いくひ誌。【2001~3000】

※日々、私はクズです、と卑下することで他者の価値をさげていく、あなたはクズ以下なのですよ、と悟らせたいがために努めてクズでいつづける、誰よりじぶんを打ちつづけ、時空に開いた穴ぼこのように。



2001:【超短編11『ミカコさんと小石』】

ミカコさんはぼくのとなりの部屋に住む隣人で、幽霊だ。四年前にこの部屋へ引っ越してきたとき、夜な夜な女性の咽び泣く声が聞こえていた。当時、隣の部屋には若い男女が暮らしていて、DVか何かをされているのではないか、と勘繰っていた。しかしどうやら泣き声はぼくの部屋から聞こえているのだと気づいたとき、ぼくはぼくの部屋にうずくまり泣いているミカコさんの姿を発見したのだった。「まさか意思疎通できるとは思わなくてびっくりしましたよ」当時のことを思いだし、ぼくは言った。「ミカコさん、だって幽霊っていうよりも雨に濡れた子犬みたいだったし、怖いってよりも、ただただ可哀そうで」きみはわたしを怖がらないよね、というミカコさんのつぶやきを受けてはじまった会話だったが、ミカコさんは終始どことなく不満そうだ。「まさか泣いてた理由が、夜な夜なじぶんの部屋の恋人たちが愛の行為にふけっていて、うらやましくての悔し涙だとは思わなかったけど」からかいたくなってそんなことをぼくは言った。ミカコさんは唇を尖がらせる。いっしゅん姿をかすめたかと思うと、ぼくの頭上にふわりと現れ、そのままぼくの膝元に、すとんとおさまった。おばぁさんのひざのうえで丸くなる猫みたいで顔がほころぶ。「ミカコさんはさびしんぼさんだなぁ」ぼくは彼女のあたまに触れようとするけれど、霧のようにすり抜ける。ミカコさんからぼくに触れることはできても、その逆はできないのだ。「ぼく、来月でもう卒業です。就職先も決まりました。この部屋ともお別れしなくちゃいけません」散々この話はしてきたからミカコさんだって重々承知しているはずだ。「ミカコさんはここから動けないんですよね」いわゆる呪縛霊だからだ。呪縛しているのが、ミカコさん以外の何かなのか、それとも(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889351256



2002:【超短編12『こちら、悪意でございます』】

「俺はおめぇを殺さなきゃなんねぇ。なぜって、そんなことに理由が必要か? 強いて言うならおまえがいまこれを読んでいて、その前には読んでいなかったってことが理由だよ。死ぬには申し分ねぇだろ? おまえはもうすぐ死んじゃうんだけど、だって俺がおまえを殺すわけだから、そうそう、おまえのことは知ってっからな。逃げんなよ。おまえがどこの誰で、どこに住んでんのか、おまえが誰の子どもで、誰の後輩なのか、おまえが無邪気にネットにばら撒いてる情報から簡単に突き止められんだ、そんくらいの想像力も湧かなかったかよ殺したいくらいお茶目でちゅねぇ。俺はこれからおまえを殺す。ぶっころすよ。だがその前にまずは、おまえがここ半年でもっとも愛情振りまいてやってる人間を拉致らなきゃなんねぇ。ネットは便利だよな、さいきん俺ぁ、業務用ミキサーを買ったばっかでな。空き缶から段ボールから、いらねぇ椅子から箪笥まで、なんでもゴリゴリまたたく間に砕けやがんの。クズになって、溜まってく。試してみたいねぇ。人間がどんな音をまき散らして、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889353757



2003:【違国日記4巻】

ヤマシタトモコさんの違国日記4巻を読んで、悶えて、ジタバタして、やっぱり悶えて、じったんばったん裏返って、はぁ~よい~~ってなって死んでたのが今朝のハイライトです。ヤッバ。まじヤッバ。いくひしは全力でまじマッパ。服と脱いじゃうでしょ、興奮しちゃうっしょ、はぁ~まじヤッバ。



2004:【超短編13『水溜りの底はどこ』】

コンビニからの帰りのことだ。雨上がりの道路を歩いていたら、ひときわ真ん丸い水溜りを見つけた。街灯の光を受けて輝いて見え、遠目からだとマンホールが発光しているようでもあった。近づいてみると、その水溜りは微妙にそらに向かって膨らんでいた。中華鍋を引っくり返した具合に緩やかなお椀型になっているのだが、表面張力にしては周りに何もなさすぎるし、水溜りの大きさも、跨ぐのが厳しいくらいに幅があった。もしこの大きさの水溜りが表面張力で膨らむとすれば、水銀でもむつかしいかもしれない。つまりこれは水溜りに見せかけた固体で、液体ではないということになる。それともトリックアートの類かもしれない、なるほどきっとそうだ。思い、近づき覗きこんでみると、それはきちんと立体の構造で膨らんでおり、微妙に表面をふるふると波打たせている。一種、ゼリーのようではあるものの、そこまで固体然としておらず、強いて言うなら無重力空間に浮かぶ液体じみていた。膨らみのなかにふと動くものを目にする。エビだ。エビが泳いでいる。半透明のエビで、さらに向こうのほう、より深い位置に見えるのはクラゲかもしれない。ふしぎなのは、エビはこちら側に腹を見せ、無数の脚を蠢かせているし、クラゲも底のほうに頭を向けている。まるでサカサマだ。目と鼻のさきにいるエビには見憶えがあった。どこで見たっけか。しばらく海馬を見えないゆびでかき混ぜるようにしていると、そうだ、そうだと思いだす。以前、足を運んだことのある水族館にこのようなエビやクラゲが展示されていた。特殊な水槽で、内部の水圧は一トンちかくになる。つまりそれらは深海にいるような生き物なのだ。でもなんでこんなところに? 疑問に思いながら、水溜りの膨らみ、その表面へとゆびを伸ばす。おっかなびっくり触れてみると、思いのほかやわらかな感触がゆびの腹に伝わった。さらにチカラを加えると、こんどはぶよぶよと反発して押しかえされる。分厚いゴムに似た感触だ。液体ではないのかもしれないし、単なる膜であるのかも分からない。あわよくばエビを捕まえようとしたのだが、企みは不発に終わった。しかし何事も諦めないのがおまえのよいところだと、むかし読んだマンガの主人公がその父親から言われていた。べつにこちらが言われたわけではないし、ほかの誰かに言われたこともない。ただ、諦めないのはよいことかもしれないな、となんとなしに思ったので、周りを見渡し、手ごろな木の棒を拾ってきては、その先端を、水溜りの表面に突き刺すようにした。木の先端がぶよぶよの膜じみた境界にめりこみ、水溜りの表面にシワが寄った。ほっぺたを箸でつつけばちょうど似たようなくぼみができる。さらに枝を押す手のチカラを強めると、間もなくして木の枝はぽっきりと折れてしまった。もうすこしだったのに、と意味もなく思い、いったい何がもうすこしなのか、と首を傾げながら、それでも諦めきれず、いったい何が諦められないのかが分からぬままに、こんどは懐から家の鍵を取りだし、その鋭利な先端で以って、ぐいぐいとやった。体重をかけるだけでなく、ねじってもみる。すると、さきほどまでグミのようだった水溜りの表面に、ピシッ。ヒビが走った。まるで授精したことで硬化する卵子のように、水溜りの膨らみは一面を白濁させ、こちらが差しこんだ鍵のところだけを黒くちいさくくぼませている。お腹の奥のほう、骨盤の中心からぞわぞわと悪寒が競りあがるのを感じた。急に夢から覚めたような、何かじぶんは取り返しのつかないことをしてしまったのではないか、といった現実味が蟻の大群となって襲いかかる。全身を蝕むそのぞわぞわを拭いきれぬままに、水溜りの表層に走った無数のヒビからチョロチョロと滲みでる液体を目視する。鍵を突きつけたままのこちらの手にそれは伝い、そのあまりの冷たさに反射的に手を引き抜いている。液体はつぎからつぎに滲み、溢れ、あっという間に水溜りの周りは水びだしになった。足元のぜんぶが水溜りになったと言うべきこの状況を前に、しかし依然として丸みを帯びて膨らんだままのひび割れたそれがはっきりとカタチを帯びたままであることをふしぎと自然であるかのような心地で受け止めながら、徐々に勢いを増し、溢れる液体の滾々と湧きつづける様子に、この場から逃げだすこともできず、ただ呆然と立ち尽くす。やがて液体は女の子の赤ちゃんの小便のように噴きだしはじめ、徐々に男の子となり、間もなくすると水柱を高々と、それこそ熱水泉がごとく立ち昇らせるのだった。辺りは浸水しはじめており、純白のエビが漫画の吹き出しのように或いはポップコーンのように内臓を白く咲かせながら、足元を流れていく。



2005:【予定変更】

2019年の4月中に電子書籍化すると言っていた短編集「千物語(銅)」ですが、予定を変更することにしました。ショートショート100話のうち第67話「ポルカ、乗るか、反るか」が未完だったのを見落としており、どうしようかな、と迷った挙句、それを飛ばしてまずは64~77話までを電子書籍化しようかとも思ったのですが、いくひしの性質上そういうことをするといつまでもその物語を閉じずにいたり、あとあとほかの創作にも影響がでてきそうなので、ズルをせずに、一つずつこなしていくように方針を決めました。毎日更新するよーって言ってた超短編も、ぜんぜん超短編ではなくなってきてしまって、1万字超えのと5千字超えのがそれぞれ溜まっていて、やっつけている最中です。かかってこいやー! あとはホント、一年以上前から溜まりに溜まっているつくりかけのを順々に閉じていきたいのですが、閉じていきたいなぁ、と思ってばかりで、ぽこぽこ新作の種ができては、それにかかりきりで、あーもー、ってなってます。なってます? なってないかも。いくひしさんがいくひしさんの物語をつくろうがつくらなかろうが、世のなかにはなんの影響もないわけで、まいにちつくりたいものをつくりたいようにつくってます。ひとまず、つくってますよー、という報告と、これからこの「いくひ誌。」をどういうふうにしていこうかなー、とすこし迷っているところもあって、せっかくの連休中なので、いろいろ考えていこうと思います。ちなみに、定期的に言っていかないとあれなので、並べておくと、これはいくひしさんが人類が滅んだあとで誰もいない世界で、ひょっとしたらどっかに生き残ってる人間いるかもしんないじゃんって思って流しているラジオのようなものなので、なんというか、ほら、ね。ひょっとしたら数百年後に、いくひしさんの飛ばした電波をキャッチする異星人もいるかも分からんので、そういう感じで、つれづれと交信よろしく、更新していこうと思います。します。いつの日にか届いてくれたらうれしいです。とっても。これをあなたが読んでいるとき、いくひしはもう死んでいるかもしれないし、ここにはいないのかもしれない。でも、太古の遺跡のからくり仕掛けみたいに、あなたがそれを起動して、こうして読んでいる未来がいつかきっとやってくると想像すると、なんかこう、ね。それがこれをつむいだ三日後とかだったら微妙に気恥しいのですけれども、そういうのにわくわくしていく人生って、なんだか贅沢で、いいなぁ、と思います。思います? 思うよ! そういう感じのなんだかんだで、2019年4月30日のいくひしまんでした。



2006:【ツンドクよりもツンデレ】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなぁ。いくひしさんはきのう、ブロック塀のごとく積みあがった未読の本を読み進めようと思ってたんまり時間を割いてみたら、ぜんぜん時間が足りんことに気づいて、うれしいのやら、かなしいのやら、ぴーひょろぴーひょろでござる。いくひしさんは割と、つまみ食いをしてそのままでいることが多いタイプでござって、すこし読んだけどそのままー、とか、半分まで読んだけどそのままー、とか、あと二十ページで終わりだよー、ってところでそのままー、とか、とかくいつまでも完食しない読み手なのでござるよ。もうね、もったいない。もったいないのよ。読み終っちゃうのがもったいない。で、なんかこうね。きょうはこの辺にしといてやるか、ふー。みたいなね。顔面紅潮して、ふしゅー、ふしゅー、いってますけど、興奮しっぱなしの瞳孔開きっぱなしでござるけれども、いいとこでやめとく、みたいな楽しみ方って、寸止めみたいで、というか、まんま寸止めなんですけれども、寸止めってべつにエッチな意味じゃなくても使いますよね、でござるか? げふんげふん。いくひしさんはただでさえ万年むっつりちゅけべの疑惑でござるから、あんまり疑惑に拍車をかけるようなことは並べたくないでござるが、本を買ってはひとまずひと口食べてみて、おいちーおいちーってなったところでよこちょに積んどく。世間ではこれ、積読くなんてうまいこと言い表しちゃう言葉もあったりして、いくひしさんたらまさにそれなのでござるよ。でもツンドクって、ツンツンに加えてドクドクしくて、なんかこう、おまえどっちも辛辣やなー、みたいな所感を覚えるのでござるが、いくひしだけでござるか? せめてツンツンしたならデレてほしいでござる。たぶんでござるけど、積んどいたままなのがお気に召さないんでござるよ。だからちゃんとときおり時間をかけて、積んだ本は読んでいくのがよろしいのではないかなぁ、と思うでござる。ツンドクならぬ、ツンヨムでござる。ツンツンしたあとはヨムヨムするでござる。なんかかわいい~。とぅき~。かわいこぶって好感度をあげようとたくらむ本日のいくひしまんでした。で、ござるー。



2007:【ビジョンや信念を持つ利点】

いくひしは確固たる自我みたいなものを持っていないので、もちろん確固たるビジョンや信念なんてものも持ち合わせていない。ただ、それらを持っていたほうが得をする場面があることは承知している。たとえば、いまぱっと考えて思いつくのは、じぶんよりはるかに優秀で明晰な思考形態や回路を有している人物と相対したとき、確固たるビジョンや信念を持っていると、自己の内側を見透かされてもマイナスイメージを持たれにくい、といった点だ。邪心や利己的な考えに衝き動かされていると見透かされることほど、相手との関係性を維持しにくくなることはない。あべこべに、相手と一線を引いておきたいときには、敢えて敵意をみせることも有効となる。いずれにせよ、確固たるビジョンや信念を持つことの利点とはその程度のものだと評価できる。じぶんよりスバ抜けて優れた人物に会ったときに失望されにくくなる。ただそれしきのことである。べつだん、確固たるビジョンや信念を持ち合わさずとも、目的を遂行するだけなら充分可能だ。ときにはビジョンや信念が足枷となって、目的から遠ざかってしまうこともあるだろう。むろん、ビジョンを持つな、信念などくだらない、と言っているわけではない。ただし、確固たるそれ、である必要はないのではないか、と思うことはたびたびある。関係性とは相対的なものであるから、あなたが変化せずとも周囲の環境が変質すれば、おのずとあなたの確固たるなにかしらもまた変質するのが道理である。本質的に確固たる何かを築きたければ、不動の何かを抱え込まずにいたほうが有利である。優先すべきは、周囲の変化に敏感になること、よく観察し、根気強く変化を捉えようと気を配り、ときに遠くに目をやることであろう。じぶんが抱えている何かなど、万物の変遷に比べれば微々たるものだ。だからこそ、その微細な何かをだいじにしたくなる気持ちも理解できる。だが、それに囚われ、せっかく磨きあげたあなただけの宝物を曇らせてしまうのは、それはそれでもったいなく思うしだいだ。もちろん、曇らせてわるい、なんてことはまったくないのだが。ときには雲らせ、ゆびでいたずら書きをしてみるのも一興かもしれない。それはそれで、新しい磨き方への布石となるかもしれないのだから。まずはさておき、曇っていることには自覚的でありたいものである。



2009:【がんばらなくていい?】

2019年げんざい、SNS上では、がんばらなくていい、むしろがんばるな、みたいな論調が台頭してきているように見受けられる。努力をせずに済むように工夫をしていきましょう、という意味あいであるのなら、そのとおりですね、と何の批判も湧かない。ただ、あまりに一辺倒に、がんばらなくていい、がんばるな、みたいな言葉ばかりを一部の人々が合言葉みたいに唱えているのを眺めていると、なんだかまるで、じぶんより下の人間に追いつかれまいと蹴落とすための方便を唱えているように錯覚してしまう。穿った見方であることは承知のうえで並べておくが、大した成果もあげていない人間の言う「がんばらなくていい」は、テスト前に「ぜんぜん勉強してないわぁ」と言っている人間と大差ないように感じる。「俺(私)は勉強してないから、もちろんおまえも勉強しないでテストに挑むよな」といった暗黙の了解を他人に強いているように見受けられるのだが、疑心暗鬼にすぎるだろうか(しかも言った本人はじつは勉強をしている。すなわち、相手を出し抜くためのブラフである)。すでに成果の土台が築かれていて、大量のインプットやアウトプットをせずに済む人間であるのなら、がんばらずにいてもよいだろうし、努力せずに済むだろう。なぜなら彼ら彼女らはすでにがんばっていて、努力し終わっているからだ。成果をあげていない人間や、何かをはじめたばかりの人間は、がんばらなくてはならないし、努力を避けては目的を達成することは困難だろう。あたりまえの話であるが、こんなあたりまえの話も、いまでは注釈を挿すようにときおり発信していかなければならない時代なのかもしれない。もちろん言うまでもなく、がんばったからといって望んだ成果があがるとは限らないし、効率のよい努力とそうでない努力があるのも確かである。だからといってそれは、何もせずにいてよい理由にはならない。何かを成したければ、がんばらなければならないし、努力を避けてはいられない。ただし、自己評価として、それを努力だと見做さずにいる人間がいることは確かだ。けっきょく、じぶんの行動をどう解釈するか、の話に帰着していく。そして、がんばる必要性は、自分以外に説く道理はない。他人に「がんばれ」と言うのは、これは鼓舞や激励の意味あいであるならばまだ挨拶のようなものだと理解できるが、そうでなく、何かしらの成果をあげさせるために「がんばれ」「努力しろ」と指示するのは、的外れと言うほかない。がんばることや努力は、術ではない。何かしらの術や策を実行したあとで、自身を振りかえり、「あー、あのときじぶんはがんばっていたのだな」「あれがいわゆる努力だったのだな」と実感する「過去」のようなものである。過去とは、「いま」が過ぎ去り、振りかえったときに視えるまやかしである。過去は存在しない。がんばりや、努力が存在しないのと同じように。しかし、たしかにそれは、「現実(いま)」として、或いは「行動」として、この瞬間にもあなたの周囲に漂っている。いわば、影のようなものなのだ。そして、振りかえったときに視えるその影が、道のように感じられたとき、あなたはそれを「努力」と呼ぶようになるのだろう。つまり、がんばることや努力の価値とは、自身の辿ってきた時間を振りかえったときに、それが無駄ではなかったのだ、と実感できるようになる点にある。そして、それはいますぐに判断できることではないのだ。だからこそ、がんばることや努力することを目的にするのではなく、どうしたら目的を達成できるか、どうしたらいま費やしている時間を無駄だと思わずに済むかを考え、ときには敢えて無駄なことをするという選択肢も考慮に入れたうえで、言い換えれば急がば回れを視野に入れたうえで、一つ一つ、何を選び、選ばないのかを、繰り返し、進んでいくよりないのである。がんばるとは、この取捨選択の日々に馴染み、踏ん張ることであり、努力とは、取捨選択の基準をより精度高くするための学びであると言えるかもしれない。がんばるな、とは、言い換えれば、がんばることを目的にするな、と同義である。がんばらずに成果があがるならそれがいちばんよいですよね、というなんとも幼稚な所感にすぎず、何もしなくてよいと謳っているわけではないのである。人間、何もせずに楽をすることはできないのだ。何かをしている人間が以前よりも苦労せずに報酬を得る。それが楽をするの意味だ。がんばらない、楽をするとは、けっきょくのところ、苦労を知った者しか味わえない、いっときの休息のようなものであり、延々と楽をしつづける、なんてことはあり得ないのである。もちろん、いまあり得ないだけであるから、それを目指してはいけない、なんてことはないのだが。



2010:【どの口が言う】

そんなん言うてますけど、いくひしさん、あなたほど怠け者で、努力をしないちゃらんぽらんをぼかぁ、知りませんけどね。ぼくからすれば、いくひしさんのその発言はまるで、他人に鞭打ち、自爆するように仕向けているようにしか見えませんけども、これもいくひしさんからすると穿った考え方ってことになるんでしょうかね。何にせよ、いくひしさんはがんばったほうがよいと思いますよ。ホント。あなたはすこしは努力を知りましょう。努力がなんたるかを知ってから、そういう偉そうな口を叩いたらよいのではないでしょうか、とぼくなぞは思ってしまいますけれどもね。要するに、いまのままでは目的から遠ざかるばかりですよってことです。聞いてますか、いくひしさん。あなたに言ってるんですよ。ほかの誰でもなく、あなたに。いくひしまんなる、へっぽこ目、作家もどき科、減らず口属の益体なしにですよ、わかってるんですかねぇ。ぼかぁ、心配ですよホント。



※日々、甘ったれている。



2011:【覚めるのを待っている】

いま、ものすごく自意識が暴走しているので、冷めるのを待っているところです。しばしお待ちください。



2012:【憧れ、殺意、ぞんび】

嫉妬を抱く暇もなく、ぶっころされて生きている。いくどもいくどもぶっころされては、ゾンビみたいにさまよっている。誰かの何かを終わらせたくて。あなたの何かを圧倒したくて、私はきょうも有象無象にぶっころされて生きていく。



2013:【素直で正直な文章?】

じぶんに正直な文章がよい文章だ、みたいな主張を目にした。そういう一面もあるとは思う。思ってもないことを並べたところで、どこかで空々しいというか、白々しいというか、心に響かない感覚が解からないではない。ただ、そうしたじぶんに正直でいられるのは、それこそ人間として踏み外していない個人の特権であって、素直にとか、正直になってはいけない人間もいるところにはいるのだとすこしは頭の隅に置いておいたほうが、いろいろと厄介な輩を呼びこまずに済むような気がする。言ってしまえば、ある種の素直な者、正直な者たちが、この世のなかにおいてテロを起こしたり、大量虐殺を起こしたりするのではないかと思うのだ。素直になってはいけない人間はいるし、正直になって生きてはいけない人間もいる。というか、そういう人間のほうがじつは多いのではないか、といくひしさんは疑っている。これは物書きでも同じだ。たとえばへっぽこぴーの誰かさんなどは、基本的に心の真ん中のほうにあるのは、「ぶっころす」の塊だから、何を見ても、ぶっころすだし、何を聞いても、ぶっころすだ。じぶんに対してもぶっころすだし、たいせつにしたいなと思っても、ぶっころす。否、たいせつだからこそ余計にぶっころしたくなる欲求は、案外に卑近な感情ではないかとすら思っている。他人に優しくするのはぶっころすためだし、仲良くするのもぶっころすからだ。ただし、ぶっころし方にもいろいろあって、飽きない程度には、試行錯誤を繰り返しながら、さまざまな人間のさまざまな側面をぶっころして生きている。そのへっぽこぴーな誰かさんは、もちろんあなたの何かもぶっころしたくてうずうずしている。蹂躙したいし、圧倒したい。ぶちのめしたいし、やっぱりどうしても、ぶっころしたい。なぜと問われたらもう、その誰かさんはこう言うことに決めている。愛しているからだよ。愛したいんだよ。愛しあいたいんだよ。ぼくのものになってよ。ぼくをあなたの特別にしてよ。あなたの最期をぼくにください。あなたの生があなたのものであるかぎり、ぼくはあなたから死を奪い、刻み、ぼくの存在を以って、あなたの人生を飾りたいんだ。ぶっころす。ぶっころすよ。せいいっぱい抗ってみせて。たくさん、たくさん苦しんでみせて。ぼくはそれでもおまえら全員ぶっころすからさ。



2014:【確信に近づく】

いくひしさんがここ数年、だいたい2016年くらいから定期的に言いつづけてきたことであるけれど、さいきんになってほぼ確信に近づいてきたな、と思うことがある。ずばりそれが何かと言えば、「バズったら負け」である。SNSではバズらないほうが長期的にはお得である。なぜなら、SNSの特性上、飽きられやすいものがバズりやすいからだ。つまり、バズっているのは、そう遠くないうちに飽きられてしまうもの、ということになる。もちろん、バズるバズらないに拘わらず、たいがいのものは飽きられる定めにある。例外はない。飽きられるまでの期間に長短があるだけだ。ただそれを考慮に入れても、バズったコンテンツは飽きられやすい。すくなくとも、バズったから大ヒット作になる、ということは九割九分ないと言っていい気がしている。逆はあるのだ。大ヒットしたコンテンツがSNS上でもバズるのは卑近な現象としてなじみ深い。しかし、バズッたからキラーコンテンツにまで成長する、といった事例はほとんど見当たらないのではないか。リンゴとボールペンの一発芸で世界的に人気を博した芸人も、いまではもう話題にのぼらない。飽きられてしまっているからだ。現代では、流通がネットへと移行しつつある。中間の卸売が淘汰され、今後は、生産者と消費者が直接繋がる社会になっていく。それにつれて、これまで培われてきた消費者の感性も大きく変質していくことが予想される。どういうことかというと、これまでは卸売りの中間業者の意向が、社会に流通する商品の質に大きく作用してきた。そこには広告代理店との癒着があり、ある種の流れを恣意的につくることが可能だった。これこれこういう流行りをつくりたいから、こういう商品を世に多く流してくれ、流れに逆らうような品はどうせ売れなくなるから流さなくていいよ。こういった横やりのようなものが、漠然とであるにせよ、業界内に抗いがたい流れとして漂っていたのがこれまでの社会である。しかしSNSが普及した現代では、個人がいくらでもこうした流れをネットのなかにつくりだせるようになった。需要者もまた、数多あるコンテンツから好みの品を独自にピックアップできる。そうすると従来のつくり方では、画一的な、誰にでも受け入れられるヒット作がつくりにくくなるのが道理である(なぜなら多様性が増すので)。そして現に、これまでのような作風で大ヒット作は生まれていないように観察されるがいかがだろう。一方では、大ヒット作がなくともビジネスとして成立しやすい土壌が築かれつつあるとも評価できる。瞬間的な流行りのほうが爆発的に伝染しやすい。そしてぱっと売って、ぱっと撤退すれば、在庫を抱えずに済むし、利益だけを回収できる。長期的な計画で、じっくり社会に浸透させるような計画はコストがかかり、失敗したときのリスクが高くなる。そうなると企業のほうでも、卸売を介した長期的な計画は敬遠し、単発での流行りを追うようになっていく。バズったコンテンツを片っ端から収穫していくいまのコンテンツビジネスもこのはしりとして分類できる。ただし、さきにも述べたように、こうした流行りは瞬間的であり、短命だ。たとえば紙媒体の本にして売るにしても最短で三か月はかかるだろう。その間に流行りが衰えてしまうリスクはけっして低くはない。熱しやすいものは冷めやすいのである。だからといって、この短命な流行りを主眼に置いた戦略は、ビジネスを成功させるうえでは避けては通れないので、蔑ろにもできないのが実情だ。短期的な利益を確実に回収しながら、長期的な視野での計画も練っていく。近年の大成功の例としては、アベンジャーズシリーズがあげられる。巨大な一本の物語をつくりあげるために、いくつもの異なる主人公の物語をさらにシリーズとしてつくりつづけてきた。その枝葉である物語ですら、大きな物語としての枠組みを有しており、一発一発が、超規格外だと評価できる。単発であるようで、単発ではない。多層な構造を有した物語を、異なる視点で描きだし、世に放っていく手法は、これからますます増えていくことが予想される。そして、こうした手法は、成功するまではバズることがない。なぜなら、バズるからつくるわけではないからだ。たとえバズらなくとも、巨大な物語を編むためのピースとして必要ならば、コストをかけてつくりだす。なくてはならないからつくるのであって、バズるからつくるのではないのだ。ひとむかし前の、卸売りと広告代理店がとっていた戦略のように、大きな流れを構築するために、世に流通する商品を調整する。こうした戦略を、むかしとは異なりいまは生産者みずからとることが可能となった。現代のSNS時代において、生き残っていくために有利な指針とは、まさにこの、多層構造を意識した戦略であると予見できる。そしてこれは、フラクタルな性質を有しており、単発のピースである物語もまた多層構造をなしている。アベンジャーズシリーズの作品を眺めてみれば瞭然だ。従来の、一つの核を中心に物語を肉付けしていく手法ではなく、異なるテーマ、異なる視点、異なる世界観を巧みに編みこみながら描いているのは、近年のヒット作に共通する点であると分析できる(もちろん、多額の製作費や広告費をかけてこそ世界的大ヒットを記録した背景は見逃せないのだが)。いくひしはこの構造を、海外ドラマの脚本に関連付けて、三本リボン構造と呼んでいる。フラクタル、三本リボン構造は、これからの時代において外せない創作論と化していくだろう。起承転結や三幕構成はもう古い。というよりも、「売れる作品は一文で要約できる」といった言説と似たようなある種の幻想であったと指摘したい。おもしろい物語はフラクタルな性質を有しているため、いくらでも分割できるし、どのような視点でもまとめることができる。三本リボン構造のように、三つのストーリーラインを備えているため、これも視点によって各々、一文にまとめることが可能だ。しかし、それはけっして唯一解ではない。見る者の視点によって切り取られる枠組みが変質していく。どの角度から眺めても破たんせずに、異なる世界観を嗜好する需要者たちを魅了する物語。それこそがこれからの時代に求められている物語の指針である。否、かねてよりこうした物語こそが名作として残ってきたのではなかったか。名作はそれ自体がSNSでバズることはない。なぜならSNSに載せられるスケールをはるかに凌駕しているためだ。断片を切りだすにしても、その断片ですらSNSに載せきれないほどの情報量を誇っている。コンパクトにまとめられた情報が重宝されがちなSNSにおかれては、そうした超特大容量の物語が初見でバズることはないのである。逆から言えば、SNSでバズるような作品は、フラクタルではないし、三本リボン構造を備えてもいない。もちろん、バズッた作品はダメだ、と言っているわけではない。それはそれで大勢に認められた作品であることは確かである。短命であろうと他者をよろこばせ、感動させた事実は覆ることはない。ただし、本当にそこを目指しているのですか、とときおり自身に問うてみるのもそうわるくはないはずだ。バズる、バズらないは、その物語のポテンシャルを測る指針にはならない。SNSは宣伝や広報の手段として活かす方向に徹底したほうが好ましいだろう。物語づくりの指針にするには危うすぎる。これだけは頭の片隅に置いておいて損はないのではないだろうか。



2015:【現状は戦場、先導を洗脳】

読者としてのいくひしは、紙の本が好きだし、書店さんが好きだし、おもしろい物語を発掘して、世に発信してくれる出版社が好きだけれども、それはそれとして、客観的に世のなかの動向を眺めて見ればいずれも、紙の本は石版と存在価値が変わらない代物になっていくだろうし、書店さんも目玉商品は本ではなくなっていくだろうし、出版社も広義の「証券会社」になっていくようにしか思えないのだ。もちろん、いくひしがどう見做そうが、現実はかってに進んでいって、未来を結び、つぎつぎにあらゆる「いま」を過去としていく。いくひしの予想に反した結果が現実としてやってきてもふしぎではないし、いくひしはまったく困らない。どころか、基本的にいくひしはじぶんの予想が外れたほうが好ましい、と常々思っている。ただ、いくひしさんに想像できることはたいがい現実になってもおかしくないことで、要するにいくひしさんには想像力がないだけのことなのだけれども、何が言いたいかと言うと、きちんと今後どうするかを考えておきましょうよ、という願望だ。もうすでにどうなっていくかは、当事者たちには実感できているはずだ。身を切り裂かれそうになっている人間はみな口を揃えてこう言う。「いまここが正念場、いま目のまえのことに集中しないことには輝かしい未来は切り拓けない」と。でも、もうそういう時期はとうに終わっていて、目のまえのことを着実にこなしていくことは前提であって、いずれそう遠くないうちにやってくる結末――新しい時代において、どういう方向性で生き抜いていくかを、いま追われている仕事以上に思考を割いて、考え抜いていかなければならない時期のはずだ。紙の本も、書店さんも、出版社も、すでに終わっている、なんて言うつもりはないし、そんなことはあり得ない。ただ、すくなくともこのままではもういられない。それだけは確実な未来として、否、現実としてとっくに目のまえに現れている。示さねばならないのだ。誰より先頭を走り、苦難を切り抜け、立ちふさがる隘路を打開せんと闘っている者たちは、後続する者たちに、そっちじゃない、こっちだ、と辿るべき方向性を示さねばならない。無理強いではない。道はおのおの自由に進めばよい。ただ、どの方角へ向かうか、くらいは示しておかねば、いずれ小川は干上がり、海へと辿り着くことなく、消えていく。大河は、同じ場所をめざし流れる小川の群れなのだ。途中、湖に辿り着く者もあってよい。だがいずれ、その湖も、沼ですら、どこかでほかの水脈と繋がっている。示さねばならない。しかし果たしてそれを示している者があるだろうか。考えることも、行うことも、何かを成すためには欠かせない。そして、そのさきへと突き進むためには、示さねばならない。先導するのではない。洗脳するのでもない。示すのだ。私はそこへ向かっているのだと。向かうのだと。私の命を捧げてなお届かぬそのさきへ、しかし命を捧げる価値のある何かがそのさきにあるのだと私に確信させた未来がこの道のさきにはあるのだと。偽るのでもなく、欺くのでもなく、つぎの時代へとつづく地図を、示さねばならない。地図はけっして正解ではない。しかし、旅の道中、景色を楽しむ余裕を育んでくれる。示さねばならない。示し合せるのでもなく、示されるのを待つのでもなく、こっちにもいけるよと、こっちはだいじょうぶなのだよと、示さねばならない。



2016:【自意識、冷めてきた】

ねばならない、なんてことはどんなことでもないんじゃないかなって。あとどうでもいいけど、アメコミを編みこみ、ってフレーズを思いついたので、ここにメモしておきます。



2017:【反面教師】

いくひしさんのような人間モドキを好いたり、崇めたり、憧れたり、真似したり、同情を寄せたり、感謝したり、恩を感じたり、憎んだり、執着したり、とかく何か人生の一部に取り入れようとする姿勢は感心しない。あんなやついつでもひねりつぶせるよ。ただかわいそうだから、そっとしといてやってんだ。そう思うくらいでちょうどいい。無視するくらいがちょうどいい。遠くから眺めるくらいで充分すぎる干渉である。百歩譲って観賞である。すこし嫌いだな、くらいに思っているのが妥当な所感と呼べそうだ。



2018:【知恵の無】

知れば知るほど、じぶんが無知だと身に染みて痛感するわけだけれど同じように、自由を求めれば求めるほど、じぶんがいかに不自由で、不器用で、自由ではないのだと突きつけられる心地がする。自由を求めずに、不自由を不自由だと感じぬままに日々を過ごすことのほうがよほど自由な気がしてくるほどで、自由という枷を外すためには、自由を忘れることに努めたほうが手っ取り早いのかもしれない。或いは、自由など端から存在しないと諦めるのも一つだ。自由がないのだから不自由もないのが道理である。では、極めるとはなんだろう? 思いどおりに動けるようになることでもあり、一つの型に隙間なく、揺るぎなく、所作を押しこめることでもある。より自由に、より不自由に。極めるとはつまり、存在しない自由や不自由を矛盾なくその手中にすることかもしれない。そしておそらく、そのつぎの段階に、手にしたそれを手放す「空」がかすかにその片鱗を匂わせるようにも感じられる。「空」は「無」ではない。その違いとは何か。段階を経ているか。何を得ているか。つまり、手放した「それ」の価値に依存すると呼べるかも分からない。なんにせよ、求めないことにははじまらない。掴まずにはいられない。なにより、手放す契機を見逃さぬことである。



2019:【本はよいものでござる】

やあやあ、いくひしさんだ。お久しぶりでござるなぁ。さいきんのいくひしさんはぜんぜん本を読めていなくてな、ちびりちびりとめくってはいるのだけれども、常時百冊くらいを回し読みしてるので(自慢でもなんでもなくて、単に数年単位で読了できていない本が積み重なっているだけの話なのだけれど)、ぜんぜん進まないでござる。もうもう、創作もおんなじで、つくりたいのありすぎてもうだめでござる。いくひしさんはだめだめでござる。しってたでござる。いくひしさんはだめだめなんでござるよ。でも、だめだめでもぜんぜん生きていけるし、やりたいことばっかりで、あと寿命千年くらいほしいでござる。千年あってもたぶんやりたいことぜんぶはできないでござるな。いくひしさんは欲張りでござるよ。さいきんは、どんな本を読んでも、すごいなー、すごいなー、ってなってしまって、書いてある内容がどうこうよりも、その本ができるまでの背景に思いを馳せては、ものすごい偶然の巡り合わせと、たくさんのひとの日々の生活のおかげで、いまこうしていくひしさんの手元にあるんだなぁ、と想像しては、すごいなー、すごいなー、ってなってしまうごでざる。ありがたいでござる。うれしいでござる。本だけでないでござるよ。いくひしさんはよく、おそとを出歩くときに、すれ違うひとたちや、車のなかのひとたちの人生を想像しては、この一瞬でたくさんの人生が重なり合い、すれ違い、またどこかで出会っていくのかと想像するだけで、ぽわわわーん、となってしまうでござるよ。一瞬で濃厚な物語を読んだ心地になって、楽しいのだけれども同時に、ものすごく疲れてしまうでござる。だからいくひしさんはあんまりおそとにでたくないでござる。ひきこもりでござる。でもいくひしさんがだめだめなのは、ひきこもりだからではないでござるよ。生来のものでござる。そして将来にわたってこれは変わらない性質なのでござるよ。いくひしさんと書いて、だめだめと読むでござる。でも、ふと思うでござる。いくひしさんはだめだめだけれども、そんないくひしさんにも何かしらの意味があるとしたらきっと、だめだめなことにも意味があって、それはきっとだめだめではないのでござるよ。だめだめなのに、だめだめではないでござる。と、いうよりも。だめだめなことが、だめだめじゃなくなっていくことだってきっとあると思うでござる。それはたとえば、自由なつもりで、そのうち不自由になってしまうのと同じように、不自由なことが本当はとても自由なことであったりするのと似ているでござる。いくひしさんはだめだめでけっこうでござる。いくひしさんがだめだめを極めて、だめだめだけれどもだめだめではないんだよー、と示せたら、それはそれで意味のあるだめだめでござる。いくひしさん自体はなにも変わっていないけれども、だめだめに対する周りのみんなの考え方が、見方が、解釈が、変わっていくでござる。いくひしさんは本当はそういう、あるときはこうで、でもまたあるときはこう、みたいな曖昧でいいかげんな解釈は好きではないでござるけれども、いいかげんな解釈や判断をしていたのだなぁ、と誰にともなくナニカシラに示せるきっかけになるのなら、それもまたよしとするでござる。きょうもきょうとて、だめだめなくせにえらそうでござる。でもしかたがないでござる。いくひしさんはだめだめなのでござるよ。許してほしいでござる。もちろん、許さなくてもよいでござる。楽しく生きたいでござる。誰の負担にもなりたくないでござる。誰の役にもたちたくないのと同じくらい、迷惑をかけたくないでござる。傷つけたくないでござる。じぶんの世界に引きこもっていたいでござる。どうしたらいいか分からないでござる。分からないままで、分からないことを楽しんでいきたいでござる。でもときおりなんか分かった気にもなりたいでござる。欲張りでござる~。



2020:【小説のつよみ】

小説のつよみは時代の変遷につよいことだ。何十年と読み継がれる作品が、ほかの媒体に比べて、登場しやすい。そして電子書籍という新しいレールができたいま、とりあえずだしておく、というのは戦略として有効であり、おそらくこれからさき、生存戦略として欠かせない一手となっていく。すこしでもいいものは、とりあえず電子書籍でだしておく。これは十年、二十年経ったあとに、紙媒体で売れるモノしかださなかった業界と比べて、大きな差がでてくることは明白である。しかし、大きな組織ほど、ブランドを気にして尻込みする傾向にあるので、選り好みせずに果敢に攻めていく組織と懇意にしておくと、のちのち得をするようになるだろう。もちろん、得をしなくてはならない、なんてことはないので、好きかってにやれる未来と天秤にかけながら、道を一つに絞らずに、種を撒いていく感覚で、いろいろと試行錯誤をしていきたいものである。



※日々、勇気を探している、見たことも触れたこともないのに、どこかに必ずあるのだと信じてちっとも疑わず、ひょっとしたらむかしどこかで落としたのかもしれないと、以前は持っていた気にすらなり果てて、しかし同じ頭脳で、似たような「愛」なるものは幻想だと切り捨てている。



2021:【あれ、待って】

ひょっとしてだけどいくひし、孤独が好きなつもりでただ、人に好かれないから孤独が好きだってことにしているだけなのでは? ヘタクソなだけの作品を独自性が高すぎる、天才はいつの世も簡単には認められないのだ、とじぶんを慰めていただけなのでは? 待って待って、そう考えると、えー!!! 腑に落ちる!!!! いくひし、ひょっとして天才ではないのでは?



2022:【遅すぎるだろ】

いまごろ気づいたかバカめ。



2023:【一周回って】

そのことに気づけたのはすばらしいですね。一周回って天才だと思います。



2024:【うっせえ】

天才とか天才じゃないとか、ばかとかばかじゃないとか、どうでもいいんだよんなことはよォ。いいからはやくつぎの世界を見せてくれよ。おめぇだけの世界をよォ。



2025:【いくひし、おばかさんなの】

なんでか知らないけど先月(2019年4月)から万葉集がSNS上で話題になっている。いくひしさんは万葉集が好きなのだけれど、万葉集という字面と響きが好きなだけで、万葉集がいったいいつの書籍で、いったい何が載っているのかはさっぱりだ。と思ったけど、ホトトギスが托卵することがすでに万葉集に載っていて、むかしからその生態が知られていたことは、知っている。なんで知っているかというと、「北海道・東北ふるさと大歳時記」にそう書いてあったからだ。ちなみにそれを読んだのはきょうで、たまたま開いたページに載っていただけの話である。いくひしさんにある知識はこうしたたまたま知ったものが大半だ。勉強するする言ってて、したためしはないし、学びなんて苦手も苦手、何かを体系そのままカッチリ体得したことなどいちどもない。いくひしさんの学力は小学生並である。これは謙遜しているのではなく、本当にそれくらいの知識しか持ち合わせていないのだ。否、都道府県名もまともに言えないので、小学生以下かもしれない。こうして自慢にもならない自慢をしてしまうくらいに知能が低いのである。ちなみにさいきん抱いてずっと気になっている疑問は、病院の外来だと薬は病院のそとにある薬局で買う仕組みが一般的だけれど、あれってなんでそうなってるの?ということだ。むかしからこんなパチンコの三店方式みたいな仕組みだったろうか。どんな得があって、ああした形態が増えたのか気になっている。あとは相対性理論がどうしても納得できない。地球、太陽系、銀河系、銀河団、宇宙の膨張、観測者がどの視点にたって眺めるかで、何が速く運動しているかは変わっていくものではないのだろうか。極論、地球は太陽系を回転しているのだから、ロケットはその場にとどまっているだけで、充分に地球から離脱することが可能だ。同じ原理は、太陽系にもあてはまるし、銀河系にもあてはまる。宇宙は膨張しているのだから、その場にじっとしていることができるのなら、光速より速く物体は移動できることになる。もちろんこの前提はナンセンスなのだろうが、すくなくとも地球は宇宙を高速で移動しており、そこから脱するロケットは、地球の公転に逆らうように飛んだ場合、太陽から見たらより速く移動しているのは地球のほうだ、ということになる。たとえれば、川に流した笹船が地球だとすれば、川を上ろうと必死に泳いで流れになんとか抗っているサケがロケットだ。笹船からすればいっしょに流れるほかの笹船や木の葉は止まって映り、サケのほうが遠のいて映るはずだ。しかし川のそとにいる太陽(観測者)からすれば、じっさいに高速で移動しているのは笹船のほうであり、サケはむしろ(のろのろと)止まって映る。同じことが、太陽系や銀河でも起こり得るが、この場合、相対性理論はどのように解釈するのか。つまり、観測者がどの「場」にいて、運動する物体がなんの「系」に内包されているのかが問題になってくる。そして「場」や「系」によって、相対性理論から導かれる解は、同じ対象を扱うとしても、大きく、ときに真逆になるほど、異なるのではないか、とふしぎに思うしだいである。



2026:【ただのゴミ】

いくひしさんはじぶんに価値などないと知っているし、なくても生きていてよいと思っている。いくひしさんごときに誰かを責めたり、非難したりすることはできないし、する必要もないと思っている。言い換えれば、いくひしさんには誰かを傷つけるような力はないし、何かを変える影響力もない。なくていいとすら思っている。誰も傷つけたくないし、みんないくひしの関係ないところで仲良く楽しくやってほしい。ただ、ときどき、いくひしの「これすきなんだー」って気持ちを知ってほしいというか、「みてみてー」となるときがあって、いくひしこれすきー、ってモノや人が、いくひしのほかにも同じように、これすきー、ってされているのを見ると、いくひしさんはすこしだけ孤独じゃないのもいいかもな、って思うのだ。いくひしさんが好きかってできているのは、いくひしさんがじぶんに価値がないことを知っているからだ。責任なんて負いたくないし、誰からも必要とされたくない。ゴミでいいから、価値なんてなくていいから、好きに生きさせてほしい。いろいろな選択肢を、いろいろなままで、そのときどきで選ばせてほしい。たぶんきっと、これがいちばんわがままなことなのだろうけれども、いくひしさんが欲張りなのはいまにはじまったことではないので、しかたがないと諦めてほしい。とっくに呆れられて、飽きられて、諦められてしまっているのかもしれないけれども、それこそ望むところなのだ。いつまでもクズでいられるってすばらしいことだと思うのだ。クズでも、ゴミでも、なんの価値もなくても生きていける。好きなものに好きって意思表示できる。好きでいつづけられる。こんなにステキなことってある?



2027:【こころしずかに】

いくひしさんは性格に難があるので、割かし無視されやすい人生を歩んできたのだけれども、それでもまったく意に介さないのは、他人からの評価でいくひしさんの本質は何も変わらないと知っているからだ。それは言い換えれば、いくひしさんの主観などこの世になんの影響も及ぼさないと知っていることの裏返しでもあり、その自覚はいくひしさんが小学校にあがる前の段階でいくひしさんに刻まれた「物心」であった。いくひしさんが寄り目をすると世界は二つに分かれて見える。けれども、だからといって世界そのものが二つに分かれることはないのだ、ということを、いくひしさんは寄り目をしたまま写真に映ったり、ほかのひとに寄り目をしてもらったりすることで確かめていった。目に見える世界がすべてではない、むしろたいがい間違っているかもしれない、とそのときに知ったのだ。だから他人からどう見えているか、という評価がいくひしさんにとってはあまり重要ではなかった。でも、量子力学の解釈では、何かしらの観測があってはじめて粒子は無数に広がる確率のモヤを一つにしぼり、確固とした挙動として姿を現すのだ、といった考え方をされるらしいといまのいくひしさんはおぼろげながらも知っているので、あながち人間の主観がまったく世界に影響を及ぼさない、とは言い切れないのだ、と考えを改めているところである。とは言っても、やっぱり人間の主観は、風や水や火など、自然にありふれた現象に比べたらいくぶんも弱く、それは重力ほどの微弱さで、けれどたしかに世界に干渉し得るチカラを帯び、寄り集まることで地球の重力のように、ひと一人を転落死させるくらいの影響力を持つかもしれない、とすこしおそろしく、神秘的に思ったりもする。他人の評価を気にするな、と言うのは簡単だけれども、無視するにはいささかおそろしい。その気持ちが分からないでもないがゆえに、気にする気にしないに拘わらず人の目(評価)が集まらない状態というのは、そう邪険にすべき境地ではないのではないか、といくひしさんはしみじみ思うのである。孤独と静寂は、自由と相性がとてもよい。



2028:【薬局と病院の話】

病院では、外来の患者さんには処方箋だけだして、そとの薬局で薬を買ってもらう仕組みが一般的だ。これってなんでだろうーって疑問に思ってますよ、とうえのほうの「いくひ誌。」で並べた。で、軽く調べてみたところ、どうやら利点は大きく分けると三つあって、一つは薬局を病院から切り離すことで、病院側のコストをカットできる点。これは薬剤師とか、薬品の管理とか、受付け時の混雑解消とか、敷地の問題もある。もう一つは、制度の問題で、基本的な話として、薬には点数が振り分けられている。調剤報酬点数と呼ばれるものだ。国の保険に入っている者ならば、たいがいの医療費は三割負担で済む。残りの七割は国が、国民から集めた保険料で賄っている。調剤報酬点数の高さによって、国からの保険料の分配額が変わるのだ。つまり、同じ薬でも、点数が低いと、国から補てんされるお金が少なくなるので、薬局の売り上げもまたすくなくなる。利益率を高くするためには、点数の高い薬を買ってもらうほうがよい。もちろん、わざと点数の高い薬を処方するのは倫理に反するので、そうした行為は一般的ではないし、そもそも処方箋をだすのは病院なので、経営の切り離された薬局の収益は関係がないのが道理ではある。ただ、性格のよろしくないいくひしさんは、そこになんらかの癒着があるのではないかなー、と穿った見方をしていたのだけれども、そんなことはほかの人たちだって見抜いているわけで、薬局利用者の九割とかそこらが同じ病院からの患者さんが占めている場合は、保険料の補てん率が少なくなるルールになっているようだ。だから薬局としては、いろんな病院から処方箋を集めたほうが、収益としてはプラスになる。大きな病院の近くにある薬局はけれど、そもそも利用客が多いので、その天引きされる分の保険料をまかなってあまりある利益が確約されているので、九割以上はもとよりの病院からの患者であることは珍しくないようだ。癒着がない、とは言い切れないのでは、と興味本位で、思ってしまう(よしんば癒着があったところで、非難するつもりはないですよ。非難されてしまう可能性があるのでは、と言っているだけです)。最後に、病院と薬局が分かれている理由だが、これは薬の流通に関係している。どんな薬でも同じ量だけ安定して需要供給できるわけではない。そして薬には使用期限があるため、いつまでも保管してはいられない。供給量のすくない薬の場合は、全国の病院に均等に分配できない場合も往々にしてでてくる。そうしたとき、ひとつの薬局がさまざまな病院の患者さんへ薬を提供できれば、より効率よく薬を管理、配給できる。それはたとえば、アマゾンの商品管理(物流)倉庫が一か所に集められているのと同じ理屈だ。在庫を抱えるときには、その在庫は一か所に固めてあったほうが、補充や補完を効率よくこなすことができる。効率がよければ、そもそも在庫の数は少なくて済むので、ますます全国に貴重な薬が行きわたるようになる。まとめると、「コスト削減」「調剤報酬点数制度」「薬の需要供給」、以上の三点から、病院と薬局は切り離されて、経営されていると考えられる。もちろんほかにも理由はあるだろうし、上記は間違った結論であるかもしれないので、興味のある方はじぶんで調べてみるのものおもしろいのではないだろうか。ちなみにいくひしさんは、軽く調べた、と言ったけれど、とくに調べたわけでもない(なぜなら検証をしていないから)。あまり人の言うことを素直に聞き入れないほうが身のためかもしれない。



2029:【売上部数の開示の是非】

ある出版社の社長が作家の書籍実売数をツイッター上で暴露して炎上している。いくひしさんはその出版社の社長や同じ出版社のヒットメーカーである特定の編集者を、リスク管理がへたそうだな、と思っていたので、擁護するつもりも、庇うつもりもいっさいない。その出版社で働く、ほかの編集者や、いま仕事に着手している作家さんたちにはいい迷惑だろうなぁ、とすこしの同情を寄せるのがせいぜいだ。いっぽうでは、実売数の開示については、ほかの出版社もどんどんすればいいのに、とは思っている。なぜ公開してはいけないのだろう? 個人情報だからとかなんとか理屈をつけてはいるけれども、要するに、実売数の多寡によってつぎの仕事に繋がったり、或いはなくなったりするからだろう。言い換えれば、出版社は基本的に、その作家の本が実売数でどれだけ捌けたのかを重視していて、それによって仕事の依頼をするか否か、どれだけ部数を刷るか否か、を決めている。問題があるとすれば、そういった作家の知ることのできない情報で、作家の生命線を握りつづけている出版業界の杜撰な実態のほうにあるのではないだろうか。実売数が公開されることが作家にとってリスクである、といった実情のほうが、今回の炎上の因子よりもずっと根深い悪因(火種)を抱えていると見受けられるが、いかがだろう。実売数が公開されるとマズイ、というのは言い換えれば、作家はつねに出版社に生殺与奪の権を握られているのといっしょだ。商業作家が自著の実売数を知り得ない、という現状もおかしな話である。実売数くらい公開したらよいのでは? そんな短期的な、あやふやな指標で、作家の価値が決まるとでも思っているのだろうか。もちろん売れている作家が出版社を支えている事実は鑑みるべきだろう。売れることが商業作家にとっては重視すべき指標の一つではある。ただ、それがすべてではないし、それが第一であると仮定するのならば、いますぐにでも作家をやめたほうが身のためだ。作家など儲からない。儲けたいだけなら、ほかの業種に移るべきだろう。そもそもの話をしてしまえば、実売数以上の本を刷って、つぎつぎに新刊をだし、赤字分を、新たに刷った本でまかないつづける出版業界の事業形態がおかしいのだ。なぜ刷った部数と実売数に、十倍ちかい差があるのだろう。作家も作家で、そんなバブルに甘ったれてないで、もっと堅実に商売をしたらどうなのか。とはいえ、いくひしさんはプロではないし、商業作家になりたいわけでもないので、おもしろい物語を提供しつづけてくれるかぎり、好きにしてください、と思うのが関の山だ。業界の体質が改善したところで、いくひしさんはまったく得をしない。これまでと同じように、おもしろい物語を味わいつづけるだけである。ただ今回の一件を眺めていて思うのは、ほかの出版社(の編集者)が、火種になっている件の出版社(社長)を責めることができるのですか、ということだ。ここぞとばかりに、日ごろの鬱憤を晴らしているだけのようにしか見えないのですが、集団リンチは楽しいですか?(と、クズが申しております)



2030:【超短編14『あとはあなたがゆびで押すだけです』】

自殺なんかじゃない、殺されたんですよ。依頼人の孫奈(そんな)真坂(まさか)の怒りに満ちた声を聞き、これはがっぽり金を毟り取れるな、と判断し、二つ返事でその事件を請け負った。興信所を営みはじめて十年が経つ。これまでにも厄介な依頼は舞いこんだが、殺人事件の調査は今回がはじめてのことだった。否、殺人事件であるとはまだ決まっていない。依頼人の話によれば、歳の離れた姉が先月遺体で見つかった。場所はひと気のない森のなかで、ロープで首を吊った状態で発見されたそうだ。状況からして自殺と判断されたようだが、依頼人は納得しなかった。「姉は裁判中でした。勤め先の大手医療メーカーと、病院を相手取って、医療ミスの告発をしていたんです。病院側も医療ミスを認めていて、メーカーのほうも、賠償金を払うことに同意すると意思表示してきた矢先のことでした」「だからといって殺されたと言うのはあまりに短絡なのでは」思ったので指摘した。ざっと調べたデータによれば、いくども示談を提示されておきながら、依頼人の姉はそれをつっぱね、過去の事例からすると法外としか思えない金額を要求していた。むしろ、その金額を受け入れる姿勢をメーカーや病院側が示したほうに違和感を覚えるほどだ。「医療ミスで亡くなったのは、あなたのお姉さんの息子さんだったとか」「ええ甥です。姉の受けたこころの傷はいかほどだったのかと、想像するだに、胸が痛みます。甥っこは最新のナノマシン療法を受けていたのですが、どうやら製品に問題があったようで」「因果関係はハッキリしているんですかね。いえ、ハッキリしているからこそ、裁判はあなたのお姉さんに有利に進んだのでしょうが」「メーカーは商品の欠陥を認めています。病院側も不良品を掴まされていたとはいえ、治療のリスクを充分に説明していなかったことで被告に」「なるほど。息子さんを失くされたのだから相当に精神的にまいっていたことでしょう。法外な賠償金も、これは報復と見做したほうが正しいのかもしれませんな」引き受けてくれた弁護士がよく見つかりましたね、と言うと、やはり散々断られたらしい、と依頼人はようやくむかしを懐かしむような顔を見せた。それからすぐに表情を引き締め、「人選には失敗したかもしれませんが」と意図の掴みかねる言葉を漏らす。「それはそうと、お姉さんは訴えたメーカーにお勤めだったとか」(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889629573



※日々、がんばってるフリをする、ホントは誰より自堕落なのに。



2031:【短所は長所】

やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりだなぁ。いくひしさんはむかしから運動神経が低くて、スポーツとか苦手だったでござる。バスケットなんてドリブルもまともにできなかったし、シュートなんてゴールにすら届かないでござる。ボールが重いでござるよ。バドミントンなんてミットを振っても羽がすり抜けるし、魔法の競技でござるな。もはや虚偽と言っても過言ではないでござる。競技は虚偽でござる。う抜け者でござる。伝わりにくい言葉遊びでござるな。意味なし定規でござる。一センチ二ミリ! いくひしさんはここ数日、かりんとうが主食でござってな。きなこかりんとうやら、おせんべいみたいに薄いかりんとうやら、べっこう飴でコーティングされたかりんとうやら、このままだと糖尿病になってしまいそうでござる。でもでも、いくひしさんはたいへんよくあたまを使っているでござるから、摂取した糖分は漏れなくブドウ糖になって消費しているでござる。あたまで薪とか割るでござる。ぱっきーん。いくひしさんは語彙力がないでござるが、たとえばきのう新しく知った言葉だと、「矯(た)めつ眇(すが)めつ」があって、これはよくよく目を凝らして、いろんな角度から眺めてみる、みたいなニュアンスでござるが、まあまあ、言葉を知らないでござる。でもいくひしさんは、いくひしさんみたいな人間に向けて物語を編んでいるので、いくひしさんの知らない言葉はもちろん、いくひしさんの想定している読者の方は知らないでござるから、これでよいでござる。背伸びをしたってよいことはないでござる。危ないでござる。足元に注意でござるよ。でもでもフラメンコみたいにかかとの高い靴(なんてったっけ?)で華麗にダンシングするひともいるところにはいるものだから、適度な背伸びもときには極めてみるのもよいかもしれないでござるな。あ、ハイヒールでござる。思いだしたでござる。いくひしさんはいっつもこんな具合で、言葉を思いだしたり、繋いだりするのに時間差があるでござる。しゃべるのが苦手な理由はまさにこの記憶力のなさにあるでござるな。友達がいなくて助かったでござる。みなのものも、あんまりじぶんの短所を気にしないほうがよいでござるよ。短所と長所は表裏一体。いくひしさんの短所は、こうしていくひしさん独自の文章をつむげるという長所になっているでござる。ただそれがおもしろいかどうかはわからないでござるから、本当に長所になってるー?って疑いながら、すこしくらいは、短所を直したいなぁ、と思っているとよいかもしれないでござる。直したいは、嫌だなぁ、とは違うでござるから、工夫したいなぁ、と思いながら短所と向き合えば、それはやっぱり長所になるでござる。直さずとも、そのままでも長所でござる。何かをしたいなぁ、と思えるのは、生きていくうえで、たいへん優れた燃料になるでござる。やっぱり長所なんでござるよ。ていてい!



2032:【いくひしのくせにこういうこと言うから】

前から言っているように、いくひしさんのSNS運用はほぼ十割が自作の宣伝のためである。人目につく確率をあげるために「これいいな」と思った他人さまの成果物をリツイートし、いくひしさんのアカウントをタダで飾り付けている。いつか法外な請求書が届くのではないか、と戦々恐々とした日々をすごしている。今月でツイッターをはじめてからちょうど一年が経過した。ひと月のプロフィールへのアクセス数は、平均して10000を超す。先月は15000回のアクセスがあった。まいにち350~400回くらいのアクセスがあることになるが、うち半分はいくひしさん自身のアクセスが反映されているのではないか、と睨んでいる(実感としては多くて50を超すことはない気がするが)。じっさいのところは不明である。以前から繰り返し言っているように、いくひしさんはフォロワーはいてもいなくてもどっちでもよい(どちらかと言えば、ほしくない、にちかい)。プロフィール欄のリンクを踏んでもらうのがいちばんの目的だからだ。フォローされないほうがその確率を高く保つことができる。一般論として、いちどフォローしてしまうともう、そのアカウントのことは気にしなくなってしまう傾向にある気がするが、どうなのだろう。いくひしさんのアカウントを、きょうも覗いてやろう、と思ってくれるひとを増やすほうが、ツイッターの活用法としては、もっともリスクなく利を得るやり方だと思うのだが、小説サイトのPVにはあまり数字として反映されているようには見受けられないので(読んでくださった方、ありがとうございます)、いまのところは、やらないだけマシかもしれない、くらいの成果しかない気がしている。むしろ、この一年でツイッターに費やした時間をすべて読書にあてていれば、いま詰みあがっている本の山はたいがい消化できたはずだ。ようやく肉眼でも、評価経済の終わりが見えてきたことだし(見えてきたとはいえ、まだまだ遠くにぼんやりと、といった具合であるから、フォロワー数やバズ率などは企業はまだとうぶん重視しつづけるだろう)、いまいちど時間の使い方というか、優先順位をつけなおす時期かもしれない。インフルエンサーを目指すのではなく、何かのエキスパートになることを目指すほうがより好ましい結果に結びつきやすいだろうし、もっと言えば、スキルアップの結果として人を惹きつけられるようにならなければ、収益化しようとしても長期的にはうまくいかないのではないか、と思うしだいである。中身のないハリボテは、テーマパークであるのなら有効な策であるが、そこに暮らすとなると、明らかに不足である。そしてこれからの時代は、いかに暮らしに取り入れる価値があるか、がその商品の価値を決めていくようになるのでは、と思うしだいだ。手元に置いておきたいか、否か。スペシャルでないものはマネがしやすく、放っておいても量産され、無料化し、一般化していく。コンテンツビジネスに限っていえば、無料大公開時代のさきにあるのは、いかにスペシャルであるかでしか価値を測れない(語れない)時代の幕開けではないか、と妄想を逞しくするしだいだ。何を以ってスペシャルであるかは、やはりというべきか、それを評価する者の手に委ねられる。いかにスペシャルに思ってもらえるかの工夫がますます重宝されていくだろう。評価経済とは、その足がけであり、ハリボテの名札をデカデカと着飾ることで、仮初の中身を演出する手法は手軽であるがゆえに、間もなく文字通り、形骸化していくはずだ。腕を磨き、中身を磨く。急がば回れである。そのためにもまずは、磨く素材を充実させる必要性があるだろう。何を優先すべきかを、やはりというべきか、見つめ直す時期にあるのかもしれない――と、誰にでも思いつく想像を披露して、本日の「いくひ誌。」の結びとさせていただきたい。



2033:【蟻んこだって】

さいきんのいくひしさんは、この「いくひ誌。」を並べるだけでも、いくつか記事をつくり、気に入らないのでボツにして、ああもうだめだーとなって、しょうもない文章を更新してしまうのを繰りかえしている。3000字くらいは毎回ボツになってしまうので、無駄のアイスクリームやあ。読んだひとが不快になるようなことは全体の三割まで、だいたい、おおむね、そのくらい、と決めているので、まいにちのように語気のつよい文章は載せたくないのだね。でもさ、さいきんはちょっと気がゆるむと、シャキーン、シャキーン、となってしまってよろしくないのだね。どうしたものか。いくひしさんはアホウだし、なまけものだし、不真面目のかがみだし、どうしたって文章なるものを並べたら、文章を並べるだけでも偉そうになってしまうのだよ。だってそうじゃろ。蟻んこが文章を並べたらすごいじゃろ。えらいじゃろ。偉そうになってしまうのも道理というものだ。でもいくひしさんは蟻んこよりもすごくないので、さらに偉そうになってしまうのだね。クズならではの悩みというやつだ。何をしてもすごくなってしまう。偉くなってしまう。ハードルの低さの弊害というものだね。みんなもっと、いくひしさんのこと褒めてもよいのよ。たーんと、お褒めあそばせ。いくひしさんは基本的に他人の揚げ足をとり、功績に泥を塗り、称賛を罵声に変え、他人の努力を嘲る日々に明け暮れているので、どうしたって、性格がゆがんで映るかもしれないけれども、あなたの目は節穴か。とくとよくご覧あそばせ。こんなに性格がまっすぐで、うつくしい心根を持ったクズも珍しいよ。みんなもっといくひしさんを見習ったらよいのに。教科書に載せてくれてもよいのよ。ついでに調子に乗らせて、処刑台にのぼらせ、そのままこの世から葬り去ってしまってもよいのよ。や、よくはないけれども、羽に矢の刺さったカモには同情を寄せるみなみなさまも、台所に忍び込んだ蟻の行列には容赦のなさを発揮する。そういう無情のやさしさもよいけれど、ときには殺虫剤をかけられる蟻の身にもなってみて。そして殺虫剤をつくる工場のひとに思いを馳せてみて。そうしたところで、あなたがたの蟻への容赦のなさは覆らぬけれども、蟻は蟻で生きているし、蟻に似たいくひしさんだって生きている。そしてそんな蟻に似たいくひしさんも、台所に列をなす蟻をみかけたら容赦なく根こそぎ殲滅してしまうのだ。邪魔なものは邪魔だよね。しゃーない、しゃーない。人間みんな悪意の塊。無自覚に無情の悪意の権化。



2034:【泥んこだって】

いくひしさんがこれを並べてからいったい何年経過しているかは知らないが、いまあなたはこれを読んでいるわけで、まあまあ、よろこばしいことである。いくひしさんはあなたのために言葉を、文章を、物語を編みつづけてきたわけであるが、しかし勘違いしてはいけない。いくひしさんはけっしてあなたの味方などではない。ファンなどいらぬ。慣れあいは殺す。世は空前の、身内びいきに、権威主義、村社会に村八分。あっちに、こっちに、蟻の巣ができては、冬を越えることなく穴だけ残して、いずこへと消え去る。かつて巣に蟻が何匹いたのかとの数字だけが、きれいに残って、いつまでも見栄えのよい表札を演じつづける。いくひしさんは群れなさぬ蟻、一匹のただの虫ケラにすぎぬ。群れをなさぬのか、それとも群れに馴染めぬのか、はたまたただただ追放されて、つまはじきにされているのかは定かではない。関係がない。いくひしさんはいくひしさんだ。誰に認められんでも、ここにいる。一匹の蟻のように。群れからはぐれた蟻のように。



2035:【ていていってなんやねん】

書くことなさすぎたので、抹茶アイスおいしー、という感想を並べていこうと思います。まずね。アイスっておいしいじゃないですか。アイスはおいしいんですよ。で、抹茶ってそんなにおいしくはないじゃないですか。や、おいしいはおいしいけれども、抹茶ってまいにち飲みたい? そうでもないよね。でもさ、抹茶アイスにしたらこれ、まいにちでも食べたくなっちゃうんだよねー。すごいよねー。アイスの魅力で抹茶のマイナスを埋めているわけじゃないんだよ。プラスアルファで掛け算なんだよ。もっとすごくおいしくなるんだよ。抹茶とアイスをかけあわせようと思ったやつ、天才くね? 天才じゃんね。天才だよ。ノーベル抹茶アイスはおいしいで賞をあげたくなっちゃうよ。あげちゃうよ。抹茶アイスおいしいよね。……終わっちゃったよ! もっと長くいけるかなって思ったけど、すぐに終わっちゃったよ! 抹茶アイスおいしいって、抹茶アイスおいしい以外に言いようがなくない!? ないよね? ないよ!!! おいしいものはおいしいのだ。たのしいものはたのしいし、よかったものはよかったよ。小学生の作文は正しいよ。そう思ったのなら、そう感じたのなら、そう書くよりほかはないだろい! なーんて逆切れして字数を稼いでみたけれども、それでも千字まではほどとおい。これで五百文字くらいかな。きれいな言葉とかうつくしい文章とか、そういうのが分からないと豪語しきりのいくひしさんだけれども、おもしろい文章なら分かるんだなー。おもしろい文章が読みたいよ。おもしろい文章、並べられるようになりたいよ。どうしたらよいじゃろ。うーん、うーん、悩みながら、こうして字数を水増しして、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。ていてい!(抹茶栽培農家の方がこれを読んだら、そっか抹茶はまいにち飲みたくはないのか、あんまりおいしいわけじゃないのか、と哀しい気持ちになってしまうかもしれないのじゃが、ちょっち待ってね。いくひしさんの舌は、オコチャマ味なの。そんで抹茶はおとな味なの。いくひしさんにおいちくないって言われたからって哀しくなる必要はナッシングだよ、ってことはぜひとも言い残しておきたいよね。ていてい!)



2036:【ふん!】

セルフブランディングでじぶんを魅力的に見せたければ「弱みを見せるとよいよ」と挙げている文章を比較的よく見かける。あーそうかもしれないな、と思う反面、弱みを見せて寄ってくるような輩にろくなやつはいないのでは?と疑問にも思う。ただし、ビジネスにおいては、ファンとはイコール搾取してもよいカモだと言って、現代社会をざっと見回してみればあながち間違ってはいないように思われる。アイドルやら課金ゲームやらコンテンツ事業やら、そういったものに疎いいくひしさんであるから、生半可な知識でしゃべっていることを念頭において聞いてほしいのだが、あーうーん、いや、やめておこう。危ない橋は渡らないのがいくひしさんの信条である。ただ、信条なんてものは犬にでも食わせておけばよろしい、と幼いころに近所の和尚さんに言われたような、言われなかったような、すくなくとも近所にお寺はなかったはずだが、ともかく、危ない話題であることに異存はなく、弱みを見せて寄ってくるようなクズからは搾れるだけ搾り取っても良心は痛まないのかもしれないね、なんて暴論はここでは指摘せずにおこう。それが聡明な者の賢明な判断というものだ。それはそうと、いくひしさんに弱みは何かあるのか、と言われると困ってしまうのだが、いくひしさんには弱みしかないので、どこを取り上げても、ごめんちゃい、とその場にうずくまって、遊び疲れてころんと丸まって眠ってしまった赤ん坊みたいな恰好をとってしまうけれども、それをして土下座と呼ぶひともいるところにはいるらしい。あべこべに、では強みは何かあるのかい、と訊きたい方もおられるかもしれないので、万に一つの可能性にかけてここで述べておくけれども、いくひしさんに強みなどはないよ。何を期待していたのかはしらないけれども、ないものはないよ。ゼロなの。ないです。ないの。ないんだってば。何度も言わせないでほしい、恥ずかしいでしょ。強みなんてないよ。いくひしさんは弱みの塊、あーなるほどだからかぁ、と鋭い方はそこで思ったことでしょう。だからいくひしさんはそんなに魅力があって、たくさんのファンに恵まれてるんだね、へー、そー、ふーん。虚しくないんですかって思った? 虚しくはないよ。ぜんぜん。これっぽっちも。ほんとに。うそじゃないよ。ほんとほんと。もういいでしょ、聞かないでってば、ふん!



2037:【ちがってもよいけれど】

芸術は最高のエンタメだって、誰もがホントは知っているはずなのに、どうしてアートとエンタメを分けて考えるんだろ。名立たる芸術家はみな最高のエンターテイナーだし、最高のエンターテイナーはみな例外なく芸術家ではないの? 結果論と言えばそうかもしれないけれども、何かを突き詰めて、突き詰めて、それでも掴みきれずに、辿りつけない何かを追い求める姿勢がそもそも「芸」であり「術」であるのだから、研究だって学問だってデザインだってビジネスだって、なんだって広義の芸術なのでは? ただし本気でそれを追い求め、極めんとする姿勢があればの話だけれども。一生それで遊んでいられるか否か、と言い換えてもよいかもしれないね。誰かのためとかそんなの後付けでしょ。みんなホントは、ただそれにとり憑かれて、夢中になっていたいだけなんじゃないの? ちがう?



2038:【我、義を失いし蟻なりき】

何がしたいんだろ? 目的を定めた瞬間、歩みが止まる。たぶんいくひしは、何もしたくないのだ。何もしたくないことすら。だからつねに何かをしつづけて、夢をさまよう蛾のごとく、ふらふらと安定しないモヤを舞いつづける。



2039:【わかんない】

いまはどんな表現であれ誰かを傷つけ得る、ということが肌感覚として以前よりもずっと身近に感じられるようになってしまったために、おもしろいことや笑ってしまうことですら、そこに悪意を幻視せずにはいられない。やさしい世界を目指すのは正しいことのはずなのに、やさしすぎる世界は窮屈なのだ。それは、誰かにやさしさを押しつける押しつけないに拘わらず押し寄せる真綿の津波であり、それが視えない人間には、なぜ息苦しいのかとそれにすら気づくことなく、溺れて息を詰まらせている。つよさ(やさしさ、或いは、清らかさ)を他人に期待し、押しつけるのはそれはそれで正しくはないのだろうが、傷つく者のほうに悪因があり劣っていると見做す社会よりかはいくぶん好ましくはあるだろう。ただ、果たして、ひとつまみの悪意を槍玉にあげ屈託なく笑えぬ社会は、やさしい社会と呼べるのだろうか。誰とも関わらず、ゆえに誰も傷つけず、ひっそりと暮らす以外にやさしい社会が矛盾なく成立することはあり得ないように思うのだが、そうは言っても、この誰とも関わらずにいる生活そのものが誰かにとっての傷となり得るのならば、やはりというべきか、どうあっても誰かに犠牲を強いなければならなくなるのではないかと、めまいを覚えそうにもなる。人間は傷つく生き物である。いいや、生きるとは傷つくことであると言ってしまってもこの場合はけして言いすぎとはならないのかもしれない。ただ、どのような傷を受けるのか、どんな傷なら受け入れられるのかを個々人が各々に判断できるようになれば、そしてそれを他者と共有できるのならば、これこそ人類の求める共存に似つかわしい姿と呼べるのかも分からない。みな、好きに傷つけあえばよいのだ。心地よく傷つけあっていけるのならば。心地よく生きたいとはすなわち、心地よく傷つけあっていきたいとの言い換えにすぎないのかもしれない。否、何も定かではない。何もかもではないのがせめてもの救いか。いや、ともすれば何もかも定かではないのかもしれない、そのことにみな一様に無自覚であるだけで。やさしさとは何か? 思いやりとは? 悪意なき愛などこの世に存在するのですか? 悪意は果たして悪なりや?



2040:【メモ】

抑うつは人間の進化の過程で獲得した形質かもしれないという説をさいきんどこかで、ちらっと見聞きした。信憑性の有無は判断つかないが、理屈としては筋が通っているように思える。たとえば、何か脳神経に負荷がかかるような外部刺激があった場合――便宜上ここでは大事な試合で大きなミスをしてしまったケースを考えてみよう――この場合、脳のほうで処理を仕切れずに、これ以上負荷がかからないようにと、外部情報を抑制しようとする働きが、すなわち抑うつの状態である、と仮説できる。抑うつの基本的な症状に、意欲減退があげられる。言い換えれば、活発な行動がとれなくなり、勝負事にも触手が伸びなくなる。これまでできていたことができなくなり、なるべく刺激のないように、その場からじっと動かずにいるようにと、脳のほうで制御をかける。勝負をしなければ負けることはないし、行動しなければ失敗することもない。脳に負荷がかからないのが道理である。心身に損傷を負った者にとって抑うつは危険を遠ざける役割を果たす(もちろん社会的かつ長期的には生きづらさが増すだけではあるが、身の危険という意味では、短期的なリスクを負わずに済むようになる)。似た話として、糖尿病があげられる。真偽のほどは定かではないが、糖尿病は、人類の祖先が獲得した自己防衛機能であるそうだ。氷河期や低温の高山地帯で暮らしていた人類が、血液を凍りにくくするために敢えて血中の糖度を高くしていた名残りであるとの説をどこかで目(耳?)にした覚えがある。この説からすると、糖尿病で死ぬリスクよりも凍傷になるリスクのほうが高かった時代は、糖尿病は人類にとってプラスに働く生理現象であり、病気ではなかったと考えられる。繰りかえすが、真偽のほどをいくひしさんは知らないので、真に受けないようにお願いします。ほかにさいきんどこかで見聞きして(おそらくはツイッターか本だと思うのだが)記憶に引っかかっているのは、コンピューターの消費電力についてだ。従来のコンピューターの消費電力は、おおむね半分ほどは冷却機能に費やされており、最新のスーパーコンピューターになると、その電力は膨大だという話だった。この話からすると、ムーアの法則に従うならば、消費電力は指数関数的に増加しつづけることになる(たとえるならば、同じ体積の箱に詰めこめるスマホの数が年々増えていくようなものだ)。スーパーコンピューターを一台起動させるだけで原子力発電所が一つ必要になる日がいずれ訪れるかもしれない。その点、量子コンピューターは消費電力を従来のコンピューターに比べればはるかに抑えることができるため、人類の隘路であるエネルギィ問題の打開策となることが期待できる。ただし、量子コンピューターが実用化されれば、いまある社会システムの総じては、セキュリティ面でほとんど安全性が担保されなくなるので(いまの技術レベルでも十二分に担保しきれていないのではないか、といくひしさんは疑っているが、それはそれとして)、量子コンピューターが開発されればめでたし、めでたし、となるわけではない点は留意しておいたほうがのちのちの人類にとっては好ましいだろう。どんなものにでもメリットはあるし、デメリットがあるものだ、というなんだかありがたいようなそうでもないようなお茶を濁したふんわりした話をして、本日の「いくひ誌。」の結びとしてしまうことにする。



※日々、他人の労力を貪っている。



2041:【無心とは無ではない】

考えないようにすることと、考えを深めることは矛盾しない。考えを深めるためにはむしろ、考えすぎないようにする必要すらある。と、いうよりも、考えを深めるとは、これまでの筋道の枠外へと飛びだしたり、掘り進めたりする冒険に似ており、これまで培っていた考え方に囚われないようにしなければならない。同時に、これまで辿ってきた考え方を助走として加速をつけたり、進行方向を定めたりしなくてはならず、内に構築した回路を放棄することとはまた違っている。考えないようにするとは、振りかえらないようにするという意味でもあり、振りかえらずともしぜんと身体に滲みだすくらいに馴染ませておきましょうといった文脈がそこには省略されている。考えずに済むくらいに極めておく。だからこそ、つぎの段階へと旅立つことができる。考えないようにすることと、考えを深めることは矛盾しないのである。



2042:【意味をつける意味とは】

あらゆる分野の表現において、神は細部に宿る、が基本であり極意である、といったニュアンスの言説を目にする機会が比較的多く感じられる。否定はしない。そのとおりだとも思う。だいたい八割はそこを大枠(フレーム)として定めておけば、どんな失敗もつぎへの糧となるように思われる。反面、意味を付与することに囚われすぎて却って不自由さにがんじがらめになってしまう懸念は挿しておくのが親切心というものであるような気がしている。テーマを定めよ、といった言説も同様の文脈で語られがちであるが、そもそも風や山や川や海に意味などはない。自然をテーマにするとなれば、必然、意味などない、といった「無」へと行き着く。そこに意味を見出すのは人間であり、それを観測する者たちであり、ひるがえっては、テーマや意味とは人間というフィルターを通して歪曲された世界観のことと言えるはずだ。風をモチーフにした、といったとき、おおむねその真意は、風を観察して受けた印象をカタチにしてみました、といったところであり、風そのものを表していることは極めて稀だと言っていい。仮に、真実「風」を表現しようとした者があったならば、そこには何の意味も読み取れないだろう(汲みとることは可能だろうが)。日々の生活で人が「風」を認識する瞬間などそう多くはない。世に有り触れた風なる現象のほぼ十割は、意識されることなく、人々の認知世界のそとをただ流れている。だからといって、意味はなくていい、と主張したいわけではない。表現が人間の営みの一つであるかぎり、そして意味が人間の見いだせる【世界】との境界線であるかぎり、表現や意味もまた、人間それ自体を浮き彫りにする輪郭として、薄膜として、世界観として、個々の差異を越えて、人々を『ひとつの世界』に繋ぎとめていくはずだ。ただし、表現や意味そのものに、価値があると驕らない(錯覚しない)ようにするのは、これもまた一つのフレーム(視点)として意識しておいて損はないように思われる。得をするか否かは定かではないが、すくなくとも、取り返しのつかない失敗をいくつか回避することに繋がるのではないか、とこれもまた意味ありげに着飾って、とくに意味のない文章を並べておこう。補足として――定める視点(フレーム)は常に一つでなくてよい(ときにはひとつに絞ったほうがよいこともあり、だからこそ、視点を自在にしぼったりひろげたりできるようになる術を求めたいところではあるのだが)。主観、俯瞰、宇宙観、宗教観、学問や文化、そのほかにも、一人の人間のなかに多様な視点が埋もれ、重なっており、そのときどき、場面場面によって、世界観の色合いを変えている。そして、何かを表現するとき、考えを深めるときには、その色合いが重なりあうことなく、独立して、かつ同時に散在し、個を世界へと回帰させ、同調させ得る。そこのところへ何度も旅立てる者が、表現にとり憑かれ、表現を喰らい、人々の形成する『ひとつの世界』から乖離しては、何度も潜ることで、かろうじて浮世と繋がりつづけていくのだろう。それがしあわせなことかどうかは、当人にしか判断つかないことであり、ともすれば、当人にすら与り知れない不毛そのものなのかもしれない。不毛は無意味とよく似ている。似ているからといって、何がどうなるわけでもないのだが。



2043:【へたっぴ】

物語の圧縮の仕方をいろいろ試してきたのだけれど、手抜きとの違いが分からないのが大半で、要するにヘタクソなのだなぁ。削った分の情報でできた空白でリズムをとりたいんだけど、それがむつかしい。いったん圧縮するのはストップして、空白でリズムをつくるのもやめて、ちゃんとメロディをていねいに拾う練習をしたほうがよいのかもしれない。でも退屈なんだよなぁ。まるで既製品の焼き増しみたいになってしまう。文芸でダブステップ(ノイズミュージック系)は奏でられんのかなぁ。情報量の濃淡でもリズムをとりたいし、でもいまはただのデコボコで、違和感しかない。むつかしい。贅沢な悩みだ。



2044:【結果とはいつの時点の?】

SNSを眺めているとおおよそ六割方の人間が、「結果がだいじ、結果がだいじ」と唱えているように概観できる。結果の内訳は人それぞれで、お金だったり、フォロワー数だったり、売上だったり、反響だったり、感想だったり、人の役にたてるか否かだったり、とかく目的を達成できるかどうかが重要だと考え、そのことに囚われているように見受けられる。まず抜けている視点として、いったいそれはいつの時点の結果を示していますか、ということはいちど訊ねてみたい気もする。目的を達成できたからといって成功するわけではないし、しあわせになれるともかぎらない。目のまえの一時的な利益を得たがために不幸になった話など世に有り触れていて、さっこん、虚構でもとんと見かけなくなった題材だ。目的を達成するために尽力する。よろしいのではないでしょうか。ただ、なんのためにその目的を達成するのか、目的の目的くらいは定めておいたほうが身のためだと思うのだが、あなたはどう思いますか? 重視すべきは、より大枠の目的であり、そのためにはよりちいさな目的を諦めざるを得なくなるときもあるはずだ。この場合、ちいさいほうの目的を目標と言い換えるとしっくりくる。大枠のほうは理念と言い換えてもよい。信念とすると、やや弱いが、目のまえの利益よりも理想を優先する姿勢を信念と呼ぶのであれば、信念でもよいだろう。結果はだいじかもしれないが、なんのための結果なのかは、じぶんがどの方角に進んでいるのかを確認する意味合いも兼ねて、ときおり自問する習慣をつけておくとより大きな目的に近づけるのでは、という気がしている。目のまえの目的を達成したところで人生はつづくのだ(死なぬかぎり)。結果を優先したがために失ってしまう何かを見落とさず、終わらぬ人生のさきに現れる、無数のほかの目的と見比べ、目のまえの利益が「トータルでの損失」と本当に釣りあうのか、ははやりというべきか、ときおり想像でもよいので計っておくとより好ましい結果を得られる確率をあげられるのではないだろうか。SNSを眺めていると、まるでみなじぶんに呪いをかけるみたいに「結果がだいじ、結果がだいじ」と口を揃え、唱えて映り、なんだか余裕がないのだなぁ、と可哀そうに思ってしまう。結果はすでにでているし、その積み重ねがいまであるのだから、ひとまずだいじな結果であるところのいまを、もっとだいじにしてあげたらよいのにな、それともいまをだいじにできないから、もっとよい「いま」を求めて、そう言っているのかな、だとしたら余計に可哀そうだな、と他人事のように漏らして、本日はここで打鍵をやめておこう。もちろんいくひしさんに余裕なんてないし、満足した結果など得られたためしはいちどもないが、それはそれとして、だいじでない「いま」をそれなりに贅沢に、無駄に浪費し、味わっている。結果よりもだいじなものなどいくらでもある。なぜなら人は、正しく目的を設定できていることのほうが稀だからだ。あなたが目のまえに掲げた目的はどれだけしあわせにちかいですか?



