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いくひ誌。【121~130】

※日々おもってるだけで日が暮れるよ。


121:【中立】
真実に中立の立場にいるならば、誰からも中立には見られない。右から見れば左だし、左から見れば右だ。しかし中立ではなく、中心になれたならば、それはもう誰から見ても中心なのである。なんだか含蓄深いことを言っているなあって気がするじゃろ。気がするだけである。


122:【異手同質】
本屋さんにて文庫の新刊コーナーを眺めた。手に取り、冒頭を読んだ。棚に戻し、新たな文庫を手にする。いくどか繰り返し、そして思った。お、お、お、おもしろく、ない。勘違いしてもらいたくはないのだが、本がわるいのではない。いくひしの感性が明らかに、読者の視点からいちじるしく乖離しているのが問題なのである。すべてがすべて平面的な文章に感じられてならず、それは或いはある種の共感覚なのかもわからない。ひょっとしたらもっと単純にいくひしの感性が鈍った可能性もなくはなく、えーちょっとそれはどーよー、と思い、いくひしの大好物、森見登美彦氏の「夜は短し歩けよ乙女」を手に取った。冒頭に目を走らせる。思わずため息が漏れた。な、な、な、なんておちつくのだらう。うっとりと安堵しつつ、こんどは伊坂幸太郎氏の「ラッシュライフ」を手に取った。はぁ、おちちゅく。つづけざまに西尾維新氏の「化物語」を手にしては、はぁ、もちちゅく――つぎつぎといくひしはたくさんのモチをついた。そりゃもうたくさんついたよ。ぺったん、ぺったん、もちぺったん。焼きすぎてもはやヤキモチになっちゃったけれども、それはまあ仕方ないさ。なにせ悔しいほどの才能だもの、才能の差、なんだもの。でも、なんのかんの言って、やっぱりさいきんの小説、すこぉし一次元によりすぎじゃない? 文章の可能性、信じすぎじゃない? もうちっとこう、なんていうの。文章に含みを持たせて、デコボコにしちゃって、浮きあがって、立体にして、飛躍しちゃって、ズバリ切っちゃって、ドカスカジュビジュビぴろりろりーんって、そういうリズムがあってもよくなぁい? 単調すぎるよ、ぜんぶ似てるよ退屈だよ。血沸き肉躍る、律動の宿った文章、いくひし、きっとあなた、読みたいんだねぇ。あるといいねー。あはは。いいねーだって。ひとごと。


123:【ふぁーーふぁーーー!!!】
漫画家、紀伊カンナ氏の「海辺のエトランゼ(春風のエトランゼ)」と「雪の下のクオリア」を読んだ。中身は男同士の恋愛模様を描いた純愛物語なのだけれども、いわゆるBLではあるのだけれども、ふぁーーー!!!ふぁーーーー!!! 脳みちょが、脳みちょが、ふぁーーーー!!!!!! 漫画なのに映画で、映画なのに文学で、でもやっぱりこれは漫画以外のなにものでもなくって、じゃあこれはいったいなんですか!!! 天才ですか、神ですか!!! ふぁーーーとしか言えない。頭のなかがもう、ふぁーーーー!!!の嵐っていうか、それの過ぎ去ったあとにはもうなにも残らない、まったくの更地、白紙、根こそぎ穢れを払われて、心すみずみまで晴れ渡り、ことここに至ってはっとする、「あれ? ひょっとして終末の鐘(ふぁんふぁーれ)、鳴ってない? 全人類滅亡しちゃわない?」でもまったく問題ない。いくひしの脳内麻薬、しあわせホルモン、ドバドバだから、駄々漏れの垂れ流しだから。出し惜しみなしだから。あー、ホント、すばらしい読書体験だった!!! もっとほしいなー。たまらんなー。げへへ。すかさず淀みだす心の自浄作用のなさに感心しつつも呆れつつ、懲りずにいくひしは買い溜めたBL本を片っ端から消化していくのである。


