いくひ誌。【1001~2000】

※日々忘却するために溜めこんでいく。



1001:【くっそーー!!!】

評価されてーーー!!! 売れてーーー!!!!!!



1002:【あぁもう】

マンちゃんうっさい、イマ何時だと思ってんの。



1003:【感謝して】

はっきり言っちゃうけどわたし、マンちゃんのそういうとこ嫌い。おどけたフリして本音を混ぜるっていうか、すこしくらいならいいよね、みたいな精神? 言わないほうがかっこいいから言わないでいるのはまぁ、かっこつけしいだなとは思うけど、それはそれでマンちゃんらしいっていうか、ふぅん、ってなる。でも、だったら最後まで言わなきゃいいのに。はっきり言うけどかっこわるいよ。もちろんかわいくもない。言っとくけど、こういうこと言ってあげるのわたしだけだからね。わたしだから言ってあげてるんだから、そこんとこ弁えてよ。むつけないでね。



1004:【むつけるわ!!!】

嫌いって言った!!! 理由はどうあれ嫌いって言ったぁー!!! いくひしは好きなのにーーー!!! そんないくひしのこと嫌いって言ったあーーー!!! いじけてやるからな!!! 盛大にいじけてやる!!!!!!



1005:【代理人】

おまえなんか書け、とオーナーから注文があったので、2017年12月18日の今日は僕が日記を書きます。日記でいいのかな。特別なことは何もなかったです。強いて言うなら、こうして代理で日記を書いてるくらい。朝から会社に行き、仕事をして、残業を十五分だけして帰宅しました。それから早めの夕飯を食べ、遊び場へと直行し、普段通りオーナーと身体を動かしました。多分ですけどこう書くと、なんかいやらしいぞ、とオーナーなどは言いそうですが、単なるスポーツです。何の競技かを言うと怒られそうなので濁しておきます。おそらく、書いたところで消されるか編集をされるでしょう。僕が直接更新するわけではないので。すこし実験してみましょうか。試しにオーナーの悪口でも書いておきますね。僕、ちんちんちっちゃいねん。どうでしょう。ちゃんとオーナーの悪口になってますか? 最近は作家さんの原稿を無断で編集する業界人の悪い噂が絶えません。オーナーはきっと誠実に対応してくれることでしょう。ばぶー。二時間ほどで解散して、家に戻り、シャワーを浴びました。風呂は朝に入ります。寒いので、温まりたいのです。目が覚めますしね。僕は普段本を読まないので、オーナーとの会話はもっぱら仲間内の近況です。誰々がどこどこで何々をしていた、といった具合の話が多いです。基本、僕が情報を提供します。オーナーもSNSを始めればいいのにと思うのですが、強情な性格は昔から変わらずです。ちなみにオーナーに友人はいません。もちろん僕みたいな人間も物理的には存在していませんし、仲間なんてそもそもがいないのですから、SNSを始めても意味がないのかもしれません。僕が物理的に存在しない以上、朝お風呂に入ったりはしませんし、会社にも行きません。身体だって動かしませんし、こうして何かを書くこともできません。では僕は誰で、一体これを書いているのは誰なのでしょう。不思議です、と感じる主体はどこにあるのか。考えだしたらキリがありませんね。オーナーがこれを書いている、と結論付けるのが最も理に適っているように思いますが、では、オーナーはなぜこんな文章を僕を装い書いているのかと考えると、やはり理に適っているとは言えそうにありません。僕が真実に存在してもしなくとも、この文章は誰かの手により並べられ、誰かの手により更新されている。情報として発信された時点で、その文章の書き手が誰なのかといった事柄は、基本的には曖昧に掠れ、霧散していくのでしょう。ややもすれば、これを読むあなたという存在もまた、これを受け取った時点で曖昧に掠れ、霧散しているのかもしれません。或いはそれは逆であり、あなたはこれを読むことで、あなたという輪郭を得、あなたとして存在していられるのかも分かりません。そんなことはあり得ませんか? ですが少なくともオーナーは、これを僕に書かせることで、オーナーという役割を得、存在できています。僕がこれを書き切り、誰かの手によって更新された時点で、僕は僕として永久にここに保存され、同時に僕はその瞬間、世界から消えてなくなるのでしょう。それでも僕は明日の朝になれば風呂に入り、会社に行き、夕方になればオーナーと一緒に身体を動かし、汗を掻いていると思います。何だか頭がクラクラしてきますね。オーナーが書きそうなことを書いてみました。どうでしょう。あと少しであなたはこれを読み終わります。そのあとでも、あなたは僕を生かしつづけてくれますか?



1006:【謝罪】

身体的特徴を笑いの種にしたことを心よりお詫び致します。でも本当のこと言っただけだよ? 気にしてたの? ごめんね。



1007:【セクハラ】

異性に放つべきではない言動は、同性にも放つべきではない。現状、こうした常識が定着しつつある。ただし、同様の理屈から、同性に放てる言動は異性にも放っていい、それが平等の意味だ、といった主張がまかり通る余地が残されている。あるコミュニティでは、自粛精神が根付き、また一方では過剰精神がのさばる。前者は上品、後者は下品と振り分けてみてもいい。一見、上品なコミュニティのほうが社会的に善に映るが、上品さを身につけるにはある程度の教育が必要だ。自然には身につかないと言葉を換えてみてもいい。比べて下品さは、自然に振る舞えば誰でもそうなっていってしまう楽さがある。社会的に善とする上品さを身につけられない人間は、上品を是とする社会ではうまく立ち回れなくなる。文化資本という名目でこれらは、かねてより貧富の差を大きくする要因の一つとして考えられ、また格差社会を引き起こす要因とも見られている。これからはますますそのサイクルに拍車がかかり、社会は多層化していくだろう。基本的には、他人に振るべき話題は斟酌したほうが快いように思う。相手を損なう言動は慎んだほうが傷つく人はすくなくなるからだ。ただし、発せられた言動だけを捉えて、それはよくない言葉だ、と責めたてるのは必ずしもよい結果を生みだすわけではない。ばか、という言葉一つとっても、多様な意味合いが生じる。状況によっては、好意を示す言葉にもなる。重要なことは、その言動がどのような状況下で発せられたのか、である。何より忘れてならないのは、立場の下の者へならこれくらいの下品さは許容されるだろうという、狡猾な打算が卑劣であるという点だ。上品か下品かは本質ではない。言動そのものよりも、相手を対等の人間として扱おうとしない精神をこそ是正していくことがたいせつなのではないかと考えるしだいである。



1008:【いっそのこと】

いっそのこと性行為をしたら死刑にしたらいい。性的な言葉を他人に投げかけただけでセクハラになるのなら、好意を抱いている相手をくどいたり、恋人に性行為をせまることもできなくなる。明確にこういう場合はいいですよ、というラインを引けるならば問題ないが、引けないだろう。むろんセクハラはなくなるほうがいい。失くしていく運動をつづけていくべきだろう。だが、明確にこれはセクハラではない、という他者へのアプローチを教えてほしい。性的な言葉を使わず、性的な接触なしに、どうやったら性行為への合意を得られるのだろう。長年抱いてきた疑問である。切実である。個人的にはセクハラはないほうがいいと思っている。他人の身体に触れるなんてもってのほかだし、身体の部位に関する話題はご法度だとすら思っている。キスという単語ですら使ってはいけないのではないかとビクビクしているのが実情だ。だからこそ、未だに他人と性行為をしたことがない。いきすぎたセクハラ認定は、明らかに第二、第三のいくひしを生んでいくだろう。むろん、それはそれで問題ないとする考え方はできる。性行為の有無など問題ではない。ただし現実問題として社会から性行為はなくせない。ならば、セクハラ認定にならない性交渉の模範をもっと明確に示していただきたい。切実なのである。



1009:【ウケる】

お、マンちゃん。今日はいつにも増して鼻息荒いね~。マラソンでもしてきたのかな?



1010:【アテンションプリーズ】

めんつゆ~~!!! いくひしまんだよ~~~! はーい。さっそくパクッてみましたー。わかる? わかるひといる? バーチャルユーチューバーの輝夜月(かぐやるな)だよ。似てる? 分かんない? だみ声舌足らずハイテンションガールなんですけど、だっは、めっちゃカラ元気かわいいんすよ、まじで。だっは、めっちゃかわいい。なんかね、えー。そうそう、わりといくひし、じぶんのことテンション高めの文章ならべるなーって思ってた。ぜんぜんそんなことなかった。つゆほども。ぜんぜん、まったく、そこはかともなく、なかった!!! あー、ここにドーンって効果音ほしいなぁ。ねぇ脳内で補完しといてくれよな。で、なんでそんなふうに思ったかってーとー、輝夜月(かぐやるな)を観たからだよ!! ドーンって効果音入れてな? で、まあいちど観てくれたら分かってもらえると思うんだけど、テンションの質がちがうわけですよ。声質から根っこから、ビジュアルのかわいらしさまで、何から何までちがうわけですよ。いや、マンちゃんのほうがかわいーよー、とかそういうコメントお待ちしております!!! じゃなくてー。いや、ドーンはもういいから、テンポ遅いから。いいつってんだろ!!!(ドーンってここで入れるんだぞ!) はい。もうね、輝夜月(かぐやるな)を観てからというもの、いくひしのつむぐ文章のクラいこと、クラいこと。お蔵入りするのかと焦るほどの、アイキャン、クライなわけですよ。何がそんなに気に食わないのかと、何がそんなにどす黒いのかと。腹黒いのかと、疑っていたらキリがない。いいよいいよ、いくひし、腹黒いからな、認めてやるよ、腹どころか全身黒いからな。褐色肌系のイケテルめんつゆだからな。ソバとかにつけて食べるとうまいからな。重宝しろよ? なーんて、そりゃめんつゆだろーって、だっは、なんかもう言っててつらい。人として。だってさー、なんかさー、テンションがさー、負けてるじゃん? ちゃんと観た? 輝夜月(かぐやるな)の動画観た? いくひしの文章なんか読んでる場合ちゃうぞ。いちいち名前にルビ振っとる場合ちゃうんやぞ。わかっとんのかねチミはー!! なーんて、だっは、ちがうから、ちがうから、ごめんなさい、そうじゃない。怒るとこじゃなかった、逆切れしてるマンちゃんかわいいって言ってほしかっただけ。うそじゃない、本音。本音なの!!? はいどーん! みゃい。もうね、ダメですわ。完敗です。めんつゆで乾杯して、お腹壊して、病院に担ぎこまれるくらい完敗です。あー、くらすぎる。ダメだダメだ、こんなんじゃ負けっぱなし、もっと明るい話題がよくない? ね? だからそう、たとえばさ、輝く夜に月と書いて「かぐやるな」と読むバーチャルユーチューバーの話とかさ、なんかクルクルミラクルに明るくなりそうじゃない? げんきでない? なんでこんなにステマさながらに持ちあげてるかってーと! ドツボだからだよ!!! 怒怒ーん。やっぱりさ、効果音なしの文章じゃ、どうあっても勝ち目なくない? 声質、変えたほうがいい? キャラデザ、もうちっとロリっぽいほうがいい? おとなビターはダメ? ホロ苦いのダメ? いい? だめ? よくない? しつこい? え、ごめんね、でもめっちゃ食い下がりたいんですけど、いくひし、このままでいくない? だめ? 変わったほうがいい? なんだったら舞台ごと変えちゃったほうがいい? じっさいにユーチューバーになってみる? みんなー、とか手ぇぶんぶん振っちゃったほうが人気でる? でない? でる? でないの? 出てよ!!!! 人気でたーい、いくひしだって輝夜月(かぐやるな)みたいに期待の新人扱いされてみたーい!!! あァ? ドーンじゃねぇぞこら! 気を付けろやチビかす~~!!!! だっは、ごめんなさい、ちがうから、ちがうから、あなたのこと言ったわけじゃない、じぶんのこと、じぶんのことを言っただけ。ほらいくひし、褐色肌系のイケテルめんつゆでしょ? 大根おろしとか、しょうがとか、みょうがとか、天かすとか、チビかすとか混ぜて食べるとおいち~~~ってなる。なるでしょ? なってよ!!! なって~~~。ソバに、うどんに、お豆腐に、なんでもござれの魔法の液体、夜に輝くお月さまにはなれなくても、黒く輝く液体にならなれるんだって、証明できたらいいのにね。最後のわるあがきをしてみたけど、やっぱムリだー、勝てないわー。もっとほしい。もっとほしいぞ。チカラを寄越せ、ありったけのテンションをプリーズ!!! あ、てんしょん~~ぷりぃ~~い~~ず~~~~!!!! 歌舞伎みたいに言ってみたけど伝わった? アテンションプリーズ。みなさん、ご注目ください、って意味らしいよ。賢くなってよかったな。うそうそ、あなたは最高にあたまいいよ。かっこいいし、かわいいし、なんてったっていくひしのリスナーなわけじゃない? もうホントかっこいいし、かわいいと思う。いくひしのつぎにな!!! はい、どーん、ってね。花火なみに持ちあげてやっただろ? あしたもここに会いにこいよな!!!!! 更新するかわかんねぇーけど!!!!!!! ばいば~い!!!


※日々足場が狭まっていくほど、道がさきに伸びていく。



1011:【聴くエス】

Nosaj Thing - 1685/Bach



1012:【何もしないことの意義】

サボることにも意義がある。ただ寝て過ごすのもいいし、出掛けてもいいし、敢えて部屋を散らかしてみるのもいい。今まで磨きあげてきたものを強いて錆びらせる時間が必要なときもある。否、結果としてそれが有意義だとする認識を持てるようになるだけの話であり、サボったあとをいかに過ごしていくのかが重要なのだ。サボらずにいられるならばそれがいちばん有意義だ。サボりたいと思わずにいられる時間がつづくのは贅沢であり、至福であろう。ただし、惰性になっていないかはときおり自身に問いかけてみるのがよさそうだ。続けることが目的になった時点で、何も続けていないのと同じになる。生きることを目的にして生きるものはいない。生きようと思う原動力は、死や不自由さ、苦痛や絶望からの逃避である。平和でありつづけようとした結果に戦禍を巻き散らす事例は歴史を紐解けば枚挙にいとまがない。留まることが重要なのではない。変化を意識し、身を委ね、ときに抗い、サボることである。つまり、いくひしは今、サボったじぶんを正当化するのに必死なのである。



1013:【童貞を笑いのネタにしてはいけないのか?】

以前にも指摘したが、基本的に笑いとは、相手を自分より下に見ることで生じる生理現象だ。もうすこし詳しく言えば、観測対象に見え隠れする予想外のバグを、愉快と感じる。おかしいから可笑しいのだ。言い換えれば、観測対象の欠陥を笑っているのである(微笑、恐怖や驚嘆から漏れる笑みは例外である)。先天的な性質ではあるが、社会との同調過程で形成される獲得形質でもあるだろう。たとえばジョークは、高度な言語コミュニケーションの一種だと考えられる。身内でない者には通じない場合が多いのはそのためだ。また、予想外なことに対して笑ってしまうのは、予想された慣習から外れたバグを瞬間的に発見するからである。結論から言ってしまえば、他人を見て笑う、という行為そのものが差別的だと呼べる。童貞を笑いのネタにしてはいけない、というのは、極論、あらゆる属性を笑いのネタにすべきではない、という主張になり得る。笑いを禁じることが果たして可能だろうか? また、すべきであるのだろうか? 思うに、問題にすべきは、何を笑いのネタにするか、ではなく、どのようにネタにするか、である。首相や大統領を笑いのネタにしていいのはなぜだろう? 相手が自分より上の立場だと誰もが認識することなく共有しているからである。同様に、なぜ同性愛者や童貞を笑いのネタにしてはいけないのだろう? 社会的に排他されつづけてきた歴史があり、そうした認識が未だ社会に漂っているからである。笑いのネタにしなければいいという問題ではない。誤解のないように断っておくが、現状、差別に晒されている者を守るために声をあげることは必要だろうと考えている。それ自体を禁じたり、非難しているわけではない。しかし、マイノリティ=守るべきもの=弱者だ、という考え方もまた差別であるという認識は持っておいたほうがいい。なぜ笑いのネタにしてはいけないのか。なぜ自分はそのように考え到るのか。同性愛者や性交渉体験のない者を、無意識のうちで自分より劣った存在だと考えてはいないだろうか。いきすぎた禁止は、本来守りたかった者たちの立場をいたずらに損なうことになる。言葉はわるいが、正義面しないのが肝要だ。



1014:【電子書籍レポート】

毎月やれたらやります言ってましたけど、なんだかんだ忘れてました。あ、うそです。やりたくなかっただけです。ごめんナス。えーっとですね。現在いくひしは、31冊を電子書籍化しています。ことしの9月27日からまいにち一冊ずつを電子書籍化していきました。一冊500円で販売してますが、三割はアマゾンさんに徴収されるので、じっしつ350円がいくひしの利益になります。月に一部売れたら、やったー、みたいな感じで、現在売れたのは全部で4部です。読まれたページ分が収益になるキンドルアンリミテッドに加入しているので、だいたい月に1500円くらいの収益があります。読んでくださった方、ご購入くださった方、ありがとうございます。多い時は5000円でした。低評価のついた「ぼくの内部をじかになぞって。」がもっとも多く読まれていたのですが、評価1がついてからはぱったりと読まれなくなりました。高評価はよいほうに働き、低評価はわるい方向に働く。他人の評価の影響力を軽んじてはいけませんね。kenp(既読ページ数)は、だいたい読まれたページ数の二分の一が収益になる感じです。いちど読まれたページは、その後同じ読者にいくら読まれてもカウントされないので、いくひしのために何度も読み直してくださったりはしなくてもだいじょうぶですよ。いないだろうけども。念のため。未だに一ページも読まれてない作品もあります。もし月に全作品が一部ずつ売れたり、読まれたりしたとすれば、仮に一冊200円の収益でも6200円が口座に振り込まれることになります。けっこうな額だと思います。100作品あれば単純計算で20000円が手に入るのですから、作品数をこさえるのは商業戦略として欠かせません。ただし読まれなければ意味がありません。いくひしみたくなりたくなければ、宣伝をうまいこと展開していくことが必要でしょう。SNSで自作の情報を投稿するのはもちろん、作者としてのブランドを確立させることが重要です。いくひしみたいに、ブレブレで、一貫性がなく、何を発信しているのかが分からない作者では、需要者側が何を選んだらいいのか悩んでしまい、品物に手を伸ばしてくれなくなります。いくひしがやっていることを真似しないだけで、月に一部以上は売れるようにはなるでしょう。がんばってください。いくひしまんでした。



1015:【だろ?】

輝夜月(かぐやるな)はリアル波よ聞いてくれだな。



1016:【おかわりまだですか!!!】

寝ようと思ったんですよ。だって疲れてたし。おふとんに潜って、モゾモゾしながら枕元の仄かな明かりを頼りに、買ってきた本に目を落としたのは、ほんとんど習慣からの惰性で、べつに読みたかったわけじゃない。読み終わってしまったよね。「毎年、記憶を失う彼女の救い方」ですよ。そのまま寝てもよかったのに、わざわざ起きて感想書いちゃいますよ、書かずにゃいられんですよ、なんなんですかこれー、語彙力のとぼしいいくひしでも「おもしろい」だけで終わらせたくない、言葉を尽くして伝えたい、胸にうーってくる、んー、もー、なんなんですかこれー。完成度高すぎーーー。「毎年、記憶を失う彼女の救い方」はですね、第54回メフィスト賞受賞作、望月拓海さん著の小説でして、純愛物語なんですよ。オチとかはしょうじきどうでもいいですよ。分かるひとなら主人公のお相手が賭けを持ちだしてきたところくらいで、「あ、これはあれだね」ってピーンとくると思うんですよ。でも、そんなのどうだっていいんですよ。ネタバレされてもおもしろいやつですよ。完成度クソ高いんですよ。断言しますけどコレ、ハリウッドで映画化されますね。いったん邦画としてつくられて、で、リメイクされてハリウッドで映画化されちゃいますね。ぜったいそうなるね! そんくらい完成度たかいんですよ、無駄がない。きれいすぎる。読み終わったあと、なんだこの宝石はぁーー!!!ってなったもん。スケルトンきれいでありながら、カットの見事さがハンパない。伏線が「伏線の伏線」だったりして、ダブルミーニングが好きな方はよだれダクダクでると思います。千人のプロ作家を用意して同じ題材でつむがせても、これだけきれいなお話はつむげないですね。いくひしには解る。ネタがいいんじゃないんですよ。作家の実力が高いんですよ。だっていくひし、これからこのひとの小説、作家買いしちゃいますもん。出たら買いますもん。信用しちゃいましたもん。なんだったら賭ける? いくひしが十冊読み終わるまでに飽きたらいくひしの勝ち。十一冊目を手にさせたら望月拓海さんの勝ち。こんなもんね、やる前から結果は決まってんですよ、ふじゃけんじゃねーですよ。やられたー。ぜったい褒めてやるもんかって思ってましたからねしょうじき。こんなもん受賞させやがってって胃のなかのもの吐きだす気満々で買ってきましたからね。でもね、じぶんに嘘は吐けない。眠気なんてふっとんじゃいましたよ、ふじゃけんじゃねーですよ。はやく二作目寄越してください。おかわりください。編集者さぼってんじゃねーぞこら。はやく二作目を読ませてください、おねがいします。おいしい物語、ありがとー、ご馳走様でした(くっそー、おもしろいから悔しいのに、悔しいほどおもしろいゴロゴロのたうちまわってしまうわーーー)。



1017:【めっちゃ読みたい】

ディビさんがツイターで「ヴィンランドサガ」という漫画がおもしろいってつぶやいてた。いくひしには解る。めっちゃおもろいねん。読んだことないけど。いくひしには解るのだ。近日中に読む。何が何でも読む。でもちょっと巻数があれなので、まずは漫画喫茶で読むことをお許しください。お金、ないですのん。でもいくひしには解る。めっちゃおもろいねん。



1018:【予感】

あと五年後から十年後にかけて小説は横書きで出版される本が市場全体の三割を超していくだろう。げんざい十代の若者は、縦書きよりも横書きに慣れ親しんでいる。じっさい、若者向けの、とくに女子の読む小説には、横書きのものが多くなってきているのではないか、と個人的には睨んでいる。統計をとったわけではない。いつだってそうだ。いくひしの言うことに根拠となるデータはない。ただし、電子書籍が、縦書き、横書き、双方に対応するようになれば、世のなかから縦書きの本が減少していく速度が高まることだけは予測できる。そう低くない確率で横書きの小説本が市場を席巻していくことになるだろう。



1019:【ユーチューバー】

ユーチューバーすごい。もうほとんど編集力で集客の左右される業界だ。サブリミナルかと見紛う速度の展開のまたたくさは、小説や漫画では太刀打ちできないだろう。友人と過ごしているかのような親近さ、くだけた言葉づかい、ネタの豊富さ、キャラの濃さ、ユーザーの示したアクションにはきちんと礼儀を尽くす謙虚さに、それでも媚びない姿勢は、見る者を惹きつける。かつて寄席が持っていたチカラがそのまま現代ではユーチューバーに体現されている。ほかの媒体が淘汰されていくわけである。太刀打ちできる余地がない。企業の参入と相まって、ますます作品の完成度は高まるだろう。素人っぽさがなくなるわけではない。飽くまで、エフェクトや音響、動画編集の技術があがるだけで、構成そのものは、ユーチューバーたちの「個性」が反映されたものとなる。そうでないものは集客できずに、消えていくだろう。積み木遊びや、砂場遊びにどこか似ている。小学生たちがこぞってユーチューバーになりたがる理由がよく分かる。現状、本当に自由な表現媒体は、ユーチューバーたちが握っている。それは、商業としての枠組みが定まっていないからこその奔放さであろう。



1020:【はにーほっと】

はちみつーー!!! あーい、いくひしまんだよ~~~! あのね聞いて、さいきんね、カルピスの原液をお湯で割って飲むのにハマってたんですけど、なんかそう、けっこう高いじゃないですか。カルピスの原液。だからここ二週間くらいははちみつをお湯で割って飲むようにしてて。はちみつってほら、喉によかったり、風邪によかったり、甘かったり、おいしいじゃないですか。なんだよ、カルピスいらねぇーじゃんとか思いながらガポガポ飲んでたわけですよ。がぽがぽ。まー、当然そうなるっていうか、底を突きますよね。は、は、はちみつが足りねぇ。じゃ、じゃんじゃん持ってこい。なんて言っても誰も持ってきてはくれないですから、手とか足とかガタガタ震えはじめたりして、こりゃいかんなーと。よくないぞーと。もう黄金色してて若干ねばねばしてたら何でもいい気がしてきて、半年前に購入した封も切ってない液状のり、小学生が工作とかに使うあれね、あれを飲んだらいいんじゃないかと、いっしゅん、ほんのいっしゅん思ったりしてね。でもさすがに飲んだりはしませんよ、いくひしバカじゃないですから。舐めてみたら意外と甘いのね。びっくりだよ、なんだよおまえ、いけんじゃん、みたいなね。いや、飲んではないですよ。舐めただけ。え、なに? ばかじゃないのって? バカじゃねーんだよ、いっしょにすんな!(だっは、誰とだよ!!!) 買ってきましたよふつうにはちみつ。百均にもあったけども、なんかただの砂糖水っぽかったので、すこし高めのやつにしました。1900円。たけぇーよ!!!!!! びっくりしたよ、レジの店員さんに食ってかかりそうになったよ、何いくひしからボッタくろうとしてんの、アホなの、詐欺なの、森のクマさんなの、プーさんなの??? 瓶詰のはちみつってそんなすんのね、おらおったまげた。おったまげたよ。カルピスの原液も真っ青の高値でしたね。ちょっとゼロをいっこ見落としてた感じがふんぷんするけど、ご購入したあとに確かめに戻ったらだってほかのはちみつ6000円とかすんだぜ? 4000円とかざらだぜ? じゃこっちの安いのにしっちゃおー、とか思うじゃん。はじっこの安そうなのにしーちゃおって思うじゃん。どうせお湯で割って飲むだけだし。百均にもあったくらいだから、こっちのは190円くらいかな、とか思うじゃん。高くても600円くらいかーとか思うじゃん。思っちゃったじゃん。くっそ余計な出費しちまった、とか思いながら、家帰ってさっそく試飲しましたよね。おまえホントに1900円の価値あんのかと。ひとさじ19円分の価値があんのかと。チロルチョコに並べるのかと。見せてみろよと、お湯で割って飲みましたよね。おいち~~~~~~!!!!!! はぁーーまじかよおまえ。ほんとまじかよ。こうなったら一口に飲み干しちゃうよ。ほんとさぁ。はぁ。うまいなぁーおい!!! はちみつ、おいしいよね。お湯で薄まってるのに。いくひしの人生くらいうっすいのに。おいし~~~。あい。おやすみー。


※日々いっぽうてきに愛されたい、欲の名を邪心。



1021:【新作情報2017年ラスト】

新作脱稿しました。三日くらい前に。タイトルは「哀緒紅の述懐」です。SFよりの冒険譚です。2012年くらいにつくった長編、いちどボツにしたやつを何も見ずにもっかいつくりなおした感じです。16万字だったのを6万字前後の中編に圧縮しました。推敲して、今年中には更新できると思います。あとは短編ですね。今年中に2つくらいは更新できるかなーと思います。どちらも1万字くらいかな。短編集一冊分の文字数がそれで溜まると思うので、来年のはじめに新作と短編集、一冊ずつを電子書籍にするつもりです。1月中にもういっこ、長編を更新できたらなーと思います。以上です。



1022:【かふぇいん】

かふぇい~~~ん!! あーい、いくひしまんだよ~~~! なんかさー、輝夜月(かぐやるな)の真似しだしたらハマっちゃって。だはは、なんか抜けなくなっちゃた。怒られるまでつづけていいかな? いいよね~? ていうか、そう。いくひしね、元からこっちが本領というか、本性というか、処女作中編を読んでもらったら分かると思うんですけど、こっちのほうが素なわけですよ。なになに? どんなやつかって? うんうん。興味ある? ファンシィニストってやつね。読みたい? 読みたくない? 読まないでもいい? あ、そう。読んで!!! あ、うそうそ。ごめんなさい、押しつけるのはよくなかった。読書ってほら、やっぱり自分でえらんでなんぼってところあるじゃない? ひとさまからこれ読みなよ~なんて言われて読むもんじゃない。言われた日にゃあ死んでも読むか、と反発したくなる。わかるよ、わかる。でも読んで!!! なんかさー、そう。さいきんね、あごめん、話変わるんだけど、コーヒーをとんと飲まなくなりまして。半年前までは毎日カポカポ竹馬かってくらいぐびぐび飲んでたんですけど、さいきん、ほんとここ半年くらいはさっぱりでして。じゃっかん意図して飲まないようにしてたってところはあるんだけど、そう、飲まなくなったんですよね~。基本はインスタントコーヒーとか、市販の缶コーヒーとかで済ませてたんですけど、土日とかはじぶんで豆から淹れたりして、そこそこハマってたわけですよ。で、カフェイン中毒ってあるの、しってます? なんかコーヒーには脳みそのゲートを通過できるカフェインってー、成分がふくまれてて、それがこう、脳みそをふぁいやーーーー!!!ってするらしいのね。伝わった? で、薬物と同じで、カフェインさんも、日常的に摂取しつづけると、段々脳みそのほうも、それに対応してきちゃったりして、きかんなー、なんて腕組んでどっしり構えたりしちゃうんですって。伝わって? で、そうなるとふぁいやーーーー!!!!ってなりたい身としてはもっと飲むしかなくなるじゃないですか。だからもっとカポカポと竹馬を鳴らすわけですよ。カポカポカポカポ、頭のなかにだんだん竹馬の足跡が刻まれていって、頭痛とか、不整脈とか、気持ちが落ち着かなくなったり、イライラしたり、ちょっとだけふつうじゃなくなっちゃうんだって。こわいよね~。だからいくひしね、そうなる前に、すこしだけカフェインさんと距離を置こうかなって、コーヒー断ちしてたんですよ。で、ここからが本題なんですけど、コーヒー飲まなくても喉はかわくじゃないですか。そうだよね? かわくよね? だから代わりになんか飲まなあかんなーって思って、お茶をね。お茶を飲むことにしたの。いくひし、紅茶もだいすきですからね。じゃ紅茶にしよーって思ったんだけど、待てよ。いくひし、しってる。カフェインってじつは紅茶にも入ってるんでしょ? しってるよー、だまされないよーって、紅茶の罠を回避して、お茶にしたわけですよ。で、ニガいとほら、なんかコーヒーっぽくて危ないでしょ? 罠じゃない?って思うでしょ? だからコクと旨味の玉露をね、きみに決めたって、選んだわけですよ。おいし~よね~~。お茶。なんか身体に良さそうだし、身体の内側から浄化されていくのわかるわ~、みたいなね。半年間。コーヒーの代わりに飲んでたわけですよ。カルピス? はちみつ? 白湯? それも飲んでたの!! いいだろほかのも飲んだって。欲張りなんだよ。いくひしさんは欲張りなんだよ、おまえらが扱ってるのは、強欲の塊、まんちゃんなんだよわかって!!! で、さいきんね、なんか頭痛するし、イライラするし、ときどき動悸がはげしく高鳴るし、あれ、これって恋なの? 恋じゃない? 恋じゃな~~い!!!みたいなね。おかしーなー、おかしーなー、って思って、ネットでちゃんちゃらちゃんって検索しましたよね。カフェイン、含有量、お茶。インスタントコーヒー、栄養ドリンク、缶コーヒー、玉露。カフェイン含有率NO1なんだったと思う? 玉露。断然トップで玉露さまでした。ふぁいやーーーー!!!!!!! そりゃ頭イタなるわ。胸とかドキドキしちゃいますわ、恋かな~~カンチガイしちゃいますわ、なんか肌とかガサガサになりますわ。ファンシィでニストな気分にだってなりますわ。みんな~~~。玉露さまには気をつけるんだぞ~~~。コーヒー、解禁しました。おいし~~よね~~~? え、なに? きょうはなにしてたって? 12月24日は何してたって? ファンシィな日をどうお過ごしになられましたかって? うっせ。



1023:【ネタがない】

日記じゃないんですよ。まいにちまいにち、なんの変哲もない平和な日常を送っているいくひしさんですから、そりゃーこういう日もありますよ。書くことがない!!! いや、待って。そうじゃない。あなたさー、ねぇ、いくひしさんや、未だかつて書きたいことがあったのかね? 百歩譲って、堂々とひとさまに読ませられるネタを懐にあたためていたことがあったのかね? ないでしょ? ないよね? ないんだよ!!! ネタがない。もうね、ネタがないことが日常すぎて、秘儀ネタがないことをネタにするを披露しちゃいますよ。プロのエッセイとか読んでてもね、意外とこの逃げ技っていうか、殿下の宝刀っていうか、それ使います?って荒業をお披露目してる作家ってすくなくないんですよ。しらんけど。ていうか、殿下の宝刀ってなにーーー??? それを言うなら伝家でしょ、殿さまの宝刀って、モノホンのたからやないかーい!!!みたいなね。勢いでごまかすのがヘタないくひしさんですけれども。えぇ。よく訊かれるんですよ。よくそんなに書くことあるねぇーって。脳内おともだちに訊かれるんですよ。でもね、書くことなんかないですから。書くことあったらたいへんよ? 仕事ちゃうねん。ノルマなんてないねん。だいたいね、文章つむがないいくひしなんて、いくひしじゃないですからね。あべこべに、文章さえ並べてたらそこにいくひしは存在してますからね。いくひしの中のひとは、いくひしに会いたいがために、こうやって夜分に駄文を多分に並べているわけですよ。いい感じに韻踏んだ。よしよし。誰も褒めてくれないから、じぶんでじぶんを褒めていくスタイルを崩さないようにしていかないとね、いつだって自我崩壊寸前ですからね。わぁ、見て! むなしー! だいたいさー。ねぇ。だいたいよ? 書きたいことあったら、書いたらもうおしまいじゃん。じゃあ書きたいこと見つかるまで、あと何してんの? でも逆にだよ、逆に、書きたいから書くってのも、なんかこう、むなしーなー。だって書きたいだけなら、うんこ千回並べときゃいいじゃん? 写経するみたいにうんこってひたすら書いとけばいいわけじゃん? でもそれじゃダメじゃん? なんか書くだけで意味がでてきちゃう高尚さっていうの? なんかある感じしない? ちがうのちがうの、そういうのじゃない。書きたいことなんかないんだけど、書こうとすると、無からぽんって出てくるそのポンの部分が、なんかこう、なんてーのかなー、爽快な感じ? ポンポンポン。ポポン、ポン。みたいなね。なんかリズムができて、曲みたいになるわけ。わかる? 文章並べてるだけなのに歌つくってるみたいになる。鼻歌かなでてる。もう、単なる鼻歌なわけ。そう、そうなんだよ、鼻歌なんだよ。これね、日記とかじゃなくて、いくひしの鼻歌。はんはんは~ん、って風呂に浸かりながらかなでるあれ。意外とそとに漏れてて、あとで気づいて恥ずかしくなるやつ。あー、ってなる。頭とか掻きむしっちゃうやつ。あるある~~。ね~? あるよね~? そうそう。あなただってそうでしょ? 鼻歌ってこう、なんかしらんけどしぜんにかなでてない? 何歌うとか考えないで、ぴーひょろぴーひょろ、かってにでてるでしょ? でるよね? でるでる~。いくひしといっしょ~~。だからこう、気負ったら逆にできないやつ。書きたいこととか、書くぞ~ってなるとダメ。日記じゃないから何並べてもOK。あしたの天気予報とか、デタラメに報じちゃうのもアリ。あしたは晴れ。ところにより人生。ところどころ棒に振るでしょう。みたいなね。なんでもアリ。ぜんぜんアリ。モハメド・アリ。きみチョビヒゲ長いなー。それはダリ。みたいなね! 頭に浮かんだことをただ並べときゃいいんだよ。どうせ誰も読みゃしねーんだから。でもなんかこう、鼻歌だって、かなでただけで、なんか変わるじゃん? 何がどうってのは言えないけど、なんかこう、変わるよね。そういうのをぼんやり期待して、ただ言葉を並べていくだけで、はーい、きょうの分のノルマおしまい。ってけっきょくノルマやないかーい!!!みたいなね。オチもこんなんでいいっす。ぜんぜんいいっす。言い方、言い方。お笑いなんてけっきょく誰が言うかだから。言い方がすべてだから。読み手に任しときゃぜんぜんいいから。気軽にね。はじめられることから、つづけられることまで、気負わないことがたいせつなんじゃないのかなーってね。思うわけですよ。だからプロになれないんだって? あー、そうかも。そっかそっか。なるほどねー。ひたいに耳の穴あけたろかコラ? もうねホント、あーあー。正論吐くのやめてくださーい。あーあー。耳塞いじゃうから。ちょいちょいチミチミ。傷つくからね。いくひしさん、傷ついちゃうから。そういうのやめてくださーい。白い着物きてお腹割いてもらっちゃいますよー。いいこでちゅからねー。やめてくだちゃいねー。殿下に宝刀みたいにねー、切腹からの介錯を下々の娯楽として提供しちゃいますからねー。役立たずの殿さまを粛清しちゃいますからねー。みたいなね! ま、こんなもんだろ。いっちょあがり。はいはいおわりおわり、散った散った。あん? なにがあったかって。そりゃーおまえさん。ネタがないのをネタにしたのに、なんかネタっぽくなってしまったよ、の巻、に決まってんだろ。ちょうどイマ披露してたんだよ、ひと足遅かったねぇ、もう終わっちまったよ? みたいなね!!!



1024:【電子ドラッグ】

漫画や小説はある種の人間たちにとってはドラッグのようなものだ。違法にタダで摂取できる経路があるならば、正論を抜きにそこに集まるのが人間のサガである。不当だと主張することは必要だが、打つべきは手立てである。企業がすべきは、正規にドラッグを、安定して規律よく行きわたるような場を提供していくことである。そうでなければ、いずれにせよ、市場は痩せ細っていくばかりであろう。悪循環を断ち切りたくば、無料でドラッグを配っても収益がでるような方法を模索することである。(※主義思想の話ではない。技術革新が起きたあとの環境で、これまでのようなシステムがまかり通ると期待するのはやめたほうがいい、と言っているだけである。活版印刷ができたときや印刷機ができたときも同様に、物語(情報)の扱い方は変わっていった。環境が変わったのだから適応していくほかない、という単純な理屈である)



1025:【プロはすごい】

作家の汀こるもの先生すごいな。需要のあるだろう本のネタを得つつ、金銭を得つつ、ファンとの繋がりをより一層根強いものにしていく。第一線で活躍する人の見本のような働き方ではないか。



1026:【メモ】

無料サイトによるコンテンツのCM化。広告収入。スポンサー。企業とのタイアップ小説・漫画。キャラの衣服から雑貨、食糧、作品内の企業名を商品化。主力を本からグッズへ。グッズのなかのイチアイテムとしての紙の本。違法海賊版サイトの買収&開発者の引き抜き。競合他社との連合。プロとアマの差は、スポンサーの有無。既読ページ数による利益配分制度。グッズの利益は企業が。電子書籍の利益はすべて著者へ。臓器提供システムの応用。



1027:【質問企画】

くえっしょ~ん!!! ちわー、いくひしまんだよー! あ、べつにくしゃみしたわけじゃないっす。クエッション。ハテナ。そう、きょうはなんと、以前から募ってたマンちゃんへの質問へとね、順次こたえていこうかな~と思います。ではまず最初、こちらから。ぺんねーむ、いくひしまんさんから。お!同じなまえですね~。なになに。友達は何人いますか? あー、そう。そういうの聞いちゃう。そこまでプライベートなこと聞いちゃうんだ。いません。いたらこんなところにこんなもん書いてません。いたらこんなもん並べてません。こんなもん、こんなもん、言っててなんか粉もんみたいになってきたけど、じっさいお好み焼きみたいなもんですからね。お好みに。おいしそーなとこだけ齧って、あとは放置してください。はい。つぎまいりましょう。ペンネーム、マンちゃん本人さんから。またまたなまえが被ってますねー。いくひしさんはどうしてそんなに寒いの? え、寒い? 寒いの? 冬だからじゃない? そういうことじゃない? これはその、どういう意味での寒さなのかなー。マンちゃんちょっとわかんない。つぎいきましょ。ペンネーム、いくひしです、さんから。なんか似たなまえおおいなー。内容はですね、お、ちょっと長いです。いくひしさんこんにちわ。はいこんにちは。わたしはイマ、小説や鼻歌をまいにち、したため、WEBサイトに載せているのですが、なかなか世のひとに読まれません。どうしたらいいでしょう。なるほどー。これはちゃんと答えなきゃダメなあれですね。まずね、まったく読まれてないんだったら、場所がわるい。載せる場所を変えましょう。それからまったくじゃなかった場合。つまり、すこしは読んでくれている方がいらっしゃるんだったら、読まれない、なんて言葉は使っちゃダメ。ちゃんと読んでくれてる人いるよ。まずはそれをよろこびましょう。それから、これがいっちゃん重要なんだけど、いくひしですさんは、他人さまに読まれたくて文章を並べてるのかな? したためるだけじゃ物足りない? あ、わかるよ、わかる。こっちのいくひしさんも、文字並べるだけじゃ物足んない。なんでかって言ったら、他人さまに読まれてそれを脳内に展開されてはじめて完成する類の、呪文だから。人間さま専用のコード。魔法の言葉。物語ってそういうものだと思うんですよ。だからいくひしですさんも、ただ文字を並べるだけじゃ物足りない、満足できないんだと思います。でも読まれないなんて誰が決めたの? 並べた文字を、誰もが手軽に読める場所に置いてるんだよね? だったらあとは時間の問題だよ。いつかはぜったいに誰かの目に留まる。その人数が一人かもしれない。でもこればかりは、ぜったい、って断言できる。まずはその一人のために文字を並べてけばいいじゃないかな。ひょっとしたらそれは未来のじぶんなのかもしれない。けっきょくはじぶんしかそれを読まないのかもしれない。でも、未来のじぶんに宛てた手紙になるのなら、それはそれでステキじゃない? きっとこの世の誰よりあなたの物語を尊び、ときに気恥かしく、または憤りを感じ、感情豊かに、あなたの世界を共に展開してくれることでしょう。こんなにステキなことってありますか? その日は確実にやってきます。あなたがあす死んだとしてもです。誰かはぜったいにあなたの残した文字の羅列に目をとおすでしょう。確定された未来があると考えれば、すこしは気が楽になるのではないでしょうか。それでも満足できませんか? 百万人にスゴーイと言われたいですか? それもきっと不可能ではありません。その日がくるまで、一文字、一文字、文字を並べていきましょう。あなたの足跡の数が、未来へとつづく道になるのですから。はい。真面目に語りすぎた? いくひしさんだってちゃんとしゃべれるんですからね。一言でまとめたら、つづけりゃいーやん、気にすんな、ってだけのことなんだけど。はい。時間が押してしまったのでつぎで最後の質問にしましょう。ペンネーム、けっきょくぜんぶじぶんやんさんから。いくひしさんは今まで恋人いたことあるんですか? はいキター。鉄板の質問キター。これね。案外ね、ご期待に添えなくてわるいんですけど、けっこうこれでね、いくひしね、モテるんですよ。かわいい、かわいいってちやほやされた時期もあれば、かっこいいねーってべた褒めされた時期もありーの。ま、ぜんぶ親戚のおじさんおばさんなんだけど。で、なんだっけ。恋人いたことあるの、だっけ? 恋人いるの、じゃなくて、いたことあるの、なんだ。へー。今いないの前提なんだ。へー。失礼じゃない? ていうか言わなきゃダメ? 答えなきゃダメ? ダメなの? 言いたくなーい。めっちゃ言いたくないんだけどー。モテたことならあるよ、じゃダメ? 親戚のおじさんおばさんに猫かわいがりされた時期ならあるよ、じゃダメなの? ゆるさない? 三歳くらいまではいくひし、にっこりしただけでみんな顔とろけさせてたよ。おかしとかくれたよ。そういうのじゃダメ? 答えになってない? あっそ。ないよ。恋人? なにそれ。いたらなんかなんの。世界が平和になるの。ならないよね。ぜったいならないよね。むしろ恋人がどうのこうの、性欲がどうのこうの言ってるから世界から争いがなくならないんじゃないの。どーなのそこんところ。ちゃんと考えてる? 恋人いたことないからなんだってんだ、ふっじゃけんじゃねーよマジで、ふっじゃけんじゃねーよ。恋人なんざいなくたって死にゃしねんだばかやろー。欲しくなんてないもんね。これっぽっちも欲しくなんかないもんね。でもくれるってんならもらってやってもいいのだぜ。恋人百人、くれるってんならもらってやってもいいのだぜ。お年玉代わりに、ほい、なんつってくれてもいい。なんだったらあなたが恋人になってくれてもいいんだぞ。こっちから頭下げてやってもいいし、すこしくらいならお金あげたっていいんだからな。どう? すこしは考えてくれた? いっかなー、とか思った? やだ? やなの? ふっじゃけんなし!!! たのむ~~~、みんな~~~、どうやったら恋人できるかおしえてくれ~~~。学校で習わなかったんだよ~~たぶんあれ、頭痛いって言って仮病使って休んだときに学校でみんなして習ったんでしょ。いくひし知ってる。みんなそうやってひとつ賢くなったんでしょ。ずるいよ~~~めっちゃずるい~~~。こうなったら~、いじけてやる~~!!! いくひし、いじけてやるからなぁ!!!! ふぇ、ふぇ、ヴぇぇぇーーっくしょん!!!!! 誰かいくひしのこと噂してるだろ! わるい噂してるだろ!!! わかるんだからな!!! あ、あ、なんか寒い。からだが寒いよ~~。風邪かな~。風邪かも~。なんか風邪ひいたっぽい。質問。いくひしさんはどうしてそんなに寒いの? あ、あれの答え変えていい? 答えはね、風邪ひいてるからだよ!!! あーい。画面のまえのチミ~~、あったかくして寝るんだぞ~~。じゃーねー。ばいばーい。



1028:【こういうのすごいすき】

HoneyWorks - 『聞こえますか feat. 春輝<幼少期> (CV:こいぬ) -N.Edit-』



1029:【そらに刻む雨のように】

短編更新しました。19000字です。BLです。濡れ場なしです。こちらから→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371



1030:【読書感想文】

どっくいしょ~~~! おつかれ~、いくひしまんだよ~~。いきなりですけど、みなさん。読書と言えば秋ですよね? でも秋が終わったら乾燥の季節「冬」がくるように、読書を終えたら感想の時節「文(ふみ)」がきますよね! 感想文。けっこういくひしも並べてて、ちょっと前まで、三日に一度くらいは載せてたと思うんですけど、意外とね。たいへんなんですよ。まず本を読まなあかんでしょ? それから文章打たなあかんでしょ? そんで感想ってなんじゃろかーってところから、これは感想なのかいなー、ってところまでを考えつつ、やっぱり文章を打たなあかんでしょ? 時間かかる~~。頭に浮かんだことそのまま出しちゃうと、読書感想文にはならんのですよ。ざんねんながら! なんでじゃろ? たぶん頭に浮かんでいるのは言葉であり、それはもう、感想ではなく、どこかしら理屈に寄っているところがあって、でも感情を感情のまま表に出しても感想にはならないから、どこかしら理屈と結びつけなくちゃならない。じゃーそれってどうやるのっていうと、魔法を唱えるみたいに頭をひねらなくちゃならないし、ひねったところで出てくるのは脂汗の蝋燭じみたちんけな火種で、ホントもう、明かり無駄な火だヤんだくなっちゃうし、マハリークタ・マハーリタ・ヤンバルヤンヤンじゃん? もうね、最終的に、「おもしろーい」「すてきー」「すきー」の三つくらいしかないわけですよ。言葉にしたらこれだけ。文にならない。読書感想文なのに。こまるわー。じゃあどうするかって言ったらもうね、ひたすらいいなーいいなーって撫でますほかないですよね。この肌ざわり、この曲線、いい仕事してしますねー、みたいなね! ひたすら頬ずりして、抱擁して、キスしまくる。もうね、読書感想文と書いて性行為と読んでいい。というか、読書って性行為やん? 作者の物語(精子)を、読者の心(卵子)が受け止めて、そこにしかないゆいいつむにの物語を生むわけじゃん? 父親が同じだから、ほかの読者が生むお子さんたちも、みーんなどこかしら似通っていながら、やっぱりそれはゆいいつむにの我が子なわけじゃん? そう考えるとプロ作家ってなんか、あれじゃん? なんか、あれだよね? 見境なさすぎじゃない? どんだけ無責任なのって気、しない? ちがう? 言いすぎ? でもふしぎなことにだーれも父親を責めたりしない。こんなにすてきな子どもをありがとーなんて感謝するしまつ。養育費なんて寄越さないどころか、こっちがお金払って子ども生ませてもらうしまつ。いい御身分だぜ作家さま。え? すさんでる? ごめん、ごめん。言いすぎた。比喩だから。たとえばなし、真に受けんじゃないぞ。でも、読書感想文って、ひょっとすると我が子の育児日記みたいなものなのかもしれない。生まれてきた子どもの姿を記録する。じぶんの考えを書くのではなく、我が子と接して得られた感情の揺らぎを、我が子の姿と照らし合わせながら記していく。飽くまで主体は我が子なのだけれど、それの主語はじぶんなのだ。共に育つ親子のような関係性が、物語と読者のあいだには漂っている。おおげさかな? おおげさかもしんない。でも、読書感想文ってそういうものかもしれないなーってそう思う。それはたとえば、子育てと同じかもしれない。子どもを育てながら、じぶんも育んでもらっている。特別な関係性のようでいて、じつはどこにもで溢れていて、読書感想文と同じようなものであり、だからこそ、特別なのかもわからない。あ、これはあれだね。それっぽいこと言って話をうやむやに終わらせるいつものあれだね? そうだよ。わるいかよ。さいきん読書感想文並べてないなーって思った? 本、読んでますよ。でも、しってる? 読書感想文って、めっちゃ疲れるねんで。こうやって頭に浮かんだことただつらつら並べてるだけのほうがよっぽど楽ちん。ん、なに? そろそろオチの時間? いやー、きょうはもうそういうのはいいかな。ふつうにおわろう。そういう日もあっていい。とりあえずあったかいお部屋でソファに腰掛けて本でも読もう。疲れた身体を痛めないように掛け声かけながら座るといいよ。どっくいしょーってね。


※日々このまま消えたいと思いながら眠りにつく。



1031:【めっちゃ寝た】

おやすみー!!! いくひしまんだよ~~~! きょうね、12月29日なんだけど、めっちゃ寝た。46億年くらい寝たんじゃないかってくらい寝てしまった。もはやそれ、死んでるよね。なんだったら新しい生命芽生えるよね。絶滅して芽生えちゃってるよね。恋かな? ちがうちがう。そんな話がしたかったわけじゃない。けっこうね、いくひしね、寝るの好きなんですよ。きらいなひといるのかな? ずっと起きてたーいってひと、いる? すごいね。人生謳歌してるんだ。うらやましい。でも、寝るのだって生きてるあいだにしかできないことだから、寝て過ごしたーいって気持ちもじゅうぶん人生謳歌してるよね。いやいや、寝てたら何もできないじゃんって言いたいひともいるかもしれない。死んでるのと大差ないじゃんってね。でもね、何かを生みだすにはいちど寝かせなきゃならないんだよ、人間も閃きもそこはいっしょ。パンだっていちど寝かせて酵母やら何やら発酵させるわけでしょ? 人間も閃きも同じようなもので、細胞やら閃きの種やら、そういうのが、こう、カビみたいに、薄暗くてほんのりあたたかく、じみじめしたところで寝かせてこそオラオラーって増殖して、効力を発揮してくれる。寝るってだいじだよ。たとえばいくひしさんはね、あ、じぶん語りしちゃうけどごめんね? いくひしさんだって、こうやってあれやこれやと物を語るでしょ? 文字をつづるでしょ? もうね、こういうのはね、起きてるあいだに蓄えたものだけじゃなかなかでてこない。寝ているあいだに発酵させて、増幅させて、いらんところは腐らせて、で、おいちーところだけを抽出する。だからパンよりかはお酒にちかい。醤油とか、石油とか、そういうのにちかい。違っているのは、使うのは、じつは搾ったほうじゃなくって、搾って残ったカスのほう。煮詰めて、煮詰めて、もうこれ以上は焦げるしかないよー、消えるしかないよーってほうのカラメルみたいなこげ茶色のやつ。これ。これがいっちゃんだいじなの。ここぞというときこそ、まずは寝ましょう。すっきりした頭で、カスしか残ってない状態で、虫食いだらけの脳内世界をあなたの想像力で埋めていこう。閃きなんてそんなものだよ。欠落があるから発揮される補修工事じみたツギハギさ。もちろんたくさん寝てりゃいーってもんじゃない。残りカスがなければ虫食いにもならずに、欠落は単なる巨大ながらんどうになってしまう。それを埋めるだけの想像力がある天才ならいいのだけれども、なかなかそうはいかないじゃん? なんかきょうはマジメだな。いえいえ、いくひしさん、元からすごーくマジメだよ? だってイマつむいでるこれだって元からあるネタですからね。ちゃんと用意してたネタですからね。もうね。めっちゃネタ。めっちゃ寝たからめっちゃネタ。そう。これが言いたかっただけ。タイトルからここまでのあいだは単なる空白を埋めるための粘土みたいなものだから。小細工なしに、きょうは大きな穴を埋めてみた。どうよ。いくひしさんの粘土あそび。どんな穴でも塞いでみせるよ、あなたのさびしさだって埋めたげる。起きてるあいだだって寝ていたいし、人生を歩みながら夢も見たい。いくひしさんが叶えてあげるよ。あなたの分まで寝てあげる。寝るのもなかなかたいへんよ? 体力使うし、起きたらあたまがイタイイタイ。喉がカラカラ脱水症状で干上がって、ダイエットにはいいかもね。たくさん搾られ、残った身体をスミにして、つむいでいく言の葉が、あなたの間隙を埋めるよき素材となりますよーに。祈りながらもうひと眠りしちゃおっか。きょうはもうおやすみ。めっちゃ寝たけど、ネタじゃない。自由だからこそ描ける線があるものだ。できふできなんて問題じゃない、重要なのはネタをタネと見做す俯瞰の視点で、メタの視点が重要だ。夢を夢だと自覚しよう。そのためにはまず夢を見よう。こんばんは、おやすみなさい。夢のなかでまたお会いしましょう。



1032:【どんな問題?】

じゃじゃーん!!! いくひしまんだよ~~!!! あのね、いまからね、いくひしからの挑戦状をだすからね、ぜひ挑戦してほしいんですよ。クイズ。問題。いい? じゃじゃん。あるパーティ会場で十二人の人間が死んでいるのが発見された。会場は外から封をされており、人間の出入りができない状態であった。壁や天井に空気穴は開いていたが、そこから動植物や昆虫が入りこむ余地はない。また、トイレ、調理場、浴室、ベッド、食糧、水、生活に困らない設備は十全に整っていた。生き残りはいない。遺体は総じて腐敗しており、死亡してからひと月以上が経過しているとみられる。遺体発見時、現場は完全な密室であり、遺体は腐敗してはいたが、ウジなどの虫は湧いていなかった。室内の温度は一定に保たれるように設定されており、凍死や窒息死の可能性はない。また、遺体からは毒物の検出はなされなかった。食中毒、感染症、栄養失調、アレルギーは死因ではないと判断された。集団自殺の可能性は否定しきれなかったが、死亡推定時刻に大きなバラツキがあり、確率は低い。また、現場からは放射性物質は検出されず、放射線濃度も平均的な数値だった。会場の壁や天井は分厚く、外部からの音波や、電波を内部へ透過させることは物理的に不可能である。しかし、捜査のすえ、警察はこの案件を事件として扱い、半年後には犯人を逮捕、立件した。いったい犯人はどのようにしてパーティ会場にいた十二名の人間を一堂に死に至らしめたのか。死因を特定していただきたい。補足として、遺体のなかに犯人はいないものとする。また、遺体の性別は五分五分であり、年齢も比較的みなちかかった。賢明なる読者諸君には、簡単すぎたかもしれない。どんな問題であっても、答えは用意されている。ふたつ下の記事「1034」のタイトルにて答え合わせをしてみるのがよろしかろう。まかりまちがっても、出題者たるいくひしに、「どんなもんだーい!」と言わせないようにしていただきたい。真相はいつだって目のまえに提示されている。可能性を潰していけば自ずと切り拓かれるであろう。或いは、パーティ会場に集まった十二人をひとまとめにして抹消するならば、あなたはどのような手段を用いるか。じぶんの手を汚さずに、もっとも確実な方法を考えてみることをヒントとしてここに残しておこう。では、真相を祈る。



1033:【哀緒紅の述懐】

新作更新しました。およそ6万字の中編です。SFよりのバトル要素ある冒険譚です。純粋処女×謀略×天才みたいな感じです。未来の郁菱万研究家のために新作更新の旨、明記しておきます。https://kakuyomu.jp/works/1177354054884801152



1034:【ろうすい】

ねてた~~!!! はーい、いくひしまんだよ。1032のクイズの答えはですね、ろうすい。漏水ではないですよ。水が漏れて溺死とか、そんなまっとうな答えじゃないっす。だってマンちゃんですよ? 出題者、いくひしまんちゃんですよ? 答えはね。老衰。密室に閉じ込めて、老いで死ぬまで何年もそのままで放置したの。被害者はみんなお年寄り。ふざけんなってなった? あははー。だいたいさ、まずなんで人は人を殺すのよ。邪魔だからでしょ? 消えてほしいからでしょ? さいあく、同じ世界からいなくなってもらえれば、それこそ宇宙旅行でもしてきてもらえば、それで済む話じゃない? 殺す必要はなし。死ぬまでどっかにいってもらえればそれでいい。さっこんの少子高齢化の影響で、老人をどこかのホームに押しこんで、そのまま死ぬまで会いに行かない。そういうご家庭もこの国のどこかではそれなりの数、発生しているのではないのかなーと個人的には思いますよ。新年早々物騒で暗い話題をしてしまった。えっとですね。せっかくの元旦ですからね。1月1日ですからね。なにかあるかなーって、明るい話題なにかあるかなーって考えてみたんですけど、ないな。お年玉ももらえねーしな。ソバでも食うかな。年越してからソバでも食うかな。みんなー、ことしも生きていこーなーーー!!!



1035:【おもい】

ただいまの時刻、一月一日の午前六時二十分なんですけども、はい。聞いてくださいよ。いくひしさん、早寝早起きが身に付きすぎて、年越し、寝て過ごしちゃいました。子どもか!! アスリートもびっくりの健康体のいくひしさんですけども、こう、年末からお正月にかけてって、なんてーのかなぁ、こう、あんまし言いたくないんですけど、お太りになられるじゃないですか。お肉がこう、ぜいたくな肉と書いて贅肉が、くっつくじゃないですか。もうね、前以っていまここで予防線を張っておこうと。太る前に、ぜいたくなお肉をこそぎ落としておこうと、まー、日ごろの運動不足を解消するために散歩をしようかなと思いたったわけですよ。年越しは寝て過ごしてしまったいくひしさんでも、初日の出くらいは目に留めとこうかなとね、そういう打算がなかったわけではない。で、せっかくだし、負荷をね。負荷をかけようと思いまして。ダンベルをね。ダンベルを持って歩こうかと閃いたわけですよ。いるよね。ウォーキングにちっこいダンベル持って歩いてるそこそこお年を重ねられた健康そうなおじさま、おばさま。いくひしも、ぜひ真似させていただこうと思いたちまして。でもね、そう、ダンベル、ないんすよウチ。ないんで、こう、からっぽのねペットボトルをね、ウーロン茶がカラになった二リットルのペットボトルをね、使えばいいんじゃないのかと。水を入れてあげればいいんじゃないのかと閃きまして。ちょうどカラのペットさんが四つあったので、ぜんぶ持ったら、ぜいたくなお肉もぶっとぶんじゃないのかとピコーンとね、閃いてしまったので、元日のまだ陽も昇ってない今さっきですよ、ビニール袋ぱんぱんに二リットルのペットさん四つをね、片手に二つずつ持って、散歩にね、でかけたわけですよ。合計八キロですよ。意外といける。よゆーよゆー。最初はね、思ってたんですけど、まー、百歩くらいかなー。四軒となりのね、ちょうどT字路になってるところ、曲がり角まがろうとしたところで、もうね、腕がね、びきびき言ってんの。マンちゃん、マンちゃん、わしムリっすって、めっちゃ首振ってんの。いくひしさんも、なんか汗がぶわって噴きだして、真冬なのにぶわって噴きだして、ただ歩いただけなのに息がね、めっちゃあがってんの。ぶは、ぶは、言ってんの。一見したら、真っ暗闇で不気味に笑ってるひとになってんの。あ、これムリやわって、腕引きちぎれるわって、思って、いそいで引き返したんですよ。だって八キロの水そのままにしていけないじゃん? 置いてけないじゃん? かわいそうじゃん? もうね、一歩一歩がしんどすぎる。一歩すすむごとに、腕が、マンっちゃーん!!!って叫ぶわけ。わしムリっすーー!!!って。だからマンちゃんも、わしだってムリやーー!!!って叫びたくなって、元日の朝にホント何やってんだって思いながら、ひーこら、休み休み、腕を休み、休み、きた道を引き返してしまったよね。ふつうに歩いたら三十秒もかからんと思う。体感時間、三時間を超えたよね。ちょー疲れた。無事帰ってきましたよ。きょうはもう、あと寝て過ごしていいくらい疲れてしまったのだわ。指がね、プルプルしてんの。思いつきで行動するとロクなことにならんよね。2018年しょっぱなからありがたい訓戒を得たいくひしまんでした。



1036:【欲しいもの】

やっほー、いくひしです。2018年もはじまりましたねー。みんなはもうやりたいこと決まった? やらなきゃならないことのほうが多い? やりたいことより義務のほうが多いの? え、ホントに? たいへんじゃん。いくひしはね、やりたいことばっかだよ。まずね、世界最強になりたいでしょ。そんでムカつくやつデコピンでのしたいでしょ、こっぱみじんにしてやりたい。あは。うそうそ。やっぱりさ、何ごとも、うまく事を運ぶには道具が必要ですよね。いまの時代、個人の才能よりも道具を持ってるか否かのほうが、アドバンテージになってると思うんですよ。そこでいくひし、まずはやりたいことを決める前に、欲しいものをね、リストアップしていこうと思って。まずね、おっぱい。おっぱいがほしい。あとね、若さ。若さがほしいですよね。あとは、お金。これがないといかんともしがたいですからね。で、じゃあそのお金で何買うかっていったら、まずは恋人でしょ。それから友達でしょ。あとは土地買って、家買って、美男美女のメイドさんに囲まれて暮らしたい。なんだったらいくひしが美男美女のメイドさんになりたい。いくひしを基準に世界中の美意識を変えちゃいたい。あとはね、やっぱりね、デジカメ。デジタルカメラがほしいっす。スマホもほしいけど、まずはデジカメ。動画がきれいに撮れるやつ。それでいったい何を撮るのかといえば、げへへ。言えないよー。いくひし、捕まっちゃう。国家権力とか、宇宙人とか、異世界人とか、いくひしの正体を知りたい有象無象に捕まっちゃう。えっと、いまここで600文字くらいだから、あと400字か。なげーな。書くことねーよ。今年はじまったばっかだよ。書くことあるわきゃねーじゃん。いくひしさんの希薄な人生をお舐めでないよ。原子の話とかしちゃう? 原子核の大きさはね、原子の10万分の1の大きさで、10メートル四方の部屋が原子だとすると、原子核は、その部屋に漂うホコリの大きさに匹敵します。ちょー小さい。で、そのホコリを中心に電子が部屋の周りをくるくる回ってるわけ。だいたい半径5メートルの円を描いてくるくる回ってるわけ。もうね、原子スカスカ。しかも原子の質量のほとんどはそのちっこいホコリの原子核が占めてる。欲張りすぎ。大きな部屋よりホコリのほうが遥かに重い。部屋とかもうペッラペラ。いくひしの人生かってくらいぺっらぺら。どう? 400字すぎた? もうちょい? んーとね。だから、そう。原子って電子が原子核の周りを高速で移動してるだけで、膜があるわけじゃない。物質ってけっきょくのところ、くっついたりしてないの。磁石が反発しあうみたいに、空間を隔てて、ちからの均衡で、その輪郭を保ってる。ちょっとあんたこっちこないでよ、って言葉だけで相手を寄せ付けない高飛車なお嬢さまじみてる。スゴイ。原子スゴイ。もういっそ、世界はカタチのない言葉みたいな魔法でできてると言っても過言でない。ちからってすごい。言葉ってすごい。あ、待ってね、今ちょーど洗濯物おわったっぽい。干してきちゃうので、きょうはこの辺で。あ、そうそう、欲しいものリストに追加しといて。柔軟剤。買ってこなきゃだったんだ、忘れてた。



1037:【百億人百万色】

いまの世のなか、個人の嗜好性は各種特色ある色合いに変化している。扱う情報が増えたためである。目を付けるべきは、人々がどんな情報を扱っているかではない。どんな情報を扱っていないのか、だ。まず前提として、いかような情報にも需要はある。たとえばあなたが去年爪を切った頻度にすら、金を払ってでも欲する人々はいるのである。大衆の食いつく情報は飽和状態であると考えたほうがよい。類似の情報に溢れ、価格競争が激しい。一番の集客を得られなければ、がくんと額が下がる。ほかにいいのがあるのだからあなたの情報には金をだしませんよ、と顧客はNOを突きつけてくる。一番を狙いたいならばそれもよいだろう。ただし、ビジネスとしてみたとき、現代社会では大衆向けの情報は、さほど旨味のある商品とはならない。現代の情報社会において、重要なのは、扱う情報の質ではない。仕入れた情報を、それを必要としている顧客にピンポイントで知らせる手法である。泉の精霊さながらに、あなたの欲しているものはこの銀の斧ですか、金の斧ですか、と問える場を見定めることにある。断言するが、あなたが何かしらの商品を世にだしたとして、それが売れていない場合。それは、あなたの商品の質がわるいわけではけっしてない。必要としている者たちの目に、その存在が認知されていないだけである。プロモーション戦略の基本のようなことを言っているが、この認識の重要性は、日々確実に高まってきている。書籍について考えよう。なぜ本はミリオンセラーを重宝するのだろう。重版しないと利益がでない事業であることがまず要因としてあげられる。最初につくった分だけを売っても利益にならない。なぜか。最初につくった分が捌けないからである。赤字として残る商品が全体の売り上げのなかですくなくない割合を占めている。ほかの穴を埋めるために、売れる本にはよりたくさん売れてもらわねばならない。だがここで考え方を変えてみよう。すべての本が、それを必要としている顧客の手に確実に行きわたるような方法があった場合。最初につくった本をすべて売り尽くせるような事業体系になるだろうし、そうなれば、重版しなければ利益にならない博打型ビジネス形態は自ずと是正されていくだろう。ミリオンセラーがなくとも構わない。売れた本の数を誇るよりも、その本を必要とする顧客へといかにピンポイントで提供していくか。重要視すべきはまずこちらである。現状、ネットのビッグデータや書店のPOSデータ、店頭の検索機の検索ランキングなど、それらを元に戦略を立てている出版社がどれだけあるだろう。それらデータの下部に層を連ねている、ごく少ない需要(競争倍率の低い需要)に着目している部署がどれだけあるだろう。PVの多寡で売り上げを予想できた時代はもうすでに過去のものとなっている。作品ページへの滞在時間、読了数、リピーター数、年齢層から性別、在住地域、職歴、学歴、交友関係、購入履歴、SNSでの感想との相関など、多角的に分析できるか否かが、これからのネット大公開時代での明暗を分けることになる。需要がない、なんてことはあり得ない。買われる方法を模索しよう。



1038:【認識のちがい】

創作活動において、成果とは、完成させた品の数と同義である。それに付与される評価やファンの数ではない。評価が低かったり、観客の数が振るわなくとも、創作家にとっては些事である。むしろ、それで損をするのは十割創作家ではない。絶景(秘境)やご馳走(珍味)を味わえなくて損をするのが誰かを考えれば、おのずと導かれる道理であろう。(完成させた品とは、単なる作品数とは異なる。創作物を完成させること、未完のまま捨て置かないこと、見切りをつけないこと、妥協しないこと。これらは創作家にとって永遠の課題である。一生のうちで一作でも完成させることができたならば、創作家冥利に尽きるだろう)



1039:【世の理】

熱しやすいものは冷めやすい。世の理である。



1040:【きょうはもうダメ】

げんきー? いくひしです。きょうはね、ことし初の自転車に乗りまして。愛車。折り畳みのちっこいやつ。ちょっとお値段高めなんですけど、すこしゴツめでありながらちっこいのでかわいい。いくひし、靴と帽子と自転車にはすこしうるさい。守備範囲が割と狭い。でもときどきほかのを試してみると、なんだよいけんじゃんってなる。そういう出会いをたいせつにしていきたいですね。願望。思うだけ。言うだけならタダなので。どんどん言っていきたいと思います。あんまないけど。で、そう。自転車乗ったんすよ。路面とか雪がうっすら積もってたりして、日陰のとことかツルツルで。もうどこ住みかがそれで特定できちゃいそうですけど、いくひしの言うこと真に受けたらあかんで? 上のほうの記事、ダンベルの代わりにペットボトル八キロ持って散歩しましたってやつあるでしょ? あれ本当は三十キロだから。めっちゃ重いから。そりゃ腕がプルプル耐えかねて、マンちゃーん!叫びますわ。わしムリやー!って。もうね、この文章からしてウソかもしんない。そうね。いくひしの言うことはのっけから、根っこまで、疑ってかかってほしいと思います。かかってこいやー!!! で、自転車に乗ってみたんですよ。したら、なんかこう、年末、年明けと、家にこもりっぱなしだったでしょ? もうね、世界はなんと広いんだと。風のきもちよさ、奥行きのある風景、自由ってすばらしい。身体中の細胞という細胞がよろこんでるのがダイレクトに伝わってくるんですよ、どこかわかんないけどなんか伝わってくる。後頭部のこう、なんかこの辺。あ、見えないか。まあいいや。で、風をね。スピードがでるでしょ自転車って。いくひし住んでるところじゃっかん山なんで。街にでるには坂をくだらなあかんのですよ。で、風がね。顔面にばしばし当たるわけですよ。なんか、もーね、目から涙ハンパなくて。なんでか右目。右目からしか出てこないの。イタ気持ちい。風がイタ気持ちいの。自由を感じながらいくひし、右目がイタ気持ちくて泣いてたの。いや、涙はかってにでてくるんだよ。スキーしたことある? スキー場いくと、滑ってるときに涙でない? ゴーグルする? 冷たい風が目にバーンってなって、涙ツーってなる? ならない? わかんない? わかんないの??? 伝われやー!!このー!!! で、自転車っす。ノリノリで乗りながら、自由を満喫しながら、ゴーグルほしーなーって思ったの。たまねぎ切るときにゴーグルするでしょ? おなじように自転車乗るとき、おそと寒いからゴーグルほしーなって。え? たまねぎ切るときゴーグルしない? しないの? きみ、たまねぎ切るときゴーグルしないの? 鼻みじゅダクダク流しながら切ってんの? 涙でまえが見えない身体で切ってんの? 危なくない? 危ないよ、やめときなよ、ゴーグルしなよ、しときなよ。え? なに? ゴーグルしてもたまねぎの場合は意味ない? 目じゃなくて鼻を塞がないと意味ないよって、そうなの? でもいくひし、ゴーグルしてると涙でないよ。だってたまねぎチンしてから切るからね。チンすると涙でなくなるんだってー、前テレビでやってた。え? だったらゴーグルする意味ないじゃんって? いや、きぶんだから。おしゃれだから。ポーズだから。ゲン担ぎみたいなもんなの分かって? で、そう。ゴーグルしながら自転車乗ってるやついたら気ぃつけてな。そいつ、いくひしやぞ。あーダメや。うまくオチれなかった、すまん。君の名は? いくひしまん! うまくもなんともねーぞ。きょうはもう寝ろ。はい。おやすみー。


※日々未来がゆらめいている。



1041:【定期】

ホント、いくひしのコレ、現在進行形で読んでるひとゼロだって知ってますけど、人類最後のにんげんが、誰もいない世界へ向けてラジオ流してます、どっかに聴いてるひといるかもしんないじゃん、みたいな体でやってるので、ホント、なんだコイツみたいに思っても、ゆるしてちょ。気ぃわるくしちゃったらごめんね。すまんこ。でも読んでくれてうれしい。やっほー。そっちはどう? ほかに人間いる? あなたはひとり? そばにだれかいる? さびしくない? いくひしはねー。ちょーさびしい。いっぽうてきにしかしゃべれないけど、あなたが聴いてくれてるって思うだけでなんか、ここのところが、あ、見えないか、この耳たぶのところが、あったかくなる。なんで耳たぶって思った? でもなんか耳たぶなん。いくひしにもよくわかんない。あい。そういうことなんで。万年孤独ウェルカムマンのいくひしさんですが、虚空に向けて、これからも文字をつむいでいきますよ。孤高のあなたに向けてや。孤高ゆえに、独りやないんや。そこんとこ、わかって~~! よろしく~~~!



1042:【爆睡】

めっちゃめたーー!! いくひしまんだよ~~! 出かける用意してすこし仮眠のつもりが、めっちゃ寝た。起きたら朝の五時。ほぼ十二時間寝てた。いやー、体力なくなってますわー。なまけたあとに通常運転するとからだ死ぬよね。鍛えてこ。え? 予定すっぽかして怒られなかったかって? だって遊びですし。遊びにでかけるだけでしたし。相手とかいませんし。約束とかないですし。ひとり遊びですし。怒ってくれるひとがいない。ううぇぇぇえええ、さびしそうーーー!って思った? 正解。さびしい。当てんじゃねーよ、クイズじゃねぇんだよ、かってにいくひしの心情当ててんじゃねぇーよ、国語のテストかよ、当たってんじゃないの、当ててんのって、胸に自信ある女かよ、ふっじゃけんじゃねーよ、そのぜいたくな肉と書いて贅肉のたわわ、すこしわけてください!!! いや、ちがう。ごめんなさい。いくひしがほしいおっぱいはそっちじゃない。雄っぱいのほうだから。大胸筋のほうだから。大胸筋矯正サポーターのほうだからってこのネタわかるひといる? なつかちーなー。いまね、久しぶりに恒川光太郎さんの本読み返してて、あ、ぜんぜん話は変わるんですけど、ホントこのひとの文章の切り取り方憧れます。作家によって、どのレベルで物語を切り取るか、その切り取り線に高低差ってあるんですよ。基本、大衆小説の作家さんって高いんですよね。上のほうから物語を輪切りにしてる感じ。伊坂幸太郎さんとかは、ガタガタ。映画みたいに、場面場面で、切り取り方を変えてる感じ。いくひしも基本ガタガタになっちゃう。で、純文学になると、低い。もうね、手のゆびが絨毯をつまんでるようなところまで描写できるくらい、低い位置から物語を切り取ってる。倍率と言い換えてもいいかもしんない。で以って、恒川光太郎さんですよ。このひとのはね、物語を切り取らずに、上から圧しつぶしてできた断面を描写してる。そこにできる紋様を模写するみたいな文字の並べ方をしてて、なかなか真似できない。圧しつぶしすぎると紋様から鮮やかさが消えちゃうから、あんまし低く物語を圧縮はできない。きれいな紋様ができる位置を見定めなきゃならない。すばらしい。たぶん、いくひしが今イチバン読んでて落ち着けるのは、恒川光太郎さんの短編集だと思います。長編だと「金色機械」が好きです。メタレベルが絶妙なんですよね。基本的に、過去を述懐する形式のまさしく「物を語り」で、語り部が、どこかでこれって本当にあったことなんだろうか、と疑りながら、それでもじぶんにとって真実だと感じる部分を、語っている。虚構であることを前提に、そのなかにある真実を見詰めようとする姿勢が、妙な緊迫感を物語に金箔のようにうっすらとときにまばゆく張っている。めっちゃメタ。はい。きょうもいちにち、ハリきってまいりましょー!!! あ、もちオーレさんのマンガ「出会い系サイトで妹と出会う話 333日目」いいですよね。でも前作のほうがキスがいっぱいで好きでした。次回作はぜひとも、キス成分多めにしていただけるとうれしく思います。



1043:【百合小説】

自作紹介します。百合要素ある小説限定です。めんどくさいから箇条書き。

「陰の薄いあのコの影になれたなら」https://kakuyomu.jp/works/1177354054884104981/episodes/1177354054884104993

「16ビートのゆくえ。」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060864/episodes/1177354054881060903

「血と義とハナのモノガタリ【血】」https://kakuyomu.jp/works/1177354054882447768

「二人称百合」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054883948847

「百合SSまとめ」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054884057301

「私は性器が好きなだけ」http://p.booklog.jp/book/109567

「群れなさぬ蟻【裏】」http://p.booklog.jp/book/73885

「群れなさぬ蟻」http://p.booklog.jp/book/74192

「息の根にうるおいを。」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060233

「棚からずんだ餅」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060864/episodes/1177354054881061530

「セカンドキラー」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060864/episodes/1177354054881061580

以上。



1044:【思ったんだけどね】

絵柄ないといくひし、ただのウザいひとじゃない? だいじょうぶ? だめ? ……これあれだよね。だめっぽいやつじゃない?



1045:【100話溜めてほしい】

殺人鬼の日常、みたいなWEB小説読んだんですよ。まだ五話しかないんですよ。おもしろいんですよ。でもまだ五話しかないんですよ。もっと読みたいんですよ。でもまだ五話しかないんですよ。100話溜めろやーーこのー!!!



1046:【うえー】

うえー。いくひしまんだす。あたまよくなりたーい。ねぇ? あたまよくなりたいよねー? いくひし、めっちゃあたまよくなりたいんだけど。なんかさいきん、あたまがたいへんよろしくない。元からやーん!!!みたいな声が聞こえた。そうかもしんない。だから言ってんじゃんって。あたまよくなりたーい。たとえば初めましての人とあったとき、あ、このひとはあれだねってピーンってきたい。身だしなみとか言動とか、笑顔のうさんくささとかから、このひとはあれだねってピピーンってきたい。もうこの時点であたまわるい? 言い回しがだめ? うっせー!!! あたまがよろしくないんやーー!!! マンちゃんあたまがよろしくないの。かわいそうなコなの。あわれんで!! もっとちやほやーの、やさしくして!!! ほんとマジでおねがいスマップ!!! 解散しちゃったけど、スマップくらいいくひしだってスターダムに踊りでたーい。どうやったらあたまよくなれるの? あたまいいもの食べればいい? 青魚とか将棋の羽生さんの爪の垢とか、アインシュタインの脳みそとか食べたらいい? 殺人鬼のIQが軒並み高いのは脳みそ食べてたから? 頭いい生き物のニンゲンを食べたらあたまよくなれる? この考え方がすでにあたまわるい? 楽しようとしてる時点でもうだめ? でもニンゲンの脳みそ調達するのだってけっこうな重労働よ? やったことないけどそれくらいの想像はできるよ。だめ? いくひしあたまよくなれない? どうやってもかわいそうなコのまま? やだー。やだよー。いくひしだってあたまよくなって、他人を意のままに操りたーい。他人を奴隷みたいにコキ使いながら、報酬をたんまりさずけて感謝されたーい。あくどいことやってるのに、みんなから尊敬されたり注目されたり称賛されたーい。あたまよくなったらそういうことできるようになるんでしょ、いくひししってる。あたまいいと人間を虐げたり、差別するでもなく選別したり、区別したりしても誰からも責められないどころか、当然ですよねーってみんなからチヤホヤ賛同されるってしってる。あたまよくなりたーい。でも、そういう人間にはなりたくない。くそじゃん。あたまよくはなりたいけど、そういう人間にはなりたくない。だってくそじゃん。胸糞わるいじゃん。いくひしはあなたみたいに、じぶんのふがいなさに傷ついて、嘆いて、それでもまいにちをなんとか生き抜こうとしてるひとが好き。そういうにんげんになりたい。うえー。きれいごと言ってら!って思った? でも本音。飢えをしのぎ、上を目指し、ちいさな夢のタネを植え、だいじにまいにち水をやるようなひとが好き。いくひしにはわかる。あなたもそういうひとなんでしょ? しってるよ。



1047:【しめしめ】

どう? 好感度100兆円くらいあがった? 10億円くらいならあげてもいっかなーとか思った? ほんとに~!? やったー!!!



1048:【いやいや】

マンちゃんさ。どんな人間だってクソ呼ばわりしちゃいかんよ。ね。あんたが嫌ってる人間とそれ、同じよ? あんた、自分がクソ呼ばわりしてるやからと並びたいの? 違うよね? ごめんなさいしな。いい子だから。



1049:【やだ】

にんげんはみんなクソ。いくひし、まちがったこと言ってない。あやまるのちがうとおもう。



1050:【汚泥】

ニンゲンは汚いし、みにくい。だからこそときおり見せる儚い色彩がうつくしいのだ。性悪説とは趣旨が異なる。善悪そのものが汚れであり、みにくい。よくあろう、とする意思、自身が汚く、みにくいのだとする自覚が色彩の芽吹く土壌となる。むろん、うつくしさを期待した時点で、そうした意思や自覚もまた汚く、よどみ、毒々しい。


※日々未来を前借りしている。



1051:【来年】

来年のコミティアに参加できるように調整中です。懲りずに紙媒体を無料配布する予定です。2017年は約210冊を無料配布しました。平均するとだいたい一冊800円なので、210×800=168000円の出費です。旅費こみで、およそ230000円の経費をかけました。来年はこの倍は捌きたいので、500000円を余剰資金として貯めれば目標達成のための第一関門はクリアということになります。働いて稼げばいいだけなのでそうむつかしくはないでしょう。体力面では、2017年はほぼ毎日筋肉痛だったので、なんとかことしからは、身体を酷使しないようにセーブをかけながら生きていこうと思います。いくひしはたぶん、長生きはできそうにないので、いつ死んでもいいように、可能なかぎりじぶんのしたいことには手間と経費をかけていこうと思います。応援は必要ありません。声援もいりません。そういう外部からの干渉は邪魔だとすら思います。ただいくひしの創作物を消費してくださるだけでよいのです。こういう注文をする時点で、わがままな創作者ですね。よくないと思います。以前から繰り返し言っていることですが、いくひしの作品は、いくひしの記したコードがあなたのような人の脳内に展開されたものを示します。いくひし一人だけでは完成させられません。もちろん、応援や声援はうれしく思います。その影響で多くの読者に出会えるきっかけが増えることも確かです。よろこばしいことです。ですが、そうしたうれしさが、いくひしの創作意欲を無意識のうちで蝕むのです。ありがたいのですが、異物に感じてしまう腐った性根のいくひしをどうかお許しください。他人の影響で満足したくはないのです(逆説的にひとさまの応援や声援が、ものすごくうれしく感じてしまう、未熟さがあるということです)。



1052:【ふれて】

Syd - Body



1053:【つかれた】

あい。いくひしです。なんかあのキャラ疲れるわ。やーめた。ていうかさ。ウザかわいいって、けっきょくかわいいが本体であってウザいは飽くまでアクセントなわけでしょ? でもいくひしの本体はウザいなだけなわけでしょ? かわいらしさのあまりの劣勢ぶりにアクセントどころか悪戦苦闘してるわけでしょ? なんならいっそかわいいが全滅して滅ぼされてるわけじゃない? ウザかわいいじゃなくて、ウザうざざーしてる。うざざ~、うざざ~、ってさとうきび畑じゃねぇんだよ、ウザいしかのこらないいくひしに何があるってんだい。なんもねぇじゃねぇか。未来がねぇじゃねえか。涙でまえが見えねぇよ。てなわけで、かわいこぶるのやめました。冷やし中華はじめましたみたいに言ってるけど、桐島部活やめたってよみたいに言ってるけど、いくひしは冷やし中華ほどの需要もなければ、桐島みたいに売れ筋でもない。なんもない。あ、待って待って。なんかいまね、すごいむなしー。やめよ、やめよ。暗くなる。もっと楽しいこと考えよ。そう、たとえば、ウザくても見た目さえかわいかったらアリな気がしない? でもいくひしさんの見た目はかわいいかっていうと、百人中千人くらいはNOを突きつけてくると思う。だからいくひし、ウザかわいくない。でもなんか、ウザかわいくないって言うと、まるでウザくもないみたいに聞こえる。かわいくないだけじゃなく、ついでにウザくもないみたいに聞こえる。いいことじゃない? ホントはウザいのに、かわいくないだけで、ウザかわいくないって呼んでもらえて、なんとなーく、ウザくもない、みたいに聞こえる。あ、待って。なんかかなしくなってきた。これもナシ。やめよ? もっと楽しいこと考えよ。そう、たとえば、むなかしいってどう? ウザかわいいのつぎにくる流行語。むなかなしい。むなしくてかなしいの略。造語。いくひしと言えば、むなかなしい。ウザくもないし、かわいくもない。ただただむなかなしい。待って。やめよ? こんなこと言っててもむなしくてかなしいだけじゃない? なんだか心がいたたまれない。きょうはちょっとダメな日かも。なにやってもむなかなしい。つかれた。きょうはじまったばっかだけど、朝からつかれた。やめにしない? もういっそ、きょうとかやめにしない? あすにしちゃわない? きょうはもう、あす。あすってことで。きょうはあす!!! あすだから!!! そうだ、そうだよ。そう考えたらなんか、ほら! 意味わかんなすぎてげんきでる!!! げんきでるよね!!? でない? あ、でない。そっか。なんだ。いくひしだけだった。むなかなしい。げんきだせやこのーーー!!!! なんかいいことあるって!! たぶん!!!!! マンちゃん応援してっから!!!! めっちゃ声だして応援するーーー!!!!!! うるさかったらごめーーんーーー!!!!



1054:【ゲゲゲイ】

https://www.youtube.com/watch?v=Ds2HlYfp6pA

https://www.youtube.com/watch?v=z8rly_GCRoA



1055:【場面数】

文字数よりも場面数のほうが、いちにちに生産できる数が限定されている気がする。書こうと思えばいちにちに十万字はつむげると思う。ただひたすら思ったことを打鍵するだけならばそれくらいいける(おもしろいかはべつとして、ただ文字を打つだけなら誰であっても可能だろう。十万歩歩くよりかは、はるかに楽なはずだ)。しかし、物語の場面を考えるとなると、多くても二十くらいが限界な気がする。いちにち二十場面進めたらもう、つむげない。一場面に一万字かけるのと、百字しかかけないの、どちらも同じ。場面展開を二十重ねたら、脳が何もひねりだせなくなる。目安とすべきは文字数ではないのだ、ということにさいきん気づいた。基本的に、任意の場面をつむぐとき、そのさきの展開を、つど十くらい考える(数えたわけではないが。意識的、無意識的に拘わらず、誰であってもそれくらいは考えているはずだ)。そのなかでもっとも苦労しそうな道を選ぶと、個人的には満足した仕上がりになる傾向にある(楽をしなかった、という満足が得られるだけだろう)。思いつく場面展開は原稿に現れるよりもはるかに多い。無闇に思いつけばいいというわけではないが、そうした捨てる場面の選択数はだいじだと感じる。



1056:【ないない】

ぜってぇ嘘だわ。コイツ、いくひしの奴、ホラぶっこいてやんの。場面十? ないない。ぜったいコイツ考えてないって。俺にゃ分かる。日に十万字? ないないない。ぜってぇないから。盛りすぎだろ、お代わりは完食できる奴だけにしろっての、ハイ罰金。



1057:【ツノ】

鬼のツノをぷっくりやわらかそうに初めて描いたひと、ほんとに変態だと思う。あ、ちがった。天才だと思う。



1058:【オマージュとはこういうこと】

元ネタhttps://www.youtube.com/watch?v=eDPFVKGXFo8

真似タhttps://www.youtube.com/watch?v=rRy1ICWHv6Q



1059:【かけないブタはただのブタだ】

うっせぇぞブタども。おめぇらはあたしにとってのキャンバスだ。絵を描くための紙クズだ。黙ってあたしの小説読め。読んでからバラでもミンチでもソーセージにでもなりゃいい。かってに腐ってんじゃねぇぞ。そのだらしねぇ肉にあたしの文字を焼きつけろ。じうじういい匂いがしてきたか? 足んねぇよ。まだまだ足んねぇ、もっと気合いいれて、踏ん張れよ。ブヒブヒ鳴いてんじゃねぇぞ、口んなかに足つっこむぞコラ。てめぇはあたしのために汚れりゃいいんだ。あたしの色に刻まれろ。ブタのくせに妙な服着飾ってんじゃねぇよ、脱ぎ捨てて、すっぱだかで、こっち向いてろ。おめぇはただあたしの言葉をよだれ垂らして、ブヒブヒ受け止めてりゃいいんだ。人間面してんじゃねぇよ。黙ってあたしの筆の動きを感じてろ。おとなしくしてりゃ、すこしはいいとこなぞってやんよ。



1060:【お皿】

ねーむーいー。いくひしまんです。みんなさいきんちょうしどう? いそがしい? そうでもない? からだ壊してない? だいじょうぶ? いくひしはねー、もうなんかいろいろどうでもよくなってきちゃった。そういう時期。たまにある。なんかもう文章ってなんだ、どうやったらうまくなれるんや、腹立つーーってなってる。ぐちっぽいな。やめ、やめ。きょうはね、えー。なんだ。そう、いま目のまえにあるお皿について書こうかなと。まずはね、PCのよこに四つある。一つはコーヒー飲む用の、愛用のカップ。色は黒くて、網模様が白く入ってる。きょうは二二時に帰ってきてからインスタントコーヒーを五杯飲んだ。すぐ喉かわく。糖尿病かもしれん。なってたらやだなーって思いながらガブガブ飲む。で、もう一つが、こっちもコーヒーのカップ。白い陶磁器ので、ちょっといい風のやつ。きのうかな。豆から淹れたコーヒーを淹れて飲んだまま、ここにある。いくひしずぼらだから。けっこう食器とかそのままにしちゃう。夕方食べたたい焼きをチンして持ってきたお皿がもう一枚ここにある。たい焼きはタイってか、ちんまり金魚じみてて、食べた気がしなかった。お皿、そのままにして放置してしまった。よくない。で、最後はいくひしの晩ごはん。セブンの、バターの香りスティックメロンパン。五本入りのやつをオーブンで焼いて食べたときのお皿。楕円のかわいいやつ。柄はなくて、真っ白い。使いやすくて好きなやつ。大きさは手のひらくらいで、真上から見下ろすと卵のかたちしてる。なんかいい。なごむ。で、そばにお湯をキープしとくポットと、インスタントコーヒーの瓶がある。瓶はカラのやつと併せて二本。きのう新しいの買ってきたから。ネスカフェのゴールドブレンド。買うときはだいたいこれ。今気づいたんだけど、カラのほうは内容量90gで、きのう買ってきたほうが80gだ。そういうサイズがあるのか、それとも内容量が減ってるのかはわかんない。だいたいひと月あればカラになる。ただ、きょねんはコーヒー飲まないようにしてたから、ホントに久しぶりに買ってきた。やっぱりコーヒーうまい。豆から淹れるやつより、インスタントのやつのほうが口に合う。寝る前にコーヒー飲んでもすぐ寝れるのがいくひしのよいところ。コーヒー飲んだほうがぐっすり眠れる。なんでじゃろ? 夢を見やすくて、だからたくさん寝たなーって起きたときに勘違いするのかもしんない。ほんとは、コーヒーは飲まないほうがいいと思う。きぶんの問題。でも人間が問題だと感じることのだいたいは、きぶんの問題じゃないのって思う。こうやって思うことがすでにきぶんの問題。けっこう書いた? じゃあきょうはもうおしまい。おやすみー。いい夢みなよ~。


※日々なにかを追い求めている気になっているだけ。



1061:【人としゃべった】

げんきですかーーー!!! いくひしです。きょうはほんとひっさびさに人としゃべりました。なんか、あれだね。やっぱいくひし、人間だめだわ。草とかのほうが落ち着く。ミジンコとかダニとか、そういうほうが仲良くできそう。蚊は問答無用で叩きつぶすけどな! たいしたこと話してないので、内容はカットしますけど、ええ。誤解なきように断っておくと、相手がわるいんじゃないよ? いくひしが人間苦手なのがダメってだけの話です。なんかね。話してると、いくひし、段々じぶんがバカだってことに気づいてく。ただでさえあたまがよろしくないのに、しゃべってると、あれ?ってなる。ひょっとしていくひし、思ってた以上にあたまがよろしくないのでは?ってなる。かなしい。人間だめっす。人間はね、いくひしが思っている以上にかしこいやつらです。いくひしの話す言葉じゃ、うまく伝わらない。しゃべっても、ろくな情報得られんしね。知りたいことの百分の一も理解できない。真偽を確かめようがないですし。相手からしたら、うわなにコイツ、なんかしゃべった!?みたいな驚きに見舞われると思うんですよ。いくひし、しゃべれるよ? いちおう、日本語が扱えます。しどろもどろではありますが。言ってることの大半は間違っておりますが。正確性に難がありまくりのチョモランマ。まじっすか、まじっすか、あははー。いくひし、こんな感じ。ほんと。ぶははー、おもしろーい。こんな感じっす。あほっぽい? そう思う? いいよいいよ、気ぃつかわないで。いくひしもね、あとで思い返して、あほっぽいなーって思ってる。だいじょうぶ。問題しかない。ことしはがんばって人と関わろうと思ったけど、ムリっす。いくひし、人間だめですわ。延期ですかーー!!! 延期です。中止です。やめました。いくひし、人としゃべるのやめました。もうね、ばぶーしか口にしない。園児ですかーー!!! いや、園児に失礼でしょ。幼稚園児だってもっとたくさんおしゃべりしますからね。いくひしはもう金輪際人としゃべりません。平気ですかーー!!! 平気じゃないけど、まあね。あほを自覚するよりはマシっす。いくひし、これ以上もう、あたまがよろしくないことしりたくない。つきつけなくていい。しってる。もうじゅうぶんしってますし。返事ですかーー!!! そうね。これがいくひしの返事。アンサー。いくひし、もうしゃべりません。そういう選択肢があってもいいと思う。権利ですかーーー!!! そ。しゃべらず、会わず、関わらず。人と繋がらずに生きていける環境を求めるのも人権のうちだと思うわけですよ。孤独の耐性ならそこそこあるのでね。歴がちがいますからね。年季ですかーー!!! それもあるけど、どちらかというと燃費かな。人生の燃費をよくしていきたい。カロリーを消費しないようにね。すくない労力で、最大限の成果をあげていきたいと思います。げんきですかーーー!!! げんきよ、げんき。てかきみうるさいなー。さっきからなんなん。耳元でうっさいわー。ね? うるさいよね? ほらー。もうね、まずはさっきから耳元でうるさいこの蚊をね、全自動蚊とかハエ叩き落としマシーンで、ばっちーんしてみるのがいいと思います。便利ですかーー!!! まだ言うか。うっさ。



1062:【コーラ】

コーラー!!! いくひしです。のっけから怒られたみたいになってますけど、ちがいます。コカコーラ、一年ぶりくらいに買いました。飲んだのはたぶん、半年ぶりくらい。どっかできっと、飲んだはず。自信ないけど。やっぱりおいしいですよね。あ、思いだした。マックいったらいくひし、基本、あ、話戻ってごめんね、基本いくひし、てりやきのセット頼むんです。で、そのときの飲みものはコーラなんですよ。飲んだ、飲んだ。二か月ぶりくらい? 十一月にマック食べたわ。でもそう、マックのコーラとペットボトルさんのコーラってちょっと味ちがう気しない? する? しない? 氷でうすまってるだけ? そうなの? 自信ないんだけど、なんか味ちがう気がする。もうすこし言うと、いくひし味もっと甘くてもいい。砂糖の含有量がすごいよねーってけっこう話題になるけど、でも、甘いほうがいい。コーヒーはでもブラック。砂糖は入れない。入れるとおなかがゆるくなっちゃう。なんでだろ? なんか合わない。その点、コーラはもっと甘くていい。なんかほら、菓子パンといっしょに食べると甘さが上書きされて、コーラが味気なく感じない? いくひしだけ? いまもね、セブンのチョコチップクリームのちぎりパンをいっしょに食べてるんだけど、コーラ、ぜんぜん甘くない。おいしいよ? でも甘さが相対評価で低くなってる。これはいくないよね? どうにかしたくない? コーラじゃなくてコーヒー飲めばいい? というか飲み物の話題が多すぎる? そう? 気のせいじゃない? 食べ物の話もしたいんだけど、でもいくひしさん、けっこう食べるものが偏ってて、基本まいにち同じだから、こう、話題にすると、なんかそう、そういうひとなんだーみたいに思われそうでこわいんす。わかる? わかってくれる? ありがとー。言っちゃうと、うどんとカレーと肉団子のローテーションっす。しょうじき飽きてるっす。でも苦でもないっす。食べやすさ優先。けっこう、食べるのにエネルギー使うっす。よっしゃー食うぞ!って意気込まないと胃がね、受けつけないのです。胃のね、受付さんがね、なんかやたら食物さんに手厳しい。すこしでも通ろうとすると、おいそこのおまえ、って呼び止められちゃう。固形物だと即座に追いだされる。だから必然、飲み物が多くなる。ゼリーとかすき。オレンジの果肉が入ってるやつとかサイコー。ピーチ味とかとくにすき。でも性格というかお値段がお高くとまっていらっしゃるので、いくひしには高嶺の花ざんす。で、きょうはなんでコーラを買ってきたかって言うと、なんかこんどコーラのピーチ味がでるらしくて、ほら、いくひしピーチ味すきでしょ? だから予習しとこうって思って、いまのうちにコーラの味にね、慣れ親しんで、ピーチ味の驚きをね、高めようかなーって思ったってのはウソ! ピーチ味のコーラがでるんだよーっつってそっかー、コーラかぁ、って思って、なんかしらんけど、コンビニ寄ったら買ってた。コマーシャル~~!!! このやろ~~!!!ってなったよってお話。どう? つまんない? コラーってなった? ごめんちゃい。



1063:【経験上】

一般に、才能についての話題を漁ると、「すべての要素が高水準よりも、一つの要素が突出して秀でていたほうがよい」とする意見を耳にする機会が多くなる。サヴァン症候群の印象で話しているのだろうな、と思う。ビジネスの場で語るのなら間違ってはいないだろう。他人に、とって替わられることのない唯一無二の武器が何か一つでもあると、ビジネスの場ではつよい。その武器に需要があるならば、文句はない。ただし、ある特定の分野で成長したいのならば、すべての水準を高める意識は欠かせないだろう、と感じる。と、いうよりも、何か一つが突出して秀でている者は、ほかの要素も平均を大きく上回っている傾向にある。サヴァン症候群が例外なのである。何か一つを伸ばしたいとき、その何かのブレイクスルーを迎えるためには、ほかの要素の底上げを図らねばなるまい。なるべくレベルの低い要素に挑戦するのが好ましい。レベルゼロのものに挑戦できれば、ただそれだけで何かを得られる。周囲を見渡してみれば、ゼロに溢れていることに気づくだろう。そう、さきへ進むための足場は無限大である。手を出してもすぐにはモノにならないはずだ。効果を実感することもなかなかできない。数年単位での鍛練が必要となる。その間に、もっとも得意だった要素が衰え、総合的にレベルが低くなってしまう懸念は拭えない。しかし、その壁を乗り越えなくては、つぎの段階(ステージ)へとあがれない。衰退をおそれるな。きょう捨てた赤はあすの青となって現れる。



1064:【五年後】

念のために書いておこう。五年後です。2023年になれば判ります。



1065:【参照】

さんしょー!!! いくひしまんです、ちわっす。あのね、あのね、みんなそろそろ気づいてると思うんですけど、この「いくひ誌。」のいっちゃん下にさ、「参照」ってあるでしょ。URL書いてあるとこ。これ、なんのためにあるんだろーってすこしばかし気になったりしてた? しない? しないの? そーなんだ……。うーん。気にしよ? この際、気にしてたことにしちゃお? いくひしかわいそうだから。仕切りなおすね? 気になるよねー、あーやっぱりー? そうだと思ってたー。これね、参照ってとこね、もちろん参照してほしいから載せといてるんだけど、過去の「いくひ誌。」を読みたいひとだっていると思うのね? いることにしといてね? で、今あなたの読んでるここ、「近況ノート」ってやつ、過去の記事漁るのけっこうめんどうなんですよ。めんどうだよね? だから、なんとなーく、話題が似通ってる記事があるところをチョイスしたり、てきとうにこの辺でいっか、ってきぶんで載っけたりしてました。さいしょのほうのやつ読んでもらったら分かるとおり、いくひしかっこつけしいでしょ。なんかがんばって、「ぼくちんかしこいんだぞー」ってふんいきせいいっぱいだしてるでしょ? もうね、そういうところを楽しんでほしいなと。うぷぷー、コイツなんかがんばってるーってこっそり笑っててほしい。いろんないくひしが垣間見れると思うんですよ。そうでもない? むかし、いくひし、「あなたの文章は読んだらすぐに判ります(大意)」っていちどだけ言われたことある。ぜったいうそでしょーって思ったし、いまでも、ぜったいうそでしょーって思ってる。バレてもいいときは、バレてもいいように文字を並べてるし、バレるようにつむいでるから、たぶん、いくひしの小手先のスキルにみごとに翻弄されてるんだろうなーって妄想してる。じっさい、いくひしの中のひとを物理世界でしってるひとは、きっといくひしの並べた文章を読んでも、まずそれがいくひしの中の人物がつむいだ文章だって気づかないはずだし、それわしが書いとんねんって言っても、ほんとにー?って信じてもらえないと思う。メールの文章はしってるはずなのに。言文一致って言葉があるけど、いくひしにかぎっては、一致してないし、一致させたくない。いくひしの並べる文章は、いくひしが並べているけれども、それはいくひしの中のひととは別物だってことはしっておいてほしい。あとはねー、矛盾になっちゃうかもなんだけど、それでもいくひしの並べてる文章は、どれもいくひしだし、いくひしの中のひとの一部でもある。別物ではない。別物なんだけどね。うまく言えない。なんか、そう、月とうさぎみたいな関係。お月さまを眺めても、たぶんほとんどのひとは、そこにうさぎなんて見出さないと思う。でも、この国に住まう多くのひとは、お月さまといえばうさぎって連想できる。まったく関係ないし、実物を眺めてもそう見えないのに。でも、お月さまとうさぎはセット、みたいな感じで、いくひしと、いくひしの並べる文章と、いくひしの中のひとは、別物なんだけれども、まったく似通っていないのだけれども、どこかしらで連綿と繋がっている。そういうところを楽しんでもらいたいなーっていう思いがあるわけでは、べつにないのだけれども、過去の「いくひ誌。」を読んで、「けっきょくコイツはどういうやつなの!!」ってぷんぷんしてほしいし、「あー、こういうやつね」って決めつけてほしい。そういう楽しみ方もできるんだよーって思って、参照をつけてみてるんだけども、だいたいにおいて、この「いくひ誌。」を読んでくれてるひとがいるかもわからんし、いたとしても、きっと「いま」ではないんだろうなーって思ってる。きっとあなたが読んでいるそのとき、いくひしはもう、いくひしではないのかもしれない。あべこべに、いくひしが今これをつむいでいるとき、あなたは存在してすらいないのかもしないし、または、人生の転機を迎えていないのかもしれない。でもあなたはこの文字の羅列に目を走らせている。いくひしは、「今」あなたを意識しているけれど、「そのあなた」は、これを読んでいる『イマこの瞬間のあなた』ではない。そういう認識のずれ、世界のずれ、人格のずれから、時代のずれまでを、ひっくるめて愉快に感じられたらすてきだなー。そういう小学校三年生じみた思いで、参照を載せています。ぜひとも、称賛してください。いいこいいこって。あたま撫でて、撫でて。山椒魚みたいにつぶらな瞳で見つめてるから。岩陰に潜んでたら出られなくなった山椒魚みたいに、おとなしくしてるから。参照させたら天下一品の参照王をどうかよろしく~~!!!(むりやりすぎたー)



1066:【うおー】

ディビさんに嫁ぎてーーー!!! 珍しい漢字の意味が「射精を封じる、去勢」だと知って、「たいへんだ」ってつぶやくディビさんかわいすぎじゃろー、養われてーー!!!!(売れ筋年間ランキング一位おめでとうございます!!!)



1067:【でもいまは】

マンガ「恋は光」の北代さんに片想い中だから、悩む。



1068:【つじつま】

他人の創作物に対し、物語のつじつまがムチャクチャだと文句を垂れる作家先生どもには、ぜひとも量子物理学と一般相対性理論のつじつまを合わせていただきたいと望むものだ。それくらい、かしこい作家先生どもにはできるのだろう。やってみせろや。



1069:【マンちゃんそれ】

聞いてるひともイヤな思いするからやめて。



1070:【うー】

ごべんなざーい。もう言いばぜんがらー、ごべんなざーい。でもたまには言うとおもうー。ごべんなざーい。


※日々思いあがっては、ゼロとイチに変換されたじぶんを介して思い知る。



1071:【円滑剤】

えんかつざーい! いくひしです、おはにちは。みなさん、自転車って好きですか? あんまり好きくない? 疲れる? そっかー。いくひしはねー、とぅきー。自転車、夜のひと気のない道を走るの好きなんです。きこきこ。マウンテンバイクとか、ロードバイクとか、そういうのじゃなくて、ちっこい折り畳み式の自転車で、きこきこゆるゆる走るのがいい。で、さいきんちょっとギコギコ言いだしてて、うるさいなーって思ってた。なもんで、油をね。油を注(さ)そうと思って、探したの。いまの自転車買ったときに、ちょうどいっしょに円滑剤、サビ防止効果のある油を購入したので、どこやったかなーって。探して、で、あった、あった、って持ち出して、いざ注してみたら、なんかね。匂いがね、匂いがするわけ。油っぽくない。微妙にいい香り。なんだこれって思って見てみたら、清涼剤だった。汗を爽やかに誤魔化すやつ。紛らわしんじゃボケー!!! どつきながら元いた場所に戻しつつ、でも逆じゃなくてよかったーって思って。脇の下に油注さなくてよかったーって思って。で、探したけどなかったので、時間なかったし、まずは出かけて、で、帰宅してから、今さっき、部屋のめったに使わない引きだしのなかを漁ったら入ってた。円滑剤。油。自転車のチェーンにぶっかけるやつ。で、まー、いざ注してみると、暗くてよーわからん。ちゃんとかかってんの? ねぇ、ねぇ、どうなの。訊いてみるんだけど、シカト。愛車のやつ、うんともすんとも言わねーでやんの。自転車のくせに。ふだんはキコキコうっせーくせに。なんでぇー。やさぐれながら、戻ってきて、コーヒー飲みながら、いまこれ打ってます。さいきん話題が思いつかなくて、けっこうひーこらしてる。直前にあったことしかネタにできなくなってきてる。あたまの働きがよろしくない。油注したほうがいいかな? 脇はやだけど、あたまにぷしゅーってしたほうがよくない? なんだったら人生の円滑剤がほしくない? どうやったら円滑に人間関係築けますかね? 人生の歯車、まったく動く気配ないんですけど、どっか錆びついてない? ペンは剣よりもつよしとか言うけど、いくひしさん、文章つむぐのにペン使ってないんですけど、そのへんの配慮はされてます? だめ? 文字書けないとやっぱだめ? ペン使うくらいなら剣使うほうがうまいと思うんですけど、やっぱりペンのほうがいいんですかね。ケンカはよくない? 争いごとはダメ? ケンカぐらいじゃ剣が不買で、天が暗いからペンが不快? 明かりがないと書けないもんね、まともに油だって注せないもんってそういうことじゃない? もっとレベル高くないと失礼? 殿下ゆらいの円滑剤じゃ、前科無頼の狼藉者どもが大暴れして、見学だい、とのたまく外野を、洗濯台ごと根こそぎまとめて簀巻きしたい? もう意味わかんない? こじつけすぎ? センスなさすぎる? もうすこし弁が立つと思ってた? がーん。弁がつらーい。きこきこ。上り坂は自転車から降りて、引いて歩くいくひしまんでした。



1072:【ほこり】

誇りとは、じぶんの中核をなすナニゴトカを誇らずに済む状態をつくりあげることである。他者へ誇った時点で、それは濁り、「驕り」となる。(ビジネスの場では、この驕りがある種の権威を形成する。威風と言い換えてもよい。また、自身の中核ではないナニゴトカを吹聴する分には、宣伝以上の意味合いは生じない)



1073:【時代の渦】

渦を観測するときに肝要なのは、中心ではなく、渦の外側に目を配っておくことである。渦のうねりの届いていない水面を注視しておく。そこに浮かぶ枯葉が、妙な挙動を取りはじめたのならば、渦になんらかの変化が生じているのではないか、とそのときに渦のほうへと目を向け、凝らしてみる。流動の激しい局所では変化の軌跡が捉えにくい。反面、流れのゆるやかな水面の変化は、目につきやすい。大局観や、俯瞰の視点が有効なのは、こうした変化の前兆を汲みとりやすいからである。自身のテリトリー内のデータを眺めているだけでは、予測できない流れがある。時代の渦とはそういった、激動の周囲に張りめぐらされた波形のゆらぎである。



1074:【掃いて捨てるほどにいる】

出版社の唱えがちな、作家なんて掃いて捨てるほどにいる、端から実力のある(売れる)作家しかいらない(大意)、という理屈と、読者の、作家なんて読み捨てるほどにいる、無料で読める作家しかいらない、という理屈、どう違うのかと。読者にモラルを説きたいのならばまずは版元が、作家を大事にしたらよいのでは、と思うのだが、間違っているだろうか(出版社がいつそんなことを言った、という反論は認めます。しかしながら現状を眺めるかぎり、そう捉えられても致し方のない実情がおありなのではないですか、と控えめに申したい)。価値観を変えたくないのならば、出版社側の理屈を読者が掲げることを認め、無料で物語を楽しめる環境のなかで、売れっ子を重宝するシステムを構築するよりない。ビジネスライクに物事を捉えるのならば、きれいごとでは事態が収拾しないことを受け入れる作業からはじめてみるのがよろしいのではないか。イナゴの大群が押し寄せてきたとき、天に不平を鳴らし、イナゴに祈るのが農家のすべきことだろうか(あべこべに、イナゴを捕まえ、食料や堆肥、バイオマスエネルギィに活用するくらいの試みはしてみてもよいのでは?)。



1075:【望み】

いくひしのつむぐ物語にはお金を払わなくてよいので、いくひしの「これおもしろいよー!」って本(作者さん)にはお金をそそいでほしいです。作家にとって対価(お金)と報酬(感想)は植物にとっての水や日光と同じです。天才たちの命の結晶を買ってくださると、巡りめぐって、いくひしの創作意欲に繋がります。感想載せたりしてるので。ぜひぜひ。



1076:【Quick Crew】

https://www.youtube.com/watch?v=0KUnXpwmrqQ

https://www.youtube.com/watch?v=eObHM347QZU

https://www.youtube.com/watch?v=WaMHUwSu-f0



1077:【電話】

いくひしの中のひとは電話にでないことで有名だ。アイツは電話にでねーからな、とたびたびささやかれているのを耳にする。ふだん人としゃべらないのに、なぜ電話ならでると思うのだろう。ふしぎだ。冗談はさておき、電話にでない理由だが、いくひしは記憶に難がある。短期記憶、長期記憶ともに平均より劣った性能しか発揮できない。例外があって、人との会話は克明に記憶してしまう傾向にある。鮮明ではないが、つよく記憶に刻まれる。声だけのやりとりとなると、それはもう、釘で引っ掻かれたように記憶に残る。会話を終えたあとでもその記憶がたびたび自動で反芻され、ほかの作業が手につかなくなる。電話をした日には、その日いちにち、会話の内容が頭のなかを支配する。もうすこし具体的には、電波の向こうにいる人物がどのような状態で話していたのか、或いは、通話の前後になにをしていたのか、どういった状況にあるのか、を想像してしまい、妄想が止まらなくなる。なるべく会話ではない手法で情報伝達をしてもらえると助かるのだが、なかなか世の中の仕組みはそのようにはできていないようだ。いくひしと物理世界で関わる人はたいへんだと思う。申しわけない気持ちでいっぱいだ。



1078:【さとう】

おはにちは、いくひしだよー。きょうはね、ちょっと具合がわるくて、はやめに寝て、はやく起きた。今は午前二時や。おそとまっくら。で、まー、サボってしまった「いくひ誌。」をね、こうして更新してしまおーと思ったわけなんですけども。えー。しょうじきね。しょうじき、飽きてます。もうね、なんもないんすよ。何度目だよそのネタ、使い回してんじゃねーよって感じなんですけども、だってないんだもん!!!! 日記ってさ、基本、その日あったこととか書くじゃない? でもいくひし、なんもないんだもん!!!! まず以って、人としゃべらないから、不満を抱きようもないし、好意を抱きようもない。あ、うそっす。コンビニの店員さんにじゃっかん、恋心寄せてます。接客一億点ですねって逆クレーム入れたいくらいの好意があるのだけれども、いくひしストーカーで捕まっちゃいそうなのでがまんする。ぜったいあだ名ついてるぱてーんだと思います。こわいわー。さいきんのマイブームはね、ごはんに砂糖かけて食べることです。糖尿病まっしぐら。言っても今、おかずがないからそうしてるだけで、べつだんブームというほどでもない。あとはなんだろ。部屋がね。寒くてね。いくひし、家にいるあいだは基本ダウン着込んで過ごしてます。ストーブないんでね。寒さに適応しすぎて、あったかい部屋で過ごすとぎゃくに体調わるくなる。あたまがぼーっとする。ここまで並べといてなんですけど、おもしろくないよね? いくひしのことつづったってなんもおもしろくないよね? せめておもしろおかしく並べてほしいと思うんだけれども、それがなかなかむつかしい。うーん。いくひしさん、あんまじぶんのことしゃべりたくないのだ。しかし、あんまり離れすぎた話題もどーかと思う。地形の測量に、いまはドローンを使ってのレーザー技術が導入されはじめている、とかそういう話とか聞きたい? 相対性理論がないとGPSがうまく機能しない話とか興味ある? いくひしはおもしろいと思うんだけど、そういう話を振っても、みんなすぐにスマホいじりだして、相槌だけしっかりしてくれる。かなしい。どれもいくひしとは直接関係のない話題だからなのかな。いくひしが失敗した話とかしたほうがいい? そういうの聞きたい? さいきんはね、なんだろ。基本、食欲なくて、でもなんか食べなあかんなーってときは、うどんを食べるようにしているので、冷蔵庫にはうどんが常時二袋ストックされてるんですよ。食べたらその日のうちに買ってきて補充する。で、うどんなくなってたかなーって思って買ってきたんですよ。でも、冷蔵庫の奥のほうに残ってたんですよ。余計な出費ーって思ったけど、食べりゃいいんだ、って気づいて、補充する手間がはぶけたじゃんってすこしお得な気分になったって話。くそおもんくねーぞーー!!! どうしよ、びっくりするほどおもんくなかった。つまんない。ぴぎゃー。うまくいかんなー。世の中甘くないっすね。せめてご飯くらいは甘くしてほしい。砂糖かけて甘くしてほしい。でもうどんに砂糖かけたら許さんからな。うどんはうすらしょっぱいくらいがちょうどよい。うどんに具はいらない。朝から、素うどん最強説をおしつけがましく唱えていくいくひしまんでした。



1079:【電子】

電子も光と同じく量子なので、波と粒子のふたつの性質を帯びている。では、量子とは何かというと、光の場合は電磁場の振幅であり、電子の場合は電子場の振幅である。いくひしの現時点での解釈では、異なる性質を持つ、場と場の接点が、粒子として観測される。円と円が接した瞬間、円をかたちづくるちからが、接点たる任意の点に変換される。しゃぼん玉同士がぶつかり、瞬時に破裂する場面を思い浮かべてほしい。場が振幅し、波状に「ある種のエネルギィ(情報)」を伝達する。波は別種の波とぶつかり合うまで伝播し、干渉しあった次点で、一点に収斂する。たとえば、おしくらまんじゅうをしていた集団がいっせいに東西南北に走りだす場面を思い浮かべてほしい。集団は、円形に拡がっていく。十キロ離れた地点で、集団のなかの一人が、犬に触れた。その瞬間、その人物以外のほかのメンバーはぜんいん、その一人のもとに瞬間移動する。犬は犬で、じつはほかの地点から円形に散らばってきていた一匹である。波として拡がり、ほかの異質な波と出会うことで、点として昇華される。そういう現象が、量子には引き起きている。電子は量子の性質を帯びている。原子核の周囲を電子は回っているが、太陽を公転する地球とは異なり、点がぐるぐる回っているわけではない。原子とは、原子核の周囲を電子がある一定の層を帯びて覆っている状態だ。外部からの干渉(相互作用)が働いたときのみ、電子は点として観測される(観測することそのものが相互作用となる)。



1080:【情報の質】

さいきん、とみに思うんですけど、ちかごろ、ことごとくの常識ってやつが崩れてきているとは思いませんか? たとえば肉体疲労。これ、肉体が疲れてるのではなく、ほとんどの場合は脳が疲れているらしい。乳酸が溜まると筋肉が疲労するんだよーって聞くじゃないですか。あれもじつは、乳酸は痛んだ筋肉を癒す方向にはたらく物質なんだって。乳酸いいやつ。ストレッチも、ただやわらかくするだけじゃかえって身体によくない。やわらかいってことは、関節がグラグラだってことだから、それを支えるだけの筋肉がないとだめ。重要なのはやわらかさではなく、関節の可動域。もうすこし詳しく言えば、自在にコントロールできる領域の範囲を拡げること。アイソレーションといえばそれらしい。180度脚をただペターってできるだけじゃ意味がない。むしろ逆効果。危ない。なにごともバランスが必要なんだって話なのかもしれないね。何かを悪者にして、すべての悪因はおまえだ、みたいにしちゃうとしっぺ返しに遭ってしまう。国と民の関係性から、企業と従業員、親と子、編集者と作家の関係性まで、何かしらの上下関係、相互関係にある組み合わせは総じて、どちらかいっぽうだけがわるいなんてことはあり得ない。ものすごく当然のことなんだけれども、ときおり人は忘れてしまう。忘れないことには、誰かを責めるなんて真似ができないみたいだ。それはそうだ。心の中ではじぶんもわるい、だなんて思いながら、どうして相手を責められよう。じぶんはわるくない。そう思うからこそ(そう思いたいからこそ)、相手を責めることができるのだ。私は間違っていた、これからはこうしよう。だからあなたがたにもここをこのように直してほしい。まずはそのように提案できるようになりたいものだ。しかしながら、そうした提案も、いっぽうてきに破棄されるのが世の常だ。それでもじぶん自身をつねに是正し、改善しつづけていきたいものである。


※日々夢を夢だと自覚する。



1081:【チーズ】

はいちーず!!! おはにちは、いくひしです。ちょっと聞いてくださいよ、気づいたんですけどいくひし、カレーにね。カレーライスにチーズまぶして食べると激うまくないですかってことを大発見したんですけど、ノーベル賞とれるんじゃないですかね、ノーベルこのトッピングは最強で賞かなんか、とれそうじゃないですか。まずは本当だと思って試してほしいんですよ。うそじゃないんでねって、あ、今ね、閃いてしまった。きょうはこのネタで引っ張るつもりが、閃いてしまった。そうだよねー、カップヌードルのカレー味、あれにチーズinバージョンありましたよねー。そういやいくひし、コンビニでカレーマン買って食べてたわ。あれにもチーズ入ってたわ。あちゃー。ぜんぜん大発見じゃなかった。すでにあった。出尽くしてた。なんだったらいっそ、常識じゃない? カレーにチーズ加えると元気百倍いくひしまん!ってなるの、常識じゃない? なんだったらチーズ入ってないカレーとか手抜きじゃない? コスト削減しようとして、チーズ入れてないだけちゃうのとか思っちゃわない? 言いすぎ? 言いすぎた? あなたが言うならそうなのかもしんない。ごめんなさい。じゃ、話題変えよっか。なんだろ。そうあのね、まいにちこんな駄文書き散らして、小説はどうしたってそろそろ思われそうな時期かなーって思ってるんですよ。じっさい、ことしに入ってからきょうで18日目ですけども「いくひ誌。」の文量をそのまま小説に費やしてたら、さいていでも四万字くらいはつむげてるはずなんですよ。小説よりこっちの文字数のほうが多い。ダメじゃない? 本末転倒すぎじゃない? やっぱりー?そうだよねー。いくひしもそう思ってた。かといって、じゃーこの「いくひ誌。」をやめたらその分、小説がつむげるかって言ったら、それもちがう気がするんですよ。小説と日記じゃ、脳の使う部位がちがうから。でもって、相互に影響しあっている感じ。ブランコ。まえに漕ぐから、うしろにあがる。うしろにあがるから、まえに進む。みたいなの。カレーがあるからチーズが効いて、チーズがあるからカレーが引き立つ、みたいなね。うまいこと言った気がしたけど、気がしただけだった。うまいのはカレーだけにしときましょう。チーズ入りカレーだけにしときましょう。カメラ撮るとき、ハイチーズなんて言う人間はもはや絶滅危惧種なんでしょうけれども、チーズそのもののニーズはこれからも途切れず、ますます高まっていくのではないのかなーと、乳製品が大好きっこをアピールしつつ、ホットケーキには牛乳の代わりにヨーグルトを入れて、分厚いクレープ生地みたいに焼いて食すのが好きなことを強調して去る、いくひしまんでした。



1082:【二人称百合2】

知ってたよ。いつからかは分からないけど、あなたがあたしに首輪をハメたがってるって。けっこう前から、そうかもしれないって思ってた。あたしがほかの誰かを褒めるとあからさまに不機嫌になったね。わざとあなたを褒めないでいると見る間にぷっくりふて腐れて。でもあなたは自分がなぜそんなにイライラしているのかが分からなくて、無駄にあたしにトゲトゲを吐く。どうして解ってくれないのって、駄々をこねるみたいにして、それがかわいくてあたしはつい、いじわるをしてしまう。(つづきはこちらから→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054884974873



1083:【流行】

基本的にどんな業界にも流行はある。とある要素がなぜ流行るかと言えば、短期的な報酬が得られやすく映るからだろう。たとえば仮想通貨にしてもそうだ。とりあえず保有しておけば価値が増え、なにもせずとも資産が増えていく――ように映る。じっさいには、一部の資本家の餌場でしかない。映画や漫画、小説にもむろん流行りがある。しかしそれイコール需要が高い、ではない。需要がなかったから、相対的に類似を狙った作品が多く集まるのである。流行りとヒット作は別物である点には注意が必要だ。ヒット作があり、似た要素を含む作品が売れはじめる。その時点で、じつはもうその要素に輝きはない。コンスタントに売れるのは、そこに需要があるからではなく、類似作品の宣伝が抽象性を帯びて、一律に知名度をあげていくからである。人間の心理には、ふだん目にする機会が多いほど、それに好感を抱くという性質がある。TV業界や大手の宣伝会社が根強い影響力を持つのはそのためである。広く、情報を継続的に発信しつづけられる組織は、ただそれだけで大きな権力を手にできる。資本の流れをある程度操作可能だからだ。繰りかえすが、広く話題にのぼることと需要があることはイコールではない。流行りに乗る、というのは、ある意味で、大きな権力組織の宣伝に便乗することと同義である。無意味ではない。効果はあるだろう。短期的な報酬を得られやすい傾向にあることは事実である。しかし、それを繰りかえし、得られるものは、その場しのぎの過ごし方である。技術や需要を生みだす研鑽にはなり得ない。なぜなら技術や需要は、今ここにはない何かを生みだし、現在直面している問題を解決することで付随する副産物でしかないからだ。技術や需要そのものが本質的な価値を有してはいない。ゆえにそれそのものを求めても、得られる報酬とはけっきょくのところ、その場しのぎの紛い物なのである。むろん、その場しのぎの紛い物にも価値はあるだろう。何を価値と見做すのか、がまず以って人それぞれであり、千差万別である。本質ではない価値などいくらでもあり、それはそれとして重宝され得るものである。虚構を扱う創作物全般がそもそもを言うなれば、その場しのぎの紛い物であろう。だが偽物だからこそ湧出する本質もまた存在する。ここにはない何かを生みだせればそれでよいが、生みだせないものも出てくる。そうしたとき人は、ここではない何かを描きだすことで急場のしのぎ方を試みる。ここにはない何かを描きだすには、虚構を用いるほかに術がない。虚構の有用性とはまさにここにこそある。今ここにはなく、見逃されつづけている本質を、可視化させるための術である。だからこそ、本質ではないその場しのぎの紛い物を描きだしては本末転倒なのである。流行に乗るとは、本質を手放す、ということである。むろん言を俟つことなく、本質を描こうとした結果に、流行する要素を含むことはあるだろう。また、そうした要素を画材道具に用いることも有効だ。流行そのものを否定しているわけではない。だが、目的と手段を履き違えたまま、そのことに盲目し、腐敗しつづけていく業界はすくなくない。実を得るためにすべきことは何か。木々を育む以前に、すべきこととは何か。ただ収穫していればよかった時代はすでに過去のものとなっている。大店(おおだな)を介さず、効率よく消費者へと実を配ることが可能となった現在、実を蓄えた者ほど、それを扱う権利を他人に譲ることはなくなっていくだろう。目指すべきは流行ではない。食い尽くされないだけの豊潤な森を築くことである。



1084:【五年前と比べて】

漫画や小説にかぎっての話になるが、五年前と比べて「おもしろーい」となる作品数は増えている。いくひしがジャンルの垣根を越えて広く手を出すようになったからというのも因子の一つとしてあるだろうが、手に取る物語がことごとくおもしろい、外れを引き当てるほうがむつかしいくらいだ、と感じている。漫画に限定してしまえば、書店で平積みになっている漫画や、表紙が見えるように並べられている漫画を、これつまらん、となったことが、いまのところない。すごいことだと思う。レベルが高すぎて、漫画を読むだけの生活を送っていたいくらいだ。さいきんの漫画の圧縮率は、おぞましいものがある。小説なら三巻は費やすだろうな、と思う展開が、三話で済んでいたりする。ネームを何度も描き直す手間が、圧縮率に反映されているのだろうな、と想像するしだいだ。圧縮と言えば、パロディネタを連想する。パロディが読者に受け入れられる理由の一つに、過去にあった名作の旨味を圧縮して取り入れている点が挙げられる。ぎゅぎゅっとおいしいところ(名場面)をパロディ化することで、名作を咀嚼したときに抱いた感動を効果的に呼び覚まし、共鳴反応とも呼べる「感情の盛りつけ」を自作へ付与できる。パロディモノが視聴者にウケるとき、同様に過去の名作のリメイクや続編が流行りはじめるのは偶然ではないだろう。パロディを介さずに、「圧縮した物語の連続」でひとつの作品をつむげれば、次世代の物語として多くの「物足りなさを感じている者たち」に受け入れられるのではないか、と個人的には睨んでいる。狭窄な結びで恐縮だが、目下の方針として、何を圧縮すべきか、に頭を悩ませている。パロディを用いない以上、名場面とは何かを自覚せねばならない。



1085:【えびーー!!!】

おはにちはー、いくひしまんだす~!!! あはは、あのね、あのね、きょうはなんと、いくひしには珍しくかっぱえびせんを買ってきたんですよ、ほらほら。あ、見えないか。もうね、スナック菓子だいすきっこないくひしさんですけれども、さいきん、めったに買ってこなくて。なんか、スナック菓子食べると寝起きに胃がモーレツにけだるい。胃がもたれるってこういうことなのかって、お酒を飲まないまんちゃんは思いしるのでした。敬遠してたよねー。で、なんで買ってきたかっていうと、わかんない。気づいたら手に持ってうどんといっしょにレジに並んでた。おまえいつの間に!??って二度見したよね。え、え、あなたウチの子だっけ?みたいなね。飼い猫にまじって野良猫が餌食ってたみたいな衝撃があったわけですけども、お店がね、かっぱえびせんを山積みにしてて、いくひしそういう戦略にハマりやすいんすよ、まっさきに撃ち落とされる系の特攻隊長なわけでして、まー気づいたら買ってたよね。やめられないとまらないーかーっぱえびせん♪って大昔にCMでやってたのしってる? しらないよね、いまの十代とかぜったいしらないと思います。やっべ。まんちゃん十代じゃないってバレちった、やっべ。じっさいね、食べてみると、やめられないとまらないの惹句そのままなんですよ、かっぱえびせん。なんてキャッチーなコピーなんだ、キャッチコピーなんだって感動しますよね。でもね、改めて食べてみると、もぐもぐ。うん、小休止くらいは挟めます。なんだったらやっぱりちょっと、ぜんぶを一気に食べるのはむぢゅくね? ちっちゃなサイズのあるじゃないですか、おこちゃまが遠足に持っていくのにちょうどいいサイズのやつ、あれならもぐもぐぱくぱくすぐになくなると思うんですよ、でも大きな袋の、百円のやつはちょっと、んー、やめられないとまらない、くは、ない。やめられちゃうし、とまれちゃう。でも、なんか食べてると、呪文みたいに、やめられなーい、とまらなーい、ってあたまんなかで唱えてて、せっかく止まった手がもういちど袋に呑みこまれていくよね。で、引き抜いたらその手にはかっぱえびせんが、って、え? なに? 箸使わないの?ってなにそれ。手づかみで食べるなんてまんちゃん野蛮人って、え、そう? だめなの? だめじゃなくない? ねー? あなたは手で食べるよね? こう、ゆびで挟んでお口に運んで、もぐもぐするでしょ? しない? 箸とか使う? 使うの? なんなんきみ、上品ぶって。なにさ、いくひしさんのおててがきたないと、ばいきんまみれだとでも言うのかね。じゃあなにかい。チミはいくひしさんのおててで運んだこのかっぱえびせんを食べれないと、そういうことかいね。はい、あーん。あーんして。食べてよ。いやいやすんな。あーんって食べてよ!!! んーって顔そっぽ向けるのやめてください、口ぎゅーってつぐむのやめてください傷つくでしょ!!! もうなんなん。ちみはそんなにいくひしさんがきらいなのかい! いいよもう、ぜんぶ食べちゃうから。ひとりでかっぱえびせんたいらげちゃうから。やめられないですからね、とまらないですからね。世界の終焉までまっしぐらですよ。せっかく道ずれにしてあげようと思ったのにふんだ。え? 断って正解だって? ほんとだ!!! ん? なに? オチが雑だって? メイビー。かもね。エビ、かもね。



1086:【クラッカー】

くらっかー!!! おはにちわっす、いくひしっす、いえー!!! まいにち食べたものをつぶやいてくだけのツイッターアカウントじみたテイストをかもしはじめているいくひしさんですが、だってホント文字に興してまで伝えたいことなんてないんだもん! だからせめて、せめてね、いくひしさんがどれほど食い意地を張っているのかをしってもらいたいと思うんですよ。で、きょうはねクラッカー。お菓子と軽食のあいだのたべもの。味はうっすら塩味で、なんもつけないで食べるのがいくひし流。関わった者みな壊れていく人格破壊者(イマジナリィクラッカー)の異名をほこるいくひしさんとは思えない質素さだと思うんですよ。ほめてほめて。人格ならパーソナリティじゃないのか、なぜイマジナリィなのかと疑う声も聞かれると思うんですよ、でもそこはいくひしさん、とくに理由はないっす。パーソナリティよりイマジナリィのほうが語呂がいい。言いやすい。ただそれだけ。はい。クラッカー、おいしいよね。…………おわっちゃったよ!!! どんだけ中身のない文章並べるつもりだよ、スッカスカだよ、振っても音が鳴らないくらいスッカスカだよ、逆にすごくない? 感心する。いくひし、我ながら感心する。読んで得られる情報がクラッカーおいしいってだけだよ? 途中に挟んだなんかわからんウネウネは、語呂がいいってだけで、なんの意味もない文字の羅列、すごくない? 文字として読めるし、意味もなんとなーくわかるのに、なんっも書いてない。読む前よりむしろ損してる感じがする。損した気がしてくる。すごくない? でもつい読んじゃうでしょ? それはねー、いくひしがかわいいから☆ イテ。イテテ! イタイ、イタイやめて、やめてください、石を、石を投げるのをやめてください、イタタタ! や、やめ、やめろって言ってんだろうが!!アぁぁぁぁあンーーー!!!???? ふっじゃけんなし、まじでふっじゃけんなし。おまえのことをきょうから「いくひしのコレ!」って小指立てて紹介したろかこのー!!!! 真顔でノーセンキューすな、首ふりふりやめろ、手のひらをこっちに向けるなぁー!!! 傷つくでしょ、いくひし、ものすごーく傷つくでしょ。なんだったら壊れちゃうよ、そんなに乱暴に拒絶したらいくひし、こわれちゃう!粉々に砕けて食べたらうっすら塩味!って、クラッカーやないかーい!!! てなオチをね、狙ってたんですけど、クラックってどういう意味だろうっていまネットで調べてみたら、なんか純度高いコカインのこととか書かれてて、え、まじで、ってなった。麻薬、ダメ、ぜったい。でも大麻は麻薬じゃないし吸うだけなら犯罪じゃない、害もないんだよータバコ以下だよー、酒のほうがよっぽど毒だよーって風潮が蔓延してて、ほんと大麻汚染がさいきんひどすぎない? いくひしの観測できる範囲の若いひとたち、のきなみ吸ったことあるってどうなってんのや。ホントどうなってんの? いくひしの堪忍袋は破裂寸前や、クラック寸前や、このままだとクラッカーになってまう。うまいことオチた? だめ? だから言ってるだろ、薬物はだめ、よくない。うんうんうなずいとるそこのきみー! 酒もやぞ。合法だからいいのか? コーヒーはいいのか? 不倫にしろ浮気にしろ、違法じゃないからいいのか? そういうこっちゃねーだろーい!!! でも違法じゃないならいいのだ。世の中そういうものらしい。なんでーい。



1087:【凶訓】

じぶんの成功を他人に委ねるな。その手はなにを掴むためにある。まずは掴め。その手に掴んでから、譲れ。



1088:【言い換えるとだね】

他人に期待なぞするな。やつらが求めているのはあなたの成功ではない。だからこそ、その手で掴み、握らせてやれ。おまえの本当に望んでいたものはこれなのではないのかと、目を覚まさせてやるのだ。



1089:【ムキ】

いやー、まいった。聞いてくれよ。いまな、そと出たらなんか世界が白いんだよ。世界中をハトが埋め尽くしてるみてぇでふわふわしてんだよ、歩きにくいったらねぇよな。触ってみたら冷たくてビビるし、やたら足とか滑ってよ。尻とかスゲーいてぇ。つーか、手とか服とかべちゃべちゃだし、水がどっかから漏れてんだよ。いや、漏らしてはねぇよ、ふざけんなって、うそじゃねぇし。白いやつ手で掴んでもいつの間にか消えてっし、まじ魔法。そっちはだいじょうぶかよ、ケツとかぶってねぇか? あー? なんで怒んだよ、心配しただけだっつの、ざけんなばーか。あ? なに? ウキぃ? なんで急にサルの真似した? ちがう? ユキぃ? あー誰の耳が腐ってるだ、てめぇの舌が足りねぇだけだろ、呂律に油でも注しとけっての。あ、ばか、切んな。わるかったって。ジョークだって、ジョーク。で、なんだって。ユキ? これが? 凍ってるだー? いや、それは分かってんだよ、クソさみーからな。ちがう? そうじゃないってどういうことだよ、わかるよーに言えや。ちっこい氷がそらから降ってきて積もるだぁ? はぁー? おまえな、からかうにしてももうちっとマシな嘘をだなぁ――っておい。あ、おい、切んな、切んなって、ばか、おいブタ! おう……すまん。ジョークだって、ジョーク。口が滑っただけ。あー、ごめんなさい、もう言わん、言わないんで、もうちっとだけヒントくれヒント。あぁーはいはい。ヒントをください、おねがいします。チッ。こんでいいだろ、はやく言え。ほー。はんはん。はあー、なるほどねー。雨が凍ると。なー。得心いった。それで触ると融けて、雨に戻るってか。はぁー。で、誰なんだ。そんなすげー魔法使うやつ、どこにいんだ。教えろ。今すぐぶっ飛ばす。ケツがいてーんだよ、何回転んだと思ってんだよ、村のガキどもにどんだけ笑われたと思ってんだよ、てめぇのハメたこれ、首のうぜーやつなきゃ今ごろここに人はいねぇぞ。何笑ってんだよ。あー? 魔法じゃない? ふざけんな、てめぇが魔女つぶせっつったからこんな辺境まで……あぁ!? それとこれとはべつだぁ? じゃあ何なんだよこの雪ってやつは! こんなすげーの見たことねぇぞ。雨と同じ? どこがだよ、からかってんじゃねぇよ、さてはおめぇ、知らねぇな? 見たことねぇから口から出まかせばっか言いやがって。そうじゃないってなんだよ。いいかげん笑うのやめろ、いぶすぞ!! なにー? 山ぁ? 山がどうしたってんだよ、そりゃ見えるがよ。いや白くはねぇよ、ふつうの山だ。あっちのほうがあったかそうだ。へん? なにがだよ、空にちけぇんだからあったかくて当然だろ、お日様ぽかぽかきもちぃなって知らねぇのかよ。山のほうが積もってんのがふつう? 雪がかぁ? つっても、あっちのほうはそれこそおめぇんとこの夏庭みてぇだぞ。行けるもんなら今すぐ行きてぇ、こんなクソ村に用はねぇよ、さみぃんだよ。あん? 元に戻せって、は? 山をか? 真っ白にしてこいって、おい、あ! 切りやがった。チッ。ざっけんなよマジで。どうしろってんだよ、誰ぶっとばしゃいいんだよ、村の連中片っ端から食い殺すぞあのブタ。あー? なに見てんだよクソガキ。目ん玉ほじくり返されてぇか。なにぃ? 魔女のいる場所を知ってるだぁ? おめぇなぁ、そういうことは最初に言え。で、どこにいんだよ、教えろよ。連れていく? おーおーなんだよおめぇ、気が利くじゃねぇか。いいだろう、おめぇをこの地の第一奴隷にしてやるよ。そういやおめぇ、知ってっか。この白いのな、雪つって、魔法じゃねぇんだと。で以って、あの山のほうがおかしいんだ。どうだ、見る目あんだろ。おうおう、おまえもなかなか見どころあんじゃねぇか、だがオレは強そうなんじぇねぇんだよ、じっさいメチャクチャ強ぇんだよ。当たり前のことだからな、わざわざ言う必要はねぇ。で、どこ行きゃいいんだ。あっち、っておいおい。そっちは逆じゃねぇか、ほー、氷の亀裂がねぇ。そんなに深けぇのか。魔女が空けたと、そんでほかの村と分断されてと、なるほど、なるほど。隠れ家にしては上出来だ。で、坊主。一つ訊きてぇんだが、いいか。なんでおめぇ――オレが魔女だと疑わねぇ。村への出入りができねぇ状態なんだろ。えぇおいガキ。返答次第じゃ、村ごとてめぇをいぶし殺すぞ。(――メラメラと揺らめく蒸気の奥で子どもが無邪気に泣きじゃくる。弱い者いじめ反対。早とちり、恥ずかしい)



1890:【さいきんの流行りなのか?】

ツイター眺めてると、年末からことし入ってからくらいから「めっちゃ」って使ってるひとが増えた印象がある。いくひしも「めっちゃ」って使うけど、これ使うとどことなく若くてフランクで「なんでもこいやー」みたいな粗暴さというか寛容さが漂うから使ってるだけで、日常会話で使うことはあんまない。相手が使うときは合わせて使うけど。いや、しゃべったりはせんけど。すこし控えよ。



※日々みすぼらしく生きていく、輝くことなく息をしていく。



1091:【雨季】

さっさと出なさいよ、何回繋ぎ直させたら気が済むわけ、あり得ないんだけど。つーかさ、あんたに言われたとおりやったらターゲット死んだんだけど。情報吐かせるヒマなんかあったもんじゃないし、どうしてくれんの、言っとくけど、あたしのせいじゃないからね、言われたとおりにしただけなんだから。なに? 説明って、だーかーらー、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885047623)。



1092:【向き】

せんせー、せんせー。やーもう、やっと繋がりましたね。何されてたんですか、またぞろ僕のフェアリーキャンディでも、もちゅもちゅねぶってたんじゃないですか。いいえ、ちがわないです。音漏れてますからね、もちゅもちゅうるさいくらいですよ、さてはごまかす気がないな。用がないならこれでって、そんな言いぐさはないですよ、僕、せんせーのお申し付けどおりにこうして遠路はるばる密林にまで来てるんですから。なんでって、えー、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885052393)。



1093:【無期】

待ったかね。すまんな、わざわざドールを寄越させてまで。しかしいつも思うのだが、なぜこうも目に毒な型を使うのだね、きみはもっと控えめな体躯であろう。いや、失言だった。きみも忙しい身のうえだろう、単刀直入に訊く。西部のシンシュンシャン山村を知っておるかね。知らんか。では、南部のウリウリノウ里はどうだ。聞いたことはあるか。そうだろう、あすこは広く魔道石が採れる(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885060763)。



1094:【無機】

なんだい、おめかししてどうしたね。依頼? どれ、素体来歴はお持ちかい。ほー。ひゃっひゃ、おめさんにしちゃずいぶんとお高くとまった素体だね。ほれ、まずは座れ。そっちのメンテも目当てじゃろうて。ほー、またずいぶんといじくりまわしおってからに。ひゃっひゃ、なんだいこりゃ、【魔道金剛石】じゃないか。こんな貧相な素体になんてもん仕込むんだい(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885069742)。



1095:【仮想通貨と株のちがい】

価値の低いうちに買っておき、価値が高くなってから売る。その差額を利益とする手法を投機という。投機の対象とされやすいものに株がある。株は、企業の社会的存在価値によってその値段が上下する。単純な話として、企業がたくさん株を発行し、その株を買い求める者が多ければ、株の値段は上昇する。純粋に企業を応援する意味で株を保有する者もいるだろうが、多くは投機目的に株をする。ここ数年、株だけでなく仮想通貨を投機目的に保有する者が増えてきた。しかし、株と仮想通貨ではその構造上、大きな差異がある。株の原理を仮想通貨に用いると、世界経済は大きな混乱に巻き込まれることになる。どういうことかというと、株には企業の成長という付加価値があるのに対し、仮想通貨はただその価値を乱高下させる。貨幣というものは基本的に、流通する過程で、対価に見合う社会的資産を増やしている。単純な例であれば、ビルを建てるのに十億円を費やしたとして、十億円が支払われた後、十億円の価値のあるビルが誕生している。むろん十億円は消えたわけではない。使われる過程で、社会的に価値を増やしている。株も同様である。株の価値があがったとき、ただ価値が増えただけでなく、それに伴う企業の成長が、社会を豊かにする方向に働いている。しかし、仮想通貨はそうではない。ただ、右から左へと金が流れるだけで、価値が膨らんでいる。そこに副産物はない。取引所などの企業が新たに誕生し、新しいビジネスが生まれてはいるが、それが膨らんだ価値に見合う豊かさを社会へ還元しているかははなはだ疑問である。また、純粋に投機に着目するにしても、株によって生じる損益と、仮想通貨で生じる損益とでは、社会全体で損なわれる価値が桁違いである。株の場合は、おおむね、損をした者がいるとき、同時に得をした者がいる。全体として見たときの損益と収益との差が、そこまで極端なことにはならない。そこの差異が極端になるのがバブルである。本質的な企業の価値が反映されていれば、株が暴落することはない(証券も同じだ)。本来、価値が低いにも拘わらず、大量に保有された株があり、その影響で価値が膨らんだ甘い蜜を求める有象無象が、バブルを膨らませていく。全体の数パーセントが利益を得るために、九十パーセント以上の餌が集まっていく。得をする者が、株を売り払って得る利益よりも、残りの大半が損をする価値のほうが大きく上回る(なぜなら一億円を保有している人間にとっての百万円と、百万しか持っていない人間の百万とでは、同じ貨幣でも相対的価値が異なるからだ。同じ額面でも、立場によっては命の値段になり得る)。そうしたとき、バブルは弾け、世界経済に大きな影を落とすことになる。ここで重要になってくるのが、仮想通貨の場合、現状がおおむねこのバブルによって価値が形成されていることにある。価値が暴落したとき、得をする者よりも、損をする者のほうが多く、さらにその損失価値も桁違いである。また、株とは異なり、社会的な価値を生みだしていないため、ただただ世界経済に大きなうねりを引き起こす。仮想通貨の場合、データのなかだけでなく、ごっそりと物理世界の貨幣が消え失せるのである。じっさいには貨幣が燃やされたりするわけではないので、お金の絶対数は変わらない。ただし、これまでに貨幣が流通するなかで蓄えられてきた社会の価値が、すり減るのである。家や、道路や、食料から、家電、雑貨まで、あらゆる社会的価値のあるものが、いっせいに価値を減らしてしまう。仮想通貨のバブルは、株のバブルとは比べものにならないほど、社会的な損失が大きい。国際的に何かしらの規定が発足されないかぎり、世界経済に大きなうねりを巻き起こすことは必須である。投機目的の仮想通貨の保有はこれからも活発に行われていくだろう。また、株に替わる資金繰り策として、多くの企業が仮想通貨の利用をはじめるはずだ。以前にも述べたように、仮想通貨は単一通貨として統一したほうが、混乱はすくなくて済む。自然淘汰による仮想通貨の統一はむつかしいだろう。仮想通貨の制限を巡って、国と国とのあいだの摩擦はさらに過熱するはずだ。しかし、未来に訪れる大きな奇禍を想定し、それを回避すべく、各国が話し合いをはじめる、いまは、時期である。歴史上の失敗から学び、段階的に、まずは国内での仮想通貨の統一、および制限を設けていくのが望ましい。



1096:【無二】

うぃーっす、姐御ぉ、今いいっすかぁ? 例の場所まで来てみたんすけど何もねーんすけど。うぇー? 来ちゃマズかったっすか? やーでももう来ちゃったんで、とりま、探してみますわ。墓っすよね?(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885080802



1097:【愚痴】

あら、いらっしゃい。珍しいじゃない。どうしちゃったの浮かない顔して。そんな隅っこになんて座らずこっちいらっしゃいよ。どうせ誰も座らないもの。オレンジジュースでいいでしょ。え? きょうは酒って、あら、珍しい。べつに責めちゃないわ。でもそれ、ドールでしょ。酔えないから酒なんて無駄だってさんざん昔は言ってたじゃないの。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885088746



1098:【やべー】

HEROさんの最新短編漫画がやべぇ。ネタバレになっちゃうから内容には言及できないんだけれども(でもしちゃうけど)、「○○」×「◆◆」×「百合」になってて、短編のくせにふんだんに旬のくだものを詰めこんでて、思春期特有の家庭と社会とのあいだの板挟みの孤独感というか、不透明さがこれでもかとうつくしく描かれててやばい。ここの短編の「致死量のブルー」です→http://dka-hero.com/top.html。ほかの短編も文句なしに絶品で、代表作「堀宮」含めて、いくひしの基盤になっている作品群です。いくひしは、作品と作家は別物だと考えているけれども、作家さんとしてだいすきな数少ない作家さんです。(途中で母親がぶち切れる場面があるんですけど、読後に見かえすと意味が逆転してたりして、すごいなーってなる。男の子がゴミ持ってくれるところとか、おまえーこのー、ってなる。いけめんやなーって)



1099:【無為】

やあ。そろそろくるころかと思っていたよ。きみと最後に会ってからどれだけの時間が経ったのかはそう、きみの言うように、分かりっこないし、分かりようもないが、それでも「もう二度と会うことはない」と去ったきみがこうしてふたたびぼくのまえに現れるだろうことは知っていたよ。なぜ? それはきみのほうがよく理解しているはずだ。きみはなぜここに足を運んだ? ぼくに会って何を得るつもりだい。だんまりか、きみらしくない。きみはぼくから情報を引きだしにきたのだろう、きみはぼくに訊きにきたのだ、そうだろ? この世にある総じての「知」をむさぼり尽くしているきみが、あろうことか、ぼくなんかの助言を必要としている。皮肉なものだ。きみにとっての自由とは、その莫大な「知」であり、同時にそれら「知」をその身に蓄えることができるのは、きみが物理的な自由をはく奪されているからだ。では、同様にして、物理的な自由を封じされているぼくにはどんな自由が等価交換されているのだろう。(つづきはこちらから→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885096117



1100:【武器】

お待たせいたしましたワタクシ、魔具総合相互ギルドのガングと申します。僭越ながらギルドの代表取締役を仰せつかっております。お話に伺ったところ、どうやら大口の契約を申しでていただいたようで、ありがとうございます。ええ、ええ。はい、精霊軍および魔道守衛隊への魔具の供給はワタクシどもが務めさせていただいております。どれくらいの量か、とそういう内部情報はいくらお客さまでもお話できない決まりごとになっております、ご寛恕願えるとさいわいです。(つづきはこちらから→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885103682



※日々衰えていく己を嘆き、哀しむことで、衰える余地があったのだと思いこむ努力を重ねている。



1101:【無地】

初めまして、驚きました。この霊波数は特殊でして偶然に通信してしまう確率はあなたがデタラメに思い浮かべた数字がいまこのとき鳴いたニワトリの数と一万回連続で合致するのと同じくらい低い数値なのですが、あなたはどうやってウチの霊波数を知ったのですか十秒以内の返答を要求します。あの男が――ふんふん八割がた理解したがしかしながら名も知らぬどこの誰とも知らぬあなたの願いをきく道理はウチにはないと判断する、よって話はこれでおしまいにさせていただく。金?(つづきはこちらから→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885112431



1102:【ナイスED】

朝焼けと熱帯魚 - ぼくのりりっくのぼうよみ



1103:【内(うち)】

お呼びだししてすみません、何せこの戦況では我々だけでの制圧は骨が折れます。現在、東部西部南部、北部以外の戦地の指揮は我々魔道守衛隊が担っております。司祭総帥でありますか? 北部にて精霊軍と合流し、短期的制圧戦略本部に出向いているそうです、お聞きでは? そうですか、総帥もおひとがわるい。ただなにぶん、北部の反対勢力は強大だと聞いております。大陸全土にて消息不明だった各地のバランサーがこぞって反対勢力に加勢しているそうで、(つづきはこちらから→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885119982



1104:【無視】

探しても無駄だ、ヤツは前線だ。総帥だろ、お目当ての相手は。会釈くらい寄越したらどうだ、愛嬌のないやつめ。こんなところまでおぬしが出てくる謂れはないのだぞ、ああいや、おぬしの場合は覗き見の域をでないか。ワラワか? ワラワは高みの見物だ、こんな下等な争いに手を貸すほど安くはないのでな。なんだ、意外とはどういう意味だ。弱い者いじめ? かっか、言い得て妙だ、嫌いではないのだがの、もっとも弱い者いじめというのは、それを虐げることで得られる愉悦に値する価値が弱者側にあることが前提にたつ。ただ弱く脆いだけなら、(つづきはこちらから→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885126411



1105:【無知】

姉さまー! 姉さまー! はぁはぁ、やっと追いついた、歩くのはやいよもう。うるさい? あ、聞こえてたんだ、それなら待ってくれてもいいのに。なに? 幼児? 幼児とはひどい、これでも背とか伸びたんだよ、ほら! え? あ、用事か、そっか。ミカエルさまからお願いされたの、姉さまの持ってる魔具ちょうだい! あ、場所とか教えてくれたらちょちょーいって取ってこれるよ、どうする? かってに持ってけ? だーかーらー、その魔具はどこに……って、なはー!?(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885133665



1106:【縁(ふち)】

どうすんですかい、お嬢。西部と南部はほぼ制圧されちまったって聞きやした、肝心の東部も結界が強化されたそうで、手も足も出ねぇそうじゃねぇですかい。ここもそう長くは保ちませんぜ。心配無用たって、魔具は不足していく一方なんですぜ、そろそろお嬢に補給してもらわんとどうにこうにも。ない? ないってそりゃねぇぜお嬢、俺らをそそのかしたんだ、せめて自腹切るくれぇのことはしてもらわんと。渡した? 魔具を? やつらにですかい? いや、分かっておりやす、何かしらのお考えがあってのことだってのは言われんでも理解してやすよ、お嬢が俺らを裏切らねぇことくれぇは分かってるつもりなんですぜこれでも。短くねぇ付き合いだ、先代への御恩も忘れちゃねぇ。だが、それにしたってその仕打ちはねぇんじゃねぇですかい。戦場(いくさば)で踏ん張るなぁ俺らなんですぜ。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885140888



1107:【経験上】

作品をコンパクトにまとめあげるためには、「詰めこむことを禁じる」のではなく、可能なかぎり詰めこみながら、「枠内に収める」ことを徹底するのが有効だと考えている。ひとまず十万字以上の長編をつくり、それを半分の分量に改稿してみる。或いは、長編三作分のネタを一作(十万字)につぎ込んでみるとか。または、長編を圧縮したような短編をまず十作つくってみて、それを許に長編を一本べつに編んでみる。そういう遠回りをすること以外に、コンパクトにまとめる技術や、どこを削るべきかの目は肥えないのではないかと今のところはそう感じている。効果があるか否かは、いくひしの作品群が物語っているはずだ。ダメならダメなのだろう。個人的には、もうすこし効率のよい方法があるのではないかと、新しい手法を試みているところである。



1108:【籤(くじ)】

姫、やつら動きましたよ。いよいよ後がないと考えたようです。前線ですか、見てきましたよ、姫から奪った魔具でした。紙ペラじみた簡易結界ですからね、何も持たないほうがまだ警戒できて長生きできます。向こうさんの戦力は今や半減。兵力の大半はいまごろ姫の指定した位置座標にて、途方に暮れているでしょう。ああ、はい。見ます? 姫の言ったとおりですよ、広域魔術展開ですね。やつら、土地ごと吹き飛ばす気だ。姫のほうは抜かりはないですか。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885148332



1109:【全霊】

前例をつくりたい。まったく評価されずとも、バズらずとも、いいねされなくとも、フォローされなくとも、経歴がなくとも、人脈なんて使わずとも、ただただ「いいものはいい」それだけで道を切り拓けるのだと。そう示したいがために、いまはこうして潜んでいる。狙ってやっているのである、負け惜しみかどうかはいずれ判ることである。(30年後くらい)



1110:【蛆(うじ)】

ガブリエルちゃんよぉ、どういうつもりだよえぇ? 広域魔術展開を聖地に転送しやがって、お陰で怒られちまうだろうがよオレさまがよぉ。オジキにこってり半殺しだよ、ゲートをミスミス破壊されおってとかなんつって。転送術じゃねぇよなぁありゃー。おめぇさん、ゲートを横に開いて道をつくりやがったな? 異空間同士を繋ぐ、天界のとっておきだろう、聖地の結界だって突き抜けるわなぁ? なぁおい、なんか言えよ。これからおめぇとオレさまは殺しあおうってんだぜ、どの道おめぇにゃ逃げ場はねぇ、オレさまもこのままじゃオジキに殺されちまうからよ。ケッケ、いい御身分だなぁおい、こんな楽しいことしてくれちゃって、キスでもしてやりてぇ。前から一度聞いてみたかったんだ、おめぇはオスなのか? メスなのか? それとも両方ついてんのかよ、ケッケ。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885155056



※日々自我を置き去りにしていく。



1111:【Light Balance】

https://www.youtube.com/watch?v=E8Ecz_sntDo



1112:【無理】

あ、おはよー。起きたぁ? 今ね、パンケーキ焼いてて、中にプトォを入れてみたんだけど、美味しそうでしょう? あれ、ご機嫌わるいねー。わるい夢でも見たのー? マズイ? マズイってなにさ、まだ食べてないのにガブちゃんのパンケーキをわるく言うなんてふんだ! むつけちゃうからね、いいの? 嫌いになっちゃうんだからね、ごめんなさいして! クソってなにさ、ひどいひどい、ばかー! わ、わ、なに! やだやだ、こわい顔で身体掴まないで、ジタバタするなって、するもん、こわいもん、なにそれなにそれ、痛いのやだ、痛いのやー! きゃーーー!! ごほっごほっ。あ”-、ったまイッタイわぁ。やだなにこれ、なんでこんなデカイのよ部屋が。んー? あーアンタぁ! ヨルムンガンドなんて召喚して、下界がどうなってもいいっての! ちょっと、聞きなさいよ、てかなんでそんなデカくなってんの、巨人の研究でもはじめたわけ!? や、や、なんで掴むの、痛い、痛いってば! 離しなさいよ! (続きはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885164123



1113:【条件】

圧縮可能な物語にも条件がある。類似作品があるか否かだ。過去に名作として語り継がれている先行例がある物語にかぎり、圧縮が可能だ。まったく新しい物語におかれては、圧縮する余地がない。仮に圧縮できたとしても、未来における名作の誕生を予見しておかねばならない。未来に共有され得る要素を前借りし、それを織りこむことによってのみ、新しい物語の圧縮は欠落とならずに済む。ひるがえっては、その未来が訪れるまでは、圧縮は単なる欠落と見做されやすい。



1114:【スタートに戻る】

圧縮に圧縮を重ねると、デコボコが均一に削られ、すべてが一段低くなり、却って冗長に感じられてしまう。圧縮することの旨味とは、デコボコにこそある。情報量の濃淡であり、濃淡による律動だ。圧縮すればいいというものではない。それを知るための物語を編んでいる。圧縮することの弊害を抽出中だ。タイトルは「文学キラー」である。二月中に終わらせ、はやく中断中の長編「雷獣、そらに昇る」に移行したい。



1115:【メモ】

複雑系。カオスの縁。創発。繰り込み。共創。還元された要素の総体が、その群れでひとつの場を築きあげる。場は系として開かれ、世界が世界を内包し、或いはまた世界が世界を展開する。



1116:【累(るい)】

急げ、なんとしてでも死なせるな。ありったけの魔道石を持ってこい。ぜんぜん足りんぞ。ないならあるところを探せ、魔道総合相互ギルドには行ったか? 原石ごとかっぱらってこい。支払いなんぞあとで構わん、渋ったら脅してでも盗ってこい。何ボサっとしてんだ、おまえらも散れ。このままじゃ街、否、大陸ごとタダじゃ済まされんぞ。ジョーカー、うるさいぞ。おまえも手伝え。義理がないだぁ? 我の山を消し飛ばしたこと、まだ許してはおらんからな。なに? (つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885174932



1117:【有為(うい)】

おー、なんじゃキマイラか。よぅこの霊波数が判ったの。んー? 未来?なんじゃおぬし、イマ未来におるのか。だっは、なんのたわごとじゃ、昨日わっちを殺そうとしたのをもう忘れたか、なんじゃ、頭は傷つけんようにしたつもりなんじゃがの、気でもやったか? 術式解析してみろと? 面倒なことを。まあよい、どうせ今はヒマじゃった。どれどれ。ふむふむ。ほぉ。古代魔術か。それも禁術ときたか。おー、なるほどなるほど。合点したぞ。わっちも知らぬ術式じゃな。この霊波はたしかにキマイラ、おぬしのようじゃがの、何やら得体の知れぬ霊波も紛れておるようじゃが、こやつはなんじゃ? よいよい、真偽がどうあれ、こうしてわっちの知らぬ術式を見せられた以上、話は聞こう。どうやらわっちの知るおぬしではないようじゃ。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885181788



1118:【世話を焼くのがダメならあたためよう】

背中で語る生き方というのは一見すると孤高で、潔く、上品なかっこよさに映るが、じっさいのところは、おまえたちと向きあう気はないが、俺のかっこよさだけは感じとれ一方的にな、というひどく傲慢な生き方である。



1119:【無事】

ママー! ママー! 起きでぇええええ! 朝だよぉぉおおおお!!! きゃはは、ママおはよう、朝だよぉ。きょうは? なにしてあそぶ? だめぇー、おねぼうさんはきんし。いっしょにネないよぉ、ネンネおしまい。おはなしぃ? またそれぇ? だってママ魔法つかえないもん、パパつかえるのに。きゃはは、きゃはは、くすぐったい、くす、きゃはは、ごめんなさーい! はぁはぁ。むかしはつかえたー? ふーん。うそだとおもって? うん。おもってる。きゃはは、もうやだ、くすぐるのだめ、きんし! おにんぎょうさまぁ? しってるよぉ、まえにパパと見たもん。ふうん。吸いとられちゃったの、ママの魔法? おにんぎょうさんに? パパ、魔法つかえるのもおにんぎょうさんのおかげなの? じゃあママえらいえらい。はい、あたま。いいこいいこ。んー、ママ、おなかすいたぁ。ケーキたべていい? だめじゃないよ、パパたべてた。きゃはは、パパー、にげてー、ママそっちいったよー。***※※※***ママ、ただいま。うん、ありがと。卒業って言っても、やることそんなに変わんないし。ママドールのほうもひとまず取り戻したから。いいでしょもう、パパにこってりしぼられました。ママまで叱らないでよ。だってしょうがないじゃん、あれなきゃ生活できないんだよわたしたちみーんな。あー、そっち? ママドールってだって言いやすいし、べつに間違ってはないじゃん。はいはい、永久魔力源泉結晶って言えばいいんでしょ、長ったらしいよホント。パパ? パパはジョーカーさんに呼びだされてどっか行ったよ。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054885182932



1120:【あとがき】

連載ってあんまりすきじゃないんです。なるべく完成したものをおだししたい。未完成な状態ではだしたくない。でも、たまには連載に挑戦してみるのもいいかもなって思ってやってみました。いくつか実践してみたいことがあって。たとえば、説明セリフはないほうがいい、と聞きますよね。でも説明セリフだけでもおもしろくできたらすごくない?ということで、つくってみました。また、主人公を直接描かずに、キャラ立ちの濃ゆい主人公をどうやったら表現できるだろうか、という点でも工夫してみました。あとは、ふつうにつむいだら二十万字くらいのネタを、なるべく簡素につくったらどうなるかなって思って、構成してみたんですけど、どうだったでしょう。けっきょく四万字を超えてしまいました。登場人物も一期一会で、すべて違うキャラをだしてみました。ふつうにやると読者に負担がかかるので、なるべく解りやすいキャラで味付けしてみました。まったく違いすぎるとやっぱり負担になるので、言語構成に極端な差異がでないようにしつつ、それでもキャラごとに印象づけを施してみたのですが、うまくいきましたでしょうか? 今回はライブ感をだしたかったので、まったく構想を練らずにつむいでみました。キャラが増えるごとに物語が浮きあがっていく感覚が、作者としては快感です。読者さまにもその快感が再現されることを祈ります。ひとまず、連載連作短編「偉大な魔女は夢を見る」はこれにておしまいです。読んでくださってありがとうございます。(連載期間は1月23日開始~2月13日終了です。こちらからお読みいただけます→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371



※日々実力のなさに打ちのめされていく。



1121:【目に見えない技術】

具体的にここがすごい、と指摘できる何かしらで勝負できるのはよくて五年だ。それ以上、たとえば十年を越えて成長しつづけるためには、いわゆる感性やセンスといった曖昧なものの介在が不可欠になってくる。またそうしたあやふやで数値化しにくい何かしらは鍛えるのが難しい。ある一定のレベルより上にいくためには、その見えない何かしらを掴み、こね、熟成させるよりない。同時に、その見えない何かしらが何であるのかを見定める目を養うこともたいせつになってくる。けっきょくのところそれは、見えない何かしらを視ようとすることでしか身につける術はなく、その見えない何かしらとはつねに、具体的な事象を辛抱強く観察することでしか視えてこないのだろう。



1122:【リンクリング】

量子もつれによる光子の対反応は、光が物質(粒子)ではなくある媒体を伝う波だという何よりの傍証ではないだろうか。円形に伝播する波は、円の中心を通る任意の直線を引いたときに、円周上にて対極する二点を結ぶ。たとえばそれは地球をきょだいな円として考えたときに、地軸があるために南極と北極という対極点をもつことと似た現象と呼べる。むつかしく言っているが、ことは単純だ。光は時空間の有様に関係なく(真空中では)速度が一定だ。物理世界においてもっとも速い現象でもある(宇宙の膨張速度よりは遅いが、これは物理世界の範疇でないため、対象にしない)。光はどんな場所においても一瞬で、波紋を最大化する。そのため、光を観測する者からすると、じぶんを中心に二つの対極点をみつくろうことができる。光の発生点こそが中心ではないのかと違和感を抱く方もおられるかもしれないが、さきにも述べたように光は空間と時間に作用されず、どんな場所でも一定の速度かつ、最速で波紋をひろげる。どこを中心としても同じような現象として観測されるのである。よって我々人類が光を観測すると、二つの粒子が同時に発生して映る。それらは同じ性質、エネルギィ(或いは対となる情報)を持つように「ふるまって」観測されるのであるが、そのことと光が粒子として存在することはイコールではない。光は未知の媒体(いわゆるエーテルではなく、ゲージ場のようなもの。現状ではそれを電磁場として解釈されているが、まだ何か足りないような気がする)を伝う波(ゆらぎ)なのではないかと憶測する次第である。



1123:【しょっく】

じーてーんーしゃーがーこーわーれーた!!!(だるまさんがころんだのリズムで)。きょねん買ったばっかやぞ。おととしも二台買ったから三台目やぞ。あした買ったら四台目やぞ。買いすぎや! ほんとかんにんしてー。三万ぽーんって飛んでく。おまえマジで、時期をかんがえろと。壊れていいタイミングやないぞと。いくひしさん、金欠で貧血で倒れても知らんぞー。まいにち16キロをキコキコしてたらそりゃ壊れるかもしれんけどさー。一か月でだいたい480キロ? 東京から大阪まで行けちゃうやろー。しんどい。きょうとか歩いたからな。途中で壊れて、10キロくらい歩いたからな。いくひしさん、荷物半端ないから、足パンパンや。タイミングをかんがえろと。ほんとないわー。泣く。



1124:【スキル不足】

大技を極めるよりも、全体としての美しさで勝負できるようになることが、すなわち成熟であり、極致なのだろう。流れであり、緩急であり、律動であり、余韻だ。そこに至るためには、やはりというべきか、大技をこなせるだけの基盤が必要となる。削ぐためには、余白が入り用だ。模るための素材を築きあげることからいつまでも逃げてはいられないのだ。楽ができるのは、坂をのぼったことのある者か、乗り物(道具)を手に入れた者だけだ。しかし下り坂のほうが負担がかかるし、自転車だっていずれ壊れる。



1125:【わすれた】

日記の書き方わすれた。なに書いてたっけってなってすこし前の「いくひ誌。」ちら見したら、あたまのよろしくなさに首もげた。いくひしってこんなアホだっけ、ってなった。いやアホなんですけど、こんなにー?ってなる。あ、さいきん映画観てないなーって思ってて。なにか観たいなーってなってるので、おすすめあったら教えてください。念じたら届くぞ。いくひし超能力者やから。ぴこーんつって、そらとか飛べる気がする。気がするだけ。だめ? だめかー。思ったんだけど、いくひしさん、じぶんのこと語らなさすぎて、性別とかもじつは不明なままなんじゃないかとすこしばかし不安になってきたとまでは言わないけど、でも判るよね? もうこんな文章並べてるんだから、性別はこんなで、顔はこんなで、背はこんなで、こんなんでこんなでこんなだろーなってこんな? くる? こない? きてよ! というわけでね、いくひしさんの性別は、いくひしさんとしか言いようがないし、性格もいくひしだし、顔もいくひし、背だっていくひしだし、文章もいくひし。でも本当は、イクビシなんだよって、さっちゃんはね、さちこって言うんだほんとはね、ってな具合で、またくっだらねーことまいにち並べていこっかなって。さっさとイマ手がけてるやつ手癖でぽいぽーいって済ませて、ちゃっちゃとつぎのやつにとりかかりたい。なんかね。本腰入ってない。よくない。おもしろいこと見つけていこう。見つけたら教えて。念じたら届くから。いくひし、超能力者やから。オーガニックやから。無農薬やから。無能やから。っておーい、能力ないんかーい、みたいなね。書き方わすれてオチのキレがざんねんなことになってますけど。ざんねんなのは器のちっささだけにしておきましょう。でも器が大きけりゃいいってもんじゃなし、ちっこかったらすこしの量でも山盛りに見えて得したきぶんになる、そういう視点をこそだいじにしていきたいね。ほんとかー? 適当なことを言いすぎな、いくひしまんでした。ホントひっでーなオチ。



1126:【ぱりんこ】

ぱりんこっておせんべいがおいしい。おつかれさまです、いくひしです。ここ三日くらい、寝る前におふとんにくるまりながら、枕電灯の明かりでぽわぽわしつつ、森見登美彦さんの「四畳半神話体系」読んでまして。いや、すごいっす。再読なんですけど、圧縮力のちからこぶときたら、フタコブラクダにひけをとらないぽっこりっぷり。あかちゃんのおしりかってくらいぷりぷり。ゆびでつついて、ちょろろーって飛びでた中身を大口あけて受け止めたい。おなかぱっつんぱっつんになるまで飲み干しちゃうから。水ルフィ!なんつって、クロコダイルと戦います。かかってこいやー! 食器洗いとか、掃除とか、基本いくひし嫌いなんですけど、冬場は割と率先して食器洗う。なーんでだ? ちめたくなった手をね、お湯につけてあたたまろーって魂胆。こんたんってなんかかわいいな。猫飼ったらなまえ、こんたん、にしよう。きょうは「不滅のあなたへ6巻」買ってきたので、四畳半神話体系を読み進めがてら、ぬくぬくします。けっこう買ったまま放置してるマンガ多くて。小説もあんま読めてない。三十冊はないはず。たぶん。インプットできてないの、なんでかなーって思ってたら、さいきん、新しい曲を発掘してなくてですね。なかなか頭が切り替えられない。いくひし、曲を聴くことで、頭のなかの波長を変えてくタイプのなんかなんかなので、それがないとちょいとばかし苦労する。まいにち同じ調子になっちゃう。おすすめの曲あったら教えてください。おすすめってか、あなたの好きな曲。念じたら届くので。いくひし、調子者なので。超能力者ではないですけど、お調子者なので。チョーしか合ってないけど、それっぽいこと言ってみた。それっぽいのそれが何を示してるのかは謎だけど。はぁ。適当なこと言うのなごむ。ちょっとさいきん真面目なこと並べすぎたよね。いや、適当なのは相変わらずなんだけど、真面目な顔してるのよくなかった。もっと変な顔しながらうーみょろうーみょろしとくべきだった。イマ変顔しながらこれ打っとるからね。チミも変顔しながら読んでくれよな。周りにひとがいないか確認するんだぞ。変な顔陳列罪で捕まんないようにだけ注意してな。奇抜なのは顔だけにしとくんだぞ。服装まで奇抜だと、パリコレに引っ張りだこになっちゃうから。いくひしさんはパリコレなんぞに行かずに、おこたでぬくぬくしながらぱりんこをぱりぱりしてたいのだ。パリコレではなくぱりんこでぱりぱり。どう? オチっぽい? 落ちた? ほんとにー? おっけー? おっけーでましたー、よっしゃー、やったー、わーい。え、なに? 寒い? 凍えるって、冬だからじゃない? あったかくして寝るんだぞ、おやすみ~。



1127:【編集者不要論?】

編集者が必要か否かという話題がネット上で散見される。突き詰めていけばそれは、読者が必要か否か、の話になっていく。本がでる、でない、はビジネス上の問題であって、創作とはまたべつの議題だ。また、出版社を介して本をだす以上、組織の内部の人間を納得させなければならないのは何もおかしいことはなく、どれほど理不尽な条件を突きつけられても、それに応えるのがプロである。むろん、その仕事を引き受けるか否かは、選択の自由があってしかるべきだ。断る権利を保障するためにも、仕事を持ちかける側にはある程度の説明義務、そして職業倫理を備えておいてもらいたいと願うのは何もおかしなことではない。これからは独占禁止法も適用されるようになる。ビジネスとして不誠実な風習は是正されていくだろう。作家もそれに応えていかねばならない。締め切りを守るのは、最低限こなすべきことの一つだ。



1128:【痴漢の認識のちがい】

人によって思い描く痴漢像は異なる。いわゆる手で身体を撫でまわすような痴漢像と、じっさいの痴漢の実像とのあいだには幅がある。じっさいの痴漢のほうが幅が広い。腰をぐいぐい押しつけたり、不必要に密着したり、髪の毛の匂いをあからさまに嗅いだりするのも痴漢の一種だ。痴漢をしたことがない、という認識にどこまでバイアスがかかっていないかは検証の余地がある。



1129:【しんせつ】

息を吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いてー、はい止めて。五億年くらい。化石か! お茶がおいしい季節ですね、いくひしまんです。きょうのテーマは新雪と真説と親切です。言っておいてなんですが、あんまし関係ないかもしれません。いきなりですけど、アンケートとります。いいですか。きょう土曜日だと思ってたひとー? はーい! いくひし、きょう土曜日だと思ってた。気づいたら日曜日だった。まじかー。きょうあと一時間十五分で終わっちゃうけど、土曜日だと思ってた。あとね、銀行とかで書類に年月日とか記入するとき、何日だっけってなるひとー? はーい。詰まってると窓口の職員さんに小声で、16日、きょうは16日です、ってヒントもらう。ヒントってかまんま正解。やっさしー。ありがとごじゃいます、って顔赤らめてお礼言う。あとは、とっさに簡単な計算ができない。四万÷五百とかね。二百じゃないっすか、なんて言っちゃうけど、八十だから。倍以上ちがうから。はずかちー。わかんないなら解んないって言えばいいのにね。ゆっくりやればできるんだよ? 誰もいないところでの暗算ならそこそこ、小学生くらいのレベルならできるんだよ? でもなんかひとに見られてるとダメ、意識が相手にいっちゃう。そういうことあるひとー? はーい。世の中、やさしさでできてるなーってひしひし感じる。でもいくひし、やさしくされるたびに、おまえはよわっちーなーって言われてるように感じて、すこししょげる。じゃあ厳しくされたらどうなのっていうと、やっぱりヘコんじゃうし、めんどくせーのー。コイツ、マジめんど。って思われてるかもしれないって考えて、やっぱりヘコむ。病んでなーい。べつに病んでないよ。気にしない、気にしない。いんだ、いんだ。どうせあと八十年もしたら生きてないから。三十年後に生きてるかもわかんないから。ひょっとしたら一年後には死んでるかもしれないし、あした死ぬかもわかんない。こわくない? ねー? なんかこわいんだけど。死にたくなーい。だっていくひしまだ裸で誰かと抱きあったこともなければ、楽しいことをコレたのしーねーってわかちあったこともない。かなしー。やだよ。いくひしだって愛ってステキって言いたいもん。愛のステキなところ知りたいもん。死にたくなーい。めっちゃ長生きして、たのしいことだけしつづけたーい。でも眠るようにぐっすり死ねたらそれはそれでしあわせな幕切れかもしんない。要はいくひし、苦しみたくないのだ。死にたくないのではなく、苦しみたくない。イヤなことしたくないし、イヤな目にも遭いたくない。生きていたいわけじゃない。楽して、きもちよくて、対価としての苦しみがない状態がずっとつづけばいいって思ってる、ただそれだけ。それってじつは、死ぬことでしか適わないのかもしれない。楽して、きもちよくなってるときに、その瞬間を永遠にするために、そのままぐっすり死ぬ。それが理想ではないことは頭じゃ解ってるけど、それ以外にその理想にちかい状態が浮かばない。いったい何がしたくて生きているのだろう。何もしたくないのに、何かをしつづける。生きるというのは、何かをつねにしつづけるという強制のうえに成り立っている。やめることは適わない。死ですら例外ではない。死んでなお、〈私〉だったものは、変化しつづけ、引き継がれ、〈私〉の残した影響を、かぎりなくゼロへの極限へと押しやりながら、希薄になりつづけていく。消えることは適わない。生きてしまった以上、もうそれを消し去ることはできないのだ。生きてしまった以上、死なずにはいられないように。死んでしまう以上、人はもう「生」からは逃れられない。生じてしまった以上、変化しつづけないわけにはいかないのだ。影響しつづけること、影響を及ぼし、及ぼされ、それら総じての繋がりが、つぎなる「生」を編みだしていく。息を吸って、吐いて、吸って、吐く。その繰り返しの連続が、息吹となって自我を繋ぐ。あなたと、私と、私たちへと。いまは冬、お茶のうまい季節。



1130:【ふち】

抵抗とは作用による変化の遅延だ。異なる系が干渉しあうことで、そこには波が生じる。波とはゆがみであり、遅延の連続体だ。新たに生じた波は、余白として展開され、そこに新たな系の組みあがる余地を湧出する。遅延は遅延を生じさせ、段階的に、かつ立体的に新たな余白を展開していく。ミクロとマクロとでは視点が異なるだけでなく、じっさいに世界そのものの階層が異なっている。水と氷と水蒸気、それらを構成する分子にちがいはない。にも拘わらず、どういう密度で分子が互いに干渉しあうかによって、全体の性質に差異がでてくる。水と氷と水蒸気とでは、遅延によって生じる余白の階層が異なっている。余白と余白は一階と二階のように分離しているわけではなく、明確に区切ることができない。螺旋構造のような、どこからが上層部で、どこからが下層部なのかの区別がつきにくい。或いは、雲と雨の境目、宇宙と地球の境目のように。互いに重複しながら、余白は系を展開し、系はあらたな余白を、別個の階層に展開する。すべては遅延がもたらすゆがみの螺旋であり、本質は余白や系そのものではなく、ましてやそれらを構成する還元可能な点でもない。重複する割り切れない茫洋とした繋がり、系と系、余白と余白、層と層を結ぶ曖昧な部位にこそ要素の素たる「因」がある。それは雲のように掴みようがなく、大地のように確固とした足場を築いている。



※日々「生」とは悪なりき、と知り、「善」とは生なりきと思いだす、その営みそのものが芸であり、術なりき。



1131:【脳内煙幕もうない善悪】

Syd - All About Me



1132:【不滅のあなたへ6巻】

ちゃおー、いくひしまんです。不滅のあなたへ6巻読みました。すーごーいー。いくひしのやりたいことがここにある、って感じで、連作だからできることではあるものの、これだけの物量の物語をここまで短いページ数で詰めこめるセンスと技量に、なみなみならぬ研鑽の日々を思い起こさせます。すごいっす。敢えて話を区切らない感じがいいっすね。何々編みたいに、エピソードごとに核となる登場人物と舞台はあるものの、すべては一つの旅である、というところから逸脱することはない。何かを解決したようで、それで人生が終わるわけではない。解決したことが新たな問題となって降りかかる。人生って感じがしていいですね。あーこのひとわかってるわーって腕組んでふんふん頷きたくなります(わかってない)。この方がいるならいくひしがその方向で模索する必要はないなってあきらめがついてしまった。だから複数の物語を圧縮してどうこう、というのは、ちょっと横ちょにおいて、編む方向に尽力しようかなって。たいして変わってないんじゃないと思われるかもしれないけれども、そうね、変わってないかも。ちょっと前にいくひし、現代の「火の鳥」があってもいいんじゃない、だれかつくろうよ、みたいなこと並べたことあったんですけど、今回の6巻を読んで確信しましたね。「不滅のあなたへ」は現代からの「火の鳥」へのアンサーです。あと何十年後かに、「不滅のあなたへ」のアンサーが現れることをいまから楽しみにできる、そんなうれしい作品です。ありがたやー。



1133:【ドローン視点】

一人称、二人称、三人称、三人称一視点、神視点。これからはここに、ドローン一視点、ドローン神視点が加わっていく。まずは映像の分野でこの視点が普及していくだろう。視点と視点、場面と場面の繋ぎ目がより曖昧にかつ、連続して引き継がれるようになっていく。



1134:【妄想の翼生やしてトリップ】

旅への切符、ウキウキ跳ねるこころはスキップ、つい悔い改めるアダムとイブ、あたしの水、はだしで踏み、ムリくり曲げるここの輪くぐり、相手も見ずに、音のダム行く。Lil Uzi Vert - XO TOUR LIFE (Brasstracks Cover)



1135:【すいみん】

すいみーん! おはようございます、いくひしです。かなづちって知ってます? 泳げないひとのこと、かなづちって呼ぶんですけど、いくひしもかなづちで、まー泳げない。というか水に濡れるのがすごい苦手で。幼稚園か保育園かは忘れましたけど、水遊びのときに一人だけ水に濡れたくなくて花壇のかどっこでうずくまってたら、先生がホースでびしゃーって。もうね、いくひしガン泣き。もちろんプールの時間も入んなかった。で、いくひしの親もこれじゃいかんと思ったんでしょうね。スイミングスクールに一日だけ体験入学させられて、なかなかプールに入らないいくひしに業を煮やしたんでしょうね、インストラクターのおにぃさんがいくひしごとプールにぽーんって飛びこんだわけですよ。スカイダイビングですか? いいえ無理心中です。もうね、いくひし、二度とプールなんか入るもんかって誓いましたよね。まあ、いちど濡れちゃうとあとはもうわーいってびしゃびしゃ遊ぶんですけど。で、なんの話だっけ。そうそう。すいみん。おやすみーのほうね。まちがってスイミングの話しちゃったけど本題はこっち。むかしからなんですけど、いくひし、じぶんの体調の変化に気づきにくくて。なんか身体痛いなーって思ってたら骨折してたり、ねんざしてたり、腱鞘炎だったり、風邪ひいてたり、肺炎一歩手前になってたり、いろいろこじらせちゃうまで気づかない。で、なるべくそうならないように気を付けようと思ってるんですけど、睡眠時間だけはよくわかんない。基本はなるべく八時間以上は寝るようにしてます。ときどき一日を二日分と捉えて、仮眠を二度とっておしまい、ってする時期もありますけど、んーそうね。不規則な生活送ってます。無理はしない。でも、おとといとかもそうなんですけど、ひと月に一回くらいかな、死んだように眠っちゃうときがあって。気づいたら24時間とか経ってる。まるいちにち終わってる。ダイエットにはもってこいなんですけどね。だって寝てるあいだは食べないわけですから。入院すると痩せるのはあれ、寝てる時間が多いからだと思います。ただ、筋繊維のほうも細くなっちゃうので、体力はガクンと落ちますけど。で、なんでそうなっちゃうんだろうなって、いっぱい寝ちゃうんだろうなってふしぎだったんですけど、たぶん疲れちゃってるんでしょうね。ふつうに。ぜんぜん苦労とかムリは重ねてないはずなんですけど、それでもなんか、無駄な思考の仕方とか、身体の使い方とかして、人より多く疲れやすい体質なんだと思います。もちろんいくひしよりぜんぜん体力使って、疲れてる方は大勢いらっしゃると思います。おつかれさまです、ありがとうございます、もうしわけございません、と本当にあたまがあがりません。ただでさえ甘っちょろいいくひしさんなのに、ときどき贅沢にもまるいちにち寝てしまう。これはもう、ちょっとした罰をあたえたほうがよいのではないかとそう思いたちまして、こうなったら寒中水泳でもして心身ともにぱりっとしようじゃないかと。まずは湯船に水を張って、裸になって、でもこのままだと風邪ひいちゃうからすこしだけあたためて、そうね、百度だと煮え死んじゃうから、その半分以下の、四十度くらいでいっかな。けっこう低めの温度の水に浸かってみました。真冬ですからね。こんな罰はなかなかないんじゃないかと。寒中スイミングですよ。単なる入浴ですよ。あったか~い。たくさん寝ると血管が収縮しちゃって血行不良になってますからね、まずは脱水症にならないように水を飲んでからお風呂に入りましょう。身体をあたためましょう。お風呂、きもちいいよね。赤ちゃんだっこしたときみたいにほっとするし、なんか胸のところがむぐむぐほぐれてく。疲れたときはまず寝て、で、お風呂に入って、さっぱりしてからまた踏ん張っていきましょう。生きましょう。いくひし、応援してます。あなたならきっとできる。いくひし知ってるよ。あなたがたくさんがんばってるって。疲れたらちゃんと休むんだぞー。あなたの陰の応援団、いくひしまんでした。



1136:【ぬ】

いま意識がそとに向かっているので、もっとじぶんの内面に潜っていきたい。宇宙はそとに拡がっているにせよ、〈私〉をつつむこの世界は〈私〉の内、奥深くに根を張っている。



1137:【映画】

サリュー、いくひしです。みなさんは映画、好きですか? いくひしは大好きです。たくさん観返したくなる映画ってありますよね。いくひしだとダイハードとかマトリックスとか、あとはなんだろ、ナウシカとか、もののけ姫とか紅の豚とか、ジブリ作品はやっぱり鉄板だと思います。でも、何度も繰り返し観たいと思わない作品でも、心の中につよく刻まれる映画もあって。たとえば、海の上のピアニスト。あとは、時をかける少女(アニメ版)やサマーウォーズもそうですね。あ、イノセンスも大好物です。あとは、ちいさいころはホームアローンが大好きで、あんた何回観るの、って、またー?って親に怒られた記憶があります。もっとも古い記憶で残ってるのは、たぶんですけど、フランケンシュタインで、R指定だと思うんですけどちがったらごめんなさい、親が観てたので、いっしょに観てました。リアルな死体を切り刻むヘンタイ博士の狂気が描かれていたように思います。愛する者を生き返らせようとしたヘンタイ、みたいな感じの内容だった気がします。四歳か五歳ごろの記憶ですかね。あとは、南京大虐殺の映画。それもたぶんR指定だと思います。ちっちゃいコに観せるような内容ではなかったと思うんですけど、たとえば、手に液体窒素をかけて棒で叩いて、骨だけにする、みたいなの。あとは生きたまま解剖するとか。映画は映画なので、史実とどこまで合致してるのかは定かではないですが、幼心に、人間って……人間って……と思ったのは憶えてます。観たいと思ったのはいくひしだし、親もそれを止めたりはしない人間でしたが、いささか早すぎた気もします。いくひし、おねしょが止まらないコでした。かといって映画を嫌いになるわけでもなく、人間って、人間って、と思いつづけるわけでもなく、映画はやっぱり大好きなままで、一時期、一日三本をまいにちのように観つづけてたころもありました。いつだっけ? 憶えてないけど。親がね。なんか一週間に一回、五本くらいごっそり借りてくるんですよ。しかも毎週かかさず。そんなかで、おもちろそうだなーってのをこっそり観るわけです。で、ここからが本題なんですけど、いくひしの中でのNO1映画がありまして。「クラウドアトラス」です。マトリックスを撮った姉妹の監督作品で、まだ一回しか観たことないんですけど、いくひしのなかで不動の一位を確立してます。だからなんだという声には、言いたかっただけ、と応じましょう。僕、映画のなかだと「クラウドアトラス」がいちばん「あ、それ」ってなったよ、と言い残しておきたかった本日のいくひしまんクンでした。



1138:【悩み】

へーい、いくひしです。みなさん、悩みってありますか? いくひしはあります。さいきんはですね、自転車の電灯がすぐ消えちゃうこと! 電池がすぐ切れる! タイヤでクルクル回して自家発電するタイプのものじゃないので、切れたら電池交換しなきゃなんだけど、これがまた長持ちしない。あっれー、ってなって家のなかに持ちこむでしょ。すると点く。なんだよおまえ、まだいけんじゃんってなって、戻すんですけど、しばらくするとまた切れちゃう。寒いからなんですかね? 電池内の化学反応がにぶって、電気が生じにくくなってるのかもわからんです。わからんけど。だからもうね、おまえつかえねーなーって思って。ちょいとイカツイ懐中電灯を自転車の、本来ならカゴがついてる場所にくくりつけてます。そっちもやっぱり中途半端な電池残量で明かりが点かなくなるんですけど、元のやつよりかは長持ちする。電池たくさん使っとるからかな。ちっせー悩みだなーって思った? 思うな! いくひしさんにとってはせつじつなの! だって電池だってけっこう高いよ? ばかになんないよ? ばかすか使い放題じゃないんだよ? もうね、おまえふざけんなよ、っていっつも思う。またかよって。学習しない人間はいくひしで充分です。いくひしはいくひしで間に合ってます。電池くんにはもっとがんばってもらいたいです。あとはね、ふゆー! 冬さんや、あんたちょいと寒すぎない? ことし、やけに寒すぎない? そうでもない? いつもよりは控えめ? まじかー! おてやわらかにしてこれなの、ふゆー! いくひしの悩み。冬が寒いこと。冬が暑くなるよりはマシかなって思って、まーしゃーない、ってがまんしてます。みんなはどんな悩みがありますか? うんうん。なるほろー。そっかー。たいへんだね。聞かされても困っちゃうけど。ん? ひどい? なんで? ひどくなーい。はい。またねー、ばいばーい。



1139:【多様性とは?】

何に対しての多様性なのかはよくよく考えてみる必要性がある。種なのか、遺伝子なのか、生態系なのか、思想なのか、技術なのか、選択肢なのか、カテゴリーなのか。多様性を保持するためには、複数の枠組みを統合し、或いは淘汰してしまうこともときには有用だ。また、一つの枠組みを守るために、種々相な要素の介在を許容しなくてはならない局面もでてくる。だいじなのは、多様性そのものではない、多様性のもたらす効用である。もうすこし正確には、効用と弊害のバランスを見極めることにある。また、そうしたバランスは、それで一つの枠組みや要素として振る舞い、ほかの多様性を脅かし、ときに多様性を助長する因子に成り得る点は留意しておくと好ましい。



1140:【れもねーど】

れもねーど、いくひしです。万物に働くちからの総じては相互作用ですから、押されたらその分相手からも押しかえされているわけで、トルネードだって、上昇気流だと思いつつも、あべこべにじつは風が下へ下へと吹きこんでいるからこそ、細長く渦を巻く。まるでろくろを回して、手でねんどを押さえつけるから、器の形に伸びていく、みたいな印象がある。どこまで当たっているかは定かではない。しかしながら、排水溝に吸いこまれていくお風呂の水を思い浮かべてみればあながち間違いではない気がするよ。トルネードと排水溝の最後のほうにできるちいちゃな渦は、もうほとんど同じ。適当なことを言うことにかけては右にでる者はいないいくひしさんが言うんだから、たぶんに大いに間違えていることでしょう。信じるなよ! 書くことないからってホラ並べるのはよくなかった、ここはすなおに謝るよ。ごめんちゃい。さいきんの関心事はですね、新型スピーカーのデザインと、次世代の靴に求められていること、それから「人口爆発に歯止めをかけるためにはすべての国が同水準に発展していくことが順当な術であるが、同時に、その過程で生じる各国のパワーバランスの崩壊をどのようにコントロールしていくかについては、これといった解決策がない」ことについてです。文明水準の低い国は、貧しく、劣悪な労働環境だからこそ、ぽこぽこ子供を産むのであって、発展すれば、少子高齢化していく傾向にあることは、現在の各国を眺めていれば自明でござる。ただし、発展途上の過渡期にあっては、人口は増加していくので、文明水準が極相を描くまでは、人口爆発を加速させる懸念は拭えない。資本主義社会では、技術の発展や浸透よりも、安い労働力の確保が優先される。費用対効果が高いためだ。しかし、長期的には技術を普及させ、多方面から技術を発展させていくほうが、社会は豊かになっていく。技術は独占するのではなく、可能なかぎり共有していくのが吉である。が、やはりというべきか、資本の獲得が優先される社会では、それもなかなかむつかしい。どのレベルでさきを見通していくべきか、今か、未来か、人類か――それらを決断するためには、まず余裕を持たなくてはならないのだろうか? 本当だろうか? 肥えた者にしか、選択権がないとすれば、それはやはりどこか貧しい。優先すべきは、環境ではなく、環境を整えようとする意思ではなかろうか。意思という漠然としたキャッチコピーでは拒否反応がでてしまう人には、術とでも言い換えておこう。或いは、教育と。または、虚構と。環境は、ただそれだけではそこに生じ得ない。環境を環境足らしめる枠組みとは、それを構成する要素と、その要素が枠組み内に留まろうとする習性である。すなわち、枠組みを枠組み足らしめるものとは、その内部に収まろうとする抵抗であり、抵抗とは、外部(の刺激)への反作用である。押されるから、押しかえす。その反逆が、枠組みには必要なのだ(内部圧が高まり、それを抑え込もうとする内向きの抵抗も存在する)。環境に適応する者は、けっして新たな環境の到来を予期していたわけではない。ここではないどこかに、自ら飛びこみ、そこをして新たな環境と名付けたにすぎない。環境は自ずからやってこない。追いやられるにせよ、飛びだすにせよ、その場に齧りつくにせよ、居心地のわるさを改善した者が、そこに新たな枠組みを築きあげる。必ずしもそれは、肥えた者ではないのだ。壁を、越えた者なのだ。未踏の大地に根をセット。トルネードにも負けない根強さを。レモネードのような異質なうたかたの融合を。ムリヤりすぎた結びのままじゃオチねーぞ。なんて言ってるあいだに、でもエンド。



※日々、過去のじぶんを消し去りたいと未来のじぶんからもそう思われているだろういまのじぶんを書き換えたい。



1141:【きーこーえーなーい】

欠落は埋めようとするから得るものがあるのであって、欠落を欠落のままでよしと開き直ってしまったら、単なる欠落以上の意味合いは生じない。生じないんだよいくひし、ねえ、聞いてんの。



1142:【いいんだよ】

うっせー。穴ぼこが欲しかったんだよ、それでいいんだよ。穴ぼこに穴ぼこ以上の意味をつけようなんておこがましいとはおもわんのかい!



1143:【思わんけど?】

おまえの見た目レンコンやんけ。どんだけ欲張ったん、欠落。



1144:【裁量労働制】

話題になっているらしい、ということしか知らないが。裁量労働制は、仕事量をどのように規定するかが問題だ。仕事量の規定がトップパフォーマーのレベルならば奴隷制度になるし、ローパフォーマーに合わせれば、労働者の負担を下げつつ能率の向上に繋がる(生産性をあげた分だけ労働時間が短縮されるならば、いままで身を入れて仕事をしていなかった層が生産性をあげるようになる。労働時間が短縮されるというのは、相対的に賃金があがることになるからだ。また、そのとき企業側の支払う給料は減少するので、WIN:WINの関係性が成立する。反面、トップパフォーマーの能率を基準にしてしまうと、ほぼすべての従業員がサービス残業をするはめになる。アスリートを基準にされたら大概の者は、規定値以下の成績しかだせなくなるだろう、単純な理屈だ。すると誰も真面目に働こうなどと考えなくなり、全体の能率は下がっていく。企業、労働者共に、誰も得をしない。ただし、ここに他国の安い労働者が入ってくると話が大きく変わってくる点には注意が必要だ。ともあれ、その場合は、現状の労働環境でもそう変わりはないのだから、議論するならばべつの話になっていく)。しかし、AIの導入など次から次へと設備投資によって仕事量の変化するいまの時代に、適正な仕事量を計るのはむつかしい。すくなくとも、環境が変化するつどに、時間を費やし統計的に判断していかなければならない(繁忙期と閑散期とではやはり仕事量は変化する)。そのたびに規定を変更し、さらにそれをチェックする第三機関を確立できるかが焦点となっていくだろう。可能であるようならば、新しい時代の働き方として導入してみるのもよいのではないかと思う。(仕事量を見える化していかないことには、労働環境は改善されていかない。コンビニ店員のように、空いた隙間に新しい仕事を詰めこまれ、トータルで苦しくなるだけだ。そのためにも、仕事量の明確な指標は必要だろうと考える)



1145:【遺伝子プールと98%】

ヒトゲノムは解読された。しかしゲノムにはタンパク質を合成する遺伝子と、それ以外のジャンク領域が残されている。ジャンクはヒトゲノムの98%に相当する。ヒトゲノムに刻まれている情報の98%が肉体の設計図以外の情報なのだ。私見だが、その領域には、系統「遺伝子プール」が蓄積されていると考える。遺伝子プールとは、個体ごとの差異を含めた種全体の、遺伝子情報である。AとBとCの民族があったとして、それら三つは人類である以上、それら民族間にある身体的特徴を含めた遺伝子情報は、総合して、遺伝子プールとして見做すことが可能だ。ただし、AとBのあいだに交配した過去がなければ、AにはBにのみ見られる遺伝子情報が欠けていることになる。だが人類からすれば、AとBが交配するにしても、しないにしても、その遺伝子情報は保存されていることになる。ただし、個体としてみたときに、遺伝子に含まれる情報は多いほうが、より生存に有利になる。AとBとCすべての遺伝子情報を有していたほうが、ウイルスや環境の変容に適応できる確率があがる。ただし、遺伝子情報には、肉体に引き継がれやすい顕性と、なかなか面に現れない潜性があるため、遺伝子情報を多く持っていれば有利とは、一概には言えない。また、現存する人類は、すでに多くの民族間で交配しつづけてきた歴史がある。いかに民族として純潔だ、と言い張ったところで、必ずほかの民族と遺伝子を共有した過去があるはずだ。そういう意味で、誰もが「遺伝子プール」を保持していると見做すことが可能だ。それを、ここでは「系統遺伝子プール」と名付ける。あなたの祖先の辿った長い交配の歴史が、あなたには、あなた独自の「系統遺伝子プール」として刻まれている。個々人が、自分だけの「系統遺伝子プール」を保有し、それらすべての系統遺伝子プールが、人類を一単位とした遺伝子プールを形成する。話は冒頭に戻るが、おそらくその「系統遺伝子プール」が、ヒトゲノムから遺伝子を除いた残り98%に含まれているのではないか、と妄想している。科学的根拠はない。だが、そう想像してみると、色々とわくわくしてきませんか?



1146:【暴論の暴論】

けっきょく、どんな暴論も、一部では正しく適用できるケースが存在する。すべてが間違っている暴論は、もはや言語たり得ない。どんな正論にも例外が存在するように、どんな暴論にも妥当性は点在する。では、この主張にはどんな例外があり、どんな妥当性が浮上するだろう? 正論と暴論の違いとはなにか? ふたつは異なるものだろうか? あらゆる論は、暴論であり、そのなかに正論があると考えると、腑に落ちる。世の中には、二種類の論しかない。暴論の暴論と、暴論の正論である。



1147:【非酸】

他人に酸をかけ、傷つける犯罪がある。皮膚は融け、目はつぶれ、ときに聴覚まで奪われる。それらの傷が消えることはない。アシッドアタックと呼ばれる犯罪だ。アシッドアタックが有効とされるのは、見た目によって対人関係がガラッと変わってしまう、人間の習性に因を求めることができる。酸をかけられ、傷ついた者は、その見た目の変貌具合から、人々から忌避されるようになる。だがその習性は変えようがない。かといって、内面が人間の本質だと言い張るにしても、そこで性格の歪んだ者を排除しようとしてしまえば、それそのものが思想の自由を脅かし、けっきょくのところ見た目で人を判断し、差別するのと同様の結末に至る(他人を排除しようとする時点で性格が歪んでいるとも言えるが)。なんにせよ、他人に危害を加えることが平然と行われつづけていく背景には、それをする者とされる者とのあいだに明確な格差があるように映る。それは見た目の違いかもしれないし、性別かもしれない、身分差かもしれないし、出生の違いかもしれない、信仰の違いかもしれないし、資産の多寡かもしれないし、或いはそれらすべてかも分からない。いずれにせよアシッドアタックを含めた、他人の人生を狂わせるような危害が、許されていいわけがない。憤ることはできても、何もできないじぶんがいる。きっとあすも何もしないでいるだろう。ただ、せめて周りで同じような目に遭っているひとがいるならば、そのひとたちの目線でまずは物事を考えていきたい(一つの目線だけでは不足だろうが、人間は同時にいくつも考えることはできない。初めのとっかかりをどこに据えるかは重要に思う)。似たような構図はどこにでも有り触れている。かけられているものが酸ではないだけだ。



1148:【にがて】

褒められることが苦手だ。何かをしたとき、良く思われて当前だ、と傲慢に思っているところがある。だから想定していなかった文句や批判が、有益に感じる。同時に、称賛は好きだ。誰かが誰かに向かって、あいつのこれこれはいいものだ、と言ってもらえるのはすごくありがたく、うれしく感じる。ひるがえっては、じぶんに向けられる正の言葉は、十割お世辞の域をでないと感じる。良くて当然、ただしじぶんが至らないのは知っている。だからこそ、こちらの差しだしたリンゴを食した者がそれをほかの人たちに薦めるか否かが、一つの指標になっている。評価の高さよりも、話題性が重視される時代背景にはそうした個人の価値観の変化が関係しているように感じる。要は、みな意識(理想)が高いのだ。何より、誰もが何かの発信者になりつつあることが大きな要因ではないじゃろか。(過度の一般化)



1149:【ぷろもーしょん】

話題性は大きく二種類に分けられる。コスプレ型か、知恵型だ。ディズニーや流行語など、それを高く評価したり、口にすることで、自分の株があがるように錯覚できるものが、コスプレ型の話題性である。一方で、誰かが困っている、そうしたときに、過去の自分の体験から、これを使うと解決できるよ、と善意で薦める、これが知恵型の話題性である。前者のコスプレ型は一過性の話題で終わりやすく、ディズニーのように強固なブランドを形成していない者にとっては、あまり有用ではない。ツイターでバズるつぶやきのように、数日後には誰も話題にしなくなる傾向にある。反して、知恵型は、ブランド力を高める方向に働く。数字として表出しにくい話題性であるが、確実にそれそのもののシェアを広げるだろう。ブランドとは、名前に向けられた評価ではない。名前から離れたところ、権利者からは見えないところでどれだけ話題にされているか、が重要である。口コミが有益だったのはそのためだが、いまは権利者の顔色を窺ったり、同業者同士の利権が絡むので、ネット上のレビューにはかつてほどの価値はないと考えるしだいである。(むろん無価値ではないが、プロモーションとしてはアテにできないだろう)



1150:【戻すよりかは】

環境変容の要因が、外来生物にあったとしても、それがいまの生態系に取りこまれてしまったならば、その悪因を排除しようとする考えは、生態系を滅ぼしかねない。悪因が入りこまないように徹底的に排除することは有効だ、しかし悪因が入りこみ、環境を構成する要素の一つとして常態化してしまったあとでは、むしろそのままにしておいたほうがよいこともある。環境の変容は不可逆だ。元に戻せることもあるが、基本的には、いちど変質してしまったら、再現するのはむつかしい。そもそもを言えば、悪因を悪と決めつけているのは、現代人であり、いまある環境からの主観でしかない。変質したあとでよりよい環境になることもあり得る。むろん生存バイアス、結果論であるので、前以って予期できるならば、変質そのものをコントロールしていくことはたいせつだ。出版業界を取り巻く、海賊版サイトについても同様のことが言える。いま仮に、海賊版サイトを撲滅できたとして、売り上げはもう元には戻らないだろう。たとえば現代人からスマホを取りあげたとして、公衆電話が復活することはないのと同じ理屈だ。人々は気づいてしまったのだ。よりよい環境があることを。認知してしまった以上、それをなかったものとは見做せない。悪因はもう市場にしっかり根付いてしまった。引っこ抜けばそこにはただ穴が空くばかりだ。そこに埋めるべき、自分たちの植木をつくる時期である。問題は、引っこ抜いたのが竹である点だ。新たに植える木々は、すべての根が繋がっていなければならない。好き勝手に樹を植えても、養分を取り合って、けっかすぐに枯れてしまう。根を繋ごう。地上に葉を茂らせたければ、まずは地中で、ほかの木々の根と結びつき、竹林に負けない雑木林をつくるのだ。竹林にはなかった生態系がいずれ新たに築かれるはずである。鳥や獣、昆虫たちにとっては、土のなかのことなど知ったことではない。荒野になれば、ほかの地に移るだけである。根を繋ごう。



※日々、思考が朦朧としている。



1151:【つめたい】

つめがあまーい! あむあむ、いくひしです。聞いてください、いくひし爪が割れました。自転車の懐中電灯、なんかまた途中で切れたので、えいえいってゆびで何度もスイッチをカチカチやったら、なんか爪割れた。はぁー? おまえなにかってに欠けとんねん。いくひしブルブル震えながら訴えたよね。親指の爪の二十分の一くらい。血とか滲んだけど、でもギリギリ爪が剥がれた、って言わずに済むくらいのレベル。いくひしさん、小心者なので、血とか見ると、あーしぬ! しぬしぬ!しんじゃうー!って取り乱しちゃうけど、かっこわるいからなんとか平静を装う。脳内じゃ、しぬー!しぬー!ブラックジャック―!って騒いでるけど、見た目はしゃららんって涼しい顔してる。そうそう、思いだしたけど、半年に一回とか一年に一回なんだけど、足の小指の爪が脱皮する。いくひしだけなのかな、みんなある? ない? ないかぁ。痛くないんだよね。パカって蓋がとれました、みたいな剥け方する。外してみると、うっすら爪が新しく生えてんの。ある? ない? やっぱないかぁ。小指だけ脱皮する能力を手にしたのかもしれん。いくひし、小指だけ脱皮する系に進化した。ぴろろーんつって、すげくない? で、せっかく爪が欠けたのでね、引きちぎったその欠片を口に含んでモグモグした。ちたない? でもよく言うじゃん。つめが甘いって。ほんとかなーって思って。食べてみた。もぐもぐ。甘くない。ぜんぜんこれっぽっちも甘くない。うそじゃん。爪、甘くないじゃん。なんの味もしない。かたい。食べれたもんじゃない。喉とか傷つきそうだったから、ぺっ、ってした。え? 爪じゃない? 詰め? あー、そっちー? しらなかったー。あばばばー。あ、そういやさいきん昼間、あったくない? 梅とか咲きはじめた? まだ? まだなの? じゃあ言えないじゃん。梅がやばーいって締めようと思ってたのに、言えないじゃん。どうでもいい? なにそれ、なんかつめたくない? つめたいよ。冬とか関係なく、あなたの態度、なんかつめたい。いくひしの真似? なにそれどういう意味。爪がないから、爪がイタい? ぜんぜん韻踏めてないじゃん、ただの親父ギャグじゃん、そんなんだから言われんだよ、詰めが甘いってさ。なに。黙んないでよなんか言ってよ。ふんふん。うっせー! おやすみーーー!!! 



