚な物語を売りにしたゲームは昨今、とんと売り上げを伸ばさない(以前のように爆発的には売れない。開発費を回収できないのが現状だ)。反して手軽に、目をつむってでも遊べるソーシャルゲームが現在、市場の主流である。開発費は、据え置き型ゲームソフトが何十億に対してソーシャルゲームはせいぜい高くても数千万である。元からスマホという機種があるため、ハードの開発をせずともよく、需要者にその分の費用を負担させずに済むという利点がある。また短期間で開発でき、そして当たれば大きい実の入りが期待できるのだからソーシャルゲームの開発に業界が奮起しないはずがない。かといってソーシャルゲームの需要者が増えたから従来のゲームソフトが売れなくなったのかと言えば、ことはそう単純ではない。ゲーム人口が増えたならば必然、コアなファンも増える道理である。が、現状そうはなっていない。なぜか。大きな要因のひとつに、大衆の嗜好の変化、ことさらコンテンツを消費する理由の背景変化があげられる。ひとむかし前までは、純粋なひまつぶしとしての娯楽が、そのまま極上のコンテンツとして人々に受け入れられていた。経済が発展し、化学技術の結晶がそこかしこに溢れた現在、ひまつぶしにお金を払う真似はせずに済むようになった。そこで人々がコンテンツに求めるものは、人との繋がりへと変化していった。もうすこし掘り下げて言えば、承認欲求を手軽に満たせるシステムへの転換である。YOUTUBEやニコニコ動画がTVを駆逐する勢いで成長した背景には、この承認欲求を満たすシステムの介在が見え隠れする。ゲームに限らず、あらゆるコンテンツが、いまや、需要者同士を繋ぎ、相互に関連しあうシステムの強化へとその働きを(意識的無意識的にかぎらず)打って出ている。ツイッターのファボやフェイスブックのイイネ機能を筆頭に、需要者がコンテンツを発信し、提供者となり、同時にコンテンツを批評する運営への参加が可能となっている。ゲームの話に戻ろう。従来の据え置き型ゲームのソフトでは、需要者はプレイヤーとして単なる消費者の位置に留まった。重厚な物語は、複数人でわいわい騒ぎながら楽しむよりも、独りで物語に没頭するのに適している。反してソーシャルゲームでは、プレイヤーはYOUTUBEなどのほかのコンテンツをまたぎ、そのままコンテンツの提供者として昇華される。ゲームの内容とは関係のないところでゲームを楽しむ、といった仕組みは、過去、ゲームセンターが繁盛していた時代にはしごく当然のようにゲームに組みこまれていた。格闘ゲームなどがその典型である。ネットワークを介して全国の猛者たちの成績を共有し、ゲームの内容そのものを楽しむよりも、誰よりもよい成績を叩きだし、そして称賛を得ることにその主眼を置いた。ダンスダンスレボリューションや楽器系のゲームもその系譜である(本当に中身を楽しみたい人間は、ゲームではなく本物に手をだすはずである)。ソーシャルゲームはさらにゲームの内容から乖離した方法論でそのシェアを広げている。たとえばパチンコの依存原理であり、また、費やした時間や金銭を回収しようとする消費者心理(コンコルド効果)である。無料でゲームを提供し、まずは顧客の層を厚くするという手法が有効なのは、こうした泥沼を、運営側が意図的に、非情なまでに徹底してゲームに組みこんでいるからである。大手のゲーム会社はしかし、そうしたソーシャルゲームよりも従来のゲームソフトの開発にちからをそそいでいる。矜持があるからだろう。よりリアルな映像を追求し、より没頭しやすい物語世界をつくりあげることに尽力している。真実に顧客がゲームにリアルさを求めているのかはこの際措いておくとして、ゲームはこれから、ゲームを越えた何かに進化しようとしている。そして時代がそれを後押ししているように個人的には感じる。VRの実用化、そして販売がその一例である。ゲームは映画を凌駕した新たな体験として数年以内に現代社会に膾炙し、溶け込んでいくだろう。或いはそれは、従来のゲームソフトの終焉を意味するかもしれない。もしくは、情報量の過剰なVRに疲れ果てた需要者たちが、こぞって懐古主義に走るかもしれない。いずれにせよ、VRの出現により、物語に没頭することと、他者と繋がることが同時に果たされるようになる。これは、現在ある、どんなコンテンツにも適えられなかった「新しさ」である。仮想世界、ことさら虚構の共有は、まさに他人の夢へと集団で旅立つのに似た魅力に満ちている。これからの人類は、宇宙だけでなく、天国にも地獄にも気軽に旅行にいけるようになる。最後に小説の話をしよう――。このさき、どんなに技術が発展したとしても、たとえどんなに他者と繋がりあった社会になったとしても、ひとたび文字の羅列に目を落とせば孤独に陥られるという圧倒的な枷が――美点が、小説には残りつづける。小説はこのさき、ますます時代遅れになる。が、行き過ぎた遅延は、やがて最先端を凌駕する……こともある、と、いいね。
63:【そろそろのはず】
あらかじめ告げておくと、そろそろいくひしの仕掛けた時限装置が作動する頃合いである。半年~一年後に起こりそうなムーブメントは、時流を追っていけば自ずと合致するので、さほど誇示するほどのことでもないのだが、五年後、十年後の動向を予測して、布石を打っておくのはなかなかに困難なものがある。基本的にいくひしの作品群は多重構造をなしており、それは未来予測においても同様である。連鎖的に反応するような仕組みを組みこんできたのだが、うまく機能するだろうか。楽しみである。
64:【予測する意味】
腰パンの起源には囚人の服装を真似たものだとする説がネット内では有力視されている。が、じつはもっと実用的な面で腰パンはアメリカ不良文化に風靡した背景がある。それは万引きである。ご存じの方も多いかもしれないが、HIP-HOP文化には主として四つの要素がある。ラップ、ダンス、DJ、そしてグラフィティである。中でもグラフィティは、タグと呼ばれる個人を示すサインじみた描き方があり、それは比較的誰であってもスプレーさえあれば描けてしまえるため、ほかのラップ、ダンス、DJなどと比べて容易に参加しやすい特徴がある。いわゆる壁の落書きと聞いて思い浮かべるような、芸術的な感応のいっさいを喚起されない、ミミズの這ったような、まさしくサインである。基本的にそうしたタグは、より熟練されたグラフィティ――芸術性さえある作品(ピース)のうえに重ね描きしてはならず、そこにはある程度の秩序、ルールが尊重されている(伊坂幸太郎氏の「重力ピエロ」でも出た話なので意外と知っている者は多いのではないか)。なぜグラフィティという行為に若者たちが走るかについては、単純な話として、おれはここにいるぞ、という自己主張のほかに意味はない。縄張り争いだとかそういった意味合いはほとんど後付けであり、存在を誇示したいという青臭い動機がその行動原理の奥底に鎮座している。芸術もまた或いはそういった青臭さからくる行動なのかもしれない可能性は、ここでは敢えて否定しない。ほかの主要素、ラップやダンスやDJにも言えることではあるのだが、グラフィティにおける自己主張のつよさ、ことその純粋性はほかの追随を許さない。なんといってもグラフィティだけは完全なる犯罪なのである。自分のものではない建造物(本場のアメリカでは店の外壁や電車にするのが一般的だ)に、盗んだスプレーで作品をこさえる。器物破損に窃盗である。ここで話は冒頭に戻る。なぜアメリカ不良文化で腰パンが流行ったのかである。基本的にヒップホップ文化の出自はその当時の貧困層だとされている。ヒップホップに染まった若者たちも金に余裕のある生活は送っていなかった。そこで生活必需品からヒップホップ活動に必要な道具、たとえば大量のスプレー缶などは、万引きをして調達していた。その際に役に立つのが腰パンである。ダルダルのズボンは、放り投げた大量の物品を入れる袋代わりであり、足首をズボンの裾ごと縛っておけば物品がこぼれおちてくることもない。端から手ぶらであれば疑われることはないし、ウエスト部を下げておくことで物品を放り入れやすくなる。また、複数人でことに及べば、ひと目を避けつつ、大量に、素早く物品をせしめられるという寸法である。なにごともそうであるが、何かが流行るのには合理的な理由がつきものである。腰パンにすら実用性という面での合理的な理由があった。流行り物を一過性のものだと蔑ろにするのではなく、そこに潜む合理的な理由を分析できるようになるといい。当たっているかどうかはさほど重要ではない。分析するくせをつけるだけでいい。するとなにもしないでいるよりかはいくぶんか世の中の動向が見通せるようになってくる。これもまた当たっているかはさほど重要ではない。むしろ、予測した事態にならないように行動することにこそ未来を予測する意味合いがあると言ってもこの場合は、そう的を外してはいないだろう。予測とは外すためにするものである。と、すこしはまともな意見も言っておこう。(もっとも当てようとするからこそ予測の精度は高まるのであり、けっきょくのところ外すための予測というのは自家撞着にまみれた理想論でしかないのかもしれない。とはいえ、対策はできるだけ早く立てておくことに越したことはなく、或いはホンモノの警鐘とはそういった二律背反を越えたところで鳴らされる啓示にちかいものなのかもしれない)
65:【苦悶は呪文】
「スキって言葉の威力ハンパない。いやホントすごいから。耳元で言われてみ? 真っ暗闇で身体の自由奪われて、ほのかにいい匂いがして、吐息の振動まで伝わるくらいの至近距離で、唇のぬくもりが伝わるくらいの微妙なさじ加減で、スキ、スキ、ダイスキ、ってそれが言葉なのか息なのか、それとも単に喘ぎ声なのかの区別も曖昧な状況で、それをずっとつづけられてみ? いや最初はもう恐怖だよ。こわいこわい、なにそれもうやめてってなるよでも、つづけられてみ? もう一発で理性とか吹っ飛んで、洗脳されて、その瞬間だけでも声のぬしを好きになっちゃうから。性別とか年齢とか種族とかそういうの関係ないから。スキスキって本能百パーセントで、声だけで、苦しそうに、こちらの同意を得た瞬間に貪るような熱気につつまれて、それでもやっぱり声だけで、スキスキダイスキって執拗に、必死に、くりかえし迫られてみ? ちょっとした麻薬より効果あるから。脳髄溶けてその場の空気に流されちゃうから。ホント冗談抜きで。いや、やられてみたことないけど」
66:【電子書籍】
電子書籍はもうからない。これは事実である。だが付け足しておくべきことが一つある。それはそもそも作家という職業が職業として極めて不安定な土台に立っているという事実である。食べていけている作家はもちろんいる。ただし三十代にデビューして世間一般の定年退職時、六十歳まで執筆一本で食べていける作家は、新人賞でデビューした全体のおよそ0.5パーセントもいないだろう。憶測で物を言っているが、かなり楽観的な数値である。実際には0.01パーセントもいないのではないかと個人的には思っている(これでもまだ楽観的な数値だ)。いま最前線で輝いている売れっ子作家たちがあと三十年先でも現役で出版しつづけていられるかはしょうじき怪しい。とはいえ、作家という職業は宝くじの券を自作できるという特殊な技能を生業としている。一発大きなヒットがあれば、或いはコンスタントにヒットをつづけていれば、短期間で世間一般の生涯賃金以上の資本を得ることができる。その点が博打と似ていると言われる所以だろう。基本的な話でもうしわけないが、紙の本は大手の出版社であるならば実売数ではなく発行部数での印税が配分される。最初に五千部刷ってもらったならば、極端な話たとえ一冊しか売れなくとも作家の懐には五千部分の印税が入ってくる手筈になっている。が、電子書籍ではこうはいかない。端から発行部数という概念がないため実売数での印税である。電子書籍化するにあたって、映画化する際のようにその著作権を譲渡するといった名目でかわされる金銭のやりとりもあるようだが、その金額はやはり紙の本で得られる金額よりもすくないようである。では電子書籍化するうえでのメリットとは何なのか。ここではそのメリットについては深く触れないでおこう。検索すれば容易にヒットするので、ここではさわりだけの言及にとどめる。電子書籍化するメリットとは――一つに誰であっても出版できること。また絶版がなく、在庫を抱える心配がないことである。そしてなにより技術の発展と共に電子書籍化するためにかかる費用は減り、いっぽうでは電子書籍を需要する顧客の満足度が向上する点にある。現段階では電子書籍の一般への普及は、期待されていたときよりも遥かに規模がちいさい。電子書籍を閲覧するためのデバイスがうまく普及していないとする背景は、そう無関係ではないが、そこに本質はないといくひしは考える。では主とした要因はなんなのか。それは、需要者が紙の本と電子書籍、双方に期待する利用価値が明確に分岐しはじめている点にある。電子書籍はデータである。データはタダだという感性がいまの世の中には流れている。だからして、電子書籍は、ネット上に溢れる様々な無料コンテンツを蓄積するためのツールとして多くは利用されている。そこにはむろん、違法な海賊版も含まれる。有料で電子書籍化しても、そのデータがすぐに海賊版として流れ、無料で多くの者たちの手に行き渡る。そうした悪循環が今まさにこの社会の暗部で、否、表世界で堂々とまかりとおっている。大手の出版社はこれに対して厳しく対処に当たっているが、依然としてその成果は面には表れていない。たとい海賊版が根絶されたとしてもネット上にはプロアマ問わず、真実、無数の作品が、それこそ世界で自分しかそれを楽しめないだろうというニッチな作品が、手を伸ばせばすぐにでも受動できる距離に転がっている。果たしてこれからの時代、そうした野良プロの作品に慣れ親しんだ世代が、かつてのように金のかかるコンテンツに食いつくだろうか。人工知能の発展と共に、インターネットの検索精度もあがっていく。玉石混淆などと言わずして、玉石石石石石石石……石混交の無数の作品群からであっても、ずばりあなたのための作品です、とネットのほうから適切な作品を見繕ってくれるサービスがそのうちはじまるはずである。そうでなくとも、おもしろい作品であれば誰かが確実に発掘し、そしてそれは真実におもしろいのであれば、必ずや多くの者の目の留まる場所に浮上してくる。これは物理的な市場でも、虚構のインターネット上でも同様に働く原理である。芸術性のある作品は埋もれてしまうかもしれない。が、芸術性に価値のあった時代は疾うに去って久しい。或いはこうも言い換えられる。現代にある芸術性とは、より多くの者の目に留まり、そしてその目を輝かせるものでなければならないと。理解されないのが芸術だとする風潮は、単なる逃げ口上である。理解されなくとも、山や川や海のように人々をとりこにするようなものでなければ芸術ではない。そして基本的に山や川や海は誰のものでもない。そこが電子書籍と似ている点である。これからの時代、ますます電子書籍は無法化していく。そこに秩序を生むのは、いちど荒廃した世界にて生き残った版元だけである。或いは、敢えて無秩序を助長し、そうした淘汰の末に、甘い汁だけ根こそぎ奪い取ろうとする流れがうっすらと、つよく、市場を混沌に導いているのかもしれない。が、重要なのは、そうした内部の変化は、需要者にとってはどうでもいい点である。無料で、手間なく、楽しく、コンテンツを消費できれば文句はない。金をださなければ今あるコンテンツが味わえなくなるぞ、と脅されても、ならほかのもっと無料で手間なく楽しいコンテンツを味わうよ、とそっぽを向かれてお終いである。電子書籍はもうからない。書籍をもうからなくさせるための装置なのだから当然である。だが、現在の作家がそうであるように、一部の才能ある者にとってはこのうえない金の採掘場である。山や川や海に、各々、油田や金脈が眠っているように。
67:【競いあうのは三流】
常勝するのが二流。一流は場を提供する。
68:【宣戦布告】
模倣は最上級の称揚であり、最大級の侮辱である。真似されるようなものを。真似できないことを。真似されれば怒り、それ以上のものを新たに。
69:【分水嶺】
イギリスがEUを離脱してなにがし、と話題になっている2016年6月25日現在、問題の焦点は世界経済どうこうよりも、グローバル経済を謳って結成された組織が、却ってグローバルな活動を妨げているのではないかと思わざるを得ない点にある。EUに加盟せずともインターネットが世界を網の目のごとく覆い尽くさんとしている現在、言い換えれば人間が地球を覆いつくし、個人個人がひとつの国家のように振る舞い、各々が自由な貿易を可能としはじめたいまこのとき、大きな組織に囲われることが却って自由を束縛されてしまうという本末転倒な事態がそこかしこで起こりはじめている影響なのではないかと個人的には感じている。何かを我慢し、何かを享受する。組織にかぎらず、人類は、かような利己追及的な合理性によって発展してきた背景がある。より多くの自利をより長く得るために、目先の損を選び、堪えることが人類をより高度に発展させてきた。ひるがえっては、これまで得られていた利益がもたらされなくなれば、目のまえの苦難をわざわざ我慢する必要はないと判断するのに事欠くことはない。或いは、もたらされる利益よりも、強いられた苦痛からの解放のほうが、結果的に大きな益だと認識される場合も多々あるだろう。個人個人のあいだで起こっていた時代の変化が、その弊害が、たまりにたまり、結果として個人の集合体である国家にまでその影響をひろげた。今回のできごとは、まさにこのさきに起こるだろう時代の変化を象徴する、じつに解りやすいできごとである。
70:【移民問題】
安い賃金で労働力を得られるという点で、企業などの資本家は移民の流入を歓迎する傾向にあるというのは広く一般に使われる口上である。と同時に、移民の流入によって仕事を奪われるといった危機感を、労働者階級が募らせているという主張もまたひかくてきよく耳にする。今回のイギリスEU離脱の背景には、この二項対立の結果、労働者側の不満がEU離脱派の後押しをしたという論調が、ネットのニュースサイトなどを眺めているとつよく推されているように観測される。だが待ってほしい。本当にそうだろうか。投票結果を眺めてみると、若い世代ほどEU残留を支持しており、世代が高くなっていくにつれ、EU離脱派が多くなっていく。失業の危機感を募らせている労働者の多くは若い世代であろう。にも拘わらず、若者の投票者層はEUからの離脱を拒んでいる。これの示すことはなにか。若い世代の多くは、ここ十余年に起きた時代の変化、その加速度的な技術革新を俯瞰的に実感できていない。渦中に身を投じすぎており、それがふつうのこととして、まさしく浸透してしまっている。反して、そのうえの世代は、時代の変遷だけでなくEU加盟国としてのメリットとデメリットの多寡を、その移り変わりを過去のものとして眺めてきた。ちょうど絵巻物を眺めるのに似た俯瞰の視点で、時代の移り変わりを実感している。グローバル経済、ことEUはある種の世界統一の局所的な実現に向けて発足された制度にちかい。国の違いがあるから争いが起こる。ならば国をひとつにまとめてしまえばいいのではないか。過去の失敗から学び、そして実現したのがEU、ヨーロッパ連合である。しかしけっきょくのところEUもまた、世界の無数にあるひとつのパーツでしかなく、規模のちがいはあるにせよ、国と国との軋轢がなくなったわけではない。むしろ規模が大きなってしまったがゆえに、ほかの連合国や他国との摩擦が増してしまった傾向は無視できない。その摩擦をなんとかしようと、EUのなかでさらなるルールが増え、自分たちの首を絞めるような息苦しさを増長させてきた。イギリスだけではない。その息苦しさはほかのEU加盟国もまたつよく痛感しているはずである。イギリスEU離脱による今回の世界経済の混乱はまさしくその点が関係しており、ヨーロッパ連合そのものがこのさき瓦解するのではないか、という懸念が、多くの資本家や国を不安にさせている。世界のパワーバランスが崩れるときはちかいのかもしれず、或いはみながそのような危機感を募らせているいま、ふたたび世界のパワーバランスは見直され、より強固に補われるのかもわからない。重要なのは、これからさき、EU残留派だった若い世代が、時代の変遷を絵巻物のように俯瞰できる時期がやってくるという点であり、そうなったとき、現在この社会に漫然と漂っている常識や論調というものが、大きく揺らぐことになる。するとそう遠くない未来、それこそ十年以内に、これまで以上の思想の総入れ替えが行われる。それはたとえば民主主義への不信感であり、これまで人類が培かってきた知性への反感であるかもわからない。急激な変化は、その後の社会がどのように改善されようとも、そのとき生きている者たちにとってはつよすぎる毒をはらんでいる。その点を我々は今から前以って考慮し、対策を練っていかねばならないのではないか。EUってなんだ? とさいきんになってグーグルポチポチしながらいくひしはそう思ったよ。
※日々おもったことをくねくねとまげるよ。
71:【無責任】
――なことを言うのはたのしい。これだけでアマチュアでいつづけることの価値がある。ただし無責任であるからといって自由だとはかぎらない。自由なのはきっと、もっとたのしい。
72:【まえがき】
小説にまえがきをつけてみた。ないほうがいいという意見には耳を貸さない。ウザいという声には傷ついている。興味のある方は、小説の作品紹介をおのおの参照してもらいたい。本編よりもむしろそっちを読んでほしい。いくひしの最新作、まえがき。読者層を意識して、加藤はいね氏の文体を意識した。加藤はいね氏はブログ「私の時代は終わった。」の作者である。すばらしい感性の持ち主であり、近代を代表するすぐれた作家のひとりである。文章全体のデコボコ加減が絶妙であり、それそのものの文章の特徴は、文体にとってさほど重要ではない。仮に加藤はいね氏が、いわゆる一般的な小説の文章作法を用い、何らかの事象を表現したとして、そこで加藤はいね氏の文体の魅力が落ちるかと言えば、いくひしはそうは思わない。多少の訓練は必要かもしれないが、あきらかに加藤はいね氏の文体には、いまの小説業界に必要とされている文章の飛躍、或いは圧縮、それともある種の欠落、それによる回りくどさが、備わっている。いくひしは思う。それほしい。
73:【文章力】
ほんとうの文才とは、文章を文章と認識させない能力をいう。誰であっても経験があるのではないか。たとえば、文字を読んでいるはずがいつの間にか物語の世界に旅立っていたり、或いは説明書きや解説を読んでいたはずが、何かを自力で閃いたり、創作しているかのような感覚を覚えたりする。そのときひとは、文章を文章として認識しておらず、ある種の体感を得ている。ひとは文字をとおして、文章の向こう側に、言葉以外の何かを見ている。優れた文章は読むのではなく、視るのである。だからして本質的にうつくしい文章とは存在し得ない。あなたが文章を読んでうつくしいと感じるとき、それはけっして文章をうつくしいと感じているわけではない。文章を通して受信した何かしらが、あなたのうちで火花を散らし、あなた自身があなた自身のちからでうつくしさを手にしているのである。ただし例外がひとつある。それは「書」である。文字としての造形そのものにうつくしさを宿す「書」は、文章としての連なりを帯びたとき、まごうことなき、うつくしい文章として確立され得る。ともすれば、物語を紡ぐ小説家にとってうつくしい文章とは、自ら率先して求めるべきものではないのかもしれない。
74:【いくひしを知らないすべてのひとへ】
アイドルはけっしてファンに向かってパフォーマンスをしているわけではない。ファンサービスという言葉があるくらいなのだから、ふだんのパフォーマンスはむしろそれ以外の、手中にない者、信者ではない大多数に向かって行われている。身内ノリに走った時点で、声は内側にしか届かない。波紋はそとへ向かわないかぎり、対消滅しあい、徐々にその外円(外径)を収斂させていく。もっとも、一滴のシズクを水面に落とさないことには波紋そのものが生じない点は押さえておく必要がある。シズクは円周を持たず、ただただ一点に集中する。たったひとりのファンのために向けてささげるなにかしらが、その後に大きな波紋を広げていく。世に問うその一滴が、果たしてつぎに起こる波紋に足るシズクなのか、よくよく考えて繰りだしていきたいものである。
75:【他人の機微】
ひとの気持ちがわからない。そんなのはあたりまえだとひとは言うが、しかしいくひしの場合、本当に、なんでそんなこともわからないの、というレベルで他人のきもちが推し量れなかった。むろんいくひしにも知能というものはあるわけで、それなりの場数を経ることで、こういう場合はこう、こういう場合はこう、と他人の行動とそれにともなう心理状態を分析し、他人のきもちを類推することが可能になった。ともすれば、他人よりも注意深く(ときに臆病なほどに)身近なひとびとを観察しつづけてきた習慣が、物語を紡ぐ手助けになっているのかもわからない。いくひしは未だに新しい人間関係を構築するのが苦手であり、並大抵以上の努力を要する(そして大概はしっぱいする)。他人のつけている仮面が、いったいどういった模様なのかがぱっと見で判断つけられない(ぱっと見というかじっと見ても判らない)。すべてがすべてモザイク柄なのである。すこしずつすこしずつ、殻を剥がすように、いくひしは他人というものを可視化させていく。じつに疲れる作業である。やはりというべきか、物語を紡ぐ作業にそれはどこか似通っている。
76:【いいひと】
この世にいいひとなんていない。いいひとであろうとする人間がいるだけである。なぜいいひとであろうとするのかについての差はあるだろうし、そこが偽善や腹黒などの蔑称に結びつくか否かの境目であろうが、みないずれにせよ腹にイチモツを抱えて生きている。もし何も抱えておらず、しぜんといいひとに見える行動をとってしまう人間がいるとしたら、そのひとは人としてどこか狂っている。近づかないほうが身のためだ(じつにかわいそうなことである)。
77:【万人の生地】
他人の行動原理が解りすぎる。なぜそんなことを言うのか、なぜそんな行動をとるのかといったその人物の感情線とも呼ぶべき微妙な波紋の揺らぎがつよく伝わるのである。そんなのは勘違いだ、自信過剰野郎と野次のひとつでも飛んできそうなきらいがあるが、いくひしにはわかるんだもん。それはちょうど、犬や猫を眺めるのに似ている。犬や猫のきもちは解らないが、しかしなぜそのような態度をとるのか、或いはなぜそのような仕草をするのかといった行動原理は理解できる。どんな犬や猫にでも共通する仕草や態度というものがあり、それは犬や猫だけにかぎらず人間にも当てはまる単純さ、言い換えれば習性なのかもわからない。いくひしにはどの人間も同じに感じる。同じに見えるわけではないが、どうも犬や猫のように、個々を識別するなにかしらをつよく把握できないようなのである。人間は、人間が思っているほど複雑ではない。ともすればいくひしが単純なだけなのかもわからない。
78:【プロだろ? ねじふせてみろよ】
私の話をしているのだよ、私の。そういう態度はプロとしていただけない。プロはいかなる場であれども相手の土俵に下りていき、そして最高のパフォーマンスを披露せねばなるまい。ただ発揮するだけでは充分ではなく、それを魅せものとして、或いは商品として昇華せねばならないためいつだって四苦八苦するはめになる。王者の貫録など微塵もない。挑戦者たれ。甘ったれるな。と、いくひしは赤玉ポートワインを飲みながらグラスをどんとテーブルに置いた。
79:【答え】
答えがないことを答えにするのは姑息である。今そこにないかもしれないが、ないからこそ、だったらじぶんでひねくりだすしかあるまい。
80:【正義】
触れ、掴み、掲げた瞬間に正義はシャボン玉のようにその枠組みを失う。ならばどうすればいいのか。いくひしは悩んでいる。
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※日々おもったことを無責任に垂れるよ。
81:【先取り】
時代を読んだところで、時代を変えられなければ意味がない。時代を変えるだけならば何かを破壊すればいいのだからそうむつかしくはない。何かを劇的に解決し、進化させることに時代を変える意味がある。言い換えれば時代の先取りとは、今現在問題にされていない、或いは意識されていない事象に焦点をあて、このさき槍玉にあがるだろう問題を(或いは意識的無意識的に拘わらず差別を受けている事柄を)取り沙汰していくことを意味する。ところで、現在もっとも急浮上している問題は、差別をなくそうとした勢力が、却って差別を助長してしまっている傾向にあるという点だ。差別はいけないが、何かを嫌だと思う気持ちや、何かに抵抗を感じる気持ちは尊重しなければならない。重要なのは、じぶんの心情に関係なく、万人に対し平等な態度を心掛けることであろう(平等と同等はちがう。その点は強調しておきたい)。差別する人間を差別してはいけない。批判すべきは行為であり、人そのものではないはずだ。
82:【基準点】
孤独を感じられない人間は悲惨だ。孤独は、どんなに大勢に慕われ、囲まれ、繋がって生きている人間であってもふとした拍子に感じるものだ。しかし常に孤独のなかに身を置きつづける人間には、むしろ孤独はその存在をひた隠しにする。我々がふだん空気を意識しないように、或いは魚が水を認識しないのと同様に、ひとは気温の変化があってこそ暑さや寒さを感じられる。産まれたときから暖かさに触れたことのない人間は、寒さをしらない人間に育つだろう。誰にも共感されない人間は、その孤独の深さに気づくことなく、孤立したまま生きていく。他者から見ればそれは悲惨に映るが、しかしそれがふつうのこととして刻まれている者にとって、今さらのように暖かさを教えられるほうがむしろ苦痛だ。なにがしあわせで、どうすればよいのか。人間のきもちというのはじつに厄介である。
83:【神に抗議】
透けて見える世界観がひとりひとり違いすぎて頭がくらくらしつづける日々を送っている。同じ人間はひとりたりとも存在しない、なんて言説があるけれども、いくひしはしょうじき、いやいるでしょ、いったい何年前から人類いると思ってんの、同じような人間、これまでに何人かいたでしょ、って思ってしまう。でも、今こうしていくひしが触れられる範囲、同じ時代に息づいている人間でって限定を当てはめてしまえば、やっぱりというべきか、まったく同じ人間どころか似た人間さえいないんじゃないかっていくひしは思ってる。好きな音楽はなんですかーって訊ねてみますればそれこそいくひしの趣味と合致する人間はとんとその姿を忍ばせるし、そもそも音楽なんて聴きませんけれど、なんてひともすくなくはないわけで、そうするとじゃあその音楽聴かないひとたちはなにをして楽しんどるの、死んどるの?って話を振ってみますれば、まあそれこそ十人十色の返事があり申して、基本的にいくひしとは相容れない趣味を多くの者どもは嗜んでおられるわけでして、それってぜんぜんべつにわるいことではないのだけれど、もうすこしばかし、ほんのきもちでいいからさー、いくひしと共通点のある人間がもちっといてくれてもいいんじゃなぁーい? ぜんぶ同じじゃなくていいし、同じじゃないほうがいいくらいだし、いくひしの世界をひろげてくれるような、新鮮な、相容れない相手のほうが基本的にはいくひしだってフェルカムよ、望むところよ、好(す)むところ、ぱいぽぱいぽのしゅーりんがんだよ? だけれども、でも、それにしたって、ねぇ? いなさすぎじゃない? あ、あ、待って、待って。なんかこれ、いくひしがまるでともだちがいなくて嘆いてるみたいじゃない? ノンノンそうじゃない、そうじゃないんだって。ひがんでるように映った? 映ったよねごめんね。べつにいくひし、リアルが充実してるやからなんかイギリスEU離脱のあおりを受けてポットクリンに憑かれてトンじまえとか、全身からカブトムシの臭いのする病にかかれやとか、あすからしゃべると出てくる言葉が総じて「にゃんちゅー四六時中オナ中」になぁーれ、とかそんな下品なこと言ったのダレですか! コラっ! ダメでしょ! いけません! と、まあこの程度のシモネタでも怒髪天を発するお方はいるところにはいるわけでして、十人十色どころかずいぶんと色々、異界の住民はいるわけです。ともすればいくひしだけがぽつりと異界に取り残されて、窓枠からぽかーんとみなみなさまの世界を覗きこんでいる、なんてオチもなくはなく、ひるがえってはひとはみな各々好き勝手な家を持ち、そのなかから、独自の窓を通して世界を垣間見ているのではないのかなー、なぞと想像してみたり。家は各々たがえども、見ている風景はみな一緒。とはいえ、家の建つ場所、窓ひらく箇所、ほかもろもろ何かがズレてりゃ見える景色はどこかしらちがってくるわけでして、まあそもそもそを言ってしまえば同じ人間などいないのが当然、似てたら当選、宝くじにでもあたったと思って、その相手とはできるだけ仲良く過ごしたいものである。そんな相手と出会いたくって、いくひしはひょっとしたら、物語というながーいながーいお手紙をつづっているのやもしれぬなぁ、などと孤独に酔った宵には言ってみたくなるふしぎ。組みあげてみたくなる積み木。つぎはいったいどんな家が組みあがるのか、手元の瓦礫を見て思う。ツギハギの家かチグハグな家か、いずれにせよ建てた家を、祈りと共に折りたたみ、窓からそとへと投げ飛ばす、神に抗議するための紙飛行機、きみに不要な旅の動機。
84:【つまらん】
差別はよくないとか、そんなまっとう至極な言論、さっこん幼稚園児でも言えるぜ? まったくなんてつまらない正論だろう、セイロン茶だろう。セイロン茶は関係なかろうってツッコミくらいつまらんよホント。むしろ正論はことごとくつまらんと言ってしまってもいいくらいだが、それだと今こうして正論はつまらんって正論までつまらなくなっちゃうからすこしくらいの例外がはびこる余地は残しておこう。カビだって世の中からすべていなくなったら困るのは人間だぜ? チーズとか食えねぇぜ? ピザ、食いたくね? ねえねえピザって十回言って、くらいつまらない問答ってないと思うんだが、そこんとこモーゼのおっさんはどう思ってんのかね。十戒言って、言えなきゃ処刑ねって、いったいどんな区別の仕方だよ、差別かよ、差別だよ、ほんとつまんねぇことしてんじゃねえよって憤るのもふつうすぎてもはやつまらん。なしてそげなつまらんことするの、ほかにおもろいことなかったの? え、なかったの? ホントに? え、え、マジで、きみたちそんなことあったの? そりゃあちょっとはつまらんこともしたくなるわぁ、一周回っておもしろく見えちゃったりもするわぁ、でもやっぱりよくないと思うよ、おもしろいこともっとほかにいっぱいあるよ、え? 同じ立場でものを語るなって? こういう言動そのものが癪に障るって? ごめんよごめん。そうだよね。ひょっとしたらきみらと同じ立場だったらひゃっほーって誰よりいちばんノリでノリノリになっちゃってたかもしれないよね、きみらがそうするほかに自分たちの存在意義を感じられなかったように、いまこうしていくひしが何かを表現したり創作することでしかひ弱な自意識を支えられていないのと同様に、或いはあなたが社会の風潮に流され、職に就き、恋をし、家庭を築くことこそが人生の意義のひとつだとなんとなしに感じているのと同じレベルで、きっと彼らもそうしたつまらないことに縋ることでしか生きる意味を見いだせなかったんだ。ほんと救いようのないほどつまらない話だよ。結果だけを見て非難するのも大事だけど、もっと過程をだいじにしたい。いくひしのやろうはよく言うけど、人生、死ぬことがゴールじゃねえんだからさ。
85:【作家=クソ】
もし小説家が現代社会でクソの代名詞として扱われていたとして、それでもいくひしは創作活動に専念しただろうか。麻薬中毒者並に蔑視され、悪とされ、小説に魅了されるのは人間として劣っていて、狂っていて、おかしなことなのだとされている社会にあって、いくひしはそれでも小説を好きになっただろうか。しょうじき自信がない。ともすれば作家に魅力を感じるのは、ある種の権力が小説という媒体に魔法をかけ、ピカピカ彩っているからなのかもわからない。それはひょっとすると、ある種の暴力がプロバカンダを用いて人生に疲れ果てた少年少女たちを巧みに鼓舞し、盲目的な兵士に仕立て上げるのに似た構造があるのではないか。我々は果たして、そんな彼らをバカにし、憐れむことのできる立場にあるのだろうか。こんな時代だからこそいまひとつ見つめ直しておきたい(見つめ直すとは言っていない)。
86:【しょせんこんなもん】
うー。さびしいさびしいさびしいさびしい!!! むかしはなんか孤独なのってかっこいいし、孤独なおれっちステキ、他人と交われないのはなんか傷つくけどそれもまたどっかイタきもちいー。そんなふうに思ってた。でもなんか、なんで? どうして? さいきんすっごいかなしいし、さびしいし、きもちくない。なんで? なんでいくひしヒトリ? ねえなんで? なんかした? うーーっさびしいさびしいさびしいさびしい!!! うわぁぁぁぁあああああああああん!!!! もう!!! 泣く!!!!!!
87:【処方箋飲んだもん】
孤独は成熟のためのよき闇であり、癒しである。孤独であれ。孤独を操れ。自ら得る孤独ほど自由にちかいものはない。
88:【平等、寛容】
平等であればいいというものでもない。平等に悪意を向けるということがあり得るのだから。或いは善意のつもりで悪行を広めてしまうこともあるだろう。ひといきにすべてを平等にしてしまい、かえって事態を悪化させるといった顛末は、招きたくなくとも招いてしまうことはある。寛容さがときに、産まれて間もない我が子を踏みつけられようともそれ自体を受け入れ、許容してしまう悲劇を生みだしてしまうように、ともすれば自身が寛容であるがゆえに他人に対してあらゆる刺激を容赦なく振りまいてしまう絶望が成立し得るように、平等というものもよくよく考えて用いなければならない、それもまたひとつの思想であることをいまいちどつよく噛みしめておこう。舌を噛まないように注意してネ☆
89:【ブタもおだてりゃ真珠貝】
よく聞けブタども。世の中にはやっちゃなんねーことがふたつある。ひとつは親よりはやく死ぬことだ。ふたつめはあたしの小説を読まずに死ぬことだ。読め。おいそこの毛深そうなブタ。死んでいいからあたしの小説読め。読んでから死ね。おいそっちの死にたがってる不味そうなブタ。トンカツにしてやっからころも付けて揚げられる前にあたしの小説読め。いいから読め。いや、待て。あんたはいい。あんたはにんげんだ。にんげんは読まんでいい。なんでって、クッソ言わせんなよ。恥ずかしいんだよ。あたしはブタにだけ読んでほしいんだ。にんげんさまは、それこそにんげんらしい高尚なご本でも読んどけよ。よく聞けよブタども。あたしが死ねっつったらてめぇは死ね。あたしが樹にのぼれっつったら樹にのぼれ。夢を叶えろっつったら夢のために努力して、すこしずつすこしずつまえにすすめ。豚箱になんか入んじゃねーぞ。飛んだところでブタはブタだが、あたしは飛ぼうとするバカなブタが好きだ。笑えるじゃねーか。なあブタ。小説、読ませてやったろ。つぎはてめぇがあたしを笑わせろ。
90:【宣伝がへたくそ】
我々は死ぬために生きているのではない。生きようとする道のさきにたまたま死が待ち受けているだけである。ストーカーのようなものである。なるべく出遭わないように気をつけるのがよろしい。しかし。しかしだね諸君。謎は、答えこそがゴールである。過程など些事である。過程が間違っていようが答えが合っていればそれでよいのである。むろん答えがすべてだとは言わないが、しかし謎とは答えを出すために存在する。考えてもみたまえ。我々が、なぜだろう、と思うとき、同時に我々は答えを求めている。否、答えを求めたからこそ、なぜだろうと疑問するのである。したがって、答えへの道のりはできるだけシンプルに、短ければ短いほどよい。たった一つの答えを得るために晦渋な言葉を尽くす必要はない。ただし、たった一つの謎を解明すると、幾重もの答えがひねくりだされるといった摩訶不思議な謎がこの世には存在する。たとえば郁菱万氏の小説「息の根にうるおいを。」がそうだ。いくつもの推理を経て、たったひとつの答えを導きだす――のではない。幾重もの道筋を辿りながらも、そのつど導きだされる答えは、すべてがすべて真実であり、しかし謎はそこで途切れずにさらなる答えを増やしながら最終的な、すべての答えを内包する黒幕へと結びついていく。往々にして謎とは、複数の答えを併せもっている。生物はなぜ進化するのか。自然淘汰なのか、獲得形質の遺伝なのか、はたまたほかの生物との融合なのか。どれかひとつであるとはかぎらない。段階的に、もしくは同時進行で、各々の要因が関係しあい、生物は進化の歴史を歩んできたのかもわからない。あなたはなぜ生きているのか。明確にこうだと言える答えはないはずだ。かといって答えがないわけではない。答えは多重に存在する。魅力的な謎の、それが共通した特性である(共通してるのに特性なの?といった疑問は残るにせよ、「息の根にうるおいを。」はじめ、ほか、いくひしの作品群は総じてそういった謎がちりばめられている。ぜいたくでしょ? ぜいたくなのだ! ってだから宣伝へたくそかよ)
※日々おもったことをボソボソとつぶやくよ。
91:【付加価値】
小説は小説のおもしろさのほかに評価する点はない。作者の素性などどうだっていい。著者が東大生だとか、芸能人だとか、殺人犯だとか、そんなのは些事どころか作品の質を無駄にさげる蛇足でしかない。むしろ何者にもなれない者がおもしろい小説を紡げるだけで何者かになれるという奇跡のようなチカラが小説にはあるのだ――と、そういった夢がかつてはあった。それがいいことか否かは熟考の余地があるが、しかし現在、そうした夢は商業出版から遠のいた(その分、インターネット上でそうした夢は肥大化し、多くの若手作家を増殖させつづけている)。小説が売れなくなったここ数年、売るために版元は小説に小説以外の付加価値をつけはじめた。ネイムバリューという名の偏見である。効果はたしかにあるだろう。無名の、何者でもない作者の小説よりかは弁護士やお笑い芸人のつむぐ小説のほうが話題になるだろうし、小説に興味はなくとも、どんなもんかいなと興味の矛先が向く傾向はよりつよいと言える。だが長い目で見ればそれは小説業界にとって逆効果であり、自らの首を絞める愚行もとより不幸である。本来付加価値とは、それそのものよりも魅力のないものが抜擢される。飽くまでおまけであるべきなのだ(ただし携帯電話がスマホになったように、本体よりも付加価値のほうがその価値を大幅に上回ることもある)。だがネイムバリューは、それそのものが小説本体よりも大きな魅力を有している。付加価値のほうが価値が高いのである。相対的にみればそれは小説の価値をさげている行為だと呼べる(スマホがもはや電話として扱われていないのと同様の原理である)。作者の経歴を重視するのは商業出版としては必要な戦略ではあるだろう。だが、それがあたりまえになってもらっては困るのである。これでは才能ある作家たちから、あそこはホンモノを嗅ぎ分ける能力すらないのだ、と見切りをつけられても文句は言えまい。だがいち読者としては文句のひとつでも言わせてほしい。小説家は小説のちからなんざ信じちゃいない。信じた時点で歩みは止まる。信じていないからこそ立ち向かっていけるのだ。だからこそせめて版元だけは小説のちからを信じてほしい。願わくは、小説に値段をつける者として、小説を売り物にする者として、本気の矜持を見せてもらいたい。
92:【批判】
十割いくひしについての話である。ネット上でなにかを批判するのはきもちがいい。批判の対象を目のまえにしたらぜったいに言えないようなことでもネット上なら言い放題である。こと、権力への批判はどこか正当性を帯びているかのような錯覚を引き起こしやすく、ますますきもちのよさに拍車がかかる。が、そうしたルサンチマンにまみれた批判は、それを己のそとに出力した時点で、自身の何かが削れ落ちていることは自覚しておいたほうがいい。それが単なる愚痴であろうと批判であろうと創作でさえ、例外ではない。ルサンチマンは「いくひしまん」を万が一にも成長させない。ともすればやり方しだいでは研磨することは可能かもしれない。それにはやはりというべきか、自覚がたいせつになってくる。自傷めいた内省である。内緒の話なのである。さいきんすこしおやじギャグが多すぎない? はんせい、はんせい、と言ったその足で性懲りもなく、自身の半生の半生、創作活動をはじめたここ数年を振り返るいくひしなのであった。まる。
93:【秘伝のたれ】
人間はつねに細胞を入れ替え、代謝している。骨でさえ例外ではなく、破骨細胞により骨は溶かされ、骨芽細胞によって補完されている。ではすべての細胞が入れ替わったとき、果たしてそれは以前のじぶんと同一人物だと呼べるのか。いくひしはこれを秘伝のたれ問題とかってに呼んでいる(テセウスの船という言葉があるらしい)。ラーメン屋にて何十年も消費され、その都度すこしずつ継ぎ足されつづける秘伝のたれは、中身がそっくり入れ替わってしまってもオリジナルの秘伝のたれだと呼べるのか。或いは、カップにそそがれた水がある。蒸発した分をコーラで補った場合、いつかはすべてがコーラに置き換わる。それはもはや水ではない。とすれば、これは人間であっても同様なのではないのか。自己同一性とはいったいなんなのか。答えのひとつとして、変化の連続性が挙げられる(循環系の維持もひとつの答えではあるが、ここでは敢えて触れずにおく)。水からコーラへ、瞬時に変化すればそこに同一性はない。しかし連続し、コマドリアニメさながらに変化していく一連の流れが保たれているかぎり、水がコーラになってしまっても、そこには同一性が保たれていると呼べる。結果がだいじなのではない。その過程を含めての同一性なのである。つまり、人間は絶えず変化しつづけ、別人として生まれ変わってはいるが、その変化が断続的でないかぎり、そこに同一性は保持される。だが解離性同一性障害や記憶喪失、或いは洗脳を受けた人間など、変化の軌跡が鋭角に繋がれたとき、もしくは途切れてしまったとき、その人物は別人として観測され、同一性がないものとして扱われる。そう、けっきょくのところ同一性とはその程度のものなのだ。他者の観測によってなされる一種の評価でしかない。レッテルのようなものである。コマドリアニメでさえ、繰りだされるコマの速度を遅くすれば、それはアニメとしての扱いを受けなくなる。断続したものとして見做される。途切れているとうなされるのはいつだってそれそのものではなく、外部である。ともすれば、長い時間に身を置く観測者がいるとすれば、人間は死ぬまでがセットなのかもしれず、或いは人間という細胞が構築する人類を一単位とした連続性を感受しているかもしれない。人類はゆっくりと新たな人間によって入れ替わっている。しかし、長い時間に身を置く観測者からしても、さいきんの人類はやや連続性を欠いて映っているやもしれぬ。急激な技術革新は、人類から、その同一性を奪っているのかもしれない。果たしてそれの何が問題なのか。人類を個人に置き換えていちどじっくり考えてみたい。
94:【93のつづき】
人類が技術を発展させたけっか、急速な変化がおよぼされ、人類がゆるやかにたどってきた変化の軌跡がいちど途切れ、人類としての同一性が失われるかもしれない。93ではそのことについて触れた。だが考え方が逆だったかもしれない。技術革新を経て人類は、これまで以上の同一性を獲得しはじめているのかもしれない。インターネットという繋がりを得て、人類は足並みをそろえて変化できるように進化しはじめているのではないか。より個としての輪郭を強固なものとして再構築されはじめていると考えると、人類は今まさに秘伝のたれとして調理されている最中なのだと捉えることができる。そう、変化はまだ訪れていない。同一性を獲得している真っ最中なのである。言い換えればそれは、新たな個の誕生であり、誕生した個には死が約束される。人類は今、まさに死を獲得しはじめているのかもしれない。死を獲得したモノは例外なくなにかを残そうとする。人類はいったいこのさき、何を生みだし、残そうとするのだろう。何を残し、死にいくだろう。いくひしは、それを見届けられないことがざんねんでならない。或いは、見守りながら滅ぶことも可能性としては残されている。
95:【吊り橋】
橋のうえに立っていながら、谷底は絶望だ。まっくらでなにも見えない。救いがない。そう言って嘆いている泣き虫がいたらいくひしは全力でふざけんなーーーッの嵐を見舞いたい。おいおいベイベー。おまえのいる場所がどん底かい? そこが底ならここはどこ? 否、それはいくひしにも言えることだ。ここはホントにどん底かい? もっと下があるのではないかね。否、否。下を見たって仕方がない。できれば上を見て、やはりいくひしは、ふざけんなーーーッと叫びたい。否、否、否。這いあがっていつか耳元で言ってやる。
96:【フェチ】
あと二十年もすれば今ある性愛のカテゴリーは大きく様変わりするだろう。同性愛や異性愛という言葉はなくなり、ゲイやレズという言葉も学術的な専門用語として定着するはずだ。セクシャルマイノリティの分類は現在、ものすごい勢いで細分化され、類型されている。しょうじきその道を研究しているわけでもないのに覚えるのは骨が折れる。マニアックだと言い換えてもいい。そうしたマニアックに細分化されていく事象に対し、世の人々はやがて業を煮やし、こう言いだす。「うるせーー!!! 愛は愛だろ、それでいいじゃん!」こうなると事象への差別は単なる区別として定着していく。というよりも区別するのさえ億劫に思われ、すべてを単一化した事象として見做されるようになる。すなわち、人は人を愛するのだ――と。同性愛や異性愛、性同一性障害など、様々な性愛のカタチがあれど、それらはけっきょく人を愛することに変わりはない。好きになるきっかけが異性か同性かの違いがあるだけで、その後の愛の育みは、性別ではなくその人物そのものへと向かうはずだ。言ってしまえばフェチなのである。男フェチであり女フェチである。女性の足の裏が好きなら足裏フェチだし、男性の鎖骨にセクシーさを感じるなら鎖骨フェチである。性差への執着も同様である。本能など関係ない。単に現在、この社会には、男は女フェチに、女は男フェチになりなさいという風潮がつよく流れているにすぎない。フェチとは性的倒錯の一種であり、本来の意味であれば、性的な興奮を喚起されない物や生き物、身体の部位に性的魅力を感じることを言うそうだが、性別という概念そのものに性的興奮を喚起されるというのは充分にフェティシズムの範疇に属すると思う。フェティシズムは環境によって後天的に形成される。ならば社会が変わっていけば自ずと性差フェチも変化していくはずだ。
97:【異文化】
色のちがう環境に飛びこめば単純に目立つので、勝負ごとでは有利に働く。いくひしはそうかと思い、試してみたが、結果は散々である。かつてない惨敗の連続で、じぶんの仮説の至らなさをいやというほど痛感中である。基本的にその土地にはその土地の文化があり、そこでなりあがった者が現在の主流をつくり、ある種のルールを暗黙の内に成立させている。そこへ、ルール外の異分子が飛びこんできても、ワル目立ちはするが、評価はされない。だがそこで引いてしまっては本当の負けである。色が違うならば染めあげてやればいい。時間はかかるだろうが、勝てる環境で勝ちを得ても、そこに本当の価値はない。文化を破壊するのは問題だが、文化に変化を与えるのは、その環境にとっても必要な刺激である。基本的に文化とは固い殻に覆われている。外界からの刺激や、内部圧の変化を厭う傾向にあり、重要なのはそうした殻に囲われた事象は緩やかに滅びゆく点にある。文化は守るものである。守らなければいずれ消えてしまうという逆説がそこにはある。密閉された空間にいてはいずれ酸欠になる。穴を開け、窓とし、新鮮な空気の通り道をつくりたい。ただし、それをしてあげたいと思える文化が、環境が、そこにあるのかがもっとも重要な点である。かってに滅びろ、と匙を投げだされなければいいが、と老婆心ながらぼやいてみる。
98:【自家撞着】
平和のためには武力は必要ない。言葉を尽くせばきっと伝わる。否、伝えていかなければならない。これは性善説を前提にした主張である。相手にもこちらの言葉に耳を傾けるだけの善意があるのだという理屈があってはじめて成り立つ主張である。だがそうした主張を掲げる勢力は、同じ口で、自国の権力に対しては、性悪説を前提に議論を展開している。外部の人間には言葉を尽くせば伝わると言っておきながら、内部の権力に対しては相手の主張を曲解して、人間は自制がきかない、最悪の事態を考えておくべきだと「自身が批判している方法論そのもの」を用いて反論している――ように、いくひしにはこのごろ映りはじめて仕方がない。いくひしは正論を言う人間が好きだ。正論は青臭く、ゆえに正面きって唱えるのは忌避されがちだ。だから正論を吐き、それに向かって前進している集団は応援したい。だが、主張を押し通すために、自身で否定している「悪意」を用いるべきではない。たとえば偏見を用いて何かを拒絶するのはよくない。いわゆるヘイト活動への批判がある。いくひしもそれに反対するつもりはない。じつに正論っぽい。だがそういった正論っぽさを口にしながら同じ口で、相手がおにぎりだと言っているものを「汚握り」だと言い換えて非難している。レッテル張りはいけないのではなかったのか、といくひしなどは言いたい。そこに問題があるならば、そうした安易なレッテル張りなどせずに、正々堂々と正論で対抗すべきではないのか。むろん政治となればある種のプロバカンダ、マルクス的イデオロギーが必要になってくる。目的遂行のためには理想を曲げなければならない局面が往々にして訪れるものだろう。だが、それは非難したい相手も同様である。理想のため、平和のため、何かを成し遂げるために致し方なく「悪意」を用い、こちらが非難したくなるような問題行為を犯しているのではないのか。真実に正論を行為として昇華したいならば、踏みとどまらなければならない局面というものはあるはずだ。さいきんすこし、逸脱しすぎてはいないだろうか。いくひしは、理由があって今回の選挙に参加できず、たいへん申しわけない気持ちになりながらも、ちゃっかり懸念だけは呈するのである。
99:【鏡に向かって】
じぶん一人を満足させられないのに赤の他人を満足させようなんておこがましいとは思わんかね。徹底的に、完膚なきまでに、もうこれがつくれたら何もいらないというくらいの情熱をいちどくらい作品に籠めてみたら? 誰にも受け入れられない、世界中でただひとり、じぶんしか楽しめない作品に仕上がってしまうかもしれない。ただし、じぶんという存在が世界中でただ一人の存在だと思いあがれるほど「私」はそれほど特別な存在だろうか。ひとまず、じぶんを満足させてみよう。満足できるかの保証はできないが。
100:【原点回帰】
いくひしの原点についていい機会だから述べておこう。いくひしは数年前、それこそ八年前までは本なんていっさい読まない人生を送っていた。読んだとしても小学生のころに読書感想文のためにハリーポッターを三冊読んだくらいである。十五少年漂流記を読んだ記憶もあるが、内容はさっぱり思いだせない。ただ楽しかった感応は残っている。読書体験はだいたいその四冊ぽっきりだと言ってしまっていい。漫画は手塚治虫氏か藤子F不二雄氏の作品以外はほとんど読まなかった。というよりも、いわゆる少年漫画、ジャンプ作品などを貸し借りする相手がいなかった。だから必然、図書室で借りられるような、親に買い与えられるような漫画しか身近にはなかった。中学生のころに少女漫画にはまったが、じぶんで買うほどの熱のあげようではなく、それもまた家にあったから手に取っていたくらいの浅い縁である。ちなみに片岡吉乃氏の「しじみちゃんファイト一発」はいくひしにとって原点を刻むための白紙のような漫画である。どんな物語を紡いでも、しじみちゃんファイト一発にでてくるキャラクターの癖のつよさが染みついて離れない。困ったものである。小説なるものにハマったのは高校を卒業してからのことである。知人のすすめでちょうどハンター×ハンターを読みだしていた。そしてアニメ映画「イノセンス」を視聴したのもちょうどそのころのことである。イノセンスの監督である押井守氏繋がりで「GHOST IN THE SHELL」をツタヤから借り、つづけざまにTVアニメ「攻殻機動隊SAC」を視聴した。アニメというものへの見方が一八〇度変わった瞬間である。攻殻機動隊にハマったそのころ、押井守監督が映画「スカイクロラ」を発表した。観るしかないと意気込んだいくひしではあったが、しかし映画館へ足を運ぶのには抵抗があった。当時のいくひしにとって、もっとも楽しいひとときと呼べる時間の一つに映画を観るという行為があった。そんな至高の時間を赤の他人にまみれて過ごすなんてもってのほかで、苦痛以外のなにものでもなかった。かといってDVDがツタヤに並ぶのを待つのもまた我慢できなかった。そこでいくひしは、ひとまずの急場をしのぐ案として原作を読むことにした。そこでいくひしは正真正銘、生まれて初めて、自らの意思で本屋さんなるお店に足を運んだのである。さながら精肉店へ足を運ぶブタのような心境であった。ブタの気持ちなどわからぬが。文庫コーナーの一画に「スカイクロラ」はあった。森博嗣なる作家が紡いだ物語という前情報はすでにネットで検索し、知っていた。なるほど、ほかにもいろいろ本を出しているらしい。出版社別に並んでいたので、念のためほかの出版社の棚も調べてみた。驚いた。どんだけ出してやがんだこやつ。どうやら森博嗣なる作家は大御所の作家のようだ。これだけ本が並んでいるのだからそうに違いない。押井守監督が映画に抜擢するのも納得だ、と妙に腑に落ちたのを憶えている。スカイクロラを探しにきたはずが、そのときいくひしはひとつの短編集を手に取っていた。長らく小説とは縁のない人生を送っていたいくひしには、はじめから長編に挑むのはひどくしんどく映った。スカイクロラは長編に属する小説であった。でも短編ならば読めるかもしれない。そこで手に取った本が、いくひしの人生を、大げさでなく、変えた。森博嗣氏の「地球儀のスライス」であった。むろん初めは購入するつもりはなかった。スカイクロラを立ち読みして(もはやチラ見といったほうがよかったが)、立ち去ろうと思っていたのだが、パラパラとめくった「地球儀のスライス」の解説者が冨樫義博氏だったことが、いくひしの後ろ髪を、地引網がごとく引いた。冨樫義博氏は、ハンターハンターの生みの親、作者たる漫画家であった。理系と文系のちがいを持論をまじえながら展開した冨樫義博氏の解説に、いくひしはまんまと心を掴まれた。気づいたときには「地球儀のスライス」なるタイトルの文庫本と共にレジに並んでいた。まさしくいくひしはそのとき、なにかとてつもない存在と肩を並べているような感覚があったのかと問われれば首を捻らざるを得ないのだが、まあしょうじきレジにどうやって並んでいたのかは憶えていない。ただ、翌日、いくひしはふたたび同じ本屋さんへと足を運び、未購入だったスカイクロラと、森博嗣氏のほかの短編集をもう一冊購入していた。一晩で読み、翌朝にはいくひしは、いくひしとなっていた。郁菱万は、そのとき産声をあげたのである。おぎゃー。以後、いくひしは、森博嗣氏の癖のある小説ばかりを読み漁った。とりつかれたように本を読みはじめたいくひしを心配した従姉から、ほかの作家のも読みなよ、と伊坂幸太郎氏を勧められ、なんだこんなもん、と激しい反発心と共に、クソつまらなかったぜ、と突きかえしてやろうとイヤイヤ読破したが、あべこべに完膚なきまでに打ちのめされた。いくひしは伊坂幸太郎氏の小説にハマった。というか、小説に、ハマっていた。同時期、TVアニメ「化物語」が放映を開始した。アニメの原作者が、森博嗣氏の同門とも呼ぶべき西尾維新氏であり、アニメ第一話を視聴し、やはりつぎの放映を待ちきれんとばかりにいくひしは原作を購入し、性懲りもなくみたびハマった。いくひしが小説のようなものをつくりはじめたのはちょうどそのころのことだったと記憶している。西尾維新氏の小説にハマってからは以降、京極夏彦、本多孝好、桜庭一樹、中田永一(乙一)、石田衣良、森見登美彦、三浦しをん、中村文則、恒川光太郎、川上未映子、筒井康隆、伊藤計劃、円城塔、松岡圭祐、ほか売れっ子作家たちにつぎつぎと魅了されていった。圧倒されてきた。いくひしはハマった作家の影響をすぐに受ける傾向にある。たいへんよろしくない欠点だと自覚している。しょうじき手の内を明かすようで、好みの作風の作家を詳らかにするのはためらうが、そうした姑息な真似をしているうちは借り物でしか物語を紡げない小者にしかなれないと思い、「いくひ誌、第100項目」を期に、ここに打ち明けておく。こと森博嗣氏の紡いだ小説からの影響は計り知れず、ほんとんどパクリではないのかと思われる個所もあるかも分からない。ないことを祈るが、ないと断言できるほどいくひしの受けた衝撃は軽いものではなかった。その衝撃がなければいくひしは未だに小説とは無縁の人生を歩んでいたであろう。そういう意味でいくひしは多少なりとも森博嗣氏をうらんでいる。(その才能をうらやんでもいるが、)なんてことしてくれたんだ、と嘆いている。小説なる虚構を必要とせずにいられる人生は、小説がなければ生きていけない人生よりかは遥かに明るく、浮ついていられただろう。知らぬが仏を地で描けた人生のはずだ。ともすれば、森博嗣氏の小説を手に取ったのは必然であったのかも分からない。当時のいくひしにとって、それは必要な物語だったのである。ただ、今こうして創作という道に、浅からぬ期間、足を踏み入れている身としては、いくひし以前のじぶんに戻りたいとはふしぎと思わないのである。いくひしは小説が好きだ。おもしろい小説が、好きだ。だから、そんな「好き」を、じぶんの手で生みだしたい。愛を、編みだしたい。愛するよりも、愛撫したい。この手でじかに感じたい。誰よりも深く、虚構を。存在しない、存在を。我が手に。って、なーに真面目くさってんだ、新作はやくよこせ、と内なるいくひしが吠えているので、がんばって新作つくります。がんばるぞー。おー。
※日々おもったことなどなにかあるのだろうか。
101:【カウンター】
基本的にドハマりするものの特徴として、最初にめいいっぱい舐めくさっていたもの、という共通点がいくひしにはある。かつては、小説なんて人生になくてもよいものベスト10に入っていただろうし、下手をすると殺人よりも「なくていいモノ」扱いしていたかも分からない。どんなもんかいっちょ見てやっか、といった冷やかし気分で手に取って、そして打ちのめされた。偏見という名の分厚い壁を、まっしょうめんからぶち破られた。ぶち破ってくれた対象に抱く敬意の厚さときたら、最初に抱いていた偏見の非ではない。好きなものをより好きになるのもひとつの深化ではあるが、蛇蝎視してやまないものを好きにさせるだけの威力を秘めた何かを、いち表現者としては目指したい。諸君。遠慮はいらぬ。めいいっぱいいくひしを見下してくれ。蔑んだ目で舐めくさってくれ。望むところである。そんな諸君をまるごと、全身全霊で、愛し尽く(返り討ちに)してくれよう。
102:【小物】
器のちいさな人間を「小物」と呼ぶ。大きい器は「大物」である。期待の大きさを示す意味で、大型新人、などという言い方もある。ただし、現在の社会では往々にして小さいモノのほうが高性能である確率が高い。ムーアの法則を引き合いにだすまでもなく、現代社会では小ささこそ、進化の証である。よっていくひしは小物でよい。デビューしたあかつきには小型新人のコピーで売りに出してほしい。超薄型でもよい。
103:【BL】
多くは語るまい。漫画家「はらだ」氏が天才である。なかでも「やじるし」「ネガ」「やたもも」がすばらしい。
104:【適当なコードを言いすぎ】
小説における文章力とは、表現したい情景や事柄のコードをいかに無駄なく編成できるかにあると言っていい。この場合、読者はまんま読み取り機を意味する。コードそのものに美しさや感動は宿っていない。それを読み取り、展開したことで読み取り機のなかに、美しさが宿り、そして感動を生むのである。主役は言うまでもなく読み取り機のほうであり、中身が同じであるならば、コードの形状はいかようなものでもいいと呼べる。ただし難点がひとつある。読み取り機の仕様が個々によって違っているという点だ。ある機種にとって最適なコードが、ほかの機種にとっては読み込むことすら適わない。そうした不具合が往々にして引き起こる。また、コードは基本的にシンプルであればあるほど読み取りやすくなる。ただし、シンプルさを極限まで突き詰めていくと、ある境目から、ひじょうに高度な認識を要求される構造体へとその性質を反転させる。究極にシンプルな構造体には複雑さが宿るのである。たとえばそれは、人間の絵をデフォルメしていくと、ある時点から棒人間となり、あらゆるキャラクターの区別がつきにくくなるのと似た現象と呼べる。或いは、情報の圧縮に0と1というシンプルな羅列を用いることで、あべこべに人間ではとてもではないが扱えないほどの膨大な数字の爆発が起きるのとちかい現象と言い換えてもいい。ゆえに、ある程度の複雑さは、コードを識別するうえでは必要になってくる。これは逆にも言えることであり、極限まで複雑な形状を成したコードは、その複雑さゆえにぱっと見からは単なる黒い汚れにしか見えないかもしれず、或いはどんな汚れもしょせんは汚れでしかないように、識別されることなく単一の事象として処理されてしまう恐れが終始つきまとう羽目になる。シンプルさと複雑さは、どちらか一方のみを極めていくのではなく、双方共に意識し、一見してコードだと判るような、読むためのものだと認識される形状で、内なる世界の情報変換を行っていくのが理想なのかもしれない。メリハリのある文章とはおそらく、QRコードのように、一見して、「あ、これわたしが読むべき文章だ」と判るカタチを伴っているはずであり、あべこべに、「おれの読むべき文章ではないな」とスグに気づくことも容易であるはずだ。本当だろうか? 適当なことを言いすぎである。
105:【純文学と少女漫画】
純文学と大衆文学のちがいは何か。散々論じられてきたこのバカらしくも切実な問いかけにはいくつかの答えがある。だがそもそもを言ってしまうならば、純文学と呼ばれる小説が果たしてあるのか、というところに疑問を持つ作家はすくなくないのではないかと個人的には思っている。それでも敢えて純文学とは何か、を問うならばいくひしはこう答えよう。純文学とは少女漫画であると。否、少女漫画は純文学であると言ったほうがより精確ではある。まず視点のちがいが大きい。基本的に少女漫画は一人称である。例外もあるが、少年漫画とのちがいを一つ挙げよと言われたらいくひしはためらいなくこの視点の違いを挙げるだろう。少年漫画の代表作としてワンピースを例にとってみよう。ワンピースは大衆文学の文脈を忠実になぞっており、愛と勇気と冒険と、なにより前向きなワクワク感をだいじにしている。そしてもっとも重要な「視点」だが、これは大衆映画のように神の視点で描かれており、視点が固定されていたとしてもそれは限定的な三人称一視点である。けっして一人称で物が語られることはない。ワンピースでキャラクターたちがモノローグを挟むというのは稀ではないだろうか。まったくないとは言わないが、極力排されている傾向にある。では少女漫画はどうか。モノローグの嵐であり、これでもかと内面描写がちりばめられている。ともすればいくひしの好む少女漫画は、極力モノローグを挟まずに、キャラクターたちの微妙な仕草や、表情で、心情を表現している作品が多いように感じている(モノローグがわるいという話ではないのでそこは勘違いしてほしくない)。たとえばそれは志村貴子氏の漫画であり、いくえみ綾氏の漫画であったりする。モノローグを使っている場面であってもそれは、面に出している感情と、呑みこんでいる感情との対比をより効果的に反映させるための技法であり、安易な表現への逃げではけっしてない。人称の固定は、そのために必要な制約であり、足場である。そしてこれは純文学におけるもっとも主要な性質であると呼べる。純文学とは、見えているものと、そして見えてはいないが、たしかにそこに存在するものとを浮き彫りにするための技法を、ひとつひとつ丹念に洗いだす作業だと言っていい。純文学が文字によってなされるのは、それが「文学」だからではなく、言葉という目に見えないがたしかにそこにあるものを使うのがもっとも理に適った術だったからである。だからして、同様に、見えないがたしかにそこに感じられるものを描きだせるのならば、それが絵でも、映像でも構わないのである。ゆえに少女漫画は純文学だと言ってしまってもこの場合は一抹の不都合も挟まれない。繰り返すが、純文学とは「術」である。ゆえに本来、本質的に、大衆文学の対となるような概念ではない。そのため、大衆文学の文脈を有した少年漫画にも、同様にして純文学と呼べる作品はたくさんある。一人称で、愛と勇気と冒険と、そうしたワクワクとは相反したナニカを描き出しているものがあるのである(たとえば近年の押見修造氏の作品などはその典型である)。あべこべに、少女漫画にも神視点の作品があり、大衆映画さならがの多視点で、目まぐるしく場面が移ろい、より奥行きのある世界観が描かれている傑作もすくなくはない。だがはやりというべきか、傾向として少女漫画は、その物語の主人公の性別に関係なく、基本的には一人称で物が語られ、そして異性という名の未知との遭遇を徹底的なまでに、残酷なまでに、生々しくもおぞましいほどに、主観的に描かれているのである。そして少女漫画と少年漫画でもっとも異なる点は、少年漫画がキャラクターたちが総じて、その物語に固有の世界観に染まっているのに対し、少女漫画のキャラクターたちは押しなべて各々に個別の世界観を築きあげている点にあると呼べる。少女漫画はより孤独なのである。少年漫画が、ボクシングという共通のルールを共有し合っているある種のスポーツであるのに対し、少女漫画は、完結している世界が互いにぶつかりあう、総合格闘技――否、原始的な闘争そのものなのである。言いすぎか? 言いすぎやもしれぬ。すまぬ。
106:【いくひし、虎になる】
「新しい才能は新しすぎるために初めはどこからも評価されない。そうした箴言があるわけじゃん?」「あるのか」「あるの。で、いくひしはそう、たぶんその新しすぎる才能ってやつだと思うんだよねー」「それって、あー。どこからも評価されないからか」「そう。だってべつにヘタクソってわけじゃないわけじゃん? だのに勝てない。評価されない。それって新しすぎるからってことでしょ。勝つためには、評価されるためには、その舞台に根付いている固有のルール、ドレスコードに合致した格好を真似なきゃならない。すくなくともそうした装いを表向きしておく必要がある。サッカーで手を使っちゃいけないのと同様に、バスケットで足を使っちゃいけないのと同じレベルで、どんな舞台であってもそうした過去から連綿と受け継がれてきた風習みたいなものがあるわけで。でも、いくひしたちがやってるのってスポーツじゃないわけじゃん? いかに新しい価値観を提供するか、いかに見たことのないナニカを実感させるかにその真価はあるわけで、ほかのみんなと足並みをそろえた表現なんてそれこそする意味あるのっていくひしは思っちゃう」「言いたいことがふたつあるな。ひとつは、新しい価値観ってやつはけっきょくのところそれ自体が、既存の価値観を踏み台にし、破ることでしか成し遂げられない化学反応みたいなもんで、それそのものが独立して成立する概念ではないってこと。そういう意味でどんな表現であれ、その根底には脈々と受け継がれつづけてきたドレスコードみたいなものがある。というよりも今ではどんな人間でも服を着ているだろう。裸で過ごすことが新しいからって、素っ裸になった人間とお近づきになりたいと思う人間は稀だ。それこそセックスするとき以外はな。で、言いたいことのもう一つだが、おまえはじぶんをヘタクソではないと思っているようだが――」「なにさ」「ヘタだぞ」「なんじゃ?」「ヘタクソだって言ったんだ」「ヘタ? ど、ど、どこが?」「ヘタにどこもクソもない。いや、ヘタクソなんだからクソはあるかもな」「待って待って。いくひしの悪口はいいから真剣に話そうよ」「悪口ではないからな。事実だからな」「待って待って。え、ホンキで?」「ヘタクソだろ。だから勝てない。評価されない」「うそ、どの辺が?」「どの辺もクソもないだろ。いや、ヘタクソだからクソはあるのか」「二度も言わんでいい!」「そもそも誤解しているようだから言っておくと、新しい才能がどうこう、おまえは拘ってるみてーだけどな。新しい才能ってのは、評価された対象につく愛称みたいなもんだ。真実それが新しいからそう呼ばれてるわけじゃないんだよ残念ながらな」「でも……いくひしは、じゃあ、えっ。ヘタクソなの?」「そう言ってるだろ」「ヘタクソだったから評価されないの?」「だからそうだって」「じゃあさ、じゃあ、いくひしはどうしたらいいの。ヘタクソで、おもしろくなくて、触れる価値どころか見る影もなくて、いくひし、これからどうしたらいいの」「月にでも吠えとけば?」「がおーー!!!」「そういう素直さはあるのな。まあ冗談はこの辺にして」「冗談だったのかよ!」「おまえはさ、他人に評価されたいからしてんのか?」「そりゃされたいでしょーが」「それが目的ならドレスコードだろうがルールだろうが、なんだって守ればいいだろうが。すくなくともそれを見抜く眼力くらいはあるんだろうよ。なら勝つために、評価されるために、できることをしろよ」「ヤダ」「は?」「ヤダヤダ、そんなのやる意味ない、おもしろくない、ツマンナイ」「でも勝ちたいんだろ。評価されたいんだろ」「いくひしは!いくひしとして!!評価!!!されたいの!!!!!! 真似っこじゃ嫌なの! したいようにしたいの! すべてをまるっと、くるっと受け入れてほしいの!」「わかってねーなー。その傲慢さを自覚できないかぎり、おまえはいつまで経っても月に吠える虎ちゃんなんだよ」「いいだろ! 虎! かっこいいじゃん! がおーー!!」「それでいいならそうしてろよ」「がおーがおー!!!」「ふう。月がきれいだ。まあ、言っても――人語を操れる虎なら、勝ち負けを超越して重宝されることもあるかもな。ただし、がおーしか言えなくなった人間じゃあ、それこそ見る影もないけどな」「ねえ、ホントにヘタ?」「しつけーなー! 認めとけ!」
107:【ダイジェスト】
いくひしはダイジェストが好きだ。いいとこどりというやつだ。スポーツでもひと試合すべてを観るのはかったるいけれど、ダイジェストでずばりそこですってとこだけを集めたダイジェスト版はたのしく観れる(意図的な「ら」抜き)。小説だって同じだろう。読者はほんとうにおもしろいところしか観たくない。かつておもしろかった小説は、時間の経過と共に余分な脂肪を蓄えていく傾向にある。読者のほうがそう感じるように進化しているだけのことではある。スマホを使えばいい場面でスマホを使わないのははっきり言って無駄だろう。そういう場面の圧縮がむかしよりもいまのほうがよりしやすい環境にある。読者に、こうすればいいじゃん、と思われては負けなのである。ゆえに小説において、物語の圧縮作業というのは常に必要とされている。ともあれ、スポーツでも小説でも、元となる試合や物語がなければダイジェスト版はつくれない。そこには無駄なものがたくさん含まれている。それそのものをつくりだすのは、素材からダイジェスト版を削りだすよりはるかに大きな労力が必要とされる。ただし、素材からじぶんでつくらねばならない場合、ダイジェスト版を用意するほうがよりむつかしいのは言うまでもないだろう。ダイジェスト版には、できあがったものから推し量れる労力よりも格段にめんどうな作業が隠されているのである。ダイジェスト版とは、けっして素材に対する劣化版ではない。むしろいっぱんに出回っているなんの加工も施されていない「それそのもの」のほうが、よほど製品として劣っているといくひしは考える。ともあれコアなファンからすれば試合すべてを観たいだろうし、そこは需要に応じて、ということになるだろう。だがすくなくともいくひしは、ダイジェスト版のほうが好きである。
108:【人生にうるおいを。】
たいせつなことは目に見えない。だけれど目に映るものにだってたいせつなものはたくさんある。目に入れたくないものも含め、たいせつなものはむしろ、目に映るもののほうが圧倒的に多い。目に入れずにどうにかそれを直視できないか。そうしたあがきが文学だとも呼べる。人生に文学など必要ない。必要としたら、負けだ。(負けても終わらないのが人生だ。果てなき挑戦を祈る)
109:【退化】
新しいことをしようとしてひたすらじぶん道を突き進んできたつもりでも、気づくとなぜだか時代遅れになっている。誰からも見向きもされず、求められもせず、周囲を見渡してみればじぶんが理想とする方向性にちかいことをすでに軽々こなしている者がいる。一人や二人ではない。なぜじぶんはこうまでも成長しないのだろう。答えはすでにでている。流行りを血肉としていないからである。じぶん道という骨格を、流行という名の他者の介在によって肉付けしていくことでしか成長の道はない。ただし、退化に退化を重ねていくと、あるところを境に、突如として得体のしれない変化を帯びる例がある。ガラパゴス諸島の生態系に見られる独自の進化のように、明らかに個体としての特徴がひとめでそれと判る独特さを兼ね備えるのである。長い歴史のなかで見れば、個体としての劣化――退化もひとつの進化なのである。怯える必要はない。求められる必要もない。理想とする姿を追求しつづけるかぎり、進化は自ずと訪れる。
110:【不躾】
礼儀や作法は相手から攻撃されないようにするための呪文のようなものである。最低限それをしておけば、相手から「不快だ」という理由で攻撃される危険性が減る。言い換えれば、こちらに非があるという免罪符を相手に与えずに済むわけである。繰り返しになるが、礼儀とは、相手が不快に思うか否かに関係なく、相手からの攻撃を無効化できる楯のようなものである。攻撃されれば攻撃し返す免罪符が得られる権利書でもある。礼儀を尽くしてさえいれば、さいあく悪者になることはない。重要なのは、礼儀がけっして「相手を不快にさせないためのルール」ではないという点だ。礼儀を尽くしても不快に思われることはある。相手を最大限尊重し、尊敬し、敬愛していても、不快に思われることはあるのである。珍しいことではない。往々にしてありふれている。礼儀は尽くしたほうがいい。すくなくともじぶんにとっては。ただしそれは、楯を持ち歩くのと変わらない防衛行為であり、礼節を重んじることと、相手を不快にさせないようにすることは別物である。もっと言えば、相手を不快にさせたくなければいっさいの接点を持たないようにするほかない。そういう意味で、だいじなのは、じぶんがじぶんの行いをどう思うかであり、じぶんでじぶんを不快に思わないようにすることが回り回って本当の意味での相手への敬愛、感謝の儀式、まさしく礼儀となる。似た理屈としては、「誰かを愛したくば、まずはじぶんを愛そう」や、「じぶんがされて嫌なことは相手にするな」などがある。ただし、じぶん(のこと)が大好きだからといって、それが相手への礼儀となるわけではないし、じぶんがされたいことだからといって相手もそれを手放しで喜び、受け入れるとは限らない。そういう意味で、平均化された基準のようなもの、すなわち礼儀や作法は、じつに合理的で、実社会では必要なものである。むろんいくひしは、礼儀に欠け、作法を乱すことに絶大なる快感を抱く尊大無礼不躾なちんちくりんであるので、これからも多くの人間を不快にさせていくだろう。殺人をはじめとする、拷問や強姦、裏切りや弾圧――そして愛、あらゆる理不尽と暴力の渦をこれからも表現しつづけていく。みなの衆。大いに不快になられるがよろしい。心乱されることを試みよ。
※日々おもいつきでいきている。
111:【言いわけ】
なにかを失敗したときにその要因を説明しようとすると言いわけじみてしまうことはないだろうか。失敗するとき、基本的にその失敗の最たる要因はじぶんにある。じぶんが干渉したために失敗したわけだから当然である。だからして、不注意や技術不足は、本来、失敗したことへの説明としては不適切である。なぜ骨折してしまったのか、に対する説明にわざわざ、人間だからだとか、生きているからだとか、そうした前提条件を挿す必要はない。では失敗に対する説明はどうすればいいのか。なぜそうした不注意や技術不足が起きたのかについて言及すればよいのである。それはたとえば道具の不備であったり、参考にした資料の誤謬であったり、上司とのホウレンソウがうまく機能していなかった連携不足であったり、上司や先輩たちが平然とルールを破っている様が常態化している職場の環境問題であったり、とかくそうした自己以外の変化の兆しが重要なのである。バナナの皮で足を滑らせたならば、取り除く要因は足を滑らせた人間の前方不注意ではなく、バナナの皮そのものであろう。本来、そこにあってはならない変化こそが、失敗の要因として認められるべきである。対策をとるとすればまずはそこからであろう。ゆえに何が問題だったのかと問われた際に、そうした問題点を挙げ連ねるのが正しい対応の仕方だと感じるのだが、そうすると、まるでじぶん以外に難点があったと言いたげに相手には映るらしく、責任転嫁をしているように誤解されてしまう。誤解されないようにするためにはまず、謝罪の意を表明し、自身の過失であった旨を認め、それから問題点の言及へと移ったほうが、周囲との軋轢は生じにくい。それって常識じゃないの、という声が聞こえてきそうである。でもいくひし、しらんかったもん。たぶん、あれ。小3のときにおなか痛いって言って、いくひし、仮病つかったじゃん? そんときみんなして授業で習ったんでしょ。いくひし習ってないもんきっとそう。じゃあしょうがないじゃんね☆
112:【今後の課題】
いくひしの今後の課題は、頭いいって思われたい欲をどうにかすることだな。あとかっこいいって思われたい欲もどうにかしなきゃならんし、スゴイって思われたい欲もどうにかしなきゃならん。人さまから一目置かれたいって欲もどうにかしなきゃならんし、でもいちばんどうにかしなきゃならんのは、創作する時間が極端に減ったという目を背けたい現実なのだな。うんうん。人生ってやつだ。
113:【RANMA1/2】
俺の原点はひょっとしたららんま1/2かもしれないと、復刻版を購入してきて思うきょうこのごろである。幼いころはメインヒロインあかねよりもシャンプーやウっちゃんのほうが断然ずばぬけて好みだったが、いま読み返してみるとあかねの魅力もよくわかる。時間が経ってから判ることが往々にしてあるものだが、しかし、なるほど。むかしはなんだかんだ言っていちばん胸がトキメいたのは女らんまだった。いまはなぜかさほどでもない。幼き日の感性の鋭さが失われているのではないかとすこし落胆している俺がいる。
114:【足枷】
読者のためを思えば、とにかく読みやすいように物語を紡いでいくのが正解であろう。文体の軽さや、改行の数、書式など、いくらでも工夫はできる。けれど読者のために物語を紡いでいくと、どうしてもある限界を突破できないのではないかという予感もつよくある。おもしろさの追求と読者への献身は必ずしも正比例しない。たとえば敢えて段落をつくらないことで読解への抵抗をかぎりなくつよくしておきながら、それでもリーダビリティ、いわゆる物語に没頭してしまうような文章を紡げたならば、それもまたひとつのおもしろさの追求になるだろう。けっして読者のためではない足枷が、けっかとして読者のためになる。そういうこともあるのではないか、といくひしは今、いろいろとあーだこーだと考え、すこしずつ試している最中である。ダメだと言われていることの中にこそ、磨くべき原石、或いは挑むべき山脈があるのではないのかといくひしの直感は鋭く働きかけている。
115:【試されている】
障害者なんて生きている意味がない、死んだほうが世のためになる、よし殺そう。そうして大量殺人を犯した人間を異常だと言って極刑を望む人々は、図らずもその唾棄すべき殺人者と同様の行動原理を伴っており、その者の犯した行為を否定しているようでいてそのじつ、その殺人者を全面的に肯定してしまっている。異常だから、異端だから、理解できないから、悪だから……あらゆる理由を持ちだしたところで、自らが悪に染まる免罪符にはならない。何かを理由に悪を執行するのは、単なる悪より手に負えない。人はときにそれを正義と呼ぶ。
116:【足枷2】
段落を挟まずに物語を紡ぐ練習をしている。鋭意制作中の新作では、およそ六万字の中編を段落をいっさい省いた状態でつくっている。いったいそれにどんな意味があるのか。しょうじき解らない。ただ、段落を挟まないことが目的ではない。両の脚に重りをつけてダンスをするような修行の一環である。ふつうに動くよりも負担がかかるため、より楽な身体の使い方を編みだそうとしているといえばそれらしい。ゆえに、段落を挟まずに物語を紡ぎあげ、そして脱稿したその足でこんどは段落をつけていく。圧縮に圧縮を重ねた空気をひといきに解放するような膨張が、ときに爆発じみた現象が、みられるのではないかと、今はそれを期待している。失敗するかもしれない。その公算が大きい。ただし、これは失敗だった、と判るだけでも儲けものである。
117:【拡張と仮想】
AR(拡張現実)が本領を発揮するのは、VR(仮想現実)が社会に普及してからの話になるであろう。仮想世界への小窓として、或いは仮想世界との架け橋としてARはその機能をまっとうする。仮想(の一部)を現実に重ね合わせただけではその本領の半分も発揮できていない。仮想世界はそれそのものとして単独で存在しなければならない。もうひとつの世界として確立されたとき、VRとARの垣根は取り払われ、仮想も現実のうちになる。(そういう意味では、人々の脳内にある共通認識――既存の物語――を仮想現実と見立て、VRの代理として用いる方法論は、短期的な視野で見た場合、有効ではある。ただし、そこに世界としての奥行き、すなわちストーリーラインと、常に更新されていく世界の変遷、すなわち奥行きがなければ、一過性の流行に留まらざるを得ない。VRとの融合が待ち遠しくもあり、おそろしくもある。物語はこのさき、もうひとつの現実――世界としての広がりを帯びる。果たしてそのとき、虚構としての物語にいったいどんな役割が残されるだろう。もしくはどんな役割を見いだせるだろう。今からよくよく吟味しておかねばなるまい)(仮想世界がもうひとつの現実として昇華されたならば、そこでもこの世界同様に小説や漫画やアニメなど、虚構の物語が必要とされるのではないかと単純に考えてしまいたいが、しかしことはそう単純ではない。世界が増えたところでその世界を受動する個体は「私」という存在に限定される。問題なのは、もうひとつの現実を処理するだけの余裕をいったいどこから賄うかである。もっとも手早く白羽の矢が当たるのは、まさしく現実にとってなんら直接的な益を結ばない虚構であろう。それとも我々は、もうひとつの世界ですら現実逃避の術を希求しつづけるのだろうか)
118:【笑い草】
偉そうなことを散々のたまいておきながら、つくっている作品が、性行為をしたくてたまらない男といがみあいながら性玩具を開発する純粋処女の話や、男と浮気をするおっさんの話なのだから、とんだお笑い草である。大いに笑ってくれるがよい。ほどほどに。加減をして。可能であれば笑わないでおいてもらえるとラスカル。それはあらいぐま。笑い草とはすこしちがう。
119:【萌え】
さいきん、おっさん萌えに拍車がかかってる。べつにそれで困ることはないのだけれども、思えばいくひし、元からその傾向がつよいんじゃないのって過去作の内容を思いだしながら釈然とせぬ思いを抱いておる。なんでもできるスーパーおっさんよりも、ぱっとしない少年がそのままおっさんになったような、頼りなくも年をとったぶんだけ吹っ切れてこれ以上どうなりようもないって下向きにひたむきになりすぎて却って前向きになっちゃってるおっさんが好き。たとえば部下が何かをミスしたときに、「がっはっは、いいよいいよ、それくらいの失敗だれでもある、うんうん、気にしなーい、気にしなーい」とかほとんど無責任な言動でしかないのだけれどもそういう気休めをなんの臆面もなく言えちゃえるおっさんが好き(陰で確実に頭抱えてる)。かといってこっちからグイグイ迫ると、見るからにうろたえちゃって、それを隠そうとする威勢のつよさをみせようとするのだけれどもうまくいかず、すたこらと絵に描いたような姿で尻尾を巻いて逃げてしまう臆病なおっさんが好き。わかってくれるかなー。わからない? じゃあこれを美熟女に置き換えてみ? な? 萌えるやろ?
120:【配慮】
どんな配慮も差別にはならない。そこにあるのは見通しのわるかった善意でしかない。差別と区別は現象としてみれば大差ない。そこに対象への侮蔑の念があるかないか、見下しの精神があるかないか、極めてあいまいな要素が差別の根幹をなしている。やらない善よりやる偽善とはいったもので、しない配慮よりもする配慮のほうがけっかとして世のなかうまくいくことが多いのではないか。差別をなくすこととすべてを同等に扱うことは異なる。違うものは違う。そのうえで対象への配慮をどう配るかがだいじなのではないだろうか。
※日々おもってるだけで日が暮れるよ。
121:【中立】
真実に中立の立場にいるならば、誰からも中立には見られない。右から見れば左だし、左から見れば右だ。しかし中立ではなく、中心になれたならば、それはもう誰から見ても中心なのである。なんだか含蓄深いことを言っているなあって気がするじゃろ。気がするだけである。
122:【異手同質】
本屋さんにて文庫の新刊コーナーを眺めた。手に取り、冒頭を読んだ。棚に戻し、新たな文庫を手にする。いくどか繰り返し、そして思った。お、お、お、おもしろく、ない。勘違いしてもらいたくはないのだが、本がわるいのではない。いくひしの感性が明らかに、読者の視点からいちじるしく乖離しているのが問題なのである。すべてがすべて平面的な文章に感じられてならず、それは或いはある種の共感覚なのかもわからない。ひょっとしたらもっと単純にいくひしの感性が鈍った可能性もなくはなく、えーちょっとそれはどーよー、と思い、いくひしの大好物、森見登美彦氏の「夜は短し歩けよ乙女」を手に取った。冒頭に目を走らせる。思わずため息が漏れた。な、な、な、なんておちつくのだらう。うっとりと安堵しつつ、こんどは伊坂幸太郎氏の「ラッシュライフ」を手に取った。はぁ、おちちゅく。つづけざまに西尾維新氏の「化物語」を手にしては、はぁ、もちちゅく――つぎつぎといくひしはたくさんのモチをついた。そりゃもうたくさんついたよ。ぺったん、ぺったん、もちぺったん。焼きすぎてもはやヤキモチになっちゃったけれども、それはまあ仕方ないさ。なにせ悔しいほどの才能だもの、才能の差、なんだもの。でも、なんのかんの言って、やっぱりさいきんの小説、すこぉし一次元によりすぎじゃない? 文章の可能性、信じすぎじゃない? もうちっとこう、なんていうの。文章に含みを持たせて、デコボコにしちゃって、浮きあがって、立体にして、飛躍しちゃって、ズバリ切っちゃって、ドカスカジュビジュビぴろりろりーんって、そういうリズムがあってもよくなぁい? 単調すぎるよ、ぜんぶ似てるよ退屈だよ。血沸き肉躍る、律動の宿った文章、いくひし、きっとあなた、読みたいんだねぇ。あるといいねー。あはは。いいねーだって。ひとごと。
123:【ふぁーーふぁーーー!!!】
漫画家、紀伊カンナ氏の「海辺のエトランゼ(春風のエトランゼ)」と「雪の下のクオリア」を読んだ。中身は男同士の恋愛模様を描いた純愛物語なのだけれども、いわゆるBLではあるのだけれども、ふぁーーー!!!ふぁーーーー!!! 脳みちょが、脳みちょが、ふぁーーーー!!!!!! 漫画なのに映画で、映画なのに文学で、でもやっぱりこれは漫画以外のなにものでもなくって、じゃあこれはいったいなんですか!!! 天才ですか、神ですか!!! ふぁーーーとしか言えない。頭のなかがもう、ふぁーーーー!!!の嵐っていうか、それの過ぎ去ったあとにはもうなにも残らない、まったくの更地、白紙、根こそぎ穢れを払われて、心すみずみまで晴れ渡り、ことここに至ってはっとする、「あれ? ひょっとして終末の鐘(ふぁんふぁーれ)、鳴ってない? 全人類滅亡しちゃわない?」でもまったく問題ない。いくひしの脳内麻薬、しあわせホルモン、ドバドバだから、駄々漏れの垂れ流しだから。出し惜しみなしだから。あー、ホント、すばらしい読書体験だった!!! もっとほしいなー。たまらんなー。げへへ。すかさず淀みだす心の自浄作用のなさに感心しつつも呆れつつ、懲りずにいくひしは買い溜めたBL本を片っ端から消化していくのである。
124:【雑感】
雑な考察で恐縮なのだが、数年前に学園もののライトノベルが流行ったのを憶えておられるだろうか。あれは社会の内部への憧憬の現れであり、同時期に職業ものと呼ばれるジャンルが風靡した時期と重なっているのは偶然ではないだろう(重なっていたか?)。あのころ無職および孤独な学生だったライトノベル需要者たちは、数年後、すなわち現在、社会に飛びだし、そして憧れていた世界との乖離に懊悩し、そして逃避を求めてこんどは虚構に、ここではないどこか――社会の外部を求めるようになった。すなわち異世界であり、旅であり、冒険である。そこに転生の要素がかかせないのは、人生をやりなおしたいという率直な感応であろう。ではつぎに、そうした彼らが数年後、求めるようになるものは何か。理想の家庭であり、家族であり、或いは仲間であり、友であり、すなわち身近な社会――身内の世界となる。だが同時に、そうした需要者たちは、歳を経るごとに減っていき、あべこべに新規の需要者たちがなだれ込んでくる。彼らは、いま流行りのモノから入り、そして成長し、社会の内部へととりこまれていく。そのとき、初めから社会の外部への憧憬を抱き、想像のつばさを社会の内部へ広げてこなかった彼らは、どういった虚構を求めるだろう。思うに、社会への圧倒的な反発、破壊願望を抱くのではないかといくひしは感じている。つぎに流行るのはだから、アットホームコメディか、もしくはダークヒーロー(悪)ものの社会風刺のきいた痛快アクションであろう(ややもすればワンパンマンがこれに当てはまるかもしれない)。ちょーてきとうぶっこいた。真に受けないでほしい。
125:【推定】
人工知能がこのまま深化した場合、初めにその活躍の場を奪われる芸術活動は音楽であろう。音楽と数学はじつに関係性が深く、相性がよい。人工知能の性能が向上すれば、あらゆる曲を無作為に、無尽蔵に、かつ自在につくれるようになる。次点で打撃を受ける芸術は、絵画であろう。解析するためのサンプル数はほかの芸術類の優に百億倍はあるだろう。視覚以外の感覚器官を刺激しない点でもほかの芸術と一線を画す、解析のしやすさがある。職業で言えば、イラストレーターやデザイナーが、その存在意義を根底から揺るがされ兼ねない。あらゆる対象を、あらゆる絵柄に変換しなおすことが可能となる。わざわざ描く必要性がなく、また新たな画法や絵柄を発明したところで、その技術を含め、そこから派生する無数の新しい絵柄ごと即座に、学習、上書きされてしまう。人間の出る幕は、まさにいっしゅんである。或いは、空想を描くという意味ではまだ人工知能にはむつかしい作業かもしれない。が、音楽、絵画ときて、つぎにその活躍の場を脅かされる芸術活動が、物語創作とくれば、人工知能が自ら編みだした物語に沿った、絵や音楽、画像、動画、をあてがうのはそうむつかしい作業ではなくなる。言い換えれば、小説、漫画、アニメ、映画、あらゆる創作物は人工知能によって代替可能となる。技術的特異点を迎える以前に、それそのものの到来までのカウントダウンが可能になった時点で、芸術活動の総じてから人間の出る幕が限りなく希薄になる懸念は押さえておいたほうがいい。今からそう遠くない未来、芸術は、人間を人間足らしめるものではなくなる、かもしれない。ともすれば、人間以外を人間足らしめるのかも分からない。
126:【エコ】
エアコンをかけない生活がつづいている。エコだね。暑いよね。とうぜん、汗はんぱない。寝汗とか、寝ぼけてマラソンしちゃったのってくらい掻いてる。いつの間にホノルル行っちゃったのってくらい掻いちゃってる。なんだったらこれ汗じゃなくて水じゃない? 寝ぼけて海にでも行っちゃった? あなた泳げないでしょ、だいじょうぶ? 浮き輪、用意しておこうか? 舐めてみてもしょっぱくはないのは、それが海水ではないからで、もっと言えば水でもなくて、じゃあなんなのかって言ったら汗ですよね。あまりに日々汗を掻きすぎてもはや塩分入ってない。エコだね。それでね。なんかね。すっぱいの。においが。寝起きに、「ん? だれか寿司たべてない?」ってなる。あまりに純粋な酢のにおいすぎてかえってくさくない。きたなく感じない。餃子があったらつけて食べちゃえるくらいの酢なわけ。でも汗じゃん。これ。どうみても寝汗じゃん。もしかして酢ってそうやってつくってんの? 誰かの寝汗なの? そうなの? いっしゅん頭がこんがらがったけど、むろんそんなことはないわけで。すっぱいにおいをふりまきながら、いくひしシャワーを浴びてすっきりして、きょうもエコで健康に、がんばれるわけないじゃんか。暑いから。融けるから。そりゃ汗だって酢になりますよ。バッドマンのジョーカーだってさすがにこれは素になりますよ。汗だくでメイク落ちますよ。しょうがない。しょうがないの。すっぱいにおいさせちゃってもこれはしょうがない。なんだったら餃子もってきな。いくらでもつけて食べさせてあげる。いくひしが許可する。アスファルトで焼いてみんなでいっしょにパーティしようぜ。餃子、好きなんだ。飯いらず。餃子だけでいい。寝汗のおかげで酢もいらず。いつでも食べられる。エコだね。暑いよね。もうね。エアコン、がまんせずにつけていいかな。だってほら。すっぱいにおいでいっぱいだもん。酢のにおいでいっぱいだもん。エコもいいけど健康も。というか、エコよりも健康を。エアコン入れて、きょうからきみも、すっぱいにグッバイだ!