124:【雑感】
雑な考察で恐縮なのだが、数年前に学園もののライトノベルが流行ったのを憶えておられるだろうか。あれは社会の内部への憧憬の現れであり、同時期に職業ものと呼ばれるジャンルが風靡した時期と重なっているのは偶然ではないだろう(重なっていたか?)。あのころ無職および孤独な学生だったライトノベル需要者たちは、数年後、すなわち現在、社会に飛びだし、そして憧れていた世界との乖離に懊悩し、そして逃避を求めてこんどは虚構に、ここではないどこか――社会の外部を求めるようになった。すなわち異世界であり、旅であり、冒険である。そこに転生の要素がかかせないのは、人生をやりなおしたいという率直な感応であろう。ではつぎに、そうした彼らが数年後、求めるようになるものは何か。理想の家庭であり、家族であり、或いは仲間であり、友であり、すなわち身近な社会――身内の世界となる。だが同時に、そうした需要者たちは、歳を経るごとに減っていき、あべこべに新規の需要者たちがなだれ込んでくる。彼らは、いま流行りのモノから入り、そして成長し、社会の内部へととりこまれていく。そのとき、初めから社会の外部への憧憬を抱き、想像のつばさを社会の内部へ広げてこなかった彼らは、どういった虚構を求めるだろう。思うに、社会への圧倒的な反発、破壊願望を抱くのではないかといくひしは感じている。つぎに流行るのはだから、アットホームコメディか、もしくはダークヒーロー(悪)ものの社会風刺のきいた痛快アクションであろう(ややもすればワンパンマンがこれに当てはまるかもしれない)。ちょーてきとうぶっこいた。真に受けないでほしい。


125:【推定】
人工知能がこのまま深化した場合、初めにその活躍の場を奪われる芸術活動は音楽であろう。音楽と数学はじつに関係性が深く、相性がよい。人工知能の性能が向上すれば、あらゆる曲を無作為に、無尽蔵に、かつ自在につくれるようになる。次点で打撃を受ける芸術は、絵画であろう。解析するためのサンプル数はほかの芸術類の優に百億倍はあるだろう。視覚以外の感覚器官を刺激しない点でもほかの芸術と一線を画す、解析のしやすさがある。職業で言えば、イラストレーターやデザイナーが、その存在意義を根底から揺るがされ兼ねない。あらゆる対象を、あらゆる絵柄に変換しなおすことが可能となる。わざわざ描く必要性がなく、また新たな画法や絵柄を発明したところで、その技術を含め、そこから派生する無数の新しい絵柄ごと即座に、学習、上書きされてしまう。人間の出る幕は、まさにいっしゅんである。或いは、空想を描くという意味ではまだ人工知能にはむつかしい作業かもしれない。が、音楽、絵画ときて、つぎにその活躍の場を脅かされる芸術活動が、物語創作とくれば、人工知能が自ら編みだした物語に沿った、絵や音楽、画像、動画、をあてがうのはそうむつかしい作業ではなくなる。言い換えれば、小説、漫画、アニメ、映画、あらゆる創作物は人工知能によって代替可能となる。技術的特異点を迎える以前に、それそのものの到来までのカウントダウンが可能になった時点で、芸術活動の総じてから人間の出る幕が限りなく希薄になる懸念は押さえておいたほうがいい。今からそう遠くない未来、芸術は、人間を人間足らしめるものではなくなる、かもしれない。ともすれば、人間以外を人間足らしめるのかも分からない。