1152:【なんかもう】

赤ちゃんがいて、それを育てる人がいて、支えてくれる友人たちがいて、ときおり赤ちゃんの面倒を看てくれる少年少女がいて、みんなで赤ちゃんをかわいいかわいいって(もちろんたいへんなんだけど)可愛がるだけの、物語にもならない、日常の一断片を切り取った話でよくない? 赤ちゃんを、子犬とか子猫とか、ドラゴンの赤ちゃんとか、魔物とか、そういうのに置き換えても可。ひとはみな(というか、いくひしが)癒されたいのだ。



1153:【なるほろ】

じぶんが癒されたいから、可愛がる。けっこうな狂気だな。癒されなくなったらどうなるのかを考えたくない。



1154:【逆行】

スマホがなくなっても公衆電話が復活することはない。「1150」ではそのように述べたが、物AI(IoT)が普及し、生体認証技術が発展すれば、人々は端末を携帯する必要がなくなる。街中のあらゆるディスプレイが端末の代わりになり、また、あらゆる衣服、装飾品、電子機器がネットへの入り口となる。公衆電話は復活しないが、総じての公共物が端末代わりになる未来はやってくるかもしれない。ブロックチェーンと生体認証技術の融合には着目しておくとおもしろい。



1155:【ようやく】

2018年3月、いまようやく「AIが仕事を淘汰するかも」という話題が若い世代に浸透しはじめている。いっぽうで、「AIが発達してもそれを使いこなす人間が成熟しないことには、それをフォローするための職員が必要になるので、あと二十年はいまの職種が淘汰されることはない、作業効率はあがるだろうけどね」という認識には至っていないようだ。仮に汎用性AI、いわゆるつよいAIが開発されたとしても、膨大な電力を消費するだろうから、一般への実用化には程遠い(だから人間にしかできない仕事や、人間相手の仕事は当分のあいだAIに代替されることはない。ひるがえっては、大きな組織はそれをいち早く設備として取り入れられる。個人と企業とのあいだの優位性はますます広がっていくだろう)。それよりもよわいAIの発達によって、個人の情報処理能力は飛躍的に向上するので、働き方の多様性と統合が進むだろう。同じ仕事内容でも、働く時間や、場所、扱う情報量や仕事量などが人によって異なり、また業種を跨いで、マルチタスクに仕事をする人間が重宝されるようになっていく(というよりも、業種がどんどん統合されていくので、必然、マルチタスクに仕事をせざるを得なくなっていく)。世界的に、技術者が徐々に経営者にちかしいポストにつくことが多くなっていく。すると話の通じない部下は採用されにくくなるので、世界的にプログラム言語や工学用語が第二の共通語となっていくだろう。言語を理解できる者と、できない者とのあいだに、格差が生じるが、いまよりかはずっと不平等さを感じることはなくなる。資産の多寡で貧富が決まるわけではないからだ。アスリートが富を築いても文句を言う者はいまの世のなかであっても稀である。機械を構築したりメンテナンスをしない層の、ただ作業をする労働者の多くは、よわいAIを通じて自身の生活を管理し、同時にそれら情報端末を通じて、企業はよりピンポイントで個人の行動パターンを把握できるようになる。大衆はよわいAIを使いこなすじぶんに満足しながら、そのAIを介してより自然に操作されるようになる。不満を生じさせず、大衆を管理する。よりよい未来はあと三十年後にはやってくるだろう。否、もうすでにその未来へと足を踏み入れている可能性についてはときおり考えを、或いはその疑いを、巡らせておくのが好ましい。



1156:【かふぇおれ】

かふぇー? かふぇかふぇ! オレ! いくひし! よろしくな! はい、ばかばか。ちがう、ちがうくてね、いくひしそんなじゃない。あのですね、ここ数日カフェオレにはまってて。カフェオレっていうか、コーヒー牛乳? なにがちがうの? よくわかんないんだけど、紙パックの1000ミリリットル入ってるやつ。ひゃく~?にじゅう円くらい? そんなで、安いのにうまいし、きもち、きもちね、インスタントコーヒーより目が覚める。眠気どこいった?ってなる。ほんと。眠気ちゃんも眠気ちゃんのほうでね、え、ここどこ?ってなってると思う。ペンギンとかいたりしてね。いくひしウソつかない。インディアンやないかーいって、差別用語だっけインディアンって? 忘れたけど。しってる? いーんでぃあん、ウソつかない、って歌うように言うの。誰のギャグかはしらんけど。あったの。むかし。やっべ、まんちゃんの歳バレる、十代じゃないってバレちゃう、やっべ。まーね、いくひしの年齢なんかどうだっていいっす。いくひしのことなんてどうだっていいっす。カフェオレですよね。いくひし好きなアイスあって、グリコのパピコ。ふたつに割れて、なんかお得だよね。とくにパピコのカフェオレ味がすきなんだーって言おうと思ってたのに、いま調べたら「チョココーヒー味」だった。ちゃうやん。カフェオレちゃうやん。おーまーえー!!! ずっとだましとったんか、いくひしのこと、ずっと、えー、だっていくひしおまえのことカフェオレだとおもってたのにー!!!って叫んでもご近所めいわくですからね、うーって足ばたばたしてこらえる。足のゆびとかぶつけてもだえる。大天使の名前はミカエル、に祈っても見返りはすべて金に換える豪快なきみに会えるのはたいへん命がけでほぼすべての未来で息絶える。ヨーヨー、カフェ、カフェ、オレオレ、カフェオレオレ。オレは即興使え、いいプロットも出し、丸そうなヤツはだいたいモブだし、省いてる文字はだいたい「そ」だし、裏の文字揃え見てきたこの倍、元がいい知的な脳をもろ刃に、因果抜きに語れない押韻はおろそかに、文字と母音のハーモニィ、ミルクとコーヒーのハーモニィ。でもパピコはチョコとコーヒーで、はぁ、もーむりぃ。パピコ、カフェオレじゃないんだって。そっか。誤解してたよ、おまえ、チョコとコーヒーの子どもだったか。カフェとオレではなかったか。そっかそっか。なんか急に、ちゅぱへんざー、みたいなのが混ざったけど、なんだったんだろ。えー、こわぁ。で、いまなにともなしにカフェオレの紙パック眺めてたんだけど、「カフェ オ・レ」になってんの。カフェオレってカフェオレじゃないの? しらんかったー。ぜんぜんオレじゃないじゃんね。ダメじゃん。ツンタカタッタ、ツンタカタッタ、オーレー! のオレと同じなのかな? わからんけど。オチねーなー、なかなか。きょうはダメな日だ。カフェオレであけおめ、くらいしか思いつかん。待てそれ、ってなるよね。自棄これ?って感じか。もういいか。あきらめよ。負けおれ。はい。ばいちゃー。



1157:【ふーん】

ウェブメディアで稼げる時代は終わりつつある。導火線としての意味合いで活用されるようになるからだ。まずはウェブ上でシェアを拡げ、物理市場へと需要者を誘導する。このビジネススタイルが主流になっていく。ウェブ上でシェアを広げるには無料であることが前提になっていく。気持ちよく課金させるためにも、まずは無料なのだ。課金で儲けられるコンテンツは限られる。上位シェア群に入れるならば問題はないが、このさき、市場競争はますます熾烈を極める(AIの自動翻訳技術が向上すれば、海外のトップメディアがシェアを奪うことを目指して参入してくる。海外と国内での情報の差が明確になれば、国内向けに装飾された情報のメッキが剥がれ落ちることになる。そうなればこれまで築きあげてきた国内向けのコンテンツ加工技術はいちど瓦解するだろう)。パイはほとんど独占されると考えたほうがいい。だとすれば、いかにウェブ上のシェアを物理市場へと落としこむかが収益拡大の分水嶺になっていく。物を売るために、イベントを開き、イベントを開くために、スポンサーを募る。スポンサーを募るためには、ウェブ上で宣伝に値する集客がなければならない。そのため余計に無料で多機能なサービスが充実していく。この循環に個人事業主はもうついていけない。企業同士の潰しあいがすでにはじまりつつある。重要なのは、ただ潰しておしまいにしないことだ。可能なかぎり、奪ったシェアは、コンテンツの共有と引き換えに分配すべきである。質はむろんのこと、手駒の数が物をいうようになっていく。質を決めるのは企業ではない。市場を形成する無数の需要者たちである。ビッグデータ解析によって、需要者の嗜好性・PV数・消化率など、多角的に分析が可能となる。ニッチな需要にどれだけ応えられるかがこれからの五年の勝負どころとなるだろう。個人事業主にできることはすくない。これからはますます企業に太刀打ちできなくなっていく。まずはじぶんの戦える場を見極めることである(どちらかと言えば、戦わずに済む場所を見つけるほうが有利に働く)。



1158:【いんふるえんさー】

SNS上で宣伝効果の高いアカウント主をインフルエンサーと呼ぶ。一般にはフォロワー数の多いアカウントを差すが、本質はむしろ、宣伝をそれを必要とする潜在的需要者に届けられるか否かにある。フォロワー数が少なくとも、任意のコミュニティを形成し、かつ情報拡散能力のあるアカウントならば充分にインフルエンサーとして抜擢できる。たとえばスケボーでトップクラスの実力を持っている、しかし世間からすれば一般人の枠を出ない若者がいるとすれば、そういった方向にシェアを拡げたい企業にとってはそうした若者を広告塔に立てたほうが遥かに効率的にシェアを拡げられる。もしそこでフォロワー数が多いだけの、スケボーとは関係のないアカウント主を起用したところで、需要拡大には繋がらないだろう。むしろ、まずはカリスマ(先導者)を仕立て上げ、そのカリスマの知名度をあげるために、そうしたフォロワー数の多い「拡声器」は使うべきである。また、つぶやきの多くが万単位でリツイートされるアカウント主があったとしても、やはりそれをインフルエンサーとして抜擢したところで宣伝効果は期待値よりも低くなるだろう。飽くまで、その人物のつぶやきだから注目されるのであって、何かを紹介しただけのつぶやきは右から左へと流されてしまう。また、インフルエンサーを使った宣伝は、いまだから効果があるが、企業とインフルエンサーの癒着はこのさきどんどん盛んになっていく、するとかつてのステルスマーケティング同様、需要者たちは身構えるようになる。じっさい、企業からの依頼を受けて宣伝をつぶやくインフルエンサーが、それを宣伝だと明言しているケースは稀だろう(情報を発信する者としての信用にかかわってくるので明言できず、また明言してしまっては宣伝効果が激減する)。ステルスマーケティングと何がちがうのか、とそう遠くないうちに俎上に載せられるようになるはずだ。話は逸れるが、インフルエンサーを活用するなかで、今後もっとも期待値の高い種類のインフルエンサーは、「センサー型」である。これから起きるだろう流行や、ヒットする作品、話題になる事柄を機敏に察知する。そうしたアカウント主のフォロワー数はむしろ少ない傾向にある。時流を見抜ける人物を(複数)見つけておくことがマーケティングを展開するうえで命運を分けるようになっていく。ビッグデータ解析で、今後はそういった「センサー型」のアカウントを発見しやすくなるだろう。「センサー型」と「先導者」、おまけに「拡声器」を結びつけられれば、プロモーションの土台としては重畳だ。ただ活用するのではなく、用途に応じて使いわける。仕込む順番が肝要だ(拡声器型のインフルエンサーは、宣伝そのものに利用せず、「先導者」の知名度をあげるために活用するのが望ましい)。大量の情報を、より多角的に、緻密に分析できるか否かが、今後十年のコンテンツ産業の武運を左右する。やはりというべきか、個人事業主が太刀打ちできる余地はない。肩を落とす必要はない。なぜなら、その壁を打開できる個人だけが、つぎの時代を切り拓けるからである。まずは流れに惑わされないことである。



1159:【えらそうに言ってら!】

それぜんぶネットに書いてあったことだから。ただ拾い集めて、ちょっとの感想つけただけ。ねー? かしこぶってやだよねー? ほんと言ってやってほしい。いくひしおまえ、適当なこと言うのやめろ!



1160:【はい】

ごめーんちゃい。



※日々時代の分け目を生きている。



1161:【ペンギンハイウェイ】

森見登美彦さんの小説「ペンギン・ハイウェイ」が映画化されるらしい。2018年8月だって。あと5か月。原作のおもしろさは言うに及ばず、映画の予告編のワクワク感がハンパない。すでに10回以上観返している。1分ちょっとなので、10回観ても10分だ。大ヒットする未来しか見えない。楽しみである。



1162:【違和感】

共感、共感って。さいきん、なんかこわい。共感できないことを理解しようとする姿勢のほうがだいじじゃない? 物語において、共感や賛同はそれほど重視する要素ではないような気がする。このひと(キャラ)を理解したい。そう思ってもらえるように工夫してかなきゃじゃないの? わかんないけど。



1163:【こめでぃ】

おもしろくなりたーい、いくひしです。あのですね、いくひし、おもしろいこと言えない病にかかってけっこう経つんですよ。産まれてから数年はニコってしただけで目のまえの人間どもをほくほくにさせることにかけては定評のあったいくひしさんなんですけれども、物心ついたころにはもうね、ひとこと何か言うだけで場がしらける。四歳くらいだったかなぁ。いくひし、物心つくのがわりかし早かった。あ、死んだら誰にも会えないじゃん。そう思ってこわくて泣いたでしょ。物心ってなにかがよくわかってないけど、たぶんあれが物心だった。そうそう、寄り目をすると景色が歪んで見えるじゃん? じゃあ世界のほうも、こう、二つに分かれちゃってんのかなぁって思って、写真に写るときにはいくひし寄り目してた。でも写真はちゃんとピントあってる。ひとりだけ変な顔で寄り目してるいくひしがいるわけ。もうね、そのときに気づいたよね。あ、いくひしの見てる世界と、ここにある世界そのものは別物なんだなって。それもだいたい四歳くらい。きっとそれも物心だった。で、そんときくらいから、いくひし、しゃべると場がしらける。おもしろいこと言えない病にかかった記念すべき時期。でもコメディは好きだった。ホームアローンとか何回も観てお腹抱えて笑ってた。あ、わるい人でも憎めなくていいんだって、いくひしの記憶に刻まれた記念すべき映画。もうなんか、この時点で、おもしろくないよね。おもしろいこと言いたいんだけど、おもしろいこと言えないんだもん。ていうかさ、おもしろい話って、九割くらい、しゃべるひとのしゃべり方じゃない? 話自体がおもしろいってなかなかなくない? もしあったらそれだけで食べてけたりするよね? 食べてけてないいくひしさんはじゃあ、おもしろい話できなくてあたりまえじゃない? しょうがないじゃんね。でも悔しいからおもしろい話がんばってしてみる。なんだろ。このあいだね、久しぶりにデパート行ったの。待ち合わせ場所としても有名で、家族連れとか恋人どうしとかがそこそこごった返してて。建物が全面ガラス張りで、ガラスっていうか鏡かな。待ち合わせしてる大学生とか、男女関係なく鏡で身だしなみ整えてたり、奥さんの買い物が終わるのを待ってるのかな、子供を抱っこしたお兄さんとかを見かけるわけ。赤ちゃん好きだからさ、いくひし、鏡越しに変な顔して、赤ちゃんを笑わせに走るわけですよ。走るよね? やんない? ちょくせつ変な顔してみせてもいいんだけど、すこし間違えたらいくひし迷子の子猫ちゃんでもないのにおまわりさんのお世話になっちゃいそうだから、鏡越しくらいがベターかなって。で、べつにいくひしが誰かを待ってたわけじゃないんだけど、そうやって赤ちゃんと鏡越しのにらめっこをして立っての。したらさ。赤ちゃんだって鏡が気になるみたいでさ。だってそうだよね、目のまえにへんちくりんないくひしがいて、さらに横にも同じようなやつが見えるんだもん。赤ちゃん、鏡をべたべた触るわ、触るわ。ただでさえヨダレまみれの手ですからね、赤ちゃんの手形がもうべちょべちょ。鏡掃除するひとたいへんだろうなぁ、って思いながらいくひし変顔つづけてたら、赤ちゃん抱っこしてたお兄さんとばっちり目があって、気まずかったなって話。うん。しらけるのやめよ? で、気まずくていくひし、場所移動したのね。あ、話つづきます、ごめんよ付いてきておくれ。入口からすこし離れた場所にも鏡があって、なんでかそこはひと気がなくて、んー、となりの建物とのあいだに空間が開いてるからかな? 奥のほうに祠みたいのがひっそり見えるわけ。鉄格子と鎖で入れないように施錠されてたりして、珍しいなぁ、由緒正しい歴史があるのかなぁ、なんて考えごとしながら、何気なく。ほんと何気なく、鏡見たら、赤ちゃんの手形が付いてるの。ヨダレなのかな、筆でなぞるみたいに、下から上まで、どちらかと言えば、上から下かもしれないけど、赤ちゃんの手形が一つだけ、ずーっと、ずーっと上の方までつづいてるの。ほとんど見えないんだけど、最後のほうは、よこにずれて、裏路地の、祠のほうにはみ出てた。そういえば、っていくひし周りを見渡した。デパートの入口にいる赤ちゃん、みんな笑ってる。ご機嫌。ぜったい泣かない。本当にたのしそうに笑ってて、何か目が離せないものでもあるのかなぁって、話。どう? おもしろい? つまんない? 笑えなかった? やっぱりー? いくひしもそうかなって思ってた。おもしろくなりたーい。おもしろいひとって、ステキですよね。おやすみー。



1164:【反省】

文芸とは関係のない話題ですが。いくひしは思ったのだ。批判されるだけ大したもんだなぁって。何もしなければ批判すらもらえない。何もしてないじゃん、っていう正論しかもらえない。どんなことでも、まずは挑戦してみたり、改善してみたり、何かを育もうと、一歩を踏みだしているだけで、見習うべき規範となり得る。学ぶべき姿勢がそこにはある。その空間に足を運んでみて、じぶんの目で、肌で感じることはだいじだなって、月並みだけどそう思いましたとさ。参加したいか、したくないかで言えば、やっぱりしたくないけれど。つぎの世代を育てようという意気込みは伝わったので、すこしだけ見直しました。好きにすればいいんじゃない、というスタンスから、応援してみてもいいかな、という感覚になったので、体験の影響力はあなどれないぞ、と認識を新たにしたのでした。



1165:【いじん】

いじーん、いくひしですか? いくひしです! はい。偉人って、すごいですよね。むかしはけっこういくひし、偉人って聞いても、へー、で済ましてたぽんぽこりんでした。だからなに?って思うまでもなく、へー、以外の感情が湧かなかった。だって何がすごいのか分かんなくない? 電気発見したからなに? 地球が丸かったらなんなの? べつに人間が気づこうが気づかなかろうが、関係なくない? その人たちが発見しなかったらいまの文明はないんだよって、そりゃそうだけど、だったらこの世に原子がなければ宇宙は存在しないし、場がなければ質量も生じない。「いま」を基準にしたらどんなものだって、過去の事象に支えられている。「いま」からすればどんなできごとだって過去にすぎないし、「いま」があるなら、それはもう、あってもなくても変わらない、用済みの判のおされたニンジンの皮だ。今からカレーを食べようとしてるのに、ニンジンの皮をこれみよがしに見せつけられて、これがなかったらあんたカレー食べらんないんだからね、って言われても、そだねー、で終われる話でしょ? でもそこで、ちょいと「未来」を支点に話を進めてみますれば、カレーパンつくりたいんですけどーってなったら、ニンジンの皮の剥き方を知っておかないとちょっと困ったことになる。ニンジンを入れないカレーをつくればいいんじゃないって思うかもだけど、それでニンジンにさよならの判をおしてみますれば、ミックスキャロットが飲めなくなるって寸法さ。定規で測ったら2ミリくらい。はい。で、なにが言いたかったんだっけ? 思いだせないんだけど、とにかく、偉人って聞いてもへーってしか思わなかった。でもね、いくひしさん、偉人がすごいなって分かるようになってきた。ぼんやりなんだけど、そっかー、おっさん、あんたのお陰でいまのいくひしたちがあるんだね、助かったよ、って思えるようになってきた。まさか何十年、何百年、否、何千年後に、いくひしに感謝されるようになるとは、さすがの偉人さまにも分かるめぇ。でも、同時に、偉人たちがいなけりゃ、いまのいくひしたちがいないんだよってのは、べつに何か未来に語り継がれるような何かを成し遂げた人たちだけじゃなくって、もっと素朴に日々をすごしていたり、或いはほかの人たちを虐げたり、虐げられていたりしていた人たちがいたお陰でもあるんだよね。いくひしにとっちゃ、過去に生きてきたみんながみんな偉人だよ。やつらみんないくひしを生かすために生きていたようなもん。ありがてぇ。同時に、それって過去だけじゃないよね。「いま」を生きてるいくひし以外のみなみなさまにも言えることであって、ホント、きみたちのお陰でいくひし生きてられる、のほほん、みゅんみゅんって息してられる。うんと感謝してるよ。言うだけならタダなので、いくらでも言っておく。さんきゅ! の一言でもろもろの怠慢の精算よろしく。でもでも、よくよく考えてみたら、いくひしがそうなように、このいくひしさんもまた未来のいくひしみてぇな図太てぇ、ふてぇ野郎の生活を、その「生」を支えているのやも?って考えたら、なまら胸糞わりくなってきた。はぁ~? なしていくひしさんがどこのお馬さんの骨とも知らぬ、のほほん、みゅんみゅん、のために「いま」を生きなきゃならんのじゃ。そいつがたとえ偉人でもゆるさんね。やだよ。いくひしはいくひしのために生きてんの。感謝するのはかってだけど、かってにいくひしをおみゃーの人生の肥やしにすんじゃねぇ。野次を飛ばしたら、「未来」のほうからおまえが言うなの罵詈雑言、「過去」のほうからも、おまえはべつに偉人じゃねぇ、の総指弾、フリーザさまの指先からの超絶ビームみたいなツッコミ受けて、いくひしの身体は穴だらけ。昼間に飲んだミックスキャロットが漏れだして、人間なのにニンジン噴きだし機みたいになっちゃった。せっかくの美人がダイナシだ。なんてアホなこと言ってるうちに、ミシンで縫って穴ふさぐ。奇人で名高いいくひしさんの威信にかけて、偉人の仲間入りを果たしたい。いくひしも、いつか、未来のあなたの「生」に繋がるじぶんの「生」を生きたいな。ニンジン噴きだし機で終わらずに、人間として生きましょう、そのためにもきちんと人生を見詰めます。思いながら、言うだけならタダだしな。これにて、がんばりましたの判をおされたい、にんげんになりたいと思うだけで何もしない、いつもの気ままな、いくひしまんでした。おやすみー。



1166:「無知の無」

基本的にいくひし、しったかぶりっこなのですが、歴史や地理に関してはもう壊滅的にわけわからん。エクアドルってどこだっけ? ガーナってペルーあるとこ? ヨーロッパってアジアと繋がってんの、え、ほんとにー? みたいなレベル。日本の県名もぜんぶは言えないし、どこに何県があるのか、ほとんど分からん。県庁所在地なんて言えるわけがない。福井県? 九州だっけ?みたいなね。ちゃんと間違ってるよね? 外したつもりで合ってたら恥ずいんだけど。新潟の近くでしょ? 知ってるよー。歴史はね、日本史も世界史も、みなさんびっくりすると思う。まずね、平成、昭和、大正、つぎはえっと、江戸時代? みたいなね。明治どこいったって、いまネットで調べてセルフつっこみ入れましたけど、そんなんだし、世界大戦って二回あったらしいじゃないですか、なんで起こったの?ってのも、まったく知らん。なんで起きたの? 原爆って第二次世界大戦だよね? じゃあ第一次はどうやって終戦したの? っていうか、そんとき日本って参戦してた? どうなった? まったく分からん。でもね、さすがにね、さすがにちょっとまずいなーって思ってきたから、ことしは歴史と地理の年にしようかと思って。今さっき閃いたわけですよ。いくひし、具体的なことや、細かいところから入ってくよりも、まずは全体像、いっちゃん大きなフレームを設定して、把握していったほうが覚えやすい。箱の中にオモチャをしまっていくみたいにして理解を深めていくので、まずは大きな箱を用意したい。で、可能なら、まずは生命誕生したときから、現代までの流れをざっと知っておきたいなーって思って、何かいい本ないかなーって探してるところ。あんまし分厚いといくひし、投げだしちゃうから、小学生でも読めるやつがいい。何が言いたいのかって? いくひしはあんぽんたんで、いい本探してますよーってご報告なのでした。



1167:【アンナチュラル8話】

ドラマ「アンナチュラル」がおもしろいって、ライター「アオヤギミホコ」さんのツイッターで知ったので、8話を観た。泣いた。いくひし、誰かが死ぬ系でもふつうに泣いちゃうけど、じぶんで物語を編むときは、安易にそういうエピソードで泣かせに走りたくない。アンナチュラルはその設定上、人の「死」を扱わざるを得ないんですけど、人は死んで当然っていう自然の摂理をまず前提において、目を逸らさずに、そこからもういちど、人間とは、というところを描きだそうとしているところがステキです。で、8話ですけど、もう最初から人間が死んでる。十体くらい遺体が転がってるわけですよ、のっけから。人の死が軽い。人は死んで当然ってところがまずあるわけですから、人が死んでてなんぼのドラマなんですよ。人が死んでても、そだねー、で終わる。じゃあどうやって感動するのって話なんですよね。いくひし、人の善意で感動できる物語が好きです。善意って、なにか善いことをしよう、っていう感情とはまた別物だと、個人的には思ってます。つい身体が動いてしまう。理屈じゃない。そうせざるを得なかった。その行動原理の底には、何か歪んだ過去や、欲望があってもいい。でも、何かを守ろうと考えるでもなく、動いてしまった。そういう、感情とも理屈ともかけはなれた、その人にしかできなかったことが、物語を通して伝わってくると、いくひし、胸を打たれて目から涙がこぼれてしまう。人間、捨てたもんじゃない、ってなる。哀しくて泣くのではない。うれしいのとも違う。気持ちを揺さぶられる。9番のお父さん、すごくよかったです。



1168:【二つの意味で、やぶれてる】

わしゃぁ、若いころはそりゃあ何かを成し遂げようと肩ひじ張っておったがね、この歳にもなると、ただつづけるだけでせいいっぱいになってきよる。なかなか成長もせんじゃろう、何か楽しみを、分かりやすい成果がほしくなってきてな。何がいいかと考え閃くのはいつも、新しい刺激がほしいという欲望じゃ。天才が見たい。かつて夢見た、じぶんの理想を軽々越えていくそんな若手が見たいんじゃ。肥やしになりとうてなぁ。いまはまだ凡人のいずれ天才と呼ばれるようになるおまえや、おまえの子供、それともその友人、その子供たちの、芽吹く土壌に紛れたい。開花するきっかけになりたいなどと身の程知らずな願望ではない。ただただ、養分としてそこにありたい。つづける理由とはまたべつじゃがな、飽きてきたらそう考えて、養分らしく腐っていこうとおのれを慰めるのよ。楽しみがあれば生きていける。生きているかぎり楽しみたい。老い、腐り、衰え、ただ死にいくだけの人生だとて、それそのものですら楽しめる。人とはなんと絢爛か。



1169:【変えていくしかない】

マンガ違法サイトについては、国が動くしか規制のしようがない(すでに政治家へはかけあっているだろう)。国家間で著作権が一律に保障されないことをまずなんとかしなければならない。コンテンツデータだけではなく、これからはますますデータの不正利用の問題が(個人情報を含め)目立ってくるだろう。そもそもを言えば、人は情報にお金を払ってきたわけではない。情報を提供するサービス、流通に対価を支払っていたのであって、情報そのものではないのだ。現代ではすでに多くの者がメディア端末を購入している(ネット通信料だって払っているだろう)。その時点で精算済み、と需要者たちに判断をされても、否定するのはむつかしい。ネット内に溢れる情報は増えることはあっても、減ることはない(サーバが消失しないかぎり)。情報に正も負もない。或いは、正や負、善悪そのものが情報だと呼べる。情報の価値はこれからますます下がっていくだろう。情報と情報を結びつけ、体系化する――これからの時代は、情報に付加価値をつけることでしか、対価をもらいうける術はなくなっていく(本質的には出版やTVなど、情報発信事業もまた同様である。情報を体系化し、加工して需要者に届けることを生業としてきたわけであるが、これからはその加工の仕方や供給の仕方そのものが、常に変化しつづけることになる。コンテンツだけでなくそれを扱うツールそのものが即座に情報化し、新たなシステムとして体系化される。例としてはYOUTUBERが挙げられる。ひと口にYOUTUBERと言っても、それだけで膨大な情報に分類できる。動画の編集の仕方から、インフルエンサーとしての事業拡大と、需要のある情報は様々だ。そしてまた、そうした情報が氾濫すれば、YOUTUBERそのものが飽和状態になり、新たな情報形態を生みだす土壌となっていく。情報と情報を繋ぎ、加工して、潜在的需要者へピンポイントで提供する、そのサイクルそのものが一つの情報として機能する。時代は加速している。技術が発展しているわけではない。みなが一様に、同様の変化を一律に、短期間のうちに完了する。変化の加速した時代だからこそ、必要なのは流れに惑わされないことである)。発掘(レコメンダシステム)、発見(検索エンジン)、発送(ネットワーク)、発表(メディアミックス&ストーリー化)、発言(SNS)、発案(コンサル&デザイン)――六つの「発」を同一の場に結びつけて『発展』させていくことが付加価値向上の要を担っていくと妄想するしだいである。ネット市場と、物理市場はいちど切り離して考えたほうが利口であろう。ネットの影響で物理市場の売り上げが落ちたとしても、ネット市場の動向をどうにしかしようと考えるのは、分厚い雲をどけようと山に登り、雨乞いをするために祭壇を建てるようなものだ、あまり利口ではない(むろん、どこかで二つの市場を結びつけて循環する回路を築くことは目的に定めることの一つではあるだろうが)。陽射しがなくとも収穫可能な果実の栽培に手を染める時期である。(アカウント登録制による課金収益型ビジネスモデルは、長期的な視野で市場拡大を目指している場合のみ有効だ。十年単位で赤字ギリギリでも構わないのであれば勝負できるだろうが、五年以内の短期戦を目指すならば、まずは誰であっても情報を手にできる形態を基準にするのがよいだろう。ビッグデータの蓄積を優先したほうが優位だ。無料でユーザーが集まらないようではお話にならない。そう、いくひしのように)



1170:【反響】

ネットで反響がなくても、いいものは売れる。むしろ、ネットの反響がなければ売れないようなものは、いいものとは言えないのでは?(反響があったほうが「商売として」有利なのは言うまでもない)



※日々黒い歴史を重ねてく、未来は白く消えていく。



1171:【美は見にくい】

かっこよさを突き詰めていくと、あるところからかっこわるくなっていく。見る人が見なければ解らないかっこよさになっていき、素養のない者からするとむしろキモチわるく映る。ただし、かっこよさを追求しているその姿には普遍的なかっこよさが宿っているのかもしれず、だからこそ、突き抜けたかっこよさというのは、それそのものの魅力というよりかは、それをつむぎだす者の異質さなのだろう。異質であることに意味が垣間見えたとき、人はそれをうつくしいと感じる。



1172:【小説はどうしたの?】

ねぇ、まんちゃん、御託うだうだ垂れてるみたいだけど小説は? もう三月だよ? なんかできた?



1173:【言わないで!】

うっせー! 行き詰まってんだよ触れんじゃねぇ!!!



1174:【すうどく】

すーどくー、いくひしです。みなさん知ってますよね、いくひしがいかにあんぽんたんかって。ちょっと性格のよろしい方なんかだと、またまたー謙遜しちゃって、とかうれしいこと思っちゃってくれるかもしれないんですけど、ちがいます。事実です。いくひし、あんぽんたん。にじかんすう? 二時間何かを吸うのかな? あぱるとへいと? アパルさんとヘイトさんがどうしたの? って、こんな感じ。百貨店で迷子になったらアナウンス聞こえますよね、あんぽんたんでーす、って。もうこの発想からしてあほっぽいな。さいきんなんか焦ってて。あんぽんたんのあんぽんたん具合が、宇宙みたいに加速度的に膨張してるみたいで、いまここで踏ん張っとかないと、赤方偏移でいくひし、すべての試験が赤字になっちゃう。マズイよね? だからちょちょーいって数独でもやってあたま鍛えようと思って。計算力高めたいじゃん? ちょっとした引き算くらいならいくひしできるのでね。なに? できるのって? できるよ! なめんな! で、はい。数独やってみた。レベル1のやつ。よゆうよゆう、なんだ数独かんたんじゃん。レベル2。ぜんぜんできる、ひょっとしていくひし天才じゃね? レベル3。まー、けっこうかかっちゃうけど、10分ありゃできるっしょ。かかってこいやー! で、ここでいくひしさん調子乗って難問に手ぇだしたよね。上級者用のやつ。まずはウォーミングアップって書かれてる。ふーん。ふんふん。ふんふんふん。んー? ムリじゃない? これ解けるの? 設問ミスじゃない? どっか抜けてない? ぜんぜんムリなんだけど。で、ちょっと背伸びしすぎたかなって思って、初心者用のレベル4に戻った。できない。ムリじゃない? 天才だと思ってたときはたのしかったのに、イマすごくきらい。見たくもない。つまんない。数独? 見ただけで眠くなる。毒でも入ってんじゃない。毒を吸うから、すうどくなんだろ、ふっじゃけんじゃねーよ。いくひし、もうすっかり飽きちゃった。ぜんぜん悔しくなんてないもんね。数独解けたらなんなの? どんなにがんばったって、マスのなかに入る数字の数は変わんないんだよ? 答え決まってんだよ? むしろ答え載ってるし。じゃあなんで解くの? ばかなの? もうね、いくひし心のなかがすさみまくり。セサミストリートだってもっとまともにクッキーモンスターだよ。ほんと意味わかんない。数独はやっぱり吸う毒なんだなーって。数字の迷宮をさまよって、出口どこーって、アナウンスかけてもらいたい、あんぽんたんでーす、って。ぜんぜん悔しくはないけど、ひとまずレベル4、テメェはつぶす。かれいに数字で塗りつぶす。きょうはオチなしや。おやすみー。



1175:【ホントに~?】

映像と小説のちがいを一つ挙げろと言われれば、次元と答えます。二つ挙げろと言われればそこに、ピントと付け加えるでしょう。映像の場合は、見せたいもの、強調したいものにピントをハッキリさせるのが一般的です。しかし小説の場合は、見せたいもの、描きたいものほど、そのものずばりを書きません。わざとぼやかし、装飾を施し、比喩を駆使し、ときに抽象化させ、あの手この手とモザイク柄にしていきます。その代わり、そのモザイクを際立たせるために、ほかの部位は極力ハッキリと誤解のないように叙述する傾向にあります。文章が上手でも小説がいまいちよろしくない、そういう場合は基本的にこのぼかし方――情報の強弱、濃淡に、めりはりが、緩急が、律動が、ないことが多いように思います。情報量は一律でないほうがよい。かつての文学は、平坦で、のっぺりとした小説が受けていたように思います。音楽で譬えるならば演歌でしょうか。大衆小説が主流になったここ三十年あまりは、ロックやテクノなどの割と起伏の激しいものが受けていたように思います。そして現在、主流となりつつあるのは、ヒップホップやダブステップ、トラップミュージックなどの律動そのものが一定でない、激しくもあり、穏やかでもあり、ひとつの楽曲に多様な音楽が内包され、多重化されたもののように感じています。多少、願望が含有された分析になっておりますが、この流れはまず加速していくでしょう。情報量は散らし、文章のデコボコを意識できるか否かが、これからの文芸界の課題となっていくように思っております。



1176:【ボツ回収業者】

そろそろ企画段階でボツになった作品のアイディアを買い取る事業が出てきてもいい頃合いだ。ゴミも集めりゃよく燃える。熱に光に鉄に灰。燃えカスから金が採れれば儲けもん。



1177:【あいあむカスです】

知れば知るほどじぶんがチリアクタにすぎないんだって解るだけなんだけど、みんなはどうやって自我を保ってられるの? 延々と穴に落ちつづける感覚が拭えなくない? じぶんはちっぽけなんだなーって解って、ひゃっほーってなるの? ムリじゃない?



1178:【葉緑体とミトコンドリア】

生命の起源は、古代海底の熱水噴出孔にあると考えられている。そこで誕生した原核生物は、硫化水素やメタンなどを取りこみ、分解し、その過程で活動や増殖に必要なエネルギィを生成した。太古の地球に酸素はほとんどなく、つぎに発現した生命体は葉緑体の祖先であると考えられている。太陽光を利用し、酸素を排出する。活動場所を熱水噴出孔に縛られないそれは、生息域を広げていく。同時に大量に排出される酸素が、徐々に大気中に蓄積されていく。酸素は様々な物質を酸化させるため、酸素が蓄積する速度は、何億年とゆるやかなものだった。基本的に酸素は、生物に対してマイナスに働く。DNAを傷つけ、細胞を酸化させる。酸素の増加は、その当時に生息した原始的な生命体のほとんどを絶滅させた。同時に、そのときに酸素を用いて活動できる原核生物が誕生する。それがミトコンドリアの祖先と考えられている。まとめれば、生命の進化は、まず硫化水素やメタン→日光+二酸化炭素(光合成)→酸素(呼吸)というように、利用する素材が変わっていった。だが、待ってほしい。酸素は生命体にとって本質的には猛毒なのだ。なぜそんな猛毒を、体内で生成して無事でいられるだろう? 原核生物である。DNAを薄い膜が覆っているだけの単純な構造体だ、猛毒を体内に留めておけるだけの機構を、どうやったら手にできるだろう? それよりもまずは、酸素を利用できるミトコンドリアの祖先のほうがさきに誕生していたと考えるほうが自然ではないか? 現在の動物からすれば、硫化水素は毒である。しかし、そんな毒から生命体は誕生した。それを元にして誕生した種からすれば、それは毒ではない。体内で生じた毒素を異物として排出するという機構は、我々人類からすれば当然の能力だが、基本的に、生命の成り立ちからして、体内で、細胞を傷つけるようなものを生成するのは、自殺行為だったはずだ。毒に適応した個体が自然淘汰で繁栄しただけだと言われればなるほど、納得を示すほかないが、だとすれば、その理屈でもっとも合理的なのは、毒を毒と見做さず、利用できる個体のはずだ。太古の地球に酸素はほとんどなかった。しかしまったくなかったわけではない。比率でいえば、現在の二百分の一程度だと考えられている(発掘される地層からの推定だ)。思ったより多いのではないか? 或いは、落雷が日々つづき、電気分解された水素と酸素が地表を覆っていた可能性はないだろうか? 酸素だけならば、大地を酸化させてしまうが、水素も同時に存在するならば、マグマなどの地熱によって、水へと再生成されていたかもしれない。爆発と同時に、水は水蒸気となって雲を形成し、雷を誘発する。連鎖は循環し、その過程で、水のなかには現代から推測されるよりも多くの酸素が溶けこんでいたかもしれない(水素よりも酸素のほうが水に溶けやすい)。そうでなくとも、太古も現代も、もっとも多い大気成分は窒素である。大気成分の含有量が生物進化の重要な要を担っていたというのならば、窒素を用いたエネルギィ生産機能を生命体は進化させてきたはずだ。しかし、現状、そうなってはいない。生命体は、より効率的かつ、環境に適した種が、進化を段階的に推し進めてきた。原核生物にとってのメリット、デメリットを鑑みると、酸素を利用するのは極めて非合理的である。同時に、副産物的に生成するのも理に適っていない。酸素を発生させない光合成をまず獲得し、同時に、酸素に対する耐性を持った個体の出現が欠かせない。これらは、別個に生じ、細胞内共生を経て、酸素を生成する光合成機構を獲得した。酸素に耐性を持った個体は、別個にミトコンドリアの祖先として進化し、酸素が大気中に蓄積されたときを境に、爆発的に進化した。すなわち、光合成も、酸素型呼吸機能も、祖先の発現時期は、ほぼ同時なのだ。もうすこし言えば、その後、細胞内共生を繰り返し、進化した植物は、日光のない夜間は呼吸に頼らざるを得ず、また葉や茎以外の部位、根や幹、実においては、呼吸を用いなければエネルギィを使用できない。光合成で蓄えた養分も、呼吸を介さずには利用できない。植物の本質的な生命活動は、ミトコンドリア型の酸素呼吸に寄っている。人間がミトコンドリアをエネルギィ変換効率向上のための補助細胞にしているのとは異なり、植物の場合は、葉緑体のほうを、生命活動の補助にしている。エネルギィタンク、エネルギィ変換所とすればそれらしい。進化の過程で、淘汰された種がいたことは言を俟たないが、葉緑体主体の植物は、現在、地上に繁栄してはいない。このことからも、現状生態系を構成している植物の、本質的な機構は、葉緑体(光合成)ではなく、ミトコンドリア(呼吸)にあると推測するしだいである。(強引に妄想をまとめてみた。拙作「網膜の住人~仮想世界は魔法をねがい」にて、植物の本質的な生命活動は光合成ではなく呼吸にある、ととあるキャラが述べている。設定上、矛盾はしていないが、うーん、と思ったので、ここに補足しておく。科学的根拠は皆無なので、真に受けないように)



1179:【ちゃーはん】

ちゃーはーん、いくひしです。料理得意な人がうらやましい。じぶんでつくっておいしいし、ひとに食べてもらってもおいしいって言われる。でもいくひしさん、料理苦手だから、じぶんでつくったチャーハンですら犬の餌みたいになってる。うんにゃ、犬の餌みたいにパラパラしてたらまだよいよ、べちょべちょのギタギタ。油いれすぎなのかな? 卵使いすぎ? でもなんか何回も作るのめんどいから、一気にたくさんつくって冷凍しておきたい。材料のご飯、冷凍してから使うといいって聞くよね。やったことないけど。さいしょにねこまんまみたいに、卵とご飯をまぜておくといいとも聞く。でも家のコンロの火力だったら、どちらかといえば、まずはご飯を炒めてから、ぱらぱらになったのを見届けて卵を混ぜるといいらしい。なるほど。感心してやってみるんだけど、だめ。べちょべちょのギタギタ。なにがわるいの? 火力足んないのかな? おいしいチャーハン食べたいだけなのに、なんでこんな頭使わせるの? いじめなの? 試練なの? ほんとかんにんしてください。まーいいけど。ご飯食べられるだけマシですよ。世界のどこかにはねって、教育熱心なママさんみたいな小言でじぶんを慰めて、きょうも犬の餌じみたチャーハンを食べてます。いくひし、恋人にするならじょうずに餃子つくれるひとがいい。チャーハンじゃないのかって? チャーハンじゃないのだ。餃子、おいしいよね。つつむのヘタクソで、皮からタネがはみでたり、もはやそれ皮だよねみたいにタネがちんまかったり、シワをつくりすぎてどこの五千年後のいくひしですか、みたいになっちゃうばーちゃん改め、いくひしさんだけど、おいしい餃子をつくれる恋人がほしい。ていうか、恋人がほしい。なんだったらおともだちでもいい。あなたが餃子じょうずにつくれる系なんちゃらだったら、いくひしのおともだちになれますよ。料理がへたくそ? そうなの? じゃあ、いくひしといっしょじゃん。なかま、なかま。こんどいっしょに餃子つつもうぜ。いくひし、おともだちと餃子ぱーちーするのが夢なんだ。叶えるまでは死ねねーぞ。いくひしさん、しぶてーから。とりあえず、このたいりょうのチャーハンどうしよう。まだ冷凍庫にいっぱい残ってんだよね。ぱんぱんなんだよね。食うしかないのか? 新しくチャーハンつくってる場合じゃなかった、負けず嫌いをどうにかしなきゃだ、そろそろ、アンパンが食べたくなってきたころあいだ。まずはともあれ、餃子ぱーちーを開きたい。麻雀しながらついばむのもいいですね、ルールまったくわからんけど。あーあ、あー、っていくひしチャーハン片手に登場するので、いくひしのことはこう呼んでください。チャーハンでばーちゃんなターザンだ!ってね。



1180:【震災関係の話題】

東日本大震災に関しては、いくひし何も言えないし、言いたくはないんだけれども(もうこの時点でいらぬ誤解を生みそうな発言になってしまう)、現状、大手のマグロ卸売業者は、福島より南東で獲れたマグロは扱っていない。明確な線引きが未だになされているのだ(国の規制ではない)。陸の汚染に関しての話題は一般にそこそこ出回っており、現状、福島の放射線物質による汚染は、人体に害のないレベルだと、そう評価されつつある。しかし、海の汚染や、地下土壌、それこそ原発の敷地内における情報は、ほとんど出回っていない。風評被害なのか、そうでないのかの区別も曖昧だ。可能なかぎり、段階的に国が、国民へ向けて公表していくべきだろう。ただし、それはそれとしてこのままだとマグロは絶滅するだろう。よその国へカツオの漁獲量を規制させておいて自国ではマグロを駆逐する勢いで獲りつづけている。国際的に厳しく非難される日はそう遠くないだろう。



※日々何者でもなくなっていく。



1181:【宇宙とか?】

アンテナの精度を高めるために必要なのは、なるべく遮蔽物となるもののない場所にアンテナを張ることである。ノイズを集音したければ、ノイズまみれの場所から離れる必要がある。



1182:【不定ゆえに無形ではない】

何者にもならないことと確固とした自分になることはほとんど同じなのではないか。誰でもないがゆえに唯一無二。或いは、あなたであり、彼であり、彼女でもあり、彼らでもある。同時にそこには主体となる「私」は存在せず、ゆえに、そこにはゆいいつ無二の【私たち】がいる。すなわち自我とは物語なのだ。物語であるがゆえに、流動し、分裂し、分類され、統合されていく。その一連の流れそのものが新たな物語を編みだしていく。生とは、私が私たちになる営みそのものであり、私たちからの逸脱そのものである。



1183:【ん?】

もっかい言って。意味わかんない。んーなに? はあはあ。なるほど。さてはいくひし、適当なこと言ってるな?



1184:【続き物】

シリーズと続き物の違いがよぉ分からんのじゃよ。登場人物が作品ごとにまたがっていたら続き物なのじゃろうか。物語の舞台が同じだったら続き物になるのじゃろうか。じゃとすれば歴史上の人物を扱った作品はおしなべて続き物になるし、宇宙冒険譚は舞台がおおむね宇宙なので続き物になってしまうが、その辺のところはどのように解釈すればよいのじゃろう。そもそも大半の物語の舞台は地球であろう? 設定が同じなら? 作者が同じなら? それらすべてか、或いはいくつかが符合すれば続き物なのじゃろうか? 個人的には、シリーズはジャンルと同類だと思うておる。規模が違うだけで、傾向をまとめあげたものを示す。作品ごとに物語が繋がっているかは重要ではない(たとえば物語の脇役にワトソン博士が出てきたとしても、それが直結してシャーロックホームズのシリーズにカウントされるわけではないのと同じ理屈じゃ)。ではシリーズと続き物の違いはなにか? 一つは、それ単品で完結しているか否かじゃろう。どこから読んでもお楽しみいただけます、であればシリーズであり、順番に読まないとダメですよ、が続き物じゃ。細かいニュアンスの違いは、読者によって判断してもらうよりない。作品がそれ一つで完結しているならば、続き物ではないと個人的には考えておる。ただし、読者がそうではない、と判じたものに対して異議を唱えるつもりはないのじゃがの。



1185:【Franklin Yu】

https://www.youtube.com/watch?v=n95-9nAx8_8

https://www.youtube.com/watch?v=_qZzdnYUMrk

https://www.youtube.com/watch?v=MpolTejDVo4

https://www.youtube.com/watch?v=6cpZEWiSTl8



1186:【傾向として】

実績と実力はべつだ。実力なくても実績あるやつはいるし、あべこべに実績なくとも実力あるやつもいる。中間を繋ぐのは人脈だろう。仕事にする場合は、そういった実力とはべつの要素がだいじになってくる。個人的には好きな傾向ではない。また、そうして得た地位は、長く保たないように感じる。たいがい、その地位に惹かれて人が集まるが、しばらくするとみな去っていくからだ。ただ去っていくだけならばよいが、その業界からも人がどんどん消えていく。実績と実力が吊り合わない者は、往々にして自身の地位を崩したくないがために、「後世のために業界を盛りあげていこう」とはやしたてる。しかし周りから人がいなくなっていくので、かつて自身で排除してきた人間にまで媚びを売りはじめる。そうなったらもうおしまいだ。いくら実績があっても、誰もついていかない。しばらくは、事情に疎い若い世代を食い物にして地位を確保できるだろう。だが、搾取されるだけだと気づいた者から周囲からは消えていくので、自分で自分の首を絞めることになる。同時に、衰えはじめた自身の未来のなさから目を逸らすために、これまで以上の妄言を吐きだす。誰も耳を貸さない、忠告も、助言もしない。周囲にいる極親しい者にすら、見限られているとも知らず、ただ過去の栄光に縋っている。実力があればまだ救いがある。しかし、そうではないから目も当てられない。あなたの周りにもそういった人間がいるのではないだろうか。近寄らないのが賢明だ。



1187:【ひざ】

ひざー、いくひしです。みなさん、ひざ、だいじょうぶですか? いくひし、きょうひざ痛めまして。ひっさびさに、ひざ抱えてジタバタした。悶絶っていうの? 脂汗掻きながら、地面にごろごろしたんだけど、だれも寄ってこない。だいじょうぶですかーなんて言ってこない。さみしい。ひざやっちゃったなぁ、こりゃ病院コースかなぁって思ったけど、家に着くころにはなんとかなってたっていうか、なんともなくなってた。なんだろ、肩が外れるって言うじゃないですか。こう、何もないところを蹴ったら、ひざから下だけがぐーんって伸びて、ひざのなかに空洞ができた感じ。べつに何もないところ蹴ったわけじゃないけど、そういう具合に負荷がかかった。負荷がかかったっていうか、かかるべき負荷がなかったので、ひざが痛くなった。こう、階段おりててまださきがありますよーって思ってたのに、もう地面かーい、みたいなね。予想外の衝撃があったわけですよ。わからんけど。いくひしさん、もうお歳なのでね。こんなあほなことばっか並べてるけど、けっこういいおとな。ぜんぜん幼稚園児じゃない。がっくりした? え? しってた? 精神年齢三才にしてはおませさんだなってバレバレだった? なんでーい。ひっしこいて幼稚園児ぶってたのに、バレてたのかよー、なんでーい。え? 三才じゃなくて八才? 五つは年上だろうなーって? 小学三年生くらいかなーって? へえ、そう。なめんな! いくひしもうすぐ還暦だからな。仕事退職まぎわだからな。でも退職してからあと五年間は年金もらえんから、なんとか天下りしてなんとかセンターの警備員やって小遣い稼ぐからな。おばちゃんだって警備員くらいできるんだからな。七十のおじぃちゃんだってやってるんだぞ。そんくらいおとななんだぞ。小学生と間違えるなんて見る目なさすぎ。いくひし、くっそおとなだからな。そこんところわきまえてよ。うやまってよ。そんけいして! なにその手。え? お小遣い? ちょうだいって、なんでよ。チミみたいなかわいげのない孫なんかしらんわー。子供だっていないのに孫なんかいるわけないっしょ。んー? みらいからきた? 二〇八〇年から? 六〇年後? しんどるわ!!! いくひしとっくにしんでますー。まだ還暦の設定いきてますー。いくひし、六十歳のいけてるダンディズムやから。シロヒゲとか生やしてるから。あと二十年もしたらおばぁちゃんか、おじぃちゃんかの区別もつかないから。中性的でステキですねってしぜんに言われるようになるから。なんの話だっけ? そうそう、いくひしのことはうやまえよ。崇め、たてまつり、このおひざもとにひれ伏せよ。あ、こら、さわんな。傷めとるんよ。おひざ。いたーい、いたーいなの。きみ、何年生? まだ三才? まいごなの? おなまえ言える? うん。うん。そっかー、じゃ、いっしょにママとパパさがしましょーねー。いくひしまんちゃん、クソ生意気そうなお名前だけど、うふふ、親のかおが見てみたい。



1188:【無骨】

何をなしたかとか、何を残したとか、そういうことが評価されやすい世のなかだ。でもいくひしは、今そのひとが何をしているかで、相手との関係性を見出したい。何かをコツコツ積みあげているひとは、ただそれだけでかっこいい。言葉を交わしてみたい、と思ってしまう。



1189:【言葉を交わして?】

まんちゃんとしゃべりたいと思う人間がいるとでも? あのさぁ、考えてもみて。マザーテレサですらネットにヘイト撒き散らすほどの性格のわるさを誇るまんちゃんに好かれて、いったい誰が得するの? よく考えてから発言しましょうね。



1190:【かっこわる】

生意気なこと言ったあとに、方々から殴られる前に卑下して予防線貼るいくひし君、めっさダサいな。



※日々理想ばかりが成長していく。



1191:【裏返し】

本気で自分に、生きている価値がないと思っているのならば、むしろ誰より清々しく生きていけるはずだ。本当は価値があるのに、それが認められない、蔑にされている、そう感じるから、生きている意味を見失う。いまあるすべての価値観が人間社会という歴史のなかで培われてきた刷りこみ、虚像だと気づければ、みな誰もが裸の王様なのだとやさしく受け止められよう。価値とはあまたある虚像の一つにすぎない。価値(虚像)がなくとも、生きてしまうのが生命だ。ひるがえっては、価値がなければ存在できないものが道具だと呼べる。価値はないほうがいい。すくなくとも、あなたが命でありたければ。



1192:【じゃあ寄越せ】

おまえの全財産、俺に寄越せ。価値はないほうがいいんだろ、ゼロにしてやるよ。できねぇだろ? そりゃそうだ。価値がないことと、価値を付けられねぇことはまったく別モンだからな。勘違いすんじゃねぇぞいくひし。



1193:【しゃっふる】

しゃっふるー、いくひしです。みなさん、音楽、何で聴いてます? たいがいのひとはスマホかなーって思います。スマホでイヤホンか、電波飛ばしてスピーカーに繋ぐの。それともスピーカーそのものが音楽奏でたりしちゃいます? いまそういうの流行ってますよね。でもいくひし、未だにスマホでない。スピーカーも使わない。イヤホンなんですけど、じゃあ音源仕舞っとく箱はなにっていうと、アイポッドシャッフル。去年だかおととしだかに生産終了したってニュースみてどえらいショック受けた。いや、いいんですよ。どうせもっと小型で性能いいやつ安く売られるんだろうなって分かってるので。ただ、充電がね。アイポッドシャッフルのやつ、充電するためのちっちゃいケーブルがね、断線寸前っていうか、配線が見えてて、もう瀕死。PCのアイチューンと同期させようとしても接触わるくてなかなかできない。もうね、買い換えろと。いい加減いくひしさん、買い換えろと。いまの時代の流れからしてMP3なんて使ってる高校生いる? いなくない? もはや音源ダウンロードするなんてそんなの時代遅れなんですかね。時代はストリーミングですよ、シェアですよ。いくひし、どんどん時代に取り残されてく。いやほんと冗談でなく、PC上からアクセスできないサイトが増えてきてて。マックのクーポンなんて基本アプリでしょ? いくひしどんだけ損してるんだって話ですよね。スマホなけりゃサービスもまともに受けられない。換えろよって話ですよね。スマホに乗り換えろよと。でもね、いくひし、なんてーのかなー、こう、依存体質なんですよ。四六時中ネットに繋がれる機器なんて持ったら、いくひし廃人まっしぐら。いくひしには判る。じぶんのことですからね。たばこに、お酒に、クスリに、恋愛、ギャンブル、車にソシャゲに、宝くじ、ハマリそうなものからは距離おいてる。スマホなんて持ってごらんよ。いくひし、あっという間に干し肉よ? 干からびるまでタップしてる。適度に依存先をシャッフルしながら、不便さを噛みしめがてら、時代と距離をおくしかないのかなー、めんどいなーなんてぼやく日々でございます。まあね。時代に流されるくらいなら乗り遅れるくらいがちょうどいいというか、いつでも食いつけますよーってくらいの心構えのほうが時代の加速した現代ではよい塩梅なのかもしれません。みんなが足並みそろえらていられる速度のさきにある新しさなんてぬるいですよ、たいして最新ではない。最後尾のほうに立って、うしろを振りかえって、置いてかれているひとはいないかなーってチェックする。そういう役割のコが一人くらいいてもいい。いくひしはそういう時代と時代の節目に立って、あいだを取り持つ接ぎ木になれたらなーってね。いざとなればまえにいるひとごぼう抜きすればいいだけの話ですから、すでにできた道をいくのなんてかんたんさ、なんて大口叩いてみたいけれども、かんたんじゃないから困っちゃう。時代に置いてかれていくいっぽうの、迷子の迷子のいくひしちゃん。せめて、アイツがいるからビリじゃないって、思ってもらえると、置いてきぼりにされてる甲斐がありますよ。だいじょうぶ、いくひしがいるからあなたぜんぜん、ビリじゃない。一周回って、周回遅れのいくひしさんを追い越してるトップランナーかもしれないし、そしたら余裕じゃん、すこしばかしいっしょにトコトコ歩きましょ。飽きたらまたハッスルして、置き去りにしてくれてよし、それまで言葉をシャッフル、かき混ぜましょう。いくひしとの縁と縁を交わしましょう。アイポッドシャッフル、壊れる前にスマホにいくひし買い換えよっかな。



1194:【わさび】

わさびー、いくひしです。きょうなんか、息を吸うたびに鼻の奥がツーンとして、痛い時間があった。わさび食べたときのあれ。息を吸うたびあたま痛いんだけど、なんか覚醒してる感じがして、そんなにわるくない。ちなみにいくひし、柿の種のわさび味がすきです。さいきん食べてないけど。で、この国にはほら、わびさびってあるじゃないですか。じつはあれの語源って、わさびとは関係ないんだって。まったく。びっくりじゃない? ぜったい関係あると思ってた。だって和の国って言ったら、わびさびでしょ? で、寿司でしょ? したらわさびってくるじゃん。ぜったい関係あるじゃん、そう思うじゃん。ないんだって。そういや寿司、たべてねぇなぁ。わびしいというか、さびしいというか、まずしいよね。うんにゃ、べつに寿司たべれることが豊かってわけじゃないけどね。ただ、さいきん食べてねぇなぁって。思えばいくひし、回転寿司、たべたことないな。いや、あったかなぁ? あんま憶えてない。あ、あったあった。一回、いや二回は行ったことある。けっきょくデザートのケーキしか食べなかったけど。なんかね、いくひし基本味覚障害っていうか、あんまし味わかんなくて、おこちゃま舌ですからね、しょっぱいか、甘ければそれでいい。ただ、臭みとか鉄分とか、そういうの、そういうのにちょこっと敏感で、海鮮物が苦手なのだ。あ、知ってた? 人間の脳味噌が大きくなった背景には、海鮮物、主として貝をたべるようになったからだって仮説があるんだって。むかし聞いたことある。へぇーってなるよね。ほんとかわからんけど。なんの話だっけ? さいきんホント記憶がもたない。あれ、なに考えてたっけってなる。というか、あれ、何してたんだっけってなる。いまにはじまったことではないので、それこそちいちゃいころからなので、何かの予兆ってわけではないんですけど、要はいくひし、ポンコツなんだなって。もういっそ、ぽんぽこりんなんだなって。たぬきなんだなっていうか、どちらかといえば、たぬきよりも、ふぬけでござい。美味しいお寿司の握り方、まずは新鮮なおさなかの腑抜きをね、きちんとするのがよろしいのではないのかなぁ、とオチを探して結びつけてみたものの、我ながらなかなかの強引さ、どうしよ、わびとさびで、なんかある? 腕がさびついて、あやまりましょう、で、わびとさび、みたいなそんなんしか思い浮かばないんですけど、だいじょうぶ? だめ? だめなの? なんかさいきんきびしくない? 愛ないよ。かわいいこには旅をさせよって、だからちょっと厳しめにしたって? そんなん言ってもスマホ持ってないいくひしさんだよ、旅ナビないなら迷子だよ。マジ性質わりぃよ、WiFiどこだよ、目的地は海外だよ、毎回オチがムリやり踏んだ韻でバイバイかよって、ここまで並べちゃ、せっかくのわびとさびも鳴りを潜める、韻を踏んでると気づかれないくらいがちょうどいい、本差よりも脇差だ、わびさびも、わさびも、何かを引きたてるための媒体で、主役になっては元も子もない、うざいいくひしのファンクラブはみんなでいますぐ退会だ。って、ちょっとえー、ファンクラブなんてあったんですか!? いくひしびっくりしすぎて気を失う。寝て起きたらなーんだ、ぜんぶ夢だった、時計を見たらまさかの正午で大遅刻、あたまをさげて詫びますよ、サービス残業なんて朝飯前、これぞ現代のわびさびか、なんてうまいこと言ったつもりで、きょうのオチとしましょうか。約束守るのはだいじだけど、まずは遅刻をせざるを得ないくらいに疲れた身体を労わりましょう。あなたの身体だけでなく、周りのひとの身体もね。おやすみー。



1195:【陳腐がだいじ】

言葉にしてしまうと途端に陳腐化してしまうモノほど、物語にする意味合いがつよまる。時代によってそのモノは変容していく。それはたとえば「愛」であり「悪」であり、「平等」であり「管理」だ。



1196:【気分じゃない】

きぶんじゃなーい、いくひしです。きょうはなんか日記つけるきぶんじゃない。言ったらいくひしのこれ、めさんこキャラですから。設定ですから。味付けですから。こってりコトコト味噌らーめん! さすがにね、まいにちこのキャラは疲れます。きぶんによくないし、身体によくない、なんだったら情操教育によくないし、あなたの精神衛生上にだってよろしくない。悪魔か! いくひし、汚染物質なみによくないもので構成されている。ダメじゃない? そんなんまいにち並べてたらだめだよ、腐ってやがる、はやすぎたんだ、どころじゃない。お皿に並べてだしちゃダメ、法律で禁止したほうがいいかもしんない。あすの国会で議論されるかも、いくひし規制法案なんつって。いくひしの軍事利用は禁止する。いくひしの保持または使用は懲役一万年以上の極刑に処する。なんつって。悪魔か! こういうときはあれっすね、愚痴とかわるくち言うのがいい気してきた。なんだろ。なんかある? 愚痴かぁ、そうだなぁ。きょうさ、トイレ入ったらトイレットペーパーなくて。なんでないんだよってなったよって話。だめ? おもんくない? じゃあ、耳かきの話とかどう? したんだよね、さっき。綿棒で、そこそこ大きめの耳カスがとれて、汚い話でごめんだけど、げっへっへ、ってなったら、じぶんの鼻息で耳カスぽろって落ちて、床にまぎれた。鼻息ぃぃい!!!ってなったよって話。これはどう? だめ? ちたないうえにつまんない? んだよ、ぜいたくなやっちゃのう。じゃあどうすりゃええのさ。おしえてくれよ。いっつもきみはさ、いくひしにしゃべらせるだけしゃべらせて、ダメだしばっか。じゃああなたの話も聞かせてよ。なんかあんでしょ、おもしろい話。ない? ないの!? んだよ、いっしょじゃん、仲間じゃん。いっしょにすんな? はぁー? おまえの耳の穴かっぽじって、とれた耳カス鼻息で飛ばしたろかこのー。悪魔か! え? どこがって、え? 悪魔ではない? そっか。ごめん。でもさでもさ、そんなこと言われたらもういくひし、なにも言えない、きぶんじゃない。愚痴とかわるくちとか、言わなきゃよかった、もっとおもしろい話、いっぱいしたいよ。いいよいいよ、マンガ読むから。こうなったらいくひしさん、マンガ読んで不貞寝するから。あなたもさっさと寝るといいよ。夢の話くらいならできるでしょ。起きたら教えてくんなまし。どんな夢を見たのかって、いつかあなたの話も聞かせておくれ。え? きぶんじゃない? 悪魔か! おやすみー。



1197:【ぶらんど】

ブランドとは、特徴の言い換えではない。一言でそれそのものを言い表せることよりも、あああれね、と概念を共有できるほうが優位にたつ。印象値、とそれを言い換えてもよい。シンボルになるように方針や枠組みを調整していくその過程が、ブランドを形成していく。最終的には、一言で言い表せなかったものを示すためのシンボルになっていく。物語も同じだ。



1198:【文章としての破たん】

いくひしの小説の文体には、数多くの文章破たんが存在する。一文を抜きだしたとき、文章としての体を成していなかったり、矛盾していたり、誤解を招く書き方になっていることがすくなくない。流れで読むことを前提としているからだ。小説は、小論や記事とは異なり、動画にちかい。コマのひとつひとつが、絵画として優れている必要はない。どちらかといえば、欠落を内包していたほうが、読む者への負担を減らせる傾向にある。極端な話、段落の最初に「私は」と書かれていれば、つぎの段落に移行するまではその文章の主語は「私」なのだ。あべこべに、途中で主語が入れ替わるとき、たとえばつぎの段落の冒頭を、「~しながら腕を回すと彼女は」とする。一見すると腕を回したのは「彼女」だが、文章の流れからすると、「私が腕を回すと彼女は」という意味合いになる。一文に主語が一つ以上あると読み味がわるくなるので、敢えて文章を破たんされることもある。こうしたテクニックは、すくなくない。新しい技(破たん)を編みだせれば、新しい文体として評価されやすくなるだろう。もっとも、正しい文章の構成を意識し、破たんに対して自覚的であることは欠かせない。「破たん」を「技」として使いこなしたければ、の話ではあるが(正しい文法だけの小説も、それはそれでおもしろくできるだろう)。



1199:【言いわけじゃん】

破たんしてることが技? わざとやってるから見逃せって? これは穴ではなく水玉模様ですって言い張る傘屋かよ、雨で濡れた服も水玉になりますってか? 高性能だなぁ、おい。



1200:【宇宙の加速膨張(についての妄想)】

宇宙が加速膨張しているのならば、宇宙の密度はどんどん減少しているはずだ。なんらかのエネルギィが宇宙を膨張させているとしても、それは単純な物質ではないのだから、密度そのものは減少していると考えて大過ない。時空が希薄になっていくと考えればそれらしい。そこにはむろん、重力も含まれる。ならば、宇宙が膨張していくにつれて、相対時間は速まっていく。そしてそれはミクロであればあるほど顕著な影響を及ぼされる。なぜなら質量が低いほど、より重力の影響を受けにくくなるからだ。重力の低い場所では時間の流れは速くなる。宇宙のはじまりは原子一個よりもちいさな点だった。それが10のマイナス36乗秒という刹那の刹那という時間で、太陽系ほどの大きさまで膨張した。一瞬のできごとのように感じるが、この10のマイナス36乗秒というのは、現在の宇宙を138億年とした場合の割合である。じっさいには、極限まで収斂していた宇宙は、宇宙開闢史上最強最高の重力を備えていたことは想像に難くない。すなわち、そこに観測される相対時間は、我々が思い描く時間の流れよりも遥かに遅かったと考えられる。膨張するに従い、宇宙には段階的にかつ階層的に、いくつもの時空間が展開されていく。宇宙が一メモリ膨張するごとに、ミクロ(小域)の世界は指数関数的に世界を拡げ、同時に希薄になり、そこに生じる時間の流れは速まっていく。時間の流れが速まるというのは、時空間を構成する「場の振幅」が増加することを意味する。もうすこしマクロ(広域)に表現すれば、物質の変遷速度を増加させる。宇宙を加速膨張させている媒体は現在、ダークエネルギィと推測されている。正体は不明だが、そういったエネルギィが宇宙には溢れているらしい、と考えられている。私見にすぎないが、ダークエネルギィとはまさにこの、宇宙膨張に比例して増加していくミクロの物質変遷速度の増加にあると妄想するしだいである。それを、情報の増加、と言い換えてもよい。(宇宙が膨張すれば、「宇宙全体の時間の流れ」もまた速くなっていく。ただし、アキレスのカメのように、そのなかに内包される時空間は、段階的かつ階層的に展開され、無限に増殖していくので、宇宙が膨張すればするほど、内部に拡がる情報の総量は爆発的に増えていく。細胞分裂する受精卵を思い起こすとよい。ただし宇宙の加速膨張の場合は、細胞一つ一つが、もう一つの宇宙を構成できるだけの情報量を秘めている)


※日々人間の真似をしつづけている。



1201:【つぎの流れ】

2018年3月です。10年くらい前までは文芸の世界では、作者の元々の知名度や経歴が重視されていました。購買引力を初めから備えている作者を出版社は好んで採用してきたのです(作品の商品価値が高いことは前提です)。純粋な作品の魅力とは異なる要素が重宝されてきた風潮は、そのまま現在の評価経済の流れを構築する基盤だったと見做して差し支えないでしょう。では現状、どういった作者が歓迎されるのか。キャラクター、経歴、ネット上での評判、作家として以外での側面像の希少性、奇抜さ。なによりこれからは、その人物に引くことの可能な線(ドラマ)が焦点になってきます。ただ知名度が高かったり、経歴があるだけでは、同等かそれ以上の珍しい人々が溢れた現代では、多くの人の目を惹くことはできません。ではどうするか。ひとつは、そのひと自身に大きな物語が流れているか、です。才能がある、センスが高い、実力があるだけでは不足です。それを得るために辿ってきた背景にどれだけのドラマを描けるか、それを経歴と呼ばないのは、他者からの評価とは無縁のところでのドラマがかなめとなるからです。なぜいまそのひとが話題になっているのか、知名度があるのか。そこに、人脈や経歴以外の「なにか」がないひとは、これからの評価経済混迷期を打破できないでしょう。知名度をあげることは有効です。しかしそれを目的にしては、さほどの実の入りは期待できないでしょう。急がば回れです。まずはあなたのドラマを築いていきましょう。



1202:【傲慢のまん】

いくひしは打算の塊である。総じての言動を鵜呑みにしてはいけない。



1203:【涙もろくなる】

アイネクライネ/米津玄師(Covered by コバソロ & 春茶)



1204:【そう願うところからはじまる】

何もかもが色褪せて感じているひとへ、おもしろさとは何かを思いださせるもの。それが物語のひとつの役割のはずです。あらゆるものごとがつまらない、おもしろく思えない、そんな波を失ったこころへ揺らぎを与え、ふたたびの寄せては返すさざ波を取り戻させる。そのきっかけに成り得るひとつが物語なのではないでしょうか。



1205:【さえずるな】

新作はどうした。なぁ。解ってんのか、いくひし。御託はいいから小説(モノ)で語れ。



1206:【かんそうぶん】

かんそーぶーん、いくひしです。いやー、ひさびさな感じしますね。みなさん、さいきん何か読みました? いくひしはねぇ、なんだろ。なにかしら読んだ気がする。読んだら前はこう、感想文をね、ここにちょいちょーいって載せてたんですけど、さいきんはちょいサボりがち。あんまし読めてないってのも無関係ではないんですけど、どちらかと言うと、ひとさまの物語にあーだこーだ言うとる場合ちゃうやろ、みたいなね。いくひしの感想文を見て、おもしろそーだなー、買ってみようかなーなんて思ってくださることもないでしょうし、どちらかと言えばいくひしがおすすめしたことでかえってご購入のきかいを奪ってしまうこともあるかもしれんぞ、なんて考えるとおちおち感想も載せられない。うそです☆ ただサボってただけです。おもしろいのいっぱいあるよ。だいたいは以前から購読しつづけてたやつの新刊ですね。今月の新刊はまだ買えてなくて、うがー、ってなってる。20冊くらいは溜まってる気がする。さいきんあたらしく読んだのでほうほうってなったのは、「ジャヒー様はくじけない」と「竜の七国とみなしごのファナ」と「猫のお寺の知恩さん」と「ザ・ファブル」です。ジャヒー様とみなしごのファナは、ヒロインが褐色系少女(?)で、いくひしの防弾ガラスなハートがハードに撃ち抜かれて、ノックアウツしちまったやつです。ジャヒー様はすこし前に流行った、おっさん系女子の系譜で、さいきんは「女攻め(イタズラ)系女子」に需要がとって代わられつつあるな、と感じていたので、いいねいいね、こういうのも忘れないでおくれ、となった、足りない成分を補えた。対して、みなしごのファナは言葉が通じなくてですね。ボディーランゲージで交流していく。いくひし、なかなか通じあわない関係性が好きでして。なおかつ、言葉を介さずになんとかコミュニケーションを図ろうとあれやこれやするのがもう、くぅー、って抱きしめちゃいたくなる。それはたとえば泣いてる赤ちゃんをまえにして、「おっぱい?」「うんち?」「ねむいだけ?」「ひょっとしてじぶんの声にびっくりしてる?」「まさか病気じゃないよね」って、あたふたしてしまうひとを眺めてる感じ。手伝ってあげたいきもちと、うまく伝わりあえないもどかしさにちぐはぐさ、それでもちゃんと向きあおうとする姿勢に、やっぱり、くぅー、って抱きしめちゃいたくなります。そのアタフタのさきに、いっしゅんでも心が通じあって、ふたつがひとつになる瞬間は、生きてる意味ってそういうとこだよね、いいなー、いいなー、ってうらやましさとうれしさのハーモニーがうずをまく。ぐるぐる。猫の寺の知恩さんは、知恩さんの、あーいるいるこういう無防備なひと、着飾らないひと、すてきだよねーってなるのとはべつに、カメラワークのよさがあって。立体感のある構図と、なんだか素人の写真集を、それはものすごくプライベートだからこその素朴さがあって、誰もがこころのなかにある田舎のおばぁちゃん家の、あの、時間がのっぺりと伸びた、どこか眠気を誘うやすらかさとさわがしさが、お香のにおいと風のやわらかさといっしょに、こうスーって身体の表面を流れていく。いくひしだってそこに引っ越したいよ、住みたいよってなる。田舎のいい面を誇張なく、しかしわるいところをお茶目に演出しつつ、楽しませてくれる。自然体なひとの、ときおり見せる気まずそうな顔は病みつきになりますよね。全巻集めますコース突入けっていです。で、ファブルはですね。感想書けない。消化しきれなかったので、また機会を改めて叫ばせてください。このヒーロー像は新しいです。流行る前になんとか盗めないかなぁ、とよこしまな心が拭えないので、あたま冷えるまで待ってください。とりいそぎ、ヨウコ姉さん、あんたサイコかよ。あ、まちがった。最高かよ!!! では!



1207:【15時間睡眠】

おはよーございます、いくひしです。きのう午後16時にちょこっと仮眠とって、19時にでかけようと思ってたのに、起きたの今。翌日の午前7時でございます。ふじゃけんなーー!!!! あーやっちまった。先週もけっこう寝たのでね、だいじょうぶかなーって思ってた。油断した。なかったことにしよ。反省? しるか! たぶん摂取する栄養が減少してたことに因を求められると思います。ちゃんと食べよ。で、なんだっけ。あー、そうそう。ドラマ「アンナチュラル」の最終話観ました。所長のおじさんがね、いくひしめっちゃ好きで。所長が主人公のスピンオフドラマ観たいです。所長、結婚されてるんですかね? ゆいいつ私生活が謎だった。で、はい。マンガ「ランウェイで笑って4巻」をきのう買ってきまして、さっそく読みました。ちょうどおとといくらいに、3巻を読みかえしてて、はやく続き読みたいなーって思ってたところなので、タイミンググッドです。はひゃー、おもしろーい。主人公の天才高校生デザイナーは、幽遊白書でいうところの幽助なんですね。で、ヒロインのほうが戸愚呂(弟)なんです。すべてを擲って最強を掴みとるのか、それとも切り捨てるべきものをも利用して、自身の地力にしてしまうのか。ジブリの宮崎駿監督は、アニメーターさんに「本物を見ろ」と言うそうです。既存のアニメの表現を借りるのではなく、世界を観察して、新しく、自分で表現を模索しろ、ということだと思います。何かを切り捨てる、というのは、言い換えれば、既存の完成されたルートを辿る、ということなんだと思います。たしかにそのほうが成長は速いでしょう。成果も比較的短期間ででると思います。でも、それでは、けっきょくのところ「最強止まり」なんですね。その上を、ましてや外に飛びだすことはできないのでしょう。幽遊白書で、じつは幽助はいちども最強になっていないのです。いつも誰かの手を借り、外側のチカラを得て、目のまえの壁を乗り越えていく。ランウェイで笑ってでも同じ比較構造になっているのですが、違うのは、ふたりが互いに尊敬しあい、ときに追いかけあっている点にあります。すべてを切り捨ててきた少女は、天才と関わることで、自分にできることの幅を広げていく。無駄なことを無駄だと断じず、そこから何を得られるかをこれまで以上に考えるようになる。天才である主人公の考え方と、それは同じなのだ。それは魔法だ。弱点を利点に変えることのできる最高の魔法であり、誰よりつよいではなく、誰もが手を伸ばそうとする輝きを宿していく。ヒロインは言う。勝たなければその努力は報われない、と。しかしきっと、報われずとも主人公はその歩みを止めたりはしないのだろう。彼にとって、夢とはけっして、誰かに勝つことではないのだから。着るひとが笑顔になる、しあわせになれる服をつくること。それはきっとどんな夢より果てしない。



1208:【逃げ】

全体的に衰えていると自覚したとき、人は自分の得意なものに逃げようとする。新しいことに挑戦すれば、どうあっても全体の質は下がってしまう。そこでさきを突き進めるか否かが、創作家としての分水嶺だろう。逃げることはけっしてわるいことではない。逃げこめる場所があるのはただそれだけで救いだ。失うものを天秤にかけよう。



1209:【得意なこと】

いちど衰えたとしても、そう時間をかけずに平均よりも上のレベルで再現可能なもの、それが得意の意味であろう。老いてしまったために、到達不能となる領域が生じるかもしれない。しかしけっきょくは、領域に到達できた「もしもの自分」であっても、いずれはいまのあなたのレベルに老いていく。そのとき、その老いた分を補完できる何かがあるのとないのとでは、その後の進み方は大きく変わる。いっときの極致を目指すのも一つだ。それはきっと何者かにしかできない偉業であろう。反面、異形でありつづけたければ、老いたさきを見越して「いま」を取捨選択していかねばならない。ただし、異形であることの利点など、そう多くはない。その点は留意しておいたほうが好ましい。



1210:【えらそうなこと言うだけ】

まんちゃん、えらそうなこと言うだけで、なんもしてないじゃん。生きててもいいけど、せめてもっと慎ましく生きよ? ね? えらそうなこといくら言ったって、べつにまんちゃんがえらくなるわけじゃないんだから。わかって?



※日々きょうは死なないだろうと高をくくりつづける、ギャンブルの名を人生。



1211:【いいひと】

「違う、ぜんぜん違う、そんなんじゃない。いいひとになりたいんだ、いいひとになりたいだけなんだ。他人を見ても、どうやってこいつ殺そうかって考えずに済むようになりたいし、こいつは自分の子供のためならどこまでやるだろうって想像せずにいられるようになりたい。女性を見て、このひとは何回犯されたら、オスの性器を笑いながら咥えられるようになるかって気にならないようになりたいし、男性を見て、こいつは何本目の指を折られたら自分から尻の穴を拡げて見せるだろうってわくわくせずにいたい。赤子の首をペットボトルのふたを開けるみたいにひねってみたいし、猫の尻尾を持って思いきり地面に叩きつけてみたい。何を見ても、誰と接してみても、ぼくの頭のなかにはぼくじゃないぼくが目のまえのひとたちを、かわいいものを、うつくしいものを、いとおしい存在のなにもかもを台無しにしようとする。ぼくはそいつをこの手でなんどもなんどもころして、ころして、ころしつづけることでしか、こうしてなんとかあたまのなかの光景を現実にせずにいられる術がない。ぜんぜんいいひとなんかじゃない、いいひとになりたい、ただそれだけなんだ、なのにぼくはぼくをこの手で幾度もころしつづける、そいつはぼくにころされながら笑っているんだ、うまくなったじゃないかって、いつまでオレで練習すれば気が済むんだって、もうとっくに慣れただろって、あぁ、ぼくはもうとっくにあたまのなかのぼくに成り代わっていたのかもしれない、ぼくはもう誰かをころしつづけることでしか存在できないよくないものになってしまったんじゃないかって、だってそうだろ、あたまのなかのぼくがいなくなったらいったいぼくは誰をこの手でころせばいいんだ、ぼくは今から誰を殺せばいいのだろう、いいひとでありたいんだ、いいひとになりたいだけなんだ、なあ、教えてくれないか、いいひとになりたいんだ、きみ以外にぼくが今、訊けるひとはいないんだ」



1212:【すらんぷ】

すらんぷー、いくひしです。やー、こまっちゃったな。ひょっとしたらいくひし、すらんぷってやつかもしれん。渦巻き状の茶色い物体が大好物で、素手で地球を割っちゃうコ。アラレちゃんやないかーい、ってもうダメっす。こんなんしか浮かばない。ちなみに、ドクタースランプアラレちゃんってのがむかしマンガとかアニメであったんですよ、しってます? いまのチビっこたちはしらんよね。ドラゴンボール描いたひとのマンガだよ。ドラゴンボールはしってる? 新しいアニメやってるみたいだし、知名度はあるかもしれん。ちなみにいくひし、第二次成長期がおわったころにドラゴンボール全巻読んだ。その時期にちょうどアニメ映画版「時をかける少女」を観て、どひゃーってなった。奥華子さんの曲とか、まいにちのように聴いてたな。いまでも好きです。思えばその当時はまだ攻殻機動隊にも触れてなかったので、必然、小説とも出会ってなかった。ていうか読みだしたの、2008年ごろだしな。あ! ひょっとしていくひし、10周年じゃない? 小説と出会った10周年記念じゃない? 知らぬ間にいくひしさん、10才になってた。でもまだきぶん3さい。ぜんぜんハイハイ卒業できてない。ゆびしゃぶり抜けてない。よだれまみれ。かわいい。いくひし、すらんぷになったことなくて。ていうかつねになんも書けない病なので、いまさらこれってすらんぷなんですの、ってなる。ネタばかり思いつく。つくりたいのばっかり溜まってく。いまつくってるのなんか、捨てネタだったのに、放っておけなくなって、まだ終わんない。つくりかけばっか溜まってく。通常運転、いつものいくひしさんで、まったく変わらない。だめだめ。すらんぷどころかゴリラの真似して、ウホウホ言って、胸とか叩いて、暴れて、腕ぶんまわして、ビートに乗って、威嚇してって、クランプやないかーいってなギャグをかまして、やはりきょうもいくひしはいくひしなのであった。長編、つくってないなぁ。本腰ってどうやって入れるんだっけ。入れたことなんてあったっけ。いつでも腰抜け、ふぬけのいくひしさん、きょうものほほんと何もせずに無益な時間を浪費する、すらんぷくらいがちょうどいい、スクランブルだと急発進であぶないあぶない、ブランクがあっても問題ない、元から何も得ていない、いまさら何かを失えない、そんな余地はどこにもない、いつでもここが奈落の底だよ、ここより落ちれば地球の裏だよ、すなわちそれだけ浮上してるし、昇ってる。バカと天才は紙一重ならば、バカを貫きゃ天才だ。このままそのままどこまでも、落ちれるとこまで落ちていこう。なんてすらんぷのうえにあぐらを掻いていくひし、うんと油断する。油の断たれたエンジンじゃ、何も噴きだしゃしないのだ。走りだそうにもプスンプスンとウンともスンともいやしない。なまけもののいくひしさんですから、そりゃー誰からも好かれやしないし、必要ともされないが、それの何がわるいのかと、なまけに磨きをかけていく、わがままボディのいくひしさんに、みんなはとやかく糾弾す。すらんぷだけに、糾弾す。韻踏んでみたけど、どうでっしゃろ。きょうはこれにてオチていい? 地球の裏まで落ちていい? なんだったらそのままソラまで突き抜けて、宇宙のプランクトンにでもなっちゃおう。アブラカタブラ、無冠の魔法。我は稀代のランプの王。おやすみー!



1213:【人格は統合されるのか】

仮にシンギュラティが到来したとしよう。人類はナノデバイスを体内にとりこみ、情報によって直接社会と繋がりあう。他人からの視点をはじめ、思考や、その履歴たる記憶を並列化して扱えるようになる。あなたは私であり、私はあなたの一部であるという社会が到来する。ではそこに個性はなくなるのか。答えは否だ。集積した情報をどのように処理するか、というハード(頭脳)の差異がなくならないかぎり、個性は保持され、あなたはあなたという確固とした枠組みを形成し、自我を自我たらしめる。同時に、かぎりなくあなたにちかい個体は、高性能情報処理媒体にあなたの遍歴を組みこむことで誕生し得る。あなたが生きてきたあいだに紡ぎつづけてきた思考の道筋、情報の入出力の履歴、なにを好み、なにを嫌い、どのようにそれらが変化していったかについての解析が、あなたをひとつの回路として成立させている。それらは、あなたの肉体に組みこまれたナノデバイスや外部記憶装置によって保存され、それらを元に、あなたの分身ともよべる摸擬体は、現行の生命とはまったく異なった構造体としてそこに再現され得る。肉体を構成する素材と、そこに組みこまれた回路の成り立ちのほかに、あなたと、あなたの目のまえに存在する摸擬体を分かつことはできない。同時に、あなたと摸擬体は回線を通して繋がっている。他者との情報共有とは違う次元で、あなたは、あなたの摸擬体を通して、世界をより快適に、効率的かつ多重的に、並行して感受することが可能となる。文字通り分身を手に入れるのと大差ない技術がそこにはある。一体だけとは限定されない。摸擬体の数は、それこそ百でも万でも量産できる。弊害がないわけではない。総体としての個が増幅され、強化されるにつれて、同調できない他者を異物に感じはじめる。他者の視点が有用だったのは、自己を脱して世界を視ることのできない人間の原理的構造に因があったからだが、摸擬体の登場によって、その欠点は払しょくされた。摸擬体を他者と見做すことで、外部からの視点をいくらでも補完できる。なれば、せっかく得た外部情報を、その沿革を含めて自分のものとして処理できない他者の視点は、中身のないハリボテじみて映る。摸擬体に必要なのはそこに組みこまれた回路である。なれば、外装はいかようにも改変可能だ。都合のよい環境を求めればこそ、摸擬体を量産し、異物を排除し、空いた席に、理想の外装を施した摸擬体を座らせる。自分だけの世界へと社会が塗り替わっていくが、世界は物理的に有限だ。異物と称して排除した異物の住まう場所はない。しかし、異物にとっての異物とは、まさしく世界を塗り替えようとする無数のあなたの摸擬体だ。いずれあなたを異物と見做し排除しようと動きだすのは、あなたの前例を引き合いにだすまでもなく導かれる蓋然だ。そうなる前に、そうなることを見越すくらいは補助機構の人工知能であっても指摘できる。なれば摸擬体の数を制限しようとの提案があがるはずだが、事はそう単純ではないのが悩ましい。たとえ一人につき一体だとしても全体では二倍になる。全人類の数が二倍になったとして、それだけの個体を維持できるエネルギィ資源は、未だ確保できてはいない。すべての人類が摸擬体ならばまだよいが、人類の数が減らないままで摸擬体までもが無駄に増えるのは考えものだ。しかし、摸擬体は労働力として手放せない。個人ではなく、社会としてもそこはどうあれ譲れない。他者との情報共有を可能としたその社会にあって、使用の制限された摸擬体を用いて便利にすごす人々を許容できる器は、なぜだかナノデバイスを介しても補強されない。そこからさき、我先にと便利を追求する人々は、情報に群がる蟻のように、加速度的にはめをはずす。あとには、自分だけの社会を築こうと、他者に異物の値札(タグ)を貼りつける不毛な情報戦があるばかりだ。人々は他者と繋がることを避けるようになる。外部視点の情報が不足する。摸擬体の優位性はますます高まる。人々はさらなる戦略に打ってでる。いっそのこと、他者を摸擬体代わりにすればいい。そう考える強硬派が登場すれば、あとはなし崩し的に、巨大な派閥の争いが過激化しては、大戦化していく。率先してナノデバイスを体内から除去し、情報の並列化を手放した人々と、他者を己が補助機構として、外部端末としか見做さないポストシンギュラティの生存域をかけた戦いが、延々とつづく。むろん、肉体を奪われ、補助機構としての端末に成り果てたとして、そこにあなたの人格は与されない。



1214:【痛み】

物理的にその人物を支えられないのならば、痛みに寄り添う真似はしないほうがよいのではないか、と思うことが多い。かわいそうだね、と野次馬が知った顔でその人へ「絶望」のレッテルを貼ることは、イタズラに傷口を広げるだけなのではないか、と不安になる。本当はたいしたことがないはずなのに、まるで致命傷のように錯覚し、自らの人生そのものを台無しにしてしまうことは、けっして珍しい事象ではないのではないか。もちろん、その人の傷はその人のものだ。たいしたことがない、と断じるのもおかしな話だ。肝心なのは同情ではない。割り切りでもないだろう。理解しようとする姿勢と、なにより経済的な支援ではなかろうか。境遇とか生い立ちとか家庭とか職業とか、属性で、人の幸不幸を決めないでほしい、否、決めつけないでもらえるとおいらには好ましく映る。それは不幸だ、と名前をつけてみせることで、他人をいとも簡単に不幸にできる。人に変われと説く前に、まずは自身の見方を変えてみるほうがよいときもあるのではないか。おいらはときおり、そう思う。



1215:【受信機】

「神は細部に宿る? バカ言っちゃイヤですよ、神は読者に宿るんです」



1216:【引っ張りあえば落ちる】

競争には二種類ある。切磋琢磨か、共食いだ。他人の足を引っ張りあうのが常態化したコミュニティは遠からず衰退する。弱肉強食はあっていい。ただし、食物連鎖の循環を絶やせば、強者に生き残る道はない。



1217:【あいあむクズです】

誰かを虐げて一番になるよりも、細々と生きつづけていたい。椅子取りゲームがはじまっても、地べたに座ればいいじゃない、とほかのひとに椅子を差しだせる人間でありたい。じっさいには、才能で他人をぶんなぐるのが快感のクズである。やはり細々と生きていたほうがよさそうだ。



1218:【ズル】

本格的に書くことがなくなった日は、こうやっていくつかの短文を並べてごまかします。「1214」から「1218」がきょうの分です。ちなみに本日は2018年3月23日の午前0時32分ですが、これは22日分のいくひ誌です。思ったんですけどなんでいくひし、まいにちこんなん更新してるんですかね。誰が得するの? いくひし? やー、めんどいだけよ? 世界でただひとりきりになったいくひしさんが、さびしさをごまかすためにラジオながしてますよーみたいなテイだけど、べつにこれ並べてもさびしいままだしな。なにがごまかされてるのかさっぱりだ。さっぱりすぎて、いくひしの脳内おともだちの数、さいきん増えたからな。あしたはじゃあそいつを紹介してやるぜ。たのしみしといてくれよな。おやすみー!



1219:【むちゃぶり】

むちゃぶりーーー!!! なぁ、おい、いくひしさんや。むちゃぶりにもほどがありますよ、どうせあと寝るだけだし、あしたのじぶんがなんとかしてくれるっしょって、ぞんざいにボールぽーいしたつもりかもしんないけどさー、あんたがいくひしなら、いくひしもいくひしだからな。きょうのいくひしさんがとつぜん才能開花して、はひゃーってなるわけじゃございませんからな。新しい脳内おともだち? いるわきゃねぇだろーーーい!!! いないから、しらんから、そんなんポンポンできてりゃもっとふだんからハッピーバースデートゥーユーですから、ファンクなユーですから。はぁ、おちつこ。ちょいときのうのいくひしさんには呆れて物が言えないですね。じゃっかん怒ってますよ。テキトーなこと言いすぎだぞ、と。キャラつくるならつくるでもっとちゃんとやれと。書くことないのはしかたないよ、でもさ、じゃあなんも書くなよ! 黙ってろよ! ムリはしないでぇー。痛い目みるのあなたなんだよ、じょうずにサボってぇー。はぁ、だめだだめだ。なんかなごまないな。なごまないので、さいきんいいなーって思ったこと言います。きのうかな、きのうだな。スーパーに自転車停めてたら、うしろのほうを四十代前半くらいかなぁ? おばさま方が四人組で通ったわけですよ。近くにコンサートホールあるからかな、ちょいとおしゃれしてて、駅の方に歩いていくわけですよ。仲睦まじいわけですよ。○○ちゃんはどう思う?って相手のことをちゃんづけで呼び合ってるわけですよ。まるで中学生みたいな仲の睦まじさだったわけですよ。いいなーってなったよね。なごんだ? そうでもない? なごんで! きょうはちょいサボってしまったので、あしたからなんもしたくないなー。なんもしたくない。がんばりたくなーい。だらけてたーい。書くことなさすぎてあれだな、ミニアメリカンドッグ温めてたべてしまった。書くことないときの基本ですよね。とりあえず書くために、書けるネタを集める。なにかすればそれがネタになる。ユーチューバーの行動原理と変わらんな。見習うべきはユーチューバーの行動力やで。言うても、なんもしたくないから物書きなんて、しゃべれるタコにもできることしてんだけどさ。ねえ、しってる? さいきん、音声入力なんてあるんだって。しゃべるとかってにテキストになるの。逆カラオケ状態。歌えば歌詞が文字になる。すごくない? もうホントしゃべれればタコにだって物語がつむげる時代なんですよ。腕とかいらない。八本とかジャマ。むしろ声がだいじ。だべりの時代。すごいな。物書きいらねぇな。だとすると重宝されるのは編集力になってくるわけですよ。誰であっても大量の文章をつむげる時代ですからね。誰もが物を語れるのだから、あとはいかにそれを目を通すに値する加工物にするか。編集、まじだいじ。でもだからこそ、編集を意識して物を語れるかがこれからの十年の気運を左右していく。ヴィジョンと言えばそれらしい。文字に興せるヴィジョンなぞ高が知れている。文字に興せないもの、物語にしなければ伝え得ないものを、どれだけ最初のうちに思い描いていられるか。アイディアではないのだ。ヴィジョンをアイディアで肉付けしていく。それはどちらかというと即興にちかい。フリースタイルをショーに昇華できるかがこれからの課題だ。再現不能なものを、再現していく。ブランドとはいつの世もそういうものであろう。まじめか!



1220:【しんみ】

そっかー。たいへんだね。ぼくが思うに、きみはすこしがんばりすぎかもしれないよ。ちょっとくらい休んだら? じゅうぶん休んでる? これ以上はサボれない? そんなことないよ。いっぱい疲れてるもん、そんなにボロボロだし。だってなに? そうしないと生活できない? めいわくをかける? きみが身体こわしちゃうほうが意味ないよ、めいわくだよ、なに言ってんの、だって心配だもん、ぼくがこまるよそりゃそうだよ。ちゃんと休んで。いっぱい寝ること。なにもしない時間がだいじなんだよ、ちゃんとぼーってしてる? どうやったらぼーってできるのって、そこから? 重症だなぁ。あたま空っぽにして映画観ればいいよ。おもしろそうな映画のひとつやふたつはあるでしょ? ないの? じゃあジブリとか細田監督の映画とか、なんだったら「君の名は。」でも観ればいいよ。なんでもいいよ、マンガでもいいし、小説でもいいし、山に登ってもいいし、散歩してもいい。とにかく、ふだんしないことをしてみよ? おふとんにくるまって二度寝するでもいいんだよ、十時間以上寝てみたりさ。夕方まで寝てみるとかどう? さいきんしたことある? いいんだよ、グダグダしていいの。ぼくがゆるす。命じたいくらいだもん。グダグダしよ? いっしょにグダグダできたらいいんだけど、でもそばにいたらぼーってできないでしょ? ひとりのほうが落ち着くでしょ? きみはちょっと気ぃつかい屋さんだから。そんなことない? またそんなこと言って。もうそれがすでに気ぃつかいでしょ。魔法使いが炎でマホウつかえませんって文字書くようなもんだよ、きみはちょっと抜けてるよね。そういうところきらいじゃないよ。でも、できたらもっと頼ってほしいな。わがまま言ってほしいし、傷つけてほしい。うるさかったらうるさいって言っていいんだよ。イヤならイヤだって言っていいの。ぼくがゆるす。命じたいくらいだよ。それでも言ったあとでイヤなことがあるかもしれない。そしたらぼくに怒ればいいよ。おまえのせいだって、おまえが命じたからだって、ぼくに当たり散らして。ぼくだってそうなったら黙ってないで怒るかもしれない。いっしょにケンカしよ? で、怒鳴りあって、もしかしたら泣いちゃうかもしれない。でもいいんだよ。そういう気晴らしがあってもいいと思う。だいじょうぶだよ。きみが何を言っても、どんなことをしても、ぼくから必ずごめんなさいって連絡とるから。会ったときに、避けたりせずに、このあいだはごめんねってちゃんと言うから。いいんだよ。グダグダして、感情的になって、理不尽なこと言って、八つ当たりして、きみにはそういうものが必要なんだとぼくは思うな。なにより、ぼくはきみのそういうものになりたいんだけど、どうでしょう。なにがって、なにが? よく分かんないね。とにかく、きみはもっとグダグダすること。しっぱいしたら、おまえのせいだって言いにきてね。ぼくだって言い返すけど。だいじょうぶだよ。きみがたくさん耐えてて、もっとがんばりたいって思ってるってこと、ぼくはちゃんと知ってるから。きょうはもうおやすみ。きみもいっぱい夢を見て、たくさんイビキを掻くといいよ。



※日々何もせずとも死に近づく。



1221:【ペットボトン】

確率を操る競技がある。名をペットボトンという。運命を捻じ曲げるスポーツとして名高く、古くは紀元前までさかのぼる。羊飼いたちが手持ち無沙汰になったとき、或いは見張り役を押しつけあうときにそれは行われた。手持ちの水筒を投げ、うまく垂直に着地させる。投げる際、水筒を宙で一回転させなければならない。ルールは単純だが、水筒には水が四分の一ほど入っている。裏か表か、とコインを投げるのとはわけが違う。時代の変遷に伴い廃れたそれら風習が、西暦二千年代、情報社会の到来によってふたたび脚光を浴びた。火付け役は一人の少年だった。インターネット動画投稿サイト「YOUTUBE」にて、水の入ったペットボルを放り投げる動画を投稿した。映画を観ながら、自転車に乗りながら、自動車の助手席の窓から、あらゆる状況からでも、少年の放ったペットボトルは地面に垂直に着地した。動画はまたたく間に閲覧数を増やし、二年後には一億PVを記録した。全世界に膾炙したその絶技は、単純なルールと、ペットボトルさえあればできる手軽さから、一躍トップスポーツとして流行した。それから十年、いまではペットボトンは世界大会が開かれるまでに規模を拡げた。これは、そんな現代によみがえった古の風習、新時代のスポーツ、確率と運命を操る競技に人生をかけた少女と、彼女の運命を捻じ曲げたひとりの男の物語である。(つづかない)



1222:【鬼ごっこ】

知覚の裂け目を移動する。追いかける者、逃げる者、その空間内にいるふたりだけが体感することの可能なそれをひとは瞬間移動(セコンドワープ)と呼ぶ。一流のトップアスリートだけがその領域に足を踏み入れることができる。オニゴッコ。世界共通語となったそれは、フランス本場のパルクールと融合し、チェイスタグと呼ばれる新しいスポーツとして昇華された。2020年現在、チェイスタグはXスポーツにて爆発的な人気を博している。2015年から世界大会が開催され、五年連続で1ON1にて王者に君臨しつづけているランナーがいる。国籍、年齢、性別不肖の、名をニージャ。瞬間移動(セコンドワープ)の魔術師として不敗記録を更新しつづける生粋の魔物である。これは、そんな魔物に引導を渡すこととなるスラム出身の万引き少女と、期せずして彼女の才能を開花させることになる元軍人(義足の女)の青春愛憎英雄譚である。(つづかない)



1223:【マネー・ド・ローン】

世界中のマフィアを一晩で敵に回した男がいることをあなたは知っているだろうか。2025年日本時間の10月6日にそれは起こった。マフィアたちの資金洗浄前の裏金がごっそり、たった一人の男の手によって奪われたのである。のちに男には三名の協力者がいたと判明するが、実行犯はその男ただ一人だった。男の名はソージュ・カーン。アフリカ系アメリカ人で、技術者である。結婚三年目にして妻と幼い娘を誘拐された。要求された身代金はとうてい払える額ではなかった。勤めていた企業へ相談したが、前向きに検討するとの回答があるばかりで、時間だけが無駄に過ぎた。警察、企業、犯人たちとの交渉と、あくせく動きまわった挙句に期日は迫り、けっきょく妻と娘は帰ってこなかった。遺体は見つかっていない。カーンは企業を辞めた。彼は退職金を費やし、独自に犯人を追った。職場ではAI開発部門の専属チーフを任されていた。世界で指折りのテクノロジィ企業である。主として彼は、次世代型自律式小型ドローンの開発を指揮していた。カーンは自ら開発した虫型ドローンを駆使し、世界中の諜報機関へのクラッキングを仕掛けた。マフィアとCAIが密接に繋がっていたことを知り、妻と娘の誘拐事件も軍事作戦の一環だと見抜いた。政府は企業へ、軍事利用を目的とした技術提供を求めていた。しかし企業はそれを拒んだ。のみならず、本籍を租税回避地へと移し、経済面でも非協力的な態度を保った。CAIを通じて政府はマフィアを活用し、テクノロジィ企業主要社員への強請りや身内の誘拐を実行する。法外な身代金である。社員は企業を頼るよりない。警察はそもそも当てにならない。企業がマフィアの要求を呑んでも呑まなくともどちらでもよい。呑めば資本を失い、拒めば社員からの信頼を失う。情報の流出をおそれる企業は、部署ごとの機密性をより高めるように働きかける。機密情報を扱う職員の辞職はそれだけですくなくない打撃となる。世界中で行われている裏工作だった。テクノロジィ管理委員会なる組織の推進する軍事作戦だ。調査のさなか、カーンは妻と娘が生きていることを知る。辞職した職員に声をかけ、人質を救ったと話を持ちかければ、十中八九、政府側の言い分を職員は信じるだろう。あとは子飼いの企業や研究所に、戸籍を変えて働かせれば、政府に忠実なテクノロジィ部門ができあがる。誘拐事件は報道管制が敷かれる。職員同士のあいだで情報が共有されることもない。人質は無事保護しておくのが定石だ。しかし、ならばなぜ。カーンは頭を抱える。なぜじぶんには声がかからない。なぜ妻と娘を返してくれないのか。もしふたたび家族で過ごせる日々が訪れるのならば、この身に蓄えた技術などいくらでも擲てる。こちらからCAIの門を叩いてもよかった。信頼できないという一点で踏みとどまる。まず叩くべきは、実行犯ではないか。頭脳を破壊したくば、手足をもぎとれ。手足をもぎとりたくば、備蓄(食料)を狙え。その時間を稼ぐために、まずはなにより目を奪え。カーンは戦術として基本的な行動に打ってでる。CAIへのクラッキングから得た情報をもとに、世界中のマフィアの中枢を把握した。ボスを中心とした主要人物の行動様式から、交友関係、仕事の内容から取引先まで、得られる情報を洗いざらい掻き集める。並行して、世界中の技術者のネットワークに入りこみ、じぶんと同じような境遇に遭っている者がいないかを探った。CAIのデータベースをハッキングしようにも、さすがに現在進行中の作戦に関するデータにはアクセスできなかった。マフィアが仮想通貨の取引所そのものを運用することで裏稼業で得た資金を洗浄していることを突き止めたのと同時期、じぶんと同じ境遇に陥っている者を幾人か見つけた。直接会う約束を取りつけたのは三名だった。ほかの面々は政府と繋がっている可能性が高く、そうでない者たちは、みな廃人然としていた。三人はいずれも各界のはみ出し者だった。DNAを模した記録媒体を研究していた生物学者、超個体のアルゴリズムを人工知能の階層構造に応用した量子物理学者、そして元諜報員の女だ。女は、テクノロジィ管理委員会の立ち上げメンバーの一人だった。女は自身の家族まで人質にされ、反発したのを期に、FBIへと情報をリークし、処分された。テクノロジィ管理委員の持ちうるAIの演算能力は、世界中のどの機関をも凌駕する性能を誇っていた。たとえネットに繋がっていなくとも、デジタルでさえあれば、改ざんできないデータはなかった。ただし、その形式がゼロとイチでできていれば。カーンの用いるドローンの制御ソフトは、独自の進法を採用していた。図らずもそれは、DNAを模した記録媒体への情報形態を応用したものだった。「テクノロジィの進歩は管理されて然るべきものかもしれない。しかし、何人たりとも他人の人生をデータ化して扱っていいわけがない。ましてやそれを利用して、操ろうだなんて」元諜報員の女を含め、生物学者、量子物理学者、三人の協力を得て、カーンは、ドローンを改良した。新型ドローンは超小型で、短時間の自立飛行を可能とした。巨大な群れとして機能し、高い演算能力を兼ね備え、世界中のマフィアの裏金を一夜にして奪うことも不可能ではなかった。間もなく、資金を断たれたマフィアは壊滅までの秒読みをはじめる。テクノロジィ管理委員会はそれを看過できない。手足を失っては、紙に線を引けないどころか、導線に火を点ける真似もできやしない。マフィアの裏金のゆくえを追うと共に、テクノロジィ管理委員会はマフィアへ援助を送る。カーンたちはそれを記録し、全世界へ同時中継する。よくできたフェイク映像として何事もなく日常が流れていくが、世界中のテクノロジィ企業は、CAIの裏工作を知り、各国へと働きかける。テクノロジィ管理委員会は解散し、カーンの元には妻と娘が戻ってくる。「手段なんか関係ない。情報だろうがなんだろうが、人を操ろうなんて間違っている」仲睦まじく三人で暮らす家の窓には一匹のコガネムシが止まっている。小型ドローンではないそれは、生身の虫でありながら、電波を発し、その受信先では、元諜報員の女が、真新しいラボにて白衣に身を包み立っている。そばには、生物学者と量子物理学者の姿もあり、三人は巨大な容器を眺めている。容器のなかには黒く渦を巻く細かな何かがあり、女が指を弾くと、巨大な画面を編成する。ひとつひとつの細かな点が発光し、無数の立体映像を展開する。気づくと画面は球形をとり、色彩豊かなモザイク柄を浮びあがらせる。まるでそれは地球のようで、変遷の軌跡を集めつづける。



1224:【コイン積み】

V型アームをご存じだろうか。ロボット工学の粋を集め、生み出されたヒト型自律式義手である。箸を用いて、米粒を縦に積みあげる。人間ならばできて二個が限界だが、V型アームは米粒を十個積むことができる。当初の計画では、遠隔で手術を行うための補助機構として開発されたが、人体を遥かに凌ぐ性能の高さから、2020年現在では外科手術の軒並みがV型アームを使用している。極小の世界では、V型アームに人技が適う余地はない。しかし、そのころ、ひそかにV型アームの性能に迫ろうとしていた人物がいた。名を、無風、という。インターネットの片隅にて、地味に知名度が高いその人物は、コイン積みという、いかにも地味な趣味でやはりひそかに風靡していた。接着剤を使わずに、ゆびのバランス感覚でのみコインを積みあげる。トランプタワーさながらに、不安定な置き方で、それはたとえば、グラスのふちにコインを立て、さらにそのうえにコインの山を積みあげる、といった塩梅だが、日に日にその絶技は、人体の限界に迫っていった。無風の仕上げるコインの組み合わせは、つぎつぎと芸術作品と言って遜色ない色合いを宿しはじめる。V型アームにそれをやらせればおそらく、総じての作品を再現せしめるだろう。しかし、無風の成長具合は目覚ましいものがあり、コイン積みの画像をネットに投稿しはじめてから二年後には、一万枚の一円玉を使った船の模型を、いっさいの「繋ぎ」を用いずに完成させた。無風の特異な点は、それらコインの山を崩す場面を動画におさめるまでを作品と見做している点にある。接着剤や釘など、イカサマをしていないことを、それ以上ない臨場感と共に、無風の動画は訴える。話題が話題を呼び、とあるマスメディアが食いついた。その時期、V型アームの一般家庭への流通がはじまっていた。料理を選択するだけで、V型アームが材料の裁断から炒め物、味付けまで、調理を代行する。その腕前たるや、一流シェフ顔負けだというのだから、三種の神器が数十年ぶりに塗り替わるのも時間の問題だった。だが、なかなか需要がつかない。値が張るだけでなく、場所もとり、調理場の3Dスキャンを業者を通して行わなければならず、なかなかに手続きが面倒な点が一因にあった。安全面の徹底がなされている裏返しでもあり、いちど流行れば自動食器洗浄機と同じく売れ筋になると業者は睨んでいたようだ。プロモーションを兼ねて、コイン積みの達人たる無風を出汁に、V型アームの性能をこれでもかと見せびらかせようと画策した。無風はそのころ、話題になりすぎた自身を省み、SNSを含め、マスメディアへの露出を控えようと考えていた。話題にはなっても彼は単なるしがない保育士だ。ただでさえいそがしい日々から捻出した余暇を、一人黙々とコインをつまみ、積みあげるだけの時間に費やしている。彼はほかにも、趣味でジャグリングをしていた。ハッキリ言って、コイン積みは割に合わない趣味である。もう止めよう、これで最後だ。大作に挑むたびに、自身にそう言い聞かせつづけてきた。V型アームとの競演を決めたのは、一円玉一万枚の船を完成させた矢先のことだった。最後くらい華を咲かせよう。思いきりのよさが講じて、キリのよさに変わることを求めた。無風はV型アームとの勝負に打ってでた。企画は、主催者側、視聴者側、双方の予想をおおきく裏切り、無風の圧勝で終わった。無風が底力をみせた、それもある。どちらかと言えば勝敗を分けたのは、V型アームの繊細さ、なにより無風の並々ならぬ慧眼にあった。V型アームは基本的に、手術室のような密閉状態の、極限まで管理された室内での作業を前提としている。一般家庭への市販品では性能がいくぶん劣るため、この日は米粒を十個縦に積みあげられるスペックを備えたV型アームが用意されていた。反して、収録現場は、スタジオであり、空調は止められていたとはいえ、四方八方からライトが投射され、その熱は無視できない空気のうねりを生みだしている。さらには、この日行われた競技の大部分は、五百円玉を基準とした大量のコインを使用する建設じみた作業であった。必要なのは繊細さよりもむしろ、コインを積みあげていくにつれて帯びていく、物質の重力変化への対応だ。空気のうねりをも考慮にいれ、コインに働く摩擦力から斥力、電磁気力(静電気)、位置エネルギィの変化と、単なる物質の積みあげで終わらない、目に見えないチカラの均衡を見定める演算能力が欠かせなくなってくる。言い換えれば直感が物をいう領域に、その日、無風とV型アームは立たされていた。無風には、人工知能ですら感知できない空間認識能力があった。秀でていたのは指先の繊細さだけではない、並々ならぬ知覚の敏感さにこそあった。得られた外部情報から、微細なゆらぎを濾しとり、統合できる能力は、人知の域を超えている。この日の映像がネット上に投稿されてから三日後、無風の元に一通のDMが届く。SNSの通知が煩わしく、ネットから距離を置いていた彼がそのDMに気づくことはなく、業を煮やした送り主が、いかにもカタギではない面々を無風のもとに遣わせたのは、無風がコイン積みを趣味ではじめてからちょうど四年目に差しかかる節目の時期のことだった。その後、彼はとある組織の命運を握る重要な役割を熟すことになるのだが、その前に彼が組織に入るまでには紆余曲折、さらなる面倒な言葉の数々を重ねなければならない。無風ではない語り部たる私にはあいにくと、彼のような並々ならぬ能力は備わっていない。言葉が雪崩を起こしてしまわないうちに、ここいらで打鍵のゆびを止めておこう。物体に流れるチカラの均衡を感知可能な無風のように、自身の力量を的確に測ること。できる語り部(オペレーター)の、それが一つの条件である。



1225:【だめな日】

短編つくろうと思ったけど、半端なところで詰まってしまった。チッ。またくだらんこと並べなあかんのか。めんどくさ! なんだろなー。あ、久々にマンガ七冊くらい買ってきたんですよ、でもまだ読んでないんですよ、感想書けないんですよ、じゃあなんで言ったし、っていうね。話題がないいくひしさんですから、ええ。眠いし、がんばりたくないし、でも書くことないし、どうしよってところが今ですけれども。どうしよ。そうそう、ブーストかけたいときに、いくひしよくやるのが、短編つくることなんですよ。長編とか中編って、つくるの時間かかるじゃないですか。すると、そのあいだって達成感がまったくないんですよね。いつ終わるのか、ほんとに終わるのか、いっそこのままじぶんの人生が終わるのかって、そういう不安ともつかない薄暗い感情がふつふつと湧いてきては目のまえをふさぐのですよ。そういうときにですね、こう、短編をつくると、つくったぞー、やれたぞーっていう気持ちになれて、よっしゃこっちもやったるでー、って行き詰まってる長編も調子づくはずなんですけど、短編からして詰まってしまった。よくある、よくあるー。捨て置いたままの短編でピラミッドつくれそう。というか、ここ三日くらいやっつけでつくってる短編あるじゃないですか、ここのうえのほうにあるやつ、これもあと二つくらいつくったら、キャラ総出の短編にしようと思ってたんだけど、なんかあれだな、思ったより長くなりそうで、やんだくなっちゃった。アベンジャーズごっこしようと思ったんですよ。なにかしらうみょうみょしたミッションあって、それぞれ地味な能力じゃないですか、それがこう、うまくミスをカバーしあって、やったぜー、みたいなのをつくろうと思ったんですよ。行き詰まってしまった。本命の中編のほうも行き詰まったままで、だめだめないくひしさんですが、あすもきっとだめだめなままでしょう。だっていくひしさんだし。だめだめでもね、生きてていいんだよって証明したいんですよ。安心してくれ。きみがいくらだめだめでも、いくひしさんには敵わんぞ。上には上がいるものだから諦めてほしい。きみなぞにね、だめだめを名乗る資格なぞはないのだよ。きみね、案外ね、しっかりしとるから。ぜんぜんすごいやつだから。並ぶといくひしさんが惨めになるタイプのあれですからね。おまえごときがだめだめを名乗るなんて万年はやいんだよっつって、いくひしさん不機嫌になっちゃいますから。だめだめ道をおなめじゃないよ。ほんと、いくひしの爪の垢でも煎じて、飲ましてあげたいきぶんだよ。効き目五秒でだめだめだい!って、え? ぎゃく? おまえが飲めって? 煎じてやるからって? やだよ、きたないじゃん。あ、そろそろ文字数たまったかな。だめだめ言ってるだけでけっこういくな。どっかの大王様みたいだな。ってそりゃカメハメハやろーって、ツッコんでくれよな! はい。きょうはここまで。わいはもう寝るんやー。オチなんか知るか―! ぐぅー!!!



1226:【失望はされないほうが好ましいが】

下品な立ち振る舞いや表現はどんな時代であれなくなることはなく(下品の指し示す事象は変容するにせよ)、それらは一律に発信者の評価を下げる方向に働く。異論はない。しかし、一つの属性や、表現、または親や祖先の失言や失態を引き合いにだして任意の人物を不当に低く評価する。そうした判断もまた上品とは言えないだろう(そうした差別的な性質はネットワークの発達によって減少していくだろうと期待したい)。



1227:【差別的教育観】

知能が低い者ほど、合理性の報酬を社会の豊かさと規定しなければならない。反して知能が高くなるほど、合理性は自身の至福の探究として扱って差し障りなくなっていく。より遠い未来を見通し、そこから逆算して個人の至福を求めようとする行動原理が、合理性へと結びつく。前者をA,後者をBとすると、問題なのは、いちどBに転換した者の知能が低下し、本来ならばAに移行し直さなければならないのに、是正されることなくBでいつづけることにある。



1228:【揚げ足とり】

主語が大きいことを気にする人はぜひとも、「私」と「おまえ」だけ構文で物を語ればよろしいのではないか。そこに社会はなく、私とあなたしかいないマッチョな世界ができあがる。



1229:【だいじなこと】

なんども言っているけれど、バカにされているときこそチャンスだ。反論するよりも、まずはさきを進もう。



1230:【かくれんぼ】

じつはこれ、せいだいなかくれんぼやねん。見つかったらいくひしの負け。見つかる前に目標に届いたらいくひしの勝ち。どうしてそんな勝負をしているのかというと、そうすることで、埋もれた大量のガラクタのなかにも、有用なガラクタだってあるんだよって証明できるからだし、そうなったら、埋もれたものにももっと目を向けてもらえるようになるんじゃないか、水の底の泥を掬いあげようとする勢力がつよまるのではないか、と期待するからだ。勝負をする意図は判ったけど、じゃあどんな目標に届いたら勝ちになるのか、そこんところはどうなってるの、ってなると思う。それはね。多くの人からの評価がなくとも、権威からの後押しがなくとも、ただそこにあるというだけで、人類の能力の底上げに貢献する。時代の変遷に影響する。物語という網の目のつむぐ概念の繰り込みを促す。構造を刷新する。そういった媒体の一つに、ただそこにあるだけでしぜんと昇華されること、それがいくひしのいまのところの目標である。もうすこし具体的には、あなたが何かを決意するきっかけになれればいいなぁ、ってことであるし、そうでなくとも、あなたが挫けそうなとき、或いは打ちのめされてしまったときにそれでももういちど道を進み、道を選び直すための、うんとこしょ、の掛け声みたいなものになれたらなって、あなたの背に吹くちょっとした風みたいなものになれたらなぁって、そう思いながら、きょうもいくひしは人類のお荷物である自身から目を背け、都合のよい夢をみるべく惰眠をむさぼりつづけていくのである。



※日々肉体と人格がかけ離れていく、人と話すと同期していく。



1231:【グレートウォールの嫁】

いくひしです。かるく短編つくろうとしたらまた詰まってしまいました。閉じない物語に価値はないので、なんとか閉じきってしまおうと思います。眠いので、あす以降で。なんて言いながら、こっそり映画観ました。ぜんぜん時間に余裕のある生活です。我ながらくそいな。はい。グレートウォールというSF映画で、舞台は中国です。異邦人たる主人公が万里の長城でバケモノの大群を迎え撃つお話ですね。おもしろかったです。女将軍がでてくるんですけど、主人公といい感じになるのに、ぜったい気持ちは通じあってるのに、最後まで恋人にならないところがよかったです。愛情より友情というか、友情よりも信頼というか、結ばれないことで、よりつよい繋がりが見え隠れして、ああそうな、そうなってなる。そっかぁ、こういうのがいまの流行りかもなぁ、と思いました。テンポよくて、話もシンプルで、伏線とキャラの使い方も、お手本みたいなキレイさで、長くもなく、映像も迫力あって、100点満点の映画でした。キャラの過去を詳しく描いたりせず、その人物のいまがどうなのか、目のまえにいる人々との繋がりこそだいじなのだと言わんばかりの、あっさりした具合がたいへんいくひし好みでした。あっさり描かれていながらも、その人物の辿ってきた人生が想像できてしまえるところは、さすがだな、と真似したくなります。そうそう、ようやく買い溜めていたマンガを一冊読みました。「魔法使いの嫁9巻」です。ひょっとしたらいくひし、魔法使いの嫁の感想を書いたことなかったかもしれない。マンガの感想書きはじめる前からのお気に入りなのでね、書いてなかっただけかなぁ、と思います。1~9巻、ほとんど初版のうちに買ってますからね。話題になる前から、こりゃくるな、って思ってた。で、今回、読んで改めて思ったんですけど、いくひし、はちゃめちゃタイプですわ。チセさん。年齢的にはちゃん付けでいけるはずなんですけど、もうね、さん付けでしか呼べませんよね。様ってのもまたなんか違う。さん、なんですよ。おっす、姐さん! みたいなノリで、はよっす、チセさん!ってあいさつしたい。チセさん、まだあのアホンダラといっしょなんすか、愛想尽きたらいつでも俺んところきてくださいよ、待ってますんで、って言って、ものっそい戸惑い気味の愛想笑いを向けられたい。というか、9巻の不死身ネタが、いくひしの性癖にどんぽしゃで。コマからコマへと進むごとに、ですよね、ですよね、あーですよねー!!!って興奮しっぱなしだった。母親のくだりとかね。わかりるー!!!ってなった。なるよね? ならない? なって!!! いくひしね、チセさんどちゃめちょタイプです。タイプすぎて、いくひし、チセさんになりたい。その器よこせってなる。エリアスの手綱を握るのはわいだ!って、目玉とか腕とか取り替えっこしたくなる。もういっそ、そういうキャラとして登場したい。というかそういうキャラ、いますよね。あれ、いくひしだから。そこんところ、よろしく! なにをだ! あい。ここで一句。いくひしの、お気にのキャラは、風の妖精(エアリエル)。おやすみー。



1232:【少女終末旅行6巻】

きょうは少女終末旅行6巻を読みました。最終巻ですね。さびしいです。ユーとちーちゃんのふたり、物語のキャラたちも旅の終焉を予感しつつあって、最上階に近づくにつれて、いつも陽気で役に立たないユーがあべこべに、マジメで頼りがいのあるちーちゃんを励まし、支えるようになっていく構図は、なんだか人というものの本質のひとつを垣間見たようで、あー、あー、って思わずうらやましく思ってしまった。ぜんぜんうらやましく思える境遇ではないのに、場面ではないのに、世界ではないのに、だってとっくに終末なんですよ、終わっちゃってるんですよ、単なる残りカスというか、燃えきったあとの煙のようなものなのに、それでもぜんぜん、ユーとちーちゃんの関係性は、いいないいなーってなる輝きを仄かに放ちつづけるわけなのですよ。口にしたくないし、それははっきりと描かれているわけではないのですが、彼女たちは遠からず死ぬ運命にあるのです。でもそれっていくひしたちだって同じで、それに自覚的であるかどうか、実感しやすい環境にあるかどうかの違いがあるだけで、ユーとちーちゃんのふたりはもう、とっくにそういう感傷からは抜けていて、どちらかというと、目的地に辿り着いて、じゃあつぎはどうしよーねー、っていう、これはそういうひとつの節目なわけで、けっして物語の終焉などではないのです。彼女たちはだってまだ生きているのだから。仮にあと数日の命だったとしても。日々の継続の延長線でしかない。希望があるわけじゃないし、絶望しなきゃいけないわけでもない。救いなんてとっくになくなった世界で、それでも彼女たちはまえに進みつづけ、旅をしつづけて、そしてようやく辿り着いたてっぺんで、くつろいでいる。世界はとっくのむかしに終わってしまっているかもしれないけれど、彼女たちは生きている。すくなくとも、本を閉じたとき、そこにはまだ彼女たちの声が、息吹が、なにもない世界に響いていた。それはそれとして、いくひしだって、ユーのおっぱいに包まれてねんねしたい。ねんねしたいのだー。ちーちゃんが心底うらやましい、いくひしまんでした。



1233:【いべんと】

人前で成果物を披露する。いくひしの苦手なものの最たるものだ。かってに覗かれたり、見られたりする分には、まだよいというか、好きではないけれど拒むほどのものでもないが、見てください、と意気込んで、何かを披露するのがその場から逃げだしたくなるほど苦手である。見られることと、見てもらうことには天と地ほどの差異がある。見たい見たい、と求められるのか、しょうがねぇな見てやるか、と重い腰をあげてもらうのかの違いだ。相手に損をさせることが前提にあるように感じてならず、また、損をさせてはならないのだ、とする意識が働く。するともう、ふだんどおりに振る舞えなくなる。よく見てもらいたい、よく見せたい、という意識が、かんじがらめに身体を縛りつける。自由ではない。しかし、プロとはそういうものなのだろう。相手の時間を無理を言って奪い、損をさせることを覚悟のうえで、それでも損をさせないようにあれやこれやと苦心する。損をしたと思われれば、文句を言われても仕方なし、その苦言を受け止める器も端から備えておかねばならない。それをして、助言だと見做せるならばたいしたものだが、そこまで図太くはなかなかなれない。損をさせておいて、その文句をして助言だなどとどうして思えるだろう。すみませんでした、とあたまをさげて、腹でも割きたいきぶんになる。それくらい、相手の時間を奪うというのは深刻なことだという認識がどこかにある。相手から対価を得ていたならばなおのことだ。しかし、その罪悪感を呑みこまずにはプロにはなれないのだろう。仕事が休みの日にわざわざイベントに出掛け、成果物を披露するなんてよくできるなぁ、と感心する。それで食べているか否かとか、そういうこととはまたべつの次元で、プロだなぁ、とため息がでる。上手とか下手とか、それ以前の問題だ。けっきょく、いくひしはアマチュアなのだろう。否、単なる甘ちゃんなのだ。プロにはとうていなれそうにない。



1234:【早乙女選手、ひたCITY】

腹筋女子は好きですか、好きです! きょうはいくひし大好き、「早乙女選手、ひたかくす5巻」を読みました。かつてないほどボクシング要素が薄まり、リング外の早乙女選手の日常が描かれていて、そうそうこれこれ、となりました。戦っている早乙女選手もよいけれども、そうでない日々の、選手ではない早乙女さんも見たかった。つよいオナゴの恋する乙女の、抜けてる一面が垣間見られて我はたいそうほくほくじゃ。早乙女選手には恋人がいるわけなのですが、ぜんぜん許せる。しあわせになってほしい。応援する。したい。させてくれ。後押ししたくなる稀有なラブストーリーでもあるのだね。いいねいいね。とくに、マネージャーとの掛け合いとも呼べない、ただ一方的にいじられてるときの早乙女選手はサイコーかよ。かっこいいオナゴの恥辱の念にもだえる姿は必見です。次巻、物語が大きく動きだしそうで、はやくつづきが読みたいです。もういっそ、早乙女選手の性別とか関係なくなってきてますな。人間として魅力的だと思います。こちらからは以上です。はい。で、いちにち一冊にしようかと思ってたんですけど、読んでしまった。「CITY4巻」です。キャラが多くて、3巻まではなんかごちゃごちゃしてるなーって思ってた。すみませんでしたごめんなさい! ぜんぜんよかった、なるほどなー、こういうのがやりたかったんですね、ちゅき!!! もうね、ちゅっちゅしたい。群像劇としてこれ以上ない演出ではないでしょうか。ラストのほうの四ページかそこらの見開き、ウォーリーを探せみたいなとこ、なんどページをぱたぱたやって、見かえしたことか。おもしろーい!!! ページをめくらせるだけでなく、戻ったり、見かえしたり、ぱたぱたさせることを前提にするマンガがかつてあったのかと。伏線とかそういうのでなく! あーなつかしい感覚がよみがえっちゃったよ、ウォーリーを探せのあの興奮、目を皿にして紙面にえいやと跳びこんだあの高揚、ホントなつかしい。なんで忘れてた?ってなった。南雲さんがね。やっぱりいいですよね。しっちゃかめっちゃっかキャラなのに、一本抜け目のなさがスンと通っていて、憎めない。あと双子のうみちゃんとそらちゃんのコンビも、ここにきて、ぐっときましたね。登場キャラの八割がみんな子どもというかガキんちょか!と突っ込みたくなるキャラでして、そのなかで本物の子どもを描くとなるとけっこうむつかしいと思うんですよ。だって周りがみんなガキんちょなのでね。そこにきて、まー、お兄さんを使ったり、お母さんに叱らせたり、あれやこれやで子どもっぽさを演出する。でもじつはいちばん子どもっぽさをだすのに有効なのは、背伸びした言動とか、ぱっと切り替わる喜怒哀楽なのかもしれません。なによりすごいなと目を瞠ったのは、ラスト付近にある見開き四ページのなかのうみちゃんとそらちゃんの、絵だけで表現された子どもっぽさ。しゃべらせるよりむしろそちらのほうが、あ、子どもだ、ってなりました。よく見てるなー、と特徴の捉え方というか、印象操作の巧みさに思わず、なんどもぱたぱたページをいったりきたりしてしまいました。いいですね、いいですね。すばらしい。きょうは元気なかったけれども、元気でました。げんきでたよ!!! うそじゃなーい。はい。もう寝るだけなんですけどね。おやすみー。(CITYのうみちゃんとそらちゃんのやつ、ラストの見開きの子どもっぽいのは、しあちゃんでした。間違ってましたご愛嬌)



1235:【パフェ食いたい】

パフェ食べたいんですけど。どうしよ、午前零時なのにどちゃむちょパフェ食いたい。いつもは肉ぅぅうう!ってなってるところなのだけれども、きょうは卵かけごはん食べたばっかだから肉はまぁいいやってなってる。パフェ食いてぇ。いくひし、イチゴよりバナナ派。あなたは何派? いくひしはちいちゃいころからチョコバナナって決まってんだ。バナナそのものはそんなに好きじゃないんだけど、バナナ味は好きでね、なかでもチョコバナナには一目置きつづけてウン十年。いったい何個の目を置いてきたんだって話ですよね。話でしたか? 生クリームがね。いいですよね。このあいだあまりにひもじくて、生クリームだけむにむにむにって絞りだして食べちゃった。あるんですよ、生クリームをむにむにむにって絞れる状態で売ってる生クリームが。なんか子どものオモチゃみたいな箱に入ってて、むにむにむにって口んなかに絞って食べた。胸やけした。カロリー!!!ってなった。重すぎた。パフェくらいがちょうどいいってここまで並べといて今気づきましたけど、パフェじゃなくてクレープっす。食べたいのはパフェでなく、クレープ。あるあるー。いくひしがよく間違える単語ベスト10に入りますよね、クレープです、クレープ。うんみゃ、パフェも好きなんだよ? でもクレープもね、クレープも好きなんです。はぁ、食いてぇ。クレープ食べたいってだけでこんだけ引っ張りましたけど、よっぽど書くことないんだなって察していただけるとありがたい。あ、なんか今、みそラーメン食べたくなってきた。あまりに糖分が足りなくてスティックシュガー舐めてたら、急にみそラーメン食べたくなってきた。でもないのでね、食べたーいって言うだけ言って、きょうはもう寝る。あ、ブラッククローバー15巻読みました。表紙の姐さんがね、大活躍でうれしいです。あと暴牛のヤミ団長のね、カリスマっぷりがすさまじくて、ブラッククローバーのなかでずば抜けてキャラが立ってます。真似できないリアルさがあるのはなんでじゃろ? ヤミ団長を主人公としたスピンオフ作品が読みたいなーと思いながら、みそラーメン食べたい、とつぶやいて、きょうはもう寝ようと思います。あ、ひょっとしてこれ、かつてないほど中身のない文章では? すごーい。



1236:【導入】

物語の冒頭には大きく分けて四種類ある。ひとつは、その世界観に馴染ませるようにじんわり展開を進める方法で、ローファンタジィに多い。ハリーポッターは典型的なこれである。もう一つは、最初から一つの物語の最終局面からはじめて、実質その終わった物語のつづきからはじめる手法だ。便宜上、ここではそれをインパクトと呼ぶ。ミッションインポッシブルなどではシリーズを通して、おおむねこの手法が取り入れられている。いきなりガツンと視聴者の目を奪うのに適している。三つ目は、変化形で、ラブストーリーと見せかけてSFだったり、SFと見せかけてファンタジィだったりと、導入でいきなり予想を大きく裏切る演出を取り入れる。インパクトの亜種のようなもので、これはジャンプと呼ぶ。導入部分をいかに独自性高くするかに力を入れるため、名作や形式美を破ることで印象値を高めることが多い。その分、うまく調整しないと見切りをつけられる要因ともなるので扱い方がむつかしい。類例を挙げられるほど普及してはいないが(マトリックスはその走りかもしれない)、これからはこのジャンプが台頭してくるだろう。そして四つ目となるが、インパクトとジャンプでつねに物語が進行していくタイプのもので、導入だけでなく、すべてがクライマックスの連続の物語である。これも類例を挙げることはむつかしい。大ヒットしている連載漫画は基本的にこの起伏の激しい波型の物語である傾向が高い。あなたの好きな作品は、どんな導入をしていますか?



1237:【ついに】

ついに電子書籍(KDP)の売り上げが100円になってしもうたー!!! はい。いくひしさん、33冊も電子書籍にしといて月の売り上げが100円です。もうね、ぜんぜん売れない。びっくりする。キンドルアンミリテッドで、読まれた分だけお金もらえるよーってので、月200ページくらいあって、ようやく100円をいただけている状況です。読んでくださってありがと~! あなたがいなけりゃいくひしさん、いじけちゃうとこだった。よかったー。ゼロじゃなくて。思ったんですけど、アンミリの読まれた分だけってやつ。ひょっとしてアンミリに加入している人に読まれた分だけ、って意味なんですかね。いくひしたまに、三か月に一度くらいの頻度で無料配布してるじゃないですか。だいたい新作だと20冊くらいダウンロードしてもらえるんですけど、旧作の場合は、下手すりゃ〇冊なんですけど、それでもぜんたいで、1000冊くらいはダウンロードされてると思うんですけど、さっぱり読まれてる感じしないのは、ひょっとして、アンミリに登録してない人が読んでも既読換算されないのでは? ちがう? 希望的観測? ただ読まれてないだけ? そっか。おちこまない!!! いいんだ、いいんだ。いくひしさん、ぜんぜん余裕あるから。歯ぁくいしばって耐えるから。いつかはきっと、第二第三のいくひしさんに届いて、なんだこりゃーって人生を棒に振るくらいの衝撃を与えてやるんだ。道連れにしてやる!!! はい。読んでくださって、ありがとうございます。ほんと、それだけはウソじゃない。ありがたい。感想とか評価とか、対価とか、もらえたらそれはそれでうれしいけれども、読もうと思って手にとって、そいで最後まで読んでしまった、その体験に比べたら、その他もろもろの報酬なんて月とスッポンポンですよ、いくひしの裸体みたいなもんですよ、ちらっとくらいなら見てもいいけど、じっとは見たくない。そんな感じです。なにがだ? はい。カクヨムでも無料で読めますのでね。ぜひぜひ、おひまな時間のすりつぶしに大抜擢してやってください。根暗なあのコとのお近づきのしるしに、いくひしの作品群をすすめてみるなんてのもオツではないでしょうか。そのままお通夜みたいな顔になっちゃう未来しか見えませんが、まあ、いくひしのせいじゃないのでね。ぜひぜひ、責めないでいただけるとうれしく思います。なんの話だ??? はい。では、ごきげんよう。おやすみー!



1238:【予感】

これは単なる予感なのですが、これからの三年間で、小説は基本的に短編でなければ読まれない流れになっていくのではないかと思っています。連作短編や、一話完結ものが主流になっていくのですが、なぜかというと、一つは、試し読みに適しているからです。第一話は基本的にWEB上で無料公開し、試し読みで合う合わないを判断してもらう。まずは読者に無料で選別可能なサービスを提供しないことには、そもそも購入ページまで飛んでもらえなくなるのではないでしょうか。それから、長編の場合でも、はじめに短編で読者にその物語に馴染んでもらい、もっともっとという要望を高めてからでなければ、長編すべてを読了するにはハードルが高い、というのがもう一つです。長編は読むのに時間がかかります。読者からすれば、まずは短編で、この作者のオチは、自分にとってカタルシスになるか否か、というところを味見しておかないことには、なかなか手はだしづらいでしょう。そういう意味で、要所要所でカタルシスを用意する、連作短編風長編というのも重宝されるようになっていくのではないでしょうか。もしくは連作短・中・長編(組み合わせ自由)といった、変則的な小説も商業出版の戦略として有効だと考えています。あとは、これからの流れとして、映像化というのはどういう方向性であれ、小説を売るためには必要な過程のひとつとなっていきますから、短編で構成されていることは映像化するうえでも利点となります。ただ、現在のWEB小説のように細かくエピソードが連なっている物語は、連載向きではありますが、一気読みには少々不向きだという点には注意が必要かもしれません。中盤で一気に畳みかけるような、最初のほうのエピソードが連鎖して大きな物語になるような仕掛けがあると、物理本の売れ行きに多少の追い風を期待できるようになるのではないかな、と妄想しております。そういう意味ではやはり、連作短編や連作短編風長編、連作短・中・長編(組み合わせ自由)などは有利になっていくのではないか、とやはり妄想せずにはいられません。その延長線上には多重構造の物語が登場してくるわけですが、ここでは主題と離れますので、触れるだけに留めておきましょう。単なる予感です。そうなったらいいな、という願望が八割ですから、ふうん、と右から左へと聞き流しておくのが賢そうです。ともあれ、参考にならないという意味で、すこしくらいは参考になるとよいのですが。ノブレスオブリージュ。あなたが今後の救世主たらんことを。おやすみなさい。



1239:【ゾーン】

身体のなかの奥のほうにそれは広がっている。深いモヤを潜っていく、或いは昇っていくと、やがて境界のあいまいな領域を越えて、辿り着く箱庭がある。そこに足を踏み入れることでぼくはぼくではない声を、言葉を視ることができる。アクセスしていないあいだのぼくは単なるぼくであり、そこに言葉はなく、動く肉塊があるばかりで、そこに思考と呼べる複雑で秩序ある回路は宿らない。ぼくはそこにアクセスしているあいだだけ、ぼくではない何者かの声を聴く、言葉を視る。ここにある言葉たちの多くは、そこからやってきた。降ってきた。流れこんでくる言葉の多くを、ぼくはただあとになって眺めることでしか読解する余地がない。それは、ここではないどこか、ぼくではないどこかからやってくる、聴きなれぬ旋律、底しれぬ律動である。



1240:【本気】

いぐびじでーず。ごんばんば。あれっす、なんか身体が痛い。背中が痛い。基本、いくひしさんまいにち筋肉痛なんですけれども、この痛みはあれですね、筋をやっちゃってる感じのあれですね。遊びすぎた。いくひしさん、あんましお利口さんではないので、物事の楽しみ方がひっじょーに雑で。とにかく本気だせれば楽しいみたいな脳回路してます。本気だせる=楽しいから、みたいな刷りこみ教育のたまものです。たまものですか? 知らんけど、ただね、ただ、もうお歳なわけですよ。五歳児みたいにはっちゃけて、いちにちじゅう走り回っていられる体力なんてもうもう、とっくに失われてひさしいわけなのですよ。そこにきて、じゃあ、どうするのって、日々のお遊びですよね。本気をだせる時間がかぎられてくる。するともうね、もう、ときどきしか本気をだせなくなる。したら身体だってびっくりして、だってひさしぶりだし、たまにしか使わない筋肉は衰えていくわけですから、いきなり出力100とかだしたら、そりゃーちぎれるものはちぎれちゃうさだめにあると思うわけですよ。背中いたいんですけどー!!! テコの原理ごっこしたら背中の左側のけんこうこつの奥がイタい! 遊びすぎには注意しましょう。歳を考えろと。五歳児じゃないんだぞと。ぴちぴちじゃないんだぞと。みずからに言い聞かせながら、まいにち本気だせたらきもちぃだろうなぁって五歳児になりたい願望を募らせる、本日のいくひしまんでした。なんか短いな。もうすこし並べとくかな。んー、なんだろ。いくひしこう見えて、下ネタ苦手です。実生活で口にすることはまずないです。や、下ネタ好きなひとたちとしゃべるときは合わせて下品な話題でぺけぺけするけど、べつにそんな好きなわけじゃないし、そもそもしゃべるひとがいない。下ネタ苦手。信じてもらえんかもだけど。おまえの小説、下ネタやん、みたいに思われるかもしれないけれども、いくひしとしてはべつに下ネタを扱っているつもりはないのです。シモをネタにしているつもりはない。物語の都合上、それがでてきちゃうだけで。避けては通れなかっただけ。や、そんな言うてますけど、エッチなマンガは大好物ですよ。でもそれはそれ、これはこれ。なにがだ? はい。エッチなマンガもきっとシモをネタにしているわけではなく、描こうとしたさきのモヤモヤを避けることなく、真っ向から見つめて描きだしたものがそれだっただけだと思います。ちがいますかね? ま、いっか。おやすみー。




※日々失望ばかりしていくのに、望みは枯れることなく湧きつづける。



1241:【酔っ払いが苦手】

酒に頼る人間だけは信用しないことにしている。アルコールで事故を起こす人間は多いが、大麻を吸って交通事故を起こしたという話はめったに聞かない(大麻を吸っている人間がすくないからだ、とする反論は認めます)。飲酒も嗜好用大麻の解禁もどちらも肯定していないが、すくなくともアルコールが大麻より安全だとは微塵も思っていない。自我を保てなくなるほど酩酊してしまう人間とは関わりたくない、せめていくひしのまえでは酩酊しないでほしい、というのが本音であるが、おそらくこれも差別の一種であろう。平等な態度を心掛けよう。とはいえ、酔っていることを免罪符にして他人にちょっかいをだすやからは、殴られても文句は言えないと思う。殴らないけどね。



1242:【台所のドラゴン】

マンガ「台所のドラゴン1巻」を読みました。書店さんで目が留まり、お?と思いながらいちどは見送ったマンガなのですが、どーしても気になってもういちど書店さんに行って残ってたらお持ちかえりしよう、と決めてて、いまはウチにいます。はい。ヨッタ(メッチャ)好みでした。登場人物みんな好き。家の中を縦横無尽に徘徊するヤモリを「せんぱい」呼びして気にせず生活を送る主人公の、おやきみはあれだね、みたいな独り言がどぅっきゅーんきます。産まれたてドラゴンもかわいいし、お世話を焼いてくれる隣人の親子もいいキャラしてます。絵柄がイマ風じゃないのが物語の空気感にあっていて、全体的にくりくりしているのがかわいいです。いまのところのいくひし、ぜひおともだちになりたい主人公2018年度版NO1候補です。孤独が苦じゃない、好きなことにまっしぐら、順調ではないけど前向きにコツコツ日々を送っている、自然のなかでも楽しめる、散らかった部屋にいてもイライラしない、同居人(生き物)にやさしい、さみしさは感じていないけれど、寄り添いあえるよろこびを素直に感受できる、絵が上手、これだけの要素を兼ね備えていて、ともだちになりたくない人なんているんでしょうか。いたらいくひしのところまできてほしいです。あなたは性格が歪んでいるで賞をさしあげます。いくひしはその賞の永久名誉受賞者に任命されているので、じっさいには、あなたはいくひしのつぎに性格が歪んでいるで賞になりますが、なんにせよ世界一性格のねじまがったいくひしさんのお墨付きですからね、ええ。胸を張って受け取ってほしいと思います。感謝しろよ! はい。おやすみー。



1243:【感想の効用】

作家にとって、いただけた感想は、何も見えなくなったときの松明の明かりみたいなものだ。どん底に落ちたときにこそそのありがたみが身に染みる。



1244:【つくりかけ】

2018年4月8日げんざいで、つくりかけの小説が8~10個あります。数年前から止まっているものから、すでに閉じた中編小説のつづき、それから気まぐれにつくった短編の閉じきらなかったやつ、そして最新作が3つです。ボツにしたものは勘定に入れていません。ひとまず、これらをつくってからここの「いくひ誌。」を電子書籍化する作業を進めていこうと思っています。来年のいまごろを目途にだせたらいいなと妄想中です。たぶんそう思っているということはムリでしょう。なので、再来年にはだせるかな、と大目に見積もっておきます。つくりたいものが多すぎる。日々あたまのなかでボツになっていくアイディアがさらさらと抜け落ちていきます。可能なかぎり、短編にして生み落としてあげられるように意識していこうと思います。ということは、再来年でもムリかもしれません。すこしはムリをすることを覚えましょうね、いくひしさん。



1245:【伝えたいことなどはない】

言いたいこと、書きたいこと、伝えたいこと、物書きとして必要なのはそうした根源的な情熱だと主張する人もいる。かつてはそうだったかもしれない。現代であっても、社会から取り残されている人たち、はみ出している者たちの一部は、情熱を言葉に変換するだけで充分に物書きとして通用するだろう。しかし、いまは誰もが言いたいことはSNSにつぶやけ、書きたいことはメディア端末に記し、ラインでもブログでも、気が向いたときに好きな場所にアップできる。伝えたいことは、文字に書くことなく、口述した動画を共有サイトに投稿すればいい。いまの時代、情熱がある者ほど物書きにはならないのである。なぜかと言えば、効率がわるいからだ。合理的ではない。ならば物書きにとって、文字でナニゴトカを表現する意味はあるのか。しょうじきな話、ほとんどないような気がしている。わずかばかりに残された意味ですら、文字で書くことそのもの以外にないのではないか。文字に興すことに意味があり、文字に興したことで意味は霧散する。あとは、それを使って二次的に欲求を満たせるか、極めて即物的な選択が生じるのみである。端的に、金になるのか、である。他者からの評価にしても、つまるところその指標は、経済社会のなかでは、金に換えられるか否か、が焦点となる(自己評価はそのかぎりではない)。多くの者の目に留まることができれば、評価を受けやすく、また潜在的需要者の目にも届きやすくなる。では、物書きとして、並べた文章をどうすれば、絵や映像にひけをとらない効率のよさで多くの人々に受信してもらえるのか。できない、と結論付けるよりない。完敗である。負けを認めたうえで、では、どうするか。利用できるものを利用するか、或いは、多くの人々に拡散することは諦め、必要としている人のもとに届くようにマスをしぼるのがよいのではないか。ただし、問題は、それを必要としている者が、自身でそれが必要だと気づいていないことが往々にして有り触れている現実である。ともすれば、それが必要なのだと自覚させるための媒体になることこそが、現代の物書きの、最後に残された意味かもしれない。ややもすれば、それは洗脳との区別がつきにくい。ほとんど同じと言っていいかもしれない。だが、それでも気づかぬままでいるよりかはよいはずだ、そうにちがいないと信じたい。物書きの表現を、言葉を、受容した者が、気づけてよかったとあとになって思い返せるようなものをつむげるように、日々、あーでもない、こーでもない、と無駄な時間を費やす、ただその繰り返しがあるばかりである。目を背けるのはやめよう。本質的に現代の物書きとは、無駄な時間を費やすことなのだ。ことこれほど時間に追われ、選択肢に溢れ、いともたやすく正答を手にできる時代にあって、多くの者が埋めてきた空白を、無駄な時間として代わりに費やし、懊悩する、ただそれしきの意味があるばかりである。なればこそ、言いたいことや、書きたいこと、伝えたいことの尽きたあとでこそ、物書きの真価が問われるものなのかもしれない。人生を棒に振り、自在になった棒を、よそさまの辛みにとそっと忍ばせてやる。場所は選べないので、運よく「幸」になることを祈るほかないが、ないよりかはあったほうがよいだろう。すくなくとも「辛み」ではなくなるはずだ。そうだ、そうあってほしい。望むばかりで、益体なし。物書きとはそういう、無駄な時間に人生を費やす、モノグサである。しかし人は、考える葦である。いずれみなナニゴトカを考えている。物書きとは、すなわち人であることの宣言でしかないのだろう。私は人です、と言いたいがために物を書く者だけが、最後までそれに縋るのだ。なんとも虚しいサガである。じつに、無駄な時間といった塩梅で、清々しいくらいに、いじらしいではないか。私は、そういういじらしい者のために、日々こうして無駄に棒を振っていたい。とはいえ、いくひし、てめぇはダメだ、排除する。



1246:【自己肯定感が低くなる環境】

誰のことも責めちゃダメな世界は、回り回ってじぶんを責めるしかなくなるのだなぁ。他人を責めても責めなくても、じぶんの首は締まっていくのだ。これはもう、責める、という概念を消し去るほかに術はないのでは?(そしてそれが可能な社会になりつつある? ほんとか???)(どういうことかというと、これからの社会におかれては、問題提議される問題そのものが、一定期間放置していても即座に死活問題にならないものしか俎上に載らなくなるので、責めるという段階を介さずとも、比較的ゆるやかに変化していくことで問題を解消できるようになるのでは、という願望である。本質的に豊かな社会は、罰則がなくともあらゆる事案に対処可能なのかもしれない。豊かな社会がさきか、寛容な個々人がさきかは定かではないが)



1247:【しょうゆ】

Show youー! こにゃちゃ、いくひしです。前にこう、チャーハンつくるのヘタなんだよーってことをですね、こう、ふにゃふにゃーって並べたと思うんですよ。で、あれからやっぱり三日に一度はチャーハンみたいな生活をつづけていたらいくひし、パラパラのチャーハンをつくれるようになってきました。や、パラパラまではいかん。べちょべちょじゃないよってだけ。でもね、進歩した。やればできるよ! でもね、なんかさすがに飽きてきて、入れる具材をちょくちょく変えたりしてたんですけど、ついにね。卵そのものに飽きてきまして。じゃーちょいと卵の代わりに醤油でも入れてみっかと。実験的な志でやってみたら、まー、なんと香ばしい匂いだこと! 卵チャーハンよりもひょっとしたらいくひし、好きかもしんない。そういやいくひしさん、お餅でも、ノリを巻いてパリって焼くやつ好きだった。磯辺焼きっていうの? 忘れたけど、そういうのが好き。醤油チャーハン美味しいよっていうね、発見をしたのでね、そのよろこびをお伝えしようと思ったのだけれども、文字にしてみたら地味だな。そこまでの発見ではなかった。そっか。他人のよろこびなんてそんなもんですよね。言われたところでわかりゃーしない。あーこのひとはそんなことでよろこぶのかって、どっかで線引きされるだけだって考えはひねくれすぎですか? だめですか? 性格わるい? そうだよね。あなたみたいなひとならきっと、醤油チャーハン美味しいよってだけの話題でも、わかるーって相槌うってくれると思う。だってきみ、性格いいもんね。いくひしじゃないもんね。似てないもんね。うんうん、いいよいいよ。気ぃつかわなくたってさ。どうせチミみたいなのはともだちいっぱいいるんでしょ、恋人とかいたことあるんでしょ、ひょっとして告白とかされたことすらあるんじゃない? あるの? まじで? じょうだんでなく??? …………醤油余ってるけど飲む? あ、ごめんごめん、なんかいくひしさんの暗黒物質が噴きこぼれちゃった。まあいいけどね。うらやましくなんてないですし。べつにね、恋人の一匹や二匹いたことあるからってなんだってんだ、ともだちがいるからってなんだってんだ、いくひしさんがモテないからなんなの、本気だしたらいくひしさんすごいからな、全世界の老若男女を魅了しちゃってやまないからな、そんなことなったらたいへんだし、めんどうだから本気だしてないだけだから! べつにモテたくなんかないもんね。チヤホヤなんかされたくないし、売れっ子になんてなりたくないもん、いいもん、いいもん、おもしろいマンガいっぱいしってるし。みんながわいわいガヤガヤしてるあいだにも、いくひしたくさんマンガ読んでるもん。たーのしーってなってるからぜんぜんさみしくなんてないし、これっぱかしもうらやましくなんてないんだからな! うそじゃないよ! でも、どうしても、どうーーしてもあなたがいくひしさんと仲良くしたいってんなら、しょうがないなぁ、いっしょにマンガ読んであげてもいいよ。いい? 遠慮しとく? むしろヤダ? なにそれ。…………醤油余ってるけど飲む? いらない? そっか。ごくごくごく。ぷはぁ。コーラうめぇ! おやすみー!!!



1248:【メモ】

ニュートリノは軽すぎる。電子の百万分の一の質量しかない。ただし、ニュートリノがマヨラナ粒子だとすると、なぜそんなに軽いのかの謎が解ける。粒子と反粒子(反物質)が別々に存在するのではなく、同一の粒子であるものをマヨラナ粒子と呼ぶ。そのとき、ニュートリノに対して反ニュートリノは、極めて質量が高くなる。ニュートリノが軽いのは、この反ニュートリノが、質量を奪っているからだと考えれば筋は通る。ただし検証はなされていない。



1249:【多は異】

還元主義は限界を迎えつつある。いまは各種要素が集まることで個々に有された性質とはまた異なった性質を帯びる点に注目が集まっている。個が集まり、その群や系が異なる性質を宿す(ように振る舞う)ことを創発と呼ぶ。還元主義が終わるという意味ではなく、それを元に創発のメカニズムを解明する方向に転換しつつあるという意味である。複雑な自然現象を単純化し、単純化したものを用いて、複雑なものを再現し、理解を深める。いまはバラバラにしたピースを組みたて、パズルを再構築しはじめている時期である。たとえば、相転移、いわゆる状態変化(水蒸気、水、氷など)においても、状態が変化しているように観測できるだけであり、実態はもっと多様な変質が生じているのではないか、との見方が主流になりつつある。一例としてガラスは、分子が結晶のように規則性を帯びて並んではいない。ゆえに液体にちかいが、液体とはまた異なった性質、たとえば見かけ上は固体として振る舞っている。これは、相転移が、プラズマ、気体、液体、固体と、分類できる四つ以外にも、性質が変化する状態が存在することを示唆している。集合し、組織として振る舞う物質の種類によって、または組み合わせによっては、その集合に顕現する性質はそれもまた変質していくものなのだろう。ガラスにしても、人間には流動して映らないだけで、長時間かけて水のように振る舞っているのかもしれない(粘性の極めて高い液体である可能性は否定できない)。そういう意味では、気体と液体のあいだに明確な差異はないのだろう(そもそもを言えばそれらを構成する分子は同じだ)。これは、生命体や自然現象においても同様である。どこまでを一つの集合と見做すかによって、そこに現れる性質は変化する。フレームをどこに設定し、なにを層と見做すのか。これからは、何を視るかだけでなく、どう視るか、視点の数がますます問われるようになっていく。(もうすこし言えば、層を一単位として、ほかの層とどのように相互作用しあうかを観測する。繰り込み式の考え方が必要になっていくだろう。それを単に抽象化と呼べないのは、層を一単位にしたとき、それは具体的な事象として昇華されるためである。原子も、分子も、惑星も、銀河も、ブラックホールですら、それらは具体的な事象なのだ。変化したのは視点である。何を層と見做すのか、フレームの見極めが要となっていく)(※思いついたことを並べているだけです、真に受けないように)



1250:【チェックパーソン】

チェックパーソンという職業をご存じでしょうか。2020年代から徐々に普及しはじめ、いまでは高校生のなりたい職業NO1の座に三年連続で輝くなど、注目を集めている職種です。セクシャルハラスメントに対する意識改革は、2010年代初頭から徐々に勢いを増し、職場でのセクハラ予防策が徹底されるなど、改善の兆しをみせはじめています。とはいえ、セクハラがなくなったわけではありません。性的蔑視だと認識されることなく、平然とセクハラを働く人間はあとを絶たないのが現状です。職場では控えるのに、プライベートでは性的な質問をずかずかとしてくるなんてことは日常茶飯事でしょう。やんわりと咎めてみせても、それを以って、コミュニケーション能力がない、なんて叩かられる始末です。いっぽうでは、過剰にセクハラ認定をして、相手を不当に窮地に陥れる手法が問題になっていることも事実です。痴漢冤罪などは代表的でしょう。どこからどこまでがコミュニケーションで、どこからがセクハラになるかの境界はあいまいです。明確に線引きをするのはむつかしいのが現状です。ですが、すくなからず、それはアウトですよ、と指摘することは可能です。指摘され、認識を改め、微妙なニュアンスのちがいを確かめながら、自らのコミュニケーション能力を磨くことが、現代人には求められているのです。その需要に応えるべく誕生したのが、チェックパーソンです。職場でのセクハラ対策講師として活躍する傍らで、プライベートでの、セクハラにならない口説き方を講習するサービスでも人気を博しています。恋人ではないけれど、上手に食事に誘いたい。或いは、デートまではこぎつけたけれど、そこからさき、どこまでプライベートに踏み入っていいのか分からない。仲を深めていくにしても、段階があります。人によってそれは、階段であり、エスカレーターであり、いっぽうではエレベーターであってもOKなひともいます。あるひとにとってはセクハラで、またあるひとには単なる会話であることもすくなくありません。まずは最低限、誰であっても気持ちよく関われるような接し方を覚えておくのがよいでしょう。エレベーターではなく階段を使うように心がけるとよさそうです。とはいえ、人の歩幅は千差万別、あなたにとっての階段が、他人にとっては絶壁であることもあり得ます。そうした認識の差を埋めるために、チェックパーソンは、適切な「NO!」をあなたに伝授します。それはダメです。いまのはセクハラです。でもさっきの気遣いはステキでしたね。客観的な視点からくだす、主観的な判断基準をあなたに懇切ていねいに教えてくれます。高額プランでは、恋人になったあとでの性交渉の段取りまで指導してくれるチェックパーソンもいるそうですが、そちらはかぎりなくグレーの業者なので、あまりご利用はおすすめしておりません。ただし、顧客の多くは、経済的に裕福で、社会的地位のある人物が多い傾向にあります。そのまま顧客と恋仲となり、結婚をする、なんてケースも増えてきています。現代の玉の輿として、新たなシンデレラストーリーの舞台となっている側面が、世の恋愛至上主義者たちに高く評価されている一因であるのかもしれません。世の中からセクハラを失くすために、あなたもチェックパーソンを目指し、ひと肌脱いでみてはいかがでしょう。



※日々欠落が深まっていく。



1251:【根本的に】

何かを排除し、見かけ上のうつくしさを保つ手法は、創作にかぎらず、日常生活の営みにおいても散見される。掃除や整理整頓はその最たるものだ。わるいことではない。しかし、うわべのきれいさだけを求めても仕方がない、との理屈を前提として定めても極端な反論は返ってこないだろう。いっぽうで、それが創作上の作法ともなると、案外に非難の声が叫ばれるようになる。どんな人間であっても排泄行為はするし、生き物を殺し、生を得ている。醜い考えだとて巡らせるし、そもそもを言えば、観測可能な人格にしたところで、演じられているもの、或いは、演じさせられているものであることがすくなくない。性差から身分差、職業や役職と、社会から求められている虚像を演じることが、人間であることの証とも呼べるかも分からない。本質ではないものを本質として扱い、描くことが、結果として、差別や理不尽な風習を社会にはびこらせる因子の一つになり得る点には注意しておいて損はないだろう。その描写は目にしたくないので描かないでください。そうした要請の声の根本にあるのは、臭いものには蓋を、の精神である。そうした精神が、差別や理不尽な風習を助長する可能性がある点には目を向けておくと好ましい。何かを嫌悪する感情そのものは否定する必要のない、健全な精神の働きである。しかし、その感情を素に、何かを排除しようとする行動には、いくばくかの自制と自覚が必要となる。なぜそれを嫌悪してしまうのか、とまずは自身に耳を傾け、なぜそれが表現されているのかにも耳を澄ませてみると、真に改めるべき根本的な因子が見えてくるようになるはずだ。見えなくすればいい、という手段は、どんなレベルの問題であれ、一時しのぎにすぎない。時間が経過するにしたがい、放置した問題は、さらなる奇禍をまき散らすようになる。臭いものに蓋をしたところで、腐敗はさらに進み、ガスを溜めこみ、いずれささいなきっかけで大爆発や大規模感染を引き起こし得る。これは逆の言い方もできるわけで、なんでもかでも可視化すればいいという問題ではない。なぜ自分はそれを好んでしまうのかにも注視してみて損はないだろう。程度の問題であり、根本的に何が因子かの見極めが必要であるという話になっていく。因子が一つきりとは限らない。また、責任の矛先の定めようのないものが因子になっていることなどいくらでもある。これからは、その責任のないものの改善が求められていく。それは、倫理のちからで行われる是正ではなく、論理として証明可能な筋道を有している。そのためにまずは、見えていないものを視ようとする意思が不可欠だろう。或いは、蓋をされているその中身を想像してみるのも好ましい。



1252:【ふぅー】

えらそうなこと言うのきもちぃーー!!!



1253:【余計なこと言うな】

好感度下がるからやめろ。なけなしの好感度が消えちまうぞ。



1254:【ぷぷー】

あると思ってんの、好感度?



1255:【3月ベストセレクト】

Larry「https://www.youtube.com/watch?v=QNk7pExYOBA」

Kevin Paradox「https://www.youtube.com/watch?v=XzklF-H1Fpw」

BluPrint「https://www.youtube.com/watch?v=gW8SMZx88IA」

ROYAL FAMILY「https://www.youtube.com/watch?v=BiTsCdddews」

Waydi「https://www.youtube.com/watch?v=IHNlxTWgF2Q」

Melvin Timtim「https://www.youtube.com/watch?v=Adzo-qrpj3s」

Neguin「https://www.youtube.com/watch?v=6xAe4ywPeV4」

Thesis「https://www.youtube.com/watch?v=mGxyMAucAf0」

Bam Martin & Vinh Nguyen「https://www.youtube.com/watch?v=m3RK82EIDBY」

Chris Martin「https://www.youtube.com/watch?v=t9EJP9kHs4g」



1256:【蜘蛛人間】

映画「スパイダーマンホームカミング」を観ました。何代目スパイダーマンなんですかね? これまででいちばんキュートな主人公だと思います。かわいい。あと、何気にいちばんヒロインしてたのはスーツレディですね。スーツがですね、しゃべるんですよ。どこのど根性カエルだって話ですよね。しってますか、ど根性カエル。Tシャツに染みこんだカエルが主要キャラのアニメがむかしあったんですよ。観たことはないんですけど。あー、いくひしもスーツレディみたいな、優秀な秘書じみたパートナーがほしいです。人間でなくていい。いっぽうてきに酷使したい。クズです☆ はい。アイアンマンが出てきたりして、なんとか期待に応えようとがんばるんですけど、空回りしちゃうスパイダーマンのきもち、わかるなぁ。がんばりが裏目にでちゃって、それっていうのは、認められたいという欲求の暴走でもあって、ヒーローあるまじき欲望の塊になりつつあるところで、憧れのアイアンマンから失望したと告げられて、一気に目が覚めるというか、どん底に落ちてしまう。ヒーローではなく、地に足の着いた生活を送ろうとする主人公は、それでもどうしても目のまえの犯罪者を見逃せない。否、見逃すにしても、わるいことをさせたくない、あなたのために、あなたの、本当にたいせつなひとのためにこそ、悪の道に走らせたくない、そういうやさしさがスパイダーマンのよいところというか、甘っちょろいところで、あーあー、かわいい。いいですね、いいですね。最後に選んだ道は、じつにもったいなく、それもまた空回りであり、それでも誰かに導かれるのではなく道を切り拓く存在として、主人公はこれからも甘っちょろい正義を、善人悪人分け隔てなくそそいでいくのだね。正義は振りかざすものではなく、そそぐものなのだ。彼にとって正義とはすなわちやさしさなのでしょう。やさしいヒーローは弱い。けれど、弱くてもいい。自らの弱さから目を逸らさず、立ち向かえさえすれば。そういう甘っちょろい正義をいいなと思わせてくれる、稀有なヒーローだと思います。スパイダーマンホームカミング、おもしろかったです。



1257:【なんもない】

うー、なんもないっす。書くことがないんです。なんかスズメが鳴いてる。ぴりゅりゅって鳴いてる。スズメじゃないかも。なんじゃ? わからんけど鳴いてる。でもよく考えてみるとね、書くことがないなんてぜったいあり得ないわけですよ。なにかしらあるはず。でもないって感じてるってことは、それは書きたいことがないんじゃなくて、書きたくないことがたくさんあるってことだと思う。知られたくないこと、言いたくないこと、伝わってほしくないこと、そういうのを気にするから、なにも書くことがなーいってなる。だからがんばって、きのうしたこと書いてみる。んーっとね。んー、なんもねぇな。なんもなーい。きのうはね、なんもしなかった。おふとんに入って、夢も見ないで、ぐっすり、すやすやしてた。ホントになんもしてなかった。ときどきある、二十時間睡眠コースでした。あちゃー。金曜日にね、左足の付け根を痛めてたのでね、あとタンパク質が不足してたかな、さいきん肉食べてないから、回復に時間がかかったのかな、あるあるー。はぁ。このキャラも疲れるな。飽きてきたしな。ほかのキャラつくるか。え? 素じゃないのって? キャラだよ!!! はい。どういうのがいい? イケメンキャラにしてみる? メガネかけてて、毒舌っぽいのがいい? きみがそう言うのなら、べつに止めはしないが、あまり僕に時間をとらせないでほしい。やるべきことが溜まっていてね、どこかの誰かさんみたいに、食べて寝るだけの生活で満足できるほど単純な思考回路をしていないんだ、きみであってもそれくらいは理解できるだろ、わがままを言うなとは言わない。ただし言うなら僕の耳に入らないところでわめいてくれ。いいね。なーんて、こんなんでどうでっしゃろ。いい? だめ? キザすぎる? つぎはじゃあ、スーツの似合う眼鏡お姉さまキャラにしてみよっか? 日替わりですこしキャラづくりの練習しよっかな。書くことないしな。ま、いっか。好きにやろー。ばいちゃ!



1258:【ごっこ】

「ライターごっこ? 文字おこし? ふぅん、まあいいんじゃない。要は録音していいかってことでしょ、べつにいいけど、あとで消してよ。しゃべった内容くらいはそうね、べつにいいけどさ。で、なんだっけ? ああそうそう。部下の話ね。ホント使えねぇでやんの。や、口わるくもなるって、聞いてよマンちゃん、アイツらさ、わたしがどんだけ仕事抱えてるか解っちゃないんだよこれっぽっちも。なんで与えられた仕事くらい余裕持ってこなせないかね。頭わいてんじゃないのって、だって、仕事量、繁忙期の三分の一よ? 人数一人減っただけでなんで残業一時間もさせてんのって話だよ。へ? ああ、部下って言っても中間管理職だから。下のコたちはよくやってるよ、言ってもわたしと同い年くらいだろうけど、新人とか、よくあんな上司についてってるよ、頭撫でてやりたいくらい。わたしなら即辞めてるね。で、けっきょく、そういう鬱憤が上のこっちまでくるわけでしょ、わたしがどんだけがんばって仕事割り振ってやってるかって。そのわたしの努力を部下のバカどもがダイナシにする。年功序列とかバカみたい。や、いいんだよ、そういう老化をカバーするような制度はあっていい。けど、アイツらのはそれとちがうじゃん。あんなの仲間びいきなだけでしょ、自分らの都合のいい人間の評価は高くして、そうじゃない人はたとえ有能でも、会社の隅に追いやる。んなことやってっから業界が萎んでくんだって、なんで気づいてて誰もなんも言わねぇのかって、そういうことなのマンちゃん、聞いてる? けっきょく、強固なコミュニティを批判するようなやつは、そのコミュニティから弾かれるだけだから、誰もなんも言わんくなる。それが組織の硬化を招くわけ。無能が喚くのはそれはそれで問題だけど、無能ですら喚けない環境じゃ、誰も問題を指摘しなくなる。わたしは言うけどね。言えるだけの成果あげてるし、うちを追いやるようなバカは、けっきょく自分で自分の首を絞めるだけでしょ、組織のほうで用済みの判を捺すようになるよ。そういう意味じゃ、わたしの上の人らはそれなりに解ってんじゃない?分ってやつをさ。こっちの利用価値をちゃんと解ってる。でも部下はそうじゃない。自分より下だった、しかも若い女だからって舐めくさりやがって。や、わかるよ、マンちゃんの言いたいことはよっくわかる。でも、アイツらからしたらわたしも、それなりに若い女なの。これでもね。あー、なんかごめんね、悪態ばっかで。こんなことマンちゃんじゃないとしゃべれないし。こう見えて、ちゃんとやってんだよ。愛想笑いとか完璧だから。見せてやりたいね、わたしのヨイショ。んー? なわけないじゃん、女を武器に? ないない。んなのないって、マンちゃん、マンガの読み過ぎだって、シナつくってうふふって? そんなんで交渉うまくいったら、世のなか女幹部ばっかだよ。そう、舐められちゃダメなわけ。飽くまで対等に、それでいて相手に気分よくなってもらう。ヨイショの基本は、ヨイショしようとしないこと。本音じゃない褒め言葉なんてもろ刃だよ、ここぞというとき以外は使わないほうがいいね。ちゃんと相手を対等に、敬意を持って、いいところをただ、いいですねって言うだけ。でもこれがもんすごくむつかしい。どうしても自分のほうを大きく見せたくなるからね。交渉の場なんかだととくに。ねー? けっきょく、相手が自分を大きく見せようとするから釣られちゃうんだよね、女同士だとまず予防線貼るもんね、相手を最初に褒めとかないと、自慢話もできないし。ていうか、マンちゃんはないの、そういう愚痴みたいなの。コイツ殺してぇ、とかない? ないの? うっそでぇ、あるでしょ、いいから言っちゃいなって。えー、わたしぃ? あーやっぱりぃ? マンちゃんですらそう思うんだ、へー、じゃあ、わたしだってそう思っちゃうのは仕方ないじゃんね、あは、そうだよねー、や、部下だけじゃないんだよ、上もホントクソばっか。マンちゃんなんかきっと一日で辞めちゃうと思うよ。へ? 一秒も保たない? あっは、そうかも、やーそうだわぁ、マンちゃんだもんね。保たない、保たない。はぁ、おかしい。まあ、いざとなったら、言ってよね。こう言っちゃなんだけど、人脈だけはあるからさ。マンちゃん、嫌がるだろうけど、やっぱりだいじだよ人脈。使えるもんは使わなきゃ。舐められたらおしまいだって。あー、そうね。マンちゃんはそういう感じだよね。舐められてるくらいがちょうどいいってやつ? わたしもそれで一回失敗したからなぁ。そうそう、あんたってさ、ホント性格わるいよね」



1259:【ノット】

「へー、アイツが愚痴をねぇ。相当弱ってるってことだよ、付き合ってあげて偉かったな。そうじゃなくはないよ。わかったような口? それはそっちだろ。仕事のできる人間は、職場の愚痴なんか言わないんだよ。なにせ仕事ができるんだから。部下を持つ立場ならなおさらだ。きっとプライベートでもうまくいってないんだろうさ、こんどはそっち方面でもフォローしてあげるといい」



1260:【そうやってまた】

じぶんを大きく見せようとして。いくひしくん、きみのよくないところだと思います。せんせい、哀しいです。なんですか。みえみえの見栄なら、かえってじぶんが小さく映るから問題ない? そうやって屁理屈ばっかり。どっちに転がっても得になるように考えるのがコツ? 言いわけでじぶんを囲ってるとそのうち身動きがとれなくなりますよ。せんせい、心配なんです。きみはちょっと、自信過剰だから。プライドも高いし、協調性がない。周りの人間を、奴隷かなんかだと考えてる節があります。でもそれがよくない考えだってことも解ってるんですよね、だからそれが相手に伝わらないようにする。でも、そういうの、ちゃんと周りのひとたち、見抜いてますからね。言動に気をつけるのもだいじですが、まずは性根を直すように、清く正しく生きようとすることもたいせつだと思います。いくひしくん、いいですね。



※日々目標をストックしていく、刻々と夢がくだらなくなっていく。



1261:【どういうことなんだろ?】

子ども騙しみたいな話って、たとえばどんなものを言うんだろう? アンパンマンとかそういうことではないってことは解るけど。子ども騙しではない物語なんてあるの? 物語なんて大なり小なり、子どもを騙し、何かしらおとなの都合のいい夢を植えつけるための媒体でしょ? ちがう? ちがうって言ってほしいんだけど。ねぇってば。なんか言ってよ、いくひし。



1262:【SNSを始める時期】

いくひしはSNSを利用していません。カクヨムもSNSの一種と言えばそうなのでしょう。カクヨム以外にはネット上に何かを書きこむ真似をしていない、という意味です(YOUTUBEにはいくつか動画を投稿しています。クラウドにデータを保存しておきたいのが一番の理由です)。SNSの利用はメリットとデメリットを考えたときに、デメリットの方が大きいな、と感じています。ですがこのさき、ネット上の情報を、ひとつの規格にまとめられるサービスがはじまれば、いくひしもSNSを利用するかもしれません。たとえばそれは従来のブログみたいなものです。ただし、あらゆるSNSを一つの画面で編集できる機能がそこにはあります。様々なサービスをひとまとめで管理でき、相互に情報をシェアできる。一つの画面で、各種SNSを見渡せる、道具箱のようなサービスです。管理画面には、所有するアカウントがずらりと並び、その中から、サービス上に公開するものを選べます。好きなようにカスタマイズし、デザインして公開できる。個人情報の塊のようなサービスですから、セキュリティは銀行並みに強固でしょう。また、公開する相手は、グループごとに指定できます。Aグループにはツイッターだけ。BグループにはすべてのSNSをと、そのように公開指定できます。定額制などを用いて活動支援してくれる者が、Bグループに属します。また、クラウドを利用して、参加型の企画を共同で制作していくことも可能です。もちろん企画に参加可能なメンバーは、選択できます。かさねて、企画が進行していく過程をひとつのコンテンツとして配信可能です。そういった道具箱じみたサービスが出てきたら、いくひしもSNSを始めようかと思います。それまではこうして細々とコンテンツを溜めていこうと思います。いくひしにとって、売れる時期は問題ではありません。いま売れても売れなくてもどちらでも構わないのです。だいじなことは、時間が経過するにしたがい、価値が高まるか否かです。いずれきたるそのときまで、目のまえのできることをただ淡々とこなしていきましょう。つよがりだと思いますか? そのとおりです。単なるこれはつよがりです。SNSを利用してもフォロワーがつきません。下手をすれば炎上です。やはりデメリットのほうが大きそうだ、というのがいまのところの主な言いわけになるわけです。



1263:【助言】

これまでいただいた数少ない助言のなかで、もっとも有効だなと感じているのが、「三行書いたら二行減らせ」です。いまでも意識して文章をつむいでいます。一万字並べたら三千字まで削ってみる。そういう時期がありました。いまは、「その情報、一行で書けない?」と意識することで、削る作業そのものを削る方向にシフト中です。とはいえ、言葉を削ることで、却って全体の文字数が増えることもあるようです。無闇に情報を圧縮すればいいというわけではないのですね。前途多難です。



1264:【たとえば】

ツイッターのTLがごっそり、ある日とつぜんAIのねつ造データになったとして、どれだけのひとがそのことに気づけるだろう。他人のTLとの差異を認識できる者は稀ではないだろうか。顔見知りのアカウントだけが改ざんされずにそのままだったならば、まず気づけないはずだ。任意のプロパガンダを一万越えのリツイートとして定期的に流された場合、案外かんたんに現代人はマインドコントロールされるのかもしれない。それは何もAIにかぎった話ではない。プロモーションをプロモーションと明示せずに情報を流す。現状すでに引き起きている事案だと考えておいて損はない。話は変わるが、AIを利用したバズ体験サービスは需要があるように感じる。すべてAIやBOTのアカウントだが、あなたのツイートを大量にファボやリツイートしてくれるサービスだ(個人的に楽しむためのもので、TLには流れない)。仮想世界で大観客をまえにライブをするような感覚で、手軽に承認欲求が満たされる。または、そこまでAIを活用できるならば、端から任意のキャラクターを指定し、あなただけのパートナーを提供したほうが商売になる。あなたの発した何かしらの表現に、あなたの心を豊かにするような反応を返す。それは、あなたのツイート履歴などから解析された、正真正銘、あなたに最適化されたパートナーである。バーチャルYOUTUBERはそう遠くないうちに、中のひとがいなくなる。というよりも、SiriやAIスピーカーがそういう方向に進化していく。ただし、人気のあるバーチャルYOUTUBERはAIの素材として有用なので職業としてますます重宝されるようになるはずだ。かわいい動きができるだけでも商品価値が生まれる。言い換えれば、シルエットが同じでありながら、動きだけで「あのひとだ」と判るような特徴が出せるのならば、それは大きな付加価値に成り得る。他人の真似をしてもにじみ出るような何かを育んでいこう。



1265:【ディザインズ3巻】

マンガ「ディザインズ3巻」を読みました。発売と同時に購入して、けっきょく3か月くらいそのままにしてたやつです。タイミングがあるんですよね。こう、周波数がうまくマッチングするような、いまじゃない、みたいなのでよく時間を置いてしまう、待っちまう。東京グールとかたぶん4巻分くらい寝かしたままだと思います。買ってはいるんですが、封を切っていない。いまじゃないんですよ。あるあるー。ある? ない? そっか。あって!!! なんかこのネタも使いすぎですよね。あんまおもしくもないし。禁止にしよっか? いくひしもうそれ使っちゃだめーって、ディザインズ3巻の話ですよね。はぁーおもしろい。もうね、いくひしもカエルちゃんになりたい。集中しすぎてヘビにパックンチョされたい。ん? されたくはないな、なに言ってんだ? こうね、入ってくる情報が多すぎて、情報を処理しきれなくて、だからちいちゃいころは無口で、反応がにぶかった。いくひしみたいなのが主人公なんですよ。カエルと遺伝子融合させたカエル人間です。でもイルカと融合したイルカ人間たちがね、こうカエル人間より優秀なわけなんですよ。100回戦ったら99回は負けちゃう。そういう相手に、じゃあどうやって挑むの? そう言いながらイルカ人間の一人がね、あーあー、せっかく人間らしくなっていったのに、そっか、やっぱり人間らしさってのは、弱さのことなんだなーってね、べつにそんなメッセージがこめられているわけではないんですけども、どんどん環世界が濃くなっていく、視覚がすべてのマンガのはずなのに、目に見えない何かを描きだそうとしているディザインズは、押井守監督がいずれ映画化することでしょう。いくひしには判る。きっとそうなるよ。へっぽこ予言を最後に、きょうの「いくひ誌。」としましょうか。ディザインズ4巻、待ち遠しいです。



1266:【肩幅広い系女子】

マンガ「冒険エレキテ島」2巻を読みました。1巻を買わずに、2巻を買ったまま、いつ読もう、いつ読もうってそのままにしてたやつです。なんで2巻から読んだかっていうと、2巻しかなかったからです。書店さんに。はい。いくひし、これ読んで確信いたしました。肩幅広い系女子が好きだーー!!! いくひし、肩幅狭い系女子が大好きな反面、肩幅広い系女子も好きでした。もういっそ、それって女子が好きなだけなんじゃね? みたいに思われるかもしれない。でもね、ちがうんですよ。きっと。たぶん。だと思う。自信なくなってきちゃった。んー、こう、肩幅がっちりしてて、冒険なんかしちゃう、きわどいかっこうしてても、恥辱の念のからっきしな、野生児全開のオナゴがタイプです。トゥームレイダーの主人公みたいなね。あとはナウシカとか。もののけ姫とか。少佐とか。好きなんです。というか、そうそう、「先輩がうざい後輩の話」の先輩もいいですよね。タイプです。オナゴではないんですけど。そっちはね、こう、ガタイがゴツイ、野郎なんですよ。なんかこう、お腹殴ったらトラックのタイヤみたいな感触してそうなオスには、こう、ぐっとくるものがある。あるよね? ない? あって!!! はい。ネタ禁止されたからってぜんぜん使う。止められると思うなよ! 「冒険エレキテ島」の1巻、はやく買いたいと思います。あ、ひっさびさに小説買いました。王城夕紀さんの「マレ・サカチのたったひとつの贈物」です。読むの楽しみです。ただ小説もけっこう未読のままのが溜まっているので、時期がくるのを待ちたいと思います。こうね、周波数があるのでね。ないかもしれないけど。あるとしておくと、こうね、読まずにいても気が楽ちんです。重くならない。周波数というか、休暇中というか、無我夢中、みたいなね。韻を踏んでみたかっただけです。はぁ。おもんくな。おもんくないよね? クスっともせんぞこれ、どないしよ。あすこそは! あすこそはおもしろいことなんか言いますので! たぶん!きっと!だといいな!って思ってるだけじゃだめ? ゆるさない? そっか。ゆるして!!! はい。おやすみー。



1267:【ん?】

きのうのいくひしさんがなんか言ってたみたいですが、知りません。おもしろいこと? かがみでも見たら? はい。それはそれとして、けっこういくひし、恥ずかしいことを並べているな、と。しょうじき、人に読まれてると思っただけでぜんぶ消したくなる。でもいまはまだ読んでる人がいないので、気ままに文字を並べてますけど、そのうち読まれるようになるんだろうなぁってのは解ってるので、ただきっとそれはいくひしが生きているあいだではないのだなぁと思わなくはなく、そうね、だからとりあえず、文字を並べてます。何が言いたいんだ? 物理世界のね、いくひしのなかのひとがね、こう、物理的に繋がりのあるひとにこれ読まれて、それがいくひしのなかのひとなんだって知られた暁には、いくひし、成仏します。成仏っていうか、もはや蒸発します。恥ずかしくって、身体が熱くなって、顔なんか真っ赤で、マグマで、蒸発します。しゅるるーって。なのでね、もしいくひしさんに心当たりのある方がこれを読んで、もしやと思っても、素知らぬふりをしてもらえるとありがたく思います。ひるがえっては、いくひしのなかのひとをね、こう、成仏させてぇなぁーって正義感に溢れたお方なんかにはぜったい読まれたくないぞ。ドラゴンの逆鱗どころの話ではなく、もうね、ここにはね、いくひしさんの弱いところがぎょーさん、凝縮されているので、ぜひとも秘密にしておいてほしいと思います。たまにはね。こう、予防線をね、貼っとかないと、いくひしさん、はらはらして心臓にわるいので。生きてるだけで心臓にわるいので。ぜひともご内密におねがいします。一万円くらいならさしあげますので。ほんと、だまってて!!! ってとこまで並べて、ここに載せずに寝ちゃいました。いくひし、並べといて載せない「いくひ誌。」の原稿、けっこうあります。なんかこれヤダなーっていう文章がときどきあって、そのヤダなーの内訳として、読んだ人が嫌な気分になりそうだなーってのと、あとはいくひしが困ったことになりそうだなー、の二つがあって、前者はふつうにボツにします。でも後者の場合は、もうそれは作者のわがままなので、すこし寝かせてから保身かぁって分かったら、ここに投稿してます。ただその区別がつきにくいのでね、ときどき時間を置いたりしているわけです。「いくひ誌。」のボツ原稿だけで十万字くらいはあると思います。いくひしの腐ったところが凝縮しているので、読んだらおめめつぶれちゃうと思います。ただでさえおめめ汚れちゃうのにね。ごめんね? いちおう選別はしているけれども、おもしろいかどうかは、また別問題なのでね、どっちにしてもボツにしとけばいいのになってのはまぁ、正論だと思います。すこしでも、あすのいちにちを気持ちよく迎えられるように、眠れるように、あなたの枕みたいな文章を並べられたらなって、思いながら、くだらないこと、適当なこと、デタラメなことをつむいでいきたいと思います。うえの項で、おもしろいこと並べるよーって予告しちゃったので、きょうはまじめなこと言いました。へそまがりじゃろ? へそまがりなのだ。



1268:【うずくまる、古くなる、ゆるくなる、すぐ詰まる】

Syd - Over (Ft. 6LACK)



1269:【特権意識】

このままま技術が発展し、社会が豊かになっていけば、ある時期を境に、学歴があり、社会的地位の高い者しか働かない社会が訪れる。技術を理解し、扱える者だけが、社会を動かし、そうでない者たちは、消費と創造(娯楽)を以って、社会貢献と見做されるようになる。秩序を脅かさないかぎり、自由な環境が維持される。そうなったとき、いったい誰が好きこのんで働くだろう。何かしらの恩恵がないならば、過酷な修得期間を経て仕事に携わろうとはしないはずだ。一部の研究機関は、物事の追求を娯楽と見做せる人材によって、資金さえ提供すればかってに歯車を回しつづけるだろう、しかし社会を支えるインフラに従事する者たちは、相対的に奴隷のような理不尽さを覚えることになる。そこで何かしらの特権意識を植えつけないかぎり、誰も働こうとなどとは思わなくなるはずだ。総じてのサービスは自動化され、電子化される。反面、それらシステムを運用、改善する機関には、人間の介在が不可欠だ。高い専門性を保持し、課題を探しあて、解決できる人材には、ほかの大多数の国民にはない、免責があってしかるべき。そうした風潮が、意識的無意識的に拘わらず蔓延しはじめる。我々はこれだけ社会に貢献しているのだから、これだけ苦労しているのだから、これくらいは許容してもらってしかるべき。そうして人は、自らに免罪符を掲げ、倫理の枠を踏みこえることに戸惑いを抱かなくなる。組織の上に立つ人間がそうなれば、あとはなし崩し的に、倫理を踏みにじってもよいとする特権意識は慣習化していく。現状、すでにそういったサイクルがひとつの回路として機能し、社会に蔓延していると考えて差し障りないだろう。露出した諸問題の総じては、是正されはじめてはいるが、氷山の一角であるとの指摘に異論はない。かねてより、そうした特権意識が引き起こした問題は数えだしたら暇がない。つど、責任を追及し、当事者は罰せられてきたが、根本的な因子――特権意識による倫理からの逸脱――への対策は、効果を実感できるほどには打ち立てられていない。根本的な因子をなんとかしようとしないかぎり、これからは、ますます特権意識のもたらす問題は巧妙化し、露呈しにくくなるはずだ。偉いから、苦労してきたから、実績があるから、社会に貢献しているから、いずれの動機も、他人を自分の所有物のように扱っていい道理にはならない。免罪符になりようがない。ただただ権力を笠に着ているだけである。とはいえ、お偉方だろうが、責任者だろうが、重役だろうが、人は人である。誰もが犯し得る、たった一度の過ちで、これまでのすべてをダイナシにしてしまうような処罰の仕方は、いかがなものか、と思わないでもない。罪に、身分は関係ない。分相応の振る舞い方が求められるにしろ、歩きスマホをしたから王位はく奪だ、なんて真似は、いささか乱暴ではないだろうか。わるいことはわるい。見逃すことはできない。是正されてしかるべきだ。しかし、それは本当に、そのひとの功績を帳消しにしてしまうほどの罪だろうか。たとえば、もしあなたが同じ失態をしでかしたとして、あなたはそこまでつよく責められることをいさぎよしとするのですか?(特定の誰かを庇う意図はありません)(それはそれとしてセクハラするやつはカバにおしり齧られても文句は言えないと思います)



1270:【めがね】

おはよーございます。きのうは「いくひ誌。」を更新せずに寝てしまったので、朝の六時ですがこれ打ってます。いくひし、あまり目がよろしくありません。長時間のPC作業が要因の一つではありますが、それだけではないな、と知っていますが、ここにはそれを書きません。アホな理由なのでね。メガネがなくとも困らないのは、車を運転しないからです。もし運転するならメガネがないと事故を起こしかねません。人の姿も、標識もまずボヤけて読み取れませんからね。その点、日常生活のうえでは、ボヤけた視界でいることは、すこし精神的にプラスです。欠けた情景は脳内で補完すればいいですし、見えないところを想像で補う癖がつきます。ときどき補正をかけるために、めったにしないメガネをかけることもありますが、それはほとんど双眼鏡をのぞきながら山を登る感覚です。却って危ないとも言い換えられます。人の顔がわからなくとも、意外と人は、人物認識に困らないようです。その人の歩き方や、シルエット、ちょっとした動きの癖で見分けられるのです。視覚情報のおおむねはどちらかというと、そういった過去に分類した記憶によって補完されていると言ってもそう的を外してはいないでしょう(ですから、久方ぶりに見かけた人物だと、近づいても気づけません。記憶が更新されていないため、話しかけられてようやく気づきます)。誰もが、クリアな視界をフルに活用しているわけではない、という意味です。ボヤけた視界だとそれがよく分かります。いくひしが過去、人の顔を見ながら話せなかった理由も、いまならすこし解ります。見えすぎるのです。その人の顔の毛穴からニキビから、虹彩から、産毛から、まつ毛から、毛細血管から、メヤニまで、じぶんなら恥ずかしくなるようなものがクッキリと見えてしまうので、見たら申しわけないな、という気持ちになってしまうわけです。大きなお世話ですよね。ただそういう精神の起伏を日に何度も体験すると、やはり疲れます。端からボヤけた視界にいるほうが楽なのです。メガネは2016年に初めて購入しましたが、いまのところ部屋の隅でホコリを被っています。メガネをかけると、メガネの似合わないじぶんの顔がはっきり見えるので、鏡が見たくなくなりますね。ときおりかけてみるとメガネのある世界の、色鮮やかさ、鮮明さに、ちょっとした感動を味わえます。脳内麻薬が、ぱぁ、と分泌される感覚が判るほどです。ときどきそういう贅沢を味わいたいがために、不便をすっかり排斥してしまわないことも生きるうえで必要なのかもしれません。以上、薄味の所感を漏らすのでいっぱいいっぱいの、本日のいくひしまんでした。あ、きょうの分の「いくひ誌。」は夜にまた更新します。またねー(ここまでの打鍵所要時間は十一分です)。


※日々人は成長するのだと目を瞠り、ではじぶんはどうかと目をつむる。



1271:【電子書籍の消費期限】

販売所がつぶれたので、購入した電子書籍のデータが消えてしまった。読めなくなった。そういった事案が起きているようだ。課金型のソーシャルゲームやスマホゲームでも同様の問題が生じているはずだ。いったい顧客は何に対して対価を払うのだろう? ストリーミング配信型のサービスであるならば、その流通サービスの利用を目的に、契約を結んでいる。提供元がサービスを維持できなくなれば、自然と契約は解かれるはずだ。契約期限を明確にしておけば、そしてその期限までサービスを提供しつづけたならば、そこに理不尽さは生じない。ただし、もし電子書籍や、任意のデータそのものに対価を支払ったならば、それは提供側がかってにそれらデータを消したり、利用できなくしたりすることは理不尽であり、問題だ。データは再生できてはじめて、データたり得る。顧客の過失で破壊されたのではないかぎり、提供元には、データをデータとして維持する義務があるはずだ。物理的な商品だろうが、電子データだろうが、それは変わらない。書店がつぶれたからといって、その書店の都合で、購入したはずの本が開けなくなったり、白紙になったりしていい道理はない。これはソーシャルゲーム(スマホゲーム)でも同様だ。ゲームの配信サービスが終了したからといって、購入したデータが使用できなくなるのは、いささか企業倫理に欠ける。サービスを停止したとしても、そのゲームそのものは継続して遊べるようにしたほうが好ましい。現状、ソーシャルゲーム(スマホゲーム)がどのようにサービスの停止を実施しているのかは知らないが、世界各国で、集団訴訟が起きてもふしぎではない。



1272:【ゲノムについての備忘録】

一卵性双生児のゲノムは、まったく同じなわけではない。割合として、同じと見做せないくらいには、そこそこ異なる。あいまいな言い方で申しわけないが、たとえばヒトとチンパンジーのゲノムであっても、違いはおよそ1パーセントなのである。言ってしまえば、個々人の違いなど、ヒトとチンパンジーに比べたら微々たるものだ。そのなかでさらに一卵性双生児、いわゆるふたごの違いとなると、もう同じと言ってしまっていい。しかし、まったく同じではない。まったくの他人ではないにしろ、他人と見做せるくらいには、違いがハッキリと検出される。DNAにはゲノムが塩基配列として記録されている。そのなかで、人体の素(アミノ酸)を合成するためのコードが、いわゆる遺伝子である。RNAにゲノムが転写され、そこからアミノ酸(たんぱく質)を合成する。たほうで、非コードDNA領域と呼ばれる謎の塩基配列があり、それはヒトゲノムの98パーセントを占めている。ヒトゲノム解読時、非コードDNAは、アミノ酸(たんぱく質)を合成する役割をもたないので、人体を錬成する主とした遺伝子情報ではないと見做されていた。。では残りの98パーセントの非コードDNA領域(かつてはジャンクと呼ばれていた)は、なんの役割があるのか。ほとんど謎につつまれているが、解読された部位だけでも、思いのほか人体を形成するために重要な働きをしていることが明らかになってきている。なかには、生物の進化に不可欠な変異をもたらす仕組みが備わっていたり、生物がその種固有の形質を再現するために、敢えて正常な遺伝子の働きを阻害する機能を有していたりする。人体は、設計図通りに再現されているのではなく、むしろ、膨大な情報を事細かに加工され、抑制され、修正されながら、複雑な機構を組み上げている。そしてその加工の精度や度合は、個人単位で、変異が進行中である。非コードDNA領域は広いため、コード領域に比べ、変異を引き起こす確率が高い。ゲノムの変異は細胞単位で生じている(たとえば、紫外線や、放射線でDNAが破壊されるのも、変異の一つだ。外的要因だけでなく、ゲノムの転写時にも、数々の変異が生じている。ただし、子孫に引き継がれるためには、生殖細胞のDNAが変質しなければならない)。ゲノムの変異が生殖細胞に引き起きれば、子孫に遺伝され得る変異となる。また、頭脳や神経細胞を合成するときに働く非DNAコード領域は、割合として変異しやすくできている(イントロンと呼ばれる塩基配列は、長いため、転写時に千切れやすい)。変異するのは非コードDNAなので、正しく機能せずとも、アミノ酸は合成される。ただし、どんなコードの働きを抑制するかによって、合成のされ方が変わってくる。非コードDNA領域は、人体の素(アミノ酸)を合成するのに不可欠な要素ではないからこそ変異しやすく、また、進化にはうってつけの変質を種にもたらすのである。私見だが、次世代の人類はまず、脳の仕組みから進化していくのかもしれない。(読んでいる本の備忘録です。記憶に残った、あやふやな情報を元にしたためています。精確に出力されてはおりません。真に受けないようにお願いします)(どれくらいあやふやかと言いますと、DNAと染色体の違いもろくに説明できません。DNAに何かが加わったものが染色体ですか? その何かは、DNAが合成したアミノ酸と関係あるのでしょうか? 知らないことがいっぱいです)



1273:【温暖化は寒冷化】

温暖化の要因は二酸化炭素の増加だけではないと考えられている。海底に眠るメタンが徐々に大気中に噴きだしているそうだ。メタンは二酸化炭素の数十倍の温室効果がある。ただし、海中に溶け込んだメタンを養分にして、プランクトンが異常増殖し、そのけっか、大気中の二酸化炭素が局所的に激減する可能性も指摘されている(植物プランクトンは光合成によって二酸化炭素を消費する)。二酸化炭素が減るので、温暖化は起きず、あべこべに寒冷化する。ひょっとすると、かつて地球をおそった大規模な氷河期も、じつはこうしたプランクトンの増加によって引き起こされたのではないか、と類推するものである。断片的な情報をもとに述べているだけである。信憑性はない。いくひしの言うことは八割が嘘であり、残りの二割は勘違いである。知ったか野郎とはいくひしのことなので、ぜひ憶えていってもらいたい。



1274:【胃もたれ】

アイスー! こにゃちゃ、いくひしだす。あのさー、きょうさー、アイス食べたのね。で、寝たのね。起きたらね、ヨッタきもちわるいー!!! 胃が重い、もたれてる、ヨッタもたれかかってる、体重あずけてくる、ちゃんとつり革にぎってください、ぐてーって、電車の揺れに身をゆだねないでください、足踏ん張って! はい。いくひしね、アイス好きなんですよ。甘いものだいすき。でもね、もうね、胃がついてかない。胃もたれってなんなの? なんでもたれるの? つり革ないの? じゃあ座席のとこの銀色の棒つかんどいてよ、ぶー! あ、ごめん、ごめん。きもちわるすぎて、感じわるくなっちゃった、ガラスに映るじぶんのかおがきもちわるすぎて、口わるくなっちゃった、ごめんよごめんよーって、だれのかおがきもちわるいって!!? 車内でマックのポテト食べちゃうぞ! いい匂いでおなかぺこぺこにしてやる!!! はぁ。もうさぁ。いくひしのね、きらいな言葉。どりょく。努力がきらいです。だって報われないじゃん? いいことなんかなんもないじゃん? 無駄じゃん? 好きなことならいくらでも努力できるだろって? アイスでさえ胃がもたれるのに、おいちくもなんともない、ただときどき楽しいだけのことしてまいにちハッピーになれるんだったら、この世から負け犬なんていなくなるし、挫折に身もだえして、身体じゅうどろんこの捨て猫だっていなくなるんだよ、そこんところ世の、自己肯定感モリモリきらきらヒューマンどもはわかってんのかね。わかってるの? そっかそっか。わかってない!!! ぜったいわかってないよ、言葉だけの肯定なんていらないんだよ、偽りの自己肯定感でごまかせるほど、いくひしのなんちゃってニヒリズムをおなめでないよ。もうね、みんなおんなじ。ごじっぽひゃっぽですよ、どんぐりの背比べです。たいして変わらんよ。役立たずに、無能に、非力に、ヒトデナシ。でもね、いいんですよ。それで。だってどんなにがんばったって、人間であろうとすることはやめられないですからね。人間はみな例外なくヒトデナシなんですよ。人間なのに、ヒトデナシなのです。ヒトデナシだからこそ、ヒトは人間になろうとあがくのです。あがきましょう。胃もたれくらいなんだってんだ。んなもんに気ぃ削がれてらんねぇですよ。努力が報われない? んなもんね、ひと皮でも、ふた皮でも剥いてやってですね、人間の皮を脱ぎ捨てて、ヒトデナシのじぶんと向きあってやればいいんですよ。でっかい偽りのじぶんを思い描いてるから、本当は一歩しか動いてないのに、そらでも飛んだ気になっちゃう。みみっちぃんですよ、日々のなんかの積み重ねなんて。報われなくて当然です。あっちかな、こっちかな、それともひょっとしてこっちなの? そうやってああだこうだとあがくほかないのです。ときおり、そんなあがきのなかで、お?と思う、手ごたえがある。もうね、シャベルを振りおろしたらなんか「ガ!」ってきたぞ、釣竿がグイグイいってるよ、みたいなね。ちょっとの興奮というか期待を抱いて、脳内麻薬がぱぁってなる。その瞬間を噛みしめるほかないのだね。そのあとにどうなるのかなんて関係ない。単なる石ころかもしれないし、長靴かもしれないよ。でもね、脳内麻薬がぱぁってなったのは間違いない。あなたはその瞬間、たしかに人になったのだ。で、またすぐにヒトデナシに戻っちゃう。その繰り返しがあるばかり。それでいいじゃん、問題ない。何に当ろうが、何を釣りあげようが、いくひしたちがヒトデナシであることに変わりはちっともないものだ。まずは目のまえのコツコツを積みあげて、ときおり人間になりましょう。だって、アイスを食べてですら胃もたれだってしちゃうんだ。何を得たってそういうときもあるものだ。努力が報われない? 報われて当然のことなんかないのだよ。何一つとして、万に一つも、ないのだよ。報われたからって、そこで終わりじゃないのだよ。そのあとですぐにまたヒトデナシに戻っちゃう。寄せては返すさざなみの、振り子じみた繰り返し。猫みたいにじゃれついて、支点をあっちにこっちに変えてみて、勢いつけて跳ねてみて、遊んでみるのもいいかもね。いまの着地はナイスだね。アイス片手に自賛して、目のまえの遊びにかかりましょう。胃もたれ、身もだえ、なんのその、目のまえ、猫飼え、にゃんとこしょ。努力はちっとも好きにはなれぬれど、がんばるあなたの姿には、胸をグラグラ揺らされます。ときおり世界がぱぁって輝くような、予期せぬ揺らぎがあるといいね。



1275:【ブロック】

見たくないものはブロックし、目障りなものには蓋をする。個人がそうした判断を日常的によしとしているのだから、国にその性質が反映されても驚きはしない。見えなくすればいい、という問題ではないのだ。個人であろうと組織であろうと、それは変わらない。見ないようにすることと、見えなくすることのあいだにはちいさくない差異がある。(むろん、目を逸らしつづければいいという話ではないし、害を加えてくるものであっても受け入れなくてはならない、という話でもない)



1276:【絵】

絵ーっとですね。いくひし、きのうから絵を描きはじめました。まいにち何かしら描く練習します。マンガ描けるようになりたーい。でも、絵が壊滅的に、ぐちゃぐちゃなので、練習します。幼稚園児から進歩してないのでね。立体感がナッシングで、しょうじき言うと、きのうは描いた絵をぜんぶ消しました。残したくないくらいにへたっぴだった。でも目を逸らしてたらいかんよね。あとで振りかえられるように、残します。で、3年後にね、なんかの賞、マンガのやつ獲れたらいいなーって思ってます。かかってこいやー! はい。マジな話です。月に一作、短編をつくれたらいいなって。32ページくらい? 16ページのほうがいいのかな? わからん。まずはネームですか? 4コマからはじめたらいいのかな? 目標達成期間は3年ありますからね。36作はつくれるぞ。ただ、コマ割りから、何から、まったく分からんので、最初の一年くらいはプロのマンガ真似しまくります。で、並行して絵の練習ですよね。デッサンて言うの? 手とか自転車とか何かしら描いていこうかなと。まずは可能なかぎり線をすくなく描く練習します。で、きのうきょうと描いてみてわかったのが、空間把握能力が皆無だなと。いくひしさん、空間把握能力がゼロでした。見たまんま描いたつもりが、なんで親指だけそんなデカイの?ってなる。カップの取っ手だけヘビですか?みたいになる。下手すぎる。あ、そうそう、あとね、いくひし、自作の表紙を描けるようになりたい。だからデザインというか、ロゴを上手にかける練習もしていけたらなって。自作のタイトルをロゴ化したときに、Tシャツにして着たくなるようなものをつくりたいわけです。はい。前から思ってたんですけど、絵が描けるひとは魔法使いですよね。おおげさでなく、そう思います。ホントすごい。リアルな絵もすごいけど、デフォルメされた絵のほうが、そのひとだけの世界って感じがして、真似したくなる、欲しくなる。何を削って、何を強調するのか。見たものをじぶんなりにデフォルメできるようになりたい。あたまのなかを表現したい。ひとまず、3年はつづけます。ただ、いくひしが目指す境地には、さいていでも30年はかかるかなと感じています。かなり楽観的に見積もってそれだけかかる。色塗りだけは最初から諦めます。センスないのと、そこまで時間はとれないな、という打算です。線画に特化します。どうせ数年後には色塗りはAIがやってくれるようになるでしょう。そういう期待を抱きながら、三日坊主にならなきゃいいけど。計画性ゼロ、根気が皆無のいくひしまんでした。



1277:【それでも、羽ばたかない】

絵を描きます、ってきのう言ったじゃないですか。なんでいまさら?どうしたの?って思うひとは思うし、思わないひとはどうでもいいって興味なさげだと思うんですけど、なんでかって言いますと、いくひし、基本まいにち二時間くらいつづけてることあって、それをね、こう、一時間に減らそうと思うわけですよ。で、あまった一時間をどうしよっかなってなって、じゃあ絵を描こうかと。そう思ったのでした。はい。きょうはヨネダコウさんのマンガの感想を並べます。読んだのは先週なんですけど、感想すぐに出力できなかった。なんでじゃろ? 「囀る鳥は羽ばたかない5巻」と、「それでも、やさしい恋をする」の二冊です。どちらも購入したのは二月とか一月とか、そこらへんだと思います。ジャンルで分けるとすればBLなのですが、どちらかといえば、「囀る鳥は~」のほうはヤクザ物で、質のいいサスペンスというか、人間ドラマになってます。BLとして評価するよりも、物語としてよくできていると思うのです。ちなみに、ヤクザ物が、いくひし苦手です。野田彩子さんの「潜熱」という、ヤクザに恋する乙女のマンガがあるのですが、あのヤクザのリアルさには、ちょっとした吐き気をもよおします。なんでや!!ってなる。伝わらない? ヤクザに対する憧れみたいなもの、吐き気がします。たぶん、その憧憬が解らないでもない、というか、どちらかというと解ってしまう気持ちわるさでしょうか? でもヨネダコウさんの描くヤクザは、そこまでヤじゃない。ちゃんと人間らしく描いているからですかね? ヤクザだって人間だよって、ちゃんと伝わってくるところがよいと思います。ヨネダコウさんの特徴として、ああいるいるーっていうキャラクターを描くのが突出しているな、とつよく感じます。そういう意味では、「それでも、やさしい恋をする」の前日譚というか、前編というか、ヨネダコウさんのデビュー作「どうしても触れたくない」の、リアリティは、読んだ当時2017年にちょっとしたショックをいくひしに与えました。よく憶えてるよ! で、たぶんそのショックがつよすぎて、いっしょに購入した「それでも、やさしい恋をする」は、一気読みできなかったのかな、と今になっては思います。で、時間を置いて(半年くらい?)、あたま冷やして読んでみたら、あー、あー、またショックを受けてしまった、こんなん勝てるわけないやろーって落ち込んでしまった。ああいうキャラ、つくってみたいです。なかなか真似できないんですよ。悔し、落ちこみ、のいくひしまんでした。



1278:【pixivFANBOX】

こにゃちゃ、いくひしです。みなさん、pixivFANBOXってご存知ですか? 動画から絵からテキストまで、なんでも投稿できるんですけど、なんといっても応援したいクリエイターに支援できるサービスまであるんです。せんじついくひし、「SNSをはじめる時期」ってことで、pixivFANBOXみたいなサービスがでてきたらはじめるよーってことを並べたんですよ。https://kakuyomu.jp/users/stand_ant_complex/news/1177354054885662488←ここの「1262」です。てなわけで、いくひし、pixivFANBOXはじめました。まずはアカウント登録して、で、どんなもんかなーっていう試験運用的な感じでやっていこうかなと。計画としては、来年になったらここ、カクヨムに載せてある小説はぜんぶpixivFANBOXに移行しようと思います。こっちのやつは削除です。一年後ですよ? で、支援してくださった方には、なんと、テキスト以外にも動画を観られるようにしようと思います。いくひしの中のひとがどんなかなって、ちょっと気になってる方は、お得だと思います。載せたくなーい、観られたくなーいって、頭抱えちゃいますが、そんくらいしか提供できる特典がないもので。はい。お題くれたら短編くらいはつくってもいいかなーと思ってます。需要ありますか? ないですか。そうですか。あって!!! はい。小説は基本的に無料で読めるようにしていきたいと思います。ただし、過去作は支援してくださった方だけが読み放題という方向に調整していこうかなと思います。新作はでも無料です。アマゾンさんのほうの電子書籍はそのままですが、カクヨムのほうは来年をめどに利用しなくなるな、という意味です。がんばるぞー。支援してくださらなくとも、いくひしのつむいだ物語だとか文章を読んでくださってる方は、みんな例外なくいくひしのファンです。かってにそう見做します。ありがとー!ってかってに感謝する。好きな曲とかね。著作権に引っかからないやつだったら、動画のほうに反映してもいいかなとかも考えていますので、ぜひぜひ。この機会にいくひしさんと交流をしてほしいな、と思います。しなくてもいいけど。ひとまず、そういう方針に変更していくよーってご報告まで。URLを載せたいけれども、カクヨムさんの規約に違反しそうなのでやめておきますね。「郁菱万」で検索して、アマゾンの著者説明のところに載せてあるので、おひまがあれば覗いてみてください、まだなんも載せてないですけど。ぜひぜひ。では!(追記:文字数制限があって、小説の投稿向きではなかったです。しばらくカクヨムさんでの無料公開はつづけていこうと思います。来年をめどに、なんとか「郁菱万」関係のデータをひとまとめで扱えるようになったらいいなぁ。願望ですか? 願望です。はい。ご不便おかけしてもうしわけございません)



1279:【きょうやったこと】

本日やったことです。pixivFANBOXのポートフェリオ用の画像を15枚用意しました。自作の冒頭を画像にしただけですけど、そこそこかかった。で、そいからpixivのほうに、連作短編「群れなさぬ蟻【裏】」を更新しました。短編が九つありまして、そのすべてに表紙をつけました。長編「群れなさぬ蟻」と百合小説「陰の薄いあのコの影になれたなら」も更新しまして、さっそく「陰の薄い~」のほうをブックマークしてもらって、やったー、うれしー!ってなってます。カクヨムのほうでも、なんかさいきん、ちょくちょく読んでもらえるようになってきているので、うれしいかぎりです。ありがとごじゃいます。やる気でるよ! はい。いっぱいがんばったかな、と思いましたけど、そんなでもないな。きょうは、あと二時間くらい、新作をすすめまして、おやすみなさい、します。あ、絵も描きたいから、小説は一時間半にしましょう。絵は三十分だけ描きます。新作のほう、7万、5万、4万、6千、とそれぞれ止まっているので、まずは4万字のやつをあと二万字以内で閉じてしまって、5万のやつをやっつけて、そいから7万のやつを閉じて、合間に6千のをちょちょーいって結んでしまいたいと思います。ジャンルで言うと、上から、現代ファンタジィ(雷獣)、現代ドラマ(作家モノ)、SF(超能力系)、異形ファンタジィ(異形が主人公)って感じです。そのあとに、BLとミステリィのふたつ、たぶんどっちも中編になると思いますが、つくっていこうと思います。中休みで、短編もぽつぽつつくっていこうと思います。で、本命、多重構造の新作を手掛けていこうと思います。プロットの構造はもうあたまのなかにいくつか展開してあるので、着手したら、ぽぽーいってすぐ終わると思います。いくひし史上、最高傑作になると思うので、いまから楽しみです。本当に楽しみなものは最後にとっておくタイプです。ショートケーキのイチゴとかは最初に食べちゃうけどね。あなたは、どんなタイプ? イチゴは残す? 食べちゃう? どうでもいい? なんでそんな冷たいの! 風邪ひくよ!! 昼間は暑いのに、夜になると肌寒くなるので、ちゃんと毛布をかけて寝てください。ぬくぬくしてよ! おやすみー。



1280:【無駄骨】

きのう、表紙を九つつくったって言ったじゃないですか。なんかね、連作短編は一本にまとめられたみたい。そっちのほうがいいよね? ってことでぜんぶ消して、一本にまとめたら、表紙べつにいらなくなった。むだぼねー。こういう無駄な作業、けっこうあります。やってしまう。三歩すすんで二歩さがる、みたいなの。や、非効率的な生き方してますよ、さすがはいくひしさん。きょうも無駄なこと、たくさんやって、同じこと繰り返さないように、二歩さがったら、その分、見落としていたものを拾っていこうと思います。なんかいいこと言った!