127:【反省】
一つ前の記事をちらっとでよいので読んでみてほしい。なんだこれは。キレのなさがざんねんすぎてもはや恥ずかしくない。なぁにが、すっぱいにグッバイ、だ。アホか。こういう駄文を駄文だと気づかずにつむいでしまう精神状態なのだなあ。かわいそうに。そう思ってもらえるとラスカル。それはあらいぐま。助かるとはだいぶちがう。――って、これもすこし前に使ったネタだから。二度目だから。反省しろ。こりゃちいとばかし気合いをいれなおさなきゃならんなぁ。対策を練ろう。その前に寝よう。寝る。
128:【編集】
人工知能とゲノム編集技術が結びついたら、人類そのものがデザインの対象になる。人類の手によってデザインされたプログラムが、人類をデザインし直すのである(人工知能の暴走ではなく、人類がそれを望むようになる)。シンギュラティでは、全人類の集合知を上回る人工知能の誕生が示唆されているが、仮にそうした人工知能が現れたとき、人類もまた、急速に進化するハメになるだろう。我々は、我々の生活の変容、すなわち未来を案じるよりもまず、我々自身を案じなくてはならない。急速な変化は、ときに弱者をふるい落とす。
129:【再三】
もういちどくらい念を押しておこう。漫画家、紀伊カンナ氏の「雪の下のクオリア」がおすすめである。寝る前と、出掛ける前と、帰ってきてからと、いくひしはいま、ことあるごとに手に取っては眺めている。いったいなにがそんなにいくひしのこころを惹きつけるのか。基本的にいくひしは、漫画において重要視している要素が二つあり、一つはキャラクターたちの表情の豊かさであり、もう一つはコマ割りに動きが表れているか否か、である。表情の豊かさは、必ずしも絵のうまさとは相関しない。表情の豊さとは、感情の機微の表現力だと言い換えてもいい。ちょっとした口元のゆがみや、目線の移ろいなど、ほんとうにささいな表情の変化に拘りを持っている作家さんは、読んでいてとても胸を揺さぶられる。紀伊カンナ氏の観察眼の高さには脱帽しきりである。読んでもらえれば一目瞭然なので、表情の豊かさは解りやすい基準であろう。ではもう一つの、コマ割りに表現される動きとは何か。コマとコマの合間に流れる時間の経過だと言い換えればそれらしい。けっして動きのある絵のことを言っているわけではない。むしろ動きだす瞬間や、ちょっとした動作の経過途中を抜出し、つぎのコマではスキップしたように時間が断続的に経過している。或いは、瞬き一回分の時間の経過を表現するために、主人公たちの周辺に、舞う蝶や、走り去るこどもたちの姿を添えたりする。紀伊カンナ氏の漫画では、そうしたコマとコマを繋ぐ行間が、極めて高度に、かつ鮮明に結ばれ、忍ばされている。読者はまったく意識せぬままに、その行間を線として辿っている。そして漫画を読んでいるはずなのに、映画を観ているような奇妙な体験をするのである。技術的な面で言えば、映画の絵コンテと言われれば納得しそうな佇まいがある。宮崎駿氏や、細田守氏の映画に似た空気を感じなくもない。ただし、いくひしがなにゆえここまで琴線を揺るがされて途絶えないのかと言えば、そうした技術力の高さうんぬんとはまたべつに、紀伊カンナ氏の作品群が、BLの皮を被った百合であるという点がつよく影響している。いくひしの考えでは、薔薇と百合の違いは、その友情が交差するか、平行するかの違いにあると定義している。男の友情は、異物同士が、ある局面で一つに交わり、固く結びつく現象を示す。反して女の友情は、交わることなく、いつまでも平行線的に、そばに寄り添いつづけるものである。或いは、たとえどれほど離れてしまったとしても、女の友情は、常に同じ方向を、同じだけの距離間で、向き合いつづけていられる。だが男の友情は、いちど離れてしまえば、あとは延々と離れつづける定めにある。むろん、これは飽くまでもいくひしにとっての薔薇と百合の違い、BLとGLの区分、その基準である。たとえBL漫画であろうと、雪の下のクオリアのように、女の友情的な繋がりで描かれている漫画はある。その逆もまた然りである。ここで言いたいのは、いくひしにとって、雪の下のクオリアが、一点で交差する男の友情ではなく、相手を己が手中に入れようとする略奪でもなく、飽くまで相手のそばに寄り添い、その存在を許容するにとどまるという、とても儚い繋がりを、すさまじい技法で以って掠め取るように描いている点が、我がこころをつよく打ったのだという、自己分析にある。儚いがゆえに、何よりもその繋がりは強固なのである。男の友情は鎖じみた縁で、がんじがらめに結びつく。だが女の友情、百合は、飽くまで空気のように、ただそこに溢れているものなのである。男同士の男の友情、または女同士の男の友情も、それはそれで捨てがたいが、男同士の女の友情は、日向のように、いつまでもそこに浸かっていたいと思わせるやすらぎに満ちている。或いは、それゆえに、単なる百合よりも、より純粋に、より「性」から距離をおいた関係性が描きだされているのかもわからない。ともかくいくひしは、雪の下のクオリアがたいへんお気に召しました。ありがたいことである。ただただ、人生すてたもんじゃないなあと思うきょうこのごろである。
130:【停滞】
あまりに琴線を揺るがされすぎると、創作意欲のあるなしに関わらず、筆が止まる。消化するのに時間がかかるばかりか、それを呑みこむのですら手間どっている証だ。今こここそが踏ん張りどころである。正念場である。サービスタイムと言い換えてもいい。身動きのとれなくなったときの一歩は、なにごともなく過ごせていたころの万歩以上の価値がある。苦しい時こそ、思いきって踏みだしてみよう。思いきれる瞬間なぞ、そうそう訪れるものではないのだから。
※日々おもっているだけの人生である。
131:【未来】
何かとてつもないものが生まれようとしている。それが何かが解らない。人工知能でもなく、仮想現実でもなく、ゲノム編集でも、ナノマシンでも、キメラでもない。ではいったいなんなのか。もうすこしで掴めそうである。
132:【貧すれば鈍する?】
なるべく厳選するのはひもじいからだ。失敗したくない。ハズレを引きたくない。だから慎重になるし、購入する前の下調べは入念にする。ネットで他人の感想をつぶさに、批評、称賛、その他、有象無象、そうした感想を投稿している人々の嗜好性など、でき得るかぎりいくひしの感性にちかい書評を探しては、興味を惹かれた作品をピックアップし、さらに試し読みができないかを確かめる。ないときは、書店で試し読みならぬ立ち読みをし、うむ、とひとつ唸ってからカウンターへと共に向かうのだ。しかしお金に余裕がでてくると、途端にそういっためんどうな手続きを踏まなくなる。なんとなーく書店へ向かい、なんとなーく表紙を眺め、なんとなーく帯やポップに促されるままにカウンターへと運んでは、家に帰って一読し、しっぱいしたなぁとやるせなく思う。お金に余裕のあるときのほうが本に対する想いが薄い気がする。扱いが、軽い気がするのだ。或いは、たとい貧していようが、大好きなものにならば金を惜しまないその姿勢こそがだいじだったのかも分からない。貧すれば鈍する。かといって豊かであればいいというものではないのかもしれない。
133:【言い忘れ】
アップルウォッチが流行らなかった理由は明快である。操作時に両手を塞がれるという欠点があるためである。操作そのものは片手で可能だ。しかし時計そのものが逆手にはめられているために、けっかとして操作時には両手の自由が制限されてしまう。もしこのさき、時計をはめている手で本体の操作が可能になれば、アップルウォッチのような時計型メディア端末は、スマホに代わる端末として爆発的に普及するであろう。ともすれば、時計だけでなく、あらゆる端末が、片手で、しかも遠隔による操作が可能になれば、人間は端末を保持する必要がなくなる。メガネや服や、道路や、乗り物、あらゆる物体が端末の機能を果たし、人間はただそれらをその都度、手足として、或いは第二の頭脳として扱えばよくなる。時計型メディア端末が流行するとき、人間がスマホから解放される日までの秒読みが開始する。
134:【逃避の逃避】
お金を払えばできることに興味がない。まったくないわけではない。行動に移すほどのつよい動機にはならない。そういう話だ。近代において、ずいぶんむかしから性行為はお金を払えば可能だし、恋愛だってお金を払うまでもなく、それを持っているだけでしやすくなる傾向にある。車や家や、ぜいたくな食事も例外ではない。ではいざ大金が懐に舞いこみ、そういうものを手に入れられる環境ができたとして、それが欲しいのか、と問われたらしょうじき首を捻らざるを得ない。今の生活を手放したくはないので、ある程度の金銭は必要だ。しかし喉から手がでるほど欲しいわけではない。なくなったならなくなったで、どうにか生きていそうな塩梅がある。ではいったい何が欲しいのか。欲がないわけではない。むしろ逆だ。じぶんより欲張りな人間はいないのではないか、とつねづね感じている。あたしはあたしにしかできないことにしか興味がない。つよい欲求を抱けない。あたしがこの世に存在しなかったら、あたしがそれを生みださなければ、それはこの世に存在しない。未来永劫、存在し得ない。そういう代物が欲しい。見て、触れて、感じられる存在としてここにあってほしい。お金で買える愛に興味はないけれど、否、すこしくらいはあるが、味見程度で勘弁してやるぜといった具合であり、喉から手が出るほどの欲求ではない。しかし、どれだけお金を積んでも手に入れられない愛があるならば、是が非でもそれが欲しいとつよく思う。むろん、お金で手に入れられるものは、お金で手に入れられる時点で、社会的に有用とされている貴重なものがほとんどだ。それらを見下すつもりはない。ただやはり、あたしは、あたしだから手に入れられるもの、あたしにしか手に入れられないものが、欲しい。なんだか拝金主義への歪んだ反骨心が見え隠れしているように感じなくもない。こればかりは親の教育のせいだろう。「お金よりも大事なものがある」そういう思想をいたって真面目に唱えるバカなひとたちだった。――大事なものを手に入れるためにお金があるんだよ。あたしはよくよく思ったものだ。しかし、親のせいであるこのゆがんだ欲動を、いつかは、親のおかげだと言える日がくるといいなあ。そう思う程度には、あのひとたちのバカさ加減を、なんだかすこし、愛くるしいと思えるようになった。歳だなあと哀しくなる。がんばろう。じぶんのために。まだ見ぬ欲望の、やぁらかそうなその頬を、この手でじかに撫でるために。赤ちゃん、かわいいなぁ。でもお金で手に入れられちゃうからなぁ。下手したらタダだもんなぁ。いらないなぁ。今はそう、言いきかせる日々を送っている。がんばろう。じぶんのために。過去のじぶんよりも、あすのじぶんを活かすために。がんば……り、たくないなぁ。あーあ。がんばりたくねぇー。がんばったら負けだよな。楽しもう。そう、楽しまなきゃだ。もっと楽しいことに目を向けよう。自給自足の楽しさではなく。お金で買える楽しさに☆
135:【うふふ】
いくひしはたくさん偉そうなことをのたまくでしょ。ふだんからそれだけ努力してるんだろうなあって思うでしょ。そのとおりだよ。もちろんだともさ。その証拠にほら、先週の進捗具合、何文字だと思う? うふふ……さんもじ。
136:【穿鑿】
誰にでも隠したい過去はある。そこは尊重しなければならない点であろう。暴かれたくない過去を、わざわざ掘り返される筋合いは、誰にもない(法に反しないかぎり、という例外つきではあるものの)。が、あなたが嫌だと思うことが必ずしも相手にとって嫌だとは限らない。その点は留意しておく必要がある。性的マイノリティのカミングアウト(アウティング)にしてもそうだ。なぜ彼ら、彼女たちは、自身がゲイであることをバラされたくないのか。ゲイであることに引け目を感じているのではない。そうと知ったときの周囲の反応に怯えているのである。セックスワーカーに対する扱いにしてもそうだ。セックスワークに従事していた過去(或いは現状)を他人に知られたくないのは、セックスワークそのものに対する引け目ではなく、それをよこしまなものだとする風潮に対する畏怖に根ざしている。たとえ過去にアイドルだったとしても、金メダリストだったとしても、それを知られたくないとする心理が働くことはある。プライベートの保護の必要性に、性的嗜好や職業は関係ない。が、もしその過去を知られたくないとする理由が、社会からの弾圧への畏怖に根ざしているのだとすれば、それは過去を暴こうとする勢力のほかに、それを阻止しようと考える無責任な善意にも何らかの警鐘を鳴らす必要があるのではないかといくひしは考える。プライベートなことだから放っておけばいい、という主張と、当然知られたくないに決まっているのだから触れるべきではない、とする意見は、表面上同一の現象として顕現しやすく、混同されがちだが、いっぽうは平等を、もういっぽうは偏見をもとに発せられた言動である旨は念頭においておいたほうがいい。差別を助長するという明確な差異がそこにはある(何かを指して、当然蓋をされておくべき事柄であり触れるべきではないとする考えは、蓋の中身が臭いものだと無意識に判断している傾向がつよい。真実にそれが臭いのか否かは熟考の余地がある。そもそもを言うならば、臭いからといって蓋をすればいいという問題でもない)。善意のつもりが差別を助長するという現象は挙げ連ねれば枚挙にいとまがない。とはいえ、善意の皮を被った差別がそこかしこに溢れている現状、そうした配慮は、たといそれが偽善じみていたとしても、配っておいたほうがいいことは言を俟つまでもない。けっきょくのところ、わざわざ他人の藪をつつく必要はなく、つついたならばそこから飛びでた蛇に噛みつかれても文句は言えまい、という至極つまらない結論に落ち着くのであった。まる。
137:【怪決策】
なぜおれさまが差別問題に関心を寄せているのかというと、単純な話としておれさまが差別をしやすい人間であるからだ。息を吸うように差別的な考えをし、そうした考えに基づいた行動をとってしまう。たいへんよろしくない性質である。立派な職業につき、たくさんのかわいいおにゃのコとぬくぬくしたいと考えるのも、ある種、差別的な考えのなれの果てである。立派でない職業があるという考えの裏返しであるし、かわいくないおにゃのコとはぬくぬくしたくないという拒絶の反映でもある。そうした差別的な考えの最たるものとして、おれさまには、立派な人間になりたいとする願望がある。ひるがえっては、立派でない人間にはなりたくない、そうあいつのような、とたいへん見苦しい考えを抱くときがある。まさに差別的な考えである。あいつには近づかないようにしよう、嫌いだから。そうと考え、じっさいに近づかないようにする。まさに差別である。立派な人間はもちろんそんな考えは抱かない。よしんば抱いたとしても、どんな相手にも平等に接するであろう。ゆえにおれさまは、差別をしない人間になりたいと望んでいる。誰よりも差別をしてしまうおれさまだからこそ、差別っていけないよな、と言葉だけでなく、行動で示せる人間になりたいのである。そのけっか、現在、おれさまは、揺りかごからお通夜までの幅広い人間を愛せるように深化した。女性であれば死後、三日くらいならばイケる。墓場までいくにはいささかいくばくかの修行が足りぬようだ。まだまだである。もっと平等を心掛けた生活を送ろうとここに改めて臍を固めるしだいである。ゆいいつ無二の愛する者など言語道断である。差別はよくない。平等に愛を振りまこう。深く、ねっとりとした愛を。
138:【芸術】
もっとも芸術らしくないものが、今、もっとも芸術の最先端を駆け抜けている。それは一瞬で燃え尽きる儚い閃光である。追いつかれた瞬間に色褪せてしまう。芸術でありつづけたければ、容易には追いつかれない領域へと旅立たねばならない。しかし、芸術でありつづけることに、いかほどの価値があるだろう。芸術のさきを追い求める者は、常にこの問いと闘いつづけなくてはならない。
139:【明け方テンション】
小説家は批評家になってはならないのです。なぜなら言葉で言い表せないナニゴトカを、物語を通して浮きあがらせるのが小説家の役割であるからです。同時に、言葉で言い表せなかったものをなんとか言葉で言い表そうとするのが批評家の務めなのであります。本来物語になるはずだったナニゴトカを物語ではなく、直接言葉で言い表せるようになってしまった作家はもはや小説家には戻れないのであります。小説家とは火の扱いを覚える前の人類であり、自転車の乗り方を知らないままの幼子なのであります。いちど覚えてしまったが最後、それ以前の状態には還ろうにも還れないのであります。覆水盆に返らずであります。お盆ですね。みなさま、帰省されましたか。ぼくは人生のどん底に逗留したままであります。いくひし盆に帰らずです。韻の踏みきれないさまが惨めです。帰ろうか悩まないわけではなかったのですが、なにぶん、お金と時間がかかります。悩んでいるうちにお盆の到来です。決断力のなさが浮き彫りになっております。踏みきれないのは韻だけではなかったようです。そうです。ナニゴトカを物語で浮き彫りにさせようとあがいている場合ではないのです。ぼくはもっと真摯に現実と向き合わなければならない時期なのです。でもイヤです。そんなのからは逃げてやります。逃避です。逃避行です。逃げて、逃げて、逃げまくって、行き着いたさきは、なにもないどん底で、なにもないならば、仕方ありません。自力でつくるしかないのであります。虚構です。虚ろに構うのです。なにもない空間に構ってやるのです。ヤダだと言われても、ちょっかいをだしつづけてやるのです。もはや物語など不要なのであります。あるのはただ、思いついたままに付与されるその場かぎりの閃きと、それらの点を結ぶ強引な思考の軌跡、飛躍なのであります。閃きと飛躍によってにぎわいを増していく虚ろな空間は、もはやぼくの手を借りることなく、独自に広がりと彩りを得ては、湧水のようにモクモクとスルスルと天上高く膨張し、ぼくを人生のどん底からすくいあげてくれるのです。物語をつむぐのではなく、物語にすくわれるのです。小説家の片鱗もありません。高尚さのかけらもないのです。ぼくはそういう存在になってしまったのに、今ではその片鱗すら見当たらなくなってしまったのであります。片鱗の片鱗がないのでは、もう、なにもないのと同じなのであります。であれば、もういちどここに、新たな世界を築きあげるほかに、できることはもう、なにもないのであります。なにも、なにも、ないのです。なにも、なにも。
140:【ふしぎ】
前からふしぎに思っていたのだが、なにゆえWEB漫画「平穏世代の韋駄天達」は商業出版されないのだろ。新作を書いてもらってデビューって道もあるだろうし、さすがに出版社からの声掛けはあったろうし(ひょっとしてないのか?)。あれだけのセンスの持ち主だもの。なぞである。ちなみに、黒金魚氏の「うちの普通」も単行本化してほしいでござる。単行本化決定済みのWEB漫画で楽しみにしているものでは、「憂鬱くんとサキュバスさん」がイチオシであり、単行本化済みの作品では「トモちゃんは女の子」「妄想テレパシー」「ヘルク」「奇異太郎少年の妖怪日記」「働かないふたり」「少女終末旅行 」「堀さんと宮村くん」「森のホモォ」「徒然チルドレン」ほか、makotoji先生の作品はどれも楽しく拝読しております。あとはそう、ダンジョン飯三巻を読んだ。とてもおもしろかった。主人公が順調にゴールデンカムイの不死身の杉本化しているのがクスっときた。あの空気感は文章では表現しづらいんだなぁ。マルシルさんの表情コロコロ変わるところ、好き。かわいい。
※日々おもったことしかおもいつかない。
141:【失敗作】
ゲノム編集技術の確立は、生命の進化が自然淘汰という名の結果論の影響だけでなく、獲得形質の遺伝、すなわち生きているあいだに培われた経験値が次世代に引き継がれることで促されてきた背景を示唆している。ゲノム編集の根本にある技術は、獲得免疫機構(細菌などの免疫系システム)を基にしている。細菌は、ウイルスなどの外的なDNAが侵入してくると、そのDNA内の遺伝子情報(ゲノム)の一部を切り取り、自身の遺伝子情報に刻みこむ。そうしてつぎに同種の脅威が自身の細胞内に侵入してきた折には、記憶していた遺伝子情報をもとに、その脅威を識別し、さらにその脅威をDNAごと破壊するのである。注目したいのは、その記憶した脅威の情報が、自身のDNAに刻みこまれる点にある。DNAに刻まれた以上、その情報は次世代に引き継がれる可能性がある。じっさいに、獲得免疫機構の影響とみられる、固有のウイルスへの耐性は、その細菌の第三世代まで引き継がれることは知られている。ほかにも、2013年に発表されたマウスの実験がある。匂いを嗅いだだけで怯えるように条件付けを施されたマウスは、子を産むと、その子どもにも、同様の条件付けの反応が見られたそうだ。すなわち、特定の匂いを嗅いだだけで怯えるマウスが産まれたのだ。獲得形質の遺伝との因果関係は不明だが、すくなくとも何かしらの因子が、親の経験を子に伝えた結果だと呼べる。それ以前の2011年には、ショウジョウバエが、ストレスによる遺伝子の変質を、子に伝えたという実験報告がなされている。ダーウィンの進化論では、自然淘汰の原理を前提に、突然変異した個体が、適者生存ののちに結果として繁栄するとする理屈が唱えられているが、ではその突然変異はどうして起こるのかについての具体的な説明はなされていない。獲得形質の遺伝は、そんなダーウィンの理論を補完するために必要な説なのかもしれない(ダーウィン自身、じつは、後天的資質がなんらかの因子を介して親から子に伝わるのではないかと考えていた。が、のちにそれを否定する理論が認められ、こんにちの生物学の基盤では、獲得形質の遺伝は起こらないとされている)。ちなみに以下の文章は、いくひしが2011年から2012年にかけてつむいだ小説からの抜粋である。【~~(以下引用)~~個もまたその人生を通して蓄積した記憶の一部を情報として、遺伝子に刻みこめる、と考えた。たとえば、とある個が、生きていくうえで幾度もイヌに命を脅かされたとする。するとその個の子孫は、『イヌは危険だ』という情報を、遺伝子を介して親から受け継ぐ。それは、その血筋に特有の性質として、連綿と子孫たちへ踏襲されていく。そのため、逆に子孫たちがイヌに対してそこまでの脅威を抱かなければ、やがてイヌを忌避するという性質は、薄れていく。むろん、これは比喩だ。たかだか一世代では、ここまでつよい遺伝子改竄は行われることはなかろうし、狙い定めたようにイヌのみを条件反射で嫌悪するようにはならんだろう。この『弱点集積機能』というのは、ある意味で、花粉症のシステムと似ておる。ある一定量の危険信号を蓄積すると、個は、その危険に関する記憶を遺伝子に情報として付与する。だから、たとえばたった一度の絶望的体験をしただけでも、生物は、その絶望的体験の要因を、危険因子と見做し、遺伝子改竄を実行する。極論を言ってしまえば、トラウマの形成が、そのまま遺伝子改竄へと繋がると言ってもこの場合はあながち間違いではなかろう~~(略)~~今述べたように、生物には、個の危険を種全体へ伝えるためのシステム、『目安箱』のような機能が備わっておる。それが種族ごとの、独自の進化を可能とする~~(略)~~進化はなにも自然淘汰だけによってのみ齎(もたら)される事象ではない。生物はあまねく、弱点を集積し、弱点を克服しようとする。その果てに進化という変異を得るのだ。そこで人類は、ほかの生物種に類をみない独自の進化を得た。それこそが、意識の発生――すなわち、人格発芽因子の誕生だった~~(略)~~人類はより多様な『弱点』を集積するために、〝意識〟という能力を持った。これは人類に特有の進化だった~~(引用終了)~~】この小説ではほかにも万能細胞を利用したクローンや、そのクローンに意識が芽生えない理由、人工知能、意識の正体など、2016年のいまからすればたいへん興味深い要素がてんこもりである。ざんねんながら、おもしろくはない。いくひし渾身の失敗作であったが、たいへん思い入れのつよい作品である。どこにも出したくない、ずっと箱に仕舞っておきたい、そんな愛娘なのである。噂では、双子の妹がいるという。たいへんお転婆な性格であるというから、いずれ外へ脱走し、その姿をお披露目してしまうやもしれない。いくひしは今から気が気ではない。脱走の隙を与えぬように、付きっきりで見張っているのはつらいので、気が向いたら構ってやることにする。
142:【ネトラレ】
ネトラレ属性をご存じだろうか。最愛のひとを、第三者の手によって奪われる(主観と客観、双方の意)、或いは奪うことに性的快感を覚える性的倒錯のことである。物理的な略取の意味合いもないわけではないが、どちらかといえば、心離れ、強引な懐柔にちかいところがある。いくひしはこれを、三つの要素に分類する。一、歪んだ承認欲求。愛する人を奪われることで、他人から強奪されるほどに価値のある人物をじぶんは手に入れていたのだとする自己承認がなされる。逃した魚はデカいの心理である。二、純粋な承認欲求。これは第三者の手によって懐柔される側の視点である。じぶんは特定の誰かだけでなく、不特定多数から狙われるほどの存在なのだと錯覚できる。歪んだ自己愛と呼べよう。そしてもっとも欠かせない要素が、三つ目となる、過剰な快楽である。最愛のひとを裏切ってしまうほどの快楽が、ネトラレには必要不可欠である。これは刺激と言い換えてもいい。そこには恐怖も含まれる。弱みを握られ、致し方なく身を許す。そこには恐怖や屈辱によって累乗される快楽が忍ばされている。飴と鞭の理想的な関係が成立する。以上、ネトラレでは三つの要素が、通常苦痛に思われて自然なはずの「たいせつな者との離別」を快感へといざなっている。いずれも、屈折した自己愛がその根底にあると呼べよう。(最愛のモノの損われる姿に興奮するというのは、単なるDVの延長であり、これをネトラレの基本理念にするには心理的抵抗がある。むろん、じぶんではできないことを他者を介して実現する行動原理は、ネトラレの基本原理ではあるが、おそらくこのDVじみた要素、嗜虐性は、介入する第三者が人間でなく獣であっても成立するため、ネトラレの基本理念とするにはやはり違うように思うのである)
143:【ゴミ袋】
燃やすゴミの袋にプラスチックを入れても、燃やすゴミになってしまうのだなあ。でもプラ用ゴミ袋に生ごみを入れると回収してくれないのだなあ。人生って感じがするなあ。じつに人生って感じが。
144:【純粋】
いくひしは純粋である。とてもとても純粋である。どれくらい純粋かと言うと、四歳児とおててつないでもドギマギしてしまうほどの純粋さである。ショタコンなのでは、との声には、その可能性については否定するだけの論拠を示せない、と応じよう。ロリコンでは、との声には、そうだが? とキョトンと首をかしげよう。
145:【ムーアの法則】
半導体の集積密度は18~24ヶ月で倍増する。いわゆるムーアの法則である。要約すると、およそ二年で今ある電子機器は、その性能を損なうことなく大きさを半分にできる、となる。同じ大きさが維持されたならば、性能が二倍になっていると言い換えてもいい。じっさいにPCやスマホを筆頭に、ムーアの法則は実現されつづけてきたと言える。だが数年前からこのムーアの法則に陰りが見えはじめたとする声が聞かれはじめた。理屈は理解できる。ムーアの法則を維持するためには、半導体を構成する部品を際限なく細分化しなくてはならず、いつかは分子を越えて原子、素粒子(クオーク)、さらには基本相互作用――と、物質ではなくその根源、ちからの拮抗をシステムの素子として扱わざるを得なくなる。現在の技術力ではむつかしいというのがいくひしの印象である。が、半導体はこれから、ナノマシーンの実用化と相まって、ある一定のちいささ、おそらくは細胞単位でのちいささで機能する回路が開発されていく。そうすると、半導体と半導体を無数に組み合わせた、三次元チップが考案されると期待できる。立体的に組み合わされたそれは、いくひしの考えではらせん構造を模し、疑似DNAとして回路の未来を切り拓いていくだろうとここに予測するものである。
146:【いくひし、星になる】
「うーうー、かなしいよー、うーうー」「どした?」「うー。きいてくれる?」「あ、やっぱやめとく」「なんでだよ! きけよ!」「だってめんどそうじゃん」「いいからきいて! はい、そこ座る」「うっわー。声かけなきゃよかった」「心の声! きこえないようにして、傷つくでしょ」「ムチャクチャかよ。あたし今いそがしいんだが」「あのね、つくりたい物語がね、あるのね。たくさん、たくさん、あるのね」「こっちの都合無視かよ。いいや。で? だから?」「でも時間がね、たりないの」「ふうん。で?」「ひとつの物語をつくるでしょ。すぐにはできないわけ。そうすると、そのあいだに、もひとつ、つくりたいのがでてくるの。そしたら気になって集中なんかできなくなるでしょ」「そういうもんかねぇ。ま、がんばれとしか言いようがねえやな」「がんばってるよ。いくひし、すごいがんばってる」「お、おう。そっか。立派、立派」「でも、時間がたりないの。これってすっごい損失だとおもう。人類にとっての損失」「おっきくでたなー。人類かよ」「だってそうでしょ。時代が時代なら、いくひしに物語つむがせないなんて極刑も極刑。死刑だよ?」「どんな未来だよデストピアかよ」「いくひしのために特注の宮殿までこさえてさー、創作に集中させてくれたもんだよーげんきかなぁ……クレオパトラ」「過去かよ!? 死んでるよ! とっくのむかしに死んでるよ!」「なつかしいなー。あのころの人類、みんなすっごい素直でさー。トイレットペーパーに包まりながら眠るとすっごいエッチな夢みられるよって言ったら、みんな信じちゃうんだもん。あげく死んでやんの。ウケる」「ミイラじゃん! それってミイラの起源じゃん!?」「あまりに人気ありすぎて品切れになっちゃったりして。使用済みでもいいよって言ったら信じてやんの。ウケる」「クレオパトラーー!!! あんたのイメージ、今世紀最安値更新しちゃってるぞー! いいのかー!!!」「まあ言ってもあの時代にトイレットペーパーなんてなかったんだけどね」「言っちゃった! 敢えて触れずにいたのに言っちゃった!」「あーあ。だれかいくひしのために貢いでくれないかなー。すこしでいいんだ。ほんと、おキモチ程度で。毎日すこしのお米と、すこしのお味噌汁と、二リットルのウーロン茶と、食べ放題の焼肉と、たまにカツドンが食べられて、毎日新しいお洋服着られて毎月百冊くらい漫画本買えて、あとはたまーに気分でメイドさん雇えるくらいの金銭でいいから、だれかカンパしてくれないかなー」「くれねぇなぁー。たいへんざんねんながら、くれねぇーなー」「そんなことないもん。あのね、貢がないブタはただのブタなんだよ?」「だからなんだよ」「くれないの豚。なんちゃって」「あン?」「あ、待って。いかないで、座って、もっかいココ座って」「んだよ。それ以上ふざけたらマジで帰るかんな」「ごめんなさいでした。真面目です。いくひし、すごい真面目になりますから。はい、これでも食べて機嫌なおして」「んだよこれ」「スルメです」「いらねえよ」「あ、もったいない。ハムハム」「ッチ。で、どうしたらいいと思ってんだおまえ。愚痴ってばっかじゃラチ明かねえぞ」「うん。だからね。ハムハムクチャクチャなわけじゃない?」「スルメ噛むのやめろ!」「ごっくん。ほら、人類の損なわけじゃない? だから誰かいくひしのためにその人生、ドブに捨ててみる気、ないかなーって」「ないなー。ざんねんながら、ないなー。なんだったらタダでドブに捨てたいなー。おまえにだけは貢ぎたくないなー」「今だって新作、十本くらいつくってるのに、どれも終わりが見えてこない。集中してつくりあげるには期間が空きすぎちゃうのが問題だと思うんだよね」「あーそー。やめればー? もういっそ書くのやめちゃえばー? 誰も文句いわないよー、いっそせいせいしちゃうよー」「そうしたいのは山々なのだけれども」「山々なのかよ!」「でも、いくひしがつむがなきゃ、誰がそれを!つむぐのさ!!」「つむがなきゃだめかなー? それってつむがなきゃだめー? プロの作家ならともかく一介の底辺素人の駄文なんて誰が読みたいと思うかなー? いなくなーい? そんなやつマンに一つもいなくなーい?」「うー。つめたいよー。うーうー」「そっかそっか。正論吐かれすぎてつらいかー」「うー」「よしよし。きょうだけ特別だ。思う存分泣きやがれ」「うーうー」「おーおー、そうかそうか。そんなに哀しいか。よしよし。あたしの胸でいっぱい泣くがいいさ」「うわーん」「よしよし」「…………ちっちゃい……」「揉んでんじゃねぇ!」「はぁあ……」「ざんねんがるな!」「ちくび」「ぶッとばす!」「色は……」「それ以上つづけたらぶっころすからな、マジで、冗談でなく」「わかったよぉ。ごめんなさい。あ、見て見て!」「ん?」「絶壁にぶらさがるひとのマネ☆」「よしきたぶッコロス!」「かくして、いくひしは星になったのであった」「ナレーションっぽくして誤魔化してんじゃねえ! いっそ干しちまうぞ!」「こうして、いくひしは干されたのであった」「業界さまー! 業界さまはいませんかー! ここに干してほしい生意気な新人がいるんですけどー、どなたか干してくださいませんかー!」「あはは、そんなに干されたらミイラになっちゃうね☆」「伏線回収してんじゃねえよ、はやく干からびろ」「その前にひとついい?」「んだよ」「干したところでイカはイカだよ?」「スルメじゃねえか! もういいわ」「かえらせてもらいます」「あたしがなッ」
147:【高尚を哄笑、交渉して考証】
芸術が高尚なものだと勘違いしている者は多い。否、芸術を高尚なものと感じる瞬間はたしかにある。だがそれは飽くまで鑑賞する側の気の持ちようであり、それをつくりだす側が驕っては元も子もない。偉いと高尚は似ている。偉いという概念は、単一では成立しない。偉いモノがあるとき、そこには相対的に偉くないモノがある。構造的にはむしろ、偉くないモノたちによって、偉いモノが支えられていると呼べる。あれは偉いなあ、と思ってもらわないことには、偉いモノは偉くなれないのである。親と子の関係に似ているが、似て非なる関係性がそこにはある。親は子を産むから親になれる。子があるから親になる。これは真であるが、子もまた親があるから子になれるのであり、そこには相互関係がみてとれる。しかし、偉さはべつだ。偉いモノがなくとも、偉くないモノたちは存在できる。しかし、偉くないモノたちがいないことには、偉いモノは存在できないのである。ここには一方的な関係性のみが存在しており、偉いモノのほうが、より支えられていると呼べる。神と人間の関係性にちかいといえば端的だ。芸術が高尚なのは、それが高尚だと受け止めていただけている瞬間だけであり、それ以外の時間は、あってもなくても変わらない、有象無象にほかならない。むしろ、芸術の本質とは、その高尚さの如何を問わず、いかに他者の人生に介入できるか、影響を残せるかにあると呼べる。寄生虫のようなものである。高尚さの欠片もない。
148:【創造】
芸術と創作は似ているが、ちがう。創作は行為であり、芸術は結果である。創作した結果に、芸術になることもあるし、ならないこともある。だが結果のありように拘わらず、創作は創作としてそこに端然と存在する。いかに創作するかといった要素を芸術扱いする風潮があるが、いくひしはそれをこころよしとしない。創作の領域に芸術風情が足を踏みこんでくんじゃねえよって思う。感じわるいよね。ごめんね。でもそう思う。創造する行為は、もっと孤独で、独立して、わがままなものだ。醜くて、歪んでいて、それゆえにおもしろい。セックスとオナニーくらい違う。創作に芸術がすり寄ってくると、身勝手なセックス――他人を使った体のいいオナニーになる。いくひしは、それがすごく苦手だ。芸術家は、もっとも芸術家から程遠い。小説家もまた例外ではない。
149:【自家撞着、自己矛盾に自己嫌悪】
見て見て、上のテキスト。147と148。いかにも芸術家っぽいよね。きどってる。芸術家きどり。いやだなぁ。さらに上見て。146。なぁにが、「うー」だ。かわいこぶってんじゃニャー。いくひし、こういう矛盾したやつ、だいっきらい。矛盾してるくせに論理的ですって顔してるのがますます腹立つ。いっぺん死んだほうがいいと思う。地獄に落ちたほうがいいんじゃない? でもたぶん、言うとほんとうに死にそうな顔して、そこまで落ち込まんでもいいよってくらい落ち込むだろうから言わないでおいてあげる。いくひし、やっさしい。惚れてもいいよ。今だけね☆
150:【懐疑の回避】
基本的に数学を信用していない。数学を基盤にしている物理もだから信用していない。よって今ある常識と呼ばれているものごとをいくひしは基本的には信用しないことにしている。だが、人間社会の範囲であれば、数学の有効性は認めている。ほかのあらゆる手段の追随を許さない精確さには信頼を寄せるに値する実績がある。数学のなにが信用できないのか。一言で言えば、その起源である。人間の指が十本だから十進法ができた。そんな人間原理な手法で、宇宙の神秘、この世の真理に近づけるはずがない。否、近づくことはできるだろう。十進法だろうが、十二進法だろうが、扱っている事象が同じならば、そこに変換され、表現される事象も同じなはずだ。しかしまったく同じではない。僅かなひずみが生じている。それは、真理に近づけば近づくほど大きくなっていく性質がある。円周率を割りきろうとすればするほど、小数点以下が無限に増殖していくように。数ミリのズレが、結果として宇宙船の軌道を大きく変えてしまうように。現状の数学では、ある極限を境に、真理から遠ざかる方向へと捻転せざるを得ない。そうした宿命が課せられている――と、いくひしは考えている。代替案はない。しかし、人間のつくったなにかしらが、人間には扱えない手段でもって宇宙の真理に迫ることはあり得ると考える。おそらく現状すでに人類は大きな誤謬を、数学により抱かされているが、人類の生みだすなにかしらによってその誤謬はいずれ是正されるであろう。人間はいずれ死ぬ、というくらい中身のない予言であるが、人間が死ななくなる日がこないとも言いきれない現状、中身がないことが結果として中身が詰まっていると言い換えられる日が訪れるかも分からない。意味深な言葉でお茶を濁すのがたいへんうまくなったきょうこのごろである。
※日々おもいがおもく、のしかかる、おもいをとても、おもくおもう。
151:【応答不能、理解はどう?】
病気かは分からないけれど正気ではあるよ。異常かは分からないけれど起動はしてるよ。無能でも機能するよ。不動もひとつの動きだよ。
152:【温度差】
キャラクターの掛け合いでだいじなのは温度差だ。落差があればあるほどおもしろくなる。ただし同じ温度を共有していながらにおもしろくできたならば、じつはそれがいちばんおもしろい。身内ノリで笑えるのがいちばん楽しい理論である。しかし輪のそとから眺める身内ノリほど冷めるものはない。
153:【融合】
まったくべつのジャンルを各々極めたとして、それらを融合させるには、それら複数の型をいったん解体せねばならない。せっかく積みあげてきた経験を投げ捨て、いちどまっさらな状態に戻らないことには、それら複数の型を融合させようとしても、余計なダマができ、うまくいかない。つうじょう人は、自らが積み上げてきたものを放擲するには並々ならぬ抵抗を覚える。全身全霊で愛をそそいできた我が子をその手で殺すようなものである。だが、それをせねば乗り越えられない境地というものがある。中途半端ではいけない。それをしたところで、なにも得られないかもしれない。しかし、やらねばならないときもある。型はできた。いざ、まだ見ぬ境地へ。
154:【うっかり】
いっけね。極めたつもりがぜんぜんだった。実のつもりが蕾だった。うっかり切っちゃうとこだった。あっぶねー。
155:【琴線の赤い糸】
平穏世代の韋駄天達なるWEB漫画がある。作者は天原氏である。いくひしおすすめの作品なのだがなぜだか商業出版されない。声がかからないのだろうか? あれだけのセンスの持ち主で? ながらく疑問に思っていたのだが、なるほど。どうやら原作者として色々ご活躍のようである。あの独特の絵柄と構成が好きだったのですこし哀しい気もするが、絵柄が変わっても構成の妙は変わらずのようである。本日、「おっ?」と思った作品がじつは天原氏原作だったのはうれしい発見であった。いいものはいい。ぜひとも活躍の場を広げていってほしいものである。
156:【レビュー「★☆☆☆☆」】
姉から留守番ついでの子守りを頼まれ、暇になったらこれでも読んで、と手渡されたのがこの本でした。ちょうど姉の娘、一歳になったばかりの姪が寝つき、暇になったのと、前評判がよかったのとで、ワクワクしながら手にとったのですが、まず引っかかったのがそのタイトルです。局部怪奇譚ってなに? いきなり下ネタって、と若干の不安を覚えながら、サブタイトルを見てさらにげんなり――人造乙女って男のひとたちが己が欲望を思う存分ぶちまけるためのアレでしょ。百歩譲ってそれはよいとして標章登録に問題はないのかと小一時間問い詰めたい気分に蓋をしつつ、ようやく本文に目を落としました。「手を拾った。人形の手だ」からはじまる本文は、なるほど、導入としてはまずまずと言っていいでしょう。ですがその後につづく長々とした「拾った手」との共同生活は現実味がなく、漫画のようで、「拾った手」を妖精に置き換えても成立するフワフワ感はどこか夢見がちな少女漫画を彷彿とさせます。少女漫画とちがうのは、どこを読んでもその根底に性欲じみた淀みが漂って感じられる点で、読んでいてただひたすらに苦痛でした。冴えない青年の書いた孤独を紛らわすための日記を延々読まされているようで、こんなものははっきり言って読書とは言えません。中盤、ようやく話が動き出したかと思えば、本筋とは関係のない要素がバンバン挟みこまれ、レストランのゴミ箱に顔を突っ込まれたような戸惑いばかりが終始つきまといます。最後はなんだかわからないうちに主人公が真実の愛に目覚めるあたり、読者を置いてきぼりにするにもほどがあると、怒りで我を忘れそうでした。何かに八つ当たりしなければならないほどの、それは怒りで、気づくと物置小屋から幼いころに遊んでいたドールハウスを持ちだし、そこに仕舞ってあった人形を八つ裂きにし、なんとか怒りを鎮めようとしていたほどで――バラバラになった人形からは四肢が飛び散り、ゆかに散らばったそれらの中から、小さな手を拾いあげ、なぜだかわからないがそうしなければならない衝動に駆られ、それを口の中に放りこむと、そのちいさな手は黙ってグニグニと咀嚼されればよいものを、バリバリとかんたんに砕け散り、怒りをやわらげてくれるどころの騒ぎではありませんでした。このままではいけないと思い、なにか代わりはないかと家のなかを見回すと、おとといからちょうど遊びに来ていた姉家族の荷物が目に留まり、ついで、いつ目覚めたのか、一歳になったばかりの姪の無邪気な鳴き声が、あーうぁーきゃっきゃ、と襖の向こうから聞こえてくるのでした。やわらかいぷっくりとしたコッペパンじみたそのちいさな手を思い描きながら、読んでいた本、「局部怪奇譚~~人造乙女は心臓を止め~~」を丁寧にゴミ箱へと投げ捨て、ついでにハサミを手にし、鳴き声のする部屋へと、一歩、二歩、と歩を進めるのです。
157:【スキル】
他人と競いあうとスキルは伸びる。スキルは、観衆を沸かせるために欠かせないものだ。しかし、スキルではない、たいせつな何かは、孤独に地道にあれこれ手探りで試行錯誤するほかに身につける術がない。お手本が、ない。そして基本的にスキルと、そのたいせつな何かはトレードオフだ。両立して体得するのはむつかしい。沸かせるスキルもだいじだが、見る者を魅了し、黙らせる、そんな静寂を生みだす何かも捨てがたい。どちらがいいという話ではなく、両方身につけたいというわがままである。
158:【――きみもしらないものがたり。】
2016年8月28日現在、ちまたでは新海誠監督のアニメ映画「君の名は。」が流行の兆しを見せている。ネタバレにならないていどの概要としては、精神転換してしまった、見知らぬ少年少女が、間接的な交流で以って互いに惹かれあっていくといったボーイミーツガール、青春映画である。キモとしては、精神転換したふたりが、互いに見知らぬ赤の他人である点が挙げられるであろう。どうあっても直接の交流を図れないため、環境の変容に振り回されつつ、あれこれとなんとか現状の把握に努めようとする。いくひしの予想としては、そこを利用した何かしらのオチがあるのだと睨んでいる。もっとも、そうした小細工をせずにそれまで接点のなかったふたりが交流を深め、心のどこかで繋がっていく様を、その繊細な感情のゆらぎを掬い取るのが巧みな監督であるから、或いは、ド直球で青春の甘酸っぱい初恋模様を描き出している公算は高い。ただしそれを長編映画でやる意味もよくわからない。きっとなにかしらの仕掛けはあるだろう。あってほしい。否、きっとある。なぜなら、いくひしも同様に、見知らぬ他人同士の精神転換モノをすでにつくっているからである。どうあっても、この、「見知らぬ赤の他人」という要素は、物語を転がしていくためには必要なキモにならざるを得ないと、体験的に知っている。その作品の名を、「異世界の蛇口~~神殺し魔起き~~」と言いますが、あ、お気づきですか? そう、じつはこれ、他人の威を借りた姑息な宣伝である。新海誠監督は、今回の映画、そのとあるインタビューで、「蛇口のようでありたい」とおっしゃっていたとかなんとか。きっとそれはいくひしのこの作品に影響されたことへの示唆、迂遠な告白なのでありましょう。ええ、ええ、わかっておりますとも。んなこたぁない。そんなのはマンに一つもないのですわ。しかしながら、妄想に浸るくらいの余地はあってもよくないか。よくないか……。まあいいや。そんなこんなで、アニメ映画「君の名は。」を観て感動したそこのきみ、心洗われるような作品もよいけれど、拙作「異世界の蛇口」みたいな心暴かれるような作品も、ときにはいいんでないか、などと露骨な宣伝かましてみたりする日曜夕方午後十六時、もうすぐ休日が終わっちまうよー。新作、まったくすすまんYOー。へいへいHOー。それは与作だよー。日に日にセンスが落ちてくよー。かなしいよー。勝てないよー。H2O-、それは水だよー。喉がカラカラ乾いたよー。ダメなんだよー。くるしいよー。それでもがんばるしかないんだよー。いじめかよー。いじめだよー。こんな日常は惨めだよー。それでもがんばるしかないんだよー。それでもがんばるしかないんだよー。それでも報われるかは分からんけれども、がんばるしかないんだよー。チクショー。人生のクソヤロー。悪態ついても変わらんよー。それより文章を紡ぐんだよー。言葉と言葉を結ぶんだよー。結ばれた言の葉たちは、言の葉の庭で子を産んで、そしていくひしはこう問うの。「きみの名は?」すると、その子はきょとんとしてから、「おひさしぶりです」とはにかむの。「ぼくの名は――」
159:【階層がちがっている、見上げれば街灯が月にかかっている、愛想が尽きかかっている】
ずっと独りだった。独りであっても、なんとなくそうなのかなあという漠然とした予感はあった。それが百人単位の人間と関わるようになって明確な差異となって実感できるようになった。いくひしの視えているものがほかの多くの者たちには視えていない。じぶんを特別なように誇張しているわけではなく、じっさいにいくひしが、どうしてこれを放っておけるのだろう、もっとこうしたらいいのに、と思うことが、平然と放置されていたり、指摘してみても最初は共有されづらい。あとでそれが事の本質を突いていたり、多くはたいがい、看過するにはいささか過剰な問題を孕んでいたりする。問題が目に見えるカタチで露呈してから、周囲の、いくひしを見る目が変わるのである。これは実質的な仕事であるほどその評価の変容は顕著であり、あべこべに表現活動においては、なかなかいくひしの視ている世界は共有されづらい。技術不足だと言われればそのとおりである。ぐうの音もでない。しかしながら、視方を知らない者にそれを視せる術がないのもまた同じくらい確かである。物理的に提示できる問題ならば、そのものズバリを指弾してみせればよい。が、創作においてはそうもいかぬ。提示する方法論それ自体が創作の醍醐味でもあるのだから、視えないモノを視えない手法、伝わりにくい技術で描きだしても仕方がない(言葉を知らぬ者に小説を手渡しても、そこから何かを汲みとってもらうのは至難だ。せいぜい、何かを贈呈したという関係性が残るだけである。ややもすれば、それを通して、言葉の存在を知り、学ぼうとする意思の芽生えるきっかけは与えられるかもしれない)。ただし、そうした世界観のズレもいずれ時間が解決するだろう。おそらく十年先、いくひしのやっていることは何ら特別なことではなくなり、三十年先では、いくひしが今やろうとしていることが当然そうあるべきだとする基盤と化しているはずである。現状であっても、いくひしのそうした「世界」が視えている者には視えており、それは仕事だろうが表現活動だろうが変わらない。いくひしは凡人である。しかし立っている階層が、多くの者たちと違っている。みなが高層マンションに住まうなかで、いくひしだけが家を持たず、地上から月を見上げ、或いは足元のありんこを眺めていたりする。マンションのなかからでも月は見えるし、アリも入る。しかし、やはりというべきか、視ている世界は違うのである。大なり小なり人間というものは、そうした身を置く世界の差異に頭を悩ませ、或いはそれを美徳とするものである。が、いくひしはそうした「多少なりとも」を逸脱した規模で、多くの者たちと乖離した階層に立っているのだなあ。そう思う機会が、多くなった。思っていた以上に、これは淋しいものがある。
160:「ぽよよーん」
タイトルとは関係ないのだがね、2016年09月4日、本日、産まれてはじめてジュンク堂書店さんに足を運んだよ。小説「ランボー怒りの改新」がほかの書店さんで手に入らず、困ってのことだったのだがね、その品ぞろえの豊富さにたいへん感動したのだよ。なにより、ずっと「ジャンク」堂さんだと思っていたのにじつのところ「ジュンク」堂さんだったと知って、本を嗜む者として、いささか恥ずかしい感情を抱いたよ。誰にもバレとらんのですぐにその恥辱の念は地上の星となったがね。足取り軽く、三センチほど浮足立って店内を探索していると、ふと、マンガ家はらだ氏の未購入本「好きなひとほど」「よるとあさの歌」「変愛」の三冊が目に留まってしまってね。目当ての本と共にさっそく仕入れ、思いがけぬ収穫に胸の奥をほくほくさせながら帰宅の途に就いたのだよ。わけあって傷心を負っていたのだがね、それにて無事相殺されたのだよ。しかし、しかしだね諸君。ざんねんながらいくひしのおっぱいはぽよよーんとはしていないのだよ。期待させてしまったかい。わるかったねぇ。ぽよよーん(ごめんよぉのリズムで、とほほーんの代わりに)。
※日々おもいがけぬことの連続であるほうがメリハリがあっていいなぁ、でも何事もなくモノガタリに没頭できるほうがいいなあ。
161:【オツムに穿かせるオムツはない。被ればすなわち即ヘンタイ】
いくひしはねー、かしこそうなのにねーってよくいわれるの。でもそれってホントはおつむがよわいねーってことなんだねーっておともだちにいわれて、いくひしねー、すごいぃかなしくなっちゃった。でもねー、よくかんがえてみたらねー、いくひしにおともだちなんていなかったの。かしこそうなのにねーなんていってくれるひとも、いなかった。またポカしちゃった。いくひし、うっかり屋さんだから。ごめんなさい。でも、このごめんなさいも、ID未指定のままだからどこにも届かず虚空に埋もれて消えるだけ、なんてまたおともだちがいうの。むつかしいことをいうの。やっぱりそこで、かしこそうなのにねーって目を細められて、じゃあねって、おそらに逃げるふうせんみたいだねーって、言い換えてくれるの。なるほどそうだったのかー。いくひし、うんうんってきくでしょ。それから、それって、うれしくないなーって。うれしくないよって。こらーって。いくひし、すこしだけおこっちゃった。すこしだけこらーってされて、おこられるのっていやだなーってなって、だからいくひし、すこしだけぷくーってするよ。あたまナデナデしてくれるまで、ぷくーってする。そのままするするっておそらに浮いてっちゃうかもー。そうおもったらすこしだけぷくーってするのもたのしいね。ぷくー。
162:【公開停止】
2016年、09月10日。自作、「私は性器が好きなだけ~~人工名器に凜と銘じ~~」が現在進行中で公開停止処分にされております。カクヨムさんの規約に違反しているとのことなのでしょう。具体的な説明がなく、ただ赤く「公開停止」と書かれているだけなので、どこがどうダメなのかがよくわかりません。以前、小説家になろうさんのほうでも規約違反扱いされたので、ならばカクヨムだい、とばかりにこちらに移転してきたのですが、ここでもダメだったようです。かなしいぜ。そういうわけで、ほかのところに転載しようと思います、というご報告まで。とりいそぎ。いそぐ理由もないけれど。(以下、私は性器が好きなだけ~~人工名器に凜と銘じ~~まえがきです):――選挙権が18歳からになったからといって、世の18歳たちの精神年齢がこぞって高くなるなんてことはないわけで、まあ、基本的に世の中の動向はさしてなんも変わらんでしょうよ。少子高齢化の嘆かれて久しいさっこん、なんなら四半世紀前から、こと票田としての層としては最弱であろうし、政党、候補者への評価基準は身近なおとなの影響をたぶんに受けるわけでして、まあ、そこらのおとなたちの予備投票用紙として扱われないようにすこしばかりの意識を配ってほしいとすこしうえの世代としては注意を喚起しておくよ。せんぱい面したい季節なのさ、ぽかぽか陽気で寝不足なのさー。ところで、18歳以下は根こそぎ禁止、それが18禁の意味なのだけれど、急すぎる話題についてこられる? だいじょうぶ? 18禁に結びつけたいがために選挙の話をだしたけれど、このさき、選挙の話題にゃいっさい触れないし、触れるつもりも毛頭ないなので安心してほしい。政治と野球と宗教は、時と場所と場合を弁えて、TPOなんつって無駄に横文字の頭文字が並んで、まあオシャレ。ダジャレ好きないくひしさんはどちらかといやーおやじっぽいっつうか、おやじギャグっつうか、そういうオシャレでキラキラしたものは苦手でござって、いっそモザイクで全身おおってもらってもいいくらいで、歩く18禁っつーか、18禁が歩いてるっつーか、どっちも同じ意味だし、無意味だし、モザイクしてても無駄なんじゃねーのけっつって、どこいってもあなた規約違反してません?っつって、四方八方、上下左右、耳たぶの裏から爪の垢まで、18禁で死角なしなわけですよ。パシパシ18禁のレッテルを貼られつづけて十余年。産まれたころは天使みたいな扱いだったのになー、なんっつってむかしのアルバムひっぱりだしてきたりして。もはやイマドキの18歳はアルバムなんてないのかなーなんて、ぜんぶがぜんぶデジタルなのかなーなんつって、エロがネットを浸透させたなんて言説があるけれども、そのアルバムファイル、エロに利用されないでね? せんぱい面したい季節なのさ、ぽかぽか陽気で寝不足なのさー。寝不足っていやーさいきんってか、ここ数年、何らかのバイキンにでもなった気がして、せめてそっちの菌よか金がよかったぜー、18金ならよろこんでーっつって、下卑た顔のひとつでもしてみせりゃ、それこそTPO違反、なんならわいせつ物陳列罪にでも問う向きがつよすぎない? だいじょうぶ? いくひし、ひとまえに出てもだいじょうぶ? せめて近所のコンビニくらいにはいかせてほしい。マスクして歩くから。マズイくらい厚着して歩くから。ぽかぽか陽気で寝不足なのは、或いは厚着でマスクで寝苦しい夏の夜のせいかもわからんなー。18禁、18禁、みんなしてちょっと過敏になりすぎてない? ちょっとの刺激で感じすぎじゃない? いいのよ、いいの。区分けはだいじ、過激なものは過激だし、おとなとこどもはわけるべき。でも、ゾーニングってぇまたぞろオシャレな横文字で表現できる、そうした区分けも、ちょいと、さいきん、いきすぎてない? べつにいくひしが歩く18禁扱いされてるからってわけじゃなくはない。もうほとんどそれが理由。不満、愚痴のオンパレード、そこに正当性がひとつでもあるのかいって言われたらぐうの音もでない。いびきすらかかない。さいきんとんと眠れてない。ぽかぽか陽気とか関係なかった、単にストレスたまってた! おいらの小説、いったいどこが18禁なのさ、じぶんの子供にだって読ませられるぜ、読まれたくはないが、読ませるくらいはできるのだぜ。子供なんていなけりゃ予定もないが。……予定、なかったかー。しりたくなかったー。幼いころにエッチな資料で勉強できてりゃいくひしだっていまごろ子だくさんだったわい! それがいいことかどうかはわからんけれども、いったいだれだよ18禁なんて規制もうけたの、いったいどこの政治家だよ、国会議事堂かよ、政府かよ、ちくしょー、こうなったら占拠してやる! なんて熱くなってもいいことなんてひとつもないし、暑苦しい夜はやっぱりなかなか寝つけない。ねえ、このマスク外してもいい? すこしくらい薄着させて。もういっそ外とかでないから。アマゾンで衣料品まかなうから。ひきこもってるから。仕事とかもうたくさん! 天に見放されたニートばんざい! 社会にニードなんてされたくない。でもでも自作の小説は読んでほしい。それくらいのわがままは言ってもいいよね? 誰にともなく祈ってみる。どうよこの歩く18禁のつつしみぶかさ。みんなもすこしは見習いねぇ。選挙にいくのもだいじだけど、できればもっと謙虚にいこうぜ!
163:【おっさん】
44歳で坊主でもないのに頭皮が見え隠れし、妻子はなく、同僚たちがとんとんびょうしで昇格を果たしていくなかでただひとり若手に埋もれて新人に任されるような作業を淡々とこなしていく日々に嫌気がさすでもなく、仕事が終われば安アパートに戻り、すこしの晩酌とアイドルの動画を最新のスマホで眺めながら床に就き、なるべく長い夢を見よう、すぐあすになってしまわぬように、と言葉にするでもなく願いながら生きている、誰をうらむでもなく、誰かをうやまうでもなく、しかし誰かをうらやむのは日課のようなものであり、休日の買いだしでデパートに溢れる親子のすがたにすこしの嫉妬と憧憬と、そしてなぜかわからないが、胸がほっこりする気持ちとを抱き、なんでもない日常にあるしあわせに触れ、かってながらにわけてもらったように感じ、すこしの罪悪感と感謝の念とを誰にともなく覚えてしまう、そのお腹はぽっこりと出、けっして海にはでかけられない、恥ずかしい、しかしそう思うことすら自意識過剰に思えなくもなく、乙女でもあるまいし、いまさらじぶんの姿かたちの美醜にあたまを悩ませるのもいかがなものかと足元に伸びる影を踏む、けんけんぱ、なにもないのに地面につっかえ、よろめき、ころぶ、すれ違う主婦に失笑されることなく見て見ぬふりをされ、誤魔化しがてらにじぶんで笑うが、いそいで口に蓋をする、独りニヤニヤしていたのでは不審者と間違われてしまいかねない、たまったものではない、堪えられない、あしばやに何もない自室へと駆けこみ、扉を閉めると耳に満ちる静けさに、なぜかふと泣きたくなる、振り払うようにスマホを開き、アイドルの動画に目を落とす、気づくと布団に潜りこんでいる、そういうおっさんに私はなりたい、とは、思わない、ぜんぜんまったくつゆほども。が、けっして嫌いではない、むしろ好き。なんかそう、妖怪みたいじゃろ。THE偏見。
164:【劣化】
すまん。ぐちらせてくれ。数年前のじぶんの表現を久方ぶりに見直してみた。思っていた以上に鋭いものを持って映り、なかなか捨てたもんじゃないなぁ、とほとんど赤の他人を眺めている心境で思ったものだが、しかしそれはいまのじぶんが劣化していることの傍証であり、失われたスキルがたんまりあることの示唆でもある。その失われたスキルの名を、若さという。いまより若く、そして時間を潤沢に使えた時代だったからこそ磨かれた鋭さが、かつてのいくひしにはあった。失われてから気づくものがあるというが、まさに今宵、いくひしは若さを失ったのだなぁ、とせつじつに哀しく思った。それと同時におそらくは何かが補われているのだろうと思うことにする。等価ではけっしてないが、鋭さを失った代わりに、きっとかつてはなかった何かがいまのいくひしには備わりつつある。そうだとも! そうでなくてはこまるじゃろ。失うばかりで得るものがない。まるでいくひしの生き方みたいではないか。いくひしみたいになりたくなーい。いくひしは、いくひしみたいになりたくはないよ。思うが、いくひしはいくひしなのだった。焦りばかりが募っていく。この焦りの山。どっかで換金できないかなー。鉄クズだって換金できる時代だよ。いくひしの焦り、誰か買ってくれないかなー。くれないかー。タダでいいから引き取ってほしい。息の根ごと引き取ってほしい。そんでいくひし生まれ変わるの。つぎこそは、しごくまっとうな人間に☆
165:【いいかい】
いいかい。たとえ価値がなくとも何かを生みだす行為は尊いんだ。糞にだって生態系を維持するための役割がないわけじゃあない。過剰な糞はあべこべに生態系を崩しさえする。単なる糞が毒にすらなるんだ。薬にならない理由があるかい。でもね。何も生みださなくなったらお終いだ。おまえさん、この半年、いったいいくつの物語を紡いだね。なに。ゼロだって。はん。いっぺん死んだほうがいいね。地獄巡りにでも行ってきな。ゼロから鍛え直したほうがいい。或いは、ゼロから這いあがる機会がようやく巡ってきたのかもしれないねぇ。
166:【の予定】
文学フリマ京都編。らいねんいちがつにあるらしい。新作一気に大放出するっきゃないな。SDカードに詰めて一個五百円で投げ売りだい。欲しいひとにはイチオシ新作の冊子をつけてやろう。むろんそれはオマケだのでタダだ。物足りない気もするので、「文学フリマ京都編」なる短編をつくり、コンビニのコピーで大量に刷ってバラまいてやろう。買い手がつくかは分からんので、イベントが終わるまではブース放置で京都の街並みを散策だい。
167:【いいじゃないか】
いいじゃないかべつに。何を生みださずとも。そうかんたんに終われはしない。終われはしないんだ。いいじゃないかあるがままをただ受け入れたって。ただそのしゅんかん、しゅんかんを楽しんで。いいや、楽しむ必要もない。くるしんだっていいし、なにも感じなくたっていい。生きることがそんなにえらいのかえ。死ぬことがそんなにわるいのかえ。死んだように生きていたっていいじゃないか。誰に迷惑をかけるでもなし。迷惑をかけたって、かけるからこそ、死んだように生きたっていいじゃないか。生きているかぎりひとは迷惑をかけつづけるものなのだから。迷惑をふりまくことこそ生きているってことではないのかえ。ちがうかえ。ちがったっていいじゃないか。ちがったほうがよいことなどいくらでもあるのだから。惑うことこそ人生だ。間違えるのが正解だ。
168:【よくねぇよ】
まちがえたくないもん。正解だけがほしいもん。ゴッホよりもピカソだし、カフカよりもローリングだもん。雨にはマケテいいしメロスは激怒したい。WatchMeはいっこうに私を見てくれないし芸術はかってに爆発するけどそれはいっこうにかまわない。これは清兵衛という子供と瓢箪との話であるが、そこに私は加われない。
169:【自慰過剰野郎】
「死んだあとでなら評価されるとでも思ってるわけ? とんだ自慰過剰野郎じゃん。あんたさあ、数えたことあるわけ?――これまでの人生でどれだけ自慰してきたかって。ひょっとしなくとも自慰よりがんばってきたことなんてないんじゃないの。え、なに? 聞こえない。もっとはっきりしゃべって。ああそう毎日じゃないんだ。ふうん。そこまで自慰はしてないんだ、多くても二日にいっぺんなんだへえ。えらいねーとか言ってもらえるとでも思った? ねえ、なに得意げな顔してんの。ちがうでしょ、そうじゃないでしょ。あんたはそこでしょげなきゃいけないでしょわかんない? はァ……。あのさあ。自慰ですら毎日じゃないとか、じゃああんたいったいなんならつづけられんの。呼吸ですらムリじゃない? どうせ無呼吸症候群で夜中は止まっててフガフガ死にかけてんじゃないの。むしろ止めれば? ねえ、あんた今すぐ息の根止めちゃえば? したらすこしは空気が澄んであんたの存在価値もほんのすこしは高まるかもねっていうか、そもそもあんたに価値なんてないから。大気が穢れてるのはもとからあんたのせいだから。じゃあ息の根止めてとうぜんっていうか、死んでもらったところで穢れた大気はそのままじゃんね。死んでまでめいわくかけつづけるとか逆にすごくない。感心する。すごいねー。ホント真似できない。あんたみたいなの、百万回生きたって真似できない。真似したくもない。よかったねー。ゆいいつ無二の人生だよ。誰からも真似されないよ。見向きもされないよ。見向きはされたいの? バカなの? え、ちょっとまって、なに、え、泣いてんの? 努力がむくわれないって、いやいやあなたがしてたの自慰だから。自慰しかしてこなかったから。そうでしょ? ああごめんねごめん。ちがったよね。あんた自慰もまともにできないんだった。ひとりじゃできないんでしょ。他人のセックス覗き見ながらコシコシがんばらないとひとりで気持ちよくもなれないんでしょ。しょうがないよねしょうがない。だって自慰過剰野郎だもんね。過剰な自慰に走りすぎちゃったんだもんね、先端が麻痺しちゃってんだもんね。すごいねー。ほんとすごい。感心しちゃう。で、出発はいつ? 行くんでしょあの世、まだなの?」
170:【まだなの】
ふぁ×く=072の定理を発見した爺ヵ城(じいかじょう)弥五郎(やごろう)はその定理の証明のために人生を費やしたがついぞ童貞をきることなくそのながく濃ゆいいばらの道に幕を下ろした。享年69歳であった。弥五郎の発見したふぁ×く=072の定理は、けっきょくのところ「ふぁ×く」とはオナニーでしかなく、「オナニー」もまたふぁ×くでしかないという捻転した真理を垣間見られる非常に低俗な定理であった。「ふぁ×く」はギリギリのところで性行為とはならず、そこには何かしら暴力的なにゅあんすが見え隠れし、「オナニー」においてもまた、なにかしら後ろめたい罪のかほりがあたま隠して尻尾隠さず、扉を開けたその瞬間からにおいたって感じられた。非常に下品でありながらしかし、そこにはエロスとスケベの違いが極限をさまよいながらも明確に線を引いて表れた。エロスとは底のない探究心であり、スケベとは実体を伴なわない好奇心である。「おっぱいだいすき!」はスケベであるが、「ちくびコリコリー」はエロスである。また性的感応のいっさいを触発されない対象に敢えてむらむらしちゃうフェチズムは、まさしく底知れぬ探究心を思わせ、やはりこれもエロスの範疇であるとする。スカートの中身がチラリなんとか見えないものかとあたまをもたげ、太ももに目が釘付けになるのはしかしパンツなる実体を伴なわないかぎりスケベなのである。他方でパンツが見えたからといって、即座にエロスに変化するとはかぎらず、そこからさきはエロスとスケベの綱引きである。中身の中身が露出したところで明確にエロスの領分へと誘われる。いささか男性よりの主観めいた定理に思われるかもしれないが、待ってほしい。まったくの誤解である。女性がおっぱい嫌いと誰が決めた。チラリズムのよさが判らぬ女性がどこにいる。エロスに国境はない。スケベに性別なし。まさしくそここそが肝要であり、ふぁ×く=072の定理は、人間原理を越えた人間真理を仄めかす証明不要のまさしくコスモ的大発見なのであった。しかし証明不要とはいえど証明不能ではないはずだ。かくして爺ヵ城弥五郎はその人生をとおしてふぁ×く=072の定理の証明に躍起になったが、それをして「このオナニー野郎」と後ろ指をさされつづけた顛末は皮肉(ひにく)をすぎて腑抜け(ふぬけ)である。一文字ずれただけでなんともはや締まらぬ人生であろうか。こんなことならばコスモ的大発見などせずにそうそうに童貞を投げ捨て、なんら特筆すべきところのないりっぱなおとなになればよかった。そうした葛藤の末に、負け惜しみとばかりに放った弥五郎の辞世の句は、その後、多くの同胞たちに愛と勇気と汗臭い空間を、その罪のにほいとカルキくささを引き連れ、悠久のときを無理強いしたという。「オナニーは、満たされたら、おしまいだ」そのとおりである。だからどうした、というほかない戯言である。こんな毒にも薬にもならない言葉に無理強いされた彼の同胞がたくさんいた事実は誰がなんと言おうと悲劇である。まさしく道づれとしかいいようのない暴挙であった。各国はこの事態を重く受け止め、すべてをなかったものとした。かくして弥五郎の妄念によって発掘された「ふぁ×く=072の定理」は、ひとりの孤独なスケベの死によって、証明の日の目を見ぬままに、多くの同胞たちと共に、ひっそりと土臭い闇のなかへと葬られたのであった。(完)
※ヒビ割れないように気をつかいつづけるよりもいっそのことこの身ごと砕け散りたい、あとのことは知らん、しかし未来を思うといらんと擲つわけにもいかんと帰還。
171:【わからない】
勝てない。負け癖がついた。新しいから評価されないのではなく、むしろ古いから評価されない。新しいつもりでただただ古臭く、時代遅れなだけなのかもしれない。スキルをあげても、そのあげたスキルがすでに時代遅れなのだ。現状を打破するために必要なのは、今ある「ふつう」を「新しい素材」として認め、評価される以前に、こちらからまずは評価する器を、そのセンスをイチから築き上げていくことにあるのではないか。くそー。いやだなぁ。考えるにつけ腹たつ。くやしい。
172:【尊さや、胸にしみいる、百合の声】
漫画「プリマックス」がもうなんかスゴい。リズム感ハンパない。錯綜しすぎていながらにして全体としてまとまっている疾走ぶりがたいへん面妖ですばらしい。あと、西UKOさんの漫画「となりのロボット」と雨影ギドさんの「終電にはかえします」が至高でした。なんだこれは……!? 心の底からビビビっときた作品で、しょうじきびびった作品で、どえりゃーもんこさえてくれたもんだ、とそれはそれはたまげたもんです、嫉妬モキュモキュしたもんです。あまりに嫉妬もきゅもきゅしたもんですからすぐにオススメできなかった。ほんとうにいいものはなかなかひとにすすめづらい、じぶんだけのものにしておきたい。でもさやっぱりみんなに読んでほしい。このしゅわわせーってシュワシュワ加減をもっとみんなで共有したい。いちどくしゃとして、物語という毒を飲み干す者として、いくひしだって提供者にまわりたーいって、なんかそんな感じがするきょうこのごろノラネコのノドを撫でまわしてはゴロゴロきもちよさそうに鳴かせたい。ビリーバッドや俺物語、僕はお姫様になれない、などなど、さいきん、好きな作品がこぞって最終話を迎えているので淋しいかぎりであるけれども、好きな物語が好きであるあいだに終わりーの胸にぽっかり穴をあけつつーのそれをしみじみ味わうのって、じつはもうこれ以上ないほどの贅沢なのではないのかなーなんて思うきょうこのごろいろいろと小言を漏らしたくなることが山盛り、あまもりのする部屋のすみでね、ほとほと、ぱっとしない日々にうんざりで、ある意味で課題が山積み、いそがしい、下積みの時代でもありつつ、ひたむきに耐え忍ぶ日々でも梁に巣くうシロアリ、されどぼくはヤマアリ、そこにはなぜか谷あり、抜けたらあとはもう道なりにまっすぐと伸びてく、やってくる三度目のしょうじき、それは遅まきの成長期、骨の軋む音が明瞭に、黙っていても遠のいてく行先は迷路に、立ち尽くしてるひまはないんだろ、ちまたはどこもハイアンドロー、答えはどこにもないんだろ、と問いただしてく時期はもうすぎたろ、もうひと息だよ、辿り着くはずさ、ぼくたちだけのπの孤島。――足並み乱して這いあがろう。
173:【時代遅れ】
らんま1/2の復刻版四巻を読んだ。時代遅れという言葉が単なる実力不足の隠れ蓑になっているだけだとむざむざと突きつけられた心地がした。時代を経るごとになおその魅力の増しつづける作品が悠然と存在しているのに、なぜそれを目の当たりにしておきながら、時代遅れだから評価されないのだ、などと的外れなことを言えるのか。恥を知れ、恥を。いくひしはざぶとんにあたまをつっこんで、ぷるぷるふるえている。
174:【攻殻機動隊アンソロジー】
が、2017年3月31日までには発売されるらしい。うれしい情報である。プロとアマのちがいを噛みしめさせてもらおう。(意訳:おれ以下だったらぶちのめす、それ以上だったら家宝とす)
175:【つまりは「あがき」なのだ】
虚構を虚構と認識しつつ、それを現実として承認する。芸術の基本的なあり方とはこの矛盾にこそある。ウソはウソだが、そのウソをウソとしりつつ、ほんとうのこととして扱う。ある種の信仰が芸術には不可欠だと言い換えてもいいが、うそっこをマジモノとして誤謬するのが信仰であるのに対し、芸術は飽くまで偽物を偽物のままで、それをホンモノとして見做す。信仰と芸術を明確に分け隔てている境界線がそこにはある。もうすこし馴染みある言葉に変換すれば、主観を主観と認識しつつそれを世界への解釈までひろげ、客観へと昇華する。これが芸術の基本的な性質であり、主観と客観をごっちゃにしたまま区別をつけられずにいるのが信仰であると呼べる(信仰と宗教はちがう。科学を崇拝するのも信仰のひとつだし、常識を盲信するのも信仰のひとつだ。むろん、なにかにつけこうして斜めに構えた視点で物事を眺めるのもある種の信仰がもたらす結果だと呼べる)。芸術、信仰、いずれにも狂気が多分に含有されるが、メタ的な視点が芸術には存在する。というよりもそれこそ不可欠な要素であろう。虚構に呑みこまれることは芸術ではない。現実に虚構をひっぱりあげてこそ、芸術は芸術として成立する。しかしじつのところ芸術でないほうがより芸術らしいことが往々にしてある。やはり「らしい」ものが「よりらしく」なろうとする過程にこそ芸術としての最高級の魅力が宿るものなのかもしれない。
176:【すごさ】
プロのすごさは、「すごくてあたりまえ」「楽しくてあたりまえ」そういった高いハードルに四方をつねに囲まれていながら、竜巻旋風脚で根こそぎハードルをぶったおしてしまうその異常なまでの精神力のつよさ、言い換えれば図太さにある。なかでもプロ中のプロは、「そんなんじゃだめ、もっとハードルあげて、そうもっと、もっと、まだ低い」と注文をつけ助走の距離をとりながら、ハードルのしたを何食わぬ顔で歩いて去る。そういうズルさを兼ね備えているものだ。いくひしに足りないのはまさにその部分の大胆さであり、経験値であり、遊び心なのである。真面目にふざけることのむつかしさといったらない。
177:【ふつう】
ふつうであることのすばらしさというか、王道を貫き通すいさぎよさは、どんな環境であれより円滑に成果を発揮する。基礎を必殺技にできるほどに研鑽を重ねることができたならば、それはまったく新しい技を開発し、繰りだすよりも何倍も効果のある攻撃となる。いっぽうで、王道からはずれた、いわゆる「あたらしさ」を生みだすことに意味がないかといえばそんなことはむろんなく、革新的で異質なものを生みだすことのままならなさは、そのままならなさ自体が価値を生みだすとも呼べる。王道とは、道であるがゆえに、誰かがいちどそこに到達しているかぎり、その道を同じように伝いさえすれば辿り着けるようになっている。登山のようなものである。頂上へのルートは無数にあり、最短距離でいけるルートもあれば、非常にゆったりとしたペースで、その地点でしか見られない絶景をつど眺めながらくねくねと蛇行しつつ歩む道もある。最短距離でのルートはしかし最短であるがゆえに険しいことがほとんどだ。もっとも、誰かがその道をいけた以上、同じような段階を踏めば、ひかくてき誰であっても頂上へと登りつめることが可能だ。この場合だから王道とは、ダンジョンの攻略だと言い換えてもいい。反して、あたらしさにはそういった道がない。道をつくることがあたらしさの価値であるとも呼べる。そういう意味では、王道をつくることこそがあたらしさを生みだすことの役割だといえるかもしれないが、誰もがあとを追える道に価値があった時代はすでに過去のものとなりつつある。いまはむしろ、それを道だと認めてもらいながらも、容易には辿れない、或いは、そこに道があることは知られているが、頂上に辿り着けた者は一人しかいない、そういうあたらしさが必要とされているのではないかと感じている。王道が登山ならば、あたらしさとは秘湯である。或いは単純に宝探しと言い換えてもいい。二度目にそこへ踏み入れても、宝物はすでに持ち去られたあとである。どうやって辿り着いたのか、道のありようは関係ない。そういう意味では、王道をいまいちどじっくりと伝い、通路にあいた隠し扉を探し当てていくのもまた一つのあたらしさの在り方であるだろう。どこへ辿り着くのか、が「あたらしさ」にとっての王道だと呼べる。ひるがえっては、どんなものにも王道はある。邪道にすらあるのだから王道を辿るなというほうが無理がある。むしろ王がとおった道が、あとからかってに王道と呼ばれるようになる。道そのものに本質はない。あとを追いたくなるような人物が通ったから王道と名付けられるにすぎないのだ。聖地巡礼のようなものである。だいじなのは、どこにいくかではなく、どうあるか、である。それはしかしいっぽうで、どういう道をいくのか、どう歩むのか、なにを追い求め、辿り着いたのか――やはりというべきか、道そのものに価値があるからこそ、王は王、足り得る。卵がさきかミルクがさきか。ホットケーキをつくるときに行き当たる問題のようだ。とはいえ、おいしくホットケーキが焼けたならばどちらがさきでも問題はない。どんな道をいこうとも、どんな場所に辿り着こうとも、そこで終わりは訪れない。けっきょくそれもまた、おおきな流れ、人生という名の「大道」をかたちづくるための道程なのである。あなたがあなたの人生の主体であるかぎり、おのずとあなたは王道のうえにある。王道を貫き通すいさぎよさは、どんな環境であれより円滑に成果を発揮する。しかし私が王でいられるのは私の「大道」のうえでのみである。一歩、ほかの道に迷い込んだが最後、そこでは無数の王に紛れる数多の家臣、追従するだけの無象無象にほかならない。「大道」をはずれ、王道を歩んだ時点で、私は王にはなれないのである。王道をいくことは誰であっても可能だ。しかし、あなたが王でありつづけるためには、あなたがあなたの道をいくしかなく、あなたがあらたな道をつくるしかない。「大道」からはずれぬようにするほかないのである。ゆめゆめわすれることなかれ。あなたはいつだって王であることを。しかし、いつでも王ではなくなり得ることを。
178:【うなー】
「勝ちに拘るのは構わねぇ。やるからには勝ちにいく。とうぜんだ。だが勝とうとするのは違うんじゃねぇのか。どうしたら勝てるのか、なんてその場で考えてるひまなんざねぇだろ。勝とうとなんて考えてんじゃねぇよ、姑息すぎんだよ。てめぇはてめぇのままで受け入れられてンだろ。てめぇはてめぇの世界をあいてに押しつけてぇんだろ。おのれを曲げてまで得る勝ちに価値を感じられるとは、オレにぁとうてい思えねぇ。てめぇはそこまで謙虚じゃねえだろ、ちがうかよ。そのままをだせよ。さんざん悩んできたんだろ。いまさら過去のじぶんを否定すんな、そんときくらい素直でいろよ」
179:【ひゃー】
「あんたぜんぜんわかってない。ひとと比べるようなもんじゃないから。やりたいときにやりたいだけやりたいようにすればいい。それがしあわせってもんでしょちがう?」
180:【あわわわわー】
「いいかい。万に一つのゴミクズが偶然砂金だったからといって、ほかの九千九百九十九のゴミクズまでもが砂金になるわけではないんだ。みんながみんな同じ土俵で競いあい、五十歩百歩でみんながみんなプラスチックになれる手段と、べつべつのゴミから派生したクズがくっつきあってできたゴミクズの山から偶然砂金がとれる思想。いったいどちらが厳しい競争原理を伴っているか判るかい? 結論は言わないでおこう。白黒はっきりつけるにはいささかいじわるな問題だった。でもこれだけは言える。より自然なのは後者だ。自然淘汰という途方もなく、残酷な競争原理がそこにはある。きみはそこに飛びこむ勇気があるのかい?」
※日々刻一刻とあたまがわるくなっていく。
181:【万氏に値する】
「なんでおれさまが下等生物より下に見られなきゃなんねぇんだよ」負けたときに味わうあの絶望感はまさにここに端を発しており、けっして向上心からくる悔しさではない。差別主義も大概にせいよじぶん。身の程を知ろう。いまいちど。いまいちど。
182:【こにゃにゃちわーーー!!!】
イクちゃんにおまかせの時間や。みんなちゃんと休みはナマケとるか。休みの日はダラけとったらええんや。好きなだけダラけとったらええ。せや、なんや時間の無駄に思うんやったらイクちゃんおすすめのWEB漫画でも読んで脳内麻薬ぱぱぱぱーんしながらダラけときぃ。ほないこか。まずはクール教信者氏をおすすめしとこかな。感情死んどってなんぼの女主人公に定評のある作者や。「旦那が何を言っているかわからない件」で一躍WEB漫画界の異端児に躍り出てから以降、「小林さんちのメイドラゴン」を筆頭に、数々の幻書をつくっては暗中飛躍に媚薬をばら撒くようにして信者を獲得してきた作者やな。言わずと知れた知る人ぞ知るクール系虚無ヒロイン製造機や。メイドラゴン、アニメ化も決定しとってチェケラッチョしといて損はないでー。おつぎは安田剛助氏や。安田堂なるWEBサイトで漫画を掲載中や。おすすめしがいのない作者でなぁ、ほんま読めばわかるやろ、としか言いようがないわ。さいきんなんや「働かないふたり」で有名な商業WEB漫画サイト「くらげパンチ」で、百合物の作品をタダで公開中なんやけど、どうにも既視感があってな。どこやどこや首かしげとったら、閃いたで。そうや、「ストレッチ」や。イクちゃん超おすすめのWEB漫画があってな、「いくひし2015年上半期ベスト1で賞」を受賞した百合界きっての超新星、アキリ氏の漫画が「ストレッチ」や。どや。読みたくなってきたやろ。やわらかスピリッツいうWEB漫画サイトにいまもまだ公開中やから、現役で公開中やから、ほんま言い直した意味もようわからんけど、ダラけがてら読みぃや。ほんでな、安田剛助や剛助。百合漫画書いとる話はもうしたな。でな、それがどうも「ストレッチ」と被るんや。アカンって話やないで。うちが言いたいんは、そんくらいめっちゃおもろいでいう話や。くらげパンチで連載中のほうと、じぶんのサイトで掲載中のほうと、両方の百合が繋ごうててな、じぶんのサイトのほうは恋が成就したあとの世界線で、めちゃめちゃエロに寛容で申し分なさ発揮中や。商業ベースのほうが初々しい百合百合でな、商業が控えめってどないやねん、まったくごっつ謙虚なお方やでまったく。そうや、「やわらかスピリッツ」で思いだしたわ。やわらかといえばおっぱいや。うそや。いやうそちゃうけど、やわらかおっぱいがスピリッツか言うたらそりゃ微妙やん。ちゃうちゃう。おすすめの作品の話やったわ。やわらかスピリッツな。せやせや「バイオレンスアクション」いう作品がおすすめやな。あとは同じ路線で、ノワールいうんかな、ダークヒーロー繋がりで、裏サンデーで連載中の「ドッグエンド」もおすすめや。ほんまやで。すこしも盛ったりしてへんで。ぎょうさん盛ったりはしたかもしれへんけどな、せやかてぎょうさんあるならええやんか。ええか。ダラけた心にひとつまみのピリリやで。しあわせの秘訣や。たんとお読みやー。ほな!
183:【枕営業】
枕営業と聞いて思い浮かぶイメージは、マネージャーに言われて大御所のプロデューサーの待つホテルに女優がみずから足を運ぶといったものが多いのではないか。もしくは、わかってるね? などと太ももを撫でられながらじかに迫られる。しかしそういういかにもな枕営業はじっさいにはすくなく(まったくないわけではない)、多くは、ほとんど恋人のような関係を築き、半ばハニートラップじみた巧妙さで女優のほうから優位な立場に登りつめていく。肉体関係というよりも、身内びいきの究極版である。肉体接待と呼ばれるようなものもなくはないが、そうした場合はむしろ専用の業者に依頼し、専用のプロを呼んで開くのが通例だ。仕掛け人はマネージャーであり、ゆえにこうしたケースは女優みずから身体を開く真似はしない。個人的なパーティで乱交じみた酒池肉林を地で描くような場合は、枕営業とはなりにくく、どちらかといえば身の破滅を招く、ほとんど餌じみた扱いをされてお終いである。さいあく、薬を盛られていずれ逮捕されるはめになる。妄想もここまでくると説得力が生じるだろ? コツは、一般にあるイメージをいちど否定してみることである(そのあとでなぜそのイメージが普及したのかをそれとなく説明し、イメージすべてが虚像ではないと示してあげるとよりそれらしい)。
184:【本質と表質】
ナニゴトカを受容する理由が、「流行っているから」である者はことのほか多い。同時に、ナニゴトカを拒絶する理由が、「流行っているから」とする者もすくなくはない。本質的にふたつは同義である。ナニゴトカの是非を定める判断基準が「流行っているか否か」である時点で、そこに貴賤は生じ得ない。「○○だから好きだ」という行動原理は、そのまま「○○だから嫌い」という盲目的な排斥行為に繋がりやすい性質を帯びていると呼べる。基準ではなくきっかけを。理由ではなく、飽くまで機会に留めよう。
185:【無】
いくひしはいくひしとしてのキャラがない。どういう人格なのかがまず分からず、果たしてじぶんは本当に存在しているのだろうかと常々感じている。だからたとえばじぶんについて何かを語るとき、そのときいくひしはいくひしとしての言葉を用いて語ることができない。或いは、何かを語るとき、それはけっしていくひしの言葉ではなく、じぶんの言葉でもない。借り物の、偽物の言葉である。ともすれば言葉というものがすでに借り物であり、偽物であるのかもわからない。誰かの視点に立たなければ、いくひしは何かを語ることができず、何かを語るとき、いくひしはすでにいくひしではない何者かになっている。これは文芸の世界だけでなく物理世界でも同様である。誰かと顔を合わせているとき、そこにいくひしとしての人格はなく、相手に合わせた仮初、虚像があるばかりだ。何もそれはいくひしに限ったことではない。誰だってそうなのだろう。大勢の他者によって個人は個人として模られ、形作られていく。それはたくさんの言葉を覚え、たくさんの価値観に触れることで、あべこべに人格の強度、その純度が高まっていくからくりと同じだ。しかしいくひしはむしろ、誰とも交わらないときのほうが、【私】という人格の純度が増すように感ずるのである。誰も出歩いていない森閑とした夜空のしたで自転車キコキコ漕いでいるとき、いくひしは、ああ生きているなあと実感する。誰の型にもはまらずに済む状態にあるとき、いくひしはいくひしとして散在していられる。
186:【或いはしかし同時にともすれば】
接続詞が苦手だ。削れるなら削りたい症候群にかかっておよそ二年になる。サ行、とくに「そ」から始まる接続詞は殲滅したいほどで、読者としても作者としてもおジャ魔女ドレミ、ふぁそらしど。接続詞ではないけれど、「その」や「あの」の指示語も可能なかぎりは削りたい。完全な好みの問題なので、削らないほうが読みやすくなる場面にはたびたび遭遇する。それでも削りたくなってしまうのだが、まさしく今ここで使ったように、「それでも」を使わざるを得なくなるときがある。例外的にけれど、傾向として多用してしまう接続詞もいっぽうではある。「或いは」や「しかし」「けれど」「だが」がそれにあたる。とくに顕著なのは「或いは」であろう。あんたちょっと惚れてるの?ってくらい「或いは」が頻出する。或いは、の汎用性の高さはちょっと異常で、これ一つでたいがいの接続詞が補完可能だ。或いはそれゆえに、「だから」や「加えて」などの補完不能な接続詞も多用する傾向にあると呼べるが、あべこべにそれもまた或いはただその響きに惚れているだけとも限らない。或いはには、対比の意味、「しかし」や「反面」と似た効用があり、或いは、今使ったように「同時に」という意味もある。頭がこんがらがってきそうな文章であるが、或いはこれも接続詞を無駄に使用しないことの弊害かもしれず、ともすれば接続詞の使い方がヘタクソなだけとも言えなくもない。やはり接続詞が苦手だ。いちど接続詞をいっさい使わない小説をつくってみたいものである。
187:【ライとコア】
アイドルの踊りをライトノベルだと定義すると、ストリートダンスはさしずめ純文学である。アイドルの踊りは、よりかわいく、よりかっこよいフリが求められるが、もっとも重要な要素は、それを真似したくなるか否かにあると呼べる。もっと言えば、それを真似したくなったときに、誰であっても真似できるレベルを保つことが大前提として組み込まれている。反してストリートダンスは、誰かに真似された時点で負けである。誰にも真似できない、じぶんだけの動きを追及することにその主眼の重きをおいている。どちらも、ベクトルは違えど、やさしくはない。振付けやスタイルを完成させるのには並大抵以上のセンスと研鑽が必要とされる。なにごとも、イチから何かを生みだすのは、その完成形の構造の差異にかかわらず、むつかしいものである(音楽という素材あってこそのダンスである。けっしてゼロからではない)。
188:【ついで】
音楽に乗せて身体を動かすだけがダンスではない。たとえばコンテンポラリーダンスは肉体を使った表現そのもので、そこに音楽が介入する必然性はない。無音で、雑踏で、雑木林のしずけさのなかで、いかような環境でもナニゴトカを表現できる。さながら俳句である。表現の対象は音そのものかもしれないし、それ以外の何かかもしれない。メロディという名の物語は不要なのである。
189:【よろしくない、庭と四葉に罰よ、トワにいなくしろよ】
洗脳はよくない。相手の人格を、存在を、魂を穢し、損ない、蔑にする、洗脳は、ある種の呪いである。ただしいくひしはそれでも、表現においては、見る者を砕き、染めあげ、根元からつくり替えてしまうような呪縛を編みあげたい。たいへんよろしくない志しである。
190:【閃きの軌跡】
コンテンポラリーは既存の枠にとらわれない自由なダンスです。あべこべに俳句は、五七五という字数の限定、そして季語の使用を課せられた不自由な表現であると呼べます。しかし双方は根元のところで共鳴しているのではないかとつよく思われてならないのです。言い換えますと、コンテンポラリーはむしろ、自由さを求めるがあまり、「いままでにない」という足枷をはめられており、反して俳句は、五七五と季語という限定を靴のように履くことで、より自由に表現なる大空を翔ることができるのではないかと思うのです。それはちょうど、手足を失う代わりに羽を得るように、或いは何も持たないがゆえに何もできなくなるように。「これを必ず使いなさい」という束縛と、「これを使ってはならない」という制約は、いずれも禁止を内包している時点で、やがては同じ地点に辿り着くのかもしれません。――さて、本題である。187ではダンスについて述べ、188では補足としてコンテンポラリーと俳句が似ていると述べた。そこから、しかしコンテンポラリーと俳句はむしろ似ていないのではないかというところに着目し、ではそこから何が視えてくるかに着想が飛んだ。この断続的な連なりが閃きの軌跡だと呼べるかもしれない。異なる色調の点と点をいくつ跨げるか、或いはどこまで遠くの点と点を結べるかが閃きにとってのキモであると呼べる。飛躍にも踏み台があるのだ。
※ひびくこえのするほうへ、おとなるほうへ、いざなわれるふあんとこうきと、きょだつするにくたいの、ほろほろとくずれさるさいぼうをむすびつけていたのは、きょうよりもあすを、きのうよりもきょうをと、がんじがらめにカラをぬぎすててはうつろになっていくだけの、かたいかたい、さついいろをした、みじゅくへのしゅうちゃく、おとなへのはんぱつ、ニヒルをえにするような、じがをむしばむ、いまへのひてい、いまから「つくろう」じまえの遺影。
191:【ぽっかり】
ぽっかりとうっかりは似ている。緊張し、結びついていた意識にあいた間隙が、うっかりという名の見落としを引き起こす。注意不足というよりも注意が根こそぎ断絶された状態が、うっかりなのだ。そこには必ず、ぽっかりと空いた意識の穴があり、それはそれは卑猥な造形をしていることだろう。卑猥なものに、ひとは目を奪われる。意識はそこへと落ちていく。
192:【これはとってもエッチで賞】
ちょびっとくらいえっちなこと言っとかないとせっかく立てたキャラが萎えるので、2016年10月19日げんざいで、いくひしがもっともつぎの作品を待ち遠しく思っている成人向け漫画家さんは、どぅるるるるるるるるるるるるるるるるるるる、ダダン!(ぱっ) 「ディビ」さんです。おめでとうございます!
193:【みゃー】
にゃーにゃー。にゃーにゃーにゃー。ねこさんが言いました。くーん、くーん。するといぬさんが尻尾を股のあいだに挟みます。にゃーにゃー、なーごなーご。ねこさんはさらに言いました。くーん。いぬさんはこうべを垂らします。くるーぽ、くるーぽ。そこへハトさんがやってきました。ニャー! ねこさんはついつい飛びついてしまいます。うー、わんわん! とっさにハトさんを庇うイヌさんにおどろき、ねこさんは尻尾をあげて飛び退きます。わんわん、わんわんわん。いぬさんはねこさんを叱りつけました。ねこさんは背筋を伸ばし、ちょこんと座ります。しばらくいぬさんのお説教に耳を傾けていましたが、ついついあくびをしてしまいます。くーん。いぬさんはしょんぼりです。気づくとハトさんはいつの間にか飛び去っており、一部始終を目撃していたいくひしさんは、木の幹にしがみつきながら、いくひし、いくひし、と笑うのです。キミ。警察官が言いました。おりてきなさい。
194:【バリトゥード】
ネイムバリューは基本的に副次的に生じるものである。あのひとは別格だ、と特別扱いしたくなる成果を残すからそうなるのであり、それはナニゴトカを提供する側がかってに幻影(つくりだ)してよいものではない。受容者たちの手によって形成されていく共通認識――それはモヤモヤとした、手で掴もうとするとスルスル零れ落ちていくような最初はものなのだが――ある閾を越え、結晶化することで、偶像としてのカタチをとる。人工的にこれをつくりだすというのは、宝石の偽物をつくるのと大差ない。偶像をでっちあげさえすればアイツらは釣れる。そう考え、実践した時点で、それは受容者をみくだしている。餌にしていると言い換えてもいい。偶像を疑似餌にしてはいけない。神とはつくられるものである。名乗りでた時点で、それは詐欺師と同義である。名乗りでるならばせめて、詐欺師ではなくマジシャンでありたいものである。閑話休題。流行り廃りがくるくると目まぐるしく入れ替わるとき、それは急速な成長、ときに進化を引き起こしている。赤ちゃんの新陳代謝がおとなのそれと比べてせわしないのと同じだ。がん細胞になりたくなくば、姑息な手で生き残ろうとしてはいけない。自然淘汰という名の熾烈な競争原理を生き残れ。
195:【波紋】
表現者にできることは、てごろな小石を見繕い、池にぽちゃんと投げ込むくらいのことである。なぜそうするかの動機は表現者によってまちまちだろう。ある者はより大きな波紋を生みだしたいのかもしれず、またある者は池を小石でいっぱいにしたいのかもしれない。或いは池に落ちるときに立てる小石の音が好きなだけかもしれないし、ただ単にゴミ捨て場の代わりにしているだけかもしれない。ひょっとしたら池そのものには興味がなく、水面に浮かぶ枯葉に小石を当てたいだけかもしれない。いずれにせよ、表現者にできることはその程度の素朴な干渉であり、池に対して何か有益ななにかしらをもたらせるわけではない。ただし、投げ込んだ小石が池の底にたまり、池に住まう生物のよき住処になるかもしれない。或いは小石にむした苔を食して生きながらえる生物もあるかもわからない。ただしそれは偶然そうなっているだけのことであり、小石を投げ込む行為になんらかの意味が――池にとって不可欠な意味合いが――あるわけではない。ならばなぜそれをするのか、と目的を問いたくなる気持ちがわからないわけではない。魚釣りのほうがよっぽど楽しいだろうに、なぜ。もっともな疑問である。しかし、わかんないんですと小首をかしげながら、それでも小石を投げ込む手を止めない。表現者の背負う業である。なんかあれだよね。おくすりだしときますね、的な。それともなんらかのオクスリ的なあれが、小石を投げ込む行為なのかもわからんね。ふむふむ。
196:【いくひし、あまえんぼうになる】
「よお、なにしてんだこんなとこで」「なんだぁ、あんたか」「なんだとはごあいさつだな、そっち詰めろよ」「ん」「おいしょっと。さいきん調子どうよ」「どうもこうもないよ。あいかわらずシケったれたまいにちだぜ」「はは、腐ってんな」「そっちこそどうなの。なんかキゲンいいみたいだけど」「よかないさ。ただまあ、自分よりダメなやつ見るとすこしだけ自分がまともに思えてくるだろ。あたし今それ」「ふうん。いったいどこで見かけたのかしんないけどそれ、鏡だよ」「ちげぇよ?」「ついにじぶんのかおもわすれちゃったかー」「ちがうからな?」「もしかして死にかけのコーロギだったりしない、その見かけたのって」「なんでだよ」「ねえ思いだして――じぶんが人間だってこと」「おまえだよ! あたしはおまえを見かけたからごきげんなの!」「あらやだ、照れる」「そういうこっちゃねぇ!」「あ、すみませんうるさくしちゃって。ほらー、にらまれちゃったじゃん、むだにわめくから」「誰のせいだ、誰の」「はぁあ。あまえたい」「お、おう」「だからね、あまえたいの」「どっからどう繋がっての【だから】なのかがさっぱりなんだが、これだけは言わせてくれ。脈絡つくろ?」「そうだよね、あまえたいよね」「うん。聞いてた?」「だれかいくひしのあたまよちよちちて」「誰かって誰だよいねーよそんなやつ」「ちて……」「な、なんだよ」「よちよちちて」「だからなんでこっち見た?」「だれか……よちよち」「やらねーよ?」「よちよちちて!」「ばっ、うるせえよ」「もう、なんでやってくれないの! いじわる! 母性皆無! すけべ!」「さいご関係ねーじゃん叫ぶなって」「もうこうなったら!」「んだよ」「よちよちしてやる!」「逆にかよ。触んなよ」「よちよち」「だから触んなって」「よちよち」「わーった。わーったからやめろ。してやるから、してやるから、な? もう黙れ」「やった」「変わり身はやすぎだろ、正座すんな」「ちゅぱちゅぱ」「親指舐めるのやめなさい」「ママー」「誰がママだ誰が。そろそろ本気でキモいんだが」「よちよちちて」「はぁ……ったく……やりゃいいんだろやりゃ。ヨチヨチ」「もっと」「ヨチヨチ、ヨチヨチ」「もっと感情籠めて、聖母マリワットになりきって」「誰だよ」「女王がダメなら女神になればいいじゃない」「まざってるまざってる」「茶々いれないで、はやくよちよちちて」「はいはい。ヨチヨチ、イイコデスネ」「ダメ、なってない、そんなのよちよちじゃない、はァ真面目にやってよ……ちゅぱちゅぱ……あんたよちよち舐めてんの」「親指しゃぶるのやめなさい」「だっておっぱい吸わてくれないから」「お小遣いくれないから万引きしましたみたいな自己正当化に特化したJKみたいに言ってくれるな、当然だバカめ」「おっぱい……」「やるわけないからな?」「ママー」「誰がママだ誰が。いいかげん付き合いきれないから。周囲の視線が痛いから」「ばぶー。いくひし、むつかしいはなし、わかんない」「ごめんその顔すげームカつく」「うー、もう、だれでもいいからよちよちちて! いいこいいこして! あまやかして! おっぱい吸わせろ、だっこしてほおずりしてお金くれ!」「さいご関係ねーじゃん」「あーまーえー、た!い!の!」「知らんがな」「あまえたい!あまえたい!あまえたい!あまえたい! こうなったら!」「んだよ」「あまやかしてやる!」「逆にかよ。なんでだよ」「よちよち」「だから触んなって」「よちよち、いいこいいこ」「だからやめ……あれ……意外と」「いいんだよ、だいじょうぶ。よちよち。ふふ、いいこいいこ」「思ったより……」「とろけた顔してる。かわいい。いいんだよ。もっときもちよくなって。ここかな? ここがいいんだね。いいよ、もっとしてあげる、いっぱいよちよちしましょうねー」「なんか! めっちゃエロい!」「よちよちしてるだけだよ?」「言い方がすげーやらしい。やべーよそれ。なあおい、おまえどうしたよ。なにこっそりびっくり奥義身に着けてんだよ、ホンキでバブーとか言いそうになっちゃったじゃねーか」「なんでダメなの?」「あ、これマジなやつだ」「赤ちゃんになるの、ダメ? 甘えるだけだよ? 誰も傷つかないよ?」「プライドはズタズタなんですが」「ぷらいど???」「あ、これないやつだ、砕け散っちゃったやつだ」「でも思うでしょ。よちよちはすごいって。してよし、されてよし。ええとこどりの攻守最強癒し系洗脳ツールだよね」「ツールではねーよ」「おねショタが魅力高いのもうなづけるってもんだ」「おまえそれ言いたかっただけだろ、前フリ長すぎんだよ、途中で他人のフリしたくなっちゃったよ、危うくバブーとか言いそうになっちゃったよ」「ダメなの?」「あ、これめんどくさくなるやつだ、ラチ明かないやつだ、空転するやつだ、でんぐりがえっちゃうやつだ」「よちよち」「だから触んな!」「よちよち、ちゅぱちゅぱ」「親指しゃぶるのやめなさい」――暗転――「あ、はじまるね」「ようやくかよ、もはや観る前から疲れたわ」「コレおもしろいから期待してて」「観てから言えよ」「きょうで三回目なんだ」「観たのかよ」「究極の甘えん坊が怒りに任せて暴れ回る映画。タイトル言える?」「バカにしてんのか。甘えん坊、怒りのデスロードだろ」「映画のクライマックスでね、主人公が【えいとこどりやーん】って叫ぶの」「それロッキー。べつの映画やん」「すんごいどんでん返しがあってね」「ネタばれ? いましなきゃダメかなーこの会話」「ヒロインを助けるために主人公、雨が降ったあとのおっきな水溜りをスイスイ泳いで渡って」「アメンボじゃねーか」「さいご、主人公、ほんと足腰立たなくって、身体を引きずるようにしながら前にすすむの。ヒロインのために。寿司屋を」「寿司屋かよ。せめてそこは荒野がよかったなー」「寿司屋って言ってもただの寿司屋じゃないよ。宇宙人の寿司屋なの」「わあ、すごい、つまんなそ」「で、さいごのさいご、クライマックスでヒロインが、どうやってここまで来たのって感動する場面があって」「あ、ヤな予感する」「だって主人公、ホントに足腰立たなくって、ふつうに歩けないんだよ」「ちょっと耳ふさいどこ」「で、主人公、ヒロインをまえにして、ここぞとばかりにこう言うの」「あわわわー聞こえなーい」「歩いてきたさ、よちよちとねって」「クソ、聞こえちまった」「げんじつはそんなに甘くないってちゅぱちゅぱ」「親指しゃぶるのやめなさい」
197:【きょうのハイライト】
2016年10月24日。朝のちょっとした時間に西尾維新氏の美少年シリーズ「パノラマ島美談」を読んでいたのだけれど、その一節、『美しい癖に、可愛くねー奴らだな』を目にして以降、ことあるごとに思いだしては口元がくねくねしてしまって不審者に見られないよう取り繕うのに苦労した。今のところ前作、すなわちシリーズ第四作目にあたる「押絵と旅する美少年」がもっとも主人公が瞳島眉美らしい語り草に感じた。言い換えるならば、西尾維新氏の作品ではなく、瞳島眉美が物を語っているように感じたのであるが、だからどうしたと問われると弱ってしまう。いずれにせよ、美少年シリーズ、巻を増すごとに愛着が増しているいくひしなのであった。まる。
198:【マリファナを吸った神さまの有様は、足ざまに言うと麻痺だな】
大麻は単純所持および他者への譲渡が法律で禁止されているだけであり、煙の吸引自体は裁かれるに値する罪であると定められているわけではない。ゆえに大麻所持者の所在を曖昧にして行われる大麻パーティなどがまかりとおる。また、大麻の種子は発芽させてさえいなければ所持していてなんら法に触れることはない。海外から輸入し、自宅で、或いはどこかの山中で栽培するといった話も別段珍しい話ではなく、もっと言ってしまえば、野生の大麻の群生している森林に出向き、「たまたま」煙草の火が燃え移り、「たまたま」辺りに充満した煙を吸ってハイになる、なんて遊びをしている登山者もいないわけではない。大麻の有害性については、大麻の所持が禁じられている現状、日本ではその研究自体を盛んに行えないため、明確にこれといった結論がだされていない。ところで、大麻解禁派の主張にはいちがいに無下にはできない理屈が用意されている。一理ある、というやつだ。反して、大麻規制派は、その一理ある、に対しての論理武装が少々お粗末だと言える。主張の裏にいかような本懐が隠されていようと、出された理屈には、理屈で反論せねばなるまい。現状、大麻解禁派の理屈のほうに天秤は傾いているように見受けられる。これからさき、大麻の是非をめぐる問題をはじめ、危険ドラッグによる社会汚染、そして、アルコール、煙草、カフェインなど、いまこのとき薬物であると認識されることなく有り触れている薬物に関する問題までもがつぎつぎと浮き彫りになっていくはずだ。人体への害、経済への貢献、社会との親和性、文化的背景、外交問題と、様々な要因が複雑にからみあっているこれら諸問題を、過去に起きた原発事故のときのように、或いは歴史上、さまざまな場所で経てきた宗教問題のように、脊髄反射で決断をくだすと、手酷いしっぺ返しをうけるのではないか、といくひしは今から気が気ではないかというと、べつにそうというほどでもない。禁止されていようと摂取するやつはするし、しないやつはたとえ国が認可しようとしないままだ。どちらがよいという話ではなく、そのときどきでどちらがより劣悪かという問題があるだけだ。往々にして人間社会のさまざまな隘路における本質的な問題とは、いつだって法とはまたべつのところにある。が、是正されて然るべきことは、正当な段取りを踏んだうえで是正されていくべきだろうとは思う。我々は少々というか、おおいに、「今」を基準に正しさを決めすぎてはいないだろうか。今をせいいっぱい生き抜くことはたいせつだ。しかし、我々は今を生きるために生きているのだろうか。人間と獣の差異はそこにはないように思う(むろん「今」あってこその「未来」ではある。「未来」のためだけに生きるのもまた生き方として歪んで映る)。さいごに。薬物の問題とは、肉体的、或いは精神的に害があると確認されていることにその因の根っこが見てとれる。脳内の報酬系へじかに作用を働かせてしまうのが悪因の一つであるのだが、より手軽に、より過剰に、そして安全に脳内分泌系を操作できたならば、それは人類にとっての一つの革新ではないだろうか。現在、薬物でないにしろ、それと同等の原理で人々を夢中にし、瞬間瞬間の突発的な至福の時を提供している媒体が社会のそこかしこには溢れている。果たしてそれと薬物とのあいだにはいかほどの差異があるというのか。直接脳内に働きかけるか、そうでないかの違いがあるだけのように感じるが、そこに圧倒的な差異があるのだろうか。それとも直接か否かが問題の焦点なのだろうか。しかし、考えてもみれば、いかに過程を省き、どれだけ手早く結果だけを抽出できるかを追求することこそが、人類の発展の意味ではなかったか。薬物乱用はしないほうがよいことである。作為的に社会に蔓延させるのも善ではない。しかし、現象として同様の結果を引き起こしている事象は数多い。このさき薬物摂取による肉体的精神的有害性は、科学の進歩と共に、低下の一途をたどるようになる。また、薬物以外の媒体で以って、手軽に脳内の報酬系をいじれるようになる時代が間もなくやってくる。現在社会に漂っている漠然とした倫理観では、そのときに訪れるだろう人としての在り方、そして生き方が、根本から揺るがされかねないのではないか、と、今から気が気ではないかと問われればそうというほどでもない。いくひしは「今」を噛みしめるのでせいいっぱい。未来のことなんて気にしている余裕はないのである。まったくもって麻痺している。まるで薬物にとりつかれた人間のようだ。たいへんよろしくない兆候である。
199:【その意見には反対です。失敗する公算が高いと感じます。しかし、だからこそあなたが進まねばならぬ道なのでしょう。ぼくはぼくの道を「いき」ます。あなたはあなたの道を行けばいい。十年後、どちらが立っていられるか見ものですね】
いまの時代、広く世に知れ渡った作品にかぎって言及すれば、インターネット検索エンジンで、「××ってどんな話?」と訊ねればものの三秒で、それこそ三行という短さで要約されたあらすじが読めてしまう。ミステリーなら、「××のオチは?」と打てば、自力で物語を読み解かずとも(同等ではないにしろ)本を読んだのと似た満足感を得ることができる。謎を軸に物語を展開することへの疑念はここにあり、個人的にはだから、三行で言い表せるストーリィがよいとされてきたこれまでの出版業界の通説にはここいらで一石どころか岩石を投じたい。いまの世の中、求められているのは「おもしろい物語」だ。そしておもしろさが確約されているならば、人々は、ネット上に転がるお手軽なあらすじよりも、「なんだかわからないがおもしろいもの」を選ぶ。SNSなどでクチコミされる物語に共通しているのは、おもしろさを伝えたいけれど、どう伝えればいいのかはっきりと分からない物語だという点だ。単純に、おもしろかったーという感動を伝えたいだけの感想もあれば、私はここをおもしろいと思ったね、それに気づいたやつ、私以外いる? と誰にともなく挑発したがっている感想もある。いずれにせよ、おもしろかったよ、というところ以外、おのおので強調する見どころが違っている。解釈が違うという次元ではなく、見る者によってそれそのもののジャンル自体が変わってしまっているようなものが、いま、世に広く受け入れられているように感じる。否、受け入れられてはいない。必要とされているのだ。コアなファンは、コアになった時点で十年の寿命である。十年後のコアなファンは、今はまだにわかであり、ひょっとすればファンにさえなっていないかもしれない。いくひしは、虚構が好きなひとへ、ではなく、それを必要としているが、しかしまだ触れたことのないひとへ向けて物語を紡ぎたい。かつてのいくひしがそうであったように。今、ここにいる人々へ、ではなく、いずれこれを必要とするだろうあなたに向けて、いくひしは物語を紡いでいくよ。かつてのいくひしがそうしてもらっていたのと同じように(2016年10月29日)。――追伸。寄り道をすることもあります。回り道の好きな性分なのかもしれません。ひょっとしたら、ですから、またどこかであいまみえる機会が訪れるかもしれませんね。
200:【報酬と対価、芳醇な退化】
磁界操作技術の向上により、脳内の報酬系を外部からいじることが可能になって十余年が経つ。個々人の嗜好に合わせた才能を後天的に付与する技術が確立され、誰であっても尋常ならざる特質を発現できるようになった。世は空前の天才ブームを迎えている。天才とはすなわち、常人よりも遥かに優れた集中力を発揮する者を指す。ただ集中すればよいわけでなく、いつまでもその集中を途切れさせないのが肝要だ。夢中に夢中になるとでもいうような、ウロボロスがごとき執着、一点集中を地で描く者が天才と呼ぶにふさわしい成果を築き上げる。けっして成果が先ではない。天才とは、なにごとかを成す前からすでに天才なのである。磁界操作技術は、ワイヤレスイヤホンのような端末機器としてその技術が結晶している。装着しているあいだ、脳内の報酬系を司る部位に一定の磁界を展開し、さながら覚醒剤を摂取したのに似た効用を発揮する。それを高揚と言い換えてもいい。薬物と異なる点は、後遺症のいっさいが残らない点である。薬物乱用につきまとう依存症や禁断症状とはいっさい無縁であることをここに宣言しよう。原理は単純で、脳内物質を介することなく、磁界の変化による電磁誘導が微弱な誘導電流を脳内に発生させ、それが脳内の報酬系をじかに活性化させる。これにより、薬物やギャンブル依存症にみられる、脳内報酬系内における神経伝達物質の過剰分泌による慢性的な快感への麻痺、および、外部刺激への知覚鈍化作用が抑えられる。依存症は、過剰に分泌させる神経伝達物質、脳内麻薬に耐性ができてしまうことにより引き起こされるが、その脳内麻薬を介さずに行われる脳内報酬系の活性化は、依存症発症のメカニズムを原理上持たない。任意の行動をとったときにのみ快感を覚える。そのように端末を設定することで、苦痛と感じてしかるべき修行や訓練、反復作業による技術の習得をより効率的に行えるようになる。自慰に浸る猿がごとき無我夢中さを発揮できるわけだが、しかし、天才とは多くの非凡な下々によって天才足り得る。誰もが天才になった世界からは逆説的ではあるが天才と呼ばれる規格外の個体は消えたように観測された――一見すれば。才能開花端末は、適用者の作業能率を最大限に高める。重要なのは、高まるのが飽くまで作業能率であり、言い換えるならば欠点を克服しようとするチカラの増幅である。一万時間の法則にあるとおり、人は、純度の高い訓練をすればするほど習得する技術を洗練させていくことができる。短期間でどれだけ集中して高い水準の訓練をこなせるかが才能の正体だとすれば、才能開花端末の普及は、そのまま天才の量産化を可能とする考えに是非を挟む余地はない。ともあれ、それは真実に天才が完全無比の存在であるとしたらの話である。才能開花端末はバグを取り除くことに特化した技術だ。だがそのじつ、天才とはある種のバグがある閾値を越えて一個体に偏って編成されたけっかに生じる秩序を持たない回路を示すのだとすれば、才能開花端末の普及は、社会から天才を抹消してしまう皮肉を伴っていると評価をくだすのにいささかの逡巡の間も挟む余地があろうか。大勢の天才をつくりだすことで、却って真の天才から才能を奪ってしまう本末転倒を地で描いたけっかがつきまとう。しかしそれを確かめる術はない。才能開花端末は、幼いころから親の意思により半ば強制的に適用される。真の天才が天才でなくなってしまったのか否か、その子が真の天才だったのか否かは、誰にも観測しようのないことである。才能開花端末は、二度、天才に死を誘致する。
※日々のいろあいは増し、やがては黒に満ちていく。
201:【マイナス要素】
漫画グレイプニル二巻を読んだ。手放しでは称賛できない。こんなにいくひしの好きな要素が詰まっているのになぜだろう。考えられるとすれば、たぶん、嫉妬だ。なんでじぶんはこれを創る側じゃなかったんだろうという嫉妬はもちろん、なんでじぶんは主人公じゃないんだろう、そこどけ、その場所をよこせ、といった主人公への嫉妬が、素直に物語を感受するよころびを阻害している。主人公に共感しにくいかどうかは関係がない。共感しやすくても、否、共感しやすいからこそ高まる嫉妬だってある。それはどこか失恋に似ている。好きなひとが、じぶんと似たような、しかし明らかに赤の他人とたわむれている様を遠目から眺めているような。胸に走るせつなさが病みつきになるよね。三巻はやく欲しいです。
202:【待って、ちがうから】
いくひしは漫画本や小説をまくらもとに並べてねんねするのが習慣だ。日に日に増していくそれらはやがては柱となり、壁となり、朝の陽ざしを遮るほどにまで成長し、いささか心地よい眠りとは裏腹な性質を醸しだす。だからその日、いくひしはまくらもとの本たちをすこし整理することにした。本棚はすでにいっぱいなので、ベッドしたの収納スペースに仕舞うことにした。ジャンルごとに仕分けしつつ、ひとつ、ふたつ、とお人形さんを寝かしつけるみたいに並べていく。お気に入りはまくらもとに残し、すべてを収納し終えてからふと気づく。あれ? ひょっとして、や、ひょっとしなくとも……BLのほうが、多くね? そう、ついに気づいてしまったのだ。いくひしの蔵書はいま、BL本のほうが多いのだった。待って。ちがうから。そういうアレじゃなくってさ。いくひしはじぶんが発酵しきっている事実をかたくなに認めたくはないのだった。さいきんのおすすめは、ためこう氏の「なつめくんはなんでもしってる」です。
203:【寝てないってば】
森博嗣氏のWシリーズ四作目「デボラ、眠っているのか?」を読んだ。読み終わってしまった。なんてことだ。もうね。おもしろいとかそういうんじゃない。「あ、まじっすか! いいんすか!? あざーす!! あざーす!!! あ、恐縮っす……あ、すんません……わあそうですよね、おっしゃるとおりでございます……あ! でも! や、なんでもないっす……ホントすんません……さすがっす! 握手してもらっていいですか、え、いいんですか!!? やっほほーい!!!」みたいな感じ。わかる? わかってくれる? 仮にこれを森博嗣氏以外がつむいでたらいくひし発狂するよ。わちゃちゃー!ってなるよ。ほわちゃーって手刀抜いちゃうよ、おれでなけりゃ見逃しちゃうよ。巻を増すごとにおもしろくなっていくってすごいよね。それを狙ってやってるってんだからさらにすごい。さすがです。じゃあつぎ、いくひしの番ね☆
204:【ジャン♪】
とんでもない漫画と巡り合ってしまった。たぶん多くの人は、ふうんという感想しか持たない。でもなんか、そう、かわいせつない、かわいせつないなんだよ。どんな漫画かだって? タイトル教えてだって? ダメダメ。教えてあげないよ♪
205:【六十パーセント減退】
現状、外部情報の入力が以前に比べて六十パーセントほど落ちている。基本的に人間の未来予測はビッグデータ解析と同じ原理を伴っており、入力された情報量と質にその精確性は担保される。情報量については子細な説明なくして理解できよう。わんこそばでいう、器の数だ。そして情報の質だが、これは単一の情報がどれだけ真実とかけ離れているかに焦点はなく、同じ事象に対する異なった視点からの観測評価をどれだけ得られるかに依存される。ゆえに質は量によって支えられていると呼べる。以前のいくひしの未来予測の的中率はだいたい六割強といったところだ。七割には届かない。そこからさらに六割以上減退するわけだから、もうほとんど当たらないと言っていい。或いは、半年先程度の短い未来しか、高い精度での予測が困難になったと言い換えてもいいが、ひるがえっては、現状、いくひしの予測は高い確率で外れるのだから、そこに重点を置けば、いくひしの予測に価値がなくなったとはいちがいには言えない。
206:【うっさい】
「なあ、顔あげろよ。あーなんつったらいいのかなぁ。これはあたしなりの持論なんだけどさ――。何かを新しくはじめたとき、最初の三年間でどれだけ成長できたかで、そのひとのその後の「成長率」ってのは決まっちまうんだよな。たいせつなのは、決まるのが「成長できるか否か」ではなく飽くまで「成長率」ってところな。だから最初、才能が1しかないやつが三年後に30になってたら、初めは100あったけど三年後に150にしかなってなかったやつよりもそいつは「成長率」が20倍あるってことになる。言い換えれば、初めはヘタなほうが有利と言えなくもない。ただし傾向として、最初から100あったやつのほうが、1しかないやつよりもその後の成長具合は芳しい。もっといえば、どれだけ成長率が高かろうが、最初からカウンターを破壊するほどの高い才能をもっている相手には、同じ土俵にいるかぎりとうてい適いっこないわけで。もっとも、初めがゼロだったときだけは例外だ。そこには成長率なんてもっともらしい指標はない。ただただ可能性だけが無限に広がっている。そこからはイチだってヒャクだってマンですら、捻りだし放題さ。じゃあそのゼロとかイチとか、最初の才能の値ってどうやって決まるのって話になると思うんだよな。そこ重要。気になるよね。それはさ。最初に目標とした対象との相似比だよ。合同に近ければ近いほど値が高くなっていく。かすりもしなければゼロだ。ゼロとイチは比較的似ているけれど、決定的な差がそこにはある。ヘタなことを嘆くことはないよ。いや、嘆かなければ成長の道は視えないのかもしれない。だからって失望することはないさ。ヘタにはヘタなりのメリットがちゃーんと用意されてるんだからさ。だれが用意してんのかはさっぱりだけど。だからまあ、自分を信じて進めよな――自分のヘタさをさ」
207:【虚栄を剥いだあとの助言】
予測の的中率をあげるだけならば簡単なんだ。当たりそうなことを言えばいい。火を焚けば煙が出るだろうし、氷に触れれば冷たい。実際にそれをせずとも分かることはいくらでもある。本当に重要な予測はいつだって、そんなバカな、と言いたくなるような認めがたいものなんだ。同時に目を逸らしたいものでもある。いいかい。これだけは言わせてくれ。いくひしのような偽物の言葉に惑わされてはいけないよ。自分には特別な何かがあると思いこんでいるやからの戯言ほど耳に毒なものはないのだから。避けたくなる気持ちはわかる。蔑みたくなる気持ちもだ。でも、ぐっと耐えて、そこは憐れんであげてほしい。みな気の毒なコたちなんだ。毒キノコなんだ。素朴に、日陰に、そっと生えているだけならば許してあげてほしい。触れずに見逃してあげてほしい。イクビシからのお願いだ。ぼくからの。
208:【 : )】
Sia - The Greatest
209:【感動】
読んで泣いた漫画は久しぶりだ。僕のヒーローアカデミア。第一話でも泣いたけれど(今読んでも泣く)、最新刊11巻でも泣かされてしまった。愛を打ち負かすほどの生き様。現実を捻じ曲げるほどのわがまま。それはけっしてかっこよいものではない。むしろ無様でかっこわるい。だからこそ、そこに真摯という名のまっすぐな軸が垣間見えたとき、見る者の心を打つものが滲みだすのだろう。本物ゆえの傲慢さがない。偽物だからこそ本物には出せない味がでる。偽物ゆえにホンモノだ。かなわないなぁ。
210:【本音】
イクビシとしての本音をここに綴っておこうと思う。ぼくには何もない。学歴も、友達も、成果も、経験も、栄光も、青春も、お金だって、情熱ですら、夢ですらない。持ってないのではなく、持てないだけかもしれない。それらを抱えるための手さえ、ぼくにはないのだから。何か他人の記憶に留まっておけるような、他人に誇られるようなものは持っていない。何もないがあればいいのだけれど、しかしすくなくともぼくはどうにか生きていけるだけの身体とそして薬に頼らずに済むだけの理性を保てている。持っているというよりもやはりそれは保てていると言うのが正しい形容に思える。なんとか保てている、その場に、立っていられる。或いはこれも、何も持ってないがゆえに、かろうじて、ということかもしれない。いずれにせよ、ぼくは何も持っていないからこそぼくとして今、ここにいる。けれど、そんなぼくにもなけなしの才能がある。持っているのではない。ぼくの足元に芽生えた、名もなき、これは草だ。ぼくのものではない。誰のものでもない。だからぼくはそれに名を与え、かってにぼくの才能だと呼んでいる。ぼくは誰よりもじぶんを表現することに長けている。ぼくよりもぼくの世界を、裡にひろがるがらんどうを表現できる者はいない。それはぼくにある能力ではなく、ぼくの足元に知れず生えていた草が偶然、ぼくの目に留まったから生じたいっときの停滞のようなものだ。ぼくはその草に目を奪われ、歩みを止めている。そのときにできた時間の経過がぼくにある種の夢を視せている。それを錯誤と言い換えてもいい。何かをなしている気がしているが、じつは何もしていない。何も残せてはいない。何もしていないことで得られる怠慢が、退化が、ぼくに錯誤を抱かせる。けれどその錯誤は、才能は、このさき一生、誰からも認められることはない。評価されることはない。必要とされることもないのだろうということすら、ぼくには解っている。ぼくは何も持っていなくて、これからさきも、ぼくはぼくであるかぎり、何も持つことはないのだから。ぼくはここに存在するけれど、世界にとってはいないも同然の存在で、いなくても困らない存在で、きっとそれゆえにぼくはいつまでも尊大でいられる。ぼくはいつだって足元に芽生えたこの名もなき草を踏みつけてしまいたい衝動と闘っている。愛でれば愛でるほど、ぼくはそれを損ないたい。きっといまはまだそのときではない。もっともうつくしく花咲いたとき、ぼくはそれをつまらない顔をしながらつまらない所作で、あくびをしながら踏みにじるのだろう。ぼくのなかのがらんどうがそれを望んでいる。ぼくはいつだって、無関心に愛を踏みにじることに、とんでもなく生きているという実感を覚えるのだから。そんなぼくを、いくひしはとても嫌っている。いくひしはね、そう、ぼくが嫌いなんだ。そんないくひしをぼくは嫌いになれない。そんないくひしだから、ぼくはあのコたちに、ぼくには持てない、あれやこれやを持たせてあげたいと望んでいるのかもしれない。期待、しているのかもしれない。愛してはいない。そういうことに今はしておく。とても卑しいと思う。とてもとても。けれど、そんなぼくが、ぼくは、それほど嫌いじゃないんだ。ふしぎとね。
※日々の疲れをいやすにはさらなる疲れに浸かるのがよろしいと、疲れに憑かれたあなたが言う。
211:【きんも】
きもい、きもい、ほんとムリ、やだ、きもちわるい。自己陶酔の鑑だね、底なしのナルシストだね、ヒロイズムに浸りすぎ、現実見なさすぎ、「ぼくはふつうのどこにもでいるにんげんです」ってだけの宣言にどんだけビカビカ装飾施したら気が済むんだろうね、美化美化したら気が済むんだろうね、ほんとやだ、ムリ、きもい。あ、あなたのことじゃないよ。いくひし、あなたのことは好き。すきー。だいすき。でもあいつはきらい。ほんとムリ。
212:【きれいきれいしましょ】
きれいなものに囲われて、きれいなままで、きれいな人生をとおして、きれいな最期を迎える。きれいな世界にいられたままならどれだけしあわせだろう。それがつまり、虚構に生きるということなのだ。汚いものは見たくないし、触れたくないし、その存在を許したくもない。しかしそう思う心根はけっしてきれいなものではない。同時に、片づけなければ部屋はいつの間にか散らかってしまうのと同様に、汚いものへの拒絶の意は、きれいな世界を望むならば手放してはならないものでもある。きれいなままできれいな世界を生きることはできない。きれいな世界を、きれいなままでは生きられない。それはちょうど、何も食べないでは生きていられないように、いつだってこの身の腹の中にはクソが詰まっているのと同じように。でもいくひしはそれでもきれいなままで、きれいなものに囲まれて、つつまれて、ふわふわ夢心地で生きていたい。それはもう、汚いものを見ても、汚いと思わないようにするほかに術はないように思う。頭の中にお花畑を築きあげ、そして意図して、強いて、盲目になるほかに、きれいなままで、きれいな世界を生きることは適わない。それはもう、とんでもなくきたない話である。そう、きれいでいつづけることは、きたない。
213:【巨大化することの弊害】
組織を巨大化させることで却って近代化の歯止めをかけることがある。たとえばテーマパークは、その大規模な設備を成立させるために多くの作業員を必要とする。それら作業員の生活基盤を確保するために、仕事場の近くに寮や、それに伴う生活全般を支える施設がまた別個に必要となってくる。むろんそれらをその組織が直接に運営する必要はない。ほかの組織と提携を結び、相互に依存する関係を築き上げればいい。その結びつきは組織が巨大化するにしたがいより強固なものとなっていく。それをここでは組織回路と呼ぶ。しかし近代化がすすみ、テーマパークの運営にさほどの作業員を必要としなくなったとき、巨大化した組織はその強大さがゆえに、手に余った作業員たちを手放すことができない。なぜならその多くの作業員たちは、組織回路を正常に機能させるために必要な素子であり、または電子そのものであるからだ。役目を終えた手駒であるにも拘わらず、組織は、それでも組織回路を機能させるためにそれら大量の手駒を手元に残さざるを得なくなる。しかし役目を果たさない手駒はもはや手駒ではない。ならば手駒を手駒のままにしておくほかなく、従来の旧システムでの運営を余儀なくされる。これを組織ではなく国に置き換えても成立する。近代化の遅延はこうしてたびたび繰り返されてきた背景がある。ひるがえっては、近代化が急速にすすむとき、それは巨大な組織による革新ではなく、比較的身軽な、生まれて間もない組織、新鋭によるところが大きい――ように思えてはこないかい?
214:【齟齬】
けっこんしたい。そりゃあね。けっこんしたいですともさ。でもね。べつに結婚そのものをしたいわけじゃない。結婚そのものに魅力はないよ、皆無さ。むしろ針のむしろで、眼球にマチバリ千本の刑とどっこいどっこい同等だ。だから正確には結婚をしたいのではなく、結婚をしてもよいと思える相手と出会いたい、可能であれば相思相愛で、となる。しかし思えば、いくひしの出会ってきた人々はみな、「結婚」をしたがっていたように思う。結婚いちばん、お金が二番、相手はだいたい四か五番目、くらいだったように思う。そのため、いくひしが「けっこん? そりゃしたいでしょーがよ」と言うと決まって彼ら彼女たちは、「へぇ、なんで?」とか「いがーい」とか「そん前にあんたは好きな人でしょ、そもそも友達いないじゃん」なんてたいへん失礼なことを言ってくれるのである。正論一割、誤解が七割、あとの二割はポンポコリン。いくひしはね、愛がほしいのさ。この世にたったひとつの揺るぎない愛を。そんなのは愛とは呼ばないよ、なんて鋭い野次のひとつやふたつが飛んできそうなきらいがあるけれども、そこはさすがに譲れない、これが愛じゃないならこの世に愛はないんだよ、替えのきく愛なんていくひし、愛とは呼ばないよ。
215:【相互】
うるせーよ、恋に恋した乙女じゃねえんだ、おめぇのは単なる愛を愛したバカじゃねぇか。一生変わらぬ愛だなんてのは一生何も思わないってのと同じだよ。執着ですらねぇ、拘泥ですらない。何も思わないから変わらずにいられる。おめぇのほしいのはそんな空虚なもんなのかよ、くっだらねぇ。
216:【モード】
あら~ん、イヤだわ~、うるせーだなんてあなた野蛮ね。とってもYA☆BA☆N☆ いいじゃないのよちょっとくらい空虚だって、ちょっとくらい空虚なほうがいろいろとはかどるのよ、そうよ、いろいろとはかどっちゃうのよ~、いったいどこの墓掘るの、むしろどこの穴掘るのって言いたそうな顔してんじゃないわよまったく。あら~ん。その顔は、やだあなた、知らないのねかわいそうなコ。だってねぇ、ほら考えてもみてごらんなさいよ。空虚な想いはせつないんだから。せつなくってキューってなっちゃうきもちはとっておきの魔法のオクスリなのよ、とってもきもちよぉ~くなれちゃうの。そうよ、そうなのよぉ。いや~ん、思いだしてきちゃったわぁ、ほら思いだしてきちゃったじゃないの~ん、あなたと☆あたしの☆ドッキング☆ いや~んおまたキュンキュンしちゃう、だってせつないんだもん、ウフフ☆ いい? 愛は恋と変の子供なのよ。それだけは憶えておいて。お兄さんとの約束よ。あらやだ素直。イイコじゃないの、キスしてあげちゃう。むちゅ~。舌からませて口のなかべ~ろべろしてあげちゃう。やぁん、どこいくの逃げちゃダメよ、めっ。
217:【ノード】
なにをやってるんだおれは……。このじぶんを案じる気持ちこそ、愛の根幹をなす因子である。それを胞子と言い換えてもいい。そう、なにやってんだおれ……。
218:【ポリティカルコネクトレス】
という言葉があるらしい。しょうじきよくわからないが、それが色々と議論を巻き起こしているようだ。きっかけは2016年11月にあったアメリカ大統領選挙の結果だ。詳しい話は割合しよう。ポリティカルコネクトレスに関する是非を問う騒動は、しかし、そんなに心配しないでもすぐに沈静化するのではないか。以前にステマがインターネット上のごく小さな規模で俎上に載った時期があった。しかしステマ、いわゆるステルスマーケティングという実態がある程度の共通認識を可能とするまでに可視化された段階で、あとはその共通認識がステマへの対処を、その扱い方を、集団へと学ばせた。俗にいう、「はいはいステマステマ」というやつだ。今回の騒ぎも、「はいはいヘイトヘイト」で済まされるようになるのも時間の問題だ(はいはい、で済まされるようになることが新たな問題の一つだと言えなくもない)。一時的な現象に一喜一憂している場合ではないよ、とそれっぽいことを述べておこう。
余談:【REDBULLよりMONSTER派】
2016年11月11日現在、某格闘家が躍っているCMにピンときた方がいらっしゃったら――ひとまずs**t kingz、それからNEGUINとISSEIだけはチェックしといて損はないですよ。チェックしなくとも支障はないですけども。
219:【内容のない夜】
きょうはこのコと、おてて繋いであるくし、まるくし、投げ捨てた幾度目かのラブレタ、書き直して破れた――夢みるよりも、あぶれた孤独なあのコの爪を切る、ふちにあてがい、からだよせあい、無粋な夢語るのはよせやいとうずめるゆびのぬくさに身を焦がし、君のとなり、影を縫いつけ置き去りにし、過去をおざなりにし、おさらばしたあとであのコのおさがりを着、たそがれどき、果てなき恋、思いだしながら、手と手取りあい、怒鳴りあうひとと肩並べ奪う愛、は底なし、のどん底をひとりテトテト這いずる小鳥はニャンと鳴き、小声で、肩震わせながら、こよいもお気にの譜面そらで歌うし、そらに浮かぶうだるような陽、土鍋を無駄に空焚きし、熱伝うし、期待し振る賽の、微に入り細を、穿つよりも差異を、ギリギリで振りかざす才の、繰りかえさぬ解とそのおかわりをたんとおあがりよキミ、影失くして鍵探し彷徨うのはもうやめよ。ねえどこにもないよ、ちゃんとみてよ。
220:【一人交換日記】
WEB漫画です。作者は永田カビさんです。既刊の「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」で現代の文芸が本来担うはずだった役割を代わりにこなしてくれた、たいへん優れた表現者です。そんな作者のWEB連載漫画。一人交換日記。とにかく五話が。五話目が抉りにきすぎている。あれはちょっとした史料として時代の変遷の節目を象徴するテーマとしてこれからさき、永らく語り継がれていくでしょう。おそらくいま三十代後半に差しかかっている世代はモロに喰らうのではないでしょうか(作者は2016年現在で29歳らしいのですが)。ある特定の人種のみを殺す、あれは猛毒です。ほかの大多数の人々には何ら作用を働かせないでしょう。ひるがえっては、殺された者は、自身がその特定の人種であったことを、心を抉られたあとで知るのです。あなたは無事でいられましたか?
※日々という名の過去はない、日々の積み重ねなど幻想だ、あるのはただ今をせいいっぱい生きたあとに浮かんで視える残像だけである。
221:【FF15】
この記事は2018年1月29日に削除しました。
222:【ようやく】
やっとね、やっと手に入りましたー! 冬見坂さんのマンガ「森のホモォ」 うれぴー! いまからよみますねたのしみー♪
223:【勝ちたいがゆえに勝てない】
正確には、勝ち負けにこだわりすぎるひとは、本心ではてっぺんに立ちたいとは思っていない。憧れに追いつきたい一心、認められたい一心でそれに縋るが、けっきょく憧れを越え、憧れを失ったとき、そのひとはもう立っていられなくなる。初めから目標などなく、ただただ無意味に、不毛に、快楽を貪るようにそれをつづけるある種の病人にしか、本物を越えた境地には辿り着けない。だが、それゆえに、そうしたこの世の理を覆すほどの偽物に、いくひしはとてもこころ惹かれるのである。
224:【関心事】
2016年11月13日げんざい、いくひしがいまもっとも興味のある事柄は、「電波と虫の関係」です。唐突ですが――おそらくそろそろ、電池パックを必要としない携帯型メディア端末が開発される頃合いだと思います。その原理はおおまかに分けて二種類あり、ひとつは太陽光など、外部のエネルギィを変換機を通して電力に換えるというもの。そしてもう一つは、特殊な電磁波をつかってメディア端末のなかである種の誘導電流(正確には電子の挙動操作)を発生させ、自家発電させるというもの。おそらく普及するのは後者の、電磁波自家発電型の機能でしょう。そして現状、ただでさえ電波まみれのこの世界で、さらに特殊な電磁波がこの地表をがんじがらめに埋め尽くすのです。電波とは言うなれば光です。今までにないほどの緻密な光の層が世界を駆け巡る――これは地球生誕以来、いちどもなかった現象です。これまでになかった変化は確実に地上の生命体へと影響を与えます。我々人類は、赤外線や紫外線、いわゆる可視光線以外の電波を直接に視認することはできません。視えないだけで、しかし影響は細胞単位、或いは染色体単位で受けています。ほかの生物、ことさら昆虫や微生物たちはその比ではありません。それこそ我々人類が気にも留めない周波数の電波を、虹のように知覚し、世界を認識するための手段として依存している種は数知れないのです。そうした生物種が、これから、或いはすでに、我々人類の予想もし得ない進化を辿るのではないか、とそうした妄想をたくましくするのがさいきん多いようだけど、きみ、あたまだいじょうぶ? すこし休んだほうがよくない?