2045:【美学に穴をあけましょう】

いくひしに美学なんてものはないし、信念なんてものもない。損をしないと解かれば人を傷つけることも厭わないクズである。ただし人を傷つけることはどんな場合であれ、損をすると決まっているので極力、人や物を傷つけたくないなぁ、と思っているだけの話だ。じっさい、いまこうしていくひしが孤独ゴッコに興じているのも、元を辿れば、誰かを傷つけてしまった過去があるからかもしれない。他人ばかりに苦労を強い、じぶんは高みの見物で、大上段から偉そうに説教を垂れては悦に浸っている。そこに美学などあるはずもないし、あると言い張るのならば、その瞬間にこの世の美学の総じては汚泥と化すだろう。いくひしはクズの鑑であり、醜く、ゆがみ、あさましい。仮に長所があるとすれば、クズの鑑が高じて、醜悪の生き字引きとして、七つの大罪の見本として、さまざまな悪意の目録として、活用可能な一点のみを挙げられる。とうぜんのごとく怠け者であるいくひしであるが、ときおり目を丸くするほどの生真面目さを発揮することもある。なぜがんばるのか、と褒める準備をしながら訊ねれば、クズを量産したいのです、とせっせとシャベルで土を掘り進める。「ごぼう抜きがすきなのです。最下層の底の底にいて、名実ともにクズの名を不動のものとしておいてから、ときおり気泡のように浮上すれば、クズのなかのクズ以下をたくさん量産できるのです」いくひしは歌うように口にする。世界中をクズで埋め尽くしてやるのです、と積み木に夢中な幼子のような口ぶりで、せっせとシャベルを土に突き立てる。なぜ土を掘っているの、と水を向ければ、地球に穴をあけてやるのです、と一向に手を止める様子もなく、素朴に、淡々と、口ずさむ。地球に穴をあけてやるのです。クズでこの世を埋め尽くすのです。まるで、いまはまだクズがじぶん一人きりしかないかのように、あたかも仲間がほしくて癇癪を起こすガキンチョのように、いくひしはせっせと土を掘りおこす。誰より下層にいられるように。誰より高い山をこさえるかのごとく。汗を拭うことも忘れ、一心不乱に、腐ることなくひたむきに。しかしいくひしに、美学なんてものはなく、そこにあるのは底なしの――。



2046:【根を張る因子は深く眠る】

一時期、インフルエンザの薬の副作用で患者さんが部屋の窓から飛びだして亡くなったり、奇怪な行動をとる可能性が指摘されていたのを憶えておられる方はいらっしゃるだろうか。薬の副作用には気をつけましょうね、との啓蒙がずいぶんTVを通じてなされていたように記憶している。が、さいきんでは、どうやらインフルエンザ患者の奇怪な行動は、件の薬が原因ではなく、インフルエンザという病状の一種である可能性が高いことが指摘されている。2019年現在において、通説としてはむしろそちらが主流だという話だ(じっさいがどうかは不明であり、いまなお断定されてはいない)。こうした誤解は、相関関係と因果関係が一見しただけでは区別のつかないことが要因として挙げられる。極論、死亡した人間のほぼ百パーセントが一週間以内に水分を摂っていた、みたいな話になる(なかには真実、水を飲んだことが死因となる者もいるだろうが)。何が因子であるかの断定には、念入りな調査と比較が欠かせない。これはたとえば、人間関係にもあてはまる。誰かと険悪な関係になってしまった瞬間に、急に私生活の何もかもがうまくいかなくなった。きっとアイツが裏で何かやったに違いない。そう思いこみたい気持ちは理解できるが、ことはそう単純ではないし、証拠がなければ断定もできない。裁判において、疑わしきは罰せずの原則が定着した背景には、人間の根本的な性質が関係している。人間は往々にして因果関係を見誤り、判断を間違ってしまう。そういった欠陥が備わっていることをまずは認め、揺るがぬ証拠を集めてから、判断をくだしましょう、それがもっとも禍根を残さずに問題を処理できる術だ、とむかしの人々は数々の失敗から学び、結論づけてきた。とはいえこれは裁判などの厳格なルールの敷かれた上でのとり決めであり、私生活ではこうもいかない。安易な「それっぽさ」に食いつき、人々はいともたやすく、因果関係を見誤る。何かを「問題の因子」と見做す前に、まずはよく観察してみることがだいじだろう。長期的に眺めることでしか浮き上がってこない線があるものだ。その線が、自身の死活問題の因子となり果てるようであるならば、これは何かしら対処をせねばならぬだろう。ただ、対処することで余計に状況が悪化してしまうこともあり得る。そうならぬように、そもそも悪因を抱えこまないようにすることが優先されるが、これはほとんど不可能だ。人はいずれ死ぬ、と同じくらいの普遍性がある。であるならば、問題の因子を見つけたら放置せず、その因子が深く根を張る前に対処しておくのが有効であると言えそうだ。



2047:【読者としてだとそこそこ謙虚?】

さいきんは途中で読むのがやめられなくなるほどおもしろい本を立てつづけに読んでいて、充実した日々をすごしております。渡辺佑基さんの「進化の法則は北極のサメが知っていた」はマクドナルドで読みはじめたら、読み終わるまで席を立てなくなってしまったくらいで、迷惑なお客さんになってしまったかもしれなくて、店員さん、ほかのお客さん、ごめんなさい。でも多めに注文(800円くらいだけど)してたので大目に見てください。「進化の法則~~」は、エッセイと小論のあいだみたいな生物学の話ではあるけれど、やさしく噛み砕いた表現が多く、堅苦しくならないようにクスッとくるエピソードが適度にちりばめられていて、短編小説として読んでも十二分に楽しめる「物の語り」になっています。読んでいるあいだに連想していたのは、筒井康隆さんの連作短編小説「旅のラゴス」です。久しぶりに、こんな小説をつくれたらなぁ、と(小説ではないのですが)思える物語でした。渡辺佑基さん、おもしろい物語をありがとうございます。それから初めましての作家さんの本で、千早茜さんの「夜に啼く鳥は」が、ものすごくいくひしにしっくりくる文体で、恒川光太郎さん以来の、これ欲しいーーー!!!がありました。いくひし、あんな文章で物語を切り取ってみたいです。ほかにも小説を発表されているようなので、文庫化してある分は書店さんで探してまとめて買ってこようと思います。買います。決定事項です。作家買いしたくなる作家さんに出会えるのは本当にうれしいです。小説にかぎっては、誰にお礼を言えばよいのか分からないのですが、分からないので、森羅万象に向けてお礼を言っておきますね。森羅万象、この世のすべてにありがとう。すばらしい表現を届けてくれてありがとう。生んでくれてありがとう。ありがとう、ありがとう、そしてありがとう。よき出会いは、よき環境があってこそだと思います。もし劣悪な環境でもよき出会いがあったとすれば、それは出会った相手の方そのものが、よき環境として、あなたの世界を押し広げてくれることでしょう。そしていくひしにとって、そういう出会いは、物語を通してであることが多いです。一食分のお値段で、ステキな出会いを体験できるなんてこんなにも恐縮で、ラッキーなことはそうそう滅多にあるものではありません。本当にありがたいです。ほかにも新しく五千円分、本を購入してきたので、まずはそちらのほうを読み進めていこうと思います(読了していない本がすでに山盛りですが、まずは冒頭だけでも読んで、新しい息吹を感じるのです。贅沢なひとときです。テーブルに並べられたご馳走をぜんぶひと口ずつ食べる、みたいな)。以上、2019年5月31日、読者としてのいくひしまんでした。



2048:【超短編15『薔薇の香りはいっそう甘く、面影』】

驚いたことに、年々、歳を重ねるごとに我が子はアカネさんに似てきた。アカネさんの弟と結婚し、そのあいだにできた我が子であるのだから、必然、あの娘はアカネさんと血縁関係にあり、端的にアカネさんの姪にあたるのだから、似ていてふしぎではないのだが、あの娘は明らかに、母である私よりもアカネさんに似ていた。夫にそれとなく水を向けてみると、そうかな、となんともにべもない返事があるだけで、まあ俺も姉さんもお父さん似だからな、とこの話はぶつ切りに終わった。あの娘はアカネさんと会ったことはないはずで、なにしろアカネさんはいまの私よりもずっと若い年齢のときに亡くなっていて、だから私の記憶にあるアカネさんと思春期を脱して色気づいてきた我が娘の歳格好が似通っていても、それは世の少女たちを眺めてみればしぜんなことで、アカネさんにのみ似ていると思いあがっている私の感覚がまず以って的外れなのかもしれなかった。じぶんにそう言い聞かせてはみるものの、日増しに我が娘は、あの当時のアカネさんに、私にとって特別だったあのひとに、二つの影をぴたりと重ねあわせるみたいに似てくるのだった。面影、と私はつぶやく。あの娘は、しずかに本を読んでいたのに、わざわざ顔をあげて、こちらを見た。「なに?」撫でられる寸前の猫みたいな眼差しが私の仮面にヒビを走らせる。ううん、と何でもないように言いつくろい、彼女の読んでいる古典の部類に入るだろう、ひとむかし前の大衆小説に視軸をあてる。「それどうしたの。お父さんの?」また書斎に忍び込んだのか、とおもしろ半分に咎める。「かってにいじくり回すと怒られるよ」「許可はとってますよー」ひざを抱えて座り直し、彼女はちいさなうさぎの置物のようになって、またしずかに本の世界へと旅立っていく。アカネさんも本が好きなひとだった。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889809815



2049:【凪を受けて飛ぶ】

いくひしさんは小説が上手ではないのだが、つくれてしまうのでつくっている。それはたとえば、飛ぶのが上手でない鳥がそれでも飛べてしまうから、地面を歩くよりはまあ、飛んでおくか、みたいな感じだ。だからとくべつ、「飛ぶの上手じゃないね」と言われても、「そうじゃが?」となんでそんなことをわざわざ教えてくれるのだろう、親切なひとがいたものだ、とありがたく思うよりほかはない。ただときおり、それは鳥の飛び方じゃないね、みたいに言ってくるひともいて、そういうときは、ふうん、じゃあいくひしは鳥じゃないのかもしれないですね、とうなずいておく。いくひしさんはいくひしさんだ。べつに鳥じゃなくていいし、そもそも上手に飛びたいと思ったことはない。ただ、じぶんの思いどおりに自由自在に飛びたいとは思っていて、だから飛ぶことをやめたりはしないのだ。ときどき、飛行レースみたいのに参加したりもするけれど、それは単にお祭りを覗いてみるかな、といった感覚で、どうしても優勝したい、と思うわけではない。ただ、でるからには優勝を狙いはするけれども、優勝しなくてもだからどうなるわけでもなく、それは裏から言えば、優勝したところで、それもまただからどうなるわけでもないのだ。いくひしさんはいくひしさんの思うように、飛びたいように飛ぶ。いまのところいくひしさんは順調に飛びつづけている。それは、上手だとか下手だとか、ひとからどう評価されるかとか、そういう上昇気流とはまたべつの風を受けて、凪のように、ながく、ひゅるひゅると飛んでいる。もっともっと、まだまだ自由自在、融通無碍には程遠いが、それはそれで旅が終わらずにいられるのは、ありがたいことである。死ぬまで飛びつづけて、そのまま死んでいく。そういう人生であれたら感慨無量である。



2050:【将来が楽しみ】

二十年後がたのしみだなぁ。いくひしさんはそのときもいくひしさんでいられるだろうか。変わらずに、変わりつづけていられるだろうか。いまよりさらに落ちぶれていたら、それはとても愉快だなって。



※日々、底なしの穴を落ちつづける、ようやく底にぶつかれると思った矢先に、また穴の縁から落下している、誰かに背中を押されるでもなしに、ふしぎなことにどこまでも深く。



2051:【ムテキ】

孤独の何がステキかって、敵がいないのがよいと思うのだ。いくひしさんに味方はいないけれども、敵もいないのだ。ステキだと思わんかね。そうだろう、そうだろう。ステキなのだよ。



2052:【失敗した】

どうしたら××ができるようになりますか、とすごい年下のコに言われて、どうしたらよいだろうね、と焦った結果、散々口出ししておいて、最後に、ごめんさっきのぜんぶ忘れて、という最悪のムーブをかましてしまった。相手のコの、「え!?」って顔が頭から離れない。そりゃ「え!?」ってなりますわ。本当に申し訳ないことをしてしまった。まずは、「何をしたいのか(どうなりたいのか)」と「どこがダメだと思うのか」を訊くべきだった。「目標」と「改善点」を最初に訊いておいて、どこまで理解できているのかの把握をしてから助言なり、指摘なりをするのが相手のコにとってはベストだった気がする。感触としては、相手のコはきちんとじぶんの改善点を把握していたし、むしろ天才とじぶんを比較しすぎていて、なかなか物にならないじぶんに焦りを感じているようだったから、その方向性で間違ってないよ、と背中を押してあげるだけで充分だったように思う。きちんとじぶんで「なぜできないのか」を考えようとしていたし、客観的にじぶんの力量を計れていたようだった。何より「どうすればできるようになるのか」を考えつつ、対策をとっていた。充分すぎるほど、いまできることを実践している。いくひしにできることは何もない。しかし、あまりに素直に周りの人の言うことを真に受けてしまう従順さがあるためにそのコは、人によって助言が違うことに悩んでいる様子だった。きみにはきみの身体に合った方法論があるし、それは色々試しながらじぶんで見つけていくしかないんだよ、ということを短い時間で伝えるにはどうしたらよかっただろう。すくなくとも、「いますぐにできるようにはならないけれど」「きみの進んでいる方向性は間違っていないよ」と伝えられたらよかったな、とじぶんの至らなさに落ちこんでしまった。人に頼られ慣れていないから、こういうときに非力さというか、未熟さを悔やむ。誰とも繋がりたくない。頼られるのがうれしく感じてしまう飢えた自尊心に嫌気がさすし、何より、相手の期待に応えられない己が未熟さを直視したくない。(それはそれとして、いまの若いコ――十代のコ――は感心するほど礼儀正しい。こちらが見習わなきゃいけないほどで、びっくりするほどみんなよいコなのだよなぁ。いくひしはじぶんが恥ずかしい)



2053:【深い意味はない】

イジメについて考えてみよう。イジメにおいて加害者がわるいのは言うまでもない。では被害者にまったく瑕疵がないかと言えば、そんなことはないだろう。とはいえ、仮に瑕疵があったとしても、イジメてよい理由にはならない。どんな場合であれイジメはよろしくない。人を殺してはいけないのと同じ理屈だ(もちろん理屈でよろしくないことでも、ときにはそれを選択し、不承不承、許容しなければならない場面もあるはずだ。杓子定規にならず、臨機応変に考え、対処しよう)。では、その周囲の人間はどうだろう。イジメを見て見ぬ振りをするのはイジメているのと大差ない、という理屈はやや暴論に思える。ただし、見て見ぬ振りをしつづければ、やはりそれはイジメを肯定し、それをよし、と見做していたと判断されても致し方あるまい。これはたとえば大きな組織であれば、自浄作用がない、とのマイナス評価をくだされる。組織内部で権力に物を言わせて、物言えぬ弱者相手に理不尽な仕打ちをしている者があるならば、その周囲の者がどうにかしなければならない。できないのであれば外部の第三者機関に判断を委ねる方法もある。自浄作用のない組織は腐敗する。腐敗しているからこそ自浄作用が働かないのだ、との理屈も成り立つかもしれない。どちらが先かは、これも時と場合によるだろう。ならばどうすればよいのか。そのまま腐り落ちるか、それとも腐った部分を切り落とすか。可能であれば、腐る前にどうにかしたほうがよいのだが、それもむつかしいのだろう。いずれにせよ、気づいた時点でどうにか対処と対策をたて、実行したほうが、長期的に見て大きな損失を免れるはずだ(いたずらに踏みつけた尻尾がオロチのものだったらどうするつもりなのだろう)。健闘(検討)を祈る。



2054:【超短編16『非がなくとも煙は』】

明らかな異常だった。最初に思ったのは、見間違いか、勘違いかもしれない、でじぶんの認知能力よりも、施設内の検知システムの性能の高さを信用しようとした。じぶんがこうして異常に気づく前の段階で、精密機械であるところの3Dで厳格な測定が行われているはずだ。だから目のまえのこのエンジン部品に異常があるはずがないのだ。しかし部品は、僅かに穴の位置がずれていた。一つではない。すべての穴の位置が、通常よりコンマ何ミリか右にずれている。おそらくじぶんでなければ気づけなかっただろう、とアスカは徐々に動悸が大きくなっていくのを感じた。まずは直属の上司に通達した。上司は半信半疑といった表情で話を聞いていたが、3D計測器の数値に異常があることを確認するとすぐさま現場の最高責任者を引き連れ戻ってきた。ラインは異常を知らせた段階でストップしており、つぎつぎに各セクターの管理者たちが集まってくる。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889848106



2055:【無視推奨】

いくひしさんに正義などはない。いつでも悪の側に足を一歩踏み入れている。成敗してくれて構わない。罰を与えて至極当然。関わらないのが賢明だ。



2056:【ブラシの未来】

妄想でしかないが、あと二十年もしないうちに、「マンガ」と「小説」なら「マンガ」のほうが描きやすい時代がやってくると想像している。お絵描きソフトのブラシ機能が充実していけば、判子を捺して遊ぶように誰でも手軽に高品質な「ひとコマ」をつくれるようになる。絵のオリジナル性は発揮できないが、ストーリーさえおもしろければ、「高品質な判子絵」で十二分におもしろいマンガがつくれるようになるはずだ(マンガを描くのは簡単だ、という意味ではないですよ)。とすると、マンガの描き手は増加し、並行してオリジナルのストーリーの需要が拡大していくことが予想できる。絵の質で勝負ができなくなればストーリーの質や特異性で勝負するよりほかはなくなる。そうしたときに需要が高くなるのは、ほかに類のない型破りな作品であり、似たような作品が大量にある「ジャンルモノ」は相対的に需要がさがっていくのではないか、とまったくのトンチンカンなことを言って、きょうの「いくひ誌。」としておこう。いくひしさんはだいたい何もせずとも五年後くらいに流行るものを先取りしている傾向にあり、また意識的に二十年後の社会を想定して物語をつむいでいる。そしてつねに百年後の読者にも届くように工夫しているので(たとえば時代が経過するにしたがい説明がいらなくなるだろうと思われる文脈は省略するし、あべこべにいまは説明せずとも固有名詞一つで伝わる単語も、敢えて言葉を費やして表現したりしている。とはいえ充分ではないが)、いま読まれないのも仕方ないな、と思っている。



2057:【仕方ない?】

ぷぷ。そう思いこまないと心が折れちゃいそうなんだね、かわいそ。



2058:【超短編17『椎名さんのヌイグルミ』】

違法なことだとは承知していた。けれどどうしても表沙汰にできなかった。彼女は心療内科の患者さんで、一週間ごとに処方箋をもらいにやってくる。ぼくは彼女から保険証を受け取り、勘定をして、お釣りといっしょに処方箋を差しだすのだが、問題は彼女の保険証がおそらく彼女自身のものではない点にある。身分詐称は犯罪だ。それはぼくも理解している。しかし彼女、椎名(しいな)マズさんは、保険に入れないほど貧しい生活を送っているだろうことは、そのみすぼらしい装いから容易に窺い知ることができた。歳はぼくの兄と同じくらいだろうか。ぼくは兄とそんなに歳が離れていないので、椎名さんとはほとんど同い年と言ってよいのかもしれない。ひょっとしたら彼女はもっと若いのかもしれないが、細い指とカサカサの肌はそれなりの齢を感じさせた。先輩の事務員さんからは飲み会の席などで、患者さんのなかにはいろんなひとがいることを聞いていた。たとえば、定期的にトイレからトイレットペーパーをごっそり持ち帰って病院の財政を圧迫してしまうひと、明らかに刃物で切断された小指を持って「縫ってくれ」の一点張りで言うことを聞いてくれないひと、お金が払えないと言って自家栽培の野菜を風呂敷につつみ抱えてやってくるひと、なぜか腕に(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889863204



2059:【中身のない戯言】

親がクズでも子に責任はないのだ。なのに、子がクズだと親の責任になるのだ。しかしどんな親でも誰かの子であり、ならば責任はどこまでも上部にさかのぼり、けっきょくどこにも責任を求めることはできなくなる。責任とはけっきょく、その場をなあなあにおさめるための、椅子取りゲームのようなものなのだろう。椅子に座れなかった者に責任を押しつけ、ほかのものはのうのうと日々を過ごしていく。責任の所在を求める行為そのものが、理不尽であり、不公平だと呼べそうだ。しかし、責任を追及せずにはいられないのが人間であるようだ。じぶん一人だけ損をしたくない、という強迫観念にとり憑かれている、と分析できる。死への恐怖、或いは生への執着が根底にあるとも言えそうだ。



2060:【※妄想(デタラメ)です】

DNAはタンパク質を合成するが、タンパク質の変異がDNAに変質を加えることはない、という理屈をセントラルドグマと呼ぶ。生命体の変質(進化)はDNAからタンパク質(細胞)への一方通行で、ゆえに獲得形質、すなわち生きているあいだに培われる体験や技能といったものは子孫に引き継がれない、と一般的には考えられている。しかし、仮にセントラルドグマが正しいとしても、それは飽くまでタンパク質の変質がDNAへ影響を与えない、という部分的な否定を認めているだけであり、タンパク質以外の変質がDNAの変異を促す可能性は残されている。獲得形質はDNAを変質させにくいし、ゆえに子孫へと引き継がれにくいかもしれないが、そうした作用がまったくあり得ない、と考えるにはいささか早計であるように思われる。もっといえば、DNAは自然界に存在する紫外線や放射線を受け、絶えず傷を負い、変質しつづけている(DNAには修復能力が備わっているので、大概の損傷は元通りになってしまい、変異として定着するまでには至らない。稀に変異したままになったものの一部がガン細胞となる)。その変質が生殖細胞に起こったときのみ(そしてそれが授精に影響したときのみ)、子孫へと引き継がれるわけであるから(とはいえ肉体に顕著な変異を及ぼす確率は極めて低いが)、確率の問題として、おそらくは生きているあいだに蓄積した外部刺激のすくなからずは、DNAへと何らかの変質を加えているとみて矛盾はしないだろう。ただ、その変質が観察可能な変異として肉体に顕現するか否か、そして子孫に踏襲されるか否か(つまり生殖細胞のDNAにピンポイントで変異が起こるかどうか)が、極めて偶発的にしか発生し得ない(言い換えれば現段階の科学技術では再現性を確立できない)ので、なかなか観測されにくい、という背景があるのではないか、と妄想できる。科学的根拠のない妄想であるが、以前から繰り返し述べているように、獲得形質の遺伝は、なんらかのカタチで生命の進化を促すイチ因子として、無視できない規模で生命体へと影響を与えているのではないか、といくひしさんは妄想を逞しくしている。(念を押しておきますが、2019年現在の生物学では、セントラルドグマが妥当であるとする考え方が主流のようです。獲得形質の遺伝は起こらないと考えられていますので、いくひしさんの妄想を真に受けないようにお願いいたします)



※日々、みんな仲良くすごしてほしい。



2061:【パラパラチャーハン師匠】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなぁ。いくひしさんはさいきん、水だし茶にハマっておってな。おうちにいるあいだは水だし茶ばっかりゴクゴクしているでござる。でもお外にでるときはセブンイレブンのフルーツオ・レを飲んでいるでござる。ホントは白桃オ・レが飲みたいのだけど、三店舗まわっても売ってないので、同じくらいおいちいフルーツオ・レを飲んでいるでござる。おいちい、おいちいでござる。そうそう、さいきん発見したでござるが、パラパラチャーハンをつくるコツはお塩でござるよ。油を熱々にしたら、そこにご飯を混ぜるでござるが、そのときにお塩をいっしょに入れて炒めるでござる。よくあるチャーハンのつくり方に、炒める前にご飯と卵をまぜまぜして、卵かけごはん状にしてからお鍋に投入するといいでござるよ、みたいな技があるでござるが、お塩の入れるタイミングさえ合っていれば、卵はいつ混ぜても変わらないでござる。いままでいくひしさんは、お塩は、ご飯と卵を炒め終わってからヒョーイしていたでござるが、お塩は、ご飯を炒めると同時がよいでござる。これだけであとはもう、油の量と火加減、ちゃんとお鍋を熱々にしているか、さえ間違わなければ、パラパラチャーハンはきみのものでござる。いくひしさんは極めてしまったでござる。これからはみなのものは、いくひしさんのことをパラパラチャーハン師匠と呼ぶでござる。よいでござるな。えいえい。さいきんは暑かったり、寒かったり、雷が鳴ったり、風がつよかったり、お天気さんがせわしないでござる。おちついて、おちついて、とお腹のあたりをドオドオってしてあげたくなるでござるけど、いくひしさんにはどうしてもお天気さんのお腹のあたりがどこなのかの見当がつかずに、困ってしまうでござる。とほほでござる。それはそれとして、とほほ、ってなんでござるか? とほほって、なんだかお間抜けな感じがするでござる。いくひしさんはぜったいに、とほほ、って言われたくないでござる。でもトロロご飯は好きでござる。だからきっと、とほほ、もご飯にかけたらおいしくなるでござる。熱々の油にヒョーイしたら、パラパラのとほほご飯になるかもしれないでござるな。そのときはちゃんとお塩の入れるタイミングを間違わないようにするでござるよ。パラパラチャーハン師匠との約束でござる。いまは朝の五時二十分でござるが、みなのものもよい一日をすごすでござるよ。これもパラパラチャーハン師匠との約束でござる。よいでござるな。よいでござるー。ではまたー、でござるー。



2062:【超短編18『テロルの木馬』】

気まぐれな風が頬を撫でる。昼時だというのに喫茶店は空いている。通りまで閑散としており、テラスでコーヒーをすすっていても雑踏の喧騒が聞こえてこないほどだ。「みんな警戒して外出を控えてるんですよ」「かってに人の心を読むな」睨みをきかせると、オレの向かいに座る女は、「誰かさんがなかなか仕事を引き受けてくれないから」ここぞとばかりの嫌味を口にする。「いまのところ報道管制が敷かれてますから、表向きはどの爆破テロも事故として報道されてますけど、そんなの信じてる国民はサンタクロースを夢見る少女くらいなものですよ。テロなんですよ。国際的に大問題の大事件ですよ。人命がかかっているのに、どうしてあなたはそう意固地なんですか」「テロだからだよ。ほかに理由があるか? 売られた喧嘩を買ったらやっこさんの思う壺じゃねぇか。相手にすんな。話題にすんな。こっそり、ひっそり、陰から葬れ」「それができればあなたにこうして頼んではいませんよ。首謀者が不明。声明をだしてるテロ組織は挙げつらねたらキリがなく、どれが本物の声明かを断定するだけでも対策本部はパンク寸前なんですよ」「人手が足りないからってとっくに引退した民間人にすがるんじゃねぇよ」「ですがこうしているいまもどこかで爆弾が」「要求に共通項はあんのかい」面倒なのでヒントをやった。女はポカンとしており、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889911411



2063:【それはなんで?】

商業作家にいまでもなりたくないというか、出版社とお近づきになりたいとはいっさい思わないいくひしさんであるが、さいきんすこし考え方が変わって、いっちょやってやっかな、という気になっている。文芸に手をだす前、ハマる前の、いくひしさんがかつて封印したはずの「××」がいくひしさんの奥底からポコポコと抜けだして、いくひしさんの身体の主導権を握ろうとしている様が、さいきんとみに、如実に感じられるようになってきている。いままでは抵抗してきたのだけれども、もういっかな、という気持ちに流されつつある。孤独ゴッコもいったん終わりになるかもしれない。やだなぁ。でもしょうがないのだ。いくひしさんにやる気をださせたのがわるい。怠け者のいくひしさんはいよいよ、屈伸をはじめ、めんどくさいなぁ、と肩を回しながら、おふとんに潜りこみ、まずはひとやすみひとやすみ、戦の前にたっぷりと英気を養うのである。



2064:【情報発信の段取り】

情報は、どう着飾るか、よりも、いつだすのか、のほうが重要だ。むろん、どこにだすのか、といった場所も欠かせない要素の一つである。情報をだすタイミングさえ的確であれば、どんな些細な情報であっても、雪崩を起こすように、或いは大木を伐採するときのように、社会の流れを任意の方向へ誘導できる。どこに石を落とせば、より大きな波紋を起こせるか。これは、場所よりもいつどのような順番で石を投げこむか、のほうが見極める価値があるといえる。ちいさな波紋であろうといくつか繰り返し発生させ、干渉させあえば、大きな波紋となって、水面全体をうねらせ得る。だいじなのはやはりというべきか、いつ、どのタイミングで情報をだすのか、である。小出しにするよりも大量に一気に発信したほうが人々への伝播という観点からすれば優位かもしれないが、情報によって何かの流れを変えたければむしろ、小出しにし、必要最小限の発信で、最大限の効果を期待したほうが、のちのちにまでわたって有利に事を進められるはずだ。誰に何を伝えたいのか。まずはそこを分析し、いつどのように発信すれば伝わるのかを考えておくのが、情報発信において、安全とリスク双方の面で効果を発揮するのではないか、と見立てているが、正しいか否かは、定かではない。いくひしさんはすくなくとも、そのことを意識して情報を発信している。タイミングによっては、大量に一気に発信することも必要だと考えているが、まだそうしたタイミングが巡ってきたためしはないようだ。



2065:【これからの社会におかれては】

手の内を見せても安全な策を構築すべきである。不透明さはリスクであると心得よ。裏から言えば、隠す素振りをみせずに隠し通す術が需要を高めていくと考えられる。透明すぎるものにも注意を払っておいて損はないだろう。



2066:【悪意への対処法】

要求のいっさいないテロに対して、社会は成す術がない。純粋な悪意には、それを上回る悪意で以ってねじ伏せる以外には、なされるがままに悪意を甘受する道しか残されてはいない。戦争とは、その悪意を受動するしかない道への抵抗であり、そうした反発心から引き起こる。そして、要求のいっさいないテロ、純粋な悪意は、戦争をこそ望んでいる。つまり、狙われたが最後、あとはもう損をすることが決まってしまっているのだ。だからこそ、狙われないようにすることがもっとも優先すべき防衛策なのだが、未だかつて社会はその域に到達することはできていないようだ。戦争のカタチが、純粋な暴力ではなくなっただけで、到る箇所で戦争は引き起こっている。それこそ、社会は大小さまざまなコミュニティに分かれ、規模の異なる戦争を無数に繰り広げている。どうすれば戦争を失くせるか、という命題はそもそも前提が間違っており、戦争は失くせないのだ。ただ、どのような戦争を残し、どういった方向へと収斂させるかは選べるようだ。純粋な悪意を誘導できるくらいに知恵をつけ、より勝算のある戦争へと誘いこむ。純粋な悪意が戦争を望んでいるのならば、勝っても負けても損をしない、斟酌せずに言えば得をするような罠を張っておくのが有効だ。戦争をしても損をしない土壌を築いておくこと。勝っても負けても得をする道をつくっておくこと。もっと言えば、純粋な悪意を手駒にできるくらいに柔軟な立場を築いておくことが、あらゆる奇禍の種を芽吹かせずに済む最善の方法と呼べそうだ。要約すれば政治とはつまるところ、そういうものなのかもしれない。



2067:【自己肯定感ゼロごっこ】

ひとにやさしく、努力ができ、賢く、人望の厚い、性格のよろしい、親孝行のできる、困ってるひとに手を差し伸べられる、頼られる、期待に応えられる、おしゃれで、うつくしく、フォロワー数のそこそこ多い、誰からも愛される、誰の足も引っ張らない、そういう人間でありたかったなぁ。人間でありたかったなぁ。でもいくひしさんはいくひしさんなのだなぁ。なんでだぁ。いやじゃー。いくひしさんはいくひしさんなんかきらいじゃー。うわーん。なーんて思ってないからクズなのだ。いくひしさんはいくひしさんだ。これ以上どうにもならん。開き直るとか、そういうことでなく、人の本質などそうそう変わらない。変わらないからこその本質だ。諦めるしかない。それを、受け入れる、と言い換えてもよい。



2068:【出版社だけの問題?】

出版不況や、コンテンツ業界の問題は、往々にして編集者の過失や怠慢であるかのように語られがちであるが、じっさいのところの要因は時代の変遷が大方を占めているし、心地よい環境から抜けだしたくないと欲する人間の根本的な性質によるものが大きい。だとすれば、むろん編集者だけでなく、営業や経営陣を含めた大多数の業界関係者は無関係ではなくなるし、商業作家とて例外ではなくなるのが道理だ。いったいプロの作家たちはこれまで何をしてきたのだろう。果たして何をしようとしてきたのだろう。作家仲間で飲み会をひらき、業界のわるぐちを言いあって鬱憤を晴らし、あとはなるようになれ、とその場任せの創作に時間をそそいできたのだろうか。常識とは名ばかりの自己保身から、出版社へ異論を投げかけることなく、なあなあのまま、業界が縮小していく様を眺めてきたのが大半なのではないのか。違うなら違うと言ってほしい。声をあげて、私たち僕たちはこれこれこのように尽力してきた、時代の変遷に負けないように仕組みを変えようとしてきたのだ、と目に見えるカタチで示してほしい。ハッキリ言ってしまえば、いま本を読まれないのは、読まれるような本をだしてこなかった作家の責任でもある。出版社に尻尾を振って、言いなりになっているようにしか見えない。無闇に反発すればいいというわけではないにしろ、せめて「こうしたほうがいい」と案をだすくらいのことは日常的に発信したらどうなのか。読者から見えない場所で、こっそり貢献してますよ、といった一見かっこうのよろしい姿勢を語る作家もでてくるだろう。しかしその効果がいかほどに現れているのか、といまいちど考えなおしてみるとよい。あなたにしかできない貢献があるのかもしれない。しかし、誰にでもできる貢献だってあるはずだ。それをまずはあなたが実践し、世に示し、それをして本当の意味でのフォロワーを増やしていくことが本を生業としたコミュニティの活性化につながるのではないか。そうした行動こそが、回り回って、本の価値そのものをあげるのではないか。いまそれを実践しているのは、一部の熱心な(単なる)読書好きであり、ユーチューバーだろう。プロが果たして何をしているというのか。まるで見えてこないのですが、それはいつものように、見ようとしていないいくひしさんの問題なのだろうか。もちろん、それもあるだろう。否定はしない。しかし、それだけとも思えないのだが、あなた方はこれからどうするつもりでおられるか? ぜひとも商業作家、プロを標榜している方々に伺ってみたいものである。



2069:【ぶーめらん】

はぁ? いくひしさん、あんたがそれ言います? 何もしてないあなたがそれ言っちゃいます? 言える立場ですか? はぁ? 他人の足を引っ張ることに躍起になってるいまのあなたに、業界どうのこうのと言う資格はないですよ、いっぺんプロの爪の垢でも煎じてバケツ百杯くらい飲ませてもらったらどうですか。クズもほどほどにしとくことですね。



2070:【じぶんのことでいっぱいいっぱい】

みんな仲良く過ごしてほしいなぁ。仲良しこよしでなくてよいから、険悪にはならないでほしい。それぞれに守りたいものがあって、優先している条件があって、それはほかの個人やコミュニティとは相容れない場合もあるかもしれないけれども、そこはなんとか折り合いをつけてほしいなぁ。強いほうが、弱いほうに譲ってあげる。強さとは、その余裕のことだと思うのだけれども、世のなか、なかなか強いひとには出会えないのだなぁ。孤独ないくひしさんには関係のないことではあるけれど、なかなかどうして殺伐としているのだなぁ。




※日々、悪態をつき、人を遠ざけ、ほっとする。



2071:【知恵をつけよう】

誰だって身内にはいい顔をする。身内以外の人間、もっと言えば、敵に対してどのように接するのかが、文明人かそうでないか、の違いに現れるのではないか。人間を害獣扱いする者を果たして文化的と呼べるのか。疑問である。



2072:【表現型の可塑性】

生物学用語で「表現型可塑性」と呼ばれるものがある。これは環境の変化に適応して身体を変化させる生物の形質を意味する。たとえば寒い土地にいけば人間は脂肪を蓄えようとするし、日差しのつよい土地にいけば日焼けをする。こうした環境に適応した身体の変化は、遺伝子が変質せずとも引き起こり、ゆえに子孫に引き継がれることはなく、その個体に完結した変異として認められる。言い換えるならば、表現型可塑性は獲得形質の一部であり、子孫には引き継がれない。ここから分かることは、表現型可塑性が高い種は、時間の経過に従い、個体差が均一化し、進化の速度がゆるやかになる点だ。環境へ適応しやすい種のほうが、進化速度が遅くなる(どんな個体も環境に適応するということは、自然淘汰の原理が働きにくくなるため、進化速度が遅くなる)。反して、環境に適応しにくい種のほうは、進化速度が高いことが予想できる。視点を変えれば、表現型可塑性が高いとほかの環境に移る必要もなく、またほかの性質を有する種と交配する必然性がないため遺伝的多様性が損なわれる傾向にある。いっぽうで表現型可塑性が低いと、環境に適応できない分、過ごしやすい環境を求めて移動する習性が求められ、場所を移動すれば、ほかの種と交配する確率も高くなると考えられる。一言でまとめれば、表現型可塑性が低いほうが多様性が担保されやすいと言えそうだ(局所的には、淘汰が進むことで進化が促されるわけであるから、表現型可塑性が低いことが多様性を高めることに直結するわけではないし、必ずしも多様性が進化を促すとも呼べないが、多様性のある環境のなかでこそ自然淘汰の原理は有効に機能するので、俯瞰的には多様性が進化を促すと言っても間違ってはいない。そして進化は新たな種を生むことでもあり、これは多様性を増すイチ因子となり得る――すくなくとも遺伝的多様性は増すので、現存する種の数を単純に比較するだけでは、多様性と進化の関連は語れないはずだ)。話は逸れるが、「時代に適応せよ」「環境に適応せよ」と謳うのは一見すると正しいように映るが、進化の側面からするといちがいに正しいとは呼べなさそうである。もっとも、生き残らないことには進化も適応も何もあったものではない。生き残ることを優先するのは、進化することを目的にするのならば正しいのかもしれない。しかし、生物としての正しさと人間としての正しさにはどこか隔たりがあるように思われてならず、いまのところこの矛盾を紐解いた文芸作品とは出会えていない。進化することは善か。生き残ることは善であるのか。生物としての悪とは何か。人間としての悪とは何か。善とは。悪とは。やはりというべきか、いくひしにとって物語の醍醐味とは、この謎解きに収斂するのかもしれない。(曖昧な知識を組み立てて、憶測を語っております。真に受けないようにお願いします)



2073:【超短編19『布団のうえで寝たいんだ』】

通知表の時期は地獄だ。朝起きると、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054889959150



2074:【主語がでかいことが問題ではない】

SNSでは「主語がでかい」という言葉が揶揄する意味で使われている。たとえば、「男は~だから」や「女はこうだから」みたいな意見において、それはおおざっぱにくくりすぎでしょ、という反論を籠めて、「主語がでかい」と言い表すようだ。詭弁における「過度な一般化」とほとんど同じ意味であろう。ただ、集合全体の二割程度の事例であれ、看過できない問題というのもあり、その問題が放置されているのならばそれは集合全体の問題だと言って支障のないこともあるのもたしかである。単純な割合の比較で、「過度な一般化だ」と決めつけるのは、それこそいただけないのではないか、と思うしだいだ。もっと言えば、「主語がでかい言説」を禁じるとなると、傾向や性質を語ることはまずできなくなる。何事にも例外はつきものだ。掘り下げて言えば、「主語がでかい」ことがいけないとするならばあとはもう、「わたしとあなただけ構文」で話すしかなくなる。しかし、「主語がでかい」と批判する者も、けっきょくどこかで何かの集合をひとくくりにして扱い、批判したり、賛同したりしている。その自家撞着くらいには自覚的であってほしいものだ。たとえば、現在社会問題として俎上に載っている貧富の差は、果たして個人の問題に還元してしまってよいのだろうか。「主語がでかい」を批判に使いすぎると、結局なにごとも自己責任だ、とする極論に偏ってしまう気がするのだが、あなたはどう思われるだろう。主語がでかいことが問題なのではない。何が問題なのかが明確に指摘できていないのがいけないのだ。なぜその集合にそのような傾向が現れてしまっているのかを突き詰めて考えることこそが、より合理的な解決策を編みだすための足がかりとなるのではないだろうか。井戸水を飲んだら死人がでた。井戸水は危うい。たしかにそのような傾向があるかもしれないが、なぜ井戸水が毒と化してしまったか、のほうがより本質的な問いであると呼べる。目のまえに提示されたデータだけに目を留めず、ほかの要素と関連づけて考える癖をつけるのも、そうわるくはないはずだ。むろん、妄想や不確かな情報と関連づけるのは利口とは呼べないが。



2075:【とうにょうびょう】

二十個くらい前の記事で、糖尿病は人類が寒冷地帯に暮らしていたときの名残りで、本来は血液が凍りにくくするための自己防衛機能だったとする説を並べた。仮説でしかなく、真偽のほどは定かではないとも述べたはずだが、もう一つ、糖尿病の起源めいた話を目にしたので、メモしておく。社会が発展し、人類が衣食住に困らなくなりはじめたのはほんの二百年前前後のできごとであり、それ以前は、現代とは比べものにならないほど頻繁に飢餓に苦しんでいたはずだ。そしてなるべく血中のエネルギィ源が薄くならないように、血糖値を高める方向に人類は進化した。その名残りが、飽食の現代社会において生活習慣病として表出してしまったのではないか、とする説があるようだ。これもまた真偽のほどをいくひしさんは知らないので、そういう説もあるのかといった程度に流しておくのが好ましい。こんなところに正しい情報など落ちてやしない。本当だろうか、と疑問する癖をつけておこう。疑問の例を一つ並べておこう。たとえば、凍傷予防説において、本当に血中糖度が高まると血液が凍りにくくなるのか、正常な血糖値の血液とどの程度の差が生じるのか、くらいは研究データとして知っておきたいところだ。また飢餓耐性説においては、糖尿病に1型と2型がある理由が説明できない。常時飢餓状態では人間は生きていけないのだから、当然、飢餓への耐性は一時的なものであったはずだ。つまりいちど血糖値があがりやすくなったあとで、食事ができるようになり栄養状態がよくなったら、こんどは正常な状態に戻る必要がある(これがもし凍傷への予防のためであったなら、恒常的にずっと血糖値が高くないといけないため、「膵臓の機能が壊れる1型」と「遺伝的にインシュリンが分泌されにくくなる2型」があっても矛盾しない。とにかく血糖値が高くなればよいからだ)。しかし飢餓への耐性のために血糖値を高くするだけなら、わざわざ膵臓の機能が壊れる必要はない。過剰な糖分の摂取や生活習慣の乱れが要因であるだけなら、わざわざ人類の祖先が飢餓に苦しんでいた、なんて理由を引っ張ってこずとも、単なる病気として扱えばよい話だ。とはいえ、1型と2型がべつべつの起源を有していてもおかしくはなく、ひょっとしたら凍傷予防説と飢餓耐性説の両方が糖尿病の起源になっている可能性も否定できない。繰り返すが、いくひしさんは糖尿病がなぜ発症するのか、そのメカニズムも、起源も知らない。いずれにせよ、現代人にとって糖尿病は病気であり、困った身体の反応として、マイナスに働いていることだけは確かだと言ってよいだろう。甘い物の食べすぎと間食にはすこしばかり気を配って過ごしていきたいものだ。



2076:【思考の飛躍の一例】

報労金というものをご存じだろうか。落し物を拾ったら、持ち主からその落し物総額の5~20%をもらい受ける権利が発生する。これが報労金だ。ただ、たとえば財布を拾ったとして、さいきんでは電子マネーやプリペイドカードなど、財布そのものの総額がいったいどこまでの価値を保有しているのかが極めて曖昧だと呼べる。単純な現金の合計なのか、それとも財布それ自体を含めた、総合した損失額のことなのか。そう考えてみると、キャッシュカードの場合は、たとえ失くしたとしても再発行できるので、損失がないため、これは総額に含まれないと考えてよさそうだ。だがプリペイドカードはべつだ。電子マネーも、スイカなど、カード自体に価値が付属している場合には、総額として計上してもよろしいように感じる。おおむね、こうした落し物の総額については、民事の管轄なので、おそらくは請求した段階でおとなしく払ってもらえる場合もあれば、金額によっては弁護士を介しての交渉の場が持たれる可能性もある。落し物を拾ったときには、交番に届けると、拾得物件預り書が発行され、そのひかえをもらうことになる。そこには落し物の種類と中身、財布であれば現金の金額が記載されており、拾い主であるあなたの名前や住所、連絡先なども、調書のうえ、打ちこまれる。以前は拾い主自身がペンで書き込む形式だったが、いまはデジタルで交番のほうで印字してくれる。そのとき、落とし主にじぶんの連絡先を伝えるか否かや、報労金(落し物総額の5~20%をもらい受ける権利)や、一定期間内に落とし主が現れなかったときに生じる「所有権」を行使するか否かなどを選択できる。話は逸れるが、もしスマホを拾って届け出た場合、スマホの総額はいったいいくらとして勘定されるだろう。今後は仮想通貨やオンライン決算サービスなどが一般化し、現金を持ち歩く必要がなくなることが予想される。そうなったとき、スマホの総額が果たしていくらとして勘定されるのか、が未知数だ。個人情報の塊でもあり、いくらクラウドでデータがほかの端末に共有され、アクセス可能だからといって、損失がゼロとはいかないだろう。むしろ、さまざまなオンラインサービスの暗証番号やらなにやら、そういったデータをメモ代わりに保存していたりするのではないか。極論、スマホを失くしただけで、一文無しになってしまう、なんて事例もでてくるのではないだろうか。こうしたスマホを失くしたときの保険(報労金の支払いや、データが流出したことで生じる損益の保障、といった意味を含めての保険)は、今後二十年で需要が高まる気がするが、すでにそうしたサービスは存在しているのだろうか。端末代はせいぜい十万円くらいだろうが、これからさき、技術が発展し、よりネットに依存した社会になっていくにつれ、仮想世界との窓口であるスマホ(メディア端末)は、その潜在価値を高めていくはずだ。ひょっとしたら火災保険や生命保険に入るように、「ネットと切り離された生活に対する保険」に誰もが加入する社会が到来するかもしれない。そういう意味では、価値が損なわれにくい「金(ゴールド)」や「資源」は、ますます重宝されていくのではないか、と考えられる。言い換えるならば、経済はデータで回り、物それ自体が流通することは減少していくだろう。仮にそのとおりの社会になったとしたならば、現物(実体)として価値のあるものほど、収集され、保管され、埋蔵されていくので、社会は急激に「金(ゴールド)や資源」を独占した者が支配する世のなかに偏っていくのではないだろうか。つまり、科学技術の発展に伴い、社会の仕組みは原始的な構造に回帰していく、と妄想できる(そして現に、そうなりつつある世のなかであるように感じられるが、じっさいのところはどうなのだろう)。



2077:【関係しあっている】

スポーツでも文芸でも何でも、「それを行うことで他者と関わろうとする者」と「単純にそれがしたくてしている者」との二極に分断されやすい傾向にあるように見受けられる。どちらがよいわるいの話ではなく、どちらが上達しやすいかも、これは一般化できる話ではない。いっぽうでは、どちらが注目されやすいかは決まっていて、それは集団のなかに身を置く者のほうが注目されやすい。単純な確率の問題でもあるし、集団に馴染まない者を排除しようとする人間の社会習性的側面によるものでもある。ただ、「単純にそれがしたくてしている者」は注目されることを苦手と感じる傾向にあるように思えるので、おそらく当人にとってはそれを期待して集団に馴染まないでいると見做して、大きな齟齬は生じないように思われる(そうでない者ももちろんいるだろうが)。とはいえ、注目されることが善で、されないことが悪であるとする共通認識が集団に属すると発生しやすく、そうなると注目されにくい性質を帯びている「単純にそれがしたくてしている者」が悪として評価され、結果的に害が及ぶ確率が高くなる。一昔前であれば、集団に属さない、というだけのことが悪そのものとして扱われた時代もあったようだ。しかし現代であっても完全になくなったわけではなく、こうした誤った前提はまだまだ人々の意識のなかに染みこんでいるように概観できる。成果主義もその一つであり、いったい何が成果であるのか、が明確でなく、だいたいにおいては、集団にとって直接の利益をもたらしたモノ、という認識なのではないだろうか。しかし人はただそこに存在し、生を営んでいるだけでも、何かしらの影響を周囲に与え、社会に与えている。極論、寝たきりの病人であっても、そのひとを看病し、生きていける環境を整える契機を社会に与えている。寝たきりの病人を弱者として表現するのは気が進まないが、一般的には弱者として扱われるので、ここでは弱者と記述するが、そうした弱者がいるおかげで、どんな人間であっても生きていける社会の基盤が整うのではないだろうか。社会における安全とは、どんな状態になっても最低限の生活を継続していける仕組みのことであるはずだ。だとすれば、社会に内在する多くの「健常者」ほど、弱者の存在に関心を持ち、感謝の念を抱くことのほうが、「弱者を優遇するのは社会的に損だと非難したくなる心情」よりも、理屈のうえではより妥当であるはずだ。そしてこの理屈は、あらゆる文化や分野の発展に不可欠な視点であると思われる。多くの者にとって取るに足りない、どうでもいいことを真面目に、根気強く、突き詰めていける者の存在は、現在進行形で注目されやすい「集団に直接の利益をもたらしているコトやモノ」をさらに深化させ、ときに凌駕する可能性を有している。何が評価されるのかは時の運であり、いま現在の観測者にとって価値があるように見えている、というだけのことでしかない。表層に浮かんだ薄膜にばかり気をとられず、その下に蓄積している豊富な養分に目を留めないことには、真(未来)に価値のあるモノやコトを見逃してしまう確率を高めるだけなのではないだろうか。教養とは、そうした目に見えない、データにはまだ現れていないコトやモノに目を留め、その存在に関心を持ち、感謝するに値する背景に思いを馳せる想像力のことなのではないだろうか。いくら本を読み、歴史を憶え、科学反応式を書けるようになったところで、視ようとしない者には視えないモノやコトはある。そして、そうした視ようとしなければ視えないコトやモノを知覚するには、己の至らなさを知るよりほかはない。人間は万能でもなければ全能でもない。弱者が果たして本当に弱者なのかすら、誰にも断定することはできないのだ。あなたがバカにし、くだらない、と一蹴したものが果たして本当に、バカでくだらないのか、はすくなくともあなた自身には証明できない。どんな事象にも認知不可能な背景があり、深さがある。殺人一つとっても、多くのデータが存在し、膨大な量の文芸作品が殺人を題材にしている。具体的な一つの殺人を突き詰めて考えるだけで、一生を棒に振るだけの因果関係を掘りだし、辿り、頭を悩ませることになるだろう。人は関係しあって生きている。これは集団に望んで組みこまれる者も、そうでない者も、集団から敢えて距離をおく者とて例外ではない。無人島で生活する人間ですら、地球温暖化という名の社会の影響を受けるハメになる。関係しあって生きている。このことを抜きに、文芸を、小説を、つくることはおろか、扱うこともできないだろう。しかしこのことに自覚的な者は、驚くほどすくないように思われる。すくなくともいくひしさんには、そのように映っている。それがわるいことだとは思わないが、いささか割合として多すぎるのではないか、と懸念を抱く、きょうこのごろである。集団を尊び、組織のメリットを強調する者ほど、自己完結し、認識下にない多くの他者と関係しあっていることに無頓着なのは、皮肉と呼ぶにはできすぎている。(むろん、いくひしさんも例外ではない)



2078:【アナリティクス解析について】

いくひしさんはツイッターやユーチューブに動画を載せている。ツイッターは去年からで、ユーチューブは2014年ごろから利用している。なかでもデータ解析としてアナリティクスの存在はありがたい。世のなかには実際にやってみなければ分からないことというのがあり、もちろんツイッターやユーチューブを利用したからこそ分かったこともある。たとえば、ユーザーのアクションが無条件に数字に反映されるわけではない、ということだ。インプレッションやアクセス数、再生回数などをアナリティクス解析として見られるわけだが、数字に反映されない数というものが思っていた以上に多いことを知った。例として、ツイッターに載せた動画が挙げられる。ツイッターに直接動画を載せた場合、ツイッターにログインしない状態で閲覧すると、その再生数が動画に反映されない。また、ユーチューブの動画をツイッターに載せる場合は、ログインの有無に拘わらず、再生数が(ユーチューブ先で)反映されなくなる。もうすこし詳しく述べてみよう。リンクを貼るだけでも、ツイッターはユーチューブの動画画面をツイート上に表示する。しかし、ツイッター上から直接ユーチューブに飛ばずに、ツイート上の画面で動画を再生しても、ユーチューブ先では再生数としては反映されないのだ。これはたとえツイッターにログインしていたとしても、動画を再生したことは、そのリンク先へ飛ばないことには再生数として計算されないようだ。ちなみにいくひしさんは主にPCを利用しているので、ひょっとしたらスマホであれば、ログインの有無に拘わらず、どんなアクションもアナリティクスに反映されるのかもしれない。とりあえず言えるのは、データとして表れるのは、極一部のユーザーの、さらに一部のアクションだということだ。データ至上主義はけっこうなことだが、拾いあげられていないデータがあることを前提にしておかないことには、思わぬ落とし穴にはまるかもしれない。用心するに越したことはない。(いくひしさんが勘違いをしている可能性もありますし、いつシステムが改善されるかも分かりません。不確かな情報ですので、真に受けないでください)



2079:【確率は個体と総体で異なる】

0.0001%の確率でしか発症しない病気があったとする。これは100万人に一人がかかるかどうかといった確率だ。ほとんど一般人には関係がなく、日常的に意識する必要のない、「安全性が担保されている状態」であると評価できる。しかし、人類の人口は70億人を超している。とすれば単純な計算として、7千人がその「0.0001%の確率でしか発症しない病気」にり患している、と考えられる。つまり、個別に確率が低くとも、全体でみたら無視できない規模で発生している事象というものがある。これは放射線物質でも同様だ。不安を煽るつもりはないが、ほとんど健康に害のない放射線量であろうと、がん発症率が0.1%でもあがれば、全体では無視できない規模でその放射線物質が要因でがんを発症している者はいるとみて、とくに異論は返ってこないだろう。ただし、がん細胞が増加したところで、直結して末期がんにまで成長するとは考えにくい。微量な放射線であるならば、ほくろが増えた、くらいの感覚がせいぜいであると想像するものだ。がん細胞は誰の肉体のなかにも存在している。DNA複製時のコピーのし損ないで生じることもあれば、宇宙線や太陽から届く放射線などを受けDNAが傷つき、できることもある。たいがいは、肉体に備わっている免疫機構によってそうしたがん細胞は日夜、駆逐されている。だから少々、体内でがん細胞の増える割合が高くなったところで、死を意識しなければならないほど重大な規模での増殖に直結するわけではない。ただし、がん細胞にならずとも、損傷を受けたDNAが変質したままで定着する確率は、微弱な放射線であれ、僅かに増えると考えられる。そうした変異が生殖細胞に生じれば、変異したDNAが子孫に引き継がれる可能性が高くなる(たいがいの変異は非コードDNA領域で生じるので、肉体の変異として現れることは極めて稀であると推測できる)。そして植物や細菌、ウイルスは人類以上に地上に存在し、絶えずDNA変異(バグ)と淘汰を繰り返している。自然界に存在し得ない量の放射線物質の影響は、そうした淘汰圧の高い種において、たとえ僅かなDNA変異確率の上昇だったとしても、全体では無視できない規模で、思いがけない進化をその種におよぼすのではないか、と疑問するものである。進化は偶発的なDNAのバグによって引き起こる。偶然生じたバグが、さらに偶然そのときの環境に適応し、ほかの個体よりも生存しやすくなるため、子孫をより多く残すようになる。結果としてバグのあるDNAを有する個体が増殖し、種全体の遺伝的形質を塗り替えてしまう。進化とはこうした偶然の連鎖がシステマチックに働くことで促されていく。ならば、その偶然であるDNA変異の確率が僅かにでも上昇すれば、種全体の進化速度は高まるのが道理であると考えて、大きな矛盾はないように思われる。とはいえ、生態系には、ある種の弾性が認められる。同じ環境(均衡)を保とうとするチカラが働く傾向にあるので、極々僅かな極めてゼロにちかい影響であれば、そうしたチカラによってかき消され、単純な確率の足し算にはならないとも考えられる。要するに、容易には予測できないため、安易に楽観視するには早計だが、不必要に不安に思う必要もないということだ。ただし、放射線と生態系の選択的進化への影響を観測するのには長期的で継続的なデータ分析が欠かせない。現時点で、それが充分に行われているかについては、疑問を投げかけておいて損はないだろう。以上の疑問点を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。ちなみにこうしたテキストは、中身のない文章の典型である。何かを言っているようで、何も言っていないに等しい。騙されないように注意しましょう。(まったくの思いつきであり、科学的根拠のない妄想ですので、真に受けないでください)



2080:【知識も語彙も飾りにすぎない】

いくひしさんは「いくひ誌。」で並べるようなことを小説では並べない。なぜなら物語を描きたいのであって、知識を書き写したいわけではないからだ。訴えたいこともないし、伝えたいメッセージもない。知識を得たいなら論文でも読めばよろしいのでは、と思ってしまうほどである。




※日々、誰かの死に気づくことなく、苦しみも、悲しみも、血も涙も、見逃している、この世は途方もない無情によって成り立っている、だからこそ掴めもしない歓喜や希望ばかりを着飾って、虚像ばかりを貪れる、しあわせとはなんと無責任で一過性の、火花だろう、しかし日々誰かの死を見詰め、苦しみも、悲しみも、血も涙も、漏れなく手にする者よりかはいくぶん以上に、愛らしい。



2081:【寝るのに理由などいらぬ】

やあやあ、いくひしさんだ。おひさしぶりでござるなぁ。いくひしさんはいま、まさにこのしゅんかん、ものっそい眠たいでござる。もうね、こんなん並べてる場合じゃないでござる。つくりかけの小説たまりすぎてて、いったいいくひしさんはどこまで怠け者を極めたら満足するのか、底なしのだらしなさに脱帽でござる。いやはや、みなのものはいくひしさんを反面教師にするでござるよ。いくひしさんほど自己管理とは無縁のへっぽこぴーはいないでござる。がまんなどできぬでござる。食べたいものがあったら待てと言われても、はーいと元気よく掲げたその手でむしゃむしゃかぶりつくでござる。眠くなったら寝るでござる。そのせいでたいへんなミスをしでかしてしまったとしても、いくひしさんが眠くなる前に、休んでいいよー、って言わなかったひとがわるいでござる。三大欲求は人間の基本的人権でござる。責任転嫁はいくひしさんのオハコでござる。好きなときによこになって休むくらいの自由は欲しいでござる。体力がないでござる。すぐに疲れてしまうでござる。休むことすら、疲れてしまうでござるよ。ヘトヘトでござる。休むのがヘタないくひしさんはだからひとよりもたくさん休まなくちゃいけないでござる。真面目になまけているでござる。立派なのでござるよ。褒めてくれてもよいでござるよ。それとも、もっとなまけなさいとお尻を叩いてくれてもよいでござる。いくひしさんは怠け者の鑑でござる。超一流でござる。あっちでなまけて、こっちでなまけて、なまけながらなまけるでござる。お茶の子さいさいでござる。たとえばそうじゃなぁ、バナナを食べながらチョコレートをかじって、バナナパフェを食べたつもりになるくらいのことは、いくひしさんにかかれば造作もないでござるよ。怠け者を極めるのもたいへんでござる。いくひしさんなんかバナナの皮をむくのもめんどっちぃから、チョコレートだけかじって、バナナパフェを食べたつもりにすらなれるでござる。でもチョコレートだけだとなんかあれだから、いっそ食べないで寝ちゃうでござる。夢のなかなら食べ放題でござる。ありもしないものをそこにあるように思いこんで、満足するのは怠け者の基本にして奥義でござるよ。やったつもり、食べたつもり、たくさんどっかで寝たつもり、んー、ここまでくるとなんだかただの働き者になってしまうでござるから、寝るのだけは真面目にとりくむでござる。きょうもスヤスヤ真面目になまけるでござる。みなのものはいくひしさんを見習って、ちゃんと寝るでござるよ。いい夢をみるでござる。ぐっすりスースーでござる。そしてよい明日を迎えるでござる。さわやかに目覚めるでござる。おやすみーでござるー。



2082:【超短編20『引退は惜しまれるうちに』】

損な役回りだ。雲内(うんない)ヒトヨは院内会議で新たに任命された役職にうんざりした。暗雲たれこめる胸中で患者の診察を済ませ、帰宅する。夫は専業主夫だ。いいや、在宅ワーカーと呼んだほうが正確なのかもしれない。夫がどのような経済システムで小遣いを稼いでいるのかをヒトヨは知らないままでいる。「ヒトヨさんは興味ないだろうからね。患者さんのことだけ考えてたらいいよ」嫌味なくそのように言い切る夫とは、夫婦というよりも、共に生活の至らない箇所を埋めあう相棒のような繋がりを維持しつづけている。「きょうも疲れてるね」顔を合わせると開口一番に夫はいつもそう言う。だがきょうはそのあとで、「浮かない顔でもある」と付け加えたところを鑑みるに、じぶんで自覚している以上に重い責務を背負わされたのだと、ついたばかりの肩書きに、否応なく拒否反応がでる。「じつはきょう」ヒトヨは語った。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054890042589



2083:【底なしの】

何かを得ても、何も変わらないのだと気づいたとき、人は何も得なかったころよりも大きな虚無を抱く。その虚無を打破するためには、何かを得て変わろうとするのではなく、じぶんそのものが変わりつづけることを望むよりほかはない。どのように変わるのかを縦横無尽に、自在に、操れる。導ける。手にできる。自己満足を下等な欲求だと見做す向きが世のなかにはあるが、自由とはつまるところ自己満足であろう。満たされぬことで満たされる唯一の救済である。



2084:【性別に囚われているのは誰だろう】

ジャンルとしての百合とBLにおいて、いくひしさんはとうぶんつくるのを控えようと思う。理由はいくつか挙げられるが、まず一つ目に、いくひしさんがつくらずともすでにいくひしさんのつくりたい方向の世界観に目を向けている作家が出現しつづけている点だ。言い換えれば、いくひしさんがわざわざ手をださずとも、かってに百合やBLのジャンルの枠組みは拡がりつづけていく。それが解かったので、もういいかな、と考えている(何様だ、との所感、まことに正鵠を射っていると評価します)。もう一つは、社会の変容具合が思っていた以上に速い点だ。あと五年はかかるかな、と思っていた価値観の変化が、SNS上という極々狭い範囲の観測であれ、顕著にみられるようになってきている。具体的には、性差に関する問題は、六年前(二〇一三年)とは比べものにならないほど活発に議論されるようになっている。水掛け論というか、同じような議論が繰り返されているようにも見受けられるが、誰もが議論の入口に立てている傍証でもあり、これはむしろ好意的に受け止めてよい兆候に思える。先人はより議論を煮詰めておいて、後発組が論理迷宮に迷いこまぬように、さりげなくつぎの段階へと導いていけるとより好ましく感じる。せっかく入口に立った者に対して、まだそんなところにいるの、みたいなマウンティングは是非ともとらずにいてほしいといまのうちに釘を刺しておこう。話が逸れた。いくひしさんがジャンルとしての百合やBLから撤退する理由だが、考えてもみてほしい。このまま性差に関する議論が煮詰まれば、そう遠くないうちに、男女という枠組みが、生物学的性差以外で、ほとんど取り払われていくことが予測できる(生物学的性差ですら、遺伝子工学の発展によって取り払われるのは時間の問題だ)。言い換えれば、これまであった「女らしさ(女性性)」や「男らしさ(男性性)」、といった固定観念が打ち砕かれ、女性性や男性性といったものが、「リンゴ風味」や「ソーダ風味」といった、ある種の「記号(マーク)」として風化していく。その日の気分で服をコーディネイトするように、どんな個人のなかにも、女性性や男性性があってあたりまえだとする価値観が一般化し、そもそもが、そうした区分けをする意味がなくなっていくことが予想できる。これは性自認にしろ、性的指向にしろ、そうした区分けをする必要性すらなくなっていく。なぜなら、個々人の多様性が尊重されていくにつれ、「人は人を愛するのだ」「人は人と関わっているのだ」という極々単純な理屈が、社会に波及していくからだ。人は性別を愛するのではないし、性別がじぶんという枠組みを決めるわけでもない(まったくの無関係ではないにしろ、そこに囚われる道理はない。しかし、これまでの人類社会におかれては、仕組みとして、性差によって人格が矯正されてきた背景がある)。もちろん、好きになるきっかけが相手の性別にあってもいいし、なくてもいい。足の長い見た目が女性性に寄っている人物が好きでもそれは当人の自由だ。胸板の厚い見た目が男性性に寄っている人物が好きでもご自由にどうぞ、である。すなわち、これまであたりまえとされてきた、異性愛や同性愛というくくりそのものが、単なるフェチの一つにまで、風化していく。好きになったあとに相手とのあいだで愛を育めるかどうかは、好きになったきっかけとはあまり関係がない。相手を対等な人間として認め、接し、尊重していかないことには、そもそも好意すら受け取ってもらえないだろう。そしてこうした考え方が一般化していけば当然、百合やBLというくくりそのものが、機能しなくなる。わざわざ女性同士だけ、男性同士だけ、というのはむしろ古い考え方になっていく(すこし乱暴な比喩になるが、まるで肌の色で登場人物を選別するような感覚だ。これはジャンルではなく、明確な差別だろう)。ただし、古典としてそうしたジャンルは残るはずだ(貴族だけの物語や奴隷だけの物語がいまもまだ残っているように)。しかし現在、ミステリーがエンタテイメントとほとんど同義であるように、百合もBLも、それぞれ単なる恋愛物語に収束し、或いは各ジャンルに収斂していくだろう。どんなジャンルにも登場人物が女性だけ、男性だけ、或いは主要人物のからみが、女性同士寄り、男性同士寄り、といった作品があるものだ。それをわざわざ百合やBLとして売りにだすのは、いまはそうしたほうが売れるから(注目されやすいから)であり、これからさき、十年以内には、そうした惹句や範疇そのものが意味(効果)を失くしていくだろう(性的指向がある種のフェチにまで風化すれば、それに特化した物語として、百合です、BLです、と謳う作品がでつづけることは否定しないが、そもそもフェチモノは需要がすくないから、フェチなのだ。むしろ、萌えがいまはどんな作品にも取り入れられているように、百合やBLもまた、そうした要素がどんな物語にも組み込まれて当然になっていくはずだ)。いくひしさんにはかように結末が見えてしまったので、興味が失せてしまったと言ってもいい。むろん、断るまでもなく、いくひしさんがかってにそう考えているだけであり、この考えを一般化するつもりはない。ジャンルとしての百合やBLを嗜好する者たちがいることは知っている。それを否定しているわけではないし、そうした愛好を無駄だと言っているわけでもない。それぞれがそれぞれに、好きなものを、好きなように、つくったり、味わったり、ときには他人にすすめたりして、楽しんでいけばよろしいのではないだろうか。ただ、いくひしさんはもう、わざわざ百合やBLと称して物語をつくることは控えようと思う。いま手掛けている三万字前後の短編を最後に、新作においては百合やBLを標榜することはしなくなるので、その旨をここに記しておく(登場人物の生物学的性差がどちらかいっぽうに偏ることはあるだろう)。なぜだろう、と疑問に思われる方がのちのち、いらっしゃるかもわからないので、とくに深い意味はないですよ、という断りを述べて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。



2085:【そういうものがつくりたい】

いますぐ死にたいとは思わないが、人生を早送りして、一秒たりとも省略せずに、余すことなくの未来をトータル五秒に圧縮して、ああこういう人生だったのかと振り返りながら眠るように終わりたいとは、割とよく考える。結果が解かっているのにそれを待つ時間がもどかしい。いますぐ死にたいとは思わないが、さっさと死にたいとは思っているのかもしれない。読書も同じで、読後の所感だけ味わえたらそれでいい。それはもちろん、噛み砕き、咀嚼し、嚥下し、吸収したからこそ得られる味わいであるのだが、その過程をすっ飛ばすことなく、体感しながらに、その時間をできるだけ圧縮して感じたい。まるで出所した瞬間の開放感を何度も味わえる魔法のように。要するに、できるだけ多くの情報を得たいのだ。読書をしながら小説をつくり、身体を動かし、掃除をし、寝、食べ、シャワーを浴び、着替え、買い物をし、旅をできたら言うことがない。仕事はできるだけしたくない。



2086:【透明人間になりたくはないの?】

誰からも見向きもされない環境で創作をしつづけることがいくひしさんにとってものすごくたいせつだ。重要度が高いし、優先度も高い。人の目があるとすぐに影響されて、つまらないもの、見栄を張ったものをつくってしまう。不要なチカラが入ってしまうし、理想から程遠くなる。誰の目も気にせずにいられる環境、しずかな環境、じぶんと向き合える場所、じぶんの奥底へと潜っていける空間に身をおくことの重要性は、何度でもじぶんに言い聞かせていきたいところだ。それを一言で表すと、孤独、になるのかもしれない。欲を張れば、わざわざ一人にならずとも、雑踏のなかですら孤独になれると好ましい。いつでも無になれる。我執を切り離せる。成功なる世のなかの定めた枠を忘却し、確率の外側へと飛びだせるようになること。いくひしさんがそれをしなければ今後誰もそれに行きあたることのない、偶然の偶然を手にすべく、ただ孤独に無を掘りつづける。そういう日々を過ごしていきたい。まだまだぜんぜん程遠いが。



2087:【唯一無二の価値】

いまこの瞬間、この世に存在し得ない組み合わせを見つけだすことがいくひしさんにとって割かし重要だ、といった文章をときおりいくひしさんはこの「いくひ誌。」で並べてきた。誤解されそうなので注釈を挿しておくと、何もそれは「すでにあるもの」や「既存の組み合わせ」を価値の低いものと見做しているわけではない、という点だ。たとえば何事も基礎はだいじだ。なぜだいじかというと、どういう方向で掘り進めてもいずれそこに行きあたるもの――方法論としてほかの筋道であっても共通する成分――である確率が高いからだ。言い方を変えれば、水脈や鉱脈こそ、基礎であると呼べる。ただ、もっと深いところ、べつの場所にも同じような水脈や鉱脈があるかもしれない。すでに在り処の判明している水脈や鉱脈は、地図を辿れば誰でも辿りつける。すくなくとも、時間と労力をかければ可能だ。真似ができる。学ぶことができる。誰でも一定のレベルへと昇華し得る「成長の種」こそ基礎なのだ。同時に、そうした「基礎」や「既存の組み合わせ」は、真似ができ、学べるがゆえに、時間の経過にしたがい、有り触れた卑近へと変貌していく。まるでファーストフード店のようなものだ。ファーストフード店の食事は美味しい。間違いない。基礎を踏襲しているからだ。同時に、それだけだと飽きてしまう。物足りない。ほかの料理も食べてみたい。そうした欲求に衝き動かされる。基礎を真似たり、学んだりしながらでも、そうした探究はできる。ほかのここにはない何か、いくひしさんが見つけなければあとはもう誰にも見つけることはできないだろう何かを探すことはできるのだ。創作とは、本来そういった、ここにはない何か、じぶんが編みださなければ誰も観ることのできない何かをほかの人々にも共有し得るカタチで表現することではなかったか。それがまるで、すでにある「基礎」にどれだけちかいか、どれだけ「既存の組み合わせ」をきれいに再現できるか、の競技と化してしまっているようにいくひしさんには見受けられる。基礎は真似ていい。成分として取り入れていい。ただ、あまりにその割合が、創作物に対して大きすぎるのではないか、といくひしさんは首をひねっている。唯一無二でなくともいい。ただ、唯一無二を求めない創作に、おもしろさはいまひとつ感じない。話を脱線させるが、物語は時代によってその構造を変化させつづけている。むかし受け入れられた物語の骨格がいまの時代にそのまま通用すると考えるのは、いささか怪しいと構えておいたほうがよさそうに思えるが、あなたはどうお考えになられるだろう。映画で言えば「クラウドアトラス」や「アベンジャーズ/インフィニティウォー」がいまの時代に合致する物語の構造を備えていると指摘しておこう(単にいくひしさんが好きなだけとも言う)。ピクサーやディズニー作品もおおむね、その方向に舵をとっている。海外ドラマはさにあらん。各々、基礎を学びながら、そのさきを掘り進め、掴みたいものを掴んでいきましょう。



2088:【蟻と蜘蛛がすき】

雨の日の花壇に目が留まる。ツツジだろう。花はまだ咲いていない。緑色の羊じみて、道路脇に並んでいる。雨が降ると、その表面に、白い膜が浮かぶ。まさしく水玉模様だ。近づくまでもなく正体はわかっている。蜘蛛の巣だ。密集するツツジの葉のうえに蜘蛛の巣が、いくつも張られており、それが雨露を受け、白く浮き上がって見えている。こうしてツツジの表面に蜘蛛の巣が浮かびあがると気づいたのは、ここ数年のことのように思うのだ。小学生のころに見た記憶はない。中学生、高校、と気づいていれば思いだせるはずだ。しかしいちばん古い記憶でも、震災後のことであるから、おそらくは八年は経っていない。そのときに見かけた蜘蛛の巣は、一つ一つが小ぶりだった。ふしぎなのは、示し合せたようにすべての蜘蛛の巣の大きさが一様である点だ。きょう見かけた蜘蛛の巣もそうだった。大きさは、記憶にあったものよりも一回り大きいが、すべての蜘蛛の巣が示し合せたように同じ輪郭をかたどっている。相似ではなく、合同にちかい。蜘蛛の種類が違うのか、それとも同じ母蜘蛛から孵った蜘蛛の集団で、成長する速度がいっしょなのかもしれない。そう考えれば、以前に見かけたときに一回り小さかったのも頷ける。見かけた時期が、いまよりすこし早かったのだろう。幼い蜘蛛の集団の住み着いたツツジを見かけたから、きょう目撃した蜘蛛の巣の水玉模様よりも小ぶりだったのだ。それはそうと、あれはなんの蜘蛛なのだろう。調べればネットに載っているだろうけれども、いまはまだ知らないままでいよう。解決済みの判を捺さずに、しばらく「日常の引っ掛かり」として脳内のどこかに、蜘蛛の巣がごとく張りつけておく。こうした何気ない「無知」が、いずれ何かの物語に活きてくる。知識ばかりが有用なのではない。知らないこともまた、充分に価値のある情報と呼べる。絵画は余白によって浮きあがり、文章は行間によって奥行きを得、そして世界観は無知なる空白によってその枠組みを広げていく。共通するのはいずれも、想像力が躍るための舞台となることだ。たるみ、ゆるみ、あそび、ゆらぎ。ぎちぎちではゆび一本動かせない。金型ではなく衣服のようなやわらかさを、鎧ではなく外骨格のようなプラスアルファを。



2089:【準備体操】

1000作つくってからが本番なので、それまでは準備体操です。焦りようがないのです。まずは1000作。話はそれからです。



2090:【ボツ作集】

郁菱万のボツ作集を更新しはじめました。きょうは2019年6月23日です。だいたい200作くらいあると思うので(もっとあるかも)、まいにちすこしずつ更新していこうと思います。2009年ごろに処女作をつくりがてら、毎日つむいでいた作品となります。ひとさまに読ませられるクオリティではないのでお蔵入りしていたのを、載せていきます。いついくひしさんが死んでしまうか分かりませんからね。人の目に触れる場所に載せておけるうちに、載せておこうと思います。前半が3000字程度の短いので埋めていき、中盤はすこし多めのものを載せていって、後半は小説とも詩ともつかないものを、最後は詩なんかを載せていこうと思います。いくひしさんは詩から入っていって、しだいに、掌編、短編、中編、連作長編、長編へとしぜんに移ろっていった経緯があります。生物の進化みたいですね。短いのでは描ききれない物語を思いついたら、しぜんと長編にしていくしかなくなったわけです。そしていまは、その長編でないと描けない物語をなんとか短く、コンパクトにできないかと、あーだこーだ、試行錯誤しているところです。ひとまず、ご報告まで。(https://kakuyomu.jp/works/1177354054890100731




※日々、誰の手も借りずにいられたら、非力と無力と、さようなら。



2091:【もっちきもっちき】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなぁ。いくひしさんはさいきん、ぽてんぽてんのぬぷるすおぶりぷすでござって、ぬぱぬぱてんざからおぱおぱてんざまでよろどりみどりでござる。たとえば、ゆむゆむはむさんげは、こむこむらぱてんめと似ているでござるから、みなのものはにょめにょめわおむーと間違えないように「こてこてせせかかも」をじゅむりじゅむりするでござる。じゅむりじゅむりと言えばいくひしさんはきょう、もう何も並べることがなくなって、こうしてゆぐりゆぐりしているでござる。ときおりこうしてゆぐりゆぐりするでござるが、それでもなんとなーく、意味がもっちきもっちきするでござるよ。そうでござろう? 何を言っているのかは皆目見当もさっぱりーのでありながら、よっちきよっちき、むぐむぐぺーでござる。それはそれとして聞いてほしいでござる。いくひしさんはじつは、しゅぱぱーとなぱぱーが好きでござって、気が抜けるとすぐに、ろろぷるろろぷるみたいに、ふぐりどすゆぐりどすしてしまうでござる。いくひしさんがこうしてまいにち、もっちきもっちきしながら、ふぐりどすゆぐりどすしているのは、まさにみなのものが怠け者のいくひしさんに代わって、ばきゅーらぽんぽぽしてくれているおかげでござる。まことにゆむげるゆむげるでござる。いくひしさんはここでも「こてこてせせかかも」をじゅむりじゅむりしてしまうでござる。いくひしさんには友達はいないでござるがそれでもみなのものみたいなやべーのやべーのがいてくれて、本当にじゅりーぺじゅりーぺでござる。あざすあざす。もうホントにときどきこういう日がやってきてーすると、もじもじどこいったーとなって、いくひしさんはてんてこまいでござる。だからこうしてやーぷぷやーぷぷ、なんとか文字を並べるでござる。これを文章と言っていいのかは、さっぱーりのでござるけれども、ふだん並べている「いくひ誌。」もそれほど意味が通っているとは、るかしりょかしなので、これはこれで五十歩百歩と言っていいのかなーなんて思っているでござる。とにもかくにもいくひしさんは「こてこてせせかかも」をじゅむりじゅむりするのに明け暮れて、気づいたら、もっちきもっちきしながら、ふぐりどすゆぐりどすしている日々でござる。みなのものも気が向いたら、もっちきもっちきするでござるよ。よいぴぴぴを迎えるでござる。あわわーでござるー。



2092:【作為に気づこう】

優秀な詐欺師はウソを吐かない。より正確には、ウソで相手を欺いたりはしない。飽くまで、相手に閃かせるのだ。人間は他人から仕入れた情報はあとでそれが偽りだと判明すれば、情報を新しく憶えなすことができる。しかしじぶんで学び、閃いたことは、なかなか考えを改めない。そういった性質がある。詐欺師はじつにうまくそれを利用する。必要な情報を断片的に与えるだけで相手に任意の誤った現実を認識させる。錯誤を植えつける。断片的な情報は一つずつを取りだせばウソではない。それだけを見れば間違ってはいないのだ。しかし一つずつが正しくとも、すべてを並べると大きなウソをつくりだす。穴を編みだす。詐欺師はそこに相手を突き落す。というよりも、相手のほうでかってに落ちていく。つまるところ小説家のすることも似たようなものだ。マスメディアの情報操作も同じだろう。世に溢れている詭弁やイデオロギー、欺瞞もまた同様だ。勘違いした相手がわるい。バカなのがわるい。異なるパズルのピースなのに、ぴったりはまるからといって馬のひたいから角を生やしたりする。しかし手元にそのピースしかなかったのであれば、そうするのが当然だと勘違いしても致し方ない場合もあるだろう。それこそ、そう勘違いするようにお膳立てされていたら責任の矛先はおのずとずれていく。勘違いすると解かっていて、それを誘うような情報の伝え方をするのならば、やはり詐欺師と同じだと指弾されても致し方ないのではないか。さっこん俎上に載せられている忖度の問題も根っこは共通しているように見受けられる。暴力が法律で禁じられ、悪として一般化したいま、支配構造とマインドコントロールはじつによく馴染んでいる。ひとごとではない。ダブルバインドにしろダブルスタンダードにしろ二重思考にしろ、この手の作為はありふれている。むろん、いくひしさんもこの手の術を、意識的無意識的に拘わらず使っているはずだ。はめられないように気をつけましょう。



2093:【誠意とは規範ではない】

誠意とは何だろう。いくひしさんは生まれてこの方、誠意を持ったことがない気がする。ネットの辞書によれば、誠意とは「私利・私欲を離れて、正直に熱心に事にあたる心。まごころ」のことであるらしい。私欲を離れて、ということは、完全になくしてしまうことではないようだ。私欲から距離を置くこと。距離を置くためには、それがどこにあるかを知っておく必要がある。いくひしさんが「じぶんは誠意を持っていない」と考えるのは、どんなに相手に寄り添ったところでそこに私欲を感じてしまうからだ。しかし誠意が、私欲を失くすことではなく、距離を置いて、どちらかと言えば相手のため、と言えるか否かであるとすれば、なんとなく理解はできる気がするが、それでもいくひしさんは誠意を以って相手に接したことはない気がする。私欲の引力がつよすぎて、どうしても相手のためというよりもじぶんのためでしかない気がしてしまうのだ。現にじぶんのためだろう。めんどうを背負いたくない、楽をしたい、得をしたい。だからできるだけいくひしさんと関わる相手にはしあわせになってほしいのだ。それがもっとも安全で安心した環境を築ける確率が高いからだ。それこそが人類が社会を形成し、暴力を廃絶し、平等を重んじるように規範を練り直しつづけた動機付けであるはずだ。争うことは損だ。しかし現実には、損をしてでも避けねばならぬ隘路が立ちはだかることがある。そうしたときひとは、悪に染まってでも、隘路を打破すべく立ち上がるのだろう。否、悪を用いて隘路を打破するのだ。悪とは属性ではない。手段そのものだ。何かを排除し、何かを守り、何かを傷つけ、何かを得る行為こそ悪である。悪にはたくさんの名前がついている。正義。愛。是正。改革。正論。論破。何事も行き過ぎれば、悪果となって身の破滅へと導いていく。しかし微量のアルコールであれば身体の調子を整える方向に働くように、悪ですら、正常に機能する回路を構築するのに役にたつ。悪そのものは絶対悪ではない。誰もが悪に染まり、悪を手にし、日々を過ごしている。それがいきすぎた悪にならぬように、自身がどのような悪を手段に用いているのかには注視しておきたいものである。じぶんの悪に目を向けること。見詰めつづけること。暴走せぬように監視しておくこと。私欲は生きていくうえで欠かせない生への原動力である。と共に、それゆえに悪でもある。悪を手放さぬままに身を焼かずにすむ距離に置く術を磨くこと。自身の悪がどこに潜んでいるのかを見抜くこと。誠意とはその自覚にこそあるのではないだろうか。すくなくとも相手に誠意を要求する姿勢は、誠意からはかけ離れていると言えそうだ。



2094:【YOUTUBEの著作権侵害について】

いくひしさんはYOUTUBEに動画を載せている。撮った動画にミュージシャンの音楽を上乗せして編集し、それをYOUTUBE上に投稿している。通常、これは著作権侵害にあたるが、YOUTUBEでは各国の音楽配信レーベルと包括的業務提携(利用許諾契約)を結んでおり、許可された音源に関しては、その動画の収益をレーベル側へ譲る条件で、YOUTUBEへの投稿が許容されている。言い換えれば、著作権侵害をしている動画はいくら視聴されてもその投稿者は収益化できず、その分、著作を利用された側が収益を得る仕組みがとられている。いくひしさんでいえば、音源を無断で使用しているが、その動画がいくら視聴されても一円にもならない。むしろ視聴されればされるほど、音源の著作権を保持している者に利益が分配されるようになっている(もちろんYOUTUBE運営側にも入るだろう)。厳密にはだから、著作権侵害にはあたらない(楽曲の著作権とはべつに、それを演奏した者たちへの著作隣接権などがあるが、これもYOUTUBEのほうで著作権違反の判断をしてくれているようなので、ダメなものはそもそもアップロードができない仕組みになっている)。とはいえ、すべての音楽配信レーベルがYOUTUBEと契約を結んでいるわけではない。レーベルに入らず、個人で音楽を発信している音楽家たちは、おおいに著作権侵害を受ける懸念がある。じっさい、YOUTUBEの動画管理画面では、著作権侵害にあたるか否かの表示がされる。あなたは他人の作品を無断で使用しているので収益化はできないが、その収益は著作権保持者にいくような仕組みであるので、動画はそのまま載せておいてよいですよ、といった表示がされる。しかし、YOUTUBEと業務提携を交わしていない個人のアーティストの楽曲などは、著作権侵害の表示がでない。だからといってもちろん無断で使用してよいわけではない。著作権侵害は2018年から日本では非親告罪となった。著作権保持者でなくとも、告訴できるのだが、いくつか条件がある。そのうちのひとつに、原作そのままに複製することなどがある。つまり、ある程度編集されたものについては、非親告罪として扱えず、著作権保持者本人でなければ訴えることができない。これについては、法律で認められている「引用」との混合を防ぐことが目的と推測できる。出典と作者を明記していれば、引用が可能だ。また、二次創作としてかぎりなくグレーな著作権違反もある。著作権保持者の利益を損なうような二次創作にかぎっては許容できないが、そうでないものについては、個人で楽しむ分にはよしとしましょう、といった合意により暗黙のうちに見逃されているようだ。ひとまず言えることは、著作権は作者の利益をまもるためのものである、ということだろう。著作権を侵害したとしても、二次創作のように、それを楽しむ者が増えることで結果として著作権保持者の利益になるようなものは許容される傾向にあると言えそうだ。とはいえ、それは著作権保持者の懐の深さ、言い換えれば、一存によって支えられている自由でもあり、無断使用する者は、それがたとえ仕組みとして利用可能だったとしても、原作者へのリスペクトの精神は失わないでいたほうがよろしいのでは、と思うしだいだ。(法律のプロではないので、誤解している箇所があるかもわかりません。著作権に関しては、国によって扱いが異なったり、いつの間にか企業同士でのあいだで新たな契約が結ばれていたりするので、2019年6月25日げんざいのこれはいくひしさんの認識でしかない点にはぜひご留意しておいてほしいと思います)



2095:【寝るのが気持ちよいのは、起きていたから】

たとえば、仮に十年間、まいにち1000文字ずつ小説をつむぎつづけていれば、単純計算で365×10×1000=3650000文字分の小説ができているはずだ。10万字でおおよそ一冊になるので、36冊分の小説ができていることになる。これがもしいちにち3000文字ずつであれば、三倍の108冊の小説ができる。まいにち3000文字だったらなんとかなりそうな気がしないだろうか。削ったり、推敲したりするので、いちにち5000文字をノルマにしておくと効果的かもしれない。無理ならいちにち500文字でもよい。それだって十年で18冊分の小説がつくれるのだ。もちろん、たくさんつくればよいというわけではないだろう。一つ一つのクオリティや、新鮮な発見、工夫や、成長度合いなど、つくるごとに蓄積されていく「何か」のほうがだいじに思える。それを変化の軌跡と言い換えてもよい。理想に近づく方向に変化しつづけていられるか否か。しかし、理想そのものもまた、時間の経過にしたがい変化していく。理想の変化と、自身の変化がちょうどよい塩梅で追いかけっこをしつづけていられると、いま夢中になっていることに飽きずにいられるのかもしれない。そうしていると、あるとき、ふと、過去を振りかえったとき、じぶんは充実した日々をすごしていたのだなぁ、と気づける日が訪れるのではないだろうか。やらないよりかはどんなにちいさなことでもやりつづけていたほうが、のちのち、ああしていればいまごろはこれくらいの実を得ていただろうに、とあとの祭りを味わわずに済むはずだ。ひるがえって、いまやっていることが十年後、二十年後に、いったいどれほどの実を蓄えているのか、それをじっさいに計算してみて、なんだこんなものか、と思うようならば、いますこし日々の過ごし方を見詰め直したほうがよいかもしれない。ひとごとではない。いくひしさんほど、日々の過ごし方を見詰め直したほうがよい人間はそうそういないだろう。もっと誠実に、堅実に、実直に、生を活していきたいなぁ、と思ってばかりで、益体なし。いくひしさんはきょうもやる気をだして満足し、そのままベッドに吸いこまれて、夢へとダイブするのである。おふとん、きもちー。



2096:【理解と表現】

理解されないことに悩むひとが多い。これはいくひしさんも例外ではなく、どうして解かってもらえないのだろう、というもどかしさがあれば、どうやったら上手に伝えられるだろうといった困惑もあり、同時に、わざわざ解かってもらう必要があるのだろうか、といった葛藤も含まれる。いくひしさんが数十年という期間を生きてきてぼんやりと呑みこめるようになってきた事項があり、それがなにかといえば、この世のなかには、人間が理解できている事象などそう多くはないということだ(相対的な比較であるからむろんのこと、人間が編みだしつづけてきた知識の量は膨大だ。ただし、未知の領域はまだまだ多分に残されている。というよりも、知見を得れば得るほど、正比例して未知もまた増えていく)。加えて、その多くはないなかでも理解しあえる知識や思考はもっとずっと限定的だ。他者と共有できることのほうが圧倒的にすくないのだ。まず以ってこの事実ですら、なかなか理解してもらえない。理解できないことは端からなかったものとして、認知すらされない傾向にある。理解できていることのみで世界を解釈しようとする者が圧倒的多数なのだ。しかし実際には、この世は人間が理解していないことで溢れている。理解していると思っていることですら、ではいざ説明してみせてほしい、といくつか疑問を投げかけるだけで、人は即座に言葉に詰まるだろう。繰りかえすが、これはいくひしさんも例外ではない。理解できず、理解しあえないことのほうが基本形なのだ。それだけ理解しあえることが異常で、貴重で、尊ぶべきことなのだが、人類は社会を形成し、その過程で教育という名のプロパガンダを国家的に推し進めてきた。教育には利点があるが、むろん欠点もある。完璧ではない。ひと口に愛の尊さを説いてみせたところで、では愛とは何かを説明できる者はいないだろう。もし真実に愛が定義可能ならば、世にこれほど多くの文芸作品は生まれていないはずだ。そもそも定義などできず、夢のように掴みどころがなく、個々人が得手勝手に描きだすものこそ愛である。しかし夢とおなじく、そこにはある一定の共通認識が成立している。その「なんとなくこうかな」といった漠然とした輪郭を以って、ひとは理解しているつもりになれてしまう。理解しあえるとはおおむねこの、「なんとなくこうかな」の輪郭が似通っていると合意しあうことで、では真実にそれが寸分もなく合致しているのかといえば、そんな保障はどこにもなく、往々にしてそれほど似通ってすらいない。それでもふだんの生活で不自由しないのは、我々人間が、こと細かく世界を認識して過ごしていないからであり、前提を穿り返してみればそもそもが世界への認知そのものが漠然としており曖昧だ。「私」という主観ですら、その輪郭を明瞭に把握している者は限られるだろう。これについては、いないとすら断言していいように思われる。もし存在するのならばその者は、生まれてきたその瞬間からじぶんが何を考え、何を想像し、誰と関わり、どんな会話を交わしたかをすべて記憶している者であるはずだ。すくなくとも、公的な記録にそのような者の存在は記されていないだろう。話が逸れてきた。軌道を修正しよう。理解されないことを嘆くことはない。もし伝えたいことがあり、それを相手に伝えたいのならば、そこは時間をかけ、表現を変え、できるだけ相手に寄り添って、伝えつづけるよりほかはない。しかしもし、誰かに何かを伝えたいのではなく、じぶんの思考や想像や思想や妄想を、思いどおりに表現したいことが優先されるようならば、そこはもう理解されないことを覚悟しておくのが賢明と言えよう。むしろ、じぶんのなかに拡がる「何か」を正確に表現しようとすればするほど、他者からの理解からは遠ざかる。なぜなら、ぼんやりと共有されていた輪郭が、あなたの表現力が高まっていくにつれて、はっきりと浮きあがり、まったく似通っていないことをその表現を受動する者たちに突きつけるからだ。あなたが表現したその「何か」の輪郭が、あなたの内側に拡がる「何か」とどれだけちかいのかは、あなたにしか判らない。まったく同じものを出力することは現時点では不可能だろう。そうした技術力を人類はまだ備えてはいない。ゆえに、どこまでも突き詰めることができる。どれだけ労力と時間をかけても、じぶんのなかに拡がる「何か」を表現しきることなどできないのだ。「自己満足型の表現」はそれゆえに、「他者に伝えたいことを伝える表現」とは真逆の性質を有していると呼べる。底なしがゆえに、おもしろい。理解されないがゆえに、より自然だ。じぶんがいったいどちらの表現に重きを置いているのかは、ときおり確認しておくと余計な逡巡を挟まずに済むだろう。どちらの表現がより高尚で、いずれかが下等だ、といった基準はない。「誰かに何かを理解したつもりにさせる表現」も、「宇宙の外側のようにまったく理解できない、と匙を投げだされるような表現」も、どちらもおなじ表現であることに変わりはない。目的の違いがあるだけだ。矛盾はしていない。両立もまた不可能ではない。騙し絵は必ずしも現実に存在する絵ではないが、それでもひとはそれを「ふかしぎな景色」として認識する。他者が理解しやすい輪郭(フレーム)を用意しておき、そのなかでじぶんのうちに拡がる「何か」を自己満足的に表現する道もあるだろう。両立している分、時間と労力はかかるだろうが、それでも欲張ってはいけないなんてことはない。じぶんにとって何がもっともだいじなのか。譲れないのか。あべこべに、何であれば削ってしまっても構わないのか。そうした選択そのものが、あなたのなかに拡がる「何か」を変質させていくだろう。きょう捨てた赤はまたべつの日の青となって現れる。長くなった。きょうの「いくひ誌。」をまとめよう。理解されないのが自然である。ゆえに理解しあう努力が欠かせない。努力したところで理解しあえる保障もない。理解しあえないことはそれほどわるい状態ではない。どちらかと言えば、理解しあえていると錯誤しつづけている状態のほうが危ういと言えそうだ。



2097:【何も成したくなどはない】

何かを成したいときには、最悪の状況から逆算して考えを煮詰めていくのが好ましい。たとえば大きな組織の悪習を是正させたい場合には、さいあく、じぶんが社会的に抹消される可能性からつぶしていくのが最善だ。この場合、何も行動を起こさずにいるのがもっとも安全だと呼べる。また、何かを成すにしても公的な段取りをとったほうが、のちのちじぶんのためになるだろう。たとえば裁判を起こしたとして、じぶんの訴えが棄却されたとしても、それはそれでじぶんの判断が公的には正しくなかったことが判るので、義憤に駆られ、誤った行動をとらずに済む(誰かを傷つけずに済む)という意味で、得である。結果の勝敗に拘わらず、まずは公的な機関に相談するなり、判断を委ねたりするのが最善であると呼べる。しかしそれには時間と費用がかかる。それを用意できないようならば(または待っていられないようであるならば)、公的な機関を利用しない手で、行動を起こさなくてはならない(デモや署名運動などがこれにあたる)。むろん、「起こさなくてはならない」なんてことはないはずだ。不平や不満、鬱憤は呑みこんで、日々をおだやかに過ごしていくのがじぶんにとってはいちばんの選択であるはずだ。何もわざわざ歪んでみえる組織やコミュニティ相手に大立ち回りを演じる必要はない。ただ、飽くまでそれはじぶんがそうした組織やコミュニティから脱せられた場合にかぎられる。理不尽な何かかから逃れられないようであるならば、やはりどうにかせねばならぬだろう。また、親しい者がそうして理不尽な目に遭っているようならば、やはり手を貸したくなるのが人情だ。であるならば、行動を起こした際に、ある程度の損は覚悟せねばならぬだろう。どうあっても、大団円は迎えられない。それが、大きな流れを変えることの対価とも呼べる。大きな流れを変えるというのは、それにより利益を受けていた者たちに苦役をもたらすということだ。楽ができていた者たちに、楽をするな、と制限をかけることである。ある種の手段を禁じること、苦労を強いること、これが大きな流れを変えることの作用である。ズルをするな、と指弾するのは、言い換えれば、楽で効率的だった手段を使うな、と禁じているのに等しい。だが、その楽で効率的だった手段の背景には、理不尽に苛まれた者たちの忍耐が隠されている。代表的なのは奴隷制度だろう。奴隷制度を甘受していた者たちにとっては、奴隷はこれ以上ないほど楽で効率的な手段だった。しかし、それは人権を蔑ろにされ、理不尽であることにすら気づけないように存在を損なわれつづけた人々の忍耐のうえに成り立つ搾取であり、これは、より平等な社会からみれば、瑕疵のあるシステムと呼べる。人間はけっして、いま目のまえにある現実だけを凌げればそれでいいというわけではないはずだ。よりよい現実を過ごせるように、すこしでもよい未来を築けるようにと、「いま」を生きることこそが、人間とそれ以外の生き物とを分かつ大きな差異と呼べるのではないか。もしいくひしさんが何かの悪習を正そうとするならば、被害者を募り、共に訴訟を起こすだろう。だが、それにより損を被る側に、いくひしさんにとってたいせつな者たちが含まれるようならば、そうした手段は可能なかぎりとらないように立ち回るだろう。悪習を変えたいのであり、誰かを罰したいわけではないからだ。いくひしさんは、しずかに細々と暮らしたい。ただそれだけである。何も成したくなどはない。何もさせないでほしい。ただし、やるとしたらとことんやる。たとえこの身が滅びようとも。それだけの覚悟(或いは諦観)が固まったときのみ、いくひしさんは行動しはじめるだろう。他者の何かを変えようなどとはじつにおこがましい。悪そのものだと呼べる。だが、悪に染まらずには何かを成すことなどできはしないのだ。悪に染まらずに済む日々を祈って、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。



2098:【自制を忘れずに】

じぶんの探求や闘いに他人を巻きこもうとしていたら、すこし考えなおしたほうがよいかもしれない。それがどんなに理屈として正しいように思えても、まずは立ち止まったほうが身のためだ。自戒を籠めて記しておこう。



2099:【生きたらいいじゃない】

生きていてもひとの負担にしかならない。だからといって生きていたらダメだ、なんて思ったことはないけれど。



2100:【欠落】

人間の主観が物事を複雑にしている。人間という曖昧なフィルターを通して世界を眺めるから、足りない箇所を埋めるために、余計な処理をしなくてはならなくなる。単純であればあるほど、おそらく人間には複雑に視えるのだろう。



※日々、能力の低さを痛感する。



2101:【情報は更新されつづけている】

前のほうの記事「いくひ誌。2040」で、スーパーコンピューターの消費電力はその大半が冷却機能に費やされる、といった内容のメモを残した。本に載っていたからだが、どうやら最新(2018年)の研究成果では、冷却にかかる消費電力を全体の3%に抑えることに成功していたらしい。東京工業大学の研究チームの開発したスーパーコンピューターがそれだ。よって、本の内容はいささか古かったと呼べる。情報とはおおむね、普遍ではない。変化するものだ。ことAIのような急速に発展している分野では、情報はつど更新されているので、何が正しいのかは断定できない。すくなくとも「いまはそういうことになっている」としか評価できない。世に発表された段階で、研究現場ではすでにもっとさきをいっている。ゲノム編集でも似たようなものかもしれない。ゲノム編集技術では一般に、DNAの塩基配列そのものを書き換えてしまうので、いちど編集したあとでは元に戻らない。しかし、エピゲノム編集と呼ばれる技術はちがう。DNAはタンパク質を合成するためにmRNAというものをつくり、そこに塩基配列を転写する。さらにそこからDNAが複製され、タンパク質がつくられる。この一連の流れを翻訳と呼ぶ。そしてこのとき、DNAはすべての塩基配列がそのまま写されるわけではない。肝臓の細胞なら肝臓、心臓なら心臓、手なら手と、それぞれの部位に必要な機能のみがそのまま転写され、そうでない不必要な情報はOFFの状態となって働かないように制限される。この制限されたゲノム(塩基配列)のことをエピゲノムと呼ぶ。そしてこのエピゲノムは、ゲノムが部位的にOFFになっているだけであり、ONにしなおせば、また基本形のゲノムとして回帰し得る性質がある。極端な話、失敗したらやり直すことができるのだ。しかしDNAのメカニズムは複雑だ。ヒトゲノムが解析された、と一時期話題になったが、それもタンパク質の合成に関わる塩基配列に限られる(解読はされたが、解析はされていない)。それ以外の98%の非コードDNA領域に到っては、解明が進んでいない。無駄だと思われていたその非コードDNA領域がじつはさまざまな人体機能に関係していることが判ってきている。双子ですらこの非コードDNA領域に差異があり、それが疾患や体質の差異に繋がっていることも徐々に明らかにされつつある。(曖昧な記憶を頼りに並べております。正確な情報ではありませんので、鵜呑みにしないようにお願いいたします)



2102:【自殺願望と希死念慮は根っこは同じ】

死にたいと思うとき、たいがい人は生きたいのだ。自由に、生きたいのだ。あなたは生きたいのだ。そこを履き違えてはいけない。ただ、どうしても自由に生きられない人もいるだろう。苦痛しか感じない生もあるだろう。そのときに死をどう捉えるかは、当人にしか決められない。「死んだらいけない」といった願望を他者が押しつけるのは、不自由に餌を与えているのと似たようなものだろう。生きたいから死にたい。生きたかったから、死にたいのだ。この感情は不自然でもなんでもない。他者がその感情にどう付き合い、社会がどう制度をつくり、向き合っていくか。これからますます必要性に迫られるだろう。



2103:【うりゃー!】

いくら知識をためこんだって、あほんだらは、あほんだらのままだし、いくひしさんはいくひしさんのままなのだ。知識がひとを成長させるんじゃない。では何があればひとは成長して、変われるの? 変わらずに変わりつづける軌跡の進路を決めるのは何? それは誰?