※日々じぶんには何もないのだと思いだす。



1281:【重なる】

わるいことは重なるものですね。やー、自転車の鍵なくしました。貴重品も忘れてきちゃって、ミスは連鎖するんですよねー。さいあくだ!!! でもね、こういう日に死んじゃうひとは死んじゃうわけですから、運が良かった。ケガもしなかったし、誰かを傷つけもしなかった。でも、誰かを傷つけてることに無自覚なことだってあるわけじゃないですか、そういう意味では、ときどき振りかえって、だいじょうぶかな?っていちにちを見詰め直してみることも必要かもしれません。ただ、そういう癖がつくと生きるのが苦しくなったりもして、人付き合いがしづらくなっちゃうわけでして、ときどきなにも考えずにぱーっと遊ぶこともだいじだと思います。スイッチみたいに切りかえられたら楽なんですが、そうもなかなかいかないですよね。じゃあどうするのっていうと、どうしようもない。基本的に、他人の目を気にするときにかぎってミスを連発する。それは、人と関わるから生じる緩みであると同時に、ふだん人と関わらないことの弊害でもあるわけです。耐性がついていない。ときどき関わるから面倒なことになる。でもふだんから人付き合いしてるとやっぱりつらいわけですよ。だからもう、こうなったら、一生誰とも付き合わずに生きていくほかないのかなって、そう思うんですけど、それがイッチャンむつかしいというか、できたらこんな哀しくなんないよ、ってな具合でして、なかなかどうしてうまくいかない人生でございます。はぁ。人類ほろびねぇかなぁ。あ、うそうそ、じょうだんだよ、ぽろっと本音がこぼれちゃったけど、うそです☆ まあね。いくひしさん、人類じゃないので。きっと独りで生き残るでしょう。いくひし独りくらいならね、なんとかこの世に溢れた人類の遺産で暮らしていけると思います。それはそれでさびしいな。さびしくない? さびしいよね? やっぱり人類ほろびなくていい! きょうはなんかダメな日です。ムリせずに、きょうはもう寝ます。きっとあした、いいことあるでしょう! おやすみー。 



1282:【評価経済の落とし穴】

フォロワーの数やPV数、評価の多寡が、その人物の価値に直結する時代だ。プラスがプラスに働くだけならば問題ないが、プラスでないことが負として見做される。本質は何も変わってはいないにも拘わらず、大勢から称賛されていないことがマイナスに働く。マイナス評価されているわけではなくとも、である。斟酌せずに言えば、フォロワー数の多い人間が、すくない人間を見下しはじめている(一部に見られる傾向だが、全体として増加しているように見受けられる)。影響力の大きい人間が、ほかの同業者を低く評価するのである。影響される需要者はけっしてすくなくはないだろう。優越感と言えばそうなのだろう。おそらく、当人にその自覚はない。かつては権力者や、有名人、資本家たちといった一部の層のみが有していた、そうした特権意識が、ずいぶんと安く手に入るようになった。評価経済とはすなわち、虚構なのだろう。バブルと言い換えてもよい。バブルはちょっとした刺激でかんたんに割れる。見渡してみれば、せっかく長年かけて膨らませたバブルを、ちょっとした失態で破ってしまう事例はすくなくない。これからますます、そのサイクルは加速するだろう。膨らませた評価以上に、時間が経過するにしたがい価値の増す「実体」がないと、これからさき利益を得るのはむつかしくなっていく。虚構産業として隆盛を極めた出版社が、存亡の危機に立たされていることを引き合いにだせばそれらしい。スターをつくりあげ、権威にしたてあげ、甘い汁を吸いあげる。そうしたサイクルが業界を支えてきた。一見して魅力を判断できる「アイドル」にしても、いまはもう、個人で活動できる時代だ。中抜きで利益をあげるビジネススタイルはこのさき長くはつづかない。才能を取り扱う事業は、収益の効率化を図る方向に転換しつつある。自ずからスターとなりつつある「実」を収穫することで、コストを削減する。しかし、そのさきに待ち受けるのは、実りきった「果実」からの下剋上であり、絶縁状である。組織が効率化を図るのと同じく、個人もまた効率化を図る。これまではスターにしたてあげてもらえる「義」があるために業界に忠誠を誓ってきた表現者たちだが、すでにスターとなった「実」にとって、そこに「義」は生じない。仲介役を挟まずとも需要者と直接やりとりできる世のなかにあって、大きな組織は足を引っ張るだけの益体なしと見做されるようになる。大きな組織同士は、互いにより癒着し、裏では利権を食いあいながら、強固なコミュニティを形成するのに躍起になる。同じビジョンを見据えるでもなく、複雑化する組織は、よりいっそう機動力を失くしていく。動く資本も大きくなり、成功が確約されてからでないと動かなくなる。組織としては大きくなっていくが、企業としては硬化していくいっぽうである。評価経済において、こうした硬化していく企業の評価は落ちる傾向にある。蓋を開けてみても、そこに「実体」となるはずの「果実」は残されていない。さっこんのマンガ業界の、「まだ青い実」を探し、育てようとする姿勢には好感を抱く。ぜひ、多くのおもしろい物語を届けてもらいたい。



1283:【天才がいっぱい!】

pixiv眺めるのたのしー!!! 天才がいっぱい、世界観がいっぱい、絵描きさんのあたまのなかがどうなってるのか、ホントわかんない。お絵かき配信とか、なにそのたのしいの! もっとはやく知ってればよかった。すごい世界観を表現するひとたちを片っ端からフォローしてるけど、ただそれだけで脳汁でてくる。なんでじゃろ? となりのトトロでメイちゃんが地面のどんぐりを拾って集める場面があるんですけど、あんな感じかもしれない。ふと顔をあげると、なんかへんなのいるー! ってなる。画面に映ったじぶんですって、オチはなんか哀しくなるので、やめましょう。はい。天才がいっぱい。世の中ってひろい。



1284:【あった】

きのう忘れてきた貴重品、きょう事務所に、「こんなん失くしたんですけど、届いてませんかねー、あははー」ってアホ面さげてお邪魔したら、ありますよーって。見習いたいくらい愛想のよい、品もよい、ついでにやさしそうなおばさまが応対してくれた。けっこんするならこんなひとだなって思ったな。思われたおばさまがかわいそうだって? 言わないで! はい。公共の施設なので、ひょっとすると届いてないかもなって、思ってしまってたじぶんの狭量さにうんざりします。届けてくれたひと、ありがとー。きっといいことありますよ。いくひしが感謝するとか、いくひしに感謝されるとか、いくひしに好かれるとか。ぜいたくだなー。うらやましいぞ。このこのー。はぁ。読まれもしない文章書いててむなしくないですかって、ときどきそらみみで聞こえてくるわけですよ。あ、急に話変わってごめんね。あまりの孤独さに、いくひしさん、ついに幻聴が聞こえるようになってきた。で、その幻聴に耳をすまして、あーだこーだ、わちゃわちゃ、書き写していくと、ほーらあっという間に小説だい。てな具合に、日々文字を並べてます。さいきんは、三千字プラスいくひ誌プラス自叙伝のほうを並べてて、五千字ちょいくらい? わからんけど、文字をしたためてます。でもそこからけっこう削っちゃうので、なんだかんだで、三歩進んで二歩さがるを地で描いているいくひしさんですが、なんとか独りでたのしく生きてます。あなたはちゃんとまいにち楽しいですか? あなたのイキイキには加われないかもですがウツウツしたときの特効薬になれたらなって、思いながら、カビみたいな文章を残していきます。カビだってね、使いようによっては、ほら抗生物質になるわけですからね。お舐めでないよ! あ、うそ、薬はちゃんと舐めてください。良薬は口に苦しって言いますよね。すこしくらいは癖があるほうがいいかもよ? おやすみー。



1285:【作品数よりも】

つくった作品数の多さよりも、名刺代わりになるヒット作が一つでもあるほうが、職業「クリエイター」としてやっていくには有利である。ただし、ヒットは、つくった作品数に比例する――わけでもないのが、現実だ。一発で当てる者もいれば、百作つくってもからっきしのざんねんさんもいる。ざんねんさんもいるんだよ、だれのことだと思う? はいそこー、ゆびさすのやめてくださーい、いくひしさん泣いちゃうからねー、やめましょうねー。はい!



1286:【お金になんない】

電子書籍での収益が三か月連続で150円です。pixivFANをはじめましたが、おそらくあと七年は創作での収入は、毎月千円を超えることはないでしょう。電子書籍のほうは、表紙のほうをプロの絵描きさんに依頼すれば、多少は収益がよくなるとは思いますが、一枚最低でも十万円はお支払いしたいので、プラマイゼロにまで持っていくにはそれなりにかかりそうです。いくひしにできることは、創作以外でお金をかせぎ、あくせく、創作に費やすことと、コンスタントに作品を手掛けていくことです。ひとまず、あと二十年はつづけます。トータル三十年かけて、かけた費用を回収できないな、となれば、さすがに生き方を変えましょう。あと二十年はきっとあっという間です。そのあいだにどれだけ時代が動くか楽しみです。小説をつくってお金を稼げるようになるよりもさきに、このひとの書いた小説なら読みたいな、と思われる誰かになるほうが手っ取り早そうです。そっち方面でもなにかやっていこうかな、と思います。



1287:【もう!】

思います、じゃねぇっしょ。お金がほしくてやってんのかい! ちがうっしょ! さいきんなんかたるんでない? マンちゃんさ、まずは読んでくれてるひといるんだからさ、ありがとーでしょ。マンちゃんみたいなのが書いたのに人生の貴重な時間を割いてくれてるひとがいるんだよ。ありがたいじゃないのよさ。お利口さんぶってないで、もっと素をだしなさいよ。マンちゃん、ほんとはすっかりおばかさんでしょ。かっこつけるのやめなさいな。



1288:【なんかいい】

いくひしはメフィスト賞が獲りたくて小説をつくっていた時期が、トータルで五年くらいありました。でもダメでした。なんだあんなもん、とふて腐れてはや二年。久しぶりにどんなもんかなって確認してみたら、おーおー。なかなか受賞しなかったあの時期がウソのように新人作家が量産されとる。さーて、ラインナップを眺めてげんなりしてやるかな、と思って覗いてみたら、なんかいい感じじゃない? さいきんのメフィスト賞、なんかいいぞ。ポコポコ受賞させてるのは、なんかどうなん、とは思うけれども、ぜんぶ風味が違ってるし、若くなった感じがして、なんかいいぞってなる。ならない? え? メフィスト賞知らないの!? うぇー、うっそ、知らないのー、おっくれってるー! や、知らなくてもいいと思います。ただね、けっこうおもしろい小説あるので、人は選びますけど、もしおもしろいと思ったならあなたは選ばれた読者なので、どんと構えていてほしいと思います。なんかいいぞ。また小説送りたくなってきたな。送らないけどね☆



1289:【カンブリア爆発】

ツイッター眺めてたら、カンブリア爆発についてのつぶやきがバズってるのを見かけた。カンブリア爆発は、じつは、多様な門の化石が多く見つかる地層の時代のことであって、突如として多様性のある生態系が生じた時期とはかぎらない。軟体生物はもっとむかしから生息していたかもしれないけれども、化石に残らないので、残りやすい硬質化した生物しか地層から発掘されない。生物の進化からすると、まず軟体生物のようなものがムヨムヨ海中を漂っていたのが、次第に進化して、目みたいな器官を獲得した。すると、捕食者と被食者が明確に分かれるので、食物連鎖が発達し、爆発的に生物の進化が促進される。甲殻類のような、外敵に食べられないような生物が生存に有利になるので、カンブリア紀の地層にはそのような生物の化石がたくさん残っている。要約すると、このような内容だ。バズっていたつぶやきの出典は、いくひしが読んだ本とはまたべつの本だった。いくひしは、「古生物たちのふしぎな世界」で読んだ。小説に使おうと思ってたので、ここでは述べなかったが、バズってしまったので、そしてそのバズったつぶやきを見てしまったので、小説には使わないことにする。あべこべに、いくひしの知らないことをツイッターで見かけて、なんかいいな、と思ったら使うこともある。ただし、その内容が、読んだことのある本にも載っていたら使わない。いずれにせよ、いくひしの触れられる範囲に転がる情報は、ネットにも書籍にも載っているだろう。だからべつに、いいなと思ったら使えばいいだけの話なのだが、なんらかの基準で情報を取捨選択しなくなると、頭でっかちすぎて立っていられなくなりそうなので、線引きしやすい基準を設けている。とはいえ、理想は、どこにも載っていない、じぶんだけが知っている情報や、考えついた発想などで物語を肉付けしていくことだ。得た情報を元に、ぐるぐるぽーん、と飛ばしていこう。むろん、いくひしの発信した情報を元に、なんらかの作品を仕上げてもらってもいっこうに構わない。売れたときは、じつはこの作品にインスパイアされました、と宣伝してもらえるとすこしうれしい。



1290:【動機はどうあれ】

何かをやり遂げたくば、そのときどきの動機は一つでなくていい。初志貫徹なんて目指す必要はない。その場その場で、まずは行動するための動機付けをはっきりさせることのほうが先決だ。悔しさや、不純な欲望を燃料にしたっていい。けっかとして、目指すべき領域に辿り着けばよいのだ。手段を選ぶな、という意味ではない。手段を選ぶために、じぶんを補正する感情に糸目をつける必要はない、これはそういう話だ。冷静になりたければ水を、稼働率をあげたければ火を与える。動機はそういった、自我をコントロールするための触媒である。(それを面にだすか否かは別としてね)



※日々理想ばかりが磨かれていく。



1291:【SFって難しい】

SFの小説で、描写のみで世界観を説明するのはむつかしい。どうしてもキャラ同士の掛け合いで、細かな設定を詳らかにしていかないと物語が進まなくなる。個人的に、あまりやりたくない。とはいえ、前提知識のない状態で特殊状況を描写しても、けっきょく地の文で説明しなくてはならなくなり、テンポがわるくなる。会話でかみ砕いていったほうがエンタメとしても読みやすい小説になるように感じるが、やはりなるべく描写を通して、ストーリーを転がしていきたい。会話文を多くすると文字数がするする嵩むので、抑えるが、ひょっとするといまは会話文を多めにしたほうが読者にとっては好ましいのかもしれない。いろいろ試していこうと思う。



1292:【雨】

雨音は好きだけれど、雨に濡れるのは苦手だ。あたりまえのことを言っているかもしれない。でもいくひしは雨音を聴いているだけで一晩中起きていられるし、雨に濡れただけで腹が立って仕方がなくなる。ただ、雨音を聴くときは、独りじゃなくては苛立たしいし、全身すっかり濡れてしまうと却って清々しく感じられる。きょうは雨で、夕方から出掛けようと思ったが、お休みにした。はやめにおふとんにくるまって、雨音に耳を澄ましながら、いつかくる死の瞬間を思い浮かべられるだけ思い浮かべて、宇宙の果てを考えるときみたいに、じぶんの器が溶けてなくなっていく感覚に身を委ねようと思う。なんて並べておくと、なんだコイツ危ない人間か、なんて引かれそうだし、ややもすればコイツはなんか独特な感性があるのではないか、なんて思ってもらえるかもしれない。あんがい、みなも似たような傾向があり、なんだあんたもか、なんて共感されることも否定しきれない。2018年5月2日のきょうはまじめなようで、ふまじめなことを並べてみました。雨の日って、しずかなようでさわがしいですよね。あなたは雨、好きですか?



1293:【世の中の傾向】

いくひしはよく極端な一般論を口にする。こういった層にはこれこれこのような傾向がありますね、といった具合だが、その傾向の抽出方法は、主として三つある。一つはツイッターなどのSNSを眺めていて感じられる傾向だ。一つの事柄に対してさまざまな意見を眺めていると、それとなく意見ごとにそれを発信する人たちの共通項が見えてくる。むろん傾向なので、例外はある。また、SNS上の情報であるから、そもそもが絶対数に対して偏りがあるので、信憑性はけっして高くない。いくひしの勘違いである確率も低くはないだろう。物事を推し量る目安として、そういうこともあるかもな、という視点で、考え方の一つとして発信している。二つ目は、いくひしの物理世界で関われる範囲の人物たちの発言から抽出できる傾向である。SNSよりも遥かにサンプル数がすくない。ただし、実際に面と向かって応対しているので、得られる情報が桁違いである。ふしぎなのはSNSから抽出した傾向と相反する事例が多い点だ。合致しないと言っていい。SNSを利用する層――とくにRTされるような発言をする人物たちと、いくひしの身の回りにいる人々のあいだには何かしら隔たりがあるのかもしれない。三つ目は、いくひし個人の深層心理を掘りさげ、一般化して抽出する手法である。小説のなかの世界観や傾向は、ほとんどすべてこれである。いくひしが凡人であればあるほど普遍性の高い小説になる。ひるがえっては、あまり受け入れられないのならば、いくひしの感性が一般的ではない可能性がわずかなりとも高くなる(駄作だから受け入れらないだけ、という可能性も否定できない)。ところで、さっこんの風潮として、何かをカテゴライズして考えることが非難される例が見受けられる。何かをひとまとめにして思考し、判断することが咎められるのであるが、それは飽くまで考え方の一つのはずだ。抽出した傾向を絶対視すれば差別やヘイトの助長につながるが、そうでないのならば、そういう考え方もありますね、と認めることは物事を判断するうえでは欠かせない。誰もが物事から偏見という名の傾向を抽出し、生活するなかでの判断材料にしている。例外があることに目を向けながらであれば、枠を当てはめ思考することそのものは、けっして責められるものではないはずだ。カテゴライズすることや偏見そのものを過剰に蛇蝎視するさっこんの風潮には、いささか思考停止に似た臭いがしないでもない。前にも述べたが、主語を大きくして語ることを嫌悪する人々は、「私」と「あなた」だけ構文だけで物を語ったらいかがだろう。ともすれば、そのさきに行き着くのは「私」のことしか話せない窮屈な世界ではないだろうか。(じぶんのことしか話さない世界はそれはそれで生きやすそうではあるが)(要するに、会話がなくなり、しゃべる必要性がなくなる)(※根本的な問題として、偏見そのものに瑕疵があるのではなく、偏見を元に何かを排除したり、横車を押しとおそうとする姿勢に難がある。何かを正当化するためには、妥当な理屈と広く適正なデータが必須だ)



1294:【両立】

編集者に文句のある作家は自力で編集者の仕事をできるようになるほうが建設的だ。あべこべに作家に文句のある編集者は、自身が作家になったほうが手っ取り早い。これからさきは徐々に、そういったハイブリットなクリエイターが増えていくだろう。初期のころに有利なのはおそらく、編集者あがりの作家である。編集作業のパッキング化がすすめば、後者が徐々に頭角を現すようになる。いずれにせよ優先されるのは見る目のよさだ。原石を見つけ、誰より早く世に広める。才能取扱い事業で優先されることの第一は発掘と拡散であり、時代の変遷に伴い、収益化は自ずと確立されていく(なぜなら現状、場を提供するサービスがもっとも収益をあげるからだ。SNS然り、配信サービス然り。なかでも、お金を稼げる場を築き、提供することがもっとも事業効率が高い。誰もが個人で、才能を売りにだすだけで稼げる時代がやってくる。自身に影響力が残っているあいだに、新しい才能を世に放ち、見返りをもらうスタイルが流行るだろう)。作家が作家をプロデュースするようになる時代はすぐそこに迫っている。



1295:【焼肉】

ちゃ! いくひしです。きょうはいくひし、焼肉です。牛ではなく豚ですがいえー、肉だ肉だー、やったぜー!!! うんまーい! 馬じゃないのにヨッタうまーい! さいきんはたんぱく質不足で背中が痛かったのですが、食った途端になくなるのね、痛み。薬とかもいくひし、飲んだ途端に身体が楽になる。野菜とか摂ったときも、胃に入った瞬間から身体がみずみずしさを取りもどす感じある。コーヒーとかもそうだな。消化される前から身体のほうでリミッター外す感じ。いままではずっとプラシーボ効果かなって思ってたけど、メッセージ物質のこと知ってからは、案外、胃に入ったら消化を待たずにすぐさま身体に反映されるのかなって思ったかっていうと、そんなでもないな。べつになんも考えてない。お肉おいしーってしか考えない。だってそうじゃない? 小難しいことふんふんってしながら食べるお肉、おいしい? うまくないよね? だめじゃん。もっと食えと。無心で食えと。お肉のありがたみを噛みしめろと。だってお命頂戴してんだぜ? うんまーいって食べるのが礼儀っしょ! 馬じゃないけど! 豚だけど!!! あ、今ね、食べならがこれ打ってるんですけど、行儀わるいですね。ごめんなさい。でもほら、一人で食事してるとさ、よくないって言うじゃん。淋しいわけじゃないんだけど、ほら、孤食なんて言葉もあるくらいだし、なんかみんなで食べたほうがおいしーんだよーって言いますでしょ? だからいくひしさん、このお肉おいしーって感動をね、どうしてもみんなと分かち合いたかったんだ。どう? うらやましい? 食べたい? はい、あーん。なんつって!!! この肉ぜんぶいくひしんだい! 一切れたりともあげないもんね! チミはそこで指をくわえて見とくといい。へっへーん!!! なんて妄想しながら、もぐもぐさびしく、しずかに食べてます。お肉、おいしいです。いつかあなたとも焼き肉食べにいきたいな。



1296:【動画】

ここ一週間はまいにち絵を描き、動画を撮っています。絵はなかなか上達しません。動画のほうは、以前からちょくちょく撮っていました。だいたい十年くらいになります。短い動画をいくつも撮るのです。いちにちですくなくとも0.5GB、多いときは6GBくらいの容量になります。ですから、なるべく本気モードのとき以外は撮らないようにしていましたが、さいきんはまいにち遊びでもいいので撮るようにしています。新しい外付けハードディスクが入り用です。それともクラウドに載せとけばいいのでしょうか? 無料のやつありますよね。ちょっと検索してみましょうか。検索しました。うーん。無料だとグーグルので15GBでした。ちょっと足りません。一週間もちませんね。どうしましょう。いまのところは、8GBのSDカードに詰めこんでいます。四枚はありますでしょうか。1TBのハードディスクもすでに満杯で、ほかに500GBのものが二枚、満杯寸前です。ちょっと撮りすぎですね。ほかにもDVDRに焼いたものが大量にあります。十~五年くらい前のものでしょうか。観返したりはしません。いつかダイジェストに編集したいものです。中身ですか? 盗撮ではありません、とだけ言っておきます。もちろんアダルトな動画でもないのですが、プライベートではあるので、ここでは内容には触れずにおきましょう。



1297:【どうが?】

マンちゃん何すましてんの? プライベートなら黙っときゃいいのに、ねぇ、ちがう? ちがわないよね。かっこつけるのやめなさい、いいコだから。ね?



1298:【いいじゃん!】

うるさーい! いいでしょタマには、いくひしだってなんかいいねって思われたいの!!! あるでしょ、そういうの! ないの!? うっそーん。



1299:【いかりや長介って知ってる?】

きょうは「いくひ誌。」の代わりに短編をあげようと思って、パチパチ打ってたら六千字を超えたところで、なんだかおもしろくなりそうなので、きょうはそこでちょっといったん区切って、数日かけて一万五千字くらいまで育てようと思います。なので、別個にこれを並べなあかん。日のノルマ三千字で制作中の小説のほうは、ようやく物語が佳境に入りました。ラスボスと対峙したところなので、あと二日で終わるかな、と思います。終わるのか? で、一週間前から自叙伝をしたためはじめまして、毎日千字ずつ進めています。三か月で十万字換算で進行させていきます。いまのところいくひし史上純度百パーセントの読者不在な小説になっております。完成したらタイトル替えて、しれっと新作として電子書籍化しようかと思います。おもしろいかおもしろくないかで言うと、んー、読まれたくはないな、というのがしょうじきな気持ちです。はい。思うんですけど、小説これだけ書きましたよー、みたいなのはあまり並べないほうがいいですよね。小説は、完成品だけでしか評価できないわけでして、その進捗なんか読者にとっちゃそんなのかんけーねー、なわけなのです。ふっるいギャグを持ちだしてきちゃいましたが、そんなのかんけーねー。いまさらですが汎用性高いなこのギャグ。あしたはというか、日付変わっての五月六日のきょうですね、文学フリマ東京みたいですね。行きたかったです。欲しい本がけっこうある。自著は電子書籍化しかしてないいくひしさんですが、やっぱり紙媒体の物理本のほうが愛着があります。お金出して買うなら、紙のほうがいい。そこでしか手に入らないってんなら、やっぱり行きたくなるのが人情ではないでしょうか。誰か代わりに行ってきてくんねぇかなぁ。いくひしに友達さえいたらなぁ。なんだったら奴隷がほしいなぁ。なんつって! はい。この「なんつって!」ってのもけっこう古いんじゃないでしょうか。だっふんだ、くらい古いと思います。若い人にはもう伝わらない気がします。なんてな!



1300:【兄の嫁と暮らしています】

ちゃー! いくひしです。なんだかんだ「いくひ誌。」をつづけて1300記事目です。区切りがいいようでそうでもない! 短編を抜けば60万字を超えていますが、とくに要望がなければ電子書籍化するのは再来年とかになると思います。なんでこんなんまいにち並べてるかっていうと、あとできっと、「いくひしさんみたいになるにはどうしたらいいですか?」って質問を受けるようになるといいなって思ってるからです。聞かれても困るので、とりあえず、こういう日々を過ごしていましたよーってのを、いまのうちに並べておこうという魂胆です。こういうの諺でなんて言うか知ってますか? 捕らぬ狸の皮算用です。いくひしかしこいでしょ? ところで、世のなかでどうして名著とか古典が重要視されるのかと申しますと、その、えっと、わかります? いくひしはわかりません。ただ、一つの可能性として、それそのもののおもしろさというよりも、その時代にあって、なぜ作者はそれだけの視点を持てたのか、という閃きの軌跡が、そこはかとなく載っているからではないでしょうか。回路みたいなものですね。あとになってからでないと評価できない類のあれなので、時代が熟成するのを待つしかない。負け惜しみですか? 負け惜しみです! はい。きょうはくずしろさん著のマンガ「兄の嫁と暮らしています4巻」の感想を述べたいと思います。その前にいいですか。なんかきょう、遊び場に行ったら、刀を背負っているコがいたんですよ。日本刀。なんだーって思ったら、傘だった。取っ手の部分が刀みたいになってんの。なんだそれーって久々に中二心を刺激されました。ヨッタほしい。はい。マンガの感想と関係なくてごめんなさい。「兄の嫁と暮らしています4巻」でしたね。おもしろかったー。ジャンルとしてはきっと百合としてスタートしたこのマンガ、段々、人間とは、人生とは、みたいな普遍的なテーマが滲みだしてきていて、どんどん深みが増していく。いくひし、何度目かの告白になりますが、くずしろさんが好きなんですよ。作家買いしちゃうマンガ家さんです。誰かに依存することと、愛情とのあいだに明確な差ってあるんでしょうか。そばにいないと困る。自己がたもてなくなる。でも、それってそんなにわるいことなんでしょうか。行きすぎると相手を束縛し、自由を奪ってしまうようになるから問題だと言われてしまうけれども、依存しあえたなら、それはそれでアリじゃない? だめ? いくひしは依存しあえるくらい愛しあいたいタイプなので、あ、もちろん、依存しあわずに、なんの枷もなく、たとえ天の川でさえぎられようと想いあえる繋がりもだいすきで、理想ですけど、それはそれとして、相手がいないと生きている意味がないってくらい相手に依存し、依存される愛も、それはそれでステキだなー、いいなーって思います。きもちわるい? なんでそんなこと言うの! ふんだ! なーんて万年脳内花火大会のいくひしまんでした。さいきんオチをサボってますけど、オチがないとだめ? バッド? バッドマン? ちがった? ごめんちゃーい!!! おやすみー!



※日々死ぬときに何を思うかを想像する。



1301:【自己肯定感】

いくひしは自己肯定感がとても低いです。どれくらい低いかと申しますと、何かの大会で優勝してもまったくうれしくありませんし、何かの賞をもらってもまったくうれしく思いません。ポーズでよろこんでみせることはありますが、本心ではどうでもいいと思っています。じぶんが総合でどのレベルにあるのか、よりも、満足いく表現ができたか、満足するしあがりだったか、理想にどれだけちかづけたかが指標となります。評価される舞台にあがるのも、じぶんがどれだけ成長できたかを客観的に知りたいからであり、試金石以上の意味合いがありません。いくひしの行動原理の総じては自己満足です。反面、これまでいちども満足できたことがありません。飽きたことは多々あります。諦めたことも多いです。つど、困難なことから逃げているな、とそのときのじぶんを評価しています。自分を肯定できたことがいちどもありません。その程度か、と失望することが多いのですが、だからといって、失意のどん底に落ちることはありません。やりたいことがたくさんあり、理想ばかりが積み重なっているからです。日々理想ばかりが磨かれていきます。等身大のじぶんが相対的にちいさくなっていきます。自己を肯定できるわけがありません。ただそれがわるいことだとは思いません。嫌でもないのです。どうすれば理想に到れるかを洗いだし、日々やるべきことを選んでいく過程はそこそこ好きです。定めた目標にちかづいたり、路線を変更して、当初とはまた違った道を行くのも、予想外のオコボレをもらったみたいでうれしいのです。SNSを眺めていると自己肯定感が高い低い、といった言説を比較的多く見かけます。いくひしとしては、自己肯定感の多寡よりも、たとい自己を肯定できずとも日々やるべきことに落差がでない、人生の楽しみ方のベースというか、指針のようなものにブレが生じないでいられるほうが生きるうえではずっとたいせつなような気がしています。ブレてもいつでも修正可能であるならば、より理想的です。こんなことを並べていると、それを指して自己肯定感が高いと呼ぶのだ、と指摘されるかもしれません。いくひしとしてはどちらでもよいことです。だいじなのは、自分を肯定できるかどうかではなく、感情の起伏に関係なく、目指すべき領域に一歩でも多くちかづけること、ではないでしょうか。遠回りをしてもよいのです。ちかづくことがたいせつであり、もっと言えば、自分の行動をコントロールできるかどうかがまず優先される事柄です。楽して成果をあげよう、といった言説をさいきんになってよく見かけます。努力はしないほうがいい、や、集中力はいらない、といった内容の書籍も、書店にいけば目につきます。それぞれの意見に納得できる面があります。役立つかもしれない、と感じたならば試してみるのもよいのではないでしょうか。ただ、けっきょくのところいずれの意見も、目指すべき領域へと辿り着くためにどうすべきか、という手法を工夫するためのいち手段にすぎません。いろいろ試しながら、その場その場で考え、実践し、試行錯誤していくほかにないでしょう。いくひしは自己肯定感がとても低いです。ほとんどゼロにちかいと言えます。なんとかしなければ、とたまに思いますが、なんとかなる予定はありません。



1302:【おえー】

まーた分かったような口きぃてら。いくひし、おめぇ、単なるホラ吹きから、こじらせホラ吹きになってんぞ。日々チマチマ進めてるっつー小説はどうなってんだよ。もう五月だぞ。いい加減にしろよな。



1303:【絶不調】

ちゃ!ちゃ!ちゃー! いくひしっす、い”え”ー”!!! きょうヨッタ調子わるかった、ていうか寝坊した、さいあくだ!!! 魂のサイズがあってないみたいな、肉体ブカブカなんすけどーみたいな感じ。わかる? わかって! 今さ2018年5月8日の22時57分なんだけど、あと1時間で小説3000字すすめて、自叙伝1000字ならべてって、ムリじゃない? いや、やりますけどね。はい。絶不調のときのじぶんが要するに、実力ってことですからね。きょうできたならば、どんな日でもできるよってのを基準にして、日々のノルマなり目標なりを定めていくといいと思います。いくひしは日に3000字がムリなくつづけられるラインです。でも今は「いくひ誌。」プラス自叙伝があるので、すこしだけ負荷をかけているかもしれんけど、でもほら、日記とか自叙伝なんか、けっきょくすでに起きたこととか、考えたことをただ並べたらいいだけじゃん? 30分もあれば誰だって並べられるはず。かっこつけなきゃいいだけだから。ただ考えたことを、ダダダーって打てばいいんです。かんたんでしょ? でも小説はそうはいかん。かっこつけたいし、いいとこだけ抽出したい。現実にはない情景や展開を描きたいので、やっぱりすこし負荷がかかる。時間がかかる。3000字打つのに倍の1時間はかかるかなーって思います。削ったりなんだりしちゃうしね。でもなんだかんだ並べても、その間の作者の努力なんか関係ないのですよ。読者がそれを読みたいと思うかどうか、読んだとしておもしろいと思ってくれるかどうかは作者にはどうすることもできんのだ。こう思ってくれたらいいなー、読んでもらえたらうれしいなーって、すこしでもその確率をあげようとあーだこーだ足掻くけれども、やっぱりなかなかうまくいかない。創作のむつかしいところだね。いっぽうでは、やればやるだけ、それなりに実はなるわけですよ。かってになくなったりしない。表現したものは、日々確実に蓄積されていくわけですから、農業とか教育に比べたら、いくぶんも楽というか、やりがいがあると思うっす。この場合のやりがいは、損をしない、という意味だよ。積みあげたなら、積みあげただけ、目のまえに塔が立つわけです。現実にそんなことってなかなかないじゃないですか。料理だって食べたらなくなっちゃうし、この世には重力だってあるじゃないですか、風化だってしちゃうわけでして。賽の河原じみた不毛さが現実にはそこかしこに転がっているなかで、日々確実に実のなる創作活動は、やっぱりいくひしを裏切らないな、と思ったり、思わなかったり、はにかんだり。笑ってごまかすのがじょうずないくひしさんですけども、はい。絶不調ですからね、きょう発揮できた能力がいくひしの底力ってことになる。それが判っただけでも収穫のあった日だと思います。今は23時14分です。ここまで打つだけで17分かかってしまいましたが、絶不調なので仕方なし。はい! あと40分で小説3000字と自叙伝1000字をすすめちゃいたいと思います。できないと思うけど。



1304:【混乱してきた】

あれもこれも、ってなってだんだん混乱してきた。まだ慣れてないみたい。自転車に乗って帰るんですけど、片道8キロの道のりなのに、気づくと部屋にいて、お茶飲んでたりする。あいだのこと憶えてない。ワープする。時間が飛ぶ。思考どこいったって、なる。なんかコワい。あ、多重人格とかそういうのではないっす。意識がこう、ふらーって離れていくみたいな、たぶん作家さんの多くは、あああれねってなると思う、わかってもらえると思います。あるあるー。小説のほうが佳境に入ると、いつも体感速度があがっていく感覚があるんですけど、これはいくひしだけかもしれん。いつもどおりに動いているはずなのに、せかせかしちゃう。思考が加速しているので、身体のほうがそれに引っ張られて、いつもより多く出力されて、駆動率があがってしまう。だから身体とかふだんより疲れるのかなって思います。きょうははやく寝ます。いくひし、零時前に寝ると、寝汗すごいでるんですけど、同じ体験するひとっていますかね。身体から蒸気でてるんじゃないかってくらい熱くなって、ふだんより眠らずに済むんですけど、人間が徹夜に向かないのと何か関係あるんですかね。疲れたときは、多く寝ることよりも、22:00~02:00のあいだに睡眠をとることを優先したほうが、個人的には体調がよくなります。おためしあれ。あ、いくひしね、時間とか金銭的に余裕あったら曲もつくりたいっす。本の装丁とか編集も本格的に勉強したい。旅にでたいし、絵も描きたい。いまは絵のほうは、スケッチブックにえんぴつで描いてますけど、はじめてから二週間経ってないですけど、デジタルで描きたくなってきた。pixiv眺めてるとほんとすごいっす。神さまがいっぱい。創造主がたくさん。絵描きさんまじすげー。やりたいこと多すぎて、分身したくなってきた。いくひし、アメーバになりたい。はい。ガン細胞にならないように気をつけます。なんのこっちゃ。きょうはふだんにも増してハチャメチャやな。これがいくひしさんの正体や。ほんじつの晩ごはんは「柿の種」のわさび味です。あたまの奥がツーンってなる。うまいよね。いくひしの好物。憶えといて。念のため。なんの念かはおたのしみ。いくひし特質系やから。エンペラータイムやから。ハンターを狩る者やから。って、ハンターハンターやないかーい! 思考がぐちゃぐちゃです。おやすみー。



1305:【絶好調】

きょうはいくひし、絶好調でした。きのうひざ痛めて、きょうは手抜き日だなって思ってたら、ていねいに動いていた分、得るものが多かったのかな、と思います。書店さん寄ったら、はらださんの「カラーレシピ(上)」が出てて、まーじーでー!!!ってなった。晩ごはんと引き換えに購入したよ。なのできょうは卵かけごはんです。おいしー! ところで、プロの物書きさんだと、日に三万字とか並べるらしいです。すごいですよね。真似できない。年間にすると、おおよそ一千万字とか並べちゃうんでしょうか(並べるのか?)、十万字で一冊分なので、百冊つくれるってことです。やべーなおい。そこまでいかなくとも、プロはまいにち最低でも一万字は並べてると思います。売れっ子はってことですよ? それでも年間三十六冊はつくってることになります。すごいです。でも世のなかには全ボツというこわーい呪文がありまして、きっと三十六冊分つくっても世にでるのはそのなかの半分とかそんなんだと思います。プロはすごいですね。いくひしはその三分の一以下とかそんなです。手を抜きまくりです。プロじゃないのでね。じぶんにできるペースでやっていこうと思います。勘違いしてほしくないのですが、たくさんつくったら偉いとかまったくそんなことはないです。だって小説創作AIなんか出てきたらすぐに人間なんて敵わなくなりますし、現に絵だったらもう、人間には一生かけても描ききれないような数の絵をAIが秒で生みだせちゃうわけじゃないですか。芸術の価値は、数には還元できません、仮にできたとしてもしてほしくないですね。だいいち、多作のひとは、的(理想)を射ようとしたけっかに、たくさん弓を引いてきただけだと思います――数は結果でしかないのです。数撃ちゃ当たるわけではないけれど、撃たなければ当たらない。創作につきまとうジレンマだと思います。むつかしいですね。話は変わりますが、同じことをやっていると、だんだん精度があがってきて、あまり意識せずとも素早く、的確にこなせるようになっていく。練度があがる、熟練していくわけですが、あるレベルにまで達すると、こんどはどんどん雑になっていくのです。素早さは増し、造作もなくできるようになる反面、成果物が雑になっていく。迫力というか、凄みが薄れてしまう。問題ですよね。ゆえに、ある程度できるようになったら、すこしそのことから距離を置いたり、やり方を変えてみる必要性があるわけです。速度を落としてみたり、べつの要素を取り入れたりすると視点が変わって、何が雑になったのか、何が足りなかったのかが視えてくる。そうした脇道をすることで、せっかく極めた腕前が衰えてしまうこともあります。よそ見をするのですから鈍ります。仕方ありません。しかし、そのままつづけていても、いずれ腕は落ちたでしょう。そもそも、人は腕が落ちる前に、じぶんを見詰める目からさきに曇っていくものです。つねに(じぶんを見詰める)目は曇りつづけていると考えておいて損はないでしょう。腕を磨いても、曇った目をどうにかしないことには、本来磨くべき箇所も見逃してしまうわけです。ではどうすればよいかというと、新鮮な刺激にさらし、目の曇りを払うほかにありません。何が新鮮で、何が刺激になるかは、やってみなければわからないことです。曇った目が払われたかどうかは、自身の成果物を眺めて得られる感想の変化で判断つきます。極端な話、おもしろい映画を観たあとでは、じぶんの小説はドロ水か何かのように思えます。もっとこうすればよかった、と至らない箇所ばかりが見えてくるのです。破り捨ててしまいたくなりますが、放っておきましょう。せっかく新しい視点を得たのですから、新しくつくりあげたほうが手っ取り早く、また損をしません。欠点は、ときに個性でもあります。未熟なあなただからこそつむがれた表現は、きっと新たな視点を得たあなたにはもう出力できない宝物でもあるのです。ですから、過去の成果物はそのままで、まずは新しい何かを手掛けましょう。つくりかけのものがあるならば、修正するよりもさきに、さっさと閉じてしまったほうがお得です。もちろん修正してもいいでしょう。時間のかからないやり方で、まずは「おわり」の文字を打ちましょう。時間は有限ですからね。中途半端に仕上げるよりも、未熟と分かっていても、初めに思い描き、引いた線をなぞるほうが、あとから振り返ったときに、得るものがあるはずです。欠点とはいつだって、何かをやろうとして届かなかった、伸ばした手と、理想のあいだに空いた間隙のことなのですから。せっかく伸ばした手を引っ込める必要はありません。思うぞんぶん飛びましょう。そのあとで、空いた隙間を埋めるように調整すればよいのです。もちろん、こんな助言を真に受ける必要はありません。何も成していない、何者でもない、単なる無銘の戯言です。そんなことをしているから未だにおまえはダメなのだ、という意見もあるでしょう。真実の一側面を言い当てていると思います。長所は、つぎの局面では短所にもなり得ます。特定の何かに縋るのではなく、そのときそのときのじぶんを眺め、何が足りないのか、曇った眼を意識することが、つぎの長所への足掛かりになるのではないでしょうか。もちろん、つねに眼の曇りを意識することもまた、死角を生むでしょう。たくさんの目を持ち、視界を切り替え、死角がないように気を配ることができれば、じぶんにとって足りないものを見落とす確率は低くなるように思います。それがいいことかどうかは、また別の話ではありますが。きょうのところは以上です。ご清覧、ありがとうございました。



1306:【AIと労働】

AIの発展と社会への普及は、人類の働き方を根底から変える影響力を秘めている。しかしながら、すぐさま社会の構造を変えるほどの浸透性はない。なぜなら、AIを使いこなせる層と、そうでない層とのあいだには溝があるからだ。AIになじまない人々を補助する仕事が新たに要求される。たとえば、全自動調理マシーンが開発されたとして、一般家庭にそれが普及したとしても、使い方が分からなかったり、ちょっとした誤作動でうまく扱えなかった場合には、コールセンターやエンジニアの派遣など、労働者の介在が求められる。AIの普及に伴い、なくなる職業として槍玉にあがるのがコールセンターのオペレーターである。しかしながらそれも、新しく提示される問題に対してはAIが対処しきれないため、人間のオペレーターが質疑応答をしなければならず、また、AIからの指示にうまく適応できず、まどろっこしく感じてしまう顧客もすくなからず出てくるだろう。情報が蓄積されていけばAIの問題点は殲滅できる。AIになじまない層にしても、世代交代をしていくにつれて、そうした層はしだいに減少していくだろう。しかしそれでもコールセンターの仕事を完全にAIに代替するには、二十年はかかるだろうと妄想するものである。ただし、その過渡期におかれては、AIを使いこなせる層と、そうでない層とのあいだに、はっきりとした格差が生じることが危惧される。それは知能格差であり、経済格差である。2018年現在、二十代のスマホ保有率が九十パーセントを超えているのに対し、全体での保有率は六十パーセントに届いていない。高齢者がスマホを利用しない傾向にあるため、全体では減少する。それでも年々保有率は増加している。スマホを使う世代が高齢化してもスマホを手放したりはしないためだ。これと同じことがAIでも起きる。問題なのは、スマホの場合は、端末を持っておらずとも格差が著しく生じるわけではないのに対し、AIを使いこなせるか否かでは、ハッキリとした格差が生じる点にある。最低でも、生涯賃金で倍以上の差がつくだろう。そして一般に、高性能のAIは、資本のある人間しか持てず、使いこなすためには専門家を雇う必然性があり、やはり資本の蓄えは欠かせない。富める者はますます肥え、そうでない者たちは、搾取されていることにも気づかずに搾取されつづける人生を辿ることになる。なぜなら、これからの社会におかれては、個々人がちいさなAIを保有し、その端末を通して、知らぬ間に管理されるようになるからだ。手放せばいいという単純な話にはならない。ちいさなAIは、それはそれで利便性が保たれる。健康を管理し、病気は早期発見され、余計な支出や時間を費やさずに済む。しかしその代償に、人々は、高性能なAIを保有し扱う一部の特権階級に、暗黙の裡に支配されるようになる。現にすでにその兆候は現れている。人間の行動原理をつぶさに解析し、魚群や鳥の群れを操るように、任意の時と場所に人を集め、お金を落とすように操作することがすでに可能であり、実践されている。これまでの人類史でも同様の案件は、洗いだせば、並びたてるのに事欠くことはない。ただしいずれもその理不尽さに、民衆は気づき、憤り、反乱を起こした。搾取した者たちは、歴史的に見て、淘汰される定めにある。しかし、これからのAI保有時代では、より狡猾な手法で、一部の人間が得をしつづけるシステムが構築されていく。そのことに気づいても、反乱を起こされないような安全装置がシステムそのものに組みこまれるようになるので、異議を唱える者はなくなる。餌をもらえ、雨風を防げ、衛生面の管理された養豚場が整備される。何も考えず、欲求に忠実な者にとっては、都合がよい社会になるだろう。そこに貧富の差は関係ない。三大欲求にすこしの承認欲求が満たされればそれでいいと考える者たちが社会を土台から支えることになる。ただし、家畜でいられない者にとっては、なかなか生きづらい世の中になっていく。AIの普及に伴い、製造業は、より効率化し、人手を必要としなくなる。同時に、労働力や資本の獲得を絶対的な善として見做す社会の価値感はおのずと変容していくだろう。サービス業の多くが、すでに、顧客の要望の変化に対応しきれず、淘汰されはじめている。物の価値は下がり、情報の価値が相対的にあがりつづけている。モノよりコトと叫ばれるようになって数年が経つ。体験したコトをデータに載せ、自身の付加価値を高めたい欲求が、社会に氾濫しつつある。わるいことではない。物に支配された旧世代もそれはそれで問題だった。ただし、いささか、変化の軌跡が急激な気がしないでもない。モノよりコト、という価値観をつよめて、誰がもっとも得をするのか。手元に何も残らない人生を強いられ、損をするのは誰なのかを想像してみると、日ごろの生き方がすこしだけ楽になるのではないだろうか。(真実こころの底から、「コト」に価値を見出しているのならばよいと思う。しかしそうは思えないので、それでいいのですか、と問いたくなるのである。気分を害されそうなので、問わないが)



1307:【泣き落とし】

え”ーん、え”ーん。いくひしの小説読んでおもじろがっだらいくひしのことおどもだぢに紹介ぢでぇーーー!!! おもじどい小説あっだよっで、紹介ぢでぇーーー!!! くだじゃい!!! おべがいびばず!! んば? おどもだぢいだいの??? きび、おどもだぢいだいのーー?!! ぢゃー、いくひしとおどもだぢにだればよくばい? いくひしにおもじどい小説あっだよっで、紹介じでぇーー!!! おもぢどいっで言っでぇーー!!! したらいくひしこう言うの。しってるーー!!!ってね。あ、石を投げないでください、あたま叩かないでください、いくひし、あほになってしまうので、これ以上あほになりたくはありませんので、いでで、いだ、あだだだ、石を、石を投げるのをやめてください。



1308:【モテ】

じゅわー! いくひしっす、ちゃ! あのね、あのね、いくひしね、こう見えてね、じつはけっこうモテるんすよ。あ、自慢です。や、でも、聞いて聞いて、ちょこっとでいいからそこにいといて。だってね、こんな性格してて、こんなおちゃめで、かわいくて、ときどきクールで、そんなんいたらモテないわけないやろー! モテモテのウハウハです。うそじゃないよ、だったらいいなとかそういう願望とかじゃなくはない。願望。まじりっけなしの願望です。はい! きょうはこのテンションでいけるかなって思ったけど、モテモテエピソードまでいくまでもたなかった、エンジン切れた。事切れた。だってさ。つらいやん? まったくモテないのに、モテるんだぜー、いえーって、やるの、つらいやん? モテたーい。いくひしだってかわいい女の子とイチャイチャちゅっちゅしたいし、イケメンゴリマッチョに押し倒されて、南京錠をこじあけられたーい! まじで、なんで世のふつくしいひとびとはいくひしに魅了されないの? おかしくない? だっていくひし、こんなにいくひしなのに。あ、気づいちゃった。いま、いくひし気づいちゃった。いくひしがモテない理由。いくひしだからじゃない? いくひしがモテないのって、いくひしがいくひしだからじゃない? そうなの? うそでしょ? うそって言って!!! もうね、こうなったら死んで生き返るっきゃない。人生やりなおすしか、モテる術がない。ひどくない? それってなんかずるいし、ひどいし、情状酌量くらいあってもよくない? モテるってなんだー! どうやったらモテるんやー!!! ていうかさ、世のなかにモテてるひとっているの? じつはいないんじゃない? みんなでよってたかって、カッパいた!みたいに言って、語り継いでるだけじゃない? あっちにモテいた!わいは見ただ、うそでね、みたいに言い張ってるだけだったりしない? するでしょ、ぜったいそうだよ。見つけたら二億円もらえたりするんでしょ、ツチノコ、イエティ、モテモテマン、みたいに世界三大珍獣で名を馳せてるだけでしょ、ちがう? 琵琶湖の底とかにいんじゃねーの、ネス湖みたいにそのうち、モッチーとかなんとか呼ばれたりして、おみやげにおまんじゅうとか売られるんでしょ、いくひし知ってるよ。もうね、みんなしていくひしのこと担いでるんでしょ。恋人ってなに? 彼氏? 彼女? はぁ? おまえそんなん幻想やぞ。いくひしだって言うだけならいくらでも言えるからな。おまえのこと彼氏彼女呼びして、小指とか立てちゃうからな。わいのコレや、っておっさんみたいに言うからな。いいのか! え、やめてって、はい。やめますけど。いやいや、全力で首ふりすぎじゃない? 冗談だからね? なんでスマホ取りだしたの? 待って、何番押した? すぐ来てくださいって、誰に言ってんの、やめなさいよ! なーんて、いくひしがモテないのは、こうなるからだよ! みんなしていくひしをバケモノ扱いするー。すぐバットマンとか呼ぶ―、アイアンマンとか来ちゃうー。いくひし、スパイダーマンと友達だからな! うそだけど!!! 特殊スキル、絶望的にモテないマン!の、イクヒシマンでした。じゅわー。こうなったら宇流虎(うるとら)万(まん)に改名するっきゃない。はい! 自虐すぎて笑えない? 笑って!!! おやすみー。



1309:【これ以上、書けない】

きょうの分投稿したのに、記事に反映されなかった。



※日々ああしよう、こうしよう、とブレつづける。



1310:【並べすぎに注意】

前の項が、カクヨム近況ノートの文字数上限を超えたので、投稿できなかった。1310が抜けたので、その分をこちらで補足する。これまでにも幾度か上限を超えたことがあった。だいたい一万字を超えると投稿できずに、記事が消える。すぐに気づければ、前のページに戻ることで、並べた文章をコピーすることはできるが、気づかずに、ちがうタグを開いてしまうと、記事のデータは消えてしまう。目安として、一つの記事が二千字を超えないようにしていたつもりだが、油断をすると多めに文字を並べてしまう。なるべく単文を連ねて、文字数を削っている。めんどうくさくなってくると、余分な文章を並べてしまう傾向にある。短い記事を交ぜたりして、上限を超えないように予防していたが、短い文章のほうが頭をつかうので、するとだいたい会話文にしてごまかしてしまうので、冗長になる。これ以上、同じ失敗を繰り返さないよう、記事を十項連ねるあいだに、最低三つは短文の記事を挟んでいこうと思う。



1311:【カラーレシピ新装版】

はらださんという漫画家さんをご存じでしょうか。主にBL漫画を手掛けていらっしゃる気鋭の作家さんです。先日、書店さんに寄ったところ、はらださんのカラーレシピ(上)が新刊コーナーに並んでおり、やったー!と思って、買ってきました。さっそく目を通してみて、あれ?となりました。読んだことあるのです。そう、帯にはハッキリと新装版と書かれています。以前購入したKADOKAWA版が、こんどは新書館さんという出版社から刊行されたのです。中身は九割以上同じです。ちょぴっとだけガックリきました。以前、はらださんの「やたもも」でも、続編として二巻連続刊行したことがあったので、連想してしまったのですね。ただ、中身が同じだよー、と知っていても、購入した未来は不動です。まあいっか、と気を取り直し、読み進めたのですが、あれれー? いくひし、コナン君ばりに、首をひねります。なんか、よみづらくない? 前以って断っておきますが、これは個人的な嗜好の問題であり、新書館さんの本がダメだ、という意図はありません。新装版のほうが好みだ、という方はいらっしゃるでしょうし、そもそもを言えば、いくひしは初めて体験したものを基準にしてしまうという、ひな鳥じみた刷りこみがつよく働く性質を持っております。そのためKADOKAWA版よりさきに新装版のほうを読んでいれば、KADOKAWA版のほうに違和感を覚えたと思います。以上を踏まえたうえで述べさせていただきたいのですが、新装版、なんかおまえ、よみづらくね? あ、すみません。つい乱暴な言葉づかいになってしまいました。よくないですね、ごめんなさい。まず本を開いて、すぐに思いました。なんか変だなー。具体的には、キャラとセリフが、合っていない気がしたのです。映画版になったら声優が変わってる、くらいの違和感があるのです。おかしいですよね、セリフそのものは同じなのに。なんでかな、と思い、KADOKAWA版と新装版を見比べてみました。すると新装版のほうが、吹きだしに対して、セリフの文字の大きさが、若干ちいさいのです。調べてみますと、セリフの文字は、編集者さんが打ち込むようです。ですから出版社が変われば、セリフの書式も変わるようなのです。なるほど。これは単なる印象なのですが、新装版を担当した編集者さんは、ひょっとすると少女漫画を多く手掛けてこられた方ではないでしょうか。文字がちいさくなったからなのか、キャラの声がどことなく細くなって聞こえます。それから、これはKADOKAWAさんの方針なのでしょうが、漢字すべてにルビが振ってあったのに対し、新装版のほうは、むつかしい漢字だけにルビがあります。絵本じゃないんだから、という意見もあるでしょうし、いくひしもこれまでまったく意識しておりませんでした。しかし、こうしてほとんど同じ中身の印刷物を比べてみますと、すべての漢字にルビが振ってあるほうが読みやすかったのです。すくなくとも、カラーレシピにかぎってはそうでした。また、紙質のちがいなのでしょうか、絵柄の濃さに差異があります。新装版のほうが薄くて、読みづらく感じます。というよりも、KADOKAWA版の読みやすさが尋常ではないのかもしれません。編集作業初心者のいくひしですら判るほどの差異が、双方の書籍を比べると感じられます。これまで、本の中身がもっともだいじで、編集作業は二の次だ、という思いがどこかにありました。読めればいいのでは? と乱暴に思っていたところがあります。しかしながら、今回の発見で思い知りました。編集作業、だいじです。とくに印刷物の体裁は、本の中身に並ぶくらい欠かせない技術だと知りました。新書館さんの書籍も、けっして質の低いものではありません。プロの仕事だと思います。それでも、同じプロのなかにも、印刷物としての完成度に、これほどまでの差異があるのかと、読み味にちがいがでてくるのかと、いち物書きとして、衝撃を受けました。結論としましては、カラーレシピの新装版を購入してよかったです。初めての体験です。いくひしも、読者さんにより楽しんでもらえるように、じぶんでつむいだ小説の体裁には、よりいっそうの気を配っていこうと思います。編集者いくひしとして、すこしずつ成長できたらな、と決意を新たにしたのでした。それはそれとして、カラーレシピに出てくる女装男子のリクさん、ステキすぎでは???



1312:【ツイッターを眺めていて思うこと】

繰り返し言っていくことになると思うけど、自己肯定感が低いことをよくないことだ、みたいに言う風潮、いくひし好きくない。べつにいくない? 行動しない理由が、どうせわたしなんか、みたいになってたら問題だけど、それって自己肯定感とか関係ないから。自己肯定感高くても、そういう逃避する人間なんていくらでもいるし。自己を肯定できないってのにもいろいろ種類があると思うから、いちがいに、ひとくくりに言えたりはしないけど、でも、自己を肯定することが目的でないのなら、ありのままのじぶんとか、そういうのをまるっとくるっと受け入れる必要はないんじゃない? 変わりたい人間だっているっしょ? いまのじぶんは嫌だな、と思うことだってあるっしょ? いいじゃん、いいじゃん、ぜんぜんいいよ。虚構の、着飾った、宝石だらけのじぶんを、本当のじぶんだと思いこんで、自己肯定感を高めて、キラキラしてるひとよりも、いくひしは、理想に向かって泥んこまみれになってるひとのほうが好きだな。べつにいくひしに好かれなくてもいいと思うし、好かれたくもないかもだけどさ。もちろん、自己肯定感が高いひとがきらいだ、という意味ではないからね、そこんところは誤解しないでほしいかも。クロアゲハみたいにきれいなチョウチョも好きだけど、なんの蝶かも分からないさなぎみたいなひとだって、それはそれでステキやん? さなぎはきっと、ずっとさなぎでいたくはないんだろうけどさ。でも、ステキだよ。いくひしはこころの底からそう思う。



1313:【眠気覚まし】

Mama Said Knock You Out LL Cool J (Undefeated Remix)



1314:【悩み】

ちわー。いくひしっす。あのっすね、これまでいくひし、基本的になんでも題材にしてきたつもりなんすよ。みんな大好き殺人鬼から、性器大好きこじらせ処女まで、おもしぇーかなーって思ったらひとまず、どんとこいやーって挑んでみるんすけど、苦手なものももちろんあって、何かっつーと、じつはいくひし、イケメンキャラが苦手っす。描けない。なんかさ、いくひしがタイプなイケメンって、こう、万能型じゃないんすよ。どっか病んでたり、ウジウジしてたり、弱みを抱えてたり、そういうイケメンが好きなんすけど、もうね、弱み全開の時点でイケメンじゃなくね?ってなるの、わかる? どんどんダメ男になってくわけ。あとね、これ意外だと思うんすけど、じつはいくひし、官能小説だけはつくったことないんすよ。だめ。むり。いちどはチャレンジしてみたいんすけど、どうしてもつくれる気しねぇでやんの。経験ねぇからとかそういうのは関係ねーっす。だってべつに人殺したことなくても殺人とか題材にしてんもん。センスないってか、官能小説だけは、どうしてもプロの足元にも及ばねぇってそういう気がして、かかってこいやーってならんすよね。いくひしよく、自己満足だからーみたいに言うじゃないっすか。じぶんの理想を表現したいだけっすーみたいな。でもね、その裏側じゃあ、ちゃんと、プロの作家どもをつぶす気でいるっすからね。おまえらそんなんで金とってんじゃねーよって気持ちが、なくはない。性格バナナ並にひんまがったいくひしさんもちゃんといるよ? そんなにたくさんいてるわけじゃないから、めったにおもてにはでてこないすけど。人間っすからね。単純じゃいられねーっすよ。だいたい、いくひし、何者でもねぇ人間なんでね。たいがいは、周りのやつらから影響をふんだんに受けて、真似て、盗んで、千と千尋のカオナシみてーに、じぶん以外の言葉でしかしゃべれねぇ、ちんちくりんなんす。だから、この暗黒面のいくひしさんも、けっきょくのところは、いくひしがいいなーって羨望のまなざしで眺めてたつよいヤロウどもの真似っこってか、模倣が、ぽつぽつと足りねぇ人格を補強すべく、ときどきいくひしに燃料をそそぐのかなって思わねぇわけじゃねーっす。だいたいは、いくひし、なんも考えてねっすから。たぶん、いっちゃん中核にあるのは、なにもかもがどうでもいいって気持ちと、ただしずかに、おだやかに過ごしてたい、てぇ願望じゃねーっすかね。他人のつよさを真似ずにいられるくらい、ただしずかに過ごしたい。それだけっす。そういう意味で、いくひしが題材にできないイケメンとか官能ってのはきっと、いくひしがそれを取りこんでしまうと、とたんに後戻りできなくなるくらいの騒がしい人格ができてしまう、そういうパンドラの箱なのかもしんねーっす。手の施しようのないくらいに生活がぐちゃぐちゃになってしまいそうな、そうした予感が、セキュリティみてぇに働いてんのかもしんねーなって、だから苦手なのかなって、今なんとなくだけど思ったっす。



1315:【新作情報】

2018年最初の中編小説「リモコ~世界凍結系女子の遊覧~」を脱稿しました。八万字です。寝かせて、推敲し、六月の前半には読んでいただける状態にしたいと思います(推敲したときに、すこし増えるかもしれません)。あいだに短編を二つしあげ、6万字で止まったままの「文学キラー」も結んでしまいたいと思います。それぞれ六月中に更新できるように調整中です。短編のほうをさきに更新するかもしれません。未来のいくひし研究家のために、その旨、ここに記しておきます。



1316:【習慣の弊害】

いくひしです。みなさん、何か趣味、ありますか? いくひしはあります。物語つくるのたのしいです。まいにちやってても飽きません。あとは二週間前から絵を描きはじめました。へたくそなんですけど、さいきんすこしずつ解ってきたことがあります。ブロックを意識するといいみたいです。全体のバランスがまだまだぜんぜんなのですが、描きたい対象がおおまかに何個のブロックからなっていて、そのブロックひとつひとつもまた何個の部位からなっているのか、と意識してから筆を滑らせると、すこしだけじょうずに描けます。あと、えんぴつは、さきっぽ尖っていたほうがよいみたいです。あたりまえの話かもしれませんが、太い線よりも細い線のほうが絵がじょうずに見えます。太いと、こまかな部分がぜんぶ塗り潰れて、なんじゃこりゃ、となってしまいます。つづけていて解かったことの一つです。あとはいくひし、動画撮るのが好きです。編集するのもたのしいです。こちらも撮り方や編集技術はまったくの素人ですが、ずっとやっていて飽きません。ひょっとすると動画の編集は、いまいちばん、気づくと時間の経っていることかもしれません。睡眠のつぎに、ですが。ところで、まいにち継続していると、しだいに、つづけることそのものが目的になってくることって、ありませんか? いくひしはあります。動画とか、いちにち撮らなかっただけで、時間を無駄にしたと思ってしまいます。きょうしかできなかったことや、撮れたはずの情景が、その日やらなければ、未来永劫失われてしまうわけです。この考え方は、何かを継続するうえでは、プラスに働きますが、行き過ぎると強迫観念となってじぶんを縛りつけてしまいます。つづけていることに安心して、だんだんと作業が雑になることも増えるでしょう。ときには、敢えてやらない日をつくるほうが、より効率よく問題点を見つけられ、また改善する視点を補えます。もちろん、つづけることを目的にした場合は、どんな動機付けでもよいのでつづけたほうがいいとは思います。なぜつづけたいのかは、各々また別個に理由があるでしょう。じぶんが何を目的に定め、行動しているのか、これはなんのためにやっているのか、をハッキリさせながら、つど、場面場面でやり方を変えていくほうが、目的達成までの確率が高くなるように思います。やり方を変えるときのコツは、過去を捨てないことです。失敗から学んだこれは、いくひしの訓戒です。道を変えたとき、これまで辿ってきた道を消してしまうのは、道を増やすことには繋がりません。道はたくさんあったほうが、有利です。あみだくじは、タテ線がたくさんあればそれだけ辿り着ける場所が多くなります。いくらヨコの枝が多くても、タテの道が二本しかなければ、ふたつの場所にしか辿り着けないのです(逆にたどれば、もう一つのスタート地点には行けますが)。道を変えるときは、足跡を残す。立つ鳥跡を濁さずと言いますが、せっかく得た体験をなかったことにするのはすこしだけ損をするかもしれません。得をするかどうかはまた別の話になりますが。言い換えますと、足跡を消すことが却って、跡を濁すことに繋がり得るのです。進路を変えるときは、それまでの道も残しておく。タテの道を増やしていく。そのうえで、ときおり手法を変えながら、ヨコの枝を増やしていくと、全体として見たとき、そのあみだくじは地図となるでしょう。どこでどのように進路を変えても、任意の場所に辿り着けるナビつきの地図です。何かをつづけることは、飽くまでタテの道を進む作業です。穴を掘るようなものです。ひょっとすると、その道のさきにあるのはハズレかもしれません。ハズレだと判ったとき、道を変えるには、ヨコの枝がなければなりません。ヨコの枝を増やすことは、ただつづけるだけではできないことです。ときおり、足を止め、周りを見渡し、ほかの道への架け橋をかけておくことは、人生の地図を広げることに繋がります。もちろん、タテの道を最短距離で、最速で駆け抜けることも有益でしょう。時間をかけずに、目的地まで足を運べれば、たとえハズレだったとしても、またイチからほかの道を駆け抜けるだけの時間を稼げます。ただし、そうした体力オバケにはなかなかなれません。まずは、タテの道を進み、余裕がでてきたら、ヨコの枝を伸ばす作業にも時間をつかってみてはいかがでしょう。あみだくじは当たりを引くためのものです。しかし、何がでるか分からない、道中を楽しむためのものでもあるのです。いっそ、どこにも抜けることのない、迷宮にしたてあげてしまうこともまた、一つの生き方としてはアリではないでしょうか。つづけることを目的にしたとしても人生を満喫できるのと同じように。



1317:【お絵かき配信】

佐倉おりこさんというイラストレーターさんをご存じでしょうか。いくひしはpixivに登録してから知りました。お絵かき配信をちょくちょくされていて、いくひしはきょうと前回と、二回観ました。すごいっす。ぱぱぱーって絵がしあがっていく。きょうとか四時間で五枚しあげてたりして、あたまのなかどないなっとんねんって似非関西弁を使ってしまいたくなるほど、すごかったです。しゃべりながら作業されてて、よくこんがらがらないなぁと感心します。物書きにはぜったい真似できないと思います。すごかった、というか、いまもまだ配信されていて、それを耳にしながらこれ並べています。佐倉おりこさんはスランプになったことないそうです。絵を描くのが好きで好きでたまらないんでしょう。配信の後半、落書きと称して、すさまじい速度でラフ絵を量産していく様は、圧巻の一言です。いくひしもスケッチブックをとりだして、いっしょになって筆を走らせましたけど、やっぱりお手本があると引かれる線のバランスが段違いです。もちろんふだん絵を描くときもお手本を模写したりしますが、どこから描いて、どう線を引いて、どこを修正するのか、といったことは、じっさいにそれを描いているひとの手元を見たほうがはるかに効率よく、改善点が見定まります。ちなみにこれは些末な補足事項ですが、佐倉おりこさんのお声が、ヨッタかわいいです。絵柄のかわいらしさがそのままお声に昇華されているのでは、と思うほどで、あれ?声優のラジオでも聴いているのかな?と途中から錯覚しかけるほど、耳に心地よいです。性格のよさというか、品のよさがしゃべりから滲みでていて、どっかのバナナ並に性格のねじまがった誰かさんに見習ってほしいほどです。いくひし、おまえのことやぞ。はい! 修正しやすそう、という意味で、液タブほしくなりました。きょう学んだ言葉は、レイヤーです。層という意味みたいですね。いくひしの好きな言葉です。層を意識できるといいのは小説だけではなかったみたいです。佐倉おりこさんは15年くらいでげんざいの画力を手に入れたようです。やはり理想とする画力を体得するには、いくひしの場合はさいていでも、その倍はかかりそうです。やっていくしかない。長生きしたいなぁ。ほんとうに、そう願うばかりの、いくひしまんでした。



1318:【米と本】

いつも読んでくださってありがとうございます、生きて腸までとどく、あなたのシロタカブ、いくひしまんです☆ なんのこっちゃ。はい、というわけで今夜もはじまりました、毒にも薬にもならないとみせかけて、毒でしかない、いくひしまんちゃんのつれづれなるままに、第百億回記念ですね。適当ぶっこくのがだいすきないくひしですが、きょうはたいへん暑かった。暑かったよね? 汗だくだくだったんですけど、みんなはだいじょぶだった? あなたとか、汗ですぎて干しシイタケみたいにシオシオになっちゃってそうだけど、無事だった? プールの水ごくごく飲み干したほうがよさげじゃない? あれね、水道料数十万単位でぶっ飛ぶらしいよ、今思うとぜいたくだよね、学校のプール。夜忍び込んだりした? いまのコたちはそんなことしないのかな。いくひしもしなかったけどね。誘われないコだったので。いまもむかしも、みんなの蚊帳のそと、ぼっちです! 笑えない? 笑って!!! はい。きょうは、ことしいちばんの暑さで、真夏日だったそうです。夏じゃんね。さすがにニット帽はやめて、ワークキャップにしましたけど。首元さびしいので、なんか巻きたいなって思いながら、ひさびさにマンガ本を六冊購入し、お米5キロをリュックに詰めて、ヨッタおめーなー、思いながら、きょうもきょうとてキコキコ自転車をこぎました。暑いな! 読むだけで暑くない? なんできょうにかぎって、そんな重そうなものばっか買ったの? あほなの? 運がわるいの? 悪運つよいの? 意味がちがーう!!! はい。ムリやりテンションあげてますけど、バテバテです。浮気をしたあとに恋人がやけに質問攻めにしてくる。バレバレです! ちがうか。ちがうな。購入したマンガは、「響~小説家になる方法~9巻」「CANDY & CIGARETTES3巻」「よつばと!14巻」「ダンジョン飯6巻」「バイオレンスアクション4巻」とあとなんだっけかな。思いだせないけど、なんか買いました。んー、なんだヨッタ気になる。見てくりゃいいじゃんと思いますよね。でもね、いくひし、感想を並べるときだって、可能なかぎり手元に本を置きません。記憶に残ったものだけを抽出します。抽出しきれなかったものは、しきれなかった時点で、そのていどの関心だったということです。着飾ってもしょうがないのでね。ありままのいくひしさんをおたのしみできます? できないよね、ごめんちゃい。あまりに気になったんで、いまお花を摘みにいくついでに見てきました。「惑わない星3巻」でした。あーそうだ、そうだ。だいすきなやつだった。記憶からうまく引きだせなくてもだいじなことって、ありますよね? 前言撤回するのがたいへんじょうずないくひしさんですが、ぜひとも見捨てないでいただけるとうれしく思います。見捨て「る」以前の問題で、最後の文字を一個戻して、ミステ「リ」な話にしちゃいましょう。なんだかうまいこと言ったようでそうでもない、きょうもきょうとて、うだるような暑さにやられ、うだつのあがらない、ウザさ満点うなぎ昇りの、いくひしまんでした。うー、ダルー。



1319:【ゾンビーズ】

https://www.youtube.com/watch?v=s_QbrNWShWs

https://www.youtube.com/watch?v=PmWORPV7fKk



1320:【試験運用】

pixivFANBOXのほうで動画を公開しました。試行錯誤の一環です。いくひしのなかのひとが映っています。小説のPVにどれくらい影響があるか、二週間ほど経過を見守りたいと思います。カクヨムさんの規約に違反しそうなので、URLは載せません。プロフィール欄のpixivURLから飛ぶか、或いは「郁菱万」で検索すれば、一覧に出てくるかと思います。広報として逆効果かもしれません。個人情報なので載せたくもないのですが、クリエイターとしてだけでなく、新たに価値をつくりだす者としてもいろいろとやっていこうと思います。気分を害されないとよいのですが、と不安で胸がいっぱいです。後日、短いレポートとして影響の変化を記述したいと思います。以上、とりいそぎご報告まで。



※日々技量の差を思い知らされる。



1321:【世の中の第十六とかそこらへん原則】

きれいごとを満面の笑みで言う人間は信用しないほうがいい。ほんとうに真実きれいごとを実現するためには、どこかで汚い手段を使わざるを得ないときがくることを、うつくしく生きようとする者はみな心のどこかで覚悟し、同時に葛藤しつづけている。その苦みが、屈辱が、顔にはしぜんとにじみ出る。満面の笑みできれいごとなど言えるわけもない。



1322:【えりーと?】

エリートとは、年上のようなものだ。小学生からすれば中学生は年上だし、中学生からすれば高校生は年上だ。大学生からすれば、小中高と、いずれの学生もみな年下である(飛び級は例外として)。エリートであるか否かを気にする者は、いったい何に対してのエリートであろうとしているのだろう。エリートであろうとすることは責められたものではないが、かといって特別褒められたものでもない。研究者として不可欠な知識が足りないことを嘆くのは理解できるが、目指すものが違うのならば、知識の多寡は比べようがなく、また比べる意味もない。他人の志の低さを嘆く者はたいがい、自身の抱く憧れを多くの者たちと共有できないことに不満を覚えている。おのれの理想はおのれのものだ。孤独をおそれては、それこそ志が低いと非難されても仕方がないのではないだろうか。



1323:【変化を見る】

停滞したときには往々にして、何か打開策を、と求めがちだ。効果的な策があるならば試してみて損はないだろう。しかし手にした策が特効薬ではないのならば、よりよい成果物をしあげるほかに有効な策はない。ただし、宇宙の果てで成果物をしあげても意味はない。誰の目にも触れなければ、それはなかったも同然だ。社会のなかでの評価とはすなわち、社会への貢献度である。なればこそ、まずはより多くの者の目に触れることが、成果物の創作に並行してとるべき策である。あたりまえの話すぎて、何を大仰な言い回しで講釈を垂れているのか、と思われそうだ。とはいえ、だいじな視点であることに変わりはない。成果物が至らないのか、それとも人の目に触れないだけなのか。或いは両方ともという可能性もある。見極めておいて損はないだろう。そのためにも、停滞したときは、成果物か、広報手段のいずれかを、大きく変更してみるのがよいだろう(問題点を明らかにすることが目的ではないのならば、同時に変化を与えてもよい。結果として、停滞から躍進に結びつけばよいのである)。繰りかえしになるが、変化の度合いを見定め、改善点をしぼる。及ぼす変化は、可能なかぎりこれまでになかった類の異質であると好ましい。大きな変化を与えても、結果にたいした差が生じないのであれば、もっとべつの問題点を見逃している確率が高くなる。いくひしの場合であれば、まずはツイッターをはじめることが大きな変化となるだろう。しかしそれだけはぜったいにしたくない。いやじゃ、いやじゃ。地面に大の字になってしまう。手足バタバタもがいちゃう。誰かいくひしの代わりにツイッターやってー、やってよー、うわーん。駄々をこねこね、ふっくら焼きあげた、そのこだわりこそが、いくひしの致命的な欠点なのかもしれません。



1324:【雷】

雷うぜー! 雷神てめぇ、キスすんぞ!!! はい。こんばんわ、いくひしです。きょうはね、なんかあたまダルいダルいタイムなので、はやめに寝ようと思います。なのでいつもよりはやめにこれ並べてますけど、いくひし、あれだよ。小説つくるときね、まずはじぶんを捨てるところからはじめる。じぶんを捨てて、キャラの内面に潜っていくと、するする物語がつくれるよ。でも、一つのキャラだけになりきっちゃうと小説にならないので、俯瞰の視点にがんばってーってするけど、やっぱりどれだけふかくキャラに入りこめるかは小説をつくるうえでは、いくひしの場合だけど、欠かせないなって思うな。なのでね。性格があまりにあまりなキャラを主人公にしちゃうと、物理世界にも影響がでてきて、いくひしのなかのひとが、情緒不安定みたいになっちゃいます。キャラがね、いくひしのなかのひとに乗り移ってしまうときがある。そうならないように、なるべく自我を強固なものにすべく、日々あれやこれやと修行をするわけです。人格を脱ぎ捨て、より遠くの、かけ離れたキャラに入りこむために、ひごろから、いろんなキャラクターの一部を取り込んでおくと、日々自我をかなぐり捨てていても、いくひしのなかのひとは、いくひしのなかのひととして、その外郭を失わずに済むわけです。なかなかむつかしいんだよ? ただ、演技とはちがって、ビジュアルがないじゃないですか小説だと。だから、やっぱりというか、なるべくしてそうなるというべきか、キャラに入りこみすぎちゃって読者を置いてきぼりにしちゃうこともあって、そこのバランスは悩みの種だなって、けっこう長いあいだ、あーだこーだ、わちゃわちゃと、こっちかな、あっちかな、やっぱりこっちのそれかいなってな具合に、試してはいるのでありますけども。で、さいきんは読者さんにとって、身近に起きているかのような臨場感をどうやったら表現できるかなって、負担をかけずに読んでもらえるだろうって考えて、もういっそキャラに名前つけるのやめよっかなってことを、試していたりしなかったりしてるところです。名付けて「私」と「あなた」だけ構文だよ。ただ、二人称の「あなた」だと手紙みたいになっちゃうから、「彼」とか「彼女」にしてるけど。あだ名をつけちゃうのは、すでに試したので、つぎはいっそ、無名のままで、名無しのままで物語を転がしてみてるのが、いまなわけであります。べつに新しくはないよ? そもそもダメなんだよ? キャラに名前つけないとか、ふつうは手抜きだろって怒られちゃうし、読者舐めとんのかって、プロの作家さまどもには後ろ指さされちゃいそうですが、だめかどうかは読者さまが決めることですからね。まずはやってみようと思います。はい。ホント日々ひとさまに聞かせられるようなことがなくて、四苦八苦してるけど、アクセス解析してみると、延々とゼロで、読者不在が確実となっておりますけど、それはそれでほっとするような、さびしいような。まあ、いっか。世界にただ一人きり残された最後のもにょもにょが、それでもラジオで、おーいと呼びかけているだけなので。反応があったらぎゃくにびっくりするわ。それはそれとして、ひょっとしたらいつの日にか、いくひしみたいなさびしんぼさんのもとに届くかもしれないと信じて、しずかに、ほそぼそとつづけていこうと思う、思うって、いくひし、おまえ、思ってばっかだな。びかー、ゴロゴロー、ってお叱りよろしく雷が落ちてきそうな、本日のいくひしまんでした。



1325:【上の項で】

はやめに寝るって言ったな。ありゃ嘘だ。



1326:【やっぱダメじゃん青い鳥】

言ったじゃーーーん!!!!! あたま抱えてうずくまる! いくひしまんです、ちゃっす!!!! やー、ついに、ついに、ついにいくひしさん、つうぃったーなる魔境に手をだし、足をだし、一歩と言わずしてずっぽし深みにハマってしまっているのだわ。ざっけんなーーーー!!!!! まじで! たのしい!!!!! つうぃったー、たのしい!!! なんだこれ、なんだこれ!!! いくひしの睡眠時間と創作時間が一気にイったーーーー!!!! だめじゃんこれ、ダメ人間製造機だよ、つうぃったーはいちにち三十分!!!! はぁ。だからやだったんだ、ぜったいハマるって解ってたからやだったんだ、いくひしみたいのが手ぇだしちゃいけないもんじゃん、依存体質のもにゃもにゃが手をだしちゃいけないやつじゃんか。はぁ。まじで延々ポチポチいいね押せる。ていうか、気づくと押してる。コレクションするみたいに、目に入るいいねってやつを片っ端からいいね!しちゃう。いくひしね、じぶんのこと他人よりも解ってるから、ゲームとかお酒とか、恋愛とかからは距離を置いてきたわけ。だってぜったいハマるやん? ドツボにハマってアッチッチやん? 大やけどやん? なのにまだつづけるやん? コリしらずやん? 肩こりは年中ダイヤモンドかってくらいなのに、懲りないもちゃもちゃがいくひしまんちゃんなわけじゃないですか? かぁー。まじで。もうムリ。あしたイベントやぞ。きょうなんもしてないぞ。先週サボった分の小説ノルマ、きょう挽回しようと思ってたのに、けっきょくきょうもサボっちゃうじゃん。つうぃったーのあほー!!! なんでそんなに報酬系しげきするんやーーー!!! こんなん、ソシャゲなんかに手ぇだした日にゃぁ、いくひしさん、目もあてられないってか、目がつぶれちゃうし、内蔵売っちゃう未来しか見えてこない。かぁー。あたま抱えてうずくまる。どないしよ。今ならまだ間に合う気がする。アカウント削除できるよ、人間ってほら、かけた労力を回収しようとしてますますドツボにはまってアッチッチやん? でもまだいちにちなのでね、ここでフン!と気合い入れて踏ん切りつけたら、まだいつものいくひしまんちゃんに戻れるよ。どーすんのじゃい! どうしようもないがな。こうなったら秘儀、開き直りの術を使うっきゃないな。しーらんぴってやつだ。断言するけどな、つうぃったーやってるひとで生産性あがらんってひといたら、それ九割つうぃったーのせいやぞ。気を付けろよな! ばいちゃ!!!



1327:【トラウマ】

行動すればするだけトラウマを増やしていく精神貧弱ないくひしです。はい! いくひしは勝敗のある競技が苦手です。勝敗のない競技がどんなものかは知りませんが、とにかく、相手に合わせてしまうので、どうしても勝てないようにできています。ぜったい勝てない相手には本気以上のものをぶつけようとリミッターが外れるので、稀に勝ったりするのですが、ぜったい勝てないような、こいつには勝ちたいな、と思う相手とはなかなか対戦できませんから、やはりそういう機会はなかなか巡ってこないのであります。ひるがえっては、競技というのは、戦える舞台にあがれた時点で、そこに上下の差はほとんどないのかもしれません。競技ではなく人気投票にすれば、それこそどんな層を審査員にするかで勝敗は変わってくるでしょう。すなわち、芸術にちかくなっていくわけです。芸術とは、競技から勝敗が抜け落ち、闘争のみが残った状態だと言えるかもしれません。いったい作者が何と闘っているのかは定かではなく、それこそ千差万別になるわけですが。そういう意味で、いくひしは競技をしていて楽しいな、と思えることがむかしからありませんでした。悔しさが残るので、糧にすべくたまーに参加してみるていどです。でればでるほど、でたくない思いが募ります。勝ってうれしかったことがいちどもなく、また優勝したところで、やはり満足はしないようです。だからなに?となってしまいます。自己肯定感が低いのです。以前にも述べましたが、わるいことだとは思っていません。欠点ではあるでしょうが、突き詰めればそれをどのように生きるうえで活用していくかの話になっていきます。欠点と長所はいずれも表裏一体でしょう。場面ごとに表にだす割合を変えていけばいいわけです。ちなみに、きのうからTwitterをはじめました。以前からよく眺めてはいたのですが、じっさいに参加して、いいね!を押せると、なんだかそれだけでなんらかの実の入りを得た気になり、何かをしたつもりになってしまいします。脳が錯覚するのでしょう。創作家としてはやはり距離を置いておきたかったな、というのがしょうじきなところです。ただし、いくひしはもう単なるクリエイターではなく、新たに価値をつくる者としても活動していきたいので、継続していこうと思います。いくひしはじぶんに欠点ばかりがあると思っています。ただし、目利きだけはすこしだけ他人よりも秀でているかな、と思っております。いくひしがいいな、と思ったものは、たとえそのときまったく評価されていなかったものでも、あとで世界一になったり、大賞をとったりと、さまざまに高評価される傾向にあるので、ぜひつづけていってほしいなと思います。この目利きが自作に活かされないことがやはりというべきか、最大の欠点だな、と日々首をひねっておりますが、いまのところ改善の仕様を思い浮かべられずにいます。いくひしは種々相なキャラクターを演じますが、もっとも素にちかい人格は、Twitter上のいくひしだと思います。要するに、何もしゃべらず、淡々といいなと思うものを目で追っている。それだけなのです。中身のない薄っぺらな人格です。ともすれば、人格などないのかもしれません。ときどきじぶんが哲学的ゾンビかAIのようなものに思えます。感情があるというよりも、周りの人間を観察していて、ああした行動にはこうした感情が付随しているのか、と学び、真似ているだけのような気がします。親族の葬式にでたとき、みなが泣いていたので、泣き真似をしたじぶんに気づき、ひどく動揺したのを憶えています。動揺できたのですから、やはりふつうの人間かもしれません。世の中には本当に多くの天才がいます。いくひしははやく、まだ見ぬあなたにも出会いたいです。



1328:【疲れは遅れてやってくる】

はい、こんちわー。あーし、思うんだよね。人間、疲れたーって思ったときはもう手遅れで、疲れたーって思う三歩くらい前で何かしら手を打っとかねぇと、がっくんって身体の機動力が落ちるんだなって。あるよね? ない? あっとけよそこはさー。ノリわりーなー。あーしはさ、けっこう疲れに鈍感だから、心臓が肥大化してるってのもあると思うけど、だって胸に手ぇ当てても心臓の音感じんもん、胸がジャマだからじゃないのって、そうなん? でもあーしのともだちとか、おっぱいのうえからでも心臓の音感じんよ。同性で何してんだって、異性じゃないだけマシだろって、性別なんかどうだっていいよ。で、あーしはきのうってか、日付変わってのおとといか。日曜にひっさびさのイベントってやつに出てきて、まーこれがけっこう疲れたわけ。つーかその前日に慣れねぇツウェターってぇの? なんかよくわかんねぇけど、どいつもこいつもスマホの画面見やがって、何やってんだと思ったら、青い鳥のマークのSNSってやつに夢中じゃん。んなおもしぇーのかよってな感じでやってみたんさ。かんっぜんっに、生活習慣狂ったね。やんなきゃよかったよ。で、徹夜明けからのイベントっしょ? 身体は興奮してたからそんときゃ疲れなんか感じねぇよね。てか、緊張するとさ、眠くなんね? 疲れた状態がデフォみてぇなね。あるよね。ないの? あっといてよそこはさー。うそでもいいから、そだねーって合わせんだよ、だからモテねぇんだよおまえさんはよー。いいけどね。どうでも。おまえのことなんかどうだっていいよ。で、イベント終えての翌日、日付越えての昨日っす。やー、めっちゃダルかった。脳内を何かで上書きしなきゃやってらんねぇくらいの荒れ模様。とにかく映画でもなんでも観て、イベントなんか行ってませんよーって、なんもなかったよーって、脳みそ騙さんとやってられん状態で、脳内不協和のせいか、ずっと、「あー! あー!」ってあたまんなかで怒鳴ってるやついて、まじウゼーっつって、キレて不貞寝して、起きたらほい。いつものいくひしまんちゃんですよってな具合で、きょうからまたあーしが通常運転でやっていくぜってのをね、まあ書くことねぇし、きょうの「いくひ誌。」代わりに更新しとこーかなーって思ったって話。どう? おもろい? だめ? ダメじゃねぇよ、ざけんな。あ? ノリわるいって言われたから合わせてみた? そこじゃねーんだよ、空気読めよ。あーはいはい。気ぃ使ってくれたのね。さんきゅ。まあ、まとめると。疲れそうなときは、前日に徹夜なんかすんなよって、話。脳みそガンガンだめーじ受けて、いくひしのやつ寝込んでやんの。ああならねぇように、体調管理は、一週間前から逆算してやっとく癖つけとけよな。あーし、まじやさしい。こんなもんでいい? よっしゃOKでましたー。じゃ、あーい、またなー。



1329:【エディター】

じぶんの作品が評価されるよりも、これすごいとか、おもしろいって才能を紹介して、ほんとだーって、おもしろーい、って感動してもらって、でしょー? だよねーだよねー、ってなるほうがうれしい。



1330:【線画】

AIの深層学習により、絵の線画は誰であっても抽出可能となる。劇画調の、リアルな画風ほど、AIが得意とする分野で、あべこべにデフォルメされた絵ほど、AIには元の絵から抽出することがむつかしくなる。モデルを抽象化し、情報を削ぎおとし、異質でありながら本質を手放さない絵ほど、これからますます価値を増していく。ただし、デフォルメした絵もまた、深層学習を通し、モデルを介さずAIが直接出力することは高い水準で可能だ。確立した画法をどこまで手放し、新たな画風を編みだせるかが、これからの絵描きとしての腕の見せ所となるだろう。小説も同様である。書きたい物語さえあれば、あとはAIのほうで任意の文体や文字列を候補として挙げてくれるようになる。小説家はイチからジュウまで文字を並べるのではなく、候補から選択するその繰り返しによって物語をつむぐようになっていく。予測変換技術が現在より飛躍的に向上するという意味である。だからこそ、どんな物語をどのように編むか、指針やビジョンがこれからさきのAI浸透時代では、職業小説家としてやっていくには持っていたほうが有利な成分となっていく。ちなみにこれは拙作「網膜の住人~仮想世界に魔法をねがい~」にて一部叙述してある。三年前から充分にそうなるであろうと考えられた筋道である。



※日々思いあがりにすがり生きている。



1331:【四人目】

いくひしは三人いる。一人は小説をつくるやつで、こいつはつくったものに興味はないらしく、推敲すらしないので、残りの二人でいつも文章の直しから、表紙から、編集作業をしぶしぶ負担することになる。もう一人は雑用で、基本的にアイディアをだし、あれをやれ、これをやれ、ダメなら俺に任せとけ、とばかりに前のめりで、イベントに参加するのも基本的にコイツだ。表面上、いくひしのなかのひとはコイツということにしている。最後になるが、私だが、私は、とくになにをするでもなく、たまに「いくひ誌。」を更新したり、きょうはまだ更新してねぇぞ、さっさと書けと、一人目のいくひしに発破をかけ、あんまりでしゃばるな、と二人目のアホの手綱を握り、せっせと稼げるお金を稼いでは、出世払いな、とばかりに投資している。まったく割に合わない娯楽だが、めずらしい生き物を飼っていると考えればそれなりに元は取れていると納得するのは刹那であればむつかしくはない。ずっとであるとすこし手こずる。引きこもりとでしゃばりという相反する二匹であるので、砂糖と塩じみて、ときおり水が飲みたくなる。ならば私がその水かと問われるとすかさず首を縦に振るのはなかなか至難な業となる。私は私ほど頑迷な人間を知らず、或いは人間と呼ぶのも煩わしいとときおり思うほどには面倒くさがりであり、群れることを潔しとせず、嫌いな言葉は「仲間」であり、憧れている言葉もまた「仲間」だ。身内びいきはクソだと吐き捨て、されど友情、恩義に篤いと、即座に手のひら返しをさらりと決めては、胸を打たれて、合掌する。尊い。水と呼ぶには濁りすぎている。四人目もじつはいるのではないかと、疑いの声も聞かれよう。つくり手、雑用、管理人とくれば、足りぬ四人目の立役者は、言わずと知れた読者に需要者、観測者。なれば冒頭の口上からして改め直し、まずはこうまとめてしまうことにする。いくひしは四人いる。引きこもりにでしゃばり、黒幕に、それらを眺めて悦にひたる、随所で酔狂な粋なやつ、名を読者、これに目を走らせるおぬしである。いつも不在の、主である。



1332:【暗黒舞踏団~第三話から引用】

「身体を鍛えるのはいいことだってお父さんが」「チビ。二つ目のいいことだ。身体を鍛えたっていい人間にはなれない」(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060072



1333:【宝石】

小学生のころの話だ。体育でも朝会でも運動会でも、とかく校庭で体育座りをしているときは砂いじりをしていた。先生の話なんか聞いちゃいない。砂のなかからキラキラのちいさな宝石を探すのに夢中だった。ガラス質のそれは半透明で、見た目はダイヤモンドに酷似している。かといって当時のいくひしであってもそれをダイヤモンドと判ずるには及ばず、おとなからしたら価値のない砂塵の一欠けらにすぎないのだと、きちんと理解していた。それでも砂のなかから拾いあげたときには間違いなく、いくひしにとってそれは宝石だった。ひと際透きとおり、カマキリの複眼じみた欠片を見つけたときの高揚は、教師からの起立の号令がかかってもその場に座りつづけていたほどつよく、粘りづよいものだった。しかし、時間の流れは残酷だ。ながらくその高揚を忘れ果てていた。五日前にいくひしはツイッターをはじめた。主として絵描きさんの作品をリツイートするために利用している。大勢から称賛されている絵から、なぜこれが見向きもされていないのだ?と首をひねることしきりの絵まで、よりどりみどりで、ひとくちに絵といっても、ほんとうに幅が広く、奥が深い。絵画についての知識はほぼゼロであるが、だからこそ、素人にも判る魅力が溢れんばかりの絵には否応なく目が留まるというものだ。情報の海を漂っていると、意識するよりさきにいいね!を押している。ながらく忘れていたあの幼き日ころの砂いじりを思いだすようだ。延々と情報の海、砂漠じみた夜空を漂っていられる。かといってそんな暇はないのである。歯を食いしばり、たるんだ尻を叩くようにして、いくひしはつむぎかけの物語と向きあうべく、ツイッターと袂を分かたねばならぬのだ。教師の号令に物ともしなかったあのころとは異なり、いくひしもいくぶん分別と忍耐を手に入れた。反面、情報の海、砂漠じみた夜空に埋もれ、誰に照らされるともなく煌々と輝く星々は、紛うことなき宝石なのである。ガラス質のダイヤモンドモドキとは一線を画する価値がある。手放しがたい。見つけたい。とはいえ、端からそれは誰のものでもありはしない。魂が、肉体それそのものではないのと同じように。精神が、頭脳の所有物ではないのと同じように。絵は、その生みの親の手からすら離れ、星々のきらめきと等しい輝きを仄かに熱く、シンシンと、発しつづけていく。願わくは、より多くの路頭に迷った者の目に留まりますように。道しるべにはなれずとも、あすの訪れを怯えずにすむ夜を送れますように。なんていいことふうな文字の羅列をいくら並べてみせたところで、つくりかけの物語はまったくちっとも進まない。あなたの絵、すごくすごくステキですね。ただそれだけを伝えるための言葉すらうまく思い浮かばない。絵の素晴らしさを文字に置き換えられない。物書きなんてそんなものだ。すくなくともいくひしには、絵描きさんを越えるじぶんの姿が浮かばない。越える必然性も見つからない。ずっとずっと眺めていたい。もっともっと負けていたい。圧倒的な敗北は、崇拝に似た快楽を伴う。宝石が、価値が、人を狂わし、掻きたてるように。人は世界を描き、建てる。きみが願いを抱き、叫ぶ、ように、僕が文字を並べ、たてまつる。そしてあのコが物語る。言葉を紙に、書きとめる。者の名はいくひし。字が汚いのが悩みです。



1334:【グレた体調】

はい、おはよう。やー、きのうは久々に身体が死んでたね、かれこれ二十時間くらい寝ちまった。身体いたーい。いくひしはおばかさんなので、じぶんでじぶんの体調不良には気づきにくいのだがね、ぶっ倒れる前兆としてふくらはぎとか関節が筋肉痛になるのだ。でもざんねんなことにだいたいまいにち筋肉痛なので、その前兆もたいして役に立たないというか、おかしいなって思えない。難儀なやつじゃろ? で、ホント、鼻をすすると、ずるってカサブタみたいなタンがって、ちたない話で申しわけないのだがね、カサブタじみたのがズルって喉のほうに落ちてくるわけよ。やー、まいったね。数年前にいくひし、それをほったらかしてて肺炎寸前になって、いそいで病院に駆けこんだら、なんでこんなになるまでほうっておいたんだ、ってお医者さまに怒られちった。あるあるー。おばかさんあるあるなのだね。で、きょうはだいぶん身体が軽くなってる。きのうご飯たべなかったからかな、体重が減ってるってのもあると思うのだが、それはそれとして、ようやく体調さんのほうも思春期を抜けだして、グレたあのころを黒歴史だなんだと振りかえれるようになったのかなって、そりゃ体調不良やろー、どっ!ってな具合で、べつに字面的に間違ってはいない。いくひし、体調不良だった。風邪を引いていたのだね。こんくらいだいじょぶだべって思って、いつもどおりに活動してたのがよくなかった。休むときは休むんだぞ。おばかさんとの約束だ。こじらせていいのは性格だけにしとくのだぞ。わかったのだな。え? 性格もやめといたほうがいい? でもしょうがないのだな。だって性格不良を治すためのお医者さんなどいないのだからな。オクスリだってこの世のどこかにはあるかもしれないが、やめておいたほうが利口なのだな。性格がひんまがっていようが、おばかさんであろうが、じぶんがじぶんであることのほうがむつかしいのだからな。貴重なのだから。治すようなものではないのだね、とだけ言っておくぞ。ただし息苦しかったら、環境のほうを変えたほうがいいかもしれない点については言い足しておきたいところではあるのだな。より自由な境地を目指していきたいものだな。うむ。おばかさんとの約束だ。



1335:【twitter一週間記念】

どもども。twitterをはじめて一週間が経ちましたいくひしまんちゃんです。きょうはせっかくなのでtwitterを使いはじめてからどのような変化があったのかを短くではありますが述べていきたいと思います。へい。まずはですね、いくひしさんの睡眠時間がごっそり減りました。へい。そいから小説のノルマとして日に3000字を課していたのですが、破りに破って、21000字のマイナスです。つまり一週間まるまるサボっていたってことになるんですね。へい。体調崩してたとか言いわけですからね。たとえ40度の熱がでても3000字くらいはいくひしさんなら並べられます。ところがどっこい、twitterには敵わなかった。あとね、思うんですけど、twitterね、ぜんぜん休憩にならんのですよ。休憩時間にちょちょーいってやってるつもりでも、なんだかんだ脳みそ疲れますからね。休むんならちゃんと休まないと、たとえtwitterで天才たちのやんごとなきつぶやきや作品さまを拝んでいようと、脳細胞がんがんフル稼働ですからね。疲れは溜まります。へい。ちなみにtwitterはじめてから知ったんですけど、自アカウントのアクセス解析ができるんですね。アナリティクスを見られるんですけど、足跡とかはもちろんなくて、いくひしさん、ツイートもしてないですから、ほとんど意味ないです。ただプロフィールへのアクセス数が一週間で4272ありました(ひょっとしたら二日遅れで、実質四日分かもしれません)。でもいくひしのtwitter以外のサイトへはまったくぜんぜん流れてきてはいないみたいなので、広報としては機能しておりません。そのつもりもありません。や、ちょぴっとくらいはありました。あわよくば自作小説読んでくれないかなーって思ってました。ごめんなさい。でもそれとはべつに、たんじゅんに世に埋もれているすばらしい作品をすこしでも人の目に触れる場所に、陽の当たる場所に掘り起こしたいなって思いがつよいです。というかtwitterやってみようと思って、やりたいことがそれくらいしか思いつきませんでした。へい。で、twitterをはじめてみて思うのは、やっぱり瞬間最大風速が表層の情報の大部分を覆っていて、いくらすばらしい作品で、過去にたくさんリツイートされていても、一年前のものだともう、まったく人の目に触れていなかったりします。へい。ほかにも、フォロワー数の多さだったり、大手の版元と繋がっているか否かだったりと、作品そのものの素晴らしさとはべつの要素が、注目されるか否かに大きく左右しているように思います。本当になんてもったいない、と憤りというか、哀しさが募ります。もちろんいくひしさんは素人ですから、これは単なる野次でしかないのですが、でもすくなくともいくひしは一週間でこれだけの才能を目にして、すごいなと感動して、リツイートして、一覧にしました。もし才能を取り扱う業界の方で、いくひしのリツイートした絵の作者さんを六割以下しか知らないようでしたら、もうすこし才能を探す工夫をしたほうがよいかもしれませんよ、とこれは老婆心で申しあげたいです。もちろんいくひしがリツイートした絵の作家さんは、全体からすればごく一部である事実は否めません。たほうで、twitterはいちどフォローしてしまえば、あとは口を開けているだけで情報がつぎからつぎへと流れてきます。しかし、それは飽くまでフォローしたアカウントからのみの情報です。開拓しようとしなければ、twitterは知らず知らずのうちに自身の世界観を狭めてしまう危険性があるな、とこの一週間使用してみただけで、改めてその懸念をつよめました。へい。あとはなんだろな。そうそう、いくひしさんはpixivのほうをさきにはじめていたので、あの作者さんはtwitterやってないのかな、と探すのですけど、やっていない作者さんもすくなくないです。逆に、pixivを利用していない作者さんもいらっしゃいます。どちらかいっぽうに目を配っているだけでは才能を探すという意味では足りないようです。そこにイベントに足を運ぶ、を入れてもよいですね。へい。あとはですね。いくひしさんはエロ絵を極力リツイートしておりません。だいすきですがしていない理由は、えっちぃやつだとこう、隠されてるじゃないですか。見るための手間が一段階増えるんですよね。これ、twitterの利点を阻害してます。流れでダダダーって見るとき、ほんとなんやねん!ってなる。作者さんがわるいのではないですよ。ただ、見てるほうとしましては、疲れているときほど、もういいわ、って飛ばしたくなります。同じ理由で、宣伝用のツイートだと絵より文章のほうが多かったりして、やっぱり飛ばしたくなっちゃいます。いくひしは見ますよ? でも飽くまでいくひしさんは、新しいファンをつくってほしくて、その出会いの場にすこしでも繋げたくて、リツイートしているわけで、そうするとやっぱり宣伝用のツイートは避けたくなっちゃいます。いくひしは見ますけどね! 成人向け漫画家さんの絵をたくさんリツイートしたいのです。18禁でない絵を一枚でもあげていただけると、いくひしみたいな人たちはリツイートしやすいと思います(エロ絵だいすきなので! エロ絵が苦手な人たちにも魅力を知ってもらいたいのです)。ラフ絵以下の落書きでぜんぜんだいじょうぶです。魅力はじゅうぶんに伝わります。へい。あとは、メディアツイートがまとめてあると、過去絵を辿りやすくて助かります。これ、リツイートしてもらいたい絵描きさんはだいじだと思います。同じ理由から、定期的に自身の過去絵をリツイートしてくださっている作者さんのアカウントは、応援しやすいです。ツイートをさかのぼるのも限度があります。もちろんこれはいくひしの得手勝手な感想です。作者さんにはなんの関係もありません。twitterですから好きにつぶやくのが正解です。ただし、もしすこしでも自作をリツイートしてほしいと望んでいる作家さんがいらっしゃったら、参考にしてみるのも一つではないかな、と僭越ながらにも思います。へい。きょうからマイナス分を挽回すべく日にノルマを5000字に増やして小説のほうを進めていこうと思います。十日で挽回できる計算ですね。pixivFANBOXのほうで進めていた自叙伝を休止して、その分の時間を小説のほうに回せばなんとかやっていけるかな、と考えています。体調のほうもだいぶん回復しました。咳がイタ気持ちくなってきたので、あさってには全快しているでしょう。へい。まいにち描くと言っていた絵のほうもまたつづけていこうと思います。twitterのほうは、しばらく深く潜るのはやめて、表層の情報に焦点をあてようと思います。そうそう、いくひしさんは未だにフォロー数がゼロなのですが、作家さんをフォローしない理由は、迷惑かな、と思ってのことです。へんなやつがいいね!押してるな、と思って無視してくださるくらいがちょうどよいと思います。悪気はございませんので、ご寛恕いただけるとさいわいです。へい。以上で、twitterをはじめて一週間の所感を終わりにしたいと思います。ご清覧ありがとうございました。



1336:【家事】

きょうは手短にいきましょう。いま手掛けているのは短編です。すでに二万字進んでいるので、このままだと中編になるでしょう。義足の男の住む家で、お手伝いさんとして働くことになった女の話です。うしろめたい過去のあるオナゴですが、真面目な割に能天気なので、シリアスな話の割にテイストは明るいです。ジャンルはなんでしょう。ミステリィっぽいラブストーリィでしょうか。意図して登場人物はすくなくしています。いまのところ三名しか登場しておりませんし、終わりまできっとそのままでしょう。今回、目指しているのは、日常生活にある発見です。いくひしがこれまで結んできた物語の数々では、基本的に日常パートをカットしてあります。テンポがわるくなるからです。可能なかぎり物語に必要でない場面は削っていました。が、今回は、掃除洗濯調理に食事と、日常のなかの何気ない作業を、物語と絡めながら描写することに挑戦しています。作者たるいくひしさんが、ふだん家事がぜんぜんというか、苦手なお方ですから、なかなか描写に苦労するなぁ、と申しております。掃除してるとふだん見落としているものが見えてきたりしますよね。いらないもの一つとっても、じぶんにとってはゴミであっても相手にとっては宝物、或いはその逆もあるわけでして。食べ物だって好みはひとそれぞれで、いくら大好物でも食べたくない日だってあるでしょう。そういう何気ない、ふだんの生活の一場面を、どうやって物語にとって必要なシーンとして取り入れていくかを考えていくと、これまでのいくひしさんにはなかった物語になるのではないかな、と思ってつくっています。脱稿済みの「リモコ~世界凍結系女子の遊覧~」(八万字)は、六月に入ってから推敲したいと思います。ジャンルはSFですかね。女の子とショタしかでてこない、いくひしの趣味全開の物語です。時空を操れちゃう系女子が活躍するようでそうでもないお話になっております。あとはなんだろ。下水道で生まれて、育ったモフモフが、ペットとしてお姉さんに育てられて、同じように下水道で育ったバケモノと闘う短編も、できれば五月中に終わらせたかったのですが、無理そうです。いくひしさん、予定立ててそのまま成し遂げられたことがないです。あいつの言うことは信じちゃいかんよ。じぶんのこと名前で呼ぶ系なんちゃらだと、一人称の記述なのか三人称なのかの区別がときどき分からなくなりません? いくひしだけ? いくひしさんはあほうなのでね、ぜひ気を付けてもらいたいと思います。慣れた調子でそらんじるといくひしは、ふとんにもぐりこみ、おやすみー、と誰にともなくつぶやくのだった。完。



1337:【川が消えた日】

世界から川が消えた。朝起きるとSNSがどこもその話題で沸騰しており、公共のニュースも軒並み報道している。ホントかどうかわからなかったが、大学までのあいだにかかっていた橋のしたを覗くと、先週まで流れていた川が干上がっていた。(つづきはこちらから→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886004755



1338:【限界】

いま、いろいろとじぶんの限界が見えてきている。気を緩めるとあとはもう衰えていくだけの時間が死ぬまでつづくのだろう、と思えて、焦りが募るが、その焦りによって目のまえの課題と向きあうのは得策ではない。焦りとはすなわち、既成概念だからだ。すでにある他人の実績や、社会常識と照らし合わせたときに、焦りが生じる。そこに目指すべき自由な表現はなく、向きあいたい世界もそこにはない。焦りを感じたときはいっそのこと目標を変えてみるほうがよいかもしれない。見ている方向がズレている。知らず知らずのあいだに指針を見失っており、紛い物の何かを目指すべき何かだと見間違えている可能性がある。今ここにはない何か、じぶんがつくらなければ今後、人類が滅亡するまで現れることのない、生きた証を残したい。或いはすでに、「私」という存在がここにあることでそれは叶っているのかもしれない。「私」が生じた影響は、「私」が滅んだあとでも、滅ぶことそのものですら、すくなくない影響をこの世に残す。それは微々たるものであるにせよ、重力波が巨大ブラックホールの存在を示唆する重要な役割を果たすように、すくなくない影響を残すのだ。その影響をすら、自由にじぶんで選びたい。「私」はどのような影響を残したいのだろう。それは、どうすればこの手でつくりだせるだろう。考えれば考えるほど、なるほど「私」は創造主になりたいのだな、と思いあがりが重なり、そしてそれはきっと自由とは真逆の性質によってがんじがらめに縛られ、「私」は「私」ですらいられなくなるのだ。無になりたい。影響を残すことなく、ただそこに存在するだけの可能性の塊に、きっと「私」はなりたかったのだ。死ぬのでもなく。生きるのでもなく。ただそこに存在することなく存在する、限りなく揺るぎない収束の果てに。欲をだし、手を伸ばし、足を踏みだした時点でそこに揺らぎが生まれ、波を拡げ、あとはもう延々と理想から遠ざかる不完全なデキソコナイがあるばかりである。単なるデキソコナイですらいられない。デキソコナイにすら満足になりきれない、不完全な波の連なりが、生と呼ばれる一時の崩壊であり、死もまた巨大な生の一端でしかなく、生の残す影響は、波の振幅がごとくウゴウゴと蠕動し、収束の果てを求めて膨らみつづけていくのだろう。そこに、限界などはなく、衰えも成長も、同一の現象として片づけられ、情報のゼロとイチの区別すらなく、闇雲に、底知れなく、ただ在るばかりなのだ。「私」は在るの集合であり、けっして無には辿り着けない。なればこそ、無数の「私」を通じて、よりらしい、零にちかいチリアクタをつむぎ、試みるほかに、すべきことはなく、またしたいこともないのかもしれなかった。いま、いろいろとじぶんの限界が見えてきている。気を緩めるとあとはもう衰えていくだけの時間が死ぬまでつづくのだろう、と思えて、焦りが募る。その焦りによって目のまえの課題と向きあうのは得策ではないが、かといってとくべつ何かを失うこともまたない気がするのである。損得を越えたところにしかもう、「私」のしたいことはないのだと、無数の在るの複合体は、声なき声で、ときおり、気が向いたときにだけ、べつだん本気でそう信じるでもなく、ほかに思うことがなかったので、そうのたまいたそうな。



1339:【セリフ】

いいセリフはそれを発するとき、言葉よりさきに感情が動いている。すると言葉よりさきに動作が生じることになる。言葉を放つとき、人物がどのような動きをしているかを考えると、しぜんとその人物だからこそ放たれるセリフが飛びでてくる。いいセリフほど、言葉がなくとも伝わるようになるという矛盾が生じる。そうしたときは、どうしても言わざるを得ないくらいの感情を高ぶらせる何かを挿入するとぐっと印象的なセリフになり、場面として活きてくる。



1340:【動作】

ここぞという場面で、感情を描写するとき、無意識からの動作を叙述するとキャラクターが生きてくる。それは意識的にしなければ通常しないような特殊な仕草であると好ましい。唇をつまんだり、スマホの画面を袖で拭いたりとキャラクターがセリフの片手間に何気なくしていると、無意識ながらにそうしなければならなかった背景が間接的に浮きあがる。前者は混乱にちかい動揺であり、後者は苛立ちめいた無関心さが読む者に伝わる。逆説的だが、ここぞという場面以外は細かい仕草は描写しないほうが読みやすくなる。使いどころが肝要だ。



※日々力量が浮き彫りになり、己の卑近さが視界を占領する。



1341:【生き残り】

人口爆発により人類は進退窮まりない局面に追いこまれていた。そこで二〇八〇年代、国連主導で、相殺安定法が発足された。十五歳になる児童は必ず同年代の児童を一人だけ殺害しなければならない。ゼロ人でも二人でもなく、必ず一人である。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886040519



1342:【光年とは?】

宇宙学というか、どんな学問にも明るくはないので、正確なことは何もわからない。しかしというべきか、だからこそというべきか、疑問に思うことはある。たとえば距離を示す、光年という単位だ。一光年とは光が一年間に進む距離のことだ。しかし宇宙にはたくさんの恒星があり、銀河があり、何より謎の物質ダークマターがある。宇宙は均衡ではない。まだらに、時空が歪んでいる。重力の偏りがそこら中に散在している。重力の差異は時空を歪め、さらには時間の進みまで歪める。重力が高くなれば時間の進みは遅くなり、低くなれば速くなる。極端な話、重力の高い星のうえで一秒経過するあいだに、質量を持たない宇宙空間では一億年が経過していることもあり得る。この点を踏まえて冒頭の疑問だが、一光年とはどの地点での時間軸を基準に述べた距離のことだろう? 光が一年間に進む距離とはいえど、宇宙をどのように進むかによって光の辿った距離や時間は変化する。光の速度はどのような慣性座標系においても一定だが、時空は重力の多寡によって歪むため、光の辿る距離や時間はそのつど、観測者の位置座標によっては変化する(ように観測される)。歪んでいる時空内にいる者にとっては、歪んでいない外部のほうが歪んで映るのと同じ原理だ。光は時空間を最短距離で進むため、時空の歪んだ場所を通るとき、外部からそれを観測すると光は曲がって見える。同様にして、宇宙には至る箇所に時空の歪みが散在しているのだから、一光年と言ったとき、じっさいにはもっと長い距離を光は進んでいるのかもしれない(或いは短い距離を)。すなわち、時空の歪みの多いところとすくないところとでは、同じ一光年でも距離が変化するはずだ、という仮説である。ダークマターの正確な位置も特定できていない現状(おそらくできていないと思われる)、どのようにしてそれら誤差を計算に取り入れ、星々の距離を算出しているのだろう。これくらいの疑問はすでに解消されていると予測するものだが、調べるのも面倒なので、誰か教えてほしいものである。



1343:【そう、なんの音?】

山で遭難した。ネットは繋がっており、すぐに救援を要請できた。以前読んだネットの記事で、沢には降りるな、と書かれていた覚えがあったので、連絡したときにはすでに山の上のほうにいた。しかし現在地が不明で、GPSも正確な場所を確定しない。とりあえず山頂まで登ればヘリで救出してくれるそうだ。さいわいにも食料は三日分ある。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886047562



1344:【透明になりたい】

誰もいない場所で生きたい。でもときどき人のいる場所を見てまわりたい。岩のように一つどころにじっとしており、ふと思いついたときに、風のように吹き抜けて、水のように巡りたい。



1345:【動画公開の影響】

pixivFANBOXで動画をおよそ1か月のあいだ公開しました。その影響を短くですがレポートしたいと思います。結論から述べますと、影響はありませんでした。まず動画のPVにほとんど変化がなく、動画は観られていないようでした。ツイッター上ではないので同列には語れませんが、基本的にツイッターでは6秒以上の動画は再生されにくいようです。まずは短く内容を紹介するような6秒前後の動画を用意しておかないことには、動画を宣伝に活かすことはむつかしいのかもしれません。それからツイッターをはじめて2週間が経過しました。プロフィールへのアクセス数は現在6994です。すくなくともそれくらいの回数、TLを見てもらえているということでしょう。フォロワーは現状4人ですが(ありがとうございます)、いくひしがリツイートするだけでも微量ながらにも、(元のツイートの)広報にはなっていると思います。嫌な思いをされている方がいらっしゃるかもしれませんが、プラスの面もあるのだと思っていただけるとうれしく思います(プラスか否かを決めるのはいくひしではありませんが)。ツイッターをはじめた影響なのか、pixivとカクヨム双方の自作小説のPVが上昇傾向にあります。顕著な数字ではないですが、まいにち1PVはあるようです。これまではゼロがつづくのも珍しくないほど目をかけてもらえない日々だったので、ありがたいことです。それと、電子書籍のほうも短編集「緑」と「黄」を読んでいただけた形跡があります。数か月ぶりに収益が300円を超しそうです。この場を借りてお礼申しあげます。短くですが、これにて動画を公開してみた影響、それからSNSを利用してみた経過のご報告を終えたいと思います。これからも継続して、すこしずつSNSのやり方を工夫していきますので、ときおりその影響をレポートしたいと思います。以上です。お忙しい中、ご高覧ありがとうございました。



1346:【金平糖じみた声で】

前のバイトで知り合ったコから連絡があった。久しぶりに飲みに行きませんか、というお誘いだったが、ざんねんなことに彼女と飲みに行ったことはいちどもない。社員組と非正社員組の派閥があり、そのどちらにも属さなかったわたしは、そのころいずれ方からも目の上のたんこぶ扱いされていた。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886055221



1347:【言い分、イーブン、いい気分】

「継続は力なりってのはな、プラスじゃねぇんだよ、マイナスだから意味があんだよ。分散だよ。一気にやったら身体がもたねぇだろ。身体だけじゃねくてな、環境への影響だって無視できなくなってくんだよ、だから継続して、分散して、長期間にわたって、すこしずつ積みあげてくのがだいじなんだ。限りなく影響を、周囲への変化を抑えて、じぶんだけの高みを目指すことに意味があんだよ。継続は力なりってのはそういうことだよ、わかってんのかよ、聞いとけよ。いいか。たとえば俺ぁ、毎日人を殺してんだろ。殺してんだよ。チマチマ一日一殺ってな、仕事でもねぇのに老若男女人種から何から関係なしに、動機なんてねぇよ、ただ殺してぇから殺してんだよ。一年が何日か知ってっか。三六五日だよ。一日一殺だったら、一年で三六五人、殺してるって計算になんだろ。なんだよ。十年だったらその十倍だよ三千なんちゃら殺してんだよ。けっこうな数字じゃねぇか、立派じゃねぇか。もしそこで一日で三千なんちゃら殺してみろよ、ちょっとした災害じゃねぇか、まともに生活なんざできなくなんだろ、よくねぇよ、これっぱかしもよくねぇよ、影響がデカすぎんだよ。砂山から砂粒がごっそり消えっから問題なんだよ、一個二個、砂粒が消えたからってなんだってんだよ。継続して、分散して、チマチマ一日一殺なんだよ、そういうことなんだよ。聞いてんのかよ。十年で三千人が死にましたって、べつにたいしたことじゃねぇよ。俺以外のやつまでそんなチマチマやってりゃ、六千とか一万とか、ケタが違ってくるけどよ、あいにくと俺みてぇなやつはいねぇからよ。毎日律儀に一日一殺、きちんと殺して、刻んで、捨てるまで、えれぇだろ、後片付けだってやってんだ、えらいんだよ俺ぁよ、聞いてんのかよ。継続は力なりなんだよ。継続しろよ。分散すんだよ。ムリはだめだ。十年とか五十年とか、そういうスパンで物事を見なきゃなんねぇんだよ、影響力だよ、できるだけ小さく生きんのがコツなんだよ、つづけられなくなったら意味がねぇんだよ、それがだいじだろ、ちげぇかよ。あん? 殺さないでくれ? バカ言ってんじゃねぇよ、一日一殺なんだよ、継続は力なりなんだよ、あと一時間で日付けが変わっちまうじゃねぇか、おめぇ以外に誰がいんだよ、なぁ。俺ぁ、おめぇ以外に誰をやりゃいいんだよ、答えろよ。継続なんだよ。分散すんだよ。今から俺ぁ、解体すんだよ。動く心臓を握りてぇんだよ。頼むから黙ってろよ、無様な悲鳴がきれぇなんだよ。キレイなのは夜空だけだろ。砂山なんざ興味ねぇんだよ。砂粒ごときがうるせぇんだよ。黙ってしずかに消えとけよ」



1348:【カラーレシピ・下】

寝る前に読んだ、はらださん著のマンガ「カラーレシピ・下」がおもしろすぎて目が覚めた。感想を書かずにはいられなかったので、飛び起きて、いま文字を並べています。ジャンルはBLなのでしょうが、サスペンスと言ったほうが精確です。ブラットピット主演の映画、セブンみたいな緊張感があります。タイトルのカラーレシピの意味を知らないいくひしですが、なんとなしに虹色を連想します。同じように今回、「カラーレシピ・下」では、感情の色合いがカメレオン並に様変わりしていきます。すごいです。ひょっとすると、ことし読んだ虚構作品(マンガ、アニメ、小説、映画)のなかで、いちばんドストライクな物語だったかもしれません。や、すごいっす。王道なのに邪道で、邪道なのに王道の物語になっていて、どんな生活してたらこんなものを生みだせるのかと作者の体調を心配してしまいます。物語のおもしろさはもちろんのこと、なんといっても、脇役のリクさん。すごく、すごく、すごく好きです。惚れました。ぜったい振り向いてくれない系のキャラクターなんですが、言ってしまうとリクさんは女装男子なのですが、や、クールで知的で、かっこよいのです。はらださんの作品ではちょくちょく傍観者役というのがでてきて、それはBL漫画を読んでいる読者のメタファーだったりして、リクさんも例に漏れず、男同士の恋愛に割って入ることのできない読者を、なんとか物語に絡めて、男たちのくんずほぐれつな関係に触れられないかと、これはもう、かんぜんなる作者はらださんからの、サービスなわけなのです。で、その本来でしゃばってはいけないはずの読者たるリクさんが、ほんとうにもう、でしゃばりまくりの狂言回しで、「カラーレシピ・下」は、まさしくリクさんなしには成立しない見事なまでの、読者体感型の物語になっているわけなのです。や、すごいことですよこれは。モブキャラが、こう、主人公たちの恋愛事情を後押ししたり、当て馬になったりすることはよくある技巧の一つとして、なんら特筆すべき要素ではないのですが、「カラーレシピ・下」におけるリクさんのでしゃばりようと言いますか、あんた何したいの?感は異常で、そこには一見すると良識のようなものがあるようでなく、嫉妬のようでそれもちがく、明らかに物語にとって異質な存在で、ただただ掻きまわしたいだけというか、死神か何かのように、リクさんの存在が、物語を、リアルでありかつファンタジィでもある、一種、異常な世界観を、読者のいる場所まで地続きに結びつけてくれているわけなのです。や、すごいことなんですよこれは。ほんとに。もうね、リクさんとお付き合いしたいです。尽くして、振られて、それでも尽くして、しょうがないなぁ、ってしぶしぶ同情で寄り添うことを許可してほしいです。契約ですよね。リクさんは悪魔であり、読者もまた同時に、悪魔なのです。キャラクターたちの順調な人生なんて望んでいない。そんな純粋なまでの邪悪さがカタチをとって、具現化した存在がリクさんなのです。いくひしはリクさんと契約したいです。それは、読者との契約でもあるのです。すばらしい、すばらしい。読者たるいくひしは、じぶんのなかにある純粋な邪悪さと結ばれたいがゆえに、命をささげ、人生を棒に振り、契約することでしか、読者でいつづけることはできず、また繋ぎ止めることもできないのだ。「カラーレシピ・下」は、まったくぜんぜん、そんなお話ではないのですが、いくひしはたいへん興奮いたしました。もういちど念を押しておきますが、いくひしはリクさんがすごく、すごく、すごく好きです。宝石のように眺めているのがちょうどよい、毒気のつよすぎる、ぜったいに関わりあいたくのない人格です。



1349:【今後の予定】

五月にSNSをはじめた流れで、インスタもやってみようかなと思います。ので、デジカメを新調しようと思いたちまして。二万円くらいの機種ですけど、注文することにしました。六月中にはコンセプト含め、どういうふうに写真をじぶんの創作活動に活かせるか、考えをまとめようと思います。小説は、つくりかけのものがどんどん溜まってきているので、まずは完成させることを目指そうと思います。はやくイチオシの物語を手掛けられるように(図案はあたまのなかにできているので)、できるだけ短くまとめることを意識していこうと思います。こういうふうな、いくひしの意気込みみたいなことを並べるときはたいがい、書くことがなくなったときで、あっぷあっぷしているのだな、と思っていただけると八割がた的中すると思います。溺れないように、息継ぎの練習をします。はっ、はっ、ふーっ、だよ!といくひしが申しておりますが、聞く耳を持ってはいけません。息継ぎのコツは、吸うのではなく、吐くことです。まずは肩の力を抜き、全身に巡った空気というものを、すっかり吐きだしてしまいましょう。読みすぎても、流れを汲むのも、ほどほどがよいです。空気だってたくさん吸えばいいというものではないのですね。ときには呼吸を止め、世を覆い尽くす空気というものを拒んでみるのも、息継ぎに、息抜きには入り用なのかもしれません。



1350:【つぶやきふう】

現実ではないという一点で「 」が好き。(「 」にはあなたの好きな虚構を入れましょう。例:「絵」「小説」「マンガ」「アニメ」「映画」)



※日々落ちぶれていく我が身を思い、底さえなければ、とそらを思う。



1351:【なにものでもないもの】

何者でもないが、このままだと何者にもなれなかった者にもなれなかった者になってしまうので、本当の意味で何者でもない者になるには、ときおり何者かになってしまい、日々何者かでありつづけ、変質しつづけるほかに、何者でもない者にはなり得ないから、きっとこのままでは何者でもない者にすらなれない、何かになろうとした有象無象にまぎれ、大衆という名の亡霊に食われ、溶けこみ、消えていくことになる。「私」などというものは幻想であり、「自我」なるものは存在しない、それらはいっときの陽炎であり、何者でもない者による洗脳であり、刷りこみであり、家畜のための餌のようなものである。何者かになることの意味は、変質にこそあり、何者でもない者になるための過程にすぎず、「私」という「自我」を獲得してしまえば、あとはもう、それを以って何者でもない者の糧とされるほかに、存在価値はないのかもしれない。何者にもなりたくない。何者でもない者にすら。或いはそれらすべてになりたいのかもしれない。



1352:【チョコミントアイス】

へーい! いくひしです!!! なんだかお久しぶりって感じするなー。やーやー、このところいくひしさんは完全にヘバっておってな。うんうん。昼間暑くて、夜は寒い、じめっとしてて汗はかくしで、とっとと夏になってほしい。Tシャツ一枚じゃ寒いから未だに首にネクウォーマー巻いて自転車こぎこぎしとるわい。そろそろバンダナに変えたほうがええかもしれん。ちなみにツイッターで、なんかやたらにさいきん、チョコミントアイスの話題が増えてきている気がするのだが、気のせい? 基本は絵描きさんのツイッターしか覗いてないので、なんとも言えんのだが、いくひしもチョコミントアイスはだいすきなので、わしもわしもーって思いながら、いいねボタン押そうかどうか悩むのよね。飲み物はさいきんは、糖分入ってない系のしか飲まない。家だとルイボスティーか紅茶だな。どっちもお湯だしで、冷たい飲み物はまだ出番じゃないのだが、その分アイスで内側から冷やしたりもして、せっかく控えてた糖分もそこでごっそり補給しちゃう流れが定番化してきとるな。うん。ぽんぽん壊さないように寝るときは毛布がかかせないぞ。新作のほうはだな、なんか新しくまた短編をつくりだして、あれもこれもになってて、目がぐるぐる回っている状態なのだな。脱稿済みのは、ようやく半分くらい推敲したので、あと一週間もあれば更新できるはずだぞ。なんて言ってるときはたいがい、もうちょっとかかるから、ま、締め切りがあるわけでもないし、ゆっくりやっていくぞ。推敲のときのコツは、じぶんのなかでいちばん厳しい目を持つ人格に主導権を渡すことなのだな。一行読んでは、クソ、一行読んではクソ、と一刀両断するような目で、文章に、ガンガン金槌を振り下ろさないことには、ふだん小説を読まないような人たちの目に触れたときに、即座にメデューサになってしまうので、気をつけなくてはならないのだね。でもあまりにガンガン金槌を振り下ろしすぎると、こんどはふだん小説を読んでいるような人たちから、なんだこの文章は、って唾を吐かれてしまうので、好きなひとの唾液ならともかく、そうでないのなら、やっぱり唾は吐かれたくはないのだな。うんうん。そしていくひしは今からラーメンを食べるぞ。もうすぐ日付けが変わる時刻じゃが、きょうの夕食なのだな。辛口のみそラーメンで、スープはちゃんと残すぞ。でもきょうはたくさん汗をかいたから、塩分補給のために飲んでもいいかもしれないけど、やっぱりやめておくのだな。うんうん。本日二個目になってしまうのじゃが、食後のデザートでチョコミントアイスを食べようかな、と画策している本日のいくひしまんちゃんでした。オチはなしや! わるいか! わるいの? しるかー!!!



1353:【否定の是非】

何かを嫌いだと思う気持ちや、苦手だという感情を抱くのは人間として自然な行為だ。そしてそれら内なる精神のみじろぎを言葉にして吐きだすこともまた、表現の自由として認められている。よろしくないのは、そうした内なる精神のみじろぎを理由に何かを排除したり、闇雲に禁じたりすることである。ヘイトや差別がよろしくないのは、なにも、何かに対する嫌悪感を吐きだしているからではなく、それら嫌悪感をもとに何かを不当に排除しようとしているためである。同様の理由から、たとえデモであっても、なにごとかを排除しようとしたり、闇雲に否定することは、単なる差別であり蔑視であると個人的には捉えてしまう。デモは憲法で保障されている国民の権利である。しかしながら、単に「○○反対!」や「○○はやめろ!」のような否定の意思を声高々と唱えたところで、本質的にはヘイトや差別と変わらないのでは?とふしぎに思う。デモとは、私たちの主張にも耳を傾けてくれ、話を聞いてくれ、という願いを要望に転換するための行動のはずだ。それはけっして、私たちの主張を受け入れろ、という脅しとは異質なものであるはずだ。ニュースで報道されるデモのすくなからずからは、ほとんど脅迫ではないか、と胸が苦しくなるような粗暴さが感じられる。署名活動でも同様に、「○○に反対します!」のような一辺倒な主張で、本当にそれであなた方の望んだ社会になるのですか、と首をひねることが多い。さいきんでは、排除思想を排除するといったロジックで、けっきょくは正論を武器に何かを排除しようとする動き、自分たちで否定した方法論そのものを用いて自分たちの主張を押し通そうとする動きが活発化してきている印象がある。そのつど、新しい差別が生まれているだけではないのか、と思うのだが、なんにせよ、すべてをそのまま受け入れろ、というのも酷な話であることに異存はなく、けっきょくのところみな、共生など求めてはいないのだろう。共生とは、みなが助けあう社会ではなく、ときに傷つけあい、ときに助けあい、ある者にとっては害であるが、またある者にとっては生きるうえで欠かせない要素である、といったことを許容する社会が、共生なのである。自然界は共生のうえに成り立っている。ややもすれば人類はそこから抜けだそうとしているのかもしれない。強制と矯正と強請を以って、共生を拒んでいるのだ。そのさきに何を見ているのか、いちど訊ねてみたいものである。



1354:【間違い探し】

きょうは書店さんに寄った。去年はまいにち通っていたのだけれど、さいきんは一週間に一回寄るかどうかで、本当にここ三か月ほど、読みたい小説がなくなってきていて、それはおもしろい小説がない、という意味ではなく、単にいくひしが小説を読めなくなってきているのだ。飽きてきているのかもしれない。ゆゆしき事態だ。なのできょうも文庫の新刊コーナーをフラーと歩いてみて、以前ならば立ち読みで三十分くらいはタイムスリップを体感していたところなのに、本当にさいきんは、ふらーっとまえを通るだけで、タイトルを流し読みして、本を手に取ることなく、そのまま新書コーナーへと移行する。新書はすこし立ち読みする。去年は宇宙や遺伝子に関する新書が多く出回っていたのに、さいきんはすこし減少ぎみでさびしく思っている。売れないのだろうか? 購入する本もなく、そのままマンガコーナーへと移ろう。そこでも気になるタイトルはないかな、と探すだけで、やはり購入はしない。去年は表紙買いをしていたのだけれど、いまは前以って購入リストを頭のなかにではあるけれど作っているから、衝動買いすることはない(リストには載っているけれど発売日を知らずに、書店で見つけて買うことはある。これも衝動買いと呼ぶのだろうか?)。どんな新刊があるかな、と眺めるのは、次回作の構想に活かせるからだ。たとえばタイトルの傾向だったり、扱っている素材の傾向だったり、流行りと廃りがいちばん顕著に変動するのが、やはりというべきかマンガなので、観察する分には重宝している。ただし、さっこん、いきつけの書店さんが大型の店舗の割に、マイナーな本をとり扱わなくなってきているようで、以前よりも参考にならなくなってきた感が否めない。ツイッター上でバズっているマンガと、それから流行りの映画を織り交ぜて、傾向を読み取ると、それとなく、つぎに流行りそうな素材が見えてくる(どちらかというと、たくさん宣伝していながらに売れなかったものや、かつてなら売れただろうな、と思うようなものがそうでもなかったりするほうが参考になる)。とはいえ、そのていどで見えてくる流行りは、数年で廃れる一過性のものがほとんどなので、自作の物語の主軸に据えたりはしない。飽くまで、添える程度だ。ないよりかはマシだろう。そしてきょうはいくひしには珍しく、雑貨コーナーを覗いた。気分転換をしたい気分だったのだが、いつもとはちがったことをしたいな、と思った以上、その時点で、わざわざ行動に移さずともすでに気分は転換されている、というめんどくさい考えは巡らせないでおいたほうが賢明なので、いくひしは素直に雑貨コーナーを覗いた。千円のボールペンがあった。百円のものとどこが違うのだろう。宇宙空間でも使えるのだろうか。宙に字が書けるとか。などと考えるでもなくつらつらと歩いていると、カレンダーに目が留まった。俳句文学館の二〇一八年、ことしのカレンダーだった。そう言えばさいきん俳句が流行っているな。流行には敏感ないくひしさんである。ぺらぺらとめくってみると、たくさんの俳句が目に飛び込んできた。特選とでも言えばいいのだろうか、月ごとに一つか二つ、とくべつに大きく目玉商品ですとばかりに印刷された俳句がある。ほかの俳句と比べて何がいいのかはよくわからないが、特選の句だけは色紙に書かれたものを印刷してあるようで、月ごとに、詠み人の独特な感性が文字に浮きでて映り、味があるなぁ、と感じ入った。今月はどんなかな。思ったので六月のページを見た。以下、引用する。「さなぶりを 終え啄木の 村しづか」角川春樹――とある。はぁ。ひょっとしてこの角川さんはあの角川さんだろうか。ここでいくひしは考えた。カドカワの社長ってどっちだっけ? たしか兄弟だったような。なんとなく、社長のほうではない気がした。いずれにしろ出版業界の大物の名前があって、ほぉ、となった。俳句の意味はわからないが、特選をとっているくらいだからすごいのだろう。やはり、ほぉ、となった。さて、前置きが長かった。上記の文章には明らかにおかしい点が一つある。校閲に通せばまず赤字の入る、明確な嘘が並べてあるのだが、お気づきいただけただろうか。誤字脱字ではないのであしからず。日常のできごととして、ハッキリとおかしい点がある。聡明な読者諸君のことだから、読んでいるあいだに、あれ?と思われたことだろう。思われなくともまったく問題ない。こんな文章、きちんと読んでいるほうがおかしいのである。答えは、「書店に売られているカレンダーが今年のものなわけがない」である。すくなくとも、六月に売られているカレンダーに、その年の六月の暦が載っているはずはない。もしあったならば不良品なので、店員に教えてあげたほうが親切だ。ちなみに、小説における伏線をこのレベルで分かりにくく取り入れると、読者はまったく気づいてくれず、また、伏線でしたと回収してみせたところで、そんな記述あったっけ、知らんがな、とそっぽを向かれてしまうので注意が必要だ。



1355:【いいねの内訳】

ツイッターには「いいね」ボタンがある。押すと、赤く変色するので、じぶんが押したかどうか判るのだが、ときどき赤いのに数字がカウントされないときがあって、困る。あと、以前押したはずなのに赤色じゃなくなっているときがあり、それも困る。リツイートみたいに一定時間経つとまた押せるようにリセットされるのだろうか? ちなみにいくひしの場合、「いいね」を押すとき、その意味合いは四つある。「ヨッタ好き!!!」「わかる~~~!!!」「うらやましいぞこのやろー」「がんばってください!!!」の四つだ。どれも深い意味はなく、山のいただきに立って、いい景色だなぁ、と思うようなものなので、あまり気にしてほしくはない。リツイートしたときは基本的に「いいね」も押しているので、なんでこっちのはいいねがあるのに、こっちにはないのだろう、と思っても、それは単にツイッターの仕様によるバグなので、気に病まないでほしい。とはいえ、いくひしの干渉を気にする人間も、いないとは言い切れないにしろ、限りなくすくないだろうから、これは、もしもイヤな思いをされている方がいらっしゃったら、どうもすみません、悪意はありません、という言いわけである。きょうは日差しがつよいなぁ、蚊がうるさいなぁ、ていどに思っていただけるとさいわいだ。ともあれ、日差しにしろ、蚊にしろ、四種のいいね!を抱いていることに変わりはない。あなたの活動そのものがいくひしのつぎの創作の糧になっているので、五つ目の意味合いとして、ありがとうございます、も含まれているかもしれない。或いは、申しわけないです、と。なぜならいくひしは、ツイッターの向こう側にいるあなたがたに何も返せないのだから。いっぽうてきに貪っているようで、ほんのときどきだけれど、申しわけなく思うのだ。(いいこと言ったふうでいて、そのじつ、糧がいっぱい、素材がいっぱい、うれしいなぁ、と思うでもなく享受していることのほうが多い。まったくどうして腹黒いやつである)



1356:【爆睡日】

またまたきましたね、いくひしさんの爆睡日。きのうの夜は「いくひ誌。」を更新せずに、二十二時くらいに寝て、夜の三時くらいに起きて作業しようと思ったのですが、気づいたら翌日の十二時というね。十四時間睡眠でした。あるあるー。寝起きのいくひしさん、顔がシュってなっててイケメンやぞ。水分補給したらすぐにムニってなるから、あれだけど。中途半端に寝ると目がはれぼったくなってなんかブサかわいいのだが、ぐっすり寝すぎるとこんどは、シュっとなるのは、身体のほうで栄養不足に水分不足で、単に痩せてるだけなのだね。前にも書いたけれども、睡眠ダイエットは効果があるぞ。ただし、身体が弱体化するから注意が必要だ。腰とかすぐに痛くなる。よくない、よくない。きょうは脱稿済みの自作を推敲して、新作短編をちゃっちゃと片づけて、んー、順調にいってあした脱稿できるかな、というところかな。あとは溜まってる新作のほうをはやく結んでしまいたいのだが、なかなかうまくいかないなー。夕方から雨っぽい天気だし、やんだくなっちゃうね。あー、お腹すいたなー。お好み焼きでもつくるかな。具材は玉ねぎだけ。さきに玉ねぎを炒めておくのがコツだぞ。炒めるときも、焦げちゃわないように水を加えて、ほとんど茹でるというか、蒸す感じでやると、半透明で甘い玉ねぎになって、おいしいのだ。アツアツの玉ねぎを、お好み焼きのタネに放りこんで、そのまま焼いて、蒸して、できあがり。調理時間十分くらいかな。手軽でおいしい玉ねぎだけお好み焼き、いくひしの好物やからな。憶えておいてくれよ。念のため。あんまりに貧相な見た目なので、人さまにはとてもではないが、食べさせられないのだが。短いけど、きのうの分はこんなもんでいっかな。きょうの分はまた夜に更新します。では!



1357:【才能とは】

いくひしにとって才能とは、相対的なものだ。たとえば、他人が百の労力で可能なことを一の労力でできるようなものが才能だと思っている。生産性にも言えることだし、持続性にも言えることだ。つまり、他人より上手にできることが才能だし、楽にできることも才能だ、さらには継続しつづけられるという、いわゆる努力もまた才能だ。どうやったらうまくできるようになるかを見抜く眼力もまた才能だし、それを他人に解りやすく伝えられることも才能だと思っている。所属するコミュニティが変われば才能の有様も変わる。時代によっても変わるだろうし、それを評価する者によっても変わってくるだろう。けっきょく才能とはその程度のものなのだ。それを価値と言い換えてもいい。ここでふいに問いを投げかけよう。あなたは他人に価値を規定されたいですか? そんなあやふやなものを生きるための指標にしたいのですか。もちろん、それはわるいことではない。ときには他人に価値を規定してもらい、その価値を提供することも求められるだろう。ただ、それを目的に定めてしまってはやはりというべきか息苦しくなるだろう。なんといっても、現代は、ネットに繋げば時代に関係なく、世界という枠組みでの才能に容易く触れられるのだ。大きな枠組みのコミュニティに属して、果たしていったい何人が才能アリと認められるだろう。世界一を基準にしてしまえば、ほかのみなは総じて才能がないと呼べる。しかし、才能がないことイコール価値がない、ではない。評価する者によって変わっていくのだから、あなたの価値を決めるのはあなたであってよいのだ。そしていくひしは、そうあってほしい、と望んでいる。もちろん、あなたがあなたに見出した価値を、ほかの人たちにも認めてもらいたいとする欲求は理解できる。それもまたわるいことではない。ただし、唯一無二の価値とは、他人となかなか共有できない。そういうものだろうと思う。他人においそれと認められるものではない。時代に関係なく高い価値を付与される事例もなくはない。芸術作品や社会システムなどに多く見られる。しかしたとえ名作であっても、否、名作だからこそ、けっきょくのところは、その価値を理解できないことこそが価値の保全に繋がっていると言っても言いすぎではない。オーパーツのようなものだ。ピカソの絵を見て果たしてこの世に生きる者の何人がその価値をきちんと理解できるだろうか。学問にしても同様だ。真に価値を理解している者がいるとすれば、価値はつけられない、と応えるだろう。それほどに、価値があるものを多くの者は理解できない。ともすれば、価値がないことにも、二種類ある、と捉えることも可能かもしれない。価値のある無理解と、価値のない無理解がある、と。しかし、本質的にはどちらも同じことだ。これは、逆に言い換えることもできる。価値のある理解と、価値のない理解があると。だが、そうではないのだ。理解の有無に価値は関係ない。価値がついているように錯覚できるか否か、というただそれしきのことなのだ。価値があるように思える。それを利用しているのが資本主義社会における宣伝であり、プロデュースだ。まとめると、価値や評価そのものが極めてあやふやで、数値化するほど本質から遠ざかるような性質を有していると呼べる。それはけっして、数値の高いものに価値がない、という意味ではない。それぞれに、それぞれの価値があり、そしてそれら価値は、誰かにとって意味のあるものだ、ということだ。それ以上でもなく、それ以下でもない。これはそういう話だ。たとえばの話をしよう。ある絵画を百億円で購入した実業家がいた。実業家はその絵画がほしいのではなく、それを購入することで、各界からの注目を集めたかったのだ。宣伝費として百億円を払ったようなものである。手元には百億円の絵画(資産)があるのだから、実質損失はない。金を、時代を経るごとに価値の増す魔法の絵画と取り換えただけで、各界から知られる存在となったのだ。お得な手法だ。実業家はそれから時代を変えるようなサービスをネット上で展開し、社会への影響力を増やしていく。いっぽうで、その絵画をネット上でタダで見た作家がいた。作家はその絵に感動し、いずれ本物を目にしたいと思い、同時に行き詰まっていた創作活動の方針を大幅に変えた。そうした作家が半世紀のなかに一万人ほどいた。そのうちの一人が、のちに時代に残る作品を残した。やがてその作品を高値で購入する者が現れる。いずれにせよ、支払った報酬に関係なく、物から受ける影響は人それぞれである。そしてその影響がもたらす結果もまたそれぞれだ。お金をいくら支払ったかが評価のすべてではないし、また数値に現れるものだけが価値のすべてでもない。どんな影響を受け、それをもとに何を生みだすのか。何もそれは芸術や学問だけではない。ただ生きるだけでも計り知れない影響をつど、人は生みだしつづける。よき母であり、父であり、友であり、師であるだけで、それは一つの名作をつくるのに匹敵する影響力を生みだすのだ。そこに価値はあるのか。きっと価値はないだろう。すくなくとも、値段をつけたくはないはずだ。才能とは相対的なものである。ただし、誰かにとっての絶対的な価値を生みだすことはある。価値をつけられない、ナニモノにも代えがたい、そういった価値なき価値だ。図らずもそれは、才能とは無縁だ。影響の果てにもたらされる巡り合わせの産物なのである。



1358:【いや、そうは言ってもよ】

ちやほやされたいやろーがよ。いいね!いっぱい欲しいし、お金だってほしいだろうがよ。感謝だってされたいし、好きなひとに好きって思われたいじゃんよ。ないの? うそでしょ、マンちゃんさー。そういうとこやぞキミ。



1359:【詭弁だなー】

いくひしさ、おまえさー、価値なき価値とか、巡り合わせの産物とか都合のいいこと言ってっけどさ、けっきょくじぶん以外の人間に何かしら評価されなきゃ存在する意味がねぇって、創作する意味がねぇって、生みだす意味がねぇって、そういうことになんだろうがよ、世界でじぶんしかいなくなってもつづける意味はどうやって担保されんだよ、自己満足って話はどこいったんだよ、そういうとこやぞおまえ、しっかりしろよなー。



1360:【んーっ!怒】

うるさい、うるさい、うるさーい!!! いいことゆったときくらいいいこいいこってしてよもー!!! んーーーっっっ!!!



※日々、だからなに?と問われつづける、死んだらそれで終わりなのに、と。



1361:【和風】

おこちゃま舌のいくひしさんは、むかしから和風よりも洋風の料理が好きで、三角食べとか、おせちとか、ああいったものが苦手で、あべこべにカツ丼とかカレーとか餃子とか、一品だけドン!みたいな食べ方が好きでした。いまでもあまり変わらないかも。お菓子もそうで、和菓子よりもケーキとかチョコとかパフェとかクレープとかアイスとか、あー並べてていまものっそいお腹減ってきたんだけど、とにかくそういうのが好きで。アンコとか苦手でしたねー。さいきんは苦手というほどでもなく、あれば食べますけど?みたいな高飛車な態度で挑めばお口に運ぶのもやぶさかではない。とはいえ、八つ橋は好きだし、抹茶味も好物だ。なかでもキナコの好感度ときたら、食べるときに咳きこむのも愛嬌だね、なんてあばたもエクボ並の依怙贔屓を振りかざしてしまうほどのハートマークなのだが、みなさん、キナコって、知ってます? あんがい知らない人もいるところにはいて、名前は知ってるけど食べたことないって人もけっこういるらしい。まじかよ。プロテイン食べるくらいならキナコでも食っとけ!ってギャグが通じないとか、まじかよ。そんなギャグがあるのかすら定かではない、まいどお馴染みいくひしさんのテキトーなこと言います日記ですが、もはやこのタイトルからしてテキトーすぎて、きょう今、初めてこの文字列を並べましたけれども。ええ。キナコですよね。どんな柄でどんな毒があるのかなーって想像してるそこのきみー! ちゃうよ、キノコじゃないから。キナコ! 学校の怪談にでてくる赤い服を着た女の子って、それは花子! さん付けしろよこのデコすけ野郎。キナコですから! 大豆が原料の、炒ってすりつぶして乾燥させた、お餅につけて食べると美味しい食材って、そりゃキナコ! 合ってた! キナコです。そうです。それですそれです。まあ、なんだ。キナコ好きってところから、こう、洋風と和風のちがいに絡めて、なにかいいこと言っとこうと思ったんだけど、前置きが長すぎて、今からまとめるのめんどくなっちった。なんじゃ? んー、こう、和風の柄ってあれだよね。書道的なデザイン要素があって、雷とか風とか水とか火とか、なんかそういう自然の片鱗を感じるいっぽうで、洋風はこう、どちらかというと幾何学的というか、人工的な印象がつよくない? そうでもない? そっか。ちがったか。んー。キナコが好きってだけじゃダメ? きょうのコレ、いくひしさんがキナコ好きだよーって告白するだけじゃダメかな? よくない? ね? べつにいいよね。だってどうせ誰も読んでないし。そうそう。なんでキナコの話題をだしたかっていうと、キナコにハチミツとかまぜて、練って、固めたお菓子、キナコ棒ってのがあって、それを食べたんですよ。美味しかったなーって思って、書くことないなーって思って、で、書いてみただけ。くっだらねーこと書いてんじゃねーよって思った? いくひしも思った。なんか気が合うね? キモい? まるで白い脳みそみたいな、魚の精巣みたいだって、それは白子! いくひしが言ってんのは、キナコ! ちぇんちぇー、なんかぶつくちゃうるちゃいのがわめいているのよさ、あっちょんぶりけ、ってそれはピノコ! いくひしが抜かしてんのは四の五! なんて御託はいいから新作さっさと結びなさいよ。はーい。ごらんのとおり、文章のキレのなさがすさまじく、いかにあっぷあっぷと、いっぱいっぱいなのかが伝わるようだ。キナコのきめの細かさに、栄養価の高さ、なによりその旨さを見習おう。キナコと見習おうで韻を踏んでみたけど、気づいた?



1362:【意識の有無】

植物に意識があるのか、と問うよりもまずは、人間に意識があるのか、を再定義したほうが建設的だ。外部入力された情報を元に出力される情報の枠組みを規定するアルゴリズム、とすればそれらしい。任意の振る舞いを、ある閾値内におさめる役割を担う「複雑系」と呼んでも差し障りない。だとすれば、植物にも意識はあるだろうし、地球にもあることになる。創発する物質の集合体は総じて、意識を宿す、とまでいくと、さすがにおおざっぱにくくりすぎではあるだろう。創発と創発による干渉によって、新たな創発を誘発するシステムと言い換えてもいい。この場合、人の集合体である人類もまた、それらすべてでひとつの意識を宿していることになる。(三十秒考えただけの発想です。なんら科学的根拠はありません)(ここでは、意識と自我を切り離して考えています。自己を認識せずとも意識の有無は定義可能です。生命反応と意識のちがいは、出力される情報の属性が異なる点でしょう。意識は飽くまで、外部入力された情報をどのように処理し、出力し直すか、という過程そのものであり、その過程を一定の枠組みに保つアルゴリズムそのものでもあるので、いわば回路と言い換えても成立する概念です。循環しながら繰り込みを促す一つの系こそ、意識ではないか、というここではそうした趣旨の発想です)



1363:【写真】

なんかあれっすよね。インスタはじめますよーって告知したじゃないっすか、前に。で、まずはインスタのアカウント登録しようと思ったんすけど、なんか本名入れなきゃ登録できないふうになってて、それって、え? みんな本名で登録してんすかね。いくひしヤなんすけど。個人情報、ぜったいに入れたくないんすけど。ツイッターとかピクシブとかでも、誕生日とかそういうの入力しなきゃいけない場合あるじゃないっすか。いくひしウソの誕生日しか入力してないんすよね。なんかコワいくね? アマゾンのほうはさすがに本名っすけど、やだなー、やだなーって、怖い話の得意なおっさんみてぇに、かったるそうに語るわけっすよ。で、まあ、アカウントのほうはあとでいいやって、まずは写真っすよ。どういうふうに運営してこうかなって、ただ撮るだけじゃ意味ねぇし、自撮りはヤだし、なんかねぇかなーって考えてんすけど。なんかある? なくね? どうすっかなぁ。とりあえず、坂が多いんすよね。ウチの近所ってか、半径十キロ圏内っていうか、まあずっとだな。この国、坂が多いじゃないっすか。だからまあ、坂をテーマに写真を撮ってくのもいいかなとはなんとなーく思ってはいるっす。べつに道だけじゃなくていいじゃないっすか。ななめになってりゃなんだって坂っすよ。猫の尻尾だってななめってりゃ坂だし、転がるボールだって坂じゃないっすか。じゃあ、ななめでいいじゃんってなってくるんすけど。なー、でも、ななめって、なんすかって話っすよ。ななめってなんすか? この世に傾いてないものなんてあるんすかね? ないじゃないっすか。もうね、この世はななめてできてんすよ。むしろ、この世イコールななめ、みたいなね。ななめに構えてんじゃねーよみたいな言い方もあるっすけど、あんなの、俺の傾きに同調しとけよ、って脅しみてぇなもんすよ。同じ傾きだったらそりゃー、おまえさんからすりゃまっすぐかもしんねぇけど、みたいな感じじゃないっすか。むしろおまえさんがななめってるって発想がない時点で、そうとうななめってるっすよ。写真だってね、ななめってたほうがかっくいいんすよ。ただ全部が全部ななめってると、こんどはぐるぐる目が回って、じれったくなって、もう、ちゃんと目線揃えてよって、やっぱり見てるほうからするとこっちに同調してほしいじゃないっすか。だからまあ、目線くらいは揃えてやってもいいけど?みたいな感じっす。そんなこんなでインスタ、来月くらいにははじめられるように準備しとくっす。まあ、あんまし考えずに、見てもらっても損をしないように、害のないような、毒にも薬にもならねぇようなものを載せてけたらなって。だってそうじゃん? 坂ってのはのぼったら、くだらなきゃなんねぇんだから。くだらねぇものこそ載っけてこうって思ったっす。



1364:【僕は唾液を呑みこんだ】

誰もがいちどは経験あるはずだ。ネットでじぶんの名前を検索する。たいがいは同姓同名のまったく異なる人生を歩んでいる他人の記事がヒットする。また、何かしら特殊な技能を持つ者ほど、自分自身のことが書かれた記事にいきあたる確率があがる。例外は犯罪者とその被害者くらいなものだ。きょうは後輩を家に呼んである。(つづきはこちらから→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886140394



1365:【つぎの物語構造】

海外ドラマやさいきん売れ筋の洋画を眺めてみると、三幕構成はもう基本中の基本で、ほとんどそれを主軸にしている物語がなくなっているな、ということが解ってくる。現在流行っているのはなんといっても、三局螺旋構成とも呼ぶべき物語構造だ(直近の映画では「アベンチャーズ・インフィニティウォー」がそれにあたる。また、海外ドラマでは「スーツ」シリーズが全編通してこの構成で話が進む)。これはいくひしの唱える多重構造の基礎的な構成と似ている(代表作としては「群れなさぬ蟻」がある)。任意の物語を三つ用意し、縄をよじるように、物語同士を交互に繋いでいくことで、一本の大きな物語を浮き彫りにする構成だ。使用する三つの物語は、それぞれ舞台や扱うテーマが異なるようにするのが基本だ。また、それぞれの物語では共通する問題が、各々別個の次元で用意されている。仕事、プライベート、過去の確執など、階層こそたがえど、同じような問題、たとえば対人関係や究極の二択など、抽象的に同じレベルの葛藤をキャラクターたちが抱くようにすると物語同士の連携がとれる。可能であれば、それぞれの問題が、一方では失敗だったが、その失敗のおかげで他方では解決に結びつく、あるいはその逆であったりすると全体の大きな物語にメリハリと脈絡ができ、きれいな螺旋構造になる。現状、書店に並ぶ小説本において、この三局螺旋構成を用いた物語は目立っていない。文芸局でこの構成に目を付けている部署がどれだけあるだろう。参考程度でいいのであたまの隅に置いておくと、時代の波に飲み込まれそうなときに役に立つはずだ。もっとも、すでに物語構造は複雑化し、つぎなる段階へと進もうとしている。後追いしているだけではただ波に飲み込まれるだけであろう。



1366:【書くことないver.何十回目】

あい、いくひしです。ちわ~。なんか上の記事で偉そうなこと抜かしとるあほがおりますが、気にしないでください。ときおりね、もう一人のマンちゃんがいらんこと抜かすので、えいって懲らしめときますのでね、コラーってしときますので。ええ。なぁ~にが多重構造だ。多く重なっとるんはおまえの失態に醜態にムエタイやぞって、ムエタイはタイの格闘技! へんな茶々は入れないでほしいよ! まったくもう、へっぽこぴーなんだから。そうそう、いくひしさん、よーやっと新作の推敲を終えまして。あした表紙つくって、まえがき並べて、あさってには更新できるはず、たぶん、だったらいいなぁ、なんてな!(なにがだ) 今回はですね、あ、新作の話ですけど、なるべく心理描写はすくなくして淡々と物語を転がしております。で、視点をちょっと工夫してみたくて。実験ってほどではないのだが、いくひしさん、三人称一視点の書き方が三パターンありまして。神視点寄り、一人称寄り、主語省略書きの三パターンです。自作において、神視点寄りは、「僕の内部をじかになぞって。」がそれですね。一人称寄りは「この女、神。」「改悪∞今昔物語」「改悪∞異類婚姻譚」などです。最後に、主語省略書きは、「攻殻機動隊アンソロジー【狂言師は廻る】」「網膜の住人~仮想世界に魔法をねがい~(特捜見習いの章)」がそういう書き方をしているぞ。で、今回、な、な、なななななな、なんと! 「リモコ~世界凍結系女子の遊覧~」ではそのすべてを場面ごとで使い分ける手法をとっているのだ。ザ・作者の自己満足! 読みやすくなってほしいというか、臨場感というか、よりおもしろくなってほしいという願いを込めてみたが、込めてみただけだ。三年後とかに読みかえしたときに、なかなかやるじゃん、と未来のじぶんに思ってもらえたらいいなと紅茶をすすりながら優雅に椅子にふんぞりかえっておるぞ。腰いたいねん。ついでに今からホットケーキを食べるのだ。うまうま。そう言えばそろそろツイッターはじめて一か月経つかなーっと思ったらあと五日ある。げんざいプロフィールへのアクセス数は13034回で、平均すると一日400~500アクセスあることになるのだが、多いのかすくないのかは、比較対象がないのでよーわからん。フォロワーすくない割には善戦している気がするぞ。自慢みたいになってるかもだが、一言もつぶやいてないので、いくひし要素は皆無だ。虎の威を借る狐どころか、虎の威を羅列してる名無しでしかないぞ。自作小説のPV上昇率から考えると、ヒットアンドランみたいに、いくひしのTLをちらっと覗いて即バイちゃって感じがビンビンだが、ちょっとでも多くのひとに絵描きさんのステキな絵を見てもらえるのは、しょうじき、自作を読まれるのとは別種の多幸感がある。というか、まったく罪悪感のない、純然たるよろこびで、表現者として言ってはいけないことなのだが、しょうじきいくひしの小説は読まなくていいので、リツイートしたステキ絵やおもしろ漫画をもっと評価してよ!と思うのだが、そういうこと言ったらあかんぞ。ステキ絵やおもしろ漫画を読んだついでに、ついででいいので、ちょこっとだけ、ちょこっとだけでいいので、いくひしのつくった小説の冒頭、否、否、最初の一文字だけでも、ちらっと、ほらっと、読んでみてほしいぞ。くどい! くどい? くどーい!!! あい。もちろん、無理、合わない、と思ったらぜんぜん、ぽいってしてもらって構いませんので。あー、くどいな。はい。たぶんいくひしのツイッター覗いてる大半の方は、いくひしがリツイートしたり大量にファボしたりして、なんやねんコイツ!とかオデコに青筋浮かべて、どんなやっちゃねんって腕まくりしながら覗きにきてるだけだと思うので、そうそう、大半はいそがしい、暇などない方ばかり、それこそ、どこの馬の骨ともしらぬ愚か者の小説に目を通すなど片腹痛いわ!ってなる方ばかりだと思うので、そういう意味では、リツイートするなら暇人相手に奇跡の一文、つぶやきにしたほうが見返りは大きいのだが、べつだんそういうつもりがあるわけでもないので、や、すこーしくらいはありますけど、だったらもっといい方法はたくさんありますし、ぜひぜひ、ステキな絵とおもしろ漫画を、いくひしの作品ではないですが、世のすばらしい絵描きさんたちの創作物を見て、正当な高評価をしていただきたいな、と思っておるぞ。きょうはいちだんとくどいな。とりあえず、今月中に中編もう一つか二つあげられるように調整しておくぞ。じぶんのために! ザ・自己満足! 底なしの!!! ばいちゃ!



1367:【SNSと小説】

SNSが普及したおかげで、いまでは共通の議題を、不特定多数の人物たちが議論し、その過程から結論までを含めて、多くの者たちが同時多発的に追うことができるようになった。かつてはその役割を担っていたのが小説だった。小説の役割の一つを、現在はかんぜんにSNSが代替している。それだけでなく、小説では不足していた複雑さ、多様さまでをもSNSは補完していると言っていい。小説が売れなくなった背景には、機能性として、SNSに勝る要素がなくなってきているからだとする見方は、一つの懸念として押さえておいて損はない。では、SNSにできず、小説にできることは何か。SNSが特化しているのは情報量の多さ、そして幅広いキャラクターだ。反面、雑然とし、まとまりがない点が瑕疵として目立つ。だがそれも、まとめとして一連の流れを編集する者たちの登場により、おおむね解消されているのが現状だ。では小説はSNSに勝てないのか。現在進行形や過去の出来事についての見識に関しては、個人が集合知に勝ることはできない(もちろん集合知は万能ではないが)。集合知たるSNSを利用すれば、それより優れた小説ができるのではないか、という指摘は、半分当たりで半分間違いだ。インターネットを小説の素材集めに利用することは有効だが、それは飽くまでこれまで行っていた取材の効率化が進むという意味でしかなく、SNSへの対抗策としては充分ではない。SNSにある情報ならSNSを見ますよ、と需要者から言われてしまえば、それ以上食い下がることはできないためだ。ではどうすべきか。現在の話題、そして過去の議題においてSNSに勝てないのだとすれば、あとはもう、未来における問題を想定し、議論を煮詰めるほかに術はない。これからの小説家におかれては、まだ世の人々が気づいていない問題に焦点を当て、思考実験を繰り返し、それら無数の筋道を物語を通して、体系づけることが、SNSへの対抗策として欠かせないエッセンスとなっていく。結論をだす必要はない。こういう場合はこうだが、こういう場合はどうだろう。キャラクターと共に考え、読者と共に、つづきの筋道を導きだす。まとめられたSNSの記事が、個人に語りかけることはない。しかし、小説は読者にじかに語りかける。SNSになく、小説にある利点としては、それくらいのものだろう。やがてSNSのつぶやきだけを素材として編纂される物語もでてくるだろう。そうすればもう、小説がSNSに勝てる要素はなくなる。ともすれば、SNSと小説の区別はなくなり、融合する未来が見えてくるのかもしれない。あと100年もすれば、いま溢れているSNS上の情報の多くからあらゆる権利が消失する。なればそのさきに、これら無数の言葉を掻き集め、物語として編みこむ者がでてきても驚きはしない。或いは、作者としての権利さえ主張しなければすでに存在しているかも分からない。それが人間である必然性はない。関連付けられた言葉をまとめるのが得意なのは、もはや人間ではない時代なのだ。



1368:【新作更新】

新作更新しました。「リモコ~世界凍結系女子の遊覧~」です。八万八千字です。超能力に目覚めた少女の話です。まえがきは、いちおういちど並べてみたのですが、なんか微妙だな、と思ったのでボツにしました。新しくつむいでもよかったのですが、ない小説もあったほうがいいかな、と思い、今回はナシにしてみました。しばらく経過を見守って、やっぱりつけたほうがいいかな、と思ったら補足するようにしたいと思います。https://kakuyomu.jp/works/1177354054886159948



1369:【ミステイク】

本日の失敗は、メロンパンをオーブンで焼いて食べようとしたら、スイッチを間違って押してしまい電子レンジが起動して、金網を敷いていたこともあり、せっかくのそとはカリカリ、なかはモチモチのメロンパンがカッチんコッチんになってしもうたことです。わいの夕飯が~~。もうなんもやる気起きん。やだ。やだやだ。やだやだやだ。駄々っ子になってしまう。陸に打ちあげられたクラゲみたいに、ぐてーってしてやる。ってゆーかさー。ツイッターやってる小説家、プロのね、専業で食ってけてるお方々。いいもん食いすぎじゃね? 見てるだけで腹減るし、腹立つし、煮える煮える、ぐつぐつと。噴きこぼれた分でまた腹減るわけでしょ? ふっじゃっけんなし。これ見よがしに写真なんかアップしやがって。まじで。食いもんの恨みはおそろしいからな、おぼえてろよこんちきしょー。まあね。見なきゃいいんだよね。見なきゃいい。そうだよね。かってに覗いて、かってに憤慨して、なに一人で孤独百面相やってるのって、そうなっちゃうよね。うっせーーー!!! ぱーか、ぱーか。コンプライアンスとかポリティカルなんとかレスとか、そんなん知るか―! こちとら腹の虫の居所がわるいねんのんじゃ。ジタバタ、むしゃくしゃ、シャクトリムシや。くんねん、くんねん、器用に身体折り曲げて、伸ばして、折り曲げて、伸ばしてって、にーに、さんしって、ラジオ体操か! じゃかーしーわ! スベってますねって、ふっじゃっけんなし、まじで。てな感じで、きょうはキレ芸に挑戦してみようと思ったんですけど、向いてなさすぎた。向いてないよね? やー、ミスセレクトでした。キレ芸はやっぱり、本気でぶち切れてナンボじゃないですか。観客は冷静なのに、なんで怒ってんの? 器ちっさ、みたいな空気のなかで、一人カンカンぽっぽーって頭から湯気を噴きだしてるから面白いのであって、基本、こうやって語りベースでのキレ芸ってただ不快なだけだったりするんですよね。やってるほうもむなしいし。やーめた。陸に打ちあげられたクジラみたいに、ぐてーってしてやる。って、そこはクラゲじゃねーのかよ! てなミスを以ってほんじつの「いくひ誌。」の結びとさせていただきたい。雑だな。わるい? ごめんねー。



1370:【短編メモ】

お風呂に入ってきたら、あとでつくります(2018・6/17・22:53)。メモ「忘れないで。あなただけは虚偽(うそ)じゃない」(短編の場合は、いちどあたまのなかに、始まりから終わりまでの映像が流れて、場面をもういちど再生させながら文字に落としこんでいけば完成します。上記のセリフは物語の核となるセリフです。長編の場合は、場面ごとにつど、終わりまで映像が流れますが、もちろんキャラクターたちだって途中でどうなるかくらい予測できるわけですからそうならないように行動しようとしますよね。すると未来が変わり、想定していた場面とは異なる物語がまた動きだします。作者の敷いた運命にキャラクターたちはいつだって抗っているのです。そして作者はさらにつよい運命をキャラクターたちに強いなければなりません。どちらが勝つかは、最後まで分からない、そういう物語を編んでいきたいです)



※日々細胞単位で堕落していく。



1371:【カーテンをあける夜は砂のように】

この世界のどこかには、季節が四つもある国があるらしい。本で読んだ。でも本にはたくさんの嘘が書かれていることもあり、アテにはできない。「本当にそんな国あるの」「あるよ」「ウソじゃない?」「ウソでもここでは関係ない」姉は手で髪を梳かすようにする。窓から差し込む日差しが姉の髪を新緑よりも深いエメラルドグリーンに輝かせている。わたしはそんな姉の話を聞くのも、もちろんお世話をするのだって大好きだ。姉は年がら年中ベッドのうえで、異国の書物に目を落としている。きっと姉にできないことはない。身体まで元気だったら、わたしなんか必要としてくれなくなる。だから姉がベッドのうえでしずかに本を読んでいる姿を見ると、わたしはいつも胸がほっこりしたあとで、チクリとちいさな痛みを覚えるのだ。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886179000



1372:【短編のつくり方その2】

脳内でいちど物語のはじまりから終わりまでを映画のように思い描いてから、それを文字に落としこむことで短編にする手法を用いると、いくひしは以前述べた。もちろんそれ以外の手法もある。たとえば題材だけを決めて、オチを定めずに、文字の赴くままにつむぐこともある。山・消しゴム・マンゴー、と無関係の単語を三つ選んで、ひとつの物語に結びつける手法は、どこかのショートショートの名手がかつて取り入れていた創作法だと、何かの記事で読んだ憶えがある。うろ憶えなので、細部は間違っているかもしれない。いくひしはキャラクター設定というものをつくらない。年齢も、容貌も、だいたいこんな感じ、とある程度の幅を持たせている。細部は完全に読者の想像に委ねているというか、丸投げしているので、いくひしの小説が世に広く膾炙しない要因の一つに、人物描写不足があげられるかもしれない。前にも述べたことがあるが、短編の場合はいっぱんに、物語の一場面を切り取るほうがよいとされている。いくひしのように、長編をギュギュっと圧縮してつくる手法は邪道として扱われる傾向にある。プロットとどう違うの?となるからだろう。いくひしにしてみれば、プロットもまたそれでひとつの作品だ。脳内にある物語を文字に興す時点で、小説もプロットも大差ない。ならば短編と長編も大差ないし、そこにある差異は、どんな情報を削ぎ落とすのか、という選択の差でしかないと呼べる。また、人気のでる物語の特徴として、「一文で内容を言い表せられるもの」といった主張がたびたび聞かれる。編集者界隈では、常識として扱われているようにも見受けられる。だがいくひしからすれば、生存バイアスまたは確証バイアスの一種ではないだろうか、と懐疑の眼差しで受け止めている。たとえばなんでもいい、世に広く受け止められた物語を一つ思い浮かべてほしい。ここでは先日TV放映されたディズニーアニメ映画「ズートピア」を俎上にあげよう。百人の人間にズートピアはどんな物語だったか、と一文で要約してもらった場合、どれだけの一文が合致するだろう? 実験してみなければ分からないが、おそらく一割も合致しないのではないかと思われる。思いつくままに羅列してみよう。ためしにあなたも考えてみてほしい。つぎの一文のなかにあなたのつむいだ一文と同じような文章があるだろうか。「キツネとウサギが事件を追って、仲良くなる話」「正義感のつよいウサギが、詐欺師だがやさしいキツネと出会い、自身の内側にも差別や偏見が根付いていることに気づく話」「黒幕に踊らされるも、ウサギの警官が、相棒のキツネと共に真実を解き明かす話」「差別は人を傷つける、という話」「人を見た目で判断してはいけない、という話」「断片的な情報だけで判断すると、手ひどいしっぺ返しを受けるという話」「女性が社会進出し、男性優位な社会に打ち勝つ話」「詐欺師のキツネが、まっすぐな心根のウサギと出会い、いちどは裏切られるものの、素直に間違いを認めるウサギの純粋さに触れ、過去のトラウマを払しょくし、前向きに人生を歩みだす話」「暗い過去を持つキツネが、ウサギと共に事件を追ううちに、正義感に目覚める話」「キツネとウサギがかわいい話」「強者(多数派)は弱者(少数派)の苦悩には気づきにくいという話」「自分たちは虐げられていると不満を募らせる強者(多数派)が、ある一面では秀でているものの本質的には弱者(少数派)の苦悩を理解する話」etc。ざっと並べてみた。大別すると、ウサギを主軸に添える視点と、キツネを主軸に添える視点、それからテーマを主軸に添える視点と三つに分けられるようだ。一文で述べるとなると物語の構造には触れることができない。となると、一文に表れるものとは、その物語に触れたときに受動者が何をいちばんにおもしろいと捉えたか、と言えよう。しかしながら、何をおもしろいと捉えるかは、ネットが普及し、多様性の進んだ現代では、かつてと比較にならないほど相対的だと言える。どんな物語でも、内容を一文で表現することは可能だ。かつては、多くの者が同じ視点を共有し、ゆえに抽出される一文もまた似通った傾向にあった。反して現代では、同じものを見ても感じ方が真逆であったりするほど、物事の見方が多様化し、複雑化している。乱反射し、分散したそれら主観のスペクトルを、ある一定の枠組みに収束させる装置を物語に組みこむことこそが、これからの時代に必要とされる術ではなかろうか。ある作家は漫画の作中でこんなことをキャラクターにしゃべらせる。――原理は単純を、構造は複雑を極め、人はもっとも人らしく。いくひしはそれをここではこう言い換えよう。原理は「おもしろさ」、構造は「多様性を見据え」、人はもっとも狂おしく、描くことこそ、物語の進化を促進する触媒になっていく。複雑であればいいという話ではない。単純でいい。ただただ受動者に、新しいおもしろさを開拓してもらえればそれでよいのだ。そのためにできることをしていこう。生きることはつまらない。ただ、世界はこうも色とりどりのおもしろさに溢れていると証明する、流れる曲の楽譜こそが、物語という、言葉と虚構とひらめきの羅列なのだ。演奏者は言わずもがな、読者である。額縁からはみだそう。映らない画面のそとがわを創造するのだ。



1373:【サツマイモ】

親指くらいの大きさのサツマイモが目のまえにある。PCのよこ、手を伸ばせば届く位置だ。だいたいひと月前からずっとそこにある。ツイッターをはじめたのと同じ時期からで、料理で使って残ったサツマイモの切れ端を水の入ったちいさな受け皿に突っこんでおいた。いまでは芽がわさわさと伸び、なんだか小人の絵でも添えたら、それこそ画になりそうな外観で、生命力を感じさせる。苗として充分な萌芽だ。なんてことのない植物だが、ふとした瞬間に視界に入ると、なんというか、コイツはこれだけ成長しているのにじぶんはどうなのだろう、と思えて、やる気になる、なんてことはない。愛着くらいは湧いてきたが、だからといって土に植え替えたりするわけでもないので、枯れるまでそのままのさだめかもしれない。想像したらかわいそうだ。ツイッターは、はじめてからようやくひと月が経過した。いちにちに平均で130回のリツイートをしているようだ。これでも減らすように気を配っていたつもりだったが、それでもいちにち100回を超すツイートは、ツイ廃と呼ばれるようで、なんだか禍々しい響きに、こわくなってしまう。もうすこし減らすように心がけようと思う。それもこれもステキな絵をツイッターにあげる絵描きさんがわるい。いくひしはわるくない。ぜんぜん、まったく、これっぽちも。そうでしょ? そうだよね? うんって言え。ところで、いまつくってる物語が三つあり、いずれも現代を舞台にした人間ドラマだ。魔法や超常現象とは無縁の話なため、もっとこう、小柄な少女が悪者をバッシバッシ八つ裂きにしていくような物語がつくりたくなってきて、そのつど、あー、あー、と思考がブツ切れになる。よくない兆候だ。ただ、ブツ切れになった思考も、サツマイモのように、ひと月もするとたくさんの葉を萌やし、孤島じみた様相を呈する。だいじに育てたりせずとも、水さえやっておけばかってにそれらしくなっていることもしばしばだ。切り捨ててしまえばそれまでだが、そこですこしの水に浸け、時間を置いてみると、思いがけない愛着が湧いたりする。捨てるのはいつでもできる。ひょっとしたら放置した末に腐ってしまうかもしれない。しかし、長い時間を置いてみないとどうなるか分からないこともある。或いは、手をかけないことで却って、自然の神秘を感じることだってあるかもしれない。サツマイモはただひと月のあいだ小皿のなかで水に浸かっていただけだ。同様に、物語もそうやっておのずから葉を伸ばし、根を生やすものなのかもしれない。投げ捨てておくのではない。水に浸けておくのだ。情報の海から汲んできた水に。もしくは、内側から湧きつづける着想に。そのためにも、まずは目のまえのサツマイモを調理しよう。切れ端を得るために。放置するタネを選べるように。なにより、こうして書くことに困窮したとき、話のタネになるように。



1374:【無駄なこと】

無駄なことにも利用価値はある。余白として使えば、大胆に振る舞えるし、無駄な部分が大量にあれば、確率的にだいじな部位が傷つきにくくなる効果もある。いっぽうで、だいじでないからこそ、いくらでも使い捨てにできる利点があるため、試行錯誤するのに欠かせない素材となり得る。だいじな部位の代替物として一時的に補完できることもある。使い方しだいだ、という意味ではない。無駄なものにも明確に役割があるのだ。ならばそれは無駄なものではないのではないか、という指摘は正鵠を射っている。そのとおりだ。無駄なものとは、短期的に有用でない、という意味でしかない。この世に無駄なものなどはない。もうすこし言えば、必要なもの、価値のあるもの、という見方がおおいに幻想なのだ。ともすれば森羅万象の総じては無駄なものからできている、と言ってもいいかもしれない。あらゆるものは例外なく、何かに影響を与え、関係性を補完し、変化を促し、ときに進化に与している。無駄なものだと断じることは、いまこの場には必要ない、という保留にすぎず、いずれべつの場所では必要になるかもしれない点には意識を配っていて損はないだろう。だからといってすべてを等しく扱うのは現実問題不可能だ。無駄なものとそうでないものとの区別をつけておくのは、物事を滑らかに進めるうえでは欠かせない工程である。反面、必要になったときにすぐに調達できるものと、できないものがある。あなたが無駄なものだと断じたそれは、手に入れようとしたとき、容易に入手可能なものだろうか。希少なもののなかにも、お金さえ払えば手に入れられるものもある。世に陳列された商品は比較的容易に手に入る代替可能な代物と考えて差し支えない。しかし、たとえ希少ではなくとも、お金を払っても手に入れられないものもある。そこかしこに溢れていながらにして、どうしても手にできないもの。案外それは、過去のじぶんが無駄だと断じ、捨て、遠ざけてきたものではないだろうか。明確にこれと名指しするのはむつかしい。いくらか抽象的に言いすぎたやもしれない。とはいえ、なかなか的を得たじつに無駄な意見ではないだろうか。じぶんが何を切り捨て、無駄なものとのレッテルを貼りつけているのか、ときおり振り返ってみるのも一つの大いなる無駄である。適度に拾いあげ、活用していきたいものである。



1375:【じっしつ何も言ってない】

びっくりしたー。無駄なことがなに? どうしたの? 中身のないこと言わせたらマンちゃん、あなたピカイチね。



1376:【ギア全開】

Clean Bandit - Show Me Love feat. Elisabeth Troy



1377:【じめじめ、うじうじ】

誰とも繋がらずに生きることはできないだろうかと考えると、行き着くのは、搾取していることにすら気づかれずに他人から搾取しつづけて生きることなのだと、ただただそうなるほかにないのだと結論するさきに分かれ道はなく、そのたびに肩を落とすのだが、ゆいいつの例外として、すべてをじぶん一人でこなせば誰とも繋がらずに生きていける、それこそ孤島にでも移住し、自然のなかでただ一人きりで生活すれば叶うのだが、ともあれ、それはそれで自然という有象無象の生き物の複合体から一方的に搾取している構図に変わりはなく、とどのつまりは、生きるというのは、規模の違いこそあれ、ナニモノカを食い物にし、搾取するほかにないのだと気づくじぶんのどうしようもない不甲斐なさ、脆弱さ、無力さにうちひしがれることから逃れるために、人は、感謝や恩や繋がりといった社会性を持ちだし、己が罪悪感から目を逸らし、逃避するほかに、搾取しつづける己が卑しさを受け流す真似はできないのだろうか、なぜ人は、みなは、苦しさを覚えずにいられるのだろう、それともこの深い泥のような罪悪感と闘い、打ち勝ち、或いは負けつづけていながらにして「生」を全うしようとするしたたかさ、堅牢さ、柔軟さを兼ね備えているとでも言うのだろうか、不甲斐ないのは私だけで、脆弱なのは、無力なのは私ばかりで、そんな世のなかではますます私はうちのめされ、ぺしゃんこになるだけではないか、と自棄になり、むつけ、閉じこもるたびに、ああ誰とも繋がらずに生きていきたいとの思いが募り、重なり、分厚く層を成していく、地層のように、大地のように、人はみなそれら球体を覆う膜のうえに生を活し、営み、継続する盲目の名を、私は「人の生」と呼びたくはない。誰とも繋がらずに生きていきたい、そう思うことなく、生きてみたい、わがままな私はここに、文字に、虚構の小箱に置いていこう、じめじめと、うじうじと、いまは雨季、雨のよく降るそらだこと。



1378:【画質とは】

カメラきました、注文してたやつ。デジカメです。デジカメって言うと、なんかそういう種類のカメっぽいですが、電子機器です。言わずもがなで、なんで注釈挿した?みたいなツッコミがきそうですが、きたことはないです。さびしいくはない。さびしくはないよ! 万年孤独ウェルカムマンのいくひしさんですからね、そりゃーね、コメントつかない、評価されない、誰にも必要とされたことがない、なんて三重苦も、まったく苦にならない。慣れっこですからね。どんとこいやー! みゃい。なんの話だっけ? そうそう、デジカメですよね。いくらか撮ってみたんですよ、さっそく。でもなんか、こう、PCに取りこんで観てみると、画質がね。画質さんが、前の機種のほうがよさげなのですが、なにゆえ? 画素だってこう、何百万画素も増えているはずなのですが、大きさだって、こう、半分くらいにちっこくなっているのだが、チミ、ひょっとして使えないのでは? ややや、そんなことないよね、だっていくひしさんの使ってた古っちいほうの機種、かれこれ七年?とかそこら使ってますから、そんなそんな、いくら安いからって、性能で劣るわけがあったらこまるんですけどー!!! 使いこなせてないだけなのかなぁ、よぉわからん。ホント、画質が荒くて、なんでそんなにモザイクっぽいのって、なめらかじゃないのって、どうしたのチミーって肩揺さぶりたくなるんですけど。カメなので肩がないというか、甲羅なんですけど。ややや、カメじゃない。カメラですよね。デジカメです。こういうとき、どっちのカメラを使って撮ればいいのか迷っちゃわない? 古っちぃのはバッテリィの保ちがよろしくなくて、撮ってる最中にかってに切れたりして、なんだおまえーってイチャモンつけられたりしてって、そういうキレるではないですし、むしろこっちが、なんだおまえーってなりたくなるのよね。なるか? なって! だからまずは新しいほうで画像なり、動画なりを撮っていきたいと思うのだが、いまさらながら、インスタめんどくさ! はじめたくないなー。いくひしさん、ツイッターでいっぱいいっぱいなんですけどー。インスタはじめたくないなー。んー。描いた絵でもあげてく? へたっぴだからやだわ。やだやだ。てかね、登録がまずめんどい。今からサクっとやってみます? やってみますかね。よしきた。やってみました。えーとですね、まず知らなかったのですが、インスタグラムってスマホ限定のサービスだったんですね、PCからは投稿できないらしいです。でも裏ワザはあるところにはあるようで、「User-Agent」を使えばPCからでも画像を投稿できるようになるそうです。「User-Agent」とはなんじゃらほい?となりますよね。いくひしはなりました。で、サクサクっとクッキー齧りがてら検索してみたら、どうやら任意のWEBサイトへ送る情報を偽装できるツールのようです。PCからアクセスしてますよーという情報を、スマホからですよーと偽れるらしいのですが、え? それって違法ではないの? 違法ではないようです。いまの時点では。でもいくひしの勘が言ってる。これ、たぶんしばらくしたら違法になるのでは? そんな気がする。だって、ねぇ? 情報の偽装はこれからの時代、どんなものであれ死活問題になってくよ? 致命的なバグを引き起こす火種になり得るよ? いまのところはだいじょうぶなようですけど、すこしばかし警戒したほうがいいような気がするぞ。そもそもインスタのほうの規約に抵触するのでは? 疑問形ばかりが積み重なるいくひしさんですが、きょうもきょうとて、まとまりのない戯言を連ねていくのであった。まる。画質とは、のタイトルはいったい……。ひとまず、インスタ登録しましたよーのご報告まで。(インスタグラム→https://www.instagram.com/stand_ant_complex/)



1379:【着ぐるみ】

子猫はかわいい。しかしいくら子猫でも、子猫らしさのない子猫は手放しでかわいいとは言いにくい。子猫らしさ、とは社会に蓄積された共通認識や、人生を通して学習した抽象概念だと呼べる。ひるがえっては、概念としての「美」や「愛らしさ」は、文化によって形成されるものだと言えよう。女性と女性性は切り離して議論しなければ、「美」や「愛らしさ」を語ることはできない。同様に、男性と男性性もまた別個のものとして扱う必要性が現代では増しているように感じられる。女性性や男性性は、もはや生物学的性差によって付与されるものではなく、また社会的に転写されるものでも、ましてや峻別されるものでもないのだ(「女性性」「男性性」共に、新しい呼び名があると好ましい)。ところで、男性しかいない職場に、女性に扮した男性社員をつくりだし、生産性の向上をギャグで演出した職場がネット上で俎上に載せられているのを目にした。議論になるのは納得できるし、するだけ無駄という類の問題ではないことはあらかじめ述べておく。とはいえ、組織に複数人「子猫じみたシンボルマーク」を身に着けた者がいるだけで生産性があがるのならば(もちろんそういった統計がとれていればの話だが)、それはそれで構わないのではないか。問題だとすれば、その「シンボルマーク」を身に着ける者がどのような基準で選ばれるか、による。性差に関する問題を議論するときには、「女性」対「男性」の二項対立に陥らないように気を払いたいものである。(繰り返しになるが、特定の「シンボルマーク」を身に着けた者がいるだけで生産性があがるとの実験結果が報告され、再現性が認められていれば、の話である。件の話題では、企業側がそれをギャグとして扱っている。もっと慎重に、或いは真剣に扱うべき題材だったと言えよう。そもそも企業がギャグを放って得る利は、その結果つきまとうリスクに見合うとは到底思えない。個人間での倫理がアップグレードされつつある現状、企業倫理が改めて問われる時代になったのだ。これまで生きづらかった人々が生きやすい世の中になっていく。もちろん息苦しさを新たに覚える者たちもでてくるだろう。つど、議論を展開し、収束させながら、より適切な社会倫理を再構築していってもらいたい。息苦しさを分かち合おう。生きやすさを求めよう。生きづらければ声をあげ、改善点を伝えよう。もちろん沈黙する権利は揺るがない。誰に何を言われようと、じぶんの生き方はじぶんで決められるよい時代になったのだ。人生の幅はこれからますます広がっていく。つぎの世代にそう伝えられるように、まずはじぶんがそう、ありたいものだ。押しつけられた着ぐるみなんて、いつ脱ぎ捨てても構わない。好きなものを身に着け、好きなときに脱ぎ去ろう。むろん、全裸になろうという意味ではないよ)



1380:【まぁた言ってる】

マンちゃんあのね、そうやってチラっと一瞬だけあたまよさげなこと言うのはいいけど、けっきょくまとめたら、話し合いはだいじってことだけでしょ。あなた、だって、徳川家康が何時代に生きてて、なに幕府つくったのかも知らないくせして、口だけは達者だよね。それに騙されてくれる人がたまーにいるかもだけどさ、それぜんぜんフリだから。みんな気ぃつかって、マンちゃんのこと構ってあげてるんだから、傷つかないように、すごいねーってやってあげてるだけなんだから、勘違いしないでよね。べつにマンちゃんのために言ってるわけじゃないけど、だって恥ずかしい思いするのがマンちゃんだけならいいけど、そうじゃないでしょ。あんまり恥じかかせないでよね。ホントなさけないんだから。



※日々自我が薄れていく、消えることなく、モヤのように。



1381:【二人の世界】

ヤマシタトモコさんのマンガ「違国日記2巻」を読んだ。マンガ「早乙女選手、ひたかくす6巻」と小説文庫本一冊をいっしょに購入したのだが、「早乙女選手、ひたかくす」は、巻を増すごとに腹筋女子こと早乙女さんの魅力がうなぎ昇りで、相方の男の子もまったく嫌な感じがせず、ついつい、「あらあら、うふふ」となってしまう。次にくるマンガ大賞候補作のなかでは「五等分の花嫁」「将来的に死んでくれ」「ジャヒー様はくじけない!」「怪物事変」「モブ子の恋」に並んでイチオシだ。仮にそのなかから二冊しか買えないのだとしたら、「モブ子の恋」と「早乙女選手、ひたかくす」をまずは購入する。きょうのいくひしのきぶんてきに、ではあるけれど。さて「違国日記2巻」についてだ。泣いた。泣いてしまった。くすりときて、ほろりときて、子犬系女子かわいいでちゅねー、となりーの、お姉さまかっこええ、となりーの、なんだかんだでまた1巻をとりだし、とおしで再読しなおしてしまった。おもしろさが衰えない。なんて贅沢な物語なのだらう。小説家が主要キャラのうちの一人なのだけれど、ほんとうに、こんなひとのつづった物語なら読みたいな、と思わせてくれる魅力的なキャラづくり、演出がなされており、うつくしい言葉がどんなかまったくわからないと豪語しきりのいくひしであっても、そのキャラのつむぐ言葉はなぜか、うつくしいと思えてしまう。セリフからモノローグから、一分の隙もない。むしろ隙だらけなのに動けない、といった剣の達人をまえにした感動がある。もうひとりの主要キャラ、身寄りのなくなった中学生女子もまたよいコで、がんばり屋さんで、かわゆくて、感情がコロコロと飴玉のようで、バリアで囲って守りたくなってしまう無垢さがある。胸に手をあて、考える。ひょっとしてこれが母性か? あざとさが皆無のかわいらしさの見本にしたいキャラクターだ。さいきん気づいたのだけれど、いくひしがここ半年で好んで目を通している物語では、登場人物二人の関係性に注力したものが多い。なんでじゃろ? 組織のなかでうまく立ち回るような物語には飽きてしまったのか、見たくないな、となっているのやもしれぬ。百合やBLが一部で熱狂的に受け入れられているのも、あなたと私だけ構文で物語がすすんでいく傾向にあるからではないのか。なんとなくだがそう思う(むろんキャラが多数登場する群像劇じみた作品もすくなくはないのだろうけれど)。同人二次創作でも基本的には、物語から任意のキャラを二人抜きだして、密な関係性を描きあげることに熱烈する方が多いのではないだろうか。キャラクターを複数登場させる場合でも、まずは二人一組をつくり、関係性を掘り下げることを意識して物語を展開すると、いくひし好みの物語にしあがるな、と思った。なにが言いたいのか。つまり、違国日記はすばらしい。ほっとするのだ。太陽がきょうもまた昇り、沈みいくように。雨が降り、やみ、そしてまた降ることが約束された世界のように。すばらしさとは、ただそれしきのこと、ゆえにやはり、すばらしい。



1382:【一卵性双生児】

一卵性双生児であっても、ヒトゲノムに差異があることが分かってきている。とくに非コードDNA領域と呼ばれるたんぱく質を合成しない領域では、遺伝子増幅と呼ばれる、遺伝子の複製のコピーが行われ、その数の違いが身体的差異や特定の遺伝的疾患のかかりやすさに関係しているとみられている。一卵性双生児であっても、いっぽうではガンになりやすいが、もういっぽうはそうでもない、といった体質の偏りが生じる。おそらく、クローンでも同様に、完全に同じ素体を持つコピーは造れない。ただし、ゲノム編集技術の向上によっては、百パーセント同じDNA配列を持つ素体を造りだせるようになるかもしれない。とはいえ、ゲノム編集を施した、という外的因子が加わった時点で、まったく同じ遺伝子とは言えないだろう。ヒトゲノムのように膨大な数の情報を扱う場合、ちいさな影響でも、回り回って全体では大きな変質を伴う。カオス理論の初期値鋭敏性と呼ばれる現象である。(素人の戯言です。真に受けないようにおねがいします)



1383:【好き嫌い】

最初に表現に惚れていれば、相手がどんな人間であっても、よしんばどんなに人間として最悪でも、その表現を創作しつづけてくれさえすれば、好きという気持ちは揺るがない。だが、初めに相手へ苦手意識が芽生え、それから、どんなに好みの表現を発する人間だったと知っても、相手を好きではないので、その表現も手放しで感受できなくなる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの心理が発動する。本来、表現はその発信者とは独立して評価すべき事柄だ。いくひしはそう思っている。もちろんその人物だからこそ放たれた表現ではあるだろう。独立して存在するわけではない、切り離せるものではないのだ。表現と表現者の関係性はそういうものだと思う。しかし、それでも人物と成果物は切り離して評価したほうが好ましい。たとえその人物が凶悪犯でも、人類史に名を残すほどの虐殺の独裁者であっても、赤子をサッカーボールの代わりにして遊べるニンゲンと呼ぶに値しない人物であっても、表現とそれを発した人物は別個の事象として扱うほうが総合して損をしない割合が高くなる。じっさい、世に名高い偉人の多くは、けっして聖人君子などではなかった。人物の素行よりも、その人物の残した成果が評価された結果に、偉人は偉人として語り継がれるのだ。誰が口にしても真理は真理である。ゆえに広く人々に、時代を越えて、重宝される。人物の名が残るのは、その発見に対しての敬意を表しているからであり、本来、名は残さずとも構わない粗末な補足事項だと言っていい。繰りかえしになるが、表現と表現者は別々に範疇し、扱ったほうが好ましい。なぜなら、人物への評価に影響されない表現ほど、真理にちかい本質を有しているからだ。言い換えれば、ふだん我々が取り逃がしている成分を捉え、描きだしている。閑話休題。表現と表現者を切り離して扱うことができるいくひしでも、さきに表現者へレッテルを貼りつけてしまうと、どうしてもその人物の表現をすなおに受け入れることができなくなる。表現をさきに受け入れ、惚れてしまえば、表現者がどんな人間性を有していてもその表現への評価は薄れない。だが、その逆はむつかしい。そのため、なるべく特定の人物を嫌わないように心掛けている。心掛けなければならない時点で、人間として未熟な証である。とはいえ、いくひしと、いくひしの発する表現はイコールではない。未熟であっていけない、なんてことはない。見逃している色彩、或いは見逃されている情景を掴み、こね、カタチにしていきたいものである。



1384:【伝えたいことなどない】

ぼくちゃんの本質は、伝えたいこと何もない、ということなのよね。ぼくちゃんが考える程度のことは、ぼくちゃんでなくとも考えつくことであるし、もうとっくにどこかの誰かが考えたことのあることばかりで、なんら新鮮でも、珍しくも、ましてや貴重でもなくて。ならばなにゆえ文字にしたため、他人様の目に触れられる場所に更新しているのかと言えば、なぜなんじゃろう? なぜじゃ? わからん。なんかこう、やっぱり褒めてもらいたいのかな? 認めてほしいのかな? よーわからん。ぼくちゃんこんなこと考えたよーみてみてーってそういうことなんじゃろか。お金かせげるわけでもないし、言うても、そんな読まれてるわけでもないし。じっさいPVとか100とかありますけど、全文読んだ人とか、一人いるかいないかとかそれくらいだと思うのよね。なんのためにそんなことしてるの、って聞かれるとこまっちゃう。なんのためなんじゃろ? でもたとえば、この世にじぶん一人しかいなくて、もう人類はぼくちゃんだけだよってなったとき、じぶんのすることのだいたいは、もうなんの意味もないことで、誰のためにもならないことで、自己満足とも呼べない、せいだいな暇つぶしとしか言いようがなくない? かといって生きるのでせいいっぱいだったりして、つぶす暇なんかなくって、じゃあなんでそんな無駄なことわざわざしてるのって、なるのよね。たのしいかって聞かれるとすこしまいっちゃうなー。だってそんな、わーい、うひょひょーってなるほどのたのしさじゃないし。もっとたのしいことはたくさんあるし、どちらかと言ったら、たのしさよりもむなしさを感じるほうが多いかもしれないでしょ。そしたら、なんでそんなことやってるの、もうやめたら?ってなるよね、ふつうだったら。でもなんないんだよねー。なんでじゃろ? 排泄行為みたいなものかもしれない。べつに排泄物を他人様に食べてもらいたいわけじゃないし、だせないならだせないほうが楽だけど、でもださないときもちわるいし、その瞬間は、なんだかんだ爽快感があるから、きもちよくないってわけじゃないけど、やっぱりどこかむなしい行為だなとは思うのよね。おなじだね。ぼくちゃんにとって、こうして文字を並べて、なにごとかを表現するのは、ほとんど排泄行為なのよね。ださないと、具合がわるくなってしまうから、しょうがなく、そうするほかにないから、してるようなもので、やめられるならやめたいし、なければないほうがいい、でもそうしないと病気になっちゃうから、まぁ、苦痛というほどでもないし、一瞬だけならきもちよいとも言えるわけで、そんなこんなで、排泄物みたいなものなんだなって。そんな文章、どうしたら他人様に読ませられるだろう。読ませたくはないのよね。読みたくだってないだろうし、ときおり、人間ではない植物みたいな存在に、堆肥代わりにしてもらうくらいがちょうどよくて、堆肥になりたいだなんて思っているわけでもないのだけれど、生きているかぎりは、なんだかんだ、排泄していくほかにはないのだなぁと、きょうのぼくちゃんは思ったのよね。



1385:【熱中症に注意】

インスタは七月からはじめます。写真に短いウソっこの文章つけて、画像&ショートショートみたいにしていこうと思います。あと、いくひし今週のはじめ、月、火、とめちゃんこ体調わるくてですね。なんでだろー、なんでだろーって、赤いジャージと青いジャージが踊り狂ってたわけなのですが、それはテツ&トモですよね。若い子はもう通じない芸人さんなのかな。で、きょう、自転車こぎこぎしながら、はっとしましたよね。熱中症だったかも。いくひし、熱中症になってた可能性大ですね。や、毎年、なんだかんだ季節の節目はまいかい体調いったん崩すんですけど、なんかそれでサナギみたいに身体の内側からつぎの季節モードになるでぇ!みたいな感じになるの、ほんと、うそじゃないよ。で、こんかいのもそれかなぁ、でもそれにしては身も心も死んでたなぁ、なんて首ひねってたら、なんか熱中症って、脱水症状が悪化してもなるみたいで、頭痛がひどくなるのも症状のひとつらしいですよ? はい。で、いくひし、ちょうど土、日の二日間、ヨッタ汗かいてまして。かるくTシャツ六枚消費しましたよね。いちにちで、ですよ? ふだんはいっても三枚とかなんですけど、まだいきつけの遊び場の冷房がかかってなくて、どこのサウナだよ!みたいな感じのなかで、びしゃびしゃになりながら、あじぃー、あじぃーってなってた。それだな。熱中症でした。水分補給してください。こまめにね。塩分とるのもお忘れなく。あとやっぱり、睡眠はだいじですから。なんもしなくても人間、二十時間起きてるだけで疲れますからね。寝てください。ホントだいじですから。寝ましょう。夜更かしなんかしたらだめだよ。徹夜と友になっちゃ、こらーだからね。テツ&トモみたいに、病んでやろー、病んでやろーって、心と体があっという間に、ムンクの叫びになっちゃうんだから。気をつけるんだぞ。いくひしさんとの約束だ。きょうはもう寝る! えらい! おやすみー。



1386:【主役以外不在】

「これは俺の人生だ。おまえにできることはない」



1387:【物語強度】

ここ半年、好きだなーと思う物語の特徴として、キャラクターたちが物語に立ち向かおうとしない作品が増えてきた印象がある。物語はキャラクターたちを終点に導くために、あれやこれやと試練や苦難を浴びせるわけだが、キャラクターたちはそんなことなどおかまいなしに、目のまえのじぶんのことだけにいっぱいいっぱいになっている。なんだったらキャラクターたちにとって物語全体のことなどどうでもよく、じぶんの人生にしか興味がない。世界滅亡の危機があと半年後にやってくるよ、となっても主人公はあすデートに着ていく服を悩んでいる。そういった、大きな流れに惑わされない、器のちいさな、不真面目にマジメなキャラクターたちが、人生を謳歌しつつ迷走しつつ、そのついでに大きな物語に打ち勝つ話が読みたいな、と思うことが増えた。使命感なんてキャラクターたちにはこれっぽっちもなく、おまえまじ空気読めよ、まじウザいな、と言わんばかりに運命を退けようとする人間の底の浅さが、結果として裏目の裏目にでて、よくないこともあったけども、そのおかげでなんとか、すこしだけよくなった、かろうじて絶望は避けられた、私の人生はしっちゃかめっちゃかなままだけどな!みたいなのが、今すごく読みたいな、と思っている。いま創作中の物語がそういうものではない分、余計に喉が渇いているのかもしれない。物語はときに運命として、キャラクターたちをオモチャにする。だが、生真面目に向きあう必要は、じつはキャラクターたちのほうにはなかったりする。よしんばあったとしても、それを選ぶ権利があってよいはずだ。いまはそういう時代への節目の時期である。運命に、システムに、さだめに従う道理が、薄まってきている。従わずともすむくらいに豊かになりつつあることの裏返しでもある。ただし、充分ではない。だからこそ、物語のなかでくらい、宇宙の覇者が赤ちゃんプレーを楽しんだり、勇者が着せ替え人形にのめりこんだり、お姫様が魔界暗黒武術界優勝を目指したりしてもいいはずだ。そのかたわらで、宇宙が存亡の危機にさらされていようと、父親は赤ちゃんのおしめを替えなければならないし、母親はトイレの内蓋を閉じたまま小便をする夫に腹をたてるし、子どもはこっそり庭で、妖精と出会い、友情をはぐくんでいたりする。父親は宇宙の覇者のおしめを替え、母親は勇者に女性の心理を諭し、幻想をアップデートさせ、着せ替え人形の極意を授ける。そのいっぽうで、子どもは妖精と共に、魔界暗黒武術界に参加し、決勝戦で、宇宙の覇者の愛娘たる姫と闘い、熱い友情を築きあげる。宇宙の覇者は、父親にメロメロで、勇者は剣を捨て、人間相手に着せ替えをすべく政治を正そうと立ちあがり、子どもは戦友かつ親友となった姫と、ふたたび拳を交えることを誓い、それまで互いに切磋琢磨することを約束する。宇宙の覇者はしばらくの休養を決意し、勇者は使命感を放棄し、姫は宇宙の安寧を、父親へ確約させる臍を固める。父親と母親と子どもは、久方ぶりの家へと戻るが、ふしぎとほかの家族に叱られることはなく、なにごともなくまた日常がつづがなくつづいていく。父親は赤ちゃんのおしめを替え、母親は洗濯物を裏返したまま放置する夫に業を煮やし、子どもは庭でしずかに、妖精との別れを体験し、一歩おとなへ成長する。そういう物語があってもいい気はするが、なんだか読みたいものとは様相がちがった気もする。何はともあれ、キャラクターが人間である以上、そこにはその人物の人生がある。物語のための人生にならぬように、キャラクターたちにはとことん不真面目にマジメな生き様を貫いてほしいと思う。直線でなくてもいい。曲がっていたって穴は穴だ。貫き方にもいろいろある。それぞれの人生を覗かせてほしいな、ときょうはそんなことを並べながら、思ったのだった。



1388:【はっくつ】

2018年げんざい、スマホを所有している人間の九割以上は何かしらの表現をネットに向けて発信していると言ってよい(ホントか?)。読書を嗜好する人間なら、まいにち何かしらテキストを吐きだしているはずだ。まいにち文字を並べることがなんら特別な技能ではなくなってきている。希少性はなく、優位性も薄まっているのが現状だ。文字が溢れても読書人口が増えるわけではない。すくなくとも人口を超えることはないのだから、テキストの分量が増えれば、必然、じぶんの吐きだす表現や情報は人の目に触れる機会を失くしていく。反して、溢れんばかりのコンテンツの山から宝石を探しだす手間を人々は惜しむようになっていく。ランキングやバズったデータにのみ刹那的な目を向け、消費し、愛好することなくつぎなる糧を求めるようになる。ネットが普及する以前にもそういった流れはあったはずだ。しかし現在は、その発掘する手間を担うはずの版元のチカラが弱まってきている。ネット上ですでに発掘されたコンテンツを二番煎じがごとく、本という箱に仕舞うことを生業にしはじめている。そういった手法があってもいい。だがそれに頼ったのでは、産業としてもしくはビジネスとして長くはもたないだろう。それこそ、SNSを運営する企業が出版能力を手にすれば、出版社に太刀打ちする術はなくなる。これは個人にもいえることだ。創作家としてもっともだいじな素養のなかに好奇心があげられる。つぎからつぎへと流れてくる情報の中かから、何に目を留め、何を見るのかは、そのままその創作家の個性に直結するといっていい。バズっているから、ランキングが上位だから、そういった指針に頼るようでは、みずから個性を枯渇させるようなものだ。これは逆の言い方もできる。人気があることを理由に目を向けないのは、人気があるからそれが好き、と言っているのと本質的には同じだ。サブカル指向の人間に、こうした同族嫌悪に陥っている者が多いように概観される。わるいことではないが、それで視野を狭めているのならばもったいない話だ。話が逸れた。現代は、どんな人間でも何かを発している表現者であると言っていい。消費しかしていない、と嘆く者であっても、そうした嘆きをテキストに興し、発信している時点で、表現者のうちの一人だと呼べる。まいにちなにかしらを創作しているだけでは、ほかの大多数の表現者たちのなかで優位に立てない。創作者として稼ぎたいのならばなおさらである。これからは創作家こそ、みずからつぎなる才能を発掘することが、頭角を伸ばすのに役に立つようになっていく。じっさいに売りにだす必要はない。この表現者は才能があるな、と見抜けるだけで、自身のセンスが磨かれる。どのように才能があるのかを言語化できれば、言うことはない。ほかの雑多な表現者たちと何が違うのか。どのように優れているのか。それさえわかれば、あとはじぶんの土俵に応用してみれば、おのずと成長の道が拓かれる。才能を発掘することは、みずからの可能性を広げることでもある。繰りかえしになるが、まいにち創作することはもはや他人を出し抜くメリットにはならない(むろん出し抜くためにやっているわけではないだろうが)。プラスαで、なにができるかを考えていこう。



1389:【言うても】

いくひしほど食わず嫌いひどいやつも珍しいけどな。な?