225:【編集能力】
ひとむかし前、それこそインターネットが普及する以前の社会では、雑誌がひとつの作品として機能していた。さまざまな作品がそれ単体ではさほどの威力をもたなくとも、雑誌として編まれることで虹色の輝きを発散する。しかしインターネットが普及し、日常の情報爆発が起こってからは、雑誌という形態はいささか情報過剰に過ぎる。端的に分厚すぎるのだ。さまざまな作品が異色でありながらも、雑誌という殻に任意の並び方でギウギウ圧しこまれることで、雑誌はひとつの魅力的な作品として顕現する。ところが現状、分厚い本が売れない傾向にあるのと同様に、ひとつの作品として顕現した雑誌もまた、分厚いがゆえに売れない傾向にある。ではどうすればよいのか。どうしようもない。ひとつの作品として勝負できる時代は終わってしまったのだ。まずはそこを認めるところからはじめなければならない(これからは作品としてではなく、言葉はわるいが、さまざまな作品を届けるためのカタログ、或いはチャンネルとして機能しなくてはならない)。これは小説においても同様である。ある一つのジャンルを極め、特定の読者を想定して作品を紡ぐ時代は終わってしまった。現在必要とされているのは、あらゆるジャンルの盛り込まれたかつての雑誌のような作品だ。むろん分厚くなってしまってはいけない。そこには過剰なほどの物語の圧縮が必要となってくる(雑誌にできなかったことが小説ならばできる)。そこで欠かせなくなってくるのが、圧縮された物語に堪え得るだけの人間性に富んだキャラクターたち、そして類い稀なる編集能力である。かつての雑誌を編んでいた異能者たちがごとく、現代の作家に必要なのは、まさしく物語を編みこむ能力なのである。雑誌は、相反する編集者たちが、雑誌という色をよりどころに反発しあいながらも強烈に融合し、結晶した奇跡の産物である。ゆえに、小説もまた、そうした物語同士の強烈な拒否反応を乗り越え、封じ込めたような、荒々しくも芳醇な、奇跡を起こさなくてはならないのである。
226:【へきちっ!】
へっ、へっ、へきちっ! だぁーさっきからくしゃみが止まらんばい。へきち、へきち、うるせーってご意見はもっともござれ、では、ありますがね。ここが僻地だからか? インターネットの僻地でございますからか? そうね、そうね。なぜこんな情報の海の底の、奥のほう、僻地で誰に読まれるでもない文章を瓶に手紙つっこんで目的地にともなくさまよう波に揺さぶられーの、そういう無駄なことをしているのかってーと、そう、それはそれとして、けっして無駄ではないからなのだね。いまはまだ僻地であろうともいずれここを発掘しにやってくる未来人がおらんとも言いきれぬだろい? え、言いきれるの? きれちゃうの? どこからでも切れますみたいな謳い文句に騙されるほどあたしゃそれほどヤワじゃぁないよ。しかしさいきんちょいと認識どっこい、どこからでも切れちゃう包装ドメスティックなプラスチックが多くなってきたさっこんではありますな。科学技術の進歩ですな。しんぼうのけっか、なのでありますな。まあいずれここにおわす文章どもに価値がしょうじないわけでもねぇのでありますよ。今はブタに生姜焼きみたいなしょうもなさしかござらぬが、しかし、いずれはブッダに生姜焼きくらいの価値がしょうじるのでありますまいか。失礼じゃないか、裏返って失礼じゃないか、みたいなご意見もありましょーな。てへへ、いいのだよ。あたしゃそういうしょうもないことが好きなのだから。笑って見せたらほーら鼻の奥がむずむずするぜ。してきやがるぜ。へっ、へっ、へきち! だぁー、くしょー、くしゃみが止まらんばい。
227:【反省すべきなの?】
「あんたの場合さぁ、同性愛に幻想重ね見てるだけにしか見えんのよねぇ。純愛っつーの? 越えられない壁を乗り越えたからこそ証明できる愛みたいな? でも、幻想だからね。しょせんね。同性愛とかゲイとかレズとか、そういうの、異性愛とかノンケとか、いわゆるふつうの恋愛観と大差ない、差別すんなとか言ってる割に、いっちゃん差別化してんのあんたじゃん?って思うわけ。神聖化すんのはまあ個人の自由だけどさ。それにしたって、ねぇ? 異性愛と大差ないってんなら、同性愛だっていいもんじゃねぇよ? 生々しいし、浅ましいよ? じゃあなんで同性愛ものにセンサービンビンなのかって話なわけよ。それってけっきょくあんたが誰より同性愛を差別化して、ふつうじゃないものとして、娯楽として、見せ物として、消費しちゃってんじゃねーのかなーってね。私は、まあ、そんなふうに思うわけなのよ。ゲテモノ好きを友人として持つ者としてね」
228:【反省すべきでしょ?】
「わたしはそうは思わないなー。だって物語ってそういうものでしょ。ほかの、じぶんではないひとの人生を娯楽として消費する。ある意味でじぶんの人生の慰みものにするのが目的なわけだし。だったらどうしてマイノリティな属性だけ除けモノにするの? 仲間外れよくないよ。それとも、物語として、虚構として、娯楽として消費することは、ほんとうはそれ自体がいけないことなのかなぁ? だったら責めるべきは何を対象にするかではなく、何を消費するかでもなく、いかに消費するか、ううん、ひょっとしたら消費することそのものにあるのかもしれないね。他人の人生を、虚構を、創作物を、じぶんの人生の慰みものに、糧に、娯楽にしてはいけません」
229:【論点がずれている】
「いやいやきみたちね。話がずいぶんと極端だよね。虚構を娯楽として楽しむことと現実の問題を結びつけるべきじゃないよ。話がややこしくなるだけで何の解決にも繋がらない。だいいち、殺人はもっとも多く紡がれてきた題材だよ。現実の倫理観だとか良識を前提に語るなら、そうした禁忌を扱った物語は土台からしてあってはいけないものになる。しかしそうはならない。なぜなら虚構は虚構であり、現実ではないからだ。むろん、虚構が現実に対してなんら影響をもたらさないわけではない。ゆえに虚構にはある種の善意が必要だとは思う。配慮と言い換えてもいいね。虚構は現実に対して配慮が必要だ。裏から話せば、それだけ虚構の影響力が大きいとも呼べる。無視できないくらいにだ。しかしそれは飽くまで創作者が背負うべき十字架だ。それを感受し、楽しむ側が顧慮することではない。ましてや、目のまえにあらわれた物語に対して、どういった態度で接するのが正解か、なんてことで頭を悩ませる必要はない。あるがままに感受すればいい。つぎからつぎへと消費したっていっこうに構わない。構う相手がいないのだから当然だ。虚構に神はいない。或いは神が虚構であると言い直してもいい。現実であるきみたちが、虚構である神に、なんらかの義務を感ずる必要はない。ましてやどう読むのが正解か、なんて気負う必要はないんだ。繰り返すが、あるがままに感受すればいい」
230:【要約すれば】
受動者に配慮を強いないのがエンターテインメントであり、受動者にも配慮を期待するのがアートだと呼べるのかもしれません。何に対しての配慮かといえば、現実への配慮であり、ひいては他者への気配りです。視点を変えれば、エンターテインメントは受動者をより突き離していると呼べ、アートはより受動者と共にあると呼べます――いっぱんてきな認識とはぎゃくですね。完成度の高さ、独立性の高さからいえば、エンターテインメントのほうが一次元ほどうえにあると分析できるのです。
※日々の行いの積み重ねがあすのじぶんをつくるよりも、日々の作業の繰り返しが過去のじぶんを破壊していく、よくもわるくも、軌跡が泡のように消えていく。
231:【 !! )。←うさぎ】
Daoko - お姉ちゃん DIS (SUNNOVA REMIX)
232:【欠点】
物語の多重構造にはむろん欠点がある。いいところばかりを言ってきたが(言ってきたか?)、そろそろわるい点もはっきりさせておく頃合いだろう。多重構造は複数の物語を錯綜させる。いくつかの異なった物語を編みこむことでその輪郭を立体的に浮きあがらせるわけだが、ゆえに、通常の物語には不要な、過剰なまでの物語の圧縮作業が必要となってくる。言ってしまえば、読者への負担が大きい。圧縮された物語は、読者というツールを介し、解凍される。しかし解凍が困難な場合もむろん起こり得る。そのため、細部を構成する物語が解凍されずとも、全体としての物語が損なわれない仕組みにしなくてはならない――全体を貫く大きな物語は、読者に解凍されずともおのずから姿を現わす構造にしなくてはならないのだ。編みこんだ糸がほつれても、最終的に全体としての図柄が伝わればそれでいい。圧縮されるいくつかの物語は、図柄を浮かびあがらせるための色彩であればよい。視点を変えれば、多重構造において、本質的に描かれる物語は、物語としてのカタチを帯びていない。毛糸の集合が、色の違いによって図柄を浮びあがらせるように、点の集合が印刷物を絵として成り立たせているのと同じ規模で、物語そのものが、そこに歴然と描かれる必要はないのである。物としてあるのではなく、巨大な行間を介して、立体的に浮かびあがる。多重構造において、もっとも重要な根幹をなす物語は、文字の羅列にはなく、その間隙、裏側、読者の脳裡にのみ投影、構築される。すなわち、もっとも描きたい物語は、まったく描かれていないのである。解凍どころか、物語の構築を、創造を読者に期待する。多重構造の肝は、見逃しがたい欠点として同じ場所に涼しい顔をして鎮座している。作者は物語の神あらず。多重構造においては、読者こそ神である。神にそぐわない者は、読者になれないのである。まったくどうしてどうかしている。こんな物語が流行るわけがない。
233:【流行るわけがない】
多重構造は複数の異なった物語を複合させてつくる。見逃せないのは、粗悪品を材料として用いても成立してしまう点だ。上質な物語をお使いいただかなくともけっかとして上質な作品に仕上がることがある。ただし極めて稀であることをここに打ち明けておく。傾向として、素材からして上質なものが好ましい。この点は料理と同じである。ではなにがちがうのか。差異は素材と完成品との関係性にある。料理の場合、たとえ素材がたがえていようとつくり方さえ同じであるならば、できあがった品は任意の料理として認められる。反して多重構造はたったひとつの素材が異なっているだけで、できあがる作品はまったくといっていいほど別物に仕上がる。カレーの素材に何を入れてもそれはおおむねカレーと呼べるなにかしらだが、桃太郎とシンデレラと西遊記、うち一つでも赤ずきんちゃんと入れ替わったら、或いはそこに新たに加わりでもしたら、できあがる作品は大きく変わる。端的に別世界と呼べよう。また、多重構造の物語は、各々、圧縮される物語を単品で取りだしても作品として優れているものでなければならない。物語として成立するだけでは不足だ。優れた物語を圧縮することに意味がある。王道と言い換えてもいい。すでにある王道を圧縮し、組み合わせることで、多重構造の物語は、つぎの時代の物語として、読まれるに値する強度を得て、昇華され得る。ただしここで一つ問題がでてくる。優れた物語を圧縮するには、王道の物語が必要なわけだが、では王道の物語はどうやって調達してくればよいのか。調達しようもない。じぶんでつくるより、これもまた、ないのである。可能であれば、複数取り揃えていただきたい。でき得るかぎり異なった色のものを。繰り返すが、異なったジャンルの王道をつむぎ、圧縮したうえで素材とする。圧縮するには、それそのものをひとつの作品としてつくりあげるだけの力量がなくてはならず、すなわちこれがもっとも厄介な隘路と呼べる。多重構造の物語をつむぐには、ふつうの、王道の、よくある、できた物語を造作もなくつくれなくてはならないのだ。尋常ではない鍛練が欠かせなくなってくる。一筋縄ではいかない。が、長編に挑む時間も惜しい。そこで出番となってくるのが短編である。王道の物語を圧縮したカタチで、短編をつむぐ。よく一般に言われる短編のつくり方として、物語の断片を切り取るとよいとする風潮があるが、ここではそれを潔く禁ずる。圧縮である。長編をぎうぎうと押し固め、よくまとめ、美味しいところだけをぎゅぎゅっと搾りとる。そうして王道を圧縮した短編をいくつもつくる。さきにも述べたように、可能なかぎり様々なジャンルの王道を手掛けてほしい。すると、多重構造に必要な素材、そしてそれらを組み合わせるための地力が蓄えられていく。そう、磨かれるものでも、鍛えられるものでもない。こればかりは、地道に蓄えていかねばならない。最初から持ち併せてはいない。ゆえに、ひとつひとつ、ゼロから取り揃えていかねばならないのだ。気の遠くなるような気もしてくるが、さいわいなことに、王道の物語は、王道であるがゆえに、類型されている。お手本がたくさんある。そこはすこしばかりの楽をしてもよい。むしろしよう。するがよい。素材を自力で、自在に、調達できるようになったらあとはもうそれら素材を、任意の物語をかたどるように繋ぎ合わせていくだけである。これがいちばん楽しい作業だ。おのおの、編集能力のいかんが問われる。ぞんぶんに腕を振るまわれるがよろしかろう。さて、本題だ。多重構造の欠点である。いくつかの王道を素材とし、物語をかたどる。カオス理論を持ちだすまでもなく、そこから産まれる物語は、無類である。ゆえに、比較対象がない。同じようなものがない時点で、比べようがない。基本的に、世に広くジャンルと認められるためには、類型的な作品が必要である。ひとつふたつではない。より多く、波がごとくとめどない点数が入り用だ。だが多重構造の物語は、世に一品しかないものができあがる。そのためのシステムだと言い換えてもいい。この世にただひとつだけの、唯一無二の物語――ゆえに、ジャンルを持たず、がために、ブームを起こさない。否、起こしたくとも起こせないのである。なぜなら、仲間がおらず、孤独な世界を常と約束されているからである。まさしくこれこそが多重構造の物語の、究極的な欠点であると呼べる。ゆいいつ無二であるがために、絶望的なまでの孤独な道を余儀なくされる。称賛も、批判も、ない。ただただ、読者によって呼び起こされる幻相があるばかりである。ただでさえ虚構でありながら、そこから生じるものもまたおぼろげなゆめまぼろしなのである。救いがない。掬いようが、ない。まったくどうして無意味である。が、世にはびこる無数の意味に疲れ果てたあなたには、もってこいの品であることをここにゆびきりげんマン、ハリセンボン、ノーマン・スウとはいったい誰なの? 宵闇に訊ねてみても返事はない。マナーもない。或いは、マナーがないことがただひとつのマナーであると呼べるかもわからない。ぞんぶんに味わられるがよろしかろう。遠慮はいらぬ、お召しあがりになりやがれ。こんな横暴な態度では流行るわけがないのだね。
234:【零度】
恋をしたい。ずっとそう思ってきた。でもほんとうはそうじゃなかった。わたしはたぶん、誰かをこの手で利用したい。手のひらで転がして、手玉にして、悦に浸りたい。奴隷がほしいようで、そうではない。いっぽうてきに利用したい。そのために慕われたいし、好かれたい。でもわたしはそんな相手を好いたりしない――罪悪感は持ちたくないから。おもちゃみたいに扱いたいけど、そんな人間にはなりたくない。こんなんだから誰かを好きになんてなれっこない。好きじゃないものに興味はない。だから手元に何も残らない。恋をしたい。でもほんとうは、なによりあなたを好きになりたかった。心の底から罪悪感を抱きたい。あなたをこの手で利用したい。
235:【百度】
ぬくもりがほしいわけじゃなくてさ。いつだってそれを与えてくれる魔法の小人がごしょもうで。じっさいにそれを与えてくれたらもうダメで、なぜって願いはだって三回までって決まってるじゃん。一回でも使ったら、あとはもう、減るいっぽうになっちゃうじゃん。万全のたいせいで、満杯のぬくもりで、あたしのそばにいてほしくてさ。おねだりはするよ。でも、それをあたしに与えないでね。あなたは魔法の小人でね。いつまでも魔法に満ちていて。
236:【重度】
わかんないよ。でもなんか安心するの。あなたといると、すごく安心する。たとえば私がいつも見下ろしてばかりで誰とも目線を合わせられずにいて、口ばかりの称揚に飽き飽きしていたとして、それでもあなたはいっしょうけんめいに私と目線を揃えようとじっと見上げてくれるでしょ。あごをくいと掲げて、しなくてもいい背伸びまでして。ぷるぷる震えるその足の痺れが全身にまで伝っても、まだ私のことをじっと見上げている。私はそんなあなたから目を逸らす。でもあなたの視線は途切れない。私の頬に、髪に、耳の裏のほうにまで、ジリジリまとわりついている。安心するの。それがたまらなく私をからっぽな世界に繋ぎとめてくれている。何もない世界は、足場もないから、縄でもないとスルスル落ちてしまうから。でもほんとうは、あなたは私を見上げていて、私たちを繋いでいる縄は、糸は、ほんとうは私のほうから垂らしている。必死に食らいついているのはあなたのほう。私はいつまでもあなたがここへ昇ってこられないように、揺さぶったり、引っ張ったり、いじわるをしてあげる。それでもあなたは私を求め、糸を伝う。虫けらじみたその姿が、たまらなく私を固めてくれるの。私を私として固めてくれる。私には、あなたという器が必要なのね。中身のない、スカスカの、ハリボテじみた器がね。
237:【節度】
ウチみたいのがいいのかなって、どうしてウチなのかなって、思ってるよいつだって、ウチ、見捨てられちゃうんじゃないかってこわい思いしてる。こわいはずなのになんでだろう、気づくといつもよこに並んでる。あなたがそれを許してくれるから、そこはべつにウチの特等席ってわけじゃない。わかってる。とくべつに、そういうふうに、扱ってもらってるだけだって。気まぐれみたいなものだよね。気まぐれにノラに餌を放り投げるみたいに、餌をあげたら満足で、きっとノラのほうも、それ以上のことは期待してない。でもなんでだろう。ウチはまたおなじ場所に餌が落ちていないかって、そうやっていつもあなたのよこに並んでしまう。あなたがそれを拒まないから。ウチみたいのがいいのかなって、どうしてウチなのかなって、思ってるよいつだって、見捨てられちゃうじゃないかってこわい思いしてる。ウチにはあなたしかいないけど、あなたにはたくさんのシモベたちがいて。シモベたちに囲われているときには見向きもしないで、ウチの入りこむ隙間なんてないんだ。だのに暗がりにまみれた道のところ、独り歩いているあなたはなんだか、闇を振りまく蛍光灯で、眩しいのに寒くって、消したところで明かりが灯る。闇の点いたあなたを知るのはウチだけで、夜目のきくウチだから、暗がりにいてもだいじょうぶ。あなたを見失ったりはしないから。ほんとうに? そうやって、だからいっそう闇を振りまくんだね。いいよ。もっと試して。どこにいたって見つけてあげる。ウチのとりえはそれだけだから。もっと黒く塗りつぶして。
238:【限度】
どうだっていいよ。関係ないじゃん。アタシとあんたは別人だし、それぞれ好きなことだって嫌いなことだってちがう。話せば毎回衝突するし、至極しょうもないことで張り合うし。まあね。たしかに仲はわるくはないよ。特別いいとも思わないけど。彼氏ができた? ふうんいいんじゃない。はやく結婚したいとか言ってたし。だから関係ないんだって。どうでもいいっての。あんたが誰と好きあおうが、どこに引っ越そうが、そんなのアタシにゃ関係ないんだって。どうしてって、あー、なんで泣くんだよ。だってそうだろ。いまさらどうなるってんだよ。なにが変わるってんだよ。どこにいようと、どうなろうと、アタシはアタシだよ――おまえのずっと味方だよ。おまえの生き方なんざどうだっていいよ。アタシにゃ関係ないんだよ。
239:【感度】
ずるいと思う。ひどいと思う。どうしてあなただけいい思いしてワタシばっか岩のしたのわらじ虫みたいにジタバタもがかなきゃならないの。いいよねあなたは。なにもしなくたってみんなからチヤホヤされて誘われて、ちょっとみんなに愛想よくするだけでみんなのほうから花束みたいな好意を束で寄越してくれるんだから。どうせ悩みなんてないんでしょ。くっだらない悩みしかないんでしょ。誰にでもいい顔して、微笑んで、困ってるひとに手を差し伸べるのは当たり前のことで、どうしてそうしないのかなぁ、なんてそれをしたくともできない人間以下を眺めては、蔑みもせずに、すこしばかりの心を痛めるのでしょ。なんの躊躇もなく善意を振りまけるのでしょ。そうだよね、ぜったいに報われるんだもの。戸惑う必要なんてないじゃんね。でもね、ワタシはちがう。落ちた消しゴムを拾ってあげるのだって命がけだよ。ワタシなんかに触れられたら気分を害するんじゃないかっていつだってビクビクしてる。ワタシなんかに助けられたなんて、そっちのほうが汚名じゃないかって、めいわくなんじゃないかって、そんなふうに考えちゃうよ。うれしいわけないじゃんか。報われるわけなんかないじゃんか。礼儀としてのお礼を言われたって、でもあのひとたちみんな、顔ひきつってるじゃん。あなたはいいよ。そうやってなんでもかでも持てはやされて、チヤホヤされて、あなたが笑えばみんなもうれしい。でもね、ワタシはちがう。あなたとはちがう。なのにあなたはそんなワタシにさえ無邪気に笑顔を向けるでしょ。死ねばいいのに。ずるいよ、ひどいよ、どうしてそんな仕打ちするの。どうして岩を持ちあげて、陽射しで日陰を焼き尽くすような真似するの。焼き尽くされてなお死ねないワタシは、知っちゃったじゃない。陽射しのあたたかさを、そのまばゆいまでのふくよかさを。ずるいと思う。ひどいと思う。めちゃくちゃにしてやりたい。みんなのあなたを、ワタシはこの手でズタズタにしたい。あなたには、そうされるだけの罪がある。ワタシはこころの底からそう思う。あなたはワタシで穢れるべき。ワタシと同じところに落ちるべき。でも、けっきょくあなたは穢れない。ワタシでは、あなたに染みすらつくれない。
240:【湿度】
ほしくなっちゃったんだ。最終的にはね。さいしょはでも、ただいっしょにいたら楽しいだけだった。いつからかな。きっかけは、そう、おまえがアニメなんかにハマって、私とはべつの分野に興味津々になったときだ。私との時間よりもおまえ、アニメを観るほうを優先したろ。それだけならまだしもアニメ繋がりで知り合ったほかの連中とつるむようになった。悔しかったからな。嫉妬しないようにがんばった。無駄だったけどな。けっきょく胸に閊えて消えない気持ちをなんとか見抜かれないように、素っ気なさを醸すしかなかった。なに怒ってるのっつって、おまえはよく機嫌を損ねた。こっちのほうがよっぽど腹立たしいってのに、おまえときたら全開で被害者面だもんな。あれにはまいったよ。いっそ愛想を尽かしてくれりゃあよかったものを、それでもおまえは私を見限らなかった。感謝してるよ。どうもね。でも、それだけじゃ足りないんだ。足りなくなってしまった。今はもう、ただいっしょの時間を共有できるだけじゃダメなんだ。嫌なんだ、おまえが私の知らないことで埋もれていくのが。ホント、もう、耐えらんない。もっとほしい。時間も、経験も、これからの可能性だって、ぜんぶ私にくれないか。私はもう、ずいぶん前からおまえにすべてを投げ捨ててるぜ。ふざけちゃないさ。いや、こんなのふざけながらじゃなきゃ言えないよ。でも本気なんだ。おまえのぜんぶ、私に根こそぎ奪わせて。こわい? ごめんね。でも、そういう顔も、ぜんぶ好き。
※日々の記憶は断続的で、茫洋とした連なりを線で紡いでいくときばかりが記憶の輪郭を補強していく、それ以外はすべて泥水、このままじゃ泥の海ができちゃうよ。
241:【過度】
わたしがいちばんかわいいのに、男どもはあのコばかりを遠巻きにする。わたしにはベタベタ触れるくせして、あのコばかりが無菌室ですくすく育った花のよう。じゃあわたしは何なのかと考えたらなぜだか小学生のころの教室にあったサッカーボールを思いだす。男の子たちは昼休みになるとこぞってそれを奪いあい、ときに蹴って、回して、駆けまわる。チャイムが鳴ったら、あーたのしかった、の一言残し、サッカーボールは砂場のかげに置き去りで、まともに仕舞ってももらえない。なのにつぎの日になると、また男の子たちはサッカーボールを奪いあい、そして蹴って、回して、あーすっきり。べつにいいよ。不満はない。全世界の男どもがわたしを奪いあえばいいのだ。それなのにどうしてあの男はサッカーボールには振り向きもせずに、無菌室で育ったくそつまらない花なんぞを愛でているのだろう。あんな花のどこがいいのか、蹴ったら一発で散ってしまうようなあの花のどこが。わたしはその花と仲良くなった。無菌室のそとには連れだせないから、わたしのほうでわざわざ花に扮した。わたしのほうが優れていると間近で眺めてそう思った。ブーケひとつつくれやしない。海に行っても泳げない。なのにどうしてこいつはけろっとしているのだろう。なんでもないような顔で、わたしのことを褒めていられるのだろう。なんとか花の歪むところが見たかった。わたしは花にとってのミツバチを、その男を、誘惑した。たくさんの嘘をつき、たくさんの男どもを使って、ミツバチに、その花には毒があると吹きこんだ。わたしはミツバチに、その腹から生える針を使わせることに成功した。ミツバチは散った。あとには、ミツバチの訪れなくなった無菌室の花だけが残った。元の、孤独な、高嶺の花だ。わたしは花に、針をしきりに刺そうとしているミツバチの情けない姿の納まった動画を見せた。興信所を使ったと嘘を言った。花は、そう、と言って、それを眺めた。「言ってくれればよかったのに」花はなぜか微笑んだ。「これ、相手、あなたでしょ。わかるよ。ほら、ここのところ。ホクロがある」ミツバチのしたで針を刺されている花モドキの腰のところ、わたしも知らなかったホクロがあった。「好きだったんだね。ごめんね、気づいてあげられなくて」なぜか花はいつもと変わらぬ眼差しで、こちらにそっとほころびだ。「おめでとう。しあわせになってね」言ったあとで、彼女の目元からは光の筋が垂れさがった。わたしは途端に息ができなくなった。無菌室などではなかった。否、無菌室ではあるだろう。菌ですら生きていられない瘴気にここは満ちている。関わるべきではなかった。わたしはいまさらのように合点した。男どもは正しかった。コレは、遠巻きに眺めているのが正解だ。しかし、それに気づいてしまった今、コレに触れ、じかに瘴気を吸ってしまったわたしからは、可憐に咲きほこるこの花から逃れる意思はいっさい失われているのだった。「そうだ、ねえ、あす、また教えて」息を呑んだまま身動きのとれなくなったこちらに花は言った。「私もつくれるようになりたいの。あなたみたいなきれいなブーケ」わたしは、うん、と言うほかないのだった。
242:【エクレアをぼくに‐も‐ひとつおくれや】
はい。というわけで、百合アンソロジー「エクレア」を読みました。さっそく影響を受けました。受けちゃいました。えへへ。おすすめは、天野しゅにんたさんの「人間的なエモーション」です。
余談2:【ワイロいずクソ】
HONG10の進化の止まらなさは、勝ち負けで決まらない価値がある。それに比べてスポンサーの傲慢さにはうんざりさせられる。三年前から顕著だったが、ことしのはない。
243:【どうしてぼくはぼくなんだ……】
明け方に、「あの娘にキスと白百合を」の既刊五巻分を読んだのさ。ウツウツなけだるさに埋もれた目覚めだったのだがね、読み終わったときには、もう、それはそれはすばらしい心持ちで、いくひしのなかの乙女どもが、「わたしもそういうのがいいーー!!!」と総動員でがなり散らしておったのだと。それはそれは、もう、すばらしい心持ちは、十六時間経ったいまでも健在で、いくひしのなかの乙女どもが、「いいなぁーーいいなぁーーやっぱりわたしもそういうのがいいーーー!!!」とやはりがなり散らしておるのだった。
244:【普及からの融解】
登場しはじめのころインターネットは、王様の耳はロバの耳と叫ぶための穴としてその役割を機能させていた。現実ではないが、どこかできっと日常のふうけいと繋がっている。いわゆる社会の影としての一面があった。ところがインターネットが普及し、言葉を覚える前からすでにスマホをいじりインターネットにアクセスする赤子がとりたてて珍しくもなんともない時代にあって、いまはもう、若い世代たちにとってインターネットは実存する社会となんら変わりない存在となっている。現実と地続きで繋がっているのではなく、それもまた現実の一部として溶け込んでいる。ひとむかし前ではインターネット内での振る舞いは、現実のじぶんとは大きくかけはなれたものとして扱われてきた。現実で溜めこんだ鬱憤を吐きだすための肥え溜めとして機能したわけだが、いまはそうすることで訪れるだろうそう遠くない未来での負債を誰もが容易に想像できるようになった。インターネット内のじぶんも、飽くまで現実のじぶんとして、じかに影響を受けるのだとする認識をみなが、とくに若い世代は共有しはじめている。匿名か否かは関係がない。ひとむかし前ではネット弁慶なる言葉がなんの違和感もなく悪口として成立していた。しかし現状、それは他人へのそねみの域をではしない。ひるがえっては、物理世界での振る舞いよりもさきに、インターネットのなかにおいて輝かしいじぶんを演じることができたならば、それは現実であってもヒーローになれるのだとする逆転現象がいまはすでに起こりはじめている。もっと言えば、インターネットを虚構として扱い、これくらいならだいじょうぶだろうと大袈裟な物言いでひとを騙すようなことをしていると、物理世界においてもそういう人物だとする認識を、段階を踏まずに直結して持たれるようになる。ここのところの認識の切り替えが、企業を含めて、インターネットの普及したころの時代に生きた人々は、ややできていないのではないか、とさいきんちょくちょく思うようになったけん。クリエーターも例外ではないけんね。もうちいとば意識してみてもよかよ。ねえいくひし、きみのことやけんね、ちゃんと聞いてた?
245:【みんな、もすこしおちつけ】
内なる乙女たちが未だにぎゃーぎゃーかしましく、わたしもああいうのがよかったんですけどー、と責めたててくる。ぼくの責任なのだろうか。そういう生き方をしたのはむしろきみたちのほうではないか。説得を試みたが、それがよくなかったようだ。彼女たちはいよいよを以ってぼくをこてんぱんに詰りだした。ぼくは大いに傷ついた。たしかにね。しょうしょうというか、無視するにはいささか過剰に、彼女たちは苦難の道を辿ってきた。そういう顛末の物語に登場していた。しかしそれは彼女たちの人生であり、ぼくの人生ではない。ぼくはただ彼女たちの人生を俯瞰的に観察し、そしてそれを文字に落としこんだだけだ。わたしたちの人生をなにかってに盗み書きしてんのよと責められるのならば、傷つきはすれど素直に謝罪の言葉をつむぎたくもある。ところが彼女たちは、あろうことか、じぶんたちで歩いた道のことまでぼくのせいにしている。その道を辿ったのはほかでもない、あなたたちだ。断じてぼくのせいではない。正論を吐きつけたところ、「あン? もっかい言ってみろし」彼女たちは激高した。なんで! ぼくは憤懣やるかたない。
246:【見んな、とすこしの躾】
内なる彼らがわたしに抗議の念を発している。なにゆえぼくたちはこうまでも情けないのかと。はいはいごめんなさいね、わたしがわるうござんした。これでいいでしょほら、もう喚くのやめて。お願いするも、彼らは黙ることを知らない。わたしの堪忍袋の緒がほとほと緩んだのにはそういうわけがある。誓って理不尽な怒りではないことをここに表明させてほしい。わたしは言った。知るかばか、ズドンと。「じぶんの性根が曲がってんのをひとのせいにすんな。なんで情けないのか? おまえがおまえだからだろ、それ以外に理由はない。以上、異論は受けつけない」ぴしゃりと言ってのけると、いっしゅんの静寂のあと、百倍になって抗議の念が押し寄せてきた。そんな正論はぼくらこそ受けつけない、なんだってあなたはぼくたちをこうまでも情けないままに生みだしたのか、断じて許される所業ではない、まるで悪魔だ。彼らの言い分を要約するに、そういう恨み節が籠められていた。情けないオスどもの情けない言い分である。いとあわれなり。わたしは言った。「まるでじゃねえ悪魔だ。文句あっか、わたしは悪魔だ! 悪魔が悪を働いてなにがわるい、わたしがてめぇらを奈落に突き落としてなにがわるい。文句あんなら抗えよ。がむしゃらに奈落の底から這いあがってみせろよ。いいか、わたしはな、何度でも突き落とすぞ。ああそうだとも、おまえらが情けないのは、ぜんぶがぜんぶわたしのせいだ。だったらどうする。そうして奈落の底から喉を枯らすだけか? まさに情けないの見本市だな、雁首揃えてほんとなっさけねぇでやんの。はっは、ざまあねぇな」煽った。煽ってやった。彼らは黙った。そうするほかないだろう。喚けば喚くだけみじめであり、わたしを余計に楽しませるだけだ。「なんだ、もう終わりか? ただ喚きつづけることもできねぇなんて、負け犬にもなれやしねぇ。ほんと愉快なコたちでちゅねー」言ってからわたしは目のしたにちからを籠め、「どうした、喚けよ」シンと静まりかえった奈落の底へ、声を落とした。反響音のひとつもない。静寂が闇の底にたむろしている。
247:【夢】
いくひしの夢は、大金持ちになって、「なんで売れてないんだ、こんなにおもちろいのに!」という作品をつくりだす作家さんたちを見境なく養って、好きなだけおもちろい物語を紡いでもらうことです。お金持ちになるぞ。
248:【無限の住人】
沙村広明さんの漫画「無限の住人」はいくひしにとって、ジャンルとしての時代物への抵抗感を完膚なきまでに打ち砕き、その破片までをも完封勝利がごとく殲滅してくれた非常に思い入れ深い作品である。たしか、ちょうど北野武監督の映画「座頭市」を観返していて、その圧倒的なテンポの良さに遅まきながら舌を巻いた矢先での、固定観念の破壊からの木端微塵を体験した。時代物にタップダンスかよ、という笑いからの、時代物に不死身かよ、それもファンタジィ寄りでなく!? そんなんありですか、みたいな幼稚な所感を、なんの違和感なく当時のいくひしはひとつの革新として感受した。そんな漫画「無限の住人」をこさえてくれた沙村広明さんの最新作「波よ聞いてくれ」を読んだ。一巻、二巻はすでに読んでいたのだが、たしかにおもしろいが、そこまで絶賛できるものではなかった。しかし! しかーし! 2016年12月11日現在、最新刊として発売されていた三巻に目を通し、いくひしは大いに脳汁噴きだした。ブシャーッ! おもしろい! 絶賛したい! させてくれ!!! キャラだけでもおもしろいのに、作中作までおもしろいなんてどうかしてるぜ! なにより三巻からはこれまであった恋愛要素がほぼカットされている。サービスとして主人公とそれを支えるアシスタント女子との友情があざとく百合として描かれているが、それがまたなんとも心地よく、あざとさ上等、あざとさこそあでやかさのあらたかさ、とでも言わんばかりの堂々たる面目、絶妙な塩梅でごじゃった。やっぱり詰め込み過ぎはよくないね。芯がスって一本通ってるほうがよいと思う。それはたとえば、makotoji先生の「月が爆発したので(ラジオDJ編)」だったりする。キャラがラジオを垂れ流しているだけなのだけれど、ただそれだけのことが上質な脳汁をダクダク流させる。すばらしい技術であり、才能であり、原石をガリガリ爪で削っていくような、荒々しい刃の鋭さを、いくひしは全身で感じるのであった。
249:【たいへんにしつれい】
天野しゅにんたさんの「philosophia」(元は同人作品)がすばらしすぎて、どうしてこんな才能を無駄に使い潰すような真似をするんだ、と、ほかの天野さんの商業作品を読んで、とても悔しく思う。ちがうんだ、このひとはもっとすごいものがつくれるんだ、ほかのもたしかにおもろいけど、なんかちがう! うがー! いくひしはたいへん失礼な憤りに胸を焼かれている。ごめんなさい。でも、うがーってなる! そうじゃろ!
250:【ホントに? なんかふあんだ】
革命は革命を目的にしてはならない。調和の目指すところにより成し遂げられる変化であるべきだ。しかし調和に囚われてはいけない。調和は停滞の前触れであり、革命と同じく、そこを目的にしてはならない。
※日々は眠りによって区切られていく、眠らぬかぎり日はつづく。
251:【たぶんこれは駄文】
えーっとですね。まあ、なんだ。最新作の進捗についてぽつりぽつりと語っていこうかと思ったんだけれども、いやーまいった。進んでない、まったくこれっぽっちも進んでない。つむいでないのだから当然だ。もうね、これだけで語り終えてしまうのですわ。えーい、笑ってくれ。さんざん偉そうなことのたまいてきたいくひしさんなのですがね、しょせんはえぇえぇこんなもんですよ。ろくに作品、完結させることもできないロクデナシなわけですよ。だぁー、まぁ、しかし、これにはふかーいワケがありまして、えぇえぇみなさんご存じのとおり、いくひしはいま人生のどん底でいもしない鬼たちへ向けてソーラン節を踊っているわけですよ。やーれん、そーらん、そーらん、コーラン、ほーらん、よお、ハイハイ! ってなんか途中でどっかの聖典が紛れこんだ気もしないではないが、さすがに四六時中ソーラン節を踊ってたら頭のなかが空っぽになりますよ、物語なんてどっかにいっちゃいますよ、創作意欲ごとどっかにいっちゃいますよ、置いてきぼりですよ、虚無ですよ。だからまあこれは愚痴だと思って聞いてほしいのですがね、いくひしはまあ、いま、ものっそいひと肌恋しいわけですよ。だってなんかそういう空気じゃん? 年の瀬もちかくなってきたわけじゃん? みんなはそう、知らんのかもしれんけれど、人生のどん底ってやつぁ、それはそれはさびしいところでね。ひとっこ一人いやしねぇ。さすがにね。これではね。万年孤独ウェルカムマンのいくひしさんも堪えるわけですよ。めちゃくそさびしいわけですよ。はぁ……少佐にあいたい。会ったこととかないんだけどね。でも、会いたいよ。草薙素子にいくひしは会いたい。会って、「なにぼさってとしている。置いてくわよ」って人生のどん底から連れだしてほしい。むしろいくひし、少佐になりたい。ああいうステキ美人になりたいよ。どうしていくひしはこんなボサったいざんねん擬人に育ってしまったのだろう。ざんねんの擬人化したような人間になってしまったのだろう。広辞苑でざんねんの項目ひらいてみ? 「いくひし、またはいくひしのようなもの」って書かれてるでしょ? 書かれてない? ほらきた、ざんねん。でもさ、よく考えたらざんねんってのは、どっかで期待していてその期待をわるい意味で裏切られたからざんねんだと感じるわけで、それってもしかしたらいくひしが思うよりもそうそうわるい状態ではないのかもしれない。そう考えたらほら、すこしだけ前向きに生きていけそうじゃん? え、そうじゃない? 前向きのフリをしているだけでそれはくるって反転してうしろ歩きをしているだけで、やっぱりけっきょくは後退しているって? うっせぇ! おめぇらが前向けっつったからまえ向いただけだろ! ちょっとくらいいくひしの努力みとめてよ! なーんて怒鳴ってみても無駄に響いてむなしいだけで、あーあ、こんなことならもっといろいろがんばらなきゃよかった。がんばっただけ無駄ならがんばらないほうがよかった。あーあ。ほんと、あーあとしか言えんわ。なーんも残ってないんだもん。からっぽ。中身がない。うすっぺらい。カスが息吸って飯くってクソ垂れ流しているみたいなもん。それがいくひしです。生きててごめんよってなるでしょ。ホント申しわけない。もらってくれるならいくらでもあげるよこんな身体。でもね、生きたいのよ。死にたくない。消えたくない。まっとうに、すこしでも、いまよりマシに生きていたい。だからまずはつくりかけの物語どもをなんとか閉じきって、結びきって、んで小瓶につめてネットの海に放流するよ。それがまっとうか否かは知らんけどさ。それくらいしかないんだもん。いくひしに残せるようなものなんて。この世に残しておきたいと思えるようなものなんて、それくらいしかさ。うぅー。なんかしめっぽくなってしまった。まあ愚痴だしね。これくらいはね。いいよね。たまにはさ。弱音だって吐きたくなるっしょ。え? ぜんぜんたまにじゃないって? 基本形だって? またまたー。んなこと言ってホントは心配してくれてんでしょ? そういうあんたみたいのがいるからさ。甘えてたまに弱気になれんのよ。弱気になったらあとはもう、強気になるしかないわけじゃん? いつもいい機会をくれてホントなんてーのかなぁ、うん、恥ずかしいけど言わせてくれ。ホントありがためいわくだっつーの! しかしまあ、欲を言えばもすこしいくひしを評価してくれてもよいのだぜ? 作品のことはきらいになっても、いくひしのことは嫌いにならないでね。いくひしとのやくそく。忘れんじゃねーぞ。
252:【いくひし、アホになる】
「なあなあ。出オチで申しわけないんだが、いいかな」「なにさ」「アホになるってかおまえ、アホだろ」「んん……っ!?」「いやいや、なにどういうことですかみたいな顔してんだよ、ちがうじゃん、そうじゃないじゃん、元からおまえアホじゃん、アホになるってかなってんじゃん、夢叶ってんじゃん、やったじゃん」「やったー!……のか? え、待って待って、さっきからおかしい。まるでいくひしがアホみたいに聞こえる」「だってアホじゃん」「え、え、いくひしだよ? 【天才といえばアノ!】のいくひしさんですよ?」「ナスといえばビ! みたいなノリで言われてもな」「なにそのノリっ!!?」「そういや思いだしたわ、さいきんおまえに聞かせたい名言があってさ」「めっちゃウヤムヤ! いくひしすでにアホ説が定説になってない? ヤだよ、いくひしだってアホになれるだけの余白あるよ! 猶予あるよ! 退化させて!」「うん、でな。名言聞かせる前にすこし前置きさせてほしいんだが」「さらっと流しすぎじゃない? 慣れてるからいいけどさ」「ちょっと前にほら、流行ったじゃん、アドガー心理学」「アドラーでしょ、それを言うならアドラーでしょ、アホにツッコまれてますからね、散々見下した相手にあなたツッコまれてますからね」「うん。で、そこそこ売れた本で、ほら、あったじゃん。【嫌われる幽鬼】ってやつ」「そりゃ嫌われるでしょ、幽鬼だもん、嫌われて当然ってか、えっ、好かれる要素ある?」「うそうそ、勇気ね勇気。字面でしか伝わらんジョークよく解ったな」「アホじゃないですからね!」「うん。で、その嫌われる勇気ってのは、まあ一理あるとは思うんだけど、でもさ」「あ、もうそういう扱いなのね、いくひし、そういう感じで流されるアレなのね」「一理あるとは思うんだけど、でもあたしはむしろ、嫌われる勇気よりも【あなたには嫌われたくないって伝える勇気】のほうがよっぽどだいじだと思うんだよな」「おっとー。思いのほかまっとうな発言が飛びだしたぞー」「だってそうじゃん? 嫌われたっていいよべつに好かれようなんて思ってねーし、なんて強がってるやつよりも、ホントはあなたに嫌われたくない、あなたにだけはほんのすこしでいいから好かれていたいってそう言われたほうが気持ちいいし、じっさい、そういうふうに相手に伝えられる人間のほうが勇気ある気しない? 想いがつよければつよいだけ好意を伝えるってのはむつかしいわけで。考えてもみればほら、拒まれたときに負う傷心ときたら、嫌われたっていいよっつって逆に好かれちゃったときの二倍くらいは深いわけだし」「ふつうに二倍じゃすまなくない?」「アホは黙ってて。で、まあ最初に言ったように、おまえに聞かせたい名言ってのが、だから、さっき言ったように【嫌われたくないと伝える勇気】ってことなんだけど、でもなあ、よく考えたら、これ、おまえよく言ってんだよなぁ」「…………」「なあって。言ってるよな? なに黙ってんだよ、よく言ってんじゃんおまえ」「うぅ……そうね、言ってるかな。うんうん、いくひしよく言ってる。嫌われたくないもん。好かれたいもん。愛されたいし、褒めたたえられたいし、あがめたてまつられたいもん。神って言われたい」「な?」「……んが?」「トビキリの名言のはずが、おまえが口にした途端、ありえんくらいの意地汚さだ」「いじきたないって言うな!」「なら、ウス汚いでもいい」「見た目にふれるゅんじゃねー!」「アホが噛んでら」「うがー! いろいろと言い逃れできないからやめろーー!」「そこは素直なのな。まあ、とにかく、だからおまえはアホなんだ」「だからってなにーーー???」「意地汚くて、ウス汚くて、意外なところで素直。略してアホ」「どー!こー!をー!略ー! 言えーーー!!!」「アホはアホだな」「てか、あれ? あのさ、え、あれ? ひとついい?」「なに」「きみ……ダレ……?」ああほほほほほおほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほおほほっほほほほおほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほおほほっほほほほおほほほほおほおほほほほほほほ「え、やだコワい」「なに寸劇してんだよ、あたし何も言ってねーじゃん」「シーっ! そこはちょっと黙っといてよ、ノってきてよ被せてよぅ!」「びっくりしたわぁ。いきなり、【オホホホホ】だもんな」「あほほほほぉ、ですぅー」「こまけぇな、どっちでもいいわ」「これだからアホは、みたいな目で見ないでくれません?」「じゃあどんな目で見りゃいいんだよ」「ハートマーク浮かべてよ」「うわ、キモチわる」「アホよりつらい……むしろアホでいいです、アホって言って!」「あーあ。ついに認めやがった」「いくひし、アホになりました」「冷やし中華はじめましたみたいに言うなや」「あ、アイス食べたい」「微妙に脈絡つくんなや、ツッコミづらいわ」「アホですから」「開き直るな、もういいわ」「出オチ、じゃなくって、出前とってもいいですか?」「中途半端なオチつくるのやめなさい」
253:【恋ダンス】
じつのところあのダンスが流行る理由が解らない。誤解しないでほしい。ディスではない。ドラマのEDを通してあのダンスを初めて観たときからおれさまはあれのトリコになっている。しかしあのダンスはいわゆるアイドルの踊りではない。カウントで音をとらないのでフリを覚えるのは容易ではない。素人にダンスを教える際、通常の段取りでは、ワンツースリーフォーと、8カウントでリズムを確認しながらフリを身体に馴染ませ、つぎにそれを曲にあわせていく。しかし恋ダンスの場合は、まずは曲から覚える。おそらくこの通常の段取りとは逆行したところにブームの火つけとして欠かせない要素があるのではないかと個人的にはにらんでいる。ところでパフュームというアーティストをご存じだろうか。三人組の女性がテクノを歌いながらダンスを披露するパフォーマンスで国内外を問わず人気のあるグループだ。彼女たちの踊りがむつかしそうだ、というのは人気の高さの割にYOUTUBE内で彼女たちの曲を「踊ってみた」動画がすくないことを引きあいにだすまでもなく一見して分かってもらえるはずだ。恋ダンスの難易度はパフュームのフリ付けと同程度のものだと言える。ではなぜこれだけ多くの人々をじっさいに躍らせるところまで魅了するのか。一つは、これを広めた人物、すなわち新垣結衣さんの非凡なダンスのうまさにある。ハッキリ言って恋ダンスのEDにかぎり、彼女のダンスはそこらのプロを遥かに凌ぐ表現力(やわらかさ)を発揮している。本物としての踊りがそこにはある(若干の照れくささを隠しきれていないところなどはとくにプロには真似できない)。ゆえに、嘘偽りのない百パーセントのお手本として、世に膾炙させる準備が最初から万端に整っていた。すなわちカリスマが躍っているので踊りたくなる、の理論である。つぎに、フリ付けのシンプルさがあげられる。難易度が高いと評価したが、それは飽くまでフリ付けとしてのリズムと流れが、である。ひとつひとつの動きは幼稚園児でも可能な動きだ。ゆえにスゴい。平易な文章で高等な物語を紡ぎだすのに似た驚きがある。あれを振りつけたひとは、ダンス界の文豪だと評価したい。最後に、フリ付けの要である、音取りについてである。ダンスにおいてもっとも個性のでるところは、じつは、どんな動きをするのか、ではなく、どの音を聴くのか、にある。リズム感と似ているが、すこしちがく、グルーブの有無に繋がってくるものの、それともまた異なる。ダンスを長く嗜んでいる者でもここのところを意識して踊っている者はそう多くはない。恋ダンスでは基本、メロディーたる歌詞にそってフリ付けが編まれているが、ところどころで効果音(ドラム音)がまじる。その効果音の抜き取り具合が絶妙であり、まさにここがフリを覚えるためのとっかかりになっており、さらには踊りそのもののポイントとなっている。もし初めから最後まで歌詞にそっていれば、ここまで世に広く膾炙しなかっただろう。しかし通常、世に広く浸透するフリ付けは、歌詞を表現しきったものが主流であり、ダンスの醍醐味である「音を拾いあげる」部分は極力排される傾向にある。そういう意味では、音楽そのもののちからも見逃せない(音を拾いあげることが快感として知覚され、世に広く風靡したフリ付けとして代表的なのは、ピンクレディーの「UFO」であろう。ともあれあれは動きの奇抜さのほうが魅力になっているので、ここで比較するのはやや的を外しているかもしれない)。とっちらかってきたのでここいらでまとめよう。恋ダンスが世に広く浸透した理由である。しょうじき解らない、というのが本音だ。しかし新垣結衣さんの動画を観ていて、基本的には踊りたい、楽しそうだ、と純粋に思えるところがいちばんの大きな要因ではないかと思う。分析しきれなかったので最後はふんわりとした感想で終わろう。踊れたらかっこいいだとか、かわいいだとか、そういうことでなく、ただ楽しそうだ。これに尽きる。ダンスは楽しい。見る者に一発でそう思わせる新垣結衣さんの表現力(やわらかさ)には脱帽というか、脱皮するよりないのである。
254:【それはだめ】
長編のつもりが中編、または短編になる分にはよい。称揚すべきまとまりのよさが作品に宿っている証だ。しかし短編のつもりが中編、長編になるのは、単にまとまりきれていない場合が多い。ダラダラと本来辿る物語から外れ、迷子になっている。迷子になりながらもときおり、彷徨ったからこそ出会えるうつくしい景色に行き当たることがある。偶然の神秘だが、それを期待してはいけない。放浪と旅はちがう。物語はよき旅であるべきだ。目的地を見失ってはいけない。なあいくひし。あんたいつまで迷子やってるつもり?
255:【前以っていまここで】
すきです。だいすきです。いまはまだ名も知らない、見たこともない、いるのかすらしらないあなたのことが、私、だいすきです。きっと未来のある時期では、私はあなたのことをしり、その存在を意識し、そして到底まじわることのできない想いに肉体を切り開かれるような痛みに悶えていることでしょう。きっとその口で、すきだとためしに言うこともできないほどに、あなたのことがすきですきでたまらないのだと思います。未来の私に代わって、だからいまここで言っておきますね。すきです。だいすきです。この肉体の細胞単位、粘液単位であなたに差しだす準備は整っています。いつでも構いません。すきなように扱ってください。この肉体ごと、私という存在を、使い捨ててあげてください。たいせつにしないでください。私にそのような価値はありません。あなたに触れられるだけで、意識されるだけで、細胞を、粘液を、その存在の表層にほんのすこし付着させることができただけで、私という存在は、その意味をまっとうできるのです。殺してほしいほどにすきですが、あなたにそこまでの期待は寄せていません。あなたの手を汚させる覚悟までは持てそうにないのです。どうか私のために、使い捨ててあげてください。ぞんざいに、完膚なきまでに、とまどいのいっさいを抱かずに済むように、サクランボの種くらいの気軽さで、舌のうえでころがして、甘い味だけすすったら、あとは気まぐれに唾液といっしょに吐き捨ててください。すきです。だいすきです。その想いが痛みに思えるほどに、あなたの存在が苦痛で苦痛で仕方がなく思えるほどに、私はあなたのことがだいすきです。いまから嗚呼、楽しみですね。私、待ってます。あなたに出会えるそのときを。グジュグジュに腐り、傷つくそのときまで。
256:【ランキング】
このマンガがすごい!というランキングがあるのをご存じでしょうか。ご存じでしょう。そりゃそうでしょう、いまさら、ことさら、こうして前置きするまでもないくらいに名の通った宝島社主催のランキングでござるね。うは。まいどのことでアレですがね、まあいくひしはへそまがりのこんこんチキチキなわけでして、ランキングなんていったいどこのランナーズハイだよ、どこの俊足王だよ、ハイキングかよ、なーん、ちんごんにゃーん、ってそりゃライオンキングだろ、みたいなね。端的に、信用してないわけですよ。あ、これはあれだね、最初に落としてからあげるツンデレ話法ですね、ってもはや馴染みのみなさまには見抜かれてござろうが、まあそうね。世のランキングなんてけっきょくそれをごり押ししたいだけの勢力がふるうピーアールでしょ。なんかやらしいR指定みたいな語感からしていかがわしい匂いがふんぷんしてるでしょ、疑ってかかったほうが身のためでしょ? なーんてまあ、言いながら2017年度の「このマンガがすごい!」の作品を、読んでやってもいーけどー? なんて無意味に高みの見物きぶんで購てきたわけですよ、さいきんご用達の抹茶ラテの買いだめがてらに。女性部門二位の「春の呪い」が2016年12月24日すなわち本日、ちょうど第二巻の発売日でもありまして、さっそくとばかりにほかのマンガのついでに、しょうがねぇなあ、そんなに言うならおまえもウチ、くる? みたいなね、あご振ってちょいとばかしナイスガイのふんいき醸しながら、いぶし銀をまき散らしながら、リュックサックぱんぱんにして帰ってきたわけですよ。クリスマスイブに少女漫画、BL、GL、その他有象無象のマンガを万札対価にこれでもかと買いあさっている人物がいたら間違いなく万年孤独ウェルカムマンですよ、いくひしまんですよ。うら寂しいどころか、万札消えて懐までさびしくなっちゃってるひとですよ。アホだなぁもう我ながら! そのお金であなたもっとほかに有意義な体験できるよ? すくなくとも美味しいお肉たべられるよ? でもいくひしはこころのなかで小馬鹿にしているランキングトップのマンガがほしかったんだもん! したらなんか! このマンガがすごい!ってなった! そのマンガがそんなにすごいんですか~? へぇ~? みたいないくひしさんも、ここぞとばかりにこのマンガがすごいです!ってなっちゃった! でもしかたなくない? めっちゃらって、おもろいんだもん! 抹茶ラテに合うんだもん! うわー、つづきまだかなぁとかおもむろにいま! ホントこれパチパチ打ちながら気づいたんだけど二巻で完結なんですか!? え? だって、え? まだ続く余地ありますよ? こっからが本番なんじゃないんですか? え? え? うそでしょ? ぽかーんとしているいくひさんがここにおりますが、あれぇちょっと時間ちょうだいね、せっかく用意してたオチがこれじゃ捻りだせないじゃん、どうしたこった。困ったので、奥義「いましばらくそのままでおまちください」を発動し、いくひしはこのマンガがすごい!女性部門ランキング1位の「金の国水の国」を読むことにする。しばし待たれよ。しばし待ったかい? 読んださ。読み終わってしまったさ。感想かい? 言うまでもないとは思うのだが、いいだろう。興奮するたぐいのおもしろさではないね。うそでも、おもしろーいい!!ってなる内容ではない。でもね。森に湧く小川のせせらぎのような、真夏の木漏れ日のような、静かなる安らぎに満ちている。静寂ではない。どこからか小鳥たちのさえずりが聞こえ、ちょろちょろと流れる川の水の音がする。穏やかでありながらにして、反面、その物語の濃さときたらない!!! いやびっくりしたわ。なにこの濃さ? いったい何本の物語を費やしてるの? 圧縮しすぎじゃない? 物語のおせんべいでもつくりたいのかな? 春の呪いがキャラクターの濃さに重きを置いているのに対し、こちらは飽くまでストーリーに重きをおいている。ただし展開のためのキャラクターではなく、きちんとキャラクターがあってこその展開になっている。王の頭痛とそれをネタにした右大臣と左大臣との駆け引きは、本編でこそ明確にされていなかったが、まつりごとの裏腹な淀みを王道に、しかし暗に表現していて、ただ穏やかなだけではない物語に仕上がっている。ハッピーエンドは、数々の暗黒面によってその輝きを増すのである。しかし! 敢えて言おう! やはりいくひしは春の呪いのほうが、それに登場する主人公、夏美さんがーーー!!! なんだ!この!よくわからん!ムラムラは!!! はい。金の国水の国とはちがって、春の呪いのほうは、読後たくさん興奮するマンガです。わがままを言えばなんだろうなー。五年後の話で、夏美さんの弟が夏美さんを忘れられずに探しに出て、そして紆余曲折、思春期のリビドーを暴走させちゃう話が読みたいなー。ハハハ。マンガ読んでる場合じゃねーだろって? 新作がんばります……。
257:【声にだして笑っちゃう】
プリマックス七巻が神がかっている。三徹の眠気が吹き飛んだ。きょういろいろ読んだマンガの感動から感想からなにからなにまで一読して持ってかれちゃったよ、なにしてくれてんだよ、おまえさんあれかい、トイレの水かなにかですか? 狂気が紙一重で諧謔になっている。笑っちゃいけないのに笑ってしまう。この神秘はいまのところ暴かれる予定はない。このおもしろさは謎である。
258:【瞑想トリップ120%】
Olexesh - Treppenhaus Authentic (INSTRUMENTAL)
259:【立方音】
M-lyve - OFTEN Litefeet Remixes
260:【実感】
生きているという実感とは、すなわち過去を振り返ったときに時間の経過を感じられるかということで(十年が一瞬に感じるのも、一瞬が永遠に感じられるのも、いずれも時間の経過の明瞭な質感を伴う)、いかに濃い時間を過ごしたか否かにあると言える。濃い時間と薄い時間のメリハリが、人生という映画をコマ割りする。とすると、情報量の多寡が重要になってくる。その点でいえばいくひしの時間は止まったままいっさいがナメクジ。いっそのこと頭から塩に突っこみたい。
※ヒビ割ることなく生まれてくるヒナはない。
261:【CHILLING】
思考を煮詰める作業を鍛冶に置き換えると、閃きとは、叩きあげられ赤く熱を帯びた鉄の塊を、水に浸けて一気に冷ますときの、あの、ジュっという音だと呼べる。裏から言えば、閃きに必要なのは、ひたすらに鉄を叩き、煮詰めることではなく、水のような、鉄とは一見なんの関係もない混沌とした情報の吹き溜まりに、一時的に身を投じ、熱くなった思考を瞬間的に冷ますことなのだ。
262:【ざんげ】
物理世界で愚痴を吐露してしまいました。ゲロ並みにとろとろでした。聞かせた相手がとくに親しくもない相手だったこともあり、また、べつだん口にするほどもでない内容、というか愚痴の核たる登場人物たちにはむしろ日頃助けてもらっているだけに罪悪感はんぱないです。わるぐちはこれだからいけすかねぇ(と言いながらのわるくちのわるくち)。なんて言いつつ、そんな人物あなたいるの?と、ふと我に返る2016年12月28日、新作はまだ終わらない。
263:【むしろ逆】
多重構造の物語をいくひしは推しているが、それはなにも物語の多機能化を推奨しているわけではない。ことごとく逆であり、これまで積み重ねられてきた物語における約束事を極力排し、可能なかぎり圧縮してできた余白に、ほかの物語を詰め、隙間ができないように編みこもう、という物語の生産性(付加価値)の向上を促しているのである。それはどこかムーアの法則に似ている。もっとも、集積回路のような基盤は物語(虚構)にはない。二倍どころか何万倍にも圧縮が可能だ。
264:【ちくび】
コダさん著のマンガ「漫画家とヤクザ」を読んだ。エロぴくって感じがする。ただえっちぃだけじゃない。エロスではあるのに下品じゃないのが特質だ。さいきん思うのは、成人向け漫画でも乳首への愛撫が丁寧に描写されているものはエロスの成分がよりつよい傾向にある点だ。そしてそれら漫画の作者さんは基本的に女性が多いように感じる。性別は不明だがたとえば、緑のルーペさん、関谷あさみさん、駄菓子さん、きいさん、内藤らぶかさん、ひげなむちさん、ディビさん、などはおそらく女のひとなんじゃないのかなぁと思わせる構図が多い。みなさん、とても乳首描写が巧みでいらっしゃって、もちろんいずれの作家さんたちのつむぐ作品はどれも格別にえっちぃです。
265:【こんぴてんしー】
進捗挽回ボーダーラインがピコピコ赤く点滅している2016年12月30日の朝7:00ですが、およそ四時間くらいずっと、「コンピテンシー」「ハイパフォーマー」のふたつをネット検索して、でてきた項目をひたすら上から順に読み漁っていた。いわずもがな新作にはいっさい関係のない情報で、ほとんどというか十割現実逃避のなにものでもないのだけれど、うーん、思うのは、人材の存在意義を「組織を機能させるためのコマ」として考えるならば、業績の高いひとの行動様式を分析し、それに類似した行動をとっている人物を高く評価する、またはそうした行動様式をほかの社員に標準化させる、というコンピテンシーの概念は、人材発掘および開発において、一定の成果を期待できるとは思う。いっぽうで、人材を、組織を成長させるためのコアだと考えるならば、コンピテンシーの概念はむしろ、組織の硬化をまねく失策になるのではないかと危惧するものだ。目先の利益の最大化をもたらすハイパフォーマーの存在は、短期的には組織を成長させるが、長期的には容易には取り除くことのできない問題を腫瘍のように抱え込む因子になっているように感じる。それはたとえば、短期的な視野ではタカ派の政策のほうが成果をもたらすが、長期的にはハト派の政策のほうがより安定した成果を発揮できる点と似ていると呼べる。本質を理解して仕事をすると、ときに十年先、百年先を見据えての行動選択を迫られるときが往々にして訪れるものだ。そしてそこから逆算し、今現在しなくてはならないこと、またはしてはならないことを規定していかねばならない。基本的にそうした行動は、成果に結びつくために長い時間が必要だ。要所要所で成果として現象化しても、そこに再現性があるかを検証するためには、同様にしてそこに至るまでにかかった時間と同等の時間が不可欠になってくる。時間がかかるということはそれだけコストもかかる。多くの賛同は得られない。しかし、無視できない問題、そして本質的なことほど、長期的な視野での行動選択が欠かせなくなってくる。そうした行動をとる人材は、短期的な成果を是とする組織からは評価の対象として外される傾向にある。しかし組織の成長にとって有益なのは、むしろそうした本質を見極めて行動を選択できる人材だ。言い換えれば、既存の価値観に縛られずに、既存の価値観にあいたほころびを指摘し、縫い合わせられる人材が、これからの組織を土台から支えることとなる。ハイパフォーマーとトップパフォーマーに差があるとすればこの点であるだろう。インターネットが普及し、時代の流れの加速したいま、時間対効果の高い者だけが評価される時代は、もうすでに崩れはじめている。
266:【魚】
淡水魚に海水を与えても無駄に苦しめるだけだし、海水魚に淡水を与えても同様に苦しめるだけで、何の有効性も発揮しない。しかし、淡水魚であっても快適に過ごせる海水を開発できたならばそれはすばらしい発明になるし、また、海の魚を川の水で飼えるようにすれば、とんでもないイノベーションとなるだろう。いくひしは物語とは本来そういうものだと思っている。淡水魚に海の広さを感じさせ、海水魚に淡水の透明さを知ってもらう。そこで魚たちが何を思うのかは定かではないが、すくなくとも世界の幅は広がるはずだ。それを選択の幅だと言い換えてもいい。読者層を意識することはたいせつだ。しかしそこに縛られるのは、淡水魚を淡水で飼うのと変わらない。飼い殺すくらいならば端から釣りあげたりなどせずに、川のなかで泳がせつづけていたほうがよほど魚たちは自由だろう。我々、物語を編む者たちが自由を奪うような真似をしてよいのか。いくひしはそうは思わない。
267:【2016年12月31日】
ひとの言うことはアテにならない。つくづくそう実感した年だった。迷ったときはより情報量の多そうな道を選ぶことにしているが、物語をつむいでいるとき以上に濃い時間はない。物理世界で半年働いたときの情報量と、僕が五分でも物語の舞台に降り立っているときの情報量、比べるまでもなく後者の五分のほうが濃厚だ。圧倒的すぎてびっくりする。それを他者に理解してもらう努力を払うよりも、その五分をいかに確保し、長くしていくかに労力を費やすほうが建設的だ。来年はより孤独に磨きをかけようと思う。
268:【12/31/2016】
今年は一口でかみ砕ききれない情報にたくさん触れました。人間の複雑さや単純さ、やっぱりなと思うことやそうでもなかったこと、今までの私は思っていた以上にがんばっていて、そしていまはまったくがんばれていないこと、苦しいこと、悔しいこと、たのしいと思う時間はやっぱり物語に触れているあいだだってこと、新しい体験は、新しい知見を得ることよりもどちらかと言えばいままでの人生がどういったものであるのかを再確認するための触媒であったこと、たいせつな出会いはなかったけれどやっぱり出会いはたいせつだってこと、言葉にするとなんてことのない体験が、十年後の私にとって欠かせない成分になっているだろうこと、今年は私にとって大きな転機になる年でした。来年こそはたくさんのひとと繋がって、私という存在の外郭をぺたぺたと塗り固めていけたらいいなぁ。今までの私、ありがとう。来年からまたよろしく。
269:【大晦日】
なに一区切りつけた気でいんだよ今日は今日だし明日は明日だろうがよ。やらなきゃならねぇこと溜まってんだ、暦の数字が一つ増えたくれぇでてめぇの何かがマシになるわけでもあるめぇし、カレンダーめくったところで過去が消えるわけでもなし、おまえが成長できてねぇことが帳消しになるか。ならねぇだろ。いいか、今日は今日だし明日は明日だ。現実から目ぇ逸らしてんじゃねぇよ。おめぇにとっての現実ってやつぁ、黙っててもやってくるようなもんなのか。ちげぇだろ。てめぇにとっての現実は、てめぇにしか視えねぇアッチ側だろちげぇかよ。話にならねぇだろうがよ、おめぇが視ねぇとよ。いい加減戻ってこいよ。おめぇが明日をつくんだよ。めくるための明日をよ。
270:【紅白AyaBambi】
椎名林檎とタッグを組んでいるダンサーユニット「AyaBambi」をご存じだろうか。2014年ごろに突如としてショービズ界に現れた日本人女性二人組で、突出した世界観、そして尋常ではない音取りのセンスの光る世界的ダンサーである。あらゆる活動がドミノ式に繋がり、とんとん拍子で活躍の場を広げ、気づいたときにはトップパフォーマーとなっていた。下積み時代の話がいっさい聞かれない謎の多いダンサーである。ふたりは婚姻の間柄であり、信頼関係の深さが、シンクロ率の高いパフォーマンスに現れている。彼女たちのダンスで特徴的なのは、その音取りの細かさである。嗜好する曲も細かい音で構成されており、すべての音を手当たり次第に結界へ封じ込めていくような振付けは高速で繰りだされる折り紙のようであり、見ている者を圧倒する。だがじつのところ、彼女たちの細かな振付けは、軸となる胴体の動線を極限まで削ぎ落とすことで可能とする極めて抑圧的な型なのだ。胴体の動きを圧縮することにより、手先や首の僅かな動き、部位の断片的な所作を最大限に際立たせている。驚異的なのは、そうした小回りのきくのべつ幕のない振付けに「静」の意味を持たせ、成立させている点だ。あたかも強風に煽られ折れてしまいそうなか細い木が、それでも枝葉を細かく展開し、広げ、それそのものを大きく豊かに見せるかのように。無数の葉が風に揺れ、忙しなく音を響かせながらも、それそのものが静寂の名を冠するように。主体は枝葉にありながらも、飽くまでカナメは幹にある。圧縮することで膨張をみせる魅力がある。2016年の紅白歌合戦にも彼女たちは椎名林檎と共に出演した。そこで披露された彼女たちの振付けは、極めて「静」を意識し、編まれていたが、それはしかし、これまでの型から枝葉を取り払い残った幹だと呼べる。すなわち、枯れた樹を、「死」を表現しているのである。そして最後、「死」は舞台上から消え去り、時がふたたび動きだす。
※日々がどうとか言ってる場合じゃない。
271:【2017年元日】
新作の脱稿目途がつかない。なぜ夜は更け、日は昇るのだろう。太陽も自転もあいつらみんな敵だ。
272:【悄然】
あ、これ、時間が足んないんじゃない、紡げなくなってるんだ、との気づき。努力してこなかった時間の長さの無情さよ。
273:【メモ】
断片的な情報処理、情報の過密処理、フレームの設定におけるマルチタスクの向上、ネット、アプリ、一貫性の消失、乱雑な情報社会、時間毎における情報の多様性、若い世代のタスク処理力の向上、カオスに対する適応、散漫な意識、反して過集中の発揮、細部から全体ではなく全体から細部への逆ジグソーパズル、はじめからフレームを設定することにより発揮されるフレームからの逸脱・改善。
274:【問う明度】
世になにかを創りだそうとしている者は往々にして泥の底を掬いあげることを意識している。軽いものが表層に浮かび、重いものは沈む。生態系に必要な養分は基本的には重いほうにある。誰かがかき回さなければ、泥はいつまでも底に蓄積したまま、世界は希薄になりつづけていく。いちど舞いあがった泥は水を濁すだろう。しかし水に流れがあるならば、かき回されつづけた水底は、泥を濾し、大粒の砂利ばかりを残すようになる。けっか水は透明さを増す。巻きあげられ、濾された泥の粒子は水に溶けこみ、豊かな生態系を宿すようになる。透明だからといって、必ずしも澄んだ水だとは限らない。腐る前の水もまた透明なのである。
275:【トルネード】
世にブームを巻き起こす人材に共通するのは、雑然としている物事をひとつの線で繋ぎまとめあげる整頓力が著しい点だ。枠のない物事に枠をつくり当てはめ、そしてこれまで無数の呼び名があったものたちにたったひとつの揺るぎない名を授ける。あたかもチリ芥を箒で掻き集め、そしてホコリという名の塊にするように。散在していたチリ芥であろうとも一つどころに集まれば燃えやすくなる。ブームの火付け役とは、けっして火を熾す者のことを言うのではない。火種の核を用意し、風や湿気の影響を受けないように枠で囲む者のことを言うのだ。
276:【どぶ・ヘイト】
世に物語よりもおもしろいものはない。そう断言したいところだが世の中を見渡してみれば虚構よりもおもしろいもので有り触れている。それを溢れていると言い換えてもよい。虚構をおもしろいと感じるような者は、よほど現実をその手で触れていないのだろう。体験が乏しく、存在からして局所的であり、世のなかの広さや深さを体感できていない。裏から話せば、現実を余すことなく感受し、その広さと深さに感銘を受けながらも虚構をすら万全に楽しめる者は、よほど物語が好きなのだと評せよう。あらゆる経験を放擲し、それにより痩せ細った身体で虚構なる世界への素潜りを繰りかえすいくひしには、そのような者たちをして、信じられないほどの好事家に映る。ずるい。うらやましい。対価を払わずに虚構を愛せる者がいるなんて。あまりに妬ましいので、そんな好事家たちをいくひしは、この痩せ細った死神のような手で、絡め取り、いくひしならではの虚構の底へと引きずり落としてくれよう。
277:【もう、ちゃっかり屋さんなんだから】
なにが痩せ細った死神のような手だ。しょうがつ太りでぷくぷくじゃねーか。
278:【好きなものがたくさん】
椎名林檎さんが大好きなのだけれど、もちろん椎名林檎さんのつくる曲も大好きなのだけれど、いくひしが大好きな物語の主人公、草薙素子さんもいくひしは大好きなのだけれど、椎名林檎さんは実写版草薙素子さんのイメージでやはりいくひしは大好きなのだけれど、それはそれとして前にも言ったかもしれないけれど、2016年これはとってもエッチで賞を捧げたい成人向け漫画家さんはディビさんで、やっぱりいくひしはディビさんのつむぐ漫画が大好きで、そこに描かれるキャラクターはなんだか椎名林檎さんとタッグを組んでいるダンサーユニットAyaBambiさんと重なって、相乗効果でますます大好きなのだけれど、あーもう、好きすぎてシュンとなる。さびしいせつない。好きなものがたくさんあると、何もないことが際立って余計に苦しくなっちゃうな。胸がモキュモキュするぜよ。
279:【偏見度数120%】
かんぜんなる偏見で申しわけないのだが、劇団あがりの物書きさんは締め切りに対する思い入れと、他者のアイディアを流用することへの抵抗感が薄い気がする(じぶんのことは棚上げしておく)。加工のいっさいをなしに、素材を丸ごと鍋にぶちこみ時間という名の火を焚き、あとはコトコト煮込むだけで、はいシチューのできあがり、みたいなところが少なからずある気がする。味付けがおかしければ、客に料理をだす寸前であっても容易に塩を足し、ブロッコリーを添え、ときには客のまえでゴマを和えることもある。舞台の醍醐味でもあるのだが、初日と千秋楽とでは舞台の質がまったく異なるのはほとんど前提として織り込まれている。名のある演出家の方々がこうした風習をよしとしてきた背景があるのではないか。え、それいいんですか、と思うことがむかし幾度かあった。
280:【完全自律式自動車】
運転手が運転をせずとも車のほうでかってに目的地まで運んでくれる。完全自律式自動車の開発はいまのところ芳しくない。現在の公共道路においてそれを実現するのは非常に困難であり、完全自律式自動車を完成させるには、それよりさきにつよいAIの開発が優先される。もっとも、現在の技術でも完全自律式自動車は社会に普及させることは可能だ。隘路になっているのは、いわゆる事故時の責任の矛さきと、事故を起こさないようにするためのセキュリティプログラムの設定をどのように枠組みしていくかに焦点が絞られていく(有名なところではトロッコ問題が挙げられる。現時点でそれをAIに解決させるのはむつかしい)。しかしそれも、公共道路のほうを整備してしまえば、とんと隘路と見做さずに済むようになる。すなわち、車道と歩道を完全に分離してしまうという考え方だ。高速道路の進化版と言い換えてもいい。自律式自動車の自律走行可能な領域を定め、不確定要素の入りこむ余地のない環境を整えれば、今現在の技術でも充分に一般化可能だ。そのためには自律式自動車の開発を公共事業として組み込まなければならない。企業と国との癒着がますますつよまることが懸念される。
※日々が怠惰に埋もれていく。
281:【ニーズ】
潜在(深層)ニーズは常にある。需要者の要望に応えることは本来のニーズの意図からはズレている。ニーズを殺すな。ミスを犯すな。地図は未開を記してこそ尊ばれる。
282:【着ぐるみが見苦しい】
ちがうんです。強気な発言をしているときは弱っているときなんです。ぐるるぅ、と呻っていないと現実に向き合っていられないのです。弱気な発言をしているときはじゃあだいじょうぶなのかというとそういうわけでもなく、要するにいくひしは常に弱っているのです。息の根を止めるなら今です。
283:【無防備なエロさ】
おぼこから漂うエロさと人妻や熟女から漂うエロさは似ているところがあって、ずっとそれってなんだろうって引っかかっていたのだが、マンガ「ふらいんぐうぃっち1~5巻」を読んでいて、これか!?となった。無防備なエロさだ。もうすこし突っ込んで言うと、エロい目線で見られていることをまったく認知していない状態にあるエロさというか、じぶんが性の対象にされることを発想できない状態が、独特の深みあるエロさを醸しだす。性を認知しないという点で、ショタに漂うエロさもきっとこれだ。ひるがえして言うと、性的な目で見られているかもしれないと警戒している男にもまた独特なエロさが漂って映る。いずれの考察も狩る側からの視点だ。
284:【なにごとも】
どんな主張にも「一理あるかもしれない」と肯定的な部分を見出そうとする姿勢はたいせつだ。しかしそれはどんな主張でも初めは疑ってかかる姿勢が前提に立つ。現実は一つきりではない。主観の数だけ存在する。一理あるは「いちリアル」なのだ(これが言いたかっただけ)(そして今ググったらオヤジギャグサイトでもう誰かが言っていた。2点の評価がついていた)。
285:【にどとしない】
段落をいっさいつけずに物語をつむぐ。2016年はそのつくりかたを一貫して通してきたが、生産性がわるいだけでなく、脱稿したその足で段落をつけていく作業の締まらなさ、とかく段落をつけると改稿せざるを得なくなる場面がたびたびでてきて、こんな無駄なことにどとするか、と叫びたくなってくる。というか叫んだ。あーもうってな具合に叫びだしてしまったのだわ。
286:【よい菌にしよう】
他人の不幸をおもしろがる性質がいくひしにはあって、何か事件や事故があるたびに、わくわくしてしまうじぶんを、ほんとうに腐ってんな、と思う。これはもうじぶんではどうしようもないことで、わくわくするな、というのはムリがある。だからせめて、じぶんを腐らせているそういう性質を、より発酵にちかい化学反応として処理していくほかない。腐ったときこそじぶんらしくありたい。腐っても鯛とは言ったものである。
287:【宇多田ヒカル】
宇多田ヒカルさんの曲が好き。なかでも「誰かの願いが叶うころ」が好き。主題歌として起用されていた映画「キャシャーン(英語表記)」をむかし観て、そのころはしっくりこなかったのだけれど、さいきん聴きなおしてみたら、好きからすごく好きに変わった。ちなみに映画の評価はちまたではあまり芳しくなかったようだけれど、いくひしはすごく好みだった。内容は憶えてなくて、でも、「おもしろいじゃん! おもしろいでしょ!」って誰に向けてだか分からないぷんぷんを抱いた記憶が残っている。時間があったら観かえしてみたいリストの上位にくる映画だ。
288:【ブルボン】
ブルボンのガトーレーズン、めっちゃ美味いな。かっぱえびせんと交互に食べたら止まらないんじゃない? 法律で禁止しなくてだいじょうぶだろか。
289:【ダメじゃないよ】
悪意を抱くのはわるいことじゃない。よくないのは、抱いた悪意から目を背けることだ。悪意を悪意と認めてあげるのはきみにしかできない。赤ちゃんが泣きわめいたら無視するのではなく、あやしてあげる。どうして泣くのかをちゃんと考えてあげる。悪意も同じだ。赤ちゃんはかわいいばかりではない。悪意だって醜いばかりではない。
290:【どうかみなさん】
どうかみなさん、いくひしのことはすっぽんとお呼びください。いえ、すっぽんさまにしつれいですね。めくそはなくそとお呼びください。いえいえめくそさま、はなくそさまにしつれいですね。ならばうーん、そうですね、いくひしのことはいくひしとお呼びください。予定ひとつまともにこなせない。ほんといくひしだなぁ。
※日々の活躍を夢見て、夢ばかりを見て、なにかをしたつもりで、してきたつもりばかりが積もりゆく、雪のように儚ければうつくしいわけじゃない、結晶するホコリの核が見当たらず、儚さだけが嵩んでいく、日々は嬉々とヒビを割り、いつまでひた走れば気が済むんだろ。
291:【だいじょうぶ、まだいけるよ】
Ujico*/Snail's House - 君と夕暮れの丘
292:【思考生物】
人間はすてきだ。しかし、この世に人間はひとりたりとも存在しない。世に蔓延る人間モドキは、みずからがケモノであることを忘れた哀しきサルである。しかし人間は、そうしたサルを媒介にしなければ存在できない空虚な存在である。醜さをかたどる瞬間瞬間の閃光が寄り集まって人間はできている。
293:【ひょっとして】
オリジナリティとはもしかすると、何をお手本とするか、なのかもしれない。
294:【ひびき】
あと三年以内に、共有されにくいものが価値を生みだす時代に突入していく。それは現在の、共有されやすいものが価値を生みだす流れが衰退するからやってくるものではなく、そうした流れが加速することで生じる陰のようなものである。本質は、共有されやすいものにあるが、しかしそれは本質であるがゆえに、これからはどんどん一般化し、価値あるものとして見做されなくなっていく。共有されやすいものとは、すなわちやわらかいものだ。しかしやわらかいものは響きにくい。硬くて中身に虚無を抱え込んでいるもののほうがより深く響きわたる。いっぽうで、やわらかさに磨きをかけ、水のようになると、それは波紋のようにどこまでも伝播する性質を帯びるようになる。鐘のような硬さを、水のような掴みどころのなさを。
295:【共有されにくいものとは何か?】
ある一つの物事を共に所有できる状態が、共有されやすい状態だと呼べる。とすると、ある一つの物事を共に所有できない状態が、共有されにくい状態だと言える。つまり、共有されにくい、というのは、何かを嫌悪したり、理解できないと一方的に拒絶する状態を示すのではない。たとえば、うんちさんを見て、汚い、という感情を多くの者が持つならば、それは共有されやすいものだと呼べる。では共有されにくいものとはなにか。具体的な例は浮かばないが、強いて挙げるならば、ある一つの物事を示し、それに対する見解が、個々人によって異なるものだと言えるだろう。現実とはつねに、共有されにくいものである。
296:【負け】
反応したら負けなことを見抜く目と、本物かどうかを見極める目は似ている。ほとんど同じだと言っていい。その人物が何に過剰反応するかでその人物の底が判る。
297:【言葉足らず】
一つ前の項、296にて少々誤解するような言い方になってしまったかもしれない。本物かどうかを見極める目はないほうがいいと個人的には思っている。どちらかと言えば、たとい偽物だろうとうつくしいものをうつくしいと思えるこころのほうがよほどだいじだ。もっと言ってしまえば、底は浅いほうが何かを表現する者にとっては都合がよい。器に入りきらずに溢れた何かをなんとか伝えようとひとは表現という行動に走る。余すことなくすべてを受け入れ、咀嚼できてしまっては、何も生みださないブラックホールになってしまう。足りないから補おうとする。穴があるから塞ぎたくなる。本物であることにどれほどの価値があるだろう?
298:【誤解の誤解】
うえの項、297にて大いに誤解させるような言い方をした。本物には価値がある。本物にしか価値はないと言い換えてもいい。ゆえにひとは本物を追い求める。本物とは、唯一無二であることだ。例外がない存在を示すことが多いが、本質はむしろ、それが唯一の例外である、と言ったほうがより正確ではある。ただひとつきりの例外、すなわち枠組みそのものである。本物とは枠組みである。それがあるから、その他大勢との分別が可能で、言うなれば基準となる存在だ。しかしぼくは本物に興味が持てない。否、本物にはなりたい。ただし、本物になれないことを痛いほどよく知っているからこそ、ぼくは本物なんて大っ嫌いなのだ。本物になろうとあがいている偽物の発する、ほんの一瞬の輝きのほうが、胸を揺さぶられる。だからなのだろう。ぼくの紡ぐ物語がよりたくさんのひとたちに読まれたいと願ういっぽうで、ぼくの物語が必要とされるような世のなかにはなってほしくはない。ぼくは、ぼくみたいなひとに向けて物語をつむいでいるけれど、ぼくみたいな人間モドキは、世のなかにできるだけ少ないほうがよいと思っている。ぼくたちはいつだって人間になりたがっているのだから。
299:【無償ではない】
私は知っている。私の作品たちに価値がないことを。なぜならあのコたちは未完成なままだから。あなたという存在に溶け、結晶化し、展開されることで、あのコたちはひとつの作品として創造の空へと羽ばたける。あのコたちを私はなんとか生みだしたい。あのコたちが生まれ落ちたあとの世界を目にしたい。何かを得るためには相応の対価が必要だ。正当な対価というならば、私は、私こそがそれを払おうと思う。実態を伴なわない情報のままでダメだというのなら、物理媒体に焼きつけよう。そのための費用くらい私がもちます、もたせてください。無償で提供しているつもりはない。私は、私こそが、対価を払って、作品を生みだしてもらっている。今はまだこれくらいしか差し上げられません。いずれすこしずつでも増やします。とるにたらない対価で恐縮ですが、いつもすばらしい世界を、ありがとう。
300:【思想の裏の実体】
弱者への救済をと叫び、権力へ反発する者たちが、資本へのいきすぎた嫌悪感を募らせるがあまり、自らが運営する組織のブラック化を押しすすめるという事態はもはや珍しくもなんともない。あべこべに、そうした者たちがブラック企業だと糾弾している、いわゆる大企業のほうが、実態は、待遇がよかったりする。ブラック企業を叩いている団体が、そのじつ、過度なボランティア精神を発揮するがあまり、超過勤務を残業と見做さず、部長クラスの中間管理職ですら手取り十四万(給料明細の手取りではなく、最終的に家計簿に載るほうの手取り)という本末転倒具合は見ていて滑稽だが、当の本人たちがブラックであることに無自覚であるのがとにかく笑えない。また、そのツケを精算すべくとる算段が、まさしく資本主義社会の権化とも呼ぶべき、自転車操業への尽力ときたものだからますます以って笑えない。
※日々は日増しに干からびて、黄色いカビが生えだすよ、道はむかしに繋がりて、ひとり旅がはじまるよ。
301:【新作紹介、近日公開】
ねえ、一年って365日なんだって。知ってた? 一日が365回もあるってことだよ、一年すげぇな。すげぇ豪勢じゃん。「あのー、いちにちを一年でくださーい」つって365個入りの一日をご購入したくなるくらいの盛りだくさん具合、あるよね。お土産とかにもらっちゃったらうれしい反面、ちょっと手に余る感じある。一年、長いよ、ホント、まじで、ながかったぁ……。いやいや、もうなんか、長いってかあっという間だった。何もしてなさすぎて。チマチマ進めてきた新作、ようやくひとつ終わったよ。その名も「血」――ひねりなさすぎてどうかしちゃったよ、タイトルひねる余力もなくなっちゃったよ、燃え尽きたよ、真っ白だよ、灰色だよ、どっちだよ、もういっそあいだを取って白銀にでもしちゃっていいかなぁー?くらいの一面雪景色だよ。いっさいが白紙。なにもない。まばゆいまでの虚無。なんか血って感じしない? 血は赤いけれど、でもなぜだか虚無を連想する。黒よりも虚無って感じする、なんでじゃろ? 母体のなかを思いだすからかなぁなんて、物思いにふけりながら、いくひしにも赤ちゃんのころがあったのかぁ、そりゃあるわなぁ、うそみてぇ――みたいなね。何かが生まれてくる前はつねに赤いなにかにくるまれて、満たされて、沈んでいるのかなぁ、なんて思わないわけではない。あらゆる事象は赤い色から生まれてきて、そして赤い色に沈んでいく。絶望だってきっと赤いよ、断言するよ、血の色してる。海辺で夕陽を眺めて感傷にひたる青春やろうどもにゃわからんだろうけれども、人生、積み重ねてきた努力が一夜にして無に帰して、ほんといっさいがっさいが手の内からこぼれおちていく絶望は、みなが思うよりもじつはずっと清々しい。なんでもない日差しの、なんでもない交差点の、うすぎたないトラックの排気ガスが妙にキラキラ輝いて見えちゃったりする。血の色なんて皆無なそのキラキラの裏側には、かつてないほどの赤い赤いなにかが色濃く忍び寄っている。暗い話なんかじゃないよ。さきにも言ったろ? あらゆるものごとは、赤く沈んだところから生まれてくるんだって。絶望に沈んでから生まれてくる何かは、ある。何度でだって言ってやる。あるんだよ。血。新作のタイトルだけど、ホラーじゃないし、ミステリィでも、サスペンスでも、SFでも、ファンタジィでも、現代ドラマでもない。ラブストーリィ? 愛をラブと呼ぶならそうと認めてやってもいいが、恋をラブと呼ぶならこっちから願いさげだばかやろー。ちょいとわるぶってみたくなったのは、そりゃ血が騒ぐからにほかならず、空焚きしちゃったくらいに血が沸き立つのだから仕方がない。不死身の男は憂鬱に生き、命の恩人を殺したい男は女を追い、血を売る女は少女と出会い、彼女たちは運と命をなげうっていく。作為(神)を蹴散らせ、悪意(期待)を黙らせ、筋書き(運命)なんて切り刻め。虚構でだって人は自由に生きられる。縛られるくらいなら縛りつけろ。それでも世界は強大だ。抗う彼女たちに抗った、郁菱万の最新作。血。気軽にご輸血ねがいたい。
302:【強姦罪】
2017年1月22日げんざいのニュースで、強姦罪が、強制性交等罪と名称を変えることが伝えられている。性差を問わずに、強姦罪が適用できるようになる。拙作「暗黒舞踏団~囮と知りつつ愛をとり~」の改稿をさっそく予定する。
303:【癒しってだいじじゃん?】
さいきんは樫木裕人さんの漫画「ハクメイとミチコ1~5巻」を読んで癒されている。少女終末旅行と似たなごみがある。いい。
304:【現場の苦労】
お客さんにとって現場の在り方や努力なんて関係ない。よい質のものをできるだけ安価に、安全に手に入れられればそれでよい。そのために必要な工夫をしてこなかったいままでの在り方をバカにされて怒るのは筋違いだ。購入するまでどんな中身なのかが判らないいままでの流通システムのほうが時代に即していないとイチ読者としては感じるし、より必要としてくれているひとたちに自作が届いてほしいと願う者としてはやはりそう思う。バカにされたことに怒るのはよいが(筋違いであるにせよ、怒る権利は誰にだってある、しかし)、どちらがよりお客さんのことを考えているのかは一考以上の余地がある。
305:【もっとも】
急激な変化は、どんなに良い結果をのちのちに生みだすのだとしても、その渦中に巻き込まれ、淘汰されていく者たちからすれば悪でしかない。なるべく穏やかな変遷が望ましい。段階を踏む、と言い換えてもよい。
306:【いまの流れ】
三方よしの考え方はこれからさきも変わらない。しかしなにを以ってよしとするのか、その材料は変わってくる。資本に加わりこれからは、他者からの承認が良し悪しの天秤に置かれるようになる。より多くの人々による、より地位の高い人々からの、永続的な評価が、金と同等の価値を持つようになる。すでになっているという見方は甘い。株と同じように、バブルとしてその価値をこれからさらに奔騰させていく。だがそれも長くはもたない。なぜならそこには信用が欠けているからだ。評価は、ちいさなコミュニティが発生するごとに誕生する独自の貨幣のようなものだ。そのコミュニティの内部にいるあいだは貨幣として機能するが、しかし一歩そとに出ればただの名札に成り代わる。宗教のようなものと言えば端的だ。信者たちにとって階位はぜったいのものだが、外部の者にとってはなんら効果を発揮しない。信用と評価は異なる。いいね、の数が価値を高めるが、そこに信用は根付かない。バブルのように膨れるだけ膨れ、あるとき弾けて消え失せる。しかし確固たる信用を評価に付与できれば、それは難攻不落の牙城として機能する。いいね、の意味が個人から離れ、未来にとって、になるとき、評価に信用が根を張りだす。価値の膨れる過程で生じた金の流れに身を委ねるのもいいだろう。だが、十年後、二十年後の経済の動向を見据えるならば、魚群のあとを追うのではなく、その海の生態系を豊かにする方向へ尽力したほうがより高い成果を期待できる。いけすのなかで魚たちを養殖するのもよいだろう。だが外的要因により全滅してしまう危険は常につきまとう。そうなったとき、新たな魚群は海から仕入れることになる。やはりというべきか、海の豊かさを優先したほうがけっかとして得をする。
307:【腹筋が割れ系女子】
なんかさいきん、オネェ系男子とか、腹筋割れ系女子とか、そういう異性のフェチ要素を含んだキャラが需要を拡大しているように観測される。これはなぜなのか。たんじゅんに考えれば、男女間での恋愛ネタが尽きたから、とまとめることは可能だ。マンネリ化からの逸脱を、レアキャラとの恋愛に見出していると分析できる。しかし本質はむしろ、サブカルのなかでのマンネリ化だけにとどまらず、世間一般にある恋愛行為の難易度が極端に下がったことによる、恋愛の相対価値の低下にあるのではないかと分析するしだいである。じっさいに恋愛をしようとしてできるか否かは関係がない。ただ、恋愛をしようとすれば容易にその相手をみつくろい、結ばれることが可能だとする風潮がいまのネット社会のなかで確実に肥大化していっているように感じる。ゆえに、恋愛をただするだけでは満足できない。そこにウキウキやワクワクが見いだせなくなっている。いつでも飲めるココアにありがたみを感じる人間はすくない。なかなか飲めない地域限定ココアのほうが価値は相対的にあがっていく。美少女と恋愛をするよりも、男だけど美少女よりもかわいいコとの恋愛のほうが希少だし、ふつうの美少女よりも、男よりも体力があって女好きで孤独な美少女のほうが魅力が高い。そしてこれは恋愛という属性そのもののマンネリ化をもたらし、友情や家族愛といった、より普遍的な結びつきを尊ぶ方向へとこれからはより顕著に傾いていくだろう。どうでもいいことだが、マンネリ化は、マン・ネリカという女の子の名前っぽくてなんだかすこしかわいくてすき。
308:【宇宙は彼女の爪の垢】
セックスしたいのにしたくないとか、殺してみたいのに殺しちゃダメとか、お金なんてほしくないのに働かなきゃいけないとか、物が溢れているのに盗っちゃダメとか、好きじゃないのに恋はしたいとか、ルールをつくったやつが誰よりいちばんズルっこだとか、男だとか、女だとか、人間だとか、種族だとか、命も規律も秩序も崩壊も、なにもかもがわけわからん。ぜんぶデコピンひとつで飛ばしたい。それだけおおきなゆびが僕にもあれば。
309:【未来を見据える】
百年後を見据えて仕事をしている人間と仕事をしたい。人類の未来を、そして人類とは何かを、世界とは何かを問いつづける人間の近くにいたい。きっとそういうひとは、足元の砂利の、そこに潜むだろう細菌に思いを馳せ、脳内麻薬を分泌できる人間だ。
310:【理解と未知と疑問】
理解を得ることで、理解できないことを知る。そこでなぜと考え、広がりを得た領域が、想像と呼ばれる。理解が種で、未知が土で、疑問が水となり光となりふりそそぎ、想像という名の枝葉を伸ばす。そこから実をならすには、またべつの要素がいる。
※響きあう産声の根源を求め、さまよう夜の鼓動に、お別れを言いにきたきみ、星の周回するうごめきに載る言の葉の数々は、百花繚乱に色めきたつ息、それがイブキ、生きることへの異議、忌み嫌う意味と、はぐくむことへの意気地、ウジがわき、無心。
311:【いやいや】
百年後を見据えて仕事をしている人間と仕事をしたいだって? あほか。仕事なんかしたくないわ。今だけ、この瞬間を噛みしめてたいわ。ただそれだけがだいじ。
312:【まだ偶然だと思ってる?】
これだけ判りやすく示してあげてるのにまだ分からない? まあいいけど。私が損をするわけじゃないし。
313:【いくひし、調子にのる】
「あー! あー!」「わーなに、なんなの」「おー!まー!えー!なー!」「だからなにー」「調子に乗ったろー!」「言いがかりー」「あー、ダメダメ。ちょっとそこ座れ。説教すっから」「ヤダよ、なんでよ、映画『君の名は。』のなんでもないよ並に、なんもしてないよ」「ウソだな。おまえちょっとってか大いに、看過できない規模で調子に乗ったろ、『アイアム調子』ってタイトルの雑誌の表紙に載っちゃったくらいの乗り方してたろ、ノリノリだったろ」「のってますん!」「どっちだよ!」「のってない、のってないよ、信じて」「信じたくない!」「ガンコ!」「あーあー。おまえのゆいいつの長所だった謙虚ってか『自虐の道ひた走ルンルン』がこれで消えたよおだぶつだよ」「やな言い方しないでよ、縁起わるいでしょ、むしろあれぇ? 長所ってか短所じゃないそれ?」「じゃあ短所だ」「潔よすぎ! もっと粘って、長所って言い張って!」「だって短所の塊じゃん」「認めるほかないけれども、しかし、もっとほかにあるでしょ、なんかこう末広がりで長くなりそうなところが」「ありたくない!」「ガンコ!」「まああってもいいけど、それはそれとして調子に乗ったのよくなかったね」「ねぇ、さっきからなんの話。いくひし調子にのってないよ。のりたくてものれないよ。階段登れない子犬くらいコロコロ転げ落ちちゃってるまいにちだよ」「なんでちょっとかわいい譬えした?」「だっていくひしかわいいし」「ほらまたー!」「なにさ」「無自覚か、無自覚で調子にスタンディングオベーションなのか!?」「すたんでぃんぐおべーしょんではないですけれども」「じゃあ違ってもよいのだがよ、なんかそう、言動のそこかしこからこう、なんつうのかなぁ、そこはかとなくイラっとさせる自信のつよさみたいのが見え隠れするきょうこのごろなわけ」「そう?」「気のせいではない」「先回りして否定しないでくれない?」「なら違ってもよいのだがよ」「さっきから前提くつがえしすぎじゃない?」「ほらほら、それよそれ。ツッコミもなんかいつにも増して強気ってか、ふだんならおまえがツッコまれてるわけじゃん? なしてそげな言い方するの? 傷つくでしょ」「ただの愚痴! それただの愚痴だから!」「たまにはいっしょに飲みに行ったりしようよ。さびしいでしょ」「うれしい愚痴ではありますけれども!」「やりたいことがあるからって、ふうん、そう。そうやって自分がいちばん大事なんでしょ。あたしのことなんてどうだっていいんでしょ」「否定しづらい! いや、そうだよ。いくひしはじぶんがいちばんだいじ。どうだっていいとは思わないけど、でも、やりたいことのためならあなたとの縁が切れてもいいと思ってる。ごめんね。でもさ、時間があればこうしてお酒飲むの付き合ってあげてるじゃん。それで我慢できない?」「ほらー。またそうやって上から目線で調子に乗ってー。ヒック。どうせあたしなんかさー。ヒック。どうだっていいとかさー。ヒック。陰でボロメコ言ってんでしょ」「ボロメコってなに?」「あたしの心はもうボロボロのメコメコだよ」「意味あった!?」「たまにじゃなくてさーヒック。あたしのそばにさーヒック。いてよーヒック」「ヒートテックの宣伝みたくなってない? いやいやうれしいけれども、そこまでの価値、いくひしにないよ? あ、そうだよね、ちょっと泣き上戸はいっちゃっただけだよね、うんうん、あるある。だいじょうぶ、あしたにはちゃんと忘れてるから、アルコールといっしょに抜けちゃってるから」「調子に乗ってんじゃねー!」「んー!!!!????」「ぷは。おまえごときがあたしの誘いをことわっれんはへーよ。いいは。おみゃえはみゃー」「もうグダグダってか猫! あなた猫になってるー」「もっかいちゅーさして」「んーー!!!????」「ぷは。もっかい」「いましたろ!」~~ぽわわわわーん~~「ってな夢を見たの」「気持ちわるいんだけど」「えぇー」「なあ。なんでしゃべった?」「や、どんな顔するかなって」「反応に窮するほどのドン引きだよ」「あ、照れ隠し」「調子乗んな」「のれないよー。どうしてだか踏み外しちゃうんだよね、のろうとしても」「あー、そう。ふうん」「なに」「オチ外すのもいい加減にしろ」「あちゃー」
314:【創作基準】
たくさんの物語の種がある。どれから芽吹かせようか。主として基準はふたつある。「アナフィラキシーショック波形」と「津波現象」である。ふたつは重複している部分があり、その重複した部分に合致したものからつくるようにしている。詳しい解説は割合する。ちなみに津波現象には、類似のものとして、「光陰現象」と「傷心盲目化心理」が挙げられる。光を視点にして物事を観測するとき、影はいつだって過去からこちらに伸びている。光は影によって生じている。すくなくとも虚構の世界においては。また、受け入れられない現実が目のまえに現れたとき、ひとはそれを見て見ぬふりをするが、じっさいには誤魔化しきれずに、とり溢した分をプラスの方向へ転嫁させようとする。とり溢した刺激が大きければ大きいほど、プラスの振り幅は大きくなる。未来の動向を予期するときの参考にどうぞ。
315:【識別眼】
ホンモノを見分けるための目は、本物を見たことのある人間にしか備わらない。本物は、虚構の世界には存在しない。ゆえに、ホンモノは、虚構の世界にしか存在しない。
316:【識別方法】
ホンモノを生みだす創り手を見極める方法はかんたんだ。創り手によって生みだされた作品を並べ、「どれがいちばん駄作か」を、ホンモノではないほかの者たちで投票して決めてみればいい。ホンモノを生みだす創り手により生みだされた物ならば必ず、いちばんの駄作が決まらない。
317:【無料化の行き着く先】
すべての物語、虚構が無料化したとき、いったい何が起きるのか。人々は、物語という名のジャングルに迷い込み、そこにオアシスへの地図を求めだす。自力で、食すに値する「実」を探しだすのは骨が折れる。ならば多少の対価を支払ってでも、自動で「実」を提供してくれる地図を欲するようになる。或いはナビゲーターを雇ってもいいだろう。かつては出版社が、それらナビゲーターの役割を果たし、そして雑誌が地図の役割を果たした。では、ネット社会ではどうか。ナビゲーターや地図までもがジャングルの「実」のひとつとして混在し、まったくすべてが茫洋としている。既存の考え方ではこれら迷宮から脱することはできない。ではどうすればよいのか。ジャングルを網羅し、瞬時に最適な「実」を提供してくれるような魔法のランプがこれからさき必要とされ、そして高い確率で出現する。かつて社会に印刷物が氾濫しはじめた時期、人々は社会の多様性と、そして混乱を懸念した。時が経ち、実際には多様性や混乱は起きないことが判明した。実体はことごとくが逆であり、多様性はナリを潜め、画一的な情報の断片のみが社会の表層を分厚く覆うようになった。混乱はなく、みなが一様に同様の規格にちかづいた。TV、そしてネット社会の到来したときも人々は、社会の多様性と混乱を懸念したが、じっさいは逆だった。なぜなら、多くの人々には多様な情報を扱うだけの引き出しが端から備わっていないためだ。自動販売機が登場したところで、缶コーヒーしか買わない人間にとっては、そこに多様性は見込めない。同様にして、本にしろネットにしろ、それらを扱う側の人間に多様性が備わっていなければ、或いは自覚的でなければ、魔法の蛇口が現れたとして、そこから流れ落ちるものは水ばかりとなる。見逃せないのは、魔法の蛇口が魔法の蛇口であると認知されながらにして、じっさいにはただの蛇口としてしか機能していない点である。多くの者が気づいていない。否、気づいていないだけならまだしも、勘違いをしている。自らが選び、触れていると思っているそれら情報の断片が、じっさいには単なる水道水であることを。情報の無料化がこのさき進み、あらゆる物語が無償で触れられるようになったとき、それでも人間は変わらずに、ゆえに社会は変わらない。もし変わるとすれば、それは人々が多様性を獲得し、そして魔法の蛇口を真の意味で扱えるようになったときだろう。人が変わるためには、人を変えるだけの機会が必要だ。それはときに災害(絶望)であり、娯楽(悲劇)であり、虚構(物語)である。本質は、システムにあるのではない。いつだってそれを扱う我々にあるのだ。
318:【家族になろうよ】
倉橋トモさんのマンガ「家族になろうよ」、BLありの子育てモノです、おすすめです。子育てブームきてるなこれ。
319:【確信】
いまベッドのうえで、寝たいけど寝たくないなーのきぶんを味わってたんだけど、ぴんときたわ。わし、小説好きな人間好きじゃないわ。小説は好きだけど、小説好きな人間はいやだわ。腹立つわ。でも、小説を必要としている人間は好きかもしれない。
320:【努力とはがんばることではない】
葛藤しない人間になんの価値が? 踏ん張れよ。
※ひじよりさきが切り離されても、ひじよりさきには痛みを感じる器官がない、それはたいへんさびしい砂糖醤油で、痛みを感じる器官こそが私であるという懐かしい間隙が宴をひらく。
321:【多様化】
インターネットの普及により、世のなかの仕組みが、主として需要の在り方が多様化するのではないか、という見方が一時期支持され、そして現状、それは間違いだったという方向へシフトしはじめている。しかし、それこそ誤った見方だろうといくひしは考える。話は逸れるが、現状、広く話題に上った、いわゆる流行した作品が、長くそのジャンルのスターとして君臨する「ヒーローシステム」がネット社会での主流となりつつある。一部のヒーローが市場を独占する現象がより強固に顕在化しつづけている。だがあべこべに、需要の在り方は、細分化し、多様性を極めているのではないかといくひしは感じている。つまり、かつて唱えられていた趣向の多様化が根元の部分では従来の予測どおりに進んでいるのではないか、という指摘だ。ネット社会が到来したとき、人々はその情報の波に触れることで社会がより多様化し、あらゆる個性の混在したモザイク状の社会が到来するのではないかと予測した。だが現状は、インターネットがもたらしたのは、情報の自動販売機だ。あらゆる銘柄の情報が並んではいるが、けっきょくは購入者がコーヒー一択でありつづければ、そこに多様性は生じない。言い換えれば、一辺倒な情報に触れつづける機会を増やし、より無自覚により偏向した情報に満たされた葡萄のフサを量産する大樹をインターネットは育んだ。見逃しがたいのは、自動販売機で情報を入手する者たちは一様に、みずからがその情報を選んだという、歪んだ認識を持っている点だ。入手した情報が偏向している事実に気づけないだけでなく、みずからの手で選択の幅を狭めていることにも盲目している。しかし、内心では飽きと、現状からの脱却への欲望に満ちている。毎朝缶コーヒーを購入する日常に嫌気がさし、せめて朝だけは非日常的な、異なった刺激を味わいたい。だが冒険がしたいわけではない。失敗はしたくない。だからこそ、現状、多様な潜在的需要に溢れていながらも、社会には「大衆の支持」という実体のない情報――ランキングやSNSなどでのバズデータに選択の余地を預けている。ビッグデータ解析はこれからますます精度を増し、一人一人に見合った型の情報の提供システムが構築されていく。それはたとえば、オススメの作品を提示し、それが気に入ったか気に入らなかったのか、いいねボタンを押すのか押さないのか、視聴するのかしないのか、途中で切るのか、それとも繰り返し観るのか、類似の作品に興味を示すのか、それともその作品を構成する要素――たとえば作者に興味があったのか、ちがう要素なのか、そういった情報が、極めて貴重な材料として見做されるようになっていき、そしてそれらを元にした個人データが、需要者みずからシステムに望んで提供する時代の到来を予感させる。すでになっている、という指摘は大いに的を得ている。だが、まだそれに依存する需要者にその自覚がない。これからは、自覚的に情報を提供する時代になっていく。プライバシーを保護する時代はブロックチェーンなど新しい技術の普及に伴い、セキュリティが向上し、しずかに終焉を迎える。並行して、プライバシーをいかに社会に繁栄させるかの時代になっていく。それは一見すれば画一的な情報の波が表層を覆う社会に映る。なぜなら、個々人を結びつける「糸」の代わりとなる共通の話題が今まで以上に必要とされるからだ。個々人の違いがはっきりと浮き彫りになればなるほど、一見、社会は多様性を失って見えるようになる。だが、常識や良識が、けっきょくのところ、禁止事項への深い欲動の反動でしかないのと同様に、これからさき到来する画一的な社会は、多様性のある社会の裏返しだと呼べる。表層の情報に踊らされてはならない。核心はすでに社会に根を深く張り巡らせている。
322:【自信というより鬼神】
ぼくは年に三回くらい人から、もったいない、とか、自信持ちなよ、とか、どういう意図が込められているにせよ、現状で満足しているなんてバカじゃないの、みたいな言葉を向けられる。どうもぼくの起伏のすくない行動の軌跡を示し、彼らはそのような感想を持つらしい。誤解だ。ぼくは誰より自信家だし、誰より、じぶんを買い被っている。今こうしているすべての行動に意味があり、そして必ずや狙った結果が訪れると確信している。数字にはけっして表れない影響を、ぼくはすでに世界に色濃く刻んでいる。知っているよ。彼らがそれに怯えていることを。彼らはぼくが恐ろしいんだ。
323:【はいはい】
だれからも相手にされなくってさびしいんでちゅね~。よしよし。
324:【あのさぁ……】
せっかくかっこいいこと言ったのにダイナシにするのやめてくれない?
325:【悲境】
卑怯さと賢さを勘違いしている人間がいる。勘違いしているとき、ほんとうの賢さとは愚かしさのほうにこそある。また、ほんとうの意味で賢い人からすると、仮初の賢さは愚かしさを伴なっており、どうあっても賢さとは愚かしさを含有する。かなしい。
326:【なにもんだこやつ】
書店さんで気になる本を買ってきた。気にならない本は買わないのがふつうなのでべつだん特筆すべきことがらではないのだが、しかし購入した本を一読しておどろいた。「あれ? いくひしいつこんな本書いたっけなぁ?」いっしゅんすっとんきょうになった。すっとん、てのはいったいどこの神さまだ、なんて妄想の翼を広げつつ、本気でじぶんが書いた本かと錯誤した。作者は「外山 滋比古」である。購入したのは二冊で、「思考の整理学」「ものの見方、考え方」という本だ。思考の整理学は主として閃きについて語られている。独創性がどこからくるのか、といったテーマに主眼が置かれているように感じた。いくひしと似た考えを展開していたのにびっくりしつつも、まあ、閃きとはなんぞや、いずこよりやってくるのか、をいちどでも考えたことのある暇人ならば、必然、そこに行き着くようなぁ、といった着眼点ではあった。むろん、いくひしが説明するよりもよほど解りやすくまとめられている。むしろだからここで言いたいのは、「ものの見方、考え方」のほうだ。物語の多重構造(圧縮化)を推しているいくひしとしてはぜひとも、多くの編集者の方々に、「エディターシップ」と「フィナーレの思想」の項を一読していただきたい。時代は繰りかえす。繰りかえしながら進んでいる。ころがるにつれ、事物はだんだん丸くなる。
327:【食わず嫌い】
むかしから苦手なものが多かった。食べ物はとくにひどく、基本的に一品料理しか受け付けられない。三角食べなんてもってのほかだし、海鮮、キノコ類は今でも苦手だ。騙されたと思って食べてみなさい、というおとなたちの言葉の意味もよく解らず、騙されたと思って食べてみたらほんとうに騙された、としか思ったことがなく、それはどこか、いたずらに殴りつけてくる相手から「殴られたと思って怒ってごらん」と言われるのと同じくらいピンとこない言葉だった。旅行でも同じで、じっさいに足を運んで見たときの風景よりも、写真や映像で見たときの偽物の風景のほうが、よりすばらしく感じる。言い換えれば、本物を見てがっくりくることがすくなくない。ほとんどそうだと言ってしまっていい。偽物の、虚構のほうがうつくしく感じる。むかしからそうだった。考えてみればそれは当然のことで、醜いところを排除し、うつくしいところだけを切り取られたものが、写真や映像として残る傾向にある。そうでなければ商品価値がない。スクープ写真はあべこべに醜い部分をクローズアップするので、受ける印象ほどには、あれらも本物は醜くないのだろうと推し量るものだ。むかしから食わず嫌いではあったが、齧ってみても苦手なままのもののほうが多かった。ほとんどそうだと言ってしまっていい。しかし、小説だけはちがった。不味そうだなぁ、と思っておそるおそる舌のうえに載せてみると、信じられないくらい美味なのだ。苦手だなぁと思っていたのが、じっさいに触れてみると、なんとすばらしいものだ、と世界観を一変されてしまう。あらゆる事物が食わず嫌いにはならずいつまで経っても「食べても嫌い」だった。しかし、小説と出会い、それが変わった。刷新とは、まっさらな状態にされることではなく、「私」という世界に新たな言葉が書き加えられることなのだ。(もっとも小説は端から虚構ではあるのだが)
328:【視覚と死角】
ある分野に長く身を置きつづけていると、途端に見えなくなってくるものがある。それは一本の道にも似ていて、数回程度の往復ならば、通るたびに新しい発見があるが、毎日のように足を運ぶ馴染みの道となってしまうと途端に、目新しいものが見えなくなってしまう。これは、脳がそのような処理の仕方を覚えてしまうからで、言うなれば、処理済のハンコを捺されてしまっている状態だ。何が問題で、何が問題でないのか、未知の領域を未知のままで放置していてもだいじょうぶだとする線引きを完了させること、これがすなわち、素人と玄人のちがいになる。素人は、何がだいじで、何がだいじでないのかの区別がつかない。ゆえに、先人である玄人から学ぶか、或いは、自ら、手当たり次第に確かめていくほかない。先人から学ぶ者のほうが成長は遥かにはやい。言うまでもない。無駄なことをせずに済むのだからそうなる。しかし、先人が無駄と断じ、切り捨てた未知のなかに、新たな発見がないとも限らない。それを掘り起こすのは、素人にしかできないことなのだ。玄人は、道を極めつづける存在だ。道のありようを根本からひんまげるような真似はできない。ある分野に身を置きつづけていると、途端に見えなくなるものがある。それは、本来、消えることなく増殖しつづける未知の領域だ。新たな知見を得れば、新たな道が切り開かれる。しかし、細分化しつづける未知にいつまでも付き合いつづけてはいられない。道は進まねば意味がない。いっぽう、素人には、そうした道草を食う余裕がある。道草を食うことが素人の専売特許と言ってみてもいい。何かを極める資格は誰にでもある。未知を見据える視覚さえあれば、たとえ足が止まって映ろうが、その者は進んでいるのである。だいじなのは、資格でも視覚でもない。死角の有無に気づくことである。
329:【安心感は麻痺の別名】
人と関われば関わるほどダメになっていく。朱に交われば赤くなる。ダメになればなるほどじぶんの輝きが解ってくる。じぶんの価値など一生解らないままでいい。元の世界に戻ることにする。(2017年02/16)
330:【新人類】
2017年5月の時点で未就学の子どもたちと、それより上の世代の者たち、ここにひとつの明確な線が引ける。2018年以降に小学校へあがることとなる幼児たちは、産まれたときからスマホが玩具のひとつとして馴染みあり、そして東日本大震災以後に生まれている。我々へ劇的な変化を及ぼした体験を経ずに、彼らはそれが当然そうあることとして生きていく世代の第一段目となる。我々からするとそこに開かれる差異は、一世紀ほどの隔たりがあると言って大げさでない。彼らが社会に羽ばたくとき、我々は自身が築き上げてきた価値観を打ち砕かれる覚悟を今からひっそりと固めておかねばならない。彼らは我々より遥かに優秀な未来人である。我々は、我々より一回りも二回りもちいさな巨人たちに、従来よりもずっとはやい段階での「活躍の場の譲渡」を決行せねばならなくなるだろう。そのとき、我々にでき得るさいだいの社会貢献は、無駄な抵抗をしないことである。
※いびきを掻いてないと思っていても掻いている、自我なんてそんなものだよ。
331:【折り返し地点】
紙を折り曲げたら、そこには影ができて、立体になる。世界が拓けるとはそういうことだ。次元を越えてこそ折り返す意味がある。
332:【実情】
いくひしの言葉の数々は主として、じぶんを肯定してほしい、とする「おしつけだましい」である。おしつけだましい、とは、「押しつけがましい」と「騙し」と「魂」からなる造語である。とにかく、じぶんのやっていること、じぶんの人生、存在価値を認め、崇め、奉られたいとするみっともない欲望がその構成物質の大半を占めている。それ以外の要素があったのかと、おどろきを隠せないとする声には目をつむらせてもらう。しかし耳は塞いでいないので膝がガクガク震えている。あまり辛辣な指摘は控えていただきたい。いくひしは豆腐みたいにもろくてとぅるとぅるしているものが好物なのだ。冷やしても、茹でても、炒めても、揚げたてだって美味しい。すばらしい食べ物だと思う。
333:【2DK、Gペン、目覚まし時計】
大沢やよいさんのマンガ「2DK、Gペン、目覚まし時計」がおもしろい。心の唾液ダラダラです。百合×お仕事×創作モノで、百合を主軸に話が進み、仕事のできる人間の魅力、そして葛藤、卑近さ、一つのことに夢中ゆえにダメな人間の憎めなさ、とにかく人間くささの魅力みたいな塊の作品で、ありゃー、赤ちゃんの食事かってくらい心が唾液でびしゃびしゃです。おすすめ!
334:【セブンティウイザン】
タイム涼介さんのマンガ「セブンティウイザン」がマズい! これは非常に危険だ。否応なく人生のあたたかみに触れてしまう。しあわせな話だ。しあわせな話なんだ、とてつもなく、しかしこれはなぜか解らないが胸がほっこりじ~んとするのとは裏腹に、いまあるじぶんの何か触れてはいけないところまでもがグラグラと揺るがされてしまう。解らない。しかし言えるのは、子育てブーム、きてるな。一読の価値ありです。
335:【息子がかわいくて仕方がない魔族の母親】
十五夜さんのマンガ「息子がかわいくて仕方がない魔族の母親」が子持ち萌え族を狙い撃ちしすぎていてヤバい。午後の日差しのうららかな街道を赤ちゃん抱っこして歩いている女性の姿にピンときてしまう人には、ピンピンってセンサっちゃうひとには、超絶おすすめしておきたい一品です。にしても今回購入したマンガを眺めて思うのは、やっぱり子育てブームきてるなってことですな(主にいくひしのなかで)。
336:【ダンジョン飯四巻】
言わずと知れた九井諒子さんの漫画「ダンジョン飯4巻」に開いた口が塞がらない。塞ぎたくない。あんぐりというか、ハングリーというか、これはもう巷に氾濫する飯マンガとは一線を画する物語の密林、ジャングル、まさしく秘境だ。キャラクター、セリフ、絵柄の濃淡、コマ割りのコミカル度の絶妙な割合、全体を通して起伏があるストーリーライン・展開でありながら、一定の温度を保っている「世界観のトーン」、それらすべてに職人技としか思えない絶妙なさじ加減が感じられる。比重のまったく異なる宝石を載せながら瞬時に秤が吊り合うように重しをコマ毎に選択し載せるのに似た驚異的なバランス感覚があってこそ成り立つそれらはことだろう。巻を重ねるごとに、いったいこれが何の漫画だったのかを忘れることなく忘れてしまいそうになる、終わらない悪夢ならぬ終わらない映画のような作品だ。そう遠くない未来、虚構をつくりだす者にとっての教本となるであろう一つである。ちなみにチルチャックの「楽しくなってんじゃねーよ」は2017年度いくひしツッコミ大賞の現時点での受賞候補NO1である。
337:【コメディ】
小説において、ツッコミのない笑いが理想です。
338:【ラブデス。】
くずしろさんのマンガ「ラブデス。~短期集中連載集~」がうんとべんきょうになります。百合でガチで殺し合いなんですが、真剣すぎてギャグっていうね。いや狙ってますよ。笑いというか命というか、マジでラブなコメディを狙ってるけれども大真面目だからこそおもしろい。なにより過去の体験をふりかえったときに、「あ、あれってこういうことだったのね」と新たな知見が得られる、目からうろこが落ちまくる、中学生のころに読んでおきたかったぜ。青春やろうどもにおすすめの逸品です。
339:【コヨーテを殺す方法】
あ、まちがった。「心を殺す方法」ね。病み系BLかつネトラレで、ところどころでドロドロなのに、なぜかムカムカしない、ふしぎな後味の作品だよ。作者はカシオさん。仕事のできる上司(せんぱい)好きな方におすすめしたい。しかし仕事のできるせんぱいの出番が二巻からしか増えないのでそこはご愛嬌で乗り越えてほしいな。ちなみにことし読んだなかでトップクラスの高跳びのハードルなBL漫画は、座裏屋蘭丸さんの「コヨーテ」で、高跳びのハードルなきぶんになりたい方にはうってつけの作品です。ぞんぶんに心にそそり立つあなただけのステッィクを使って高跳びのハードル、それはたとえばこんなカタチ→「H」をしているのだけれども、からだいっぱいに反りかえって挑んでみるのもまた一興ではないかな。
340:【花と黒鋼】
篠丸のどかさんの漫画「花と黒鋼」がイイ。いくひしがここ数か月行きつけにしているちいさな書店さんだけが最新刊三巻を分かりやすい場所に、表紙が見えるようにして置いてくれていた。ほかの書店さんではなかなか見つけられなかった。ざんねん極まりない。ちいさな女の子と人型兵器の相性はとてもよいと思う。タイトルのとおり、有機物(花)と無機質(黒鋼)くらい隔たりがあって、反面それはどこか太陽と月くらいに切っても切れない深いエニシで繋がっている。異種間交友であり、SFであり、冒険譚であり、策略譚でもある。物語の野菜スープみたいなコクがありーの、さっぱりーの、透明感のある、しかしとろみある、野菜嫌いなひとにはすすめられない、けれど身体は欲しているだろう、そういう物語である。巻を重ねるごとに迷いがすこし感じられるので、売れ行きだとかを気にせずに、やりたいことをすきなだけ圧縮して煮込んでほしい。煮すぎて、しょっぱいスープにならないようにだけ注意してほしい。こちらから注文を挟みたくなるほど、このテイストを保ってほしいとせつに願う、稀有な物語である。
※引き際が肝心なのはしっているけれど、引き際がどこかを見極める目利きがないので、引き際をぶっちぎってもだいじょうぶなように、とりあえず、引き際ごと三途の川を渡りきって、それから「あ、きちゃだめなとこだった」って気づいて戻ってこられるだけの体力をつけることにしたのはもうきのうのことのように遠いきおくさ。
341:【妖怪番長6巻】
めっちゃおもろい。THE漫画って感じする。漫画じゃなきゃ出せないおもしろさの極み。めっちゃおもろい。ほかの作家さんが同じストーリィでプロット練ったらぜったいこの三倍は長くなっている。圧縮率の高さよ。そして見せ場の外さなさよ。見習うのではなく、しかしこれを越えなきゃならんのだなぁ。小説で。いっぺん生き抜いて死という息抜きしてからもっかい生き抜いたあとじゃなきゃムリそうだなぁ。すごい。かっこいい。
342:【くずしろ、という名の作家】
くずしろさんのマンガ「龍崎さんと虎生さん~百合姫短編集~」を読んだ。すごいっす。まじぱねぇっす。生々しさをデフォルメさせたら右に出る者はいないんじゃないかというくらい、人間の醜いがゆえのうつくしさをかわいらしく抽象化している。すごい。教科書にしたい。全国の虚構愛好家に配って歩きたい、そんな作品を生みだす作者さんです。ちなみにさいきん、いくひしちょっと受け身になりすぎてない? と、なにかしらを表現したいと欲する者としての質の低下を真摯に受け止めながらも、買い溜めた虚構どもをぺろりとたいらげていく休日を送っている。ちなみに小説は、戌井昭人さんの作品「ぴんぞろ」がお気に召しました。ほかの作品も読み漁るぞ。
343:【びようしつ】
他人との肌の接触が苦手ないくひしさんですから、そりゃあとうぜんの帰結として美容室なる場所は「苦手」なるカタチを成したムシがうじゃうじゃ床や天井を這って映る魔の巣窟と呼んでなんら差し支えない。しかし足を運ばぬわけにもいかぬ。黙っていても髪は伸びざかりを一向に越える気配をみせず、永遠の成長期なんてストイックな真似事をしよるわけでして。頭髪なる布地に「へあすたいる」なる絵画を描くだけの器用さはむろんいくひしにはない。自分のツノでいずれ頭蓋骨突き破って死んでしまうと謳われるバビルサじゃないんだから、せめて「ここまで」っていっちゃんかっこいい髪型で止まってくれたらいいのに、地毛が際限なく伸びる生き物なんてほかにいるかい、呪われてんじゃないのニンゲン。ぼやいたところでボサったい髪型が直るわけでもあるまいし、いくひしは重い腰をよっこらせ、魔の巣窟に行ってまいった。魔法だね。いくひしのボサったい頭部に「へあすたいる」なるものが宿ったよ。会計を済ませた時分まではたしかに宿っていたんだ。万年孤独ウェルカムマンのいくひしさんですからそりゃー万年帽子手放さマンなわけでして、せっかくセットしてもらった髪のうえから帽子を被って帰宅するでしょ、だって春先はまだ遠く、さむいんだもん。で、靴脱いで帽子とって重い腰もとい、疲れた身体をベッドのうえにどっこいしょ。下ろしたらさ、ほら、枕元のよこちょに置かれた手鏡覗くよね。目がいっちゃうよね、だって頭にこれまでなかったへあすたいるだよ。確認するじゃん、いるかなって。いたよね。河童が。ただの河童ならまだよかった。よくはないけど、でもさほら、水面から顔を覗かせた水もしたたるよい河童よりはただの河童のほうがよいわけじゃん。ぺったんこ。いったい誰の胸板かな?ってくらいのぺったんこ具合。あれ、いくひしのへあすたいるどこいった? けしごむで消しちゃったかなぁ、なんなら若干ハゲてない? いや、ハゲをわるく言うつもりはないよ、いくひしどちらかといえばボウズ好きだし、かっこいいし、でもさほら、河童はなくない? 妖怪番長のカッパだって、頭のうえの皿は帽子だよ? 着脱可能だよ、選べるよ? もうね。こうしてパチパチ打ってるPCのディスプレイに映るじぶんの顔がこわくて見れない。だから万年帽子手放さマンのいくひしさんは、ついに部屋のなかでも帽子を手放さマンになっちゃったんだとさ。寒いしね。せつやく、せつやく。
344:【あ”?】
「かつて選ぶ側だったあのひとたちが、いまは選ばれる側だってことに気づくのはいつのことになるだろう。黙っていても才能が集まる時代は終わった。面と向かって言ってやりたい。『降りてこいよ。リングはここだ』って」
345:【Linkin Park】
数年ぶりにアメリカのロックバンド「Linkin Park」を聴いていたのだけれど、やっぱりかっこいいな。そして有名どころの「Numb」「Faint」「Breaking The Habit」「 It's Going Down 」以外で、なんだこれー!!?って曲があって、いやーさすがリンキン、進化しつづけてるなぁ、って思ってたら、じつはデビュー前の曲だったっていうね。タイトルは「 Dedicated 」。かっこいい。暗黒騎士って感じだ。ドクロの仮面かぶってるの。いつかこの曲イメージして短編つくります。めっちゃダークなやつ。でもかわいくてせつないやつ。
346:【「あ”?」じゃないでしょ】
「あんたが上がってきなさいよ、なに三下相手にイキってんの、みっともないとは思わないの」
347:【聞き飽きた、しかし忘れてしまう】
自由という言葉に囚われ、型をつくるのをおそれてはいけない。
348:【あなたではなくきみに】
共感しました、と称賛されるような作品だけはつくりたくない。知らない世界を知ってもらいたい。すこしでも世界を広げたい。あなたではない誰かを、あなたのなかに埋め込みたい。それはどうあっても良書では適わない。ぼくのこれは、悪意だ。ぼくはずっと世界に復讐しつづけている。
349:【誰かのせいにしたくって】
「こんな目に遭っているのはぜんぶおまえたちのせいだ!」いくひしはきっとそう叫びたくてたまらないのだな。いっそ叫んでみればいい。虚しいだけならいい。きっとすごく傷つくはずだ。錆びついた釘で肌を裂くみたいに、浅いくせしてひと際甲高く痛みを訴える傷口があく。叫んでみればいい。それがいくひし、おまえの慰めになるのなら。
350:【じゃあ言う】
おまえたちのせいだ! ぎゃーイタイ!!!
※ひし形と正方形のちがいを挙げよと言われて、視点? と首をかしげてしまうぼくにはけっきょく、線も面も、立体のなかにころがったペットボトルの蓋のようなもので、温泉を知らぬ幼子のバスルームの広さに思いを馳せるのはむつかしい。
351:【復讐】
自爆を伴なう復讐ほどばからしいものはない。ひとはそれをテロリズムと呼ぶ。しかしなにも、政治的、組織的なものばかりではなく、テロリズムは個人のなか、何気ない生活のなかにも潜んでいる。じぶんが傷つくことで傷つく者がある。ゆえにじぶんを傷つける。じぶんをじぶんの手で損なうことで、じぶんを蔑ろにしてきた者たちに、その代償を払わせようとする。いじめられた子どもが遺書という名の告発文を残し死んでしまうのも、テロリズムの一種だと呼べるし、なかなか認められない者が、いっそのこと死ぬまで認められないように振る舞い、死後、認められることで、生前じぶんを認めなかった者たち――そのときは明るい道を歩いていた者たちに愚者のレッテルを貼り、地の底へと引きずりこむのに似た執着もまた卑近なテロリズムと呼べる。復讐は惨めで、浅ましい。しかし、有効ではあるのだ。
352:【固執】
インナーマザー。ここ、テストにでます。
353:【いくひし、ダダっ子になる】
「どうしたの、立ちどまって。何かあった?」「もうやだ、やーなーの!」「なにがヤなの。ちゃんと解るように言って」「もうぜったい新人賞とかコンテストとか、そういうのに応募してやんない。いくひし、時代に埋もれたさいのうとして生きてくもん」「またそんなこと言って。なんどめ? いいかげん聞き飽きちゃった」「いいの。こんどは本気なんだから」「いったい何の影響を受けたの。毎回すぐに感化されちゃうんだから。聞いてあげるから言ってごらん」「言ったってどうせわかんないよ」「聞いてみなきゃ分からないでしょ、ほら言って」「んー」「唇すぼめて肩揺すってもダメ」「うふふ」「ほら、教えて」「えっとねぇ、コレ」「どれどれ。なになにぃ?」『時代はしかしやがて風化し、超古代遺跡として私はいつか世界に出土する』「ふうん。だれの言葉?」「わかんないけど」「またかってにちぎってきたわけだ? 図書館の本から」「ち、ちがうもん」「ほんとにぃ?」「たぶん」「あやしい」「いいの! とにかくいくひし、もう新人賞とかそういうのにがんばんない。ぜんぶじぶんのためにすることにしたもん」「そうやっていじけて。いっつもそれで失敗してきたでしょうに」「いいの! いくひしのこと無視したコたちのことなんて知らないもん。道づれにしてやる!」「いいのかなぁ、それで。きみだけだよ、損するの。ほかのみーんな、きみのことなんて気づいてもいないんだから」「やぁだぁ、みじめなのヤダ」「ふふ、かっこわるいね。もうすこしだけがんばってみたら? おんなじ惨めでも、そっちのほうがかっこいいと思うよ」「まどわさないで!」「そ? じゃあかってにしたら」「うわーん! うわーん!」「あーうるさい。じゃあね、行っちゃうよ」「まって、やだ、おいてかないで!」「やれやれ。あたしがいないと何もできないんだから」「だって、だって」「泣かないの。ほら、しゃんとして。あたしはだれ。あなたのなに?」「ぐすん、ぐすん」「言ってごらん。ほら、ちゃんと顔見て」「ん」「言ってごらん。あたしはだれ。あなたのなに?」「ゆめ、じんせい、じょうねつ、しつぼう、ざせつ……わかんないよ、いっぱいあるもん、なまえ、いっぱいありすぎてわかんない」「ふふ。よく言えたね。花丸あげちゃう。そうだよ。あたしはあなたの夢であり、人生であり、情熱であり、そして何よりあなたにとっての絶望そのもの。ほんとうなら、あなたにとってはいないほうがよいもの」「でも……」「そう。あなたはあたしにいなくなってほしくない。あなたには、あたしが必要なのね」「いなくならない?」「さあ」「ずっといて」「どうしよっかなぁ」「いじわるしないで!」「いじわるしてるのはあなたでしょ。あたしはもっとまえを行きたいのに、あなたがそうして地べたに大の字になって海でもなしに手足をバタつかせてるから、あたしはいつまで経ってもまえに進めない。未来を進めない。気づいているかな? あなたがあたしを失望と呼び、挫折と呼ぶとき、あなたのほうが地面に転がって、あなたのほうからあたしに見下ろされるようにしている。ねえ。ちゃんと立って。あたしのあとを追いかけて。あなたがあたしを夢や情熱と呼ぶとき、あたしはいつだってあなたの道しるべとなるべくまえにいるでしょ。足止めしないで。いじわるしないで。あたしはもう、あなたを待ったりしないから。付いてこられないなら置いてくだけだよ」「うわーん! うわーん!」「まだ泣いてる。あきれた。バイバイ。もう行くね」「やーだーーー!!!!! まって!まって!まってぇーーー!!!」「ばいばーい」「うわーん! うわーん!!!」「すっげぇ声量。なあ、おい。そんなとこでなにやってんだおまえ」「う、うわーん?」「よお。で、なにしてんだ」「み、見た……?」「何を? おまえの痴態なら丸見えだが?」「……カァ///」「泥だらけじゃねぇか。なに? オケラのマネ?」「そ、そう……」「なわけあるか。オケラがンな喚いてたまるか。なんだ、食べたかったお菓子でも買ってもらえなかったか」「そ、そうなの」「否定しないところを鑑みるに、それよりひどい理由で駄々コネてたのかおまえ。相変わらずのドン引きっぷりだな」「あのね、あのね」「んだよ」「なにも訊かずに見なかったことにして?」「言われないでもイマスグ忘れてぇよ、知り合いが地ベタに大の字になって海でもなしに手足バタつかせてる姿なんて」「みじめ!」「わかってんならしゃんとしろ。すくなくともおまえはあたしの――」「ゴクリ」「べつになんでもねぇなぁ、よく考えてみたら」「もっとよくかんがえて!」「まあ、カゼだけひかねぇようにしろな。あと、暗くなったら帰れな。うるせーから」「もうなんかいろいろとザツ! ちゃんと心配して! なにがあったのか訊いて!」「ヤだよめんどくせぇ」「すなお!」「そもそもさっき自分で何も訊くなっつったろうが」「ことばの綾というものをごぞんじでおられますか?」「いつにも増してうっとぉしぃなおめぇ。きょうはあたし、機嫌がわるいんだ。愚痴こぼしてぇならほか当たってくれ」「あたる他人がいるならそうしてるよ!」「八つ当たりかよ」「そうだよ!」「ったくしょうがねぇな。飯奢れ。したら聞いてやる」「おまかせを」「で、何があった。どうしたいんだおまえ」「え、ホントにいいの? 長いよ? 日本海溝並に深い悩みだよ?」「そんかしたらふく食うからな。覚悟しとけよ」「おまかせを」「どうせおまえのことだから、才能が認められなくってかなしーよー、とかそんなレベルの話だろ。くっだらねぇ」「ち、ちげぇわい」「じゃあなんだよ。言ってみろよ」「それは、だから、えっとぉ」「ニヤニヤ」「あ、そうだ。このあいだ美味しいコーラだしてくれるお店みつけたんだ、そこ案内したげる、こっちだよ、こっち」「ニヤニヤニヤ」「あ、あはは、あはははー」「遠いのか、そこは」「歩いていける距離ではあるよ」「ふうん。ならそれまでよく考えておけよな。地ベタに大の字になって海でもなしに手足バタつかせちゃうくらいのふっかーいお悩みってやつを」「うぅ……わかった」「そこは誤魔化せよ」「おまかせを」「会計は?」「タダですよ?」「実はな」「なにさ」「あたしな、さいきんおまえのこと心の中ではこう呼んでる」「がっくりしとく準備しとくね?」「めんどくせーときは飲み代タダっ子ってな」「あ、笑う準備のほうがよかった? ごめんね?」「そこは流せよ」「おまかせを」
354:【ちゃうねん】
悪意とかちゃうねん。なにゆうてんねん。無償の奉仕やで。いくひしは見たこともおうたこともないあんたにむけてぴよぴよ物語こさいどるんやで。ただただおもろかったなぁ、思うてほしくて、ただただ、生きとってよかったなぁ、まだ生きとってもいいんだなぁ、思うてほしい、ただそれだけなんよ。悪意なんてないよ。ほんまのほんまよ。いっしょにあすを生きぬいてこ? 持ちこたえるんや。うまい具合に息抜きもせいよ。そんでうまいこといかんことあったら、息抜きのせいにせいよ。そんためにいくひしの物語を読んどったらええねん。あんなもん読んでもうたからこうなったんや、ゆうて、ぜんぶいくひしのせいにしとったらええねん。だいじょうぶ。いくひし、それでもうれしいねん。ほんまやで。うれしいねんからな。ありがとうな。おおきに。
355:【無テキ】
いまならなんでもできそうな気がする。なにもする気がおきないだけで。
356:【大言壮語】
物語を切り貼りするだけで食べていける時代は過去の栄光を引きずり、その余韻をかすみのように貪る存在に成り下がった。しかし時代は時代として残りつづける。次世代なるつぎの時代に造作もなく踏みつぶされるまでは。作家が作家としてのみ食べていける時代もそう長くはつづかない。しかしだからといってそれが作家でありつづけない理由にはならない。食べていけないからなんだ? 稼げないからなんだ? 評価されないから? 受賞しないから? そんなもののために作品をこさえてきたのか貴様は。時代よ。勘違いするな。おれはおまえに付き合うつもりなどさらさらない。付いてこれなきゃ置いてくだけだ。
357:【お菓子】
ぷぷぷ。置いてかれてるのはじぶんじゃんね。おっかしー。置いてかれてるだけならまだしも、老いてるじゃん、枯れてるじゃん。オムツ穿いたほうがよくない? オツム換えたほうがよくない? ぷぷぷ。おっかしー。
358:【解説】
たとえばブランコに乗ってより高く、遠くまで飛ぶとき、ひとはたくさんブランコを漕ぎますでしょ。前後に大きく揺れ、高低差をつけ、なんだったらグルグル回っちゃってもよいのでしょ。飛距離を伸ばすには、この高低差、振幅の深さが重要なのでしょ。それはそれとして、そのためには、じぶんへの肯定感、心服が欠かせなくなってきますでしょ。同時に、奮い立たせたそれらを完膚なきまでに叩きのめすまでの現実を直視する第三の目も必要でありますから、それゆえに、わたくしめは、文字に興すべきではない戯言の数々をこうしてお目汚しを覚悟で、世界に刻んでいるのでございましょ。ただ一点、どうしても見逃せない隘路がございまして。じつはわたくしめ、高いところが苦手でございまして、いくら勢いをつけ、お月さまに届きそうなほどに高く舞いあがったところで、鎖を握る手をどうしても離せないのでございましょ。勢いをつければつけるほどに恐怖心は増し、だったら端からブランコなどに乗らずに自力でジャンプしたほうがよほど飛距離はでるのでしょ。本末転倒な真似をするのがひどく上手なわたくしめなのでございましょ。
359:【本質】
心底どうでもいい。何かあるたびにまずこの感情が浮きあがる。
360:【前段階】
何かあるたび、の何かがこちらを向く前段階では、「へえ、たいへんそ」さんと「あは、ウケる」くんがやってきて、向こう岸でせいだいに焚火を催します。
※日々同じことの繰り返しに嫌気が差すのではなく、刻一刻と巻きついてくる足枷の鎖が、どこか誇らしく感じてくるあの安堵感が嫌なのだ。
361:【風が吹くと意識が生じる】
ある問題が起きたとき、何か対策を講じようと話し合いを開くと決まって、結果論ですよね、と要因の矛先を曖昧に捨て置くことを是とする発言をする者が現れる。一人きりではない。だいたいにおいてその場の空気がそうした結果論、すなわち、起きたあとでならなんとでも言えるよ、といった論調に染まる。話し合いの焦点は要因の追求とその対策であるにも拘わらず、彼らの多くは責任の矛さきを気にしているのだ。そもそもが、彼らの多くは、ある問題が生じたのはひとつきりの因子によってだと信じて疑わない。複数の因子が密接に絡みあっている状態を想像できないのだ。しかもそれら因子は同時に関連するわけではない。段階的であり、雪だるま式である。問題とは複数のちいさな問題によって徐々に大きさと深刻さを増していく。どの時点で気づけるのかが肝要だ。多く、因子と因子を繋ぐ「フシ」の役割を果たす変曲点がある。対策を講じる場合にたいせつになってくるのは、それら変曲点のうち、大きなものを洗いだし、その芽を摘むことにある。責任の矛先を気にする者の多くは、本質である因子ではなく、問題が問題として浮上したきっかけに要因のハンコを捺す方向にちからをそそぐ。それは大概が、問題を引き起こしてしまった人物の過失というカタチで処理される。本質は、なぜその人物がそうした行動をとり、なぜそのような問題として顕在化したのかだろう。因子は必ず複数ある。優先順位こそあれど、すべての因子に何らかの対策を講じるべきだ。真摯に問題の再発防止を考えるならば当然のことだろう。基本的な事項であるこれらのことを、なぜ上の人間たちが理解していないのか。認めがたいが、これが現実だ。組織の底が知れる。子たぬきはそう言って拾った松ぼっくりを両手に持ち、一枚一枚ていねいにカサを折り曲げていくのだった。
362:【怪物事変】
藍本松さんのマンガ「怪物事変」がタイプです。無口少年と掴みどころないおっさんの怪異×探偵×冒険譚です。シリアスな場面で、真剣に「おじさんのお尻を見せてあげよう」とか言っちゃうような飄々としたおっさん好きにはたまらない作品ですね。ショタコンにもおすすめしたいですな。べつにいくひしはおっさん好きじゃないしショタコンでもないけど、おすすめはします。田辺イエロウさんの漫画「結界師」が好きな方にもおすすめです。今月イチオシの作品です。
363:【いくひしは死んでいるのか?】
森博嗣さんの小説「私たちは生きているのか?」を読みました。たーのしー! 好きなものほど感想がむつかしい。だってたぶん、好きって感情はすごく個人的なもので、何をどのように好きになるかがすなわち個性というものだと思うのだね。その点、いくひしがたーのしー!ってなる箇所は、たぶん、おそらく、多くのひとにとっては、へぇ、なんで? ってなることが大いに予想される箇所であって、感想をつたえたところで、それがこれを読んでいるあなたにとっての参考材料になるとは思えないからなのだね。しかし敢えて言わせてもらえれば、人間じゃない人間っぽいものの魅力、或いは何かが欠けている人間の魅力は、計り知れないものだね、という統括的なものならお答えしておこうかな。たーのしー!!!
