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いくひ誌。【131~140】

※日々おもっているだけの人生である。


131:【未来】
何かとてつもないものが生まれようとしている。それが何かが解らない。人工知能でもなく、仮想現実でもなく、ゲノム編集でも、ナノマシンでも、キメラでもない。ではいったいなんなのか。もうすこしで掴めそうである。


132:【貧すれば鈍する?】
なるべく厳選するのはひもじいからだ。失敗したくない。ハズレを引きたくない。だから慎重になるし、購入する前の下調べは入念にする。ネットで他人の感想をつぶさに、批評、称賛、その他、有象無象、そうした感想を投稿している人々の嗜好性など、でき得るかぎりいくひしの感性にちかい書評を探しては、興味を惹かれた作品をピックアップし、さらに試し読みができないかを確かめる。ないときは、書店で試し読みならぬ立ち読みをし、うむ、とひとつ唸ってからカウンターへと共に向かうのだ。しかしお金に余裕がでてくると、途端にそういっためんどうな手続きを踏まなくなる。なんとなーく書店へ向かい、なんとなーく表紙を眺め、なんとなーく帯やポップに促されるままにカウンターへと運んでは、家に帰って一読し、しっぱいしたなぁとやるせなく思う。お金に余裕のあるときのほうが本に対する想いが薄い気がする。扱いが、軽い気がするのだ。或いは、たとい貧していようが、大好きなものにならば金を惜しまないその姿勢こそがだいじだったのかも分からない。貧すれば鈍する。かといって豊かであればいいというものではないのかもしれない。


133:【言い忘れ】
アップルウォッチが流行らなかった理由は明快である。操作時に両手を塞がれるという欠点があるためである。操作そのものは片手で可能だ。しかし時計そのものが逆手にはめられているために、けっかとして操作時には両手の自由が制限されてしまう。もしこのさき、時計をはめている手で本体の操作が可能になれば、アップルウォッチのような時計型メディア端末は、スマホに代わる端末として爆発的に普及するであろう。ともすれば、時計だけでなく、あらゆる端末が、片手で、しかも遠隔による操作が可能になれば、人間は端末を保持する必要がなくなる。メガネや服や、道路や、乗り物、あらゆる物体が端末の機能を果たし、人間はただそれらをその都度、手足として、或いは第二の頭脳として扱えばよくなる。時計型メディア端末が流行するとき、人間がスマホから解放される日までの秒読みが開始する。


134:【逃避の逃避】
お金を払えばできることに興味がない。まったくないわけではない。行動に移すほどのつよい動機にはならない。そういう話だ。近代において、ずいぶんむかしから性行為はお金を払えば可能だし、恋愛だってお金を払うまでもなく、それを持っているだけでしやすくなる傾向にある。車や家や、ぜいたくな食事も例外ではない。ではいざ大金が懐に舞いこみ、そういうものを手に入れられる環境ができたとして、それが欲しいのか、と問われたらしょうじき首を捻らざるを得ない。今の生活を手放したくはないので、ある程度の金銭は必要だ。しかし喉から手がでるほど欲しいわけではない。なくなったならなくなったで、どうにか生きていそうな塩梅がある。ではいったい何が欲しいのか。欲がないわけではない。むしろ逆だ。じぶんより欲張りな人間はいないのではないか、とつねづね感じている。あたしはあたしにしかできないことにしか興味がない。つよい欲求を抱けない。あたしがこの世に存在しなかったら、あたしがそれを生みださなければ、それはこの世に存在しない。未来永劫、存在し得ない。そういう代物が欲しい。見て、触れて、感じられる存在としてここにあってほしい。お金で買える愛に興味はないけれど、否、すこしくらいはあるが、味見程度で勘弁してやるぜといった具合であり、喉から手が出るほどの欲求ではない。しかし、どれだけお金を積んでも手に入れられない愛があるならば、是が非でもそれが欲しいとつよく思う。むろん、お金で手に入れられるものは、お金で手に入れられる時点で、社会的に有用とされている貴重なものがほとんどだ。それらを見下すつもりはない。ただやはり、あたしは、あたしだから手に入れられるもの、あたしにしか手に入れられないものが、欲しい。なんだか拝金主義への歪んだ反骨心が見え隠れしているように感じなくもない。こればかりは親の教育のせいだろう。「お金よりも大事なものがある」そういう思想をいたって真面目に唱えるバカなひとたちだった。――大事なものを手に入れるためにお金があるんだよ。あたしはよくよく思ったものだ。しかし、親のせいであるこのゆがんだ欲動を、いつかは、親のおかげだと言える日がくるといいなあ。そう思う程度には、あのひとたちのバカさ加減を、なんだかすこし、愛くるしいと思えるようになった。歳だなあと哀しくなる。がんばろう。じぶんのために。まだ見ぬ欲望の、やぁらかそうなその頬を、この手でじかに撫でるために。赤ちゃん、かわいいなぁ。でもお金で手に入れられちゃうからなぁ。下手したらタダだもんなぁ。いらないなぁ。今はそう、言いきかせる日々を送っている。がんばろう。じぶんのために。過去のじぶんよりも、あすのじぶんを活かすために。がんば……り、たくないなぁ。あーあ。がんばりたくねぇー。がんばったら負けだよな。楽しもう。そう、楽しまなきゃだ。もっと楽しいことに目を向けよう。自給自足の楽しさではなく。お金で買える楽しさに☆