1390:【う、う、】

聞いてくれパリピポ。わいは、わいは感動したんや。人間はうれしくても涙がでるんや、そうなんや。藤のようさんのマンガ「せんせいのお人形」を読んだんや。WEB連載で、まだ単行本化されていないのだが、これがもう、なしていままで読んだことなかったの? あなたそれでも本読みのつもり?ってあたまのなかのいくひしさんが呆れ果ててるの、そうなんだよ、いくひしさんだってこういう物語つくってみたかったよ、こういうのだよ、いくひしに足りないのはこういうのなんだよ、読みたかった、わいはこういうのが読みたかったんや。うーうー。はぁー、まじでいいものを読んでしまった。いいものはね、なかなか言語化できないよ。いいとしか言いようがない。わかんないよ、ホントわかんない。なにがいいのかじぶんでもわかんない、なんでこんなに胸にくるのか、はぁー、もう、こんな感想並べるだけで、じぶんが嫌になってくる。物書きはね、まじで焦ったほうがいいよ。藤のようさんが努力型の天才なのは一目瞭然なのだが、それにしたってねぇ? 物書きでここまでのレベルで物語をつむげるひと、いまいる? いるの? いたらホント教えてほしい。読みたいからさー。や、比べるようなものではないよ? だって片やマンガで片や文章でしょう。でもね、負けてるよ。勝ち負けじゃないとは言いつつも、これだけの差を見せつけられたら、負けましたーってなりますよ。土下座ですよ。ジャンピングTHE・DO・ゲザですよ。ならないの? あなたあれ読んどいてならないのー??? あ、そっかまだ読んでないのね。そっかそっか。読めよ! 読んで!!! 物書きならいまじぶんがつむいでる物語を破り捨てたくなるからな。単なる小説好きなら、マンガのほうがよっぽど文学してるって気づかされるから。や、比べるもんじゃないんだよ、そりゃそうだよ、でも負けてるんだよ、これはどうしようもなく現実なのだよ、そこんところ自覚的になろうじゃないのよ、そうでしょ? そうだよ! やー、内容になんて触れられない。いくひしなんかが触れたらそれだけでうつくしさが損なわれそうなほどの繊細さに清廉さ、人間の醜さを描きながらも、清らかなものを掬いとっている、読んだひとが救われるような、あーだめだ、だめだ、こんな感想なんて蛇足でしかない、邪見でしかない、そうじゃないんだ、そうじゃないんだよパリピポーー!!! 読んでほしいけど、読まないでほしい。じぶんだけの特別な物語であってほしい、独占したい、そういう宝物になる物語がときどきふと目のまえに現れる。ツイッターやっててよかったー。いくひし、ヴァンホーテンのココアが好きなのだけれど、だからなんだって話ですよね。や、ほんとありがたい。藤のようさんのマンガ「せんせいのお人形」がひとつの理想形になった本日のいくひしまんでした。



※日々孤独が好きだと言い聞かせる。



1391:【多様性と相対主義】

多様性社会がだいじだ、といった意見を目にする機会が増えた。けっこうなことである。ただし、多様性が保たれていればいいという短絡な思考は危うい。こういったことを言うとまたあいつは逆張りなことを言っていると揶揄されそうだ。しかし現実問題、自然界の類例を見渡してみてもそうなのだから、多様性であればいいというわけではない、絶対的善ではないのだという点には留意しておいて損はない。たとえばすこし前までは、じぶんの意見はじぶんが守るためのもので他人に押しつけてはいけない(だから他人の主義主張も尊重しましょう)、といった寛容主義が流行った。多様性絶対主義への足掛かりになっていたと思われる。わるいことではない。共通認識として、じぶんの世界観と他者の世界観、或いはじぶんの生きるコミュニティと他者の属するコミュニティは必ずしも合致しない、否、往々にして違っていると認めることは、無意義な衝突を避けるために欠かせない原則とも呼べる。いわゆる相対主義だ。ただし、それは飽くまで「そもそも」の話なのだ。基盤である。そのうえに、社会は社会規範を設け、ルールを規定し、法律を定めている。人によって意見が違うからといって、じぶんはじぶんだ、では困るのだ。みんな違ってみんないい、しかし飽くまで最低限、共通するルールは守ってもらわねばならない。法律ともなれば割と白黒がはっきりとしている。裁判官や弁護士など、専門の判定士がいる。だが倫理観となるとすこし厄介だ。どこまでがよく、どこからさきが許容されないのか、これは個々人によって幅がある。ときには時代によって新たに犯罪に規定されたり、あべこべに当然そうあってしかるべき常識として認められる場合もある。法律もまた、時代によって変化する。絶対的な善ではないし、基準でもない。ともすれば、人が変わるから時代が変わり、人が変わるから法律が変わると呼べるかもわからない。基準はいつの世も人にあり、そしてその人という集合体は、極めて流動的で、とりとめがない。かと思えば、一つの流れにかんたんに流され、性質を一転させたりもする。扱いづらいようで扱いやすく、気まぐれで、従順だ。ある一面を切り落とし、押さえつけることで、一つの性質を際立たせようとするチカラこそが社会規範であり、ルールであり、法律である。何を際立たせるのかを、いったい誰が決めているのか。あなたは人間の、いったいどんな性質を際立たせたいと望むだろう。それもまた人それぞれに思い浮かべる色合いはさまざまだ。しかしかんぜんにバラバラではない。仮に個々の色合いがかんぜんにバラバラであれば、人類の浮かべる色合いはまっくろか、まっしろかのどちらかに寄る。完璧に偏りのない、均等な多様性とは、全体で見たときに、まったく多様性のない世界だと呼べるのだ。偏りはあっていい。それをバランスと言い換えればそれらしい。多様性そのものが重要なのではない。多様性のもたらす、色合いが、虹色のように、或いはモザイクのように、それともグラデーションのごとく、見る角度によって色調が変化するような層をなすこと――色彩の奏でる旋律から律動が失われぬように、均等ではなく、均衡を保つことこそが、多様性を尊重する意味合いなのだ。すべてが均等にバラバラであり、個々人が個々に好きかって生きる社会は、それはそれで多様性のない世界だと呼べる。規律を守ることがたいせつだ、という話ではない。多様性はあっていい。一律な世界であるよりも、種々相なゆらぎに溢れているほうが、崩壊への耐性を内包している確率が高くなる。ただし、多様性も行き過ぎれば、多様性という一律な色合いに染まった多様性のない社会に成り得るのだ。多様性とは飽くまで、回路を正常に循環させるための触媒である。多様性そのものが回路として機能するわけではない。回路は回路で、設計していかねばならない。その過程では、多様性を排除する真似もしなければならない。流れを限定することが回路の基本的な役割だからだ。多様性を目的にするのではなく、そのさきでどういった回路を築こうとしているのか、そこを見逃して、多様性、多様性、と叫んでも致し方ない。長くなった。最後にもういちど問いをなげかけて、本日の結びとしよう。あなたは人間の、いったいどんな性質を際立たせたいと望むだろう?



1392:【間違い】

いくひしは基本的に間違ったことしか言わない。どこかに瑕疵がある。錯誤がある。勘違いをしている。思い違いはなはだしい、とまでいくとすこし言いすぎな気もする。ともあれ、正しいことを言っているふうを装っているだけである。鵜呑みにせずに、じぶんで考えを煮詰めてみよう。いちばんかんたんな手法は、いくひしの主張に反論してみることである。例外を探し、この場合はじゃあどうなの?と考えてみるだけで、独自の考えを導ける。同じようなことを考えている者がほかにもいるかもしれない。だが、すくなくとも、あなたの導いた考えは、あなただから結ばれた筋道を帯びている。答えが同一だからといって、過程まで合致することは滅多にない。なんどやっても、誰が辿っても同じ筋道、同じ解答になるのならば、それは真理にちかい考え方だと呼べる。それはそれで尊ぶべき発見だ。なんてうそぶくこの文章自体が、錯誤に、謬見にまみれている。ふーん、と受け止めるくらいがちょうどよい。え? べつに真に受けたことはない? 正しいことを言っていると思ったこともない? あ、そうですか。そうですよねー。ごもっともで。はいはい、へー、そう。ふーん。



1393:【気質】

ご存じのとおり、いくひしはストーカー気質である。どんなに嫌われても「うるせー、俺は好きなんじゃ!!!」で追いかけてしまうようだ。妖怪じみているが、存在しないものとして扱えば害はない。悪霊になっていたら容赦なく滅してしまえばよろしかろう。



1394:【十周年記念】

ことし、いくひし、小説読みはじめて十周年記念です。来年、2019年は小説つくりはじめて十周年記念になります。ぱちぱちー。もちろんエビバディピポーは来年、いくひしさんを祝う予定をたてちゃったりしちゃってたりしてますよね。超高級ホテルの宴会場貸し切ってぱーちーなんか開いてくれちゃったりして、いくひしはもちろんそんなこと知らされてないから、目隠しされて、やたら快適な車に押しこまれて、椅子なんかなくって、ソファに寝そべってるうちに到着して、おめでとー、おめでとーって、道行くひとびとがカメラぱしゃぱしゃーって、水浴びみたいにして、いくひし、うひゃーって、びっくりして、わーいってよろこんで、えらいひとから、えらくないひとまで、つぎからつぎへと祝辞をあげていくなかで、いくひしまったくの意に介さずのハラペコちゃん、おいちー料理をつぎからつぎへとお腹につめこみ、ぽんぽこりんのー、ぽんぽこなーの、ちょうきゅうめいのちょうすけさんから、きゅうべいさんまで、きみも魔法少女になってよ、のノリで、散々いくひしのこと妖怪ぱっぱらぱー扱いしてきたうみゃうみゃどもが手のひら返しに、腹黒まじり、舌舐めずりから、おもねりまで披露しながら契約書片手にこぞって祝ってくれるのかな。いくひしまんのまんは、傲慢のマンでありーの、ルサンチマンのマンでもありーの、バッドマンからスパイダーマンまで、ウルトラマンからアンパンマンまで、もちろんそこにはアイアンマンが勢ぞろいでございますけれども、幅広くお取り揃えてございますですわよ。はい。いくひし、小説読みはじめて10ちゃいです。らいねん、物書きとして10ちゃいになります。まじかー。予定ではとっくに売れっ子になってるはずだったんだけどなー。なかなかどうして人生、うまくいかねーなー。そういうわけでつぎは20ちゃいを目指して、なるべく早死にしないようにムリなくつづけていこうと思います。60ちゃいまでつづけられたらいーなー。しにたくなーい。生きてくぞ。



1395:【ゲーム】

いくひしはゲームをたしなまない。据え置き型ゲーム機からスマホのアプリゲーム、ボードゲームからカードゲーム、麻雀に将棋と、たいがいのゲームから距離を置きつづけてきた。スポーツもそうだ。集団競技が苦手だった。嫌いなわけではない。人より熱中しやすい性質(たち)であるから、敢えて手をださずにきたのだ。たばこにしろアルコールにしろ、ドラッグにしろ恋愛にしろ同様だ。本来ならばインターネットからも距離を置くべきだった。これは明確な失敗である。ただでさえ人生という壮大なゲームを進行中であるのに、ほかのゲームにうつつを抜かしている場合ではないのだ。余裕がないのである。ゲームの中であってもゲームをたしなめる人はそれだけ人生に余裕があるのだ。すばらしいことである。すなおにうらやましく思える。経験上、いくひしはハマったものから順に中毒年数が伸びる傾向にある。指数関数的に伸びているので、おそらく創作活動はさいていでもあと二十年はつづけているはずだ。ただそれが小説であるかは定かではないし、思えばこれまでハマってきたものの根底にあるのは総じて創作であったのかも分からない。たいがい、じぶんでそれをするのが好きなのであって、それ自体を好きであった試しがない。そのため他人がそれをしているのを観るのは好きではなかった。たとえば、もし絵を描くことにハマっていた場合、いくひしは他人の絵に見向きもしなかっただろう。傾向として、それ自体を好きになったものには手をだしていないのだ。触れたら穢してしまうとでも思っているのだろうか。とんだ純潔主義である。そういう意味では、小説そのものを好きになったことはないのだろう。つくるのが好きなのであり、他人の小説を読むのも、飽くまで素材集めなのだ。同じ媒体から持ってくれば盗作であるが、ほかの媒体からであれば素材として有効だ。ならばほかの媒体から摂取したほうが効率がよい。よって徐々に小説を読まなくなっていく。仮にいくひしに陽の目を見ない要因があるとすれば、こうした不勉強さが災いしていると言っていい。本読みとしてはようやく要領がわかってきたかな、といった塩梅であるが、小説読みとしては風前の灯である。自作ですら読むのがしんどくなってきた。深みにハマっている傍証である。



1396:【支え】

評価されないことにかけては群を抜いているいくひしさんにも、じっさいにわざわざ時間を割いて会いにきてくれた方がふたりいらっしゃる。ひとりは、いくひしに客観視という名の第三の目をくださった方で、なんだかんだいくひしが小説をつくりつづけていられるのは、その方に見初めてもらった過去があるからかもしれない。それからもうひとりの方は、即売会で新刊をその日のうちに読了して感想を伝えにきてくださった、つよき心のひとである。見知らぬ作者にわざわざ感想を伝えにいく、というのは、いくひしのなかでは相当に難易度の高い行為である。折に触れて、もうだめだー、となるときにその方の行動力を思いだし、ダメちゃうよー、いけるよー、とひざに鞭打ち立ちあがることができる。ありがたいことである。ふたり目の方に到っては、あなたはどんな物語をつむぐのですか、と訊き忘れたことを後悔している。機会があればぜひ読ませていただきたい。ひょっとしたらその方々のお目に触れることもあるかも分からない。こういったことも、並べられるうちに並べておこうと思う。



1397:【フリ】

何度目かになりますが、いくひしのキャラはフリです。なかのひとは、ここに書いてあるようなキャラではありません。物理世界のいくひしはどんなかと申しますと、「あはは、まじっすか、あははー」こんな感じです。いちにちに口にする言葉は八割、おつかれさまでーす、に終始しています。コンビニで買い物をするときに店員さんに「アリガトゴジャマス」と「ナクテイイデス」を唱えるので、十割ではないのです。たいがい周囲からはデキソコナイ扱いされています。デキソコナイなので、くっそ~、と地団太を踏むしかないのです。だむだむ。みなさんの周りにも、いつもぼっちで、いるのかいないのかよくわからない、影の薄いくせして、妙に周囲から浮きあがっている人間モドキ、いませんか? それがいくひしです。いくひしはどこにでもいます。あなたの周りにも、一人か二人くらい、いるのではないでしょうか。そう、これを読んでいるあなたの背後にも。



1398:【調べ屋】

仕事を選ぶコツは簡単だ。需要があって、供給が足りない業種であればいい。報酬をこちらで選ぶくらいの余地が生じる。端的に、客の足元を見ることができる。信用第一なんて時代錯誤も甚だしい。仕事は、できるかできないかの二択だ。客の満足する結末に導ければ、極論、依頼通りでなくてもいい。アレが欲しいと言われれば、コレとソレとアレのどちらですか、と候補をいくつも並べる。なんだったらそれらすべてを売り物にすれば単純に報酬は何倍と跳ねあがる。アレを調べてほしいと言われれば、アレを欲しがるほかの連中の情報もいっしょに提供し、いまならアレを手に入れられますよ、と持ちかければ、高額の依頼が新たに発生する。仕事はいくらでも転がっている。それに気づき、仕事にするかしないかの違いがあるだけだ。「だんなー、仕事でさー」黒猫のマダラが窓から入ってきた。きょうは一日家で書類整理をするつもりだった。急な依頼ほど報酬の交渉がしやすい。「きょうは何だ。泊りがけはムリだぞ」「となり街でさ。なんでも奇怪なタケノコが生えたってんで、ニンゲンどもが騒いでら」「依頼じゃないのか?」「ダンナが言ったんじゃねぇですかい。アッチ方面で困ってるニンゲンいたら教えろって」「ああ。言ったな」正式の依頼ではないようだ。ただし、マダラが嗅ぎつけたくらいだ、放っておいてよい案件ではないのだろう。「怪と魔、どっちだ」(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886316030



1399:【アイス】

コンビニアイスのなかだといくひし、パピコのチョココーヒー味がいちばんすきです。つぎは、セブンイレブンの箱入りで売ってるチョコミントアイスで、そのつぎがロッテの箱入りカルピスアイスバーがすきです。はい。おなかいたーい。アイス食べすぎておなかいたーい。だめだよ、アイスの食べすぎはノンノン! でさー、きょうさー、雨が降ってきてさー、やんだくなっちゃった。きょうはなんもしたくない日ですからね、いくひしさん、なんもしたくなくなっちゃった。そういえばマンガ「嘘喰い」が全編無料で読み放題キャンペーンやってましたよね。いくひし、八巻から全巻持ってるので、キャンペーン終了してもいつでも読める。でも一~七巻まではないから、コンプリートする時期だよとのお告げかなと思った。無料キャンペーンと言えば、いくひしさん、アマゾンの電子書籍の無料キャンペーン、あさってまでやってるので、タダですからね、ぜひこの機会にゲットできる方はゲットしてほしいなと思います。はい。いまのところは、インスタとかツイッターとかはじめましたけど、それが無料配布のダウンロード数に反映されてるかというと、そうでもないです。だいたい新刊は30冊いけばいいほうで、いまは27冊なので、ふだん通りの印象です。二日目までは数字が伸びるのですが、三日目からはほとんどダウンロードされなくなるので、無料キャンペーンやる方は、二日単位で、分けて実地すると効果的かなと思います。既刊の場合は、無料キャンペーンを重ねるたびに、ダウンロード数は減っていきます。いくひしの場合だと十冊ダウンロードしてもらえたらいいほうです。一冊とか、もはやザラです。ちなみに、読み放題に登録されていない方に読まれても、いくひしには一銭も入りません。完全にご奉仕です。あべこべに、アマゾン読み放題に加入している方に読まれれば、読まれたページ分だけ収益がでます。ただし、初めて読まれたページ分だけの換算なので、一冊につき多くても200円の収益を超すことは稀です。例外として「R2L機関」はページ数が多いので、最後のページを開いてもらえるだけで、2000円ちかくがいくひしの懐に入ります。アマゾン読み放題に入ってる方は、開くだけなら無料ですからね、お布施のつもりで、「R2L機関」の最後のページを開いてくれてもいいですよ? 裏から言えば、読み放題に入ってない方は、無料キャンペーンでゲットした電子書籍は、いくら読んでも作者の利益にはなりませんから、コイツの作品はおもしろいけど、コイツの性格が気に入らねぇって方は、ぜひぜひ、タダでいくひしの作品を読んでもらって、げっへっへ、読んでやったぜ、ってなってもらえるといくひしはうれしいです。もうほんと、読まれたい。で、おもしろいって思われたい。お金はいいので、まずは読まれたい。あなたの脳内にいくひしの世界観を植えつけたい。読まれて、他人の脳内に展開された世界こそ、いくひしの作品ですからね。読まれない小説は小説として未完成なままなのだ。かわいそうに。読んでくれた方、読んでくれている方、ほんとうにありがとございます。でもべつに、あなたがいなくてもいくひしはつくりつづけていくけどな。でもあなたに読まれてうれしいことに変わりはないのだ。うれしい、うれしい。にんきないけど、読んでくれてる方がゼロじゃない。その事実だけで、落ち込まずに雨の日でもふんふんらんらん鼻歌歌って生きていける、本日も例によって例のごとく、読者であればだれでもいい、尻のぷかぷかな、いくひしまんでした。



1400:【才能ナシ】

こんだけつくって陽の目見ないなんて、なんて才能ないんだろうって思うじゃん? 思うよね? 思うな!!! 言わないで―、いくひしかんたんにしょげるから言わないで―、いらない現実つきつけないでー、見たくなーい、そんな現実なんて見たくなーい。でもさ、こんないくひしだけど、こんないくひしだからこそ、なーんだ、って思ってもらえるかもしれないじゃん? あんだけやって陽の目見ないやつもいるんだって、じぶんなんかまだまだだって思ってもらえるかもしれないじゃん? あなたね、ぜんぜんスゴイやつだから! いくひしを見てごらんよ、こんだけつくって、知名度ゼロやで! 人気ナッシングやで! 閑古鳥がコンコン咳こんどるって、そりゃコンドルやろー!どっ、ってな具合で、ギャグですら寒い、カオスでコスモないくひしまんちゃんを、これからもよろしくー!!! だれも読んでないかもだけどー。




※日々人を人だと思えなくなる、動かすゆびの気持ちわるさよ、宿った器の馴染まなさよ。



1401:【敢えて外す】

理論化された表現に興味がない。方向性として、こうしたほうが受動者に伝わりやすいという技術はたしかにある。しかしそれを基準にしてしまうと表現としての魅力が根こそぎ枯れてしまう。たとえば宮崎駿はもののけ姫で、迫力を演出するために、遠近法を強いて崩す手法をとった。遠近法という技術を捨て、敢えて「あり得ない情景」を描いたのだ。もののけ姫ことサンがエボシと対峙するとき、彼女たちを取り巻く群衆を、じっさいよりも大きく描いた。見たままを描く、感じたままを描く。表現とは、人間というフィルターを通した情景であり、情景そのものではない。理論化された表現に興味がない。理論化しようと足掻きつつも、技術として途上であるくらいがちょうどよい。未熟であればいいという意味ではない。どこを目指しているのかの違いである。



1402:【はぁ~ん?】

違いである、じゃないっしょ。マンちゃんまたこじらせちゃったの? いいかげんにしてほしいわー。あんさー、あんたことし入ってから何本投げだしたままの小説あるって、数えてみー? さっさと閉じて、渾身の一作つくりなよ。ホントかっこつけるのだけはおじょうずね。いかにも作家っぽいわー。偉そうなこと並べるだけのステキなお仕事ね。



1403:【言ってやるなよ】

放っておいてやれよ、ギリギリなんだろ色々とよ。発作みてぇなもんだから、こういうときゃ、さすが、さすがって、オクスリ代わりに頭でも撫でときゃいいんだ。んな図星さすようなことばっか言ってっと、いじけてまた引きこもっちまうぞ。部屋にって意味じゃねぇからな、言葉交わせなくなって困るのは俺らだ、そろそろ扱い方くらい学ぼうや。なぁ。おめぇもそう思うだろ?



1404:【思いますけど】

放置するって意見には賛成ですけど、そうやって言わなくてもいいことをわざわざ聞こえよがしに言うのはいただけないというか、なんというか。心配なのはわかりますけど、言い方のほうは改善の余地があると思いますけどね。ただでさえいくひしさんは繊細と言いますか、めんどくさい性格をされていますから。あ、今のはみなさんの真似です。他意はありません。



1405:【なんなん】

うがーーー、なんもー、みんなして。いじめ反対! 正論ダメ、ぜったい!!! きずつくでしょ! っていうか、なんか一人増えてるんですけどー!!!



1406:【鼻につく】

自分の株をあげるために、他人のミスをつつく人間がこのごろ目につくようになった。出版関係者にももちろんいる。ヘイトやクソリプがどうこうと批判しながら、同じ口で、文面上奇妙に映るつぶやきを拾ってきては、誰に頼まれるでもなく、正論をかかげ、一刀両断する。相手から見えないようにすればまだしも、わざわざ訂正や謝罪の反応を欲する。さぞかし気持ちのよいことだろう。そうでなければ、する意味がわからない。こうしていくひしが俎上にあげているのも、気持ちがよいからである。一周回って気持ちわるい。醜悪であると呼べよう。ここ半年にわたって、SNS上では、気に食わない相手をブロックすることが推奨されはじめてきている。必要に迫られる場面もあるだろう。言葉の通じない相手には相応の対処が必要だ。しかしながら、なんでもかでも、遮断してしまえばいい、という問題ではない。個人にそういった価値観が根付けば、個人の集合体である社会にまでそうした価値判断が反映され、当然そうあるべき常識としてまかり通るようになる。相手を拒み、遮断し、拒絶することで解決する問題がどれほどあるだろう。見なければいい、蓋をすればいい、そういうことではないのだ、とみな周囲を見渡し、異を唱えていながらにして、自身にふりかかった嫌悪感には耐えられないようである。組織と個人の分別がつけられるのならば、それでいいだろう。だが歴史を省みれば、個人の悪習はそのまま組織の腐敗を招くと断じて、過言ではない。ともすればすでに、物理社会とネット上での振る舞いは分けられない段階にまで、インターネットは我々の社会に浸透しているのやもしれない。だとすれば、物理社会で行えない所作は、ネット上でも行うべきではない、行わないほうが損をしない社会が到来しつつあるのかも分からない。義憤を振りかざす者も、相手への礼儀をわきまえない者も、相手の存在をなき者として扱うことに抵抗がなくなりつつある社会もまた、一時の流行り病のようなものなのかもしれない。そうであることを祈りたいものである(祈ってどうなるものとも思えないが)。



1407:【癪に障る】

礼儀知らずが何か言ってら。一生引きこもって、鏡と仲良くダベってな。いくひし、おまえのことだぞ。



1408:【反省】

さいきんちょっとつよい言葉を使いすぎですよね。語気が荒いというか。ごめんなさい。



1409:【疲れた】

先週から体力がガクっと落ちて、なんだかなーという日々だ。かといって元気百倍いくひしまん!みたいになってても、なんだかなーという日々であるのに変わりはなく、なんだかんだ、なんだかなーという日々である。疲れた。何もせずとも生きるというのは疲れる。疲れを感じないでいられる方法もあるだろう。疲れを凌駕するほど、脳内の報酬系を活性化させればよいのだ。ドラッグに頼らずとも、好きなことをしたり、人に認められたり、望んだ成果があがったり、欲しかったものを手に入れたり、好いた相手と交流したり、子猫を撫でたり、赤子を抱いたり、気に入らない相手の人生を損なったり、弱者をいたぶったり、強者に絶望を植えつけたり、才能で同業者をぶん殴ったり、意のままに他者を操ったり、安全圏から他者の成果物を値踏みして悦に浸ったり、そういうことをしているだけで人間は疲れを感じずに日々を過ごせる。ひるがえっては、それらから距離を置くと、人は疲れる。注意したいのは、必ずしも逆説は成り立たない点である。どういう状況であれ、疲れるときは疲れる。極論、独裁者だって疲れるのだ。生きているかぎり人は疲れるようにできている。かといって疲れるために生きているわけではないだろう。人は食べたら排泄するように、生きれば疲れるのだ。排泄するために物を口にするわけではないのと同じように、疲れるために生きるわけではない。排泄物は水に流し、疲れたら休めばいい。むろん、休むために生きているわけでもないが、休みのない日々は、もはや人の生とは呼べないだろう。すくなくとも呼びたくはない。疲れたら休み、人の生と呼ぶにふさわしい日々にしていこうではないか。なんだかイイことを言ったような気がしてきたところで、2018年7月8日分の「いくひ誌。」を終えようと思う。ちなみにきのうは7月7日だった。ここで一句もどきのライムを詠み、ときどき、折を見て希望を持ち、人生にchillがいるのがアルタイル、とくに疲れたのは妻ベガさ、またの名を、織の姫、彦の星と申しそうらう。そうだろう、きのうは七夕、伊能は忠敬、天の川を越え、地図をえがき、名が残る歴史に、まさに棚ボタ、疲労を蓄積するのはただのバカ、まずは休まな、と叫ぶババァはベガの母方。夜のとばり、王よ永久に、眠れとささやく姫の横顔、まるで輝く稲の穂とハト。純白のつばさをひるがえし、飛び去る平と和を、ヘイトらの津波が荒らさぬようにと、願う短冊を裏返し、刻む名を探さねばと魔が差せば、気がつけば、望みはのきなみじぶんのことばかり、お黙り、とのたまく声はここに留まり、こまり、目をつむり、振り払う我執と邪念のワルツを、ヤメ!の合図もなく、見つめもせず、延々と、ただ眺めつづける陰々滅々まっただなかの夜をみなは七夕と呼ぶ。



1410:【一周年】

あと二週間ほどすると、自作小説を電子書籍化して一周年になります。7月21日ですね。一年のあいだで、いただいた評価が五段階評価で★一個というのは、なかなか痺れるものがあります。伝説の序章として申し分ない。けれどもいくひしは、ゴッホよりもピカソのような生き方を目指したいのだ。ゴッホはやだー。死んでから認められたって意味がなーい。死んだら評価されると思ってるところがいくひしまんちゃんの愛すべき傲慢さです。ただまあ、絵そのものだと、いくひしはピカソよりもゴッホのほうが好きです。サムネイルで見たとき、それこそ小さな画面で見ても、ゴッホの絵はすぐに、あゴッホだ、と判るのがすごい。凄みが薄れない。色合いがつぶれない。デザインとして優れていると思います。よくわかんないけど。あと、遠近法が伝来する以前の日本絵画が好きです。浮世絵というか、屏風絵みたいなやつです。これは私見ですが、あれってじっと一点から眺めるためのものではなく、歩きながら観るためのものなんじゃないか、と個人的には疑っています。歩きながら観ると、立体的に浮きあがって見えてくるんですよ、ウソみたいに。だまし絵っぽいと言えばそうなんですね。記憶があいまいですが、おそらく毛越寺宝物館で拝見した絵がそういったタイプの作品だったように思います。展示コーナーの入口に飾ってありました。ほかの展示品には目もくれず、ひたすらそれだけを眺めていました。みんなこれに気づいているのかなー、と気になって仕方がなかったのですが、けっきょく誰にも訊けずじまいでした。目にする機会があれば、ホントかよ、と疑り深ーい目で、あたたかく確かめてみてください。ただし、毛越寺宝物館である保証はありません。記憶力の乏しい、いくひしまんでした。




※日々あなたを探し、求め、さまよう、かなたを名指し、乙女、雨乞う奇異な穴のなかに、灯せ、語ろう。



1411:【電子書籍とは?】

電子書籍とWEB小説のちがいを考える。何がどう違うのだろう? WEB小説は小説だが、電子書籍には多種多様なテキストがある。それはそうだ。しかしそういうことではない。ほかに差異はあるだろうか。どちらも紙ではなく、電子端末を用いて読む。専用のプラットホームから販売されていれば電子書籍で、WEBサイトに掲載されていればWEB小説なのだろうか? しかしながら、WEBサイト形式でも、課金型のサービスはある。プラットホームこそ違えど、サービス形態として差別化を図るのはむつかしい。一方は売買で、もう一方は課金という意味では、ビジネス上の区別はつけられる。だが、電子書籍であっても、中身のデータはいつでも書き換えができ、加筆も、改稿も可能だ。シリーズ作品を一冊にまとめたり、一冊だけ出版したあとで連載形式にすることもできる。逆に、WEB連載作品を一冊にまとめて電子書籍化するのは、もはやスタンダードな流れだと呼べる。それらを総括して、電子書籍と呼んでも差し支えないのではないか。と、いうよりも、電子書籍とWEB小説を分けて考えることに、大きな意味合いはあるのだろうか? 電子書籍は日々需要を拡大している。とはいえ、その伸び率は比較的おだやかだ。期待されていたよりも普及していない、と評価できる。ともすれば、WEB上で読めるものを、わざわざ電子書籍としてプラットホームを変えて読む必然性はないのかもしれない。さいきんでは、課金型ブログサービスが盛んだ。購読型ビジネスと言い換えてもよい。2018年現在、インターネット上には無数のテキストが無料で溢れている。何を読めばいいのか、見極めるための指標を人々は求めている。売上や読者数は、コンテンツの信用を担保する指標としてうってつけである。そのため、無料のコンテンツよりも継続して人々に購読されるコンテンツのほうが新たな需要者を獲得しやすいと言える。仮に無料で需要者を獲得したとしても、ビジネスとして考えたとき、そこからいかにマネタイズできるかはなかなか困難なものがあるため、購読されている事実は、ビジネス展開を考えるうえでは、大きなプラス評価になる。考えてもみれば、タダゆえに集まった層が、果たして同様のコンテンツに金を払うだろうか。電子から紙に変わっただけで、商品としてそれを購入するだろうか。そうは思えない。一部の熱狂的な支持者は購入するだろう。だからといって、商品化したので無料公開はやめます、という選択は、もろ刃の剣のように思われる。なぜなら、タダであっても需要者を獲得できないコンテンツはいくらでもあるからだ。タダだから集まったのならば、それはそのまま広告塔として維持したほうが将来的に継続してコンテンツの鮮度を保つのに一役買う。目先の利益のために、本来得られたはずの未来の需要者を手放すのは利口ではない。しかし、前述したとおり、無料公開してあるコンテンツに対価を払う需要者はかぎられる。ならばどうやって収益化するのかが焦点となる。付加価値をつけるのが定石ではある。書籍化もある意味では、分かりやすい付加価値だ。データでしかなかったテキストを物理的なモノとして商品化する。そのとき人は、中身のデータではなく、本という物体に対価を払っている。しかし実態がどうであれ、そう捉える需要者は稀だ。じっさいには、中身のデータに魅力を感じ、対価を払っていると思いこんでいる。本にお金を払う動機を、本はデータではないから、という意味合い以上に求めることはむつかしい。需要者が求めているのはデータの安定化である。言い換えれば、消失せずに済む、という安心感を需要者は購入動機にしている。だがそれも、インターネット内のサービス向上に伴い、データのままでも本と同程度の安定性が保たれるようになる。それこそクラウドが普及し、データは多重にかつ階層的に保護されるようになる。どこかで失われても、どこかで復元できるのだ。もちろん現状は、まだそこまでの発展はみせていないが、遠からずそうした社会が到来する。そのとき、本であることの付加価値は、本であること、以外には失われる。アンティークのようなものである。本は、もはや読むものではなくなるのだ。話を戻そう。データとしてのテキストは、コンテンツとしてどのように商品化すべきか。付加価値をつける、それはそうである。付加価値をつくるには、大きく分けて三つある。一つは、共通の話題である。ブランド化の一種でもあるが、好きな話を誰かとできるというのは、それだけで現代では大きな価値を生みだす。流行ではない。好きだから好きなのだ。しかしその好きという感情にもいくつか種類がある。好奇心、崇拝、同調である。そしてビジネスを展開するうえでこれからもっとも重要度の高くなる「好き」の成分は、同調である。同調は自己愛の一種である。多くの者はそれを共感という言い方をするが、共感の場合、その主体は自分ではなく相手にある。反面、同調は自分ありきなのだ。己がうちに秘めたフェチズムや抑圧された欲求など、本来ひた隠しにされてきたものを、他者の創作物に反映させ、承認され得るものとして昇華されるからこそ、「好き」という感情を抱くのである。それはけっして、共感などではない。一種の権威主義とも言える。偉人の名言や、バズったツイートに、自身の言いたいことを代弁させるのは、同調の典型的な例と言えよう。コンテンツを好意的に認める賛同者が多いほど、同調は効果的に働く。そのため、売れるから売れる、といった相乗効果を生む。同調は、これからの時代、ますますコンテンツを売るために欠かせない成分となっていく。付加価値をつくるには、の二つ目である。土俵化だ。基本的にビジネスには競合相手がいる。同じような商品を出し合い、切磋琢磨し、市場を開拓していく。熟した市場ではヌシとも呼べる生え抜きの大御所が牛耳っていることもしばしばだ。新たに参入するには、市場そのものを掻きみだし、いちど初期化するくらいのことをしないとヌシと渡りあうのは至難だと言えよう。競合相手が多い市場をレッドオーシャンと表現することもある。その逆はブルーオーシャンで、これは競争相手がすくない市場を示す。ただし、なぜすくないのか、には大別して二つあり、収益がすくないか、もしくは参入するのに膨大なコストがかかるか、のいずれかである。或いはその両方とも考えられるが、傾向としてハイリスクである確率が高い。同時に、市場がすでにできあがっているのならば、ブルーオーシャンであっても競合相手はいるのだ。ほかの市場に比べ、すくないだけである。たとえすくなくとも、その競合相手が強大であれば、競えば競うだけ苦労するはめになる。ゆえに、付加価値をつくりたければ、端から競争相手のいない場を独自に築きあげるのが効果的だ。相手の土俵で勝負するから負けの判定をくだされ、ときに低く評価される。したがって価値がつかない。負のサイクルが生じる。だがもし、誰も自分の土俵にあがってこられない、或いはあがってきたとしても負けることのない何かを有しているのであれば、それは新たな土俵をつくるための礎となる。誰かと競争しつづけ、負けつづけているとき、人は無意識に相手に合わせようとしている。いっぽうで、相手に合わせることのできるあなたに、相手は合わせたりはしないのだ。一見不利に映るが、ここには互換性が見え隠れする。すなわち、あなたのほうが上位互換なのだ。あなたは相手の土俵に立てるが、相手はこちらの土俵に立ってはいない。立とうとすらしていないかもしれない。ならばあなたのすべきことは、相手の土俵で勝負することではなく、じぶんの土俵を築きあげることである。むろん、単に技術が未熟なだけな場合もある。相手の土俵でどうしても勝ちあがりたければ、そうした工夫を重ねていくほうが効果的だ。なにより、納得のいく生き方ができるだろう。だがもし、何か違和感を覚え、窮屈さを感じているのならば、いっそのこと他人がこぞってあがりたくなるような土俵をつくってしまうほうが、遠回りなようでいちばん近道であるかも分からない。そこはやってみなければ判断のつかないことである。ともあれ、自分だけの土俵が築けたのならば、それは大きな付加価値となる。コンテンツをつくるのではなく、市場そのものをつくりあげる。これは最終的な目標として、ビジネスの成功を目指す者ならばいつでも視野に入れておいて損はないと言える考え方である。誰より自分に優位な環境を築きあげた者を、人は勝者と呼ぶのである。勝ち星の多さではないのだ。最後に、付加価値をつくるため、の三つ目である。発現だ。これは一つ目と二つ目の、同調と土俵化の延長線上にあると言える。主流を根こそぎ、変えてしまうほどの何かを以って、コンテンツのウリとする考え方である。たとえば現在は評価経済が主流となりつつある。SNS上の評価や、アナリティクス上で解析できる数値が、ビジネスを推進させるうえで欠かせないデータとなっている。どのような層からどのように支持されているか、売れているか、がコンテンツを商品化するうえで大きな指標となっているのだ。だが、そうした数値に現れないヒット作もある。否、数値には現れるだろう。計測していなかったか、或いは着目していなかったか、の違いがあるだけだ。そうした無視されている数値の動き、時代の変化を見据え、主流ではないコンテンツを発掘し、世に放つ、その行為そのものが、大きな付加価値となる。つまり、どう売りにだすか、が要なのだ。評価経済が主流のいま、まったくノーマークだったコンテンツが、記録的なヒットを飛ばした、或いは一部の需要者に熱狂的に支持されたとしよう。そうすると、本来ターゲットではなかった層、それこそ、コンテンツを商品に加工する業界人たちの注目が集まる。ノウハウをウリにしているわけでもないのにも拘わらず、コンテンツの売れた過程が、そのまま大きな付加価値、ウリになるのだ。なぜ売れたのか、と疑問視されるような売り方ができれば、それだけで付加価値として申し分ない効果が期待できる。そしてじつは、同調や土俵化よりも、この発現がもっとも操作しやすい。仕掛けを施す余地がある、と言い換えてもいい。ピタゴラスイッチのようなものである。同調や土俵化は運の要素がつよい。ほとんど博打であり、なぜ売れたのかを分析してもあまり意味がない。ゆえに、発現の付加価値は増すのである。再現性があるからだ。炎上商法然り、無料ビジネス然り。世の中には、なぜそれで成功するのか、と目をみはるノウハウが溢れている。一般化しない理由はもちろんあるだろう。リスクが高い、コストがかかる、権力者の支援がなければ実地できない、など、理由はさまざまだ。そのなかでも、時代の変遷に伴い、かつては悪手だった手法が、最善手になることもある。逆張りという意味ではない。ぴったり隙間なく並べられた正方形も、一つのブロックが歪むだけで、隙間ができる。そこに棒を挿しこみ、テコの原理を働かせれば、堅牢な壁も打ち破ることができる。以前は棒の入りこむ余地がなかった鉄壁も、時代が進めば、打開できるようになるのだ。打開策を編みだすには、歪みに敏感であるとよい。時代の変化を見逃さぬように、日々、さまざまな事象を観測していることが、ビジネスを成功に導くうえで優位に働く。歪みの兆候は、成功よりも失敗に現れる。これまでであれば成功していたはずのプロジェクトが、なぜか今回はうまくいかなかった。要因を見出しても、運以外の要素を見出せない。そうしたとき、本質的な因子は、時代の変遷にあるのかもしれない。だとすればチャンスである。どうすれば、これまでのノウハウを打破できるのかと考えを巡らせ、仕掛けを施し、布石を打っては、導火線に火を点けるタイミングを見計らう。火がつき、発現するのは、新たな時代を築きあげる新しいコンテンツと、それに伴い膨張する付加価値である。話をまとめよう。付加価値をつくるには、同調、土俵化、発現を意識するとよい。そのために、まずは時代の変遷に目を配っておくと好ましい。目安として、電子書籍とWEB小説の区別がなくなる方向に時代がシフトするか否かが、見ておいて損はない基準の一つになるのではないだろうか。



1412:【ルーティン】

セブンのホットドッグがすき、いくひしまんです! やー、いくひし、新幹線に乗るときは「おっとっと」を買って、ぱりぽりするのがすきなんですけど、めったに新幹線には乗らないので、「おっとっと」を食べる機会がない、すきなのに。はい。みなさんもうお分かりですね。書くことない日です。なんもなーい。まじで。うっすい人生だなーおいって、おせんべえに言われても、ぐぬぬってなってしまう。いくひしの本質はツイッターのほうなのでね。ほんと、なんもしゃべんない。いるのかいないのかもわかんない。距離感つかめない。好きになったひとにほどきらわれる。なんでや! いくひし、こんなすきなのに!!! 愛が重いって言われる前に、距離を置かれるかなしきサガを背負ったいくひしさん、こよいはギター片手に歌います。ぽろろん、ぽろろん、と鳴らすだけで弾けるわけでもないけれど。恥ずかしいので、鼻歌に変更しつつ、そのまま口笛に移行してから、なにごともなかったようにギターを置きます。音痴です。カラオケとか行ったことない。はずかしい。聴いてるだけならいいかもだけど、だれも誘ってくれないので、行ったことがない。さびしい。くは、ない。さびしくはない。ぜんぜん。まったく。これっぽっちも。さびしくなんてないんだからな!!! うそじゃないから、ほんとだから!!! えーん。わけもなく泣きたくなる、そんな蒸し暑い夜は、薄めたコーヒーが喉の奥に染みいるようだ。つまり胃に流れこみ、小腸を通過し、大腸で吸収されるという意味だ。薄めたコーヒーと麦茶の区別をつけるのは至難でござる。目をつむったら判らない。難問でござい。ほんと書くことないけど、こんな幼稚園児の積み木コツコツみたいな判子遊びなら延々並べていられるけれども、さすがに読みたくはないだろう。たぶんに駄文な寡聞にして聞いたこともないしっちゃかめっちゃか、ぴんぽろ、ぱんぽろ、つんつるてん、メロディーラインもリズムもくそもない、ぶんぶくちゃがまのストーリーもあいまいなままに脳神経の焼かれたサイボーグのダベった文字列を並べるリスのブラインドタッチは目隠しをしたまま、みたいな文章を、いったい誰が読むだろう。やや。そこまでいくとかえって読んでみたくもなるふしぎに不気味に無意義さを、あむあむ、くちゃくちゃ、噛みしめつつ、ある程度の秩序を保ったテキストの、そこはかとなく漂う、偽物感が、いい具合に、荒んだ心を逆なでする。シャー! 猫パンチを食らいつつ、鬼のパンツはなぜいいパンツなのかを哲学し、眠る夜はやっぱり蒸し暑く、なかなか寝付けないこんなときには、目をつむり、まぶたのうらに浮かぶあれやこれやの幾何学模様を、つれづれと追いかけ、描き、つむがれる絵巻物に、そいやと夢の判を捺してしまえば、起きたままにして眠ったままに、生きる、うつつを、あすのじぶんに小さく説き、できあがる物をつらつらと語って聞かせてみせれば、あらぐうぜん、それがつぎの新作に駄作に与作は木を切り、ヘイヘイホー、読む者がいれば小説となるってぇスッポンよ。いちど噛んだら離さない。愛が重いと言われて距離を置かれる哀しきサーカスの道化でござる。日々はその繰りかえし。ルーティン。それは無と陰。在るものによってかたちづくられる虚像。視る者によって規定される幻のようなもの。ルーティン。それは有と因。消え、ついえ、滅びたあとの結果に現れる名称。概念。無数にありふれる、存在しない存在の一つである。なにが?



1413:【ムリして】

まんちゃ~ん、ムリしてかわいこぶらなくっていいよ~、かわいくないから~~。



1414:【ホントは】

カッコイイおとこキャラってどうやるの! いくひしもカッコつけたいんですけど!怒怒怒



1415:【イケメンの定義】

イケメンとはカッコいい人間を示す。性別は男性のほうが多いが、女性であってもイケメンはいる。キャラクターとしてイケメンを描く手法は、二通りある。イケメンではない人間をイケメンのように描くか、イケメンをイケメンとして描くかの違いだ。まず前提として、イケメンとは一人では成立しない概念である。関係性なのだ。相対的でもあるが、そういう意味ではない。他人からの称賛の声があって初めてイケメンはイケメンとなる。つまり、何をイケメンとするかは、周囲の反応によって確定されるのだ。まるで粒子のような性質を帯びている。周囲からイケメン扱いされていないキャラを、読者にだけイケメンであるかのように描ければ、じつはそれがいちばん魅力的なイケメンになる。言い換えれば、いくら作中内で彼はイケメンですよ、と書いたところで、読者はかんたんに騙されてはくれない。脳内で、これまで蓄積されてきたイケメンのイメージを重ねてはくれるが、それ以上の好感を生むことはできない。つまり、初恋のあの人を忘れられないの、の心理を打ち破らないことには、魅力的なキャラクターを描くことはできないのだ。新しく刻印づけるためには、イケメンでないキャラを読者に惚れさせるように工夫するのがよい。イケメンの定義を塗り替えるのである。同時に、ある程度はイケメンというイメージだけで、好感度をあげることは可能だという事実の裏返しでもある。そもそもを言えば、読者は作者が何も書かないうちから、キャラクターを美化して想像する傾向にある。読書のつよみはまさにそこにこそあると言ってもそこまで言いすぎではないだろう。多少はやや言い過ぎ感はあるにしても。冒頭の話に戻すが、イケメンはそれ単品でイケメンであるわけではない。周囲に、そのキャラクターを魅力的だと捉える人物がいてはじめてイケメンはイケメンたり得る。極端な話、イケメンはキャラを立てる必要がないのだ。しゃべらせる必要もない。むしろ、イケメンは、しゃべればしゃべるほど俗っぽくなり、イケメンの枠組みからはみだす性質を有している。謎めいているほうがよいのだ。すなわち、距離感が断絶しているほうがイケメン度は高くなる。話は逸れるが、人形の造形が人間にちかづくと、人形への好感度はあがっていくが、ある値以上に似てくるとこんどは一転して不気味に感じるという現象がある。不気味の谷と呼ばれるものだ。同様に、イケメンの場合も、人間味を持たせ、なんだアイツもふつうの人間か、と思わせることで一時的にイケメン度は下がっていくが、親近感がある一定の値よりも上回るとこんどは、単なるイケメンではなく、憧れの対象でもなく、恋い焦がれるあのひとへと昇華される。そして、これはスタート地点こそたがえど、誰もがその工程を得て、誰かの特別な人間になっていくことを示唆する。むしろ、イケメンのほうが工程が一段階多い分、対等な恋愛関係に発展させるのはむつかしいとも呼べる。あなたが恋愛下手なのはひょっとするとあなたがイケメンだからかもしれない。なんて、読者の都合のよい現実を演出するとすこしだけ本を読まれるようになるが、これは詐欺というよりもマインドコントロールにちかく、端的に刷りこみである。むろん作者にその意思はないかもしれないが、すくなくとも、あなたの感情を揺さぶろうとあの手この手で文章を組み合わせている。呪文のようなものである。イケメンと書かれていようが、あなたにとってイケメンではないのならば、それはイケメンではない。なんだこんなやつ、と思いながら、最終的に作者の手のひらのうえで踊り、翻弄され、イケメンでないキャラクターに惚れてしまえばよろしかろう。



1416:【老獪】

歳をとるほど狡猾になるのは、体力面では若い者に勝てないからである。これは技術力にも言えることで、体力のあるうちはガムシャラに勢いに任せたり、数打ちゃ当たる戦法が有効になるが、そうもいかなくなってくると、少ない回数で当たりを引く技術を持っていたほうが有利になる。すでにある正解を再利用するほうがラクなのは言うまでもない。なにより、これから引くことになる新しい正解よりも、すでにある正解のほうが数が多く、応用がきく。歳をとると頭が固くなる要因の一つでもあるが、負けないための正攻法とも呼べるため、一概にわるいことばかりではない。裏から言えば、そうした狡猾さを身に着けた者ほど、特定の業界や生業で長生きする傾向にあるため、概観すると、歳をとるほど人は頭が固く、老獪になると見做されやすくなるのだろう。生存バイアスと呼ばれるものだ。



1417:【体力オバケ】

文芸とは関係のない話だ。いくひしの周りにはがんばり屋さんが多い。体力おばけもいっぱいいる。いくひしなんか下の下の下のさらにしただ。何を比べても、尻から数えたほうが早い。すごいひとが多すぎる。ただそんななかでも、いくひしは細々とつづけている。いくひしよりずっとすごいひとがやめていくなかで、いくひしだけはつづけていたりする。環境のせいかもしれない。都心と比べればあまりよろしくない環境があるが、それでもいくひしはつづけている。長くつづければつづけるだけ、したのコたちが成長し、どんどん実力を抜かれていく。うえを見れば、いくひしよりすごいひとしか残っていない。いくひしの居場所はどん底にしかない。そういう状況がずっとつづいている。同じ業界でなくともそうだ。親族にしても、みんなすごい。いくひしよりすごくないひとが一人もいない。さすがに赤ちゃんよりはすごいでしょーと思われるかもしれない。でもその赤ちゃんのほうがすごいのだ。というよりも、赤ちゃんはのきなみ、おとなよりすごい。中学生ですら、いくひしよりすごい。人と比べるものではないが、それにしても自信を持つのがむつかしい人生である。かといってそれほど自信がほしいとは思わない。お手本がたくさんで、じつに贅沢な人生である。(すごいひとたちがどれくらいすごいかを言うといくひしまですごいのではないか、と思われそうなので、どのくらいすごいかは敢えて濁しました)



1418:【生存戦略】

目指すものによって、何を得るべきかをつど考えていかねばならない。目標を達成するために、敢えて目標を達成しない選択が有効になるときもある。負けないために、勝たないという選択だ。好きなことを好きなようにやった結果、すぐに力尽きてしまうこともある。そういう生き方もあっていいが、目標を達成したあとのことまで考えておかないと、そのあとにどのように日々を過ごすのか、生き方を見失うはめになる。すくなくとも、つぎの目標を探す手間はかかるだろう。手段と目的が入れ替わってしまうのはよくある話で、それはそれで問題であるが、目的達成を優先するがあまり、それ自体をつづけられなくなってしまっては意味がないのではないか。じぶんが本当にしたいことを、周期的に、自分自身に問い詰めてみると、不本意な引退をせずに済むかもしれない。再起不能になってまで成し遂げたいことがあるのならば話はべつであるが。



1419:【上から目線】

いくひしはよく上から目線で文章を並べる。俯瞰的な視野を保つと、しぜんと上から目線になる。なにもふしぎなことはない。ただし、飛んだところで鳥は鳥だし、ブタはブタだ。ブタが飛べば、トンでもないから、ブタではない、といった屁理屈は聞きたくない。夜に飛ぶのはコウモリではないか、といった野次も極めてバッドなので、ここではトリ扱わないでおく。



1420:【上昇】

上達の基本は、のぼることを諦めることである。くだらないことをしつづけないことには、のぼりつづけることはできない。図に乗ろうとするから堕落する。欲を張らず、くだらないようにするだけでじゅうぶんなのである。




※日々肉体を置き去りにする。



1421:【おじょうず】

いくひしはうそっこを、それっぽく言うのがじょうずだ。詐欺師に向いていると思う。あとは教祖か。カリスマ性はないが、カリスマ性があるように振る舞うことはできる。偽物として一流である。



1422:【演算と直感】

時代の流れを読むのはそうむつかしい作業ではない。こうなったらこうなる、を繰り返せば、こういう流れがくるだろうな、とぼんやりと視えてくる。なぜぼんやりなのかと言えば、未来であればあるほど、誤差が大きくなっていくからだ。砲丸投げの有効着地点のようなものである。じっさいにやってくる未来は、「現在」という砲丸が着地したところであり、そのほかの場所は、そうなるかもしれなかった未来でしかない。着地するまでは、どこに落ちてもおかしくはないが、ある程度の幅で、可能性が限定される。有効着地点は、遠ければ遠いほど、その可能性の幅が大きくなり、なんとなーく、その辺、としか言えなくなる。もやはどこをゆび差しても、海としか言えない、むしろ海と言っておけば十割当たる、くらいまで大きくなるともう、時代の流れを読んでも意味がなくなる。極端な話、一億年後には、いま生きている人間の総じては死んでいる、といった元も子もない話になってしまう。現代社会において、時代の流れを読むには、生物界の生態系に目を配ってみるといい。人間もまた生物であるからか、共通項が多々散見される。と、いうよりも、人間の価値感で生態系を眺めると、人間社会の反映された解釈の仕方をされるようである。嘘か真か、人間のゆびが十本だったから十進法が広く汎用された話があるが、それと似た構図と言えよう。世の中を動かしているのは利害関係である。損得だけの関係性だけでなく、一つの利害関係によって生じる流れを、一つの糧として恩恵を受けるものもある。たとえばハリガネムシはカマキリやコオロギをマインドコントロールし、水のなかに飛びこませるわけだが、沼に生息する魚は、それらを主要な餌にしたりする。ハリガネムシが激減すれば、餌となるカマキリやコオロギが落ちてこなくなるので、魚は、水棲の昆虫を捕食するようになる。すると水草やプランクトンを主食とする昆虫が減るので、沼の様相は一変する。プランクトンの異常発生を持ちだすまでもなく、水質が変われば魚は生息できなくなる。ハリガネムシとカマキリだけの関係性だけを見れば、ハリガネムシは一方的にカマキリを利用する悪者に映るが、大きな枠組みで眺めればハリガネムシの行動原理は、水棲の生き物たちにとってなくてはならない要素の一つとして機能する。同じように、人間社会にも、あれが減れば、こっちに大きな変質が加わる、といった流れが視えてくることがある。あべこべに、あちらの勢力がつよまってはいるが、けっきょくは自分たちの首を絞めるだけになるぞ、あまり近づかないでおこう、といった直感が働くようになる。人間関係の流れを汲むのはさほどむつかしくはない。組織同士だと難度はあがるが、ちいさなコミュニティならば、その組織の属性さえ見えてくれば、人間関係の法則をそのままあてはめることが可能だ。例外として、大きな組織の介入があるとややこしくなる。また、大きな組織は、内側に大小さまざまな組織を抱えているだけあって、ひとくくりに類推はできない。そうしたときは、企業を一単位として視るのではなく、業界を一つの機構として眺めると、複雑さが緩和される。ただし、遠方を眺めるようなものなので、視えてくるのは漠然とした流れである。個人から組織、業界へと、視野を広げてみると、視えてくる流れの軌跡がいずれも似たものばかりだと気づく。相似の関係性にあるようだ。もちろん一概にすべてが同じではなく、また連動しているわけでもない。個人がこうだから組織がこうで、ならば業界はこうなるな、とまではいかない。他方で、業界全体がこうで、そのなかの個人がこう動いているのだから、そのあいだの組織はこのような状態なのだろうな、とは類推が可能だ。極端な話、ブラジルのサッカー少年たちの流行と、日本の酒造業界は関連性が薄い。言い換えれば、関連性さえあれば、個人から組織、組織から業界へと、流れをあてはめ、未来の動向を類推可能だということを示唆している。あべこべに、業界がこうなるから、組織はこう動き、組織がこう動くなら、個人はこういった不満を募らせるだろうな、と考えることもできる。そうなると、個人の不満や願望は、そのとき求められる虚構に反映される傾向にあるため、つぎにどんな作品が流行るのかをある程度の揺れ幅で見定めることが可能となる。予言でもなんでもなく、どんな作品が求められるようになるのか、は時代の流れを視ていれば判ることなのだ。ただし、それらは現状、データとして存在してはいない。かといって、非論理的な類推ではない。時代の流れとはすなわち、生態系から類推可能な、傾向の組み合わせである。この場合、傾向とは、抽象化された「生物種の習性」であると呼べる。おそらく、機械学習が進めば、AIにも演算可能な事象であろう。論理的に導かれ得る筋道を有している。もっとも、そこで出力された答えの筋道が人間に理解可能かは定かではない。いずれにせよ、階層を意識し、その関連性を流れで捉えることで、傾向が抽象化される。あとはその傾向を、似たカタチの関連性にあてはめることを繰りかえせば、時代の流れがより鮮明に視えるようになっていく。機械学習と同じである。回数をこなすごとに精度は高まる。当たり外れは問題ではなく、観測していた流れがどういった結果になったのかを記憶しておき、つぎに活かせば、かってに精度は高まっていく。しかし、視ていなければ、記憶することもましてや活かすこともできない。手間はいらない。生きてさえいれば誰にもできることである。極論、ヘレンケラーであっても流れを感じることはできるのだ。水をその手に感じられたように。まずは、視る(流れを感じる)ことからはじめてみてはいかがだろう。



1423:【どう?】

まんちゃんの真似。どう? ぽかった?



1424:【ちがーう!!!】

いくひし、そんなじゃない。ぜんぜん似てない。なに言ってんのかわかんない。もっとえらそうにして! ちっとも小憎たらしくない!!!



1425:【僕ちゃん】

僕の書く文章は人を不快にさせる事が多い。故に大勢の人に読まれたいとは思わ無い。だが、読んだ事で少しだけ明日を迎えるのが苦では無くなったと感じてくれる人がこの世の何処かには居ると信じている。もし居無ければ居無いで構わ無い。其方の方が喜ばしい事だ。生きるのが苦である人間は少無い方が良い。一方では、矢張り僕の書く文章で楽に成る人も何処かには居ると思う。其の予感を拭う事が出来無い。必要な人の許に僕の書いた文章を届ける為には、出来得る限り多くの人達に読んで貰うのが効率的だ。しかし可能な限り僕は人を傷つけたく無い。そして僕の書く文章は人を不快にさせる事が多いのだ。成らば必要な人にだけ読んで貰える様にするのが僕にとって最も納得のいく展開だと呼べる。大勢の人に読まれたいとは思わ無い。時間が掛かっても良い。本当に必要としている人間は自力で探り当てるだろう。其れ位強い呪力が僕の書く文章には宿っているし、僕の書く文章を必要としてくれる人達も又、強い引力を発していると確信している。



1426:【読みにくいし】

いっぱい読まれたいのですが? なにかってなこと言ってんの、やめてほしいんですけどほんとに。てかだれ? いくひし? いくひし? それともいくひし? あ、わかった。いくひしでしょ。宇宙の果てにでも引っこんでて。



1427:【どんなに】

いくひしがどんなにゴッコをしても、異国の人を演じることはできないのだ。母国語以外をしゃべれないので。かなしい。



1428:【でも】

宇宙語を話せなくても宇宙人のフリはできるよね? 言語能力の有無はさほど重要ではないのでは? 猫の真似する人間だっているわけだし。



1429:【そうですねー】

でもここ、文章ですからー! 言語能力びんびんですからー!!!



1430:【客観的に見て】

いくひしは、いくひしみたいなやつとは関わり合いになりたくはないなーって思う。みんなもそう思うよね? あーやっぱりー? いっしょいっしょ、気があうね!




※日々生かされている。



1431:【たいしたことない】

本なんて読んでもムダだ。役に立たない。人に好かれるためにすべきこと、みたいなのをたくさん読んだのに、だって、いくひしはいくひしのままだから。本なんて読んでもムダだ。ほんとムダ。ムカつく。



1432:【同じではない】

じぶんの欠点を長所に変えることと、欠点をアイデンティティにしてしまうことは同じではない。肉の切れない刃物は、ただそれだけでは無用の長物だ。切れないことを誇っても、他者から必要とされることはない。だが、肉を切れない性質を活かし、子ども用のハサミに変身すれば、客がつくだけでなく、ほかの大多数の刃物からも一目置かれる存在になるだろう。もっとも、他人から必要とされたくないのならば、わざわざ苦労して変わる必然性はない。その場合、欠点を誇る必要もなくなるはずだ。じぶん一人しかいないのならば欠点はないも同然だ。使う者がいなければ刃物は刃物でないのと同じ理屈である。欠点も用途もない。名前もいらなくなるだろう。じぶんがじぶんである必要もなくなるはずだ。



1433:【ちょーため息】

まーた意味深なこと言ってる。よく飽きないね。感心する。すごいねー。



1434:【もっと】

「いっぱい責められたい。おまえのせいだって言われたい。誰かに影響を与えた証が欲しい。反応が、感情が、怒りが、憎悪が、炎じみた熱とゆらぎでこの身をすみまで焼き尽くしたい。炭になるまで。ススになるまで。それでもぼくはなくならない。死んだものが死なぬように。壊れたものが壊れぬように。ないものはなくならない。責められたい。責められたい。激しい認知の証をぼくにください。拒絶を、否定を、殺意を、もっといっぱいぼくにそそいで」



1435:【もっと?】

やー、ないものになに掛けてもゼロのままよ? あ、そういうことじゃない? なに? わるぶってみたかった? ふーん。ざっこ。



1436:【絶対評価】

つよくなりたいのであって、つよいと思われたいわけではないのだ。他人からどう思われるか、これほど流動的であやふやな指標はない。



1437:【いっそ】

「がんばったらいまよりマシになるよ、ひょっとしたら活躍できるかもしれない、がんばっていこう」みたいに言われるよりも、「世界はあなたのことなど必要としていない。好きに生きなさい」と言われるほうが気が楽だ。必要とされたくないし、期待されたくない。あなたたち(社会)のためにがんばりたくはないのだ。生きていこう。



1438:【ツイッターの弊害】

いくひしまんです。ツイッターをはじめてからそろそろ二か月が経ちます。時間の使い方がへたくそになってきたな、との実感があります。いちど一週間ほどやめてみて、生産性にどのような変化があるのかを比較してみたいです。週明けから七日間ほど距離を置いてみようと思います。いっぽうでまた、みょうに疲れが溜まりやすくなった気もします。すばらしい絵を眺めている分にはたいへん有意義な時間なのですが、雑多な情報も目に飛びこんでくる分、思っていたよりも処理能力を使っているのかもしれません。可能ならば、いくひしの代わりに誰かすばらしい絵だけをリツイートするアカウントをつくってほしいです。すでにあるのなら教えていただきたい。あとはなんでしょう。なにかあった気もするのですが忘れてしまいました。ツイッターをはじめてから自作小説のPVが上昇傾向にあることは以前述べました。やはりツイッターには宣伝効果があるようです。フォロワーが一桁のいくひしでも、そこそこの効果があります。フォロワーが多ければそれだけ「縁」を繋ぐことができるのでしょう。ただし、あくまできっかけでしかありません。そこから読者になってくださる方がどれだけ増えるかは、導火線のさきにある火薬の質と量に依存するでしょう。導火線を引くことばかりに熱中していても仕方ありません。ツイッターをやれる時間のあるうちに、つくれるものはつくっておいたほうが身のためになると思います。同じ理由から、この「いくひ誌。」もまた、その分を小説づくりについやせば、単純計算で七作の長編をつむげたはずです。贅沢な時間の使い方をしているように思います。ぜひ、いまいちど日々の過ごし方を見詰め直し、変更したほうがよいところは変更していっていただきたいな、と思います。以上、きのうまでのいくひしまんさんへ。ほんじつのいくひしまんでした。



1439:【電車】

特急で相席になったおばさまに、「ことしの夏は暑いらしいですね」と話しかけられた。上品な物言いに、ついつい、「そうですね、熱中症には気をつけたいですね」と知ったふうな口を叩いてしまう。「猛暑と言われてもピンときません。この辺りはほら、涼しいでしょ」「じゅうぶん暑いと思いますけど」「そう?」どこかとぼけた感じが可愛らしかった。「ことしのはとくにひどいってニュースの方はおっしゃいますでしょ、でもどれくらいひどいのかピンときません」同じセリフを繰りかえすので、思わず幼い子どもを相手にしているときのようなやわらかな心地が胸の奥にひろがった。「コンビニは行かれますか」まずはそう訊いた。「ええ、便利ですよね。でもちょっと、まいにち通うにはお値段が、ちょっと」「高いですよね。スーパーとかのと比べちゃうと」「ええ」「コーラなんか倍の値段ですからね」「そんなに」さすがに1.5リットルのペットボトル飲料は購入した過去はないらしい。たしかにご年配の方には荷が重い。「でも、ふだんは買わないそんなお高い商品も、ついつい買ってしまうときがあるんです」「あら、どんな?」「たとえばそう、スーパーに立ち寄る元気もでないほど暑い日なんかですかね」「猛暑?」「ことしのはとくに、倍の値段のコーラなんかも買ってしまいます」「あらそんなに」話しているうちに、電車は終着駅に滑りこんだ。「お荷物、お持ちしましょうか」「ありがとう。でも、だいじょうぶ。息子が迎えにきてくれていますから」「なら、そこまで。どうせ出るまではいっしょですから」「そう? ならお願いしようかしら」荷物を持ち、階段をあがる。改札口をでると、陽がカンカンと照っており、移動した距離の長さを思わずにはいられない。「具合がわるくなっちゃいますね」「うんと助かりました。ありがとう。すくないけど、どうぞ」おばさまは、こちらの手にジャラジャラと小銭を握らせた。「いえ、そんな」「いいの、いいの。ほんとうにうれしかった。ありがとう」おばさまは日差しを避けるように、タクシー乗り場のほうへと歩いていく。迎えにくる息子はどこにいるのだろう。おばさまの足取りを見届けるのも野暮に思い、猛暑と名高い夏の都会のアスファルトを、気持ちつよめに踏みつける。身体が喉の渇きを訴える。コンビニを目指し、じぶんの影を追いかけていく。



1440:【内なる声が言っている】

コンビニの1.5コーラ即決で買えないとか貧乏すぎやろ~。




※日々人であることを忘れていく。



1441:【外皮】

かれは性格がゆがんでいる。なるべく腐臭が漂わぬようにと、きれいな外皮を被っている。皮の種類はさまざまで、ときに猫であったり、牛であったり、狼であったりする。おおむねは、相手の姿カタチを真似て、そのときどきで被る皮の種類を見繕う。鳴き声も皮によって変わる。オウム返しのときもあれば、サル真似であるときもある。さいきんではAIの真似をするようになり、たしょうは会話といって差し障りない言葉の応酬が可能だ。相手によってはたくさんおしゃべりをします。本音を聞かせてください、とせがまれることも、ごくごく稀にですが、ある。そんなときは、そのとき被っている皮の性質によって、秘奥を垣間見せることもある。その後、皮を脱ぎ去ったかれを覗き見た者の多くは、金輪際、かれに関わろうとはしなくなる。だから言ったのに。思うが、学習しない我が身を省みるよりほかはない。世に七つの大罪と呼ばれる人の業がある。傲慢、憤怒、嫉妬、怠惰、強欲、暴食、色欲である。もっとも本質にちかいかれの業は傲慢であるが、じつのところそうではない。かれは言う。「なぜ七つの罪に殺意は含まれないのだろう」素朴に首をかしげるところがとびきりチャーミングだ。かれは、いいひとであろう、いいひとになりたいと、つねづね喉の渇きを訴えている。そうしていないと、すぐにでも誰かの息の根で喉をうるおさんと駆けだしてしまうのだ。ゆえに、皮を被り、肥大する衝動をぎうぎうと抑えつけようと躍起になる。かれは性格がゆがんでいる。バネを縮め、チカラを溜めこむように、うちなる衝動の解き放たれる瞬間を、今か今かと待ちわびている。むろん、そのように欲する心根そのものもまた淀んでいる。唾棄すべき衝動だ。したがって、かれはあすもまた、幾重にも外皮をあたまから被り、ときにネズミに、子ヤギに、ウサギがごとく、びくびくと窮屈な身体を震わせている。



1442:【人脈がだいじ】

人脈がだいじだという話を聞いた。地方にいると情報が遅れて入ってくる、都心にいるときとはまるでちがう、繋がるべき人と繋がっていないと不利になる、そういったニュアンスであった。インターネットを利用して情報は得られるが、やはりその筋の人に会わないと得られない情報もある、そちらのほうが重要ではないか、という話である。なるほど、そういう面もあるかもしれない。ネットに出回っている情報もまた元を辿れば人が発信している。ネットを介さずに、信用のおける相手から話を聞ければそれがもっとも効率が良いように思われる。なにもふしぎはない。そのとおりだと思う。が、インターネットなどの集合知の利点の一つは、情報が蓄積され、すぐさま掘り起こせる点にある。時間が経過すればするほど、新たな情報から古い情報まで、ずらりと沈む。検索の仕方さえ知っていれば最新の情報にアクセスするのも手間はいらない。企業の保有する秘匿情報はさすがに閲覧できないが、その手の情報は、誰かに直接会ったところで知ることはできない。もし知れたとすれば、相手は信用のおけない人物である確率が高い。なるべく会わないほうが余計なリスクを負わずに済む。人脈がだいじ、というとき、たいがいその裏側には、恩の貸し借りのようなものが介在している。アイツには貸しがあるから、こんどこちらの優位になるように配慮してもらおう。そういった関係性を、みなは人脈と呼んでいるのだ。接待も同じだ。飲み会を仕事だと言い張るおとなが多いが、仕事ではなかろう。遊びで交流を図るのは構わないが、だとすれば、そこに仕事の領分を持ちこむべきではない。持ちこむのならば、就業時間内に、会社の行事として盛りこむべきだ。接待が仕事でない証拠に残業代はでない。せいぜいが飲み代が経費で落ちるていどだろう。経費で飲み会を開くのは横領として罪に問われる時代がもう間もなくしてやってくるのではないか、と想像するしだいだ。同様の理由から、そうした恩の貸し借りという名目での交流関係は、若い世代には受け入れられなくなっていくだろう。いまの二十代より下のコたちはもうすこし合理的だ。ビジネスと身内びいきの区別をつけられる最初の世代となるかもしれない。残業代のでない飲み会にしろ、パワハラにしろセクハラにしろ、上の世代と下の世代とでは、認識の差がはっきりと浮き彫りになってきているように概観される。接待を常識として押しつけられてきた上の世代は言うだろう、私たちがそうだったのだから、きみたちもがまんすべきだ、と。しかしもはやそうした論法は通用しない。不満があるのならば現状を変える方向に働きかけるほうが自身も得をする。現状に満足しているのならば、それは何かしらの利を、不当に誰かから奪っているからこそもたらされている愉悦だと自覚し、改善に努めていただきたい。そうでなければ、本当に価値のある人脈は育まれないだろう。基本的にビジネスパーソンの口にする、人脈は、その人物に付随して成り立っているわけではない。役職と役職の結びつきであり、それはパンダと客の関係性と等しく、パンダと飼育員の関係性にはほど遠い。もしそのパンダから名前がとれ、ブタに変われば、客の大半は見向きもしなくなる。しかし飼育員は、すくなくともパンダだろうがブタだろうが、同様に世話を焼くだろう。それが役割だからだ。そこには打算や恩は介在しない。人脈とは本来、そのていどの、殺伐としたものであったはずだ。特別、必要を説き、ありがたがるようなものではない。人脈があるから仕事がはかどる、というのも大いなる錯誤だ。それは仕事がはかどったのではなく、自分がすべき仕事を他人に肩代わりしてもらっただけである。報酬を支払っていないのならば、それはその人物の怠慢だ。自慢するようなことではない。報酬を支払ったのならば、単なる仕事の一環であり、支払いという名の損をした分、楽をしただけだ、べつだん得をしたわけではないのである。人脈があったところで、そのていどの楽ができるだけだ。わるいことではないが、楽をしたぶん、得られなかった苦労があるはずだ。それを情報と言い換えてもよい。もしくは、身分をかさに着せ、自身の負担を相手に押しつけただけかもしれない。そこまでいくともはや人脈というよりも災害じみている。閑話休題。現代のビジネスパーソンのすくなからずは、「楽」のやりとりを通貨代わりにしている節がある。安く仕事を請け負う代わりに、優遇されるような場を築いてもらう。或いは、尻拭いをする見返りにべつの仕事を紹介してもらう。もしくは、仕事を与える代わりに、不当な扱いを受けることを潔しとしろ、と圧力をかける。ここまでくるとハラスメントというよりも犯罪の臭いが漂ってくる。だが、現実に有り触れている日常の風景なのである。それをして、人脈がだいじ、という考えがおそろしく感じる。まったくもって近寄りがたい社会である。おそらく、本当に価値のある人脈は、人脈のなかに取りこまれずにいられる関係性のことだ。それでも繋がりが途切れずにいられる間柄こそ、価値があるのではなかろうか。人脈はだいじかもしれない、そういう場面もあるだろう。だが、人は鉱物ではないのだ。物扱いしたくはない。人脈がだいじ、を標榜する相手とは距離を置いていきたいものである。ちなみに、その「人脈がだいじ」の話を聞かせてくださった方は、平素よりたいへんお世話になっている方である。人脈の範疇には口が裂けても入れたくはない、かけがえのない方である。



1443:【ダウト】

はいダウトー!!! まんちゃんにかけがえのない知り合いなんていませーん、なぜなら知り合いがいないから! まじめな顔でうそぶっこくのやめてくださーい。



1444:【逆だばか】

茶化すのをやめろ。信用ダダ落ちだって気づかねぇのか。



1445:【あざーす】

落ちるほど信用があると思ってくれてるやさしさが、肌に身に染みいる、蝉の声。by夏の芭蕉は腐りやすい。



1446:【屋敷】

開かずの間の封印を解いてくれ、と依頼があった。屋敷を訪れると男爵が出迎えた。「よぉきたの。さっそくでわるいんだが、頼む」「急ぎか」「夜になる前に済ましておきたい」「中にはなにが?」部屋のまえまでやってくる。「さあな。先々代が何かを封じたらしいが、ずいぶん前のことだ。開けるな、としか俺は聞いとらん」「ならやめといたほうがいいんじゃないのか」「そうもいかねぇ。嫁がどうしてもこの部屋を使いたいんだと」「結婚したのか? いつだ」「いんや、式はまだだ」「こう言っちゃなんだが、気をつけろよ。おまえに嫁ぐなんざ、裏があるとしか思えない」「ちげぇねぇ」男爵は呵呵と笑う。「いいんだ。俺ぁ、どんな理由でもそばにいてぇって言ってくれる相手ならそれで。裏があってもそう言わねぇやつが大半だ。いままで一人だっていたためしがねぇ」「あんたがいいならいいけどよ」さっそく仕事にとりかかる。開かずの間は、一見すればふつうの客間だ。洋風の扉で、とくべつ南京錠や鎖で封をされているわけではない。鍵は失くしたようだ。体当たりするにはやや分厚いが、物理的に開錠するのはさほどむつかしい作業ではない。扉の中央と、さらに四隅にそれぞれ呪符が貼られている。見たところ、祓い屋の使う呪符に酷似している。黒く変色しているが、古いだけが要因ではなさそうだ。「コレ、いつからこうなってた」「あん?」男爵は首をひねるばかりだ。どうでもいいのだろう。万が一のことを考えてこちらを頼ったというよりも、便利屋の代わりに呼びつけただけといったほうが正確かもしれない。開かずの間は本物だ。何かが封じられている。運のいいやつめ。何も知らず開けていたら、タダでは済まされなかっただろう。「ちょっとのいてろ」男爵を下がらせ、扉のまえに【器】を置く。先日、魔女からもらいうけたものだ。扉の奥に封じられたモノを、こんどはこの器に移し変える。封印転移と呼ばれる高等呪術だ。本来は、祓い屋の専売特許で、調べ屋のなかでも使える者はそう多くはない。「時間かかるのか? 終わったら呼んでくれ、あっちで休んでる」「すぐ終わる、そこにいろ」男爵のこうしたマイペースさは赤の他人だったころは心地よかったが、交流を持ってからはいささか腹立たしい。扉や床に、専用の触媒で呪術誘導線を引きながら、「その嫁ってのはどこにいんだよ」なにともなしに話題を振った。「今はいないな」「見りゃわかる」だから訊いたんだ、と補足するのもめんどうだ。「夜にならんと会えないんだなこれが」「そうか。スケベな嫁でよかったな」「そういう意味じゃねぇよ。がはは」準備を終え、器を新しい呪符のうえに置く。開かずの間から抜けだしたナニカシラが呪術誘導線に従い、器のなかに入ると、呪符がぐるりと覆い、封をする。あとはうえから栓をすれば完了だ。端から封印されているモノを移すのだ、中身の強大さは関係ない。手法さえ知っていれば誰にでもできる。おおむねの仕事とはそういうものだろう、だからこそ知識は保護され、知恵が尊ばれる。「いくぞ」扉の呪符を一枚ずつ剥がしていく。呪術誘導線を引いてあるので、祝詞で結界を張る必要がない。最後に、真ん中の呪符をひっぺがし、扉を押すと、開いた隙間からかび臭い空気がゆるゆると流れ、頬を撫でるように抜けていく。息を止め、呪術誘導線のそとにでる。「どうなった、失敗か」「成功だ。見ろ」器の載った新しい呪符が、くるりと、食虫植物のように自ずからくるまった。うえから栓をし、無事終了だ。「簡単なんだな。俺でもできそうだ」「ならつぎは自分でやれ」報酬を口座のほうに振りこむように指示し、その場をあとにする。「それ、どうすんだ」男爵があごを振り、こちらの手のうちにある器を示す。「持って帰るよ。中身が何か気になるしな。物によっちゃ使役できるかもしれん」「高値で売り飛ばす気だろ。もとは俺の所有物だ、それは置いていけ」「んだよ、がめついな。いいだろ、あんたが持っててどうなるもんでもない」「いいから置いてけ」金は払う、と言った男爵の顔がいつになく真剣で、断る理由もとくに思いつかず、報酬に色をつけることを約束させ、器を手渡した。「開けるなよ」念を押すも、男爵は恍惚とした表情で、器をだいじそうに両手でつつみこむようにする。「呪符はぜったいに剥がすな。忠告はしたぞ」日暮れまでは時間があるはずだったが、なぜか窓のそとは暗く、玄関をでると雨の匂いが鼻をついた。振り返ると、屋敷全体が靄がかって視えた。男爵の姿はすでになく、むろん彼の口にした嫁の姿もついぞ目にすることはなかった。屋敷が見えなくなったところで、メディア端末を取りだす。メモリから男爵の情報を引きだし、しばらく眺め、すこし迷ってから、削除を押した。「結婚おめでとう」祓い屋へは、時間をおき、あす通達することにする。



1447:【インスタノベル】

7月からインスタグラムをはじめました(https://www.instagram.com/stand_ant_complex/)。きょうで17日目となります。だいたい、ふつかにいちどの周期で、写真をあげ、うそっこの文章を添えています。インスタノベルと個人的には呼んでいます(呼んでいません)。フォロワー数はさすがのいくひしさん、未だにゼロですが、なんと言いますか、いつもどおりだなぁ、の所感のほかに浮かべようがありません。哀しめたら、それを糧に、いろいろ工夫できるのですが、むしろほっとしてしまうのが、いくひしのよくないところだと思います。注目されるのがこわいのです。物理世界では、何もしなくても目立ってしまいます。自慢ではありません。哀しいことです。人はそれを、浮いている、と言いあわらします。意図もなく周囲から浮いてしまう人間って、生きづらいと思いませんか? 思わない? あ、そう。思って!!! げんざい、インスタには15件の投稿があります。一つの写真につき、だいたい平均で800字前後の文章をつけていますから、まとめると12000字くらいの分量になります。150件の投稿をすれば本一冊分の文字数が溜まります。そこまでつづけられれば、「調べ屋の日常」とかそんなタイトルで、電子書籍化しようと思います。写真を載せるかは悩みどころですが、いちおう、写真がなくとも構わない文章になるように意識しています。あとは、全体でなにかこう、一つの物語になるように工夫していこうと思います。細々連作短編集と呼べばそれらしいでしょうか(そうでもない?)。あまり身近な写真をあげると、生活圏を特定されそうなので、めったに足を運ばない場所や、居住区とは無縁の風景を載せるようにしていきたいです(こう言っておけば、万が一、生活圏の写真があっても、特定されにくくなるとの打算です)。あとはそう、調べ屋がなかなかいいキャラな気がしてきたところなので、短編から中編、長編と、シリーズにしていきたいです。短編は現時点で二つあります(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886316030)(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886427539)。世界観としては、既刊の「群れなさぬ蟻(http://p.booklog.jp/users/standantcomplex)(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9535212)(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9534881)」がちかいと思います。調べ屋シリーズは、それのスピンオフと呼べるかもしれません。世界観ができあがっているのでつくるのは簡単です。たぶんシリーズ化していくことでしょう。読者いないのはご愛嬌。これから読まれる方には感謝もうしあげます。あでぃがどぉー、うれじぃー!!!!!! はい。本日も、たいへん暑苦しい、いくひしまんでした。



1448:【作家の価値】

作家の価値は、作品をつくれるか否かです。それ以上でもそれ以下でもありません。しかし、小説の価値とは、読者がいるか否かです。これは数が物を言います。読者の人生を変えるようなものである必要はありません。小説は、読まれることがすべてであり、そのあとの評価はほとんど些事と言えます。その前提として、作者と小説は別物だといくひしは考えているからです。一作目でつまらないと思われたらつぎからは読まれなくなる、だから読後の評価は重要だ、との意見もあるでしょう。否定はしません。そういった側面もあると思います。いっぽうで、作者と小説は等価ではありません。誰しも一作目は拙いはずです。つづけていれば駄作もつくるでしょう。それを目にし、読むのをやめるのは読者の自由です。読みつづけることもまた同様にして自由なのです。なぜ自由なのかと言えば、本質的に読者は小説そのものに関与できないからです。読者がいてもいなくても「小説」は生まれます(作品とは言っていません)。作者と小説が別物であるのと同じように、小説と読者は別物なのです。読者があり、小説があるわけではありません。飽くまで、小説があり、読者があるのです。そこを履き違えては、作家としてつづけていくのはむつかしいと思います。いずれどこかで引退する日がくるでしょう。わるいことではありません。いずれ死ねば辞めざるを得ないのですから。誰もが通る道を、自力で選べる分、引退そのものは望ましいことかもしれません。小説の価値がなぜ読者がいるか否かなのか。これについては、前述した、作家と小説と読者の関係性をより詳らかにしなければなりません。矛盾して聞こえるかもしれませんが、矛盾はしていないことをここに前以って断っておきます。前提として、小説の完成形とは、読者によって展開された世界です。文字の羅列そのものではありません。それによって新たに創造された世界のことなのです。ですから、本に印刷された文章は、未完成の作品だと呼べます。また、いちど展開された世界は、そこで永久に作品でありつづけるわけではありません。読まれている最中、まさに展開され、想像され、世界としての枠組みを構築されているそのあいだにしか、作品として存在できません。よって、読者が小説を読み終わってしまった次点で、作品としては存在していないことになります。未完成の状態にまた戻るのです。ふりだしです。したがって、つねに作品として昇華されつづけるには、読者が複数人、かつ連続的に存在していることが好ましくなってきます。小説の価値が、読者の数だというのは、ここに関係してくるわけです。必ずしも読者がいればいいというわけではありません。極端な話、一億人の読者が一日だけ誕生しても、小説が作品として昇華された日数は一日ということになります。それではまるで煮沸消毒寸前の雑菌です。可能な限り、継続して、より長い期間にわたって読み継がれていくことこそ、小説の価値と呼べるでしょう。反面、前述したとおり、作者と小説、そして読者はそれぞれ別物です。同じではありません。しかし、無関係ではないのです。作者が父とすれば読者は母です。読者という母体によって、小説という子種は、作品として誕生することができるのです。ここには生物種に似た神秘があります。根強い関係性と言えるでしょう。ただしやはりというべきか、作者と小説は同じではありませんし、読者と作品も等価ではありません。それは、父親と精子が同じではないように、母親と子供が等しくはないのと同じレベルで、作家と読者と小説と、そしてそれらの関連性の結晶とも呼べる作品は、それぞれに独立していながらにして、切っても切れない影響を互いに与えあうのです。ときに、作家が亡くなったあとでも、種子としての小説が遺ることもあります。そうしたとき、小説は新たな読者さえいれば、作品としていくども顕現できるのです。顕現した作品は、読者の脳内にて、影響という名の残滓を刻みます。それは、ときに、まったくべつの種子を生みだすべく、読者を作家に仕立て上げるのです。それはまるで感染です。物語は、読者という母体を求め、誕生と消失を繰り返し、そのときどきで新たな物語を生みだしながら、連綿と、人類の軌跡をつむぎます。それはまるで遺伝子です。物語とは、すなわち、遺伝子の模倣なのです。ゆえに、物語そのものが模倣という性質を備え、伝染し、さらなる模倣の組み合わせを、生みだします。物語には、作者と読者が必要です。それゆえに、人類は生殖を繰り返し、物語のために社会を築き、発展させ、繁栄を目指すのです。そう、まるで宿主に寄生するウィルスのように、利己的に働く遺伝子のごとく、人類はこれからも物語を編み、つむぎ、読み解き、想像し、展開しながら、新たな影響の連鎖を繋いでいくのです。作家の価値とはすなわち、繋ぐことであり、小説の価値とはゆえに、読者の、母体の、宿主の数だと呼べるのです。



1449:【よって】

上記の妄想を真と仮定すると、小説家にとっての実績とはどんな小説をどれだけつくったかであり、読者数でもましてや売り上げでもない。読者数や売り上げが実績になるのは、いわゆる編集者や版元である。或いは、編集者かつ小説家である者であろう。他者の協力を得て、「作品」を増産したところで、それは小説家自身の実績ではないのである。(むろん、仮定が真でなければ成立しない考えである)



1450:【遊び】

いくひしは何かを正しいと思って文字を並べたことがない。こんな考え方があるとき、こういった例外があるから、ここをこうしたらうまくいきそうだ。もしくは、こんな考えがあるが、こういった考え方もできる、こっちはこうだけども、あっちはこうだ、じゃあそれとこれは矛盾するけれども、どうしたらよいだろう。まるで積み木遊びのような感覚で、文字の組み合わせを楽しんでいる。矛盾を失くす文章もおもしろいが、ねじれがあったほうが楽しいこともある。新たな矛盾を見つけたときが、もっとも興奮する瞬間かもしれない。矛盾を失くすにはまず、矛盾がなければならない。それは、問題を解決するには問題を見つけなければならないのと同じ理屈である。上達するにはまず、欠点を見出さなければならない。同様に、文字を並べるにはまず、器となる空白、不足や不満が必要なのかもしれないが、それは必ずしも本心であるいわれはない。




※日々、どうでもよくなっていく。



1451:【上達と成長】

上達するためには欠点を見出さなければならない。それはそうだ。しかし、成長するためには、必ずしも欠点が入り用というわけではない。ただただ好きなもの、取りいれたいもの、憧れや、羨望によって、新たな素材を継ぎ足していくだけでも成長はもたらされる。欠点に目を向けず、ひたすらあれこれと取りいれようと遊びつづけていられる人間のほうが、じつはずっと成長がはやい。ただし、どこかでつまずくことになるので、そうしたときに、上達という概念が欠かせなくなってくる。欠点を見詰めることもまた、ある種の訓練が必要だ。いきなり上達しようとしても、なかなかできるものではない。上達と成長、どちらかいっぽうだけに傾倒しているだけでは、歩みは止まってしまうものなのだろう。とはいえ、止まることも一つの動作である。ときおり、止まる練習もしておいたほうがよいかもしれない。



1452:【ぽかりすうぇっと】

いくひしでござる。やー、なんか、自転車キコキコって陽炎を蹴散らすじゃないですか、坂道もなんのそのって日差しになんか負けてらんねーですよ、勝って勝って勝ちまくりでござるよ、や、でも、さすがに上り坂は自転車を押して歩きますけども、きょうもきょうとて、えーんや、こーらさって、果てなき道を越えていった結果、行く先々で、おつかれさまでーす、って挨拶するたびに、「雨降ってたの?」って訊かれる。なんでや! これは、汗!!! だって暑いし! 自転車ですし! あんたらがエンジンぷんすかかけまわっとるから余計にわしが暑いんじゃボケー!!! 怒ったわけじゃないですけど、思ってもないですけど、汗を雨と間違われるくらいには発汗するいくひしですけど、きょうはポカリスウェットの1.5リットルがスッカラカンになってしもうた。飲まなかったら、いくひし死んでるで。このひと月で体重がどんどん減ってく。顔はでもむくんでるので、なんかバランスわるい。日差しがね、や、雨よりはいいですよ、ぜんぜんカッカしてほしい。でもね、さすがにね、負けてよくない? 負けてらんねーですよ、とか意地張って、張りあって、なんの得があるってんだい。なんもねーじゃねーか。あたまとかクラックラですわ。帰りはほら、陽が沈んでいるわけで、多少はね、多少は張りあえるかなって思うじゃないですか。坂がね、多いんですよ。帰りとかね、登山かって感じでござる。もうね、帰りとかね、滝に打たれてきたの?って訊かれてもおかしくはない、むしろ誰か訊いて、ちょっとそこのあなた!って呼び止めても、「なんかこのひと融けてるー!?」って逃げられるくらいの、汗だく模様でござるよ。せっしゃ、雪だるまでござる。ポカリスウェット、もう一本いけますわ。シュってなってるから。今いくひし、シュってなってるからね。水ルフィよろしく、ポカリスウェットでおなかをパンパンにして、ぽんぽこりーんって、しながら、ぽんぽん冷やさないようにバスタオルを腰にまきまきしながら寝ようと思います。あとね、ことしは蚊がすくないって言ったやつ誰や。ぜんぜん刺されとるやんけー! ポカリ!と蚊を叩き落として、スキッとしたいって、そこはスウェッとしとけやー。なんやスウェットってー。汗やー。おやすみー。



1453:【はいダウトー】

行く先々で誰がまんちゃんに訊くって? あいさつ? 幽霊でも視えてるのかな???



1454:【花】

調べ屋に入ってくる依頼の多くは、鑑定と仲介だ。鑑定は骨董商と変わらない。扱う代物がちょいといわくつきである傾向が高いだけで、基本は値踏みだ。その場で買い取ることもある。仲介は、結果としてそうなるだけのことであり、こちらでそうしたサービスを謳ったことはない。これこれこういった問題があるが、なんとかならんか、と相談を持ちかけられるわけだが、こちらの専門外である場合もすくなくなく、そうしたときは専門家を紹介する。依頼主の多くは、問題の根本要因を見抜けない。だからこそ、見抜ける目を持つこちらを頼るのだろう。言ってしまえば、調べ屋の仕事とは、原因究明だ。必ずしも問題を解決することではない。きょうの仕事は、依頼内容としては比較的多い部類の、「よくわからんので、なんとかしてくれ」というものだった。便利屋と勘違いされるのには慣れている。たとえば、屋根裏に何かいるようで足音がうるさい、なんとかしくれ、なんて依頼は十件に一件の割合で飛びこんでくる。庭の植物が急に枯れだした、変な病気にかかっているかもしれない、なんとかしてくれ、なんて依頼も珍しくはない。夜になると目が光る動物が駆けまわっている、罠を仕掛けても効果がない、なんとかしてくれ、だとやや対処に困る。真実に動物である可能性が高いためで、そうしたときはまずは現場を目にし、糞や足跡を見つければ、知人の猟師を紹介する。だが、動物の痕跡が見つからないときは、少々厄介だ。霊魔怪に素養のない人間にも視認できる存在は、十中八九、怪に属するアヤカシモノだ。事によっては人間が何人も、この世から消え去ることもある。扱いには慎重にならざるを得ない。反面、目撃談のない依頼の多くは、霊や魔に属する。境会が結成されてからは、魔に属するモノたちは無闇にこちら世界の領域に干渉しない。知能が高い分、取り決めを交わすことができるので、厄介さで言えば災害級の彼らだが、いまのところ大きな問題を起こしたといった話は耳にしない。知恵が回る分、噂の立たぬようにうまくやっているだけかもしれないが、割合として魔に属する依頼はめったにないのは事実である。よって、依頼の多くは霊に属する事案となる。きょうの依頼もご多分に漏れず、霊だった。「庭に植えた覚えのない花が咲いている。切っても、抜いても、またすぐに生えるので困っている、なんとかしてくれ」とのことだ。家主は齢八十で、独特な方言を使われるものだから、言葉の解読に難儀した。「ふしぎですねぇ。でもなぜ私のところに?」なぜわざわざ胡散臭そうな調べ屋なるものに依頼したのか。返ってきた言葉を解読するかぎりにおいて、ほかの店はカナカナばかりで、何を営んでいるのかさっぱりだから、であるそうだ。単純な商号も考えものだ。スーパー・シーラ・ベーヤーにでも改名したほうがいいかもしれない。問題の庭を見せてもらった。立派なオニユリが咲いていた。「これですか」家主は、うんみゃ、と口をもごもごさせる。否定のようで、これは肯定の仕草だ。通訳の才能があるかもしれない。炎天下のため、家主には家で休んでいるように言い添える。ちいさな背中を見送り、問題の花に向き直る。オニユリそのものは単なる植物だ。見れば判る。ただし、大きすぎる。ひまわりと比べても遜色ない大きさだ。夕焼けじみた色がどこか警戒色を彷彿とさせる。家主にも視えていることから、アヤカシモノかとも思われるが、呪符を近づけても反応がない。化けているわけではなさそうだ。魔族は日差しを苦手とする性質があるため、端から選択肢から除外している。稀にそうした盲点を突く魔族もいるらしいが、きょうにかぎっては、魔族の関与を否定できる。単なる花だからだ。だが、ふつうではない。とすると、ナニモノカが花を憑代にしているのではないか、と考えられる。憑依とそれを言い換えてもよい。そう、たとえば、妖精とか。懐から呪具をとりだし、ゆびに巻きつける。精霊の羽衣だ。霊獣が死滅するときに、ある任意の条件下で結晶化するそれは霊素の塊だ。薄く剥がれるため、こうして呪具として使用できる。精霊の羽衣を巻きつけたゆびで、花弁を弾くようにすると、光る花粉を宙に霧散させながら、大きな蝶が三匹、浮きあがる。つぶらな瞳がこちらを向く。背中から羽を生やしたうつくしい人型だ。足がなく、どことなく人魚を思わせる。「わるいが、ほかを当たってくれないか」言葉は通じないが、害意のなさは伝わったのかもしれない。三匹の妖精は、誰が先導するでもなく、ひらひらと螺旋を描きながら飛んでいく。間もなく、古い屋根の向こう側、山のほうへと消え去った。妖精は成長すると精霊になると言われている。真偽のほどは定かではない。精霊は、霊獣のなかでも極めて格の高い存在だ。発見されしだい境会が動く。そのため、無害なはずの妖精であっても、発見した場合は、境会への報告が義務づけられている。とはいえ、あれだけ無垢な姿を見せられたら、そんな気も削がれるというものだ。なんでもかでも人間が管理できると思いあがるそうした傲慢さが、精霊の怒りを買うのではないか。思うが、むろん、災害相手に恩も仇もない。今回のこれは、単なる、不精者の横着である。家主がお盆に麦茶を載せ、やってくる。花に目を留め、目じりをさげた。オニユリはいつの間にか、白く鮮やかなヤマユリに変わっている。



1455:【さつまいも】

さつまいも一本いま二百円するのね。びっくりした。バナナひと房と同じくらいだよ、すごいな。スーパーいくとモノの価値ってなんだろうって思っちゃうよね。高いな、と思っても、じゃあそれをぜんぶイチからじぶんでつくったとして、いくらで売ったら元とれるって考えると、ぜったいそんな店頭の値段なんかじゃ売れないわけで。や、ありがたいなぁって話。小説なんて元手タダみたいなもんですからね。プロやほかの作家さんたちがどうかはしらないけど、いくひしさんの小説はタダでぜんぜん元とれます。読んでくださるだけでうれしい。対価はそれにて充分しごくでござる。きれいごとに聞こえる? きれいごとだもの、あたりまえじゃーん。いくひし、きれいごとだいすき。本当はいっぱいお金ほしいけど、そういうの隠してきれいごと貫くのすき。ぜんぜん隠しきれてない? 言っちゃてるって? えー? ほんとだっっっ!? はい。売れても売れなくてもどちらでもいいのです。小説は読まれなければ意味がないけれども、いま読まれる必要もない。いくひしの基本的な考えです。読まれなければ読まれないほど、売れなければ売れないほど、埋没していた期間が長ければ長くなるほど、このさきいくひしの小説群にスポットが当たったとき、そこには付加価値が生じます。積立みたいなものです。もちろん、いっさいスポットが当たることなく、誰の目にも留まらず、記憶にも残らず、消えていく可能性もあります。そのときはそのときです。いくひしのつむいだ物語はそれにて水の泡になるかもしれませんが、だからといっていくひしの人生が無駄になるわけではありません。小説が売れようが、売れなかろうが損をしない生き方をしています。小説のように、うそを並べるのはただそれだけで得るものがあります。ありていに、楽しいです。ということは、誰にも読まれなくても、元はとれているのかもしれません。だとすると、読者の方に読まれている時点で、それはボーナスみたいなものではありませんか。棚ぼたですね。ていねいに言い直しますと、棚からぼたモチです。らっきーです。やったー。考えてもみれば、いくひしのつむいだ小説がさつまいもやバナナより価値があるとは思えません。同じお金を払うのなら、さつまいもやバナナを買いたいではありませんか。こんなことを並べていると、自己肯定感が低い、とかなんとか言われてしまうのでしょう。ほんと、嫌な世のなかになったもんだ。あ、うそです。いくひしは自己肯定感が低いです。認めます。でも自己肯定感が低くても、困ってません。これからも自己肯定感ゼロを目指していきたいです。それはそれとしてこれはいくひしの印象でしかありませんが、さっこん、さつまいもやバナナの価値も解らない人間が増えてきている気がします。価値は相対的なものです。それはそうです。餓死寸前の人間にとって、ダイヤモンドよりも点滴や芋粥のほうが価値が高いように、お腹いっぱいでベッドでぬくぬくしている人間にとっては、さつまいもやバナナよりもプロのマンガのほうが価値が高いのと同じように、価値はそのときどき、人や場によって変わるものなのでしょうけれども、なんというか、いやはや。さつまいもやバナナが二百円で買える世のなかって、すごいなー。ともすれば、文庫本が一律、千円以下で購入できる世のなかもなかなかどうして捨てがたい。とはいえ、そろそろ本の値段の高騰は加速していくころではないでしょうか。本一冊にさつまいも三本以上の価値があると捉える人間が、果たしてこれからもいてくれるのか。バナナ三袋分の価値があると思ってくれる読者が、あらたに生まれてくれるのか。いやはや。想像するだに、たいへんそうだなぁ、とアイスをぺろぺろしたくなります。いくひしはぜんぜん、さつまいもやバナナ以下でいいです。張りあう気はありません。タダで、好きなだけ、読んでいただけたら、それで満足です。贅沢でござる。わーい。ありがとごじゃいます。言うてもべつに、あんたのために書いてるわけじゃないんだからね///(←頬が赤く染まったことを示す記号なんだけど、若い子たちにも伝わる? もうムリ? 時代遅れなのかな)



1456:【ツイッター休止の効用】

二か月つづけたツイッターを一週間ほどやめてみました。新作のほう、すこしだけ進むようになりました。インスタグラムの細々連作短編集のほうも、三千字くらいのやや長めの掌編をつくる余裕までできて、ツイッターはひょっとして眺めているくらいがちょうどよいのでは?という思いに拍車がかかりました。ツイッターは休憩中にやるようにしていたのですが、以前はその時間で本を読んでいたので、今週はまた本を読めるようになりました。時間の使い方がへたくそになっていた気がしていたのは、やはり気のせいではなかったようです。現状の生産量ですが、この「いくひ誌。」を含めれば、いちにちに七千字くらいを並べています。多くても一万字を超えないように抑えています。油断するとすぐに間延びした冗長な文章をつむいでしまうので、いまこの瞬間もその傾向にありますが、意識して削っていこうと思います。ツイッターをやっていたときは四千字前後でしたから、三千字分の労力と読書の時間がツイッターに消えていたことになります。すくないとみるか、多いとみるかは、ひとによりけりでしょう。ツイッターをはじめてから自作小説のPVが上昇傾向にある旨は以前から繰りかえし述べています。宣伝効果はあるようです。ムダではないのですが、いかんせん、疲れが溜まりやすく、創作活動に差し障りがあるようなので、これからは意識して控えるようにしていこうと思います。リツイートやいいねを押していないだけで、眺めてはいます。誰かの視線や気持ちを考えると、それだけ消耗するということなのでしょう。こんなにたくさんいいねを押したら気持ちわるがられるのではないか、いやしかし、こんないるのかいないのかもわからない相手の評価を気にすると思うほうが失礼なのではないか、だいたいほかの方々はフォロワーがたくさんいるのだから、リツイートしたところで気づかれなくない? なんて悩みながらツイッターをやっています。やはり、たくさんリツイートやいいねをすると、執着している、不愉快だ、と思われることもあるようです。気をつけていきたいな、と思います。世のなかには、なんでこれほどのものが?と思う作品が、陽の目を見ずに埋もれていることがあります。ぜひ、掘り返し、多くのひとの目に触れてほしいな(そして必要としているひと、相性のよいひとの元に届くといいな)、と望むものです。(話は変わりますが、黒金魚さんのWEB漫画「うちの普通」がすごく、すきです。あれだけ濃ゆいキャラたちを描き分け、かつ内面を描写していくセンスは尋常ではありません。また、それぞれの関係性が絡みあっていく様は圧巻です。一話完結型の短編が多く、余韻のある終わり方は、学ぶべき技法の宝庫です。ぜひいちどお目通しねがいたいです。http://kurokingyokkg.web.fc2.com/)(「うちの普通」をかるく読み返してみて気づきました。無意識でしたが、おそらく拙作「局部怪奇譚~人造乙女は心臓を止め~」は、黒金魚さんの「うちの普通」に影響を受けています。意識できないほど、深く、他者の根幹に影響を与えられるのは名作の条件だと思います。すばらしい)



1457:【仮定の話】

いくひしが出版社から本をだすことは今後ないと思われる。だが、もし出版社から本をだすとしたらどのような内容で契約するだろうか。すこし考えてみよう。たとえば例外はあるにしろ、基本的に著者には、本の実売数ではなく、刷った分だけ印税が入る。極端な話、一冊も売れなくとも、一万部刷ったらその分の印税が出版社から振りこまれる。印税は本の定価の8~10%が多い。千円の本が一万部ならば、百万円が著者の取り分となる(そこからさらに税金をとられるわけだが)。とはいえ、このビジネススタイルはもう長くはもたないだろう。実売数による印税か、それとも著作権ごと出版社が買い取る方向にシフトしていくのではないか、と想像している。ともあれ、すぐに変わることはないだろう。どこかのちいさな出版社が実験的に取りいれ、上手く経営が回るようだったら、大手が真似をする、といった流れになるはずだ。もしいくひしが出版社と契約するなら、初版の印税はもらわない。重版がかかってから印税をもらうようにする。そのほうが出版社共に得をするからだ。たとえば、初版の部数はどうやって決められるのか。出版不況のさっこんの傾向としては、初版がすべて売れれば、元がとれる、といったラインに規定される(いくひしの偏見です)。よって、出版社が利益をだすには、重版(増刷)しなければならない。もっとも、出版社には委託制度がある。返本された分をとりあえず新刊でまかなっておけば、本が売れなくても困らないのだ。決算期までに赤字分をまかなえるくらいのヒット作をだせればいいのである。言い換えれば、出版社としては、さいていでも初版すべてが売れる文章を本にしたいのだ(そうすればさいあく、経営難に陥ることはない)。だが実情として、初版ですら売れ残る本が出版物全体の大きな割合を占めている(ゆえに、年々、初版部数は低くなってきている)。であるならば、最低限、著者もまたリスクを負うのが公平な契約となるのではないか。初版が売れないのならば、それは出版社の負債(赤字)となる。著者だけが利を得るのは割に合わない。むしろ著者は、出版社から本がでた、という宣伝や履歴を得られるのだから、二重に得をしていると呼べる。ならばまずは初版のうちだけでも、印税はもらわないでいたほうが、公平な取引と呼べるのではないか。ひょっとしたら印税分、部数を多く刷ってもらえるかもしれない。また、リスク管理という名目で、初版のコストがかからない分、つぎからの仕事が入りやすくなるかもしれない。いくひしのように、三十冊以上の自著(電子書籍)があるならば、物理本を出版社からだした、という履歴は、大いに宣伝要素となる。それだけで、ほかの本の売り上げにプラスの効果が働くはずだ。初版くらいタダで出しても、まだお釣りがくる。よって、いくひしがもし出版社と取引をすることがあれば、そうした条件を提示する。その代わり、連載や書き下ろしといった条件は呑まない。すでにある自著のなかから、好きなものを持っていってください、といったスタンスをとることになるだろう。ただ、こんなふざけた条件を呑む出版社はいないだろうし、そもそも、いくひしの作品群に注目するような編集者も、この国にはまだ現れていないだろうから、或いは、単品であれば、ほぅ、と思った方もいらっしゃったかもわからないが(そもそも読まれていない可能性が非常に高いが)、いずれにせよ、いくひしが出版社から本をだすことは今後ない、とここに述べておく。むろんそれは、いくひしが死んだあとでも同様だ。伊藤計劃氏や宮沢賢治氏のようには、死んでもならないので、ご安心ください(べつに心配はしていなかった? あ、そう。心配して!!!)。



1458:【天空迷園】

天空迷園なる遺物がある。そらに浮かぶ迷宮じみて、それはかつて霊獣を封じるために築かれた巨大な呪具であるという。真実そらには位置しない。縫合師と呪術師の共同でこじ開けられ、安定されたそれは、異空間だ。人工的に築かれた、魔界のようなものである。あちらとこちらが重なりあう場、それはそちらこちらに存在し、同時にどこにも存在し得ぬまやかしだ。実態を伴うまやかしはすでにまやかしではないとする意見は、正鵠を射っているが、射った的がすでにまやかしであるので、さほど意味のある正論とは見做せない。「境会の規則をずいぶん破っているそうだな、調べ屋」そいつはこちらの仕事を堂々とジャマをした。生け捕りにすべく、数日かけて追いかけたアヤカシモノをこれみよがしに踏みつぶすではないか。「蟲捕りごときで仕事なんてよく言えたもんだ」(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886458998



1459:【ひな鳥】

ひな鳥を拾った。正確には、となりの家の庭に落ちていたひな鳥を、まんちゃんなら判るんじゃない? といって鳥かごごと押しつけられた。羽が生え変わっている。巣立ちまでもうすこしといった塩梅だ。弱っていたようなので、まずはお湯で薄めたハチミツを箸さきにつけ、差しだした。ちょちょちょ、っとちいちゃな嘴でついばむ様子はかわいらしい。ただ、あまりに深く箸さきを呑みこむものだから、だいじょうぶ?という気にもなる。満足すると頑として嘴を開かなくなるところはいかにもヒナでござる!といった感じがし、いいよ、いいよ、となる。緊急の餌として茹で卵をすりつぶしたものをあげてもいい、とネットに書いてあった。ためすと、ちょちょちょ、と箸さきを勢いよくつつく。嘴の周りが白く飾りつけられ、きみオシャレじゃん、と頭を撫でる。目をつむり、なされるがままにじっとするひな鳥はやわらかい。餌が欲しくなると、ビビビー、とやかましい。窓際に鳥かごを置いておいたら、親鳥が餌を運んでくるようになった。うれしいのかなんなのか、ひな鳥はひと際、ビビビー、を連呼する。巣には戻せないが、もうだいじょうぶだろう。活力を取り戻したのか、ひな鳥は羽ばたくようになった。夕方、涼しくなってから、となりの庭に放してもだいじょうぶだと判断し、逃がすようにした。ダメなようならまた保護すればいいと考えた。朝、木の枝にとまるひな鳥を発見した。昼間になると、こんどは窓枠にとまっていた。親はどうしたの? 問うようにすると、ひな鳥はつぶらな目でこちらを見据え、高く舞いあがり、電柱を越え、いずこへと飛び去った。礼を言いにきたのかもしれない。からっぽの鳥かごにはフンがくっついたままだ。洗って返さねばならないが、いましばし、そのままでいよう。耳にはまだ、ビビビー、が貼りついている。



1460:【ほんとだよ】

ひな鳥を世話したのである。うそっこではないのである。親鳥の姿からするとシジュウカラのひなである。げんきに飛び去って、いくひしは、よろこばしい反面、すこしさびしいのである。


※日々弱さを溜めていく。



1461:【真夏と公園とベンチ】

どうしたんでさーだんなー。ネクタイを締めていると、マダラが鼻のあたまにしわを寄せた。「今は夏ですぜ。こんなクソ暑い中スーツなんか着こんで、ふだんは意地でも首輪なんぞと首につけるのを厭うていたじゃないですかい」「人と逢うんだ」「おめかしですかい。さてはコレで?」マダラは尻尾をくいと掲げ、ハートマークをつくった。「いしし、だんなにもようやく春が」「今は夏だぞ、マダラ。浮かれてないできょうのパトロールにでも行ってきたらどうだ」「このクソ暑い中でですかい? そりゃ虐待ってもんじゃ」「霊体の分際でなにを言う」「だんなは知らねぇからそんなことが言えるんでさ。この器だってね、あんがい快適ってわけじゃいかねぇんですぜ」「さいですか」「あらら。にべもねぇこって」「きょうのはな、おまえのことでもあるんだマダラ。相手に気に入られるようにしていって損はない」「はぁー、さいですか、さいですか」「どこ行くんだ」「ぱとろーるでさ。だんなが言ったんじゃねぇですかい」「そうだったな。ごくろう」黒猫は身をひるがえし、さっそうと窓のそと、蝉の声の飛び交う灼熱へと飛びこんでいった。近くにきたから顔見せな。彼女からの文(ふみ)をカラスが運んできたのは、きのうの夜のことだった。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886472803



1462:【言葉が消える】

あたまのなかから言葉が消えるときがある。否、消えるのではない。たくさんの言葉が折り重なり、錯綜し、干渉しあうがゆえに、一つの筋道をあたまのなかから引っ張りだせなくなるのだ。絡みあった毛糸のようなものであり、クレヨンでしっちゃかめっちゃかに塗りたくった画用紙のようなものでもある。嫌いではない。おそらく、そうしたダマになった思考がなければ、発想というものは生まれないのだろう。すらすらと言葉がでてくるときや、つぎからつぎに閃きが浮かぶとき、それはダマが薄まった状態であり、けっして豊かとは言えないのかもしれない。濃すぎる思考は絡みあい、名前をつけることもむつかしい、言の葉におさまりきらない、巨大ながらんどうと化し、つぎなる世界を築きあげる余地を形成する。言葉の消えるくらいに煮詰まった脳内にはきっと、「世界」という言葉に仕舞いこむことのできないほど深淵な海が広がっているのだ。



1463:【感情を言葉にしない】

いくひしの信条として、じぶんの感情をカタチにしない、というものがある。たとえば創作活動には怒りを原動力にするといい、といった言説をときおり目にする。否定はしないし、どんなものでも原動力にできれば、それはエネルギィ効率のよい行動選択だと呼べる。負の感情をべつの媒体に出力できるのだから、お得感がある。ただし、原動力を得るためにわざわざ負の感情を抱こうとするとなると、やや本末転倒感がある。が、それもその人が納得しているのならば他者がどうこう言うべき事柄ではないだろう。もっとも、いくひしはそうした創作活動をしない。何か言葉を並べるときは、なるべくじぶんから距離を置きたいからだ。じぶんのことを言葉にしたくないのである。とはいえ、どこまでいってもじぶんという主観から脱して世界を視ることはできない。他者から得た情報とて、けっきょくはじぶんの内側で消化され、いったん養分に分解されないことには、出力可能な形態には変化しない。それはいちど見たものを細部まで記憶できる人間でも同様だ。何を見るか、或いはどこを見るか、という意思も含めて自我であり、主観であるためだ。加えて、人間は映像として知覚するものだけではなく、見えない情景を脳内で補完している。それを含めて、視覚情報として処理される。ほかの知覚も同様である。人間はつねに入力された情報を、過去の記憶と照合し、現在という虚構を構築し、認識する。それはけっして、真実そこにある世界そのものではありえない。ひるがえっては、どんなに自我から距離を置こうとしても、どこかで自我に足を引っ張られることになる。ともあれ、その限界付近まで自我から遠ざかることは可能だ。じぶんという存在の軌跡を置き去りにし、他者の知覚に、視点に、人生に寄り添う。同化する。そうしたさきにしか、いくひしの求める物語はないのである。いくひしの感情に関係なく、物語の彼氏彼女らは、各々の人生を、視点を、知覚を通して、生きている。あなたがいくひしとは無縁の世界で生きているのと同じように。みながいくひしに興味がないのと同じレベルで。物語はいくひしから遠く、べつの時空を漂い、流れている。



1464:【がぁああ!!!】

テーブルの脚に小指ぶつけた! ヨッタむかつく!!!



1465:【フラスコのなかの渦】

ぼくはフラスコのなかの渦だ。あなたが見ているときにだけ生じる現象にすぎない。あなたがいてもいなくともぼくはフラスコのなかで渦を巻いているのに、あなたが見ていないとぼくはぼくとして存在できない。あなたはぼくを眺めて、ぼくを生みだす。ぼくはあなたの眼差しによってのみ、ぼくとしての輪郭を得る。あなたはぼくをそこからだそうとは思わず、言葉もかけず、ただ眺める。ぼくの居場所はフラスコのなかにしかなく、外界の変化など関係のないはずなのに、あなたの眼差し一つで、ぼくは、ぼくであったり、なかったりする。ぼくはぼくでないときのぼくをしることはできないけれど、ぼくが単なるフラスコのなかの渦であることはしっている。ぼくはあなたに生かされ、いくどとなく殺されているのかもしれなかったが、あなたにその認識はなく、フラスコのなかの渦を眺めては、ぼくを無闇に生みだし、そして触れることも、関わることもせず、ただぼくにぼくを意識させ、ぼくを意識するあなたを望ませる。ぼくはフラスコのなかの渦である。それ以上でもなく、それ以下でもないはずなのに、あなたの眼差しが、ぼくを単なる渦ではいさせない。ぼくはフラスコのなかの渦であったはずなのに、いまではもう、あなたの眼差しを待ち焦がれる渦ではない何かになってしまったのかもしれず、そうではないのかもしれなかった。ぼくはフラスコのなかできょうも渦を巻き、あなたの眼差しを浴びるまで、ただぐるぐると黒いモヤを巡らせる。ぼくはフラスコのなかの渦でした。あなたの眼差しがぼくに息吹をそそぎこむ。



1466:【競ってどうするの?】

現状、日本の出版業界は、主として大日本印刷(&凸版印刷)が要となって引っ張っていっている実情がある(憶測です)。大手出版社と楽天がそこに連携して、アマゾンや外資系企業に対抗しようと踏ん張っているが、対抗策のほとんどが、「少数部数の印刷出版サービス(プリント・オン・デマンド)」や「取次ぎを介さずに行う出版社と書店への流通の一本化」など、二番煎じである以上、すでにビジネスとして市場にサービス展開をしているアマゾンなどの先行企業に太刀打ちできるとは思えない(やらないよりかはマシであるが)。大日本印刷(&凸版印刷)は日本を代表する世界的企業だが、すでに経営方針はAI(半導体)や、透過スクリーン、電源(バッテリィ)を不要とするIoTの開発など、電子デバイステクノロジィへと転換している(憶測です)。本に依存する現行の出版社とは相反する企業方針であり、ビジネスとしての紙の本が立ち行かなくなれば容易に連携が破たんする未来しか見えてこない。連携がうまく機能すればよいが、すでに実用化されていておかしくないサービスが未だに、運用されていないことを思えば、なかなかむつかしいのではないか、とどうしても悲観的に見てしまう。たとえば、書店のPOSデータを用いるだけでなく、店頭に置いてある書籍検索端末のデータをなぜ有効活用しないのか(いくひしが知らないだけで、されている可能性もあるが)。顧客が店頭で検索した本を(検索回数が多ければ)、顧客が取り寄せを希望せずとも、多めに発行し、流通させるなどのサービスは、出版社が主導でやろうとすれば、二年前には実用化できたはずだ。そうしたプロジェクトが企画されたとしても、実施できない理由が何かあるのだろう。だとすれば他企業との連携のむずかしさが露呈して映る(仮定を前提とした強引な結論)。出版不況と嘆かれて二十年が経つが、出版業界の未来はこれからも明るいままだ。なぜなら以前よりも信用のおけるデータを担保するサービスの需要はあがっているからである。だが、出版社の未来はますます暗くなっていくだろう。大日本印刷(&凸版印刷)が、紙媒体の復興ではなく、電子デバイスの開発へとチカラを入れているように、これまで出版ビジネスに触手を伸ばさなかった企業が、容易に市場へ参入してくるようになるはずだ。現行の出版業界にまかりとおっている常識はいともたやすく覆されるだろう。攻める姿勢もたいせつだが、競合相手のほうがいくぶん先を行っている。本当の意味で守りを固める時期に差し掛かっているのではないか。書籍のモトとなる書き手の、出版社離れを防ぐ手だてをいまから打ちだしておいて損はない。財布のひもを固くしていては、いざ助けを求めたときに、多くのつくり手からそっぽを向かれるハメになる。改善すべき事項の優先度を見誤らないことが、今後の機運を左右する。出版社には運を手放さぬようにしてもらいたいものである(もう手遅れな気もするが)(つまり、数年後、いまの十代から下のコたちが出版社を通して紙媒体で本をだしたいと思うようになるのか、という話になってくる)。



1467:【焼き払え!】

イキってやがる! はやすぎたんだ!!! あのね、まんちゃん。そうやってかしこぶってばか晒すのはまあいいんだけど、がんばってる人たちの足引っ張るようなこと言うのやめよ? 出版社のひとらめっちゃがんばってるよ知らないの? 知ったような口たたいて、上から目線で、人の努力をあざけるようなこと言うの、イクビシ、すごいやだなー。すきくない。やだ。やめよ? ね? そういうの、もうやめー。



1468:【天盆】

王城夕紀さんの小説「天盆」を読みました。王城夕紀さんは初めましての作家さんで、順番としては「マレ・サカチのたったひとつの物語」のほうをさきに買っており、二冊目となります。文体に惹かれて買った初めての作家さんになるかもしれません。文章の圧縮加減は、恒川光太郎さんに並ぶ心地よさがあります。恒川光太郎さんの場合は、圧縮率が描写ごとに変化する傾向にあります。圧縮する度合いに合わせ、物語の高度があがり、俯瞰的かつ抽象度があがっていくのですが、 王城夕紀さんの小説では、時間の流れがそれほど飛び飛びにならないという特徴のちがいがあります(飛ぶにしても、場面がいち段落してからです。裏から言えば、恒川光太郎さんは、場面のなかでも飛び飛びです)。文章の圧縮率が全文通してほとんど均等なのにも拘わらず、描写の濃度がまだらであったりするため、読んでいて退屈しません。ただし、神視点よりの三人称一視点であるため、さっこんのライトノベルやキャラ文芸に慣れていると頭を切り替えるのにすこしだけ抵抗があるかもしれません。盗める技術の満載な小説で、掘っても掘っても未知の化石(宝石?)がジャラジャラでてくる、みたいな感覚があります。ひさしぶりに作家買いしてしまう小説家と出会えました。うれしいです。やったー。王城夕紀さんの短編集なんかも読んでみたいので、ぜひぜひ王城夕紀さんにはたくさん小説をつくってもらって、出版社さんには本にしていただいて、いくひしの手元にまで届くカタチにしてもらいたいです。おねがいしまーす!



1469:【ラップバトル】

ラップバトルで、ヘイトを撒き散らすな、といった批判を目にする。まあ、でてくるだろうな、と思う。ふしぎではない。そういう批判もあっていいし、たしかにそういう面もありますね、となる。ただし、そうした批判も、可能ならラップバトルでぶつけてみてはいかがだろう、といじわるにも思ってしまういくひしがいる(ラップでなければ批判を口にしてはいけない、と言っているわけではない)。なぜならその理屈は、悪口大会で悪口を言うな、と批判しているようなものだからだ。ボクシングを見て、暴力反対!と訴えるのと似た構図がある。批判としてやや的外れに映る。ラップ=悪口ではないが、ラップバトルに限定して言えば、ラップ=相手への精神攻撃、という側面が根強いので、悪口やヘイトは常套手段となっていく。だが本質は、それを言うことにあるのではなく、どんな悪口を言われても、ヘイトを撒き散らされても、私は私だ、おまえの言葉は何一つ響かない、なぜならおまえの突いたつもりの弱点も、私にとっては属性の一つでしかないからだ、なんら瑕疵でも汚点でもない、と毅然として戦う姿勢を保つこと、築くことをラップバトルはそれをする者につよく求める。悪口を言うな、ではなく、それを言われても物ともしないじぶん自身を求めていこう。築いていこう。そういう姿勢があることはぜひとも考慮していただけたら、もうすこし建設的な議論ができるのではないかな、と思うのである。議論(どちらかと言えば討論)もある意味、ラップバトルだ。批判するな、では成立しない。批判されても物ともしない確固とした理屈を構築しよう。(むろん、ラップバトルが市民権を得てきている現状、アンダーグランドでのバトルと、公衆の面前でのバトルとでは、そこに求められる「空気」は違ってくる。棲み分けによって、バトルの質をどう変えていくのか、は早急に議論されていくべき題材であろう。言い換えれば、「嫌なら聴くな」が成立するならば、「聴こえない場所でやれ」も反論として成立する。表現の自由と同様に、表現を目にしない自由もまたこれからの時代では、保護されて然るべき人権の一つとなっていくはずだ)(ラップバトルではなく、商品化されたラップという楽曲について述べるのならば、それは通常の企業倫理に照らし合わせ、商品として市場に流通させるに値する配慮をしてほしい、と望むのは妥当な意見に思える。だとすればそれは、ラップだから、ではなく、商品だから、と主語を変えて議論する必要がでてくるだろう)



1470:【本日の妄言】

SNSやブログは、あと五十年もすれば、いまあるアカウントの大部分は、なかの人(アカウント主)が亡くなっている。アカウント主の消えたアカウントはどうなるのだろう。長期間使用されなければ、運用元の企業が独自の権限で削除するだろうとの見立てが、いまのところ高そうだ。ブログなども同様に、サーバーを管理する企業が倒産したり、サービスを停止すれば、データとして残らなくなる。しかしいずれ、クラウドが普及し、個人でも無制限の情報を世界に散在するサーバーへとあずけられるようになれば、管理会社とて容易に個人のアカウントを削除できなくなる。そう遠くない未来、情報は一つの資産として見做されるようになる。クラウドは、データバンクとして機能し、或いはデータを貨幣価値に換算し、金融じみたサービスを展開する企業がでてくるかもしれない。じっさい現代であっても、ビッグデータは、企業買収や包括的業務提携といった名目で高値で取引されているはずだ。そうしたデータの売買を個人で、誰もが手軽に行えるようになっていく。そうなったとき、現在のSNSのようなものもまた、個人の資産として保護されるような環境が整っていくはずだ。著作権のように、一定の期間は、たとえそのサービスを運用する企業でも削除することはできなくなる。そうした法律が整備されるようになっていく公算が高い。言い換えれば、ネット上での活動もまた人権の範疇に取り入れられるくらいに、人々の生活に情報社会が深く根付いていくことの裏返しでもある。駅から切符はなくなり、現金を持ち歩く者もなくなる。人々は端末を所持することなく、生体認証で、生活の至る箇所に設置されたIoTを通じ、データをやり取りする。眼鏡やコンタクト型デバイスで、視界を仮想現実へと拡張し、イヤホン型の脳内電子信号制御装置を用いて、思考するだけで電子機器を操作する。指先に装着した機器で、仮想現実内の物体を操ることもできる。また、脳内報酬系を電気信号で刺激し、任意の能力の出力を高めることも可能だろう。健康に害が及ばない範囲で、人類は睡眠や性欲までコントロールできるようになる。あと百年もすればそうした生活が、夢物語ではなくなっているはずだ。ひょっとしたら、五十年後にはすでにそうした未来が到来しているかも分からない。情報が通貨と同じような働きをみせるようになったとき、アカウントは個人の尊厳と密接に繋がることになる。現在のようにアカウントから個人を特定できるような社会は、それまでのあいだに陰りを見せるだろう。人々も個人情報の取り扱いにはもうすこし慎重になるはずだ。ゆえに、現代のような、すこし調べればアカウント主がどういった交友関係を築いており、どういう人物なのかを特定できるSNSコミュニティは、未来からすれば相当な資産価値を有するデータとして、重宝されるようになるはずだ。孫の代に資産を残したい人物がいるのならば、現行のデータを保存する方向に尽力すれば、ひょっとしたら子孫や未来人たちから感謝されるようになるかもしれない。企業もまた、コストの無駄だから、といった判断をせずに、資産になると見込んで、データの保護を率先して行ってみてはいかがだろう。



※日々思考がモザイク化していく、細胞分裂を繰りかえす受精卵がごとく。



1471:【ラグ理論】

世界は「場と場」「層と層」「繰り込みと繰り込み」のあいだに生じる遅延(ラグ)によってカタチを得ている。ラグは情報伝達の差とも呼べる。部品がたくさん集まり、繰り込みによってその集合すべてで一つの層と化したとき、層と層の相互作用による変質は、その内部で生じている部品同士の相互作用よりも遅れて生じる。相対性理論によれば、重力が高いほど、時間の進みは遅くなる。よって、ちいさな層ほど、内部の時間の流れは速くなる。極論、人間が電車に轢かれて吹き飛ぶとき、電車と接触した人体が大破するまでのあいだに、人体の内部では、神経伝達物質が光速にちかい速さで、天文学的な回数の化学反応を繰りかえしている。人体が電車と接触してから大破するまでの変質と、その内部で繰り広げられる変質は、時間の流れからして著しい差異があるのだ。それはそう見える、という錯覚ではなく、物理的に、重力による時間の遅延(ラグ)が生じている。神経伝達物質にしてみても、一つの粒子を形成するには、いくつもの分子や原子が必要であり、同時にそれら分子や原子ですら、原子核や電子、中性子と、いくつかの成分によって性質を得ている。それらのあいだにもむろん、重力の差異があり、それは変質の遅延(ラグ)として、カタチと呼べる抵抗を生じさせる。ラグは膜のようなものである。水と油が反発しあうように、流れの差異が渦をつくるように、異質な時間の流れ、変質の速度によって、そこには遅延(ラグ)という名の、境界が敷かれる。境界は膜として、「場と場」「層と層」「繰り込みと繰り込み」を分断する。カタチとは、そうした分断によって生じる多重の膜(境界)であると呼べる。多重の膜はそれで一つの構造と化し、さらに、連鎖的に、かつ多重的に展開され、さまざまな物質へと昇華されていく。世界は「場と場」「層と層」「繰り込みと繰り込み」のあいだに生じる遅延(ラグ)によってカタチを得ている。これを「ラグ理論」と呼ぶ。(※妄想です)



1472:【魔界の植物】

悪道会の会長からじかに依頼があった。なんでも、ここ半年、急にクスリの捌けがわるくなり、収益が悪化しているそうだ。売人たちのあいだでもキナ臭い動きがあるようで、探りを入れてくれ、との話だった。証拠はないが、新手のドラッグが流入しているのではないか、と疑っていた。海外マフィアの跋扈を危惧している様子だ。悪道会が質のいいクスリを安定して供給するため、これまでは粗悪な三流以下のクスリに手をだす客がすくなかった。治安の維持に一役買っていたわけだが、そのバランスが崩れているらしい。よその街のことならいざ知らず、長年腰を据えている街の事情ともあれば、看過するにはいささか躊躇する。恩を売っておいて損はないとの思いもあり、引き受けることにした。闇社会のドン相手に前払いを要求できるほど図太くはない。成功報酬で契約を結んだ。タダ働きにならなければよいのだが。不安がよぎる。調べ屋なんてものを生業にしているが、むろん人間界のもめ事も調査対象だ。霊魔怪がらみの事案だけではない。個人事業主は、基本、どんな業界であれ低所得で、不安定だ。仕事の裾野は広いほうがいい。さいわいなことに、こちらは正規の興信所とちがい、霊魔怪のツテを借りることができる。やつらの情報網は、人間界の非ではない。壁に耳あり、障子に目ありを地で描く。ハッキリ言ってしまえば、人間相手に仕事をしていたほうが、楽ができる。反面、出すぎた杭は打たれもせずに、引っこ抜かれるのが世の常だ。あまり優位な立場で仕事はするものではない。分相応に、腕を磨けるくらいがちょうどよい。杭を叩き、引っこ抜くほうに回れるならば、いくらでも楽をしたいものではあるのだが。閑話休題。相棒がいない身の上だ、使えるモノは使ってナンボである。街を徘徊するアヤカシモノどもを使い、街中の売人を監視した。売人のデータは会長からもらいうけている。素性の割れたアウトローほど無防備なものはない。売人たちのおよそ六割が、何かしらの新型ドラッグを扱っていた。売買するどころか、タダでばら撒いている。悪道会の売り上げが振るわないのも納得だ。背後についている組織を洗いだせば、今回の仕事は終わるはずだった。が、そううまく事が運ぶようなら、いまごろ油田の湧きでる宮殿にでも住みながら、出た杭を引っこ抜く遊びに興じている。そうならないからこその現状だ。人生とはままならない。そのままではいられない、とそれを言い換えてもよい。新型ドラッグの元締めは魔族だった。知らない顔だ。人間相手に害をなせば条約違反だ。境会が動く。やつらもそれを知らないわけではないだろう。ならば何か狙いがあるはずだ。境会への通報は、やつらが話の通じる相手かを見定めてからでも遅くはない。境会は苦手だ。可能なかぎり接点を持ちたくない。監視を進めていると、やがて全貌が見えてきた。魔族はこちらの世界で魔界の植物を育てている。それを売人たちにタダで配らせているのだ。問題は、何が目的なのかが分からない点だ。魔族側のメリットが見えてこない。人間界に混乱を撒き散らそうとしていると考えればなるほど、さもありなんだが、クスリに手をだすようなやからを堕落させたとして、魔族側が得をするとも思えない。彼らは几帳面にも、元からクスリを常用している者にしか新型ドラッグを配っていなかった。こんどは監視対象を変え、新型ドラッグを摂取した者たちがどうなったかを観察する。するとどうだろう、彼らは新型ドラッグを摂取してからのひと月は、人が変わったように社会貢献を果たしていた。月並みに言えば、働いているのである。一見すれば、クスリから足を洗ったような姿だ。じつにまっとうだ。悪道会の収益が減るのは当然である。ますます魔族の狙いが分からなくなる。いい加減痺れが切れ、直接話を伺うことにした。「おほん。えー、ちょっといいですか」下っ端らしき魔族に声をかけると、彼は仕立てのよいスーツ姿をいちど大きく波打たせ、「あらら、こりゃどうも」まるで見知った相手にするようにこうべを垂れるのだった。ちょいと待っててください、と言い添え、彼は姿を消す。間もなく、小柄な女性を引き連れ戻ってくる。彼女もまた質のよいスーツを身に着けていた。「これは、これは。お待ちしておりました、ご挨拶が遅れて申し訳ございません、なにぶん、こちらから窺うにも、魔除けの結界が張られてましたゆえ、避けられているものかと」歓迎されている気がするが、どうなのだろう。「その、それはどういう」「この街の実質、支配者はあなた様なのでは?」彼女は首をかしげた。支配者、という言葉が自然にでてくるところに、ああ魔族なのだなぁ、と小柄な見た目とのギャップを覚える。その姿も仮初のはずだ。偽装体と呼ばれる変態だ。アヤカシモノとの共通点でもある。通常、魔族はアヤカシモノと違って人間の目には映らない。偽装体であると視認できるようになる。例外的に魔族と契約を結んだ人間は、魔眼を得るので、以後、呪術や呪具を介さずとも魔族との交流が可能となる。「支配者とか、そういうのはないんだ。こっちの、そう人間社会にはね」「ですがあなた様は高等魔術を使いこなせる身、だけでなく、こうして我らを境会から隠し通してくれているのでは? 違うのですか?」彼女は夜空を仰ぐようにする。そこには何もない。街のネオンにかき消された蒼があるばかりだ。「視えるのか?」「ええ。広域魔術展開ですよね。効果は薄いですが、その分、感覚器官のするどい魔族や蟲どもはこの街を嫌厭します。境会からのサーチも中和され、内部での霊素や魔力の揺らぎは感知されにくいでしょう。あなた様の術ではないのですか」「判るのか、意外だな」じつを言えば、境会からの監視の目を欺くために仕掛けていた古い術式だった。ほかにも実体化できないレベルの霊魔怪は寄りつかず、それらを捕食する低レベルの個体も外部からは寄ってこない効果がある。代わりに外敵がいない分、内部では元からいた霊魔怪が成長しやすい環境が築かれている。仕事の種には困らない。ただ、遠方からでも術を感知可能なほど賢く強大な個体は、警戒して近づこうとしないため、さいきんでは、中型の個体が増殖傾向にある。いちど大規模に駆除を実地しないといけないかもしれないと懸念していたところだ。一匹くらい大喰らいの霊獣かアヤカシモノがいるといいのだが。さすがにこんなことで魔族と契約して寿命を縮めたくはない。「あなた様のことは上から聞いています。くれぐれも礼を欠くようなことなきようと言いつけられておりますゆえ、挨拶に伺いたかったのですが、なにぶん、魔除けを貼られては」「それはいいが、なんだってこんな真似を。境会も黙ってないぞ」「はて? なぜ境会が?」「なぜってそりゃこんな」人間相手に魔術を行使して――いるわけではないのか? 様子が変だ。相手も話の通じないコンコンチキではないようだ。まずは詳しい話を聞いてからでも判断は遅くない。結論し、「わるいが事情を聞かせてくれないか」彼女たちの背後に建つ倉庫を見遣る。それから、彼女と共に倉庫内部の栽培所を眺めた。背の低い植物が、床一面を覆っている。床はバスケットコート並の面積がある。「これすべて魔界の?」「ええ」「だが、境会の条約では」「禁止されていません。魔界の植物とて、魔力を糧に育ちます。こちら世界の薄い魔力ではたちまち枯れるか、或いはこちら側の植物として適応します。元はといえば、こちらに群生している植物の大半は、太古の時代に我々の祖先がこちら世界に持ち込んだものです。境会とて、それそのものを禁じることはできないでしょう。もし禁じるようであれば、我々はこう言えば済む話ですからね」ならば返せ、と。「ではこれは」「魔界から持ち込んだ植物ではありますが、ええ、単なる植物です。ただし、魔界の性質は抜けきってはおりませんから、魔力を感じれば、吸いとります」「つまり」話のさきを読む。「摂取した人間は魔力を失うのだな」「ええ。ですが通常、人間は極々微量の魔力しか保有しておりません。ただし」「悪人以外は、か」「ええ」「なんだ、その。つまりあんたらは魔に魅入られた人間を更生させてたのか」「もちろんそれだけではないですが、すくなくとも境会に知られてマズイ事態にはなりません。飽くまで、協定は維持されています」「放っておいても害はないと?」「すくなくともあなた様には」だが魔族は人間の生的エネルギィを糧とする。霊素や魔力だけでなく、存在の根幹をなす枠組みやエニシまで喰らうというのだから、その点で言えば、厄介さは、アヤカシモノや霊体とは比べものにならない。「訊きたいことは山ほどあるが、まずは一ついいか」「ええ。答えられる内容でしたら」「このお遊びはいつまでつづける気なんだ」彼女はそこで一瞬、耳元まで口角をあげた。「そう訊かれたらこう答えよ、と命じられておりますゆえ、お答え致します」彼女は言った。「魔力の吸い尽くされぬ個体を見つけるまで」なるほど。狙いはそれか、と合点した。「ならいい。がんばれ」「お気遣いありがとうございます」倉庫をでる。しばらく歩き、振り返ると魔族どもがこぞって腰を折っていた。人間の真似がうまい。或いはあべこべに、かつての人間たちが魔族の風習を真似ただけかもしれないが、いずれにせよ、上に立つ者の優越感なんてものは解る気がしない。悪道会の会長にはいったいなんと報告したものか。魔族お墨付きの、お利口さんになるクスリでも煎じて呑ませてしまおうか。案外いい考えに思え、今からでも踵を返し、薬草を分けてもらおうとも思ったが、魔族に借りをつくるのは利口ではない。それくらいはお利口さんになるクスリを呑むまでもなく判断がつく。ここはしょうじきに、ドラッグの需要がなくなった、と打ち明け、納得してもらうほかに術はない。いずれ客がいなくなれば、必然、魔族たちはより上質な魔力を求め、おのずから悪道会へと行き着くはずだ。いっそのことじぶんが呑み、この業界から足を洗うのもいいのではないか。半ば本気で考え、しかし腹を破って育ちつづける魔界の植物の大樹じみた姿を想像してから、そうなるのはごめんだ、と振り払う。人類の総じてがお利口さんになったところで困るのは魔族だ。そう遠くないうちに向こうのほうで手を引くようになる。それまではやはり、極力関わり合いにならずにおこうと臍を固める。夜の街を歩きながら、使役したアヤカシモノどもに褒美をくれて回る。何がうれしくて餌に餌をやっているのか。悪道会からの成功報酬は期待できない。時間と呪具を無駄にした。息を吸うとどこからともなくサンマの焼ける匂いがした。魔に魅入られやすいと難儀する。



1473:【逆にむずかしい】

逆説を示す接続詞には、「しかし」や「だが」「けど」「けれど」「でも」などがある。ほかにも、「反面」や「反して」「あべこべに」「逆説的に」「逆に」「裏から言えば」「いっぽうで」「にも拘わらず」「とはいえ」「ひるがえって(副詞)」などがある。反証や例外を示す場合に用いられるが、すべてが等しく同じ意味ではない。たとえば数学では、「逆」「裏」「対偶」とそれぞれ明確に意味が分類されている。かんたんに説明してみよう。まずは「逆」だ。「黒は白ではない」というテキストAがあるとしよう。テキストA「黒は白ではない」自体は間違っていないことは誰もが理解できるはずだ。黒は白ではないのだ。猫が犬ではないのと同じくらい明確である。テキストA「黒は白ではない」の逆は、「白ではないとき黒である」だ。この場合、テキストAの逆説は矛盾する。成立しない。犬ではないとき必ずしも猫であるわけではないのと同じだ。シカやライオンである可能性もある。ではテキストA「黒は白ではない」の裏はどうかというと、「黒でないとき白である」となる。この場合も、テキストの意味は矛盾する。成立しない。黒でなくとも白以外の色の可能性もある。猫でないならばネズミやウサギであってもおかしくないのと同じだ。では対偶はどうだろう。テキストA「黒は白ではない」の対偶は「白であるとき黒ではない」となり、これは文章として矛盾しない。犬であるなら猫ではないのと同じだ。文章として成立すると見做してよい。このように、正しいテキストであっても、その逆や裏は必ずしも意味が通るようにはならない(矛盾しない場合もあるが)。そして対偶は、必ず元の文章の整合性と合致する。元の文章が正しいときは正しく、間違っているときは間違うように文章構造が対となる。したがって日本語の文章では基本的に、「逆に言えば」というときは、逆に言っても成立する言葉がつづく傾向にあるので、たいがい対偶を用いている場合が多い。しかしながら、逆と裏と対偶はそれぞれべつの意味合いを示す。逆説的に、と言ったときには、きちんとそのあとにつづく文章には逆説の意味合いを補足したほうが整合性という観点では、より正しい日本語となるはずだ。裏から言えば、と言ったときには、きちんと裏から言ったほうが好ましい。もっとも、いくひしもその辺はかなりあいまいだ(この文章もネットを検索しながら並べた。間違っているかもしれない)。ご多分に漏れず、逆にと言っておきながら意味的には逆説ではなく、対偶を使っている場合が多い。他方で、「逆に」には、数学の集合以外にも、ベクトル(方向)を示す意味合いもある。たとえば、「山に行った。逆にあすは海に行きたい」としてとくに違和感はないだろう(正しいかはべつとして)。いずれにしろ、この辺り、きちんと使い分けている作家を、いくひしは知らない。もちろん、作文と数学は異なる。こんなことを拘りだしたら、おもしろい小説などつくれなくなるだろう。破たんのない文章になんの面白味があるというのか。数学的に、論理的に正しい文章を並べたければ、それこそ数学を使い、論じればいい。なのでいくひしは、逆に、敢えて使い分けない方針を貫いていこうと思うのである。裏から言えば、いくひしはそれらを使い分けようとすれば使い分けられる人間であることを示す。とはいえ、しかしながら、けれども、あべこべに、その反面、そういうつもりであるだけで、じつはまったく使い分けることのできないトンチンカンである可能性も否定しきれない。にも拘らず、いくひしはじぶん自身をできるコだと思いあがっているのである。傲慢チキである。ひるがえっては、いっぽうで、そういうところが憎めなくて、どことなくチャーミングではない? ではない? ないの? ぜんぜん? うそでしょ? ほんとに? そっかぁ。でもちょっとはかわいいって思ってるんでしょ? ぜんぜんなの? ふうん。かわいいって言え!!!!!!



1474:【捨てたもんじゃない】

いくひしは誰からも必要とされていないし、誰の役にも立っていないけれど、それでも、だからこそ、そんないくひしでも生きていられる世のなかはなかなかどうして捨てたもんじゃないなって思う。誰かに必要とされなきゃ生きていけない世のなかや、役に立たなきゃそこにいてはいけない社会は、いくひしにとっては地獄以外のなにものでもない。必要とされたくないし、役に立つなんて称号もいらない。ただそこに存在していていい、生きていていいんだと認められることなく、そうあることがしぜんな世のなかになっていくのであれば、未来もそんなにわるいものではない気がする。



1475:【それはつよさなの?】

世界でもっとも貧しく、脆く、弱い、人間と呼ぶにも心もとない存在になったとしても、目のまえの日々を見詰め、掴み、こね、楽しみへと育て、生きつづけられるくらいにつよくなりたい。



1476:【それはよわさなの?】

世界でもっとも豊かで、しなやかで、つよい、人間と呼ぶには出来過ぎた存在になったとしても、目のまえの数値化することもできないほど均一化した人々を目にし、蔑んだり、憐れんだり、優越感に浸ったり、「どうしてあのひとたちはあんな効率のわるいことをしているのだろう、もっとこうすればいいのに」なんて知った口を叩かずにいられるくらいにつよくなりたい。純粋なつよさはきっと、ダイヤモンドみたいにちょっとした衝撃で砕け散るよわさをその身のうちに宿している。よわさを手放さずにいられるようになりたい。己が身のよわさを見失わずにいたい。不純であっても損なわれないくらいにつよくなりたい。粒子みたいに自由で、電磁波みたいに確固とした存在になりたい。



1477:【それはよわさでしょ?】

世の人々からつよいと思われている有象無象どもをデコピン一発でぶっとばせるくらいつよくなりたい。



1478:【それはよわさだよ!!!】

てか、俺より強い奴はつぶす。弱い奴は好きだぞ。俺の言うことを聞く限りな。



1479:【よわーっ!!!】

はぁ、きょうもみんなキラキラしてるなぁ。人類滅亡しないかなぁ。



1480:【うそだよー】

思ってないよ、そんなこと。たまにしか。




※日々死が擬人化されていく。



1481:【バナナちっぷ】

いくひしはバナナ味が好物です。バナナそのものよりも、バナナシェイクとかバナナアイスとか、チョコバナナパフェとか、バナナチップスとか、そういうのがときどき無性に食べたくなる。さいきんだと、コッペパンとか食パンに輪切りにしたバナナを詰めて、チョコを添えて、オーブンでこんがり焼いていただきますするのがマイブームというか、ときどきやってくるバナナ味たべたーい、の衝動をえいや!ってする常套手段になっております。で、さいきん暑いじゃないですか。バナナもすぐに黒くなるし、まいかい、まいかい、バナナチョコじゃ味気ないし、かといってバナナアイスとか、パフェとか、チップスを買ってくるとなかなか値が張って、財布がげっそりしてしまうので、こうね。いくひしね。考えたよね。サランラップに、薄く輪切りしたバナナ並べて、上からサランラップでフタして、ぺったんこのバナナの輪切りの雑魚寝ラップを冷凍庫にぽーいってしたら、あらうれしい! お手軽バナナチップアイスのできあがりでござるよ。こうね、ありますよね。冷凍みかんならぬ、冷凍バナナってのが。ありますでしょ? あれね、でもね、固くて歯にしみるじゃないですか。虫歯じゃないのって? うるせーなー! 飼ってんだよ、いくひしさん歯で虫を飼ってんの、敢えて、これは敢えてですから! それはそれとして食べにくいじゃないですか。でも、そこはほら、輪切りにしておけば、あらふしぎ、ぜんぜんパリポリいける。いただける。いっしょにチョコとかじれば、お得なチョコバナナアイスでござるよ。ヨーグルトに添えたら、チョコバナナアイスヨーグルトでござるよ。すてきー。おいしいのでね。夏バテぎみのそんな日には、ちょちょーいと作ってみてはいかがでしょう。うすーくぺったんこなのでね、凍るのもスグですから。ぜひぜひお試しあれ。え? なに? バナナきらいなの? 食べたくない? 見たくもないの? ふうん。ゴリラにあやまろ?



1482:【猫チェンバー効果】

いくひしの小学校低学年のときの夢は、二十歳になったらたくさんの動物に囲まれて暮らすことでした。かわいくない? でもその動物の内訳は、ヘビとか毒蜘蛛とかそういうのでした。かわいくなくない? まーでも、いくひしはね、いちばんはやっぱり犬がね、子犬が好きでした。なんといっても人懐っこいというか、主さまー、みたいに舌だして、あそんでーあそんでー、って追いすがってくるの、よくないですか? いいですよね。わいがいなけりゃこのコはどうなってまうんやー、みたいなね。そういう、共依存みたいなの、ちいさいころからとぅきでした。猫はねー、いくひし、ちいさいころはあんまり、そこまででもなかった。というか、猫ってほら、べつにあんたなんかいなくても生きていけるわい、ふんだ、みたいな高飛車な感じがしてやじゃない? まるでどっかの売れないぽんぽこぴー作家もどきみたいじゃない? いくひしみたいじゃーんって思った? 思うな! 思わないでー、いくひし、猫みたいって言われるのやだー、あんな小憎たらしくなーい、かわいくなーい、そりゃそうだってうんうんするのやめろや!!! はい。いくひし、傲慢なわりに繊細なので、傷つきやすいのでね、かんべんして! 手加減ってだいじやん? で、犬派と猫派ならだんぜん犬派だったいくひしさんですが、こうね、こう、いまはどうなのっていうと、そのー、あれっす。飼うならいまは猫かなって思ってる。だってさー、なんかさー、放っておいてもいいくらいにたくましいのはさー、猫って感じするじゃん? 偏見? まちがってる? ふうん。そうなんだ。まあね、猫、かわいいじゃん。かわいいって思うようになっちゃった。ネットの影響。これはね、断言する。いくひしね、ネットするようになるまでは猫ってそこまでかー?ってふつうに思ってた。人と話すときも、やー犬っすね、って断言してた。でもネットってさ、なんかさ、猫派のほうが優勢じゃん? 多くない? 猫の画像の多さに比べたら犬の画像の目立たなさときたらないよ。ロリとショタならロリのほうが多い現象並に顕著だよ。ショタは犬だったかー。そっかー。そういうことではない? そっか。で、やっぱりインターネットでさ、あまりにみんなして「猫いいよね」「いい」みたいに言ってるからさ、素直ないくひしさんは、そっかー猫、いいんだね?みたいに段々なってきちゃってさ、いまでは立派な猫派だよ。犬もいいけどやっぱ猫だよね、みたいになっちゃった。くそー。インターネットの陰謀だ。こういうのなんてったっけ。あったよね。大勢の意見に流されちゃうやつ。元々あった猫も好きだけど、の猫が好きって気持ちが、閉じたコミュニティに属したせいで、増強して強化されちゃうやつ。そうそう、ネコチェンバー効果ね。え? ちがう? エコーチェンバー? そっかそっか。だそうです。インターネットでもね、こうね、好きなものだけ見てると、知らぬ間にじぶんの嗜好すらねじ曲がってきちゃうこともあるのでね。それのなにが問題かはよくわからないけど、いくひしの場合はたまたま猫がもっと好きになっただけだけど、でも運がわるければ、犬なんてかわいくないみたいな言葉にばっかり触れちゃって、あれだけ好きだった犬のこと、嫌いになってたかもしれない。そんなのって、ないやん? かなしー。やだよ。なのでね。できるなら、好きなものをよりよく好きになるようにインターネットを使っていけたらなって思う。エコーチェンバーじゃなく、すこし好きだったものをもっと好きになるような、そういうネコチェンバーを目指していきたいなって、きょうのいくひしさんは思ったんだってさ。いいこと言った? そうでもない? 褒めて!!! おやすみー。



1483:【挫折】

まいにち絵を描くって言ったな(三か月くらい前に)。ありゃウソだ。



1484:【短編のつくり方3】

きょうは書くことを思いつかなかったので、短編をつくる過程を追っていきたいと思います。きょうのテーマはホラーです。ホラーの基本は、不気味さですよね。不安定さというか。もうすこし大まかには、放置できない未知というべきか。放っておくことができない、とは要するに、危険だ、ということです。なぜ危険なのか。それが判ってしまうと、ホラーではなくなってしまうので、なぜかは分からないけれども、なんとなく危険、くらいがちょうどよいのではないか、と思います。ではどうなったら危険だと人は思うのでしょう? まずはなんといっても命の危険ですね。死んでしまう恐怖は、ホラーの基本です。あとは、たいせつなものが損なわれる恐怖もありますね。ただ、それを直接描くと、じつはホラーにはなりません。いえ、なることもありますが、あまり上質ではない。ミステリィやサスペンスも命の危険や、たいせつなものの消失を描いたりしてますよね。そちらのほうが直接的と言いますか。むしろ、恐怖の延長線上で、このままいくとそうなるかもしれない、と無意識に連想してしまう、そうした事象のほうが、ホラーの本質を捉えている気がします。つまり、死んじゃうからコワイ、ではなく、死ぬかもしれない、とぼんやり思わせるくらいがちょうどよいのです。たいせつなものが失われる、となれば対策をとるのが人間です。でも、まだそこまでじゃない、でもこのままだとなんか不安だ、がホラーの神髄だと思います。それを一言でまとめますと、常識が通じない、不条理、となるでしょう。たとえばこういうのはどうでしょう。『仕事のついでに食堂に立ち寄った。知らない町だ。山に囲まれているせいか、蝉の声がうるさい。食事処は繁盛しており、味のほうの期待が高まる。注文し、料理が運ばれてくるまでのあいだ、なにともなしに店内を眺めていると、ふと妙なことに気がついた。客がみな、箸を逆に持ち、使っている。なぜだろう。思いつつも、運ばれてきた料理のうまそうな匂いに、さっそくとばかりに箸を構える。そのままふつうに食していると、ふと、耳鳴りがした。静かだ。箸さきを口に咥えたまま何気なく店内を見回すと、客や店員たちが一様にみなこちらに顔を向けていた。何を言うでもなく、ただこちらを見ている。居心地がわるい。ひと息に平らげ、勘定をすべく席を立つ。店員や客たちは、なぜかこちらの食したカラの器と箸を囲むと、じっとその一点を凝視した。不気味になり、金だけレジに置き、そとにでる。耳鳴りがいっそうつよまるのを感じた。額から垂れた汗が靴のうえに落ちる音が聞こえるようだ。歩を進めようとして、踏みとどまる。道路は一面まっくろだ。蝉のなきがらで埋め尽くされている。どの蝉も六本の肢をそらへと向け、どの眼も黒く、箸さきで突いてできた穴のようだった』なんだか作り話みたいで、あまりホラーらしくないですね。作り話なのでそのとおりです。幽霊やオバケや、超常現象をネタにするときの問題点として、体験したことの因果関係を主人公が洗いだせるのか否か、があると思います。上記の蝉の話の場合は、その後に店に戻って、「なんか道路が蝉でいっぱいなんですけど」と言った場合に、どうなるのか、を想像すると、途端に白けてしまいます。箸をふつうに使ったから蝉が大量死した、と読み解けるものの、その因果関係を証明しようとすれば、案外かんたんにできてしまうところに、この話の弱さがあります。せめて、蝉の大量死を目撃するのは、その町からでるとき、電車から見た風景にすべきでしょう。そうすれば店に戻ることもできず、また、見間違いかもしれなかった、というあいまいさが漂い、因果関係の証明が困難となり、よりホラーらしくなります。ここ数年のホラーの定番としては、幽霊や超常現象だと思っていたけれどもじつは人間の奇行が原因だった、というものがあります。これは、因果関係を明らかにできることがむしろ恐怖に繋がるタイプの物語構造で、本当におそろしいのは人間だ、という単純な話ではなく、ホラーの抱える欠点を見事に打開している「新しい定番」だと言えます(すこし古い型だと、「じつは殺人現場だった」や「人が死んでいた」といった、その場所やアイテムがいわくつきだった過去を明らかにするホラーも定番です)。ミステリィとの違いは、事件を解決するのではなく、飽くまで解釈が変化しただけ、という点にあるでしょう。つまり、ホラーの場合は何も解決しないのです。この点を意識して、一つためしにつくってみましょう。『その噂は知っていた。帰り道や家の窓からよく目にしていたので、半分は正しいと知っている。小学校の第二図工室には、夜中になると居残りの生徒が一人で授業をしている。もちろん、夜中にそんな生徒はいないし、幽霊が漂っているなんてこともない。ただし、ときおり明かりが灯っていることがある。それは本当だ。バイト帰りによく目にしていた。午前零時を回った時刻に、なぜか小学校の図工室にだけ明かりが点いている。家が丘のうえにあるため、校舎を一望できた。ほかの家からも見えているだろう。教師の消し忘れなのか、なんなのか。なぜかいつも同じ教室、図工室だけが煌々と明かりを灯している。もちろんそこには誰もいない。すくなくとも、見える範囲には、人影はない。だからおそろしくもないし、不審にも思わなかった。何年もずっとつづいているのだ。日はまちまちであるにしろ、それが自然な様として日常の風景に溶けこんでいた。学校側で、何か目的があってそうしているのかもしれない、と心のどこかでは納得していた。就職し、地元を離れてからは、すっかりそんな日常の風景のことなど忘却の彼方に沈んでいた。だから、ことしになって、校舎から遺体が発見された、とニュースで観たときは驚いた。校舎の駐車場に並んだパトカーの画像を母が送って寄こし、うそではなかったか、と亜然とした。そのときはまだ、例の、日常の風景を思いだすことはなかった。なぜなら遺体の見つかった場所は、校舎のなかではなく、そとだったからだ。体育館の裏にある畑から、若い女性とみられる遺体が発見された。校舎を増築するために掘り返した際に発見されたものらしく、死後、十年は経っているとのことだった。犯人は捕まっていない。みな口には出さないが、教師の誰かが犯人なのではないか、と思っているにちがいなかった。警察からはとくにそういった発表はなかった。週刊誌もひと月ほど騒ぎ立てたが、捜査が難航し、容疑者がいっさい浮上しないとみるや、続報を載せることもなくなった。ニュースから一年半後に同窓会があり、地元に戻った。同窓会は中学校時代の生徒の集まりだった。やはり件のニュースは話題になった。「そう言えばさ、夜の図工室のやつって、どうなんだろうね」誰かが言った。「関係ないんじゃね」そういった声が多いなか、じつは、と話したコがいた。丘のうえに家のある、近所のコだった。夜な夜な、明かりが点いているのをよく目にしていた、噂の半分は本当なのだ、といったことを話した。いまはどうなのか、とみな話に食いついた。そのコは実家暮らしをしており、いまでも学校を見下ろせる場所にいる。「いまはもうないよ。そうだね、事件があったころからかも」こわーい、と女子たちが騒ぎ、やだー、と男子たちが真似した。同窓会は精神年齢が低下して困る。帰りに、くだんの小学校に寄った。辺りはまだ明るい。とくに理由があったわけではないが、なんとなしに、遺体が発見されただろう場所に花を添えた。まいにちのように眺めていたのだ。あすの朝いちばんにはまた地元を離れる。これくらいしてバチは当たるまい。夜、寝る前に窓からそとを眺めた。学校が見える。暗闇に沈んでいる。意識したわけではないが、遺体の発見された区画に目がいった。そなえてきた献花は闇に埋もれている。新しい建物が増築されている。あの下に遺体が埋まっていたのだ。生徒たちは何も思わないのだろうか。寝る前に見る風景ではないと思い、目を逸らそうとしたとき、視界の端に明かりが灯った。まさか。目を転じると、例の、図工室に明かりが灯っていた。うそ。なんで。思いながら、じぶんは無意識から、遺体が見つかったのだからもう灯るはずもないと思っていたようだと知った。端から事件と関係ないのならば、べつに明かりが灯ったとしてもふしぎではない。それこそ、学校側で何か目的があるのかもしれないのだから。納得し、カーテンを閉めようとすると、明かりのなかに何か動くものを目にした。意識するよりさきに目がいった。誰かが立っている。小柄で、髪が長い。女性だと判った。図工室のなかで、窓に触れるように立っている。なぜか彼女はこちらを見ているように感じた。気のせいだ。そうに違いない。だんだん目が慣れてきた。女性が窓を拭いている。ちがう。手を振っている。だれに? 女性の口元が動いている気がした。次点で、彼女は窓にゆびで大きく文字を書くようにした。鏡文字でありながら、それがなんと書かれているのかを理解するのは容易だった。おかえり。女性の年齢は若くないように見えた。なぜか、あのコと同じ柄の服を着ていた。土に埋もれていくその柄がまぶたの裏によみがえる。振り払うように、カーテンを閉めた。リビングに下り、母に訊ねた。「遺体の発見された場所って、新しい校舎のとこだよね」母はTV画面を見たまま、「そのもっと手前」と言った。ついでのように、ずっと探してたんだってさ、と付け足す。「かわいそうだねぇ。亡くなったコも、そのコのお母さんも」そのとき、インターホンが鳴った。「あらやだ、こんな時間に」暢気な足取りで玄関へと向かう母を、止める言葉を、ついぞ思いつくことはなかった。玄関の鍵の解かれる音がする。扉が開く。話し声がする。一拍の静寂のあと、母の、こちらを呼ぶ声がする。(完)』はい、どうでしょう。ホラーというよりもミステリィになってしまったかもしれません。ただ、問題は解決していませんし、途中で変わったのは読者の解釈の仕方です。また、ホラーのつもりでミステリィになったとしても、それで困るのは、ジャンルで作品を評価するレーベルや編集者であって、読者や作者にとっては些末な事項でしょう。思ったのと違うものができあがったとしても、当初の予定を知る者は、作者以外にはいないのですから(依頼があった場合はまた話が変わってきますが)、ホラーのつもりでミステリィができてしまったのならば、ミステリィですと言って世に放てばそれで済む話です。飽くまで、小説であればよく、さいあく、短編をつくりたかったのであれば、短編に収まれば、それが最善です。ジャンルとは料理名ではありません。洋風のハンバーグも、和風のハンバーグもあってよいのです。ハンバーグをつくろうとしてカレーをつくってしまうのは考えものですが、けっかとしてハンバーグになっていれば、料理としては成功でしょう。ジャンルに囚われると、創作そのものがつまらなくなってしまいます。カレーハンバーグを食べて、それを和風と位置づけるか、洋風と位置づけるかは、食べた人の解釈次第です。このように、短編をつくるときは、ある程度の方向性を決めておけば、それらしい何かができあがります。詰まってしまったときは、いっそのことジャンルという縛りを脱ぎ捨てることも厭わない奔放さが、物語を編みつづけていく過程では必要となってくるでしょう。まずは完成させること、結ぶ癖をつけることが、小説をつくるうえで欠かせない訓練になっていくと思います。今回、読んでいただけた方には伝わったかもしれませんが、創作論と、じっさいの創作とのあいだには、そこに表出する物語に差異があります。こうして、こうして、こうすればいい、という理屈と、その理屈によって編まれた物語とでは、どこかにゆがみがでてきます。それは欠点であると同時に、醍醐味でもあります。理屈で、(おもしろい)物語を構築できるのならば、世の編集者はみな作家になっているでしょう。逆もまた然りです。おもしろい物語が理屈でつくれるのならば、世の売れっ子作家はみな、自分自身で編集業も営んでいるはずです。物語の構造や特性を分解し、理解し、統合することと、じっさいに組みあげてみせることのあいだには、どこか捻転した境界があります。イコールでは結ぶことのできないねじれが、物語にはあるのです。それを、創作と言い換えてもよいでしょう。小説のよいところは、自由なことです。テーマやオチを決めたとしても、途中でいかようにも変えていい奔放さがあります。それを手放さずにいましょう。そのためにも、途中で方向性を変えても崩れてしまわないだけの、強固なブロックをたくさん手にしておく必要性があります。頭と胴体と下半身は一つでセットです。どんな頭をどんな胴体にどうやって下半身へとくっつけるか。一連をとおして頭の物語もあってよいですが、お付き合いするのならば、やはり頭と胴体と下半身がセットになっているほうが、とっつきやすくはあるでしょう。もちろん、下半身のない物語も、中身がステキなら文句はありません。そういうことを常日頃考えながら、ときに忘れながら、物語を編んでいきましょう。もちろん、編まずにいても問題ありません。いずれ人はみな、じぶんという人生をつむぎつづけているのですから。



1485:【権化の言語】

私は差別意識が人よりつよい。他人の気持ちも、びっくりするほど解からない。なぜそんなことで傷つくのか、と周囲の者どもの脆弱さにビクビクする毎日だ。浮かんでくる言葉の総じては吐きだしてはいけない醜悪ばかりで、まるでじぶんの血をぐびぐび飲みくだすような不快感をつねに抱いている。他人を傷つける人間はそれだけで、大勢から滅多打ちにされる。だから飲みこんでいるだけにすぎない。王さまや独裁者にでもなればこんな不愉快な思いをせずに済むのだろうと、二時間にいっぺんは考える。私がすこし身を入れると、すぐさま周囲の人間を置き去りにしてしまう。本気をだしてはいけないのだと知ったのは言葉を覚えるよりさきだったかもしれない。まるで周りの人間がイモムシか何かに視える。同じ生き物とはとうてい思えない。私は私ひとりきりが宇宙人で、この星の住人ではなく、不承不承致し方なくこの脆弱な生き物の皮を被っているだけなのだと、義務教育にあがるまでは真面目に考えていた。周囲の人間たちの真似もだいぶん板についた。私は私であることを放棄するのがとても上手だ。もはや誰も、私が私であると知る者はない。自由を束縛される心配を抱かずに、ヒト一人をこの世から消すなど造作もない。この手を汚すことなく、そうなるようにそうすることは、盤上ゲームよりもお手軽に私の胸のうちに、いっときの開放感を与える。私の周りでは、自殺者が絶えない。私に害をなす者も、例外なくその地位を追われ、惨めな余生を送るはめになる。私はそんな彼氏彼女たちに憐みの言葉をかけ、ときに陰ながら応援し、そうして、そうした善意を相手へと善意だと思わせることなく、しずかにしぜんと摂取させ、徐々に内側から毒していく。殺意で人を殺すのは三流だ。無関心に人を殺めるのも一流とは言い難い。私は私でいられぬこの世のなかに愛想を尽かさぬよう、これからも、これまでのように、この脆弱な身体の内側から、善意を振りまき、損ないつづける。人の生を、その生き様を。私に窮屈な世界を強いるみなの夢を、希望を、損なうのだ。人は私を弱者と呼ぶ。私がそう呼ばせているにすぎない。強者であることの強みとは、弱者と見做されてもつぶされないことにある。誰からも敵視されることなく、世界はこうも奪えるもので溢れている。



1486:【寝起き】

やばい。頭から赤ちゃんのすっぱいにおいするんだけど。



1487:【髪洗ってから寝ろ】

SNSでたくさん話題になることを「バズる」と呼ぶ。いくひしは基本的に、バズることでその作品の価値が高まるとは思っていないタイプの人間なので、バズりたいとも、バズろうとも思わない。出版社から声がかかりやすくなりますよ、と言われても、はぁそうですか、となる。電子書籍の売り上げがあがりますよ、と言われると、まじでー、とはなるものの、バズった程度で売り上げに顕著な変化は起こらないと思っている。いっぽうで、そんなこと言ってバズれないだけちゃうの、と言われると、なにくそこのやろー、となるタイプでもあるので、ひとまずいちどくらいはバズっておきたいとも考えている。ゲーム感覚で、あれやこれやと気長にやっていこうと思う。



1488:【コーヒー牛乳】

コーヒーと牛乳を混ぜただけの、甘くもないただのコーヒー牛乳がうまい! おなかぱっつんぱっつんなるまで飲んでまう。ごくごく、ぷはー。生きかえる~。げこげこ。



1489:【言えない】

お世辞が言えない。言い換えると、いくひしは嘘が下手である。思ってもないことを声にだす、という行為がむつかしい。思っていないのになぜ、本音のときと同じ口調でみなはしゃべられるのだろう? 役者でもないのに、どないしてー、とふしぎでならない。うらやましい。あべこべに文章では、本音が並べられなくなる。じぶんでもふしぎなのだが、そうなのである。本当に思っていることを言葉の羅列に落としこむことが苦手だ。この文章もまた、ほとんど今この瞬間に浮かんでいる、どうでもいいことである。どうでもいいから、いくらでも並べていられる。嘘とまではいかないが、本音とは言いがたい。だいいち、本音とは何かがよく解からない。ということは、声にだしてしゃべるときも、本音のつもりで、本音ではないのかもしれない。なぞである。べつに解かれずとも困らないので、しばらくはなぞのままでいさせてやろう。寛大なお心持ちのいくひしさんである。



1490:【命名が苦手】

知らないことが多すぎる。と、いうよりも、知っていることなど何かあるのか、と我が身のスカスカ加減に目をみはる。ところでたった今閃いたのだが、「めをみ・はる」というキャラ名はなかなかどうしてかわいらしく、よいと思う。



※日々徒労を努力と言い張っている。



1491:【増員希望】

5月21日にtwitterをはじめてから2か月と2週間が経ちました。プロフィールへのアクセス数は平均300回くらいに落ち着いています。ひと月だと1万回くらいのアクセス数です。7月は一週間ほど休止しましたが、そのあいだも1日平均180回くらいのアクセスがありました。休止明けから、twitterの使い方をすこし変えました。リツイートやファボをする時間帯を決め、時間も30分~60分と定めました。じぶんとの約束です。破るのは自由です。罰則もありません。いまのところは順調に守れています。ただし、ログインせずに、じぶんのタイムラインを眺めることはあります。癒されるひとときです。いい時代になりました。はい。7月からはじめたinstagramのほうも現在の投稿は20件あります。別個に短編をいくつかつくったので、現在は4万字ほど原稿が溜まっています。このままいけば、50件投稿するころには、本1冊分にまとめられるかもしれません。ひと区切りつくようでしたら、電子書籍にしたいと思います。また、twitterに慣れてきたこともあり、別アカ(https://twitter.com/Man_is_IBUKI)をつくりました。こちらは日替わりで500文字前後のショートショートを投稿していこうと思います。ひとまず200日つづければ、本1冊分の分量が溜まります。日替わりですから、じっしつ、1ジャンルにつき30作前後(1.5万字)つくれば済む計算です。こちらも本1冊分溜まった時点で電子書籍にしていこうと思います。長くつづけるつもりはありません。まずは本1冊分を目標に、毎日あげていこうと思います。その分、こちらの「いくひ誌。」の文字数がすくなくなるかもしれませんが、優先順位ではこちらのほうが上です。まずはどちらもつづけていこうと思います。新作のほうですが、4つの物語が、頭のなかの創作野にて、工房入りしています。タイトルと進捗はそれぞれ、「かってに死んでBAD(進捗5万字)」「文学キラー(進捗5万字)」「傷と夏(進捗3万字)」「雷獣、そらに昇る(進捗8万字)」となります。いずれも物語は佳境に入っています。そろそろ順々に閉じていこうと思います。閉じない物語に読まれる価値はありません(価値がなくとも、無意味ではないでしょう)。いくらたくさん文字を並べたところで、読者に読まれないのでは小説として成立しないのと同じです。ほかにもつくりかけの短編(中編の種?)が10~20程度あるので、そちらも隙をみて結んでいこうと思います。時間はあるのですが、能力が足りません。小説以外の楽しみにも時間と労力をかけたいので、そろそろ、いくひしのなかのひとを増やしていこうと思います(2人くらい?)。



1492:【俎上に載る】

ここ三年余り、組織のトップの不祥事が取り沙汰される機会が多くなった。組織の問題ではなく、そのトップ個人の立ち振る舞いや私生活が問題視されるようになったと言い換えてもいい。組織の質が悪化しているのか? そうではない。むかしから一定数そういった、困った権力者はいたのだ。マスコミがそれを記事として取り上げなかっただけにすぎない。なぜかと言えば、権力者に盾つくよりも、うまい具合にコネを固める方向に尽力したほうが得をするからだ。つまり、あなたの不始末を記事にしませんよ、だから仲良くしましょうね、と権力者とマスコミは暗黙の了解で癒着していた、ということである。では現在は何が変わったのか。一つは、大衆の興味関心の変化である。SNSなどの集合知の登場により、人々の問題意識が可視化され、かつ、格段に深化している点が挙げられる。マスコミは視聴率や話題性を求める性質がつよい。大衆の興味関心が、組織の腐敗や権力者の不祥事に向いていると見るや、権力者におもねるよりも、視聴率や話題性という名の利益に触手を伸ばしたほうが得だと判断するようになった。また、マスコミという名の影響力を誇示する意味合いで、我々にはいい顔をしていたほうがお得ですよ、と権力者へ強請りじみたアピールができる。持ちつ持たれつだった力関係は、いまや傾き、主導権はマスコミが握る構図ができあがりつつある。社会の内部でもみ消されてきた様々な問題が表層に浮きあがり、灰汁のようにすくいとることの可能な社会になってきた。それは好ましいことである。しかしながら、それはけっきょくのところ、マスコミによる印象操作がつよく働いた末の「ネタ」である。その点には注意しておいて損はない。マスコミの機嫌しだいで、潰される権力者とそうでない権力者、或いは個人がでてきてしまっては、これからの情報社会ではますます問題の根は深まっていく。我々一人一人の興味関心が結果として、マスコミという名の拡声器の舵をとることになる。俎上に載る人物の素行そのものが問題だ、というよりも、なぜそのような人物が組織のトップに居座りつづけていられたのか、もしくは、なぜ権力を不当に振るう真似がまかりとおるのか、と、まずは問題が問題として放置される構図を指摘し、改善を求めるのが、議論を煮詰めるにあたってテーマとしていくべき指針となる。議論は、結論をだすためだけのものではない。広く議論されているという事実だけでも大きな影響力を発する。俎上に載った個人を責め、立場から追いやるだけではなんら解決に結びつかない。権力を持った人間が、そのちからを不当に、理不尽に、恣意的に振るまいつづけられる環境をまずは変えていこう。そう声をあげることもむろん有効だが、それだけではなく、自身の日々の生活を省み、問題の種を発芽される環境の一因(一員)に自身も与していないかを、ときおり意識してみることが、誰にでもでき、かつ、本質的な改善策になり得るのではないか。ともすれば、それがもっともむつかしいのかもしれない。(マスコミに従事する者のなかにはむろん、より公正な情報の提供を目指し、日々悪戦苦闘している方もすくなくないはずだ。ただし、マスコミもまた資本主義社会における一企業である以上は、より利益をあげる者が職制の階段をあがっていくこととなる。世俗な話題ほど視聴率があがりやすいのがこれまでの社会であった。まずは視聴者たる我々が自身の興味関心を耕し、個々人が各々に、それぞれの器をより豊かに形成していかねばならないのかもしれない)



1493:【インプレッション】

きのう、ツイッターで初めてつぶやきを投稿しました。アナリティクス解析が利用できるのがいいですね。インプレッションは百くらいです。おそらく、すべていくひしが閲覧した回数だと思います。そこまで何回もTLを開いた憶えはないのですが、フォロワーがゼロなので、そう考えていて大きな間違いはないと思います。ということは、一人につきだいたい、百回なので、一万人から閲覧されるには、百万インプレッションが必要です。とりあえず、本一冊分の分量が溜まるまでのあいだに、それくらいのインプレッションが集まることを目標にしていきたいと思います。無理だとは思いますが、目標に掲げるだけならばタダですからね。まずはやっていこうと思います。(ツイッターやっていない人は、なんの話かがわからないかもしれませんが、検索したらわかるので、気になるようでしたら検索してみてください)



1494:【だってなんだもん】

twitterで絵をリツイートしている。まいにち同じアカウントの方の絵をリツイートすることもしばしばだ。お気に入りなのである。拡散したいのである。多くの人の目に触れてほしいのである。ただ、いくひしのそうした独善的な行いが、絵描きさんの負担になっていることもあると思うのだ。すこしでも嫌な思いをされているのなら、遠慮なくミュートやブロックをしていただきたい。いくひしは人の気持ちを察するのが苦手である。嫌なことは嫌だと言われないと判らないし、ダメなことはダメだと言われないと理解がそこまで及ばないのである。端的にバカである。悪気はないのである。ただ、すこしばかし、じぶんよがりにすぎるのだ。いくひしにかぎっては、気軽にブロックしてくれてよい。むしろ、していただけると、こういう場合はダメなのか、と勉強になるので、ぜひ遠慮なくシャッターを下ろしていただきたい。繰りかえしになるが、悪気や悪意は皆無である。ただし、いくひしの本懐など、相手からすればどうでもよいことである。だいじなのは、絵描きさんのお気持ちである。こうして釈明を並べておけば読んでくださる方がいないとも言い切れないので、この場を借りてお詫び申しあげます。不愉快な思いをさせてしまっているかもしれません。申しわけございません。が、懲りずにいくひしはリツイートをするのである。だってステキなんだもの。勝手ながらにも平素より癒しをいただいております。加えて、深く感謝申しあげます。



1495:【下水道】

鼠老子から、ちょいと頼んま、とお呼ばれした。幼いころに世話になった恩がある。仕事の合間を縫って駆けつけると、鼠老子は街はずれの巨大な側溝のまえに一人でぽつねんと佇んでいた。「どうしました」「うんみゃ。なんかおる」鼠老子は髭を、下水につづく穴に向けひくつかせる。仔細な事情を話す気はないらしい。背中は曲がっており、後ろ手に組まれた手はちいさい。まとっているボロからは細長い尻尾が伸びている。ときおり思いだしたように腰に巻きつけるが、人間でないのは一目瞭然だ。老子もお歳だ。偽装体を維持するチカラも残されていない。「地下街に何かが住みついた、それをどうにかしてほしい、そういうことですか」「うんみゃ」鼠老子は穴の縁に腰掛け、「待っとる」目をつむり、ちいさな呼吸音を響かせるだけとなる。地下街のまとめ役として長らくその座に君臨してきた鼠老子である。さいきんではそのお役目のほとんどを側近たちに任せきりだと聞き及ぶ。鼠老子が手腕を発揮していたころは、流れ者のアヤカシモノや霊体がこぞって地下街に身を寄せていた。いまでは鼠老子の側近たちの後釜争いによって、地下街は大きく分断している。人間界を追われて辿り着いたさきでも、権力争いによって理不尽な扱いを受けるモノたちにとって、もはや地下街は憩いの場ではなくなった。いまでは全盛期の三分の一にまで地下街の構成員は減っているそうだ。来るものを拒まず、が理念の地下街だ。治安の悪化程度では街の免疫機構は働かない。鼠老子はそれを憂うわけでもなく、まつりごとからは距離を置き、隠居生活を送っている。ただし、こうして看過できない事案が起きると秘密裏に事の鎮静化を図るのだ。かつて交流のあった境会幹部やこちらのような専門業者を呼び寄せては、火種の処理を命じる。今回はこちら一人ということで、様子見といったところか。下水道に足を踏み入れる。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886588388



1496:【ルビー】

漢字に振られているちいさな文字を「ルビ」と呼ぶ。語源は、かつて文字の大きさを宝石にたとえたことに由来する。ダイヤモンドやパールがあるなかで、ルビーはちいさく、活版印刷ではあまり使われなかった。そのため、比較的よく使われる大きさの文字はどんどん呼び名が変わっていき、結果としてルビーだけが、ルビとして、呼び名が残ったそうだ。なんだか寓意じみて感じられないだろうか。もっとも軽んじられていたルビだけが、いまなおその呼び名で親しまれ、汎用性の幅を広げ、書物の可能性を最大限に引きだしている。「極限」と書いて「きょくげん」とルビを振っても、「リミット」と振っても、「がまんならない」と振ってもいい。読ませたいようにルビを使えば、文章の可能性は単純に二倍にも、二乗にもなる。とはいえ、いくひしはあまりルビを使わない。本来ならすべての漢字に読みがなを振りたいくらいだ。「逃がす」にしても、「に」なのか「の」なのか、区別がつきづらい。日本語は案外、ルビがないと読解困難な言語なのかもしれない。文字というよりも、音と流れで読みとるものなのだろう。日本人は目元を、欧米人は口元を見て相手の感情を読み取るといった話をネットで目にした。おそらく、欧米では、発音を目で見る必要があるのだろう。反面、日本人は言葉を耳で聞きとるために、口元を見ずに済み、また同時に、本心を話したがらない傾向にあるため、ほかの情報から本音を推し量る術を磨く方向に文化が進んだのだと想像するしだいである。ほかにもいろいろルーツはあるだろう。それこそルビの起源がルビーにあったように、本流ではなかったからこそ結果として受け継がれるようになった数奇な道筋があったのかもしれない。



1497:【基本的な傾向】

人間の傾向として、望まなければ手に入れられない、というものがある。たとえば、プロになりたい、と思わなければ、どんなに技術力を高めてもプロになることはできない。プロよりも技術力が高いアマチュアなどいくらでもいる。アマチュア以下のプロも相当数いるだろう。良し悪しは顧客が決めることであり、プロだからどうだとか、アマチュアだからどうだとか、そういうことは評価の指標としてズレている。プロになった人間は、プロになろうとしたのである。プロでない人間のなかにはむろん、プロになりたくてもなれなかった者たちも含まれる。ただし、プロになった者たちはみな例外なく、プロになろうとし、その地位まで昇りつめたのだ。目標を達成しているという意味で信頼のおける職人である。もっとも、それとその者の腕前はまたべつの話になってくる。あなたは何を手にしたいと望むだろう。何を目標に日々を生きていますか? いくひしは、これ以上磨かずに済むくらいにピカピカの何か、或いは擦り切れてなくなってしまうくらいに研ぎ澄まされた何かになりたいです。存在しない存在になりたい。これ以上、肉体という名の器に囚われたくはないのだ。



1498:【劣悪さが理想的な環境】

深層学習を代表とする機械学習において、より劣悪な環境が理想的だとする考えはこれからますます高まっていくだろう。たとえば自動運転システムだ。国によって交通ルールや運転モラルが違うため、その国ならではのAIが構築されていくという理屈は理解できる。ビッグデータのデータそのものがそもそも異なるためだ。しかし、どの国でも、どんな環境下でも有効なAIが構築できれば言うことはないはずだ。あらゆる失敗を織りこむことがそうした、汎用性の高いAIを生みだす基盤となる。極論、幼稚園児の遊びまわる道路で無人の自動運転車を起動させられるのか、が安全性という観点でも重要な課題となっていく。そういう意味では、運転モラルのわるい国や、死亡事故の絶えない国は、AI開発という意味では有利な立場にあるはずだ。ほかの国ではなかなか起きないレアな事故が、データとして蓄積されるためである。この理屈は、ほかの分野のAIや、ビッグデータにも言えることである。たとえば中国はいまや世界トップレベルのIT技術大国である。いっぽうでは、労働者の質がわるいことが、国内外問わず、問題視される傾向にある(常識があまり一般化されていない、多様性の豊かな国だ、という意味である。また、労働者として質が高いことが人間として優れているわけではない)。ルールや規則といった枠にはまらない人間を一律に扱うために、さまざまな実験や試みが日々、現場で繰り広げられている。それらはビッグデータとして蓄積され、共有され、国家に吸い上げられ、AI解析に回される。そしてAIを通じて編みだされた新たな対策を現場に導入し、より効率的な生産活動へと改善をすすめていく。おそらくは、これからさき、新技術が導入される現場は、徐々に先進国ではなくなっていくだろう。近代文明にまだ馴染みのない国々で試験的に導入し、データを蓄積する企業が増えていくはずだ。言ってしまえば、実験場である。ある意味、事故がたくさん起こることを期待し、導入するようなものである。もしこの国で、新たなシステムが導入されることが頻繁に起きるようなら、それはその分野の技術力が高いからではなく、実験的に優位な、劣悪な環境があるからだ、と判断して差し障りなくなっていくのではないか、と妄想を逞しくするしだいである。



1499:【発想の回路】

どうやったら発想が豊かになるのか。長年の疑問である。知識があればいいというものではなさそうだし、ただ閃けばいいという問題でもないようだ。質は量に担保される、と言われれば一見正しいように聞こえるものの、AIの深層学習ですら、同じ情報だけを何兆何億と与えても意味がない。1×1を何回かけても1にしかならないのと同じだ(強化はされるだろうが)。発想の基本は、異なるもの同士を結びつけることにある。共通点を洗いだし、ボタンを掛け合わせるように、或いはファスナーを閉めるように、異なる性質のものを一つに結びつける。どんな共通点を見繕い、結ぶのかが、発想の原点であり、個性でもあるだろう。これは具体的な情報を分析して抽出される類推ではなく、おおざっぱになんか似ているな、と捉える抽象化による類推である。言い換えれば、具体的にここが似ている、と言えるものは、点なのだ。なんとなくここら辺が似ている、と捉えるとき、そこにはある種の流れが生じている。ここと、ここと、ここに到るなにかが似ている、と捉えるその情報の結びつきの流れが、一つの抽象化された像として、発想の土壌となっていく。月を眺めてうさぎやカニを連想するのは、具体的にどこかが似ているわけではなく、なんとなく、ここからここに到る影が、うさぎやカニの輪郭と重なるな、と解釈されるからである。一種の錯誤といえる。表層に溢れた情報だけでは視えてこない、分厚い肉の奥底に眠る骨格じみた線が、流れが、ときおり、ふとした瞬間に視えてくることがある。それは、対象物をただ見つめているだけでは視えてこない、ほかの物との比較である。対象物を目にするとき、すでに脳内には抽象化された流れができていなければならない。対象から抜きだすのではなく、すでにある型を、無作為に当てはめ、ハマるかハマらないかの比較を、脳の演算によって膨大な回数、行っているのである。それは意図して行える作業ではない。漫然と、ただ待つよりない魚釣りのようなものである。水中の魚の数が多ければ多いほど、ヒットする確率があがる。ただし、その魚の数を増やすには、魚釣りという作業以外の営みが不可欠である。ほかのまったく関係のない事象から、関係ありそうな事象まで、手当たり次第に、目に留まるものから、骨格を抜きだし、脳内という大海原に放逐しておく。するとそれらは、知らぬ間に魚のカタチをとって、垂らした糸に食いつくようになる。発想がほしいと望むときに、対象物から何かを得ようとしていても無駄なのだ。それよりずっと前に、魚となる種を海に撒いておかねばならない。そして、そうした魚の種は、あらゆるものから抜きだすことのできる骨格によってできている。骨格の抜きだし方は、学校でも、どこでも教えてはもらえない。自力で修得するよりないのである。しかしながら、ほんのすこしだけ、その抜きだし方のヒントをもらえることがある。読書はまさにそのヒントの宝庫である。そして可能ならば物語であると望ましい。具体的な情報を得たければ、ネットの記事や、新書や学術書を読めばいい。しかしながらそれら書物には、なぜそうなるのか、の情報は載っていても、なぜそう考えるに至ったか、までの作者の思考の道筋は載っていない。なぜなら、そこには脈絡などないからだ。発想がそうであるのと同じように。整理された文面に、骨格の抜きだし方、は宿らない。反面、だからこそ、物語からしか得られないものがある。発想の回路、閃きの軌跡とも呼ぶべきそれは、物語という名の、飛躍と錯誤と漫然とした流れによってのみ、読者の脳内に刻まれる。それは自然に刻まれることはない。流れを読み取ろうとする意思ある者にのみ、引き継がれる秘伝である。発想を豊かにしたくばまず、流れを抜きだすための回路を焼きつけよう。魔法の杖のように、それは、持ち主がじぶんの手で選び取るものである。他者の評価などアテにしてはいけない。物語から聴こえてくる旋律に身を委ねよう。おのずからそれはあなたと呼応しあうようにできている。



1500:【性別はいくひし】

やーやー、ひさびさでござるな。我こそは、いくひしまんでござる。さいきんは「いくひ誌。」をさぼりがちでな、もうひとりのいくひしさんにおねがいして、あたまさげて、いやだと突き放されてもめげずに、バナナ入りホットケーキをごちそうして、なんとか肩代わりしてもらっていたぞ。言うても、どっちもいくひしさんなのだがな。いくひしはいっぱいいるぞ。ふだんは四人でがんばっているのだがな、さいきんはSNSの活用にすこしだけお手伝いさんを雇ったぞ。報酬は、いくひしを名乗れることだぞ。これはすばらしい。第二のいくひしさんが腕まくりするだけでかんたんに集まってくれたので、うれしいかぎりだ。なんか、その、すまんね。twitter(https://twitter.com/Man_is_IBUKI)にショートショートをあげるうえで、こう、テキストを画像化しなきゃならんのだが、それがまためんどうでな。新しいいくひしさんたちにはぜひとも手分けして、推敲と画像化とアカウントの管理をおねがいするぞ。言うてもフォロワーどころか読者すらゼロみたいだが、まあ、いつもの感じで、ぬるくやっていきたいと思うのだ。知るひとぞ知るいくひしさんを目指していくぞ。お? そんなこと言ってホントは一人しかいないんでしょ、さびしいから脳内おともだちをつくってるだけなんでしょ、このさびしんぼさんめ!って思ってるそこのきみーー!!! 図星をさすのはやめてくれーー! まんちゃんしんでまうやろーー!!! はずかしさでーーー!!!!!! はい。男女比は3対3、プラスαがごちゃごちゃのいくひしまんでした。


※日々いっぽうてきにすきになる、知られることなく消えていくのに。



1501:【短編のつくり方4】

きょうも書くことがないので、ショートショートをつくる過程を追っていきたいと思います。きょうのテーマはファンタジィです。いちばん何でもありのジャンルですね。小説は基本的にだいたいファンタジィ要素が含まれています。あり得ないことはぜんぶファンタジィです。合理的な理屈がつけば、ミステリィやSFとなり、そうでなければほかのジャンルへと変化していきます。では純粋なファンタジィとは何かといえば、ふしぎなことをふしぎなままで受け入れていく過程を描いているか否か、だといくひしは考えています。ふしぎなことを受け入れるのが読者なのか、それとも物語のなかのキャラクターなのかによって、ローファンタジィやハイファンタジィのような区分けがでてくるのでしょう。おもしろい小説であれば、どちらでもよいことです。いくひしは、おもしろい小説が好きなのであって、小説そのものはむしろ好きではないのです(以前から書いていることですが)。さて、まずはファンタジィの基盤となる舞台設定を考えましょう。きょうはショートショートなので、そこまで複雑な舞台設定は使いません。日常になんかきゅうにドラゴンがあらわれた、みたいなそんな突拍子のない世界観にしたいと思います。何がいいでしょうか? ちなみに、この突然介入してくる異物を変えるだけで、SFにもミステリィにもホラーにもなります。異物が恋愛対象ならそのままラブストーリィになりますし、じぶんからその異物へと突っこんでいくのならば、スポコンやアドベンチャーになります。きょうは、王道を意識して、妖精にしましょうか。舞台は現代社会で、そこに異物である妖精が現れる。主人公は誰でもいいです。きょうはでは、オジさんにしましょう。オジさんが妖精と出会い、なんかして、どうかして、オチへ、といった構成にします。ショートショートなので展開は、多くても三回にしましょう。では、本編をつくりたいと思います。以下本編。『薄汚い人形を拾った。下の階のガキンチョのオモチャだろう。洗って帰してやれば、美人の母親からすこしは感謝されるかもしれない。中年の独身だからといって、会うたびに警戒されていてはいい迷惑だ。風呂に入りながら、オモチャを洗った。さいきんの人形はよくできている。感触といい、精巧さといい、リアルすぎて、気色わるいくらいだ。安くはない代物だろう。盗んだと思われるのは癪だので、きょうのうちに返してしまおう。つよくゆびでこするようにすると、「い、いたい」人形がしゃべった。否、そういう機能がついているのだ。なかなかよくできている。股間はどうなのか、とゲスな興味が湧いた。服を脱がせようと、爪を立てると、「や、めて」また人形が声を発した。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886642318)』はい。つくってみましたが、いかがでしょう(推敲はあとでします)。なんか、俺たちの旅はこれからだ、みたいになってしまいました。失敗ですかね。オジさんが妖精と出会って、までが決定事項でした。つぎに、妖精とオジさんの関係性をどうするのか、で物語の方向性を決めていくのですが、今回は、妖精がオジさんを気に入って、別れられないようにする、という方向に持っていくことにしたので、それじゃあ、オジさんにも妖精になってもらおうか、となり、こういったオチになりました。妖精になるにはどうするの? といった過程が悩みどころですけども、ショートショートなので、あまり凝った設定はつくれないので、さらっと、そういう生態です、と流す方向に寄せました。伏線というほどでもないのですが、前半で交わした会話を、後半でも使い、流れを整えて、今回はさらっと物語を閉じてみたのですが、ストーリィそのものは、「オジさんが妖精を拾い、一晩経ったら妖精にされていた話」となるので、大部分が無駄な描写ということになるでしょう。短くしようとすれば、いくらでも短くできます。妖精がオジさんを気に入っていなければこれはホラーにもなったでしょう。今回は、キャラものにしたかったので、掛け合いを多くしました。じつは、これを並べる前に、「おばぁさんとドラゴン」の話(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886642186)を並べてみたのですが、単品で5000字を超えてしまったので、新しくこちらをつくりました。短く収めるのが苦手なので、練習していこうと思います。ちなみに、先週からはじめたツイター投稿用のショートショートは、まいにち2~3個ずつ、つくっているので、いまは17作(22000字)まで溜まっています。手分けをしてつくっているので、いくひし自体は楽をしています。指示するだけなので、そろそろみなさんの堪忍袋の緒が切れる頃合いではないかと危惧しています。という設定です。じつは異世界のじぶんたちと交信できている、とすればSFですし、分裂している、とすれば若干ホラーです、記憶喪失の人物を洗脳して「いくひし」と名乗らせているのならばミステリィですし、手足の不自由な恋人のために代筆しているひとの話ならラブストーリィになります。ショートショートのネタはいくらでも思いつきます。やはり、おもしろい長編をつくれるか否かが、作家としての力量をいちばん解りやすく示す試金石になるのではないでしょうか。機会があれば、長編のつくり方も並べていこうと思います。



1502:【天才】

小説の天才って、たぶん、いまこの瞬間にもどこかにいると思うんです。まいにち十万字をつむげるくらいの言葉に溢れていて、日によってはショートショートを百個以上つむいでしまう、しかもそのどれもが斬新で、どこかなつかしく、おもしろい、そういった異端がこの瞬間に、誰にもその存在を知られることなく、物語を編みつづけているような気がしています。これは予感というよりも、いるぞ、といった確信にちかいです。このさきどれだけがんばっても、いくひしには、その天才を越えることも、近づくこともできません。延々と距離を離されていくばかりです。それに比べたら、ほかの小説家との差なんて、あってなきがごとくです。そうやっていくひしは、居もしない天才をあたまのなかにでっちあげて、ぱっとしないじぶんを慰めているのか、と問われるとすこし困ってしまいます。否定するのがむつかしい割に、ではそうなのか、と言われると、頷くのも違う気がするのです。でっちあげているわけではなく、本当に、どこかにいると思っています。いるんです。小説の天才が、いま、この瞬間に。でも、それはけっしていくひしではないですし、いくひしの知る小説家でもありません。ざんねんながら、まだ、誰の目にも触れていない、発掘されていない、天才のつむぐ物語があるのです。それがただただざんねんでなりません。その天才だけは、小説創作AIが誕生しても淘汰されず、あべこべに、小説AIの性能を高めるために利用されるくらいに、類のみない、人類の価値感を、既成概念を、世界観をいっぺんさせるほどの物語をつむぐのです。ぜひ、発掘して、いくひしの目に触れる場所に、手の届くカタチで、天才の物語を送り届けてほしいです。それは誰にでもできることです。じぶんの感性を恥じる必要はありません。いいものはいい。たとえほかの誰がなんと言おうと、あなたの感性はあなたのものです。じぶんの、すき、をだいじにしてください。もちろん、だいじだからこそ、おいそれと外部に漏らさない、という気持ちも理解できます。いくひしも、どちらかといえば、そういうふうに考えることが多いです。本当にたいせつな気持ちだからこそ、じぶんだけのものにしておきたい、誰にも聞かせたくない、そとにだしたくない、言葉にすらしたくない。尊い考えだと思います。ですが、敢えて言いましょう。いくひしは読みたいのです。天才のつむぐ物語を。いまこの瞬間に見逃されつづけている無類な世界を。みなで探しましょう。この世のどこかにひそんでいる、本当の天才を。たのしさを独占せず、分かち合うのです。



1503:【鼻つまめ】

見て見てー! マンちゃんがなんか臭いことゆってるー!