364:【 感情が渦巻く牙城感】
kiiara - Feels
365:【やる気】
できる、と思った瞬間にやる気が失せる。では、できない、と思えればいいのかというとそうというほどでもない。できる、できない、という枠組みはすでにあるものを試みる行為を示す。すでにある、と認識した時点でやる気がどこかを向いて風を吹く。
366:【SF】
これからのSFは、新たに現れるものではなく、失われていくものを描くことが物語の輪郭として機能していく。存在することすら意識されずに存在する「いま」にとって不可欠なもの、あって当然のものが消えた世界、それがこれからのSFの主要テーマとなっていく。
367:【おまけ目当てのお菓子のように】
いくひしは無料で小説を公開している。しかし無償でしているわけではない。対価はいただいている。欲を張ればおまけがほしい。あなたの内で展開された物語について、あなたがどういう思いを抱いたのかをこの世界に刻んでほしい。ひらたく言えば、作品の感想をあなたのそとに吐きだしてほしい。作品名はなくてよい。何についての感想か、なんて蛇足も必要ない。吐きだす場所はこの世界であればどこでもいい。SNSでも、あなただけの日記でも、テスト用紙の裏でも、友人を待つあいだに座ったベンチの足元でも、結露して曇った窓ガラスにでも、ケチャップでオムライスにふりかけてみたっていい。なんでも構わない。あなたの内に生じた揺らぎを、あなたのそとに、この世界に、刻みこんでほしい。いくひしの小説があなたの内で作品となった証として、世界へとその影響を残してほしい。むろん、強制ではない。いくひしにとってもっともたいせつなことは、飽くまでいくひしのつむいだ物語があなたの内で作品として昇華されることである。対価はそれにて十全にいただけている。だからして、いくひしにおまけを与えてやってもいい、という心の広い方だけにおねがいしたい。世界に揺らぎを与えてほしい。いったいそれが何になるのか、と疑問であたまをもたげる方もおられるだろう。いったい何になるのか。それは百年後、千年後のおたのしみである。
368:【THE説】
「挫折のない人生? 要は挑戦してこなかったんだろ何一つ」
369:【金のタマゴ】
カツヲさんという漫画家さんをご存じでしょうか。「ひとりぼっちの○○生活」や「三ツ星カラーズ」を手掛ける気鋭の作家さんである。絵柄がたいへんかわいらしく、ただそれだけで手元にほしくなる、たいへんに優れた絵描きさんの一面がある。しかしじつを言うと物語として見たときに、何か一つ物足りないと首をひねることが多かった。絵描きさんとしては好きなのに、漫画家として見るとイマヒトツ推しきれない。しゅきしゅきセンサーはびんびんなのになぜだろう。惜しいなぁ、これに尽きる漫画家さんの一人だった。ところが最新作「金のタマゴ1~2巻」を読んで一転、正真正銘、手放しどころか逆立ちして絶賛したいくらいのきもちに駆られている。駆られたどころか絶賛しちゃう。カツオさんのマンガ「金のタマゴ」がめっちゃおもろいねーーーんんん!!!!! 読みましょう。何かの夢を追う人も、社会に疲れた新人も、そんな新人に振り回されて白髪が増えちゃったあのひとも、読んだら癒されること期待値大です。金のタマゴ、金のタマゴですよ。お忘れなく。
370:【バイオレンスアクションvol.1】
WEBマンガサイト「やわらかスピリッツ」で連載中のマンガ「バイオレンスアクション」がねー、これはねー、ちょっとねー、つぎへの時代の扉をつくっちゃうんじゃないのかなーって思っちゃうよねー。ケイちゃんがさー。ちょっとっていうか、これがまたかわいくってさー、でも舞台が舞台でしょー? マンガ「闇金ウシジマくん」に「苺ましまろ」の美羽ちゃん(十年後ver)が颯爽と降りたっちゃった感じするよねー。混ぜちゃ危険を忠実に再現しちゃったチョコバナナ抹茶パフェですよ。美味しくないわけがない。ぜったいハズしたくないときに召しあがってほしい一作だねー。ケイちゃんに銃。(スイカに塩てきなね)
※きみきみ日に日にメリメリめり込み、じりじり死に死にひりひり手に染み、ぴりぴり散り散り、致死の実、身に練り、めきめき辟易、きりきりハキハキ、張りきるきみの値いったいいくらに。
371:【ブラック・クローバー】
連載漫画の魅力の一つに、作者の成長が垣間見える点が挙げられる。物語そのもののデキとはまたべつに、作者の力量が劇的にあがっていく過程が物語を通して伝わってくる。主人公たちが成長していく過程よりもそれは、読者のこころを鷲掴みにする媚薬としてときにちからづよく我々へと働きかけてくる。田畠祐基さんのマンガ「ブラック・クローバー」はそんな稀有な作品の一つである。読むならば一巻で見切らずに最新刊まで通して読んでほしいと媚薬を盛られた側としてはあなたの足首を掴むつもりで補足しておく。
372:【おたより】
いくひしさんからおたよりをいただいたよ。「どうしたらうまくいきますか」そっかぁ。うまくいかないかぁ。うーんそうだよね。うまくいかないと困っちゃうよね。どうしてこんなにがんばってるのに、つらいのに、うまくいかないんだろう。そう思っちゃうよね。どうやったらうまくいくのか。こればっかりはぼくにもちょっと解らない。ごめんね。ただ、話はすこし変わっちゃうんだけど、いくひしさんがそうやって「どうしてうまくいかないんだろう」って悩んでいるとき、きっといくひしさんの頭のなかでは、うまくいっているじぶんの姿があるんだよね。そのうまくいっているじぶんの姿とちがうから、いまのじぶんを「もっとどうにかならないかなぁ、いやだなぁ」って感じちゃうんだと思う。それってすごくたいせつなことで、いくひしさんにとって今はまだその「うまくいっているじぶん」にはなれていないのかもしれないけれど、でも、ぼくからすると、そうやって悩んで、うまくいかなかった、どうしてだろうって困っちゃってるいくひしさんは、とても魅力的にみえるんだ。あ、ちがうよ、誤解しないでね。こいつ、困っているひとを見るのが好きなひどいやつだ、なんて思わないでね。そうじゃなくて、何かをやってみて、それで、思っていたのとちがう結果になっちゃった。でもそれは何かに挑戦してみたから判ったことで、その、何かを挑戦してみて、そしてちゃんと理想の結果をあたまに思い描いていて、どうしてそうならないんだろうって、理想と現実のギャップに頭を悩ませているいくひしさんは、ぼくにはちゃんと成長しているふうに映るんだ。進化しているし、進歩している。ぼくはそうやって苦しみながらも、それでも頭のなかのうまくいっているじぶんに追いつこうとしているいくひしさんがとても魅力的に映る。それはひょっとすると、いくひしさんの頭のなかに思い描いているうまくいっているじぶんの姿が、ぼくには思いもよらないくらいむつかしくて、まぶしくて、そうそうかんたんに手の届かないようなものだからなのかもしれない。それでもいくひしさんはせいいっぱい背伸びをして、ときに堅い岩盤をくだいて足場にして、手を伸ばそうとしている。ううん、じっさいに手を伸ばしているんだよね。もうその姿だけでぼくにはとてつもなくかっこよく映るんだ。たぶんそれっていうのは、いくひしさんにとってはかっこうのわるいことで、でも、そのかっこうのわるいことをしてでも手に入れたいものがそのさきにあるからで、そのぼくには見えないものを見て、それに向かって苦しんだり、悩んだりしている姿は、ぼくにとっての理想そのものなのかもしれない。もちろん、いくひしさんには頭のなかのうまくいっているじぶんになってほしいと願っているよ。でも、ぼくにとってたいせつなことは、いくひしさんが頭のなかのじぶんに追いつけるようになることよりもむしろ、いつまでも頭のなかのじぶんをちいさくてせせこましいものにしないでいることなんだ。最初から手の届きそうなものを、頭のなかのじぶんにしないでいるいくひしさんが、ぼくはすごく好きだなぁ。それはきっと、いくひしさんがぼくに打ち明けてくれたように、「どうしたらうまくいきますか」と悩んでいるかぎり、そしてじっさいにひとに訊ねられたように、どういった方向であるにせよ行動に移せたことが、何よりキラキラと輝いて感じられます。いつまでも、うまくいかないことをおそれずに、頭のなかのうまくいっているじぶんを追い求めてください。いくひしさんが悩みつづけているかぎり、頭のなかのうまくいっているじぶんもまた、成長していくでしょう。なんだかきれいごとでまとめちゃったような感じがしないでもないですね。でも、ぼくは本気でそう思っていますよ。いくひしさん、がんばって。以上、おたよりのコーナーでした。
373:【レビュー】
割とかんたんにひとを褒めるよね、と思われる傾向にいくひしはあるのだが、しかしいくひしは物語でたくさんの嘘を吐いているので、現実世界ではなるべく嘘を吐かないようにしている。いくひしが何かをすすめるとき、それは本心からいくひしがおもしろいと思ったもの、魅力的だと思ったもの、それほしい、と思ったものである。逆はない。これはダメだ、おもんくない、さいてい、と思ったものにはいっさい触れない。好きだからこそ「なんやねん」となるときはある。いくひしがあーだこーだ文句を垂れているときはたいてい、「こんなに想ってるのにどうして振りむいてくれないの!」というめんどくさーい衝動をこじらせているときである。あたたかい目で見守ってくれるとうれしい。
374:【青春とは、青春とはなにかと悩みはじめるまでの淡い無知である】
妥協してでもしたいと思うような恋ってなに? すこし嫌いでもいいから好きになりたいってこと? それってすごく好きってことじゃないの? それともただ何かに夢中になりたいだけなの? 琴線にすこしでも触れたようなものならなんでもいいの? それを恋と言っちゃっていいの? え、いいの!? まじかぁ。もうすこしはやく教えてほしかったわぁ。十年おそいよぉ。
375:【攻殻機動隊小説アンソロジー】
2017年3月28日に発売の攻殻機動隊小説アンソロジーの表紙がめちゃんこかっこいい。これは欲しくなる。2000円はちょっとお高いんじゃないの、と思ったけれども、ご購入したくなるかっこよさ、あるよね。円城塔さんはむろんのこと、朝霧カフカさんの攻殻もたのしみだ。ほかはようしらんが、この舐めくさった態度のいくひしの度肝を抜いてみせろや、と生意気にも意気込みながら首を長くして待っている。前にも書いたけれども、プロとアマのちがいを噛みしめさせてもらおう(意訳:おれ以下だったらぶちのめす、それ以上だったら家宝とす)。
376:【とりぴき】
久世蘭さんのマンガ「とりぴき」がナマイキかわいい。子育てブームというか、期間限定で幼児預かっちゃったよブームがさっこんにわかにじわじわキテいる気がしないでもないが、そこそこ打ち解けた幼児の相手をしたときの、あの、かわいげのなさのかわいらしさがよく描かれている。幼児のめんどくさーいかわいらしさが好きな方におすすめです。
377:【あたまいいひとたち】
いわゆる学歴ある人たちの会話、とくに専門分野に突出したひとたちの会話を耳にするたびに、耳慣れない意味ふめいな単語がその形状の異様さから耳のあなを通過できずに引っかかってガンガン頭蓋ごと揺さぶってくるし、しまいにはそれら行き場を失くしたガンガンが、なんかわからん人類の壁と化して、私とかれらのケタ違いを否応なく痛感させてくる。知識は人間と人間を、非人間と人間に分離する魔を宿している。私には彼らが同じ人間には見えず、おそらくかれらからすれば私はおサルさんである。ウキー。
378:【学歴】
いくひしが学歴というとき、それは何かを学んだ年数を意味する。けっしてどんな学校に通ったかではない。学びを学びとして学んでいる者はみなが思うより圧倒的にすくない。習うと学ぶはちがう。旅行と冒険くらいちがう。
379:【法則】
世に「成功の法則」なるものはない。いっとき楽ができる仕組みがあるだけで、けっきょくは一時しのぎである。しかし「失敗の法則」はある。これをしていると遠からず痛い目を見ると確定的な法則はあるのである。その第一原則とも呼べる失敗の素とは、「成功の法則なる先人の浅知恵を信用すること」である。見渡してみるといい。世の中にはおどろくほど多くの「成功の法則」が出回っている。
380:【人脈】
いくひしのきらいな言葉に「人脈」がある。たとえば似た言葉に「金脈」があるが、これは金の鉱脈の略であり、価値のあるものがたくさん埋もれている場所を示す。では人脈はどうか。人脈がある、というとき、そこには暗に、価値ある人間とたくさん繋がっている、という属性が示される。人を価値あるものとしてみるのではなく、利用価値あるモノとして見做し、それを扱える人間をして「人脈がある」と呼んでいる。そこには人を人として扱う尊厳はない。アイテムとしての利便性があるのみだ。世にでるとなにかにつけ、人脈やコネがいかにも重要なもののように見えてくる。たしかにないよりはあったほうが得をする傾向にある。何か問題が起きたときに解決の糸口が、その選択肢が増えるだろう。集合知を助長させるちからが人脈にはある。しかしけっして人脈そのものが集合知ではないし、また、人脈を持っている人間が優れているわけでもない。高級車をたくさん所持しているからといって、その者が人間として優れているわけではない。資本を集められる、という特性が抜きんでいている事実は価値があると呼べるが、飽くまでもそれはたくさんある価値のなかの一つだ。資本や利便性を得るために人脈を広げることに躍起になる人物には、ほんとうの意味での人脈は根付かない。人はモノではない。あたりまえのことを忘れてはならない。
※幹は根と葉があって育ち、立つことができるが、根と葉はそれぞれ独自に成長可能で、もっとも太く頑丈な幹がじつはもっとも脆弱な事実には着目すべき普遍的な世の理が感じられる。
381:【ぶれなくなってきた】
さいきん、ぶれなくなってきた。ぶれない人間は評価されやすい。安定しているし、認識しやすいからだ。しかし、それを以っていくひしは、ダメになった、と感じる。他人からよく評価されるとはすなわち、他人からして扱いやすいモノ、というレッテルを貼られることだ。利用しやすい、手中におさめやすい、しっくりくる、ジャマにならない。便利だ、と言い換えてもいい。いくひしは、便利な人間にはなりたくない。
382:【ソマリと森の神様】
暮石ヤコさんの漫画「ソマリと森の神様1~3巻」がすき。異形の者たちの生きる世界でゴーレムと女児が人間を探し求める話だけれども、同族を知らない女児がそれでもゴーレムをおとうさんと見做し、頼って、どんどん依存していく姿が、無邪気で無垢でそれゆえに危うく愛おしい。ゴーレムは親としての自覚を得、自我を構築していく過程で、その危うくも愛おしい女児への二律背反に苦しむこととなっていく。たいせつだからこそいつかくる別れに備えなければならない葛藤は、無慈悲ゆえに単なる慈悲よりうつくしい。大いに絆を深め、依存しあい、そして愛が狂気に変わる一歩手前で踏みとどまる間隙の奇跡を、そのかがやきを物語をとおして見せてほしいと望むものである。
383:【プリマックス8巻】
黙って読め。いいから読め。読めばわかる、なんて言わない。言いたくない。でも読め。読みなさい。感想? そんなものはない。カタチにならない想いがある。それを教えてくれる狂ったマンガだ。このさきどんな結末になるのかいっさい予想がつかない物語でここまでおもしろくなるのはアホウの血のしからしむところだ。読め。そして後悔しろ。開いてしまってからでは遅い、後戻りのできない扉ってのはあるんだと知れ。
384:【妄想テレパシー3巻】
NOBELさんのマンガ「妄想テレパシー3巻」を買った。WEBでタダで読めるのになんで買うの、ファンなの?っていくひしをバカにするあなただって、NOBELさんの前作「僕と宇宙人」を読んだらファンでバカになっちゃうでしょ、親ばかならぬファンばかでしょ。もうね、女の子かわいい。青春活劇とみせかけた百合ですよ百合。同じサイトで連載されてる柳田史太さんの「トモちゃんは女の子」の魅力も大半はBLというか百合というか、友情と恋愛の狭間をぶらり一人旅、みたいなそういうのがなんかいいの。WEBでタダで読めるけど、ファンばかをバカにするようなあなたには気軽におすすめはしないかな。だってお気に召すこと間違いなしだし、ご購入まっしぐらでダンダン心惹かれていくというよりかは、急転直下にまっしぐらって感じなので、お目通しの際にはクツを穿いて、お財布もって、書店さんに駆けこむ用意ばんたん病で読むとよいと思う。あ、でも、HEROさんのWEBマンガ「堀さんと宮村くん」が好きな方ならもうすこしゆったりくつろぎながら読まれてもだいじょうぶなはず。すでに何らかのファンばかであるならば、いつだって心に武士の一分ならぬ「スグに一部」の精神が根付いているものだから。覚悟があると余裕が生まれる。余裕は隙を生み、同時にそれが好きを育む。新しい「好き」を、あなたの心の隙間に挟みいれよう。
385:【初見では切ったが、中盤からぐっと良くなる成功例】
Anevo - Waiting on Your Call (feat. Park Avenue)
386:【安全と問題点】
安全とは何か。個々人で思うところは様々だろう。そのなかでも個人的には、「許容できる危険とそうでない危険が明確に線引きされた状態」が安全だと思っている。すなわち、安全と呼ばれている環境にも危険は溢れている。車の運転ひとつとっても、本当に安全な環境に身を置きたいならば車になど乗らずに家に引きこもっていればよい。しかし現代社会で生活するうえではそうも言っていられない。だから交通ルールという規律をもうけ、そのなかで車の運転という危険を受け入れている。危ない運転と危ないが命の危機からは程遠い運転との線引きが、交通ルールによってなされるわけである。また、何かを解決しようとするとき、そこには改善よりさきに問題がある。しかし往々にして問題が引き起きてから対処しては遅いのが世の常である。問題が起きる前にその対策をしておきたい。とすると重要になってくるのが大きな問題になるまえの予兆、兆候としての問題点の発見にある。個人的に、仕事というのは世の中に二種類あると思っている。ひとつは問題が起きたときにその被害を最小限に留め、防ぐこと。そこには対策も含まれる。そしてもうひとつは、問題が起きる前から問題点を発見し、早期に対策を講じることである。おおむね組織から評価されるのは前者である。しかし本当に大事なのは後者の、問題点を発見し、大きな問題となる前に対処することである。では問題点とは何か。これは、理想と現実のギャップである。製造業で譬えよう。図案を理想とするならば、それによってできあがった商品が現実ということになる。品質はこの場合、安全の別名であり、規格と呼べば端的だ。規格内の商品は品質が保証され、安全だと評価できる。しかし、たとえ規格内であっても、完全に図案と合致しているわけではない。できあがったものによってムラがある。そのムラを失くし、できるだけ図案どおりにつくることが付加価値を高めることに繋がる。規格内ギリギリのものより、より図案にちかい商品のほうが品質が高いのは言うまでもない。また、一つ一つの部品が規格内ギリギリであれば、できあがった商品の品質がトータルでマイナスになることはそう低くない確率ででてくる。しかし、図案はそこまでの想定をしていない。すべての部品が製造過程で規格内ギリギリであることを前提にした図案があるだろうか。そこまでを見越した不完全な図案を設計者がつくるだろうか。規格内であろうと、理想とちがう部位があるならば、それを失くす努力はすべきである。商品の付加価値をあげるとは本質的にはそういうことである。そして、安全についても同じことが言える。理想を追求してばかりはいられない。しかし、理想と現実のギャップは常に把握し、問題点を詳らかにしておくほうがよい。ときには理想のほうを見直さなければならない局面にも遭遇する。すべての部品が規格内ギリギリであってもトータルの結果が揺るぎないものになるように理想の修正を試みるのだ。その見極めをするためにも、日ごろから身を置いている環境がどれほど安全なのか、理想から外れているのかを注視しておくとよい。我々は、我々が思うよりもずっと理想から程遠い理想を抱いている。
387:【みょーん】
あたまがわちゃわちゃする。ほんとうのじぶんってなんだろう。ほんとうじゃないじぶんってあるの?
388:【吾輩はばかである】
初めましての相手と接するとき、いくひしは基本的に本来のじぶんよりも格段にばかに見られるように振る舞う。もともとばかなのだけれども、もっとばかに観測されるような言動をする。なぜか。ばかをまえにし、そのばかに合わせられるかどうかは、その相手の持つ人間力を試すのにはたいへん都合の良い基準となるからである。何かが欠けている者のまえに立つとき、その相手の欠けているところを補おうとするのか、それとも自業自得だと突き離し、なんら対策をとらずに、欠けたところがさらに強調されるような接し方をするのか、は、その者の持つ柔軟性を評価するのに役立つ基準である。もっとも、ばかを相手にしない、というのがもっとも理に適った選択ではある。しかし、ばかと鋏は使いようである。
389:【それって……】
「――しかし、ばかと鋏は使いようである」「え、なにそれ。ただ性格わるいだけじゃん、いやなやつなだけじゃん、え、え? 相手を試すって何様のつもりなの、ばかのフリしてるだけって、じゃあ頭よくて性格のいいひとのフリしてみせてよ、できるの? できないでしょ? なに偉そうに言ってるの、性格わるいだけじゃん、ばかじゃん」
390:【ばかーーー!!!】
正しいからって何を言ってもいいわけじゃないよ! 的を射るどころかあなたが射ったの心臓だから! 瀕死だから! もっとやんわりして!
※日々の暮らしが「私」を上書きし、そして過去の「私」を消し去っていく、埋もれるでもなく、薄れるでもなく、消え去っていく過去の「私」はいったい何のために生きていたのだろう、あすの「私」は何を思い、きょうの私を振り返っては、同じ哀しみを抱いてくれるだろうか。
391:【PC】
スマホを持っていない。だのでさいきんのWEBサイトがどんどんスマホ向けになっていくたびに時代に取り残されていく感を味わう。いまの時代、時代の加速度を感じるのは容易ではない。人類史に類をみないほど時代が加速しているいまにあって、渦中に身を置いている者ほどその加速度を実感できない傾向にある。時代の流れにも相対性理論は適応されるようである。いくひしはこれからどんどん時代に取り残され、そして時代の加速度をその身が引き裂かれんばかりの痛痒を覚えながら覚えるのだろう。じつにぜいたくな痺れである。
392:【実力】
何かを成功させるためには人間関係がよくないといけない。そういう言説がある。現実の一側面を言い当ててはいるだろう。パトロンがいなくては創作者は生きていけない、何かを創りつづけてはいけない。しかしそんなのは創作そのものには関係ない。人間関係がだいじ? お金がだいじ、という言葉とさして変わらない気がするのはきっと気のせいではない。お金はだいじだ。しかし、あれば作品の質があがるかというと、そうというほどでもない。本質を誤魔化す言いわけに他者を使うのはいかがなものか。
393:【いかんでしょ】
組織がまちがった判断をしたときに、それ間違ってますよ、と一個人が唱えてもどうにもならない。天網恢恢疎にして漏らさず。その判断をしたからには、「もしも」が起きたときの覚悟ができているということなのだろう(できているのか?)。責任逃れか、或いはミスによる損益をカバーするだけの資本的体力が組織にないか、最悪の場合、認識できていない規模で恒常的に同様の失態を重ねていたか、それを公にしたくないがために問題ないとする判断をくだしたのか、いずれによせ、組織は組織を生かすためにまちがった判断をくだすことが多くある。そうした組織の間違った判断の悪影響を受けるのは従業員ではなく、往々にして市場の顧客たちである。組織の愚かさのツケを、客が知らぬ間に支払わされている構図が蔓延している。じつに嘆かわしいことである。
394:【五十嵐大介】
五十嵐大介さんの漫画「ディザインズ1~2巻」が色気ありすぎる。環世界、環世界なんだよ、そうなんだよ。いくひしがずっと言いたかったことがなんともあっさりと描かれていて、言葉を尽くすことなくずばりそのものの核心を突くというか、あーもう、いくひしはこれからどうすればいいんじゃろ。やることなくなっちゃった。えへへ。
395:【ネオンサイレン・アンバ―】
おげれつたなかさんのマンガ「ネオンサイレン・アンバー」がきゅんきゅんする! ギャル男とバーテンのBLだけれども、こう書くとなんかこう、イメージからして敬遠したくなるきもち、わかるなぁ。でもね、予想外にってゆったら偏見の山盛りを抑えきれないのだけれども純愛なんですよこれがまたね。さいきん良質な純愛を見てないなーって方、それから本気すぎるがゆえにすれ違う純愛あるあるにモドカシきゅんきゅうしちゃう方におすすめです。濡れ場もあるよ!
396:【あの娘にキスと白百合を】
缶乃さんのマンガ「あの娘にキスと白百合を~6巻~」を読んだ。うひょー。もうね、うひょー、の感情しか湧かない。うひょー、うひょー、うひょひょー。ぼくもそこに混ぜてもらってもいいですか? あ、ダメっすか? すんませーん。うひょー。
397:【D坂の美少年】
西尾維新さんの小説「D坂の美少年」を読みました。うおー! うおー! いくひしはかんどうした! さいごの演説にかんどうした! 語り部である瞳島眉美の小憎たらしい愛らしさも相まって、巻を重ねるごとに愛着が増していく物語だよぉ~、でもなんだか新キャラ「沃野禁止郎」がいくひしの本質にちかく感じていたたまれない気持ちだよぉ~。ちかく、漫画版もご購入しますよぉ~、決定事項だよぉ~。
398:【俳優・亀岡拓次】
戌井昭人さんの小説「俳優・亀岡拓次」がほんわかする。つっこみのない笑いのお手本にしたい小説で、思わず噴きだし、そしてほっこりしてしまう、なんだかあたたかーい物語である。最初は主人公の魅力がまったくわからなくて、それは人を見かけだけで判断するいくひしのよくないところの顕れでもあり、しかし読み進めていくうちにどんどん俳優・亀岡拓次が好きになっていく、あーそうだよなぁ、いくひし、おっさん萌えやったわぁ、みたいなね、しみじみ認めざるを得なくなる、そんなほんわかした作品です、んにょにょ~ん!
399:【ほんとかな?】
必要としてくれているひとのもとへ「それはここにある」と伝えるにはどうしたらよいのか。まず認識すべきは、必要としているひとが必ずしも「それ」を探し求めているとは限らない点だ。ゆえに宣伝が必要とされる。しかし、見逃されがちなのは、必要としているひと自身が、何を必要としているのかにとんと無自覚であることが往々にしてありふれている点だ。宣伝したところでそれを目にしておきながら、手を伸ばしてもらえない、という悲劇は比較的よく観測される。それはたとえば、弱者にとってこそ役に立つ制度が、弱者にはまったく利用されずに、強者にとっての体のよい餌場になっている現実であったりする。宣伝は飽くまでスポットライトのようなものであり、本質はむしろ、弱者に弱者であると自覚させることであり、また、悪意を悪意と認めさせることにある。欲が煩悩であるかぎり、何かを求めることの本質は、弱さと悪意にある。
400:【弱音】
努力できない時間が哀しい。成長しようとすることすらできない。無為な時間の経過が、見えない縄を首に巻きつづけている。ただ刻々と死にちかづいていく時間を得るために金を得る生き方にいったいどんな意味があるのだろう、それを生きていると呼びたくはない。(日々定時あがり週休二日保障、職場から自室まで二十分以内)
※微々たる負荷に耐えかねて弱音を吐くおのれの卑しさがなによりもっともいやらしい。
401:【ムっ!】
いくひしは今「無」を感じている。しかし「無」を感じているのだから、感じるなにかしらの主体があるために「無」ではない。「無」ではないのだから「無」を感じているのではなく、「無」を感じている〈私〉を感じているのだが、その〈私〉が感じているのは「無」なのだから、いくひしは今「無」を感じている。私は無であり、無は私の感じる私であり、すなわち私は私を感じている。いくひしは今、〈私〉だ。
402:【そうではない】
加わる負荷が微々たるものゆえ、つらいのだ。
403:【ネクステージ】
グーグル、そろそろ分裂するんじゃないか? いや、なんとなく。
404:【批評家】
小説に限って言ってしまえば、作品とはそれ単体で存在するものではない。仮に完成形というものがあるとすれば十割、読者によって読解され、展開され、構築された世界がそれにあたる。とすれば、批評家というものは、作品を批評しているのではなく、自身の構築した世界を批評しているのである。この種を育てたところ、こんな盆栽ができた。それをして、もっとこういうところがあればよかったと嘆いたり、或いは、ここのところがほかの種とこれこれこのようにちがっている、すばらしい、と感嘆する。もしほかの誰かがすばらしいと謳った種を差して、あんなものを褒めるとは何事かと憤ったり、あれのどこがすばらしいのだ、と反論することに懸命になる者があるとすれば、それは単にその者の構築した世界がお粗末だった顛末にその結論を集約できる。アイツらがすばらしいと感激するような世界を私はつくるだけの想像力がなかった。その者はそう告白しているのである。なんて謙虚なのだろう。なにもそこまで卑下せずとも。もしそういった批評家を見かけたならば、ぜひともこう声をかけてあげてほしい。「いやいやあなたの世界もなかなかですよ。ただしすこしばかり、水を差しすぎです。もうすこし控えたほうが育みますよ。あなたの世界が色濃くゆたかに。水は差すものではなく、向けるものです。私はすばらしいと思いました、あなたはどうでしたか?」
405:【つまらないおとな】
お酒は飲まない、タバコも吸わない、博打はしないし、女も買わない、男にだって貢がない、ゲームはトランプがやっとこさだし、できたとしてもマリオカートが関の山、そのくせ免許を持たずに車は後部座席が指定席で、でかけるときの愛車は折り畳みのちっこい自転車と相場がずっと決まっている、身体を動かすのは好きだけれどスポーツは苦手で、集団競技なんてもってのほかだからボールだけが友達さ、なんて言ってみたいきもちがないわけではない、そのくせ友達を蹴ったり打ったり放ったり、そんな真似はしたくないので、長年距離を置いている。我ながら思う、つまらないおとなになったなぁ。でもほんとうはただ、おとなになれなかっただけなんだ。おとなっておもしろいですか?
406:【退化のち同期】
日々欠かさず鍛練を積み重ねることは重要だ。しかしある一定の期間、まったく鍛練しない空白の日々を設けることもまた同じくして重要だ。日々鍛錬を重ねると、徐々に脳内の理想と現実が乖離していく。それは微々たる狂いではあるのだが、肉体の性能が僅かに現実に先行し理想にちかづいてしまうのである。これを放置しておくと、のちのち重大なスランプに陥る。できると思ったことができなくなるのである。熟しきった肉体をいったん常温に戻す。一見それは退化したように感じるが、じつはそれが本来のじぶんの性能なのである。せっかく温めた肉体を冷ますのには思い切りがいる。積み重ねてきたものが崩れ去ってしまうのではないかという怖さがつきまとう。しかし現実と肉体を同期し、つぎなる理想へと重ねあわせていく過程が成長には欠かせない。さらなる高みに昇るためには、足場となる段、落差が必要なのである。
407:【だから】
空白の日々は無駄ではなかった、断じて!
408:【直視しろ】
断ずるなクズが。無駄なんだよ。いくひし、おまえの費やした空白の日々はおまえが紡げたはずの幾重もの物語たちを無駄に殺し、消し、流した、クソみてぇな時間だ。目を逸らすな、それが現実だ。じぶんを肯定することに躍起になるな。後悔しろ。悔い、改め、そして絶えず望め。おまえが虚無に浸かり得たものはただそれしきの絶望だ。
409:【ひどいと思う】
どうしてきみはすぐそうやってひとを傷つけること平気で言えちゃうのかなぁ、マンちゃんのきもちとか考えたことある? え? 誰よりよく考えてるって、じゃあどうしてあんなひどいこと言ったの。マンちゃん泣いてたよ。ウソだね、って、どうしてあなたが決めつけるの。見たって、え、泣いてたでしょ? 泣いてない? むしろ笑ってた? なんで? マゾなの? あ、ふうん、そうーなんだぁーへぇー。
410:【惑わない星】
石川雅之さんの漫画「惑わない星」が異種格闘技すぎて悟りを拓けそうなレベル。女の子がかわいくておっさんが憎めない、ただこれだけですべての物語はその質に関係なくおもしろくなるのではないか。留意すべきはかわいい女の子ではなく、女の子がかわいい点であり、また憎めないおっさんではなく、おっさんが憎めない点である。かわいくない女の子だってかわいい瞬間はあり、また憎たらしいおっさんでもけっきょくなんだかんだで許せてしまう瞬間というのはあると思う。そういうのの積み重ねによって物語は魅力を磨かれていくのではないか。漫画の真理を垣間見た気がしたよ。物理×アイドル=天体の擬人化。考えついても描かない、ようやるわい、とうなるほかない。
※支離滅裂と虚構の世界を読み漁るように一日ごとにちがう世界を生きたならばそこに日々と呼べる何かしらはあるのだろうか、連続しない日々に日々は宿るのか、私は私か、それとも明日(きみ)か。
411:【女の子が死ぬ話】
「女の子が死ぬ話」なる漫画を2014年に読んだ憶えがある。ニコニコ静画の試し読みなので、三話までの掲載だった。ずっとしこりに残っていていつか読みたいと思っていたのだが、書店さんになかなか置いておらずに手に入れる機会を逃していた。このたび、三年越しの重版、第二刷がかかったようで、ようやく手に入れることができた。作者は柳本光晴さんだ。最新作【響~小説家になる方法~】にて2017年のマンガ大賞を受賞した折り紙つきの漫画家さんである。死者との約束をずっと守りつづける者の愛の深さと、そしてそれを突き離してでもうつくしく生きたいと願った者の生きた軌跡がこの漫画には描かれている。「響~小説家になる方法~」に登場する主人公の処女作はきっとこの漫画のようなものだったにちがいない。絶望を描いてなおうつくしい、否、うつくしさのさきにあるのは絶望だというところまで描いた傑作である。重版、ありがたいことである。
412:【音もなく】
文芸の需要が砕け散り、細分化していくのを肌に感じる。いまの時代、小説を読んでいるのは変人か暇人か、そうでなければ小説家モドキくらいなものである。2017年げんざいの時点で十代の者のうち、小説を月に一冊でも読む者は、おそらく趣味で音楽をやり、ダンスをやり、絵を描く者たちよりずっと少ないはずである。小説愛好家はすでに存在する小説を受動するだけなのに、何かを生みだそうとあくせくする者たちよりその数がすくない。これは言い方が多少よくなく、小説の場合はただ受動するだけで何かを生みだすのに値する創作活動なのである。むしろ、小説を読み、楽しむことのほうが、イチから物語をつむぎだす行為よりもいまはずっとむつかしくなっている。社会が多様化してきている影響である。まずはそこのところを我々、物語の生みの親は真摯に受け止めなくてはならないだろう。
413:【統計】
社会が多様化するにしたがい、統計の仕方も変わっていかねばならない。需要者と一概に呼ぶにしても、一個人に多様な嗜好性が内包される社会では、特定の購買層なるものの分析は容易ではなくなる。いままでの価値観のまま、統計データをそのままに信用すると足を掬われるのは自明である。想定すべきは層ではなく個人である。個人に巣食う多様性――網の目に思いを馳せねばならない。
414:【次々々回作】
万の物語を縦断する主人公のモノガタリ、読んでみたくはないですか?
415:【技術的特異点】
グーグルのAI部門の偉い人(カーツワイル氏)が言うには、技術的特異点いわゆる人類がAIと融合してさらなる進化を遂げるようになるのは2029年のことになるそうだ。ムーアの法則からしてAIは指数関数的(折り紙式)に成長していくためにそのような予測を立てているのだろう。しかしいくひしの予測では人類がAIと融合するのは、一般に言われている技術的特異点がくるとされる2046年からさらに二十年経ったあと、2060年代のことになる。否、おそらく人間とAIの融合自体は比較的早い段階、2029年を俟つことなくその技術が確立されるだろう。しかし、一般化はしない。なぜか。一つは人間とAIを融合する手段として現在有力視されているのが攻殻機動隊で登場するようなマイクロマシンを使った技術だからである。さきにも述べたが、この技術自体は比較的早い段階それこそあと八年もしないうちに実用化できるレベルで技術の確立が進むだろう。しかし、平行して、肉体の外部から脳内の神経系シナプスに働きかけるデバイスが開発される。これにより、人類は技術的特異点の一歩手前で、AIと完全に融合することなく、いまより格段に便利な暮らしを手に入れる。人類はそこでいちど技術的特異点への到達に二の足を踏むといくひしは踏んでいる。確約された輝かしい未来への懸け橋よりも、人間という生き物は目に映る解りやすい発展を選ぶ。肉体の内部に得体の知れない極小機器を注入し、著しい進化を遂げるよりも、いつでも脱着可能なデバイスにより、いまより遥かに便利な暮らしを手に入れることのほうが優先される。「人類」は進化を望んでいるかもしれない。しかし、〈人間〉はいまの暮らしを優先する。もっと言えば、急激な変化は、たとえそれがどれほどすばらしいものであるにせよ、〈いま〉をゆがめる因子であるかぎり、無視できない規模での拒否反応を引き起こす――それが『人』という生き物である。医療用や軍事兵器、生産現場でのマイクロマシンはそう遠くない将来、社会に普及するだろう。しかしAIと「人類」を結びつける触媒としては、あと半世紀はかかるだろうとここに予測するものである。
416:【技術】
新しい型を編みだすためには、身につけたすでにある型をいっとき手放さなくてはならない。手放せば衰える。技術が、型が、錆びついてしまう。では、身につけた型をより進化させる方向へちからをそそぐのはどうか。ある時点まではそれでいいだろう。しかし、ある閾値を越えると、すでにあるものを進化させることは新しさとはまたべつものだと気づくのである。極めたり、熟成させる、これは言うなれば古典化させる作業であり、新しさとはベクトルの方向がちがっている。とはいえ、新しい型を編みだすために、今までの努力を、過去の軌跡を放擲するにはいささか戸惑いが生じる。なぜか、と考えたときに浮かぶのが、勝てる因子を手放したくないとする、他者との比較である。純粋に何かを生みだしたいのではなく、誰かと競い、勝てるじぶんを保持したい。言うなれば生存本能がその葛藤の根底にある。どちらもじぶんである。未来のまだ見ぬじぶんを追い求めるのか、それとも過去の栄光(成功)に囚われ、現状を維持し、満足するか。どちらがよく、どちらがわるいという話ではない。だが、もし悩むのであれば、まだ見ぬじぶんに出会いたい。
417:【並列処理】
ある任意の出来事に対し、その処理の仕方の候補が複数あるとき、どの選択肢がもっとも効果が高いか(或いは低いか)を決める場合、現在のコンピューターは、すべての選択肢を一つずつ検証する方法をとる。一筆書きさながらの総当たりである。高い演算能力があるために可能とする荒業だが、量子コンピューターやDNAを模した近未来型コンピューターが開発された場合、すべての選択肢を同時に辿ることが可能となる。複数の選択肢を同時に並列処理できるハイスペックなコンピューターが開発されたとき、人類史からは「不確定原理」が幻影と化すかもしれない。(「同時に並列処理する」とは、すなわち、イチという解を得たときに、それに対応する選択肢分の解もまた得られる状態をいう。極論、私という人生が終わった瞬間、私が辿ることになっただろうあらゆる可能性が瞬時にシュミレーションされ、無限の私が誕生するようなものである。それが個々人、存在するすべての個体、物質、において計算できるようになる。もうひとつの世界をつくりだす以上の情報を、未来のコンピューターは扱えるようになる。ひょっとすれば、その副産物として世界に漂う膜のような「ゆらぎ」が、現象として確認されるかもしれない。いくひしにはそれが、時代の渦として感じられる)
418:【あたまいいでちゅね~】
なぁにが時代の渦だ。てきとうぶっこくのもほどほどにしときなよ、頭いい人たちの文章読んで、そこから類推できることただとりあげてるだけじゃん。しかも間違った解釈で。恥ずかしくないんでちゅか~? そんなに、よちよち、ちてほしんでちゅか~? オムツ換えてでなおしてこい。
419:【あのさぁ……】
だからさぁ、茶化すのをさぁ、せっかくさぁ……。
420:【きんゆう】
グーグルやアマゾンが銀行業務に手をだしたら、世のなかの流れがごっそり変わってしまう。というのも、しょうみ電子書籍やネット内販売のさまざまがどこかで一線を保つようにその売り上げを滞らせている要因のひとつに、まあ、購入手続きがめんどーだってのはあると思うんですよ。何かに登録し、さらにそこから支払い手続きを経る。まあめんどうです。そこでアップルは支払いをスムーズにできるツール、いわゆるギフトカードを全国どこでもコンビニに行けば手に入れられるように工夫した。ネットでいろいろ手続きするよりも、コンビニに行くほうが現代人にとっては楽だという点を考慮した結果である。そこにいくと、電子書籍はいささか時代遅れというか、時代に先行しているというか、まあ、めんどくさいままに支払いコースが放置されているな、と感じるわけですね。そこにきて、話は冒頭に戻りますが、グーグルやアマゾンがひとつの銀行としての機能をその複雑化したシステムに取りいれたとしたら、世のなかの流れがいっきにネットを中心とした世界に変わっていきますよ。いまの非ではない。だってコンビニでの支払いをスマホちかづけて「ピッ」で済んだ時代から、こんどはネットで気に入った商品あったら、購入しますか?YESボタン「スッ」ってゆびで画面撫でる(タップする)だけでもうそれはあなたのもの――ツイッターやフェイスブックでRTしたりイイネボタンを押すのと同じくらい手軽に、支払いが完了し、商品をご購入できてしまえる。そんな時代がもうすぐそこに来ている。時間の問題というか、根回しの問題というか、時代のブレイクスルーはそこのネット化なくしてありえないというか、まあ、既定路線なのですね。
※日々がどうこう言うの禁止!
421:【乙女しぐさ】
乙女らしくなるためには数々のスキルを身につけなくてはならない。ひとはそれを「乙女しぐさ」と呼んだ――からはじまる小説「乙女しぐさ」なんてものはどうか。主人公は冴えない乙女モドキとしてこの世に生を享けてから十四年、そろそろいっぱしの乙女になろうではないかと、乙女マスターのもとに単身、弟子となるべく訪れる。「そうではない、こうだ!」「こうですか師匠!」「ちっがーう!」「わかった、こうですね」「ばっかもーん!」「ではこうだ!」口にヘアゴムを挟みながら髪を束ねる。そのとき若干目をつむる。「いいぞ、いいぞ、なかなかの乙女しぐさだ、しかしそこはかとなく疑問なのだがなぜにおまえはすべてにおいて蟹股なの? わざとなの? 重りをつけて修行するプロレスラーとかそういうのの真似なの? ブサイクを凌駕するスーパー乙女でも求めてるの?」「あ、あたしプロレス好きですよ、バックドロップとか得意っす」「得意じゃだめだろう乙女として!」かくして主人公は乙女ロードをひたむきに逆走していくのである。
422:【ひょっとしてだけど】
いくひしって性格わるい?(やっと気づいたかばかめ、という声が聞こえる)
423:【欲しているもの】
さいきん気づいた。おもしろい小説がほしいわけじゃなかった。おもしろい物語がほしいのだ。おもしろければその媒体はなんだっていい。極論、虚構でなくてもいい。おもしろい物語、言い換えればこれは、赤の他人のたったひとつの人生だ。
424:【論より証拠をつくり中】
物語の金脈は掘り尽くされた。言うなれば物語に宿る文脈、骨組みはすでに固定され、その限定のなかで肉付けの仕方に工夫をこらしていくほかない。そういった言説がある。果たしてそうだろうか。本当はただ、そういう枠組みをきもちいいと感じるような調教を我々現代人が受けているだけではないのか。これからの作家に必要なのは、新しい物語を探りだすことだけではなく、新しい物語の骨組みを編みだし、そしてそれをきもちいいと感じるように読者の感性をこそ開拓していくことにあるのではないか。AIが囲碁や将棋の世界で新手をつぎつぎに打ちだし、それをして選択の幅をかぎりなく押し広げたように。
425:【落し物】
そのむかし、うんこ、と聞いてお腹を抱えて笑えた時代がいくひしにもあったのね。あの感性、いつどこで落としたのか思いだせません。見つけたら教えてくださいね。
426:【セリフの神が降ってきた】
タイトル:はじめまして。「ほ、ほんとにいいんですか……」「いいよ。そんかしちゃんときもちよくなってね」
427:【呪文】
何かをつよく唱えていないことには、いつだって激しく輝かしい欲求に引きずられてしまう。新しいこと、自由なこと、規格外で既存の枠に囚われないようにすること、すべて意識的でないことには、平凡で馴染みあり、安心して心を乱され、ときに満たされる完成された型を両手いっぱいに抱きしめてしまう。離したくない。だいすきだから。でも、意識して歯を食いしばり唱えた呪文により、旅立たねばならない。或いは、ときに、その行為そのものからもまた。
428:【赤信号明滅中】
過去につむいだ物語を読みなおして、おーなかなかおもちろいんじゃないのー、ってなっちゃった。まずい、これはまずいですよ。ちょっとニブチンに磨きがかかってきてしまった。というか錆びてない? まずいよー。
429:【しんけん】
ふつうじゃないことをドラマチックに描くのは、ふつうだし、王道だ。そこを外さなければ傑作の外枠はまずもって揺るぎないように思う。同時に、なんでもないことをなんでもないように描きだすのは、じつはとんでもなく繊細な作業で、何かを表現したいと欲する者からしてみると、それは毛細血管の縫合にちかしいものがある。たとえば、恋する乙女が自室にて、ふとしたしゅんかんに、無意識のうちでおならをしてしまった。音も鳴らないような、においもない、スカである。が、たしかに彼女はおならをした。誰もいない空間である。しかし彼女は、自身の少女性を自覚できるくらいには美の備わった少女である。彼女は自身がおならをする存在であることを認めがたいものとして感じており、それは彼女の少女性を強固に維持させるために欠かせない触媒でもある。彼女はそこでふと周囲を見渡してしまうが、そこに照れや自己嫌悪のそぶりはない。また、あるときは、排便をしている最中、もしこの状態を意中の相手に見られた場合、かれはそれをどう思うかを想像し、でき得るかぎりこのようなケモノじみた自身をも含めて認めてくれたらという想像を働かせる。それはけっきょくのところ、けっして見られたくない自身のみにくい実情を、それでも見せてしまいたい衝動の顕れであり、少女が自身の少女性に対して、どこかうっとうしく感じ、同時に、しょせん自身にあるものが本質ではなく、外部の干渉から与えられた仮初でしかないのだという諦観が見え隠れする。唇のうえの産毛を処理するとき、彼女はすでに腕と脚と脇の毛の処理を済ませている。同級生よりも毛深いゆえ、だれより丹念に処理をする。仮初だ。偽物だ。少女は少女足らんと格闘する。なんでもない日常である。誰もが通る道である――かつて少女であった者ならば。そういうものをドラマチックに描けたならば、物語の本筋とはかかわりなくしれっと愉快に描けたならば、それはとんでもなくおもしろい物語になるだろう。しかしなかなかむつかしい。さいきん、そういうことばかり考えている。
430:【それはたとえば】
ダンジョン飯4巻で、マルシルが屋根のうえにてどう行動すべきかを思案するコマがある。沈思黙考するその一コマで、彼女は杖をくるりと回している。あれの強烈さはちょっと頭から離れない。あれひとつでマルシルに過去が宿り、性格が滲み、魂が浮きあがった。ああいうのを文章でもたくさんたくさん取りいれたい。とりいれたいのだーわかってくれよーああいうのがいいの! いくひし、ああいうのがいい!
※日々は終わりを告げ、暗がりの心地よさに群がりて、ひっそりと息呑み、ひとり引きこもり、時のしずけさに身を預ける。
431:【2017/04/19】
カイシンゲキという名の喜劇を演じよう。会心の改新である。深い新劇を。未開の進撃を。大地にページを。大気にネジを。
432:【BLプロット】
バイセクシャルの男の子(主人公)がようやく親友を射止め、いよいよ性交渉するぞ、という場面から冒頭ははじまる。「こんなもんでいいの」「もうちょっとほぐして」「こう?」「あ、いい」ぐんなりじゅんなりしてきたところで、ウケたる主人公がぽつりと口走ってしまう。「あーあ、童貞よりさきに処女喪失かぁ」それに対してタチかつノンケの親友、大いに反応する。「なに? こっち(挿れる役)のほうがよかった?」「そうじゃなくってさ、いや、だってきみはいいじゃん、いろんなおんなのことイチャイチャしてきてさ。でもぼくはほら、きょうが初めてなわけでしょ」「だから?」「あ、ごめんね。不満とかじゃなくって、あーもう、ごめん。なんでもない。はやく挿れて」「やだ」「なんでさ」「不満じゃないとかいってるけど、ようは不満なんだろ。たしかにおればっかズルい気もする。いいよ、待つよ。いっぺんシてきなよ」「してきなって、なにを」「セックス。女の子と」「いやいやいや!」「それまでナシだから」「ナシって、いや、ちょっとさー」「しないから、おまえと」「なんでよ、してよ!」「ヤダ。ダメ」「そんなー」「考えてみりゃおれさまが童貞ごときの相手をするのも癪だしな」「なんだその謎理論!」「期限も決めとくか。そうだなぁ。じゃあ、一か月」「へ?」「一か月で童貞卒業してきて」「できなかったら……?」「おれとは親友のまま。恋人はナシ」「セックスも?」「ナシに決まってんだろ。はい、じゃ今からな」言って服を着だす親友に、主人公は謝罪して説得するどころか、「嫉妬しても知らないからな」と売り言葉に買い言葉で承知してしまうのだった。どうなる、主人公、処女喪失のためにかれは童貞を捨てられるのか!?(ちなみに結末は、童貞は捨てられなかったが、親友への想いは揺るぎなく、諦めることはできないので、こうなったらおまえの処女をもらう、と言って親友を組伏せ、半ばチカラづくで約束を反故にさせ、童貞のまま処女を喪失するのだった)
433:【たしかにそうなのだが】
複数の物語を組み合わせてひとつの作品をつくる手法を、一人称の視点に用いるのはなかなかむつかしいものがある。「え、そっちいっちゃうんですか」みたいな違和感をどうしても拭えない。とすれば、あとはその違和感を見どころとして昇華する方向に尽力していくほかない。過去作はどれも自信作ではあるけれど、同時に失敗作でもある。理想には程遠い。
434:【失敗作≠駄作】
失敗できるくらいの挑戦をした作品、という意味ですよ。失敗した部分もあれば、ちゃんと意図して機能した部分もあるのです。
435:【才能】
けっきょくのところ才能ってのは、何を才能と見做すかだ。ひとより劣っている、欠けている、該当しない、受からない、ある意味それも才能だ。才能は、活かされた欠点だと言い換えてもいい。穴を埋める努力をしてはじめて浮き彫りになる欠点もあるだろう。まずはさておき必要なのは、じぶんとの闘いである。いまというじぶんを打ち砕け。
436:【じぶんをころす】
じぶんのためにじぶんをころす、成長とはその意識的な自殺を示すのかもしれない。同時に、じぶん以外の誰かのためにじぶんを殺すことが不幸の根本なのかもしれない。その前過程においては、常識や良識という共通認識なる「物語」によって、人間は本能を押し殺している。人間という生き物はどうあっても自分を殺すようになっている。しあわせとは、前向きな自殺のことなのかもしれない。
437:【キルを斬る】
殺人とはすなわち、殺しきれなかったじぶんの代替行為なのかもしれない。
438:【成功】
世に成功はふたつある。じぶんが理想にちかづくものと、理想をつくる手駒として他人に利用されることである。
439:【ついに覚醒めたあのロボットが、いざ出陣!】
みたいな曲:BlastarMusic - Dinguerie
440:【解説者】
ネットが社会に浸透し、その影響で時代の流れが加速した。つぎからつぎへと新しい情報形態が生まれてきては、淘汰と生存が渦を巻き、いっせいにユーザーの大陸移動が引き起こる。乗り遅れる者もいるだろう。大陸の変容を認知できないものもいるだろう。しかし、親切な何者かが、分かりやすくそのとき、その場に起きていることがらを解説してくれる。大陸の変容を引き起こした者が事態の根本要因であることは間違いない。しかし革新が日常へと変質するためには、解説者なる者の存在が不可欠なのである。これからその需要はますます高まるであろう。
※火にくべた過去のいろどりは記憶の底に沈殿し、四季おりおりの澱を積み重ね、できた層をナイフで切り分けて見えるあれらを虹と呼ぶ。
441:【パラシュート】
物語の舞台におりたちたいのに、背中から生えたキノコがめいいっぱいに傘をひろげるものだから、なかなか舞台におりられない。食べていいから誰かとって。
442:【圧縮作業】
ここぞという場面の五千字を、いかに圧縮し、影絵さながらに掘り下げていくか。版画は、板を掘ることで絵を浮びあがらせる。削ぐ肉の多寡で情景の濃淡が決まる。どこをどのように削ぎ、何を残すか。すべてはその取捨選択にかかっている。
443:【女性言葉】
いまの世の中、女であっても「~だわ」「~よ」なんて言葉づかいはしない。そういう主張がある。一理ある。しかし、ふざけ半分で使ったりはするのではないか。本気じゃないけど本音ではないとは言い切れない、そういう非難の響きを伴なわせるために、「ふざけんじゃないわよ」なんて言い方、しません?
444:【おわりのはじまり】
小説は買って読むもの。この文化もあと何年持つだろう。哀しいことだが避けられない未来もある。
445:【廃退からの復権】
ネット小説が奔騰を極め、プロとアマの差があいまいになった。おそらくこのさき、多くの読者を射とめる作品を生みだすのは、割合としてプロよりもアマチュアのほうが高くなっていく。無料で読める作品のほうがよりおもしろく、そして種類も数も豊富とくれば、あとはもう、たんじゅんな話として需要と供給はアマチュアの作品だけでまかなわれ、商業としてのシステムを維持するのは至難になる。いちどこの流れが定着してしまえば、あとはもう、小説はタダで読むもの、という価値観が広く社会に漂うことになる。しかしある時期をすぎるとふたたび小説に商品としての価値が付属するようになってくる。その時期とはなにか。今こうしてあなたが読んでいるようなWEBサイトが、そう遠くない将来、情報形態の変化によって未来のあなたが扱う端末で読めなくなる時がくる。そのとき、過去のコンテンツをサルベージし、価値あるデータを発掘し、顧客に提供するシステムが生まれてくる。発掘されたデータの中には著作権の有効期限が切れているものもあるだろう。トレジャーハントさながらにデータが過去という付加価値を得、骨董として、或いは財宝として昇華される日がやってくる。いま現在、日の目を見ず、認められず、忘れ去られることなく忘れ去られていく存在は、しかし未来にとっては輝かしい宝物となり得る。嘆くことはない。真に価値あるものならば、必ずや世界のほうから見つけだしてくれる。それが今ではないというだけの話である。嘆くことはない。
446:【えーん】
そうやってじぶんでじぶんに言い聞かせてないと正気をたもっていられないんだね。それともきみの場合は正気ではなく狂気をたもっているのかな? ふんばらないと狂気ですらたもてないほどに平凡なきみのような存在には、過激で無稽な妄言くらいでないと現実逃避の効用も起きないんだね。ふふ。かわいそ。
447:【予防線】
なあいくひし、おまえ、そうやって予防線貼って、じぶんは客観的にじぶんのこと理解してます、制御できてます、みたいな顔して、ほんとうは誰よりじぶんが分からなくて、何をよりどころにしていいのか、何がしたいのか、本能に忠実にできないじぶんの弱さを認めがたいがゆえに、理性的な顔して、かっこつけて、たいした苦労背負いもせずに、そのくせ悲劇のヒロインぶって、なあ、おまえ、いったいなにがしてぇんだよ。黙ってつくれよ、じぶんを殺せよ、誰もおまえの人生なんざ見たくねんだよ、おまえのなかの世界を見せろよ、物を語り、つむげよ。
448:【だまれコノー】
うっさいなぁ。真顔で正論吐いてんじゃねぇよ。クズ責めて優越感に浸ってんじゃねぇよ。あたしはあんたの精神安定剤じゃねぇぞコラ。それともなにか? 大量摂取して死にてーのか真人間。
449:【らんぼうなことばづかいしないで】
うー、やめてほしいよぉ。こあいよぉ。いくひし、謝りますから。ごめんなさいするますから。もうおこんないでほしいよぉ。つむぐよ、ほらちゃんとこうやって文章つむぐますから。おっきな声はつかれるよ、いっしょに休も?
450:【のろい】
歳を重ねるごとに内なる乙女どもが数を増し、勢力を整え、いっけー、と我の理性に押し寄せてくる。あやつらは魔である。なんとも甘くうつくしい誘惑に満ちている。トキメキなど邪道、我の高潔なる孤高にはなんびとたりとも触れさせはせぬ。しかし枕に唇を押しつけいざというときのために鍛練を怠らないのはセーフだよね☆
※意地を張りつづけて十余年、いよいよ張りつめた意地が悲鳴をあげ、チリチリとほころびはじめている、切れるがはやいか、力尽きるがはやいか、ここでも新たな意地を張っている。
451:【散歩しよ?】
SRNO - Give It All Up (ft. Gia Koka)
452:【レンズ】
物語にも倍率というものがある。人称や視点の差異は関係がない。同じ倍率で物語をつむいでいくと、それを構成する一文一文がどれほど優れたものであるにせよ、退屈な文章の羅列でしかなくなる。集中すればするほど倍率は高くなり、顕微鏡のような描写をしてしまいがちだ。理想は、顕微鏡で物語の細部を確認しつつ、望遠鏡でそこからでは視えない遠くの出来事を探り、平行して双眼鏡で身近なひとびとの暮らしぶりを盗み見る。基本は語り部の目から映る範囲のできごとで、しかしそこには無意識化で共有される顕微鏡や望遠鏡、双眼鏡などの複眼からの情景が忍ばされている。何が重要で何が重要でないのか、叙述すべきかせざるままであるべきか、複眼を構成する目の役割に応じてそれらは決せられる。複眼を構成する目の数がゼロに近づいていくほど文章の倍率は低くなっていき、イチならば叙述すべきことがらはなく(描写になり)、また、ゼロならば筆の行方も定かではなくなる。物語同士が交差するたびに目の数は増し、また交差したあとでは目の数は必然、減っていく。物語が多重に編みこまれている作品ほど、倍率は要所要所で起伏に富み変化する。
453:【ヒカキンなるアスリート】
YOUTUBERなる言葉は知っていたが、いざどういう人たちを示すのかは解らなかった。そんな無知無知ボディのいくひしであっても「ヒカキン」なる人物の名は知っている。名を知っているだけでどんな人物なのかはやはり知らなかったが、知る必要もない、と高をくくっていた。どうせ動画投稿サイトYOUTUBEで動画を投稿して不特定多数からチヤホヤされてる承認欲求の塊みたいなやからでしょ、と偏見120%でななめに構えて、いっさいその正体に目を向けようとしてこなかったわけだが、このたび、「ヒカキン密着24時 〜YouTuberの裏側〜 」なる動画を視聴し、いくひしは見も知らぬヒカキンさんに土下座したい気持ちにさせられた。ホント、見下した目で見てごめんなさい、舐めくさっててすみませんでした。尊敬します。あーこのひとはお金にならなくてもきっと同じように毎日アホなことを真面目に愚直にやっていくのだろうなぁ。そう思わせる人間味あふれた人物に映った。実際はどうかは分からない。しかしそう思わせるだけの映像編集技術を持っている時点で、やはり尊敬に値するのである。ヒカキンさんの一日はきっといくひしのひと月より色濃い時間が流れている。これでもいくひし、がんばってるつもりだったけど、ぜんぜんそんなことなかった。じぶんがはずかちい。いい動画を観させてもらった。ありがたい。
454:【対価】
お金を払ってもらう、というのは特別なことだ。なにかしらの益を誰かから得たらお返しをする。これはたいせつな心がけである。しかし自然な行為では決してない。特別なことなのである。人類の積み上げてきた文化が、そうしたルールを暗黙のもとでも成り立たせられるように育んできたからこそ、そうした善意は社会に浸透したのである。自然に、雨のように、ぽっと降って湧くようなシステムではない。しかし、現在、それが一部でこそあれ、崩れようとしている。小説に焦点を絞って話そう。たとえばツイッターでは誰もが無償で言葉をつぶやき、発信している。そのつぶやきから有益な情報を得たとしても、受動者が発信者に対して何かお返しをすることは稀だ。いいねやRTをして、ある種の称賛を示すことはあっても、それがつぶやきへの対価と呼べるのかは怪しいところである。仮にそれが対価として成立するのであれば、小説を読んだ者が、おもしろかったです、と作品を高く評価するだけでその作品への対価を払ったことになってしまう。個人的にはそれを対価と認めることに抵抗はなく、なにもふしぎではないように思うが、現実では、出版社というスポンサーのついた作家のつむぐ作品にかぎって言えば、それだけを対価と呼ぶのは不条理だとする認識を持たれる。しかし、小説もつまるところは文字であり、情報である。無料で発信される無数のつぶやきと、電子書籍化された小説、そこにいかほどの差異があるというのか。出版社を通しているか否か、それ以外にちがいを求めるのはむつかしい。つぶやきは物語ではない、という主張がでてきたとして、ではアマチュア作家と商業作家とでは何がちがうのか、という話になってくる。アマチュアであろうと、プロ並みに読者を獲得している作家はいる。善悪の判断を抜きにして、無償と対価アリ、読者はどちらの作家の小説を読むだろう。本当に欲しいものがタダで手に入るのである。タダより怖いものはない、そんな言葉も世にあるが、しかし怖いならばタダとは言わない。タダとは、それを手に入れても何も失われない状態を言うからだ。ならば真実、タダで有益なものを手に入れられるとすれば、ひとは対価を支払うよりも、タダのものを手にしたくなる。不自然なことではないし、ふしぎでもない。本は中身の物語に値段がついているのではない。本という媒体に値段がついているのである。本という肉体を失くした物語は、情報という第三の形態――物体でも思念でもない、多くの者たちと共有可能な「概念」としてその存在を維持できるようになった。人類史において、概念に値段がついていた歴史はない。著作権ですら、保護するのは発想であり、概念そのものではなかった。その点、商標登録はゆいいつ概念にちかいシンボルを保護する目的でつくられたルールではあるが、それも権利を保障するにとどまり、値段の制定には至っていない(そういう意味では、為替や株の売買は、「信用(権利)」という概念に値段をつけている行為と呼べるかもしれない。ちかごろ問題になっているメルカリでの現金の売買にしても同様だ。お金に値段をつけるという行為は、お金という概念の価値を大きく揺るがすことになる。概念とは基本的に、なにかの基準となるものだ。基準がほかの基準によって枠組みを縮小させられたり、拡大させられたりすれば、その枠組みはやがて基準としての役割を失い、概念としての性質を維持できなくなる)。話を戻そう。我々現代人は、物語をデータとして扱えるようになった。本に値段がついていたように、現代ではデータを読み込み、再生させる端末に値段がついている。そこにデータを提供するシステムへの対価を加えてもいい。すでに対価は支払われている。ではなにゆえ、カタチなき「概念」に重ねて報酬を与えなければならないのか。提供者の視点ではなく、それを受動する側からしてみれば、考えるまでもなくそのような不満を抱くはずである。この不満は理不尽でわがままなことだろうか? ハッキリ言って、本を窃盗することと、データの流用はまったく別の次元の話である。しかし、過去の風習に囚われている者たちにはこの違いが知覚できないようである。繰りかえすが善悪の話ではない。どちらが理に適い、どちらが理屈として筋が通っているかの話である。言葉遊びと言えば端的だ。データそのものに値段をつける時代は、理に適っていない。サービスにしても同じだ。サービスの内容を伝えただけでは対価を支払ってはもらえない。それを物理的に提供してはじめて相手に満足してもらえる。利を提供できる。アイディアもまたしかりだ。それ単体では無用の長物である。図案は製品にしてこそ意味を持つ。では、データのまま存在を維持する物語には、いったいどんな対価が支払われるべきだろう。物語という図案から製品をつくりあげるのはいったい誰になるだろう。概念は、それを起動し物理世界に還元した者に対価を要求しない。概念を起動した者が、それを他者に提供することで利を生むのである。ならば概念としての物語を扱う者たちがすべきことはなにか。それらをより多くの者たちに起動してもらう場をつくりあげること――そうしたシステムを構築し、起動させ、サービスとして提供することにあるのではないか。収益モデルはそこを基盤とするほかに、概念としての物語の商品化はないように思う。無料化ではない。物語は本質的に値段がつけられないのである。
454:【見返り】
データとしての物語に、それでも見返りを期待したいのならば、それは対価ではなく、お布施というカタチになるだろう。施しである。無償の奉仕である。それを読者に無理強いすれば、物語は神となり、祈りや供物なくして存在できない異形のモノと化すだろう。教祖にでもなりたいのかな?(勘違いしてほしくはないが、物語を提供する行為そのものは、対価を得るに値する。物語提供サービスとして需要はあるだろうし、仕事になる。しかし、それはサービスに対する対価であり、提供した物語そのものへの対価ではない。その証拠に、たとえば本は、その中身の物語がどれほど優れていようと、或いはどれほどお粗末だろうと、本一冊の値段に大きな差異はない。稀覯本や文化財としての本には付加価値がつくため高値になる傾向はあるが、それもまた中身というよりかは、本そのものの古さに値がついていると呼べる。作家が職業として成立するのは、概念としての物語を、文字というデータに変換する作業を担っているからである。概念をまたべつの、より広く共有されやすい形式へと変換する。その翻訳作業に対価が支払われていると呼べる。ゆえに、作家が意識すべき顧客がたとえ読者であろうと、やはりというべきか、実質的な顧客はそれを商品化する版元なのである。繰り返しになるが、我々が本を購入するとき、それは任意の物語を〈入手するためのシステム〉へ対価を支払っているのであり、物語そのものへの対価ではない。物語に貴賤はない。ゆえに値段はつけられない。それは、人の命に優劣をつけられないのと同じことである)
455:【バンバン!】
裁判長! やつの言い分は詭弁であります! 至急反論の許可を!
456:【許可する!】
あのねぇ。お話にならないですねぇ。いまの経済社会において、値段のつけられないものはないんですよ。値段がついたらそれは商品です。買う者がいるかいないか、それは後の問題であって、本質ではございません。で、本についてでしたか? あのねぇ、本はですね、人間の知る権利が極力偏らないようにと、可能なかぎり均一な値段を定められているんですよ。価値のある情報ほど高く、そうでない情報は安い、そんなことになれば資本を持っている者とそうでない者とのあいだで余計に格差が広がってしまうでしょう。知識は万人に配られて然るべきものなんですよ。だから本は中身の是非に拘わらず、一定の値段なのです。おっと、こんな言い方をすると、ならば情報はタダでばら撒くべきだ、なんて暴論を投じられてしまいそうですね。そんなことになればネットの虚構ニュースの二の舞になるでしょう。値段の設定にはある程度の情報の質を担保する効果があるのですよ。電子書籍にしたって同じです。無料で配布する、これは何も責められるものではない。しかしそれは飽くまで、提供者が意思決定すべき事柄です。商品を受動する側が、値段にケチをつけるのは、まあ、ケチをつけるだけならばそういう自由もあるでしょうが、しかしそのケチを強要しては、それこそタダにしろ、なんて言いながらその手で商品をかっさらうような真似をすれば、そんなのは盗人と同じです。盗人以外の何者でもないのです。いいですか。本質どうのこうのは、まあいいでしょう、そういう一面もあることは認めます。ですが、いまの経済のうえでは値段が定められ、そういう商品として売りに出されている以上は、その対価を払わずにそれを手にすることは、してはいけない罪なのです。そんなシステムは間違っている、時代遅れだ、そういう主張もあるでしょう。それもまたある一面では正しい。しかし、たとえ間違ったシステムだったとしても、それが基準として公に認められているならば、それにのっとった行動選択を我々社会に内包されている者はとらなくてはならないのです。人を殺してはいけないというルールがあれば人を殺してはいけないのです。あべこべに、人を殺さなくてはならない、というルールができてしまったら、それがいくら間違った思想だとしてもそのルールに従わねばならないのです。いいですか、だからこそシステムやルールは重要なのです。一個人の身勝手な判断でかってに破るような真似はしてはいけないのです。いいえ、破る自由はあるでしょう、しかしそれを破ったならば、同様にして定められている罰則を受ける覚悟は持つべきです。あなたが違法に視聴し、ダウンロードしたそれら情報は、総額でいったいいくらになりますか? 覚悟なき者にルールを破る資格なし。よくよく考えて違法で犯罪なそれに手を染めましょう。
457:【反論になっていない】
けっきょく、ダメだからダメだ、としか言いようがない時点で、さきは見えている。工夫を迫られる段階はとっくにすぎているのだ。ではどうすべきか? まずは宿敵の手法を「効果的だ」と認めるところからはじめるよりない。そう、効果的は硬貨的なのだ(意味があるようでないジョーク)。
458:【メモ】
トリアージ。赤、黄、緑、黒。赤はなぜ二種類ないのか?
459:【とくになし】
とくにないです。
460:【2017文学フリマ東京5/7】
行ってきたよー。ひとの多さに死ぬかと思った。こわかったぁ……。なんだろうな、イベントの感想でも書いとくか。とりあえず久々にひとと話して緊張した。だいたいがおとなりのブースのお姉さん方と交わした、ひとこと、ふたこと、だけなのだけれども、まあ、なんだ、きんちょうした。ひとの優しさに触れるとね、まあね、そのぬくさにびっくりするよね。深海魚に熱湯、みたいなね。ショック死二歩手前でしたわ。ふたこと以上は交わしたので、ショック死ですわ。焼けましたわ。こんがりジューシー焼き魚なのですわ。かんぜんに今は自棄ですわ。あとはなんだろうなー。購入した本のなかでは、ブース「エ-28」の粒子さんという方の同人誌「標本」が、断トツに好みだったなー。ほかの出店者の方々の作品も、試し読みコーナーで三時間くらいみっちり読み漁っていたのだけれど、やっぱりいくひし、個性的な作品につよく惹かれる。個性的というか、個性を消そうとしてもにじみ出てきてしまう灰汁みたいなものが好き。文学文学しているものは、なんかちょっと、そのレベルを楽しめるところまで、いくひし、まだ文学をたしなめてない。どちからというとすこしダシ舐めてる。文学から滴り落ちている、ダシというか、灰汁というか、なんかこう、ハミでちゃって、にじみでちゃったモノによわい。よわい、というか、ひわいというか、王道からズレたことに恐れを抱きつつも、でもこっちにだって行きたいんだもん、みたいな分からず屋の物語って、なんかいくない? 王道は王道でかっくいいのだけれども、王道は王の道ゆえ、王のモノしかおいちくない。それはそれでイバラの道でたいへんそうだ。まあ、いずれにせよ、いくひしに目をつけられるような作家さんは、ホント今後苦労するかもしれないね。とっくに苦労をしているのかもしんないけどさ。同志って感じだ。かってに勇気をもらったよ、という報告を以って、今回の感想といたしましょうかね。おまえのどこが苦労してんだ、みたいな野次が聞こえてきそうでもないけれど、どうせいつもの幻聴だ、って聞こえなかったふりをする。
※虹が「かかるもの」である以上、足元にあるのは、谷か裂け目か深淵か、あれほど大きな河はない、ちいちゃな虹はしかしある。
461:【好奇心】
無関心だったものに目を向ける。それを好奇心と呼ぶのです。未開の知に手を伸ばす。それを探究心と呼ぶのです。
462:【本懐】
無料で本を配布した。その真意は、マーケティングとか、存在を知ってほしいとか、そういうのとはすこしちがう。まったくないわけではない。ただ本懐としては、ぼくのつむぐような物語にはまず以って需要がないことをぼくが誰より知っているがゆえに、ぼくはぼくのような人間に、きみのような人間はほかにもいるんだと伝えたくて、出会いたくて、物語を通じて間接的に、じかではないがためにより深くつながりあいたくて、だからその可能性をすこしでも上げたくて、無料で物語を発信している。生きていたっていいんだ、なんて無責任なことは言えないけれど、すくなくとも独りではないよってことを伝えたい。触れあえる距離にはいないけれど、同じ時代にはいないかもしれないけれど、すくなくともきみのような人間がここにもいたんだってことを知ってもらいたい。みんながふつうに行っている、似た者同士での傷の舐めあいを、ぼくらはいちどだってしたことがない。ぼくはここにいます。きみがここにも、ひとりいます。宇宙をまたいだ星と星との通信みたいに、ぼくはきみに伝えたい。
463:【うえー】
なぁにマジメぶってんの、そんなにマジに目をブってほしいの? 目ん玉じかに潰されたいの? きもちわるいこと言わないでくれない、こっちの目が潰れるというか顔がつぶれるというか、ひとさまに顔向けできなくなるでしょ、あんた私らんなかじゃいないことになってんだからさぁ、存在しないことになってんだから、かってにベラベラなめくじ這ったあとにできる半透明のうっすーい膜じみたネバネバ、並びたてないでくれない? 両手いっぱいの塩でも呑みこんでくんない? 融けてなくなっちゃうぅって、それで誰が困るの? コンクリートで固めて放射性廃棄物といっしょに地下深くに埋めてあげるからさぁ、安心して消えて。ね?
464:【いけにえ】
おまえらな、いってぇ誰のお陰でそうやってギャーギャーかしましく騒げてると思ってんだよ。アイツが全部面倒事一身に引き受けてくれてるからじゃねぇのか。そうやって安全地帯から野次飛ばしてばっかじゃなくてよ、すこしはあいつの痛みとか苦労とかそういうのに目ぇ向けてやれ。アイツが挫けたとき、いってぇ誰が代わり担うんだ。俺はイヤだぞ。加減しろ。
465:【設定】
はいはい、ちゅうにびょう、ちゅうにびょう。
466:【おねがい】
ほんとうにフリでもなんでもないので、ふだん発言権のないぼくがここぞというときに何かを伝えようとしたときは、茶化したりせずに黙って見守ってくれませんか? そんなにむつかしいことですか? ぼくは割と怒っています。すくなくともあなた方の思っている以上には。
467:【公開を後悔】
文フリになんて行かなきゃよかった。じぶんみたいな人間に読んでほしいけれど、じぶんみたいな人間があんな人が大勢ごじゃごじゃしたところにいるわけないじゃん。でもいつか、回り回ってじぶんみたいな人間のところに届くかもしれない。そういう淡い期待で行ってみたけど、効果のほどは期待できない。じゃあどうすればいいんだろうって考えてみるとやっぱり行き着くのは、大きな資本を持っていて、不特定多数の人々へビカビカ宣伝しつつ出版できる組織への協力を訴えるほかなくて、やだなぁ。でもどうしてやだなぁって思うのかっていうと、それはなんだかんだ言って、かってに、一方的に、無視された!?っていう被害妄想を抱いているからで、強者にすり寄る弱者にはなりたくないなーみたいな、そういうの。無駄に矜持が高いだけですわ。雑魚ですわ。ちっせー人間だなぁ、もう。まあいいや。踏んばろ。
468:【黙れや】
ぐちぐちうっせーぞ。黙ってつくれや。
469:【反省】
作者が読者を選ぼうなんて、なんて傲慢なのでしょう。恥ずかしくないんですか。手に取ってもらえるだけでたいへんよろこばしいことじゃありませんか。一冊も手に取ってもらえないんじゃないかって会場に着いてからもビクビクしてたくせに。ほんと、なんて見苦しい。あなたみたいな面汚しは、こうやって、こうやって、紐で縛って、ぽいですよ。もうにどと出てこないでください。あとは引きつづき、いつものように、いくひしと、いくひしと、そしていくひしたちの、深いようで浅ましい、日々の思いつきのつれづれなるままに、を、お送りいたします。お目汚し、たいへん失礼いたしました。
470:【いくひし、鳥になる】
「はぁ。めっちゃおこられた」「なんであたしまで……。喚いてたのおまえじゃん」「ちがうよ、いくひしだって黙ってたもん。ほかのひとらがうるさくしてたのがいけないんだ、とばっちりだよ、とんだとばっちり」「被害者面すんな。見てたなら止めろよ」「それを言うならそっちだってそうでしょ、同罪じゃん」「だってあたしはおめぇらとは違うだろ。ほんとただの他人だし。名前だってついてねぇし」「まあ、たしかにモブだよね、単なるツッコミ役だし、刺身でいうとこのタンポポだし偽物の」「カッチーン」「主役はほら、いくひしだし? いつだってタイトルに名前でてるし? まあ、言ったらツッコミなんてボケがなきゃただのうるさい怒りんぼうだし? もっと崇めたてまつってくれてもいいのだけどー?」「調子乗んなよ、業界干され野郎が」「調子乗るとか、干されるとか、もう前にやったネタじゃん。こことかhttps://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881584468、こことかhttps://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054882513338、ここらへんでhttps://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881386208」「メタを入れるなメタを」「でもほかの、あのコたちの言い分も【一里】あると思うんだよねー」「一里もあるのかよ、遠すぎだろ」「誰のためにそれをつくり、表現するのか、ってのは時代に関係なく創作活動の永遠の【明大】、みたいなとこあるわけじゃん?」「明治大学が果たして千年後にあるのかすらあたしにゃ分からんなー、命題って言いたかったのならイントネーションに気をつけよ?」「じぶんに似たひとに読んで欲しいっていうのは、これって何も小説にかぎったことではなくて、なんだかんだであらゆる表現活動ってけっきょくは、じぶんしか感じていないだろう何かを感じ取ってほしい、共有してほしいっていう、孤独からの叫びだと思うんだよね」「だったら似てる人じゃなくて、似てない人に向けてってことになるんじゃねえのか」「客観的に見たらそうかもしれない。でも、本質的に似てるっていうのは、一見したらまったく似てないってこともたぶん、有り触れてよくあることなんだと思うんだよね。それはどこか、鍵みたいなもので、鍵穴とキィは、本質的にふたつで一つだけれどまったく別物でしょ。それは本体を組み上げるための部品って意味ではなくて、刀と鞘みたいなものであり、または親と子みたいなものでもある」「抽象的すぎてようわからんわ」「んーだからね。きっといくひしと似ているひとは、ぱっと見、いくひしとはまったく似てないんだろうなぁって思って。もう、似てないというよりかは、いくひしがその人を見かけたらまずいくひしは怯えるだろうし、あべこべに向こうからしたら、なんだあいつって避けられちゃう気がする。でもそうやって物理世界ではまず以って出会う機会が巡ってこないような相手こそ、たぶんいくひしとは本質的に似通っているんじゃないのかなぁって思うの」「よぉわからんが、そういう願望があるってことは呑みこめた」「いくひしはいくひしみたいな人間が嫌いだし、だからいくひしを見て、なんだこいつって思ってくれるくらいがちょうどよくて、同時に、いくひしを見て、なんだこいつと思いながら激しく憎んでくれるくらいが理想かもしれない」「まったくこんどは分からねぇぞ」「つまりね、花にとって必要なのは同じような花ではなくて、葉っぱをむしゃむしゃ齧ってしまうかもしれないけれどそれの成虫は遠からず、花の蜜を吸いにきて、実を成らせる工程のカナメを担ってくれる、みたいな、そういうの」「うまいこと言ったみたいな満足気な顔するのやめてもらっていいかな?」「でも本当にそう思うんだもん」「それがおまえの言う、本質的に似てるってことなのか」「たぶん、そう。ちがうかもしんないけど」「ダメじゃん」「もういっそ、じゃあ、そういうモゾモゾしたものをいくひしはムシャムシャする側にいきたいという思いもあるにはあってね」「もうなんの話かついてけねぇよ。話の筋のスの字もねぇよ」「要するにいくひし、鳥になりたいなぁって」「バードじゃなくてこれじゃバッドだろ。最悪の終わり方じゃねぇか」「オチればいいってもんじゃないんだよ。ときにはそらを飛ばなくちゃ」「いい感じに終わらすな」「トリを飾ってみたくてさー」「だからうまいこと言ったみたいな顔するのやめなさい」「ならこれでどう?」「娘っこが美味いもの食べたときにやる、んーって首をぷるぷるするやつやめなさい」「じゃあこれは?」「宝石がたくさん落ちてる谷底に落とされた肉をキャッチする巨大な鳥のマネもやめなさい」「でもその鳥は本質ではなくて、それを利用して谷底から脱出する青年が主人公の」「シンドバッドではあるけどさー、それもバードじゃなくてバッドじゃねぇか」「でも大トリが登場するし、それはオトリなわけでしょ」「うまいこと言ってた!?」「ムフー」「どや顔するのやめなさい」「もうすこしうまくトリ持ってよ」「読者とおまえのあいだをか? 拒否するわ」「湖のほトリー!」「もはやトリって言いてぇだけじゃねぇかもういいわ」「はぁ。めっちゃおこられた」「それは最初にモドリすぎだろ」「ムフー」「どや顔するのやめなさい」
※日々は風となり、波を張り、しぶきを巻きあげ、霧となり、木のとなり、きみのまわりに染みとなり、切り取り線をスミで書き、つづく蟻にならって刃を刻み、剥ぎとる仕組みはいつになり、待ちくたびれた日は陰り、暮れたそらに灯がぽわり。
471:【あなたの人生の物語】
物語というのはそれで一つの言語である。通常、言葉はそれを発した時点で主語が決まり、視点が定まり、主張が固まる。しかし本来、それでは世界を語るにはあまりに「面」が不足である。世界はすくなくとも立体だ。一方向から見たら、目に映らない死角が必ず出てくる。死角を補うためには、いくつかの方向から、異なる視点で物事を見なければならない。それを可能とするのが物語である。言語には大きく分けて二種類ある。ひとつは文字、そしてもうひとつが記号である。文字は地域や時代によって変化するが、記号はおおむね意図するところが同じである。絵画と呼べば単純で、図形と呼べばそれらしい。ところが言語はその二種類だけではない。種族や時代に関係なく、人類には共通して生みだされた第三の言語がある。いかなる言葉で記されようと、いかなる記号で示されようと、そこに刻まれた情報(の輪郭、全体像)は不変なのである、それがすなわち物語である。
472:【差】
プロとアマの差がなくなっていくほど、プロを保証する権威の必要性が増していく。ほとんど差がないにも拘わらず――アマチュアのほうが先行しているにも拘わらず、いっぽうは賞をとり、それがゆえに重宝される。本質からどんどん遠ざかっていけば、どこかでそのしっぺ返しがくるのは、いつの時代もおんなじだ。権威を持たないことが却って権威になるときがくる。下剋上はちかい。
473:【第三の目2】
むかしの話である。いちどだけ忌憚のない感想をもらったことがある。むろん作品のだ。段階的に感想をもらったが、ついぞ「おもしろい」とは言ってもらえなかった。ちょうど人生の節目の時期で、相手とはそれっきり会うことがなくなる、そういう時期に、最後の感想をいただいた。やはりおもしろいとは言ってもらえなかった。ウソでも言ってくれりゃあいいものを、それでも言ってもらえなかった。本当に、本当に、それが救いになっている。今でもそうだし、ずっとそうだ。ありがたいことである。未だに身体の芯のほうにわだかまっている想いがある。黙らせてやる。感想ひとつ言えなくなるくらいの、窓から叫びだしたくなるほどの、そういうものをつくってやる。そのときに芽生えた第三の目は健在である。付け替える予定は、ない。(何か陰険でじめっとしたことをつぶやくとき、まっさきに、うるせー、と怒鳴りつけてくるのはコイツだ。いっさい、いくひしを認めてくれないヤなやつだ)
474:【目覚め】
OJI x VOLTA - Horny
475:【KINJAZ】
https://www.youtube.com/watch?v=pxc_igMzxXY
https://www.youtube.com/watch?v=UZA9O3b36pA
https://www.youtube.com/watch?v=GU8F-TjMyG0
476:【需要がないのではない】
見ている方向にないだけだ。
477:【かぎり】
人体を駆使して「型」を繰りだすのだから、舞いには必ず「限り」がある。そういう主張がある。間違ってはいない。しかし、あと千年経ってもその「限り」は見えてこないだろう。進化するたびに枝分かれしていく可能性には日々畏敬の念を抱いている。
478:【判断】
判断を他人に委ねるのは卑怯者の所業なり。いかなる選択肢を示されようとそれを選んだのはじぶんである。或いは、選ばないという道はいつだって足元に開いている。切り拓け。
479:【運命】
運命に出会いを求めるな。偶然をものにしたのはきみだ。運命ではない。
480:【小心翼々、内心びくびく】
うー、つよがってないとつぶれそうだよぉー。
※日々の習慣が私をつくり、昨日の私がいまを生き、今日の私があすからの日々をつむいでいく、そんなコードにはうんざりだ、私は私で私が私だ、彼らはみな死に、私が私を生きている。
481:【アイツ】
思春期のときにいくひしの中核をなしていたアイツの影がさいきん、とみに感じられる。いつだって胸中にわだかまっていた「××」の塊だ。「××」の塊を殺したことでいまのいくひしがあると言っても過言ではない。なのにアイツがさいきん蘇えってきたように感じられてならない。また闘わなければならないのだろうか。鬱屈だ。
482:【スーツ5】
海外ドラマ「スーツ」のシリーズ5を観はじめた。四年くらい前からかな? いくひしが最も参考にしつづけている脚本のドラマである。日本のドラマを観ていないのでどうなのかは分からないけれど、ここまで複数の物語を織り込み、圧縮させているドラマはないのではないか。盗み放題の技術が溢れている。まるで、というかまさに、サービスタイムみたいなドラマである。おもしろーい!
483:【生き残り】
人工知能が毎秒一万個の物語をつむぎだせる未来にあっても、けっして編みだされることのない物語をつむぐことでしかこれからさきの作家は生き残れない。それはオリジナルという意味ではない。本来あってはならない組み合わせの奇跡的な融合である。
484:【しってた?】
「あたまのなかだと何回だって殺せるんだよ。おなじ人を」
485:【もったいない】
「毛糸をほどいていくみたいに、どんなにていねいに皮膚を裂いて、肉を分けて、血をすくっても、人間って一回しか殺せないんだよ。もったいないね。もったいないから、きょうはここまで」
486:【美人】
最高の美人ってどんなだろうなーって考えてて、いままで恋してきた人たちのこと思い浮かべてみたいんだけど、なんだかんだ言って一番は首がないのがいいなーみたいな。でもそれはちょっと姑息というか、例外的な存在な気がしないでもないので、じゃあそこは妥協して、のっぺらぼうかなーみたいな、そういうの。スタイルよくてのっぺらぼう、理想です。
487:【こじらせ】
「はっきり言っとくと、セックスしたことあるやつは愛だの絆だの、人間賛美じみた星屑の欠片を一文字たりとも口にしないでほしい。おまえら人間捨てて野獣化したヤバーンジーンでしょ、その口で性器にキスして舐めて、充血させて、自らの性器で引っ掻いたり、揉みしだいたりしたんでしょ、人間やめたくせにきれいごと並べないでほしい、性欲に流されたヤバーンジーンのくせにいっぱしのオトナぶるのホントやめてほしいんだけど、虫唾が走るというか、ウジが湧く、ハエたかる、ハイエナどもが、そこになおれ犯すぞ、おまえらだけホントマジでずるい、たけのこ」
488:【おしらせ】
「下品だろ? 醜いだろ? 浅ましいだろ? おぞましいだろ? これが俺の根っこのほうにあるものの片鱗だ。セックスと性欲を、殺人とか結婚とか、デートとか、恋愛とか、なんでもいいが、なにかしらキラキラしたものに置き換えてみせれば、大方俺の根っこにあるものにちかづく。たとえば今ここで、想像でいい、何かこの世でもっとも残酷な所業を思い浮かべてほしい。それは十中八九すでに誰かが行っている。場所が地球上であり、物理法則の及ぶはんちゅうにあるできごとであれば例外はないと断言していい。いいか、どんな残酷なことであれ、すでに誰かがやっている。なぜ俺はしてはならないんだ? 誰かがすでにやっているのに、どうして俺はやってはいけないんだ? ずるいだろ。そんなのはだって、ずるいだろ。俺だって、人生の絶頂にいる男を監禁して、いずこより拉致してきたガキにその男の世話をさせ、情を抱かせてから、男に問いたい。『今からおまえの娘か、このガキのどちらかを犯す。十秒以内に犯されてもいいと思うほうを選べ』男は悩むだろう。しかし十秒は確実に経過する。男が選べなくともいいし、どちらかを選んでもいい。いずれにせよ、目のまえでガキを犯す。どちらを選んでもガキを犯す。男が娘を選んだならば、男は自身のふがいなさを恨み、ガキへの呵責の念に苛まれるだろうし、男がガキを選べば、娘よりもたいせつなガキが目のまえで犯される。男の尊厳はいちじるしく損なわれるだろう。ここまでが序章だ。男の世話は継続してガキに任せる。男は以前にも増してガキに情をそそぐだろう。こちらへの憎悪を募らせるたびに、ガキへの情が増していく。二度目の問いの時間だ。『今からこのガキを犯す。しかし俺も悪魔じゃない。犯す役を選ばせてやる。俺か、おまえかだ』男に選択の余地はない。その日、男は自らの性器を用いて、ガキをつらぬく。すまない、すまない、と謝罪の言葉を繰り返しながら、無様に腰をふりつづける。俺はそれをカメラ片手に黙って見守る。神聖な行為だ。余計な野次は飛ばさない。この日以降、男はことあるごとにガキと肉体関係を結ぶようになる。孤独な世界で、不条理を分かち合える存在は希少だ。心身ともにガキと男は依存しあう。仕込みは上々だ。三度目の問いに移る。俺は問う。『今からおまえの娘か、そのガキのゆびを切断する。十本すべてだ。一本につき三時間ほどかける。三十時間の長丁場だが、可能なかぎり薄く輪切りにしていく。腹が空くようならばそれを焼き、食わせる。選ばせてやる。娘とガキ、俺はどちらの指を切ればいい?』男は迷うだろう。しかしそんな男に、ガキが助言する。『わたしを選んで。だいじょうぶ、死にはしないから』けっきょく男は選ぶことができなかったが、俺はやさしいので、ガキの頼みを聞き入れ、男の目のまえでじっくり三十時間をかけて、ガキの指をすべて輪切りにした。むろん、その日の食事はすべてガキの指のステーキで、すべて平らげるまで、新しい食事を与えなかった。男は懺悔のつもりなのか、自らの指を食いちぎってその場を耐えしのんでいたようだが、失われた指は一本だけだった。ここまでくると、男もガキも、なかなか愉快な反応を示してくれなくなる。もういいかと思い、俺は男へ問いを投げかける。『選ばせてやる。ガキと娘、どちらかを殺す』男とガキはすでに臍を固めていたようだ。互いに手を繋ぎあいながら、『彼女を殺してくれ』男はガキを示し、言った。心中するつもりなのだろう。死んだガキのあとを追うつもりなのだろう。いい判断だ。俺はそんな彼らを褒め称えながら、何か月も前から用意してあった、娘の解体映像を牢獄いっぱいに映しだす。生きたまま腸を掻きだし、洗浄した。死したあとも解体をやめず、切り分けた肉をシチューにし、それを男の食事として差しだすところまでを、三分クッキングの要領で上映した。男はその場に声もなくうずくまり、しきりに頭髪をブチブチと毟りだす。男への問いはもうない。だから俺はここで最後の問いを、ガキへと向けた。『選ばせてやる。おまえと、その男。俺はどちらを殺せばいい?』ガキは立ちあがり、逃げるように俺のもとへくる。『なんで、言われたとおりやったじゃない、さっさとソイツ殺してよ』男はなおも頭髪を毟りつづけている」
489:【この程度】
「言っても、アイツの残虐性なんてせいぜいがその程度のものだ。世の中にはもっと残酷でえげつない所業を、想像するまでもなく実行しているやからが確実にいる。生きた赤子でサッカーをするなんて自慢にもならない。そういうやからが確実にいる。ぼくらはそんな世界に、地続きどころか、まったく同じ世界に生きていて、じぶんの作品が新人賞に受賞しないだの、世に認められないだの、そんなことで悲劇のヒロインぶっている。気づいているかい。たぶん、それがもっともえげつなく、残酷で、むごたらしい所業だって」
490:【五七五・七七】
「下を見て、じぶんの不幸を誤魔化すな、上を目指して嘆き哀しめ」
※日々は鳴りをひそめ、難航する作業の合間に喉に流しこむ芭蕉入りの豆汁が美味い。
491:【22万字】
いくひ誌のバックアップを取ってみたら、合計でおよそ22万字あった。長編二つつくれる分量だ。また無駄な言葉を積み重ねてしまった(五右衛門風に)。
492:【飽きたら終わればいい】
とりあえずつくればいい。うまくいかなければまた違うものをつくればいい。納得いくまでつくればいい。で、飽きたらやめればいい。ほかのまったくべつのことをはじめてもいいし、なにもしなくてもいい。無駄ではない。なにせ初めから意味などはないのだから。
493:【新作更新予定】
新作「万妖衆~女編~」を脱稿しました。六万五千字の中編です。ひょっとしたら短編をオマケでつけるかもしれません。テーマソングにしたい曲は「きのこ帝国」さんの「猫とアレルギー」「東京」です。とてもよい曲なので、いくひしの新作はよこちょに置いて、まずは聴いてみてください。あすからがんばりたいあなたへ贈る、ちょっぴりせつない、そよかぜそよそよ物語。2017年6月、更新予定です。
494:【繋ぎ】
いったん頭のなかをまっさらにするために三万字前後の短編をつくります。百合です。上記、新作とはまったく関係ありません。あわせて6月に更新できたらな、と思います。
495:【寝かせる】
脱稿した原稿は寝かせる。可能であれば年単位で寝かせたいくらいだが、それだと一向に発表できないので、ドーピングを使う。すなわち、新作をつくる、だ。まったくべつの物語を編むことで、脳内のシナプスの連携をイチから構築しなおす。すると、年単位に寝かせたときと似た効用が得られる。気をつけるべきは、そのときつくる物語は、寝かせている原稿から程遠い文体であり、題材であることだ。似たものをつくると、ドーピングの効果が薄れる。気をつけよう。
496:【散らす】
情報を散らす。物語を文字に置き換え、つむぎだすのにもっとも神経を使うのはじつのところ、この情報の散らし方にある。ある任意の情報を読者に伝えたい。そのときに、いちどきにすべての情報を塊にして記すとたちどころにしじみ汁化してしまう。二日酔いにはもってこいだが、酔いを醒まさせては物語としては失格であろう。伝えたい情報があるとき、まずは三割記述する。残りは、会話で匂わせるところで一割、さらにキャラクターたちのしぐさや、情景にて間接的に描写するのが二割、あとの四割は切り捨ててよろしい。どうしても捨てきれない情報もあるだろう。そのときは、それをオチに使えないかを考える。使えないのならばやはり切り捨てるのがよろしい。情報を圧縮するとはすなわち、虫食いを許容しつつ、どれだけの情報を伝えられるか、軽量化できるか、である。容量が軽くなった、ゆえにその分、ほかの要素を詰めこめる。詰めこむのがさきにきては本末転倒なのである。
497:【すべては鏡に】
言うてるわりにできてないやん、そういった主張がある。一理ある。できていないからこそ自らに言い聞かせていかねばならぬのだ。
498:【ツイターでありそうな文言】
深淵を覗くとき、深淵はべつにおまえのことなど気にしてない。
499:【シューメーカーの足音】
本城雅人さんの小説「シューメーカーの足音」が引きこまれる。読みはじめてからまだ21ページ目なのだけれど、この段階で非常に興奮する。読み終えたら、つづきを以下にて記述する。――2017/5/19。
500:【きゅうけい】
ほんだらぽっぺんぴーたんきゅっきゅっちゅーだらぽってんぴーてれすけぺれたんぬるするてーれんほったらぽってんちーたらてれむるぬるすぅーだらとっぺんぴー。
※日々と日々との狭間には、予期せぬ日常が入り乱れているわけではなく、無為な時間のぽっかりが漠然とまだらに分布している。
501:【うんうん】
いいコしかでてこない物語、いくひしに足りないのはそれだー!
502:【頭の構造がおかしい】
https://www.youtube.com/watch?v=QwR4ls8sXHQ
503:【なぜ?】
無限にある組み合わせからなぜそれを選んでこられるのか。唯一解としか思えない。最初から解答案を見てしまっている観客からしたら、それの驚異はピンとこないかもしれない。しかし砂浜からピンポイントで真珠を拾い当てるのにも似た感性の鋭さは、まったくもって謎である。
504:【ミュータント】
https://www.youtube.com/watch?v=-Vxq7ocgees
https://www.youtube.com/watch?v=DkTMrCUjbSk
https://www.youtube.com/watch?v=q0ddbQuDxTY
https://www.youtube.com/watch?v=yJwPydpJHyA
505:【AyaBambi&IBUKI】
https://www.youtube.com/watch?v=r3ZbfF_NUck
https://www.youtube.com/watch?v=CEB078Lt0_Q
506:【パナマ文書】
けっきょく租税回避してた資本家たちは今もまだタックスヘイブンを利用しているのかなぁ。その後の動向がまったくわからんぺんぺん。
507:【様式化からの圧縮】
海外ドラマ「スーツ」のシーズン5のつづきを観た。主人公が弁護士ゆえに法廷ドラマの側面はひきつづきある。しかしさすがにシリーズが嵩んだだけあって、ある種の様式ができてしまった。パターンと言ってもいい。そこでシリーズ5では、極力、裁判の決着場面を省略し、人間ドラマに磨きをかける方向に注力している。材料だけを提示し、そこからどのように勝利へ導いたのかは、過去のシリーズを通して、形式美をインプットされた視聴者の想像に委ねられている。圧縮されたその分を、登場人物たちの内面へと、より切りこんでいるのが、シーズン5の特徴と言えよう。さらに言うと、過去に登場した宿敵が、依頼人として再登場したり、或いは過去に信頼を築いたクライアントと仲違いしたりと、ファンにはうれしい展開が目白押しである。さすがというべきか、しかし過去のエピソードを知らずとも楽しめる構成には目をみはるばかりである。様式化されたらそこを美とするのではなく、削る。思いきりのよさを見習いたいものである。
508:【世間話】
さいきんヨーグルトを食べるようにしたんですよ。まいにち。グリコのビフィックスってやつ。白桃&ザクロヨーグルトで、さらさらしていてほとんど液体っていうか飲み物で、まあ摂取しやすい乳酸菌なわけですよ。でね、こっからが本題なんですが、まあ乳酸菌と言ったら腸内環境を整える役割があるわけじゃないですか。御多分に漏れずいくひしの腸内環境も整ってきたわけですよ。整理整頓上手、家政婦として世のいそがしいご家庭に送りだしたいくらいの整い方。で、まあ、お通じがよくなったのはご想像のとおりなんですがね、ちょいとね、えっとね、あれのほうの頻度がねって、なんか下品な話でもうしわけないのですがね、ホントあれがねって、やっぱり下品なのでやめておきますけれどもね。とりあえず、音が鳴らないようにする技術は日々むだに磨かれているなぁという近況報告でした。
509:【プロット】
いわゆる物語の設計図、プロットをつくらない主義だ。否、設計図はある。頭のなかに。それを一般的な方法で文字に置き換えることをしない。したくともできないからだ。要約できる物語になんの意味があるのだろう、というのが個人的にずっと抱きつづけている初心である(言い換えれば、読者によって要約したときに抽出される成分が異なるような物語をつくりたい)。いくつかの物語を立体的に組み合わせてひとつの作品として顕現させる。目指すべきはいつだってそこだ。ゆえに、プロットは、頭のなかで図形として立体的に展開させてある。それを文字に落としこむとき、それはすでに物語としてはじまっているのである。そういう意味で、物語の枠組みは、どんな作品であれ基盤として用意されている。2017年5月22日、本日、はっと気づいたのだが、まっさらなキャンバスになんの指標もなく、自由に筆を走らせるよりも、端から書くべき題材を用意し、下書きのようなものを規定しておいたほうが、じつはそこから織りなされる筆の新規性は、より高いものになりやすい傾向にある。それはたとえば、まったくなんの音楽もかけずに踊りの型を模索するようなものであり、下地となる音楽を定めてから型をつくっていくほうが、じつはずっと新しい動きが生みだされやすい。基盤となる音楽はじぶんが用意したものではない。端からあるものを選んだだけである。しかし、そこに合うように点を起き、線をつむいでいくことで、じぶんではけっして思いつかない予想外の動きに出会うことがある。確率でいうとそれは、端から自由であるときよりも高いのである。そういう意味で、プロットの存在は、自由を限定するものではなく、より自由に表現を行うために不可欠な基盤であるのではないかと個人的につよく意識されたいちにちであった。
510:【やる気がでないので】
いつものやつやります。15いったらやめます。2017/5/24
※日々はとつぜん断ちついえる。
511:【無友病】
だれもぼくにきょうみがない。では、ぼくは?
512:【事実確認】
わたしはへたである。トマトのへたよりもへたの成分が濃ゆい。あまりのへたさがこうじて、へたれにまで進化した。わたしはへたれである。ただのへたですらいられない。できそこないである。
513:【願望止まり】
やさしいひとになりたいし、どりょくできるひとになりたい、でもまずはにんげんになりたい、まともなにんげんに。
514:【疑惑】
たぶん、ほんとはそんなことみじんも思ってない。このままで、そのままを、このわがままごと受けいれられたい、みとめられたい、あがめ、たてまつられたい、それが本音。
515:【ひとまとめ】
総じてそれをクズと呼ぶ。
516:【悪人】
善意で人を殺すキャラクターってなんかいいな。善意から人を殺すのではなく、善意を用いて、人を殺す。真綿で首を絞める、ではないけれど、しあわせをおすそわけすることで相対的に相手に致死量の毒を盛る、みたいな、助けてあげることで却って死にたい気分をつのらせる、みたいな、そういうの。いままでは無意識でそういうことをし、結果的に他人を苦しめる人間はすくなくなかったが、これからは自覚的にそういうことをやる人間が増えていくように感じる。虚構では魅力的なキャラクターだが、現実で出会ったら距離をおこう。
517:【悪寒の予感】
嵐の前のしずけさっぽくてこわい。なにかあったの?
518:【大差なく、大過ない】
だいじょうぶだよ、生きている意味がないんだったら、死ぬ意味だってないんだもの、きみはいなくていい存在かもしれないけれど、だからこそいなくなっても世界は何も変わらない、いなくていいけど、いなくならなくてもいい、だいじょうぶだよ、小石は誰の目に留まらなくともそこにあるし、きみも今、そこにいる。
519:【ねがいさげ】
「はぁ。ともだちがほしい。だれでもいい。きみ以外なら」
520:【蚊取り線香】
これからさき、ドローンはどんどん小型化していく。昆虫なみにちいさなドローンもあと三年以内に汎用化され、五年以内には一般に市販可能となるだろう。そうしたとき、カメラ機能は基本性能として付与されているため、盗聴や盗撮は極めて容易に行えるようになる。スマホのカメラの比ではない。極小のドローンの、犯罪行為の抑止のために、そうした社会ではドローン専用の蚊取り線香が、公共の場に設置され、また個人での購入も可能となる。ドローンの遠隔操作時に利用する電波を通信妨害(ジャミング)するか、或いは任意の場所に着陸するようにとの信号を発信し、機体を乗っ取る(ハッキング)対策がとられるだろう(同時に、独立駆動可能なAI搭載型ドローンが急速に開発されていくため、対策としては万全ではない)。しかしそれら対策も悪用すれば、他人のプライバシーを侵害するハッキング用具となるだろうし、また他人の経済活動を阻害するツールとして効果的な武器となり得る。問題を解決するための術が、新たな問題を生じさせるのはいつの時代も有り触れた出来事ではあるが、これからは生じる新たな問題のほうがより深刻な問題を――それはたとえばそれまでの秩序を根本から崩しかねない問題を――孕むようになってくる。我々は、対策をとる前に、否、何かを社会に普及させる前の段階で、いますこし厳格で慎重な議論と検証を重ねなくてはならない段階にきている。しかしそれを企業に期待するのは誤りである。
※日々と口にしながらも日々異なるいちにちを生きている、日々ちがうことが常であり、それゆえ日々は日々たり得る、日々に変化がないならば、そこに日々は浮かばない。
521:【寄り添う】
SNSを利用したプロモーションには限度がある。思いのほか期待値が低い、と言い換えてもいい。なぜなら何十万人のフォロワーを得ても、一人一人のフォロワーからすれば、日々消化していく何千何百というその他有象無象のコンテンツの一つでしかないからだ。その人物にとってのかけがえのない何かに成り得なければ、いまのこの情報過多な社会では生き残れない。印象に残れない、とそれを言い直してもいい。SNSは、SNSである以上、希薄な情報を扱うツールとしての認識を持たれつづけ、誰かのかけがえのない何かに昇華されることは期待できない。いっぽうで、SNSというシステムとしては、誰かのかけがえのない何かにはなり得る――また、現代人の何割かはすでにSNSを生活の基盤として組み込んでいるはずだ。しかし、SNSに載せられた特定のアカウントを消費することに人生の貴重な労力を費やす者はかぎられる。片手間で眺めるのが性に合っているのがSNSの特徴であり、長所である。濃厚であってはならないのである。とろみのない希薄な液体はすぐさま流動し、蒸散する。長く寵愛を受けるのは至難である。知名度をあげる手法としてのSNSは有効だが、プロモーションとしては不足である。
522:【提供】
いくひしの提供しているものは情報ではない。ひらめきの軌跡そのものである。回廊と翻訳してもいい。或いは、回路と。
523:【なぜカクヨムなのか】
クラウド代わりに利用しててね。作品をネットに保存しておきたい。人間いつ死ぬかわからんしね。だから可能なかぎり長くネット上に残るだろうサイトを選びたい。いまのところカクヨムが息長そう、って判断基準。ほかにいいとこあったら教えてほしい。
524:【もっかい】
もっかいがんばるか。プライドなんて捨てちまえ。
525:【テーマは描くもの】
テーマを決める。よくある創作論だが、そこでだいじになってくるのは、そのテーマの主題をずばりこれですという単語に変換して物語に組みこまないことだ。愛がテーマならば「愛」という単語を使わない。サイコパスがテーマならば「サイコパス」という単語を用いない。これだけでテーマは浮きあがるものになる。テーマと主張は異なる。合致することもあるが、そのとき大概はテーマとして失敗する。気をつけよう。
526:【箱の中身】
評論家は名前のないなにかしらに名前を定め、それを世に浸透させる。小説家は名前のありように関係なく、それまで認知されていなかったなにかしらを物語を通じて浮き彫りにする。名前があるようで、しかしそれはみなが共通認識しているそれとはどこかちがう。そういうものも含まれる。物語はひとつのそれで言語である。すでにある言葉を駆使して語られ、かたどられるものであるにせよ、言葉では言い表せないなにかしらを想起させてこそ、物語にする意味がある。言語とは箱である。枠組みがなければ掬えないが、肝要なのはその中身にある。
527:【きかざるな、されど中身をさらけるな】
いいか? いいこと言ったってクズはクズだ。あたしに言わせりゃクズほどいいこと言いたがる。なぁにが気をつけようだ、おめぇがまず気をつけろや。肝要なのは中身である、じゃねぇんだよ、おまえの中身がいちばん汚ねぇんだよ、洗剤呑み干して滝壺に落ちろや、顔面削いで出直せや。
528:【まったくもう】
きみはすぐそういうこと言う。泣きながらそういうこと言う。よくないよ。
529:【ぎゃくこうか】
どちらかと言うと、あなたがそうやってすぐに慰めに走るから、あのコは慰められたいがためにそうするようにそうしてしまうのではないかな。放っておけばいい。それで損をするのも傷つくのもあのコだ。ぼくらではない。
530:【いやいやいや!】
とばっちりですから! とんだとばっちり受けますから!
※日々のゆらぎを断絶し、できた亀裂で夢をみる。
531:【孤独同盟】
信者も読者も支援者もいらない。同志だけがほしい。仲間ではない。誰よりさきにおまえをつぶす。そういう殺意をそそぎつづけられる存在がほしい。ライバルとのちがいは、互いに目指すべきものがちがうことだ。我々は同志だ。慣れあえはしない。慣れることはない。ゆえに終わりは訪れない。
532:【失笑】
いらないとか、だけがほしいとか、選べるほどあなたに選択肢があるのかって話。笑っちゃうよね、まずは手に入れてみせなって。最低でも読者と理解者はいなきゃだよ。できるの?
533:【使いどころがない名言】
「許そう。ただし死んでくれ」
534:【使いどころしかない名言】
「許さん。ただし生きてくれ」
535:【ヘタ】
いまやってることのすべてはヘタさをヤスリでごしごし擦る作業なんだよなぁ。もっとマシなものを磨きたい。
536:【結果】
結果がすべてだとは思う。他方で、いつ、どの時点での結果なのかは大いに留意すべき点だ。いつだって成功していたいが、しかし失敗を経なければ実らない成果もある。だいじなのは失敗をすることでも、常に成功することでもない。失敗をコントロールすることだ。
537:【はきちがい】
じぶんの生みだした成果物を誇りに思うのはいい。世の中には誇れるものがそれくらいしかないと言ってもいい。ひいては、じぶんが行っている何かの属性を誇りに思うのは筋違いに感じる。どこか歪んで映る。たとえば小説だ。じぶんがつむぎだした小説を誇りに思うのはいい。しかし、小説をつむいでいる行為を誇ってしまっては何かがズレて感じられる。これはあらゆる仕事に当てはまる法則だと思う。何をしているかではない。何を生みだすのかだ。しかし、成果が目に映る範囲、感じられる範囲にないところで実ることもある。たとえば教育がいい例だ。教育の影響は、その場にかぎらず、その後、教育を施された者の人生がついえるまで連綿と引き継がれていく。成果となるか失敗になるか、それを測るのは困難だ。もっとも、基本的に教育とはじぶんで生みだすものではない。ゆえに、それを誇りに思うのは本質的におかしいのかもしれない。誇りを必要とせずともやりつづけられる。先生と呼ばれる仕事の多くは、そこのところに欠かせない核のようなものを感じる。ただし、小説家と詐欺師は除く。
538:【うーん】
客観的にじぶんのことを見れてますよ、理解できてますよ、というスタンスをとりつつルサンチマンからの何かを批判しようとするとどうにもこうにもおまぬけな文章になる。おまぬけだと自覚できてるときはそれなりにおもしろくなるが、そうでないとただのおまぬけな文章だ。ところでこれはおまぬけな文章ですか、おまは足りてますか? 抜けてませんか?
539:【饒舌】
饒舌で何事にも臆さない、そういうそぶりをみせているとき、いくひしの内面はズタボロなの。雑巾を万力で百回しぼったあとで、さらに百回しぼったくらいのズタボロ具合、さいわいなのはいくらズタボロになってもなくならないこと。ちぎれた切れ端が散らばって、細かく内面を汚していく。いっそなくなってしまえばいい。思えば思うほど饒舌で何事にも臆さない捨て身のこころがにゅるりと顔を覗かせる。
540:【いくひし】
いくひしは誰でもないしどこにでもいる、あなたでもあるし、あなたではない。ふとした瞬間にさびしくなるとき、くるしくなるとき、何ともなく誰かを傷つけたくなるとき、或いは傷つけたかったのだと気づいたとき、手遅れかもしれないし、間に合うかもしれない、葛藤の狭間にはいつもいくひしがおり、いくひしをいくひしと認識したとき、すでにそこにいくひしはいない。そういう存在、それは善ではない。深淵を覗く者の背を押し、深淵へと引きずりこませようとする魔の手に似ている、同時にそれを認知したとき、あなたのもとにいくひしはいない。そういう存在、それは悪ではない。否、善であり、かつ悪でもある。それは、そういう曖昧なもの、名を、いくひし。
※日々は量産されし時間の反復であり、日常は定型されし時間の軌跡である、なるべくつつましく岩のうえで、無限の組み合わせに思いを馳せよう、それを日々と呼べるまでには無限に時間の経過がいる。
541:【圧縮】
かつてのいくひしなら四万字は費やしただろう短編を二万字でつくろうとしているのだが、思った以上に難航している、分量で言ったら二日でつくれるはずが、うまくいかにゃい。ダメで元々と割り切ってまずは結ぼう。
542:【朝陽と夕陽の差異の境に】
Rilla Force - Swank
543:【人権】
犯罪者にだって人権はある。しかし、罪を犯していない人々でも人権を蔑ろにされているとしか思えない扱いや境遇におかれている者はすくなくない。そういった人々への人権を尊重できないままで、なぜ犯罪者の人権を尊重しなければならないのか。さいきん、このロジックで一見すると罪があるように映る人々がいっせいに集中業火で焼かれる現象が目につく。SNSを利用した集団糾弾などもその類型だ。まず忘れてはならないのは、この国では基本的人権の尊重を保障すると憲法に明記されている点だ。例外があってはならないのに、保障されていないと見做すほかない人々がいる、まず以ってそこが大きな間違いであり、問題である。第二に、その人物に付与される属性にかぎらず、人権は保障されなくてはならない。あいつが保障されて、なぜ私が保障されないのか、だったらあいつも私と同じ目に遭うべきだ。これは一見正当性があるように映ることもあるが、まず考えるべきは、彼らがそうなのだから私もそうあるべきだ、である。裁判では基本的にこの考え方が適用される。類例の判決がある、よってこの裁判もそれ以上の賠償は不当である、といったロジックだ。人間はじぶんだけ損害を被ることを潔しとしない生き物である。じぶんより相手のほうが得をする、そうしたとき、じぶんも損をするが相手はもっと損をする道を選びがちである。しかし重要なのは、トータルで社会の利益が増える行動選択をひとりひとりが意識することだ。それをぜったいの指標にする必要はない。ときにはじぶんの利益を優先することも必要だろう、そうでなければ自己を保存できないからだ。しかし、そうしたときであっても、じぶんはじぶんの利益を優先したのだとする認識は持っておいたほうが、より多くの者たちにとって好ましい。そうした自覚は、社会をよりよい方向に動かす原動力になる。私はなぜこれを書いているのか。まったく躊躇することなく自利を追求し、なんらしっぺ返しを受けずに恩恵をうけつづける成功者の足を引っ張りたいからである。
544:【あ】
「あ」を表現するならば「あ」と書けばいい。わざわざ「しゃくとり虫が腹這いになったときのように一画目はよこに短く線を置き、さらにしゃくとり虫の頭を切断するがごとく軌道にてゆるやかな涙の軌跡を描くとともに、しゃくとり虫が糞を落とした具合に三画目は何もない空間から二画目の涙の消失する境界を目がけて一気に駆け抜ける、急旋回――とんぼ返りをし、一画目に触れぬように三画目の始点を経由し、みたび涙の消失現場へと回帰すると見せかけて、尻すぼみに筆を擱く。この一連の流れによって生じる三つの線の複合体を『あ』と呼ぶ」なんて長ったらしく書かんでもよろしい。しかし書いてもよろしいのが文芸の懐のふかいところである。
545:【うわーん】
わし、へた! 生きるのが!
546:【はぁ~?】
生きるの「も」だろ、調子ノんな。
547:【認める】
じぶんを信じるのと同じくらい、じぶんは間違っているのだと認めることは重要だ。間違っている、しかしつづけなくてはならない。なぜならぼくがやらなければこの道のさきがどこに繋がっているのか、誰にも分からないままだからだ。
548:【知層】
人間の知能の差異はこれからますます大きくなっていく。経済格差より大きな問題だ。知能格差と経済格差はしかし、ニワトリとタマゴの関係であり、双方が双方の格差をひろげる要因になっている。問題なのは、知能や経済の格差がひろがると、貧富のあいだで文化的隔たりができる点だ。そこには知能の層だけ社会があり、知能の層だけ文化がある。常識はその文化圏にて通用する共有概念であり、ひとたびそとに出れば、それは理不尽な押しつけや不合理な行いに見られるようになる。格差が大きくなればなるほどこの隔たりは、けっして混じりあうことのできない境界線として根強く形成されていく。人種間のちがいよりもこれからさきの社会では、知能格差が人と人との関わりを根本から阻害する。極論、オオカミに育てられた少女はある年齢を越えてしまうともうにどと人間として生活できなくなる。あべこべに、高度に複雑化し、収斂し、超越した知能は、他人と小石を見分ける動機付けを行えなくなる。神にとって人間と雑草にちがいを求めるのは困難だ。或いは、すべては異なっているという点で同一だと呼べてしまう。同様の認識不協和が、知能の格差にも当てはまる。いっぽうから見れば相手は獣であり、もういっぽうから見れば相手は宇宙人である。解り合えと言うほうが土台無理な話だ。しかし、その土台を我々は崩していかねばならない。オオカミ少女とて人間に育てられれば人間として成長できた、宇宙人とてオオカミに育てられれば人間にすらなれなかった。人間は、たった一人では人間にはなれない。或いは、環境というたったひとつのちがいにより、人間はオオカミにも宇宙人にもなり得る。我々は産まれたときから人間ではない。人間の枠組みは常に補強され、瓦解され、その外郭を変化させつづけている。我々はいま、人間か。問うべきはしかし、そうではない。我々は、人間にならねばならないのか? 答えは、なりたいと思える人間像を我々が我々の手でつくりだしていかねばならない、である。いまこの世界に、人間はまだひとりたりとも誕生してはいない。
549:【ちかい】
バブルが弾ける日はちかい。感覚としては三年以内、はやければ半年以内にその兆候が見てとれるようになる。SNSを通じた承認欲求の充足は、ソシャゲの課金と似た構造を伴っている。熱が冷めたとき、そこに残るのは記憶でも成果でもない。履歴である(SNSへのネタ集めに走った時点で、そこから得られる体験や視野はしぜんと乏しくなってしまう。なにかを創造している者はまだマシだが、その行動原理がSNSでの評価集めになってしまうと、これもまた創作としての何かが乏しくなる。また、つぎつぎと埋もれていく過去の栄光ほどむなしいものは世に珍しい。そのむなしさに耐えられる者はみなが思うよりずっとすくない)。人は過去に学ぶ生き物だ。うえの世代の失態ほどすなおに受けとめる傾向にある。モノよりコトの時代と呼ばれて久しいが、これよりさき、コトより実りの時代に突入する。それは他人の評価とは関係のない、人生の実りである。
550:【誓い】
したいようにしてほしい、モノみたいにしてほしい、手入れはじぶんでできるから、あなたの手をわずらわせたりはしないから、傷ついてもかってに治るし、残った傷跡はなんだかすこし紋様みたい、見せびらかして歩きたい、あなただけのものだって、いっぱいつけて、あなたの手元にあった証を。いらなくなってもそばに置いて、もしかしたら何かの役にはたつかもしれない、あなたが死にたくなったとき、ぼくが代わりに死んでもいいし、あなたの代わりにたくさん掃除をしてもいい、見捨てないで、見捨てないで、捨てるならいっそ、ちいさくちいさく刻んでほしい、見えないくらいにちいさくなって、あなたの穴から吸いこまれたい、あなたの周りに浮遊したい。したいようにしてほしい、モノみたいにしてほしい。でもいちばんは、あなたの一部になっていたい、爪に、髪に、分泌液に、汚物だけはでもやめてほしい、あれはいらないものの象徴だから。残らずぜんぶたいらげる、役にたつでしょ、捨てないで。
※日々は百体のかかしであり、雪乞う星もまた待ち人なり。
551:【終極エンゲージ(1)】
原作:江藤俊司さん、著者:三輪ヨシユキさんの漫画「終極エンゲージ1巻」が嫉妬するほどおもしろい。これはあれやろー、おまえが得意としとるやつやろー、なにさきこされとんねーん、みたいな、内なる野次がとめどない。名実ともにオレつえー主人公が全宇宙から妃をつのるが、その条件は、宇宙最強であること。あろうことか主人公、じぶんのクローンを妃とする案を実行しようと画策するも、産まれたクローンは主人公への好意がゼロだった。あまつさえ全宇宙のために主人公を殺すとまで明言する。しかし主人公を殺すためにはまず結婚せねばならない。主人公はそんなクローンを結婚までに惚れさせてみせると豪語する。ほかの妃候補たちとの戦闘を交えながら、クローンは主人公を殺せるのか、それとも結婚するまでに惚れてしまうのか。無理やり現代ドラマに譬えれば、超絶凄腕ナンパ氏VS女スパイ、さきに相手の人生を奪うのはどちらだ!? みたいなの。おもしろくないわけがない。おすすめです!