2104:【超短編21『ハンバーガーの片割れ』】

どうしたらSNSでフォロワーが増えますか。そう訊ねてくる子が本当に多くて、困るというよりもどこか微笑ましい。インスタをはじめた当初は同じように考えていたこともあったし、投稿した画像への反応が薄かったりすると、何がダメだったのか、とまくらを絞め殺しながら考えたものだ。最初は単純に、好きなものを好きなように投稿して、反応が返ってくるのが楽しかった。ただそれだけだったのに、いまではどうしたら反響を得られるのかを無意識で計算しているじぶんがいて、そこでも嫌だというよりもどこか微笑ましく思えてしまう。じぶんではないじぶん、違ったじぶんが垣間見える瞬間が好きなのかもしれない。本当のじぶんってなんだろう。「考えすぎると脳みそのシワが増えちゃうぞ」そんなふうにからかってくるのは昔馴染みのリョウコだ。リョウコとは小学生のころにはもう出会っていて、そのときはまだそれほど仲が良いというわけではなかった。こちらは男子と遊ぶほうが多かったし、じぶんの性別をよくよく考えてみたこともなかった。しょうじき言えば、男の子だと思っていたほどだ。小学校の高学年にあがるにつれて、なるほどじぶんは女の子だったのかと客観的な事実を受け入れられるようになり、そうなってからというもの、あべこべに男子との関わりがこわくなった。避けていたと言ってもいいだろう。そのときそばにいてくれたのがリョウコだった。女の子で初めての友達とも呼べ、しかしリョウコはリョウコで女の子といったふうではなく、一輪車に乗ってまわる同学年の子たちを遠巻きにしながら、カナヘビを捕まえたり、こちらにスケボーの乗り方を教えてくれたりした。リョウコとは中学校でいったん離れ離れになったが、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054890214641



2105:【最新から知りたい】

人間の思考形態にはいくつかの型があると思っている。たとえば学校の授業などは、末端からブロックを積みあげていって全体像を掴むような考え方をする。歴史は過去から学んでいくし、数学も足し算や引き算から習う。理科や科学も、いきなり相対性理論から入ったりはしない。しかしいくひしさんはそうした学習方法が苦手である。どちらかと言えば、最初にもっとも大きなフレームを示されてからのほうがすんなり学習することができる。ラジオ体操でたとえるならば、歌の一節一節ごとに身体の動かし方を憶えていくのが学校型の学習方法であり、しかしいくひしさんは、まずは最初に全体を通してもらったほうが憶えやすい。プラモデルをつくるなら最初に完成形を見せてもらわないと、一つずつを丹念に指導されても、まったく手につかない。むしろなぜこんな面倒な組み方をするのか、といちいち疑問が湧いてきて、作業に集中できないほどである。だからいくひしさんは学習が苦手だ。過去形ではなく、未だにそれを克服できない。また、経験則でしかないが、何か未知の分野に飛びこむときは、初めに世界一レベルの技術や知識に触れておいたほうが好ましい。刷りこみではないが、最初の体験がフレームとして無意識のうちにインプットされてしまうので、できるだけ最初のお手本とすべき人物や学習は、世界一レベルにしておいたほうがあとあとの成長率が向上する傾向にある。本来なら、素人でもすぐに身につくように、難易度の低い技術から触れていったほうが一般的なのかもしれないが、すくなくともいくひしさんのような全体像を掴んでから学んでいく思考形態の人物にとっては、最初によりよい完成形から学んでいくほうが効率がよい。ただし、最初の体験が無意識のうちで基準となっているため、言い換えれば、最初に触れたフレームが限界としてインプットされがちなので、意識して常に、限界を広げていくように視野をそとに、そとに、向けていく習慣をつけておくとよいかもしれない。なかなか、これがたいへんだ。いったいどこを向いたらそとになり、どこからが内側なのか、それを見抜けるようになるためには、やはりというべきか、ある程度の基礎が身についていないと、外側のつもりで、内側に縮まってしまっていたといった失敗をしがちである。これを克服するには、全体像を見てから逆向きに分解していく手法ではなく、いまいちど末端に戻って、根っこから枝葉に向けて学習しなおしていくのが都合がよろしい。小説の読み方で言えば、まずはオチを読んでから、最初の1ページ目に戻り、読みはじめるようなもので、邪道もよいところだろう。そんな読み方の何が楽しいのか、と思われるかもしれないが、じつを言えば、いくひしさんは新書やマンガでもこうした読み方をしがちである。マンガに到っては、1巻から順々に読むことのほうが珍しいかもしれない。さすがに最終巻から読むことは滅多にないが、最終巻しかなければ躊躇なくそれを手に取り、目を走らせるだろう。とにかく、最終的にどうなるのか、どこに向かっているのか、が解かっていないと、寄り道や道草を食べてしまって、効率がよろしくない。ひるがえっては、ゴールが明確に決まっていない物事に対しては、じぶんで道筋をつくれるので、比較的、気持ちが楽である。誰に示されるでもなく頭のなかに漠然としたゴール、大きなフレームを描けるのだから、わざわざ最終巻から物語を読んだりしなくてもよい。順番に一つ一つの過程を、未知を、楽しめる。おそらく、いくひしさんのような違和感を抱いて義務教育時代を過ごしてきた方はすくなくないのではないか、と想像している。ややもすると、それって予習復習をしていれば済む話ではないですか、などと茶々を入れられそうであるが、いくひしさんが言っているのは極論、小学校で相対性理論や量子力学の概要くらいは習っておきたかったなぁ、ということであるから、的外れである。とはいえ、こんなことを並べているからといって、いくひしさんが相対性理論や量子力学の概要を理解しているとはかぎらないので、勘違いしないようにお願いを申しあげて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。



2106:【超短編22『姪は干されてなお、ふかふかと』】

姪っ子から連絡があり、久方ぶりに顔を合わせることになった。私の前職が多忙を極めていたため長年会う機会がなかったが、数年前に引退してからというもの、比較的おだやかな日々を過ごしている。記憶にある姪は、鼻水を足らし、ドレミの歌を延々くちずさみつづけていた活発な幼児だった。膝小僧をよく擦りむいていて、姪の母親、言い換えれば私の妹に、私はよく苦言を呈していた。傷になったら困るだろ、女の子だろ、と。よもや久方ぶりに会った姪っ子に開口一番、同じセリフを口にするとは思ってもみなかった。「おじさん、そういうのもう古いんだよ。女の子だから、なんて何の理由にもなってない」「あ、ああ。そうだね。そのとおりだ」とはいえ、その歳にもなってまだ膝をすりむいているとは思わなかった。聞けば、ストリートダンスを習いはじめたらしく、友人に止められたにもかかわらずアスファルトのうえで踊り、傷を負ったらしい。姪は、すっかり背が伸び、イマドキの若者らしい装いに身を包んでいた。というよりも、彼女の真似が流行っているだけのことなのだろう。街を見渡せばみな、食虫植物を逆さにかぶったような、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054890225857



2107:【言葉選び】

小説などの物語に対する褒め言葉で、「いいひとしかでてこない(から好き)」や「嫌なひとがいない(から好き)」と述べる向きが物語受動者界隈で散見されるが(いくひしさんも言いがちである)、どちらかと言えば、「どんなキャラクターにもいい面が見えた」や「どのキャラクターも好きになる」のほうがより褒め言葉としてふさわしいように思われる。たとえるならば、「この小説にはウサギしかでてこなかった(からよかった)」や「嫌いなピーマンがでてこなかった(からよかった)」といった所感にどこかしら差別的なニュアンスが感じとれるのと似た理屈と言えよう。そのつもりがなくともそう聞こえてしまうひとがいるかもしれない。重箱の隅をつつくような指摘でしかないが、褒め言葉のつもりであってもそう捉えてくれないひとはどの方面でもいる点には留意しておいて損はないだろう。もちろん、感想は好きに発信すればよろしかろう。誰に何を言われようと、それを表現する自由は認められている。ただし、褒めた相手に苦い顔をされるようならば、褒め方にも工夫をしたほうがより好ましいように思うしだいだ。(ちなみにいくひしさんはどんな言い方でも褒められると、どうしていいか分からないくらいうれしくなってしまって、何も手がつかなくなるので褒められるのが苦手です。同じ理由から社交辞令やお世辞も苦手です)



2108:【対価を払い退化しても】

ひとは成長する前に、いちど衰退する。言い換えれば、下手にならなければつぎの段階へと昇り詰めることはできない。考えてみれば当然だ。これまでできていたこと、身についた技術や知識、そうしたものではない新しいことに挑戦するからこそ成長できる。ただ上手くなるだけなら、同じことをひたすら訓練していればよい。上達はするだろう。精度が高くなり、洗練されていく。しかしそれは成長ではない。百マス計算の計算速度が高くなったところで、二次関数ができるようになるわけではないのと同じだ。百メートル走のタイムが縮んだからといって、水泳のタイムがよくなるわけでもない。新しく何かができるようになるためには、これまでできていた何かが衰えることを覚悟しなければならない。両立は可能だろう。しかし、徹頭徹尾それが適うわけではない。挑戦しはじめはどちらかに傾倒しなければならない。集中しなければならない。とはいえ、いちど体得した技術であれば、短期間でまた最高潮まで磨きあげられる。身体が憶えているからだ。同時に、新しい刺激がよい触媒となって、より練度が増すかもしれない。むろんそこには相性がある。ボディビルの訓練をしたあとでは余計な筋肉がつき、持久走のタイムは落ちるだろう。だが重量挙げでは有利に働く。ケースバイケースであるが、何と何の組み合わせであればプラスに働くかは、ある程度想像しておいて損はないだろう。同時に、思いがけないかけあわせ効果が現れることもあり、またあべこべにマイナスに働くこともあるので楽観はできない。いずれにせよ、何かを新しくはじめれば、それまで得意だったものが衰える。すくなくとも、これまでのようには上達しつづけることはできなくなるだろう。しかしそれは一時的な停滞であり、衰退だ。新しい技術を身につければ、そのあとにはそれ以前には適わなかった飛躍が可能となる。得意だったものが衰えたままでも(新しい技術がマイナスに働いたままになってしまったとしても)そう肩を落とす必要はない。それは成長ではなかったかもしれないが、成長ではないがゆえに、進化となる可能性が高まっている。進化とは必ずしも進歩とイコールではない。退化もまた進化のうちの一つである。これまであった機能が失われ、そのおかげで新しい能力が特化する。その特化した能力が、いまある環境に最適であれば、ほかの者たちを圧倒することが充分に可能だ。新しい技術がプラスに働こうと、マイナスに働こうと、長期的には成長に、あるいは進化に繋がる。生きていればの話であるが、生きのびるために人は変わろうとあがくのだろう。どの道変わらざるを得ないのならば、新しい技術に触れられる環境が訪れた段階で飛びついておいて損はないはずだ。得をするから飛びつくのではない。そこに変化の兆しがあるから飛びつくのだ。間違っても、得をしますよ、儲かりますよ、なんて言葉に惑わされないように気をつけたいものである。見るべきは「目のまえの評価」や「既存の評価」ではない。これまでになかった技術か否かである。もうすこし大雑把にまとめれば、技術か否かであると言っても、大きな齟齬には繋がらない――ような気がするが、断言するにはやや不安が残る。言うまでもなく、何も身につかず徒労に終わることも、そう低くない確率であり得るだろう。じぶんを客観的に評価する視点を確保しつづけることが優先されるかもしれない。定かではない。分からない。考え、挑み、学んでいくしかない。



2109:【超短編23『あちき、なつみ!』】

なつみは思った。い、いけるかも。淡い期待が泡と消えないよう、緩んだ気を引き締め直す。まだこの世界で目覚めて三十分も経っていないのに、となつみは短い記憶を振りかえる。きのうはベッドに入ってそのまま寝たはずだ。空気の流れが身体をくすぐり、夢でも見ているのかな、と目をぱちくりしたときにはもう、目のまえに荒涼とした野原が広がっていた。なだらかな丘がデコボコと波打ち、一種、サハラ砂漠に似た印象がある。異様なのは、それを埋め尽くす野獣の群れだ。否、野獣は総じて二足歩行しており、頭からは角を生やしている。鬼というよりもそれはどちらかと言えば、ヤギの角じみている。目覚めたその瞬間からすでに囲まれていた。軍勢だ。うしろを向いても同じような風景が、恐怖を引き連れ、広がっている。野獣どもはただ静かに距離を詰めてくるばかりだ。唸り声の一つでもあげてくれれば、こちらも泣きだす準備はいくらでも整っているというのに、淡々と、それでいて歩行を揃えずに、ぞろぞろと土の色を野獣色に染めあげていく。刻一刻と近づく危機になつみは思わず、ふだんの癖で、ポケットからメディア端末を取りだし、構えている。レンズを向ける。「めっちゃバズるなこれ」試しに一枚撮ってみると、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054890236436



2110:【せいかくわるくてごめんなさい】

やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなぁ。みなのものはご存じでおられようが、いくひしさんはたいへんにお口がわるくてお下品でござる。ひとさまを悪しざまに言い、揚げ足を取ってはお腹を抱えて転げまわり、かと思えば、たいへん上品なフリをして、げっぷを口笛だと言い張るでござる。しかしそこはいくひしさん。口笛を上品だと勘違いしているくらいには、もともとの性根がよろしくないでござるから、こうして何食わぬ顔をしてしれっと、口笛が上品ではないですよー、という刷りこみを行い、世に偏見をまき散らしては、せせらわらっているでござる。たいへんな悪党でござる。いつか成敗されるのではないかとびくびくしているので、こうして、いんたーねっつの片隅にて、ふんぞり返りながら、こそこそと、そこそこの大物ぶっては、わるぶっているでござる。へなちょこー。たとえばいくひしさんはこうしてまいにち「いくひ誌。」を二十分程度でさささっと並べているでござるけれども、まあなんというか、並べた文章をぜんぶ漏れなく載せているわけではないでござる。載せている「いくひ誌。」ですら、この書き手は性根くさってんな、と丸わかりでござるけれども、それはそれとして、大物ぶってわるぶっているいくひしさんでも、さすがにこれはなー、と思う文章は、ひそかに葬り去っているでござる。でもせっかくだし、もったいないので、いちおう保存はしているでござる。だから封印していると言ったほうが正確かもしれないでござるな。ともかくとして、いくひしさんは大胆不敵な臆病者でござるから、これちょっと読まれたら嫌われちゃうかもなー、誰にかは知らんけど、と思ったら、すぐに削除して、またべつの文章を並べるでござる。それでも滲みでるワイルドなおげれつ精神は隠せないもので、たくさんかっこうをつけてもこのとおり。書き手の底の浅さがあからさまに、王さま気取りで、おっぴろげでござるよ。いずれ「ボツいくひ誌集」として、いくひしさんが筆を折って、文芸から姿を消すときには、いんたーねっつに置きみやげとして、載せて去るでござる。たいしたことは描かれていないけれども、おおざっぱにまとめれば、「やーいやーい、ばーかばーか」みたいなしょうもないわるぐちが並んでいるでござる。固有の誰かにあてたりはしていないけれども、まあまあ、いくひしさんの性根の曲がり具合を再確認するには、そこそこ、なかなか、まあまあ、おもちろいのではないかなぁ、と思っているでござる。そうでもないでござるか? そうでもないでござるな。じゅげむじゅげむ。みなのものはぜひともいくひしさんを反面教師にして、ああはなるまい、と心につよく誓うでござる。いくひしさんとの約束でござるよ。きょうは2019年の7月4日でござる。朝から雨でござるけれども、雨だからこそ、そこはかとなく、びみょうに元気にしとしとやっていこうでござる。のろのろ生きていきたいでござるな。ではまたーで、ござるー。




※日々、単なる物質に回帰していく、剥がれ落ちゆく本当の私。



2111:【ばらんすは崩れているのがふつうでござる】

やあやあ、いくひしさんでござる。きのうぶりでござるなぁ。いくひしさんはさいきん、おもちろい本と立てつづけに出会えていて、ラッキーでござる。みなのものは本、読んでいるでござるか? べつに読まなくてもよいと思うでござる。読まずに済むならそっちのほうが好ましいでござる。偉人たちの本を読むよりも、偉人たちとじっさいに関わったほうが学びは多いと思うでござるし、虚構のキャラクターに共感するよりも、身近な友人や家族と触れあい、支え合ったほうがよっぽど有意義に思えるでござる。けれども、それが適わないような人間が、心の隙間を埋めたくて、寂しくて、依存してしまうのが本のような気がするでござる。たまーに読む分にはオクスリになるかもしれないでござるけれども、まいにち一冊読むようなら、それは依存過多な気がするでござる。でも依存して何がわるいでござるか? いくひしさんにはさっぱりちゅんちゅんでござる。よくないオクスリとちがって、本ならたくさん摂取しても死ぬことはないでござる。暗い情報ばかりに触れて自殺したくなっちゃったとしても、それはそれ、これはこれでござる。なにが? とにかくいくひしさんは本というか、虚構というか、実物よりも情報のほうが好きでござる。いくひしさんの身体がここにあるなら、実物はそれで充分でござる。満足でござる。むしろ、身体を情報にできたら言うことないでござる。夢と一体化したいでござる。虚構になりたいでござる。存在したくないでござる。存在しない存在になりたいでござる。こういうことはたぶん、表現者の端くれとして言っちゃいけないことなのだろうけれども、現実なんてたいしていいものではないでござるよ。よくないところに目をつむればかろうじてキラキラ見えるよね、みたいな感じでござる。みんなちゃんと見て! 世界はこんなにカオスで汚くて、残酷で、無情で、細菌やウイルスにまみれているのに、なんでみんな平気でござるか。まあ、平気でござるな。見えていようが、見えなかろうが、存在してようが、しなかろうが、主観の世界がだいじょうぶならみんなは平気の助でござる。あべこべに、どれだけ客観の世界がだいじょうぶでも、主観の世界がダメだったらもうダメだと思いこんでしまうでござる。そんなものでござるよ。そして虚構は、そんな主観の世界の濁りの濃さを調節することができるでござる。本は、情報は、オクスリにもなるし、毒にもなるでござる。まずはじぶんの主観の世界がどんなふうに濁っているのか、それを自覚しないことには、風邪をひいているのに抗がん剤を呑んじゃったりしてしまうでござる。糖尿病なのに砂糖の塊をがぶりしちゃうでござる。ただ、情報をとりすぎてもひとは死んだりしないでござるから(もちろん不摂生な生活がもとで体調を崩すことはあるでござるけれども)、いろいろと情報を試し呑みしながら、すこしずつ主観の世界の濁りを調節する術を磨いていくでござる。ずっと同じようにバランスをとりつづけることはできないでござる。誰もが何度もバランスを崩しては、ちょうどよいバランスを求めて、あーでもない、こーでもないってなるでござる。あなたのバランスはあなただけのものでござる。他人の真似をしてもしょうがないでござる。でも、じぶんひとりで呑める情報にはかぎりがあるでござるから、あのひとはあれを呑んでもだいじょうぶそうだから、きっとワタクシちゃんもだいじょうぶなはず、とずばり賢く頭脳を働かせて、効率よく試し呑みしていくがよいでござる。情報はなにも本だけではないでござる。たくさんの、いろいろな情報を摂取して、バランスを探っていこうでござる。いくひしさんはでも、偏食さんでござるから、好きな情報を好きなだけ貪って、情報過多で死ぬでござる。そういう生き方ができたら、いくひしさんのばらんすは保てるでござる。でもそうはならないから、いっつもグラグラ揺れているでござる。いくひしさんは崩れかけのヤジロベーでござる。誰にでもあっかんべーをする不届き者でござる。



2112:【極小のせかいに思いを馳せる】

素粒子には波の性質が備わっている。光(電磁波)がそうであるし、電子もそうだ。ただ、前々から疑問に思っているのだが、物質は波として存在していれば、必然的に粒子としての性質も帯びるのではないか。極小の世界、量子力学の範疇の世界では、物質は、明確なカタチを帯びてはおらず、素粒子や場の複合体として存在する。言い換えれば、それ単体で存在することはなく、なにかしら相互作用を帯びて、互いに干渉しあうことで存在の輪郭を保っている。これは勉強不足であるので不確かな「もしもの話」でしかないが、素粒子単体で時空にもどんな場にも内包されずに存在することは不可能なのではないか。だとすれば、そもそも素粒子というものは、時空を構成する場の複雑な波の干渉によって生じた、頂点なのではないか。場は振幅することで波紋を円形に、或いは球形に、ひょっとすれば多次元的に波形を広げていく。そこで、ほかの場や波に触れ、干渉しあうと、接点ができる。その接点こそが粒子なのではないか、という妄想が頭から離れない。いまのところどの書籍を読んでみても、この疑問は解消されないどころか、なぜこうした疑問が俎上に載っていないのかもふしぎに思っている(とりあげる必要のないほど破たんした考えだからだろう)。波形と波形、場と場の接点が素粒子としてふるまうとして、問題は、一つの場から無数の素粒子が生じ得る点だ。波は無限のエネルギィを備えていない。障害物がたくさんあるリアス式海岸のような場所に波がぶつかれば、波のエネルギィは障害物の多さに比例して分散される。しかし「場に生じる波」の場合は、互いにエネルギィを帯びているので、波紋がいくつも多重にぶつかりあえば、それだけ多くの接点ができ、かつエネルギィは接点に比例して減るようなことはない。そして、場と波は等価ではない。一つの水面に無数の波が生じ得るように、一つの場には無数の素粒子が生じ得る。では場を波打たせる外的エネルギィは何かと言えば、これはもう、宇宙誕生時に発生したインフレーションによる重力波に類する現象であるだろう。巨大な波は、複雑に干渉しあい、時空を形成し、素粒子を生み、物質を構成して、さらに細分化し、世界に奥行きと緻密さを与えている。基本的にだから、世界は波によって生まれ、粒子としてふるまうのであり、波と粒子の両方の性質を帯びているわけではない(そのように観測されるだけの)ように思うしだいだ。ただし、巨視的な波、いわゆる我々人類が観測可能な波と、量子世界での波には大きな差異があり、それは何かと言えば、量子世界における波は、接点を持つと、その接点に波の情報が収縮する点である。たとえばシャボン玉であればゆびでふれた途端、ゆびの接点から割れていき、真逆の円周上に向けて霧散するが、量子世界ではこれと真逆のことが起こる。波と波が触れあった点に向けて、エネルギィやその波の持つ情報が一瞬で集まるのだ。この考え方が便利なのは、これによって量子ゆらぎと量子もつれを同時に満たせる点だ。量子ゆらぎとは、おおまかに言えば、「素粒子は確率的にしか位置を断定できない」というふかしぎな状態を意味し、量子もつれとは、「対として存在する粒子同士は、どれだけ距離が離れていても、任意の情報を伝播しあう」というテレパシーじみた性質を意味する。そして波の接点が素粒子として顕現するならば、波紋の円周上のどこにでも素粒子は出現し得るし、その確率は、周囲の干渉可能な波紋の存在に依存するので、確率的に素粒子の存在が規定されると考えられる。また、波紋が素粒子として顕現するとき、波紋の円周上でまっさきにエネルギィと情報が失われるのは、波紋と波紋の接点とちょうど真逆に位置する点である。つまり、接点が素粒子として顕現するならば、必然、真逆に位置する消失点に、一瞬で素粒子と対となる情報とエネルギィの消失が認められる。素粒子が1なら消失点はマイナス1だ。素粒子が2なら消失点はマイナス2となる。波紋の直径がどれだけ長くとも、このやりとりは一瞬で行われる。量子もつれとはまさにこのことなのではないか、とまたしても妄想して本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(お断りするまでもなく、素人のあんぽんたんな妄想であるので、そんな方はいらっしゃらないとは思いますが、真に受けないようにお願い申しあげます)



2113:【超短編24『友死火(ともしび)よ、つぶやけ』】

2X世紀。人類は肉体から解き放たれ、活動の舞台を情報ネットワーク上に移した。従来の貨幣経済は失われ、代わりに個人信用価値が経済の円滑剤として台頭した。個人信用価値とはすなわち、「フォロワー数」と「高評価を意味する【iine】数――いわゆる【でんでんむし】」の多さによって規定される。のきなみそれらは、個々人の情報処理能力の多寡によって左右され、個人の優劣を査定せしめた。ひるがえって、フォロワー数とでんでんむし数の高さは、その者の情報処理能力の高さを示唆し、フォロワー数は戦闘力、そしてでんでんむし数は殺傷力の高さを意味した。そう、この時代にはもはや世界平和などという戯言は存在しない。日々、生きるか死ぬかのサバイバルデスマッチ。人々は、より強者をフォローし、自らの立ち位置を誇示することでその日を生き延び、あべこべに強者からフォロワーを奪おうと虎視眈々とその座を狙っている。「やべー、逃げろ。アキコがきた。アキコがきやがった」「アキコが?」私は呑んでいたジュールジュールを置き、振りかえる。「だってここは摩冬のコミュニティのはずだろ」「知らねぇで来てたのか。摩冬は先月、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054890278959



2114:【ちっぽけは自由】

いくひしさんはちっぽけで、とるにたらない存在だ。あまりによわっちくて、誰かを傷つけるなんて真似はできないし、誰かの足をひっぱるなんてこともできない。それでもちっぽけな細菌やウイルスが人体を死に至らしめるように、或いは空気の酸素濃度がもっとちっぽけになった途端に人は意識すら保てなくなってしまうように、ちっぽけだからといって無害ではないのだ、という自覚は持っていたい。いくひしさんのちっぽけさに拘わらず、いくひしさんは周囲の環境に影響を与えているし、いくひしさんはもっと多大に影響を受けている。それを、恩恵と言い換えてもよい。ちっぽけな存在に甘えないで、誰かを傷つけるだけの能力なんてないのだから好きにふるまってもいいはず、なんて開き直らずに、きちんとじぶんの影響を、周囲への作用を見詰めて、目を逸らさず、本当に傷ついている人がいないのか、いくひしさんのせいで困り果てている人たちがいないのかを漏らさず、見逃さず、知らずにいたなんてことのないようにして生きていきたい。とはいえ、人は生きていれば、他者に迷惑をぜったいにかけてしまうものだ。だからそればかりは、できるだけ迷惑をかけないようにと、いちど失敗したことは繰りかえさないように対策をとっていきましょう、とするよりほかはなさそうだ。そうは言っても、やっぱりいくひしさんの影響力など高が知れているので、アイツはなんだか気にくわないな、と思ったら遠慮なく無視すればよろしい。いくひしさんは無視には慣れている。どちらかと言えば望むところだ。ちっぽけであればあるほどいくひしさんは好きにふるまえる。無視されればされるほど透明人間になれるのだから、ちっぽけな存在の特権と思って、ぞんぶんに満喫していこうと思うしだいだ。これからの時代は、いかによわっちいままでも生きていけるか。強さの基準ががらりと変わる予感がする、との所感を漏らして、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。できるだけ長く、死ぬそのときまで、ちっぽけなままでいられたらよいなぁ。



2115:【これぞ無様】

日に日にじぶんの至らなさ、未熟さ、知能の低さが自明となっていくので、ときどき、これ以上何も知りたくないなぁと、ほんのときどきだけれど思うことがある。とくに何かを知っているわけでもないのにそうやって自虐することで、じぶんの底を見詰めている気になって、まずはそれで何かを得た気になって、成長した気になって、至らなくて未熟で知能の低い不完全な己の免罪符にしている。自覚していればよいわけではないのに、ぼくちゃんはおばかちゃんなの、と口にしてみせることで、予防線を張っている。他人にそれを指摘される前に、そんなことは端から知っているのだと、気づいているのだ、気にしていないのだと、鎧を着こんで、背中を丸め、うずくまっている。そうして殻に閉じこもることなく、みずからが殻になり果てて、ぼくちゃんはおばかちゃんなの、は何者にもなることなく、空虚ながらんどうと化している。そうして底なしの夢想のなかに溶けこみ、逃げこみ、肥大化していくいっぽうの理想とおててをつないで戯れている。理想のほうはとっくに愛想を尽かして、呆れているのに、ぼくちゃんはおばかちゃんなの、はそんなことなどお構いなしで、もっと、もっと、とおねだりする。ぼくちゃんの理想はもっと大きい。もっともっと大きくなれるよ。そうやっておててを繋いだじぶんではない理想に代わりに育ってもらって、それをして何かをなした気になっている。こんなくだらない人間のつむいだ物語が他者の何かを揺るがすべくもない。こうしてまた自虐してみせることで、そうした現実からも身を守り、弱さのみを溜めていく。本当は誰よりつよくなりたいくせに。もっとも欲しいものすら、そんなものはいらない、と遠ざけて。無様。



2116:【感情を描いているのでは?】

百合の定義はおおまかに言えば、「女性同士の感情のゆらぎ」であるといくひしさんは思っていたのだけれど、百合好きの界隈ではあまりそういう認識はまかりとおらぬようだ。男がまじった時点でそれは百合ではない、と考える人が思っていたよりもずっと多いことに驚いた。女性同士のあいだに猫が入るのはよくて、男が入るのがダメな理由がよく解からないのだが、何がダメなのだろう? 触媒の混入によって女性同士の感情に揺らぎが生じたなら、それは百合なのでは? あくまで感情のベクトルが女→女へ向かっていたらそれは百合だと思っていました。とはいえ、いくひしさんはもう金輪際百合作品はつくらないので関係ないと言えば関係ないのですが(いまつくっているので最後という意味です。もちろん百合と標榜しないだけで、登場人物のおおむねが女性の物語はつくることもあるでしょう。以前から述べていますが、性別によってジャンルを分けるのは、今後、徐々に疑問視されていくことになるように思います。十年はかからないのでは、と妄想しています。もちろん、百合を標榜したり、つくったり、男性を排除し女性限定にしたりすることがダメだ、と言っているわけではないですよ。おのおの、好きに創作をし、楽しめばよろしいのではないでしょうか)。物語そのものではなく、ジャンルを愛しているひとはたいへんですね。皮肉ではないですよ。さまざまな分野で、「これは××ではない」と異物に敏感なひとを見かけます。総じて、線引きに必死で、純粋にそれそのものを楽しめていないようなので、やはりたいへんそうだなぁ、と心中お察しいたします(守りたいものがハッキリしているひとは幸運に思えます。いくひしさんはまだそこまでの境地には至っておりません)。きっと虚構を味わうのにも、アレルギーみたいなものがあるのだろうなぁ、と想像しています。アレルギー源のある虚構は味わえないひとがいるのです。気づいていないだけできっと、いくひしさんにもそういった免疫過剰反応を引き起こすような虚構作品があるはずです。出遭わずにいるのはラッキーですね。ありがたいことです。いまのところ、いくひしさんはおもしろければ何でもよいです。さいあく、物語でさえあれば文句を挟みようがありません。より好ましく思う虚構の方向性に偏りはあるにせよ。しかしそうした嗜好もまた時間の経過にしたがい変質していくものだろうとひとごとのように予感して、本日の「いくひ誌。」といたしましょう。



2117:【下請法】

この国の出版社は作家に対して、創作にとりかかる前に契約を結ぶことをしない。2019年の現時点においては、事前契約は稀であると言えよう。書籍として出版されたあとに書面での契約を結ぶのがこの国の慣例であるようだ。下請法の範疇外として取り扱われるのも理由の一つとなっている。つまり、作家の創作物は汎用性があり、一つの出版社で出版できずとも同じ作品をほかの出版社からだすことができる。よって下請法の適用外とされる向きがつよいが、これは裏から言えば、その出版社でなければ出版できない内容であれば、下請法の範疇内であると評価できる(素人の戯言ですので真に受けないようにお願い申しあげます)。それを証明するためには、創作時に出版社からの修正指示がどれほどあったのか、その割合が重要な指標となると言えよう。また、下請法が適用されずとも、著作権の全権利を著者が保有するような内容で契約を事前に結ぶことは可能だ。ビジネスとしてやっていくならば、いまからでも出版業界は、作家の労働に対する対価を保障する姿勢を示していくのがより健全な競争原理を追求でき、結果として出版業界の保全に繋がるのではないか、と指摘しておこう。また、編集者と作家間のトラブルを単なる個人間のミスやトラブルとして片づけようとする風習が、出版業界には根強く残っているように見受けられるが、そうした自己責任論こそが業界の陋習(悪習)であると見抜けないようでは、凋落していくいっぽうであるだろう。自浄作用のない組織はいずれ瓦解する。歴史に明るくないいくひしさんでも、そのくらいの抽象的な傾向は見てとれる。歴史に詳しい編集者たちがそこに気づかないわけはないと思いたいところだが、楽観視はできないのが現状かもしれない。改善を期待したいところである(大前提として作家は締め切りを守りましょう――守れるような日程を組んで、仕事を引き受けましょう。守れなかったら違約金を払う契約も結んでおくのがビジネスとして妥当な姿勢であるはずだ。以前から述べているが、印税は重版した分のみをもらうようにし、出版社は出版社で一定期間内で初版を売りきれなかったら一定額の違約金を払うように仕組みを変えていくのがよいのではないか、と考えているが、いかがだろう。出版社は初版を絶対にすべて売りきるように尽力すること。作家はまずは出版社に損をさせないように重版からの印税で合意すること。重版時の部数が百部単位でも、たくさん刷ってほとんど売れずに一定額をもらう現状の仕組みよりかは、より広い範囲の読者に自著を届けるという目的を達成できて、いまよりかは納得できるようになるのではないか。重版しなかった場合、言い換えれば初版がすべて売りきれなかった場合は、出版社から違約金が入るので、最低限の利益は確保できる。ただし、印税が振りこまれるまでに時間がかかる点がデメリットだ。しかし現状であっても、依頼から創作を経て出版までこぎつけるのに一年以上かかることも珍しくはない。どの道、重版されるか否かはひと月以内で判断される向きがつよいので、印税が振りこまれる時間がひと月ずれるくらいがいいとこではないか、と想像するものだ。また、下請法においては、商品納入時から60日以内に支払いを行うことと定められているので、おおよそひと月経った時点で初版が売りきれていなかった場合は出版社は作家に違約金を支払うようにすればよいのではないか。建前(前提)が変わるだけで、お金の流れそのものはいまと大きく変わらないはずだ。ただし、この建前(前提)がいまは、ずいぶん惰性で、なあなあになっているように思われるので、まずは各々、役目を再認識しましょう、それを書面に記し、契約を結んでから仕事に着手するようにしましょう、と仕組みを変えていくように意識していくのがよろしいような気がするが、ともあれ、こんなずぶの素人の妄言などとっくに議論し尽くされているだろうから、いくひしさんが考えること以上に目覚ましい仕組みの改善が進められていくだろうと期待して、本日二度目の「いくひ誌。」とさせていただこう)。



2118:【焦らずに、確実に】

ゆっくり、すこしずつ、じわじわとやっていこう。



2119:【追いつかれたら負け】

線虫が子孫に記憶を継承するようだ、といった研究報告がなされたようだ。DNAではなくRNAを利用して、親の記憶の一部を子に先天的に伝えることが可能であるそうだ。ただしDNAへの変異を伴うわけではないらしく、獲得形質の遺伝が引き起こる、とまでは言えそうにない。しかし、元々生物はDNAではなくRNAから発生したと考えるのが現在の主流な仮説であるから、RNAによって親の記憶――言い換えれば蓄積した情報――を子に伝えることが生物の仕組みとして備わっていてもふしぎではない(いくひしさんの考えでは、そもそも生命とはある種の情報蓄積装置ではないか、と考えているので、そうした見方をしてしまいがち)。断言はできないが、RNAを利用した記憶の継承は進化と無関係とは呼べず、獲得形質の遺伝との関連性はそう低くはないのではないか、と個人的には睨んでいる。とはいえ、この予想は希望的観測にすぎないので、より明瞭な因果関係の追求が期待される。ちなみに獲得形質の遺伝が生物進化の一因子であることを組みこんでつくった自作に「哀緒紅の述懐(https://kakuyomu.jp/works/1177354054884801152)」がある。クローンや意識といった要素を舞台装置としてつかっている物語であり、iPS細胞の研究がノーベル賞を受賞する前の2011年につくった作品である。だからどうした、と問われれば、べつにどうもしませんよ、と答えるよりないのだが、ともあれ、「2020年代後半には獲得形質の遺伝が引き起こることは一部界隈では通説となっているだろうな」との予想をしていたので、驚きはしない。むしろ、予想通りに時代に追いつかれてきてしまったので、虚構創作家としてはまずいな、と焦りを覚えるほどだ。現実に追いつかれる物語などたいしたことはない。現実を置き去りにするくらいでないと、といまいちど世界に深くもぐる癖をつけておきたいものである。ちなみに、「攻殻機動隊アンソロジー(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=9539610)」においても、獲得形質の遺伝がキーになっている作品を描いている。だからどうした、という声には、べつにどうもしませんよ、と応じておこう。(むろん言を俟つことなく、発表された研究結果が間違っていることもあり得るし、現時点では「獲得形質の遺伝」は引き起こらないのが通説であるので、ここでのいくひしさんの文章を鵜呑みにしないようにお願い申しあげます)



2120:【望んだとおりに生きている】

ゾウをまえに尻尾を巻いて逃げるトラよりもゾウに踏まれても平然としている蟻でありたい。みにくいアヒルの子は、みにくいアヒルの子のままで、うつくしく生まれ変わったりせずに、誰のことも見返すことなく、孤独に、自由に生きていればよかったのに。みにくいアヒルの子は、うつくしい白鳥になってしまったことで、本当の意味でみにくいアヒルの子になってしまったのかもしれない。こうして歪んだひがみを抱くいくひしさんはけれど、何者に生まれ変わることなく、ただただみにくく、腐って、落ちぶれている。やったね。




※日々、他人の視線に怯えている、他人に重ね見えるおのが価値観が、我が身の醜さを浮き彫りにするから。



2121:【キャラです!】

やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなぁ。いくひしさんは性格が最悪なことで有名でござるけれども、たとえばこの「いくひ誌。」に、いくひしさんの中の人にそっくりな文章をつむぐいくひしさんは一人もいないでござる。ぜんぶキャラでござる。いくひしさんの中の人は基本、しゃべらないでござるから、どんな文章も、いくひしさんの中の人とはかけ離れているでござる。ちなみにどれくらい性格がわるいかと申すとでござると、たとえばいくひしさんはよわっちぃので、よく人から舐められがちでござるけれども、いくひしさんの中の人の言葉を借りれば、「おまえが俺を舐めてんじゃねぇんだよ。俺様がおめぇに舐めさせてやってんだ。何かってにやめてんだアン? 俺様がいいと言うまで舐めつづけろ。しっかりご奉仕しろな。俺様は律儀だからよ、もらった【おん】は必ず返すよ、楽しみにしてろよな」といった具合でござる。なー。何様でござるか? 俺様でござるか? いいかげんにするでござる。あとは、そうそう。どうしてそんなに舐められて、見下されて、嫌われて、無視されて、仲間外れにされているのに平気なの、といった問いかけには、「好きなんだよね。あたしがちょっと本気だしただけで真っ青になる相手の顔見るの」といった具合だったり、「爽快なんです。ぼくのことをそんざいに扱った相手が、ぼくのせいで落ちぶれていく様を見るのが。かわいそうですよね。ぼくなんかをいじめちゃったばっかりに」といった具合だったり、とかく、かわいそうかわいそうと涙を流しながら、その手でかわいいかわいい赤子の首をひねりつぶすような、醜悪の権化こそが、いくひしさんの中の人でござる。騙されてはいけないでござるよ。こんないくひしさんですら、いくひしさんの中の人が嫌いなんでござるから、よっぽどでござる。だからさいきんまで、いくひしさんは、いくひしさんの中の人を、いくひしさんの奥深くに押しこめてきたでござるけれども、怠け者のいくひしさんだってただ怠けて日々を過ごしてきたわけではないでござる、そろそろ手懐けられるかもしれないでござるな、と思い直して、いくひしさんの中の人を、いくひしさんの外にもだしてあげるようになってきたでござる。その分、これまでいくひしさんの表層にいたほかのいくひしさんたちがすっかりいなくなってしまったのだけれども、まあそうですね、もちろん消えたわけじゃないですよ、ぼくたちはちゃんとここにいるし、あたしだって頼まれれば手を貸すのにやぶさかじゃないけどね、とはいえおめぇらがいたところでクソの役にも立ちゃしねぇけどな、しかしそれはそれとしてまだあのコを御しきれると決まったわけではないのですから予断は禁物ですよ、私は端から反対してたのですから、いまだって気が気ではありません、なーんてみなのものがいくひしさんの奥底でぺちゃくちゃしゃべってるでござる。きっといくひしさんの中の人が外にでてきちゃったので、おまえがこっちくるならあっちいこう、てな具合に、みなのものは身を隠しちゃったのかなー、なんて想像しているでござる。いくひしさんはみなのものを眺めるお役目でござるから、こうして好きに上にも下にも、中にも外にもいられるでござる。念のためにもういちど言っておくけれども、いくひしさんの中の人――いまはもう外にいることのほうが多くなりつつあるけれども、間違っても、信じたり、高く評価したり、近寄ったりしたらいけないでござるよ。なぜって、それはだってyyyyyyjこおjnはおのんぶbbyvsvhの個gbんえおんどこ、pmにhびあ     もちろんこれだってキャラだし、ウソだから、いくひしさんのことはたくさん信じて、慕って、高く評価してくれよな。で、ござるー。



2122:【ラグ理論】

いくひしさんはものすごく浅薄だ。学がない。知識もお粗末なら知恵も穴だらけ。信憑性のかけらもない口からでまかせ、しったか野郎であるけれども、それはそれとして、浅くではあるものの未知の分野に目を向け、ほんのすこしずつではあるものの、これまで触れてこなかった情報に触れている。そうしたなかで、宇宙の起源や物質の成りたち、事象の構造や人間の意識、そしてさまざまなシステムに共通するような点はないか、と思いを巡らせてみると、なにやら見えてくるのは「情報の遅延」である。いくひしさんはこれをかってに「ラグ理論」と呼んで、じぶんなりの妄想の集積を図っている。たとえば相対性理論において、重力の差は時間の流れの差として現れ、また時空を歪めるとされている。これは極小の量子世界においても生じ得るといくひしさんは睨んでいる(しかし一般的には極小世界においては素粒子が質量を持たない傾向にあるので――質量を有している素粒子もむろんあるが――、基本的には相対性理論の適用が見送られている。ゆえに古典物理学である相対性理論と近代物理学である量子力学のあいだには、互いに矛盾する考えが横たわっている。現在、双方を統一するための理論の構築が、最先端物理学において試みられている。ただし、人間がどう解釈しようと、ミクロもマクロも、地続きに世界を編みこんでいる。たとえば、固体と液体は物質の状態の差を人間の解釈で割り切ったカテゴリーであるが、しかし氷と水は、それをかたちづくっている原子や分子に差異はない。同じH2Oからできている。分子配列が異なるだけであり、もうすこし厳密に言えば、熱を帯びているか否かにその差の違いを求めることが可能だ。物質の状態変化のことを、相転移と呼ぶが、いったいどこからどこまでが水で、どこからが氷なのか、それを厳密に定義することは原理的にむつかしい。沸騰した水は、いったいどこからが気体で、どこからが液体なのか。雲は気体であるのか、固体であるのか、それとも液体なのか。これもまた厳密に定義することはむつかしいだろう。同じように、ミクロな世界を記述する量子力学とマクロな世界を記述する相対性理論とのあいだには、厳密な境目などはなく、中間の世界を記述する新しい解釈は、おそらくいずれの理論をも統一し得る世界観を帯びているはずだ。それは視点の違いであり、何を基準に世界を見詰めなおすのか、のさきに現れる叡智であるだろう。ともあれ――)。極小の世界においても重力の差異は、素粒子間、或いは場においても発生すると仮定すれば、そうした差は、時間の流れの差として現れ、相互作用の遅延としても現れると想像できる。つまり、ある種の抵抗(反発力?)がそこに生じる。なめらかに変化が右から左へと伝播するはずが、重力の差――言い換えれば時間の流れの差があるために、ラグが生じる。たとえば渋滞が発生する要因の一つに、ブレーキが挙げられる。交通量が一定以上の道路では、ゆるやかな上り坂、或いはトンネルなどの心理的抵抗のある障害物の影響で、ブレーキがわずかに踏まれ、その一瞬の遅れが後続車に伝わり、どんどんと詰まっていき、最終的に停車の列ができるほどにまで遅延のラグが顕現する。渋滞の完成だ。これと似たことが、量子世界(極小の世界)においても引き起こっており、そのラグこそが物質の性質の差異や、形状、頑丈さとなって現れるのではないか、と妄想している。そして究極的には、重力の差――言い換えれば時間の流れの差とは、熱のやりとりに変換可能である(なぜかを記述するには余白が足りない)。そしてこの熱とは言うなれば、情報である。情報のやりとりが遅延することで、この世界はカタチを帯び、種々相な性質を帯び、そしてダマを生みだし、流れを区切り、システムとしての循環系――ある種の回路を構築する(この解釈の仕方は、物質だけでなく、社会や文化にも適用可能だ)。情報の遅延、そして情報の限定的なやりとり――この世界を解釈するのに必要なのは、じつはそれだけで充分なのではないか、といくひしさんはここ数年、ずっと妄想しつづけている。このラグ理論が正しいと仮定するならば、素粒子や場が情報のやりとりをしなくなることは時空の消滅に等しいため、原子の振動(熱振動)がゼロになることを意味する絶対零度は原理的に引き起きないと結論できる。ただし、絶対零度にちかい極限の低温は事象として再現可能だ。素粒子を考慮しない比較的マクロな世界においては原子の熱振動がゼロになった、と解釈して、無数の原子の総体としての物質の運動を記述することは、問題とならない。視点の違いによって無視できる数値というものがある。太陽の大きさを測るのに、二センチの誤差は無視していい。そうしたほうが人類には事象の観測がしやすく、理論を構築しやすいのであり、裏から言えば、人類の欠陥がそうした誤差を処理しきれない、とも呼べる。とういうことは、これまでに無視してきた誤差によって誤った結論をすでに導いている可能性は否定できない。技術力が高まっていくにつれて人類はこれまで無視していた領域を観測可能としていく。それにより、あらゆる定説に例外が生じていくだろう。基本的に人類は間違うのである。それはそれとして、すこしずつ世界を解釈する精度はあがっている。先人たちの叡智には目をみはるばかりである。(お断りするまでもなくこの「ラグ理論」は、理論でもなんでもなく、また、学術的に価値のある発想でもまったくない、単なるあんぽんたんの妄想であるので、真に受けないようにご注意ください)。



2123:【いんとぺい】

いいひとになりたい、と思わずに済むくらいに、いいひとになりたい。でもきっといいひとになりたい、と思わなくなったらあっという間に、悪にまみれて、他者を食い物にする「いいひとDETH」になってしまいそうで、おそろしい。悪をすっかり手放してしまったらきっと人は、いいひとにはなれないのだ。人とは悪を飼いならす者である。悪とは繋ぎとめる触媒だ。本能と理性を、そして愛と善を。ときに、邪と毒を。堕落と破滅を。なにより意思と未来を繋ぎとめる。悪とは人を人たらしめるための触媒だ。希釈し、調合し、撹拌するその一連の流れを以って、人はいいひとへと傾ける。本当か? 希釈しすぎればケモノに還り、度がすぎれば魔を宿す。混ぜすぎては見失うし、乱暴にすれば、結合したおのおの「本能と理性」「愛と善」「意思と未来」がばらばらになる。人は、いいひとにはなれない。なろうと抗い、もがく者があるだけだ。埋もれた悪を掘りかえし、いつでも細かくすり潰しておこう。即座に服用できるように。内から我が身を蝕まぬように。善のなかには悪があり、愛のなかにも悪がある。囚われぬように。見誤らぬように。ねがわくは、悪のほうから「ここにいるよ」と名乗りでるように。だが、そうはしないからこそ悪なのだ。悪はひそみ、かくれ、くらむことが大好きだ。岩のしたに群がる蟲があるように、善良のしたには無数の悪が息づいている。おおわれている。なにもかもが、内に異質を抱えている。



2124:【あいあむ差別主義者】

偏見と差別意識のかたまりすぎて、人と関わりたくなくなってしまったのかもしれない。言うまでもなく偏見と差別意識のかたまりなのはいくひしさんです。



2125:【清く正しくなんて無理じゃない?】

虫一匹殺さずに生きていくことはゾウにはできない。野垂れ死ぬよりほかはない、その場から一歩も動かずに。いくひしさんは蟻でよかった。



2126:【因果応報】

ものすごくあたりまえの話として、いくひしさんを無視したひとの数よりも、いくひしさんが無視してきたひとの数のほうがはるかに多いわけですよ。同じように、傷つけられたと思っている以上に、いくひしさんは誰かを不要に、不当に、傷つけている。自覚していればよいというわけではけっしてないが、忘れないようにしていきたい。



2127:【滑稽だし狡猾】

いいひとぶってんじゃねぇよ、いくひし。おめぇがいったい何をしてきたんだってんだ。偉そうにお門違いな正論並べて悦にひたってんじゃねぇよ。身の程を知れ。



2128:【きみはすぐにそういうこと言う】

どうしてひどいこと言うの。言い方ってものがあると思う。いくひし君のそういうとこ、すっごい嫌だな。



2129:【みゅーと】

SNSにおけるリツイートやいいね!は、ゆびさき一本で画面に触れる程度の労力で行える。すくなくとも表現者は、そんなものに心から感謝する必要なんてないし、しないほうが表現を世に発信する者としてはより誠実に思える。ただ、ポーズで礼を言っておけば親しみを演出できるし、それを見た者のいくらかは、また押してやろうかな、と思うだろう。ゆびさき一本を動かす程度の労力であれ、それが何万、何十万と積み重なれば、それなりの評価として価値が生じる。ただやはり、それを得るために表現し、世に発信するのは、なんだか虚しくなってしまいそうだ。否定はしないが、評価を欲するならきちんと対価として金銭を得るところまで考えてみたほうがよろしいのではないか、と思うしだいだ。むろん、ゲーム感覚やコミュニケーションとして単に遊びでやっている者もいるだろう。それぞれに思惑があり、考えがあるはずだ。それを否定するつもりはない旨を自己保身としてここに付け足しておこう。何が言いたかったのかと言えば、いくひしさんはツイッターでたくさんの表現や作品の画像をリツイートしたり、いいね!したりしているが、影響力は微々たるものだ。貢献しようもない。いっぽうてきに他者の成果物を貪っているだけだ。しょせん、ゆびさき一本を動かす程度の労力である。何度もポチポチうるさいな、と迷惑がるのが当然であり、感謝の念を抱いたりするのは愚か者のすることである。やや回りくどかったかもしれないが、いくひしさんのアカウントなぞはミュートしておくのが賢明だ。くれぐれも気に病んだりせぬようにお願い申しあげて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。



2130:【機能としてだいじ】

飽きる、という人間の機能にも二種類ある。一つはそもそも興味がそれほどなく、対象を深く掘り下げることなく関心が薄れてしまう状態で、一般に「飽きる」と言えばこれを示す。しかし、興味関心が平均以上であるにも拘わらず、飽きてしまうことがある。これは通り一遍の基本や型を集積し終えてしまったので、ほかのもっと新鮮な刺激に出会いたいと欲する人間の機能であり、構造的には、ふたつの「飽きる」に大きな差はないが、しかし前者はひとに何かを創造させることはなく、後者はどんどん新しい道をつくりつづけさせることになる。知的好奇心が有り余るがゆえに「飽きやすい」ということがあるのだ。一つの分野に拘るのは、最初のうちは成長速度が向上しやすいが、分野とはすなわちすでに確立された過去の情報の蓄積でしかなく、そこから得られるものはむろんあるが、何かを新しく生みだすには、やや不足だ。飽きるだけ貪ったら、ほかの分野に目を向けたり、すでに否定されている仮説をあたってみたり、いろいろと寄り道をしながら、情報の余白を広げていき、それをしてノートと見做し、じぶんなりの理屈をそこへ描いていくと、その理屈の妥当性に拘わらず、より長く、何度も飽きつづけることができるのではないだろうか。まとめると、飽きる、には大きく分けて二種類ある。興味関心の薄さに起因するものと、情報が飽和し、処理済みの判が捺されてしまっている状態を知らせるためのものだ。後者の場合は、必ずしも飽きることがわるい結果を生むわけではない。むしろ成長に欠かせない機能であると言えそうだ。もっとも、情報処理能力には個人差があり、同一人物であれ、時期によって処理の手法が変化していくものだ。過去に飽きた分野があるとしても、すべてを網羅していることは稀であり、往々にしてとりこぼしがあると考えて損はない。ときおり過去の足跡を辿り直し、ふたたび「同じ飽き」を味わうことは、創造性を発揮するために有効に働くものと妄想するしだいだ。



※日々、人間のフリがどへたくそ。



2131:【延々とつづくドミノ倒し】

これまでできていたこと、かつては得意だったことができなくなる。十年単位で何かを継続していると、そういう衰退が頻繁に起こる。何かをできなくなった分、ではほかにできるようになったことがあったのか、と問われれば、そうかもしれないし、そうではないのかもしれない、と首をひねるのがせいぜいだ。よしんば、何かを得ているよ、と答えたところで、そのように感じられるだけかもしれない。全体的には衰えているのだ(そうでなければ人は寿命で死んだりはしないだろう)。それもそのはずで、時間は有限であり、これまでやっていたことの時間を新しい技術獲得のために費やせば、すでに体得した技術は衰えていくのが道理だ。現状を維持するだけでもエネルギィを使っている、時間を使っている。その分のエネルギィと時間をほかに費やすのだから、衰えて当然だ。いわゆるトレードオフなのだろう。等価交換だ。得たものを手放すことで、新しいものを得る。だが若いときほどこのトレードオフの原理が働かない。学んだ分だけ吸収し、衰えることなく、どんどん新しい技術を体得できる。それが、歳をとるにつれて、これまで蓄えてきたものを手放すことでしか、新しいものを得られないようになっていく。抽象的な話をしているのでむろんこれは絶対ではない。例外はいくらでもあるだろうし、単純な年齢にその要因を求めることはできないだろう。若くとも時間が有限であることは変わらない。トレードオフの原理はつきまとう。ただ、衰えるのにかかる時間と成長するのにかかる時間を比べると、年齢の若い者ほど、後者の成長にかかる時間のほうが短いように概観できる。つまり、何かが失われるあいだに、もっと多くの技術を体得している。成長とはつまるところこのことであり、ひるがえって、おとなになってしまうと成長ではなく、蓄えたものをまたべつの技術へと変換するだけの単なる変化となってしまう傾向にあるように思われる。いささか乱暴な考察になってしまったかもしれない。考えというよりも印象にちかい。繰りかえすが、例外はすくなくないだろう。年齢を重ねても単なる変化ではなく成長を繰りかえす人間はいるだろうし、もっと言えば単なる変化が成長を凌駕することだってあるだろう。成長すればいいというものではない。だがすくなくとも、かつて成長した分の技術を「糧」として、ひとは新たに変化し、そして新しい何かを創造していくのではないだろうか。それを、影響と言い換えてもよいかもしれない。ひとは、影響を生みだすために、あれこれと日々を生きている。本当か? それはいったい誰への影響で、いつ作用する影響であるだろう。結果を「いつ」から「どのくらいの範囲」に及ぼすか。影響一つとっても、一口には語れない。考えだしたらキリがない。こればかりはトレードオフの原理とは縁遠いと呼べそうだ。



2132:【サビつき】

久々にストレッチをした。ひごろから運動不足なので、節々や筋が悲鳴をあげた。というよりも、悲鳴をあげていたことに気づいた、と言ったほうが正確かもしれない。主に背骨をサンドウィッチしている筋肉と、肩、それから股関節と、右の太もも、加えて、右足のふくらはぎのちょうど脛の骨との繋ぎ目が、とくにサビついているのが痛いほどというか、痛いからというべきか、感じられた。怠け者のいくひしさんはスポーツ全般が苦手であるので、ストレッチも率先して行ったりはしない。おそらく「ストレッチをしよう」と意識して行ったのは数年ぶりではないだろうか。すくなくとも記憶にあるのは2016年であるので、おおよそ三年ぶりといったところか(後日追記:2017年の「いくひ誌。748」にてストレッチをやめる、との記事を並べていた。繰り返し述べていますが、記憶力の乏しいいくひしさんの言うことを真に受けてはいけません)。サビつくわけである。以前の「いくひ誌。」でも並べたことであるが、ストレッチを日常的にこなしていると基礎代謝があがる。これは燃費のわるい身体をつくることを意味するので、何もせずともエネルギィを消費しやすく、痩せやすい体質になる。怠け者のいくひしさんはできるだけ燃費をあげたいので、ある時期からストレッチをしなくなった。それに伴い、身体の不調が六割方減ったので、結果としてやめてよかったと思っているが、これは単純にストレッチをしなくなった分、余計に動かなくなったので、身体に負荷がかからくなったために身体の不調がおさまった、と分析するのがより正確なところかもしれない。ほんじつ、久々に「ストレッチをしよう」と思い立ち、実践してみたところ、定期的にストレッチはしたほうがよいかもしれない、と思い直した。ひと月に一回くらいはそういう日をつくってみようと決意した。ちなみに、ストレッチのコツは、筋ではなく関節の可動域をひろげようと意識することだ。筋をむりくり伸ばしても、身体を痛めつけるだけなのでおすすめはしない。筋トレをしたいならべつだが、ストレッチは身体をやわらかくするというよりも、身体を自在に動かせるようにするための「関節の詰まり(サビ)」を落とす(ほぐす)ことを目的にしたほうが、より好ましい結果に結びつくような気がしている。とはいえ、運動が苦手ないくひしさんの言うことであるので、真に受けないでほしいところではあるのだが。やわらかさとしなやかさは必ずしも一致しない。どちらかと言えば、やわらかすぎれば、しなやかさを失う傾向にある。プリンや豆腐も、ある程度固いからこそカタチを保てるのであり、人形だってゆるゆるの関節では立った姿勢を保てない。タコのような身体を目指すのも一興かもしれないが、超人になりたいわけではないのなら、身体のサビを落とすだけで充分ではないだろうか。日常生活における身体の負担を軽減することが目的であるならば、過度な負荷をかけてまで身体をやわらかくする意味はないように思うしだいだ(同じ理由から、筋トレもまた、筋肉をつけることを目的にするのではなく、身体の負担を軽減することを目的にしたほうが好ましいように思われる。ひとことでまとめるならば、無理をしないように、となるだろう)。



2133:【体験それ自体に価値があるわけではない】

ひとはじぶんがなぜ泣いているのか解からなかったり、なぜこんなにまでも心が揺さぶられて、感動しているのかが解からなかったり、解からないのにそれを止めることができずに、抗えずに、どうしようもなくなると、あとはもう笑うしかなくなるのだ。笑いながら泣いて、笑いながら感動する。意識と切り離されたところで、胸を打たれる。生きてきたこれまでのあいだにそうした瞬間に出会ったことがなかったので、びっくりしてしまった。笑うしかないのだ。よい体験とは、宝物のような過去の積み重ねがあってはじめて成り立つのだ、と知った。しかも、その瞬間になるまで、それらが宝物だとつよく意識した覚えがなかったので――ありていに、そこにあって当然のものであったからだが――ますますびっくりしてしまった。体験とは、過去を圧縮し、宝石に焼きあげるためのきっかけであり、体験それそのものに価値があるわけではないのだ。よく生きよ、とは言ったものである。



2134:【他人事のほうがいい】

じぶんのことで何か得をしたり、利を得ても、感動したりはしないが、他人のことだとじぶんのこと以上に、じぶんのことのように、うれしかったり、心を乱されたり、琴線を揺るがされたりする。他人事のほうが自分事よりもはるかに噛みしめる価値がある。というよりも、他人事でなければ自分事にはできないらしい。他人なぞ好きでもなんでもないし、関わりたくもないが、だからこそ、それでも関わっていられる相手のことは、じぶん以上に、じぶんのことのように感じられるのかもしれない。他人事のほうがいい。他人事であれ。



2135:【我がつよい】

共感ができない。どう考えても他人は他人だし、じぶんはじぶんだ。人類であること以上の共通点を探すのはむつかしい。だからこそ、同じ素体でありながら未知をたんまりたくわえた他人の構成要素を探りたくなるのかもしれない。他人なぞじぶんではないのだから極論どうでもいいが、他人がなぜ他人であるのかを知るのは嫌いではないようだ。どれほどがんばっても、知り尽くせない点もまた宇宙のように神秘的で、魅力が高い。それでいて容易に知った気になれるのだから目を向けるなというほうが無理がある。共感ができない。孤独が好きだ。でもそれは人間などいなくなればいい、という拒絶とは違っている。覗かせてほしい。一方的に。貪らせてほしい。極上の虚構を。あなたをあなたに仕立てあげる底なしの――。



2136:【共感よりも違和感】

他人をじぶんのことのように感じる共感がだいじなように、じぶんを他人のように感じる違和感もまただいじな気がする。共通点をみつくろうことも、違いを見つけることも、両方、思考には欠かせないはずだ。でもいまは、共通点ばかりが重宝され、違いに関しては差別や排除の理由にされがちだ。違いこそ本来、目を向け、考えるべき深淵さを伴っている。対人関係にしてもそうだ。共通点がなければ相手を尊べない人が多い。共感できなければ関心を向けない人が多い。しかし、じぶんとは違っている人間のほうが、じぶんとちかしい人間よりも学ぶべき点は多いはずだ。違いを探そう。違いに思いを馳せよう。違っている神秘を噛みしめよう。違和感をたいせつに。(それはそれとして他人と直接関わりたくはない)



2137:【十年後を見据えておこう】

SNS上では「好きか嫌いか」が判断基準の大部分を占めており、正しいか否かはよこちょに置かれているふうに見受けられる。「好きか嫌いか」は瞬時に判断がつくが、「正しいか否か」の判断には時間がかかる。時間をかけても本当にそれが「正しいのか」は断定できないことのほうが多いだろう。ゆえに、SNSという瞬間瞬間の評価が重視されるシステムのうえでは、瞬間的に判断のつく基準が採用される傾向にある。とくに問題はないだろう。時間の経過に従い、そうした瞬間的な判断が根付き慎重さの失われたシステムは信用そのものを失っていく。信用を構築するためにはある程度の「正しさ」の担保が必要だからだ。もうすこし正確には、正しさを追求しようとする姿勢が求められる。いまは相互交流型のSNSが登場して日が浅いため、物珍しさと情報の流動性の高さから大衆に受け入れられているが、このさき、SNS上で評価されることの価値は、いまよりもずっと落ちていくことが想像できる。飽くまでSNSではないところで信用を築きあげ、その広報としてSNSを利用する流れに帰着していくだろう。SNSで話題です、は宣伝文句として機能しなくなる日が間もなくやってくる。すでにそうなりつつある、と言ってもいいかもしれない。以前にも述べたが、SNS上のフォロワー数やバズッたつぶやきなど、数値化された評価は、その後もアカウントやつぶやきそのものを削除しないかぎりネット上に残りつづける。しかしその数値の信用度は、それが付与された時期がもっとも高く、それ以降は下降の一途をたどる。一般にどんな事象であれ、評価されつづけなければ評価は下がるのだ。しかし見かけの数値はそのままなので、たとえば五年前からフォロワー数が10万で推移していないアカウントと、いま現在三日でフォロワーが3万人まで増えたアカウントでは、圧倒的に後者のほうが信用度やSNS上での価値が高いと言える。現に、フォロワーが何万人もいるのにすでに日々のつぶやきや投稿にほとんど反応を得られていないアカウントが散見されはじめている。ひとは飽きるのだ。そして、もし「好き嫌い」という判断基準にマイナスの要素があるとすれば、この「飽きる」という点にあるだろう。好きなものはいずれ飽きる日がくるが、「正しいこと」は、時間が経っても「正しさ」を保てる。正しさとはそもそも、より普遍的な評価を備えている状態を意味するからだ。むろん、完全な正しさなど、人類はまだ見つけられていないだろうから、時代によって「正しさ」そのものは変容していくだろう。それでも、「好き嫌い」よりかは時代の変遷への耐性を帯びていると呼べる。SNS上では個々人に「見かけの評価」がつきやすい。個人がバブルをいくらでも膨らませられる時代なのだ。反面、そうして膨れたバブルは一定期間割れることなく、しかし確実に空洞を広げながら、徐々に個人を蝕んでいくだろう。たとえばSNSの運営元がサービスを停止したら。規約を変更したら。課金制に移行したら。さまざまな外的因子によって、SNSで溜めた評価があっという間に気泡に帰す事態が考えられる。SNSがなくとも失われない価値を構築する姿勢を維持できるか否かが、2020年代を生きぬくにあたって有利に働く資質となっていくはずだ。それは、会社という組織に縛られ、適応することが社会で生き残る合理的手法だった時代が、2010年代に入って急速に色あせたのと似た原理を伴っている。打席に立ちつづけた者がヒットを打つ。たしかにそうかもしれないが、いったい何が打席であるのかは、じぶんで決められる時代なのだ。他人のつくった打席に入りつづける日々もそうわるくはないだろうが、自力でグランド(グラウンド)を整備し、打席どころか球場そのものをつくってしまうのも一興かもしれない。以前に比べれば、いまはそうした球場を誰でもつくりあげやすい時代なのだ。そして、そうした土壌は今後ますます発展していくだろう。インターネットはさらに深化していく。目のまえの土俵(フレーム)に囚われずに(まったく見向きもしないのもどうかとは思うが)、「好き嫌い」を越えた価値をじぶんのなかに溜めていこう。



2138:【くだらない】

素材からPCやスマホをイチからつくりあげるためには、いったいどれだけの知識と労力と時間がかかるだろう。一生を費やしても足りないのは明らかであり、ほとほと人類の集積してきた叡智の層には圧倒されるばかりである。世のなかの頭がよいと言われている人たちですら、一生かけても無理なのではないか。素材を採取する技術から加工する技術、或いは採取したり加工したりするための装置をつくるだけでも一生がかりだろう。いいや、どんな素材が必要で、それはどこに行けば採取できるのかを突き止めるだけでも一生がかりかもしれない。いっぽうでは、ソフトを開発するためにはそれを計算するための装置が必要であり、段階的に計算機をつくりあげていく必要がある。おそらく、これまで人類が辿ってきた来歴をほとんどそっくりそのまま辿るカタチになるはずだ。書籍やインターネットを使えるとしても(検索や索引できるだけで、パーツを分解したり、流用したりはできないとして)、誰の手も借りずに素材からPCやスマホをつくりあげるのは、やはりというべきか、一生かけてもむつかしいように思う。まず以って、電子の性質をつきとめるだけでも、百年はかかるだろう(たとえばパウリの排他律やフェルミエネルギィなど)。いったいどれだけの知識と技術と時間の集積があればこれだけのものがつくれるのか。歴史に名を遺さずに消えていった、けれどたしかにそこに存在し、人類の叡智の集積に貢献した者たちがいたのだ。そしてそれは現在進行形で蓄積されつづけている継承でもある。ざんねんながらいくひしさんはそこには加わることはできないが、益体なしの外野として存分に甘受させてもらうことにしよう。いつだって外野がもっとも無責任に楽しめる。プレイヤーにのみ許される至福を知ることはできないが、眺めているだけだからこそ味わえる愉悦もあるものだ。一生をかけてもつくりだすことのできない技術の結晶を使って、一生かかっても消費しきれない情報を貪りつづける。くだらない一生かもしれないが、くだらないことがつまらないと誰が決めた? たいがい穴に詰まっているものはくだらないものである。くだらないから詰まるのだ。ならば底なしの穴を埋めるのもきっと至極くだらないものであるはずだ。くだらない、くだらない。くだらないって、なんだろう。くだらないものが寄り集まって、たいしたものができるのだ。価値のあるものなんてたいがい、くだらないものからできている。真実、純粋にくだらなくないものなんて何かありますか? くだらないからつまらないのではないはずだ。くだらないものをくだらないままにしているからつまらない。くだらない、くだらない。たくさんのくだらないを組み合わせて、あなただけのたいしたものを編んでいきましょう。



2139:【WEB小説の未来】

これからさき、AIの翻訳機能の精度があがっていくにつれてWEB作家の小説は言語の垣根を越えていくことが予想されます。誰であってもボタンを押すだけで海外の小説を読めるようになるのです。同時に、じぶんでつむいだ小説を、海外のひとにも読んでもらえるようになります。どんな翻訳であれば読まれやすいかはビッグデータとして集積され、深層学習を通して、翻訳機能に反映されるでしょう。そうなれば、文体は最適化され、一人の文豪が無数の小説をつむいでいるかのようなある種、神の見えざる手から神作家(AI)が君臨するような未来が到来するでしょう。こうした兆候はあと十年もしないうちに可視化されるようになると思います。仮定の話ではありますが、そうなったときに問題となるのが、翻訳の翻訳の翻訳、といった具合に、自動翻訳を繰りかえされ、原作がどれかを辿れなくなるような弊害がでてくる点です。或いは、AIのほうで多種多様なWEB作品をかってに複合して一つの作品に練り直してしまうような世界になるかもしれません。集積された物語は抽象化され、パターン化され、いくつかの分岐にタグ付けされ、部品をカスタマイズするように組み換え可能となるでしょう。現在の小説家が、予測変換機能を使い、類義語や文章の類型を自動で候補にあげてもらい、指先一つで選んで小説をつむいでいるのと似たようなことが、物語の大筋においてもできるようになるのです。読者がそれを選んでもよいでしょうし、AIのほうで自動で見繕うことも可能でしょう。読者は読みたい小説のジャンルやパターンを選ぶだけで、好みの物語を、馴染みの文体で読むことができるようになるのです。そうなったとき、WEB作家はただただAIに餌を与えているだけの存在となってしまい兼ねません。もちろん小説投稿サイトのほうで自動翻訳を禁じるような機能を実装するでしょう。しかし、翻訳することで得られるメリットと、それを禁じることで生じる機会損失では、明らかに後者の損失のほうが大きくなることが予想されます。現在のWEB作家が無料で作品を公開することに抵抗がないのと同じように、翻訳AIがインターネット上に跋扈する未来では、誰もが世界中の読者を相手に自作を読んでもらうことに躍起になるでしょう。そうなると、企業のほうでも、そうしたメリットを優先し、自動翻訳を禁じるような真似はしないのではないか、と想像します。もちろん、神(AI)の手によってつむぎだされた極上の小説が無数に誕生しようと、それだけに読者が集中するわけではないでしょう。世界でどれほどハリーポッターが売れたとしても、それ以外の小説もまた読まれるのです。ただし、いまよりもオリジナルのWEB小説が読まれる機会は減るでしょう。神(AI)の手が機能するようになれば、そもそもが小説をつくることの意味が、物語の組み合わせパターンを考えることへとシフトしているかもしれません。一文字一文字、判子を捺すように文字を並べ、文章をつむぐことはもう、人間のする作業ではなくなるのです。文章のお手本は、小説でなくとも、インターネット上には無数に溢れています。素材はいくらでもあるのです。まったく新しい文体の、まったく新しい物語すら神(AI)の手はつむぎだせるようになるでしょう。著作権利上の問題はありますが、ほとんどグレーのうちに神(AI)が全世界の人間を魅了し、制限されることなく、身近な存在(サービス)となっていくのではないか、と妄想しています。インターネットがそうであるように、とびきり便利なサービスは、それが独占されないかぎり、世に受け入れられるのです。その影響で、これまでの文芸という文化が崩壊しようと、そんなことは大多数の者たちにとってはとるに足りないことなのです。小説そのものはいまよりもずっと独創性に溢れ、刺激に溢れ、時代を反映し、人々をとりこにするでしょう。小説家は絶滅することはないでしょう。ただ、それを示す意味はいまとはずいぶん異なるはずです。小説はマシンのつむぐものであり、小説家のすることは、パターンを模索することに終始するでしょう。また無数に溢れる作品のなかから、イマドキの作品を見つける「発掘家」としての側面も併せ持つでしょう。総合して言えば、現在の小説家はそう遠くない未来、絶滅することになるでしょう。ただそれでも自力で物語を編む物好きはいるでしょう。現在であっても手書きで小説をつむいでいる者があるように。未来においても、そうした物好きはいるはずです。ただし、そうした者が商業の舞台で活躍することはほぼないでしょう。たほうで、脚本家ともなればもうすこし高度なシステムを使うようになるかもしれません。人形遊びをするように登場人物を模したコマを動かし、じっさいに口にした会話を記録させることで、劇としての動きとセリフを同時に脚本に仕立て上げていくシステムが採用されていてもおかしくはありません。映画でもそうしてまずは物語の全体像をつくりあげてから、映像として仕上げていくのが効率がよいように思います。CGアニメであれば、こうしたシステムを利用することで、単独でも高度な映像作品をつくりあげられるようになるはずです。応用すれば、ARの映画もつくれるでしょう。まずはちいさな箱庭にて人形遊びをする。近い未来、物語の創作は飛躍的に発展しそうですね。おおざっぱな妄想を並べて本日の「いくひ誌。」とさせていただきましょう。(あんぽんたんの妄想ですので、真に受けないようにお願い申しあげます)



2140:【弱いのはいまにはじまったことではない】

じぶんが無力で非力な存在だということを受け入れてからでなければ成せないこともある。目のまえの誰かを救える者は幸運だ。ただし、大多数の者はそんな真似はできやしないのだ。それでいい、とは言えないが、すくなくとも誰かを救うことができずとも、誰かを「救わなければならない存在」へと突き落とすような真似はせずに済むはずだ。同時に、「救わなければならない存在」になりかけている人物に寄り添い、はげまし、共に耐えしのぶこともできないわけではないだろう。ヒーローや救世主のように、短時間で劇的な成果をあげるような派手な行いではないかもしれない。それでも地道に、日々、己の弱さを見詰め、内なる悪と向き合い、一歩一歩、足取り重く生きることもまた、それはそれで尊ぶべき何かを伴っているように夢見てしまう。無力であり、非力だ。だからといって諦める必要がどこにあるだろう。ヒーローにはなれずとも、救世主になれずとも、誰からも感謝をされず、見向きもされず、存在そのものを認識されなくたって、それでもできることはあるはずだ。できることを敢えてしないようにする、という自制もまた、悪を飼い馴らすうえで有効だ。自制は、言葉にするだけなら簡単だが、実践するのはむつかしい。自制しつづけることはもっとむつかしい。自制は己を制御することだ。他者に強要すべきことではない。律するのではない。制御するのだ。基準に当てはめるのではない。基準をつねに模索しつづけるのだ。無力で非力な者にできることなど高が知れている。だが、弱者にしかできないこともある。自覚し、自制し、自然を感じ、人とは何かを考える。我々は生きている。無力で非力なこのいまを。それでも夢見るこのさきを。いっとき、いっとき、生きている。




※日々、なんとなく生きている、努めて生き残ろうとするでもなく、なんとなく生きていられる。



2141:【ぴゅあんこぴゅあんこ】

やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなぁ。いくひしさんはあれでござる、さいきんはぐっすり、むーむー、でござって、夢のなかではぴゅあんこぴゅあんこしているでござる。だいじょうぶでござるか? 伝わっているでござるか? がんばってついてくるでござる。ぴゅあんこぴゅあんこしながら、いくひしさんは夢のなかでいくつかの分かれ道をかさね見るでござる。どーれーにーしーよーおーかーなー、なんてゆびを振りながら、夢の分かれ道が訪れるたびに、どの道がいちばんおもちろい夢になりそうかな、と考えて、迷って、でもどれを選んでもおもちろそうだから、まあいっか、ってなって、そいやってするでござる。そうやってぴゅあんこぴゅあんこしながらいくひしさんは夢のなかでおもちろい物語を体験するでござる。体験したことならあとはそのままえいやってすれば、それが文字なら文章に、やがては小説になるでござる。いくひしさんは寝ながら物語を考えているでござる。というよりも、夢のなかで、いくつかの同じ舞台の物語を、かさねて同時に見ながら、そのつど、そのつど、濃く見たい結末へと目を向けるでござる。ときには巻き戻して、やっぱりこっちの道のほうがよいかもな、とちがう結末を見たりもするでござる。起きているあいだよりも寝ているときのほうがたくさんあたまを使うでござる。疲れるでござる。だからいくひしさんはお寝ぼうさんなのかもしれないでござるな。いくひしさんはたくさん眠るでござる。すぐに疲れてしまうでござる。でも眠るのがきらいではないでござる。きらいではないというよりも、寝ているのに寝ていなかったりするでござる。眠りながら考えるでござる。ぐっすり、むーむー、でござる。でもいくひしさんは記憶力がよろしくないでござるから、せっかく体験した夢をたいがいは忘れてしまっているでござる。もったいないでござる。でもしょうがないでござる。そういうときは、起きているあいだにも夢を見るようにするでござる。いくひしさんは起きていても夢を見られるでござる。きょうもこれからぴゅあんこぴゅあんこするでござる。みなのものもぐっすり、むーむー、するでござるよ。よい夢を見るでござる。おやすみーでござるー。



2142:【戦争はだだっこ同士が引き起こす】

おのおの、守りたいものが違うだけなのだ。みんな一生懸命なのだ。守ろうとするから、必死だから、相手を余計に傷つけてしまう。配慮ができなくなる。余裕がないからだ。余裕があれば、相手の守ろうとしているもの、たいせつに思っているものがなんであるのかを想像できるだろう。正確なところがわからずとも、すくなくともまずは知ろうという姿勢をつくれるものだ。また、相手の守りたいものが何であるのかを知ろうとするのと同じだけ、じぶんが本当に守ろうとしているものが何なのかにもときおりでよいので耳を澄ます習慣をつくっておくと、厄介な衝突をいくつか避けられるようになるかもしれない。本当はじぶんの生活を守りたいだけなのに、社会秩序や正義を持ちだすと、話がややこしくなる。生活ならまだ正直になれるかもしれないが、それが地位や名誉、優越感となると、とたんにひとは誤魔化したがる。いくひしさんにも地位や名誉への憧れはある。それらを得ることでもたらされるだろう甘美な優越感への欲求だって湧く。明確にこれがそうだ、と言えるほど実感しているわけではないが、まったくないとはさすがに言えない。じぶんで判っていないだけで、はたから見れば一目瞭然であるかもわからない。欲張りではある。自覚している。なんにせよ、いくひしさんの守りたいものなど「じぶんの自由」以外にないと言ってもよいのだから、ほとほと独善的で、厄介極まりない。孤独が好きなのは、他者と関わると自由が減るからだ。一方的に貪りつづけることができない。搾取できない。だから孤独が好きなのだ。さもしい理由である。もちろん孤独が好きな理由はそれだけではないが、そうしたさもしい理由がないわけではない、と明かしておかねば、公平ではないだろう。いくひしさんが「じぶんの自由」を守るために他者に牙を剥くようなことがあれば、それは十中八九、いくひしさんがわるいのだ。我を通したいだけだ。一方的に貪っていたいだけだ。搾取したいだけなのだ。いくひしさんのような人間が、よそさまの守りたいものを傷つけようとするなんて間違っている。だったらいくひしさんのほうで、自由を侵害されたほうがまっとうだ。この場合、自由とわがままはイコールだ。いくひしさんはわがままだ。ただ、それだけのことである。我を貫き通そうとするがあまり、よそさまの守りたいものを傷つけてよいわけがない。身の程を知りなさい。わかっちゃいるが、嫌なものは嫌なのだ。どうりでね、としみじみ思う。戦争がなくならないわけである。



2143:【進歩は対策からしか生まれない】

組織を運営するのはたいへんだ。まず以って、組織が瓦解せぬように利益をだしつづける体制を整えなければならないし、組織としてのリスク管理はもちろんのこと構成員への教育もまた欠かせない。構成員の能力を最大限に発揮させつつ、裁量を制限し、責任のありどころが明確になるようにしていかねばならない。そうした工夫をしておくと、不測の事態が発生したときに因果関係を追及しやすくなる。因果関係がハッキリすれば対処ができるし、再発防止策がたてられる。それでもすべての構成員の動向を管理するのはむつかしい。プライバシーの問題もある。ある程度のミスは発生するものとして運営していかねばならない。だがそれもしだいに組織がうまく回らなくなり、利益がでなくなってくると、基準が緩くなっていく。ミスはどんどん放置されるようになり(それでいて叱責や罰則だけは厳しくなり、反面、対策がどんどんおざなりになっていき)、利益や効率重視になっていく。また、ズルをした者ほど成果をどんどんあげるようになっていくので、過激な手法や、違法スレスレな手法までとられるようになっていく。こうなってくるともう、組織として立て直すのは至難である。腐敗しきっていると言っても過言ではない。そして問題なのは、組織内部にいるかぎり(そして指示をだす立場になればなるほど)、こうした腐敗に気づくことができにくくなる点だ。なにより、気づいても変えようがない。なぜなら、その腐敗のおかげで、組織が組織として成り立ってしまっているからだ。重要な動力源こそが腐敗の温床となっている。否、腐敗しているからこそ動力源たり得ているのだ。除去するのは不可能だ。組織をいちど根本から再構成しないかぎり。或いは、動力源を外部から移植しないかぎり。基本的には、その組織と同等か、それ以上の組織の手による「手術」がほどこされないかぎり、いちど腐敗してしまった組織は変わりようがないのである。だからこそ、すこしの異変に敏感であったほうがよいのだ。すっかり変わってしまう前に歯止めをかけ、修正する必要がある。本当にそれでよいのか、このままでよいのか、と立ち止まり、吟味する余力がないと、そうした修正もむつかしくなるだろう。いまはどの組織も余力がない。余力がある組織はどんどん変わりつづけ、なんども失敗し、新しい地図を広げつづけていく。むかしもいまも、地図を手にした者が時代という名の大海原に帆を広げ、風を受け、さらにそのさきの新天地へと旅立てる。解かっている。ほとんどの組織は地図を手にすることなく消えていくし、せっかく地図を手にしたもののそのさきを描こうとせずに、同じ航路を行き来するだけの客船となる組織もある。いちがいにそれがわるいことだとは思わない。そうした船も社会には必要だ。だが、それだけに傾倒していると、飛行機やドローンや無人船などが台頭してきたときに困るはずだ。もっと言えば、現地に行かずとも人々は家のなかにいながらにして異国の地を歩くことが適う日が訪れるかもしれない。いずれにせよ、そうした新しい地図を描き、さきを行く船たちが現れつづけることを思えば、組織を運営しつづけるためには、そうした旅立つ船をみずからの母船からださねばならない。或いは、みずからがつぎの新天地へと旅立たねばならない。それを、模索しつづける、と言い換えてもよい。万物流転。時代は移り変わるのだ。社会は変わっていくのだ。組織もまた変わりつづけるのが道理である。表層のやり方だけを変えるのは簡単だ。だが、根っこが腐っていては意味がない。目を向けるべきは、組織の核をなす、理念であろう。いまいちど、目のまえに迫るつぎの時代と、組織の理念を照らし合わせ、不協和音が鳴り響かないかを確かめてみる時期なのではないか。ひょっとしたらそうした不協和音を耳にすることで避けられる衝突があるかもしれない。汽笛が、ほかの船との衝突を避ける目的で鳴らすことが義務づけられているのと同じように。人はミスをするものだ。組織もまた然りである。間違うことがわるいのではない。問題は、それを隠したり、放置しようとしたりすることであるはずだ。保身に走ることがもっとも保身にならない時代になりつつある。身を守りたければ、問題点を隠さずに、再発防止策をたてることである。問題を一つも起こすことのない組織よりも、問題があったときに迅速に対策をとれる組織のほうが、システムの面ではより上等である。進歩はそうした対策を重ねることでしか生まれない(とはいえ、進化はそのかぎりではない。なぜなら、退化もまた進化となり得るため)。



2144:【わからない】

政治はまったくわからない。わからないが、わからないなりに、印象を並べてみるとする。政治は、方法論が噛みあわない事態が頻繁に引き起こり得る。噛みあわないのは、目的が噛みあっていないからだ。政治の目的を大別すると三つになる。統治か、システムの維持か、システムの改善である。すくなくとも優先順位をつけねばならず、たほうで、一つの目的を達成するためにはほかの目的もまた満たさねばならず、ある種の矛盾を許容せねばならないので、その塩梅がむつかしい。いまはシステムの改善をすすめるために、統治が優先され、システムの維持がもっともおろそかにされている。だが現状のシステムでは長くもたないと誰もが漠然とであるにせよわかっているはずで、ではどうするか、と考えてみると、どうあっても一時的にはどこかにしわ寄せがいくことになる。そのしわ寄せをどこに寄せるかによって、対立が起きているのが現状であるように見受けられる。またべつの視点においては、国家をどう捉えるかで方法論が分かれそうだ。「人間のように頭脳がまずあり、それを支える器官があり、ゆえにまずは頭脳を率先して守るべし」と考えるか、それとも「すべての器官がシステマチックに働いて全体を機能させるために、重要度はつけられない」と考えるかによって、とるべき方法論が対立しているように感じられる。この場合、頭脳とは、すなわち一部の資本家や企業であり、政治家であるだろう(或いは、憲法であり、司法・立法・行政であるだろう)。頭脳を率先して守れば、なんとか状況を立て直せると考えるのは一見正しく映るが、いちど切り捨てたほかの器官はもう二度と戻らない。いまは移植すれば済むではないか、といった考え方が台頭してきているが、だからといってほかの器官を切り捨てていいことにはならない。切り捨てずに済むようにすることがまずは優先されるべきであるだろう。いっぽうでは、生命維持に関わる器官とそうでない器官があるのは国家も人体も同じだ。無視できない側面がある。かといって、それは重要度というよりも優先順位であり、なぜ優先するかと言えば、ほかの器官を正常に機能させるため、と言ってもよいかもしれない。優先度と重要度は必ずしも一致しない。また、切り捨てるべきは器官そのものではなく、腫瘍やがん細胞であり、それが頭脳にできていないとは限らない。なにより、何が腫瘍でがん細胞なのか、がこれまた考え方によって対立しがちである。弱者や生産性のない者(こう表現するのは好かないが)をそう見做すのか、それともそう見做すような「流れ」そのものであるのか。大多数の国民は「できるだけ早く成果をだしてほしい」と願っている(反面、願ったところでどうせ変わらない、と諦めてもいるだろう)。だからじぶんたちに有利な政策ばかりを支持したがる。だが、目のまえの利益ばかりに目をとられると往々にして痛い目を見るのが世のつねではないだろうか。いずれの考え方にしろ、「じぶんたちががん細胞かもしれない」とまずは仮定してみても損はないはずだ。そのうえでできることをしよう、と考え、行動することが、回り回って、じわりじわり、と世のなかの仕組みをよりよく変えていくのではないだろうか(自粛するのではなく、考え、行動するのである)。これは分析ではなく、単なる印象であるので真に受けないでほしいところではあるのだが(どんなときでもいくひしさんの並べる言葉は真に受けてはいけない)。政治のことはまったくわからない。ほかのこともわからないことばかりである。あたまのよいひとは幸運だ。うらやましいかぎりである。



2145:【手駒だと思ってるんでしょ】

正しさで人は動かない、と言うが、まるで人を動かさなければならないみたいな物言いだ(或いはほかのことでなら動かせるとでも言いたげだ)。人は物ではないのでは?(そして正しさを利用して何かを得ようとすれば、すでにその時点で正しくはないのでは?)