126:【エコ】
エアコンをかけない生活がつづいている。エコだね。暑いよね。とうぜん、汗はんぱない。寝汗とか、寝ぼけてマラソンしちゃったのってくらい掻いてる。いつの間にホノルル行っちゃったのってくらい掻いちゃってる。なんだったらこれ汗じゃなくて水じゃない? 寝ぼけて海にでも行っちゃった? あなた泳げないでしょ、だいじょうぶ? 浮き輪、用意しておこうか? 舐めてみてもしょっぱくはないのは、それが海水ではないからで、もっと言えば水でもなくて、じゃあなんなのかって言ったら汗ですよね。あまりに日々汗を掻きすぎてもはや塩分入ってない。エコだね。それでね。なんかね。すっぱいの。においが。寝起きに、「ん? だれか寿司たべてない?」ってなる。あまりに純粋な酢のにおいすぎてかえってくさくない。きたなく感じない。餃子があったらつけて食べちゃえるくらいの酢なわけ。でも汗じゃん。これ。どうみても寝汗じゃん。もしかして酢ってそうやってつくってんの? 誰かの寝汗なの? そうなの? いっしゅん頭がこんがらがったけど、むろんそんなことはないわけで。すっぱいにおいをふりまきながら、いくひしシャワーを浴びてすっきりして、きょうもエコで健康に、がんばれるわけないじゃんか。暑いから。融けるから。そりゃ汗だって酢になりますよ。バッドマンのジョーカーだってさすがにこれは素になりますよ。汗だくでメイク落ちますよ。しょうがない。しょうがないの。すっぱいにおいさせちゃってもこれはしょうがない。なんだったら餃子もってきな。いくらでもつけて食べさせてあげる。いくひしが許可する。アスファルトで焼いてみんなでいっしょにパーティしようぜ。餃子、好きなんだ。飯いらず。餃子だけでいい。寝汗のおかげで酢もいらず。いつでも食べられる。エコだね。暑いよね。もうね。エアコン、がまんせずにつけていいかな。だってほら。すっぱいにおいでいっぱいだもん。酢のにおいでいっぱいだもん。エコもいいけど健康も。というか、エコよりも健康を。エアコン入れて、きょうからきみも、すっぱいにグッバイだ!


127:【反省】
一つ前の記事をちらっとでよいので読んでみてほしい。なんだこれは。キレのなさがざんねんすぎてもはや恥ずかしくない。なぁにが、すっぱいにグッバイ、だ。アホか。こういう駄文を駄文だと気づかずにつむいでしまう精神状態なのだなあ。かわいそうに。そう思ってもらえるとラスカル。それはあらいぐま。助かるとはだいぶちがう。――って、これもすこし前に使ったネタだから。二度目だから。反省しろ。こりゃちいとばかし気合いをいれなおさなきゃならんなぁ。対策を練ろう。その前に寝よう。寝る。


128:【編集】
人工知能とゲノム編集技術が結びついたら、人類そのものがデザインの対象になる。人類の手によってデザインされたプログラムが、人類をデザインし直すのである(人工知能の暴走ではなく、人類がそれを望むようになる)。シンギュラティでは、全人類の集合知を上回る人工知能の誕生が示唆されているが、仮にそうした人工知能が現れたとき、人類もまた、急速に進化するハメになるだろう。我々は、我々の生活の変容、すなわち未来を案じるよりもまず、我々自身を案じなくてはならない。急速な変化は、ときに弱者をふるい落とす。