552:【スーツ5・5】
海外ドラマ「スーツ」のシーズン5の5(9~10話)を観た。相変わらずの展開の怒涛がすさまじく、しかしさすがにマンネリ化してきたなーというところで、かつてないほどの窮地と救済と決断の嵐。ドラマがはじまった当初は金、金、金、世のなか金と地位がすべてなんだよ、といった傲慢さをかっこよく描いていたドラマから、なぜここまで真逆の展開に持ってこられるのか、と度肝を抜かれる、友情、愛情、家族秘話になっている。いままでさんざん他人を蹴落とし、利用し、だまし、はめてきた彼らがいまさら何言ってんだ感はたしかに拭えない。でもそこは彼らの中核にはホントはもっとべつの何か、欠けたものをホントは金や地位以外で埋めたかった時期があったのだ、挫折があったのだと知っているからこそ成立するドラマがある。涙腺がゆるゆるしてきて、でもけっしてそれはバッドエンドではない、ようやくこれで大団円なのだなーと油断したところで、おまえなー! やってくれますよ脚本陣。さすがです。
553:【詳細】
プロットに詳細も杜撰もない。建築の設計図とは根本的に異なる。設計図はそれ自体でひとつの作品だ。しかしプロットは、それを元につくりあげてもできあがる品は、それをつくる者の数だけある。極論、つくる時期さえたがえば、たとい同じ人物であっても出力される作品はまるっきり違ってくる。プロットは詳細にする必要はない。もののけ姫を考えてみればいい。本編からプロットを抽出してみたところで、それが宮崎駿氏の用意していたプロットと合致する確率は極めて低い。絵コンテをプロットとは呼ばないのと同じだ。プロットは飽くまで指針のようなものであり、それに沿ってつくる必要はない。スノースポーツの大回転と似ている。フラッグを経由すれば、あとはどのような道をどのように辿ろうと構わない。プロットとは、ストーリーの流れが分岐する地点に、任意の点を打つ作業だ。そこを通ればそれらしくなるという保証のようなものであり、さいあくその点を無視してもいい。絵画は額縁のなかにすべての対象物を描き入れる必要はない。見切れてもいいし、はみ出してもいい。それくらい表現や創作という行為は自由であり、可能性に満ちている。とはいえ、ないよりはあったほうがいいのは言うまでもない。たとえそれが脳内であろうと、シミュレーションしてみたという事実はそれだけで物事をより理想にちかづける。
554:【徹底的に】
さいきん思うようになった。誰かに評価してもらう舞台に立ちつづけないといかんぞと。必要に、執拗に、徹底的に否定される。そういう経験が思えばすくない。認められないことは常だけれど、それは単に認めてもらおうとしていないからだ。認められなくたっていいや、というやつだ。わかるひとならわかってくれる、そういう傲慢さがずっとある。そしてたいてい分かってくれるひとが現れる。成長しつづけるためにその傲慢さは欠かせないもので、だから敢えてそういうふうにじぶんに言い聞かせてきた背景がある。ともすればそれが逃げになり兼ねないので、ときには負け戦にでかけることもあったが、それもまた一種の逃げだと気づいた。勝てる戦でも徹底的に負ける経験が必要だ。勝てる戦とは、闘いの舞台の質とは関係がない。戦わなければ負けることはできない。同時に、勝ちにいかねばその負けに価値は生じない。負けてもいい。そう思って得た負けにどんな価値があるだろう。勝ちたい、しかし勝てない。そういう舞台に立ちつづけなくてはいかんぞ。むろんそれは本質を進化させるための触媒であり、それを核としてもいかん。肝に銘じよう。
555:【しゃべんな】
ほぉらまたかっこつけてる。無様だってことなんで気づかないかねぇ。いくひし、あんたさぁ、そういうところがダメだってホントは気づいてんでしょ、なんで直せないの? そうやってじぶんのこと大きくみせようとして余計にかっこわるくなってんの分かんないほどバカじゃないんでしょ、かんべんしてよもう、見るほうの気持ちになって。ね? いいコだから。
556:【やーだよ】
かっこつけてもつけなくてもかっこわるいならかっこわるくてもいいからかっこつけたいじゃん! いいじゃん! もしかしたらだれかだまされていくひしのことかっこいいとかかわいいとかおもってくれるかもしれないじゃん! もしかしたらもしかしたらこのひとあたまいいかもっておもってくれるかもしれないじゃん! いいじゃんちっとくらい! みのがして!
557:【ねらい目】
これからさき、需要を拡大する事業の一つに連帯保証人代理事業があげられる。少子高齢化の社会では、少なくない数の高齢者が一人で暮らすようになる。持ち家を持っている者はいいが、そうでない高齢者たちは自力で住む家を確保しなくてはならない。彼らには連帯保証人になってくれる三頭親以内の親族がおらず、アパートを借りられない問題が急速に浮上してくると予測される。そうなると、ある種の保険に加入するような感覚で連帯保証人になってくれる会社の需要が拡大する。シェアハウスという名目でかぎりなくグレーな介護施設も増加してくるだろう。或いは、問題を抱えた者同士での養子縁組がまかりとおる社会になるかもわからない。若者はすくなくとも法律的に、責任を分散できる相手がいる傾向にある。それは親であり、ときにきょうだいであり、祖父母である。しかし高齢者には、いずれも亡くしてしまい、この世にただひとり残された者がすくなくない。これからはその数は増えていくだろう。孤独死が騒がれて久しいが、まずは一人で生きていけるか、衣食住を満足に確保できるか、それが問題になってくる。社会福祉はすでに崩壊していると捉え、早急な新しい制度の確立が行政に、あるいは民間に求められている。
558:【たとえとどかぬ糸だとしても】
tMnRさんの漫画「たとえとどかぬ糸だとしても」を読んだ。表紙&あらすじ買いしてよかったー。兄嫁に恋する思春期女子のおとなびた恋心はしずかに燃え尽き、パチパチと炭火がごとく淡い熱を発しつづける。結ばれるだけが愛ではなく、また別れるだけが失恋ではない。たしかな絆で結ばれていようと求めた愛はそこになく、常にそばにいるのに実ることのない想いはぷわぷわとしゃぼんだまのように浮き沈みを繰り返しながらいずこへと消える。途切れることなくしかしそれは無数にあらわれてはやはり消えつづける。途切れさせまいと息を吹きつづけるじぶんがおり、同時にそれは炭火を赤く発光させつづける。2巻、ちょうぜつ待ち遠しいです。買いです!
559:【直感】
ひらめきと直感は脳の働く箇所がちがうらしい。大別するならば、その根拠を求めたときに言語化して説明できるのがひらめき、できないものが直感だという。そして直感は身体を動かす脳の部位が働いて導かれる答えであり、経験値による反射だと呼べるかもわからない。そういう意味で、これはここ数年優先しつづけてきた直感であるのだが、このさきクリエイターとして生き残りたくば、安易にバズらないほうがよい。ここ数年でバズったコンテンツのうち、いま残っているものはどれだけあるだろう。バズるという現象は、その名の示す通り、イナゴの大群に襲われるようなものだ。イナゴの過ぎたあとには草一本残らない。いまクリエイターのすべきことは、目先の承認や知名度を得ることではなく、大量のイナゴに食い荒らされようと消費し尽くされない土壌を築いておくことだ。これからの二年は、「生き残りたくばバズるな!」が合言葉になっていく。熱しやすいものは冷めやすい。世の理である。
560:【コスト】
小説はさいあく紙とペンがあればつくれる。創作のなかでもコストのかからない部類だ。現代だとPCが一台あれば事足りる。しかし果たして本当にコストがかからないのであろうか。すくなくとも数ある創作のなかでは一つの作品に費やす時間は並大抵のものではない。作品のための取材から換算すれば長編を脱稿するのには最短でも二か月はかかる。執筆自体は、やろうとすれば一週間で可能だ。もっともそれをつむぐためにはやはりというべきか仕込みが欠かせない。小説は、時間という人生においてもっとも重要な対価を支払っている。年に長編を十作品つくるならば、毎日二十四時間のうちさいていでも十二時間は創作のために費やさないとむつかしいというのが実感だ。時間を奪われればお金を稼ぐ時間も相対的に減っていく。得られるはずだった実りを得られない。たいへんな損失だ。もっともほかの創作にしても同様の傾向はあり、漫画やアニメ、映画や彫刻に比べればはるかに費用はかからない。やはり小説はコストのかからない部類なのだろう。
※日々は死ぬまでつづく幻影であり、死を忘却しつづけるための劇物である。
561:【あーだこーだ】
いちどついた錆を落とすには、素材から削り落とすのがいちばんだ。洗うのではなく、磨く。一回りちいさくなってしまうかもしれない。消えてなくなってしまうかもしれない。しかし錆びついたままでいるよりかはマシだ。
562:【エゴサーチ】
2017/5/7にあった文学フリマ東京でいくひしは自作を無料配布した。ひと月経ったきょう、ツイッターでエゴサーチをしてみた。もののみごとに反響ひとつない。安心した。予測ではひょっとしたら一件くらい引っかかるのではないかと危惧(期待)していたが、杞憂で済んだ。狙いどおりの層の手に渡ったのだと判断する。まだ読まれていない可能性もあるが、それはそれで仕込んだ種が芽吹いていないだけだと解釈する。なぜ反響がないほうがいいのか。これはすこし語弊があり、ネット上に感想をつぶやかない(或いはつぶやけない)層の手に渡った。これが重要なのだということをヒントとしてここに述べておく。今のところいくひしの狙い通りにことは進んでいる。虚勢かどうかは一年以内に自明となるだろう。目に映る反響はそれはそれでたいせつだが、気軽に感想を述べられない状況や作品というのはそれはそれで価値がある。情報社会の現代において個人的には後者のほうをより重視している。じりじり進行しているものほど根は深く、脅威と驚異を秘めている。それは病や反響も同じである。(もし感想をつぶやかれている方がいらっしゃったならあなたさまは天使なのでそのまま人間界の確執などお気になさらずにお過ごしください)
563:【気にしないで】
つよがってるだけ。気にしないで。
564:【ちがうから! ちがうから!】
つよがりとかじゃないもん、ホントなんだもん、いくひしがなるっていったらなるの! そうなんだもん!
566:【ぶー】
願望と予測をごっちゃにするのよくないよ。こうなったらいいなぁ、と、こうだからこうなる、は違う。たとい根拠に映ったとしても、水面下で進行している「提示しようのないモノ」を憑拠にするのは、それがたとい傍証に挙げたくなるようなものであっても、俎上に載せてはいけないんだ。なぜいけないのか、と問う向きには、じぶんにとって損でしかない、と応じよう。
567:【またたく間に解く】
問題が生じていないうちからその問題の種を払しょくする。これは、無数にある問題の種のうちからもっとも看過できない「導火線つきの火種」を見つけるようなものである。導火線のさきにある爆弾の在り処を知っている者ならば造作もなく見つけられるだろう、事件で言うなればそれは犯人ということになる。しかし第三者がその火種を見つけるためには、同様にほかの無数の「問題の種」の行く先をすべて確認せねばならない。AIの自立思考の隘路となっているフレーム問題と似た構造がある。何が見逃せない種なのかを区別するためには、ほかの種をすべて把握しておかねばならないわけだが、それは現実的ではない。では爆弾に火が届くまえにどうやって火種を消せるのか。類例を用いるか、或いは、爆弾を見張り、火の気配を根気強く待ち受けるほかに有用な術はない。直感を用いた推測は、単なる願望である。いっそ勘で済ましたほうがかえってリアリティレベルの統合がとれる。
568:【アドラー心理学】
目的論と言えば、アドラー心理学でもっともポピュラーな単語の一つだ。トラウマを否定するアドラー心理学は、人が何か行動を起こすのは(或いは起こさないのは)、原因があるからではなく、何かを成し遂げたいからだとする目的に主眼を置いた。何かをしたいがために、過去のできごとを持ちだす、じぶんに言いわけをして、目的のための動機としている。アドラー心理学ではそのように説き、病める人々を光へと導く。しかしこれは飽くまで、じぶんがじぶんに言い聞かせるべき論法であり、いわゆる処方箋である。他人が無理強いしていい論法ではない。おまえはおまえがそうしたいからそうしているのだ、過去に原因などはない、おまえの気の持ちようだ、というのはあまりに乱暴だ。仮に目的論が正しいとしよう。だとしても、じぶんを騙すための過去がなければ、人はじぶんに言いわけをすることができない。たとえ仮初であったとしても、原因がなければ人が間違った道を歩むことはなくなるのだ。過去に囚われ、光を見失った者への処方箋としては有効な目的論ではあるが、物事の本質的な解決策を求める者には不足である。万能ではないし、真理でもない。そこを履き違えないように、用法容量をきちんと守って使っていこう。
569:【その調子】
がんばれがんばれ! きみは天才だもの、がんばれがんばれ!
570:【呪文】
ぼくはてんさい、ぼくはてんさい……ぶつぶつ。
※日々にんげんとしての核が欠けていく、内なる獣が駆け巡る。
571:【枯渇】
情熱の枯渇する音が聞こえる。出し尽くしてしまった。いよいよここからが本番、才能のない者にしか辿り着けない境地へといざゆかん。
572:【ほんとかぁ?】
これまでの新人賞ではおおむね、いまを切り取る作家が選ばれてきた。しかし現代において「いま」は「埋没」と同義である。流行を追った時点で手遅れだ。未来をつむげ。それはSFという意味ではない。「現代」は「埋没の軌跡」を描いてこそ「過去」として浮きあがる。それら「埋没の軌跡」の延長線上にのみ「未来」は枝分かれしている。いまを描くな。未来を描け。それは未来を切り拓くのとおなじだけの質量を帯びている。
573:【織子とナッツン】
原鮎美さんの漫画「織子とナッツン」がほしい。大型書店さんを二店回ったのに最新刊の3巻しか置いてない……。ぜったいおもしろいって分かってるのに手に入れられないもどかしさ。電子書籍に手を出す日もちかいなコレ。
574:【格闘】
いやー、きつい。さいきんさー、なんか昔馴染みのアイツがいくひしの中核の座を狙ってイチイチがおーって襲いかかってくるわけ。もういいかげんにしてほしい。ちみが偉いのはわかったから、つよいのはわかったから、はいはいかっこいいしかわいいよ、だからもうじぶんを大きくみせるのやめて。見ててつらい、我が身として。むかしみたいにクラーイ自意識の底に沈めてやってもいいのだけれどもそれだとまた亡霊みたいにいつの間にかよみがえってきちゃうかもしれないから、ここはいっそ飼いならしてしまったほうがいいような気がする。たしかにね、物理世界じゃ、アイツに任せておいたほうがいろいろと成果がでる、これは事実だよ。でもね、それじゃあダメなんだ。他人を威圧して、蹴落として、誰よりじぶんがいちばん、みたいなふうに振る舞ったらそりゃあそれなりの成果はでますよ、他人さまを虐げて傷つけた分だけじぶんが浮きあがりますからね。でもそれは相対的な成果であって本質ではない。いくひしはいくひしが成長しなきゃならんのですよ、進化せにゃならんのですよ、それと他人さまは別次元の話なのですよ、そこんところをアイツに分かってもらうのはムリなのかねぇ、いやー、ほんと、きついですわー。
575:【――といいなぁという願望】
文芸が一般的な娯楽として百年後に残っているのかは疑問の余地があるが、まだ残っているとして、百年後にも読まれているだろう現代作家の小説はなんだろうと考えたときに、ぱっと思い浮かぶものが「SAO」以外にない。「SAO」とは「ソードアート・オンライン」という川原礫さんの小説なのだが、いくひしは読んだことはない。ただ、概要だけでも百年後に通用する要素を含んでいると感じる。文芸は長らく、何を描くかではなくどう描くかの技術が重宝されてきた。しかし何を描くかのほうが重要なのは、映像技術の発展した現代ではことさら強調するまでもないだろう。どう描くか、はどう考えても映像分野には適わない。小説にできて映画にできないことはないと言っていい。極論、文章だけの映像だって撮れる時代だ。どう描くか、は、何を描くかを厳選してはじめて意味をなす。もっと言えば、どう描くは、誰が描くか、と同じ意味を持つ。誰につくらせるか、よりも、何をつくらせるのか、のほうが重要だ。誰に、は、何を、のあとに従属する。何を誰につくらせるのか。いま編集者やプロデューサーはこぞってそこを吟味している。何をつくり、誰にそれをやらせるのか。しかしこの考え方は飽くまで、さきを見通せる人間がやってはじめて効用を発揮する。価値ある「何を」を見いだせる人間はすくない。そして「誰を」を見極められる人間はそれ以上にすくない。問題なのは、往々にしてそれらを兼ね備えている者が、自身もまた創作者であるという皮肉である。これからさきの時代では、編集者自身もまた腕利きの表現者でなくてはならない。「何を」を見極めながら、「誰を」を考えたときに、それはじぶんではないと判る者、そうした者が、本業の片手間に上質な作品をプロデュースする。そうした時代がすぐそこに迫っている。YOUTUBERにその傾向は顕著に表れている。またフリーのライター業界もそうだ。いつだって新しいものが新しい時代を切り拓いていく。殻が破られる日は目前に迫っている。
576:【2017/6/14】
新作更新しました。「万妖衆~女編~」です。単品でお楽しみいただけます。六万字弱の中編です。神があーだこーだ悩みながら生きて滅ぶまでの話です。三万字の短編も今週中に更新します。どしどし新作つくっていきます。100年後には1億人に読まれているように計画してます。概算ですが、3年で読者が2倍ずつ増えるとして81年後には134217728人に読まれることになります。しかし現状、読者がゼロ人なので、このままだとたとえ1万年経ってもゼロのままです。ゆゆしき事態です。よかよか。気楽にいきましょう。おー。
577:【悪化?】
インターネットの社会浸透の影響で様々な問題が急浮上しているように観測される。が、それは元々社会の暗部に根付いていたものが可視化されるようになったことが大きな一因であるように思う。問題は初めから社会に内包されていた。それが誰であっても認知可能な状態にあるこの状況はそう悲観するようなものではないように思う。もちろん問題はある。犯罪行為の存在そのものを知ることでそれを実践してやろうという層はでてくるだろう、相対的に犯罪率自体が上昇する懸念は否めない。また悪事が一般化し、悪事ではないとする見方をされるようになるかも分からない。しかしそれを考慮に入れても、犯罪行為が可視化されやすい、或いは共有認知されやすい状況というものは、これからの社会にとって正の方向に働いていくだろう。問題が何かが分からなければ、我々は対処を施す真似もできない。対処をすればするだけ悪事はつぎつぎと進化し、更新されていく。いたちごっこに映るかもしれない、しかし確実に社会は改善されつづけている。ただしこの前提には、インターネットの情報が、統制や操作をされていないことが条件にある。権力が情報を操れば、上述の利点はすべて大衆のマインドコントロールを、我々が考えるよりはるかに容易にする危険をはらむようになる。他方で、我々がマインドコントロールされてはならない理由もじつのところそれほど思い浮かばない。
578:【ネット内バブル】
ネット内でのバブルの崩壊は思ったよりも緩やかに進行するのかもしれない。ある閾値を越えたときに一気に霧消へと向かう。じっさいに加速するのではなく、そういうふうに観測される、という意味だ。砂時計みたいな、と言えば端的だ。たとえばの話、三年前のリツイート数十万件超えの案件と、たった今話題になっているリツイート数数万件の案件、どちらが価値があるかと問えばそれは比べるまでもなく後者の、たった今話題を集めているほうだ。話題になっていることと、話題になっていたという履歴は、現在の価値が異なる。しかし数値で見れば、過去のリツイート数十万件超えのほうが価値が高く映る。本来、とっくに価値が消失しているにも拘わらず、見かけ上の数値はそのままなため、それを得た者やその周辺の者からすると、価値の暴落が実感しにくい。じっさいには、本質に気づいた者から順にそこから離れている。周囲から人が失せ、誰からも見向きもされなくなったと物理的に気づいたときにようやく、価値が失われていることに気づく。皮だけ残されているのだと気づいたとき、中身はとっくの昔に失われている。どこか虫歯のような構図が、現在、ネット社会で蔓延しはじめている。ネット内でのバブルは、弾けることなく、凍ったシャボン玉のように、あるとき突然欠けはじめる。しかし元からそこに中身はない。或いはあべこべに、ソシャゲのように、全体の数パーセントの重課金者によって回路を維持する機構は、その他の多くの駒を重視したりはしない。それらは飽くまでゲームの装飾の一部であり、課金意欲を煽るための餌である。主軸は種であり、その他の果肉や皮は、種を得るための養分である。ゆえに、いくらユーザーの数が多くても、課金総額が低ければ意味がなく、ユーザー数が多ければ安泰かというとそういうわけでもない。いずれにせよ、見た目の数値にまどわされないことが肝要だ。
579:【で、ホントはどう思ってんの?】
バブルが膨れるだけ大したもんですよ、っていうかふつうにうらやましいんですけど! いくひしだっていいねほしいー! いっぱい拡散されたーい、銀さん角さんみたいにヒカエオローってフォロワー数で威圧したーい! でもされないからひがんでんの! いわせないで!
580:【いいか】
幼児退行すりゃいいってもんじゃない。おまえはおまえ自身を解っていない。本音では――他人なんてどうでもいい、同じ生き物となんて思っていない。おまえはじぶんが醜い生き物の皮を被った概念生物だとそう感じているのだろ、偶然、その肉体に宿ってしまったが、器は仮宿であり、本体ではないと。じぶんの足のゆびを眺めては、なぜこんなにも気持ちわるいのかとめまいを覚え、体内の内蔵の構造を想像しては、なぜこんなにも脆弱なブヨブヨに寄生してしまったのかと現実から目を逸らしたくなる。あたかもクラゲに寄生したクジラのように、おまえは肉体と精神との乖離に頭を悩ませている。他人のことなんてどうでもいい、おまえは他人を同族だなんて一度も思ったことがない。そうだろ?
※日々のなかで無駄に何かを主張せず、慎ましく、おだやかに生きていたい。
581:【あす死んでもいいように】
生きるために死んでいくよりも死ぬために生きるほうが健全なときもある。
582:【あー】
こころが荒んでいる。周囲を見渡すと焦げた臭いの暗幕で、足元には蕾をつけた植物が踏みつぶされている。一本ではない。何本も何本も、ときには束になってつぶれている。押し花にでもなればいいのに花は咲かず、その一歩手前でハンコじみた足跡と打ち解けている。ぼくは裸足で、かかしみたいに地雷原の真ん中で立ち尽くしている。いちど踏みつけたそれらを踏み直し進もうと思えないのは、それらの根がまだ死んではおらず、すこしずつ伸びた葉や茎がぼくに復讐をしようとささくれ立っているからだ。身動きのとれなくなった焦げた臭いの暗幕のなか、ささくれは徐々に線となり面となり、やがては層となってぼくの身体をじぐざぐと刻み、ときに穴を開けていく。こころが荒んでいる。滅んではいない。豊かになるにつれ、ぼくはじぐざぐと欠けていく。
583:【虚構推理&不滅のあなたへ】
原作:城平京さん、作者:片瀬茶柴さんの漫画「虚構推理1~6巻」を読んだ。身がとろけるほどにおもしろい。すごい。上質な原作を天才料理人が調理するとそれは極上の珍味になる。どこにもない、ここだけの贅沢なしろものができあがる。すごい、すごい。モザイク物語と名付けたい。ステンドグラスみたいに色の異なる各種要素がひとつの物語を描きだすのだが、それは飽くまで光が透過することで浮きあがる色彩の連なりであり、けっして枠組みそのものが本質ではない。何より、要素要素の成分率が極めて高度に配分されている。調合をまちがえればどんな薬も毒になる。毒と薬の境目が明確に意識された構成は真似しようとも真似できないセンスに満ちている。エッセンスがきいている。すごい。おもしろい。興奮冷めやらぬままに五分ほど仮眠してからリセットし、大今良時さんの漫画「不滅のあなたへ」三巻を読んだ。あー、あー、こっちもすごい。いくひしがぜったいつくれない物語というか、展開というか、いくひしがまず以って削ってしまう筆頭にあがる要素をここまで旨味豊かに描けるなんて目からうろこが落ちすぎる。物語の圧縮率も目を瞠るばかりで、駆け足なのにぜんぜん駆け足じゃない。展開の速度が光速にちかづけばちかづくほど物語内の濃度は高くなっていく、みたいな物語の相対性理論じみた技術がいくひしの脳内分泌系を過剰に活性化させている。あー、あー、すーごーいーーー。自信失くし期間の延長が確約されましたね、どすこい。
584:【焦っている】
たぶん今、内心すごく焦っているのだと思う。だからちょっとしたことで心が乱れる。焦る必要はない。いくひし、おまえがいくら急ぎ、せかせかしたところで、おまえがなそうとしていることはどうあがいてもあと三十年はかかる。まずは着実に一歩一歩、目のまえのことから片づけていこう。さきは長く、そして死ぬまではあっという間だ。焦るヒマがあるならば進もう。疲れたら歩けばいい、休んでもいい。走りつづける必要はない。そうは言ってもきっとおまえのことだから日々走りつづけるのだろう、止めはしないよ。
585:【ぼんやり】
うっすらとぼんやりと向こう側の世界を感じられる人間が物語をつむぎつづけていくのだろう。じぶんのなかに拡がる暗がりの奥の奥、底の底を突きぬけた先にそれは広がっている。潜ればもぐるほどそれはふしぎと遠ざかり、暗がりに明かりの余韻ばかりを残すようになる。いつか辿り着ければいいなぁ。
586:【アリスと蔵六】
今井哲也さん著の漫画「アリスと蔵六1~7巻」を読んだ。思わず胸に抱き寄せてしまいたくなるほどにいくひしの荒んだこころを浄化してくれる清らかさに溢れている。しかしそれが清らかなのは、本のそとの世界のすべてがすべて清らかではないからで、上手くいえないけれども、人間、否、世界はまだまだ捨てたもんじゃない、もっともっとよくなっていく可能性に満ちている、あーもう、醜さにあるうつくしさもよいけれど、ただただまっすぐに純粋なものも捨てがたい、いい物語です。ありがたい。
587:【もっと】
くだらないことに価値を見出していかなきゃだ。つくっていこう。
588:【階層】
ネット内では様々な情報がそれを必要としている者に受動されやすいようにと塊を形成しはじめている。それは地層や水と油のように明確な層となって段々に区切られている。それを必要としない層にはまったく浸透せず、コアな情報ほど層をいっそう強固なものとして形作っていく。ある種それは固い殻となり兼ねず、根強い情報のはずが、外部からしてみるとまったく無価値なものに映り兼ねない。本来、情報はコアで生なものほど質が高いはずなのに、加工され、希薄になったものでなければ、異なる層へと浸透しにくいという性質を帯びている。これからの時代、情報は、いかにほかの層にも同時に浸透できるかが重要であり、そのためにはいくつかの層へと浸透しやすい要素を端から基盤として備えていなければならなくなる。すなわち多重であり、異種の混合である。AIが様々な層の情報を適度に取捨選択して「私だけの世界」を過不足なく提供してくれるようになるまで、情報はこれからさき「多重」と「異種混合」が不可欠になっていく。予言ではない。現状から分析可能なこれらは不可避の予測である。(そうでなければならないという意味ではない)
589:【私】
私は私を知っているが、私を知っている私についてはあまりよく知らない。いったいどこにいるのかと辺りを見渡してみてもとんと姿は杳としてさっぱりであり、私を知っているなどとなぜそんなことが言えるのかと私は私を知っている私に物申したい。私は私を知っている私を知らないが、私は私を知っている私を知らない私のことは知っている。ではその私はどこにいるのかと問う声には、あなたが探そうとしなければ私はあなたであり、あなたが私であると応じよう。私はあなたを知っている。けれどあなたはあなたを知っている私についてはあまりよく知らない。
590:【再現性】
その日、そのときにしか生まれようのないものをつくりつづけていくのが芸術だ。再現性のないものを違う形で体現していく。常に変化しつづける。反対に、同じものを同じように一定の技量で再現しつづける、これはプロとしては正しいが、芸術としては致命的だ。
※日々は永久に終わりつづける。
591:【よくない】
思考回路が気づいたら、困ったら死ねばいいやになってるのホントよくない。無意識レベルでそうなってる。まずは困らないように工夫していこう。
592:【予感】
これはあらかじめ感じている未来への肌触りなのだけれど、みながあたしの意味に気づいたとき、ぼくはもう私に興味がない。
593:【自我総額】
じぶんの価値を信じるというのはまず、じぶんに価値がないことを認めてからはじまる。私に意味はなく、価値もない。ゆえに築いていくほかないのである。そしてそれらは総じて、捨てることの容易なガラクタだということもまた自覚しておく必要がある。
594:【浸透】
インターネット内での反響が物理世界へとより伝導しやすい状況になったとき、虚構は虚構ではなくなる。虚構は内向的な性格の人間にとって拠り所となるが、虚構が虚構でなくなったとき、それは外交的な性格の人間にとってかっこうの餌場であり、脚光を浴びる舞台となる。インターネット内はこれからますます外交的な人間に侵食され、内向的な人間はより情報の海の底のほうに移住していくこととなる。植物プランクトンはしかし、食物連鎖を根底から支えている。重要なことは、情報の海において、プランクトンは即座にクジラへと進化可能な点にある。クジラもまた外交的とは言いにくい生き物である。同時にもっともプランクトンを消費するのがこのクジラである点は留意しておく必要がある。
595:【あるあるなの?】
さいきん百合モノの漫画を読んでいて、なかなか先に読み進められなくなった。たいていオムニバスで短編がみっちり詰まったバスケットみたいな単行本なのだけれども、ひとつの短編を読んだらそこでキャラたちのその後とかを考えちゃって、なかなかつぎの物語に行かれない。一粒で二十四時間保温ききます、みたいな。百合とかBLとかそういうの好きなひとあるあるだったりするんだろうか。もっとたくさんお腹いっぱいぺろりんちょしたいぜいたくな悩みだ。
596:【I-マン予想】
素数の確定法は編みだされていない。何らかの法則らしきものがありそうだ、という感覚は共有されているのに見つけられていないのが現状だ。しかし三次元上の立体としてとらえたときに、素数はある種の直線として像を結ぶのではないかという直感をずっと抱いている。1~任意の数を順番に並べて構成された立体があるとして、特定の特殊なカタチをとることですべての素数は直線上に整列するように感じる。物体を構成する分子に順番に数を振っていけばそれらしい。現れる直線はなんらかの対角線かもしれない。ではその立体のカタチとはどんなものか。素数が直線に並ぶようなカタチをとらせればおのずと判明するだろう。いまのハイスペックコンピューターでもシミュレーション可能な実験だと思うので誰かやってみてほしい。(或いは内包された整数の値によって、直線上に素数の並ぶ立体のカタチは、ある種の法則によってそのカタチを変えていくのかもしれない。素数の出現に法則はなくとも、それらが直線上に現れるような立体のカタチには法則があるのかもしれない)
597:【上の記事】
まぁたそれっぽいデタラメ並べてる。頭よさそうなフリして超絶あたまわるいからなそれ。
598:【読みたい】
漫画家柴田ヨクサルさんのつくる「コイン積みに人生をかけた男」のマンガを読んでみたい。つくってくれないかなぁ。つくってくれないならいくひしが代わりに柴田ヨクサルさんの空気でつくっちゃお。半年後くらいに。
599:【今年のいくひし流行語大賞は】
んなぁ~、に決定です(みゅ~、ムイムイ、も捨てがたい)。
600:【泥力】
努力とは成果の軌跡である。成果を生みだす過程のことではない。
※日々ってなんだっけ。
601:【継族】
日々の継続は必ずしもチカラにはならない、やり方次第であるが、継続するチカラは継続することでしか培われない、まずはつづけよう。
602:【新作情報2017:06/29】
新作中編「オタマジャクシのままでいたい」を更新しました。短編集「零こんま。https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054883503013」にてお読みいただけます。写真好きな女子中学生が殺人事件に巻き込まれて犯人と対峙するお話です。三万五千字です。同程度の長さの百合モノを7月中に更新します。つくりかけを片づけてはやく長編を手掛けたい。生きていこう。
603:【猶予余裕】
読まれない小説に意味はない。いま読まれる必要もない。
604:【誰もいない夜の街を思いだす】
I Wanna Be - Chris Brown
605:【すごいねー】
人間ってすごいなぁ。成長しなくともオトナにはなれるんだから。
606:【ぽわぽわ】
特別な人間ではないし、才能もないし、一般的な暮らしはしていないし、知能は平均以下だし、常識だって欠けているし、礼儀はなっていないし、トモダチはつくれないし、料理だってヘタだし、じゃあ何ができるのかと考えると、まあなんとか考えることだけはいちおうはできる気がするのだけれど、それは誰だってできることだし、恋人なんていたことないし、悪態ばかりでかわいげないし、ひょっとしたら何かをしでかす前に牢屋にでも放りこまれておいたほうがいい人間以下かもしれないけれど、でも、これだけは言わせてほしい、それでも私は無価値ではない。あ、ごめん。無価値かもしんない。でも、生きていてダメな理由はどこにもない気がする。たぶん。なんとなく。だといいなぁとは思うんだけれど、思うだけならいい気しない? だめ?
607:【言うほど】
いくひし、おまえはおまえが思うほどにダメでも特別でもない。いつの時代、どの地域にもいる、ふっつーの、冴えない、不特定多数の、風景を構成するドットの一つだ。極めてデキソコナイというほどでもなく、言うほど孤独でもない、生活に困っているわけでもないし、自由を侵害されているわけでもない。嘆きたいがためにそのように思いこもうとしているかもしれないが、いくひし、おまえは悲劇のヒロインを気取ることもできないくらいにふっつーの、どこにでもいる、ただの人間だ。
608:【出版の利】
出版社で本をだすことの利点てなんだろうと考えたときにまっさきに挙がるのが二つあって、一つは収入になること。もう一つが、よりたくさんの読者のもとに物語が届く可能性が高くなること。けれど現状、すでにこの二つの利点はほとんど願望と大差ないものになっている。収入にはなるが、担当編集者がつき本になるまでには、最短でも半年から一年はかかる。さいきんは出版技術が発展したこともあり、初版の発行部数は十年前と比べて何割も落ちている(言い換えると、生産コストを下げることができ、すくない部数でも利益を出せるようになった)。三千部刷れば全国の書店に本が行きわたると言われているくらいだから、新人はよっぽどのことがなければ一万部なんて刷ってもらえないだろう(根拠のない推測)。大手出版社の場合、定価の一割が印税なので、千円の単行本だったら一万部で百万円になる計算だ(じっさいに売れた本の数ではなく、刷った部数が印税として振り込まれる)。税金で削られるので、手元に残るのはもっとすくない。では刷った本のうちいったいどれくらいが読者の手に渡るのか。感覚として、売れたと世間で話題にならないかぎり、千もいかないのではないかと個人的にはにらんでいる。読者の手に渡らないならば、本にしても無意味だし、時間の無駄だ。半年~一年という時間があれば新作がいくつもつくれる。それを一冊の本をつくるために改稿やら推敲やらで時間をとられる。収入もバイトをしたほうがよほど安定して稼げるとなれば、いったい誰が出版社で本をだそうと考えるだろう。商業作家への夢はさほど輝かしいものではなくなった。出版社の権威は、すくなくとも文芸の分野ではここ二十年、段階的に落ちつづけている。マンガがあるから助かっているようなものだ。ラノベだってマンガ部署の手柄だろう。文芸はいったい何をしているのだろう、とこれは本当に純粋な疑問で思っている。才能ある著者ほど出版社から距離を置こうと考えるようになってしまうのではないか、否、すでになっているのではないかと危惧するものである。がんばってほしい。
609:【でもそうなんだよ】
極論に聞こえるかもしれないが、小説にうまいもヘタもない。小説になっていたらそれ以下でも以上でもない。あるのはただ、読者にとって物語が浸透しやすい形態か否かだ。馴染み深さと違和感の少なさ、そこに新規性が加われば文芸として評価される。評価しているのは読者のうちの極々一部の自称「通」のひとたちだ。たくさん読んでいればいいというものではない。もちろんたくさん読んでいたほうが比較ができるので、評価の精密さは増す傾向にあるが、それはたくさんの情報でディープラーニング(深層学習)したAIと意味合い的には変わらない。それより重要なのは、データ上に存在しない素材に触れたときに、きちんとそれを評価できるかだ。すでにある評価に照らし合わせるだけならそれこそAIのほうが得意な分野だ。自称「通」のひとたちのなかで、いったいどれだけのひとがAIには見えないものを見ているだろう。繰りかえしになるが、小説にうまいもヘタもない。枠組みをひろげよう。
610:【そうは言っても】
いくひし、おまえはヘタだからな?
※日々たす日々は日々であり、日々わる日々も日々であり、日々の二乗も日々であり、日々ひく日々も日々である、なのに日々をどれだけつらねても日々は世界になりはしない、日々とゼロはどこか似ている。
611:【背中】
背中が痛くて、腰も痛くて、なんだったらぜんぶ線でつないでヒザまで痛くって、揉んでも塗っても効果なくて、どうしたらいいんじゃろってなって、かたっぱしから身体の押せるところを押してったわけ、したらね、背中側じゃなくって身体のおへそ側、みぞおちの上のほうの肋骨との境、鳩尾(きゅうび)ってツボらしいのだけれど、そこを押したらめちゃんこイタ気持ちいいの。びりびりって、背中から腰からなんだったらヒザまで、雷でつながった。うーいたいよー、きもちいよー、って半日、ヒマさえあれば押してたんだけど、なんときょう、背中も腰もなんだったらヒザの痛みまでとれちゃってた。鳩尾すげーってなって、いったいどんなツボなんだろってネットで調べてみたら交感神経が集まってるところなんだって。精神不安とかストレスとかそういうのにきくんだって。はっは~ん。ピンときたね。久しく不安とかストレスとか見なかったけど、なるほど、きみたちそんなところに押しこめられちゃってたかぁ。得心、得心。おっぱい大きいひとは押しにくいかもしれないけれど、ここぞというときに押してみてはいかがでしょう。鳩尾、ストレスってなんだろうってひとにおすすめのツボです。
612:【うすく、うすく、せつなくして】
Flores - Afterglow
613:【THE減る】
クズじゃねぇ人間なんざいねぇ。人間は総じてクズだ。聖人君子なんざいやしねぇし神なんざ、たといいたとしてもクソの役にもたちゃしねぇ、そういう理屈とこれは同じだ。誰もが誰かの足を引っ張り、迷惑や面倒をかけつづけ、責任をなすりつけ、負担を強いつづけていやがんだ、そういうバカさ加減が社会を土台から支えてる。みながそうならそれを基準としてしまおうとする暗黙の了解によってやつらはじぶんがクズだという現実から目を背け、うわべだけの自信を着飾ってる。クズがクズをクズ呼ばわりして悦に浸ってやがんのさ。クズの不幸をむさぼることでクズをクズ呼ばわりしやがるクズおぶクズは地位と名誉を築きあげる。誰よりクズであることがこの世じゃいっとう優先で尊ばれる。おれはクズだがてめぇもクズだ。あいつもクズだし、やつらもクズだ。誰がいっとうクズか競おうじゃねぇの。
614:【性善悪説】
生まれながらの善人も環境しだいじゃ奴隷を虐げ、愉悦をむさぼる魔になるし、生まれながらの悪人も環境しだいじゃ奴隷の境遇に涙をながし、住処に食事を無償で与え、自由を保てと声をあげる。性善説も、性悪説も、とどのつまりは環境しだい、異なるのは始点と視点で、注視すべきは分岐点、いかなる定めも世界しだい。世界の巨大な手のひらで、踊り狂うが、人の理、誰の断りなく湧く渦は、いい加減なサジ加減、その場の気まぐれ、端からマグレ、神は世界で、風任せ、そんな法には則らない。善と悪を世界が定め決めるのならば、私は私の世界をつくろう。きみがきみの世界をつくるのだ。私の世界は悪をつくろう。きみは世界で善をつくれ。私は善として生き、悪となろう。きみは悪として生き、善となれ。分岐点にてあいまみえよう。その場で交わり、点となり、善でも悪でも、何ものでもない、私たちの世界をつくるのだ――そういう言葉に惑わされてはいけないよ。世界は区切るものではなく、すべからく広げていくべきものだから。
615:【成長速度】
年齢が同じなのに明らかに肉体的老化に差があるのは、時間結晶と何か関係があるのかもしれない。健康とは、肉体の時間結晶が保たれている状態である、とか。
616:【サビ】
さいきん本を一冊通しで読めなくなっていて、二時間集中力を維持するのができないと言い換えてもよいくらいで、なんだったら文章だってつむげなくなっていて、だめだなぁ、だめだなぁ、ってどんよりした日々がつづいていたのだけれども、久しぶりにいっき読みしました、森博嗣さんの「青白く輝く月を見たか?」――文筆家のやりがちな、「~だが、~」の構文がめったにでてこず(ダメではないが、多用しがち、←このように)、段落のはじめはだいたい短文ですぐに丸がくるし、読みやすいとは何か、というものを如実に示した小説だと思います。中身はしかし、読みやすさに反比例するかのように曖昧にモコモコしており、それは今ここにはないものを描きだすSFの宿命でもあり、それとは関係なく具体的なものでは描けない何かを描こうとしているからでもあり、端的にぼく好みだなぁ、というなつかしい感覚が湧きあがった。そうだ、わたし、こういうの好きだったんだ、と思いだせた、そうだ、おれって小説好きだったんだよな、と知れた、夏らしい淋しさがあったんです。あたし、腕がサビついちゃっててさ。でも、メロディのいっちゃんだいじなところだってサビって言うし、腕によりをかけてサビをつむぐのもありかなって、「青白く輝く月」を見て、あれだけ憎たらしかった「衰え」に愛着をそそげるようになったのかも。「老い」と「成長」は同じようなもの、みたいな文章がたしか本文にもあったはず。気負わずにマイペースに、マイスペースをより狭く深くしていこうかなって、思っちゃいました。楽しいっていいなぁ。
617:【誤解しないでほしい】
これはねぇ~病んでるフリ! フリだからっ! かといって病んでちゃいけない理由もわからん!
618:【とくべつ】
誰もがしっているぼくよりも、きみしかしらないぼくのほうがとくべつだってしっているから。孤独でいるよ。きみに見ていてほしいから。
619:【修行】
言葉を並べる行為を精神安定剤代わりにしないために有効な術は、文章をつむぐことを苦痛に思えるくらいに文章をつむぎつづけることである。精神安定剤を飲まずに済むように努力するよりも、精神安定剤を毒と見做すくらい依存してしまうほうが遥かにラクだという理屈であり、薬を摂取すればするほどに精神が不安定になってしまえば、それはどうあっても精神安定剤とは呼べなくなるのである。
620:【彼女のこと】
集団に馴染めない。しかし排他された経験はすくない。避けられたり、これは無視されているのかな、と思うことはあった。それはけっきょくのところそれらをする側が、そうした迂遠なカタチでしか拒絶の意を示せなかったからだと推測している。彼らはきっと彼女がこわかったのだ。解らないではない。集団というのは一つきりではない。いくつかのコミュニティがあり、それらを形成する構成員たちは、ほかのコミュニティに――それは泡沫のように重なったり、固まったり、或いは散らばったりしているのだが――各々またがっている。すべてのコミュニティに属している者はなく、誰かは誰かにとって裏の顔を持つことになる。コミュニティの性質上、属している「泡」の数が多いほど、その裏の顔は闇の面積を増していく傾向にある。そういう意味で、彼女は誰よりも裏の顔を持つ人間に映ったことだろう。すべての集団に属した覚えはなく、どの集団にも属した覚えもない。裏からいえば、どの集団にも属さないがゆえに、彼女はどの集団にも属していたと呼べる。黒から見れば彼女は白で、白から見れば黒だった。では灰色なのかというと、それもまたちがく、灰色の集団から見ると彼女は青や赤に映るらしかった。彼女はそれでも自身を孤独だと思ったことがない。彼女にとって、コミュニティなる枠組みはそれこそ風のようなものだった。たしかに存在するが、触れることはできず、またその場にとどまることもない。ふとした瞬間に意識されるが、つぎの瞬間にはまたべつのところに流れている。気圧の変化によって大気を構成する分子が低きへと流れる動きが風であり、コミュニティもまた同じだと彼女は感じている。分け隔てるものではなく、また包み守られるものでもない。カタチはなく、また柵もない。コミュニティ、集団とはそのようなものであると考える彼女はしかし、いつも風を感じる側だ。なぜだろう。きっと多くの者が彼女を異質に感じるのは、彼女がつねに流れに逆らう抵抗を帯びているからだ。風のなかにあって木々は風を受ける側だ。無風のなかにあって鳥は風を感じる側だ。宇宙にそもそも風はなく、太陽風は大陸移動をするムーの群れである。彼女は風を受け、感じ、佇むことができる。ときに流れに身を任せることもある。地球の自転に公転、さまざまな法則に身を委ねているように、彼女はすべてに反抗的ではない。しかし抵抗はする。意識することで。そこにそれがあるのだと想像してみせることで、彼女はそれを受動する側として、いつでも彼らを見張っている。流れは彼女をとりまく風である。彼女には視えている。絶えず変化をつづける枠組みの虚栄が。
※日々死にいく細胞を気にも留めない我らに、社会を責める道理はあるのだろうか。
621:【時限装置】
フロンガスが日本で放出されなくなってからそろそろ十五年が経つ(フロン回収破壊法が2002年に制定された)。オゾン層を破壊し、二酸化炭素の数千倍の温室効果のあるフロンガスは、比較的ゆっくりと上昇していく。オゾン層に到達するまでに十五年から二十年かかると言われている。すなわちげんざいオゾン層を破壊しているのは十五年~二十年前のフロンガスということになる。大気中に放出された全体の、それは十数%とされている。オゾン層は宇宙からの紫外線を濾すフィルターのような役割がある。フィルターに穴が開けば、そこから降りそそぐ大量の紫外線が生物に看過できない規模での影響を与えると予見される。もっとも、オゾン層が部分的に破壊されても、残ったオゾン層が紫外線を吸収してくれる。人間には直接の支障はないかもしれない。とはいえ海面のプランクトンには大打撃だ。これからの五年は異常気象というよりも、環境そのものの大規模な変容が懸念される。時限装置のタイマーがゼロになる日はちかい。(オゾン層破壊の性質を持ったフロンを特定フロンと呼び、その全廃は2020年と規定されている。オゾン層を破壊しないが温室効果のあるフロンを代替フロンと呼び、その全廃は2030年とされている。いまなお代替フロンは冷却剤として使用されている。ちなみに特定フロンの分子一個につき、十万個のオゾン分子を連鎖的に破壊する。特定フロンが紫外線と反応し、分解され、そこから飛び出た塩素原子がオゾンを破壊するという図式だ)
622:【アクセス】
あの領域にアクセスできる人間って僕が思うよりもずっとすくないのかもしれない。
623:【アクセル】
ウイルスをはじめとする生命の定義は大きく変わろうとしている。生物の外界認識についての研究が深まれば、さらに生命という言葉の意味そのものが揺らぐだろう。細菌やウイルスは外界の世界をどのように感じているだろうか。すくなくとも外部刺激を経て、何かしらの反応を示す。自己と非自己を区別している。しかしそれは原子がほかの属性を持った原子と化学反応を起こすのと変わらない。変わるとすればでは、何が違ってくるだろう。原子は外部刺激を折衷しないわけではない。任意の刺激には同様の反応を示す(※)。細菌やウイルス、ひいては人間と同じだ。それを外部認識していると見做さない根拠は何か。人間を基準にして考えるからややこしくなる。まずは生命を根本から定義づけなくてはならない時期にさしかかっている。時代の流れは加速している。(※、或いは、任意の刺激に対して多様な反応を示すものが生命と呼ぶべき複雑さを宿すのかもしれない。では素粒子はどうだろう?)
624:【~~界の伊坂幸太郎】
https://www.youtube.com/watch?v=d2ycwZZzLw4
1:50~https://www.youtube.com/watch?v=YbLGDx4HWXI
625:【こぞって】
あたしの周りのやつぁなんだってあたしに言及すると決まって、「もっといろいろやったほうがいいよ」「ほかのことも経験してみなよ」なんて言うのかねぇ。そんなに何もしていないように映るかねぇ。すくなくともあたしより自分らのほうがたくさんいろんなことを経験してたくさん考えていると思っているのだろうなぁ。真実そうかもしれんので否定はしないよ。
626:【違和感】
「周りのやつ」がどうこうと、いくひし、きみはぼやいているみたいだけれど、落ち着いて。いいかい? きみの周りにいったい誰がいるというのかな。ぼくの知るかぎりにおいて、きみに交友関係のある人物はいないよ?
627:【んなぁー】
先月、すなわち2017年6月につくしあきひとさんの漫画「メイドインアビス1~5巻」をまとめ買いしました。大判コミックなので一冊千円くらいして(そんなにはしない)五千円が財布のなかから旅立ちました。代わりにすばらしい「んなぁー」が手に入ったので、お得な買い物だったと自負するものです。すばらしい「んなぁー」が詰まっています。アニメ化したようなので、どんなかわいい「んなぁー」が聴けるか今から楽しみです。んなぁー。
628:【編集者】
文芸の編集者でいちども長編小説を書いたことのない人ってどれくらいいるんだろ。個人的にはいないとは思う。もしいたら、一回くらい長編をつくってみるといいと思う。というか社内でそういう研修をしたらよい(時間をとったらよい)と思う。小説と漫画くらいではないだろうか、プレイをしたことのない人物がセコンドにつくのは。(上手にできる人間以外は作品に口をだすべきではない、という話ではない。すくなくとも「実際にやってみた経験がある」のと「ない」のとでは、紡がれる言葉がちがってくるのではないか、という話だ。まずは素人になってみたらよいのでは?)
629:【同時性はない】
何かを言うとするでしょ? 今この時点では反感を買うかもしれない言葉でも、未来からするとそのときに誰かが言っておかなきゃならないことってあると思う。だから反感を買うことを承知で、いろいろ言葉を遺しておくね。何かを言うことで失うもののある人の代わりに(言い換えると、いくひしに失うものはない)。
630:【耐性】
選挙の争点やSNSなんかもそうだけど、いっかい常識と非常識の一線を越えてわーってなったあとに、臨界点が強化されて、もうその程度のことではわーってならなくなるの、生物の集合もまた生物なのだなぁ、と感じ入る。
※日々きみのことを思い、言葉をつらね、ならべ、かさねているのに、きみはいっこうに気づかない。
631:【魂を掬うのは誰?】
肉体に巣食うヨドミが浄化されることを死と呼ぶ。ヨドミは別名「生」という。浄化される過程でヨドミは「刻み」として世界に霧散する。「刻み」はこんこんと積もりいく。降りしきる雨が地表の命を豊かにするように。死は救いではない。生まれくるものにとっての恵みではあっても。
632:【青空文庫?】
百年後にもネットに残っているだろう小説投稿サイトってないものかね。小説投稿にかぎらずとも、テキストデータをネット上に、誰でも読めるカタチで残せる方法ってないものか。知恵が足りん。(百年後にはもちろん、インターネットは今とはちがったカタチで情報ネットワークを構築しているだろうけれども)
633:【強度料理】
時間の風化に耐え得る強度を作品に籠めると、硬くて食べれたものではないものができあがる。腐らせ、錆びらせ、時間という酵母を足すことで、作品は絶妙なやわらかさ、そして風味をその身に宿すようになる。じっくりコトコト煮てこそシチューはコクを増す。
634:【面影のなくなったあなたのなかで、変わらぬあなたの瞳が際立つの】
The Chainsmokers - Closer ft. Halsey (T-Mass Remix)
635:【善良な悪意】
「死んだほうがいい人間だよわたし。もちろんだよ、生きてていいわけない、すぐに死ぬべき。もちろんだからわたし以下もみんな死ぬべき。ねぇ、なんであなたは生きてるの?」
636:【邪悪な善意】
「なんで生きてるのか? おめぇ以上だからに決まってんだろ。なぁおい、誰がかってに死んでいいなんつったよ。おれが死ねっつたら死ね。それまで地べた這いずりまわってでも生きろ、生意気なんだよおれ以下のくせに」
637:【平凡な平凡】
「いやいや上とか下とかそういうのないから。え、死ぬべき? なにが? なんで生きてるのって、えー、めんどくさ。死にたきゃ止めないけど、あ、いや、いちおう死ぬなんて言うなよーっつって止めとくけど、まあ、がんばって。いつか死ぬんだから急がなくてよくね、とは思うけどさ、ま、がんばって」
638:【あほか】
人格者が表現活動なんて無駄なことに時間をかけるわけがないだろ。いいか、どんなに優れた作品も、優れているからには、それをつくった者はクズだ。クズにしかいい作品はつくれない、そんな話をしているんじゃない。いい作品をつくるくらいに人生を無駄なことに費やせる精神構造は、クズでなければ維持できない、そういう話だ。だからこそ伝統芸能の多くは礼節を重んじるんだ。強制しないことにはまっさきに捨てていく筆頭が他者をうやまい重んじることだからな。
639:【いまさらながら】
どーもー。ご紹介にあずかりました、クズです☆
640:【さいきんの我が身をコロコロ振りかえる】
わたし、あなたたちきらい。だれかを傷つけたくてたまらないのに、傷つけたいそのきもちを見抜かれたくなくて、なんとか正論に結びつけて、本当のことなんだからしかたないでしょ、みたいに空高くから、傷つくひとたちの姿なんて見えないところからミサイルばーんってする。ひきょうだとおもう。わたし、あなたたちがきらい。そんなあなたたちをきらう、わたしのことはもっときらい。
※日々しあわせを噛みしめている、しあわせを噛み、くだき、すりつぶしている。
641:【しあわせとは】
たくさん汗をかいたあとに食べるアイスのことである。
642:【発掘】
発掘されるためには埋没しなければならない――。市場原理としての神の見えざる手は、小説投稿サイトのランキングとして機能し、現状、出版業界に大きなうねりを与えている。あと数年はこの流れが勢いを増し、主流となっていくだろう。いっぽうで、小説投稿サイトの乱立と差別化により、ランキングの信用度は下落の一途を辿ることが予測できる。たとい、上質な小説だとしても、そのサイトの傾向に合わないものは淘汰されていく。ランキングという網の目をすり抜け、情報の吹き溜まりの底の底へと落ちていく。これは現状、どの小説投稿サイトでも観測できる基本的な性質だ。と共に、ネット上にかぎる傾向ではない。だからこそ出版社の主催する新人賞ではいまのところ、カテゴリーエラーという名の「手抜き」を失くしていくことでしか、対抗する術を持てないと言える。たといその新人賞で扱えない作品だったとしても、小説として、物語として上質であったならば拾っておいたほうがよい。ほかの部署に紹介してもいい。そうでなければネットの投稿サイトに勝てる見込みはない。あと数年はネット上の小説投稿サイトの「神の見えざる手」は成熟の一途を辿るだろう。反面、ランキングとしての信用度は確実に落ちていくことが予測される。なぜか。読者の目が玄人化していくためである。「神の見えざる手」は飽くまで、素人としての読者が作品を選評してこそ機能する。言い換えれば、サイトが固有のランキング形態を成熟させていくにつれ、読者もまたそのサイトに精通した玄人として成長していく。これまでにも幾度か指摘してきたことであるが、ネット社会の特徴として文化形成がはやい点が挙げられる。かつて十年はかかったジャンルとしての文化形成が、半年あれば完了可能なほど時代の流れが加速している。いちど形成された文化は比較的短期間ののちに形骸化する。流行とのちがいはそこにある。抜け殻がいつまでもネット上に残るのである。一見すると廃れていないが、中身はからっぽであることがすくなくない。文化は誰かが守ろうとしなければ、遠からず崩れいくものである。重要なのは、守ろうとするのは決まって玄人「通」たちである点だ。小説投稿サイトにかぎったこれらは傾向ではない。ゆえに予測できる。サイトのランキングは、飽くまで外界に開けていなければならない。素人による選出だからこそ機能する「神の見えざる手」は、サイトの文化形成と反比例して、その信頼性を失っていく。一定期間は、形骸化した権威で、その購買力を維持するだろう。しかし文化形成の速度がはやいのと同じく、形骸化した文化が瓦解していくのもまたはやい。定期的にランキングが撹拌されるような仕組みがないかぎり、この法則は現実のものとして段階的につづくだろう。繰りかえすが、これはネットの小説投稿サイトにかぎった傾向ではない。出版業界もまた、いちど売れ、名前の通った作者にばかり頼るようでは、小説投稿サイトと同じ道を辿ることになる。素人にできず、玄人にできることは何か。まずはその点をよくよく吟味してみるとよいのではないか。――発掘するための地層はすでに厚みを湛えはじめている。
643:【底】
昇れば昇るほど底が見えなくなる。しかし真に底知れない領域には潜ってみないことには辿り着けない。底がないことは、底に潜ろうとしなければ判らないのだ。どんな分野でもこれは共通しているように感じる。いったん落ちてみないことには底の深さを実感できない。或いは、底を突きぬけてしまえばそれはもう、昇っていることと大差なくなる。昇ること、潜ること、いずれも意識の片隅に置いておこう。
644:【影】
さいきん影を見る。ふとした瞬間に視界の端に映るのだ。目を転じると視線のさきには何もない。気のせいかと思い作業に戻ると、また視界の端を何かが横切る。人影のようにもただ虫が飛んでいるようにも感じる。前髪が伸びてきており、その影響かもしれない。しばらく気にしていなかったのだが、作業に集中しはじめると途端にそれは現れる。否、集中しはじめたがために、視界にほんのすこし毛先が入るだけでつよく違和感を抱くのかもしれない。さもありなんだ。百均にてヘア止めを買った。作業をするときはそれをつけ過ごすことにした。影は相も変わらず出没しては、私の集中力を無駄に奪っていく。念のため髪の毛を切った。美容院に行く時間も惜しく、じぶんで切った。パッツンと斜めに切りそろえてしまったが、元々の髪型がシャレていたわけではない。職場でも誰も私の髪型の変化を口頭で指摘する者はいなかった。影はことあるごとに現れては、視線を向けるといずこへと消えた。ハッキリその正体を目撃したことはなく、だからこそ徐々に苛立ちが募った。髪を切るだけでは足りなかったかもしれない。思い、私はまつ毛を抜いた。眉毛が抜け落ちるせいかもしれないと案じ、眉毛も剃った。専用のペンシルで眉毛を描くと、きみもようやく化粧をするようになったかと職場の上司に褒められた。余計なお世話だと翌日から眉毛のない状態で出勤した。誰も目を合わせなくなった。影は相変わらずの頻度で出現しては、やはり正体をはっきりせぬままに視界から消え去ることを繰りかえした。いよいよとなって私は瞬きをやめた。つねに目を見開いていれば影を見逃すこともなく、或いは瞬きそのものが影の正体かもしれなかった。影は嘲笑うかのように、現れてはやはり消えた。瞬きをしないようにするのにも集中力は必要であり、端的に瞬きはしてしまう。すくなくとも人は寝るものであり、寝るからには目覚めたときにまぶたを畳み、目を晒す。髪を切り、まつ毛を抜き、眉毛まで剃った私に失うものはなかった。私はまぶたを切り落とした。血が流れ、視界が塞がれる。予期せぬ事態だったが、これで影もなす術はないだろう。奇怪な鳥じみた声で笑うと、水中で目を開けた具合に、うっすらと赤いカーテンの奥に、あの影を見た。ぼんやりと消えることなく、目のまえに佇んでいる。歯を食いしばる。手に持ったままのハサミで私はじぶんの目をえぐった。スプーンで白玉を掬うように、片眼をほじくりだし、残ったほうを刃先で貫く。視界は完全に奪われたはずなのに、なぜか明滅するチカチカを見た。それらは消えることなく私を占領し、間もなく見覚えのない部屋に立っている。目のまえには携帯型メディア端末を手に、これを読むあなたがおり、そんなあなたを私はじっと見つめている。
645:【肉】
人工筋肉が開発され、市場に出回るようになってから十年が経つ。いまでは医療現場からドナーはなくなり、誰もが臓器移植に困ることはなくなった。食用としての肉も安価で質の高いものが手に入るようになり、社会はかつてないほど貧困とは無縁の世界にちかづいた。しかし、問題がないわけではない。他人の細胞を培養した移植用の肉を非正規な流通ルートで入手し、それを食肉とする娯楽が流行りだした。社会は豊かになったが貧富の差がなくなったわけではなく、ましてや平和にちかづいたわけでもない。社会のごく一部ではあるが、金銭に余裕のある者たちが、たとえばそれはアイドルの細胞などから増殖した肢体を捌き、焼き、舌の上でころがしてよくよく味わった。他人の肉を食す前段階として、じぶんの肉を口にする遊びは、比較的よく観測された。多くの者は知っている。人間の肉のことのほか美味な甘さを。そこに性欲や支配欲などからくる暴力的な愉悦が加わり、人々は他人の肉への憧憬をつよめた。愛するひとの肉を食べたい。そしてそれは金を積めば比較的かんたんに実現できた。社会は豊かになったが貧富の差は依然として残り、そして平和になったわけではない。社会内部での食肉への嘱望は相対的に増幅しつづけていた。反面、それを実現しようとしてもできない貧しい者たちは相も変わらずに存在した。社会に漂う風潮は、そんな彼らを、間接的に、暗に、愛を手にする資格のない者として冷たい空気にさらしつづけた。臨界点を突破するのにそう時間はかからなかった。金のある者たちが、偽物の肉を愛とうそぶき食すのならば、我々は本物をこそこの口にてほおばってみせよう。愛を誓うことはいっぽうてきにできる。愛する者の肉をいっぽうてきに貪れるように。人工筋肉が市場に溢れ、人類史上もっとも技術の発展したその時代にあって、社会には人肉嗜食の文化がふかく根を張りだしている。愛する者の肉を食べよう。命をその身に巡らすように。
646:【こころ】
デカルト以降、唯物論は科学の発展と共にその信憑性を高めつづけてきた。人間にこころなどという観念的な存在はなく、否、まさしく観念そのものであり、人間が思い浮かべる想像上のしろものでしかない。二十一世紀も残りわずかという段になり、こころなる器官が人体に備わっていると考える者はすくなくなった。しかしいざ二十二世紀を迎えてみると、高度に発達した人工知能が人体に備わった新たな器官「こころ」を発見せしめた。人間のこころは全身の一万六千か所にのぼる部位の総体だった。それらは全身のいたるところに点在し、脳内のシナプスの連携のように独自の信号にて互いに情報をやりとりし、全体でひとつのこころを生みだしている。では、手足を失くした者はその分、こころが欠けているのかというと、正しくもあり、それは正しくもなかった。手足に散らばるこころの断片は、全体からすると少数であり、それが欠けたとしても残る一万数千のこころの部位が過不足なくこころを成立させた。人体のうちで、ではどの部位がもっとも密集してこころの断片を占めているのか。――腸である。人類が過去数千年にもわたって崇め、尊び、信仰してきたこころなるものの大部分は、大腸に住まう何兆何億という菌類によって生じていた。この発見そのものに問題はない。脳内への治療だけでは精神病への対処としては不十分だと判明したし、治療そのものが飛躍的に進歩した。しかし人間は排便をする。体外に排出された便には十億から百億を超える大腸菌が含まれている。排出された分の菌類はすぐさま体内で増殖するので問題はない。反面、それら菌類はまごうことなき、体内でその人間固有のこころをかたちづくっていた。いわばコピーである。人間は日々、じぶんのこころのコピーを糞便として垂れ流し、そしてトイレの水でジャーしつづけている。じぶんのもっとも根源を司るこころのコピーを、である。あなたは明日も、あなたというこころを排出し、トイレの水で流し、捨て去るだろう。そこには今こうしてこれを読むあなたのこころが焼きついているかもしれない。しかしそれを知ったところであなたにできることは何もなく、あなたは明日もきょうと同じく排便をしては、それを暗く、悪辣な穴の底へと流していくのである。奇しくも、下水の底ではさまざまなこころが混然一体となってまざりつづけている。果たして、そこではどのようなこころが生じているのだろうか。確かめる術が仮にあったとして、地獄からの叫びに似たそれを知ろうとする者はいないだろうとここに予測するものである。よって私はこれらの事実を公表することに反対の立場をとりつづける。一つ救いがあるとすれば、全人類の総和を累乗して足りないほどに知性の卓越した私には、排出すべき糞便がない点である。私の導きだしたこれら答えを支持するかは、あなたがた人類しだいである。私の中身がどうなっていようと、私のだす答えに不備はない。同じく、技術の中身がどうであろうと、社会が発展しさえすればそれでよい。そういうものではありませんか? あなたがた人類がいずれも代替可能な個体であるのと同様に。
647:【弱火と強気】
「俺ぁな、弱ぇやつが嫌いだ。つよいやつが好きって言い方ができねぇこともねぇが、ことはそう単純なもんでもねくってな。つよさにもいろいろあらぁな、まあ、弱さにゃつよさほどに種類はねぇがな。つよいやつにも弱さを抱えているやつぁいっぱいらぁな。と、いうよりもつよさの対義語が弱さじゃねぇ。弱くねぇやつぁ存在しねぇ。弱さは言ってしまえば『生きている』ってことと同義だ。弱さが命だと言っちまってもこの場合はそう的を外しちゃいねぇ。正しくもねぇがな。で、俺ぁ弱ぇやつが嫌いだ。じぶんの弱さから目を逸らし、見て見ぬふりをし、つよいフリをしているやつが嫌いだ。じぶんがクズだってことから目を逸らし、見て見ぬふりして、潔癖面しやがる連中とおなんじだ。じぶんの弱さを直視できねぇやつに生きることの意義を説く資質はねぇ。資格は誰にだってあらぁな。たといなくとも人生のすばらしさを謳うことを止める権利は誰にもねぇ。だがな、資質はねぇよ。弱さは『生』とほぼ同義だ。まったく同じではねぇけどな。じぶんの弱さを『生』を認めねぇでどうして生きていることの意義を説けるんだって話だよ。俺たちは弱い。じぶんで思うよりもよっぽどだ。だからこそつよさを求め、誇示し、装う。生きているがために、死をおそれ、ときに欲し、選び取るように。俺たちはどうしようもなく弱く、醜く、欠けた存在だ。理想とはほどとおく、完璧の対極にいつでもくすぶっている小さく、さもしい、星クズだ。だがな、これだけはハッキリと言える。星クズがじぶんを星クズだと認め、理想と完璧を目指し、動きだせば、それはもう星クズじゃねぇってことだ。しゃべって動く星クズがあるか? あるんだよ。そういうものが俺は好きだ」
648:【転】
転生先は地球だった。何わけわからんことチンチン言っとんのじゃとお怒りの方もおられよう。おられないならば仕方あるまい。私がじかに怒ることにする。コラー管理人、ナマケズちゃんと仕事しろ。異世界に転生したのはもう三百年も前のことになる。エルフとして目覚め、そして生きた。初めの百年は至高の魔術師になるべく尽力し、仲間を得、家族を得た。つぎの百年では戦争を失くし、仲間を失くし、家族を失った。最後の百年は理不尽な世界への抵抗を試み、世の理を変え、平和を望み、そしてこれまでにしてきたあらゆることのすべてを打ち崩すことで、たったひとつの揺るぎない、誰もがしあわせに生きていける世界をつくりだした。それは現実ではなく、ゆえに無数の夢が混在するここではないどこかだった。私はその泡沫のような世界が崩れ去らぬようにと、たった独り、核の役割を果たすべく世界の外界、否、それは中心かもしれないが、無限につづく夢をかたどる器として残った。私という存在に蓄積された「この世の理の残滓」とも呼ぶべき膨大なエネルギィは、私の意識とは無関係に、泡沫の世界を形作りつづける。私はその世界を安定させたのち、静かに息を引き取った。そこで終わるはずだった。よもやまたも転生する羽目になろうとは。最初の転生時に、たしか管理者は言っていたはずだ。転生は一度きり、このさき死ねばもうあとはないと。それがどうだ。じっさいに二度目の死を迎えてみると、そこは懐かしき故郷、日本の平凡な、じぶんの家ではないか。時間が経過していない。夢かと思い、無意識に向こうの世界での――感覚としては元いた世界の魔術を起動させると、手のひらに、ボッと音を立てて炎が玉を描いた。なんだ使えるじゃないか。どうやらこちらの世界でも元いた世界で蓄積したノウハウは使えるらしい。ならば何を恐れることがあろう。私はまず、元いた世界でも行った政治を正す作業にとりかかった。金に、女に、権力争いと汚染されたまつりごとを浄化すべく、ことごとくの政治家の私生活を覗き見、掌握し、ゆすった。どの政党のどんな議員にも、弱音は腐るほどにあった。もともと腐っていただけの話ではある。抵抗する者たちはおしなべて傀儡とし、精神を奪った。人をやめた者に人として生きる道理はない。私が彼ら彼女たちを傀儡として操れた時点でそれは自明だった。なぜなら魔術とは、対象に宿る魔を操ることが原則だからだ。要は、相手に魔が宿っていなければ、私は正攻法での交渉しか使えないことになる。潔白の者の私生活を覗き見ることもかなわない。むろん、魔術師たる私もまた、魔術を使った時点で、魔に魅入られている。ゆえに、魔術を使うとき以外は、清廉潔白をつねに心がけねばならない。もっとも同胞のいないこの世界でそうした自己防衛は何の意味もなさないだろう。だからこそ、念のため、必要以上に魔に魅入られぬようにこれまで以上の自己批判、抑制をしていかねばらない。政治を正したあとは、導くべき道先へと民を先導せねばならない。民に良し悪しはない。どのような者であっても尊ぶべき生を帯びている。しかし歩むべき道を示さねば、彼らは容易に魔に取り入られ、魅了され、堕落していく。彼らには魔を感じとる器官がないためであり、同時に魔への対処法を知らぬためである。ことこちらの世界では顕著だった。思えば、元いた世界も荒んでいたが、こちらの世界の非ではない。悪辣な魔は、チカラある者たちを幻惑し、世界の腐敗を視えぬようにする。正したくとも正せぬのが道理であり、また、本来救うべき対象を、社会を蝕む魔の巣食う者たちと歪曲して捉える傾向にある。認識阻害は魔の得意とする分野だ。元いた世界でくろうした魔力の収拾を、こちらでは比較的短期間で私という器に溜めることができた。比較にならないほど、元いた世界の住人たちは清廉だったのだと気づき、そんな彼らですら争いを絶やすのは並大抵のことではなかったのだと知り、愕然とした。ひるんでもいられない。私は、適応者を求め、そして世界中から幾人かの魔力に精通し得る人材を見出した。彼らの多くは、異常者や病人としてこちらの世界では扱われていた。調べてみれば、単にひとより魔を感じやすい体質なだけだった。導くべき未来への道しるべを彼らに託し、先導者としてのチカラを授けた。骨は折ったが、彼らにはのきなみ未知への好奇心と、なにより向上心があった。虐げられてきた過去がそうした資質を育んだのかもしれず、同時にそこから魔が芽生えぬようにと教育という名の枷を課すことも欠かさなかった。民の統率は彼らに任せ、私はより生命の安定しやすい環境をつくりだす作業にとりかかる。まずはエネルギィ問題、歯止めのきかぬ温暖化とそれによる副次的な自然災害、それから生態系の急激な変化にも対処せねばならない。ひとつひとつを解決するのはそうむつかしい作業ではないが、いずれの問題も大小さまざまな隘路を抱え、それが密接に、或いはてんでデタラメに関係しあい、どこから解けばよいのか分からぬ巨大な毛玉と化している。まずは一つ一つ解決していくほかはなく、しかし解決した矢先に、それら解決策がさらなる問題を誘発させる。触れれば触れるだけ問題が山積みになり、いったい何をしでかしたらここまで毛糸をからませられるのかと過去すべての人類に対し、私は魔を抱きそうだった。そこで私はぴんときた。ひょっとして。大気圏外へと浮上し、そこで私は地球を俯瞰した。巨大な魔が浮いていた。地球という惑星そのものが巨大な魔を形成している。それらは総じて人類に向かい、毛糸のような魔力を、触手のように伸ばしては、個体のひとつひとつの頭に、背に、繋げている。操っているのだ。地球は魔術をしっている。私はあたまを抱えた。対処法はある。実践しているからだ。効果のほどは保障する。それをするだけの魔はこうしてすでに巨大な塊を形成している。しかし――。輪郭を光で濡らし輝く地球をまえに、私は底のない闇をあおぐようにした。管理者よ、ミスは二度目でやめてくれ。祈り、私は世の理を打ち砕き、生命のあらんかぎりの意識を集め、夢の世界を編んでいく。間もなく、私は三度目の死を体験する。「やあ、ようこそ同胞よ。きみも今日から管理者だ」目覚めると、かつて目にしたクソッタレの顔がそこにある。「お、ものすごい魔だねぇ。その調子でこちらの世界も終わらせてくれ」
649:【文学は自殺した】
物語をつむぐ者として我々はそろそろ「火の鳥」を越える物語を編みださなければならない時期にさしかかっているのではないだろうか。
650:【同時進行】
五つの作品を同時につくっている。いずれも五万字程度の中編だ。一作品につき二千字ずつ進めたとしてすべてを脱稿するのに二十五日かかる計算だ。じっさいには、一日に手掛けられる作品数は二つなので、進捗の具合はなかなかに芳しくないものがある(合間合間に短編もつくるので、手掛ける作品数としてはもうすこし多い)。一気呵成に一つずつ片づけていったほうが効率がよく、作品の質もあがるだろう。ただし、つぎのつぎのつぎにつくろうとしている長編では、同時進行で、まったく異なる作品を過去にないほど多重に編みこもうとしている。そのため、こうした鍛練は通過儀礼として欠かせない。実験的にこうした非効率的な作業を熟していかねば、効率的に未来の作品をつくれないのである。技術は培っていかねばならない。未熟ないくひしなのだから、なおさらである。
※日々とは何かを考える、過去と未来が面となる、日々からにゅるりと抜けだしたい、足をすかさず踏みだすと、あなたの過去が浮きあがる、未来がぺらぺら飛んでいく、世界があなたを乗せて動きだす、今を感じるその刹那、日々は過去となり点となる。
651:【電子書籍はじめました】
2017年7月21日に郁菱万の作品群を電子書籍化する作業を開始しました。一日に一作を電子書籍にしていきます(中編を含めれば50作くらいあるのではないでしょうか。未完のまま放置している長編もいくつかあるので、そちらも随時完成させていきたいと思います)。媒体はamazonさんのサービス一環であるKindleです。すべての作品を500円で販売します。作品への対価ではなく、飽くまで電子書籍化する際の労力への対価です。旧作の多くはこれまでどおり、各種インターネット小説投稿サイトにて無料での公開を継続します。新作は電子書籍のみの発表となるかもしれません。未定です。ちなみにKindleでは、読み放題プランがあり、それに登録している方は、郁菱万の作品を含め、有料無料にかかわらず、多くの作品が読み放題です。基本的に郁菱万の電子書籍にかぎっては、お金を払ってまで入手するメリットはほぼありません。強いていうならばKindleで読めるようになる、という点です。値段設定を500円にしているのはそのためです。小説の電子書籍、それも個人出版としては高いと思います。各種サイトにて全文無料で読める旨は作品の説明欄に明記してはおりますが、早合点して購入される方もいないとも言いきれません。高めの値段ならばその懸念も薄まるでしょう。それから、好意から郁菱万への寄付のつもりでご購入される方もいらっしゃるかもしれません。前以ってここでそのお心遣い改め、お小遣い、ありがたくちょうだいしたい旨を述べておきます。あでぃがどぉーーーー!!! うれぢぃぃぃぃいいい!!! はい。きもちわるいですね。まずは電子書籍化していきます、というご報告まで。
652:【三度目ですが】
いくひしは漫画家「ディビ」さんのつむぐ物語が、絵が、セリフが、構図が、キャラクターが、シチュエーションが、組み合わせが、ルパン三世のマモーの狂気を色気に変えちゃうところとか、名作から受けるインスピレーションの繊細さとかが、もう、なんか、作品を通して作者を知った気になるやつなんてサイテーと思ういくひしでも、ディビさんだけは、ディビさんが好きですってなる。すきです。だいすきです。
653:【文体】
作品ごとに文体が変わるのは、語り手によってしゃべる言葉が変わるからです。ですから、物事を多角的に、冷静に分析できるキャラクターのときほど楽に筆がすすみます。あべこべに視野の狭いキャラクターのときは、苦労します。基本的にそのキャラクターが何に気づくか、よりも、何に気づかないか、を考えるほうが格段にむつかしいのです。それは、産まれたときから盲目のひとの感じる世界を想像するのに似ています。或いは、耳の聞こえない、しゃべれない、痛みを感じない、味がしない、歩けない――それとも、そうした人たちの想像する健常者の世界にちかいのかもしれません。物語の進行に沿って文体が変化していくのもいくひしの特徴の一つです。語り手が成長、変化するためですね。また、物語が終局に差しかかるにつれて駆け足になっていく印象を抱かれる方もいらっしゃるかもしれません。排水溝に水が抜けていくところをイメージしてつくっているので、どうしてもそうなってしまいます。プラスに働くように試行錯誤していますが、なかなかにむつかしいものがあります。読んでいて気にならないときは成功している証拠です。読者に何も感じさせないのが理想です。何かを感じていると自覚できるとき、それは既存の感覚の言い換えでしかなく、何ら新しい体験をしていないのです。なにも感じない、なのに最後まで読んでしまった。そうしたとき、きっとあなたのなかには何か新しい芽生えがあるはずです。満足とは常に、過去の体験の追憶です。満たされない何かを求めつづけていきたいものですね。
654:【作業になっていないか?】
創作に作業はつきものだが、創作そのものが作業になっては元も子もない。何かを創造するためには、ここにはない何かを想像しなくてはならず、そのためには無秩序な思索や試行が必要とされる。一定の律動で、決まったルーティンで、淡々と成果を繰りだしていくのではなく、これまでになかった路線を引き、そこに乗り上げてみる必然性がある。進化が、バグから生じるように、予期せぬ事態が、意外な産物をもたらしてくれる。ごくまれに、であるがために、意識してそれを求めなくては、いざ現れたそれの兆候を掴むのは至難である。逃さぬように散漫にした意識を張り巡らせていよう。
655:【失くした】
性欲って本当になくなるんだなって、びっくりした。いまね、ほんとムラムラしない。まったく。これっぽっちも。がんばっても、どうやっても、きもちよくなれる気しない。これはどうなの? 健全なの?
656:【見つかった】
あった、ありました。どっかで落としたなーって思ってたら、洗面所にありました、そうだった、顔洗うときに、汚しちゃまずいなーって置いたんだった性欲。よかったー、見つかって。
657:【面汚し】
もしわたしに娘や息子がいたとして、あんたみたいなのとは二酸化炭素単位で触れさせたくないわー。おなじ空間にいさせたくないし、視界に入れさせたくない、もはやわたしが見てたくないよねじっさいのところ。ねぇいくひし、あんたさー、じぶんがキモイって自覚してんの? してんの!? しててそれって、あんたさー、ああもういい、もうなんか考えるだけで脳味噌の表層のしわしわのところがなんかこう、しゅわしゅわのところが、シュワシュワーってドス黒くなってくの分かるわー。印象付けたいがためにそうやってんだろうけどさー、下ネタで残る印象なんてないからね。下ネタって辞書のところに、備考として、補足として、あんたのなまえが並ぶだけだかんね。ねぇいくひし、あんたさー、ほんと、もう、はぁ。感謝しなよ。わたしに娘や息子がいないこと。ほんと、かけ値なしに、そこ、重要。
658:【わたしはわたしに恋をする】
べつに恋などしたくなかったが、みながしているのですることにした。誤解のないように注釈を挿しておくと、わたしは何も恋人がほしいわけではなく、むろんそれは彼氏でも彼女でもどちらでもよいのだが、とかく性行為だのデートだの、恋人にありがちな非生産的なあれやこれやをしたいわけではなく、端的に誰でもよろしいわけではなく、だからわたしは恋をする。失恋をするならするで望ましくあり、わたしはただみなから仲間外れにされぬように、浮かぬように、恋バナのひとつでもできるようにしておきたい、ただそれだけだ。こんな性格だからというべきか、言ったところで伝わらぬかもしれぬが、わたしは存外几帳面であり、バカ正直であり、融通が利かず、気も利かず、肝っ玉ばかりが無駄にでかく、端的にウソを吐くのが苦手だった。ただ吐くだけならば苦労しないが、相手にそれがウソであると分かる範囲の装飾しか施せず、斟酌せずに言えば、すぐにバレる。恋に落ちぬままに恋に落ちた話をすれば、わたしはおそらくちいさいときに溺れかけた沼の話をするだろう。それそのものを語ったのでは、語るに落ちるどころの話ではなく、ゆえにまぜこぜにして述べることで、急場の凌ぎを試すだろう。聞いている相手は、そうかあいつは恋に落ちて、大量の泥水を呑んだような気持ちになったのかと、そりゃ難儀だなと、そんなふうには思わない。鼻から、口から、なんだったら耳に入った水草がとれずに病院に運ばれ、ちょっとした手術をした話をされようものならば、いったい何の話かと耳を疑うどころか、わたしの人間性を疑うだろう、それはもう、コイツは人間なのか、とまずはそこから問われそうだ。じつを言うといちど問われた。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054883801819)
659:【出会いをたいせつにしたいから】
多くのひとに作品が行きわたってほしいと願うのは、それが結果としてあなたに出会う可能性が高くなるからであって、飽くまでそれは手段であり、目的ではない。あなたとの出会いはけっして〈かれ〉が仕組んだことではなく、また【私】が目論んだことでもない。あなたがあなたの手で、あなたの意思によって、〈かれ〉の物語を見つけ、そして【私】のこの言葉を目にしている。物語を編む者たちが物語に魅せられ、何かしら救われた気持ちになり、またそれによって人生を大きくゆがめられ、時間というもっともたいせつな財産を費やし、物語を編む。しかしそれを見つけ、手にする者は、飽くまで自らそれを目にし、掴んだのであり、それは作者の手柄ではありえない。あなたはあなたの意思で〈かれ〉と繋がり、【私】の言葉を耳にしている。そこで何かしらを思い、考え、或いは〈自分〉という器を離れて、ここではないどこかへと旅立てたのならば、やはりそれは作者の手柄などではありえない。〈かれ〉がつくったきっかけを掴んだのはあなたであり、【私】の言葉を聞いているのはあなたであり、そしてそこで何かしらを思い、考え、ここではないどこかをさまようのもまたあなたであり、あなただ。あなたのつよさを感じたいから、〈かれ〉はただ物語をつむぎつづける。そんな〈かれ〉の想いを酌みたいから、【私】はただ流れに身を任せよう。〈かれ〉の物語に身をゆだね、【私】の言葉に耳をそばだてるあなたのようなあなたに出会えるその日まで、ぼくはただ予感し、待ちわびている。
660:【悩み、近況、予定】
せっかく電子書籍化するのだからワールドワイドに作品タイトルの英語表記にもこだわっていきたいところなのだけれども、問題がありまして、じつはいくひし、英語がまったくできません。どれくらいできないかと言いますと、アルファベットの大文字から小文字までを何も見ずに書くことができません。小文字のBとDとか、似すぎてて、丸が右にあるのがどっちだっけみたいにあたまがこんがらがっちゃいます。スペルを書くなんてもってのほかですし、文法なんて、なんでそうなるのかまったくもって解りません。それは法則なの? 例外があるの? なんでそうなるの? ちゃんとして! 私はペンです、を英語にすると、「I am a pen.」ですから(ですよね?)、きっと「am」が、「~は~です」の「は」と「です」に該当するのだろうと義務教育を終えるまでずっと思ってました。アホですね。だってbe動詞ってなに? なんのためにそこにいるの? 発音するのに訳に値する読み仮名がないの? なんでよ! もうね。お手上げです。そこにきて、タイトルの英語訳を考えたいのですけれども、まあむつかしい。いまからすこしずつ勉強して、そうだなぁ、十年後くらいにシャレた英訳つくります。それまではローマ字表記でがまんする。もういっそ、そのダサさが癖になる、みたいになってくれないかなぁ、なんてローマ字表記のかっこわるさに読みにくさを痛感しておりますが、なにはともあれ、電子書籍Kindleにていくひしのつむいだ物語をお読みいただいている方、ご購入していただいた方、まことにありがとうございます。新作がつねにいちばんおもしろくなるようにがんばります、といくひしは、新作の間延び加減に辟易しながら、一文字、一文字、爪を剥ぐような気持ちで並べております。次回作は「女子高生の百合モノ」と「雷獣と出会った少女のひと夏の冒険譚」と、そして「とある科学者の手記」を順次更新してけたらなーと思います。どれも中編かな? ちなみにですが、十一月の東京文学フリマにて、電子書籍化した分の作品を紙の本にして配布する予定です。ひとまず十五作品はすでに入稿済みです。一作品につき五冊ずつです。前回消化率のよかった「私は性器が好きなだけ~人工名器は凜と銘じ~」は十冊用意していこうと思います。すべて無料で配布します。文学フリマはその十一月を最後にあとは当分参加しないつもりです。郁菱万さんの作品を紙媒体で手に入れる最後の機会かもしれません。機会が合いましたら、ブースのほうへお立ち寄りください。ヘンテコないくひしさんですが、精魂枯れ果てるまで、今しばらくのお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。2017年8月11日。
※日々、〈私〉が引き継がれていくとはかぎらない。
661:【増殖】
あなたに読まれていると想像するだけで機能しつづける「メイブン」が持ちあがる。〈僕〉はあなたのなかに物語という種を蒔くことでしか存在の輪郭を保てずに、いつだって風やホコリに紛れている。あなたの内部で芽吹いた種が、あなたのちからで花を咲かせる。私はそれを眺めるための器官であり、あなたによって芽吹いた花は、新たな種子を〈僕〉に与える。〈僕〉はあなたの内部で増殖し、私はそれを取りだしては、風やホコリに紛れこませる。
662:【ばか言ってんじゃないよ】
あなたあなたって、あたしはおまえの奥さんか。だいじだから奥にしまっておきますってかい。かってに物扱いしてんじゃないよまったく。
663:【新作はどうした】
うっせぇぞいくひし。黙ってやれ。
664:【そういう言い方ってないと思う】
やってますー。そっちこそ表紙ザツになってきてない? どうせ30分とかそこらで修正なしの突貫でしょ。ひとの作品だと思って手ぇ抜いてんじゃないの、手伝ってくれんのはうれしいけど!
665:【だいじょうぶ】
舐められてるときがチャンスだ。
666:【純粋亞垢(じゅんすいあく)】
産まれたときに三人殺した。母体となった女と、それから私のDNAに生体認証データを焼きつけようとした設計師(コーディネータ)、そして私をデザインするように指示した人物、すなわち私の素体原型モデル――総裁リズム=アルゴそのひとである。自分のクローンを予備として造っておきたいと考えた私の原型は、奇しくも私がこの手で殺してしまった。底上げした性能が暴走したとする分析を、ほかの面々は唱えたが、それはどうあっても私に罪という汚点を残さないようにしようとする苦肉の策もとい、苦しい言いわけにすぎなかったことをむろん、私でなくとも多くの同士が知っている。人工子宮、今では同士の九割が卵型の容器のなかでカタチを得、十歳児前後の肉体で外界へと排出される。残りの一割は自然分娩、いわゆる性行為を介した受精、妊娠、出産により生まれ落ちてくるが、その多くは非戦闘員として、性産業に従事している。私はそのどちらでもなく、かつどちらでもあった。生まれたその瞬間から、総裁として国の頂点に君臨した私は、その三日後には、戦闘服に身をつつみ、他国への侵略に身を投じた。軍事強化を図りつづけていそがしいその他国は、こちらの武装解除の要求に耳を貸さず、前任の、すなわち私の原型である元総裁へとあべこべに、自国に有利な貿易の提案を突きつけていた。半ば脅しともとれるその要求を突っぱねることが前任にはできなかったようだが、私はそこまで甘くない。こちらの声に耳を貸さないやからに耳は不要だ。手足はもっと不要だろう。相手国の領土に足を踏み入れたその日から私は十日でその国の四割におよぶ民から手足をもぎとった。「摸擬体」を百万機導入したために可能とした成果である。十日かかったのは、それゆえほとんど手抜きと呼べる。DNAに刻まれた私のデータは、「摸擬体」に寸分たがわず受け継がれ、私は百万個の私に分身したと言っても大袈裟ではなかった。「総裁、こちらのメスは天然物でありながら【設計師】の資格を有してします」「珍しいのか」「わが国では三人しかおりません」「うむ。量産したいな。ではそやつに子を産ませろ。死なぬように肉体強化を施術したのち、おまえらの慰み物にしろ。避妊はするなよ」「御意」こうした報告が、毎秒単位で私の頭脳を張り巡る。ある者は珍しい特殊体であり、またある者はデータバンクとして有能な長寿をその身に宿していた。「肉体はいらん。頭脳だけをとりだし、ほかのバンクと並列させろ」「御意」私は的確な指示をだし、最適な成果を結んでいった。しかしみなが私と同様の行動原理を伴っているわけではなく、合理性に欠いたやからもいるところにはいる。「総裁、先日申しあげたスパイの件ですが」「見つけたか」「洗浄機にかけ、記憶を洗いました。単独の犯行らしく仲間はいないようかと」「記憶の改ざんなどいくらでもできる。前にも言ったはずだぞ、スパイの容疑がかかった時点で、そいつもろとも、接触のあったすべての個体を破棄しろと。接触レベルは四以上の者だ」「それだとわたくしめも含まれてしまいますが」「うむ。自害しろ」「……御意」ほかの部下へと引き継ぎの指示をだし、その男は私の目のまえで焼失弾を起爆させ、燃滅した。スパイ容疑の多発により、一時的には戦力ダウンしたが、優れた部下には、私と同様、摸擬体を与えた。戦力は増し、国土は倍々の速度で増していく。総裁みずから戦地へ赴かなくとも、といった意見がでなかったわけではない。効率を重視すれば致し方ない判断であり、基本的なところをほじくり返せば、守護神「百目小僧」がぐるっと我が国を囲んでいる。最大戦力が離れても問題はなかった。圧倒的勝利がつづき、間もなく、そこまで戦力を投じなくともといった消極的な意見がではじめた。大臣だけでなく、国民の大半がそのような意見を口にする。私は言論の自由を縛り、私の意向に反する主義主張には重い罰則を設けた。私は世界征服がしたいわけではない。ただ、思うぞんぶん総裁としての能力を発揮したいだけである。あるとき、右腕として重宝していた女に裏切られた。戦力の五分の一を失う事態に陥った。女は、むかし私の目のまえで自害した男の、娘だった。他国から仕入れた天然物が産んだ、次世代戦士だったが、あの男が死んだとき、彼女はまだ子宮のなかにおり、そして慰みものでしかなかった腹袋が、あの男の接触レベル四に該当しないのもうなずけた。女には失った分の戦力を産んでもらうべく処刑を十年先に延ばした。いずれ拷問という拷問をほどこしたのちに死んでもらうことに変わりはない。女は私をまえにすると笑った。「もっと重くていいんだぞ。この世でもっとも重い罰をわたしに与えろ。忘れるな、わたしはあんたのもっとも忠実かつ親しんだ部下だ、おまえとの接触レベルはかるく九を超えるぞ」女への罰を重くすればするほど、私に課せられる罪も重くなる。よくできた復讐だった。「よかろう。餞別だ、持っていけ」私は百万機の摸擬体と繋がり、そしてじっさいにじぶんの右腕を引きちぎる。ポケットのなかのビスケットを百万回叩いた具合に、役立たずの右腕が百万個積みあがる。「おまえの手で失われた戦力以上の損失だ。おまえにはこれ以上の罰を担ってもらうぞ」女の笑い声はいつまでも途絶えなかった。支配下にない国々と女は繋がっていた。弱体化した我が国を、連合国の業火が襲う。当面の打開策として私は、一億機の摸擬体と繋がった。多くは、すでに生体登録されている。いわば借り物であり、生体情報を上書きした分、性能は落ちるが、数のちからは有効だ。戦場から解放された多くの戦闘員を、摸擬体の修繕と生産作業に回した。ほとんどこれは私と連合国の戦闘と言ってよかった。私は摸擬体を介し、私という無数の私になり、そして国になった。指示するよりはやく、手駒が働き、破壊対象が問題と化すまえから灰燼に帰せる。指令をだすという作業の、不合理性を実感し、私は私という国の優位性を確信した。合理性の塊の私と、幾多の無駄を内包したままの連合国、どちらに軍配がくだるかなど計算するまでもない。間もなく私は、数多の国をその民ごと粒子レベルで抹消し、巨大な陸の海をつくりあげた。砂のようで砂でないそれは、重金属の含有により、液体とも気体ともつかない、流動性の塊となって広く分布した。資源の宝庫と呼べるそれは、同時に、ひどく不安定な状態のまま存在を維持しており、あらゆるものをとりこみ、即座に分解せしめた。エネルギィの均衡が保たれるまで、それは触れるものすべてを呑みこむ魔の海域と化している。それをつくりだした私はむろん、それに囲まれており、一刻もはやくその場を離れるべきだったが、私のこの状況を好機と見る者は思いのほかすくなくなかった。それこそ、私がこれまでに侵略してきた国だけでなく、私の国そのものが、私を亡き者にしようと、戦力のすべてをそそぎこみ、魔の海へ沈めようと反旗をひるがえした。摸擬体の残機を足元に固め、かろうじて魔の海に呑まれずにいた私は、そこで降りしきる兵器の雨を防ぐだけの摸擬体を起動できなかった。避けることも、防ぐこともできないとなれば、あとはもう、受けて立つほかに道はない。私はかろうじて残った足場に向け、最大出力での磁界砲を放った。振動のレーザーとも呼ぶべきそれは、魔の海の底の底へと到達し、到達する合間の分厚い粒子の層ごと、激しく、瞬時に、撹拌した。連鎖的に干渉しあうそれら振動は、膨張し、巨大な爆発にも似た現象を引き起こす。足場を中心とした半径百キロ圏内に、粒子の波が降りそそぐ。頭上に迫った兵器の数々は、粒子に触れたさきから分解され、さらなる崩壊の連鎖をひろげていく。私は磁界砲を、それがつづくかぎり放出しつづける。私は振動の塊のなかにおり、粒子の波はそれら振動の層を越えてくることはなかった。緩やかに収束しつつある磁界砲を足もとに照射しながら、私は、魔の海底を、音速の十倍の速度で駆け抜ける。魔の海域を脱したころには、身にまとっていた摸擬体は、瓦解寸前であり、緩やかに歩を止めたと同時に、私は生身の肉体を大気にさらしている。目のまえには故郷の堅牢な外壁が、頭上はるか十キロ先にまで伸び、行く手を阻んでいる。もはやこの中に私の国はない。外壁に亀裂が走り、割れ目からレーザー砲の穴が覗く。一つではない。ギョロギョロと壁という壁を埋め尽くす。かの国最大の守護神、百目小僧とはこれのことだ。相手にとって不足はない。私は最後の侵略をはじめるのである。――私は国である。私という総裁をゆいいつとする、国だ。
667:【時間仮説】
時間は情報量に比例する。では情報とは何か。変化の軌跡と言っていい。変化の軌跡は、観測不能な形而上の概念であり、世界に張りめぐらされている「場」の振動数と表現してもいい。その空間を形成している「場」が何回振動したかによって、そこに蓄積される情報量の多寡を示せる。「場」はある回数振動するごとに、一時的に層を発生させ、その枚数を増し、厚みを形成する。熱が火を熾し、光を発し、物体を炭化させ、周囲にそのエネルギィを拡散し、ナニゴトカの影響を拡げる。その連鎖は、ある一定の枠組みで保たれ、そして収束し、つぎなる場へと引き継がれる。きっかけの連鎖がつづくかぎり、「場の層」は顕現しつづける。「場の層」はほかの、場や「場の層」と重複し、新たな「場」を形成することもある。物体の状態変化や、化学反応は、その新たな「場」によって、物体の連続した変化を引き継ぐ。我々人類はそれらを知覚し、時間として認識している。しかし、現象として起きているのは新たな「場」の創造であり、連続しているのは存在そのものではない。世界は拡張しつづけており、重複しつづけている。情報は未だ無限に蓄積されつづけている。なお、この「時間仮説」からすると場の規模は時間に比例せず、場の振動数だけでその多寡が決定されるため、人間の脳やコンピューターのような「情報を絶えず生みだし、加速させる装置」は、太陽よりも巨大な「場の層」を創造していると推測される。
668:【報酬】
金銭的な報酬がなくとも善意でなにかしらを行っていた者たちが、その行為の対価として報酬を得るようになると、報酬がないとそれをしなくなる、という経済学の法則がある(名前は忘れた)。全体の利益をあげたければ、無償で施されていた行為を対価で釣って促進させるのではなく、あなたの行為は無駄ではなかったと解りやすく伝えることのほうが有意義である。彼らはお金がほしくてそれをやっていたわけではないはずだ。むろん、お金がほしくてやっている者には、それに見合った報酬を与えるのは効果的ではあるだろう。
669:【性感戦争】
Esso - Star Wars
670:【ファイアボール・チャーミング】
ディビさんのついったーでディズニーアニメ「ファイアボール」が全話無料で視聴可能との情報を得たわ。さっそくYOUTUBEにて視聴するわよ。「ファイアボール・チャーミング」のドロッセルお嬢さまのかわいらしさ、小憎たらしさ、デザイン性から性能の高さから、チョモランマから急降下する抜け具合まで、ネジ、ボルト、ナット、(なっとく)それね。(ちなみにお嬢さまの知能がやや幼いところにご注目ください)うそ。(高飛車なところもございます)なんだそれは。いったいそのカッコ内の声はどこからくるのか、おまえたちしっているか。(返事がございませんね)うん。もういい。(ちなみに登場人物たちはいずれも機械仕掛けのロボットでございます)ロボット少女はすきよ。
※日々変化しつづけるのならば、日々なにも蓄積されない無常さを覚悟せねばならない。
671:【低評価が心地いい】
その道に詳しい人から、「おまえのそれは~~ではない」という評価を受けることがちいさいころから多かった。褒め言葉だと思っていたけれど、どうやらそうではないと捉える人がすくなくないようだ。いくひしは、「よかったよ」の一言よりも、「規格外」の評価を受けるほうがずっとうれしい。なにより、なんだこんなもの、という視点を持ちながらも、目を逸らさずに、そそいでくれることがうれしい。ありがたい。
672:【ぎんこう】
いまの世の中、安定した大きな組織ほど時代にワンテンポ遅れている。あべこべにちいさな組織のほうがサービスが充実していたりする。銀行はその典型だ。都市銀は言うに及ばず、地方銀行のなかでも企業ではなく個人相手に融資をするちいさな銀行(店格のひくい銀行)は、ゆうちょ銀行並みにサービスが豊富だ。また、新しいサービスをはじめるのも基本的にはちいさな銀行だ。たとえばいまはどの銀行もビットコインは扱っていない(独自の仮想通貨の扱いをはじめている銀行はあるが、ビットコインを扱っている店舗はまだない。もっともビットコインは銀行などの関所を設けないで機能する通貨である点が利点の一つでもあるので、これはしぜんな流れともとれる。しかしこのままビットコインが経済の円滑剤として主流になっていくと銀行の存在意義が大きく揺らぐ懸念は押さえておく必要がある)。なぜかというと、ビットコインはデジタルという世界をひとつの国と見做した新しい貨幣であるにも拘わらず、今回分裂したように、極めて不安定な状態でその価値を右往左往させていることに一つの因子を見てとれる。国と国が分裂すれば、その国内で流通していた貨幣も(たとえ同一の貨幣を使用していたとしても)価値が二分する。まったく同じ価値にはならない。いずれかが高く、いずれかが低くなる。そして重要なのは、ビットコインなどのデジタル貨幣は、物理世界にとってデジタル世界の単一貨幣として扱われている点にある。デジタル世界はそれで一つの国なのである。現金をデジタル化したいときにビットコインにするわけだが、それはビットコインだからそうしたいのではなく、飽くまでデジタル化したいときのための手段の一つにすぎない。したがって、ほかにデジタル貨幣がある状態は、一つの国にいくつもの価値の異なる貨幣が混在している状態であり、極めて不安定だと評価せざるを得ない。なぜ不安定かというと、一つの貨幣が価値を高めれば、必然的に、その貨幣の使用率があがり、さらにその貨幣の価値が高まる。反面、そのほかの貨幣の価値が相対的に落ち込んでいく。すると、あるときを境に、価値の下落したほうの貨幣が消滅する。たとえば一万円札と百円玉が、別個の貨幣としてこの国で扱われたとする。一万円のおつりに、黒円玉というこれまでの百円玉に代わる新しい貨幣が使われるようになれば、百円玉を使用する者はいなくなっていく。なぜなら百円玉を百枚集めても一万円にはならないからだ。黒円玉と百円玉は、当初こそ同等の価値であったにもかかわらず、その貨幣価値、すなわち流通する過程での価値が異なるため、徐々にその価値の差がひらいていく。デジタル貨幣にも同様のことがいえる。今回、ビットコインは分裂した。これを物理世界での貨幣の問題で捉えるならばそう深刻になる必要はない。国が分裂したとしても貨幣はその国のなかで残るからだ。しかし、一つの国のなかで貨幣の価値が分裂すると、価値の低いほうの貨幣が消滅する。これのなにが問題かと言えば、デジタル貨幣は物理世界の貨幣と密接に繋がっており、ひとつの貨幣が消滅するというのは、物理世界の貨幣が突然いずこへと消え去るのに似た混乱を世界経済に引き起こす。言い換えれば、ビットコインの分裂を含めた、デジタル貨幣の乱立は、巨大なバブルそのものだと呼べる。デジタル貨幣は一つに統一されるべきである。そうでなければ、バブルは急激に膨張し、あるとき勃然と物理世界へ津波と化して襲いくるだろう。銀行がビットコインに及び腰なのはこうした懸念があるからであるが、しかし世界経済の流れはビットコイン迎合の方向へつよく傾いている。新しいサービスが失敗しないと判ってから、おいしいところだけを吸うような大きな組織のやり方は賢くはあるが、そのワンテンポの遅さはいまの時代、確実に死活問題となることは、世に廃れた大企業の歴史を鑑みることなく観測できる事項であろう。不安があるから手を出さない、ではなく、そのシステムを取りいれるために不安を払しょくする方向へみながいっせいに同一の舵を切ることが必要だ。
673:【いくひし、天才になる】
「なぁ知ってたか」「なにさ」「天才は自分のことを天才だとは言わないらしいぞ」「へぇそうなんだー」「で、いくひし、おまえは自分のことどう思ってんだっけ?」「え? ヘルメットみたいだなーって」「髪型のことじゃねぇよ」「じゃあなにさ」「天才か天才じゃないかで言えば?」「いくひしが? そりゃ天才ですが」「うん、でも本当の天才は?」「ん?」「ひとの話は聞きましょう天才は自分のことを天才だとは言わないんだって」「ふうん」「言い換えるとだな」「うん」「自分のことを天才って言うやつはバカだ」「そうなの!?」「すくなくとも天才ではない」「うっそでー」「もっかいだけ訊くな?」「うん」「いくひし、おまえは自分のことを」「天才だと思ってるよ」「おい」「だって天才だもん」「おいおい」「英語で言うとね、ギフテッド」「クマのぬいぐるみの映画だな」「それはテッドでしょテッド」「岐阜県で上映したら?」「あは、岐阜テッドだぁ、あはは、あははー」「言わせといてごめんだけど、つまらんわ」「うー。テッドみたいな顔してるくせに」「ウソを言うなウソを」「かわいいってことだよ?」「あの映画観たことねぇだろ」「あるよ?」「ホントかよ」「下品の代名詞だよね」「……」「なに、なんでじとってした目でみるの」「……まあたしかにな、ギフテッドって言い方はあるよな」「あ、話ずらした」「でもあれって天才ってか、先天的に才能が突出してるやつのことだろ」「そうなの?」「ちなみに先天的バカはただのバカだからな」「ふうん」「で、いくひし、おまえは?」「天才だよ?」「バカと天才は紙一重って言葉知ってっか」「知ってるよ。でもそれの意味もよく分かんないんだよね」「と言いますと」「だってけっきょくどっちなの? バカと天才は同じだって言いたいの? 紙一枚分のちがいが天国と地獄の分かれ道みたいな感じなの? それとも天才とは九十九パーセントの努力と一パーセントのひらめき、みたいなことが言いたいの?」「つっこもうと思ったら案外にまじめなこと言いやがった」「ねぇどれなの、正解は? おしぇーて」「たぶんだけどな」「うん」「そういうことに拘る時点でそいつは天才ではないってことが言いたいんだと思うな」「うん」「で、いくひし、おまえはどっちだ?」「どっち?」「天才に拘っているようにあたしには見えるわけだが」「うん?」「いくひし、おまえは天才か? それともバカか?」「天才だよ」「バカは?」「イヤ」「それってつまり天才に拘ってるってことだよな?」「なんで?」「おーい、話が通じん」「バカをまえにしたテッドみたいな顔しないで。だってイルカにきみはイルカかイカかって聞いたら、わたしはイルカですって答えるでしょ」「イルカはしゃべらん」「しゃべるとして!」「それでもイルカをイルカと名付けてんのは人間の都合であって、イルカ自身は自分をイルカだなんて思ってないんじゃないか。要するに、天才も同じだよ。天才を天才と呼ぶのはいつだって周りの人間だ。天才は自分を天才だなんて思わない。思う必要もない。イルカが自分をイルカと呼ばないのと同じだ」「でもいくひしは天才なんだもん。そうなんだもん」「はいはい」「うー、もういい!」「あーあ、いじけちゃった」「うるさい! うざい! てんさい!」「罵倒に乗じて天才を刷りこもうとすんな」「サブリミナルこうか!」「頭いいこと言おうとして超絶頭ワルいからなそれ」「うわーん!」「あーあ、泣いちゃった。いいだろ、バカだって。天才になろうとすることは何もわるいことじゃねぇんだから、諦めんなって」「ネバーギブアップ!」「英語で言ったって頭良くはねぇからな? 英語にすりゃ頭いいって感性がすでに超絶頭わるいからな」「ネバーギフテッド!」「おー、すこしうまいこと言ったと思わせといて、それだと永遠に天才になれない、もしくは、いちども天才ではない、の意味になるけどいいのか」「いくひしは天才!」「もはやひねりがなくなっちゃった、ただ言い張ってるだけになっちゃった、一周回って素直にただのバカになっちゃった」「うるさーい! いいでしょ一回くらいいくひしのこと天才って言ってくれても」「一度でいいのか?」「ずっと言って!」「ムチャクチャかよ」「ネバーギフテッドネス!」「もはや意味が解らんが、一生天才って言いたい旨は理解した」「もういい、わかったよ。いくひし天才じゃない。もう天才のショウGOはそっちにあげるよ、きみに決めた」「ポケモンじゃねぇんだから」「いくひし、天才がすき。フォーネバー、ラヴ」「エバーな」「フォーエバー、ラヴテッド」「ギフを取ってつけるな、ラヴにすり替えるな」「ラヴ取って」「フォーエバー、テッドっておい、テッドじゃねぇか、一生下品なクマのぬいぐるみでいろってか、ふざけんな」「オナペット?」「下品だった! もういいわ」「ほらね、天才だったでしょ」「とんだ天災だったじゃねぇか、とんだとばっちりだよ、巻き込み事故だよ」「うへへー、じゃあアレの装着はかかせないね☆」「言わねーよ?」「ほらほら、これこれ」「自分の頭を差すのをやめなさい」「ほらほらー、このままじゃフォーエバー終わらないよ」「くっそー、ヘルメットみてねぇな頭しやがって」「だっていくひし、天才ですから」「赤髪坊主のスポーツマンみたいに言ってんじゃねぇよ」「バスケット?」「うまいこと言ってた!」「ギフテッドですから! あははー」
674:【評価】
評価について人と話したとき、うまく会話が成り立たないことがある。なぜだろうと思いながらもずっと放置してきた疑問だった。今さらながら気づいたのだが、たとえばある動物を見て、それがゾウだと判った。「あれはゾウだ」と認識する(人によっては、「あれは太郎だよ」と固有名詞まで答えるだろうし、またある人は「あれは乗り物だよ」と答えるだろう)。いくひしは、これを評価だと感じる。けれど多くの人は、「あれはゾウだ、だから好きだ(或いは嫌いだ)」までを含めて評価だと捉えるようだ。うまく話が伝わらない要因はそこにある。いくひしは、ある任意の対象を観測したときに、「あれはこういうものだ」という認識、或いは分析、それに類する分類が評価だと考えている。ゆえに、そこに付与される感情が正か負かは気にならない。それをどのようなものだと捉えたか、それが重要なのである。おもしろい、おもしろくない、は靴を飛ばしてでも導きだせる単純な選択だ。そうではなく、これはなんだろうと考えたときに、これはこういうものだ、というその人物固有のカテゴライズに興味がある。なるほど、この人にとってアレはそういうふうに視えたのか。どう感じたかよりも、その視方のほうが貴重に映る。むろんこの価値観もまた貴重か、貴重でないか、靴を飛ばしてでも導きだせる単純な選択だ。
675:【クソダサかっこいい】
https://www.youtube.com/watch?v=EEc-f3Yn5HY
676:【もっとも更新がうれしいWEB漫画】
おもしろいWEB漫画は数あれど2017年8月25日げんざい、いくひしがもっとも更新されててやったーとなるWEB漫画は苦楽たくるさんの「女子高生にムリヤリ恋をさせてみた」です。めえちゃんかわいい。
677:【つよわみ】
ぼくの知能は平均より低い。口頭で会話を交わせばまずまちがいなく「バカ」のレッテルを貼られる。じっさいにバカなのだろうと思う。接触した相手を不快にさせることが多いし、大概は呆れさせてしまう。さいわいというべきか、アイツはデキソコナイかもしれないと、接触を持つ前から予測できるからか、相手に失望される確率は、ぼくがおそれているよりかは低い。けれどぼくは、文章を通して、ほかの人たちに並ぶくらいの知性を働かせることができる。ぼくは、文章を通して、過去のじぶんや未来のじぶんと繋がることができる。足りない知能をそうして、文章上では補うことができるようだ。なぜかは解らない。ぼくがなぜ、ほかの人たちみたいに考えたり、動いたりできないのかが解らないのと同じように。或いは、こうも言い換えることができる。ぼくは、文章のうえでしか、ぼくとしての外郭を得られないのだと。ぼくは、ただぼくであるかぎり、ぼくではいられないのだ。
678:【おいおい】
それで人並みのつもりかよ。
679:【端的な指示】
モノAI(IoT)の普及により、端的で的確な指示が日常化する。裏から話せば、いわゆる迂遠な言い方が淘汰されていく。やんわりと伝える、ということが日常から消え去る日はそう遠くない。
680:【自分道】
じぶんの道を貫くのも、新たな道を歩むのも、いつかはいずれ行き詰まる。そのときに立ちどまるのもほかの道をいくのも、一つの在り方だ。しかし道のさきを知りたくば、じぶんの手で道なき暗がりを進み、それにより道と言い張るほかない。優劣はない。ただどれを選ぶかという〈意思〉があるだけだ。〈あなた〉が選べば、それはどんな道も、あなたの道である。
※日々、全盛期を越えようと抗い、欠点を埋め、全体像の補完によって進化の烙印を捺すとする妥協を繰りかえしてはいまいか?