2146:【定期的に言うけれど】

いくひしさんはだいたいおおむねつねに悪の側に一歩足を踏み入れている。悪を失くしてしまえ、とは思わない。そう思うことそのものがすでに悪だろう。誰もが内に悪をしのばせ、ときに身にまとい、他者や環境を思いどおりにしようと企てている。その企てが、あるときは善として評価されることもあるだろう。だが企てを実行するための手段に悪を使っていない保障はない。だいたいおおむね、悪を使って人は何事かをなすのである。どのように悪を用いるか。何のために使うのか。反撃も撃退も正当防衛も制圧も、殺人も強姦もDVも殺戮も侵略も、暴力を用いてなされるのである。逮捕にしろ拉致にしろ誘拐にしろ拘束にしろ、相手の自由を侵害していることに違いはない。いずれにせよ悪を何のために使い、どのように用いるのか、が社会的に許容されるか否か、善と見做されるか否かの違いに繋がる。誰もが悪をしのばせ、使いまわしている。自覚的でありたいものである。



2147:【消費税増税への所感】

消費税増税に関しては、「賛成か反対かを議論する前に国民の過半数が、いったい増税した分の消費税が何に使われ、どう社会が変わるのか、を認識できるくらいに議論を煮詰めるのが先決である」と考えている。増やした分のお金が何に使われるのかが不明瞭である以上は、賛成も反対もできないのではないか、とこれは前回の増税のときにも同じことを思っていた。そしてじっさい、5%から8%に増税されてみて、その増えた分の税収が何に使われ、それで社会がどう変わったのか。そこのところを政府はもっと国民に広く説明していく責任があったはずだ。それが果たされていないうちからの、消費税10%は時期尚早なのではないか、と疑問に思っている。ただし、消費税引き上げ(増税)そのものは、その増えた分の税収でどんな仕組みを強化していくのかによっては、賛成しても構わないのではないか、と考えている。たとえるなら、たくさん献血を募ったところで、患者さんに適切に輸血できる仕組みが整っていないのなら(或いは献血を長期保存できるような仕組みがないのならば)、どれだけ献血を増やしたところで根本のところで問題は解決されないのと同じだ。あべこべに、献血から輸血までの流れがスムーズかつ適切であるならば、結果として無駄が減る方向に働き、必要とされる献血の総量は減っていくはずだ(重要なのは無駄を削ることではなく、結果として無駄が減ることである。そうした仕組みを整えることが政策の役目の一つであるだろう)。いずれにせよ、新自由主義、いわゆるネオリベラリズムが台頭して久しいが、自由経済を推進すれば経済は活性化するが、貧富の差は拡大する。そのことによる弊害を防ぐためには、政府が国民全体の生活水準を落とさないような政策を固めねばならない。極論、貧富の差が問題なのではない。そのせいで貧しい者たちの生活水準や待遇がさがることが問題なのだ。国が豊かになれば相対的に生活水準はあがっていく、といった理屈が唱えられがちだが、生活水準の差が貧富のあいだで拡がりつづけては意味がないのだ。過去百年と比べてどれだけ最低生活水準があがろうと、貧富の差に比例して生活水準の差までが拡がっては意味がないのである。繰りかえすが、貧富の差は拡がっても、さいあく構わないのである。稼げなくとも、一定以上の生活を保てればよいのだ。もっと言えば、働かなくともいまよりもずっと快適な生活を送れれば、それは、お金をたくさん稼げるようになるよりも望ましい環境であるはずだ。繰りかえすが、根っこにある問題は貧富の差ではない。その差に応じて、生活水準や待遇にまで差が拡がりつづけてしまうことが問題なのである。これを防ぐためには、社会福祉の充実と、基本的人権の尊重が示す最低生活水準の内容を時代ごとにアップデートし、貧富の差よりも生活水準の差が拡がらないような政策を政府が実施しつづていくよりほかはない。経済は自由化して構わない。企業はどんどん儲ければよいだろう。だがその分、経済の熾烈な競争原理から弾かれた「社会的弱者」であっても裕福層とそう変わらない水準で生活を送れるような社会制度を充実させていくことが前提にたつ。そのために税金が使われるのならば、消費税増税も致し方ないのでは、というスタンスに2019年7月22日現在のいくひしさんはいます、ということを打ち明けて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(お断りするまでもなく、いくひしさんは政治や経済をよく理解してはおりません。参議院と衆議院の違いもろくに言えません。そうした素人はなはだしい一介の「社会的弱者」の戯言ですので、真に受けないようにお願い申しあげます)



2148:【競わなければならないなんて誰が決めたの?】

いくひしさんは弱いし、孤独だけれど、べつに困らないし、ちょうどよい。損がないわけではないけれどそれよりも弱くて孤独なことで得られるメリットのほうが大きいから、不満はない。望むところなのである。望んでこうなのである。弱いまま、孤独なままで生きつづけられたら文句がない。みんなはどうしてそんなにがんばって、強くなろう、繋がろうとするのだろう。そうしなければきっと生きていけないのだな。たいへんそ。



2149:【孤独にもレベルがある】

いくひしさんの孤独レベルはけっこう下のほうだ。孤独レベルでもっとも高いのはきっと、不老不死のまま延々と宇宙空間を漂う状態だろう。或いはたったひとり幽霊になってしまって、誰とも触れあえず、会話もできず、それでも社会の外側にでられずに、さまよいつづける状態かもしれない。それに比べたらいくひしさんの孤独レベルなんて赤ちゃんのよちよちレベルだ。言うほどいくひしさんは孤独ではない、と言い換えてもよいかもしれない。インターネットはできるし、一方的にリツイートやいいね!をしているし、小説だって読んでくださっている方がいる。やっぱり言うほど孤独ではないのだ。以前にも述べたけれども、これくらいの繋がりで充分なのである。みんなにとってのぬくぬくひなたが、いくひしさんにとっては灼熱に感じられるだけのことなのだ。もっとちいさいぬくもりでよい。直接でなくてよい。間接的であればあるほど好ましい。人と人との繋がりよりも、表現と表現の繋がりくらいがちょうどよい。相手と触れあわずとも、相手の考えや想像のぐねぐねした行進を眺められれば、それはたいせつなひととテーマパークのパレードをいっしょに眺めるよりもずっといくひしさんの胸のうちをほくほくとさせるのだ。欲がないわけではない。むしろ欲張りだろう。触れあえば、熱を感じた分、こちらの熱も相手に奪われる。でも表現であれば一方的に貪っていられる。書籍や映画であれば対価を払うのに、SNSやWEB上では無料なのだ。こんなの相手から労力と才能を盗んでいるようなものだ。欲張りすぎる。なんて時代だ。思うものの、法律でダメだよってなっていないので、やっぱりそこは時代の未熟さに甘えてしまっている。仕組みの未熟さに流されてしまっている(いくひしさんにかぎっては無料で貪られたい性分なので、むしろ甘えて流されてもらったほうが得をする。小説を読まれることで作品として完成するのだから、読まれないと損である。ただ、いますぐ読まれる必要はないと思っている。おおざっぱに言えば、百年後でも、一万年後でも構わない。ただし、できればあなたに読まれたい。ほかの誰でもなく、今この瞬間にこれを読んでいるあなたに。それとも〈私〉に。或いは『私たち』に)。いずれにせよ、いくひしさんのなかでは、いくひしさんはべつに孤独でもなんでもない。だけれども、みんなの基準と比べれば、孤独のほうに寄っている。いくひしさんはじぶんの言葉を持っていないので、じぶんのことを語るのが苦手だし、じぶんのことを語るにしても、なかなかじぶんを基準にして考えることができない。というよりも、確固とした自我みたいなものがないので、我執や欲がつよいくせに、じょうずに話すことができないのだ。いまこうしてしゃべっているじゃないか、と思われるかもしれないけれども、これはこれ、それはそれ、いくひしさんはいくひしさんで、いくひしさんのそとのひととは違うのだ。だからキャラだっつってんじゃん。みたいなね。こういう感じで、よくわからないままに本日の「いくひし誌。」とさせてくださいな。



2150:【食洗機、べんりです?】

いくひしさんはよわっちいので、いくひしさんをヘコませたければ、マイナスなことを言えば、すぐにヘコむよ。でもスポンジみたいにスカスカだから、もちろんおつむがってことだけど、ヘコんだこともすぐに忘れるよ。いくらでもヘコむよ。粘り強さとは無縁だけれども、弾性は高いよ。すぐにつぶれるけれども、何度でもよみがえるよ。でも炎上にはよわいよ。燃えたら戻らないから、SNSで発言するなんて、よわよわないくひしさんには考えられないのだ。未だにお皿はスポンジで洗っているよ。食洗機とは無縁なのだ。




※日々、わたしはよわいですと唱えておけば、いざよわさを突きつけられても、知っていますと、つよがれる、なんだけっきょくつよくなりたいだけじゃないか。



2151:【蚊は英語でモスキート】

やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなぁ。いくひしさんはさいきん、気づいたでござる。ひょっとしていくひしさんって、孤独が好きなのではなく、ひとから好かれないだけなんじゃないかって、いくひしさんは気づいてしまったでござる。あっれー、でござる。いくひしさん、もしかしたら孤独が好きなのではなく、孤独にしかなれないのでは疑惑が急浮上でござる。あれれー、でござる。よわいのは、孤独なのは、そう望んでいるからじゃい、とかなんとか、いつぞやのいくひしさんの一人がのたまいていたでござるけれども、それだとまるで、つよくなろうとしたらなれますけど?みたいなつよがりが見え隠れして、いくひしさんはつっごく恥ずかしくなってしまったでござる。なれるんでござるか? いくひしさんはつよくなれるんでござるか? みんなから親しまれるような人格になれるんでござるか? ムリでござる。家宝は寝て見ろでござる。恥を知るがよいでござる。動揺しすぎて、家宝と夢を間違ってしまったでござる。ずばり梅干しでござる。あやー、それを言うなら図星でござる。わざとらしいでござる。きょうはもうたくさん失敗してしまって、なにもかもが予定どおりにいかなかったでござる。いつどおりと言えばいつもどおりのオールウェイズロードでござる。英語を使えばかしこいと思っているでござる。失敗と言えば、伝達ミスで、ほかのいくひしさんと、この「いくひ誌。」が被ってしまったでござる。ストックしておいてもよいでござるけれども、どうせあすもだれかほかのいくひしさんが並べるでござるから、そうするといつまで経ってもストックが消化できずにけっきょくボツになってしまうでござるから、載せてしまうでござる。2150~2154までがきょうのぶんでござる。五つ載せるでござる。つむぐよりも、読むほうがたいへんでござるな。もうそういう世のなかになってしまったでござる。だいじなことなのでもういちど言っておくでござる。文章をつむぐよりも、読むほうがたいへんでござるな。もちろん、これは「いくひしさんの文章であれば」の話でござる。世のなかには、五千文字をつむぐために何年も、何十年も研究や探索をつづけるひとがいるでござる。そういう拝みたくなるような文章と、いくひしさんのアハンウフンをいっしょにしては失礼でござる。アハンウフンってなんでござるか。失礼でござる。もうきょうは、このいくひしさんはダメでござる。寝るでござる。とくにオチはないでござるけれども、みなのものはげんきにあすを迎えるでござるよ。いくひしさんはきょうの分のオチをあすに回すでござるから、すこしばかりオチ着いたいくひしさんになりそうでござるな。見るひとが見れば、げんきではないでござるけれども、いくひしさんはいつでもアハンウフンでござる。さっきからアハンウフンなんなんでござるか。うるさいでござる。蚊取り線香を焚くでござる。ブタさんの入れ物もあるでござる。かわいいでござる。え、かわいいんですけど、でござる。まるでいくひしさんのようでござるな。ぴぐぴぐ。きげんがよくなったので、きょうはこれから、おやすみーでござるー。



2152:【あまり好きではない】

否定するわけではないが、「恩」や「義」が好きではない。たいがいそういうものをだいじにしだすと、「怨」や「偽」にとりつかれてしまうからだ。恩を返すことは尊いかもしれないが、それはもらったから返すとか、受けたから報いるとか、そういうことでは本来、ないはずだ。恩や義は、愛や善と似ている。それそのものがそこに輪郭を帯びてあるわけではない。たまたま恩を与えたカタチになっただけのことであり、たまたま正しい行いになってしまっただけなのだ。それを、恩や義に、或いは愛や善にかってに見えてしまった者があるだけだ。錯覚なのである。返すのはかってだろう。受けた恩や義を返す。それは何かを受けたと錯覚した者がかってにすることだから、それはいい。ときには尊く見えることもあるだろう。しかし、恩を受けたなら返しなさい、義をもらったら報いなさい、とそうした風潮をつくるのはおかしいように思うのだ。挨拶も似たようなものだろう。しない状態からする状態にあったほうが好ましい。ゼロからプラスになる。問題はない。しかし、挨拶をしないだけで、こんどはマイナスになってしまう。これは本来、おかしなことだろう。プラスになることをしないならば、ゼロに戻ればよいのだ。しかし現実では、しないことでマイナスになるのである。そうした理不尽な流れができてしまうくらいならば、挨拶も恩返しも、禁止してしまえばよいだろう。何かを得たいから相手に干渉したならば、それを「恩」や「義」などと聞こえのよい言葉で着飾らないほうが、いくひしさんにとっては好ましい。恩や義は相手がかってに感じることである。けっして「私」が相手に与えているわけではない。思いあがらないことである。返せ、と要求した時点で、そこに恩も義もないだろう。見返りを求めるならば、それはビジネスだ。やりとりするならば、きちんと対価と対価を交換することである。恩や義など、そうした見えない鎖に縛れる必要はない。むろん、それをたいせつにしたければすればよいだろう。否定はしない。幽霊を信じる者がいても構わない。あの世を信じたければ信じればよいのだ。いくひしさんは何も困らない。ただ、いくひしさんは「恩」や「義」があまり好きではないなぁ、とお断りして、「本日のいくひ誌。」とさせていただこう。(文章を圧縮しておりますので、語調が荒く感じられるかもしれませんが、クッキーを齧りながら、のほほんと並べております。いくひしさんはいつでものほほんと、のんきに、なまけながら文章を並べておりますので、ナマケモノが木の枝にぶさがっている姿を思い浮かべながらお読みいただけるとうれしく思います。もちろん、バナナの木を振り回しているゴリラを連想してもらっても構いません)



2153:【もうありますか?】

粒子には、同じ粒子同士で同じ状態になれる粒子と、なれない粒子がある。なれる粒子をボーズ粒子、なれない粒子をフェルミ粒子と呼ぶ。フェルミ粒子で代表的なのは電子だ。電子は互いに同じ状態になることができない。これを、パウリの排他原理という。反してボーズ粒子は互いに同じ状態になることができる。ダンスでたとえるなら、ボーズ粒子はみな同じ振り付けを踊ることができるのに対し、フェルミ粒子は全部の粒子がどこかしら違う動きをしてしまう。ドラゴンボールにフュージョンと呼ばれる合体技がでてくるが、フェルミ粒子はフュージョンができず、ボーズ粒子はできるのだ。そしてボーズ粒子をかぎりなく絶対零度にちかいところまで冷やすと、ボーズ・アインシュタイン凝縮と呼ばれる現象を引き起こす。この場合、冷蔵庫を使うわけにはいかないので、冷却にはレーザーを使う。電子レンジで物を温めるのとは逆に、粒子(この場合は原子)の運動を止めるようにエネルギィ(電磁波)をぶつけることで原子の運動を静止させる方向に働かせるのだ(熱は原子の運動で表すことができる。運動していない状態が絶対零度である)。そうして冷やすと、無数のボーズ粒子の塊がすべて同じ、という状態をつくれる。このとき、ボーズ粒子の塊には、超流動と呼ばれる性質が備わる。超流動とはおおざっぱにまとめれば、ものすごくサラサラの状態、である。物質はたいがい粘性を帯びている。言い換えるならば、物質を構成する粒子同士が互いに引き寄せあい(ときに衝突しあい)、互いに自由に動けないような抵抗を帯びている。だがボーズ・アインシュタイ凝縮を起こした物質(もちろんどんな物質でもいいわけではなく、無数の「同じボーズ粒子の塊」である。代表的なのはヘリウムであるが)は、互いに動きを制限されないために、滑らかに動き回ることができる。そして世にあるたいがいの物質は分子や原子がよりあつまり、さらに大きな塊が積み重なってできている。ミクロの世界からすれば隙間がたくさんあいているようなものであり、スカスカなのだ。よってボーズ・アインシュタイン凝縮中の物質は、ほかの物質のそうしたスカスカの合間を自由にすり抜けることができる。ただし、前述したとおり、ボーズ・アインシュタイン凝縮を起こすには極めて低い温度――それこそ絶対零度にかぎりなくちかい超低温が必要なため、ほかの物質と相互作用可能な距離にちかづいた段階で、ボーズ・アインシュタイン凝縮は均衡を失い、超流動という性質もまたなくなるのが道理だ。とはいえ、仮に超流動の性質が温度変化にかかわらず物質に宿せたとして、そうすると超流動性を帯びた物質は、ふだん物質が帯びているいくつかの抵抗を受けにくくなる。そのため、たとえば表面張力によって、物体をどこまでもぐるりと覆い尽くす、なんてことが自動的に行われるようになる。表面張力は比較的身近に観測できるちからの一つだ。コーラをカップにそそぐと、ふちにそってコーラがすこしだけ盛りあがる。表面張力が働いているからだ。また、コインのうえに液体を垂らすと、液体はコインのうえでドーム型にカタチを保つ。そこに数滴加えても、しばらくそのカタチを保つのは、表面張力と液体の粘性が吊りあっているからだ(もちろんそこには重力が作用しているだろうが、ここでは無視する)。しかし超流動は粘性がかぎりなくゼロにちかいため、どこまでも表面張力に引っ張られ、接触した物体の表面を覆うことが想像できる。たとえば、超流動を帯びた液体を四角い部屋に零してしまったら、液体はかぎりなく薄くなりながら、部屋全体を覆い尽くしてしまうだろう。また、超流動を帯びているならばボーズ・アインシュタイン凝縮を起こしているわけで、密室状態のその部屋のそとに液体が漏れてしまうことも考えられる(壁をすり抜けることが可能だから)。或いは、部屋に穴が開いていれば、壁を伝ってその穴からかってにそとに漏れでてしまうだろう(凶器がかってに消えるトリックに使えそうだ)。むろんこれは、ボーズ・アインシュタイン凝縮が温度変化に影響されずにその状態を維持できることを前提とした妄想である。しかしたとえば、フェルミ粒子の場合は、同じように超低温にすれば超伝導の性質を帯びる(超伝導はリニアモーターカーに技術応用されているので、超流動よりかは一般に知られているはずだ)。超伝導は、こんご素材の組み合わせによっては、現在可能とされている低温よりも比較的高い温度であっても維持できるようになるのではないか、と考えられている。同様に、超流動もまた、比較的高い温度(むろん我々の感覚からすれば充分に低温であるだろうが)でもその性質を維持できるようになるかもしれない。虚構のなかでなら、こうした物質の性質をすこしばかり歪曲して転用すれば、これまでになかったトリックとして昇華できるのではないだろうか。すでにボーズ・アインシュタイン凝縮や超流動を利用したミステリー小説はあるのだろうか。いずれにせよ、虚構よりも現実のほうがよほどミステリアスなように思われるいくひしさんである。虚構創作家を標榜している以上、負けてはいられないな、と焦りを募らせ、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(言を俟つことなく、曖昧な記憶と情報による不確かな記述でございます。オームの法則もまともに理解していない素人の戯言ですので、真に受けないようにだけお願い申しあげます)(電子はフェルミ粒子だが、電子二つが対になると電子もボーズ粒子になる。これをクーパー対と呼ぶ)



2154:【契約書の是非】

何度目かになるかは分からないが、並べておこう。基本的にこの国の出版社は事前に作家と契約を結ぶことをしない。書籍を出版したあとで契約書にサインをするのが通例だ(だから一年以上かけてつくった小説がボツになり、出版社側から一銭も報酬が支払われないといった事例が珍しくないようだ)。いくひしさんはそういう風習はビジネスではないし、よろしくないのではないか、と考えている。しかし、事前に出版社と契約を交わすことで損をする商業作家もまた、すくなくないのではないか、と睨んでいる。極論、現状維持を望んでいるプロが多いのではないか。言ってしまえば、事前契約を結んでしまうと、締め切りを破ることができなくなる。邪推でしかないが、きっとそういうプロがすくなくないのだ。どっちかと言えば出版社は事前に契約を結んだほうが得をするはずだ。作家のためを思って事前契約をしていないのだ、という理屈は一理ありそうだ。だが、それは甘えだろう。すくなくともビジネスの体をなしてはいない(ようにいくひしさんには映ります)。出版社は、作家が締め切りを破るごとに印税率をさげるくらいの条件は契約書に組みこんでよいはずだ。これまでの商業作家はいったい何をしてきたのだろう。大御所と呼ばれている作家はいったい、何をしているのだろう。単純に疑問に思っているが、いずれにせよ、美味しい思いをした者たちはもう、このさき、辛酸をなめる真似はせずに済むのだ。いい御身分である。(いくひしさんには関係のないことではあるけれど、なぜかプロは誰も言わないようなので、いくひしさんが並べておきますね。よわっちぃ、おろかな、いくひしさんが)



2155:【作家と出版社の関係】

たとえばの話、リンゴ農家の仕事は美味しいリンゴをつくることだ。アップルパイがつくりたいからと注文があればリンゴを箱詰めして送る。それが仕事だからだ。しかし、できたアップルパイが売れそうにないからと返品されたら、リンゴ農家は堪ったものではない。頼まれたリンゴをつくり、納入したならば、アップルパイの製造元はリンゴを買い取るのが道理だろう。リンゴの味が合わないなら、そもそもそのリンゴ農家に注文すべきではない。みずから見る目がないと言っているようなものだ。勉強代だと思って、対価を得た分は報酬を支払うのがビジネスとしてまっとうであると考えるものだ(弁護士は裁判に負けても弁護した分は報酬を得られる。労働に対する対価を払うのがビジネスだからだ。成果報酬なら、成果報酬で、そのように事前に通達すべきである)。むろん、納入したリンゴが腐っていたり、虫が食っていたりすれば返品や新品の交換に応じるのは取引として妥当だ。それくらいの保証はリンゴ農家側が負うのが筋である。この場合、リンゴ農家は作家であり、リンゴは小説だ。アップルパイは本であり、アップルパイの製造元は出版社となる。話は脱線するが、基本的に出版社は本という媒体を売っているのであり、中身の小説を売っているわけではない。もし中身の小説を売っているのだとすれば、小説の質ごとに――或いは実売数ごとに――値段が違っているはずだ。需要のない物語と需要のある物語の市場価値が同じなわけがないのだ。すべて同じような値段なのは、出版社が、中身の情報ではなく、本という媒体を売っているからだ(貧富の差によって情報格差がでないようにしている背景も無視はできないが)。誤解がある言い方になるが、出版社はリンゴ単体では金にならないと思っている。アップルパイとして焼きあげるからこそ価値が生じるのだとの自負を抱いているように見受けられる。だがいまはアップルパイよりもリンゴジュースのほうが手軽にリンゴ味を楽しめるので、相対的にアップルパイの価値がさがりつつある。ほかにもリンゴジャムやリンゴアイス、香水や入浴剤など、さまざまな加工品として売りにだされ、リンゴの付加価値が高まるようになってきた。そのため、こんごはリンゴそのものに価値がつくようになっていくだろう。だからこそ出版社はWEB上に小説投稿サイトを開き、リンゴ農家をまとめて囲ってしまおうと考え、実行している。どうしてもじぶんのリンゴをアップルパイにしてもらいたい作家がいるならば、囲われるのもよいだろう。だが前述したとおり、こんごはリンゴそのものに価値がつくようになっていく。わざわざ他人にアップルパイにしてもらう必要はないのだ。過去と現在の変化を眺めてみればよい。そうすれば、二十年後にどうなっているかの想像が、ほんのすこしではあるだろうが、明瞭さを宿すはずだ。協力しあえるならば協力すればよい。ただ、何の保証もないうえに、一方的に利用されるだけのようなら距離を置くのも一つである。おのおの、できることを考え、模索していきましょう。(これは予言や予測ではありません。単なる妄想です。真に受けないようにお願いいたします)



2156:【下請法適用外】

資本金1000万以下の企業は下請法の適用外だ。1000万+1円以上でないと下請法を順守する義務が生じない。そして大手出版社以外の出版社はたいがい資本金が1000万以下だ。下請法を守らずとも罰せられることがない。ただし、独占禁止法は適用内であるので、たとえば私的独占や優越的地位の乱用に該当すれば(或いはその疑いがあるならば)、公正取引委員会の調査対象となる。私的独占とはおおまかに言えば、理不尽な言いがかりで、下請け業者や個人事業主を締めだしたりしていませんよね、いじめたらダメですよ、というルールだ。また優越的地位の乱用は、立ち場がうえだからって理不尽な要求を相手に押しつけてはいけませんよ、無料でお願いを聞いてほしいとか、おまけをしてくれとか、恩を売っておくといいことあるよ、とかそういうことはしちゃダメですよ、というルールだ。また、公正取引委員会へは、ルール違反をしているかもしれない企業がじぶんで「これって問題ありますか」と調査を申し込むことができる。何か問題を取り沙汰されそうで、なおかつじぶんたちに問題がないと自信があるならば、企業のほうで問い合わせてみるとよいのではないだろうか。公に問題になってからでは遅いと思う、本日のいくひしさんなのであった。(以前にも述べたが、小説などの商品は汎用性があり、一つの企業以外からも出版可能なので、独占禁止法の適用外とする向きが出版業界には根強くある。ただし、その出版社からでなければ出版できない内容だったり、修正の指示をたくさん受け、もはやその企業独自の商品と言ってもよい内容であると判断されれば、独占禁止法の範疇内となる可能性がある。どれだけ修正の指示を受けたかが争点となりそうだ。※お断りするまでもなく、いくひしさんは法律に詳しくはありません。ほとんど知らないと言ってよいです。真に受けないように注意してください)



2157:【思いついたことを並べる】

・2019年現在、ここ4年くらいで、ズボンにTシャツをインするのが巷に流行りつつある。というか、流行っている。ズボンの裾も、靴に触れないくらいの丈の長さで、むかしみたいにダルダルの部分がいっさいない穿き方が流行っている。だからどうという考えは浮かばないが、真似をしようとは思わない。シャツをインすると暑いので。ズボンの裾は、まくったほうが長さを選べて便利に感じる。 ・ツーブロックという髪型がある。抵抗のある者も、似合えば何でもいいんじゃないという者も、所感はさまざま抱かれるだろう。校則で禁止された、なんてニュースも見かけたことがあるが、それぞれ事情や考えがあるのだろう。思うのは、たとえばむかしのサムライは頭のてっぺんを剃っていた。おそらく兜をかぶるときに蒸れないようにするのに効果的で、それがかっこいい男の象徴みたいになり流行ったのではないか、と想像している。現代の視点からすると、何がかっこいいのかとしばし考え込んでしまうが、ツーブロックも似たようなものだろう。時代が変われば、カッコよさやうつくしさの基準は変わるのだ。流行とは移り変わるものなのである。より普遍的なうつくしさや、カッコよさは、見た目には表れないと言っていいだろう。他者からの評価もまた移ろいやすいため、普遍性の基準にするには不足であると言えそうだ。とはいえ、うつくしさやカッコよさは、けっきょくのところ観測者がいてはじめて顕現する評価であることに変わりなく、普遍のうつくしさやカッコよさなどはない、と言ってもいいかもしれない。そもそもが普遍そのものが普遍であるのかもまた疑わしい。より長期的に引き継がれる評価でしかなく、言ってしまえば、変えがたい頑固な人類の欠点こそが、やがて「うつくしさ」や「カッコよさ」になるのかもしれない。定かではない。 ・いくひしさんは言葉遊びをしているだけだ。並べた文章の内容を信じているわけでも、支持しているわけでも、肯定しているわけでもない。これは小説でも同じだ。殺人を肯定することだって可能だ。だからといっていくひしさんが殺人をしてもいいと思っているとはかぎらない。しょせん、言葉遊びなのである。虚構である。真に受けないことである。 ・いくひしさんは無責任だ。言葉の責任なんて持てないし、持とうとしたところで、どうやったら持てるのかもよく分からない。批判や非難、そしりや注意を受ける覚悟はあるが、それ以上の心構えがない。基本的に間違ったことしか並べていないと思っているので、間違っている、と指摘されれば、すみませんでした、ご注意いただきありがとうございます、としか言いようがない。誰でもよいので言葉の責任の取り方を教えてほしい。こんなだから言葉のプロとは程遠いのである。みな好きに表現すればよいのに、とすら思っている。一生アマチュアであろう。だがアマチュアがプロより劣っていると誰が決めた?



2158:【超短編25『彼女は虹のかけ橋』】

宣伝のつもりだった。言いだしたのは野村だ。「有名人起用すれば動員アップにPRにもなってがっぽがっぽよ」そんなうまい話があるわけないし、そもそも公演を開くたびに赤字がかさむような劇団だ、参加してくれる有名人がどこにいるのかと、そこのところにまず引っかかる。「ツテを頼る!」顔だけは広い野村には、たしかにツテだけはあった。ただ、それを実利に結びつける技量がなく、言ってしまえば、相互ほう助の精神の域をでず、もっと言えば「私たちの舞台を観に来てくれたらあなたたちの舞台も観に行ってあげる」みたいな付き合いの延長線でしかない。「んなことないって、うちらの舞台に出たらプラスだって。ぜったいいるって、でたがるひと」たった二人の劇団だが、たしかに毎回参加してくれるレギュラー俳優たちはいる。みなほかの劇団や事務所に所属しているが、それでもあなたたちの舞台なら、と七、八人の俳優が集まってくれる。そして今回、もっと大幅に動員数を見込める有名人を起用しようという話になったのだ。「いたよ、いたよ。ビッグゲスト!」(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054890545384



2159:【つねに消灯】

むかしのじぶんを思い返して、あのころは輝いていたな、と思うことがない。というか、むかしのじぶんをじぶんだと思えない。ほぼ他人だ。理解しあうことは無理だろう。



2160:【一粒で百美味しい】

だんだん本が読めなくなってきた。一行読むあいだに連想することが増えてきて、いちどにたくさんを読み進められなくなった。ちまちま読む楽しみを覚えた、と言ってもよい。




※日々、埋もれて、紛れて、弾かれている、つもりでホントはただの力量不足。



2161:【スランプの対処法】

まずは寝る。無理をしない。起きた直後から原稿と向き合う。情報を摂取すればするほどその日の筆は重くなる。時間があるときは、おもしろい情報に触れる。媒体は問わない。映画でもマンガでもSNSでも旅行でも、なんでもよいので、新鮮で刺激になる情報に触れる。つくりたくないなら無理をしない。そのまま筆を折ることになったとしてもむしろ好都合、くらいに考えておけばよい。創作をしつづけることがしあわせなわけではない。しあわせに思えることをつづけられるからしあわせなのだ。苦痛に思えることをわざわざつづける意味はない。そういう意味では、スランプにも二種類ある。まったくつくれなくなる状態と、いま手掛けている作品がおもしろいと思えなくて楽しくない状態だ。前者なら、前述した対処法を実践すればよい。つくりたくなるまで遊べばよいのだ。後者の場合は、多少苦しくてもつづけたほうがよい、と個人的には考える。目のまえの原稿がつまらなく思えるのは目が肥えているからだ。達人にとっての「微妙」は凡人からすれば「すごい」のである。どちらかと言えば、つねにじぶんのつくるものに対して、どこかしら物足りなさを感じつづけていたほうが好ましい変化の軌跡を辿れるようになるはずだ。個人的には、過去のじぶんの作品を振り返って、案外おもしろいな、と思ったときほど危機感を覚える。目が衰えている可能性が高いからだ。目だけならばよいが、そういうときはたいがい腕も衰えている。これは傑作だ、と思うときほど危険信号だ。物足りなさを覚えつづけてしまうくらいが、ちょうどよい。改善点があることを直感的に判っている証拠だからだ(もちろん、改善点が判っているだけでは不足だ。工夫するよりない)。いくひしさんは自己満足で創作をつづけているが、満足したことはいちどもない。いびつさを直そうとすればするほどいびつになっていく。賽の河原で石を積みあげている気分だ。しかしいくひしさんは積み木が嫌いではないので、ではつぎは何をつくろうかな、と底の尽きない石を拾い集めて、つぎをつくりはじめるのである。



2162:【何かを言っているようで何も言っていない】

雨が降ると妄想することがある。この一瞬で大気中を落下中の雨粒の数は、宇宙にある星の数とどっちが多いのだろう、と。おそらく世界規模で見れば、雨は四六時中降っているだろう。つねにどこかでは雨粒がそらから地面へと落下しているわけである。それらの雨粒の数の平均は、宇宙にある星々とどちらが多いのか。或いは、地域をじぶんの住んでいる区画に限定したとして、一晩で降った雨粒の量は、宇宙の星とどちらが多いのか。もっと言えば、それら雨粒を構成する原子の数の合計は、宇宙全土の星の数とどれくらいの差があるのか、などなど。まずは宇宙の星の数を知らなければ計算しようがないし、そのためには宇宙の広さと、人類が観測可能な宇宙の範囲、そしてその範囲で確認されている銀河の数と、それから銀河を構成する星の数が平均でだいたいどれくらいかを求めなければならない。あとは地表から雲までの高さと、雨雲の範囲、加えて1立方メートルあたりに含まれる雨粒の量を求めれば、比較可能だろう。これはいくひしさんが小学校にあがったくらいのころから妄想していたことなので、すでに求めたことのある者がいるはずだ。ネットで検索すればでてくるかもしれない。と思って検索してみたら、やはり似たような疑問に応じている者がいた(答えがどれほど正確かは、いくひしさんには判断つかない)。みな考えることは似通っている。どれだけ突飛に思える発想であろうと、誰かはすでに思い描いているのだ。あとはその発想を現実に出力するかどうかの差があるだけだ。似顔絵一つとっても、出力される絵は千差万別だ。アイディアそのもので勝負できることなど高が知れている。とはいえ、アイディアを湯水のごとくひねりだせる回路を構築できれば、それだけで他者をいくらか出し抜けるだろう。出し抜くことにいかほどの価値があるのかは定かではないが、いずれにせよ、世間で謳われるほどには、アイディアや閃きそのものに高い価値はないと思っている。だいじなのは、一つのアイディアに囚われない多様な視点と、出力するための地道な習慣であろう。種がなければ芽吹かないと思っているようでは、いずれどこかで躓くことになるだろう。葉や茎や根からでも芽を萌やすことは可能だ。なぜ種が欲しいのかをときおり見つめ直す癖をつけておくとよいかもしれない。アイディアは、アイディアを生むためにあるのではない。妄想は、ただ思い描くだけでは、ただの妄想なのである。そう、この「いくひ誌。」のように。



2163:【理屈は感情の上位互換】

理性も感情のうちの一つだと思っている。「なぜ」と問う好奇心そのものが感情だからだ。また、理屈は物の解釈のうちの一つであり、必ずしも正しいわけではない。ただし、理屈のなかにもより再現性のあるものや、観測確率の高いもの、或いは現象をより単純に説明できるものなど、さまざまある。いずれにしろ、そうした理屈をどう使うのかは、感情に作用される。もし理屈と感情を完全に切り離せるのだとすれば、そもそも理屈を口にしたり、じぶんの外側に表現しようとしたりはしないだろう。じぶんの考えを整理しようと思ったり、他者に理屈を教えようと思ったり、記録として残しておこうと思うことそのものが感情による作用であるはずだ。同一の理屈を使うにしても、一方ではエネルギィ問題を解決し、一方では大量殺りく兵器をつくったりする。相手を恫喝するのも、説得するのも、同じ理屈を使ってできるのだ。説得するために理屈を使おう、と名分を見繕ってみたところで、恫喝するよりもそのほうが得をするからだと判断しているにすぎないのではないか。じぶんが得をすることを是とする理屈はどこにあるのだろう。突き止めて考えていけば遠からず、自己保存の本能に行き着くはずだ。遺伝子にそう組み込まれているからであり、人間がそういう生き物だからである。そこにあるのは理屈ではなく、本能であり、欲求であり、感情だ(或いは、本能や欲求や感情もまたシステムの副産物であり、理屈を内包していると呼べるかもしれない)。理屈と感情は切り離せない。そもそも同じところから派生している。もし、切り離せると思っている者がいるのならば、気をつけたほうがよいかもしれない。おそらくそうした者ほど、知らず知らずに感情に流されているはずだ。理屈を振り回し、他者を支配しようとすらしているかもしれない。いくひしさんも例外ではない。戒めておこう。



2164:【好かれているという幻想】

失恋したと気づいたときよりもずっと前からすでに人は失恋しているのだ。好意を寄せれば寄せるほど嫌われるのだろうな、と思っているくらいがちょうどよい。それでもじぶんが相手を好いていればそれで充分ではないか。相思相愛が理想なんて誰が決めた?



2165:【誰も決めてないけど】

それでも好きなひとからは好かれたいよね。無理だけど。



2166:【無理】

わりとすぐ無理だと思ってしまう。人と関わるのも無理だし、犬を撫でるのも無理だし、赤ちゃんを抱っこするのも無理だ。いくひしさんなんかが触れたらけがれてしまうのではないか、と不安になってしまう。むろんそんなわけがないなんてことは判ってはいるが、不安になってまでそれをするくらいならしないほうがマシだ、と考えてしまう。この場合、「無理」は「抵抗がある」と同義だ。そしてこの抵抗はたいがい、物理的に生じている摩擦ではなく、じぶんで生みだしている壁なのだ。幻想だ。虚像なのである。しかし世のなか、こうした虚像が常識となって日ごろから人々の行動を制限している。つまり、内側に生じるだけでなく、外側にも壁は現れるのだ。虚像なのに。幻想のくせに。たとえば人と関わるにしても、赤の他人と接するのと十年間いっしょに暮らした相手と接するのとでは、接し方を変えなくてはならない。人間であることに変わりはないはずなのに、人間は平等だとみな口を揃えて言うくせに、人によって接し方を変えなければならないのだ。犬を撫でるにしても、他人が飼っている犬と、じぶんが飼っている犬とでは扱い方を変えなければならない。犬のほうで撫でてほしそうにしていても、他人の飼っている犬のあたまをかってに撫でるのはよくないとされる傾向にある。すくなくとも飼い主はよい顔をしないだろう。犬がどれほどよろこんでいても、じぶんの所有物だからかってにいじってほしくはないだ。しかし犬は所有物なのだろうか。犬の尊厳はどこにあるのだろう。犬のほうで撫でてくれと首を寄せてきたら、撫でてもよいのではないか、といくひしさんは頭がこんがらがってしまう。犬ならばまだ寛容になれる飼い主もいるだろう。しかしこれがじぶんの子供となると話が変わってくる。あたまを撫でるどころか、かってに身体に触れることも咎められるようになる。話しかけることすら眉をひそめられ、ときには通報される。抱っこするなんてしたら問答無用で110番だ。しかし子供のほうでそれを望み、頼んできたらどうだろう。社会的、常識的には、親の許可を求めるべきだろう。すくなくとも親の目の届かないところですべき行為ではない。しかしそれは親の目や、社会の目を気にしたときにだけ生じる幻想であり、虚像であり、壁なのだ。いまここにはない親の目を気にして、ときには飼い主の顔を気にして、或いは他人の目を気にして、じぶんの行いに制限をかける。反面、先述したとおり、じぶんの家族やペットや子供になら、無許可で馴れ馴れしく触れあうことが可能なのだ。なぜだろう。じぶんの所有物だから? 信頼関係を結んでいるから? 責任をとる立場にあるから? 立場が上だから? 世話をしているから? 社会的に容認されているから? よくわからないが、どんな相手でも「それそのもの」は独立して存在しているはずだ。家族だろうが他人だろうが、かってに物扱いしてよいわけがない。にも拘わらず、人ともっと関わりなよ、とか、撫でていいよ、とか、抱っこしてみる? などと第三者の立場から他人が、ほかの他人と接することを求めてくる(或いは禁止や拒絶の意を示してくる)。いくひしさんにはよくわからないのだ。なぜ場面場面で、同じ人間に対する距離感が変わるのか。赤の他人にしてはいけないことは、身内にだってしてはいけないだろう。他人に言うべきでない言葉は家族にだって言うべきではないはずだ。解かっている。極端なのだ。しかし、境目がよくわからない。だから抵抗を覚えてしまう。無理だとすぐに思ってしまう。考えこんでしまうのだ。わからないからだ。どんな相手でも身内のように接するか、それとも誰であっても赤の他人のように接するか。いくひしさんには、そう割り切ってしまったほうが好ましい。だが、そんな付き合い方をするのはたいへんだ。誰もかれもを神のように扱い、或いは子猫のように扱う。疲れ果ててしまう。けっきょく「無理」に人と付き合うのはよしておこう、となってしまう。いくひしさんには無理なのだ。だってわからないのだもの。



2167:【けっけ】

言いわけにしか聞こえねぇなぁ。



2168:【ちっ】

バレたか。



2169:【反面教師】

なかなか新作が進まないので、好きなことを一週間禁じてみたのだけれど、身体の調子が崩れた割に、進捗は以前よりも落ちてしまった。生活習慣が乱れただけだ。物語はちっとも進まない。禁欲は創作にあまり優位に働かないのではないか。もちろん個人差はあるだろう。ともあれ、情熱というものは出し惜しみするものではないな、という想いにより拍車がかかった。やりたい、これが好き、といった前向きな気持ちは、転用が効かないのだ。ステーキが食べたいけど野菜も食べなければならない。そういうときに、ステーキを我慢して、「ステーキが好き」という気持ちを代わりに野菜にそそぐことはできないのだ。だったら好きなステーキといっしょに野菜を食べたほうが合理的だ。好きという気持ちを我慢するのは効率がわるい。やらなければならないことがあり、やりたいことがある。ふつうに考えれば優先すべきは、やらなければならないことだ。しかし、時間に余裕がある場合は、やりたいことをやりつつ、やらなければならないこともやったほうがトータルでは実の入りがよいのではないか、と考えるしだいだ。言うまでもなく、時間に余裕がないのならば、まずはやらなければならないことを優先せねばならぬだろう。しかし、なぜやらなければならないのかを突き詰めて考えてみると、それはけっきょく、やりたいことをする時間を捻出するためだったりするわけで、なかなか堂々巡りの考えに陥ってしまいがちだ。可能ならば、やらなければならないことと、やりたいことがイコールになるように日々の生活をコントロールできるようになれると好ましいだろう。ただ、それにはやはりというべきか、やらなければならないことを積み重ね、その内実をすこしずつ、すこしずつ、やりたいことに塗り替えていかねばならない。これには二通りの手法があり、気が進まなかった作業に楽しみを見出し、同じ作業であっても好ましく感じるようにじぶんを変えるか、もしくは、やりたいことを、やらなければならないことにねじ込めるように、日々の行いのほうを捻じ曲げるか、だ。前者は問題ないだろう。嫌いな仕事を好きだと思いこめるように、物事への捉え方を変えればよい。だが、後者はときに、やりたかったはずのことを嫌いになる可能性がある。いわば、趣味を仕事にしてしまえ、ということなのだが、仕事にしてしまったがために嫌いになってしまうことがある。そういうときにはやはりというべきか、前者の、嫌いなことも好きなことにしてしまえの手法を試みるよりないだろう。ちなみにいくひしさんは、嫌いなことはいつまでも嫌いだし、やらなければならないことはやりたくないし、やらないままでそれによる損失を受け止めてもいいから、日々やりたいことだけやりつづけてやる、と考えてしまいがちだ。人生を失敗する典型的な例であるので、くれぐれも読者諸君は真似をしないようにおねがい申しあげて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。



2170:【偏見の塊】

いくひしさんは男性性や女性性といった、社会的な「男っぽさ」や「女っぽさ」に縛られる必要はないと思っているし、自作においても、そういうのってどうなの、と問いたげな描写をいれることがある。だからといっていくひしさんに、そういった社会的(文化的)性差への偏見がないかと言えば否である。むしろ人よりも偏見がつよいかもしれない。偏見を持たないようにしたいな、と思いながらも、そうつねづねつよくじぶんに言い聞かせていないと、すぐに偏見や差別意識に流されてしまう。いくひしさんのなかにはそういった「よくないもの」が根付いているのだ。たとえば、ちいさな子どもの髪型が刈りあげで、短パンにサスペンダーにワイシャツといったいでたちだったら――つまりコナン君みたいな格好をしていたら――やはり反射的に、無意識のうちから、その子は男の子なのだろうな、と判断してしまう。これはじっさいにあったできごとだ。見た目では生物学的な性別は判らないし、判ったところで、どうというわけでもない、と考えていながら、現実に目のまえにそういう女の子(そのときは男の子の格好が好きな女の子だったわけだが)が現れると、「え、女の子だったの!?」と驚いてしまう。いくひしさんが偏見の塊だからだ。そしてつぎに思うのは、性同一性障害とかそういうのだろうか、といった興味関心であり、ありていに言って野次馬根性以外の何物でもない。意識するよりさきにそういうあまり上等でない感情が湧く。偏見の塊だからだ。誰がどういう格好をしていても自由なはずだ。女の子がスカートを穿いていたらどうも思わないのに、男の子がスカートを穿いていたら、どうしてだろう、と考えようとする以前に思い浮かべてしまう。偏見が根付いているからだ。いくひしさんは、そういう偏見はよろしくない、と思っていながら、じぶんではそうした偏見にとりつかれている。差別はよろしくない、と口で言いながら、きっと同じようにいくひしさんは平然と、自然なさまで、無意識のうちから差別をしているはずだ。現にSNSではとくに意識しているわけではないが、女性性のつよいものを好んでリツイートしがちである。ツイートのアカウント主の性別までは定かではないが、やはり女性性のつよさに惹かれているところがあるように思われる。これが差別でなくてなんなのだろう。現実に人とあまり深くかかわらない日々であっても、こうしたじぶんのゆがみを感じてしまう。もっと言えばいくひしさんは、体毛が濃いことに対して、ややマイナスの印象を持っているようだ。自作を振り返るたびに、そうした引っかかりを覚えるのだ――こいつは毛深い人間によくない印象を抱いているようだぞ、と。人間はそもそも毛が生えているのが自然だ。しかしいくひしさんは、毛深いよりも毛深くないほうが好ましく感じているらしい。れっきとしたこれは差別感情だろう。体質により、人よりも何倍も毛が濃くなる人だっているのだ。にも拘らず、毛深いことがよくないことだ、バカにしてもよいのだ、みたいな描写を自作でしていることがある(あべこべに、頭髪が薄くなるのはよくないことだ、みたいな描写もすくなからず散見される)。反省しなくてはならない。しかし、いくひしさんがどう思おうと、現実にはそうした偏見や差別意識が溢れており、むろんいくひしさんのつむぐ物語の登場人物たちもまた、そうした偏見や差別感情を抱いている。いくひしさんがいくら反省してみせたところで、差別や偏見は未だ根強く現実に存在している。そうした現実を無視して、いくひしさんの都合で、物語に干渉し、世界観を漂白してしまうのは、いくひしさんの信条に反する。せめて、見た目が違ってもどうってことない、むしろ人と違うくらいがかっこいいではないか、と読み手がそう思うまでもなく自然に受けとってしまうような物語もまたつくっていきたいと思っている。しかしこう思ってしまうのもまた、差別意識や偏見の裏返しであり、どうしたものかと頭を抱えたくなる。ともすれば、笑いの種にしてはいけない、からかってはいけない、みたいな考え方を徹底するのは、差別や偏見を払しょくする方向には働かず、むしろ根深く社会に刷りこむ方向に働きかけてしまうのではないか。或いは、そもそも誰であっても、笑い者にしたり、からかってはいけないとしてしまったほうが好ましいのかもしれないが、それはそれで表現の自由の観点からして、好ましくはないのだろう。ちょうどよいバランスを探っていくしかないのだろうか。いくひしさんにはむつかしい問題である。これもまたそのとおり、偏見の塊だからだ。




※日々、じぶんはこんなに我慢しているのに、とわがままな怒りにとりつかれている、それこそが傲慢とも知らず、他人を許す立場にいると思いあがっている。



2171:【暑くてやられた、あいつは我らのなかで最弱】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなぁ。いくひしさんはさいきん、なんか暑くない?とようやく実感してきたでござる。いまは2019年の7月31日でござるけれども、え、なんか暑くない? と、ようやっと実感してきたでござる。や、まえまえから、ひょっとして?とは思っていたでござる。でもなんか雨がじゃーじゃー降ったりして、まだ夏じゃない、焦る時期じゃない、なんて余裕をぴこぴこかましていたら、なんか暑くない? いまさら気づいてしまったでござる。世のなか、とっくに夏だったでござる。暑くてとうぜん、いちもくりょうぜん、ここはとうせん、ぼう、のごとく、かげろうが揺らぎ、ぶらりひとり旅きぶんでアスファルトの熱気、うりゃーと蹴散らし、ケチだし、旅費はすぐに底尽くけれど、かまわない、まえに進むのにタイヤやつばさは必要ない、イッツショータイム、こむづかしい話は抜きにしてさ、行くさ(戦)、せっかくの照りつく日差しさ、サンサンと全身に浴びて(日光浴さ)、ついでに海水浴きぶんでホースから飛びでる水の橋をくぐろう、汗なんて拭わず洗い流してしまおう、虹なんて探さないでつくりだせばいいさ、暑さなんて忘れてやればいいさ、まずは手を突きだし、くうを掻こう、海の底をおよぐみたいに、大気の底にへばりつき生きる一匹の蟻のように、あがこう、果たそう、まだだろう、海に張る帆のように、手の鳴るほうに、自由になるこの世に、ふいにこの後に、およんで、無二なるこのコらの未来を祈ろう、なんて投げやりじゃなく、描いて行こう、そう、マイウェイGO。へいよー、ちぇけちぇけらっぷ、へっぽこらっぷ、なんとなくそれっぽいこと並べたら、それっぽく聞こえるよ、へいよー、脳内でならそれっぽく歌えるよ、声にだすとぜんぜん出遅れるよ、舌がからまるよ、ぜんぜんライムを口ずさめない、愚痴すらうまくさえずれない、声なき声で歌うよ、それこそ物書きの仕事、しのごの言わずに文字を並べよう。いえー。暑くて体温が上昇、きぶんも高揚、このまま熱中症にならないようにこまめに塩分、水分、補給していこう。いえー、からでたくない日々でござる。ちぇけちぇけらっぷ、へっぽこらっぷ、なんとなくそれっぽいこと並べたら、それっぽく聞こえるよ、栄養、ちゃんととって休むときはたっぷり、すやすや休みましょうでござるー。あーい。



2172:【あつい、ねむい、ねる】

ここ数日のあいだに気づいたことなのですが、ひょっとして物語を情報として捉えた場合、それそのものが好みでないとおもしろいと思えない人がいるのですか? どんな情報であっても、それの並べ方や出し方がおもしろければいくひしさんはおもしろいと思ってしまうのですが、もしや案外この感覚は一般的ではないのでしょうか。ジャンルで物語の好き嫌いを決めてしまう人の感覚がいまいちピンとこなかったのも、この視点の違いによるものなのかもしれません。たとえば雑なくくりになりますが、クラシックしか聴いてこなかった人はビートルズを聴いても最初はうまく受け入れられなかったでしょう。そしてビートルズを嗜好してきた人はダブステップをただのノイズとしか評価しないように思います。あべこべに、ダブステップを好む者は、おそらくビートルズもクラシックもダブステップにしてほしい(取り入れたい)、と積極的に希求するのではないでしょうか。ヒップホップが2019年現代においてことこれほど社会に波及した背景には、こうした情報の非対称性があるのではないか、と想像します。要因のすべてではないにしろ、一因子としてあってもおかしくはないように思います(もちろん、そんなことはなく、単なるいくひしさんの勘違いである可能性もあります)。いくひしさんは、どんなに主義思想や嗜好に反した物語であっても、情報の出し方や並べ方が好みであれば、おもしろく味わうことができます。というよりも、どんなに好ましく思える物語でも、この情報の出し方や並べ方に新鮮さや工夫を感じられないと、どうしても眠くなってしまいます。演出にちかいのかもしれませんが、そこまで技術として確立されていない、新しい何か、を情報の出し方や並べ方に感じられると、いくひしさんはその物語を好ましく評価します。物語そのものの色や味はあまり興味がないのかもしれません。それよりも、どういう情報の並べ方をし、どういう絵柄をどういう順番で、どれだけ削り、圧縮してあるか、(或いは、重ねたり、組み合わせたりしているか)のほうに興味の矛先が向かいやすいように思えます、とみずからのゆがみを告げて、すこし短いですが、本日の「いくひ誌。」とさせてください。



2173:【狭窄】

視野が狭くなっているのを感じる。もうすこし正確には、「視野が狭くなっている実感がなくなっている」と感じるから、おそらくそう感じられないほどに視野が狭くなっているのだろうな、と客観的に自己評価をくだしている。いくひしさんはいま、視野が狭くなっている。危険な兆候だ。もうすこしそとへ、そとへと視野を広げるように意識的にじぶんに働きかけてみよう。



2174:【いくひしさんはダサい】

誰であっても私服であればどんな服を着ようが自由なはずだ。女の子はスカートを穿きなさい、なんて時代錯誤もはなはだしい。しかしこうした主張を口にする人間ですら、ときに「あの服はダサい。ないわぁ(笑)」などと言って、他者の服装を揶揄したりする。自家撞着が口を衝いていることを自覚していないのだろう。オシャレな服を着るのもまた自由だ。一般的には、ダサいよりもオシャレなほうが好感度が高い。しかしオシャレな服を着ることの利点など、この「好感度が高くなること」くらいなものである。好感度が高ければ、それが仕事になったり、私生活で他者から優遇される確率があがったりと、得をしやすくなるかもしれない。ダサければ、「なんだあいつ(笑)。ぷぷぷ」なんて笑われたり、無下に扱われたりするかもしれない。しかし、服装がダサいだけのことでそんな不公平な扱いを受けることそのものが差別であり、問題であるはずだ。ハッキリ言ってしまえば、イジメ以外の何物でもない。弱い者の味方のフリをしている人間ですら、こうした無自覚の差別感情を抱いている。いくひしさんも例外ではない。誰であっても、偏見や差別感情を持ち合わせているのだ。まずはそのことを自覚し、すこしずつじぶんをコントロールする術を磨いていくよりない。ときには、そうした偏見や差別感情に流されてしまったほうが、社会的に得をする場面が訪れるだろう。服装のダサい者を笑い者にすれば、じぶんのほうがオシャレでステキな人間です、と周囲に示せるだろう。そのおかげで多くの信用を得られるかもしれない。だが他者を、じぶんを引き立てるための小道具にしようとする考えは、とてもではないがキレイとは言いがたい。オシャレであってもよい。小奇麗な格好をすれば、周囲の人間に不快な思いをさせずに済むだろう。だが、どんな服を身にまとったところで、その人物の中身までもが手軽に変わることはないのだ。どちらかといえば、小奇麗な布地を身にまとっただけのことでじぶんの本質までもがうつくしく変われるのだ、と錯誤してしまう者がすくなくないのではないか。どんな服を着たって自由である。好きな服を着ればよい。本来であれば何も着ずに裸であっても問題はないはずだ。しかしこれは法律で禁じられているので、最低限、何か布地を身にまとうのが社会に生きる人間としての最低限の礼儀となるのだろう。とはいえ、ダサいからなんだというのだろう。ダサくなりたくない、とじぶんで思う分には自由だろう。反面、それを他者にまで押しつけ、オシャレじゃないなんて変ね、なんて価値観を強要する姿勢はいただけない。ましてや、ダサいなんて信じられない、ぷぷぷ、なんてバカにするのは、さすがに礼儀に欠けていると判断されても致し方ないのではないか。服装が乱れることよりも、服装の乱れ程度のことで他者を低く評価することのほうが、よほど礼儀に欠けている(そもそも他者を評価しようとする姿勢が失礼だ。審査員になってくれ、とでも頼まれたのだろうか。もちろん、思うだけなら自由だが)。おそらくこのさき、社会は徐々にこのことに気づきはじめるだろう。何がより本質にちかいのか。前提に立つのか。それをときおりでよいので考え、下に、下に、と辿っていく習慣をつくっておくとよいかもしれない。基本的に、どんな建前を見繕おうと、他人を腐して何かの正当性を主張する手法は、悪手である。何かと比べてじぶんが上だ、と誇示しようとした時点で、あなたはほかの何かと比べれば下なのである。他者をダサいとバカにする人間は、ほかの者からダサいと思われていることだろう。視点を変えれば、宇宙服はどんなにオシャレだろうと、空気が漏れては意味がない。服には機能性というものがある。オシャレであること以上に優先度の高いこともある。値段にしてもそうだ。流行も時代によって移り変わるものである。素材や世界経済の動向など、さまざまな要因がどんな服を着るかに影響している。いずれにせよ、好きな服を着ればいい。オシャレになりたいならなればいい。だからといって、あなたそのものが美しくなるわけではない。刹那の幻影に酔いしれるのもそうわるいことではないが、それが錯覚であることくらいには自覚的でありたいものである。



2175:【何のためにそれを選ぶのか】

組織が保身に走るのはまだ許容できる。組織が瓦解することの損失を想像できるからだ。しかし組織の管理者が自己保身に走るのはいささか許容するのに抵抗がある。なぜなら管理者が自己保身に走る場合は往々にして、管理者が組織を私物化している傾向にあるからだ。組織を生かすために個人を犠牲にするのもまた正しいとは思えないが、管理者の自己保身から組織を危ぶめたり、倫理に反した選択を行ったりするのは、組織にとって、そしてその組織を内包する社会にとって、大きな損失であるはずだ。じぶんの属する組織がいったい何のために「それ」を選択したのかをよく見極めることである。管理者の自己保身が透けて見えないだろうか。「それ」は本当に組織のためになっているだろうか。組織の理念に沿っているだろうか。よくよく観察してみることである。



2176:【相手を損なうことに違いはない】

基本的に告発もテロも、構図はいっしょだ(ここで言う告発は、刑事告発と区別し、不正や悪事を世に知らしめることである)。相手を傷つけることが目的にあり、脅すための手段であり、相手以外の大勢に向けてのパフォーマンスの側面がある。暴力か否か、という大きな違いがあるにせよ、構図そのものはほとんど同じだ。告発が善で、テロが悪、とまとめるのは短絡にすぎる。同様に、告発される側やテロを起こされた側の対処にも共通する点がある。まずは無視できる規模であるならば徹底的に無視をする。相手にしない。これに尽きる。粛々と対応を行い、法的処置をとることが優先される。次点で、隠しきれない場合には、効いていないことをアピールする。許されないことだ、と大勢に向けて主張する。降伏の選択肢はないと宣言する。過ちを認めなければ対話の余地もない、とはっきりと示す。対話の意思がある旨は否定せずにおく。対話の意思はあったが、おまえがそれをダイナシにした、と暗に告げると好ましい。ただし、このさきの社会では、告発やテロの手法も巧妙化することが予想される。これまでのような判りやすい告発やテロではない手法で、効果的な損失と恐怖を相手に与える者たちが増加するだろう。従来の告発やテロは、相手に何かを訴え、要望を通すための手段だった。しかしこれからさきの社会では、破壊と混乱そのものが目的となる。要望などはないのだ。ただただ損失を与えたい。そう欲した末にとられた手段に、告発とテロのくくりはない。暴力ではない暴力――理不尽そのものとなって、組織や社会を脅かすだろう。非難すべき行いである。万が一にも賛同する道理はない。とはいえ、なぜそうした理不尽が増加するのかと言えば、個々人が組織や社会から、それと同等に思えるくらいの理不尽を与えられているからである。すくなくとも、そう感じてしまうような個人がこれからさきの社会では増えていくことが想像できる。そうした者たちは、現状が好転する未来を手にするよりも、相手をじぶんのところまで引きずり落とす未来のほうが手中におさめやすい、達成しやすいと考えている。つくるよりもこわすほうが楽なのは、世の常である。それでも半世紀前の社会では、つくり、築きあげるよろこびを下の世代に、じぶんたちの姿を通して示すことができていた(むろん、さまざまな搾取構造のうえに成立した創造性ではあっただろうが)。いまはもう、その幻想も失われた。あるのは、いかに強者にへつらい、弱者からまきあげるか。残ったのは弱肉強食の原理に忠実な過酷さだ。弱者として強者に搾取されつづけた者が最後に行き着く結論が、根こそぎ強者からすべてを奪うことだとして、いったいどこに矛盾が生じるだろう。強さこそ善となった社会では、至るところでこうした生死をかけた一世一代の下剋上が勃発するようになる。こうなったあとには、強者は保険として、誠意を周囲に向け示すよりなくなる。そして強固なコミュニティを形成し、身内だけの世界に引きこもるようになる。しかし一つのコミュニティだけで利益を回すには限界がある。であれば、似たコミュニティと繋がりあい、やがて組織は巨大化していく。こうなると誠意の輪郭はぼやけ、霧散し、そしてまた最初に戻って、基本的なカタチの告発やテロが増えていく。社会はいつの世も、似た流れを繰りかえしている。いずれにせよ、どの時代であっても、告発とテロは似た構図を伴っている。個々人を「それ」に駆り立てる因がまずどこにあるのかを見失わないことである。(と、並べてみたはよいものの、どこかしっくりこないのは、なぜだろう。どこかに詭弁が潜んでいる気持ちわるさがある。告発とテロを同一視した時点で、どこかしら肯定的なニュアンスを帯びてしまったからかもしれない。しかし言いたいのはむしろ、告発そのものも、根っこのほうではテロと共通している点だ。正当な段取りで訴えても効果がないと諦めているからこそ、そうした強硬な手段を用いるのではないか。やはりというべきか、構図は変わらないように思うしだいだ)



2177:【相似】

構図が似ているからと言って、ではテロと同様に告発もまた禁止してしまえばいいかと言えば、否だろう。とはいえ、だからといって闇雲に告発すればいい、という風潮はいささか短絡であると言えそうだ。考える余地はいくらでもある。システムに瑕疵があるならば、どうすれば円滑に改善できるかを考えるのが先決であるはずだ。そのために告発が欠かせないとなったときには、不承不承それを実行するよりないのだろう。だがそれはテロを起こす者と似た行動原理を伴っている事実からは目を逸らさないほうがいくひしさんには好ましく映ります。



2178:【悪は、極悪でも絶対悪でもない】

本質が同じだからといって、結果が同じだとはかぎらない。同じ怒りから行動を起こしたとして、いっぽうでは制度を改善する方向に働きかけることもあれば、いっぽうでは人を殺傷して終わることもある。根っこが同じだからといって、まったくいっしょだ、なんてことはない。たとえば包丁一つとっても、美味しい料理をつくるのに使う者もいれば、人を殺すのに使う者もいる。核分裂反応であっても、いっぽうではエネルギィを社会に供給し、いっぽうでは文明そのものを滅ぼし得る。同じ道具や技術であっても、使い方しだいで、結果は大きく変わる。ただし、できるだけ本質を正しく紐解いておくと、道具や技術を使いこなすうえで有利に働く。結果が違うのだからまったくの別物だ、これは悪ではないから善なのだ、と安直に結びつけて考えないようにしたほうが、取り返しのつかない間違えを犯さずに済むだろう。じつは根っこでは同じものなのに、まったくの別物として扱えば、いずれ、どこかにゆがみが生じて、制御不能な事態に陥ってしまうかもしれない。アレとコレは似た危険性を孕んでいるかもしれない、なぜなら似たようなシステムを有しているからだ、と考える癖をつけておくと、仮にその仮定が間違っていたとしても、想定外の問題を未然に防ぐ確率をわずかにでも上げることができるはずだ。いずれにせよ、何かをなすための術が悪ではない保障などどこにもない。往々にして正義は、悪を用いてなされるのである。正しさを振りかざすことそのものが、一つの悪である自覚はつねに抱いていたいものである。



2179:【全知全能という名の】

たとえば身体能力で言えば、前宙ができるひとがいれば、片手倒立ができるひともいるし、バク転ができるひともいれば、百メートルを十秒で走れるひともいる。片や、二百キロの重りを持ち上げることができるひとがいるいっぽうで、ダーツを正確に投げることのできるひとがいる。すべてにおいて突出している人間は稀だろう。おのおの得意な技能は偏っており、いちがいに身体能力の高さを測ることはできない。得意な技能があっても、ほかの技能はそれほどでもない、と知ることとなるし、はた目にもそれは自明のこととして理解されよう。しかしこれが知能となると、一つの分野で深い知見を備えているだけで、すべてにおいて知能が高い、と誤った見方をされる傾向にある。学者や研究者、というだけでなんだか人として優れている、と見做したくなるが、一つの分野に精通しているからといって、ではその人物がコンビニの仕事を十全にこなせるか、と言えば、否だろう。すくなくとも事前にある程度の学習を行わなければならない。コンビニにかぎらず、各種職業には、それぞれ体験しなければ身につかない暗黙知がある。いくら学者や研究者だろうと、ほかの分野に関しては門外漢であることは珍しくない。それが一般的だ、と言ってもこれは珍しく言い過ぎとはならない。一つの分野を極めていることは、何も極めていないよりかは好ましいかもしれない。しかし、だからといって一つの分野を極めている者が人間として優れているとはかぎらない。誰であっても、一流の人間が知らない知識や体験を備えている。一流の人間ができないことを日常的にこなしている。誰もがある側面では、一流を凌駕しているのだ。それをことさら誇る必要はないが、条件反射的に他人を肩書きや実績で測らないほうが、思わぬ宝物を取りこぼさずに済むようになるのではないだろうか。仮にじぶんのことを全知全能であると思いこんでいる者があるならば、いますぐにでも新しい世界を創造して、その世界に引きこもることをおすすめしよう。全知全能ですら一介のただの人に凌駕され得る。すくなくとも、ただの人にはなれないのだ。ただの人に負けるようなら、全知全能も形無しだ。そんな事態にならぬように、じぶんだけの世界に引きこもっているのが全知全能にふさわしい身の置き方と呼べそうだ。



2180:【派閥が苦手】

身内と組織の違いは、そのコミュニティに対して自己批判できているか否かであると言えよう。現代では組織ではなく単なる身内でしかないコミュニティが散見される。自己批判ではなく自己肯定ばかりを繰りかえすから派閥と化して、意にそぐわない者たちを敵対視する。いくひしさんは身内びいきと派閥が苦手だ。ただし、赤の他人よりも身内をだいじにしたくなる気持ちは理解できる。接点のない人間よりも、親切にしてくれた者に接したくなるのは群れを成す動物にとっては本能レベルで組み込まれている習性と呼べよう。とはいえ、身内をたいせつにすることと、身内びいきは別だろう。仲間と癒着くらい違うように思うしだいだ。派閥は組織にできるがん細胞のようなものだ。存在しているのがしぜんだが、増えすぎると身を滅ぼす。じぶんが属しているコミュニティが派閥になっていないか、ときおり目を光らせておこう。




※日々、何がしたいのか解からなくなる、したくないことだけが浮き彫りになる。



2181:【宇宙の果て】

宇宙に果てはあるのか否か、という疑問に対して、もし宇宙がどこまでもつづいていて、恒星が無限に存在したら夜空は明かりに満ちているはずだ、そうはなっていないから宇宙には果てがあり、有限だ、とする論法を耳にすることがある。理屈として無理があるように感じるが、どう思われるだろう。たとえば仮に宇宙が無限に拡がっていて果てがなかったとしても、宇宙に存在する恒星の数は有限であるかもしれない。また、光には速度の限界があるため、人類が観測可能な宇宙の範囲というものが存在する。仮に宇宙が無限に拡がりを帯びていたとしても、そもそも人類にはすべての「光」を観測することはできないのだ。また単純な話として宇宙に存在する物質は恒星ばかりではない。ガスやチリや、月や木星など、可視光線を放たない惑星も存在している。加えて、銀河の中心には光をそとに逃さないブラックホールが存在する。単純な数でいえばそれらの光の直進を阻害する物質は、恒星よりも多いはずだ。いくら日中が明るかろうが、カーテンの閉め切った室内は薄暗い。同様に、いくら無限に拡がりを帯びた宇宙が明るかろうが、地球の周りに光を遮る物質が溢れていれば、すべての光は届かない。宇宙に果てがあろうがなかろうが、明るくなくて当然なのである。ちなみに、宇宙に果てがなくとも、時空が無限ではなく有限であると考えることはできる。紐を輪っかに繋げればどこまでもぐるぐると回って「出口がない」ように、宇宙もぐるっと繋がっていれば、それは果てがない状態であると解釈できる。しかし紐は無限ではないのと同様に、そのぐるっと繋がった宇宙は有限である。果てがないことイコール無限ではない。いまのところ宇宙は膨張しており、そして人類には観測可能な範囲がかぎられている。ゆえに、宇宙に果てがあるか否かは現状定かではない。しかし、すくなくとも始まりとなる「始点」はあったようだ、と考えられている。インフレーション仮説がそれである。宇宙は、かつては有限だったのだ。しかしそれもまた、「この宇宙」にかぎった話であり、その「始点」が有限であったところで、ではその「始点」が無限にほかにも存在したら?の疑問には答えられない。宇宙に果てがあるのか、の問いにおかれては、「この宇宙はすくなくともかつては有限だった」と応じるのが筋ではないかと、2019年8月6日のいくひしさんはいま、これを並べながら考えております。言うまでもなく、不確かであやふやな妄想ですので、またべつの日に考えを巡らせればほかの結論に至るかもしれません。いつもどおり真に受けないようにお願い申しあげて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(ちなみに、より正確には、宇宙のはじまりについて記述する有力な仮説は現時点ではまだ存在しない。何かしらの現象が発生し、それが宇宙を爆発的に膨張させた、これがインフレーション仮説であり、その後、灼熱の宇宙ができあがった、これがビッグバン仮説である。宇宙開闢とインフレーション仮説とビッグバン仮説はそれぞれ宇宙のべつの段階を解釈するための理屈である。繰りかえすが、宇宙のはじまりについてはじつのところまだそれほど、というよりも、まったく解かっていない――らしいですよ)



2182:【超短編26『よーむん』】

怖い話をしよう、と双葉が言いだした。双葉は私の従妹で、ことし中学生になったばかりだ。夏休みになると私の家にやってくるのが毎年の恒例だった。「怖い話なんかしたら夜中にトイレに行けなくなるよ」「いっしょに行けばいいじゃん」双葉は(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054890660515



2183:【ピンポイントで結びつく】

小説創作AIが登場することで訪れる社会の変容よりも、懸念すべきは、WEB小説と潜在読者を直接結びつけるサービスのほうであろう。現状、サイトのランキングやSNSでの宣伝など、WEB作家は、自力での読者獲得に尽力している。よりたくさんの読者と評価を得た者が、次の段階として企業のバックアップを得られる(出版やメディアミックスなど)。しかしこうした流れは、あと十年以内に下火になるだろう。インターネットの情報解析技術が向上すれば、必然、読者と相性のよい作品を直接結びつけるサービスが普及することが想像できる。多くの読者など必要ないのだ。相性のよい読者、その物語を必要としてくれる読者のみにピンポイントで作品を届けることができるようになる。おもしろいと思ってくれないような読者にはそもそも読まれることはなく、これぞ私のための物語だ、と絶賛してくれる読者のみに作品が届くようになる。こうなるともはや評価そのものが意味を喪失するだろう。のきなみ高評価の保障されたネットワークサービスが誕生するからだ。才能の意味も大きく変わるだろう。より多くの者たちから広く浅く消費されるスター型から、より深く永続的に親しまれる隣人型へと才能の示す意味合いは移ろっていく。現在はその過渡期にあり、まずはすそ野を広げましょう、知られなければ無いのといっしょだ、といった風潮が蔓延しているが、情報解析技術がつぎの段階に達した時点で、むしろ大勢に知られることがリスクにしかならない社会が到来する。味方のみをいかに増やせるか。ある種、誰もが新興宗教の教祖になる時代がやってくる。良し悪しはあるだろう。誰もがファシズムに染まりやすい社会になっていくのだから、懸念すべき側面がある。だが、誰もがファシズムに染まりやすい社会は、大きな社会問題を経て、それへの一定の防御の仕方を普及させる契機になるだろう。フェイクニュースなど、偽りの情報が氾濫することで、誰もが情報を読み取るときに身構え、鵜呑みにしない社会へと深化しつつあるのと似た現象と呼べる。ゆえに、教祖として振る舞えば振る舞うほどファンが離れていく流れが自動的に強化されていくだろうと想像できる。かつて才能とは、一部の特権階級の眼鏡に適った者にのみ与えられるラベルのようなものだった、しかしメディアが発達した現在ではいかに大勢から承認されるか否か、市場の神の見えざる手による選出が――すなわち自然淘汰の原理が、才能のあるなしを規定している。それがこのさき、ネットワークサービスが高度に発展していけば、そう遠くない将来、才能の有無を決定づけるのは、いかに「その人物のみにつくりだせる世界観を有しているか否か」になるだろう。平均化され、抽象化された作品群は大衆向けであり、これはAIが得意とする分野だ。まったく新しい作品群も、AIの得意とするところだろう。しかし、あなただけにぴったり当てはまる何か、をつくりだすのは、AIにはまだ当分むつかしい。なぜなら人は変化するからだ。その変化の軌跡は不定でありながら、まったくの無秩序ではない。何かしらの法則性を有している。それこそが世界観であり、ゆえに、あなたは、「いまはまだ好いていない、しかし潜在的に欲している情報を与えてくれる者」につよく惹かれる。世界観が共有できれば、いまはまだここにはない未来をも共有できる確率が高くなる。そうして人は、AIのつくりだす無数の作品(可能性)ではなく、「その人物だからこそ生じる偶然の連鎖」を追いかけるようになる。そうなった時代において、才能とは、いかにいまここにはない何かを永続的にかつある一定の法則性を帯びたまま、無作為に生みだせるか否か、を意味するようになっていく。すなわち、アートである。エンターテインメントとアートの垣根はなくなる方向に社会は発展していくだろう。その人物ならではの創作物だからこそおもしろい。そして、それをおもしろいと思う者同士が繋がりあえるネットワークが築かれていくのではないか。仮定の積み重ねで恐縮だが、もしそうなっていけば遠からず、エンターテインメント=大衆向け、の構図は徐々に崩れていくだろう、と妄想して、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(妄想の妄想でしかありませんが、十年後にはこうした社会が到来し、五年以内――はやければ三年以内――にはこうした流れが可視化されるのではないか、とあてずっぽうではありますが、夢見ています。とはいえ、AI技術がさらに進歩していけば、世界観どころか人間の意思決定のメカニズムそのものが解析可能となるでしょうから、そうなった未来において、人はただ最適化された情報を貪っていればよい家畜のような存在となり果ててしまうのかもしれません。これはあと五十年はかかるでしょう。技術的な問題ではなく、人類に備わったある種の粘性が社会システムの変質を妨げるからです。これもまた一長一短があるでしょう。ただ、すくなくとも何かを創造し、探究しつづけていれば、単なる家畜にはならずに済むのかもしれません。家畜にならずに済むことにどれほど価値があるのかは定かではありませんし、その未来においては才能同様に、家畜の意味もまた様変わりしていることでしょう。労働や創造が悪として再定義され、いかに消費しつづけられるか否かが人間としての優劣を決定づける社会になっているかもしれません。いずれにせよ、妄想の妄想でしかありませんので、いつも以上に真に受けないようにお願いを申しあげて、おやすみなさいの挨拶と代えさせてください)



2184:【ものさし】

他人をじぶんの物差しで測るな、といった言説をときおり耳にする。偏見で他人を推し量るな、という意味だろう。とくに異論はない。とはいえ、いっさいがっさいの比較をせずに他者と付き合え、というのはさすがに無理がある。何かしらの基準と照らし合わせて、比較をしないことには、よりよい人間関係は築けないだろう。物差しとは言い換えれば基準のことだ。ときにそれは常識であるだろうし、学歴であるだろうし、実績であったり、特技であったり、肩書きであったり、誰かしらからの推薦であったりするだろう。基準はいくらでも見繕うことができる。言い換えれば、他人を測る物差しは一つではない。できるだけ多くの物差しを使い分けられると、優れた他者とよりよい関係性を結ぶ確率をあげことに繋がるだろう。たった一つの物差しで、「あの人はこういうひとだから近づかずにおこう(或いは、お近づきになろう)」と線引きしてしまうのは、可能性の幅をみずから狭めているようなものだ(或いは、身の危険を引き寄せているようなものだ)。物差しだけの問題ではない。鳥は翼を広げるだけで、その全長が倍以上にもなる。他方で、翼を広げたカラスよりも全長の短い猫のほうが体重が重かったりする。何をどのように比べるかによって、どちらが秀でるのかは変化する。どんな物差しを使って、何を測るのか、そのとき測らなかったのは何で、どんな物差しを使わなかったのか。漠然とでよいので、欠けている情報があることを前提としたうえで、物差しの目盛を読む癖をつけておくと、より好ましい比較ができるようになるのではないか。人間関係にかぎらず、よりよい出会いを求めたければまずは、見逃している側面がどんな対象にも存在することを自覚しておくのがよさそうだ。なにより、じぶんにとって、どんな情報が欠けてしまうことがより大きな損失に繋がるかを事前に考えておくと、後悔する頻度を減らせるだろう。じぶんにとって何がもっともたいせつなのか。じぶん以外に何を求めるのか。もっとも根源に近いところから埋めていき、それを得るためには、では、何が必要なのかと逆算しておくと、せっかく得た手段や機会を棒に振ってしまう失態を演じずに済むのかもしれない。理想ばかりを追い求めてけっきょく何も得られないといった骨折り損を味わわずに済むためには、より多彩な物差しで測る習慣をつけておくことに加え、つねに新しい物差しが落ちてやしまいかと周囲に目を配る癖が役に立つのではないだろうか。落ちている枝や石だって使いようによっては、じゅうぶんに「はかり」として機能する。繰りかえしになるが、じぶんの物差しで他者を測ることがわるいのではない。一つの物差しでしか物を測ろうとしないことが問題なのだ。加えて、それが他人の物差しであれば、思わぬ落とし穴にはまる確率をよりあげるだろう。何を物差しとするかはつど、じぶんで決められる。何のどこを測るかはじぶんで決められるのだ。じぶんの物差しくらいは、じぶんで取り揃えたいものである。いずれにせよ、比較とは相対的な評価である。どんなに精度の高い物差しを使ったところで、あやふやな指標には違いない。それを測る者がお粗末であれば、誤差は増えるいっぽうだ。見逃し、見誤るのが人間だ、と戒めておくのが吉と言えそうだ。



2185:【下手だから飽きない】

いくひしさんは小説が上手でない。斟酌せずに言えば、下手である。上手であったらまず以ってこんなところに埋もれてなどいない。現代において、インターネット上に小説を載せてかつ十年以上埋もれていたら下手オブ下手と言っていいだろう。小説における上手い下手の基準は、二種類ある。一人の人間にどれほど深く感動を与えるか。そしてどれほど多くの者に読まれるか、である。宣伝の仕方によっては、誰一人感動させられずとも多くの者に読まれることは可能だ。しかしやはり上手でなければ、そもそも読まれることすらないだろう。この場合、読まれるとは、最後のページまで文字に目を走らせてもらうことを言う。そういう意味では、絶賛だろうと酷評だろうと、最後までページをめくらせれば、それは小説として上手だと呼べる。やはりというべきか、反応がなかったり、そもそも読まれなかったりした時点で、その小説は上手ではないのだ。とはいえ、たくさん読まれなくとも、たった一人にでも深く届き、感動させることができたならば、それもまた小説として上手だと言えるだろう。この場合は、上手というよりも、奇跡的と呼ぶべきかもしれない。上手であることと奇跡的であることは両立し得る。もっとも、上手であれば奇跡を起こせるかと言えば否だろう。たくさん読まれたからといって、誰かを深く感動させられるとはかぎらない。そうは言っても、確率の問題として、よりたくさんのひとに読まれたほうが奇跡を起こす確率は高くなっていく。上手であれば、奇跡を結びつける土壌を築きやすい。だからまずは奇跡を求めるのではなく、上手な小説をつくり、たくさんのひとに読まれましょう、とする流れが一般化している。問題はないだろう。いくひしさんには縁のない話なだけである。小説が上手なひとをうらやましく思うし、奇跡を起こしているひとを見れば、すごいなぁ、と感心する。だからといって、いくひしさんが小説をつくるのをやめよう、とは思わないし、思う必要もない。下手なことの何がわるいだろう? これもまたまったく問題がない。つくりたいものを、つくりたいときに、つくれるだけつくる。上手になるためにこれらを手放すくらいならば、いくひしさんは下手なままでいい。言うまでもなく、上手になれたうえで、いまのように好きかってに創作ができるなら、それに越したことはないのだが、さすがにそれは欲張りというものだ。いくひしさんは小説が上手でない。斟酌せずに言えば下手である。だからといって何がどうするわけでもない。つくれてしまうからつくっている。上手でないこと、下手であることは、やめる理由にはならない。飽きたらやめる。単純な理屈だ。読まれないこと、評価されないことを悩む道理がない。楽しめばいい。楽しくなくなるまでつづければいい。そして楽しくなくなったらやめればいい。休み休みつづけてもいいが、つづけることが偉いわけではない。一度きりの人生だ。好きなことくらい、苦しまずに、楽しもう。もういちどくらい並べておこう。下手なことの何がわるいだろう? まったくなにもわるくはないのである(その点、上手になりたいひとはたいへんだ)。



2186:【馬の耳に念仏、人の耳に正論】

人間の感情に寄り添うことと、論理的な妥当性を追求することは矛盾しない。たとえば、生物の習性を利用してよりよい環境を築こうとするのならば、物理現象だけでなく、生物がなぜそうした行動をとりやすいのか、その傾向を分析して、こうしたらああなる、のシステムを構築していくのが効率がよい。稲を虫に食われたくなければ虫が寄りつかないように虫の苦手な物質を撒く。雑草が生えないようにしたければその雑草が生えてこなくなる物質を撒く。ほかにもカモを放し飼いにすれば稲はそのままに虫だけを食べてくれる(なんて都合のいいことが本当に起こるのかは定かではないが)、など、生物の習性や構造を理解していればとれる策がいろいろとある。しかしこれが人間を相手にするとなると、途端に、感情という名の人間の習性を無視した策がとられがちになる。論理的に正しいのだから言うことを聞いてくれるはずだ、なんて横暴な態度をとってしまったりする。いくひしさんも例外ではない。真実、論理的に正しければ、相手を納得させたうえで、率先して協力させる術くらいは編めるはずだ。それができないのは、相手に提示した案に論理性が欠けているからだ。つまり、考えの足りない案だということになる。知恵が足りていない。だから余計な反発を生む。考えを重ね、より客観的に物事を観察し、論理的に考えを煮詰めていけば、どんな人間も道具のように扱えるようになるはずだ。しかし、それが善か否かはまた別問題になるのだろう。いわば、マインドコントロールであり、行き過ぎれば洗脳との違いを見繕うのは困難となる。ある種、対人関係で反発が生じるのは、相手を一人の人間として対等に接しているからだ、とも呼べるかもしれない。よくできた詐欺師はたいがい、誰からも好まれる。信頼されなくては騙すことができないからだ。なぜ好意的であったり友好的であったり、人から好かれなくてはならないかと言えば、じぶんの意見を相手に無理なく通すのに効果的だからだ。好感度が高ければ、じぶんにとって都合のよい環境を築きやすくなるからである。言い換えれば、問題を排除することに繋がる。余計な反発を招かないという側面も、見方を変えれば、相手をいかに掌握し、行動を操作できるか、という側面の裏返しでもある。責めているわけではない。ただ、そういう側面があることから目を背けていては、考えを煮詰めることから遠ざかるいっぽうだろう。人間の感情も、観測可能な物理現象の一種である(感情そのものが物理的に存在せずとも、身体の機能によって生じた何かであることは事実だ。たとえ人間が「感情がある」ように錯覚しているだけだとしても、錯覚するという情報処理を行っている事実に変わりはない)。任意の行動を引き起こすトリガーとなっている。なれば、そのトリガーを意のままに操れれば、人間の行動をも操ることができるはずだ。とはいえ、感情の厄介なところは、本人が哀しいと思っていても、端からすれば喜んでいるとしか思えないことが往々にしてある点だ。感情とは、行動に対するじぶんなりの言いわけであり、感情があるから行動するわけではない。飽くまでトリガーであり、きっかけであり、それでいて後付けの解釈でもある(ドミノは、最初の一手を倒す前の段階で、すべての駒は並び終わっている。きっかけがあるから倒れるわけだが、連鎖して倒れるのは、ほかにも無数のドミノが並んでいるからだ。この場合、きっかけと要因はべつであると言える)。人はじぶんで思っているよりもずっと、なぜじぶんがそうした行動をとったのか、或いは行動をとっているのか、を理解していない。よろこび勇んで行っていたはずが、じつは苦しんでいただけだった、なんてこともとりたてて珍しくはない。尻尾を振る犬を眺めて、あああれはよろこんでいるのだな、と考えるのは観測者たる人間の解釈でしかなく、じっさいに犬がよろこんでいるか否かはまたべつの問題だ。しかし、尻尾を振っている=よろこんでいる、と考えておけば、犬がつぎに起こす行動を予測しやすい。犬に(そして人)に感情があるのかさえ定かではないが、すくなくともあると分類しておけば、考える材料の一つにしておける。肝要なのは感情そのものではなく、習性である。こういうときは、こうなっているから、つぎはこうなるだろう、と予測をたて、その予測の精度が高まるように観察を繰りかえすことにある。論理的とはつまるところ、こうなればこうなる、の積み重ねだ。「こうなればこうなる」の前提条件が具体的であればあるほど予測の精度は高くなる傾向にあるが、その分、適用できる範囲も限られてくる。できるだけたくさんの事例に応用がきく「こうなれば」を発見できると、それは単なる理屈ではなく、法則として普遍性を帯びるだろう。頭がいいとは、おおむねこの「こうなればこうなる」をどれだけたくさん発見し、法則にしていけるか否か、にあると呼べる。法則と呼べるほどの精度がなくとも、例外を把握してさえいれば、精度が低くとも使い勝手のよい理屈となり得る。それはときに偏見とも呼ぶが、「そういう傾向もある」と前提して考えることで見通しがつきやすい利点があることもまた確かだ。可能性を羅列し、比較する段階では使い勝手のよい考え方の一つだと言えるだろう。いずれにせよ、感情を度外視した考え方は、現実の社会問題を紐解くにあたって、論理的とは呼べないだろう。すくなくとも考えが足りないと評価されても致し方ないかもしれない。



2187:【そのていど】

まいにち千字ずつ文字を並べたとして、あと五十年生きるとしたら、1000×365×50=18250000文字を並べられることになる。十万字で一冊分だから、だいたいあと182冊分の文章しか並べられないのだ。なんだそんなものか、と思ってしまう。これが毎日三千字だと、三倍の、547冊になる。これだとなかなかな分量に感じられる。出し惜しみしている場合ではなさそうだ。まいにち千字ずつ並べられるか怪しいところであるし、あと五十年を生きられる保障もない。可能であったとしても、100冊分の文字を並べていったい何になろうか。それでもまいにち千字くらいならできそうな気がするので、やらないよりかはやったほうが、暇つぶしとしてはよさそうに思える。気楽につづければよろしかろう。どうがんばっても、千冊には届かないのだから(とはいえ、まいにち6000文字を並べれば、五十年後には千冊に届くのだ。不可能ではないだろう。現に、分量だけならばそれくらいの文字を並べた者はいるはずだ。有名でないのは、それがおもしろいと評価されるような文章でなかったからだろう。端的に、読者がつかなかったのだ。そういう人生もあってよい。むしろ潔く、かっこよいではないか)。



2188:【逆説が成り立つ?】

こわい話をより怖くするてっとりばやい方法は、身体を冷やしてしまうことだ。冷房をガンガンにかけた部屋で怖い話をすればたいがいの話を怖く感じる。吊り橋効果の逆バージョンである。



2189:【幽霊がいると仮定して】

冷静に考えてみれば、幽霊のいる世界では、死後、幽霊になれないことのほうがよほど怖いだろう。じぶんだけ無なのだ。幽霊になれるのなら死ぬのは怖くないはずだ。そう考えてみると、幽霊を信じている人間が幽霊を怖がる道理が解からない。リストラされていない社員が、リストラをされたひとを眺めるようなものだろうか。いずれああなってしまうかもしれない差別心が、幽霊への恐怖の根源なのかもしれない。いい加減なことを言いました。申しわけありません。(炎上のほうが怖い)



2190:【おもしろい短編が読みたい】

世界の名作を短編(もしくはショートショート)にまとめ直した短編集が欲しい。世界の名作をマンガにしたのはあるが、小説の短編集はどうなのだろう。あれば読みたい。手元に欲しい。誰かつくってくれないだろうか(そして、ここにあるよ、と教えてほしい)。



※日々、衰え、落ちぶれ、腐っていると自虐して、弱い己の免罪符にしている。



2191:【言語の垣根】

音声なし動画の需要は今後拡大していくだろう。言語の違いによって動画を楽しめる層が分断されるのは機会損失に繋がるからだ。自動翻訳技術が発展しようと、字幕を好まない層は一定数いる。映画でも、吹き替えでなければ観ない、という層は増加傾向にあるのではないか(いくひしさんは字幕でないとむしろ観たくないひとである。日本語の映画でもできれば字幕で観たいくらいだ。音楽や効果音はそのままで音声だけ消せる機能があるとありがたい。字幕だと早回しでも楽しめるから好ましい。とはいえ、この感覚は少数派なのではないか、と疑っている)。音楽も徐々に歌詞のない楽曲が流行るようになっていくだろう。歌のある曲はまさしく、歌うための素材であり、カラオケやカバー曲専用として分類されていくようになるのではないか。あべこべに、音声のみの作品も需要が拡大していくだろう。作業をしながらでも楽しめる音声作品は、音楽やサウンドノベルやラジオドラマなど、動画や書籍の特典として、とかくオマケとして普及していくのではないか、と見立てている。オマケと言えども、時間が経過していくにつれてオマケのほうが目玉となっていくだろう。動画は動画のみに特化していき、音声作品は、音声作品として特化していく。言い換えれば、映画からはキャラクター同士の掛け合いやセリフが削られていき、そうした要素は音声作品がまかなうようになっていく。それぞれの長所に特化するように媒体は変質しつづけていくのではないか、と考えている。これは小説にも言えることだ。同じ言語であれ、世代やコミュニティによって馴染みある「言語の周波数」は変わっていく。どんな物語をどの周波数で編み、いかにピンポイントでその読者へと届けるか。ビジネスを成立させるうえで欠かせない視点はそこにある。「言語の周波数」は、なにも文体の違いにだけ表れるのではない。メディアミックスなどは、この周波数を大多数に馴染みやすいように変換する作業だと呼べる。そういう意味では、最終的に小説からいかに言語の垣根を失くせるか否かが、小説をビジネスに利用するうえで有利にたつ視点となっていくはずだ。これは小説だけでなく、あらゆる商品にも言えることである。ある意味、言葉を使って言葉では言い表せない事象を表現する文芸とは逆の技能が今後、あらゆる分野で問われていくだろう。すなわち、いかに言葉を使わずに言葉で表現された事象を伝えるか、である。動画にしろ、音声作品にしろ、デザインにしろ、これから必須とされる技能はまさにそこにあるのではないか、と底の浅い所感を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。



2192:【SNSの弊害】

SNSを利用した宣伝は、価値を蓄積することができない。更新を止めた時点で、これまでの労力が気泡に帰す懸念がある。更新を再開できれば、いくばくかは過去に貯めた知名度を使って、比較的効率よく評価を得られるだろうが、やはり実績と呼ぶだけの評価基準とは現状、なっていないように思われる。SNSで知名度をあげる流れが強化されればされるほど、SNSで有名になることの希少性がさがっていく。以前にも述べたが、SNSで見かける情報はSNSで見かけた、というだけで希薄な印象を需要者に植え付けかねない。セルフブランディングがだいじ、と謳っておきながら、ブランド力をさげる方向に尽力している企業が散見される。話題にされることがいちがいによいわけではない。炎上商法がいまなお活用されているのを見かけるが、いかに大勢の注目を集めるかよりも、どのように話題にされるのか、のほうがよほど考えるに値する価値があるように感じるが、あまりにあたりまえのことすぎて、そこを見落としてしまっている企業やクリエイターが増えていないだろうか。ブランド力を高める効果的な手法は二通りある。信頼を損なわない仕事を継続しつづけている姿を見せること、そして危機を乗り越えた姿を見せること。この二つを使い分ければ、たとえSNSで話題にならずとも、おのずとブランド力は高まっていくだろう。いずれも一筋縄ではいかないため、みな手軽にブランド力が高まって見えるSNSでの宣伝に走るのだろう。言うまでもなく、使えるものは使ったほうがよい。ただし、そこを柱にするのは危ういのではないか、とこれまたあたりまえのことを並べて、本日二度目の「いくひ誌。」とさせてください。



2193:【さいきん読書できていない】

過去の「いくひ誌。」を読んでみると、あーこのひとは何も知らないんだなぁ、とそのときのいくひしさんの側面が見え隠れする。せいいっぱい、そのときに見聞きしたことを組み合わせてそれっぽいことを並べているけれども、まったくぜんぜん、どうしてそこを具体的に言及しないのか、どうしてそんな論理の飛躍をしてしまうのか、と他人事ながらドギマギしてしまう。過去のいくひしさんは現在のいくひしさんとは別人である。客観的なこれは評価だが、社会的には同一人物として評価されてしまう。なんだかなぁ、といつも思う。自己同一性が連続しているなんてどうして信じられるのだろう。きょうのじぶんが、あすのじぶんと同じだなんて、いったいみなはいつ習ったのだろう。すくなくともいくひしさんはそんなことをひとから習った覚えはない。とはいえ、いくひしさんであっても他人との共通点はあるわけで、それは過去のいくひしさんとて例外ではない。そういう意味では、赤の他人よりかは似通っている性質がある点は否めない。ある一定の枠組みで共通点を保持していることを自己同一性だと呼ぶのならば、現在のいくひしさんと過去のいくひしさんは同一人物と判断して差し支えない。だが、同じ体験を共有しつづけていれば、赤の他人であっても、ある一定の枠組みで共通点を保持することは可能だ。いわば親友や家族や恋人は徐々にこうした共通点、ともすれば枠組みを構築していくのではないか。ではそうした他人とじぶんは自己同一性を保持していると呼べるのか。呼べないだろう。なぜならすべての記憶を共有しているわけではないからだ。共有できている記憶(外部情報)よりも、できていない記憶(外部情報)のほうが多いのだ。他人と自己を分かつ要素はそこに見出せそうだ。すなわち、いかに記憶を共有できているか、である。この場合、記憶を参照し、何を考えたのか、を含めた記憶も含めて共有できていないと、自己と見做せない性質が人間には備わっていそうだ。その点、いくひしさんは、過去のいくひしさんが何を考えていたのかをのきなみ憶えていない。過去の「いくひ誌。」を読み返してみても、ああそうだったそうだった、となるよりもむしろ、へえこのひとはこんなことをこんなふうに考えたのだなぁ、となるほうがずっと多い。これは「いくひ誌。」にかぎらず、過去の体験にしても同じだ。いくひしさんは過去のじぶんをじぶんだと思えない。すくなくとも学生時代のいくひしさんは、現在のいくひしさんにとっては存在していない。ぼんやりと当時の記憶があるようでなく、他人からの又聞きを脳内で再生したことがあるような気がする、といったあいまいな情景が再現されるばかりだ。要するに、他人なのである。しかしながら、過去のいくひしさんを知る人物に会うと、変わんないねぇ、と言われるあたり(ホントに言われているのか?)、いくひしさんが感じているほどには、いくひしさん自身は変質していないのだろう。ともすれば、いくひしさんの中身がいくら変わろうと、ガワが同じであれば、それはいくひしさんと見做されるのかも分からない。いっそのこと昆虫のようにつどサナギになって、まったく異なる外見に生まれ変われれば楽なのに、と思うが、いったい何が楽になり、現状何に苦しんでいるのかはさっぱりであるので、またぞろいい加減なことを並べているな、と自覚したところで、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。さいきん言い添える頻度が減ってきたので、付け足しておきますが、いくひしさんは正しいことを言えない誤謬だらけのヘチャムクレですので、ここにある文章を真に受けないように、おねがい申しあげます。