135:【うふふ】
いくひしはたくさん偉そうなことをのたまくでしょ。ふだんからそれだけ努力してるんだろうなあって思うでしょ。そのとおりだよ。もちろんだともさ。その証拠にほら、先週の進捗具合、何文字だと思う? うふふ……さんもじ。


136:【穿鑿】
誰にでも隠したい過去はある。そこは尊重しなければならない点であろう。暴かれたくない過去を、わざわざ掘り返される筋合いは、誰にもない(法に反しないかぎり、という例外つきではあるものの)。が、あなたが嫌だと思うことが必ずしも相手にとって嫌だとは限らない。その点は留意しておく必要がある。性的マイノリティのカミングアウト(アウティング)にしてもそうだ。なぜ彼ら、彼女たちは、自身がゲイであることをバラされたくないのか。ゲイであることに引け目を感じているのではない。そうと知ったときの周囲の反応に怯えているのである。セックスワーカーに対する扱いにしてもそうだ。セックスワークに従事していた過去(或いは現状)を他人に知られたくないのは、セックスワークそのものに対する引け目ではなく、それをよこしまなものだとする風潮に対する畏怖に根ざしている。たとえ過去にアイドルだったとしても、金メダリストだったとしても、それを知られたくないとする心理が働くことはある。プライベートの保護の必要性に、性的嗜好や職業は関係ない。が、もしその過去を知られたくないとする理由が、社会からの弾圧への畏怖に根ざしているのだとすれば、それは過去を暴こうとする勢力のほかに、それを阻止しようと考える無責任な善意にも何らかの警鐘を鳴らす必要があるのではないかといくひしは考える。プライベートなことだから放っておけばいい、という主張と、当然知られたくないに決まっているのだから触れるべきではない、とする意見は、表面上同一の現象として顕現しやすく、混同されがちだが、いっぽうは平等を、もういっぽうは偏見をもとに発せられた言動である旨は念頭においておいたほうがいい。差別を助長するという明確な差異がそこにはある(何かを指して、当然蓋をされておくべき事柄であり触れるべきではないとする考えは、蓋の中身が臭いものだと無意識に判断している傾向がつよい。真実にそれが臭いのか否かは熟考の余地がある。そもそもを言うならば、臭いからといって蓋をすればいいという問題でもない)。善意のつもりが差別を助長するという現象は挙げ連ねれば枚挙にいとまがない。とはいえ、善意の皮を被った差別がそこかしこに溢れている現状、そうした配慮は、たといそれが偽善じみていたとしても、配っておいたほうがいいことは言を俟つまでもない。けっきょくのところ、わざわざ他人の藪をつつく必要はなく、つついたならばそこから飛びでた蛇に噛みつかれても文句は言えまい、という至極つまらない結論に落ち着くのであった。まる。


137:【怪決策】
なぜおれさまが差別問題に関心を寄せているのかというと、単純な話としておれさまが差別をしやすい人間であるからだ。息を吸うように差別的な考えをし、そうした考えに基づいた行動をとってしまう。たいへんよろしくない性質である。立派な職業につき、たくさんのかわいいおにゃのコとぬくぬくしたいと考えるのも、ある種、差別的な考えのなれの果てである。立派でない職業があるという考えの裏返しであるし、かわいくないおにゃのコとはぬくぬくしたくないという拒絶の反映でもある。そうした差別的な考えの最たるものとして、おれさまには、立派な人間になりたいとする願望がある。ひるがえっては、立派でない人間にはなりたくない、そうあいつのような、とたいへん見苦しい考えを抱くときがある。まさに差別的な考えである。あいつには近づかないようにしよう、嫌いだから。そうと考え、じっさいに近づかないようにする。まさに差別である。立派な人間はもちろんそんな考えは抱かない。よしんば抱いたとしても、どんな相手にも平等に接するであろう。ゆえにおれさまは、差別をしない人間になりたいと望んでいる。誰よりも差別をしてしまうおれさまだからこそ、差別っていけないよな、と言葉だけでなく、行動で示せる人間になりたいのである。そのけっか、現在、おれさまは、揺りかごからお通夜までの幅広い人間を愛せるように深化した。女性であれば死後、三日くらいならばイケる。墓場までいくにはいささかいくばくかの修行が足りぬようだ。まだまだである。もっと平等を心掛けた生活を送ろうとここに改めて臍を固めるしだいである。ゆいいつ無二の愛する者など言語道断である。差別はよくない。平等に愛を振りまこう。深く、ねっとりとした愛を。