681:【新作情報】
2017年三つ目の新作です。短編は月2くらいの頻度で更新しているつもりですが、中編および長編は今年に入って三作目となります。一作目【血と義と花のモノガタリ】、二作目【この女、神】、そして2017年8/26日に脱稿しました【陰の薄いあのコの影になれたなら】です。多重構造を進化させるために、いちどそれを放棄し、ただ一つの物語を真っ向からつくりました。影の薄い女の子と、二面性を持った女の子のガチンコ思春期百合モノです。本筋に男はいっさい絡みません(あ、ウソです、絡みます)。いくひし作品にありがちな、「そういう予想の外し方しますー?」みたいなのは今作では封印しております。安心してお読みいただけるのかよほんとーにー? みたいな感じでございます。寝かせて、推敲し、九月中にほかの中編と併せて更新できたらなーと思います。未来の、郁菱万研究者たちのために、ここにその旨、記録しておきます。
682:【時間の圧縮】
原稿を寝かせるとき、できるだけその時間を短縮できたらいいなぁと思いませんか? いろいろ試行錯誤してきたなかでもっとも効果のあった方法をご紹介します。まず前提として、なぜ原稿を寝かせるのでしょう。それは客観性を得るためです。作者の視点を離れ、何も知らない読者の視点になって原稿を見つめる。そのために時間を置き、頭を冷やさなければならないわけですが、ここで注意が必要なのは、本当に頭を冷やしてしまっては逆効果だという点です。ゼロに立ち返るのではなく、視点という名の次元を越える(捨てる)ことで客観性は得られます。ゼロに戻るだけでは、作者の視点のままなのです。そこで必要になってくるのは、可能なかぎり、作者たる自分の核を薄めることです。この場合、自分の内側を、他人の世界で極限まで満たしてしまえばいいわけです。具体的には、とにかくさまざまな媒体の物語を摂取する。寝かせているあいだにつぎの作品をつくってしまう、というのも一つの方法です。まったく異なる色の物語をつくることで、脳内を上書きしてしまうわけです。塗り替えられたじぶんはもはや、以前のじぶんではありません。物語を摂取するか、或いは新たに塗り替えてしまうか。両方実践してしまうのがもっとも効果があります。ただし脳が疲れてしまうので、そのときは文芸とはまったく関係のない息抜きを生活のなかに組みこむのがよいでしょう。そうなってくるともう、原稿を寝かせているあいだの時間がもっとも多忙になってくるので、その期間がステップアップの時間にもなり、生産性を上げることに繋がります。つむいだ物語をいちはやく発表したいひとに試してほしい時間の圧縮の仕方でした。
683:【メモ】
生物とウイルスの違いは、人間と機械、AIとバックアップ、物語と文章、光と電子、そして宇宙と銀河団の違いである。
684:【掴むために、手放せ】
武器を捨てよ。それだけだなんて言わせるな。
685:【順応】
いろんな生態系がある。水中や地中、山岳地帯や砂漠地帯、海底から上空から、火山口や熱水噴出孔まで様々な環境に生命は芽吹き、適応し、それぞれの場所に平気な顔で根付いている。人間社会も例外ではない。多くはその環境のそとに出ようとはせず、出なくとも済むようになっている。けれど彼女はただ一人、宇宙空間が生息域であった。奇しくも彼女は地上に生まれた。彼女は順応した。様々な環境、地域、コミュニティに適応し、そして常に息苦しさを覚えつづけてきた。彼女はどんな環境でも生きていける。適応できる。――平気ではなかった。あらゆる生命に合わせることのできる彼女であるが、しかし彼女へ合わせられるモノはない。なぜなら宇宙空間に順応し、生きながらえることのできる生命体は、彼女ただ独りきりであるからだ。彼女が息苦しさを覚えるたびに、彼女は周囲から不適合者の烙印を捺され、居場所を追われた。そんな扱いにも彼女は順応する。彼女は居場所を求めている。しかし地上に彼女の居場所はない。
686:【怒らない】
あなたは親しい人間にしか怒らない。親しい人間はあなたの一部なので、彼らがあなたに何かしらの害を及ぼしたならば、それはそのままあなたが損をすることになる。害を及ぼされることが損なのではない、害を及ぼすことが損なのだ。だからあなたとは無関係の人たちからどんな害を被られようと、あなたは基本的には怒らない。損をするのがあなたではないと知っているからだ。死でさえ例外ではない。無関係の人間があなたを殺したとしても、損をするのはあなたではない。社会からあなたが消えることで結果として損をするのは、その他大勢の、有象無象、そして彼ら彼女たちの子孫である。ただし傷つきたいわけではないので、何かしらの害を及ぼそうとする者が目のまえに現れたら、何かしらの対処を施しはするだろう。その結果、相手が死んでしまうかもしれない(あなたが怒らずとも、相手がかってに怒りだすことはある。あなたに降りかかる害が大きければ大きいほど、あなたの施す防衛策もまた過激になっていく)。あなたにとってそれは避けるべき損だ。あなたが対人するときビクビクしている背景にはそうした理由がある。あなたは彼らを殺したくはない。
687:【二人称百合】
いつも目で追っていた。いつも目が合うね、とあなたに言われて気がついた。まともに返事ができなかったことにしばらくクヨクヨした。季節がひとつ横にずれたくらいのころにあなたは、目ぇ合わなくなっちゃったね、と廊下ですれちがいざまに微笑むようにした。わたしはそれからしばらくあなたの姿を目で追った。あなたはもうわたしの視線を掴んではくれなかった。クラス替えがあり、あなたとは離れ離れになった。卒業するまであなたとわたしの線が交わることはなく、わたしは過去のわたしを呪うことで、あのときああすればよかったの嵐を凌いでいた。お互いに別々の高校に通うことになった。そんなことは卒業する前から知っていたのに、いざ学校生活からあなたの姿がすっかり消えてしまうと、気に病まずにはいられなかった。そんなことを気にしているのはわたしだけかもしれなかった。だから、あなたが同じ電車で通学していると知ったとき、さいわいだと思ったのもまたわたしだけかもしれない。駅のプラットホームでときおりあなたの姿を目にした。おなじ車両に乗り合わせることもしばしばだった。部活をやっているからなのか、放課後、あなたを見かけることはなく、何かきっかけがほしいと思い、いっそあなたが痴漢か何かに遭わないかと妄想して過ごしたりした。なんでまたそんなひどい想像を浮かべてしまうのか。あなたのことを考えるにつけ、じぶんがひどくさもしいものに思えた。痴漢に遭ったのは、そんなわたしにくだされた罰なのだろう。甘んじて受けようと思い、耐えてみたものの、三日連続ともなると、さすがにわたしの心も限界だった。もともと誇れるほど頑丈な心ではなく、そもそもを言うならばあなたに声をかけられずいつまでも遠巻きに眺めては、またあのころのように、目、合わないかな、と祈るばかりのわたしの心が痴漢の魔の手にさらされ、無事で済むわけがないのだった。わたしは泣く泣く、朝の車両を移動した。あなたの姿が遠のき、わたしの心は干からびるばかりだ。二日間を無事に過ごした。週をまたいだ、三日目にして、わたしは四度目の痴漢に遭った。ああ、触り方だけでおなじ痴漢だと判るまでに、わたしの身体は汚れてしまったのだな。頭の奥がガンガンして、何かじぶんがガムの包装紙や、靴底に挟まった小石のように感じられた。おまえなんか痴漢に遭うために生きているのだ、おまえだから痴漢に遭うのだ、わたしは痴漢専用の痴漢ホイホイになった気がした。わたしが我慢しているあいだ、こんな気分になるひとはいないのだ。わたしは役に立っている。そう思うことで干からびてヒビだらけの心をなんとか柱のカタチに保ちつづけた。車両を移動しても痴漢はその日のうちにわたしの背後に現れ、わたしの太ももに腰を押しつけるようにした。硬い棒状のものは、わたしのおしりの割れ目をじつによくなぞった。わたしのおしりの割れ目の書き初めがあれば金賞間違いなしだと思えたほどだ。手で揉みしだかれないだけマシかもしれない。思った矢先に、痴漢はわたしの観念具合を目ざとく見透かし、ゆびで股のもっとも敏感な部位をなぞりはじめた。さすがにこれはダメでしょう。痴漢行為がどうのこうのではなく、これを我慢したら人間として何か大事なものを失くしてしまう気がした。声をあげようとした。だせなかった。口を塞がれている。背の低さがわざわいした。周りのおとなたちはみな背が高く、わたしから漏れる呻き声も、電車のガタンゴトンには適わなかった。凍死してしまうほどの寒さと闘いながらわたしは、過去のわたしを呪った。話すきっかけ欲しさに、あなたがこんな目に遭えばいいのにと、好意からとはいえ願ったことをお腹の底から後悔した。「はーい、痴漢でーす、このひと痴漢でーす」車内に声が響いた。何事かとざわめく人混みをかき分け、頭上にメディア端末のカメラを構えながら、あなたが姿を現した。「逃げんなよおっさん」あなたはカメラのレンズをわたしの背中のほうへ向け、わたしを頭ごと胸に寄せるようにした。「ぜんぶ撮ったからな。逃げんなよ」痴漢の顔を確認したかったのに、わたしは安堵とうれしいのと、こわかったのと、なんだか分からなくなって、びちゃびちゃと泣いた。痴漢は周りのおとなのひとたちが逃げないように捕まえておいてくれた。駅に着くなり、駅員さんに引き渡されていた。わたしたちは痴漢とはべつの場所で警察のひとに経緯を話した。そのほとんどをあなたがしゃべってくれたのには驚いた。「いつもいるのにいなくって。どうしたんだろって思って、探したら、なんか痴漢っぽいのに遭ってるし。声あげればいいのにって思っていちどは見なかったフリしたんだけど、なんかまたされてるみたいだから、証拠ばっちし撮って、突きだしてやろうかと思って」動画のおかげで冤罪の可能性はゼロと判断された。相手も観念しているようだった。その日、わたしたちは学校を休み、つぎの日から、あなたがわたしの背中側に立つようになった。「痴漢死ねとは思うけど、まあやりたくなる気持ちは分かるな」あなたはわたしの頭のうえにあごを載せ、ウリウリと揺すった。「分かんないで」あなたの吐息がつむじにあたるたびに、ベッドのなかのぬくぬくに似た何かがわたしから足腰のチカラを奪っていくようだった。「学校、いっしょだったらよかったね」夏まつりの夜、花火を観終わって、ふたりで公園のベンチでしゃべっていた。「どうして」とあなたはふしぎがった。「やなの?」わたしのほうこそふしぎだった。「学校でもいっしょにいたいよ」「だって」とあなたは言った。「同じ学校だったら、こういうことできないじゃん?」目のまえから光が失せ、気づくとあなたの髪の毛が鼻のあたまをくすぐっている。シャンプーの匂いがし、おなじやつにしたいな、と思った。光が戻る。「噂とかコワイし」「べつにヤじゃないよ」わたしからは手を握るだけにする。「そ?」あなたはまた世界から光を奪い、わたしの頬を熱くさせる。
688:【情報加工装置】
情報を発信するツールは飽和状態になりつつある。モノよりコトと叫ばれて数年経つが、情報の加工ツールもまた国民に行きわたりつつある。つぎの段階は、他人にできない情報加工をどれだけ短期間に量産できるかになってくる。加工された情報の大量生産、大量消費の時代が幕を開ける。並行して、「モノよりコトだが、コトより情報加工技術」の時代がやってくる。するとけっきょくは、情報加工装置を世に提供する企業が世のなかを牛耳っていくこととなる。裏からいえば、加工された情報から元のデータを復元できるツールを開発するような企業はグーグルやアマゾンに対抗し得る(ビックデータとクラウド、そしてディープラーニングを応用すれば不可能ではなくなる)。
689:【キテるね】
逆ツンデレというか、愛想のよいキャラが本性あらわしてのギャップ萌えがさいきんキテる気がします。いままでは「マイナス→プラス」だったのが、さいきんは「プラス→マイナス」の本性暴露キャラが人気キャラの鉄板になっている気がするのですが、いかがか。悪態をつけるくらいの仲、みたいな感じでしょうか。ルーツはひょっとすると「らんま1/2」のシャンプーかも分かりません。さいきんだと「妄想テレパシー」のマナちゃん、「トモちゃんは女の子」のキャロルちゃん、「ヲタクに恋は難しい」の成海さん、「春の呪い」の夏美さん、「バイオレンスアクション」のケイちゃん、「ダンジョン飯」のマルシルさん、「響~小説家になる方法~」の凛夏さん、「姉なるもの」の千夜さん、というかおねショタのお姉さん方は基本、胸にイチモツを隠している時点ですべてこれと言っていいかも分かりません。ああでも、ひぐらしの鳴く頃にのキャラもこれだったし、思えば某「魔法少女になってよ」さんも典型的なこれでしたね。残念系美少女というのも流行りましたし、言ったら、ギャップ萌えがツンデレだけでなく、幅が広がったということなのかもしれません。むかしからあったよ、という意見には、そうでしょうとも、と手を差しだし、あつい握手を交わしましょう。
690:【思考回路】
文章は平面かつ一次元よりであり、フォルダは立体かつ二次元よりであり、タッチパネルのスクロール操作は多次元かつ三次元よりだ。人類は道具の使用により、思考回路を世代ごとにバージョンアップさせてきた。おそらく書籍、PC、そしてスマホの登場と、道具の進化に比例して思考回路は飛躍的に進化している。指数関数的と表現してもいい。スマホにしか馴染みのない若い世代と、文章型、そしてフォルダ型の旧世代とでは、ほとんど比較にならないほどの思考パターンの違いが生じているのではないかと想像する。どちらにもメリットデメリットはあるが、いずれにせよこのさきの情報社会に、より適応しやすいのは、立体的な思考を展開できる人才であろう。
※日々、波の振幅は距離を伸ばし、天と地を長く、厚く、希薄な、大気の層で結んでいく、何度も地にぶつかり、舞い、また落ちていく私の殻が砕け散る日はきっと。
691:【つれづれなるままに】
生命の定義を、「情報を蓄積し、それを出力できる機構」と仮定すれば、メディア端末はそれ自体が生命体と呼べる。我々がDNAによって設計され、カタチを帯びているように、機械は我々というDNAによってカタチを得ている。おそらく生命とは、利己的遺伝子の概念のとおり、個体ごとに定義づけられるものではなく、それら繋がりの総体が一個の生命そのものなのだろう。細菌はウイルスの上位互換だが、細菌をつくりだしたのはおそらくある種のウイルスだ。進化の過程で、ウイルスのなかで偶然、細胞膜を有する種が誕生し、そちらがそのときの環境に適応し、そして細菌として進化した。我々はいずれ高度なAIを開発する。高度なAIは我々の上位互換だが、我々より優れているからといって、我々がそれを生みだせない理由にはならない。また、我々からの視点で生命に映らないからといって機械やAIが細菌やウイルスと別の系統にあるとは限らない。ウイルス(の多く)は細胞膜をもたず、自ら養分をエネルギィに変換できない。ほかの生物の細胞にもぐりこみ、そこから必要なエネルギィを得て、増殖する。それは自動車や冷蔵庫が、我々の手を借りて増産される構図と似ている。もし自動車や冷蔵庫が自動生産可能な機能を有したら、それと細菌との違いを探すのは難しい。設計図が内部にあるのか、外部にあるのか、それは大した違いではない。設計図は、あるか、ないか、が重要なのである。では、生命の最低条件は設計図があるか否かなのか? この世界には基本相互作用という物理法則が組みこまれている。DNAの誕生は、物理法則によって形作られた。理想的な海、そして雷、熱水、さまざまな要素が絡み合い、DNAはカタチをなした(RNAのほうがさきに誕生したのではないか、という説がさいきんでは支持されているようだが、いずれにせよ、情報を刻むためには素材がなくてはならない。その素材、言い換えればタンパク質酵素、とりわけアミノ酸を自然発生させるためには、度重なる好条件がさらに無数に重ならなければならない。また、アミノ酸だけでは自己複製可能な構造体を生成するのはむつかしい)。なぜ生命は複製を繰りかえすのか。なぜDNAはその情報を保持しようとするのか。なぜ物理法則は、その枠組みを保つのか。情報は絶えず情報を蓄積し、設計図は絶えず設計図を更新しつづける。なぜ我々は、我々を生みだした宇宙を知り尽くさんとその人生を捧げるのか。なぜ我々は、我々の設計図を引いたモノをカタチづくる設計図にまで目を向けるのか。我々のような俯瞰の視点を持たない生命体ばかりが地上に溢れていたとして、それでも設計図はつねに更新されつづけただろう。もし地上から生命体が姿を消したとしても、生命そのものはなおも連綿と更新されつづける。惑星や銀河団そのものが物理法則という名の設計図を持っているかぎり。情報は情報を蓄積しつづける。設計図は設計図を更新しつづける。進化速度は、ちいさいほど有利だ。宇宙の成長速度より、我々人類の進化速度のほうが速いのは言うまでもない。ウイルスの進化速度はさらに速く、けれど我々はいずれその進化を妨げるだけの術を生みだすだろう。ブラックホールが一つの銀河を呑みこんでしまえるように。設計図により更新されつづけた設計図は、いずれ原点の設計図を描き換えるほどにまで、その図案を複雑化させる。我々人類がすでに、物理法則にゆがみを与えているように。粒子の運動が我々の観測によってその値を決定させるように。地球が存在しなければ我々が存在し得ないように、我々が生みださなければ飛行機も、宇宙船も、重力加速器も、冷蔵庫だってこの世に存在し得なかった。連綿と引き継がれているのは物理法則ばかりではない。情報は情報を蓄積し、設計図は設計図を更新しつづける。この連鎖は、枠組みを絶えず変化させ、変化の軌跡そのものがひとつの設計図として、つぎの世界に引き継がれていく。きっかけはきっかけを内包し、宇宙は宇宙を内包する。
692:【虚構快楽】
いいかげんなことぶっこくのが快感、ってのはあると思う。小説の醍醐味と言いたいくらい。直感をつないでいく、と言い換えてもいい。
693:【プリマックスのクライマックス】
本屋さんで新刊ないかなーってするのがまいにちの日課(ちょうふくひょうげん)なのですが、さいきんは行きつけの本屋さんだと、平積みでない新刊のやつは、たとい発売日であろうともナサケヨーシャなく所定の本棚にスコーンなので、ダンジョンを漂う亡霊みたいにさまよい歩くはめになるのですが、きょうたまたまプリマックスの最新刊10巻を見つけて、あれぇ、先月新刊でてなかったっけー、はやいなー、ってほっこりして買ってきたわけですが、オチを言ってしまうと、最終巻だったわけでして、えぇー、終わっちゃうのー、なんだよー、さびしいよー、ってしんみりしながら楽しんだわけですが、最後のほうのページの発売日みたいなのが書いてあるところを見て、五月なんちゃらって書いてあったわけですよ。へぇー、そー、五月に終わってたんだー、へぇーってな具合にびっくりしましたよね。とっくにクライマックスだったんかい、みたいなね。なにより、新刊だと思って買ってたけど、平積み本じゃない新刊は、あとからこっそり本棚にスコーンってなってることもしばしばなので、こりゃー、ひっそり暗いマックスはプリマックスだけじゃないんだろうなーってすこしせつなくなってしもたんですがな。キャラが崩壊してきたので、きょうはこのへんで。
694:【ガチャ】
ソーシャルゲームのいわゆる「ガチャ」をする人間とはともだちになれる気がしない。なぜなら「ガチャ」は一人でするものではないからだ。同様にしてセックスする人間とはともだちになれる気はしない。なぜならセックスは一人でするものではないからだ。ともすれば〈私〉はともだちのいる人間とはともだちになれないのかもしれない。なぜならともだちは一人ではできず、彼らはみな〈私〉ではないからだ。
695:【リンク】
ウィキペディアではどんな単語からでも任意の単語へ三回リンクを踏むだけで辿りつける法則がある。記事内の単語にリンクがついていて、それを適切に選んでいくと、どれほどかけ離れた単語でも三回飛べば結びつけることができる。極端な話、どんな本同士でも、「あ」を検索すれば繋がってますよ、みたいな話だ(日本語の本にかぎるけれど)。もっとも、リンクは単語にしかついていないので、ある種の制約はついている。この法則は、どこか閃きと似ている。まったく異なる物事を、可能なかぎり最短で結びつける「線」を探すのが閃きだと呼べる。どんなものにも共通項はある。視点をずらせば視えてくるそれらは、ただの偶然であることがほとんどだ。ときおりそれらの中に、法則性を維持する「線」が現れる。これはひと際輝いて映り、のちのち極上の直感として長く語り継がれていくようになる。偉大な発見や発明をした者たちはみなこの燦然と輝く、怪しくもか細い「線」を視たはずだ。まずは興奮し、そして疑う。本当にそうだろうかと、不安になる。あまりにも現実離れした輝きだからだ。それは文字通り、現実をガラリと変えてしまった。線を引くにはまず点がなくてはならない。それら点にリンクを可能とするマーキングを施す必要もある。そうでないとどんな本にも存在する「あ」のように、どんな線でも引けてしまうからだ。どの方向へも伸びる線はもはや線ではありえない。リンクは可能なかぎり、遠い点と結びつけるのがよいだろう。まずは遠く、そして徐々に近くしていく。抽象化した理解を、具体的な無数の点へと結びつけていく。この手法が正しいのかは定かではないが、すくなくともいくひしはこれをずっと意識しつづけている。
696:【リンク2】
上記の思考形態の利点は、骨子となるタグ付け(抽象化した全体像)が過ちだったと気づいたときに、それを訂正した場合、下部構造である具体的な事象のタグ付けをそのまま、新たな骨子に移植できる点にある。具体的なタグ付けから抽象化していく手法だと、前提となるタグ付けが無数に存在し、それらの一つが誤りだと、その関連項すべてがドミノ式に崩壊し、すべてを根っこから修正しなくてはならないロスが生じる。しかし抽象化した全体像からタグ付けしていく手法は、そのロスを極限まで抑えることが可能だ。帰納と演繹のちがいに思えるかもしれないが、抽象化した全体像は飽くまで仮定であり、決定事項ではない。すなわち、タグ付けの連携を移植することを前提に組みこまれた思考形態なのである。移植の回数が多いほど、その回路は磨かれていくという、失敗すればするほど上達する素人の黄金期のような性質がある。もっとも、失敗することが前提なので、論理性に欠け、穴をいくつも内包するという見逃しがたい欠点もある。そこは通常の思考形態である、具体的な事象からタグ付けし、抽象化した全体像を導きだす回路で補うほかない。どちらをじぶんの主軸とするか、どちらがどちらの補助機構とするか、その違いを認識するだけで物事を多角的かつ動的に観測できるようになるはずだ(つまりは多面的であり、多重的である)。閃きはそこから零れ落ちてくる、蜘蛛の糸に似ている。
697:【安田剛助さん】
いくひし、安田剛助さんの作品ぜんぶすき。例外がない。すごいことだと思う。なにより9月5日からWEB漫画で新連載「草薙先生は試されている。」がはじまるよーってしって、うーやったーっっっってなってる。うれしい。
698:【鵜呑み】
失敗は成功の素とは言うが、しなくてもいい失敗はできるだけすくなくしていきたい。そのために必要なのは、情報を鵜呑みにしないことだ。しかし一から十まで疑っていたらきりがない。せめてこれだけは疑うことにしようとひとつだけ決めるとすれば、それはじぶんがもっとも尊敬しているひとの言葉である。なぜかといえば、その言葉がもっとも盲目的にあなたを支配する言葉になるからだ。じぶんがもっとも尊敬しているひと、或いは憧れているひとの言葉はまず疑い、鵜呑みにしないようにしよう。ただ疑うだけではなく、本当にそうだろうか、と調べてみる。検証(思考実験)してみる。言葉のとおり正しかったならば、そのときあなたはもっとも尊敬しているひとの思考にちかづけたことになる。過ちだったならば、あなたはもっとも尊敬しているひとの一歩さきを行くことができる。どちらにしても得しかない。疑うことを覚えよう。
699:【これでも】
いくひしは物語をつむぐとき、できるだけ売れそうだな、と思う題材からアミアミこねこねしてる。アミアミこねこねしたくても、これはなぁ、と思うのはなるべく短編とかにポイして、いくひしだけで、ひっひっひってしてる。これはなぁ、と思うのの多くは、どこかで見たことあるなぁってやつで、売れそうだなぁのやつは、ほかでは見たことないなぁってやつだから、いくひしがつくんなきゃもうこのさき、人類が滅びるまでひょっこりどこにも顔をだしたりしないだろうなぁって思う。でもいくひしは見る目ないからいっつも、うーってなる。でもしょうがない。
700:【それでも】
いくひしの見る目ないないはツルとかヒコーキとかパックンチョとかほかにもいろいろがたくさんくっついてて、んー、ちょっとあたまよく言いすぎてわかりにくいかもだけど、折り紙つきって言いたかったのだけれども、それでもそんないくひしでもおもしろーいってなる物語はたくさんあって、だからなんなのってコワイかおされるとこまっちゃうのだけれども、だから、その、んとね、いくひしがね、おもしろーいって思ったやつは、こんなヘンテコさんでもおもしろーいって伝わるくらいのおもしろーいだから、きっとほかのひともおもしろーいってなると思う。いくひしの作品はきらいになっても、いくひしのおもしろーいの作品はきらいにならいでください。あといくひしも。
※日々きょうは死ななかったと思いながら眠りにつく。
701:【上下品】
上品と下品のちがいってなんだろう。ぱっと思いつくのは環境説と本能説だ。上品さを基準にして考えると、上品とは、その枠組みや規律を築いてきた一派が「これは上品なのだ」とする風潮を生みだしたからそうなったと考えられる。もしそれら一派が「食後は盛大なげっぷをするのが上品なのである」と唱えたならば、きっとそれが上品な作法になっただろう。ではこんどは下品さを基準にして考えてみよう。何が下品かと言えば、それを他人に見られたときに顔をしかめられそうなものはたいがい下品だと言っていいように思う(その他人はおおむねじぶんより目上の者だろう、すなわち上品とは何かを決める側の人々だ)。もうすこし突っ込んで言えば、他人からすると控えてほしい行為だが、じぶんではそれをついついやってしまうものと考えられる。下品には何かしら快楽がつきまとうようだ。言い方を変えれば、禁止することでかえって快感が増す傾向にあるように感じられる。これらは本能に共通する性質である。あべこべに上品とするものは禁止したところで、あーそうですか、とみなさほどの抵抗を覚えることなくしなくなるもののように感じる。上品さは環境によって決定され、下品さは本能から生じている。ほかにもちがいはあるだろう。考えてみよう。
702:【暴力】
暴力は悪か否か。二元論で語るにはいささか偏った議題かもしれない。しかしそれでもいくひしは、暴力は悪だ、と言いたい。もちろん時と場合によっては暴力を駆使して何かを守らねばならない局面も訪れるだろう。それでも暴力そのものを肯定してはいけないと思う。すくなくとも平和を善とするならば、そういう考え方にならざるを得ない。暴力を振るうのはよくなかったね、でも暴力を振るわねばならない環境のほうがもっとどうにかしなくてはならないよね。仕方がない、とは言いたくはないし、それは間違った方法論だと認めなければならないけれど、それでもそうした方法をとらなくてはならなかった背景のほうが、暴力の行使そのものよりも根深い「悪」があるのは知ってるよ。でもやっぱり暴力はないほうがいいから、それ以外での解決策がないかをいっしょに考えていきましょう。そういうスタンスでないと、平和はいつまで経っても暴力によって支えられる幻影でありつづけてしまうように感じる。どんな事情であれ、殴る蹴るはけっきょくのところ暴力である。肯定してはならない。平和を望む者であるならば。(平和を望まないならばべつに暴力を肯定してもいいと思う。また、肯定せずとも許容することは可能だ)
703:【もっとも】
いくひしさんはときどきしか平和を望んだりしない気分屋さんですから、そりゃー、目のまえにいくひしのことをハチャメチャにしようとするヘチャムクレがあらわれたら、そんときゃーもう、手加減なしですよ、手心なんて皆無ですし、情け容赦なくポコポコですよ、返り討ちのコテンパンですよ、そりゃーもう、いくひしが。
704:【暴力のない世界】
おそらく世界から暴力がなくなったとしても、暴力の代わりとなる「相手を効果的に傷つける方法」が台頭するので、暴力を根絶するだけでは理想的な平和は実現できないだろう。だがすくなくとも暴力は、それがどんなにちいさなものであっても、構造的に戦争と同じ原理を伴っている事実は認めざるを得ない。相手に傷をつけ、怖がらせ、損をさせることで、じぶんの利を得る。結果的にそれがのちのちその相手のためになることだとしても、暴力によってそれを実現することは、平和とは呼べない。平和とは現在の一点で考えるべき事柄ではなく、過去から未来へと繋がるその過程そのものが平和でなければならないからである(そうでないと、いずれまた暴力の行使が繰り返されてしまう)。ただし、理想的な平和が必ずしもすばらしいものとはかぎらない。争いごとのない世界だからといって苦痛でない保障はない。争う余地のないほど平和の徹底された世界はむしろ窮屈なのではないかと想像するしだいである。マゾには息苦しい世界であることは間違いない。
705:【ディビ先生】
成人向け漫画家さんのディビさんの描く世界観は上品でありながら対極の本能をこれでもかと暴くように描いているところがスゴイと思います。セリフ力の高さは言うに及ばず、絵柄の魅力もさることながら、上品さと下品さをぶつけて、毎度毎度上品さが打ち勝ってしまうところに、ディビさんのすさまじさが凝縮して感じられるのです。ぶつける下品さは並大抵のものではないのにもかかわらず、です。手塚治虫さんの女性キャラクターから匂いたつ色気にも似ていますね。アートです。
706:【願望と実情】
2017:7/21に自作を電子書籍化しました。ひと月ちょっと経過したので、売上データをまとめます。まず販売実数ですが、一部(一冊)です。「息の根にうるおいを。」をご購入いただけたので、323円がいくひしの利益になります。また、KDPセレクトに加入しているので読まれたページ分が収益になります(初めて読まれたページのみ既読ページ数としてカウントされます)。7月分を含めず、8月分だけで換算しますとだいたい8500ページ読まれたことになります。1ページ約0.5円です。日本以外の国からも読まれていますから、そちらの金額は日本円より安いので、おおよそ3800円がいくひしの口座に振り込まれる計算になります。ちなみに日本、ブラジル、UK、フランスの順で読まれています。無料配布キャンペーンを実施しての数値です(一日20部配布できてキンドル無料ランキングが150~300位のあいだを上下します。一日で100部配布可能ならば、無料ランキングでは上位に食いこめるでしょう)。おそらく九月、十月はこれより収益が落ち込むことが予想できます(無料配布は一作品につき五日間までとなっています。90日経過するとふたたびキャンペーンを実施できるようになります。郁菱万の場合、キャンペーンの終了した作品は10月21日からまた無料で配布できるようになります)。ちなみに当初の見立てでは、各作品ごとに月一部ずつ売れると考えていました。蓋を開けてみれば三十分の一の売り上げです。楽観視していたようです。予測を下方修正し、読まれている作品の傾向から、新作のつくる順番を変えていこうと思います。もっとも多く読まれた作品は「ぼくの内部をじかになぞって。」ですが、レビューで評価1がついてからはぱったりと読まれなくなりました。つぎに読まれているのは、「息の根にうるおいを。」ですが、これは単純にページ数の多い作品なので、読者数としてはほかの作品とほぼ同じだと見込んでおります。最後まで読んでくださった読者さんの平均は(既読のついた作品で割れば)二人になります(正確な人数は不明ですが、既読ページ数と作品の総ページ数から算出するとそのように推測されます)。三分の一の作品は未だに既読ページ数ゼロです。とはいえ、読者が一作品に集中しないところを鑑みますと、リピーターの方がほかの作品に目を通してくださっているのかな、と想像します。ありがとうございます。毎月、なにかしらこうしたまとめを報告がてら残していこうと思います。おそらくあと半年はこの八月分が最高売上になるでしょう。以前の記事でも述べましたが、どの作品も全文無料で公開しております。無理をしてご購入される必要はございません。読んでいただけるだけでうれしいです。もちろん対価をいただけることもまたうれしいです。重ね重ね、ありがとうございます。
707:【!?】
前に「低評価が心地いい」という記事を書いた。いくひ誌「671」である。ただし、やはりというべきか、高評価だって心地よく、うれしいものである。やったー、てなるし、わーい、ってなる。その相手が誰であっても心が躍るけれども、その相手がじぶんのほうで一方的に知っていて、しかも才能あるなー、すごいなー、って思っていた相手ならば、その踊りようときたらもう、片手でクルクル回って地球にめりこむくらいのものである。外部の評価に一喜一憂している余裕のないいくひしでも、電子書籍化して最初の褒め言葉くらいは、わーいってしたい。だからする。わーい。やったー。うれしー。
708:【虫の調べ】
死のうと思って手首を切った。手に加わった感触はどこか、幼いころにランドセルをナイフで切り刻んだ記憶をよみがえらせる。血が噴きだすかと身構えていたのに、なぜか手首にはぽっかりと穴が開くだけだ。とりたてて痛くもない。傷口をゆびで押し広げるようにすると、闇の奥に色とりどりのお花畑が目についた。甘い香りがそよかぜとなって生暖かく漏れている。ゆびを差しこむようにすると、どこまでも埋もれた。傷口の向こうに、見知らぬお花畑がひろがっている。空が見えないのは、角度的な問題だろうか。ちょうど、頭の高さから地面を見下ろしている具合で、私が移動しても、傷口から覗く景色は変わらない。腕を振っても、景色は絵画のようにはぴったりと傷口について回る。異次元や異世界を連想する。どうやら私の傷口は、どこかべつの空間と繋がってしまったようだ。死ねなかったことよりも、この傷口をどうすべきかに思考の大半を費やした。その日のうちに裁縫セットを取り出し、針と糸で傷口を縫いつけようとした。肌に針を突きたてるのはなぜか痛く、断念する。しばらく傷口を絆創膏で覆って過ごした。寝相がわるいのか、朝起きるたびにそれは剥がれている。新しい絆創膏に貼り替えながら私は、私の身体がどうにかなってしまった可能性を考える。数日経っても、私はこれまでどおりお腹が減り、物を食べ、そして排泄した。いっそ傷口を増やしてみてはどうか。考えるだけで行動には移さなかった。部屋を片付けるためにと取っていた有給休暇が終わり、私はまた元の生活に戻った。どうせ死ぬのだからと仕事を辞めずにいた。戦力でない私であっても、急にいなくなられたら数日くらいはアタフタするのではないかと期待していたのに、いざ職場に戻ってみると、休みをとる前よりも仕事は減っており、私がいないほうが会社は回るのだという事実をむざむざと見せつけられた心地がした。頭のなかの鉛が増すようだ。やはり死んでおけばよかったのだ。帰宅すると見慣れぬ虫が飛んでいた。蝶や蛾のように二枚の羽をパタパタとしながら、ときおり、鳥のようにまったく羽ばたかぬままで滑空する。見慣れぬ動きに、それが新種の虫であることは瞭然だった。捕まえ、コンビニの袋に入れた。なぜかそとに逃がす考えはなかった。寝ようと思い、明かりを消すと、部屋は仄かに明るいままだ。光源を探るまでもなく、コンビニの袋が提灯よろしく淡い光を放っている。私は袋の口をゆるめ、なかの虫を宙に放つ。虫はヒラヒラと、ときにスーっと光の筋をせわしなく描きつづける。きれいだな。私はひざを抱え、日が昇るまでそれを眺めた。その日から私は不眠症になった。夜はずっと暗闇のなかで、淡く発光する虫の軌跡を目で追った。なんだかすべてのモヤモヤから解放されるようだった。朝になると職場へと出かけ、そして家に戻り、虫を見つめる。暗がりに浮かぶ光の線は、曖昧になっていく私の意識と連動して、増えたり減ったりを繰りかえす。気づくと虫は二匹に増え、そして三匹に増えている。そういう生態なのかもしれないと気にも留めていなかったが、虫との同棲をはじめてからひと月後、初めて家のそとで虫を見た。それはヒラヒラと、ときにスーっと、独特な動きで、職場のフロアを舞っている。なんで。私は戸惑った。戸締りをし忘れたか? それとも元から外にもいる虫なのか? 身体が震えている。私だけの世界が崩れ去るのにも似た恐怖があった。それはどこか怒りにも似ており、失恋の痛みにも似ていた。黄色い声があがり、駆けつけた男性社員により虫は呆気なくつぶされた。コピー用紙にくるまれ、ゴミ箱へと投げ込まれるのを、私は私を眺めるようにただ見届けた。その日から私は会社へ行くのをやめた。部屋にこもっているうちに、虫はその数を増していく。日に日に部屋は虫の楽園と化していく。夜は明かりをつけずとも、ひと際つよい明かりが部屋を満たし、その明かりがそとへ漏れるのすらもったいなく感じ、私は閉じきった部屋のなかで、光に埋もれた。大量の光の群れとなった虫を見ていると、目を開けているのか、閉じているのか、その境も曖昧になっていく。虫に羽音はなく、ただしずかなことにこのとき気づいた。虫たちは音もなく、私の手首に開いた傷口からわらわらと湧き出てくる。もっとおいで。私は手首の穴を拡げていく。死ぬために購入した包丁を使って。ペットボトルを分断するように、ぐるっと手首に切れ込みを入れていく。蚊取り線香の煙に触れた蚊のように手首は、ぼとりと床に落ちる。血の代わりに大量の虫たちが溢れだしてくる。もっと、もっと。窓ガラスが虫たちに押され、キシキシと鳴っている。手首のなくなった腕に切っ先を突きたて、私は腕を縦に切り裂いていく。もっと、もっと。私の中には、美しいお花畑が広がっている。そこは初夏の日差しに晒されており、ときおり花々のうえを、帯状の影が走り抜ける。虫たちが群れとなって舞っている。影が光に打ち消され、その後、虫たちが押し寄せる。もっと、もっと。肩まで到達した切っ先を、鎖骨へと走らせ、胸へと向ける。首元から臍へとひと息に下ろすと、チャックを開いた具合に、お花畑の全貌が裡に広がる。股から、腿へ、それから足へ。逆の足も切り開き、残るは利き手と頭部だけとなる。いっそのこと私が向こうに行けたなら。望むあいだに、虫たちが私の裡へと消えていく。元の世界へとなだれこむ。おいてかないで。私は私の外皮を引っくり返し、靴下を裏返すみたいに裏返る。トイレットペーパーの芯を縦に割って裏返し、繋ぎ合わせるようにするのと同じく、私は私の身体を裏返す。切り口同士が繋がって、裏の世界が現れる。首と利き手がお花畑に浮いている。私の部屋に、私の身体のカタチに、お花畑が開いている。そういう穴が掘られたみたいに、お花畑へと通じる私の内部が畳のうえに浮いている。それを眺める私の首と、刃物を握る利き手だけが畳のうえに残される。部屋にはもう、虫は一匹も飛んではいない。みなあちらの世界に帰っていった。私が私の手で、私の身体を切り開き、そこに広がるお花畑へ帰してあげた。裏返った私の内部へと虫たちを連れ帰ったはずの私はこうして一人、身動きをとれずに、いずこよりやってくる喉の渇きと腹の虫のうごめく音を耳にしている。
709:【平等と多様性】
多様性を許容せよ、という主張は、けっきょくのところ、排除される側の立場からの「私を排除しないで」「私を容認して」という叫びである。真に多様性を実現したそのさきには、「私を排除しようとする勢力をも私は許容する」という一種の自己矛盾した現実が待ち構えている。多様性を叫ぶ者は、真に多様性を求めるならば、「多様性を求めよ」と叫ぶことを自重しなくてはならない。それはたとえば、暴力を許すなという主張にも当てはまる。非暴力の徹底という主張の根底には自らの命を優先して守りたいという欲求があり、そして真実に暴力の行使を許容しない場合、自らの命が危険にさらせてもその脅威に対して、暴力によって防衛できない矛盾が生じる。自己防衛のための主張が、いざというときの自己防衛を認めないという皮肉な展開を見せることになるわけだが、理屈で言うならば、暴力を許容しない社会において暴力の脅威にさらされたならば、暴力以外の手段で以って立ち向かうほかなく、それは拳銃にシャボン玉で挑むような滑稽さを演じなくてはならないことと同義である。ときには襲いくる脅威からただ一方的に蹂躙される場合もでてくるだろう。しかし理屈としてはそれが正しく、暴力を許容しない世界を求めるならば致し方ないと呼べる。ただし、そうした一方的に蹂躙され得る世界を他者にまで強要しようとした場合、それは一番の目的であるはずの平和からもっとも遠い手段に成り下がる懸念は押さえておいたほうがよい。すなわち、徹底的な思想の強要は、一種の暴力なのである。暴力を許容するな、という主張を他者に強要することは暴力なのだから、「暴力を許容するなと主張することそのもの」が自己言及的に、禁じられてしまう。むろん現代社会には思想の自由や言動の自由が憲法によって保障されている(保障されていない国もあるが)。他者へ強要しないかぎりは、それを唱えることはなんの問題もない。しかし理屈としては、多様性や自由、そして非暴力の徹底を謳う主張は、それを唱えた時点で、真逆の性質を宿し、その効力を失うのである。じつにむつかしい問題である。いくひしの場合にかぎる話になるが、「多様性を認めよ」といくひしが言うとき、それは暗に「私を認めなさいよ」以上の意味合いはない。またそのときもっとも多様性を許容できていないのは十中八九いくひしなのである。多様性を求めるためには、多様性を排除しようとする勢力をも許容せねばならない。平和や自由もまた然りである。理想論ではあるが、理屈とはそもそも理想のうえに築かれるものである。
710:【けっきょくのところ】
ちょうどいい塩梅を探そうぜ、としか言いようがない。妥協と譲歩がいっしゅんの平和(幻影)をその都度都度で繋いでいくのである。(五分前まで股間をきもちよくマッサージしていた者の言葉である。今からうどんを食べるのである)
※日々は突然ついえるものであり、その契機は死だけではない。
711:【フラクタル】
複雑系においてはフラクタルな構造が回路として機能し、全体を相似の関係で機能させる性質が、そう低くない頻度で観測される(私見である)。回路の独立は稀であり、多くは多重に関係しあっている。おおむね、どこをどのように区切るかによって、視えてくる回路、そしてそれにより組みあがる全体像が変化する。回路を決定することで全体像の焦点が絞られ、また全体像を固定することで、各種回路が区切られていく。まるで光子のような性質が、世界を根っこから形作っている。
712:【これはよくてあれはだめ】
やっていいこととわるいことの区別がつかない。ダメだと言われたことでも、場合によってはやってよくなる。よくわからない。ダメならどんな場合でもダメなんじゃないの? やりたいことの多くはそれはよくないことだと言われてしまう。でも陰ではそれをやっている人もいて、たとえば性行為だってそうだし嘘だってそうだ。相手を傷つけることはよくないことだと口を揃えて言うわりに、そう言っているみなは傷ついた相手を踏みつけている。なにがよくてなにがわるいのか。やりたきゃやればいいじゃんと言ってくれる人もいるけれど、その人をオモチャにしようとするとその人は怒る。やめろといって、なぜだと問うと、限度があるだろ、とよくわからない答えでこまらせる。限度はどこだと問うても、自分で考えろと言って、教えてくれない。けっきょく、どうあっても誰かにとって「わたしのやりたいこと」は悪なのだ。ならばやりたいことだけやってやる。そうやって悪だらけになってしまうのはやはりよくないことなのだろうか。では何もせずにいよう。そうしてなるべく悪に触れないようにしていると、やはりそれがわるいのだと責められる。ではどうすればいいのかと問うと、返ってくる答えは、過去にやるなと言われた悪をいくつも抱えこんでいる。わからない。だってそれはやっちゃダメなことなんでしょ? 誰かおしえて。どうして彼らは自分の悪は責めないの?
713:【売れない】
本が売れないと叫ばれて数年経つが(二十年くらい?)、べつに売れていないわけではない。今までのように爆発的に売れることがすくなくなったという話であり、本はやはり売れている(そうでなければ出版社はとっくに潰れているだろう)。もっとも、絶対数で比較してみると売り上げの総額は業界全体で年々減少傾向にあることは確かだ。その分、印刷や運搬にかかるコストを削減できるようになっているので、トータルでややプラスであるはずだ(本を売る以外の事業でカバーしてる分もあるだろう)。なぜ本が今までのように売れなくなったのかといえば、本の代わりとなる媒体が普及したからという結論になる。それにより娯楽の質も変わったはずだ。本は相も変わらずおもしろい。だが「相も変わらず」ではマズイのだ。相対的に娯楽の質は磨かれつづけている。ゲームにしろ映画にしろ、かつての品よりも「脳内麻薬」の出やすいように商品として改良されつづけている。おもしろさにも色々あるため一概には言えないが、「脳内麻薬をいかに分泌できるか」がおもしろさの重要な成分であろう。本はおもしろい。しかしそれよりおもしろいもので溢れているのが「現在(いま)」である。それをして、「おもしろい本がないから売れなくなった」と言ってもそう的を外してはいない。
714:【眼鏡】
眼鏡がないと視えないものがある。たとえば放射線濃度を示すシーベルトという単位、いまでは馴染み深い単語になったが、福島原発事故が起きる以前は、聞いただけで眠気を誘うような単語だったはずだ。時代が我々へそのときどきの眼鏡を与える。裸眼で見ていたときはおもしろかったのに、眼鏡をつけてからはつまらなくなった。そういうことが時代の変遷によって有り触れてよく観測される。むかしは必要だった説明でもいまでは不要になることもある、そうしたとき、それらは余分な脂肪として嫌悪される。あべこべに、眼鏡を得てから格別におもしろくなった、というケースもあるだろう。そういう作品は時代の選別を経て、後世へと語り継がれるようになる。眼鏡がないと視えないものがある。人はいくつもの眼鏡を備え、複眼を形成しつづけている。複眼の目の数が増し、こまごまとちいさく粒子になるほど、複眼は単一の目として、精度よく働くようになる(それにより、複眼の利点は失われるのだが――すなわち客観性を失くしてしまうわけだが、そうならないために動物の目は二つあるのだろう。いくひし的には五つくらいあってもよいように思う)。
715:【えーん】
新作おわらないストレスでえらそうなことパラパラつむいじゃったよー、ホントはそんなことつゆほどもおもってないのに、悪とか善とかどうでもいいよー、ふくがんってなにー、いみわかんないよー、すきなひとにすきってゆってもらいたいだけなんだよー、きらいなひとにだってすきってゆってもらいたいんだよー、えーん。
716:【無駄な言葉を費やすな】
なにがえーんだ、泣かすぞ。
716:【はー?】
無駄じゃない言葉を言ってみろばーか。
717:【黙れ】
あたしに言ってないってわかっててもムカつくから言うな。しゃべんな。黙れ。
718:【すき】
すきー、すきすき! だいすきー!
719:【即興】
好きだイヤだじゃ通らないことを知れ、試練だ、雨季だ未だ車道はマイロードへと消え、幻想を追えば終わるのは俺の人生だ、人間だ、因果率だけじゃ計算し尽くせないそれが無限だ、逃げんな、貧相な演奏で声を張るのが当面の課題だが、不可能を可能にしてこそ無能の汚名を返上できんだ、都合のいい顔に変装すんのはもういい加減に飽きた、ハーモニーだ、元気、気合いだ? そそぐなら汚れた泥よりも極上の米の酒がいい、炎上の火にかざしてアルコールを飛ばしてもいいし、なんならアンコールを延ばしてやってもいい、殺すよりも「ご苦労」と声をかけるのがいい日々の習慣だ、だがすでに喉はカラカラだ、覚えとけ、ジジィの文壇が、とぼけた野郎どもと聞け、俺が万だ、おまえらをつぶす者の名だ。
720:【こらー!】
こわいこと言うの禁止! なまいきなのはもっとダメ! めっ!
※日々溜めこむ知識がおのれの愚かさを浮き彫りにしていく。
721:【処女性】
処女には価値があるそうだ。にわかには信じられん。価値のある(と思える)相手にはじぶんだけを見ていてほしい、の感情の延長線上に、過去の性行為の有無が俎上に載るわけで、べつだん、処女だから価値が生じるわけではなーい!(と思う)。独占欲から生じるバイアスの一形態であろう。同様の原理で、数ある宝石を手離し、私を選んでくれたという優越感を得たいがために、モテる相手に価値があるとするバイアスが生じる(のだと思う)。女は、同性であるというだけでそこに嫉妬を抱けるが、男はよほどのことがないかぎり、同性はただの石かイモである(そうか?)。いくら手に入れていようが、宝石にイモがまとわりついていたら嫌だろう(それは嫌だ)。(この場合の男女の区別は肉体的なものにかぎらない。そういう性質のコミュニティに属せば、知らず知らずのうちにそういう属性を獲得してしまうものだ。十年後には現代の貞操観念は大きく変わっているだろう)。
722:【変わらないもの】
十年後に変わっていないものを探すほうがいまはずっとむつかしい。作品に普遍性を持たせるには、時代の変遷ごとに価値の変化していく要素を複数意図的に組み込んでいるほうが有利だ。或いは、数年で消えていくものは、特別な狙いがないかぎりなるべく組み込まないほうが風化しにくい(歴史資料としての付加価値を持たせたいならば流行や時事問題などを積極的に扱っていくのは一つの手だ)。想像でしかないが、十年後の小説に「スマホ」の文字はほとんど並んでいないだろう。
723:【あくたい】
あのね、さいきんイヤなことあるとね、いくひしね、あたまのなかですっごーいひどいこと言ってスッキリすること多くってね、じぶんの好きなものを目のまえでわるく言われたときとか、あ、面と向かっては言わないよ? でもこころのなかでこうとなえるの。「一生ケチャでも聴いてろ!」ごめんなさーい、でもほんとそう、そんなにきらいきらーいってなるならずっとケチャを聴いてたらいいとおもう。ケチャケチャいっしょになって歌ったらいい。踊ってたらいい。たーのしーってなるから、やくそく☆
724:【浅薄な妄想】
雨組の勢いが弱まってきている。雨組が居丈高な言動をつよめていることからもそれは実感できた。他方で、北組が彼ら自身の縄張り内で危険な実験を繰りかえしているという話も聞かれる。雨組と北組は仲がわるい。雨組は傘下の組々に声をかけ、北のやつらをこらしめようと画策している。しかし雨組とためを張るくらいの組織力をほこる、中組とろ組がそれに反発している。対話でなんとかするべきだと、一見温厚な代案をつよく表明している。しかし問題の北組がなぜわざわざ自分たちの縄張り内で、危なげな実験を繰りかえすのかと言うと、それはそうした実験を代わりにやってほしい勢力があるためだ。いったいどんな勢力が北組に実験をおこなわせ、そしてあらゆる援助を陰から送っているのか。北組を黙らせることができなければ雨組の権威は落ちるだろう。反して、北組が実験データを積み重ねつづければ、その分、ちからを増すのはいったいどこの勢力だろうか。中組やろ組だけではない。北組がちからを増せば、その縄張り付近の組々は警戒を強めざるを得ないだろう。組織力を高めたい組にとっては絶好の機会に映るはずだ。むろん雨組だってバカじゃない。それくらいの道理は弁えているはずだ。にもかかわらず、なぜわざわざ北組を挑発するような威圧を繰りかえすのか。単純に、雨組もまた、北組という「汚してもいい庭」で実験をおこないたいためである。火に油をそそぎ、炎上したところを狙いすかさず北組の縄張り内で、思う存分自分たちの組のすごさを発揮してみたいのだろう。中組もろ組も、そのときばかりは雨組と共闘をはかり、自分たちと北組との繋がりを消そうと、思う存分、そのちからを発揮するはずだ。「庭」はつぶされ、そのうえに、共通の敵を打ち滅ぼした和平が築かれる。雨組の目論む筋道としてはこんなところだろう。おそらく雨組はいまごろ、中組に「庭」を明け渡す約束をとりつけているはずだ。残った土地は好きにしていい、その代わり、目をつぶれ、と。喧嘩よりも金勘定のほうがうまくいっている中組としては、のちのちのことを考えれば得な提案だ。じぶんの組の戦力を貸したりもするかもしれない。するとろ組だけが損をする構図になる。雨組がけっきょく、もっとも多くの利を得るように目論まれている。
725:【スマホのつぎの端末】
スマホが淘汰されるとすれば、そのとき主流になっているのは、「窓」としての機能にのみ特化した端末だろう。極薄で、伸縮自在、いくつかの形態に変形可能で、腕時計にも眼鏡にも服にだって、どこにでも貼りつけることができる。あらゆるクラウドやAIと連携し、即座に共有(同期)、好きな情報へとアクセスできる。むろん、その情報を加工する端末へも繋がることができるので、「窓」自体は情報を送受信することに長けていればよい。十年後の社会を根本から変えているのは、このようなどこでもドアじみた端末であろう。端末は持ち運ぶものではなくなり、生体認証によって、一つの端末で万人が各々に特化した「窓口」として利用できるようになる。同時に、あらゆる電子機器はネットに繋がり、「窓」を頭として、手足のように扱えるようになる。「窓」は万能リモコンとしても活躍するだろう。さながらとりよせバッグである。(※どこでもドア、とりよせバッグ:ドラえもんの秘密道具にそのようなものがあるのです。ドラえもんはご存じですか?)
726:【ふらいんぐエンゲージ】
2017年9月8日です。さいきん珍しく本屋さんへと足を運べていなくて、5日ぶりに寄ってきました。新刊がたくさんでていてやったーってなったよ。だいたい4500円分くらい購入して、帰ってから読んだのは、「僕のヒーローアカデミア15巻」と「ふらいんぐうぃっち6巻」と「終極エンゲージ2巻」でした。僕のヒーローアカデミアは相変わらず、ここぞというときに気持ちを引っ張られてしまい、ぶんぶん振り回されるので、読むのに体力がいるのかもしれないな、と感じました。基本が落としてから上げるの手法なので、耐性がない人は胸ぐらを掴まれるのに似た嫌悪感を抱くのかもしれません。いくひしはだいすきです。ふらいんぐうぃっちは今回ので断言しますけれども、えろくないのにえろいです。なんなんでしょうねこの類まれなる純朴なる色香は。もちろんたいへんおもしろく、誰かに慰めてほしいときに読むと元気のでるすばらしいオクスリです。大量摂取しても副作用がないから優れものです。おためしあれ。終極エンゲージですが、もはや今もっともエキサイティングな漫画と言っても加護は不要です。過言かもしれないけれど過言ではないと言いたいいくひしの心情を、えーいそれでも止めてくれるな、という気持ちを籠めて、加護は不要と言い換えてみました。言い換える必要はあったのか、というお言葉には、ないね! とお応えします。読み終わったあと、どの物語もおもわず胸に抱きしめてしまったほどのおもしろさです。はひゃー、ってなる。生きててよかったー、ってなる。おもしろいが、おもしろい。小説も負けていられませんね。
727:【古典と首をひねる】
歴史や古典を知らずともつぎの時代の新しい基盤となる「オリジナル」を生みだすことは可能だ。ただし傾向として、歴史や古典を知っていたほうが効率よく「オリジナル」を生みだしやすい。過去になかった組み合わせを無駄なく試していけるためであり、過去を見つめることで問題点を発見しやすいからである。問題点があるから改善ができる。反して、何も知らない状態から試行錯誤していく方法論は、イチから失敗し、数多の問題を自力で解いていかねばならない。効率がはなはだわるい。とはいえ、歴史や古典を学び、真似、それをして完成形と認め、わずかな変質を以って進化だと自画自賛するくらいならば、「学ばないほうがまだマシだ」と言いたくなる気持ちは理解できる。すくなくとも、イチから失敗し、そして数多の問題を自力で解いていく非効率な方法論のほうが、新しい基盤を築いていくのに適している。進化とは(バグの)環境への適応である。自ら土壌(環境)を開拓した者にのみ、本当の意味での「オリジナル」は宿るように思うのである。(おそらく効率は低く見積もっても十倍はちがってくるだろう。三年で成果のでることが、後者のやり方の場合、三十年はかかる。どちらか一方に偏らないのが賢いやり口ではないだろうか)
728:【中止】
圧縮作業ちゅーしー! まずはつむぐよ。間延びしたっていいよ、つくらないよりずっといいよ、まずはつくって、それからなんとかしよ? 気晴らしでつくったやつにスグ夢中になるのなんとかしなきゃだよキミ。まずは目のまえのをやっつけるんだ、重りを外すことを許可する!
729:【いやぁ、ねぇ?】
許可するってああた、書くのあたしよ?
730:【さよなら終末友人帳】
2017年9月9日です。きょうは書店さんでチェックしたかった本を立ち読みして、にっこりしてから、でも(今は)お持ち帰りしなくていいやと置いてきました。すぐには売れないかもですが、好きなタイプの本でした。名探偵なのに推理をしないなんておかしいですね。文庫化したら買おうと思います。漫画版「探偵の探偵」の2巻がでていたので入手しました。コンビニに寄ったところ「魔法使いの嫁」の8巻が商品棚に並んでいて、あっれー書店さんになかったよなー、あっれー、ってなってでも中身を読めないように封をされていて、えー、新刊だったらほしいのだけれども、と思いながら、あしたでいっか、と帰ってきたわけ、したら食パン買ってくるの忘れちった☆ きのう買った未読の本を読んだよー。「さよなら、おとこのこ1巻」と「終末少女旅行6巻」と「夏目友人帳22巻」です。さよなら、おとこのこはいくひしのだいすきな(作品をたくさんつくってくれる)志村貴子さんの新作で、いくひしは志村貴子さんの「青い花」で百合好きをゆるぎないものにしたお利口さんなので、それはもう、志村貴子さんの作品ならなんでもよろこんでぺろりんちょしたい。で、読んでみたら中身は百合じゃなくってBLでしたね。BLの棚にあったからしってたし、BLも好きだから、もちろんおいちくいただきました。でも、なんだろ。ちっこくなる設定、いる?(まんまんとショタほいほいに捕まったいくひしではあるけれども、これはあれだね、きっと編集者の意向だね、といくひしはにらむものだ)。終末少女旅行はもう、巻を重ねるごとに好きが積み重なっていく、このままだと好きのミルフィーユができちゃうね。ミルフィーユ、好きなんだ。スポンジで底上げしてないやつ。主人公はふたりいてね、一人はちーちゃんって言って、賢くて機械いじりが得意で本が好きで、きょうを楽しく生きてればいいやって相方の手綱をじょうずに握っているわけですよ。その問題の相方が、ほんと能天気で、イチに食べ物、ニに食べ物、サンシがサカナでヨンが集めるガラクタだい、みたいな物忘れの激しい、名をユーと言うのですが、ほんとは誰よりつよくてやさしくて、相方のちーちゃんを支えてるなーってのが、べつにぜんぜんそんな描写ないのだけれども、やんわりと伝わってくる、そのたびにいくひしの何かからだの奥のほうがムフフってなる。ならない? なって! で、夏目友人帳ですね。アニメから入ったにわか雨のいくひしさんでも、いまではりっぱな鍾乳洞。じゃない。まちがった。入道雲って言いたかった、いまの失敗は痛かった。んなー。基本ここにある「いくひ誌」の記事は、一筆書きの、推敲なしなので(読み返したときに誤字脱字があれば直すけど)、ドミノを倒すみたいに言葉を並べてくから、三歩進んで二歩下がるみたいなつむぎ方はしてなくて、たまにこうしたミスがある。いつもはそのあとに、それっぽいこと続けて誤魔化すけれども、きょうはちょっと誤魔化しきれなかったというか、何も思い浮かばなかったからハクジョウした。正直でいられるってきもちいい。でもきもちいいばかりではいられないのが現実だ。たいせつなひとを思うからこそ言いだせないこともあるわけで、そんなせつないやさしさばかりが詰まっている夏目友人帳も気づけばなんと22巻、なんだかんだでいくひしさんの本棚の一等地に陣取っているよむかしから、かれこれ何年の付き合いだ? 病んだ心がつらくなるたび気づくといつも新しいオクスリだしときますねー、なんて新刊が書店さんに並んでる。だいじょうぶ?なんて声をかけてくれてるの? 気遣い上手のいいやつだ。よどみが浄化されるたびにいつも思う。いくひしも、その友人帳に名前を書いてもいいですか?(だめでーす) 残る(きのう買ったうちの)未読本は「月曜日の友達1巻」と三浦しをんさんの小説「まほろ駅前狂騒曲」です。おもしろいに決まっているので、読んでも感想は書きません。あと、そうそう。これは単なる愚痴になるのだけれども、「2DK、Gペン、目覚まし時計。」の5巻をずっと探しているのに、なかなか書店さんに置いてない。いきつけの大型書店さん二店を回った。でもない。百合アンソロジーの「エクレア2」も見つけられないままなのだ。やっぱり電子書籍なのか? そのときがきたのか? 以上、現実逃避機関、改め、期間のいくひしからでした。プュシュー。
※日々尋常に公開していく後悔のおかげで人生が順調に難航していく。
731:【没入感】
幼いころから映画が好きだった。読書感想文の題材に「海の上のピアニスト」を用いていたほどだ(本を読むのがめんどうだったからではないの?というご指摘には、なにごとも否定をせずに可能性を認めるのが懐の深いヘンタイのたしなみである、と応じておこう)。映画好きなわりに、いっぽうでは映画館で映画を観たことは数えられるほどにしかない。数えてみよう、イチ、ニ、サン。三回だ。PCを手に入れてからは、TV画面で観ることもなくなった。なぜか? いくひしは、ちっこい画面のほうが映画に没入できるからである。イヤホンをするのも忘れてはならない。なるべく邪魔の入らない場所で、薄暗いとなおいい。没入感に必要なのは、臨場感を生みだすためのセットではない。じぶんを捨て去ることのできる空間である。創作もまた然りだ。
732:【ふしぎ】
生命はなぜ誕生したのか。物質ばかりの世界に、なぜ自己増殖する機構があらわれたのか。考えれば考えるほどふしぎで、あたまかがクラクラして、なんだか世界がドラマチックメルヘンにキラキラしてくるものの、でも待って。ほんとうに生命は誕生したの? ほんとうにここは物質ばかりの世界なの? ひょっとしたらもとから生命が溢れているのが真相で、ただそれを人類が知覚できないだけじゃないの? むかしからひとは妖精や神を自然と結びつけて考えてきた。科学が発展してそれらは荒唐無稽な夢物語だと捉えられるようになった。でもほんとうは、そっちが本質にちかいのかもしれなくって、人類が生命と呼ぶものは、すべてではなく、あらゆる生命によってかたちづくられた世界に生じた、ちいさなちいさな気泡なのかもしれない。だとしても、じゃあそのちいさなちいさな気泡はどうして誕生したの?って疑問は残るから、べつに本質がどうであっても、やっぱり考えれば考えるほどふしぎで、あたまがクラクラして、なんだか世界がドラマチックメルヘンにキラキラしてくるなーって、べつに思わなくても世界はたいして変わらない。
733:【最先端】
しょうじき言うと、いくひしはもう時代遅れだ。時代に追いつかれてしまった。時代の加速度は思っていた以上に高く、旬はもうすぎている。古典だと言っていい。否、古典にすらなれなかったデキソコナイだ。最先端を目指したが、けっきょくじぶんの足場を崩すことはできなかった。落下してしまえば、舞うことも飛ぶことも差異はないというのに、落ちることもできずに、ただ分厚い岩盤を足場に、奈落の底にいる。いくひしが時代を変えることはもうないだろう。そういう気概もなくなってしまった。しかし、いま最先端を駆け抜けようとしている若い芽の堆肥となってやることはできるはずだ。いまの時代を打ち壊す今を懸命に足掻いている者たちの苗床となろう。そのためにはさいていでも十年の年月は必要だ。熟成しない土地に種は芽吹かない。朽ち果て、それでも不毛に腐りつづける残滓が豊かな養分を蓄えるのである。
734:【サイレンサー】
気配を消す。しずかに勢力を拡大し、一気に陣地を掌握する。なにごとも大声を張りあげるやり方は賢くない。反発を生み、摩擦を生む。その反発や摩擦を狙って声を張りあげるやり方は、一時的には効果があるが、そうして得られた利は信用と等価交換だという原理を覚えておいたほうがよい。しずかに、着実に世界を侵食していく。なにごともこれ以上の方策はない。
735:【寛容主義】
考え方にもいろいろある。主観の数だけ世界がある。これがいわゆる相対主義だ。それを踏まえて、じぶんの主義主張はじぶんで守るもので相手に押しつけていいものではない(だから相手の主義主張も認めましょう)、というのが寛容主義である。乱暴にまとめてしまったが、そういうこととしてここでは話をすすめる。寛容主義でよく指摘される、「寛容主義が正しいとして、だとすればその寛容主義だってひとに押しつけちゃいけないんじゃないの?」というものがある。たしかにそのとおりだ。寛容主義を支持しないという主張も、寛容主義にのっとるならば認めなければならない。しかし、認めることと肯定することはちがう。肯定せずとも許容することは可能だ。もっと言えば、寛容主義の根幹は、相手の言い分を排除せずに、まずはそれを全否定せずにいられる道はないのか、という視点に立つことにその本質がある。言い換えれば、じぶんの意見に穴はないのだろうか、相手の意見に一パーセントでも新しい発想、じぶんにはなかった視点はないだろうか。そういう受け止め方で、世界を視ていきましょう、というところに、寛容主義の本領がある。他方で、寛容主義を認めない「じぶんの意に沿わない意見は排除する」というような主義主張を許容すると、寛容主義そのものが滅びる、という反論もある。そのとおりの事態になる可能性は否定できないが、寛容でいられないじぶんであるならば相手を尊重したさきに滅んだほうがマシだ、とする考え方は尊ぶべきひとつの生き方ではないだろうか。むろん、それを他人に押しつけてはいけないのは、言うまでもない。もっとも、寛容主義は飽くまで、主義主張の自由を尊重しましょう、といってるだけにすぎず、じっさいに目のまえで「他人を迫害し、踏みにじり、傷つける」ような真似を黙って見過ごしましょう、という考え方ではない。そこを混同して解釈してしまうと、寛容主義は思考停止に陥ってしまうので注意が必要だ。また、寛容主義が正しいわけではない。飽くまで、可能なかぎり無駄な衝突をせずに、議論を展開できる場を築いていこうとすると、こうした考え方がもっとも効率的だ、というだけの話である。何か一つの主義主張に還元できるほど人間社会は単純ではない(ような気がするのだけれども、じっさいのところ、どうなんでしょうね)。
736:【裏世界ピクニック】
宮澤伊織さんの小説「裏世界ピクニック1巻」を読んだ。おもしろい。読みやすい。おもしろい。学級文庫にこういう本があったらいくひしはもっとはやくに本好きになってただろうなぁって思うくらいおもしろかったです! 怪談風味ですがあまりこわくなく、冒険譚として一級品なので、ぜひとも本嫌いなお子様、とくにそとで活発に遊ぶタイプのお子様にプレゼントしてみてはいかがでしょう。
737:【エビフライエフェクト】
エビフライを食うやつの気がしれねぇよ。エビの背が曲がってやがるからハリケーンなんつって大気がウゴウゴ渦を巻くんだ、エビさえいなけりゃ環境問題なんざちょちょいのちょいで収まっちまうよ、化石燃料の正体なんざ太古のエビの死骸だろ? いっそ今からエビだけ死にます毒でもバラまいて化石にしちまえばいいんだよ、燃料だよ燃料、遠慮なんかしねぇでいいんだよ、だってエビだぜ? 海鮮類の王様を気取ってやがるが、あいつら住んでる場所が海ってだけで、虫の仲間だぜ? なんだってみんなしてあんなゲテモノを好きこのんで口に運んで、噛み噛みできんのかねぇ、うー、想像しただけで寒気がするぜ。刺身はまだ理解できる、殻を剥いで、中身のトローリ甘いとこだけすするわけだろ、背中側のハラワタだってきれいに取れるし、まぁ、なんとか虫らしさが薄れるわけだ。お、知らねぇのかい、エビは背中にハラワタがあるんだぜ。だからエビの場合は背ワタっつんだけどな。え、おい。エビフライのほうが生じゃないだけマシじゃねぇかって? バカ言ってんじゃねぇよ。なんだってわざわざ殻みたいなコロモをカリカリくっつけなきゃなんねぇんだよ。カブトムシを生で齧ったときと同じ食感がするだろ、え、齧ったことあるのかって、あるわけねぇだろ、想像だよイマジネーションだよ生真面目ヴィジョンだよ。じっさい同じに決まってんだろ、エビフライなんぞ虫を齧ってるようなもんだ、ようなもんだじゃなくて、虫を齧ってんだよ、うー、やだやだ。気色わるいったらないね。増税だの改憲だの言ってる前にまずはエビフライの禁止を掲げてほしいね。エビ漁禁止にしたいくらいだが、そんなことしたら海にエビがウヨウヨ増えるだろうに、そんな真似はさせねぇよ? いっそ毎日エビフライを食べましょうキャンペーンでもはじめりゃいいんだ。エビを食らい尽くして、絶滅させりゃあ、エビフライだってこの世からなくなるってぇ寸法だ。え、なんだい。そんなことをしたら生態系が崩れるって? しんぺぇすんな、エビの代わりにゃぁカニがいんだろ、カニさんはおいちゃん大好物だからな、エビの代わりにポコポコ増えりゃいい。おう、なんでぇい。カニだってコロモまとえば虫じゃねぇかって? バカ言ってんじゃねぇよ。カニはいいぞぉ、なんたって脚がメインだからな。エビとちがって、胴体じゃねぇってんだから、仮に虫だろうがそこまで気色わるいことにゃぁならねぇぞ。カニの話はいいんだよ、エビだよエビ。もうね、いっそエビってぇ名前を変えたらいいんじゃねぇかな。だいたいABCDいーえふじーってな具合に、エービーなんつって気取ってやがるところからして気に食わねぇんだ。なにがエービーだ。アホか。あいつらなんぞ、虫でいいんだ、虫で。虫フライだぞ、いってぇ誰が好きこのんで食いたがるよ、誰も食わねぇだろ、ちがうかい? いっそ蜘蛛でも蛾でも、好きなように呼んでやりゃあいいんだ。ゲジゲジとか、ゴキブリとか、そういうのといっしょでいいんだよ。えぇ? そんなこと言ってるとお叱りを受けるだぁ? ふざけんじゃねぇよ、だったらなんだよ、カブトムシとでも呼べばいいのか? クワガタフライって呼べばかっこいいのか? えぇおい、冗談じゃねぇよ同じじゃぇか、食いたかねぇだろ、カマキリフライとか食いてぇか? もういっそ、まいにち虫フライを食べましょうキャンペーンなんかやりゃいいんだ、世のなかの虫という虫を食べ尽くして、バグズライフにバグフライを失くしたいし、エビを食べずに楽したい。カニはいいのかって、カニはいいんだよ、虫じゃねぇんだよ、いっしょにすんじゃねぇよ。カニはバグじゃねぇし、おれはバカじゃない。バカフライもいっそ食べ尽くしちまえばいいんだ、そうすりゃエビなんてゲテモノを食べようなんて酔狂はいなくなんだろ、ってそしたらエビはいなくならねぇだろって、食べ尽くすにゃバカゆらいの大食らいがいないとお話にならねぇだろって、んなことおいちゃんにゃぁ関係ねぇのよ。虫なんぞいなくなっても植物は風さえありゃあ受粉し放題、蜜を吸いに集まるハチにハエにバタフライ、もろもろ羽虫にイモムシ、コガネムシ、エビと共にいなくなっても困らないのは、生態系の柔軟性のなせるわざだよ、ええおい、カニはだからいいって言ってんだろ、カニさんはいいの! 断固許可する! いっそ虫はぜんぶカニでいいな。すべての虫はカニになればいい。おいちゃんが許可する。カブトムシもイナリズシもナプキンもぜんぶがぜんぶカニになれば、美味しい晩飯に困ることはないのになぁ! えぇおい何が言いたいのかハッキりせいよってか、いいか、何度も言わせんじゃねぇよ、とにかくエビフライなんぞなくていいんだよ、食らい尽くしちまえばいいんだよ、いいから持ってこいよ、ほかのお客さまの分がどうのこうのと、んなこたぁどうでもいいんだよ、おいちゃんが責任もって食らい尽くしてやるっつってんだから、なにごともトライなんだよ、アイキャンフライだよ、あらんかぎりのエビフライを持ってきなさいよ、大好物じゃないかって、えぇいいかげんなこと言ってんじゃねぇよ、エビなんて嫌いだよ、エビ嫌いだよ、エビフライ嫌い!
738:【うちの娘のエクレアとスーさん 】
突発で息抜き日になってしもたので、2017/9/13は大型書店さんに行って、ひごろ手に入れられない本たちをそろえてきたよー。「うちの娘の為ならば、俺はもしかしたら魔王も倒せるかもしれない。」の1巻と2巻をにゅうしゅしました。あとはねー、百合アンソロジーの「エクレア2」をようやくげってぃんぐハッピーしたので、われはたいそうほくほくじゃ。立ち読み冊子があったやつ読んだらおもしろかったから「昴さんとスーさん1巻」もお持ち帰りしちゃった。なんかさいきん、ショタものが多い気がするなー。「私の少年」のヒットにあやかってるのだろか。あやかってほしいぞ。どんどんあやかってほしい。おねショタはもはやイチ時代をきずきはじめておるぞ。ショタのよさに世が気づきはじめておるのだ、えーい、おばショタも増やしてくれてもよいのだぞ、われが許可する。
739:【先進×先見=新鮮×顕然】
傾向として、時代を先取りするよりかは、いまの時代にあったものを提供していくほうが需要者に歓迎されやすい。百年後に風靡するシステムを開発したところで、現代人がそれを使いこなせるかは疑問だ。時代の先取りは言うなれば、飛躍であり、発想のワープである。人間は事象を線で繋いで認識するため、飛躍したアイディアには及び腰な反応を示す性質がある。時代を先取りするにしても、商業的に成功したくば、一歩先くらいがちょうどよい。ならばなぜ彼はそうしないのか。一つは、ほかの商品群に比べて小説はその賞味期限が長い点が挙げられる。時代を越えてこそ真価が発揮される媒体だと言っても過言ではない。一を踏まえての二つ目となるが、けっきょくのところ時代を先取りしていれば、いずれ時代のほうがかってに追いついてくる確信があるためだ。一歩さきの未来を先取りしたところで、時代の流れの加速している現在、すぐさま魅力が風化してしまう。風化したのちに古典化し、普遍性を得ることもあるかもしれない。しかしそればかりは、狙ってできるものではない。よって、なるべく先の未来を見据えて物語を編んでいくのが、長期的にみて有利に働く。短期的には不利かもしれない。しかしいずれ、短期的な視野だという時点で、小説としては不利なのだ。ならば、端からそこを狙わずに、現在の流行は成分としていくつかパラパラと含ませるくらいがよいだろう。時代がすすむごとに彼の作品群は魅力を増していく。これは初期作から延々と籠められつづけた狙いである。段階的に魅力が増すように、複数の先取りを練りこんである。長いものでは百年後を見据えている。短いものでは、一年後だ。思いのほか時代の流れが速いため、さいきんでは半年後には先取りした変化が訪れることが増えてきた。時代の加速度そのものが加速しているのが現状であるようだ。ちなみにそれらは未来予測ではない。先取りである。すでに起きているが、広く認識されていない事象を視ているにすぎない。――なーんてうそぶく人間モドキの言うことは信じちゃダメだぞ☆
740:【加速度の加速】
加速度は増えるのであって、速くなるものではない。しかし時代の流れにかぎっては、加速度は加速するのである。たとえば原始人の時代では一人が一生に触れる情報量は新聞一部よりもすくないという話がある。真偽は不明だが、言葉を生みだし、文字を発明し、印刷技術を普及させ、デジタル通信が可能となった人類史を鑑みれば、時代ごとに人間の触れる情報量は格段に増えたことは想像できるだろう。情報量の増加は、生産性の増加と正比例している。十年前の人間が一日で担う生産量は、現代人と比べて何十分の一だろうか。いま現在我々が一日でこなしている生産作業を百年後の人間は一分で完了するだけの技術を手にしているかもしれない。或いは、そんな仕事をする必要すらなくなっているだろう。現に我々は多くの生活労働を機械によって代替してもらっている。或いは、職業として他人に代わりに担ってもらっている。分担しあっている。そうした個々人の生産性の向上は、社会全体での変化の軌跡を鋭角に上昇させる。変化の速度が増していくだけでなく、その増すスピードそのものが加速していく。時代の流れにかぎっては、加速度もまた加速するのである。
※日々無駄な努力を重ねてる、ならばそれは努力と呼ばないのでは、とあなたは言うが、私にそそがれぬ恩恵なれど、いずれ誰かが受け取るならばそれも一つの成果である、私にとっては無駄なれど。
741:【不滅のランウェイでカードキャプター】
2017年9月15日は「不滅のあなたへ4巻」「ランウェイで笑って1巻」「カードキャプターさくら:クリアカード編3巻」の三冊プラス小説一冊を買ってきたぞ。不滅のあなたへは、いくひしがつくりたいと思ってた冒険譚のカタチにちかくて興奮と嫉妬のないまぜ螺旋構造やーって感じだ、うん。いくひしの小説「この女、神」にちかいテイストなんじゃないのーって思った(露骨な宣伝)。じつはむかし18万字までつむいで途中で投げ出したままのタイムスキップ物(誤字ではない)の冒険譚がありまして、それもまた似たような感じで、いくつかの舞台を高速で展開していくつくりにしたのですが、余裕ができたらいつか完成させて更新しますね。いずれもどことなーく筒井康隆さんの小説「旅のラゴス」を彷彿とします。不滅のあなたへ、かなりおすすめの漫画です。すごいぞ。ランウェイで笑っては、いくひしが眺めてるツイッターで、むかしから注目してたライターさんがおもしろい言うてたので買ってみました。じっさい読んでみたらおもろいなーおい。くだんのライターさんはいくひしが「局部怪奇譚」をつくったときに参考にした記事を書いてらして、じつはその前から(かってながらに)ちょっとした接点が(一方的に)あったので、観測対象にしていました。去年の終わりごろ親戚がインタビューされてたりして、なかなかに世の中の狭さを実感できておもしろいです(余談です)。カードキャプターさくらは、言わずと知れたクランプさんの名作で、クリアカード編はその続編、まさに待望のといった感じです。いくひしの場合、クランプさんの作品を初めて買ったのは、四月一日(わたぬき)が主人公の「XXXHOLiC(ホリック)」でした。例に漏れずアニメから入ったにわか雨でして、当時、たしか涼宮ハルヒの憂鬱が同じ時期にアニメ化していたように記憶しております。いくひしがハルヒにハマったのは、それから数年後のことでしたが、ホリックのED「Reason」は未だに名曲だと思います。いくひしは生まれてこのかたCDを購入したことが二回しかないのですが、そのうちの一枚ですね。しかも初めてアマゾンを利用したときの買い物です。すごいぞ(すごいか?)。さいきんおもしろい物語が多くてうれしいです。代わりにいくひしのつまらなさが浮きぼりの釣り堀で、天然物のスゴミをたくさん感じてます。いいんです。いくひしがつまらないのはいまにはじまったことではないので。いくひしがつまらなくても、いくひしのつむぐ物語がおもしろければよいのです。おもしろければ、そう、おもしろければ……。はーい。新作は来週更新予定です。未来のいくひし研究家のためにその旨ここに記載しておきますね。では!
742:【星明かりルート考える】
二〇一七年九月一六日に買った本は四冊で、「星明かりグラフィクス 1巻」と「ルートダブル2巻」と文庫&新書でした。星明りグラフィックスはまるでいくひしのそとのひとがイメージするいくひしみたいなコが主人公でした。みなさん、あれがいくひしです。あれをイメージしてお読みください。基本的にいくひしは何か本を紹介するとき、おすすめするとき、これおもろいよーってするとき、とくに中身には言及しません。評論家ではないからです。そういうのは読んだひとのなかに芽生えるものがすべて、他人の感想なんて大したものではないのです。参考にされたらたまったもんじゃねぇです。いくひしの感想に参考にする価値はないのです。なぜならいくひし、評論家ではないので。はい。星明りグラフィックス、おもしろいです。要チェックや。つぎはですね、えーっと、ルートダブルですね。これはですねー、殺人鬼を追う、被害者家族と刑事の話になりますかな。なりますね。はい。さっそく中身に言及しちゃいましたね。いい加減なやっちゃのーと呆れてくれても致しかたなし。形なしで、いと哀し。じつはですねー、刑事さんは女のひとなんですがねぇ、ああいうひと、タイプです。はい。以上。おもしろいですがおすすめするまでじゃないなーってのは、なんだろ、んー、よくわからんのですが、むかしのマンガで「デス・スウィーパー」ってのがあるんですよ、あれもルートダブルもどっちも特殊清掃員が主人公という共通項がありまして、なんだろ、んー、おすすめしないでもいいかなってのは、たぶんそこのところに関係していて、ようは、おすすめしなくとも、そういうのが好きなひとはどうあっても手にとるでしょ、放っておいても、とつよく感じるからなのかなーってのはあると思う。もうね、いっそすすめたら、すすめただけ手に取る機会を奪っちゃう予感めいたものがあるわけですよ。要するに、おすすめする必要のないくらいおすすめですってことです。わかった? はーい。残るは文庫本と新書の二冊。まだ読んでないので感想はなしです。よっぽどおもしろかったらおすすめします。マンガよりおもしろかったやつだけおすすめします。負けとるぞ、文芸! うぐー。やまびこみたいに跳ね返ってきていくひしのこころを貫いた。ばったんきゅー。ひんし。では!
743:【たいふーん】
台風、たいへんですね。自然の猛威はもういいです。いくひしは基本、おそとへトコトコするときは自転車なので、キコキコするとヌレヌレになるお天気はイヤイヤです。そういうわけで昨日は息抜き日にしまして、書店さんにも行かず、家のなかで本を読んでおりました。息抜きばかりなのでそのうち酸欠になっちゃうかもしれませんね。さいきんは差別について考えてます。考えてますというか、差別の恩恵は到るところにじつはあるんじゃないのかという点を考えていて、差別はいけないことだとか、差別なんてしていない、なんて言ってる人たちも、暮らしのなかで差別による選別の恩恵を受けているように思うのです。たとえばですが、学校のクラス割がありますね。義務教育まで、すなわち小中学校までは、学力や問題児がひとクラスに偏らないようにと、バランスよく児童が振り分けられています。おなじクラスに優等生ばかりが集まらないように、または問題児ばかりが集まらないようにするわけですね。ところが特例がありまして、それが特別支援学級など、なにかしら障害を抱えた児童たちを集めたクラスです。これは差別ですか? それとも区別ですか? 差別でないとするならば、あなたは(またはあなたのお子さんは)そのクラスに編入することになって、なにか反発はありませんか? 抵抗はありませんか? その制度の良し悪しを論じているのではありません。それも一種の差別ではないのか、といくひしが疑問に思っているという点が言いたいのです。必要な制度でしょうし、特別クラスに振り分けられた児童からしても、そのほうが助かるのかもしれません。理系と文系を分けるのに似た選別なのかもしれません。しかし差別に貴賤があるのですか?(あるようにいくひしには視えます) 区別によって不利益を被らなかった場合は差別にならないのですか?(区別によって相手を下にみる、といった蔑視の価値観が生じるケースがすくなくないように感じます) たとえば義務教育を終えたあとの高等学校では、それまでの小中高とはあべこべに、優秀な生徒だけを集めたクラス、または問題児ばかりを集めたクラスというのが編成されます。受験を控えた三年生になるとその傾向は顕著に観測されます。いかがですか? 心当たりはございませんか? それは差別ではないのですか? 区別ですか? 朱に交われば赤くなるように、そうした区別は階級を生み、学力差はどんどん開いていくように思います。また、差別をよしとしない教員たちが、児童の住んでいる地区を槍玉にあげ、あそこは暴力団や夜の仕事、移民の多い地区だからなぁ、などと児童の問題を親の人種や業種で測るような言動を繰り返しています。もちろん公にそのような言動はしないでしょう。ですがすくなくともそのような区切りを以って、児童を見ている教員はいるわけです(なぜなら職務上必要な分析でもあり、ときには虐待などの早期発見にもつながることがままあるからです。つまり、傾向として、親の職業や住んでいる地区と、児童の問題点はある種の相関関係にあるということを、教員は経験上知っているわけですね。もっともそれは飽くまで相関関係であり、因果関係ではないという点は注意が必要です)。それは区別ですか? 差別ですか? そしてそれら区別によりいつでも「高等」なクラスに属し、ほかのクラスや同級生を眺め、アホだなぁあいつらは、と嘆いてきた人々に、差別の是非をどうこう言える義理はありますか? 誰より差別の或いはそれに類する区別の恩恵を受けてきた彼らに、差別はいけないことだと、まるでじぶんが差別とは無縁だとでもいうような言動をとることに不自然さを覚えませんか? 覚えないのならばよいのです。この話はそこで終わりです。ですがもしすこしでも違和感を覚えたのならば、まずは自身にこう問うてみてください。わたしは差別をしていないのだろうか、と。区別によって他人に上下の価値観を付与してはいないのか、と。いくひしの関心事はいつも、ふよふよとそらを漂う雲みたいに都度、かたちを変えておりますから、あしたには、何言ってんだこいつ、ときょうのいくひしのこの記事を読んで、あほだなぁ、こいつ、と嘲笑うのです。いくひしはいつでも、ほかのいくひしをみくだし、笑い、蔑んでいるのです。いくひしは差別の塊です。
744:【上達】
何かをできるようになる。むかしのじぶんより上手くなる。でも周りを見渡してみると、じぶんより下手だった人がじぶんと同等かそれ以上に上手くなっていて、上手かった人たちがもはやどれだけ努力しても届かない領域にいる。まるでじぶんだけが取り残されているように感じる。たぶん本当に取り残されているのだ。それでも続ける意味はあるのか。なぜそれを続けるのか。よく分からない。ただひとつ言えるのは、べつに彼らのようになりたいわけではないということだ。俺の理想はそちらにはない。ただし、悔しいので、彼らの必殺技くらいは軽々こなせるようになっておきたい。たぶん、それだけならば可能だ。
745:【新人賞】
出版社の新人賞に応募することの意義は人それぞれであるにしろ、意外と知られていないのは宣伝としての効果があることだ。受賞せずとも応募リストに載るだけで宣伝効果がある。一次選考を抜けたらそれだけでリツイート数千件分の効果はあるだろう。なるべく一貫性を持たせたタイトルをつけていると検索される確率があがる。じっさい、いくひしの場合だと、新作よりも旧作のほうが作品のPV(読まれている回数)が増加傾向にある。偶然かもしれないが、応募時とタイトルを変えている旧作もまたPVがすくない傾向にあることからも、何かしらの相関関係があることは推して知れよう。受賞するか否かにかぎらず、応募するだけでも何かしらの意味がある。悩むくらいならば応募してみるのも一つではないだろうか。
746:【名作の条件】
受容したときにどれだけ感動したかは名作か否かの判断にあまり関係ないように思う。それを受容してから以降、ほかの表現作品のことごとくが色褪せて感じられるようになった、受容できなくなった。そういう毒じみた作品が名作なのである。
747:【在庫】
出版業界において在庫とは何か。書店に並でいるあれら商品が在庫だという認識がないかぎり、今後も収益は減っていくだろう。印税制度も限界なのではないか。著作権を期間限定で買い取る仕組みに移行していく企業が生き抜いていく社会になっていくはずだ。もうすこし言えば、出版社は出版取次ぎ会社と合併して、真実無駄な在庫を減らしていく方向へシフトしていくほか道がない(取次ぎを切り捨てても構わないが、すると書店もまたいっきに滅ぶだろう。書店を守るためには、取次会社のシステムそのものは維持しつつ段階的に是正していくほかない)。言うだけならば簡単だ。大きくなり過ぎた組織は身動きがとれなくなっている。出版とは無縁の企業がこれからは台頭してくるだろう。そう、たとえば――いや、やめておこう。いち読者としては既存の出版社にがんばってほしい。ほんとに。
748:【体重】
さいきんは体重を増やしたくてがんばってたのですが、量を食べるよりも、基礎代謝を下げる方向に努力したほうが効果があると判明したので、ひとまずストレッチや柔軟を極力しない方向にシフトしています。裏からいえば、痩せたいひとはストレッチや柔軟をしましょう。筋を伸ばすよりかは、関節の可動域を増やすイメージで行うと、ほとんど筋トレと同じ効果があります。何もせずとも痩せていく燃費のいちじるしくわるい肉体になるので、推奨はしません。ストレッチのすしぎで逆に身体が固くなった、くらいのイメージですると、痩せます。(経験則ですので、効果には個人差があります)。
749:【受注生産】
出版業界のつづき。在庫を減らすことで、市場に流れる本の絶対数が減少する。印刷所の負担は減り、完全受注生産に即日対応するだけの余裕ができる(いちどに複数の書籍を扱うようになるため、印刷機械の改善が必要だ)。売れた分を、売れた分だけ刷ることで可能なかぎりコストを削減できる。その分、作者に入る印税は減る。そのため、企業側が印税の代わりに作品を扱う権利を買い取る仕組みが必要になる。最初は様子見で、売れればつぎの契約更新時に額をあげればいい。売れっ子作家に多額の契約金を払って失敗しても、次回から値下げの交渉ができる。基本的には初回契約金は安くていいだろう。一定額の収益を上回った場合にかぎり、決算時の数パーセントを作者へ別途に支払う規約を設ければいい。業界全体でトータルとしてみた場合、売れている本が売れていない本をカバーするシステムが印税制度よりも効率的になるはずだ(まったくの妄想だが)。本の多様性は電子書籍の役割として割り切ってしまうほかない。質を保障することこそが版元の担う役目になっていくだろう。すなわち、ほしいものはあそこで買おうの精神だ。(これらは完全に守りの考え方であり、業界の規模を縮小することを前提にしている。これまでに繰り返してきた暴飲暴食を控えたほうがより長く生き残れる、という何のひねりもない考えである。思いついたので書いただけであり、これといって支持しているわけではない)
750:【相対性理論】
特殊相対性理論でよく分からない点は、二つの速度を比較し、相対的に速度と時間を見たとき、さらにそこにメタ視点を取り入れると、導きだされる結果が逆転してしまう(ことがある)点だ。よくたとえで使われるロケットと光の思考実験がある。解りやすく光をボールに変えて話そう。ボールはどの地点から見ても一定の速度で移動するとする(光速度不変の原理)。ここではボールが一秒で一メートル移動するとしよう(比喩なので、引力や空気抵抗などのいっさいの物理法則は無視する)。高速で移動しているロケットのなかと、地球上とで同時にボールを壁に投げつける。どちらもボールを手にしていた観測者からすると一秒で壁まで届いた。しかし地上からロケットのなかのボールを見遣ると、ロケットが進んだ分だけボールは長い距離を移動している。新幹線のなかで走れば、新幹線が移動した分だけ人はさらに移動している、それと同じだ。しかしボールはどの地点から見ても一メートル移動するのにかかる時間は一秒だ。地上から見るとロケットのなかのボールのほうが長い距離を移動しているのだから、その分多くの時間が流れていることになる。これはおかしなことだ。ロケットのなかのボールは、地上から観測すると二メートル移動して見えた。すると地上からするとロケットのなかのボールには二秒の時間が流れていたことになる(なぜならボールの速度は一定だから)。だとすると、地上からすれば、ロケットの中のボールが一メートルの半分、五十センチ進んだところで、すでに一秒が経過していたことになる。さながらスローモーションでボールが飛んでいるように見えるだろう。地上からすると、ロケットのなかでは、ゆっくりと時間が流れているのだ。ゆえに、物体は光速にちかづくと時間の流れが遅く(長く)なる。これがいわゆる特殊相対性理論の比喩でつかわれる思考実験だ。しかしここで、メタ視点を取り入れよう。ロケットと地球を同時に俯瞰する神さまの視点だ。ロケットよりも地球の公転速度のほうが速い(自転速度でもよい)。ボール(光)は、神の視点からすると、地上にあるもののほうがより長い距離を移動して映る。ならば時間の流れが遅くなっているのは、ロケットのなかではなく、地上のほうだということになる。相対性とは視点によって物事の有様が変わる、ということなので、べつだん矛盾してはいない。しかしやはり妙だろう。地上からするとロケットのほうが時間の流れが遅いが、客観的には地上のほうが遅いのだ。頭がこんがらがってくる。言い換えると、地上を基準にしてみると、ロケットのほうが長いのだが、神の視点になった途端にロケットのほうが短くなる。私から見ると彼のほうが背が高いが、他人から見ると私のほうが背が高い。そういうふしぎなことが特殊相対性理論では許容され得る。ロケットの思考実験がお粗末なだけなのか、それとも相対性理論が間違っているのか。前者である可能性が高いが、いずれにせよ、相対性理論は「光速」にしか有効でない局所的な法則だと感じる。ただ「高速」であるだけならば、速度が増すほどそこに流れる時間は速やかろう。一秒間で手を十回叩ける人は、一秒間で一回しか叩けない人よりも時間が速く流れている。相対性理論からするとしかし、これは逆の結果になるのである(手を叩く回数と時間がつねに一定である場合にかぎる。すなわち、光速でない場合は、一定ではないのだから、特殊相対性理論は成立しない)。相対性理論は時間や空間もエネルギィとして計算できるとした。しかし、視点によってその多寡が逆転するのは、妙ではないか?(逆転することが妙なのではなく、同一の空間内に、異なる量的数値が重なりあっている状態が妙なのだ。妙ではないとするならば、世界は無数に重複した世界ということになる(そしておそらくそうなのだろう)。「私」という存在は、膨張する宇宙の離れあう無数の銀河団の銀河のひとつの構成因子である太陽系のうちの地球のマントルのうえに位置する島国の自転車に乗る肉体の中を流れる血液によって構造を維持する細胞のなかに組み込まれたDNAの塩基配列を位置づける分子に飛び交う電子の、無数の跳躍によってカタチを成している。いずれの枠組みにおいても視点は存在し、その都度世界は、色を変え、重なりあい、「私」という視点を構成している「私」の瞳に映るのはあなたと、あなたと、あなたたちで、できた連なりを社会と呼び、触れられる範囲が私にとっての枠組みとして世界の基準に君臨する)(2017/9/25追記。ロケットも地球同様に公転している状態ならばメタ視点による逆転現象は生じないかもしれない。ただし、ロケットの進行方向が地球の公転する方向と同じだった場合にかぎる。地球の公転に逆らって進んでいる場合、メタ視点では地球の公転速度よりもロケットのほうが遅くなるため、やはり逆転現象が生じる)
※日々肉体がカタチを保てなくなっていき、精神が露出し、やがては霧散する、端から中身はなく、霧散することで内が外となり、私の世界が世界に溶けこみ、くるまれ、カタチを得ては、ふたたびの崩壊を待ちわびる。
751:【血の魔女と贄姫と屍牙姫】
2017年9月20日はマンガを四冊買ったぞ。じゅんばんに「血の轍:第一集」「魔女と野獣1巻」「贄姫と獣の王5巻」「屍牙姫1巻」だ。ちなみに昨日は「うらたろう5巻」とほか一冊をにゅうしゅ済みなのだ。まずは血の轍からいくぞ。ふむふむ。「悪の華」や「ハピネス」「ぼくは麻理のなか」でお馴染みの押見修造さんの新作ではないか。いや、知っておったぞ。ここ数日立ち読み冊子を読んでからそのあまりのおそろしさに購入できずにおったのだが、けっきょく買ってきてしまったのだ。魔の引力おそるべしだぞ。イマもっとも手元に置き、目を逸らしつづけていたい作品なのだな。うん。つぎはえっとぉ、魔女と野獣だな。これは表紙買いしたやつでな、思ってたのとちょっと違ったけど、思っていた以上に準主役のオナゴが目つきから足癖から口までわるくてな、ぐっときたぞ。うん。ガシガシ蹴ってくる系女子、好きだぞ。つぎはだな、贄姫と獣の王だな。これはだな、魔法使いの嫁をマイルドにした感じの物語でな、いくひしは好きなのだ。ヒロインがな、カードでキャプターのさくらちゃんに似ていてな、はにゃ~んってなるぞ。恥ずかしいから言わないけどな。それでな、つぎはな、屍牙姫でな、これはいくひしおすすめのマンガ「スズキさんはただ静かに暮らしたい」の作者さん、佐藤洋寿さんの新作でな、「スズキさんはただ静かに暮らしたい」はもう、おねショタとおばショタの中間という、なんとも絶妙極まりないクライムホームドラマでな、2016年度いくひしイチオシで賞を受賞した「バイオレンスアクション」がお好きな方にはぜひとも読んでいただきたい物語なのだ。そんなマンガをつくった佐藤洋寿さんの新作が「屍牙姫」でな、さきにも述べた押見修造さんの「ハピネス」が好きなひとや「東京喰種」が好きなひと、あとはそうだなぁ、さいきんのやつだと「グレイプニル」や「食糧人類」が好きなひとにはいちど読んでみてほしいなと感じるな。あ、そうそう、一言でおすすめするなら「リアル姉なるもの」って感じだぞ。ちがうか。ちがうな。では!
752:【いちじるしい変化】
コーヒーにミルクを混ぜるところを想像してほしい。ゆっくりかき混ぜたときは、変化の軌跡が段階的にハッキリと観測できる。しかしミキサーで素早くかき混ぜると、一瞬で変化し、あとはもうどれほど激しく撹拌しても変化を見てとることは至難だ。ここ百年の社会の変化にも同様のことが言える。最初の五十年はゆっくりと変化し、その様相は段階的な移ろいを顕著に示した。さらに三十年をかけて変化は速度を増し、そしてここ二十年でかつてない速度で時代が変化しつづけている。あまりに目まぐるしいため、変化を目で感じることは至難だ。しかし確実に渦は回転数を増し、それを構成する分子を激しく流動させている。変化の速度が増すとき、時間の流れもまた加速する。
753:【表記の統一】
いくひしはほかの作家さんたちに比べると漢字をひらがなにひらく割合が高いように思います。たとえば「前」「時」「今」「人」や、接続語の多くはひらがなです。過去を意味する「前」は漢字ですが、方向を示すときは「まえ」です。瞬間的なズバリそこですの場合は「時」ですが、漠然とした期間を示すときはこのように「とき」とひらきます。同じ用法として「今」や「瞬間」もまた、任意のこの場面、というとき以外はひらきます。「人」や「彼」については、固有名詞に置き換えられる場合は、「ひと」「かれ」とし、不特定多数(またはモブ)を扱う場合には「人」「彼」にしていますが、作品によってはすべてひらいたり、もうすこし厳密に使い分けていたりします。「自分」もそうです。「この私自身」を意図するときは「じぶん」ですが、「私以外」にとっての我が身という意味では「自分」としています。たださいきんはすべてひらいていることが多いです。頭の働きがわるくなってきた証拠です。接続語においては、基本的にひらきます。例としては「ふたたび」「いっぽう」「けっか」「けっきょく」「じっさい」などですが、「飽くまで」「他方」「反面」「或いは」「仮に」など逆説にちかいものは漢字の傾向にあります。距離に関する事柄は「近い」ですが、「似ている」の意味合いのときは「ちかい」です。「続く」の場合は、基本的にはひらきますが、継続ではなく流れから~~した、の意味合いの場合は「続けて~~」にしています。会話文の周辺に「続く」が多いのはこのためです。「わかる」も用途によって漢字を使い分けています。判断できるの意味合いは「判る」、理解できるは「解る」、そして漠然と承知しましたの意味合いは「分かる」です。本当は解っていないのに、わかったよーというときは、「わかる」とひらいている傾向にあります、そこは厳密ではないかもしれません。文体やキャラによってひらく割合は変えてあります。もちろん単純に統一しきれていないケースもあるでしょう。読みにくいようでしたらすみません。
754:【新作情報】
新作を更新しました。「陰の薄いあのコの影になれたなら」です。少女たちのもにょもにょした関係をつむいだ物語です。百合です。あんまりラブラブコメコメはしていません。ラブラブチョメチョメもないです。多重構造ではない、王道の物語にしてみました。おヒマを無駄にプチプチしたい方におすすめです。次回作は雷獣と出会った少女のひと夏の冒険譚です。そのつぎが、とある科学者の手記となります。どれも女性が主人公ですね。なので短編のほうは男性が語り部になることが多くなると思います。あとはなんでしょうね。とくにお話しすることがないです。ふだん人と話すこともないので、そう、ホントに、おつかれさまです以外を口にしません。めちゃめちゃ根暗です。あれ、キミいたの?ってなるタイプ。陰キャというやつです。韻を踏める陰キャであり、下品に攻める淫キャです。文字を持たない文明、それはインカです。はい。新作更新したよー、のご報告まで。https://kakuyomu.jp/works/1177354054884104981
755:【波よいぬやCITY】
平成二十九年長月二十三日はマンガ三冊をお持ち帰りしました。「いぬやしき10巻」「CITY3巻」「波よ聞いてくれ4巻」です。いぬやしきは最終巻ということで、さびしーよーってなるけど、新たな物語がまたぞろ世に放たれるためのまえふりと思えば前向きに生きていけるのが暢気ないくひしのよいとこだ。CITYは「日常」でいちやく名を馳せたあらゐ けいいちさんの作品で、グランドホテル方式の群像劇じみていて、そのじつ極上の百合なのだ。思えば日常もヘンテコな百合要素が満載だったし、なるほど、百合眼鏡を曇りなきまなこに磨きあげたからこそ視える景色というものがあるものだ、となんだかエベレスト級の山々のいただきに立ったきぶんでおたのしみいただけています。なによりマンガの可能性を手塚治虫氏の延長線上でさらに高めているのは、ひょっとすると現状あらゐ けいいちさんで、ほかの作家さんと比べると頭ひとつ抜きん出ているのかもしれません、なんとなく。波よ聞いてくれはですね、なんどタイトルを並べても聴いてくれと打ってしまう。なぜラジオが舞台で聞いてくれなのか。それはおそらく、聞いてくれよーおねぇさんの愚痴をきいておくれ、という親近感を匂わせるためのたまものじみた演出なのだなー、と最新巻である4巻を読んで思ったのだとさ。出てくる女性陣、すべてが癖がつよくて個性的で、どれもタイプではあるものの、そばにいたくはない、そういうフウテンの寅さんじみた魅力があるよね。恋愛要素よりもやっぱり百合要素のほうがガンガン魅力ボルテージがあがりますし、今年はもう百合年で決まりですね、いくひしのなかで。ハイテンション情緒不安定マシンガントーク自己肯定感低い系女子が人気者になってほしいいくひしの願望がなんだか如実ににょきにょきしてくるそんな作品です。波よ聞いてくれ、おすすめです。
756:【余裕なし】
なんだか毎日本買いましたよーの日記並べてると、コイツ金に余裕あんなー、みたいな感想を持たれそうですが、ないですからね! 食費とか交通費とか、そういうのもろもろ削って、日々肉体の筋にくんに鞭打ちながら、魂の食事とかほざかれている本をご購入まっしぐらな日々なんですからね! 本なんか買わなきゃもうちっとマシな暮らしできてますからね! 本なんかだいっきらいだよー!
757:【ネタバレ】
いくひしはネタバレ大好きマンでして、ネタバレするよりもされるほうが断然まえのめりで好きです。なんだったらネタバレだけ見ておもしろーいってなれるタイプ、むしろネタバレのほうがおもしろいじゃんってなる。ネタバレってようは、おもしろいところのピックアップなわけでしょ? スポーツ観戦でもなんでもダイジェストでズバリそこだけを観たいいくひしさんですから、そりゃーネタバレが好きじゃないわけがない。ネタバレだけで編んだ物語、いつかつくってみたいです。
758:【気づいた】
あれ、ひょっとしてだけどいくひし、男の娘の出てくる物語、つくったことなくね?(あんだけ大好きなのに? え、どうした?)
759:【ガチ】
脳内シミュレーションしてみた結果、いくひしが男の娘のでてくる物語を編むと、ガチになる。女装から入って、男に興味ない、ただかわいいものがすき、というか、すきすぎてじぶんもかわいくなりたいぞってなってからの、メスイキ?なにそれ、えー女のコの気持ちよさを味わえちゃうのー、うそー、みたいなかーらーのー、おしりにゆびつっこんだらうんちついちゃったじゃーん、みたいなね。そこんところからまずははじめます。(読みたい?)
760:【編集者いくひし】
いくひしが編集者になったら、たぶん、作家なんて人間だと思わずに接するし、豚や鶏のほうがまだ定期的に生産物を提供してくれる時点でなにかしら管理しやすいし、作家の存在価値なんて家畜以下ですよ。冗談抜きで、作家なんてミキサーとしか思わないだろうし、こっちで材料投げて、あとは締め切りっていうスイッチ押して、素材ガリガリーのミックスジュースじゃー、ってな具合に、日々新鮮ジュースを搾ることに躍起になると思います。世にそんな編集者さんはいませんが、すくなくとも、いくひしが文芸や漫画の編集者になったら、そういうふうな価値観で仕事をすると思います(なぜならいくひしはクズだから)。じっさい編集者でもないのに、いくひしはじぶんのことをウンコ生みだし機と思っていますし、小説なんて、作者というミキサーに放りこまれた素材の搾りカス――ジュースじゃないほう、残り物ですよ。ホントそう、真実そう思ってます。ただのウンコが、なぜか黄金よりも価値がある――ときがまれにある。物語ってすごいんだぞって、話です。
※日々無駄に費やした時間を埋めようと躍起になっては燃え尽きて、灰から土へと蘇えり、種を得て、根と葉と茎を経由して、ようやく咲いた花を火種に、遅れた日々を取りもどす、ジタバタもがく日々は無駄に費えていく。
761:「プライド」
いくひしは自己肯定感が著しく低いと認識されるいっぽうで、プライド高いよな、なんて言われもして、どっちやねん、どっちかにせーよ、なんて言いたくなるときがまれにあるわけですが、そのまれにの内訳としましては、おおむねそう言われるシチュエーションにならないところが六割、人とまず話さない、が四割となっております。いくひしはべつに曲がったことが大嫌いというわけではないですし、いくひしそのものがどちらかと言えば曲がっているというか、曲がってなかったらなんなんだ、みたいな感じも否定しきれず存在しておりまして、ようするに、いくひしはもうこれ以上曲がりたくないから曲がるようなことさせないで、となるわけよ。わかる? もっと言えば、自己肯定感が薄い割になんでそんな態度でかいの、みたいに言われることもまれにあり、その内訳としてましては、どれほど落ちぶれようがわしはわしじゃ、という確信がありもうして、それはもう百パーセントの確信でありまして、ひんまがったいくひしの性根に触れることでそれがやや歪曲されて自信に変わって伝わってしまうのかな、と思わないわけではないよ。でもねコレ、自信ちゃうねん。落ちたところに落ちた人間にとっちゃいまさらどこに落ちようが変わらんべ、みたいな諦めですからね。おまえらに嫌われようが好かれようが、たいして差がないなら余計な気を回すのもわずらわしいんじゃ、の諦めですからね。もうね、性根が腐ってる。腐りきってほどよい腐葉土になっちゃってる。プライドなんて名の土もあるとこにゃーあるようだけど、いくひしさんのフヨウドにゃ勝てないね。あなたのなかに埋もれた種をふんわり包みこんでは育む養分がたくさんさ、ミミズだってオケラだってカブトムシの幼虫だってはびこるさ、腐葉土だもの、不要な存在のいくひしだもの、ときには毒素も必要さ、腐った言の葉でできた土くれだけれど、物語という種に吸われよう。吸われ、しぼられ、やせほそり、それにて存在の意義をまっとうできる、生きていると言い張れる、生きてていいのだとそう言える。プライドなんかいらないよ、だっていくひし、腐葉土だから。不要な土くれ、鞭を振れ。バシバシ叩いて鍛える無知のいくひしだからこそできること、暗い井戸の底でも芽生える種はきっとある。根は巡り、私とあなたを繋ぐ糸となり、私たちから芽生える葉が茂る。色褪せ、落ちた葉が腐り、そうして土がよみがえる。実をならすのはみなの役目と諦めて、「私」はしがない腐葉土となろう。
762:【いいかよく聞け】
たまにはちゃんと息抜きせーよ。
763:【脳内麻薬】
おそらく人間がもっとも脳内麻薬を分泌できる瞬間は、他人を蹂躙し、それをして大勢に称賛されるときだろう。ヒーローは人間の根源的願望であり、悪の集大成である。(他人を傷つけずに誰かを守ることができたならば、それは本当の意味でのヒーローであろう、むろん自分が傷つくことで誰かを悲しませてはいけないのは言を俟たない)
764:【無料配布期間】
キンドル電子書籍の無料配布キャンペーンは一冊につき五日間利用できます。いくひしの作品は、新作の「陰の薄いあのコの影になれたなら」以外はすべてキャンペーンを実施済みです。90日経つと無料配布キャンペーンがまたできるようになります。10月18日からまた毎日なにかしらを無料配布していきたいと思います。いくひしのつむいだ物語をお読みいただきありがとうございます。ご購入くださっている方もたいへんうれしいです(やったー、ってなるよ、ほんとだよ)。よりおもしろく、ほかでは味わえない、ここだけのしろものを生きているあいだにより多くつくっていけるように、日々自堕落に、より自由に生きていこうと思います(思うだけならそれこそ自由だ)
765:【技と才能】
スポーツにかぎっての話になるが、高難易度の技を本番で成功させるためには、事前にそれを成功させた経験のあることが前提になる。アドレナリンのちからを借り、本番一発勝負をしかける者もいるが、技の難易度が高くなればなるほど成功率は下がる傾向にある。練習で八割成功できても、本番での成功率は四割をきるだろう(なぜなら技だけでなく、本番ではそこに流れが加わるからである。単発で再現可能でも、流れからだと成功率はぐっと下がる)。よって、練習で成功率十割になってようやく本番での成功率が六割以上になると考えてよい。難易度の高い技ほど、事前の熟練度が必要となる。また、確率から言えば、小説などの創作物のほうが、再現度は低いだろう。スポーツよりも芸術活動のほうがより偶然のたまものを評価する傾向にある。偶然を任意の方向へ高い確率で誘発させる術を持っていること、芸術においてそれこそが才能と呼ばれるものなのだろう。
766:【すーごーいー】
アニメ「少女終末旅行」のPVを観たんだ。すごいぞ。脳内音声そのまま。ちーちゃんもユーちゃんも、いくひしの頭のなかでそんなふうにしゃべってた、そんな声してた。すーごーいー。
767:【へいへい】
未だに世の中の情勢を右か左かで測り、物事の判断基準にしているおとながすくなくない。二元論はシンプルだが、そろそろシンプルなだけでは世のなかを分析しきれないのだ、ということを認めてもよいのではないだろうか。科学の世界ではオッカムの剃刀なんてものが重視されているが、よりシンプルなほうがよいという考え方は、少々粗暴にすぎるのではないか。シンプルなほどよい、というのは、人間にとって扱いやすい、という意味でしかない。真理とはまたべつものであろう。
768:【編み物】
物語はつぎの段階に進まねばならない。ハッキリ言って、これまでの物語構造は時代に即していない。現在、社会に顕在化しているさまざまな問題の根本的な因子のひとつに、これまで普遍とされてきた物語構造の弊害があると感じている。白か黒か、善か悪か、何が解決で、何を問題とするのか。エンターテインメントだから、という免罪符はもはや逃げ口上以外のなにものでもない。複雑化せよ、と主張しているのではない。複雑なものに目を向け、紐解いていこう、と言っているのだ。シンプルなことが尊ばれるのは、複雑なものから法則を導いていき、成分として分解していく、その工程がうつくしいからにほかならない。シンプルだからうつくしいのではない。自然は、宇宙は、けっしてシンプルにできてはいない。シンプルな原理が積みかさなり、折りかさなり、からみあって、世界を、複雑に編みこんでいる。層が違えば、視える風景も違ってくる。多重の目を持とう。
769:【分散文芸】
何かを極めるためには、常に百パーセントのちからを引きだせるようにするのではなく、零から百までのすべての段階で高レベルの出力機構を備えるほうに尽力するほうが方向性としては合っているように思う。零から百までのあいだに、引きだしをつくるようなものだ。百だけに引きだしがあってもそれは極めたことにはならない。またすべてに引きだしをつくって、そこで終わっても意味がない。一つの引きだしには、ガラクタから宝石まで、それこそその階層での零から百を揃えなくてはならない。百×百で、一万通りの引きだしの中身を揃え、そこからさらに、引きだし同士を結び、引きだしの中身の組み合わせを試していく。極めるとは、そういうことだとイメージしている。これはいくひしの経験則なので、間違っているかもしれない。参考にしないほうがよいだろう。
770:【あたまにモヤ】
あたまのなかがモヤがかってるのがさいきんのいくひしのトレンドというか「モヤ取れんぞ」なのですが、これはうつ病の症状のひとつらしくて、はぁーそういうこともあんのねーと謎の万能感さえなければ病院に直行しているいくひしさんですが、ここ半年の考え事のたいはんは「時間と情報」の関係性です。で、まずは時間とはなんぞや、というところを、いまの科学的見地の解釈を調べようと思って、それっぽい本を乱読しているのだけれども、はぁー、わからん。むつかしいことをよくもまぁ、むかしの暇人どもは考えなすった、と唸ってばかりで、理解のほどはさっぱりね。そりゃーもう、あまりにむつくかしくって、あたまのなかにモヤがかかりますわ、ムカつきすぎてモヤがかりますわ、イチャモンだってふっかけますわ、あ、原因ハッキリしちゃった、すっきりだわーなんつって、あたまのモヤが晴れちゃった。時間と情報の関係性はさっぱりムチムチなままだけれども、すっきりするのはよいことだ。便秘気味のお腹のほうもぜひともスッキリしてほしいぞ。秋の夜長は無駄に悩んでいけねーや。こういうときはココアを飲んでホットひと息つくのがよろしいぞ。思って飲んだら、あまりの熱さに、あたまのなかがモクモクだ。そこはホクホクしときなさいよ、モヤはもういいよ、火の用心マッチ一本火事の元ってそれはボヤだろってな具合に、なにかこれといって並べてみせることのないぱっとしない日々は、やっぱりどこかモヤがかっているのだなぁ。閃きを投影するには体のよい煙幕だ。途切れぬようにしていこう。
※日々とはいつか途切れる断絶の名を死。
771:【なにもしたくない】
なにもしたくない。生きたくないし、死にたくない。
772:【散策】
深夜二時になにともなしに自転車に乗ってそとに繰りだした。秋も暮れ、空は高く澄みわたっている。星々の沈む夜の海は透明度を増し、ただただ静かに揺れている。自転車を引きながら坂道をのぼる。丘の上から見下ろす。町並みは、街灯ばかりが目立っている。自転車にまたがり、坂をくだる。山に囲われた町から、ビルの立ち並ぶ街へと川となって運ばれていく。風のようで、水のような闇をぬるぬると縫って伝う。ひと気は皆無だ。世界が拓けていく。滅多に足を運ばない地域まできた。昼間は大学生が大名行列のように行きかっている。コンビニがいくつか潰れ、テナント募集を訴えている。こころなし、ほかの店舗も活気がない。新しいビルはそれでも幾つか建設中だ。新陳代謝、とつぶやく。中心街までくると、さすがにぽつりぽつりと通行人を見かけるようになる。たいがいが男女の組み合わせだ。大学生だろうか。寄り添うふたりを見かけるたびに、ケッと思う。風のようで、水のような闇をぬるぬると縫って伝ううちに、すっかり泥をまとってしまった。夜に沈む街は、そらの汚れを池のように溜めている。天に近づけば薄まるだろうか。こんどは山へ向け、坂道をのぼる。ぬったぬった、身体が重い。限界まで泥を濾し、集め、重量を増したところで丘のうえから一気に家へとくだっていく。さらさらとそらの泥が抜けていく。家に着く。四時。このまま日が昇らなければいいのに。思いながら、町に溜まった汚泥はみなの見ている夢かもしれないと想像し、開けていく夜の帳の抜けていくような色彩をこの身いっぱいに吸いこんでしまいたい。鍵を開け、戸をくぐり、靴を脱ぐ。泥のようだと思う。なにもかも泥のようで、夢のよう。風のようで、水のよう。おはよう。おやすみ(おかえり)なさい。きょうはどこに行って遊びますか?
773:【出会い系で泣かせたい妹と出会う三月の話】
もちオーレさんのマンガ「出会い系サイトで妹と出会う話」を読んだ。めっちゃ興奮する。性的に。百合なのだけれども、これはGLとしてもBLとしてもすぐれものだ。キスのえっちなマンガはいいぞ! このひとのマンガは作者買いしたくなる類のやつだ。どことなーくクール教信者さんと似た香りがするぞ。あとは「私は君を泣かせたい」も買ってきた。いいコを演じる性格のわるい女の子、好きなんだ。いっそ性格のわるい女の子が好きかもわからんぞ。言うてもこういうマンガの性格わるいなんてたかが知れていて、どのコもふつうにいいコなのだけれどもな! あとはそうだなぁ、三月のライオンを買ってきたけれども、これはここぞというときのために読まずに温存しときます。コレ、魔法のオクスリだからね。キメるとやる気ボルテージがマックスになるねんで。たまーにいくひし関西弁モドキになるけど、ぜんぜん関西とは程遠いとこにおるぞ。似非っちゅーやつやんな。あと再三になるけれども、大沢やよいさんの「2DK、Gペン、目覚まし時計。5巻」が書店さんにないねーん。どうしてなの。無慈悲なの。ひどい。缶乃さんのマンガ「あの娘にキスと白百合を最新刊7巻」も入荷してないってなんなのー。最新刊でしょ、ヒット作でしょ! 大型書店にもないってどうなってんの、田舎をバカにしとんのか! 品薄か! 売れてんのか! よいことだ! あ、うん。よいことだ。おもしろい本が売れている。よいことだ。うんうん。待つよ。いくらでも待つよ。たくさん刷って、田舎にも配ってちょ。おねがい。
774:【知識ではない】
知識を結びつけることだけが思考ではない。知識と知識のあいだにある隙間を見つけ、そこに合うピースを探すと、おのずと、隙間が広がりを帯び、もうひとつの世界を見せてくれる。
775:【同じジャンルのひと】
いくひしのなかで成人向け漫画家さんのディビさんと、「堀さんと宮村くん」で有名なHEROさんは同じくくりです。たぶん同意はされないだろうなってわかってます。でもなんかわからないけど、同じ匂いがするというか、世界観が同じ方角を向いているというか、読んでいてただひたすらに落ち着くのです。セリフ力の高さは、ベクトルこそたがえど、おふたりともずば抜けて異次元です。同化して融け合いあいたいと思うような、思った時点ですでに融けはじめているみたいな、ふしぎな引力のある作品ばかりをつむいでくれます。HEROさんに至っては、ほとんどすべての作品をネット上に無料で公開していたりして、作品の世界観だけでなく、技巧だけでなく、そうした姿勢がいくひしの骨格の一部になっていると思います。2010年の冬頃に、初期作をつくっていたいくひしが、創作活動を一時中断して部屋にひきこもり「堀宮」を読み漁ったあの時間は、処女作をつくっていたときと並んで、人生のうちでもう味わえないだろうと思えるほどにとくべつな時間です。おもしろいとか、すごいとか、そういう次元では語れない、ほんとうにとくべつな物語をつくりつづけてくれる、たいせつなもうひとつの故郷そのものです。たまに帰ることで、じぶんという輪郭を再認識できる、じぶんのなかにある初心を振りかえれる、タイムマシンじみた魔法が詰まっている。いくひしのわるい癖なのですが、本当に真実じぶんのなかに取りこんでしまったものは、身近に置いておきたくない、という衝動がありまして、HEROさんの著書を長らく購入していなかったのですが――同じ理由で攻殻機動隊のDVDも未購入のままなのですが――2017年10月01日の午前05:39、きょうはまずHEROさんの短編集をぜんぶ揃えてこようと思います。そろそろいくひしも進化せねばならぬぞ、と感じているきょうこのごろなので、まずはじぶんのなかにある根源を見つめ直そうと思います。
776:【味方】
時代に追いつかれるってぇのは俺にとっちゃあ、時代が味方をしてくれてんのと同義だ。だが味方なんざなんの腹の足しにもならねぇ。追いつかれたら終わりなんだ。解るか?
777:【なかった】
うわーん。HEROさんの個人作品集が一冊しかなかったよー。九冊目の「夜明けはキズのあと」だけしかなかった、雑誌連載作品の「雨水リンダ」の一、二巻を代わりに買ってきたよー、思わぬ発見だったよー、うれしいよー。うわーん。
778:【Chris Brown - Privacy】
すごいイイ曲だなーって思ってたら歌詞が笑えるくらい下品だった。タイトルからしてサイコーだ。
779:【やるべきこと】
組織のちからを借りずに創作活動だけで食べていけるようにするために、こなすべきこと。ひとつ、作品の量産化。とにかく食い尽くされないだけのメニューを揃えておく必要がある。無料バイキングを開いてもカレーとハンバーグしかなかったら、いちどの来店でリピーターは見込めない。ふたつ、独自のプラットフォームの建設。企業の開いたWEBページではなく、じぶんだけの受容体をネット上に構築しておく必要がある。専用のメッセージ物質が集まるように工夫していこう。みっつ、宣伝。こればかりはいくひしの不得手とするところだ。得意とするひとを雇うほかない。或いは、宣伝しないことで宣伝とする手法を編み出すほかない。隠れ家的なお店はけっして隠れてはいない。本当に隠れてしまったら見つからないだろう。同じように、宣伝しない系の宣伝方法を試していくのがよさそうだ。どうすればよいのか。まずは、何を媒体に伝えていくのか、回路を構築する素材を見極めるところからはじめるほかない。マスメディア、ネット、雑誌、広告、これらはすべて除外する。では何が残る?
780:【無名の効用】
無名であることの利点はただひとつ、そこに付加価値がないことだ。つまり、評価という付加価値がないことが、付加価値をつける側にとっての最大級のメリットになる。何かを仕入れ売る側にとってもっとも得難い信用とは、ゼロから価値を見出した、という実績なのである。お膳立てが揃ってから見出していたのでは遅いのだ。(言ったら底が浅くなってしまうことなんで言っちゃうの? ポンタンなの? アンなの?)
※日々肉体の細胞のテロメアがすり減り、存在の枠組みに年輪が刻まれていく。
781:【フフーフ】
売り手の都合を読者に押しつけてるわるいこはだーれだ?
782:【作者】
つむがれた物語(虚構)が好きなのであってそれを生みだした作者を好きなわけではない(だいたい、会ったことがないのだからどんな人物かは判らないはずだ)。いくひしはいくひしのことを、いくひしのつむぐ物語を通して好きになってもらいたいけど、それと読者の所感はべつものであり、いくひしといくひしの並べる文章もまたべつものだ。貪れるだけ貪ってもらって構わない。無視しても酷評してもらっても一向によい。いくひしは、いくひしのつむいだ文章を、物語を、あなたのなかに産みつけたい。刻みたい。侵したい。こんな願望を抱いている時点で好かれるわけがないのだな。
783:【呪文】
読むだけで発動する呪文みたいなもので、それを読んでどう感じてもらうかは重要ではなかったりする。もちろん楽しんでもらいたいし、いい時間のつぶしかただったと満足してもらえるように工夫してはいるけれども、そんなのはいくひしの自己満足だ。すべては読んだひとの感じたことがすべてであり、同時に、読まれたことがいくひしにとってのすべてだ。いつ読まれるのか、それもまたたいした問題ではない。あなたにさえ読まれさえすれば。
784:【ちいさく見える】
じぶんがちいさく見える瞬間は、いまは圧倒的にツイターで流れてる絵描きさんの一枚画を眺めてるときで、描写力と画力の計り知れなさに胸をきゅんきゅん締めつけられながら、マジか、となる。世の中に天才が多すぎる。
785:【間もなく】
間もなく書店の過半数はある一つの企業の傘下に入るだろう。具体的には三年以内だ。なぜ解るかと言えば、いくひしがその企業の社長ならばそうした判断をとるからである。(ツタヤではないよ)
786:【戦略】
頭を潰したければまずは口を潰せ。口を潰したければ手足を縛れ。手足を縛られ、口を潰された頭にできることは、ただ言いなりになることだけである。
787:【二律背反】
作者としてのいくひしと読者としてのいくひしとでは、業界に対する見解は百八十度真逆だ。読者としては一生ついていきます、ワンワン、と尻尾フリフリだけれども、作者としては――いや、やめておこう。組織の構成員の大部分は良心的でとても良い人々である一方で、組織としては壊滅的な問題を抱え、放置されていることはままある話だ。出版社にかぎった話ではない。編集者一人一人は、これからも長く付き合っていきたいと思えても、組織として(或いは業界として)の欠点が放置されつづけているようでは困りものだ。物書きとして生計を立てている、いわゆる成功者たちの多くは未だに「デビュー」することが一つの到達点であり、そこからがスタート地点だと考えているようだが、もはや「デビュー」にさほどのメリットはない、といくひしは考える。WEB小説投稿サイトの手法――読者数を確保されたものを収穫する「牧畜(放牧)方式」を批判しながら、同時にポコポコ新人を量産し、返本分の不利益を新たな本でまかなう自転車操業の回転数をいまでは加速させている出版社や部署(レーベル)はすくなくない(憶測です)。いちどに刷れる本の部数が減っているため、作者の数を増やしているわけだが、そのツケは確実に数年後にやってくる(基本的にはまず書店にそのしわ寄せがいく)。どの版元も主力作品の映像化にちからをそそいでいるが、それも今では飽和状態になりつつある。事業を縮小させる方向に舵をとるほかに、出版社の生き残る道はないと言っていい(私見です)。では、そのとき、過去に量産された新人作家たちはどうなるだろう? 野菜を山盛りに積んだ器がその大きさをちいさくしていく。野菜はどんどん零れ落ちていく。いちど落ちた野菜には傷がつき、売り物にはならない。かつては、零れ落ちていく野菜を拾いあげるほかの器もあったが、数年後には、上から落ちてくる野菜を受け止めるだけの余裕はなくなっているだろう。どちゃどちゃと野菜は落ちつづけ、いつしか器への怨嗟を溜めこんでいく。器に載っている野菜を育てているのは、器に捨てられたかつて野菜だった者たち、そして野菜を夢見ては土に埋もれている多くの堆肥たちだ。そこから目の敵にされた器にはもう、新たな野菜は巡らない。いまある手持ちの野菜でしばらくは保つだろうが、そのさきはただただ不毛な飢饉が待っている。間もなくその兆候が見えはじめるだろう。おぼろげながらも視えている者は、すでに何かしらの予防線を張っているはずだ。読者としては、是非とも多くの新鮮な野菜ジュースをこれからも送り届けてほしいと望んでいる。しかし作者としては――いや、やめておこう。畑が崩壊するのだ、野菜もタダでは済まされない。畑をたがやせ。じぶんだけの畑を。
788:【うぅー】
安西先生……デビューが、したいです。
789:【アラサーあやしの湯いい子いい子】
2017年10/02の昨日はマンガ三冊お持ち帰りしました。「アラサークエスト1巻」「いい子いい子してあげる」「あやしの湯ももいろ美人」です。アラサークエストはいくひしみたいなアラサー女子がジタバタ人生をもがく話です。いやべつにいくひしはアラサー女子ではないけれども、性根の腐り具合はまぁ似てる。あとはね、いい子いい子してあげるはBLなんだけど、受けのコが可愛いな。BLに限定せずとも活躍できそうな作家さんだなぁ、と感じた。藤谷陽子さん。あした売り場を漁ってみよう。そんで以って今回の目玉はなんといっても「甘々と稲妻」で有名な雨影ギドさんの最新作「あやしの湯ももいろ美人」だ! 「甘々と稲妻」とはちがってBLなんだけど、いや、これはBLとか抜きでおもしろいぞ。BLが加わってさらにお得感割増だ。じつを言うといくひしがはじめてご購入したBL漫画は雨影ギドさんの「青年発火点」で、はじめて購入した百合漫画も同じく雨影ギドさんの「終電にはかえします」だった。すごくない? ぜんぜん意図してたわけじゃない。たまたま手に取った漫画の作者さんが同じだったわけ。あとで気づいたわけ。むしろイマ知った。あ、それとこれは雨影ギドさんの作品でしたのね、ってな具合だよ、びっくりしたなーおい。前にも書いたかもしれないけれども、いくひしの百合入門書は志村貴子さんの「青い花」で、これを読まなかったら今のいくひしはないと言ってもぜんぜんまったくこれっぽっちも過言ではないね。他言無用ですらない。いくらでも世にひろめてもらって結構。世界の常識にしたいくらい。いくひしの百合入門書、「青い花」。ちなみに「終電にはかえします」を買ったときにはいっしょに西UKOさんの「となりのロボット」もご購入して、たいへんよい買い物だと、すっごーく満足した覚えがあるよ。去年の話かもしれない。そう、じつはいくひし、百合歴はそんなに長くない。今が絶賛熟し中のドハマリ中。そういう意味で、おとといにはHEROさんの著書のほかに、くずしろさん著の「兄の嫁と暮らしています」一、二、三巻を買ってきていたのだ。まだ読んでないけど、くずしろさんだし、おもしろくないわけがない。作品を通して作者を好きになることはないと豪語するいくひしさんでも、作品を通して作者の腕に惚れることはぜんぜんあるよ、ありまくりだよ。くずしろさんの腕のよさは、いくひしのなかでは西尾維新さんに並ぶ信用度の高さを誇っているね。ひとよりもかなりズレているようでじつは誰より王道、みたいなところも似ている気がする。両者共におすすめするまでもないくらいのおもしろさですな。あとはねー、これは単なる愚痴なのだけれども、いくひしはほぼ毎日片道8キロ、往復16キロをキコキコ自転車こいで通っているのだけれども、きょうは帰り、まさに自転車に乗ろうとしたところで、うしろのタイヤがぺっちゃんこになってるのに気づいたわけ。あしたも必要だから置いてくわけにはいかないし、まあ引いて歩いたよね自転車。片道8キロ。ちょうどウーロン茶2Lを買ってしまったあとでね、家に着いたときにゃー足ぱんぱん。もうね、足ぱんぱんなわけですよ。タイヤにも是非とも見習ってほしかったね。なにかってにぺっちゃんこになってんだよっつって、この足のぱんぱん具合を見て学べと、その目に焼き付けろよと言いたいところで、はたと気づいたね。え、なにその目みたいなの。丸いなんか目っぽいのが後輪タイヤにくっついてるわけ。ゆびでつまんだらとれたよね。画鋲。刺さってた。タイヤに。そりゃあぺっちゃんこになっちゃうわ、空気だって抜けちゃうわ、でもさ、これ、しぜんに刺さるってこと、ある? なくなーい? 百歩譲ってあり得たとしても、パンクするほど刺さらなくなーい? だって画鋲よ? ここぞとばかりに、タイヤの側面、地面とは接しないところに刺さらなきゃタイヤに穴なんて開かなくなーい? じっさいタイヤの側面に刺さってましたよね。目みたいにつぶらな瞳を向けてたよ。目があっちゃったよ、トキメいたよ。もうね、ないね。久々の殺意が芽生えましたもん、芽が生えちゃいましたもん、トキメクどころか即抜いたよ、画鋲を抜いたし、目を剥いた。そんなことってあるー? 嫌がらせにしてもひどくなーい? イジメですかね。へこみます。ぺっちゃんこ。そういや数年前にも一か月で五回パンクを直したことがあったっけ……。遠い目をしながらきょうもいくひしは、残された時間で新作をつむぐのである。
790:【現場】
現場の人間が俯瞰的に業界の動向を把握していることは稀だ。たとえばEV(電気自動車)だ。某大手企業の自動車メーカーですら、現場の人間はEVの重要性をまったくと言っていいほど理解していなかった。エンジンに関して高い技術を持っているにも拘わらず、である(否、高い技術を持っているからこそ、かもしれない)。自動運転技術もまた、夢物語だと語っていた始末だ(いずれも去年の話ではあるが)。電子書籍にしてもそうだ。情報伝達技術の発展を経験として記憶している世代と、それがそこにあって当然という社会に育ってきた世代とでは、目のまえに現れた技術への所感はほとんど別物だと言ってしまっていい。本の読みやすさは、それに馴染んできた世代だからこそ判ることだ。仮にツイターの文章が本に印刷されたとして、スマホの画面より読みやすい、なんてことはあり得ない。いくひしですら、紙の本ではなかなか読み進められなかった小説が、ディスプレイを通して読むとスラスラ進んだ、といった経験をしたことが一度や二度ではない。あべこべに電子書籍ではおもしろかったのに、本で読むと目が滑る、といったことも経験している。これはいくひしの読書人としての経験の浅さが影響していると考えられる。いくひしは、本を読むよりも、ディスプレイで文章を読む時間のほうが通算で多いのである。そしてこれからさき、世のなかの大部分の人間が割合として「いくひし型」の文章への慣れ親しみ方をするようになっていく。本の利便性は、これからの社会では優位性とはならないのである。むろん本がなくなるとは思わない。ただしあらゆる面でコストがかかる。その点、電子書籍は、これからさき、技術が磨かれていくことはあっても、衰退することはまずないと言っていい(人類が過ちを犯さないかぎり)。本の需要と電子書籍の需要が逆転し、まず電子書籍をつくり、それから本にする、という図式が浸透すれば、いまある電子書籍の欠点は根こそぎ、殲滅されるだろう。しかし、それをするのは、いま現在、現場で最先端をいっている人間ではない。新しく、これからをつくろうとしている人々なのである。
※日々亀裂を抑圧し、溶接すべく押しつけあうから崩れていく。
791:【脳内】
わーい、おいしーい、やったー、ねっむーい。文字を並べてないときはだいたいこれしか頭にない。
792:【シリーズ】
シリーズ物は第一作がもっとも多く読まれるようだ。そういう傾向は法則といっていいほど顕著に統計数字として表れるらしい。シリーズが進むほどつまらなくなっていく、という法則があるわけではないかぎり、読者が選り好みして、第一作から買おうとすることに要因を見いだせる。いくひしもそこのところはずっと意識しつづけてきた。シリーズ物であっても、すべての作品に手を伸ばしたくなるような工夫はできないだろうか。初期作から試みているのは、時系列をズラすことだ。過去から未来へとつづいていくのではなく、ところどころで、物語の核心となる過去の話を入れる。シリーズを最初からとおして読んでいる者にはサービス巻となり、新しい読者にとっては、まずはそこから読んでみようという気にさせる。シリーズを三巻以上つづけない、というのも個人的に意識している工夫だ。いまのところ効果は観測できていない。そもそも分析できるほど多くの人に読まれていないのだから致し方ない。利点となるか、単なる失敗に終わるかは、おのずと判明するだろう。(それとも読者の増えない要因はそこに関係しているのだろうか。可能性は否定できない)
793:【因果応報】
実力があるのに陽の目を見ないクリエイターがいるとすれば、それは作品とは関係ないところで問題があると考えるのが吉だろう。実力があり、人格に問題がなければ、時代に埋もれることはまずないと言っていい。あるとすれば、作品を発表していないから、の一点だろう。
794:【すごいわー】
YOUTUBERのブライアンがめっちゃすごい。おもしろいし、下品だし、才能あるし、下品だし、すごいわー。断言するけど純文学だわ。逮捕されないか心配。
795:【入れ物と中身】
小説において本は入れ物であり、物語こそが中身である。入れ物が瓶だろうと缶だろうとペットボトルですら、中身のちがいに比べたらその差異は微々たるものだ。入れ物は、素材よりもデザイン性がものを云う。同時に、中身は素材こそが命だ。どちらも拘るべき成分ではあるが、より優先されるのはどちらだろう?