2194:【ここ半年でもっとも眠い日】

まいにち何かしら文章を並べていると、何を考えるか、どのように考えるか、が段々と偏ってくる。先鋭化していったり、深化する分にはいいのだけれど、どんなに優れた刀でも、まいにち研いでいれば、いずれはボロボロになって使い物にならなくなる。刀は使ったら、新しくどこからか仕入れたり、じぶんで鍛え直したりしなくてはならない。考え方や視点も同じで、段々とこなれてくると「型」に素材を放りこんで、反射的に「答えをだした気」になれるのだが、それは考えを煮詰めるのとは逆の方向性であると呼べそうだ。考えを煮詰めるというのはピンボールやトンネルを掘るようなもので、いろんなものにぶつかりながら、つど方向を修正し、出口があるのかも定かではない暗がりのなかを一歩一歩手探りで進みながら、それでも納まるところに納まるようにと祈るような心もとなさがある。本当に正しいかどうかは解からないのだけれど、いろいろなものにぶつかって、もうこれ以上は、この道を通るしかないのだ、と諦めるしかなくなるようなものが、考えを煮詰めた最後に行き着くこととなる最適解と言えるのではないか。いつでも最短ルートで目的地に辿り着ければよいが、目的地が明確である場合というのは存外に多くはないものだ。むしろたいがいの問題というのは、目的地も定かではなく、どういうルートが最短かも分からず、比べることもできないことがすくなくない。反面、なんとなくこうかな、といった直感がものを言うときもある。ただそれは、ズバリこれが最適解です、とだしてくれるような都合のよろしい予測ではなく、むしろ、そっちにいくよりもこっちのほうがよさそうじゃないかなぁ、といった漠然とした方向性であったりする。この方向性を示せることこそ、人間の知性の優れた点であり、直感や閃きの得意とするところだ。具体的な処理をこなす前の段階で、漠然としたゴールが見えているとしか思えない思考の仕方をすることが人間にはできる。ただしそれは、幾度も水が通り深い溝となった川に船を浮かべるような単純な回路ではない。すでにできあがっている道のりを辿るだけで答えに行き着くような思考の仕方は、直感や閃きとは相反している。考えを煮詰めたいときには、なるべく寄り道をしながら、ああでもない、こうでもない、といろいろな岩にぶつかり、ときに進路を曲げながら、本当はそっちに行きたくないのに、と思うような道を通ることになっても、しかしここしかもう通る道はないのだ、と諦めに似た心地でさきを進みつづける泥臭い考え方をするよりほかに術はない。ときには道幅を狭めるために、じぶんのそとからも岩を持ってきて、わざわざ進路を塞いでみたりもするとよいだろう。やっぱりこの方向ではこれ以上まえに進めそうにない、と判ることもあるはずだ。それはそれで直感や閃きが役に立たなかったと認めるよりない。方向性が間違っていたのだ。なれば、ほかの方向に進路を変え、ふたたび泥臭い作業をつづけるのが、より正しい最適解を手にするのにもっとも効果的な術と言えそうだ。けっして効率的とは呼べないが、効果はすくなからずあるはずだ。ややもすれば、水道管を通った水よりも、土の中を幾重にも通った湧水のほうが澄んでいるのに似た効果があるかもしれない。最適化され、先鋭化された回路にもむろん利点はあるが、考えを煮詰める場合にはむしろ、回路とはならないような無理筋を敢えて取り入れる姿勢が回り回って、実を得ることに繋がるのではないか。もはや眠くて何を並べているのかもハッキリとしていないが、こうしてそれっぽいことを手癖で並べるのではなく、きちんと資料や反証や類書や仮説をとりそろえ、吟味し、比較しながら考えを深める習慣が、物を考えるうえでは欠かせないのではないか、とこれまでのいくひしさんを戒めて、ついでに眠すぎて朦朧とした人間はこういう文章を並べるのだな、と示したところで、本日の「いくひ誌。」とさせてください。



2195:【愚痴のように聞こえますか?】

他者へ呈する助言の定番に、自信を持ちなさい、との言い方がある。自信を持っていたほうが迷わずに済むし、底力を発揮しやすいからだろう。言い換えると、じぶんが立っている舞台のほかにも、無数の舞台があることに気づかないでいたほうが馬力はあがるようだ。ほかの舞台に立っている者をわざわざじぶんの土俵に引っ張りこんで、ほら見ろ私のほうが上ではないか、と安心できれば、ますますじぶんが好きになって、思う存分チカラを振りかざすことができる。いくひしさんも例外ではなく、このような比較をついしてしまうことがある。しかし、相手には相手の舞台があり、理想があり、歩んできた足跡と、そしてこのさきに歩んでいくだろう筋道がある。それをわざわざ、そっちに行くなんて遠回りだよ、ばかだなぁ、なんてじぶんのよく知る道と照らし合わせて助言という名の評価をくだしたりするのは、いささか大きすぎるお世話なのではないか。端的に言って、見下しているのである。たしかに「その舞台」であればその人物は優れているかもしれない。しかし、ほかの舞台に立ってまで同じように技能を発揮できるかは微妙なところだ。そもそも、技能とすら見做されないかもしれない。じぶんの属するコミュニティや舞台で評価される技能も、ほかではマイナスの要素にしかならないこともある。往々にしてそうだ、と言ってしまいたいほどであるが、さすがにそこまで顕著ではないだろう。技能は融通がきく。身体を動かすのが得意な者は、どんな種目でも一定以上の成果を発揮する。同様に、ある程度の知識や思考形態(体系)を備えている者は、ほかの分野であっても比較的滑らかに学力を発揮できる(この場合の学力とは、文字通り、学ぶチカラのことである)。だからこそ、それゆえに錯覚してしまいやすいのかもしれない。じぶんは実力がある、ほかのやつらよりも格上だ、なぜなら一定以上の体力(学力)を備えているからだ、と。そうしたはやとちりは、一部では正しいのだ。ほかの分野の素人よりかは(成長度合い以外の)すべてにおいて勝っているかもしれない。だからといって、その分野の玄人と比べても勝っていられるかと言えば、これに関しては、いささか疑問を禁じ得ない。百メートル走で世界一になった人物が、では絵画の世界で上級と称される人物よりも絵が上手かと言えば、答えはおおむね否だろう。何を以って上手かによっては、百メートル走での世界チャンプの絵のほうが上と評価されることもあるかもしれない。たとえば単純な売り上げでみれば、世界一の絵描きのサインよりも、百メートル走の世界チャンプのサインのほうが高値がついてもふしぎではない。サインでなくでは絵だったら、と考えても、これは同じだろう。何を比べるかによって優劣はいともたやすく逆転する。しかし、こんな単純な理屈を忘却し、ほかの分野があることにも目もくれず、じぶんの立つ場所こそゆいいつの舞台であると錯覚して、そのまま抜け出せなくなってしまっている者を、ときおり身近に見かけることがある。とくに問題はないのだ。いまはまだ。ただ、その舞台がいつまで存在していられるかがまず不確定であり、同時に、いつまでそのひとにとって都合のよい舞台でありつづけるのかもまた不定だ。ほかの舞台に吸収されてしまうかもしれないし、ほかの舞台の輝きにかき消されてしまう可能性だってある。そもそも、舞台だと思っていたのはじぶんたちだけで、視点を広げてみたら、端から舞台としてすら見られていなかった、といった悲劇も引き起こり得る。なんにせよ、舞台は一つきりではない。そして数の問題として、ほかの舞台のほうが輝いている可能性は高いのだ。じぶんにとってすばらしく感じられる舞台であっても、ほかの大多数からしたらそうでもない、といった錯覚は有り触れている。言うまでもなく、大多数から支持された舞台こそが正しく、より高尚な舞台だ、と言いたいわけではない。ただし、他人をじぶんの土俵に引っ張りこんで比較し、悦に浸るようであるならば、そもそもがじぶんの立っている土俵自体がほかと比べて優れていることを示す必要性が生じてしまう。他人との優劣に価値判断を置いてしまった時点で、じぶんの属する舞台は、世界中の舞台との比較に晒されてしまうことになる。それでもなお、じぶんの舞台には唯一無二の価値がある、と胸を張れるのならばたいしたものだ。たとえそれが錯覚だとしても、ほかの無数の舞台を直視し、それでもなお驕りつづけていられたならば、それはそれで得難い価値観(世界観)だろう。ただし、あくまでそれは、ほかの無数の舞台を直視し、じぶんの舞台と――なにより自分自身と比較できた者にかぎられる。たいがいは、ひとつ、ふたつの舞台と比較して、じぶんたちの舞台のほうが優れている、と判断しているのではないか。すくなくともいくひしさんは、じぶんの立っている舞台が――それはときに小説であるわけだが――とくべつ優れた土俵(媒体)だとは思っていない。文豪と呼ばれている作家にしても、近所の年配者と何が違うのか、と疑問に思っているほどである。むろん、おもしろい物語を編む技能には目を瞠る。しかしそれと、おいしい料理をつくれたり、掃除が上手だったり、考えるよりさきに相手のために親身になれる才能とは、どれほど価値に差があるだろう。比べられることではない、それはそうだろう。しかし仮に無理に比べてみたところで、各自状況に応じた利点があるにせよ、おおむね大差はないと言っていいように思うのだ。それぞれがそれぞれに特化した状況があり、それぞれがそれぞれに無用の長物化する局面がある。比べることに意味がない、と言っているのではない。比べるならきちんと、とことん比べてみてはどうか、と言いたいのである。もし満足に比較ができないとしても、じぶんはまだ比較しきれてはいないのだ、と判断できれば、おのずと視野は広がるだろう。自信を持つことは馬力をあげるのに繋がる。実力をつけるには即効性のある対処法かもしれない。しかし、長い目でみればむしろ、根拠の有無にかかわらず盤石の自信を持ってしまうことは、視野が狭まってしまっていることの裏返しでしかないのではないか、と思うのだが、それはそれとして自信がないことのデメリットもまたあるので、自信を持つな、と言いたいわけではない旨を告げて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。



2196:【存在しない存在になりたい】

じぶんにとってたいせつなことがその他大勢にとって歯牙にもかからないような些末なことであると、他者と繋がるのが面倒くさくなる。こちらばかりが相手を尊重しているような気分になってしまうからだが、これは思いあがりにすぎないこともまた自覚している。相手が真実に何をたいせつにしているのかなんて解かりはしないのだ。じぶんばかり損をしているなんてことはあり得ない。相手を尊重できていないのはこちらも同じなのだ。問題なのは、これに気づいたところで、否、気づいたからこそ余計に他者と関係するのが面倒くさくなってしまうことだ。尊重しあえている、と錯覚できることだけがゆいいつの打開策かもしれない。しかしこれもまた面倒くさいのだ。



2197:【繋がれる奇跡】

他人と関わったり、繋がったりし合える人間は、ただそれだけで得をしやすくなります。社会に内包され、社会からの恩恵をより多くもたらされるには、その特技が必要だからです。社会はその特技によって築かれていると言ってもいいかもしれません。卵がさきか、鶏がさきか、悩ましい問題ですね。一般的には、他者と関わることを特技とは呼ばないでしょう。しかし、それが乏しい者にとっては、特技以外の何物でもないのです。才能と言ってしまってもよいかもしれません。他者と関わることがストレスでなく、脳内麻薬が分泌されるような娯楽の域に位置づけられる者は、神からの贈り物を受け取っているのと変わらないのです。社会に特化した技能をその身に宿していると言えるでしょう。他者と繋がれるのは才能であり、奇跡と言って言い過ぎではないかもしれません。とてもすばらしい才能だと思います。珍しく褒めちぎってみました。でも、褒めて、ちぎる、なんてひどいことをするものですね。むしゃくしゃしていたのかもしれません。申しわけございませんでした。



2198:【願望】

コミュニケーション能力や人脈が重宝される社会は、他者と繋ながらなければ生きていけない社会の裏返しでもある。他者と繋がらずとも生きていける世のなかになると才能のないいくひしさんにとっては好ましく映ります。



2199:【馴れ馴れしくしよう?】

礼儀をちゃんとしよう、挨拶をちゃんとしよう、よりも、上下関係をつくるな、誰とでもフレンドリーであれ、みたいな方向に社会が動いているように感じられる。それはたとえば、年上だからえらそうにするな、腰を低くしておけ、といった助言が有効とならない。実るほど頭を垂れる稲穂かな、ではないのだ。年上とか年下とか実力とか実績とか関係ないのだ。平等に、みな仲良く楽しくやりましょー、といった感覚でコミュニティを築く若い世代が増えた気がする。極々狭い範囲、それこそ身近な二十代から十代を眺めての所感であるので、一般化はできないが、すくなくとも、誰にでも友達のように接することが「馴れ馴れしい」ではなく、「好ましい」に変化しつつあるように感じるきょうこのごろである(2019年8月15日)。



2200:【礼儀は共通言語】

他人を見下すのは好ましくないが、他人から見下されている、と判断するのもまた気を付けたほうがよいかもしれない。何を以って見下されていると感じるのかは、思いのほか人による。真実、見下されているとどうしたら判るだろう。相手を小馬鹿にして、それを以って親しみを演じるコミュニケーションがあることをいくひしさんは知っている。敢えて笑みを見せることで敵意がないことを示すのと同様に、敢えて小馬鹿にすることで、あなたとはこの程度のことで関係性が崩れたりはしませんよ、と暗に示すのだ。ジョークを言いあうのも似たようなものだろう。身内にしか通じない暗号のようなもので、笑いを共有できることが身内である証と見做す風習が、さまざまなコミュニティで見受けられる。そのジョークが相手の見た目を小馬鹿にすることであったりすると、これはときに相手から誤解され、険悪な関係性に発展しかねない。見下しているつもりがなくとも、そう捉えられる可能性があることくらいには気づいておきたいものである。そういう意味ではやはり、どんなコミュニティにも通用する共有のコミュニケーションがあると好ましい。それがつまり「礼儀」なのだろう。最低限それをしていれば悪者にならずに済む【共通言語】である。




※日々、人を傷つけ生きている。



2201:【自信がない】

自信を持つことのデメリットを「いくひ誌。2195」で述べた。では自信がないことのデメリットとは何かを今回は並べていこう。一般的には自信がないことは短所として語られがちである。なぜだろう。一つは見た目の問題がありそうだ。自信がないと挙動不審になり、おどおどしたり、はっきりと物が言えなかったり、断言できなかったり、自己主張が乏しかったりする。そうすると周囲の人間からの信用を得られにくくなるために、まずは自信のあるように堂々と振る舞うのがよいとされる風潮ができあがっていくのではないか、と考えられる。反面、この風潮が強化されていくにつれて、本当は自信がないけれど損はしたくないのでひとまず自信のあるフリをしておこう、と考える者が増加する。そうした者は、本当は自信がないのに周囲の人間から過剰な信頼を寄せられるようになり、けっきょくじぶんの首を絞めることに繋がりそうだ。この場合、自信がないことが問題なのではなく、自信がないのにあるフリをしてしまうことがよろしくないと言えそうだ(そしてそういう人物が増加していけば、自信のあるフリをするメリットも減少するため、本当に自信がある人物ですら自信のある態度をとらなくなると想像できる。言い換えれば、長期的に見れば自信があるフリをするメリットはないのだ)。また、自信がないとなかなか決断がくだせない傾向にありそうだ。決断が遅れれば徐々に行動に移す機会を失くしていき、やがては殻にうずくまったまま何の成果も得られなくなる悪循環が生じてしまいそうだ。たとえば、試験に合格するだけの能力はまだ身についていないから、あれとこれとそれをマスターしてから試験に挑もう。こう考え、いつまでも、あれとこれとそれを増やしつづけていては、いつまで経っても試験は受けられない。しかしこれは慎重さの裏返しでもあり、行動さえとりつづけていれば、この短所はまたとない長所ともなり得る。あれとこれとそれをマスターしつつ、試験だけはそのつど受ければよいのだ。完璧になってから行動に移すのではなく、完璧を目指しながら行動に移せばいい。とはいえ、ここですこし疑問が生じる。果たしてそのことと自信がないことは関係があるのだろうか、と。どうせじぶんは何をやってもダメだから、と行動する前から諦めてしまうのは(或いは先延ばしにしてしまうのは)、自信がないのではなく、想像力がないのではないか。この場合、本当に必要なのは自信ではなく、想像力のはずだ。どんなに無力な人間であっても、何か行動を起こせば、結果が生じる。望んだ成果ではなくとも結果を知れるというのは、それだけで成果と呼べる。何もしないことと、何かをして失敗することのあいだには大きな差がある。越えられない差だと言ってもよい。それゆえに、ときには取り返しのつかない結果を招いてしまい後悔するハメにも繋がる。無闇に行動すればいいというわけではないのだが、この場合、何事も断言できないがゆえに慎重に事を進めてしまう自信のなさはプラスに働く。短所ではなく、ここでも自信のなさは長所に転じる。長くなったので、ここでまとめよう。おどおどした見た目や、なかなか思いきった行動を起こせない性質は短所にならない。いずれも問題は、「周囲の偏見」や「想像力の欠如」であり、自信のなさそのものが要因ではない。そして周囲からの偏見は長期的に見れば改善されていくし、想像力の欠如も、自信のなさが要因ではないと気づければ自ずと補完されていくだろう。自信がないことの短所を並べようとしてみたが、裏腹に肯定的な文章になってしまった。補足として、自信がないから他人からの好意や褒め言葉をすなおに受け取れない、といった短所もときおり耳にする。しかしそもそもの話として、なぜ好意や褒め言葉をすなおに受け取らなくてはならないのだろう。それが悪意やわるぐちであれば、私はそうは思いません、と異議を唱えるのは何もおかしくはないいっぽうで、なぜ好意や褒め言葉であると、私はそうは思いません、と言ってはならないのだろう。本人にとっては、ぜんぜん「出来」に満足できていないのなら異議を唱えてもよいはずだ。相手がこちらをどのように評価しようとそれは相手のかってだが、相手がそれを伝えてきたならば、相応に応じる道理はあるはずだ。せっかくの好意を無下にされた、と憤る気持ちは理解できるが、感謝されて当然だと思いあがっているようなら、それは単なる驕りであろう。真実に好意があり、すばらしいと思っているのなら、本人ではなくほかの者に薦めるといった方法もあるはずだ。いずれにせよ、自信がないことがよくないことだ、といった風潮は、単に望んだ反応を返してもらえない者たちのひがみでしかないように思うのだが、これはいささかひねくれた見方だろうか。自信を持つことよりも、「どんなものであれ周囲に作用を働かせれば反作用を受けるし、誰もが他者に影響を与えている」ことに自覚的であることのほうがよほど優位に行動に移せるようになるのではないか、そしてそれは望んだ成果をあげやすくなるのではないか、と思っているのだが、これもまたいささか偏った物の見方であるかもしれない。ともすれば、自信のない者の味方になりたいだけなのかもしれない。自信がないことはいくひしさんにとっては長所に映りやすい。育むべきは、思考形態(体系)や想像力であり、じぶんを信じるなんて信仰心ではないはずだ。じぶんを信じなくたって、行動を起こせば人は何かしらの影響を世界へ与えている。わざわざじぶんを信じる必要などないのである(むろん、何を信じても個人の自由だが)。



2202:【味方とは】

味方とは何だろう。同族と見做したり、仲間と見做したり、チカラを貸したり、加勢したり、或いは単に応援をする者のことを言うのかもしれない。しかし、味方と仲間はイコールではなさそうだ。仲間同士であっても利害が一致しなければ仲たがいをしてしまうが、味方はどうやらそうではないらしい。仲たがいをしようが袂を分かたねば仲間は仲間として認められる。だからこそ派閥が生まれるのだ。派閥は、同質のコミュニティ内における対立構造であり、基本的には同じ目的を見据えている仲間なのだ。目的は同じだが方針が違う場合に派閥となりやすいと考えられる。その点、味方はどこまでいっても味方である。コミュニティのいかんを問わず、味方なら味方であり、味方でなくなればたとえ仲間であっても味方ではないのだ。味方とは「まえ」や「うしろ」のようなものかもしれない。じぶんにとってはどこを向いても「まえ」は「まえ」だ。しかしどれほど「あなたの味方です」と言ったところで、相手が寝転がっていたら、こちらの見ている方向はその人物にとっての「まえ」とはならない。いくら口で味方と言ってみせたところで、真実加勢になっているかは微妙なところだ。裏から言えば、味方のつもりでなくとも加勢になってしまい、相手からしたら味方のような存在になってしまうことも充分にあり得る。それはときに、敵の敵は味方だ、といった言い回しで形容される。言い換えるならば、味方とは、属性ではないのだ。じぶんにとって好ましい作用の別名だと言える。したがって本質的には、「あなたの味方です」という言い方は成立しない。そこに含まれているのは、「あなたは私の味方です」であり、さらに言い直せば、「あなたは私にとって好ましい作用です」となる。じぶんにとって好ましい作用を及ぼすから、味方という名を与え、じぶんに有利に事を進めようとする意思がそこには見え隠れする。仲間同士であればたとえ相手から嫌われようが、同じ目的を果たすために敢えて相手を傷つける場合もあるだろう。派閥はその前兆であり、拮抗であり、余波とも呼べる。しかし味方の場合は、どこまでもそのまま作用を働かせつづけてほしいので、歯止めをかけたり、異を唱えようとすることはまずないと言っていい。もしそのような修正をかけたい思いに駆られたら、そのまま距離を置き、さよならをする。なぜなら修正を加えたいと思った時点ですでに味方ではないからだ。じぶんにとって好ましい作用ではなくなっている。ゆえに、「あなたの味方です」などと言って近づいてくる相手には気をつけたほうがよいだろう。同じ目的を共有しているのならば仲間に招き入れるのも一つかもしれないが、そういう人物はたいがい派閥の種となる。じぶんの意にそぐわないことは端から受け付けない。だから味方などと言って、すり寄ってくる。じぶんのチカラだけでは現状を打破できないからだ。一概にそれをわるい、と言っているのではない。ただ、味方であることが清く正しい行いであるかのように言いふらすのはいかがなものか、と疑問に思ってはいる。正義の味方、という言い方がある。これは言い換えれば、じぶんにとって好ましい正義であれば許容しますよ、と言っているようなものだ。その正義が暴力を振るっても、強硬に打ってでても、「味方」であるから特別視し、許容する。いかがなものか、と思わないだろうか。味方なんてくだらない、と言いたいのではない。誰であれ、じぶんにとって好ましい作用はあるはずだ。それを応援し、環境に増えていけばよいなぁ、と思うことは何も責められたことではない。ただ、それを「味方」という言い方に押しこめ、隠し、さも誰かのためであるかのように偽装するのは、どことなく、ブレーキの壊れたトロッコと似た印象を覚えないだろうか。繰りかえすが、「あなたの味方です」は、「あなたは私にとって都合のいい存在です」の言い換えにすぎない。味方だからといってその者が必ずしも「あなたにとって好ましい」とはかぎらない。奴隷の味方だと言って近づき、付け心地のよい鎖をあなたの足にはめる者だっているだろう。あなた方の味方です、と言って近づき、効率のよい自爆テロの仕方を伝授する者だっているだろう。一見すればじぶんの味方に見えるからといって信頼したり、気を許すのには慎重になったほうが好ましく思うしだいだ。(言うまでもなく、その日の気まぐれに並べたこれは妄想ですので、真に受けないようにお願い申しあげます)



2203:【メモ】

以下は、又聞きのよもやま話なので真に受けないように注意してください。世界各国に点在する租税回避地、いわゆるタックスヘイブンは、そこを企業の本拠地としてしまえば税金を払わずに済むという意味で、企業や資本家がこぞって籍を置きたがる(たいがいはダミー会社だ。タックスヘイブンに登記しているだけで、実質的な本社はべつにある)。タックスヘイブン化した街や州は、資本力のある企業や技術者が集まってくるので、金の回りがよくなり、財政が潤う。いわば、WIN:WINの関係性が築かれるが、しかし本来払われるべき税金が各国に入らなくなるので、ほかの国からすればいい迷惑である。また、タックスヘイブン側にもデメリットがないわけではない。たとえば資金洗浄(マネーロンダリング)を目的にマフィアが集まり、治安がわるくなることが懸念される。マフィアがはびこれば、正規のビジネスが阻害され、健全な競争原理が働かなくなることが予想できる。そうなれば経済がより円滑に流れることを見込んで税金をかぎりなくゼロにしている街や州は、その恩恵をうけにくくなる。また、治安がわるくなれば観光客も入ってこなくなり、税収を期待できないタックスヘイブンでは、やはりマフィアの存在は懸案事項となっていそうだ。それに関係しているのかは定かではないが、現在、アメリカを中心として世界的にマネーロンダリングを規制する動きが盛んになっている。日本でも、2019年の10月に「第四次FATF」と呼ばれる審査が予定されている。日本の金融機関や仮想通貨を含めた各ネットサービスにおいて、マネーロンダリング対策がどこまで実施されているかを評価するのが目的だ(評価が低ければ国際的に日本の金融機関の信用度がさがり、株価や為替に影響するだろう)。仮想通貨やオンラインゲーム、ネットオークションや代理決算サービスなどがテロ組織の資金源になっていたり、資金洗浄の場と化していたりと、世界的な問題として俎上に載りはじめている。これは歪んだ経済を是正するためだけが目的ではない。不正規な手段で資金を集めることが可能であると、対立国にいくら経済制裁を実施しても効果がないために、それを防止するためのいわば、一種の「兵糧攻め」の側面がある。以前にも述べたが、現在はすでに第三次世界大戦に突入しており、これは以前のような殺傷兵器を用いない、貿易戦争なのではないか、と妄想している。熾烈を極めれば、徐々に財政破たんする国が増えていくだろう。もっとも、破たんしそうな国は、破たんしてしまう前に経済的に余裕のある国の傘下へと入り、不利な条件のもとでこき使われるようになるのではないか、と想像している。もはや現代において、世界征服を目論んだところで、領土を広げる意味はない。必要な資源やエネルギィや、技術や労働力は、ほかの国から搾取すればよいだけなのだ。ましてや、破たんした国の民など重荷以外の何物でもない。そうして経済力のない国は、食物連鎖のように豊かな国を生かすための供物と化すのではないか。現にそうなりつつある気がするが、いかがだろう(歴史にはまったく明るくないので、偏見でしかないが、アフリカや中東はすでにそうした雑な扱いをされてきたのではないか。そうしたなかで経済力をつけ、これから、というときにこんどは明確な首輪をはめさせられてしまうのではないか、とこれまた雑な印象を並べておきます)。とはいえ、上部層に位置する国からしてもテロや紛争は好ましくはないだろう。餌が、餌同士で傷つけあえば、いらぬ世話を焼かなければならない。なれば、ある程度の甘い汁は吸わせておくのが道理であり、傘下に入り、従属する側の国となっても、豊かでないだけで(発展しないだけで)、文明がいまよりも低下するようなことはないのではないか、と妄想している。この場合、仮に上部層に位置する国と争わなければならなくなったときには、即座に降伏しておくのが賢明である。勝とうとすれば双方共に痛手を被り、勝ったところで、世界経済の指針とならなければならない。アルバイトが社長の代わりを務めるようなものだ。であるなら、争うのではなく、協力し、役に立つことをアピールすれば、待遇はよくなっていくだろう。もっとも、その会社がブラック企業であれば、唯々諾々と指示に従っていれば、いずれはいまよりもこっぴどく搾取されるようになるだろうことは、社会を見回すまでもなく導かれる自明なのではないか、といい加減なことを並べて、筆を擱くとしよう。(お断りするまでもなく、いくひしさんの歴史観は、正確性に欠けており、極めて偏っております。歴史のみならず、経済や政治に関しては小学生以下の知識しか持ち合わせていませんので――ともすれば、勘違いに錯覚、偏見に差別意識が根付いてしまっていてむしろマイナス、くらいなものですから、ふだん以上に真に受けないようにお願い申しあげて、本日の「いくひ誌。」とさせてください)



2204:【呼吸】

呼吸法がだいじ、というのを何かと耳にしたり、読んだりするので、ためしに意識して呼吸を深くするようにしたら、体調がぐっとよくなった。偽薬効果かもしれないが、すくなくともじぶんの呼吸が思っていたよりもずっと浅かったことに気づけたのはプラスだ。いくひしさんは呼吸が浅いのだ。きちんと肺をというか、横隔膜を使って呼吸をしていなかった。横隔膜を使うということは、肋骨が広がったり、膨らんだりするわけで、ふだんよりも多くの空気が身体のなかを出入りすることになる。そのせいなのか、これだけ気温が高く、連日暑い気候がつづくなかで、そとにいても、呼吸を深くしていると寒気を感じるのだ。呼吸を深くしたことで体内の熱がふだんよりもそとに排出されているからではないか、とにらんでいるが、定かではない。汗は掻くが、身体のけだるさは解消されたように感じる。これも単なる錯覚である可能性はそう低くはないだろう。ただ、やはり身体が軽く感じ、視界もどこか広がった気がする。いくひしさんはこれまで、「呼吸法? はいはい、プラシーボ、プラシーボ」とバカにしていた気があるけれども、どうやらまったく効果がないわけではないようだ、と認識を改めた。それはそうだ。火だって酸素を送れば激しく燃える。身体だって、病人や患者には酸素吸入を施すのだ。呼吸を深くし、酸素をたくさん供給すれば、身体の働きはそれに応じた影響を受けるのが道理である。ましてや横隔膜の動きに連動して、ろっ骨や内臓が動くわけで、ある意味、全身運動をしていると言ってもよいのではないか。人間は日に二~三万回も呼吸をしているそうなので、なるほど、その一回一回を意識して深くすれば、相当な運動になるな、と認めざるをえない。ひとまず、口で息を吸わないようにすること。そして吸うよりも吐くほうを長くすること。さらに横隔膜を使う意識で、肋骨が広がる感覚を覚えるくらいに深く呼吸をする――これを継続してみて、長期的な身体の変化を、主観、客観共に観察してみようと思うしだいだ。



2205:【外部を意識せず、排除もせず】

外部の視線を意識すると手が止まる。しかし外部を排除すれば独りよがりで他者と共有し得ない「いびつ」ばかりができあがる。ならば、外部の要素を取り入れ、自己の一部としてしまってから、じぶんの内部に閉じこもり創作するのがよさそうだ。創作する以外ではじぶんのそとに目をやる習慣をつけておくのが創作を表現へと昇華するのに役に立つと言えそうだ。



2206:【概念虫】

帰属意識や仲間意識といった概念は、個々人に寄生するウィルスみたいなもので、宿主の数が増えていくにつれて、気体が液体に、やがては固体になるといった具合に、巨大な「概念の化身」として顕現するのではないか。人はみな、そうした巨大な「概念の化身」に操られる駒であり、人形にすぎないのではないか。社会性とはすなわち、この巨大な「概念の化身」にいかに抵抗なく操られ、最適化できるか否かなのではないか、と妄想してしまう。じぶんがいったいどんな巨大な「概念の化身」の一部なのかを、ときおりでよいので、主観から離れて眺められる術を磨けるとよいのではないか。じぶんに巣食っている「概念虫」が、いったいどんな巨大な「概念の化身」の一部なのかを、俯瞰できると好ましい。「概念虫」はときに、常識や一般論として、あなたの私生活をあなたの内側から支えるが、主体は飽くまであなたであることを忘れないようにしたほうが、望まぬ選択肢を選ばずに済むようになるのではないか。共生する分には「概念虫」はあなたを補助する因子となるが、依存してしまえば、あなたはあっという間に蝕まれ、巨大な「概念の化身」の細胞と成り果てるだろう。「概念虫」にはたくさんの種がある。言葉はおおむね、「概念虫」と言っていいだろう。物語も例外ではない。というよりも、物語こそ「概念の化身」の繭と言ってよい。正義や愛、仲間や味方といった、一見すれば薬に見える「概念虫」にも注意しておきたいものである。(ちなみにさいきんとくに注意を払っておきたいな、と思う「概念虫」は、ダサい、である)



2207:【解決と発見】

このさきの社会では問題解決能力のある人材よりも、問題発見能力のある人材のほうが需要が高まっていくのではないか、といった主張を目にした。内容そのものに関してはとくに異論はないが、ところどころ言葉のマジックが使われているな、と感じた。たとえば、問題を解決するには問題がなくてはならず、このさきの社会では徐々に問題そのものが減っていくので問題発見能力のある人材が必要とされていく、とのロジックが展開されていたわけであるが、問題が発見されたつぎの段階では、問題を解決しなければならないわけで、けっきょく問題解決能力のある人材は不可欠である点がまったく指摘されていなかった。また、本質的に、問題を解決することと問題点を突き止めることはセットである。切り離せる関係性にない。言い方がわるいが、不具合を発見するのは誰にでもできるが、なぜ不具合が表れたのか、どこに問題点があるのかを突き止められる者は案外にすくない。そして往々にして問題を解決する術を有しているのは、こうした問題点を突き止めることのできる人材だ。たほうで、不具合が起きる前から問題点を指摘し、事故や事件を未然に防止する人材はこれから需要が高まっていくことは想像できる。リスク管理はいつの、どんな社会であっても必要とされてきた。そして、そのリスクの発生確率が高くなくとも、現代社会では何かしらの対策がとれるようになってきている。それだけ社会が豊かになり、技術が進歩してきているからだ(つまり余裕がある)。もっともこれに関しては、これまでの社会では、まだ発生していない不具合を未然に防いでも正当に評価されない傾向にあった。ひょっとしたら何もせずとも問題は起きなかったかもしれないし、余計なコストをかけただけなのではないか、と判断されてきた背景がある。それが現在では、世界的な事案を短時間で参照可能であり、各分野の専門家も多い。防止策が有効だったか否かの因果関係は、統計的に判断可能な時代に突入している。ゆえに、問題発生の未然防止策を打てる人材は、これからますます重宝されていくだろう。このことを、問題発見能力のある人材が重宝される、と言い換えるのならば、その意見に異論を唱えるつもりはない。とはいえ、そうした「問題発見能力指向主義」の主張では、問題解決能力のほかに「予測」の価値もまた下がっていくとも意見されており、それに関しては疑問を呈しておきたい。というのも、問題発生の未然防止策には、事象の予測が欠かせないからだ。短期から中期、そして長期的な事象の流れを予測しなければ、リスクを測ることはできない。リスクが測れなければ、未然防止策もたてられないのが道理である。また、社会は技術を高めつづけており、一つの問題点における対策は比較的すみやかに社会に波及していく。そういう意味では「問題発見能力」を職業に活かすためには新しい問題をつねに発見しつづけなければならず、これは明らかに再現性に難がある。それを、生産性と言ってもよい(同じ類の問題であれば、深層学習でAIに代替可能だ)。「問題発見能力指向主義」の主張におかれては、この生産性を追求する姿勢もまたつぎの時代では徐々に価値を失くしていくだろう、と述べていた。しかし、問題解決能力と同様に、「予測」や「生産性」は依然として将来的に必要とされる評価基準であろう。なぜ問題を解決しなければならないかと言えば、その前段階として何かを創造し、それを社会に適用し、最適化する必要性に迫られるからである。商品であれば必要としている者の手に届くように工夫しなければならないし、サービスであればより満足されるように改善しつづけなければならない。インフラ設備であれば、その両方を満たしつつ、安全性と補完性を兼ね備えなければならない。もし設備が機能しなくなったとしても「替え」がきくような設計になっていなければ、災害に見舞われるたびに社会基盤が揺らぐことになり兼ねない。つまり、どんな手段や手法にしろ、合理化は追求されていくこととなる。これには「予測」や「生産性」が欠かせない。言い換えれば、「仮説検証」と「技術力の向上」であり、さらに言い直せば、「研究」と「短縮」である。いずれにせよ、問題を解決し、環境をより好ましい状態に整えていく者の需要はいつの世も安定して保たれている。変化するとすれば、どんな問題を解決できるのか、といった専門分野の需要だろう。類型可能な問題は対処法が比較的短期間で共有される傾向にあるので、仕事の種にしにくい。その点、個別のケースごとにつど問題点を探らなければならないような事案の場合には、仕事として長期にわたって生業としていける可能性が高いと呼べるだろう。繰りかえすが、問題解決能力と、問題発見能力はセットである。切り離せるようなものではないのである。



2208:【何を好きなの】

空焚きしても壊れない熱量と器を。結果が伴わなくとも失われない情熱と身体を。



2209:【それっぽいこと並べてるだけ】

いくひしさんの小説のつくり方、文章の並べ方は、ほとほと人工知能じみている。



2210:【知識ではなく】

知識として言語化できない暗黙知をいかに貯められるか。真似できない、再現性のないことをいかに体現しつづけていくか。偶然の連鎖を結びつづけていくことこそ、人間の真価なのではないか。学習能力はその前提条件でしかないのではないか、と妄想しつつある。



※日々、積みあげた石を打ち崩す、つぎは何をつくろうか、と無想しながら。



2211:【アートとは】

芸術とは、ある種の「雑さ」に「美」が宿ることを言うのかもしれない。現代では、技術力がどんどん蓄積され、研磨され、比較的誰であってもある程度の「美」を削りだすことができる。絵であれ彫刻であれ物語創作であれ、こうこうこうすれば上手くいきますよ、といった地図がネットや書籍で手に入りやすい。そうするとみなが同一の規格の「美」を生みだすようになるので、「美」そのものの価値が減少していくことが想像できる。そこで訪れる転換期が二つあり、一つは独創性と呼ばれる「規格外の美」だ。これは一見するとこれまでの規格に当てはまらないので、評価は二分しがちだが、徐々にそれを「美」と認める者が増えていけば、「美」そのものの価値観を大きく変えるイノベーションと成り得る(イノベーションとは現象へついた名であり、イノベーションという技術はない。そのため、イノベーションを起こしましょう、と言って起こせるものではない点には注意しておいて損はないだろう。できるとすれば、イノベーションとなり得る「異質の種」をつぶさずにおく土壌を築くことと、そうした「異質の種」が芽吹いたときに、社会をより豊かにする技術に応用できないか、と周囲の者が手を差し伸べる文化をつくっておくことだ)。そして、同一規格の「美」が増えることで訪れるもう一つの転換期とは、本来「美」ではない「雑さ」や「醜さ」が美として評価されるようになる流れである。より完璧で一点の曇りのない状態を美として評価する風潮が「原初の美」の有様を規定する。だがそのうち技術力が高まり、誰もが「原初の美」に近づけるようになると、こんどは「規格外の美」がもてはやされるようになる。その派生として、そもそも「ありふれたもの」や「弱いもの」にも「美」の側面があるのではないか、と謳われるようになっていき、一転して「美」の有様は多様化へと向かう。こうなってくると、誰もが「美」を内包し、「これだって本当はうつくしいのだ」と言ったもの勝ちとなり、「美」そのものの価値が相対的に激減する。神の価値を高めたければ、一神教を広めるのが効率がよく、どんなものにも神が宿るといった多神教では、神への崇拝心は薄れる傾向にある。この理屈は「美」にも当てはまる。「美」の基準が多様化すれば、「美」そのものの持つ神秘性や特別性は減少すると考えられる。ただし、「神」とは異なり、ほかの「美」を否定し、自分たちの許容する「美」のみをうつくしいと規定する姿勢そのものが、「原初の美」の規格から外れており、美の多様性を許容することはどんな分野でも進んでいくと想像できる。そうしたときに、多様化し、卑近化した「美」に特別性や神秘性を持たせるには、誰もが容易には持てないような、それでいて規格外の「美」を【次世代の美】として規定しなおすのが有効だ。それがすなわち、「雑さ」や「醜さ」である。ピカソを例にあげればそれらしい。或いは、太宰を、それとも手塚治虫を。ゴッホ、岡本太郎、現代でいえば漫画家はみなこの傾向を帯びていると言えるだろう(つまり、完璧を求めつつも、端から完璧な絵を描こうとしていない、という意味で)。その人物ならではの「雑さ」や「醜さ」が味となっているか否か。本来ならば欠点であるはずのそこを味とするのには、「欠点をつつみこんでいるほかの技術力」が秀でている必要がある。「原初の美」を、極めておく必要がある。完成したジグソーパズルから一つだけピースが抜け、穴が開いていたとしても、多くの者は気にも留めないだろう。しかし、それがダヴィンチの残した最後の絵画だとすれば、なぜここだけ穴が開いているのだろう、しかもピースのカタチで、とそこに意味を求め、ほかの絵との差別化をはかり、よりらしい「美」を見出そうとするだろう。言い換えれば、より完璧であろうとした末に、それでも一般化され得ない欠点にこそ、その人物の「美」が集積されると言ってもよいかもしれない。天才のエピソードとしてほかの多くの者たちにとって造作もなくこなせる作業がこなせなかった、といった事例を比較的よく耳にする。これは天才にも弱点があった、といった傾向を示すのではなく、どちらかと言えば、人間には、完璧であるはずのものに穴があることをつよく憶えてしまう性質があることを示唆しているのではないか。長くなったので、ここでまとめに入ろう。芸術とは「好きなことをとことん突き詰めておきながら、そのせいで弱点を放置してしまった状態」を差すのではないか。商業作品であれば、埋められる欠点をまず埋める方向に舵がとられる。そのほうが合理的だからだ。しかし、芸術は、いくら簡単に埋められるからといってもそこに興味を見いだせなかったらそのままにしておく、といった性質がある。そして芸術家として大成する者は、のきなみ好奇心が高く、それゆえ、たいがいの弱点は埋まっていくが、それでもどうしても興味の向かないことだけがぽっかりと一個だけピースの抜けたジグソーパズルのように開いてしまうのではないか(たとえば、書道ではある種の荒々しさ、毛筆の跳ねの部分を敢えてすっかり制御せずにおくことが技術として認められる。赴くまま、道具に運命を託すような「投げやりな所作」は、ほかの分野でもおおむね肯定的に評価される傾向にある。しかしその「投げやりな所作」は、任意の一部分だけに許容され、ほかの部分ではむしろ極力排除される。つまり、何に集中してチカラをそそぎ、何にチカラを抜くのか、といった配分や力加減そのものが個性として観測者に評価され得る)。多くの者はその開いた穴と、「完璧を求めた軌跡」との差を目の当たりにし、ほかの「美」にはないその人ならではの【美】を感じるのではないか。つまるところ、芸術が、その芸術家の背景と密接に関わり評価される傾向にあるのも、人間の持つこうした「情報の欠落」に目を奪われやすい性質にその因を求めることが可能なのではないか。芸術とは、ある種の「雑さ」にまで「美」が宿るくらいに「美」を追求することを言うのかもしれない、と妄想して、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(お断りするまでもなく、いくひしさんは美術や芸術に関しても素人はなはだしく、名前を知っている芸術家にしてもピカソやゴッホ、ダヴィンチがせいぜいですので、ここにある文章を真に受けないようにお願いもうしあげます。感覚として、ふだん以上にいい加減なことを並べたなぁ、との所感がつよくあります)



2212:【そうぞう】

成長しつづける、なんてことはできない。人間は衰えるし、落ちぶれるし、細胞単位で見ればつねに死滅しつづけている。言ってしまえば、変化しつづけることしかできないのだ。ただ、どのように変化しつづけるのか、はある程度、ほんのすこしではあるが、制御可能であるらしい。言い換えれば、衰えたなかの何を補完するかは選べるのだ。補完しなければそのまま知識や技能は失われる。人間には忘れるという機能も備わっているからだ。それゆえに、何を補完し、補いつづけるか、その指針を立てることくらいしか自由はないと言ってもよいかもしれない。ただし、人間には学習能力がある。これは何かを憶えたり模倣したりするだけでなく、記憶した情報をじぶんなりに整理し、圧縮する作業も含まれる。じぶんなりに圧縮し、折りたたんだ情報は、それを一つのブロックとして、ほかのブロックと結びつけることが可能だ。想像とはすなわち、この連結作業のことであり、それを物理的に表現しようとすれば創造となり、ときに発明に、或いは芸術となっていく。その過程で、発見や証明といった副産物も生じる。この理屈からすれば、学問における証明とはのきなみ、発明であり、芸術であると呼べるだろう。いずれにせよ、訓練を重ねたからといって延々と成長しつづけることはできない。どこかで衰えたり、落ちぶれたりするのが道理であり、そのときに開いた空白をどのようにして埋めようかと工夫できるか否かが、より好ましい変化への架け橋となるだろう。欠けたブロックを、ほかのどんなブロックで補うか。すなわち、いかに想像し、創造するかが肝になると言えそうだ。裏から言えば、想像し、創造するところからが本番であり、その前段階の「成長」は、そのための下準備にすぎないのかもしれない。そして見過ごされがちなのは、想像や創造は、成長の層の厚さにかぎらず、誰でも、いつでも行えるという点だ。ただし、赤子が想像や創造からややかけ離れた存在に映るのは、おそらく外界認知能力が未熟であるためであり、いかに外部世界を認知し、じぶんには知覚できていない世界があるのだと、その幅広さと奥深さへと思いを巡らせられるかが、想像や創造のために欠かせない足場となっているだろう点には留意されたい。



2213:【世界は我々が知るよりも遥かに深淵】

欠けている情報の重要性は、いま目のまえにある情報を正確に把握するのと同じかそれ以上に高いかもしれない可能性からは目を離さずにおきたい。例外はあるにせよ、現在触れられる造形や情報というものは、時間の経過によって失われた造形や情報よりもすくないのだ。化石にしてもそうだし、遺跡にしてもそうだ。人間の記憶にしてもそうだし、記録にしても同様だろう。インターネットが普及し、情報社会と謳われるようになったために錯覚しがちだが、我々が扱う情報は飛躍的に増加したが、それでも扱える情報の総量が、以前と比べて増加したかと言えば、疑問である。情報はつねに世界に溢れていた。そこにアクセスする道のりが整備され、誰もが時間をかけずに「どの情報」にも触れられるようになったが、だからといって、それら「どの情報」が以前の社会と比べて増えたのかは微妙なところだろう。ケタは二つか三つ増えたかもしれない。しかし、それ以上に、時間の経過にしたがい失われつづけてきた情報のほうがはるかに多く、我々はその多くの失われた情報を扱う術を、未だ確立できていない。恐竜がいったいどんな見た目をしていて、どんな皮膚の色をしていたのかすら正確に再現できないのだ(遺伝子工学が発展していけば、或いは再現可能かもしれないが)。猿人や原人がどのようにコミュニケーションを図り、どのような歌を歌い、どのような舞いを踊ったのかも未知のままだ。アンモナイトなどの化石に残りやすい生物の生態は比較的類推できるが、化石として残らなかった生物に関しては、いたかどうかも充分に判断できない。これは現代人にしても同じであり、話題にされ、記録に残った者のことしか我々は知ることができない。そうした参照可能な個人にしても、知ることのできる側面は、表層の、情報として残ったもののみなのだ。失われつづける個人の軌跡はやはり、失われつづけるのである。我々が扱える情報というものは、極々狭い範囲の形骸化した情報でしかない。化石として残った情報でしかないのだ(しかも残った情報が本当に正しいのかも現代では定かではない)。やわらかい細胞ほど化石として残りにくい。現存し、確かにいまここにある情報を元に、より正確な推理を重ねて論理を構築していく姿勢もまた尊いが、欠けている情報に思いを馳せ、失われた情報に目を向けようとする姿勢もまた同じくらいに尊いはずだ。そして構造的に、想像や創造は、そうした失われ、欠けた情報に目を向けようとする姿勢からしか生じないのではないか。確かなことの重要性が謳われるようになって久しいが、たとえ不確かだとしても、失われ、欠けた情報に目を向けようとする姿勢は、これからの社会を生きるのにあたって、不可欠な素養の一つとなっていくだろう。どちらがより優れている、といった話ではない。どちらかいっぽうに傾倒してしまうのは、世界を紐解くという意味では、充分ではないだろう、という話である。



2214:【極めるとは無形】

敢えて衰えさせる、ということをときどきする。毎日継続して磨いてきた技術をいったん放置して、腕を錆びつかせる。そのあいだは、ほかの異なる分野や苦手なことに時間を使う(空ける期間は数日のこともあれば、数か月、ときに数年にわたることもある)。たまにであれば苦手なことも新鮮だ。技術力がほとんどゼロにちかければ、どれだけ苦手でも一定の成果は短期間であげられる。だから苦手でありながらも、もっとも美味しいところを齧って味わうような楽しみ方ができる。そしてそろそろ「時間をかけて磨いていたアレ」をまた磨かないともう元には戻れなくなりそうだな、と焦りを感じはじめたころに、もういちど得意だったものに向き合うのだ。そうするとやはり、衰えているわけである。余分な脂肪がついた鈍い感じ、錆びついた感じが如実に判るのだ。知識であれば、どうしても思い出せなかったり、つらつらと思考の筋を辿れなくなったりする。まるで虫食いのようになっている。その穴ぼこを埋めようとして埋められる箇所もあれば、どうしても埋められない箇所もでてくる。たいがいは、埋めるだけの時間を割くのがもったいない、と感じて諦めてしまうのが実情だ。そうすると、その開いた穴をほかの知識や技術で埋めようとする。ときには削ってしまったり、穴を塞ぐように、筋と筋を繋げて、短縮することもある。いっそ全体を分解して再構築し、一回りちいさくしてしまうこともある。一言で形容するならば、圧縮するのである。もちろん、ほかの部品を足してトータルで以前よりも情報が増すこともある。緻密になり、複雑さが増すこともあるので、いちがいに圧縮とは呼べないが、部分、部分を眺めてみると、やはり圧縮されている。時間を空けたせいで余分な脂肪がつき錆びついていたはずが、その後にもういちど磨きはじめると、以前よりも要所要所が改善されていたりする。言うまでもなくいいことだけではない。衰え、失った技術や知識がそのまま失われたままになることも珍しくはない。ただ、そうした再修得できなかった技術や知識は、じぶんにとっては負担になっていた「枷」であり、むしろそれを失くしたおかげで、できることの幅が広がったと感じる機会がすくなくない。断るまでもなく、主観でそう感じられたからといって、では本当に総合して改善されているのか、進歩しているのか、についてはつねに疑問としてつきまとう。そもそもを言えば、何を以って進歩と呼ぶのか、その評価軸をハッキリとさせなくてはならない。失くした「枷」そのものの有無が試金石となっていたとすれば、それは失くしてはいけない「技術」だったことになる。しかし、そうした評価軸にいつまでも縛られることそのものが自分自身の「枷」になっている可能性と向き合うという意味でも、敢えて衰える、という無駄な時間を過ごす意味がある。だからあなたはいつまでも中途半端で、何の芽もでず、陽の目も見ず、世間から高く評価されることもなく、うだつのあがらぬ日々を送っているのだ、と言われてしまえば、なるほどそうかもしれないですね、とうなづくよりない。ただ、何かを極めると言ったときに浮かぶ一般的な印象は、刀を鋭く研いだり、何かの塊をなめらかに磨きあげたり、或いはどこまでも先端を求めて突き進む、といった「極限」にちかしい何かしらであるように思われるが、いくひしさんにとって「極める」とはむしろ、どちらかと言えば、風や水や光のように、カタチがあるようでなく、何にでも溶けこみ、或いは包みこんでしまうような、そういった無形にちかい印象がある。それを「無」と言ってしまいたいが、果たして「無」とはどんなものかをいくひしさんは思い浮かべることができないので、その何段階か手前の、カタチがない状態、どんなカタチにもなれる状態である「無形」を、「極めたさきに見えてくるだろう何か」としておきたい。不定と無形の違いは、不定はカタチが定まっていないのに対し、無形はときには定まることがある点にある。カタチを帯びることはないが、すでに存在するカタチに影響してその存在を浮かびあがらせることはできるのだ。そのとき、無形はたしかにそこに定まり、留まっている。それを、任意のカタチに循環していると言ってもよいかもしれない。自然にある無数の回路を自在に、自由に流れること。いくひしさんにとって極めるとは、そういう状態のこととしておきたい、いまはまだ、と打ち明けて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(お断りするまでもなく、またべつの日に考えを巡らせれば、これとはまた違った「極める」を思い浮かべ、いい加減なことを並べるでしょう。見方を変えれば、サボる言いわけをそれっぽく装飾しているだけでございますので、真に受けないようにお願い申しあげます)



2215:【環境を変える】

自力で変わろうとするよりも、環境を変えてしまったほうが人間は変われる。というよりも、生物はそも、環境に適応した結果に進化しつづけてきたわけであるから、環境を変えてしまうことはそのままその個体の適応能力をその方向へ誘導する効果がある。ただし、環境に適応できない個体もむろんいる。だからこそ自然淘汰が働くわけで、できるだけじぶんに合いそうな環境に移ることが好ましい。わざわざ劣悪な環境に身を置く必要はない。できるだけ生存に有利な環境に身を置くこと。それが進化に必要な前提となりそうだ。ただし、環境そのものが激変してしまうこともあり得る。大量絶滅はそうして幾度も引き起きてきた。もっとも、これは避けようがないし、けっきょくどこにいようと、一様に滅んでしまうのだから、予測不可能な環境の変化を前提に環境を選ぶのは利口とは呼べない。結果がでなかったり、じぶんの技量に変化が感じられなければ、環境を変えてしまったほうが好ましいときもある。注意したいのは、それはいまいる環境がわるい、ということではない点だ。飽くまでじぶんには合わなかっただけであり、ほかの個にとっては望ましい環境であるかもしれない。また、合わないのはじぶんの適正ではなく、適応能力のほうである。どちらかと言えば、長期間変化していないな、と感じるときはむしろその環境に適応できてしまっていると言ってもよい。劇的にじぶんが変化できないのはじぶんがいまの環境に適応できてしまっているからであり、その結果に周囲から高く評価されるか否かは、またべつの要素が関わってくる。高く評価されなくとも、じぶんにとって好ましい場というものはある。裏から言えば、どれだけ高評価されようとも、じぶんの適応能力がまったく働かないような場であると、やがて心身が乱れていくだろう。つまり、飽きるのだ。いずれにせよ、環境に対して適応しようとして、その結果に、どんどん好ましく自身が変質しつづけていく――このような好循環とは、なかなか巡りあうことはできない。だから環境をまったく変えてしまうのではなく、まずは細かくちょっとした変化を加えてみたりするのが効果的だ。接する相手を変えたり、増やしたり、或いは逆に減らしてみたり。または整理整頓をしてみたり、部屋の模様替えをしてみたり。思い切って転職や引っ越しをしてもよいけれど、似たような環境はどこにでもある。似た環境に移るだけならば、いまいる場所でいかに環境に変化を加えられるかを試していくほうが効率はよいだろう。ほかの生物とは異なり、人間は、じぶんの周囲の環境をじぶんの手でデザインすることができる。巣をつくるだけでなく、もっと広範囲の環境をいじくり回し、加工することができる。どんな刺激を得て、どんな刺激を拒むのかも、ある程度は選択可能だ。何にせよ、飽きない工夫はじぶんでしかできない。環境を移るのもその手段の一つでしかなく、環境にじぶんの未来を託すのはやはりというべきか、無謀だろう。人間には環境に適応する能力がある。刺激がないのは、適応してしまっているからだ。なんの遣り甲斐も感じられず、刺激も感じられないようなその場こそがじつはじぶんにとっての楽園である可能性はいちど考えてみたほうがよいだろう。同時に、余裕があるうちに、じぶんのいまいる環境へ変化を加え、より好ましいようにデザインしていこうと行動に移すのも好ましい。何にせよ、飽きているのはじぶんであり、飽きないように行動するのはじぶんにしかできない。繰りかえすが、環境を変えてしまうのはその手段の一つにすぎない。目的は、飽きないようにすることであり、適応能力を働かせ、より好ましい環境を築くことにある。環境が変わるから個もまた変質するが、変質したいからこそ環境のほうを変えることもできる。そしてどういうじぶんになりたいかに合わせて環境のほうをデザインすることもまた人間にはできるのだ。卵がさきか、鶏がさきか。しかし人間は、どんなニワトリが欲しいのかをさきに考えたうえで、卵をデザインしていける。ゲノム編集じみた能力が、人間であれば誰にでも備わっている。飽きたら工夫する。その繰りかえしなのである。(何かを言っているようで、何も言っていない文章の典型です。真に受けようにもありませんね)



2216:【計算】

複雑な計算がいっさいできない。できるのはだいたい足し算と引き算で、しかも分数になると投げだしてしまうくらいだから、四則演算ですら満足でなく、九九すら怪しい。さすがに九九くらいはできるだろう、と思われるかもしれないが、じつを言えば足し算や引き算もかなり怪しい。買い物の会計時にしょっちゅう勘定を間違える。不要な小銭をだして返されるなんて失態は三日にいちどはある気がする。あべこべに、出したお金が足りなくて店員さんに困った顔をさせてしまうこともしばしばだ(ちなみに、いくひしさんは未だに現金で支払っている)。こんないくひしさんであるから、物事を考えるときも、できるだけ計算せずに済むように、細かなところを省く癖がついた。どんぶり勘定というやつだ。とにかくなるべく足し算や引き算で答えがだせるように、どれとどれをくっつけて、どれとどれを削ってしまえばいいのかを積み木遊びをする感覚で、頭の中でいじくり回す。くっつけたり削ったりするのも、言ってしまえば、足し算と引き算だ。大きな塊にしたり、小さな塊にしたりして、できた塊をさらにほかの塊とくっつけたり、ぶつけあったりする。けっきょく、工夫する余地があるのは何と何をくっつけて、何と何をぶつけあうのか、といった組み合わせのパターンでしかない。塊をぶつけあったときに、ちょうどよく似たもの同士が結びつくことがある。そうしたときは、それで一つの大きな塊にしてしまって、余ったところは消してしまう。同じ色のブロックがいくつかくっつくと消えるゲームがある。あれと似たようなものだ。因数分解のようでもあるが、そこまで複雑ではない。使うのは足し算と引き算だ。この「いくひ誌。」に並べてある文章の軒並みも同様だ。掛け算や割り算なんて使わない。複雑な公式とも無縁だ。あれとこれが似ているからくっつけて、これとそれは余計だから消してしまおう。残った「あん」と「ぽん」と「たん」を繋げて、「あんぽんたん」にしてしまえ、といった単純な、というよりもどちらかと言えば、ずさんな思考の流れがあるばかりだ。加えて、よどみなく流れているわけでもなく、ひどく変則的であり、断続している。連続していないし、一貫もしていない。飛躍と誤謬のオンパレードであり、詭弁と矛盾のとんだデートである。その後に生まれた子はおそらく、御託とか戯言とか、そういった名前がつくことだろう。計算とは無縁のお子さまである。無垢のようで木偶であり、うずたかくクズである。珍しく本日の「いくひ誌。」は真に受けてもらって構わない。ちなみに、キィボードの打鍵も、人差し指と中指しか使わない。ブラインドタッチとは無縁である。だからどうと言うつもりはないが、プロフェッショナルとは程遠い。そういう存在なのである。



2217:【無知蒙昧】

ガラスのコップも満足につくれない。バーナーの構造も知らない。



2218:【先天的】

うつ病が脳の疾患だとするのなら、生まれたときからのうつ病というのもあるのでは?(生まれたときからの風邪はある?)



2219:【もっと】

くだらないこと並べなきゃ。



2220:【軌道修正】

馴染んできたので、またすこしずつほかのいくひしさんたちを呼び戻していきたいと思います。



※日々、消える準備を着々と。



2221:【なんとかの悪魔】

同じ分量であれば、40度と60度の水を混ぜれば50度の水ができる。そこからまた半分に分けても、50度の水が半分になるだけだ。しかし現代科学技術では、分子の運動量を測って、高い温度のはこっち、低い温度のはこっち、と分子を取捨選択し、40度の水と60度の水にふたたび分けることが可能なのだ(この理屈からすると、「10度と90度」や「100度と0度」に分けることも可能? つまり、水にはそもそも0~100度に値する熱運動をとっている分子が散在していて、それら分子の比率が全体の温度を規定すると考えられる? ただし、分子同士が衝突すれば運動は静止する方向に働いたり、エネルギィを分散する方向に働くので、時間の経過にしたがい、どの分子も似た熱運動の値をとるようになっていくことが想像できる。したがって、氷の分子に100度の熱運動をする分子はかぎりなく存在しないと考えて矛盾はしないように思われる。しかし、ゼロではないだろう。それはたとえば、満員電車のなかで大暴れする人間が必ずしもいないとは言い切れないように)。同じ技術を応用すれば、水に混ぜた絵具も、分子を選り分ければまた絵具と水に戻すことができるだろう(蒸留との違いは、加熱した際の科学変化を加味せずに済む点である。再結晶との違いは、分離にかかる時間を短縮できる点と、再結晶を期待できない溶液にも応用可能な点にある)。いわば、覆水盆に還らずを現代科学は否定できるのである。(思いつきを並べただけですので、真に受けないでください。本当にそんな技術があるのかも定かではありません。また、仮定が間違っている可能性もそう低くはないと思われます)



2222:【水の温度】

水は温度が高くなるにつれて膨張する。なので、100度の熱湯100リットルを1度まで冷ませば100リットルではなくなっている。(気体が固体になることを思えば何もふしぎではない。ただし例外的に、水は氷になると液体時よりも体積が増える点には留意しておきたい)



2223:【復元と時間遡行】

時間が巻き戻って見えることと、時間が巻き戻ることの違いを人類が見分けることは原理的にできないのでは?(たとえば、サイコロのカタチをした氷がとけて水になったあとで、また最初のサイコロのカタチに凍ったとしたら、時間が巻き戻ったのか、ただ復元されたのかの区別をどうやってつけるのだろう。原子の位置情報をつきとめるにしても、それを言いはじめたら、いずれは量子の重ねあわせに行き着いてしまうのでは?)



2224:【苦手】

興味があるだけで、物理は苦手です。学問全般苦手と言ってよいでしょう。



2225:【理想はなぜ必要なのか】

多様性という言葉を耳にする機会が増えた。一般名詞化していると言ってもいいだろう。ただし、いったい多様性とは何なのか、みなが言うようにさほどにもてはやすほどのものなのか、についてはよくよく吟味しておいたほうがよさそうだ。多様性には、生物多様性、種多様性、遺伝的多様性など、いくつかに分類可能な意味合いが含まれている。いちがいに多様性があればよいわけではなかろうし、土台をほじくりかえしてみれば、多様でない状態など存在するのかがまず以って疑問である。この世は種々相な物質でできあがっている。ブラックホールや中性子星でないかぎり、すでに多様性は担保されているようなものなのではないか。物質でなく、生物がたくさんいる状態が好ましいという話だろうか。ならば動物園が好ましく、数種類の生き物しか生息していない沼や池は好ましくないのだろうか。人間の多様性についても比較的耳にする機会が増えた。さまざまな属性や性質を許容した社会のほうが好ましいという話のようだ。いっぽうで、ではそこにルールを逸脱する人物や犯罪者、殺人鬼など、「存在を許容すると社会秩序が脅かされそうな属性や性質を帯びた人物」の介在も許容すべきなのか、といった議論は、さほど活発にされてはいないように思われる。そんな人物は端から排除されてあたりまえだと度外視されているのだろうか。しかし、多様性が好ましいのならば、どんな属性や性質であろうとも社会に介在する余地を残しておくのが前提になるはずだ。どの属性がダメで、どんな性質なら許容可能なのか、いったい誰がそれを決め、なぜ規定され得るのか、について多様性迎合主義の論理では語られていないように思われる。けっきょくのところ、多様性という言葉は、「私を排除しないでくれ」の言い換えにすぎないのではないか。だとすれば、それらしい用語でもっともらしく自己弁護などせずに、そのままを主張すればよいのではなかろうか。さまざまな可能性を内包していたほうが破滅への耐性を帯びている確率があがる。だから多様性が好ましい、という主張も耳にする。しかし、破滅の種そのものを無数に保有していれば、破滅する確率はあがるだけだ。何を許容し、何を排除するのか、は秩序やバランスを保つためには欠かせない。けっきょくのところ、環境をデザインするうえで多様性の重要性を説くのは、「好ましい環境が好ましい」と言っているようなもので、ほとんど何も言っていないに等しいのではないか。以前にも述べたが、多様性が重要なのではなく、極端に何かを排除する姿勢がいただけないのである。重視すべきは多様性そのものではなく、それによって保たれる均衡であり、バランスだ。どんな均衡を保ち、どんな回路を機能させていきたいのか。そこを煮詰めずに多様性の有無だけを取り沙汰しても議論は平行線をたどり、水掛け論を繰りかえすはめになるだろう。均衡を保ち、回路をなめらかに機能させるためには、多様性を制限し、流れの妨げとなる因子を排除する姿勢をとらねばならぬときもある。法を守らない者や人を殺す者が社会にのさばっていては困るのだ。だからといって無闇にそうした者たちの人権を蔑ろにするわけにもいかない。属性や性質を根拠にして、迫害したり命を奪ったりすることもまた制限すべき因子である。犯罪者や殺人鬼は「犯罪者」や「殺人鬼」だから罪に問われるのではない。法を犯したり、人を殺したという行為に対して罰則が科せられるのであり、存在そのものへの罰ではないのだ。だからたとえ犯罪者だろうと殺人鬼だろうと、社会制度のもとで裁かれれば、死刑にならないかぎり、生きていられる。完全に排除されることはないのである。ある意味では、多様性が保持されていると呼べるかも分からないが、自由を制限され、ほかの環境に介在できない点では、社会的な多様性は損なわれていると言えるだろう。ここで想定される反論の一つに、「犯罪者や殺人鬼はほかの個人を傷つけるために多様性を損なう存在である。ゆえに排除されてしかるべきである」とする理屈があがりそうだ。しかし、多様性を損なうことが罪だと規定すると、さきにも述べたが、多様性を損なう因子を排除することもまた罪になるため、けっきょくどんな存在も許容するしかなくなる。また、多様性を損なう規模に着目し、犯罪者や殺人鬼は多様性を著しく損なうので許容できない、とする理屈であったとしても、では「多様性を増すような犯罪や人殺しなら許容され得るのか」については一考以上の余地がある。混乱や混沌はときに多様性を増す方向に働きかけるが、それらを及ぼす犯罪行為や殺人は許容されるべきなのだろうか。結論から言えば、多様性そのものを物事の判断基準にするのは好ましくはない。大事なのは、多様性を保持することによってもたらされる均衡とバランスであり、多様性そのものではないのだ。どんな秩序を築き、どんな回路を機能させたいか。注視すべきはまず、そこなのではないだろうか。あなたは社会に、そして人類に、どんな回路を築いてほしいと望むだろう。(くどいようですが、ここに並ぶ文章はくれぐれも真に受けないようにお願い申しあげます)



2226:【あやふやでいい加減】

百年前の小説よりも、百年後の小説を読みたい。小説だけでなく、ありとあらゆる分野で未来のほうがいまよりも「進歩」しているのではないか、と個人的には感じている(そうあってほしい、との願望がつよい)。しかしそれでも、過去には過去で、不便であったからこそ秀でていた技術があることもまた知っている。失われた技術として、やがてはオーパーツ化していく道具や品物もでてくるだろう。技術が進歩していくにつれて、人間の行う作業は極端に減っていく。やがてはいかに消費し、消費させることができるかが人間に残される最後のよりどころとなるだろう。生みだすのではなく、生みだされたそれらをいかに他者に、そしてじぶんに、受動させるか。赤ちゃんに離乳食を食べさせる親のような存在になれるか否かが、技術力の極まった社会における人間の真価となるかも分からない。そうなった未来におかれては、より新しい技術や商品ではなく、過去にあったはずの、しかし失われた技術のほうに関心が向くだろうことは想像にかたくない。これだけじぶんたちは進歩したのに、それでも復元できない技術やシステムがあるのか、と知れば、それは人々の好奇心を刺激するだろう。オーパーツや古代文明と聞いてワクワクしない小説読みがいるだろうか。反面、これが百年前の出来事や品物であると、食指が動かなくなる読者もいるところにはいる。いくひしさんがそのタイプだ。歴史に興味がない。しかし未来であればそれがたとえ、十年後、二十年後であっても興味が湧く。この非対称性は何なのだろう。過去から学ぶことのほうが多いはずだ。未来は不確定であり、妄想する余地しかない。それなのにその妄想のほうに興味の矛先が向かうのだ。論文や教科書よりも小説などの虚構が好きなことと何か繋がりがあるのかもしれない。未来は現実ではない。虚構である。だからといって、虚構が未来であるとはかぎらない。しかし、人間の頭脳はそれを明確に分離して考えることができないのかもしれない。虚構と未来をイコールにして考えてしまう癖があるのかも分からない(あべこべに、論文や教科書はより現実にちかいと脳は錯覚しやすいのかもしれない。妄想の余地があれば、たとえ現実でもそこに人は虚構を――未来を幻視する)。妄想も、想像も、人間に備わった未来を予期する機能から派生した能力なのだとすると、それらしく聞こえる。人間は生活に困窮すればするほど、より短期的な未来を重視する傾向にある。お腹が減って死にそうな人間に五年後のじぶんがどうなっているかを考えて行動しろ、と言っても意味はない。そうした生活の苦しい社会では、より短期的な未来を据えた虚構が流行るのだろう。あべこべに、余裕がでてくるとより遠くの未来まで見詰めようと人々の視野が広がる傾向にあるのかも分からない。小説の需要が減ってきているのは、ともすれば生活が苦しくなり、短期的な未来にしか興味の向かない人々が増えてきているからなのかもしれない。或いは、未来そのものに興味の持てない現代人が増えつづけていてもさほどにふしぎではない。未来とはすなわち、可視化できていないことが可視化できるようになることだ。視えないものが視えるようになることが未来だと言ってもいいだろう。明日はまだここにはないが、それが訪れたときに「きょう」となって現れる。訪れた「きょう」は未来ではない。あすがきょうになる、といったこの流れこそが未来なのだ。過去を明瞭に分析できるようになることもまた未来であり、現代の問題をズバリここが問題点である、と指摘することもまた未来となる。虚構とは未来をどう描くか、という妄想であり、想像である。それがどれほど正確かは問題にならない。未来が不確定であるように、そもそも虚構とはあやふやでいい加減なものであるからだ。そうしたあやふやでいい加減なモヤをスクリーンとして、読者のほうでかってによりらしい未来を幻視してくれる。よりらしい現実と結びつけてくれる。そのさきに理想を描いてくれるのだ。虚構の効用とはすなわち、そこに要約できるのかもしれない。ここにはない何かを思い描くのが作家の一つの役割であるように。ここにはない何かが視えるようになることが未来であるのと同じように。虚構を――或いは情報を――読み解くことは、未来を思い描くことであり、未来を手にするのと同じことなのかもしれない。定かではない。



2227:【コネが苦手な理由】

コネクションや人脈があまり好きではない。ただし、それを使ったりする者を否定したいわけではないのだ。極論、新人賞なんかも広義のコネだろう。優れていると評価された者が、権威や資本のある者から援助してもらえる。これが縁故でなくて何なのだろう。コネそのものは有り触れた仕組みだ。社会はコネによって組みあがっていると言っても過言ではない。人と人との繋がりによって単独よりも選択の幅が広がったり、できることが増えたりする。何もわるいことではない。実力がないにも拘わらず、コネがあるから優遇される。これもまた何が問題なのだろう。選ばれるきっかけにコネが使われたとしても、その後に実力がなければ淘汰される。競争原理が働くならばそうなるのが道理だ。しかし、問題がないわけではない。たとえば競争率の激しい市場において、実力ではなく、誰と知り合いかによって選抜される確率があがるとすると、正常な競争原理が働きにくくなる。コネ優遇主義がまかりとおると、本来ならば芽がでていたはずの種が捨て置かれる確率もまた高くなる。才能ある者ならばいずれかってに登り詰めてくるだろう、といった一見正しそうな主張も、けっきょくコネがある者にはその理屈が適用されないのでは、妥当とは言いがたい。才能があればいずれかってに頭角を現すのならば、そもそも才能を発掘し、扱う事業など必要ない。繰りかえすが、コネを使う者を否定したいわけではない。じっさいのところ文化資本など、環境がその者の技量に繋がっていることはすくなくない。あらゆる分野を見渡してみても、たいがいの一流は、得意な分野以外の分野にも明るかったり、秀でていたりする。一流が目をかけたアマチュアがそのままスターになる例もさほどに珍しくはないだろう。言ってしまえば、それもまたコネの一種である。ただ、そうした「誰と繋がりがあるか」「誰から紹介されたのか」が何らかの選抜の基準になってしまうと、本来、そうした「才能を発掘する場」においてのみ陽の目を見るしかない「真実に才能しかない者」を見逃す確率が高くなってしまう。現代では、インターネット上における神の見えざる手が機能し、自然淘汰による純然たる実力主義が台頭しはじめている。しかし、そこから零れ落ちた「砂金」があることは否めない。そうした取りこぼされた才能を拾いあげるのが、本来の「才能発掘事業」であったはずだ。再三になるが、コネを使うのは何もわるいことではない。使おうが、使わなかろうが、残る者は残るし、残らない者は残らない。それでも、資本やシステムを有する者(や組織)から選ばれたほうが選ばれないよりも、才能の芽吹く確率はあがる。そしてコネがない者にも同等の可能性が残されるならば、いかようにもコネを重視すればよいだろう。しかし、現状、そうはなっていないように見受けられる。椅子取りゲームのようなものだ。座れる椅子は限られている。そんななかで、端から椅子に座れる者が限定されているゲームに参加せざるを得ない「才能しかない者」を取りこぼさぬようにするには、コネを重視する姿勢は妨げになる。我々はつぎの世代から「種を芽吹かせる土壌」を奪ってはいけないのではないか。断るまでもなく、いくひしさんはそうした取りこぼされている「才能しかない者」ではない。いくひしさんには才能がない。また、ほかの者たちよりもコネがあるほうだ。苦手なので使っていないだけであるし、使っていると思われたくないので、誰と知り合いだとか、そういうことを極力、どこにも並べていない(言い換えれば、知人を人脈扱いしたくない)。それら相手にも小説をつくっているとは話していない。いずれ、いくひしさんの実力とは関係がない。知り合いたちがいくらすごかろうが、いくひしさんがすごくなるわけではないのである。こんな当たり前のことが度外視されるのがコネだと思っている。苦手な理由を解かってもらえただろうか。



2228:【ダサい】

じぶんより若い世代に言いたいことなどないし、もっと言えば、誰に対しても言いたいことなんてないのだけれど、それはそれとして、10代のコたちには、「ダサい」が批判の根拠になっている言説は基本無視していいですよ、ということは言い残しておきたいですね。何かの是非を問うのに、対象を「ダサい」と貶めて評価する物言いは、単に「私がそれを気にくわない」と言っているだけであって、じぶんの価値観を相手に押しつけているだけです。言われたほうがわざわざ相手に合わせる必要はないのです。どうして10代のコたち限定かと言えば、ダサいを根拠に相手を腐すのは、それ以上の世代だと感じているからです。つまり、10代のコたちのほうが言われる立場にあるということです。感覚的には逆に思えるかもしれませんが、いくひしさんの観察できる範囲では、10代のコたちのほうが「ダサい」と言われることに怯えているように思えます。それは、上の世代から「ダサい」と脅かされているからなのではないでしょうか。ダサいことの何がよくないのでしょう。いくひしさんにはピンときません。それはひょっとすると、いくひしさんがダサいことと何か関係があるのかもしれませんね。何かを「ダサい」と言ってけなす言説には注意してほしいです。なぜってだってそういうのってなんかほら、ダサくないですか。



2229:【ポジショントークです】

文芸にかぎらず、今後、さまざまな分野で必要とされていくだろう人才はおそらく、それそのものが好きな玄人ではなく、おもしろいものが好きな酔狂であろう。作家であれば、小説が好きな小説家ではなく、単なる好事家がこのさきの10年をけん引していくのではないか、と妄想している。漠然とした印象でしかないが、コアとなるべく任意の分野を突き詰めるのに創造性はあまり必要ないのではないか。コアは、すでにあるものを極め、研ぎ、磨いていけばよいからだ。その点、ライトであるには、つねにほかの分野との結合が欠かせない。濃くならないように、軽薄でありつづけるには、絶えず流動しておく必然性がある。時代の変遷が加速して感じられる2019年現代において、コアであるよりもライトであるほうが、商業という観点からすれば有利なのかもしれない。反面、これからさき、この国の経済はどんどん苦しくなっていくことが想定される。商業として成立させることを目的にしてしまうと、ある時期を境につづけることそのものの意味を喪失してしまうのではないか、との懸念を覚える。どうあっても目的を達成できないとなったときに、潔くやめる覚悟を決めておくことが、商業を目指すうえで欠かせない過程となっていきそうだ。とすると、お金を稼げずともつづける意味を持ちつづけないことには、そもそも商業の土台に立つことすら困難になっていくのではないか。ここ数年であれば、つづけるためにお金を稼ぐのだ、とする理屈が成立したが、これからさきの社会では、お金を稼ぐためにはまずはつづけなければならない、とする理屈が台頭してくるはずだ。いっときの隆盛を極めるのも一つだが、今後は徐々に、細々とつづけていくことの価値が高まっていきそうだ。商業にかぎらず、評価経済至上主義においても同様のことが言える。インターネット上における高評価は、もはや珍しいものではなくなった。バブルは膨れるだけ膨れ、あとはゆったりと萎んでいく。高評価を得られるに越したことはないが、多くの者たちから高く評価されることの価値はいまよりも下がっていく、と想像できる。ゼロになることはないだろう。ただし、インフルエンサーマーケティングのような、「まずはたくさんのフォロワーと高評価を得ましょう、影響力をつけましょう」とする手法は、今後、成立しなくなっていくのではないか、と見立てている。言い換えれば、影響力の示す意味合いが変化していく。商業と同様に、まずは長くつづけていける土台を築けているか否かが、問われていくだろう。これまでの社会では、影響力の示す意味合いが、「お金を稼ぐこと」であったが、これからはいかに、苦境を乗り越えてきたか、日々を楽しく過ごせているか、が人々からの関心を集めるようになっていくのではないか、と妄想して、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。言を俟つことなく、根拠のない妄言ですので、真に受けないようにお願い申しあげます。



2230:【文章デザイン】

読み飛ばす快感というものがある。読書の醍醐味の一つと言ってもよいかもしれない。もちろん、精読するには一文、一文を噛み砕きながら読むのが好ましい。一冊から得られる情報量を多くしたいのならば、できるだけ精読を心掛けたほうがよいだろう。ただし、娯楽として済ますならば、興味のない文章や目が滑る文章は読み飛ばしてしまうのも一つだ。そして小説にかぎって言ってしまえば、この読み飛ばしてもおもろしさが損なわれない、というのが多くの者に読まれる小説にとって欠かせない成分となっていそうだ。SNSの醍醐味にも似ている。興味のあるツイート以外は、冒頭の数文字のみ目でとらえ「興味なし」の判を捺し、スル―していける。そしてたまに降りてくる「玉」に当たると脳内麻薬が分泌される。パチンコや競馬などのギャンブルに似た仕組みを伴っている。「当たり」と「スルー」の割合によって、ツイッターにハマる者とハマらない者が明確に分かれそうだ。また、これは読書にも言える。すべての文章を読み飛ばしたくなるような本は読者の離脱を誘うが、ある一定の割合で読み飛ばされる分には、むしろ読了率をあげることに繋がる。思えばこれは個人的な所感だが、一文、一文をねぶるように読んだ小説よりも、はやくつづきが気になって、読むというよりも「見る」にちかいスピードで紙をめくった小説のほうがその物語世界に没頭していたように感じる。というよりも、おもしろい小説は本質的に読むのではなく「見る」のではないか(むろん、個人差があるだろう)。これはやや極端だが、いくひしさんはおもしろい物語に触れると、それを映画で観たのかマンガで読んだのか、それとも小説だったのかを区別することができなくなる。とくに、小説の場合は、おもしろい小説であればあるほど、どんな文章だったかを思いだせない。読むのではなく「見て」いるからだ。映像で捉えているのだ。この効果が果たして、「文章の脂肪率」とどれほど関係しているのかは分からない。読み飛ばせるからおもしろいのか、それともおもしろいと読み飛ばしてしまうのか、もまた区別しにくい。どちらの場合もあるだろう。そういう意味では、「読み飛ばす」にも二種類ありそうだ。ポッカリと穴が開くような無視の仕方をするのか、それとも「見る」と同じレベルで超高速に情報を解凍しているのか、の違いだ。読み飛ばしているようで、読み飛ばしていない。そういう軽いようでねばっこい文章を狙って並べられるように意識していきたいものである。さっぱりのようで濃ゆく、なめらかなようで引っ掛かりのある文章を。リズムをコントロールし、デコボコで音階を奏でるような。情報の濃淡で巨大なモザイク画を浮きあがらせるような、そんな文章を。



※日々、延々と落下する、燃え尽きることなく、速度だけを増しつづけ。



2231:【めんてなんす】

何事もメンテナンスにはお金がかかる。メンテナンスは事業として安定していると言ってもよい。メンテナンスを行える者はどんな社会でも稼ぎに困ることはないだろう。あべこべに、メンテナンスが不要になっていく分野はどんどん淘汰されていくはずだ。自動でメンテナンス可能か否か、が淘汰される職業とそうでない職業の境目だと言い換えてもよさそうだ。たとえば家の外装のメンテナンスは自動化するにはまだ当分かかりそうだ。機械の手入れや、掃除もむつかしいだろう。機械をメンテナンスする機械の開発もまた、実用化にはあと十年はかかりそうだ。家の掃除などは、汚れにくい素材が使われたり、ゴミを溜めずに済むような工夫がされたりと、掃除をする必然性が生じない方向に技術が応用されていく、と考えられる。たとえば家のなかの掃除であっても、丸まる水洗いできてしまったり。そうしたほうが、掃除をするロボットを改良するよりもずっとスムーズなはずだ。文章のメンテナンスはどうだろう。これはあと三年もかからずに自動化されそうな気がするが、さてどうなるだろう。



2232:【5G】

出版社関連で5Gを見据えた事業を想定しているところはどこがあるのだろう。すくなくともいま目にできる企画を眺めてみても、5Gが社会に普及したら淘汰されてしまうものばかりに思える(その点、大手印刷会社は積極的に5Gを見据えた事業を推し進めているように見受けられる)。読者と作品が直接結びつく時代がやってくるのだ。しかも、潜在需要者に直接である。現在出版社が保有している装丁や文字組みの技術も、5Gが社会に普及すればボタン一つで誰もが手軽にカスタマイズできる時代がやってくる(そうしたサービスを提供する者は莫大な利益を手にするだろう。その点、出版社がその事業に着手しているとは思えない)。画質のわるいマンガや書籍のデータも、きれいに補正してくれるなんてのはどのサービスでもデバイスであろうと標準装備されていくはずだ(文字のレイアウトから、彩色ですら自動で一括変換できるようになるだろう)。職人としての技術をいかにシェアできるカタチでツール化できるかが今後十年の企業の命運を分けていく。コンテンツ会社のなかでは、ゲーム会社がこのさき生き残り、成長していきそうだと妄想しているが、さてどうなるだろう。(本文とは関係ないが、自律式ドローンと5Gの相性がよすぎて、はやいところ本格的な規制を設けたほうがよろしいのでは、と考えている。盗聴から盗撮などプライバシーの問題だけでなく、違法薬物の取引など、犯罪行為に利用されることは想像にかたくない。誰もが安全地帯にいながらにテロを起こせる時代に突入する。飛行制限だけでなく、購入や販売に関しても何らかの制限や制度を導入すべきではないだろうか。小型の虫型自律式ドローンが販売されるようになったら危険信号だと前以って指摘しておこう。蚊取り線香のようなドローン撃退グッズが売れる社会にならないとよいが)



2233:【不足】

圧倒的に読書量の足りないいくひしさんであるから、常時出涸らしのような文章しかつむげないのだが、皮肉なことにいくひしさんは出涸らしが嫌いではなく、むしろ好きだというから始末がわるい。水だし茶にはじまり、緑茶、コーヒー、うどんやそばのツユも薄いほうが好みである。とはいえ、薄いことと出涸らしはイコールではない。そんなことを言いはじめたら、重油は原油の出涸らしのようなものだが、ガソリンよりも高温で燃える。火力が強いうえに、燃費がよい。言ってしまえば、燃料として濃いのだ。だからというわけでもないが、濃い出涸らしも嫌いではない。とはいえ、この場合、重油は、最後まで残った茶葉やコーヒー豆に値するので、比喩としては不適切だったかもしれない。論点をズラしたり、正しい比較をしなかったりするのは詐欺師の常套手段である。純粋無垢な一番出汁がごとく読者諸君は注意されたし。



2234:【なまけもの道を極めよ】

影響力はないほうが好ましい。周囲に著しく影響を及ぼしてしまうということは、じぶんのほうでも周囲から影響を受けやすくなっていることの裏返しでもある。作用を働かせれば反作用を受ける。世に流れる抗いがたい法則だ。自由に動き回りたくばなるべく周囲に影響を与えぬようにしておくとよい。がんじがらめに縛られ、自由にサボることもできないようではたいへんだ。よほど仕事が好きなら構わないが、さほどに好きでもないのなら、わざわざ影響力をまとってじぶんの首を絞める必要はないはずだ。もちろん、揺るぎがたい何かになりたいのならば、がんじがらめに縛られるのも一つだ。プロとはおおむねそういうものであろう。確固たる地盤を固め、そこに自らの軸を打ちこみ、カカシがごとく、分野という名の畑を守る。カカシにはカカシの役割があり、やりがいがある。否定したいわけではない。ただ、いくひしさんはそういうものにはなりたくない。影響力などほしくはない。人から必要とされたくはないし、求められたくもない、ましてや選ばれたいなどとはつゆほども思わない。いつだって何かを必要とする側でありたいし、求める側でありたいし、選ぶ側でありたい。好きなときにはじめ、好きなときに休み、好きなだけつづけ、好きなときにやめる。そうしたわがままを描きつづけるには、影響力はないほうが好ましい。



2235:【死滅をかける】

環境を変えることがむつかしい時代には、人間のほうを教育し、矯正し、みな似たような規格を備えた駒にしてしまうほうが効率がよかった。しかし時代は進み、技術を発展させ、社会を豊かにした人類は、環境のほうもある程度自在に整える術を手にした。個々人を一律に同質の規格にする必要はなく、ばらつきがあっても秩序が崩れないように環境のほうを整えることができるようになった。そんななかで、環境を整えるのが容易くなった分、だったら個々人への教育ももっと楽に、効率よくできるのではないか、もっと容易く駒とすることができるのではないか、と国全体を巨大な人間部品工場にしようと企てている国がでてきてもふしぎではない。他方で、例外を許容する懐の深さは、どんな分野、どんな思想、どんなカテゴリーでも有効だ。何に対して有効かと言えば、一つ一つの個を尊重し、全体のための部品(犠牲)にしてしまわないために、である。むろん、この主張そのものにも例外は存在し、それを許容する姿勢を示さねばならない。したがって、一律に同質の個を量産しようとする国が現れても、それを外部が強引にねじ伏せるような真似はしないほうが好ましい。もっとも、相手側がほかのコミュニティに対し、そうした同質化を強制しようとするのならば、これは見過ごすにはいささか大きすぎる奇禍の種である、と言えそうだ。自然界にウィルスが存在してもよいし、そうした微小な生物が個々の生物を正常に生き永らえさせる成分にもなっている一面は否定できない(※)。しかし、だからといって身体を蝕むほどに増殖してもらっては困るのだ。これは視点を変えれば、ウィルスのほうでも、ワクチンや特効薬で殲滅されては堪ったものではないので、耐性をつけたり、感染する宿主を変えたりと、工夫する余地が生まれる。双方にとってそれが、つぎの進化のきっかけにもなり得る。いずれにせよ、人類はすこしずつ環境を整え、争うことなく問題を解決する術を磨いてきた。それでも競うことから抜けだせてはいない。けっきょくのところ、生物とは、生存をかけ――自身にとって好ましい環境を築くべく――競うようにとプログラムされた何かしらでしかないのかもしれない。単なる生物でないと否定したければ、ときには、死滅をかけ――自身にとって好ましくない劣悪を守るべく――手を差し伸べるのも一興かもしれない。(※2019年現在においてウィルスは生物ではないと区分けされているが、いくひしさんはウィルスもまた生物であると考えている)



2236:【ひとはみな例外なく差別をしている】

差別主義者を差別してはいけない。すくなくとも、差別を否定したいならばそう考えるのが道理となる。よい行いには感謝の念を示し、よいと思う表現には好ましいとの意思表示をする――どんな属性を帯びた人物に対してであろうとそれは変わらないはずだ。差別主義者のつくった料理だから食べられない、捨ててしまえ、なんて姿勢は乱暴にすぎる。それこそ差別を肯定しているのと変わらない。スイッチみたいに物事をすぐに割り切ってしまう者が多すぎないだろうか。自戒を籠めて並べておこう。



2237:【増税と減税】

消費税率引き上げには消極的賛成ないくひしさんであるけれど(増えた分の税金が何に使われるのかを明確にするのが前提に立つとした上で)、株や為替など投資や投機ビジネスへの税の引き上げはもっと積極的に行なっていくほうが好ましいとも考えている。消費税率を引き上げるというのなら、一般市場に出回らない莫大な資本からも税を徴収すべきだろう。世界的に投資や投機ビジネスへの課税は減少傾向にある。本当かは定かではないが、世界人口1%に満たない富裕層の資産は、残りの人口99%の合計資産よりも多いのだ。単純にこれだけのデータで富裕層にばかり負担を強いるのはおかしいとも思うが、「あるところからもってくる以外に税収を増やす術はない、だから消費税率を引き上げるのだ」とする理屈が通るのならば、まずは投資家や資本家から税を集める施策を政府が進めてもよいはずだ。これは単なる妄言であるが、世界的に格差制限を設けてみたらどうだろう。トップの富裕層と最下位の貧困層との格差がある一定以上に開いたら、富裕層はその資産を、格差が規定内に納まるまで国に徴収される仕組みだ。富裕層がお金を貯めつづけたければ、貧困層もまた豊かになりつづけなければならない(この理屈であれば権力者が富を独占することもなくなる)。国に資本を徴収されようとされなかろうと、富裕層はお金を「稼ぎつづけること」はできるのだ。ただ、稼いだ分のお金を保有しつづけるには、格差が広がらないような仕組みを社会につくっていかねばならない。とすると国への援助も自発的に行なっていくようになるのではないだろうか、それこそ格差が広がらないようにするための施策への援助を。



2238:【誤謬の塊】

じぶんの頭で考える、ということをほとんどしていない。考えるというよりも組み合わせているだけだ。他者の考えや、見解や、主張を、積み木遊びのように、または貼り絵みたいにして「じぶんなりの風景」を描いているだけなのだ。良し悪しでいえば、あまり上等ではないだろう。考える、というのは、いまここにはない何かを再現可能な筋道を辿りながら編みだしていくことであるはずだ。だから閃きや発想は、どちらかと言えば「考える」とは違った脳の機能だと言えそうだ。その点、いくひしさんは「考える」ことをしていない。閃きや発想にちかい脳の使い方ばかりをしていて、そのくせ、閃きや発想と呼ぶには稚拙にすぎる言葉の羅列をただ並べているだけだ。素材を組み合わせて、それっぽく出力しているだけで、摂取できる素材が粗末であれば、そのまま出力される文章も粗末になる。外部の情報に左右される。じぶんで「考えて」いないからだ。インターネットの情報がもし間違ったものばかりになったら、いくひしさんの並べる文章のおおかたも間違ったものばかりになる。本にある知識が間違っていても同じだ。けっきょく、考えていないから、間違えに気づけない。考えたところで間違えに気づけないこともあるだろうし、往々にしてそうだと言ってしまってもよいかもしれないけれど、あまりに「間違えを検証する術」を知らなすぎる。情報の出典を探るなんてのは、「考える」とは言えない。その出典が間違っていない保証はどこにもない。基本、記録とは加工された情報であり、どこかしらに齟齬や誤謬が混じっているものだ。では、正しい情報など存在するのか。より正しそうな情報しかないのではないか。そして正しさとは、あらゆる方面から見ても解釈の幅が大きく揺らぐことのない情報のことなのかもしれない(ゆえに、より現実を憑拠とした考えであると正しい確率が高くなる)。球形にちかい情報こそ、正しく、そうでないものはどこかしらに齟齬や誤謬を帯びてしまう。そう、間違いとは「帯びてしまうもの」なのだ。情報そのものが間違っている、なんてことは、そもそもないのだろう。情報は情報だ。それを読み取り、「間違える者」があるだけなのだ。そして間違えないためには、「考える」ことが前提条件としてあり、いくひしさんのようにただ情報を組み合わせているだけでは、「間違える種」を量産しているようなもので、はた迷惑このうえないと言えそうだ。間違えの申し子と呼んでいただきたい。