129:【再三】
もういちどくらい念を押しておこう。漫画家、紀伊カンナ氏の「雪の下のクオリア」がおすすめである。寝る前と、出掛ける前と、帰ってきてからと、いくひしはいま、ことあるごとに手に取っては眺めている。いったいなにがそんなにいくひしのこころを惹きつけるのか。基本的にいくひしは、漫画において重要視している要素が二つあり、一つはキャラクターたちの表情の豊かさであり、もう一つはコマ割りに動きが表れているか否か、である。表情の豊かさは、必ずしも絵のうまさとは相関しない。表情の豊さとは、感情の機微の表現力だと言い換えてもいい。ちょっとした口元のゆがみや、目線の移ろいなど、ほんとうにささいな表情の変化に拘りを持っている作家さんは、読んでいてとても胸を揺さぶられる。紀伊カンナ氏の観察眼の高さには脱帽しきりである。読んでもらえれば一目瞭然なので、表情の豊かさは解りやすい基準であろう。ではもう一つの、コマ割りに表現される動きとは何か。コマとコマの合間に流れる時間の経過だと言い換えればそれらしい。けっして動きのある絵のことを言っているわけではない。むしろ動きだす瞬間や、ちょっとした動作の経過途中を抜出し、つぎのコマではスキップしたように時間が断続的に経過している。或いは、瞬き一回分の時間の経過を表現するために、主人公たちの周辺に、舞う蝶や、走り去るこどもたちの姿を添えたりする。紀伊カンナ氏の漫画では、そうしたコマとコマを繋ぐ行間が、極めて高度に、かつ鮮明に結ばれ、忍ばされている。読者はまったく意識せぬままに、その行間を線として辿っている。そして漫画を読んでいるはずなのに、映画を観ているような奇妙な体験をするのである。技術的な面で言えば、映画の絵コンテと言われれば納得しそうな佇まいがある。宮崎駿氏や、細田守氏の映画に似た空気を感じなくもない。ただし、いくひしがなにゆえここまで琴線を揺るがされて途絶えないのかと言えば、そうした技術力の高さうんぬんとはまたべつに、紀伊カンナ氏の作品群が、BLの皮を被った百合であるという点がつよく影響している。いくひしの考えでは、薔薇と百合の違いは、その友情が交差するか、平行するかの違いにあると定義している。男の友情は、異物同士が、ある局面で一つに交わり、固く結びつく現象を示す。反して女の友情は、交わることなく、いつまでも平行線的に、そばに寄り添いつづけるものである。或いは、たとえどれほど離れてしまったとしても、女の友情は、常に同じ方向を、同じだけの距離間で、向き合いつづけていられる。だが男の友情は、いちど離れてしまえば、あとは延々と離れつづける定めにある。むろん、これは飽くまでもいくひしにとっての薔薇と百合の違い、BLとGLの区分、その基準である。たとえBL漫画であろうと、雪の下のクオリアのように、女の友情的な繋がりで描かれている漫画はある。その逆もまた然りである。ここで言いたいのは、いくひしにとって、雪の下のクオリアが、一点で交差する男の友情ではなく、相手を己が手中に入れようとする略奪でもなく、飽くまで相手のそばに寄り添い、その存在を許容するにとどまるという、とても儚い繋がりを、すさまじい技法で以って掠め取るように描いている点が、我がこころをつよく打ったのだという、自己分析にある。儚いがゆえに、何よりもその繋がりは強固なのである。男の友情は鎖じみた縁で、がんじがらめに結びつく。だが女の友情、百合は、飽くまで空気のように、ただそこに溢れているものなのである。男同士の男の友情、または女同士の男の友情も、それはそれで捨てがたいが、男同士の女の友情は、日向のように、いつまでもそこに浸かっていたいと思わせるやすらぎに満ちている。或いは、それゆえに、単なる百合よりも、より純粋に、より「性」から距離をおいた関係性が描きだされているのかもわからない。ともかくいくひしは、雪の下のクオリアがたいへんお気に召しました。ありがたいことである。ただただ、人生すてたもんじゃないなあと思うきょうこのごろである。


130:【停滞】
あまりに琴線を揺るがされすぎると、創作意欲のあるなしに関わらず、筆が止まる。消化するのに時間がかかるばかりか、それを呑みこむのですら手間どっている証だ。今こここそが踏ん張りどころである。正念場である。サービスタイムと言い換えてもいい。身動きのとれなくなったときの一歩は、なにごともなく過ごせていたころの万歩以上の価値がある。苦しい時こそ、思いきって踏みだしてみよう。思いきれる瞬間なぞ、そうそう訪れるものではないのだから。

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