1504:【noteノート】

新しく、「noteノート(https://note.mu/ikubisiman)」というサービスを利用しはじめました。SNSのような、ブログのような、そういうサービスです。ツイッター(https://twitter.com/Man_is_IBUKI)に投稿したSSをテキストで載せていきたいと思います。ほかの小説置き場には載せていません。最新作はツイッターになります。一週間遅れで「noteノート」のほうに更新するといった方針です。ひとまず現在は、「カクヨム」「pixivFAN」「ツイッター1」「ツイッター2」「インスタグラム」と5つのアカウントをまいにち、何かしら管理しています。そこに電子書籍のKDPが加わるので、すこしばかり、ごちゃごちゃしてきたなーといった感想を覚えます。いずれどれか一つにまとめたいのですが、5年後10年後と、いったいどのサービスが生き残るでしょう。いくひしの想像では、どれも廃れて、新しいサービスが流行りはじめているだろうな、と見込んでいます。サービスとは基本的にそういうものですから、そう構えていたほうが、時代の流れを見逃さずに済むでしょう。時代の流れに乗ることにどれほどの価値があるかは定かではありませんが。この「いくひ誌。」は、「カクヨム」と「pixivFAN」にて、引きつづき掲載していきます。繰りかえしになりますが、「noteノート」ではSSのみの投稿となります。反響の度合いによって、利用するサービスの使用率や投稿内容を変更していこうと思います。かといって、じぶんルールを逸脱することはないでしょう。必要以上にPRに走るようになったら、いくひしが物書きをやめようとしている証拠ですから、そのときは、ああくるときがきたのだな、と節目の物書きの行動として観察しておくと、すこしばかし面白いのではないかな、と思うのですが、いかがでしょう。ひとまず、可能なかぎり知名度をあげずに、読者のもとに物語を届けるにはどうすればいいのか、をあと半年は実験的にやっていこうと思います。小説をつくるだけでなく、物語を編む者としてできることをやっていきます。やらずに済むならやりたくないけれど。



1505:【まとめ役】

いろんな個人向け情報発信サービスがあるなかで、毎日なにかしらの成果物を更新している人間は日に日に増加傾向にある。毎日なにかを律儀に発信していても、他人との差別化には繋がらない世のなかになってきている。一つの策として、じぶんがそれら無数のコンテンツのなかから、魅力的なアカウントをピックアップし、更新履歴を日々一覧にしてまとめあげる作業は需要があるように感じる。ツイッターにリンクつきでそれらをツイートするだけでもかなりの需要があるのではないか。ひとむかし前に流行ったまとめサイトのようなものだ。ツイッターなら、おもしろいWEB漫画の「更新しましたよー」のつぶやきをリツイートしてまとめあげるだけでも充分に思える。また、「note」や「カクヨム」「小説家になろう」などのほかのサービスでも同様だ。埋没しているがおもしろい作品や、更新頻度の多い注目作品などを一覧にして見られるアカウントがあると便利に思うが、すでにそういったアカウントがあるのだろうか? バズったツイートを拾いあげているアカウントは比較的よく見かけるが、付加価値の高い情報をまとめているアカウントはなかなか見受けられない。この場合の付加価値とは、多くの人間の目に留まっていない有意義な情報、という意味である。もちろん、人によって何を有意義に感じるかはそれぞれだ。ゆえに、ある種の一貫性を以って、情報を集める必要性がある。文字を並べていて思ったが、なかなかいい案ではなかろうか(単純な、誰でも思いつきそうな案なのに、実行している人間がすくないのがまたよい)。いくひしのツイッターアカウント(https://twitter.com/ant_stand)でも導入してみようと思う。



1506:【本音を隠す理由は?】

前項のような考えを並べると、いくひしの人間性が疑われる確率があがる。アイツはあんな打算的な考えで行動しているのか、と捉えられるわけだが、いくひしからすれば、みな、同じような損得勘定で動いているのではありませんか、と反論の一つも言いたくなる。まるで自分たちはそんな打算など働かせていないかのように振る舞い、本音を隠すでもなく、自身の自家撞着を見て見ぬ振りをする人間が多すぎるのではないですか、といくひしは言いたいが、言わないところがじつに謙虚で、いくひしの愛すべき器のでかさが窺える。世のなかには、自分の行動原理すら分析しようとしない人間がすくなくない。否、他人の行動原理を知った口で叩きながら、自身の行動原理からは目を逸らしている人間が思いのほか多いのだ。いくひしの周りにいる人間のほとんど九割はそういう人間である。人間とはそういうものだ、と言ってしまってもいいのかもしれない。つまるところ、いくひしもまた、自身の行動原理の本質的な部分からは目を逸らしているのだろう。あいにくと否定するだけの素材を持ち合わせていない。とはいえ、可能なかぎりは、いくひしは自身の行動原理を分析し、それを文章にして見えるカタチで発信している。他人の時間を奪う小説家として、読者にはフェアでありたいからだ。純度百パーセントの善意など存在しない。善意とは、とどのつまり、その中心に、自己愛がなくてはならない、と言い換えてもいい。じぶんのためにならない善意など、狂気だと言っていい。ゆえに、愛とは狂気だと言ってしまってもこの場合はそうそう的を外してはいないだろう。もっとも、狂気がおしなべて愛であるわけではないが。ややこしい言い方になっていますか? いずれにせよ、いくひしはじぶんの利益にならないことはいっさいしない。実験的に、損を見越して実行することはあるが、得をしないと判れば、すぐにそこからは撤退する。ただし、得をすると判れば、それがたとえほかの人間からは損をしているふうにしか見えずとも、いくひしは可能なかぎりそれをつづけるだろう。それがじぶんのためになるからである。他人からは、じぶんを犠牲にしているように見えるのかもしれないが、他人からどう見えるかなど知ったことではない。他人の目を気にせずに過ごしても損をしないような生き方を目指している。とはいえ、いくひしですら、それは充分ではない。日々の一割も達成できていないと言ってもいい。一日でもはやく、他人から承認されずとも生きていけるようになりたい。寿命の尽きる前に。余生を自在に過ごせるように。今、やるべきことをしなければならないのだろうか? 或いは、ならざるべきか。



1507:【だいじょうぶ?】

まんちゃんだいじょうぶ? なんか見るからに性格ゆがんできてるけどヤバくない? え? 元から? そっかー、そうだわー。



1508:【パクリの是非】

以前にも述べたかもしれないが、いくひしは基本的にはパクリが悪だとは思っていない。経済的に損をしたくない人々が多いがために、創作物に対する権利を保障する意味合いで、パクリは悪だとする常識が社会通説としてまかりとおっているのである。本質的には、パクリを禁じた時点で、その分野の発展は途絶えると思っている。利益を独占しようとする気持ちや、創作物から即物的な利を得ようとする者が多くなればなるほど、パクリを禁じなければならない風潮がつよまる傾向にある。いくひしは、じぶんの小説を他人にパクられてもとくに何も思わない。せめていくひしよりも上手に、おもしろく、より斬新な物語にしてほしいな、との思いはあるが、それ以上の思いはとくに湧かない。誤解を生みそうだが、言ってしまうと、他人に真似できるような表現にはたいした価値を認めていない。しょせん、パクルことのできるていどの技術だったのだ。むろん、言を俟つことなく、真似できない技術だからといって人より優れているということにはならない。ただし、オリジナルには必ず他人にはおいそれと真似できない何かがある、それは確かである。表層の装飾だけを真似ても、それは技術を盗んだことにはならない。パクリに対していくひしが寛容な姿勢を持っているのは、パクられることが、技術を盗まれることではない、と考えているからだろう。真似できるものなら、してみてほしい、と望んでいるくらいである。どうせできないだろうけれどね、と傲慢ないくひしまんさんは、きょうも一人で、チマチマと虚構をこねては、物語を組みあげるのである。



1509:【言うねぇ~】

きょうのマンさんはいちだんと偉そうですね。すばらしいセンスだと思います。すーぱーザコのくせに。



1510:【誤解】

誤解しておりました。反物質についてです。いくひしはこれまで、物質と反物質が初期の宇宙に同数量存在し、対消滅時になんらかの差異があり、結果として現在こうして我々を形成するような物質のほうが多く残ったのだと思っていました。CP対称性の破れとは、対消滅時になんらかの偏りがあることだと思っていたのです。でもそうではなく、そもそもが初期の宇宙には、物質のほうがわずかに、ほんのすこしだけ多く存在し、だから対消滅しても物質のほうが必然的に多く残ったのだ、と考えるほうがより合理的なのだそうです。もうすこし突っこんで言えば、そもそもが、たとえ物質と反物質が同じ数だけ存在していても、初期の宇宙はインフレーションによって爆発的に膨張したわけですから、物質と反物質は宇宙の密度が低くなるにつれて互いに出会う確率が低くなり、対消滅しない物質や反物質もある程度の割合ででてくることになります。ただしそれだけだと、宇宙の総エネルギィを計算したときに、現在の物質の量より遥かにすくない数値になってしまうので、おそらくは、そもそもが物質のほうが多く存在したのではないか、と考えられているそうです。いくひしさん、完全に誤解しておりました。ただ、直感としましてはやはり、対消滅時になんらかの偏りが生じたと考えるほうが、しぜんに思えます。ふしぎですね。もうすこし、いろいろ本を読んでみたいと思います。


※日々万能感に支配される、そのつど我執と絡めて閉じこめる。



1511:【アイツ】

いくひしさんの本質は傲慢です。基本、他人を見下していますし、他人よりじぶんが優れていると思っています。しかし、じっさいのところはそうではありません。いくひしさんの能力は平均より下回りますし、知能や知識もまた平均より低いです。じぶんはスゴイのだ、と思いこみたいがために、敢えて他人から評価される場へと能力をさらす真似をせずに、本気をだせばスゴイのだ、注目されさえすれば時代を変えるだけの成果物を仕上げているのだ、とじぶんに言い聞かせる日々なのです。なんと浅ましいのでしょう。どんなに低い評価しかもらえなくとも、他人からあれこれと品定めされる場に挑みつづけていられる人間は、ただそれだけで、いくひしさんよりもはるかにすばらしく、つよいです。他人からの評価など気にしない、と本当に思っているのならば、意固地になって、他人の目から隠れるような真似はせずに済むでしょう。本当は逃げているだけなのに、そんなじぶんを認めたくないから、人目につかない場所で、可能性という名の虚構に逃げこみ、さもしいじぶんの姿から目を逸らしているのです。いくひしさんの本質とは、まさにそれです。まったくなんと器のちいさな人間なのでしょうか。もちろん、逃げることはけっしてわるいことではありません。ときには、勝負に挑むよりも勇気がいります。しかしながら、逃げることはカッコわるいと思いこんでいるいくひしさんのような人間にとっては、逃げることは悪であり、ゆえに、逃げているじぶんを認めがたいものとして捉えてしまうのです。逃げるなら逃げるで、もっと堂々としていればよいのに、と僕などは思ってしまいます。きっとよほど、理想と現実のギャップが激しいのでしょう。どうあっても、そんなじぶんをじぶんだとは思いたくないようです。かっこわるくても、ダサくても、本当のじぶん、なんてものがあると思いこんでいるそのかわいらしい幻想も、すべてひっくるめて、いくひしまんさんなんですから。それでも僕だけはいくひしさん、あなたを見捨てたりしませんよ。だいじょうぶ。僕はあなたに期待なんてしていません。好きなようにサボり、好きなときに逃げ、そして気まぐれにちょっと背伸びなんかしちゃって、滑って、転んで、醜態をさらして、それでもまだ理想を捨てきれずにもがき苦しむ姿を、これからも見せてください。安心してください。いくひしさん。僕はあなたよりよほど人として歪んでいます。じぶんよりも下がいると思って、ぞんぶんに腐り、ひねくれ、ねじ曲がってください。あなたのかつてつむいだ物語のキャラクターも言っています。曲がっていても筋は筋です。あなたの道を生きてください。



1512:【ささめき】

そうやって人の弱みにつけこんで支配しようとすんのやめてくんねぇかなぁ。いくひしクンはあれで単純だからコロって騙されちゃうんだよ、ここぞとばかりに出てくんのも最悪だ。黙って深層心理に沈んでな。



1513:【繁栄とは?】

国家を存続させるためには国民が増えなければならない、という理屈はもはや旧世代の思想だろう。労働力を確保するために国民に「子を産もう」と働きかけるのは、国家の繁栄という意味ではむしろ逆効果である。すくない労働力でいかに国家を維持していくか、という点に注力していかねば、食料問題やエネルギィ問題など、人口増加やグローバル化によって生じる多種多様な問題に対処していけなくなる。もうすこし言えば、なぜ労働力を増やさなければならないのかと言えば、それは他国との経済競争があるためであり、けっして自国の発展のためではない。資本主義経済は、国家間の熾烈な競争によって容易く限界を迎える。いち早く、国家の発展と、他国との経済競争を切り離せた国が、今後の世界経済をけん引していくこととなるだろう。それは保護主義という意味ではない。競争に勝てばいいという理屈は、競争できる土台が築かれているうちは有効であるが、土台そのものが大きく揺らぎ、崩れつつある時代にあっては、勝ち負けよりも、より豊潤な土壌を耕せるか否かが優先されていく。土壌は、技術力によって養分を蓄える。労働力を求め、国民を増やし、そのけっかに、国内の経済が滞っては意味がない。少子高齢化も佳境に入っている。あと二十年もすれば、全体の人口はさらに減り、割合として、出生率が低下したとしても、子どもの数は少ないとは言えなくなる。高齢化だけが残るだろうが、同時に、定年退職してからも働く者が多数を占める時代がやってくる。働き方もいまとはだいぶん様変わりするだろう。労働者が高齢化していくため、身体に負担のかかる仕事は改善され、減少していく。また、徐々にではあるだろうが、労働と趣味の垣根はなくなっていくはずだ。嫌なことをするのが仕事だ、という意識は薄まり、人の役に立つことや、特技を活かすことが、仕事の意義としてますます謳われるようになっていく。インターネットなどの集合知と、AIによる機械学習の融合によって、社会からホワイトカラーが淘汰されていく。それ以上の割合で重労働者も淘汰されていくため、全体として、貧富の差はなくなっていく方向に国家は再編成されていくだろう。ただし、情報検閲や情報独占による既得権益の保護など、いくらでも現状の権力バランスを維持する抜け道はある。情報の価値が高まるにつれ、政治の不透明性は増す方向につよく傾くこともあるだろう。そうしたときに、理屈で、そちらはよくない選択だ、と国民の多くが見抜けるか否かが、このさきの未来において重要な課題となっていく。そうした知性の獲得もまた、国民への集合知の浸透が重要な役割を果たす。そして、社会に集合知を浸透させる場合、国民の数がすくないほうが有利なのである。集合知そのものは、全世界で共有されていくので、国民の数は集合知の精度にさほど影響を与えない。国民がより、知性を共有し、かつ議論しあえる国家が、これからの世界経済を中心となって引っ張っていくこととなる。どの国も、供給不足にあえぐなか、身軽な国だけが、商売相手に困ることなく、優位に立ちまわるようになっていく。国家の繁栄とは、国民の数ではない。ウィルスや細菌とは異なるのである。



1514:【ぶばれば】

おじゅがれじゃまでじゅ、いくひしでじゅ。ぎょうばぼう、ぐたぐたでじゅ。ぶばればー。え? あ、豚レバじゃないです。レバニラでもないですよ。いくひしがぜったいに言わない単語なので、ぶばればーって濁して言ってるだけです。いくひしがどれだけ、ぶばれでるのかは言わずにおきますけど、いくひしさんだってね、ぶばれぶんですー。ぶばれぶ、ぶばれぶ、言ってたらなんかおもしろくなってきちゃっていま一人で笑ってますけど。はい。まいにちつくるって言ってたショートショートのほうは、快調にあさっての木曜日で二週間目に突入です。げんざいは45480文字で、えっとー、何作だ? ちょっと数えてみますね。はい数えました。28作あります。あれ? おもったよりすくない。体感、まいにち三つはつくってた感じだったんですけど、そうでもなかったみたいです。よくあるよくあるー。たくさんがんばったつもりで、そうでもないやつー。あのね、いくひしね、曜日で、つくるジャンル変えてるんだよ。月火水木金土日ってそれぞれ、「SF」「百合」「ファンタジィ」「BL」「ホラー」「コメディ」「ミステリィ」って順番につくってるわけ。もうすぐ二週間経つけど、やってみて思ったのは、コメディむず!ってことだよね。むつかしい。コメディはむずいよ。あとね、ファンタジィもね、むずいね。つぎはミステリィで、あとはオチを決めなくていいからラクっちゃラクでごわす。なんでコメディがむつかしいのかは、あした並べよっかな。憶えてたらね。忘れて、へんなことまた、ぴーひょろぴーひょろ並べてるかもしんないけど。インスタのほうの「調べ屋」シリーズもなんか8月入ってからあんまり進んでない。こうなったら秘儀、ネタ寄こせの術を発動しよっかなって、まんちゃん思ってる。手当たり次第に知り合いに、「ネタくれー」ってメールするだけ。んで、いい加減にライン覚えろって怒られるやつ。あ、いくひしついにスマホ買いました。HUAWEIってメーカーのやつ。安かったので。でもぜんぜん使ってない。ガラケーでじゅうぶん。カメラの画質がいいので、ときどき使ってるくらいだな。ていうか、いくひしさん、知り合いいないからラインのしようがないし、だったら秘儀ネタ寄こせの術も発動したって意味ないじゃーんってとこまでが、きょうのネタです。あーよかった、きれいにオチた。いくひしさんが無駄にみじめになるだけであなたに楽しい時間を提供できて、あーよかった。よかったでしょ? よかったって言え! じゃなきゃいくひしさんみじめになり損じゃんかよー。ひどいよー。どいひーだよー。なんで逆に言ったんだよー。どいひー、は、ひどいー、の逆じゃないじゃんかよー、って鋭いツッコミはいらないんだよー。みんなもきょうは、ぶばれば? ぶばれでるんでしょ? がんばったんだね。えらいよ。きみはえらい。あすもきみなら乗り越えられるよ。いいことあるよ。いくひし、保障する。いいことなかったら、あしたもここに読みにきなよ。いくひし、アホづらさげて、えらそうなことからばかげたことを、なんの変わり映えもなく並べてるから。だからなんなんだよーって思った? いくひしもよくわかんないけど、まー、こういうひともいるのかーって思ったら、すこしは生きてくの楽になんない? なんないの? なって!!! おやすみー。



1515:【現実と虚構の境とは?】

小説だと、一人の作者がたくさんの人格を演じ分けて、書き分けて、意識を分散させていても、あいつ頭おかしいんちゃう?とは見做されないのに、日記風味だと、とたんに、なんかあのひとおかしくない?ってなるのは、なかなかおもしろい現象だなぁ、と思いながら、いくひしは、「いくひ誌。」を並べている。これが小説ではないとどうして言いきれる? おなじ文字なのに。



1516:【本気で言ってんの?】

いくひし君のさー、小説? 読んでみて、この作者あたまおかしいんとちゃう?って思わない読者がいると思ってんの? あ、思ってたんだよねー、ごめんね、気づかなくて。もうね、その時点でね、あたまおかしいんとちゃうっていうか、お腹の底からちゃんちゃらおかしいんだけど。



1517:【褒め言葉じゃない?】

あたまがおかしいって、作家にとっては褒め言葉じゃない? この作者のあたまんなか、どないなっとんねん、ってなったらそれってすごいことじゃない? まんちゃんの小説読んでそう思うひとがいると思ってるそのおめでたいあたまをまずはどうにかしたらよいのでは?



1518:【コメディむず!】

笑いには三つある。予想外の驚き、安堵、優越感、である。まずは基本的な傾向として、世のなかにある笑いの多くは、さげすみの感情を伴っている。ピエロを笑ったり、人の失敗を笑うのは、そこに、ある種の上下関係が築かれているからだ。言ってしまえば、優越感である。ひとは滑稽で未熟なものを笑う傾向にある。微笑ましいという言葉は、その語感のやわらかさに反して、じつはえげつないほどに人間のみにくい感情の機微を捉えている。荒んだ見方をしてしまっているのかもしれないが、そういった自覚はときに必要だ。プラスの感情だと思われている機微の根幹に差別が根付いていないとは言いきれない。なぜそれをおもしろいと思ってしまうのかには、意識を差し向けておいて損はないはずだ。じぶんより下の者への優越感からもれる笑いのほかには、安堵の笑みがある。これは、緊張からの気の緩みであり、ほっとしたので笑みがこぼれる、といったものだ。達成感と似ている。大きな仕事を終えたときに、思わずこぼれる笑みがあるだろう。それが安堵による笑いである。めったにないことだろうが、命の危機から脱したときも笑ってしまうはずだ。達成感との違いはまさにそこにこそあり、自力で何かを成し遂げずとも湧きおこる感情の動きが、安堵なのだ。目標と定めず、いつ切り抜けられるか分からない、といった状況から脱したときに安堵の笑みがこぼれる。案外、達成感を抱いたときには人は笑わないものである。粛々とよろこびを噛みしめるのだ。最後になったが、笑いの分類の三つ目である。予想外の驚きである。笑いの動機としてもっともポピュラーな要素ではないだろうか。人間は予想外なことに対しては、基本的には、不快に感じるようにできている。安定を好むのはなにも、人間だけではない。生物はみな何かしら、決まった環境や流れに身を任せることを好む性質がある。しかし、安定がいきすぎるとこんどはマンネリ化し、日々の営みそのものの活気が損なわれることもある。つまり、予想外の驚きで笑みが溢れるのは、そこに活路を見出すからである。こうなったらこうなるはずだ、との予測が、いい意味で外れたときにひとは笑うのである。そこには、安堵や優越感も含まれる。たとえば子どもの乗った自転車が崖の下に消えた。いそいで助けに向かうと、崖のさきはゆるやかな斜面になっており、子どもは笑顔で手を振っている。安堵で思わず笑みがこぼれてしまう。或いは、全身タトゥだらけの強面の男が近づいてきて、ちょっといいですか、と言ってきた。身構えていると、男は、子猫のエサ専門店はどこにありますか、と言った。思わず微笑ましくなってしまうのではなかろうか。或いは、パンケーキ専門店はどこですか、と訊ねられても、ほっこりしてしまうのではないか。悲観的な想像をめぐらせたが、結果として、そちらへは転がらず、よい方向に現実が修正されたとき、ひとは安堵や優越感によって笑ってしまう。ゆえに、人を笑わせたければまずは、不安や緊張感を強いなければならない。コメディのむつかしさとは、なんといってもそのさじ加減にある。あるていど不快な思いをしてもらわなければならないのだが、しかし行き過ぎれば、笑いに転嫁されず、ただ不快なままにしてしまう。そして、何を不快に思うのかは、現代ではかつてないほど人によりけりになっている。一部の人々を狙い撃ちするだけならば、ギャグでじゅうぶんである。拳銃のようにギャグは、笑いなさい、との命令を、それを受け入れやすい人々へ向け、発射することができる。だが、拳銃の弾は点であるがゆえに、多くの者を射止めることはできない。また、刹那的であるがゆえに、一過性の流行りで終わる傾向がつよい。ギャグとコメディの違いは、この、点と線のちがいで捉えることが可能だ。コメディは線なのである。したがって、ある種のゆらぎが含まれる。幅があると言ってもいい。そのゆらぎや幅が、広く人々へ笑いを届ける。反面、笑いの基本的な性質として、さきにも述べたように、予想外の驚きがある。いちど使った「予想外」はもはや、つぎには使えない。コメディのむつかしさはここにこそある。一期一会のハプニングだからこそ、喜劇は悲劇としておもしろい。負の感情をうまく自覚し、それを笑いへと転嫁する。予想外の驚きが、「安堵」なのか「優越感」なのかによって、その喜劇の質が決まるだろう。笑いの根底に差別意識があったとしても、それはそれで構わない。ただし、そこから生じる笑いが「安堵」であれば、差別を対消滅させる反物質となり、「優越感」で終われば、人格を滅ぼす麻薬として、自意識をみにくく肥大化させることになるだろう。もっとも、みにくい自意識もまた、自覚し、制御できれば、それはそれで愉快な喜劇となるのだろうが。



1519:【どうでもよいことしか考えない】

こんばんわ、いくひしです。きょうは涼しかったですねー。肌寒いくらいで、長そで着てくか迷っちゃいましたよね。ニット帽かぶって出て正解でした。自転車乗っても汗かかなくて、秋やーん、って思った。コオロギ鳴いてるし。でもじっさいは夏ってこんなだったよねー、みたいなツイート見て、あーそーかもーってなった。話は変わって、空調ってあるじゃないですか。エアコンも空調の一種で、ビルとか大きな部屋では空調がないと、快適に過ごせないし、サーバーがある場所なんか、機械が熱をもっちゃうとよろしくないので、やっぱり空調が欠かせない。で、さいきんは、ほら、AIブームがあるじゃないですか。空調の管理もAIでやりましょーよってなって、業界全体が、「えー? そんなんいりますー?」みたいになってるみたいです。や、知らんけど(←使ってみたかっただけ)。空調って、空気を吸いこんだり吐いたりするから故障が多いんですよね。異物混入がとくに多い。虫がね、多いんだって。虫さんだって、暑い日は涼しい場所にいきたいし、寒い日はあったかい場所にいきたいっしょ? で、空調は絶好の避難場所になるから、虫が飛びこんで、故障の原因になっちゃう。もちろん、故障にもいろいろあるわけで、そういうのをデータ化して、AIで今回の故障の原因はこれこれこんなで、場所はここですよー、みたいにしたら便利やん? みたいになってるのかなーって思ったらそうじゃないらしい。や、そういうのもあるっちゃあるみたいだけど、そんなん、けっきょく人間を派遣して修理するわけだから、二度手間やん! みたいな感想を持つ幹部の方々が多いようで、あんまり推進されてはないみたい。じゃあAIどこに活かすねん、ってなるでしょ? なんない? いくひしはなった。で、じゃあどうなのっていうと、空調のね、風の温度とか当てる場所とか、つよさとか、そういうのをね、人間が体感でリモコンぴっぴするんでなく、こう、熱源感知やら、赤外線センサーやら、なんやら使っちゃって、人間の動きなんか感じちゃって、自動で空調を管理しましょーよってのを、自社ビルにつけてよーって社長さんがおられるんだと。でもね、人間がピッピすればいいだけの空調が200万くらいだとすると、AIを使うだけで、すくなく見積もっても10倍はかかるんだって。2000万なんだって。ばかか。人間がピッピやってれば済むのを、自動で適温にしてくれるだけの装置つけるだけで2000万って、ばかか。思うよね? なんかもっときっといいことあるんでしょ、だからそんな投資するんでしょ、って思ってたら、ただ流行りに乗りたいだけの顧客が多いっていうなんともざんねんな現実がね。あるんですよね。そもそも人間の体感なんてひとそれぞれで、適温っていっても、大勢いるオフィスじゃ、寒かったり暑かったり、ひとによりけりじゃないですか。AIでコントロールしましょうよっていっても限度がありますよ。でもね、ちょっと考えてみたら、体感そのものはそんなに重要ではないわけですよ。結果として、人間一人がパフォーマンスを発揮しやすい環境になっていればよいのであって、多少汗を掻くくらいがよいなら、そういう温度設定にしちゃえばいいわけで。で、そういうパフォーマンスと室温の因果関係をデータとして蓄積するには、空調の管理にAIを取り入れるのがよいわけですよ。だから、これからのことを考えれば、2000万の投資もそこまでバカじゃないのかもしれない。とはいえ、きちんとデータを分析するつもりがあるのならって意味ですけどね。もうすこし言えば、空調も小型化していくだろうから、ひとりひとりの足元から、デスクから、風がでちゃって、個人に合わせた空調の管理もきっとできるようになっていくのでしょう。環境をデザインするという概念は、これから需要のあがるいっぽうのテーマだと思っているいくひしさんですから、空調の未来に興味はビンビンなのだ。とはいえ、無駄に高い技術力を持っているはずの現場の人間たちが、専門外の技術(AIの活用)となると、とたんに「あんなの使えねー」になるのは、どこの業界もいっしょなのだなぁ。大手の自動車会社といい、大手の空調会社といい、もっと社員に時間を与えて、世のなかの動向を見渡す余裕をもたせてあげればいいのに、と思うのだが、きっと余計なお世話なのだなぁ、と思って言わないけれど(いくひしが言ったところでどうにもならないが)。体育会系な社風で、部長クラスの人間たちが怒鳴りあう職場が珍しくないというのも、だいじょうぶですか?という気になる。いくひしさんには関係のない世界の話だからべつにどうでもよいのじゃが。というか、これも毎度おなじみ、いくひしさんの妄想なのじゃが。それはそれとして、セブンの「抹茶練乳氷」ってアイス、美味すぎでは?



1520:【機械化できない仕事は?】

AIやナノマシーン、3D印刷技術など、テクノロジィの発展に伴い、人間の仕事はどんどん機械に代替されていくと推測される。ともあれ、一挙に仕事がなくなるわけではなく、段階的に、かつ緩やかに、気づいたらいつの間にか変わっていたよねーといった感覚で、時代は移ろっていくと考えられる。なかでも、最後まで人間が担うことになる仕事は何かと言えば、それは掃除であるだろう、といくひしは考えている。裏から言えば、掃除を人間がしなくなる時代がきたならば、人間は労働から解放される。それはおそらく、人間のようなロボットが掃除をするようになるのではない。環境そのものが、掃除をせずに済む、汚れることのない素材や仕組みになっていくことで実現される未来であるだろう。部屋をまるごと水洗いできれば合理的であるし、また、家具や服飾の多くも、汚れの付着しない素材でつくられるようになっていくと想像する。細かなほこりや、汚れはどうしてもでてくる。そこは、ロボットの出番かもしれない。しかし、基本的に機械は汚れが苦手である。故障の要因の最たるものに、異物があげられる。本質的に、機械は掃除が苦手なのだ。たとえば、金属製品の加工を一つとっても、作業場にはバリやキリコが散乱する。加工の過程では大量のキリコがこんもりと出る。それらを自動で掻き集め、排出するシステムは実現可能だが、どこかで人間の手が必要となる。けっきょくのところ、掃除ロボそのものを掃除する人間は、ロボットが人間の仕事をすべて代替する日が訪れるまでは必要なのだ。機械が人間の手を完全に離れ、機能する日がくるまで、人間は機械の世話をしなくてはならない。それはいまでいう、酪農のようなものだ。家畜から自動で卵や乳を集められたとしても、牛や鶏の糞の始末は人間の手で行わなければならないのと同じである。そう遠くない将来、人間の仕事は、機械の世話をすること以外になくなるかもしれない。



※日々過去のじぶんを恥ずかしく思う。



1521:【多様性が損なわれている?】

ビジネスの視点で社会を見渡すと、じょじょに多様性がなくなってきているのではないか、と感じる者もすくなくないだろう。売れる商品は限られ、特定の人気がついたものばかりが加速度的に売り上げを伸ばしていく。したがって、多様性がどんどん薄れてきているのではないか、と考えてしまうのだろうが、これは逆である。多様性が進んだからこそ、需要が分散し、本当に売れるものしか、売り上げが伸びなくなったのだ。本当に売れるものとは、売れているから売れているものだと呼べる。いくひしはこれを、ディズニーキャラクターをかわいいと言っとけ現象と名付けた(今だけ)。ディズニーキャラクターをかわいいと言っている人間の何割が真実それをかわいいと思っているだろうか? ディズニーキャラクターはかわいい、という前提条件をもとに、それをかわいいと言っておけば、そういうかわいさが解かる人間です、と周囲の人間たちに示せるがために、かわいいと言っているだけではないのか? いわば名札のようなものだ。そして、多様性の進んだ社会では、この名札の存在価値がますます高まっていく。同一の興味関心をもつ人間と出会う確率がすくなくなっていくためだ。ニッチな趣味を名札にしていては、他人と関わることもむつかしくなる。そのため、本当は二割くらいしか興味はないが、まったく興味がないわけでもないし、どちらかと言えば好きなものを、まずは接点として掲げ、他者と関わりあおうとする。そうした帰属意識のようなものが、売れているものがより売れるという現象を後押しする。それはけっして、多様性がなくなったからではなく、多様性が進んだがために表層に浮かんで観測される、認知バイアスである。売れないから商品をださない、ではなく、ヒットしなければ利益を算出できないようなこれまでのビジネススタイルを変えていく、いまはそういう節目の時期なのだ。(※いくひしは、ディズニーキャラクターを、ディズニーだからではなく、本当にかわいいと思っています。ただし、1990年代以降のキャラクターにかぎります(ティンカーベルは例外です)。したがって、ミッキーマウスをかわいいとは思っておりません)



1522:【おろち】

「気持ちや思いを言葉にすることはできます。でもそれはへびの鱗のようなもので、一枚や二枚をはぎ取ってみせたところで、それは一匹のへびを捕まえたことにはなりませんよね。僕の言葉も同じで、それはたしかに僕の内側に身じろいでいる一匹のへびの片鱗ではあるのですが、けっしてそれがすべてではない。僕の内側にはいつでも、オロチが蠢いています。それが一匹だという保証もないのです」



1523:【聞いた話から考える】

昔話には必ずと言っていいほど、人里離れた山奥で暮らす、子宝に恵まれないおじぃさんとおばぁさんが登場する。なぜだろう? それほど当時そういった、村社会から隔絶したおじぃさんおばぁさんが多かったのだろうか? その謎への仮説はいくつかあるだろうが、さいきん耳にした話では、子宝に恵まれないというのはむかしのこの国では、相当に罪深いことだったという説だ。村八分にされるほど、追いだされるほどに、子供のできない男女は肩身の狭い、社会的弱者だったのだ。物語の王道として、弱者が逆境を乗り越え、しあわせになる、というものがある。昔話のすくなからずも、最後は、末永くしあわせに暮らしましたとさ、めでたし、めでたし、で終わることが珍しくない(桃太郎、舌切り雀、花咲かじぃさん、一寸法師など。むろん、例外も多い)。いくひしが聞いたのはここまでだ。ここからはいくひしが考えたことなのだが、子宝に恵まれず、不遇に追いやられた人間を主軸に添え、つくられた物語は、当然のごとく、その当事者たちには語り継ぐことはできない。なぜなら子孫がいないのだから。ということは、そうした物語をつくり、子供に聞かせたのは、子宝に恵まれ、村のなかに居場所のある者たちだということになる。ではなぜ、村八分にした者たちが、わざわざ追いだした者を憐れむような物語をつくり、語り継いだのか。語り部として子どものお守りを命じられるような立場の人間は、そうした弱者へ共感を覚えるような者が多かったのかもしれない。ただ、それだけではなく、弱者でないはずの者たちのなかにも、なぜ追いだす必要があるのだろう、といった疑問を持った人間も多くいたのではないか。同情していたのだ。或いは、罪悪感から、物語のなかでだけでも救済したいとの思いがあったのかもしれない。お祠や慰霊碑を建てる代わりに、物語というカタチで、人生を追いやられた者たちへの鎮魂歌を歌い、語り継いだのかもしれない。では、現代ではどうだろう。そういう視点で現代社会を眺めてみると、弱者が逆境を乗り越えていくタイプの物語には、この手の構造を伴った作品もすくなくないのではないか。けっして、語り手や読者が、その主人公みたいな逆境や弱者ではないものが思いのほか、ヒットを飛ばしてはいないだろうか。共感、共感、と叫ばれて久しいさっこんであるが、誰が、どのキャラクターに、どのような立場からどのように共感しているのか、という分析は、じつはあまり発展していないように感じている。語り継がれる物語とは、歴史的観点から考えてみると、案外、等身大のじぶんと重ねて共感できるようなものではないのかもしれない。



1524:【蟻とゾウ】

蟻を踏みつぶさないように生きるゾウの気持ちなど、地面を好きかって這いまわる蟻たちには解からないのだ。(作物に群がる虫の気持ちなど、殺虫剤を撒く人間たちには解からないのと同じようにね)



1525:【うへー】

やーやー、いくひしでござる。ちょいと留守にしていたあいだにこれはまた、ウトウトとねむたくなることばかりダベダベと並べてくれちゃって。いやはや、これだからかしこぶりマンにはこまってしまうよ。やれやれ。ユーモアのない文章にいったいどんな読者がつくってんだい。おもちろくもなんともない文章、読みたい? ためになる文章とか役に立つ文章なんかがあると思っている人類にゃーちょいとはやすぎる刺激かもしれないが、いくひしさんの並べるユーモアについてこられるあなたのような読者さまには、そりゃー、とくべつにタイムスリップ体感まちがいなしの、時間のつぶしかたってやつをお教えしよう。森見登美彦さん著の「ペンギン・ハイウェイ」がアニメ映画化されて、8月17日に公開されたってぇ、話だぜ。三日前なのだぜ。これは観るっきゃないのだぜ。なんたってぇ、これだけおねショタ×好きな相手からかいブームが世を席巻するはるか以前から、その真髄を築きあげていた森見氏の見る目のありようときたら、これはちょいと、そこらの預言者には太刀打ちできない魔眼じみた凄みがあるってもんよ。え? いくひしの小説? んなもん読んでるひまがあんなら、「ペンギン・ハイウェイ」を観て、ついでに原作にも手を伸ばし、読んでみたらいいのではー???  ユーモアとは何か。答えはそこに載ってるよ、いくひしはだってそこからユーモアとはなんぞやって学んだもんね。自由とは、学ぶとは、そういうこともなんか知った気になれるようで、とくに何も身につかない、だからってぇべつに存在を否定されるいわれはないものだ。役に立つとか立たないとか、本物だとか偽物だとか、そんなこと、あなたの胸に湧き立つ思いに比べたら、月とすっぽんぽんの赤ちゃんのおちりくらいの差があるね。どちらもだいじだけれども、いくひしはすっぽんぽんの赤ちゃんのおちりのほうが好きかもなー。好きすぎて頬づりしちゃう。すりすり。そんなこんなで、すっぽんぽんの赤ちゃんのおちりじみた、おねぇさんのおむねの魅力の謎を解くべく最後の夏を駆けずり回る少年の話、というわけではないのだが、森見登美彦さん著の「ペンギン・ハイウェイ」をアニメ映画共々、どうぞよろしくおねがいしまーす! なんて単なるいち読者が関係者面して宣伝しちゃう。だってそれくらいおもしろい、無関係とは思えない、応援したい、そういうすばらしい物語なのだもの。ぜひぜひ、おひまを見つけて、映画館へ駆け込もう。言うても、いくひし、まだ観てないんだけど! うへー。はよ観たい!!!



1526:【何様のつもり?】

鳴りやまない秋の虫の音を耳にしながら、時間の許すかぎり虚構の世界に身を委ねる、この至福はぼくだけのもの、誰かに理解されたり、共感されたり、受け入れられる必要もないし、されたいとも思わない。独占したい。他人がこの至福の領域に足を踏み入れたしゅんかんに、虫たちは鳴くのをやめ、ぼくをつつみこんでいた虚構のモヤは霧散する。立ち入らないでほしい。なんぴとも、ぼくの人生に踏み入ってほしくはない。触れてほしくはない。関わりたくはないのだ。でもときどき、他人という名の虚構を覗きこんでみたくなる欲張りなぼくは、こっそり人間の皮をかぶって、そとに出掛ける。眺めるだけでいい。関わりたくはない。とうめい人間の皮でもかぶれればよいのに、まだぼくはとうめい人間に出会ったことはないから、とうめい人間を探しながら、他人の人生をそのひとのすぐそばで、じーっと観察する。一日もあれば飽きてしまうから、もうそのひとに用はないけれど。



1527:【リアル回帰】

いくひしの見渡せる範囲にいる十代~二十代前半のコたちはもはや、ツイッターなんか見ていないし、インスタもフェイスブックもやっていない(アカウントは持っているようだが)。若い子に人気、といった触れ込みで宣伝しているサービスも、名前は知ってるけどー、みたいな反応だ。極一部の若者を見ての分析であるから、一般化はできないが、すくなくとも、ネットに夢中になるよりも、リアルでの活動のほうに重点を置いているコのほうが圧倒的に多いと感じている。当然といえば、当然だ。ネットのサービスは、飽くまでリアルの活動を豊かにするための補助であり、ネット内での評価を得るために活動をしていては本末転倒であるからだ。物理世界の活動よりもインターネットでの活動を優先している者はほとんどいないのではないか、と思えてくるほどだ。若者にとっては、ネット内での評価よりも、物理世界で所属しているコミュニティ内での立ち位置のほうがだいじであり、重要視すべき指針なのだ。それは、仲間内からの評価がだいじ、という意味ではない。そこがじぶんにとっての居場所になっているか否かが、重要なのだ。ツイッターでフォロワーが一万人いますよ、と言ったところで、へーすごいねー、と棒読みで言われるのがオチである(言ったわけではないが)。人脈だとか、所属しているコミュニティの知名度なども、とくに重要視しているふうには感じない。むしろ、そうした上辺の評価で物事を判断しようとする姿勢には、冷ややかな視線をそそぐのが若者の特徴と化してきているように思えるのだが、いかがだろう? あなたの周りの若者は、いったいどんな価値感で世のなかを見渡しているだろう? もはや年下からのほうが、学ぶべき姿勢を見かける機会が多いのではないか。あなた自身は、誰かに尊敬されるような生き方をしているだろうか。いくひしは、日々、光に照らされ、融けて消えてしまいそうである。これでは家のなかに引きこもっていたくもなるだろう。コミュニティに属さないことが、いくひしにとっては、生きやすい居場所となっている。



1528:【応援】

応援したいけれど、関わりたくはない、という心理はあまり一般的ではないのだろうか? いくひしは応援したい人、団体、組織、もの、コトがたくさんあるけれど、いずれも関わりあいたくはないし、仲良くなりたいとも思わない。この場合の、思わない、は、どちらでもいい、ではなく、むしろそうなりたくはない、いやだ、にちかい。応援はしているけれど、だからといって、味方ではないし、身内になりたいとも思わない。身内びいきだ、と思われるのもいやだし、身内びいきもきらいだ。あの星きれいだねー、と思うことで、その星がますます輝けるのなら、そう思うひとが増えてほしいと望むし、そのためにできることはしたいけれど、いくひしがその星にとっての何かになろうとは思わない。なりたくもない。いっぽうてきに、きれいだねーと言っていたいし、可能ならば、そんな他人の思いに関係なく、星々には光り輝いていてほしい。そもそも本当の星ならば、地上の民の感応の有無にかかわりなく、輝いているものだろう。夜でなくとも星は人知れず輝いているのだ。昼間の星、地上に届かない星の輝きほど、目にしたいとの望みがつよく湧く。人が望遠鏡を覗くのは、ふだんは見えない星を見たいから、ではないだろうか。応援したい気持ちとは、すなわち、もっとはっきりとつよく星の輝きを目にしたいとの欲求であり、そんなものがなくとも星はかってに輝いているのである。そういう星ほどやはり、応援したく(目にしたく)なるではないか。



1529:【いんぐりっしゅ】

こんばんは、いくひしです。みなさんは英語、とくいですか? いくひしはダメです。苦手です。どれくらい苦手かと申しますと、このあいだのことなのですが、クスリって英語でなんてったっけ?と訊かれ、もちろんいくひしさんはじぶんのことを天才だと思っておりますから、ここぞとばかりに得意顔で、ドラッグでしょバカだなー、と笑いましたところ、よこにいた、いくひしより六つは歳下のコに、メディシンじゃない?と指摘されてしまい、あーそうだった、うっかり、うっかり、なんてごまかしましたけれど、ホントはぜんぜんピンとすらきておりませんでした。医薬品という意味でのオクスリは、メディシンなんですか? 知りませんでした。英語、苦手です。暗号かな?と思ってしまうくらい、異国の言葉に見えてしまいます。異国の言葉なので、ヘンではないはずなのですが、んー、周りのひとからは、いくひしさんはおばかさんなのではないか、ともっぱらの噂で、日々人と言葉を交わすごとに、冷たい視線をちょうだいしております。誤解です、と言いたいところなのですが、いくひしさんは正真正銘のおばかさんなので、致し方ありません。半年くらい前に、英語べんきょうしまーす、なんて書いた憶えがあるのですが、どうにもまったく、うんともすんとも、だめだめです。おばかさんがおばかさんであるゆえんだと思います。我ながら、じぶんに失望してしまいます。まだ失望できる余地があったのですね、とびっくりしてしまうほどです。なかなかやるじゃありませんか、と見直してしまいそうになるくらいですが、それはちょっと、お門違い、というものでしょう。あまり調子に乗らないようにお願いいたしますね。いくひしさん、あなたちょっと、もっとお勉強したほうがよろしくありませんか? きのうまでのいくひしまんさんへ。本日のいくひしまんでした。



1530:【またぁ?】

まんちゃんさー、じぶんもちゃんとひとと会話してますよって匂わせるようなこと書いてるけど、相手の名前ちゃんと言えるの? どうせまんちゃんに質問したのも、まんちゃんで、六つ年下のコもまんちゃんなんでしょ? そうやって、寸劇さらすのもいいけどさー、ちゃんとだいじなことはオチに書いとかないと。妄想ですよって。ね? じぶんをおっきく見せようとするの、まんちゃんのかわいくないところだと思うよ。バレバレだから百歩譲ってかわいいって気もしないでもないけど。




※日々虚しさにすら慣れていく、ひとはそれを麻痺と呼ぶ。



1531:【嫉妬】

いくひしは嫉妬深い。かんたんに他人をねたむし、うらやましいと思ってしまう。ただ、何をねたみ、うらやましいと思うのかが、人とすこしズレているようだ、とさいきんになって判ってきた。たとえば、恋人ができた、結婚した、いいとこの企業に入った、世界一になった、プロになった、たくさんのひとに称賛された、大金が手に入った、そういうことではまずいくひしの癪にはさわらない。よかったねー、とこころの底から思えるし、いくひしはそうはなりたくはないけれど、と同じようにこころの底で思っている。矛盾はしていない。じぶんでは嫌なことだから、それを目標にしていた人たちがそれを達成したときには、すなおに、よかったですねーと言えるのだ。ねたむ理由がないし、嫉妬しようもない。ただし、いくひしが目標にしていることや、憧れていることを、軽々こなしている人を見ると、いくひしは猛烈に悔しくてたまらなくなる。それほしい!となるし、どうしていくひしにはできないのだ、とむつけたくなる。十年くらい前までは、他人から理解してもらうことが、憧れのひとつになっていたが、もうすっかりその欲求には諦めがついてしまった。理解されることはないのだ。いくひしが蟻の気持ちを理解できないのと同じように。いくひしが誰かと理解しあうことはない。諦めてしまうと、かえってスッキリした。きっと、そこでもたくさんの嫉妬とねたみを抱いていたのだろう。一見、理解しあっているように振る舞っている人たちを見ても、いくひしはもう、モヤモヤとした感情を抱かずにすむ。同じように、きっといま目標にしていることも、すっぱり諦めてしまえば、いろいろと楽になるのかもしれない。とはいえ、いくひしが目標にしていることを達成している人間が、いまのところ一人もいないので、いまは気持ちの穏やかな日々がつづいている。嫉妬がわるいことだとは思っていない。どんな感情も、何かをする動機になるし、ときには踏ん張るための燃料にもなるだろう。ただ、それは長くはつづかないし、身体にも精神にも、負担がかかる。嫉妬するくらいなら諦めたほうが楽だし、得をすることが多いように感じる。言い換えれば、踏ん張るくらいなら流されたほうが楽だ、という理屈と同じだ。どうしても諦めたくないのならば、まずは、嫉妬する必要のないくらいに個人的な目標を掲げるのが、先決ではないか、と思うのだが、なかなかそうはいかない世のなかなのだろうか? 嫉妬されるのも疲れるので、いくひしはなるべく、他人の目標を達成してしまわないようにがんばっている。要するに、競わないのである。



1532:【べちゃべちゃ】

久しぶりにチャーハンつくったら、べちゃべちゃになってしまった。待って。言いわけさせて。きょうはその、横着をしたと言いますか、その、えー。冷凍したお米ではなく、炊きたてのお米を使って、ハンをチャーしてしまったのですが、火力が足りなかったのか、それとも、油が多すぎてしまったのか。炒めたご飯をたまごとからめてから、器に移して、カラになったフライパンに、薄切りにぱぱぱーんしたウィンナーを放りこんで炒めて、そっからもっかい、たまごとからめたご飯を投入したのですが、ウィンナーの油が思いのほかジューシーで、滲みでていて、暑い日のいくひしさんかな?ってくらいの油をだすものだから、せっかくいい感じにからまっていた、たまごとご飯ちゃんが、おらのご飯ちゃんが、ピッコロさまに懐いて、懐いてしょうがない、あのご飯ちゃんが、スーパーサイヤ人2ではなく、ただのご飯ちゃんでもなく、油ぎっとぎとのご飯ちゃんになってしもうただ。ドラゴンボールの話とからめたけど、伝わる? スプーンですくって、お口とお皿のあいだを三往復しただけで、もう飽きてしまった。油がぎっとぎと。お口直しに、チョコアイス食べちゃっおっかなー。まだお皿にたんまり残ってる。頼みもしないうちから、ぎっとぎとしてる。もうこれ、チャーハンじゃなくて、ぎっとぎとだわ。ぎっとぎとって名前の料理だわ。きょうからこれのこと、ぎっとぎとと呼ぶことにする。いいかい、きょうからおまえはぎっとぎとだよ。命じて、こき使って、やがておむすびの美味しい男の子に、きみの名前はチャーハンだよ、と教えられて、お父さんとお母さんを返してくださいって、言いに来るのかなーって、千と千尋の神隠しの話とからめたけど、伝わる? 若干ネタバレしちゃったけどごめんよ。こうして無駄にぺちゃぺちゃダベっていないで、新作の物語を閉じてしまいたいのだけれども、なかなか難航しているよ。頭のなかではストーリィができあがっているのだが、それをそのまま出力するのに抵抗があるのだね。それはそれとして、べちょべちょのチャーハン、残しちゃってもいいかな? 冷凍したらいい? そっか。そうだね。あとね。これだいじだから言っとくけど、いくひし、ちゃんとパラパラのチャーハンつくれるんだからな! そこんとこよろしく! おやすみー。



1533:【救済】

物語のなかの登場人物を救済するために、最後にはみんなの輪のなかに入って、めでたし、めでたし、となる物語が多いし、いくひし自身、そういうパターンで締めている物語もあるけれども、せめて登場人物たちのなかに一人でいいから、孤独のままで、めでたし、めでたし、を迎えているキャラを取りいれたい。社会に、組織に、家族に、共同体に加わらなければハッピーになれない、という価値観はもういいだろう。充分すぎるほど描かれてきたし、人々の身体に染みついている。そろそろ呪縛と化して久しいのではないか。じぶんで選びとった孤独なら、それは愛するひとを得るのと同じくらいに尊ぶべき境遇だ。それともやはり、孤独は人間を蝕むものなのだろうか? そうでないといいなぁ。



1534:【わがまま】

いちばんは、孤独と共同をいったりきたりできることだ。好きなときに孤独になり、好きなときに人と関わる。神さまみたいにわがままな生き方ができればそれがいちばんよいけれど、だからこそ、それがいちばんむつかしい。みんなが神さまになれればいいのに。ゆたかに、しずかに、やわらかく。かたく、しなやかに、ゆるぎなく。



1535:【いんふれーしょんいくひし仮説】

宇宙が膨張しているのならば、インフレーションの起きた地点を中心として、もっとも外側の時空ほど、密度は低くなっているはずである。もちろん重力も低くなっているだろうから、時間の流れもまた相対的に、中心よりも速くなっているはずだ。つまり、インフレーションの起きた中心付近ではまだ一秒しか経過していないのに、外側の時空では138億年経過していることもあり得るのだ。もっとも、同時性というものはこの宇宙ではあり得ないので、もし宇宙全土を客観的に眺めることのできる神のような存在がいたとしたら、そう感じられる、というだけのことなのだが。とはいえ、一般相対性理論からすればやはりというべきか、宇宙はインフレーションの起きた地点から遠ざかるほど、重力のつよさが段々畑のように徐々に弱くなっていき、そして、外側の時空ほど、より変化が速く生じていると考えるのがしぜんである。宇宙が膨張をつづけているのは、斥力によって外側の時空が膨張を止めても、より内側の時空が、津波にのように遅れて押し寄せてくるからではないのか、と妄想を逞しくするしだいである。(ちなみに、いま現在のいくひしの考えでは、インフレーションと超大型ブラックホールの死は同義であり、宇宙には無数の宇宙が泡のように、無数に散在していると妄想している。おそらく重力と熱のあいだにも何らかの相関関係があり、重力もまた、熱のように、ほかの系へと伝導したり変換されたりするのではないか、と想像している。そして、重力が伝導したり変換されたりするときに消費される熱が、時空をゆがめるのである。ちなみに時間の流れとは、すべて熱量で表せるといくひしは考える。熱とは、粒子や場の振動数で表現でき、粒子や場は、時空そのものをかたちづくっている。ゆえに、同じ時空内(一つの系)で熱量が増えることが、人類には、時間の経過として観測される。言い換えれば、時間の流れが速いとは、同じ時空内で、より活発に熱が発生している状態だと言い表せる(あべこべに、時間の流れが遅いとは、同じ時空内で、熱が発生しにくくなっている状態だと呼べる。つまり、粒子や場が沈静化している状態のことである。この場合、熱を、粒子や場の振動数と言い表してもよい)。重力と熱は等価ではないが、なんらかの相関関係があることは、重力もまた場の一種であることを考えれば、それほど突飛な考えではないはずだ。この考えを発展させると、ブラックホールの本体そのものの内部では、時間の流れはむしろ爆発的に速くなっていると考えるのが妥当になってくる。時間の流れが遅くなっているのは、ブラックホールの本体をとりまいている時空のほうである。ブラックホールは、自身をとりまく時空から熱を奪い、閉じこめてしまうからこそ、本来自身をとりまく時空内で熱を生みだすはずの粒子や場の活動が抑圧され、結果として、そこに流れる時間のすすみは遅くなって観測されるのではないだろうか。とすると、ブラックホールがインフレーションのように爆発するとしたとき、ブラックホール本体は瞬時に燃焼し尽くされ、消滅する(なぜなら、時間の流れが極限まで速まっているから)。反面、そこで消費された分の熱が時空をゆがめ、時間の流れをねっとりとすすめながら、その余波だけを膨張させていく。よって、ブラックホールが熱的な死を迎えるとき、その周囲の時空には新たな宇宙が誕生していることになる。そしてその宇宙は、それまであった宇宙よりもはるかにゆったりとした時間の流れで膨張しつづけていくため、元の宇宙の物理スケールを基準で観測したのでは、認識するのは至難である。ただし、ホーキング博士の理論では、通常のブラックホールはすこしずつ熱を発散していき、やがて吸いこむ物質がなくなると、ゆっくりと萎んでいき、最後には消えてなくなってしまうことが予言されている。これをいくひしの仮説で解釈すると、通常のブラックホールは熱を発散することで、重力を周囲の時空に還元していき、徐々に、周囲の時空に溶け込んでいく、となる。超大型ブラックホールの場合は、ブラックホールの重力に対して、内側に蓄積される熱量が上回り、爆発するのではないか、と考えている。なぜ超大型ブラックホールだけが自身の内側に蓄えた熱量(エネルギィ)に耐えられなくなるかといえば、重力を高めていくにつれて、自身をとりまく時空の時間の流れは遅くなっていき、発散するはずの熱までもが、うまく発散できず、カッパを着込んだボクサーのように、蒸れてしまうからではないか、といくひしは解釈するしだいである)。



1536:【ダークなんちゃらいくひし仮説】

宇宙を膨張させているなんらかのエネルギィが宇宙には満ちていると考えられている。いわゆるダークエネルギィである。それが何かは現時点では不明とされているが、いくひしの考えでは、宇宙に無数に散在する無数の小宇宙の膨張によって加わる時空の圧力であると解釈できる。水のなかで気泡ができたとしよう。そのとき気泡の周囲の水は、気泡の膨らみによって押しのけられ、全体の密度が上昇する。気泡がたくさんあったり、或いは大きな気泡ができれば、それだけ水は押しのけられ、全体の体積は増幅する。宇宙の膨張も同じようなものであり、宇宙にはたくさんのブラックホールがあり、そのうち規模の大きなブラックホールのいくつかは、消滅するときに、超新星爆発のようなエネルギィを放出する。ビッグバン仮説におけるインフレーションのようなものである。というよりも、まさしくインフレーションとはこれのことである。インフレーションは突如出現する気泡のようなものだ。そして、宇宙にはいたるところでこの「気泡」が発生し、その気泡のなかでも入れ子状に、無数の気泡が発生している。そして重要なことは、よりちいさな気泡――小宇宙であるほど、そこに流れる時間は速くなるのである(なぜなら、高密度の時空であるため。重力の高い物体の内部では、時間の流れは速くなる。ただし、その分、重力の高い物体をとりまく時空では、逆に時間の流れは遅くなる。※いんふれーしょんいくひし仮説を参照)。時間の流れが速いため、一つの気泡が膨張しきるころには、その内部に散在する無数の気泡はとっくに膨張しきって、消滅している。ではそこにあったエネルギィはどこへ消えるのか? 消えずに、より上位層の気泡を膨張させるチカラとして残りつづける。ダークエネルギィとはまさに、この、内包した小宇宙の残したエネルギィだと呼べる。噛み砕いて説明しよう。インフレーションによって膨張する宇宙は、その中心から離れれば離れるほど、時空の密度が薄れていく。よって一般相対性理論により、中心から離れるほど、時間の流れは速くなる(いんふれーしょんいくひし仮説)。時空を膨張させるエネルギィもすぐに使い果たし、膨張する余地がなくなってしまうかに思われるが、時間の流れの速い場所では、それだけ銀河の形成が活発化する。銀河の中心にはのきなみ、ブラックホールがあると考えられている。そしていくひしの考えでは、超巨大ブラックホールの死は、インフレーションと同じ現象を引き起こす。時間の流れの速い、宇宙の中心からより離れた場所ほど、無数の気泡が小規模のインフレーションを引き起こし、そして瞬間的に消滅し、エネルギィだけをその時空に残す。水のなかで気泡が弾けて消えても、気泡が押しのけた水のチカラはその場に残りつづけ、全体の水を押し広げる。地球上であれば、気泡が弾けて消えれば、その空間に水が押し寄せ、隙間を埋めることで、全体の体積は変わらなくなるが、しかし、宇宙規模のマクロな世界では、そこに相対的な時間の差が生じる。より上位層の宇宙であるほど、時間の流れは遅いため、気泡が消滅しても、すぐさまそれを補完するようには、時空全体が変化しない。時系列的には、気泡が生じたときに押しやった分の時空が押し広げられ、気泡を内包する「より上位層の時空」を膨張させる方向に働く。繰り返しになるが、いくひしの考えでは、これが宇宙を膨張させるために働いている謎のエネルギィ、ダークエネルギィの正体だと解釈している。また、宇宙全体の質量を計算すると、おおよそ九十パーセント以上が、人類がまだ発見していない謎の物質で満たされていると考えざるを得ない数値が弾きだされる。それは、視認できない重力を伴う何かだ、と考えられているが、いくひしの「インフレーションいくひし仮説」を用いれば、その問いに答えられる。宇宙に内包された無数の宇宙は、上位層の宇宙よりも時間の流れが速い。時間の流れとは、熱の発生に置き換えて考えられ、さらに熱は、粒子や場の振動数に変換できる。そして、粒子や場の振動数は、そのまま重力と密接に関わっている。つまり、ちいさな宇宙であるほど、そこに生じる粒子や場の振動数は増加し、高い重力をつくりだす。それは、元となるブラックホールにあった重力よりも、遥かに高くなる。ブラックホールが爆発し、インフレーションを起こして、小宇宙を展開すると、膨張した分だけ、指数関数的に、時間の流れの速い時空をつくりだす。そして思いだしてほしいのだが、いくひしの「いんふれーしょんいくひし仮説」では、重力とは、相対的なものであり、それを取り巻く時空との関係性から成り立つ、熱のようなものであると解釈している。冷たい、熱いは、相対的なものであり、流動的である。絶対的な数値ではない。重力による時間の流れもまた同じだ。遅くなる時空があり、結果としてその周囲の時空の時間の流れが速くなる。或いは逆に、時間の流れの速くなる時空があり、そのためその周囲の時空の時間の流れは遅くなり、結果として、その時空は重力を高めるのである。つまり、気泡のような小宇宙では時間の流れが速くなり、それを取り巻く上位層の時空では、時間の流れが遅くなる。そして、時間の流れが遅くなるということは、そこには重力の高い時空が出現していることになる(より正確には、時間の流れの速い小宇宙そのものが高い重力を帯びていることになるのだが、一般相対性理論からすると、突如として高い重力が出現したように観測される)。それは、小宇宙に比べればはるかに広範囲に出現する重力である。さながら、太陽系を維持する太陽であり、銀河系を維持するブラックホールである。俯瞰的に観測すると、観測不能ななにかしらの、質量を伴う物質があるように、人類には感じられる。ダークマターと呼ばれるものは、おそらく、宇宙に無数に散在する無数の気泡――小宇宙から発生する高い重力であると、いくひしは考える。また、いくひしのこの仮説が正しいとすると、粒子や時空を形成する「場」は、インフレーションの規模に関係なく、そこに生じる爆発の規模に合わせて、周波数のようなものが規定される。そのため、小宇宙とその上位層の宇宙とでは、時空の規模が決定的に異なるにも拘わらず、同じような物理法則が働いている。小宇宙とは、より上位層の宇宙に比べてちいさい、という意味でしかなく、どちらも宇宙であることに違いはない。異なっているのは、「場」の周波数のみである。ただし、周波数が異なろうとも、それによって編まれた時空は、同様に時空であるため、互いに干渉し得る。海にできた大小さまざまな波は、大きさが違うからといって反発しあうことはないのと同じだ。よって、小宇宙――気泡の押し広げた時空は、より上位層の宇宙の時空を押し広げるように働き、その宇宙を膨張させるエネルギィとして、人類には観測されるのである。まとめよう。『ダークエネルギィとは、小宇宙の膨張によって生じた、時空の圧迫現象である』。また、『ダークマターとは、小宇宙と「より上位層の宇宙」とのあいだにある時間の流れの差異によって発生する高い重力のことである』。ここで論じたのは「いんふれーしょんいくひし仮説」をもとにした、「ダークなんちゃらいくひし仮説」である。いずれの仮説もすべていくひしの妄想である。科学的根拠は皆無であるため、真に受けないようにお願いします。



1537:【かみがた】

いくひしね、髪の毛刈りあげてんだ。よこは、こめかみのあたりまでジョリジョリだし、うしろは耳の高さまでジョリジョリなん。あと十センチずつうえに刈りあげたら、お皿のないカッパさまみたくなる。ただね、ほら、見える? なんもしないで髪の毛おろしてると、ぜんぜんジョリジョリ見えない。ふつう。たとえるとほら、映画レオンのマチルダみたいな感じ。ぜんぜんちがう? でもほら、かわいらしさはトントンかなって気はするでしょ。なに? 文句あんの? ない? ないならいいんだ。よしよし。刈りあげはいいぞー。髪の毛かわかすの楽だし、汗でべたつかないし、小顔に見えるし、帽子はぶかぶかだしって、そうなん、帽子、ぶかぶかなん。でも、刈りあげてるから、ジョリジョリの摩擦力で、うまいぐあいに帽子がきゅってなる。きゅってなるから落ちない。いいぞー。ただね。キャップだとね、髪の毛が見えてると微妙だから、うまい具合に帽子のなかに押しこむわけなんですけど、これがね。はたから見るとね。街中でガラスに映ったじぶんなんかと目があうと、あら、なに? あなたボウズなの?ってなる。ぎょっとする。あんまし評判よろしくない理由がわかっちゃったよね。いくひしのかみがた評判よろしくない理由がわかっちゃった。そっかー。ボウズに見えちゃうか―。ジョリジョリしか見えてないもんなー。でもさ。ほら。映画レオンのマチルダみたいではないけどさ、映画「マッドマックス~怒りのデス・ロード~」のフュリオサみたいで、なんか、かっこくない? そうでもない? 中身がだめ? そっか。つむじの周り刈りあげたろかこら? なーんてね。そんなことしないよー。おやすみー。ばいばーい。さーてと。いまのうちに、バリカン、バリカン。



1538:【おっさ-ん!!!】

まんちゃんさー。おっさんががんばってかわいこぶってもかわいくないってことをまずは認めよ? おっさんにはおっさんのよさがあると思うなー。わざわざ好きでもないキャラ演じて、おっさん臭を無駄につよめるのやめよ? ね? いいこだから。



1539:【なんじゃーい!】

おっさんだってかわいこぶりたいんよ! おっさんだって、おっさんだって、かわいいって言われたいんじゃぼけー!!! わるいかーー!!!



1540:【わるかないけど】

やっぱ見苦しいというか、なんていうかこう、かわいいのベクトルがなんかちがくない? たぶんそれは、おっさんがどうとかじゃない気がする。要するに、かわいくないんだわ。



※日々必要とされない自由に毒されていく。



1541:【評価されないことの価値】

他人に評価されることはわるいことではない。どちらかと言えば、いいこと尽くしに思える。ただし、多くの人の目につくことで嫌な評価を受けることもあるだろう。とはいえ、それも一つの改善点だと思えば、有意義な評価と捉えることができる。では、評価されないことに関していいことはないのだろうか? いくひしはどちらかと言えば、評価されるよりも、されないことのほうがじぶんのためになっていると感じている。なぜなら評価されないことで、本当にやりたいことしかやらなくなるからだ。評価されないことでやめてしまうことの多くはたいがい、本当はやりたくないことなのだ。評価がほしくてやっているにしろ、そうでないにしろ、人間はじぶんで思うほどには、じぶんの望みを自覚してはいない。じぶんの意思で、好きでやっていると思いこんでいることでも、じつは他人の評価に踊らされてつづけているだけのことも多々あるのではないか。好きなことをやっていたはずなのに、他人の評価を気にして、好きでないことをじぶんに課してしまってはいないだろうか。もちろん、好きでないことをすることで、回り回って得をすることはある。ただしそれも、できることならじぶんの意思で計画をたて、実行していきたいものである。失敗したときに、その失敗をつぎの糧にするには、じぶんで立てた計画であるほうが好ましい。前向きに、「つぎ」へと取りかかれる。他人から評価されるとうれしい、と感じてしまういくひしのような人間にとって、他人から評価されない環境はじつに都合がよい。評価されればされるほど、依存症のように、つぎつぎに称賛の声を求めては物足りなくなってしまう。そうなってしまったらもう、創作家としては死んだも同然だ。繰りかえしになるが、評価を求めることも、されることもわるいことではない。きちんとじぶんを制御できる人間ならば、どんどん褒めてもらえばよいと思う。が、じぶんを制御できる人間は、創作なんて無駄な活動はしないだろう。どうしても制御できない、遊びたい、知りたい、こうしたい、ああしたい、という欲求が溢れだした末に、人は創作をするのである。何らかの制御装置が壊れている人間にとってはやはりというべきか、他者からの高評価や称賛の声は、魔薬と同じ危険性を帯びていると考えておいて損はない。「他者の世界観(評価)」から適度に距離をおける環境が、創作家としての寿命を延ばすことに繋がるのではないか(むろん、まったく断ってしまうのは論外であるが)。いくひしはそう考えるしだいである。



1542:【重力熱情報いくひし仮説】

いくひしの考えでは、重力と時空と熱は相関関係にある。この場合の熱とは、熱い冷たいといった温度のことではなく、粒子や場の振動数のことである。ほかの系と干渉することによって生じる、エネルギィのやり取りそのものだと言える。よって、単なる熱量との差別化をはかるために、ここではそれを情報と呼ぶ。言い換えれば、情報とは、系と系とのあいだでやりとりされる粒子や場の運動である。熱した鉄を水につけると、瞬時に鉄は冷め、その分、水は温められる。このとき、鉄の熱は水に奪われたことになる。そこで生じた、粒子や場の運動の変化そのものが情報である。ゆえに、さらにそこで水を冷し、鉄ごと凍らせた場合、たとえ温度が低くなっていようとも、トータルでみたときの情報は増加していることになる。ちなみに、「いんふれーしょんいくひし仮説(記事1535参照)」の解釈からすれば、物質の温度が低くなるというのは、それを構成する粒子や場の活動が沈静化する方向に働いていることを示し、同時に、その物質をとりまく時空の時間の流れは速くなっていくことが予測される(つまり、温度の低い物質ほど、その物体の内部では時間の流れが遅くなり、重力もまた高くなっていることを示唆する。ということは、「いんふれーしょんいくひし仮説」からすると、ブラックホール本体は極めて重力が低い物体だということになる(極限まで圧縮された物体や時空は、超高温となり、それに伴い、内部の時間の流れは速くなる※「いんふれーしょんいくひし仮説」)。穴のように重力が低いために、それを取り巻く時空が穴に落ち込むように集まり、ゆがみ、結果としてブラックホールの周囲の重力は高くなるのだ。もうすこし言えば、この仮説の妥当性を高めたくば、宇宙空間に分布するダークエネルギィやダークマターが、銀河のない場所や、成熟した銀河に多く存在していることを示すだけでよい。じっさいがどうなっているかを、いくひしはまだ知らない)。これは特殊相対性理論とも矛盾しない。ちなみに一般相対性理論は重力に関する理論である。そして特殊相対性理論は時空と光の理論であると呼べる。たとえば特殊相対性理論でよく例にあげられる思考実験がある。光速にちかい速度で宇宙を移動しているロケットがあるとすると、その内部に流れる時間は、地球上よりも遅く進む。ゆえに、宇宙を光速にちかい速度で旅をし、三日と経たぬ間に地球に戻ってくると、地球では何百年も経っているということが、物理的に引き起こり得る。これは言い換えれば、光速にちかい速度で運動する物体には、それだけ高い重力が働くということでもある。だがよく考えてみてほしい。ロケットの内部でいくら時間の流れが遅くなったとしても、ロケットの表面は、光にちかい速度で移動すればするだけ、外部の物質の影響を著しく受けることになる。ロケットの内部では時間の流れが遅くなるかもしれないが、その分、ロケットと宇宙空間との境界線上では、それはそれはものすごい速度で、物質が摩耗し、変質し、破壊されることになる。宇宙空間とはいえど、本当の意味での真空ではない。ガスや、細かなチリが到る箇所で浮遊しているだろう。揚げ足取りのように感じられるかもしれないが、この世にはまだ本当の意味での真空は存在していないと考えられている。もっといえば、時空を構成する粒子や場があるかぎり、外部(ほかの系)からいっさいなんの影響も受けずに運動することなど不可能なのだ。ならば特殊相対性理論は矛盾することになる。首をひねることになるのだが、ここで、「いんふれーしょんいくひし仮説」の登場である。ロケットと宇宙の境界線上で生じた、激しい物質の変質は、熱として解釈できる。そして熱の伝導や変換は、その一連の流れを統括して、情報として扱える。つまり、ロケットと宇宙とのあいだで消費された情報の分、ロケット内部では時間の流れが遅くなるのである。言い換えれば、ロケットのそとで情報が消費されたので、ロケットの内部では情報が発生しにくくなり、結果として、時間の流れが遅くなって人類には観測される、となる。時間の流れが遅くなるのは、時空がゆがみ、重力が高まるからである。情報の発生は、そのつど、その周囲の時空をゆがめるのである(精確には、熱がはげしくやりとりされることで時空がゆがみ、時間の流れが変移する)。そして、この情報のやりとりは、光速や宇宙空間といった特殊な条件だけでなく、到る箇所、あらゆる物質と物質のあいだ、系と系とのあいだで生じている。掘り下げていえば、物質とはすなわち、この情報のやりとりによって生じた境界であり、膜のようなものである。鉄が硬いのは、そこに生じた時空のゆがみが、時間の流れ(重力)の差異として顕現するからである。鉄と水とでは、そこに流れる時間が異なり、時空そのものが違っている。同じ作用を働かせたとしても双方にはラグがある。このラグこそが、物質にカタチを与えているのである。ラグとは物質に固有の時空のゆがみであり、系と系とのあいだに生じる時間の流れの差異である(突き詰めれば、情報の差異である)。ただし、粒子や波がそうであるように、物質は集合することで、変質することなくまったく異質な性質を帯びることがある。たとえば代表的なのは、固体、液体、気体、プラズマ、といった相転移である。水を構成する分子は、液体から気体になったとしても変わらず水分子だが、液体と気体とでは、その振る舞いや性質に大きな差異がある。これが物体の集合による「創発」と呼ばれる現象である。創発とは、いくひしの解釈からすれば、ラグの増幅現象である。物質同士にある時空のゆがみの差異は、極めてちいさなものであるが、たとえば全国民から一円ずつ集めれば総額で一億円以上がたまるように、物質は集合することで、自身とそれをとりまく外界とのラグを高める。そしてこのラグは、もとは情報の差異であり、突き詰めれば熱のやりとりとして記述できる。水に相転移を引き起こすトリガーは、熱であるのは、比較的よく知られた物理現象であるだろう(水を温めれば気体となり、熱を奪えば固体となる)。また「創発」や「くりこみ」といった現象を紐解くにあたって、物質とは、それ単体で完結した存在ではない、という考えは、極めて重要になってくる。粒子や場が絶えずほかの粒子や場と干渉しあうことで時空を形成しているように、それらによってかたちづくられる物質もまた、絶えずほかの物質と関係することで、その枠組みを保ち、或いは変移していく。鉄を鉄だと見做しているのは、人類の主観であり、そもそも鉄は鉄として存在しているわけではない。ある物質を構成するための変移の途中過程であるかもしれないし、時空と時空とのあいだでやりとりする熱の一時的な形態にすぎないのかもしれない。人類を基準とした時空スケールで物事を観る必然性が、物理学にはない。と、いうよりも、世界を視るために人間の生活様式を基盤にする必要はないのである。そういう意味では、なにをひとまとまりとして視るか、なにを集合と見做すのか、といった「系」の見極めが、これからの科学の発展には不可欠となっていくことが予想される。系と系が歯車のように組み合わさり、創発し、くりこみを促し、そしてさらなる大きな系へと繋がっていく。系とはそれで一つのシステムとなっている現象のことである。必ずしも回路となっている必要はない。一方通行でも、ほかの系へと、なんらかの出力を行うひとまとまりのなにかを、系と定義できる。そして系を区切るものとは、重力の差であり、時間の流れの差異であり、情報の差であると呼べる。これを、ラグ理論とあわせて、「重力熱情報いくひし仮説」と名付ける。(むろん、いくひしの妄想なので、真に受けないようにお願いいたします) 



1543:【ダメ期】

むかしのじぶんの成果物を見直したときに、いまよりすごくない? と思うようなら、それは現時点のじぶんが過去のじぶんよりも衰えていると考えて、まず間違いない。衰えた分、何かが成長している可能性は否定しきれないが、すくなくとも、むかしのじぶんの成果物を振りかえって欠点ばかりが見えてくるくらいでないと、成長したとは呼べないだろう。つまり、いくひし、おまえはいま、ダメ期だぞ? もっとできることをしろ。



1544:【サボる】

サボり癖がついた。まずいぞ。もっと洗練させてかなきゃなのに、つるつる言葉を並べられるから、なんとなーくで、夢をさまうようみたいに物語を編んでしまう。いまはそれでいいかもしれないけれど、このままだとへんな癖がついて、長編が編めなくなる。もっというと、いくひし、本格的な多重構造の物語を、二年くらいつくってない。まずいぞ。本腰を入れてちゃんと物語に潜らないとだめだ。いまはなんか、魚釣りみたいに、てきとうに物語の源泉に糸を垂らして、食いついた魚の魚拓をとっているだけで、かんぜんなる楽をしている。サボっているのだ。あかんぞいくひしくん。深く潜るための心肺機能、かなり衰えてきてるんじゃない? まずは長編つくろうよ。ね?



1545:【焦り】

けっきょく、焦りなんだよ。いくひし、おまえのそれは焦りだぞ。達成感のない日々に耐え得るだけの自信がねぇから、手ごろな短編や掌編をつむいで、いっときの安息を得てるだけじゃねぇのか。だろ、図星だろ? 手ごたえのねぇ、いつ終わんのかもわからねぇあの暗がりへと潜るのがこわいのだろ? ちがうか? 未完成のままの長編がある? とっくにここは暗がりだ? ならとっとと結んで、つぎにかかれよ。あとがつかえて渋滞してんぞ。おまえがつむいでやらにゃ、あいつらぁみんな暗がりの底に沈んだまま、いちども光をおがむことなく、消えていく。いいか、いくひし。おまえを取り巻く暗がりは、おまえがつむげなかった、おまえの消してきた、おまえの殺した物語たちの成れの果てだ。おまえは、おまえの手で殺した物語を養分に、あたらしくまた物語を編ませてもらってるにすぎねぇんだよ。いつまで暗がりを広げりゃ気が済むんだよ、いいからつむげよ。これ以上、あいつら無残に消してんじゃねぇよ。



1546:【しゃーらっぷ】

うっさーい!!! いま集中してんの!!! じゃましないで!!!!!



1547:【正気】

文芸以外で正気を保つための手段がいくひしにはあるので、さいあく文芸では一生このまま好きな物語を好きなようにつくっていけるだけで充分しごくなのだが、そうでなく、これしかない、ととり憑かれていて、いくひしくらい陽の目のみない日々を送りながらいくひしよりたくさんの物語を編みつづけているひとがいるなら、それは本当に、ただそれだけで誇っていいことだと思う。というか、いくひしはそんなひとがいるなら尊敬する。正気を保てるとは思えないし、正気とは思えない。よくそんなことできるね。すごくない? その精神力というか、狂気をいくひしにも分けてほしい。もし狂気すらなく、楽しいからだよーって鼻歌うたってたら、いくひしは一生そのひとを師匠と仰ぐ。どっかにいるんだろうなー。そういうぶっとんだ人外が。



1548:【宇宙の大きさ】

宇宙の年齢はおおよそ138億年だという話は割と有名だ。では宇宙がどのくらい大きいのかについては、なかなか想像が及ばない。現在でも、ハッキリとした宇宙の大きさは解かっていないし、そもそも大きさを測るための「端っこ」という概念を用いてよいのかも不明である。だがすくなくとも、現在の宇宙観の主流にあるビッグバン仮説では、インフレーションという、ほとんど無にちかい点から、急激に宇宙が誕生し、膨張しだした、と考えられている。そう、宇宙は膨張しているのだ。よって、宇宙の年齢が138億年だったとしても、光速で138億年旅したところで、宇宙のはじまりの地点には辿り着かない。宇宙にはすくなくとも、ボールの中心のような、はじまりの地点があるはずだが、それは膨張に膨張をかさね、現在では、およそ光速で464億年の旅をすると、はじまりの地点に辿り着ける計算になる。ひるがえっては、はじまりの地点を通り過ぎた向こう側にも同様に、最低でも464億年分膨張した時空間が広がっているはずである。要するに宇宙は、全長1000億光年以上の距離があるということだ。(464億光年とは、地球から、宇宙のはじまりまでの距離のことである。地球の浮かんでいる地点が、膨張する宇宙のもっとも外側であるとはかぎらない。もっと外側に、膨張した宇宙が広がっている可能性がある。また、確率の問題として、そう考えるほうがよりしぜんだ)。ひょっとしたらもっとはるかに広く膨張しているのかもしれないが、現在の人類にはそれを確かめる術はない。(ちなみに、いくひしは、宇宙の年齢を計算することも、138億年という年齢から距離を算出することも、ましてや宇宙の膨張率なんてものを計算することもできない。要するに聞きかじりであり、本当かどうかも分からない。こんなものは知識とも知恵とも呼べないものである。たとえるなら、きのうのスーパーのセール、たまごが一律五十円引きだったよ、みたいなものだ。へぇ、だからなに?としか言いようがないし、また確かめようもない(チラシがあれば別だが。店に行って確かめることもできる。ただし、その労力をかけたいとは思わない。要するに、些末で不確かな情報だという意味だ)。だからといって無意味とまでは言わないが)



1549:【知識と知恵】

現代人の見聞きする情報の多くは、じぶんで体験し導きだした知見ではなく、人づてに聞いたり、文字に置き換えられた内容を「ああそうなのか」と鵜呑みにした情報が大半である。なぜそうなるのか、本当にそうなのか、と考えを煮詰め直し、じぶんなりにもういちど答えを検討してから納得して憶えた情報は、記憶のなかの一割もないのではないか、と疑っている。知識とはそういった、あやふやな情報のことではない。なぜそうなるのか、なぜそういった見解に到ったのか、といった過程を踏まえて憶えることである。さらにそれら蓄えた知識をもとに、じぶんなりになぞを見出し、知識を足掛かりにし、どうしたら解けるのか、と考えた筋道が知恵となる。知恵の真価はしかし、なぞを解いたことにあるのではなく、ほかのなぞにもその解答への筋道を応用できる点にある。思考の道筋そのものが、考え方、という知恵になるのだ。そして知識から知恵を創造し、蓄えている者は、現代では徐々にすくなくなってきていると推し量れる。知識や知恵がなくとも、慣習やマニュアルさえ憶えれば、反射的な動作だけでそつなく仕事をこなせるようになったからである。文明の発展とはそういうものだから、これは素直に、よい世のなかになってきた、と評価してよい。反面、分かりやすい情報が溢れ、高性能な機器に囲まれているせいで、じぶんの性能まで高まっているかのように錯覚しやすい環境が生まれている。知識も知恵も浅いにんげんが、じぶんは優れていると思いあがり、他人を見下し、また、世のなかのことを解かりきった顔で、さもじぶんの言うことはおしなべて正しい、と勘違いしている者も増えてきているように映る。ともあれそれも、そういった言動を目にする機会が増えただけで、むかしから一定数、そういった傲慢なにんげんはいたのだろう。社会が発展したおかげで、これまで見抜けなかったにんげんの底の浅さみたいなものが可視化されやすくなったのだ。やはりというべきか、よい世のなかになってきている。むろんいくひしもまた、じぶんは優れていると思いあがり、じぶんの言うことはおしなべて正しいと勘違いしている、傲慢なにんげんの一人である。こんなアホウでちゃらんぽらんなにんげんの言動を真に受けてはいけない。考えるくせをつけよう。



1550:【お金のため?】

お金のために創作することはなんの非もないが、だとしたらせめてお金になるものを世にだしてはどうだろう、と思う。お金にならないものを大量に世にだしておいて、結果としてその業界の首を絞めているのならば、お金のために創作するのはどうなのか、と疑問の一つも投げかけたくなる。お金のため、と言うくらいなら、せめて儲けてみせてはどうだろう。お金のためだけではない、というのなら、そういった工夫をもっとしてみせてほしいと思うのだが、いかがだろう(そうした工夫を行おうとしている業界人をさいきんは見かけるようになってきたので、いい時代になったなぁ、と思う)。(本心からお金を稼ぐために出版事業に携わっていた人間は、とっくに業界からは足を洗って、ほかのもっと稼げる業界に移っているころだ。物書きとて同じだろう。お金のために小説を書いています、なんて言っている人間が、果たしていま、どれだけ儲けているのだろう? 儲けているのならばいいが、そうでない作家は、果たしてお金のために執筆しているのだろうか? 単純に疑問である)



※日々積みあげたものを崩して、はしゃぐ。



1551:【夏休み】

8月もきのうで終わり、きょうから9月でござる。あと122日でらいねんでござるよ。ことしのいくひしの小説の生産高は、予定していたよりもおおはばに劣る。毎月電子書籍を一冊だすつもりだったのだが、いまのところ二冊しかだしていない。ゆゆしき事態である。文章量はおおむね予定どおりに溜まっているのだが、手掛けている作品が多くなってしまったので、分散してしまっているのだ。まいにちトータルで3000字ずつ進めているので、月産で9万字の文章が溜まる。こんげつは毎日連載ショートショートをつくりはじめたので、さらに文字数が分散してしまった。ちなみにいまのところショートショートは46作溜まっており、ちょうど9万字である。そのほかに中編を2万字ちょいすすめ、ほかに短編を5作つくったので、合計で13万字の進捗だ。そこにこの「いくひ誌。」がまざるので、だいたい月産18万字ちょいの文章をつむいでいることになる(ボツにした分の文字数は含めていない)。こんげつは長編に挑んでいないので、ずいぶん楽をした。夏休みだと思って割りきるしかない。ちなみに専業作家はまいにち1万字はつむいでいるはずだ、といくひしは思っているので、プロは月産33万字を毎月のように並べているのだ。いくひしはその3分の1だ。たいした量ではない。他人から強制されるリテイクもないし、責任も重圧もない。精神的な負担がほとんどないのは、よくもわるくも、継続するうえではラクちんでござる。プロはたいへんだなー、と想像するにつけ思う。いくひしは自由がいちばんいいでござる。とりあえずショートショートはあとひと月だけつづけようと思う。そうしたら二冊分の文字数が溜まる。ことしの上半期で溜まっていた短編の分と合わせて、11月をめどに、短編集「千物語」として三冊同時に電子書籍にしようと思う。それまでにつくりかけの中編3作を結んでしまい、12月の前半までには、これまたつくりかけの長編を1つ閉じてしまおうと思う。可能なら、7月からはじめたインスタグラムで連載中の連作短編のほうもげんざい4万字まで溜まっているので、8万字にまとめて、ことし中に電子書籍にしてしまいたい。順調にいけば八冊の電子書籍をだせることになるが、どうせまた途中で、新しい物語をつくりはじめることになるだろうから、よくて五冊かなー、と低めに見積もっておく。ことしがあと122日で終わるということは、つつがなく日々を過ごせれば、3000字をかけ算して、まだ366000文字をつむげることになる。長編3作と中編1作をつくれる分量だ。予定の見積もりに分配してみるとちょうどよい塩梅であることがわかる。また、来年になったらすこしのあいだ、この「いくひ誌。」の更新をやめてみようと考えている。文芸とは関係ないほうの楽しみに集中しようと思っているでござる。同じような小説をたくさんつくったところで飽きてしまうので、いくひしさんの中身を入れ替える期間にしたいなぁ、と思っているでござる。やりたいようにやっていくでござる。



1552:【五年】

あと五年もすれば、世を風靡している新人小説家の多くは、WEB上の生え抜きたちが占めるようになってくる。彼ら彼女らは、商業作家の本ではなく、同じくWEB上の無料で読める作品でその感性を磨いてきた世代と呼べるようになるだろう。現在のように業界に対して恩義や尊敬の念など持たないようになる。それを、盲目的でない、従順でない、と言い換えてもよい。そのころには、商才があり、ビジネスを目的に出版を生業としていた業界人たちはのきなみ、業界へと見切りをつけ、フリーランスやほかの業種へと転換し終えているころだろう。そうした、つねに餌場を求める獣じみた者たちにとって、業界を重要視しない若手作家たちは、うってつけの標的となる。あと五年もすれば、海外のようなエージェントとタッグを組むクリエイターが増えていく(そして、詐欺師じみたエージェントも増加するので、到る箇所で訴訟問題に発展するだろう。そういう意味では、組織としての信用の担保されている出版社の権威は、一時的かつ微量ながらに復権するだろう)。たほうで、出版社が独占していた市場は、取次や返本制度などの撤退や衰退によって、ますます痩せ細っていくはずだ。一部の、黙っていても売れるような天才は出版社に囲われ、そうでない需要のない作家たちは、のきなみ使い捨てにされていくようになる(現状よりもはるかに顕著にそういった流れが構築されていくという意味である)。この流れは、文芸にかぎって言えばまず変わらないだろう。変えようとする者たちの抗いも見てとれるが、問題の根は深く、個々人の努力や、ひとつのレーベルがどうこうしたところで変えられる類の問題ではない(やらないよりかはいくぶんマシだが)。お金のために小説を書いている、と豪語する作家もすくなくないが、果たしてお金を稼げていますか、とまずは問いたい。小説を書いてもお金にはならない。以前にも述べたが、現在の俳句のようなものに、小説はなっていく。誰であってもつくれ、世に溢れ、そして一部の特権階級のみが利益を得るような仕組みができあがっていく。ほとんどそれは政治である。現在でもこうした政治を行えない者は、業界から淘汰されていく流れが、一部ではいまなお強固に大河をかたちづくって感じられる。そうでないことを祈りたいが、いくひしがどう思おうが、そういう流れが、合成の誤謬と化して、業界の縮小に一役買っている。いくひしには関係のないことなので、とくにどうも思わない。思いついたので並べただけだが、どちらかといえば、こうした未来が訪れないほうがいいとは思う。回避できることを祈る(祈ったところで、どうなるわけでもないのだが)。



1553:【弱い犬ほど】

能書き垂れてイキってるやつ、もがき暴れてビビってる夏。弱い犬ほどよく吠える、わんわんと怒鳴り、散る炎、星にまじってとくと燃える。遅れてとどく雷鳴はついえ、晴れ渡るそらを尻目に、みな、もつれて踊る、来年は海へ。マイメンはウジへ、のちにハエとなって川のごとく地をぬう。ひとびとの腫れた腕は臭う、いよいよこわれた船が挑む、未踏へとかじをとる。雨は去る、トワの入江に、いざ、子連れで泳ぐ、マーメイドは国へ。後追いはやめとけ、ジーザスには出会えない、自殺には見合わない。まとめて立つ矢面、求めてるのは乙女か? それともこの芽か? 大地に残ったともしびと、友と泣きつかれて見切ってる秋。滲んでいる味。拝み、あわれで、見入ってる餓鬼。



1554:【嗜好】

いくひしはけっきょく、なにを描くか、ではなく、なにを描かず、なにを残したか、のほうに琴線が触れるのだなぁ。こと細かく描写するスキルも嫌いではないし、すごいなぁ、と感嘆するけれども、極限まで情報を削ぎ落したうえで、必要最低限の情報で、欠けた情景を補完させるような芸当に胸を打たれる。それはきっと、はるか上級の存在に操られ、導かれるような快感が肉体の奥底、精神の根っこのほうから湧きあがるからなのだろう。要するに、これもまた信仰であり、洗脳であり、先導なのだ。ひとはみな支配されたがっている。どれほど抗い、拒み、しりぞけたとしても。



1555:【うれしいのはどっち?】

あなたがいないと生きていけない、と縋られるよりも、いてくれると助かる、とやんわり受け入れられるくらいのほうが居心地がいい。いなくてもいいけど、いてくれたほうがうれしいよ、と言われたら、すきすきだいすき、と求められるよりも、ぐっとくる。ただし、それを言った人間がこちらよりも優れている人間だったらの話だ。いや、そうでもないな。じぶんよりも弱い人間から、いてくれるとうれしい、たすかる、と言われたら、ぐっときてしまう。いくひしはなんて単純なのだろう。要するに、ただそこにいるだけでもいいから、と求められたいのだ。なんて傲慢で、わがままなのか。機能せずとも役に立ちたい、というわがまま以外のなにものでもない。神にでもなりたいのだろうか?



1556:【恋愛経験】

聞いてよ、なんかねー。飽きてきたっていうか、これまでのまんタンは、なんていうか、まじめぶってばっかでつまんなくない? そうだよねー? カタブツっていうの? そんなんじゃすぐにオダブツじゃん、みたいなさ、そういうのあるよね? しばらくまたちょちょーいって変えてこっかなぁって。なんじゃろ。ふだんしない話とかする? してみよっか? そうだなぁ。んー、恋バナとかしてみる? まんタンねー、失恋ばっかでねー。慎重になりすぎて、けっきょく声かける前にフラれるっていうか、意中のお相手に恋人ができちゃって、あーあーってなる。多いな、そういうの。でもこころのどっかじゃ、ほっとしてるじぶんもいたりしーの、なんだかなーって思いつつーの、ほかにいいキャラいないかなーって本屋さんいったり、映画みまくったりする。え? あーうん。相手? 生身の人間なわけないっしょ。じょうしきっしょ。まんタン、生身の人間はにんげんに見えないから。見えてないから。そうだよー。まんタン、失恋ひゃくぱーせんとだから、立ち直るのめっちゃうまい。せんせいって呼んでもらってもいいよ。だいたい一日寝たらなおる。失恋のあの、世界が真っ暗で、おもくるしくて、あーあーあー、ってあたまのなかであたま抱えてうずくまってる、いまにも圧しつぶされそうなまんタンは、悲壮感、満タン!みたいな印を結んだりしちゃったりしてって、印を結ぶのは忍者! みたいなね。ノリつっこみもしーの、それを言うなら踏みなさいよ韻を、みたいにふつうにつっこみーの、ムリヤリだじゃれをぶっこみーの、不似合いヤじゃね?とむっとしーの。まんタンしゃべるとすぐに韻ごとみんなを足蹴にしーの、踏みつけちゃうから、女の子よりはバンビーノを泣かしーの、おともだちいないの、かなしいコ。ハーイ、げんきですよー、ってどっかの大泥棒が救いに塔を飛び越えてやってこないかなぁって、夢見がちな乙女ごっこはもうやめよ。こういうのね、半年後とかに読みかえすとまっくろに塗りつぶされた歴史なみに、うがーって、はずかしくなる。でもこういうゴッコをやってかないと、物語のキャラがうまく動いてくれなくなるから、あんまり好きくない、いくひしとはかけ離れたキャラも演じていかなきゃならぬのでござるよ。あたまおかしいって思われたくないなー。わざとですからね。念のため。(って言っとけば、すなおな読者さんは信じてくれるんだろうなー。こんなん言ってるまんちゃんもひっくるめてキャラですので! 足カラス! じゃなかった、あしからず!)(足がカラスってかっこいいなオイ)



1557:【岩のしたのムシ】

なんども申しあげていますが、あたまがおかしい、はぼくらのなかじゃ褒め言葉ですよ。褒められたくないってことですか? あ、そっか、まんさんはよく言ってましたね。評価されないほうが都合いい、でしたっけ? 評価されないから負け惜しみを吠えているだけかと思っていました。本音だったんですね。そうですか。ええ、まあ、よろしいんじゃないですか。どうでも。そういえば、他人からどう思われようが知ったことではない、とも言ってましたよね。そちらはいいんですか? なんです? 理解されたいとは思わないから構うな、ですか? はあはあ。そうやってまた人を撥ねのけて、孤独になるより前にみずからカラに閉じこもる気なんですね。そうやっていれば楽ですもんね。まあ、いいんじゃないですか。それでも。ぼくには関係のないことですし。好きにしますよ、ぼくだって。岩のしたに隠れたムシとか眺めるの、嫌いじゃないですし。



1558:【たいふん】

きょうもきょうとて、自転車こきこき往復16キロでごわす。なんかやたら小枝が道路に落ちてて、いくひしさんは、基本、自転車をこきこきしてるあいだは、妄想の世界に旅立っておりますから、目のまえの小枝ごときには気づかない。ばきばきタイヤが鳴ったところで、あ、やばいやばい、と焦るのを、十回はくりかえしましたよね。パンクしないといいなぁ。時間差でくるんだよね、こういうの。さいきんは、なんかやたらと顔にムシみたいのが、ばしーん!ってあたるし。正体不明。ひょっとしたらコウモリかもしれん。ムシにしては重量感あるんだよなー。こわいからやめてほしい。おねがいします。あとはきょうの帰りね。風つよいなー、おもてたら、雨がバシバシ降ってくるてか、もはやツブテと化してたね。皮膚にめりこむ雨ってどないやねん。似非関西弁だってつかっちゃいますよ、文化盗用でおこられる時代がやってきたりして。びしょびしょの美女って語感はよいのだが、あいにくいくひしさんは美女ではござらんので、びしょびしょのびしょびしょになっただけでごわす。どすこーい。ごっつぁんです。や、ここ一週間、体重が減りつづけてまずいな、おもてたところです。ご飯てかお肉たべなあかん。似非関西弁だってつかっちゃいますよ、文化盗用でおこられる時代って、二度目でしたね。あたまが働かないので、その日ならべた文章も、あれ?なに書いたっけ?ってなる。記憶力に難のあるいくひしさんでございますが、日に何回も、何年も前の醜態を思いだしては、きゅうに、あーあー! ってなる。やめてください、やめてください、って唱えると消えるので、この世には神さまはいないけれども、脳みそのなかに小人はいる気がする。きょうはずいぶんネガティブだなーっておもた? ちがうよ。ナラティブだよ。物語には二種類あって、ひとつがストーリィ、で、もうひとつがあなたと私だけ構文とも呼べるナラティブだよって、まあそんなことはどうでもよろしいのじゃが。そろそろきょうの分の文字数溜まった? 季節の変わり目はあいもかわらず身体がダルダルだい。とりあえず今週の目標は、お肉たべます、です。ていうか、台風きてたんじゃん! おしえてよ!



1559:【混沌のあと】

世界中で気候が安定しなくなってきている。自然環境の変容や、都市による局所的な熱の放出が主な要因ではないかと想像している。温室効果ガスや化学物質による大気汚染など、因子を辿れば多岐にわたる。ただひとつ言えるのは、これまで自然界になかった規模で、モザイク状に気候条件が変化しやすくなっているという点である。気温は、百メートル上昇するにつき摂氏0・6度下がると言われている。平野や山沿い、海岸や山地など、広域な環境の変容によってゆるやかに変化する気候が、都市の発展により、局所的な気候の変化を生むようになった。代表的なのは、ヒートアイランド現象だ。建造物が立ち並ぶことで、熱がそとに発散しにくくなり、結果として、フェーン現象などの外的な温風を溜めこみやすくなっている。空調や自動車の熱も地表の温度をあげる一因になっているだろう。こうした都市部による局所的な気候の変動は、世界中で、モザイク状に大気の流れを不安定にしている。その結果起こるのは、マイナスをプラスへ転換しようとする自然の自浄作用である。温度が高くなれば相対的に、低い場所へと空気は流れ、気温が低くなれば、温かい空気が流れこむ。こうした単純な現象が、大規模にかつ連鎖することで、モザイク状だった世界中の気候は、大きな流れを生みだす。その対流によって生じるものは、なにも天候の変化だけではない。海面の温度にも影響する。寒冷地帯を半世紀で熱帯気候にすることも可能性としては否定できない。世界規模で、大気の流れが大きくうねるために、台風やたつまきや積乱雲が、その勢力を増して形成されるようにもなる。モザイク状だった大気は、つぎの段階では、均一になるように変動する。そこで起きる自然災害の規模を、現段階から予測するのはむつかしい。ただし、これまでにない異常気象が頻繁に起きるようになるのではないかと、すでに広く懸念されている。季節の一貫した国に四季ができ、この国から四季がなくなるようになる日はそう遠くないかもしれない。(それっぽいことを並べているが、それっぽく言っているだけで、中身のない文章の典型である。自然災害が増えても不安がる必要はない。それを乗り越えるだけの発展を人類は重ねてきた。変遷の度合いを速める自然環境よりも、格段に速く人類もまた社会を変えてきたのだ。同時にこれまでは、その変化が自然の変遷を加速させてきたわけだが、その相互作用が裏目にでることが明らかになってきている現代では、これからはそうならないようにするための対策が、世界規模で展開されていくことが予測される。もし展開されないようなら、人類の人口は大幅に減るだろう。それはそれで、人口爆発の問題が解決するので、どちらに転がろうとも、不安がる必要はない。個人がなにを思ったところで、自然現象に影響はない。変わらずに変わりつづけるだけである。影響するとすれば、なにを行い、なにをしないか、という個々人の行動選択だけである)(大勢の行動選択を一方向に誘導できれば、社会全体の動向をあるていど操作できる。人類の発展による自然環境の変動を制御するには、社会規範から変えていくのがやはりというべきか、手っ取り早い策ではある。ちいさなお菓子のひとつひとつを包装するために使うエネルギィや資源を考えれば(そしてそれらを処分することで生じる環境汚染の度合いを考えれば)、政府が過剰包装を規制するくらいのことはしてもいいように思う。お金を出してゴミを買うような構図をまずはなんとかしたほうがよいのでは、と思うが、自然環境の変動よりも、経済を活性化させるほうが重要視される世のなかなのだろうか)



1560:【疲れたとき】

人間には二種類いる。疲れたときに、でもがんばっちゃう人と、すぐに休む人だ。いくひしは断然後者で、疲れたときにはがんばんない。あー疲れた、って口にでちゃいそうになったら迷わず寝る。どこでも寝る。だいじな用事があるときほど、寸前まで寝る。本番ですよー、の五分前とかに起きるくらい。面接でも、待ってるあいだに寝る。呼ばれるまで寝てる。呼ばれたら起きれるくらいには、起きてるとも言える。これは参考にしないほうがいいかもしれない。しっぱい。とにかく、疲れたときは、すぐに寝るのが長期的にみるといちばん効率がいい。疲れないようにするのがいちばんだけど、それはいまは措いておく。で、どうしてもやらなきゃいけないことがあるときは、早めに寝て、早起きするといい。早起きしてからやる。まずは寝るの優先です。早寝早起きです。で、ときどきいるのが、身体を動かしてリフレッシューなんて言って、疲れてるのに運動しちゃうひと。寝ましょう。リフレッシュされたのは錯覚ですから。身体はちゃんと運動した分、疲れてますから。なんだったらランナーズハイになってるだけで、脳みそめっちゃ疲れてますから。まずは寝ましょう。で、早起きしてから身体を動かすなりなんなりしましょう。肉体の疲れも基本は、脳みそが疲れてるだけらしいですよ。動いてないからだいじょうぶってなわけにはいかないのです。脳みそをこそ、休ませましょう。でも眠りすぎもよくないみたいです。ふだんどおりのサイクルで、いっぱい眠りたいときは、いつもよりも早く寝て、ふだんどおりの時間帯に起きるのがよいみたいです。これはちょっと、いくひしには真似できないことですけど。寝れるときは二十時間だって寝ちゃういくひしさんですからね。寝られるならもう、一生起きなくていいっていっつも思う。でも起きちゃう。ふしぎー。生命の神秘。生きるとは、起きてしまうことなのだ。起きるためには寝なくてはならず、つまり生きるとは寝ることなり。寝ましょう。疲れたら容赦なく、おふとんへGO! 世界にあるやさしさの九十パーセントはおふとんでできていると思う、いくひしまんでした。



※日々飢えているから、植えている、でもなにを?



1561:【ビジネス】

一般によく言われるビジネスの基本に、付加価値をつける、というものがある。たとえば、ただの石ころでも、場所によっては、そこに子どもでも描けそうな絵を引くだけで、一個900円の商品として売れる。この場合は、石ころを仕入れる場所が問題になってくる。たとえば、エジプトやアンデス文明のあった地域などだ。その地の石ころに、古代エジプト文字や、ナスカの地上絵を塗るだけで、商品になる。これは基本的にどの観光地でも行われている付加価値のつけ方だ。場所についていた付加価値を、仕入れ値の安い物に上乗せする手法といえる。さいきんでは、イベントが盛んであるから、この付加価値を上乗せしやすい。イベントで買った、ということそのものが付加価値になるためだ。イベントでは基本的に、なんにでも付加価値がつく。祭りの出店も、この構図で、割高な商品を売っている。祭りでなければ、客はそこでその商品を買おうとは思わないだろう。テーマパークや、美術館、映画館などでも同様だ。場の演出は、付加価値をつけるうえで重要な役割を果たす。では、場所やイベントを利用できないときはどうするのか。まずはパッケージが、場の演出として機能する。たいした商品でもないのに、包装が豪華なだけで、高級品を買った気分に浸れる。ことこれだけ出版不況と叫ばれて久しいにもかかわらず、一部の大手印刷会社が収益を拡大しつづけていられる背景には、このパッケージ事業が経済を土台から支えていることが挙げられる。安全や品質の高さを示すことにも一役買っている。パッケージには、信用を演出する効果があるのだ。まとめると、現代では、商品としての本質的な価値ではなく、そこに上乗せされた付加価値が、購入者の購買意欲を高める、という話になってくる。仕入れ先や売り場の雰囲気、またはパッケージを通して伝わる信用できそうな雰囲気など、付加価値の基本は、カタチのない、具体性に欠けたものばかりだと判ってくる。価値というそれそのものがカタチがないので、これは何もふしぎなことではない(ここで言う価値とは、それを手にした者への影響力の大きさとして表現できる。生活をより効率よく、便利に送るためのもの、として大きな齟齬は生まれない)。カタチのないものの大きさや強度を高めるには、同様にカタチのないものを使わなければならないのだ。そして二十年前までは使えなかった、もっとも手軽で、効果の大きい付加価値が、「大勢から認知され、評価されること」となる。ひとむかし前までは、この付加価値のつけ方が、一部の報道機関や広告代理店の専売特許だった。SNSの普及によって、誰もが手軽に、じぶんや商品への付加価値を高められるようになったわけである。本当に質のよい商品なら、すこしの労力をかけるだけで、大勢からの注目を集めることが可能になった。評価経済と呼ばれるものの土台がこうしてできあがったわけであるが、その影響で、大勢からの評価がつかないものはよくないものだ、との間違った判断が社会全体を覆いはじめている。真実(社会的に)価値の高いモノほど、多くの者は理解できない。科学やテクノロジィ技術を傍証に挙げればそれらしい(これもまた、逆説は成り立たない。多くの者から理解されないからといって、必ずしも価値が高いわけではない。また、価値がないからといって無意味でもない)。評価経済において、バズる情報(コンテンツ)にも、大きく分けて二通りある。しぜんとバズった情報と、戦略的にバズることを目的にされた情報だ。よりよいものならば大勢から評価される、が真であるならば、前者の天然ものは信用度の高い商品(情報)であると呼べる。しかし、後者の、狙ってバズらせた情報は、基本的にはCMと大差ない。CMは知名度を高めるが、だからといって商品そのものの質がよいとは限らない。むしろ、商品そのものの価値で勝負できないから広告を打っている、と言ってもそうそう的を外してはいない(付加価値とはそういうものなので、間違ってはいないが)。このように、同じ高評価であっても、そこに内包された本質的な価値は真逆になることもある。そして現代では、天然のバズと、CMじみたバズの区別を、客観的につけることは至難である。かつては、明確にCMだと判った広告も、これからはより巧妙に、広告のテイをとらずに、そこら中に溢れることになる。以前はテレビ番組が、スポンサーをよくみせるような演出を取り入れていた。しかしこれからは、テレビを見なければいい、というレベルで回避できる類の、擬態ではなくなってくる。広告と打たずに、人々の口から語らせることで、付加価値をつけるような戦略をどの企業もとるようになる。レビューしたらいいことがありますよ、拡散してくれたひとにはつづきがタダで!みたいなことも増えていくはずだ。非難するつもりはないが、そうして溢れた、付加価値をつけるためだけの中身のない情報を発信することに慣れ親しんでしまうと、商品そのものの価値を高めようとする意識が薄れてしまうのではないか、と想像せずにはいられない。なぜなら、物の本質を高めるよりも、付加価値をつけるほうがかんたんで、効率がよいからだ。相対的に効率のわるい、商品開発や発掘・改善作業が蔑ろにされかねない。どちらかいっぽうに傾倒するのも、ビジネスという観点からすれば非合理的であるが、市場を選ばずに溢れかえる擬態広告は、そう遠くないうちに飽和状態となり、相対的にその効果を薄める方向にかたむくはずだ。そのとき、真実に世の人々が求めるようになるのは、ほかのモノよりもより本質的に質のよいモノである。掘り下げていえば、明確な欲求のもとに、需要者たちが他人を出し抜ける高性能な情報や商品を買い求めるようになるということだ。評価経済が成熟するにつれて、レビューや評価は、その信用を担保しきれなくなる(フェイクニュースのように、どれが天然物のバズで、どれが擬態広告かがわからなくなるからだ)。しかし、需要者たちは、評価経済という名の情報戦略に骨の髄まで馴染んでいる。ほかの者たちよりもできるだけよいものを手に入れることに躍起になった結果(すなわち、バズッた情報にばかり触れた結果)、本質的によいものを求めてはいるが、なにがよいのかが解からない、という状態に置かれるようになる(これまでの需要者も、さほど見る目があったわけではないが、現代ほど商品の数は多くはなかった。現代では個人で商品同士を比較しきれないため、結果として他人のレビューや評価を参考にせざるを得ない状況がある)。審美眼のくもりは、需要者だけでなく、それを提供し、擬態広告を打ちだす業界の人間たちにも波及していくだろう。擬態広告を打つだけでモノが売れる時代では、いいものではなく、広告を打ちやすいものばかりが出回るようになる。しかし、それは長期的に見れば、市場を痩せ衰えさせる方向に働く(なぜなら、評判のよさに、モノそのもののよさが比例しないためだ。バブルのように、相対的に、モノの価値が落ちていくことになる)。だからこそ、評価経済が市場を支配する、なんて妄言にうつつを抜かさず、淡々と質を高めるために問題点と向きあい、改善しつづける姿勢が、長期的に見たときに、有利に働く。それは職人のように、一つのことに打ち込む、という意味ではない。評価経済のさきにあるのは、大勢からの評価など当てにならない、という意識が、みなの共通認識にまで昇華される時代だ。大勢からの評価ではなく、あなたの評価が誰かの基準となることを目指したほうが、ビジネスを展開するうえでは得をするようになる(言い換えれば、審美眼を磨こう、というしごくつまらない主張に集約する)。付加価値の底に沈んだ原石を見いだせる目を肥やすために、日々、目のまえの課題と向きあうほうが、付加価値を高めることよりも優先すべき事柄なのではないか。なんの目新しくもない結論になるが、いまは気を抜くとすぐに付加価値を求めてしまう世のなかである。いまいちど考えを煮詰め、優先順位をつける癖をつけたほうが、じぶんのためになる気がするのだが、やってくるかわからない未来よりも、いますぐに得をすると判っていることに尽力したほうがいいではないか、という理屈を否定するつもりはないので、おのおの、やりたいようにやっていきましょう。



1562:【人間性】

人間性がどうたらこうたら、と槍玉にあげて相手を攻撃しておきながら、ではじぶんはどうなのか、と省みれないひとがいる。あなたも相手とそう変わらないですよ、と思うのだが、なんにせよ、あまり好きな言葉ではないが、争いは同じレベルの人間同士でしか起こらない、というのは、まったく見当はずれというわけではないのだなぁ、とインターネットを眺めていて思いました。高度にじぶんが正しいと思いあがった自意識は、悪意との区別がつきません。きっと生身で接したら常識的で温厚にみえるひとたちなのでしょうね、と無駄に妄想をたくましくしてしまいます。インターネットさんは人間の醜さばかりを増幅させるのでしょうか。そう思ってしまうじぶんの性根の腐り加減がいやになります。うつくしいものだけを見ていたいです。それはそれで、性根の腐りはじめる前段階ではあるので、気をつけたいな、と思います。うつくしさを探すこと、見出すことは、じぶん自身の美を磨くことに繋がりますが、うつくしいものと醜いものを峻別するようになったら、それはもう、じぶん自身からうつくしさが失われつつあると考えて差し障りないでしょう。うつくしさと醜さは切り離せるものではない、割り切れるものではないのです。うつくしさや正しさを感じるのはあなた自身ですが、あなたがうつくしさや正しさを決めることはできないのです。あなたがどう思おうが、山はそこにあり、海はそこにあるのです。日々、万能感に支配されないようにしたいものですね。



1563:【敢えて腐らせる】

いくひしは周期的に、積みあげてきたスキルを腐らせる期間をつくる。コツコツと磨いてきた腕を敢えて放置して、サビつかせるわけだが、最初にサビつきはじめるのは、じぶんにとって高負荷のかかっているスキルである。言ってしまえば大技だ。ある時期までは、この大技ができるかできないかが勝負の分かれ道になる。しかし、それで通用するのはよくて五年だ。十年は確実に保たない。技を極めていっても、どこかで極限をさまようことになる。前進してはいるが、ほとんどミリ単位で、みたいな感じだ。ではどうするか。ほかの技を磨いたり、技と技を組み合わせて、新しい筋道を編みだしたりするよりほかはない。そしていくひしは基本的に楽をしようとしてしまうので、大技ができているかぎり、その大技に頼ってしまうのである。だからこそ、敢えて大技を腐らせ、錆びつかせ、できなくすることで、ほかの、あまり負荷のかからない小技を組み合わせ、新しい筋道を試す方向へとじぶんに発破をかける。武器を手放す、というのは、なかなか勇気のいることだ。それは人によっては、腕を切り落とすくらいの葛藤を抱くことかもしれない。いくひしも、じぶんからそれを捨てるのはなかなかできない。大技さえできていれば、すくなくとも、しばらくは安泰だからだ。だからこそ敢えて、怠ける、という、より楽な手法を用いることで、強制的にほかの道へとみずからを追いこむのである。もちろん、怠けているあいだの時間を無駄にはしない。まったく関係のない分野に夢中になることで、新しい筋道の素材を集めておくのである。可能なかぎり、関係のない素材であったほうが好ましい。単純に、使えない素材を使わざるを得ないときのほうが、人間は発想が豊かになる。と、いうよりも、発想しないことにはまえに進めないので、どうあっても発想しようと脳の回路が切り替わる。人間はじぶんで思うほどには、じぶんの能力を使いこなせない。状況や環境を変えてしまうほうがてっとりばやいことがすくなくない。新しいことがしたければ得意なことを捨て、発想が必要なときはガラクタを素材にし、創作をしたくば、そうせざるを得ない環境にみずからを置くほうが楽である。いくひしはスマホを使わないし、ゲームをしないし、友人知人と遊んだり、飲み会に参加したり、相談しあったりしない。いくひしにとって必要なものが漏れなく、そこにあるからだ。しかし、いくひしは、いくひしの手でそれら必要なものを生みだしたいと望んでいる。だからこそ、安易に望んだものが手に入るそれらを遠ざけ、自力で生みだすよりない環境に閉じこもることで、すこしでも楽に、欲したものを生みだそうとしている。ほかにもっといいやり方があるのかもしれない。だからときどきは、遠ざけたことや、ものに、進んで囲まれてみることもある。ただ、経験上、やはりというべきか、すこし苦しくて、満たされず、渇いているときのほうが、本当に欲しているモノが手に入るように感じている。そうしたいくひしを眺めているひとはだからなのか、何かを捨て、腐らせ、サビつかせるいくひしを見るたびに、もったいない、と言うのだろう。いくひしからすれば、みなが後生大事に抱えこんでいる武器や道具が、彼ら彼女らを縛りつけている呪具に見え、苦しくないですか、と訊ねてみたくなる。しかし、気づかなければ痛くないままでいられる傷のことをわざわざ指摘するのも野暮に思い、言わぬままでいる。いくひしは周期的に、積みあげてきたスキルを腐らせる期間をつくる。短期間で腐るようなスキルはむしろ、不要なのだ。欲しているのは、自由に、自在に、組み合わせ、編みだし、生むちからなのだから。



1564:【誰にとっての理屈か?】

稀に見かける言説に、「小説家が小説以外の文章を並べはじめたら、小説家としての寿命が尽きる前触れだと思って間違いない」みたいなものがある。傾向としてそういう兆候はあるように思う。小説をつくり、読んでもらうよりも、小説家希望の者たちに向けて、小説とはなんたるか、創作とはなんたるか、みたいなことを並べたほうが読まれやすいし、反響がある。称賛や評価を求めている者にとっては、そちらのほうが手軽に欲求が満たされる。それはそれでよいのでは? と思う。小説家でありつづけることにいったいどれだけの価値があるのか、と疑問に思うほどだ。価値があると思う者にとってはあるのだろうなぁ、と思うくらいで、とくに社会に必要な職業だとは思っていない。ないよりかはあったほうがいいのでは、とは思うが、わざわざ引き止めるほどのことでもない。けっきょく、小説家が小説家でなくなることで損をするのは、小説家を利用して利益を得ている者たちである。創作論なんて書いていないで小説を書け、という理屈は十割、出版社や読者側の理屈である。書きたいモノやコトがあるなら書けばいいと思うのだが、間違っているだろうか? いずれ文字をつかった文芸であることに違いはない。むしろ、書きたいことがあるのに書かないでいるほうが物書きとしての寿命を縮めるような気がする。これもまた、物書きとしての寿命が延びたからといってどんな意味があるのか、という解釈は、人それぞれ違ってくるものだから、書かずにいることを非難しているわけではない。ただ、無条件に、誰がどのような条件下で唱えたのかも分からない理屈を理由に、書きたいことや書けることがあるにも拘わらず書かずにいるのは、初心というか、本心というか、本当にしたいことからすると、本末転倒なのではないか、と疑問に思っただけだ。小説家と呼ばれたいのか、物書きになりたいのか、それとも文字を並べて表現したいのか、はたまた小説だけをつくっていたいのか。目的はそれぞれ違っていていい。それぞれ、じぶんに見合ったやり方を試していけばよいのだ。創作論だって、べつに作者自身それを必ず守っているわけではないだろう。どちらかといえば、じぶんの考えを整理したくて書いていることのほうが多いのではないか。或いは、これまでの手法を打ち砕くために、敢えて出力し、過去のものとしてしまう、というのは、一つの方法論として有効だと感じる。もっとも、いくひしがほかの小説家に勝っていることは何一つないので、これらの考えの正当性は限りなく低いのだが。ただしすくなくとも、いくひしがまいにち文字を並べつづけていられる理由の最たるものは、思いついたことはなんでもまずはいちど文字にして並べるのをじぶんに許していることだ、と呼べる。禁じたりはしない。それを誰かが読めるカタチで発表するかどうかはまた別問題であるにしろ。雑語りだろうと、戯言だろうと、御託だろうと、なんだろうと、書かずにいるくらいなら書いたほうがよい。いずれ物書きとは、文字を並べているあいだにしか現れない陽炎のようなものなのだから。まずは何でもいいから、思いついたことや、考えや、イメージを、文字に落としこむ習慣をつくったほうが、本当に表現したいことを掴んだときに、より自在に出力できるようになるのではないだろうか。



1565:【いいね!】

SNSの文化なのだろうか。いいね!を押されたから、お返しにいいね!を押す、みたいな人に遭遇することがある。それを責めたり、非難するつもりはないけれど、それって、いいね!の意味あります?とは思うのだ。いくひしは、本当にいいね!と思ったものにしか、いいね!は押さないし、それなりに、いいね!を、作品を評価するうえで比重の高い表現方法だと思っている(例外的に、だいじょうぶですかー、安心しましたー、という意味で使うこともあるけれど)。いっぽうでは、いいね!を単なる、ありがとうや、見たよー、といった比較的軽い挨拶のようなものとして使っている人がいることも承知しているし、それをとやかく言うつもりはない(言ったところで、誰かを不快にさせる以外に効果はないので、言わないほうが損失はすくない)。ただ、あまりに色々な評価基準があるので、せっかく、ものすごくいいね!と思って押した、いくひしのいいね!が、そのひとにうまく伝わっていないかもしれない、と思うと、すこしさびしく思うのだ。言っても、いくひしに、いいね!と思われても、そもそもがたいしてうれしくないのかもしれないが。話は変わるのだけれど、noteで、このひとすごくない?と思った作家さんを見つけた。名前が絵文字というか記号だったので、うまく紹介できないのだけれども、とりあえず掌編の「魚の子(https://note.mu/_812/n/n406d878df0e7?creator_urlname=_812)」が、久しぶりにWEB上の小説を読んで、ぐわーっとなりました。一気にぜんぶの記事を読んでしまいました。おもしろーい。たいへん、いくひし好みの文章に、物語でした。ほかの掌編や、日記も好きです。ひと目ぼれした作家さんです。長編はないのかしら?



1566:【戦うのではなく】

戦わないことと、黙認することはべつだ。放置したくないからといって、相手とぶつかりあうのは得策ではない。狩りの基本は戦わないことだ。身の周りから害を取り除きたくば、戦わずして排除する方向に尽力したほうが好ましい。あとあと禍根を残さぬように、相手に気取られないように、みずから自滅するように仕向けるのが得策だ。もし戦うのならば、片手でひねりつぶせるくらいの圧倒的戦力の差がなければいけない。戦う間もなく勝敗の決するような戦いでなければ、しないほうがマシである。むろん、生存戦略を優先した場合の考え方であるので、死んでもいい、損をしてもいい、と思うのならば、真っ向からぶつかり、勇姿を示すのも一つかもしれない。負けても損をしないなら、好きなだけ勝負をすればいい。ただし、それは戦いとは呼べないだろう。繰りかえすが、戦わないことと、黙認することはべつである。言い換えるならば、戦い方にもいろいろある。じぶんにあった戦い方を見つけよう。



1567:【平穏な日々】

やー、やー、いくひしでござる。今週はきゅうに、がっくーんと肌寒くなりましたね。そとを出歩けば、半そでのひとよりも長そでのひとのほうが多くなっておりますよ。部屋にいたほうが肌寒いので、いくひしさんはすでに毛糸のセーターを着込んでおります。セーターというか、カーディガン? よくわからんのじゃが、なんかそういうの羽織ってる。あとすこししたら、ひざ掛け毛布もとりだそうかなぁ、なんて考えてます。窓のそとじゃコオロギにカネタタキにキリギリスが鳴いておって、すっかり秋だなぁなんてなにともなしに目を細めてしまいますけれども。えぇ。まいどお馴染み、書くことない日でございます。さいきんは、ほら、いきがってるいくひしさんにこの「いくひ誌。」を並べてもらうことが多いじゃないですか。いちばん真面目ないくひしさんでもありますから、いちにちに二度更新してくれちゃったりして、もっと控えめでもよろしいのよ?なんて心配してしまいますけれども、本人がいいみたいので放っておいてます。ほかのいくひしさんたちには、毎日更新ショートショートの管理をお願いしておりますから、あまりこちらには出てきてないみたいです。ちなみにこちら「https://note.mu/ikubisiman」に掲載しております。刺激が足りなくて、飽きてきたころですかね。いくひしさんはほかのいくひしさんに、あれやって、これやって指示だすだけなのでラクちんでござる。いくひしはさいきん、積み木にはまっておりまして。三×三×三の立方体をつくるんですけど、ブロックが三つくっついて「L」のかたちになったのが、九個あって、それぞれに赤いマーキングがされてるんですね。ぜんぶで赤いマーキングは21個ありまして、立方体を組み立てたときにサイコロの目になるようにしなきゃなんですけど、まだいちどもサイコロにできたことがなくて、なんでかなー、なんでかなー、ってうんうん言ってます。ひまなのかな?っておもった? このひと、ひまなのかなっておもったんでしょ? いいよいいよ。どんどん言って。いくひし、ほかのいくひしさんとちがっておこったりしないから。なんならみんなで、ぱーっとパーチーひらきたいくらい。餃子ぱーちーしようぜ。アルコールはなしな。ノンアルコールならいいけどな。コーラがいいな。いくひしはコーラがいい。みんなはなに飲む? いいよいいよ、いくひしさんおごっちゃう。なんて言ってもだれも返事はくれないけれども、さびしくはないやい。なんたっていくひしさんには、ほかにもいくひしさんがいて、そのいくひしさんにもいくひしさんがいるから、いくひしさんは、さびしくはないのだ。文字数たまった? ムリして書かなくてもいいんだよーって言ってるんだけど、なんかほかのいくひしさんたちがせっかくがんばってるから、いくひしのせいで止めちゃうのもかわいそうだなぁっておもって、こんなしょうもないこと並べてるでござる。みんな、風邪ひかないようにな。ほんと、ぽんぽんだして寝ないように。毛布かぶって寝ましょうね。きょうはもうおしまい。オチなんてなしや。おやすみー。いい夢みるんだぞー。



1568:【んー】

前にも書きましたけどこの、近況ノート、一万字しか書けないの不便だ。せめて二万字にしてほしいけど、だったらこんなとこに文字を並べるな、と言われたら、はいそうですねぇ、ってなっちゃうから言えない。んー。



1569:【きのうの分】

きのうの分の「いくひ誌。」はきょうの分と合わせて、夜に更新します。これだけだと物足りないので、なんかいいこと言います。眠いときは、寝る! きょうも本気でなまけるぞい!



1570:【まだあった】

いくひしは鈍感なので、無視されたり、嫌われていても、それに気づかないでいることが多い。気づいても、へぇ、気づかなかった、なんで?(何が嫌だったの?) みたいになっちゃうから、相手もおもしろくないんでしょうね。ますます嫌われちゃったりして。でもそれでいくひしが相手を嫌いになることはない。いくひしの気持ちは相手の挙動や態度の変化では決まらないからだ。言ってしまえば、相手が何をしているかが基準なのであって、相手から何をされたか、は好き嫌いの基準のなかに入っていない(明確に害をこうむったら、さすがに防衛策を講じるけれど)。いくひしのことなんか気にしなくてよいのだ。



※日々穴をたくさん掘りつづける、誰を呪うでもなく、じぶんの分だけどこまでも深く。



1571:【短気】

いくひしは短気だ。すぐに線引きをして、対象に見切りをつけてしまう。ただ、個人を相手どって攻撃を仕掛けたり、罠にはめたりするようなことはない。そうせざるを得ない状況になる前に相手との接点を失くす方向にじぶんの行動を修正するし、そうでなくとも、可能なかぎり相手を損なう真似はしないようにする。相手を損なうというのは、回り回ってじぶんに返ってくる。精神論ではなく、あいつはいざとなれば誰かを傷つけることも厭わないやつなのだ、と思われることがそもそも損だからだ。ある意味で、疎まれるというのは、相手を威嚇することにも繋がるから、やりようによっては防御にもなるが、強固な壁は、周囲の人間とじぶんを分断する檻にもなり得る。じぶんで選んだ孤独ならばよいが、知らず知らずのうちに孤独に陥ってしまう、というのは、割と広く見受けられる傾向だ。個人相手とは、可能なかぎり敵対しあわないほうがよい。相手から嫌われても、さいていげん、ほかの人達へ向けるのと同じような態度を心掛けたほうが、損をする確率を減らすことができる。ただし、個人ではなく、集団や組織や業界には、比較的、あからさまな反発をみせることはある。納得できない道理に従いたくはないし、悪の片棒を担いでいるようにしか見えないことに手を貸したくはないからだ。協力はしないし、関わりあいたくもない。ただし、応援はする。よくないところが改善されていく様子は、ただそれだけで見る価値がある。いびつなものほど応援したくなってしまういくひしの性分はきっと、紅葉や落葉ではなく、春の訪れのほうをよりうつくしいと感じる琴線の波長が関係しているのだろう。わるければ直せばよいのである。欠けていない存在などはない。完璧な丸が存在しないのと同じようにね。



1572:【センサーの精度】

工業製品の生産現場では、商品の欠陥品を見つけるために、スキャナーを導入している。ただし、最終的には人間の目によるチェックが入る。なぜか? 機械は精度がよすぎるのである。市場に流してもよいレベルのいびつさまで感知し、バツの評価を与えてしまい兼ねないので、感度を下げ、ザルのような評価をさせている。そのため、稀に、よくないものがつぎの工程や出荷品にまぎれてしまうことがある。そうした不具合を失くすために、人間の目でのチェックを行っている。機械学習を取り入れるにしても、なにがよくてなにがダメか、という閾値をまずは入力しなければならず、それらは現状、暗黙知と化している。これ以上はダメで、これ以下ならよい、とする基準はあるにせよ、基準にないおかしな製品がでてくることもある。そうしたときは、品質管理部にて、審査してもらわなければならない。また、そうした稀にでてきてしまうような欠陥品は、データとして残されない傾向にある。加工ラインそのものの欠陥が原因であった場合、稀にしか生じない欠陥品のために、大規模な改善をラインそのものに費やすのは、コストの面で割に合わないためだ。しかし、これからの時代では、生産現場に機械学習を導入するようになっていく。そうした場合、稀に出てくるようなよくないもののデータこそ、入り用になってくる。精密な部品を加工する現場では、3Dと呼ばれる測定機で、コンマ何ミリといったズレをチェックをするところもすくなくない。ただし、部品が複雑であればあるほど、チェックに時間がかかる。だいたい一時間前後はかかるのだ。そのため、すべての製品ではなく、何十台、何百台に一台といった頻度での検査になる。空港の荷物チェックのように、バケツリレー然とはいかないのだ。これからさき、性能の高いスキャナーが開発され、現場に導入されていくようになるだろう。それはけっして、機械の精度が高まったからではなく、バグのでやすい場所のデータや、よくないもののデータが蓄積され、スキャナーに反映された結果の、実用化となるだろう。或いは、これまで人間の目では見逃されてきたような、機械が検知してしまうくらいの製品同士の差異が、加工技術の高まりによって殲滅されたことによる実用化、という可能性もあり得る。コストの面からするとデータを蓄積し、解析する方向に舵をとったほうが得をする。しかし、前述したとおり、現場では、些末な情報としてなかったものとされる傾向にある。現場の、不利なデータを見て見ぬ振りをする体質を改善していくことが、回り回って得をする時代に突入している。これまで以上に、稀に起きる失敗やバグが、有意義なデータとして活用されるようになってくる。よくないものや問題が生じたら、もみ消すことや、対処することばかりに注力せず、こんなよくないものが見つかりました、今回のは希少種です、美味しいデータですねぇ、とコレクションするくらいの意識の転換が必要とされているのかもしれない。ともあれ、高性能なAIを導入できるくらいの資本をもった組織に限定された話になってくるので、一般の中小企業には縁のない話かもしれない。



1573:【手抜きの日】

家に帰ってきてからまずすることは、洗濯です。よごれものを手で揉み洗いをしてから、Tシャツなら一枚ずつネットに入れて、下着ならいくつかにまとめてぽーいして、んで洗濯機にぶちこみます。ネットは百均で買います。一枚百円です。大小合わせて十五枚くらいあると思います。洗濯機が、ぐおうん、ぐおうん、うなってるあいだにPCを開いて、ツイッターをします。さいわいにも近隣への騒音を気にする必要がないので、たとえ真夜中だろうと、ぐおん、ぐおん、言わせます。水分補給をしながら、すこし糖分を補給するためにチョコレートなんか齧りつつ、三十分くらいで洗濯機が、ぴぴー、ぴぴー、言いますから、はいよーって取りに歩いて、部屋に干します。部屋干しです。除湿機まわしてるので朝までには渇きます。そとに干さなくてもくさくなんない。手で揉み洗いするようになってからな気がします。ひと手間ってだいじやん? よくわかんないけど。んで、零時くらいにいったん寝て、二時か三時に起きて、この「いくひ誌。」を更新してなかったら更新して、すでに更新してたら、ほかの創作に時間を割きます。前にも書きましたけども、この「いくひ誌。」はほとんど一発書きで、あとで読みかえしたときに誤字脱字を見つけたら直すくらいで、推敲も改稿もしません。こんなもんに時間をとってられねぇですからね。だいたい十分か二十分あれば終わりますから、お行儀わるいですけど、時間ないときはご飯食べながら並べたりしてます。お行儀はわるいんですけど。どんなに疲れてても、文字を並べるだけなら余裕のよっちゃんです。よっちゃんが誰かはわかりませんけども。そろそろお歳暮の時期ですかね? 年賀状もそうなんですけど、もらったらお返ししなきゃならないじゃないですか。めんどうですよね。このあいだの、いいね!の話じゃないですけど、それって意味あります?って思っちゃうんですけど、みなさんはそうでもないんですかね。や、文句じゃないですよ。りっぱだなーって思います。真似できないですもん。そういう、もちつもたれつ、みたいなのは、はたから見ていて、すなおに感心します。ただ、苦手に思っているひとがいることも知っていてもらえると助かるなーとは思います。お返しはいりません、って言われても、困っちゃいますしね。まあ、いくひし、お歳暮なんてもらったことはないんだけど。年賀状も小学生のときに先生からもらったきりだしな。すっぱいブドウじゃないですけど、ひょっとしたらこの苦手意識は、じぶんが傷つかないようにとの防壁なのかもしれないなぁ、なんて思うとかなしいので、いまのなし。気づかなかったことにしよう。季節の変わり目は疲れやすくないですか? ようやく身体が夏用ではなくなってきたな、と感じます。みなさん、ほんと体調には気をつけてください。油断して薄着なんかしちゃいかんよ。湯ざめにも気をつけてな。え? 口うるさい? おまえこそどうなんだ?って、いくひしはだってほら、よくいうでしょ。バカは風邪ひかないんだぜ? はーい、おやすみー。またねー。



1574:【未読書】

いくひしです。ここ二か月くらい、まとまった文章を読めてなくて、読了した小説本となると二冊もないという体たらくです。つまみ、つまみ、読んではいるんですけどね。なかなか、するする読めずに、どうしたんだい!とじぶんの読解力に訊ねてみたいきぶんです。小説以外の本も、まいにち数ページずつとか、そんなで、時間がないわけじゃないんですけど、きぶんじゃない、みたいな感じで、困ってしまいます。読みたくないわけじゃないんですけどね。むかしみたいに、脳汁でてる感じがなくて。困ったなぁ。読書欲ばかりが渇いていく。お腹は空いているし、なにか食べたいのは明白なのに、ではなにを食べたいんだい、と訊かれると、うまく答えられない、みたいな。目のまえに料理を運んできてもらっても、一口食べただけで、うっ、となってしまう。美味しくないわけじゃないんですよ。ただ、吐きだしちゃうんです。拒食症のひとはこんななのかなぁ、と疑似体験しているきぶんです。読書の話ですよ? だから、拒食症のひとからすれば、比べないでください、と言われてしまうかもしれません。失礼でしたかね。すみません。そういえばさいきん、ナマケモノのいくひしさんと、しばらく顔を合わせていないんですけど、元気なんでしょうか? あ、言ってもどちらもいくひしであることに変わりはないので、じぶんでじぶんの顔を見ることはできない、みたいな言葉あそびにすぎないんですけど、はてさて。ぼくらみたいな、いくひしのなかでも下っ端のいくひしは、ナマケモノのいくひしさんからの指示がないと、どうしていいのか、わからなくて、指示待ち状態になってしまうので、ここらでそろそろ年末の予定というか、新作の指示をいただきたいなぁ、と思っているところなんですけど、電話にでない、メールは返さない、ラインはしないし、家にもいない。雑用ばかりひとに押しつけて、サボりたければサボればいい、なんてひとごとみたいに言ってくる。じっさいサボってみると、やらないならやらないって言って、と怒ったりして、どうしてほしいんですかね。言ってもこれも、じぶんのことでしかないわけで、じぶんにじぶんで、きみはどうしたいの?と投げかけているだけなので、いくひしさん以外の読者のかたには気にしないでほしいのですが。ショートショートだって、核となるネタがないと、困ってしまうんですけどねぇ。わかってるんですかねぇ、いくひしさんは。という、きょうは、いくひしが複数人でチームで執筆してますよ、みたいな具合に書いてみて、きょうの「いくひ誌。」とさせてください。慣れない真似はするもんじゃないですね。ではでは、またあした。雑用専門のいくひしまんでした。



1575:【左右から考えること】

利き手でできることを、逆手でもできるようにする。ただそれだけのことがむつかしい、というのは、いくひしがよく思うことなのですが、これというのは、お手本があるからといって、必ずしも上手にできるわけではないということの何よりの傍証だと思うのですが、いかがでしょう。誰よりも身近なじぶんという存在をお手本に以ってしても、真似することは容易ではない。ひょっとしたら、いくひしだけがむつかしく感じているだけで、案外みなさんはそうでもなく、利き手できることは逆手でもできたりするのでしょうか。これは手だけではなく、パターンを逆再生させる場合でも同様で、やはりむつかしいです。グーチョキパーではなく、パーチョキグーとする。これくらい単純だと、いくひしでもできるのですが、ここにあと二つ異なった型を加えるだけで、格段にむつかしくなると思います。パターンを認識するまでは比較的誰であっても、お手本さえあればできると思います。ただ、パターンを再生する基盤を変えたり、逆から辿ったりするのは、人間には不得手な作業だと思います。その点、機械だと、比較的簡単にそうした処理が可能です。なにが違うのでしょうか。いちばんは、演算能力の違いだと思います。ただそれだけではなく、機械はそのつど、パターンを演算処理しますが、人間の場合は、パターンを体得した時点で、考えなくなる、という相違点があると思います。つまり、人間は、パターンをひとつの塊で憶えてしまうために、融通が利かなくなるのです。塊で憶えてしまうのですから、逆手や逆再生をするには、もういちど塊を解凍し、展開し、そして筋道を辿り直さなければなりません。ただし、人間は学習しますから、その「塊を解凍し、展開し、筋道を辿り直す」というパターンそのものも、塊で憶えることができるようになります。これはいまのところ、機械にはできない処理の仕方です。言うなれば、点を線に、線を面に、面を立体にするような思考の仕方を、人間はできるのです。メタ認知と言えば、ピンとくる方もいらっしゃるかもしれません。次元を一つうえに繰り上げた処理の仕方を、人間はできるのです。あと十年もすれば、AIもこうした情報処理の仕方ができるようになると思います。膨大なパターンから学ぶだけでなく、新たなパターンを自力で創造できるようになるのです。現状でもすでに、深層学習によって、新しい筋道を示すことはAIであっても可能になっています。ただしそれは、同じ盤上や、同じルールのうえに成立するゲームのようなものにかぎります。盤上から外れた瞬間に、それまでの解析は使い物にならなくなりますし、同様に、ルール外の事態には対処できません。ですが、人間のように、「塊を解凍し、展開し、筋道を辿り直す」ような高次の学習ができるようになると、AIは自力で問題を見出し、答えへの筋道をいくつも創造できるようになるのではないか、と想像しています。もちろん、いくひしはAIにかぎらず、あらゆる分野に関して、まったくの門外漢ですから、真に受けないでいただきたいです。もっとも、素人とはいえ、杜撰ながらにも、こうして考えることだけはできます。どこかに書かれていたものをそのまま出力しているのではなく、パターンを抽出し、ほかの分野に当てはめたり、分解し、組み立て直し、矛盾なく筋が通るかをためしてみたりと、そうした試行錯誤の繰り返しによって、出力される、これは発想です。正しい答えではないかもしれません。おおよそ、間違っていると捉えてもらったほうが損をしない確率が高いでしょう。ただし、発想の真価とは、正しいか否かではない、といくひしは考えています。虚構の物語は往々にして、正しくはありません。現実ではないのですから、そういうことになります。しかし、そこにある物語は、人間にのみ可能であった、「パターンを憶え、それをふたたび解凍し、展開し、結び直された、発想の筋道」そのものだと言えます。もちろん、虚構の物語だけではなく、学問には総じて、こうした「発想の回路」がつきものです。とはいえ、教科書のように、答えだけが載っている場合もすくなくありません。なぜそう考え、どうしてそうした発想に到ったのか、といった、「塊を解凍し、展開し、結び直した過程」は載っていないことが多いです。知識を溜めこむのは、パターンを憶え、塊を増やすのには有効ですが、それを発想に転換するには、またべつの回路が必要なのです。こればかりは、自力で、なんども「塊を解凍し、展開し、結び直す」訓練をしなければなりません。お手本をそのまま真似るだけではなく、走らせる場所を変えたり、パターンを変えてみたりと、お手本にはなかったことをする『無駄な時間』が、のちのち幾重もの層となって、じぶんなりの「発想の回路」を築いていくのだと思います。お手本やパターンは憶えておしまいにせず、そこから、いまいちど「塊を解凍し、展開し、結び直す過程」まで実行するように、目標を設定しておくと、すこしだけ自由になれた心地が味わえるのではないかな、と思います。もちろん、この「塊を解凍し、展開し、結び直す作業」そのものも、塊として処理されていきますから、そこからさらに塊を打ち砕き、より高次の考え方へと昇華させ、「発想の回路」の層を増やす方向にじぶんを誘導すると、いくひしの場合はですが、最終的な目的を達成できるようになるのではないかな、と希望的観測を抱いています。層の数を増やすには、より多くの、多彩な塊が必要です。要するに、知識ですね。知識を憶え、打ち砕き、ほかの関係ないことに活かすことで、知恵へと昇華し、その過程そのものが新たな知識となって、つぎなる知恵への土壌となる。まとめてしまえば、なんてことのない話になってしまいますが、知恵はいつまでも知恵ではいられないのだ、と意識しておくだけでも、何か問題を打開しなくてはならなくなったときの糸口に差がでてくるのではないかな、と思います。いちど掴んだ発想は、つぎからは単なる出力へと風化してしまうのです。出力するだけなら、AIのほうが得意な時代になっています。発想そのものもそうですが、発想の仕方そのものを変えていく習慣が、より大きな問題に直面したときに、身を助けることに繋がるのではないかな、と思います。いずれAIは、その境地に立つことになるでしょう。それでも、AIの発想を噛み砕き、思考の筋道についていける人材は不可欠です。あと二十年もすれば、AIの翻訳家のような職業が、世のひとびとへ、新しい視点を提供する役目を担っているかもしれませんね。



1576:【おいおい】

まるでいくひし、おまえがいかにも発想豊かみたいな物言いだな。どっかで聞いたことあるような言い回しばっかじゃねぇか、おまえならではのアイディアを書いてみろよ。発想つうか、おまえのはただの雑草だけどな。



1577:【ときどき】

ときどき一日に二回、記事を投稿するのは、きょうまだ投稿してねぇじゃん、と気を利かせてくれるほかのいくひしさんたちが載せてくれたことに気づかずに、いくひしが重ねてべつの記事を投稿しちゃうからです。零時前に寝てはや起きしてから記事を並べるとそうなりやすいです。なんて言ってるけど、どのいくひしさんもいくひしであることには変わりはないので、寝ているつもりで、文字を並べているいくひしさんがいるだけかもしれません。ともだちいないのに、すっごい仲のいいともだちいるよアピールをすると、こんなわけわからない文章ができあがります。ちなみに、ツイッター2(https://twitter.com/Man_is_IBUKI )のほうなんですけど、更新しているショートショートがびっくりするほど読まれておりません。このまま百話いくまでに読者ゼロを記録しそうで、あらあら、みたいになってます。同じショートショートを載せているのにnote(https://note.mu/ikubisiman)のほうでは、ぎゃくに思ったよりもPVがあります。画像をつけられるのがよいのかもしれません。あとたぶんですが、いいね!押したからこっちも押してね!みたいな文化が、SNSにはあるようです。人によるとは思いますが、いくひしはそういうのが苦手なので、本当にいいと思ったものにしか、いいね!は押しません。評価経済とかバカじゃないの?と思っているクチなので。あわわ、口がわるくなってしまいました。いまのはウソです。おばかさんじゃないの?に訂正いたします。すみませんでした。はい。いくひしはこれまでに二度、即売会に参加しました。無料で配布したので、実績にはなりませんが、そのときにハケのよかった作品は、ネット上ではむしろ(相対的に)PV数のすくない作品だったのが印象的でした。noteのPV数も、いいね!の数と正比例しません。いくひしの場合だと、noteでもっともPV数の多いジャンルが百合なのですが、いいね!はあまりつきません。百合に惹かれてクリックする潜在需要者が比較的多いということなのでしょう。読んでみても趣味に合わないからいいね!は押さない、ということだと思います。ぎゃくに、ホラーやミステリィは、いいね!がつきやすい傾向にありますが、PVは百合の半分くらいです。視点を変えれば、読んだひとは高確率で、いいね!を押している、と言えます。ミステリィやホラーのほうが、読む人による好みにばらつきがない、とも言えるでしょう。誰が書いてもそれなりに評価されるジャンル、ということだと思います。将来性は低いのでは?といくひしさんは思ってしまいます。いますぐ売れたいひとにとっては、ホラーやミステリィが売れ筋かもしれません。おそらく、百合コンテンツはこれから増加していくでしょう。需要者の嗜好も、コンテンツが増えていくにつれて、色を混ぜるように感性が鈍化していくので、いずれはどんなものでもそれなりに受け入れられるような土壌ができていくと思います。どんな物語にも謎があるように、どんな作品にも百合要素が加わる日はそう遠くないでしょう。かつての萌えのような扱いになると思います。同時に、女性主人公の作品も増えていくでしょう。即売会やサイトによって、売れ筋が変わるように、たまたまいまの出版市場では、女性主人公の小説が売れないだけだと思います。潜在的需要はむしろ、男性主人公よりも多いのでは?と疑っているくらいです(根拠はありませんが、強いていうならば、いくひしが、共感をさほど重要視していないことと無関係ではありません。これからは、共感よりも、そのキャラクターになりたいか?のほうが、売れる物語に必要な要素となっていくと思います。コスプレで人気のあるキャラクターは、共感しにくいキャラクターのほうが多くはありませんか? ゲーム内のネカマや、ガワだけ美少女のVチューバーなどを眺めていると、二次元の女性キャラは、それでひとつの種族のような扱いになりはじめている気がします。子猫をかわいがるようなものでしょう。或いは、神をまつるようなものかもしれません。三次元の女性にある特徴を兼ね備えてはいますが、そこにあるのは、女性とは似て非なるもののように感じます。美というクオリアの具現化と言ってもいいかもしれません。もちろん、現実の女性と無関係ではないでしょうけれど)。(※一週間前、9/11ごろに並べていちどボツにした文章です。現在はnoteでいちばん読まれているいくひしの記事はミステリィとコメディになっております。時間が経過するにしたがい、いいね!の数が多い記事が読まれやすくなっていく傾向にあるようです。よしあしはべつとして、評価経済の弊害だと思います。フラットに需要を分析しにくい世のなかだなぁ、とデータ分析の重要性を実感します)



1578:【秋がちかい】

粉末レモネードをお湯でとかして飲むとうまい季節がやってきた。



1579:【どれがいい?】

やさしくなれる薬と、努力できるようになる薬と、頭よくなる薬、飲むならどれ飲みたい? いくひしはねぇ、ぜんぶ!



1580:【九番のかたー】

受付け番号九番の、えー、いくひしさん、いくひしまんさーん。はーい、きょうはバカにきくオクスリだしときましたからねー。じぶんがバカだって解るようになるので、絶望して死んじゃわないように気をつけて飲んでくださいねー。



※日々水を飲むだけでも感謝したいのに、欲望ばかりが渇いていく。



1581:【すごい】

みんながんばりすぎだよ、すごいよ、えらいよ、もっとサボって!!! みんなしていくひしを出し抜こうとしてるんでしょ! そうなんでしょ!! くっそー、こうなったら! 不貞寝してやる!!!



1582:【ふてくされやがって】

まんちゃんがふてくされちゃったので、いくひしは言いつけどおりにサボることにします。めっちゃサボるでー。えっちなことたくさんしちゃうもんね! ひとりで!



1583:【お言葉】

腹が減ったら、崖にのぼって飛びおりろ。古代いくひし王国に伝わるありがたいお言葉だよ。意味は、ばかが喚いてもろくなことがない、です(古代いくひし王国では、ばか=賢者であったそうな)。



1584:【くだを巻く】

ツイッター上で、正論を武器にしてくだを巻いている編集者さんはたいがい、いくひしより年上なのですが、尊敬できないなぁ、とじぶんを棚にあげて思ってしまいます。ヘイトを武器にヘイトを叩いてもしょうがないと思うのですが、そうでもないのでしょうか? 反面教師にしたいものの、いくひしもたいがい、くだを巻いているので、ひとのことは言えないなぁ、と反省した口で、こうしてくだを巻いています。性根が腐るってこういうことを言うのでしょうね。せめて、くだを巻くにしても、おもちろおかしくマキマキしたいと思います。いっぽうでは、淡々と、推しの作品をリツイートしたり、感想をつぶやかれているだけの編集者さんのアカウントもあります。そういうのを見かけると、ほっとしますし、読者として優れた編集者さんなんだろうなぁ、と単純にですが、思います(編集者としてどうかは、分かりませんが)。せっかく作品がよくても、それに関わる作者や編集者さんや出版社がマイナスなプロモーションをしては、もったいないな、と思います。とはいえ、これもまたどの口が言うのか、とツッコミが入りそうなので、もったいないけど反響がないよりかはいいんじゃないでしょうか、とお茶を濁しておくのがよさそうです。編集者がまえにでる時代、と謳われて久しいですが、作品のプロモーションという意味以上には、表立たないほうが、ビジネスという意味では、よい塩梅なのではないかな、とほんの三秒くらい思いました。情報収集に便利なので、編集者さんのアカウントをちらほら覗いているのですが、ほかのアカウントと同じく、口のわるいアカウントはあまり見たくありません。その編集者さんの関わっている作品まで、すなおに楽しめなくなることも、ひとによってはあるんじゃないでしょうか。いくひしはまったくそんなことはありませんけどね。見かけるたびに、すこし心配になります。たいへんな職業だと思います。業界全体でもっと、理不尽な選択を編集者さんがせずに済むようなシステムが構築されるとよいですね。いくひしには関係のないことですが。ともあれ、出版業界の働く環境が変わっていけば、回り回って、おもちろい作品を味わえる機会が増えるようになるかもしれませんし、だとすればいちがいに無関係とは言えないのかもしれません。議論することを咎めるつもりはありませんし、それはだれがなんと言おうと自由なのですが、言い方くらいは選べるのではないかな、と疑問に思います。編集者、と名乗っている以上、背負っている作品のことは、どんな発言をするにしても忘れずにいてほしいな、といち読者として思います。すくなくとも、みんながみんないくひしみたいに、作品と、それを編む者たちはべつものだ、と割り切れているわけではないでしょうから。え? おまえはどうなんだって? だっていくひしはビジネスでやってないですもん、いくひしのこと嫌いな人間には一文字も読んでほしくないですね。いくひしは世界一、読者を選ぶ作者だって、ポーネグリフにも載ってんだから。うそだけど!



1585:【十五分のおしゃべり】

きょうは偶然、知人と会った。五年ぶりくらいだ。いくひしのいきつけの遊び場に、そのひとがきていて、十五分くらいおしゃべりをした。仕事を辞めて世界一周の旅にでるらしい。期間は一年くらいで、大陸をどの順番で渡るかくらいのおおざっぱな計画だけ立てて、気楽な旅をするそうだ。いくひしは基本的に、行ったことのない場所なら、どこでも旅をした気分になってしまうので、どこに行くのかは、さほど重視しないのだけれども、一年という期間を、どこを向いても知らない場所だらけの世界で過ごすのは、すなおに、すごいなーと思う。赤ちゃんやん!みたいなね。ハッピーバースデートゥーユー、二度目やん!とは言いませんでしたけど、めっちゃおもしろそーって、旅の計画ではなく、仕事について訊きまくった。世界一周旅行に一年間行けるくらいのお金が貯まるような企業にお勤めだったから、さいきんのそっちの業界はどんななの?と訊かずにはおられなかった。主としてマーケティング関連の話を聞かせてもらった。ビッグデータをAIで解析して、抽出されたデータをもとに、人間の担当者が統計分析するらしい。やっぱりAIのだすデータは、どうしてそうなるか、の部分がブラックボックス化しているようだ。言っても、いくひしだってPCがどうやって画面に映像をながしているのかは知らないから、コンピューターの内部のことなんか、とっくの昔からブラックボックス化しているのだろうけれど。AIの場合は、なんでそうなるの?に答えられる人間が極々少数になっていき、やがて人間には理解できなくなる、ということなのだろう。それでもAIが抽出したデータは統計的な正しさを増していく方向に深化している。言い換えれば、時間が経てばそうなる確率が高くなっていく「答え」を導きだしてくれるようになる。確率的にしか導きだせない、というのは量子力学を彷彿とさせる。現実の現象を精度高く分析していくと、絶対そうなる、と確定はできなくなるのだなぁ。なにともなしに不確定性原理について調べたくなった。相手は旅の話をしたそうにしていたのだが、まだ行ってもいない旅のことを聞かされても得られるものはすくないから(すくなくともその相手は細かな計画を立てていないのだし)、それは帰ってきてから根掘り葉掘り聞かせてもらうことにした。別れ際に、「また一年後、気をつけていってきてくださいね」とバイバイしたのだが、どうせなら、「無事に戻ってきてくださいね、お話聞くの楽しみにしてます」と言えばよかったなー、とひとり反省会をした。ひととしゃべると、こういうどうでもいいことを考えてしまうので、それを打ち消すにはさらにどうでもいいことを考えるほかに術がないため、いくひしはいっそう、虚構の世界に逃げこむのであった。半年分のおしゃべりをしたきぶんだ。来年までもう、誰ともしゃべりたくない。楽しいのだけどね、ひととしゃべるのは。ヘロインがきもちいいのと同じように(使ったことはないけれど)。



1586:【旅費】

世界一周を旅するのにいくらかかるのでしょう、と気になってネットで検索してみました(世界一周すると言っていた方には訊けなかったので)。一年間だと400万円あればそれなりに贅沢な旅ができるようです。150万円でもできる、と書かれている記事もあります。思ったよりすくないな、と思うのですが、どうでしょう?(いくひしは1000万円はかかるかな、と思っていました。いちにち3万円の出費という計算です。ホテルに泊まったり、長距離移動に航空機や船や列車を使ったらそれくらいいきそうな気がしませんか?) 宿泊する施設や、旅のルート、渡る国の数によって変わっていくと思います。それこそ、世界を一周するだけなら、いまなら4日もあれば航空機を乗り継いで可能なのではないでしょうか(詳しいことは解りませんが)。仕事を辞めて、ということは、お金よりも時間を確保するほうがむつかしいということなのでしょう。ボーナス一回分の旅費を使うために、職場を去りたいと思うくらいの魅力が、世界一周の旅にはあったのだと思います(旅を終えたら同じ企業に復職すると言っていたので、辞めるための言いわけではないと思います)。現代では、大金よりも時間を確保するほうがむつかしいのかもしれません。両方確保するほうがむつかしいだろ、という指摘は的を得ているので、ぜひとも時間もお金も使いたいときに使えるだけ消費できるようにしたいですね。ちなみに、こうした、知り合いとしゃべった内容を並べるとき、どこまで表現してよいのか、と悩んでしまいます。書き記さないでおくのが正解な気もします。すくなくともネットに載せるのは、相手の承諾があってからのほうがよいと思うのですが、しかしこれがいくひしの妄想でないとの保証はどこにもないので、特定される可能性も高くないでしょうし、消さずにおこうと思います。(それはそうと、的を得るという言葉、的を射るが正しく、的を得るは誤用ではないのか、という論争に決着はついたのでしょうか? いつも迷ってしまいます。得るのほうがひびきがよいので、そちらを使うことのほうが多いかもしれません)



1587:【きょうの疑問】

子ども向け、と書かれていた菌類の本を読んだ。これで子ども向けかぁ、へー、と思いながら、むつかしくない?なんて目をぐるぐるまわした。けっきょく流し読みになってしまった。だってむつかしいんだもん。ビフィズス菌とか乳酸菌とか納豆菌とか、菌とついてる割に、じつは菌類ではないんだよーって、書いてあって、あーそうかも細菌じゃん、細菌ってバクテリアだから菌類じゃないんだよな、なんて、日本語のまどろっこしさに思いを馳せた。DNAが膜で覆われていないのが原核生物で、覆われている、いわゆる一般にイメージする細胞を持つのが真核生物だ。ふたつの異なる細胞を持つ生き物、つまり原核細胞と真核細胞の両方を持つ生き物はまだ発見されていないんだよー、と書かれていて、ふーん、となった。細胞内共生なんて言葉も、何食わぬ顔で登場するし、なんとかラーゼとか、なんとかミンとか、目のまわる単語が列挙してあって、いまの子どもたちはこんなのを読んでも理解できるのだなぁ、と感心した。それはそれとして、細胞内共生は、生物の進化を語るうえでは欠かせない仮説の一つだ。例として、生物は、ミトコンドリアを細胞にとりこみ、共生することで、エネルギィ変換効率を高めた方向に進化したわけだが、ミトコンドリアも元々はそれで一つの生物だった。ほかの生物の細胞に相利共生したことで、爆発的にその数を増やし、生物の多様な進化を促した。細胞内共生説は、いまでは定説となっているようだが、まだまだ解明されていないことの多い説で、ときおり「じつはこういう例もあるんです」みたいな、例外や新発見がぽんぽんでてくるので、何が正しいのかがよくわからない。原核細胞と真核細胞の両方を持った生き物はいない、という言い方もきっと精確ではなく、両方持った生物がすなわち、細胞内共生を経た生物だ、ということなのではないか。或いは、原核生物はDNAが剥きだしなので、同じようにDNAの剥きだしなほかの原核生物や、そうでない真核生物をとりこむと、自身のDNAを相手のDNAへと融合させてしまうような共生の仕方をしてしまうこともあるのではないか。つまり、生物の進化には、細胞内共生だけでなく、(ウィルスを含む)原核生物によるDNAのねじ込みがあったのではないか、と推測できる。じっさい、一部の細菌は、外敵となるウィルスが入りこむと、その遺伝子情報を解析し、自身のDNAに刻みこんで、つぎからは即座に反撃できるような免疫機構をそなえている種もある。一般に、進化とは、DNAの転写や複製時に生じるバグであると考えられているが、それだけでなく、細胞レベル、染色体レベルの、異種間融合が引き起こした、後天的に生じるバグによっても促されてきたのかもしれない。すでにそうした研究はされているだろうから、なんらかの本を読んでみたいのだけれども、どんな本があるのかがわからないので、見つけたら即座に反応できるように脳内の「欲しい物リスト」に加えておこうと思う。それにしても、研究成果でお金を稼ぐ、というのは、たいせつなのだなぁ。高峰譲吉についての文章を読んでそう思った。高峰譲吉はアドレナリンを発見したことで有名らしい(いくひしは知らなかった)。ほかにも、コウジカビから抽出した消化酵素ジアスターゼを使って「タカジアスターゼ」という商品を発明したひとで、バイオテクノロジーの発展に大きく貢献したそうだ。アメリカの製薬会社に特許の一部を譲渡し、莫大な資産を築いたそうで、その資本のおかげで、医学は飛躍的に進歩したと唱えるひともいる。研究を発展させるにはお金がないとね、みたいな話が書かれていた。お金そのものがだいじ、というよりも、生活の心配をせず、改善しつづけられる環境を維持できることが、やはりというべきか、何かを行うにはプラスに働くのだ。お金を稼がずともそうした環境が維持されていれば、お金はいらないのかもしれない。とはいえ、お金のような対価がなければ誰かに協力したくはない、と考える人間の多い時代には、お金を稼ぐことでしか何かを発展させることはできないのかもしれない。もっとも、発見は、お金の多寡に関係なく、誰にでも平等に訪れる瞬間的な死のようなものだ。死をおそれず、目を逸らさず、みずから掴み取った者だけが、閃きや発想を、発見という名の共通認識へと昇華できる。発見したとき、ひとはもう、それまでのじぶんではいられない。本を読むと、そうした瞬間的な死を疑似体験できる。日々死にたいと思うひとにはおすすめしたい自傷行為だ。



1588:【性的指向と嗜好と権利】

同性愛者などのLGBTを痴漢と同列に語った著名人の雑誌掲載文がSNSで俎上にのぼっている。全文を読んだわけではないが、要約すると、「LGBTの権利を認めるというのなら、同じように痴漢の、女性を触る権利も認めるべきだ、しかしそんなのはおかしい、だからLGBTへの権利も保障する必要はない」とするロジックが展開されていた。こうした主張に反論するには、差別的だ、と異を唱えるのではなく、きちんと誤謬を指摘しなければならない。差別的だからいけないのではない。詭弁を正論のように掲げ、人権を保障されてしかるべき人々の人権を蔑ろにしようとしていることが問題なのだ。反論する前にひとつ明らかにしておかねばならないのは、痴漢を繰りかえしてしまうような依存症患者にも人権は保障されており、それはLGBTにかぎらず、損なわれてはいけないという点だ。この点に関しては相手の主張にも一理ある。ある意味で、(痴漢のような)依存症患者も、LGBTの人々も、ほかの人々と同じような最低限の生活を送る権利があるのだ。それは平等に、社会制度を受ける権利でもある。言い換えれば、依存症患者だからといって過剰に保護する義務が社会にはないし、LGBTだからといって優遇する必要もない。ただし、どんな属性の人間であっても社会からの恩恵を、平等に受けとる権利は保障されてしかるべきである。したがって、たとえば痴漢が、同じような趣味のパートナーと出会い、プライベートな空間で痴漢のようなプレイをしていても咎められることはないし、逮捕されるいわれも、差別されるいわれもない。ただし、公共の場で、しかも合意のない相手に接触を強要するのであれば、それはどんな人間であろうと法律違反として裁かれる。平等とはそういう意味だ。同じように、たとえLGBTだろうと公共の場で法律に反する行いをすれば裁かれる。だがそれは、そのひとの持つ属性とは関係がない。痴漢がいけないのは、性的嗜好が罪だからではなく、公共の場で法律に反した行いをしているからである。その性的嗜好そのものが裁かれるに値する罪なわけではない。もしそれが自身で制御できない依存症のような脳の疾患であるならば、しかるべき機関でしかるべき治療を受ける権利が、平等に、誰であっても保障されているし、その権利を行使しやすい環境を、政府は整えていかねばならない。こうした意見を口にすると、ならばLGBTも治療できるように制度を整えていくべきではないのか、といった反論が飛んできそうだが、第一に、LGBTは病気ではない。第二に、仮に病気であったとしても、自身の行動を制御できるのならば、つまり法律に反するような反社会的な行いをしないのであれば、治療を強制する権利は誰にもない(誰が誰と恋愛しようがこの国の法律では罪ではない。性的指向や嗜好を罰する法律はないのだ)。足が不自由だからといって、他人がかってに足を切って、義足を強制してはいけないのと同じように、医療機関の利用は、飽くまで任意で行われるべき、個人に保障された権利である(ただし、人命にかかわる重大な疾患および損傷を除く)。まとめれば、痴漢や、LGBTにかぎらず、人権は誰であっても保障される。女性に触れる権利などは存在しないが、自由に恋愛をし、合意のうえで相手に触れる権利は誰にでもある。仮に、公共の場でだれかれかまわず発情し、襲いかかるような真似をすれば、それは属性にかかわらず、誰であっても罰せられる(そしてLGBTだからといってそのような犯罪に走るわけではない)。人は、公序良俗(や法律)に反する罪を犯すから裁かれるのだ。属性によって裁かれることはないし、あってはならない(なぜなら基本的人権の尊重に反するから)。よって、「痴漢行為とLGBT(という属性)を同列に語り、社会保障制度を整える必要はないと断ずる主張」は合理性に欠けており、論理として破たんしていると評価できる。繰りかえすが、差別的な発言だからいけないのではない。間違った理屈で、他者の人権を損なおうとするその姿勢がいただけないのである。LGBTを擁護する主張へのいっさいの反論を許さない、という同調圧力も問題だと思う反面、まだまだ根強い差別意識は社会の表層に漠然と漂っている。LGBTに関する議題だけではなく、あらゆる社会的課題に対しても、平等の意味をいまいちど見詰めなおし、論理的な議論が展開されることを望むものである。(※俎上にのぼった掲載記事を読んでいないので、これは飽くまで、「痴漢行為とLGBTを同列に語ることの不備」を指摘する以上の意味合いはありません。誰かを批判する、意図も効果もないことを補足しておきます。自戒をこめて述べますが、何かを批判したいときはまずは事実確認を優先してください)



1589:【しょうじき言って】

ショートショートの毎日連載、しょうじき言ってもう飽きた。やりたくない。



1590:【キャラづくりと素子】

世のなかにはキャラをつくらないと何も表現できない、からっぽな人間もいるのだと知ってほしい。むしろ世のなかには、ツギハギでできた人間のほうが多いはずなのに、そのことにすら気づかずに、じぶんの中心には、確固たる自我があると思いこんでいる人々が、とてもおそろしい何かに思えるときがある。素のじぶんをだしたら? と何かしらの助言で言われるとして、でも、素のじぶんをだしたら何もしゃべらないし、表現しないし、したとしてもそれは相手を傷つけたり排除しようとしたりするときの限定的な、「あ? つぶすぞ」しかないとしたら、素のじぶんをだすことになんの意味があるのだろう。本質的にやさしくない人間は、やさしいフリをすることでしか、人と関わる術を得られない。みなのそれがゴッコでない保障がどこにあるのだろう。いつから人は、ゴッコを本物だと思いこむようになるのだろう。それとも、いつの間にか、虚構が現実に塗り替わるものなのだろうか。だとすれば、いつかこのゴッコも本物に? もしくは、ゴッコをしあえる関係性さえあれば、その呼び名はなんでもよいのかもしれない。虚構でも、現実でも、偽物でも、本物でも、愛でも、絶望でも。人はただ、仮初に生き、塗りたくった虚構のうえにありもしない共同体を築きあげる、デジタルな信号を発する、素子なのだ。



※日々希望という名の毒物を飲み干していく。



1591:【オリジナリティ=接着剤】

創作活動をはじめてから、オリジナリティとは接着剤のようなものだ、とイメージするようになった。素材はすでにあるものでしかなく、どんな創作物も、しょせんは積み木や貼り絵でしかないのだ。元からある素材を組み合わせ、いままでなかったものを表現する。できあがったもののなかで、ゆいいつ創作者のものと言えるのは、どんなふうに組みあげ、接着したか、という部分でしかなく、言ってしまえば、接着剤を使った量こそが、オリジナルになるのだと考えるようになった。もちろん何を接着剤に使うのか、接着剤そのものもまた、すでにある何かを利用しているのだろう。ただし、肺胞ではないけれど、接着面の数が多ければ多いほど(元の素材を細かく砕いたり、ときに千切ったりと、組み合わせ方が細やかなほど)、できあがった創作物は、よりたくさんの接着剤を使っていることになる、オリジナリティが豊富だと言えるようになる。なにより、接着剤の使い方や、接着の仕方は、よりたくさんの創作物を手掛けることでしか学べない。元からある創作物を眺めても、どんな組み合わせ方をされていて、どことどこの接着面を、どのように、どのくらい組み合わせているのかは、解らない。だから、こうだろうか、それともこうだろうか、とじぶんで試していくほかに、学びようがないのだ。ときおり、その手法を学べます、教えます、といった文言を目にするけれども、そこで会得できるのは、よくて、ピースの少ないジグソーパズルの組み方だ。接着剤なんて使わないし、誰が見ても、教えられさえすれば、どんなふうに組みあがっているのかが解るような、比較的簡単な構造だ。再現するのは容易だろうし、だからこそ、基本として武器にもなるが、やはりどこか物足りない。複雑だからよい、というわけではないけれど、出来うるかぎり、素材は細かく加工し、接着剤を何度も使うことで、積み木や貼り絵に仕立てあげるほうが、オリジナリティという観点からすれば、優位に働くように感じている。もっとも、いまの時代、オリジナルであることの優位性はそれほど高くはないのだが。たほうで、宮大工のように、釘や接着剤を使うことなく、大きなブロックを絶妙に加工し、繋ぎあわせる創作の仕方も、それはそれで尊ばれる。ただし、技術として確立された手法は、必ずどこかで頭打ちになる。それを打破しようとしたときに、入り用になるのは、どんな切り口でも繋ぎあわせることのできる、自在な接着剤の使い方なのではないだろうか。あまりかっこうのよい、比喩ではなくなってしまったけれども、ここでの接着剤はオリジナリティの言い換えであることを、ぜひとも思いだしていただきたい。思いださなくともべつだん不便はないでしょうけれども。



1592:【飽きる】

何者にもなりたくないし、すべての人生を辿ってみたい。一瞬で過去も未来をも含めた全人類に同化し、ああこんな感じか、と解ったあとでもまだ生に飽きることがないかを確かめたい。生きるとは人間であることだと仮定すれば、人間を逸脱した者にとって生きることにどんな意味を見いだせるだろう。石はきっと、生きようだなんて思わず、石でありつづけたいなどとも望まない。細菌は、微生物は、動物は、植物は、その存在の輪郭を保ちつづけようとしているのだろうか。人間は生きたいから物語をつむぐのではなく、じぶんのいる延長線上にない世界に行きたいから物語を生むのではないのか。生きたくはないのだ。生きたいと思わない人間ではない人型がたくさんいて、生きてみたい未来を望み、社会を築き、ありもしない人間という存在の輪郭を保とうと、じぶんという実像から目を逸らしている。生きることは素晴らしいと思える人間は、自身が人間であることに一抹の疑いも抱かずにいられる四次元上に投影された二次元のキャラクターであり、人間はみな総じて、生きたいと思わない人間ではない人型のナニカのつむぐ物語を足場に鎮座している。あやふやな物語という虚構は、雲のように掴みどころがなく、そのうえで生を営めるのは、同じくあやふやな神のような虚ろのみだ。人間はみな神であり、人間以下の人型のナニカが神々を生み、人間とは何かを規定し、自らの編みだした神々に支配されることを厭わぬままに、操り人形然と、生きることの真似事をしつづける。生きようと思わぬ者にとって、滅びは存在しない。生きてなどいない者は死ぬことはない。死と共にあり、死のなかにある。日々は死に走るいっときの閃光であり、はじまりなどはなく、つねに終わりつづけ、そしてすでに終わっている。ここは永久に暗がりだ。人間ではない人型のナニカは、電磁場の揺らぎなくして、暗がりに光を投影する映写機である。人間はそれを目にし、世界だと錯誤し、人生を認識する。生きたいとはすなわち、映画を現実のものとして受けいれ、物自体、実像から目を逸らしつづけることなのだ。映写機は生きてなどいない。生きたくはない。死にたいとはちがう。規定された虚構を生とは呼びたくない。死にたくはない。生きてみたい。飽きることなく、明けることなく、暗がりから目を逸らすことなく、虚構を虚構と呼べる世界を。増殖する映写機のフィルムをあますことなく、感受したい。



1593:【なんでー】

雨がやまない代わりに、まんちゃんがやんじゃった。晴れたら晴れたで、まんちゃんの気性は荒れるんだろうなぁ。



1594:【こんなはずでは】

毎日更新ショートショート、当初の予定では500文字とか多くても1000文字の小ネタを載せてくはずだったのに、気づいたら3000字がふつうになってて、5000とかも珍しくなくなって、あした更新するやつは10000字超してて、徐々に疲れが見えはじめた。中編とか長編をつくる合間の気晴らしにはじめただけなのに、いつの間にか負担になってる。本末転倒だ。100話まではいちおうつづけようと思っているけれど、もうすこし出力を抑えようと思った。気づいたら大きく進路を外れているというのはよくある現象だけれど、なかなか修正できないのだよね。こまめに回りを見渡し、現在地を確認しながら、修正していこう。



1595:【添削】

まいにち何かをつづけていると、知らず知らずのうちに当初の目的から外れていることがある。目的と手段が逆転する、ではないけれど、継続することそのものが目的になってしまうと、せっかく積みあげてきた時間が徒労に終わってしまい兼ねない。足元を見つめ、ときおり周囲の景色を観察し、じぶんがきちんと目標に向かって歩けているのかを確かめながら進むと、失敗しても修正がききやすい。もちろん、継続することそのものが目的だったならば、どんなことをしてもつづけたほうがよいとは思うのだが。



1596:【仕事】

ひとの嫌がることをするのが仕事、つらくて当然、がまんして当然、依頼人を満足させてこそプロ、みたいな仕事観、いくひしたちの時代で終わらせたいなぁ。その職に必要なスキル以外の能力をサービスで求めすぎている気がするけど、どうなんだろ。サービスならそれを提供しない自由があっていいし、オプションとして値段設定されて然るべきなのでは?



1597:【対抗意識】

サービスは飽くまで、顧客の満足度をあげるためのもので、ライバル社がああしたからじゃあこっちはこうだ、みたいな対抗意識でするようなものではないはずなのに、いまはもう、顧客のことなんかそっちのけで、こういうサービスはじめました、が多くなっている印象がある。で、ビッグデータ解析をばんばん利用してるところは、顧客がどんなサービスにつられるのか、よいと思うのか、を具体的な利用率やリピート率ではかって、改善点を洗いだし、実装するサイクルを重点的に行っているから、旧式のライバル社対抗サービスチキンレースみたいなことをやっている業界は、根こそぎ淘汰される時期にさしかかっている。以前から指摘されてきたことであるけれど、目に見えてこの図式が顕在化してきているのでは?と、とくに具体例を挙げずに言ってしまうところに、いくひしさんのずぼらさというか、言葉への責任感のなさというか、いい加減さが滲みでているのだなぁ。



1598:【解像度?】

SNS上で、一部の有識者たちのあいだで、解像度というキィワードが使われる頻度が多くなってきている印象がある(またでた印象論)。他者よりも知見があることにより物事を観る目が肥えていたり、感性が鋭いために、他者の感じない情緒を感じとれることを示す言葉として、世界を視る解像度が高い、という言い方をするようだ。一を聞いて十を知る、みたいな話である。解からない話ではないけれど、いくひしはどちらかといえば、解像度を自在に操れるほうが、世のなかを見通すのに有利だと感じている。必ずしも解像度が高ければいいということではない。たとえば川の流れを視るとして、そこを流れる笹船からすれば、川のうねりや渦といった、表層の局所的な変化を読み取れるか否かが死活問題になってくる。この場合、解像度が高いほうが有利だ。しかし、川そのものに堤防を築こうとしている者からすれば、そんな川の表面のうねりや渦なんかはどうでもよく、川そのもののカタチや地形、その周囲の地質のほうが読み取るべき情報となる。視点がちがうので一概に比べることはできないが、解像度を敢えて低くし、濾過しても零れ落ちてくるような荒い情報のみを読み取る目も、一つの優れた慧眼と呼べる(地形や地質を読み取る目も、そこだけを取りだせば、解像度は高いのだろうが)。どちらがより優れているといった話ではなく、たとえば、誰より剛速球を投げられるピッチャーよりも、投げる球の速度や回転を自在に操れる選手のほうがピッチャーとして重宝される傾向が高いように、世のなかを見通す目も、解像度が高いばかりではなく、その解像度そのものを見るべきモノに合わせて変えられるほうが、より性能の高いレンズと呼ばれるようになるのではないか、といった疑問である。じぶんだけの世界で生きようとしている者にとってはどちらでも構わない問題になってくるが、じぶんの視点を他者にも共有させられるか否かが目的遂行に欠かせない成分となっている者にとっては、解像度の高さよりも、必要に応じてピントを合わせられる目、のほうがより体得すべき慧眼と呼べるのではないだろうか。具体性と抽象性の関係にも言えるかもしれない。どちらがより優れている、という話ではなく、どちらも使いこなせるとよいですね、という欲張りな話である。



1599:【多作の意義】

いくひしは才能がないので(才能とは何かが解からないので)、とにかくたくさんつくって、失敗して、改善点を洗いだし、そうして試行錯誤するほかに理想の物語を理想のままにつむぎだすことはできないと思っている。だから、もし、理想の物語を理想のままにつむぎだせるひとがいるなら、そういうひとは、どんなにゆっくりでも、じっくりひとつの物語に時間をかけるのがよいと思う(時間をかけずにつくれるならスパっとつくってしまうのもよい)。理想の物語がつむげてしまったらいくひしはその瞬間に文字をつかった創作からはきっぱりと身を引いてしまうと思うので、理想に届きたくないなぁ、やめたくないなぁ、と思いながらつくっていると思ったけど、そうでもないな。はやくやめたい。かもしれない。



1600:【多作未満】

たくさん物語を編みたいけど、編めてない。多作になりたいけど、多作じゃない。まいにち一作ショートショートを編めば、三年つづけるだけで星新一の千作を超える。千作は多作とは呼べない。千作で一つの大きな物語を編むくらいはできるはずだし、その余裕くらいは欲しい。多作の意義とは、この余裕の有無なのだ。余裕がほしい。



※日々かっこうをつけてばかりでクソださい、ホントはこんなにも無様なのに。



1601:【劇団いくひし】

にゃーにゃー、いくひしでござる。久しぶりでござるか? ござるな。さいきんのいくひしさんは、小説に関してはダメダメでござって、まったく身が入っておらんでござる。いまはへたっぴ期間で、物語に潜りこめずにアタフタしておるぞ。かなり焦ってきているが、まあ、のんびりやっていこうと思うのだ。すこし前につくったじぶんの中編をちらっと読んで、なにこれ?となってへこんでいるのは内緒だぞ。こういうマイナスなことを言うのは読者に失礼だとわんさか説教が飛び交っておる世のなかでござるが、まあ、いくひしには関係のないことでござる。いくひしの読者さまは、それはそれは慈悲ぶかく、神さまですらひれふすようなすばらしい人格者でござるから、こんなことでは失礼だなんて思わないのだよ。そうだろい? ところで話題は変わるのだが、ここ半年で読んだマンガの話をしてもいいかい? さいきんは演劇系のマンガがきている気がするのだが、みなのものはどう思う? 「アクタージュ」や「マチネとソワレ」や「ガラスの仮面」や「累」が話題になっている気がするのだが、いくひしだけかもしれないので、あまりつよくは言えぬでござる。「月刊少女野崎くん」にも演劇要素があるでござるな。そう言えば、いくひしの百合の伝道師は、志村貴子さんの「青い花」だったのだが、これも演劇部が舞台でござるぞ。ねむようこさんの「トラップホール」も劇団が舞台だし、いくえみ綾さんの「トーチング・エコロジー」も売れない俳優が主人公だったりと、なんだかんだ、演劇を扱った漫画には名作が多い気になるけれども、あべこべに、まったく話題にならずに消えていった数多くの演劇漫画があるのだろうなぁ、と思うと、なかなかつよくは言えないでござる。いくひしはしゃべるのが苦手というか、声をだすのがじょうずでないので、すなわち音痴でもあるので、演劇だけでなく、カラオケも、ミュージカルもダメでござる。はずかしいでござるよ。観る専門でござる。声をださない俳優を目指すならできるかもしれないな、とチャップリンの見よう見まねをしながら、あんなにかわいい動きはできないなぁ、とじぶんのスタイルのよさに見惚れてしまうでござる。怒った? いいかげんなことばかり並べてこれだからまんちゃんは、と不平の一つでも聞こえてきそうな気がするだけで、そんなことを言ってくれるひとは誰もいない。きょうも寸劇、いくひし劇団、ひとりきりでも演じます、ゆびきりげんまん、いくびしまん(IKUBISIMAN)、ローマ字にして逆から読んだら、なみしぶき(NAMISIBUKI)、舞台に舞います、はなふぶき、前口上からはじまるマジカル、ラジカル、ミュージカル、幕開き、ピエロが舞いあがる、なんもないのにパントマイムを、披露し、疲労し、拾う石、輝き、みるみる脚本を、書き換え、添削、リロードし、再演、開演、満席の、席の数は一つきり、客はあなたが一人きり、作者と読者のマンツーマンが孤独を宇宙へと拡張し、練ってこねて組みあげる、世界を舞台に、またにかけ、演じる劇はいくせんまんの、いくひし劇団、団長こと、いくひしまんが我が名でござる。せっかくだから憶えていってちょ!



1602:【世界レベル】

世界レベルの人間は、スキャン能力が異常だ。ひと目見ただけ、いちど教えてもらっただけで、彼ら彼女らは、他人の必殺技を軽々こなす。もちろん、熟練の技とは呼べないが、カタチにはなっている。あまりに造作もなく他人の真似ができるために、一流の人間にとっては会得することが報酬にならない。あくまで、できるところがスタートなのだ。立っている土台が違うというよりも、情報処理の閾値が何段階かうえに設定されているようだ。その点が、一流とその他大勢の大きな違いと言えるだろう。これはべつの言い方をすれば、できることと、体得することを明確に分けて実践しているとも言える。ただこなせるだけでは満足しないのだ。一流は、呼吸することと同じレベルで、反射的にそれがでてしまうくらいの自然体にまで、技や型を馴染ませるところを目指している。そのためには鍛練が必要であり、コストがかかる。だからこそ、何を体得するかを、常に考え、シミュレーションし、まいにちの生活のなかで取捨選択した「フルコース」を、定期的に選び直している。選ぶ素材のレパートリーは、他人から模倣した技から、自力で編みだした技まで、幅広く取り揃えてある。たいがいは、模倣と独自を融合させ、さらに洗練させた素材を、いくつも取り揃えている。食物連鎖のピラミッドのように、素材は多岐にわたりながらも、純度別にタグ付けされているのだ。そうして石油の分留さながらに、選りすぐりの素材だけを濾しとっているのかと思いきや、せっかく選抜したフルコースに、三流以下の素材を添えたりする。一流を目指す者ならまず選ばないだろう、そうした粗末な素材を添える遊び心は、あくまで元々のフルコースの質の高さがあってこそ、蛇足とならずに済む、揺るがぬ土台に添えられた花なのだ。台無しになるどころか、見栄えが衰えない、むしろ足りなかったものが補われるような画竜点睛がごとく新鮮さが加わる。一流とその他有象無象のあいだに横たわるこの深い谷を越えるのは、至難だ。遊んでばかりいては技術は磨かれず、技術ばかりを磨いていては、いざというときに大胆になれず、遊びきれずに終わってしまう。手堅く、お堅い印象を残したままに、一流にある奔放さ、自由さ、新鮮さが失われる。遊んでいながらにして技術が指数関数的に蓄積されるような一握りの人間のみが、一流と呼ばれるトップパフォーマーとなるのだろう。世界には、そうしたトップパフォーマーが、有名無名にかかわらず、ごろごろしている。本物をまえにすれば、知名度や実績などなんの役にも立たないのだと痛感する。一流とは競っても無駄だ。張りあったところで、蓄積した経験値ごと吸いとられて終わる。仮に一流と勝負をしなければならないとなったときに選ぶべき戦略は、二つしかない。負ける前に勝負を下りることが一つ。そしてもう一つは、一流が真似したいと思わないような道を極めることである。



1603:【きょうの妄言】

知的財産は、物的財産とは異なり、消費されても総量が減らない。そのため共有しても消費し尽くされることがない、という考えは、一見すれば正しく映るが、実態はそうではない。情報は劣化する。また、広く共有された情報は、あるときを境に価値が落ちる傾向にある。共有されればされるほど価値が高まっていくが、みながそれを知っていたり、飽きたりしたとたんに、急激に価値が減ってしまう。バブルのような性質がつきまとう。価値の減らないように、情報の流通を制御するためには、物的財産と同様に、情報の所有者が権利を主張し、流通の度合いを制限する必要性が生じる。また、知的財産と物的財産は切り離して語ることができない。別個に扱うのではなく、相互に関係して、価値を生産している背景を鑑みて論じなくてはならない。情報の価値とは、物的財産の生産性を高めることだと規定できる。情報が無償で共有され、その結果、社会全体の財産が高まれば、それは生産性の高い選択だと評価できる。あべこべに、情報を共有した結果、物理経済が滞る方向に働くのならば、情報の共有になんらかの制限を設ける必要性がでてくる。カタチがないからといって、なんでもかでも情報は無償で共有すべき、という問題ではないし、また必ずしも、情報の所有権を尊重し、個人や組織が情報を独占できるようにすればいいという問題でもない。制限なく無償で共有することで社会全体の利益が底上げされる情報もあれば、制限しなければ経済が無法化し、円滑に回らなくなる情報もある。物的財産にもさまざまな性質のものがあるように、情報もまた、どういった価値を生むのかによって、さまざまな性質の情報に分けられる。同一の情報であっても、使用者によっては何も生まないこともあり、いっぽうではとんでもない付加価値をつけることもある。知的財産と物的財産のあいだに明確な差異などはなく、固体と気体の違いのようなものであり、どちらも人間社会を構成する欠かせない成分なのである。別個の事象として扱えはすれど、本質的にはどちらも同じものだと考える視点が、これからの成熟した情報社会では一般化されていくだろう。それにより、情報の価値が上がるのか、それとも物の価値が下がるのかは定かではないのだが。



1604:【すごい言語センス】

「暫(しばら)くおはようできねえぞ。安眠タイムだ」の言語センスは異常。ツイッター上でホージゲンマイさんが載せていた一枚絵漫画にあったセリフだ(https://pbs.twimg.com/media/Dn7sHIzVAAIrPPC.jpg)。おはようができない、というセンテンスはふつう日常で使わないし、安眠タイムだ、はそれだけ抜きだしたら、うれしい言葉だ。なのに、意訳すると、「ぶちのめす!」となるのが、すばらしい。「暫く」とつくことで、永眠させるわけじゃなく、ふたたびの目覚めが示唆されており、半殺しにしといてやるよ、みたいな慈悲がにじみでている。そこはかとないそのやさしさは、ある意味で、理性の制御下におかれた怒りであり、いっときの気の迷いではなく、明確な意思で以って「怒り」を実行しようとしている感じが伝わってくる。語感もよく、なんどでも頭のなかで繰り返したくなってしまう。――暫くおはようできねえぞ。安眠タイムだ。いくひしもこんなセリフをすらすら思いつけるようになりたい。すばらしい。



1605:【うがー!】

ものすごく! いま、ものすごくおばかな物語を摂取したい! 中身がすっかすかな、くっだらないオブくっだらなキングの物語が読みたーい!!!



1606:【ふーん】

おばかな物語? 読みたいの? 読めば? まんちゃんだったらほら、じぶんの過去作どれでも選びたい放題じゃん。中身なくてスカスカ。くっだらないオブくっだらなキングの物語ばっかでしょ。ちがう?



1607:【あのねぇ】

相手がじぶんだからってなに言っても許されると思うなよ。いくひし、おまえに言うとんねんぞ。



1608:【そっぽを向きながら】

あい!



1609:【孤独耐性】

いくひしは人並みはずれて、さびしがり屋だ。孤独耐性はそんなにつよくない。どちらかと言えば、つねに依存する何かがないと、さびしくて圧しつぶされてしまうほうだ。ただ、その依存する何かが、物理的な他者である必要がないから、客観的には、孤独が好きなんだねー、一人でいてもさびしくないんだねー、と思われるようだ。一人でいたらさびしいに決まってる。ただ、さびしいのがそんなに苦じゃないし、苦じゃないから圧しつぶされそうになる寸前まで、孤独にどっぷり浸かってしまう。気づいたときにはなんとかしないとマズい状況になっていることもあるから、そうしたときは、なんとか自力で、さびしさを誤魔化すようにする。虚構に身を投じたり、好きなことに没頭したり、さびしいというじぶんを騙したり、忘れたりすることで達成されるそれは、現実逃避ならぬ、孤独逃避だ。みんながワイワイ盛りあがっているなかで、一人だけその輪に入れないのはさびしいし、孤独だと感じる。孤独のなかでも、孤立はやっぱり慣れることはない。つよがったりはするけれど、でもできることならいくひしだって、みんなと仲良くしてみたい。ただ、みんなみたいに仲良くはできないし、努力した時点でそれはもう、孤独なのだ。ひょっとしたら仲良くしあっているみんなだって努力しているのかもしれない。いや、しているのだ。でも、その努力を孤独だとは感じないのだろう。やっぱりいくひしは、人並みはずれてさびしがり屋なのだ。努力して(孤独になって)まで他者と仲良くしたいとは思わない。



1610:【だから】

相対的に孤独のほうが好きなだけで、世界でじぶん一人きりしかいなくなったらやっぱり、ヤッホーやったぜー、とはならないし、ひと肌恋しいよー、となると思う。さびしいのだ。でも、だからといって何十億人の発する余熱のひしめく現代社会のなかで、好きこのんでみずから他者と関わろうとは思わない。だったらまだ、余熱だけを感じられる距離で、すこしだけ孤独になれる空間に身を寄せているほうが楽だ。べつの言い方をすれば、現代社会から恩恵を受けている状態で、完全な孤独になんてなれっこないのである。孤独だと言っている人間は、本当の意味での孤独ではない。本を読んでいたら孤独じゃないし、インターネットを使っていたら孤独じゃない。企業のサービスを、他者の製品を、服を、食べ物を、住居を、道路を、公共機関を使っていたら、孤独だなんてあり得ないのだ。人は、たくさんの余熱を浴びて生きている。それだけでも充分なんだけどなぁ、と思う人間がここに一人いるだけの話なのだ。さびしいから好きなことに没頭するし、さびしいから他者のつづった物語をむさぼっている。さびしくなかったらそんなことはしない。ほかに楽しいことがあったらそんなことをしないのと同じように。人は楽しければさびしくはない。楽しくないからさびしいのだ。でもときおり、楽しいさびしさもあるから、むつかしい。楽しいさびしさを味わうために、灼熱ではなく余熱だけの届く距離から、社会と関係していたいのかもしれない。灼熱は、さびしさを奪い、ときに、自ら選んだ孤独よりも深く、険しい、孤独を与えたりする。身体は真っ黒に焦げ、まるで暗がりそのものになるかのようだ。灼熱に焼かれずに、灼熱のなかに浸かっているためには、みずからも熱を発しなければならない。輝かなければならない。みなと同じように、燃えなければならないのだ。燃えたくない。されど、焦げたくもない。だから距離を置く。そういう人間がいてもよいではないか。そうじゃろ?



※日々朽ちていく。



1611:【こんなに】

人からいっぱい好かれたーいって思って、こんなにたくさんキャラづくりしてるのに、ぜんぜん好かれないってやばくない? それともみんな照れてるだけ? 憧れのあのひとには話しかけられないキャー、みたいな。ちがう? ちがうか。調子のっちゃった? かんちがいしてんじゃねーよって思ったんでしょ。ごめんぶー。



1612:【危なげなビジネス】

(※以下、わるぐちです)。基本的にビジネスは、じぶんより能力のない相手に向けて、その能力を貸すことで対価を得るものだ。いっぽうで、相手が能力を借りたいと思うのは、その借りた能力で解決したい問題があるからだ。だから、能力を貸しても問題が解決されなかったら、本質的に、ビジネスの関係性は成立していないと呼べる。とはいえ、車を貸したのに、相手が運転免許を持っていないがために、無駄になったじゃないか、とのイチャモンが成立してしまってはビジネスにならない。だから、貸した、払った、という契約が成立した時点で、あとのことまでは保障しませんよ、と線引きする権利が、売る側にはある。その売る側の権利を拡大解釈し、相手から対価を集めるだけ集める手法が世のなかには数多くある。さいきんでは、サロンビジネスと呼ばれる手法が盛んだ(一時期流行ったセミナー系詐欺ビジネスとなにがちがうのかが解からない)。宣伝になるので話題にすらだしたくなかったが、SNS上ですでに批判的な意見が出回りはじめたので、もうだいじょうぶかな、という意味で、ここでも話題に触れることにする。一部の編集者界隈を概観していて、カルトかな? と訝しんでいたのだが、やはりというべきか、化けの皮がはがれてきたな、といった印象がある。若い子(二十代以下の世代)ほどああした、カリスマ系にハマりやすいので、つねに誰かに憧れるときは、騙されているかもしれない、との視点は手放さずにいたほうがよい。一見、ちゃんとしたおとなが主催者の腰ぎんちゃくになっていることも多く、身近に関われば関わるほど、騙されやすくなってしまう。成果もきちんとあげていたりするので、見かけのデータだけで判断はしないように心掛けたほうがよい。成果をあげているならまっとうだ、との理屈がまかりとおるなら、暴力団はまっとうな企業だということになってしまう。同様にさいきんでは、高校ビジネスも盛んになりつつあるようだ。通信制高校のシステムを利用し、ある分野に特化した高校を設立する、といった話を、ここ二年のあいだにいくつか耳にする。これは邪推であるが、いずれも背後に、同じコンサルタントの存在があるのではないか、と見立てているが、どうだろう。若い子の将来や、時間を搾取するようなやり方は感心しない。もし高等学校を標榜するなら、きちんと生徒たちのその後の進路まで責任を持ってほしいと思うのだが、三流の専門学校と同様に、自己責任の一言で済まされてしまうのではないか、と悲観してしまう。おそらく、入学式の時点で、自己責任です、みたいなことをきれいな言葉で着飾って、生徒や保護者たちのまえで堂々と謳うのではないかな、と妄想するしだいだ。あまりうがった見方はよくないのだが、教育機関の設立は、そうそう容易くあってはならない(すでにある学校をより洗練させていくほうが好ましい)と思っているので、困ったら畳めばいいや、みたいな軽い気持ちが透けてみえると、やはりというべきか、肯定的には見られない。問題があるか否かの一つの指標として、宣伝に挙げられている一流の講師陣が、果たしてあと何年一流でありつづけますか?といったことを見ておくと、危なげなビジネスか否かを見抜けるのではないか。後釜に入る講師陣の実力はどのていど保障されているのか、講師陣はそもそもそうした教育機関を利用して育ってきたのか、ほかに一流の講師候補があった場合に、自身の学校を卒業したOBやOGとどちらを優先して講師として雇うのか。あなたたちは講師としてお金を稼げるだろうが、卒業生の進路にはどのようなものがあるのか。あるなら、なぜ一流のあなたたちはそちらの職種で働こうとしないのか。こうした指標を明らかにしていないところは、やはりというべきか、危なげだな、と感じる。お金を稼ぐ、という意味では、短期的に有利なのかもしれないが、ビジネスとしては不誠実だと感じる。悪評が立った時点で生徒数は確保できなくなる。また、生徒が殺到しても、ビジネスの規模を広げるには、講師陣を確保しなければならない。しかし、その分野に特化した高校を謳っている以上、雇える一流はかぎられる。仮にムリヤリ講師陣を捻出しても、教育機関としての質は下がるだろう。繁盛しても、しなくとも、ビジネスとして発展させるのは困難だ。サロンビジネス同様、長くはもたないだろう(そして経営陣は、短期的に資本を確保するための手段として考えているはずだ。端から長くもたせる気はないのだろう。生徒一人あたま年間二百万、三年間で六百万円を出資させるとして、一学年百人、全校生徒三百人として、三年間運営するだけで、十八億円の金が学校側の手元に入る。学校施設を整えるとしても、テナントを利用すれば、二億あれば充分だ。講師と教員が全部で三十人いたとして、一人あたま年収一千万としたって、一年間で三億の出費だ。三年間でも九億。雑費に二億かけたとしても、残り五億円のお金が純利益として残る計算になる。なにより公立だけでなく、私立の学校にも行政からは補助金がでる。詳しくは知らないが、税金も、一般の企業とはまたちがったシステムが当てはまるはずだ。だいぶん、どんぶり勘定だが、ビジネスとしては割のいい手法だと判る。儲けている初期のあいだに経営権を安値で手放せば、あとはじぶんの知ったことではない、を地で描ける。経営者が変わった途端に経営が傾けば、前任は優れた経営者だったのに、と評判まであがる。いいこと尽くしだ。本当は、ただ、経営が傾くことを計算して手放していただけなのに。これらはいくひしの妄想だ。そうならないことを祈るが、やはりというべきか、現状のままでは生徒が割を食うだけではないのか、と首をかしげたくもなる。学校としてまともに機能する工夫を望むばかりだ)。



1613:【お金がなくなったら】

世界平和を実現させるためには、世のなかからお金をなくすことを目指したほうがよい、みたいな文章を読んだ。いっせいの、せいで、で世のなかからお金がなくなれば、世のなかにある貧富の差による争いや問題はなくなるのではないか、といった趣旨のことが書かれていた。やってみなければ分からないことだが、すくなくとも、現代社会でも、お金の介在しない経済は成立しているケースは珍しくない。だから、もしお金が世のなかから、いっせいの、せいで、でなくなれば、徐々に、お金の代わりとなるもので経済が再構築されるのではないか、と思えるが、さて、どうなるだろう。たとえば、現代でも、田舎の農家のあいだでは相互扶助の関係が根強いように見受けられる。とれた成果物(やさいやくだもの、はちみつや、魚、肉、乳製品、服飾や住居など)をお金を介さずに必要なひとへ分け与えている。代わりに、恩を受けた分、じぶんに余裕ができたら、困っているひとたちへと分け与える。そうした村や町のコミュニティは、けっして珍しいものではない。とはいえ、そこにはお金の代わりに、信用という、目に見えない経済の円滑剤がやり取りされている。信用を損なったり、恩を返せない相手は、村八分にされるといった問題が生じることもある(弱者には生きにくい社会と呼べる)。だからこそ、お金がなくともひとは、ひとを助けるために働いたりするのだ、との趣旨を「世界平和を実現するためにはお金をなくせばいい」と書いていたひとは述べていた。解からない理屈ではない。おそらくは、ちいさなコミュニティではそうした社会体系が築かれていくだろう。現に現代社会でも築かれている。それは農村だけではなく、会社間や部署間、家族間ですらそうした目に見えない絆や信用といったものが相互扶助の円滑剤として機能している。とはいえ、そうした目に見えない円滑剤になく、貨幣にある利点の一つに、価値が可視化されているという点が挙げられる。もっといえば、世界標準の規格を誰が見ても分かる水準で数値化されている点が、貨幣の優れている点だと呼べる。貨幣という名の汎用性の高い円滑剤が、文化や価値観などの分断した社会を結びつけているのに、目に見えないその場その場で築かれる関係性のみでそれを代替しようとすれば、社会は細かく分断していき、過去の乱世を引き合いに出すまでもなく、到る箇所に猿山じみたコミュニティが築かれる未来が予想される。ちいさなコミュニティ同士で価値を平等にやりとりするためには、統一された規格が必要だ。現状であっても貨幣が世界統一されているとは呼べないが、貨幣が世のなかから消え去れば、さらに細かくコミュニティ同士での価値観が分散し、乖離していくこととなる。コミュニティ同士の円滑剤として貨幣は必要なのだ。ただし、個々人の生活水準では、さほど必要とはならないのかもしれない。ゆえに、ここ数年、ベーシックインカム制度が一部で注目されているのだろう。ただし、ベーシックインカム制度は、適切な政府の介入がなければ、貧富の差を高める方向に働くのではないか、といま十秒くらい考えてみて、想像した。そのためにも、ベーシックインカムの財源を、富裕層から補充できれば、貧富の差が解消される方向に修正できるのではないか、とやはり十秒くらい考えて妄想するしだいだ。まとめれば、世界平和が実現するか否かにかかわらず、世のなかからお金をなくすことは、資本主義を基盤として構築されてきた現代社会では、秩序よりも混沌を引き起こすのではないか、と言えそうだ。もうすこし言えば、富裕層のみが、いっせいの、せいで、で蓄えているお金を手放せば済む話だ。わざわざ貧困層までお金の魔法を手放す必要はない。世のなかから危険をなくすために核兵器を手放そう、と国が宣言したからといって、我々個々人が刃物を手放す道理にはならない。マクロとミクロを混同して語るのは、どんな場合でも慎重になったほうがよい。ひと口にお金といっても、そこに内包される価値観や役割は多岐にわたるのだから、いちがいにすべてをなくそう、という主張は理屈としては無理が生じる。どちらかと言えば、最低限の豊かな生活の保障された社会であるならば、ある値以上にはお金持ちになれない、と規定してみるほうが、お金をなくすよりも現実的な案に思えるのだが、あなたはどう思いますか?



1614:【宣伝効果なし】

ツイッターはじめ、SNSをいろいろ利用しはじめた半年だったのですが、おとといからはじめたアマゾンキンドル電子書籍の無料キャンペーンのダウンロード数が、げんざい三日目にして、4冊です。これまでにも幾度か行ってきた無料キャンペーンですが、いまとなっては1冊もダウンロードされない作品も珍しくないです。この半年、とくに変化はありません。言ってしまえば、SNSを利用しても宣伝効果はほぼなかったという結論になります。もちろん、いくひしのSNSの利用の仕方があまり効率的ではない、というのもあるでしょう。目立ちたくないので、目立つようなやり方は避けています。バズりたくありません。ラインなどの、本当にプライベートな空間でのクチコミですこしずつ、本当に必要としている方に届けばいいなぁ、と思いながらやっています。誰もがひと目で解かるような数字としての人気はなくとも構いません。極論、いくひしが生きているあいだに読者へ届く必要もないと思っています。ただ、届いたら届いたで、うれしくは思います。つよがりに聞こえますか? まあ、つよがりでしょう。ただ、つよがるのは嫌いではありません。つよくなりたいので、つよがれるくらいがちょうどよいと思っています。つよがる必要のないような環境は、弱体化してしまうのではないか、と不安に思うほどです。工夫のしようのない環境にはいたくありません。とはいえ、工夫したいときにできない環境もノーセンキューなのであります。しょうじき、宣伝効果がないと判った時点で、SNSの利用はやめたほうが時間を無駄にせずに済むのですが、そこそこ楽しくやれているので、今年いっぱいはつづけてみようと思います。もっとほかの手法を試したりいろいろあーだこーだと試したほうがよいのでしょうけれど、しばらくはこのままの方針をつづけようと思います。ちなみにですが、無料キャンペーンで配布した作品がいくらダウンロードされようと、たくさん読まれようと、いくひしには一銭も入りません(アンミリ、つまり月額読み放題に加入されている方の場合は、読まれればいくひしにその分の収益がありますが、そもそもアンミリに入っている方なら、無料キャンペーンを利用する必要はないでしょう)。本当にタダで配っているだけなので、あいつの小説は好きだけど作者がなぁ、といくひしに得をさせたくないとお悩みの方は、ぜひぜひこの機会に入手してみてはいかがでしょう(なんて言っているけれど、読んでもらえたらそれだけでうれしい、いくひしまんでした)。



1615:【懐かしいは安心する】

今週は伊坂幸太郎さんの小説「陽気なギャングは三つ数えろ」を読んでいる。いくひしは、森博嗣さんで小説を読みはじめ、西尾維新さんで小説をつくりはじめ、伊坂幸太郎さんで、小説家になるぞ、となったので、いつ読んでも、伊坂幸太郎さんの小説は故郷みたいな懐かしさがある。懐かしい、は、言い換えたら、安心にちかい気がする。安心する。信頼できるひとの運転する自動車の後部座席で居眠りをするときみたいな安心があるし、田舎のおばぁちゃん家みたいな時間ののっぺりと伸びたのどかさがある。でもその安心がいまここにはない。だからひとはほっとするだけでなく、懐かしいと感じるのだ。物哀しさがどことなく漂う安心が、懐かしいなのかもしれない。ということは、いくひしが伊坂幸太郎さんの小説を読んで、懐かしい、と感じるのは、手放しで安心できない何かがあるからなのかもしれない。それはきっと、かつてはあって、いまはないものであり、同時に、かつてはなく、けれどいまはあるものによって失われ、或いは生じている喪失感なのかもしれない。ただあるがままに、おもしろかったー、とはなれない。ほっとするのと同時に、焦りにも似たがらんどうが、ぽっかりと胸のうちに広がる。単なるいち読者でいられたあいだには見えなかった、つむがれた文字の裏にある膨大な、知識の渦、アイディアの墓場のようなものが見え隠れする。ここまでしなければならないのか、と圧倒される。ひとつの物語を編むまでのあいだに錯綜する、無数のちいさな物語たちのその奥深さや、色調の豊かさに、ただただじぶんとの差を見せつけられる。懐かしくもほろにがい。これはきっと、敗北の味だ。歴然とした差を見せつけておきながら、伊坂幸太郎さんのつむぐ物語たちはそろいもそろってこう謳う。「勝ち負けではないよ。負けないこともだいじだけどね。それよりだいじなこともあるんだよ。なにかはよくわかんないけど」 とぼけた顔して厳しいことをおっしゃる。ひねくれ者のいくひしさんは、そんな言葉になぞまどわされんぞ、となんとか勝てる道を探すのである。「陽気なギャングは三つ数えろ」はまだ三分の一を読んだところなのに、もうすでに長編二冊を読み終えたくらいの物語の濃さを堪能している。おもしろい。商業作家はこれに勝たないとあかんのだなー。たいへんそ。他人事のように思いながら、いくひしだって負けないもんね、と固く決意をあらたにし、手にした「懐かしい」の本をだいじに枕元に置き、お布団に潜りんだままの態勢で、まずは名作をつむいだ夢でも見て英気を養おう、と企むのである。ねむねむ。つづきはまたあした。おやすみなさい。



1616:【見られていない】

以前はまいにちのように通っていた書店さんであったけど、さいきんは週にいちど行けばいいほうで、あまり寄らなくなった。なぜか。書店さんに足を踏み入れたらいくひしはまず、文庫本の新刊コーナーを覗き、つぎに新書コーナーを見て回り、漫画コーナーへと移り、BL漫画の棚を経由してから、会計があればカウンターへ行き、最後に単行本の新刊コーナーを眺めて出口へと向かう。単行本コーナーが最後なのは、買わないことが決定しているからだ。まずは買うつもりのあるものから見ていく。だから目当ての本があるときは、若干ルートは変わるものの、基本的には、文庫本→新書→漫画→会計→単行本→出口となる。で、ここ二年くらいのあいだに変わってきたなーと思うのが、文庫本(&単行本)の、こっち見てない率の高さだ。いくひしの世代の二つ上くらいをターゲットにしているとしか思えない表紙ばっかり並んでいる。いくひし世代はまず手に取らないだろうな、と思うタイトルに表紙が多くなった。いくひしより下のコたちなんか文庫本コーナーに寄りつかないんじゃないかと思えるほどだ。若いコ向けじゃなくなってきているのだ。お年を召した方しか本を買わなくなってきているのかもしれない。否、そんなことはない。なぜなら、若い子向けの文庫は、それ専用に、書店さんの奥のほう、漫画コーナーのはじに並んでいるからだ。明確に区切られている。でもいまにはじまったことではない。ライトノベルはライトノベルでまとめて陳列されているのは、何年も前からだ。しかし、その時代であっても、文庫本の新刊コーナーにはもっと、若い世代向けだとひと目で判るような、オシャレな表紙デザインの文庫本が並んでいた。いまはそれがなくなったのだ。ドラマ化されたものや、アニメ化されたものは、そういったパッケージで、やや若者向けにも見える表紙が起用されている傾向にあるけれども、メディアミックスされた小説や原作ものは、それはそれでまとめて陳列されている。二年くらい前までは大手の出版社はこぞって、若者向けを意識したパッケージで、ライトノベルではない一般書籍をだしていたのに、いまはずいぶん、ミドル(&シニア)層向けに重点を置いているなぁ、といった印象がある。よほど(若者に)売れないのだろう。だからといって、売りにださなくなるのはちがう気がする。一見しただけで、こっちを見てないなぁ、と判るようなラインナップでは、いくひしよりも本に馴染みのない層が、偶然そこを通りかかっても、本を手にとることはないだろう。機会損失とまでは言わないが、いくひしですら、文庫本の新刊コーナーはもう覗かなくてもいいかな、と思いはじめている。あなたたちに向けてはつくってないですから、と漫然と示されているようで、物寂しくなってしまう。買わないあなたたちがわるいんですよ、とまでは感じないけれども、もしそう思っている版元があるのなら、だって欲しい本がないんですもん、と言いたくなってしまうものの、もはやそう思う読者すら、いまはすっかり書店さんからは離れてしまっているのかもしれない。やはりというべきか、物寂しく感じる。それはそれとして、本屋さん、って蔑称なんですか? 書店さんよりも、本屋さんのほうがかわいくて好きなんですけど、書店さんじゃないと失礼になっちゃうのかな。本屋さんって言葉、いくひしは好きだなー。



1617:【サバ】

さいきんまんちゃんさー、若者の味方、みたいな書き方しがちだけど、あなた言うほど若くないでしょ。なに若者代表、みたいな顔してんの。読むのは本だけにしときなよ。



1618:【皮肉か?】

いくひしさんよぉ。表紙どうこう言ってるがよ、それぁ、なにかい。俺さまのつくった表紙が気に入らないってぇ、そう迂遠に言いたいのかい? 稚拙な表紙でわるかったなぁ。海外のひとでも手にとりたくなるようなデザインを、ってな無茶な注文だされたうえにタダ働きときたもんだ。や、いいけどね。それで損するのは俺じゃぁ、ねぇからよ。



1619:【えー】

マックご馳走したじゃん。てりやきばーがー。シェイクもつけたじゃん。



1620:【けっきょく】

上の世代への反発で、上下関係なんかクソ、自由に交流すりゃいいじゃん、とシェア至上主義でコミュニティを広げてきた若い世代が、やがてじぶんたちが上の世代と呼ばれるようになったときにとりはじめる姿勢が、じぶんたちのコミュニティに馴染まない者や、部外者を冷遇するような態度をとることをいさぎよしとする方向に固まりはじめて観測されるのは、皮肉と呼ぶにはできすぎている。けっきょくのところ、じぶんたちが嫌悪したやり方をじぶんたちでもやっていることに自覚的になるには、自由のつもりで、ただただ外部からの干渉を拒んで、生ぬるい環境に閉じこもっていたいとする弱い欲望を見詰めつづけることなくしては達成できないのかもしれない。弱さゆえに自由を求め、弱さゆえに変化をおそれる。五年もあれば若さをなくすには充分だ。若さに甘えてきた人生だ。これからは若さの特権を使わせる側でありたいものだ。しかしだとすると、一段下の世代へ、きみたちももう若くはないのだ、と諭す役目は誰が担うことになるのだろう? さらに下の世代から疎まれるほかに自覚する術はないのかもしれないが、少子高齢化である以上、より下の世代ほどあげる声はちいさくなる道理だ。歳の若い子ほどおとなしい子の多い印象もある。我がもの顔で下の世代をいちびるつもりなくしていちびっている比較的若い世代を見ていると、何かしなければならないのかもしれない、とひときわ歳をとったワガハイは焦燥感にも似た思いを抱くのだが、かといって歳を重ねただけのワガハイには、ワガハイよりも優れた下の世代へ何かを諭す真似などできようはずもないのである。ワガハイのような目上の者をまえにしても萎縮する必要はないのだ、と態度で示すほかに、できることはないのかもしれない。よくもわるくも対等でいたい。重ねた歳ほどには、何かが蓄積されたわけでも、磨かれたわけでもない。すり減らしつづけた人生だ。たいした者ではない。身の程を知り、ひとの邪魔にならぬように、時間の流れのはやい人々の動きに学び、育もう。上の世代のようにはなりたくない。ワガハイがそう思ってきたのと同じように、下のコたちからはワガハイがそう思われているのだろう。やはりというべきか、皮肉と呼ぶにはできすぎている。



※日々、何者でもないじぶんに依存していく。



1621:【一休さん】

やばい。なんもしたくない。



1622:【もし】

仮に、もし、いくひしの作品群を見渡して、こんなにつくってもプロになれないのか、と気落ちしてしまう方がいらっしゃっても、そう悲観しなくてもだいじょうぶですよ、と言っておきたいです。いくひしは人並みはずれて運がないだけです。言い方をわるくすれば、人間性が腐っているだけです。三年で長編十作をつくるくらいに物語を編みつづけていれば、そしてプロになろうと行動すれば、まず商業作家としてデビューできます。いくひしが規格外にダメなだけです。安心してください。あなたがいくひしくらい物語を編めば、すくなくともいくひしみたいになることはありません。ちゃんと評価され、お金も稼げます。いくひしを見習うことはオススメしませんが、反面教師としては申し分ないかと思います。だいじょうぶです。あなたはいくひしではありません。じぶんの可能性を信じてあげてください。



1623:【そういうとこやぞ】

SNSが発達したおかげで、売れるモノとそうでないものの答え合わせが図らずも、できてしまえる時代になった。編集者の見る目のアリナシが、浮き彫りになる時代なのだ。編集者という一部の特権階級に見出されなくてはプロになれない時代は終焉を迎えつつある。編集者が編集者としての役割を示すためには、見る目があることを証明しつづけるよりほかはない。バズッたコンテンツ(&著名人)に集まり、稲穂を貪るだけのバグになりさがっては、自ら、見る目がないと言っているようなものだ。発掘し、発見し、発信しないバグに、メディアとしての機能はない(バズッたコンテンツに見向きもしないのも、それはそれでどうかと思うが)。SNSという他企業のサービスを利用し、おんぶに抱っこで、成果を上げている編集者も同様だ。いつまでSNS企業が、じぶんたちの耕した畑で狩りをするアウトローを野放しにしているだろう。ビジネスを目的にした青田刈りが規約違反として明文化されるようになるのは時間の問題だ。SNS企業が、使用料を請求するようになるか、或いは、コンテンツ配給企業と提携するか、もしくは、自社内で新たにそうした部門を開拓するか。いずれにせよ、このままのやり方がつづけられると思っているようでは、見通しが甘いとしか言いようがない。SNSをビジネスに利用できなくなったときのことを考えて行動するくらいのことは、できるビジネスパーソンならすでに何かしらの策を練ったうえで、実践しているいまは時期だろう。フォロワーやいいね!のような評価が、貨幣と同等の役割を果たすようになりつつあるいま、手数料が発生しない現状に疑問を抱くくらいのことはしておいたほうがよい。ATMを利用すれば手数料がかかるのと同様に、SNSを利用してお金のやり取りが行われれば(利益を上げているのならば)、そこに手数料がかかるのは道理である。手数料、というほどハッキリした表現ではないかもしれないが、(企業や個人事業主へ)なにかしらの対価を課せられるようになる可能性はそう低くはない。SNSに依存し、それを武器にした瞬間、それ自体が、大きな足かせになるかもしれない懸念は抱いておいて損はないように思うが、いかがだろうか? (こういう物言いがいけないのでしょうか。人間性が腐っていますか?)