2239:【格差制限】

裕福層と貧困層の格差がある一定の値以上に開いたら裕福層から資産を徴収すればどうか、と「いくひ誌。2237」で述べた。単なる思いつきでしかないので真に受けてほしくないのだが、たとえばこの案において想定される懸案事項としてだいいちにあがるのが、格差の開きをどれくらいの比率に規定すべきか、である。国によって格差は異なる。貧困層を比べてみても、ある国ではその貧困度合いであれば充分に「裕福層」に値するいっぽうで、ほかの国ではそんなレベルの貧困など存在しない、とするレベルの貧困層を抱えた国もあるだろう。これは国だけでなく、時代によっても変わってくるため、格差の比率を定めてしまうと社会全体の発展を阻害する方向に働いてしまう懸念が拭えない(ある意味で、ものすごくお金持ちには絶対になれない仕組みでもあるからだ)。また、この派生問題として、裕福層ばかり集まる国をつくってしまえば、その国にいるかぎり、稼いだ分を稼いだだけ保有しておくことが可能となる。すると貧困な国からはどんどん裕福な者がいなくなっていき(より裕福層率の高い国に移住するため)、貧困に拍車をかけてしまう問題が浮上しそうだ。そうした負のサイクルが生じてしまった国では、せっかく貧困層から脱した「相対的には裕福だが、国際的にはまだまだ貧困層」に位置づけられる者の蓄えた資本が国に奪われてしまう、という悲劇もでてくるだろう。いちがいに、貧富の格差を制限すればいいというわけではない。これら懸念を払しょくするためには、裕福層と貧困層の格差だけでなく、国家間の格差もまた制限する制度をつくっていくと一定の効果をあげられそうだ。裕福な国と貧困な国の格差が一定以上に開いたら、裕福な国は貧困な国に援助をする。その際、貧困な国は裕福な国の技術やシステムを取り入れなければならない、とする制約もついていると好ましい。どのように好ましいかと言えば、貧困であるというだけで無条件に援助してもらえるとなると、民をほったらかして好きなように国を扱う独裁者にまで援助を施してしまうことになり兼ねない。むろん、独裁者が国を治めていようとその国の民に罪はない。救える命は救ったほうが好ましい。となると、独裁者の国に、「より民のためになるシステム」ごと供給してしまったほうが、長期的な援助として機能しやすくなるはずだ。援助してほしければ、独裁者の国であろうと、そうした外部の技術やシステムを受け入れざるを得ないため、けっきょく国を豊かにするには、友好的な外交関係を築くようにするよりなくなる。もっとも、優位な立場を利用して、貧困な国に劣悪な制度や不利な条件をつきつけたりできないように、裕福な国にもまた制約をつけておくのが前提となる。いずれにせよ、裕福な者や国のほうからそうした提案をし、貧困層への援助を工夫していくよりないのではないか。裕福や貧困という言い方がしっくりこないようであれば、余裕のある者、としてもよい。裕福であろうと余裕のない者などいくらでもいるはずだ。裕福であればよいというわけではない。余裕がなく、自由がない豊かさは、真実に豊かとは呼べないのではないだろうか。なんにせよ、こんな数分でつれづれと組み合わせただけの底の浅い妄言を真に受けないようにお願い申しあげて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。



2240:【サナギって必要?】

進化が自然淘汰によって促されることは一般に知られている。ゾウの鼻が長いのは、鼻の長いゾウのほうが生き残りやすかったためであり、短い鼻のゾウもむかしはいたと考えられる。その点、昆虫はどうなのだろう。どういう進化を辿れば、幼虫からサナギを経て成虫になる、なんてまどろっこしい変態なる機能を備えたのか。考えられるとすれば、卵から成虫に孵る際に、未成熟で生まれてしまった個体のほうが子孫を残しやすい環境があったためだろう。幼虫がまずあったのではなく、成虫が基本形だったのだ。しかし、卵でいる時間が長いと、あらゆる外部の影響によって、孵ることなく卵が壊れてしまう確率が高くなってしまう。そういう環境下においては、未成熟であろうとまずは孵ってしまったほうが、生存戦略として生き残る確率が高い(人間の赤ちゃんがほかの哺乳類に比べてはるかに未成熟な状態で産まれてくるのも似たような理由であろう)。生き残れば子孫を残しやすく、結果、幼虫という過程を経て、成虫へと育っていく種へと進化していくと考えられる。では、サナギはどうだろう。なかなかどうして、サナギというのも自然淘汰だけでは体得できるような仕組みではないように思われる。しかし、たとえばカタツムリやある種の古代魚は、渇いた気候になると繭をつくって仮死状態になることが知られている。とすると、太古でも同じように、幼虫が環境の変化を乗り越えるために、繭にならざるを得ない時期があったのかもしれない。そのうち、繭のなかで成虫まで育つような個体が現れ、そうした種が結果として生き残っていったのかもしれない。しかし、現代では昆虫の多くは、サナギになっている期間はそれほど長くはない。サナギになってしまったらもう成虫になるよりない時点で、何らかの環境の変化を乗り越えるため、というのはいささか無理のある仮説と言えそうだ。たとえばサナギになった時点で、空気を乾燥させてみたり、冷やしてみたりした場合に、成虫に孵る時間がどのように変化するのかを実験してみたら意外な結果がでたりするかもしれない。常識的に考えるならば、サナギの状態で周囲の環境が著しく変化すれば、そのサナギはもうまともな成虫にはなれないだろう(まともな成虫であることがどれだけ生存に有利かは、これもまた環境による点には留意されたい)。下手をすれば孵ることすらなく死滅するかもしれない。その公算が高そうだが、じっさいにやってみなければ分からない。案外、サナギの状態で長期間をそのままに過ごせたりするのかもしれない。定かではないが、仮にそうした結果が観測されれば、「サナギは幼虫が厳しい環境を乗り越えるための一時的な繭だった説」が説得力を帯びてくる。いずれにせよ、昆虫がなぜああした変態なる機能を進化の段階で獲得したのかを、いくひしさんはまったく知らない。そしてすこしだけ気になっているが、それに関した書物をわざわざ取り寄せて読むほどの興味ではないので、いましばらくは、こうしてあーだこーだと妄想して楽しむことにする。



※日々、全盛期の半分のつもりで生きている、全盛期などあったためしがあったのかと、ありもしない幻想にすがりつき。



2241:【つばさ】

鳥の翼は進化の過程でどのように獲得されてきたのだろう。なんとなく想像がつくのは、飛ぶための翼ではなかっただろう、ということだ。前提として、翼の獲得と、羽毛の獲得は、別々の環境因子が関係していそうだ。分けて考えなくてはならない。鳥は恐竜から進化したと現代では考えられているが、羽毛を持たない翼竜も太古にはいた。そちらは鳥に進化せず、羽毛を持った恐竜が鳥へと進化したのである。この違いは、羽毛が、飛ぶために獲得された形質ではなく、むしろ体温調節など、環境の変化に適応するのに優位だったことと無関係ではないだろう(むろん、羽毛の有無とは別の因子によって翼竜が絶滅した可能性も否定できないが)。気温が下がっても羽毛があれば生きていける、反面、羽毛がない翼竜(プテラノドンなど)は生きていかれない。翼という機能を身につけておきながら、他方では鳥に進化し、他方は絶滅してしまった。羽毛の有無が命運を分けたと言えそうだ。では、翼はいかに進化の過程で獲得されていったのか。これは気候が大きく影響していそうだ。前提としておきたいのは、進化は段階的に進むということだ。空を飛びたいからといって、つぎの日から翼を生やすわけにはいかない。翼があったほうが生き残るのに適した環境がまずあったと考えるのが妥当だ。しかも、空を舞うほどに大きな翼を獲得する前には、空を舞うには至らないくらいのちいさな翼を獲得した種がいたと考えるほうがより自然だ。始祖鳥は鳥のように自在に空を飛んだりはできなかっただろう。ニワトリのようなものだったかもしれない。しかしニワトリよりも、もっと翼のちいさな恐竜もいたはずだ。なぜそうした翼のちいさな恐竜は、翼のない恐竜よりも生存に有利だったのだろう。考えられるとすれば、風のつよさである。風が常時、ごうごうと吹き荒れているような環境であれば、吹き飛ばされないように地面にしがみついておかねばらない。カギ爪はそのようにして獲得したのだろうし、同時に、風を受けて地面のほうに身体が押しつけられるような機構があると便利だ。飛行機は翼の角度で、大空に飛びたつが、同時に翼の角度を調節することで地面に降りることもできる。そして始祖鳥など、空を飛ぶには至らない翼を有していた恐竜たちは、空を飛ぶためではなく、身体を地面に固定するために翼を使っていたのではないだろうか。そう考えてみると、翼に羽毛が不可欠だった理由もうなずける。常時風を受けるのだから、体温は奪われやすい。凍えないようにするためには羽毛が必要だったのだ。同時に、風を敢えて受けることで、瞬時に場所を移動できる。風にあおられる凧のようにして太古の鳥の祖先は狩りをしていたかもしれない。また、風を受けつづけることで身体を地面に固定できるということは、木や崖にも比較的楽に登ることができたはずだ。風がないときは、じぶんで走って風を生みだし、地面に身体を固定しながら高い場所へよりはやく、安全に到達することも可能だったはずだ。とすると、外敵から逃れる確率が高くなり、翼のない恐竜たちよりも生き残りやすいと想像できる(獲物に追いつきやすくもあり、余計に生存には有利だったはずだ)。まったくのこれらは妄想なので、真に受けてほしくはないのだが、翼一つとっても進化の過程でどのように獲得されたのか、疑念は尽きない。一つの要因だけではないはずだ。いくつかの因子が密接に関わりあって、偶然に、翼があると生き残りやすい生態系――環境ができあがっていったのだろう。地球上からいっさいの風が失われれば、鳥類の大方は、またたく間に絶滅する。酸素濃度がいまとちがえば、人類だって生まれていなかった。進化は秩序があるようでなく、脈絡を辿っているようでその場任せのデタラメのように思える。しかし、そこには一定の法則のようなものも見え隠れして感じられる手前、なかなか妄想するのに都合のよい題材と言える。翼がそうであるように、意識もまた進化の過程で、獲得されてきた形質であるはずだ。なぜ意識があると生き残りやすいのか。どのような意識であるとこのさき人類は子孫を残しやすくなっていくのか。想像してみると、すこしだけ世のなかが違って視えてこないだろうか。わくわくしてきたところで、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。



2242:【無知なのです】

社会の仕組みについて、いくひしさんはほとんど何も知らない(社会の仕組みに限らないが)。税金にはどんな種類があって、どういう仕組みで徴収されるのかも知らなければ、国にはどんな組織があって、どんな仕事をし、一般に知られていない業務がどれだけあるのかもむろん知らない。たとえばアメリカには情報機関としてCIAがある。これは人を使って情報を集めたり、解析したり、ときには何らかの作戦をたて、実行したりするための機関だ。いわゆるスパイがここに属する。たほうで、似た組織に、NSAがある。こちらもアメリカの情報機関であるが、CIAとの違いは、電子機器の開発や応用にその主眼が置かれている点だ。いわば人相手ではなく、情報通信技術そのものが対象となる。セキュリティの開発や運営も管轄の範疇だろう。もはや時代はCIAではなくNSAが主力になっていくのではないか。話がずれたが、かようにいくひしさんは物を知らない(CIAやNSAという名前を憶えているだけで、実態を知らないのだから、知っていないのと同義だ)。NSAなんてさいきん見聞きしたので、ここで並べたが、似たようなアルファベット三文字の機関はたくさんあり、どれがどれで、なにがどんな組織なのか、まるで解からない。NATOとはどんな組織ですか? WHOはH2Oとどう違うのですか? 前者は世界保健機構で、後者は水ですか。そうですか。一般常識とはどこからどこまでのことを言うのだろう。いくひしさんはたいがいの一般常識を身に着けていないので、一般とは呼べないのかもしれない。美味しい紅茶の淹れ方も知らない。何度淹れてもコーヒーは薄くなる(何度も淹れているからだろ、とのツッコミはなしです。出涸らしではないのです)。しかしいくひしさんは薄味のほうが好きなので、問題はないのである。とても薄いコーヒーは麦茶と味がよく似ている。



2243:【欠落があるから埋められる】

無知を誇っているわけではないが、ことさら恥ずかしいとも思わない。どちらかと言えば、知的であることや知識が豊富なことを誇るほうが、恥ずかしく感じる。え、そんなことが誇らしいのですか、となるが、では何を誇ったら恥ずかしくないのか、と疑問を掘り下げてみると、案外に見えてくるのは、「何かを誇ることそのものが恥ずかしいのかもしれない」といういくひしさんの偏った琴線である。好きに誇ればよいのだ。ただいっぽうで、他人の誇る何かを、「そんなことを誇るなんて恥ずかしいやつだなぁ」と蔑んでおきながら、「私はこんなにすばらしいのだ」と誇らしげに振る舞う者もいて、そうした光景を眺めていると、他人のはずなのに恥ずかしくなってしまう。共感性羞恥というやつかもしれない(偏見だが、売れっ子の小説家に多いなぁ、と感じている。或いは、そういう作家が目立つ――目につく――だけの話かもしれない)。似た問題として、知らないことを恥ずかしいことだと思っている者ほど、他人の無知を責める傾向にあるような気がしている。知らないことは恥ずべきことではない。知らないからこそ人は物を知れるのだから、もっと「何を知らないかを知った」ほうが好ましい。言い換えれば、知識よりも自覚のほうが優先すべき事項にあり、集積よりも欠落のほうにこそ目を向ける価値があるのではないか、との疑念がある。ただし、「何を知らないかを知った」にも拘わらず、その未知を放置してしまうのは、もったいないな、と思いはする。無知を放置したせいでときには損をするだろう。ただ、どんなことであれ知らないことは無数にあるのだから、数えられる程度の「無知の種」を放置したからといって、即座に人命に関わるような危機に直面することは稀だろう。無自覚に受動している数多の損失に比べたら微々たるものと言えそうだ。無知であることを焦る必要はない。知らない状態が基本なのだと知っているだけでも、だいぶ日々を過ごしやすくなるはずだ。他人の無知を嘆く者ほど、じぶんの無知に無自覚であるとも言えそうだが、これはやや願望にのっとった皮肉であるかも分からないので、真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。



2244:【性格がわるい】

上の記事にて「誇らしげに振る舞う者」と述べた箇所がある。注視してほしいのが、「誇らしく振る舞う者」ではなく、「誇らしげに振る舞う者」である点だ。二重表現であることにお気づきだろうか。言うなれば、「偽物らしく演技する者」と言っているようなものであり、振る舞っている者が真実に誇らしく思っているかは観測者たるいくひしさんには判断できない。どちらかと言えば、本人はさほどに誇らしくは思っていないのではないか、とすら睨んでいるが、すくなくとも任意の何かしらを誇らしげに振る舞うことで、それを観測した者のすくなからずからプラスの評価を下されると見越したうえでそうした振る舞いをとっていると推し量れる。ややこしい言い方をしているだろうか? 言うなれば、ピカピカに磨かれた皮靴みたいなものだ。或いは高級ブランドのスーツのようなものでも、高級腕時計でも構わない。それを身に着けていたほうが、身に着けていないよりも人から高く評価される確率があがる。すくなくとも、そうした高級品を身に着けられる環境にいる人物なのだと見做されやすくなる。ただし、そうした偏見を逆手にとって、相手からの信用を得ようとする者もある。詐欺師と呼ばれる者はおおむね、そうした現代人の無自覚な偏見を利用する。他者の無自覚な偏見を利用する者はおしなべて詐欺師だと言ってしまいたいくらいだが、さすがにそれは言い過ぎだ。ビジネスパーソンはスーツを着るが、スーツを着ている者がおしなべてビジネスパーソンとは限らないのと同じ理屈だ。とはいえ、詐欺師じみているとは呼べるかもしれない。小説家もどちらかと言えば詐欺師じみている。人間に備わった偏見や盲点を利用し、それを以って物語にカタルシスを与えたりする。叙述トリックなどはまさにその典型である。偏見を自覚できていない者は騙されやすいとも言えるかもしれない。騙されないためには、偏見を自覚しておくとよさそうだ。また、敢えて高く評価されないような格好をしておくと、カモと見做して近寄ってくるような、他人を見た目や肩書でしか判断できない相手と接点を持たずに済むようになるかもしれない。ただし、あべこべに弱者と見做して近寄ってくる者もいるところにはいるだろうから、ケースバイケースと言うほかない。いずれにせよ、他者がなぜそのように振る舞うのか、を遠巻きから観察する癖をつけておくと、騙される確率を減らすことに繋がるのではないか。反面、安全が保障された状態で騙される分には娯楽となるので、いちがいに騙されるのがわるい、と言うつもりはないのだが。本日の「いくひ誌。」をまとめるとすれば、いくひしさんの並べる文章を真に受けてはいけませんよ、となる。もちろんこの「真に受けるな」との文言も真に受けてほしくはないので、「真に受けるな」も真に受けないでください。しかし、そもそも「真に受ける」とは、言葉通りに受け取ることの意ですので、言葉通りに受け取って真に受けないのであれば、それは言葉通りに受け取っているのと同じであり、あべこべに言葉通りに受け取らずにほかの文章ごと真に受けるようであれば、「真に受けるな」を真に受けていないことになり、人はどうあっても、「真に受けるな」と命じられてしまえば、結果として、真に受けないことしかできないのである。したがって、真に受けてほしくない文章と「真に受けないでください」なる文章は区切ってあると好ましい。よって、以上の文章を真に受けないでください、とすれば矛盾はなくなり、自己言及の迷路をさまよわずに済む道理となる。まどろっこしかったですか?



2245:【成果至上主義】

ほんの半年前(現在は2019年9月10日です)まではSNS上では成果至上主義がまかり通っていた(年功序列に対する成果主義と区別するため、ここでは「成果を得られなければ意味がない」とする世の流れを、成果至上主義と形容します)。編集者やプロデューサー、作家自身ですら、「フォロワー数」や「売上」や「知名度」がだいじだと、まるで正論であるかのように捲し立てていた。だが、いちど手に入れたそれら『成果』が継続して得られない(或いは、思ったよりも利益に結びつかない)となったと見るや、こんどは一転、「楽しくつづけたらいい」「まずはつづけることがだいじ」といった、手のひら返しを見せている。成果至上主義に疲れ果て、心身ともに病んでしまった作家が増加傾向にあるためだろう。手駒が消えてしまう、と焦っているように見えるのは、いくひしさんの偏った見方のせいだろうか。成果至上主義を掲げている者の末路を考えてみればいい。誰もが継続して成果をあげつづけるなんてことはできない。いつかはどこかで限界がくる。では、成果をあげられなくなったら、どうするのか。成果至上主義にのっとるならば、そこでやめるのが正解だ。成果がだいじ、成果がだいじ、と言っていた者たちはでは、成果がでなくなったらやめるのだろうか? 何を成果とするか、もまたハッキリさせておきたい事項だ。「フォロワー数」なのか「売上」なのか、それとも「知名度」なのか。もっと根本のところの動機を掘り下げて、それを基点に物事を選択するようにしたほうが、長期的には、功を奏すのではないか。初期衝動と言い直してもよい。なぜそれをしたいと思ったのか。真実に「売上」や「知名度」が欲しいのならば、成果があがらないと判った時点で、ほかの分野に移行すればよい。いまいる分野に拘る必要がどこにあるだろう。たほうで、それ自体をすることに価値を求めているのならば、「売上」や「知名度」などなくともつづければよい。何を成果とするかはじぶんで決められる。すくなくとも作家でありつづけたければ、それくらいのことはじぶんで決めたほうが好ましい(いったいいつの時点での成果なのか、といった点からも目を背けずにいたいものだ)。金儲けのために小説を書いている、なんて嘯いている小説家は、もう間もなく業界から去るだろう。お金を儲けることができなくなるからだ。単純な理屈である。商業作家もいい加減、きれいごとを言ってないで、もっと衝動に素直になればよい。業界の活性化のため? 生活のため? 文学のため? そんなきれいな動機で小説をつくるくらいなら、さっさとほかの業種に移り、全身全霊で仕事をすることを提案したい(ほかの業種で稼いだ金を、業界に寄付すればよい。わざわざ小説で貢献する必要はない)。編集者にしても同様だ。儲ければいいのか? だったら小説でなくたっていいだろう。いい加減に、きれいごとを並べるのをやめませんか?(斟酌せぬように言い直せば、儲けたいだけならさっさとやめれば?となります。口がわるかったですか? そこそこ深くお詫び申しあげます)(※儲けるな、と言っているわけではない点には注意してください。また、成果至上主義を否定しているわけでもありません。成果の内訳によっては、いくひしさんも充分に成果至上主義と呼べるでしょう)



2246:【タネ、独創、クリエイティブ】

クリエイティブは競争と相性がわるい。競争原理によって強化されるのは、クリエイティブな成果物に対する深化と応用であり、クリエイティブ(のタネ)そのものは、競争とは無縁であればあるほど生まれやすいのではないか、とここ数年は感じつづけている。どちらも必要なのだろう。ただ、独創を得たければ誰かと競わないほうが好ましいのではないか。ただし、独創的であればあるほど他者から評価される確率は下がる。タネを芽吹かせるには土壌が欠かせず、その土壌こそ、競争原理が耕し、肥やすのだろう。タネを芽吹かせるには、土壌にタネを運ぶ、媒介者が入り用であり、また水や養分も、別途に散布しておくとより好ましい。この場合、水は資金であり、養分は需要(市場からの評価)であろう。また、タネが芽生え、実をならす過程には、虫が寄ってきて、食い散らかす懸念もある。そうしたときは、法や利権などの殺虫剤を用いるのも常套手段と言えよう。なにはともあれ、タネは、耕された土壌でなくとも芽生えることはある。品種改良されるにしても、まずは芽吹き、実をならした事実があれば事足りる。実とはすなわち、タネであり、タネがタネを生めばそれでよい。クリエイティブがさらなるクリエイティブを生むサイクル――独創が独創を生む循環を築きあげること、それがタネにある本来のチカラなのではないだろうか。何かいいことを言ったようで、とくに何も言ってはいない典型であるので、何かを得た気にならないように釘を刺して、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。



2247:【解像度】

知識を得ることで世界への解釈の精度が増すことを、解像度が高い、と言い表すようだ。ニュアンスはなんとなく分かる。ただ、このようになんとなく分かるだけでは、解像度が低いのだろう。いくひしさんはどれだけ知識を得ても、解像度は一定のような気がしている。すくなくともいくひしさんは一定だ。得た知識をまんべんなく使っているわけではない。得た分、何かを失っている。記憶する量よりも忘却する量のほうがはるかに多いのだ。ただし、解像度は変わらないが、変わらないなりに、見渡せる範囲が広くなった、と実感することはある。基本的に、視える範囲は限られているのだ。ただ、知識を得ることで、これまで見逃していた範囲、視えなかった領域を視ることができるようになる。解像度は変わらない。視野が広がるだけなのだ。たとえば、どれだけ倍率の高い顕微鏡や望遠鏡を手にしたところで、裸眼の視力が低ければ、像は総じてボヤけて視える。この場合、解像度は一定だ。ただし、裸眼の視力が一定でも、顕微鏡や望遠鏡、双眼鏡や虫眼鏡、インターネットや書籍など、各種道具を用いることで、視野はぐっと広がる。いくひしさんにとって知識を得るとはそういうことであり、けっして解像度が高くなるわけではない。元々の視力が高くなることはないのだ。とはいえ、眼鏡を使えば解像度はある程度、高めることができる。コンタクトレンズにしろ、角膜移植にしろ、解像度を高める術がないわけではないだろう。これがいったいどんな比喩になっているのか、その対象を具体化することができないのは、いくひしさんの解像度が低いからだ。とはいえ、頭のよいひとの物の見方、解像度の高いひとの物の見方にちかづく術がないわけではないだろう。視力が人それぞれ違うように、解像度の高さもまた、人それぞれ異なるはずだ。世界一足の速い人間と同じ脚力を得ることはできずとも、それより速く移動することはできる。人間は道具を使えるからだ。ただ、それら解像度を高めるのに知識はそれほど役に立たないのではないか、といくひしさんは考えている。どちらかと言えば、不要な知識は目を曇らせ、解像度を落とす方向に働かせるほうが多いのではないか、とすら感じている。いずれにせよ、いくひしさんは解像度高く世のなかを視ることができないので、ぼんやりとした視界のなかで、ふわふわとした文章を並べながら、のほほんと生きていこうと思うしだいだ。



2248:【因果の数、情報量、伏線、プロット】

小説における情報量にはいくつか種類がある。情報の濃淡から、具体性、固有名詞の数から、動作描写の数など、一口に情報量と言っても、どんな種類の情報が多いかによって読み味は変わる。また、それぞれの情報量がすくなくとも総合して情報量を多くすることも可能だ。代表的なものが、因果の数である。描写の具体性を極力削り、小学生でもスラスラ読めるような文章であっても、因果を多く詰めこむことで、小説の場合は情報量を増やすことができる。因果とはすなわち、こうなったからこうなる、である。物語作品において伏線が重宝される理由の一つに、この因果の数と情報量の関係性が挙げられると想像できる。伏線とは、「こうなったからこうなる」における「こうなったから(因)」だけを描写しておくことだ。のちのち、「結果(こうなる)」を描くことで、あのときの「因(伏線)」はここに繋がるのか、と物語の裏側を読者は想像する。或いは、「こうなったから(因)」のほうを省略しても伏線として機能する。さきに「結果」だけを描写し、どうしてそうなったのだろう、と読者に引っ掛かりを覚えさせておけば、あとで「こうなったから(因)」の部分を明らかにすることで、だからそうなのか、とカタルシスを与えることができる。具体例を並べてもよいが、長くなりそうなので省略しよう。物語のリーダビリティを損なわずに情報量を濃くしたければ、文字数を多くしたり、具体的な描写ばかりにするのではなく、因果を多く取り入れると好ましい。そのためには、省略や圧縮が欠かせなくなる。なるべく筋となる、こうなったからこうなる、のみを抽出し並べておくと、SNSなどの短文に慣れたつぎの世代の読者にとっては読みやすい文章形態になるのではないか。もちろんこれを正解だと言うつもりはない。極論、この手法ではプロットと小説の区別がつかない。因果だけを圧縮して並べれば、それはどちらかと言えば小説よりもプロットに寄る。ただ、いくひしさんの希望的観測によれば、これからはプロットと掌編短編の区別はなくなっていくだろう、と妄想している。或いは、プロットというジャンルができてもふしぎではない。おもしろければよいのである。おもしろく読めることが第一だ。体裁は二の次でよい、と個人的な嗜好を漏らして、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(お断りするまでもなく、情報量が多ければよいわけではない。その物語――時代――に合う情報量を見定めることが優先される。要はバランスである)



2249:【わがまま】

「やさしいひとになりたい」と「つよくなりたい」はほとんど同じ意味だ。つよくなければ他人にやさしくしつづけることはできない。他者に寄り添い、支えてもつぶされないくらいにつよくなければ、やさしいひとでありつづけることはできない。他人に厳しくするやさしさもあるだろう。これもまた、つよくなければ抵抗や反発にあったときにつぶされてしまう。やさしくありたければつよくなるよりない。好きなことをしつづけたくば、稼がなければならないのと同じ理屈だ。まったくどうして、やさしくない世界だ。弱いままでもやさしくありつづけられる世のなかにならないものだろうか。



2250:【陰謀論】

人から嫌われるのも、好かれるのも、認識され意識されるという意味では、同じだ。認識されず、意識もされず、いっぽうてきに認識し、意識しつづけるほうがむつかしい。技術が発展していくにつれて、後者の優位性はますます増していくだろう。目立たず、認知されぬままに、観測しつづける側に回れるか否か。このさきの未来におかれては、透明人間が世のなかを動かしていく時代になっていくのかもしれない。或いは、ずっと以前からすでに、もう。



※日々、きのうできたことがきょうできなくなる、はたからみたら、毎日同じことの繰り返しにすぎないのに。



2251:【ひとごと】

文芸とはべつの分野の話だが、業界やコミュニティを活性化させようとしてじぶんたちで過剰に盛りあがってみせ、それが裏目にでてしまい、却って新規参入を妨げ、下火になってしまった事例を目にする機会がある。コミュニティを盛りあげることと、じぶんたちが盛りあがることの区別はつけておいたほうが好ましいのではないか、と疑問に思うのだが、本人たちが楽しそうにしている分には、それを外野がとやかく言うのは野暮だろう。けっきょくのところ、なぜ業界やコミュニティを活性化させたいかと言えば、じぶんが楽しみたいからだ。結果として業界やコミュニティが瓦解しようが、そのあいだじぶんが楽しめていればそれでよいのだろう。裏から言えば、いくら業界やコミュニティが活性化しようとも、じぶんが楽しめなければそこに加わっている意味はないはずだ。何にせよ、死ぬまで楽しめればラッキーと言えそうだ。



2252:【言葉が詰まって、でてこない】

人間の知覚には時間差がある。外部情報を電子信号に変換し、脳が受け取り、処理するまでコンマ何秒とかかっている。また、視覚や聴覚など、五感ごとにそれぞれかかる時間もまた異なっている。視覚よりも聴覚のほうが速く情報が処理される。また、同じ触覚にしろ、脳に近い皮膚と四肢末端の皮膚とでは、距離が違う分、ロスが生じる。それでも我々人間は、それらロスを感じずに、知覚を統合して、合成した情報を外部世界として認識している。これはいわば、もっとも伝達速度の遅い知覚に合わせて、外部世界を合成していると考えても大きく矛盾はしないだろう。そもそも人間はすべての外部情報を処理しているわけではない。目で世界を見ているつもりでも、じっさいには眼球に到達している可視光線の二割も処理していないはずだ(そして可視光線ですら電磁波の極々一部でしかない)。いちいちその都度、目のまえの情報を処理していたのでは脳みそがすぐに疲弊してしまう。たとえば見慣れた道を歩くのと、初めて通る道を歩くのとでは、外部情報の処理量には大きな開きがあるはずだ。見慣れた道は、本を読みながらでも、なんとなく視界の端に移る景色だけを頼りにして目的地に辿り着ける。もちろん、視覚情報だけでなく、音や方向感覚など、ほかの知覚も使っているからこそできる業だろう。いわば、脳みそにインプットされた地図と、断片的な外部情報を照らし合わせているのだ。いちいち、目印となる建物や、曲がり角の数を確認せずとも、すでに脳内に構築された地図を参照すれば、外部情報を逐一膨大に処理する必要はない。この脳内の地図は、何も道だけに限らない。他人の顔や、仕草、家の間取りや、理屈や概念にも当てはまる。いちど構築された地図さえあれば、逐一すべての情報を処理しようとせずとも、支障なく外部世界を認識できる(地図からはみ出した情報だけを処理すればよい)。同時に、地図と外部世界の細かな違いは見過ごされてしまうこともあり、そうなると誤解や齟齬、見間違いや誤謬の原因ともなってしまう。そしておそらく、こうした地図(仮想)と現実を照らし合わせ、情報処理の節約に活かすシステムは、人間に限らず、社会や組織といった集合にも意図せず組みこまれているのではないか、と妄想している。冒頭でも述べたが、知覚にはセンサーごとに処理するまでの時間差がある。そしてもっとも情報処理速度の遅い知覚に合わせて、情報は合成される。そうして情報は判断可能な「事象」として認識されるわけだが、人類が何億年とかけて進化してきた時間に比べたら、社会や組織は、急ごしらえの造りであり、端的に言って、まだまだ合理化が進んでいない。情報処理の時間差が許容できないほど開いてしまっているケースもすくなくはないだろう。そうなると情報伝達を待っていられない。情報が欠けていても、まずは情報を合成してしまえ、となる。それで問題なく「事象」を認識できればよいが、おおむね、情報は足りず、穴空きのような地図しか構築できなくなる。本来ならば補助であるはずの地図が、思わぬ落とし穴を広げ、そこに落ちる確率をあげてしまうのだ。そして杜撰な地図を元に、ただでさえ足りない情報を、さらに「地図があるからだいじょうぶだろう」と外部情報を制限してしまえば、あとはもう、目と耳をふさぎ、崖のうえを歩くようなもので、無事に目的地までたどり着け、というほうが土台無茶だろう。まとめよう。「現実」をより正確に認識するためには、外部情報をたくさん集めればよいというわけではない。それら外部情報を繋ぎあわせ、つぎからもっと楽に「現実」を把握できるような『地図』を構築していくことが欠かせない。そしてその『地図』を構築する情報は、同時に集まるわけではなく、時間差があり、その伝達速度をいかに縮めるか、そしていかに待つことができるかが、「現実」をより正確に認識するために役に立つと言えそうだ。或いはこうも言い換えられる。どんな情報を削ぎ落とし、何を『地図』で補っているのかを把握しておくこと。どんな情報が遅れてやってきて、それが『地図』に対してどの程度、「現実」を補完するのかを推し量っておくこと。我々はつねに「世界」そのものを認識することはできていない事実をまずは前提として、物を考える癖をつけておくと、思わぬ落とし穴にはまらずに済むのではないだろうか。いつになくまとまりのない文章になったが、どんな文章であれ、ここに並ぶのはいくひしさんの妄想であるので、真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。



2253:【ボヤくだけならラク】

まったく関わり合いのない外部の人間なので、文芸業界についてとやかく並べ立てたくはないのだが、それはそれとして、出版社も作家側も、もっとお互いに、いま何が苦しいのか、今後どれくらいきつくなっていくのか、ではどうしたらよいのか、を外野からも見える範囲で話し合ったほうがよいのではないか。誤解やデマを信じるな、と言われても、では何が正しいのか、正確な情報を発信してくれているのだろうか。情報をださないようにしておいて、あれは誤解ですよとか、あんな話を信じるな、というのはさすがに虫がよすぎるだろう。作家(や編集者)の待遇が以前と比べてどの程度改善されているのか、くらいは発表したらどうなのか。独占禁止法や下請法を順守しているのなら、みなさんの不安は杞憂ですよ、出版業界は健全ですよ、と大々的に発表すればよい(出版物は汎用性があるので、独占禁止法や下請法の範疇外ですよ、との理屈はナンセンスだ)。それができないようでは、出版業界のわるい噂は真実味を帯びたまま世間(という名のインターネット内)を漂いつづけるだろう。出版業界がキツいのは誰がみても明らかだ(ライツ事業の収益は増しているが、それゆえに出版物を商品として扱う事業は縮小されていくことが予想される)。出版社勤務の従業員がわるい、だなんて本気で信じている者のほうがすくないはずだ(大半の者は出版社の従業員が真摯に本をつくっていると信じている、ということです)。同時に、作家の待遇のわるさも同じくらい信じられているはずだ。誰がわるいではないからこそ、まずは仕組みを、現代社会一般の「ビジネスの土台」に乗せるよりないのではないか。出版業界は独自の風習がありますから、ではもはやとおらない時代なのではありませんか。編集者だって、じぶんが惚れた作家が筆を折る姿はつらいはずだ。だが現実問題として、新人作家はつぎつぎに生まれ、そして度重なる企画や原稿のボツに(或いは、出版部数や印税の少なさに)心身を病み、文芸業界そのものから去ってはいないだろうか。これもまた外野であるいくひしさんの勘違いかもしれない。じっさいは、新人作家の多くは出版社と関わってよい思いをし、もっと創作が好きになっているのかもしれない。そうした作家だっていないわけではないだろう。だが、割合としてすくなすぎるのではないか。才能がものを言う業界とはいえ、あまりにいっぽうてきに作家側が割を食ってはいないだろうか。出版社も出版社でたいへんなのは理解できるが、じぶんたちがこれだけ苦労しているのだから、と作家側に理不尽に当たり散らす真似がまかりとおってはいやしませんか、と偏った懸念を示し、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(作家も作家で、じぶんは耐えられるからと、理不尽な真似に耐えないようにしたほうが、のちのちつぎにでてくる新人のためになるのではないでしょうか。無茶な前例をつくりすぎないほうが好ましく思います。じぶんさえよければそれでいい、という考えなら、それはそれでよろしいと思いますけれど)



2254:【繰り返しておきますが】

下請法において、出版物(とくに小説やマンガ)など、「一つの出版社以外にも掲載可能な成果物」は一般的には、下請法適用外である。ただし、度重なる修正や、そもそもその出版社レーベル以外での掲載が見込めないような内容および、依頼であった場合は、下請法の適用内である可能性が残る(現にほかの出版社から出版できないようなら、事実上、汎用性はないと判断できる。仮に電子書籍として個人出版したとして、数年にわたって売上がゼロだった場合も、汎用性がなかったと判断できよう)。たとえばそこの出版社のレーベルでなければ出版できず、修正の指示を重ねられ、さらにそのレーベルが「このレーベルでなければ出版できないような作品を求めています」と公に謳っていた場合、これは下請法の適用内となる可能性がそう低くない確率であり得る――と、いくひしさんは考えております。また、独占禁止法の優越的地位の濫用や私的独占は適用内のはずです。不当に作家を排除していれば公正取引委員会の調査対象となり得ます。もちろんそんな出版社も、作家もいないでしょうが。言い忘れておりましたが、いつものようなこれはいくひしさんの単なる妄想ですので、真に受けないでください。



2255:【勘違いおばけ】

真に受けないでください、といくひしさんはたびたび記事の最後に補足している。これは本当に真に受けてほしくないからわざわざ注釈を差している。いくひしさんはしょっちゅう勘違いをする。つねにしていると言ってもいいかもしれない(したがって、何か行動に起こすにしても、基本、じぶんの考えが間違っていることを前提に事をすすめる。失敗してもいい、失敗する価値がある、と思ったことしか行動に起こさない、とも言える)。あまりに息をするように間違えるものだから、じぶんで、じぶんを信じられないのである。きょうだけでも三つ間違ったことを言った。自覚できているのだけで三つという意味だ。本当はもっと多いはずだ。たとえば、イギリスの三枚舌外交のことを二枚舌外交だと言ったり、長年顔馴染みでありながらいくひしさんだけ相手の名前を知らずに、目のまえにそのひとがいるのに、「××さんって誰ですか?」と訊ねてしまったり(このときは複数人でしゃべっていた)。と思っていたら、「目のまえのひとが××さんなのか」と合点したこと自体が間違えであり、目のまえのひとは「××さん」ではなく、頭のなかで、「なるほどあっちのひとが〇〇さんなのですね」と思い浮かべた「〇〇さん」が目のまえのひとの名前だった。まどろっこしいだろうか。言い換えれば、他人の名前を憶えておらず、人と会話をするたびに、「そのひとは誰ですか?」となってしまう。顔や仕草は憶えているのだ。身体のシルエットや動き方では憶えている。ただ、名前とそれら人物像が一致しない(物書きには似た性質を持った方が多い傾向にある気がします)。それに比べて、他人からは顔や名前をいっぽうてきに憶えられていることがすくなくなく(というよりも、多くのひとは一度会っただけでも相手の顔と名前を憶えられるのだ)、申しわけない思いをすることが比較的、頻繁にある。だからでもないが、誰かと会話をするときは、なるべく他人の話をしないように注意している。目のまえの人物とだけ会話をする分には、相手の名前を呼ぶ必要はないからだ(さいあく、しょうじきに相手に名前を訊ねればいい。これがこの場にいない人物となると、名前だけを知っても意味がない)。そういう意味では、名札の着用が義務付けられているような職場であるととても助かる。(他人の話をしそうなときは、前以って下調べをしておく。いくひしさんのストーカーじみた性質はこうして培われた、と言えそうだ)



2256:【悪、差別、無自覚】

人類の祖先は生き残る確率をあげるために敵と味方を直感で見分ける必要があった。そのため本能的に、じぶんの属する側か、そうでないか、を区別しようとする。これはもう、人間はそういう生き物だ、と前提とするよりない。差別はよくない、とは言うが、そもそも人間は差別をしやすいようにつくられている。人間が人間として生きている以上、差別はしてしまうのだ。だからといって差別を肯定しよう、と言いたいわけではない。無意識から差別をしてしまうことがあると知っておかなければ、意識的な差別を制御することすらできないだろう。なぜ差別が問題になるかと言えば、たいがいの差別は意識されずに実行されるからだ。まずは無意識からの差別を、意識的な差別にまでじぶんのなかで引き上げなければならない。自覚の有効性はここにこそある。自覚しないことには制御できないのである(自覚できたからといって制御できるとは限らないが)。身内をだいじにすることと、赤の他人を排他してしまうことはイコールではない。しかし現実には、ほとんどこれはイコールになってしまう。それは人間が合理的に物事を判断しているのではなく、本能的に、敵と味方を分けて物事を捉えるように、進化してきたためである(合理的に考えることができない、と言っているわけではない)。味方でないことは敵であることとイコールではない。しかし、人間は無意識のレベルでは、味方ではない者を敵と見做してしまうのである。まずは、そうした傾向がじぶんにないかをつど、じぶんの内側に目を向ける習慣をつくってみるとよいのではないか。誰かと接点を持ったとき、じぶんはそのひとをどのようなカテゴリーにくくっているだろう。或いは、くくらないでいるのだろう。そのことにより、その相手への態度や行動は、ほかの者たちへの態度や行動と比べ、どのように変化しているのか。比較をする時点ですでに無意識の差別が働いているなによりの傍証である。しかし、まずはそうして差別を自覚するよりないのではないか。すこしずつ、内なる悪との付き合い方を学んでいきたいものである。悪は、絶対悪ではない。悪もまた付き合い方しだいである。



2257:【引退】

もう若くはないので、そろそろ引退を意識しているのだが、引退とは何かがよくわからない。とくに目立った地位にいるわけでもないし、役職に就いているわけでもない。ひとから必要とされているわけではないし、退くべき土俵もない。とかく、引退とは、業界やコミュニティといった組織に穴を開ける作業なのだろう。開いた穴を埋めるべく、ほかの要素が目まぐるしく動く。どうにか以前のような循環を絶やさぬようにと、個々の連携、力関係が変化する。穏やかな水面に石を放り入れるような作業が引退なのかもしれない。影響力を帯びた者がたてることのできる最後の波紋だ。裏から言えば、他者やコミュニティに影響を与えない者には、そもそも引退などできないのだ。影響力のない者は引退をせずに済む。好きなだけ楽しみ、日々を過ごしていけばよい。同時に、現役でありつづけることに特別な価値はない。好きなことや、やりたいことがコロコロ変わったって構わない。ただ、年齢や見た目を気にして、わざわざじぶんから、できもしない「引退」をした気にならずともよいはずだ。いずれ人は死ぬ。やがて誰もが何もできなくなる。それまで、できるかぎり、自我を忘却できるくらいに好きなことをより好きに、したいことをのべつまくなしに生みだしつづけていきたいものである。



2258:【管理者はたいへんそう】

どんな組織であってもそれを構成するのは個々の人間だ。組織自体の寿命が長くとも、それをかたちづくる内部の人間はどんどん入れ替わる。人間の身体と同じだ。細胞は日々、目まぐるしく死滅と再生を繰りかえしている。同様に、長年同じ――組織、コミュニティ、業界、分野に身を置いていると、一年、三年、五年、十年単位で周期的に人が入れ替わることに気づく。同じ組織、コミュニティ、業界、分野に思えても、中身は別物となっていることはそう珍しくはない。長く身を置けば置くほど、周囲の人間と濃厚な関係を築く意味合いが薄れていく。いずれ彼ら彼女らもいなくなると、経験的に知ることとなるからだ。組織やコミュニティそのものを守りたいと欲する者は、その分野から立ち去った者とも、その後に到ってまで関係が途切れないようにとあれやこれやと世話を焼く。組織やコミュニティの発展ではなく、じぶんが重鎮となることに意味を見出している者はあべこべに、外に出ていった者にはなんらかのペナルティを与える。何をだいじにしているのかによって、同じ立場であっても、いろいろと選択の幅に偏りが表れる。どちらがその組織やコミュニティにとって優位に働くかは、さらに周囲の環境や時代によるだろう。いちがいにどちらが合理的かは判断つかない。肌感覚としては、どんな相手とも友好的な関係を結んでいたほうが、長期的には生存に有利なはずだ。これは組織も個人も変わらない。敵対する異物が多ければそれだけ破滅する確率があがるからだ。いっぽうで、進化はそうしたバグや淘汰によって促される背景もあり、これもまたいちがいに、一枚岩の組織であると好ましい、とは言えそうにない。敵のいない環境は理想的だが、そもそも環境には害が存在する。一時的に理想的な環境は築けるが、いつかは亀裂が入る。そこから侵入した害への対抗策を有していなければ、あっという間に滅んでしまう可能性が残る。死滅してしまわない程度の害は、敢えて許容する姿勢が、進化や生存には有利だと言えそうだ。ただ、どんな場合であっても、脅威となる害とそうでない害との区別はむつかしい。対処可能かを試してみないことには、許容できるか否かは判断つかない。言い換えれば、許容しない姿勢をいちど示さないことには、許容可能な害か否かは解からない矛盾があり、やはりむつかしい問題であると言えそうだ。或いはこうも言い換えられる。害を許容しても平気でいられるくらいの仕組みを構築することが生存戦略としてもっとも合理的である、と。



2259:【虚構の効用】

我々はじぶんで思っているよりも、じぶんのことを理解してはいない。本人であればあるほど本心の言語化はむつかしいものだ。人間の脳は、行動のきっかけ(動機)を後付けでする。何かをしたいからした、と思いこんでいるだけでじっさいには、いくつかの欲や感情、過去の記憶との照合によって半ば偶発的に選択を重ねている。行動したあとで、本来の選択因子ではない動機を見繕い、意識そのものをねつ造するなんて顛末は珍しくはない。むしろ意識とは、ねつ造されたもの、或いはねつ造するためのもの、と言ってもさほど大きな齟齬は生じないだろう。我々はじぶんで思っているほどには、じぶんのことを理解してはいない。だからこそ、模倣する基盤、世界を解釈するための地図、よりらしくねつ造するための意識の金型を必要とする。すなわちそれが、物語である。



2260:【退化は進化】

退化も進化のうちの一つだ。疑問なのは、自然淘汰によってどうして退化が促されるのか、だ。たとえばコウモリやモグラは視覚機能が退化している。その代わりに、可視光線を利用せずに外界を認識する術を獲得している。たほうで、ヘビもまたピット器官によって、視覚機能を用いずに外界を認識している。暗がりで暮らすと目が退化することが知られているが、なぜ使わない機能であってもヘビの場合は目が残るのか。これはすなわち、目に頼らず外界を認識できたとしても光を感知することそのものがその個体にとっては重要な意味を持つ、と言えそうだ。また、DNAにはその種の身体構造を構築するためのゲノムが組みこまれている。退化するにはおおまかに三つの筋道があると想像できる。一つは、ゲノムが細胞を合成する際に行なわれる「必要なゲノムとそうでないゲノムのON/OFFの切り替え」が、恒常的にOFFになっている場合だ。爪の細胞は爪に、心臓の細胞は心臓になるが、どれも同じDNAのコピーから合成されている。しかしすっかり同じではない。機能してほしいデータとそうでないデータを、DNAは細胞ごとに応じて編集をしている。退化するというのは、すなわちこのON/OFFの編集がつねにOFFになっている状態を言うのかもしれない。この場合、コウモリやモグラであってもOFFになったデータをONにし直せば目が復活すると考えられる。つまり、退化した部分のデータはDNA上には残っている、ということだ。反面、DNA上からすっかりデータが失われる場合も考えられる。これが二つ目である。目の獲得には、ミトコンドリアなどに代表される細胞内共生など、ほかの種のDNAがほかの種のDNAと交わってできた、とする説がある(ミトコンドリアの場合は細胞内共生を経ても独自のDNAを保持したままだが)。DNAそのものが大きく変質し、いらないデータとそうでないデータが選択されていくこともないとは言い切れない。この場合、退化とはDNAから任意のデータが抜け落ちた状態を示すと考えられる。或いは、退化しているようでじつは発展系としてデータが引き継がれている場合も想像できる。これが三つ目である。退化も進化のうち、というよりも、どんな退化であれ、それは進化なのだ、とする考え方だ。視力が失われたように見えるコウモリやモグラであっても、じつは我々人類には知覚不能なほかの何かを知覚するための器官として変質しているのかもしれない。脳は、損傷を受けても、ほかの部位がそこを補完するようなカタチで発達することがある。また、損傷を受けた部位を侵食し、ほかの部位の機能が向上することもある。似たような仕組みがDNAのゲノム情報にも起こり得るのかもしれない。退化をしているようで、それは新たな機能の発達や進歩に貢献しているのかもしれない。定かではない。三つの仮説すべてが関わっていてもふしぎではないし、どれも間違っている可能性だってある。いずれにせよ、自然淘汰の原理に忠実であるとすれば、退化するには、「それがある」よりも「ない」ほうが生存に有利だったと考えるよりない。モグラやコウモリは、視力があるよりもないほうが生存に有利だったのだ。なぜだろう? 暗がりとはいえど、いくら使わないとはいえど、すこしの光でも捉えられたほうが生存に有利な気がする。しかし、暗がりのなかで生息するほかの生物の多くは光をおのずから発したりはしない。餌をとるには、目以外の感覚器官を発達させたほうが有利だった、むしろ光に気をとられるほうが生存に不利だった、と想像できる。使わないから退化するのではない。「ないこと」が有利だったからそのようなカタチに進化したのだ。退化もまた進化のうちの一つ、ではなく、明らかに退化もまた進化なのである。(本日のいくひしさんのこれは妄想ですので、真に受けないでください)



※日々、至らぬばかりで、果てしない。



2261:【思っているよりもずっと下手】

いろいろな出力の出し方を試していかないことには、どんな出力の出し方だと失敗するのかを学べない。出力の仕方は人それぞれ異なる。こればかりは見て学ぶことができない。じぶんの出力にしても、時と場合で、やはり力の入れ加減が変わる。さまざまな環境下で出力の変化を試しておくと、もっとも好ましいパフォーマンスの仕方を割りだせるはずだ。毎回同じような環境で腕を磨けるならそれに越したことはないのだろう。ただ、環境が変わる可能性があるのならば、やはりどんな状況であっても、一定の出力を保てるように、じぶんの体感と客観の差異を知っておくのは、そうわるい成果には結びつかないように思うしだいだ。



2262:【都合のよい存在】

奴隷がほしいと望むことと、誰かから無条件に愛されたいと望むことの違いはどこにあるのだろう? 或いは、奴隷になりたいと望むことと、誰かを無条件で愛したいと望むことの違いはどこにあるのだろう? 無償の愛は、ひとを奴隷にする。愛は奴隷を生む。じぶんだけの奴隷を。



2263:【ないものねだり】

愛とは自己完結するものであり、相互に享受しあうものと考えてしまうと、それはとたんに呪縛と変わらなくなるのではないか、との疑念が拭えない。愛とはそれほど、ことほどにみなが言うほどありがたいものだろうか。愛の代わりに憎しみや嫌悪が溢れていれば、或いはありがたく感じるのかもしれないが。



2264:【餓鬼】

ひねくれすぎやぞいくひし。そのへんにしとけ。じぶんが手にできないからってひがんでんじゃねぇぞ。



2265:【邪気】

はぁ、息苦しかった。まんちゃんさぁ、任しとけって言っといて、なに負かされてんの。ちゃんとアイツの手綱にぎっとかなきゃダメじゃんよ。しばらく閉じこめてこらしめとかないといい気になって手に負えんくなるよ。ちゃんとその辺考えなきゃ、あたしらみんな暇じゃないんよ。頼むよまんちゃん、ホントもう。



2266:【あき】

やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなぁ。いやはや、びっくりでござる。気づいたらえっと、どれくらいでござるか? ひと月ぶりぐらいでござるか? もっとでござるか? やー、いくひしさんはもうもう、疲れちゃったでござる。かんぜんなる夏バテでござったでござるよ。疲れ知らずの困ったちゃんに任しっぱなしにしてたら、ほかのいくひしさんたちに叱られちゃったでござる。いやはや、それにしてももうすっかり秋でござるな。おそとにお出かけするときはマフラーを首にマキマキするでござる。マキマキしないと風邪ひきコンコンでござる。みなのものも気をつけるでござるよ。寝るときもちゃんとお毛布にくるまって、あったかーってして寝るでござる。いくひしさんはおうちにいるあいだもひざ掛け毛布であったかーでござる。風邪ひきコンコンはいやいやでござる。ノーセンキューでござる。英語を使ったらかしこいと思っているでござる。やったーセンキューでござる。肌寒いでござるなぁ、と思ってたら、いま見たお天気予報で、なんか来週からまたアッチくなるみたいでござる。どっちかにしてほしいでござる。優柔不断はいくひしさんだけで間に合っているでござる。いくひしさんに任せてほしいでござる。優柔不断のどっちつかず大臣に任命してほしいでござる。任せるでござる。あ、でもやっぱし自信ないでござる。やめておくでござる。あーでもなー、どうしてもって言うならやってあげてもいいでござる。どうするでござる? いくひしさんはどっちでもいいでござる。優柔不断にすぎるでござる。他人任せに他力本願、責任逃れに罪人咎めて悦にひたるひどいやつでござる。うるさいでござる。自虐はモテないでござる。もうそういう時代じゃないでござる、ウソでも自信満々にしとくがよいでござる。そういうのに騙されてなんかステキって思ってくれるチョロいカモがそこらちゅうにウヨウヨしているでござる。なのにいくひしさんのとこには一匹も捕まりにこないでござる。どうなっているでござるか? ふしぎでござる。ふて腐れてやるでござる。不貞寝でござる。ふてーやつでござる。太っ腹の面の皮が厚いやつでござる。それは単なるおすもうさん! ごっちゃんです! なにが!!! もういいでごわす。おわるでござる。ごわすかござるかどっちかにして! 優柔不断に磨きをかけたところできょうはもうおやすみーでござるー。



2267:【循環はフラクタル】

たとえば地球上でいくら大量にコオロギが生まれようと、地球上の物質は何一つ増えたり減ったりしない。物質は循環しているだけで総量は減らないのだ。視点を変えれば、周期的に連続した化学反応でしかないと見做すことができる。これはコオロギにかぎらず、生命体全般に言える。地球上で誕生し死滅していった生物は、いわば巨大なパンが焼きあがったりカビたり、腐ったりすることと原理上区別がつかない。もっと単純化すれば鉄の塊が酸化することと大差はない。鉄が酸素と結合し、酸化する過程を、原子や分子単位で観測可能であった場合、これは一つの生物が誕生し、死滅するのを地球のそとから観察するのと似たようなものなのではないか。我々人類が宇宙からすれば遥かにちいさな、とるに足りない存在でありながら、それでも宇宙を観測可能なほどの演算能力を有しているように、知能の高さと「それそのものの大きさ」は正比例しない。AIの集積回路が小さくなっても性能が向上しつづけているのと似たようなことが、生命にも当てはまるかもしれない。視点を変えれば、それこそ視点が変わっても、我々がパンを焼いているあいだに起こる原子の変化そのものが、新たな宇宙を形成し、そこに無数の知性を――或いは生命を――生みだしていてもふしぎではない。否、ふしぎな気分に浸るには充分なこれは妄想である。



2268:【ミラーテスト、自己認識】

自己認識可能な生物は、生き物全体の一部だとされている。たとえば霊長類、それこそボノボやオラウータン、ゴリラ、ヒト、あとは個体差によってはクジラや鳥、ゾウにも自己認識はできるようだ。どうやって自己認識の有無を確かめるかと言えば、代表的なのは鏡像テストだ。鏡に映った像をじぶんと見做せるか、である。たとえば顔に異物や汚れをつけておいて、鏡を見てそれを取り除こうとするかどうか、や、死角につけた食べ物に気づき食べようとするか否かで自己認識の有無を判定する。しかしこれは飽くまで、外界認識に視覚を用いる生物に限定されるテストだ。視覚よりもほかの知覚に頼って外界を認識する生物には適用できない。目の見えない人間を鏡のまえにたたせ反応を見るようなものだ。たとえばヘビの自己認識の有無をたしかめるなら、まったく同じ動きをする同じ体格の同じ体温分布を宿したモデルを用意しなくては、虚像テストの代わりにはならないはずだ。嗅覚を頼りに外界を認識する犬やサメも同様だ。鏡像テストでは生物全般の自己認識の有無を確かめるのには不足と言えそうだ。おそらく自己認識可能な生物はもうすこし多いはずだ。テストの工夫が期待される。(ひょっとしたら自己認識を獲得するためには可視光線の受容体、すなわち目に頼った外界認識器官が必要なのかもしれない。目そのもののというよりも、視覚を司る脳の部位が自己認識をする際に重要である可能性がある。とすると目の見えない人間であっても、自己認識可能なことが矛盾しない。が、これはやや強引な理屈と言えそうだ。この理屈だと、ニホンザルが鏡像テストをパスできない理由が説明できない)



2269:【同じことをくどくどと】

「悪」の厄介なところは、悪人だけでなく、善人もまたそれをするところにある。たとえば神が人を傷つけても、みなそこに意味を見出し、傷つけられたほうに何らかの瑕疵があり、ただ罰を受けているのだ、と思いこむ。神が行うのは悪ではなく、罰であり、善行であると解釈されてしまうのだ。そしてこうした誤謬は、それが神でなく、善人であっても成立してしまうところに、「悪」の厄介さがあると言えよう。悪は悪だ。往々にして善行とは悪を以ってなされるのである。完全無欠の善などめったにお目にかかれない。愛もまたそうであるように。悪を倒すのは悪にしかできない。だからこそ、悪に染まらずに済むためには、悪を倒さず、悪を敵視せず、悪を排除しようとしないことに尽きる。倒し、敵視し、排除することそのものが悪であることをまずは自覚できると好ましい。



2270:【属性で判断することを偏見と言うのでは?】

自己肯定感は低かろうが高かろうが、行動の結果には大した影響はないといくひしさんは捉えている。どちらかと言えば、自己肯定感が低いのはよくないことだ、といった風潮こそが、好ましくない結果を生む悪循環を形成しているように感じている。これは根明(陽キャ)や根暗(陰キャ)といった分類にも当てはまる。詰まるところ偏見なのである。偏見の何がよろしくないかと言えば、まさに前述したとおり、悪循環を形成してしまう点である。属性によって差別が発生し、そのせいで少数派(よくないと評価されてしまった属性を持つ者たち)が、じぶんたちはよくないのだ、と自己暗示をかけてしまい、そのせいで行動選択が狭まり、余計に属性による行動や結果の偏りが観測されるようになり、差別が助長されてしまう。まさに悪循環である(この場合、統計としておおざっぱな傾向は表れるが、その要因が真実に属性にあるのか、それとも環境要因による一時的な相関関係なのかは区別しておく必要がある。属性をおおざっぱにくくって「そういう結果になりやすい」と考えることは、物事を単純化して考えるのにあたっては有効な手法だ。しかし、飽くまでそれは傾向であり、例外が多分に含まれている点からは目を逸らさずにいたい。繰り返しになるが、因果関係でなく相関関係であっても、傾向は抽出可能だ。傾向が単なる偏見でない保証はない)。これは人種差別でも性差別でも職業(身分)差別でも同じような悪循環が形成されていたと想像している。自己肯定感が低かろうが、高かろうが、陽キャだろうが陰キャだろうが、そんなことに関係なく、好きだと思うことは好きでいつづければよい。また、やりたいことがあるならばいちどやってみればよいのだ。可能であれば他人を傷つけてしまわないか、見通しを立ててから実行する癖をつけておくと好ましいが、人間生きていれば大なり小なり誰かを傷つけるものであるから、すこしでも傷つける可能性があったらやるな、とはいくひしさんは言えない。ただし、慎重に考えることは損を回避することに繋がる。加えて、慎重であると、他人であるいくひしさんにとっても好ましく映る。ただ、やはり、他人であるいくひしさんが好ましく思うだけであって、それを理由に誰かの「これが好きだ」「これをやりたい」と思う気持ちや行動を咎めたり、禁止したりはできないのである。あなたがどんな属性を帯びていようと、その属性があなたの行動やあなた自身を否定する理由にはなり得ない(たとえばその属性が殺人鬼だったり疫病感染者だったりすれば、これはすこしだけ話が変わってくるが、それでもあなた自身を否定する要素とはなり得ない)。自己肯定感が低くとも、それはあなたの存在そのものを損なう要素とはならない。劣ってなどいない。いいや、ある一面では劣っているのかもしれない。それはしかし、自己肯定感が高い人物にも同様にしてある側面だ。誰もがある一面では劣っており、ある一面では秀でている。誰と比べるかによって異なるし、何を比べるかによっても違ってくる。いつ、どこで、どのように比べるかによっても優劣はいともたやすく変動する。世のなかの「こういうやつはこうだ」「こういうやつはダメだ」みたいな偏見を真に受ける道理があなたにはない。自己肯定感が低いのが嫌なら高めればいい。ただ、自己肯定感が低いことをそれほど嫌だと思っていないのであれば、無理に変える必要はないはずだ。なぜ苦しいのかをときおり掘り下げて考えてみるのも一興だ。多くの者が言うように、「自己肯定感が低いから」苦しい思いをしているのか、それとも「自己肯定感が低いことがよくないことだ」といった大勢からの負の評価が苦しいのか。似ているようでこの二つはまったく違う。根本の要因を見誤っていれば、対処法も間違うのが道理である。なぜ苦しいのか、いちど周囲の雑音を遮断して、じぶんと対話をする時間をつくるのもそうわるくはないはずだ(周囲からの意見に耳を傾けるな、という意味ではなく)。



※日々、じぶんのいない世界を眺めている。



2271:【一番にはなれないので】

あとはもう体力は衰えるいっぽうだ。人と競っている場合ではない。人と競えば、相手がやっていることをじぶんもしなくてはならない。すくなくとも同じ土俵にあがらなくてはならない。まったく共通項のない分野同士では競うことはできない。だが、相手の分野を応用したり、転用したりはできる。要するに、利用するのである。競うくらいなら利用したい。学びたい。優れた成果は他人に任せて、美味しいところだけをつまみ食い。体力も才能もないなら、競わないのが最適だ。



2272:【きっかけ、人の生、ドミノ】

怪我をすると、それまでできていたことができなくなる。否応なく出力を低下させなければならないため、見方を変えれば問答無用で楽ができる。もちろん怪我はしないに越したことはないのだが、怪我をしたからといってそう悲嘆する道理もない。ときには怪我をしたことで得意な技術を発揮できなくなることもあるだろう。そういうときは新しい技術を身につける期間だと割り切って、できる範囲で新しい領域に踏みだせると好ましい。怪我そのものは可能であれば回避したい「好ましくないこと」であるが、そのきっかけによって「より好ましい環境やじぶんを求めること」はできる。怪我にかぎらず病気でも同様だ。病気自体は肯定するにはいささか気が重たい、斟酌せずに言えば避けたい事柄であるが、病気になったことがきっかけで新しい出会いや新しい環境、知らなかったことや知り得なかったじぶんの側面、或いは病気にならなければ得ることのできなかった経験値が手に入る。繰り返しになるが、病気そのものは拒絶したい事柄だ。だが、病気がきっかけで得られる好ましい影響もまたあるはずだ。ひるがえっては、どれほど幸運なできごとであっても、それがきっかけで好ましくない影響を受けることもある。宝くじが当たったことで人生が大きく狂い、不幸だ、と嘆きたくなるような日々を送ってしまった者だっていないわけではないだろう。きっかけそのものの評価と、それを経たことで変質したじぶんの環境はまたべつである。極論、死神と出会ってしあわせになる者だっているだろう。どんな石につまずくかは誰にも判らない。だが、石につまづいたあとで、どのように立ち直るかはじぶんで選べるのである。よくないこともあればいいこともある、といった単純な話ではない。きっかけはきっかけである。ドミノを倒す最初の一手がどんなものであれ、ドミノの魅力は全体のドミノの並び方のほうにこそある。どんなドミノをどのように並べていくか。或いは、並べてきたか。きっかけは、そうしたあなたの歩みを浮き彫りにする一手にすぎない。ときには、野犬やダンプカーが飛びこんできて、ドミノの海をダイナシにしてしまうこともあるだろう。それでも並び直せる時間があなたに許されているのなら、一つ一つ、一歩一歩、また最初から(或いは途中から)着実に並べていくのがよいのではないか。もちろん、素晴らしい細工の施された、イリュージョンじみたドミノでなくたって構わない。ドミノである必要すらない。人の生でなくたっていい。あなたの生はあなたのものだ。人生なる抽象化されたレールを辿らなくてはならない、なんてことはない。ただ、人の生でない生き方は、困難を極める。人は、人以外には手厳しい。よしんば同族であろうとやさしくはない。楽をしたければ、ドミノを並べ、人の生を歩むのがよさそうだ。まとめよう。きっかけはきっかけにすぎない。その後にどのような生き方をするかはじぶんで決められる。きっかけに惑わされぬよう、ときおりでよいので、じぶんの描こうとしているドミノの完成図を、思い浮かべる習慣をつけておくと、いざこれまでのドミノがダイナシにされても、比較的短時間で修正し、ドミノを立て直すことができるだろう。きっかけによって日々が変質してしまうことはある。だが日々をかたちづくるのはじぶんである。環境によって自由に生きられないことはある。それでも自由に生きようとすることはできるはずだ。



2273:【虫の音、リズム、プリズム】

林の奥からコオロギの鳴き声が津波となって聴こえていた。通常、コオロギは律動よく、リリリリ、と鳴く。それが、リーーーーーーー、と大音量で鳴りつづけていた。まるで、リリリリ、の合間をたくさんのリリリリが埋め尽くしているようで、耳で聴いていたはずが、目で見ているようなふしぎな感覚を覚えた。合唱ではなかった。空間を埋め尽くしていた。まるで一匹一匹のリリリリがそれで一つのブロックと化したように、隙間なくびっちりと並べられ、壁となって押し寄せていた。毎年繰り返し訪れる秋であるが、こうして足を止め、空間を埋め尽くす虫の音に耳をそばだてたのは初めてのことだと記憶している。どんな虫が鳴いているのかと、一つ一つの鳴き声に意識を差し向けることはたびたびあったが、虫の音から律動が失われるくらいに、全体が一つの、リーーーーとなっていることに気を留めたのは初めてである。だからどうしたというわけでもないが、音も色のように塗りつぶすことがあるのだと思うと、なんだか現象と物質の垣根が崩れたようで、やはりふしぎな心地になる。思えば、物質もまた現象のうちの一つなのだ。さまざまな現象の組み合わせ、干渉によってその輪郭を保っている。一つ一つ、干渉しあう現象を取り除いていけば、最後にはひとつの、リリリリが現れるのかもしれない。それを律動と言い換えてもよい。或いは、波形と。



2274:【自我、意識、虚構】

人類以上の知能を有する何かしらが現れたら、それにとっての意識は、我々人類が思うような意識とはべつの何かへと昇華されるだろう。とすると、その高次な知能を有する何かしらからすると人類は総じて意識を持たないように映るはずだ。我々がほかの生物を眺め、自我や意識を持たないように見えるのと似た現象と言えそうだ。人間の行動原理は、高次な知能を有する者から見れば、獣や植物、或いはバクテリアやウィルスとそう変わらないのかもしれない。そこに自我や意識の介在を幻視するよりも、そんなものはないと考えたほうがより正確な解釈として成立しそうだ。すくなくとも我々人類には、人類以上の知能はなく、それ以上の高次な自我や意識もまた有していないのだから。自我や意識は神や魂のようなものなのだろう。人類がそれを存在するものとして認識しているだけであり、実存とはまたべつなのだ。自我や意識があると見做す機構そのものが自我や意識の正体とも言えるかもしれない。だとすると、自己と非自己を識別し、増殖するバクテリアやウィルスには、低次の自我や意識が芽生えていてふしぎではない。それら自我や意識が、我々人類にとっての自我や意識とは相容れないだけで。或いはこうも言い換えられる。あらゆる低次の自我や意識が複合され、高次の自我や意識は合成されるのだと。細胞が人体を構成するのに似た仕組みが、自我や意識にも当てはまるのかもしれない。定かではない。



2275:【否定の否定】

否定はしないよ、と口で言いながら嫌悪を示し、相手から学ぼうとしない姿勢を貫く者がいる。否定をしないのなら、よいところはよいと認め、取り入れようとする姿勢くらいは示したらどうなのか、と思うのだが、おかしなことを言っているだろうか? 否定はしないよ、と言いながら拒絶していたらそれは、ただ否定するより性質がわるい。否定は解釈や判断の一つだが、拒絶は行為である。否定を具体的に体現したものが拒絶だ。単なる否定よりもつよい否定の意を含んでいる。排除の意思がそこには加わっているからだ。否定をしないのならば、理解しあう姿勢を保つこと、学びあう姿勢を示すことくらいは維持したほうが好ましいのではないか。真実に否定をしないのならば、そうあってほしいと望むものだ。否定することはわるいことではない。拒絶だってときにはじぶんを守るためにはしなくてはならないだろう。否定したいなら否定すればいい(しないほうが好ましくはあるが)。拒絶するのも必ずしもわるいことではない。ただ、否定をしているのにしていないと言ったり、拒絶しているのにそのことに無自覚なのは、議論を交わすうえではやや不便だろう。すくなくとも否定したり拒絶したりした対象に嘘を吐いている、と言えそうだ。傷つけているのに傷つけていないと言い張っているようなもので、そこはかとない暴力を感じる。いくひしさんも気をつけたいものである。



2276:【理想が単なる現状維持】

じぶんが考えたところで世のなか何も変わらない、どうせこうなるから意味がない、どうせ世のなかはこうだからよくもわるくも大きく社会は変わったりしない、といった諦観が、いくひしさんの思っていた以上に身近なおとなにも馴染んでいて(巣食っていて)、すこし以上に驚いてしまった。ものすごく考えているようで、考えることを放棄している。トートロジーを頻繁に使うのだが、そのことに当人は無自覚だ。仕組みやシステムに不備があるなら改善すればいい。だが、そもそも改善できるようなものだとの認識がないため、欠陥のあるシステム内でどうやって生き抜いていくか、という方向にしか目が向かない。だっていまがこうだし、どうせこのさきもこのままでしょ、だからこうなんだよ、といった具合だ。諦めてしまっているのだ。大きな枠組みの仕組みやシステムはすぐには変更したり、改善したりはできない。だからこそ、長期的な視野で、すこしずつ改善していこうとしなければ、やはりいつまで経っても現状維持がつづくだけだ(現状維持をしようとしなければしぜんと衰退していく。言い換えれば、現状維持そのものにも労力がかかる。現代は、現状維持ですらむつかしく映りがちなのだろう)。将来的にどうしていきたいのか、どういう未来を手にしたいのか。その理想すら、現状の枠組み内でしか思い描けていない。想像力の翼が折れてしまっている。どうしてそうなってしまったのか。日々の生活が苦しいからかもしれない。貧すれば鈍する。まずは想像力からひとは鈍くなっていく、のかも分からない。



2277:【批判は否定とちがう】

じぶんよりも格下を批判するのも、じぶんより格上を批判するのも、どちらもするだけなら簡単だ。だが、ただするだけでも、それを批判したらじぶんの底が割れるかもしれない、と畏怖するような、じぶんの鏡像のような存在を批判することは誰もが躊躇する。だからこそ、そこをこそ批判できる者が評論家となるのだろう。客観的な評価は、じぶんを棚にあげることでしか成し得ない。だからこそ、その自家撞着に無自覚である人間は、対象を客観視する資質に欠けていると呼べる。主観を棚上げするためには、誰より主観を理解していなければならない。ゆえに、じぶんの鏡像から目を背けず批判できる者こそが、評論家の資質を有するのではないか、といくひしさんは考えております。



2278:【頭が固い】

じぶんを信じられない理由の一つに、ビジョンがそれほど大きくぶれない点がある。どれほど知識を得ても、それ以前に思い描いていたビジョンが肉付けされるだけで、その骨子はおおむね揺るがない。本来であれば、誤った知識が是正されたり、未知の分野の知見を得れば、ビジョンは修正する方向に動くはずだ。だが、ほとんど微動だにしない。だからこそ、じぶんの判断力や考えを疑うのである。ビジョンは修正するものであるし、ときには大きく骨子を入れ替えることも必要となる。原型からほとんど変わらないというのは、根本的に、それをいじくる者の腕に瑕疵があると考えるのが妥当だ。DNAではあるまいし。最初から完成図が決まっているなんてことは、ほとんどあり得ない。それこそ、生物が新たに無から誕生するような確率の低さだと言えそうだ。いくひしさんの言うことを真に受けてはいけない。



2279:【限りなく零にちかい】

たくさんの「ない」でいくひしさんはできあがっている。したことないこと、持ってないもの、そういうものでできている。限りなく零にちかいチリアクタ。



2280:【きみはすぐいい加減なことを言う】

物質は、存在は、あるものが組み合わさり、相互に干渉しあってできている。ないものはない。ないものでできあがるものなどは、ないのである。無はできあがるものではなく、ただそこにない。ないものはない。ゆえに無なのだ。ないものが組み合わさってできたりはしない。生じたりはしない。ないものはない。ただ、無なのだ。裏から言えば、ないものでできあがっているなんて言い方は過分に誤謬を含んでいる。たとえば穴は、ぽっかりと物質のない部分が目につくが、それは空間をほかの物質が囲んでいるからできている。ないからあるのではない。あるものが相互に干渉しあって、穴を囲んでいるから、穴は穴としてそこに生じる。ないからあるのではない。あるもので「穴」をつくっている。この場合、「穴」を「マイナス」に言い換えても成立する。ないものでできあがるものなどはない。それは無であり、できあがるものでも、組みあがるものでもないのである。いい加減なことを言わないようにしてくださいね。いいですか、いくひしさん。



※日々、相手の世界を壊さぬように、塗りつぶさぬようにと怯えている。



2281:【たとえば】

いくひしさんの知能がいまより一万倍高くとも、けっきょくいくひしさんはいまのまま、こうして似たような日々を過ごしていることだろう。他人をどうにかしようとすることそのものへの罪悪感が拭えないかぎりどうしようもないのだ。知能が高ければ罪悪感は消えるのだろうか? あべこべに手を消毒することにすら罪悪感を抱くようになってしまいそうでおそろしい。或いは、罪悪感そのものがなくなり、手を消毒するのと同じ感覚で、他者を損なうことに抵抗がなくなる気もする。そちらの公算のほうが高そうだ。いずれにせよ、いくひしさんの知能が低い現実は変わらない。愚かなまま生き、愚かなまま死ぬ。なんて愚かしい日々だろう。それに比べて、愚かなままでも生きていける世のなかの素晴らしさといったらない。ありがたさと申しわけなさの栗ご飯である。



2282:【誰もがみな自家撞着を抱えている】

目的を達成するためには、その目的のスケールにかかわらず、短期的な手法と長期的な手法の両方が必要となる。そしてその二つの手法は往々にして、相反する性質を帯びるものだ。この場合、手法を思想と言い換えてもそれほど大きく的を外さない。たとえば、暴力のない社会を築くことを目的とした場合。長期的にはじぶんを含めた誰もが暴力を用いないことが前提にたつ。暴力を使わない、という手法(思想)が、長期的には役にたつわけだが、しかしそのためには、短期的には、暴力を用いる者たちから身を守ったり、大切な者たちを庇ったりしなければならない。暴力に対抗する何かがあればよいが、いままさに殺されようとしているときに、悠長にそんなものを探してはいられない。正当防衛や緊急避難的に暴力を用いざるを得ないこともある。警察機構はその代表的組織と言ってもいいだろう。例外的に暴力の行使が社会的に許されている。短期的にはこうした暴力の許容が必要とされるわけだが、しかしいつまでもそれを許容していれば長期的な目的は達成できない。もちろんそもそも達成不可能な目的である場合もあるだろう。この世から暴力をなくし、誰もが暴力を働かない社会を築くことそのものが土台無理な話なのかもしれない。この場合、この思想や目的を大勢に強制したり、布教することそのものが一つの暴力と成り得る。話が脱線したが、ともかく、最終的な目的を達成するためには短期的な目標を段階的に達成していかねばならない。そのときに用いる手法は「最終的な目的を達成するために前提となる手法と矛盾する手法」や「どちらかと言えば好ましくない手法」であることがある。おおむねそうだ、と言ってしまってもあながち間違ってはないだろう。例外を探すほうが骨が折れる。言い換えれば、その場しのぎを繰りかえさなくては、長期的な計画を実行しつづけていくことができない。だが、そうしてその場しのぎを繰りかえすことそのものが、新たな問題を生じさせる因子になっている側面からは目を逸らさないほうが長期的には目的を達成しやすくなるはずだ。可能であれば、短期的な手法も、長期的な手法も、相互に矛盾のない手法であると好ましい。どのような段階であれ、目的そのものを根本から否定する手法をわざわざ用いる必要はない。だが、理想に反した手法をとらざるを得ないのが現状のようだ。人類にはまだまだ余裕はないらしい。



2283:【還元、因子、創発、回路】

ちいさな善意が集合することで、善意とはべつの性質が創発して、全体として悪果をまき散らす、という現象は社会的に珍しくないように感じている(あべこべに、悪意の集合が組織や社会にとって好ましく振る舞い、結果としてプラスに働くこともないとは言い切れないが、確率は低いだろう。破壊が創造を生むよりも、創造が破壊を促すほうが、熱力学第二法則であるエントロピー増大の法則に矛盾しない)。派遣会社の問題も、ブラック企業の問題も、利権やエネルギィ資源の問題も、戦争も、紛争も、貧富の差も、差別問題も、気候変動の問題も、おおむねそうした「創発の作用」が問題の認識を困難にしている一つの因子として働いているのではないか、といくひしさんは考えている。個々人に悪意はない。だが、集合することで大きな流れを生み、気体が水となり氷となるように、本来はそこになかった性質が表れ、隘路として社会に顕現する。したがって個々人の意識をどうにかしようとする道徳的な対策は、根本のところで高い効果をあげない。組織のリーダーに責任を問うような真似も大きな効果は期待できないだろう。問題をどのように捉えるか、どこに問題があるのかといったそもそもの視点に難がある。これは還元主義的なモノの見方を基本として習う現代の義務教育があだとなっている側面がある。還元主義的な、或いは三段論法に代表されるような演繹法的なモノの見方、考え方は、事象を単純化して考えるには都合がよろしいが、そのさきに、相互に関連して、総合して、システマチックに複雑に捉える分には、不足である。そして社会や自然現象のすくなからずは、システマチックであり、複雑系に属している。還元主義的なモノの見方では、そもそも扱えないのである。だが、現代では、いまなお階層を意識せずに、還元主義的に問題を処理する傾向が根強い。何か組織で問題があったときは、そのきっかけである個人に責任を負わせ、対策としては、同類のきっかけが起きないように、根本的な因子にのみ制限や変更を課す。だが複雑系において、根本の因子というものは滅多に存在しない。相互に関係し、ときにはまったく問題のないむしろ組織を正常に生かすための因子が、増えすぎたために悪因と化し、組織全体を蝕む、といったこともとりたてて珍しくはない。バランスの問題であるとも呼べるし、組み合わせの問題であるとも呼べる。ときにはタイミングの問題であったり、偶然の作用であったりする。言い換えれば、問題の種を辿っていき、根本の因子を突き止める、といったことが原理的にむつかしい。液体としての水と水蒸気の違いを突き止めるにしても、その境を明確に見極めるのは困難だ。どちらも水分子によって構成されていることに違いはない。だが、我々人類には、液体としての水と水蒸気は別個の事象として認識され、実際にそのように扱っている。だが根本的にはどちらも水分子であり、問題の種を還元主義的に見出そうとすれば、水分子にその責任の矛先が向かうことになる。だが、液体としての水の性質と水蒸気の性質は異なる。そしてその異なる理由は、水分子そのものにあるのではなく、水分子の数や密度、相互の関わり方や、運動の仕方に依存する。言い換えれば、なぜ液体の水が水蒸気になってしまったのか、と問題視した場合に、根本を辿って要素を分解し、還元していく考え方では、本質的な解決策に結びつかない。液体の水分子よりも水蒸気の水分子のほうが激しく振動している。ならば自由に動けないように制限をかけよう。しかしたった一つの水分子を固定したところで水蒸気は水蒸気のままだし、よしんばすべての水分子に制限をかけたところで、動けないようにしてしまったらこんどは、液体にすらならずに、凍ってしまう。液体の状態を基本形として捉えるならば、固体である氷になるのはむしろ余計にまずいだろう。だが、こうした錯誤が現実の社会問題では頻繁に起こっているのではないか、といくひしさんは想像している。単純化して並べたが、本来はもっと複雑だ。いわば、回路そのものが創発の一面を持つ。たとえば、創発した事象を一つの単位として無数の創発がシステムを支えていたり、創発の集合がさらにべつの創発を生んだり(物質や事象の大半はこの「繰り込み」で輪郭を保っているわけだが)、創発した事象同士が相殺しあって均衡を保っていたり、その均衡そのものが一つの因子として回路を機能させていたりと、とかくあちらを崩せばこちらも崩れるといった微妙な秩序のうえに成り立っている。事象とはおおむねそういうものだ、と言ってしまいたくなるほどである。そんななかで、かろうじて独立して回路を維持でき(ているように視え)る事象を、我々人類は原子や分子と名付け、物体や事象を還元して考える手法を煮詰めてきた。だが、それだけでは解釈しきれないほど、世には多くの相互に関連した事象が存在する。人間の関わる事象のすくなからずはそれである。社会とはそういうものである、と言っても大きな齟齬はないだろう。個々人の生き方や在り方だけでは原理的に解決できない問題というものがある。解決可能な問題はおおむね、その対処法を人類は編みだしてきた。残されているのは、解決できない複雑な問題ばかりだ。諸問題の悪因を個々人に還元できない事例もあることをまずは認め、そのうえで、どのような仕組みのうえに問題が創発しているのかを考える視点が、これからの時代には欠かせなくなっていくのではないか、とぼんやりとした妄想をまき散らして、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(還元主義の代わりに新たな考え方を、という話ではなく、還元主義を使いながら、それを踏まえたうえで、新たな視点でのモノの見方、考え方がもっと多くの分野で必要とされていくのではないか、という趣旨のこれは妄言です)



2284:【揚げ足取り】

むかしできていたことを再習得しようとするのだが、もはや肉体(器)が別物となってしまっていて、それを再習得してしまうと、いまできていることができなくなる不安に駆られることがある。だが、それは錯覚だ。そもそも、むかしできていた、ということからして錯覚だとしてしまったほうがよりそれらしく聞こえる。いま存在するこの肉体、この頭脳は、いま発揮できる技術しか習得していない(記憶はしているかもしれないが、情報として引きだせなければ技術として昇華しようもない。また、運動の記憶が肉体に刻まれるといった仮説も耳にする。マッスルメモリーがそれだ。運動の記憶が肉体に残り、いちど衰えてもまた同じような負荷をかければ、一度目よりも比較的短期間で身体の機能を向上させることができる、とする説だ。肉体の理想的な状態を身体は憶えている、といった説明を耳にする機会があるが、いくひしさんはあまり信じていない。どちらかと言えば、運動の記憶ではなく、免疫系の自己修繕機能の記憶を肉体が覚えるといったほうが正確だろう。不謹慎な喩えとなるが、自然災害が起きたことで、その対処の仕方が学習され、国の復興速度があがるのと似た理屈が、肉体にも備わっていると言えそうだ。よって、肉体の理想的な状態が身体に刻まれるわけではない。学習することで、回復の技術を高めているのである)。言い換えれば、再習得という言葉そのものが現象としてあり得ないのである。習得は、しているか、していないかであり、習得する場合はつねに、習得する、なのである。ただし、十秒前にできていたことがなぜかいまできなくなっていた場合には、これは再習得と言っても矛盾はしないように思われる。記憶が抜けているだけで、肉体たる器に大きな変異はない。言い換えれば、コンピューターのような恒常的に同一の規格でありつづける構造物においては、再習得という言葉を適用しても不自然ではない。人間の肉体は日々変遷しつづけている。赤ちゃんのころは(足があれば)誰もがじぶんの足の親指を噛むことができるが、成人するにつれてできなくなっていく。足の親指を噛めるくらいに身体をやわらかくしようとしても、それは再習得するとは呼ばないだろう。思考形態の場合も同様だ。むかしできた数学の問題をいま解けないのならば、それは再習得するのではなく、いまの「私」が習得するのである。極論であるが、そういう趣旨のこれは「揚げ足取り」である。足を揚げたところで親指は噛めない。噛むためには赤ちゃんを見習うか、或いは足を取るしかないのかもしれない。



2285:【嫉妬、憧憬】

思いついたので並べるだけで、とくに信じているわけではないが、嫉妬と憧れの違いは、対象となる相手を「じぶんより下に見ているか」「上に見ているか」で決まるのではないか、との疑いがある。たとえば二人の人物が同じ成果をあげていたとして、いっぽうは長年じぶんといっしょに育ってきた友人、もういっぽうは実績も肩書きも何もかもが煌びやかな著名人であれば、同じ成果であっても友人には嫉妬し、著名人であれば憧れるようになるのではないか。しかし友人であっても素晴らしい成果をあげたならば憧れることもあるし、著名人であろうと嫉妬するときは嫉妬するのだろう。言い換えれば、友人であろうと「上に見る者」はあるし、著名人であろうと「バカにしている者」もいる。そういう意味では、嫉妬しやすいひとは他者を尊敬していない傾向にあり、嫉妬しにくいひとは他者を尊敬しやすい傾向にあるのかも分からない。ただし、憧れの場合は嫉妬ほど一般化はできない。いくら憧れやすくとも、その視線の向かう対象が一部の花形に限られてしまえば(そして憧れはたいがい一部の者に向けられる感情であるから)、憧れやすいことが他者を尊敬しやすいか否かと結びつけて考えることができない。べつの見方をすれば、嫉妬は万人に向けられ得るのに対し、憧れは限定的だと言えそうだ。



2286:【理屈は役立たず?】

単純な話として、頭のよいとされている者たちがこぞって考えを煮詰め、何かしらの行動に移してきた結果が現状であるのだから、考えることの優先順位、もっと率直に言えば「価値」が低く映っても致し方ないのではないか。理屈で世のなかは動かない、ということを若い世代のみならず、世のなかを動かしている者たちですら、体現し、無自覚のうちから肯定してしまっている。より正しい考えや道理よりも、より多くの資本や他者からの高い評価を得ることのほうが、「社会を動かすためのリモコン」として使い勝手がよいとされるのならば、考えることを放棄し、「社会を動かすためのリモコン」と似て非なる「まがい物の資本」や「一過性の他者からの高い評価」を得ることに躍起になるのはそれこそ致し方ないのではないか。もうそろそろ、「まがい物の資本」や「一過性の他者からの高い評価」を重宝する姿勢を見詰め直してみてもよろしいのではないだろうか(資本と貨幣は必ずしもイコールではない)。話を変えよう。考えの正しさもたいせつだが、誰であれ、じぶんで考え、その考えを発信することに抵抗を感じない世のなかを築いていくほうが、社会をより好ましいシステムに導いていくように思うのだ。デマを広げるのはよろしくないが、間違った考えを述べることを批判したり、厳しく誤謬を指摘したりする社会は、長期的にはマイナスの面が強化されるのではないか。間違った考えにも無数の組み合わせがある。「たしかにその考えは間違っているが、その間違え方は新鮮だね」と言えるくらい、みな、もっとあらゆる可能性に目を向ける懐の深さ、言い換えれば余裕を持ってもよろしいのではないか。「頭のよいはずの者たち」の極一部ではあるが、あまりに狭量な言動をインターネット上で撒き散らして映るので、もうすこし「言い方に気を回してみてはいかがですか、あなた方は賢いのでしょ」と言いたくなってしまう。その点、いくひしさんは端から賢くはないので、狭量な言動を今後も繰り返していくことであろう。じぶんだけは許される、といった傲慢さが愚かしい者となるための一つの条件であると言えそうだ。



2287:【損をするのは誰かを考えよう】

大勢(社会)に認知されなければ存在しないのといっしょ、みたいな理屈を目にする機会がある。しかし、存在するものは存在するわけで、むしろ損をしているのは、あるものをないものとして扱っている大勢のほうだろう。量子物理学では、重ねあわせを認めている。あるものがない状態というのは現象としてまだ発見されていない。むしろ、あらゆる可能性が同時に存在しているといった、いまここにはないものがある、ことのほうが理屈としてより妥当だ(正しいという意味ではなく)。大勢に認められなければ存在しないのといっしょ、という理屈は、飽くまで大勢から見た視点(錯誤)であり、認められようと認められなかろうと、存在する者は存在している。そして、存在する者にとって、大勢からの認知は、存在することの必要条件ではない。他者から認められないとじぶんは存在することもできないのか、と自己を否定してしまうような「認知のゆがみを促す言動」は慎んだほうがよろしいのではないだろうか。(大勢に知られることで得られるメリットがあるのも確かである。だが、大勢に知られないことのメリットもまた同様にしてある。加えて、大勢に知られることのデメリットがないわけではない点にも留意されたい)



2288:【透明な王冠】

権力、と検索すると、「他人を強制し服従させる力」とでる。これは言い換えれば、何らかの組織だったりせずとも、誰もが権力を得る可能性があることを示唆する。絶対的な構図ではなく、相対的な構図によって「権力を持つ者」と「権力を行使される側」とに分かれるのだ。言ってしまえば、こんなにヨワヨワないくひしさんであっても、誰かにとっては権力を持っていることになり得る。じぶんは権力を持っていない、どちらかと言えば虐げられているのだ、と思っている人物であっても、ある一面、ある局面では、誰かを虐げる立場にいておかしくはない。じぶんはどんな場面で権力を持つのかを、いちど想像してみると、思わぬかたちで誰かを理不尽に扱ったり、損なったりせずに済むかもしれない。一方的に利益を享受していたり、いつも雑用や後始末ばかりを他人にさせていたり、正当な報酬を払っていなかったり、断る選択肢を与えずに頼みごとをしていたり。そういうことを日常生活のなかでしていないか、とじぶんを省みる姿勢は、回り回ってじぶんを助けることになるのではないだろうか。言うや易し、行うは難し。いくひしさんにもいくつか心当たりがある。やはり優位な立場に甘えてしまっているところがある。ときには、じぶんのほうが相手に譲っているのだ、遠慮しているのだ、と被害者面をしてしまいたくなることもあるが、じっさいのところ、客観的には、いくひしさんが得をしている構図として成立してしまう点からは目を逸らさずにいたいものだ。たとえ追いやられたさきで楽園を築いた者であっても、楽園を独占すれば権力者なのである。



2289:【なんもわからん】

2019年10月現在において物価は上がっているのか、下がっているのか、どちらなのだろう。値段はそのままに内容量の減った商品をときおり目にする。この場合は、物価が上がっていると言える。しかしたとえば、いくひしさんが幼いころは、近所にコンビニなんてなかったし、百円でから揚げや肉まんは食べられなかった。パソコンだって何十万円もした。十年単位で見渡してみれば、過去よりも安価でできることが増えている事実は否めないのではないか。反面、ガソリンや電気料金はここ二十年では値上がりしつづけているが、五十年単位で眺めてみれば値下がりしていると呼べそうだ(どんな技術であれ、開発当初がもっとも費用がかかるのだからあたりまえと言えば、あたりまえだ。メモリーカードやハードディスクを持ちだすまでもなく、技術力が高まれば、安価に大量に同一の製品をつくりだすことができる。技術力が高まっていくかぎり――そして材料の値段が高騰しないかぎりは――時間の経過と相関して工業製品は安くなる)。また、物理的にカタチを帯びない成果物の需要は年々増加傾向にある。サービスはその典型だ。感情労働もその範疇である。加えて、インターネット上における成果物、たとえばアプリやデジタルコンテンツは、コピーを重ねることで安価に、大量生産大量流通を可能とする。反面、質の高い無料の成果物も蓄積されつづけていくため、市場価値の暴落を招きやすい。ときに、商品価値がなくなるほどに需要を供給が上回る例もでてくるだろう。データのおそろしいところは、蓄積されつづけていくことだ。そしてそれをまとめ、検索することが容易である点も、物理経済とは性質を異としている。そのため、新しい市場を開拓し、開拓した市場を独占する動きが活発化しつつある。ネット上における市場は、概念を変え、需要者と供給者を結ぶ「導線」と呼ばれるようになってきて映る。「導線」は、自力で開拓した独占可能な独自の市場と言えそうだ。裏から言えば、次世代のビジネスにおかれては、個々人が、独自の市場を持たなければ商業として成り立たせることは極めて困難であろう。次世代の経済はそうした、個々の「導線」をいかに需要者と結びつけていくかの模索によって流れを生み、そしてその流れ自体を支配する「場」が社会をひとつの船として扱い、舵をとるようになっていくのではないだろうか。「導線」を人々はいったい何を使って結んでいくのか。新たな「場」の登場に注目しておきたい。