138:【芸術】
もっとも芸術らしくないものが、今、もっとも芸術の最先端を駆け抜けている。それは一瞬で燃え尽きる儚い閃光である。追いつかれた瞬間に色褪せてしまう。芸術でありつづけたければ、容易には追いつかれない領域へと旅立たねばならない。しかし、芸術でありつづけることに、いかほどの価値があるだろう。芸術のさきを追い求める者は、常にこの問いと闘いつづけなくてはならない。


139:【明け方テンション】
小説家は批評家になってはならないのです。なぜなら言葉で言い表せないナニゴトカを、物語を通して浮きあがらせるのが小説家の役割であるからです。同時に、言葉で言い表せなかったものをなんとか言葉で言い表そうとするのが批評家の務めなのであります。本来物語になるはずだったナニゴトカを物語ではなく、直接言葉で言い表せるようになってしまった作家はもはや小説家には戻れないのであります。小説家とは火の扱いを覚える前の人類であり、自転車の乗り方を知らないままの幼子なのであります。いちど覚えてしまったが最後、それ以前の状態には還ろうにも還れないのであります。覆水盆に返らずであります。お盆ですね。みなさま、帰省されましたか。ぼくは人生のどん底に逗留したままであります。いくひし盆に帰らずです。韻の踏みきれないさまが惨めです。帰ろうか悩まないわけではなかったのですが、なにぶん、お金と時間がかかります。悩んでいるうちにお盆の到来です。決断力のなさが浮き彫りになっております。踏みきれないのは韻だけではなかったようです。そうです。ナニゴトカを物語で浮き彫りにさせようとあがいている場合ではないのです。ぼくはもっと真摯に現実と向き合わなければならない時期なのです。でもイヤです。そんなのからは逃げてやります。逃避です。逃避行です。逃げて、逃げて、逃げまくって、行き着いたさきは、なにもないどん底で、なにもないならば、仕方ありません。自力でつくるしかないのであります。虚構です。虚ろに構うのです。なにもない空間に構ってやるのです。ヤダだと言われても、ちょっかいをだしつづけてやるのです。もはや物語など不要なのであります。あるのはただ、思いついたままに付与されるその場かぎりの閃きと、それらの点を結ぶ強引な思考の軌跡、飛躍なのであります。閃きと飛躍によってにぎわいを増していく虚ろな空間は、もはやぼくの手を借りることなく、独自に広がりと彩りを得ては、湧水のようにモクモクとスルスルと天上高く膨張し、ぼくを人生のどん底からすくいあげてくれるのです。物語をつむぐのではなく、物語にすくわれるのです。小説家の片鱗もありません。高尚さのかけらもないのです。ぼくはそういう存在になってしまったのに、今ではその片鱗すら見当たらなくなってしまったのであります。片鱗の片鱗がないのでは、もう、なにもないのと同じなのであります。であれば、もういちどここに、新たな世界を築きあげるほかに、できることはもう、なにもないのであります。なにも、なにも、ないのです。なにも、なにも。


140:【ふしぎ】
前からふしぎに思っていたのだが、なにゆえWEB漫画「平穏世代の韋駄天達」は商業出版されないのだろ。新作を書いてもらってデビューって道もあるだろうし、さすがに出版社からの声掛けはあったろうし(ひょっとしてないのか?)。あれだけのセンスの持ち主だもの。なぞである。ちなみに、黒金魚氏の「うちの普通」も単行本化してほしいでござる。単行本化決定済みのWEB漫画で楽しみにしているものでは、「憂鬱くんとサキュバスさん」がイチオシであり、単行本化済みの作品では「トモちゃんは女の子」「妄想テレパシー」「ヘルク」「奇異太郎少年の妖怪日記」「働かないふたり」「少女終末旅行 」「堀さんと宮村くん」「森のホモォ」「徒然チルドレン」ほか、makotoji先生の作品はどれも楽しく拝読しております。あとはそう、ダンジョン飯三巻を読んだ。とてもおもしろかった。主人公が順調にゴールデンカムイの不死身の杉本化しているのがクスっときた。あの空気感は文章では表現しづらいんだなぁ。マルシルさんの表情コロコロ変わるところ、好き。かわいい。

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