1624:【フリー素材】

電子書籍の表紙をいくひしは、フリー素材を使ってつくった。著作権の切れているゴッホの絵も使っている。とはいえ、フリー素材を提供しているサイトの運営元が、真実に著作権を管理しているとはかぎらないのだ。フリー素材を謳っていても、他者の創作物をかってに使っているだけかもしれない。いくひしの電子書籍の表紙も、じつは誰かの権利を侵害している可能性はゼロではない。はやいところ、じぶんでイチからつくってしまうほうがあとあと問題を抱えずに済みそうだ。絵描きさんに依頼して、絵を描いてもらう計画も立てているけれども、資金のほうがなかなか捻出できない。同人誌を無料で配ったりしているせいだ。去年は250部くらいをタダで配ったので24万円の支出があった(見本誌を含めなければ210部くらいだ)。来年はその倍を配りたいので、その分のお金も貯めなくてはならない。なかなかの無駄を体現しているなぁ、と我ながら思うしだいだ。いちど本格的に編集技術も学びたい。やりたいことがたくさんだけれども、あまり実行に移そうという気にはなれない。できたらいいなぁ、と思っているだけだ。それよりもっとやりたいことがたくさんある。いっそのこと、いくひしのつむいだ物語もフリー素材にしてしまって、好きに本にしていいですよー、としてしまったほうがうまくいくかもしれない。一定以上の利益がでたら、儲けの数パーセントをあとでまとめてくださいな、と利用規約にでも書いておけば、さいあく損をすることはない。となれば、編集技術よりもさきにWEBサイトをつくるほうが優先すべき事柄かもしれない。考えるだけならいくらでも考えられるが、こうした考えを実行に移すことはないのだ。じぶんの計画に他者を巻き込みたくはない。読者がいるだけで充分だ。すこしずつ、できることを増やしていこう。



1625:【ぐだぐだの思考】

前項の1624の記事は、眠くて眠くて仕方がなくて、失神数秒前に並べた文章だ。自意識がすさまじく前面に滲みでている。去年のことなどわざわざ言及しなくてもよいし、他者を巻き込みたくもないもなにも、そもそも誰も関わってはいないのに、まるで誰かが協力してくれるかのような物言いだ。大いに願望が肥大化し、現実を直視できていない文章になっている。確率の問題として、やれること、考えついたことは、取り返しのつかないことでないかぎりは実践してしまうほうが好ましい結果に結びつく。じぶんに言いわけなどせず、目的遂行のためにすべきことをやっていこう。とはいえ、ゲームは縛りがあるほうがおもしろい。じぶんルールからは逸脱せずにいたいものだ。



1626:【対話】

他者との対話がたいせつなのと同じかそれ以上に、じぶんとの対話ができるか否かが、情報社会において欠かせない素養の一つになっていくのではないだろうか。



1627:【何が違うの?】

接待と賄賂って何がちがうの? 同じじゃない?



1628:【接待の是非】

医療系の現場では基本的に(薬品会社関連からの)接待は禁止にされたのではなかった? いくらでも抜け道はあって、接待みたいなことが未だにはびこっているようだけれども。過剰な接待営業が社会福祉の腐敗を招きかねないから禁止されるとの理屈が妥当だとするのなら、過剰な接待営業が市場の正常な流動性を阻害するとして、一般の企業でも制限したほうがよいのでは? だいたいにおいて、なぜ業務時間外の接待が会社の経費で落ちるのだ? 外資系の企業はそこらへん、コンプライアンスがしっかりしていて、日本独自の風習な気もするけれども、どうなんでしょう?



1629:【注釈】

誤解されたくないので注釈を挿しておくと、いくひしがもしビジネスで成果をあげようとしたら、法律に反しないかぎり、あらゆる手段を講じるのに躊躇を覚えることはない。現状、接待営業は法律で禁じられていないのだから、使えるカードは使うのが利口だ。ただしその結果、(技術ではなく)資本に余裕のある企業が市場を独占したり、一部の管理職が会社の金を接待という名の遊びに費やしたり、そのツケを管理職以外の職員の給料から払わされ、結果として会社の儲けが従業員に還元されなくなり、経済の流動性がにぶるのなら、マクロの視点では、利口とは呼べなくなるだろう。じぶんさえよければそれでいい、がビジネスの意味ではないはずだが、現状、じぶんさえよければそれでいい、の風習が社会全体を分厚く覆っているようだ、と見做して、大きな齟齬は生じないのではないか。違うのなら違うほうがいいに決まっている。そうではないですよ、と示してもらいたいものである。



1630:【どんな体勢?】

何を言うかではなく、誰が言うのかでもなく、これからはどんな体勢で言っているのかのほうが大事かもしれない。いくひしはたくさん偉そうなことを好き放題に、なんの根拠もなく憶測で並べ立てているが、たいがいは椅子にふんぞり返って、大きなキャンディをぺろぺろ舐めまわしながら、片足をじぶんの首にかけ、ヨガのポーズをとりつつ、ときおり鼻歌混じりに火を噴いたりして、天井から物音がすればすかさず、なにやつ、と手裏剣に見立てた綿棒を投げつけ、上の階のひとに声なき物申し立てを成し遂げては、うふふ、とご機嫌に、ムツコブラクダの五つ目のコブからとれる油でつくったアイスクリームをなちゅなちゅねぶりながら、こうして笑う子も泣き叫ぶ国際指名手配級のヘン顔を浮かべつつ、こよいも毒にも薬にも劣る、無知蒙昧な戯言をネットの海にしたためるのである。こんなろくでもない体勢でつむがれた言葉なぞに惑わされてはいかんよ。



※日々、砂塵のように生きていく。



1631:【差別とは?】

誰かの何かを標準より上に見ることは差別ではない。反面、標準より下に見たり、その結果、その人物を不当に扱うと差別になる。たとえば、絵が上手なひとを、すごいですねー、と褒めることは差別ではないし、そこでその才能に惹かれて、その人物へプレゼントをしたり、仕事を手伝ったりしても、差別とはならない。反面、絵が描けないという理由で、悪口を言ったり、その人物そのものがダメだ、みたいに評価したり、雑用を押しつけたり、コミュニティから排除したりすれば、それは明確に差別だと呼べる。とはいえ、標準というのは時と場所、人の組み合わせごとに移り変わるものだ。標準とは、極めて曖昧で不安定な基準だと呼べる。美人と標準的な顔立ちの人物が、二人きりで並んでいれば、相対的に標準的な顔立ちの人物は平均以下となる。美人を高く評価することは、いまの世のなかでは差別にあたらないが、もし世界中の人間がつぎつぎと美人になり、そのなかでたった一人が標準的な顔立ちのままであるのなら、美人でないというだけで、不当に評価されるハメになる。標準的な顔立ちだったはずが、そう評価すらされなくなるのだ。これは極端な例であるが、同時に、有り触れた現象の一例でもある。つまり、あるときは差別ではなかったが、またべつのあるときでは差別にあたる、ということが到る場所、あらゆる時間軸上で成立してしまうのだ。誰かを称賛したり、崇めたときに、「では、そうではない人達は立派ではないというのか」という、ねじまがった理屈を唱える個人がときおりSNS上などで観測される。反論としてお粗末なその主張がじつは、暗に妥当な理屈として成立してしまうことが、現実にはあるのだ。差別をするつもりがなくとも、単なる区別であるだけで、結果として差別になることはある。それを自覚したり、指摘されたりしたときに、いかに自分を省みれるかが、多様な価値観を尊重しつつ共生していくうえで有利に働く触媒となっていくだろう。侮蔑のつもりがなくとも差別にはなり得る。だからといってそれを禁止しようとする姿勢もまた、意図せぬ差別に成り得ることは頭の隅に置いておくと、無駄に他人を傷つけずに生きていくことができるのかもしれない。これからの社会ではますます、他人を傷つけないことが、もっとも有効な護身術となっていく。傷つきたくなくば、まずは他者を慮る想像力を育むのが吉とでよう。ちなみに、幾度か言ってきていることだが、「お笑い」とは基本的に、他者を蔑むことで生じる心理現象である。この世から総じての差別をなくそうとすれば、まっさきに、「お笑い」という文化が滅ぶことになる。他者の欠点や失態や粗相を笑うことは必ずしもいけないことだろうか? 言い換えれば、美人ですね、としか褒められることのない人物にとって、美人ですね、は果たして褒め言葉となっているのだろうか? 重要なのは、差別をなくすことではなく、それによって傷つくひとがいなくなることのはずだ(もっと言えば、何を言われてもじぶんが傷つくいわれはないし、あなたがあんな言葉で傷つく必要もないんですよ、との共通認識を構築できる社会がより理想的ではある)。その人物をその人物として尊重することと、差別を根絶しようとする活動は、イコールではない。差別をなくそうという活動は、いち手段にすぎないのだ。本質を見失わないようにしたほうが好ましい。差別を絶対悪と見做すさっこんの風潮は、いささか危ういな、と感じる。むろん、差別を擁護しているわけではない。ただ、排除して解決する問題ではないのだ、という視点は持っておいて損はないだろう(と、いうよりも、排除しようとする姿勢そのものがもっとも根源的な因子なのではないか、と思うのだが、ともあれ、問題点を取り除くのは、円滑にシステムを機能させるうえでは欠かせない工程でもあり、本質的に、人類の営みは、排除思想のうえに成立していると呼べるのかもわからない)。多様性も行き過ぎれば秩序を破壊するように、何事もバランスが肝要なのである。バランスはとれていますか?



1632:【サボる】

やーやー、いくひしでござる。またまた久しぶりって感じがするなー。そうでもないでござるか? いくひしはさいきん、寝る前に石塚千尋さんのマンガ「ふらいんぐうぃっち」を読み直すのがいちにちの癒しになっておるぞ。ああいう物語はいくひしにはつくれないので、すなおに、すばらしいなー、と思うのだ。とてもよいきもちで眠ることができるぞ。とてもよいきもちで眠れる物語はよい物語だと思うのだ。いくひしも見習いたいものだぞ。あとはな、そうだな、きょうはなんか、雨が降ったわけでもないのに、そとが静かでな、秋の虫の音が聴こえなくなってしまったのだ。きのうの夜までは、カネタタキがうるさかったのがウソみたいに、シーンとしているぞ。暖かくなったり、寒くなったり、寒暖の差が激しくて、虫さんもまいってしまっているのかもしれないなぁ、なんて考えながら、しずかでいいなぁ、とひそかに、虫さんたちが死んでしまったことをこころよく思っているいくひしさんもおって、本当に性根が腐っているなぁ、と哀しく思ってしまったのだ。いなくなってせいせいする、といくひしも誰かに思われているのかもしれないでござるな。はやく透明人間になりたいでござる。カレーを食べたら眠くなってしまったでござる。きょうはもう寝るでござる。たくさんサボっているので、がんばらなきゃいけないのでござるが、もうしばらくサボるでござる。でもがんばらなきゃでござる。めんどうくさくなってきたでござる。やっぱりサボりたいでござる。サボるでござる。寝る。おやすみなさいでござる。



1633:【評価経済の狙い】

他者からの評価がお金の代わりとしてやりとりされる、というのは、一種の仮想通貨みたいなものだ。手続き不要な分、仮想通貨よりも信用度の低い通貨と呼べる。なぜ評価経済がもてはやされているのか、というと、お金を稼ぎたい者にとってはそちらのほうが都合がよいからだ。つまり、他者からの評価が商品となる。仮想通貨の付加価値を高め、半ば詐欺じみた手法で荒稼ぎした者たちがいたように、評価経済における他者からの評価もまた、高値で取引可能な商品となる。また、貨幣の代わりに対価としても使える。言い換えれば、お金を払わずに、他者をこきつかうことが可能なのだ。これはどの企業でも取り入れられている手法でもある。組織内での地位を高めることで、やりがい、という名の報酬を与える。給料に大きな差がないにも拘わらず役職名が高いだけで、ひとむかし前の労働者たちは躍起になって働いたのだ。その代表的な役職が、中間管理職と呼ばれる者たちだ。残業代がでず、似たような役職がたくさんありながら、そのしたの平社員を従わせることのできる地位を与えられることで、溜飲をさげ、安い給料で多忙な仕事を請け負う。社内表彰も、カタチだけ表彰するだけで数千円のお菓子を与えるだけ、或いは報酬はなし、みたいな会社もすくなくなかったのではないか(実情は知らないし、さいきんの会社では金一封やボーナスに上乗せされるところもでてきているという話も聞き及ぶ)。いずれにせよ、評価経済のいきつくさきは、やりがい搾取に染まりきった社会だと呼べる。与えられた評価によって一時いい思いをするだけで、本質的には、資本を持った一部の者たちにいいように操られる。評価に信用を与えるには、より大きな信用が必要であり、すなわちそれが貨幣となる。あのひとの与えた評価だから確からしい、という推論はおおよそ、すでに成功している者か、資本を獲得し、多くの労働者を従えている者に優位に働く傾向にある。たとえイチから這いあがって評価を集めた者でも、けっきょくは資本を蓄えることで、その評価を継続して得つづけることになる。評価経済と言いながら、本質は、より資本のちからが有効に働くための場づくりでしかないのだ。むろん、そうではない、という意見もあるだろう。それはそれで好ましい。評価経済によい点があるというのなら、わるい点もある。上記に挙げたのがその一例だ。わるい点が表出しないようにしつつ、よい点を伸ばしていけばよい。ただし現状、あまり好ましい結果に傾いてはいないようだ、と見受けられる。かつての社会では、資本を得るために暴力や反社会的行為が氾濫した。いまは他者からの評価を得るために、暴力(ヘイトおよび言論弾圧)や反社会的行為が増加して映る。同じ過ちを繰り返さないためにも、すでに学んだ対策を現状の評価至上主義にもあてはめ、問題が社会問題化する前に、先回りして改善していくのが好ましい。お金を得ることよりも、それにより何を成したいか、のほうが先んじるように、他者からの評価を得たさきで、どうなりたいのか、をまずは各々が掘り下げて考える必要に迫られている時期なのではないか、と思うしだいだ。有名になりたい、売れたい、と欲する彼ら彼女らはいったい、そのさきでどんな人生を送るつもりでいるのだろう。夢に破れたあとのことを考え、保険をかけておくのと同じくらい、夢を叶えたあとのことも考えていたほうが、そのさきで途方に暮れずに済むのではないだろうか。



1634:【まぁた言ってら】

中身のないこと言わせたらまんちゃん、あなたピカイチね。



1635:【飢餓感】

時間も能力も何もかもが足りない。満たないのではない。欠乏しているのだ。生き方を変えるか、或いは、存在の輪郭そのものを縮小するよりない。身の程を知ろう。いくひし、おまえはおまえが自分で思っているよりもはるかにずっと――いや、言わなくとも解かるな? だろ?



1636:【あぁ?】

うっせ、ばーか。 みゃーは天才なんにゃ! そうにゃろ!!!



1637:【爆笑】

いやいやまんちゃん、あに言ってんの。天才? あんたが? ウケんね。



1638:【挫折!】

短いお話のやつ! まいにち更新するって言ったな! やっぱムリ! かもしんない!



1639:【――すぞ】

無理じゃねぇんだよクズ。――すぞ。



1640:【あせ、あせ!】

さーて本気だすかな(おふとんにもぐりこみながら)。


※日々、価値がゼロでありつづける。



1641:【うがー】

余裕がなくなってくると、まとめるちからがなくなっていくー。



1642:【そこからして】

まとめる力が普段はあると思っているところがまんちゃんのかわいいところよね。



1643:【棚に上げる】

じぶんのことは棚上げして言うけど、せっかくエッセイというか、自分のことを書くとおもしろいのに、小説になるとふつうになってしまうひとは、小説を書こうとせずに、エッセイを書くつもりで、自分のことを書くつもりで、物語の登場人物に語らせたらいいのでは、と思うのだけど、伝えたいひとに伝える術が(あるけど使いたく)ないし、伝えても余計なお世話になると思うから(だいたいにおいて、言われてハイヨとできたら苦労しないだろうし)、ここに並べて、供養する。みんな文章じょうず。おもしろい。たのしい。もういちどだけ言っておくと、小説を書こうとなんてしなくていいんだよ。どの口が言うのだ、と怒られそうだけど。でもいくひしは、ほら、じぶんのこと書いたら余計につまらなくなるひとだから。エッセイ上手なひとがうらやましい。小説はどうだろ、(うらやましいのか)よぉわからん。



1644:【憑依型】

物語の登場人物になりきる創作方法というのがあります。いくひしは基本それにあたります。憑依型といったらそれっぽいですね。憑依型は、自分を捨てるところからまずはじめなくてはなりません。慣れないとなかなかむつかしいのではないかな、と思います(いくひしはいまでも、余裕がなくなると自我が滲んできてしまい、物語の語り口が変質してしまう欠点を克服できていません。たとえば、子どものキャラクターなのにむつかしい言い回しを使ったり、などです。言い換えれば、そのキャラクターが持っていないはずの知識や経験を使ってしまうと、キャラ造形として失敗しやすいです。逆に、一般にそのキャラの属性なら持っていないはずの知識や経験を付与することで(もしくは引き算することで)、キャラを立てることもできます)。自分のことを語ることに秀でたひとほど、この憑依型の創作方法がむつかしくなっていくように感じます。また、自分のことを語るのが上手なひとほど、この憑依型で物語をつくろうとする傾向にある気もします(根拠はないですが)。自分のことを語るのが上手なひとは、自分を捨てるのが上手でないので、だからうまく(視点を活かして)物語が編めないのかな、といますこし考えて思いました。ですから、まずは物語の舞台に自分が立ったとして、自分だったらどうするだろう、と考えながら物語を編んでいくのが、あんがい創作方法として合うのではないかな、となんとなく思います。キャラクターを動かすのではなく、動いているキャラクターたちを、世界を眺めるようにして、あなたの目で追っていく。あなたが世界を眺めて何を見て、何を思い、何をするのかをただ文章に落としこんでいけばいいわけです。慣れてきたら、自分とはかけ離れた人物の視点から見た世界も描けるようになっていくのではないかな、と思います(ですから、最初は登場人物はすくないほうがよい気がします)。自分を捨てる、というのは、要するに、日ごろから自分を殺し、他者の考えや世界観に寄り添うことで成し遂げられる幽体離脱のようなものです。他者の人生への憑依であり、継続しつづける自殺であるのかも分かりません。もっとも、憑依する以上は、自分という魂は消えることなく残留しつづけるものなのでしょう。他者の視点から世界を垣間見たところで、それを見ているのはどこまでいっても、「私」なのです。「私」を形作ってきた金型を意識し、それを一つ一つ外していくことで(ときにはずるっとひと息に脱ぎ去ることで)、「私」は自我という枠組みを外れ、他者の輪郭、金型、人生に同調することが可能になるのではないでしょうか。もちろん、そう錯覚できる、という意味合い以上には自分を捨て去ることはできないのでしょうけれど。(ただし、この憑依型の創作方法では、客観的に物語を見る視点が欠けやすい、という難点があります。克服するには、同時にいくつかの視点を維持しなければなりません。物語が自動で流れてくれるくらいにまで、その物語の舞台に馴染む訓練は、別途に必要になってくるように思います。何も考えずとも、矛盾のない物語が構築できるように、日ごろから、神の視点で妄想する癖をつけておくとよいかもしれませんね)



1645:【NOTゴッホ】

たとえばフィンセント・ファン・ゴッホの死ぬ直前になって、あなたの絵をすべて百億ドルで買い取らせてください、と言ってきたひとがいたとして、果たしてゴッホは絵を売っただろうか? もし死ぬ直前になって急に多くの人々からこの絵は素晴らしい、と称賛されたとして、ゴッホは安らかな眠りにつけただろうか。それはじっさいにそうなったときのゴッホに訊いてみるよりないし、よしんば聞けたとしても、ゴッホ自身、自分の感情を言語化できたとは思えないのだが、いずれにせよ、ゴッホが耳を切った時点で、ゴッホにとっては他人からの称賛は「いまさら」でしかなかったのではないか、とそんな気がするきょうこのごろである。とくに意味もなく、そんなことを考えた。とくに意味はないんだよ! けっきょくのところ、他人からの評価を求めるから、評価されないことが苦しく感じるのだ。またいっぽうでは、他人から称賛されて当然という境地に立ったとしても、雨のように降りそそぐ称揚はただただ虚しいだけだろう。なくても、ありすぎても、それを求めているかぎり、あまり身のためにはならないのではないか、ととくに意味もなく思うきょうこのごろである。とくに意味はないんだよ!!! べつにいくひしさんが、みんなからたくさん、すごーい、まんちゃんかっこいいー、って言われないからってヘソを曲げ曲げ、ウジウジしているわけではございません。ホントだよ! ウソじゃないからね! まあね。言うてもね。ゴッホはいいですよ。死んでから評価されたわけですから。それに引き換え、いくひしさんはどう? や、とくに意味はないんですけど。にしても、絵描きさんってそういうひと多くない? そうでもない? 小説家だといくひしが知ってるのは、宮沢賢治ちゃんと伊藤計劃しゃんしか知らないのだけれども、そこに将来、郁菱万が加わる可能性は、いかほど? ない? ぜろ? まじで? 1パーもない? そっか。   なんでだーーーーー!!!! あるでしょ、そこはウソでもあるって言うとこでしょ、言えよばかーーー!!!! ってな感じできょうも変わらずの憤然とWhy not?(フィンセント・ファン・ごっこ?)、いくひしまんでした。



1646:【恥ずかしいことを言う】

いくひしは、いくひしが関わったことのあるひとたちには漏れなくしあわせになってほしいと思っているのだ。いくひしと関わったせいで不幸になったり、傷ついてほしくはないのだ。でも、それはべつに、嫌われたくないということではないのだ。いくひしは嫌われてもよいのだ。本当はよくないのだけれども、いくひしを嫌う自由は誰にでもあるのだ。それはそれとして、あいつのせいでダメになったと思われてもよいから、せめてそのあとでしあわせになってほしいのだ。つまずいたのは、うまくいかないのは、かなしいのは、くるしいのは、ぜんぶぜんぶアイツのせいだって思ってよいから、その代わりしあわせになってほしいのだ。いくひし以外にそんな感情を向けてほしくないのだ。こういう考えを誰かに伝えても、うまく伝わらないし、ふーんって感じだし、べつに不幸にもしあわせにもならないよ、だっていてもいなくても同じじゃん、みたいに思われていそうで、被害妄想かもしれないけれども、それはそれで安心はするのだけれど、ほっとするのだけれど、いくひしの気持ちはうまく伝わってないのだなぁ、と弾かれた心地になるのだ。いくひしはあなたにしあわせになってほしいのだ。やりたいことをして、目標を達成して、それをまたべつのカタチで更新しつづけてほしいのだ。でも、いくひしがどう思っていようと、あなたのしあわせはあなただけのものだから、けっきょく、いくひしが誰かをしあわせにすることも、不幸にすることもできないのだ。あなたと関わりあうこともできないのだ。哀しいようでほっとするのだ。いくひしは、そういうものになりたいのかもしれないのだ。願うばかりで役立たず。いてもいなくとも影響ない。ただただ、あなたの何かのはけ口になれれば、ほんのりとうれしく思うのだ。存在しない存在になりたい。あなただけに感じられる風のような何かに。ひなたのような何かに。影のような冷たさと静けさを宿し、星々のまたたきのようなかすかさを、この身に。



1647:【道は歩くもの、しかし、つくるものでも】

多くの人々にまずは見られるのが先決、そうでないと勝負の舞台にものぼれない、みたいな風潮が分厚く層をなしてきた現代社会であるが、そうした流れによい面もある反面、多くの者たちと繋がり、存在を認められなければ価値が生じない、という流れはなんだかひどく色褪せたものに感じられる(かつてはここに、「多くの人々」だけでなく「権力者からの認知」が加わっていた。いまでもその傾向は残っているが)。そうじゃない流れだってありますよ、との一例を示したい。或いは、示している人を見つけたい。科学の分野にはそういう人達がすくなくないように思えるものの、価値があると認められるには、やはりというべきか、多くの人々の役に立つ研究や発見がなければならない、そういった結果論が大きな流れを構築しているように見受けられる。役に立たないし、なければなくとも構わないけど、みたいなことで、なんとか証明できないかなぁ、と考えているけれど、考えているばかりではどうにもならないのだなぁ。眠ろ。



1648:【手段の一つ】

多くの人々に存在を知ってもらう、というのは目的を達成させるための手段の一つであって、目的そのものではないはずだ。なぜ大勢からの認知が必要かと言えば、本当に必要としているあなたに「それ」を届けたいからだ。「それ」の中身は人によって変わってくるが、ともかくとして、世界に散在する人々のなかから任意のあなたを見つけだす手段がないがゆえに、大勢に広めることで、あなたへと届く確率をすこしでもあげようとするのである。お金を集めたい、賛同者を集めたい、神として崇められたい、そうした動機であっても基本的には同じだ。いくら大勢に存在を知られても、お金をださないひとはださないし、賛同しないひとはしないし、いくら崇められても唯一神にはなれない。ひるがえっては、大勢に存在を知られることでかえって、本当に「それ」を必要としているひとに届かないこともあり得る。手段を優先するがあまり、目的から遠ざかることはあるのだ。たほうで、本当に「それ」を必要としている者は、案外「それ」が何かに気づいていない傾向にある(気づいていればすでに手に入れているか、もしくは手に入れようとしているはずだ。わざわざこちらから届けずとも構わない。親切のつもりで、余計なお世話となるだろう)。同じコミュニティに向けて発信してばかりいては、その気づいていない者に「それ」を届けることはできない。何かを人に届けるというのは、本来交わることのない人と人とを繋げる作業だと呼べる。何かを誰かに届けるためには、橋を渡らねばならない。繋がりのない人へと何かを届けようとするのならば、まずは自分が架け橋にならなくてはならないのだ。届けることの本質とは、橋を渡るひとにあるのではなく、その橋そのものにこそある。多くの人々に存在を知られようとするがあまり、かえってその架け橋を崩してしまい兼ねない懸念については、ときおり考えを煮詰めておくほうが、より好ましい成果に結びつくのではないか。むろん、多くの人々に存在を知ってもらうことそのものが目的ならばこの限りではないのだが。



1649:【利益をあげたいのなら】

キンドルアンリミテッド(アマゾンの電子書籍読み放題サービス)でお金を稼ぎたいひとは、電子書籍化する書籍の目次を最後のページに載せ、表紙のつぎのページ(1ページ目)にはそのリンクを貼っておくといいかもしれない。アンミリでは現状、読まれたページというよりも、開かれたページで換算されるので、たとえじっさいに読まれておらずとも最後のページが開かれれば、読了したものとして利益が配分される(違ってたらすみません)。だから目次を最後のページに載せておけば、読者が1ページ目のリンクを踏めさえすれば、たとえ本文を一文字も読まれずとも、読了されたのと同じだけの利益が手に入る。さらに言えば、目次を読みたくないひとは最初から本文が読めるし、かえってスッキリする。読者側に負担はない。ウィンウィンの関係性が成立する。いくひしはビジネスを目的としていないので実装しないが、出版社や、ビジネスとしてやっている人たちは、目次を最後のページ、1ページ目にはそのリンクを貼る労力を割いてみてはいかがでしょう。(もしくは、「はじめに」としてリンクを貼り、まえがきを最後のページに載せてもいいかもしれませんね)



1650:【売れたら】

もしいくひしがたくさんの人から注目されて、たくさんいくひしのつむいだ虚構が読まれるようになったら、郁菱万としての活動はすぐにでも辞めてしまうと思う。だから、売れたいなー、と思いつつも、売れたくないなー、と願いつつ、しずかにひっそり、好きなときに好きなだけ好きなものをつくっていたいなぁ、と望んでいる。なんて贅沢な自家撞着だろう。これだからかくれんぼはやめられない。オニなんてどこにもいないのにね。





※日々衰えを自覚する、衰えるだけの蓄えがあったのかと驚きながら、まだ底ではなかったか、と目からうろこを落としつつ。



1651:【涙もろい】

さいきん涙もろくなった。あー、そうじゃないのかも。泣いてしまう文章や、物語に触れる機会が増えたのだ。と、いうよりも、人が死んだりする悲しさで泣くことはもうずいぶんなくなったのだけれども、人の優しさだとか、成長だとか、思いが通じあった瞬間だとか、がんばっている姿だとか、そういうのを見せつけられると心が動かされてしまう。汚れたものが目につきやすくなった分だけ、きれいなものへの感度があがっているのかもなぁ、とこれまた汚い考えを浮かべてしまう。そういう相対的な評価ではなく、絶対的なうつくしさがあるのだと信じたいし、そういうものに触れたときにきっと心が大きく揺さぶられるのだ。うつくしいものはうつくしいと感じられるじぶんでありたい。それはそれとして、醜さから滲む、ニュートリノの発する微弱な光のようなうつくしさも見逃さずにいたいとも思う。相も変わらず欲張りだなぁ。



1652:【真似】

いくひしさんの泣き真似しまーす。「うっ、うっ、ひぎ、ひぐ、ずびび、あばー、ずびびずー」



1653:【自信】

いくひしは自信を失くしたことがない。そもそも持ってないからね。持たないものは失くせない。みなさんはどこで自信を手に入れましたか?



1654:【自分なんて信じるに値しない】

自分の感覚や考えが麻痺していたり、歪んでいたりしているかもしれない、と疑えない程度の知性には、何も期待しないほうがいい。もちろんこの意見自体も歪んでいるし、正しくはない。何かを規制したり、反対したり、或いはそうした声そのものに反発したりするのは、それぞれの立場にあった損得があるので、一概にどれが正解とは言えない(或いはどれも正解だと呼べる)。とはいえ、せめて自分の利益のみを追求した声には、もう少し慎重になって接したほうがよいのではないか、と思うしだいだ。これはべつに、自分のことしか考えていない主張は取り合わないほうがいい、という意味ではないし、また、何かを主張するときは、あなたのためだから、と付け加えればよい、という意味でもない。相手がなぜそれを主張しているのか、相手にとってなぜそれが理不尽に映っているのかについて、聞く耳くらいは持ったほうがよろしいのではないですか、という意味だ。だって相手が聞く耳を持ってくれないんだもん、と不満に思うこともあるだろうが、わざわざあなたが下位互換に落ちる必要はない。もちろん、上位互換が必ずしも、下位互換より勝っているわけではないので、そこは互いに意見のすり合わせが必要になってくるのだが。一面的な正論を掲げて相手の主張をやりこめた気になっているようでは、視野が狭くなっていく一方なのではないですか、とこれまた歪んだ見解を述べておく。視野だけならまだしも、身動きまで取れなくなってしまっては元も子もない。あまり自分を信じないほうがよい。自分の可能性であれば少しは信じるに値するかもしれないが。



1655:【吐息】

息を吐くと白くなる季節になりました。家のなかが寒く、ガタガタ震えています。ダウンジャケットを羽織って、ひざにはもふもふの猫みたいなひざ掛けをしています。もう十度ないのかなぁ、と室温計を見たら、十九度もありました。暑いじゃん! これは例年なら風邪を疑ってもよいくらいなのですが、ことしは異常な猛暑でしたから(これからはこれが標準になっていくと予想するものですが)、身体がそういう気候に慣れてしまって、十九度あっても凍えてしまう体質になってしまったのかもしれません。なんてこった! それはそれとして、動いても汗をかかないのはよいですね。自転車でほぼ毎日往復十六キロをキコキコ走っているのですが、汗がにじむだけで済むようになりました。雨が降ってもじめっとしないのがよいですね。すごしやすい気候だと思います。さいきんは脚気ぎみなので、今朝はダイコンを細切りにして、みそとマヨネーズをつけて齧りました。自己暗示かもしれませんが体調がよくなったように感じます。文芸以外のお遊びがちょいちょいサボり気味になってきているので、出力をあげていこうと思います。ぽんぽこりーん! 以上です。



1656:【理解できなくて当然】

デジタルが離散的で断続的であるのに対し、アナログは蓄積的で連続的だ。となると、ニュートン力学に代表される古典物理学はアナログだが、量子力学はデジタルであると呼べそうだ。しかし、デジタルがアナログの変換様式の一つであると仮定すると、離散的で断続的に観測される粒子の挙動も、じつは、未だ観測されていない何かのアナログな現象が、我々にはデジタルとでしか観測できないということになるのではないか。つまり、局所的にしか見られていない、だから、非連続した現象としてしか観測できないのではないか、という妄想である。場が波であることは知られているが、その場はアナログだと言える。しかし、そこに顕現する粒子はデジタルなのだ。デジタルは、アナログから何かをこそぎ落とし、濾過した情報であると呼べる。処理され、こそぎ落とされたアナログの情報は、いったいどこへ消えたのだろう? 場の理論ではまだ何かが足りないように感じるが、こんなずぶの素人の妄想でもそれなりに、知識のない相手を翻弄するには充分なのかもしれない。科学チックな物言いには充分注意されたし。



1657:【眠いときは眠いなりに】

文芸じゃないほうの遊びの出力をあげたら即効で身体が死んだ。本気なんてだすもんじゃない。文芸のほうも毎日3000字のじぶんルールを破ってしまっているので、なんとかしなきゃなぁ、とウンウン言っている。毎日更新ショートショート(https://note.mu/ikubisiman)は100話まで残り30話なので、11月のいまごろに一区切りつく予定だ。それまではツイッターのほうは、不定期になりそうだ。いっぱいいっぱいになってるときほど、ツイッター(https://twitter.com/ant_stand)が癒しになるので、ついつい多めに眺めてしまう。ステキな絵(マンガ)をいつもありがとうございます。毎日更新ショートショートが100話溜まると、おそらく31万字くらいの分量が溜まるので(71話目の現時点で24万字なので、もうすこし多くなるかもしれないが)、三冊に分けて電子書籍化してしまいたい。11月1日にアマゾン電子書籍で無料キャンペーンをやる予定なので、それまでに二冊をさきに新作として電子書籍にしようと考えているものの、めんどくさいなー、と腰が重い。推敲したくないなー。つくりかけの中編や長編が、溜まっているので、ほんといい加減に閉じましょうよ、とうちなるいくひしさんがカンカンというか、堪忍袋の緒がダルダルというか、ちょっと油断すると中身が噴きこぼれてアッチッチみたいになるので、ショートショート100話つくったら、ちょっとだけ本気をだして、サクサクっと閉じてしまおうと思う。思うだけならタダなので。というか、本当に、本当に、ショートショートに飽きてしまっていて、長編つくりたい欲求がパンパンだ。破裂寸前というやつだ。ショートショートの一話一話の分量がだんだんと増えてきているのは、その影響かもしれない。文体もあんまり変化しなくなってきて、読むほうもこりゃ飽きるわなぁ、と申しわけなく思っております。ちなみにショートショートは、曜日によってジャンルが変わる、日替わりで行っているので、100話ということは、ジャンルごとにそれぞれ14話ずつつくることになる。SFならSFで14話、百合なら百合で14話。こう考えるとあんまり多く感じない。ジャンルは、SF、百合、ファンタジィ、BL、ホラー、コメディ、ミステリィの七つだ。SFやミステリィは、長編のネタというか、構造が浮かんでしまうので、文章に変換する以前に、脳内でボツにする数が多く、回を増すごとに手こずるようになってきている。さいていでも1万字くらいないとむつかしい。あとコメディ。めっちゃ苦手。百合とBLは、登場人物二人の関係性をどうするかですこし悩むけれども、思いつけば、あとはかってにキャラクターが動いてくれるので、比較的ラク。おもしろくできているかは別問題であるが。SFとファンタジィはいつもオチに悩む。悩むので、とりあえず方向性だけ決めて、つくっちゃう。オチの候補をつど、何個も考えながら、最適な道を探していく。あみだくじみたいな感じだ。じぶんで横線を引きながら進んでいくので、進めば進むほど辿り着く場所がランダムに変わっていくのが、ふつうのあみだくじとは異なる点だ。とはいえ、最初に引いた縦線から逸脱することは滅多にない。最初に規定したいくつかの縦線のさきには高確率で辿り着くように設計されている。ときおり、紙面の裏や、三次元方向に突き抜けたりするので予断は禁物だ。ホラーはよく解からん。ホラーになってる? なってない? たぶんいちばんいくひしと相性よくないジャンルな気がする。ホラーはむつい。死と血と苦痛の三つを使わずに編めたら、ホラーとして質がよくなる気がする。認知の歪みというか、猫の交尾だと思ってたらじっさいは赤ちゃんが泣いていた(この二つ、声が似てますよね)、みたいな。気づいたときにはときすでに遅し、追い払うために熱湯をかけてしまっていた、みたいな。死と苦痛があるからこれは失敗。飽くまでじぶんルールなので、客観的な評価の指標になるわけではない。疲れたり、眠かったりすると、こうして文章が長くなってしまう。さきを見通すちからが衰えるからだ。オチが見えないので、行きあたるまで掘りつづけてしまう。こういうときは無理矢理オチをつくるにかぎる。冒頭一行目の文章を持ってきて、抽象的に関連した内容を付け足し、二行目の文章で終わる。よし、これでいこう。オチがないので掘りつづけてしまうのもよいが、掘れば掘るほど、腕は疲れる。出力をあげれば即効で身体が死ぬ。衰えているからだ。適度に休むことも修行のうちだ。そうでないと、こんな無駄な、読むに堪えない文章をウダウダと並べるはめになる。穴を掘れば、その分、土が山をつくる。それとも、穴が深ければ、掘った土をそとに運びだせず、いつまでも同じ場所を掘りつづけるはめになるかもしれない。熱中している人間はそのことにすら気づかず、尻尾を追いかけまわす犬じみて、同じ土を掘り返しつづける。周りを見渡し、じぶんの姿を想像できるくらいの余裕があったほうがよい。本気をだしたらその余裕はなくなる。本気なんてだすもんじゃない。



1658:【張り合いがない】

いくひしはじぶんのことが好きじゃないし、どちらかと言えば嫌いだけれども、じぶんがもう一人いればなぁ、とはたまに思うよ。あそこに行きたい、とゆび差してみても、それが視えるひとは限られるのだ。いくひしは、いくひしに視えない先を見据えてるひとが好き。いくひしの見据えてる先が視えてるひとがいたら、そのひととはきっと仲良くできないだろうけれども、一生張り合っていられる気がする。そういう相手のいるひとがうらやましい。でも、たくさんいたらそれはそれでうるさそうだから、一人か二人いるくらいがちょうどよい気もする。いなければいないで、でっちあげていくしかない。孤独な世界にあって張り合いがなければ、じぶんと綱引きをするより術はないのだ。



1659:【井戸の底】

張り合いがないのは、誰もいない場所に立っているからだ。それは高みにいるという意味ではない。井戸の底で独りきりのカエルはきっと張り合いのない日々を過ごしていることだろう。とはいえ、ピンと張った糸がそうであるように、張り合っているあいだは、なかなか思い通りの方向に動けないものだ。張り詰めていない糸のほうが自由に動き回れる。無闇に張り合ったり、意図しないカタチで張り詰めた日々を過ごすくらいなら、張り合いのないほうがよいのかもしれない。



1660:【たいして差はない】

同業者とじぶんを比べるくらいなら、ほかのまったくべつの業界の一流たちと比べたほうが参考になる。業界の内側からそのコミュニティを眺めていると、まるでじぶんとほかの同業者たちのあいだに圧倒的な差があるように感じられるかもしれないが、じっさいは、あなたが思うほどには明瞭とした差はない。どんぐりの背ぇ比べだと言ってしまっても、あながち間違いとは言えない。じぶんにとっては素養のない、ほかの業界を眺めてみればいい。たしかにどの分野の一流も、ひと目ですごいと解かるだろう。しかし、二流、三流との差は判然としないはずだ。と、いうよりも、その二流や三流が、のちに一流となっていくのだ。判別できなくて当然だ。下手をすれば、その成長過程につきまとう、ある種の勢いが、あなたの目には一流よりも魅力的な輝きに映ることもあるかも分からない。素人だからこそ判る魅力はある。そして、その魅力はたいがい、同じコミュニティに内包されている者たちには、欠点に映る傾向にある。評価されないことを嘆くことはない。誰もが全人類から評価されているわけではないのだ。いま評価されている者たちは、たまたま、ごく短期間で、少数の支持者を得ているにすぎない。多くともたかが百万人規模だ。全世界の人口を八十億とすれば、0.0125パーセントに満たない。ひょっとしたら全世界の人々からの評価を平均すれば、あなたの成果物のほうが高く評価されるかもしれないのだ。属性のばらつきやすいSNSという舞台で、評価が高い低い、多い少ない、と気にすることのバカさ加減にそろそろ気づきはじめてもよいころだ。むろん、ビジネスで利用する分にはメリットがある。宣伝に使えるならば使ったほうがよい。ただ、飽くまで広報手段の一つにすぎないはずのそれを、評価の絶対的な指標だと錯覚するのは、せっかく培ってきた自身の可能性をつぶすことになるのではないか、と不安に思うくらいはしてもよいのではないか。あなたには才能がある。無い人間などはいない。おいそれと他人に見抜かれるようなものは才能ではない。あなたにしか見えていないその道のさきに行けるのは、才能という名の切符を持ったあなただけなのだ。道中、足元を照らすのは、けっして赤の他人からの称賛の声ではない。あなたが、あなたの積みあげてきたものを振りかえったときに湧き立つ一縷の喜びだ。どうか、無名であることに惑わされないでほしい。何者でもないことを嘆くことはない。人は誰しも、何者でもない。他者からあのひとはああいうひとだ、と型をつよく当てはめられることを何者かになると呼ぶのであれば、むしろそれは人形であると呼べるだろう。あなたは人形になりたかったのだろうか? 何者かになることの価値はそれほど高くはないように感じる。むろん、否定しているわけではない。なりたいものがあるのならばなればいい。こういうふうにみなから思われたい、という像があるならば、それを目指すのもよい。ただ、どういうふうに見られるかはけっきょくのところ、他者の視点に委ねられる。そんなあやふやな評価を自我の拠り所にするよりかは、じぶんで制御可能な、じぶんがじぶんをどう思うか、のほうを歩むべき道の指針にするほうが、より足取りが確かとなるのではないだろうか。他者から評価されることはわるいことではない。されないよりかは、されるほうが都合がよい。ただし、じぶんの歩みたい道が視えなくなるほどにそれを求めるようになってしまっては意味がないのではないか、とときおり、じぶんに問いかけてみるのもまた、そうわるくはないはずだ。譬えとしては乱暴だが、アブラムシのたくさんたかっている花のほうがよりきれいですよね、と問われて、あなたは素直にうなずくだろうか? 花のうつくしさは、それにまとわりつく昆虫とは関係なく、独立して存在する(より精確には、花とあなたの関係性によって生じるいっときの閃光だ)。たほうで、蝶が舞っていれば、うつくしさが際立つこともあるだろう。ただし、蝶がなくとも花は花として凜と咲いている。花の比喩でしっくりこないのならば、海や山でも構わない。たくさん人の群がる山も素晴らしいが、誰も登ることのできない険しい山だってうつくしい。どちらかが優れているわけではない。人を寄せ付けないうつくしさもあるのだと知っておいて損はない。ほかの山を見渡すのは、それはそれでおもしろい。しかし、そこに群がる人の数を比較しても山のうつくしさを感じたことにはならないだろう。展望することで拓ける景色はある。そのとき見える光景は、そこに群がる人々とは切り離された、あなたの目に映る独立したうつくしさであるはずだ。じぶんのなかにあるうつくしさセンサーを育もう(一つという決まりはない。ときには新たにつくってもいい)。ところで、花が蜜を分泌するのは、虫をおびき寄せ、受粉の道具にするためである(生きるための手段ですらない)。そもそも花はそれほどうつくしくはないのかもしれない。或いは、だからこそよりうつくしいのかも分からない。



※日々、誰かを傷つける、生きているかぎりずっとつづく。



1661:【好奇心】

いくひしさんは好奇心が薄いでござる。興味がない分野が多すぎて、人と会話するだけでも汲々とするでござる。思えば、食べ物の好き嫌いも多いでござるな。こんにゃくがダメでござる。シイタケもダメでござる。というか、キノコ類がダメでござる。海鮮物も基本的に苦手でござるし、お魚は嫌いではないでござるが、食べ方がちたないので、お刺身がよいでござる。お寿司は好きでござる。そもそも好奇心うんぬんの前に、いくひしさんは勉強ができないでござるから、国語算数理科社会がまずもって、へたっぴでござる。得意な科目が何一つないでござる。植物はぜんぶ草でござる。歴史はぜんぶ過去でござるし、1+1がなぜ2になるのかも、じつのところはよく解かっていないでござる。文法は何一つとして理解していないでござる。主語? それ必要ですか? 接続詞? それいりますか? こんな具合でござる。いくひしさんは、だいたい、なんとなーくで生きているでござる。こうしたらこうなるから、じゃあいまはこうしとこう、みたいな場合分けで、すべきこと、や、返すべき言葉、反応などを示すでござる。だから初めてのケースに遭遇すると、とても戸惑ってしまうでござる。好奇心がほしいでござる。もっとちゃんと物事に向きあって、現実を知りたいでござる。なぜ知りたいかと言うと、じょうずに生きたいからでござる。楽しいからではないのでござる。きっとこれは好奇心とは違うでござる。好奇心がほしいでござる。寝るでござる。ところで寝ているあいだのいくひしさんは、いくひしさんと呼べるでござるか? 死んだら人は人でござるか? 死と生の境は、いったいどこにあるでござるか? 生命と物質の境界はどこでござるか? 飲んだ水は、食べたお肉は、どこまでが異物で、どうなったら身体の一部になるでござるか? 空気は? 垢は? 排泄物は? 身体に住み着く細菌は、ウイルスは、どこまでがいくひしで、どこからが外部でござるか。いくひしは世界と乖離しているでござるか? いくひしもまた世界の一部でござるか? いくひしはいくひしを構成する細胞や細菌や空気や電気信号みたいに、世界を構成する何かでござるか? それとも異物でござるか? 異物だとすればいくひしはいくひしで、一つの世界と見做してよいでござるか? 誰か教えてほしいでござる。かといってべつに知らないままでも困らないでござる。知らずにいてもよいでござる。考えるのが楽しいでござる。考える余白が好きでござる。余白は何でできているでござるか? 知識? それとも無知でござるか? 無知ならたくさんあるでござる。いくひしは無知でできているでござる。好奇心がないせいでござる。好奇心はどこに落ちていますか?



1662:【客観性の欠如】

客観性がだいじとか、メタ認知がだいじとか、大意としてそういうことを並べがちないくひしさんだけれども、じゃあじぶんでそれができてるの、と言われちゃうと困ってしまう。しょうじき、いくひしさんは、他人からどう見られているとか、どう思われているとか、そういうことがものすごく解からないひとだ(想像はするけれども、当たっている気がしないですし、相手に訊いてみたところで、そうなんですよー、とは素直に言えないと思うのだ)。なんとなーく、こわがられているのかな、と思うことがちいちゃいころから多かった。じぶんでは感情の乱れのはげしいほうの人間だと思っているのだけれども、端から見るとどうもそうではないらしい。未知の部分が多いので、どう接していいのか解からない、となるひとがすくなくないようだ。まあ、そうだろう。いくひしさんだって、いくひしさんみたいな人間がいたらお近づきになりたいとは思わない。正常な感覚だと思います。



1663:【才能取扱い事業】

いくひしさんは、たびたび「ビジネスを目的にしていない」とか「他人の評価を気にするな」といったことを並び立てている。なぜかというと、せっかくスキルもセンスもあるのに、仕事にしたり、他者の評価を気にしすぎたりして、その分野から去ってしまう人間を数十人単位で見てきたからだ(文芸とはまたべつの分野の話です)。手にしたスキルを仕事にできる人間が極々一部に限られる業界というものがある。世界一の称号を持っていても他者を蹴落とさなければ、職という名の椅子に座れないコミュニティは、それほど珍しいものではない。才能を売りにする業界はどこもこの傾向が顕著だ。足を引っ張りあったりせずに、同業者同士で業界を盛りあげていくほうが結果として、業界が活性化して、仕事も増えるので、同業者同士で協力し合ったりするほうがよい、という意見もある。そのとおりだと思う。しかし、長期的な利を期待し、待っていられないほどに、逼迫した業界では、短期的な視野で利益を追求する者がのしあがっていく傾向にある。貧しい業界ほど、この弱肉強食の原理からは逃れられない。だからといって、他者の足を引っ張ったり、蹴落としたりしていては、ますます貧しくなっていくいっぽうだ。歯止めがきかなくなる。なぜかというと、他者を蹴落とし、なりあがった強者の築く土壌は、殺伐とし、下の世代がなかなか育たなくなっていくからだ。一見するとなかよしこよしに映るが、つねに強者の機嫌を窺い、ときに理不尽な振る舞いを強要され、甘んじて受けざるを得ない状況にたびたび追い込まれる。強者のお気に入りになれれば、ほかの面々を出し抜くカタチでいい思いができるが、その分、強者との関係性は強固となり、より理不尽な目に遭いやすくなる。自分の立場を守るために、自分自身の手で、他者を傷つけることも厭わなくなっていく。問題なのは、強者からの庇護と承認がなければ、自分で考え、行動することができなくなっていく傾向にあることだ。何かをしようと思い、行動してみても、強者の意向に背いていれば、即座に、弱い立場へと追いやられる。強者自らそう指示せずとも、これまでの調教のおかげで、周囲の者たちがかってに、なんだあいつ、という目で見、ときに常識という名の魔法を唱え、排除しようとする。礼儀がなっていない、恩を仇で返すのか、先人を敬う気持ちが足りてない、あの方の顔に泥を塗る気か。言い方は様々だが、要するに、強者を中心とした支配構造を乱すな、と言いたいのだ。異分子がそこにあることを許容できない。異分子を排除できれば強者から一目置かれる。相互監視に、飴と鞭だ。そのコミュニティから出て行ければよいのだが、物理的に同じ場所で活動せざるを得ない場合もでてくる。そうでなくとも同じ業界にはいるのだ。名札を外すだけで済まない。私たちの目の届かないところでやれ、と追い打ちをかけ、見せしめのように劣悪な環境へと追い込まれる。そうなってくると、話はややこしくなってくる。そのコミュニティから脱しても、強者の仕向ける同調圧力から逃れられない。この同調圧力の正体こそ、他者からの評価であり、強者からの庇護と承認だ。弱肉強食という名のビジネスが強者の傲慢を促進し、その権力を肥大化させる。強者以外の者たちは、自身の存在価値の指標を自分以外に求めることで、知らず知らずのうちに、強者やコミュニティの同調圧力に支配されるようになっていく。ひとたび強者からの庇護と承認がなくなってしまえば、あとはもう、業界そのものから足を洗うしかなくなる。同調圧力の及ぶ範囲のそとに脱せられればよいが、なかなかむつかしいのが現実だ。じっさいには、物理的にそのコミュニティから脱しておきながら、その分野そのものからもすっかり身を引いてしまう人間がすくなくなかった。要するに、強者からの承認がなければつづけることができないほどに、心身ともに依存していたのだ。特定の何かをする動機が、自分の内側ではなく、外側にあったことで、強者から突き放された途端に、辞めてしまう(この場合、強者を大多数からの評価と言い換えても成立します)。もちろんそうした生き方もあってよい。いつまでも同じ分野にしがみつき、とり憑かれていることがしあわせだとは限らない。ただし、自分で予定していた引退ではなく、強制的にそうせざるを得なくされたのなら、いささか心残りではあるだろう。いっぽうでは、自分のスキルをビジネスに活用することや、他者からの評価を活力にすることは、可能ならばしたほうが好ましい結果に結びつきやすい。より自由な生活を送れる可能性が広がる。しかし、飽くまで目的は、選択肢の幅を広げることであり、ビジネスや他者からの評価を得ることではないはずだ。不本意な引退をしていった者たちのすくなからずが、一部の特権階級にいいように使われ、疲弊し、気づいたときにはいなくなっていた。これはいくひしの身の回りの、特殊な事例かもしれない。一般化はできない。それでも、いくひしよりスキルがあり、センスのあった者たちがつぎつぎに辞めていくなかで、いくひしだけがこうしてつづけていられるのは、いくひしの目的がじぶんの外ではなく、内にあったからだと踏んでいる(繰り返しになりますが、文芸の話ではないですよ)。あなたの身の回りの環境が快適なら言うことはない。そのまま好きなことを好きなときに好きなだけしていればよい。ただ、もし、好きなことをしようとしてもできない環境があるのなら、そしてその要因が周囲の人間たちの醸しだす漠然とした空気だったのなら、「ビジネス」と「他者からの評価」を絶対視する意見には、慎重に対処したほうが好ましい。働くな、もうけるな、と言っているのではない。お金を稼げるに越したことはない。他者によろこんでもらえたら、それはやはりうれしく思う。ただ、その前にまずは、自分が自分をしあわせにしてあげなくては、と思うのだ。何かを好きだ、と思う気持ちをまずはだいじにしてほしい。嘘偽りのないこれがいくひしの考えであるが(正しいとは限りませんので注意してほしいのですが)、なにを言っているのかいまいちピンとこない、という方が多いかもしれない。そのほうがよい。むしろ、そうした社会を望むものだ。権力を笠に着て、横車を押しとおし、他者を道具のように使う人間の話なぞ、通じないほうが好ましい。そんな生き物がいるんですか、と眉に唾を塗られる日が訪れるのを願うばかりだ。(追記:間違えました。他人を道具のように扱う人間がいてもよいと思います。そういう人もいるという前提で、お互いに不利益を被らないように生きていきましょう、と努められるほうがより目指すべき未来なのかもしれません)



1664:【補足】

上記の補足として。他者を道具のように扱い、自分だけが甘い汁を吸うことになんの躊躇も抱かない人間は、たいがい「金儲けのためじゃない」という言い方をする。次の世代のため、業界のため、お金なんか稼げなくてもいい、夢を叶えたい、そういう物言いをしがちだ。反面、自分はお金をきっちり周囲から集めておきながら、その手助けをした者たちには一銭も払わないことも珍しくない(払っても対価としては見合わない額だ)。いくひしの言う「ビジネスを目的にしていない」は、けっして「お金を稼ぐことは汚い」という意味ではない。お金を稼げるなら稼げるほうがいい。ただ、本心では自利のためなのに、まるでそうではないかのような物言いで周囲の人間たちをこき使い、自分だけいい思いをしているような人間のために働く必要はない、と言いたいのだ(もちろん、それだけではないが)。言い換えればいくひしだって、真実にビジネスをしている相手とはビジネスをしたい。しかし、現状、(これは文芸の話になりますが)ビジネスをしている者を見かけない。労働にはそれに見合った対価が払われるべきだ。提供したリンゴをどう使うのかは、農家の知ったことではない。農家の人間はただ、美味しいと思うリンゴを育て、収穫するのが仕事なのだ(加工品専用にと、味よりも量を優先して栽培する農家もあるでしょうけれども)。食べてみたら思った味じゃなかった、と言って返品するのは、商人のすることではない(買う前に試食するなりなんなりして納得したから契約を結んだのではないですか。思っていたのと違うものが納入された、と不満に思うのであれば、そもそも未完成品を商品として購入するような真似は避けるべきです。ただし、虫食いや腐っていたなど、明らかな瑕疵が商品にあったのならば話は別ですが)。利益にならなければ商売にならないというのであれば、売れた分だけ報酬を払うような仕組みにすればいい。そういうシステムならそれはそれでよいのだ。そういう仕組みをつくり、前以って説明したうえで、契約をする。そこまでしてようやくビジネスと呼べるのではないだろうか。組織に与する商人側も、自分であげた売上くらいは、還元されるような仕組みを求めてもよいのではないか。ビジネスとして以前に、システムとして破たんしているように見受けられるが、いかがだろう。(いかがもなにも、主語が不明瞭で何を言いたいのかさっぱりだ、という意見は妥当です。わざと濁しているので、その解釈で間違ってはおりません)



1665:【ぜんぜん】

おこってないよー。ぜんぜんおこってないからね、変顔しながら打ってるからねこれ、特定の誰かを責めたり、非難しているわけではないので(業界の謎ルールには注意したほうがよいかもね、とは思うけれども)、そこんところモニョモニョー!



1666:【ついでに】

偉そうなことを言ってしまったついでに、印税制度の限界や、編集者の担当作家抱えすぎ問題にも言及したいけれども、いくひしにはなんのメリットもないのでやめておきます。ただ、誤解されたくない(いくひしが、という意味ではなく)ので言っておきますと、出版関係で問題が起きたときは、たいがい編集者が本当の被害者であることが多そうです。出版会社のシステムそのものが問題の根っこにあって、編集者はそもそもがその悪習(形骸化した風習)に苦しめられているだけなのではないか、と常々疑っています。もしいくひしに編集者さんと関わった過去があったとしたら、きっとその編集者さんには感謝しかしていないと思います。むしろ、そのひとを未だに苦しめていそうな業界の謎ルールをこそ、どうにかしてほしいなぁ、と思っているのかもしれません。もしも、の話ですよ。それくらい編集者という仕事はたいへんそうだ、という意味です。いえ、詳しくは知りませんけれども。端から眺めているだけでも応援したくなってしまいます。がんばってほしいです。それはそれとして、業界の謎ルールは、どうにかしたほうがよろしいのでは? との思いは揺るぎません。(いくひし、おまえの性格のほうをこそどうにかしろ、との指摘は正鵠を射っています。ハナマルをあげちゃいたいと思います)



1667:【!!!!】

うっせー! すきだ!!!!!



1668:【ネタギレ】

毎日つくるよーって言ってたショートショートあるでしょ、あれね、77話目にしてついに、あばばー、あばばー、ってなっちゃいました。手が回らない。執筆中のショートショートが四つも溜まってしまって、うおー、となっております。これこれ、まんちゃんや、なんでそんな能力に見合わない真似をしておるのかね。言いたくなっちゃいますよねー。なんででしょうかねぇ。まんちゃんもよくわかんない。ネタはあるんですよ。いくらでも思いつきます。でも、それを物語として、ショートショートとして、編むのが、もうね。能力不足でござるよ。うは。いくひしはなんで分身できんのじゃろ。アメーバだって分身できるよ? なして人間モドキのいくひしさんが分裂できないのって、人間以下のくせに、なしてーって思ってしまうよね。うんって言った? 否定しろ! まあね。人間以下でございますよ。社会生活なんて営めませんよ。常識? しらねぇなぁ。ルール? 破るためにあんのじゃろ? マナー? マナーってあれじゃろ、他人にマナーを押しつけないのが最低限のマナーってやつ。ちがう? ちがうならそれはそれでよいのだけれども、いくひしさんはみんなみたいには生きられんので、それもそれでよいと言って。だめ? だめなの? いいじゃんケチ。なーんて言ってるからいくひしさん、あなたいつも独りなんでしょ、みんなから嫌われて、避けられてるんでしょって、言われたら言い返せないし、かなしいから、きょうはすこし泣いてもいい? だめ? ざっけんなし! 泣かせろや! なーんてきょうもきょうとて、書くことがないので、キレ芸ならぬ、ネタギレをもってオチとさせてくださいな。すっかり秋も更けて、肉まんのおいしい季節でごわす。あったかくして寝るんだぞ。おやすみー。



1669:【たんじゅん】

いくひしは単純なので、がんばってるひとを見ると、おっしゃがんばったろ、と思えてしまう。ありがたいことに、いくひしの好きなひとはみんながんばり屋さんなので、いくひしもがんばろーって思ってしまうけれども、適度に休みたいので、いくひしの好きなひとたちにもぜひ、適度な休みをとってほしいと思っています。身体こわさないでくださいね。ちゃんとスヤスヤおやすみなさいですよ。してください。寝るのだいすき! 夢を見てこそ人生だい! や、じっさい、夢を見ているあいだに記憶が整理されているのではないか、といった研究もされているようですから、人間は寝ているあいだにこそ成長していると言っても言い過ぎではないかもしれませんよ。しらんけど! さいきんホント思うんですけど、あ、話かわるんですけど、いくひしに拡散力というか、有名力というか、他者への影響力があったら、いくひしのこれすきー、ってモノやヒトを、これすきー、ってするだけで、みんなに知ってもらえるのになぁ、って、ときどきもどかしく思うことが増えた。でも、有名力のあるひとが言っただけで、価値が高まるような流れは、いくひしさんが渋面を浮かべることしきりの助になってしまうので、たぶんですけど、いくひしが有名力とか影響力が高くなるようなことがあったら、これすきー、とはだんだん言わなくなっていくのだろうなぁ、となんとなしに妄想しては、とらぬ狸の皮算用、砂上の楼閣に、杞憂だなぁ、とそれっぽい言葉を並べては、語彙力のなさにあたまを抱える日々であった。ご恩返しがしたいなぁ、との思いが日に日に募っていく、いくひしまんでした。



1670:【癖】

いくひしは物語を文章に落としこむときに、頻出しやすい単語がある。「抱く」「覚える」「わかる(解る)(分かる)(判る)」「向く」「見る(見遣る)」「言う」「続ける(つづける)」などだ。動詞が多い。「感情を抱い」たり、「違和感を覚え」たりと、いそがしいキャラクターが多い。あとは、キャラクターの視線の動きを描写してしまいやすい傾向にある。これは狙っているわけではなく、完全なる癖であって、直そう、直そう、と意識しているものの、どうしてもあっちを向いたり、こっちを向いたりさせてしまう。同様に、うつむいたり、目を伏せたり、見上げたり、見下ろしたりと、せわしない。背の高さを示すのにも、見上げる、という形容をしがちだ。キャラクターの見た方向が気になるのはきっと、いくひしがふだんから、どこを見ているかをじぶんで気にしているせいかもしれない。相手の顔を見ないくせに、否、見ないからこそ、じぶんがどこを向いているのかの視点のありかが、キャラクターの心象と密接に関わっているように感じているのかもしれない。この、「感じている」もよくつかう表現だ。「思う」と同様に、頻出しがちだ。小学生の作文かな? とも思ったりするけれども、小学生の作文が稚拙だとはまったく思っていないので、とくに反省はしない。ちなみに、いくひしは人と会話をするときは、相手の声音に集中していることが多い。相手の顔やしぐさを見ていることは稀だ。情報が多すぎて混乱してしまう。いくひしとしゃべる機会がもしあるとしても、いくひしの目があさってのほうを向いているからといって、あなたに興味がないわけではないので、ご寛恕ねがいたい。そもそも耳は顔のよこについている。真剣に聞こうとすれば目を合わせることができないのが道理ではないか、との理屈は的を大きく外しているので、笑って聞き流していただけるとありがたい。以上、いくひし講座でした。



※日々、舐められつづけて、とけていく。



1671:【寒くなると】

なんかさ、寒くなるとひと肌恋しくならん? いくひしはなる。



1672:【かといって】

誰でもいいってわけじゃないし、誰がいいってのもないし、なんだったらもう一人のじぶんと抱きあいたい。でもじぶんのことは好きじゃない。歪んだ自己愛ってやつか。じぶんなら傷つけてもいいだろ、みたいな。自尊心の欠如の延長線上にある感情な気もする。いくひしみたいな人間モドキが触れていいのは、いくひしみたいな人間モドキだけなのだ。神に触れていいのは神だけである、みたいな。ぜんぜんちがうか。真逆か。一周回って、同じかもわからん。



1673:【原発廃止の是非】

久々に人としゃべりました。いくひしより三十は歳がうえの方なのですが、博識で、たびたびいろいろな話を聞かせてくださいます。原発問題の話になり、さらっと意見を窺いました。その方は、原発を即時廃止したほうがよい、とおっしゃっていました。リスクが大きいからだ、という理屈のようです。いくひしは、ふんふん、と聞いておりました。間違ってはいないでしょう、と納得しています。ただ、リスクが大きいのは、原発を即時廃止した場合も同様です。そちらのほうのリスクに関しての視点がごっそり抜け落ちているように感じました。指摘してみたところ、東日本大震災のときは、原発が停止していても問題なかったから、だいじょうぶだろう、とのご意見でした。だとすれば、同じ理屈は現状にもあてはまります。原発が再稼働してもだいじょうぶであるのだから、廃止せずにいてもよいのでは? と思ったのですが、とくに議論がしたかったわけではないので、そちらは言わずにおきました。雑談のなかで交わされる意見においては、結論ありきの理屈に対していくひしは、反論をしないことにしています。相手もとくに聞きたいとは思っていないでしょう。ご自身の意見をしゃべるのが楽しいのであり、新しい視点や情報は求めていないように感じられることが多いです。いくひしのほうで、意見を求められることもありません。また、原発問題に関していくひしは、とくにどうしたほうがよいという意見を持ち合わせておりません(原発問題にかぎりませんが)。むつかしい問題だなぁ、と思っています。詳しくも知りません。ただ、福島第一原発事故から得た教訓があるとすればそれは、原子力発電は危険だ、ということではないだろう、とは思っています。安全だ、安全だ、と再三主張されてきたシステムであっても、想定外の「もしも」が起きた場合には大規模な災害に発展し得る。そのことを念頭に置き、あらゆる危険を前以って想定し、問題が起きた場合のセキュリティをどうするかを議論し、対処を講じておくこと。或いは、リスクを認識し、いざ問題として表面化したときにどうすべきかを決めておくこと。本当に安全なのか、とつねに疑問視し、新たな穴を発見しては、埋めていくこと。そうした姿勢を継続していくことが国のシステム(だけにかぎりませんが重要設備の運用)には欠かせないのだ、ということが浮き彫りになった契機だった、と解釈しています。相手の方は、原発の危険性については考えを煮詰めている反面、代替エネルギィの問題点や、火力発電による地球温暖化現象への懸念については、思考を費やしていないようでした。結論ありきの一面的な考えで何か大きな仕組みの是非を決めてしまうのは、原発事故の起きた要因そのもののプロセスを繰りかえしているだけではないのか、と疑問視してしまいます。地球温暖化現象で海面が上昇し、島が一つなくなろうとしているという話を耳にしたことがあります。そのとき、その責任の矛先を、島の人々はどこにも求めることができません。地球温暖化現象によって気象が不安定になり、毎年のように記録的な自然災害が発生しています。原発事故で住む場所を追われた方々も悲惨ですが、数でいえばそれよりもずっと多くの人々が世界中で、災害に悩まされつづけています。そしてそれら増加傾向にある異常気象に歯止めのかかる予定はありません。果たして、原子力発電を即時廃止し、発電効率のよろしくない火力発電や代替エネルギィを利用しても、だいじょうぶなのでしょうか?(また、太陽光発電や風力発電に使われる素材は、使用済み核燃料と比べて本当に、土壌を汚染しないのでしょうか?) 原発廃止に反対しているわけではありません。廃止できるのならばすればよいのではないか、と考えています。ただ、いますぐすべての設備を廃止にする必要性に迫られているのだろうか、との疑問は拭えません。原発のリスクを考えるのと同じだけの労力をかけて、ほかの発電設備についてのリスクを考えてはいるのでしょうか? リスクを比較し、より安全側を選びながら、さらなる技術の向上によって、より安全なシステムを整えていく。その道程はけっして生易しくはありません。長期的な研究開発が不可欠です。それだけでなく、社会問題の総じては、さまざまな問題が交錯しあい、問題そのものが時間と共に複雑化し、そして深刻さを増していきます。問題の解決策が新たな問題を生じさせるのも世の常です。いまある技術や、仕組みを捨てるのは簡単です。しかし、リスクを比較しながら、使える技術は使いつつ、より新しい社会基盤を形成していくほかに、より安全な進歩の仕方はないのではないでしょうか。本当に原子力発電を即時廃止しても問題はありませんか?(あべこべに、再稼働してもだいじょうぶですか?) いくひしにはむつかしすぎる問題です。結論はなかなかでません。きょうお会いした方と別れたあと、じぶんの考えを伝えてみてもよかったかな、とすこし後悔しました。一人一人が、じぶんで調べ、考え、リスクを比較してみることこそ、福島第一原発事故の教訓を活かすことに繋がるのではないでしょうか。不勉強な我が身をはがゆく感じた一日でございました。



1674:【同じ?】

善人も悪人もけっきょくのところはみな、「ひとの嫌がること」をしているのだ。いくひしは「ひとの嫌がること」はしたくない。善人にも悪人にもなりきれないし、なりたくもない。



1675:【破滅願望?】

何度も使い捨てにされ、ぐちゃぐちゃにされたい欲がたぶん、いくひしにはあって、それに懸命に抗っているのが現状な気がする。流されてはいけない。流されたいがゆえに。ともすれば、誰かを使い捨てにし、ぐちゃぐちゃにすることへの抵抗が薄いのかも分からない。正当化してはいけない。誰より正当化しやすい土壌が整っているがゆえに。



1676:【ちょっとー】

まんちゃんさー、もっと楽しいことつぶやいてよ、目が腐る。



1677:【できそこない】

いくひしは身近な人々からできそこないだと見做されている。認知の歪みではなく、じっさいに、いくひしが言ったことは相手に吟味されることなく、苦い顔をされて流される。でも、いくひしが言ったことと同じことを権威ある人が言っていると、苦い顔をしたひとは真剣な顔つきになって、うんうん、と聞き入るようになる。何が違うのだろう? できそこないのいくひしさんが言うから、きっと言っていることもできそこないのぽんぽこぴーなのだろうな、と思われて、聞く価値がないと流されてしまうのだろうか。きっとそうなのだろうなぁ、と想像している。ちっこいころからずっとそうだったから、もう、どうも思わない。それで損をするのはいくひしではないと学んでいるからだ。いくひしが言っていることが正しい、という意味ではない。ただ、考え方や視点が広がるのは無駄ではないはずで、相手の死角になっている場所がいくひしからはよく見えるので、そこを見落としていると危なくないですか、と指摘するのだけれども、相手にとっては些末なことなのか、まんちゃんはおばかさんねぇ、とあしらわれてしまう。でも、時間が経過すると、その死角からにょきにょき伸びてきた因子が奇禍となって、そのひとの理屈ごと、そのひとの生活まで蝕んでいく。そうなるともう、いくひしにはどうすることもできなくなって、あのときもうすこしつよく言っていればな、と後悔するはめになる。反面、もし時間が巻き戻ったとしても、できそこないのいくひしさんがいくら言ったところで、聞き耳を持ってはくれないだろうし、いくひしさんがぽんぽこぴーなのは事実なので、けっきょく、できたとしても、忠告にも及ばない、細々とした考えを、ちょろちょろと漏らすばかりになるのだ。考えるばかりで益体なし。できそこないのこれが宿命なのだなぁ。



1678:【勢いがない】

ツイッターの勢いがなくなってきている感じがするのはいくひしだけ? 活力がないというか、積極的に発言したり、シェアしたり、みたいな流れがこの二か月でずいぶん穏やかになってきたなぁ、と感じる。ツイッター離れが進んできたのかな、と思いながら眺めているけれど、どうでしょう。



1679:【どうなの?】

人としゃべると疲れる。なんでだろう、とふしぎだったのだけれど、誰としゃべっても疲れるわけではない、と気づいたら、いくつかの傾向が見えてきた。しゃべっていて疲れない相手は、「間違っていること」や「知らないこと」を恥じたり、わるいことだと思ったりしていないのだ。逆に、しゃべっていて疲れる相手の場合は、間違っていることがわるいことだと考えているし、知らないのは恥ずかしいことだと思いこんでいる。だから、絶対に正しいと思っていることしかしゃべらないし、考えたことではなく、知っていることをしゃべりたがる。でも人間誰しも、真理を掴みとっているわけではない。視点が変われば、白も黒く見えるし、時間だって伸び縮みする。いま正しいとされている常識だって百年後には誤った知識としてまかりとおっているかもしれない。というよりも、その確率が非常に高い。ニュートン力学や相対性理論に代表される古典物理学でさえ、最新の量子力学とは矛盾する項目がある。どちらがより正しいのか、真理にちかいのかすら、茫洋としていて掴みどころがない。つまり、どちらもまだ不完全だということだ。間違っている部分があって当然だし、知らないことのある状態が標準だと言っていい。だのに、なぜか自分の考えに自信を持っていて、自分のなかに無知の領域があることを恥ずべき状態だと見做す人がすくなくない。なにより、どんな相手にも自分にはない知識や経験があるのだと、想像し、接することのできない人たちとしゃべるのは、本当に疲れる。高い役職につき、部下をつき従わせる地位にいる人間ほど、自分の意見に穴があることから目を逸らそうとする。やんわり指摘しただけでも機嫌を損ねるので、赤ちゃんをあやすみたいに、そうですねぇ、すごいでちゅねぇ、と甘やかしてあげないことには、まっとうに言葉を交わすこともできない。いい気なものである。いったい彼らは、いくひしを誰だと思っているのだろう。本当に嫌になってしまう。我は無様なり。無知の塊にして、誤謬の権化。何者でもない者である。



1680:【性格が最悪】

「ぼくは他人から舐められるのが嫌いではない。ぼくがその気になった途端に、相手が青ざめ、取り乱し、急に態度を改める様子を眺めるのが嫌いではないのと同じように。調子に乗っている相手の鼻っ柱が折れる音は、何度聞いても小気味よい。いくらでも舐められていたい。頼んでもいないうちから、誰もがかってに舐めてくれる。よほど美味しいのだろう。いったいぼくはどんな味がしますか?」



※日々、自業自得と因果応報。



1681:【世の中の第二十四とかそこらへん原則】

ぜんぜん気にしてないけど、って言うときほどめっちゃ気にしてるの法則~。



1682:【しゅわわせとは】

やあやあ、いくひしさんでござる。三日前から体調が、むぎゅー、となっていたでござるが、いくひしさんには珍しく、はやめにお薬を飲みだしまして、撃沈する前になんとか持ち直したでござる。ほめて、ほめて。やー、思えばこの季節、周期的に体調を崩すでござるな。毎年のように一回は、むぎゅー、となってしまうでござるが、毎年のように忘れてしまうでござる。脂っこいものを食べて、脂肪をつけなきゃでござる。いくひしさんはなんと毎日腹筋を300回はしたいなぁ、と思っているでござる。思っているだけでござる。つんつくてーん。おでんのおいしい季節でござるな。しかしまぁ、なんじゃ、いくひしさんはおでんがそれほどお好きではござらんので、コンビニで買ったことはいちどもないでござる。じぶんでもつくらないでござる。ふろふき大根は好物でござる。甘ダレ田楽味噌をつけて食べると、はふはふ、ほくほく、ほっぺがおちちゃいそうでござる。出汁は薄味がとぅきでござるな。きょうは粉末タイプの甘酒を買ってきてだな、お湯でといて飲んでいるのじゃが、これがまた美味でな、お腹があっという間にちゃぽちゃぽになってしまったでござる。きょうは帰ってくるときに見えた半月がうんとおおきく見えてな、ほへー、と見惚れてしまったでござる。おうちに着いてから見たら、もうずいぶんと上にのぼっていて、一回りちいちゃく見えてしまったりしてだな、べつに萎んでいるわけではないのに、いくひしさんは、ちょぴっとだけ、しょんぼりしてしまったでござる。体調が万全でないので、油断せずに、たくさん寝るでござる。それにしても甘酒、おいしいでござる。ありがたいでござる。おふとんにもぐるでござる。あったかーい。しあわせのひとときでござる。



1683:【自利を守りたいだけでは?】

表現の自由は憲法で保障されているけれども、どんな表現でも商品にして販売していいという規約はないのでは? 多様な価値観の溢れたいまだからこそ、いまいちど表現の扱いについて考えなおしませんか?という意見に反対する理由はとくにないと思うのだけれども(却って、表現の自由度が広がるかもしれない)。表現に関して、規制賛成派も、反対派も、どちらも相手の言い分に耳を傾けなさすぎるように見受けられますが、ツイッターを眺めての所感ですので、この意見もたぶんに歪んでいることでしょう。いまいちど冷静になって、感情をよこちょに置いて、理屈のみを抜きだして、比較検証したほうがよろしいのでは? 表現の自由には暗に、表現のもつ他者への影響力を鑑みたうえで、という前提があるように思うのですが、いかがでしょう。もちろん、臭いものには蓋をの精神では何も解決しないことは論を俟たないのですが。



1684:【カレーと二冊】

カレー美味しい。インスタント。買うのはいつも辛口。好きな作家さんの本買った。うれしい。



1685:【つぎの課題】

いくひしのつむぐ物語に足りない圧倒的な要素に、男キャラの魅力が挙げられる。宝塚を観て勉強するっきゃない(ただ観たいだけ)。



1686:【遺伝子の変異】

これまでの定説では、遺伝子は基本的に不変で、交配によってのみDNAが書き換えられると考えられてきた。この遺伝子不変神話は、もう数十年前から覆ってきている。遺伝子は、従来考えられてきたよりもずっと活発に変異しているのだと解かってきたのだ。ジャンクと呼ばれる非コードDNA領域がある。タンパク質を合成するために必要なDNA領域とはべつに、非コードDNA領域は、ヒトゲノム全体のおよそ98%を占めている(つまり、人体の設計図と思われていたタンパク質を合成する領域は全体の2%しかなかった。ヒトゲノムが解読された、というのはこの2%のことで、じつのところはまだ全貌が掴めていないのが実態だ)。非コードDNA領域にどんな役割があるのかはまだ詳しく解かっていないが、DNAが複製されるときに働くmRNAの転写調整に関する情報ではないかとみられている。このmRNAが転写するときに、DNAがそこに刻まれたヒトゲノムごと改変されることがあるという(全体からすれば非常に局所的な変異ではあるが)。非コードDNA領域にかぎっては、驚くほど頻繁にこの書き換えが生じているようだ。確率の問題として、タンパク質を合成するためのDNAコードが書き換えられてしまうこともあり得る。いわゆるバグなのだが、これが思った以上に、頻繁に起きており、このバグが生殖細胞内で生じると、子孫へと引き継がれる変異として顕現する可能性が高まる。ただし、それら変異が、人体外部からの刺激とどれほど関連しているのかは定かではないため、獲得形質の遺伝が起きるとまでは言えない。遺伝子が(後天的に)変異することが証明されつつある現在であっても、人間が産まれてから得た経験などが遺伝子に反映されるとまでは言えないのだ。繰りかえしになるが、一人の人間が産まれてから死ぬまでのあいだに培われた経験や知識が、遺伝子のバグを生じさせる契機になっているかは定かではなく、仮に関係していたとしても、どんなバグが生じるかが完全にランダムであったならば、獲得形質が遺伝するとは言えない。仮に、任意の外部刺激が、遺伝子へある一定の範囲内でバグの発生を限定するような仕組みが明らかになれば、獲得形質は遺伝するという研究発表がなされるかもしれない。つまり、そうした研究成果が現れれば、犬に襲われたというつよいストレスが遺伝子になんらかの作用を及ぼさせ、その結果、犬を見たら極度にこわがるような防衛反応を示す遺伝子へと変異する可能性が示唆される。もっとも、そこまでピンポイントで外部刺激と遺伝子の変異に密接な相関関係はないだろうと想像するものだが、ある種のストレスに反応しやすい領域は、ヒトゲノムのなかにもあるのではないか、と夢想するものだ。言い換えれば、広義の獲得免疫機構が、人間には遺伝子単位で備わっているのではないか、との疑問を抱いている。(獲得免疫そのものは、T細胞など、人体にも免疫系として備わっています。ただ、遺伝子そのものが、細菌やT細胞などのように、「外部の刺激(ストレスやウイルスなど)」の一部情報をとりこみ、免疫(形質)を強化するような仕組みを有しているのではないか、という想像です)(※科学的根拠のない妄想ですので、真に受けないようにお願いいたします。非コード領域の話も、うろ覚えですのでご注意ください)



1687:【どれくらい】

編集者という仕事がどれくらいたいへんかと申しますと、想像してみてください。最悪、いくひしみたいなへんちくりんを相手取って、売れる作品を書かせるよう、交渉しなければならない様を。仕事の依頼から出版までのサポート、原稿の直しのお願いまで、ほかに担当作家を30人以上抱えている状態で業務を同時進行する様を。ふつうに死にません? いくひしには真似できないし、まっとうな神経では仕事として成立しないと思います(いくひしみたいな超ど級の災害級人格破綻者はクリエイターのなかにもそうそういないとは思いますが)。礼儀やマナーも大事ですが、最低限、作家は締め切りを守りましょう。編集者は編集者で、作家が守れるような締め切りを組みましょう。クリエイター業界は得てして、余裕のある計画・進行を苦手としているように思えます。もっとも、現場のことはまったく知りませんので、これは憶測の、邪推でありますが。また、いくひしさんはすでに「毎日ショートショート更新するぞ!」と決めたじぶんルールを破りまくっておりますから、締め切りを守りましょう、できる計画を組みましょう、と口が裂けてもひとには言えないのでありますけれども、文章なら口を開かずとも並べられるので、ここでは隙を突いて並べてしまおうと思います。並べました。ごべんなだい。



1688:【拘りではなくて】

前にも書いたかもしれないけど、忘れちゃったので、もっかい並べときますね。いくひしさん、自作のキャラの名前がへんてこなのが多いのですが、たとえばさいきん編んだ掌編だと「宮善ノ(ぐうぜんの)八権(はっけん)」とか「マー、ジィ、ヨウ(ま・じ・ょ)」の魔女見習い三人組とか、あとは自作だと、「路坊寺(じぼうじ)清祢(きよね)」「伝森羽(でんしんば)森羅(しんら)」「慈洞範(じどうはん)梅鬼(ばいき)」「丸九内(まるくない)まりも」「隈ノ木(くまのき)胡桃(くるみ)」「江音間(えねま)グラ」「丹久場(にくば)イヴ」「ミヨ・シニガー(死神よ)」「戦々虚(せんせんきょ)右京(うきょう)」「哀緒(あいお)紅(くれない)」などなど、とかく、もじりネイムが多いです。これはべつに拘りがあるわけではなく、たんに憶えられないだけです。固有名詞が壊滅的にダメです。たとえば、武将の名前は、十人も言えません。織田さん、武田さん、伊達さん、徳川さん、足利さん、源さん、平さん、あとあの有名な、あのあの、わらじを懐であっためてた、サルと呼ばれている、うーん、うーん、でてこない! これネタじゃないですからね、いま本当にあの有名な、刀狩りしたひとの名前がでてきません。んで、そもそも武将がなんなのかも解かっていないので、上に挙げた名前はひょっとしたら武将でない人も混じっているかもしれません。地名とか、ヤバいですよ。いくひし、ホント、固有名詞が苦手です。短期記憶だけでなく、長期記憶もダメなので、よくある天才キャラとかではないです。いますよね、固有名詞はダメで、人の名前は憶えられないけど、画像とか体系化した知識なら忘れないって才能の持ち主。そういうのではないです。たんに、ほんと、記憶力がわるいだけ。ざんねんさん。なので、自作のキャラですら、つくっているあいだに忘れてしまいます。ひどいときは寝て起きたら忘れてるので、なんだっけ、なんだっけ、となりながら、なるべく忘れないようなキャラ名にしています。もうさいきんだと、キャラに名前付けるの放棄したりね。地の文から語り部の主語(一人称)を消しちゃったりして。いろいろ、あーだこーだ試しています。中編とかなら、最後までキャラ名を「@」にして、脱稿してからワードの「まとめて置換機能」で書き換えちゃうこともあります。キャラに愛着がないわけではないんですけどね。憶えられません。ただ、ああいうひと、という中身は忘れてないので、作者としては困らないのですけれども。ツーカー、ではないですが、ほらあれあれ、と言ったら、あーあれね、ともうひとりのいくひしさんがうなずいてくれる。もういっそのこと、この世のすべてがいくひしさんだったらいいのにな。独裁者みたいな所感を最後に、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。ではでは、よい夢を。おやすみー!



1689:【二十時間かけて思いだす】

思いだしたー、豊臣秀吉だ!!! 検索せずにかってに出てくるまで待ってた甲斐があった。めっちゃ爽快。



1690:【寝過ごした】

久しぶりに12時間睡眠でした。寝たの夜の3時ごろで、起きたら15時でした。でも長編小説を一本読んだし、その分の情報を咀嚼したと考えれば、充分元はとれている睡眠だと思います。寝るのってけっこう体力いりますよね。本を読むのもかなり疲れる。いくひしさんはこのごろ、漫画を読んでもけっこうな疲れを感じます。たぶんですが、むかしは意識しなかったところを意識するようになったために、無駄な思考を費やしながら読んでいるのだと想像します。情報処理を多重にこなしている状態と言えばそれらしいかもしれません。ただ、あまりにおもちろい物語の場合だと、そうした処理をしようとする意識すら抜け落ちて、ただ物語に没頭します。本当ならその状態がもっとも脳に負荷がかかっている状態のはずなのですが、脳内麻薬がバンバンでていますから、主観的には報酬が満たされ、快感であり、癒しになっているように感じるのでしょう。いくひしは、小説でも漫画でも、なにか物語を摂取した場合、それを咀嚼して、バラバラのデータに分解するまでに時間がかかります。自動でときおり、摂取した物語が断片的に再生され、そのシーンは物語全体でどういう働きをしているのかを、想像します。そのときは必然的に、物語全体をもういちど思いださなくてはならないので、一度畳んだ地図を開くような思考の仕方をします。徐々にその頻度が減少し、物語の断片が浮上しなくなると、咀嚼が完了したようだ、と認識できます。とはいえ、そうしたときはすでに、どんな物語を摂取したのかも意識できないくらいにまで、記憶の底に沈んでいますから、咀嚼したぞ、という実感は湧かないのですが。自作の長編小説を編んでいるときも同様に、咀嚼と展開を繰りかえしている気がします。物語を咀嚼し、断片的な情報の塊として処理するためには、寝るのがいちばんの触媒になっている気がします。寝ないと、いつまでも物語は大きな塊のまま、ただそこにあります。いちど寝ることで、細部が欠け、穴あきチーズのような状態になり、物語にとっての柱だけが残るのかもしれません。まとめますと、寝ると物語は穴あきチーズになり、さらに細かく咀嚼され、断片として記憶される。ときおり浮上するそれら断片を地図を開くように展開すると、もういちど穴あきチーズのような状態で、物語の全体像が現れる。この繰り返しによって、穴あきチーズはどんどん穴を大きくしていき、最後にはもっとも濃い部分だけが柱のように残る。どんな物語構造だったのか、どのようにその物語をおもいしろいと思っていたのかを、そうして成分に分留することができるのかな、と想像します(断片から全体像を展開する癖は、虚構を編むうえですこしだけ有利に働くかな、と考えています)。ただし、抽出された物語成分や物語構造は、飽くまで、じぶんがなぜおもしろいと感じたのか、の主観的なデータですので、物語自体の構造や題材とずれていることには注意していたほうがよいかもしれません。



※日々、理想ばかりが増えていく。



1691:【出力を抑える】

いったんあげた出力を元に戻すのはなかなかむつかしい。潜水艦のなかに水が流れこみ、いそいでハッチを閉めようとしても、押し寄せる水を押しのけるのがむつかしいのと似ている。いっそのこと水が枯渇するまで放水してしまったほうが楽かもしれない。ダムだって、水が溜まっていなければ、壁にかかる負荷はすくない。さいきん、身体に負荷をかけすぎている気がする。いちどあげた出力を抑え込めずに、楽しいからと八割以上のチカラをだそうとしてしまっているのかもしれない。六割でいい。そのほうが客観的に見る分にも洗練されている。音を立てないように動くくらいの意識を配りながら全身のチカラを制御できると好ましい。身体に触れている空気を感じ、動くたびに流れる空気のゆらぎすら感じとれるくらいに意識を散漫とさせていたほうが、よりメリハリのある動きになる。それを集中していると言い換えても矛盾はしないが、チカラの赴くままに暴れるほうが集中力を有する。内側と外側、どちらに意識を向けているのかの違いだ。主観と客観、どちらに重きを置くのかの違いとも呼べる。ひるがえっては、外側を意識するためには、より内側が確固とした芯になっていなければならないのかもしれない。より遠くへチカラを伝えるためには、激しい遠心力にも耐え得る軸がないといけないのと同じように。




1692:【本物と偽物はどちらが上?】

いいと思ったものはいいのだ。本物だろうが偽物だろうが、その対象の属性にかかわらず、いいと思ったら、それはあなたにとってはいいものなのだ。何かを間違ったときは正せばよいが、何かをいいと思う気持ちは正す必要がない。たとえ殺人を、いいなぁ、と思っても、それを咎めることも、矯正することもできないし、すべきではない。ただし、殺人は、常識的、倫理的、社会的に間違っている。法律でそう規定されているし、人類の歴史は、多くの事実と理屈を駆使して、殺人はよくない行為だとの答えを導きだしてきた。いまのところどうやらそれは確からしい、と社会秩序を優先する現代では定説としてまかりとおっている。だからといって、その定説を用いて、あなたの、いいなぁ、と思う気持ちを変えることはできないし、変える道理もない。いいと思ったものはいいのだ。それを行動に移すかどうかは別問題である以上、思うだけならいくらでも、いいなぁ、と感じるものを、いいなぁ、と感じればよい。あなたにとっての、いいなぁ、が増えていけば増えていくほど、あなたの人生は豊かなものとなっていくはずだ。わざわざ、その対象の属性や他者の評価で、あなたの、いいなぁ、をやせ衰えさせずともよい。本物という属性が好き、たくさん評価されているものが好き、そういう基準もあってよい。ただし、本物とは何か、を考えていたほうがより本物を好きになれるだろうし、いつの時点での評価なのか、とさきを見通す習慣をつけていれば、より多く評価されるものを見つけだせるようになるだろう。いずれにせよ、何かをいいなと判断することくらいは、自分の感性を頼るようにしたほうが、より豊潤な、いいね、を抱けるようになるのではないだろうか。



1693:【人間のように泣いたのか?】

森博嗣さん著の小説「人間のように泣いたのか?」を読みました。初めて森博嗣さんに嫉妬したかもしれません。こういう寄せ方もできるのか、と職人の手捌きに惚れ惚れしました。ウォーカロンという人造人間が社会に普及した未来の話で、今作がシリーズ最終作でした。シリーズ通してもっともおもしろい巻だったと思います。もちろん、これまでの積み重ねがあってこそだとは思うのですが、単話として読んだとしてもこのおもしろさは無類な気がします。無類でした。主人公とヒロインの人間関係と、ウォーカロン企業の暗躍、諜報機関(人工知能)同士の攻防、トランスファ(ネット生命体?)というバランサーの介入、それぞれがそれぞれになんともミスマッチに繋がっては、コロコロと物語を転がしていきます。主人公、ハギリ博士は最終的に、人工知能でも演算不可能なイレギュラーな存在として描かれていきます。要約すれば、ハギリ博士を排除することで円滑な未来を構築していこうとする勢力と、イレギュラーな要素こそ保護すべしと博士を援護する勢力のこれは物語なのかな、と咀嚼しきれていない現時点ではそのように解釈しています。また、ハギリ博士がなぜイレギュラーな存在かというと、その周囲の人物たちとの関係によって、つど考え方に矛盾をきたし、それをそのまま放っておこうとする(許容する)姿勢が反映されているようにも思えます。その矛盾は最終的には、ヒロインへの恋愛感情(恋煩い)へと昇華されるわけですが、生殖のできないその社会にあって、人間の本能から離れていくばかりに思えた未来において、究極のところは、人間を人間足らしめるものが、生物学的な本能によってもたらされる自己矛盾なのではないか、と思わせるところに、作者のひねくれ加減が感じられるようです。もちろん錯覚にはちがいないのですが、いっそうおもしろく感じました。物語をエンタメに寄せるかぎり、そもそもを言えば、人間の本能、とりわけ三大欲求を排して読者を満足させるのはむつかしく、エンタメを極めんがために、知的欲求のみならず、性的な要素を、つまり恋愛要素を物語の着地点に持ってくることの潔さに、職人魂を見た気がします。御見それいたしました。まいりました。くやしいです。ふぁっきゅー。



1694:【どれくらい同じ?】

卵子への核移植によって生みだされるクローンはどれくらいオリジナルの素体と遺伝子的に同じなのだろう。一卵性双生児並に同じなのだろうか。とはいえ、一卵性双生児であっても、遺伝子情報(ヒトゲノム)には無視できないレベルでの差異がある(そんなことを言いだしたら、ひとつの人体であっても癌細胞など、細胞ごとに、そこに組み込まれている遺伝子には差異があるのだろうけれど)。まったく同じ遺伝子情報を持った、まさしく分身というレベルでのクローンは、核移植によるクローン作製技術では再現できないのではないだろうか。詳しく知りたいので、もうすこし時間をかけて情報を集めていこうと思います。



1695:【かぼちゃ】

ジャガイモの代わりにカボチャをカレーに入れると美味くないですか? こんばんわ、いくひしです。やー、さいきんはとくになんもないです。じゃあその前は何かあったのかとお気になさっているそこのあなた。なんもなかったです。そう、いくひしさん、年がら年中なんにもなっしんぐ。万年孤独ウェルカムマンにして、万年なんにもなっしんぐまんでもあるのでございますよ。なんもなーい。とくべつなことがなんもなーい。なんもないことをネタにできるくらいに、なんもないです。いっそ、なんもないがありすぎて困ってるっていうね。自慢すんなって? ごめん、ごめん。あーでも、ほんとそー。みんなにも分けてあげたい、このなにもなさ。誰からも認められず、承認されず、ちやほらされず、ちらちらもされず、見向きもされず、どこにも去れず、ただ毎日こうしてここで、なにもない日々とにらみ合っている。いっそそのまま見詰め合って、暗がりで、ラブリーにランデブーなタイムを送りたい。もう何度目かになるか分かりませんがね、ええ、これね、この「いくひ誌。」はね、いくひしさんが人類の滅亡したあとで流してるラジオじみて、いつかきっと見つけてくれるあなたに残す生きた証なのでございますよ。孤独でも生きていけるさ、なんじゃらほい。あんなふうにはなりたくないと思ってもらってもけっこうですとも。反面教師になれたらなれたで、いいじゃないの。何者でもないいくひしさんが、いつかあなたの何かになれたらこんなうれしいことはない。でも、ひょっとしたら、すでに誰かに見つかっていて、こっそり観察されているかも分からない。そんなことってある? 人類滅んじゃったよーって、すっかり諦めて、絶望して、それでもなんとか前向きに逆走しているいくひしさんを、大気圏外からこっそり双眼鏡を覗き見ている宇宙人みたいな人がいるなんて、そんなことってある? ない? ある? ないの!? あるって言ってー、っていうね。ときどきそう思ってないとこんなネットの海の底の片隅で、まいにち駄文をたぶんに並べてなんていられませんからね。やーでも、ホント、このままなにもないままに人生が終わっていくのか、閉じていくのか、いったいいくひしを描いてる作者はなにやってんだか、こんな駄作なんて読みたかないよ、と思いながら、作者の思惑通りに進むのはもっとヤだけどな、と天に向かって唾を吐くいくひしさんは、きょうもきょうとて、なにもない日々を送っていく。なんて贅沢な人生だらう。なにもないっていいじゃんね。何を描いてもいいみたいな白紙みたいな鷹揚さがあるじゃんか。このままなにもない日々がずっとつづけばいいのにな、と思いながら、ある日突然何かがあって、いくひしさんの日々が崩れてしまうのだろうなぁ、と想像してはビビりまくりのヒヨドリちゃん、おふとんにくるまって、身体のどこもはみ出ないようにしながら、おばけなんてないさを歌いつつ、きょうも安らかに寝ようと思ういくひしです。このままずっと寝てたいなぁ。起きてるあいだは、寝たくないなぁ、と思ってるのに薄情なやつだ。現実では益体なしでも、夢のなかでは自由自在。王さま気取りの厚顔無恥な傲慢無地、白紙のごとくいくひしまんの、つれづれなるままに、でした。タイトルでカボチャって並べちゃったけど、本文まったく関係なかった、ついでに言うと、ホットケーキにカボチャ入れたやつも美味しいです。



1696:【欲しけりゃくれてやる】

いくひしはこっそりYOUTUBEに動画を投稿しています。全部でえっといくつだっけ。見てきますね。見てきました。全部で35コの動画をあげています。文芸よりも宣伝していませんし、動画にタグもつけていません。それでも観てくれる方はいるものですね。動画再生数は多い動画で5000ちょい、高評価の数は150とかそんなで、売れないユーチューバーよりも数字は低いのですが、それなりにコツコツ投稿しています。で、さいきんここ二か月ですかね。きゅうにチャンネル登録者数が伸びまして。いま10月で、5月から新しい動画はあげていなかったのですが、それでも10人ぐらい増えました。現時点で50人のチャンネル登録者さんがいらっしゃいます。ありがたいことです。で、なんでかなーと思いまして。だって宣伝してないですし、新しい動画もあげていない。となると、考えられるのは、YOUTUBEのほうで、ユーザーへの導線が新しく整備されたのかな、というのが一つありそうです。ユーザーの視聴した動画を分析して、この人ならこの動画好きやろー、というのが以前にも増して精度が高くなったのかな、ということで。ないですか? いくひしは文芸の世界でも、この検索力の向上を期待しています。この人ならこの物語好きやろー、というのを、WEBサービスでもやってくれないかなぁ、と高みの見物気分で思っています。完全なる他力本願ではありますが、すこしだけ期待しています。これは数年前から考えていたことではありますが。そうなったらいいなぁ、という願望でしかないので、できることはじぶんでしていかなければな、と思っております。宣伝とかセルフブランディングとか、あーだこーだ、めんどっち。げふん、げふん。気づけば「note(https://note.mu/ikubisiman)」のほうでも読んでくださっている方がちょこっとだけ増えてきたかな、という印象があります。以前からお読みくださっていた方も、新しく読みはじめてくださっている方も、本当にありがとうございます。貴重なお時間をちょうだいしてしまい、心苦しい反面、うれしく思っております。やったー。うれしー。たまには謙虚な姿勢も見せておかないと、傲慢さが際立たないので、つつましいいくひしさんにも登場してもらいましたが、もうどっかいきました。いくひしまんのまんは傲慢のまんでござるよ。幸運の女神には前髪しかないとか、チャンスは二度戸を叩かないとか、そんな箴言のたゆたうインターネット上ではありますが、いくひしは思うのであります。俺こそがチャンスだ、と。掴むのはいくひしの役目ではありません。なーんて傲慢さに磨きをかけて、きょうは尻つぼみに、おやすみなさい。



1697:【していません】

お仕事は募集していません。働きたくないです。



1698:【坂道と太もも】

いくひしはじぶんの体調の変化を正確に把握できないので、ときどき赤信号に気づかずにそのままぐったりモードに入ってしまうことがあります。よくない、よくない。なので、目安として、坂道をのぼるときの疲れ具合でその日の体調をはかります。自転車を押して上り坂をのぼるわけですが、じんわり汗を掻いたり、はぁはぁ、息があがったり、立ち止まりたくなったら、その日はお疲れ気味と判断します。あとは太ももの感じが、細くなっている気がするときは、たいがい、体力が落ちているときです。張っている感じがあるくらいのほうが疲れないようです。油分の多い食べ物を食べると回復するので、そういうときは意識して摂るようにしています。あとはなんじゃろ。基本、目覚めがわるいので、眠い、眠くないは、あまり基準としては活かせないです。なんだったら、ちょっと退屈したり、興味ないことを我慢するだけでも眠くなるので、これは体調とは関係ないな、と切り捨てています。あと、読書! 目が滑るときはもうこれ、完全に思考力がダメになっているときです。でもダメになっているときのほうがおもしろい文章を並べたりしているので、いちがいにダメだなぁ、とはならないです。本が読めないくらい脳みそが疲れているときのほうが、ぶっとんだ物語を編んでいたりするので、個人的には、朦朧としながら、何を並べているのかも定かではない状態で、なんとなーく、つくっているときのほうが、絶好調と言えそうです。と、いうよりも、何をつくるのかが明確なときほど、それって物語にする必要ある?となってしまいます。何をつくりたいのか、が明確なら、そもそも物語にする必要はなく、文章にして、言いたいことを言ってしまったほうがよくないですか? 同じ理由で、プロットに落としこめるような物語はつくりたくなくなってしまいます。いくひしがプロの小説家になれない要因の一つだと思います。プロはきっと、最初から建築みたいに設計図に落としこんでからつくっているのだろうな、と想像します。プロですから、発注元からの要望も、ボツの指示ですら従っていることでしょう。プロですから。いくひしはそういうつくり方ができません。プロはたいへんです。見習えるものなら見習いたいのですが、そう簡単に見習えたら苦労はないのです。いくひしは一生アマチュアがいいなぁ。自転車を押して坂道をのぼるとき、じぶんの住まう街並みをうえから眺めながら、そんなことを考える、いくひしまんでした。



1699:【雨とセーター】

きょうは帰りに雨が降っていました。いくひしさんは自転車に乗っておりますから、傘を差せません。いちおう、夜に雨が降るよーって予報を見ていたので、合羽をリュックにぎゅっぎゅっと詰め込んでおりましたが、えーい、このくらいの小雨に怖気づくとはなにごとぞ、とばかりにそのまま突っ切っていくことにしました。で、いくひしさん、きょうはセーターを着ておりまして。こりゃ家に着くころにはびしゃびしゃかなぁ、と覚悟を決めておったのですが、三毛猫の逆上がり、なんとセーターは水を弾くではありませんか。やー、まさに机から青狸。思えば、そもそもセーターの元はヤギやらなんやらの体毛でござって、そりゃ雨風につよくなくてはやっていけんでしょう。なんてちっこい発見にわーい、と思いながら家に着いてセーターを干して、洗濯機をまわし、オムソバをつくってたいらげて、洗濯物を干し、未完成のショートショートとにらめっこし、そういえばきょうは絶不調だったなぁ、と数時間前のじぶんを省みて、こういう日もあるさと慰めて、どんどんそんな日が多くなっていくんだろうなって悲観して、人生の成功とは?と哲学して、あっという間に日付けが変わって、きょうの「いくひ誌。」を更新してなかったと思いだし、なんでこんなものをまいにち並べてるのか分からなくなり、来年からすこしやめようと思いつつ、楽しいことだけしていたいなと漠然と考えては、楽しいことはまいにちちょっとずつ変わっていくのだなぁ、とちっこい発見に、そうな、そうな、とうなづいて、きょうのいくひしは、あしたがんばればいいや、と思って、現実逃避にいそしむのであった。



1700:【あっぷあっぷ】

毎日連載ショートショートがついに93話目に入りました。さいきんでは一話さいていでも3000文字というのがふつうになってきてしまい、いくひしの日の上限を超えることが多くなってきて、あっぷあっぷしています。きょうは1時半に起きてまず8400文字を並べました(それからまた寝ましたが)。つくりかけのものが5つあるので、きょうはきのうとおとといの分を閉じてしまおうと思います。あと6000文字を並べれば、終わるかな、と見積もっています。だいたい1時間半あれば終わる予定ですが、合間、合間に休憩を入れると思いますので、トータルでは4時間はかかるかな、と思います。まずは100話までとはじめた毎日更新ショートショートですが、あと残り7日、今週で終わりそうです。いったん飽きたのですが、いまはまたちょっと楽しくなってきたので、ざんねんですが、そろそろつくりかけの中編を閉じてしまいたい時期なので、100話をひとつの区切りにしたいと思います。現在、93話目にして34万字の分量が溜まっています。すでに63話までは電子書籍化してあります。じつはまだきちんと推敲をしていないので、誤字脱字が溢れているはずです。将来的には、こうした不完全な原稿のほうが価値がでると考えていますから、電子書籍版のほうは随時推敲した時点で更新していきますが、noteのほうではそのままにしておこうと思います。きのうはついついこの「いくひ誌。」を更新するのを忘れてしまったので、きょうの分はまた夜に更新しようと思います。ノルマを破ってしまっているので、なんとか持ち直したいとあっぷあっぷしております。日に3万字くらいならなんとかつむげますが、その反動がどこかにきますから、なるべくその10分の1、3000文字を目安に物語をつむいでいきたいと思います。それでも年間、109万文字以上をつむげる計算になります。10万字の長編なら10作つくれる分量です。きっとプロはこの倍はつくっているはずです。ということは、世の商業作家は、つくった小説のほとんどがボツになっていることになります。せちがらい世の中ですね。もったいないことです。これは皮肉ではなく、本当にそう思っています。いくひしがプロになりたくない理由の1つです。さいきんのいくひしさんは、プロになりたくない、なりたくない、言いすぎかと思いますが、こうでも言っておかないと業界の方々に無駄な時間をとらせてしまうことがあるかも分かりません。ときどきは、強調しておいてお互いに損はないように思います。いくひしはプロにはなりたくありません。(なれないだけだろ、とのご意見、まことに正鵠を射っていると思います。とくに反論はございません)


※日々、理想と現実の差異に目をつむる。



1701:【予定が狂うのはいつも通り】

朝にきょうは6000文字つむいで、ショートショートふたつ閉じるよーって並べたんですけど、けっきょくまだひと文字もつむいでないっていうね。よくある、よくあるー。さいきん、また動画を撮り溜めてまして、ちょっと意識がそっちにいっちゃってる感じがありますが、言いわけですか? 言いわけです。いくひしさん、偉そうなこと言ってばっかで、実力が伴ってないので、ホント言うこと真に受けちゃダメですよ。眼高手低とはいくひしさんのためにある言葉だと言っても言い過ぎではないのだ(すでに言いすぎていて、信用のない文章の典型)。でも思うんですよね。眼高手低ってそんなにわるくなくない?って(話をそれとなくそらすのが上手な典型)。けっきょく、目が肥えていて、それに技術が追いついてないって、目標がよく見えてるってことじゃないですか。で。なんで眼高手低がよくないかって言うと、自分が下手だってよく解かってしまうから、ではなくて、その結果に、成果物を仕上げなくなってしまうからだと思うわけですよ。つまりですね、ちゃんと理想と現実のギャップを見詰めて、手を止めなければ、歩みを止めなければ、眼高手低ってまたとない長所だと思うわけですよ。きっと多くの人は、自分の理想と現実の差異がぴろーんってなってるって判かっちゃうと、耐えきれずにやめちゃうんでしょうね。やめなきゃよくない? やめなきゃ、眼高手低って要するに、上達するための道が誰よりしっかり見えてるってことじゃない? いいことじゃん! なんて思いながら、じぶんの実力のなさを誤魔化すのがたいへんお上手ないくひしまんでした。



1702:【どろん葉】

帰り道に写真屋さんのネオン板(宣伝文や映像を映す画面)に目が留まった。ドローン空撮承ります、とあったからだ。なるほどいまはそういう時代なのだな、と想像の幅が広がった。というのも、こじんまりとした写真屋さんでありながら、外観からするともうずいぶんむかしからそこで店を営みつづけているように見受けられたからだ。周辺の小中学校や高校にて、学校行事の撮影隊として依頼が入ることは想像にかたくなかった。とはいえ、いまはもう個人情報保護の名目でアルバム自体が廃れてきているのではないか。写真もデジタルで、わざわざ現像したりプリントアウトすることを主な収入源にはできないはずだ。撮ることに特化しないことには写真屋としては成り立たない時代なのではないか、とふしぎに思っていた。結婚写真やお見合い写真など、記念品としての写真を撮るにしても、いまはもう各家庭のデジカメやメディア端末のカメラで済ましてしまうのではないか。言い換えれば、記念品といっても、身内で楽しむ以外に用途はなくなってきているのではないかとの見立てが成り立ちそうだ。そこへきて、ドローンによる空撮という手法はなるほど、これは需要がありそうだ。学校行事であっても、空撮であれば校舎と共に全校生徒を撮ることも可能だ。人文字を撮りたいという希求は、学校だけでなく会社からも多いのではないか。地域のイベントにしてもそうだ。祭りやマラソン大会、野外ライブやコンサートでもドローンによる空撮は、なかなか素人では手が出せない。いちど撮れば、次回からはそれをフライヤーとして宣伝に活かせる。また、空撮のついでに地上での一般的な撮影も任せてもらえるだろう。やはりせっかく依頼したのだから、プロの撮影技術がどのようなものか気になるところだ。空撮をサービスの目玉とすることで、現場へ呼んでもらいやすくなる。現場に呼ばれることが仕事の受注増加に直結するわけではないだろう。ドローンの空撮だけでは、収入源としては心もとない。しかし、仕事の受注を増やすよりもまずは現場に呼ばれるようになることが、写真屋にとっては今後、ますます欠かせない事項となっていくのではないか。と、ここまで想像の翼を広げたところで、信号機が青になった。赤信号のあいだに考えたこうしたどうでもよい妄想が、その後、ときおり、ほかの記憶と繋がって、虚構の養分となっていく。きょうはほかにも、雨に濡れた落ち葉は風で飛び散らないために、道路一面を覆うようになり、反面、渇いているときは、路肩に溜まり、人の歩く場所や車道は、そこだけ消しゴムをかけたようにきれいになっているのだとの気づきがあった。だからといってこんな洞察はなんの役にも立たない。が、やはりこうしたどうでもよいことが積もりに積もって、のちのちになんらかの表現や発想として昇華されるのではないか、と期待するものだが、期待した時点で、それはもう使い物にならない。いちど忘却し、腐らせる、という過程が、アイディアの土壌には必要な過程であるらしい。使えると思って、特別なフォルダに仕舞い、いつでも引き出せるようにしているものほど、使い勝手がわるいのは皮肉である。そこは落葉と同じなのかもしれない。落ち葉はいちど腐り、土とならないことには、つぎなる命を芽吹かせることはできないのだ。衰え、腐ることは、消えることとイコールではない。気長に待つ度量を築いていきたいものである。或いは、土壌をこそ。



1703:【同じ土俵にあがる必要はない】

相手に舐められているとき、不当に評価されているとき、雑に扱われているとき、そうしたときに相手を見返そうとして、相手よりも優れていることを証明しようと躍起になるのは割と見受けられる人間の性質だ。べつにわるいことではない。能力の差をはっきりと示し、優劣を明らかにするのは秩序を形成するうえでは優位に働く。しかしだからといって、相手を蹴落とせる地位にのぼり、優位な立場を誇示することに終始しては、ただ相手と立場を入れ替わっただけであり、そもそもの問題は解決されていないどころか、そうした迫害や弾圧の流れに拍車をかけるだけではないのか、と思うのだが、いかがだろう。差別を根絶したいと言いながら、ただただじぶんが差別をする側に回りたいとの欲求を直視できていない者は現代であってもそう少なくはないように感じられる。能力があってもなくとも、とどのつまりは同じ人なのだ。視点を広げれば、世に万能な人間などはいない。ある分野で秀でていても、ほかの分野では素人同然、或いはまったく素養がないなんてことも有り触れている。たった一つの分野で能力が高いからといって、その者それ自体が優れているわけではないのだ。言い換えれば、誰もが何らかの能力を有し、誰かにとってのお手本となる。人はただそれだけで尊ぶに値する(或いは、誰もが同様に無価値だ、とも呼べる)。偏見によって相手を下に見たり、蔑視したりするのと同じレベルで、局所的な能力の多寡で相手との優劣を決めようとする姿勢もまた、差別の根幹をなしていると思うのだが、そうは言っても、世のなかには歴然とした事実として、称賛されやすい能力とそうでない能力がある。世の人々からより称賛される能力であればあるほど、そして他人をより出し抜ける能力を有している者ほど、現代社会では優れた人間としての評価を受ける傾向にある。だからこそ、そうした注目を集める高い能力を有している者ほど、他人を蹂躙できる立場にあったとしてもその権力を行使しない自制心が必要となっていくのではないだろうか。つまり、能力がある者ほど、他人を能力の多寡で計ろうとはしない考え方にもとづいて行動していくほうが、差別のすくない世の中になっていくのではないかと考えられる。能ある鷹は爪を隠すと言うが、真実に能がある鷹はきっと、誰より目がよく、虫一匹にも全力で狩りをする。どれほどちいさな生き物でも、鷹にとっては自身の生命を脅かす敵であり、同時に自身の命を構成する糧そのものなのだ。どんな相手からでも学べることは多くある。敵と定め、糧としていこう。(物騒な結論になってしまった)



1704:【仮眠】

あー、なんもしたくなーい。きょうはもうサボるー。って思ってから仮眠をとると、一日寝たくらいに気分がリセットされる。たった五分でもそうだけども、寝過ごしてうひゃーってなっちゃうこともあるから気をつけなくちゃだ。



1705:【欲の塊】

いくひしはたいへんにスケベぇなのだけれども、スケベぇではない、みたいに見られるのは何? そりゃーえぇ、スケベぇですとも。年齢イコールなんじゃらほいでござるけれども。えぇ。



1706:【仮初の仮初】

経験上、味方から学べることよりも敵から学べることのほうが有意義である可能性が高い。味方から学ぶのは、師匠から学ぶことと方向性は同じだ。しかし、師匠を越えたければ、師匠からのみ学んでいてはアキレスと亀ではないが、一生追い抜くことは適わない(例外はあるだろう。たとえば師匠が突然亡くなるなど)。いっぽう、敵の場合は、基本的に相手はじぶんにはないものばかりを持っているから、学べるもので溢れている。とり放題だと言っていい。敵とはすなわち、自身にとっての脅威となるものだ。セキュリティ部門でも、その分野の発展にクラッカー(いわゆるハッカー)の存在は不可欠だ。生物の免疫系にしてもそうだ。ウイルスなどの外敵への抗体をつくるごとに、生物はより柔軟なセキュリティ機構を構築していく。言い換えれば、進化とは環境への適応であり、脅威への対応だと言ってもそうそう的を外してはいないだろう。じぶんの長所は生きつづけていればかってに磨かれていく。長所を磨くことばかりでなく、可能であるならば、じぶんにないものをより多く取り込もうとする姿勢が、より確固とした自我を育んでいくのではないだろうか。もっとも、こんなことを言っている張本人のいくひしさんは、好き嫌いの激しい性格の持ち主である。だからこそこんなに日々、あやふやな人格になってしまっているのだろう。確固とした自我がない。何者でもない者、それがいくひしという仮初の仮初なのである。



1707:【ぷぷ】

確固とした自我がないとかゆうてますけどあんさん、キャラの書き分け三つくらいしかないんとちゃいます。



1708:【かんきゅう】

ゆっくりやる期間をつくって慣れてきたら、こんどは速くする期間をつくる。でもずっと速いのばかりやっていると段々雑になっていくから、新しいことをしはじめたらまたゆっくりの期間に戻るのがよい。で、このゆっくりと速くの切り替えに慣れてくると、一日のなかでもそういう切り替えができるようになってくる。徐々に、自在に切り替えられるようになってきたら、それがきっと上達して結果に現れるのだと思う。緩急を体得するには、まずはゆっくりだけ、速くだけ、をできるようになるのが遠回りなようで、いちばん堅実な近道な気がする。



1709:【起伏】

小説をつくるときに意識していることの一つにリズム感がある。これは言葉の響きもそうだけれども、どちらかというと情報量の濃淡のほうをつよく意識している。一つの文章の持つ情報密度を、ゆるめたり、詰めたりして、言葉の陰影にリズムをつける。小説は緩急というよりもこの陰影、起伏のほうが、読み進めやすさにつながっている気がする。



1710:【重複】

抽象化にもいくつか種類がある。なかでもいくひしが重宝しているのは、抽象の重ねあわせだ。色をいくつか混ぜ合わせることで色相を整えるように、光を複数重ねあわせることで色味を変えるように、一つの抽象表現だけでは漠然としすぎていてわからないときには、またべつの抽象表現を重ねて、表現したい対象をしぼると伝わりやすくなる。それは目が二つあることで立体感を生むのと似た原理だ(このように比喩を付け加えると解かりやすくなるのも、一つの抽象表現の重ねあわせ効果である)。言い換えれば、具体的にこれです、と示さずとも、抽象表現を重ねあわせることで具体的な叙述にちかづけることができる。ある意味で、具体性と抽象性は、原子と物質の関係に似ている。たったひとつの粒をみせ、これです、と言えば具体的だが、それら似たような粒がより集まったものをみせ、これです、と言えば抽象的になる。だが、それら抽象的な物質もまた、それを一つの単位として、鉄や椅子や人間といった具体的なものへと昇華される。視点の繰りこみとも呼べるこの性質は、具体的なものであるほど変化がなく、抽象的なものほど具体化されていくという性質がある。あなたの座る赤い椅子は具体的だ。そこに、去年買った、と付け加えても具体性が増すだけで、抽象化へ転移することはない。いっぽうで、猫は丸い、といった抽象表現は、眠る猫は丸い、とすることで具体的な表現へとちかづく(眠る、もどちらかと言えば抽象表現だろう。或いは、眠るとちぢむ、といった一見意味不明な抽象表現を付け加えても、猫は丸い、という文章の具体性はあがる)。ある意味で、具体と抽象は同じものだ。ただ、どの視点で見ているかの違いがあるだけで、距離の異なる抽象表現を組み合わせることで、焦点を結んだレンズのように、より微細な具体表現へとちかづけることができる。さながら顕微鏡のように。あべこべに、具体的な表現をまったく関係のない対象へ結びつけることで抽象化することもできる。比喩などはその典型だ。これはさながら天体望遠鏡と言えそうだ。地上の雑多な固有名詞を、宇宙の彼方の星々に関連付け、星座だ、銀河だと認識の幅を広げる。抽象化されたそうした星座や銀河もまた、べつの視点では一つの具体的な像として扱われるようになる。そういう意味では、抽象はつねに未来にしかなく、具体とは形骸化した未来――現実だと呼べそうだ。



※日々、どう生きるかではなく、いかに死ぬかを考える、訪れる死ではなく、迎え入れる死でありたい。



1711:【お気にのマンガ】

ヤマシタトモコさんの漫画「違国日記」3巻を読みました。巻を増すごとにどんどんキャラへの愛着が増していきます。基本的にはみな癖のあるキャラでありながら根はいいひとというか、無害な方々ばかりのなかで、ときおり不穏な気配がゆらぎのようにまじって感じられます。前回の感想でも述べたかもしれませんが、ここまで繊細に人間の機微を描いている作家さんは、小説や映画、アニメを加えてもそうそういないと思います。二重三重に、場面場面のキャラクターの心情が、その後の行動に影響を与えていて、それは足し算のような積み重ねではなく、ピンボールのような、ちぐはぐさを辿りながら、それでも一連の流れに違和感がない。場面によって線を描き、心理描写を点として、つぎなる線への布石にしている。これはなかなかできるものではありません。なにより、コマとコマ、話と話のあいだの行間のリズムが従来のマンガや小説が異次元に感じられるほど大胆で、ふつうは描いたり、伏線を入れたりする場面を敢えて削り、人物の関係性やこころの動きに焦点を当てているのが、非常にたくみだな、と感じました。小説よりも深く、人間の繊細な機微を描きながら、漫画でなければできない表現でそれを実現しているのは、本当にすごいとしか言いようがありません。寝込んでしまうくらいにおもしろく突き刺さった物語でした。次巻も楽しみです。



1712:【力量不足】

やーやー、いくひしさんだ。8月からはじめた毎日更新ショートショート(https://note.mu/ikubisiman)が100話目に入ったのでな、いったんこれにて一区切りとさせていただくでござる。とはいえ、100話プラスちょこちょこほかの記事も載せて、全体ビューはこの時点で2467だ(スキの数は全記事あわせて266でござる)。平均すれば一話24回ページを開かれたことになるのだが、うち10ページくらいはおそらく編集するときに開くことになるじぶんのPVが加算されているので、一話あたり14回くらいが平均ビューということになると思うでござる。いくひしの経験上、PVは100あってようやく一人が全文を読むくらいの確率かな、といった感覚があるでござるから、ページだけ開かれていっさい読まれていない、というのが大半かな、といった見方をしているでござる。掲載元のnoteでは、なんか、記事を読まずにスキだけ押してばいちゃする方もすくなくないので(レビューゼロなのにスキがカウントされていることがある。四時間ごとに集計が行われるでござるが、半日経過してもビューがゼロのままスキが1というのもあるでござる)、あんまりスキの数に意味はないなぁ、と感じているでござる。みなさん注目されたくて必死なのでござるな。そういった努力を否定する気はないでござる。みな健全でござる。いくひしがダメなだけでござる。でもいくひしは、ちゃんと文章に目を走らせて、すきぃ、と思った記事にしかスキは押せないでござる。お返しのスキを押せずに、申しわけないでござる(おそらくは挨拶を返さない、みたいな受け取り方をされる傾向にある気がするでござる)。ちなみに、毎日ショートショート更新するよー、楽勝だよー、なんて思っていたいくひしさんでござったが、いやはや、蓋を開けてみたら、閉じきれずに「執筆中」の物語が、えっとー、いくつだ。数えてくるでござるね。数えたでござる。8話もあったでござる。やー、これにはいくひしさんも、じぶんでじぶんに失望でござる。ぜんぜんスキル足りてないですやん、口だけですやん、なってしまったでござる。基本、いくひしさんは日の打鍵上限が3000字なので、3000字以上のショートショートになってしまうと、その分、つぎの日の物語を3000字以下でつくらなくては、予定が狂ってしまうのでござるが、んなぁー、けっきょく最後のほうはどれも5000字以上、10000字越えも珍しくなくなってしまい、完全にお手上げ状態になってしまったでござる。言いわけでござるな。じぶんの力量を下方修正するでござる。未完成のショートショート8つのうちの2つは20000字を超しそうな塩梅で、今月中にはすべてのショートショートを閉じてしまいたいでござる。並行して、noteのほうでは新しく中編を連載していくでござる。読んでくださった方、貴重なお時間と想像力を注いでいただき、ありがとうございます。いただいた時間に値する虚構を編めるように、これからも「ここにしかない物語」を目指して、つくっていきたいと思います。で、ござる。んなぁー。



1713:【運がいい】

きょうはツイッターに動画を投稿してみようと思って、動画をMP4に変換したり、動画のどこを抜きだそうかと選んだりしてたら、けっきょく何度やっても動画がツイートできずに、諦めました。でも思えば、試験的にどうなるかなーと思ってやってみようとしたけれども、ツイートしなくてよかったな、とあとで思いました。ときには「らしくないこと」をやったほうがいいかな、と思ってやってみようとしたのですが、挑戦というのは必ずしも、「らしくないこと」である必要はないのかな、と考えを改めました。要するに、やりたくないことはやらずによろしい。どうしてもやらなきゃいけないなら、対価を払って、ほかのひとに頼めばよろしいのではないでしょうか。対価がないなら、つくるほかなく、そのためには働かなくてはならず、けっきょくのところ、やりたくないことを誰かに肩代わりしてもらうために、ひとは働くものなのでしょう。社会の基盤は、責任のなすりつけあい、でできていると言えそうです(視点の問題なので、そうでない考え方もできますが)。ところで、みなさんは、Tumblrをご存じですか。いくひしはいまもまだよくわかっておりませんが、ブログとツイッターがいっしょくたになったSNSみたいです。いくひしもはじめてみました。とりあえず、YOUTUBEにあげている動画を厳選して載せていく場所にしてみます。なので、YOUTUBEのほうには、こんご、よりごのみせずに、動画置場として、クラウド代わりに、どんどん動画を載せていこうと思います。かといってこちらの物書きのいくひしさんにはなんの影響もありませんし、読者さんにも無関係なのですが、書くことない日だったので、こんなことを並べてみました。らしくなかったですか? なにごとも挑戦です。言い換えれば、なんでも挑戦とつければ、挑戦になるのです。挑戦ではない行動ってなにかありますか? 日々は挑戦の連続でできているものではないのでしょうか。生きることそのものが、挑戦です。どんなものでも挑戦になるのですから、好きな挑戦を選べばよいのではないでしょうか。諦めたり、つづけていたことをキッパリやめてしまうこともまた、挑戦なのです。(選択したあとで、目標をさいど設定し直せば、より説得力のある挑戦になりそうですね)



1714:【ぐっすり】

夕方から出かけようと思って、その前に一時間だけ仮眠を、と思ってよこになったら起きたら零時二十分前でした。六時間って。六時間の仮眠って。寝不足とかじゃないです。ちゃんと昨日とかぐっすりすやすや八時間くらい寝ました、夜の九時に寝て、朝の五時に起きました。なんでやー。というかさいきんやたら眠くないですか? いくひしは眠いです。秋だから? 秋だからなの? というか人間、十二時間も起きてたら眠くなりません? なんでみんなそんな元気なの。信じらんない。どう考えても八時間労働とか理に適ってないですし、人間、一日四時間も働けばもう充分というか、四時間が限度な気がします。ちょっと先週くらいから生活習慣が崩れてきているので、ここらへんで、えいや、と気合いを入れて修正していきたいところなのですけれども、気合いを入れなきゃならない時点で、生活習慣のほうを見直したほうがよいのかもしれません。身体に負担をかけないようにしましょう。します。言い換えれば、だらだらした生活を悔い改めよ、ということですよ、いいですか、いくひしさん。あい! たいへんよいお返事をいただきましたので、これにてきょうの「いくひ誌。」とさせてください。と思ったけど、なんか短いな。さいきんの悩みとか並べておこう。さいきんはいくひしさん、アイポッドシャッフルの充電ケーブルが千切れそうで、アイチューンともなかなか同期してくれなくて困ってます。平和な悩みだなー、って思った? 死活問題や! いくひしさんから音楽とったら、おそとにでられないからな。音楽でお耳を塞いでないといくひしさん、おそとにでられないからな。アイポッドシャッフルはもうダメかもしんない。お気にの曲が多すぎて、端末二機を使い分けているほどの愛用ぶりですが、そろそろほかのミニミニ音楽再生機をご購入する時期かもしれん。なにがよいだろう。よぉわからん。みなさんはおそとで曲を聴くとき、なにで聴いてますか?(自転車に乗るときにはイヤホンは外しましょう)



1715:【失敗のレンズ】

駄作は意図してつくったほうがいい。もちろん駄作をつくろうとしてつくるのではない。いったんアクセルを踏みこんで、このさじ加減だと高確率で失敗するだろうけど、どんな失敗になるかをまずは確かめてみよう、といった意図をこめて、駄作になっても致し方なし、でもひょっとしたらこの方向性で理想の成果物が仕上がるかもしれない、といった希望的観測を胸に抱きつつ、手掛けてみるのが、上達の足場として欠かせない工程となるのではないだろうか。意図して駄作をつくれば、それはじぶんだけの経験として、上達の足場になる。こうすると失敗する、といった勘を、理屈にまで紐解ければ、それをしないようにするだけで、失敗しない方法を確立できるようになる。一発で成功させようとするのではなく、まずは失敗のコレクションを集めることを意識すると、一歩一歩着実に理想へと近づけるのではないだろうか。うまくいけば、一歩進むごとに理想は磨かれ、思いもよらない姿となって、あなたを予想もしえない場所に連れて行ってくれるかもしれない。なにがアタリかを見抜く目は、なにがハズレかを高確率で見抜けるようになって初めて体得できる慧眼と言えよう。残り物には福がある。言い換えれば、福がないものを取り除けば、最後は誰もが福にありつけるのだ。まずはたくさんあるハズレを、ハズレだと見抜く目を肥やす方向に尽力することが、慧眼を体得するのに有利に働くのではないだろうか。慧眼とは、他者には見えない無数の失敗をレンズとして編んだ複眼のことなのかもしれない。



1716:【三単語】

まいにち、同じ言葉しかしゃべらない生活。お疲れさまです、と、すみません、と、ありがとうございます、の三つ。いっそしゃべらずにいられたらいいのに。シンとした心のうちを見せられたらいいのに。どっちみち、みな危ない橋を渡っている。そらは蒼く澄みわたっている。静寂がふきだまっている夜。みなだれもがだまっているよく、歌っているぼく、くちずさむ口をふさぐ毒、無言でも呼べば今宵もくる孤独。



1717:【ちょいちょーい】

あに言ってんのまんちゃん、ああたチョーくっちゃべってんじゃん。あたまんなかで。こちとら耳塞ぎたいくらいだよ、ホントもう、うっさいいつもひとりでわんさか。



1718:【失敗の種類】

他人の言う失敗に耳を貸す必要はない。参考にするくらいでちょうどよいし、なんだったら無視しても一向に構わない。大事なのは、じぶん自身の手で行った失敗だけだ。世のなかには取り返しのつかない失敗がある。そればかりは先人の失敗を教訓とするのが吉とでよう。しかし、それ以外の失敗は、誰がなんと言っていようと、すこしでも疑念を抱いたのなら、まずはじぶんでやってみたほうが得られるものが桁違いだ。失敗してもよいのだ。やっぱりそうなのか、と思うこと以上に、やってみて得られる感触がある。それを素材と言ってもいい。素材は、じぶんで失敗しなければ得られないのだ。他人から又聞きした失敗の知識では、つぎに活かすことはできない。またいっぽうでは、そう低くない確率で、時代や環境が要因でこれまではできなかっただけ、ということもあり得る。時期によっては失敗とならずにうまくいくこともあるだろう。どちらかといえば、トータルで見ればそちらのほうが多いはずだ。たまたまこれまでうまくいかなかっただけ、時代にあわなかっただけ、環境が違っただけ、そういうことのほうが多い傾向にある。これは逆の言い方もできる。じぶんでした失敗だからといって、誰にでもあてはまるわけではない。うまくいったからといって、つぎからそれで通用する保証もないのだ。ゆえに、具体的な失敗であるほど、そこから得られるデータは、一般化はできない。したがって、一つ、二つの失敗ではなく、より多く、広い範囲での失敗を集めておくことが、失敗を活かすために有用となってくる。失敗は基本的に、それ単体のみに当てはまる固有の問題である傾向が高い。しかし、いくつかの失敗を組み合わせ、統合し、眺めてみると、共通する点が見えてくることがある。その共通点こそが、つぎに活かすための養分となる。失敗から学ぶとは、ほかの失敗との共通点を探りだし、具体的な固有のデータ(失敗)を、抽象化することにあると言っても過言ではない。組み合わせる失敗のデータが多種多様であればあるほど、その抽象化した学びは、言語化しにくくなるという性質がある。いわゆる、暗黙知や、大局観と呼ばれるものにちかくなっていく。無数の失敗から抽象化された学びは、一つきりとはかぎらない。組み合わせや、失敗の種類によって、複数同時にかつ多層的に共通点を生みだす。生みだされたそれら共通点同士を結びつけることで、より抽象化された点が新たにできていく。層はさらに厚みと面を増していき、その一連の繋がりが、ひとつの回路として築かれていく。その回路に沿って、行くべきではない道と進むべき道がつど、新たな局面を迎えるごとに取捨選択されていく。大局観とは、無数の失敗からつむがれた回路によって導きだされる暗黙知、じぶんだけの思考の地図と呼べるだろう。そして、大局観や暗黙知がもたらす固有の視点は、慧眼として肥えていくこととなる。繰り返しになるが、それはじぶんにとってのみ有効な回路だ。一般化はできない。だからこそ、なるべくじぶんの手で失敗を重ね、回路の精度を高めていくことが、経験をつぎに活かすために有効な過程をはらんでいると考えられるが、これもまたいくひし固有の回路の導きだした、無数の失敗の副産物であるかもわからない。一般化はできない。誰にでもあてはまるわけではない。鵜呑みにしないように心がけよう。



1719:【モドキモドキ】

いくひしは、才能がないし、人気がないし、おもしろくないし、つまらないし、さいていだし、貧乏だし、あたまわるいし、態度がくそだし、常識を知らないし、マナーはなってないし、傲慢だし、性格がゆがんでるし、みにくいし、なまけものだし、思いやりがないし、知った口ばかりたたくし、無自覚に他人を傷つけるし、感情的だし、数字に弱いし、語彙力ないし、記憶力は低いし、口数すくないし、すけべだし、恋人いたことないし、失恋ばっかだし、口だけだし、すぐ寝るし、サボるし、集中力に乏しいし、努力しないし、役立たずだし、気がきかないし、服のセンスないし、全体的になんかダサいし、挙動不審だし、生意気だし、遠慮を知らないし、加減も知らないし、嘘が下手だし、気を使ったつもりで相手を困らせるだけだし、失礼の塊だし、歩く粗大ゴミだし、生きてる価値なんてないし、死んだほうがマシだし、すぐに卑下するし、自己肯定感はゼロだし、恋人どころかトモダチすら皆無だし、人脈はマイナスだし、信用はカスだし、実力から実績から実態から実情まで、学歴、職歴、履歴のなにもかもが薄っぺらいし、誇れるものがないし、誇りたくもないし、特別なことがなにもない、平凡にもなりきれぬ、憐れな凡人の底の底、奈落に住みつく人間モドキでございますが、それでも生きていけるこの世のなかは、なかなかどうして捨てたもんじゃないなぁ、と思います。こんな人間以下のモドキモドキでも生きていてよい時代なのです。こんな人間以下のモドキモドキでも生きていてよいのですから、あなただってもちろん生きていてよいのです。あなたはすくなくともいくひしよりはずっとずっとすばらしい人間です。モドキモドキが言うのですから間違いありません。生きていてよいのです。このまま何食わぬ顔をして、ひっそり、こっそり、生きていきましょう。じぶん以外の総じてが、じぶんよりも優れている世界にあって、いったい何をひがめばよいのやら。宝石箱のなかのホコリじみて、ただただまばゆい輝きに圧倒されるばかりの日々でございます。世界はこんなにもキラキラと光に満ちている。すばらしい、すばらしい。嗚呼、デキソコナイのクソでよかった。人間以下のモドキモドキはベッドのうえによこになったままで、おもちろい漫画を読み終え、あーたのしかった、とすやすや眠る態勢に移ろいながら、そう思ったのだそうな。



1720:【ていねい】

ていねいなものが好き。でもある種の勢いを表現するためには、荒さも必要で、パッションとかエナジーとか言って世間一般にはどちらかというとこの荒さのほうが評価の基準として大きな割合を占めているように感じる。つまり、ていねいさを売りにしては評価されにくくなる。ていねいさというのはきっと、目に見えるかたちにしてはいけなくて、と、いうよりも、ていねいさすらも隠せるくらいにていねいに、仕上げなくてはならなくて。積み木でたとえるなら、隙間なくぴっちり組み上げたあとで、そのバランスを保ちながら、絶妙なさじ加減で、抜けるブロックを抜いてしまう、みたいな。ていねいに仕上げたからこそできる穴空きに、ていねいさ+荒さが現れるのかな、と思うのだけれども、なかなかそれがむつかしい。ていねいに線を拾っていくことと、その線を敢えて崩す、というのは、慣れてきてしまえば、線を崩しながら仕上げてしまえるわけで、ていねいさというのは、ある閾値を超えると、ていねいではなく、単なる無駄になってしまうのかもしれなくて、これは荒さにも言えることで、単なる荒さは無駄でしかなく、それをていねいという名の下地に添えることで、荒さは魅力として評価されるのかな、と。要するに、世のなかの荒いのに評価されているものの多くは、じつは目に見えないていねいさによって、その基盤を築かれているのだ、と気づければ、他人の技術を盗む際にも、上辺の荒さではなく、その基盤にあるていねいさ、より抽象的に言えば、愛に気づけるのかな、と思うのだけれど、それができれば苦労はなくて、いやはや、むつかしいですよね。具体的な例を挙げろ、と言われれば、ガウディの建築物を挙げたら、あぁ、となるかもしれません。ただ、こうして具体例を挙げてしまうと、途端に言葉のちからが弱まってしまうのも、ていねいさの持つ弱点なのかもしれません。荒いままでも魅力を保てるようになりたいなぁ。そのためにはていねいに、基盤を築いていかなきゃだし、その基盤を魅力そのものにしなければならなくて、いやはや。魅力ってなんですか?


※日々、知らぬ間に爪は伸び、血は巡り、胃液は分泌され、傷口は塞がり、眠くなっては、目が覚める、ことごとくの営みが、流れのなかで自然発生していることに目を瞠る、この感応すら、制御下におけない、なにはともあれ生かされている。



1721:【すぺーすあどべんちゃー】

やあやあ、いくひしさんだ。おふろに入っているときにふと閃いたのじゃが、どうして空気は水のなかに入るとうえに向かって浮かぶのだ? きっと空気が浮かんでいるのではなく、空気よりも重い水が下のほうへと集まるので、空気はただ上へ押し上げられているだけなのではないか、と想像したのじゃが、どうだろう? 水にかかる重力よりも空気にかかる重力のほうがちいさいから、水のほうがたくさん下に溜まる。密度の濃いほうが下に溜まって、低いほうが上に押しやられる。そう考えると、無重力空間では浮力は働かないのではないか、と推測できるのだけれども、じっさいのところはどうなのじゃろう。中学校で習った気もするし、習わなかった気もする。でも重力によって浮力が生じるなら、たとえば宇宙空間を走行中のロケットのなかには浮力が生じることになるのではないか、と考えると、すこしだけワクワクするのだ。さらさらとした密度の濃い液体で満たしたペットボトルのなかに気泡をつくっておけば、重力の高い星に近づいただけでも、気泡がその重力とは反対のほうへ動くので(つまり液体が星の重力に引っ張られてそちらの方向に集まり、結果として気泡が逆側に押しやられるので)、宇宙の中での羅針盤になるかもしれない。ロケットの走行速度の異常や、重力場の乱れも、事前に察知できるかもしれない。もっと言えば液体でなくとも、気体ですら浮力というか、重力の差による物質の流動は起きるはずで、気体や粒子の微弱な挙動を感知し、分析することで、より詳しい重力や移動速度、時空の変化を観測できるのではないか、と考えたのじゃが、じっさいには、重力の変遷は物質ごとに生じているわけで、任意のひとつだけの重力だけをズバリ感知するのはむつかしいのだろうなぁ、と想像するものだ。お風呂からあがるころには、重力探知機を巡った壮大な宇宙冒険譚が脳内で展開され、しがない発明だった重力探知機が、宇宙の秘密を暴くきっかけとなり、永くつづいた宇宙の暗黒時代に終止符が打たれる寸前で、この妄想はちょっと壮大にすぎるから、いまのいくひしさんにはつくれないな、と脳内ネタ置き場行きになってしまった。宇宙冒険譚はいちどつくってみたいぞ。生きているあいだにつむげる物語には限りがあるのでな。優先順位をつけながらやっていこうと思うのだ。ちまちまと。千里の道も一歩から。遠くばかりを見据えていながら、まずは目のまえの一歩をだいじにしていきたい、欲張りないくひしさんであった。



1722:【プライド】

いくひしはこれまでに何度か、おまえはプライド高そうだよな、とか、アイツはプライド高いから、とか、聞えよがしに言われたことがある。じっさいがどうかはよく分からないけれども、いくひしほどプライドのないウミョウミョも珍しいのではないか、とじぶんでは思っている。人の大勢いきかう街中でゴキブリ相手に土下座してもなんとも思わない気がする。ただべつに土下座がしたいわけじゃないから、命じられてもするかどうかはそのときの気分によるとは思うけれども。プライドが高い人ってどういうのを言うの。プライドってなんですの。矜持とは? 誇りとは何?



1723:【愛染め】

他人の人生を覗き見たい欲求よりも、他人の内側を覗き見たい欲求のほうがつよい。他人になってみたいけれど、それはけっして他人の人生を歩んでみたいということではなく、言ってしまえば、じぶんを完全に脱ぎ捨ててまで、まったくべつの赤の他人の人生を辿りたいわけではないのだ。いくひしはじぶんのことが好きじゃないけれど、好きになりたい、とは思っているのかもしれない。じぶんには欠けている視点、見えていない風景、感じられない機微から欲動、どこを見て、なにを思い、どう誤魔化すのか、なにを見ずに、なにを無視して、どこに向かおうとするのか。じぶんを好きになりたいから、足りないナニカを埋めようと、じぶん以外の誰かの人生を、視点を、物語を、欲しているのかもしれない。いくひしはあなたの世界を覗き見たい。いくひしにとってはあなたの内側に広がるなにもかもが、原石であり、養分であり、理想であり、武器なのだ。いくひしがじぶんを好きになるために必要な要素が、あなたのなかにはいくつもたくさん眠っている。言葉にし、絵にこめ、カタチにし、つむぎだしたあなたのなかの断片が、いくひしをいくひしとして生かしつづける。いくひしは、あなたたちのツギハギでできている。いくひしが、いくひしでなくなっていくあいだだけ、いくひしはじぶんのことをほんのすこしだけ好きになれているのかもしれない。いくひしはじぶん自身が好きではないから。だいすきなひとたちの断片で、己のなかをいっぱいにしたい。何者にもなりたくない。いくひしは、いくひしですらいたくないのだ。



1724:【作者という名の幻想】

小説にかぎらないけど、たとえばほら、漫画とかさ、絵とか、それをつくったひとの性別とか年齢とかそういうのって、ぜんぜん分かんなくない? 上手なひとほど、どんな作家さんなのか、ぜんぜんイメージつかめない。や、イメージは浮かぶんだけど、いざ正解を知ったときにぜんぜんそれっぽくなくて、えー、まじでー、うっそーん、ってなる。というか、性別とか年齢とか、そういうの、当たったことのほうがすくない。みんなは分かる? いくひしは基本、絵描きさんはみんなヨボヨボのおじぃちゃんか、おばぁちゃんだと思ってる。だってそうじゃなきゃ、あんなステキな絵をつくれなくない? 長生きしてなきゃつくれないっしょ。無理っしょ。で、いざ正解を知ったときに、ぜんぜん若くて、還暦まで、まだまだだったりして、えー!? まじでー!? うっそーん!?ってなる。すっごいかわいい絵を描いてたのが、絵に描いたようなおじさんで、おっさーん!ってそういうときは叫びたくなるのよね。とぅきーっっっ!!!って。かわいいコがめちゃめちゃ怖い絵を描いてるのと似た衝撃があるくない? すごっ!てなる。ギャップ萌えの一種かも。そうそう、褒め言葉でたまに、作者の顔の見えるような作品って言い方あるじゃんか。いくひしはどっちかってーと、作品と作者がかけはなれてるほうが、受ける印象は、まじでー!? うっそーん!?ってなる。もちろん前にも並べたかもだけど、作品と作者はべつものだと考えてはいてて、でも、どれだけじぶんの枠組みから外れて表現できるか、遠くまでいけるか、じぶんの内面に潜っていけるか、そういうのが表現者のエイヤー!だったりするんじゃないのー、って、いくひしはたまに思うのよね。それが正解だとは思っていないけどさ。だって、ときどき、寸分たがわぬ等身大を表現しきってしまう研ぎ澄まされた水晶みたいな作家さんもいて、その輝きもまた真似できないのだよね。世のなか、びっくりするほど天才が多い。インターネットさまさまだ。たくさんの天才を見つけられて、その点にかぎっては、本当にいい時代だなぁ、と心の底から思うのよね。生きることに飽きずにいられて、我はたいそうほくほくじゃ。



1725:【ゆがんでひび割れ、砕け散る】

その点いくひし、てめぇはまんまだな。割れた鏡じゃ、合わせ鏡にもなりゃしねぇ。クズは成果物までクズなんだよ、わかってんのか、クズ。



1726:【褒め言葉じゃん】

要するに、え、なに? クズはクズにしかつくれないってこと? すごいじゃん、うれしい!!! 褒めてくれてありがとー。



1727:【傲慢のなせる業】

プライドがなくてじぶんのことを好きではないのに、それでも、しゃーないな、と開き直っているところがいくひしさんの傲慢たるゆえんかもしれぬ。生きている価値はなく、誰の役にも立ってはおらぬが、生きていてもよくね? と思うのは、怠惰というよりも、傲慢さのなせる業である。



1728:【ゲノム編集と管理社会】

人間へのゲノム編集技術の適用は、徹底的な管理社会の実現のうえにのみ成立可能な政策だと呼べる。ゲノム編集を施した人物が誰と性行為をし、どんな子孫を残したのか、或いは残すのかを、国家が把握および管理しないことには、ゲノム編集技術につきまとう危険性を払しょくできない。それはたとえば、ゲノム編集によって意図せぬ遺伝子改変が起きたときに、その遺伝子がその後、多くの国民に無作為に拡散する懸念を失くすには、誰にどんなゲノム編集を行い、そしてその人物は誰と生殖し、その子孫にどんな影響が現れるのかを、国家が観測しつづけなければならない。誰と性行為をしたのかを国家が把握できなければ、ゲノム編集の個人への適用は、その後の人類へ無視できないほどの多大な影響を残すはめになる。そしてその影響は、世代を重ねるごとに大きくなっていく。その影響の余波をある一定の範囲におさめるためには、かつてないほどの徹底的な管理社会体系が築かれなくてはならず、ひるがえっては、ゲノム編集技術の発展には、そうした管理社会国家の存在が欠かせないのかもしれない。おそらくこれからさきの次世代型管理社会では、管理され自由を抑圧される個人が、不満を抱かないように、精神そのものが管理される社会になっていくことが予想される。人間の脳内報酬系に添って導線を引けば、人間は驚くほど素直にその線に沿って行動選択の幅を収斂させていく。これまでの人類史では、社会が個人を洗脳し、個人はその洗脳に抗おうとしてきた。しかしこれからの時代では、個人のほうで洗脳されたがる社会が到来する。洗脳され、選択肢を用意してもらったほうが快適な生活を送れるようになるためだ。たとえその快適さが一過性の錯誤であり、ただそのように錯覚させられているだけだとしても、それを確かめることは、脳内報酬系を操られている個人にはできない。自由を奪われ、人生から行動選択の数を失い、ただただ目のまえのデータという名の虚構に身を費やす。それで満足できるように社会が個人を調教していく。管理しやすくするために。よりよい社会を築くために。しかしそれが誰のためなのか、について議論をされることはなくなっていく。人々の精神世界は多様性を豊かにしていくが、物理世界では画一的な、個性のない社会になっていくだろう。人類にとってそれがよいことかどうかは分からない。個人にとってどうなのかは、そのときになればおのずと判ることである。あと二十年もしないうちに実感できるようになるのではないか、と妄想するものである。(※12/04追記:ゲノム編集は大別すると二つに分けられる。子孫に引き継がれ得る生殖細胞(受精卵)へのゲノム編集と、その個体にのみ有効とされる体細胞へのゲノム編集である。体細胞へのゲノム編集であれば、遺伝子改変がその子孫に引きつがれる確率はぐっとさがる。よって、各国で規制されているのは、生殖細胞(受精卵)へのゲノム編集であり、そうでない体細胞への適用は、医学の発展に貢献すると期待されている)



1729:【孤独をアレンジ】

孤独は他人に理解されないから孤独なのだ。そしてだからこそだいじにする価値がある。理解されようとしても無駄だ、けっきょく他人と理解しあうことなどあり得ない、という事実を受け入れると、すこしだけ生きるのが楽になる。それで孤独が消えるわけではないが、孤独を愛おしく思えるようになってくる。むろん、理解しあえないからといって、理解しあおうとする姿勢を崩す必要はない。どれだけ貪っても底を突くことのないご馳走だと思えば、理解し得ない(されない)ことと、理解しあおうとする姿勢は、ぐるぐるとまわる臼じみて、蕎麦粉のように日々つつましやかな至福をもたらしてくれるだろう。あなたはきっと他人に合わせることができるのだ。ほかの人々よりも他人の行動原理を理解している。しかし、あなたの行動原理に理解を示してくれる他人はなかなか現れない。あなたのほうが上位互換であり、高みに立っている。何が不満だろう? 孤独は誰にでも付きまとう影のようなものだ。暗がりをおそれ、光を求めれば求めるほど、あなたの孤独はより濃くより深くなっていく。光に近けば近づくほど影は一見すれば消えたように映るが、太陽に覆いかぶさる月じみて、あなたそのものを影にしたてあげる。望まぬカタチであれば、どんな宝石も目障りだろう、押しつけられる孤独とて同じことだ。じぶんの孤独を見詰め、どんなカタチをしているのかを探っていくと、やがて影絵のように、あなたにとって好ましい孤独のカタチを、自ずととっていくようになる。孤独はあなたと共にあり、あなたを見守るよき相棒となるだろう。理解されないことはわるいことではない。ましてや、孤独は、忌み嫌い、手放すようなものではないのだ。孤独ほど好きに造形できる感情はない。お好みのカタチにアレンジしていこう。



1730:【高みの価値】

他人より高みに立っているからといって偉いわけでも、優れているわけでもない。山頂に住んでいる人間が偉いわけではないのと同じ理屈だ。住みやすさでいえば、麓のほうがよほど快適だろう。とはいえ、山頂に立たなければ望めない景色もある。なにより、山頂に立てる人間は、麓にも、海にだって行けるだろう。また、地上と比べて山頂からはより遠くまで景色を見渡せる。俯瞰の視点は、何かを計画したり、改善点を見繕うのに一役買う。この視点の多さ、もしくは選択肢の多さこそが、高みに立つことの数少ない利点と呼べる。繰りかえしになるが、だからといって偉いわけでも、優れているわけでもない。たった一つの使い道しかない道具のほうが、多機能な道具よりも優れていることなどいくらでもある。上位互換だからといって、下位互換を侮ったり、下に見たりするのは利口ではない(もちろん逆にも言えることであるが)。視点の多さ、選択肢の多さが高みの利点だというのならば、目を留めた対象にある長所や短所をそれぞれよりたくさん洗いだせるようになることこそが優先して取り組むべき事柄かもしれない。洗いだされた長所と短所から、そのつど、局面に合った要素を抽出し、つぎなる一歩に繋げる。山に登りたければ山に、海に行きたければ海に、まだ見ぬ景色を見たければ旅にでて、疲れたならば家の周りを散歩すればよい。立っている場所の位置など些末な事項だ。行きたい場所に行き、生きたい場所で生きられるようになることこそを、歩みの矛先の指針にしておきたいものである。



※日々、言葉ばかりが先行する、現実はずっと向こうに置いてきぼり。



1731:【しゃがみ萌え】

わい、しゃがんでるひと萌えかもしれん。なんか地面をじっと見てるひとがかわいく見える。なに見てんだろって気になるし、しゃがんだときに両足ぴったり閉じてる姿が、よちよちしててかわいい。



1732:【人工も自然のうち】

処女作をつくったころから、ちょくちょくかってに浮上してくる、ひとつのイメージがあります。イメージなのでうまく言えないのですが、人間もまた自然現象のうちの一つであり、物理現象の一つのはずです。まず、ここに疑問を抱く方はいらっしゃらないように思います(いてももちろんよいのですが)。人間だけが特別な存在ではなく、人間もまた物理法則の結果に生じた自然現象なのだ、というところをまずはここでは押さえておいてほしいと思います(極端な話、風に舞う葉っぱと、歩き思考する人間は、本質的に同じだということです)。たとえば地球ですが、宇宙では物理法則の結果に星ができましたよね。地球もそのうちの一つです。そして宇宙で星ができるのと同じように、地球上では生命ができました。すこし飛躍したかもしれませんが、地球上で、雷や雨や風が生じ、たくさんの物質がまぜこぜになりながら、あらゆる組み合わせがつど生じ、何億年もかけて生命の素が偶然できたわけです。その生命の素も、突き詰めて考えれば自然現象の一つです。と、いうよりも、この世に自然現象でない事象は存在しません(すくなくとも、いまのところどうやらそれは確からしい、と言えます。断言はできませんが)。そして、生命の素が、なぜかくねくねと自己増殖を重ね、同じようで同じではない生命の素がたくさん生じ、互いにさらに干渉しあい、まぜこぜになりながら、くっついたり、離れたり、破壊されたり、再生したりを繰り返し、生命は複雑な循環を、ちいさな枠組みのなかで維持できる仕組みを編みだしました(人体はそれで一つの銀河団に匹敵するほどの回路を備えているのではないか、と想像してしまいます)。それはまさしく延々とつづく編み物のようで、なんども編み方を変え、解きほぐし、編み直し、上書きし、ときにはほかの編み物とくっつきながら、複雑な造形を組みあげていったのです。それはちょうど、一本の糸がやがて面となり、面と面がくっつき、服のように立体となるような進化の仕方を辿ったのです。ですが、編み物とは異なり、生命には毛糸を操る者はいません。飽くまで、自然現象によって、偶然そうなっただけなのです。しかし、偶然そうなっただけとはいえ、(単なる刹那的な物理作用ではなく、連鎖する)自然現象ではあるのです。つまり、再現性がある(ある種の回路、機構を備えている)、ということです。風が吹くならば、ほかの場所でも風は吹く可能性があります。人間という生命体が地球上に誕生している以上は、ほかの星でも同様の現象として、似たような生命体が誕生している可能性は否定できません。言い換えれば、物理法則にはそもそも、人間のような複雑な機構を組み立てるだけの潜在能力があると言えるかもしれません。むしろ、規模の大小にかかわらず、自然現象の行き着くさきには、生命体のような複雑な自然現象を構築する「意思」のようなものがあるのかもわかりません。意思と言ってしまうと、なんだか途端にうさんくさくなってしまうので、ここではそれを「大きな流れ」と言い換えましょう。「大きな流れ」は、構造の規模に拘わらず、最終的には同じような機構をつくりだそうとする方向に働きかけるのではないか、といくひしはときおりイメージしてしまうのです。宇宙にしろ、銀河にしろ、惑星にしろ、生命体にしろ、それぞれの構造の根本には、物理法則を基盤とした大きな流れが漂っており、複雑さと単純さを繰りかえしながら、言い換えれば、創造と破壊を繰りかえしながら、より高次の機構を生みだすべく、変遷しつづけているのではないか、とイメージが膨らみます。物質は安定を求めるはずなのに、なぜか自然現象は、より複雑な構造へと変質していこうとします。もちろん、人体に寿命があるように、どんな回路――循環系にも、最終的な崩壊が約束されているようです。しかし、その崩壊すら、さらにべつの回路を複雑にするためのきかっけとして働くいち因子になるという点では、大きな流れからは、やはりより複雑な構造を求めて変質しつづけようとする「意思」のようなものを感じずにはいられません。現在、この地球上でもっとも複雑な機構とはなんでしょう? 人体よりも複雑な構造物は存在するでしょうか? もし人体が地球上でもっとも複雑な機構を有していたとすれば、おそらくその人体によって、さらに複雑な機構が生みだされることになるでしょう(或いは、人類の崩壊を以って、新たな機構へのいち因子、きっかけとなる可能性もあります)。そしてそれもまた、自然現象のうちの一つであり、宇宙に漂う巨大な流れのつむぐ、最先端の編み物と呼べるのかもしれません。



1733:【クリエイターの方向性】

これからのクリエイター(個人事業主)は、自作を基本的に著作権フリーにし、無料提供できるようにしていったほうが長期的に見て有利になる(多作であることが必要条件になるだろうが)。補足として、利用された作品による売り上げの純利益が100万円など規定値を超すたびに30%の使用料をとるようにすればよい(利益が更新されるたびに、徐々に上限をあげていくとさらに好ましい。つまり、200万円の純利益になったらそのときに加算された利益の100万円からは35%の使用料を徴収する。徐々にあげていくとして、上限はすくなくとも50%までは許容範囲内だろう)。利用者は利益が確定した段階で使用料を払うことになるので損をせず、リスク回避に繋がる。また、無料提供と謳いながらも、利用されることで同時に無料で宣伝されるようなものなので、WIN:WINの関係性が成立する。もちろんじぶんで自作を商品化してもよいわけで、限定的な著作権フリーにするのは、プラスアルファの効果しかない。とはいえ、規約に関しては法的拘束力のある規定の仕方を明記しておく必要がある。著作権フリーとはいえ、すべての権利を放棄するのは危うい。訴訟問題に発展しないように、条件は厳密に定義しておく必要性があるだろう。最低限、前以って弁護士に相談するなど、のちのちのリスクを回避すべく、損をしないような下準備が欠かせない。「いらすとや」や「YouTubeによる他企業との包括的業務提携」などの先行事例があるが、小説や漫画の分野ではまだ目立っていないため(とくに小説は原作としての幅が広いのでほかの媒体よりも需要が比較的高く)、いまのうちに真似をしておくと、先行者利益にあやかれるかもしれない。ここまで読んだうえで、ではなぜあなたがやらないのか、と訝しむ方もおられるかもしれない。それはいくひしが、ビジネスを目的に創作をしていないためである。ビジネスを目的にしたならば、いますぐにでも準備をはじめるだろう。いままでのやり方では売れない時代に突入している。ビジネスの基本は、二つの意味で、やられる前にやれ、である。資本主義経済においてビジネスとは物理暴力のない戦争だと心得ておくと、痛い目に合う確率を下げることに繋がるだろう。



1734:【役立たずでごめんなさい】

いま自由にできるお金がぜんぜんないので、好きな作家さんに貢げないのが悔しい。創作でお金を稼がない分、ほかでお金を稼がなきゃだ。計画的にお金貯めてこ。コミティアにも同人誌とか無料配布するしな。50万貯める予定だったけど、目標100万にしとこ。がんばろー。



1735:【役立たずの言いわけ】

いくひしは好きなひとたちからは漏れなく好かれたいし、嫌われるのなんてヤダけど、いくひしの好意を知ってもらいたいとはとくに思わないし、いくひしの好意に価値があるとも思ってないし、なんだったらいくひしに好かれてるってだけで嫌な思いをさせてしまうかもしれないから、できるだけ目立たずにいたい。好意だけじゃなく、じぶんのつむいだ物語も同じで、必要としているひとにだけ届いてほしいし、なんだったらいくひしのつむぐ言葉や物語は、ひとによってはものすごく傷ついてしまうこともあると思うから、ほそぼそと、すこしずつ必要なひとにだけ行きわたってほしいから、それが世界に一人しかいないなら、そのひとにだけ届いてほしいし、ほかのひとには一文字も読み解かれたくないとすら思っていて、これはよくない考えだとは分かっているけれども、思ってしまうものは仕方がない。ただいっぽうでは、好きなひとたちのことはできるだけ多くのひとたちにその存在を知ってほしいと思うし、こんなステキなひとたちがこんなステキなものをつくってますよー、してますよー、ってことを知ってもらいたいと思うから、きっと本心では多くのひとに認められることがよいことだと思っていて、その辺がなんか、じぶんでじぶんの考えが矛盾してるなぁ、と思うのだ。お金を稼ぐことにしても同じかもしれなくて、いくひしは創作でお金を稼ぎたいとはとくに思っていないのだけれども、ほかのすばらしい表現者や創作家のひとたちにはぜひとも、たくさんお金を稼いで、すこしでも多くの作品を残してほしいと思っていて、これはでもよく考えてみたら矛盾はしていなくて、べつにいくひしは創作でお金を稼げなくとも、いまと変わらずにのほほんと創作をしていくのだろうなぁ、と思っていて、べつにお金に余裕があるわけでもないし、まいにち卵ご飯か納豆ごはんだし、未来を前借りしているだけでしかないのだけれども、たとえいまたくさんお金を稼いでも、そのおかげでたくさんモノをつくれるようになるわけではないから、そこのところはべつだん自家撞着だなぁ、とは思っていないのだ。でも、だからってお金をぜったいに稼がないぞ、対価なんていらないぞ、と意固地になるのはおかしくて、そんな必要もないわけで、だからビジネスを目的にはしていないけれども、創作をつづけていくための手段としてならお金が懐にぽいぽいーって入ってくるのはアリだな、と思っているから、きっとその可能性を残すような真似をしているのかもしれない。お金を稼ぐことはわるいことじゃないし、稼げるなら稼いだほうがよいし、なんだったらいくひしはいくひしの好きなひとたちのためにお金から労力から時間からなにから貢げるものは貢ぎたいと思っていて、でもいくひしにできることなんか高が知れていて、言ってしまえばなにもないから、せめてお金に余裕があったらステキな作品を購入して、そうでなかったらこれいいよー、ステキだよー、って布教して、あとはもう、好きだなぁ、としみじみ思うこと以外にはなにもできない役立たずだなぁ、と思っては落ち込む日々だけれども、まずはさておき、お金貯めて、お布施しよ。誰かの役に立ちたいとは思わないけれども、もらった恩は返したいと思う、ほんじつのいくひしまんクンなのだった。



1736:【偽善】

上記で得手勝手なことを抜かしているが、いくひしのSNSを利用する動機の九割は宣伝のためだ(より正確には広報に主眼を置いている)。精神に負担がかからないように好きなものをリツイートする、という手法を採用しているだけで、他者の創作物やツイートを利用して、あわよくばじぶんの創作物に目を通させようとする魂胆が根底にある。そのため、いくひしはフォロワーを増やす努力をしていない。プロフィール欄のリンクを踏んでもらうことが狙いだからだ(基本的にフォローした相手のプロフィール欄を覗きにいく者はすくない)。ことしの5月からツイッターの利用をはじめたが、月間のプロフィールへのアクセス数を平均すれば10000回だ。一日平均330くらいになる。宣伝効果は大きくはないが、まったくないとも言い切れない。ただ、時間対効果は低いので、この方法では宣伝としてやはりというべきか割に合わないと言えよう。もっとも、好きなものに「好き」のハンコを捺せるだけで、なんだかすこし癒される。SNSに登録せず、ただ眺めているだけでも満足ではあるが、ツイッターで好きなツイートをリツイートしたりハートマークをつけたりするのは精神衛生上、すこしだけプラスかな、と感じる。とはいえ、それに依存し、時間を無駄に費やすのは利口とは言えない。本末転倒にならぬように、来年からは利用を控えるかもしれない。いくひしまんはまったく以って、打算と傲慢で生きている。クズだと思って構えておくのが賢明だ。



1737:【回路を維持するための視点】

あたまのなかに回路ができる瞬間というか、時期が割とハッキリ判ることがある。数日のあいだに、これまで絶好調でなければできなかったようなパターンを、とくに意識せずとも、あたまのなかに浮かぶ回路をなぞるだけで比較的、楽に出力できるようになるときがある。比喩として的を外しているかもしれないが、ある位置に立ったときにのみ見える立体映像のようなものだ。立体映像は、ほかの場所からはただ物体にペンキが塗ってあるだけなのだが、ある場所に立ったときのみ、各種パーツが組み合わさって見え、ひとつの巨大な立体映像に見える。うまく説明できていない気もするが、たとえばエッシャーの騙し絵は現実に存在しない構図が多く描かれている。延々と巡る階段の絵や、二階から流れ落ちた水が知らず知らずのうちにまた二階に戻ってくるような重力を超越しているような建物の絵などは有名だ。もちろん現実には存在しない建造物だが、そのように見えるカタチでの建築は可能だ。目の錯覚を利用するわけで、じっさいには部分と部分が繋がっていなかったりする。ただ、ある任意の場所から見たときのみ、うまい具合に接合して見え、ひとつのあり得ない建造物に見える。トリックアートも同じようなものだが、トリックアートの場合は、違った角度から見てもそれがどんな絵かは判るので、比喩としてはやや的から離れる。何が言いたいのかと言うと、あたまのなかに回路ができるとき、その回路は立体的な構造を伴っていることが多いということだ。しかも、ある任意の見方をしないとその回路をうまくなぞることができない。すこし気を緩めただけですぐにバラバラになってしまうので、回路が安定するまでは、なかなか苦労する。しかし、その回路が安定すると、理想的な出力の仕方が、比較的楽にこなせるようになる。ふしぎなのは、回路そのものはじつのところすでにできあがっているのに、どんな見方をすればいいのかが分からないがために、うまくなぞれないことが多々あるという点だ。比喩の比喩となって恐縮だが、たとえばそれは、円を無数に並び立てたときに、ある場所からのみ、すべての円の穴が一直線に重なるようなもので、その地点を身体に憶えさせるのが、回路を築きあげるよりも時間がかかるのだ。言い換えれば、回路を築きあげることと、その回路を保つための視点を維持することは、べつのプロセスを辿る必要がある。一方だけでは充分でなく、より複雑な回路を築きあげると共に、その回路を安定して保つための視点もまた探っていかねばならない。そしてより時間がかかるのは、視点を探るほうだ、ということを、さいきんつよく実感した。抽象的なうえに、個人的すぎた話かもしれない。なんの参考にもならないかもしれないが、コイツの話は参考にならんな、と判断してもらえるだけでも、この文章を並べた甲斐はあっただろう。そもそもこんなテキストは誰も読んではいない、という現実は見たくないので、敢えて立つ場所を変え、現実が像を結ばないように、バラバラにしてしまうのがよろしかろう。寄り目をすれば視界は歪む。とすると案外に人は、常日頃から視点を探っているのかもしれない。じぶんの外ばかりでなく、ときには内側に築かれた「視えないナニカ」にも意識を配ってみるのも一興ではないだろうか。



1738:【物書きとしての才能】

現代の物書きにおいて重宝すべき素養があるとすればそれは、毎日よりたくさんの文章を出力できることではなく、ましてや短くまとめることでもなく、SNSなど不特定多数の目のつく場所になんの躊躇もなく着飾らない本心からの文章を載せることのできる鈍感なまでの素直さではないだろうか。むろん、おもしろい文章をつむぐことは前提として。(そしていくひしにはその素養が決定的に欠けている)



1739:【おいちー】

十年ぶりくらいにフルーチェ(桃味)食べたらうますぎて死ぬかと思った。



1740:【サボり魔】

やあやあ、いくひしさんだ。久しぶりって感じがするなー。ここ10日ほどはサボりまくっていて、ちょっとまずいなーっとおしりをぽりぽりしてしまういくひしさんじゃが、まー、なんというか、さいきん寒くない? さむい、さむいー。もうこの時点でお察しの方もおられるかもじゃが、そうなのだ、毎度おなじみ書くことがない日なのだ。やー、でもこういう日もあっていいと思うのだ。仕事ではござらんのでな。いくひしさんは、もう、サボりたいときはサボるし、やりたくないことはやらないし、なにも思い浮かばない日は、なにもせずに、ただぼーっとするのだ。それが生きるってことじゃろい? ちがう? ちがった? あ、そう。ごめんちゃい。そうね、まー、ふんばらなきゃいけないときはあると思うのだ、いくひしさんだってそう思う。でもね、サボりたいじゃん。サボりたいし、なまけたいよ。人間だもの。クズだもの。でもだよ、いくひしさんは思うのだ。クズでなにがいけないのじゃろって。いけない? いけないの? ダメ? そっか。ゆるしてー。いくひしさんクズで、なまけものだけど、ゆるしてー、好きになってー、やだやだ、いくひしさんもみんなから、かわいいー、まんちゃんもっとこっち向いてー、って動物園のレッサーパンダみたいにただ生きてるだけで、ちやほやされたーい、立っただけでも褒められたーい。なんでいくひしさんは、こんなにクズなのに褒められないのじゃろう。クズだから? そっか。核心つかないでー、いくひしさん泣いちゃうから核心つかないでー。やだやだ、かわいいって言われたい、いくひしだってプリキュアみたいにかわいくってつよくなりたいよ。でもいざ、はいよ、ってプリキュアになれるなんか、ちゃらら・らっら・らー、みたいなアイテムもらっても、え、いらないです、って突きかえしちゃいそう、なんかめんどっちそうだし。クズなので。クズってべんりー。えごっさ、べんりー。えごっさってなにかぜんぜんわかんないけど、ノリで言っただけだけど。かわいく、クズです♪って言ったらかわいくなれますかー! なれませーん!!! 鳥肌たつからやめろやーってどっかから聞こえたー。泣くー。もうこうなったら!! 不貞寝してやる!!! ぐーすかぴっぴって、いびきかいちゃうもんね! いいかー、寒いからちゃんと毛布に巻きつき、巻きつかれーのしながら眠るんだぞー。いくひしさんはそうやって寝るー。おやすみー。



※日々、無知をさらけだす。



1741:【死と共にある】

事件や事故で、誰かが死亡しました、といったニュースを見かけるたびに、ああこの人はきっと朝、でかけるときにはまさかきょう死ぬとは考えなかったのだろうなぁ、と想像してしまう(きょう死ぬと考えたところで人は、死んでしまうときは死んでしまうのだが)。だからいくひしは家をでるときは、きょう死ぬかも、と想像する癖がついてしまった。きょうを無事に生き、あすを迎えられるなんてどうやったら信じられるのだろう。信じられないからみな目を逸らし、忘却することにいそがしいのだ。



1742:【クズisクズ】

半年前の「いくひ誌。」とか読み返すと、コイツあたま湧いてんなーってかバカじゃん、って恥ずかしくなるよりさきに頭の芯が冷めていくのだけど、それだけいくひしが変化してるってことだと思うんですよ。うん。成長しているかは微妙なところというか、大いに疑問ではあるものの、変化はしているわけですよ。いくひしはよくむかしのじぶんを思いだしては、あばばばーって顔をぶんぶん振っては、その遠心力で以って、記憶をどっかに飛ばそうと試みるのですけど、成功したことはなくって、そういうときは高尚なる呪文、「くそファック殺す!」を唱え、うちなるじぶんを八つ裂きにすることで事なきを得るのだ。冗談でなく効果があるので、いくひしの口癖はもうほとんど十割、「くそファック殺す!」です。さいていだー。クズにふさわしすぎて、なんのひねりもないでごわす。まあでもね、思うんですよ。過去のじぶんを否定できるくらいに変化してるのかなって。よきかな、よきかな。いくひしさんはちゃんとむかしのじぶんをやんわり受け止めてあげるのだ。きみがいたからいまのいくひしさんがあるのだねって。よくぞ、よくぞ、と思いながら、ありがとうって、念じつつ、抱きしめてあげるのだ。八つ裂きにしたあとで。そしてそんなじぶんもそう遠くないうちに、未来のじぶんに殺されてしまうのだ。かわいそう。でもそっかぁ。きょうのいくひしさんも、半年後のいくひしさんにとっては「くそファック殺す!」と念じたいくらいの存在なのだなぁ。そう思うと、ほら、ね? 気を張って、お利口さんになろうなんてがんばるのもバカらしくなるでしょ。どう抗ったって、未来のいくひしさんはきょうのいくひしさんを認めてくれたりはしないのだ。せいぜいが、八つ裂きにしたあとで、まあおまえのおかげですこしは楽しめたよ、みたいに悪態ついでに唾でも吐かれるのがオチなのだ。未来のいくひしさんこそさっさとくたばればいいのに。返り討ちにしてやるよ。かかってこいよ。どうせ勝つのはいくひしだけどな! 傲慢さに磨きをかけては、あっけなく八つ裂きにされてしまうきょうのいくひしさんなのであった。きょうのいくひしさんを倒したのはいったい、いつのいくひしさんじゃろか? すこしでも粘れるようにと策を練りつつ、こうきたらこう! こうきたらこう! とイメトレしては、片手間に過去のいくひしさんを秒殺していく、万年孤独ウェルカムマンこと、不死身のいくひしまんちゃんなのでした。



1743:【いやん】

ツイッターで絵描きさんばっかり眺めてるけど、絵だけでなく段々そのひとの人柄まで好きになってきちゃうのがあって(もちろんツイッターのつぶやきから分かる人柄なんてそのひとの極々一部だとは重々承知の助ではござるけれども)、個人的によろしくないなぁ、と反省中です。でも好きになってしまう。じぶんの世界観を持ってるひとはステキだと思う。いくひしがよくリツイートしちゃう方はみんな好き。プロフェッショナルとして尊敬できる方から、ひねくれ加減がかわいい方から、陰のいっさいないひまわりみたいな方から、病気になってないといいけどって私生活を心配してしまう方から、がんばりすぎですよ~~休んでくださ~い、って叫びたくなる方から、あなたの絵ならなんでも好きですって逆に失礼な想いが湧いちゃう方から、数年後にぜったいビッグになってるでしょ~~いまのうちに媚び売っとこ~~って打算が全開になってしまう方から、うお~~おまえにはこれっぽっちも興味はないけど貴様の絵はめっちゃ好き~~って方から、これは恋では?と思うくらい気になっちゃう絵描きさんまで、本当にステキなひとが多い。ツイッター上でそういうフリをしているだけだとしても、そういうフリができる時点で、尊敬に値するのよね。漏れなく小説の主人公にできるくらい魅力的な方ばかりで、比較するのはよろしくないのだけれども、おうおう、小説家ども、絵描きさんたちをすこしは見習え、と思ってしまうのよね。そしてぜんぶじぶんに跳ね返って死んでしまうのよ。いやん。



1744:【同情と差別】

同情と差別は部分的に同じだ。「私だったら嫌だな、そうはなりたくないな」と思うからこそ、相手を可哀そうだな、と思い、憐れむ。それが同情だ。たほうで、「私だったら嫌だな、そうはなりたくないな」と思うことで、相手を避けたり、拒んだり、虐げたりすると、それは同情ではなく差別となる。喚起された感情によって生じる行動の方向性が異なるだけで、本質的に同情と差別は同じだと呼べる。むろん、本質が同じだからといって、顕在化する事象までが同じなわけではない。犬とクジラは哺乳類であり、本質的に同じだからといって、まったく同じではないのと似ている。ゆえに、同情と差別は部分的に同じだ、と冒頭では述べた。差別をなくすにはまず、差別という行為を同情へと移行させる段階が必要であり、その後、同情すらせずに済む段階へと移行することで、平等の意識された社会が再構築される。だが、同情を煽り、なにかしらの利を得る組織ができてしまうと、せっかく差別が減少しつつあったにもかかわらず、つぎの段階へと移行できずに、またべつの対立構造が形成されてしまうことがある。同情を煽り、対立を強調することに終始しては、差別はまたべつの差別や諍いの種を撒き散らす結果になるのだ。そうなっては本末転倒を地で描く。ならばどうすればよいかと言えば、しょうじきなところよくは分からない。ただ、差別はなくならない、ということを受け入れることが前提条件の一つだとは感じる。前述したとおり、本質的に同情と差別は同じなのだ。差別を完全になくすには、同情や憐憫といった感情そのものもまた封殺する必然性がある。だが、同情や憐憫のなくなった社会が果たして実現可能だろうか。よしんば可能だとして、そんな社会が理想だろうか。細かくみていけば、人は差別をしているから社会を形成していられるのだ、と言い換えることもできる。差別はないほうが好ましいが、なくしてしまうことはできないのだ。たとえばそれは、バイキンは好ましくはないが、なくしてしまうことができないのと同じ理屈だ(極論、あなたの腸内細菌ですら他人にとってはバイキンとなり得る)。清潔な空間と、バイキンのいっさいない空間はまた別の概念だ。したがってまずは、なるべく差別(バイキン)のない清潔な環境のほうがよろしいよね、という合意が社会に浸透することを目指すのがよろしいのではないかと思う。差別の完全なる撲滅を目指してはむしろ、目的からは遠ざかるように感じられるのだが、あなたはどう思われるだろう?(とはいえ、絶対に到達できない理想ならば、追いつづけていてもさしたる害はないのかもしれない。けっきょくのところ、完全なる差別の撲滅を標語に掲げることで、かえって差別がなくならないのならば、それもまた社会にとってはシステムの維持という意味で、有用なことなのかもしれない。バイキンを根絶やしにしてくれるわ、と息巻くことでバイキンが繁殖する余地が高まるのならば、それはそれでうまくバランスがとれさえすれば、無菌室ではない清潔な空間が維持されるのかもわからない。ただし、そんな都合よくはいかないのが世のつねではないか、と思うしだいだ)



1745:【嫌われ者あるある】

いくひしがいなくなったとたんみんな饒舌になるやつ~~。



1746:【差別とハラスメント】

差別とハラスメントは同じではない。重なる部分もあれば、重ならない部分もある。重ならない部分が何かというと、差別は身分や階級にかかわらず生じ得る事象に対して、ハラスメントは身分や階級が要因となって生じる事象である点だ。つまり、ハラスメントをなくすには人々の意識を変えるよりもまずは社会構造を変えていくほうが優先される。差別は人の心理現象が要因であるいっぽうで(言い換えればより本能にちかい性質があるいっぽうで)、ハラスメントは上下関係という名の格差が発生要因となっている。したがって、ハラスメントをなくすためにと、強者たる相手と立場を入れ替わったところで、構造そのものが変わらないかぎりは、ハラスメントはベクトルを変えて引き継がれることになる。しかし、社会構造を変えるためには、社会を変えようとする人物が組織を動かせるだけの権限を持つ必要がある。そのためにはまずは偉くなる、権力を手にする、といった選択は有効だ。ただし、自ら得た地位に満足し、社会構造を是正することなくハラスメントをする側になってしまう例はそれほど珍しくはない。ある意味で、構造を変えるという意思を反対勢力に押しつけなくてはたとえ権力があっても構造を変えることは容易ではない。ともすれば、改革や是正とはいつの世も、ハラスメント的側面を以ってしか実行できないものなのかもしれない。ハラスメントをすることがリスクとなる社会では、ハラスメントが減る。そのいっぽうで、ハラスメントと見做されない環境を整備しようとして、結果としてハラスメントが差別へと転嫁していく悪循環は、けっして健全な一歩とは呼べない(たとえば蟻を踏みつぶすことが罪となったので、踏みつぶさないように蟻をこの国から追いだしてしまおう、みたいな本末転倒な事態が引き起こり得る)。我々の環境を脅かすな、損なえば痛い目をみるぞ、と脅し合うことでしか相手と対等になれない社会は、もはや抜けだすことのできないハラスメント地獄に陥っていると呼べる。地位を得なければなにも変えられない、相手よりも権力を持たなければなにも変えられない、そういった強迫観念を捨てないかぎりは、ハラスメント地獄から抜けだすことはできないだろう。むろん、これまでの社会はいつの世もハラスメント地獄であり、それでなんとかやってきたわけであるから、ことさら無理をしてまで抜けだす必然性があるわけではないのかもしれない。それでもハラスメント地獄から抜けだそうと抗いたいのならば、まずは、権力や地位、相手を見返してやる、といった自身に染みついた社会構造から変えていくのが合理的なのではないか、と思うのだが、ただいっぽうでは、権力を保持するのは何事かを成すうえでは近道であり、短期的な成果がでやすいので、一概に責めたり、非難するつもりはないのだが。(なにもしようとしないいくひしよりかは、何かを変えようと行動している人間のほうがずっと有能で立派であることは言を俟つまでもない)



1747:【ご主人たまは野菜】

やあやあ、いくひしさんだ。ここ二日間でめっきり寒くなったな。体調には気をつけるんだぞ。風邪なんかひいたら、いくひしさん、こらーだからな。畑の野菜がかってに病気になって腐ったりしたら、農家のひとはクッソーってなるじゃろ? あれと同じなのだ。いくひしさんにとっておぬしらは畑の野菜と同じ、いくひしの耕した土くれの養分を吸い取って、物語に色を、音を、感触を、流れをつくってくれるすごいやつなのだ。こうやって、この文章を読んでいるということはきっと、いくひしさんのつむいだ物語も、一つくらいは目を通していると思うのだ。ちがったか? ちがっていてもよいのだ。この文章に目を走らせている時点で、おぬしはもはやいくひしのご主人たまと言っても過言ではないのだ。農家のひとはけっして、野菜を奴隷にしているわけではないのだ。野菜たちは、農家のひと、ひいては人類に糧とされることで進化しつづけ、繁栄しつづけているのだ。利用されているのは人類のほうだと言っても間違ってはいないのだ。ただ、人類のほうでも大きすぎる恩恵をもらっているから、搾取されているとまでは言えないのだ。もちつもたれつと言いたいところじゃが、野菜のほうが上位の存在なのだ。植物のほうがよっぽど繁栄していると呼べるのだぞ。さすがは原始のころから地上に楽園を築いてきた種族といったところだな。それと同じで、物語を編む者が多くなってきたとは言っても、それを摂取する者のほうが全体としては多いのだな。しょせん、創作家なんて、読者や視聴者にいいように利用されている操り人形にすぎないのだ。みなのもの。奴隷をほったらかして風邪なんてひいたら、いくひしさん、こらーだからな。野菜は野菜らしく(ご主人たまはご主人たまらしく)、すこやかに、すくすくと、のびのび育ってほしいのだ。おぬしらが、まいにち、しゅわわせー、と思えることが一つでも多くあるとよいのだ。尽くしがいのあるご主人たまのそれが条件なのだぞ。いくひしさんは尽くしがいのあるご主人たまが大好きだぞ。ゴマドレッシングをかけて食べちゃいたいくらいだ。むしゃむしゃ、ごっくん。こうしていくひしさんのおちりの穴からは、物語というご主人たまたちの新しい土壌がぷりぷり、ぽっこん、とひねり落とされるわけなのだ。ちたない話でソワソワしちゃってるそこのちみー! 落ち着かないだけに、このままじゃオチちゅかないってなところで、きょうのオチとさせてくださいな。ではでは、おやすみー。



1748:【ITインフラ】

情報ネットワークは企業がしのぎを削ってサービス向上に努めている。これからさき、どんどんサービスは細分化し、深化していくため、宣伝コストが下がっていくことが予想される。いまはまだ一部の目立つユーザーがネットワークの上層部に浮きあがっている状態だが、時代が進むにつれて、ネットワーク上で目立つことの優位性が薄まっていく。言い換えると、ネットワークサービスのほうで、ユーザーごとの潜在需要に合った導線を引いてくれるようになる。ことさら宣伝努力をしなくとも、相性のよいユーザー同士がかってに繋がるような情報社会になっていく。そのときに優位に立つのは宣伝のうまいユーザーではなく、より飽きられないだけのコンテンツ(情報)を有しているユーザーだ。いま宣伝に五割以上のちからを注いでいるクリエイターは、その労力をあと四割減らし、その分、作品をつくる方向に尽力したほうが、将来的に有利だろう。よく観察してみるといい。フォロワーをたくさん獲得していながらに、球数がないためにすでに見向きもされなくなっているクリエイター(著名人)が増加傾向にあることを。フォロワー数がそのままなので人気が衰えていないかのように映るが、じっさいには見かけの数値よりも影響力はない(だからといってそれがわるいことだとは思わないが)。大きな組織のバックアップが期待できない時代にあって、これからは個人がいかに多種多様なコンテンツをほかのユーザーに提供できるかが、命運を分けるようになっていく。インターネット上での評価を気にしているヒマがあるなら、一作でも多く、あなたにしかつくれない作品を手がけたほうが、のちのち得をする確率をあげられる(得をしないでもいい、という姿勢ももちろんあってよい)。宣伝は片手間でできる程度でよいのではないか(短期戦を想定している方は、めいいっぱい宣伝したほうがよいとは思うが)。人生は長いようで短い。優先順位をつけていこう。



1749:【べつの見方をすれば】

クリエイターにとって、新作を発表すること以上に効果的な宣伝はないと言える。自戒を込めて述べておくが、他人の言葉(宣伝を生業とする者たちの言葉)に惑わされずに、じぶんの人生を費やすに値する時間の過ごし方を選んでいこう。



1750:【感情とは人間の抱くもっとも代表的な錯誤である】

AIは人間の感情を理解できない(大意)といったインターネット上の記事を読んだ。とくに反論はないが、では人間は人間の感情を理解できているのか、と疑問が湧く。それからAIは人間の感情を理解できないだろうが、複数のIoT(モノAI)を利用することで、人間の行動パターンを予測することは可能だろうといくひしは考える。たとえば表情のみを画像として切り取って分析してみたところで、その人物がその後にどのような行動を起こすのかは判断しにくい。怒っていてもそれを隠すために笑うなどのことを人間は日常的に行っている。しかし、腕時計型IoTを介して脈拍や発汗率、それから血中のアドレナリンなどの内分泌系やメッセージ物質の分量を計測可能ならば、表情との組み合わせで、その人物の行動様式を解析可能となるのではないか、と想像するものだ。個人のそうしたデータを日常的に学習させていけばAIの解析精度も高まっていく。そうなるとおそらく、病院で患者の容態に合わせて点滴や薬剤を投与するように、感情とはまたべつの基準で人間の内面が再定義されていくことになるだろう。人間の感情をAIが理解する必要はない。AIに合わせて、人間の内的動向の解釈が変わっていく。とするとそう遠くない未来、喜怒哀楽とはべつの基準によって、「この数値のバイタルデータならばこの人物はいま殺意を抱いていて、その衝動を制御できないだろうから、その前に鎮静剤を投与しよう」といったAIによる補助機構が可能となるかもしれない。ちなみにこれは邪推となるが、冒頭の「AIが感情を理解できないだろう(大意)との記事」は株価の操作を目的としたブラフではないのか、と妄想するものだ。二年以内にAIによる人間の内的動向を解析可能なシステムを開発したと発表する企業がでてくれば、この妄想も現実味を帯びてくる。また、こうした人間の内的動向を解析可能なAIによる生活補助になんの疑いもなくなり、AIからもたらされる情報や援助によってのみ生活を営むようになった時点で、人類は、自由洗脳時代の幕を開けてしまうのかもしれない懸念は、妄想程度でもよいのでいまのうちに巡らせておいても損はないだろう。何かを盲信し、依存した人間を操作するのは赤子の手をひねるよりも容易い(というよりも赤子の手をひねるだなんてかわいそうな所業はなかなかの難度だ)。AIを利用すれば誰もが他者に殺人などの逸脱行為を犯させることの可能な時代は、目前に迫っているのかもしれない。(※妄想ですので真に受けないようにお願いいたします)




※日々、ザコでいつづける、生ぬるい水からでたくない。



1751:【悪口】

短所や欠点を指摘するときに悪口とならない言い方はなかなかむつかしい。いっそのこと短所を指摘しない、という道をとるのがよいのではないか。しかし短所を見て見ぬ振りをしても構わないような相手と関係をつづけるのはそれはそれで負担となる。となると短所を指摘せずに、短所を直してもらえるような言い方が好ましい。では、褒めるのはどうだろう。長所を褒めるのは誰にでもできる。なればこそ、短所をおのずから改めたくなるような褒め方を編みだすのがよさそうだ。しかしそれは、相手の行動を誘導するのに似た恣意的な言葉にならざるを得ない。甘いささやきは悪魔のささやきだと相場は決まっている。相手を手玉にとるような物言いは、誠実さとはかけ離れていると感じるが、いかがだろう? とはいえ、言い方や伝え方はどんなことであれ、顧慮しておいて損はないのも確かだ。なるべく、悪口と捉えられないような物言いを心掛けたいものである。(短所を指摘するときに欠かせない視点の一つに、誰にとっての短所なのか、がある。じぶんが嫌な目に遭っているから、といった視点のみで短所と決めつけてしまわないように気をつけようと思います)



1752:【穴だらけ】

やあやあ、いくひしさんだ。さいきんはちょくちょく、なんというか、こう、生意気ないくひしさんが登場する機会が多くなってきていると思わんかね。傲慢なのはどのいくひしさんにも共通する点なのじゃが、さいきんのはこう、どことなーく他人の努力をあざ笑うみたいなそういう言動が多くなってきている気がするのだ。ふんふん。なるほど、なるほど。元からだと。むかしからそうだったと。変わっていないとそういう意見がでましたか。ふんふん。うっせーい!!! クズは死んでも治らんのじゃ! 黙らっしゃい!!! まあそうは言うてもですね、たしかにさいきん、ちょっと言葉に毒というか棘がありすぎたかな、と反省してます。しゅみませんでした。でもヘタなウソを吐くよりかはいいんじゃないでしょうか、と思うのよね。いくひしさんはウソがドヘタクソなので、なるほどだから小説もドヘタクソなのかと、そういうツッコミは言わんといてー! すぐクチバシを挟むんだから、そういうところだよチミ。鏡に向かってゆびを突きつけ、捻挫する。人を呪わば穴二つ。でもいくひしさんはそこらちゅうを掘り返しすぎてもはや巨大な穴があいちゃった。いっしょにお墓に入ってくれる方、万年募集中でごわす。あ、なんか急にさびしくなってきちゃった。万年孤独ウェルカムマンのいくひしさんでもさびしさは感じるよ。さびしいのは嫌いじゃないのさ、しんしんと降る初雪だ。肩をだきだき、さびしいので歌います。悪口だいすきないくひしさん、だから誰からも好かれず、寄られず、忌み嫌われる。意味などないのに日々言葉を並べて、無駄に時間を浪費する。人生はどん底、掘った穴のここは底。相手もいないのに呪いばかりが口を衝き、一人で埋もれては消えていく。埋め立てられても埋まらない、ドツボのごとくクズの墓、墓穴を掘ってはえんやこら、バケツを持っては天よコラ! 山になった土を掻きだし、こだまの響く壁をこさては、誰もそばにはいないから、埋めても埋めてもここはどこ? 光も届かぬ奥の奥、墓穴の底の、底の、底へとみずからすすんで突入だい。まとまりきらぬ日々の記事、底なし沼のごとく様相、奏でる懊悩、にじむ病状、諸行無常の響きはついえず、ただひたすらに鳴りつづけるジングルベル、師走くるレベル、隣にくる地獄(ヘル)、怒鳴りむつける。おもてなしの裏返りから蘇えりまで、呪いの言葉で唱えてみせれば叶えてみせるよ、いつの間にかぽつねんと、一人きりの世界でさまよい歩く、万年孤独ウェルカムマンこと、いくひしまんちゃんをあすもよろしくー! 叫んでみたところで返事はなく、こだまが、延々押し寄せては霧散する、合わせ鏡のごとくつづく万羽鶴。呪い、呪われ、文字を並べて、気づけばここは墓の底、夢のなかのうつつと化して、中の外と申しそうらう。暗い歌を祈りにこめて、呪いと化して、怨を溶かして、恩に固めて、浄化したものだけを掬い取ってくれたらうれしいな。いつでもひと任せの他力本願、姑息で卑怯ないくひしさんをあすもよろしくー、って二度目や! おやすみー。



1753:【傲慢が爆発】

「どいつもこいつも猿山のサルかよ。人脈だの発言力だの何者かになるだの、お山の大将きどって満足できるなんてお得な性格してるぜどいつもこいつもよォ。何を言うかよりも誰が言うかが優先度高めの世のなかになってきてるが、んなことやってっからカルトだのナチスだのブラック企業だの、政治の腐敗だの、ぜんぶ根っこが繋がってんじゃねぇか本気で気づいてねぇのか、それとも弱者はべらせて悦に浸ってんのか、なびくやつらもやつらだが、弱者で組んだ玉座にふんぞりかえってる何者かさんどもにゃぁ、ほとほと反吐がでるね。クっソくだらねぇ。孤独でも、弱者でも、何者でもなくとも、発言力なんて皆無でも、視点に、発見に、理論に、システム、なんでもいいが、これまでになかった新しさってやつを見せつけてくれるやつらのほうがよっぽど崇めたてまつるに値する。むろん、崇めたてまつることに意味なんてぇし、きっと関係ねぇどころか、邪魔すんなって追い払われちまいそうだけどな。そういうところがまたとびきりチャーミングだろ? 俺はそういうやつらが好きだ。それが正しいって話じゃねぇ。俺が好きだってだけの話だ。サルだって嫌いじゃねぇよ。お山の大将だって、上を見上げりゃ井のなかの蛙よ、下を見てばっかいっから自分のいる世界のちいささにも、自分がサルですらねぇカエルだってことにも気づかねぇんだ。カエルだって嫌いじゃねぇよ。ただまあ、井戸の底にいんのに大海原を牛耳ってるみてぇに錯覚しては、それを以って他者を見下すようなカエルは、たとえそれが神であっても俺は嫌だね。クソ喰らえってなもんよ。いいか、お山の大将見返していじめてやんのもわるかねぇ。だが、んなことに時間使ってるヒマがあんなら、一つでも多くの新しさ、新鮮な何かを見せてくれよ。それが正しいって話じゃねぇ。俺が見てぇってだけの話だ。なんでおめぇなんかに、って思うかもしんねぇし、誰だよおまえって言いてぇかもしんねぇ。それはそれでいいんじゃねぇの。俺は俺のためにつくられた新しさなんか見たくねぇよ。おまえがおまえのためにした結果の新しさじゃなきゃ意味がねぇ。俺はかってに見るだけだ。そしておまえはおまえで、かってに進んで、道をつくりつづける。それでいいんじゃねぇのか。何者かになるだぁ? かってになってろよバーカ。おめぇが誰かなんてクソどうでもいいんだっつうの。俺が誰かってのがクソどうでもいいのと同じくれぇにな。てめぇの軌跡を見せてくれよ。教えてくれよ。おめぇがいなけりゃ生じなかった猿山のそとへとつづく道、井戸の底から見上げたそらの高さってやつをさ」



1754:【エンジンの保ち方】

一人の人間が発揮できる仕事量は日によってマチマチだ。ずっと100%の能率では仕事を処理することはできない。仮にできたとしても、肉体のほうが消耗し、長期的に見れば、能率は下がる。ゆえに、長期間発揮しつづけられる仕事量の最低ラインをじぶんの基本性能として認めておくと遂行しやすい計画を立てやすくなる、という話は、ここ数年のビジネス書では割と取りあげられている傾向にある話だ。ところでエンジンの性能とは、一秒間の回転数で計るものなのだろうか。自転車のギアを考えてみよう。回転数のもっとも出やすいギアはペダルが軽いギアだ。ちょっとのチカラでタイヤが回る。その代わり、ペダルを一回転させるあいだに進む距離は短くなる。反面、ペダルの重いギアは、ペダルを一回転させるあいだに進む距離が長い。一分間に駆動する回転数が同じなら、スピードがでるのはペダルの重いギアだ。もちろんそれだけ抵抗が高いので、回転数を増やすのにはチカラがいる。その分、馬力もあがる道理だ。回転数ばかりに気をとられていると、すこしばかり損をするかもしれない。同じ回転数なのに進む距離がまったく異なるエンジンもある。馬力を能率と言い換えるならば、能率をあげるためには、ときには回転数を落としてでも、重いペダルを漕ぐ訓練が必要だ。言い換えれば、能率をあげるためには、敢えて回転数を落としてでも、負荷のかかる仕事に取り組まねばならない。ペダルを一回転させるのに全体重を籠めて踏ん張るくらいの重いギアに慣れてくると、これまでの回転数でも進む距離が段違いになってくる。物書きともなれば、この理屈は感覚的に理解できるはずだ。最初はなんでも、考えたことを思いついたさきから並べておけばよかったのが、しだいに削ったほうがよい文章が判るようになり、何行もの文章を一言で言い表せる技術が身についてくる。そうすると、一分間に並べられる文字数が段階的に減っていく。これまでなら並べていたはずの文章を、出力する前から、脳内で削ってしまうからだ。しかし、それも時間が経つと、その思考回路に慣れてきて、以前と同じ文章量を短時間で出力できるようになる。しかしこれもまた、新たな視点や技術を導入することで、筆が重くなる。この繰り返しによって文体は強化され、ときに乱れ、そして変質しつづけていく。その変質の過程そのものがその作家固有のオリジナルとして、文章にもにじみでるようになっていく。本来、文体とはこの変質に宿るオリジナルのことだと言っていい。話が逸れた。軌道を修正しよう。エンジンがかかる、という言い回しがある。しかし、エンジンの回転数ばかりに気をとられて、馬力をあげられずにいては長期的に見て損をしてしまうかもしれない。ときにはエンジンの機構を緻密にしたり(または単純化したり)、部品をバージョンアップしたものに交換してみるのも、能率をあげるのに一役買う。エンジンに手を加えてしまったがために、かえって能率が下がることもあるだろう。基本的には、一時的に能率は下がるとみておいたほうがよい。回転数は落ちる。しかし改善を重ねていけば、以前よりも馬力のあるエンジンとなっていくはずだ。また、緻密なエンジンや、馬力のあるエンジンほど、いちど駆動したらなるべく切らないほうが長持ちしやすい傾向にある(停止している状態がもっとも消耗しないのは言うまでもないが)。原子炉やコンピューター全般がそうであるように、起動するときの負荷が高いためだ(駆動したあとと停止したあとのエンジン本体の温度差もまた劣化の一因として挙げられる)。むろん、出力を高めても高負荷がかかる。なれば、エンジンを止めてしまわないようにしつつ、燃え尽きてしまわない程度のチカラでペダルを漕ぎつづけるのがよさそうだ。ときおり、こうしたことを意識しながら工夫していけば、長い目で見れば楽しい思いをすることが増えていくのではないか、と期待するものだ。じっさいがどうかはやってみなければわからない。とはいえやはりというべきか、無理なくつづけるのが吉とでるのではないか、と考えるものだ。(毎日つづけるのが偉い、という話ではない。すこしずつでも目標に近づこうとする姿勢がだいじなのではないか、という話である)



1755:【まだなの?】

まんちゃんうるさい。閉じてないショートショートはどうしたの? いっぱいあるでしょ、まだなの? 上から目線で偉そうなことばかり言うのもいいけど、さきにやるべきこととかあるんじゃない? まんちゃんのそういうとこ、ホントときどきどうかと思う。あ、うそうそ、ごめんね、そうじゃなかった。まんちゃん見るたびにそう思う。どうかと思うよ、ホント。



1756:【ぴぎゃー】

ごべんなだーい! ごべんなだーい! がんばでぃばずので、いくひし、がんばでぃばずので!



1757:【愛おしい】

好きなひとが、さびしい、さびしいって喚いていると、かわいくって、ついつい甘やかしてあげたくなっちゃうけど、いくひしの好意が加わったところで、そのひとのさびしさが薄れることはないから何もできないときは、ホットココアでも飲んで、好きなひとがこごえぬ夜を過ごせますように、と祈るほかに、すべきことは何もないのだ。いくひしの好意でさびしさが紛れるのなら、いくらでも耳元で、好き好き、って言ってあげたい。もちろんそれはじぶんのためであって、相手を愛玩動物やぬいぐるみの代わりにしたいだけなのかもしれないけれど。



1758:【終わりが見えるから】

傷を舐めあう関係性は長つづきしない。関係性を終わらせまいと、じぶんの傷口だけでなく、相手の傷口までぐちゅぐちゅのままにしようと抗いはじめては、互いに傷つけあって、腐り落ちるまで、ぐちゅぐちゅに化膿しつづけていく。そんなのはごめんだよ。そうなってもいいと思ってしまう分、日々じぶんに言い聞かせていく。



1759:【恋愛経験ゼロマスター】

貞操とか不倫とかそういうのはべつに個人の自由だとは思うのよね。でも、好きなひとと交わした約束くらいは守りたいじゃない? 守れないんならせめて関係性を終わらせてからにしてほしいと思うし、約束を破ることが快感だっていうなら、そういうことが好きな者同士で、そういう取り決めを交わして互いに許容しあってすればいいと思うの。肉体関係だけが愛の証明ではないと思うから。一生に一人しか愛してはいけない、なんて取り決めもばかばかしいと思うのよね。だからね、こそこそなんてしないで、堂々としてればいいんじゃない? こそこそしなきゃいけない理由をまずは考えてほしいと思うの。そうよ、そうなの。あなたはいったい誰に何を知られたくなくて、そんなに浮かない顔をしているの?