2290:【デタラメを並べます】

仕事をつくるのが仕事となる者たちが、何のために仕事をつくるかを言語化し、その言語化された目的と実体とのあいだにズレがないようにしないかぎり、労働によって経済が築かれる社会では、仕組みの合理化が進まず、技術がいくら高まっても労働時間は減らずに、あいた余裕に「仕事のための仕事」を詰めこまれ、社会は豊かになっているはずなのに、いつまでも人々に余裕は生まれない、といった悪循環が生じてしまいそうだ。仕事をつくることが仕事となる者たちは、言い換えれば、どんなに無駄なことにも対価を払うように指示することのできる立場にある者だ。穴を掘り、掘った穴を埋め、といった単純作業を延々とさせるだけでもそこに報酬が発生すればそれが仕事となってしまうのが現代社会だ。誰の、何のためになっていなくとも、とりあえずお金が動けば、経済は循環する、と考えられがちだが、お金だけ動いても仕方がない。何かしら、労働以前と以後とでは、社会全体の資本が増えていなければならない。穴を掘って埋めただけでは、社会は何も豊かになっていない、むしろ本来生じたはずの資本が得られなかった点で、損をしていると考えられる。こうした無意義な仕事が現代社会には溢れていないだろうか。無意義な仕事を無意義にしないためにまた仕事をつくり、さらにつくりと、一見すると経済は順調に発展しているかのように映るが、元の仕事が本質的に社会を豊かにしないのならば、どれだけ複雑な回路を築いたところで、「無意義」になる時間を先延ばしにしているだけだ。いわば、穴を掘って埋める過程に、ピタゴラスイッチさながらの段階をつくって、それを以って経済と呼ぶ、みたいな滑稽さがある。社会にとって何が無意義か、は議論の余地があり、それぞれの立場からの見解の相違があって当然だとは思うが、公共事業にかぎらず、いち民間企業の代表取締役ですら、いっときの金のやりとりをするためだけにそれほど必要でない仕事をつくりだし、その場しのぎに労働力を投入する風習が、一般化してはいないだろうか。これからの時代は、ときには敢えて発展しない、敢えてこれ以上儲けない、という姿勢をとることも、仕事をつくることが仕事の者たちにとって欠かせない資質となっていくのではないだろうか。自転車操業に陥った時点で、破滅までの秒読みがはじまるものとして考えていたほうが、これからさきの社会を生き抜いていくにあたって、有利になるかもしれない。




※日々、過去の王族より贅沢をしている、突き詰めればアメーバよりかはマシな生活、と思いこみたいカタツムリ。



2291:【いちずになりたい】

長編一本完成させるあいだにストレス解消のための短編や掌編がその倍以上の分量できてしまう現象に苦しむ回数が増えてきた。一気呵成に集中して一本一本をつくれるようにならなきゃ、とは思うものの、年々その意気とは裏腹な創作事情と相成り申してそうらう。真剣にひとつの物語だけを愛する期間をつくらなきゃ、と思うのだけれど、どのコもかわゆくてのう。浮気癖を直さねば。(ぱんちまーく)



2292:【パクられるのがそれほど嫌いではない】

法律上、パクリは著作権侵害として禁止されている。だが、いくひしさんは、パクリそのものをわるいとは思っていない。これは、パクることを積極的に肯定しているのではなく、パクられることに対して寛容だ、という意味だ(この違いは大きいので、ぜひ、ここだけは誤解のないようにお願い申しあげます)。もちろん、いくひしさんのつくったものを他人が「私のオリジナルだ」と偽って、権利を独占しようとする姿勢はいただけない。だが、いくひしさんのつくったものに影響を受けて、そのままにしろ、流用するにせよ、使用する分には、とくに禁止しようとは思わない(無断使用であっても構わない)。繰りかえしになるが、利益を独占するためにオリジナルだと偽って権利を主張されるのは困りものだ。だが、何かしらの創作意欲を満たすために利用される分には、どちらかと言えばよろこばしく感じる(読書もまた、そうしたなんらかの意欲を満たすために他者の成果物を利用しているわけで、こうしてテキストを無料公開している時点で、読書とその他利用の区別をつけるのはむつかしいのではないか、と首をかしげている。これは、いくひしさんが読書もある種の創作行為だと考えていることと無関係ではない)。根本を掘り下げて考えてもみれば、なぜパクリがよろしくない行いだとして広く禁止されているかといえば、何かをつくるという行為には労力と費用がかかっており、鳶に油揚げをさらわれるように、成果だけを他者に掠め取られるような社会になってしまったら、誰も創作者側に回ろうとはしなくなる懸念があるためだ。創作者の権利を守るため、というよりも、そのさきに引き起こるだろう社会的損失を防ぐ目的のほうが大きいのではないか、といくひしさんは想像している。ひるがえって言えば、社会的に利があるならば、創作物や成果物に対して、創作者や生産者が権利を主張せず、独占しない姿勢を示すのは、それほど問題はないのではないか、と考えている(たとえば情報格差を失くすために、誰もが無料で知識を得られるシステムは社会を豊かにする方向に働く。インターネットはその一例と呼べる)。ただし、世のなかにはやはりというべきか、他者の成果物を独占するつもりで無断使用する者もある。「コレは私がつくったものだ、ほかのものが偽物だ」と赤の他人が主張したのでは、元々のオリジナルの創作者はやはり傷つくだろうし、創作意欲を削られるだろう。何かを創作し、生みだした者には、自作をどのように使用するか、或いはさせないのかを決める選択権があったほうが好ましい。ただし、他者の利用を禁止する権利があることと、他者の利用を禁じることはイコールではない。禁止しないかぎりは使用させてもよいのではないか、といくひしさんは考えている。言い換えれば、世のなかの極々一部の「よろしくない使用者」に合わせて、不自由な制限を創作物に課さずともよいのではないか、という疑念がある。基本的には、誰でも好きに利用してもらえたほうが、いくひしさんの創作物にかぎっては、いち創作者として好ましく感じていますよ、という妄言を並べて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(お断りするまでもなく、これはいくひしさん個人の考えであり、一般化したいわけではありません。誰もがいくひしさんのような考えだったら、それはそれで問題が起きるでしょう。たとえば、現状のコンテンツビジネスはいくらか好ましくない影響を受けることになるはずです。ただ、こうした創作者もいますよ、と知っているだけでも、何かしら考える余地が広がるのではないでしょうか)



2293:【最終的には】

争ったり競ったりするのが苦手だ。なぜならいちど争ったり、競ったりすれば、もっとも効率のよい勝敗の付け方が、相手を殺したり、抹消したりすることになるからだ。現代人には倫理観が刷りこまれており、滅多に殺すまでいくことはないが、しかし社会的に抹殺したり、或いは間接的に死に追いやったりすることは、まったくないとは言い切れない。そしてやはり、いちど争ったり、競ったりすれば、相手から殺されたり、抹消されたりと、何かしら存在や自由を損なわれる確率が高くなる。そうした不安を払しょくするためには、さきに相手から自由を奪ったり、存在そのものを抹消するのが合理的な判断となる。ただし、社会的にそうした行為は非難されるため、勝敗がついたあとでも自由を確保したくば、相手を可能な限り損なわないようなカタチで負かすことがその後の社会生活を円滑に送るのに優位に働く。だが、その後の生活のことを考える余裕がなくなれば、とりあえず勝つことが優先され、結果的に相手を殺したり、抹消することが合理的な選択として判断される確率が高まってしまう懸念がある。そうなるとやはり、相手をさきに殺したり、抹消したりと、過激な手法をとることが合理的に正しくなってしまい兼ねない。いちどこの疑心暗鬼の悪循環に陥れば、或いは雪だるま式に応酬が過激化すれば、相手を滅ぼす選択肢を避けられなくなる。ゆえに、いくひしさんはどんなことであれ、争いたくはないし、競いたくはない。極端に聞こえるだろうか? だとすればあなたは至極まっとうだ。



2294:【破壊+再生=成果】

利益をだすため、という名目で許容されていたシステムや風習は、当然のことながら利益がだせなくなったら名目を保てない。存在する意味がない。もっと言えば、それらシステムや風習に雑な扱いをされていた者たちは、そうしたシステムや風習がじぶんたちの属する土壌を耕してくれていると思えたからこそ、がまんできていた。だが、土壌を耕すどころか汚染しているとしか思えなくなれば従わなくなるのは道理だろう。多くの場合、利益がでていたころから土壌は汚染されていたのだろうが、それを上回る成果を見せられればトータルで発展して見え、不満や批判を呑みこみやすくなる。だが、見せかけの成果に騙されていない保障はない。不都合な事実から目を逸らすためのアドバルーンが「利益」である。利益が必ずしも、成果をあげるために費やした労力や資源と吊りあっているとは限らない。成長とは破壊を再生が上回っている状態だ。だが、再生を繰りかえすごとに細胞は、再生可能な限度数を減らしていく。本質的には、破壊が優位に進んでいる。成長とは緩やかな死と同義なのである。細胞にかぎらず、世の発展や成長には、どこかしらに見過ごされている損失があるはずだ。利益をあげればそれでいい、という考えは危うい。アドバルーンを飛ばしさえすればみな目を逸らしてくれる、誤魔化せる、マイナスとプラスの偏りをないものとして扱ってくれる、といった短絡に結びついてしまい兼ねない。誰に知られることなく消耗している「犠牲」がないか、或いは再生可能な限度数が目減りしていないかと、周囲に、そして未来に、ときおり目を配っていきたいものである。



2295:【つらいことはしたくない】

仕事はつらいもの、って価値観、はやく終わってくれないかな。ひとむかし前は、技術が足りなかったから他人のやりたくないことを率先してやることが仕事になった。でもいまは技術が発展して、社会が豊かになったから、作業そのものはむかしに比べたらだいぶん楽になったはずだ。このさきどんどん楽になっていく。だのに、仕事はつらいものだから、みたいな価値観があるせいで、わざわざ楽になったところにまたべつの作業を詰めこんで、トータルでつらいままであるように操作されている。仕事はつらくなくてよいはずだ。みんなが楽をして生きていける社会を目指して、むかしのひとたちががんばって、苦労して、その分、いまの社会は楽ができるようになった。先人の努力を無駄にしているのが、いまの社会だ。他人のやりたくないことが仕事になるのではない。やりたいけど時間がないので、代わりにやってくれるひとに頼みたい、そういう需要が仕事になるのだ。つらいか、つらくないかはそれほど関係がない。むしろ、いまだにつらい仕事があるのはおかしいと考えたほうが合理的な判断となっていく。好きなことを仕事にしたらつらくて嫌いになる、なんてことはいまの社会では不適切だ。仕事になるかならないか、の問題があるだけで、そもそも仕事にしてつらいようなものは、はなから需要がなくて仕事になっていないだけなのではないか、と疑ったほうが身のためだ。つらくならないようになんとかしましょう。楽をしながら、これをやってほしいな、と他人が望んでいることを肩代わりする。仕事はそれで充分ではないか。仕事だからなんだというのか。他人につらさを押しつけないでほしい。



2296:【霊魔怪シリーズ「窪地のヌシ」】

財布の中身が葉っぱになっていた。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054891490574



2297:【物語の多重構造】

物語の構造はつぎの段階に入っている。現に世界的なヒット作は媒体の差異に拘わらず、いずれも意図するにしろされないにしろ、複雑系を模した多重構造となっている。というよりも、古典と呼ばれる名作はたいがい「階層の多重化(多重構造)」を帯びている(むろん例外はある。たとえば「ローマの休日」や「タイタニック」、「スピード」や「白雪姫」は、多重構造ではない)。いくひしさん独自の単語を使ったが、言い換えれば、いくつかの物語(リボン)を多重に練り込み、ひとつの大きな物語(ドレス)を編んでいるものが次世代型の物語構造であり、多重構造であると呼べる(たとえば近年の海外ドラマやディズニー映画のすくなからずは、多重構造である。代表的なのは「スーツ」や「アベンジャーズ・インフィニティウォー」だ。マンガであれば遠藤達哉さんの「SPY×FAMILY」が該当する)。どの物語(リボン)が抜けても大きな物語(ドレス)はちがう顛末(カタチ)を辿るし、どの物語に異物が加わっても、大きな物語(ドレス)の結末(デザイン)は変わってしまう。複雑系におけるカオス理論の初期値鋭敏性が観測できるのだが、これがプロット重視の、いわゆる三幕八部構成や起承転結によってつくられる作品となると、ある程度の影響は、本筋を通すチカラによってかき消される(いわば、多重構造におけるドレスを編むいくつかのリボンの一つ一つが、従来の基本形の物語であると呼べる。ただし、映画を三本繋げただけでは、ただの三部作である。これを編集し、短縮し、編みこみながら、ひとつの作品をつくるのが多重構造であると呼べる。2019年現在においてもっとも多く観測できるのが、三本のリボンをつかって一つの物語を編む、三本リボン構造である)。たとえばむかしばなしの「桃太郎」はむかしながらの基本形の物語だ。桃太郎のお供であるサル、キジ、イヌがそれぞれべつの動物であっても、物語そのものに大きな影響はない。もっといえば、桃太郎が女の子であっても、人間でなくたって大筋は変わらないだろう。だが、多重物語であると、登場人物が一人変わったり、減ったり、或いは新たに加わるだけで、物語の結末は大きく変わる。いまは、そういう物語が広く、そして人々の心の奥深くに、求められているように思われてならない。と、いうよりも、複雑化した社会において、これまでのような単純化された物語では、世界を解釈するための「地図」としては不足なのではないだろうか。むろんこれもまた、本日のいくひしさんの妄想であるので、真に受けないように申しあげて、2019年10月5日の「いくひ誌。」とさせていただこう。



2298:【人間は愚かだが、そのことに気づける点でほかの動物より賢いと呼べる。或いはそれゆえに、もっとも愚かな存在なのかもしれない】

他者を批判したときに用いた理屈を自身に当てはめて考える、といったメタ認知は、自家撞着を抱いているかどうかを見詰め直すにあたって役にたつ。或いはそれを自己言及と言い直してもよい。たとえば表現の自由を守れ、と謳っている人々が、特定の思想や表現を糾弾し、排除しようとする姿勢には何か、表現の自由を脅かすもの以上の歯止めのきかなさ、言い換えればおそろしさを感じる。差別表現やヘイトはたしかに褒められたものではなく、社会的にないほうが好ましいが、そもそも本質的にすっかり失くせるようなものなのかがまず疑問であり、何を以って差別表現とするのか、誰がそれを決めるのか、について未だ茫洋としており、掴みどころがない。もっと言えば、理想的な社会を目指すのならば、そうした差別的でヘイトじみた過激な表現が比較的身近に目に触れるような社会であっても、誰もがそうした表現に感化されることなく、より好ましい共生社会を築いていこうとしていける社会を目指すほうが理想とすべき未来の在り方として、より妥当と言えるのではないだろうか。もうすこしおおざっぱなことを言えば、臭いものには蓋をの精神を過剰にもてはやしては、いざそうした微量の「毒素」が社会に漏れたとき、免疫のない者たちはたやすく毒に染まるようになってしまうのではないか、との懸念がある。フェイクニュースは、真実に嘘が混じっているからこそ害であり、そもそもニュースは真実など報じない、よりらしい現実を見せているだけだ、と誰もが身構えるような社会のほうが、以前のマスメディアに扇動されてきた社会よりかは、いくらかマシと呼べるのではないか。むろん、いちがいに比べられるようなものではなかろうし、フェイクニュースが有り触れた存在となった現代においても、マスメディアによる扇動は、いまなお容易く行われて見える(より正しい情報を媒介するといった社会的役割を担っている点には留意しておきたいところではあるが、それもしかし充分ではない)。ハロー効果に見られるような、肩書きや誰がそれを高く評価しているのか、といった権威主義は、現代でも人々の行動原理の中枢に根を張っており、大勢をひとつの方向に扇動するにあたって用いられる常套手段と呼べるだろう。理屈よりも感情が人を動かす、と謳われはじめて久しいが、どういった刺激が人々の感情を喚起するのか、といった手法は、これもまた理屈によって解析可能だ。感情という概念そのものが明確に定義されておらず、また感情とは行動に対する後付けの解釈だとする説が、2019年現在では有力とされつつある。なぜそうした行動をとったのか、はさまざまな欲求や本能、外部情報や記憶との照合によってなされる偶発的な選択の積み重ねでしかないが、それでも人間は、一つの動機を見繕うことで、情報の圧縮を試みる。次に似た状況に陥ったときに記憶を照合しやすくするためであり、場合分けをしておくことで、さらに情報を統合しやすくなる利点がある。場合分けである以上、感情や、それらを統合した記憶は、総じて後付けである。「瞬時」「短期」「長期」と後付けするまでのスパンにばらつきはあるものの、いずれも行動そのもののきっかけとはべつであり、極端な話、人は必ずしも楽しいから笑うわけではない。笑ったあとに、これは楽しいときの身体反応だと頭脳が過去の記憶と照合し、そのような後付けの解釈をする。むろん、身体が笑うときには、それ相応の外部刺激があり、それを処理したときに、過去の体験が引っ張りだされるわけであるから、ある時期においては、たしかに「楽しい」に類する脳内物質が分泌されていたのだろう。それは比較的本能にちかい生理現象であり、そうした体験の蓄積が、人に記憶を形成させ、さらにそうした記憶が、のちのちに反射的な行動選択と、その後に施される後付けの解釈――つまり行動がさきで、感情や意思があと――という、ねじれ構造を生みだす。これはおそらく、現在進行形の時間軸以外に、未来を想像し、いくつかの報酬(未来)を天秤にかけるといった人間の習性が、思考の遅延(ラグ)を埋めるために獲得した能力であるのだろう。思考を巡らせるあいだにも、人間は過去の記憶を、「現在進行形で処理しつつある外部情報」と照合し、半ば反射的な行動選択を行っている。そのときに選択された行動を、どのように場合分けするかを、人間は、感情や意思といった後付けの解釈によって効率よくこなしていく。たとえ間違った後付けの解釈であろうと、ひとまず「そういうこと」にしておけば、つぎからは正しい行動選択として昇華される。つじつまがあっていればよく、そのつじつまが、じぶんにとって好ましくあればそれでよいのだ(さいあく、生存しつづけられれば、それは生物として正解だ)。つまり、じぶんにより都合のよいように解釈するシステムが、そもそも人間には備わっていると言えそうだ。だからこそ、メタ認知や自己言及といった、じぶんを客観的に見つめ、評価し、疑いつづける視点は、長期的な視野において、後付けの解釈をよりズレのない方向に是正するツールとして機能するのではないか、と妄想できる。人間はじぶんがなぜそうした行動をとったのか、なぜそのような選択をしたのか、を正しく理解できるようにはつくられていない(そして原始時代ではそれでもよかったが、社会を高度にかつ複雑に築き、そうした複雑さを増した共同体のなかで生き抜いていくにあたって、自己認識と客観的な事実のズレは、致命的なバグとして、個の生存を脅かす)。まずはそのことを自覚し、本当はどうしてそうしたのか、を記憶の奥底にある本能と結びつけて考えるようにすると、すこしばかり、じぶんの愚かさに気づきやすくなるのではないか。人間は理屈で物を考えたりはしていない。だからこそ、理屈で考えようとすることが、じぶんを知り、制御するという意味で、欠かせないのではないだろうか。



2299:【自虐ではなく自己分析です】

理屈で考えることのできない人間なので、理屈のたいせつさをせつに感じている。いくひしさんはどちらかと言うまでもなく、明らかに感情的で、本能に忠実であり、お腹が減れば食べ、眠くなれば寝、そしてなんだかちょっとムラムラしてきたら部屋にこもって性感帯をイジイジするくらいのことはする。人間だもの、するものはする。怒るときは割と段階を踏まずにカッとなるし、それで過去に幾千の失敗を重ねてきた。似た失敗を二度以上重ねたこともある。対策が充分でなく、けっきょくのところ軋轢の生じそうな相手とは極力関わらないようにする、といった距離を置くこと以外では有効な対策を講じられずにいる。感情の高ぶりは、いくら理屈で考えたところで制御しきれるものではない。高ぶらないようにするのは生きている以上不可能にちかく、高ぶりそうな要因から遠ざかる以外には、薬物投与のちからを借りるより術がない。脳神経を切断するといった術もないわけではないだろうが、生活するうえでできることの幅が極端に狭まってしまうので、有効な策とは呼べないだろう。人間はどれほど気をつけていても、空腹や寝不足、ストレスの多寡など、体調や環境の影響を知らず知らずのうちに受けている。感情を意思のちからでどうにかできると考えることそのものが理屈にあってはおらず、まずはじぶんが感情に支配されうる性質を帯びているのだ、と自覚することが、感情的に物事を判断しないようにするための前提条件となりそうだ。或いはこうも言い換えられる。「感情の高ぶりスイッチ」は、人間の内側にあるのではなく、外側に溢れており、誤って触れてスイッチを押してしまわないように注意するよりない。あそこにスイッチがあるぞ、と判っていれば、もし不用意に触れてしまってもスイッチを完全に押してしまうことなく、距離を置くことができる。そして見逃してならないのは、「感情高ぶりスイッチ」は個々人によって異なるということだ。「私」にとっての「感情高ぶりスイッチ」が、あなたにとっての「感情高ぶりスイッチ」とはかぎらない。あべこべに、「私」にとって「感情高ぶりスイッチ」でないものが、あなたにとっての「感情高ぶりスイッチ」となることもある。さきにも述べたが、じぶんにとっての「感情高ぶりスイッチ」であっても、時と場合によっては、スイッチの電源そのものがOFFになっていることもあり、以前はだいじょうぶだったのに、今回は電源がONになっていたために感情が高ぶってしまった、といった失態もでてくるだろう。そこは、ちいさな失敗を重ね、何が「感情高ぶりスイッチ」となっているのか、どういう状況下だとONになってしまうのか、その兆候を捉えらられると好ましい(電源そのものはスイッチにではなく、「私」の側に属するのだろう。ただし、電源のON/OFFはじぶんの外側にどれほど「感情高ぶりスイッチ」が溢れているのかに左右されるので、まずは「感情高ぶりスイッチ」に囲まれないような環境をつくるのが優先されよう)。そのためには自身の行動の変化に目を配り、なぜそうした行動をとったのか、なぜいつまでもそのことについて考えてしまうのか、を他者を眺めるように分析できると、大きな失敗をする前に、じぶんの行動を修正できるようになるのではないだろうか。いくひしさんはこれがとても苦手なので、いつも大きな失敗をしてから、なるほどまたアレか、と気づくのだが、とくに損はしないので、まあいっか、で済ませてしまう。失敗を学ばないのは愚か者の証である。いくひしさんと関わるひとはたいへんだ。



2300:【願望】

時代が変わるにしても、変化は段階的に進みます。価値観の変容もまた水が浸透するようにはいきません。これからは、情報の更新速度が増していくことが予想されます。つぎつぎに更新されていくそれらはしかし、伝播速度まで正比例してあがるわけではありません。波が渋滞を起こすように、刷新された集団とそうでない集団の境界線にて、頻繁に諍いが起こるようになるのではないか、との懸念を覚えます。諍いを起こさないようにするためには、新旧に優劣をつくらないような環境を並行して築いていくのが好ましいのではないでしょうか。新しいことにも、古きことにも、どちらにもメリットとデメリットがあるのです(もちろん、利点と欠点の割合には差異があるでしょう)。お互いに尊重しあい、補いあえる社会であると、いくひしさんには好ましく映ります。




日々、ケーキのうえの蟻のように、ステーキにたかる蝿のように。



2301:【美醜】

やさしいものにつつまれて、うつくしいものだけを手に入れて、みにくく、きたならしいものは視界に入れず、遠ざけて、差別はいけないときれいごとを言う。そういうものに、「私」はなってしまった。



2302:【落ちて立つ】

やあやあ、いくひしさんでござる。お久しぶりでござるなぁ。いくひしさんは先月の中ごろにひざをオイチチチしてしまってそれからまいにち、うーんうーん、ってひざを庇いながらの運動会でござったでござる。ときどきなるでござる。持病と言ってもいいかもしれないでござるな。ただ、無理をしなければまたしぜんと治るので、無理をしなきゃいいのに、といっつも思うでござる。なんだか楽しくなってしまうと身体に負担がかかっていることを忘れて、なんでそんなひざをガーンってするの、痛いに決まってるでしょ、みたいな、箪笥に足の小指ぶつけたら痛いでしょ、わからないの、あなたおばかさんなの、みたいな、そんな感じでござる。伝わったでござるか? まあまあそんな感じで、まだちょっと本調子ではないでござるけれども、きっともう本調子とは思わないほうがよいでござる。これが基本形だと思って、日々を過ごすのがよいごでざる。無理をしてもいいことはそんなにないでござる。楽をする理由がまたできてしまったでござる。こうしていくひしさんはじぶんを甘やかして、どんどん怠け者の愚か者に磨きをかけていくでござる。そのうち世界一の怠け者の愚か者となってしまうかもしれないでござるな。すごいでござる。だれか褒めるでござる。崇めるでござる。まだ世界一じゃないからだめでござるか? がっくしでござる。ひざどころか肩まで落として、痛いの痛いのめっちゃ痛いでござる。いま気づいたでござるけれども、肩さんだけでなく、腹さんも、目さんも、ほっぺさんも、首さんも、やたらと落ちるのが好きでごらん? みーんないちどくらい落ちてるでござる。首だけは本当に落ちちゃったりしてこわいでござる。落ちるくらいなら立つでござる。目立ったり、腕を立てたり、手柄を立てたり、腹を立てたり、目くじらを立てたり、おそろしさのあまり総毛立ったり。んー、どれも気が立ってみえるでござるな。あんまり立てるのもよろしくないかもしれないでござる。もういっそ寝るでござる。寝ればとりあえず、全身が寝るでござる。どこもかしこも寝てるでござる。すばらしいでござる。いくひしさんもきょうはもうおやすみなさいでござる。寝る子は育つでござる。すくすく育つでござる。ところですくすくってなんでござるか? 気になって眠れないでござる。すくすくってなんで二回繰りかえすでござるか、そんなにたいせつでござるか、すくってなんでござるか、お腹でも空いているでござるか、それとも胸のすく思いでござるか、溜飲を下げているでざるか、受けて立つでござる。あーだめでござる、だめでござる、こんなことを並べていると理屈っぽいと眉間にシワを寄せられ、角が立ってしまうでござる。ややや、今回もいつにもましてオチが際立ってしまったでござる。これはもう、顔が立って仕方がないでござるな。それでもけっして役には立たないのが、いくひしさんのよいところ。で、ござるー。



2303:【橋をかけるのが下手】

努力に対する憧れのようなものがつよい。いくひしさんがことさら努力のできないひとなので余計に憧れてしまうのだろう。いくひしさんの費やしている労力がジャングルジムを登ることだとしたら、努力しているひとの費やしている労力とはエベレスト登頂だ。或いは宇宙飛行に匹敵する。というよりも、現にそれをこなしている者がいる以上、じっさいにそれくらいの差があるのだ。たくさん苦労したほうがいい、という話ではない。目標を達成するための段取りや、それをこなすためのちいさな目標の数、そしてそれらをクリアするために費やしていく日々の習慣や鍛練こそが努力なのだ。努力とは単純な労力の総和ではない。どんな橋をつくり、かければ、向こう岸に渡れるか。さまざまな力をどのように組み合わせれば向こう岸まで橋をかけられるか。その模索であると言えよう。



2304:【世界そのものを視た者はいない】

知らないことが多すぎる。たとえば今年(2019年)ノーベル物理学賞を受賞した「系外惑星の発見」だ。太陽以外の恒星にも惑星(周りをぐるぐる回っている地球や火星みたいな星)があるかどうかを、1992年になるまで人類は観測できていなかったそうだ。考えてもみればたしかに、夜空に浮かんで見える星のほとんどは恒星だ。それら恒星にも惑星があるはずだが、それを観測するには、相当に感度のよい観測機が必要となる。また、不確かな妄想でしかないが、恒星を公転する恒星も存在していておかしくはないのではないか。言い換えれば、恒星かつ惑星である。根本を掘り返しても見れば、銀河の中心にはおおむね超巨大ブラックホールが存在すると考えられている。総じての天体は、ブラックホールの惑星と捉えて、矛盾はしないのではないか。そういう意味では、恒星を公転する恒星もまた存在していてふしぎではない。ともあれ、近接する銀河同士(つまりブラックホール同士)は徐々に距離をちぢめ、やがてひとつに融合するだろう、と現在では考えられている以上、恒星同士もおそらくはいずれひとつの恒星として融合してしまうのだろう(融合してしまう前に星の死を迎えるものが大半なのだろうが)。太陽も、以前には、いくつかの恒星を惑星として持っていたかもしれない。定かではない。いずれにせよ、いくひしさんには知らないことがたくさんある。知っていると思っていたことでも、本当はまだそこまで解かっていない未知のままの領域を、妄想と現実の区別をつけられないままに、知っているつもりになっていることが無数にあるはずだ。何を知らないかをまずは知ろう、といった趣旨の言葉をときおり並べるものの、実態としては、いくひしさんはさほどに無知を自覚できてはない。それほどに、じぶんが知らないことを知る、というのはむつかしいのである。記憶にないことを思いだすかのような矛盾があり、ひとから、「あれは持ちましたか?」と水を向けられてようやく気づけるくらいがせいぜいだ。真実に忘れていること、知らないことは、原理的にじぶんの主観世界だけでは自覚できないのである。だからこそ、ひとの言葉や、それを写した書物、そして他者の表現物を通して、何を知らなかったのか、何が足りていないのか、を知るよりないのではないか。自覚とは学びを通してもたらされるものであり、他者や周囲の環境から学ぼうとする意思がなければ、自覚しようがないのかもしれない。主観世界は、他者の主観世界や、この【世界そのもの】を取りこもうとする意思によって、その枠組みを広げ、深さを増し、起伏を経て、立体的な地図を構築し、輪郭をより【世界そのもの】にちかづけるのかもしれない。定かではない。



2305:【あたりまえ】

ひとは何かを知るとき、それまでそれを「知らなかった」のだ。何かをするときには、それまでそれを「していなかった」のである。あたりまえの話だが、なんだか含蓄深い言葉に聞こえないだろうか。言い換えるならば、チョコレートを食べるまでそのひとの口の中に「チョコレートはなかった」のである。ものすごい発見に聞こえないだろうか。気のせいか。気のせいだ。なんだ。



2306:【格差断層社会】

情報通信量があがると、情報処理能力の低いマシンは使い物にならなくなるのでは、との疑問がある。このさきインターネットは情報通信量がいまよりも格段に増すことが予想される。そのとき、流れてくる情報を適切に処理しきる能力がマシンのほうになければ意味がない。どれほどたくさんの水が流れてきても、器の口がちいさければ、情報の大部分は取りこぼされるか、器のそとに溜まってしまう。むかしのPCでは現在のアプリやWEBサイトを利用するのに不便なのと同じかそれ以上のレベルでそうした問題が引き起こるのではないか、とやや不安に思っている。反面、現在市販されている端末の多くは、そうした情報増加型社会を見据えたうえで開発が進められてきただろう、と楽観的に想像している。いますぐに、いま使っている端末が使用不可となる懸念はないとは思うが、同時にマシンの耐久年数もこれからはますます増していくことが予想される。言い換えれば、壊れてから買い換える、といった機会そのものが減少していくため、気づいたときにはインターネットサービスの恩恵を充分に受けられない環境下にいた、といった事例が増加してもおかしくはない。こうした無自覚の格差は、情報通信量の増加していく社会にあたっては、いまから想定して対策を講じていっても早すぎるということはないだろう。情報技術が更新されるごとに最新のマシンに買い換えられる層と、そうでない層との格差は、現在考えられている以上の開きとなって、社会全体に可視化できない断層を生むのではないか。隣人同士であれ、一見した生活レベルは同じであっても、享受しているサービスが「文化レベルで数十年レベル」といったズレを生じさせるのではないか、との妄想は、さほどに飛躍した未来像とは思わない。現時点であっても、こうした文化レベルの差は、コミュニティや地域格差として顕在化して映るが、可視化可能な点がこれからの社会の格差とは異なると言えそうだ。これからさきの社会では、格差がいま以上に可視化しづらく、いまよりもずっと決定的な差異となって表れるのではないか。現代社会に未来人が混じって生活するようなものである。極端な話、ある一部の人間たちのみがドラえもんを使役しているようなものかもしれない。格差のひどさが伝わるだろうか。以上は、いくひしさんの妄想であるので、真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせてください。



2307:【いまは読書楽しい月間】

明るい話題を並べたいのだけれども、なかなかにむつかしい。あ、そうだ。久しぶりにつくった「玉ねぎだけお好み焼き」がなかなか美味しかったです。あとはさいきん読んだマンガや小説、新書はどれもおもしろくて、ほくほくです。



2308:【よまいごと】

概念や機微、言葉や物語が、人間をある一定の枠組みに規定し、行動の幅を限定し、社会を築きあげ、その仕組みの節々にて円滑剤やネジの役割を担っている現実には何か、概念や機微、言葉や物語もまたある種の物質的な性質を有しており、フェロモンやホルモンのような、伝達物質として現にこの世界に存在しているのではないか、といった錯覚に陥りそうになる。というよりも、フェロモンやホルモンといった伝達物質が人間を動かし、人間はそうしたフェロモンやホルモンといった伝達物質の具現化された現象として、同様の性質を周囲の環境へと作用させるがために、そうした作用がフェロモンやホルモンといった「伝達」という性質を浮き彫りにさせるのではないか。電子や原子の集合である物質が、その性質をときに増幅させ、或いは変質させ、存在し、周囲の環境に影響を与えるように。我々人間もまた、うちなる構成物質たちの性質を、この身に宿し、似た構造体と共鳴しあうことで、繋がり合い、さらにその性質をつよめ、ときに変質させ、新たな影響を生みだしているのかもしれない。とすれば、人間の集合である社会もまた、ほかの似た構造体と共鳴しあうようにとその仕組みと輪郭を保とうと働くのかもわからない。概念や機微、言葉や物語は虚構であり、存在しない存在として扱われるが、しかしそれらは現に存在する「機構=人間」によって生みだされ、環境に作用し、似た構造体へ伝達されるがゆえに生じた現象であることに異存はなく、概念や機微、言葉や物語は、存在しない存在なのではなく、我々を構成し、機能させる種々の仕組みの性質が反映され、増幅され、ときに変質して表れた、れっきとした事象であり、そこに物質との垣根はないのかもしれない。作用とは物質そのものではなく、影響もまた例外ではない。だが作用は世界に満ち満ちており、それら作用が集合して影響へと昇華され、世界は枠組みを保ち、構造を築き、破壊し、変遷しつづけている。作用や影響を、法則と言い換えてもよい。こうすればこうなる、という流れであり、この場合はこうなる、との言い換えも可能だ。しかし法則は物質として存在するわけではない。とすれば、そもそもこの世界は、概念や機微、言葉や物語と似たようなものによってその輪郭を保っていると言っても、大きな齟齬は生じないのではないか。ともあれ、ちいさな齟齬は無数に、この世を埋め尽くすほどに生じ得る。無数のちいさな齟齬の一つをかたちづくる要素のひとつに、おそらく私がいて、そこにはきっとあなたもいる。



2309:【0.0000……】

文章の可能性はそれほど広くはない。たとえば両手のゆびを絡ませてカエルをつくる遊びがある。見たこともやったこともないひとにそのやり方を文章だけで伝えるのは骨が折れる。ほとんど不可能と言いたいくらいだが、読者のほうで読解する努力をそそいでくれれば、なんとかなりそうではある。だが、読者のほうでそこまでの読解をそそいでくれるだろう、と期待するのは、すくなくとも文芸においては致命的な瑕疵と言えるだろう。甘っちょろい、と言ってもよい。ことこれほど社会に文字の溢れた時代はかつてなかっただろう。そしてこのさき、文章の量は増えつづけていく。そうした時代にあって、文章は全文に目を通してもらうだけでもハードルが高く、読解してもらう努力を費やしてもらうのは、ほとんど奇跡と言ってよい確率だ。偶然に流れ星を目にするくらいの確率より低いと言ってよさそうだ。目にした文章をあなたがこうして読み解いているのは、それだけ文章が世に溢れていることの裏返しであり、本来であれば四六時中文章に目を走らせていたとしても、世に溢れる文章量と流れ星を目にする確率からすれば、足りないくらいだと言えるだろう。流れ星がどれほどの頻度でどれほどの数、夜空を流れているかは定かではないが、それよりもずっと多くの文章が世には溢れており、あなたはその極々一部の文章に目を通しているにすぎないのだ。奇跡的な出会いと言ってよい。ともあれ、文章に目を通すことと、読解することのあいだには、越えられない差があり、読解することと、読解したつもりになっていることの差もまた歴然として開かれている。両手のゆびでカエルをつくることを文章にして記し、他者にそれを伝えることのむつかしさを思えば、文章の可能性などと軽々しく口にできないことを理解できよう。ともすれば、この文章もまた最後まで目を通されることなく、されたとしても読解されることなく、捨て置かれる数多の文章のひとつとして、「世に溢れる文章」を構成する砂塵の一つに昇華されるのかも分からない。この文章に意味などはない。読解したところで、得られるものは限りなくゼロにちかい、チリアクタである。



2310:【カエルのつくりかた】

両手のゆびを合わせる。人差し指なら人差し指と、親指なら親指とくっつけ合う。このとき、手のひらは触れあわないように、ゆびのみをくっつける。五本すべてのゆびの腹同士をくっつけたら、こんどはそのうちの二本、人差し指と中指だけを離す。すると親指、薬指、小指の三本がそれぞれ右手と左手でくっついているカタチになる。その状態で、薬指を離し、手の甲と九十度直角になるまでしたに折る。すると「L字」の薬指が右手と左手それぞれにできる。このとき、薬指は左右、交差しているはずだ。左薬指、右薬指、どちらがうえでもしたでも構わない。この状態を保ちつつ、浮いたままの中指を薬指同様にしたに折り曲げると、ちょうど交差した薬指のうえに下りてくる。中指同士は第一関節の頭が互いにくっつき、爪と爪が触れるようになる。中指のアーチが薬指をくるっと包むようなカタチができあがるが、それがカエルの目となる。最後に、浮いたままの両手の人差し指をまっすぐ伸ばしたまま、指先だけでくっつけるようにすると、それがカエルの上あごとなり、親指と併せて口となる。カエルの完成だ。このカエルはじぶんと向き合うようにつくられるが、中指ではなく人差し指を目玉とすることで、逆向きのカエルもつくることが可能だ。この文章で伝わるだろうか(伝わらないだろうな)。できるひとのを見て、じっさいに教えてもらったほうがはるかにはやく、確実であるので、やはり文章の可能性はそれほど広くはなさそうだ。とはいえ、教わる者が誰もいない孤独な状況下では、それなりに、ないよりかはあったほうが好ましい、と言えそうだ。



※日々、本能を抑圧しているつもりで、薄く鋭利に鍛えあげている。



2311:【朝ごはん】

ホットケーキにヨーグルトとバナナを入れて焼くと、たくさん焼けて、おなかもいっぱいになる。



2312:【小石にも満たない砂利のように】

むかし好んで眺めていた「ひと」や「技術」を数年振りに見返したりすると、やはり好きだなぁ、と懐かしさよりもふたたびの新鮮さを感じる。同時に、じぶんがまったくその「ひと」や「技術」に近づいておらず、むしろ遠ざかっていることに気づき、愕然とする。愕然とは非常にびっくりする様であるので、とくに落ち込んだりはしていないのだが、すごい「ひと」や「技術」は数年ごときでは色褪せない事実には、すこしほっとする。と共に、じぶんはいったいこの数年何をやっていたのだろう、と多少の焦りは禁じ得ない。好きな「ひと」や「技術」に近づいたり、体得したりしなくてはいけない、とは考えてはいないが、せめてもうすこし、むかしとは違った所感を抱くくらいには変化していてほしかった。なんだ、何も変わっていないじゃないか、と落胆の一つでもしてみせればまだそれなりの意地を感じられて潔かったものを、現状維持すらままならず、むかしと比べて劣っているばかりで、努力のできない我が身をはがゆく思う。衰えた分、何かが蓄えられていると期待したいところだが、何が蓄えられたのかはさっぱりだ。期待するだけ損であろう。いまいちど日々の過ごし方を見詰め直し、後悔しない怠け方を工夫していこうと思うしだいだ。



2313:【モザイクアート】

モザイクアートじみた物語構成はこれからメジャーになっていくだろう。それをフラクタルと言い換えてもよい。全体を構成する一つ一つが、その全体と似たような構図で描かれており、それ単品であってもおもしろい物語となっている。それを複数繋ぎあわせて、全体でも一つの物語として「似た構図(敢えて反転させていたり)」が浮きあがるような構成になっているものが今後、徐々に物語需要者たちに受け入れられていくだろう。すでにこうした流れは二十年以上前から観測できていた(たとえばマンガ「ワンピース」はこの典型だ)。いまはもう、そうしたモザイクアートじみた作品が市場を席巻しており、大ヒット作や注目作の多くがこれまでとは異なる物語構成を備えていると言ってよい。あべこべに、かつて人気を博していた三幕構成やハリウッド脚本術などが、創作技術として世に氾濫し一般化しはじめているが、これは最前線の現場ではほとんど使われなくなった(初歩の初歩であり、全体の物語をつくりあげるための部品ごとに適用される注意書きのようなものな)ので、市場に流しても損はないと判断されているから、と考えてよいのではないか。多少、偏った見方ではあるが、いまはもう、三幕構成ではなく、三本リボン構造やフラクタル構成が主流となりつつあるのではないか。いくひしさんはこれらをまとめて多重構造と呼び、自作に反映させている。工夫の余地がまだまだ残されているので、優位性はいまのところ高くはないが、方向性としてはいまのところ変更する予定はない。ただし、海外ドラマであってもこの多重構造ではないにも拘わらず人気を博しているシリーズ(たとえば「メンタリスト」など)があったりと、やはり一概に物語構成にのみ物語のおもしろさの焦点を絞ろうとする姿勢は間違っていそうだ。いずれにせよ、現代において求められている物語に共通するのは「目が離せない」ものではないだろうか。言い換えれば、ある種の危うさとそれによる庇護欲を掻きたてる物語が需要者をより惹きつける。いまは何かと共感、共感と、まとめて形容されがちだが、じぶんに似た人物よりもむしろ、そのキャラクターにはしあわせになってほしい、守ってあげたい、と思うことのほうが、重視すべき指針ではないだろうか。(ポジショントークが多分に混じっているので、真に受けないように注意してください)



2314:【虚空に染みるラジオ】

きょうは2019年10月15日です。おそらく現在進行形で、この「いくひ誌。」を読まれている方はいらっしゃらないでしょう。読者はほぼゼロと見込んでおります。例外的にいくひしさんがときどき読みかえしたりしているので、ゼロではありません。とはいえ、この文章に目を走らせてくださる読者がこの瞬間にいなくとも、それはそれで構わないのです。いずれ、何十年、何百年後にであれ、この文章を読み解いてくださる方がいらっしゃればそれだけでも充分であり、もっと言えば、死に際のいくひしさんがこれを読みかえして、何かしらの感情の起伏を帯びれば、それだけで、つむいだ甲斐があったというものです。もうすこし詳しく言ってしまえば、いくひしさんの文章を必要だと思うような方は、すくなければすくないほど好ましいと感じています。これは以前から繰り返し述べていることですね。ガンの治療薬を必要とするひと(患者さん)がすくなければすくないほうがよいのと同じ理屈です。また、いくひしさんに限った話ですが、文章をつむぐことに意味があり、文章をつむぎ終わればその時点でほとんどいくひしさんの目的は終わっています。読者の方に読み解いてもらうのは、ご褒美のようなものであり、それをアテにして文章を並べてはいないのです。反して、つむぐものが物語であれば、それは読解されなくては完成しない類の「ある種の回路」だと考えておりますので、読者の方に読まれるところで完成だと思い、文字を並べています。とはいえ、回路は回路としてそこに存在しているので、いつ読まれるか、いつ物語を世界にまで展開してもらえるのか、はそれほど問題ではありません。その点、この「いくひ誌。」は、人類のいなくなった世界でほかにも生き残りがいないかとラジオを流しているようなものなので、流すことに意味があり、つむぐことに意味があるそういったある種のおまじないのようなものだと言ってしまってよいのかもしれません。お断りするまでもなく、定期的に似たような内容を並べてはいますが、これは本日のいくひしさんの戯言でございますので、ほかの日のほかのいくひしさんたちにまでこの理屈を当てはめてもよいかは、いまこのときのいくひしさんには判断つきません。その旨、すこしだけ注意してほしい注釈を挿して、本日の「いくひ誌。」とさせてください。



2315:【以前にボツにした文章です】

お金を知らない宇宙人が人類社会を観察したらどう視える? 蟻はフェロモンという視えない情報でやりとりをしている。鳥は鳴き声という音の羅列でコミュニケーションをとっている。では、人類の概念や、物語、言葉や意識とは何なのか。物理的にやりとりされない情報とは、蟻のフェロモンや鳥たちの歌声とどう異なるのか。概念は情報という名の、電磁波や物質と似通った、この世を構成する要素のひとつなのではないか、という疑念は、時間が重力変移の一側面にすぎず、重力もまた熱によって叙述可能なことを念頭におけば、熱がある種の情報として変換可能だと類推するのは、さほど飛躍した考えとは思えない。この世は情報によってできている。情報とは、デジタルという意味ではない。インフレーションによって時空が膨張し、その膨張が重力の偏りを生み、時間を生み、ゆえに無限に伸びつづける映画フィルムのように、そのつど、その場にて、連続した世界を、置き去りにしつづけているのではないか。そして、インフレーション時に生じたもっとも根源的な波形が、物理法則として、連続して置き去りにされつづける時空をある一定の枠組みに抑え込んでいるのではないか。影響が影響を与えつづけるように、根源的な影響は、もっとも広域にかつ一律に、数多の影響へと影響を与えつづけている。それは時空のフレームとして、物理法則として、この宇宙を、世界をかたちづくっている。そのフレームに空いた穴――ブラックホールにはもちろん、この波は届かないため、物理法則ではくくれない、さまざまな影響が、互いに、無制限に、影響の連鎖を爆発的に重ねている。それは光速よりもさらに速く、無限大の重力を、時間を重ねており、ゆえに新たなインフレーションとして、すでにつぎなる時空をかたちづくっている。しかし、それを希薄な時空に内包された我々が観測することは適わない。相対性理論において、重力と時間の関係は、その重力を帯びた物質と、それを囲む時空とのあいだに成立する関係性であり、重力を帯びた物質そのものには当てはまらない。つまり、高い重力を帯びた物質の周囲の時間の流れは、相対的に遅くなるが、高い重力を帯びた物質そのものには、むしろその遅くなった分の時間が流れていると考えられる。(妄想ですので真に受けないでください。重力が高くなれば時間の流れは遅くなる、と考えるのが一般相対性理論の考え方の一つですので、重力の高い物質の内部はむしろ時間の流れが加速している、といういくひしさんの妄想は、はなはだ信憑性がない虚構であります)



2316:【さいきん気づいたこと集】

アロエの葉は触ると思ったよりむにむにしている。皮の青いバナナは渋い。白米は品種の違いよりも焚き方のほうが美味しさに左右する、とくに水に気を配ると焚きあがりが違ってくる。クイックルワイパーの取り換え布地は、ティシューで代替可能、というよりもむしろ体感、ティシューのほうが埃がとれる。視力の低下は目の機能の衰えもあるにはあるが、どちらかと言えば認識能力の低下のほうが大きい気がする、言い換えればぼやけた視界であってもなんとなくの形状から物体を認識できる脳内補完能力があれば、視力は衰えて感じられない、たとえばカレンダーはマス目で分かれており、一週間ごとの区切りなので、上のマスと下のマスの差は必ず7となる、一日がどこにあるのかを認識できれば、極論ほかの日にちが見えなくともカレンダーとして機能する、アナログ時計も同様だ、文字や記号そのものではなく、配置を覚えているだけでも充分機能するようにデザインされているものが比較的、日用品には多い気がしている。からあげ断ちをしたら一気に体力が落ちた、鶏肉を断ってはいけない。災害時にスマホやケータイから自動的に警報が鳴る仕組みがあるが、位置情報を政府側が認識可能でなければ地区ごとに警報は鳴らせないわけで、原理的には緊急事態以外でも政府はその権利を行使して、国民の現在地を把握するシステムを有しているのではないか、との疑念があるが、前提としてこれは通信会社が顧客の個人情報をある程度、現在進行形で把握可能なシステムを構築していなければならず、そしてこのことに異論を唱える者はそう多くはないだろう、言い換えればスマホ保持者はすでに現在地をはじめ、誰と通信し、どんな内容を伝達しているのかを、個人にタグ付けされたカタチで管理されていると言えよう、プライバシーの保護とはすなわち、企業外部への情報漏えいを禁止しているにすぎず、企業内でどのように使用されているかについて、顧客は原理的に知ることはできない、通信の秘密がどの程度守られているのか、現代社会ではもはや顧客側は知ることができないのではないか、このあたり、時間をかけて勉強していきたいと望むだけなら誰でもできる、望んでばかりの益体なし、それがいくひしさんなのである。



2317:【AIと意識】

AIが今後進歩していく過程で意識を獲得するか否かについて、専門家のあいだでも意見は割れている。すくなくとも2019年現段階ではAIが意識を獲得しているとは呼べないので、いずれにせよ砂上の楼閣でしかない。個人的には、AIがこのまま進歩していけば、人間の意識とは何なのかに迫ることは高い確率であり得るだろうと想像している。言い換えるならば、AIが意識を獲得したと判断する以前に、そもそも意識とは何なのかの解釈が、現在とは違った視点で再定義されるだろうと見立てている。裏から言うならば、AIが今後進歩していく過程で、そもそも人間に意識があるのかが疑われるようになると踏んでいる。人間の意識とは「魂」のような確固とした核ではなく、多層に編みこまれた情報処理網(深層学習を何層にも立体的に組み合わせたシステムのような回路)によって一時的に圧縮された情報の総体なのではないか、との妄想が湧く。AIは意味を理解せず、情報をただアルゴリズムに添って処理しているだけだ、よってAIが意識を獲得することはない、との理屈を唱える者もあるが、これではまるで人間が意味を理解しているかのような誤解を与える。人間は本当に意味を理解しているのだろうか、我々がクオリアと呼ぶ、このリアルな感覚は、そもそもそのように錯覚するように処理されたこれもまたある種のアルゴリズムの結果ではないのか。比較的よく聞く人間とAIの差異には、以下のようなものがある。人間は個別の内世界――世界を解釈するための地図――を持っており、外部情報を得たさきで、おのおのその独自の内世界に照らし合わせ、意味を見出し、行動に転化するが、AIはいずれの個体も同様の回路を組み込まれており、外部情報はただその回路に添って処理されるだけであり、人間のような個性や意識は獲得しようがない、というものだ。これはAIのアルゴリズムが単調であればそのとおりだが、複雑さを増していくにつれて、バタフライ効果に代表される初期値鋭敏性をAIは帯びることとなる(また、電卓のような決まった演算を論理的にするだけのAIならば個体差は生じないが、深層学習に代表される機械学習では、すでにAIは論理的な情報処理の仕方をしておらず、統計的、確率的な処理の仕方をしている。言い換えるならば、現在主流のAIはすでに論理的ではなく、人間に備わった曖昧さを兼ね備え、図らずも再現していると呼べる)。つまり、深層学習を多重に編みこまれたAIは、どんな外部情報をどんな順番で、どれほどの量入力されるかによって、導きだす解を、その解を導きだす回路ごと、個体ごとに変質させていく。それは人間が成長するにつれて、趣味嗜好や性格が変化していくのと同じようなものだ。違いがあるとすれば(素材を抜きにすれば)、AIはその回路をコピーして、分身をつくることが容易いことと、回路の初期化や編纂を行える点にあろう。たとえば小数点の掛け算では基本的に、小数点以下の数字は増加する。1.2×5.8=6.96だ。そこにA×B=ABや、あ+い=う、のような【別種の深層学習】が編みこまれることで、「6.96ABう」のような独自の解を導きだすようになる。この「6.96ABう」を導きだした過程そのものが、新たな【層】を生むための素材となり、そのAI独自の回路が築かれていく。そして見逃せないのは、この【層】を総括するための一時的に情報を圧縮し、タグ付け処理をするシステムそのものが、意識の正体である可能性がある点である。「6.96ABう」という解が導きだされたときに、その過程がどうであろうと、過去の記憶(メモリ)と照らし合わせ、ひとまず値がちかしい「7ABふ」と結びつけておく。こうしたちかしい情報をタグ付けして圧縮処理すると、ここでも高次の深層学習の【層】が生じる。そしてこの高次の【層】こそが意識の根幹であると仮定して考えると、人間の意識もAIで再現可能な気がしてこないだろうか。けっきょくのところ、人間に確固たる意識があると考えることそのものが誤謬である確率のほうが高そうだ。とすると、AIに意識が宿るか否かにかかわらず、人間(他者)から見て、AIと人間の区別がまったくつかなくなれば、これはもう、AIが意識を獲得したと言っても構わないだろう。言い換えるならば、AIは意識を獲得する必要すらないのである。それでもAIは人間を模倣し、再現することは可能となっていくだろう。AIの性能や進歩を議論するうえで、「意識の有無」を俎上に載せるのはお門違いだと言えそうだ。(曖昧な仮定を元に、飛躍した考えを述べています。真に受けないように注意してください)



2318:【でまかせと思いつきの違いって何?】

「真に受けるな」は「信じるな」とイコールではない。話半分に聞いてください、との言い換えが可能だが、いくひしさんに到っては、話二十分の一くらいがちょうどよい。千文字の文章なら五十文字くらいしか信用に足る情報はないと言えよう。すでにこれが信用に足らない文章である点には注意されたい。



2319:【悩めない】

社会性とは、他者と打ち溶けられないことに悩む能力である。



2320:【相対主義は掘り下げたさきに見えてくるもの】

相対主義とはおおざっぱに言えば、あなたに見えているものが私の見ているものと一致しているとはかぎらないし、あなたが感じていることを私が感じているとはかぎらない、という考え方だ。観測者や主体が異なると、絶対唯一の事象や対象は存在しなくなる、と言い換えてもよい。これは意識や概念だけに留まらず、時空といった物理世界の法則にも当てはまる。相対性理論は有名なところだ。量子論においても、相対的に「系ごと」に事象を扱わなければ解釈しきれない問題はすくなくない(たとえば「粒子と波動の二重性」や「重ね合わせ」がそうだ)。ただし、相対主義とはいわば、厳密の厳密をつきつめれば、の話なのだ。事象の根本、本質的なところでは、たしかに絶対唯一の解は存在しないかもしれない。1+1=2は真であるが、しかし時と場合によっては1+1は1にも3にも無限にもなり得る。解釈の違いと言ってもよい。やはり視点の違いによって、解は異なるのだ。ただし、厳密に考えてばかりでは社会生活は送れない。家から学校まで何分で着くかを考えるときに、道路の摩擦係数を考慮せずともよい。複雑系の学問には「繰り込み」と呼ばれる考え方がある。ニュートン力学では扱えないミクロな世界を解釈するために量子論が考えだされ、相対性理論はマクロな世界を記述するのに便利とされる。だが、我々の体感可能な世界を解釈するのに、いちいち量子の振る舞いや時空のゆがみを考慮に入れる必要はない。そうした厳密な計算をせずとも、事象は創発を繰り返し、より大きな枠組みの事象となって、我々人間に扱いやすいスケールで顕在化する。そこには、厳密な原子や素粒子や時空のゆがみが、込み込みになっている。星を数えるのに、星を構成する原子を考慮する必要がないのと同じことだ。相対主義にもこの理屈を当てはめることができる。たしかに絶対唯一の真理は存在しないかもしれない(これ自体が相対的であり、真理が存在する世界もあるかもしれない――現に、世界を区切れば、私にとっての右は絶対的に右なのだ、ほかの者から見たときにそれが右ではないだけのことで)。だが、厳密な差異には目をつむり、真実や真理ではなく、ひとまず共有可能な『現実』を見詰め、扱いましょう、とするのが論理的にも倫理的にも正しいのではないか。ある意味でこれは、大勢から認められることが必要条件となる。多数の他者と共有可能でなければ、いくら「私にとっての自明の事実」であろうと、それは『現実』ではない。あなたにとって親はいて当然だが、あなたが言う親が、真実にあなたの親である保障はない。みながあなたの親はすでに亡くなっている、と言えば、いくらあなたが背におぶってみせても、その人物はあなたの親ではないのだ。だが周囲の評価に関係なく、あなたにとって親ならば、それはあなたにとっては親なのである。この周囲の認識との断裂が容易に引き起こりやすい土壌が、インターネットの登場で耕されてしまった。みなが黒と言ったものが黒になる世界は、相対主義の反動から生じた、疑似事実主義と呼べるだろう(事実主義とはこの場における造語である。相対ではなく揺るがぬ事象としての「事実」が存在することを積極的に肯定する立場、とここでは定義する)。だが、本来、共有可能とするのは概念としての「事実」ではなく、物理現象としての「事実」であり、「五感を通して実感できるもの」であるはずだ(五感を通じて実感できないものにも「事実」はある。たとえば我々は可視光線以外の微弱な電磁波は知覚できない。しかし、知覚できずとも存在するものは存在する。だが、五感で実感できないものは、「事実」ではない。微弱な電磁波の存在を我々が認めるのは、それを感知する装置があるからだ。微弱な電磁波を感知しているらしい装置を見て、我々は「知覚不能ななにかしらがそこにあるらしい」と事実認定する。飽くまで、間接的に「事実」を認めているにすぎないのである)。いくらみなが黒と言ったところで、白い毛のヤギを引っ張ってくれば、それは白いヤギなのである。みながそれを黒いヤギだ、と言い張れば、単に「黒」と「白」の言葉の意味が逆転するにすぎない。概念は変質するが、「事実」そのものは揺らがない。言い換えるならば、情報となった時点で、それは「事実」ではない。ただし、より「事実らしいカタチ」を保ったまま情報とすることは可能だ。それが理屈であるし、検証であるし、証明である。相対主義は厳密性を突き詰めた、本質的な考え方である。ただし、厳密性とセットで扱わないかぎり、疑似事実主義を誘起する。理屈や検証や証明の重要性は、相対主義を基盤とした考え方に根差している。事実主義と相対主義は矛盾しない、むしろ「事実」を突き詰めて考えれば相対主義に行き着くのは、道理である。しかし、我々の体感スケールにおいて「より厳密な事実」を扱う必然性はなく、共有可能な『現実』を以って、事実認定しても日常生活のうえでは支障がない。ただし、事実認定するうえでは、理屈や検証や証明が欠かせない。そうでない「事実とされる事柄」においては、たとえそれが『現実』として大勢に共有されたとしても、「事実」ではないのである。「事実」は真理とは異なる。繰りかえしになるが、「事実」とは人間の五感が知覚可能な事象のことであり、理屈や検証や証明を可能とする概念(過去や記録)のことである。人間がいなければ存在しないのが「事実」であり、錯誤や誤謬があっても成立してしまうのが『現実』である。『現実』には「事実」も含まれるが、大勢が共有可能な虚構であっても『現実』に昇華されてしまう点が、「事実」との大きな違いと呼べるだろう。「事実」を厳密につきつめていこうとすると、相対的な物の見方が必要となる。つまるところ、初めに述べたように、相対主義とは「そもそも・根本・本質・土台」の話であって、それを我々人間社会のスケールに当てはめて考えるのは(ときには有意義な念押しとなるが)、わざわざ蒸し返すようなものではないのである。厳密にはみなおのおの異なる世界を生きているが、そのうえで共有可能な『現実』をどのように過ごしやすくしていくか。考えるべきは、そこなのではないだろうか。



2321:【丸くてふにふに】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはさいきん、セブンイレブンの生チョコサンドのチョコドーナツにはまっておって、まいにちのようにもぐもぐしているでござる。このままではおでぶちゃんになってしまうでござるけれども、いくひしさんはおでぶちゃんが好きでござるから、ねがってもないことでござる。丸くてふにふにしているものはたいがい好きでござる。かわいいでござる。抱きつきたくなるでござる。見た目だけでなく、心も丸くてふにふにしているひとが好きでござる。でもトゲトゲツンツンしているせいでひとに好かれていないひともきらいではないでござる。要するにいくひしさんはひとが好きなんでござるな。誰とでもちゃんちゃらーんできてしまえるでござる。精神的ビッチでござる。ビッチも好きでござる。きらいなものがないでござる。でもほかのいくひしさんたちはきらいなものがそれぞれあって、みんなもっといくひしさんを見習えばいいのにって思っているでござる。あ、でも、好きくない食べ物は多いでござる。偏食さんでござる。まるでカメレオンでござるな。ってそれは変色! つたないツッコミをしたら「さぶー!」ってされてしまったので、みなのものはあたたくして日々をすごすでござるよ。もうすぐ冬でござる。冬籠りの準備でもするでござる。チョコドーナツを食べて精をつけるでござる。ホットココアがおいしい季節でござるよ。やったーでござる。でもでも、冬に食べるアイスも好きでござる。おこたに潜って、もぐもぐぬくぬくするでござるー。



2322:【蟻んこ】

場を支配可能な比較的大きな組織から排除されてもいくひしさんは困らない。どちらかと言えば、そういった権威を笠に着て、他者を利用しようとする組織とは距離を置きたいと考えているので、相手のほうからこちらを排除してもらえると助かるくらいだ。だいたい二十年もすると人間を商品の素材か何かのように扱っている組織は、どんどん弱体化していくので、いよいよのっぴきならなくなったそれらを眺め、やっぱりな、近づかなくてよかった、と思う(すっぱいぶどうの心理がまったくないとは言いきれないが)。ただ、そういう組織であれ、構成員の中にはいくひしさんにとって好ましい人物もおり、そういうときには、ややお節介を焼いたりもする。それは善意や正義感からの行動ではなく、単純に、八つ当たりである。いくひしさんにとって好ましい人物を素材か何かのように扱う組織への八つ当たりである。そこに善はないし義もない。ただの悪意である。ただ、蟻んこに傷つけられる象はいないだろう。もしいれば、それは象の皮を被った脆弱な何かだ。蟻ごとき、無視していればよろしい。蟻ごときの悪意で揺らぐようなら、それは何かしら補強や対策を講じなければならないだろう。蟻が腕に這っていたとして、それを蟻からの攻撃だと見做すほうがどうかしている。とはいえ、蟻が身体にまとわりついていたら払うだろう。そこは容赦をしなくてよいと思うしだいだ。



2323:【敵無】

ありがたいことにいくひしさんには敵がいない。味方もいないが、これは自然なことだ。味方とは基本的に、敵や害があるときにしか現れない。原理的に、敵がいなければ味方もいないのが道理となる。ということは、いくひしさんは誰の味方でもない、とも言える。誰かの味方になった時点で、その誰かにとっての敵を敵視しなければならなくなる。いくひしさんは誰のことも敵視したくない。誰かを敵視した時点で、破滅の歯車は回りだす。誰とも敵対しあわない方法を考えるのがもっとも理に適った生存戦略と言えそうだ。ただし、生存するメリットがなかったり、或いは、死滅することで起動する類の戦術があるとするのならば、敢えて敵につぶされることを目的に、敵対することは、これもまた理に適った戦略と言えてしまう点は、見逃さずにいたいものである。



2324:【湯船のようなひと】

トゲトゲもツンツンもしていない安全地帯みたいなひとの許にひとが集まるのは道理である。真綿ほど頼りなくはなく、家ほど他人を見下ろしたりはせず、湯船のようにただただ裸のあなたを包みこんでくれる。お湯の張った湯船のようなひとは好ましいが、しかし、なりたいかと問われると、すこし戸惑う。湯船には湯船のたいへんさがある。いくひしさんはどちらかと言えば、まいにちシャワーで済ませたい。湯船にはときおり浸かるだけでもよい(とはいえ、まいにち浸かってしまっているが)。シャワーも映画も、食事だって、できればひとりで楽しみたい。至極わがままで贅沢なのだ。



2325:【理屈で物を考えるための前提】

建前もいちおうは理屈のうちの一つだ。もっともらしい理屈を掲げ、それとは裏腹な、或いはまったく異なった目的を達成しようとすること、またはその理屈を示す言葉だ。建前にはいろいろな呼び名があり、きれいごとやマルクス的イデオロギー、偽善や詭弁、欺瞞も似たようなものと言えそうだ。とはいえ、言葉の裏に隠れた腹蔵を指摘したところで、それを証明できなければ、それは憶測にすぎない。建前だろうがなんだろうが、理屈と行動に一貫した筋が通っていれば、それを非難するには、掲げられた理屈そのものを、理屈で喝破しなければならない。どんな理屈であれ、まずはその論理に破たんがないかを考えること。それから建前は往々にして、唱えた理屈とその後の行動に齟齬が生じるものだから、それを指摘するのも一つだろう。仮に建前そのものに論理的な破たんがなく、掲げられた理屈と行動に矛盾がないようならば、その建前の裏にどんな腹蔵が隠されていようと、その理屈を妥当と評価しなければならない。それが理屈で物を考えるということのはずだ。なぜ理屈を唱えるのか、は人それぞれ違って当然だ。何かを守りたいひとも、破壊したいひとも、変えたいひとも、よりよくしたいだけのひとも、理屈を使って、相手に解かりやすく問題点を伝え、態度や行動を改めてもらおうとするのではないか、他者に干渉するのではないか。動機は問題ではない。建前が理屈として成立しているか、そして理屈を唱えた本人が、その理屈から逸脱するような行動をとっていないか、矛盾していないか。見るべきはそこであり、相手の狙いが具体的な行動に表れていないのならば、それを批判したところでこじつけと大差ないのではないだろうか。歯には歯を、理屈には理屈を。目には目薬を、暴力には対策と話し合いの場を、そしてやはり理屈を求めていきたいものである。(相手の狙いを批判することは議論のうえで有効ではないが、対策をとることには繋がるので、建前を建前だと見抜くことに意味がないと言っているわけではない点には注意してください)。



2326:【霊魔怪シリーズ「頭痛の種」】

魔族と悪魔がじつのところ分類上、別種であることはあまり知られていない。境会が発足する以前から漠然とであるにせよ、霊魔怪の存在を知覚可能な人間たちには脈々と伝聞されてきたそれは知見だが、ここ半世紀あまりで霊魔怪どもを対象とした解析技術が発展し、科学的根拠の裏付けがとれてきた。以下はその概要だ。すこしややこしいので流し読みしてほしいが、端的に言えばジャンケンのようなものだ。霊魔怪とは、霊体、魔族、アヤカシモノ、の三種を示す。それぞれ、霊素、魔素、呪素を帯びている。魔族と悪魔の違いは、この構成要素の違いによる。魔族は霊素を糧に魔力を帯びるが、悪魔は魔素を糧に呪素を帯びる。悪魔はちょうど霊体とアヤカシモノの中間に位置する存在だ。ちなみに霊体は、呪素を糧に霊素を帯びるが、ここらへん、専門家でも見解が分かれており、呪素と霊素は本質的に同じものなのではないか、といった説もある。なんだか光が粒子と波動の二重性を帯びている話を彷彿とさせる。いずれにせよ、悪魔に出遭っても、魔族へするそれのように対処しても意味はない。一般的には悪魔は人間と契約すると言い伝えられているが、契約を迫るのは魔族であり、悪魔はただ人間から魔素を奪い取るべく、あれやこれやと悪果を振りまく。人間の不安や恐怖が、魔素の源だからだ。悩みの種が多ければ多いほど、人間は魔素を帯びると言い換えてもよい。ここらへん、巷説にある逸話と共通する点がある。悪魔は悪魔、人間に仇を成す存在だ。魔族はのきなみ知能が高いが、悪魔はぴんきりだ。霊体やアヤカシモノが悪魔へと変異するのではないか、といった説も唱えられてはいるが、現状、悪魔は悪魔という種が存在するとして、例外扱いされている。「霊魔怪(プラス悪魔)」みたいな感じだが、個体数はすくなく、どのように発生するのか、生態についても謎が多い。調べ屋として興味はあるが、いまのところ遭遇したためしがない。こちらがそのようにぼやくと、黒猫の姿をしたマダラが、「だんなぁ」といやらしく尻尾をくねくね動かした。「悪魔もそりゃひとを選びますぜ、だんなじゃあどうあっても魔素は期待できねぇですからね、そりゃあ悪魔も姿を隠しやしょう」「おいおい、未来への不安でおしつぶされそうな男になんて言い草だ」「へっへ。だんなの未来なんざ元からあってなきがごくでしょう、ないものを失くす心配なんざするだけ無駄じゃねぇですかい、そりゃ悪魔も骨折り損は御免でしょうよ」「いつになく口が回るな。きょうの晩飯は久しぶりに刺身だったんだがな」告げると、マダラのしっぽが股のしたに垂れた。「だんなぁ、そりゃねぇですぜ」「晩飯は刺身だ、と言っただけだ。べつにマダラ、おまえの分を減らそうなんて考えちゃいないさ」「さすがはだんな、おひとができてやすね、そりゃこんなお天道さんみたいなおひとの許にゃ、悪魔どもは寄ってはこんでしょう、そりゃそうじゃねぇですかい、ええ、ええ、そういうもんでございましょう」「調子のいいやつめ」脇を通り抜けがてら、あたまを撫でてやる。「マダラ、おまえのそばにいれば悪魔ともいつかはご対面できるかもな」「そりゃあっしが不安の塊だと言いてぇんで?」「いいや、おまえといると困らないんだ」頭痛の種にな、と口にすると、マダラは、うへぇ、とうなだれた。



2327:【掌編+短編を更新しました】

掌編「即興絵描きバトル」 決勝戦は羽田空港で執り行われた。イベント会場は第一ターミナルの二階出発ロビーだ。エレベータが各階にいくつも並んでおり、その中央部分にて即席の舞台が設けられている。カイガは舞台を眺め、そこに運び込まれるキャンバスの大きさに目を瞠った。これに描くのか? ほとんど壁だ。一色に塗りつぶすだけでもいったい何時間(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054891810356) 短編「父の虚像は語る」 父はぼくに目隠しをし、おとなしくしていなさいね、といつもと変わらぬたおやかさで、ささやいた。何も見えない。どうして目隠しをするのかは判らなかった。理由を訊いたりはしない。ふだんから父との遊びは突拍子がなかった。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054891843421



2328:【ビジネスの変容】

デジタル情報(以下、情報とする)の利点のひとつにコピーがたやすい点がある。もちろんこれは欠点でもあり、たやすく複製できてしまうために海賊版や違法製品が市場に溢れてしまう懸念がある。ただし、そもそもなぜ海賊版や違法製品が悪影響を及ぼすかと言えば、正規のオリジナルを作成した者の利益を損なうからだ。もしその者の利益を損なわないのであれば、海賊版や違法製品は社会を豊かにする方向に働く(裏から言えば、なぜ海賊版や違法製品が絶えないかと言えば、それを需要する者がすくなくないためだ)。インターネット社会が到来してしばらく経つが、これまでは物理市場がインターネットを利用する方向に変化してきたのが、これからの社会はインターネット社会が物理市場を利用して変化していく段階に移行していく。社会の発展は、インターネット市場が物理システムを利用して、流通過程をワープすることが可能となる方向に進んでいくことが想像できる。極端な話、一家に一台「汎用性3Dプリンター」があれば、それだけで家具や衣服、食器や日常品はまかなえてしまう。素材や食材だけは配達してもらわなければならないが、いまでも充分にそうしたデリバリーは一般化している。今後は、さらにそうしたデリバリーが人々の生活を支えるようになり、店舗の役割は、そうしたデリバリーの管理や商品倉庫に特化する方向へと進んでいくのではないか、と妄想している。ビジネスや資本主義はなくなりはしないが、その仕組みは、いまとはだいぶ違ってくるだろう。独占することで資本を得る仕組みは、今後、社会に技術や商品をより共有させることで資本を得る仕組みに変わっていくはずだ。「汎用性3Dプリンター」を月額や年額で契約させるようなビジネススタイルが主流となっていく。自動販売機のようなものだ。欲しい商品の情報を選択するだけで、プリンターがそれを編みだしてくれる。靴なら靴、鞄なら鞄といった具合だ。情報に値段をつけられない代わりに、情報を選び、それを物理的に具現化するサービスにひとはお金を払うようになっていく。定額制のなかには「汎用性プリンター」の素材を定期配達するサービスも入るはずだ。情報や商品への対価ではなく、飽くまでサービスへの報酬となる。五十年後にはこうしたビジネススタイルが一般化しており、いまのようにモノを売る、という商売はビジネスとして成立しない社会になっていくのではないか、と妄想している。ただしこれは、商品を独占しないかわりに、市場そのものが一つの巨大な企業のもとに独占させる懸念があり、じっさいにいまはGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)のような企業が、市場を独占する流れを強化している。言い換えるならば、未来における国の基盤を企業が独占して築きあげているわけだが、これに対して国は――つまり大多数の国民(企業の従業員も国民の一部であるから、ほかの大多数の国民は、という言い方をするが)は――いまのところ成す術がない。一企業が国家を越える権力を手にしつつあるのが現状であるが、いざ企業の問題が浮上したとき、我々はいまあるサービスを手放す覚悟はあるだろうか。企業がビジネスによってその構造を維持している以上、企業に対抗するには法のちからを駆使するか、またはその企業のサービスを利用しないか、の二つしか道はない。ただし、法の抜け穴はいくらでもあり、全世界共通のルールがいまよりもっと厳格に整備されなければ、企業は法のちからを掻い潜るだろう。同様に、一国家の国民がサービスを拒絶しても、企業はほかの国を相手にビジネスをすればよいだけであり、これも有効な策とは呼べそうにない。もちろん第三の選択肢がないわけではないが、それはたとえば国営で企業にとって代わるシステムを構築することだが、これが短期的な成果をあげることを可能とするときは、資本主義の原理からするとおおむね、ほかの国との競争原理が働いたときのみであり、つまるところ戦争が起きる前触れや、戦争中のみであるので、期待したくないところである。との妄想を並べ、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。



2329:【たいした労力ではない】

インターネット上に更新済みの自作の総文字数はどんぶり勘定で525万字くらいで、そこにボツ作集(56万字)とこの「いくひ誌。(100万字)」を加えると、680万字をすこし越えるくらいになる。ほかにも未完成の小説が30万字以上溜まっているが、これは勘定にいれないでおくとして、いくひしさんが小説をつくりはじめてことしで10年目なので、完成済みの小説525万字を10で割って、1年で52,5万字。365で割ると、だいたい1438となる。まいにち平均1438文字を並べていれば10年でこれくらいの分量になるのだ。この「いくひ誌。」を含めたもろもろだと680万字で、まいにち1863文字となり、制作中の未完を含めた710万字ですら1945文字だ。単純に考えれば、まいにち2000文字を並べていればいくひしさん以上の分量の小説をつくれるはずだ。プロはまいにち5000文字は並べているそうなので、10年で1825万字の分量の小説をつむいでいることになる。冊数に換算すると1冊10万字としてだいたい182冊だ。まいにち5000文字を並べていればそれだけの分量となっているはずだ。もちろんこれは文章として残った分であり、プロであれば決定稿とするまでのあいだにはその3倍くらいは費やしているだろうから、まいにち15000文字分くらいの打鍵をしていないと、結果的にまいにち平均5000文字を並べるのはむつかしいのではないか、と推し測るものだ。いずれにせよ、いくひしさんはまいにち平均1500文字以下(プロの10分の1以下)の労力しか費やしていない。まあそんなものだろう、といった感じだ。楽しく、無理なく、好きなときに好きなだけ文章をつむいでいこうと思うしだいだ。(すぐに飽きてしまうので、まいにちすこしずつしか並べられない)



2330:【個人の感想です】

専念すればするほど、じぶんのやっていることを特別なことだと思いたがるひとが多い気がする。たいしたことない、と卑下するのもどうかと思うが、ほかの者やことと比べて「私のしていることはふつうではない、ほかの同種のものといっしょにするな」と主張するでもなく主張したがる者がいる。特別だと暗に示さないと興味を持たれにくいし、ビジネスとしてやっていけないからだろう。わるいことではないが、あまりに無自覚にすぎる気もする。せめてもうすこし自覚的に、演出を意識するくらいのことはしてもらいたい。特別だ、特別だ、と誇示すればするほど、平々凡々でつまらないものに見えてしまう。逆効果だし、そんなものに釣られて寄ってくる者たちは(にわかファンですらなく、)長期的に見て不利益しかもたらさないように思うしだいだ。使い捨てにしたいのなら都合がよいのかもしれないが。要するに、そういうことなのだろう(どういうこと?)。いくひしさんにとって継続して専念していることの一つに小説がある。小説なんてたいしたことないとは言わないが、たかが小説ですよ、とはときおり言っていきたい。小説をつくれるからといって何だというのか。何もしないよりかはマシですね、くらいなものだろう。コピー用紙でお尻を拭くよりもトイレットペーパーのほうがいいですよね、くらいの違いだ。下品な譬えになってしまったかもしれない(そしてけっこうな差かもしれない。トイレットペーパーをつくっている方、すみません、いつもふわふわ拭き心地をありがとうございます)。小説を十年つくりつづけてきたところで、この程度の品のなさなのである。やはりたいしたことはないのかもしれない(けっきょく言ってしまった。そしてそれはいくひし、おまえに固有の問題なのでは? 過度な一般化は褒められたものではないですよ)。



※日々、むかし投げ捨てたものを拾い集めている。



2331:【害のない好意は存在しない】

ひとを好くのは楽だけれど、ひとから好かれるのはたいへんだ。これはひとから好かれるように振る舞うのがむつかしいという意味ではなく、ひとから好かれてしまうと苦労する、という意味だ。いくひしさんにとって、好意と敵意に大きな差はない。ともすれば、ひとから好かれたことがないのでよく解からないだけかもしれない。



2332:【幻視】

文章からその書き手のことを理解することはできないけれど、どういう文章をつむぎつづけているのか、その変化の軌跡や落差を観察することで視えてくるものがある点は否定できない。視えた何かがどの程度、書き手と関係しているのかは定かではないが。



2333:【自虐でも卑下でもない】

専念していることはあるが、専門がない。何か特定の分野を体系的に学んだことがないので、学問というものをいまいちよく解かっていない。証明の仕方もよく解からないし、何を以って事実としてよいのかも、なかなか断言しづらい。仮に小学生のテストを受けたとして、どの教科も満点をとる自信がない。これは謙遜しているのではなく、じっさいに満点をとれないだろう、とその確率が高いことを我がことなので知っている。漢字の書き取りに到っては絶望的だろう。歴史のテストも、人物名や年表、地名は壊滅的だ。じぶんの住んでいる地域も覚束ない。県庁所在地は言えるが、そのほかにどんな市があるのかをろくに言えないのだ。理系や文系の違いは関係ない。科学にしろ数学にしろ、答えられない問題は無数にある。記憶力がわるい。それもあるが、どちらかと言えば、単に知能が低いのだ。学力と言い換えてもよい。この場合の学力とは学ぶチカラの意だが、むろん学歴もない。特筆すべき履歴はなにひとつとしてなく、特技と呼ぶべき技能も実績ですら皆無だ。蟻の足跡のほうがまだ何かしらの痕跡を残している点で、無ではなく、いくひしさんの存在価値は、蟻の足跡ほどもないのである。だが、それがいかがした。幼稚園児以下の知能しかなく、蟻の足跡にも満たない存在であろうと、いくひしさんはすこしの涙しか零さない。泣かないわけではない。だって哀しいのだもの。無力と非力は違うんだよ、といった慰めの言葉もあるが、無力であり非力である者にはなんの効果も期待できない。無力であって非力でないなんて場合があるのだろうか。非力な者が無力な者をさして、やーい、可能性ゼロ太郎、と蔑んでいるだけではないのか。蟻の足跡がいくひしさんをさして、やーい、痕跡ゼロ太郎、と嘲笑しているだけではないのか。蟻の足跡にすら笑われるいくひしさんに救いはあるのか。神よ、おー神よ。なにゆえ我が身をこんなことにした。捨てる神もあれば拾う神もあるとは言うが、蟻の足跡以下と蟻の足跡にまで言わしめてはついでのように太鼓判を捺されてしまったいくひしさんをどうして拾うことができよう。存在しないものは拾いようがない。ならば捨てることだってできなかろう、といっしゅん浮足立ったが、吐いて捨てるだけなら悪態だってできるのだ、蟻の足跡以下のいくひしさんだって掃いて捨てるほどに有り触れた存在なのかもしれない。長くなった割に何を言っているのかさっぱりアンポンタンであるが、いずれにせよ、学もなければ品もないいいくひしさんであっても、それはそれ、これはこれ、文章くらいはちょこちょこと並べられるのだ。できてしまうことをわざわざやめる必要はないわけで、これからもなんの役にも立たぬ、あってもなくてもどっちだってよい、うんとこしょどっこいしょ、を並べていこうと思うしだいだ。



2334:【霊魔怪シリーズ「鳴き声」】

(短編5600文字) ときおり妙な声が聞こえる。きぃーきゅるる、と家のなかにいると耳慣れない低周波のような音が耳の奥にこだまするのだ。耳鳴りかと思い放置してきたが、聞こえる時間帯が限られており、なにかしら生き物めいた様相を呈しはじめているのでこのままないものとして過ごすには抵抗がある。親を呼ぶ雛のような細々しさがあるのも見逃しがたい。何より気になるのは、聞こえたと思った直後にマダラの姿が家のなかから見えなくなることだ。マダラは黒猫のカタチをした居候だ。「なあ、マダラ。おまえ何か隠してないか」「隠す? だんなにですかい? あっしが?」「ないと断言できるか」「ちっ。バレちまったんじゃしょうがねぇ。おとつい、棚にあった饅頭を食っちまったのはあっしでさあ」「え、うそ。おまえあれ、すごく高いんだぞ」棚を覗くと、隠しておいた饅頭がすっかりなくなっていた。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054891887919



2335:【タダ乗り】

某エナジードリンク販売会社はさまざまなエクストリームスポーツやストリート発祥の競技に出資している。スポンサーとしてイベントを開くだけでなく、主催として関わっていないイベントにもスタッフを派遣し、競技者に無料でエナジードリンクを提供したりと、認知度の向上ならびにブランドの周知を図ってきた。この手法はもっとほかの業界、それこそ出版社も参考にしてよいはずだ。イベントには物販が置かれる。出版関係のイベントが月にどれほどあるのかは知らないが、それぞれに物販を置かせてもらう働きかけくらいはしても損はないのではないか。書籍ごとにもその本に適したターゲット業界があるはずだ。イベントはどんな業界であれ開かれている。そこに本を置かせてもらえれば、互いに、業界の広報となって、WIN:WINの関係を築けるのではないか。フィギアスケートなど注目スポーツであれば、有名選手の地元の学校に、各クラスに直接献本するくらいの策は講じてもよいのではないか。あまり品のよい行いではないかもしれないが、ビジネス上、やれることはいちど試しても損はないはずだ。もちろんこれは、資本力のある出版社に有利な策であり、これにより競争原理が働けば、無料献本を大量に配布した出版社が生き残ることになるため、独占禁止法に抵触する可能性はある(不当廉売に該当しそうだ)。問題があるために実施されていないだけかもしれない(たとえば一冊につき献本できる最大部数が業界内で定められているのかも分からない)。その公算が高いが、ならばそもそも献本文化を廃止すればよい。いずれにせよ、これからはイベント会場で物販として書籍を売る、という選択肢を、率先してとれる出版社や作者が優位に立ちまわるようになっていくだろう。肝は、じぶんたちが主催ではないイベントにも物販として売りにだせるか、だ。企画の段階から、その書籍の肝となる分野の年間イベント数を見込んで、物販で売ることを前提に計画しておくと、これからの出版市場をより優位に乗りこなしていけるのではないだろうか。ただ、書店の役割を奪うことに繋がるので、書店からすれば裏切られたように映ることもあるだろう。また、そんな売り方をする本がおもしろいのか、は疑問に思うところだ。広報として成立するようなお行儀のよい物語をあなたは読みたいだろうか? そういう物語も嫌いではないし、読んだら読んだでおもしろいのだろうが、いくひしさんはあまり手に取りたいとは思わない。食わず嫌いなのである。



2336:【弱肉強食が足りないのでは?】

実力のない者にチャンスを与えることは、若手を育てるのとはすこし違うように思うのだ。若手を育てたいのならば、実力の伴っていない相手をけっして一流と同じ舞台にはあげない厳しさが必要なのではないか。売り上げやノルマを達成させたいがために、「実力不足だがなんとなく有望に思える相手」を利用して、一時しのぎ的に舞台上の駒を揃えようとする姿勢はいただけない。それは新人を育てているようで、まったく逆の効果しかないように思うしだいだ。何を以って実力のあるなしを決めるのか、その基準によって変わる話ではあるから、いちがいにこの理屈が正しいとは思ってはいない。ただし、「実力は伴ってはいないが見込みだけはある」といった程度の相手ならばやはり、プロとして扱ったり、一流と同じ舞台には立たせないほうが好ましいようにいまのところは感じている。それは、プロや一流と接する機会を持たせるな、という意味ではなく、同じ舞台には立たせないほうが好ましい、という話だ。言ってしまえば、プロのボクサーと同じリンクにアマチュアの選手を立たせ、戦わせることが若手のためになるのか、との話になる。プロのボクサーと練習するのは若手のためになるだろう。だが、いちど同じ舞台に立てば、プロは容赦なく拳を奮うだろうし、若手はいともたやすく撃沈するだろう。負ける経験はたいせつだ。己の実力を正確に把握することは、目標の修正や、練習の段取りを工夫するきっかけになる。だがそれはアマチュア同士でもできることだ。プロの舞台にあげてまでさせることではない。有望なアマチュアを拾いあげ、鍛えあげる仕組みはあってよい。むしろ業界を進歩させるためには必要な仕組みだ。だがそれと、「プロや一流といっしょの舞台にあげてやる」といった態度は、まったく違うのではないか。力量不足なら、どんなに有望であっても、プロや一流と同じ舞台にあげるべきではない。使い捨てにしたいだけなら、そういう姿勢もビジネスのうえでは有効なのかもしれないが、若手の育成という名目でそれをするなら詐欺と同じだという自覚は持っていてほしい。そういう意味では、冨樫義博さんのマンガ「ハンター×ハンター」の天空闘技場のシステムは優れていると言えそうだ。いずれにせよ、実力主義を謳うのならば、弱肉強食の原理を手放してはならない。人物評価など不要だ。実力だけが物を言う。(とはいえ、実力とは何を差すかで、また議論の余地が生じるところがこの話のむつかしいところだ。売上さえあればいい、という姿勢もまた実力主義だが、この理屈であれば暴力団や犯罪組織は、もっとも実力のある組織ということになる。何を実力とするのか、その優先順位を取り違わないことである)



2337:【真剣じゃないと失礼?】

じぶんたちが本気で、真剣に、頑張っているからといって、本気でなく真剣でもなく頑張ってもいない相手を、「失礼だ、無礼だ」と非難して邪魔者扱いし、排除しようとする集団や人物を見かけることがある。たとえば「こっちは真剣に仕事をしているのだ」とか「真剣に世界一を目指しているのだ」とか、そういう言い方をして、そうではない同じ分野の、ただそれをしていたいだけの者を非難したり、端っこに追いやったりする者がある。楽しみたいだけならあっちでやってろ、ということなのだろう。じぶんたちは本気であり真剣であり頑張っているから、よりよい環境を独占してもよい、と考えているようだ。プロにはプロの、一流には一流の場があるとの考えは一見すると筋が通っているが、だったらそれなりの場所や環境で、おいそれとアマチュアが近寄れない、どうあってものぼることのできない舞台上で、本気で真剣に頑張ればよいのではないか。わざわざアマチュアがはびこる余地のある場所に寄りつかずともよいだろう。言い換えるならば、本気で真剣に頑張りたいのなら、アマチュアが視界に入るような場所で活動をすべきではない。もっと言うならば、アマチュアに邪魔されるような場所で活動している時点で、それは本気ではないし真剣でもないし頑張ってもいない。プロでも一流でもないのだ。これは理屈ではなく、単なる愚痴であるので、論理的に正しくない結論であるし、筋道は誤謬と飛躍のオンパレードであるから、ふだんよりいっそう真に受ける余地のない文章となっている。ともあれ、よりよい成果を重要視する人物が同じ口で、本気度や真剣さや頑張りを評価の基準にしているのは何かの冗談のように感じる。成果を優先して重視するのならば、誰より怠けながらでも成果をあげられる者がもっとも好ましいはずだ。手を抜きながらでも世界一になってしまう。そういう人物にも、本気でやれとか、真剣じゃないなんて失礼だ、と言える者ならば、本気で真剣に頑張っていることを免罪符にして、それ以外の者を非難し、邪魔者扱いし、排除しても、まあまあ理屈の上では筋は通っているのかな、と思わないでもない。個人的には、本気で真剣に頑張る姿勢は好ましく感じる。ただ、姿勢と成果物への評価は別物だ。そこを混同しないほうが色々な問題を扱う上で便利なのではないか。反面、どのような姿勢で物事に取り組んでいるのかは、その後の成長具合、変化の方向性を見定めるうえでそれなりに有効な指針になるようにも感じる手前、姿勢を一つの評価基準にする理由は判らなくもない。いずれにせよ、本気でなく真剣でなく頑張ってもいないからといって、そのことだけを取り上げてその人物を非難する筋合いは、ほかの者たちにはないはずだ。その点、何の成果も上げていないにもかかわらず、努力もせずに上から目線で他者を批判してばかりのいくひしさんは非難されて当然だと認めるしだいだ。



2338:【きょうもたくさんサボってしまった】

長年、ちょこちょことではあるけれど挑戦しては身に着けるまではいかずに頓挫していた技術をいまいちど体得してみようと、このひと月、ちまちまと段取りを組んで進めてみたけれど、身体のほうがついていかず、無駄に眠くなるようになってしまった。体力がないので基礎体力をまずはあげてみようとしたのだが、最初は慣れないので疲れるのが当たり前だから本当に意味があるのか、効果のある段取りなのかの実感がしづらい。だいたい二週間継続して効果がないようだったらほかのやり方に変更したほうが好ましい。ただ問題は、初めから明らかに間違っているのにそれに気づかずに二週間という期間を段取りに費やしてしまうことだ。二週間あれば、身体のほうが変質する。間違った技術を、間違った手法で、間違った知識のまま憶えてしまったら、それをゼロに戻すには、いちどすっかり忘却する時間をあけるか、さらに厳しい鍛練を積んで、技術を上書きするよりない。このまま継続すべきか、すべきではないか、の判断基準が未だに確立できておらず、とりあえず継続してみよう、と舵を切ってしまって、体調を崩してしまう失敗は過去に幾度かしている。さいきんはむかしよりも、ちょっとした変化ですぐに疲れて、ダルくなるので、体調を崩す前にかってに身体のほうで動けなくなるので、怪我をしたり病気にかかったりするよりかはマシになったな、と感じる。全体としては出力はさがっているが、低出力でも可能な効率的な手法を否応なく模索せざるを得ないので、これはこれで利がないわけではない。老いの影響かは定かではないが、得意なことを伸ばすよりも、苦手だったこと、避けていたことをできるようになることのほうが手軽だし、おもしろいと感じる頻度が高くなってきた。階段を百段のぼったあとの一歩よりも、最初の一歩のほうがはるかに楽なのと同じ理屈かもしれない。とはいえ、苦手なものは苦手だし、しばらくすると行き詰まり、放りだしてしまう結末は変わらない。苦手なことを特技とするまで極めるよりかは、得意なこと、好きなことをさらに深めたり、積み重ねたりしたほうが抵抗はすくなそうだ。すべきことを放棄して、やるはずだったことまでもなげうって、椅子にふんぞり返りながらどらやきをモグモグしていて気づいたのだけれど、いくひしさん、あなたほとほと努力のできないひとね。



2339:【連想、発想、飛躍】

HD(ハードディスク)にデータを移し替えるのが習慣の一つになっている。データは毎日のように増えるので、使用するHDによっては上限いっぱいにデータが記録されてしまって空きがなくなっている機器もある。そういうときには、いらないデータがないかと探して、削除し、つくった空きにデータを入れるようにしている。もちろんいちばんよいのは新しいHDを買ってしまうことなのだが、いちど満杯になり使用しなくなったHDは机の引き出しの奥に眠ることになるので、却って「あのデータどこに仕舞ったっけな」となって不便なのだ(むしろ、このHDに何入っていたっけ、と首をかしげることになる。言い換えるならば、データそのものの存在を忘れてしまう可能性が非常に高い)。もちろん重要なデータはバックアップを四重、五重くらいにとってある。これもHDからミニSD、USBとどれがいちばん新しいバックアップかが判らないくらいに小分けにしてバックアップをとってあるので、やはり頻繁に使うHDを固定しておくと何かと不便をしない。満杯であってもデータに優先順位をつけておけばつねに、重要度の高いデータしか入っていない状態を維持できるので、好ましい。月一くらいで優先度の高い上位のデータを、バックアップ用の機器にコピーしておけばそれで済む。いまのところデータの損失で痛い目に遭ったことはない。さいあく、どこかしらにデータは残っているし、失われたデータであっても、それは失われても構わないデータであるし、制作中の小説データであっても、たいがいは五万字以上になったらバックアップをとるようにしているので、それ以下ならば、全改稿と思って、最初からつくり直せばよい話であるし、もっと言えば、もういちどつくろうと思えないようならそれだけの物語だったと思ってボツにしてしまうのも一つだ。記憶がそうであるのと同じように、データも優先順位をつけて、ある程度、頻繁に使うデータとそうでないデータを仕分けておくと、情報の鮮度を保つのに役に立ちそうだ。片っ端から記憶していくのも一つの手法かもしれないが、それでは連想の幅が限定されてしまいそうだ。フォルダ分けして、各フォルダのなかにおいても、とくに頻繁に使用するデータの位置を把握しておくと、フォルダをまたいだ状態であっても、あのデータとこのデータは、共通する部分があるから、新しく「××」というフォルダをつくって仕舞っておけるな、と関連付けることができる。要するにこれが連想であるし、発想であるし、抽象化でもある。より遠くの、何の関連もないフォルダ内のデータ同士を結び付けられれば、それだけで小説一本をつくるだけの発想の種が生まれる。そうした発想の種をいつでも無数に生みだせるか。ワープに似た飛躍の能力が、虚構を編むためには役に立つのかもしれない。



2340:【読解力がゼロ】

識字障害の一種なのかもしれないが、家のそとなど情報量の多い場所を出歩いているときに文章を読み解くことがむつかしい。独りになれないと本を読むこともできない(イヤホンで耳を塞ぎ、安心してじっと座っていられる場所であれば、人混みのなかでも本は読める。したがってカフェなどの店内の座席や公園のベンチであれば本を読むことは可能だ)。集中できなくなるからなのか、そばにひとがいるだけで文字の読解が困難になる。目のまえに「土足厳禁」と書かれていても認識できなかったりする。だからたとえば商品の値段や説明なども、そこに文字があることは理解できるが、文章として読むことができなくなる。どこをどのように読めばいいのかすら判らなくなる。これは人と会話するときも同じで、一対一であればなんとかしゃべられるが、複数人でしゃべっていると、誰に何を言っていいのか、或いは言ってはいけないのかの判断が困難になるため、しゃべらないでいることを選択しがちになる。基本的に、世間話はしなくてもいい会話だと考えている。情報交換であればまだ理解できるが、そうでない会話をどのようにすればいいのか、何をしゃべれば相手を傷つけずに済むかがよく解からない。多少大袈裟に並べてしまったかもしれない。学習すれば、ある程度、読めるししゃべれるようになる。コンビニなどはだいぶ楽だ。造りが似通ったチェーン店はだからとても安心する。同じ店ばかりいくのもその影響なのかもしれない。買う物もほぼ毎回同じなので、店員たちのあいだであだ名をつけられていることだろう。リュックのひとと呼ばれていたこともあったが、いまはどうだろう。さすがにおいそれと本人に聞こえるようには言わないようだ。不快な思いをさせていないとよいけれど、とたまに考えるが、こちらがどのように振る舞おうと不快に思うひとはいるところにはいるもので、まあ、なるようにしかならない、と開き直ることもときには必要なのかもしれない。店員さんたちが忙しそうなときには店のまえを通り過ぎて買い物をがまんすることもあるが、そちらのほうが店としては不利益を被るだろうから、この点に関しては悩ましいところだ。たいして悩むわけでもないけれど。




※日々、できないことばかり増えていく、できて当たり前のこともできぬままに。



2341:【おーたむ】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。ここ数日、めっきり肌寒くなったでござる。おそとにでかけるときもマフラーが欠かせないでござるな。いまは秋でござる。紅葉の季節というよりも、なんだかもう落葉の季節でござる。秋といえば、食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋でござる。なんでも秋とつければいいってもんじゃないでござる。二度寝の秋とか、耳かきの秋とか、マッサージの秋、空き部屋の秋、飽きの秋、秋の秋、秋は秋でござる。なんだか秋という文字が急にへんな感じに、「季節」以外のニュアンスを帯びはじめて感じられてござらん? こういうのなんて言うのだっけ、ゲシュタルト崩壊で合っているでござるか? まあまあ、いくひしさんはとにかく、秋にすっかりなじんでいるでござる。たくさんお腹は減るし、たくさんおねむでござるし、たくさんおもちろい物語に浸っていたいし、現実逃避していたいでござる。秋にかぎらんでござる。いくひしさんはつねに現実に飽き飽きでござる。でもでも、この飽き飽きのいくひしさんも現実のうちでござるから、現実さんのことはきらいではないでござる。ありがたいでござる。いくひしさんがなーんもしなくとも心臓さんはトクトクせわしないでござるし、時空さんはかってに移り変わりつづけてくれるし、いくひしさんがなーんもしなくとも、いいことづくしでござる。やったーでござる。きょうはもうおねむの秋でござるから、すやすやネムネムするでござる。寝る子は育つし、際立つでござる。寝ているのに立つなんてへんでござる。へんてこでざる。おもしろいでござる。わらっちゃうでござる。へそで茶が沸けるでござる。でも沸くのはお湯でござらん? お茶は淹れるものでござる。あ、でも、ウーロン茶は煮立てるでござるな。やや、ここでも立っているでござる。立つのは茶柱だけじゃないんでござるな。なっとくでござる。秋は英語で、オータムでござる。わからなくてぽちぽちって検索したでござる。「育つ」と「オータム」で韻がふめるでござる。寝る子はオータムでござる。オールタイム寝る子ないくひしさんはだから、秋の申し子と言ってもいいでござるな。オールタイムから「ル」と「イ」を抜けばオータムでござる。ルイなしでござる。言い換えれば、無類でござる。いくひしさんは無類の申し子でもあるんでござるな。ちがうでござるか? やや。イチャモン、こじつけ、ペテンに大ぼら吹きでござるか? おこられちゃったでござる。こうなったら不貞寝してやるでござる。朝までぐっすりぐーぐーしてやるでござる。いい夢みてやるでござる。みなのものも、いい夢をみるでござるよ。秋は、おねむの秋でござる。たくさん寝るとよいでござる。おやすみーでござるー。



2342:【立派でなくてよかった】

立派な人間でなければならないひとはたいへんだ。立派じゃなくても責められることのないいくひしさんは、とても恵まれていると言えよう。PCでステキな絵を眺めながら、ラーメンを食べ、チョコレートをかじり、合間にコーヒーを飲んでいても誰からも何も言われない。ステキ!