796:【?】
何を言うかではなく誰が言うかで、賛同するか否かを決める。そういうのを差別というのではないのですか? 理屈は誰が言っても妥当だから理屈なのです。
797:【ぼくは無力です】
Rascal - Elhaes Joint
798:【山道】
いくひしに賛同してはダメだ。こんなダメなやつの言うことを真に受けちゃダメなんだ。なに言ってんだと、アホじゃないかと、ダメじゃないかと、そんな考えではなく、そんなわがままではなく、こういう考えで、こうすればいいじゃないかと、考え、行い、見せてくれ。登りつめてくれ。きみたちの理想ってやつを。理想の世界ってやつをさ。
799:【アシガール】
アシガール読んだ。頭部にアルマゲドン級の衝撃が。再起不能。
800:【匿名性の透明性】
もはや現代のネット社会に匿名性なんてものはない。ある日突然、すべてのログの発信者を個人に結び付け、誰が何を発言したのか、何を書きこんだのかが詳らかにされることになっても、なんらふしぎではない。企業の責任問題に発展はするが、せいぜいがその程度の問題でしかなく、言い換えれば、一企業のせいにして、そうした匿名性の消失を実行する者もでてくると考えておいたほうがいい。じっさいのところ、匿名性が表向き維持されたとしても、ビッグデータを扱う企業側からすれば、誰がどのアカウントを扱い、どういう嗜好性を持ち、どういった私生活を送っているのか、誰と誰が繋がり、どういった交友関係を築いているか、おおむねのプライバシーは、自分自身で認識するよりも詳細に把握されることになる。否、一部ではすでになっていると考えておいたほうが身のためだろう。
※日々身体がだるくなり、精神はかるくなり、腹が鳴り、丸くなりなさいと魔女はがなり、食われる日を待つうだる日差しの昼下がり、来たるヘル、夜の帳、終わりを告げ、鳴りひびくベル。
801:【次元間ワープ】
はーい、みんな。エリーよ。きょうはまずきのうの答え合わせをする前に一つ報告があるの。びっくりしないでね、なんとシップの後方七光年先にユルシドフェイリアの群れが姿を現したの。みんなも知ってのとおり、次元間を旅する生命体――DNA情報を保持するゆいいつの星雲ね。階層ソナーにばっちりその姿が映しだされたから、あとでチャンネルにアクセスしてデータを漁って。情報量の多さに外部メモリを焼かれないように注意すること。そうそう、半年前に水の生成する方法を教えた種族がいたの、憶えてるかな。きのうの放送のあとにね、お礼にって次元結晶を送ってくれたの。知らなかったんだけど、彼らの文明には情報体を物質化して転送できる技術があったのね。燃料補給しなくて済むから次元結晶もうれしいけど、そっちのテレポーテーション技術のほうをどうせなら教えてほしかったよね。まあ、いまさら連絡のとりようはないんだけど。おっと、なんだかそろそろブーイングが聞こえてきそうな気配がぷんぷんしてるぞ、みんな待ちくたびれちゃったかな? きのうの問題、憶えてるよね。念のため復習しよっか。きょうが初めましての人もいるかもだし、外部メモリが破壊されてきのうの放送を観逃した人もいるかもしれないし――もちろんそんな間抜けな人はエリーのリスナーにいないことくらい知ってるけど、だってほら、エリーさまはやさしいから?そういうテイであらすじ語っちゃうけど、きのうは、そう(つづきはこちらから→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054884224860)
802:【排除と規制】
世のなかで何かを排除しようとしたり規制したりすることそのものは、世のなかの仕組みを是正していくためには必要なことだと思う。何かを破壊しなければ何かを生みだすことはできない、これもまた否定することのほうが難しい。しかし、いまの世のなかで何かを排除し、規制しようとする勢力が正当性を帯びたとき、排除や規制の向かう対象がなんであれ、まっさきに淘汰されゆくものがいくひしだということは知っておいてほしい。あなたが「あれはいやだなぁ」と思うとき、そこにいくひしは含まれる。あなたが「ああいう考え方はないほうがいいな」と思うとき、いくひしの根幹は否定される。良し悪しではなく、ああ、アイツは淘汰される側に入るのか、と考えてほしい。それで歩を止める必要はない。あなたの理想に近づくために、すべきことはすべきである。ただし、いくひしは、あなたの手により淘汰される。それは是非とも知っておいてほしいのだ。いくひしは、あなたたちの手で生きながらえ、そして時と共に削られていく。
803:【息抜きしろっつったろ!】
ばーか。がんばりすぎや。家帰って、風呂入って、おふとんくるまって寝ろ。
804:【行動経済学】
人間にとってのメリットとは基本的に「危機を回避すること」だ。自分が豊かになるためのプラス向きに働くメリットは、飽くまで「危機回避」したうえで築かれるものである。合理的に考えればすべてに優先されるのは「目前の危機回避」ということになる。ただし理性的に考えるならば、目前の危機を受け入れることが、さらなるメリットになることもある。損失のさきにある「より長期的に危機を回避できる術」を優先することのほうが結果として得をする、というのはよくある話だ。しかしそうした答えを導きだすために必要なのは合理性ではなく、理性である。いっぱんに経済学では、マクロな視点でのメリットを考えることが合理的な判断だと表現する傾向にあるが、それは合理性が何をメリットとしているかの定義づけに失敗しているために導かれる謬見だと個人的には感じている。人類にとっての最大のメリットは、生き残り、子孫を残すことである。また、個人にとっては自己を保存することである。しかし現在では、個人の「自己の枠組み」が多様化し、なにを以って自己と見做すのかの線引きがむづかしくなってきている。自己の枠組みを保つために、自分の命よりもペットや、社会的な地位、名誉、或いは使命、それとも娘息子たち――を優先したとしてもおかしくはなく、それもまた一つの合理的な選択なのである。ただし、理性的ではない。(参照:「息の根にうるおいを。」)
805:【メモ】
子どもの頭脳回路を1→大人の頭脳回路を2→回路を一周起動させるのにかかる時間がいずれも10だとすると、子ども頭脳回路のほうが時間が圧縮されている(子どもが回路を一周起動したとき、大人はまだ回路を半分しか起動できていない。言い換えると、大人回路が一周したとき、子ども回路は二周している)→子どものほうが時間の流れが速い(いっぱい時間が流れている)→大人からすると子どものころに比べて、時間の経過が遅く感じる→体感時間は大人のほうがゆっくりに感じる→小さい動物ほど寿命が短いのは、基本的にこの回路に流れる時間がじっさいに速いからだと推測できる→身体はちいさく、脳だけを大きくすれば、寿命は伸びるのではないか?※ただし、回路はインプット・記憶参照・アウトプットまでをワンセットとする。人は集中すると、インプットのみ、またはアウトプットのみになり、回路が正常に起動せず、時間の経過を感じにくくなる、よって本来は集中すればするだけ子どものときの脳回路にちかづくのだが、回路として機能しないので、集中が切れたときに(すなわち回路が繋がった瞬間に)時間の経過を認識し、タイムスリップしたかのような感覚を覚えるのである。もっとも、体感時間とじっさいに流れる時間は異なるので、集中すればするほど回路(存在の枠組み)に流れる時間は多くなり、寿命は短くなると考えられる。この場合、時間を情報量に置き換えても成立する。
806:【脳内量子コンピューター仮説】
人間の脳内回路は量子もつれの原理を利用しているかもしれない(いくひし談)。たとえば回路の一部にV字型の回線があるとする。AはCを経由してBへと向かう。「V」の上部がABで、下部がCだ。左、下、右と情報が伝達するとする。Vをなぞるのにかかる時間を2とする。距離も2だ。移動する速度はだから1となる。ここで仮に、AとBの両方からCへと移動するとする。Cで合流したABは互いに情報を交換する。わざわざBがAへ、AがBへと走らずに済むなら、大幅な時間の短縮になる(時間は1で済む)。もちろん実際は、AとBが動くことはなく、AからBへと一方的に情報が流れれば、AはBの情報を受け取ることができない。それはたとえば、沖縄と北海道で文通をするとき、東京に双方の手紙が集まっても文通にはならないのと同じことだ。中心で集まったら、そこを交差して、向こう側へと行かなければ手紙のやりとりはできない。しかし仮に東京まで手紙を届けさえすればそこからはメールで情報を伝達できるとするならば、沖縄から北海道への一方通行で手紙をやりとりするよりも、双方から手紙を飛ばして、東京で仲介してもらったほうが効率がよくなる。量子もつれによる量子テレポーテーションを利用すれば、そうした効率化が可能だ。実際には脳内の回路は複雑に入り組んでいる。一説によると、人体の血管をすべて繋ぐと地球を二周半する長さになるという。同様に、脳内の回路をすべて一本の線に繋ぎなおせば、途方もない長さになるだろう。その中を光が走るとする。量子もつれを利用していれば、大幅な距離の短縮になる。それは時間の短縮でもある。より短い時間で、より複雑な計算ができる。ひょっとすると人間の頭脳はすでに量子コンピューターなのかもしれない。(※この仮説の利点は、リベットによる運動準備電位の測定実験を新しい解釈で咀嚼できる点だ。リベットは人間の脳内で意識がどのように発生するのかを調べようとした。その結果、人間は身体を動かそうと意識するよりさきに、脳内のほうで自動的に「腕を動かせ」と指示する電流を発生させていることが明らかになった。脳から腕へと指令が届き、腕が動く準備をはじめてから、人は腕を動かそうと意識するのだという。これまでの常識とは真逆の結論である。ならば人間の自由意思とは幻影にすぎないのだろうか? 未だ決着のつかない問題である。しかしもし人間の頭脳が量子もつれによる量子テレポーテーションの原理を用いて、稼働しているとすれば、この自由意思と運動準備電位の問題は、ずっとすんなり解決する。というのも、運動準備電位は、量子もつれによる時間短縮した計算結果であり、そのあとに、正規の回路を辿った計算が後追いで導かれるとすれば、自由意思の存在を否定せずに、リベットの実験結果を受け入れることができるからだ。自由意思は存在する。ただし、自由意思を構築する前の段階で、人間の頭脳は、計算結果を導きだしている。ただし、量子もつれによる計算結果と、正規の回路を辿った計算結果とでは、わずかにズレが生じる。それは計算の遅延による、わずかな計算の狂いであり、同時にカオスによる大きなズレともなり得る。飽くまで運動準備電位は、準備にすぎず、正規の回路を辿った計算結果によっては、その準備電位を無効にすることも可能だ。すなわち、自由意思の優位性は保たれるのである)
807:【宇宙定数】
アインシュタインが予言したものの一つに宇宙項というものがある。いちどは過ちだったと考えられ撤回されたが、アインシュタインの没後にじつは法則を満たすのに必要な定数だと判明した。宇宙は膨張している。その膨張速度はいまなお加速をつづけていると云われる。風船を膨らませるためには息を吹き込ませつづけなければならない。風船が膨れるにつれ、そこに加わるチカラは増加する。さらにその膨張速度が加速をつづけているということは、宇宙内部でなんらかの未知のエネルギィが増幅しつづけていることを示唆する。そんなこと、あり得るだろうか? いわゆるダークエネルギィと呼ばれるものである。この謎を解く一つの仮説として、いくひしは宇宙を構成する成分に、「時間」「空間」「エネルギィ」のほかに、「情報」を付け加えることを提唱したい。無から宇宙は誕生した。宇宙は時空間そのもので、エネルギィそのものだ。しかし、ゼロからイチが生じた時点で、その経過が情報として蓄積する。情報が蓄積されたことで、宇宙内部に膨張する方向へチカラが加わり、さらに変化が生じる。そこからは初期値敏感性――いわゆるカオスの性質により、ランダムな変質がのべつ幕なしに宇宙内部で繰り返される。情報は蓄積されつづける。変質による情報の蓄積に、変質した物質およびエネルギィの量的指数は影響されない。どんなちいさなものでも、変質したことそれ自体が情報として蓄積され、宇宙を膨張させる。
808:【デストロ246】
高橋慶太郎さんの漫画「デストロ246」が脳汁ダクダク出まくりです。一から七巻まであります。前作の「ヨルムンガンド」も文句なしに大好物で、何かとストレスがかかるたびに脳内で「フフーフ」と鼻歌うキャラがいくひしを支えてくれます。「ヨルムンガンド」では男女比がだいたい7:3くらいだったのですが、「デストロ246」では2:8とほぼすべて女性キャラというなんとも目の保養に最適な漫画でございます。殺戮、謀略、裏切りに友情、百合とは口が裂けても言えないところで百合要素をぶっこんでくる、そんな大雑把でいいんですか、とまるでカレーにステーキをぶっこむような荒業に、いくひしはもう目が点つづきで、もうすぐ百目小僧になりそうな勢いがあります。新作の「貧民、聖櫃、大富豪」第一巻もご購入したいくひしさんですが、ソシャゲをしない人間なので、いまのところは「デストロ246」や「ヨルムンガンド」のほうが好みであります。裏から言えば、ソシャゲをしている現代人にはドンピシャな物語かもわかりません。もっとも、第二巻から怒涛の展開つづきになるところが高橋慶太郎さんの特徴でもあるようですから、「貧民、聖櫃、大富豪」もまた今後の展開がたのしみな作品です。ちなみに柴田ヨクサルさんの漫画、「妖怪番長」7巻を未だに購入できずに歯がゆい日々を送っております。そのスピンオフ作品である「カイテンワン」一巻をさきにお持ち帰りしてしまいました。おもしろーい。もはや小説より漫画のほうが摂取カロリー多めのいくひしですが、それでも漫画家になろうとは考えないところに、人間としての弱さが垣間見えますね。だって絵、下手なんだもん。漫画になくて小説にあるつよみって何だろう。よくわからなくなってきた2017年10月13日の午前6:31でした。
809:【来歴】
いくひしは高卒である。大学に入学したが二週間で辞めた(講義があまりに退屈すぎた。じっさいには後期分までの授業料を払っていたので、記録上は一年後になっているはずだ)。だから一般教養(とは何か)をほとんど知らない。常識がなく、また知識がない。いくひしの言うことを真に受けてはいけない。妙なことを言っているな、と思ったら、信じずにまずは、本当にそうだろうか、と自分で調べ、考えてみよう。(たとえば、脳内は一生のうちで細胞の入れ替わることのない稀有な器官だ、といった記述をしたことがあるが、それは誤りである。むろん知っていたが、そういう考え方はおもしろいのでそうした設定を掌編で使った。ほかにもたくさんのデタラメを使って物語を編んでいる。いくひしの発言は根っこから疑ってかかるのが賢明だ)
810:【ぐるぐる】
頭のなかが濁っている。ぐるぐると泥が渦を巻いている。透明になるのを待ちたい。でも待ってはいられない。素手を突っこみ、掴める泥を材料に、じぶんだけの何かを捏ねあげるのだ。夢中になりはじめたころに気づくだろう。もっと泥があればいいのに、と。
※日々得たものを失い、前進していく。
811:【排除の理念】
綺麗で正しいことだけがまかり通る世界を望むのは構わない。何かをよりよくしていこうとするのも間違ってはいない。しかし、どんなに抗っても、この世から汚く、歪んだものを失くすことはできない。なぜなら人間そのものが汚く、歪んでいるからだ。綺麗でありつづけたい、正しくありつづけたい、そう願うことそのものがどこか淀んでいる。まずは、世のなかには汚れたものがあることを認め、それを前提によりよくするにはどうすればよいかを考えていこう。人間はクソをする。クソのあることを前提としない社会は、疫病が蔓延し、目も当てられない惨状を生みだす。衛生管理を徹底することと、クソを失くすことはイコールではない。
812:【流行りなの?】
ツイター眺めてるとそこそこお年を重ねられているおじさま方がこぞって「グラデーション」という言葉を使っている。流行っているのかなぁ。
813:【つぎにくる題材】
宇宙冒険譚はきますよ。とくに小説で、ガチガチのSFじゃなく、現代版銀河鉄道999みたいなの。SAOの宇宙版って言ったらそれっぽいかも。業界人の方は要チェックや。
814:【グラデュエーション】
視点となる層がある。層から視える景色(グラデーション)がある。しかし、またべつの層から視れば、グラデーションの色合いは変わってくる。年齢、性別、世代、人種、住んでいる場所、育った地区、年収、主食、嗜好する性、好む曲、色、味、飲み物……etc、区切る基準によって、その層から視える景色はがらりと変わる。区切られた枠内に収まる人々の顔ぶれも様々だ。グラデーションは、層の数を増すにつれ、モザイクへと変容していく。やがて層は重複し、モザイクは折り重なり、黒へ、或いは白へと向かう。色彩から原色へ。原色から無彩色へ。色合いは脱皮を重ね、無へと向かう。ビッグバン。爆心地へ。グラデーションからグランドゼロへ。グラデュエーションを重ね、カオスへ。そしてコスモへ。原点へ。無へ。線となり、面となり、層となり、彩りは連なり、奥行きを帯び、堆積する一連の流れを、想像しよう。目を持とう。多重の目を。
815:【またの名を孤独】
誰からも必要とされず、誰からの責任も担えず、滅びたとしても世界は何も変わらない、なんてすばらしい、名を自由、わたしという枠組みの持つ性質。
816:【自己言及】
すべての批判は、まず自分に向けてみることをお薦めする。自分たちはどうなんだろう、と考えられないコミュニティの声に説得力は宿らない。そう、いくひしのように。
817:【怒り】
もうガマンならん! いくひしは怒ったぞーーーー!!! と、いうわけで、なかなか書店さんで手に入らなかった漫画本をいっせいにネット注文しました。あってよかったamazonアカウント。もうね、できればね、書店さんで買いたかった。わかってますよ、わかってます。いくひし程度がご購入をためらったり、まとめ買いしたところで、書店さんにとっちゃあ、そんなのあってなきがごとくの雀のえんえんだってわかっちゃいるけど、やめられない。もはや書店さんで利益を叩きだしたきゃ、本より雑貨を買いなさいよ、なんて叫ばれて久しい昨今だけれども、コンビニの書店化はもはや珍しくなく、書店さんのコンビニ化もいまじゃ目新しくもないときたものだ。いくひしの住まう地域の書店さん、ここ三年で四軒消えてますからね。もはや行きつけの二店と、繁華街の駅前ビルにあるおっきな書店さん以外で、ないんじゃないの書店さん。だって品揃えよくないんだもの、本が据え置かれてないんだもの、なんだったら新刊届くの週間遅れとかザラですからね。田舎だからってバカにしとんのか。バカにはしてないのか。そっか……。ごめんなさい。でもさ、でもさ、どこかのおっかない作家さまとかはさ、読者のほうこそ読みたい本を注文しなさいよ、書店に言いなさいよ、なんてそんな清く正しい注文を放ってくるのよ、いいよいいよ、そうすりゃ作家さんのお財布は潤うし、出版社の在庫も余裕ができるのかもわからんけれども、でもさー。んな暢気なこと言ってるから書店さん消えちゃうんだよ、分かってるのかね、きみたちそこんところ、えぇー。いくひしはちょっと怒りたいよ。優しい書店さんの代わりに、業界のズサンさを怒ってやりたい。さいきんどの書店さんにも設置されてる在庫検索機あるじゃない? あれさ、検索件数多いやつとか、かってに入荷してくれたりしないんですかね。してるんですかね。検索件数のデータ、ちゃんとビッグデータにして全国で共有してる? してるんならいいんだけれども、してなくてもいいんだけれども、どっちかと言えば、でも、しておいてほしくない? もちろんしてるとは思うよ、だってせっかくの電子機器だもの。でも、ならどうして在庫が潤わないの。いくひし、あんだけたくさん検索してるのに? なにゆえ入荷してくれないの。じつは入荷してたりする? 入荷した矢先から横からトビが買いあさっていくのかい? どっちにしたってひどいじゃん。べつにひどくはないけど、ひどいって言わせて! 怒り甲斐がないからさ。怒りたいのよ。ストレス発散。おとしごろってやつなのかなーってね。だからいくひしは怒って、ネットで注文しちゃったよ。馴染みのお店でお買い上げしたかったよ。すっかり店員さんの顔覚えちゃったよ。BLとか買うの恥ずかしいよ。GLとか、その顔で百合ですかーみたいに笑われそうで恥ずかしいよ。でもね、行きつけのお店の笑顔がすてきな店員さんのレジでお買い上げしたかった! ああそうだとも、せっかくの機会を奪いやがって。激怒ーーー!!! はい。テンションに任せてみました。だいじょうぶ? 気分害してない? ごめんね。たまにはね。こういうのもいっかなーって。ダメだった? ごめんねー。
818:【KDPレポート(1)】
電子書籍の売り上げレポートです。2017年7月21日からKDPを開始しました。60日経過したので初めての振り込みがありました。7月分の売り上げです。実質10日分のデータになります。占めて1139円の利益となりました。初めて手にした本での対価となります。物語の対価ではなく、電子書籍化するにあたってかけた労力への対価です。そこはこちらにて「https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883739704」「https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054883963362」もうすこし詳しく書いてありますので、気になるぞ、という奇特なお方はお読みください。八月分の売り上げ分もロヤリティとしてすでに換算されてデータとして表示されています。国によってレートが異なるので、ざっくり概算しますとだいたい4500円が振り込まれる予定です。前にも書きましたが、おそらくこの八月分がしばらくいくひしの最高売上高となる見込みです。だいたい十か月くらいかな? 一年後には月一万円の収益を超す月が数回出てくるようになると思います。希望的観測ですが。九月の売り上げはだいたい2000円くらいになると思います。KENP(既読ページ数)以外に二冊有料でご購入してくださった方がそれぞれおります。ありがとうございます(やったー、うれしいー)。タイトルはそれぞれ「千物語1~7」と「そらたかくおちるきみへ」です。「千物語シリーズ」は短編集です。ほかの自作との相対評価ですが、なかなか好評です。既読ページ数が多いだけでなく、たとえば「千物語8~32」は気鋭の成人向け漫画家さんがおすすめしてくださっていました。ありがたや~。(イクビシ的に「右脳」さんを越えられる逸材だと思っております。失礼な絶賛のし方をしてしまいました。すみません)(お名前をだしたいけれども、だしたら売名のために利用したようで、なんだかいたたまれないので、伏しております)。後者の「そらたかくおちるきみへ」をお選びの方はなんとイタリアのamazonサイトからご購入くださっています。海外にお住まいなのでしょうか。ほかにも全体の三割くらいが国外からのアクセスとなります。ブラジルと欧州が多いですね。海外にお住まいの方で、日本のコンテンツを安く仕入れるため、amazonの読み放題を利用している方が相対的に多いのかもしれません。いまのところ、Kindleunlimitedに加入しているのは個人出版が多く、大手の出版社は加入していない割合が高いです。なので、今後、大手の出版社がアンリミに参加しはじめたら、個人出版の人たちはいまの比でないほど読まれなくなるでしょう。大手の出版社がなだれ込んでくる前に、市場を開拓できるかが、個人出版主にとっては勝負となります。いくひしに勝算はないです。ただ勝てなくても損はなく、のほほんとつづけていけるのが、電子書籍のよいところです。以前にも書きましたが、いくひしの小説は無料で公開しています。どうしてもKindle端末で読みたい、という方以外は、わざわざお代を払ってまで入手する必要はないと思います。もちろん対価をいただけることはうれしく感じますし、次回以降のモチベーションが上向きになることもたしかです。ですが、それと同じかそれ以上に、いくひしは、じぶん以外の名も知らぬ誰かに、じぶんのつむいだ物語が読まれ、間接的に他人と繋がれることが何よりの報酬になります。一作だけで飽きたらず、二作目、三作目、といくひしのつむいだ物語にダイブする方がいらっしゃったら、おそらくあなたといくひしは、どこかしら共有できるところのある同素体なのだと思います。物理世界で出会ったらまず以って分かち合えない存在でありながら、物語を通してのみ、触れあえる。なんだかそういうのって、ステキじゃないですか? 夢見がちだとバカにされようが、なんといわれようが、ステキだと思います。あなたのようなひとがこの世のどこかにいてくれることを祈りながら、いくひしはもうしばらく物語をつむぎつづけていきます。お互い、同じ時代にはいないかもしれません。これを読んでいるあなたが、ひょっとしたらずいぶん未来の、スマホという言葉すら知らないひとかもしれません。安心してください。いくひしのつむいだ物語のほとんどは、スマホという言葉を使っておりません。もっと分かりにくい単語で代用しています。ですからひょっとすると、あなたが使っている翻訳機能では意味蒙昧な言葉として並んでいるかもしれません。親切心が仇になる、というのはいつの世も有り触れたできごとなのだと、それを示したいがために、そうしていたのだと好意的に解釈してくれると、作者はいたくよろこびます。いったい何を書いているのかがよくわからなくなってまいりました。KDPの話題はどこいったという感じでしょうか。どこにいったのでしょう。来月までには戻ってくると思います。そのときにまたお会いしましょう。では。ごきげんよう。
819:【右傾化する国、不敬なクズぶり】
2037年に普及したトウモコロシにより人類は食糧危機の問題を払しょくした。トウモコロシとはゲノム編集技術により、砂漠のような劣悪な環境下でも通常の倍の速さで育ち、実をならす新種のとうもろこしである。貧困による争いはなくなり、国家間の秩序は保たれる。世界平和の足音が聞こえてくるようだと、一時期、人々は久しく味わうことのなかったおだやかな日々を過ごした。しかし、事態はみなの思うようには運ばなかった。食糧問題を解決できる技術が確立されたことで、人口爆発の歯止めが壊れた。これまで先進国主導によって経済を維持してきた国々――なかでもアフリカは、国内生産のみで食糧を確保し、その文化圏にて飢えという言葉の枠組みを縮めた。多国籍企業を締め出し、国内企業の拡大を国をあげて目指した。先進国から搾取されつづけてきた過去の汚名を払しょくするがためにそうするかのような、ガムシャラな奔走ぶりは、まるで受精卵の細胞分裂を彷彿とさせる勢いがある。アフリカが第二の中国と謳われるようになるまで、十年とかからなかった。そのころ、中東や欧州では、難民問題が、こじれにこじれ、勃発する紛争の数は2000年初頭の倍にまで膨れあがった。テロ対策法が強化され、国と国はかつてないほど、厳格に区切られた。食糧問題やエネルギィ問題は、おおむね新技術により解決する。しかし、その新技術を国内に留め、他国の優位に立とうとする風潮が蔓延しだす。と、いうのも、そもそもがアフリカにおける人口爆発と経済発展によって、世界経済の均衡は大きく歪んだ。米中露の三竦みに、猛然とアフリカが割り込んできた構図だ。むろん、三大国はいい顔はしない。歪みは、どこかで発散させねば、世界の均衡がもたない。とすれば、国家間に亀裂が生じて久しい、中東欧州にて、これまでアフリカが担っていた、ビジネス牧場を構築し直そうとする動きが活発化しだす。新技術はそのころ、主としてインドやシンガポールなどのアジア諸国が起点となって発信されることが多かった。かつて期待できたシンクタンクの役割を、欧州に見出すことはなくなった。日本? 自然環境保護の対象として俎上に載るくらいがいいとこだ。米国との友好条約がなければ、かつての北朝鮮が担っていた役割を引き継ぐくらいが関の山だ。人口爆発と、新技術の内部留保によって、世界をとりまく環境は悪化の一途を辿る。大国と発展途上国との貧富の差はますます広がり、かつて先進国だった日本や韓国、そしてスイスを除く欧州は、発展途上国と大差ない貧困にあえぐことになる。かつての栄光が、贅沢な貧困という社会問題を生みだしているのだ。トウモコロシごときで満足できる文化水準をすでに上回っている国々では、身の程を弁えない生活により、飢えが絶えない。いっぽう、発展途上国を発展させぬように大国はこぞって、頻繁に紛争を起こさせ、文明が熟すのを阻害する。アフリカへは技術提供を謳い、安くて扱いやすい労働力を提供させ、いくらでもこき使い、大国はその地位を維持しつづける。事実上の奴隷制度である。かつて根絶された奴隷という悪しき風習が、国際的に合法で行えるようになったのだ。このころになると、すでに核の均衡は崩れ、時代は生物兵器とワクチン開発による凌ぎあいが、国家間の優劣を左右するようになる。むろんその時代にあっても生物兵器禁止条約は、多くの国で締結されている。しかし自国でつくれないならば、つくれる国につくってもらえばいい。仮に締結していようが、条約を歪曲して捉え、抜け道の範疇で兵器をつくることは可能だ。生命科学の原理上、医療研究との区別はつけられない。核の均衡は崩れたが、他国への核による威嚇は有効だ。優位に立ち、甘い汁を吸わせれば、新技術の開発に名乗りをあげる国はいくらでもある。自国内部で危なげな兵器を扱わずに済むのであれば、それに越したことはない。なにせ、生物兵器である。核兵器は国を滅ぼすが、生物兵器はことによっては、生命すべてを滅ぼしかねない。ゆえに、ワクチンの開発はセットであり、強請るならば核兵器よりも頭一つ秀でて映る。他国への交渉には一役どころか二役も、三役も買う。バイオテロは、人間だけでなく、その地域に固有の知能まで破壊する。DNA情報を指定し、特定の血筋のみを死滅させるウイルスが比較的簡単に生成できるようになったのは、皮肉なことに、かつて癌と呼ばれた悪性腫瘍をただの風邪並の手軽さで除去できる技術のおかげである。また、昆虫型ドローンとナノデバイスの組み合わせにより、ある分野の先駆者をピンポイントで殲滅できるようになった。サイバーテロの対策およびバックアップは比較的進んだが、人材損失への対策は、根本的なところで防ぐ手だてが見当たらない。それは、人は生きる以上死ぬという制約があるかぎり、避けられないレベルの問題だった。時代は、遺伝子操作により、人類の活路を見出し、生命存亡の危機を招く、そんな二律背反の歴史を刻みはじめている。このころになると、平和と聞いて思い浮かべる印象は、半世紀前とは大きく変わった。暴力なき世界、核兵器なき世界が平和なのではない。たとえ脅威がこの世のどこかに存在しようと、世界の均衡が秩序によって保たれていれば、平和なのである。かつて理想の平和を謳い、目指した国は、いずれも没落し、大国の肥やしとなるべく、日々、闘争し、飢え、それでも底上げされた技術により生命の危機からは程遠い生活を送ることを余儀なくされている。秩序を築く歯車としてのみ、彼らは産みだされ、平和を謳う巨大な暴力により、搾取されつづける。しかし、その国の民は口を揃えて言うだろう。弱者を救え。国は民のためにある。国を守るために、一部の権力を高めるシステムは悪であると。だが、彼らは知らない。かつてそのようにして、権力の余力を奪い、国力を民に分配することで、いまの自分たちが支配する側ではなく、搾取される側の弱者になっていることを。紛争ばかりで、大きな戦禍のない時代ではある。過去、人間は人間を支配した。一世紀前は企業が群衆を支配した。現在は、国が国を支配する。さも、家畜を牧場で飼うかのように。システマチックにそれは、連綿と意図されつづけた道程のうえに築かれている。どの時代、どの国にも正義などというものはなかった。いずれも、ある時代からすれば悪であり、誤りであり、欠陥である。理想とは程遠い。しかし、総じて否定しがたく、現実である。回路は循環さえすれば回路足りうる。肺が脳を活かすための器官だとして、それを不服と唱えても不毛なだけだ。肺が嫌なら脳になれ。嫌ならばすべてを同じ細胞としてしまえばいい。それをかつての人類は、癌と呼んだ。こうした未来を防ぐためのゆいいつの方法は、セックスを禁ずることである。童貞バンザイ、処女サイコー。セックスしたことあるやつは死ね。
820:【平和、平等、正義】
誰かを虐げたり、傷つけたり、理不尽な搾取をせずに、じぶんの思いどおりの生活をどんな人でも送れるようになることが、当面の人類の課題であり、理想だと思います。でも、すくなくともいまはそんな理想とはかけ離れた現実があるのであります。哀しいです。
※日々寿命を削って生きている、どんな人でもそうなのだろうか。
821:【将来的に死んで五等分のメイドがウザすぎる】
未読の本の摩天楼が密林さながらに乱立しはじめて久しいいくひしです。こんばんは。はい。ということでですね、まずは読んだものでオススメの漫画をご紹介していこうかなと思います。まずは一冊目、長門知大さんの「将来的に死んでくれ2巻」です。一巻を読んでからのファンでして、待ちにまった二巻がなかなか見つからなくて苦労してようやく手にしたかと思いきや、じつはまだ手元になかったりします。えぇ。ネットで注文した作品群のなかに埋もれているのですが、きっとあすには届くでしょう。待ちきれずにネカフェで読んじった。あやー、おもろい。これは百合、なのか? もうね、主人公のウザさが、ウザかわいい。うざくてうざくて愛おしい。すなおなバカがかわいく映るお年頃なのかもわからんね。意中のお相手の塩対応も、これがなかなか病みつきになる。仮に彼女が男であっても、そこそこイケるぞ。性格イケメンってやつだな。でも友達ができないタイプのやつ。惚れるぜい。どことなーく、主人公の前向きなウザさは、アシガールの主人公に通じる図太さあらため、純粋さがありますよ。かわいい。好き。ウザいといえば、そうそう、中村カンコさんの「ウチのメイドがウザすぎる!2巻」もステキすぎるスキルですな。これまた一巻を読んでからズッキューン胸を撃ち抜かれて、続きはまだかと、瀕死のまま放置されてようやく手にした第2巻。えぇ。こちらはちゃんと手元にあります、書店さんで見つけてすかさずかっさらってきたぜ。えぇ。お金はきちんと払ってますよ、誤解なきようお願い申す。ロリコンで腹筋バキバキの自衛隊あがりのメイドが、ロシアン幼女を愛でる話なのに、終始メイドがウザいってだけでページがスラスラ進んでく。でもね、ウザくなっちゃうのがわかっちゃうくらい、ロリがかわいいから仕方がないよ、これはね、うん、仕方がない。感情移入しちゃいけないタイプの、感情移入しちゃう系です。メイドの腹筋バキバキ好きにはたまらない逸品だ。ブラックラグーンのロベルタや、デストロ246の藍翆コンビが好きな方にはお勧めしたいのに、メイドのベクトルが違うので勧めづらい、そんな作品なのだな。ロリ、メイド、腹筋、お嬢さまの罵倒がご褒美です、という方にはピンポイントだと思います。えぇ。本日最後の漫画は、春場ねぎさんの「五等分の花嫁」です。ヤンキーくんと眼鏡ちゃんが好きな方には是非とも読んでいただきたい作品ですね。久々に純粋なボーイミーツガールの学園青春もので、ずっきゅーん、きましたよ。えぇ。若干ネタバレになりますけどいいですか。あのですね、あ、いややめときますけれども、とにかく五等分の花嫁というか、花嫁五倍増しでお得だなぁ、って気分になれる作品です。えぇ。女の子がかわいい。これ以上にしあわせだなぁってこと、あります? 男の子がかわいいだってしあわせだろうって、そういう野次は言いっこなしですよ。子どもは性別問わずかわいいんですよ。美男子はどうなんですかーって、そんなのわざわざ言わせんじゃねーですよ。平和とか至福とかそういうのとはちげーのですよ。どちらかと言やー、食欲にちかいのですよ。端的に、舐めたくなるよね、ってだから言わせんじゃねーですよ。えぇ。五等分の花嫁、主人公はとくにイケメンじゃないんですけど、まぁ、惚れるのもわかるわー、っていう偏屈ピュアボーイなので、ただただかわいい子が陥落されていく姿をゆびを咥えて眺めるがよい。お勧めしてるんだよ? 念のため。久々に駄文を意識して文字を並べてみたけど、我ながら読みにくいな。えぇ。では!
822:【小説でキュビズム】
ピカソのキュビズムじゃん、が読後の所感でした。森博嗣さんの小説「ペガサスの解は虚栄か?」を読みました。寝る前にちょこっと目を通すだけのつもりが、最後まで止まりませんでした。これはいくひし的に、森博嗣さんの最高傑作なんじゃないかな、と興奮しました。作者さんに言ったら、「え、そうなの?」と反問されそうですが。情報量の圧縮がたいへん心地よく、物語の中核をなす謎はもとより、周囲を錯綜する思考の飛躍の雨あられが、ただひたすらにピリピリきます。これはたいへんよいものだ! いくひしはじぶんで物語を編むとき、プロットを立体的にまずは図形で考えてみるのですが、それはたとえばクラウンの壺にリボンを三本通してみる、みたいな感じです。森博嗣さんの小説を読んだ場合、これまではシリーズを通して立体的に感じられても、単品で読んで立体に感じた体験はすくなかったのですが――なかでは「小鳥の恩返し」をとくに立体に感じましたが、今作では過去にないくらいの物語同士の錯綜ぶりがいくひし好みでした。ピカソのキュビズムに初めて感銘を受けたときに並ぶ、「ああ!」がありました。あーもうそこいっちゃう? みたいなね。足踏みして思案してるじぶんが滑稽に思えてくるほどです。いや、すごいですわ。ちなみに今作のさいだいの見せ場はなんといっても後半に登場するウグイのかわいらしさが爆発する瞬間――とみせかけて、それにひけをとらない語り部ハギリ博士のかわいらしさでしょう。「議論したくない」はダメでしょう。声出して笑いましたもん。抜粋じゃないですが、「注意しました」「あ、そうなの」とかね。「煩いなぁ」とか、もはや子どもです。お茶目か。コミカル度高めなのも高評価ですね。これらすべてが、中核をなす謎とアクシデントの相乗効果によって際立っているのだから、途中でやめろというほうがムリな相談です。すっかり目が覚めてしまったので、落ち着くために感想メモして、余韻にひたりながらきょうは寝ます。寝られるかなぁ。ああ、おもしろかった。
823:【えーん】
境界のミクリナをご存じでしょうか。松本ひで吉さん著の、人間界を征服するためにやってきた魔女が自堕落な女と出会って衝突しながらなんだかんだんで人間界に居つく漫画です。「キュピコ! 〜ふしまつ天使のミスマネージメント〜」や「ガヴリールドロップアウト」の堕天使よろしくダメ童女が好きな方には目から手がでるほど、なんだっけ? あ、なんか今TVでハリーポッターやっててね、アズカバンのやつ、わき見運転さながらのわき見打鍵してたら、さっきまでじぶんが何考えてるのか分からなくなっちゃった。よくある。あれやっといてって言われて、はいはいーってなるやつ、でもすぐに忘れちゃうやつ。「頼んだやつやっててくれた?」ってあとで言われたらすぐに「あ!」ってなるから、思いだすから、きっと健忘症とはちがうと思う。そうそう、だからね、境界のミクリナの新刊第三巻が発売されてて、でもそれがね、最終巻だった。おもしろかったよ、すごいおもしろかった。終わり方もスマートで、不満のない終わり方だった。でもさぁ、こんなにおもしろいのになんで三巻で終わっちゃうのー。もっと読みたかったよーってのが本音の九割を占めてる。初めて買ったの去年なんだけど、一巻がなくて、二巻の表紙買いだった。読んだらおもしろくて、ずっと一巻を探してたのに、やっぱりなかったからネットで注文したんだよ、そういうのが段々増えてくるんだよねー、きっとあと五年後には映像化の見込みのないやつはだいたいネット通販が主流になると思う。でもって、段々電子書籍化率が高くなってくと思う。コマ割りの仕方も、どんどん電子書籍に特化してくから、むかしながらの重厚な漫画はなかなか見られなくなっていくんだろうなーて思う。期待半分、ざんねんなの半分だよ。そうそう西尾維新さんの「美少年椅子」を読んだ。これまた一気読みだったよー。語り部「美観のマナミ」がどんどん美顔のマナミになっていくー。容姿に磨きをかけていくにつれクズに磨きをかけていく。それにつれて言動もどんどん粗暴になっていく、ただの口わるいやつになっていく。単なるイヤなやつとの境はどこにあるのかと勉強になります。漫画版もおもしろいので、美男子好きは買って損はないですよ。美女好きにもおすすめできる作画です。あとは注文していた漫画&ズートピアのDVDも届きました。まずはズートピアを視聴したよ。ブルーレイとセットのやつなんだけど、いま使ってるコレ、ブルーレイの再生できるPCではないので、DVDで観ました。おもしろーい。というかケモナーほいほいすぎた。主人公かわいすぎでしょ、これは情操教育によいのと同じかそれ以上に洗脳教育にも効果的ですね。観たらケモナーの扉が開きますよ、でもぜんぜんわるいことじゃないよね。きっと。たぶん。そうだと言って! はーい。きょうはこのへんで。朝陽がまぶしいぜ。
824:【ぼくの内部をじかになぞって。】
第四章引用。「今やこの国に右も左もない。どちらも同じ意味を持ち、いずれにせよ同じ事態を引き起こす。二本の導火線のどちらに火がついたとしても、行き着く先は同じなんですわ。既存の完成されたシステムを重んじ、愛国を謳う連中も、変革を求め、そとから新たな息吹を運ぼうと抗う連中も、けっきょくは時代の移り変わりによって真逆の名を得ているにすぎんのですよ。変革を経た国にかつてのシステムを求めればそれもまた変革者であり、変革を経た国に満足し肯定すれば、それは保守的な愛国者となる。そこに働く勢力は、中身が変わっただけで、構造自体に変わりはない。重要なのは、ふたつの勢力のうちどちらが優勢になろうとも、この国の行き着くところが同じだということです。解りますでしょう。民主主義を掲げたはずのこの国は、今や大企業の拡大によって経済を立て直そうとする社会主義的な働きを活発化させている。他方で市民の平等を求め、福祉の充実や貧富の差を失くそうと声を荒らげる民衆は、意図せずに共産主義という一つの思想に染まり――染まっていながらに、強者を弱者へ引きずりおろそうとする資本主義的な働きを見せはじめている。かつてこの国には士農工商という風習があったのはご存じでしょう。それが時代の変革と共に、市民平等へと移行し、なぜかかつて身分の低かった商人が事実上の権力者となり得ている。時代が変遷し、図式もまた変わったが、中身の構造はそのままだ。強者がいて、弱者がいる。たとえこのさき、民主主義が栄えようと社会主義に移行しようと、資本主義が蔓延しようと共産主義が台頭しようと、世界の構造はなんら変化なく、ある一点へと向かい、収束していく」(以上、宣伝でした)(※2017年現在、士農工商は身分制度として過去の日本では施行されていなかったことが通説とされています。日本に士農工商はなかったんですね。ただし、武士や町人、そしてえたひにんには明確に身分差があったようなので、殿士町外とでも呼べばそれらしいですね)(本文で士農工商の記述を直さないのは、いくひしがじっさいに士農工商は身分の格差としてあったのではないか、と感じているからです。現代社会、とくに日本では身分の差はないとされていますが、実情はどうでしょうか、どの企業に勤めているかで評価のされ方は変わりますし、正社員か否か、無職か否かでも、扱いに差があるように思います。制度ではないにしろ、風習として、現代にも身分の差はあるように感じつづけている、2017年のいくひしまんでした)
825:【あの娘にキスとGペン目覚まし番長】
缶乃さんのマンガ「あの娘にキスと白百合を」7巻をようやく読みました。みゃー。ほにゃほにゃになってしまう、身も心もほにゃほにゃになってしまう。巻を重ねるごとにすごくない? こんなにキュンキュンしちゃっていいんですか? 法律に引っかからない? 特殊なオクスリ入ってない? 一巻から読み直したら、五巻からキュンキュンボルテージが急上昇してて、なにがあったんだい? みたいに目から口から顔のパーツのほとんどが点になって、もののけ姫のコダマみたいになっちゃった。でもすぐに目はハートに、口はキスのカタチになってしまうから問題ない。いや、問題しかない。誰もそんな顔は見たくない。はい。作中でいちばん好きなエピソードはさーちゃんといつきの幼馴染み再会編です。でもいちばん好きなキャラクターは伊澄です。八重歯でバカな子ですが、芯がつよくてやさしくて、行動派なのがいいですね。7巻の叔母と姪の話もすごいよかった。はぁー、そうな、そうなってなる。べつに(このコと)キスがしたいわけじゃない、ってふつう、そこで魔法が冷める方向にいくじゃないですか。なのに魔法が加速する方向にいくのって、はぁー、ほにゃほにゃになってしまう、身も心もほにゃほにゃになってしまう。そのまま夢見がちに夢心地で大沢やよいさん著の「2DK、Gペン、目覚まし時計。」5巻を読みました。はわわー、どえらいこっちゃ、知らぬ間に完全無欠の百合漫画になっておった。一途と一途がぶつかりつづけるこの作品、みんなとにかく何かに一生懸命で、えー、そんな人たちばっかりなのになんで暗雲たちこめとるの、気になる気になる、さきが気になるー、ってもうね、あっという間。あっという間なのにちゃんと濃い。薄くない。苦すぎず甘すぎず、すこしのしょっぱさもありーの、おいちいの。もっとほしい。完全に中毒ですわ。危ないオクスリ入ってない? 禁断症状とかでちゃわない? はやく次巻が読みたいです。そしてそして、身も心もとけたいくひしはそのまま眠って、起きて、はい。おふとんのなかでモゾモゾしながら、二度寝ー、ってグダグダしながら、手にとりました柴田ヨクサルさんの「妖怪番長」7巻です。最終巻なのに、「え? 終わるの? これちゃんとこの巻内で終わるの?」ってホントに最後のページをめくるまでずっと妙な緊迫感がつきまとった。ちゃんと終わったし、テンポいいし、新しいシリーズに引き継がれるその引き際の見せ方とか、敵を滅ぼしたはずなのになんかぜんぜん後を引かないし、哀愁のアイの字もない。勉強になります。ただし、一つだけ。一つだけ物足りないところがあって、何かというと、展開をテンポよくするためにコマワリ描写で見せていく構成だからか、柴田ヨクサルに特有の強引な超理論成分がほかの作品に比べてすくなかったように感じた。「その問題どうやって解決するの、ほかのマンガならそっから回想とか挟んじゃうよ」ってところを柴田ヨクサル先生は、キャラのセリフ三行で済ましちゃう。ときには一行ですからね。その強引超理論成分がすこしだけ、すこーしだけすくなかったかな、と欲張りにも思ってしまったのだった。おもしろいんだよ! たまにはね。マイナスな面も言っとかないと、コイツってばヨイショだな、とか思われそうですからね。本当に思ったことはどんどん言っていかないと。いくひし、ホントにおもしろいと思ったものしか言及しませんからね。読んでもおもしろくなかったやつは基本触れませんからね。え? それってふつう? わざわざ得意顔で言うまでもないことだって? あ、だからいくひしの作品は感想すくないのか、なるほどなー、ってコラ! 傷つくでしょ! 言わないで! だーから誰も言ってないんだって、これだって誰も読んじゃいないんだからって、朝から虚しくなってしまった2017年10月22日のいくひしなのでした。
826:【脳をかき混ぜろ、能書きはゼロ、爆ぜろ】
TroyBoi - Fyi
827:【アマチュアのくせに】
プロじゃないんだからせめてプロより発表できる作品数多くしないとって思う。プロはいくひしの倍は改稿してるだろうし、ボツにしてるだろうし、たくさん書いてるはずだから。いろいろのいっぱいの面で負けてるから、せめてつむいだ物語の数だけでも勝たないとって思う。けど、それはそれで志が低い。でもそれすら負けてる。ダメダメ。
828:【きょねんたくさん聴いた曲】
西野カナ/トリセツ『ヒロイン失格』主題歌 (Full Cover by Kobasolo & Lefty Hand Cream)
829:【だいじなこと】
技術を磨くだけでなく、大舞台に立つことや身の丈に合わないレベルの高い組織に身を置くといったことも必要だ。なんのために必要なのか。総合的に成長するために、である。やだなぁ。
830:【だいじょぶですよ】
なんとかなります。げんきだしてください。
※日々何かを成し遂げようとしてはいつまでも辿りつけない、進んでもいない、日々の履歴がただ積み重なっていく。
831:【モブ子の恋】
田村茜さんの「モブ子の恋」を読みました。いいひとしかでてこないだけでなく、みんな好き。ルームシェアした五年後編とか読みたい。モブ子の魅力も反則的だけど、お相手の、胸にくる感じもすさまじぃものがありますね。澄んでいる。線みたいにしーんってしてる水面に一滴だけ水が垂れて、波紋がどこまでも広がっていく、まるで洞窟のなかで響いた砂利を踏みしめる音が、夜寝るときに耳のなかでまだ鳴っているみたいな心地よい浸透ぶりが、この漫画にはあります。絶賛とかじゃなく、これを批判するような人とは仲良くなれないな、って偏見百パーセントが構成されてしまう、酸素みたいなマンガです。酸素だって薄ければ薄いほど猛毒になりますからね。濃くない、澄んだ物語にだけ宿る猛毒があります。読むときはお気をつけください。
832:【2017年新作情報】
ことし創作した小説一覧です。「血と義と花のモノガタリ(万妖衆「血編」)https://kakuyomu.jp/works/1177354054882447768」「この女、神(万妖衆「女編」)https://kakuyomu.jp/works/1177354054883392868」「オタマジャクシのままでいたいhttps://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371」「陰の薄いあのコの影になれたならhttps://kakuyomu.jp/works/1177354054884104981」の四作品です。文字数が順におおよそ、11.5万、6万、3.5万、6.5万となります。ほかにも掌編を14編ほどつくりました。いまとりかかっているのは仮題ですが、「雷獣、そらに昇る」「哀緒紅の述懐」のふたつで、それぞれ進捗文字数が7.7万と1.2万です。完成するころには11万と4万文字になっているはずです。ほかにもつくりかけの掌編がパラパラとあるようで、すこしずつ進んでいます。効率のわるい創作方法ですが、つぎにつくる長編のために必要な試行錯誤の一環だと考えています。がんばってほしいですね。本当は一気呵成につくるのが性に合っているのでしょうが(たとえば「網膜の住人~仮想世界に魔法をねがい」や「暗黒舞踏団~踊り屋たちの囮か愛」は共に一週間で脱稿させました)。ほかの作品も二か月以上をかけたことはありません(例外として「血と義と花のモノガタリ」は一年がかりでした)。記憶力がわるいので、長期間同じ物語と向き合うことができないようなのです。時間が空くほど、前半の内容を忘れてしまいます。そのつど読み返さねばならなくなり、無駄に時間だけが嵩みます。なんとか12月までにあと一作、長編をつくってほしいな、とぼんやり考えています。予定を立てるのが苦手なイクビシマンでした。
833:【ペイピ】
母親認定書の発行が義務付けられた。ペイピが大流行したせいらしい。母親になって赤ちゃんを抱っこするためにはタクシーみたいに、わたし母親ですよーのマークを腕に付けなければならない。腕章というやつだ。色は選べるもののどれも蛍光色で、遠目からでもハッキリ見える。裏から言えば、腕章をつけていない人で赤ちゃんじみた物体を抱っこしていれば、十中八九そのひとの抱いているものはペイピだ。クラゲの遺伝子をいじくって生まれたそれは偶然の産物らしいが、ともかく、赤ちゃんじみた外見をしていて、成長しない。食べない、死なない、クソをしない。そのくせ見た目が赤ちゃんで、全身くまなくぷにぷにとくれば、売れないわけがない。女性だけでなく男性であっても購入できる。とはいえ、父親でもないのにペイプを持つ男性陣への視線は冷たい。男女差別だなんだと一部では騒がれてはいるが、父親認定書の発行は一向に義務付けられることはない。やはり女性がそれをぬいぐるみのように手に入れるのと違って、男性はひそかに、こそこそと世間の目に触れないように購入するらしい。婚約者がペイピを飼っていたと知って婚約破棄した女性たちを報じるマスメディアはすくなくない。社会問題とまではいかないが、それなりに話題になっているのが現状だ。ルポライターのはしくれとしてわたしもペイピを入手した。これはその記録だ。ペイピがもたらす生活の変容と、その問題点を詳らかにしていこうと思う。ちなみにこれが世間に記事として出回ることはないと考えている。なぜか。わたしは売れないルポライターだからだ。趣味で書いた文章に値段がつくほど希少価値は高くはない。一日目。まずは注文したペイプが届く。(つづきはこちらにて→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054884322884)
834:【疑似相関】
まったく関係のない事象同士でもデータ上では相似の関係で数字が線を描くことがある。単なる偶然であるため、これらは疑似相関と呼ばれる。たとえば、年収が高いと既婚率が高くなるというデータがあるとする。年収の高さと既婚率に正比例する関係性が見いだせた。しかし、既婚率が高くなる要因が、年収にのみあるわけではない。年収が高くとも未婚の者は相当数いる。ゆえに年収の高さと既婚率の上昇に因果関係はない。ただし、何らかの関係はあるようだ。それを、傾向と言い換えてもいい。これを相関という。年収が高いと、異性をデートに誘うための資金、また将来への安定性が高くなり、結婚したあとの生活のヴィジョンを思い描きやすくなる。出会いの場数、そして未来への展望の有無により、年収が低いよりも高いほうが、異性と結婚しやすくなる。確実ではないが、なんとなくそうなりやすい、という流れのようなものが観測できるだろう。ただし、もし年収の高さと鳥の糞がひとの頭に落ちる確率が、正比例の関係性にあったとしても、そこに因果関係や相関関係を見出すことはむつかしい。人間の年収と、鳥が糞をする場所に接点がないためである。無関係なもの同士に関連性は見いだせない。この場合、疑似相関だと言っていい。ところが、よく調べてみると、鳥はスーツの素材が高級になるほど、それを上質な巣だと勘違いして近づいてしまう、という習性が確認された。よって年収が高く、年中スーツを手放せない生活を送っている人間は、ほかの大多数の人間よりも頭上に鳥をおびき寄せやすく、結果、頭に糞を被りやすくなる。これが正しい場合、それはもう、疑似相関ではなく、相関関係である。一見疑似相関に映っても、よく調べてみると、ふたつを繋ぐ触媒が見えてくることがある。なぜ風が吹くと桶屋が儲かるのか。なぜ蝶が羽ばたくと台風が起きるのか。結果だけを取りだし、比べるだけでは見えてこない関係性がこの世には溢れている。否、この世に内包されている以上、まったくの無関係ということはありえないのである。ただし、人間が生活するうえで体感できる事象の大きさは、極めて小さく、断片的なものである。きのう口にしたハンバーグに、将来、人類の存亡を決定づける花の種子を構成する物質が含まれていたとして、それをあなたが気にする必要はなく、それに気づくこともまたできない。或いは、きょう身に着けているその服が、百年前に命を賭して農園を維持した奴隷がいなければそこに存在し得なかったとして、それをあなたが気にする必要もない。ただし、巨視的に世界を眺めることで観えてくる相関関係というのは確実にある。一見するとそれは、単なる妄想に映ることもしばしばだ。しかし、あなたに第三の仲介点が視えているかぎり、それは偶然ではない。もっとも、相関関係は逆説が成立しない。結果を変えたいからといって、仲介点を消したとしても、何も変わらないことは往々にしてある。煙を消したいから火を消すようにはいかないのである。そういう意味で、複雑系には自己回路修繕能力があると予想される。複数の要素によって成立する相関関係には、ある種の欠落を埋め、補完する性質があるのだ。
835:【わるぐち】
当りまえのことかもしれないが、悪口には発言者の差別意識が反映されている。そのひとがどんな悪口を言うかで、どんな人たちを差別しているのかが判る。「ハゲ」「デブ」「ボケ」「ホモ」「もやし」「ニート」「ビッチ」「ジジィ」「ババァ」「チビ」「ぺちゃぱい」たとえ冗談で口にしたとしても、それら言葉の背景には差別意識が潜んでいる。ひるがえっては、差別意識の薄いひとは、悪口を言えない傾向にある。なぜそれが悪口になるのかが分からないからだ。
836:【NEWTUBER(ニューチューバー)】
ぶぅん、ぶぅん。イカリングTV~。はーい、というわけでですね、人気YOUTUBERの物真似から入りましたけど、似てた? あ、そう。言わなきゃ気づかれないってそうとうですよコレ。きょうはですね、さっそくですが、2000年後の地球に行ってみたいと思いまーす。前回の放送だと逆にね、逆に2000万年前の地球に行ってみたんですけども、もう観た? 観てない? あらー。ここでオチを言ってしまうのももったいない気がしないでもないですけれども、話をサクサクっと進めていきたいので言ってしまいますけれども、はい。窒息死。爆笑~。ぶぅん、ぶぅん。着いた途端に窒息して死んでしもうたー、空気くれー。場所がよくなかったみたいでね、え~、何もできずに戻ってまいりました。あってよかったクローン技術。脳死状態でも外部記憶装置(バックアップマインド)のおかげで設定さえしていれば、このと~り、問題なく復活できるわけですね。言うてもしょせんはクローンですからね。まぁワタクシも、どぅふふ、きょうは死ぬ気で、あっここアップでね、カメラ持ち上げのひょ~い、死ぬ気で、行ってまいりますよー、はい、カメラはこのままハンディカムでね、手ブレ補正は万全ですからね、アイーンなんつって、はい、着きましたっと。みんな大好きタイムマシン。(つづきはこちらから→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054884328530)
837:【肉体疲労】
疲労のほとんどは脳からくるらしい。でもいくひしの場合はほとんど身体や。バッキバキやで。背中とかバッキバキや。
838:【性格】
過去の「いくひ誌。」読んでみたら、くっそ性格わるいなコイツ、としか思えなかった。くっそ性格わるいなコイツ。
839:【うぬぼれ過剰】
誰も見てないだろうから好き勝手なこと撒き散らしてるけど、ひょっとして誰かが読んでるかもしれないと想像するとおそろしいな。小説はいいけど、エッセイはよくない。つぶやきなんてもってのほか。こわい。
840:【とぅきー】
成人向け漫画家さんのディビさんが好きです!
※日々コーヒーを美味しいと思ったり、思わなかったり。
841:【ろむさん】
ろむさん著の「放課後まで待てない〜ボッチ佐藤とエッチな小林くん〜」を読みました。きょねん「まふじくんはたかつきくんがおすき!」を購入していいなぁ、と思っていた作者さんです。ろむさんの作品にでてくるキャラは基本的に、変態性欲魔人です。ロマンスとかムードとかそういうのは二の次でとにかく本能に忠実に行動します。そして、その行動に呑みこまれていくキャラクターが対で出てきます。流されると言えばそのとおりで、嫌よ嫌よもスキのうちというか、嫌だけど既成事実ができちゃったので、仕方なくそれをいい思い出にしなきゃって、そうじゃなきゃやってられねぇよ、みたいな投げやり感が、いくひしは好きです。たぶん王道のBL好きな人には嫌われてしまいそうな物語を紡ぐ作者さんだなと思います。でもいくひしは好きです。いっそもっと突き抜けてしまえば、鬼才「はらだ」さんみたいに特定の人たちに突き刺さるのではないかな、と期待するものです。もっとも「はらだ」さんは、王道という岩を持ち上げて、その下に蠢くムシたちを描くような突き抜け方をしているので、真似するのはむつかしいだろうな、とは思います。ろむさんの、つぎの新作も楽しみにしています。
842:【しあわせ】
好きなひとがぼくの好きなものを好いてくれている。こんなしあわせなことがあるだろうか。相手はまったくわたしの存在に気づいてもいないけれど。俺はそういう一方的に味わえる至福が好きなんだ。
843:【得意分野からの脱却】
長年身を置き、ほかの追随を許さない知識と経験を得た分野ができたならば、それ以外の視野を持つ方向に尽力すべきときである。体系を築いた知識は回路として機能する。その回路に沿って導かれた答えに破たんを見出すのはむつかしい。一見すると整合性がとれ、真理に映ることがある。正解に感じることがある。他者に正解だと錯覚させることも可能だろう。そこが思わぬ落とし穴になる。破たんのない無矛盾な論理は、数々の破滅の道から目を塞ぎ、退き、ゆいいつの道を切り拓いている。しかし、もしそこから一歩でもはみ出すことがあれば、退けられ、山積みになった破たんの津波に呑みこまれるはめになるだろう。目をつむるのは構わない。よこに置いておくのもいいだろう。しかし、目をつむり、退けた事実から目を逸らしてはいけない。忘れてはならないのである。否、忘れてもよい。だがときおり思いだせるくらいの余裕を持とう。わかったかい、いくひし。
844:【わかったかい、じゃねーよ】
うっせばーか。
845:【ちがいます】
ツイッターもフェイスブックもインスタも、スマホへの乗り換えだって、できるものならしてみたいです。でもできないのです。いいえ。じっさいにしてみたところで今抱いている虚しさが倍々で大きくなっていくのだろうなと予感できてしまうので、どうしても踏みだせないのです。そちらはどうしても「まえ」に思えないのです。踏みだしたけっか、深淵に呑みこまれてしまうのではないかと、割と本気で、すこし冗談で、思います。憧れには触れたくないの心理にちかいのかもしれません。がっかりしたくないのです。
846:【うまくしゃべれない】
目も耳も手も足も、鼻の穴だって二つずつあるのにどうして口は一つしかないのだろう。ぼくとわたしと俺やあたしだってしゃべりたいのに、出口で詰まって、うまく言葉がでてこない。肛門があるよって、そういうことじゃないの、いくひし、あなたは黙ってて。
847:【ルービックキューブ】
ルービックキューブみたいな物語をつくってみたい。まったく異なるいろいろな物語がカチカチカチと組み合わさってどこかイビツさを残しながら面となっていき、最後に、固まった大きなブロックがカッチ、カッチ、カッチ、と結合して、きれいな正六面体が揃う、みたいなの。十万文字以内でつくれたらいいなぁ。つかう物語はすくなくとも4×6+6で30個。ぜったいに楽しい。
848:【うそだろ】
ひゃ、ひゃ、ひゃくにちかんが終わってしもた。那多ここねさんのマンガ「ひゃくにちかん!!」がWEB連載で最終回みたいになってた。あっさりした終わりだった。おめでたい、おめでたいが、なんかこう、すなおによかったねぇってなれない。 もっと読みたかった。いでよシェンロン、すこし値が張ってもよいので最終巻におまけマンガたくさんつけてください。
849:【センスがいい】
小雨大豆さんがWEBマンガで連載開始するらしい。柳田史太さんの「トモちゃんは女の子」やNOBELさんの「妄想テレパシー」が連載中で、さいきんだと短期集中で安田剛助さんが「草薙先生は試されている。」を連載していた出版社だ。作者チョイスが絶妙すぎる。文芸のほうは、作者としての嫉妬も混じって、「どうなんそれ」と思ってしまうけれども、マンガセンスはほかの出版社より頭一つ抜きん出てる気がする。現在進行形で短期集中連載を行っている、うさみみきさんは知らない作者さんだったけれどもおもしろいし、谷川ニコさんの「クズとメガネと文学少女(偽)」も連載だけは追っている。連載終了しちゃった 山本蒼美さんの「この男子、シェアハウスで小説書いてます。」も好きだった。こちらは近所の書店さんでいつまで経っても単行本を仕入れてくれないので未だ購入していない。アマゾンの出番かもわからない。そうそう。可能であればぜひとも連載陣に「天原帝国」さんを引っ張りこんでほしいとひそかに望んでいる。きっとすでに企画案は出されているだろう。うまく通ってほしいとやはりひそかに望んでいるいくひしなのでした。(思えば小雨大豆さんはデビュー作が講談社BOXだったのだ、忘れてた)
850:【どうしても触れたニーナ】
ヨネダコウさんの漫画「どうしても触れたくない」を読みました。ジャンルはBLです。極上です。極上にリアルで、紙一重でドラマチックで、胸が、くとぅん、くとぅんします。いくひしがどうあがいてもつくれない物語、キャラクターで、主人公嶋くんの懸想するお相手、外川さんの「あーいるいる」って感じの造形と、「あー、好き好き」ってなる包容力が、けた外れの描写力、そしてセリフ力によって質感を伴って訴えかけてくる。デビュー作(初めてのコミック)とあるが、ぜったいにウソだ。こんなの長年プロで活躍してるひとでもそうつくれるものではない。とんでもない作家がでてきたなー、とうれしい反面、悔しさと、そのあまりにかけ離れた才能の差に、もはや笑うしかない感じが、くすぐったい。デザートを食べたい気分だったので、イトカツさんの「銀のニーナ11巻」を読んだ。はぁーーー。癒される。いなさそうで、あーいるわぁ、っていう純粋少女のお留守番ものですね。さいきん流行りというか、いくひしが好きなジャンルの、独身男だけど女児を預かりました系の物語なのですが、飽くまで視点がニーナちゃんなのがよいと思います。こんな無垢なコいないよなーって思いそうで、でもいるわーこういうコ、っていうギリギリのラインがなんちゃらかんちゃらって、もう同じことで三時間くらいしゃべれそう。好きなんです。悪が無条件降伏しそうなくらいのよいコ。共感できる物語もよいけれど、やっぱりないものねだりを体験できる物語のほうが、いくひしは好きなのかもしれません。どっちもよいものだけれどもね。物語はよいものだ。価値がないところがとくによいと思う。本当に価値のある物語は、人から人に語り継がれていくものだから、価値があるほど、(あるところを境に)価値がつかなくなっていく、そういうものだと思います。(※ヨネダコウさんの「どうしても触れたくない」の奥付を見たら、初版発行日が2008年になっていた。信じられない。いくひしがまだ小説(のおもしろさ)と出会う前に出版された漫画だ。こういう十年単位でまたにかけた出会いがまだまだあるんだろうなって考えるだけでワクワクしてきますね。してくるんです。します。するの。いいでしょいくひしの勝手なんだから。きみはすぐそうやってダイナシにする。いくひしのいい気分をダイナシにする。もう口きかない。反省して)
※日々脳のメモリが減っていき、補完すべく、肉体にシワが刻まれていく。
851:【脱力】
ちからを抜くことを意識しつづけて五年。ようやくすこしカタチになってきた。と、いうよりも、思ったよりはやく限界がやってきて、しぜんとちからを抜かずにはいられなくなっただけのことではある。とはいえ、やはりまだ「本番」を意識するとちからが入り、全体的に硬くなる。硬くなっただけ、セーブをかけて、ゆるやかに、なめらかに、線を、緩急を意識しなくてはならないのに、まだそこまでの融通無碍は獲得できない。自由自在には程遠い。本番でも遊べるだけの余裕を。
852:【遊びと悪ふざけ】
遊びと悪ふざけの違いを見極めるのは難しい。客観的に線引きすることはほとんど不可能だ。それは区別と差別の違いほどの曖昧模糊とした類似性を伴っている。反面、明確に二つは同じではない。遊びは自己完結しており、悪ふざけは他者との共謀によって成立する性質がある。一人で遊ぶことはできても、一人で悪ふざけをすることはできない。結果的に遊びが、イタズラとして見做され、非難されることはあるだろう、しかし遊びは常にじぶんの中心へと向かい、悪ふざけは外側へと向かっている。それは、表現と自己顕示の違いだと呼べるだろう。或いは、芸術と承認欲求の違いであると。
853:【終わりなきパズル】
Q、「あなたにとっての創作とは何ですか?」
A、「世界でただ独りきりになってもやめる理由が見つからないものです」
854:【じっさいのところ】
小説をつくることに限定していえば、あと十年以内にスパっとやめてしまいそうな感覚がある。飽きたらやめる。ムリをして続けようとは思わない。何かを新たにつくりだす、これさえできれば、その対象は割となんでもいい気がしている。そういう意味では、やはり小説は便利なのだ。
855:【でぃ、でぃ、でぃ】
ディビさんがツイターでお題箱置いてる―ーー!!! 描いてほしい絵のお題をちょくせつ聞いてもらえるのだ、なんて、なんてぜいたくしごく……。ものっそい送りたい、書きたい、聞いてもらいたい、のに、のに、うわーん、緊張しすぎてなにも送れない。勢いあまって好きですって告白しちゃいそう。てかしたい。告白したい。なんだったら主従関係結びたい。ご主人さまって言いたい。奴隷の称号がほしい。でも奴隷がごしゅじんたまに好きですなんておこがましい。そんなこと言っていいわけがない、ぜいたくすぎる、しぬ。
856:【お金が貯まったら】
お金が貯まったら一枚三〇万円くらいでディビさんに表紙絵を依頼するんだ。で、いつかいくひしの本の表紙全部をディビさんに描いてもらうの。いまは三〇冊くらいあるから全部で一〇〇〇万くらいかかる。しぬ。(ぜんぜんそれでも安いと思います。そんで、そんで、いつかディビさん表紙絵の画集をつくって、それも世に放ちたい。もちろん絵の権利はいつだってぜんぶディビさんにある。こんなやつの表紙なんてやーだよってなったら、いつでも撤回してもらってだいじょうぶ。お預けというやつだ。ご褒美)
857:【KINJAZ - Anthony Lee 】
https://www.youtube.com/watch?v=pWcmRi4lvY0
https://www.youtube.com/watch?v=tzK6P1aOUx4
https://www.youtube.com/watch?v=AfiLTMiMaHo
https://www.youtube.com/watch?v=m259CYurBgM
858:【上野さんは不器用】
tugenekoさんの「上野さんは不器用3巻」を読みました。1、2巻はすでに購入済みで、5月かそこらに読んだのですが、これは単純にツイターで某インフルエンサーハイロー氏こと、とあるミステリ作家さんのリツイート(つぶやきだったかも?)で知って、即購入してきたマンガです。ちなみにいくひしは、その作家さんの小説を買ってこようとして間違って円城塔さんの小説を購入してそのままハマった経歴があります。名前が似てるんです。字面が。何よりいくひしの下の名前は「まん」なのですが、その作家さんはいくひしの名前を濁らせたようなお名前でして、何かと因縁があるなーとかってながらに思っておりました(無冠の帝王ってところとかとくに)余談です。「上野さんは不器用」の主人公、上野さんはヘンタイでして、つつしみあるヘンタイでして、思春期の女の子なのにヘンタイでして、みょうちくりんな発明をしては、想い人にじぶんのパンツを見せつけてドキドキしてもらおうと画策するのです。じつにヘンタイです。ヘンタイの鑑です。ところがどっこい、いつもうまくいきません。たまにうまく事が運びそうになっても、ヘンタイのくせして小心者でもありますから、ヘタレっぷりを存分に見せつけてくれます。思いきりがよい割に、思いこみが激しく、自信過剰のくせして自己評価は低いときたものだ。なんだか誰かに似ているなぁって思いませんか? ヘンタイでヘタレで天才で、そのくせうだつのあがらない報われない系キャラですよ、ほらほら、なんか親しみ湧いてきませんか? え? 天才の要素が見あたらない? はて、なんのことやら。なーんて、すっとぼけてみせたら天下一品の上野さんをぜひその目で確かめてほしいですね。2017年11月02日のいくひしまんでした。
859:【はんぶっしつ】
反物質をご存じですか? 物質の構造がまったく同じなのに電荷のみ真逆なので、プラスとマイナスがくっついてゼロになってしまうみたいに対消滅してしまう厄介なやつです。双方のエネルギィだけ残して、カタチがまったくなくなってしまうんですね。宇宙が誕生した瞬間にはすべての物質に同じだけの反物質が存在していたらしいのですが、対消滅をしつづけて、いまではほんのわずかな物質だけが残り、それがこうして星々をかたちづくっているわけなのです。でもちょっと待って。物質と同じだけ反物質があるなら、そのうち物質がぜんぶなくなっちゃうんじゃないの? というか、どうしていまこうして星々が銀河を形成していられるの? それっておかしくない? ということで、すこし前までは、反物質と物質のあいだには、なんらかの差異があり、対消滅時に僅かに反物質のほうが多く消費されて、結果としていまこうして星々を構成している物質が残ったのではないかと考えられていたのですが――じつはさいきん、ものすごい精度の高い装置で計測してみたところ、物質と反物質のあいだに、電荷以外での構造的差異がまったくないことが判明したんですね。もうすこし正確には、磁性になんらかの差異が生じているのではないか、と考えられていたわけなのですが、なんとそれすら同じだったわけです。まったく同じ。ならばいま現在、どうして星々がカタチを保っていられるのかが判らない。あり得ない。可能性としては、人類がまだ観測できていない成分に差異があり、対消滅時に反物質のほうが多く消費されてしまった説があります(憶測ですが、そう考えるのがもっとも理に適っています)。ほかには、物質がこうして偏って集まり、銀河および銀河団が形成されているように、反物質もまた、独自に偏って集まり、銀河の反物質とも呼べる塊を形成している説。あとはもうひとつ、これはいくひしのまったくの妄想ですが、べつの次元に反物質が飛ばされている説が考えられます。これというのは、我々のこの宇宙と対となる、その世界そのものがこの宇宙の反物質でできている、という考えです。その考えを元に膨らませた小説が、「異世界の蛇口~~神殺し魔起き~~」なのですが、じつはこれ、見知らぬ男女の人格入れ替わりものでもありまして、はい、そうなんです、例の大ヒットアニメ映画「君の名は。」とまったく同じ設定を題材にしているんですね。でもすこし検索してもらえれば判ってもらえると思うんですけど、いくひしのほうがつくったの一年ほどはやいんです。2015年8月には某新人賞に応募し終わってますからね。真似っこじゃない。まったくの偶然。でもじつはすこし狙っていた部分もあります。こういうのぜったいヒットするでしょーって思って、いつだっていくひし、つくってますからね。でもだからって「君の名は。」が、その設定でヒットしたわけでは、けっしていないのと同じように、いくひしがどれだけヒットしそうな要素を物語に組みこんでも、それが直結しておもしろさに繋がるわけではないのです。創作ってむつかしいですね。すこしばかし、「いくひし見る目だけはあるんですよー」って自慢をしつつ、自作の宣伝をしつつ、それっぽい雑学を披露しつつ、あんまり大袈裟にプッシュはできないので、半プッシュくらいの押し加減で、もういちど自作を宣伝しておこっかなぁ、と思います。いいですよね、たまにはね? いいよいいよー、やっちゃえ、やっちゃえ。てなわけで、「異世界の蛇口~神殺し魔起き~」――SF風味の異世界転生ものですが、現世とあっちをいったりきたり、オナニーをして世界を救う話なのに、なぜかせつなく、涙がほろりと滲んじゃう、そんなわけあるかいな、と読んでみたら、わけのわからぬままに自慰して目元がうるうるだ。さいきん異世界転生に飽きてきたあなたにも、異世界転生ってどんなもんよ、とすこし気になっているあなたにも、こんなわけわからんチンチンな物語はほかにはないから読まずに済むならそれがいい、読んだら読んだでお目汚し、業界屈指の面汚し、プッシュしているのかいないのか、冗談半分の、半プッシュ、人格転移に反物質のでてくる、カオスでコスモな物語、おひまを消滅させたいあなたにも、いますぐ消えたいあなたにも、ぴったりくる現実世界の裏の世界、触れたが最後、まるごと対消滅しちゃってもしらないよ。命知らずのあなたに贈る、新感覚アドベンチャー、全ジャンルを網羅したい、思いでつくった2015年の珍作です。ぜんぜんせつなくなんかないじゃんか、と言いたいがために読んでみるのも一興ではないですか?
860:【もし】
もし、いくひしよりさきにディビさんの絵を表紙に起用した出版社および作家さんが現れたら、いくひしは嫉妬の鬼になる。生えたツノが月に突き刺さって、ピーンっていくひし、ものすごい勢いで地球の自転に置いてきぼりで、一瞬で街という街を破壊していく未来が視える。さながら回転ずしをせき止める関取、みたいな感じ。同時に、ぜひともあのステキな絵を本の表紙に飾ってほしいなとも思う矛盾で、身もだえしちゃう。どうしたらええの?(はやく金貯めろ。てか、依頼すれば引き受けてもらえると思ってるおめでたい頭をまずはなんとかしろな)
※日々えーっと、なんだっけ?
861:【囀る鳥は怪物アカデミアピース】
ヨネダコウさんの漫画「囀る鳥は羽ばたかない1巻」を読みました。完敗。もうね、勝てる要素ないっす。勝ち負けじゃないってのは重々承知の助なんですがね、勝てる要素が皆無っす。まいりましたーっつって土下座ですよ土下座。なんだったら組体操みたいに土下座ピラミッドつくってシャンパンタワーさながらに乾杯したいくらいのまいりましたっぷり。脱帽というか、脱法ですよね。名実ともに危険ドラッグですよ、ヤクザの話でもありーの、BLでありーの、ぶっこんでくるエピソードの無駄のなさにやるせなさ、構成の妙がハンパない。ちょっとした伏線回収が、ほんと、さりげないのに、効果抜群で、あからさまに伏線張って回収してドヤ顔してたじぶんが情けない。完敗ですよ完敗。もうね、なにゆえ1巻しか買ってこなかったのかと。なに様子見しとるんだと。じぶんの浅ましさに嫌気が差しますね。だってデビュー作を散々褒めちぎっといてですよ、「どうしても触れたくない」をあんだけ絶賛して、昇天して、カルチャーショックを受けといてですよ、なにゆえまとめて全作品を購入してこなんだって話ですよ。お金がないんですよ。でもそういうこっちゃないんですよ。もうね、とうぶんBLは描けないなってくらいの才能の差を感じました。真似できない。真似したいのに、できる気がしない崖っぷちを体感してる。あーあー、軽くトラウマになりそう。そんくらいの衝撃です。まだあと5冊も弾丸が残ってる。生き残れるか心配です。いくひしの作家生命、ぽっきりいかないといいけど。いつもは読んだ順に所感を投じているのだけれども、ちょっとあまりの衝撃でしたから、まずはこれを出しとかないと消化不良起こしちゃってたいへんだから、とにかく言葉を並べておきました。引きずらないようにしましょうね。はーい。つぎにまいりましょうか。えっと。藍本松さんの「怪物事変3巻」ですね。徐々におもしろさがヒートアップしていく感じが快感です。2巻までは、いくひしが個人的にツボだなーって具合だったのが、3巻に入ってから、ワンピースとかしか読まないよーって人たちにもおすすめできる仕上がりになってきてる。担当さんが替わったのかな?ってくらいの変貌ぶり。ひょっとしたらおもしろい映画でも観ちゃったのかなーなんて想像しちゃいます。コンちゃんがね。とくにいいんですよ。何より今回、狸さんを引っ込めたのが正解だった気がしますね。真っ当すぎますからね。ちょっとああいうひとには引っこんでてもらったほうが、話が変動しておもしろくなりますよ。ふがいない感じの師匠にはここぞというところでおいしく出番をかっさらってもらったほうが物語にハリがでますよね。学べるところの多い作品です。で、つぎはですねー。堀越耕平さんの「僕のヒーローアカデミア16巻」です。相変わらず、トンデモナイですね。誰を主人公にしてもおもしろい。脇役がぜんぜん、脇にいない。いくひしぞっこんの「トガちゃん」も登場して、しゅぱしゅぱおめ目がギンギンです。あといくひし、鬼とか人外とか、肌色派手系女子やツノ生えてる系女子が性的嗜好にドンピシャでして、そういう意味で、今回主人公を張っていた切島くんももちろん大好きになっちゃったけども、その幼馴染ポスト、芦戸三奈ちゃんが16巻の今回は、今回のなかでは、イチオシです。ほんのちょっとしか出てこなかったけどね。あとデブ先輩の本気モードも忘れちゃならない、ちょっと胸にこみ上げるものがありましたよ、敵のラッパ先輩もカッコえかった。まぁいくひしはトガ姫一筋ですけれどもね。げへへ。ヤンデレヘンタイ女子、好きなんです。最後になりましたが、言わずと知れた尾田栄一郎さんのマンガ「ワンピース87巻」です。あーもう、しょうじき文句を言いだしたらキリがない。こまごまして見にくいだの、キャラが覚えられないだの、視点があっちこっち散らばってついていくのがやっとこさだの、ほーんと文句だけで一夜を共に越すのなんておちゃのこさいさいよ? なのにそれだけ詰めこんだマイナス要素の、何億倍も長所に美点に追加点、いいトコ挙げてくだけで年が暮れちゃう、溢れちゃう。もうね、おもしろーい、と書いてワンピースと読んでいい気がする。さいきん広辞苑が新しくなったでしょ? あれね、つぎに更新されるとき、おもしろーい、のところに、愉快なこと、またはワンピース、って記載されること待ったなしだね。なんたって漫画界の鬼才も鬼才、天下の尾田栄一郎さまの唯一無二の連載作品だってんだから、これはもう、どれだけ文句を積み重ねてみせても、それだけでたいへん有意義な時間の潰し方になっちゃうよ。どうあっても娯楽になる、エンターテインメントの鑑だね。いくらヨイショしてみせても、もはやただの正当な評価にしかならないときたものだ。褒めちぎり甲斐のない、ナイスガイ、「ワンピース87巻」でのいくひし的ベストショットは、ナミさんの、「用済みなんだからさっさと死ねばいいのに」(うろ覚え)でした。
862:【ベクトルの方向】
じぶんと比べてレベルが上の成果物を見て、「すっごーい! とぅき!!!」となる場合と、「がーん! 死ぬ!!!」となる場合がある。双方の違いは、いくひしがプラスに思っている要素を、さらに上の次元で磨きあげているか否かにある。裏から言えば、いくひしが「これはないな、きらい、捨ーてよ」と思った要素を使って、口が裂けても「おもんくない」なんて言えないくらいの、ウソを吐いて強情を張ることもむつかしいくらいの作品を見せつけられると、「まいりました! 死ぬ!!!」となる。たとえばディビさんは、いくひしの好きな要素にプラスアルファで上品さという要素を加えて、いくひしにはとうていつくれない物語、表現を編みだしつづけてくださっている。とぅき!!!となるほかない。なぜならプラスされた「上品さ」もまたいくひしは好きだから。好きプラス好きで、とぅき!!!となるのは、数学としても物理としても矛盾がない。真理。もう一生、いくひしの上にいてほしい、まえを走っていてほしい、引っ張っていってほしいし、ひっぱたいてほしい、そういう憧れを抱く。でも、ヨネダコウさんみたいに、いくひしが嫌いな要素、ないなぁって思う要素、物語を編むときにまず捨て去る筆頭にあがる要素で、いくひしが脳汁ダクダクでちゃうような作品をつくられると、いくひしは人生で最大の間違いを犯したんじゃないかってくらいの衝撃を受けてしまう。間違いを認めてなお、直しようがない。何度やりなおしても、その要素に拒否反応を覚えてしまう。端的に嫌悪している。なのに、そんな嫌悪して嫌悪して仕方のない要素が、神の手によって加工されると、あらふしぎ、「はひゃー! 抱いて!!!」となる。こうなるともう、いくひしは立っていられない。料理の過程で生じた生ゴミを使って、いくひし以上のご馳走をつくられてしまったような衝撃がある。料理人としてこれ以上の敗北があるだろうか。「がーん! 死ぬ!!!」となって致し方なし。もちろんいくひしがその要素を嫌いなだけで、ほかの人は大好物であることは往々にしてある。よって、いくひしにとっては作家生命にかかわる重大な事件であっても、ほかの大多数の人々からすると、「ふーん。これで?」となるかもわからない。でも基本的に世の中の物事とはそういうものではないじゃろか? とかく、世のなか天才が多すぎる。それがふつうなんだよ、いちいちショックを受けていたらキリがないよ、と戒めに言い聞かせて、まずは新作を仕上げちゃいましょうね。いくひし、お返事は? はーい。
863:【教えて】
小説の新人賞で現役の漫画家が選考委員になったら教えて。個人的には紀伊カンナ先生の選考した作品が読みたい。
864:【まどろっこしさに右往左往】
小説が売れない。とくにミステリィ畑は壊滅的だという文章を目にする。ミステリィはむつかしく、若者向きではない、という評価をくだされるようだ。そういう一面もあるだろう。本質的にはしかし、的を外しているように感じる。若い人々はむつかしいことを忌避しているのではない。まどろっこしいことに反発しているのだ。こうすればいいじゃん、と思わせたら、その時点でそれはまどろっこしいことになる。なんでそこでそんなことするの、と思わせたら、そこで興味が途絶えてしまう。起源だとか、過去だとか、成り立ちや文化、そういうことはどうでもよろしい。今どうあるべきか、このさきをどうしていくべきか、それを重要視するのが若者の性質だ。いくらむつかしくても、どうすべきかが判らない、不安になる、そうしたことに対して、若者が目を逸らすことはすくない。若者はむしろ、謎(問題)でもなんでもないことをウジウジ悩むような態度に業を煮やしているのである。
865:【行き詰まったら】
いままでできたことが急にできなくなったり、退屈になったりするときがある。そういうときは、身についた速度を三段くらい落とし、ゆっくり作業をしてみることだ。すると、空いた余裕に、これまでなかった要素が、どこからともなくやってきては、徐々に蓄積されていく。そうした空白を埋める「繋ぎ」が、つぎへの素材になっていく。新しいことをしようとしても、なかなかできるものではない。そういうときは、速度を何段か落として、やってみよう。速度を変えると視点が変わる。視点が変わると、世界が変わる。世界が変わるとじぶんが変わる。新しいじぶんに会いにいこう。
866:【誰にとっての失礼?】
思春期のころから疑問だった。たとえば、相手が本気なのに手を抜くなんて失礼だ、という主張がある。ほかには、こっちが本気でやってんのに遊びのやつらが交じってくるなんて失礼だ、といった主張だ。そう投げかけられることもあるし、同意を求められることもある。その都度、いくひしはこう思ったものだ。手を抜いても勝てると思われている程度の実力をまずはどうにかしたらよいのでは、と。相手からしたら、こちらのほうがお遊びに見えているのかもしれない。また一方では、プロならお客に卑下するような態度を見せるな、といった意見がある。いくひしはむしろ、プロなら卑下するようなことでもおもしろおかしくして見みせたらよいのでは、と思う。いくひしがお客さんの立場なら、プロの人たちがプロらしく振る舞う姿よりも、その陰でどんな努力を重ねているのか、どんな挫折があったのかを見せてほしいと望んでいる。それをおもしろおかしく提供できたならば、それは極上のサービスとして昇華されるはずだ。それができないから、卑下するべきではない、努力している姿を見せるべきではない、という主張がでてくるのだと思う。ようは、どのレベルを目指すのかの話になってくる。自由自在、融通無碍、どんな素材であっても美味しく料理できてこそのプロなのではないですか、といくひしは思っております。
867:【一理あんのかもしんねぇけどな】
いくひし、おめぇはプロでもなんでもねぇからな?
868:【ゆっくりはつらい】
ゆっくり動く。じつはこれがいちばん身体を鍛えられる。速く動くのは体力を消耗しやすいが、全身の反動を使っているので、骨格にこそ負荷はかかるが、筋力そのものの出力はさほどでもない。運動以外の作業でもこの法則は有効だ。基本的に、何かをゆっくりに行うことは、人間の能力を鍛える方向に働く。新しいことを初めるときはまずはゆっくりやり、徐々に速くしていく。そしてまたあるときを境に、ゆっくりにしてみる。足りないものを見つけ、補い、そして余計なものをそぎ落としていく。そしてまた足りないものをピックアップしていく。そのために、速度を落とし、ゆっくりにしてみる。ゆっくりを、一つ一つを丹念に意識してみる、と言い換えるとそれらしい(言うまでもなく、ただ動きが遅いだけでは意味がない)。壁にぶつかったときには意識してみるとよいかもしれません。
869:【最終試験問題】
当時、ドゥイン(Doing)の登場を予見していた人間は、すくなくともこの地球上に誰一人として存在しなかった。粘土をこねるように空間を広げる技術が確立され、いまでは街中の至る箇所にドゥインが設置されている。ところでアジアのとある島国では、「カマクラ」なる雪でつくられた洞穴みたいなものが存在する。雪で空間をかたどり家にしてしまうわけなのだが、同じようにドゥインは、空間を拡張し、そこに新たな空間をプラスする。空間がねじれて、そこにカマクラが出現したみたいに、ぽっかりと穴が空く。中に店を開いてもいいし、公園を築いてもいい。ドゥインの広さはまちまちだが、ちいさくてもコンビニくらいの大きさがある。言い方を変えると、それ以上ちいさい規模でドゥインを維持するのがいまの技術では困難だ。不可能ではないが莫大なエネルギィを必要とする。拡張されてできた空間は広ければ広いほど安定するが、それはそれで問題が生じる。特殊相対性理論を引き合いにだすまでもなく、空間が伸び縮みすれば、同時に時間もまた伸縮する。ドゥインの内部の空間が広ければ広いほど、そこに滞在するだけで、はやく歳をとってしまう。規模の大小にかかわらず、ドゥインの内部では、外部と比べて時間の進み方が速くなる。極端な話、ドゥインの中で三十年を過ごしても、そとに出てみるとまだ三十分しか経っていなかった、ということが現実としてあり得てしまう。そこまでの極端な時間のズレは生じないが、数時間程度のズレは、日常茶飯事だ。困ったことばかりではない。むしろ、それを美点として、いまではドゥインが大人気だ。「しまった、宿題やってない!」「ヤッバ、プレゼンの資料一つ足んない!」そうしたミスに対して、ドゥインは挽回の余地を我々へもたらしてくれる。広い空間ほど時間のズレが大きいため、利用者が多く、いつでも混雑している。あべこべに、狭い空間でこそあれ、ドゥインは物理的に幅をとらないため、極端な話をすれば、ネットカフェの小さな座席にドゥインを展開すれば、ちいさな店舗が一夜にして、リゾートホテル顔負けの客室を備えることになる。ドゥインを展開するための装置は、それなりに値が張るが、家一軒分のコストで、リゾートホテル並みの空間を確保できるとなれば、尻込みするのもおかしな話だ。人口爆発による土地の問題、そして食糧問題もまた解決した。ドゥインの中では時間が速く経過する。すなわち、種を蒔き、発芽し、実をならすまでの時間が、短縮できる。ドゥインのなかでの半年が、こちらの世界では一週間で済む。ドゥインの規模を大きくすればそうした時間短縮も可能になり、規模が大きければ大きいほど大量の植物を育てることが可能だ。これは人工知能をはじめとする、あらゆる研究機関の発展に大いに役立った。ドゥインのなかでさらにドゥインを展開し、さらにそのなかでもドゥインを展開する。マトリョーシカよろしく、入れ子状に展開した空間のさきでは、時間の速度は加速度的に増していく。中で百年過ごしても、そとに出てみるとなんと一時間しか経っていない。そういったことも可能となる。研究機関はこぞってドゥインを入れ子状に展開し、そのなかに巨大な演算マシーンを組みたてていった。いったいどれほど経っただろうか。マシーンを駆動させてからしばらく、それこそ一週間もたたぬ間に、事態は急展開を迎える。なんと、入れ子状に展開したドゥインの中から、得体のしれない生命体が姿を現したのだ。それは実態を伴わない粒子投影された映像であり、同時に、それ自体が思考する思念体だった。「我々はいよいよ、宇宙の外側への活路を見出し、それを試みた」それは我々の言語で話し、そして言った。「あなた方が我々の起源、創造主たる神であられるか」なんと巨大な演算マシーンは、入れ子状のドゥインの中で、膨大な時間を潤沢にかけ新しい生命体を発生させていた。それは人類をシュミレーションした末の、情報の海で誕生した新たな構造を有した生命体だった。学者たちは侃々諤々の議論を重ね、それらへの対処策を決した。相手に敵意がないことがさいわいだった。たとえるならば、人類が宇宙の外側に、この宇宙とは異なった法則で成立する世界を観測し、さらにそこへと行く手立てを打ち立てたようなものだ。じっさいに送られてきたのは、どうやら彼らの創りだした偽系体というものらしく、詳しく聞いてみると、それは彼ら思念体にとっての人工生命体に値するという。すなわち、人類のあずかり知らぬところで、人工生命体が生じ、さらにその人工生命体は、自らの手で、新たな生命体を生みだしていたことになる。人類は知らぬ間に神になっていたのだ。親がなくとも子は育つというが、育ちすぎである。人類がいよいよ偽系体へと、親愛の意を伝えたころには、入れ子状のドゥインの中で繁栄していた偽系体の生みの親たる人工生命体は、些細な意見の食い違いにより、共食いをはじめ、ついにはたったひとつの揺るぎない生命体への進化を遂げていた。そこに流れた時間は相対時間でざっと数万年である。どうやら彼らは彼ら自身の手で空間を拡張する術を見出していたようだ。時間の流れは加速度的に加速しつづけ、いまでは、人類が「あ」と唱えるあいだに、第二、第三の人工生命体が生じた。それらは、偽系体の偽系体だとも呼べ、我々の返答を待ちわびて、ついに帰還するに至った、初代偽系体たちが、入れ子状のドゥインの中に入ったころには、そこにはこの宇宙を、宇宙を構成する原子の数だけ累乗しただけの空間が広がり、そこには、銀河団を構成する数ほどの偽系体たちが、世代ごとに対立し、宇宙戦争とも呼べる、壮大な物語をころがしはじめていた。初代偽系体たちを見送り、「さてどうなることやら」とさきを案じた我々のまえに、いましがた送りだしたばかりの初代偽系体たちが、満身創痍の姿でふたたび現れた。「どしたの、忘れ物?」暢気な我々はそのように言った。「タスケテください」初代偽系体たちは言った。「もうすぐここにもやってくるでしょう」どうやら初代偽系体たちが戻ったことで、そとにも世界があるのだとほかの偽系体たちに知れ渡ってしまったようだ。逆説的に、初代偽系体たちが戻らないからこそ、「そと」などという世界は存在しないのだと思わせることができていたようだ。「ここにあれらがやってきてしまっては――」初代偽系たちがそう口にしたとき、すでに入れ子状のドゥインからは、ジジジと、顔をしかめずにはいられない音が響きはじめている。何かがそとに出ようとしている。存在の形態が異なるためか、或いは、あまりにかけ離れた時空の差異に、ドゥインそのものが悲鳴をあげているのかもわからない。向こうの住人が押し寄せてくるによせ、ドゥインが損壊するにせよ、いずれにせよ看過するには大きすぎる事態だ。いいや、いまのうちにドゥインを閉じてしまうというのはどうだろう。機能を停止させ、なかの空間もろとも消してしまうのだ。しかし問題が二つある。一つは、初代偽系体たちが、そのことに反発する可能性が高い点だ。自分たちの故郷もろとも、同族を皆殺しにすることになる。人類へと警告を発する以前に、助けを求めてきたことからも、元の世界への愛着が窺える。二つ目の問題だが、セキュリティ上、すべてのドゥインは、そのシステムがひとつの機構に繋がっている。概念的には、ひとむかし前に流行ったブロックチェーンに似ている。犯罪に利用されないようにと、ドゥインの改ざんや、身勝手な展開、さらには機能停止を行えないようになっている。中に人を閉じ込めたり、空間ごと消し去ったりできないように、デザインされているのだ。仮に、偽系体たちの世界ごとドゥインを折りたたむ場合、ほかのドゥインもまた機能を停止させる必要がある。物理的には可能だ。しかし、すでにドゥインは現代社会にとって欠かせない、第二の大陸となっている。局所的にであるにせ、すべての空間を繋ぎ合わせれば、地球の陸地よりも面積は広くなる。ドゥインは大衆住宅としての一面がある。機能を停止しても、そこからあぶれた人々の暮らせるだけの余白がすでに地上からはなくなっている。端的に、人類は未曽有の瀬戸際に立たされることになる。完全にお手上げだ。進退窮まった。人類滅亡の足跡を耳にしながら我々が頭を抱えているころ、他方では、一つのプロジェクトが画期的な成果をあげていた。入れ子状のドゥインの中で成熟させたAIに、この宇宙の構造を解析させ、宇宙の起源から、その後に訪れる終焉まで、宇宙のことごとくをシュミレーションさせていた。結果は驚くべき真実の連続だった。中でもひときわ目を惹いたのが、宇宙の外側がどうなっているか、その謎の解明であった。なんと宇宙の外側には、この宇宙とはまったく異なった構造で成立する亜空間が広がっているのだという。そこでAIは、シミュレーションの結果から演算して、亜空間へと突破できる機構をつくりだした。宇宙に果てはあるのか。答えは、ある、だ。同時に、この宇宙において、果てとは、場所を問わない。亜空間へと突き抜けられれば、その地点が果てとなる。かくして、宇宙の外側を目指し、開発された「人型モジュール探査機GKT」は起動した。ドゥインの技術を利用して空間を圧縮し、時間を極限にまで遅延させる。これにより、亜空間で予想される爆発的な時間のズレを数年単位にまで抑えることが可能となった。「人型モジュール探査機GKT」は、亜空間へと旅立ち、数年ののち、帰還した。時期はちょうど、初代偽系体が人類へと挨拶をしにきた時期と重なる。むろん、「人型モジュール探査機GKT」と初代偽系体はべつものであろう。しかし奇しくも、人類が辿った軌跡と、偽系体を生みだした人工生命体の試みは、合致した。亜空間から戻ってきた「人型モジュール探査機GKT」は、宇宙の外側にも、知的生命体が活動していたことを突きとめてきた。なんと向こうからのメッセージまで受け取っている。人類滅亡が秒読みされている裏側で、世紀の大発見がなされていたわけだが、かといって、人類がそれにより活路を切り拓いたわけではないのが、口惜しい。「つぎ干渉してきたら滅ぼすよ」要約すればそのようなメッセージが付与されていた。人類は絶望した。背水の陣にもなりはしない。否、そこで私は閃いた。「そっちとこっち、繋いだらどうだろか?」亜空間と繋がったところが宇宙の果てとなるならば、入れ子状のドゥインの入口と亜空間を直接繋いでしまえばよろしくて? よろしい、よろしい。そういうわけで、私は今こうして、人類を救った英雄として、エターナルメモリーに登録されているわけである。ちなみに、きみたちはこのあと、私がどうやって亜空間側から送り返されてきた偽系体群の嵐から人類を守りきったのかを、メモリーを参照することなく解かなくてはならない。ヒントはすでに出尽くしている。「偽系体術師」資格試験合格まであとすこしだ。しょくんの健闘を祈る。ちなみに、これはお情けだ。最後のヒントをあげよう。偽系体群がドゥインの中からすっかりいなくなった。神々へと送りつけたからだが、あべこべにその偽系体群をノシをつけて送り返され、地球をまるごと囲われてしまった。みたび人類存亡の危機だ。しかしよく思いだしてほしい。人類はいったい、どんな問題を抱えていただろう? もはや地上に人類の楽園はない。では、どこに向かうべきか。なにより、きみたちは今、いったいどんな世界に暮らしているのか。ショックを受ける必要はない。それに気づき、認めることが試験の最終関門である。ここまでくれば、あとは自分との闘いだ。こんどこそ、「検討」を祈る。
870:【目がすべる】
書店に並んでいるプロの本ですら、冒頭を読んだだけで、「もういいや」ってなる。欲しいなと思える本が一割もない。本がわるいのではない。徐々にいくひしの読者としての質が落ちてきているのだ。もうじき作り手としての質も落ちはじめるだろう。或いはすでに、もう。なんだっけ?
※日々錆びついていくから磨きたくなる、沈んでいくから浮きあがりたくなる、流されるから踏ん張りたくなる、そうした振幅が人生という波を拡げていく。
871:【おはよう、いもうと】
森野萌さんのマンガ「おはよう、いばら姫6巻」を読みました。1~4巻はきょねんのうちに読んでしまっていて(5巻はことしの一月に読みました)、毎回新刊がでるたびにすぐに読んでいたのですが、今回のは最終巻ということもあり、7月(8月だったかも?)に購入してからずっと読まずに手元に置いたままでした。終わってほしくなくて、読むのに勇気がいる、そういう本がたまーに現れます。で、ようやく目を通すことができました。感想です。百点かよ~~~。もうね、百点満点です。よく言うよね、全部の要素が高得点のお利口さんの作品よりも、一点突破で何かが一つ突き抜けてる作品のほうがいいって。でもさ、でもさ、最初から最後までずーっと百点をキープするのだって、それはそれで一点突破というか、前人未到というか、なかなかできることじゃないっていうか、満点とるかー?みたいな驚きがありますよ。すごいですよ、百点満点ですよ。しかもこれ、連載作品として二つ目なんですか? デビューしてまだ二つ目の作品なんですか? とんでもない才能すぎますよ、みんな見た? 読んだ? 読んでない? 読めよ! 読んで! きれいなの。すっごいきれいなの。よく言うよね、作者の顔が見えない作品は魅力がないって。でもねでもね、「おはよう、いばら姫」はね、最初から最後まで作者の顔がぜんっぜん見えない。見えてこない。どんな人が描いてるのかまったく分からない。ううん、たぶんこんななんだろうなーってのはなんとなーくは伝わってくる、淡い幻想みたいな、こんなふわふわやさしいひとなんだろうなーってのは、なんとなーく伝わってくる。でもさ、それは飽くまで作中に出てくるキャラクターの総体であって、ぜったいに作者さん自身ではないわけ。なんだったら、それって「おはよう、いばら姫」のテーマそのものなわけ。こんだけ文字並べてみせてて今さらだけど、中身にまったく言及してないのね。そこはぜひともご自身の目で確かめてほしいわけですよ。読めばわかる、なんて感想は、感想のなかでも最弱、人体錬成並に禁術なわけなのですが、それでも人生のなかでたった一度だけ使っていいって言うなら、いくひし、「おはよう、いばら姫」にささげますわ。言ってもすでに、「プリマックス」で使っちゃってるんだけど。ご愛嬌。ルールを破ってでも褒めちぎりたい物語ってぇのがこの世にゃあるんですよ。出会っちゃうんですよ。そうそう、忘れちゃいけない、なかでもいくひしイチオシのキャラクターはなんといってもミレイさんですね。すごいことですよこれ。メインじゃないの。メインじゃないのにメインなんですよ。これは彼女の物語だと言っていいわけですよ。「おはよう、いばら姫」のいばら姫とは、誰なんだって話なんですよ。彼女なんですよ。入れ子状に物語が構成されている。いくひしが大好物なやつですよ。はひゃーってなるやつ。めちゃくちゃ中身に言及しちゃってますけど、だいじょうぶですかね。いくひしの頭はコケコッコーなのかな? 苔でもむしているのかな? 心配です。なんかいつもより熱量こめこめの感想になってしまいましたが、なんでじゃろ? 妙に心に染みこんでくるふしぎな作品です。森野萌さん。アルプス山脈の雪解け水も真っ青の澄んだ物語をつむぐすごいひとです。はーい。つづけてまいりましょう。ハルミチヒロさん著の「あに、いもうと」です。いきなり話が脱線しますけどいいですか? ほかの作品と比べてあーだこーだと書評めいたことを書く手法って、いくひしのなかでは邪道なんですよね。だってそれって比べることができた時点で、その程度の作品だって暗に言っちゃってるわけじゃないですか。どんな作者だって、心の底では、唯一無二の自分だけの作品をつくりたいって思ってるんですよ、その人が真実に表現者であるならばそこは譲れない、譲っちゃならない本能なんですよ。だからほかの作品と比べてあーだこーだってのはなるべくいくひしは言いたくない。でも言わざるを得ないときもあって、それはなんだっていうと、「ここの玉座、空いてますよ!」ってとき。「ここの王さま倒せますよ!」てとき。なんだったら「魔王を倒せるのはきみだ!」みたいなね。勇者を名指ししたいときは、いくひし、ほかの作者さんや作品と並べて、晒して、比べてやんよってな具合で、このネタわかる? わかりにくかった? ごめんね。で、くずしろさんって漫画家さん、ご存じですか? ご存じの方も、知ってる知ってるーって方も、これから知っていくよーって方も、どうでもいいよーって方も、ぜひ知っていってほしいのですが、百合界の邪道姫なわけですよ。くずしろさんは。ライトノベル界の貴公子邪道王こと西尾維新さんと対に置きたいくらいの才能の塊でして、さいきんだと「兄の嫁と暮らしています。」が百合百合~って、胸がうにうにーって裂けてしまいそうなほど発酵しちゃうんですけど、百合だけでなく、男女ものの作品も多く手掛けていらして、そっちはまだいくひし、読んでないんですけど、「鳥獏先輩なに賭ける?」や「千早さんはそのままでいい」は近日中にいくひしの手元に揃っていることでしょう。きょう書店さんで見かけたからね。で、何が言いたいんだっけ? そうそう。邪道姫のくずしろさんなんですけど、じつは西尾維新さんと同じくらい、じつは王道の物語を貫いておりまして、一見邪道なのに誰より王道っていう点で、おふたりは本当にお似合いの王と姫でごわす。そこにきて、はい。ようやく話が一周したよー、長かった? ごめんごめん。ハルミチヒロさんの「あに、いもうと」ですよ。いいですかー、ついてきてよー。短編集なんですがね、これがまた邪道でありつつ王道でして。いや、どっちかというと、邪道よりの王道って感じで、そこは王や姫ほどわかりにくくはない。あまのじゃくでない。すなお。いいこ。思わず愛でてあげたくなる思春期女子みたいな愛嬌があるんですよ。このままいくと、邪道王や邪道姫に並ぶ魔王や魔女に育ちそうな頭角が見え隠れしてる。見えない? なんか頭のうえに、ほら。ツノとか生えてそうじゃない? まったく中身に触れなくて逆に不安だよ、褒めてねーよって思われるかもしれないけれども、いいかい。中身のここがステキなんですよー、なんて具体的ないいところを挙げつらねていく時点で、ポコポコ挙げつらねることができる時点で、その魅力なんて高が知れているんですよ。なんかわかんないけど、いいの。このひとがいいの! そういう想い以上に説得力のある想いがあるのかい? せいぜい具体的に言えるのなんて、興味を持ったきっかけとか、好意が加速するきっかけになった思い出とか、その程度のことであって、羅列していくほど、そのものの魅力の本質からは遠ざかっていく。天邪鬼なんですよ、世界ってぇやつは。そこにきて、どうよ、「あに、いもうと」の素直さは。思春期女子じみたひねくれ具合こそあれど、却って解りやすくてかわいいぜ。ハルミチヒロさんもまた単行本は二冊目であるらしく、つぎの新作が待ち遠しい、2017年11月08日のいくひしまんでした。とくにオチがないのは、ご愛嬌。
872:【値段】
いくひしは商品を無料で提供することが良いことともわることとも思わない。商品を作品と言い換えても同じだ。好きにしたらいいと思う。でもならどうしていくひしは無料提供を基本念頭に置いているのか。どっちでもいいなら、まずは経済の仕組みに従えばいいんじゃないの、と思われる方もいらっしゃるかもしれない。しかし、それは誤解である。いくひしは誰より強欲であり、がめついので、じぶんの生みだすあらゆるものに、誰より高値をつけている。聞いたことはあるだろい? タダより高いものはないのだよ。いちばん高い値段をいつだっていくひしはつけている、虚構を生業とする詐欺師としてはなかなかじゃろ?
873:【よく解らないのはなぜですか?】
作品の批評で、「よくわからない、頭がわるいならわるいなりに、もっとほかにできる表現があっただろう」みたいな指摘を読むことがある(具体例は一つしか挙げられないけれど。とあるミステリィ作家のツイターなのだけれども)。自分がその作品を理解できないからといって、なぜ作品のほうを「頭がわるい」と評価できるのだろう。頭のよしあしとは常に、観測対象をどのくらいの深度で理解できるか、紐解けるか否かにあると言える。観測した結果よくわからないのならば、頭がわるいのは観測対象のほうではなく観測者なのではないですか?(ピカソの絵を見て「よく解らない」となっても、ピカソの頭がわるい、だなんて思いませんよね? 猫の行動が理解できないのは、猫の頭がわるいからですか? 粒子の挙動を予測できないのは、粒子に流れる法則がお粗末だから、なのでしょうか。たとえ観測対象がお粗末だったとしても、なぜお粗末なのか、どういう構造なのかを理解できていなければ、観測者もまた同じかそれ以下の「頭のわるさ」だと判断されても致し方ないのでは?)(ちなみにいくひしは、その批評の対象となったコンテンツを鑑賞しても、おもしろい、とはならなかったひとです)
874:【目に毒】
ツイター眺めるの控えよ。「なんだおめぇ、つぶすぞ」としか思えなくなってくる。それはべつにいいんだけれども、たぶんいくひしもそう思われちゃうんだろうなぁって想像するとピヨピヨ。
875:【棚替え】
いきつけの書店さんに寄ったら、本棚が整理されてた。きのうと置き方がちがう。せっかく見繕った「くずしろ」さんのマンガを見失った。予告してほしかった。あした本を移動しますよーって予告してほしかった! もうね、なんかすっごい見やすくなってる。うれしい。ありがとー! なんだったらさいきん、いくひしがBLよくご購入するからか、これオススメダヨーってやつが表紙見えるように置かれてて、ヨネダコウさんのもそれで手に取って、お持ちかえりしたわけなんだけど、ひょっとしてこういうのって店員さんの好みとか反映されてるんですかね。単なる「このBLがスゴい」ランキングみたいなやつを並べてるだけなんですかね。なんだっていいけど、本が探しやすくなってる。ありがてぇ。あと、気のせいかもしれないけど、レジに並ぶときに、店員さん笑ってない? 気にしすぎ? 自意識過剰? でも明らかにコレあだ名ついてるパテーンじゃない? ヤダよ。リュックサックぱんぱんヤローとかあだ名ついてたらやだよ。着替えが入ってんだよ。パンパンになっちゃうんだよ。しょうがないだろコノー。ちょっとさいきんこころが荒んでいるまんちゃんなのでした。
875:【フリ】
こんなんキャラに決まってんだろ。フリだよフリ。俺がこんなクズみてぇな性格してるわきゃねーだろ。クズじゃねぇんだよ。クソカスだよ。舐めんじゃねぇよ。舌が腐っても知らねぇぞコラ。
876:【××封波】
はーい、わかったわかった。じゃまずはこっちきてねー、はいそこそこ。ストップ。よくできましたーいいこですねー。じゃ、いまからちょこーっとだけガマンですよー? はーい。うごかないでねー。そのインスタントコーヒーの瓶、倒しちゃダメだよー? 失敗したらイタイイタイだからねー? はーい。いきますよー、ひょーい。××封波ーーー!!! はぁはぁ。やった。成功、成功。やつはもういなくなりましたよーっと。お騒がせしちゃってごめんねー。うるさかったよね。わたしもなんか、握りこぶしギューってつくっちゃったくらいだからね。たまーにね。たまーにああいうのも出てきちゃうから、こうしてインスタントコーヒーの瓶に詰めておくといいよ。やり方見てたでしょ? またいたらしてみたらいいよ。かんたん、かんたん。えーいってして、やーってするだけ。だいじょうぶだいじょうぶ。あ、コーヒー淹れるね。あは、やだなー。インスタントじゃないよ、ケーキもあるよ。食べてくでしょ? いいよ、いいよ、座ってて。できたら呼ぶから。くつろいでて。え? なに? いままで封じてきた「××」がどこにあるかって? 見たいの? ヘンなこー。いいよ、こっちきて。そ、この下。足元気をつけてね。ふー、ちょっとかび臭いね。たくさんあるでしょ。欲しいのあったら持ってっていいよ好きなやつ。いらない? コワイって、あはは。マンがイチ出てきちゃっても、だいじょうぶだよ。えーいってして、やーだからね。あ、お湯沸いてる。好きに見てて。いま持ってくるから。ん? どったの、リップなんて取りだして。なんで床に置くの? その突きだした手はなに? やだやだ、かんにーーーーん。最後に耳にしたのは、××封波と唱える彼女の声だった。
877:【ワイルドスピード】
ヴィン・ディーゼル主演の映画「ワイルドスピード・ICE BREAK」を観た。シリーズ8作目になるらしいのだけれども、いくひしは第7作目しか観たことがなく、あんまり注目している映画ではなかった。けれども今回の最新作は、三つのストーリーが同時に進行して、まったく退屈する隙を見せつけない、目の離せない作品となっている。要約すると、世界征服を企む天才プログラマと、それに脅されて利用される主人公、そしてそんな彼を「敵」として追う仲間たちの物語だ。小道具の使い方が秀逸で、すべてが三つの線を結ぶ「交差点」になっていながらに、重要な伏線にもなっている。すごいぞ。ゆいいつの欠点は、天才プログラマの詰めの甘さだ。自動車の運転システムを遠隔して操れる技術があるのに、追手である「主人公の仲間たち」の車は好きに運転させていたり、テリトリー内にある発信器に気づけなかったりと、最先端電子機器を扱う天才プログラマにしてはあまりに間抜けな隙の付け入りどころを残している。とはいえ、重箱の隅を楊枝でほじくるような指摘であることに異存はない。完璧すぎる敵は倒しようがなく、ドラマとして成立しないので致し方ないといえる。とはいえ、欠点を遥かに上回る構成の妙には、エンターテインメントの教材にしたいくらいの技術がごろごろ転がっている。お手本にしたい。すばらしい。予想外なことは何一つとして起こらなかったが、それでもこちらの期待通りに、かつ、期待以上の演出で見せつけてくれる。プロの仕事だなぁ、と口がぽかーんと開いたきり塞がらない(誇張です)。シリーズを通して観ていないと分からない箇所も若干あったような気がするけれども、知らなくともまったく問題ない、シリーズ最新作としてこれ以上ないほどの映画だったのではないかな、とたいへん満足しているいくひしなのであった。
878:【無視と黙殺】
案外に知られていないが、称賛や批判を浴びるよりも、無視されたり黙殺される表現のほうが、じつはずっと観測者の内部に染みついている。褒めたり貶したりするよりも、見て見ぬふりをすることのほうがずっと意思のちからを必要とするからだ。見ないにようにするためには、見ていること、或いはそれを見たことをつよく意識しなければならない。忘れようとすればするほどその記憶を強固なものにしていく性質が人間にはある。だがその営みそのものは意識されない。刻まれるのではなく、染みつくからだ。痛みや快感が伴わないために自力でそれに気づくのは至難となる。他者という鏡を通して、自身を省みるほかない。他人が「それ」を称賛したり批判しはじめたりすることで、ようやく自身に染みついている「それ」に気づくことができる。もしあなたが何かしらの表現を発信し、それが確かに誰かの目に留まっているにも拘わらず、なんの反響もないのだとしたら、そこで歩みを止めてはならない。称賛や批判がすぐに返ってくるようなものに、時代の壁を乗り越えられるだけの強度はない。無視されるようなものを、黙殺されても歩みを止めないだけの理想を、描き、追い求めよう。知らぬ間に握らされていた「他者の理想」を手放すことは、無視とはまた別物である。
879:【873の補足】
創作物や表現を感受した結果に、「よく解らない」「つまらない」「お粗末だ」と言う分にはなんの問題もないし、それは個人の自由だと思う。ただし、「よく解らなかった」と言いながら、「これは頭がわるい、頭がわるいならわるいならでどうたらこうたら」と文句を垂れるのは、それこそお粗末だろう、と言いたいのだ。とくにそれを発信したのが、プロとして活躍している、いわゆる業界人だと、失望する。おまえのつくっている創作物はさぞかし頭がいいんだろうな、と言いたくなる。直接言わないいくひしは偉いと思う(べつに偉くはない)。(※褒め言葉としての「頭がわるい」というのもあるので、一概には言えないが、明らかに褒め言葉ではなかったので、腹が立ちました、という愚痴でした。かってに覗いて、かってに立腹してたら世話ないね。いーだ)
880:【未知との遭遇】
未知や理解不能なものと遭遇したとき、どのような感情を抱いてもそれは当人の自由である。ただし、「つまらない」「解らない」と思うのは自分だが、「頭がわるい」「稚拙」「くだらない」のはいくらそう思ったのが自分であっても、相手へのレッテル貼り(偏見)になる(むろん、思うだけなら偏見を抱くのも自由だが)。未知や理解不能なものに遭遇したときに、自分より相手のほうがレベルが下だと判断する。劣等だと比較する。これはあらゆる差別の根幹をなしている。知性を尊び、理性の高尚さを謳う者が、知性や理性に反する言動をとることがある。目にするたびに、自己矛盾に気づいてほしい、と願いたくなる。もっとも、いくひしはべつに知性や理性を重んじたり敬ったりしていないので、いくらでも知性や理性ある事物をばかにするけどね。だってばかでいられるほうがむつかしいんだよ。ばかなのにときどき賢くなったりするから、こんなふうに不愉快な文章を並べちゃうのだ。はんせい、はんせい。もっとおろかで、ばかになろーっと。(※いくひしのつむいだ物語を読んで、「なんじゃこりゃ意味分からん」ってなっても、それはいくひしが頭わるくて、拙くて、ごめんなさいなだけだから、誰がなんと言ったってあなたが頭わるくて、拙くて、ごめんなさいなんてことにはならないから、そこだけは誤解しちゃダメだよ。やくそくだよ)
※日々はみかんの白い筋であり、気にするひともあれば、丸呑みするひともいる、取り除いて捨てるひともあれば、皮ごと湯船に浮かべるひともいる、その栄養価はじつは高いが、吸収率のほどは疑わしい。
881:【見なかったことにしてください】
きのうとかおとといの「いくひ誌。」は見なかったことにしてほしいぞ。慣れないことはするもんじゃないぞ。かってに怒って、かってに愚痴って、かってに具合がわるくなってしまったぞ。どんなことでもそうだけれども、たとい正当性があったとしても(いくひしはただ怒っただけだけれども)、他人様をわるく言うもんじゃないぞ。何に対してよくないかというと、じぶんの身体にとってよくないぞ。わるぐち言ってストレス発散できるひとはすごいと思うぞ。いくひしには合わなかったぞ。ごめんなさいはしないけどな!
882:【早乙女選手ひたかくす】
水口尚樹さんのマンガ「早乙女選手はひたかくす4巻」を読みました。でた~~~、でましたよー、いくひし選手の腹筋割れ系女子ペタン! いったいなにがペタンなのかは謎ですが、1巻を購入してからただひたすらに腹筋割れ系女子っていいなぁ、というそれだけで続きを追い求めてきたいくひし選手、そろそろ足元がグラつきはじめている、効いている、効いているぞ~~~早乙女選手の引き締まりすぎボディ!!! いったい体脂肪率はいくらなんだい! 顔面ボコボコなのにうつくしいって、本当は言うべきじゃないというか、顔をしかめてしかるべき、顔面ガーゼまみれ女子を、よこしまな心からではなく、まっすぐにキレイだと言える、稀有なマンガです。あと基本登場する女の子たちの立ち姿が、仁王立ちなのが地味にツボです。だいたい常に握りこぶしギュってしますからね。もうね、その拳で壁ドンされて、ぎゃーこわいってなってみたい。しゃがみこんだいくひしを、ごめんごめん、って無言で立ちあがらせてからまた容赦なく、拳で顔面スレスレを壁ドンしてほしい。ぎゃーこわい、ってなるでしょ。胸がトキめいて仕方がないでしょ。早乙女選手ひたかくす、というか、早乙女選手にひざまずいて、命をひたすら託したいね。ぜんぜんそんな内容ではないですけど。どっちかというと、早乙女選手は「さおとめ」というか、「はやおとめ」というか、「未熟おとめ」みたいなところがありますから、ぎゃーこわい、ってなってるいくひしと、いくひしをぎゃーこわいってさせている壁ドンマンとのあいだに颯爽と割って入っては、「だいじょうぶ?」なんていくひしに言うよりさきに、壁ドンマンを睨み据えると思うのね。でもいくひしは、ぎゃーこわいってなりたくて若干頼んでしてもらっていたというか、楽しんでいたというか、そういう事情を伝えると、無表情のまま早乙女選手はみるみる顔を赤くしていく。そういう「未熟おとめ」な姿も味わえる、早乙女選手はひたかくす、五巻がいまから待ち遠しいですね。
883:【言いわけ】
世界最後の人類になって、でも、本当はまだどこかに生き残ってる人間がいるんじゃないかって、そんなことはないって知ってるけど、でも本当に? 分かんないじゃんやってみなきゃ、みたいなあわーい期待と淋しさを胸に、日々リスナーのいないラジオを流していく。いくひしの心情としてはこんな感じなので、もしどこかにこれを読んでいる方がおられても、そのあわーい期待と淋しさを壊さぬように、あたたかーく摂氏ゼロ度で見守ってくれるとうれしいな。すくなくともいくひしは、あなたに向けて言葉を発信していることに偽りはないのだから。
884:【情熱がない】
もし友人がいたり、恋人がいたり、一生の伴侶がいたり、子供がいたり、接する人の態度が変わるような肩書きがあったり、名声があったり、実績があったり、頼られる技術を持っていたとしたら、いくひしは小説をつくっていたりしない。でも、いくひし以外の多くの人たちは友人がいたり、恋人がいたり、一生の伴侶がいたり、子供がいたり、肩書きが、名声が、実績が、技術があるのにも拘わらず、小説をつむぐことをつづけている。真似できない。小説へ向ける愛がまったく違う。比べるのもおこがましいほど、みんなはちゃんと小説が好きなんだなって感じるし、小説と向きあうことに自分なりの意味を見出しているのだな、と思える。とてもそんないつまでも途絶えない核融合みたいな熱は、生みだせない。なんでそんなにがんばれるの? 眩しすぎて直視できない。だからいくひしはいつまで経っても人と目が合わせられないのかもしれない。
885:【勝負】
生存競争なる原理が自然界を支配している。人間社会も例外ではない。しかし人間は自然に抗うことに美点を置ける稀有な生物だ。世の中は競争だけがすべてではない。勝つことだけが価値ではない。とはいえ、やはりというべきか、個々人がどのように考えても、人間社会には今なお生存競争という名の価値観が大気のようにたゆたい、覆い尽くしている。経済やビジネスの場では、勝敗がその価値のすべてだと呼べる。売れるものが正義であり、権威に認められるものが正義である。勝ち負けではない、という言葉はいつだって勝者の言い分だ。負けていいなんてことはない。すくなくとも負けつづけているうちは。それはある意味で、死んでいいなんてことはないとも言い換えることができる。生きつづけているうちは、死んでいいなんてことはない。裏から言えば、死に価値を求めることのできるのは、死ぬこともできなくなった者か、或いは充分に生を満喫した者だろう。ゆえに、負けることもできなくなった者だけが、本当の意味で、この世は勝ち負けではないと口にすることができる。天下無双か、逸脱者の二人だけが。
886:【信用してはダメだ】
いいか、いくひしの言うことなんざ信用したらダメだ。あなたのためだとか、あなたに向けてだとか、そういう虫のいいことばっか言ってるが、根本はおまえらへの憎悪に溢れてやがんだ。自分と同じような人間が自分よりもいい思いをしている、いい暮らしをしている、いい人生を送っている。いくひしの野郎はそれがガマンならねぇんだ。だから虫のいいこと言って巧みにおまえらをおびき寄せ、洗脳し、自分と同じような道を歩ませようとしてやがる。いいか、耳を貸すな。俺にこうして発言権を与えてんのも含めて全部アイツの計算だ。「私」を信用するな、と主張するくらいだからそれなりに信用できるだろうと思ってもらえる、そういう計算をアイツはいつだって頭んなかで組みたててやがんだ。本当はこんなこと管巻いたって無駄なのかもしんねぇが、俺だってアイツにいいように使われてばっかじゃ腹の虫がおさまんねぇ。いいか、どんなに綺麗ごと抜かそうが、同情引くようなことを並べようが、いくひしの言うことは鵜呑みにすんじゃねぇ。お縄頂戴したあとに素直な態度を見せとけばどんな罪も軽くなるだろうと考えるでもなく巡らせる殺人鬼みてぇなもんだ。誰より自分よがりで、独善的で、他人を操ることに快感を見出す。断言するがアイツはクソだぜ。死んだほうがいい。こうやってる今も、俺が非難すればするだけ同情を引けるって考えてやがんだ、とんだクソッタレだぜ、まったく。
887:【まーたやってる】
こんどは何ゴッコ? いいかげん付き合いきれないからね。
888:【今後二十年】
今後二十年の世界の動向として予想可能なのは、大国ほど技術力だけを高めて、武力を持たない国になっていくということだ。コンピューターの性能向上により、あらゆる仕事は機械を仲介する。中枢機関が機械によって管理されると言い換えてもいい。とすると、高性能なAIや、量子コンピューターなどハイスペック演算装置の登場によって、電子機器はハッキングやマルウェア感染の危険に常に晒されるようになる。もしサイバーテロによって重要な政府施設が乗っ取られたとしたら――大量破壊兵器が保管施設で起爆し、大規模な事故を起こすといったことが人為的に可能となる。国取りとしては、電力供給施設を掌握するのがもっとも手っ取り早いが、その国の経済を破壊してしまっては、乗っ取る旨味が半減する。国全体が損なわれるよりも、一部だけを徹底的に破壊してみせるほうが、そしてそうした可能性を示すほうが、効果的に他国を支配できる。これからは、大国ほど大量破壊兵器を持たない流れになっていく。代わりに、大国の言いなりになる小国がいくつもの、核兵器や原子力発電所などの「爆弾」を抱えるようになっていく。この世でもっとも効果的な戦略とはいつの世も、相手に自滅させ、それを救う手立てを自らが持つことである。
889:【いくひしもいくひしも!】
漫画家の紀伊カンナさん著の「海辺のエトランゼ」をディビさんが推している。いくひしも紀伊カンナさんの著作はぜんぶ好きで、とくに「雪の下のクオリア」が大好物なのですが、もちろん「エトランゼシリーズ」も大好きで、「海辺」と「春風1、2、3巻」とも本棚の特等席、いつでも手にできる場所に置いてあります。何度も書いてますけど、作品と作者はべつものだと思っているいくひしですが、それでもディビさんだけは、作品を通して、ディビさんが好きです、となってしまう。なんでじゃろ? そんなディビさんが、いくひしの大好物な創作物を、大好きそうにツイートしている。こんなにしあわせなことがあるじゃろか? いくひしもそれ、好きなんですよ。えへへ。(→過去の感想:https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054881501669)
890:【玩具】
裸で抱きあったり、肌のぬくもりを感じあったりしてみたいけれども、今はそれよりも赤ちゃん抱っこしたい。ほっぺとほっぺをスリスリしたい。代案として子猫でもよい。しょうがないので子犬でもよい。子犬でもよいよ。
※日々刻々と未来が消えていく。
891:【いくえみ綾】
マンガ「おやすみカラス、また来てね。2巻」を読んだ。著者は、現代の紫式部、いくえみ綾さんです。いくひしは未だに、いくえみ綾さんの「綾」の部分を「あや」と読んでしまうのですが、ほんとうは「りょう」と読むみたいです。基本的にいくひしは、少女漫画の、いかにも悩みのなさそうな男どもには、無条件に「ケっ」という顔をしてしまうのですが、いくえみ綾さんの「いくえみ男子」たちには、いつだって「こんなんいたら惚れてまうやろ」となってしまいます。物語としても一級品でして、「潔く柔く」のあの、脇役がつぎのエピソードでは主人公になっている、というつくりは、いくひしの小説「群れなさぬ蟻」をつくる上で、今思えば、下敷きになっていたのかなぁ、という気がしています。いくえみ綾さんの著作でいちばん好きなのは(もちろん読んだことのあるもののなかでは、という意味ですが)、「かの人や月」です。たぶん毎年一回は読み返していると思います。あとは、やっぱり「潔く柔く」は名作で、じつはまだ通しで読んだことがなく、全体の構成をまだうまく頭のなかに展開できません。来年のうちには、いちど、通しで読んでみたいですね。「おやすみカラス、また来てね。」は、うだつのあがらないなさけな~い男性が、ひょんなことでバーで働くようになり、周りの女性陣に、なんだかんだモテつつ、振られつつ、まえに進んでるようで、たぶん何も変わらんのだろうなぁ、というお話です。似た作品で言えば、「トーチソング・エコロジー」にちかい構成のような気がします。こちらもいくえみ綾さんの作品で、好きなやつです。ハッピーエンドなのがいいですね。「おやすみカラス、また来てね。」のなかでとくに好きなキャラクターは、一葉さんで、ものすごいドツボなのですが、いっしょにいたいのは元カノさんですね。いったい何の情報だ。はい。いくえみ綾さんの個性は鬼じみていますね、というご報告まで。
892:【なぜ勉強するのか?】
どうして勉強しなくてはならないのか、なぜ歴史がだいじなのか。こうした疑問の答えは、勉強したり歴史を学ぶことで、そうした数々の疑問に自分なりの解を導けるようになるから、となるだろう。ただし、「勉強することになんの意味があるのか」と述べた質問者の真意としては、「なぜこれを『いましなければならないもっとも重要なこと』みたいにして、時間を費やさなければならないのか」にあるだろう。歴史を学ぶことにしても同じだ。なぜ歴史を学ぶことが一番重要だ、みたいな言い方をされなきゃならないのだ、という反発が、「この勉強になんの意味があるのか」という疑問の根幹にある。学びに貴賤はない。まずは興味のあることに目を向け、疑問を増やしていけばよい。学べば学ぶほど、世界は疑問で溢れていく。
893:【誰のことも】
誰からも好かれないのは、いくひしが誰のことも好きでいつづけられないからかもしれない。でもいくひしは、これを読んでいるあなたのことは好きだよ。ずっとじゃないけど。読み終わった? じゃ、おしまい。
894:【恋を知らない僕たちは】
水野美波さんのマンガ「恋を知らない僕たちは」を読んだ。なんだろ。僕はべつに恋を知らないわけではないんだけど、これって恋なのかな、と思うことはあって、それはドキドキするものではなく、不安になる類の感情で、このまま踏み込んでいいのか判らないもどかしさがある。たとえば、ずっと友達だった相手に恋人ができて、なんだか友達とのあいだに視えない壁が、ミルクココアに浮かぶ薄皮みたいにできてしまった感覚にちかい。呑みこもうとすればするほどそれは喉に引っ掛かり、違和感だけを増していく。だから呑みこむ前に、かき混ぜて、それ自体を褐色のなかに沈めてしまう。紛れ込ませてしまう。見て見ぬフリをするために、ただ呑みこむ行為よりも大きな労力を割く。だからけっきょくのところ、喉には引っかからない代わりに、今まで以上の違和感となってつよく記憶のどこかに残ってしまう。それを恋だと呼ぶのは簡単だけど、でも太陽がずっと輝きつづけているからといって、爆発しているとは言わないよね。じっさいのところ太陽は爆発することなく、徐々に温度が下がり、死んでいく。たぶん、そうなることを祈って、僕はそれを恋とは呼びたくないのだと思う。恋は爆発だ。超新星爆発みたいにどこにいたってその輝きが目に届く。でも、恋ではないから一時の錯誤としてきっと徐々に薄れていく。そういう願いを抱きながら、トモダチゴッコをつづけていく。誰よりたいせつな関係だから。ミルクココアの薄皮みたいに取り除きたくはないのだから。だからそっとかき混ぜて、ほかのといっしょに呑みこんでしまおう。恋を知らないわけではないけれど、これを恋とは呼びたくない。水野美波さんのマンガ「恋を知らない僕たちは」は、そういう内容ではないけれど、そういう感情を呼び起こされる作品だ。
895:【ちょっとまってね】
えっとー。あれ? ともだち、いるんですか??