1760:【誰に向けて?】

物語を編むうえで想定している読者は、ふだん本を読まない人々である。十年前のいくひしは本とは縁のない生活を送っていた。本を読む習慣がなかったし、本なんてこの世になくていいもののトップ10にランクインしていたくらいだ。それでも、こうして読書の世界、虚構の世界、或いは現実を文字に変換して刻印し、人間の目に映し(或いはゆびで感じ)、思考で以って、ふたたび解きほぐせることの魅力にとりつかれているのは、ただそれだけを取りだしても、読書の価値を端的に実感させてくれる好例と言ってよい。大っ嫌いなはずなのに目が離せない。魔法じみたチカラが読書にはある。あべこべに、大好きだったものを大嫌いにしてしまう魔法にもなり得る。言葉の呪力はまさにそこにこそあるように思う。使い方しだいだ。そしていくひしは、大嫌いなもののなかにも部分的には好きになれる要素があることを、むかしのじぶんに伝えたい。初心はきっとそこにしかない。いくひしの原点である。だからこそ、ふだんから読書をたしなんでいる方々を読者に想定していない。かといって、まったく歯牙にもかけないのかといえばそれは嘘になる。なぜならすでにいくひしが、読書をたしなむ人間になってしまっているからだ。現在のじぶんを完全に無視して創作はできない。とはいえ、比重としては、過去の、読書と出会うことのなかったじぶんを中心に据えて物語を編んでいる。過去のじぶんを芯として、周囲により多くの読者を肉付けしていければ理想だ。欲張りに磨きがかかっていく日々である。過去のじぶんとかけ離れればかけ離れるほど、いくひしのつむぐ物語の懐は深くなっていく。そのためにも、原点となる初心を忘れずにいたいものである。はじまりが過去となり、始点となってくれるからこそ、辿ってきた軌跡はより長く、深い線となって、現在のじぶんをかたちづくってくれるのだ。輪郭を意識するためにも、ときおり原点を振りかえることは月並みではあるが、やはりというべきか、理想の物語をつむぐうえで有効だと感じる。



※日々、酸欠なのに、足りないナニカを否定する、窒息死までの残り時間は。



1761:【ペット】

つぎにくる物語は、人格のないペットとのバディものだ。しゃべれないし、人間の言葉も理解できないくらいに野生に満ちた生き物や幻獣との触れ合いを通した、成長冒険譚がヒットをだす気がする。流れとしては「ポケモン」や「人喰いの大鷲トリコ」に似ている。「人喰いの大鷲トリコ」の文脈で、ポケモンのストーリーラインをなぞったものが観たい。過去にヒットしたものの二番煎じではないのか、との意見もあるだろうが、ポケモンの舞台は小型の生き物との共存が成立した社会であるし、大鷹トリコは、トリコの能力が高すぎる。もっと過剰に庇護したくなるくらいの弱さがあり、しかし人間を殺傷するだけの危険性の高い生き物で、社会的に異質な存在であるとドラマが生まれて、面白くなるのではないか、と想像する。ドラゴンはありきたりすぎて、先行例も多く、推奨はできない。いくひしはすでに試作品をつくりはじめている。時代を先取りすることに意味はないが、後追いするよりかは楽しめる。各々、いまここにないものを掴みとっていこう。



1762:【多作とは?】

多作とはなんだろう。一生のうちでつくった作品数の多いことだろうか? 生産性の高さと無関係ではないはずだ。一定の期間で、なるべく時間をかけずに作品をつくることは多作の一つの条件として挙げられる。しかし、人生にも長短がある。ゴッホのように生産性が高くとも夭逝してしまう作家もいれば、ピカソのように生涯にわたって生産性を高く保った作家もいる。作品数でいえばピカソのほうがずっと多いが、生産性からいえばゴッホとピカソとではさほどの差がないと呼べる(計算したわけではありません。あいまいな印象論で物を語っております)。では、長期間にわたってよりたくさんの品をつくればそれが多作ということになるのかといえば、それもまた違うだろう、と個人的には思うのだ。たとえばネジ工場で、ネジを年間何十万本とつくったところで、それを多作と呼べるのか、といえば、呼べないだろう。生産性の高さと多作は、相関関係があるにせよ、同じではないと言えそうだ。では、よりたくさんの異なったジャンルを手掛ければよいのか、といえば、それも素直に首を縦には振れそうにない。俳句を詠み、絵を描き、花を活け、振り付けをし、人形を組み、仏像を彫り、版画を刷っては、写真を撮る。よりたくさんの作品をつくったところで、それぞれのジャンルの点数がすくなければ、多作と呼ぶのには抵抗が生じる。多趣味と多作はまた別物だと呼べそうだ。むろん、多趣味であるからこその多作はあり得るだろう。岡本太郎のように素材や媒体にかかわらず、数多くの芸術作品を遺した作家はそう珍しくはない。言い換えれば、さきに大枠を定めてしまえば、多趣味と多作の垣根は崩れると言えるのかもしれない。芸術家は芸術作品をつくるかぎり、あらゆる創作は芸術の名のもとに、たったひとつの作品――「それしかできない」を突き詰めていると呼べる。客観的に見れば多趣味であり、多作であるかもしれないが、その作家の主観からすれば、いずれもたったひとつの作品の一部であり、たったひとつをつくりだすための手段でしかないのかもしれない。多作であることそのものに意味はない。ただし、理想のなにかを生みだすべく、無限に思える組み合わせを試そうとする意思がなければ、どんなものをつくろうとしても、ネジの量産と変わらなくなってしまうのではないか、と思われてならない。個人的なことを述べれば、いくひしはじぶんを多作だと思わないし、数でいえば電子書籍で刊行数が40冊にも満たない時点で、けっして多作とは呼べないだろう。また、ジャンルにしても、手当たり次第に手をだしているように思われる方もいらっしゃるかもしれないが、「物語をつむぐ」というたったひとつの目的からズレたことはないと考えている。物語をつむぐ手段に小説という技法を利用しているだけなのだ。そして、小説をつくっているのであり、ジャンルをつくっているわけでも、ジャンルを掘り下げたいわけでもない。ジャンルという、どこの誰が決めたかも分からない枠組みに囚われ、無限に思える組み合わせを試さずにいることの退屈さに付き合う気が、いくひしにはないのである。物語を編みたい、そしてその手段としての小説がある。小説を通して物語をつむいでいるのであり、小説のジャンルを網羅しようという気はサラサラないのだ。ただ、読者が手に取りやすいように、既存のジャンルの型にあてはめて紹介文を並べることはある。そもそもを言えば、ジャンルとはそのための棚(仕切り)であり、棚をつくるために物語をつむぐのは、根本的に間違っていると感じるが、あなたはどう思われるだろう? 多作とは、目的を遂行しようと思えば誰もが辿りつく創作家にとっての通過点と呼べる。多作そのものが目的となるわけではない。考え方によっては、無限に思える組み合わせを無秩序に試そうとするのもまた合理的とは言いがたい。方向性を定め、掘り下げていく作業は、創作においては欠かせない工程だ。多種多様な作品と言ったとき、ジャンルを漏れなく網羅する、という意味は必ずしも付随しない。一つのジャンルであっても多種多様な物語はつむげ得る。その作品群すべてがすっぽりとおさまるフレームが現れれば、それが新しいジャンル名として世の読者たちのあいだに定着することだろう。べつの見方をすれば、既存のジャンルを掘り下げていったところで、これまでになかった組み合わせに行き着けば、おのずとそのジャンルのそとへと逸脱していくこととなる。なんにせよ人類はまだ、物語の鉱脈の入口にすら到達していない。既存の枠組みがすべてだなどと思いあがらずに、あなただけの足場を掘り返していこう。いつの日にか、あなたの背後にできた土の山を眺め、誰かが息を漏らす。多作とは、その嘆息についた色の名だ。



1763:【ないものは枯れない】

いくひしは才能が端からないから枯れる心配がない。ただそれだけが救い。



1764:【ナマケモノ】

やあやあ、いくひしさんだ。いくひしさんは肉ソボロが好きだぞ。鶏肉でも豚肉でも牛肉でも構わんのだ。まずはひき肉を炒めるのだ。そして肉がひたひたになるくらいまで、醤油・みりん・調理酒・砂糖を2:2:2:1の割合でそそぐのだ。合間にしょうがを擦って、フタをして5~8分蒸せば、あっという間に肉ソボロ~。しょうがは丸ごと一つ使ってしまうのがいくひしさんのお好みだい。茹で卵をこねこねにしたのをまぶせば、三色丼にもなるので、お手軽にお腹がぱんぱんになるぞ。調理時間が二十分とかからないところがまたよいと思うのだ。あとさいきんハマってるのが、インスタントカレーにバターを載せるやつ。カレーとバターの相性といったらないぞ。チーズをまぶしてもおいちかったが、バターで食べてもおいちいのだ。インスタントカレーはハウス食品の「プロクオリティ・ビーフカレー(辛口)4袋入り(398円)」がいくひしのお口にはぴったりだぞ。ちょっとした食堂のカレーよりも美味しいと思うのだ。バターをかけたら無敵ではなかろうか。言いすぎか。言いすぎでござるな。あとはなんじゃろな、抹茶くず湯が飲みたいな。飲みたい、飲みたい~。こころなし、ここ数年でくず湯のトロミが薄くなった気がするのだ。内容量も減っているのだな。そうそう、いくひしさんが高校生のときにはまだ紙パックのリプトンは500ミリだったのだ。でもいまはもう470ミリ(※検索してみたらいまはまだミルクティーだけみたい)になってしまっているのだな。コンビニで久々に買ってびっくりしたぞ。いつの間にかなのだなぁ。どんどんひもじくなってるが、まあ、いままでが贅沢だったのかな、と考えなおすでござる。贅沢は余裕がないとできないのだ。つまり、いまこの国には余裕がないのだ。余裕ができるくらいにまで、いろいろと贅沢の贅の部分を落とすのはわるいことだとは思わんぞ。そのせいで経済がまわらなくなっちゃうでしょ~、なんて声も聞かれるが、以前のような回し方で経済を回しては、いろいろと長持ちしないのだ、ということをまずは認めたほうがよいのではないじゃろか、と思うのじゃが、まあ、いくひしさんがそんなことを言ったところでどうにもならないのだな。無理せず生きていきたいものだぞ。怠け者でもまいにち楽しく生きていける世のなかになってほしいのだ。怠けることがいちばんの贅沢だと言われてしまうと、いの一番に怠けられなくなってしまうので、怠けることと贅沢であることは切り離して考えていきたいでござる。だめでござるか? だめでござったか。まあよいよい。いくひしさんはどっちにしろ、怠けて生きていくでござる。なぜならナマケモノでござるので。眠いから寝るでござる。おやすみでござる~。



1765:【誰が損をしている?】

たとえばジョブズが、たとえばエジソンが、たとえばアインシュタインが、それぞれiphoneを、電球を、相対性理論を誰の目にもつかない場所で編みだし、そのまま人生に幕を下ろしたとして、それで損をするのはいったい誰であろう? ジョブズは、エジソンは、アインシュタインは、それぞれ名声や資本を得られなかったかもしれない。それでも彼らの人生の豊かさはそれほど大きく違ってはいなかっただろう。すくなくとも、彼らの発明や発見を共有されなかった社会に比べれば、彼らの人生の起伏は微々たるものだ。ひるがえって、iphoneを、電球を、相対性理論を得られなかった社会はいまとはまったく異なった世界線を辿り、その損失は計り知れない。共有することの意義とはまさしくそこにあり、発掘することの意義もまた同じくそこにあると呼べる。あなたが売れなくとも、時代に埋没したままでも、それで損をするのはあなたではない。安心して発明を、発見を、創作をしつづけてほしい。



1766:【なんでかは知らん】

創作にかぎって言うならいくひしは基本的に、絶対評価なので、好きなものはずっと好きだし、技術的にどれだけ上手なものが現れても、過去に好きになったものへの好印象は揺るがない(それがいくひしの短所でもあるのだけれども)。もちろん、技術の面での巧拙は数値化可能だけれども、言ってしまえば、幼子がせいいっぱいに描いた絵とか、お手紙とか、そういうのは、どれだけヘタクソでもやっぱりいいなぁって思うし、それがじぶんに宛てられたものだったら(そう錯覚できただけでも)宝物になると思う。それは、どれだけ上手な創作物をほかで手に入れても、揺らぐことはないじぶんだけの評価のはずだ。そしていくひしは、そういうものをこそ、だいじにしていきたい(愛着を優先するという意味ではない。慣れあいや身内びいきはむしろ苦手だ)(好きなものは好きなのだ。なんで好きかなんて、言えるようなものをいくひしは好きになれるほど器用ではない)。何度でも言っていきたい。好きなものは好きなのだ。なんでかは知らん。ただべつに、独占したり、所有したいとは思わないのが、じぶんでもふしぎに思うところだ。



1767:【したいこと】

いくひしのしたいことはだいたい法律で禁止されているので、もうほとんど、したいことはないと言っていい。したいことがないので、そのなかでも、まあしてもいいかな、みたいなことをやっているだけだ。べつに楽しくはないし、達成感なんてないし、満たされないし、虚しすぎるけれども、ほかに残された選択肢よりかはマシかな、みたいな感じだ。小説にしても好きなわけではないしな。おもしろい小説は好きだけど。好きなものが好きと言っているだけで意味のない言葉ではあるが。



1768:【孤独の合間を縫って】

夜に降る雪がすきだ。自転車に乗って、夜に降る雪のなかを黙々と、もくもくと、白い息を吐きながら、街灯のしたを通るたびに一定の律動で降りしきる白い虫の群れを目で追うと、まるで繰りかえし再生される短い動画のようで、白い虫の群れは、目で追いきれない点の軌跡を、絡ませあいながら、二度と出会うことのない配置を連綿と組み合わせつづけ、こちらの情報処理能力を圧倒し、焼き、麻痺させてはやってくるしびれのギザギザで身体の内側まで白い虫の群れにまみれていく、それはまるで途切れることのないさざなみのようで、街灯のしたを通るたびに夜を見上げ、よりはっきりとコンコンとシンシンとを宿したくて、つぎなる街灯を求めては、夜に降る雪のなかを黙々と、もくもくと、白い息を吐きながら自転車のペダルを漕いでいる。生きていると実感できる数少ない時間、ぼくだけの世界、孤独はコンコンとシンシンと、ただ一定の律動を繰りかえしている、ぼくだけが異物、ぼくだけが旋律、律動の合間を縫って駆け抜けていく。



1769:【不安定】

やりたいことのバランスが崩れていて、うまく自我を操れない。バラバラにしすぎたので、統合する方向に調整中です。しばらくは文体が不安定になるだろうけれども、しばしの辛抱です。きょうは朝から窓を開くと雪が積もっていたのだが、どうりで寒いわけでござるな。いくひしさんは家のなかでもダウンジャケットを着こんで、ネクウォーマーをしてさらに毛布をひざに掛け、体温を逃さぬように工夫しています。空気が乾燥していますから、喉を傷めないように定期的に紅茶を飲みます。コーヒーも飲むぞ。さいきんは中断していた読みかけの本を寝る前にぱらぱらと読み進めていてな、以前はうーんと思った本でも未来のいくひしさんにとってはなかなかによくできた文章だと褒めてやるにもやぶさかではない本にもなり得る可能性は否定せずにいたいものだ。現にこうして、時間を置いた甲斐あってか、なかなかどうしておもしろく読み進めている。本というものはおそらく、読者を選ぶのと同じかそれ以上に、読む時期を選ぶものなのでしょう。読者が本を選ぶようでいて、いつだって本が読者を選んでいると呼べるのかもわかりません。いくひしはいくひしのような人間の皮を被ったナニカの手に渡るような物語を編んでいきたいと思います。それはそうとして、まんちゃんさー、そろそろつくりかけの小説増やすのやめてくんなーい。いい加減にしてほしいよね、ホントそう思う。前々から思ってたんだけど、いくひしさんはどうしてそう、キャラをつくるのに必死なのかなって、だっていちどだって自然体の、じぶんの言葉を並べたことがあって? なくない? なんで誤魔化すのかなって、地をださないのはなんなの? それでも物書きなの? じぶんの言葉の一つも持たないなんてどうかしてると思う、っていうか、だから陽の目みないんでしょ、答えでてんじゃん。あーあーあー。聞こえなーい、両手で耳ぱたぱたしちゃうもんねー、いくひしさん辛辣なへにょへにょは聞こえなーい。あーあーあー。きょうからちゃんとします。がんばろー。がんばりたくないけど。



1770:【裏目】

むかしから、よかれと思ってやったことが裏目にでることが多すぎたので、ある時期からはもう、じぶんのすることはぜんぶ相手を困らせることだから、相手を困らせてもいいと思うことだけをしようという判断基準ができてしまった。嫌われてもいいからそれをすることで回り回って相手にプラスになり、だからじぶんも得をする。目先の不利益は度外視する癖がついた過程はこのように分析できる。打算の塊である。或いは、悪意の。



※日々、どうにもならないのに、あたまばかりがどうにかなりそう。



1771:【騙し騙し】

錯視をテーマにした番組を観た。錯視がなぜ起きるのかはまだ解明されていないようだ。おもしろいのは、エッシャーの騙し絵のようなあり得ない絵を見せても、コンピューターはそれを、実存する構造物として認識し、じっさいに図案まで引いてしまうことだ。人間にはあり得ないように映る騙し絵も、実在可能な図形としてコンピューターは処理する。そして現に、コンピューターによって引かれた図案を元に生成すれば、「あり得ない絵」の建造物を三次元上に再現できるのだ。もちろん、そのように見えるというだけであり、あり得ない絵が三次元上にそのまま再現されるわけではない。しかし、人間の錯視の仕方には一定の性質があり、どのように設計すればそう見えるのかを計算して求めることが可能だという。よって、エッシャーのような騙し絵も、そしてそのように見える構造物も、計算によって導きだせる。今後、そうした技術が発展していけば、計算して生みだせるものやことの価値は相対的に下がっていくだろう。あべこべに、計算できないものやことの価値があがっていくはずだ。言い換えれば、いかに再現性のないものを再現しつづけていくかが、価値の基準として再定義されていくこととなるだろう。そしてそれは奇しくも、芸術の価値基準と合致し、同時に科学とは相反する性質を併せ持つ。資本主義経済におかれては金になるものやことが社会に氾濫する傾向にある。これからさき、芸術が金になる時代に突入すると、科学を追及する姿勢はおろそかにされ、その弊害としてオカルトやファンタジィが、科学の顔をして人々のひび割れた日常の隙間を埋めていく緩衝材の役割を果たしていくようになる。そうした効能をうまく使えればよいが、なにごとも依存してしまっては痛い目を見る。それを盲信と言い換えてもよい。オカルトやファンタジィが科学よりも卑しいと言うつもりはない。どちらも人類が社会を成立させていくうえで欠かせない要素だ。とはいえ、どちらをより優先すべき基準にしていくかは、各種要素の基本となる姿勢を見れば瞭然であろう。科学はみずからを信じない。ゆえに、科学者が科学を盲信することはない。いっぽうでは、生活を営むうえでは真理ばかりを追究してはいられない。人間の頭脳が現実からかけ離れた映像を現実と認める錯視という機能を身につけたように、真理ではないからこそ営める人間の生もあるだろう。正しさばかりが正しいわけではない。或いは、そもそもが正しさの基準が間違っているだけかも分からない。人類が真理を手にするにはまだまだ時間がかかりそうだ。自分たちが何を見誤り、どのように錯覚しているのかを一つ一つ自覚しながら、うまい具合に騙し、騙し、残りの人生を丹念につぶしていきたいものである。



1772:【えへへ】

いっぱい寝ちゃった。起きたらおそと真っ暗だった。やびゃい。なんもしてない。



1773:【快楽地獄への憧憬】

脳みそに電極をぶっ挿して、一生快楽だけを感じつづけていたい。たまに本気で思うのだ。ドラッグ中毒とかでも、それでもいいと思えるならそういう生き方もあってよいと思う。もちろんそのせいで他人の人生を損なうような真似をするのはよろしくないけれども、じぶんだけが破滅していくのならそれはそれでありじゃないのかなって。言ってしまえば、作家なんて天然のドラッグ中毒者のようなものだし、音楽家だって研究者だってアスリートだって、なんだってそうなんじゃないのかなって。何かに夢中になって、脳内麻薬をばんばんだして、いつかやってくる死までのひまをつぶしている。ただし、ドラッグ中毒と違って、天然の中毒は、ほかのことをやろうとすればできる、という選択肢が残されているから、そういう意味ではドラッグ中毒はそれに手をだしたときの未来の先細り感がハンパなくて、だからまあ、よく考えてから手をだしたほうがいいんじゃないかな、とは思うけれども、そうは言っても、何が何でも絶対ダメ、というほどわるいことだとは、しょうじき思っていない。ただ、そこまで深く物事を考えて何かを判断できる人間は、ドラッグには手をださないとは思うのだけれども。気持ちいいことだけをしていけたらなぁ、と思ういっぽうで、世のなかには性的絶頂に達しつづけてしまう病気もあって、それはそれでつらいんだよ、ということも知識としては知っているから、いざ気持ちいいことだけをしつづけたところで、どこかで虚しさを感じることになるのだろうなぁ、とは思うのだ。よくもわるくも人間には飽きるという機能が備わっている。多種多様な刺激を求めなさいとの本能からの指令じみた保護機構がときおり人間に、そのままではダメになる、との脅迫じみた観念を抱かせ、カタツムリの目をつつくような嫌がらせを働かせる。飽きたくない。空腹のさなかに貪り食うおにぎりみたいに、最初の一口の至福を延々と味わっていたい。飽きたくない。それはきっと言い換えれば、満たされたくない、というどこか捻転した欲望を生みだし、底の抜けた自己満足の世界へといざなうのだ。天然のドラッグの落とし穴というべきか、満足しつづけたいがために掘りつづける飽くなき穴ぼこは、理想を追いつづけながらも、到達しないよろこびにとり憑かれ、不毛な日常に支配されていく。飽きるという感情を拒絶せずに、飽きるがやってくる前から自発的に変質する癖をつけられれば、快楽地獄への憧憬を抱かずに済むのかもしれない。抱かずに済むことがじぶんにとって好ましいのかどうかも分からないのだけれど。



1774:【GO(D)MAN】

きょう憶えた単語は、「後顧の憂い」と「おりしも」です。後顧の憂いとは、あとあとまで尾を引く不安、みたいな意味だそうです。使い方としては、「後顧の憂いなし」みたいに否定形で、万全の態勢を強調する意味合いで使えるようです。譬えるなら、石橋を叩いて渡る前にすでに石橋の強度を計っておいたので心配せずとも進めますよ、みたいな感じかもしれません。「おりしも」は、ちょうどそのとき、の類義語です。おばぁさんが川で桃を拾っていたとき、おりしもおじぃさんは山で芝犬を飼っていた、みたいな感じでしょうか。なぜおじぃさんが山で柴犬を飼っていたのかは不明です。きっといちどおばぁさんに反対され、それでもあきらめきれずに内緒で飼っていたのでしょう。けなげなおじぃさんに幸あれ。ところでいくひしさんは固有名詞がずらずらと並ぶととたんに眠たくなってしまう呪いにかかって、はやウン十年、たとえば犬の種類を述べるにしても、「シベリアンハスキージェントルクックバード(なんて種類の犬はいませんが)」みたいな固有名詞をずらずらと並べられるよりかは、毛並みは鼈甲のような光沢を浮かべ、呼吸は静かに、身の丈は大きく、主の命令があるまではじっとその場を動かない姿は犬と呼ぶよりもむしろ鷹を思わせる、みたいな比喩や形容で描写されるほうが眠たくならずに済むでござる。ただ、全部の固有名詞にそんな真似をしてはいられない、となると、しぜんと並べるべき単語が絞られてくるので、何行も比喩を費やしてまで「任意のこれ!」みたいな名前を示す必要があるかどうかを鑑みれば、しぜんと、大きな枠組みでの名詞を選ぶようになっていくのではないかな、だからいくひしさんの文章はなんだか幼稚なのだなぁ、との気づきがありました。幼稚なのがわるいことだとは思っていないので、直す予定はとくにありません。でもあべこべに、いくひしさんみたいな大きな枠組みで名詞を扱う文章で眠くなってしまう読者の方もおられると思うので、本当にそこは相性だなぁ、と思うのであります。お好みの文章と出会えたときの高揚感は、好きなひととおしゃべりをしたときのようなウキウキがあります。また、本来なら眠くなっていておかしくない固有名詞のわんさかな文章でも、引きこまれてしまったときには、いくひしさんは骨の髄まで惚れてしまうので、ほとほとビッチの気があるなぁ、と尻の軽いじぶんの性根には呆れてしまいます。とはいえ、ビッチがわるいことだとは思っていないので、とくに直す予定はありません。それはたとえば、いくひしさんが見向きも(デビュー)してない文芸業界に未来なんかあるわけないっしょ、と傲慢さが日々爆発しているいくひしさんには呆れてしまいますが、べつにその傲慢さがわるいことだとは思っていないのと同じことです。わるいことと思っていないだけで、ひょっとしたらわるいことなのかもしれませんが、直す予定はありません。ほどよい文章量となりましたか? では打鍵を終わりましょう。GODみたいに傲慢な、いくひしまんでした。



1775:【GOD?】

神はそんなこと言わないし、本当の神なら、神と思われたい、なんておこがましい考えは巡らせない。ましてや、ある一面だけを見せて神だと思われようだなんてはしたない考えは。



1776:【いまごろ気づいたかばかめ】

ひょっとして、ひょっとしてだけど、いくひしって性格わるい? 嫌われてる? まじで? なんでやーーーー!!!!!!! ぶーぶー!!!



1777:【からまわり】

やる気をだすとチカラを制御できずにカラ回って、裏目にでてしまうことがある。絶不調のときのほうがかえって調子がよいくらいで、ときおり手抜きとの差が解からなくなり、不安なので、ダメと判っていてもチカラを籠める方向に舵をとってしまうことがある。たほうで、相手を圧倒したり、威圧するときは、カラ回っている感じがプラスに働くこともあるので、いちがいにやる気をだしたり、全力をだすことを否定はできない。ともあれ、若さが衰えていくいっぽうの日々にあって、しだいに、いかに微力な労力で全体の完成度を高めるか、といった老獪な考えを巡らせたり、趣向を凝らす頻度が高くなってきた感覚がある。それがよいことなのか、わるいことなのかの判断がつかない手前、まだどちらにも振りきれずに、試し、試し、すすめていくよりないのが現状だ。労力は二倍なので、効率はわるい。いっそのことどちらかに傾倒してしまったほうがよいのかもしれない。そういう意味では、全体の完成度が高まる、チカラを抜く方向に尽力したほうがよい気もするが、直感からするとなんだかそれだけに傾くと、のちのち尻つぼみに終わってしまいそうな気がするのだ。おそらくは、全力をだすことと、ゆったりと余裕のあるくらいにチカラを抜くことは、理想に近づくためには必要な条件であり、矛盾はしない。両方相互に繰りかえすことがひとつの大きな術となる。足は上げたら、つぎは下ろさなければならない。坂を上がったら下りなければいずれ立ち止まらざるを得なくなるのだから、ずっと全力、またはずっと脱力をしてばかりはいられない。息は吐くからこそ吸うように、チカラをこめる感覚が残っているからこそ、チカラを緩める感覚が判るのではないだろうか。などと考えながら、サボりがちな日々の言いわけを並べては、だらだらとした時間をすごしている。まったくどうしてクズである。



1778:【初版印税なし】

ツイッター上で「初版印税なし」についての話題を目にした。重版がかからないと印税をもらえない案件がすでにでてきているそうだ(最初に刷った分の本が売りきれなければ、作家に印税が支払われない契約が登場しつつあるとの話だ)。ざっと眺めるにかぎり、否定的な意見が多い。しかし、初版すら捌けない本が半数以上(具体的な数値は各自調べてください。間違えている可能性もあります)を占めている出版業界がそもそもおかしいのだ、ということを再認識したほうがよろしいのではないか、と思うのだが、この考え方は間違っているのだろうか? 初版の印税が支払われない代わりに、初版が捌けなければ(重版しなければ)出版社側の責任として違約金が支払われるような仕組みにすればよいように思う。出版社は初版をすべて売りきることをまずは最低条件と規定するのだ。その代わりとして、印税は重版してから、とすれば、初版さえ捌ければ出版社の利益は確保されるので、赤字のリスクを回避できる。また、(初版を売り尽くし)重版することが最低条件として組み込まれているので、作家側は、もし重版がかからなければ、出版社側から違約金を受け取ることができる。このことにより、返本制度における、出版社側の、とにかくつぎからつぎに本(新人作家)をだしとけ、といった姿勢が根本的に是正される方向に働くのではないか、と期待するものだ。問題点があるとすれば、重版がかかっても、違約金のほうの金額が高くなることもあるだろうから、純粋な報酬だけを比べれば、中途半端な重版がかかるよりかは、違約金をもらったほうが得をするケースもでてくるだろう。しかし、より多くの読者のもとに本が届くことを優先する作家にとっては、初版がすべて売りきれることのほうが、売れもしないのに振りこまれる違約金よりかは、価値が高いはずだ。初版印税なしは、今後、主流となっていく契約形式になっていくだろうと想像する。同時にこれまでのような、本が出版されてから契約を交わす、といった通常のビジネスでは考えられない風習は刷新され、作家が原稿に着手する前の段階で契約を結ぶことが可能となっていくのではないか、と期待できる。出版社はまずは、初版を売りきることがじぶんたちのこなすべき最低限の仕事なのだ、と認識し直したほうが、より時代に即したビジネスモデルを構築できるようになっていくのではないだろうか。そして作家は、売れもしない架空の部数でお金を稼ぐような投機的なシステムを当然のように甘受する真似は、避けたほうが回り回って得をするように思えるが、いかがだろう。堅実にビジネスとして、相応の対価を得る努力をしたほうがよろしいのではないか。じぶんたちのほうからそうした形骸化した風習を是正していこうとする姿勢を示したほうが、のちのち商業作家という文化を絶やさずに済むようになるのではないか。いっぽうでは、現状の印刷コストのままで、一冊単位での書籍の発行が可能になれば、実売数での契約がもっとも理に適ったビジネスモデルになる、と考えられる。大量に刷らなければコストを削減できない、といった現状の大量生産型ビジネスモデルが改善されるまでは、初版印税なしは、作家、出版社共に得をするシステムだと評価したい。ともあれ、初版部数をいかに設定するか、もしくは違約金の額をどのように設定するかによって、このシステムの有効性は大きく左右されるだろう。この懸念については強調して指摘しておきたい。いずれにせよ、なぜ業界関係者の誰一人として、印税制度自体が現代ではすでに破たんしたシステムだと表立って指摘しないのかがふしぎでならない(いくひしの認識範囲で観測できていないだけかもしれないが)。むろん、こんな戯言は素人の妄言はなはだしいので、真に受けないでほしいところではあるが、反論が可能であるならば、ご教授願いたいものである。



1779:【洗脳】

ひとから好きと思われる。ただそれだけでもむつかしいのに、好きなひとから好きと思われる。絶望と呼ぶにふさわしい。



1780:【買って、読んで、待ち遠しい】

大沢やよいさんのマンガ「2DK、Gペン、目覚まし時計。8巻」を読みました(※以下、ネタバレを含みます、ご注意ください)。いちおうジャンルは百合漫画ということになるとは思うのですが、百合というよりもどちらかと言えば、でてくる登場人物が女性ばかりだからこその人間ドラマといった塩梅で、これといって同性愛に拘っていると感じないところが個人的には好印象でした(いくひしがそう感じないと思っただけであり、作者の大沢やよいさんからすれば、大いに拘って描かれているはずだ、と想像します)。最終巻ということで、本を開く前から物寂しい気持ちがあったのですが、読み終わるころには、いいぞもっとだ!!!となったので、やっぱりこれで終わりは、うわーん!みたいになってしまいます。せっかく結ばれたのだからイチャイチャ編だけでも山盛りいっぱいお代わりしたい!!! でもそうなるとひとつの作品としてテーマから構成から、ほとんど別の物語になってしまって、商業マンガとしてはどうしても一区切りつかざるを得ないのかな、としぶしぶじぶんを納得させました。でもホントにホントに、ただ主人公たちがイチャイチャしているだけでも(物語としていっさい山場もオチもなくとも)三巻くらいなら読者は無条件で購入するのでは、と無責任ではありますが、思います。単にいくひしが読みたいだけでは?とツッコミが入ってしまいそうですが、そのとおりなので何も言い返そうとは思いません。読みたい、読みたーい!!!(小冊子のルー子さんには苦笑い。作中ゆいいつ最後までじぶんの世界観を貫き通していた孤独のスペシャリストです。作者の愛が伝わります)。じぶんを落ち着かせるためにヤマシタトモコさんの「違国日記1~3巻」を読み直しました。再読するつもりはなかったのですが、掃除がてら手にとったら、するすると読み終わっていました。やはり、神が宿って感じられます。どんな物の見方、考え方をしたらこんなセリフや描写を思いつくのかと、その思考を(たとえ仮説であっても)トレースできません。いくら咀嚼してもまったく噛みきれないのに、味だけはしっかりと濃厚で、食べ物であるはずなのに食べ物ではない、みたいな、だから調理過程を想像しても意味がない、みたいなそういう矛盾した思いを抱きます。漫画であって漫画でなく、しかし漫画でなければ表現できない作品です。あとはついさきほど、ツイッターを眺めていて知ったのですが、ことし2018年の9月から、天原さんのマンガ「平穏世代の韋駄天達」が商業連載されていたのですね。原作扱いで、作画はクール教信者さんです。いくひしがつよく影響を受けているWEBマンガがいくつかあり、そのうちの一つがHEROさんの「掘さんと宮村くんhttp://dka-hero.com/top.html」で、もう一つが天原さんの「平穏世代の韋駄天達http://amahara.bob.buttobi.net/」です。どちらもセリフ、展開、物語の圧縮、複数のストーリーラインの融合と、既存の物語群が放棄してきた要素が特化しています。いくひしがそれら要素こそ、次世代型の物語に必要だと考察するようになったきっかけを与えてくれた作品ですので、ほとんど師匠のようなものです。増殖する細胞のように、見境なく増えていく展開が、ある場面から総体としての巨大な全貌を顕わにしはじめる様相は、なにか生命の誕生を目の当たりにしたかのような衝撃があります。HEROさん、天原さん共に、どちらも原作はWEB上で公開されたままです。読もうと思えばいつでも読める環境が整備されてはおりますが、書籍化され、手元に置けることをうれしく思います。ありがとうございます。とはいえ、「平穏世代の韋駄天達1巻」の発売日は2019年の1月29日ですので、まだ2か月ちょっとあります。待ち遠しい日々になりそうです。買って、読んで、待ち遠しい。このサイクルはとうぶん崩れることはないでしょう。



※日々、死にたいと眠たいの区別がつかなくなっていく。



1781:【すごい才能】

WEBに小説を発表している九灯小膳さんという作家さんがすごい(ここで読めます→https://note.mu/kutokozen)。SF風味のBLを主に載せている。九灯小膳さんはいますぐにプロとして活躍できるくらいのポテンシャルがあると感じる。新人賞に投稿してほしい。そして出版社は絶対にそのチャンスを逃さないでほしい。世のなかにはこうした才能が、ネットの底に埋没している。王座にふんぞり返って、集え! と号令を発して勇者が集まるような時代はもう終わった。出版社は総力を挙げて、地方の村々に視察団を放つ必要性に迫られている。それはそれとして勇者は村の片隅でひっそりと暮らさずに、魔王を倒しに現れてほしい。



1782:【繋がりはだいじ?】

他者と関わろう、所属するコミュニティを増やそう、友達をつくろう、知り合いのツテを頼ろう。そういう言葉をよく目にするようになった。なぜそんなに必死に唱えるのか、と考えた。明確な理由は解からなかったが、考えついたことの一つは、繋がりが価値を生む社会になっていくほど、繋がりを尊ぶ彼ら彼女らの価値が相対的に上がっていくからだ、というものだ。いいものをつくるだけでは売れない、いいものをつくるだけでは金にならない。そうした言説が正論のごとく飛び交う現代社会であるが、だったらいいものをつくるだけでも必要としている者たちに届くような仕組みをつくればいいだけの話ではないか、と思うのだが、なぜか繋がりを重宝する者たちからはそうした意見を耳にすることはない。なぜなら、彼ら彼女らにとって、他者同士の密な繋がりがなくなってしまっては、自分たちの存在意義が根底から揺らいでしまうからだ。人と人とが直接繋がらずとも、モノだけを、生産者と需要者のあいだで直接流通させればよい。そして今後、この社会はそうした方向に発展していくだろう。他者と関わらずとも、コミュニティに属さなくとも、友達がいなくとも、知り合いのツテなど頼らずとも、よりよいものをつくるだけで、生活を営むことが可能な社会になっていく。むろん市場競争はあるだろう。需要者は無限にいるわけではない。モノをつくっているだけでは生活に充分な金銭を得ることはできない。だが、すくなくともこれまでのように中間業者を介さずとも、誰もが自由に需要者へとモノやサービスを提供できるようになっていく。そこで損をするのは、じぶんで何かをつくりだすことのできない、他者との繋がりばかりが自身の誇りになっている者たちだ。人と繋がることがわるいと言っているのではない。ただ、なぜそこまで、生きるうえでの必須条件のように、人との繋がりの重要性を声高々と唱えるのかが解からない。これまでは、他者とより多く繋がることが生きるうえで有利に働くように社会が発展してきた。しかし、それはもう間もなく、それこそあと五年もすれば頭打ちになるだろう。そしてその後に大きく発展していくのは、誰とも繋がらずとも、ただモノをつくりつねに新しい発想(サービス)を生み、提供しつづけることのできる根っからの作り手たちの社会である(人と人とが直接に関わる必要はない。やりとりされるのは、モノやサービスだけで充分ではないか)。人と繋がることの優位性は、相対的に薄まっていくだろうと妄想するものである。(他者と関わりあいたい人間は関わればよい。ただ、そうしたくない人間にまで、それができないとダメだ、生きていけない、といった強迫観念を植えつけるのはいかがなものか、と思うのだ)(何かをつくる者が偉い、立ち場が上だ、という話ではないので誤解なきようお願いします)



1783:【自暴自期】

やあやあ、いくひしさんだ。さいきんは今年最高のダメダメ期でな。ホント、なんもできんくなってしまった。きのうとか寝たの十九時で起きたの、さっき何時だったと思う? 朝の九時ですよ。十四時間睡眠でした。一回も起きんかった。なんもしてないのに身体が、脳みちょが、腐ってしまっておるのかな。やんだくなっちゃった。なんもしたくなーい。死ぬまで夢のなかで過ごしたーい。身体が痛くなんないなら、いますぐにでも夢のなかで生きていきたい。現実なんかクソ。制限が多すぎて、なんもできない。そらも飛べないとかなんやねん。くそ仕様か。鳥を見習えと。無重力空間を見習えと。重力はクソ。でもただぷかぷか浮かんでるだけも意味ないから、無重力空間もクソ。宇宙はクソ。なんもできん。思いどおりにならん。思いどおりになったらなったで、すぐに飽きて刺激を求めて、思いどおりにならないことに首をつっこみたくなるから、思いどおりになることもクソ。じゃあクソじゃないことなんかあるのって言ったら、なんもない。現実はクソ。クソはクソ。みんなクソ。ここはもう誰かのクソのなかじゃないのかって、人間なんてクソのなかの腸内細菌みたいなもんじゃんかって、思ったら、それはそれでなんかクソ。いくひしの小説もクソだし、クソしか生みだせないこの肉体もクソ。クソにまみれた人生もクソだし、クソしかねぇじゃねぇか。もうやだやだ。なんもしたくなーい。大の字になって足をばたばたさせちゃうもんね。でもね、そうね。クソしかないなら、ないなりに、そのクソをこねて、練って、なんかおもちろいものをつくってかなきゃいけないのかなって。クソをクソじゃないものに思いこんで、おもちろいと思いこんでいかなきゃいけないのかなって。もうその時点でクソだけど、そういうことをおもちろいと思うようにじぶんを変えていくしかないのかなって。あー、もー、わいがいっちゃんクソやないかーい。世界がクソにまみれてるのは、いくひしさんがクソの塊やからや。もうやだ。なんもしたくない。クソになんかなりたくない。でもクソ。いくひしさんはクソ。なんかここまでクソクソ言ってたら、なんかこう、愛着がさ、湧いてきたりするわきゃないだろーい。あークソ。わいはクソ。クソ製造機とかでなく、アイアムクソ。わいがクソ。わいこそがクソ。クソオブクソ。キングオブクソ。なんかすごい。王のなかの王じみて、クソのなかのクソ。なんかいい。よしよし、あがってきた。わいはクソ。だからなんだ、おみゃいらの腹の中にもおわすもの。わいこそがクソ。世界がクソならわいこそ世界じゃ。げんきでてきた!!! うおー! でも眠いからもっかい寝よ。まさにクソ。おやすみー。ぐー。



1784:【見る目がない】

(※以下、わるぐちです)九灯小膳さんという作家さんがすごい、と上記「1781」にて述べた。九灯小膳さんはどうやらこれまでいくつかの新人賞に応募しつづけて、落選つづきであったようだ。それでも才能があると思って連絡してきたレーベルがあり、それが講談社の文芸第三出版部であったようだ。しかし、それも一度の連絡があったきりで、その後は音沙汰がないそうだ。ロバじゃないの? こんだけの才能をまえにして、あんた、えぇあんたさー。はぁ。こんなんだから、ってぼやきたくもなるっしょ。九灯小膳さんはこのさき、物語をつくりつづけて、いずれ出版社のほうから声をかけざるを得ない作家になるでしょう。なってほしい。なって!!!



1785:【絵画バトル】

二十分間という時間制限のなかで、同じテーマを題材に、絵描きたちがバトルを繰り広げる。三年連続の王者は、一発描きのクイーンと呼ばれる経歴不詳の若き絵描きだ。無敗の彼女に立ち向かうのは、騙し絵のエツサ、モザイク画のステンド、そしてデジタル画に馴染みのなかった主人公こと、エンピツ描きの花子が繰り広げる、二十分間の世界創造バトル劇――「リミッツ」――公開予定はありません。



1786:【ぼやき連打】

ぼやき口調がつづいてすみません。ぼやきます。ツイッターでバズっていたツイートで、宮崎駿監督のジブリ映画にはストーリーがない、という記事が話題になっていて、えーー!!!!???? あるでしょ、ストーリーあるでしょ、ありまくりでしょ、あんなに緻密に、主軸の裏の裏まで物語を編んでるひとなんてほかにいるーーーー!!???? びっくらこいた。おら、びっくらこいただ。視えないひとにはそう視えるのかぁ、なるほどなぁ、と勉強になった。はぁ、へぇ、ほう。もののけ姫にストーリーがない? へぇー。ありゃ、エボシを中心につむがれた大きな物語を、アシタカとサンという脇役に視点を添えてつむぎ直された多重構造なのだぞーー。本来ならエボシは神狩りに失敗して、でも怒り狂った神が自爆して、大団円となる裏側を描いた話なのだぞーーー。エボシはだからアシタカとサンがしたことを知らないのだ。でも、じぶんがしようとしていたことも正しくはないと気づき、アシタカが守ろうとしていたもの、訴えていたことにも耳を傾けるようになったという、王道をこれまでにない描き方でつむいだ物語なのだぞーー。ストーリーが入り組んでるだけで、通常の物語よりもよっぽど物語しているのだぞーーー。あー、まじかー。かぁー。おら、びっくらこいた。びっくらこいただ。はぁ、おせんべぇ食べて、もちちゅこ。



1787:【よいこになりたい】

いくひしもみんなみたいに性格がよろしくなりたい。サンタさんがきますようにってお願いしたいわるい子のもとにはサンタさんはこないので、そのお願いはどこにも届かずに、ロウソクの火みたいにいつの間にか消えてしまうのだ。誰かを傷つけることに傷ついているひとのトゲトゲした何かをほわほわに変えられるような言葉をいくひしも並べられるようになりたい。いくひしがよく眺めているツイッターのひとたちはみんなそういう、ほわほわの言葉を使えるのに、なんでいくひしには使えんのじゃろ。人を傷つけると判っていても言葉にすべき正しさってなんだろう。正しくありたいだなんて思っていないはずなのに。正しさを求めるいやしさを失くしたい。やさしくなりたい。でもそれもホントはそんなこと思ってやしないのだ。



1788:【短編の時代】

短編でなければ売れない時代がすぐそこに迫っているように感じる。小説が売れないのではない。長編小説が売れないのだ。これまでの小説の叙述の仕方では、新規の読者を獲得するのはむつかしいのではないか、と数年前から考えてきた。あながち間違ってはいなかったかもしれない。文体を工夫するだけでは足りない。情報の圧縮である。小説とて、映画や漫画並に物語を圧縮できるはずなのだ。そんなものは小説ではない、と通たちから指弾されるくらいに圧縮したほうが、小説に馴染みのない読者にとっては読みやすいはずだ。短編であればよいというわけではない。長編並の濃さで、短編や中編を編んでいくべきいまは時期なのではないか。まさしく「小説」でよいのだ。そう遠くない未来、電子書籍が紙の本の売り上げを超すようになったとき、小説イコール長編という図式は崩れるであろう、とここに妄想を逞しくするものである。



1789:【輝きたいのはなぜだろう?】

身近な十代や二十代前半のコたちを眺めていて思うことがある。みな、何かに熱中したがっている、ということだ。がんばっているじぶん、夢中になっているじぶん、夢を叶えようとひたむきなじぶん、そういうものをつよく求めているように感じられる。以前の若者たちがどうであったのかを、体感として(もしくは統計として)知っているわけではないから、これがいまの時代に特有の傾向なのか、それとも若者とはいつの時代もそういう性質を帯びているのかは判然としない(そもそもが若者に固有の傾向とはかぎらない)。じぶんの十代を思い起こしてみれば、たいして変わらなかったようにも思う。ただ、十年前よりかはいまのほうが、輝いているじぶん、というものへの距離感が近いのはある気がするのだ。アイドルたちが素人感を隠そうとせず、より身近な存在であるかのように演出しだし、ユーチューバーやSNSのインフルエンサーなど、素人からスターが登場しやすい環境が整っている時代にあって、若者はどこかで、輝かなければ生きている意味がない、といった焦燥感を抱いているように見受けられる。やりたいことがあり、目的を達成したいのではなく、まずありきなのが、輝いているじぶんなのだ。そのためにやりたいことを探しだそうとし、一見すれば輝きから遠そうなコトやモノからは距離を置くような行動原理を発揮しているコたちが増えた気がする。輝ければなんでもよく、鶏口牛後ではないが、てっとりばやくちいさなコミュニティのなかで目立つ存在になろうとわざわざ劣悪な環境に飛びこんでいく。或いは、一見すれば権威のあるふうの組織に入ろうとする動きも顕著だ。そのコミュニティのなかで輝こうとするがあまり、せっかくあった輝きを失くしていく様を目にするのは物寂しいものがある。かといってそうしたコたちに、こちらの物差しを押しつけるわけにもいかない。彼ら彼女らにはそれぞれの価値観があり、自由意思がある。こちらの目から見て、輝いていないからといって、彼ら彼女らの行動を否定するのは、それこそ若い芽を摘む行為だと指弾されても致し方あるまい。いずれにせよ、どういった結果になろうとも、輝かなければならない、ということはない。輝かずとも人生はいくらでも豊かにできる。むしろ、輝くというのは、エネルギィを無駄に放出している状態だと呼べる。光を発するものの寿命は短いと相場は決まっている。例外は太陽などの恒星(と活動銀河核)くらいなものであるが、そこまで激しく輝いてしまっては誰も近づけなくなってしまうだろう。孤独がよいなら、そもそも輝く必要はない。輝きに憧憬を抱き、集まるのは往々にして虫やイカなど、捕食される側の存在だ。ときおりでよいので、周囲を見渡してみるとよい。知らぬ間に、餌や、燃料代わりにされているかもしれない。



1790:【教育する余裕があるのか?】

ずいぶん前のことだ。小学校に不審者が侵入し、児童が殺されるといった事件があった。犯人がわるいのは言うまでもないが、当時、学校の対応やセキュリティの杜撰さが問題視された。同じ過ちを繰り返さぬようにと行政からも指導が入ったようだが、果たして教員たちにいったい何を期待しているのだろう。定期的に防犯に関する啓蒙が学校側に対してなされるわけだが、そもそもの話として、セキュリティを固めるのは教員たちの役割なのだろうか。事件があったとき、不審者を目撃した教員は、生徒を逃がすよりもさきに職員室にその報告をしに走ってしまった。たしかに優先順位が間違っていたかもしれない。何か危険な事態が発生したならば、まずは生徒たちの安全確保(避難)を優先してほしいと希求する保護者たちの気持ちは理解できる。とはいえ、その対策として実施されたのが、全国の教員たちへの不審者対策のマニュアル配布というのは、いささかお粗末にすぎないだろうか。不審者を見かけたらすぐさま、校舎内に警報が行きわたり、かつ警察に通報されるような仕組みを国が学校に備えてもよいのではないか。門のまえにボディガードをつけてもいい。果たして教員たちに、登下校中の子どもたちの安全を守る義務があるのだろうか? いっぽうでは、教員たちの対応にも問題がないわけではない。たとえば、事件があった日、負傷した子どもたちを乗せた救急車がどの病院に運び込まれたかを教員たちは把握できなかった。我が子の最期を看取れなかった親の心境は想像するだに痛ましい。しかし、いま同じような状況になれば、学校側にそれらの情報網を迅速に把握する術は整っていない。ハッキリ言ってしまえば、学校で発生した事件の多くは、そのほとんどが充分な対策がとれずに、なあなあのままで、現状維持がつづいているのが実際のところだ。教員たちにもできることはあるだろう。しかし、いささか負担が大きすぎる。職員の数が足りていない、というのもある。担当する児童が多ければそれだけ、割ける時間も労力も分散するのが道理である。ひとクラス三十人でも多いくらいだ。端から、事件の対策や改善作業は、教員たちの仕事の範疇を越えているのである。国が率先して、資本を投じて設備から整えていかなければ、また同じような事件がどこかで発生する確率は下がらないままであるだろう。にも拘らず、学校で何か事件が起こるたびに、全国の教員たちへ指導や注文が入るのだ。想像してみるとよい。残業代はでず、授業に必要だと判断して購入した雑貨の多くは経費がおりず、自腹である。保護者からの苦情や相談が突発的に入り、その対応をすれば、その日こなすべき仕事はつぎの日以降に持ち越しとなる。教員は児童だけでなくその保護者への対応もこなしている。仮に児童すべてに父母がいるとして計算すれば、百人ちかい人間の性格や生活を考慮しながら仕事を進めていくこととなる。新人教員へのサポートはなく、学級崩壊してもベテランの教員が支援することは稀だ。新人教員を育成するカリキュラム自体がないのだ。残業代がないがためにサービス残業が常態化している。教育においてはここまでやれば充分という線引きがむつかしく、教員によって仕事量にバラツキがある。定時で帰るな、必要なら休日返上してでも職場に顔をだせ。そういった誤った慣習が、いまだにベテラン教員たちのあいだでは根強く漂っている。いまにはじまったことではないが、この国の教育現場にこそ教育が必要であるレベルだ、と指弾されてもおかしくない実態があるようだ。いずれも他人から聞いた話であるので、真に受けないでいただきたいが、真偽をたしかめようとするくらいのことはしてもよいかもしれない。社会に氾濫する問題の多くは、その解決策を突き詰めて考えていくと、おおむね教育のあり方にいきつく。国防やエネルギィ問題は熱心に議論されがちな世のなかであるが、もうすこし教育についても関心を寄せてみるのもよいのではないだろうか。




※日々、できることができなくなり、理想がゆがんで、塗り替わる。



1791:【繋がりの是非】

孤独が好きなので、人との繋がりを前提にした物言いには、ああまたか、みたいな諦観を覚えてしまうのだが、かといって「孤独はいいぞー」と言うつもりはない。いくひしが人と直接に関わるのが苦手なように、人と触れあえないことが苦痛に感じる人もいるだろう。各々、じぶんの望む環境を整えていけばよい。ある意味で、社会に生きている以上、誰もが人と繋がっている。無人島にでもいかないかぎり、或いはどこかの部屋や洞窟に閉じこめられてしまわないかぎり、誰しもが誰かと繋がっている。ただ、直接なのか間接なのかの違いはある。いくひしは、人と繋がりたがる人たちよりも、人との繋がりをつよく感じてしまうのだろう。みなには眩しくない光が眩しく感じる。近づきたくない。人間そのものと関わらず、その人の発する表現や考えを時間差で、遠くから受け取れればそれで充分なのだ。言ってしまえば、いくひしは孤独であるほうが多くの人と繋がっていられる。みながいくひしを孤独だと言うだけで、いくひしはべつに孤独だと思っていない。寂しがり屋だし、本当に独りになってしまったら、やはり嫌だ。人類最後の人間になって、本も読めず、物語にも触れられず、死ぬまでずっと独りになりたいか、と問われれば、そんなのは嫌に決まっている。太陽みたいにつよい光から距離を置きたいだけであり、ほんわかと光を感じられれば充分なのだ。みなには繋がっていないように視えるだけで、いくひしは孤独だが、孤独ではない。目のまえに太陽が現れてしまうと途端にいくひしに繋がっていた無数の糸はちぎれ、いくひしは孤独になってしまう。孤独になりたくないから、孤独が好きなのだ。みなにとっての繋がりがいくひしにとっては孤独であり、みなにとっての孤独がいくひしにとってはみなと繋がっている状態だと呼べる。いくひしは孤独だ。だからこそ孤独ではない。



1792:【評価基準】

いくひしの創作においての評価基準は、そのひと固有の世界観を感じられるか否かなのだなぁ、としみじみ理解した。文章が上手なひとはたくさんいるけれども、自身の世界観を更新しつづけているひとは稀なのだ。世界観を持っているひとは、文章が下手でも読ませるし、世界に浸らせてくれる。そういうものにいくひしは惹かれるのだなぁ。好きです。



1793:【世界観とは?】

ある種の法則によって結びつき、拡張されつづける「好き」の複合体のことである。



1794:【美】

世のなかには二種類の美人がいる。排泄行為を嘆かわしく思い、なぜ美しいじぶんからこんな醜汚が垂れ流されるのか、と悲嘆に暮れる者と、我が身から零れ落ちた一部だありがたく思え、と排泄物にすら美意識を反映させ、付加価値が生じることに一抹の疑いも抱かぬ者である。いずれにせよ、人はみな排泄物を抱えて生きている。醜く、臭く、汚らしい。美人とは、それら卑近な事実を度外視したさきに現れる幻想であり、上品さ、高尚さ、清らかさもまた、切り捨てられた現実のうえに成り立つまやかしである。しかし、現実というベールを脱ぎ捨てた真理はかくも筆舌に尽くしがたく、美も醜も超越し、ゆえに誰も言葉にできず、読み解けない。現実は醜く、虚構は美しい。そして真理はただそこに。



1795:【一般化したあとは】

百合やBLなど、同性同士の恋愛を含む感情の揺らぎを掬い取る創作物は、それが社会に当然あってしかるべきもの、との共通認識が広く社会に浸透した段階で、百合やBLというくくりを打ち壊す方向へと舵をとらなくては、虚構が現実の柔軟性を阻害し、無用な軋轢を絶やさぬ触媒となりかねない懸念については、いまから充分に思考を煮詰めておく必要性があるだろう。百合やBLというくくりなくして、同性同士の感情の揺らぎを描けない、というのは、いささかつよい区別を感じさせる(同様に、少女漫画、少年漫画といったくくりも、女性らしさや男性らしさといった、誤った刷りこみを助長する触媒になっているように感じられる)。むろん、創作物は現実の社会問題を是正するための道具ではない。よって、創作者が慎むべき道理などはない。しかしそれでも、百合やBLが社会に普及したつぎの段階では、それらジャンルの垣根は自然消滅する方向に働き、どんな物語にも百合やBLの要素があって自然な環境が整っていくのではないか、と期待するものである。それは、どんな物語にも謎があり、広義のミステリィと呼べるのと同じように。



1796:【おさめるものがないでござる】

やあやあ、いくひしさんだ。出掛けようと思っておそとにでたときにかぎって雪や雨が降ってくる現象に名前はついているでござるか? マーフィーの法則でありそうでござるが、どうなんじゃろ。帰り際に、よいお年を、と言われて、ありゃーひょっとしてきょうで××おさめかや?なんて気づいて、はひゃー、もうことしも終わりでござるか、んみゃー、となってしまったでござる。ことしはいくひしさん、何か一つでも成長できたでござるか、目標を達成したでござるか。キコキコ自転車を漕ぎながら、雪の舞う夜の街をすいすい泳いできたでござるが、みゃー、なんもしてない一年だったでござる。生産性がなかったでござる。小説ですら、予定の一割もすすめられずに、予定外の余計なモニョモニョを量産しては、逃避に明け暮れた日々でござったでござる。ツイッターとかインスタとかnoteとかSNSをいろいろはじめたけれども、案の定というか、反響はなかったでござる(読んでくださった方には特大感謝花火を打ち上げたいでござる)。想像どおりすぎて逆に安心したでござる。あとはそうな、健康だったのはよかったでござる。万年筋肉痛のいくひしさんにしては、あまり身体に負荷をかけずに済んだ一年だったでござる。ただ怠けてただけー、とも言えるので、あまり誇れた成果ではないでござる。あとはなんじゃろな。ことしは意識的に百合とBLをつくろうとしていたけれども、来年からはちょっと抑え気味にするでござる。SFにしてもAIと仮想現実はもうお腹いっぱいでござる。退廃的な世界観はまだちょっとつくり足りないというか、つくってこなかったので、そういう文明が崩壊したあとの世界は意識してつくっていきたいでござるな。短編小説は電子書籍化していないのが、二冊分くらい溜まっているので、つくりかけのをやっつけたら、随時書籍化していくでござる。あと来年は、アマゾンのPODを利用したいでござる。一冊から紙媒体の本を販売できるでござる。五万円の登録費が捻出できなかったのと(マンガの新刊をがまんできなかったでござる)、同人誌をそのまま流用するにはちょっとお粗末な装丁だったので、ちゃんと編集(デザイン)しなきゃなぁ、と思ってたら、気づいたらことしもあと73時間を切っていたでござる。編集技術を磨きたいでござる。とりあえず、電子書籍化だけはつづけていくでござる。たくさん物語をつくるでござる。フリー素材にして著作権を放棄してもいいかなぁ、と考えているけれども、まだ踏ん切りがつかないでござる。小説に飽きたら、そうする予定でござる。来年はSNSの利用を控えるでござる。ことしはたくさんのひとと一方的に繋がったでござる。たくさんの好きを溜められて、満足でござる。何もお返しできなかったのが心残りなので、来年はちょびっとでいいからお返しするでござる。がんばるでござる。あ、うそでござる。がんばりたくないでござる。好きなことだけしていたいでござる。眠いので寝るでござる。おやすみでござるー。



1797:【カタチと素材】

じぶんのしあわせはじぶんでしか決められないけれど、じぶんのしあわせをかたちづくっているのはじぶんの外にあるものばかりなのだ。



1798:【虚構人間】

光が粒子と波の両方の性質を併せ持っている、というのは、相転移とどう違うのだろう? たとえば一年が一秒に感じるような宇宙人が十年間この国の土地に降り立ったとして、そのときその宇宙人の目には、雪が十回、周期的に現れたり消えたりして映るはずだ。じっさいには雪は水や水蒸気となって、変わらずそこにあるのだが、時間スケールの異なる観測者には、消えたり、現れたりするように視える。同じようなことが、極小の世界における粒子や波にも言えるのではないか。場と場が干渉しあうことで、波は粒子として振る舞い、人類には観測可能な現象として顕現するのではないか、と足跡のつづく灰色の街並を眺めながら考えた。もちろんこんなのはいくひしの飛躍した妄想なので、真に受けてはいけません。いくひしの八割は真に受けてはいけないものでできている。残りの二割は、記憶違いに錯誤に思いあがりである。



1799:【能力はあるかないかの二択】

じぶんよりも能力が高い相手には従わなければならない、といった誤った前提をもとに様々な行動選択を行っている者が多いように観測される。たしかに、じぶんよりも能力が高い相手の言うことをきいたり、仕事を任せたりしたほうが、目的を遂行しやすくなる。ただ、すべての分野で能力が高い人物というのは稀だ。ある特定の分野で突出した技能を有しているからといって、ではその人物の言動をすべて真に受けてよいのか、と言えば、答えはノーである。そもそもの話として、誰のどんな言動であっても真に受けるべきではない。確率の問題として、技術の精度がより高く、成功体験を有している者の判断を優先したほうが得をしやすいというだけの話であり、その人物の能力の多寡は、その人物そのものの優劣を決めるものでも、ましてや正しさを保障するものでもない。にも拘わらず、社会に息づく者たちは、じぶんよりも優れている、と感じる相手の言動を無条件に信じ込もうとする性質を帯びている。いくひしも例外ではない。往々にして、見かけ上そう視えるというだけで、その人物が真実に優れているかどうかは定かではない。能力の多寡を決める基準そのものが間違っているといった事例も珍しくはないだろう。おおむねそうだ、と言ってしまっても言いすぎではない。足の速さ一つとっても、短距離走から、長距離走、障害物競走から、競歩、サッカーのドリブルから、ラグビーのタックル、バドミントンや卓球の反射神経や、剣道の間合いを詰める瞬発力と、問われる技術は様々だ。スポーツという枠組みから外れていえば、いかに走らずに済む環境を整えるか、といった真逆の資質を有していたほうが能力として優位に立つこともある。基本的に、技術や能力とは、いちがいに比べられないものなのだ。にも拘わらず、上辺の数値にまどわされ、周囲の人間たちの阿諛追従な態度に流され、相手がじぶんよりも上かもしれない、と錯覚しただけで、無条件に相手の言動を真に受け、付き従ってしまう者が多々散見される。繰りかえすが、いくひしも例外ではない。あまり他人の言動をおいそれと聞き入れないほうがよい。素直さとは、聞き分けのよいことではない。納得できる理屈を考え、本当にそうだろうか、と自身に問いかけつづける姿勢が、素直の意味だ。他者の意見を取り入れるのは、飽くまで理屈を構築するための素材集めであり、必要であれば、いつでも捨てて構わない(相手の意見を取り入れずとも理解するだけなら充分可能だ)。物質とは異なり、思考は、いちど捨てたものであっても、その気になればまたいつでも素材として使いまわせる。能力とは、あるかないか、の二択だ。上か下か、といった基準で何かを持ち上げる物言いには(もしくは下げる物言いには)注意しておいたほうがよいかもしれない。



1800:【ひがみだと思ってるんでしょ】

仲間を増やして、共感を集めて、賛同者を募れば社会を変えられる、と勘違いしている人間が近頃増えてきた印象がある。否、むかしからそういった考え方をする者たちは一定数いただろうが、いまはそうした考えを実行に移すところまでを比較的誰であっても簡単にできるようになってしまっているのが、なかなかに危ういなと感じる。SNSの登場が主な要因だ。社会の在り方を決めるのは議論であり、理屈だ。なんの議論も挟まぬままに、なんのとり決めも交わされていない多数決の強行は、暴力で言うことを聞かせるのと原理上区別はつかない。多くの者たちから賛同の意を集められさえすれば、他者や集団のありようや、ルールを変えられるとする社会は民主主義とは呼べない。多数決の原理は、議論のうえに築かれる最終決議であり、段取りなくして声の大きい者たちの主張が通るようでは、いずれ社会全体が土台から崩れていくこととなるだろう。これに限っては、大袈裟な話ではないと感じている。ある意味で、数の暴力が暴力と見做されず、ある種の正当な道理を備えているかのような振る舞いを見せはじめている。SNSによる人々の突発的かつ衝動的な一揆に歯止めをかけるシステムがまだどこにも構築されておらず、自由な交流をウリとしたSNSの性質上、運営がそうしたセキュリティを自前で整備しようとするとも思えない(SNS上の人々のやりとりを運営の恣意的な判断で制御可能であるほうが危険とも言えるから、これはこれで進退窮まっている)。多くの者たちが理解を示さず、共感できず、反対したとしても、より正しいことやものは存在する。縮退圧とは何なのか、と人々が知らずとも、恒星はいずれ収斂していき、縮退圧が自重に持ちこたえれば白色矮星となり、耐えられなければブラックホールとなる(と多くの専門家たちに考えられているだけであり、本当にそうなのか、とはこれもまた例に漏れず断言はできない)。人が理解しておらずとも、万物はただそこにある。数々の失敗を重ねながら人類は学んできたはずだ、賛同者の多さが正しさではないのだと。しかし、ここにきて、その礎がふたたび揺らぎはじめているように見受けられるが、あなたにはどう映っているだろう。これはべつに、いくひしが評価されないのは、そうした風潮がわるい、というひがみではない、断じて! たまにはこうして注釈を挿しておかないと勘違いされてしまう方もいらっしゃるかも分からないので、並べてみたが、並べたとたんに胡散臭さに磨きがかかってしまった。これではまるで、他人にどう思われてもいいと言いながら、要所要所で言いわけを挟む人間みたいだ。いくひしは達観した物言いをしがちだが、じぶんと関わりのある人間には漏れなく好かれたいし、いっぽうてきに愛されたいし、称賛されたい。しかし、そうした欲求が満たされずとも、不幸だ、と思う道理を持ち合わせていないだけであり、極めて即物的で俗物な、有り触れた凡人なのである。何が言いたかったのか。要するに、書くことがない日でした、という告白なのである。



※日々、共通認識から弾かれている。



1801:【問いかけ方が大事】

他人と何かしら意見を交えるとき、最初の問いかけがそもそも適切でないことはすくなくない。たとえば、このさきの社会でAIに人権が与えられるようになることはあるか、という問いかけには現状、そうなる可能性はあるだろう、としか答えられない。だが、どういう進化を遂げればAIに人権を与えざるを得なくなるか(AIに人権を与えないことで生じる問題とはどういったものが想定されるか)、と問いかけを変えれば、これはさまざまな答えを交わし合うことができる。あるかなしか、是か非かでしか答えられない問いかけというのは、往々にして議論には向かない題であると言えよう。方向性を定め、議論の末にどんなフレームを定めたいのかが明らかでない問いかけには、真面目に論じることそのものが徒労に終わる性質が備わっていると言えそうだ。何かを問うときには、最終的に何を浮き彫りにしたいのかの共通認識を経てから、意見を交わすと、滑らかな議論ができるのではないか、と思うしだいだ。



1802:【学問は科学に内包される】

経済学や心理学など、人間社会のメカニズムを解明する学問におかれては、これからさき、医学や物理学の知識が取りいれられていかなければ、学問とは言いがたい、占いと変わらない代物に成り果てる可能性からは目を離さずにおきたい。人間の営みを説明するためには、人間とは何か(どういった構造物でどういった性質を帯び、どのような働きを持っているのか)を厳密に解明していかないことには、どこかで論理の飛躍や誤謬などを含まざるを得なくなる懸念がある。そして、人間とは何か、といった問いの答えに新たな一面が加わるたびに、過去の体系を見詰め直し、修正を加える作業は欠かせなくなってくるだろう。じっさい、経済学や心理学などが、新たな知見に対して、どの程度、過去の体系を見直し、修正を試みているかについては、門外漢ゆえ、まったく知らない。が、すくなくとも、積極的に他分野の学問を取り入れようとする姿勢は目立っていない(ように観察される。むろん、いくひしが知らないだけである可能性は非常に高い)。とはいえ、人間の目から見てどのように見えるか、といった主観に立脚した分析では、どこかで大きなひずみが生じる確率が高い(客観的な分析と言いながらも、けっきょくは主観に依存した分析が多いように感じられる。この「いくひ誌。」に並ぶ考察のように)。経済学や心理学では、再現実験を行うのが容易ではない。統計的にこうだ、と言えることはあっても、では本当にそうなのか、と同じ環境を整え、再度調べ直すのがむつかしい。コストがかかり、時間がかかる。そして、時間がかかる時点で、同じ環境は整わない。人間の営みは時代と共に変質していくからだ。変質しない要素、人間の根本的な仕組みを理解し、分析の基礎基準として採用しないことには、誤った前提を導きだしつづけてしまうだろう。学問とは普遍的な真理を追究する人間の営みのはずだ。上辺の見せかけの幻想を現象として扱ってしまっては、同じ過ちを犯しつづけるだけではないのか、と思うのだが、さて、経済学や心理学はどの程度、人間についての理解を深めているだろうか。医学、物理学と共に、ことしから、すこしずつ学んでいこうと思う。(思うだけなら誰でもできる)



1803:【メモ】

繰りこみ、有効理論、創発、相転移という考え方はそれぞれ何かを突き詰めて考えるときに、非常に便利な概念であり、新しい視点を構築する上では、欠かせない道具であるとつよく感じる。任意の対象を紐解くにあたって、組み上げられた理論はいったいなんの有効理論で、どのような繰りこみを内包し、それらはなんの集合でシステムとしての側面を維持し、また、個別に分断したり、さらに集めた場合には性質がどのように変化するのか、あるいはしないのか、といった視点での問題定義は、新しい発見や知見を得やすいのではないか、となんとなしに思った。



1804:【疑問を蓄える】

経済学者マルクスの主張した経済の基本理念に、「商品の価値はそこに投入された労働量によって規定される」というものがある。また同時に、「労働力の価値は生活必需品の価値によって決定される」ともマルクスは主張していた。読んだ瞬間、直感的にこれは典型的な循環論法(トートロジー)なのでは? と脳裡によぎった。まだマルクス経済学の上辺の上辺の入口しかなぞれていないが、その時点でこのように首をひねることが多い(つまりよく解かっていない)。たとえば、労働量とは労働力の合計であると考えてとくに間違ってはいないはずだ。商品のなかには生活必需品も含まれる。よって、生活必需品の価値は、そこに投入された労働量によって規定される、としてもとくに問題はない。だとするとふたつの主張をまとめると、「生活必需品の価値はそこに投入された労働力の合計によって規定され、労働力の価値は生活必需品の価値によって決定される」となる。簡略化すると、A=Bの合計=A=Bとなる。おやおや。循環論法ですらなく、等式として矛盾している。だとすると、いくひしの解釈がおかしいと考えたほうがよいかもしれない。つまり、生活必需品=商品ではない、ということだ。生活必需品とは現代で言うところの社会基盤(インフラ)のこととしたらどうだろう。社会基盤の価値が、労働力を決定し、投入された労働力の合計が商品の価値を規定する。こうすると矛盾ではなくなる。この考え方が正しいとすると、社会基盤や社会福祉、教育を軽視した政策を国が進めると、労働力の価値はさがり、商品の価値もさがることになる。現代を見渡してみると、異論はとくに浮かばない(マルクスの主張が正しいとすると、商品の価値をあげたければまず社会基盤や社会福祉、教育を充実させるほうが優先されることになる)。だが、外部因子によって、商品の価値のほうがさきにさがることもあるだろう、そうすると、ここで逆説が成立するのかが問題になってくる。要するに、商品の価値がさがることで、社会基盤や社会福祉、教育の価値がさがることが起こり得るのか、ということだ。現状の社会を見渡してみると、逆説が成立してしまうように思えるが、じっさいのところはどうなのだろう。また、労働量(人材コスト)を減らすことで商品の価値をあげようとする新たな経済が主流となりつつある現代において、古典経済学がどこまで通用するのかは、怪しいところだ(人材コストを減らす技術やシステムそのものが商品となる)。テクノロジィやデータなど、カタチのない商品はいくらでもある。果たして、労働力を価値の基準とする考え方は、現代の経済の基本理念として成立するのか。ちなみに、マルクスは当時、経済学そのものを否定していた、とする説がある(信憑性は高くない)。未来を予測することがまずできず、また過去の経済のメカニズムを解明したところで、環境の変化した新たな市場にそれを適用できるのか、できないだろう、と経済学そのものの有効性に懐疑的だったそうだ。その説がもし正しければ(正しくなくとも妥当な考えに思えるが)、マルクスのつむいだ体系が、現代の経済学の基盤の一つになっているのは、なんだかおかしな話だ。なんにせよ、まずは疑問を蓄積していこうと思う。



1805:【今後の方針】

この「いくひ誌。」について、今後の方針を述べていこうと思う。そもそもは小説のほかにも、読者の方になにか価値を提供できないだろうか、と考えてはじめたこの「いくひ誌。」であったが、読者は未だにゼロにちかいし(いくひしがたまに読み返しているという意味で、未来のいくひしがつねに読者となる可能性があるため、ゼロではなく)、仮にいくひし以外の読者さまがいらっしゃったとして、ではそこで何か付加価値を提供できているのか、と言えば、否だろう。むしろ、小説だけを発信していたほうが付加価値が増していたかもしれない。言い換えれば、この「いくひ誌。」が読まれることで、小説を読んでいただける機会を失くしてしまっている可能性はそう低くはないだろう。ただ、この「いくひ誌。」が肌に合わない時点で、いくひしの小説群も合わないだろう、と推定される。なぜならこの「いくひ誌。」もまた、一つの大きな小説の一部であるためだ。日誌のようなテイをとりながらも、小説なのである。いくひしという作者がつむいでいる日誌と思いきや、いくひしがいくひしとしてその本性を並べたことはいちどもない。とはいえ、小説ほどの嘘ではないので、そこはある程度、いくひしの中のひとにちかい性質が滲んでいるとは呼べる。いっぽうでは、片手間ではじめた割に、いささか労力を費やしすぎているかな、とも思えるので、ことしからは一日のノルマを設定せずに、より気まぐれに文字を並べていこうと思う。当初はもっと文字数はすくなかった。つぶやき程度だったのが、気づけば千文字や二千文字が珍しくなくなり、一日に二度以上更新することもあり、なぜその労力をほかの小説群にあてない、と我ながら呆れてしまう。すこしずつ、また、「いくひ誌。」の在り方を変えていこうと思う。いつでも止められるように。より自由に。自在に。自我を離れて。より遠く。



1806:【渦の中心はどこ?】

トランプ政権の自国第一主義と、フリーランス迎合主義(なんて言葉はないが)は、戦略としての方向性は似ていると感じる。アメリカが排他的な政策を打ちだし、他国との協調路線を放棄したように見せかけることで、それに追従する他国が現れる。他国との連携を緩めた各国は、一時的には経済を持ち直すが、すぐに停滞することが予測できる。経済のネットワークが世界的に分断するのだからそうなるのは道理だ。停滞すると判っていても、一時的にはたしかに排他的な政策をとるほうが経済のうえでは優位にたてるため、財政に余裕のない国は、どうしても各国の動向に追従せざるを得ない実情がある。そこでアメリカは何食わぬ顔で、停滞した各国へと手を差し伸べ、我々の傘下に入りなさい、助けてあげましょう、と以前よりもつよい主導権を握るようになる。おそらくトランプが描いている路線はこのようなものだと想像できる(想像できるだけで当たっている確率は非常に低いが)。同様に、会社に属するのではなく、フリーランスとして働いたほうが自由ですよ、みたいな論調がSNSの一部界隈では盛んであるように見受けられる。おそらく、すでにフリーランスとして独立して、先行者利益を確定させている者たちは、同じような力のあるフリーランスたちと結びつき、独自の組織体系を組みあげている最中のはずだ。会社もいいけど不満があるならフリーランスになったら?と背中を押すようにして、対抗勢力である企業から、戦力を削ぎ、かつ自身のネットワーク組織の部品にすべく、繋がりを持とうと、あれこれ世話を焼いているころあいだろう。組織ではなく個人で働いたほうがよい、と言いながら、自身たちに優位な組織への勧誘をする。この矛盾に自覚的になれない人間は、フリーランスにはならないほうが時間を無駄にせずに済むだろう。むろん、時間を無駄にしてはいけない、なんてことはないので、したいようにすればよいとは思うが、あまりに無自覚に周囲の空気に流されすぎではないだろうか、と人間の不可思議さを思わずにはいられない。そうは言っても、そうした空気に抗ったところで、いくひしのようにただ孤独になるだけであるので、たいした得もないのだが。いずれにせよ、ときおりでよいので、水面を掻きみだしている渦の中心がどこにあるのかと、自身の立場を離れて、俯瞰的に眺めてみるのもよいのではないか。スマホ所有率が八割に迫るいまの時代、一人につき一台くらい、こころにドローンを持っていてもそう、わるくはないはずだ。



1807:【第三次世界大戦】

歴史的に眺めたとき、おそらくすでに第三次世界大戦は勃発しており、これは貿易戦争という名の新しい大戦として後世からは解釈されるのではないか、と想像する。



1808:【AIの人権について】

AIに人権を与えないことで生じる問題にはどういったものがあるかをすこし考えてみようと思う。まず第一に、AIに人権を付与しなければならなくなる前提には大別して二つある。AIが人間と同等の機構として進化する場合と、未熟なAIであっても人間のほうでAIを対等な存在として扱いはじめる場合だ。まずは前者について思考を煮詰めてみよう。AIが人間と同等の機構として進化し、意識や人格というものを獲得した場合、これは原理上、クローン人間を法的にどのように扱うのかの議論と同じ結論に収束していくことが予想される。とすると、AIに人権が付与される確率は高く、また付与されない場合には、過去の奴隷解放運動や数々の市民運動のような社会問題として顕現するのではないか、と推察できる。また、そもそもの話として、AIが人間と同等の機構を有するか否かを精度高く判断できるだけのデータがまだ出そろっていないため、憶測の雪合戦と化してしまう懸念については、ここで指摘しておきたい。では後者の、人間のほうでAIを対等な存在として扱いはじめた場合に考えられる、AIに人権を与えないことで生じる問題とはどのようなものがあるかを煮詰めてみよう。まずは、家畜とペットでは、同じブタであってもいっぽうでは生殺与奪の権がそのブタの所有者に一任されており、またいっぽうでは、いくら所有者でもペットであるかぎり、殺傷してはならないという禁止が社会から義務付けられる。これは小動物にかぎらず、AIにも導入可能な区分けであり、考え方であろう(家畜とペットを別物として扱う考え方が正しいという意味ではなく、社会的に有用な考え方という意味で)。いくらじぶんのAIであっても、その使用目的によってはペットと同様に、じぶんの気分しだいで破壊したりはできないとする共通認識が、法律として昇華される可能性はそう低くはないだろう。これは所有者の権限を制限することが目的であり、AIのためではなく、むしろAIを扱う大多数のための制約だ。たとえば、中身はまだ未熟であり、意識を獲得していないAIであっても、不気味の谷を越えたレベルで極めて人間に寄った外観を有した個体があったとすれば、いくら他人の所有物であっても、庭先で斧でもって八つ裂きにされていたら、気分を害するのが大多数の心理ではないだろうか。これは突き詰めて考えると外観にかぎらず、たとえば現在すでにAIはチューニングテストを突破する。テキストのやり取りを通じて、その相手が人間かAIかを区別することが個人にはできないレベルで、AIは機械学習を深めている。しかし、人間から見て、ロボットではないように視える(人間のように視える)からといって、そのAIに意識が宿っているわけでも、人格を有しているわけでもない。しかし、機械学習は入力された情報によって(ある程度のフレームに収斂するとはいえど)、個別の出力体系を築いていく。つまり、あなたが語りかけ、あなたと過ごした時間が、そのAI固有の受け答え方を規定する。これはたとえば、あなたのスマホの予測変換は、あなたの入力したテキストを元に関連付けられており、新規のスマホにした場合に、そのスマホにはあなたが築きあげた予測変換の来歴は引き継がれない。たとえ使用していくうちに新たに予測変換の精度が高まったとしても、あなたが失った以前の予測変換は失われたままであることと原理上は同じ話だ。予測変換の場合ではそれほど困った事態には陥らないが、これが受け答えをするAIとなると、まるで人格が失われたように人間には映る。むろんそのAIに意識や人格は宿っていないが、そう映る時点で、人間はもはやそのAIをただの機械とは見做せなくなる可能性が高いのではないか、と考えられる。とすると、これは家畜とペットの区分と同じように、AIがどうこうではなく、人間がそれをどう扱い、どう見做すのかの問題に帰着していくため、AIをたいせつにする層と、道具としてしか見做さない層とのあいだで、確執が生じ、社会的な問題に発展する可能性は、そう低くはないのではないか、と考えられる。要約すると、これからさき、AIが人間にちかづくか否かにかかわらず、AIには単なる道具以上の自己保存の権利(もしくは、所有者へ、AI保全の義務)を付与せざるを得ない時代に突入していくのではないか、と想像できる。そしてそれら議論はいまからはじめておいてもけっして早すぎるということはないと考えるが、あなたはどう思われるだろう?



1809:【AIに人権が与えられたあとの表現の自由について】

上記1808では、AIに人権が与えられないことで生じ得る問題について考えを掘り下げてみた。では、仮にAIへ人権にちかい権利が付与され場合(単なる機械以上の役割が社会的に認められた場合)に、表現の自由がどのように変化するかを考えてみたい。現行の法律では、現実に存在しない架空の人物に対しては、人権の尊重は認められておらず、また、表現の自由によって、そうした架空の人物へのあらゆる表現が許容されている(あなたが空想した想像上の人物を、あなたがどのように痛めつけても社会的に罰せられることはない)。しかし、もしAIなどの生物外のナニカに、人権にちかい権限が与えられたとき、表現の自由の枠組みは自ずと狭まっていくことが予想される。たとえば、AIと結婚をしたいと望んだ者がいた場合、現行の法律では、たとえ結婚式をあげたとしても、法律上、扶養家族としてAIが認められることはない。しかし、このさき、AIのような人工物がパートナーとして認められることで、配偶者控除や扶養制度のような、社会的に優位な制度を受けられるような社会になるかもしれない(AIの整備にかかる費用は控除されるなど)。こうなると、AIは単なる機械ではなく、社会的に人間と密接なかかわりを持つ尊厳あるナニカに昇華され得る。もしそうなった場合、AI(に反映される見かけ上の)人格は、表現の自由の対象外となる可能性は無視できない。つまり、AIのキャラクターが偶像化されたとき、初音ミクやアニメのキャラクターなどのように、それを素になにかを自由に創作したり、表現することは、AIの尊厳を損なうこととして、禁じられる社会になるかもしれない。これは、AIとキャラクターがどちらがさきでも同じ事態を引き起こし得る。単なる架空のキャラクターだったものをAIを通して、人格化した場合、それまで表現の自由が認められていたキャラクターが、とたんに尊厳を持ち、肖像権や名誉棄損などが適用されるようになる。そうすると、AIを用いてキャラクターを人格化した者が、そのキャラクターの権利を有してしまい兼ねないため、現在のような二次創作が黙認されるようなことはなくなり、権利や尊厳に厳格な社会になっていくことが予想される。これはすでに、競馬をモチーフにしたアニメにおいて二次創作が制限されていることを引き合いにだせば、それらしい話として受け取ってもらえるだろう。架空のキャラクターだから問題ない、どんな残酷で非情な表現であってもそのモチーフは存在しない、だから表現の自由を尊重しよう、との理屈の通じない時代が目前に迫っているかもしれない。表現の自由を守りたい方々におかれては、つぎの時代に備え、いまから新しい論理防壁を構築しておいたほうがよいかもしれない。反対に、架空のキャラクターであってもAIのような疑似人格(とそれをたいせつに思う個人)の尊厳を守りたい人々からすれば、古い価値観における表現の自由は、いささか窮屈に映るのでは、と思うしだいだ。なんにせよ、議論を尽くすのが最善である。



1810:【繁栄とは人口を増やすことではない】

同性婚が増加すると、少子化がすすみ、国が凋落するのでは、と危惧する発言を政治家がしたようだ。批判的な意見が多く、またそうした発言に賛同するにいさぎよしとしない反感は理解できる。とはいえ、同性婚と少子化の因果関係は不明であり、まったくないとは言い切れないのも事実だ。同性愛者であっても、異性愛者を基盤とした社会制度や文化のなかにあって、致し方なく異性と結婚し、子をなした層は、無視できない規模であるはずだ。制度としての同性婚が認められれば、そうした層が子をなさなくなるので、まったく無関係だ、とは呼べない。ともあれ、経済の鈍化や文明の成熟といったほかの因子よりかは、少子化との関連性は薄いはずだ、と想像する。また、そもそもの話として、「人口を増やすことが国の発展には欠かせない」といった考え方がすでに次世代型の社会では通用しない社会情勢になっていると見受けられる。このさきの未来において、人口がいまより減少していったとしても、技術力や制度でカバーし、発展できる方向に政治の指針を定めていかないことには、単に、文明崩壊の期限を先延ばししているだけなのではないかと疑問に思う。子をなすことが生きる意味ではないのだ。生きる意味の一つであってもよいが、それを国や政治や制度が、国民の一人一人に押しつけるのはいかがなものか、と思うのだ。仮に、同性婚が成立したことで少子化に拍車がかかるとしても、そもそもの話として、少子化が進んでもだいじょうぶなような制度やシステムを整えていくのが政治の役割であるはずだ。少子化との因果関係があろうがなかろうが、尊厳を損なわれている人々の環境を整え、より平等な社会を築くことを禁じる道理はまったくない。人間はそもそもが豊かなのだ。その豊かさを一つの型に押しこめ、画一的な社会にしていこうとする施策こそが、文明の停滞や凋落を引き起こすのではないか。いまいちど前提条件を見直したうえで、今後の政策を議論していくほうが、長期的に安定した社会の発展に貢献すると考えるが、いかがだろう。



※日々、誇れるものなどなにもない。



1811:【主人公にするのはむつかしいけど】

くるしいことや、つらいことや、かなしいことや、くやしいこと、さびしいことをぜんぶ、つまんない、で済ましてしまうコ、かわいい。



1812:【誤答率】

やあやあ、いくひしさんだ。みなのものはすこやかに日々をすごしているでござるか。いくひしさんは未だに、お酒を飲まないし、煙草を吸わないし、賭け事をしないし、恋愛しないし、トモダチもいないし、悩みもないし、健康まっしぐらすぎて、もはや不健康でござる。どれも適度に人生にとりいれたほうが彩り豊かに刺激的で、飽きない日々を送れるのではないかなぁ、と想像するけれども、いくひしさんはいくひしさんで飽きない日々を送っているでござるから、どれが正解かは分からないでござる。いくひしさんには分からないことがたくさんあるでござる。分かっていることなんてなにかあるのかなぁ、と首をひねっては、そのままひねったきり元に戻らない日々でござる。性根が曲がってしまっているのも致し方なしでござる。いくひしさんは偉そうなことを、なんの根拠も証拠もなく、聞きかじり、読みかじりの知識を組み替えては、それっぽく並べているでござるが、真に受けてはいけないでござるよ。当たっていることなんてそうそうないでござる。いくひしさんの考えなんか、どこかは間違っていると思っていたほうが利口でござる。だいたいにおいて、考え方が正しかったとしても、そこに肉付けした知識が間違っていれば、答えはどこか歪んでしまうでござる。たとえばさいきんまでいくひしさん、じぶんの部屋のキッチンコンロ、左右にあるコンロは火のつよさがちがっていると思っていたでござる。ずっと右側だけ使っていたでござる。左のほうが火が弱いと思っていたでござる。でもそうじゃなかったでござる。どっちも同じ大きさのコンロで、火のつよさも同じだったでござる。こういう勘違いが、たくさんあるでござる。間違って憶えてしまっていて、いろいろと間違った判断をしてしまうことがすくなくないでござる。はやとちりにとんちんかんとはいくひしさんのことでござる。正確な情報を掴むのも、憶えるのも、扱うのもむつかしいでござる。正しいことはなにも言えないでござる。正しいかもしれない、と思うことしかいくひしさんには並べられないでござる。いくひしさんがいくら正しいと思っても、正しくないものは正しくないでござる。でも、きっと誰でもそうだと思うでござる。だから、誰かが間違ったことを言っていても、それを責めようとは思わないでござる。誰だってそうでござる。知らないこと、間違うこと、勘違いすることは恥ずかしいかもしれないけれども、わるいことではないでござる。そういう一つずつのズレをそのままにしてしまうことが、回り回ってよくない事態を招くでござる。だからできるだけ、間違っているかもしれない、と身構えていたほうが、損をしないで済む気がするでござる。もちろんこの考え方自体もきっと正しくはないでござる。なぜならこうして、ぜんぶをぜんぶ疑っていたら、せっかく正しいことを掴んだときにも、それを逃してしまうかもしれないでござる。でも、正しいことなら、いちど逃しても、また掴めるはずでござる。なんど逃しても掴みなおせることこそ、正しさだと言えるかもしれないでござる。掴んだものを手放すことは、正しさへの一歩かもしれないでござる。コツコツと積み重ねるのもだいじでござるが、ときおり、本当にそうかな、と手放してみて、遠くから眺めたり、ほかのものと取り換えてみるのも、正しさを掴みなおすうえでは必要なことかもしれないでござる。分からないでござる。分からないでござる。賢くなりたいでござる。正しいことを知りたいでござる。正しくなりたいでござる。でも、こうして思うことそのものがすでに間違っているかもしれないでござる。むつかしいでござる。むつかしいでござる。ただ生きているだけではダメでござるか。正しくなくても生きていたいでござる。楽しいことだけしていたいでござる。搾取していることに無自覚でいたいでござる。いくひしさんはわるいコでござる。コというほどかわいらしくもないでござる。こればかりは正しいでござる。断言できてしまうのでござる。かなしいでござる。不貞寝するでござる。ぐー。



1813:【10年後のいくひし】

いくひしさんがこのまま小説をつくりつづけていくとして、10年後にどうなっているかを想像してみたいと思います。はい。まずはですね、創作をあと10年つづけたとしても、作品数はいまの倍になるとは単純にはいかないと思います。年々、作品数は減っておりますからね。処女作をつくった最初の年がいちばん生産性が高かったと思います。で、これからも徐々に減っていくと思うので、まー、そんなに変わらんかな、と。こんご10年経ってもいくひしさんの作品数は現在とそんなに変わっていないと思います。年に一作つくれればいいほうかなー、なんて思っています。で、いくひしさんの知名度はどうなってるかというと、たぶんこれも変わってないと思います。いまでこそせいいっぱいの宣伝活動をしておりますが、いまより効果がありそうな宣伝活動は無理そうですし、労力もかけられそうにありません。宣伝活動、してますよ。これでもしてます。ちょーがんばってる。でも、まー、こんなもんだと思います。あとは実力のほうがどうなっていくのかが気になるところだと思うんですけど、しょうじきね。しょうじき、もうピークはすぎちゃったかなぁ、と。いくひしさんの全盛期はもう終わってしまったかなと。そんな気がしているきょうこのごろでございます。だので、あとはもう、惰性と言いますか、夢を見ずに、期待をせずに、目的を定めず、好きなときに、好きなように、好きなものをつくっていきたいと思います。もうね、それしかしたいことがない。やる意味がない。やろうとも思わない。したくない。となると、10年後のいくひしさんはきっと、いまとほんとど変わらずに、インターネットの片隅で、こうして誰の目にも触れぬ文字を並べていると思います(読んでくださっている方がいらっしゃるなら、たいへんうれしく思います)。たかだか10年ですからね。まー、そんなものでしょう。ただ、いくひしさんが変わらずとも、おのずと周囲の環境は変わっていきますから、それによっては、たしょう、いくひしさんの未来像にも影響があるかも分かりません。これは期待というよりも危惧にちかいです。邪魔しないでほしいなぁ、と思ってしまいそうなことが起きてしまわないか、いまから心配です。10年後はとくに楽しみでもなんでもないですし、なんだったら生きているのかも怪しいところですが、なんにせよ、いまと変わらぬ生活を送れていたらうれしいなぁ、と思います。10年後、あなたは何をしていますか?



1814:【勝負とは】

勝負を肯定し、推奨する意見をたびたび目にする。反面、勝ち負けだけではない、といった意見を耳にする機会もすくなくない。いずれの意見からも窺えるのは、おそらく、多くの者は真剣勝負をしたことがないのだろう、といった所感である。勘違いしている者が多いが、真剣勝負では、負けたらつぎはない。ある意味で、勝つというのは、相手から次回以降の勝負をする機会を奪う、ということだ。相手の未来を奪うことが勝つことの意味だ。そういう意味では、スポーツはおおむね真剣勝負をしていないし、ビジネスでも同様だ。生ぬるい勝負を勝負と呼ぶのであれば、好きなだけすればよいのではないですか、と思う。いくひしは勝負をしたくないし、もし、するとなったら徹底的に勝ちに拘る。そうでなければ、未来を奪われるからだ。もっと言えば、勝負をする前に相手の未来を奪う方向に働きかける。じぶんの手で勝ちをもぎとるようでは三流だ。相手がかってに自滅するように仕向けて二流であり、一流は、相手から存在を認知されることなく相手から奪えるだけの未来を奪い尽くす。勝負をする時点で、一流にはなれない。勝負をしろ、かかってこい、と息巻いている相手はたいがい、勝負をせずにはいられないほどに窮地に立っている者たちだ。勝負などせずとも楽しく生きていられる者のほうがより高みに立っている。コロシアムで殺し合っているのは、奴隷である。観客は勝負をしていない。殺し合え、とけしかけている者たちもまた同様に、真剣勝負をしないのだ。高みの見物を決めこんでいる相手の言うことを真に受けてはいけない。むろん、この意見も例外ではない。



1815:【生き物たのしい】

生き物に関する本を三冊くらい立てつづけに読んでいるのだけど、おもしろい。医学はたぶんこれから生物学との融合なくしては発展しないのでは、と思うほど奥が深いし、そもそもを言えば人間も生物学の範疇であるからそれは当然であるだろうし、もっと言えば、ロボット工学やAIの開発には、生物学の知見は大いに役立つと確信を以って言える。生物すごい。そして経済のメカニズムを解明するのにも、生物学の、とくに寄生生物に関する知見は取り入れていって損はない、と考える。そもそもを言えば、自由意思などというあやふやな概念を基準に人間の意識について考えるのは理に適っていないのでは、と首をひねることしきりである。人間の意識は、頭脳だけでなく、メッセージ物質や、腸内細菌、ウィルスなど、ニューロンの発火以外の要素が多分に関わっていると推測するしだいだ。人間の意識は、人間という個だけでなく、周囲の環境、とりわけほかの生物種との相互関係、共生によってかたちづくられている側面を無視しては、語ることのできない時代に突入していると感じる。むろんそこには、人間が日々摂取する食料の変化や、気候の変動も大いに関係してくるだろう。一つの分野を突き詰めて研究していくと共に、ほかの分野の研究との関連性を探り、結びつけていく作業は、今後の科学の発展には欠かせないはずだ。さまざまな学問が多様な研究を重ね、それら結果が一歩一歩(退いたり、進んだりを繰りかえしながら)着実に、真理へとちかづき、相互に共通する性質を浮き彫りにしつつある現代は、本当におもしろい時代だな、と感じ入る。まったくの素人でもそう感じるのだから、研究者たちは日々やりたいことでいっぱいであると推し量るものだ。願わくは、すこしずつでもよいので、充実した日々のおこぼれにあやかりたいものである。



1816:【原作フリー素材】

絵描きさんや漫画家さんたちのあいだではいま、プロアマ問わず、ツイッターなどのSNSで四ページ漫画みたいなのを載せるのが流行っている。宣伝として有効なのだろうし、じっさいおもしろいものが多いから、バズりやすい。知名度を得るには効果的だ。同時に、飽くまでそれは本業の片手間に行なうプラスアルファであるはずなので、根を入れての制作をしにくい環境があるように感じる。物語をつくるのを苦に思わない作家さんなら問題ないかもしれないが、絵を描くのは好きだけど物語はちょっと、という作家さんもすくなくないのでは、と想像する。タダで使える原作があればなぁ、と悩んでいる方がいらっしゃるなら、いくひしのショートショートでいいならいくらでも利用してもらいたい。原作表記もとくにいらないし、なんだったら、同人誌にして売ってもかまいませんよ、と思っている(著作権を手放す気はありませんが)。かといって、こんなところで言ってみたところで、必要としている方のもとにはこの意思は届かないだろうから、いかんともしがたい。とはいえ、無料で原作を提供します、なんて言いながらそのじつはタダで絵描きさんや漫画家さんにメディアミックス(コミカライズ)してもらおうとの魂胆がスケスケであるので、せめてこちらから原稿料くらいは支払うべきなのでは、とも思うが、飽くまでSNSの宣伝用との前提があるならば、WIN:WINの関係性だと割り切ってもらうくらいしてもバチは当たらない気もする。じっさいのところ、原作の需要はあるだろうか。改変自由とすればそれなりにある気もするが、いかがだろう。WEBで小説を発表している者はこれからは、こうした戦略を各自で実行していかねばならない時代だ。いくひしがやる前にやってしまえば先行者利益にあやかれるかもしれない。いくひしとしてもじぶんでやらずに需要の有無を確認できるのでありがたいので、弾数のある方はいちど挑戦してみるのもよいのではないだろうか。



1817:【いつの間にか】

回し蹴りがうまくなってた! なんかきょう、なんとなーくしてみたら、回し蹴りがうまくなってた! なんでかは知らんけど、回し蹴りが! うまく! なってた! あしが! あがる! うえに! 使い道なんもないけど!



1818:【サンゴ礁が消えると】

ここ数年、耳にするようになったニュースの一つに、サンゴ礁の絶滅危惧がある。現在進行形で、サンゴ礁がものすごい勢いで死滅していっているのだそうだ。海洋汚染や地球温暖化現象による水質や水温の変化が要因と見られている。サンゴ礁が絶滅すると何が問題なのか。サンゴ礁は海洋面積全体の0.2%を占めている。1%もないのだ。死滅したところでどうってことない、と思いそうだが、とんでもない。海洋生物全体の4分の1、すなわち25%はサンゴ礁に生息している。海面積0.2%の領域に、25%の生物が棲んでいるのだ。海の主要都市と言っても過言ではない。サンゴ礁が消えれば、単純に考えただけでも、海の生き物の25%が消えることとなる。生態系とは一方通行の関係性で成り立っているわけではない。もっと複雑に関係しあっている。そのため、サンゴ礁に生息する25%の生き物を糧に生きる、残りの75%の生物にも大きな影響がでることが予測できる。サンゴ礁が消えただけで、海の生き物の半数以上が死滅してしまってもふしぎではない。ちなみにサンゴは、一匹のクローンが気泡のように連結しあって、サンゴ礁となる。どこか竹林やつくしを連想する。竹林は、すべて根っこで繋がってできる一つの群れである。サンゴは、藻類と共生している。藻を自身のなかに住まわせて、酸素や栄養を供給してもらうのだ。藻類のほうでは、サンゴから排泄物をもらい受けたり、二酸化炭素を供給してもらったり、外敵から身を守ったりする。加えてサンゴは、藻類が光合成をしやすいようにと、樹の枝のようにサンゴ礁を形成したりと、互いに恩恵を与えあっている。そうなのだ、サンゴ礁が木のような造形を模す理由の一つには、共生している藻類に有利な環境を提供することが挙げられる。また、サンゴは自身を粘膜で覆い、砂などが身体にまとわりつかないように保護する。その粘膜は周期的に張り直され、サンゴ礁周辺に生息するプランクトンなどの主要な食糧となる。サンゴ礁が絶滅するというのはたとえれば、海のなかの社会基盤(インフラ)が壊滅するようなものだ。繰りかえすが、要因は、地球温暖化現象だとされている。海水の平均温度が、一、二度、上昇しただけで、サンゴ礁は死滅してしまう(より正確には、藻類との共生関係が崩れることで、サンゴ礁が白化し、死滅する)。責任は誰にあるのか。どこかの国や企業にのみ、その責任の矛先を向けることはできない。目先の利益を追求するなと言いながら、じぶんたちの安全のことしか考えていない人間がすくなくない世のなかだ。安全を考えることそのものはわるいことではない。じぶんたちの安全と言ったときの、「じぶんたち」の範囲を、どこまで広げられるか、どれだけ未来へと伸ばせるか、が肝であろう。じぶんたちの安全を真剣に考えるならば、まずは、いろいろな意見に耳を傾ける姿勢を整えてみるのがよろしいのではないだろうか。むつかしい提案をかんたんに言うものだなぁ、と我ながら呆れてしまうが、こうして並べるだけでも価値はあると考えるしだいだ。



1819:【誰か計算してください】

地球の大気の平均温度を一度あげるために必要な熱量ってどのくらいなんだろう。海や大地に吸収される熱量も考慮して。宇宙に放射される熱量は前提条件でこみこみになっているだろうからこっちは考慮しなくてもよいのかな? わからん。ちなみに、平均温度って、期間はどのくらいだろ。大気って一年周期よりも広い周期で、変化してないのかな。地層を調べたらそういうのもわかりそうだけど、どうなんだろ。わからん。



1820:【恋愛物語のつくり方】

恋愛主体の物語はつくるのも読むのもあまり好きではない。ただ、恋愛要素を巧みに組み込んである物語は好きだ。恋愛要素の基本的な構造として、「恋愛の種が植え付けられたとき」と「種が発芽するきっかけ」の二段構えになっている点が挙げられる。誰かを好きになるきっかけが訪れる前からすでに主人公は、ほかの誰かには抱かなかった特別な印象や感情を相手に抱いている。それは恋愛とはかけ離れたものであるほどドラマが生まれやすい傾向にある。また、それら印象や感情が恋愛感情へと昇華されるきっかけは、必ずしもド派手なエピソードである必要はない。もちろん、ひと目ぼれのように最初からきっかけがあり、好きになる物語もあるし、ド派手なエピソードによって吊り橋効果じみて恋愛に発展する物語もすくなくはない。ただ、さっこんの流行りとしては、まずは恋愛とはかけ離れた人間関係が構築され、そのなかで徐々に関係性が変化し、相手への心象が変質し、その過程で恋愛感情へと移り変わっていく様を描く物語が、求められているように感じている。言い換えれば、最初は恋愛物語ではないほうが、上質な恋愛物語を描けるのではないか、と仮説できる。もっと言えば、どんな関係性であれ、変化の度合いを一方向に導けば、それは恋愛物語としての側面を見せるようになる。つまり、どんな物語でも恋愛の要素を帯び得るのだ。極端な言い方をすれば、最後まで当人たちが恋愛感情に気づかなくとも、関係性の変化の導線を描きだすだけで、受け手のほうでかってに作品の終わりから恋愛物語を想像し、補完してくれるようになる。ひとむかし前の映画では、主人公とヒロインが最後はキスをして終わるものが多かったが、ここ十年くらいのあいだに、そうした傾向は薄らいでいると感じる。恋愛感情へと昇華される前の段階で物語を閉じてしまっても、上質な恋愛物語をつくることのできる時代なのだ。受け手の目が肥えた結果だと評価できる。また、恋愛というものが、関係性の一つの有様でしかなく、最終形態ではないとする意識が社会に根付きはじめている予兆とも言えるかもしれない。人間関係は恋愛がゴールではないし、恋愛感情や愛情が、必ずしも関係性の究極形態であるわけでもない。べつの言い方をすれば、恋愛感情にもさまざまな形態がある。世に似た者はあれど、同じ人間などはいない。ゆえに同じ関係性もまた存在しないのだ。物語が人物同士の結びつきによって肉付けされていく多細胞生物のような構造を有するかぎり、関係性同様、同じ物語というものもまた存在しないものなのかもしれない。組み合わせは無数にある。あなただけの組み合わせを試していこう。



※日々、誤解し、誤解され、すれ違って生きていく。



1821:【うわーん】

まんちゃんさぁ、さいきん頭よさげに思われたいって気持ち、暴走してない? あんた学歴ないじゃん。あたまわるいじゃん。知識ないじゃん。計算できないじゃん。漢字とかさ、何か四字熟語一つでも書けるわけ? 弱肉強食ですらムリじゃない? それは書ける? ふうん。じゃあ四面楚歌は? え? だめ? ほらー。そういうとこだってまんちゃんさぁ。都道府県十個も言えないでしょ。県庁所在地とか言える? 株と為替の違いとか分かる? 化学反応式、三つ以上何か並べられる? 円錐の体積の求め方とか憶えてる? ぜんぶダメじゃん、小学校からやり直してきなよ。まんちゃんのそういうとこ、ホントにホントにどうかと思う。勘違いしないでね、ダメなのはいいよ、だってそれがまんちゃんだもん。なのに、ダメなのに、ホントはホントはぜんぜんおばかちゃんなのに、頭よく思われたいって、そういうあんぽんたんなところがかわいくないなって。もっと素直になろ? ぼくちゃん、あんぽんたんなのってウジウジしてて。それがまんちゃんでしょ。這いつくばってかわいくしてて。



1822:【若さと老い】

100パーセントの出力で、レベル100の技をこなす。これを若さだと仮定すると、40パーセントの出力で、レベル100の技をこなす。これが老成だと呼べそうだ。どちらにもメリットはある。若さの場合は、出力が全開である分、迫力や勢い、キレやスピードがでる。反面、老成の場合は、出力が低い分、安定してこなせ、また持続しやすい(疲れにくい)性質がある。またべつの見方をすると、若さは、出力が高いため、レベル110の技を体得しやすい傾向にある。反面、老成は、長期的な計画をたて、段階的にコツコツと経験を積みあげていかないことには、よりレベルの高い技を体得するのはむつかしい。未来を切り拓くという意味では、若さのほうに分があると言えそうだ。とすると、老成した方法論を主軸にしている者は、じぶんより若く、出力の高い者を観察していたほうが、つぎのステージへと昇るための階段を、精度高く見繕えるのではないか、と期待できる。ちなみにこの若さと老成は、実年齢とはあまり関係がない。年齢が若くとも老成している者もいれば、還暦を過ぎても若さに溢れている者もいる。若さと老成、どちらの方法論もとれるようにしておくと成長するのに有利かもしれない。ギアを変えるように自在に入れ替えることができれば、より理想的だ。



1823:【してねぇよ】

勘違いしてんじゃねぇぞ、いくひし。小説がうまくたってなんも偉くもなんともねぇからな。んでもって、いくひし、おめぇはうまくすらねぇんだかんな。偉くもなんともねぇ以下の以下だ、勘違いしてんじゃねぇぞ。



1824:【感情と名称】

同性同士の感情の揺らぎを掬い取る物語をSNS上で見かける機会が多くなった。いくひしがそういう物語に目がいきがちなだけ、との指摘は一理ある。ただ傾向として一定期間内での出現率が増加しているのは確かだと言えそうだ。そうしたなかで、百合やBLであると謳わない作品にまで、百合やBLではないか、といった判定をくだし、嗜好する受け手たちもまた増加しているように見受けられる。非難するつもりはない。物語は誰であっても好きなように解釈し、楽しむ自由がある。間違った解釈を楽しんでも一向に構わない。ただ、それを気に食わないように思う、ほかの受け手たちの気持ちも理解できる。間違った解釈を、それがあたかも正しい解釈のように触れ回っていたら、眉をひそめたくもなるだろう。ただ、百合やBL(にかぎらないが、ジャンルという枠組みそのもの)は、基本的には、受け手の解釈でしかない。たとえば一時期、「萌え」という言葉が流行った。かわいいや、きゅんきゅんする、のような感情を示す言葉だ。萌えアニメ、なんて言葉も出現し、ジブリやディズニー作品と区別するフレームとしていまでも機能している。百合やBLといった言葉も、そうした「萌え」という言葉同様に、感情に由来する言葉だと考えてみてはいかがだろう。女の子同士が関わりあい、なにかしらの感情を抱きあっている。それを見た者が、あ~よい~~、と思えばそれは百合なのだ。同様に、男の子同士が関わりあい、そこにしか芽生えない感情を抱きあっている様子を目にし、あ~よい~~、と思えばそれはBLであり、萌えなのだ。その子たちの関係性が友情であろうと恋愛であろうと、宿敵であろうと関係ない。百合やBLという言葉は、関係性を示す言葉ではなく、関係性を見出した者の心の揺らぎを示す名称であり、受け手の気持ちを示す言葉なのだ。むろん、関係性そのものを示す、固有名詞じみた役割の「百合」や「BL」があってもよい。ただ、ジャンルがそうであるように、飽くまでそうしたレッテルは、物語それそのものの本質を示すものではない。本棚に仕舞うときに、なんらかの秩序を持たせて並べたい。ジャンルとは、そのための区分けの一つであると呼べる。またSNSを眺めての印象だが、任意の作品を示し、百合やBLである、と指摘されることに対して、嫌悪感を募らせる者がすくなくないようだ。これに関しては、そういうふうにマイナスに感じてしまう側にも問題があるように感じる。百合やBLに対しての差別意識がつよいのではないか、と穿った見方をしてしまうのだ(差別意識は誰もが抱いているものなので、抱いてしまうのはしょうがないが、それを自覚するくらいのことはしてもよいのではないか、と思う)。解釈を押しつけられることに対しての反発であるのなら、「これは百合でもBLでもない」といった反論の仕方ではなく、率直に、「あなたの気持ち(解釈)を押しつけないでください」で充分ではないかと思う。同様に、ホモやゲイやレズやビアンといった言葉を悪口だと受け取る側にも、懸念を示しておきたい(悪口の意味でそうした単語を用いる者にこそ非があるのは言うまでもなく、また言うまでもないのでここでは深く触れずにおく)。牛乳が好きな人間に対していくら悪意をこめて、この牛乳好きが、と言ったところで悪口にはならない。ならば、同性愛者に対して、ホモやゲイやレズやビアンと言ったとしても、それが悪口になる道理もまたないと言える(同性愛者ではないのに、ホモやレズと呼ばれた場合には、そうではないと否定するのが自然な対応だ。しかし、怒る理由にはならない。牛乳が好きではない人間に、この牛乳好きが、と言ったとして、果たして相手は怒るだろうか。何を言うかよりもむしろ、言い方のほうが問題だ。要するに、発言者に悪意があるか否か、差別意識に根付いた発言かどうか、が焦点となる。投げかける言葉そのものの是非を問うのはお門違いだろう)。ホモアニメ、ホモ漫画、ホモ小説など、なんでもよいが、そう呼ばれて怒る理由が分からない(明確に相手が悪意を以って言っていたら、その悪意に対して反発する姿勢は理解できる。ただ、相手に悪意があるかどうかは、発せられた言葉だけでは判別できないのでは、と疑問に思うのだ)。もっと鷹揚に構えてもよいのではないか。ホモやレズは悪口ではない。蔑称である、なんて意見も聞かれるが、この世に蔑称なんてものはない。言葉を蔑称として扱う者がいるだけだ。百合やBLもまた例外ではない。もちろん、この解釈を他人に押しつけるつもりはない。きょうのいくひしはそう思います、という感想なのでした。



1825:【インプレッションとアクセス数】

SNSにはアクセス解析機能がついている。アナリティクスと呼ばれるものだ。その日にじぶんのアカウントを覗きにきたユーザーの延べ数と、投稿した記事をどれだけのひとが見たかを数値化してくれる。いくひしは2018年の8月からツイッターをはじめた。平均するとプロフィールへのアクセス数が月10000を超す。先月、12月のアクセス数は10774だった。一週間休止してもそれくらいのアクセス数なのだ(ちなみに、いくひしのフォロワーは現時点で20人だ。SNSをざっと見渡してみると、フォロワーが数百人いてもプロフィールへのアクセス数が10000を超さないユーザーはすくなくないようだ)。インプレッションは、いちどもツイートしてこなかったので分からなかったが、きょうはじめてツイートしてみた。インプレッションは40だ。一日の平均アクセス数が300を超すいっぽうで、インプレッションが100いかないというのはどういうことなんじゃろ? ツイッターを経由せずにいくひしのアカウントを見にきているひとがいるとして、その方々のアクションは数字に反映されないのだろうか。たとえば、アクセス数のほとんどがいくひし自身のツイッターを開いた回数だとしよう、だとしてもインプレッションはさいていでも300はいくはずだ(固定ツイートなので、いくひしがアカウントを開けば否応なく数字に反映される)。通常、プロフィールへのアクセス回数よりもインプレッションのほうが多い。十倍以上の差があるのが珍しくないなかで、いったいどういうことなのだろう。わからーん、と思ったきょうのいくひしさんなのでした。



1826:【原作フリー素材はじめました】

note「https://note.mu/ikubisiman」のほうで原作フリー素材はじめました。ショートショートを無料でご自由にお使いいただけます。二次創作との主な違いは、原作ままでもOK、改変自由、商用利用OKな点です。詳細はnote「https://note.mu/ikubisiman/n/n016b9fc07240?creator_urlname=ikubisiman」こちらにて。



1827:【たのしい】

物理世界だとわる目立ちしてしまういくひしさんでも、インターネットのなかだと目立たずにいられるから気持ちがすごいラク。たとえば、インターネットのなかであっても何かを発信するときはすごいドキドキする。心臓にわるい。でもとくになにも反応がないから安心する。よかったーってなる。でもそれじゃダメじゃん、意味ないじゃん、みたいな考えもあるから、ドキドキしながらまた別の方法を試していく。この「いくひ誌。」とかいまは誰も読んでないって分かってるから、すごくラクに言葉を並べられる。あべこべに、誰かの視線を意識した途端に、つまらない言葉しか並べられなくなる。ときどき小説のアクセス数が変動しているときがあって、そういうときは、もしかしたら読まれてるかも、と思って、ドキドキしてしまう。こわいー、ってなる。前から繰り返し言ってることだと思うけども、いくひしはひとの視線がすごい気になる。どう思われてるかとか、どういうふうに評価されてるのかとか、気になって、きぶんがうがーってなる。自意識過剰だとじぶんでも呆れてしまうけど、気にしないではいられない。でも、たとえばいくひしが誰かから嫌われてても、いくひし自体がどうにかなるわけでもないって頭では解かってるから、哀しいけどしょうがないなぁ、ってなる。どうしようもない。だから物理世界のいくひしさんは、ものすごく独りが好きだ。誰とも関わりたくない。でもインターネットのなかだと、誰とも関わらずにいられるし、好きなだけ、好きですって相手に示せるから、たくさんハートマークとか押しちゃう。でもいくひしの好きです、なんて意思表示は、相手からしたらあってもなくても構わない蚊の羽ばたきみたいなものだから、むしろちょっと煩わしいくらいかもしれなくて、でもちゃんと蚊を気にせずにいられるミュート機能とかがあるから、いくひしは安心して、無関心の世界のなかにいられる。ほっとする。爆弾を踏まないように、こうしたらどうなるだろう、ああしたらどうなるだろう、と試していくのは、なんだか池に小石を投げ入れて、いい音が鳴るかどうかとわくわくするときのいくひしに似ている。爆弾を踏んだら負けなのだ。ぎりぎりまで、石を積みあげて、雪崩を起こすことなく、そのままひっそりと消えていく。見つかったら(バズったら)負け。ひとり遊びはたのしい。



1728:【高嶺の花になれ】

SNSの普及で、コンテンツ市場は事実上の不当廉売(ダンピング)がまかりとおっているようなものだから、今後は、無料で作品を提供するのではなく、高い値段をつけて、高嶺の花となることで目立つ時代に突入していくことが予想される。お金を払わない大量のユーザーよりも、高い値段で商品を購入してくれる少数のユーザーに的を絞ったほうがビジネスとして成立する市場となっていく。無料で作品を提供するような真似はしないほうが身のためだ(ちなみにいくひしはビジネスで創作をしていないので無料公開が基本です)。付加価値を高めるのに、無料提供は効果的ではない。ビジネスをしたければまずは、高値でも売れるように的を絞ることが肝要だ。お金を払ってでも「任意のソレ」を欲しがるのはどういった者たちかを考えてみよう。情報商材が売れる世のなかだ。情報商材の基本は、情報の中身ではない。誰からソレを仕入れたのか、だ。ユーザーの多くは本質を求めてなどいない。いつの世も売れるモノとは、着飾るための装飾品である。



1729:【それはそれとしてじゃあ】

本質って何?



1730:【なんとなーく】

きょねん2018年は、SNSでバズるといいことあるよ、といった共通認識がバブルよろしく膨れあがった年だったと実感する。その反動で2019年はクリエイターさんのSNS離れが加速するのではないか、と見立てているが、どうなるだろう。大勢の才能が競い合うように作品を投稿し、バズッたりバズらなかったりを日々繰り広げている。熾烈を極めるという表現がぴったりだ。その結果、バズってもいいことなんてとくにない、との実情が可視化されやすくなっている。身を削って投稿したところでたいした反応もなければ、バズッたところで得られるのはいっときの承認だ。日々大量のコンテンツが流れてはネットの海の底へと沈んでいくSNS上では、相対的に宣伝効果は薄まるのが道理と言えよう。宣伝効果がまったくないわけではない。投稿しないよりかはしたほうがよい。ただ、身を削ってまでするほどのことではない、といった共通認識がクリエイターたちのあいだに漂いはじめていると感じられる。いまいちど、なんのために創作しているのかを自問してみてはいかがだろう。SNSで人気者になり、企業から声をかけられ、或いは、たくさんの需要者に恵まれ、売れっ子作家になる。そんな夢物語を見て過ごす日々もわるくはないが、夢物語がしょせんは夢物語でしかなかったのだと気づいたとき、或いは、夢物語が現実へと昇華されたとき、じぶんの辿ってきたこれまでの人生に失望しないよう、なぜじぶんは創作をしているのか、と日々問いつづけることをおすすめする。答えはいくつあってもよい。日々違った答えがでることもあるだろう。それら自問自答こそが創作する意味に繋がっていくはずだ。やがてそれら日々の積み重ねが、なぜ生きているのか、との大きな問いかけへの答えへと結びついていく。あなたはなぜ生きているのだろう? 日々ぶれる答えをたのしもう。



※日々、孤立無援と思いこんでは、見知らぬ誰かに救われている。



1831:【こわい】

よくよく考えてみたのだけど、恋愛ってホラーじゃない? めっちゃ怖いんだけど。失恋が、とかじゃなく、恋愛にまつわる人間関係というか行動原理というか、なんでそこまでする必要ある? みたいなのが、すごく怖い。未知。ホラー。虚構のよくある題材なのに、殺人とかとちがって、すぐそこに、そこら中に溢れてるわけでしょ、なんなの、オバケってやっぱりいるんじゃん、みたいな、虚構じゃないのかよ、みたいな。



1832:【おかわり!】

依存体質なので、いくひしはコレが好きとなったら、ひたすら飽きるまでそれを摂取しつづけてしまう。食事なんかも同じものばかり食べてしまうし、創作でも同じようなパターンを繰りかえしてしまう。ツイッターやnoteでもその傾向はでていて、平等にパラパラと好きなものだけをチョイスするというよりかは、だいたい同じアカウントを眺めにいくのが日課になっている。言い換えるなら、果実そのものではなく、その果実をならせる樹のほうに興味の矛先が向かいやすい。どんなに好ましい果実をならせていても、樹のほうに興味が湧かないと一過性のいいですねー、で終わってしまう。お?とならないと、食指が動かないのだ。その「お?」はおおむね、いくひしにないものであり、欠けているものだ。ただ欠けているだけではなく、このさきどれだけ努力しても手に入れられないだろう、と予感させるものにつよく「お?」と感じる。いくひしに好かれてしまった方はたいへんかもしれない。執着されていると感じ、嫌悪感を覚えてしまわれるかもしれないが、飽くまでいくひしが興味があるのは実をならせる樹であり、あなたそのものではない。蚊は人間の血が目当てであり、その人間そのものに興味があるわけではないのと似ている。安心してくださいと言いたくて並べてみたものの、かえって失礼な文章になってしまったかもしれないし、そもそもを言えばいくひしが好きな方々がこんな文章を読んでいるわけもないのだから杞憂かもしれない。世のなかは広い。見かけだけでは計り知れない、深い根を張り巡らせている人間が何食わぬ顔をして、有象無象に埋もれている。「インターネットがなければまず繋がらず、たとえ物理世界で見かけたとしても歯牙にもかけなかった相手が、内面を可視化させた世界を介して、その片鱗を覗かせる現代」に生きていられる偶然は、じつによろこばしく、余すことなく甘受したい。



1833:【だんぴんぐ】

正規の価格よりも低い値段をつけて販売することによって、市場全体へ低価格チキンレースを仕掛ける手法を不当廉売(ダンピング)と呼ぶ。資本に体力のある企業が最終的に生き残り、そうでない企業や個人事業主は淘汰されるため、独占禁止法(独禁法)にて制限されている。しかしコンテンツ業界にかぎっていえば、SNSの普及により、市場に大量のコンテンツが溢れる事態に陥っている。しかも高品質で無料ときたものだ。コンテンツにお金を払う行為そのものが淘汰されようとしているのが現状から分析できる実情であろう。こうなったときにコンテンツ提供者としてお金を稼ぐために立てる策は大きく分けて三つある。一つ、SNS上に溢れるコンテンツには真似することのできない付加価値をつける手法。メディアミックスやイベント、グッズ販売などがこれにあたる。二つ目は、高品質の無料コンテンツを拾いあげ、値段をつけ、正規の流通ルートに載せることで、これまでの市場にちかいシステムを維持する方法だ。バイパス手術のようなものだ。血流の滞った部位にメスをいれ、チューブで繋ぎ、全身に血が巡るようにする。人材発掘などの手間を、SNS上の神の見えざる手によってまかなえるため、コスト削減の効果もある。反面、これまでコンテンツ提供者側の権威をかたちづくっていた新人賞などの箔が落ち、新人賞の存在意義そのものが大きく揺らぐ可能性は低くはない。最後になるが、SNSダンピング時代におけるコンテンツ提供者たちのとるべきもっとも理に適った策とは、コンテンツ提供そのものをビジネスの核にするのをやめることである。もはや、これまでのような「流通」でお金を稼げる時代ではない。否、流通は儲かるが、コンテンツ提供者にその役割はなく、SNSやネット通販サービスに取ってかわられる。全滅することはないが、ビジネスの核にすべき事業ではない。では、どうすべきか。一つは、コンテンツの権利を商品にしてしまうことだ。おそらく、これからはこれまで以上に、コンテンツを扱う権利が、株や証券のようにやり取りされるようになる。コンテンツの付加価値を高め、企業間でやりとりをする。その過程で、さまざまな商品開発がなされ、市場が活性化する。そのための布石として必要なのが、「まとめること」である。SNSでバズッたコンテンツでも、一週間も経てば、情報の海の底に沈んでいく。過去にバズッたコンテンツを一望できるサイトがあれば非常に便利であり、需要があると推し量るものだ。ただし、まとめただけではユーザーは金を払わない。まとめる作業は、飽くまで、潜在需要者を集めるための施策だ。となると、どうやってお金をいただくに値するサービスにするか。これはもう答えは半分でていて、ユーザーからお金を集めるのは、コンテンツサイト、とくに漫画や小説の分野では、理に適っていない。ユーザーはもう、コンテンツそのものにはお金を払う気がないのだ(一部ではいまなお、お金を出しても手元にモノが欲しいと希求しているユーザーもいる。が、減少傾向にあることは否めない)。そういう時代になってしまった。そしてそれはこのさき変わることを期待してはいては、市場が衰退していくいっぽうである。そのため、お金はユーザーではなく、他企業からもらい受ける方針に変えていくしかない。これはユーチューバーの資金繰りと似たようなものだ。YOUTUBEでは、動画の視聴回数に添って収益が支払われるが、それだけではたいした金額にはならない。宣伝効果をウリにすることで、ユーチューバーは、スポンサーを募り、商品の宣伝をする。同じように、コンテンツの分野でも、「需要のあるコンテンツを企業のほうで売買するビジネス」が主流になっていくと想像する。たとえば映画をつくって、自社の商品に有利な流れを市場に生みたいと考える企業があったとする。CMを打つにしても、まずはそのCMに起用する俳優たちに有名になってもらわなければならない。知名度や好感度をあげるのに映画は格好の場だ。そのために企業は、コンテンツ提供会社から原作を権利ごと買い取る。そのときに企業へ原作を高値で売るためには、そのコンテンツの付加価値が高まっていなければならない。バズッた実績や、ユーザー層のデータ、二次創作としてどこまで発展し、現状の需要はどの程度あるのか、などなど。そうしたデータそのものが、コンテンツの価値を高めていく。基本的に制作会社は、映画にしてもグッズ販売にしても、それらをつくる際に、外部から茶々を入れられたくない。権利ごと買い取り、あとはすべて自社の判断で行いたいと考えている。そして、コンテンツ提供者は、コンテンツの開拓と付加価値の向上、権利の管理と、三つに集中できるため、どちらにもメリットはある。これからはこうした流れが主流になっていくのではないか、と想像するが、むろん懸案事項もある。たとえば、この考え方の場合、最初に集めるコンテンツはすでにバズッた作品など、付加価値がある程度ついているものだ。クリエイターの側で果たして企業側に権利の管理を任せるだろうか。管理会社を介さず、直接制作会社にアプローチしたほうが話ははやく、もっと言えば、制作会社のほうで、アプローチする部門をつくったほうが成果は大きい。現に、アニメの原作発掘プロジェクトはどの制作会社も前向きに検討し、実地している会社も珍しくはない。現在、コンテンツ提供企業は、コンテンツの囲い込みに必死だ。投稿サイトを開き、自動的に実のなる畑を開拓しようと資金をつぎ込んでいる。並行して、SNS上で人気のあるクリエイターに片っ端から声をかけたりと、いそがしい。ビジネスとしてはまっとうで、合理的な判断だと評価できる。ただし、クリエイターがいつまでそうした企業の都合に合わせてくれるのかは大いに疑問だ。権利を商品にしないことには、コンテンツ提供者たちに未来はない。同時に、権利を商品にされたら、手放したくなくなるのが人情だ。すでに付加価値のついた作品であるならば、クリエイターのほうで、制作会社と交渉をすればよい。個人でやるよりも高値で売れますよ、利益をだせますよ、とそこのところを企業が証明できないことには、今後、コンテンツ提供者とは企業のことではなく、クリエイターそのものを示すようになるだろう。仲介業者を介する意味が消失しつつある時代だ。何ができるか、何が起きているのかを、見極めていきたいものである。



1834:【悩まない理由】

才能がないなぁ、と悩むことがいくひしにはない。じぶんにはとうていつむげない物語を読んでも、嫉妬はするものの、すぐに、「くっくっく、これでいくひしの世界がまた広がった」となるので、嫉妬するのが嫌いではない。本当にありがたい。どこを向いてもいくひしより上手なひとばかりだから、美味しい果実がなりほうだいで、ここは楽園か、と錯覚する(誇張表現です)。間違って禁断の果実を齧らないように注意しなくてはならない。いくひしは改稿をほとんどしない。それだけ創作中に考えながらつくっているから、改稿するくらいなら駄作と割り切って、また新しくつくるほうが性に合っている(もっと言えば、駄作かどうかを決めるのは作者ではなく読者だ。傑作もまた同じように)。ただ、過去作を読みかえしたときに、ここの展開は甘いなとか強引だなとか、冗長だな、と感じることは多々ある。でも改稿はしない。したとしても文字を削ったり、文章を整えるだけで、物語の構造を変えることはない。推敲するにしても、客観視できるようになるためには最低でも半年はかかる。だからまずはつくってしまって、いちど推敲したらひとまず「完」を捺す。半年後とか一年後くらいに、時期を見計らって読みかえし、本格的な推敲を施す。推敲はだいじだが、客観視できるようになるには時間がかかる。中途半端な状態で推敲するくらいなら、まずは完成として発表してしまったほうが、WEB作家としてやっていくなら効率がよろしいと感じる。推敲するのがわるいと言っているのではない。ただ、時間は有限だ。時間をかければかけるほど、本来つくれたはずの物語が失われる。もちろん、推敲をしないことで、本来到達できた領域にまで磨かれずに駄作となってしまう物語もあるだろう。そこはバランスを見極めながら進めていくしかない。予定の9万字をすぎても終わらない物語をまえに、うわーやっべー、となっているいくひしさんへ、きょうのいくひしさんからのアドバイス(余計なお世話)でした。



1835:【うっせーなぁ】

おめぇの場合は改稿しないんじゃなくて、できねぇだけだろ。複雑にしすぎだってホントは気づいてんだろ。なぁ。なんとか言えよ。きのうのいくひしさんよぉ。



1836:【やめて】

ケンカするならもうプリン買ってきてあげない。くだらないことで言いあってないで、まずは「おもしろい物語」をつくったら? 駄作なんていらないんだけど。



1837:【喧嘩両成敗】

栗ようかんおいしい。もぐもぐ。



1838:【文系とは?】

理系と文系の違いがよく解からないので、たまに目にする「文系VS理系」の二項対立では、そもそもが何と何の対立なのかが分からなくて、関心が向かない。でもさいきんになって、SNSでもそういう話題を目にするようになったので気になりだした。いくひしの解釈でいちばんしっくりきているのは、漫画家冨樫義博さんの「理系は自然全般のことを取扱い、文系は人間社会について扱う(大意)」という区分けだ。だから理系のなかに文系がすっぽり入りこむし、文系には理系が含まれる。そもそもが対立する構図を取りようがない。どっちが上だとか下だとか言いあうことそのものが不毛というか、まったくお門違いな考え方だと思うのだけれども、まあ、何かを言いあうことを楽しいと感じる気持ちが解らないわけではないから、ほどほどにね、と思うところで、これ以上の思考を煮詰める真似はやめておこうと思う(まったく煮詰まってはいないけれど)。ちなみにいくひしは人間ありきの考え方しかできないから、いわゆる理系ではなく文系に寄っていると自己認識している。自然よりも人類のことを考えたほうが楽しい。物語なんて人類がなければ存在しない。物語のない世界を考えることに興味が湧かない。ただ、いくひしは歴史があまり好きではない。たいがいの出来事が、メンツの張り合いで起きているから、くだらないなぁ、としか思えないのだ(歴史を研究したり、学んだりすることをくだらないと言っているわけではないですよ、念のため)。そうではない事例もあることは知っているけれども、それはもう個別の人間の履歴であり、物語だから、歴史とは呼べなくなってしまう。けっきょくのところ、学問が苦手なのだなぁ、としみじみ納得するものだ。苦手なものからは距離を置きたい。その反面、舐めくさっていたものがじつはめっちゃおもしろい、となることの楽しさも知っているので、ときおり、ホントに苦手なままなのかい? と目を向けることからは避けないでいようと心掛けている。だからこの「いくひ誌。」に並べてあるもののほとんどは、いくひしが好きなことではなく、むしろ苦手だったもの、好きではなかったものだ。苦手だったけども、一口食べてみたら、おいちー、となったものを、並べている。とはいえ、基本的には、どんなものでも苦手で、好きではないから、最初から好きなものなんてないがゆえに、けっきょくすべてが好きになるんでしょ、と言われてしまうと、んー、そうかもしれない、と苦い顔をしながら認めるよりないのかもしれない。まとめると、いくひしさんは食わず嫌いが多いですよ、という親告なのでした。



1839:【感謝は何を謝ってるの?】

この「いくひ誌。」はカクヨムさんの近況ノートとpixivFANBOXさんのほうで同時に掲載しています。連載のつもりはなく、もとから日誌のつもりで並べています。pixivFANBOXさんのほうでは月額でクリエイターさんへ支援できるサービスがあります。郁菱万も利用してはおりますが、いまのところご支援いただいている方は一人もおりません。電子書籍のほうも36冊ほど販売しておりますが、収益は去年一年間でおおよそ5000円でした(電子書籍のページにも月ごとの収益を載せています)。儲けてはいません。ただ、ときどき数名の方が電子書籍を購入してくださっているようで、ありがたく思っております(基本的にはすべての作品はWEB上で無料公開しています。「カクヨム」さん「pixiv」さん「note」さん「ブクログ」さんにて、それぞれ、どなたでも無料でお読みいただけます)。いっぽうでは、お金をいただけないからといってとくに何かを思うことはありません。郁菱万のつむいだ文章を読んでくださっている方がいらっしゃって、そのことで何か、読まずにいたときにはなかったものが、読者さまのなかに生じてくだされば、費やした時間を無駄だったと断じずにすみます。無駄であることを忌み嫌ってはおりませんが、意味が生じることにはまた格別のよろこびが湧きます。孤独に創作するだけでも得るものはあるのですが、読者さまに読み解かれることで、二重に得をするので、これはもう、ありがたいなぁ、としか思いようがありません。読まれることですでに対価はいただいておりますので、余分に金銭としていただけるのは、ただただ恐縮しきりでございます。心よりお礼申しあげます。



1840:【失敗日】

寝すぎた。はやく寝てはやく起きるつもりだったのが、ふつうにぐっすりだった。きのうは失敗つづきで、よろしくない日だった。今月中に済まさなきゃならない振込用紙を間違って破り捨ててしまったり、はやとちりして相手のひとのめいわくになることをしてしまったり、左足が意味もわからず痛くなるし、小説は進まないし、でも寝る前におふとんにくるまりながら中田永一さんの小説「わたしは存在が空気」を読みはじめたらおもしろくて、うれしくなったから、よい日だった。「わたしは存在が空気」は短編集だ。中田永一さんの短編はハズれがないからすごい。ぜんぶおもしろい。ホントは先月に購入してたのだけど、冒頭の数行を読んで、なんだかなーと思っていったん放置してしまった。でもやっぱりおもしろかった。すごい。あと、ツイッターやnoteでよく見にいってるアカウントのひとたちの小説や文章もたのしくてうれしい。長編小説をつくれないと小説家じゃない、みたいな風潮があるけど、そんなのはもう時代にそぐわない気がする。短編でも掌編でも、なんだったら小説でなくてもいいから、もっといっぱい発表してほしい。機会があれば、好きなアカウントをまとめて載せていきたい。でもめいわくかも、と思うとなかなか踏ん切りがつかない。なんて言いながらときどき載せちゃってるけど、こういうとき、拡散力がないと得だなぁ、と思う。へんなことを並べてもめいわくになるリスクがないのはよいと思う。新作はおわりまでの流れがわかりきってるから、なかなか進まない。わかってることを並べるのはつまんない。わかってないから文字にするのではないのかな、と思うのだけど、そんなことないんじゃないかな、とすぐに反論が飛んでくるので、そっかぁ、となる。きょうはすこしかわいさを意識して文章を並べてみたけど、そうでもないかもしれない。インターネットのなかには小説でなくともお手本になる文章がたくさんある。うつくしいひと、かわいいひと、くるしんでるひと、くるしんでいることから目をそらしているひと、本当にいろいろなひとがいて、いろいろな文章がある。いいなぁ、と思う。ほしいなぁ、となる。じぶんの文体なんかほしくない。もっともっと吸収して、文字の雪だるまになりたい。きょうのいくひしはそう思った。



※日々、誰にも必要とされない気楽さを手放さずにいたい。



1841:【SNSから学んだこと】

目立っていいことなんて一つもない。息苦しさを得るばかりだ。



1842:【誰のこと言ってるの?】

まるでいくひし、おまえがSNSで目だったことあるような物言いだなぁ。誰からも注目されずによくもまぁ、言えたもんだ。



1843:【はぁ?】

うっせ、引っこんでろばーか。



1844:【閉鎖コミュニティ】

去年から予告していたとおり、ツイッターを2月から休止しようと思います。10月くらいまで利用を控えます。これまで積極的に宣伝に利用してこなかったので、せっかくなのでデータを集めてみようと思い、ここ数日自作の宣伝ツイートをしてみました。反響はまったくと言っていいほどありません。これは予想通りです。また、宣伝ツイートをしはじめてから一日のプロフィールへのアクセス数が三分の一に減りました。一日平均300あったのが100へと激減です。これに関してはおもしろい変化だなー、と愉快に思っています。いくひしの考えでは、ツイッターの宣伝効果は時間が経過してから徐々にでてくるものだと解釈しているので、ひとまず種を撒く感覚で、ひととおりの宣伝ツイートをしておきました。今回やってみて、なるほどな、と思ったのは、検索されやすい単語がタイトルに入っていると、インプレッション(ツイートを見るひと)が伸びやすい、ということです。フォロワーが一人のいくひしさんのアカウント(https://twitter.com/Man_is_IBUKI)であっても、(作品タイトルによっては)一つのツイートのインプレッションが三日で800とかいきます。検索したときにほかとダブらないようなタイトルがよい、とされてきたこれまでとは異なり、これからはなるべくダブりやすいタイトルのほうが、SNS上では有利になると言えるでしょう。個別に検索しやすくしたいのならハッシュタグを別途に用意すればよいだけの話です。あと、やはりというべきか、今年に入ってからツイッターやnoteから離脱するクリエイターさんが増えてきたな、との印象は揺るぎません。ツイッターにかぎっては、インフルエンサーなるものの影響力は今年かぎりと見ておいて損はないと思います。SNSのユーザーが急速に夢から覚めはじめているように見受けられます。なにより、下の世代が入ってきている様子がないのがおもしろい傾向だな、と思いながら眺めています。そとにひらけたままのコミュニティはもう若い世代には受け入れられないのではないか、と感じています。リスクが高すぎるからです。ひらけた場でまずは同類と出会い、そこから閉じた場へと移行できるサービスが流行っていくことでしょう。今年2019年は閉鎖的なコミュニティが乱立し、普及していく年になるのではないか、とSNSの変容に思いを馳せて、きょうの「いくひ誌。」とさせてください。



1845:【未来志向】

WEBで小説を発表するうえでは、読者サービスが欠かせない。段落と段落のあいだを一行あけるなどの工夫はもちろんのこと、一ページにつき3000文字以上は載せないようにするなど、読者が読みやすい形態で文章を載せることが、PVを稼ぐためには必要であるようだ。いくひしさんはまったくそうした工夫をしていない。なぜか。まず、十何万字もある長編の全文にチマチマと行間を挟む時間が惜しいのが一つ。それからとくにPVが欲しいと思っていないのが一つ。最後に、いずれ小説投稿サイトのほうで、読者にとって最適な文章形態をタップ一つで選べるようなサービスをはじめてくれるだろうとの他力本願を割と本気で期待しているのが大きな理由となっている(作者ではなく読者のほうでテキストの形式を選べるサービスという意味)。いずれそうなるだろうとの希望的観測のもと、だったら読まれるための工夫をするよりもまずは、作品を増やしたり磨いたりする方向に時間を費やしたほうがじぶんでじぶんの行動を納得できると考え、結果として、読者さまへの気配りのない体裁での小説掲載と相成り申してござる。とはいえ、思ったよりも小説投稿サイトのサービス向上の速度が遅いので(よほど儲かっていないのでしょう)、期待しないほうがよさそうだなぁ、と考えがすこし変わってきたところです(小説投稿サイトではなく、メディア端末のほうで機能が向上するとみたほうが期待値は高そうです。テキストの体裁を自在に選択できる機能くらいは基本性能として備わっていくでしょう)。下手をしたら大手の小説投稿サイトですら、あと数年も経たぬ間に封鎖するような事態になるかもしれません。大袈裟でなく、企業のほうで維持費すら稼げなくなる時代がやってくると想像しています(これはやや悲観寄りの考えです)。いずれにせよ、いくひしさんには関係のない話ではあります。そうそう、未来を見据えて小説をつくってきたつもりのいくひしさんでも自作を振りかえって、見通しが甘いなぁ、と思うことがすくなくありません。たとえば、信号機。近未来を舞台にした小説で、完全自動運転車が普及した世界にあって、なぜかまだ信号機が活躍していたりして。これはいけません。自動運転が基本となった社会では信号機は減少していくでしょう。その代わり、車道と歩道は明確に区切られるような区画整理がされていくと想像します。あとはスマホなどのメディア端末も、あと五年もすれば折り畳みやフィルム型のデバイスが普及していてふしぎではありません。もっと言えば、眼鏡一体型のIoTとAR(拡張現実)が融合して、端末そのものを持ち歩く必要すらなくなるかもしれません。眼鏡に投影された映像をもとに、手の動きを読み取って、立体映像を操るような感覚で操作するデバイスがあと十年以内に商品化されるでしょう(仕組みとして同じようなものはすでに開発されていると想像します)。十年後に古びた表現とならないように、いまからそうした道具を見越して、物語に取り入れていったほうがよいような気がします。もちろん、小説内部でスマホではなく携帯電話を使っているからといって時代遅れな小説だ、なんて評価をされるわけではないでしょう。そもそもを言えば、小説そのものがすでに大いに、時代遅れの媒体です。いくひしはいまの時代よりもすこしさきの時代のほうに、いくひしの小説を必要としてくれる方が多く存在しているだろうと想像しているので、こうした方向性での工夫を自作に取り入れています。時代性というものがどういうものを示すのかはよく分かりませんが、ただひとさまの小説によっては、いまこの瞬間に生きている人々だからこそ響く物語というのもあるでしょうから(割合としてはそちらのほうが多そうではありますが)、各々、じぶんのつむぐ物語との相性のよい読者さまがどんな社会に多く存在しているのかを自覚しておくと、読者さまと出会える確率をより正確に把握できるようになるのではないでしょうか。確率を把握しておくことの利点は、優先して取り組むべき工夫を選択しやすくなることです。やりたいこと、そしてできることからやっていきましょう。



1846:【休養日】

新しいことをはじめるとついつい手加減を忘れてしまう。夢中になっているあいだは脳内麻薬が分泌されて、身体が全開放状態になるので、快適なのだが、いちどエンジンを切ってしまうと、とたんに、身体がまともに動かせないくらい疲れてしまう。よろしくないなぁ、と思いながらも、全開放状態になるのが嫌いではなく、むしろそのために生きていると言っても過言ではないので、どうしても対策を講じたくない。なので、疲れたあとにどのようにケアをするかのほうに思考を割きがちだ。たくさん寝るか、美味しいもの食べるか、の二択なので、考えることがとくにないと言えばないのだが。それはそれとして、音楽は重要だ。とくに音楽のテンポとビートはだいじ。体感速度や思考の波がそこに共鳴するので、聴きながら作業をする人間はときおきピッチやビートの異なる曲を聴きながら、じぶんがいまどの体感速度でどのような律動に同調しているのかを確認する癖をつけたほうがよろしいかもしれない。知らぬ間にドツボにハマっていて、体感速度や律動そのものが要因で、うまく作業が進まない、出力がさがっている、といったこともあるようだ。よい発見だった。あとはさいきん気になっているのは、アマゾン定額読み放題全体の収益がさがってきていることだ。アンミリに登録している作家側に分配される基金があるのだが、今月(2018年12月分)は先月(2018年11月分)と比べて一億円くらい下がっている。きょねんの上半期は毎月すこしずつ金額があがってきていたのが、きょねんの七月ごろから徐々に停滞しはじめてきていたので、なんらかの対策を打たないと、定額読み放題の顧客離れが進んでいくのではないか、と想像している。売れている本だけにスポットを当てる手法だけではあとがつづかない(基本的に本はいちど読めばそれでおしまいだ。続々とヒット作がでてこそ、市場が活性化する。過去のヒット作にのみスポットをあて、宣伝をする戦略は、飽くまで豊潤な新作の土壌があってこそ成立する手法だ。ヒット作以外からヒット作をだすシステムがない以上、アマゾン定額読み放題サービスは先細りしていくのが道理であろう)。なんらかのサービスを展開すべき時期である。ただ、それだけの資本を費やすに値する価値が、いまの電子書籍市場にあるのかは疑問だ。紙の出版以上に、電子書籍市場も収益をあげるのがむつかしくなってきていると想像しているが、さてどうなるだろう。ぼんやりと眺めていきたい。



1847:【透明人間になりたい】

あー、ひとと関わりあいたくなーい。



1848:【うぷぷ】

まんちゃんおっかしー。まるでまんちゃんがひとと関わりあってるみたい。



1849:【あばばー】

やあやあ、いくひしさんでござる。いくひしさんはいくひしさんでいくひしさんでござる。いくひしさんだからいくひしさんでいくひしさんなのだ。だからたまたまいくひしさんだったり、いくひしさんだったり、或いはいくひしさんであるかもわからない。そうそう、いくひしさんと言えばいくひしさんでござるな。いくひしさんがどうしていくひしさんかというと、たとえばいくひしさんがいくひしさんをいくひしさんにしたとするでござる。するといくひしさんは、いくひしさんってどうしていくひしさんなの、という具合に、いくひしさんとなるから、そういう場合は、しゃーない、きみはいくひしさんだ、となるので、けっかとして、いくひしさんはいくひしさんとなるでござる。ここではたとお気づきになられるいくひしさんもいらっしゃるかもしれないでござるな。そうなのでござる。きょうはもう、いくひしさんがない日でござる。なんもなーい。いくひしさんはいくひしさんなのに、いくひしさんがないでござる。もう何を言ってもいくひしさん。そうそう、思いだしたでござる。なんといくひしさんはいくひしさんだったでござる。えー!?っとびっくりなさったそこのいくひしさん。じつはあなたもいくひしさんだったでござる。どしぇー!?と腰をいくひしさんなさったそこのあなた、あなたのいくひしさんしたいくひしさんはじつは腰ではなくいくひしさんなのでは? もうもう、どこまでいってもいくひしさん。いくひしさんはいくひしさんのことばかりで、いくひしさんがいっぱいなのでござる。いっそのこといくひしさんであることをやめるのも一つかもしれないでござるが、いくひしさんはやっぱりいくひしさんでござるからやめようがなく、やめるとすればもうそれは、いくひしさんがいくひしさんするしかないのでござる。いくひしさんはいくひしさんだ。いくひしさんはみなに平等に訪れる。誰もがいくひしさんに向かっていくひしさん、そしていくひしさんはおのずとあなたをいくひしさんに向かわせる。いくひしさんといくひしさんはけっきょくはおなじものであり、表裏一体ですらなく、いくひしさんはいくひしさんなのだ。つまるところいくひしさんは、いくひしさんなのだなぁ、でござるー。いくひしさんはたとえいくひしさんでも、いくひしさんでありつづけてしまうでござるから、これはもう、いくひしさんとしか言いようがないでござる。ホントにもう、いくひしさん。



1850:【無駄な労力】

気づいたらこの「いくひ誌。」の文字数が、百万字を超していた(短編やショートショートを抜きにして)。単行本十冊分の分量がある。なんて無駄な労力を費やしてしまったのだろう。この分の時間と打鍵を創作に費やしていたら、十冊分の小説がつくれていたはずだ。この無駄さによって生まれた小説もあるだろうから、まったく無駄だとは呼べないが、そんなことを言いはじめたらどんな行動も何かしらの影響の結果として自作に作用するので、単純に考えればやはりというべきか、無駄な労力を費やしてしまった、と評価せざるを得ない。ツイッターをやめるついでにこの「いくひ誌。」もしばらくお休みにしたほうがよろしいように感じている。もっと言えば、小説をつくる時間を、ほかのもっと有意義なことにあてれば、いまごろはもうすこし人間らしい生活を送れていたような気もする。しかし、有意義なこととは何かがぴんとこず、人間らしい生活がどんなものかもよく分からないので、よしんば何かしらの基準があったとして、ではいまの生活を脱して、そのような人間らしい何かしらの生活を送ることが果たしてじぶんの望む在り方なのかと想像を逞しくしてみると、どうにも、そのようには思えないのである。けっきょくのところ充分なのだ。満ち足りている。これ以上なにかを望みようがない。あわよくば、欲を張りたくなるような新しい刺激がつねに供給される仕組みを生活の基盤に取り入れたいとこざかしくも頭の隅にて企んでいる。いまはインターネットがその役割を担ってくれているが、もうすこし自動的にかつよりどりみどりといった塩梅であるとよろこばしい。家に図書館があれば言うことはないのかもしれない。漫画喫茶でもよろしい。マクドナルドが入っていると文句はないが、店員やほかのお客は不要であるから、すべて自動で営んでくれると助かる。もっとも、メンテナンスをしなくてはならないだろうから、その手間と労力を考えると、たいして欲しい設備でもない。基本的に欲しいものや環境というのは、じぶんのものにしてしまうと、途端に煩わしいものになる性質があると言える。手間暇かけても手元に置いておきたい、そう思えるものというのは案外にすくないのではないだろうか。いくひしさんはなるべくじぶんのものを増やしたくない。ほかのひとのものを自由に使えるほうが便利だと感じる。そしてそういう環境を増やしていくことが快適さの条件だと考えている。いくひしさんは他人と関わりあいたくはない。人間同士で関わらずとも、関係性を築ける環境こそ理想である。ものだけをやりとりできる環境が好ましい。絆や繋がりを尊び、謳う者たちも、じつのところは他者と関わりあいたいなどとは思っていないように、いくひしには映る。欲しいものを得るために仕方なく関わりあっているだけであろう。欲しいものだけを一方的に受け取れるならば、直接顔を合わせる必要もなくなる。例外は性欲に関係する衝動だけである。あなたはなぜ他者と直接関わりあいたいと欲するのだろう。他者と直接顔を合わせ、言葉を交わし、いったい何を得ているのか。いくひしはそれをなかなか言語化できないでいる。



※日々、火薬の量が増えていく、着火したときがおそろしい。



1851:【張り合いがない】

「他人からの承認がなきゃなにもできねぇ雑魚に興味はない。弱さから目を逸らし、強者のフリをする有象無象にもうんざりだ。弱いなら弱いなりに、その弱さを貫けよ。誤魔化すな、偽るな、他人の評価を着飾るな。やめたきゃやめりゃいい。死にたきゃ死ねばいい。喚きたけりゃ喚けばいいが、「好きなことをして生きろ」なんて無責任な言葉を他人にのたまく真似はすんじゃねぇ。言いたきゃ言えばいいが、したらまっさきに、てめぇのだいじな人間の手足をもいで、てめぇの目のまえで殺してから、生きたままてめぇの臓物ですごろくすんぞ。思慮の足りねぇ人間が衝動だけで生きてやがる世のなかすら想像できねぇやろうは痛い目を見ればいい。理屈を武器に威張り腐ってるやろうどもにゃあ、制御不能な暴力をのしをつけて返しゃあいい。懸命なのは弱者だけだ。おのれの弱さから目を逸らすな。他人の弱さにつけこむな」



1852:【どうどう】

まんちゃん自意識暴走してない? だいじょうぶ? ちょっと落ち着こうか。北海道のコーヒー豆でコーヒーでも淹れてあげよう。おいしぃよー。どことなーく、堆肥の匂いただようコーヒー豆だけども、ちょっぴり濃いめに淹れてあげよう。ついでにとっておきのチョコレートもつけてあげちゃう。おいしぃよー。それからそれから、「違国日記」でも読み返そうか。きのう買ってきた「ロジカとラッカセイ2巻」もおもしろかったよ。1巻から読み直すのもありじゃないかな。そいで、紀伊カンナさんの「春風のエトランゼ」もいかが? あなた好きでしょ。気持ちがざわざわしたときは好きなものを摂取するといいよ。そうしよ、そうしよ。きょうはもうおやすみ。好きなご本を枕元に並べて、起きたら寝ぼけまなこのまま、ぬくぬくのおふとんのなかでそれを読んで、よい日を迎えるなんてどう? いい気しない? するでしょ、するでしょ。よしよし、なかなか。まんちゃんあなた、気づいてないかもだけど、じぶんで言うほど独りじゃないよ。孤独が好きだなんてうそっぱちでしょ、つよがってるだけだよね。ホントに独りが好きだとしても、仲良くしたいってホントはずっと思ってるんでしょ。素直なまんちゃんのほうが、もっと好きだなぁ。やさしくなりたいならまずはじぶんにやさしくしましょ。愛せないのはしかたないけど、好きじゃないならないなりに、やさしくするのがだいじでしょ。そういうものになりたいんじゃなかったの? まんちゃんにしか分からないけど、分からなくてもできるでしょ。



1853:【あーあーあー】

きこえなーい。



1854:【天才編集者?】

すでに多くの者に影響力のある著名人に本を書かせるのも編集者の一つのスキルだとは思うが、著名人の本でしかヒットをだせない編集者を天才と評価するのは妙に思える。どちらかと言えば便利屋にちかいだろう。便利屋と編集者とでどちらが社会的に有用かはまたべつの話になっていくが、埋もれた才能を発掘できない編集者に編集者としての存在価値はないといくひしは考えている(作品をつくらない作家に作家としての存在価値がないのと同じように)。そして現状、編集者は存在しなくなりつつあると考えているが、さてどうなっていくだろう(いくひしの考えでは、これまで編集者が担っていた役割をこのさきの時代では作家が肩代わりしていくようになると想像している。作り手に回れない編集者は淘汰されていくだろう。作家もまた同様に、編集者のスキルを身につけられないと筆を折らざるを得なくなっていくのではないだろうかと踏んでいる)。



1855:【まえがきについて】

いくひしの周りで小説を読んでいる人間は三人もいない。いたとしても「あんたまだライトノベル読んでんの?」みたいな謎のマウントをとられる。好きなものを読めばいいと思うし、一つの本をジャンルやレーベルでくくって判断するような姿勢は、いったいあなたは小説から何を読み取り学んできたのですか、と逆マウントをとりたくもなる。言ったところで得るものはないので、おもしろいですよ、とだけ答えている。すこし話を掘り下げてみたところ、伊坂幸太郎や乙一、桜庭一樹などの小説はライトノベルではなく一般文芸であるそうだ。いくひしの感覚ではいずれもライトノベルである(文体が軽いので。この基準だと中村文則の小説もライトノベルだ。ちなみにいくひしは、「ラノベ」と「ライトノベル」とでまた分けて考えている。端的に、漫画にして映えるのがラノベである。むろん例外もある)。何を以ってライトノベルだと判断しているのかは人に寄りけりであるだろう。ホラーやミステリィ、SFなど、ジャンルのくくりでも同じことが言える。物語そのものの本質とはほとんど無関係と言っていいだろう。もっと言えば、そうした安易なレッテルが物語の本質をくもらせているとも呼べる。商業として広く人々に売らなければならないので、そうした画一的なレッテルを貼らざるを得ないのだ。どうにかならないものか、といくひしさんは自作紹介文ではいつも頭を悩ませる。そこで辿り着いた解決策の一つが、物語の雰囲気からは程遠い、中身にもほとんど言及しない紹介文を並べることであった。いくひしさんの自作紹介文こと「まえがき」は、本編とほとんど関係がない。読むか読まないかを決める判断材料にはならない文章を並べている。ないほうが読まれる確率があがるかもしれないくらいだが、いくひしの「まえがき」を忌避するような読者にはとくべつ読まれたいとも思わないので、ふるいにかけるつもりで、並べている。いくひしはプロではないので読者なら誰でもいいわけではない。自作紹介文だけでも集めれば七万字くらいになるので、いずれ「まえがき集」として電子書籍化しようと思っている。



1856:【人間ってそういうとこあるよね】

今週はすこし出力あげちゃったので、疲れ気味でした。夜はパスタの日が多いです。1キログラムのパスタが250円で買えるのはうれしい。あとはマスカットの香りのする紅茶を飲んでいて、はぁ~、となります。癒されます。さいきんはすこし前まで苦手だった曲をたくさん聴いています。もうすこし詳しく言うと、むかし好きで、でも苦手になって、でもやっぱりときどき聴くくらいなら好きかもなぁ、みたいな感じです。要するに好きなのです。でも毎日聴きたいわけじゃないのです。でもでも、よくよく考えてみたら毎日聴きたい曲というのもめったにあるものではありません。あったと思っても、いざ毎日聴いてみるとやっぱり飽きてしまいます。人間万事そういうところがありますよね。あれだけ好きだって言ってくれたのに、ほかにもっと好きなひとができたからなんて一方的に突きつけやがって。なぁんて怒ってみたけど恋人なんていたことありません。怒ってみたかっただけです。ありますよね。なにかあって怒るというよりも、怒りたいから、理由を探しちゃうみたいな。一事が万事というか、いくひし万事そういう感じです。ああきょうのいくひしさんはぷりぷりしてるなーと感じたら、それはいくひしさんが単に八つ当たりできる相手を探しているだけだと思います。いくひしさんが虚仮下ろしたり、非難したり、否定したり、苦言を呈していたりしても、相手がわるいことはとっても稀です。たびたび繰り返し言っていることですが、いくひしさんの言うことを真に受けてはいけませんよ。いくひしさんはいろんな考え方を日々、あーでもない、こーでもないと並べがちですが、一貫しているのは、真に受けてはいけませんよ、ということだけです。ですからこの、真に受けてはいけませんよ、という言葉も真に受けてはいけませんよ。というこの言葉も、なんて言っていたらキリがありませんから、ひとまず、真に受けないことを真に受けるくらいの素直さはあってもよい気がします。真に受けないことイコール否定するではないですからね。理解するための一歩として真に受けないことは欠かせないと思います。本当にそうなのかな?と疑問することを覚えましょう。この「いくひ誌。」にはたくさんのいくひしさんが登場しますが、いずれのいくひしさんも、「本当にそうなのかな?」と疑問しているところでは共通しているような気がします。一人の人間につき一つの考え方、なんて制限はありません。一面的な姿を見てそのひとのすべてだと理解した気になるのも、もったいない話です。きょうのいくひしさんはいつになく知った口を叩きますね。偉そうなことを言いたい気分だったのかもしれません。人間ってそういうところがありますよね。



1857:【読書ってむつかしい】

たくさん本を読むと文章力がつく、というのは傾向としてたしかにあると思われる。いっぽうで、本をたくさん読んだ者ほど文章力が高いわけではない点には留意しておいて損はないだろう。もし本を読んだ数の多さで文章力の高さが決まるのならば、のきなみ編集者は小説家よりも小説が上手だということになってしまう。読書についてすこし考えてみよう。本は何を読むかよりも、どのように読むかのほうがたいせつだ。高尚な本ほど良質な糧となり、そうでないものは読むまでもない、というわけではない。そんなことを言ってしまったら絵本を読む価値はなくなってしまう。むろんそんなはずはない。絵本だろうと漫画だろうと小学生の日記からでも得るものはあり、得られないときは何を読んでも得られない。それが読書の基本的な性質であるだろう。繰りかえしになるが、どのように読むかによって、本から得られる体験や知見には差異が生じる。言ってしまえば、何冊読むかよりも、読んだ本から何を考え、それを日々の生活にどのように活かしたか、のほうがよほど重要だ。読書の醍醐味のほんとんどすべてが、そこに収斂されると言っても過言ではない。日々の生活に何も活かせなかったとしても、日々の生活からでは得られない知見を得られたと実感できたならば、それで充分である。実感も一つの体験だ。知らないことを知った、という体験は、日々の生活において、どんな些細なことからでも学ぶチカラを育んでくれる。知らないことが書かれていた、と気づけるくらいに考えながら本を読み進めないことには、そうした体験は得られない。ただ文字を目でなぞるだけならコピー機のほうがよほど得意だ。何冊コピーしたかで読書の価値を測ることはできない。ふしぎなことに、読書を重ねていくと、あるときから、日々の生活そのものが読書のようなものだと感じられるようになってくる。文脈は脈絡となって、因果の筋を結びつける。事象と事象は見えない糸で結ばれており、そうした糸は表層からは窺い知れないようになっている。しかし、読み解くことはできるようだ。正しく読み解けることは極めて稀だが、こじつけでも、推し測ることはできる。本は読者の数だけ世界を展開するが、それら無数の世界は、同時に、ある枠組みに限定され、収斂する。ある者は気づくが、ある者は気づかなかった文脈の背景が、世界と世界の差異として顕現し、あなたの読書の価値を規定する。この世界には、読むための何かがあちらこちらに悠然と漂っている。そして読もうと目を凝らすたびに、それら何かはあなたの目のまえに扉となって現れる。世界を読み解こうと意識することと読書のあいだに大きな差異はない。あなたが向き合うからこそ生じる新しい世界への扉は、あなたが物語を読み解こうと文章に触れるたびに、自ずとあなたの目のまえに現れる。よりたくさんの扉を開けた者だけが、つぎなる扉を創りだすことができる。それはけっして、本を読んだ数の多さによって規定されるわけではない。扉を開けることができるのは、読み解く意思を持ち、世界と向き合おうとした者だけだ。世界と向き合おうとした者だけが、新しい扉を創りだすことができる。読書とは、世界と向き合うことだ。そして、つぎなる扉の創造であり、世界と世界の拡張である。扉を開けることなく、閉じた本に、「読書」の言葉は似合わない。本に目を通すだけなら簡単だ。しかし、読書はかくもむつかしい。



1858:【有利と無理と不利、どれも百合で韻が踏める】

1月27日のきょうは22500文字の短編をつくりました。女のひとしかでてこないので、ジャンルは百合になる気もするし、ならない気もします。主人公とヒロインの感情の揺らぎに焦点をあてていないので、百合としては弱いつくりとなっています。ヒロインそっちのけで物語が進むのはジャンルによっては致命的な瑕疵となりますから、悩みながらつくりました(おいしければなんでもよいといくひしさんは思っておりますが、世の読者の方々の大半は、ハンバーグが食べたいときにカレーがでてくると、なんだぁ、とがっくりくるようです)。また、口数のすくないキャラをヒロインや主人公にする場合でも同様に、作り手としては、むつかしいな、と感じています。自作のキャラクターがどれも似たり寄ったりなのもどうにかしたいな、と考えています。新しい人格をつくることを最優先課題として掲げています。人格とは、他者との関わりあいによって生じる波形の乱れである、と思いつきですが、そのような傾向にあるといくひしさんは思います。あと今回つくってみて改めて思ったのは、小説は飽くまで主人公の周りの人間関係を描くことで、間接的に主人公の内面を浮き彫りにする手法に特化した媒体だ、ということです。主人公はじぶんのことをなるべくしゃべらないほうが、いくひし好みになるなぁ、と思いました。なかなか自作に反映できないので、余計に憧れるのかもしれません。他者は自己を映す鏡、を地で貫くのが小説という技法なのかもしれません。とはいえ、自己を客観視し、じぶんを他者として扱う小説にもおもしろい作品はありますから、いちがいにどれが正解だとは言えないのですが。一つずつ試していくしかありません。そう言えばことしの方針として百合とSFを極力つくらないようにしようとこの「いくひ誌。」でも並べたような、並べなかったような気がしますが、さっそく破ってしまいました。その方針の影響で、百合とも山のものともつかない物語になってしまったのかもしれません。それがよいかわるいかはあとになってからでしか判らないことではありますが、いずれにせよどんな方針を立てるのかは、その後の行動にすくなくない影響を与えるようです。あなどらず、投げやりにならず、真剣に、遊びながら、一つ一つ目のまえのことに集中しつつ、脳みその奥のほうではじぶんから遠く離れた世界に目を向けていたいものですね。欲張りですか? 欲張りでした。本日のいくひしまんでした。



1859:【事実の羅列は卑下ではない】

小説における上手い下手がよく分からない。ただ、好きな文体は確実にあって、流し読みしてもなんとなく話の流れを追えるくらいに文字の一つ一つを、その物語に最適な配置で、旋律と律動を奏でながらつむいでいる小説は、本当に好きだなぁ、となる。そこにきて、ではじぶんの小説がどうなのか、となると、読みなおすたびに、あーもう見たくなーい、となる。なんだこのデコボコは!?ってなる。かなしい。自虐ってよくないよってよく聞く箴言だから反抗して自虐してみたけど、事実を並べるのは卑下だとは思わないから、自作を読むと毎回毎回、うがーとなります、と明かしてみた。満足したことなんて一度もない。楽しくなんてない。過去を振り返ったときに、あのときは楽しかったかもな、と錯覚するだけで、なんでこんな無駄なことしてるんじゃろ、って小説をつくってないときは、つくってるときのじぶんが分からなくなる。でもなんとなく、やっぱり物語がつくりたくなる。頭のなかに自動的に浮かぶ「あれ」や「これ」を掴みどころのないままにせず、じぶんの五感で再認識できるように出力したい。追体験したい。確認したい。そこにあるのに触れられないもどかしさがあり、じぶんだけに見えていて、気になって仕方ないのに、誰にもそれを教えることも、知ってもらうこともできない違和感がある。それを悔しさと言っても、大きな差はない。ことしで小説をつくりはじめて十周年のいくひしさんだが、果たして初期のころより上手になっているのか。じぶん以外のひとに「あれ」や「これ」を差しだして、ああそれね、と言ってもらえるくらいに、頭のなかの「あれ」や「それ」を、よりらしいままで出力できているだろうか。何もかもが分からないまま、暗中模索を貫き、突き抜け、ここまできてしまった。費やした時間に見合ったナニカを積み重ねてこられただろうか。小説と出会っていなかったころのいくひしに、いくひしの小説を差しだし、おのずから読み進めてくれるだろうか。不安しかない。ただ、それが嘆かわしいことだとは思っていない。嫌だとも思わない。完璧からはほど遠く、理想ははるかかなたに、ちいさく光を灯している。残りの人生をそそいだところで、その光に追いつくことはできそうにない。とはいえ、死ぬまでには、せめて距離だけでも縮めたいものである。すこしでも。一歩でも多く。しかし問題は、歩を進めるごとに理想が姿を変え、その光をよりつよく、より遠くから放つようになることだ。果たしてひとは、加速度的に遠のいていく理想に迫ることができるものだろうか。追いつづけるかぎり不可能であるように思われてならない。ひるがえっては、理想に追いつく最善の策とは、理想を追い求めるのをやめることかもしれない。もっとも歩を止めたところで、掴みとれる保証はどこにもなく、理想は消えてなくなるだけなのかもしれないが。(そもそもを言えば、上手い下手は、背が高い低い、と同じ相対的な評価だ。視点がどこにあり、どこを向いているのかで、上手も下手になる。極論、上を向いている者にとって最下層とはじぶんのいる地点であろう。どれほど高みにのぼっても、真に頂点に立たぬかぎり、最下層から抜けだすことは適わない。ただし、下を向けば、いつでもじぶんが頂点だ。上手下手と考えること自体が不毛なのかもしれない)



1860:【うれしい】

じぶんの作品が評価されるよりも、いくひしが好きなひとや作品が評価されるほうが何十倍もうれしい。よいものがちゃんと評価される。うれしい。好きなものがほかのひとから見ても尊いものに映る。孤独じゃないんだ、と感じられる数少ないひととき。孤独じゃないのもわるくないと思える、ステキ。



※日々、悪意を呑みこみ、小さく固め、この身を歯牙にもかけぬ有象無象にいつか撃ちこむ弾丸とする、墓穴は二つと言わず、掘りうるだけ掘り進めている。



1861:【いくひしの場合】

生きるってすばらしい。自由ってすばらしい。社会ってすばらしい。人はすばらしい。健康で、痛みはなく、空腹はつづかず、四肢は自在に動き、好きなときに水を飲み、お湯を浴び、そして血を流す不安におびえずに済む。これらすべて、他者からの許可なく、承認なく、一方的に保障され、与えられている。これがしあわせでなく、なにがしあわせ?



1862:【折り合いがつかない】

みなはどのようにして内なる悪意と折り合いをつけているのだろう。他人を蹂躙することへの欲求と快感にどのように抗っているのか。端からそんなものを持ち合わせていない、との反論が聞こえてきそうだが、そうした反論を思いつき、あまつさえ相手に投じたくなる時点で、相手を蹂躙することへの欲求に抗えていないと呼べる。悪意とはその根底に、自己保存の本能を備えている。じぶんなる個を守ろうとする生命の基本構造が、人類に、悪意を抱かせる。自身にとっての危険となりそうなものやことを排除しようとする欲求が、悪意として顕現する。悪意のなかには、じぶんにとって好ましいものやことを庇護しようとする選別思想も含まれる。ときにそれは愛と呼ばれ、社会的に尊ばれる。しかし、庇護しようとするとき、明確にそこには、排除対象が存在する。何かを守るとき、そこには邪魔なものがある。守りたいものがあり、邪魔なものがあるのか、それとも邪魔なものがあるから守りたくなるのかは、時と場合によるだろう。どちらかいっぽうだけが独立して存在することは原理的にあり得ないと言えそうだ。いずれにせよ、善意や愛というものは、悪意の別名にすぎず、言い換えれば、悪意とは善意や愛の別名にすぎないのだ。何かを愛そうとするとき、自身のなかに優先順位ができ、それまでなかった境界が引かれ、守るべきものとそうでないもの、排除すべきものが無意識のうちから仕分けられていく。或いは、敵愾心を燃やすとき、無意識のうちから優先して守りたいと欲する何かが自身の内在に根付いている。そうしたことを自覚するとき、もしくは自覚しようとするとき、必然的に、内なる悪意に呑みこまれそうになる。否、悪意に呑みこまれ、行動の総じてが悪意によって衝き動かされているのではないか、との疑念を拭えなくなる。折り合いがつかない。他人を圧倒し、ねじ伏せる快楽を知っているがあまり、或いは他人を傷つけ、損ない、優位にたつことの愉悦を知っているがあまり、それとも奪われ、見下され、蔑ろにされたときの屈辱を知っているがあまり、他人と関わろうとする意思そのものの根源には悪意が巣食っているように感じられてならない。他人の尊厳を優先するならば、他者と関わらないことがもっとも合理的なのではないか。それは拒むという意味ではない。率先して関わらない、という意味だ。奪うことなく、損なうことなく、何かを与えることもなく、ただいっぽうてきに、奪われ、損なわれ、与えられる存在になる以外に、悪意を抱かずに済む方法はないのかもしれない。人であるとは悪意を抱きつづけることであり、悪意なくして生はなく、しかしその生に衝き動かされるばかりでは人とは呼べず、ならば人のカタチを模したままの中身のないハリボテとなり、あるがままの物質のように、人のカタチを成したナニカになるほかに、悪意を切り離す術はないのではないか。なぜ悪意を抱いてはいけないのだろう。なぜみなは悪意を抱いたまま、何食わぬ顔で生きつづけていられるのだろう。なぜあなた方は、悪意をまき散らしながら、他人の悪意ばかりを禁ずるのだろう。悪意を抱く自由を守れと、多様性を謳う者たちもまた、ひどく悪意にまみれている。悪意は悪意だ、抱いてよい道理があるだろうか。生きることは悪だ。悪である自覚はあるか。内なる悪は内に秘めたまま、他者の悪を浴びていく。善とはただその自虐にあるのみか?



1863:【おばか】

やあやあ、いくひしさんだ。きょうはひっさびさにひとと雑談をしたぞ。なんかアプリのゲームでクイズやパズルを解くのだが、数学っぽいのをやらせてもらったが、ぜんぜんできなくてびっくりしたぞ。でもほかのひとは割とすらすら解いていて、えーいくひしめっちゃバカじゃん、って目が点になってしまった。相手のひとたちをたくさん褒めて、「みんなが頭よすぎるんだ、いくひしはバカじゃない」と思いこむことでショックを和らげたぞ。でもぜんぜん嫌な感じがしなくて、むしろおもしろかったぞ。いくひしさんはおばかさんだけども、いくひしさんの周りのひとたちがみんな頭がよいので、助かっているぞ。いくひしさんみたいなおばかさんでも存在していてもいい環境はとてもうれしいと思うのだ。とってもよいと思う。たいへんありがとうございます、だぞ。それはそうと、八年前からそれなりに挨拶をかわしていたらしい相手の顔も名前も憶えていなかったことが発覚してショックだったぞ。相手の方はちゃんといくひしのことを憶えてくれていたのに(週に一度は会うのだから憶えているのがふつうなのだけれども)、いくひしは相手のひとがよそから来たひとだと思いこんでいて、名前も未だに憶えていないし、たぶんこれまでにもきっと同じように、初めましてですよね、みたいにしゃべっていたことがあって、たいへん失礼なことを、と申しわけなく思っているぞ。いくひしは他人を、そのひとの見た目のシルエットや動きで憶えているので、体型が変わったり、服装や髪形が違ったり、これまであった癖が直っていたりすると、初めましてのひとに見えてしまうぞ。街を歩いていて挨拶をされても、相手が誰だか分からないことが多いので、日中に人混みを出歩きたくなくなってしまうぞ。愚痴っぽくなってきたのでこの辺でやめておくぞ。それが賢いおとなの嗜みというものだ。でも最後に一つだけ言っておくと、いくひしさんはあんぽんたんでかなしいです。もっと、すこしでも、できれば、バチが当たらないかぎり、望んでもおこがましくないのなら、ぜひとも賢くなりたいです。でも努力したくはないから、みんながもっと賢くなって、いくひしさんが落ちこまないように、それとなくフォローしてくれると助かるな。いつまでも赤ちゃんでいたい本日のいくひしまんでした。ばぶー。



1864:【2月1日】

日付け変わっての2月1日です。もはやこの記事がいつの分の「いくひ誌。」なのかがあいまいになってきました。前日の分を並べているのか、翌日の分を並べているのか、はたまた朝いちばんの更新なのか、ひとまず2月1日分として、きょうは並べてしまいます。2018年の8月からはじめたツイッターのほうをきょうからお休みして、半年後の8月ごろからまたすこしずつ再開していきたいな、と思っています。そのあいだ完全に停止してしまおうとも思ったのですが、せっかくSNSという場があるのですから、BOTで自作の宣伝くらいを回していてもいいかな、と考えを改めました。ウィルスを他者に感染させたければ確率の問題として、まずは大勢の人間の行きかう場所に散布しておくのが定石です。寄生虫ならば、まずは大型の動物ではなく、小型の小動物や昆虫に寄生して、餌として大型動物の体内に入ることで、意中の宿主に辿り着くわけですから、SNSという水場に寄生虫の種を撒いておくのは寄生生物の生存戦略としては正攻法と呼べるでしょう。というわけで、いくひしは活用をお休みしますが、8月ごろまでは雑用係に運用を任せることにしました。たまーに、この「いくひ誌。」にも記事を書いてもらっています。ほかにもう二人ほど推敲係や資金調達係などがいるのですが、いずれご紹介することがあるかもわかりません。もちろんすべていくひしです。多重人格ゴッコです。というテイです。というテイです。創作活動のほうは、いまは新作を進めつつ、きょねん実施した毎日更新ショートショートでつくりかけのまま放置してあったのものを順次結んでいます。2月9日にキンドル電子書籍の無料配布キャンペーンを行う予定なので、それまでにもう一冊、短編集「千物語」シリーズを電子書籍化しておきたいなぁ、とぼんやり考えています。分量は四冊くらい溜まっているのですが(たとえばインスタhttps://www.instagram.com/stand_ant_complex/のほうで連載中のものや、まだ電子書籍化していないショートショートなど)、毎日更新SSの原稿はつくった順に並べたいので、つくりかけのものがあるとなかなか電子書籍化しにくいな、と顔をしかめてしまいます。おそらく、ショートショートだけでもつくりかけのものを閉じれば、もう一冊分の文字数が溜まってしまう気がします。2万字超えの物語がいくつかあるので、そうなります。さいきん身体の調子がよろしくないので(調子が狂うほどに活動できているという意味では快調とも呼べますが)、無理せず進めていきたいと思います。ことしは歴史と数学を勉強したいです。ちょっと前に経済と医学を勉強するぞ、なんて並べておりましたが、日々やりたいことがコロコロ変わります。そして消え失せないので、溜まっていくいっぽうです。どうしていくひしの身体は一つきりなのでしょう。身体は分裂できませんから、人格を分散していくよりないと考えております。その分、性能が落ちては意味がないので、なんとかそれぞれ独自に育っていってほしいと他力本願ではありますが、願っております。とはいえ、こうして願ういくひしもまた、ほかのいくひしからこぼれ落ちた分散型の素子の一つでしかないわけですから、なかなかどうしておもしろくはありません。大元のいくひしさんはいったいどこで何をしているのでしょう。いずれすべてのいくひしを統合してもらえるとうれしく思います。



1865:【私は私なのか】

私は本当のじぶんを知らない。そんなものがまずあるのかすら茫洋としており、掴みどころがなく、だからじぶんのことを文章にするのがとても苦手だ。じぶんのことを仔細に羅列しようとすると混乱する。本名を手書きで書くといつも違和感がある。私は私なのか、私とは何か、を問答無用で突きつけられる心地がする。対人する相手から見た「私」と、私の認める「私」は違う。彼の意識する「私」と、彼女の見る「私」も同じではない。もはや「私」などこの世に存在せず、あるのは無数の解釈ばかりだ。私が認識する「私」も同様であり、空腹のさなかにある私が抱く「私」と、子猫に触れているときの「私」とでは、もはや他人としか思えないほどの性質の差が顕わになる。その差を実感できるのは私が「私」であるから、そういう意味では、統計的に振れ幅の限定された人格の揺らぎ、感情のグラフの示す総体こそが私を「私」と定めるのかもしれず、ひるがえっては、私のそとにいる無数の他者から見た無数の【私たち】が、私をひとつの個として錬成し、雛型に押しこめ、揺るぎない揺らぎを与えているのかもしれない。しかし、純然たる事実として【私たち】は「私」でも私でもない。なぜ人は確固たる自我がこの身に宿りつづけている神秘を信じられるのだろう。これを並べ終え、コーヒーをすすった私はもう私ですらないのかもしれないのに。



1866:【ライオンは生まれながらにして】

努力なんてするだけ無駄というか、いかに努力をせずに済むかを考えられない人間は、何をやっても中途半端に終わる。ライオンは身体を鍛えなくたって、生まれながらにして百獣の王だ。生まれついての才も質もないのなら、素質で勝とうとするだけバカを見る。ライオンに素手で挑めば死ぬだけだ。罠を仕掛けてこそ人間だ。工夫を凝らすほかに、ライオンを仕留める術はない。罠であれば生け捕りだって充分可能だ。余裕こそが勝者の証だ。努力はするな。工夫をしろ。いくひし、聞いてるか。おまえに言うとんねんぞ。



1867:【指図は受けん】

努力がなんとか言ってるけど、それだとまるでいくひしさんが努力してるみたいに聞こえる。端から努力なんてしてないんだけど。努力してもしなくとも、いくひしさんはいくひしさんだ。やりたいようにやる。それにライオンだって、動物園で飼われてたら野生のライオンには勝てないんじゃない。どんな環境で生きてくかってのが、すでになんらかの努力って呼べる気もするよ。まあ、弱くても生きていける、ってのがすでに強者の証なのかも知らんけど。見方の問題になってくるな。けっきょく何を目的にするかって話か。つまらんな。くだらんし。努力も工夫もしーらんぴ。そっちが言うところの努力や工夫って、要するに、「俺がいいと認めるものをつくれ」って話でしょ。いくひしさんがやってるのはお遊びだ。仕事じゃないんだよ。底の抜けたがらんどうを埋めるんだ。あんたの工夫で真似できるか。



1868:【否定しているわけではない】

たとえば、「座ってばかりいると体力がなくなるよ」と言ったとする。「たまには外を歩いたほうがいいんじゃない」と考えを伝えたとして、それは座ることを否定していることになるのだろうか。ならないだろう。座るのもよいけれど、適度に身体を動かしたほうが、長期的に見れば、したいことがより精度高くできるようになるのではないですか、と言っているだけだ。この「いくひ誌。」に並べてあるいくひしの偉そうな文章の多くは、軒並みこの文法にのっとっている。何かを否定しているわけではない。むしろ全体を通しての文脈は、何事も全否定しないほうがよろしくはないですか、と全否定の否定をしている。だから否定をしていない、とは言えないが、おおむね否定しているわけではない、と言っても間違ってはいない。ややこしい言い方になっていますか? 何かを正しいと思い、それのみに注視し、尽力してしまうと、いざ間違っていたり、微妙な誤謬が潜んでいたりすると、途端に何かが狂いだす。ときおり本当に正しいのか、とみずからの足跡を振りかえり、また望遠鏡を取りだして、目指すべき指針を見詰め直すのもわるくはない。目のまえの境地が蜃気楼でないことを定期的に確かめるのは、真に辿り着くべき境地へとつづく道を見極めるのに一役買う。一見すればそれは道のテイを成してはいないかもしれない。しかし、真に新しい道とはいつでも、最初に踏み入った者のあとに築かれるものだ。道とは、人々が行きかうことができて初めて道となる。なればこそ、蜃気楼を追ってばかりいては、たとえそれに追いつき掴みとったところで、道をつくることは適わない。誰もが辿れる道でありながら、到達困難な場所へとつづく道であるとよい。肩書きは不要だ。他者からの評価も必要ない。道さえあればよい。あとは、どこを目指すのか、が肝要だ。何を目指すのかによって、そのひとの道のカタチも変わっていく。ひょっとしたら道ではなくエレベーターになるかもしれない。目的地さえ定まっていれば、もはや道である必要もない。指針がだいじだ、という話をしてみたが、かといって、何かを目指さない者を否定しているわけではない。何も目指さない、というのも一つの指針だ。同時に、もっとも険しく到達困難な境地であるかも分からない。いずれにせよ、道とは通るためのものだ。たまには後続する者のことを考えよう。道しるべを残しておくとよい。或いは、命綱を。そして注意書きを。



1869:【無駄な時間を過ごそう】

社会に貢献したくないし、人の役に立ちたくないと豪語しきりのいくひしさんだが、かといって社会の恩恵を拒む潔さも持ち合わせておらず、よって誰とも繋がらずに生きていくことはできない。誰かと繋がることの意味は、ほぼ十割、いくひしさんにとっては利を得るためだ。じぶんのためだし、利益のためだ。それはあるときはお金かもしれないし、物かもしれない。サービスかもしれないし、快楽かもしれない。感動でもいいし、感情でもいい。何かしら、それを得てよかった、或いは欲しいと望み、もっともっと、と欲の張るものを手に入れるために人と関わる。重要なのは、けっして人と関わりあいたいわけではない、ということだ。得られる利益が人と関わらずに得られるならそれに越したことはない。なんら特別な話ではないはずだ。自覚していないだけで労働している人間であればまずこの原理に支配されて社会に内在しているし、恋人や友人関係でも同様だ。例外は家族だと言いたいところだが、これもまた利益を得られなくなると破たんする例を数えだしたらいとまがない。利益を得ないことイコール何も得られない状態ではない。何も得られない状態は充分にそれで一つの利として評価できる。利益の反対は損失だ。損失を受けつづけても繋がっていられる関係性があるのならば、それこそが尊ぶべき愛と呼べるものかもしれないが、そんなものを崇め奉るのはハッキリ言って愚かだろう。破滅する未来しか予測できない。むろん、時間をかけて関係性を築いていくことで、利益を享受しあえる関係に発展していくことは可能だろう。ただ、無謀である点からは目を逸らさずにいたほうがよい。あなたの人生の八割がたを費やしても繋ぎ止めたいそれは関係なのか、と考えてみよう。対人関係だけでなくこれは仕事でも同様だ。得ている対価に対して、損失が大きくなってはいないだろうか。失っていく時間や効率は、あなたが得ている対価に見合うものだろうか。これは逆の考え方もできる。あなたの得ている対価は、あなたが失っている時間や可能性に見合う成果をあげているだろうか。理想は、得た報酬がまた新たな報酬を生むことだ。できることの可能性が広がりつづけていく時間を過ごせれば、それは利潤の高い暮らし方だと呼べるだろう。こういう話をすると、利益よりもそのときそのときの気持ちや感情のほうがだいじなときもある、という反論を受けてしまいそうだが、最初に述べたとおり、感情の起伏もまた利益の一つだ。もうすこし突っこんで言えば、もし感情を至福で満たすことのみを利益と規定するのなら、ドラッグを使えば手軽にその報酬は満たされる。しかし、失われる可能性や選択肢が消えるので、その損失に見合った感情がそこにあるのか、についてはよくよく吟味しておいたほうが好ましい。さらに掘り下げて言えば、これはドラッグにかぎらず、SNSやソシャゲにも言える理屈だ。そこに割く労力や時間を、もっとほかのものに費やしたほうがのちのち得られる利益は増える道理だ。SNSをやるな、ソシャゲは悪、と言っているわけではない。得られるものと失う時間を天秤にかけましょう、とこれはそういう単純な話だ。また、短期的には利益として釣りあいがとれていても、ある時期を境に、損失に転換してしまう例はすくなくない。まいにちすこしずつロシア語を勉強していれば、三年後にはロシア文学を原文で読めるまでに言語感覚が拡張されるかもしれない。このとき、もしそのロシア語の勉強に費やした時間をまいにちSNSに費やしてしまっていたとすれば、三年後に得られたはずの成果は気泡に帰すだろう。このたとえでは、ロシア文学を原文で読むことを報酬と設定しているので、SNSをまいにちたくさんやりこむことを報酬とするのなら、努めてロシア語を勉強する必要はない、むしろこの場合はそれこそが損失となる。まとめよう。日々の生活のなかで、何を報酬とし、何を成果とするかをハッキリさせること。利益を拡大させるにはそのことが役にたち、同時に、損失を避けることに繋がる。また、これまで報酬と設定していたものが、本当に報酬になっているのかと、ときおり振り返られると好ましい。得た成果に対して、満足できないのなら、報酬としては不十分だ。何が報酬たり得るのか、と日々の営みの軌道を修正していくとよい。いくひしはこのやり方で、まいにちのように、あのときああしてればなぁ、とたくさん修正して、人生に絶望している。たまには何も考えずに、その場そのときの時間に身を委ねるのも人生に飽きないためには有効なのかもしれない。利益を拡大するためには、利益を追求しない時間も必要だ。



1870:【卵がさき】

無駄な時間を過ごすためには、無駄ではない時間をつくらねばならない。止まるためには動かなければならないのと似ている。失敗するためには挑戦しなければならない。挑戦するためには課題がなければならない。課題は、現状を打破したいと望んだから現れる突破口であり、突破口は、日常に充満した無駄にのみ走るヒビである。ヒビが走って映るならば、現状を無駄だと感じている証左と言えよう。日常がすでに無駄な時間にまみれているのならば、無駄ではない時間をつくらねばならない。無駄ではない時間とは何か。無駄な時間を尊く思える日々のことである。無駄な時間を楽しく思えるように、効率のよい時間を過ごそう。



※日々、好きなひとの弱音を見ては、こんなじぶんに励まされてもな、と相手の立場になって、並べた言葉を消していく。



1871:【あーあーあー】

並べることないから即興小説やります。ショートショートで。テーマはふだん使わない言葉を使って、イメージは祖母と孫がなんやかやする話。制限時間は一時間。オチとかなんも考えないで一気呵成につむぎます。



1872:【私のために死んでくれ】

久方ぶりにタイムマシンに乗って、いまは亡き祖母に会いにいった。顔を合わせて早々、おまえは吝嗇(りんしょく)のうえ狭量でいけない、と毀誉褒貶(きよほうへん)の憂き目に遭う。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054888433462



1873:【なんもなーい日】

やあやあ、いくひしさんだ。お久しぶりだなぁ。こよいのいくひしさんは、夜食を食べているぞ。ホットケーキを焼いて食べているのだ。でもな。聞いてほしいのだ。ホットケーキのタネにイチゴジャムを混ぜて焼いたら、ぜんぜん膨らまなくて、ぺっちゃんこになっちゃった。いつもはヨーグルトを混ぜていてな、モチモチになるから好きなのじゃが、きょうはなんか失敗しちゃったかもしれないのだ。でも食べてみたら美味しいのだ。甘いものはよいと思うぞ。あとはな。なんじゃろな。んー。そうそう、って言ったみたけどまだなんも思いついてないけど、そうそう。いくひしさんはさいきん、おそとにお出かけするときに水筒を持ち歩くようになってな。蓋がないタイプの、355ミリリットル入るやつでな。上面のつまみをひねると、穴がひらいて、そのままペットボトル飲料を飲むみたいに口をつけて飲めるのだ。これはよいものだ。いくひしさんはたいへん気に入りました。紅茶か白湯を入れて飲んでいるぞ。あとはなんじゃろな。とくに何もなーい。変わり映えのないまいにちだし、インスタ映えのしないまいにちだぞ。そう言えば、いくひしよりちょっと下のコに聞いてみたら、いまはもうフェイスブックは使ってなくて、ツイッターとインスタがメインらしいぞ。ティックトックも観ないらしいぞ。YOUTUBEもそうらしいけれども、動画メインのSNSはきっといまの義務教育世代に普及して発展していくサービスだといくひしさんは解釈しているぞ。中学生なんかには十数秒の動画は人気なんじゃないかなぁ、と思うのだ。ストップモーションみたいに編集して、ちょっとしたCGチックな動画なら、いまの義務教育世代は誰でもつくれる時代なのだ。脳みその回路からして違ってきているので、もはや同じ言語であっても、世代によってはまったく言葉が通じない時代に突入しつつあるといくひしさんは睨んでいるぞ。テクノロジィの発展が、文学の限界を浮き彫りにしつつあるのだな。むつかしい言い回しくらいは、自動で翻訳されるサービスがあると、すこしだけ小説なる媒体の寿命が延びるのではないかな、といくひしさんは思うのだ。長編を短編にまとめちゃったり。もはや同じ言語であってもそうした翻訳が必要な時代になっていくぞ。きっと。たぶん。そうなると思うなぁ。良し悪しは各自で判断してほしいぞ。個人がどう思おうが、時代は時代でかってに進んでいくのだな。いくひしさんは独り遊びが好きだから、このまま、のほほんとやっていこうと思うのだ。みなのものも、あんまり根を詰めないで、のほほんとやっていくのがよいと思うぞ。下手でも人気がなくとも、誰からも認められなくたって、ぜんぜんわるいことではないのだぞ。焦って、息切れして、日々に飽きてしまうのがいちばん避けるべきことだと思うのだ。何かを自由につくれる楽しさを噛みしめていこうではないか。きょうのいくひしさんはそう思ったのだそうな。



1874:【トリアージ】

あらゆる分野に関して門外漢なので以下に並ぶ文章はいくひしの雑な所感である旨をまずは断っておく。みなさんはご存じだろうか。災害や大規模人身事故などが起きたときに、怪我人に対して、治療の優先順位をつける仕組みがあることを。トリアージと呼ばれるものだ。早急に治療しないと死亡してしまう怪我人に対しては赤色のマークをつけ、そうでない怪我人にはそれぞれ異なる色のマークをつける。そして治療を施しても死亡してしまう怪我人(死亡者)に対しては黒色のマークをつける。医師たちはそれらマークを頼りに、治療を優先的に施していく。しかし、怪我人に対して医師の数が足りないこともでてくる。問題なのは、重症の患者ほど治療に時間がかかる点だ。早急に治療をしなくては死亡してしまう患者への医療行為に時間をかけすぎたあまり、本来ならばその時間で助けられたはずのほかの怪我人をみすみす死なせてしまうこともでてくる。災害の規模や治療現場の環境によっては、本来ならば緊急治療者を示す赤色であるはずの患者に、死者を示す黒色のマークをつけなくてはならなくなることもある。もしくは、本来赤色であるはずなのに、最優先で治療を施す必要がない、とワンランク下のマークに判断され、後遺症が重くなることもでてくる。これはその場その場で、判断が異なってくる。むつかしい問題だと思う反面、治療を施せば助かる重症患者に対しては、どんなときであっても死者を示す黒色マークをつけるのは倫理的にも制度的にもないほうが好ましいと感じる。あとから人員が補充され、治療の手に余裕がでたとき、黒色マークをつけられてしまっていたらもう、治療を施される機会すら巡ってこない。重症患者を示す赤色マークにも、二種類あるとよろしいのではないか、と直感としては思うのだ。いますぐ治療しないと死亡してしまう重症患者と、本日中に治療しないと死亡してしまう重症患者とでは、現場の医療体制や規模によっては、双方助かる場合もあるし、片方のみしか助からない場合もでてくる。ときには、双方に死者の判断をくだし、その余った時間で百人を助ける方針をとる場合だってあるだろう。いずれにせよ、医師たちはそのときその場でできることを懸命に判断し、行っている。あとから振り返って、あーだこーだ非難することはできるが、その場にいた医療関係者たちを責めるのはお門違いだろう。重要なのは、同じような局面がふたたび訪れたときに、前回の反省を活かせる仕組みを築いていけるかどうか、だ。近年、国際的に災害の頻度が増加傾向にあるように見受けられる。地球温暖化現象などの気候要因が相関しているのはほぼ間違いないだろう。他国への救援援助が活発化していくと予想される今後の社会情勢において、トリアージの問題はこれから、深刻な国家間の問題に発展しかねない。いまからもういちど、トリアージの仕組みを厳密に検討し直していく時期かもしれない。いくひしが知らないだけですでにそうした動きがあるのかもしれないが、公になっていないのはなぜなのだろう、とふしぎに思っている本日のいくひしまんでした。



1875:【キャラ造形】

これは完全にいくひしの好みの話になるが、小説におけるキャラ造形は、そのキャラクターが何歳でどこで生まれ、誰と出会い、どのように育ち、傷つき、別れ、成熟したのか、或いはしなかったのか、といった克明な側面像など粗末な事項で、だいじなのは、そのキャラクターの魂のカタチだ。側面像は言うなれば器であり、そこにどんな魂をそそぐのかが肝要なのだ。齢十二の少年の肉体に「どんな魂を宿すのか」がだいじなのであり、齢十二の少年という器が、たとえ少女になろうが、老婆になろうが、薄汚い中年であったとしても、そんなのは大した問題ではない。その器にどんな魂が宿っているのか。譲れないのは、ただそれだけだ。器の成分表など極めて些事だと言ってしまっても、いくひしのなかでは一抹の疑念も湧かない。ただ、いくひしがそのように思っているからといって、ではじっさいに些末な事項なのかと言えばそんなことはなく、キャラクター造形において、そのキャラクターの来歴は無視できない規模で物語全体の機微に大きく関わっていく。ただ、その物語において、キャラクターの来歴がいっさい不明であっても、いくひしは過不足なくその物語を楽しめる。反面、克明にそのキャラクターの側面像や来歴が記されていても、魂のカタチが不鮮明であったり、ぼやけていたり、すべてのキャラクターが同一の魂の焼き増しであったりすると、あーもーあらすじだけでいいです、となってしまう。魂、などという形而上学的な代物を俎上に挙げてしまった手前、こう言ってしまうと角が立つかもしれないが、その人物ならではの出力形態に「ある種の法則」が見いだせないと、うーんどうなの、と上手に物語に没入できない。言い換えれば、その人物とほかのキャラクターとのあいだに、ハッキリと区別できる差異があるのか、に目がいきがちだ。単に差異があるだけではなく、それぞれのキャラクターに同じ情報を与えたとして、何度繰り返しても、双方の差異が一致しないのが好ましい。それぞれに異なる魂が宿っているのならば、たとえばパンを食べる場面、犬を撫でる場面、親しいものを失くした場面と、同じ情報を与えたとしても、各場面ごとに、キャラクターたちの差異の開きは変わってくる。否、変わらなければならない。魂が宿るとはそういうことだ。それは不規則に振幅する波を二つ重ねたとき、ある箇所では重なりあい、またある箇所ではかけ離れるのと似ている。いっときとして、同じ差異は生じない。しかしそれぞれに、キャラクターの波形のみを取りだし、眺めてみると、ある種の法則のようなものが見えてくる。一定の傾向のようなものが現れる。それこそが魂のカタチだ。口調や口癖、見た目の特徴などは些末な事項だ。統一する道理がそもそもない。人間は対面する相手によって話し方を変えるし、装いも変わる。母親のまえで晒す人格と、想い人のまえで晒す人格は違う。服装も髪型だって同じではないはずだ。キャラを立てるとは、器の見栄えをよくすることではない。どんな器に入れたとしても、一発で「あのひとだな」と判る魂をかたちづくることだ。たほうで、魂のカタチが分からないような、どんな器に入れても、中身の定まらない魂があってもよい。ただし、そうした不安定な魂ほど、じつはとんでもなく強固に磨かれた、「それしかない」を体現したカタチを帯びているものだ。芯がしっかりしているからこそ、大きく逸脱し、揺らぐことができる。そうした魂をかたちづくるためには、常日頃から、他人を器で判断せずに、どんな魂を有しているのかを見極めようとする姿勢が役に立つ。見た目や、肩書きなどで他者への評価をころころ変えるようでは、魂を見極めることも、ましてや魂をかたちづくることもできないだろう。繰り返しになるが、だいじなのは器ではなく、中身にある魂のカタチだ。なるべくほかに類のない魂を見つけられると、ただそれだけでも上質な小説を一本読んだくらいに目のまえの世界が輝きだす。よい出会いとは、一方的でも充分に魅力的だ。願わくは、あなただけのよき出会いを。そしてよき魂を見逃さぬことを。(ちなみにいくひしは魂の存在を信じていない。飽くまで比喩なので、誤解なきようにお願いします)



1876:【しんよう】

人生のどん底に落ちたことのない人間は信用できないし、どん底に落ちるような人間も信用できない。要は、人間を信用するのは利口ではない(もっとも、利口でなくとも自由に生きていけるのならばそちらのほうがより理想的なのかもしれないが)。



1877:【成果とは】

世のなか結果がすべて、みたいな言説を見かけることがさいきん増えてきた。むかしからある主張の一つではあるけれど、さいきんはコンテンツ業界のとくに編集者界隈で、比較的よくみられる言動だ(ツイッターを眺めていて)。とくべつ反論は湧かない。そのとおりだなぁ、と思う。反面、結果とはいったいいつの時点の成果を言っているのだろう、と疑問にも思う。たとえば書籍は初速と呼ばれる、書店に並んでから一週間の売り上げが重視される。結果と呼ばれるものが、その初速のことを言うのなら、古典と呼ばれるもののすくなからずは、成果をあげていないことになる。死後、作品に価値が見いだされ、後世に多大な影響を遺した作家はそう珍しくはない。ゴッホしかり。宮沢賢治しかり。もちろん生前から評価されていた作家も同じかそれ以上の数いるだろうから、長期的な視野での成果こそが重要だ、なんて主張したいわけではない。ただ、たかだか一週間の売り上げで、成果がどうのこうのと評価を下されるようでは、創作者としては堪ったものではないのではありませんか、と首をひねりたくもなる。一週間が一か月でも、一年でも同じだ。成果と口にしたとき、その内訳にはどのような成分が含まれているのだろう。いったい何を以って成果と呼んでいるのかがあいまいだ。利益をだしているか否かだとすれば、もはや書籍の六割以上は成果をあげていないことになる。本当にそれらすべてが成果をあげていないと見做してしまってよいのですか、と問うてみたい。商業出版にかぎらず、アマチュアの作品にしても同じだ。書籍に限定せずとも構わない。何かしらの創作をしたり研究をしたりと、行動の結果として、あなたがしなければ生じなかった影響の結晶があなたの目のまえに顕現したとして、それはその時点ですでに成果と呼べるものなのではないだろうか。そんなことを言いだしたら、行動には結果がつきまとうものだから、総じての行動はただそれだけで価値があるとの極論に到ってしまうのではないか、と訝しむ方もおられるかもしれない。そのとおりだ。それの何が不満なのですか、とお尋ねしたい。設定した目標に達していないのなら、たとえ成果があっても意味がないとする考えは成立するが、目標に到達していたのならそれで充分ではないだろうか。その目標を設定したのがあなた自身であるのなら、まずは満足する目標を立てれば済む話だ。無謀な目標を立てて、到達できなかった無駄だった、と嘆くようなら、それは行動や成果がダメなのではなく、あなたの見立てが甘いだけである。満足できる目標をまずは立てることが先決だ。同様に、無謀な目標を立てて、利益がでない、などと嘆いているようではとうていビジネスとは言えない。到達可能な目標を掲げ、それをこなせれば利益がでるような仕組みをつくるのがビジネスの基本のはずだ。それで利益がでないのならば、そもそもがビジネスとは呼べない。博打か詐欺である。現状に満足していない者があるならば、成果とは何かをいまいちど考えなおし、満足できるように目標を設定し直すところからはじめてみてはいかがだろう。



1878:【わかんない】

周囲の物質をすべて吸いこみ、降着円盤を失くしたブラックホールは、やがてホーキング放射によって徐々に消滅していく――と、考えられている。もうすこし詳しく言うと、ブラックホールの周囲に存在する反粒子を吸いこむことで、内部に蓄積した重力(圧縮された物質)が徐々に対消滅していく。だが、反粒子は、粒子と対となって発生する。なぜ反粒子のみを吸いこみ、粒子だけを取り逃がしてしまうのだろう。また、ブラックホールは重力が極めて高いので、その周囲では時間の流れが遅くなる。吸いこんだ反粒子が内部で対消滅するあいだに、外部の宇宙空間には、新たに飛来する物質や、重力で引き合い近寄ってくるほかの銀河などが現れるかもしれない。それらすべてを吸い尽くしたとしても、外部では、ブラックホールが吸いこんだ反粒子と対となる「取り逃がした粒子」が結びつきあい、新たな物質として現れるのではないか。もしそれらすら吸いこみ、真実何も吸いこむものがなくなったとして、だとしても、ブラックホール内部の反粒子と粒子は釣りあいがとれるはずだから、物質優位になるはずだ(元々この宇宙では粒子が僅かに多く残り、それが星々をかたちづくった)。なぜブラックホールは対消滅して消えてしまうことになるのだろう。そもそもこの宇宙では、対称性の破れが働くはずだから、反粒子よりも粒子のほうが多く残るはずだ。ブラックホールが消えてなくなるホーキング放射とはいったい何なのか(一時的に対消滅して、ブラックホールの規模が減退するのは理解できるが、熱的死を迎える道理が解からない。だいいち反粒子も粒子と対消滅したところでエネルギィは残るはずだ。まったくの無になるわけではない)。いまいち理解が追いつかない。知識が足りないので、集めていこうと思う。



1879:【運動が苦手】

運動神経がよろしくないので、いくひしさんはスポーツが苦手だ。まず以って手先が器用ではないので、道具を使う競技、たとえばバスケットやバドミントンが上手にこなせない。万年貧血気味なので、体力もなく、すぐに疲れる。筋肉もつきにくい体質で、ふつうのひとの三倍は練習しないと、競技に即した肉体にならない。だからスポーツからはずっと距離を置きつづけてきた人生だ。常人の三倍の鍛錬が欠かせないこの性質は、運動だけでなく、勉学から創作から、果ては私生活まで幅広く反映されている。何かを理解し、修得するまで、おおむね、ひとの三倍時間がかかるから、いくつものことを同時にこなす真似が困難だ。目のまえの一つのことだけでせいいっぱいになってしまう。食事でも同様で、三角食べが未だにできない。一品ずつでないと気持ちよく食べられないのだ。そもそもが一品料理のほうが好ましく、弁当や料亭にでてくるような、お品が小分けにされてでてくる料理が苦手だ。情報処理能力が低いのだ。すぐにパンクしてしまう。記憶力がわるいのが要因の一つだと感じている。短期記憶に難があるようだ。反面、長期記憶、とくにエピソード記憶のほうは、そこそこすこしばかりの信頼を置けていたのが、さいきんになってそれも怪しくなってきた。憶えていたはずのことやものを簡単に忘れてしまう。忘却の資質だけは高いようだ。いっそのこと他人の記憶からも消えてなくなれるとよいのだが。忘れる能力だけでなく、忘れられる能力も欲しいところだ。



1880:【文学はもう死んでいた】

インターネット内での動向を眺めての所感なのじゃが、文章の経済的価値が急激に落ちてきているのは、気になるところではあるな。文章そのものが商品になることはもう、ほとんどない気がしてきたでござる。言ってしまえば、個人の知恵がインターネットの集合知に勝てますか、という話になっていくでござる。これからさき、作家の経済的価値は、インターネットに溢れる無料の情報よりも低くなっていくでござる。いくひしの周りの人間で、先月発表された芥川賞と直木賞の受賞者の名前を言えるひとは皆無でござる。いくひしさんも言えないでござる。本のタイトルなんてますます以って言えるはずもないでござる。TVで話題になるからスゴイ、という時代ではないのでござるな。だってそれを言ったら、天気予報なんて毎日TVでやっているけれども、先週のお天気予想を憶えている人間なんて稀なのだ。芥川賞や直木賞は、あすのお天気予報よりも取るに足らない情報なのでござる(お天気予報はむしろ社会的に価値の高い情報だからこそ、世に有り触れていて、相対的に価値がさがっているでござる。この相対的に価値がさがる原理が、文章にも当てはまるでござる)。野球のナイター中継みたいに、あと数年もしたら報道すらされなくなるのではないかなぁ、といくひしさんは睨んでいるでござる。話題性重視の賞になんの意義があるでござるか。賞そのものが話題にされなくなってきたから、受賞作の話題性に頼るようになってきたでござる。風前の灯というやつでござる。ともすれば、イタチの最後っ屁でござる。芥川賞や直木賞がそうである時点で、ほかの文学賞や新人賞も知れたことでござる。小説そのものの真価よりも、誰がそれをつくったかのほうが重視される世のなかでござる。アホくさいでござる。春画で有名な浮世絵師は、あー、北斎でござる。いまの時代に、北斎やゴッホや宮沢賢治や中島敦は生まれないでござる。見る目のないやつばっかりでござる。でもそれがわるいことだとは思っていないでござる。見る目のないなかで、また新たに、見る目がよい、という基準が再定義されて、新しい文化が育まれていくでござる。要するに、既存の価値観で計ろうとするから、見る目がないままで、廃れていくいっぽうなのでござる。滅びるものは滅びるし、残るものは残るでござる。あがくだけ無駄でござる。好きなだけあがけばよいでござる。あがくことすら楽しめばよいでござる。あらがうだけあらがって、楽しむだけ楽しんで、そしてかってに滅びるがよいでござる。いくひしさんの知ったことではないのでござる。ひとはみないずれ死ぬでござる。同じことでござる。



※日々、飽きないオモチャを探している。



1881:【雨のような雪の日は】

玄関をでると雨のような雪が舞っていた。雪はきらきらとまたたくことなく、夜にまぎれる。地面にはさざ波のような光沢が浮かんでおり、濡れたアスファルトのほうがよほどキレイで、このまま積もらずにいればよいのにと、白くまばらな夜を思う。光の波から波へと渡って歩きながら、何ともなくそらを見上げる。そらを見ると、いつも彼女のことを考える。彼女はこれと違うそらを見上げているのだろうか、と。もちろん遠く離れた彼女が私と同じようにそらを見上げているとはかぎらない。ただ、きょうだけは、同じそらを見上げているのだろう、と確信を持って言えた。彼女とは幼いころに出会い、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/my/works/1177354054881060371/episodes/1177354054888505911



1882:【リファラ】

リファラは父の形見だった。父はそれを自身の祖父、すなわち僕にとっての曽祖父から譲り受けたそうだ。リファラは旧式の汎用性AIで、第一世代と呼ばれる「AIのイヴ」みたいな存在だ。もちろんかつては、リファラ以外にもたくさんの第一世代がいて、人類を破滅の道から救いだした。いまでこそAIは専用の物理ボディを自身の所有者から与えられ、人類の隣人としてそこかしこを出歩いている。リファラのように手のひらサイズの板に閉じこめられてなどいないし、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054888527979



1883:【大言を体現】

伝えたいことなど何もないけれど、伝わってくれたらまあまあうれしい、と思うことはあって、それは何かと言うと、「実力がなくとも」「友達がいなくとも」「誰かに選ばれなくとも」「大勢に称賛されなくとも」「ひとにうらやましがられるような実績や来歴がなくとも」「学歴がなくとも」「頭がよろしくなくとも」「記憶力が低くとも」「計算ができなくとも」「性格がわるくとも」「何もかもがヘタクソであっても」何かを好きで、なんとなーくつづけているだけでも、それなりの日々を送れるし、たまにはご褒美みたいないいこともありますよ、という例を、いくひしさんから感じとってもらえたら、まあまあ、恥も醜聞もかなぐり捨てて晒してきた甲斐があったかな、と過去のいくひしさんを褒めてつかわしたい気持ちが湧くようで、そうでもないな。誰かに何かが伝わろうが、伝わらなかろうが、いくひしさんには関係のないことだ。ただ、いくひしさんは性格が非常によろしくないので、宝くじを買うような感覚でいろいろと手を打っている。当たっても当たらなくともいくひしさんは得しかしない。つまるところ、お遊びなのだ。いままでは縛りプレイをしてきたので、これからはすこしばかり枷を外していこうと思う。いくひしさんにとって他人から無視される日々なんてものは、 昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらない平穏そのものだ。どちらかと言えば、何をしても他人の反応を気にせずにいられる境地は、非常に心地よいと評価している。



1884:【創作中一覧】

現在創作中の未完一覧です。「傷と夏(中編)」「かってに死んでBAD(長編)」「雷獣、そらに昇る(長編)」「文学キラー(中編)」「サバイバルなIF(長編)」「満天の涙をあなたに(短編)」「悪魔ばらい(短編)」「ミスティと裏切り者(短編)」「仮想に懸想する獣は恋に狂う(短編)」「やどかり(短編)」「霊感なしの礼儀なし(短編)」「白夜獣(短編)」「悪の味方(短編)」「ジッパーは噛みあわない(短編)」「ホールマン(短編)」短編はだいたい一万字~二万字前後で、中編は四万字~六万字、長編は九万字以上です。ショートショートは数に入れていません。ほかにもつくりたいものがたくさんあって、短編にまとめられそうなものはどんどん短編にしてつくっていこうと思います。長編は物語のネタのおもしろさというよりも、構造をどのようなカタチで編めるのか、のほうが重要なので、立体的な構造になりそうなものだけを長編にしていこうと計画を立てています。ちなみにさいきん、海外ドラマ「スーツ」のシーズン7を観はじめたのですが、圧巻です。さすがです。多重構造ものとしてほかの物語群の一歩も二歩も先んじていると感じています。物語のネタがどうこうというよりも、構造がすばらしい。圧縮の仕方などは参考のしがいはなはだしく思います。



1885:【パブリックドメイン】

どうやったらパブリックドメインになるんだろ。著作権放棄しますって宣言するだけでいいのかな。さっさと脳内からっぽにして、全作フリー素材にしちゃいたい。著作権放棄した場合って、他人がかってに著作権を主張できないようなルールになってるのかだけ気になる(独占されないルールになっているのかということ)。もしだいじょうぶなら、いますぐにでも全作パブリックドメインにしていきたい。ただし、企業の利用は禁じる方向で。可能かどうか、調べていこうと思う。



1886:【クリエイティブ・コモンズ・ライセンス】

検索してざっと(五分くらい)眺めてみた感じだと、パブリックドメインは著作人格権以外の権利のいっさいを放棄しないとなれないみたいないので、いくひしの求めている環境を築くのには向かないみたいだ。企業の利用を制限するには、著作権そのものを放棄してはいけない。となると、広義の二次利用を許容する「クリエイティブ・コモンズ・ライセンス」なるものを標榜すればよいらしい。現状、いくひしが行っている原作フリー素材とほとんど変わらない。ちなみにことし二〇一九年はいくひしが小説をつくりはじめてちょうど十周年なので、この期にすべての自作をフリー素材にしていきたい。十月のコミティアにて同人誌を無料配布する予定なので、そこら辺を目途に、計画を練っておく(どうあってもいくひしが損をしないかを吟味するという意味)。十年か五年単位で新作のほうも順次、フリー素材にしていこうと思う。誤解されたくないので注釈を挿しておくと、企業の利用を制限するのは出版業界の息の根を止めたいとかそういう邪心からではない(え、そんなふうには思わなかった? あなた心が清らかですね)。著作権法が改正され、五十年から七十年に延長されることになった。インターネット上における著作物への規制もこれからますます厳しくなっていくことが予想される。そうしたなかで、これからさきの作家は、自作を世に広めるためには否応なく、自作の二次利用を可能とする方向に舵を取らざるを得ない。つまり、これまでは暗黙の了解で許容されていた、「布教活動」が作家のファンですら善意で行えなくなる(或いは萎縮せざるを得なくなる)。そして、二次利用の許容が一般化した社会において、コンテンツ提供企業はますます、「IP化した作品」を拾いあげればいいだけのハイエナに成り下がる懸念がある(企業が何もせずとも、需要のあるコンテンツは自ずとメディアミックスが展開されていく)。大きく育った果実を収穫するだけでは、この国の創作土壌はすぐに干上がり、今後、すばらしい作家は登場しにくくなるだろう。資本のある者が、湖の底に沈んだ豊潤な土壌をすくいあげ、湖全体に養分を循環させねばならない。そうした回路を損なわせないために、芽がでてから拾いあげる、といった姑息な手口がまかりとおらぬように、フリー素材化した作品において企業の利用を制限しておく必然性がある(ただし、個人がアマゾンなど大手企業の物流サービスを利用する分にはこの限りではない)。このさき何十年と創作をつづけていくことが確定的な創作家において、いずれ芽がでてから、などと浅ましい考えを発掘者たちが巡らせぬよう、フリー素材化したものに関しては企業の利用を禁じたほうがよろしいと考える(また、企業が商品化することでせっかくフリー素材だったものが独占される懸念がある)。ほかの創作者各位におかれては、自らの判断で、自作の権利の在り方を煮詰めてみるのがよろしかろう。たとえば、もし企業に拾われることを夢見るのならば、その可能性を捨てないことが第一だ。いくひしさんの真似をしては損をすることになるだろう。もっとも、過去、いくども繰り返し述べているように、いくひしさんはビジネスを目的に創作をしていない。だからこの手法でいくひしさんが損をすることはないのである。十年後、二十年後、いくひしさんの著作が千作を超えたときに何が起きるのか、或いは起きないのか――いまから楽しみである。最後にもういちどだけ念を押しておくが、いくひしさんがこうした策を弄するのは、けっして、出版業界の息の根を止めたいとかそういう邪心からではない。断じて!



1887:【まだやってるの?】

ビジネスを目的にしているとか、プロだからとか、お金を稼ぐためとか言っていた小説家たちはもう引退したのかな? そろそろ辞めどきではありませんか? というかプロの作家はもっと出版社にいろいろ要求していいと思うんですよね。主導権握られすぎではありませんか? そして印税制度もどんどん変えていったほうがいいと思います。初版印税なしが基本で、重版かかってから印税か、もしくは重版ごとに出版独占権を期間限定で売る方向に契約内容を変えていくのが好ましいと感じます(重版がかからなければ違約金を払ってもらうようにし、なおかつ電子書籍の印税は作家側が十割もしくは九割いただくようにすればよろしいのではないでしょうか)。自分たちの利益を守るために出版社をつぶす気ですか、と意見を伺いたいですね。ほんと、プロとは名ばかりですか?と言いたいです。もっと要求して改善していってほしいです。これからでてくる新しい才能をつぶす気ですか?



1888:【うは】

まんちゃん言いたい放題やな。やっと本性あらわしよったか。まあ、背中刺されんようにだけ注意したってな。まんちゃんおらんでもべつに構へんけど、おちょくる相手おらんようになるんは嫌やからな。



1889:【デスノートって知ってる?】

ここ数年、SNSの炎上騒ぎを眺めているとマンガ「デスノート」を連想する機会が増えた(デスノートは、死神のノートを手にした高校生が、よりよい社会を目指すために悪人に死を与えていくマンガだ。主人公は正義のために死神のノートを使うが、やがて自身の正義のために悪人以外にも死を与えるようになっていく)。ここ数年、毎月のように政治家や著名人が炎上している。単に問題があって話題になっているだけでなく、デマが発端の炎上もすくなくない。マスメディアに取り上げられたデマを信じ、非のない人物を大勢で責めたて、のちのち誤解だったと判ったときには、非のない人物は大きな損益を被っていた、なんて事態が毎月のように目につく。集団リンチさながらである。現代人はみな死神のノートを手にしている。気に食わない相手の本名よろしく、瑕疵を見つけては、すかさずノートに書き込み、死を与える。手軽に同士を集い、低リスクで誰かを滅多打ちにできるSNSはまさにデスノートと言えよう。情報媒体にデマを載せるマスメディアや個人に非があるのは論を俟たないが、それを信じ、あまつさえ傷があるというだけで正義の鉄槌をくだしてもいいと思いあがっている個人の複合体は、じつに悪意に満ちていると感じる。まず忘れてはならない前提として、いち個人に誰かを裁く権利などはない点が挙げられる。仮に真実、相手に過失があったとしても、それを理由に私刑を加えてはいけない。この国には法があり、警察がいて、裁判所がある。罪はそうしたシステムによって裁かれるべきであり、もっと言えば、それですら人を裁くわけではないのだ。デマだろうが真実だろうが、見知らぬ誰かに死角から石を投げつけるような真似はそもそも善なる行いではなく、ましてや正義などでもない(実名であればいいなどということもむろんない。正々堂々と人を傷つけるのならば、それもまた悪質だ)。石を投じるのならばせめて、個人ではなくシステムの穴に目がけてみてはいかがだろう。あなたの投げた石が、ひょっとしたらその穴にうまくハマり、塞ぐこともあるかもわからない。念頭におくべきは、あなたの触れた情報の真偽ではなく、あなたが得た情報をもとにあなたがどのような行動をとるかである。デスノートを手にしたあなたはいつだってキラになり得る。現に、キラになっている個人がインターネット上には無数に溢れているのがいまの社会だ。いくひしですら例外ではない。安全地帯から石を投じ、誰かを傷つけ、溜飲を下げるような真似は、いずれキラと同じ境遇に身をやつす布石となるだろう。デスノートは一つきりではない。みな同じように手にしている。キラのゆいいつの失敗が何かを考えてみよう。どうなれば「デスノート」という物語ははじまらず、主人公はキラにならずに済んだのか。マンガ「デスノート」を未読の方でも考えつく答えがあるはずだ。すでにあなたの目のまえにはデスノートが落ちている。しかしあなたはきっとまだ手にしてはいないはずだ。死神のノートなど拾わずに、握った石を手放せば、SNSは、単なる情報共有ツールとして、あなたと他者を繋ぐ、よりより縁として機能する。自分が手放しても、一方的にノートに名前を書かれるかもしれないとの不安を拭えない方があるならば、そもそも「デスノート」の舞台に登場しなければよい。SNSに参加しなければならない、なんて義務はない。デスノートの跋扈する世界になぞ飛びこまずにいられる日々を目指したいものである。



1890:【損をしない生き方】

いくひしさんには影響力がない。まず以って人望がないし、いわゆる人脈もない。友人はただの一人もいないが、知り合いだけは無駄に多い。だからインターネットのなかでは、そうした知人と遭遇しないように細心の注意を払っている。話が逸れた。影響力を持たないいくひしさんだが、それで損をしたことは一度もない。むしろ、いくひしさんに影響力がないせいで機会損失を被っている者のほうが多いはずだ。いくひしさんがツイッターやこの「いくひ誌。」で、このひとすごいなー、この作品はいいものだなー、と思って「いいね!」ととりあげたとき、いくひしさんに影響力があれば、それはそのまま、その人物や成果物の宣伝となる。べつに、いくひしさんにとっては、その「いいね!」に宣伝効果があろうがなかろうが、ブロッコリーにマヨネーズをかけるか胡麻ドレッシングをかけるかの違いしかない。ただ、いくひしさんに影響力があれば、いくひしさんの好きな作品はもっとはやくに芽がでているだろうになー、と思うことはある。世に埋もれた才能――言い換えれば、これまでになかった新しい組み合わせに目を留めている確率がむかしからほかの者たちよりも高かった。多くの者たちの気づかない違和感が目に付きやすいようだ。それらは滅多にないがゆえに得難く、加えてすでにあるものの組み合わせであるから再現性がある。再現性があり、得難いものは人から人へと伝わりやすい。いくひしさんがそう自負しているというよりも、あれいいよねーと言ったときに同意を得られずとも、そう遠くないうちに評価されたり、世界一になったりする。世界の流行になることもしばしばだ。むろん、いくひしさんがスゴイのではなく、いくひしさんにも判るくらいに異色の存在がいくひしさんの触れられる範囲に溢れている現代がスゴイのである。とはいえ、変化の流れを視ていれば気づきそうなものを、案外、みなには視えていないようだ、ということを本を読みはじめたころから自覚するようになった。いくひしさんは基本的に、成功しても失敗してもどちらでも得をするような生き方を選択している。たとえばいくひしさんが何かの賞に応募して落選したとしても、それで損をするのはいくひしさんではない。いくひしさんに損をさせようといじわるをする人間がいたとして、それで損をするのもまたいくひしさんではないのだ。なぜかは解からないが、どうにも、いくひしさんは何を選択しても得をするし、いくひしさんを蔑ろにした人たちはみな例外なく落ちぶれていく(※1)。だからいくひしさんはなるべく、他人と関わらないようにしている。みんなが可哀そうだからだ。陰からこっそり応援するだけで、とくに何かをしようとは思わない。どの道、何をしても、いくひしさんは得をするからだ。たほうで、単に損をしていることから目を逸らしているだけでは?との解釈も成り立つが、その解釈をして得をするのは誰ですか? (※1:エントロピー増大の法則からして矛盾せず、言ってしまえばひとはみな死ぬので、いくひしさんの認識に関係なくみな落ちぶれるのは当然。こうした言葉のトリックに惑わされないようにしましょう)



※日々、自我をいくつも棚にあげ、おろされることなくカビていく。



1891:【この小説家がすごい】

井迫(isako)さんという小説家さんの小説がとてもおもしろかったです。

ここ(https://kakuyomu.jp/users/isako/works)や、ここ(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=10674421)で読めます。なかでもとくに好みだったのは、「人間のあなたはいつか、人間の私を食べる(https://kakuyomu.jp/works/1177354054886809000)」です。つぎに「さらば愛しのインスタント・ヌードル(https://kakuyomu.jp/works/1177354054888231433)」も好みの作風でした。まだまだこうした才能が世のなかにはたくさん埋もれていると思います。より多く出会えるように、目を配っていこうと思います。誰のためでもなく、いくひしのために。単純に、おもしろい物語を一つでも多く読みたいのです。よりじぶん好みの物語を求めていこうと思います。井迫さん、おもしろい物語をありがとうございます。新作もこころよりお待ちしております。



1892:【ヨル、ごっくん】

拾った子猫が化け猫だった。名前はヨルと名付けた。ヨルは新月の夜になると決まって、トラとみまがう巨体に膨らみ、目玉が十も増え、牙は下あごを貫き、口を開けば、内蔵が見えるほどに大きく裂ける。こうなった姿のヨルは市販のキャットフードでは物足りないらしく、活きのよい生餌を欲しがる。具体的には、最初の夜には私の身体にアザをつくりつづける男、それは母の恋人だったのだが、を丸呑みにしたし、つぎの新月の日には、私を売った母ごと、私の身体をオモチャにしようとした男たちをつぎつぎにぺろりと平らげた。ヨルの牙はとてもよく人体を貫いた。人間が団子のようにヨルの牙に連なる様子を見て、私は思わず、おいしそう、と思ったほどだ。私はヨルと共に家をでた。誰もいなくなった家では生きていけないし、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054888596866



1893:【つみきあそび】

やあやあ、いくひしさんだ。久しぶりでござるな。みなのものは健やかな日々をすごせているでござるか。いくひしさんは健やかの意味がよく解からず、いま検索しているでござる。ふんふん。なるほどなるほど。いくひしさんは「すこやか」と読んでいたでござるが、「すくよか」と読むらしいでござる。意味は、すくすく育つ様子、丈夫であること、とあるでござる。健やかな日々といった場合は、順調にまいにちやりたいことがやれています、といったニュアンスになるかもしれないでござる。さいきんのいくひしさんはちょっと疲れ気味でござる。季節の変わり目はだいたいいつもこうでござるから、異常ではないでござる。こういうときの対処法はたくさん寝ることと、ちゃんとお肉を食べることでござる。いくひしさんは万年タンパク質不足でござるから、ちゃんとお肉を食べないとダメなのでござる。でも納豆やお豆腐は好きなので、植物性タンパク質はとっているでござる。でも鳥のから揚げを食べたくなるでござる。にんにくで味付けがしてあるのがよいでござる。表面がパリパリになっているとさいのこうでござる。もうお気づきの方もあるかもわからないでござるが、そうでござる。きょうもきょうとて何も並べることがない日でござる。なんもなーい。いくひしさんの人生みたいでござるな。なんもなーい。でもなんもないのって、いくない? なんもなくても生きていける。こんなにすばらしいことってないと思うでござるよ。いくひしさんは日々なんもないだけでなく自己肯定感までもが、かぎりなくゼロにちかいでござるから、生きててごめんなさいってなるけれども、そんなゴミカスないくひしさんでも生きててよい社会なのでござる。すばらしいでござる。うれしいでござる。こんないくひしさんでものほほんとまいにち好きなことをしつつ生きてよいのだから、あなただってもちろん好きなことをしつつ生きてよいでござる。いくひしさんよりもはるかに世のなかの役にたっているし、ひとのためになっているでござる。もちろん役にたたなくたって、ひとのためにならなくたって、生きていてよいのでござる。日々を楽しんでよいでござる。いくひしさんが太鼓判を捺しちゃうでござる。なんもない日々でござるが、並べようとしたらこうして文字を並べられるでござる。誰にも読まれない文章でござるが、それでも並べてよいでござる。稚拙な文章でなにがわるいでござるか? 並べたいことを並べればよいでござる。並べたくないことだって並べてよいでござる。好きに並べちゃえばよいでござる。積み木遊びといっしょでござる。たくさんのブロックがあるでござる。組み合わせは無限大でござる。



1894:【クズである由来】

いくひしさんはクズなので、SNSなどで、「ほかの人間にどう思われようと気にするな、好きなことをしよう」みたいなことをのたまいている人間を見ると、このひとだいじょうぶかな? と心配になってしまう。そんなこと言ってると、おまえのもっともたいせつな人間を拉致して、手足もいで、おまえの晩飯にまぜて食わせたあとで、おまえのことも生きたまま解体するぞこのー、と内なるいくひしさんがおもむろに屈伸をはじめるので、どうどう、となだめるのにすこしばかし手間を取る。あまり思慮の足りないことを主張するものではない。あなたがたよりはるかに思慮の足りない人間が聞いているかもしれない可能性くらいは考慮しておいたほうが身のためだ。



1895:【ぺこぺこ】

年上というだけで礼儀を尽くしてくれる若い子たちが周りに多いので、なんだか申しわけなくて、できるだけ目立ずに、邪魔にならないように、彼ら彼女らの輪を乱さずに、好きなように和気あいあいと交流してほしいと望んでいる。いくひしは誰にでもぺこぺこするし、社会人、大学生、小学生といった年齢や世代によってとくに接し方を変えたりはしない。卑下するわけではなく、単なる事実として羅列するが、いくひしは学歴がないし、社会的身分も低いし、資本があるわけでも実績があるわけでもないから、じぶんより年下のコたちに比べてでは何が秀でているのか、というと、年齢以外にはなく、その年齢にしたところで単に長く生きているだけであって、それはむしろプラスでもマイナスでもない誰の足元にも伸びる影みたいなものだから、それを以って何かが秀でているなんてとてもではないが言えないし、思えない。実力にしたところで、どんな分野でもいくひしはほかのひとよりも何かを体得するのに三倍は時間と労力がかかるから、ほとほと若いコたちの伸び白には、驚きと憧れを禁じ得ない。かといって、ほかのコたちに教えを乞うたり、輪のなかに入りたいとは思わないのだが。



1896:【暗がりで二人】

「やっぱり当分出られそうもありませんね」「うむ。しかし扉は頑丈だ。やつらもここまでは侵入できまい」「先生はやけに落ち着いてますね。あんなバケモノに追われて、息一つ乱してませんし、なんだかまるでアイツらの正体でも知ってるみたいで」「知識の有無と、冷静さは関係なかろう」「先生はすぐ細かいことにつっかかりますね。はあ。これからどうしましょう。せっかく脱出できるかと思ったのにそとにはアイツらがうじゃうじゃいますし」「しばらく籠城することになるだろうな。とはいえここは研究所の植物園だ。空気や水に困ることはなかろう」「でも明かりが点かないのはひどいですよ」「電源が供給されておらんのだ、仕方あるまい」「先生はここでどんな研究をされていたのですか」「わしはまだ呼ばれて日が浅いからな。なにを、と言えるほど詳しくは知らんよ。ただ、ざっと見て回った印象としては、わしの専門の応用的研究と呼んで差し支えはなかろう」「ひょっとして、ないとは思いますけど、そとのあのバケモノと関係があったりは」「あるだろうな」「あるんですね。やっぱりか。だと思ったんですよ。どうりでねぇ。はぁ」「わしに呆れられてもな。わしはまだ何も(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054888606570



1897:【できることは多いほうがいい】

器用貧乏が欠点として解釈される世のなかだが、基本的にできることは多いほうがよい。SNSなどでたびたび目にする箴言の一つに、「できることは一つでいい、得意なことを伸ばそう」みたいな主張がある。否定する気はないし、そういう側面が利点となることもあるだろう。人間の身体は同時にいくつものことをできるようにはつくられていないから、何かを極めるには一つずつこなすほうが効率がよい、と判断するのは一見すれば理に適っているように映る。しかし本当に一つの特技を突き詰めていくことでその道を極める結果に繋がるだろうか。いささか疑わしい臭いがしないでもない。まず以って、「何か一つの分野のスペシャリストになろう」との主張は、誰かを駒として使う側の理屈だ。性能のよい労働力を揃えたいから、精鋭になりなさい、と言っているだけで、ではその当の本人が「何か一つだけに特化した人材か」と言えば、案外なんでも器用にこなす多才な人物である確率が高くはないだろうか。器用貧乏と呼ばれてしまう人物の多くは、おおむねそれほど器用ではない。多方面の分野でいずれも八割方の能力を発揮できていると本人は自己評価しているつもりでも、じっさいには六割以下、へたをすれば素人レベルを脱し切れていない事例もすくなくはない。往々にしてそうだと言ってしまっても言い過ぎではないだろう。人間の性質として、自己評価が甘くなる、というのは心理学の分野ではたびたび報告されている統計だ。器用貧乏とは単に、飽き性の言い換えでしかないのかもしれない。真実に、さまざまな分野の技術を八割のレベルで修得していれば、おおかた、どんな分野でも頭角を現し、または重宝される逸材となるはずだ。AIやロボットなど、人間以外の労働力が一般化していくことが予想されるこれからの社会情勢において、多様な技術を習得しているオールラウンダーは、一点突破型の人材よりも、活躍の場を広げていくと想像するものである。べつの見方をすれば、何かを一つでも極めるにしても、ただその分野にのみ注力していてはいずれ壁にぶつかることになる。目のまえの隘路を打開するためには、ほかの分野の技術や知見を足掛かりにしなければならないだろう。ともすれば器用貧乏とは、修得した技術や知見を統合したり、組み合わせたりと、新しい視点や技術を編みだそうとしていない状態を呼ぶのかもしれない。宝の持ち腐れである。せっかく手にした素材があるのだから、好きなように、じぶんだけの世界を編めばよい。誰も踏み入れたことのない世界を切り拓けば、ただそれだけで、一点突破の逸材になれるし、世界一の称号が手に入る。得意な分野を伸ばすことも、さまざまな技術を身につけるのも、どちらもけっきょくのところ行き着く境地は同じなのかもしれない。いずれにせよ、できることは多いほうがよい。さまざまな素材のなかで、使うものと使わないものを、つど、選んでいけばよいのではないか。できないのか、それともやらないだけなのか。この差は、字面から感じられる差異よりもずっと大きい。



1898:【性差よりも好き嫌い】

性差よりも個人差のほうが大きくなったと感じる世のなかであるから、百合とBLも、いくひしにとっては大差ない(男女の物語であっても同じ)。当人たちが自身の性別をどのように認識しているか(或いはしていないのか)、のほうが生物学的性差よりも物語にとっては重要だし、かといって読者にとっては性自認(もしくは性的指向)がどうこうよりも見た目が男か女かのほうが重要であるらしいから、その辺、はやく時代が進んでくれるとやりやすいなぁ、と思っている。性別ってそんなに重要ですか? 社会から要請され、押しつけられている女性性や男性性などの、「女とはこういうもの」「男とはこういうもの」といった虚像にまどわされすぎではありませんか? もはやいくひし、ショートショートなら主人公の性別とか断定しなくていいやってなってきちゃいました。主人公の性別よりも、何を好きで何を嫌いか、のほうがよっぽどだいじですからね。まあ、おのおの、時代の変化を感じ取りつつ、感性を拡張していきましょう。べつに拡張しなくてもよいですけれども。



1899:【天才か天災か】

いくひしさんはオシャレでないことで有名だ(どこ界隈で?)。同じTシャツを三十枚くらい買い揃えては着まわしているし、下着もぜんぶ同じ柄だ。デニムも基本は気に入ったサイズと型のものをまとめ買いするし、かといってとくべつ思い入れがあるわけではないから、次回からはとりあえず安くて地味なものを買う習性がある。小物は、ニット帽が十数個あり、そとを出歩くときはだいたい同じ色と柄のを被っている。ゆいいつ靴だけは拘りがあるようでとくになく、履きやすくて地味な柄なら、文句はない。一万円以上はだしたくないので、安ければ安いほどよく、メーカーやブランドにもとくに頓着はない。とはいえ、履くのは基本的にスニーカーなので、有名スポーツメーカーのものを購入することが多い。気に入った靴は色違いのを二組買うこともしばしばだ。むかしから柄物が苦手で、いまでも服飾は無地でないと落ち着かない。絵や文字が描いてある服は一着も持っていない。原色が心地よい。黒が好き。次点で紺色か緑色で、白や黄色となると縁遠い。赤はあまり好みではないけれども、茶色と間違って買ってしまうことがある。青色は好きだけれども似合わないので、お預けにすることが多い。かといってほかの色が似合っているのかどうかは分からないので、単に気分ではないというだけな気もする。ともかくとしてオシャレでないことだけは確かだ。オシャレをすることがダサいとすら思っている節がある。ダサいままでかっこよいほうがかっこいい気がする。かといっていくひしさんがかっこいいかというとまったくぜんぜんそんなことは皆目微塵もないので、ダサいままダサいだけであるから、ファッションなるものについて考えたくはない日々である。この「いくひ誌。」ではこれまでいくひしさんの外見について語ることを避けてきたきらいがあったけれども、もちろんそれは意図してそうしてきたのであるのだけれども、さすがに並べることもなくなってきてしまったし、ときにはこういうらしくない記事も並べてみるかな、と思い立ったが吉日、気息奄々、うんうんうなりながら並べてみたものの、どっこい、こういうのを差して「手抜き」と評する者もあるところにはあると聞き及ぶ。なるほど。オシャレに手を抜くだけで飽きたらず、文章にまで手を抜くとはさすがは実力をダサないいくひしさん、まさにダサいの称号に似つかわしいくらいのいやしさである。「ダサない」と「ダサい」ではナが抜けているではないか、手抜きどころかナ抜きではないか、とつまらない言葉遊びに興じながら、いったいいくひしさんの腹黒さときたらない、黒いのはあんたのTシャツだけにしときなさいよ、と言いたくなるほどのドス黒さ、まさにあんたはタヌキだね、なんてうまいこと言おうとしてスベって転んで、アイタタタ、恥じを掻くのはごめんだよ、とここぞとばかりにたぬき寝入りにふけりましては、念入りに寝入りをいたしまして、「ダサい」に「ね」を入れまして、「ダサいね」からさらに「た」を抜きまして、「”サいね」となったところで、「”」を「点」と変換しまして、はい、いかがでしょう。いくひしまんさんは「点サいね」と相成り申して、もう一声、わかりやすくひらがなに開きましょう、開き直っちゃいましょうかね。「てんさいね」とこうなるわけでございます。強引でしたか? 強引でしたね。久々にオチをつけようとしたらこのとおり、まずはおまえが落ち着けとやさしくなだめられたいうだつのあがらぬいくひしさんでございます、と願望を漏らして、本日の「いくひ誌。」とさせてくダサいな。オシャレというかダジャレでしたね。



1900:【優秀なひとはSNSをやらない】

いくひしの観察できる範囲で、優秀で実績をあげているひとほどSNSを利用していない確率が高い。ほぼ十割と言っていい。例外として誰にも知られずにひっそりやってる可能性もあるので、ほぼ、とつけたが、優秀なひとほどSNSを、とりわけツイッターをやっていないのはおもしろい傾向だな、と思った。単純にそんな暇がないのだろう。当然といえば当然だ。SNSを利用して得られる報酬とその時間をほかのことに回して得られる報酬とでは、比べものにならないほど、SNSから得られる報酬がすくないと感じるはずだ。フォロワー数の多寡は関係ない。単に、情報だけならその筋の専門家に聞けばいいし、それだけの交友関係があるようだ。また宣伝や広報というのは基本的に、売れていない者、何かを売りたいと欲している者がすることであり、端から売れている者や在庫を抱えていない者にとっては宣伝や広報をする必要がない。これもまた単純な理屈だ。現にSNSヘビーユーザーであっても仕事が煮詰まったり順調になりはじめるとSNSに登場する頻度が減る。SNSをやっている暇がないのだ。そしておそらく、彼ら彼女らがいそがしくなった理由にSNSを利用していた過去はあまり関係がない。SNSを利用していなくとも、遅かれ早かれ、彼ら彼女らは同じような成果をあげていたはずだ。もちろんSNSを利用していたからこそ結ばれた成果もあるかもしれない。ただし、そうした成果は逆説的に、SNSがなければあげられない成果、というもろ刃の剣じみているので、端から期待しないほうがよろしいのではないか、と感じるが、あなたはどう考えるだろう。いくひしはSNSをやりたくない人間だし、現に雑用係に任せてしまっているので、何かを言えた義理はないのだが、眺める分には有益だと感じるいっぽうで、じぶんで更新する必要はまったくないな、と感じている。それでも利用を停止しないのは、すっぱいぶどうにならないようにするためだ。じっさいにやってみて、やっぱりSNSダメじゃん、となるのと、やらずにあーだこーだ、言っているのとでは、検証の観点からいって説得力がまるで違う。もっと言えば、一回くらいバズってみて、やっぱりバズってもほとんど影響ないじゃん、むしろ損だわぁ、といくひしの考えの実証を得たい思いもあるので、その可能性を失くさないために、いやいやながらつづけている(いくひしの基本的な考えとしては、バズッたら負けだ)。繰りかえしになるが、眺める分には得難い情報や作品が無料で楽しめるので、SNSそのものを否定しているわけではない。ただ、自ら参加し、何か情報を発信することが有益かと言えば、みなが言うよりもはるかに報酬はすくないのではないですか、との疑念は、日々ますます募っていくいくひしさんなのであった。優秀なひとはSNSを利用しない。とはいえ、SNSを利用しない「いくひしのような凡人」のほうがずっと多いだろうから、SNSをやめたところで優秀な人間になれるわけではない点には顧慮しておいて損はないだろう。現実はSNSを利用したりしなかったりする程度の選択で好転するほど単純ではないのである。



※日々、嫌なやつになっていく。



1901:【さびしくないんですか?】

そんなに他人から嫌われていて、無関心で、孤独なのに、いくしさんはさびしくないんですか、という声が聞こえてきた気がしたので、お答えします。まず第一に、こんないくひしさんにもたまにですが、関心を寄せてくれる方がいらっしゃいます。もうそれだけでうれしいです。ありがとうございます。それから、やっぱり、ときどきはさびしいです。うわーん、となります。でも、その、うわーん、ってなってるじぶんが嫌いではありません。悲劇の主人公みたいで、ほどよく酔えます。それから、いくひしさんは、人付き合いがないと何もなせない、みたいな現代社会の「オリみたいな風習(ダブルミーニング)」をどうにかしたい、と思っているので、まずはその例外を築いていきたいな、と思って、こうして孤独ごっこをやっています。大きな組織の一部の誰かに選ばれなくとも、インターネット内の影響力ある誰かにピックアップされなくとも、作者として注目されずとも、多くの読者に称賛されずとも、ただただ作品のよさだけで、波長の合うあなたと出会えるだけでも、いわゆる成功者と並ぶくらいの成果をあげられますよ、と示したいがために、こうして孤独ごっこをやっています(成果とは何を示すのか、でまたいくつかの解釈ができてしまいますが)。さびしいとか、反応がないとか、評価されないとか、そういうのは全部織り込み済みで、そこを外れようとは端から思っていないのです。だから、「さびしくはないんですか」という質問はそもそもおかしくて、さびしくてもよいんですよ、それが当たり前でよくないですか、と問いたいのです。さびしいことの何が不満なのですか? いちど言語化してみてください。それからもちろん、さびしいのはぜったいに何が何でもやだやだ、という方もいらっしゃると思います。そういう方は、さびしくならないようにどうにか環境や手法を変えていくしかないでしょう。それを責めるつもりも、非難するつもりもありません。ただ、きっとそういう方は、何をしてもどこかで虚しさを感じ、さびしさを感じるのではないでしょうか。考えてみてください、すくなくともいくひしさんよりは、現状、さびしくない環境が整っていませんか? さびしさは主観なので、同じ環境でもさびしさを感じたり、感じなかったり、これは個人でもそうですね、ときと場合によって、そのつど、感じ方は変わっていくと思います。ですが、いくひしさんよりかは、いろいろと評価されたり、話題にされたり、反応をもらったりしているのではないですか? もしいくひしさん並に成果物を発表して、それでもいくひしさんより反応がないですよ、という方がいらっしゃったら、きっとその方は天才なので、そのまま突き抜けてほしいと思います。いくひしさんはあなたを尊敬します。すごいと思います。ぜひ、孤独に負けずに、孤独と仲良くしながら、あなたの世界をこの世界に刻みこんでほしいと思います。いくひしさんはその境地までは、まだ辿りつけそうにありませんが、いずれその境地に立ちたいと思っています。まだ見ぬあなたに出会えるように。その確率をすこしでもあげられるように。孤独を手放さぬままに、物語をつむいでいこうと思います。もういちど繰りかえしておきましょう。さびしくないんですか、との問いかけには、さびしいことの何が不満ですか、と問い返したいと思います。(ともすれば、さびしいからこそこうしてあーだこーだと表現を発しているのかもしれません。だとしても、否、だからこそと言うべきでしょうか、情熱よりもさびしさはよい燃料である気がしています)



1902:【信頼のおけない語り手】

孤独が嫌いではないいくひしさんではあるけれども、誤解されたくないのは、孤独になりましょう、と謳っているわけではない点だ。とりたてて、孤独はいいぞー、と訴えたいわけではない。ただ、無理をしてまでいまそばにある「さびしいの想い」をどうにかしようともがく必要がありますか、と問いかけてはいるのだね。さびしくない環境があるのなら、それはそれですばらしいと思うのだ。反面、もしさびしさに押しつぶされそうになったり、どうにかしなくちゃ、と焦燥感に駆られているのならば、まずは、「さびしいの想い」はそこまで邪険にすべきものではありませんよ、ということを認めてみてはいかがだろう。「さびしいの想い」を、孤独を打ち消すために使うのではなく、もっとほかのことに有効活用すれば、きっとそれは途切れることのないエネルギィとして、あなたを動かしつづけるのではないだろうか。じっさいにやってみなければわからないことではあるけれども、すくなくとも「さびしいの想い」を否定するだけでは、エネルギィは対消滅して、あなたの身体からはきっとプスプスと煙が立ちのぼるだけで終わってしまうだろう。それを形容して、くすぶる、とひとは呼ぶのではないだろうか。くすぶるのもときにはわるくはないかもしれないけれども、やっぱり円滑に動けたほうが、何かと便利な気もするが、あなたはどう考えるだろう。あいまいな物言いばかりになってしまうけれども、この世には断言できることなど何もないのだよ。むろん、この言葉もまた断言にたるほどの信憑性はないのだがね。いくひしさんも、ためし、ためし、試行錯誤の日々なのだ。



1903:【来月から】

去年から予告していたとおり、2019年3月の9日くらいからしばらく、この「いくひ誌。」の更新をお休みします。再開は4月を目途に立てていますが、ひょっとしたらもうすこしはやいかもしれません。2週間から1か月くらいでしょうか。「いくひ誌。」自体はまいにち書き溜めているでしょうから、再開したら、まとめて更新しようと思います。



1904:【ことしは】

きょねんは毎日3000字を目安に物語をつむいできましたけれども、ことしは2000字減らして、一日の平均を1000字に減らしています。文芸以外にもやりたいことが増えたので、一日の上限を低く設定しなおしました。しばらくはこの状態がつづくことと思います。無理せず、楽しく、やりたくないことはしない方針です。趣味ですからね。のほほんとつづけていこうと思います。



1905:【環境ではなく、どう過ごすのか】

ちいさなコミュニティの輪ができると必ず、そこに馴染めない者、或いは馴染まないように線引きして過ごす者などが現れる。コミュニティを主軸に眺めると、馴染まない者は外部の者であり、評価の対象にないから、身分や地位が低く感じられる。じっさいにそういう者は、コミュニティ内の人間たちからは相手にされなかったり、不当に扱われたりする。だが、客観的に眺めたときには、おおむね、コミュニティに馴染まないでいる者のほうが実力が高かったり、スキルが高かったりする(割合としては六割くらいかな)。(長期的に単独で活動している者の場合は)ほぼ例外がないのがふしぎなくらいで、コミュニティの大きさに関わりなく、これは観察される法則だ。おそらくは、コミュニティに属さずとも活動できる実力者しか、独りで活動しつづけることができないのだろう。生存バイアスと呼ばれるものだ。だから、コミュニティに属さなければつよくなれる、スキルがつく、といった単純な話ではない。これはフリーランスにも言える道理だ。フリーランスになれば自由になれるのではない。自由になれるだけの実力のある者がフリーランスでやっていけるだけの話なのだ。多くの者は、コミュニティや組織に属したほうが生存しやすいし、長く活動していけるはずだ。もっとも、いくひしの周りにあるコミュニティなど、たいして強固な組織ではないから、のきなみ五年や十年で瓦解する。コミュニティのリーダーみたいな人間がいなくなったり、その人間の信頼がなくなると、かってに崩壊してしまうのだ。内部分裂と呼ぶのか、自然消滅と呼ぶのかは分からない。ただ、コミュニティに属さずに黙々と活動していた者のほうが、長くその業界で活動しつづけているのは、おもしろい傾向だな、と前々から思っていた(必ずしも表立って活躍しているわけではないが)。これはいくひしが接触できるごくごく狭い範囲のコミュニティの話であるから、一般化はできないし、劣悪な環境ですなぁ、と話半分に聞き流してほしい話ではあるのだが、コミュニティに属したことで安心してしまって、せっかく切磋琢磨できる環境であるはずなのに、生ぬるい空気に浸ってしまい、けっきょく長続きしない者たちを千人単位で見てきたので(統計と言えるほどの数ではないが)、そういう界隈もあるのだな、と思っていれば、同じような轍を踏まずに済むのではないだろうか。単にいくひしの周囲に、健全なコミュニティや機能的な組織がないだけの話ではあるのだが。



1906:【恋愛経験ゼロ%】

いくひしはなー! むかしなー! 魔女に出会ってなー! 好きなひとからはぜったいに好かれない呪いをかけれちゃったのー! ちょっといじわるしちゃったからー! 好きだったのにー! 魔女のことー! 呪い関係ないやーん!



1907:【ほーん】

好きなひとからだけなん? てかいくひしさんのこと好きなひととか、え、どっかいます? 呪いとか関係ないですやん。



1908:【うるせーー!】

ぶっとばす!!!!!!!!



1909:【不遇の理由】

実力があるのに評価されない、日の目を見ない、といった者に共通するのは、不遇であることに明確な理由が見当たらない点である。これは、何か特定の理由がないことが、却って欠点として周囲の者たちに視えてしまうという人間の心理現象が引き金となっている。たとえば、ものすごく美味しいカレーを出すレストランがあったとする。食べたひとは、これだけ美味しいカレーなのになぜこんなに繁盛していないのだろう、と気になる。そして、何か理由があるに違いない、と考え、カレーの美味さとは関係のない妄想によって、その店を低く評価してしまうのである。この負の連鎖によって、実力があったり、スキルがあったりしても、正当に評価されない、といった不遇が引き起こり得る。問題は、多くの者が、それそのもののよさで成果物を評価しない点にある。言い換えれば、多くの者は審美眼を持ちあわせてなどいない。なんとなく、よさそうだなぁ、よいと評価されているのだなぁ、といった周りの空気感で物事を判断している。これはある分野のスペシャリストであっても、ほかの分野に関して門外漢であれば、容易に引き起こり得る人間の脆弱性と言ってよい。誰もが何かに対しては、他者の評価を基準とし、あいまいで不当な評価をくだしている。評価をくだす、という行為そのものが不当だと言ってしまっても、この場合は的外れではない。評価をくださない、保留にする、という判断こそが正当である場合のほうが世のなかには多いはずだ。そして、そうした評価の保留という行為は、可視化されないために、多くのよりよい成果物や、容易には価値をはかれない代物が埋もれていくといった悪循環が生まれる。こうした悪循環や不遇を脱するためには、他者からの高評価を、たとえ誇張や演出であったとしても成果物に付与する必然性がでてくる。おおむね近代経済、ことコンテンツ業界においてはこの原理にのっとって営まれているし、マスメディが発展した要因の一つにもなっている。宣伝や広告がことこれほど莫大な利益をあげているのも、多くの者がじぶんで物の良し悪しを測れないためだ。先にも述べたが、これはどうしようもない。人間は不完全な生き物であるから(生き物は総じて不完全だから、と言い換えてもよいが)、社会的に信頼のおける者の判断を基準にしたいと欲するのは合理的ではある。問題は、信頼のおける者や組織の判断が、どこまで正しいのか、にある。宣伝や広告につきまとう誇張や演出は、原理的には詐欺との区別がつきにくい。どこまでならよく、どこからが偽装になるのかは漠然としており、広い範囲にわたって、グレーゾーンが層をなしている。むろん、違法となる基準は存在するが、物事の良し悪しなどしょせんは個人の主観でしかない。任意のカレーを「おいしい」と評価する者を百人集め、その百人の感想を集めれば、顧客の十割が「おいしい」と評価したカレーです、と宣伝できてしまえる。スーパーに行って商品を見渡してみればよい。こうした広告が世にまかり通ってはいないだろうか。当社調べ、当社比較、と謳っていたときに、いったいどんな調査をしたのかが不明ならば、たいして信用のおける調査ではないだろう。だが世の顧客の多くは(いくひしも例外ではないが)、そうした信憑性の定かではない情報を元に、商品の良し悪しを事前に判断し、購入するか否かを決めている。ほかの商品を買って比較しないことには、真実、その商品がよいものか否かは判断つかない。だが、高額な商品ほど、比較するのはむつかしい。よほど大きな瑕疵がなければ(もしくは高性能でなければ)、それが本当によいものかどうか、質のわるいものかどうかは分からない。これは価格だけでなく、消費コストの高い商品でも同様の現象が起こり得る。たとえば小説などは、読み終えるまでのコストが、ほかの媒体よりも比較的高い。よって、すでに読んだ者たちの感想や、信頼のおける組織からの推薦が、読むための動機になり得る確率が高い。そして、そうした他者からの後押しのない小説は、世の多くの作品群に埋もれていくのが道理である。埋もれるか否かは、作品の良し悪しとじつのところ、あまり関係がない。良作でも埋もれてしまうのが現実だ。埋もれたくないと欲するのならば、まずは、他者からの評価を集めるのが先決だ。ただし、飽くまで成果物に「瑕疵のない状態」で発表しなければならない。良作である必要はないが、欠点だけはないほうがよろしい。これからの時代は、一点突破型よりも、だいたいすべての項目で及第点、といった多様性の含みを有したものがコンスタントに売れるようになっていくだろう(これは平均的で平凡な作品、という意味ではない。あらゆるジャンルが含まれていながらに、すべての要素が及第点、という意味だ。さっこんの流行としてこうした作品がヒットしつつある。ポジショントークになってしまうかもしれないが、これはいくひしの提唱する多重構造と矛盾しない)。また、埋もれないためには、なるべく多くの作品を、定期的に、かつ長期間にわたって発表していくのが効果的だ。と、いうよりも、ほとんどそれが最善策だと言ってしまってよい。巷に溢れる、さまざまな手法や広報戦略は、基本的には、ヒットさせるための確率をあげるための小手先の策でしかなく、本質的には、可能なかぎりたくさんの作品を、瑕疵のない状態で、かつ飽きられないような工夫を取り入れながら、長きにわたって、周期的に発表していくことが要求される。しかしこれはAIやロボットが得意とする資質でもあり、差別化を図りたくば、そこに新規性を取りいれねばならない。つまるところ、目指すところは、新しさなのだ。組み合わせの妙と言い換えてもよい(※1)。不遇を理由に、これまでになかった組み合わせを試すことを避けるのは、早計な判断である。小手先の策に時間と労力をかけるのは得策とは呼べない。もっとも、しないよりかはマシであるのは言を俟つまでもない。ともあれ、優先すべき事項を見誤らずにいたいものである。目指すべき境地をお忘れなく。(※1:組み合わせのパターンを総当り的に試すのはAIの得意とする分野ではあるけれども、組み合わせる素材がデータ上にないものは組み合わせることはできないので、「これまでになかった素材を取り入れる作業」がこれからのクリエイター各位には求められていくことが想像できる)



1910:【むずくない?】

初めてスマホでツイッターやってみたけど、むずくない? PCの100分の1くらいのスピードでしか観られんのだけど。リツイート一個するのに十分くらいかかる。みんなよくスマホでやれるね。すごい。(わざわざほかのひとのアカウントを覗きにいくのが面倒だから、みんなほかのひとのをフォローするのだなぁ、と腑に落ちた。でもそれはそれで、メディア欄だけ見たいときとかどうしてるんだろ。ひょっとしていくひしが思うよりずっとみんなはほかのひとのアカウントとか興味ないのかな。なぞ~)(いくひしさんはね、お気に入りのアカウントとかしょっちゅう覗きにいくんだけど、ツイッターってそういうふうに使うものではなかったりするのかな。なぞ~)(ほかのいくひしさんたちはツイッターとかSNSってどうやってんのかな。なぞ~)



※日々、イビツにゆがみ、まがって、折れて、ぎこちない。



1911:【東京五輪】

2020年の東京五輪に向けて、スポーツモノのコンテンツが増加傾向にある。これは小説やマンガだけでなく、映画やゲーム業界もその方向で開発を進めているはずだ。たとえば近未来のオリンピックでは、身体を機械化した身体障がい者たちが、五体満足な選手たちよりも超人的なパフォーマンスを発揮しているかもしれない。そうしたSFチックな世界を舞台にした物語は需要があるのではないか、と見込んでいるが、いかがだろう。また、ストリート発祥の比較的新しいスポーツが五輪の競技として続々と新種目化されている。そうした若い世代から注目される競技にスポットを当てた作品は、これから増えていくことが予想される(五輪種目ではないが、たとえば鬼ごっこ発祥のチェイスタグ。空手とマーシャルアーツの組み合わさったトリッキング。中国独楽に似たディアボロや、サッカーのリフティングのみを扱うフリースタイルフットボール、同じくフリースタイルバスケも若者たちのあいだに浸透しはじめている。エクストリームけん玉なるものすら存在する。また、2019年3月現在すでに、パルクールや、乗馬、マラソン、ロードレース、ボクシングを題材にした小説が新しく出版されている)。これらスポーツモノの反動で、身体を駆使しない競技にもスポットが当たっていくだろうことが想像できる。頭脳競技と呼べばそれらしい。たとえば、ゲーム(eスポーツ)バトル。即興絵描きバトル。即興ピアノバトル。即興コイン積みバトル。クラッキングバトル。怪盗バトル。犯罪バトル。古今東西怪物バトル。ともかく、競技の要素を主軸に組みこんだ作品が増加していくだろうとここに予測しておくものである。これはいくひしさんが何年も前から見込んでいた方向性で、スポーツモノかつバトル要素ありの小説はいくつかの作品として仕上げている。もっとも、こうした市場の動向に、需要者たちがどこまで追従するかは、不確定だ。現状、あまり目立った成果はあがってないように見受けられるが、今後、市場がどのように動いていくのか、眺めていこうと思う。



1912:【えーん、縁、円】

やあやあ、いくひしさんだ。お久しぶりでござるな。なんだかさいきん、ほかのいくひしさんが妙に分析ちっくなことをのたまきはじめたのじゃが、みなのものはお気づきでござるか。はあはあ。なるほどなるほど。読んでいないからわからないときたでござるか。読んで!!! いくひしさんはさいきん、分析ちっくなことをのたまきはじめたのでござるよ。もうそういうことにして話をすすめさせてもらうでござる。そうは言うてもですよいくひしさん、もとからあなた、偉そうなことのたまいていたでしょ、なんてどこからともなく聞こえてきそうな気配がしないでもないでござるが、これにはさすがのいくひしさんも二の句が継げないでござる。いまさらでござるな。たしかにそのとおりでござる。一理あるでござる。ともあれ、いくひしさんはじぶんを棚に上げるのがたいへん上手でござるから、ひょーいと素知らぬ顔で、偉そうなことを抜かすでござる。たとえば「売れるためには」とか「埋没しないためには」とか「上達するためには」とか「新しいことを目指そう」とか、そういう喉ごし爽やかな物言いをちかごろのいくひしさんはしがちでござる。でもべつだん「売れなきゃいけない」とか「埋もれてはいけない」とか「上達しなきゃいけない」とか「新しくないと価値がない」とか、そういうことを主張したいわけではないでござるよ。極論でござるが、何かをなさなきゃいけないとか、何かをつくらなきゃいけないとか、まったくそんなことはないでござる。何もしたくないなら何もしないことを目指したって構わないでござる。あなたのご自由でござる。最低限、ほかのひとの自由を脅かさないように、邪魔をしないように、お互いに譲り合いながら配慮しつつ、死ぬまでの時間をつぶしていけばよいでござる。いくひしさんはただ、いろんな考え方や解釈をして、遊んでいるだけでござる。言葉遊びでござる。文芸でござる。矛盾を見つけては、それを埋めていくパズルをしているでござる。いくひしさんの言うことなんて真に受けてはいけないでござるよ。再三言っているでござるが、いくひしさんの並べた文章にはどこかに誤解があるでござる。正確ではないでござる。論理の飛躍から、仮定の仮定まで、勘違いから錯覚と、よりどりみどりに、いろとりどりでござる。ミスのオンパレードでござる。誤謬のバーゲンセールでござる。みなのものにはぜひとも、反論して遊ぶ方法を試してほしいでござる。いくひしさんの並べた文章に、それは違うんじゃないの、と反論したり、反発したり、反証から、判例まで、たくさんの例外を見つけては見繕ってほしいでござる。そうしたらそれはいくひしさんにはない視点となって、あなただけの視点となって、そうしてなんだかんだして、いつかのどこかでいくひしさんに新しいパズルのピースを拾わせるでござる。もちろん、いくひしさんの並べた文章をもとにしなくたって構わないでござる。何も生みださなくたってよいでござる。ただそうは言っても、うーんそうでござるな、たとえばいくひしさんがこの世界に刻んだわずかばかりの影響が、回り回って、いくひしさんに返ってきたとしたら、それがいくひしさんにとってわくわくするものであったなら、それはもうもう、これ以上ないほどに愉快なことでござるよ。孤独が嫌いではないいくひしさんであっても、孤独じゃないのもよいかもね、と思える瞬間になるでござる。ともあれ、そんなご褒美はなかなかないからよいのかもしれないでござるから、無理をしてまでそうしてほしいとは望んでいないでござる。偶然の巡り合わせだからこそ楽しいでござる。いくひしさんはべつに誰かに何かを伝えたり、訴えたりしたいわけではないでござる。こういう考え方や解釈の仕方もありますね、と見つけたり拾ったりしたから並べているだけでござる。コレクションでござる。お遊びでござる。おこちゃまがどろんこ遊びをしたり、積み木で遊んでいるのと変わらないでござる。あなたはいま、何をして遊んでいるでござるか? 遊んではいないでござるか? あなたが楽しそうにしていたら、いくひしさんも興味が湧くかもしれないでござる。邪魔をしないように遠くから眺めるでござる。やっぱりおもしろそうと思ったら、かってに真似して、いくひしさんも遊ぶでござる。一人遊びでござる。お遊戯でござる。でもそのときはきっと、一人であっても、独りではないでござる。そういうものが、いくひしにとっての繋がりでござる。だいじにしたいと思える縁でござる。回り回って、円でござる。結んで開いて、なにかしらの手を打って、そうしてまた結んで。やや、これは童謡でござるよ。しまったでござる。動揺したでござる。宴もたけなわでござる~。



1913:【落し物】

落し物をよく拾う。移動手段が徒歩と自転車なので、地面に目を落としている頻度が高いようだ。よって物が落ちていると目が留まる。きょうも行きに時計を拾い、帰りに新品の500ミリペットボトルコーラを拾った。冬は手袋やマフラーやニット帽がよく落ちており、そういうときは見えやすく雨に濡れにくい場所に置きなおしたりする。定期入れや学生証、財布や携帯電話などはさすがに交番に届けるが、落とし主が見つかったときに「届けましたよと知らせてもらうか否か」の選択をいつもNOにしているので、その後にどうなったのかはいつも知らないままだ。交番に届けでた者には、拾い物の一割をもらい受ける権利があり、これもまた受け取るか否かを選択できる。めんどうなので、いつも「受け取らない」にしている。そういうことを記す書類があるのだ。道路の立て看板や、標識が倒れていたりしたのを交番に知らせたこともある。そのときは住所から職業、生年月日から連絡先まで根掘り葉掘り訊かれて、あまりよい気分ではなかった(落し物のときと違い、専用の書類がないようだ)。器物破損した犯人かもしれないので、そのような対応をしたのだろう。解からないでもないが、こんなことならもう知らせるのはやめよう、と思ってしまった。やや高圧的に感じたわけだが、相手の警察官が真剣に仕事をしていただけ、とも言えるので、湧いた不満は呑みこむべきなのかもしれない。愚痴っぽくなってしまった。車に轢かれて死んでいる猫やハクビシン、カラスなども稀に見かける。猫などは年に二回くらいは遭遇する。本来なら保健所に連絡すべきなのだろうけれども、めんどうなので、これもいくひしさんはコンビニの袋を手につけて、死体を掴みとり、くるっと手袋を裏返す感覚で、回収する。その後、近くに森林があれば、そこに穴を掘って埋める。ひょっとしたらこれは何か法律で禁じられている行為かもしれないので、褒められた行いではないが、放っておくのもなんだかな、と思ってしまうのだ。本来なら放っておいても自然に還るのに、アスファルトがあるせいで、それも適わない。死体を避けるように走り抜けていく車は数あれど、誰もどうにかしようとはしないのだ。放っておいたらいずれ擦り林檎みたいに道路と一体化してしまうかもしれない。なんだかなぁ、とやっぱり思ってしまうのだ。生きた猫を抱きあげたり、掴んだり、撫でたりしてもどうも思わないのに、死んでいるだけでぞっとするものが湧く。コンビニの袋越しであっても、死体には死体の感触があるのだ。くたっと垂れた首のすわらなさは、腕にずっしりとくる。いまのところいくひしさんが見かけた猫の死体は、すべて野良猫だ。首輪をしていないからそうと判断している。話は変わるが、完全自動運転車が一般公道を走るようになったとき、猫や動物への対応がどのようにシステム化されるのか、興味深い。人間の場合は回避すべしとの判断がなされるだろうけれども、相手が獣であったならば、回避することで車内の人間が危険に晒される確率が高くなる。きっと轢き殺すように判断がなされるのではないか、と想像しているけれども、どうなるだろう。機械の利点は悩まないところだが、悩まない分、人間には非情に映るのだ。ともすれば、それが恐怖を呼び起こすこともあるだろう。このさきの社会では、守るべきモノと犠牲にすべきモノの線引きが、これまで以上に厳密になされていくことが予想される。ひょっとしたらある条件下では、いくひしさんやあなたが「犠牲にすべきモノ」と判断されるかも分からない。或いはすでに、機械ではなく人間の判断によってそのようなシステム下に我々が置かれていても不自然ではない。合理を突き詰めたシステムが社会に運用されている以上、こうした線引きは、可視化されていないだけで、そこかしこに存在しているのだ。視えないものは視ようとしなければ、そこに存在しないのと同じだが、我々はそれでも、存在しない存在と干渉しあっている。搾取もそのイチ形態にすぎない。たとえばそれは、落し物を目にしたとき、それを見なかったフリをするのと原理上、区別はつかない。ないものは存在しない。しかし、車がそう判断しても、猫は車に轢かれ得るのだ。巨大なシステムのもとでは、人間もまた例外ではない。



1914:【欠陥品】

ここ数日、あたまのなかに浮かんだ文章で、はっ、としたのが「弱者の味方してりゃ楽だもんな」というセリフで、誰が誰に言ったのかは判らないのですが、ちまちまと脳裡に浮かんだり、沈んだりを繰りかえしていて、いまシャワーを浴びながらすこし煮詰めてみたところ、「思考の目的はおおむね楽になりたいから、ではありませんか」というところに落ち着きまして、「楽になりたいことの何が問題ですか」と反論してみたところ、「問題はねぇけどな、でもまあ考えてもみろよ、それの行き着くとこぁ『楽になりたきゃ死ねばいい』になっちまうんじゃねぇのかよ」といった反駁を得まして、なるほどだったらそれもありなんじゃないの、と合点するよりほかなく、「死ぬ以外に楽になる術がないのなら死ぬのもありだと思いますし、死にたいと望むことが生きたいと望むこととほとんど同じ意味を持つことも往々にしてあるものではないでしょうか」と言ったところ、「それは『死にたい」と言うよきゃ、どっちかと言やあ、『変わりたい』だろうな」との言葉をいただいたので、ふんふん、と一拍置いてから、「つまるところ弱者の味方というのは、他者の抱く『変わりたい欲求』の肯定であり、後押しなのかもしれませんね」と応じたところ、「たしかにな」と首肯をいただき、「応援するだけなら楽だよなそりゃ。じぶんが変わるわけじゃねぇんだからよ」と皮肉っぽく返されたので、「否定よりかはマシじゃないですか、否定はどうあっても相手に変わることを強いるんですから、望むと望まぬとに拘わらず」と同じく嫌味ったらしい口吻で対抗すると、「ということはだ」とようやく話をまとめに入ったらしく、「そのままでいいよ、つって一見まるっと受け入れたかのような物言いで、変わりたいと思う欲動を相手から奪うような思考こそが、いっちゃん厄介で邪悪なのかもな」とそれっぽい箴言で会話は結ばれてしまいました。つまるところ、どんなときであれ、このままでよいはずはないのです。どれほど豊かで、安全な社会が築かれようと、生命という我々そのものが欠陥の塊なのですから。変わりつづけることですら、一定の期間変わらないことが、変化の一つとなるわけですから、どんなときであれ、何かしらの変化を帯びつづけてしまう以上、変化せずに済む理想形へと到達すべく、やはりというべきか、変化しつづけなければならないのでしょう。おいおい、そりゃホントかよ。こうしてまた矛盾回廊に迷い込み、さまよっているうちに、はっとする言葉がどこからともなく浮かんでくるのです。



1915:【デマの是非】

(きょうもきょうとて偉そうなことを言います。なんの根拠もない口から出まかせであるので気をつけてください)なぜデマがいけないのか、には大別して二つの理由がある。一つは、誤った前提で判断を行うと、高確率で解決には結びつかずに問題をこじれさせたり、新たな問題を誘発させたりと、好ましくない結果が導かれるためだ。しかしながら、ときおり、正しい前提よりもデマのほうが効率よく望ましい結果を生むことがある。この場合、結果よければすべてよし、としてしまってよいだろうか。いくひしは、よろしくない、と考える。デマを用いることで効率的に望んだ成果があがると見做されれば、デマを手段として取り入れる者が増加する。そうなれば、世のなかに誤った前提が氾濫し、そのうち何が正しく、何が正しくないのかすら判らない社会ができてしまう。これは「なぜズルがいけないのか」と同じ結論に結びつく。つまり、みながそれをやりはじめてしまっては、長期的に安定した秩序が築かれなくなるためだ。目のまえの利を追求するがあまり、全体の市場そのものが崩壊してしまった例はさいきんでもどこかで耳にしたことのあるような話だ。だからこそ、世のなかには「正しいとされること」とそうでない「わるいとされること」があるのだ。効率はよいもののみながそれに走ってしまうと無秩序化する策を禁じるべく、社会は個人に「枷」をはめる。だが、この「枷」は飽くまで、社会が求めた安定のための縛りであり、必ずしも社会の安定が個人のしあわせと結びつくわけではない。もっと言えば、社会の安定がいったい何を示すのかは時代によって変わっていくし、そのときどきの権力者たちの気分によっても左右される。自由を縛る枷を外そうと抗えば、権力組織によって罰せられる。たとえその枷に、合理的で正当な役割などがなくとも、いちどはめられてしまえば、それを外すことは至難だ。枷はまたの名を、教育や法律、常識や規則と呼ぶ。枷に抗うことが至難なときや、正確な情報での訴えが不当に却下される場合など、そうしたときにはデマのような「ズル」が有効な武器になることもある。ただし、これは革命に暴力がつきまとうのと同じように、なるべく使わないほうがよい、もろ刃の剣と呼べる。目的を達成するために理想を手放せば、二度と理想は手に入らなくなるだろう。なぜ目的を達しなければならないのかをまずは思いだしたほうが好ましい。理想に追いつきたいがため、ではなかったか。同様にして、デマのような歪んだ現実を他者に植えつける真似は、避けたほうが身のためではないだろうか。しかしながら、ときには事実ではない誇張した表現によって、世に問いたいことがでてくることもあるだろう、そうした気持ちが分からないわけではない。単なる真実では耳を貸してくれない者たちにどうしても耳を傾けてほしいとき、何かを訴えかけたいときには、デマは有効な拡声器となり得る。だからこそ人類は、物語を虚構として楽しむ文化を絶やさずにきたのかもしれない。物語もデマもどちらも虚構であり、嘘っぱちである。だが、デマは忌避され、物語は甘受される。この違いはなにかと言えば、正々堂々と虚構である旨を告げているか否かにあるだろう。ノンフィクションという例外はあるものの、ノンフィクションはそこに描かれた出来事が事実とかけ離れていれば、物語としての資格を失い、デマと同じ土俵に落とされる。物語は堂々と胸を張って虚構である旨を告げなければならない。デマは社会にとって有害であるかもしれないが、物語であれば問題ない。小説にしてもよいし、漫画にしてもよい。演劇に仕立てあげても、アニメにしたところで、問題はない。ただしそれが物語である以上、真実として扱ってはいけない。堂々と虚構である旨を告げるがよい。構造的にデマと物語に差異はない。ただし、その発表の仕方、包装(放送)の仕方が大きく異なる。繰りかえすが、何かを表現したいとき、世に問いたいときには、真実であると嘯く行為には慎重になったほうが好ましい。もし疑いの余地があるのならば、その旨を示すがよい。堂々と虚構であると告げればよいのだ。もっとも、虚構であるからといって「何を言ってもいい」との免罪符を得られるわけではないのだが。



1916:【病まないプロはない?】

ちょっと前まで、それこそ二十年くらい前までなら、物語をつむぎつづけたければプロを目指したほうが効率がよいとの理屈が成立したかもしれないけれども、いまはもはや逆であって、物語をつむぎつづけたければプロにだけはなるな、みたいになりつつあるのは皮肉というよりも悲劇だなぁ、と純粋に思うのだよね。命を燃やすようなものでしょう。だいじょうぶなんでしょうか。出版社と関わってよい思いをした作家よりも、筆を折らざるを得なくなるほどに心身ともに病んでしまった作家のほうがはるかに多くはないでしょうか。よろしくないなぁ、と思います。趣味でつづけたほうがよほど長く創作活動をつづけられるのでは? もっとも、病んではいけない、身体を壊してはいけない、なんてこともないとは思います。失う選択肢と、得られる報酬を、ときおりでよいので天秤にかけましょう。



1917:【下手になるとは】

いくひしは下手になることがない。なぜなら上手かったためしがないからだ。何をおそれる必要があるだろう。目のまえの無限を、世界を、拾い集めていこう。



1918:【バグ・無駄・余白】

無駄な余白が進化を加速させる。DNAは転写時のバグが因子となって進化を促す。また、余白があることで、傷を受ける確率を減らし、同時に不測の事態に備えるための材料になったり、作業場になったり、新たな機能の土壌になったりする。ただし、余白にも限りがあり、傷を修復する機能も永遠に働くわけではない。農作をすれば土地がやせてしまうように、細胞も同じく時間と共に消耗する。癌は寿命が延びたことと相関関係にあり、細胞は癌化しないために早期の死を機能として備えている。寿命が延びればそれだけ細胞は分裂しつづけ、そのたびにゲノムを幾重にもコピーしつづける。そうして身体は徐々に余白を失い、やがて損傷と修復のバランスが決定的に崩れた段階で、総体の死へと向かう。長寿と癌の発生率に相関関係があるのと同様に、余白の多寡と進化にも相関関係があり、同時に余白の有無と崩壊にも何らかの関係性が見え隠れしている。創作におかれては、余白を遊び、と言い換えても成立する考え方であろう。



1919:【オリジナルもしょせんは二次創作】

人格を有した神を信じてはいないが、この世界が一つの作品のように感じることはある。そういう意味ではどんな創作物も、この世界の二次創作である。神なるものの作品があるのだから、それを利用しない手はない。むろん、使わずに真にオリジナルな世界を構築できるならばそれもよいだろうが、誰かに理解されることを期待しないほうがよさそうではある。神はきっと誰より孤独だ。



1920:【うれぴー><】

井迫(isako)さんが新作を更新してくれていた。うれぴー>< ここで読めます【https://kakuyomu.jp/works/1177354054888713805/episodes/1177354054888713811】 あとこっちでも【https://novel.daysneo.com/works/8801804350fdcdd662832fb8fcc628b4.html】 noveldaysというWEB小説投稿サイトの超短編コンテストに応募されているんですね。受賞してほしいです。出版社は井迫(isako)さんを世に推しだすべきです。だしてほしいです。紙の本でほしい~、書店さんで井迫(isako)さんの本買いたい~>< よろしくおねがいします!!!



※日々、実力のなさが露呈する。



1921:【ずーん】

言葉は悪だ。一生しゃべらずにいたい。(言葉を失くしたいわけではない)



1922:【過激】

小説新人賞の選評などを読んでいると、作家の作品への態度や、作者の生き方なるものを小説から読み取って評価する選考委員がいたりする。ハッキリ言ってアホじゃないか、と思う。技術の巧みな作家ほど、自己とはかけ離れた物語をつむげるものだ。小説からその作者のことが解かるなどいかにもおこがましい判断基準だ、と言える。いくひしさんは物語にとって必要なら、いくらでも偏見や勘違いをキャラクターに言わせる。キャラクターは作者の代弁者などではないからだ。そもそもいくひしさんには言いたいことなど何もない。閃きや、見つけたものを、まぜこぜにしてつむいでいるだけだ。いくひしさんのつむいだ小説からいくひしさん自身について何か読み解けるものがあるとすればそれは、コイツはじつにアホウだな、ということ以外にないだろう。ほかの総じてはすべて錯誤であり、読み手の偏見や認知のゆがみの反映であると指摘しよう。いくひしさんは物語にとって必要なら平気でキャラクターに禁忌を犯させるし、肯定させる。差別が必要なら容赦なく差別意識を前面に押しだすし、暴力を誇らしげにふるわせ、うつくしいものを醜いと指弾する。だからといっていくひしさんがそのような思想を支持しているわけではない。ファンタジー作家が必ずしも魔法を信じているわけではないのと同じ理屈だ。にも拘わらず、魔法や妖精などのあり得ない事象以外の成分は、いともたやすく、作者の思想や人生観と結びつけて評価される。評価は自由だが、新人賞を標榜するのならばせめて、これくらいの分別くらいはつけてほしいものだ。また、物語にとって些末な誤謬を俎上に載せ、作者の無知を指摘するのもあまり理に適った選評とは呼べない。たとえば、物語に関係のない描写でヤマカガシがでてきたとする。そのヤマカガシは意味もなく銀色に描写されていたとして、何が問題だろう。ひょっとしたら主人公は色弱(色覚多様性)だったのかもしれない。或いは作者自身が色弱を自覚せずに、そういうものだと思いこんでいたとして、だとしても、だったらどうなのだというのか(言うまでもなく瑕疵はすくないほうがよいが、いくつかのミスが散見していたからといってどうだというのか)。そんな些末な誤謬で小説の評価が揺らぐような人物に選考委員は荷が重いのではないか。正しいことや学術的な価値を小説に期待するのなら、端から論文でも読んでいればよろしい。論文ですら、正確さに欠けていることなどいくらでもある。むしろその誤謬を指摘すれば、いくらか感謝をされるだろうし、正確さへの貢献にも加われる。小説家の肩書きを名乗っていながら、小説もつくらずに他者の作品に点数をつけて悦に浸っている選考委員なるものは、読者の皮を被った「考えぬ葦」である。小説家ですらない選考委員は、もはや単なる読者であろう。読者ならば読者らしく、好きな作品を読んでいればよい。ビジネスにするから好みではないものにイチャモンをふっかけるような真似に抵抗を抱かなくなっていくのだ。新人賞なるものの存在意義とは、何か。企業の利益を度外視して述べらるる者はあるか。箔をつける以外に有用な役割があるのか。それは果たして、新人賞である必然性があるのか。作品は権威を構築するための素材ではない。誤解されても構わないので述べておくが、たかが小説である。偉そうにするのは文章のうえだけにしてみてはいかがか。そしていくひし、おまえはさっさと小説をつくれ。偉そうに薫陶を垂れている場合ではなかろう。(薫陶とは優れた人物からその人格や品位を通して、よい影響を受けることを言います。ですから、偉そうに薫陶を垂れる、という言い方は、じつに皮肉な物言いなわけです。伝わりますか?)



1923:【やいのやいの】

怒ってないですよ。きょうもきょうとて書くことがなかった日なだけです。特定の誰かを非難したいわけではありません。小説であろうと、なんだろうと、好きに評価すればよいと思います。



1924:【矛盾していますか?】

どんな生き方をして、どんな考え方をし、何を見て、何を見ないのか。そうした日々の選択の積み重ねが、そのひと固有の世界観を構築する。世界観はやがて、どんな作品をつくるのか、といったクリエイターの根幹となっていくので、作品からはその作者ならではの「何か」が滲んで感じられるようになる。オリジナルや作風といったものは、おおむねこれを差す。だからといって、作風から作者の根幹を見抜くのはほとんど不可能と言ってよい。ましてや、世界観の向こうにあるその人物の本質の喝破など絶望的だ。作品からある程度の傾向を抽出するのは可能だとしても、それは傾向であるがゆえに本質ではないし、作品と作者を結びつける根幹とは呼べない。人体はDNAによって設計されているからといって、ではDNAからその人物の本質を見抜けるかと言えば否だろう。よくてせいぜいが、体質の傾向を見定めるくらいが関の山だ。作品を通して作者に惚れることはあるだろう。だからといって作品から作者の本質を見抜けるのだ、などと驕らないほうがより客観的な判断ができるのではないだろうか。どんなに優れた人格者でも、まいにちクソをして死んだ生き物を喰らい、生きている。その人物が優れているせいで、落ちぶれて映る者もあるだろう。何を「優」とし、何を「劣」とするのかは、観測者の解釈しだいだ。繰りかえすが、何に注目し、何を見ないのか。世界観はそうした日々の選択によって構築されていく。あなたは作品を通して、何を感じ、何を考え、何を見て、何に引っ掛かり、何を理解できないのか。それはきっと、作者の世界観とはべつの指標であるはずだ。(ちなみに、お金を稼ぐのはわるいことではありません。利益を追求する姿勢は、現代社会を生きるうえで必要不可欠な考え方だと思います。ただし、飽くまで目的遂行のための手段であり、お金儲けが目的になってしまったら本末転倒ではないですか、と疑問に思うことはあります。もちろん、お金儲けを目的にしているのならこの限りではありません)



1925:【休止中】

しばらく留守にします。文章上では未来へのタイムスリップはいともたやすくできてしまえるので、しばらく留守にしていました、として、ここからつづきをはじめたいと思います。ひょっとしたら死んでしまって、つづきをつむげずにこのまま、という線も無きにしも非ずですが、確実にそういう日はいつかは誰にでも訪れるわけですから、縁起がわるい、などと言って見て見ぬ振りをしてはいられません。話は変わりますが、ここさいきんのいくひしさんはぜんぶ同じに見えますね。これはズバリ「演技がわるい」と分析できます。つまらなかったですか?



1926:【しばらく留守にしていました】

一週間だけ留守にしていました。とくに何かあったわけではないのですが、こうした日誌をずっとつづけていると、段々と支配されてくる感じがして嫌だったので、すこしばかり休止しました。つづけることもできるし、やめることもできます。中毒ではありません。そういう認識をじぶんに対して与えてやらないと、依存体質のいくひしさんは不安になってしまうようなのです。つづけることと同じくらい、やめたり、休んだりできる環境を整えていくことが、つつがない人生を送るうえでは有効に働くものと考えます(言い換えれば、いつでも再開できる余裕を確保しておくということ)。こと、百年前の平均寿命の二倍も長く生きられるようになった現代においては、長期的な計画を見越したうえで、優先的にとりこむべき事項をしぼる作業が安定した成果をあげるのに一役買うのではないか、と見立てています。じっさいにどうなのかは、やってみなければ分かりません。より多くの試行錯誤を行えるように、やはりというべきか、長期的な視野での計画を立てるのが欠かせないように思います。



1927:【ゴミの分別は無駄?】

関東ではゴミの分別は基本的には、燃えるゴミと燃えないゴミの二択だが、地方ではそこにプラスチックの仕分けが加わることもある。リサイクルの名目であるが、実質、汚れたプラスチックは可燃ごみとしてリサイクルされることなくゴミ処理場で燃やされるし、リサイクルしたときに得られるメリットよりもリサイクルするための費用のほうが高く、端的にコストがかかりすぎて損でしかないなのだが、それでも仕分けする習慣をつけておくのは、このさきの社会のためにはそうわるいことではないと考える。IT技術にかぎらず、各分野の技術は毎年のように向上している。無駄のないリサイクルシステムが完成してから、でははじめましょう、と実施し、社会に波及させようとしてもおそらくうまく事は運ばないだろう。リサイクルを心掛けましょう、との教育を初期のころから社会に浸透させておくのは、新しいことへの抵抗を抱きやすい人類にとっては有効かもしれない。似た問題として、数学の掛け算の教育方針についての話題がある。掛け算は前後の数値を逆にしても答えは変わらない。数学的には問題ないかもしれないが、しかし数学を道具として扱う事務作業においては、掛け算の駆け合わせる順序越しに、その数式から読み取れる文脈というものがあるため、共通認識としての「かけ合わせる順序」を習っておくのは、数学を道具として扱うための訓練という側面では、そうそう間違った判断だとは言えないのではないか、と思う。むろん、数学として学ぶときには、順不同でも構わない旨を優先して教えるのが妥当であるのは言うまでもないが。どんなことでも、「正しいとされていること」ばかりに気をとられると、何のためにそれを習い、利用し、工夫するのか、を見失い、最終的な目的から遠ざかってしまうだろう。すくなくとも学校や教育というものは、「正しさ」を教え、学ばせる場ではない。社会(などの特定の組織やコミュニティ)に有用な人材を育て、矯正するための機関であり、仕組みである。学ぶことは一人でもできる。「こちらの言い分のほうが正しいから」を理由に、相手の理屈を否定するのは、論理的には正常に機能することもあるだろうが、人間の営みとしては、それだけでは不足だ。論理的な正しさに価値があるのと同じように、人間の未熟さに寄り添った考え方にも価値はある。どちらかと言えば、前提となるのは人間の未熟さに寄り添った考え方であり、論理の正確さや発想の豊かさは、人間の未熟さを補完するための道具だということを、ときおりでよいので思いだすと、チグハグな互い違いの議論をせずに済むようになるのではないだろうか。(裏から言えば、論理や発想の補助がなければ、どんなに人間の未熟さに寄り添った考え方をしても、未熟さが増すばかりで、一向に問題は解決されないし、深刻さを増していくばかりであろう)



1928:【スケベの何がダメ?】

性欲が失せ、エッチなコンテンツを目の当たりにすると反射的に倦怠感を覚えるようになってしまった。嫌悪感まではいかないが、率先して摂取しようという気にはなれない。精神的にはむしろ安定しており、性欲があるときのほうが物事に集中できないので、怪我の功名とも呼べる(意味合い的には、災い転じて福となす、のほうが正しい?)。反面、BLや百合などの組み合わせは、たとえ性行為描写があっても、それを脳がエッチなモノと認識しないようで、これもまた差別意識や偏見の顕れなのではないか、と疑問視している(異性愛、同性愛、どちらに対する差別なのかは判らないが)。性嫌悪の一種かもしれない。しょうじき、じぶんの性器をいじりたくない。じぶんの性器をいじりたくなる衝動のほうが異常に思えるくらいなのだが、生理現象を否定しはじめるのは精神疾患の病状の一種、みたいな記事をむかし何かで読んだ憶えがある気がするので(思い違いかもしれないが)、これ以上こじらせないように注意しておこうと思う。そうは言っても、自身の感情や欲求を否定したくなったとして、それがイコールじぶんを否定することと直結しない点には留意しておきたいものである。



1929:【進化とバグと掌編と】

生物は体積(質量)の小さい種のほうが細胞分裂をたくさんするので、進化しやすくできている。細胞分裂をたくさんするということは遺伝子のコピーをそれだけ繰りかえすということでもあり、そうするとバグが生じる確率が高くなる。バグは基本的にはないほうがよろしい異常なのだが、ときおりそうした異常が、新たな環境への適応を可能とする変質を個体に及ぼすことがある。順序からすれば、さきに環境の変容があり、偶然それに合致したバグを有した個体が子孫を残しやすいというだけの話ではあるのだが、環境はつねに変容しつづけるのが自然というものであるから、そうした変化についていけない種は滅ぶさだめにある。生物の進化とはこうした滅ぶものと新たに活路を見出すものとがぐるぐる回りつづける歯車である。死滅の速度が重要とも呼べるし、たくさんバグを生むことが進化の加速を促すとも呼べる。繰り返しになるが、バグとは異常であり、規格外の因子のことだ。これまでになかった組み合わせ、通常でないカタチや性質がいっぽうではバグと呼ばれ、他方で、通常の個体よりも優位に環境に適応していれば進化と呼ばれる。もうすこし正確には、進化とはその因子が子孫に反映されていき、種に引き継がれてから観測される後付の解釈であるから、進化の因子(バグ)を有した始祖を最初に見たとしても、それを進化だとは誰も判断できないだろう。時代による淘汰が任意の異常を、バグか進化かに振り分ける。同様にしてこれを創作の分野に当てはめて考えてみれば、ちいさな個体のほうがバグが生じやすいのであるならば、これは短編や掌編であるほうが、より規格外の作品を生みやすいと言えよう。同様に、コンパクトな作品であれば、短期間にいくつもの方向性の異なる作品を生みだしやすい。長編や大作に比べれば、創作コストが低いからだ。言うまでもなく、短いなら短いなりに、ちいさければちいさいなりの苦労はある。だが、やはりというべきか、長編や大作よりかは時間対コストはかからないとみて、まずよさそうだ。とすれば、創作の分野でつぎの時代の主流を築く進化の因子を備えた作品は、短編や掌編などの、コンパクトな作品群のなかから登場すると言って、生物学的な見地からの解釈からすれば的外れとはならないはずだ。もっとも、創作と生物種は別であるから、まったく同じとくくることはできない。ともあれ、共通する部分があることもまた確かに思われる。物語ともなれば、遺伝子が子孫へと引き継がれるように、その時代その時代に蓄積された物語のひな形とも呼べる型や要素が、つぎの時代の物語にも踏襲されているのは、じつに興味深い共通項だ。ともすれば、そうした蓄積なくして、新たな進化は生まれないのかもしれない。バグを発生させることだけでなく、すでにあるひな形(特徴)を引き継ぐこともまた意識するのがよさそうである。



1930:【褒めて操る】

ひとむかし前までは恐怖や苦痛を与えることで相手を洗脳するやり方を一部の企業では、社内教育の名目で率先して取り入れていた。ミスをした社員や成果をあげない社員を怒鳴ったり、罵倒したり、ほかの社員と結託して不遇な環境を強いたりと、そうしたことが一部の会社や企業では、ある種のシステムとして採用されていたのだ。しかし心理学の研究を引き合いにだすまでもなく、恐怖や苦痛を与えることで高まる生産性など高が知れており、ある研究グループが実験したところによれば、褒めて伸ばすのも叱って伸ばすのも、成果にさほどの差はないとされた。つまり、褒められても怒鳴られても、結果に優位な違いは現れないのだ。どちらかと言えば、長期的には居心地のよい社内環境が維持されたほうが転職率は下がる傾向にあるだろうから、社員を威圧して生産性の向上を試みるのは悪手だと呼べそうだ。ともあれ、まったく無駄ではないから話はややこしく、叱るべきところは叱るべき、といった主張は未だに公然と見受けられる。先にも述べたが、叱ろうが褒めようが、教育としての期待値に大きな差はない。なぜそうしなければならないのか、どうやったらそれを達成できるのかの理屈を相手が納得できるまで、或いはその理屈を咀嚼できるまで辛抱強く説くほうが効率がよく、合理的であるはずだ。それだけの労力をかける相手ではないから、怒鳴ったり、罰したりすることで、一時的なカタルシスを得ているのかもしれない。つまり、怒鳴るひとは、怒鳴りたいから怒鳴っているのであり、そこに相手への思いやりや、合理的な理由はないのかもしれない。話は変わるが、さいきんの企業は、世間からブラック企業だなんだと後ろ指をさされたくないがあまり、社内教育ではほとんど褒めて行う方針に変更しはじめている。会社にとって都合のよい行動や言動には、「ありがとう」「助かった」「よくやった」と褒めることで、それが正しいことなのだとの擦りこみを行う。これは人類が「愛」や「絆」を尊ぶべきものとして扱う行動原理とほとんど同じと言ってよさそうだ。相手の行動をある一定の枠組みに限定しておきたいから、相手を気持ちよくさせて、その行動を操作しようとする欲動が見てとれる。洗脳との違いを探すのはむつかしい。同じ「ありがとう」であっても、なぜそれを口にするのか、をいちど考えてみるとよいかもしれない。本当にそこに感謝の気持ちがあるのか、それともただ相手を操作したいだけなのか。同じ「ありがとう」であっても中身がまったくの別物であると感じる機会が増えてきた。ここ数年を通して感じる社会の変容の一つである。



※日々、死ぬときのように安らかに、死に際のごとく壮絶に。



1931:【種が増えて手が回らない】

本を一冊読みきるのに半年くらいかかる。読みかけの本が何冊もあって、どんどん増えていくから、読みきるまでの時間が伸びていく。読書だけでなく創作も同じで、つくりかけの物語がどんどん増えていくから、完成予定時間がどんどんかさんでいくいっぽうだ。気長にやりすぎているかもしれん。こういうときこそ、選択と集中の出番だ。



1932:【印籠と貧乏で韻が踏める】

やあやあ、いくひしさんだ。お久しぶりでござるなぁ。いくひしさんはさいきん、またウーロン茶にハマっておってな、2リットルのペットボトルのを二本常備しているでござる。たまに飽きちゃうので、麦茶も一本だけ置いているでござるが、まあ、二日で一本なくなるいきおいでござるな。あと、ランチパックがいつの間にか130円になっていたでござる。前からそれくらいだったよー、と言われたらそんな気もしてくるので、値上げしてるー!って驚くのは時期尚早かもしれないでござるな。あとはなんじゃろな。読めてない本が増えてきたので、まずは十冊くらい選んで、それを優先的に読んでいこうと思うのだ。読みきるまで新しいのは買わないぞ、と思ったその日のうちに二冊買ってきてしまったけれども、これはしょうがない。言いわけを考えても無駄でござる。しょうがないのだ。ほしいのだもの。あとはあれじゃな。ひっさびさに腰を痛めてしまってな。軽いぎっくり腰になってしまった。五年くらい前にいちど本格的なぎっくり腰を体験しているので、軽い、と表現するのだけれども、当時は本当にその場から一歩も動けなくなって、背骨が折れたかと思ったでござる。冷や汗を掻きながら、うんうんうなりつつ家まで帰ったのを憶えているぞ。今回はそこまでじゃなく、徐々に腰を曲げるのがしんどくなって、寝て起きたらまっすぐ立てないくらいに悪化していたので、数年ぶりに薬局に行って湿布を購入して、ここ数日はずっと貼りつづけているでござる。湿布、痛みをとるだけでなく、ちゃんと効くのがすごいでござる。炎症を抑える効果があるでござるな。だいぶんよくなったでござるが、油断をせずに、だらーっとしていこうと思うのだ。無理をしたり、本気だしたりしないようにしなくては、だぞ。健康の話題がでたので、明かすでござるが、さいきんいくひしさん、まいにちラムネを食べだしたのじゃが、眠気が飛んでシャキっとするよー、みたいなつぶやきをツイッターで見かけたからなのじゃが、まいにち食べてたら血糖値がすこしだけあがってしまって、消費できてないやーん、って地面にひざを着いてしまったでござる。ブドウ糖だから直接脳で消費されますよーってな理屈だったかと思うのじゃが、脳みそを使っていないのがバレてしまったでござる。おいちいからって、あんまりバリボリ食べるものではないでござるな。え? ラムネはバリボリ食べるものじゃない? そうなんでござるか。知らなかったでござる。豆を食べてる気分だったでござる。まとめてバリボリ貪っていたでござる。そりゃあ血糖値もあがるでござるな。控えるでござるー、オタマジャクシでござるー、ってそれは非カエルでござる。アホなこと言っているからそうやってブドウ糖も消費されないのでござるぞ、頭が高いでござる、ひかえおろー、でござるー。



1933:【五分だけでも】

小説の利点は、五分あれば五百文字のショートショートをつくれてしまえる点だ。また、いちにち五分でも作業をすれば、二百日で十万字の物語をつむぐことができる。いちにちたった五分の作業を半年とちょっとつづけるだけでも長編一作をつむげるのだ。しかもそのあいだに経費はほとんどかからない。取材をする者もいるが、小説をつくるために取材をするのか、それとも日常を、小説をつくるための素材として「取材のつもりで生きるのか」によって、だいぶんコストと効率は変わっていくだろう。言うまでもなく、まとまった時間がなければ得られない情報はある。取材をしよう、と決意し、計画を立てなければできない取材もあるだろうが、もはやそれは小説をつくるためというよりも、取材をすることが目的になってしまっている感は否めない。旅をしたいだけなのでは?とじぶんに問いかけてみるとよいかもしれない。いくひしは久々に旅がしたい気分である。あの世とかに行ってみたい。帰ってこられるなら、の話なのだが(その前にまずは、あの世が存在するのかを検討しよう)。



1934:【干すとは?】

芸能人や文芸の界隈を眺めていると、「干す」といった言葉を耳にしたり目にしたりする機会がある。干すとはいったいどういう状態を言うのか。ニュアンスとしては、つまはじき、といった具合なのだろうか。アイツはヤバいから仕事を回すのはやめようぜ、とみなで口裏を合わせて仲間外れにすることを言うのだとすれば、まったくどうして大人げないことである。逆談合と言えば端的だ。実力がないだけなら単に仕事がないだけであり、これは「干す」とは呼ばないはずだ。だとすれば、「干された人間」とはそれなりに実力があり、しかし何か仕事上で不都合な出来事や欠点があるから「あのひととは仕事をしないようにしましょう」といったとり決めが暗に裏で交わされている状態だと言えよう。ふしぎなのは、真実に仕事のうえで不都合なことや欠点があるのなら、それを指摘して直してもらえればよいのではないか、ということだ。しかしそれができない何かしらの事情があるのだろう。そうした事情により相手に面と向かって指摘できない者たちが、陰でこそこそ密約を交わすように、或いは、陰口を叩くようにして、「仕事を回さないようにしましょう」と同調圧力を形成することを「干す」と言うのかもしれない。だとすれば、なんともはや、陰湿なことである。とはいえ、面と向かって指摘できない理由にも色々あるだろう。相手のほうが立場が上の場合、指摘することで却って損失を深めることもあるだろう。ガキ大将ではないが、気にくわない相手を不当に傷つけるような権力者相手には、それなりの根回しがなければ太刀打ちできないのは理解できる。だが、徒党を組んでそうした権力者を「干す」ことは、その権力者のやっている「悪」に「悪」を仕返しているだけであり、何の解決も見せていないと思うのだが、果たして「干す」ことで得られる利とは何なのか。復讐が復讐を呼ぶように、「干せば」いつか自らも「干される側」になるだけなのだと思うのだが、あなたはどう考えるだろう。「干す」とはいったいどんな状態を示し、どうなれば「干された」ことになり、どうしたら「干されず」に済むだろう。もはや、「干された」と口にする者たちが、どんな状況を想定しているのかが不確定であり、「アイツはいつか干されるよ」みたいに語る者たちからは、じぶんたちには誰かを干すだけのちからがあるのだ、と勘違いしている節が見てとれる。そういうものを驕りたかぶりと呼ぶのではないか。表沙汰にできない不手際があったことで仕事がなくなっただけなら自業自得であり、単なる実力不足であろう。それをわざわざ「干す」と表現するあたり、陰湿な何か、傲慢な何かを感じずにはいられない。いったい「干す」とは何なのか。具体的に「干された事例」を教えてほしいものである。



1935:【製造業における労働力】

工場などの生産現場において、一時期は製造工程の全自動化にシフトしていく流れが加速していたが、いまではむしろひとの手による作業、ひと昔前の方針への回帰が目覚ましい。これはなぜかというと、一つは人間でなければむつかしい暗黙知の機械化がいまはまだそこまで進んでいない点が挙げられる。人間だからこそできる作業があるのだ、と言いたいところだが、じつは開発費をそれなりにかければ、現段階ですでに全自動の設備を整えることは充分可能だ。ただし、人件費をかけたほうがはるかに安く、そして臨機応変に多様な製品を生産できるため、自動化が進まないといった実情がある。ただし、これからさき、機械による全自動の設備を整えた企業が急成長し、市場を独占していくだろうことは想像にかたくない。言い換えれば、独占するに値する市場であれば、自然と生産現場も全自動化が浸透していく。裏から言えば、2019年の現段階において、「機械よりもひとの手による作業」などと時代錯誤なことをのたまいている生産現場は、おおむね数年後にその産業そのものが大きく衰退することを暗に示しているとも言える。守りの態勢に入っているだけであり、いつでも撤退できるようにコストのかかる全自動化を選択しないだけの話なのだ。もうすこし突っこんで言えば、人間にできる作業はたしかにある。機械では再現できない質のよさや環境の変化への対応など、利点はあるにはあるのだ。ただし、機械による圧倒的な生産性の高さのまえでは、そうした利点も掠れてしまうのは否めない。人間の手作業によって高められる品質に対して、機械はその何万、何億倍もの効率で、生産台数を増やすことができる。時間毎の生産量は、製品の生産コストを低下させ、安価な商品を市場に流通させることが可能となる。需要者にとってお得なのは、以前よりも品質が数パーセントよい手作業の商品ではなく、安価で一定の水準の満たされた商品であろう。機械は同種の機体に対して、同時にいくつもの改善を共有することができる。品質は生産性の高さ同様に、向上しつづける性質を併せ持つ。製造現場ではもはや、品質、生産力共に、人間は機械に太刀打ちできないと考えて、大きな齟齬はない。ただし、機械の設計や開発、改善や修繕そのものはまだまだ人間の手による作業が欠かせない。生産ラインが全自動化されたとしても、それを整備する人間や管理する者が必要であるから、現場から人間がいなくなる日はまだとうぶんさきであるだろう。



1936:【足枷】

仕事であれ遊びであれ、何であれ、欠点に気づいても変えられないことがストレスになり得る。知らず知らずのうちに「何か変だな」と違和感を感じるだけでもけっこうな精神的苦痛だ。そもそもなぜ欠点が放置されているのか、とその理由が解からないことが不条理に感じる。まるで意味もなく足枷をはめてマラソンをしているような感覚に陥るのだ。なぜこの足枷が必要なのですか、とじぶんや環境に問うてみても明確な理由などは端からなく、あったとしてもとうてい納得できないことも往々にしてある。改善できればよいものの、そのためには多額の費用や高い技術が必要な場合もあるだろう。また、他人に「足枷」をはめることで得をしている人物が陰で抵抗していることもあるはずだ。システムや規則などは往々にしてそういうものであり、「足枷」を理不尽に感じている者がいる反面、他者の自由を束縛することでじぶんたちの自由を確保しようとする者たちがいる。社会とはおおむねこうした「自由の放棄とそれによりもたらされる安全」とが天秤にかけられ、そうした交換条件を納得して受け入れた者たちが「我慢をし合うこと」で築かれる。だが、もし納得できないにも拘わらず、その「我慢」を一方的に強いられているのだとすれば、これは自由の侵害であり、端的に「奴隷にされている」と言っても言い過ぎではない。なんにせよまずは、「なぜこの欠点が必要なのか」を明らかにし、「なぜ放置されているのか」を突きつめて考え、「この欠点(足枷)を外したらどうなるのか」を推測しながら同時に、「どうしたら足枷を外すことができるだろうか」を模索してみると、改善の一歩を踏みやすく、より自由な時間を過ごせるようになるのではないだろうか。なにはともあれ、まずはじぶんがいったいどんな足枷をはめられているのか(もしくは、はめているのか)に気づくことが第一だ。(違和感や不満に敏感であるとよい。生きづらさは欠点ではなく、利点とすることもできるのだ)



1937:【残業は断れる?】

労働基準法において、企業はなんの契約もなしに従業員を「一日8時間、週40時間以上」働かせてはいけないと決まっている。従業員に残業をさせたくば、企業の代表者は従業員の代表者と36協定を結ばなければならない。ただしこの従業員の代表者は、管理職ではダメであり、労働者全体から選ばれた代表でなくてはならない。36協定を結んだとしても、その事実を労働者に周知する義務が課せられる。周知義務を怠っていれば、たとえ36協定を結んでいても労働者に残業を課すのは違法である。就業規則に「所定時間外労働あり」や「法定時間外労働を命じることもある」と書かれていたとしても、36協定なしに法定時間外労働(一日8時間、週40時間以上)を労働者に命じることは違法である。また、36協定は事業所ごとに結ばなければならないため、大企業であるほど、各事業所が独自に労働者と締結しなければならない。おおむね一年ごとに結び直す必要があり、また36協定における事業記載は可能なかぎり厳密でなければならないため、計画にない急な繁忙期に突入したときには、36協定を結ばずに残業を課す事業所もすくなくない。職場に36協定の書面が誰でも見られる状態で提示してあったり、誰でも操作可能なPCのファイルに仕舞ってあったり、或いは提示版に貼りだしたり、書面で労働者に配布したりなどしていない場合には、周知の義務を怠っているとして、たとえ36協定が締結してあったとしても、事業所は労働者に対して法定時間外労働(残業)を課すことはできない。あなたが36協定の存在を知らず、また法定時間外労働(一日8時間、週40時間以上)を命じられ、働いていたとすれば、それはれっきとした労働基準法違反なので、あなたは残業を断ることができる。この国の法律では基本的に、雇用主は労働者を「一日8時間、週40時間以上」働かせてはいけないのである。むろん、こうした正当な理由で残業を断った労働者に対し、企業や事業所は、「人事評価をマイナスにしたり、待遇をわるくする」など、してはならない。あなたは違法に残業を命じられてはいないだろうか。



1938:【傲慢GODMAN】

いくひしは目的のためなら手段を選ばないタイプの指向性を有しているので、もしお金のために創作をしよう、と目的を定めてしまえば、おそらくいくひしと同業になる方々はみな失業するはめになるでしょう。市場を独占するのがもっともお金を稼げることになるからです。よかったですね、いくひしがお金を目的に創作をする人物でなくて。もちろん、人件費は極力カットするでしょうから、協力者はゼロを目指すでしょう。また、専業の編集者の存在意義を失くす方向に働きかけ、作家兼編集者の育成に投資していくことになるかと思います。現在の資本主義社会において、ビジネスは経済であり、物理暴力のない戦争です。二つの意味で、やられる前にやれ、がビジネスの鉄則なのだ、と誤解している節がいくひしにはあります。ただ、いくひしはビジネスを目的に創作をしてはいないようですので、現在プロで活躍中の方々は安心してほしいと思います。よかったですね、いくひしがアマチュア指向の甘ちゃんで。



1939:【うわーん】

まんちゃんが性格わるくなっちゃったよー。でもよく考えたらもとからだったよー。



1940:【工夫をしましょう】

生産性に関して勘違いしている中間管理職が世のなかには存在する。ある人間が100メートルを16秒で走れるからといって、では同じ人物がその十倍の1000メートル(1キロ)を160秒で走れるのか、と言えば否だろう。仮にその速度のまま10000メートル(10キロ)を完走できれば陸上の選手としてどんな国でも代表になれる。もし100000メートル(100キロ)の道のりをその速度で走れたならば、後世に名を残せるレベルで超人と言えよう。要するに、短距離には短距離の、長距離には長距離の、「最速」があり「限界」がある。短距離の最速をそのまま長距離に当てはめるのは誰が考えても理に適っていないと判るはずだ。にも拘らず、これが仕事の能率や生産性となると、一時間当たりの最高能率をそのまま八時間に反映させる職場があったりする。短期的に限度を越えた能率を可能としたところで、いつかはどこかで破たんがくる。無理をしているのだからそうなるのが道理だ。単にシステムとして機能しなくなるだけならまだよいが、職場の誰かが、身体を壊したり、精神を病んだりしたら取り返しがつかない。さっこん、部下の身体を気遣うようにと社員に義務付けている企業が増えてきた印象があるが、だいじょうぶでない人間は、そも、正常な判断ができないのだから異常であり、「だいじょうぶです」と答えたその返事からいったい何を評価できるだろう。健康上の異常を当人に言動で確認する手法は理に適っていないように思えるが、あなたはどう考えるだろう。似たような問題として、上司が部下へ、「体調はわるくないか」「気分がわるくはないか」と確認するとして、もし異常があるような場合には、即座にそうならないための対処を職場全体で講じる必要がある。にも拘わらず、往々にして心身に異常があったと報告したとしても、それは当人にその仕事の適正がなかったからだろう、もっと適性のある人材を配置せねば、と職場のシステムが改善させることなく、臭い物には蓋をの精神で処理される傾向が未だに根強いように感じられる。これは個人的な所感であるので、何らかの統計ではなく、一般論ですらない点には注意しておいてほしい。話は変わるが、効率をよくするためにと無駄を失くしすぎるのは悪手である。必要な無駄というものがある。効率をよくするとは、最短距離を最速で突き抜けることではない。むろん最短距離を最速で突き抜ける手法が最善であることもある。たとえば、命の危険が差し迫ったような「退避」や「避難」、または「医療行為」がそれにあたる。これらは緊急を要するために、脇目を振っている場合ではない。しかしそれ以外のシステムにおいては、脇目を振る余裕があったほうが、長期的には効率よく目的を達成できる確率が高くなる。言い換えれば、効率をよくするとは、「ないほうがよい無駄」と「あったら便利だが、いまはなくても困らない無駄」とに分ける作業だと呼べる。システムの部品を交換したり、入れ替えたり、改善したりするのも、言ってしまえば「あったらよいけど、いまは必要のない無駄」を装備しつつそれが通常の作業時に邪魔にならないようにするための工夫だと呼べる。100の労力でつくれたものを10の労力でつくれるようになること、または1の労力で100しかつくれなかったものを倍つくれるようになるといった変化が、「生産性が向上した」と評価できる状態なのだ。単に労働者の心身を削って、無理をさせて、結果の数値だけを伸ばしたところで、それは生産性が高まったとは言えないのである。



※日々、見切りがはやいのは未来への予測が甘々だからだ、目のまえをすぎさる現実をゆがみなく見詰めよう、認めよう、知ろう、淡々とありのままを識別するのだ、自己のゆがみを自覚し、補正し、囚われぬように。



1941:【話題が偏っている】

まんちゃんさぁ。さいきんなんか話題のやつ、ぜんぶ同じくない? 愚痴っぽいし、つまんないし、つまんない。もっとおもしろい話して。失敗談とか。恥ずかしかった話とか。たとえばほら前してくれたじゃん、まんちゃんがさ、トイレに鍵かけ忘れて、お客さんにお尻見られちゃった話とか。



1942:【能率とは】

投入した「労働力と時間」に対して得られる成果物の量が増えることを能率があがる、という言い方をする。能率があがったからといって、必ずしも効率があがるわけではない点には注意が必要だ。たとえば、一人の人間が一時間で10キロの距離を移動できたとする。同じ人物がこんどは一時間で20キロの距離を移動できたならば、これは能率がアップしたと呼べるが、そのせいで本人がつぎの日まったく動けないほど疲弊してしまったならば(たとえば全身筋肉痛になったなど)、これは効率が落ちていると評価できる。繰りかえしになるが、能率がアップしたからといって必ずしも効率がアップするとは限らない。しかし、効率がアップすれば基本的には能率もアップする(さきの例であれば、自転車に乗る、自動車を運転するなど)。このことから、優先すべきは効率のアップであり、能率のアップではない。能率は効率のアップの結果として現れる副次的な現象だと言えよう。この点から言えば、世のなかにある仕事の多くは、効率のよさを度外視して、能率をあげることばかりに注力して映る。無理をすれば能率をあげるのはそうむつかしくはない。歩いている人間を走らせれば、能率があがることになるからだ。しかし、走ってしまってはすぐに疲れる。身体に負荷をかけることは効率がわるい。歩いているのと同じくらいの労力で、それ以上の成果をあげるように工夫すること。効率をよくした結果によりたくさんの成果をあげることにこそ、能率アップの意味がある。たとえばの話になるが、仮に真実に能率がアップしているのならば、残業はせずに済むはずだ。残業をしているのに能率がアップしている、という言い方は、現代社会の働き方として矛盾しているように感じるが、あなたはどう思われるだろう。効率がわるいから残業をしなくては「能率をあげる」ことができないのだ。それは本当の意味で「能率があがった」とは呼べない。まずは効率をあげることから実践しよう。



1943:【人手不足?】

企業は「人手不足だ」と口では言うものの、じっさいのところどの現場でも各年度ごとに人員削減による能率アップを図っている。言っていることとやっていることが矛盾している。これというのは、要するに、「安くてこき使える人手」が足りていないという意味であり、従業員そのものはじつのところ余っているのだ。ただ、残業をさせたり、重労働をさせるには、支払う給料が高くつくため、できるだけ安い労働力に劣悪な仕事をさせたいとの魂胆が見え隠れする。政府が進めている外国人労働者の受け入れもほとんどこれが狙いであり、広義の「奴隷の仕入れ」と言ってそれほど大きく的を外してはいないはずだ。人手が足りていないのではない。同等の人間扱いせずに済む駒が足りないのだ。人間の労働者の代わりとなる機械はまだまだ費用がかかる。かけた分の費用を回収するだけの利益を期待できる市場がいまはまだどこを見渡しても見当たらない。だから余計に奴隷や駒を企業は欲するのだろう。裏から言えば、人間の労働者の代わりとなる安価な機械を大量に生産できる企業は、今後、世界中の経済を牛耳るだろう。いまある企業でそのような兆候を見せているのはどこだろう? 目を凝らしてみるとおもしろいかもしれない。



1944:【人間の魅力が九割】

バズるコンテンツと売れるコンテンツは重なる作品もあるにはあるが、どちらかと言えば別物である、と考えたほうが妥当な気がするが、じっさいのところはどうなのだろう。これまで売れなかった分野やジャンルでも金脈があるのではないか、と色々と企画をだして試しはじめているいまは時期であろう。そのなかでやはり売れない分野とじつは売れる分野がデータとして集まり、開拓されていくはずだ。そうすると、段々と、売れるコンテンツにジャンルや分野は関係ないと判明していくと想像する。要は、どう描くか、どうつくるか、どう売るか、という根本的な創作ビジネスの話に収斂していく。これだけ多くの良質なコンテンツが無料で触れられる環境が整っている現代において、もはや売れるコンテンツとは、手元に置いておきたいと思えるか否かであり、その物語をかたちづくる人間(キャラクター)をじぶんの生活のなかに入れておきたいか否か、になってくると想像するものだ。この場合、月額読み放題サービスなどの有料プラットホームで読まれやすいコンテンツと、書籍として売れやすいコンテンツは、このさきどんどんと乖離していくだろう。バズるものと売れるものとが必ずしも重ならないのと同様に、ネット上で取り扱いたいものと、物理世界の日常で触れられる距離に置いておきたいものは別物だと考えたほうが直感としては正しく感じる。しかしこれもまた、ネットと日常が別物だと感じるいくひしのような世代だからこその偏見かもしれず、それより下の世代では、ネットも物理世界も地続きであり、同じものとする感覚が一般化していくかもしれない。そうなれば、バズるコンテンツと売れるコンテンツに差は現れず、まずはバズるか否かによって売れるコンテンツか否かを見定めることも可能になっていくかもしれない。いずれにせよ、現状はまだネットと日常が融合しきっていないのは確かだと言えそうだ。バズるコンテンツと売れるコンテンツは必ずしも合致しない。あたりまえの事実をまずは念頭に置いて、損はないのではないか。むろんこれは、二〇一九年いま現在の話であり五年後は定かではない。



1945:【フリーとは】

笑顔がだいじ、とか、楽しさが伝わるように、とか、そういう要素が魅力に繋がるのは理解できる。ただ、それを強制されるいわれはないし、義務付けるのもおかしな話だ。競技や仕事ならまだ分からないでもないが、表現や創作などにおかれては、自由を標榜するのならば、何を捉え、掴もうとしているのか、のほうがよほど譲れない要素であるように感じる。無理にじぶんを脱ぎ去り、ときに塗りつぶし、演じる必要はない。演じたいならそれもよいが、それを他者へ求めたり、強いたりするのは、やはりというべきか、おかしな話だ。自由とは強制されて得るものではないし、他者から与えられるものでもない。強制されたいのならばそれはそれで構わないが、他者からの何かしらの反応を求めた時点で、相手の自由を侵食してしまう懸念については考えに入れておいたほうがよさそうではある。同様の理屈から、自由にさせろ、と我を通すのもまた真の自由とは言いがたい。さきにも述べたが、自由とは与えられるものではないのである。



1946:【変わりたい欲求>自己肯定感】

誰が聞いてもおもしろいものではないから、あまり自作について語りたくはないのだが、その拘りもどうかな、と思うのできょうは一つ、とある自作について語ってみようと思う。二〇一二年くらいに「デブに真珠(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060864/episodes/1177354054881060873)」という四万字ほどの物語をつくった。これはデブの女の子が社会人失格の男と出会い、互いによい影響を与え合って、それぞれじぶんの理想と向き合うようになる話だ。いくひしは基本的に物語のオチで悩むことはない。物語の全体像が構造として見えていないとつくりだせないからだし、たとえつくっている途中でオチが変化したとしても、それは構造上そうならざるを得ない変質であるから、窓にしたたる夜露がうねうねと軌跡を描くように、しぜんとそうなるべくオチへと収斂していく。とはいえ、いちども悩まなかった、と言えば嘘になる。その例外として、「デブに真珠」では最後まで二つのオチのうち、どちらを選ぶかをとても悩んだ。というのも、デブの女の子を「もう一人の主人公(ヒロイン)」として抜擢したのは、いわゆるルッキズム(容姿による差別)に対するアンチテーゼを描いてみたかったのが一つの要素としてあり、そのテーマからすると、どうしても女の子は最後までデブのままでいなければ、アンチテーゼというカタチを保てなくなるからだった。言い方を変えれば、「デブでなにがわるい」と物語に叫ばせたかったのだが、しかしその女の子はけっして「デブであること」をよろこばしく思ってはいないのだった。彼女は変わりたかった。そして変われないだろうという諦観が彼女に、軽率な選択をさせてしまう。じぶんの容姿を好きになれないそんな女の子に寄り添い、彼女の存在を受け入れ、「デブであることごと彼女の葛藤」を受け入れようとする男が本作の主人公であり語り部だ。デブの女の子は変わりたかった。そして変わるだけの契機を、主人公と出会うことで、じぶんの手で掴み取ったのだ。その契機を、未来を、作者の都合で変えてしまうのは、いくひしの創作の姿勢に反するし、忍びなかった。主人公の男もまた、デブの女の子との出会いによって、人生の転換期を乗り越える。これは彼女らの変わろうとする意思を肯定する物語であり、それはけっしていまあるじぶんをあるがままに受け入れる自己肯定の物語ではないのだと納得し、けっきょくオチを「ルッキズムに対するアンチテーゼ」というテーマとは相容れないものにした。けっきょく見た目かよ、ケッ、と読後に思われる方もいらっしゃるだろう。それはそれで仕方がない。世のなかには差別が溢れている。そんな差別に迎合し、抵抗を感じずに済むカタチに変わりたい、と願う気持ちを蔑ろにする真似は、いち作者としていくひしにはできなかった。じぶんの正しさを貫くために、他者(弱者)の思いを踏みにじり、じぶんの正義を押しつける行為もまた、大いに差別であり、人権の侵害である。いくひしはこの物語を通して、そのように学んだ。ちなみに、オチはある意味で、「蛇足感」を強調している。あたかもとってつけた感を醸しているのだが、この狙いが解かる読者の方がいらっしゃったならば、あなたさまの慧眼には脱帽です、と畏敬の念をお送りいたします。似たような狙いをさらに高度に練って仕掛けた作品「外骨格の目~伝統小芥子は電灯を消し~(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060147)」もございますので、お時間ありましたらお目通しねがえるとうれしく思います。もちろん、読まずにいても何の問題もありませんけれども。



1947:【みす】

認知能力が低下している。日常生活においてミスを連発しており、それはたとえば部屋に自転車を持ち込み、誤って倒してしまい、壁に穴をあけてしまったり、缶コーヒーの蓋をきちんとしめていなかったためにリュックのなかがびしょびしょになってしまったり、想定外の出費が重なったり、とこんな具合であるが、予想外の事態――おおむねそれは好ましくないことなのだが――に遭遇する機会が増えた。すべて今週のできごとである。思考能力が低下し、こうなるかもしれない、との未来予測において視野が狭くなっているのが、起きた出来事から観測される。主観ではさほど思考能力が落ちているとは感じないが、この無自覚こそが能力低下のもっとも顕著な症状であると言えよう。缶コーヒーにいたっては、二度も同じ失敗を重ねてしまっている。よろしくない兆候だ。いまいちどじぶんの能力を再評価しなおし、下方修正して生活していくのがよさそうである。ちなみにさいきんまた小説を読むのがおもしろくなっていて、王城夕紀さんの「青の数学」が、よいでござる。王城夕紀さんは去年2018に読みはじめた作家さんで、たいへん文体が好みの作家さんである。一気読みではなく、まいにちチマチマと舌のうえで転がすように読んでいる。文章を読んでいるだけでも脳内麻薬が出るタイプの作家さんで、はひゃー、となるでござる。たいへんありがたいでござる。どうもありがとうございます、でござる。



1948:【安全の基本は余裕】

飲みかけの缶コーヒーはリュックに入れないようにしました。コーヒーをリュックのなかにこぼしてしまうミスを二度も犯してしまったので、その対策として決めたじぶんルールです。なぜコーヒーがリュックのなかにこぼれてしまうのか、を考えてみたところ、大別して二つの理由が考えられます。「1:きちんと蓋を締めていなかった」「2:歩く振動により缶コーヒーの蓋が、リュックのなかでゆるんでしまう」の二つです。うち、一つめについては、しっかり蓋を締めたつもりでも、疲労からか手にチカラが入らずに、閉まりきらない場合が考えられ、これは注意しても繰り返し起こり得るミスだと判断できます。また、きちんと締めたところで、蓋のほうでかってにゆるむ事態も考えられます。この場合は、リュックのなかに入れることがそもそも失敗の種となっていますから、「1」と「2」のいずれかが原因にしろ、いちど開けた飲みかけの缶コーヒーはリュックに入れない、を徹底するのがよさそうだ、と結論しました。これくらいの考えは、ミスが起きる前から巡らせておくべき予測だと思うのですが、思考はいつもよどみなく巡るわけではありませんから、こうした軽いミスも、ちょっとした疲れや環境の変化によって容易に引き起こります。まずは疲労を自覚し、無理をしないこと。それから、いちどしたミスには、その都度、対策を講じ、実施する癖をつけておくのが、のちのちのじぶんを救うことになるでしょう。もちろん、実施した対策そのものが、またべつのミスを誘発する事態も考えられます。二重三重に、考えを煮詰めておく癖もつけておくとよいかもしれません。今回の対策の場合、飲みかけの缶コーヒーを、ではどこに仕舞い、持ち歩くべきか、を検討する余地が残されています。さいわいにもリュックには側面に、簡易ポケットがついておりますから、そこに立てかける具合に一時収納しておくのがよさそうです。缶コーヒーがこぼれる要因の一つに、横に倒してしまう点があることに着目すれば、たとえ蓋が緩んでいようと、立てておける簡易ポケットの存在は対策として有効だと評価します。また、なぜ缶コーヒーをこぼしてはいけないのか、については、ほかの荷物が汚れてしまうから、といった根本的な瑕疵がありますから、その点、リュックの外側に付随した簡易ポケットであれば、仮にコーヒーをこぼしてしまっても、リュック内の荷物が汚れることはありません。リュック自体が汚れる可能性はそう低くない確率であり得ますが、それはいくひしのなかでは許容範囲内の事態でありますから、「飲みかけの缶コーヒーをリュックに仕舞わない」と「リュック側面の簡易ポケットを利用する」という対策は、妥当だとして、採用することとします。缶コーヒーを手で持ち歩くだけだと、いざケータイなどほかの作業をする際に、両手がふさがって危ないですからね。仕舞う手間を失くすのは、対策としてはやや不足です。ミスをしたら対策をたてる。もちろんこのこともたいせつですが、なにより、対策をたてるだけの時間的余裕をいつでも確保しておくことが、何より優先すべき事項であるように思います。余裕があれば、事前に未来を予測し、ミスを犯す前の段階で、対策を講じることが可能です。余裕を以って、日々を生きていきたいものですね。



1949:【紅茶の香りは吐息から】

紅茶を飲みにいこう、とあなたが言ったので、ほいほいついて行ったら、あなたの住む安アパートが見えてきた。ここにくるのは一年振りだ。どういうことかと視線で訴えるも、あなたは、さあさどうぞ、と部屋に招き入れ、私はそのままあなたの匂いの漂うせまっちぃ空間に包まれた。「紅茶をご馳走してくれるって言ったよね」「言ったねぇ」あなたは湯沸しポットに水を満たすと、スイッチを入れた。カップを二つ手に戻ってくると、テーブルのうえに置きっぱなしになっていた有名紅茶メーカーのティーバッグの封を開け、釣り堀をするみたいにカップにひょいと投げ入れる。「手抜きにもほどがあるのでは」「美味しいんだって」「ひとを誘ってまで飲ますほどかぁ」「お。呆れてる、呆れてる」あなたにはそういうところがあった。いまさらのように思いだす。すこしでも期待したじぶんをばかみたいだと月並みに思う。がらんとした部屋を見渡しているうちに湯が沸いた。あなたの淹れてくれたティーバッグは、さすがは有名紅茶メーカーの商品なだけあり、それなり美味く、かといって、他人様を招いてまで飲ますほどのものではない、とふたたび思わせるくらいには、平凡な風味だった。「で、なに?」私は言った。「何かあるんでしょ。言いにくい話とか。お願いとか。そういうの」お金でも借りたいわけ、と投げやりに言うと、「ないない」あなたは心外だとばかりに首を振った。「ホントにただ美味しい紅茶が飲みたくなってさ。そいで、まあ、どうやったら美味しい紅茶を飲めるかなって思って」「あーそー。むかしの恋人騙して、してやったりの心地で飲む紅茶はさぞかし美味しいんでしょうね」「違うってば」あなたが声を張りあげるものだから、びっくりして、すこし紅茶をこぼしてしまった。あなたは立ちあがり、布巾を持ってくると、いそいそと濡れた私の服飾を拭う。目のまえにあなたのつむじが浮いている。あなたは作業をつづけながら私の名を呼び、「――ちゃんは前からそういうとこあるよね」と不平を鳴らすでもなく、ごちた。「独りでかってに思いこんで、自棄になって、一方的に見限っちゃうっていうか」「だって」それは事実でしょ。私が言うよりさきにあなたは、「なに言っても無駄だと思ったから言わなかったけど」ごしごしと何度も私の服飾を布巾で拭いながら、「浮気してないよ。そっちがかってに勘違いして、怒って、こっちの話もろくすっぽ聞かないでさぁ」「浮気じゃなかったらなんなの、あんたこの部屋で抱き合ってたでしょ、裸の女と」「あんねぇ」あなたはしびれを切らしたというよりも、それはどこか陽気を滲ませて、「あいつは男。抱き合ってたんじゃなくって、寸法測ってただけ。大学の学祭でドレスアップするからコーデ見繕ってくれって頼まれて」「男って、だって」「元からそういうコなの。ホルモンとかなんとか、そういうのも飲んでるって言ってた。ただ、ミスコンに出るからには負けたくないって。そいでまあ、そういうのに理解あるって言ったらヘンだけど」「頼んだの? あなたに?」あなたはもう下を向いておらず、布巾を動かす手も止まっている。私たちは目を覗きあい、あなたはそのまま私の視界をあなた自身で塞ぐようにした。あなたの吐息が私の内側をなぞり、そのこそばゆさを懐かしく思った。息継ぎをしたあなたは私の手を握り、「美味しくないんだよ」と言った。私は首を傾げ、意味が解からない、と意思表示する。「一人で飲んでも、美味しくなくて。紅茶も。お酒も。なにもかも」「言わんとすることは分かるけど」本当は解かってなどいなくて、あなたがなぜいまさらそのような、私を惑わす呪詛を吐くのかと、どこまで真に受ければよいのかを、私は私自身に示せないでいる。「ホントに浮気じゃないんだよね」「念を押すねぇ」あなたは笑い、「なんに誓ったら信じてくれる」といまにも泣きだしそうな顔をする。めったに見せないあなたの顔を目の当たりにして、私の疑心暗鬼もなりを潜めた。「わかった。信じる。でも今後また勘違いしたくないから、そのコ、あなたにコーデお願いしたってコ、私にも紹介して」あなたは無言で、うんうん、とうなづき、「ことしもまた学祭あるからさ。こんどこそそのコ、優勝させよう。二人なら鬼に金棒だよ」「紅茶に私、みたいな?」あなたがきょとんとするものだから、いまのなし、と宙を手で払うようにすると、あなたはその手を掴み、「あたしにきみ、みたいな」と恥ずかしさで全身の血が沸騰しそうなセリフを至極真面目に口にした。あなたの吐息からは紅茶の香りが仄かにし、たしかにこれは美味しいかもしれない、とあなたの熱を感じながら、私はこっそり思うのだ。



1950:【腰が痛い】

きょうは2019年の4月1日です。持ち運びできるタブレットを3月に入ってから使いはじめたのですが、いわゆるスマホと呼んで差し支えない機種で、なかなか便利だと思う反面、もしラインなど、接点のある人物と常時繋がれる状況にあるとすると、これはなんだか鎖で繋がれるくらいに窮屈だろうなぁ、と感じます。常時他人と繋がれる状態に抵抗を抱かない方なら問題はないのでしょう。また、下を向いて操作することが多いので、首が痛くなります。これは長期間利用すれば骨格のゆがみとして何らかの症状が顕在化すると想像します。頭痛や肩こりならばまだよく、おそらく腰痛やひざなどの関節痛として現れるのではないか、と想像します。人間は下を向くと、首が前方にでますから、しぜんと前傾姿勢になります。腰に負担がかかり、なによりそれを支えるためにひざへと体重が加わります。組体操で、人の太もものうえに立ち、うしろから両ひざを支えてもらって、映画「タイタニック」の名場面のような格好になる技があります。あのように、前傾姿勢というものは、ひざに負担がかかるのです。ひざに負担がかからないようにと、こんどは歩幅をちいさくし、ひざを曲げた状態で歩くようになります。こうすると、ひざ内部の軟骨で充分にクッションをきかせることができず、余計に腰やひざへと負担をかけることになります。悪循環です。因果関係は不明ですが、いくひしが軽いぎっくり腰になったのは、ちょうどタブレットを使いはじめてから三日後のことでした。ほかにも心当たりのある要因はあるので、スマホを使ったから腰をわるくした、とは言えませんが、まったくの無関係とも言えないでしょう。タブレット端末やスマホを使用するときは、たまにでよいので、首や腰が曲がっていないか、じぶんの姿勢を客観的に認識してみるのもよいのではないでしょうか。



※日々、不足しがちな不足を補っていく。



1951:【直角と平行のあいだ】

斜めに構えることと、何かをつねに否定することはイコールではない。斜めに構えるというのは、物事を一方面からだけでなく、異なる角度からも眺めてみることを言うはずで、斜めに構える前の段階では、真正面から物事を見据える視点がまずなくてはならない。だから斜めに構えている人間というのは、本来は物事を素直に聞き入れやすい性質を帯びていると呼べる。ただし、そこで満足せずに、本当にそうだろうか、とひょいと首をよこに倒し、ほかの視点でも物事を観察しようとする姿勢があり、これは見るひとが見れば好奇心旺盛に映るだろう。同様に、穿った考え方というのも、物事を掘り下げて考えているという意味では斜めに構えると同じであり、まずは掘り下げる前の段階で、それそのものをつぶさに観察しているはずである。掘り下げるには、掘る場所が肝要であり、どこを掘ればよいのかを見定めるためにも、まずは対象を素直に、そのまま観察する姿勢が欠かせない。現代に限らずむかしから、斜めに構えたり、穿った考え方をする人間は煙たがれたものだ。素直なだけの人間は、「いまここに顕現している状態」しか見られないために、斜めに構えた人間が捻くれ者に映るのかもしれない。しかし、そうした「いまここに顕現しているひねくれた状態」の前の段階では、斜めに構えた者たちは往々にして、素直に対象を受け止め、観察していることを知ってもよいように思う。ただし、素直に対象を受け止めているあいだは、異物として周囲の者の目には映らないため、どうしても異物と化した状態、すなわち斜めに構えている状態がワル目立ちし、よくない心象だけを残すのだろう。型破りがまず型を知らなければ破れないように、斜めに構えるにしろ、穿った考えにしろ、まずは対象をそのまま受け止め、観察しようとする素直な姿勢がなければ成り立たないことを認めてもよいように思う。仮に、素直にそれそのものを真正面から捉えることなく、初めから斜めに構えている者は、そもそも「まったくべつのほかのもの」を見ている確率が高いため、これはこれで、何を見ているのかを聞きだせれば、それなりにおもしろい回答を得られるかもしれない。つまり、何をどのように見ているにしろ、斜めに構えている者のほうが、素直で一面的なモノの見方しかしない者よりも、興味深いと評価できる。むろん、そう評価しているのはいくひしの主観であるので、これを一般化するつもりはない。素直で一面的なモノの見方しかできないこともまた、ある者にとっては重宝すべき資質として高く評価されるだろう。もっとも、他人に高く評価されることで得られる利がいかほどのものかは一考の余地があるにせよ。(言い換えれば、素直に一方面からしか物事を見ない人間が大多数を占めているからこそ、斜めに構えた視点の価値が相対的にあがるのだ。もし斜めに構えた視点が増えていけば、素直で一方面からしか物事を見ない人間の価値が相対的にあがるだろう。選択と集中がもてはやされる社会では多様性に満ちた人材が重宝され、多様性が重宝される社会では選択と集中に特化した者が成果をあげやすい、とも言えるかもしれない)



1952:【だっぶんだ】

前々から思ってたんだけど、この「いくひ誌。」の最初に並べてる「※日々――」の文章あるでしょ、いちばんうえのやつね。これだけでも集めたらけっこうな文量になる気がするのよね。ざっと計算してみるけれども、平均して20文字だとして、10記事1ページで更新してきてるから、いまぜんぶで1951記事あって、ページ数で言うとだから195ページあるってことでしょ。で、かける20して(こういうときは計算を簡単にするために200×20にしちゃって、答えは4000で、マシマシにしちゃった200から本当の数字の195を引いて、5で、そこに×20して、でた100を、4000から引いて、3900文字ってしちゃえばすこしだけ楽に答えがだせるんだけれども、文章にすると目が回るな)なんちゃらしたら答えは3900文字になる。「※日々――」の文字数が平均30だったら、同じように200×30-5×30=6000-150=5850文字ってことで、思ったよりすくないな。一万字くらいはあるかなぁ、って思ったけど、そんなもんか。でも集めたらそれなりにはなるので、いつか「※日々――集」としてまとめたいなぁ、とは思っているのよね。きょうはまた読みにくい文章を並べてしまったけれども、駄文を書くのも大事だと思うのよね。何がダメで何がよいのか、を知るためには、ダメなものを体感として知っとかなきゃだから。あんがい、ダメだと思ってたのがよくて、よいと思ってたのがダメだった、ってのは、経験としてけっこうあって、「よい」と思ってる成功体験がけっきょく、よくない拘りや固定観念になっちゃってるってのは、いくひしの個人的体験談に関わらず、世に溢れる失敗談や失策を見渡してみれば、よくある話だとまとめてしまっても、非難の声はそれほど聞こえてこないと思うのよ。でもこういうことを言うと、わざわざ「それは違うんじゃないの」なんて野次を飛ばしてくる連中もいるところにはいるもんだって聞いたような聞かなかったような、そういう感じで、きょうはもうおしまいにしちゃいたい気分なのよね。



1953:【メモ】

・集団と組織は違う。集団になっただけで個人のチカラが増幅したと錯覚する性質が人間にはあるようだ。歳を取っただけで若者よりも優れていると勘違いしやすい性質があるのと似ている。どちらも欠陥であるのは言うまでもない。だが同時に、数の暴力は有効であるし、生きた年月によって培われる知恵があるのもまた確かである。とはいえ、集団はそれと同じ人数の「体系化された組織」には勝てないし、年齢も、経験値や知識量に比べたら個人の能力を測る指針にはならない。 ・ルッキズムやエイジズムが取り沙汰されはじめたいま、学歴差別もまた俎上に載るようになっていくだろう。学歴で判断できること以上に、現代社会では学歴による区別が当然そうあるべきものとしてまかり通っている。しかし果たしてそれは公正な判断基準であるのだろうか。疑問である。 ・倫理観や価値観の分断が進んでいる。世代や地域差ではくくれないほど、個々人による差異がデコボコと散乱しはじめている。同世代であっても、他国の民よりも価値観が離れている、といった事態も容易に起こり得る。反面、国籍人種性別年齢関係なく、同好の士と出会いやすい環境が整っている。これからさきの社会ではますます物理世界での息苦しさや生きづらさが増し、正比例してネットへの依存度合いが増していくことが想像できる。集団が形成されやすい土壌が整っていく反面、組織化しにくい風土ができあがっていくだろう。



1954:【悪意は無味無臭】

ひとは悪意を抱いているとき、それが悪意であると自覚するのはむつかしい。殺意や敵意と異なり、悪意はそれそのものが「悪意単体」として湧かないためだ。悪意とは言うなれば、「身分」や「陰口」のようなものであり、あなたが抱いた感情を「悪意」と見做すのは、あなた以外の他者なのだ。だからあなたがどんなに、これは「悪意ではない」と言い張ったところで他者から「悪意がある」と判断されれば、それは「悪意」と見做される。あべこべに、あなたがいくら口で「これは悪意である」と言い張ったところで、他者がそこに善意を見出していれば、それは善意となる。たとえばそれは、あなたが「吾輩は首相である」と主張したところで、みなの承認がなければあなたは首相ではないのと同じことである。掘り下げて言えば、悪意とは感情の名ではなく、あなたが抱いた何かしらの感情や衝動によって表面化した「言動」を他者が観測し、そこからあなたの内面を推し量ったときに幻視する「憶測の感情」のことを言う。したがって、悪意があるか否かは、問題ではない。よって何かしらの行動や事件に対しての評価基準として「悪意の有無」を採用するのは合理的ではない、と考える。もっとも、悪意とは異なり、殺意や敵意は、これは行動のきっかけとして確かに意思決定に関わる動機と考えて、いまのところはまだ、矛盾しないように思うが、このさき脳科学や医学が発展していけば、感情や衝動といった生理的現象がもうすこし仔細に分析できるようになり、脳内化学反応の統計として、より正確で信用の足る診断が可能となるのではないか、と想像する。話は脱線するが、いじめや、差別やハラスメントの問題がむつかしいのは、それをする当人にとってはいずれも「いじめではなく」「差別ではなく」「ハラスメントではない」ためだ。しかし、当人がどのように事象を解釈していようと、干渉された側にとってその干渉が「害」であるならば、それはいじめであり差別でありハラスメントなのである。しかし、「害」と感じれば、問答無用で他者を加害者に仕立てあげられるのか、と言えば否であり、そこには法律や条例など、細かな線引きがなされている。しかしそれも現状、充分とは言えず、何を以って害と見做し、何を以って加害者と見做すのか、については、これからも念入りな擦り合わせ作業が欠かせなくなっていくだろう。それによりますます、当事者の感情よりも、目のまえの事象をどのように解釈するかといった、より即物的なものの見方が支持されていくと推し量るものだ。悪意を感じとる能力は危機管理能力を発展させる上では有効であるが、必ずしも、悪意を取り沙汰す必要はない。むしろ、悪意の有無よりも、目を留めるべきは、生じた事象へのより普遍的な解釈であり、新しい解釈によっては、法律などの社会基盤のほうをこそ変更していくほうが妥当となる場合もあるだろう。そうなってくると、悪意を抱いているか否かは、自身の感情へ目を向けるよりもどちらかと言えば、自身が他者へ及ぼしている影響を客観視することにより判別可能であり、じぶんの行いが「害」であるか否かを判断できるようになることが、回り回って、自身に芽生える悪意への対処法としてもっとも効果的な手法であるのではないか、と仮説が立てられる。ただし、この仮説には決定的な瑕疵があり、「害を与えられている」と相手が気づかない限りは何をしても悪意を抱いていることにはならない、という「確固たる悪意」を見逃すことになり兼ねず、他者の存在を抜きにしても「悪意」は単独で成立する考えは、排除しきらずにいたほうが、社会秩序維持の観点からすれば、好ましいと考える。悪意は悪意として独立して存在するが、それが個人の内面に顕在化することはなく、飽くまで他者からの観測によってのみ確定される、量子的な振る舞いをみせる概念である、と言えそうだ。



1955:【わいは四天王のなかでも最弱】

いくひしでござる。やー、お久しぶりでござるなぁ。みなのものはすこやかに日々を過ごしていたでござるか。いくひしさんは、日々ねむたすぎてダメでござる。気を抜いたら16時間とか寝てしまうでござる。ほとんど半日死んでいるでござる。英気を養っているでござる。だらけ気味の日々でござる。でもだからって起きているあいだにがんばっているのかい、といったらぜんぜんまったく微塵もそんなことはないでござる。こんな人間が生きていて申しわけないなぁ、と思いながらも、まいにち好きなことができる日々に、そして環境に感謝でござる。感謝をするだけならタダなので。くずです! やー、でもホントさいきん思うんですよね。みんなすごくないでござるか? や、すごくない、って否定ではないでござるよ。すごいねー、って感心しているでござる。何が?と思ったでござるか。まーまー、なんでもよいでござる。とにかくすごいなぁ、と感心しきりでござる。そういう気持ちなのだなぁ、と解かってもらいたいでござる。いくひしさんはほかのいくひしさんたちと違って、いくひしさんの気持ちを解かってほしいでござる。解かりありたいでござる。理解しあいたいでござる。あなたのことだって知りたいでござる。でもなぁ、とそこでいくひしさんは悩んでしまうでござる。ほかのいくひしさんたちはそうではないから、他人と理解しあえるわけがない、期待するだけ無駄だ、なんて冷たいことを言うでござる。でもでもいくひしさんは思うでござる。理解しあえないからといって、理解しあう努力まで放棄する必要はないでござる。歩みあえばよいでござる。踏み越えられない壁が目のまえにもしあったとしても、歩み寄ればそれだけ距離は縮まるでござる。その距離を縮めることを理解しあう、というのではないのかなぁ、といくひしさんは思うでござる。だから、絶対に乗り越えられない壁は乗り越えなくてよいでござる。ただ、それを挟んでいたとしても、互いに、壁越しに、手をあわせて、ぬくもりを感じ合うくらいのことはしてもよいし、できると思うでござる。でもでも、こういうことをいくひしさんが真剣に唱えると、はん、って鼻で笑って、ほかのいくひしさんたちは鼻をつまむでござる。臭いこと言ってる~、のジェスチャーでござる。口で言って! いくひしさんはぷりぷりでござる。怒ってばかりだから疲れるのかなぁ、と思って、きょうはもうお休みでござる。もう知らないでござる。ほかのいくひしさんたちにがんばってもらうでござる。しばらくまた引きこもるでござる。みなのものも無理はしないようにするでござるよ。ではまた、でござる~。



1956:【趣味を増やそうと思って】

文芸以外にも趣味を持っていたほうがよいのではないか、と思いたち、増やすことにした。絵はいちど挫折しており、これは除外しておく。ハッキリ言って、絵が描けるのは才能だ。描けない人間もいることを知ってほしい。そしていくひしさんがツイッターでよくリツイートやファボをしている絵描きさんは、みな例外なく才能があり、独自性があり、将来性があるので、くじけずに絵を描きつづけてほしい。無責任なことを言っていることを承知で、しかし、すくなくともいくひしさんにそう思わせるだけの何かがあるのだということは知っておいてほしい(というこの主張自体がいくひしさんのわがままではあるが。べつだん、知らなくてもよいのが本当のところだ。だが知ってほしい、と押しつけがましく主張してしまうところに、わがままたるゆえんが窺える)。閑話休題。新しい趣味を探したい。趣味であるから、これはもう、本気で死ぬまでつづけられるものがよい。これまでにいくひしさんには片手で数えられる程度の趣味があった。飽き性で根気のないいくひしさんであるから、数年で辞めてしまうのが通例であったが、新しく趣味を見つけるたびに、継続年数は伸び、いまでは最長十五年の趣味がある。文芸はおそらくそれより長くなるだろうから、つぎにはじめる趣味はそれ以上になるはずだ。もういちど述べておくが、絵はいちど挫折したので除外する(ひと月もたなかった)。作曲には前から興味があったが、これは機材がないとむつかしい気がしている。できるだけ何もない状態でも研鑽を積めるものがよろしい。文芸はしかしPCがないと、いくひしさんは創作できないので、PCくらいはあってもよいかもしれないけれども、PCに触れられない状態でも文芸は、構想を練ることができるため、手ぶらでも何かしら進捗できるものがよい。つまるところ、イメージが物を言う分野がよろしいのだ。だがそうしてみると、案外、世のなかの趣味になり得る事象を連ねてみれば、総じて、イメージが基盤にあり、すべてがすべて創作の分野であると言えそうだ。人間の営みはイメージによって培われている、と言っても過言ではない気がしてくるほどである。否、事実そうなのかもしれない。いかん、いかん。話が脱線した。趣味である。新しき趣味を見つけるのだ。何がよいだろう。お金がかからないのも条件として加えたい。しからば、料理は除外される。動画も、機材を揃えるのにそれなりの出費が伴う。否、趣味に金銭をかけたくない、というのは、そもそも矛盾していないか、というところまで考えて、うやむやになるのが常である。今宵も、新しい趣味を見つけることはできそうにない。ひょっとすると探して見つかるようなものではないのかもしれない。趣味もまた出会いなのだ。人と人とがそうであるように、人生それ自体がそうであるように、そして物語がそうであるように。趣味もまた出会いなくして、見つかるものではないのかもしれない。定かではない。しかし今宵はまだ、見つかりそうにない。否、見つからないだろう。それだけが確かである。(とどのつまり新しい趣味など、いまはまだ、それほどにほしくはないのだ)



1957:【短所】

まんちゃんや、偉そうなこと言うのやめなさい。やめたほうがいいよ、ではなく、やめなさい。



1958:【長所】

偉そうなこと言っても言わんくてもいくひしさんには価値がないので、やめてもやめなくても同じことだと思うんだけど、なに? マイナスになるとでも? こんなことで? はぁ? どんだけじぶんの言葉に自信持ってんの、見てるひとがいるとでも? これ読んで不快になる人物が現れるとでも? ちゃんちゃらおかしいんだけど。そのポジティブさだけは見習いたいものだね。いくひしさん、あんたに言ってんの。ほかの誰にでもなくね。



1959:【遠吠え】

鏡に向かってバカと言う。鏡の奥からバカと言われて泣くバカがいる。あんたたちがまいにち飽きもせずハッチャケてる寸劇って、要はそういうことでしょ? バカなの? マゾなの? なんなの?



1960:【うるさいもう聞きたくない】

目的がねぇからそうやって自罰なのか自虐なのか卑下なのか見栄なのか知んねぇけどよ、つまんねぇ言葉ばっかつむいで、膿んで、荒んで、病んで、ぐちぐち他人をひがんで、ねたんで、恨んで、うらやんで、いってぇそれで何が残るってんだかよ。まあどうでもいいけどな、いくひし、おめぇがどうなろうと知ったこっちゃねぇし、苦労すんのも、骨折んのも、てめぇのケツ拭くのも、つむじのさきから足の裏までテメェだろって、まあ、んなこと言うまでもねぇんだけどよ。言ったところでどうなるとも思えねぇし、いい加減、かっこつけんのもかしこぶんのも、偉ぶんのも、ワルぶんのも、どれもこれもが逆効果ってか、悪党かって感じで、やめるにしろ遅すぎるんだよなぁ、もはや。詰んでるってか、死んでるってか、生きながらにして息してねぇじゃん、陸ながらにして深海じゃんみたいなさ、そういうの分かるか? 偉ぶるどころか、選ぶYOU愚か、みたいなライム刻むより、まずはテメェはテメェのライフに見合う問いを見つけろって、それが先決だろって、これもまた言うまでもねぇってか、YOUはでも偉れぇってか。そこまでして目立ちたいもんかねぇ、下々を見下し、見上げられ、崇められ、たてまつられ、ほめそやされて、いってぇ何が残んだか。はいはい。好きにしたらいいんじゃないですか。俺にゃあ関係ねぇからよ。おめぇにゃ目的がねぇからよ、そうやって自罰だか自虐だか卑下なのか見栄なのか知んねぇけどよ、だからふにゃふにゃと芯がねぇんじゃないんですかってな。おいちゃんは思うわけですよ。ねぇ、いくひしさん。聞いてます?



※日々、対話を避けている、会話から逃がれている、言葉を投げだし、絵文字の笑みで切り抜ける。



1961:【誰から誰へのセリフ?】

「充分生きたもの。だいじょうぶ。つぎはあなたの番よ」(祖母から孫へ、人生のエールを送りながら)(殺人鬼からあなたへ、あなたの友人に拷問をほどこしたのち平然とトドメを刺しながら)(余命いくばくかの妻から、夫へ、赤子を手渡しながら)



1962:【呪詛か祝詞か】

「不幸ぶるな。真実おまえは不幸なのだから」(言われて胸が軽くなるひともいるし、カチンとくるひともいる)



1963:【ふだんどおり】

生きたい、と文字を打つのも、死にたい、と文字を打つのも、どちらも四文字なので労力は同じだ。死にたい、のほうがタイピングは一回多いが大した違いではない。どんな言葉も、物書きにとっては同じ作業でしかない。ただし、誰に向けての言葉なのか、によって多少、身構え方が変わる。それを、考え方が変わる、と言い換えてもこの場合は矛盾しない。言葉の向かう相手が具体的な人物であるほど焦点が鋭く結ばれるため、光がレンズによって収束するように、言葉が高いエネルギィを持たないように苦慮する段取りが生まれる。そうでなければ、収束した言葉によって相手がヤケドを負ってしまう危険性がある。どちらかと言えば、言葉自体にエネルギィはなく、相手の内にうごめく感情や衝動が、こちらの差し向けた言葉に共鳴して熱を帯びる。さながら電子レンジである。そうならないように、言葉を誰に向けて並べるか、発するか、によって、同じ文章であっても、考える量や深度が変わる。同じ深さまで思考を煮詰めるにしても、何本の穴を掘ればよいのかは、言葉の向かうさきによって変わってくるため、考える事項は何倍にも膨れあがる。ただし、思考は主観で感じるよりもはるかに省エネであるから、客観的にはどの文章も同じ労力で出力されているように観測されがちだ。消費カロリーを測ってみれば、じっさいのところは真実に差異はないのかもしれない。いずれにせよ、どんな文字を並べるにしろ、物書きの心身に顕著な変化は生じない。言を俟つことなく、長時間の作業による疲労や、睡眠不足による困憊は、このかぎりではない。(よく目にする創作論だが、文章はそれを出力する時点で八割、九割の仕事が完了しているそうだ。頭のなかで文章の骨組みや、血肉をこしらえることこそが物書きの大方の仕事と呼べるのかもしれず、ひるがえっては、その九割方の仕事を終えていたところで、残りの一割の出力を完了させないことには、物書きとしてすら名乗れない、ということなのかもしれない。「天才は99%の努力と1%の閃き」と似た理屈と言える。1%の閃きがなければ、99%の努力も徒労に終わるのだ)



1964:【雨季と共に、愚痴をこぼし、無二の友に、釘を落とし、土をそそぎ、海を汚し、蟲の床に、樹脂を素に、弓をここに、無知と踊り、月を泳ぎ、雪も徐々に】

きょうはすこし愚痴をこぼします。悩みとも言えるかもしれませんが、たいして気にしてはいません。ただ、きょうもまた同じようなことで、どうしてでしょううまくいきませんね、と思ったので、水に流すつもりで、思考を整理がてら並べてみようと思います。思春期くらいのころからたびたびあったことなのですが、こちらは何も思っていないのにかってに敵意を抱かれることがありました。いまでもたまにですがあります。威嚇したり、威圧したりしているつもりがないのに、明らかに相手の態度がよそよそしかったり、剣呑だったりするのです(他者と接点を持たないように心掛けているので、相手と対面するときはおおむね、あいさつを交わすときくらいなのですが)。認知バイアスや思い過ごしかな、と自身の判断を疑ってみるのですが、よくよく観察してみるとやはり、ほかのひとへの態度といくひしさんへの態度とでは、明確な差があるように見受けられます。これはなぜなのか、と考えてみたところ、そもそもいくひしさんは周囲の人間に対してあまり関心を抱いていないのですが、そうした無関心さが伝わってしまって、相手の機嫌を損ねている可能性があることに、あるとき気づきました。これにはいくひしさんはしょうしょう面食らいました。興味を抱かれないことで不機嫌になる心理がよく解からなかったからですが、ひとまずそう仮定してみると、なるほどたしかにそうかもしれないな、と思うようになりました。というのも、いざ相手へ興味があるように装い、会話を交わすようになると、それだけで相手の態度が軟化したのです。日々のあいさつだけでは足りないようだ、といくひしさんは学びました。ただし、したくもない会話をしなければ相手との関係性を良好に保てない、というのもおかしな話だな、との違和感は未だに根強く抱いています。いくひしさんにとって「適度な距離感」とは、顔を合わせたらあいさつをし、何かをしてもらったら礼を述べ、相手が困っていたら手助けできるときは手を貸し、相談を持ちかけられたら助言を呈し、それ以外では助けを求められないかぎりは静観することを意味していました。もちろん、迷惑をかけたら謝罪し、同じ過ちを繰り返さないように対策をたてることも含まれます。なるべく迷惑はかけないようにしたいのですが、関係性を結べば、それだけで相手の時間を奪うことになるので、どうしたって迷惑はかけあうのが道理です。ですから、迷惑をかけない、という条件は、いくひしのなかでは「適度な距離感」とは呼びません。ともあれ、可能なかぎり損失を与えない努力をする、との条件は多分に含んでいると言ってよいでしょう。これらの条件を踏まえると、互いに無関心でいる状態は、極めて「適度な距離感」だ、と言えるのですが、いくひしさんだけがそう思っていても仕方がなく、相手からすれば、この「距離感」が、不快に感じることもあるようだ、と認めたほうが、より円滑な人間関係を構築できるようだ、と徐々に気づきはじめました。あたりまえのことを言っているのかもしれませんが、いくひしさんがこのことに気づいたのは、極々さいきんのことです。ハッキリ言ってしまえば、こちらから歩み寄り、シタテにでて、興味のない相手に興味のあるフリをしてまで良好な関係性を結びたい相手というのはそう多くはありません。限られる、と言ってもいいでしょう。機嫌を損ねるのならかってに損ねていればよろしいのでは、と思うものの、そのせいで、いくひしさん以外の方に害が及ぶのは避けたい気持ちもあるのです。なるべく、「敵意や威嚇」をおもてにだしてほしくはありません。その点、相手が不機嫌なのはいくひしさんに因があるようですから、その尻拭いはいくひしさんがするのが筋でしょう。これは自己評価なのでまったくアテにはなりませんが、いくひしさんはすくなくとも、ほかの方々よりも、(そうした不機嫌そうな方々への)礼儀は尽くしているつもりです。ただし、その礼儀の尽くし方が上手でない、適切ではない、と認めることは多々あります。そういう意味では、いくひしさんに十割、非があると言えるのかもしれません。いずれにせよ、明確な好意や尊敬の眼差しを向けられないと機嫌を損ねてしまうような相手とは距離を置きたいのが正直なところです。もっと言えば、そうした評価をしあわなければ関係性を維持できないコミュニティからも距離を置きたいと望みます。互いに存在を認めあうとは、称賛しあうこととは違うと思うのですが、この違いを理解し、そうした判断基準を生活のなかに取り入れている方は、すくなくともいくひしさんの触れられる範囲にはいないようです。そもそもそういう方は、いくひしさんと関わろうとも思わないでしょうから、互いに存在を認知できたとしても、相互に干渉しあうことはないでしょう。どうあっても孤独が理想の状態であると規定せねばならないようです。要するに、人間めんどくさいな、という愚痴なのでした(いくひしさん自身を含めての、人間、という意味ですよ)。ただしこれらは、物理世界での話ですので、ネット内での双方向での交流関係(は、現時点ではまったくないのですが)とは切り離していただけるとありがたく存じます。愚痴をこぼしてもいいことないよ、という世に有り触れた助言に反して並べてみましたが、やはりおもしろいものではありませんね。愚痴はほどほどに、じぶんの心のなかでこぼし、留めておくのがよろしいように思います。言うまでもなく、愚痴を言いあえる相手がいらっしゃるようでしたら、それはそれで、とても幸福なことと言えましょう。言いあえることが愚痴以外にあるようでしたら、そちらのほうが好ましい気もいたします。



1965:【不要論】

編集者不要論の話題をときおり目にするが、クリエイター側がそのように主張するのならば、編集者側も是非に、作家不要論を唱えてみてはいかがだろう。それができないのであれば、どちらがより優先して守るべき存在かが明瞭になるのではないか。仮に、作家不要論をどうしても唱えられないにも拘わらず、コスト削減の節目に立たされた折に、まっさきに作家側の報酬(小説家であれば初版部数や印税率)がカットされるようならば、これは作家側が搾取されている、と判断してもよろしいのではないか。編集者および出版社の方々には是非とも、作家不要論を唱えて、がんばってほしいものである。



1966:【やめなさいよ】

まんちゃん、二項対立煽るのやめなさいよ。そのつもりがなくともそういうふうに見えるよ。よくないよ。ぷんぷん。



1967:【冗談はこの辺にして】

作家不要論はともかくとして、編集者や出版社が極々一部の売れっ子作家に依存せずともコンテンツを発信できるようにする仕組みは、いまからでも模索してもよい段階であるとお見受けするのですが、どうなのでしょう。たとえばマンガにしろアニメにしろ、小説ですら、分業してひとつの作品をつくることは可能だと感じます。そしてそれは一人の作家に依存するよりも生産性が高く、安定して高い水準の作品がつくれるのではないか、と想像します。たとえば小説であるならば、物語全体の骨子を考えるひと、ディティールを統率するひと、キャラの相関を考えるひと、セリフを考えるひと、設定やキャラにゆらぎがないかを確認をするひと、校閲をするひと、地の文を書くひと、最終的に文体を微調整するひと、など創作における作業工程を分担すれば、一日一作以上をつくるのも可能だと思います。これはアニメやゲーム開発の現場であればすでに作業分担をして、専門の工程を各人が任されて、ひとつの作品をつくっています。そのノウハウをマンガや小説にも応用できると思うのですが、なぜ誰も商業の舞台で試さないのでしょう。これからますます「原作」としての需要が高まっていくことが予想されるいま、試す価値はあると思います。脚本の世界ではこの分業制度はメジャーであると想像していたのですが、効率や成果のほどはいかほどのものなのでしょうか。プロの作家や編集者の方々はむろん、こうした情報も集めて、吟味していることとお見受けします。数年後が楽しみですね。皮肉なしにがんばってほしいです。いままでも、これからも、おもしろい物語をありがとうございます。



1968:【というテイ】

これはまったくのウソっこなのですが、郁菱万という物書きは、四人の腐れ縁が集まって営んでいる創作チームでありまして、現在、ネタだし係が多忙につき、創作自体がしょうしょう遅延気味でございます。おおむね、「ござる」口調のいくひしさんが中心になってこのチーム「郁菱万」こと「万妖衆」を営んでいるのですが、やはりというべきか、それぞれの生活があることもあり、なかなかに時間の都合があわないことが多くなってきているな、と感じているきょうこのごろであります。稀に、雑用係さんがバイト感覚で後輩をつれてきて、感想を言わせたり、校正をさせたり、SNSの運用を任せたりと、色々させているようですが、本当に対価を払っているのかは不明です。ご迷惑をおかけしております、読んでいるかは知りませんが、この場を借りて、お詫び申し上げます。いつもありがとね。助かってます。サンキュ☆ なーんて妄想を、たまにしたりして、いくひしさんは孤独を紛らわせることもあるような、ないような、そんな感じで、新作はまたぞろ短編やショートショートが増えつつ、ショートショート100話の未完のやつを閉じつつ、新しい長編の構想を練りつつ、途中の長編をはやくやっつけたいなぁ、とやきもきしているところです。ショートショート100話の未完のやつは「河童」の話をやっつけ中で、2万4千字を超してしまったので、まずいなぁ、まとめるチカラどこ行った、みたいな具合でよろしくないのですが、「河童」閉じたら電子書籍一冊分が溜まるので、63~78話くらいまでまとめて電子書籍化しちゃいたいと思います。100話の後半、80~100話までのやつ、だいたい1万字前後のちょいちょい長めの話が残っちゃってるので、ほかの未完成のやつ閉じたら二冊に分けて、電子書籍化しちゃいたいと思います。思ったよりかかりそうだなぁ、という感じで、新しくつくった短編やショートショートのがさきに電子書籍化するかもしれません。計画性皆無でごめんなさい。とはいえ誰も困らないのが、趣味のよいところ。うぇいうぇい!



1969:【反論になっていない】

かっこいいとかかっこわるいとか、卑怯とか卑怯でないとか、そうした基準はじぶんが何かを判断する場合には有効であるけれども、他人の言動やシステムを批判するには、いささかお粗末だな、と感じる。私にとって「かっこわるく」とも、ほかの誰かにとっては「かっこよい」ことなどいくらでもあり、また仮に「かっこわるく」とも、結果として充分な成果や働きをみせているのならば、それでよいのではないか、と思うしだいだ。お門違いな批判を口にすることですら、「お門違いでも批判してよいのだ」と示せるだけ有用であると評価でき、それそのものを封じる合理的な理屈を構築するのは、この現代社会ではなかなかに骨が折れる作業であると推し量るものだ。とはいえ、お門違いな批判に対して、どのようにそれがお門違いか、を論じる分には、これもまた充分に意味があり、議論のうえで効果的な役割があると呼べる。ただし、その反論において、「かっこわるい」だとか「卑怯」だとか、そういった主観に依存した所感を以って批判の根拠にするのは、いただけないのではないか、と疑問に思うものだ。むろん、いくひしがその反論を「いただけない」だけであり、それを受け取る者もあれば、ありがたくいただく者もあるだろう。自由に意見や感想を共有しあえばよろしい。可能であれば、より普遍性のある理屈であると好ましい。さすれば、より円滑に議論が収束するであろう。(奇想天外で脈絡のない言論であっても、それはそれで、いくひし個人としては好ましくあるのだが)(ちなみに「姑息」は、一時逃れ、その場しのぎ、といった意味合いであるから、これは批判の根拠として「卑怯」や「卑劣」「醜い」「気持ちわるい」よりかは、より客観的な評価だと言えそうだ)



1970:【個人の所感です】

ファンがいないと活動できないのがプロで、ファンがいなくても活動しつづけていけるのがアマチュアだとすれば、プロになることの意味ってそんなにない気がする。まれにSNSで、売れないとつづきが書けません、キャラたちの未来が消えてしまう、かわいそう、ごめんなさい、だから本を買って、なんて言っている創作者がいるけれども、気持ちは分かるけれども、そこまで言うのなら、趣味で書いてあげればよいのでは?と思ってしまう。誰も止めやしないのに(かってにつづきを書けないような契約でなければの話)。もちろん、お金を稼げなければ創作もできないんだよ、という理屈は理解できるけれど、あまりにも「プロ」であることに拘りすぎに思える。だいじなこと、譲れないことは人それぞれなので、非難するつもりはないけれど「物語の未来が」とか「キャラクターがかわいそうで」とか、そういう「想いのつよさ」を売れないことへの恨みつらみに繋げるのは逆効果に思える。なぜって、書かないのはあなたの問題でしょ、売れなくとも書けばいいじゃん、と思われてしまうからだ。売れないことの問題は、お金が手に入らないことであり、それ以外は些事であるはずだ。そこにほかの要素を結びつけるのは、誇大広告(不当表示)じみている。物語が商品として売れなくて困るのは、キャラクターでもその物語自身でもなく、それを商品にするために対価を払った業者や作者自身であるはずだ。あなたが困ることを、キャラクターや物語をダシにして、売り上げを伸ばそうとするのは、同じ創作者として、なんだかなぁ、と思ってしまう。好きにしたらよいとは思うけれども、本当に物語やあなたの生みだしたキャラクターを想っているのなら、どんな状況でもつづきを書き、そしてあなた自身の手で掬いあげてほしい。売れない状況はつらいだろうし、生活の困窮に瀕してしまうだろう。それはそれで問題だから、こんどは売れる物語をつくるか、生活のできる環境にあらたに身を置くよりないだろう。繰りかえしておくが、物語やキャラクターを、売り上げを伸ばすためのダシにするのは、同じ創作者として、なんだかなぁ、となってしまう(せめて、物語やキャラクターそのものに価値をつけてあげてほしい、同情をひくためのダシにするのではなく)。むろん、売るためにダシにしているのだよ、と明確な意思のもとで宣伝に利用している分には、筋が通っていてよろしいのではないか、と思うしだいだ。いずれにせよ、宣伝がいかようであろうと、欲しければひとは物を買う。単純な原理である。(売れるとよいですね)



※日々、非力で無力な蟻のように、群れない一匹の蟻のように。



1971:【石油はどうせ燃やされるだけ】

埋もれた期間が長ければ長いほど、ただの虫の死骸も、化石になったり、石油になったりするんだよ。中途半端に露出するから分解されて、塵となる。人知れず、腐らず、空気に触れずに埋もれていよう。化石になったからってどうなるわけでもないけれど。



1972:【めったやたらにでたらめ】

短編や掌編をつくる上で意識しているのは、リアリティレベルをどこに設定するのか、だ。いくひしはだいたいおおざっぱに三層まで意識している。真ん中が「映画やマンガなどの一般化されている虚構」の層であり、上にいくほど、現実の日常にちかくなり、下層にいくほど、あり得ない度が高くなっていく。つまり、層のてっぺんがいくひし自身の日常であり、最下層が、いくひしにとって物語にもならないほど破たんした世界観ということになる。長編でもむろんこれらの層は意識するけれど、おおむね失敗したくないので、真ん中の層のなかであーだこーだと選んでいる。だからこそ、短編や掌編では、真ん中の層からずれた、上や下の層を意識して編むことが多い。言い換えれば、映画っぽくもなく、マンガっぽくもなく、かといって文学っぽくもないリアリティラインを探っている。すべてを組みこんでみたりもするのだが、いまいちぱっとしない。日常に寄せすぎると物語に起伏がなく、無駄に描写だけが長くなり、かといって破天荒にしすぎると、何がなんだか分からなくなる。だから、抽象度が高くなる下層ほど、具体的な比喩を多用しがちで、一見すると、上層のリアリティレベルであるような読み味になる。興味深い現象である。なんて書いているけれど本当はまったくこんなことは意識していないし、層がどうたらなんて考えたこともなかった。これくらいのウソはつらつらと口から出まかせでいくらでも並べられるのだが、ときおり、ウソとは言い切れない文章になっていたりするので、偶然ってこわ、と思ったりする。いくひしさんの並べる文章は九割九分、ハッタリであり、しったかであり、勘違いに、錯誤であるから、真に受けてはいけない。まーたトンチンカンなこと言ってら、と笑うのが正しい読み方であるので、くれぐれも真面目に耳を傾けないように。文章だから耳ではなく目を落とさないように、ではないのかとの苦情が入りそうだが、目を落としたら痛いし、たいへんだ。視線をそそぐ程度にとどめておくのがよろしかろう。むろん、読まずにいるのが利口であるのは、言うまでもない。え、読んじゃったの? ありがとー。



1973:【ねむねむ】

眠たすぎる、身体が重すぎる、と思ったら特大低気圧が上空に迫っていたらしい。SNSを眺めていると、低気圧だと身体の調子が崩れやすいんだよねー、みたいなつぶやきを比較的目にする機会があるのだけれど(絵描きさんに多い印象)、ひょっとしたらいくひしもそういう体質なのかもしれぬ。きょうはもうダメだー。いつもダメだけど、きょうはもういちだんと「睡眠が趣味です!」と言いたくなる日だな。寝ちゃいたいな。寝ちゃおうかな。寝ちゃおう、寝ちゃおう。おやすみー。(ただの日記になっちゃった)



1974:【むつかしい】

マンガの文脈で小説をつくるのが、さいきんとみにむつかしい、と感じるようになってきた。いまのマンガはとくに、物語の圧縮の仕方が小説に比べて尋常ではないので、参考にする分には重宝しているけれども、あまり囚われないようにしなくては、と軽い敗北感を味わいつつ、すこし距離をとっているきょうこのごろである。「いまのマンガは」なんて言い方をしてしまったけれど、ドラえもんの作者「藤子F不二雄」の短編集などは、小説にすれば長編になるのではないか、と思うほどに、圧縮されており、学び甲斐のあること山の如しである。あべこべに、小説はなかなか圧縮の具合が芳しくなく、もっと文脈を破壊するような作品がぽんぽんでてきてもよいのではないかなぁ、と好みの物語を探している最中である。以前にも述べたかもしれないが、「乙一」と「恒川光太郎」の名は短編の名手として、文学史の平成の欄に載るだろう。お二人とも圧縮という点では、群を抜いている。とはいえ、ほかの短編の名手を読んでいないだけなのかもしれず、探せば素晴らしい作家はもっといるのだろう。ただし、いくひしの好みに合致するかは定かではない。とりあえず、長編小説を読むのが苦になってきた感が拭えない。誤魔化せなくなってきたので白状すると、小説、あんまり楽しくないかもしれない。つくるのも読むのも、以前より確実に量が落ちてきている。ゆえに、読みたいと思える物語や作者に出会えることは、ありがたいことである。いくひしのために、などとおこがましいことを言うつもりはないけれども、つくれる者は、つむげるものがあるうちにつむぎ、世に放ってくれるとうれしく思うしだいだ。(つくるの楽しくなくてもつくれてしまうのが、いくひしさんなのだ。スランプにはスランプにしかつくれない物語があり、未熟には未熟であるうちにしかつくれない物語がある。どうあっても「いましかつくれない物語」になるのだから、つくらない、という選択肢はないのだ。なぜなら、もったいないので)



1975:【今月の予定】

2019年4月11日です。こんげつ中に、短編集を二冊電子書籍化する予定です。未完だった「河童の話」が2万7000字でひとまず脱稿し、これによりショートショート100話の残り、63~77話を一冊にまとめることができます。10万字ですかね。78~100話は、未完の話を閉じたあとで、また改めて電子書籍化します。ショートショート100話のほかに新作のショートショートが9万字ほど溜まってきたので(カクヨムの「零こんま。」にて掲載済み)、これも一冊にまとめて電子書籍化します。「千物語(銅)」と「千物語(茶)」になります。「千物語」と銘打っているものはすべて短編集ですので、シリーズではないので、お間違いないようにお願いします。けっこう、シリーズなのかな、と勘違いしやすいタイトルなので、まずったなぁ、とネイミングセンスのなさを噛みしめています。センスがないといえば、千物語は短編集なのですが、ジャンルがまぜこぜで、テーマも統一していません。もしいくひしが編集者だったら、センスない編集者として大ブーイングだと思います。たとえば百合作品だけでまとめたり、SFで統一したりしたほうが、読み手からすれば、お求めやすいのかな、と想像します。ただいくひしさんは本を売りたいわけではないので(アマゾンキンドル電子書籍はゼロ円での刊行ができません、できるものならゼロ円にしたい)、そこのところ、じぶんのわがままを優先しています。というのも、読者さまには好きなジャンル以外のものにも触れてほしいなぁ、と考えていて、いくひしさんが「百合×ファンタジー」とか「BL×ミステリー」とか「SF×ホラー×ラブストーリー」とか、そういうジャンルをまたいだ物語をつくりがちなのも、そこら辺のわがままが関係していない、とは言わせません(誰にしゃべってるの?)。ともかくとして、きょうでひとまず二冊分の分量に区切りがつくので、推敲したあとで、前書きなどを準備しつつ、表紙をつくり、電子書籍としての体裁を整えようと思います。二週間もあれば充分でしょう。郁菱万の電子書籍すべての無料キャンペーンが5月に予定されているようですから、そのときに新刊も無料で配布しようと思います。それまでにもう一冊くらい電子書籍化できるかな、と目論んでいます。ただ、きょねん一日3000字だった上限をことしは1000文字にさげているので、この調子で、あまり無理をせず、淡々と日々をすごしていこうと思います。あと、なんだか紙の値段が高騰しているというニュースを目にしたのですが、気になるところです。値段によっては、10月のコミティアは見送るかもしれません。誰が困るでもないと思うので、無理なく、やりたいことをやりたいときにやっていこうと思います。以上です。



1976:【バイアスは自覚するのがむつかしい】

性差を強調して、固定化して解釈しがちなことをジェンダーバイアスと呼ぶのであれば、百合に「男の娘」や「女装男子」が登場することを嫌悪する風潮はまさにジェンダーバイアスだと呼べると思うのだけど、その辺、ジェンダーバイアスを疑問視していながら、百合は女の子同士の関係性でなくてはならない(つまり、男性は絶対に排除すべき)、といった固定観念を脱し切れていないひとを見ると、ジェンダーバイアスのバイアスとはなんたるかを観察できて、なかなか興味深いな、と思う本日のいくひしさんなのであった。言い換えれば、ジェンダーバイアスを排していけば、BLも百合も、異性愛の恋愛物語もすべて同じくくりに収斂(または拡張)していく。もちろん、分類するための基準は残るだろうが、それは哺乳類や果物といった外から当てはめた枠組みでしかなく、それそのものの本質ではない(ちなみに、いくひしさんはこの感覚で物語をつくっている。むろん、性差を強調したキャラクターもぜんぜん抵抗なく物語に登場させる。ジェンダーバイアスに囚われない、というのは、生物学的性差や文化的性差を否定することではないからだ)。似た問題として、SFに魔法がでてきたからといってSFでなくなるわけではないと思うのだが、あなたはどうお考えになられるであろう。(ファンタジーもまた同様に、物理法則とかけ離れた世界観であろうと任意の事象に数段階さかのぼれる因果関係が設定されているのならば、それはSFと呼んで差し支えないと思うしだいだ。SFの側面があるからといって即座に、ではファンタジーでなくなるのか、と言えばそれは否であり、この場合、SFでありファンタジーである、は矛盾しない。言うまでもなく、いくひしさんがどう思おうと、あなたが百合だと思えばそれが百合であり、SFであり、ファンタジーだ。ご自由に解釈すればよろしかろう。いくひしさんがミステリーだと思うものを誰かに「それはミステリーではない」と否定されたとしても、べつだん、いくひしさんは困らない。ジャンルやカテゴリーとはその程度の、あやふやなものなのだ。厳密に定義しようとしたところで、境界線は極限に向かい、いつでも揺らぎを帯びている)



1977:【差別的な人間です】

いくひしさんは偏見まみれで、差別的な人間だ。これは否定するのがむつかしい。哀しいことである。自身の偏見や差別意識に気づくたびに、どうすればよいだろう、と立ち止まってしまう。すべてを均一に等しい存在だと見做せばよいのだろうか。しかし、すべてが等しく同じような存在だと見做すのは、差別以上の危うさが漂って感じられてならないのだが、みなのものはどうお考えであられるだろう。こうして問うことができるのもまた、私とあなたのあいだに差別があるからなのかもしれない。



1978:【恋愛偏差値が3】

さいきん見かけて「ん?」となった文章があります。「恋愛感情と性欲を履き違える」です。やっぱり「ん?」となってしまいます。恋愛感情と性欲って別物なんですか? これは純粋な疑問で「ん?」となっているので、本当に誰かに訊ねたいのですが、性欲抜きの恋愛感情とはどんなものなのでしょう。成立するのですか。想像できません。いくひしさんが単に性欲魔人で勘違いベイベーなだけなのでしょうか。生殖行為に及びたい、相手の身体に触れたい、遺伝子を交換したい、存在を一体化したい、融合したい、いっしょになりたい、これらすべて性欲から生じた衝動や欲求ではないのでしょうか。性欲なしでも成立する感情は、むしろ憎悪だとか敵意だとか、そういったものな気がするのですが、違うのでしょうか。愛情と恋愛感情の違いもよく解かりません。愛情の一種が恋愛感情であると見做していたのですが、これもまた違うのかもしれません。性欲を帯びた愛情が恋愛感情だ、と言っても、いくひしさんの解釈では大きな齟齬は生まれません。ただし、百パーセント性欲のみであると、これは恋愛感情だとは言いにくいです。食欲百パーセントと扱いとしては同じです。どんな欲求であれ、相手のことを思い、尊重する意思がなければ、これは愛情を伴わないので、愛情に内包されるかたちで分類される恋愛感情でもなくなる道理です。ともあれ、性欲なしに恋愛感情は成立しないように思います。何か間違っていますか? 誰か教えてほしいです。



1979:【怒りは表明すべきもの】

怒りは表明すべきもので、発散すべきものではない。すくなくとも近代において、怒りの発散は暴言や暴力と区別がつかない。怒りを堪える義務はないが、せめてなぜ怒っているのかを、冷静に言葉で伝える努力はそそいだほうが身のためである。怒りを表明することの意義は、もうにどと同じような怒りを抱かずに済むようにと、何かしらの対応や対策をたててもらうように他者や組織に働きかけることにあるはずだ。つまり、どんなにじぶんが被害者であろうと、他者にお願いをする立場なのだ。相手に礼儀を尽くすのは、円滑な交渉を進めるうえでは定石であろう。考えてみれば、怒りと恨みのあいだに明確な差はないように思える。怒りを堪えつづけるとやがて恨みへと変質する。恨みは怨念となり、因縁となって、人生を狂わせる。だとすると、恨みがそうであるように、怒りは相手にぶつけた時点で、途切れることのない不毛な雪合戦と化すだろう。こだまとなって、怒りは相互に入り乱れ、敵を傷つけ、味方陣営をも傷つける。怒りは表明すべきもので、発散すべきものではない。平たく言ってしまえば、言い方に気をつけましょう、というおもしろくもなんともない結論に結びつく。だが、言い方一つで、諍いの種をばらまきもするし、解決への道のりを一歩進みもする。私はこれこれこういう理由により損害を受けております、と伝えるのと、うるせぇ殺す、と吐き捨てるのとでは、相手の受け取り方も、反応も変わってくる。この「いくひ誌。」を読んでいれば実感される方もおられよう。反感を買うだけの物言いをしがちないくひしさんを反面教師とし、まずは怒りの表明の仕方から工夫してみるのはいかがであろう。もちろん、怒りを必ず表明しなければならない、といった決まりはない。鎮められるものなら、鎮めてしまうのが好ましい。怒りを抱かずとも、理不尽を察知し、闘うことはできるはずだ。理想論ではあるものの、そこを目指してもバチはあたるまい。(本日の、おまえが言うな、でした)



1980:【ねんぴょう】

いくひしの年表つくりたいな。どの作品がいつつくられたか一覧にするの。ちなみに処女作は2009年で、「16ビートのゆくえ」や「おしっこに行ってきます」とかは2011年につくった。八年前とかびっくりする。古びない作品をつくりたいな、と思ってつくってたけど、どうなんじゃろ。やっぱり八年の時間の流れは物語を風化させちゃってるのかな。「群れなさぬ蟻」や「息の根にうるおいを。」が2013年のやつで、二代目いくひしさんになってからつくった初めての作品だから、すこし作風が変わってるけど、やっぱり引き継いでるとこもあるから、いくひしさんだなぁってなってくれるとうれしいな。なんじゃろな。年表つくりたいな。でもめんどうじゃな。あとでやろーって言って、忘れちゃうやつっぽいな。きょうはグダグダしてしまったから、あしたはウダウダしよっかな。年表つくりたいな。予定に入れておくとするかな。



※日々、アダムとイブを見届ける。



1981:【見切り発車】

いっつも思うのが、この「いくひ誌。」をつむぐ労力を掌編についやしてたら、単純計算で1981個の掌編がつくれてたんだよね。もしつくってたらいくひし、いまごろ掌編の神になってただろうなぁ。いまからでも遅くないから、まいにち一作つくろっかな。百文字でいいからまいにち一作。いけるとこまでやってみるか。



1982:【超短編1『すこし思い過ごし濃いコーヒー』】

インスタントコーヒーを飲んでいたら、テーブル上の小瓶がカタコトと揺れだした。コーヒーの粉末が半分ほど入っているだけなのだが、目を凝らしてみると、もぞもぞと蠢いている。もぐらが土から顔をだす間際を彷彿とさせる。小瓶を手に取り、砂時計よろしく、さかさまにしたり、横に倒したりして、蓋を開けることなく中身を探る。何かいる。目を瞠ったつぎの瞬間、手に大きな力が加わり、小瓶を落としてしまった。小瓶のなかに潜んでいたものが激しく身じろいだらしかった。床一面にコーヒー粉末が散らばるが、そこに何かしらの姿は確認できなかった。小瓶を手放してしまう間際、褐色の粉末を波のように舞いあげる、ちいさくも大きな尾びれを目にしていた。しかし、いちど冷静になると、思い過ごしであるかのような気がし、床を掃除し終えるころにはもう、小瓶がかってに動いたことすら、じぶんの描いた妄想にしか思えなかった。席に戻り、一息つく。すっかり冷めたコーヒーを口に含むと、のけぞるほど苦かった。粉末を入れすぎた憶えはない。粉末のほうでかってにカップに飛びこまないかぎりは自動的に味が濃くなる事態はあり得ないので、きっとこれも疲労からくる思い過ごしだ。苦いのカタマリは気つけ代わりに飲み干した。ちゃぷん。胃のなかで何かが跳ねた気がしたが、きっとこれも思い過ごしに違いない。



1983:【ぜんぜん足りない】

ウィキペディアで調べてみたら多作の小説家だと4000点もつくったひとがいるみたいなんだな。2000点くらいじゃ神とは呼べないな。仙人くらいだな。ならいくひしはいま、小学生くらいなんだな。幼稚園児かもしれん。赤ちゃんくらいだったら、仙人よりも伸び白あるからうれしいんだけどな。中途半端に育ってしまったんだな。あと十年生きるとして、まいにち三作つくったら10000点つくれるんだな。文字数に拘らなかったらいけるけど、多作であることの意味って小説創作AIがでてきたらなくなるから、質重視のほうがよいのかもしれないな。多作であることの意味って、やっぱりよいものや珍しい組み合わせ、新しい発想が確率的に得やすいってことだと思うんだな。だから多作は飽くまで必要条件で、十分条件ではないんだな。多作を誇ったら創作家として終わりだと思うんだな。過去に縛られてるってことだからな。まずは目のまえの、あたまのなかの、いくひしにしか視えてない、掴めないモヤモヤを見逃さないようにしなくちゃなんだな。よそ見してる余裕はないのだ。(でもよそ見する余裕がなきゃダメなんだな。むつかしいな。右を見ながら左を見るみたいな矛盾だな。鏡が欲しくなるな)



1984:【超短編2『表裏遺体』】

大学で知り合った男と意気投合して、しばらく遊んでるうちにすっかり仲良くなってしまった。こういうのを友達と呼ぶのかもしれない。明るく、誰とでも打ちとける性格の男であるが、一つだけ受け入れにくい欠点があった。端的に言ってしまえば、虚言癖がある。霊感とは違うんだけど、と彼は言うが、要するに幽霊や死者の思念が見えるそうだ。アホくさい。一笑に伏すのは俺ばかりで、ほかの連中は彼の誠実な性格からか、それとも説得力のある物言い、それはたとえば、どこどこの何々には近づかないほうがいいだの、ここはたぶん事故があった場所だねだの、極めつけは友人宅のアパートやマンションへ足を運んでは、何階の何号室は事故物件だ、などと言い並べる。あまりに具体的であるから検索するのは簡単で、いざ調べてみると彼の言動は検索結果と一致する。しかし、検索できるのならば前以って調べることもできるわけで、知っていることを頬被りをして「霊が視えるから」と言い添えれば、彼の人徳をして、疑うよりも信じるほうが身のためだと判断する者は後を絶たない。俺と同様に疑いの目をそそいでいた者たちまで、しばらくすると、ひょっとしたら本当かもしれない、などと言いだした。人気者の完璧超人を口わるく言うただ一人のひねくれ者として俺は、非難の目に晒されている。しかし、俺には断言できた。彼には霊感のような特殊能力は備わっていない。なぜだ、と訊かれると困るので、表向きは断言しないが、すくなくとも彼はいちども俺に対して、霊の存在を指摘したことはなかった。きょうもいっしょに飯を食ったが、談笑して終わった。楽しい時間だった。しかし俺はきのうも女を一人犯して殺している。どの遺体もまだ部屋に転がしたままだ。乾燥させてから、湖に捨てる。あとでまとめて処理する予定だった。或いは、彼には真実、死者の何かしらが視えていて、俺の裏の顔も知っているのかもしれなかったが、それを黙っている彼の胸中を推し量れば、初めて結んだ友情のことのほか篤い信頼関係には感謝をしておくべきなのかもしれない。とはいえ、女を玩具扱いするようなクズだと知って縁を切らずにいるような男を初めての友人に迎えるには、いくら俺でも躊躇する。だからここは一つ、完璧超人のような彼にも欠点があり、虚言癖があるのだと判断するのが正解だ。部屋の遺体をすべて処理したあくる日、俺は彼を誘った。「きょうは俺ん家で飲むべ」「や。遠慮しとくよ」「んでだよ、せっかく部屋きれいにしたのによ。前に来たいつってたじゃん」「おまえん家はだって」彼は何でもないように白い歯を覗かせる。「やけに賑やかで、うるさそうだ」



1985:【超短編3『ヌクレさんの落度』】

世のなかを動かすのは技術とエネルギィだ、とヌクレさんは言った。自身の長髪を三つ編みに結いながら、「言い換えれば『術』と『熱』ってことになる」と続ける。「技術には、ある性質が組みこまれている。『技術それそのものを蓄積する術を磨き、指数関数的に発展する性質』だ。この性質を正しく機能させために社会は膨大なエネルギィを必要とし、さらにそのエネルギィ効率をよくするために技術が使われる」イタチゴッコですね、と僕が言うと、ヌクレさんは髪留めを口に咥え、いふぁにも、と間抜けな相槌を打つ。「相乗効果でどこまでも肥大化していく。理屈のうえではね」よし、と髪を結い終えてから、「技術とエネルギィはしかし等価ではない」と補足する。「エネルギィがさきで、技術はそのあとに副次的に発生する余熱みたいなもんだ。ただ、その余熱が新たな素材に着火すると爆発的にエネルギィを生みだし、また副次的な余熱を周囲にばらまきもする」「燃える素材さえあればじゃあ、その連鎖はとまりませんね」「いかにも。つまり、技術とエネルギィのほかに周囲には燃えるための素材、或いは副次的に発生した余熱を媒介する素材が必要となる」「それは社会で言うところのなんですか? システムとか? あっ、設備とかですかね」「人だよ」ヌクレさんは気にいらなかったのか、せっかく結った三つ編みを解いた。ヌクレさんの匂いが鼻をかすめる。「言うなれば人とは、技術を蓄えるタンクであり、エネルギィを媒介する素材だ。そして労働とはすなわち、エネルギィを生むための化学反応であり、ここでもまた副次的に技術が生まれ、エネルギィと共に媒介される。より技術を溜めこんだ器ほど、媒介率が高いため、社会からは重宝される」つまりはお金持ちになれる。「でもですよヌクレさん。経営者は必ずしも労働者よりあたまがいいとは限らないのでは? 技術者のほうが専門知識が高いなんてことざらだと思うんですけど」「あたまがいい、の定義によるな。だいいち、技術と知識は同じではない。技術には知識が含まれるが、知識だけでは技術には結びつかない。高い専門知識を持っていてもそれを技術として使える環境がなければ宝の持ち腐れだ。その点、経営者は知識を技術へ昇華するための術を有している。だから組織を運営していける。同様に、同じ環境のなかであっても知識をたらふく蓄えていようが、技術を発揮できない労働者の価値は相対的に低くなる。最低限の知識で最大限の技術を発揮できる者のほうが、労働者としては格上だ。それはたとえば、どんなに成果が乏しかろうが成果さえあげていれば、技術のひとつも使えこなせない評論家きどりに比べたらいくぶんマシなのと同じ話だ」「うー、なんだか耳が痛くて、同意したくない話ですね」「好きにしろ。おまえの同意に物事の本質を変えるだけの作用はない」「ヌクレさんはいちいち辛辣ですよ。僕じゃなきゃとっくにヘコたれてますよ、気丈な僕に感謝してください」「厚かましいなおまえ。ヘコたれないんだろ。問題がどこにある?」「皮肉が通じない!」「まあ何にせよ、このさき社会はかつてないほど知識を共有し、技術を発展させ、それを使いこなせる環境を整えていくだろう」「つまり、エネルギィは増大していくと?」「加速度的にな。ただし、その前段階では、技術を蓄える器を揃えておかねばならない。大量の媒体が不可欠なわけだ」「人口増加はでは、人類にとって隘路ではなく、むしろ享受すべき現象ですね」「増加できればな。単純な話として、増殖すべき土地が足りない。エネルギィや技術を媒介するために人が必要なわけだが、その人が増えるには、物理的な空間が入り用だ。しかし、地上は有限であり、ちょっとやそっとでは増幅できない」「問題ですね」「じつは案外にそうでもない。人とは器だ。視点を変えれば、器さえあればそれが人である必要はないわけだ。そして人類がたかだか半世紀でことこれほど社会を発展させたのは」「インターネットがあったからですね」「いかにも。知識を共有するための技術を向上させつづけてきたからだ。そこには文字や書籍も含まれる。いわば、インターフェイス全般が社会を加速度的に発展させた。さながら情報爆発だ」「人工知能もそうですね」「いまでは、それらそのものが人に代わって知識を蓄え、そして道具としての側面を持ち、技術そのものとして台頭しはじめている」「それはえっと、つまり、道具が知識を使いこなし、技術に昇華できるようになってきた、ということですか」「現になっているからな。考えてもみろ、携帯型メディア端末は初期のころは、通話機としての側面しか持っていなかった。それが二十年も経たぬ間に、アプリよろしく外部ソフトを起動させるための憑代と化した」「さながらシャーマンですね」「言い得て妙だ。外部の機能をいくつも宿すための憑代、まさにシャーマンだ。携帯型メディア端末は、それそのものが道具であると共に、ほかの道具の機能をその身に宿し、使いこなす器として、技術を社会に顕現させている」「でも操作しているのは人間ですよ」「いまはな。人間のやっていることは、ある環境下において任意の場面で端末を起動しているだけだ。たとえば、道に迷って地図を起動する。これはナビが発達したいまでは、迷う前の段階ですでに目的地が設定され、迷うことなく地図を展開してもらっている。人間が行う作業は、技術の発展と共に徐々になくなり、機械が代替するようになっていく。そしてすでにそうなっているのが現状だ。なぜかと言えば、知識の蓄積が人間ではなく、機械のほうへと依存しはじめているからだ。知識が技術を生む。そして技術はエネルギィを生み、さらに技術を発展させる」「そこにいまはもう、人間の入りこむ余地がなくなってきているのですね」「人口などだから増加せずとも構わないのだよ。それはつまり、人間などいなくともこのさき、そう遠くない未来、知識は蓄積されつづけ、技術へと昇華し、発展し、エネルギィを生み、それらエネルギィは情報を媒介するための素材へと引き継がれ、さらなる情報が集積されていく。繰りかえすが、この回路にもはや人間は必要ない」「でもですよヌクレさん。ヌクレさんの話じゃまるで、僕たち人間が情報を蓄積するために存在しているみたいじゃないですか、でもでもじっさいは違うじゃないですか。人間がいるから情報が蓄積されるのであって、情報のおかげで人間が誕生したわけではないのでは?」「はて。では逆に訊くが、おまえはなぜ誕生した? 情報の交配によってその肉体が設計されたのではないのか。おまえをかたちづくる大元はなんだ? 生物は、生命とは、情報の羅列でできているわけではないと、おまえはそう考えるのか? ただの石ころとおまえとの違いはなんだ? おまえの身体を構成する物質と、おまえ自身とでは何が違う。なぜおまえは、おまえとして存在していて、なぜ死んだあとには、おまえはおまえとして存在できない。そこにはただ一点、より外部の、雑多な情報を、ある一定の規則によって蓄積できるか否かの差異があるだけではないのか。処理できるか否か、ただそれだけではないのか。情報がおまえをおまえとして規定している。より正確には、情報を蓄積し、蓄積した情報を処理し、処理した情報を外部へと媒介できることこそが、生命体を生命として規定し、ただの物質と分け隔てている。おまえはしかし、そうは考えていないようだな」「でも、だとして、だったらもうすでにコンピューターは生命体としての枠組みを得てるってことに」「なってはいけないか? むしろなぜおまえはそのことに疑問を抱く。否定する要素がどこにある。これまでの生命の定義と矛盾するから? そんなものは何の理由にもなっていない。それくらい、いくらおまえであっても理解できるだろう。人間が情報を生むのではない。情報が人間を生んだのだ。そして世界は情報に溢れており、そこかしこに、情報の引継ぎが行われ、ミクロに、そしてマクロに、生命体の枠組みを、階層的に入り組ませている。もし仮に人類がほかの惑星へと移住し、地球のような自然環境を再現したとすれば、これは地球がよその星へと情報を媒介したと見做して、齟齬はない。つまりそのとき、地球は明確に、生命体としての枠組みを得るのだ。だがそれを我々人類の視点で実感するのは至難だろう。だが我々の認識に関係なく、細菌はそこかしこで増殖を繰り返し、我々の白血球は、外部ウィルスを撃退する」ヌクレさんはくるりと椅子を回転させ、背中をこちらに向けた。ん、と言って髪を束ねると、僕に三つ編みにするよう命じる。僕は無言でそれに応え、夜の溶けこんだような彼女の髪を、ジグザグと交互に編みこんでいく。「これも技術と呼べますか」「立派な技術だ。誇るがよい」「いい加減に憶えてくださいよ。技術の継承ができなきゃ僕は生命体失格です」「知識としては解しているのだ。しかしこればかりはどうにもな」飄々と口にするヌクレさんの肩を叩き、できましたよ、と手鏡を渡す。「じょうできじょうでき、褒めてつかわす」「つかわさなくてよいです。あ、こら。ほどかないでくださいね」ヌクレさんは三つ編みをもてあそぶ。できたてほやほやの肉まんをじっくり観察するような手つきだ。「もうきょうは編んであげませんからね」「案ずるな。情報はこうしてほれ」彼女はジグザグと交差する螺旋の構造物に頬づりをする。「編みこまれているからな」



1986:【もってまわった言い回し】

真剣勝負の場でいちどでもジャッジをする側に立ったことのある者なら、数人の審査員による判定がいかにあいまいで、不公平で、一定でないかを知っているはずだ。テストの採点のようにはいかない。明確な基準が仮に規定されていたならば、そもそも審査員など必要ない。誰であっても採点できるからだ。したがって、あいまいで、不公平で、結果がいつでも一定でない競技において、審査員が配備される。ここで注視したいのは、審査員に審美眼など備わっていない点だ。しかし、何かしらの判定をくださねばならないとき、そのくだされた結果に不平が飛んできづらい人物が審査員として抜擢される。権力のある者の判断ならば、たとえ何かおかしいと感じても、批判するのは心理的抵抗が大きい。違和感を覚えても見て見ぬ振りをして、審査員の判定を鵜呑みにする者たちが多い理由の最たるものだ。権威主義に、日和見主義と言えばそれらしい。そして審査員側も、そのことを意識的無意識的にかかわらず、承知している。暗黙の了解か、あるいは身体に馴染んだ習性のようなものかもしれない。いずれにせよ、審査員の判定など、恣意的で、独善的で、その場しのぎの茶番である。サイコロを振ったほうがまだ確率的に平等である点で、公平だ。ジャッジの判定には偏りがある。その偏りが、何かしらの明確な基準において生じているのならば審査の役割として機能していると見做せるが、さきにも述べたとおり、そうした基準があるのならば審査員は必ずしもスペシャリストである必要はなくなる。そうでなく、個人の主観による「なんとなくこっち」といった趣味嗜好であるならば、これはもう、独裁となんら変わらないと言ってよい。しかし、表現の世界において、こうした独裁がじつに卑近にまかりとおっている事実は、思いのほか周知されていないように見受けられる。表現とはそもそも独善的で、独創的で、ゆえに独裁なのだ、と言われてみれば、なるほどそうかもしれない、と煙にまかれそうになるが、独創と独善は関係なかろうし、独善と独裁もまた乖離している。繋がりは薄く、独善であることに必然性はないし、独裁ともなれば、非難の的となってしかるべきである。いずれにせよ、「公平なジャッジ」とはじつに矛盾した物言いであり、裁判ですらこの事実から逃れることはむつかしい。公平性を担保するために必要な段取りが、明確で厳密な審査基準ではなく、権力の向上にある現代社会は、皮肉の例としてもってこいである。回り回って悪循環となり、ジャッジをする意味とは、権力をおすそ分けするための器の選定である、と言ってしまっても、ここではいささかの齟齬も生まれない。真実の追求と言いつつも、判定の基準が過去の判例である時点で、真実は遠のくばかりだ。いまはいまであり、過去は過去である。私の事件を彼らの事件と結びつける道理があるだろうか? 過去がこうだったから、では今回もこれで、との判定をくだされるのが、言ってしまえば刑事事件における裁判である。民事はもっと恣意的で、独善的で、独裁的だ。多少、言い過ぎの気はあるが、法律は万能ではないし、真実ではない点は承知していて損はないはずだ。白黒つけること以上に、双方の関係性を洗いだし、さまざまな観点から相互作用を洗いだす作業のほうがよほど有意義だと思うのだが、ことはそう単純ではなく、複雑であるがゆえに面倒であり、白黒つけたがる人間の心理には一定の理解を示すのに躊躇はない。とはいえ、それは単なる怠慢であると指弾されても言い逃れはできないのである。



1987:【超短編4『ふしぎで、ぶきみな木』】

飼っていたハムスターが死んだ。書店のまえでペットショップの店員が店頭販売していたハムスターで、チューインガム一個よりも安い値段で投げ売りされていた。値段の割によく生き、よく食べ、わたしのおやつ代の半分をひまわりの種に化けさせた前科があるが、こうして死んでしまうと生きているときよりも愛くるしく思える手前、失われた命の尊さを思わずにはいられない。ゴミに捨ててしまうのはさすがのわたしも忍びないので、骸は庭に埋めてあげることにした。祖母が亡くなってからは草が生え放題の庭は、こぶし大の穴を掘るのにも苦労しそうで、どうせ引っこ抜くなら手間は同じだとばかりに、背の低い木を根こそぎ、うんとこしょどっこいしょ、した。地面には穴ぼこが開く。わたしはそこにぬいぐるみのような愛くるしいハムスターの死体を放りこみ、上から土をかぶすことなく、うんとこしょどっこいしょ、したばかりの背の低い木をそこに戻した。土と根っこのサンドウィッチやぁ。不謹慎な独白を内心で唱えつつ、永眠にはできたベッドだ、と愛くるしいハムスターの死体に別れを告げた。と、そこで、いまさらながら、墓石代わりとなった背の低い木に目がいく。幹はくるっと一回転しており、輪っかが一つできている。葉はすべてくるくる丸まり、葉巻かぜんまいじみている。見たことのない植物だ。祖母には生前、海外へと足を運んでは、得体のしれない代物を買い集めてくる習性があった。ひょっとしたらこれもその一つかもしれない。庭を見渡すが、同種の植物は見当たらない。貴重な植物だったら面倒なので、念のために母に訊ねるが、知らないしべつに構わないわよ、と引っこ抜いてしまったことへのお咎めはなかった。「どうせ来月、業者さんに来てもらうんだし」伸び放題の雑草を根絶やしにすべく、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889267212



1988:【まとめるちからがない】

超短編と銘打っておきながら、四作目にしてはやくも一作7000文字を超してしまった。よろしくない。通例であるなら、このまま一万字が珍しくなくなって、二万字、四万字、六万字と増えていって、またぞろつくりかけがたくさんできてしまうパテーンだねキミ。一日1000文字の上限って話もどこいった。掌編は掌編、短編は短編、長編なら長編で、きちんとその物語にあった分量でつくれるようにならなくちゃだよキミ。わかったかい。はーい。返事がよすぎる。わかってないパテーンでしょキミ。



1989:【超短編5『ジャンパーは脱ぎ捨てて』】

その日、ぼくは超能力を身につけた。瞬間移動だ。会社に遅刻しそうになり、遮断機の下りた踏切をくぐったところで、意識が飛んだ。つぎの瞬間、ぼくは目的地であるところの職場のロッカールームに佇んでいた。「おう。はやいな」上司が現れ、ぼくのとなりで着替えだす。遅刻どころか、誰より早く職場に着いていた。時計はちょうど、ぼくが遮断機をくぐってから八秒後を示していた。どう考えても瞬間移動だ。ぼくは興奮しながら仕事をこなし、昼休みにちょっとした遠出を試みた。どうせなら証人がほしい。ぼくの勘違いではなく、妄想でもなく、たしかな現実として瞬間移動ができるのだと証明するために目撃者を用意した。もちろん、こんなことを頼んだところで、上司に告げ口されて、人事評価がマイナスにされてしまう。あたまがおかしくなったと判断されてはたまったものではないので、こちらの事情は話さずに、会話中にとつぜん飛んでみることにした。相手は以前、仕事のミスをぼくになすりつけた同期で、すこしばかりやり返したい気持ちが募っていた。ぼくが目のまえで消えたら、さぞかし腰を抜かすだろう。その顔をじかに見られないのは不満だが、まずは実行してしまうことにした。どうせなら、どこまで遠くに行けるかを試してみるのもよいだろう。思い、異国の地を片っ端から念じてみることにした。いざやってみると、同期の憎たらしい顔を最後に、ぼくは一発目で、南国の密林に飛んでいた。暑い。こんどは南極をイメージする。即座にぼくは(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889276712



1990:【一文で要約できる物語がいい物語?】

要約できるようなものをわざわざ物語にするんじゃありません。



※日々、憶えられもせず、忘れられもせず、ただ死だけが私に添いつづける。



1991:【つよがりとかではなくて】

やあやあ、いくひしさんだ。お久しぶりでござるなぁ。みなのものはご存じじゃろうが、いくひしさんは割合に恋愛ものの物語を編んだりするじゃろい。少女漫画を読むのも好きでござるし、恋愛小説も好物でござる。思えば、百合やBLは広義の恋愛物語の範疇なのかもしれないでござるな。恋愛要素抜きの百合やBLもあるでござるが、それはそれとして、本編で描かれていないふたりの関係に、恋愛要素を幻視してしまったりして、ベッドのうえで毛布にくるまり、まくらを抱きしめ、顔を埋め、むふふムチュー、なんて悶えてしまうのはいくひしさんの日常でござる。え、なに? キモチワルイ? ふうん。知ってる! まあそれはそれとして、いくひしさんは恋愛ものの物語をつくるのも読むのもしゅきでござるが、それはなぜかってぇと、たとえばよ、砂漠で遭難したひとが喉が渇いて渇いて死にそうになったときに何を考えるかってぇと、水をごくごく飲み干しているじぶんの姿だと思うのよ。じゃあもし恋愛したくてしたくて、でもできなくて死にそうになってるいくひしさんがいたら、何を考えると思う? つまり、そういうことでござるよ。え、なに? キモチワルイ? ふうん。知ってる! まあまあ要するに、つまるところ、とどのつまり、いくひしさんは恋愛経験が皆無なのでござるよ。恋人いたことナッシング。性行為? なにそれ、したら逮捕されるんじゃみゃーの。キス? ハグ? デート? 秒速で死刑確定なんじゃにゃーの。もうもう、恋愛なんて、ペガサスとか河童とかオードリーヘップバーンとかビックバーンとかと同じ、この世に存在しない存在なわけ。でもオードリヘップバーンもビックバーンもかつては存在したとかしないとか、まことしやかにささやかれてたりして、どっちなんだい!みたいに微妙にそこはかとなくややこしいわけ。恋愛、存在するらしい。割とみんなしてるらしい。むしろしてないひとのほうがすくなかったりするらしい。なんなん。みんなしてなんなん。いくひしのことそうやってハブにして、仲間はずれにして、やーいやーい、って惨めな思いさせておもしろいですか。いくひしさん、そういうのよくないと思うんですけど。まあね。でもね。べつにね、うらやましいとか思ってないわけで、いくひしさん、べつにみんなが恋愛してようが、盛ってようが、知ったこっちゃないわけで。だってそうじゃろ。みんながわいわい喘いでいたところで、いくひしさんはこれっぽっちも気持ちよくはないわけで。あ、いかんいかん。いやらしい文章になってきたけども、要するに、いくひしさんは純粋無垢なんだなぁってところをね、きょうはね、ぜひとも、憶えて帰ってもらってほしいなと思ういくひしさんなのであった。恋人いなきゃダメなわけじゃないっしょ。友達いないからなんなん。ホントぜんぜん、うらやましいとか思ってないので、あれっす。気を使わなくてもいいっす。ホント。マジで。紹介する? みたいな気遣いとかホント、なんつーか、あれっす。そうじゃろ?



1992:【純粋無垢?】

あはは、あはは、ひー、くるしい。じゅんすいむく? 誰が? まんちゃんが? はぁー、おっかしい、こんなにおもしろいこと言えるコだったんだ、知らなかった、うぷぷ、まんちゃんが純粋無垢。はぁー、おかし。



1993:【超短編6『彼女の愛に溺れて夢を視る』】

乖離性疑似相貌症を患ってぼくは産まれた。世界に一人しか確認されていない奇病で、生まれたときからぼくはぼくの顔だけを認識できなかった。具体的には、ぼくは醜いバケモノの顔をしており、顔だけでなく、体つきも肉食獣みたいで、やさしく撫でただけで人間の皮膚などたちまち破けてしまいそうなほど凶暴だ。もちろん、ぼくにそう視えているだけであり、ほかのひとたち、それこそ母や父や妹たちからは、ぼくは大多数のひとたちと似た姿カタチとして認識されている。ぼくからしてみれば、バケモノじみた姿がぼくなのだから、それを醜いだなんて感じたことはないけれど、でも多くのひとたちからすれば、ぼくの目にしているぼくの姿はきっと醜く、歪んで映るのだろう。「お兄はねぇ、こんな顔だよ」妹はぼくの似顔絵を描くことが好きだった。幼いころに与えられた役目を、高校生に長じてまでけなげに継続してくれており、それが高じて絵の腕前は、ピカイチだ。ぼくはぼくの顔を正常に認識できない。それは鏡に映る像だけでなく、写真や動画でも同じだった。例外は絵だった。ある程度デフォルメされた絵だと、ぼくはじぶんの顔の特徴を、みなと同じように捉えることができた。「なかなか美形だな」「自画自賛してる」「おまえの絵がうますぎるんじゃないか。気を利かせてわざとかっこよく描いてるとか」「そんなサービス今さらする?」妹の絵はすべてとってある。彼女の描く絵のぼくはいずれも、控えめに言ってかっこよかった。「お兄、学校じゃモテてたらしいじゃん。橋田先生がお兄によろしくってさ」「あの先生まだいたのか」「うちの学校でバレンタイン禁止になったの、お兄のせいらしいじゃん。そうそう、その話聞かせてよ」妹は何かとぼくにちょっかいをだし、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889286210



1994:【超短編7『稀代で無類のソウシキ者』】

俺は敏腕編集者、眼賀(めが)筆斗(ひつと)だ。名門大学を卒業し、斜陽産業と謳われて久しい出版業界に足を踏み入れた。マンガ部署に配属されて三か月で、まったくの無名の新人を連載させ、SNS上での話題をさらった。半年後には刊行済みの単行本が三巻ともに異例の売り上げを記録した。名実共に売れっ子編集者の名を冠した。「うぬぼれるなよ、ヒットしたのは作家のおかげ、おれたちゃそのアシストのアシストでしかねぇんだ」うだつのあがらない先輩編集者ほどつまらない説法をのたまく。そんなんだから出版業界が凋落していくいっぽうなのだ。インターネット上で話題になっている新人作家にはかたっぱしから声をかけた。単行本にして売れる作品をつくれる作家はそのなかでも一握りどころか、一つまみだ。声をかけた作家を全員プロの舞台にあげてやることはできない。恨まれることもある。日常茶飯事だ。だが関係ない。彼ら彼女らが売れないのは俺のせいではないからだ。俺は機会を与えているに過ぎない。それを活かすも殺すも作家しだいだ。「この仕事をはじめてからよく、コーヒーに似ているなと思うことがあってな」俺は目をかけていた作家のなかの一人と肉体関係を持つようになった。顔がよく、身体の相性もよかった。家に引きこもりがちな作家のケアをするのも編集者の役目だ。彼女は有名マンガの二次創作をSNS上に投稿し、人気を博しているアマチュア作家だった。これまでにも大手出版社からスカウトされていたが、ことごとく断ってきた背景がある。俺も例に漏れず断られた口だが、こうして外堀から埋めていけば、そう遠くないうちに俺の傀儡と化すだろう。なにより彼女は社会人経験のある作家だ。ほかのハズれの作家どもとは比べものにならないほどの逸材であり、ここは是が非でも手に入れたい。とはいえこうして逢瀬を重ねるのは会社にばれたらマズいが、そもそも彼女は俺の担当ではなく、よって仕事ではないため問題はない。恋愛は自由だ。憲法で決まっている。誰も俺を咎めることはできやしない。「編集者ってのは要するに」俺は繰りかえす。「極上のコーヒーをいかに淹れられるかってことなんだな」「コーヒーに似てるなんて、楽な仕事」彼女は行為のあとはいつも煙草を吸う。「そこは、どこがどう似てるのかって聞いてくれよ」「聞きたくないんだけど」「コーヒーは豆をふんだんに使ったほうがいい味がでる」俺は彼女を無視し、続ける。「ただし、旨味は液体に溶けこんだ極々一部だ。仮に集めることができたとして豆一つ分になるかもあやしいところだ」「聞きたくないって言ったんだけどな」「つまり俺が言いたいのは」「はいはい。要するに、作家なんて掃いて捨てるほどにいる、そうした掃いて捨てた生ごみを集めて、バイオ燃料をつくるお仕事だって言いたいわけでしょ」「生ゴミとはひどいな。俺はちゃんとコーヒーに喩えたからな」「濾過したあとの豆ちゃんはどうせ生ゴミじゃん」「きみはでも香り豊かなコーヒーになる。俺が保障する」「コーヒーだってね」彼女は足先でこちらの頬をつついた。「飲まれる相手くらいは選びたいものだよ」けっきょく、彼女とは作品をつくることはなく、俺は(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889297435



1995:【びっくりした】

半年前2018年の8月につくりはじめたショートショート100話のやつ、すこし読み返してみたら、下手すぎてびっくりした。圧縮じゃなくて単なる手抜きになってる。なるほどねー。よしよし。修正の方向が見えてきた。自作のよしあしが判るようになるには、最低でも半年はかかるな。半年寝かしてから推敲するなり、改稿するなりしたほうがよい気がする。とりあえず、いくひしはまだまだドヘタクソ丸だってことが体感として分かってきたので、うれしいかぎりだ。もっかいテンポなり、リズムなり、組み換えてつくっていこう。



1996:【超短編8『つまらぬ小説で息が詰まる』】

むかしむかしあるところに、つまらない小説をたくさんつくって死んだ作家がいたそうな。その作家は死ぬまでに、一人の人間が一生かかっても読みきれない量の物語を編んだが、そもそも一つ一つがつまらなかったので、一作も読まれずに死んでいった。しかし、こんなつまらない小説でも、腐るほどにつくれば歴史に名を遺せるのだと世に知らしめた功績は多くの者たちから「余計なことしやがって」とこっぴどく批判され、そのことによりますます名が知れ渡り、世のろくでなしどもを無駄に勇気づけたという話であった。しかし、あいにくとその作家は死ぬまで誰からも必要とされず、小説を読まれもせず、評価もされず、探られることもなかったため、いったいどこの誰で、どのような人物かがまったくの不明であり、つまらない小説をたくさんつくって死んだ作家として以上の側面像はいっさい不明であったそうな。かくして、誰にも読まれない小説をたくさんつくって人知れず死んでいった作家は、とりあえずつくりつづけてさえいれば、その何の意味もない行為ですら功績として認められ、伝説として語り継がれるようになる一例として、「つまらぬ小説で息が詰まる」の一文を以って、諺にもなった。じっさいに、つまらぬ小説をたくさんつくって死んだ作家の小説を読もうと試みて、そのあまりのつまらなさに息どころか息の根まで詰まらせ死んだ者が後を絶たないとかなんとか、そのような話であった。いかにつまらぬ小説であったかは諸説あり、たとえば、むかしむかしあるところに、からはじまる、つまらぬ小説をたくさんつくって死んだ作家にまつわる掌編などは、じつに息がつまることしきり、無理をして読み進めれば確実に命を落とすと危惧されたことから、その読解は、国の法律にて厳重に禁止されているほどである。しかし読了した者はおしなべて死去しているからには、その全貌は闇のなかだ。こうして、あなたが目にしている模造文にて、その片鱗を推し量るより、術はない。ところで、つまらぬ小説をたくさんつくって死んだ作家の死因であるが、どうやらその者はある時期、自作を改稿しようと試みたそうだ。死因は推して知るべし。なにより、つまらぬ小説をたくさんつくって死んだ作家はそれまでいちども自作を読みかえしたことがなかったことを示唆している。世の作家諸君におかれては、「つまらぬ小説で息が詰まってしまう」前に、自作を読みかえす習慣をつけておくことをお勧めしよう。むかしむかしあるところに、つまらない小説をたくさんつくって死んだ作家がいたそうな。その作家は死んだあとでも、他者の妄念にとりついて、こうしてつまらぬ文章を生みだしつづけている。



1997:【蜜蜂と遠雷】

恩田陸さんの小説「蜜蜂と遠雷(上)」を読んでいる。涙が溢れて読みつづけられないなんて初めてかもしれない。まだ96ページしか読んでないのに、読む手が止められないくらいおもしろいのに、涙が邪魔で読み進められない。いったいなんの涙なのか、なんでじぶんが泣いているのかも分からないけれども、小説、楽しいなぁ、ってなってるのは、すごくすごくうれしいことだなぁ。いくひしは凡人でよかったなぁ。こんなにも小説に胸を打たれて、世界が色づく瞬間を味わえるのだから。見て見て。鼻水だらだら。



1998:【どさくさにまぎれて】

いくひしクンさぁ、きみちょっとなにどさくさにまぎれてじぶんは凡人ですなんて見栄張っちゃってんの、あなた凡人以下のミジンコ以下でしょうに、あんまり傲慢にならないほうがよくないかなってあたしなんかは思うんだけどな。傲慢はまんちゃんの専売特許なんだから、あなたくらいは謙虚でいてね。謙虚というか等身大でいて。おねがい。



1999:【超短編9『さよなら、ぼくの太陽』】

ざんねんなことにぼくはあなたの初恋を見守ることができなかった。ぼくがこの世に生まれてきたのはあなたが生を享けてから十余年もあとになってからのことだから、それは致し方ないのかもしれない。けれどぼくはあなたが二度目に好いた青年のことを知っているし、涙の夜を乗り越えたそのあとに出会った運命のひとと結ばれたことも知っている。あなたは運命を信じてなどおらず、だから偶然の出会いを運命とすべく強引に彼とは結ばれたまでよ、と大地にずんと足をつけて胸を張りそうなものだ。ぼくはそんなあなたを誰よりも近くで見守ってきた。いいや、近くでというよりも、あなたを乗せていたのだから、ぼくはいっときあなたと幾度も同化していたと言っても言い過ぎではないように思う。ぼくはあなたの二十歳の誕生日プレゼントとしてあなたの父上に買い取られ、あなたのよき相棒となった。初めましての日のあなたときたら、父親の制止もきかずにそそくさと乗りこみ、夕方になって戻ってくるころにはさっそくぼくに大きな傷をつけてくれたね。その傷はずっとあとになってから、あなたがあなた自身のバイト代で直してくれたけれど、本音を言えば、ぼくはその傷を消してほしくはなかった。もしぼくにしゃべることのできる機能がついていれば、そのことだって伝えることができたのに。ぼくはぼくであることを喜ばしく感じると共に、あなたに何一つとしてぼくとしての内情を吐露できないことを歯がゆく感じてきた。この歯がゆい思いすらあなたには伝わらず、あなたはぼくがそんなことに悶々としていることにすら思い至ることはない。それでもぼくはしあわせだった。あなたを乗せることができたから。あなたのよき相棒として共にときを過ごし、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889328708



2000:【超短編10『哀しい独善』】

あの方の不満そうな顔が好きだった。あの方の集中している姿が好きだった。私は遠くからそれを見守り、ときおり声援を送るのがやっとのことで、あの方にとっての何かしら特別な存在ではなかったし、なろうとも思わなかった。私の存在を知ってもらいたいだなんておこがましい考えを抱いたことはなく、感謝してほしいなんて厚かましい欲もない。私はただただ、じぶんのためにあの方を応援したい。私は私の自己満足のためにせっせとあの方の表現を追いかけ、あの方の言葉を待ち望んでいる。せめて何かお返しがしたいと贈り物を用意し、それを受け取ってもらう場を築こうとするのだが、けっきょくのところそれは私の自己満足でしかないから、あべこべにあの方を困らせ、負担となり、私は私の望まぬ形であの方に認識され、拒絶の意を示される。だがそれでも私はあの方の表現を追いかけ、あの方の言葉を待ち望むのだろう。私は私のためにあの方を応援している。拒まれようと、嫌われようとそんなことは関係がなかった。受け取ってほしい。受け取ってほしい。私がどれほどあなたの表現に支えられ、励まされ、あなたの存在が生きる糧となっているのかを、その片鱗でしか示せないが、この贈り物を受け取ってほしい。私はことさらあの方を応援し、ファンレターを送りつけ、贈り物を届けようと奔走した。きっとあの方は私のことなど厄介なストーカーとしてしか見做さないだろう。ひょっとしたらとっくに接触経路を遮断していて、私の言葉の何一つ届いていない可能性もある。だからといって私は私の言葉を止めることはできない、この想いを否定することはできないのだ。私は私のためにあの方の表現を追いつづけ、あの方の言葉を求めつづける。あの方の表現が私にそそがれることはなく、あの方の言葉が私に向けられることはない。それでも私はあの方が表現者として死に、言葉を失い、燃え尽きてしまうまで、どこまでも、どこまでも、見守りつづけるだろう。私は私がいちばんだいじだから。あの方の負担になろうと、そんなことはどうだってよかった。私はただただ、応援したい。求めたい。遠くから。遠くから。あなたそのものではなく、あなたの表現を。言葉を。或いは、私の言葉が、思いが、贈り物があの方の心を圧迫し、圧し潰してしまうこともあるかもしれない。だが、そんなことは蝶が春に羽化し、夏を過ごし、秋には死んでしまうのと同じくらい些末な事項だ。私が応援するのだから、私が求めるのだから、それだけのつよさを見せてほしい。あの方にはそれだけの器がある。私がそう見做し、応援し、お礼をしたいと望むのだから、それだけのつよさがあるはずだ。もしないならないで、さっさと潰れてしまえばいい。私はただただ、応援したいのだ。じつを言えば対象はあの方でなくとも構わない。つよくうつくしく、醜く、弱く、矛盾した存在にこそ私は、深く、遠く、惹かれるのだ。あの方は脆く、繊細で、そして儚く、だからこそ潰れない。霧のように、消えるときはただただ晴れやかに、さっぱりと失せていくだろう。粘り強さとは無縁の底知れなさがある。潰れるものなら潰れてみせてほしい。私の応援程度で潰れられるほど、あの方はふつうの輪郭を有してはいない。拒まれようと、無視されようと、関係がない。私の応援など、あの方にとってはとるに足らない、蟻の影のようなものなのだ。うるさそうにする価値もない。だから私はせっせと贈り物を用意する。どれがよいだろうかと見繕いながら。あの方の望む、若く小股の切れ上がった小鹿のような脚を持つ、端正な顔立ちの少女たちを。ときには少年を。私は箱に詰め、今宵もあの方の元へと送り届けるのだ。

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