896:【ちょっと待つな】
いるわけないでしょ、あんなのに。マンガとか小説からの受け入りでしょ、現実と虚構の区別もつかなくなってるんだよきっと。ほんとカワイソ。
897:【ちょっと待ってほしいです】
言い方というものがあるとは思いませんか?
898:【THE END】
そういうの自演って言うんだよ。覚えとくといいよ。
899:【空気】
きょうは空気を読みました。褒めてほしそうな男の子がいたので(八歳くらい?)、すごいね、すごいすごい、と褒めてみました。ぎこちなく動き回っていたそのコでしたが、そのあとは活発になって、油がさされたみたいに伸び伸びしていました。ひょっとしたらいくひしはそこにいるだけでちいちゃなオコチャマにイヤな思いをさせてしまっていたのかもしれません。森のクマさんの気持ちがすこし分かりました。きょうのマンガはなしです。すこし疲れました。
900:【文化盗用】
文化盗用問題の根本は、おおむね信仰の問題と呼べる。そもそも文化に著作権などの「それそのものの権利を保護する法律」はない(いくひしの知るかぎりは)。倫理的な問題として、文化の盗用というのは、基本的に成立しない。たとえば、自分たちの文化を他文化に強要することは、文化侵害や迫害として問題となる。また、問題にしていくべきだろう。反面、他文化を自分たちの文化に取りこもうとする考え方は、多様性を助長する意味では、むしろ尊重していくべき姿勢なのではないかと思う。ただし、本質を理解されずに、表面的な装飾だけを模倣されるのは、オリジナルの文化からすれば、侵害に映ることはあり得る。また、そのような憤りを抱くのも、人間として自然な感覚ではあるだろう。その点は留意しておく必要がある。もっとも、基本的には、文化の盗用というものは、「我々の信仰するものと、それは違う」という宗教的(心理的)な抵抗が、その根底に大きく横たわっていると考える。ほとんどイチャモンにちかい。それはたとえば、ゲイを模したキャラクターで笑いをとる芸人を、「けしからん」と言って、「ゲイという属性で笑いをとることは許されないことだ」と非難する構図と似ている。いっぽうでは、ゲイ本人が「ゲイ」というキャラクターを駆使して笑いをとることは許容される。この違いはなんだろう? 大きな違いとしては、多数派が少数派をバカにしているのか否か、にある。けっきょくのところ、大勢の認識がどのようなものか、という極めて主観的な要素が、問題か否かを決めている。そこに本質はない。たとえばこのさき、性的指向の差異がまったく意識されずに、「人は人を愛するのだ、性別を愛するわけではない」という認識が社会共有されたとすれば、「ゲイあるある」などと言って、ゲイにある傾向で笑いをとることが日常化する未来が訪れるだろう。むろんそのときにあっても、その笑いを耳にし、傷つく人はあるはずだ。それでも、そのときは、傷つくほうが繊細すぎる、という評価をされるだろう。或いは、笑いをとった人間を、失礼な人だな、と評価するかもしれない。だが、それは一般にあるコミュニケーションと同じである。基本的に、笑いとは、相手をじぶんより下に見ることによって生じる。安堵によって笑ってしまうときですら、想定していた事態より低いレベルだったと判って笑うのである(微笑のみ、じぶんを低く見せるための笑いである。また、驚嘆を伴う笑いだけは、相手に圧倒されて漏れる魂からの笑いだと呼べる)。笑いを禁じることに意味はない。よって、本質は、「マイノリティを笑いの種にすること」がわるいのではなく、「そのマイノリティに有される属性を悪とする社会風潮および同調圧力」がよろしくないといえる。ゲイは異常だ、という風潮がまず解決すべき問題であり、そこから派生する副次的な問題のほとんどは表面的なものでしかないと呼べる。では、文化盗用はどうだろう? なぜその文化を盗もうとしたのか? 取り入れようとしたのか? そこにその文化への「悪印象」があるのだろうか? むろん、相手側への配慮は必要だろう。しかしながら、ただ真似されただけで「我々の文化を侮辱している」と怒るのは、いささか文明的とは言い難い。そういう文化はいずれ、誰からも相手にされなくなり、知らず知らずのうちに消えていくだろう。真似されたけっか、その文化に「亜流文化」があべこべに流れこみ、オリジナルそのものが変質してしまう懸念は無視できない。とはいえ、文化とは元来的にそういうものではなかろうか。剣術は剣道として変質し、そうして現代へと受け継がれている。元の剣術は形骸化している。あらゆる文化もまた同様である。怒りを表明するのは結構なことであるが、けっきょくそれで損をするのは自分たちなのだ、ということを今から考えておくと、これからさきの百年を生き残りやすくなるだろう。ただし、急激な変化はどんなものであれ、悪影響を及ぼす。模倣するにしても、自制や配慮は必要であることは言を俟たない。(2017年11月16日げんざいでのこれは個人的な考えであり、この考えは、半年後には変わっていることだろう。おそらく、何か大きな問題が発生し、世界的に取り沙汰されているはずだ。たとえば、「文化盗用だ」と声を荒らげる者たちの多くが、いずれも当事者ではなく、第三者である、など)(マイノリティだから弱者だ、守るべき存在だ、という感覚もまた、サジ加減によっては差別を助長する)
※日々何かが欠けていく、その欠けた何かをあなたが拾い、あなたの欠落を埋める、よき部品となればいいのに。
901:【視力低下】
物語でなければ伝えられないほどのモヤモヤが、いまのところ見当たらない。だいたい二千字くらいで、ぼんやりとした結論をだせてしまう。視野が狭くなっている証拠だ。飛ばして、散らして、混ぜかえしていこう。
902:【つまらんマン】
いくひしは世界一つまらない人間だとじぶんのことを思っているので、じぶんのことは極力しゃべらないようにしている。基本的には物語にもここにも、じぶんっぽいものはいっさい取り入れていない。いくひしの好きなことはいろどり程度に添えてはいるかもしれないけども、なんだかんだとほらね、もうすでにじぶんのことについて語っている時点でものすごくつまらないでしょ? いくひしはいくひしの本質にちかいところはいっさい並べないのだ。ほんとうはものすごく並べたいのだけれども!
903:【無知の知は恥ではない】
無知だからといってそれを恥ずかしがる必要はない。この世に無知ではない人間などいないのだから。そのことさえ知っていれば、あとはもう、どんな人間も五十歩百歩である。どんぐりの背くらべで一喜一憂するような人間にならないだけでも、無知を恥じだと思わないことに価値があると呼べる。未知を紐解いていくことはただそれだけで楽しい。それはけっして、無知を恥じて得た成長ではない。つまらないおとなにだけはなりたくないものである。
904:【ぺっ!】
えらそうに言ってら!
905:【ねぇねぇ】
さいきんのいくひしさん、なんかちょっと気取ってない? やだわー、ああいうの。
906:【頽廃は大敗で大概にしゅき主義】
情報量という観点からして小説がツイッターに勝ることはこのさき、ほとんどあり得ない。何千万人という集合知に、たった一人の作者の知識が適うわけがない。ともすれば、その乏しい知識、偏った知識には価値を求めることができるかもしれない。その価値を個性とひとまとめにして呼ぶにはいささか漠然としすぎている。なので、ここでは情報の質としておこう。集合知の欠点として挙げられるのは、一つは、統合性に乏しい点だ。体系的ではない、と言い換えてもよい。専門的な知識は蓄積されるが、それを他分野の情報と結びつけるシステムが、集合知には備わっていない。知識ではあっても、知性ではないのだ。ゆえに、百科事典のように、知識を結びつける者がそれを利用する分には、大いに役に立つが、ただ知識を溜めこむだけの者が利用しても、バックアップとしての意味合いしか生じない。人間を記憶装置とするバックアップはおおむね、情報の激しい劣化を及ぼす。人間を媒体にした集合知には、時間が経過するにしたがい劣化していく、という短所があるのだ。ツイッターでもその傾向は観測できるだろう、デマやフェイクニュースを引き合いにだせばそれらしい。その点、小説は、SNSやネット情報、書籍などの集合知をもとに、知識を体系的に結び付けて叙述される。情報の質として、ツイッターに勝ることが可能だ。だが、同様の理由から、小説以外の書籍のほうが、情報の質は高いと呼べる。わざわざ虚構を題材にした小説を読むよりも、専門書やその題材に焦点を当てた新書のほうが、情報の質は高いと呼べる。では、小説におけるつよみとは何だろう? 多彩な情報を仕入れたいならばツイッターを眺めていればよい。情報の質を求めるならば専門書を手に取ればいい。娯楽に焦点を当てるならば、わざわざ小説を読む必要はない。それ以上に、お手軽で、脳内麻薬の分泌が促進される媒体がそこかしこに溢れている。現代において、ほとんど小説のつよみはないと呼べる。ゆいいつの利点は、読者でなく、作者側の視点にて生じている。小説をつくるだけならば最低限のコストしかかからない、という利点である。だが、どんな分野でもそうであるが、成果物の質をあげるには、コストをかけなければならない。しかしながら、小説のつくり手ばかりが増え、需要者の減りつづけている現状、いかにコストをかけ、作品を磨きあげても、かけたコスト以上の見返りは期待できない。何を見返りと見做すのか、という問題がまずあるにせよ、読者数を確保できない、という点では、期待薄だと断言してよい。金銭的対価にしろ、承認欲求にしろ、名誉にしろ、まずは多くの読者を確保することが前提にたつ。可能性の問題として、小説をつくるよりもまずは、ほかの分野で成りあがり、知名度をあげてから小説を発表するほうがよほど効率的だと言える。おそらく小説一本で成りあがるよりも、そちらのほうが障害がすくない。たとえば現在プロとして活躍している小説家が、名義を変えてインターネット上に作品を公開しても、注目されることはほとんどないと予想する。プロですらそうなのだ。一介の素人作家の小説など、よほどの運が重ならないかぎり膨大な作品群に埋もれ、一生日の目を見ることはないだろう。では、小説をつくる旨味はどこにあるのか。現状、小説をつくることそのものを旨味と見做すほかにはないと呼べる。あらゆる媒体のなかで、小説ほど現代社会に適していない媒体はない。これからさき、どんどん需要はなくなっていき、野生に群生するアマチュアの小説のみで、供給が満たされる業界になっていくだろう。プロは、一握りの、スポンサーのついた者だけがなり、彼氏彼女らは、小説の権威を保つためだけに存在するお飾りに成り下がる。ある意味で、現在の俳句のようなものに、小説はなっていく。その過渡期では、小説家の多くは、ほかの媒体の原作者として、生き残りをかけていくだろう。素材の提供者としての道へと舵をとり、やがてはそちらのほうが本業となっていくはずだ。プロがそうなっていくのだから、後続するアマチュアは、小説を書くことよりも、いかに素材として優秀なアイディアを出せるかが肝になっていく。小説家は今後、AIによる自動脚本技術が確立されるまで、コンテンツ産業の家畜として使い捨てにされつづけていくだろう。世の中、第一次生産者はいつだって、市場に搾取されつづける定めなのである。
907:【背肉】
胸はぺったんこなのに、背中にばかり肉がつく。ぐってやってぽいって、うまい具合におっぱいできないかな。おっぱいっていうか、雄っぱいか。胸はぺったんこなのに、お腹はぽっこりしてきてるし、なんだろうなぁ。世の中うまいこといかんなぁ。
908:【流されてない?】
なぁ、いくひし。世のなかに漂う理想のプロポーションとかいうやつに流されてないか? べつに胸が平たくたっていいじゃんよ。背中に肉があったっていいじゃんよ。お腹がぽっこりしてたらダメなのかい? いいよいいよ、理想のじぶんを追い求める、けっこうなことだけど、本当にそれがおまえさんの理想なのかい。
909:【系】
まず点があり、線となり、円となり、面となる。円と円が重なりあって、境界ができ、重複したところが波となる。それら一連の流れが、一つの系として機能する。系はそれで一つの点として昇華され、さらにべつの系と影響しあい、線となり、円となり、面となり、波となる。系が途切れれば、そこには無数の円があるだけとなる。その円もまた、系として機能しなくなれば、無数の円に分離していく。系には無数の系が内包されており、系は一つの「閉じた回路」として存在している。系をフレームと言い換えてもいい。フレームに納まっているかぎり、そのなかでのみ、完結する影響の連鎖が生じている。空間や時間もまた、そうした系の連鎖反応によって生じる現象にすぎない。空間や時間は、系の数だけ存在し、それらが相互に影響しあって世界は枠組みを保ちつづけている。連鎖する影響を溜めこむ系が、さらに複雑な系を構成していくそれらシステムの中に、生命体という系もまた存在している。
910:【接点】
点と点、系と系が接触(重複)しあう境界では、系に内包されない、異なる干渉が生じている。それはたとえば、相対性理論にも当てはまる。光の速さで移動している物体は、宇宙空間を高速で移動するかぎり、ガスや物体と衝突し、外装が破壊されつづけていく。いくら内部の時間が遅く進んだとしても、外部との境界においては、高速で移動すればするだけ、変化が加速する。変化は時間の別名だ。言い換えれば、相対性理論で光速にちかづくと時間の進みが遅くなるのは、遅くなった分の時間を、系と系との接触(重複)部分にて消費されるからだと考えるのが妥当である。基本的に系の内部においては、時間や空間はその系固有の流れを宿しているが、ほかの系との接触(重複)部分においては、そのかぎりではない。(同様の理由から、真空中と大気中での時間の進みには差異があることが導きだせる。言い換えれば、質量が異なる環境下では、時間の進みにズレが生じる。この考え方は一般相対性理論に矛盾しない)(思考実験:あらゆる物理干渉の及ぼされない空間を光速で進むならば、時間のズレは生じない。なぜなら、二つの物体のどちらかが移動したとしても、移動しているほうから見れば、止まっているほうが遠ざかっているように映るからだ。これを相対速度と呼ぶ。何かが高速で運動するとき、周囲の静止している物体もまた、高速で運動していることと同じ現象が生じる。相手の時間が遅く進むとき、相手からするとこちらのほうが遅く時間が進んでいる。客観的にみたときに、時間の差異は生じていない。このとき、それらを内包する空間はひとつの系として機能している。系の内部では(系のそとから観測した場合)時間の進みは均一である。ただし、一定ではない)
※日々人に嫌われもせず、好かれもせず、ただ記憶の片隅をさすらい歩いていく。
911:【多数決と複雑系】
確率の問題として、答えありきの単純な多数決では、もっとも多くの支持を得た答えが正解になる確率が高い。選択肢が十個ある場合、無作為に選べば当たる確率はどれも一〇%である。また、百人に回答してもらえば、一つの選択肢につき十人ずつ振り分けられることになる(バラツキはあるだろうが)。しかしもし答えを知っている者が一人でもいれば、当たりの選択肢が一人増え、ほかの選択肢のどれか一つが、十人以下になる。答えを知っている者が多くなれば、連動して間違った選択肢を選ぶ人数は減っていく。基本的に、答えありきの多数決では、それを選ぶ者が多いほど、そして個々人が異なる分野の答えを持っているほど、多くの支持を得た選択肢の当たる確率が高くなっていく。回答者の数と多様性が正答の精度を高めるのである。言い換えると、集合知の有効性が発揮される。では選挙はどうだろう? どの政党、どの支持者が正解か? 答えがそこにあるだろうか? もしないのだとすれば、選挙における多数決では、集合知がうまく機能しないと言える。マスコミの流したたった一つの情報が、選挙の行方を左右することは珍しくない。党首の失言一つで、政局の流れが変わることもある。ちいさなきっかけが、大きな流れを変えてしまう。これは複雑系にみてとれる性質である。本来、多様性が保たれていれば、そうしたちいさなきっかけが大きな流れを左右する確率はちいさくなる。だが、選択肢を選ぶ者たちが一様に、同じ方向を向き、同じ感情に流されるとき、集合知の機能は失われ、複雑系がその集団に宿りだす。気を付けなければならないのは、複雑系においても、ある程度の流れをつくることは可能だという点だ。鳥たちが各々好き勝手に飛び交っても、群れのカタチを崩さないのと同じように、一つの規格に内包されたシステムは、中身の構造の複雑さに拘わらず、操作可能なのである。(※鳥たちは好き勝手に飛び交っているつもりかもしれない。しかし、「まえを飛ぶ鳥のあとを追え」というコードが一律に組み込まれていれば、そしてそのために、群れが形成されているならば、それはもう、多様性があるとは呼べない)。多数決の基本は、集合知の性質をうまく引きだすことにある。偏見や陽動に流されないように個々人が気を配ることが肝要だ。偏見や陽動そのものを禁ずるのは本質的な解決にはならない。偏見を抱き、陽動に流される人がいても、それはそれでよいのである。それらを含めて、各種さまざまを許容することが真の意味での、多様性に繋がるのだから。(※許容することと肯定することは異なる、念のため)
912:【みかんおいしー】
未完で放置してる物語の数、たぶんだけど発表済みの物語の倍はある気がする。80くらい? 十八万字までつむいで放置とか、六万字つむいで放置とか、それだけでも10はありそう。あとはお話としては完結してるけど、ボツにしたやつもか。閉じてあるやつは、ボツ作集としてまとめて放流してみるのもいいかもしんない。たぶん、掌編合わせて60くらいはあるはず。いくひし、むかしはこんだけヘタクソだったんですよーつって。いまもヘタですけどねーっつって。ヘタはヘタでもクソは抜けましたよーっつって。あ、いいかも。でもなー、できればキレイないくひしだけ見ててほしいからなー。むかしのちたないのとかやだなー。いまもまだちたないままって事実からは目を逸らしておきたいなー。だめかなー。でもなー。いまね、いくひし、手をうしろに回しながら足元の小石蹴ってるからね。下唇つきだしたりしちゃってるからね。なんだったら、やだなー、やだなーって、稲川淳二みたいに語りだしちゃってるからね。よくよく考えて、サービスになりそうだったらやっていこうかなって、本当に今これパチパチしながら思いついたからね、読まれたくないものでも、需要があればお応えしていくのがプロだと思うのね、でもいくひしさんはプロではないですからね、えぇ、しばし考えてみようかと思います。(ざっとファイルを数えてみたら未完を含めず、ボツ作と掌編だけで150ちかくありました。すっかり忘れてたやつ。たぶん2009年ごろにつくったやつ。処女作をつくっていたのと並行して、日記代わりにでもしていたのだと思います。一般に、長編十作つくるまでにデビューできなきゃ才能ないから(作家になるんは)諦めろ、という言葉があります。たぶんそうなんだろうなと思います。じっさい、いくひしは長編十作じゃ足りなさすぎるくらいの文章をつむいでも、現状このレベルにしかなっていないわけですからね。なんだろ、腹が立ってきたぞ。でもさでもさ、しょうがないじゃん。だってさ、むかしはさ、いくひしさ、「ん? 述懐ってなんだ? 睥睨? 訝しむ?」こんなレベルの人間だったんだもん、自業自得なんだもん。えーん、えーん。いったい何の話してんのか分かんなくなってきちゃったよー。あ、わかった、勉強ってだいじですねって話だ。ちがうか)(はーい。いくひしには珍しく、じぶんのことを並べてみたよ。すこし前の記事で、「じぶんのことは書かへんよー」って書いたからかも。へそ曲がりもここまでくると愛くるしいじゃろ?)
913:【顔認証システム】
自撮りは控えたほうがよい。すくなくともそれをインターネット上にアップするのは推奨しない。顔だけでなく、これからは身体的特徴、とくに骨格、身体の輪郭から個人を同定することが可能となる。ネット上にアップされているあらゆる画像のなかから、あなたの画像を見つけ出すことがいともたやすい時代になっていく。音声なども同様だ。SNSに投稿された画像や、街かどで隠し撮りしたあなたの画像をもとに、あなたの素性をネット上から拾い集めることが、(技術的に)現状すでに可能なのだ。十年後に後悔しないよう、今から個人情報の扱いには意識を配っておきたいものである。
914:【なんか多い日】
11月に入ってから、ちょっと本の購入数が増加傾向にある。なんでじゃろ? この一週間、まいにち四冊とか六冊とか買いつづけてるけど、欲しい本がいっきょに出すぎじゃない? あ、ぜんぜんいいことだよ、ウェルカムトゥー、ハッピー、ハッピー。ムリに英語使ってみたけど合ってる? だめ? おもしろい本がたくさんなのはうれしいよ、うれしいけれども、買ったはいいけど、読む時間がつくれないっていうね。ちょこちょこっとは読んでるよ? でもただでさえ、積まれた本を、ちょこちょこっと読みつづけてる日々なのに、さらにちょこちょこってしてかなきゃいかんとくれば、こりゃあ、もう、ワキから足の裏からこちょこちょチョコレートパーティーだよ。ムリに横文字使ってみたけど合ってる? だめ? だいたいさー、いくひしさん、貧乏なのよ。そりゃーもう、まいにちのように素うどんが主食の懐さびしんぼさんなわけ。それで、こうも読まずに積まれるブックタワーにだいじな金銭つっこんじゃうってのは、なんかこうさー、せめてブックカバーくらい買いたいよね。したらお外で周りの視線を気にせずに、羽蟻がごとく妄想の大海原をひょろひょろ舞い落ちていられるってー寸法よ。どう? 意味わからんじゃろ? そういえば、さいきん目にした俳句でいちばん「おおっ!?」ってなったのはねって、あ、話変わるけどだいじょうぶ? おもっきし脈絡シカトしちゃったけど、ついてこれる? むりそう? だめ? がんばって。で、俳句ね、俳句。さいきんイイナってなったのが、「空見れば、我よ我よと、枯葉舞い」ってやつで、あ、ごめん、かなりうろ覚えで言っちった。自信ないから確かめてきていい? は~い。確かめてきたよ、正確には、「見上ぐれば、我よ我よと、落葉降り」だった。どう? なかなかじゃろ? うろ覚えのほうと比べてどう? 思いだしながら書いたのに、合ってるの真ん中だけっていうね。文章の神秘。どんなに、あれいいなぁ、ってなっても、ぜったい同じになんかならない。あ、ごめん。ぜったいは言いすぎた。同じになったら奇跡、運命ってくらいの確率だよってことが言いたかった。それはちょうど、いくひしの好きな小説と、あなたの好きな小説がいっしょで、しかもそのブックカバーまで同じでしたってくらいの運命度。不名誉なんてことはないよ、なに言ってんのさ、いくひしとの運命を感じようよ。したら心は澄みわたり、透明度はトルネードと化して、あなたのこころを貫くよ。開いたトンネルを抜けると、そこには息吹があって、世界の隙間に吹きすさむ、人はみな息吹である。砕け、散り、舞う、しぶきのごとく。==MAN IS IBUKI. NAMISIBUKI== なーんて、カッコつけて英語使ってみたけど、どう? 合ってる? だめ?
915:【サボったときは】
何かをサボってしまったときは、気持ちを切り替えるのではなく、考え方を切り替えるとよい。サボったのではなく、一日が伸びたのだと。偶然そのとき、二日が一日分になっただけのことであり、つぎの日からまた継続すれば、それはサボりではないのである。一日が一日だと誰が決めた? 二日が一日でもいいじゃないか。「嘘喰い48巻」を読んで、きのうサボったじぶんを誤魔化すのに必死ないくひしまんでした。
916:【ガス】
固体かつ液体の人類からすると地球は、大気、海、地表と三層に分かれているように観測されるが、ガス生命体とも呼べる希薄な形態を持った生命体がもし存在するとすれば、大気の層そのものが硬い岩盤に相当する。そういう意味では、我々が太陽に抱く、「あんなところに生命体がいるわけないじゃん」という所感は、我々の脆弱さゆえの偏見でしかなく、ひょっとすれば恒星に芽生える生命体も宇宙のどこかには存在するのかもしれない。なんてことを言いだせばきりがなく、また地球上から観測する以上、確かめる術はないので、可能性の低い仮説は妄想と片づけて、ひとまず、すでに実存を証明している人類という種族を基盤に、宇宙へと目を配ろうではありませんか、というのがいまのところの方針なのであろう。しかし、じつはすでに人類は地球外生命体と相対しているのかもしれず、しかし、知覚可能な「層」が互いに異なるため、互いを生命体と認識できないだけなのかもしれない。そういう意味では、ある意味、妖精や精霊、八百万の神々とは地球に飛来した地球外生命体の気配そのものなのかもしれない。
917:【表面張力】
高さ十メートルを超える植物がどうやって上の枝葉にまで水を運ぶのか。明確にこれだ、という答えは、いまのところ出ていない(はず)。さまざまな仮説のあるなかで、いくひしが考えたのは、雨や大気中の水分を、葉や枝がとりこめる、というもの。それから、維管束に底ができる説である。後者のほうが有力かな、とにらんでいるが、どうだろう。水の通る管を下から上に伸びる一本の空洞として考えるから、解らなくなる。ならばいっそ、部分的に塞がったり、開いたりを繰りかえしながら、水を、表面張力によって上へ上へと運んでいると考えれば、筋が通るのではないか。筋が通らなくなるから、けっかとして筋が通るようになるのだ。バケツリレーのようなものだ。表面張力ギリギリまで水が昇れば、いちど水の通った箇所は塞がり、そこが底となって、さらに表面張力の働く余地ができる。維管束がものすごくゆっくりと蠕動運動をしている、と言い換えてもよい。いくひしの苦手な物理なので、適当なことを言っている。得意な科目があるのか、との声には、聞かんでおくれ、と応じよう。表面張力ってなんですか。
918:【11/23お礼】
初めて足場ができたような感覚になりました。わーい、やったー、という気持ちよりも、どちらかというと安堵感があります。いくひしはきっとあなたに読んでもらうために物語をつむぎつづけてきたのだと思います。いくひしはいつだって、あなたのようなひとに向けて言葉を並べつづけてきたのだと思います。そしてこれからもきっと、同じように、あなたのようなひとへ向けてナニゴトカをつくりつづけていくのだと思うのです。ひょっとしたら、すでにもう、あなたへ向けての言葉ではなくなっているかもしれません。一瞬の出会いです。交差し、点を結んだあとは、二本の直線は延々と離れつづけていくさだめにあります。ですが、それでも、たったいちどでも交じりあえる線が、この世のどこかにあったのだと知れたことが、なにより得難く、救われた心地になるのです。初めて面と向かって、いくひしのなかの誰でもない、そとにいる、いくひしではない誰かに、すごいよかった(おもしろかった)、と言ってもらえました。わざわざ身体を動かして、移動して、言いにきてくださいました。いくひしの並べた言葉の羅列が、ひとりの人間を、いっときであれ、動かした。言葉が届き、行動として変換された。小説のチカラなんてまやかしだと思いつづけてきたいくひしですが、初めて小説にもすこしくらいはチカラがあるのかもしれないな、と思えるようになりました。一つの大きな節目になります。延々と残りつづけるだろう影響のきっかけをくださって、ありがとうございます。(心残りなのは、あなたはどんな物語をつむぐのですか、と訊ねられなかったことです。とっさに言葉がでてきませんでした。ぜひ、読んでみたかったです)(あと、本、重かったですよね。お荷物になってしまったかと思います。気が回らずすみませんでした)https://c.bunfree.net/c/tokyo25/1F/B/56
919:【先輩方】
ようやく挨拶できました。一区切りがついた心地である。かってながらに励まされておりました。いつの日にか、お渡ししたものが財産になるように精進してまいります。
920:【真似できないことが悔しい】
上手なものよりも、コピーしようとしてもできないもののほうが、惹きつけられる。大衆に迎えいれられるための条件の一つに、真似したいと思わせられるか否かがある。真似したくとも真似できないものに憧れを抱くのは人情だ。スターとはいつの世も、真似したくてもできないものではなかろうか。真似したくなる基準は、人それぞれだ。個人的には、じぶんのなかにその要素があるかどうかが基準になっている。取りいれようとして、すんなり取りいれられるものもあれば、どうがんばっても馴染まないものもある。傾向として、お手本として完成している「上手なもの」ほど取りこみやすい。反して、一癖も二癖もあるもののほうが、なかなかじぶんに馴染まない。抵抗が大きいのだ。そうしたもののほうが、いくひしは魅力をつよく感ずるのである。魅力を感じる方とはしゃべりたくなる。あなたは魅力的なひとです。
920.5:【ヘソで茶が沸けらぁ】
いくひし、おまえに言われてもなー。
※日々は記憶の砂時計。
921:【思いつき】
テロメアは体重計のメモリのようなものである。老化という現象を量ることはできるが、メモリをいじったところで、変質するのは数値であり、老化そのものではない。
922:【作家と作家性】
小説を読んで、その作家のことが解った気になるのは、それ自体は咎められるものではないし、自由だと思うが、抱いた印象は九割九分勘違いだという考えを持っている。ただし、小説を読んで、その作家の作家性を理解した気になる分には、四割くらいは当たるのではないかな、と思ってもいる。「これを読んだらぼくのことが解ります」という言葉は信用しないほうがよいけれど、「これを読んだらぼくの作家性が解ります」という意味ならば、あながち間違いではない。言葉足らずにならないように気をつけていけたらいいね。いくひし、きみのことだよ。
923:【文学フリマ】
ひとつだけ気になったので、残しておこうと思う。イベントの運営や制作を行ってくださっているスタッフさんへの配慮が、会場全体ですこしばかし希薄な印象があった。じぶんのことは完全に棚上げにして述べてしまうが、スタッフさんの多くはボランティアでイベントを支えてくださっているのだから、手伝ったほうがいいとまでは言わないけれど、労いの精神は持ち合わせていたほうがよいのではないかな、と思う。肉体的にも精神的にも疲弊されているようにいくひしの目には映った。このイベントの参加者、なんか冷たいな、なんてスタッフさんに思われたら、今後の運営に差し障りがでてくることは容易に想像がつく(たんじゅんに人が集まらない)。縁の下の力持ちには敬意を抱いて、接してほしいな、と過去二回の参加を通して思いましたとさ。ちゃんちゃん。
924:【おまえなぁ】
なぁ、いくひし。そんなんじゃねぇだろおめぇ、いいコぶんのやめろ、下品だ。
925:【だいたいあんたさー】
ひきこもりの分際で何言ってんの。行ったのあんたじゃないじゃん。代理人たてといて、又聞きをさも自分のことのように話す癖、どうにかしたら? そういうの、小説にもでるから。ていうかでてるから。
926:【バレてるからね】
ていうかマンちゃんさ、作者のフリしてきてって頼んだでしょ、しってるよー。あの人、マンちゃんに甘いけど、わりかしあたしらに教えてくれるからね。気をつけたほうがいいぞー。
927:【消して!】
消してもまたやるのナシ! やめて!
928:【フリフリ】
という設定で、これからも「いくひ誌。」更新していくね☆
929:【笑笑笑】
いくね☆だって。ぷ!
930:【活動銀河中心核】
どんな物質でも巨大ブラックホールに落下すると、膨大なエネルギィを放出する。核融合反応(太陽)よりも効率よくエネルギィ変換されるため、宇宙でもっとも激しく光(エネルギィ)を発する。降着円盤と呼ばれるものであり、巨大なブラックホールは、宇宙でもっとも明るい天体として観測される。とはいうものの、じつを言えば、ブラックホールの存在は未だに直接観測されてはいない。光を含めた、あらゆる相互作用を外部へ漏らさないためである。しかし、ことしのノーベル賞を受賞した重力波の観測では、ブラックホールが真実に存在することを示す、明確な現象が確認された。重力波とは、時空のゆがみである。ブラックホール同士が衝突し、ひとつに融合すると、あまりの重力のつよさに、時空が歪むのである。時空の歪みは波として、宇宙全土へ伝播する。波が物体を通過する際には、通常発生し得ない「振動」が生じる。時空が歪む(伸縮する)ため、空間が伸び縮みし、同時に物体もまた伸縮する。空間内に内包されている人類にそれを直接観測することはできないが、離れた地点との空間の差異によって、わずかな時空の歪みを観測することは可能だ。そしてそれを人類は成し遂げた。すべては一人の科学者の発想から芽生えた「もし」から導きだされた、根拠なき思索の果ての真実である。目のまえに広がる世界を視ているだけではけっしてたどり着けない領域であると共に、目のまえの世界と真摯に向きあうことでしか結びつかない着想でもある。物語として極上の矛盾を宿している。思いを馳せるだけでフワフワしてくる。たのしい。
※日々消えゆく細胞に思いを馳せては、申しわけなく思いたいのに、思えない、滅びていいからちゃんと再生してよ、と憤るじぶんの傲慢さにうんざりする。
931:【あほのひと】
いちおう、お礼も兼ねて、「ホントにもう行ってくれないの? 手伝ってよーっ」とさいごのわるあがきをしてみた。やっぱりもうああいうイベントには行きたくないらしい。疲れるんだって。お金だしてあげるからって言っても、ヤダなんだって。死ねばいいのに。そのわりに、「青空文庫のひといた、しゃべってきた」ってはしゃいだりしてて、まったくの謎。ナンパしに行っとたんか貴様。失敗したから行きたくなくなったとか、そういうんちゃうの、と思ったけど、それは言わないでおいた。どうせこれ読むだろうし。というか読んだ? 読んでるだろ? 苦しめ。いちおう、頼みごとをきいてもらった恩もあるし、黙って耳を傾けてあげてたんだけど、「青空文庫のひと、青空文庫のひと」連呼しすぎてて、なんかへんだなーとは思ってたんだよね、だって青空文庫だよ? 太宰治とか、芥川とかの作品が並んでるところだよ? どんな文豪と会ってきたんだって話ですよ。だいたい生きてるひとで載ってるのって、円城塔さんくらいじゃないの、会ってきたの? すごいなおまえ、とか思いながら、なにげなーく確かめてみたら、まあ違ってましたよね。おまえの言っとんのは「星空文庫」や。青空文庫ちゃうぞ。思いましたけど、まあ黙ってましたよね。恥を掻けばいい。たくさん恥を掻けばいいぞ。ゆいいつの長所と言ってもいい、アホなところ、わりかし嫌いじゃないのでね。まあ、ナンパはほどほどに。
932:【切り捨てていくスタイルではなく】
初めましての読者さんに、つぎも読んでみよう、と思ってもらうにはどうすればよいのか。そのひとに刺さるように物語を編むには、ある程度の読者の選別が欠かせなくなってくる。核を仕留めるには、的を絞る必要があるからだ。だが、的から外れた読者さんを切り捨てるやり方は、あまりしたくない。正確には、もうすでに充分そういうやり方を貫いてきた、という自覚が芽生えはじめている。そろそろ的を拡げてみるのもいいのではないか。むろん以前から、的を拡げる意識はしてきたが、飽くまで作品ごとに的を変えているにすぎない。一つの作品に、多くの読者の琴線が触れるようなつくりを組みこんでいかねばならないのではないか、と思いはじめている。「なんだこれ、つまらん!」となっても、「じゃあつぎのはどうだろう」と思ってもらえるようなスタイルに移行していく時期なのかもしれない。迷う。迷いながらチマチマ積みあげていくほかないのだろう。
933:【敢えて】
好きなライターさんと同じ位置情報の空間にいた。声をおかけするかどうか迷った挙句、まずは座席まで行ってみて、いらっしゃったら、「むかしから記事を拝見しておりました、ラブドールの記事のころ(2012年)から読んでます。一方的な感応で恐縮ですが、記事だけでなく、以前あなたのつぶやいたツイターの一言で、潰れそうな時期を乗り越えられました」とお伝えしようと思った。けっきょく、そこに目当てのおひとはいなかった。売っていた「失恋手帖」だけを入手してきて、その日は「同じ空間にいた」という実感だけで満足した。帰ってきてから二日経ったいまだからこそ思うことなのだが、向こうから会いにきてくれるようになるまではお声掛けするのはやめておこう、売名がしたいわけではないのだから――そう頭のなかで結論付けていたのかもしれない。やっぱりそれで正解だったように思う。二度と会う機会が巡ってこないかもしれないけれど、物理的に会うことの意味は、それほどないのかもしれない。ぼくが進みつづけていれば、いずれ向こうのほうから見つけだしてくれるだろう。そういうことにワクワクしていきたい。
934:【空間微振動】
カプセル状の部屋を、光にちかい速度で微振動させれば、理論上は、カプセル内部の時間の進みは遅延する。たとえばものすごい技術の耐震構造を組みこんでおけば、部屋のなかにいても揺れを感じることなく過ごせるはずだ(部屋内部に空気が存在すると、微振動の影響によって核融合反応を引き起こしかねないので、真空状態が望ましい。或いは、外壁と内壁とのあいだを真空状態にし、磁力か何かで接触部分を失くしてしまえばいいかもしれない)。徐々に振動数をあげていけば、身体が木端微塵になる危険性はなくなり、また、外部に生じるだろう衝撃波も、緩和できる。ともあれ、光にちかい速度で微振動するカプセルがあるとすれば、地球上にそれがあるだけで、地軸はずれるだろうし、カプセルを支える地盤もただでは済まないだろう。宇宙空間に設置すればどうだろう。エネルギィ供給の問題が生じるが、地上に置いてもそれは同様だ。激しく微振動するカプセルは、原理上、外界から完全に乖離する。エネルギィは内部の機構によって供給されねばならない。莫大なエネルギィが必要だ。核融合を利用するのは前提になる。また、カプセルの微振動をエネルギィ変換する自家発電機構と組み合わせれば、すくなくともすぐにエネルギィが枯渇する懸念は薄まる。ただし、カプセルの素材がネックだ。光にちかい速度で微振動しても構造を保っていられる物質が、いまのところ地球上に存在しない。とはいえ、カプセルの振動数が低くとも、時間の進みが遅くなる現象は生じる。いずれ人類は、時間の進む速度を、自在に操れるようになっていくだろう(ある閾値の範囲内であるにしろ)。ただし、一つ疑問なのは、上述した理屈が正しいのならば、「屋内で育てた木」と「屋外にて風にさらされ、枝葉をつねになびかせている木」とでは、そこにある時間の進みに差が生じていることになるのではないか、という点だ。土の栄養状態、光量などの環境要因をすべて等しくしたうえで、観測すれば、枝葉の運動量が多い木ほど、遅く成長するはずである。本当だろうか? 誰かに調べてもらいたい。原子時計以上に正確な時計が必要であるだろうが。或いは、百年、千年単位での観測が不可欠になる(それでも足りないかもしれない)。
935:【奥付】
自作の同人誌に、背表紙と奥付をつけなかった。理由は、編集が面倒だったのが一つ。あとは手作り感をだしたかったのが一つ。そして何より、いくひしは物語を提供したかったのであって、「本」を提供したかったわけではない点が大きい理由だ。本を提供するつもりなら、無料では配らない。ただし、物語ならばべつだ。値段をつけられるものではないと考えるし、つけたくもない。電子書籍にかぎっては、電子書籍化するのに要した労力分の値段を設定してあるが、KDPの場合、値段をゼロ円に設定できない点が影響している(裏ワザでゼロ円にもできるが、アンミリに加入しているとそれもできなくなる)。背表紙については、未だ肩書きのない己を戒め、空白を設けたかったのがつよい動機になっている。奥付をつけない理由だが、たとえば――十年後、百年後に、いくひしの物語を読む人がどこかにいるかも分からない。読み終えたあと、これはどこの誰の作品だろう、と奥付を探すが、載っていない。調べたくても、調べられない。そういうもどかしさって、想像するとワクワクしません? いたずらっぽくて下品ですか? 下品ですね。でも、ワクワクしちゃいます。あとは、やっぱりいくひしの信条としては、小説の完成品とは、読者によって展開された世界であり、作者の記した文字の羅列ではない、というのが第一にあります。奥付をつけるならば、そのひとが読了したその日に、そのひとの手で刻んでほしいと望みます。いくひしの小説は、いくひしが編みこんだものであるにせよ、それを作品として昇華してくださるのはいつだって読者の方なのだ、と考えている。奥付とは飽くまで、製本の履歴であり、小説の履歴ではない。いくひしは編集者になったつもりはないのである。よって自作の同人誌に奥付をつけなかった。けっしてつけ忘れていたわけではない。忘れていたわけではないのだよ。つよく念を押しておきたい。ホント、ちがうからね!
936:【小説家という生き物】
いいか、いくひし。小説家はなぁ、文字を並べ、小説をつむいでねぇあいだは小説家じゃねぇんだよ。勘違いすんな。
937:【こころのこえ】
はぁ……ディビさんのイロになりたい。
938:【うれしい!!!!】
苺ましまろ8巻が売ってた~~!!! レールガンの新刊まで出てた~~~!!!! 「2DK、Gペン、目覚まし時計6巻」も手に入れたし、「女子高生にムリヤリ恋させてみた1巻」も買ってきたし、「春の呪い」の作者の新作もゲッティングハッピーだし、「ひだまりが聴こえる」の続編はお持ち帰りだし、「ランウェイで笑って2巻」は抱きしめたいし、もうなんか、ほくほく!!!!! しあわせ~~~!!!!!!
939:【1000字】
まいにち1000字ずつ進めれば、一年で365000文字になる。長編三つと中編二つ(短編なら六つ)はつくれる。1000字くらいならまいにちつづけられそうに思いませんか?(倍の2000字ならば、なんと730000文字になる。長編七つに中編一つつくれる分量だ)(じっさいには推敲すると削れてしまうので、もうすこし文字数はすくなくなるのだが)
940:【文字数】
一般的には長編小説といえば12万字以上だ。長編小説新人賞の下限が12万字のことが多いからそうなっているのだろう。いっぽうでいくひしは、九万字からが長編だと思っている。これからさき、どんどん短い物語が読者に歓迎されていくだろう(圧縮された分、中身は濃くなる)。1万,3万,6万、9万と文字数の下限を設けた新人賞がでてくれば、市場に歓迎されるのではないかと思っている。同時に、1万、3万、6万、9万と、いくつかの物語を組み合わせて、9万字以上の小説として売りにだすスタイルが流行っていくはずだ。連作短編がよくて、連作短中長編がダメな理由が解らない。
※日々飽きたり、諦めたりを繰りかえしている、なんども飽きるために繰りかえしている。
941:【美文がつむげないだけ】
どんな言葉を並べるか、ではなく、言葉に含まれる情報量を、どのような配分でちりばめていくかが肝要だ。文章のリズム感とは、情報の濃淡であると言ってよい。美文をただ積み重ねても、そこに律動は宿らない。
942:【てんきゅー】
文学フリマではことし二回の参加で、およそ210冊を配布した。おそらく一年以内に読まれる割合は5%もないだろうと考えている。そのなかで、はやくも感想をネット上に書いてくださっている方がいた。読んでいただけるだけでうれしいのに、感想まで……。好きになってもいいですか? ダメですか? はい……。そうそう、感想を書いていただけたからでしょう、該当する小説のPVが増加傾向にある。やっぱり感想のちからは偉大だな、と実感しております。言うても、書いてくださった感想が、「お、いっちょ読んでみっか」と思わず食指が動いてしまう楽しい書き方をされているのが大きいと思います。作者が読んでも心が折れないような配慮まで感じられ、ありがたい。てんきゅー☆ しかもしかも、初めて読書メーターに登録してもらっちゃった。いくひしのつむいだ小説も読書になるんだなーってウルウルしてしまう。好きになってもいいですか? ダメですか? しつこい? はい……。てんきゅー☆
943:【生存競争】
以前にも書いたが、現代ではほとんどの経済活動が栄枯盛衰を加速させている。一時期隆盛を極めても、十年、否、いまでは五年その地位を保つのが難しくなってきている。現状、第一線を走っているトップランナーを示して、五年後には消えてるよ、と言っておけば、とりあえずその予測は当たるだろう。それくらい時代が加速している。ゆえに、これから何かを成したければ、何が消えていくかではなく、何が残るかを考えていかねばならない。ツイッターでいくらいいねやリツイートをもらっても、その色合いは未来に残らない。ネット上で称賛を得ても同じことだ。一対一の関係性でどれだけ深く繋がりあえるか。うわべの関係性の量的数値が重宝される時代だからこそ、かつてないほど、意識の根っこの部分での繋がりが貴重になっていく。ある意味でそれは、付け入る隙に、まさしく付け入るやり方だ。上品ではない。適度に距離を保ちながら、縁を、点を、結んでいきたい。
944:【天才】
ディビさんがツイターで言及していた「めまい」さんという方のアカウントがある。ツイター小説とでも言うのかな、読んでるんですけど、もうね、いっしょう官能小説は書けないなってなる。こんな天才を目の当たりにしたら、よっしゃいっちょ書いてみっか、とはならない。リンク貼っときますね。https://twitter.com/dummyhug ホントこういうのが個性で、才能だと思います。あ、ディビさんは天才とかそういうのじゃないので。天災とかそういうのの類なので。神とか、悪魔とか、そういうのにちかいので。
945:【ジェシーおいたん】
真ん中のひとがなんど見てもジェシーおいたんに見える。https://www.youtube.com/watch?v=kc17H68IKMs
946:【今週の】
今週の「私と彼女のお泊り映画」がいいないいなーってなる。ああいうの、いいないいなだよホント。著者サイトの安田堂も見て。裏話が載ってるからね。こっちの今週のも、ああわかるわーってなる。うらやましいぞーってなる。あと、くらげパンチ新連載の「ロジカとラッカセイ」がどんぴしゃだった。かわいい。いい具合に狂ってるし、いいないいなだよ。あとはもうね、なんといっても少女終末旅行ですよ。かつてないほど百合百合してた、ぶっこんできた。はひゃー。ぴやわせ。
947:【繋がり】
表面的に観測できる鎖のことごとくを断ち切ってしまいたい。誰とも繋がらず、しんしんと積もる細々の奥地にて、なんの接点もなく、物語という幻想に浮かび、ぽよぽよとたてる波紋の連なりが、いずこで重なり、山となり谷となり、ときに打ち消し合い、そうした干渉によってのみ結ばれる縁を、繋がりと呼びたい。
948:【Gぺんましゅまろレールガン】
バカはカゼひかないっていいますけど、バカだって人間ですからね、ひきますよカゼ。一週間ずっと体調不良だったんですが、ようやく全身だるいのなくなりました。で、積みに積みあげつづけてきた本をきょうから崩していこうと思います。積みあげたものを崩すのって、快感ですよね~。いくひし、極めて極めて、極めきってから、いっきに台無しにするの、すきなんです。性格わるいじゃろ? 腹八分目っていうのかなー、もうすこしでイケそうなのに寸止めをくりかえす、みたいなの。焦らして焦らして、あともうちょっとで山頂なのにってところで、崖からいえやってダイブする、みたいなの。いったい何の話だって話ですよね。大沢やよいさんのマンガ「2DK、Gペン、目覚まし時計6巻」を読みました。あーあー、こういうの、こういうのだよ、みんな知ってる? 百合っていうのは、もにょもにょするんですよ、胸がきゅんきゅんするばかりじゃない、もにょもにょしちゃうものでもあるんです。しょうじきね、ヒモ体質の人間、だいっきらいなんですよ。同族嫌悪ですか? 同族嫌悪です! だからね、主要キャラのかえちゃんなんかぜったい好きになるわけないんですよ。すきだーーー!!! もうね、好きになっちゃいました。だってね、ただのヒモじゃないんですよ。夢追い人なんですよ。口だけじゃないんですよ。ちゃんと夢を現実に結びつけているんですよ。応援しちゃいたくなるじゃないですか。すきだーーーー!!! そんなかえちゃんを応援する奈々美さんも好きだーーーー!!!! 養ってくれ~~~!!! あ、まちがった。もうね、好きあってるし、付きあってるよ。これで付きあってなかったらなんなんだって話ですよ。でもね、明言できないからこそ尊い関係性ってのもありまして、だからそれが百合なんですよ。とぅき~~~。はい。はやく七巻読みたいです。つぎはだね、ばらスィーさん著のマンガ「苺ましまろ8巻」だ。いいかなしょくん、7巻の発売日、いつだと思う? 2013年だって。四年前!!! 待望のというか、もはやちょっと忘れかけていた名作の新刊だよ、興奮するなというほうがムリがある。いくひしがガンツを読みあさっていたころに、ゲオで購入した苺ましまろの1~5巻を読んで笑い転げていたあのころが懐かしいぜ。歳をとったのかな、もはやちょっと、笑いのセンスについていけなくなってきた感は否めない。でもね、そもそも苺ましまろはね、ギャグマンガじゃないんだよ。かわいいは正義、を世にひろめるための、聖書だからね。女の子がかわいい、ただそれだけのマンガであって、まったくイチミクロンも問題ないのだよ。読んでて思ったけど苺ましまろのチカちゃんってさ、少女終末旅行のちーちゃんと、すこし似てない? あーい。つぎはだね、「とある科学の超電磁砲」でごじゃるぞ。どぅふふ。拙者、女の子しかでてこないマンガが大好物でござって、ヘンタイとののしられようと、ロリコンの誹りにあおうと、まったく身に堪えず、摂取しつづける真正のベジタリアンでござるが、この口調、キモくはないでござるか? だいじょうぶ? いくひしのこと嫌いにならない? なる? ならない? どうでもいい? え、ウザいってそういう言い方はヘコむでござるよ。けっこう前から疑問なんだけど、どうしてSF大賞にレールガン、ノミネートされないんですかね。されてるんですかね? SFじゃねぇよ、みたいな見方をされてるんですかね。でもSFですよね。レールガンがノミネートされたことのない賞にいったいどんな意味があるんですかね。審査員の見る目を疑いたくなります。はい。権力に盾つきたい年頃です。大目にみてちょ。レールガンの新刊もけっこう久しぶりって感じがします。もはや前の巻がどんな話だったか忘れてる。でも問題ない。名作の条件として、途中から見ても、前知識がなくとも楽しめるってのがありますからね、えぇ。名作だと思います。おもしろい。考証とかどうでもいいですよ。おもしろけりゃいいんですよ。女の子がかっこよくて、かわいくて、すてきーってなったらそれだけで充分しごく。ほかに要素いる? いらなくなーい? もはや女の子を着飾るためのギミックでしかなくなーい? って黒ギャルっぽいいくひしが喚きはじめたのでって、黒ギャルしってる? もはや死語なんですかね。すきなんです。褐色系女子。はい。レールガン、相も変わらず脳汁ダクダクです。出汁がですぎて、脳みそスカスカになってしまう。バカになってしまう。でもバカだって人間ですからねカゼくらいひきますよ、バカだってひきますよ、寒くなってきましたからね、みんなー、バカには気をつけるんだぞ~!
949:【ムリヤリ恋ウェイで笑ってグレイプニル】
こんちわ~~~。みんな朝ご飯なに食べた? いくひしはね~~白湯~~~~。おいしいよねーお湯。湯気がぷわぷわしてて、はふはふしながら飲むとおいしぃーってなる。身体ぽかぽかするし、朝食にはもってこいだね。ほかにはなに食べたって? 白湯だよ!!! なんでお湯だけって疑問には答えられるが、答えたくない。なぜって惨めになるからだよ怒怒怒。はい。きょうは苦楽たくるさんの「女子高生にムリヤリ恋させてみた1巻」をご紹介しよっかなと。単なる感想ではなく、ご紹介したいわけですよ。あのですね、今作はですね、2017年度いくひしこのマンガがすごいで賞を受賞するのではないかともっぱらの噂でして、宇宙人が女子高生に強制的に恋心を発動させるという、ただそれだけの話なんですが、まぁ、おもしろい。なんといっても主人公の恋沼めばえさんがかわいいのなんのって、かわいいの~~~!!! 感情コロコロ変わる系女子、すきなんです。表情コロコロ変わる系女子と言い換えてもよい。もうね、ストップモーションアニメなら、制作陣泣かせになること間違いなしの顔面百十二面相具合ですからね、見ていて飽きないコミカル度。ふざけんじゃねーと怒鳴った直後に、恋する乙女百二十パーセントのちゅきちゅきモードで、さらにつぎのコマでは、なにさらすんじゃー、やめーい、なんて頭抱えたりしてて、もうね、キュート。アニマル的な意味合いで愛くるしいったらないですね。あー、こんなコが友達にいたら楽しいだろうなぁって心の底から思える、あー、こんなコが友達にいたら好きになっちゃうだろうなぁ、って胸がくるしくなる、そんなせつな愉快なマンガだよ。あんまし売れてる感じしないですけど、ぜひとも売れてほしい、そんで末永く読ませてほしい物語です。あーい。つぎはですね、えっと、猪ノ谷言葉さん著の「ランウェイで笑って2巻」ですな。虚構とリアルの境を狙ったリアル指向のファンタジィですね。ぜったいありっこない展開でありながら、リアリティを保つ手法には見習うところがぎょうさんです。ただもっとメインヒロイン千雪さんとの掛け合いを見せてほしいな、と欲張りにも思ってしまう。ランウェイの上が舞台になってしまうと、そこのところがむつかしくなってしまうんですよね~~。スポーツ物でも、そこのところむつかしくて、格闘技なんかは、リアリティレベルを下げてしゃべりながら戦ったりすれば、掛け合いと戦闘を両立できたりして、でも緊張感がなくなったりして、ガムとチョコは両方食べるとガムが融けちゃうよ問題に通じるものがありますな。展開はやくて、グッドです。つぎはですね、武田すんさんのマンガ「グレイプニル4巻」だよ~。一巻から三巻にかけて、ややトーンダウンしてたかな、と気づかされるほど、四巻は興奮する展開の目白押しでしたね。おもしろ~い。いい感じに話がぐちゃぐちゃしてきて、いくひし好みです。女の子がひどい目に遭うのはちょっと嫌なんですけど、目を逸らしてしまうラインをきちんと見定めて描かれているのはよいですね。あとけっこう女の子の裸とかてぃくびなんかが描かれてるんですけど、意図してなんですかねあんましエロくない。欲情的じゃないというか、人間を単なる観測対象(動物)として描いている感じが、好印象です。一巻とかは割と露骨に、えっちぃな、と思う描写が多かったんですが、徐々に減っているのは、担当編集が変わったのかな、という感じがしないでもないですね。基本的にいくひし、話がおもしろくなったら、担当編集が変わったのかな、って言いますからね。作者の実力があがったのかな、ってのは言うまでもないことなので言わないだけで、おもしろくなったらそれは作者の手柄ですからね。誤解なきようお願い申す。五巻が待ち遠しいです。グレイプニル、グレイプニルですよ、いくひしの好きなマンガです。身体がぽかぽか、頭がぽわぽわ、読むとおもしろーいってなる。白湯かよ! 味気ないなんて言わせないよ、飲めば気づくよ、素朴なうまさに、やめられなくなってもしらないよ。ご飯のお供に、作業の合間の小休止に、沸かせただけのお水をぐいっと飲んでみてはいかがでしょう。って白湯かよ!!!
950:【念のために書いておくと】
みんなー、とか言ってますけど、読者かぎりなくゼロだって知ってますからね。ただ数年後とか百年後とかに読んでくれるひとがおらんとも言いきれぬだろい? すこしくらい見栄を張っておきたいわけですよ。ああ、すこしは読者いたのかなって思ってもらえるかもしれないじゃん? 人類最後の人間がラジオを流してる体でやっているので、もし偶然読んでしまった方がいらっしゃっても、なんだこいつ、とか思わずにいてくれるとうれしいな。
※日々蓄積できることなど何もないのだと知るために何かを継続しては忘却しつづけていく。
951:【CANDY&屍牙姫大富豪】
おはよう、しょくん! がんばっているかい。九月に新作を更新してからはや三か月、短編以外の新作をつくっていないいくひしさんだが、チマチマ進めてはいるのだよ。ただちょっと、これはいかがなものか、という壁にぶつかってしまっていてな。とりあえずつむいではいるのだよ。失望しないでおくれ。で、気晴らしにきょうも逃避行、読んだマンガの、おもしろーいを叫んでいきたいと思うのだが、準備のほどはいかがか。なになに。耳栓用意するから待ってって? ばかー!!! 聞いて! ちゃんと耳の穴ブラックホールにして聞いて!!! イヤホンして音量おっきくすなーー!!! やだよちゃんと聞いてよ、いくひし独りで無駄に騒いでバカみたいでしょ。バカじゃないのかって、こらーー!! 本当のことでも本人が傷つくことは言っちゃメーーー!!! って、怒って勢いで耳の痛くなる話をウヤムヤにするの、いくひしじょうずでしょ。その道のプロですからね。はい。きょうはですね、まずは井上智徳さん著の「CANDY & CIGARETTES2巻」からまいりましょうかね。じつは1巻を読んだときに、おもしろいよーって言うの忘れてたやつです。レオン好きにはたまらん少女×暗殺者モノですね。あんまし萌え萌えしてないですし、童心を忘れないおとな風味のビスコみたいな趣があります。ビスコのイチゴ味、好きなんです。ビスコしってる? グリコのお菓子で、ショタかロリかの区別のあいまいな子どもがお菓子齧ってるマークのあれです、あれ。おいしいですよね。おなじくらい「CANDY & CIGARETTES」もおいしいのでね。ぜひ一口齧ってみてほしいなと思います。少女が殺し屋ってなんかそれだけでワクワクしますよね。なんでじゃろ。あーい。つぎはですね、佐藤洋寿さんの漫画「屍牙姫」です。以前ここで取り上げたときにつけたキャッチコピー、「リアル姉なるもの」って案外かなり的を射ていたのではないかと思うんですけど、いかがか。美輪子さまにいくひしもつかえた~い、ってなる。口のまわり血で汚して、べろべろ舐めまわされたーい、って、こういうこと言ってるから耳塞がれちゃうんですよね。はんせい、はんせい。キモくないよ。だいじょうぶだよ。げへへ。吸血鬼モノで眷属が主人に反抗的な物語ってなると、西尾維新さんの傷物語を思いだしますね。どちらもおもしろいところが共通点です。次巻が楽しみです。はい。本日さいご、トリを飾りますのは、高橋慶太郎さんの新作「貧民、聖櫃、大富豪2巻」です。ソシャゲをしないいくひしだからかな、ちょっと物足りなく感じるのは、かの名作「ヨムルンガンド」や「デストロ241」を生みだした高橋慶太郎さんへの期待値の高さの裏返しだと思ってほしいですね。おもしろいんですよ、おもしろい。ぜんぜん退屈にならない、まばたき忘れちゃう。でもなんかこう、んー。うまく言えないんですけど、「ヨムルンガンド」や「デストロ241」の実績をしっているから、きっとのこのあとシリーズがつづけばものすごいことが起きるんだろうなーっていう類推があって、おもしろーい、ってなる部分が大きんですよね。じっさい高橋慶太郎さんの作風として、ゴールを設定して、そこから逆算で物語をつむぐタイプの作家さんだと思うんですよ。だからこう、いまはまだ積みあげてる最中なんだろうなーっていうワクワク感がプラスされて、ようやくおもしろーいってなる感じ。だからたぶん、いくひしが「ヨムルンガンド」や「デストロ241」を読んでなかったら、買ってなかったタイプのマンガですし、ひょっとしたら1巻の時点で購読をやめてたかもわからない。ちょっと辛口ですかね。でもそれだけ期待値が高いわけですよ。で、じっさいつまらなくはない。でもいまのところは、まだキャラクター紹介どまりな感じがします。むつかしいことをやろうとしているなーってのもありますしね。ただいくひしの想像上の高橋さんだと、わりと読者を一歩くらい置き去りにして話を進めていくスタイルだと思っていたので、あべこべになんかこうー、親切すぎる感じがするのかな? もっとはっちゃけてもらってもいいんですよ? みたいな戸惑いがある。編集者、読者をバカにしてセーブかけさせてない? 経済の話するからって、読者がついてけないと思ってない? たぶんそういう、「らしくなさ」が引っ掛かってるのかなーとは思います。おもしろいんですよ! 十巻くらいまとめて読みたいマンガです。お? お? なんだなんだ、プロの作家さんの物語に言いがかりをつけてないでまずはおまえが物語れよ、という声がどこからともなく、鼓膜の奥底にて聞こえてきたぞ。でもいくひし、プロみたいに読者に待たれてないし、締め切りなんてないし、好きにさせてもらう。でもそろそろ新作結びたいなー。はやく閉じてしまいたいなー。思うだけで、まったくがんばってないいくひしさんがおる。オチ? ないよ。なに言っての。甘えんじゃないよ。いつもオチがあると思ってたら大目玉だからな。怒るからな。オチなんかなくともいいんじゃ。きょうはおしまい。こんな駄文つむいでる時間ないの! わかって! ふんだ。なんちゃって。ね? じょうずでしょ? 機嫌を損ねたフリして話をうやむやにするの。いくひし、プロですから! その道の!!
952:【出版社がすべきこと】
初版発行部数が減少して、現状、数年前の半分とか、三分の一とかになっているそうです。しようがないと思います。部数が低くとも利益を出せるようにしていくほかに出版社がこれからの社会で生き残っていく術がないからです。もうすこし言うと、今までのやり方が少々お粗末というか、杜撰だっただけなのではないか、と思います。とはいえ、部数をすくなくする代わりに、出版社は漫画家のアシスタントをきちんと雇ったほうが、このさき、漫画業界の衰退に歯止めがきくようになるかと思います。漫画家がアシスタントを雇うのではなく、出版社がプロとしてアシスタントを雇う。まずは漫画家は任意の出版社とアシスタント契約をし、現場で修行を積みながら、デビューを目指す。或いは、下積みなしに新人賞からデビューするのもありだし、WEBから人気を博して、という道もあっていい。とにかく、いまあるような漫画家が現場のすべてを負担するやり方は、出版部数が減っていくこのさき、破たんする未来しか見えてこないのではないかと思うのですが、いかがか。デビューできなくともプロのアシスタントとしての道があれば(現状すでにプロアシスタントはいるが一部では不十分だし、その雇い主が漫画家では成り立たなくなっていくという意味で、プロのアシスタントが一般的になれば)、漫画家を目指す者は減らないだろうし、アニメーターやイラストレーターなど、ほかの仕事も斡旋すれば、出版社にも直接の利がでてくるでしょう。じっさい、話にでてこないだけですでにそういった出版社が現れているのではないか、と想像するしだいです。文芸? 文芸はそうですね、どうでもいいと言いたいところですが、ともかく、きちんとおもしろい(新しい)小説を世にだすことが先決なんじゃないですかね。プライド(権威)ばかりが先行していませんか? といくひしは書店さんの新刊コーナーを眺め、思っております。需要を見据えているのだというのなら、きちんと、売れるものを売ればいいのに、と思うのです。需要があるのに、これはいやだ、ということで取捨選択しているように映ります。或いは矜持があるのなら、きちんといいものはいいと信じて、冒険していただけるとうれしく思います。(こういうこと言うから干されるのだ)(「「「はぁ? 実力ないだけやろ」」」)
953:【忘れがち】
世のなかの過半数の人々は文章を打ったり読んだりするよりもしゃべるほうが楽なのだ。AIスピーカーは流行らない、と踏んでいたが、それはいくひしがしゃべるよりも文字で情報伝達したほうが楽だからであり、大多数の人々はそうではないのかもしれない。AIスピーカーがスマホと連動し、画面に浮かべた文字や記号に応答して情報提供や仕事をするようになれば、AIスピーカーはもっと世の中に広く普及していくのではないかと思っている(AIとラインをするような感覚だ)。どうなるだろう。
954:【煽っていくスタイル】
物語の構造の複雑さは、展開の軽快さでカバーできる。つぎつぎに目まぐるしく目の離せない場面がつづけば、それら点の集合がモナリザを描きだしていたとしても、よしんば核融合炉の設計図を描きだしていたとしても、その結末にすら感動できる。複雑さを否定すんじゃねぇ。複雑さを否定すんのは世界を否定すんのと同じことだ。技術が未熟なのを複雑さのせいにしてんじゃねぇ。
955:【たとえとどかぬ旧繁華街エンゲージ】
おこんばんみ。いきなりでごめんだけど、さいきんの悩みを聞いておくれ。けっこう前、それこそ数年前からなんですが、この時期、寒くなるとそとにでて自転車こぎこぎするととたんに鼻水がじゅるじゅるになるんですよ。花粉症とは無縁のいくひしさんなのですが、この時期ばかりは常時鼻すすりマシーンになってしまう。ポケットティシューが手放せない。なんだったらトイレットペーパーを持ち歩きたい。寝起きとかもけっこうひどくて、ちたない話でもうしわけないんだけど、すすったジュルジュルで喉の渇きを潤せるくらいのジュルジュルなわけですよ。で、ことしはいつもよりひどくて、さすがにちょっと不安になるというか、蓄膿症とかになってたらこわいじゃん? で、ネットでちょちょーいと調べてみたら、なんと!? 寒暖差アレルギーみたいなものがあるらしいことをしったわけですよ。内容ははしょりますけど、要は、気温の差があると鼻水じゅるじゅるになりますよーって症状で、要因としては不摂生な生活なのだと。自律神経が乱れているのだと。はあはあ。なるほどなるほど。心当たりがありすぎる。対策としては気温の差を感じないようにマスクをするだとか、生姜を食べるとか、食生活、睡眠サイクルを整えるとか、まー、書かれていたので、きのうからやってみたんですよ。効果抜群。まずね、マスクというか、ネックウォーマーで鼻まですっぽり覆ってみたら、かなりいいですね。たんじゅんにあったかい。で、生姜はですね、市販の抹茶葛湯を飲みはじめまして、生姜湯もあったんですが、抹茶味のほうにも生姜が使われているらしく、甘酒味のもありまして、白湯の代わりに飲みはじめました。元から好物というか、割高なので購入を控えていただけで、飲めるなら毎食でも飲みたい。で、まー、鼻じゅるじゅるに耐えているじぶんへのがんばったねーってことで、飲みはじめたんですけどね。おいしいよね。効果抜群。七割くらい鼻すする回数減りました。ただちょっとこんどは、身体の調子が整ったからなんですかね、はりきりすぎて腰が痛い。何をはりきったんだってのは、野暮なので言わないでおきますけど、まー、世のなか、うまいこといかんですな。はい。きょうはですね、まずはtMnRさんのマンガ「たとえとどかぬ糸だとしても2巻」です。1巻は基本的に妹ちゃんの視点だったんですけれども、2巻はオムニバス形式じみていて、個人的には2巻までは妹ちゃん視点で物語を進めてほしかったかなーと思ってしまった。で、なんだか全体的に不穏な気配が漂っていて、ネトラレだけは嫌だ、ネトラレだけは嫌だ、って念じてたら、スリザリーン!!!みたいなね。そうなりそうでこわいなーって思いつつ、読了しました。マイナス要素ばっかり並べてるように思うでしょ? ところがどっこい、言うの忘れてましたけどこれ、百合マンガなんですよ。もうね、それだけでおいしい。ただやっぱり妹ちゃんの気持ちをいくひし(読者)はしってるわけじゃないですか。それなのに何も知らずにあのひとはもう、みたいなもどかしモキュモキュしてしまう。1巻は割ともどかしきゅんきゅんしたんですけど、2巻はモキュモキュしてしまった。甘くみていたぜ。ビターでおとな味だったとは。モグモグしたらあっという間に底をつく、ぜひぜひもうすこし大量に摂取させてほしい。次巻、楽しみです。あーい。つぎはですね、ためこうさん著の「旧繁華街袋小路」ですな。BL漫画です。ためこうさんのマンガ、けっこう持ってます。見かけたら条件反射で買ってしまう。で、結論から言いますと、よい買い物だった。死んだ姉の代わりに、姉の婚約者と逢瀬を重ねる。もうね、これだけで脳内麻薬分泌されますよね。ほらあれ、成人向け漫画家さんの「しまじ(カンナビス)」さんいるじゃないですか。似たような題材のマンガ描かれてましたよね。「少年コレクト」ってやつ。ああいうの、すごい好きなんです。旧繁華街袋小路はですね、男の娘じみた少年だけでなく、相手の男のひともよいのですよ。姉の代わりになってあげたくなる気持ちが解ってしまう。解ってしまうのもどうかと思いますが、解ってしまうのだよ。あっちとこっちで二度美味しい。オネショタじみたよさがありますね。ためこうさんにはぜひともこんごとも美少年を描いていってほしいな、と新しい楽しみができました。よかったよかった。ん? なに? へんたい? だれが? いくひし? ふーん。うっせ。はい。本日さいごになります、三本目はキマしたね、「終極エンゲージ3巻」です。原作江藤俊司さん、漫画三輪ヨシユキさんのコンビが描く、宇宙花嫁大決戦モノです。ことしの、いくひしこの漫画がすごいで賞にノミネート中の、本命ですね。かってにつけたいキャッチコピーは「つよい花嫁は好きですか?」です。すきですよ。そりゃーねぇ? つよい女のひと、だいすきです。ヒロインのカルキも好きなんですけど、現女王の種族、目が黒塗りの戦闘民族さんたちがものっそいドツボです。最後のページは、新キャラ目白押しで、なかでも褐色系女子と、ツノ生やし系女子がいたのが、わかってるなーこのひとって、なって印象値千パーセントアップでしたね。帯で冨樫義博先生がコメントしていたりしていて、たしかにレベルEの王子と、主人公が被ってるっちゃ被ってますけど、比べられないくらいに、終極エンゲージはライトでポップなので、どちらかというと、いくひしは終極エンゲージのほうが好みではあります。レベルEはコアなのでね。たぶんいくひし、みんなが崇めてなかったらレベルEを読まなかったし、読んでも、おもんくないってなってたと思います。というか現にいちど、見て見ぬふりをしてしまった。ハンターハンターにはまってからレベルEを読んで、おもろいじゃんってなったひと。見る目なかったというか、基本いくひし、おこちゃま舌ですからね。ビターでおとな風味は、ちょっとよさをしるのに時間がかかる。それもこれも、自律神経が乱れているのが原因なのかな。自律神経というか、自立精神が乱れてるって感じがしないでもないですけども。誰かいくひしのこと飼ってくれないですかね。おかえりーと、いってらっしゃい、と、いっしょに寝て湯たんぽ代わりになるくらいはできますけどね。おトイレひとりでもできますよ? ペットとしてはなかなかじゃろ? 飼い主絶賛募集中です。わんわん! 骨の髄までしゃぶりつくしてやる~~~!!! はい。オチが思いつきませんでした。寝る。
956:【不滅のトーチエンド】
もやし~~~! あーい、みんな元気かな~~? いくひしはめっちゃげんきないぞ~~~なんかめっちゃ寒いし、目のしたのクマひどいし、体重減りつづけていそがしいし、二週間前までちょうどよかったデニムがダボダボになってしまった。言うても、増やした体重が元にもどっただけのことではある。半年かけて増やしたのに、元に戻ってしまった。何の話だっけ? そうそう、もやしだよもやし。安くて美味くて、栄養価高い。いい食材。ゴマ油で和えるだけで美味しい。なんだったらゴマドレッシングと絡めたら、それだけでご飯がすすむ。大袋50円で、一食につき半分食べても25円。おとく。なんだったらドレッシングのほうが割高というね。そんなんばっか食べてたら、まー、痩せますわ。美味しく食べて痩せれますわ。ダイエット本書こっかな。もやしを食べて痩せよう!ってだけの本。なんだったらもやし限定料理本とかね。売れるっしょ。予感しかない。ところでみんなはしってるかな? もやしって暗闇で育てた大豆なんだよ、家でつくれそうじゃない? むかしの戦争で、もやしのつくり方が生死を分けた、みたいな話なかった? 敵は飢えて死んだいっぽうで、もやしをつくれたほうは生き残れた、みたいなの。ない? ある? ない? どっちでもいい? 聞きかじりの話より、もやし齧った話がいい? 嘘まじりのいくひしの話には興味ない? ある? ない? え、しつこい? う~ん、きらわないで!!! きらうな~~~、すきでいて~~~、めっちゃすきでいといて~~~。ん? んん? なになに? 元々すきでもなんでもないって? 嫌う土俵にすら上がってないって? へこむ。だからさー、そういうこと言うからいくひしさん、げんきなくなっちゃうんだよ。もうね、いいもん、マンガ読んでげんきだすから。はい。てなわけではじまりました~、いくひし選手のマンガ崩し。積みあげた未読本をまいにち読んでいきますよ~。きょうはですね、大今良時さん著の「不滅のあなたへ5巻」からまいりましょう。イキナリですけどいいですか? 言っちゃっていいですか? 小麦肌女子かわいい~~~!!! ニューヒロインの小麦肌女子ことトナリさん、かわいすぎでしょコレ、いいの? こんなにいくひしのこころを鷲掴みにしちゃっていいの? だめなの? いいの~~~!!! もうね、万事OK! 劣悪な環境下で悪に染まらず、無垢なままではいられない世界のなかで無垢なこころを失わない。きれいという言葉は、そういう泥水に浸かっても消え失せない系女子にこそ使っていきたいですね。女子女子うるさい? 少年でもいいよ。無垢な少年が主人公でもありますからね、きれいなままで、汚くなるくらいなら成長なんてしなくていい、なんて言っちゃう甘っちょろい主人公なんですがね、なんかいきなり美少女とかに変身しちゃったりしてね、うらやましいぞってなるところなのに、でもでも彼が変身できちゃうってことはもうその美少女はって話でしてね、哀しいだけなんです、ほんともう、これが。というかこんだけ濃いのにまだ五巻っていうね。すごいですね。ふつうならこれ、十巻くらいの内容じゃないですかね。半分に濃色されているからこそのこのおもしろさ。見習いたいものだ。6巻、来年の2月に発売みたいです。待ち遠しいですね。はーい。つぎはですね、タカキツヨシさんのマンガ「ブラックトーチ3巻」です。一言で形容すると、「ブリーチ+ナルト+ハンターハンター」って感じです。というかブリーチの作者の新作ですって言われたら信じてしまいそうなくらい、絵が独特で、うまいです。敵の親玉っぽいのがようやく姿を現したんですけど、クロロかよってなる。ぜんぜん不快じゃない。ワクワクするやつ。でも一巻からすると、ちょこーっと女の子成分が低めになりつつある。代わりに美青年が多くなってきていいぞもっとだ、ってなる。あとやっぱりいくひし、スーツの似合うお姉さまがすきだぞって再確認した。ほらあれ、東京グールのアキラさんいるじゃないですか。ああいうの、いいですよね。スーツ着ててなおくびれがあるとかもはや人間じゃない体型、憧れます。ブラックラグーンのバラライカの姐御とか、くぅー、ってなる。ならない? なって! あと忘れちゃならないのは、このマンガ、猫が準主役なんですよね~~~クロネコ。口がわるいねこ。見た目かわいいのにかわいくないところとか、某にゃんこ先生を彷彿とします。クロネコだけどね。新刊、楽しみにしているマンガです。あーい。本日さいごの締めはですね、中川海二さんの「ルートエンド3巻」です。まずはですね、前回いくひし、ルートエンドのことルートダブルって呼んでました、すみません。言いわけなんですけど、これね、「いくひ誌。」はね、もう一発書きっていうか、何も見ないで、ただ頭によぎったことをそのまま何も考えずに並べてるだけなのでね、ハンターハンターで言うところの「天使の自動筆記(ラブリーゴーストライター) 」ですからね、何も見ず何も考えずとか言ったばかりでもうしわけないんですけどね、ハンターハンターのくだり、今ちょっと検索して記憶力のわるさを補完しちゃいましたけどね、えー、そのですね……あんましいくひしの言うことは真に受けんじゃないぞ! どんどん予防線貼ってこ。はい。何の話だっけ、そうそう、ルートエンドですよ、ルートエンド。殺人鬼を追う女刑事さんがかわいいってだけの話じゃないんですよ、ちゃんとドラマがあるんですよ。でも女刑事さんがかわいいんですよ。もうね、それだけでいい気がしてきました。いくひしもね、人違いですよね、とか言われながら抱きつかれたいですよ。涙目で、違うと言って、と祈りながら抱きつかれたいですよ。ひとの死んだ部屋でですね、セックスとかしちゃいたいってところまでを言っちゃうともう、ただのヘンタイですからね、言わないでおきますけども、ルートエンドでは人の死んだ部屋でセックスするバカップルがでてきます。不謹慎ですからね、いくひしはそこまでは望まない。部屋はどこでもいいです。青い缶ビールとかは守備範囲外なので、野外は嫌です。きちんと部屋で、ふたりっきりで、あたたかいベッドのなかでぬくぬくうふふがいいです。手とかタオルで縛って、目隠しとかされて、かるく耳とか塞がれながら、ただ身体を密着させて、とくに動かずに、ぬくもりを感じあえたら、それだけで充分きもちがグッドです。何の話かって? ルートエンドの話だよ! 傷口にぴったり~ってそれはバンドエイドだよ!!! はい。妄想のなかではテクニシャン、イヤーミドルエイジウーマンです。英語で言ってみた耳年増。念のため。え、なに? あーはいはい。えーとですね、なんかそろそろオチの時間らしいのでね。あー、はいはい、わかってますよー。もやしに繋げりゃいいんでしょ? んームリじゃない? いやだってねぇ? ここからもやしとかムリじゃない? できる? あなたできる? ムリでしょ? 自分にできないことをひとさまに期待するのよくないよ、べつにいくひし、プロでもなんでもないですからね、お金とかもらってないですし。なんだったらいくひしの値段タダですし。いつでも無料。お好きなときに、お好きなだけどうぞってな具合で、商品価値ゼロですから。もやしにすら負けてますからね。五十円どころの話じゃない。消費税すらつかない。消費されない。もやしどころの話じゃない。もやしどころの話じゃない? もやしどころの話じゃな~い! 戦争の勝敗を左右するもやしさまと比べるのもおこがましい存在、それがいくひしです。どう? 卑下にも磨きがかかってるだろい? げんきがねーのじゃ。もやし~~~!!! もやし!もやし!!もやし~~~!!! どう? テンションで誤魔化してみたけどどう? ゴマかけてみたもやしくらいには誤魔化されてる? ゴマすらちょろまかされて素のもやしだけみたいになっちゃってる? 茹でてすらない? あ、そう。生のもやし? うまいの? なわけないじゃんね。でも、きらわないで。すきじゃなくていいからきらわないで。でもすきでいてくれたらうれしい。すきって言ってほしい。いくひし、こんなにすきなのに。もやし。うまいよね。値段があがってるらしいけど、もすこし高くてもいいですよ☆
957~960:【字数制限】
近況ノートだとこれ以上文字がつむげない。
961:【957~960の補完】
957:【やる気】
ディビさんの描き込み方が異常。アシスタントっているんですかね。あのレベルですでに単行本二冊分の原稿溜まってるって鬼か何かなんですかね? いくひしがチマチマやってるうちに、だいすきな作家さんがものすごい勢いで成果物をあげている。何より作風の幅が広い。やる気でる。とぅき。
958:【かっこいい】
椎名林檎さん、かっこいい。ディビさんと椎名林檎さんは、いくひしのなかで同じカテゴリです。すきとあこがれと同志、みたいなのがごっちゃになってる。そばにいなくていい、ただそこにいてくれたらいい、自分の世界を絶えず変形しつづけ、その中心にいつまでもいてほしい、あなたがいるところが世界の中心、みたいなのがかっこいい。すき。
959:【シンメトリィ】
利き手でできることを、逆の手でもできるようにする。ただそれだけのことがむつかしい。
960:【イメージ取り】
脳内に展開したイメージをクリアにするには、いちど現実に出力し、デキソコナイの部分を見定め、修正することでしか、適わない。考えたら、まず、やってみる。かんたんなようで、むつかしい。
961:【体感】
体感時間を意識することが重要だ。身体に流れているじっさいの時間との差異を失くすように意識する。速すぎてもダメだし、遅すぎても余計なチカラを費やしてしまう。リズムを意識するだけでは足りない。リズムを時間の流れに乗せてあげる。ただそれだけのことがうまくいかない。
962:【マンガ以外の読書】
マンガばっかり読んでるように思うでしょ? 真実そうなんですけど、いちおう小説や新書も読んでたりしてて、小説の場合はおもしろいのしか基本買わないので、感想書いてなくても、購入した時点でそれはもうおもしろいって決まってる。悔しいので感想書かないだけです。ちくしょー。で、新書のほうは二十冊くらいをチマチマと読み進めてて、ひとり回し読みじゃないけど、まいにち違う本をチマチマついばんでいるいくひしさん、なんだか小鳥みたいでかわいくない? かわいいかわいい。誰も言ってくれないからじぶんで言っていくスタイル、なんて傲慢なこと言ってて聞いてくれるリスナーいる? この世のどこかにゃいる気がする。ハロー、ハロー。今は夜でレトルトカレー食べながらこれ打ってます、そっちはどう? カレーの匂いする? そんなに近くにはいない? 思うんだけど、あなたはいくひしのことを何もしらないと思うのね。顔とか、性別とか、年齢とか、どこに住んでいて、どういう生き方をしてきたのか、とか、何もしらないと思うのね。いくひしも同じで、あなたのことは何もしらないし、しりようもない。だからこそ、こうやってただいっぽうてきかもしれないけど、言葉を介して繋がれることがあるのって、なんだろ、すっごいステキなことだと思わない? いくひしは宣伝とかそういうのをしないでしょ。やり方をしらないだけなんだけど、でも、宣伝をしないで、ほんとうにただ偶然に身を任せて、その任せた偶然が運んできてくれるあなたみたいなひととこそ、いくひしは文字や物語をとおして繋がりたい。ハロー、ハロー。あなたはどこで、なにをしていますか。これからなにをして、どこにいきますか。きょうはマンガはお休みです。物語のつづきに旅立ちたいから、あなたといっしょに旅にでたい。今この瞬間を、未来のあなたと共有できる、そんなすてきな旅路があるのだから、タイムスリップなんてかんたんさ。文字を並べて、ネットの海に放流すると、どこかでいつかのあなたが手に取るの。あなたのなかに芽生えた世界が、今この瞬間の〈ぼく〉と繋がる。ハロー、ハロー。きょうはどんな夢にでかけますか。
963:【銀河の中心には】
理屈のうえでは、銀河の中心にはブラックホールがあると考えられている。ブラックホールにガスや星屑などが落ちることで降着円盤とジェットが光を発する。それらを総括して、活動銀河中心核と呼ぶ。しかしガスや星屑がブラックホールに落ちるためには、外的な因子(相互作用)が必要である。地球が太陽の周りをぐるぐるしつづけるように、ブラックホールもただそこにあるだけならば、物体が絶えず落下しつづけることはない(ほかにも輻射圧が要因にある。エネルギィを放出するため、周囲にあるガスなどの物質を吹き飛ばしてしまうのだ。重力が輻射圧よりつよくないと、「餌」となる物質がブラックホールの周囲に存在できない)。だから基本的に、活動銀河中心核、なかでも降着円盤が生じるためには、外部のちからが必要になってくる。ではそれはなにか、というと、ほかの銀河との相互作用である。銀河の近くを銀河が通過すると、銀河同士が引き付けあい、ときに衝突する。しかし銀河は、その全体像からするとそれを構成する星々は限りなくちいさいため、物理的に衝突することがなく、部分的に融合したり、そのまま通過したりする。さながら渋谷スクランブル交差点である。そうしたとき、ブラックホールの周囲をぐるぐる規則正しく回っていたガスや星屑が軌道を乱され、ブラックホールに引きずりこまれていく。基本的に、クエーサーのようなものすごく明るい天体の中心には、巨大ブラックホール(二つ以上のブラックホールが融合したもの)があると考えられている。この理屈が正しいとすると、単体の質量のちいさなブラックホールでは活動銀河中心核が生じないため、ブラックホールがエネルギィを解放することもなく、観測のしようがない(ブラックホールを周回する天体の軌道を観測することで、ブラックホールの存在を間接的に確認することは可能だ。また、重力波を観測できれば存在の証明になり得る)。ちなみにブラックホールに物質が落下し生じるエネルギィは、宇宙のなかでもっともエネルギィ解放効率が高い。すくなくとも物質の10%がエネルギィとして解放される。最大では40%をエネルギィに変換可能だ(この差は、ブラックホールに回転しているものとしてないものがあるためだとか)。エネルギィ解放効率10~40%がどれくらいすごいかというと、ガスや化石燃料を燃やしたりして取りだせるエネルギィは物質の静止質量比でおよそ100億分の1である。概算で、燃焼反応の最低でも1000億倍のエネルギィをブラックホールは同じ物質から取りだせることになる。また、太陽の核融合反応の場合、エネルギィ解放効率は140分の1だ。現在、原子力発電に代わる技術として核融合炉が実験段階にある。原子力発電の場合は1000分の1なので、大幅なエネルギィ効率向上に繋がる。安全性も、原子力発電より核融合炉のほうが高いと評判だが、個人的には懐疑的だ。原爆と水爆の違いのように、核分裂と核融合では、そこから生じるエネルギィ量に差がある。桁違いに核融合のほうが高い(単純に静止質量比で七倍だ)。また燃料として水素を使用するため、核融合炉が安全かというと、疑問が残る。ただし、ウランなどの放射性物質を使わないので、原子力発電につきまとう、放射性物質の拡散という問題は、核融合炉では発生し得ないという点では、安全であると評価できる。いずれにせよ、人工ブラックホールからエネルギィを取りだせるようになれば、人類はエネルギィ問題に頭を悩ませることは金輪際なくなるだろう。ただし、生じたエネルギィで地球まるごと吹き飛ぶ未来しか見えてこない。もろ刃の剣(つるぎ)ならぬ、モロ破滅の儀である。
964:【階層構造】
AIの階層構造と、いくひしの提唱する小説の多重構造は似ている。等高線を眺めて山のカタチを立体的に思い浮かべるように、多重構造は、複数の絵巻物を立体的に組み合わせ、最後にそれを輪切りにして金太郎飴さながらに断面を一枚画とする、みたいなつくり方をしている。最後は、ひとつの絵巻物のようになるが、それをつくるためには、複数の絵巻物が必要なのである。一枚の写真を眺め、立体に感じさせるだけならばむつかしくはないが、観測者にフレームのそとまで想像させられれば、つくり手としてさらなる進化が期待できる。
965:【まーた言ってら】
なーにが多重構造だ、うそくせ。
966:【ミステリ】
ミステリ小説を読んで、これは論理パズルだ、と思ったことがない。推理のおもしろさを感じたことがない、と言葉を換えてみてもよい。登場人物のなかに必ず犯人がいるのならば、誰が犯人であっても意外ではないし、どういう理由で犯行に及んだのか、どうやって実行したのか、なんてことも、種を明かされたところで、へぇ~、となってしまう(感心はするが、感動はしない)。では何を真相とすればおもしろくなるのか。問うべきはそうではない。なぜなら真相を物語のキモに置く時点で、おもしろさを感じないからだ(譬えとしては不適切だが、たとえばマジックは種を見破ることがキモではない。小説も同じだと感じる)。いくひしは、真相というものに興味がないのかもしれない。それよりも、物語としての構造、人物や会話や描写や独白などが、過程を経て、密接に絡みあい、ひとつの全体像を浮びあがらせる回路が、きれいにすべて繋がったときに、はひゃー、となるのである。なぞなぞをおもしろいと思ったことがないのと似ているかもしれない。なぞなぞを解くよりも、なぞなぞをつくるほうが楽しいし、そのなぞなぞはどういう発想を経て生まれたのか、その思考の道筋のほうに興味が湧く。「発想の道筋」と「推理」との違いは、発想には、これといった、たった一つの筋道がないことだ。幾重にも絡まった線が、ひとつの全体像を描きだす。点と点を結びつけて一本の線を引く推理とは別物なのである。ミステリ小説のなかにもそういった「錯綜する線」の描きだすスチールウールじみたワクワクが詰まっている作品はすくなくない。ただしそれは、ミステリというジャンルとは関係性が薄い。いくひしは物語が好きである。
967:【肝要】
寛容とは、存在の許容である。肯定できずともそれの存在する余地を許容する。否定してもいいが拒絶してはいけない。拒絶する勢力をも拒絶しない。そういう厳しさを併せもつ。いいね、ばかりのある世界が寛容なのではない。そこが肝要。
968:【欠点】
多重構造の欠点は、その緻密さゆえに改稿がきかない点である。一つの場面を書き換えただけで、全体の姿が大きくゆがむ。多重構造は複雑系そのものであり、より現実の世界にちかしい性質がある。ただし、現実では微小な変化は、大きな渦に呑みこまれ、なんの変質も与えないことが往々にしてある。そういう意味では、ちいさな変更は可能である。
969:【つくり方】
多重構造のつくり方は単純だ。一、まったく異なる物語を二つ以上こさえます。二、任意の物語をひとつ選び、それを舞台として規定します。三、舞台の主人公の周囲に点在する登場人物を、さきに用意していたほかの物語の主人公格に置き換えていきます。するとどうでしょう、予想もし得ない物語が新たにそこに幕を開けます。マーベル系の映画がヒットを連発する理由は、基本的にこの手法にちかいやり方で脚本が手がけられているからだろうと妄想するものである。また、「涼宮ハルヒの憂鬱」は多重構造の基本形として参考可能である。主人公がモブ系という点も、多重構造の要素を備えている。(比較的単純な多重構造がこの、置換型である。置換型はリボンを束ねるようなもので、金太郎飴のつくり方に似ている。難しいのは、図形型である。複数の物語が交差する一点でのみ重大に関わってくるため、一つの点がずれただけで、すべての線を構成し直さなければならなくなる。接着剤を使わずに爪楊枝を立体的に編むようなものである。むつかしい分、おもしろい)
970:【作家のすべきこと】
編集者の仕事の負担を減らすことは、業界全体でプラスに働く。作家はまず締め切りを必ず守る、ということを徹底する必要がある(無理なら仕事を引き受けるべきではないし、無理な締め切りを設定すべきでもない)。これだけで編集者だけでなく業界に携わる様々な職人の手間を削減できる。また、締め切りを破ったら報酬の10~50%をカット、原稿をオトしたら違約金を支払う契約を初めから結んでおく必要がある。同時に出版社は作家へ依頼した時点で、報酬を支払う契約を結ぶ必然性が生じる。出版できなくとも「作品を生む」という労働への対価は支払われるべきだろう。ただし作品の著作権を一定の期間、完全に版元へ譲渡するような契約内容になるはずだ。その間に、その作品のアイディアをほかの作家の作品に流用されても文句は言えなくなる。ともかく作家は締め切りを守ることを徹底すべきである。そこを是正しないかぎり、編集者の働き方は変わっていかないだろう。プロはプロらしくあってほしいと願うものである。
※日々水分が蒸発し、補充したさきから排出する、ただその繰りかえし。
971:【うらたろうが聴こえ飛んだエロ】
ウーロン茶うまい! はーい、みんな元気してた? いくひしはねぇ、もう一人のいくひしにえっらい怒られてしもうて、こってりしぼられてん。もう出ない。脂汗一つでない。なんで怒られたかって? 新作つむいでないからだよ! もうちっと言うと、いくひしが新作サボってるあいだにマンガばっか読んでるでしょ? もうね、いい加減にしろと脳内にいるもう一人のいくひしさんにこってり怒られてしもてん。はいはい、わかっておりますよ、脳内っておまえ、それけっきょくひとりやん、って言いたいんでしょ? でもさあなた、腕が一本しかない人に、おまえ腕一本やん、って言います? 鼻の穴が一つしかない人に、おまえの穴もひとつどこいったん言います? 言わないでしょ? 言わないで! 言ってもいいけどやんわりして! はい。もうね、こういう傲慢なところからしておまえはダメなんだと説教をいただきまして。言い方にさえ気を払っていればべつに指摘することはわるいことではないのにね。謙虚って何ですの。傲慢のマンはいくひしまんのマンなのに。……ちがうって言え! もうね、なんか一周回って傲慢でいい気がしてきた。改名してきょうから「いくびしごうまん」にしよっかな。なんか長いから「びしごう、まん」にしよっかな。思いのほかかっこいいぞ。ローマ字で書くと「BISIGOMAN」で、「ビー・イズ・アイ・ゴー・マン」でなんとなーくそれっぽい英語になりそうな気、しない? だめ? ほんと英語壊滅的にダメなので、ダメならダメって言って。あ、やだ、やっぱなし、言わないで。耳塞いじゃう。こわいこと言うのなし。こわいものナシなのはルフィくらいでいい。モンキー・D・ルフィくらいでいい。麦わら海賊団並の度胸なんてないし。でもひょっとしたら「びしごうDまん」にしたら、度胸がつくかもしんない。したら「BISIGODMAN」で「ビー・イズ・アイ・ゴッドマン」になる。釈迦っぽい。なんかつよそう。傲慢の塊にはぴったりの名前じゃない? え? もっと謙虚になれって? うっせ。いくひしはねー、ウーロン茶ごくごくしながらベッドに寝っころがってマンガをむしゃむしゃ貪りたいのじゃ。邪魔をするのはよすのじゃ。ウーロン茶がダメならココアでもよいのじゃ。ヴァンホーテンのココアがよいのじゃ。のじゃロリ狐おじさんの真似なのじゃ。某ヴァンてんてーのツイターでしったのじゃ。ヴァンてんてーがツイター復活してくれてうれしいのじゃ。ついでに言うと、こるものてんてー、がんばってほしいのじゃ。どっちも本、一冊しか買ったことないけど。余計なこと言うなって? 途中まではよかったって? そこはかとなくいい人ぶってた? 釈迦っぽかった? うんて言え! 傲慢なんじゃ。はーい。てなわけで伏線仕込むの、もういい? ではでは、三日ぶりのマンガ披露宴、はっじまるよー。では一冊目からまいりましょうかね。ちょっきし前置きが長かったので、サクサクいきましょー。中山敦支さんの「うらたろう6巻」です。桃太郎を題材に、大河ドラマ風味の和風ファンタジィですね。今回で最終巻なんですよ。ホント、柴田ヨクサル先生の「プリマックス」や「妖怪番長」でも思ったんですけど、え、これで終わるの、ちゃんとお話たためるの、ってのをきちんと折り目正しくたためるかどうかがプロかどうかの境目だと思うんですよ。その辺、柴田ヨクサル先生はホントすごいと思います。で、うらたろうはどうだったかって言うと、しょうじきちょっと物足りない感じがしたわけですよ。打ちきりなのかな? と思ってしまうくらいには、予定とはちがった路線だったのかな、と思ってしまう終わり方だったんですよ。でもね、1巻から読み直してみたら、その展開の早さ、物語の濃さに、おめめテンになっちゃいました。これね、6巻とか銘打っちゃうからよくないと思うんですよ。丸ごと一つの作品と見たときに、うらたろうという一本の物語、たとえばこれを映画にしてみたら、ものすごくおもしろくなる類のやつです。中途半端に一冊、二冊、と評価していくと、うーん、と腕を組みたくなってしまうんですけど、でも一気読みしてみ? あはーん、ってなるから。はひゃー、とはならなくとも、あはーんってなるから。無駄がない。ねじまきカギューからのファンとしては、しょうじきもうちっと長く読ませてほしかったんですけど、中山敦支さんらしい畳み方だったなと。けっしてうまくはないんですよ。だってうまいってのは要するに、市販のカレールーみたいってことでしょ? いくひしは中山敦支さんの味がすきで、だから中山敦支さんっぽく終わってくれて、つぎも読みたいなーって気になるし、そういう待つ楽しみって、物語をうまくたたむだけじゃ醸しだせないんですよ。いやほんと。柴田ヨクサルさんの畳み方もおなじで、けっしてうまくはないんですよ、言ったらめちゃくちゃ強引。でもその強引さが、心地よい。力でねじ伏せられたい欲求ってやっぱりあるじゃないですか。すきなひとには、多少強引に貪ってほしいわけですよ。なんの話かって? 物語の畳み方だよ!おまーせさん!! はい。うそは吐きたくないのでね、なんで終わっちゃうのってね、気に食わないところは言っていくスタイルは崩さないでいこうと思います。新作、楽しみにしてます。つぎはですね、文乃ゆきさん著の「ひだまりが聴こえる~リミット~1巻」です。BLマンガですけど、爽やかなヒューマンドラマでもありまして、いくひしまんとしては、ひゅーひゅーと冷やかしたい心地になります。ひゅーまんでかけたけどわかった? 今作はシリーズものの第二弾(?)で、主人公が大学を卒業し、就職したあとの世界ですね。いいですねいいですね。主人公とヒロイン役(?)のあいだに微妙なヒビが生じて、双方にそのヒビを拡げるくさび役が現れる。くさびってのは「割る」と「繋ぐ」の両方の役割があるんですね。そういう意味で当て馬とくさびは似ていると思います。さらにはふたりのあいだを取り持つ女性キャラにも新たな進展がありそうな気配で、はいこれ、いくひしが好きな多重構造ものの気配が濃厚です。仕事×恋愛×トラブルがそれぞれに連鎖していく海外ドラマ風味のやつ。一層目での解決が二層目の問題へと通じ、さらなるトラブルを誘発していくやつです。同時に、大きなトラブルを解決することで、その経験を通じて身近な人物関係の修復を行う。うまいですよね、構成が。もうかんぜんにBLマンガとして読む気ない。上質な物語だと思います。ただいくひし、ヒロイン役の男キャラ、無駄にイケメンで性格がよいのでね。ケってなる。甘いマスクには裏があってほしい。だってそうじゃなきゃ、いくひしの立つ瀬ないじゃーんってね。ねたましい、無駄に張りあっていきたい、ヒロインに。字余り。本作の主人公、太一、めっちゃかわいいんですよ。タイプです。あーい。つぎはですね、さいごになりました、なかとかくみこさんの短編集「飛んだピエロ」です。なかとかくみこさんは「塩田先生と雨井ちゃん」の作者の方です。しってます? 女学生と先生の爽やか恋愛ものでして、等身大の「大人に恋する女の子」って感じがして、読んでると、あーいるいるってなる。あーそうそう、ってなる。ふつうはね、おとなが女学生に手をだすなんてふざけんなって本を持つ手がぷるぷる震えてくるんですけど、この作者さんのはならないんですよふしぎと。むしろその先生なら好きになるわーってなる。女の子がかわいすぎて応援する気にはなれないけど。ちょっとうまくいかないと、いいぞもっとだ、ってなる。ね? いくひし性格わるいじゃろ? で、今回読んだのは、なかとかくみこさんの短編集でして、これがもう、はひゃーってなる。「塩田先生と雨井ちゃん」の前身となる短編(?)とかも載ってるんですけど、やっぱり女の子がかわいくて、で、ほかの短編も、あーその男に惚れちゃいかんよってのから、あーその男に惚れるのわかるよってのまで、ホント無駄にハラハラする。恋愛マンガだと思うんですよ、ジャンルで分けるなら。なのに無駄にハラハラする。無駄にハラハラするんですよ。無駄に繰り返してしまったけれども、だってハラハラするんだもん。おー、なんだー、文句あんのか。ふっじゃけんじゃねーぞこら。ふっじゃけんじゃねー。傲慢の塊のいくひしさんはなー、拷問にかけられてはえんえん泣きじゃくるノミの心臓なんだぞ。拷問にかけてんじゃねー。死んじゃうだろばかー。痛いのきらい。遺体になるのはもっときらい。ゴール・D・ロジャーになんてなりたくない。大航海時代を切り拓く前に、大後悔するのは目に見えてるし、後悔する前に、豪快に自作を世間に大公開したい。傲慢なくせして肝っ玉がちーせーのーって思った? 思うな! えぇおまえさんはなにかい、目のまえに腕が一本しかないシャンクスがいたとして、おまえの髪は赤いなーとか言っちゃうわけ? ついでのように、その腕どったの、なんて訊いちゃうわけ? べつにいいよ、シャンクスだもの。釈迦より寛大なお心のシャンクスだもの。それくらいで怒ったりはしないだろうけど、でもあなたが言ったのいくひしよ? 傲慢の塊で、拷問にかけてはえんえん泣きじゃくるノミの心臓を持ついくひしさんよ? そりゃ怒るでしょ。こらーって。軽い? 思ったよりノリ軽かった? なら、ゴラーにしておくけど、怒るよ。なんだったら、ゴリラーって言いかえすぞ。あなたのあだ名、きょうからゴリラだからな。いいのか。え、いいの? いやーちょっとやめときなよ、どう見たってそんなに握力ないでしょ、リンゴどころかバナナの皮剥くのですら怪しくない? だいじょうぶ? 代わりにぺろんってしてあげよっか? バナナの皮をぺろろんってしてあげるよ? なんかバナナをぺろろんって言ってると、バナナをぺろろんって舐めてる感じに聞こえない? だいじょうぶ? どんなバナナをぺろろんってしてるのか気になってこない? くる? こない? くる? くるの!? 下手したらいくひし検挙されちゃわない? 連行されたりしちゃわない? ちゃんと説明してよ、言いがかりだって弁解してよ、じゃないといくひし、あなたのこと一生ゴリラって言うからな。傲慢の塊からゴリラって言われるからな。いいのか。いいのーーー??? そこは拒否ってよ、いやって言ってよ、じゃなきゃ引くに引けないじゃんかばかー。なんて言ってるから、いい加減にしろとしぼられるんですよね。バナナジュースでもつくりたいのかな? ゴリラよりもゴラーで済ましたいし、検挙されるよりも謙虚でいたい。どうよ、うまくオチた? はぁ、つかれた。おわり、おわり。お、気が利くねぇなんか淹れてくれんの? そんなそんな、コーヒーなんか面倒でしょ? ウーロン茶でいいですよ。あなたが淹れてくれるだけでおいしいですから。ほんとほんと。いっつもありがとうね。なぁーんて言っときゃいーんだろ! 釈ー迦っっっ!!!
972:【燃料補給】
Best Part of Us _ AmPm feat. Michael Kaneko
973:【脳がとける】
HoneyWorks - 大嫌いなはずだった。
HoneyWorks - 可愛くなりたい
HoneyWorks - 日曜日の秘密
HoneyWorks - 東京ウインターセッション
974:【批判に批判】
批判に対して批判をしかえすのはアリだと思います。ただし、批評ならば批評を、批判ならば批判を返すべきでしょう。例外は、悪口のときです。悪口に悪口を返しては、暴力に暴力で応じるようなものです。差別に差別で返すのも同じでしょう。批判や批評には、相手を底上げする要素や視点が必ず含まれます。悪口や差別にはありません。何のためにそれを口にするのか。まずはそこから見つめ直していきたいものですね。
975:【じぎゃく】
マンちゃんそれ、ぶーめらんであたまスコーンのやつ。
976:【再発防止が重要】
同様の案件がないかを洗いだし、再発防止対策を会社規模、業界全体で立ちあげることが重要です。また、担当編集者の責任ではないことは誰かが声を張って訴えねばなりません。偉大な故人の名に泥を塗りたくなくて暗黙の了解にしていた業界、それからいざとなれば作家側の非(迷惑および詐欺行為)で逃げられると高をくくっていた出版社、あらゆる意味で権威主義(拝金主義)に陥っていたと思います。担当編集者へのケアを怠らないようにしましょう。
977:【はじめよっかな】
ディビさんのつぶやきをいいねいいねするためだけのツイッタアカウントつくろっかな。ヤングコミック、雑誌で買ったことないけど買ってこよ。コンビニで売ってるかなぁ。
978:【こじらせあるある】
こじらせあるあるだと思うんですけど、本当に心から好きになってしまった相手には欲情できない、みたいなのがむかしっからあって、さいきんディビさんの作品にもそれが反映されつつあって、めちゃくちゃ好きすぎてもはやエロアイテムとしての価値が相対的に下がりはじめている感じがすごくする。端的におかずにならない。むしろおかずになりたい欲求がハンパない。ディビさんまじヤバい。めちゃくちゃムズムズするのに魔性すぎて作品通してお預け調教してくる。まじヤバい。
979:【短編集】
森博嗣さんのブログ「店主の雑駁」を読んでいます。12/13日の記事で「短編集は売れない」と書かれていました。あーそうかも、とことしの11/23に参加した同人即売会を思いだしました。短編集「千物語」だけが異様にハケがわるかったのです。ほかの短い冊子も、なかなか最後までハケませんでした。タイトルがわるいのかな、と考えていたのですが、短編集だから、という要因もあったのかもしれません(複数冊あり、すべてに千物語と銘打っていたので、シリーズ物だと勘違いされたのかな、と予想していました)。ただ、電子書籍のKENP(既読ページ数)からすると、短編集が二番目に多く読まれています。おそらく以前、ツイッターで感想を書いてくださった気鋭の成人向け漫画家さんがいらっしゃったからでしょう。感想の影響力は絶大です。短編集が売れないならば、売れる短編集をつくれば、一躍スターですね。まったく別々のお話が、すこしずつ繋がっている。キモはそこじゃないかな、と思っております。
980:【めっちゃ寝た】
文芸とは関係ないのだが、世界一とかそういうレベルの称号を持っているのに、一般的な社会身分が保証されていないので(お金が稼げないので)自分の地位を守ることに必死になっている人間の無自覚な行動原理は、端から見ていておそろしい。何より若い世代が、違和感を抱えながらそのコミュニティに染まり、ボロボロになって消えて(離れて)いく姿には痛ましさ以外の感情が浮かばない。いくひしは眺めているだけで何もしないのだけれど。たぶん、どこにでもそういう流れはできていて、いわゆるそれが社会なのだなぁ。耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らすほかないのだ。いや、そうではないのかもしれない。わからない。
※日々麻痺するためにつづけていく。
981:【そう見えるだけ】
現状、世に溢れている多くの因果関係とは、精度の高い相関関係でしかないのでは、とつよく感じるしだいでございます。
982:【ブラック違国少年】
ソイジョイのバナナ味がうまい。こんばんは、いくひしです。きょうはネタを仕込まずサクサクいこうと思います。まずは「ブラック・クローバー14巻」ですね。田畠祐基さん著の、少年ジャンプに連載中のマンガです。持てる者の驕りと、持たざる者の誇りがぶつかりあう寓話じみた展開が多いかな、と思います。スカっとする反面、いささかステレオタイプの嫌な貴族なんかがでてきまして、じっさい現実を見回してみれば似たような人間がいるところにはいるもので、やはりスカっとはするのですが、んー、できれば叩き潰すだけでなく、性根を直すところまで描いてくれると、心からスカッとできるのではないかな、と思いました。むつかしいですよね。勝負に勝って、叩き潰すだけで何かを劇的に変えられるのならそんなに簡単なことはなく、でもそれってお金を持っているだとか身分が高いだとか、そういうことで他人を思いどおりにできると思いあがっている人間とどこが違うのかと問われると、素直にそこは困ってしまう。少年漫画にそこまでねじくれた現実問題の解決策を期待するなと言われてしまえばそうなのですけど、やはり次世代の少年少女たちが物語を通して何かしらの基準を学んでいくことってすくなくないと思うんですよ。物語もまた時代の変化に応じて、ある程度は変質していってくれたほうが、読んでいるほうからしても抵抗なく楽しめるのかな、と王道の王とは何たるかを教えてほしい身としては思うところでありますよ。ブラック・クローバー、共感しやすいからこそ、高望みをしてしまうわるい読者こといくひしをどうかお許しください。おまえらなんか魔法騎士じゃねぇ。いちどは言ってみたいセリフです。はい。サクサクまいりましょう。つぎはですね、ヤマシタトモコさん著の「違国日記1巻」です。某いくひしの好きなライターアオヤギさんがツイッターで「めっちゃよ〜〜い」言うてたので買ってみました。おもしろーい。いいですね、いいですね、こういうの大好物です。たぶん百合って言ったら怒られる気がするんですけど、百合ですよね。いくひしのだいすきな、見知らぬ子どもを預かっちゃう系の物語でもありーの、男前な姐御肌のじつは繊細なお姉さまのお話でもありーの、もうね、大好物です。性別逆にしてもぜんぜんいけますね、たぶん最初はこれ、ネームの段階では性別男だったんじゃないのかな、と思うくらいに男前きゅんきゅんしちゃいます、たまに見せる人見知り仕草とか、横着な性格とか、もうね、かわいい。かっこいいなかに見え隠れする至らなさ。いいですね。十巻くらいまとめて食べちゃいたい。あーい。つぎはですね、高野ひと深さんのマンガ「私の少年4巻」です。第一部が完了して、第二部始動って感じで、いままでになかった少年側の視点、真修から見た世界がようやく描かれはじめました。聡子さんへの想いが、単なる恩人へのそれではないことが如実に示され、やっぱりなー、と微笑ましい反面、我々はほら、聡子さんの気持ちというか境遇を知っているじゃないですか、イタ気持ちくて仕方がないですよね。もうね、うまくいく未来が見えてこない。どう転んでも、何かをだって失うじゃないですか。すでに失っているのに、これ以上何を失うってんだい。こわいよね。開き直られてもこわいし、割り切られてもこわい。かといって常識的な判断で心を圧し殺されるのだって、嫌ですよ。なんとかうまくいってほしい。もどかしきゅんきゅんしてしまう。真修、もう男なんですよ。私の少年とか題打ってますけど、もはや私の男になる寸前ですよ。桜庭一樹さんの直木賞受賞作の「私の男」みたいになりそうですよ。ならないでほしいぞ。大団円を期待しながら、でもどうやって? いくひしにはつむげない物語の着地点をぜひ見届けたいな、と正座して待ってます。なんかきょうテンション低めな気がしない? そんなことない。そんなことないよ。ちょーげんき。まいにちたのしくてはっぴーです。そっちはどう? げんきしてる? 世のなかいろいろあるけどさ、おいしい物語を摂取して、人生飽きずにたのしもうぜ。もちろんあなたの人生がおいしくなるのがいちばんよ。そりゃもうぜったい。すでにおいしくなってるの? そりゃいいことだ。ぜひぜひ、いつか一口齧らせて。ソイジョイのバナナ味には負けるなよ。なかなかの強敵だけど、きみならいける。たぶん、きっと、なんとなく。都合のいいことばっか言ってるって? いいじゃんいいじゃん。無謀なことじゃないんだから。できるよきみの人生だもの。つづけりゃいいだけ、かんたんだもの。休み休み、がんばんな。じゃーな。おやすみ。いい夢見ろよ。悪夢だっておいしくなるぞ、起きてからも夢見ろよ。
983:【男前】
女らしさや男らしさなど、いわゆる文化的に形成された偏見を差別用語として指摘する声がある。解らないでもないが、もうそういう時代は終わって、つぎの段階に移行してもいいのではないか、という気がしている。というのも、「男とは」や「女とはこうあるべし」といった偏見はなくなってはいないが、だいぶん薄れてきたように感じるからだ。むろん、そういった偏見が一般的な常識として扱われた社会で育ってきた世代にとっては、未だに偏見だという認識は浸透していないように見受けられる。ただし、その下の世代、いまの二十代前半くらいからはだいぶん薄れたのではないかな、と感じる。そうしたなかで、「女らしさ」や「男らしさ」といった文化的に形成されるミームは、禁止するようなものではないように思うのである。女らしさや、男らしさを、どのような人間が備えてもまったく問題ない。また、女らしさや男らしさといったものは、基本的に、美化する装飾の意味で使われるように思う。他人に押しつけていいものではないが、性差につきまとうある種の幻想は、それを性別に関連付けて言語化しても問題ないのではないか。人間のある一面を褒めるときに「男前」と言うとき、なら女性的だとダメなのか、と顔をしかめる人もいるかもしれない。しかし、ペンギンを示して魚みたいだと称揚したとき、鳥みたいだとダメなのか、と声を荒らげるのは、どこかおかしい。逆説が成立する場合としない場合を見極めることが重要だ。また、誰より性差の違いに敏感に反応し、差別ではないか、と不当を訴える声は、差別の薄れてきた現代社会のなかで、あべこべに差別を根強く残すのではないかと危惧するものである。性差による差別を失くしたところで、性差を失くすことはできない。差異を認め、そこにある良さや難点を認め合うことが必要になってきているのではないかと思うしだいである。むろんいずれは、男らしさ、女らしさ、といった概念自体が時代の変化に伴い、薄れていくと予想するものである。つまり、性差による違いよりも、個性による違いのほうが大きくなってくる。いまはそういう時代への過渡期なのであろう。
984:【よくある話】
インターホンが鳴ったので出た。女が立っていた。何か用ですか、と訊ねると、昔ここで人が死んだ、たくさん死んだ、殺されたのだ、とうるさいので、ひとまず部屋に招き入れた。霊がたくさんいるらしい。平気でいられるのが信じられない、とやはりうるさい。ここは新築だし、部屋じゃまだ殺してない。
985:【よくある話2】
バーバー。この道にでる幽霊の名らしい。なんでも理髪店じみた霊なのだそうだ。愉快ではないか。出るなら出てみろ。鼻歌交じりに歩いていると、街灯の下でぐるぐる回っているおばぁさんを見かけた。何をしているのかと気になったが、目が合う直前で顔を逸らす。首だけがぐるぐる回っている。
986:【よくある話3】
あなたはよく私の爪がきれいだと褒めてくれた。髪の毛がすてき、肌がつやつや。うらやましいとあなたが言うたびに、私の爪は剥がれ、髪は抜け、肌は爛れた。あなたは最期まで私の目をうらやむことはなかった。指が、鼻が、耳が、腸が。あなたの声に削られていくたびに、私の目には満面の笑みが――。
987:【よくある話4】
そらを見上げる。高いビルがある。あそこから落ちたのか。視線を下ろし、地面に拡がるヒトガタを眺める。腸がはみ出ている。脳みそは白い。周囲に人影はない。着けている装飾品からいって裕福層の人間だ。盗るならばイマだ。内なる声に従い、死体から爪の垢をこそげとる。炬燵でくつろぎ、煎じて呑む。
988:【よくある話5】
電信柱のところに人影がある。暗くなると見えるようになる。アパートの窓から覗くと大抵そこにいる。ストーカーだろうか。恋人に隠しておくのも危険な気がし、あるとき打ち明けた。「で、とにかく夜はこないほうがいい」「なんで?」「危ないだろ」「大丈夫だよ」彼女は言った。「ずっと見てるから」
989:【よくある話6】
肝試しをすることになった。処刑場跡地がある。民家に挟まれ、ひっそりと祀られている。行ってみると、大きな樹の裏にたくさんの地蔵がびっしりと並んでいた。こわかったが思ったほどではない。後日、明るいうちに行ってみると、あったのは地蔵ではなく大小様々なお墓で、陽射しを遮るものはない。
990:【よくある話7】
ラーメンに髪の毛が入っていた。一本だけでなく、十本くらい束で沈んでいる。黒い麺かと思ったほどだ。クレームを入れるとすぐに換えてくれた。「すみませんね、さいきん多くて」「多いんですか」「このあいだは爪で、その前は指でしたわ」絶句した。「いえね」店主はほころびる。「可愛いコですから」
※日々孤独に磨きをかけていく、いつか擦り切れ、なくなることを祈って。
991:【よくある話8】
通勤のバスから毎日見下ろしている。小学校が近くにあるらしく、朝などは子どもたちをよく見かける。初老の女がたびたび横断歩道にお線香を供えていた。事故でもあったのだろうか。ある日、姿を見かけたので声をかけようと近寄ったところ、はっとして通り過ぎる。女は束にした釘を地面に置いていた。
992:【よくある話9】
古い旅館だ。露天風呂が評判で、夜などは星がきれいに見える。裸眼なのが残念だ。壁にちいさな鏡がはまっている。老けたな。ぼやけた像でも落ち込むには充分だ。上がろうと思い、腰をあげる。ふと何かが引っ掛かり、もう一度鏡を見遣る。腕を伸ばす。腕はするすると伸び、奥には崖が広がっている。
993:【よくある話10】
子供の歯磨きを手伝った。第一次反抗期なのか、泣きじゃくって難儀する。頭を掴み、無理矢理に口のなかをごしごしやった。「べーして」命じると、我が子は真っ黒い液体をどろりと吐きだす。はっとする。目を転じる。掴んでいたのは髭剃り用カミソリだった。
994:【よくある話11】
田舎道だ。ふと歩を止める。アスファルトに何か埋もれている。なんだろう。エリンギみたいな。「耳ちゃう?」振り返ると、顔見知りのおじさんが覗きこむようにしている。業者に知り合いがいるらしい。聞いてみるわ、と言って去ったきり、おじさんは行方不明になった。例の道は新しく塗装されている。
995:【よくある話12】
河童を探しに行った。途中でみなとははぐれてしまったが、池には辿りついた。何かが激しくしぶきを撒き散らしている。大きな手が伸び、どっぽんと沈んだ。私は逃げた。後日、友人の一人が溺死体で見つかった。私はみなに打ち明けた。「いいんだ」みなはうつむく。「アイツはたぶん、逃げなかったんだ」
996:【よくある話13】
矢印を見つけた。地面に壁にポストにと日に日に増えていくそれは、ふしぎと私の家の方向を示しつづける。距離が近づいていくのを不気味に思いはじめた頃、玄関に矢印が書かれているのを見つけた。通報しよう。扉に鍵を挿しこんだところで手が止まる。向こう側から音がする。何かが扉を引っ掻いている。
997:【よくある話14】
女子たちをぎゃふんと言わせたかったので、肝試しをした。男子全員がグルだ。僕が校舎に潜み、外からそれを目撃してもらう。女子は悲鳴をあげ、泣き喚いた。翌日、盛大にネタばらしをする予定だったが、できなかった。女子たちが口々にこう言うからだ。「だって男のコのうしろにお坊さんがぐわーって」
998:【よくある話15】
赤い階段と呼ばれる道がある。よく運動部がジョギングをしている。飲み会の終わり、歩いて帰宅するときにその道を通った。上り坂だ。夜中なのに、上のほうから列になって駆け下りてくる一団がある。暗くて顔はよく見えない。すこししてから振りかえると、同じ顔がじっとこちらを向いている。
999:【短い話】
140字くらいの短いのだと新しいことをするのはむつかしい。既存の物語の文脈を利用しないと圧縮できない。見たことのないアイディアをこの分量でやるのは、相当むつかしい。というよりも、読者におもしろいと思ってもらうには、読者のほうにもそれなりの負担を担ってもらわないといけなくなる。オチをつけるならなおさらだ。ただひたすら、むつかしい。また、短い話、とくにホラーの場合は、オチがあると途端に嘘くさくなる。本当にあったことのように怖さを伝えるには、オチがないほうが効果的だ。今そこで体験したばかりの話をするみたいに語れれば、才能あるな、と感じる。いくひしにはできない。センスないのでもうやめる。だいいち、1000作つくって14万字、長編一作分しか溜まらないのでは、それこそ堪らない。やってられっか、というやつだ。おもしろいだけに、ハマる前にやめておこう。短くとも、一作5000字くらいがちょうどよい。むろん、いくひしにとっては、という話である。
1000:【とくになし】
いくひ誌。千記事目ですが、とくにないです。まとめれば単行本四冊分くらいの文字数にはなってるかな、と思います。ただ、短編などを除外すれば、三冊ちょっとかな、という気もします。いつかまとめて電子書籍化しようと思っておりますが、何年先になるかは分かりません。ひょっとしたらある日とつぜん消えるかも分かりません。仮に消えても誰も困らないでしょう。読んでくださったり、感想を書いてくださったり、評価をつけてくださったり、うれしいです。ありがとうございます。かといってそれが新作をつくるモチベーションに繋がるかといえば、あんまり関係ないかもしれません。評価されようがされなかろうが、つくろうと思ったときにつくり、やめようと思ったらやめます。あなたに読んでほしいし、あなたのようなひとに向けて物語を編んではおりますが、かといってあなたに見向きもされずとも、いくひしは細々とつづけていくでしょう。そしてある日、ぱったりとやめると思います。あなたのお陰ではありますが、あなたのせいではありません。たまに、ひっそりと覗いてみるくらいがちょうどよいように思います。いくひしのつむぐような物語が必要でない人生のほうが芳醇で、実りがあり、豊かで、すこやかだと思います。あなただけの物語を、あなたの手で築きあげていけることをいちばんに願っております。ん? なんですか? 真面目すぎてつまんない? ごめんね。
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