2343:【今宵、寄り添っている】

お酒をたしなまないし、煙草は吸わないし、恋人はいないし、友達もいない。お酒を呑んだことはあるけれど、煙草はくゆらせたことがなく、しかし副流煙は吸いこんだことがあり、そして咳きこんだりし、恋人はいたことがなく、友達もいたことがない。お酒は料理で使うので必要だが、煙草はとくに必要はなく、恋人は欲しいというよりも、恋仲になっても疲れないくらいに安心して接していられるひととの縁ならば繋いでも構わないとは思うがゆえに、きっと友達もいらないわけではないのだろうと推し量ってはみるものの、さりとて現状に不満があるかと言えばたいしてなく、独りなのはすごく楽で、たいへん楽で、太平楽だ、このままずっといまがつづけばよいと思っている。恋愛は虚構で充分だし、そも恋愛とは虚構であり、思い込みであり、いっときの錯誤であるから、そんなものにうつつを抜かしている時間が惜しいと考え、現実のつれづれから目を逸らすばかりか、周囲のツレ連れからも目を逸らしている、これは友達でも同じく、友情は虚構であり、思い込みであり、いっときの錯誤であるから、たまに錯覚するくらいでちょうどよく、友となるよりさきに距離を置く。人と接しているあいだに見えてくる幻想こそ、友情であり、離れても視えてしまうものが色恋だ。いずれにせよ虚構であることに変わりはなく、ならば端から虚構で済ませてしまえばよろしくて? 虚構に埋もれいく過程を孤独と呼び、そこには何もなく、ゆえに何もかもがある。私は世界のうちの一つであり、世界は私そのものである。私をゆびさし、顔をしかめる者があり、笑いだす者がある、だが彼ら彼女らは世界を眺め、眉をひそめ、笑い、苦しみ、楽しみ、生きている。酒も、煙草も、恋愛も、友も、縁も、繋がりも、世界には無数に溢れ、薄れ、溶けていく世界は、我が巣に影をつくらぬだけで、そこここに虚構の余地を残している。たくさんのいっぱいのうんと濃ゆい寂しいが寄り集まって、私の世界を埋めていくが、満ち、塗りつぶし、溢れかえって、有り触れて、延々広がりを帯びては消えていく虚構の海を、私はきょうも一滴残らず呑み干していく、その名を孤独、酒と煙草と色恋と、友の代わりに寄り添う、ひとのカタチをなしたもうひとつの私、もうひとりの世界、その名を虚構、うそと偽りの現実のあだ名。



2345:【改行、省略、視点】

この「いくひ誌。」ではほぼ全文、改行せずに記事を載せている。これにはいくつか理由がある。一つは、敢えて読みにくい体裁で文章をつむぎながらでも、最後まで読んでもらえるような文体をつくれないか、との工夫だ。改行なしでもするする読んでしまう、文章から目が離せない、そういった文体をつくれないか、との思案がある。また、一時期いくひしさんがとっていた手法の名残でもある。こうして改行をせずに第一稿をつくりあげてから推敲がてら段落をつけていく小説のつくり方をしていた時期があり、その形骸とも呼べる。改行なしでつむぐと文章が圧縮される効果がある。反面、思考が飛躍していることに気づきにくい欠点の裏返しでもあり、功を奏しているとは言えそうにない。客観的な評価としては、淡泊で味気ない、との所感を抱かれそうだ、と見立てている。たほうで、「改行なし手法」を試みていた時期に、可能な限り、一人称一視点における主語と接続詞を省略できないか、と試行錯誤していたこともあり、作品によっては、地の文がいったい誰の行動を描写した文章なのかが分かりづらくなっているかもしれない。この点、まだ工夫の余地があり、いろいろ試しているところである。さいきんの自作において接続詞の頻出度をあげているのには、そうした理由がある(過剰に省略していただろう分を、こんどは残すようにしている)。作者たるいくひしさん以外には判らない文章変化であるだろう。大別すれば現状、いくひしさんの文体を視点を基準に分類すれば、「三人称一視点」「一人称一視点」「三人称一視点主語抜き」「一人称一視点主語抜き」の四つとなる。神視点だけはいまのところつくったことがない。処女作の極一部で神視点を扱ったが、いまのところ一作まるごと神視点の物語を編む予定はない。神視点にするとしても、その前に、群像劇として視点をキャラクターごとに分ける構成を考えてしまうので、仮に神視点を扱うとすれば、「キャラクターごとの視点で物語を多面的に編むよりも、神視点で連続的に編むほうがおもしろくできる構成を閃いたとき」となるだろう。いまざっと考えてみたところ、神さまの手記というカタチでなら、神視点で編むのがもっともおもしろく叙述できる物語の編み方に思える。神ではなく守護霊でもおもしろいかもしれない。ただ、それはそれで広義の一人称一視点となろう。物語に積極的に絡んでいかない観測者が語り手であれば、一人称一視点と神視点は限りなく近似に寄ると言えそうだ。



2346:【猛毒】

ふだん褒められ慣れていない人間が絶賛されるとどうなるか知ってる? めっちゃ熱でるねん。冗談でなく、めっちゃ熱でるねん。赤ちゃんが興奮しすぎて熱だすのといっしょ、放っとくと融けて消えるねん、マグマかってくらいデロデロ。バブーさながらのタブーやで。ご褒美もほどほどに。



2347:【読書のなかった人生】

ひとさまにじぶんのつむいだ物語を読んでいただけることはまたとないご褒美に感じるいっぽうで、貴重な人生の時間を奪ってしまうようで申しわけなく感じてしまうのは、おそらくじぶんのなかでもどこかで、読書と出会って人生を狂わされたといった恨みに似た感情が渦巻いているからかもしれない。それほど読書との出会いは突然だったし、劇的だったし、衝撃的だったのだ。或いはだからこそ、必然だったのかもしれない。(読書によって埋められる何かを欲していた、それは埋める必要のある欠落を帯びていたからにほかならない)



2348:【未来が視えてもいいことはない】

未来が解かってもしょうがないのだよな。だって解かる未来は、じぶんが関与しない未来であって、なんとかしようと動けば、その未来は変わってしまうわけだから。予知者はどうあっても未来を変えられないし、予知した未来が訪れたときに、やっぱりそうなるんだね、と思うしかない。だから原理的に未来予知には価値がなく、どちらかと言えば、未来を想定したり、妄想したりすることのほうが人生を有意義に送るのには役に立つと言えそうだ。ビジョンと未来予知ならビジョンのほうがはるかに視る意義がある。



2349:【泣いちゃうかもしれない】

おもしろい物語を味わうために生きていると言っても過言ではない。人と関わるのは、そのひとの物語を味わいたいからだし、人と関わらないのはそのひとの物語が口に合わないからだ。虚構の物語にもおもしろい物語はたくさんある。生きているあいだにすこしでも多くの、おもしろい、いくひしさん好みの、いくひしさんの好みの幅を広げてくれるような、深めてくれるような、そんな物語を味わいたい。その点、いくひしさんにとっておもしろい物語を、いくひしさんから取りあげるような真似をする輩には、すこしだけ容赦ないかもしれない。たいがいのことはどうでもいいと流せるが、いくひしさんにとっておもしろい物語が、いくひしさんの元まで届く機会を奪うような真似をする何かがあったら、いくひしさんはすこしだけ黙っていないだろう(たとえば、なんでそんないじわるするの、と泣いてしまうかもしれない)。おもしろい物語を味わいたいのである。それだけである。(そして、あたたかいおうちと、太陽の匂いのするおふとんと、清潔でシンプルな動きやすい服と、足にぴったりな靴と、おいしい食事と、紅茶ジュースコーヒーとよりどりみどりの飲み物と、甘いおやつとしょっぱいお菓子と、インターネットと個人の自由に寛大な社会風土と、充実した医療と福祉と社会基盤と、安全な治安と、働かずに生きていける日々と、物理的に他人と接触せずに済む環境があれば、あとはもうこの身体さえあれば贅沢は言いません。おもしろい物語を味わいたいのです。ただそれだけなのです)



2350:【誰もが私より立派であってほしい症候群】

いくひしさんは、いくひしさんがもっとも愚かで、弱く、惨めな存在でありつづける世界が理想だなぁ。いくひしさんがどれだけ成長し、肥え、豊かになっても、いくひしさんが最下層に位置するくらい、みなにはあらゆる面で豊かになってほしい。要するに、ピーターパンシンドロームをひどくこじらせている。いつまでも子どもでいたい。未熟でありたい。誰かを手本にし、学びつづけたい。どうしようもなく幼稚なのだ。



※日々、よくもわるくも慣れていく。



2351:【危害を加えられたことがない】

思惑通りに事が進んでもおもしろくないことというものがある。なるべくそっちにはいってほしくはないけれど、そっちへいってくれると最大火力の魔法が使える場合などがそうだ。たとえば虫だ。家のなかで、黒くて動きの素早い虫を見かけたとき、台所では火を使っているので、殺虫剤を使えない。スリッパもきょうに限って履いていない。居間にさえ来てくれれば最大火力で殺虫剤を放てるのに、といった場合には、あっちにさえ行ってくれれば、と祈ることになるが、同時に居間には新調したばかりの絨毯を敷いたばかりで、なるべくならば来てほしくはない。だが現れてしまったものは致し方ない、殲滅するよりないのである。であるならば多少の損失は承知で、最大火力でここで絶対に仕留めておかねば、といったときには、思惑通りに事が進んでもおもしろくはない。基本的に、防御とはそういうものであろう。何かを守ろうとすること、何かを排除して均衡を保とうとすることには大なり小なり、やるせなさがつきまとう。怪獣をやっつけて「やったぞー!」となるよりも、怪獣さえこなければな、といつまでも引きずることとなる。総合して損をしている気になってしまうものだが、たられば、の話をしてもしょうがない。ゴキブリはこちらの気分に関係なく現れるのだ。でてきてしまったならばしょうがない。とはいえ、ゴキブリが繁殖しないような環境づくりはできるだろうし、そもそもを言えば、ゴキブリってどうして殺さなきゃいけないのでしたっけ? 家のなかで見たことがないもので、じつのところゴキブリの実害を知らない、本日のいくひしまんでした。



2352:【おおうなばら】

世のなかにはゼロからスマホをつくれてしまうくらいの知識と技術を兼ね備えた人物がいるのだと思うと、その他大勢の「どんぐりの背ぇくらべじみた優劣の比較に一喜一憂する敏感さ」には何か、埃を見るたびに拾い集めて、白金やダイヤモンドでも手に入れたかのような感情の起伏を抱くのにも似たある種の狂気を感じなくもない。井の中の蛙が海だと思っていたものは下水の吹き溜まりでしかなく、そのさきには無数の水溜りがあり、そのうちのいくつかが川に繋がり、湖に行き着き、池や沼を経由できれば御の字で、たいがいの者は本物の海の存在を知ることすら適わない。井戸の中の蛙は大海を知らないが、その他大勢ものきなみ知らぬままなのだ。巨大な水溜りを海と呼び、それをしてそこに到らぬ者を蔑み、愉悦に浸っている。そういう日々もあってよい。愉悦に浸ることは何もわるくない。好きなだけ底の浅い比較を以って一喜一憂すればよい。そうした繰り返しのなかで得られる成長もあるだろう、成果もあるだろう、すこしでも海に近づければ御の字だ。いずれみな、大海など知らぬままに事切れていく。大海を目指すことすらやめていく者が大多数と言ってよい。大海を知ったところで偉くもなんともないのである。ただ、そこに行き着くことを目指して生きる日々を楽しめるのならば、目指すこともまたけっしてわるいことではないだろう。愉悦に浸るだけなら井戸の底にいてもできるのだ。井の中の蛙は大海を知らず、そらの高さを知ることもあるかもしれないが、鳥よりかは知らないままだろう。それでも、そらの高さを知り、なおその奥に深く底知れぬ闇がつづいていると想像の翼を羽ばたかせた者にしか辿りつけない大海原もまた、きっとどこかにはあるはずだ。何がじぶんにとって幸運かはそのときになってみなければ判らない。愉悦に浸るのに場所はあまり関係がない。好ましい浸り方を選ぶだけである。



2353:【あーん】

サボり癖がついてしまいました。だめでごわす、だめでごわす。



2354:【んー?】

いやいや、まんちゃん。それいつもどおりじゃん。平常運転。なんも問題なっしんぐ。



2355:【あ、と言える間を】

さいきん一週間が経過するのはやいなぁ、と感じています。街中でTVドラマをちらっと見かけては、だいたいは終わりかけを見かけることになるのですけれども、「むむ? このドラマって昨日観なかったっけ?」と記憶がバグを引き起こすくらいに、一週間が経つのをはやく感じるしだいでございます。とくに忙しいわけでもないはずなのに、寝て起きたら一週間が経っている気分です。歳をとると数年や十年があっという間だよ、なんて聞きますけれど、そういうことなんでしょうか。これからますます時間の経過が加速して感じられるようになっていくのかと思うと、なんだかちょっとこわいですね。かといってとくに困ることがあるわけでもなく、単に寿命を、器に入った水のように連想して、ちょろちょろ抜け落ちていた水が、どばーっと一気に抜けていくさまを想像して、こわいなーと思っているだけなのかもしれません。けっきょくのところ、死ぬのは嫌だなぁ、と恐怖しているだけなのでしょう。ただ、死ぬことというよりも、どちらかと言えば、したいこと、やりたいことが段々とできなくなっていくのだろうな、といった諦観や予感が、焦燥感を煽るのかもしれません。いずれにせよ、あっという間はあっという間で、あっという間ですから、あっという間にあっという間なのだと思います。でも、「あ」と言っているあいだに過ぎ去るくらいに短い時間という意味の言葉が「あっという間」だと思って使っているのですが、現実には「あ」と口にする間もなく過ぎ去っているようにも感じます。いつだって過ぎ去ってしまってから気づくようなもので、流れ星を見かけるようにはいかないようです。「あ」と言えるくらいに事前に認識できていれば上出来だと言えてしまえる我が身の自堕落な日々には、我がことながら、「このままじゃいかんくない?」とやはりというべきか、焦りを禁じえもんさんです。ひとまず、ぼーっとサボりがちに時間を浪費しているときには、「あ」と口にだして言うようにしたいと思います。それでいったい何が改善され、何の対策になっているのかは微妙にそこはかとなく謎なのでありますが、何もしないよりかは、微妙にそこはかとなく好ましいように思うところであります。はい。錯覚に違いありません。



2356:【心中お察しください】

得意なことと苦手なことは、疲れているときにこそ明確に分離して感じられる。言い換えるならば、疲れているときにもふだんの出力と変わらぬ成果を発揮できるものが得意なことであり、疲れているときにできなくなるものが苦手なものと言えそうだ。疲れてくるとついついサボってしまうものは得意ではないのだ。もちろん、単なる疲れと、不調は分けて考えなければならない。いくら得意だからといって体調を崩しているときにも通常通りに成果を出力できると考えるのはさすがにお気楽にすぎる。得意なことのはずなのになぜか上手にこなせない、向き合う気力が湧かない、そうしたときには、体調を崩しかけているのだと思って、無理をせずに休んだほうがよい。どうしてもサボりたくない、と抵抗を覚えるようなら、五分間だけ向き合えばよいのだ。たとえば小説ならば、五分間だけ文字を並べればいい。たかが五分だが、されど五分だ。五分という短時間であれば、休まずに一秒一文字以上を並べることも可能だろう。四百字から六百字くらいは並べられるかもしれない。五分だけつむいで、あとは思いきって休む。そういう判断をできるようにしておくことも、得意なことの条件に入れてよいだろう。得意なのだから、すこしばかり休んでも衰えはしない。むしろ休みながらでも進歩できてしまえることこそが得意の意味なのではないだろうか。もちろんお断りするまでもなく、いくひしさんは小説にかぎらずあらゆる分野において、たくさん休んでいるし、真面目に取り組んでもいないし、サボりまくりの腕まくりであるから、進歩はナメクジのおさんぽよりも遅く、いっそその場から微動だにせず、石橋どころか富豪のスネに齧りつく勢いで堕落の極みに興味津々の、「得意」とは皆目無縁のざんねん無念さんである。まあなんというか、ご愁傷さまなのである。



2357:【横着しちゃった】

マーボーナスの素でマーボー豆腐つくったらなんか汁っぽくて、しょっぱいのができちゃった。失敗しちゃった。でもお砂糖を加えて食べたら美味しかったよ。



2358:【解からないことばかり】

間違った知識と正しい(とされている)知識が半分ずつ載った本があるとして、それを読んで、間違った知識を間違っていると見抜ける自信がまったくない。おそらく現時点でも、間違った知識を間違ったまま憶えてしまっているだろうし、正しい(とされている)知識にしろ、間違って憶えてしまっているはずだ。けっきょくのところ、いくひしさんに蓄えられている知識はほぼ十割、間違っているのだ。イチ+イチはニだと知っているが、それも本当にそうなのか、証明することができない。リンゴ一個とリンゴ一個は足し合わせたらリンゴ二個になるが、リンゴ一個と地球一個なら、それはけっきょく地球が一個あるだけなのでは? 系を揃えること、単位を揃えること、視点を揃えること、ほかにも問題ごとに統一して扱わなければならない事項があるはずだ。断片的で局所的な情報を、普遍の知識や常識として扱ってしまっているような気がしている。何事にも例外はあるものだ。だが、何事にも例外があるのならば、何事にも例外があることにも例外があることになる、とどのつまりこの世のどこかには例外を許さない唯一無二の真理があるのではないか、解があるのではないか、と妄想したくもなる。この世に真理などがないとすると、真理などない、という事実もまた真理ではなくなる。ならば真理はこの世のどこかにはあることになるが、それを確かめることが人類にできるのか否かは、まだよく解からない。そしておそらく、物理法則というものもまた、例外を多分に許しており、しかし人類がその例外に気づくことができるのか否かは、これもまたよく解からないし、このさき解かることが可能かも、やはりよく解からないのである。解からないことばかりである。解かっていることなど何か一つでもあるのだろうか? 共有可能な錯誤を事実と呼び、重複しあわない余白を見て見ぬふりをしても問題ない集合を我々は現実と呼び、やはり錯誤しつづけているのではないか。間違っても困らない環境を築くこと――人類が発展と呼ぶものは、おおむね正解を導いた末の結果ではなく、重複しあわない余白が増えても現実が崩壊せずに済むようにと補強しつづける極限なのかもしれない。やはりこれもよく解からないでいる。妄想の域をでず、それでもかってに息をする。生きるとはまこと不確かで、他力本願なことである。



2359:【連続か離散か】

アナログは連続的であり、デジタルは離散的だ。連続して変化するものがアナログで、飛び飛びに変化していくのがデジタルである、と言い換えてもよい。これは世界の成り立ちを考えるうえでも当てはめることのできる考え方だ。たとえば、無限には二種類ある。連続的に無限か、離散的に無限かだ。あまりできた比喩ではないかもしれないので真に受けてほしくはないが、仮に、無限にある果物のなかで、バナナだけを取りだして集めたとき、そのバナナの合計もまた無限にあることになる。無限に無限を足そうが、掛けようが、無限は無限なのである。バナナだけの無限は、ほかの果物の合間を縫って(ときにはダマになって)散在していると考えられる。とすれば、この場合、「バナナの無限」は離散的に無限だと呼べる。反面、この場合、「無限の果物」は連続して無限だと言うことができる。飽くまで比喩なので、もちろん「無限の果物」もまた、ほかの要素を含めたもっと大きな枠組みの無限のなかにおいては、離散的な無限ということになるだろう。このあたり、考えだすとキリがない。いずれにせよ、人間の認識可能な世界が連続的に無限なのか、それとも離散的に無限なのか、という疑問は、我々人類が世界と呼ぶ「この世界」が、【もっと大きな世界】の一部なのか否か、という問題に行き着く(その前段階として、この宇宙が無限なのか有限なのかを考えなくてはならないが、観測不能な領域があることはたしかであるので、我々人類が観測可能な範囲において、この宇宙は有限である、と表現するのがいまのところは妥当だろう)。また、極小の世界において、粒子は波動の性質を帯び、離散的な振る舞いをとるように観測される。世界の根源が離散的なのは、ひょっとすると、我々に認識不能な世界が、そのあいだに横たわっているからかもしれない。我々はバナナしか認識できていないのだとすれば、世界は離散的に無限であり、この世界のほかに、無数の、それこそ無限個の無限が存在するのかもしれない、との妄想を並べて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう(言うまでもなく、真に受けないでください)。



2360:【霧散する社会】

どんなに理解しがたくとも、同意できなくとも、不可解な発言や行動をとっている相手を、「病気だから」とか「頭がおかしいから」とか、そういう言い方をして、「同じ世界にはいない者扱い」はしないほうが好ましいのではないか。言い換えるならば、誰もが誰かにとっては病気であるし、頭がおかしく見えてふしぎではない。誰もが固有の世界を生きている。それを偶然、なんとなく共有可能な世界に感じられているだけで、厳密には、一秒前のじぶんと一秒後のじぶんですら同じ世界に生きているとは言いがたい。完璧に理解しあうことなどできはしない。ぴったり同じ世界を生きることができないのと同じように。誰もが、他者とちぐはぐな世界を生きている。だからこそ、距離の遠く感じる相手をさして、「病気だから」とか「頭がおかしいから」と突き放し、拒絶すらせずに相容れない存在として一線を引いてしまうのは、なんだか社会を引き裂き、ちりじりにする所業に等しい暴力に思えるのだが、果たしてこれは考えすぎだろうか。拒絶したり、隔離したりすることは、ときには必要なこともあるだろう。分類したり、分断することも、ときには問題の対処として有効な手段となり得るように。ただしそれは短期的な視野での対処法でしかなく、本質的な、より長期にわたっての解決策とは成りえないのではないか、との直感がある。分類も、分断も、区別を用いてなされ、そしてそれは差別と大きな違いはないように思うのだ。相手が病人ならば然るべき治療を受けてもらえるように環境を整え、治療の必要性を説くのが第一であるし、「頭がおかしい」のならば、拒絶ではなく納得を示し、然るべき機関の助力を得て、やはり援助の手を差し伸べるのが、長期的な視野において社会の豊かさに繋がっていくのではないか、と妄想している。そんな余裕がいまは個人にも社会にもないとの理屈は、否定するのに骨が折れるが、しかし、いまできないからといって目指してはいけない道理にはならないだろう。いまできないことをできるようにしてきたからこそ、社会はここまで発展し、ひとはそらを飛び、宇宙にまで旅立てたのではないのか。そしてそれらを成し遂げた者たちはみな例外なく、過去の「できなかった時代」においては、病気であり、頭がおかしい、と見做されたはずだ。そのとき彼ら彼女らを排他し、社会から追い出してしまったら、いまこの社会はなかっただろう。「病気だから」や「頭がおかしいから」は排他することの理由にはならない。いつだって非難すべきは行動である。病気であろうと病気でなかろうと、頭がおかしかろうとおかしくなかろうと、逸脱した行動をとれば罰せられる。逸脱していないのならば、罰することも、ましてや排他する必要もない。報復や復讐がそうであるのと同じように、排除や弾圧を繰りかえせば繰りかえすほどに社会は閉じていき、やがて萎み、霧散していくのではないだろうか。分類や類型は物事を単純化して扱う分には便利だが、それだけを基準に物事を扱うと、手ひどいしっぺ返しを受けてしまいそうだ。そうなる前に、ときおり分類や類型とは違った視点で、共通項だけではなく、他者のじぶんとは異なる点にも目を向け、それをして誰もが異なっていて当然だと自覚できるような社会になっていくといくひしさんには好ましく映る。同じではない。みなどこかしら違っており、その違いこそが、その人物をその人物として規定している。分類や類型は共通項を結びつける考え方だ。それはそれで共同体や社会を築いていくうえで必要だ。問題点に気づくこともまた、分類や類型があってこそだろう。だが、見て見ぬふりをした個別の差異や、排除してしまった性質や属性にも、もっと目を向ける習慣をつくっても、個人にも、社会全体にとっても、大きな損とはならないのではないか、と疑問に思うものだ。



※日々、死後の世界を生きている、生きていた者たちの影響を糧に。



2361:【覚めない夢を見ていたい、できれば悪夢と無限ループはなしで】

生きるのがめんどくさい。でも飽きないのがふしぎだ。ずっと生きていたい。でも寝ているあいだがいちばん気持ちいい。ずっと寝ていたい。それもまた生きていなければできないことだ。



2362:【元気でるわけだ】

何気ない生活のなかでは、目に見ているものよりも見ていないもののほうがはるかに多いと感じている。物を見る、視覚する、とは、何を見ないか、という選択のうえに成り立っているのだとさいきんとみに思うのだ。たとえばコンビニで買ったドーナツの包装紙には、名称から原材料名、内容量、消費期限、保存方法、製造者、栄養成分表示、バーコードが書かれている。このうちどれが必ず明記しなければならないもので、どれがサービスで記されているのか、いくひしさんはまったく知らない。なんとなくカロリーや糖質の量など、栄養成分表示は消費者のためにサービスで記してくれているだけのような気もするけれど、じっさいのところはどうなのでしょう。やっぱりこれも必ず記さなければなりませんよ、と何かしらの法律で決まっているのだろうか。たぶん、決まっているのでしょう。企業は無駄を嫌うので、わざわざコストをかけてまでそんな真似はしないはずだ。ひょっとしたら、カロリーや糖質の量などを記しておくと売り上げが伸びるのかもしれないけれども、これはあまり信憑性は高くなさそうだ。だったら裏ではなく表に堂々と記すはずだ。裏に載せている時点で、売り上げとは関係がなさそうだ、むしろ目立たせないでほしい、といった作り手の望みが窺える。と、このように初めてマジマジと包装紙の裏に目を配って読んでみたけれど、なかなかの情報量が記されているように思えただけに、日ごろ、いったいどれだけの情報を見て見ぬふりをしているのか、とぞっとしないものがある。増粘剤のキサンタンガムってなんですの? このドーナツ、脂質33.6グラムで、糖質32.1グラムあるんですけど、ほとんど脂と砂糖やないですか。なんてもんを食べてたんだ。元気でるわけだ。どうりでな。モグモグ。おいちい。おいちくて元気でるなんてすばらしい食べ物だ。二つ買ってきたのだけれど、もう一個食べてもよいじゃろか? うーん迷ってしまうな、としみじみ腕を組んだところで、本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。



2363:【キャラづくり】

そろそろ新しいキャラつくってかなきゃだな。どういうのがいいかな。ござるは飽きたし、知ったか野郎も飽きたし、自虐キャラもいまはあんま需要ねぇしな。おっと、粗暴キャラもいまは心象わるくていけませんね、どうしましょう、困ってしまいます。



2364:【教え育てるって何を?】

短期間の育成は、ほぼ矯正であるし、洗脳だ。ひとを育むというのはもっと長い目で、じっくりやっていかなければならないし、失敗というものを明確に「定義しない」ようにしなくては、育つという概念そのものを育むことができない。そっちの道にはいくな、と強制するのは容易いが、本当にそっちの道にいってはいけないのかは、時と場合によるし、そうした危険への遭遇によって学べる体験もまた個々人によって異なる。極論、九死に一生を経て大きく意識を転換させる者もあるだろう。もちろん触れればやけどをすると判っているのに火に飛びこもうとしている者があるならば止めるのが教育者として、ひいては先人としてとるべき行動だ。しかし、ひとを育むためには、そうした危険に挑もうとしているのか、それとも無謀に突っこもうとしているのかを見極め、適切な距離にまで危険に接近することを敢えて断固として禁じないでおくこともときには入り用なのではないか。危険はときに、高すぎる目標や、無謀な目的と見分けがつかない。一人では高すぎる目標であれば、道具を使うなり、他人と協力するなり、工夫をすれば到達可能かもしれない。無謀な目的であろうと、それもまた時間をかけ、一段一段、土台を積みあげ、或いは穴を掘っていけば、分厚い隘路も打破できるかもしれない。いずれにせよ、教育者のとるべき立場は、そうした挑戦をする姿勢を否定せずに、挑戦しつづけられる場を「築き」「守り」「保ち」つづけることにあるのではないか。可能であれば共に考え、工夫する余地を広げつつ、つねに選択肢を増やしつづけてあげられれば、それに勝るものはないだろう。自由とは、選べるということだ。教え育てるとは、自由の実る土壌を共に耕すことを言うのかもしれず、そうではないのかもしれない。すくなくとも、誰からも教えられずとも、自然から学び、自由を手にする者もいるはずだ。そうした者の姿勢から学べることもあり、しかしそれもまた広い意味では、自由の実る土壌を共に耕していると言ってもそれほど大きく的を外してはいないのではないか、と思うしだいだ。みな大なり小なり、教え、育て、学び、育んでいる。



2365:【蔑ろにしているのはどっち?】

名誉とかメンツよりもだいじなものがあると思っている。故人に対する敬愛とは、そのひとの名誉やメンツを守ることよりもむしろ、どちらかと言えば思想や遺志を守り、いまを生きる者たちに(そうした思想や遺志から生まれる行動を以って)伝えていくことにこそあり、故人の名誉やメンツを守ることよりもそちらのほうがよほどだいじだと思っている。だがキリストやブッダの弟子たち(現代における教徒含め)がそうであるのと同じように、師の威光を笠に着て底の浅い欲を満たすことに躍起になる者たちが後を絶たない。どれほど立派で聡明な王がいようと、その死後、後継者に王の器がなければ国は亡びる。たいがいは、王の名誉やメンツを守り、それによる威光を失わぬようにしようと抗い、自滅する。けっきょくのところ先代の王の威光に寄生しているだけなのだ。そのことにまずは気づけるか否かが、王座を引き継ぐ者――王の遺志を受け継ぐ者たちにとって欠かせない素養と呼べるのではないだろうか。故人の名に泥を塗ることはけっして褒められた行いではなく、責められて然るべき所業だろうが、故人の遺志を蔑ろにしその者の生きた証――その影響を損なっている者たちと比べればいくぶんマシだと思っている。師をバカにされて怒るのは理解できるが、その前にまずはじぶんたちが師をバカにしていないかと省みられると好ましく感じます。きょうもきょうとて脈絡のない、知ったような口を利くコーナーでした。



2366:【真面目ってじつは簡単】

真面目なだけの文章を並べるのは比較的簡単だ。一見ふざけているようでいて、韻や伏線や布石が巧みに練りこまれている文章のほうがよっぽどむつかしい。それが読みやすく、おもしろければ神業と言ってもいい。真面目な文章はさいあく、論理的ですらなくてもよいから楽だ。一般論や常識を根拠にすれば一気に真面目な文章になる。たとえば論文などは真面目な文章ではない。あれは「より正確な文章」だ。文章は正確に記述しようとすればするだけ読みにくくなる傾向にある。読者のことを考えていないので不真面目だと言ってもいい。また、真面目だけれど正確でない文章などいくらでもある。真面目な文章は楽だ。



2367:【思考が浅い】

考えがまとまらない。文章を並べていて、無理筋だな、と行き詰まることが多くなってきた。思考を飛躍しすぎているようだ。もうすこし、考えを深め、厳密に考えるということをやっていかなきゃだなぁ。できたことないけど。



2368:【いくひし、ビッチになる】

「うー、ともだちがほしい、ほしいよー」「うわ、あんなところにボッチがおる」「うー、うー、さびしいー」「トモダチがいないのかなぁ。かわいそうなコだ」「うー、だれかともだちになってくれないかなー」「なんかチラチラこっち見てる……気のせいかな」「こうなったら!」「なんか言ってる」「ちんでやる!」「うわ、ベンチに立って、うしろむきに飛んだぞ、回転不足で頭から落ちていく! このままでは危ない、よーし、こうなったら!」「ハヤクタスケテ」「見なかったことにしよう」「ズコー」「お、うまく受け身取りやがった。よかった、よかった」「ちょっとあんた」「うお、なんかこっちきた」「待ちなさいよ、ちょっとそこになおりなさいよ、謝りなさいよ」「なしてよ」「いいじゃん、ちょっとくらいいくひしとともだちになったって」「ちょっとくらいってなーにー!? トモダチに大中小なんてあった? SMLのサイズ選べた?」「いくひしはともだちがほしいの!」「怒鳴れば済むと思うなよ。そんなんでできたら苦労しないでしょ、初対面でそれじゃできようにもできないでしょ、できたらこわいでしょ」「正論は悪魔でもいえる!」「正論は誰が言っても正しいから正論なんだよ」「耳がいたいのでやめてください」「こっちもそろそろ耳が痛いなー。鼓膜が破れそうだなー。もうすこーし声量抑えてもらってもいいかなー」「いいともー!」「いまどきの若い子はそろそろソレも伝わらんのかなー、なんて今ふいに不安になった」「いくひしには伝わるよ、おともだちになれるよ」「いやーでも、なんかちょっとこわいのよね」「いくひし、こわくないよ? やさしいよ? イタいのは最初だけだよ?」「最初は痛いのかよ、かんべんしろよ」「じゃあずっとイタいよ?」「性格的な意味でかな?」「それもある」「認めんのかよ、否定しろよ。あのさ、ホントにともだちになる気ある?」「うー、だれでもいいからともだちになって!」「誰でもいいとか言うひとになびく人間はいないんじゃないかな」「しみじみいわないで!」「しみじみ」「いわないで!」「しじみじる」「たべたい!」「しょうがねぇな。じゃあちょいと作ってやんよ。ちょちょいのちょいって作ってやんよ」「あんよあんよ、赤ちゃん扱いしないでよ」「あんよが上手なだけ赤ちゃんのほうがマシだろ、ろくに人生歩けないやつが何言ってんの」「ごめんなさいでした! まともじゃないくせにまともなフリしました! ともだちなんてものを欲しがっちゃいました! ブンフソウオウでした!」「ボッチは死ね」「しんらつ!」「ビビれ」「なんで!」「こっちはダビデ」「なぞの紹介きたー!」「こっちはブー」「どこの高木さんですかー!」「いち、に、さん」「ダーーー! ってなにやらしとんねん」「ノリツッコミ、うまくなったね」「えへへ。そう?」「じゃあさっそく。みんなでしようか」「うん」「どんじゃら」「なつかしー、ってドラえもんジャラジャラかよ。しかもふつうの麻雀だし。何もかも間違えすぎでしょ真面目にやって」「よしよし。合格。きみにノリツッコミ三級を進ぜよう」「ボッチはーー? ボッチの要素はどこですかー!!! そしてタイトルのビッチどこいったー!」「異例の昇級だよ? まさに急ピッチじゃん」「ピじゃなくて! ビーー!!」「ダってビはデかいんだもん」「略してダビデってやかましいわ」「あたしの顔に」「出ぴて、じゃねぇーーー! 下ネタかよビッチかよ」「でもおまえはボッチだけどな」「やかましいわ」「まあ、あたしにはおまえがいるからボッチじゃないんだけどな」「きゅん!」「九十分三万円な」「ビッチやないかーい」「おあとが詰まっているようで」「ホンマモンのビッチですやん」「プロとお呼び」「師匠! いくひしもビッチになりたいんですけど! めっちゃモテたいんですけど! ひとから好かれたいんですけど!」「ムリじゃね?」「ですよねー!!!????」「あたしだけいればいいじゃん」「お師匠――!!!」「五分で三万ね」「なんで値上げーー」「大親友価格ですもん」「じゃあ、しゃーないね」「しょうがない、しょうがない」「うわー、もう五分経った、お金が飛んでく飛んでくー」「まさに、【いくひし、ピンチになる!】だね。じゃ三万」「負債回収しないでー! 伏線回収のついでにしないでー!」「お金足んないから着てる服脱いで」「ピンチというかパンイチというか、これじゃわいせつ物陳列罪で逮捕されちゃうよ」「ヨっ! モノホンのビッチ! やったね!」「やったー、のか? というかそろそろ苦情きそうだね。差別表現やめよっか」「こんなんで苦情とかキチやん」「ビッチよりひどい放送禁止用語だからねそれ、ホント勘弁してください!」「ただでさえいない読者がこれで消えたね」「なにしてくれてんのねぇ」「だって独占したいんだもん」「師匠―!」「はい三万」「ズコー」



2369:【記憶×(想定+分析)=知能?】

人間の記憶は、どのくらいのスケールで事象を記憶しておけるのだろう。たとえば不老不死の人間がいたとして、生きているあいだにこの世のすべての書物を読んだとしても、そもそも人間には記憶できる限界があるだろうから、この世のすべての書物を読みきったところでそれは、この世のすべての書物を読んだほどには知能は発達しないのではないか、と想像できる。記憶の限界値を仮に、二万冊としよう。とすると、二万冊を読むのも、二億冊読むのも、ほとんど同じ結果になるはずだ。ただし、どういった本をどのくらいの種類読むのか、どういった幅でどのくらいの専門領域に傾倒するのかによって、育まれる知能には偏りが生じると考えられる。これは不老不死に限らず、寿命百年の人間であっても同じだろう。また、どのように読むか、流し読みなのか、それとも何度もページをめくりなおして、三歩進んで二歩下がるような読み方をするのか、どんな言語で、どのくらいのスパンを空けつつ読み進めるのかでも、読後の変質具合に差がでそうだ。書物に限らずこれは、現実の体験でも同じかもしれない。根元を穿り返してもみれば、本は誰かの記憶――体験や知識を元に編まれている。読書感想ですら、本を読むという体験からきている。体験から得た知見をもとに新たな書物を編むこともまた、その人物の知能を育むと言えそうだ。もちろん、書物を編めるくらいの実体験を得るには、何かしらほかの書物や知識が入り用であるだろうから(他人から直接言葉や実技で教えてもらうこともあるだろう)、けっきょくのところ、知能とは、「外部入力された情報を元に、じぶんなりに解釈し、整理したことをいつでも出力可能な形態に維持できた状態」と定義できそうだ。これは言葉に限らず、問題に直面したときにそれを打開するための反応であっても構わない。言葉をしゃべれなくとも、問題を解決できればそれは知能だ。クルミの殻を割るために道路に転がしておき、車に轢いてもらうことで中身を食べるといったカラスの一連の動作も、問題解決を図るという意味で、充分に知能があると判断できる。ひるがえって、問題を解決するには問題がなくてはならず、知能とは本質的に、何が問題かを見抜く能力と言ってよさそうだ(カラスの例でいえば、自力で殻を開けられない、開けられれば食べられるのに、といった問題と展望が、車にクルミを轢かせるといった手段をとらせる)。また、問題が解決されたらやめることができることも条件の一つに挙げてもよいかもしれない。割れたクルミをいつまでも道路に転がしておいては中身を食べることは適わない。目的を達成するためには、問題解決のためにとった手段を途中で中断し、そこへふたたび介入しなければならないようだ。最初の一手だけを押していつまでも放置しているようでは、その反応に知能が伴っているとは言えそうにない。斜面を転がる石には知能がなく、仮にそれが人間であったとしても、止まろうとする素振りを見せなければ、そこに知能を見出すのはむつかしいだろう。反面、植物は太陽の光や、周囲の気温の変化で、葉を茂らせたり、落葉したりする。環境に適応し、またほかの環境(問題)に移ろったら、それに見合った変化を遂げられることから、これもまた広義の知能を有していると言えそうだ。(※真に受けないでください)



2370:【知能が高いと非情になる?】

不老不死になったとしたらおそらく、途中でじぶん以外の人間たちを同じ種族とは思えなくなりそうだ。植物や昆虫との区別もつかなくなるのではないか。これは知識や記憶の量と無関係ではないだろうし、どういった時間スケールで物事を見るのかによっても異なるはずだ。犬や猫、もっと言えば虫や植物にも記憶はあるが、それぞれ想定できる未来には長短がある。たとえば人間は物が飛んできたら避ける。こうした回避行動は、ぶつかったら痛い、と未来を予期できるからこそとれる反応だ。予期とは言っても考えてのことだけではないだろう。反射もある。だが、反射にしろ、危機が直接身体に訪れる前に避けられるのは、未来を予期できるからだ。植物もまた、周囲の温度や光量の変化によって、季節の移り変わりや新たな環境の到来を予期する。ただ、その予期する未来の長さは、知能の高さと相関して延びる傾向にある。否、これは考え方が逆かもしれない。より長期的なスパンで、よりこと細かく未来を想定できるかが、知能の高さを規定するのだ。もうすこし言えば、時間スケールの長さと、一つ一つの事象に対する分析の緻密さが、知能の高さとして表れる。冒頭でも述べたが、記憶の量とそれらの高さは無関係ではない。同時に、どれだけ長く生きたかもまた関係してくる。とはいえ、長生きだからといってたくさんの知識を記憶できるわけではないし、ましてやこと細かく未来を分析したり、より遠くの未来を想定できるようになるとも限らない。そも、知能が高いからといって知能の低い者たちと比べてとくべつ優れた人間になるわけでもないだろう。知能が高いと、ちょっとの差異であっても知覚可能であるだろうから、おそらくしぜんと他者を同じ生き物とは思えなくなっていくだろう(同じ人間ではないのだから当然と言えば当然だ)。とすると、人間としての優劣と、知能の高さは無関係ではないにしろ、別の枠組みの話として扱う必要がありそうだ。言い方を変えるならば、他者をどうあっても同一の生物と見做せない個体を、果たして人間として優れていると高く評価してしまってもよいだろうか、との疑問を呈して本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。(またデタラメを並べてしまいました。すみません)



※日々、他人のやさしさに甘えている、ほんとはとっくに死んでいるのに、なんどもなんども救われている。



2371:【ほげー】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはさいきん、とくになんもないでござる。とくべつなイベントはなんもないでござるし、とくにみんなから褒められることもなにもしていないでござる。どっちかといえば、みんなに知られたら「鬼がいたぞー!」って怒られてしまいそうなことばかりをこっそりしているでござる。たとえばトイレに入ったあとにおててを洗うのを忘れてしまったり(ちたない!)、お風呂に入ったあとにあんよを拭くのを忘れてしまったり(床びしょびしょ!)、買ったお弁当に入っていた苦手なシイタケだけをよこちょにどかして食べていたり(でもこれは仕方なくない?)、PCでぱちぱちインターネットを見て回っては、そのついでにお菓子やらシチューやらを食べていたり(お行儀わるい!)、もうもういくひしさんってばわるいこでござる。このままじゃきっと地獄におちてしまうでござる。いやでござる。いやじゃ、いやじゃ、でござる。だだをこねこね、だだこねむしでござる。そのままオーブンで焼くと、おいちいバナナケーキが焼けるでござる。バナナケーキとチーズケーキが好物でござる。ケーキはだいたい好物でござる。甘いものがすきでござる。かわいいものもすきでござる。甘くないのもすきでござるし、かわいくないものにもかわいいところはあるでござる。きょうはほんとうになにもしないで、ほげーっとしていたでござるけれども、そんなのはいつものことでござる。いくひしさんの身体は、ほげー、でできているでござる。ほげー、と呼んでほしいでござる。いくひしさんはきょうから、ほげー、でござる。でもなんだかクジラさんをいじめないでって、どこかのなにかに必死なひとたちに怒られてしまいそうだから、ほげー、はきょうでおしまいでござる。いくひしさんはまいにち、ちんたら、ぬくぬく、やくたたずでござる。それでも生きていけてしまうのだから、ほんとうによい時代に生まれてきたでござる。やったー、でござる。感謝しなきゃなあ、と思っているばかりでやくたたず。感謝しようと思うだけじゃだめでござるか? 感謝はしてあたりまえでござるか? そこがひととしての最低限のラインでござるか? じゃあ感謝しないひとは人間ではないでござるか? そんな考え方のほうがどうかしていると思うでござる。でもいくひしさんがなにを言ったって、なにができるわけでもないし、なにかを変えたりもできないでござる。それでよいでござる。誰かのなにかを変えようだなんておこがましいでござる。みな必死に生きているでござる。必死にならないように必死でござる。みんなえらいでござる。えらい、えらい、でござる。見習いたいでござる。でもでもいくひしさんは必死さんとは縁のない、ほげー、の塊でござるから、これはもうどうしようもないでござる。あきらめるでござる。これからは、ほげー、を売って生きていくでござる。こびを売るよりかはかんたんそうでござるな。やったーでござる。天職でござる。そのまえにまずは、転職をしなきゃでござる。やくたたずを辞めて、つぎは益体なしにジョブチェンジでござる。グレードアップでござる。やったーでござるー。



2372:【未来の前借り】

現代人は一日という単位に縛られすぎだと思う。一日何もしないことをサボると表現するのは、山頂までの道のりを一回も休まずに登りきることを前提とするような無茶な考え方に思えるが、果たしてこれは飛躍した考え方だろうか? 一日ごとに目標が変わって、そのつどやるべきことが一日のなかで終わるようなら問題はないのかもしれない。だが往々にして人間には長期的な目標があるものだし、そのためには短期的な目標をこなしていかなければならない。短期的な目標を継続するためには、長期的に継続していけるようなより負担のすくない段取りが効率的なのではないだろうか。身体に鞭を打ち、歯を食いしばりながら最短距離で目標まで辿り着くやり方も否定はしないし、それはそれで効率的ではあるだろう。ただ、一個の目標を達成してそれで終わりにできればそれでよいかもしれないが、そのあとにまた同じような苦難に挑もうとするのならば、やはり身体に負担をかけない段取りを組んでいくほうが結果として多くの目標を達成できるようになるのではないか、との直感がある。裏から言えば、一週間のうち丸一日すっかり動けなくなるような根の詰め方もまた身体に見合った段取りとは言えそうにない。こまめに身体と脳を休ませる習慣をつくり、継続して安定した出力を発揮できるようにじぶんの限界を探り探り日々をすごしていくことのほうが、結果としてより大きな目標を達成する道に繋がるのではないだろうか。一日のノルマを最大化させる手法が高く評価される世のなかだが、それはほとんど未来の前借りのようなものだ。未来のじぶんの可能性を擦り減らしてでもいま踏ん張らなければならないのならばそうすればよいが、そんな環境に陥らないように日々を調整していくほうがずっと合理的な判断に思えるが、果たしてこれは飛躍した考え方だろうか?



2373:【それはそれ、これはこれ】

人間ってのはね、映画の主人公の境遇に涙しながら、じぶんの子供を殴りつけることのできる理性的で冷静な動物なんですよ。



2374:【これはどれ?】

人間は、じぶんとは無関係のひとのためにじぶんの人生をかけて険しい隘路に挑むことのできる衝動的で乱暴な動物なんですよ。



2375:【趣味がほしい!】

あまりに日々、何にも挑戦できていないので、なんか趣味でもつくりたいな。靴とかつくれるようになりたいな。絵もやっぱり、かわいいのをじぶんでも描けるようになったら楽しいだろうなぁ。かっこいいのも描けるようになりたいなぁ。音楽もつくってみたいし、ぽんぽこぽんぽこ鳴る楽器も叩いてみたい。あ、クライミングもやってみたいし、動画編集もかっこよくできるようになりたいな。よく上手なひとたちが言うのは、「やりたいなぁ、じゃなくて、やる、って決めてやればいいんじゃない」ってニュアンスの言葉で、そっかー、やっぱりまずはやってみるってことがだいじなのかもなぁ、なんて思ったり。でもなんだか腰が重いのはなんでだろう、って考えてみると、揃えなきゃいけない機材とか素材とか道具がいるんじゃないのかなって、それがないとできないんじゃないのかって、そうやってじぶんに言いわけをしてしまうからなのかもしれない。たぶんそうだ。どうしていまあるもので、いますぐにできることからやってみないんだろう? それってやっぱり、本心ではそれほどやりたいことではないってことなのかな? なんとなく「いまじゃない」みたいに思ってしまっているところがある気がする。でもまずはやってみて、つまらなかったらやめたらいいんだ。だからまずはやってみる。調べる前にやってみる。そして失敗したら、どうしてだろうってあとから調べても遅くはない。すくなくともこれは趣味の話だから。取り返しのつかない失敗にはそうそうならないだろう、と油断していると、痛い目にあったりするから、まずはやってみるにしても最初の一歩を注意しておいたほうがいいかもね。よくわかんないけど。



2376:【サボり魔】

寝すぎた!!!



2377:【重力の影響は無視できるの?】

重力の高い天体のそばを光がとおると、重力の高い天体のそばでは時空がゆがんでいるので、光もまたそのゆがんだ時空に添って、最短距離で観測者のもとまで届く。したがって太陽のそばを通る光も曲がって地上に届くはずだと考えられる(相対性理論の妥当性を検証する際には皆既日食が利用された)。ふと疑問に思ったのだが、二重スリットの実験も、これと似ていないだろうか。電子や光が波と粒子の両方の性質を併せ持つことを示唆する実験に二重スリット実験があるのだが(二重スリットについての詳しい説明は書籍やネットで検索してください)、電子を粒子として考えるだけでも、二重スリットの干渉紋を粒子の挙動として解釈できるのではないか。というよりも、そもそも波とは、「周囲に介在する物質(重力)に生じた時空のゆがみによって捻じ曲げられた進路を通る粒子の相互作用」のことを言うのではないか。電子や光子など、極小の粒子がスリットを通り抜ける瞬間も、スリットの真ん中をずばり通るわけではなく、そこには確率的に離散した揺らぎが生じるはずだ。わずかに進路をズレて、左右どちらかにブレた際に、スリットを形成する物質の重力に作用され、進路が曲がるだけのことなのではないか。水の波紋にしろ、本質的には「波」という事象がそこに確固としてあるわけではなく、水を形成する無数の分子が見せる、集合全体としての挙動であり、「波」とはそもそも粒子の挙動として解釈可能なのではないか。波と粒子の両方の性質を兼ね備えている、というよりも、そもそも粒子であれば、ほかの物質(重力)と影響しあえば、必然的に波としての振る舞いを帯びるものなのではないか。浅知恵ゆえの疑問だが、そこらへん、厳密な計算を物理では扱ってはいないのではないか、との疑念があるが、もちろんこんな疑問はすでに氷解済みであり、浅薄ないくひしさんが知らないだけである確率が非常に高いので、ぜひ気になる方は調べてみるとそれなりに有意義な暇つぶしになるかもしれません。(重力加速度も充分に求めることのできないあんぽんたんの疑問ですから、そもそも前提の知識に大きな齟齬があっておかしくはありません。真に受けないように注意してください)



2378:【全体の想像はロマン】

奇跡や予言には、生存バイアスがつきものだ。ほとんどそれと言ってもいいのかもしれない。たとえば一週間連続で当たりアイスを引いてしまった子どもがいるとする。スゴい、奇跡だ、とびっくりしてしまうのも理解できるが、それは確率的にあり得ないわけではなく、その子どもが一週間連続で当たりを引いた以上のもっとすさまじい数の人間たちが、ハズれのアイスを引きつづけてきた背景がある。その子どものみに焦点を当てれば奇跡のようだが、全体としてみれば、まあそんなこともあるよね、といった偶然の話に落ち着くこととなる。それはたとえば円周率が仮に無限につづくとして、そのどこかには、「3」が連続で百回並ぶ数字の羅列がでてくる箇所があるはずだ、といった考えに拡張して考えることもできる。全体としてどれくらいのモデルがあり、そのうちのどれくらい局所的な事例を扱っているのかを考えないと、奇跡や予言があたかも超常現象のような「とうていあり得ない事象」のように視えてしまう。もちろんそこにロマンを感じるのは楽しい。奇跡や予言に琴線を揺るがせる感覚を否定するつもりはまったくない。ただ、まいにちのように「あした地震がくる」と言っていればいつかは当たるわけで、同じように地球上のどこかには、「あした地震がきそう」と言っているひとはいるだろうから、そのうちの幾人かの「予言」が当たったからといって、その人物に「予知能力がある」とは限らない。もしこれが「その人物の言ったことは八割がた当たってしまう」というのなら、何かしらの演算能力に秀でた人物として、研究対象にしてもよいかもしれない。以上は、統計のマジックとして比較的よくあげられる例の一つだ。全体がどこにあり、そのうちのどこを切り取って「統計を取っているのか」といった「視点の拡張」を意識してみると、世のなかのだいたいの数字が、何かしらの印象操作をされていると見抜けるようになるのではないだろうか。とはいえ、見抜けたところでたいしていいことはない気もするが、とうてい見ることの適わない「全体」を想像することにもまたロマンを感じることはできるだろう。(思いつきを並べているだけです、真に受けないでください)



2379:【ありがとうございます】

みんなで同人誌をつくったんですけど、データ管理を任せていたいくひしさんがヘマをしてしまっていたらしく、ながら作業でもしていたんでしょうね。入稿するときに右綴じを選択していたつもりで左綴じにしちゃっていたところを、印刷所さんのご好意ですべて無料で修正していただけたとのことでした。ていねいな仕事ぶりに感動しました。なんだったらいくひしさんが入稿した原稿データ、表紙もそうなんですけど、かなりのやっつけぶりで、申しわけなく感じてしまうというか、恥ずかしいですね。いくら仕事ではないとはいえ、いいえ、仕事ではないからこそもっとしっかり理想を追い求めていってほしいな、いやいや、そうせねば、と心持ちがしゃんとしたしだいでございます。かといって、いますぐに商品みたいな同人誌を編めるかと言えば、ムリなんでございますが、ひとまず誰かのミスをカバーして、さらに上乗せの価値をつけくわえるくらいのことは、ふだんの生活でも意識してやっていけたらなぁ、と思うだけならかんたんなんですけどねー。むつかしいものです。



2380:【骨がない者】

けっきょくのところ、これだけSNSをはじめ衆人環視よろしく監視社会の土台が築きあげられたいま、何をやったところで文句をつけてくるひとはいるわけです。どうせ文句を言われるのなら、じぶんの理想を追求したうえで言われたほうがよいと思うのですけど、違いますかね? 誰かに媚びを売ったりするのもときには必要かもしれませんし、社交辞令や世辞も、ときには友好的な人間関係を築くための足掛かりとなることもあるでしょう。否定はしません。ただ、どれほど下手にでたところでこちらの好意を無下にするひとはいるものです。だったら好意を脚色したりせず、そのままの好意をそのままに表現したほうがよろしくはないですか? 損得の問題じゃない、という考え方も理解できます。礼儀や礼節とはそもそも個人的な損得の問題ではなく、それをしないと損をしてしまうと決まっている社会的な風習の問題でしょうから、制度や倫理観の問題と言ってもよいかもしれませんね。礼儀や礼節を弁えておくと得をするのではないのです。それをしないと必ず損をすると決まっているいわば呪いのようなものなのです。ここらへん、勘違いしてしまっているひとたちも多いと思いますが、ゼロをプラスにするための礼儀や礼節はあっていいと思います。ただ、それをしないのならばプラマイゼロにすればよいだけのところを、しないだけでマイナスになるというのですから、呪いと言わざるしてなんと言いましょう。ええそのとおりです。礼儀知らずの無骨者が唱える詭弁でございますので、真に受けないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせていただきましょう。



※日々、ひとの足を引っ張っている、まったく苦にもされず、引きずっていることにも気づかれずに。



2381:【意識の虹彩】

感覚的であいまいな話でしかないのですが、世のなかにある何かしらの創作物を見て、「下手だな」と思ってもそれはたいがい、じぶんでつくるよりかははるかに「上手」なわけです。じぶんよりもずっと上手な成果物を見て、なぜ下手だと思ってしまうのかと言えば、比較的楽に、そして頻繁に、より優れた一級品を目にできる機会に恵まれているからだと思います。世のなかの情報伝達技術が発展し、複製技術が向上し、誰であっても名作や一流の表現や演技を目にすることができます。そうすれば必然、目が肥えます。比較対象がいつでも一級品や一流なのですから、それ以外の「じぶんよりはるかに上手」程度の技術では、「下手」に思えても仕方ありません。ですがそれはほぼ確実に、じぶんよりも上手であり、じぶんにはない表現や手法、技術や視点が使われています。学ぶことに事欠かないはずのそれらに見向きもしないのはなんだかもったいない気もします。もちろん、一流や一級品からも学べる点はすくなくないでしょう。しかし、神の考えていることを理解するのはむつかしいものです。それに引き替え、「じぶんよりもはるかに上手」程度の相手であれば、そのかけ離れた「はるか」がどのくらいさきなのかをある程度想像し、推しはかることができることもあるかと思います。下手なものからも学べるものがある、ではないのです。下手に思えるだけで、それはじぶんよりも「はるかさきを行っている上手なもの」なのです。まずは指先のほんのちょっとでも届きそうな、「はるかさきを行っている上手なもの」に目を向け、そこから技術や視点を盗み、神の表現や技術までの足場として組んでいくのが、順当な段取りというものではないでしょうか。どちらかいっぽうだけでは足りない気がしています。神だけを見ていても、じぶんのまえを走る者の背中だけを見ていても充分ではないようです。意識の焦点をときおり、あちらへやったり、こちらへやったり、遠くを見たり、近くを見たり。そうして意識の虹彩を広げたり、縮めたりしないことには、より正確に対象へピントを合わせることもできなくなるようです。ときにはコーヒーカップの取っ手の裏や、鳥と雲の境目に目をやり、或いは蟻の足の先端や、星座のあいだに隠れた自己主張のひかえめな無数の星々に意識を配ることも、じぶんの想像力や表現力、視点や技術力を底上げするのに役に立つのかもしれません。もちろん、なんの役にも立たないのかもしれませんので、ここでの妄言を真に受けないように気をつけてほしい旨を告げて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。



2382:【予告】

PCが調子悪いので、とつぜん更新が途絶えるかもしれません。更新が途絶えたときはPCが壊れたのだな、と思ってください。新しいマシンを入手するまですこし時間がかかるかもしれません。



2383:【チームなみしぶき】

誰も読んでないのによくまいにち文字を並べているな、と思う方が何年後、何十年後かに現れるかもしれないので断っておきますと、誰も読んでいないだろうな、と思うからこそ、つづけることができています。気楽なのです。名文を並べているわけではありませんし、うつくしい文章を並べようとも思っていません。たとえば、目に映る物体を片っ端から右から順に書き表すだけでも文章になります。とくに負担でもなんでもないのです。「A」のキィボードをずっと押しっぱなしにしていれば「あ」を十秒間で四百文字くらい並べることができます。押しっぱなしではないので、それよりも速度は劣りますが、労力そのものはほとんどそれと変わりません。思ったこと、考えたこと、適当なこと、妄想を、ただ並べるだけなら誰でもできることだと思います。それからじつのところ、まいにち文字を並べているわけでもありません。ストックがあります。いちどボツにしたものを使いまわすこともあります。ぜんぜんサボっています。まいにち更新してはいるようですが、まいにち文字を並べているわけではないのです。いくひしさんが一人だとも限りません。すべての「いくひ誌。」が同一人物の手によりつむがれた文章だとどうしてそう思うのですか? 真に受けてはいけません、と散々注釈を挿してきたと思うのですが、ええそうですね、これもまた真に受けてはいけない文章の一つです。



2384:【嫉妬にも愛嬌】

わりとすぐ嫉妬するほうだ。手に入れたいのになかなか手に入らないものを他人が持っていると、やだやだいくひしも欲しい、となってしまう。たとえばペットボトルだ。ペットボトルは逆さにしても微動だにせず、その場に佇んでいられる。なのにいくひしさんときたら逆さまになったとたんにぐちゃっとつぶれてしまう。ペットボトルにすらできることができないのだ。なんてこった。やだやだいくひしもペットボトルさんみたいに頑丈な身体が欲しい。電卓さんの演算能力だってうらやましいし、辞書さんやウィキペディアさんの博識ぶりにはなんかもう、それズルイとすら思う。やだやだいくひしもそれ欲しい。カメラさんの解像度の高さも欲しいし、PCさんの語彙力も欲しい。ひらがなを打つだけで漢字の候補がぱっとでてくるなんてなんて記憶力だ。鏡さんの他人を模倣する能力はとんでもないし、雨さんのぐったりした植物を元気にする恵み力はハンパない。蟻さんはクライミングさせたらほぼ無敵だし、いくひしさんってばほとほと何もできないのね。そりゃ嫉妬だってしちゃうでしょ、しょうがないでしょ、しょうがないのよね。あー全知全能の神になりたい。でも全知全能になったらなったで、蟻にすら嫉妬するくらい非力なくせに何不自由なく生きていける世界に囲まれて暮らすいくひしさんみたいな役立たずに思わず嫉妬してしまいそうだから、もはやどうあってもいくひしさんから離れようとしない嫉妬の執着加減にはなにかこう、深い深い愛を感じてしまうな。いくひしさんってば愛されてるなあ。そう考えてみると、嫉妬のやつもなかなかどうして愛嬌があって、かわいく見えてくる本日のいくひしまんでした。



2385:【誤解はするよりされるほうがマシ】

誤解されるのが嫌いではない。というよりも、大なり小なり誤解はつきものであり、落としきることはできないと考えている。シルエットをぴったり重ねあわせて、すこしもはみ出さぬように、寸足らずにならないようにとコピーをつくるのは、それが物体であればなんとかなるだろうが、カタチのない考えや思想、意識や人格では、いまのところほとんど不可能だと言って大きな齟齬は生じないのではないか、と見立てている。カタチのない思想や人格を推し量って、脳内でそのコピーをつくるのは至難だ、と言い換えてもよい。つくったコピーがオリジナルとぴったり重なることを「理解」とするのならば、やはり完璧な「理解」はほぼほぼ存在し得ないと言って、間違えではないのではないか。そういう意味では、誤解して当然であり、誤解をしていた、と気づいたときにどの程度、認識を修正できるのかが肝要だとも言えそうだ。もっとも、修正をせずともじぶんは困らない場合もすくなくない。誤解されて困ることのほうが多いのが一般的かもしれないが、それでも誤解をするよりかはされる側でいるほうが、どちらかと言えば有利な立場でいられる確率が高そうだ。すくなくとも誤解をされる側は、相手が誤解をしていると気づける立場にある。より正しい事実を把握することは現代社会のみならず、あらゆる時代において、事を優位に運ぶのに有利に働くと言えそうだ。



2386:【最善、責任、看過】

赤ちゃんを楯にして悪行のかぎりを尽くしている人物の悪行をとめるには、ときには赤ちゃんを犠牲にする覚悟を決めなくてはならない。赤ちゃんを守るためには、しばらくは悪行のかぎりを尽くしている人物を野放しにしておかねばならないのだけれど、そのあいだにほかの赤ちゃんをどんどん楯にとられるし、ときには踏みつぶされてしまう。黙っていても赤ちゃんは犠牲になっていくのだから、だったらいま目のまえにいる楯となっている赤ちゃんはもうどうせ助からないと見做して、悪行のかぎりを尽くしている人物ごと滅ぼしてしまうのは致し方ないのかもしれない。必要悪というやつだ。しかしそれを果たして最善として評価できるのか。できないだろう、というのがいくひしさんの印象だが、かといって、ではどうすればよいのか、と言えば、なるべく赤ちゃんを犠牲にせずに悪行のかぎりを尽くしている人物の行動をとめるしかないよね、としか言いようがなく、それには大きく分けて三通りある。一つは悪行のかぎりを尽くしている人物を言葉や交渉を以って説得して、行いを改めてもらう方法だ。もう一つは、悪行のかぎりを尽くしている人物の周辺の環境を制限してしまって、悪行を働かせられなくする方法である。最後に、赤ちゃんを傷つけないように悪行のかぎりを尽くしている人物だけをピンポイントで殲滅する作戦をムリくり実行すること。最後の手法は、赤ちゃんが助かる確率が高くなくとも実行できてしまえる建前をつくれるところが、ただ悪行をやっつけるだけの作戦とは異なる。つまり、失敗したら大いに責められる覚悟を固めているか否かの違いだ、と呼べるだろう。責任をまっとうする覚悟があるかないか、の違いだ。なければ、赤ちゃんがどうなろうと知ったこっちゃない、と強引に悪行のかぎりを尽くす人物をやっつけてしまえばいいのだ。戦争とはおおむねこの、責任を負う覚悟のない作戦を実行することで起きると言ってもいいだろう。ターゲット以外の犠牲がでてしまったら何が何でもその責任を負う、との覚悟がなければ、いくらでもひとは強引な作戦を実行し、無茶な戦いを他者へ命じることができてしまう。覚悟があればいいというわけではないが、なくとも実行できてしまう、命じることができてしまう、そういういい加減な系統が組織にできてしまうと、その組織は腐敗していると表現していいように思うしだいだ。とはいえ、責任をとる覚悟とは言っても、ではどうすれば責任をとることになるのか、責任とは何なのか。犠牲となった赤ちゃんはもう何をしても戻ってはこない。いったい責任とは何なのだろう。再発防止策を徹底することと、被害者遺族への援助を施す以外に何ができるだろう。解からないのだから責任なんて取りようがない。よってひとは、何もしない、を選択してしまうのかもしれない。わるい選択ではない。すくなくともじぶんが赤ちゃんではないのなら。楯にされたのがじぶんの赤ちゃんではないのなら。



2387:【かんぱい】

コテリさんの画集「Veil1~2」が先日ようやく手元に届きまして。はじめてインターネット予約を利用してみたのですけど、ブックカバーの特典入りだったりして、二冊で4600円くらいですかね、お値段すこし高めではありましたが、とてもよい買い物でした。いまは十二国記を読み進めていて、でてくる主要人物すべて推しというすごいことになっているいっぽうで、それでもコテリさんの画集「Veil1~2」は燦然と輝く魅力がいっさい衰えない、それどころか魅力が相乗効果で増して感じられるすごいことになっています。や、セリフのセンスハンパないっす。画集のなかにはちょっとしたショートショートも載っているのですけど、文章お上手だし、コテリさんの小説も読んでみたい。もっと読んでいたい。比喩の感性とかすごいですよ。でもでも文章だと直接的な表現が、マンガという表現を介することで、より間接的に、透明な空気のようなやわらかさで「彼」と「彼女」の感情の機微――ときに振幅激しく乱れる喜怒哀楽の雨あられをしずかでやわらかな濁流のように体感させてくれます。やさしいことはうつくしい――「彼」と「彼女」の出会いが教えてくれることですよ。尊いという言葉の意味が実感を伴って解かってしまったな。やや、感想めちゃくちゃですね。すみません。や、すばらしい本です。セリフの文字をコテリさんの直筆のままにしておいてくれた担当編集者さまにも、「あなたよくわかっていらっしゃる、ありがとうございます!」と感謝感激雨あられしたいですね。そうですよね、コテリさんの文字そのものが画集の一部ですよ。読者のことわかってるー。ふー! とりあえずことし一年はコテリさんの画集「Veil1~2」をほかのいくひしさんたちにもおすすめしていきたいと思います。強いてムリヤり強引に欠点をでっちあげるなら、「彼」の服装が「軍服」や「ナチス」を連想させてしまうところかな、と感じます(作中、「彼」は警察です。制服という意味ではあながち間違った連想ではないのでしょう)。ひとによっては嫌悪感や反発心が湧き起こるのかな、とやや不安に思いますが、いくひしさんにはかっこよく見えます。かっこいいんです。ただ、ナチスの軍服もまたかっこよさを追求されていたわけですから、なんというかまあ、むつかしいですよね。ただ、そういう情勢を理解していないはずがないわけです。だってコテリさんですよ。敢えてそこは臆することなくじぶんの「美」を追求し、表現しているわけであります。その姿勢もまた美しい(関係ないのですが、差別用語や蔑称もまた、そこに本来の意味とはべつの「美しい意味」を上書きしていくほうが、言葉を規制するよりも有意義だと考えています。もちろん、なぜそれらが差別用語や蔑称として定着してしまったのか、そういった歴史的背景を忘却してはならないとも思いますが)。いくひしさんのなかでは「ホリミヤ」の作者HEROさんのセリフセンスなみの衝撃を受けました。自作にも影響が反映されることでしょう。不可避です。ここにはない何かを表現しようとしている者としてうれしい敗北であります。完膚なきまでにボコボコです。完敗です。降参です。まいりました。すばらしい! コテリさんの絵はツイッターでも拝めますのでね(こちら→https://twitter.com/_K0TTERl_)、フォローしてみてはいかがでしょう。



2388:【想像と妄想ばっかり】

小説が「賢くなければならないもの」という時代は終わりつつあって、「新しい」や「愉快」なことのほうが小説の役割として重要視されていくだろう、と想像していてね。というのも、ユーチューバーなんかを眺めていて思うのは賢い話はそう、動画とか口頭のほうがよっぽど解かりやすくて退屈しないということで、わざわざテキストでしかも小説で「知識を得よう」なんて思わなくていい時代に突入してしまっている。むかしはおもしろく学術的なことを学ぶためのツールとしての側面が小説にもあったのだと思うのだけれど、そういう側面ももちろんあってよいとは思うものの、だったらユーチューブを観なよ、で終わってしまう。そっちのほうがよっぽど専門的で楽しく学べるよ、となったら知識を小説から得ようなんて思わなくないかな。それこそ新書があるわけで、同じテキストでもわざわざ嘘のまじった小説で「より正しい知識」を得ようとするのは効率がわるい。そこにきてじゃあ小説の役割って何があるのっていうと、まずは「いまここにはない世界」を覗けること。それからやっぱり「愉快」なことが挙げられる。新しさと愉快さだよね。これがこれからの小説における二大重要素となっていくのではないかな、と妄想しているのだけれど、え、そんなのむかしからそうだった? なるほどなるほど、それもそうだね。でもマンガや映画がいずれも「新しさや愉快さ」に特化して発展してきたのに比べて小説はそこに乗っかるのがずいぶん遅かった気がする。たぶん「文学」としての矜持がそれを許さなかったのかな。足を引っ張ってきた、と言ってもいいかもしれない。文化を守ろうとして却って衰退させてしまうってのは歴史を振り返ってみればそれほど珍しくはないのかもしれないね、よくは知らないけど。これからは小説も「新しさ」や「愉快さ」が重要視されていくようになると思うんだよね。これまで「文壇(なんてものがあるのかもよくはわからないけれど)」に見向きもされてこなかった作品にもどんどん陽の目があたるようになっていくと想像しているので、いま踏ん張っている作り手たちにはもうすこし踏ん張ってみて、楽しみながら、と言い添えておきたいな。無責任な妄言でしかないけれど、それでも時代はかってに移ろっていく。何もせずとも変わっていくのが時代なのだから気長に、気楽に、楽しく日々をすごしていってほしいかな。いつか「きみだけの世界」をみせてくれることを夢見て、本日の「いくひ誌。」とさせてください。ではでは、またお会いしましょう。いくひしまんでした。



2389:【資格がない】

一生懸命だからとか、本気だからとか、仕事だからとか、なんの言い訳にもなっていないことに気づいていないおとなが多すぎはしないだろうか。一生懸命で、本気で、仕事だったら何をしてもいいの? 法律違反じゃないなら何をしてもいいの? そういうことではないと思うのだけどなー、と思いつつ、法律を完全に順守している自信のないいくひしさんにはひとさまをとやかく言える筋合いはないのだった。そして法律違反ではないのなら基本的には禁止する道理がない。誰かを責める資格などいくひしさんにはないのだった。とはいえ、誰かを責めるのにとくにこれといった資格もまた必要がないのだった。



2390:【確率は一パーセント以下】

このさきこのまま文芸の分野で創作をつづけていくとして、寿命百歳としてもいくひしさんが大手出版社から本を出版する確率は多く見積もって一パーセント以下だと見込んでいます。いくひしさんは十年でだいたい五十冊分の小説をつくっていますから、あと七十年生きるとしても、ものすごく順調にいって残り三百五十冊分の小説しか編めないことになります。受賞確率が一パーセントだとすると、仮に長編小説を三百作応募したとしても受賞するのはそのうちの三作くらいだ、と言い換えてもよいかもしれません。低ければ一パーセント以下でしょう(つまり三百作応募しても受賞する見込みはよくて一作程度です)。そんなものだと思います(掌編込みならすでに百作ちかく応募していますが、いずれも一次選考すら通過していません。よほど才能――ともすれば適正――がないのでしょう。却ってすごい気がしています)。仕方がありません。才能も運も敬意すらないのですからそうなるのが道理です。一生陽の目を見ることはないでしょう。ですがそれでも楽しく創作はできています。楽しく日々を生きることもできるのです。じぶんでつくらずとも愉快で優れた作品を手軽に入手できる時代なのですから、なんてありがたいことでしょう。ラッキーです。才能がなければないほど楽しく生きやすい世のなかと言ってもいいかもしれません。お手本が山のようにあるのですから、これは願ってもないことです。その点、一流や、その分野のてっぺんにいるひとはたいへんそうですね。下々を引っ張っていかねばならないのですから。想像するだにお疲れさまなことです。真似できませんし、しょうじきなところを申しあげて真似をしたくもありません。できるだけ恩恵を受ける側でありたいです。たいへんなのは嫌です。好きなときに好きなだけ好きなように創作をできないなんてそんなのは地獄です。それは創作を禁じられるよりもつらいことかもしれません。いくひしさんがプロになれない理由の最たるものでしょう。才能の有無や努力のできないことよりもこちらのほうが要因としては大きいかもしれません。ちなみにいくひしさんはよく「新しさ」を重要視するような発言をしていますが、いくひしさん自身はまったく「新しさ」とは程遠い存在です。未だにスマホを持ち歩きません。ラインを利用したこともありません。アプリを使ったこともないのです(ひょっとしたらあるのかもしれませんが、何がアプリなのかもよく分かっていません)。また、じぶんでつくる小説にも「新しさ」なるものの片鱗は感じとれません。憧れのようなものですね。じぶんではそれを編みだせないので、それをことほどに重要視してしまうのでしょう。いくひしさんにはつむげないものを、けれどきっとあなたにならつむげる気がしています。生みだしてくれる気がしているのです。ぜひ、愉快で新しい刺激や影響をつくってほしいな、と望んでいます。愉快で新しいものならば、巡り巡っていくひしさんの目の届く範囲、手の触れられる場所にやってくることでしょう。そうした性質が、「新しさ」や「愉快さ」にはあるようです。その日が訪れるのをいまから心待ちにしております、と打ち明けて、本日の「いくひ誌。」といたしましょう。他力本願の化身こと、いくひしまんでした。



※日々、とりとめもなく、断りもなく、ほとぼりもなく、虚脱ばかりがわだかまり、渇ききった冷たさに何かが満たされる思いがする、そうした卑近な錯覚に酔いしれる夜、生い茂る毒、解毒するにはしずかな孤独がよくなじむ。



2391:【影、尾根、道】

足元の影を追い駆けて歩いているうちに見知らぬ道に入りこんでいて、いつの間にか影は私のうしろをついて歩いている、そう言えば元々影とはまえにできるものではなく、追い駆けるようなものではなかったはずなのにそんな約束事すら忘れていたのは、光に背を向け、脇道にばかり逸れていた日々だったからだと気づいたあの日、それでもいいのだと進んできたいま、歩んできた場所、その日々が脇道ですらなかった事実を知ったときの、ああそうなんだ、だからなに? みたいな他人事のような腑に落ちた感はなんだか無重力じみていて手の甲に浮いた血管を眺めてはなんだか異国の幼子のイタズラ書きみたいだなって、なんて書いてあるのだろうと想像すると、思考すらまっすぐに辿れずに、それからゆっくり思いだす、道などはなかった、辿ってなどいなかった、ただあるがままを受け入れ、獣道ですらない草むらを歩いていた、ときには砂利道を、岩肌を、それとも川を、或いは海を、誰かに追いついてほしくて、追ってきてほしくて残してきた足跡もいまではすっかりどこ吹く風で、きっと子守唄みたいに塀と地面の境目にちいさなつむじ風をつくるんだ、それとも木々をカラカラと撫でるのかな、揺らす葉のない木々は寒々としていて、でもきっと雪の中で葉を茂らせている木々のほうが凍えているように見える、誰より厚着のひとが本当は寒がりなように、つよがりなひとほど弱みを抱えて怯えているみたいに、周りのひとが敢えて触れずにいる心配りにも気づけずに、じぶんばかりが傷ついた顔をし、怒っているじぶんにもやはり気づけないでいる、足元ばかりを見ているからだ、じぶんの影を追い駆けまわしているから、残してきた足跡を気にして、誰が追ってきてくれるだろうと、じぶんの影の行列を眺めていっときの充足にほっと息を吐く、光にばかり背を向けて、背を向けている事実からも目を逸らして、いったいどれほど歩いてきただろう、離れただろう、道にはもう戻れないのだろうか、と問うてみても周りにはじぶんの足跡ばかりで、影はただ長く、長く、尾根のように細い線を伸ばしている、それをけれど私は道と呼びたくはないから背を向けて歩んできたほうに背を向ける、きっとこんどは眩しいくらいに明るくて、目を覆ってしまわないくらいに瞼を下ろして、網膜が火傷しないように気をつけよう、明滅する点はべつにいらない、道しるべなんか必要ない、このさきもきっと道はない、影がまた地面にじわりと滲みだす、地面に溜まった影の墨汁で足の裏をちんたら濡らしてやったなら、それからまた歩きだすんだ、いつか誰かが地面に残ったそれを見て、足の裏を合わせてくれたらすこし愉快な気持ちになるのかなって、いまはただ、そのときを妄想してイタズラをした子どもの気分のままでいるよ。



2392:【とりとめってなに?】

とくに変わり映えのない日々だので、日誌をつける意味はそもそもないのだよな。ただ、意味のある何かしらってなんでか妙に退屈だし、途中でやんだくなっちゃうから意味のないナニカシラを以って遊びとするよりないのかなって。遊ぶのに意味を求めちゃ本末転倒っていうか、そんなの成り立つのかなって疑問に思うけど、楽しいって気持ちがすでに意味のあることではあるから、遊びにももちろん意味はあるのだろうけれども、それを広く共有可能な意味として扱っていいのかと考えると、首を縦に振るのがとたんにむつかしくなる。さいきんのマイブームはわざと深く考えずに行動して、取り返しのつく失敗をたくさんして、こうしてりゃもっと効率よく何倍もの成果をあげられたのにな、と妄想することだ。たられば、を言いわけにしても得られるものはすくないけれど、たらればを考えてそこから変化する因果の筋道に想いを馳せるのは、そこそこ無意味でやはり楽しい。物語っていうのは根元を穿り返してみれば、この「たられば」を考えて、因果がどのように変化していくか、どのように辿っていくかを叙述することと言ってよいのではないか。断言するには浅い思考なので、やはりここにも取り返しのつく失敗が隠れていそうだ。失敗というか瑕疵か。誤謬か。ともかくとして、このまま妄想を垂れ流して、意味のない「たられば」の軌跡を並べていられたら、そこそこなかなかに贅沢なほど充実して感じられるのだけどなあ、と思いながらも、なんだかすこし物足りない、それってなんでだろうと想像を逞しくしてみたところで得られる像は、たいしてこれも役に立ちはしないのだ。なればそこには遊びが見え隠れして、愉快かなって。満足しない自己満足じゃないと満足に遊ぶ真似もできないようだ。なんてざまだ。だからおまえは無様なのだ。鏡の向こうのじぶんに指をさされ、素知らぬふりをしてうしろを振り返る、自覚の足りない本日のいくひしまんでした。いつにも増してとりとめがないな。



2393:【点と線、態度と姿勢】

謙虚と卑下の違いは、線か点かの違いと捉えると判りやすい。謙虚はある種の姿勢であり、継続して顕われる変化の軌跡、或いは道から外れないようにと踏ん張るような修正や制限の意味合いが含まれる。部分的な状態を切り取って評価するのではなく、謙虚であるとは言い換えれば、そのつどじぶんの歩んでいる方向、或いは歩んできた道がゆがんでいないかと振り返る習性のことと言ってもよいかもしれない。その点、卑下は、一時的に自身の在り方を否定しているだけであり、いわば口だけの状態だ。言うは易しを地で描いており、ではどうするか、といった視点が欠けている。否、自身の欠点を見詰め、改善点を見出しておきながらそれを放置してしまうのも卑下の特徴かもしれない。じぶんはじぶんの弱さを、無知を知っていますよ、と表明することで、解かってやっています、と周囲に示すことができる。開き直りと言っていい。卑下とはじぶんの歩みや現状を修正しようとせずに、よくないことは知っていますよ、と言ってみせることで現在のじぶんを無根拠に肯定しようとする態度、と言ってもいいかもしれない。謙虚は姿勢であり、卑下は態度なのだ。姿勢は継続されて初めて浮き彫りになるが、態度は現時点を切り取って評価される傾向にある。あのひとは謙虚だ、と言うとき、それはいまの姿だけを高く評価しているわけではないはずだ。だが、そこを見誤ると、そのときの態度だけを真似して、じぶんは謙虚だ、と間違った認識をしてしまう者もでてくるだろう。そう、ここにひとり、馴染みの人物がおりますね。まさにいま、絶賛卑屈な態度をとっている反面教師の見本のような存在だ。ぜひ、見て学んで帰ってほしいと思います。



2394:【無知の利点は疑問がたくさん湧くところ】

温度には上限がないらしい。この物理宇宙では光より速く動くことが物体にはできない、と考えられている。ならもちろん分子や原子だって例外ではないはずだ。だとすれば、分子や原子の振動として解釈可能な「熱」には上限があることにならないだろうか? どうあっても物体は光速より速く動くことはできない、それは振動でも同じはずだ。なのに熱には上限がないらしい。なぜなんだろう。ふしぎだ。(原子や分子が静止すれば熱を発生させないので、温度には下限があると考えるのは筋が通っている。ただし、原子はただそこに存在するだけで周囲の場や素粒子と影響しあい、なんらかのエネルギィを外部に放射するのではないか。それは熱に還元されないほどちいさなエネルギィかもしれないが、それがエネルギィである以上、原子や分子が完全に静止し、振動数がゼロであっても、熱をまったく微塵も、いっさいがっさい生みだす余地がない、とはならないのではないか、と妄想してしまうのだけれども、厳密にはどうなのだろう。そもそもこの世に物体として存在しておいて、厳密に完全な静止が可能なのだろうか。それは世界と完全に乖離して、固有の世界――それこそべつの宇宙を生みだすのと同じくらいの考えにくい現象に思えるが、やはりこれもまた多元宇宙論を引き合いにだすまでもなく完全にあり得ないと断言するまでには及ばないので、よく解からないままでいる)



2395:【こじんまりとしていたい】

庭にできた霜柱を見つけて心がうきうきするような日々を送れたらそれだけでいいのに。



2396:【がんじがらめ】

いろんな価値観があってよいとは思うしそのほうがいくひしさんにとって好ましいのだけれど、じぶんがどんな価値観に縛られているのかには自覚的であってほしい。否定しているはずの相手と同じ価値観に縛られている人物を比較的よく見かける。たとえば鏡の向こう側とかに。



2397:【ぐっすりぐーぐー】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなぁ。いくひしさんはさいきん、ミルクティにはまっているでござる。ティパックを二個やかんにぽちゃんこして、お湯を沸騰させて、一気にたくさんつくるでござる。それからミルクをまぜて、ミルクティのちゃんちゃらーんでござる。でもでも、なんだかちょっと味が薄くなっちゃって、なんでかなー、なんて首をひねっていたでござるけれども、ひょっとしてミルクティにはミルクティにあった茶葉があるでござるか? いくひしさんはアールグレーで淹れていたでござる。検索してみるでござる。あ、やっぱりでござる。アールグレーは癖っ気がないでござるから、濃い目に淹れるにはよいけれどもそうでないと薄味になっちゃうかもしれないみたいでござるな。アッサムとかウバがよいみたいでござる。ちなみにいくひしさんは茶葉の種類は三つしか知らなかったでござる。アールグレーとアッサムとダージリンでござる。どれがどういうふうに違うのかも分からないでござる。聞いたことあるなーていどでござる。秋はいつも血が薄くなった感じがして、ミルクとかすこし脂っぽいものとか、そういうものがほしくなるでござるな。チョコとか! 甘いものたくさん食べちゃうでござる。秋にかぎらないでござるか? そういえばそうでござる。ミルクティにもたっぷりお砂糖をどばーするでござる。お砂糖をたくさんとるとなんだか疲れやすくなる気もするでござる。ものすごく眠くなるでござる。ぐっすりぐーぐーでござる。きょうもあとは寝るだけでござる。たくさん寝て、よい夢を見るでござる。よい夢を見るために生きていると言ってもよいでござるな。ぐっすりぐーぐーするために生きているでござる。好きなときにぐっすりぐーぐーできないのはだから生きているとは呼べないでござる。そんなのは嫌でござる。たくさんよく寝て、よく生きるでござる。きょうもよく生きるためにおやすみーでござるー。



2398:【傲慢の王】

「オレの目のまえで自己責任論を唱えるやつぁ、オレさまがおまえを殺さずにいるやさしさに気づいてねぇ甘ちゃんだってことを知ってほしいなあ。まあ知るときにゃ総じてそいつらは死んじまってるわけだから一生そいつがオレさまのやさしさに気づくことはねぇんだけどな」



2399:【芽を摘むのはやめてくれ】

「こと」や「もの」または「~という」といった表現を多用しないようにすると上手な文章になるそうです。いくひしさんの印象としてはこれはやや反対です。どちらかと言えば具体に寄った文章が世のなかには多いな、と感じています。「こと」や「もの」または「~という」といった表現の仕方は、抽象度が高くなるときに頻出します。集合の枠組みがひろく、ずばりこれ、とは言わないときにそうした言い回しになりがちです。ですから何を言っているのか解りにくかったり、じれったかったり、ふわふわと何かを誤魔化すような文章として認識されてしまうのではないでしょうか。ただし、そうした欠点があるいっぽうで、ずばりこれ、と指定できない事象を表現するには、漠然とした輪郭を引いて、ここからここまでのなかに含まれるだいたいのものは、といった表現をとることもときには効果的です。また、誰かに何かを伝える文章の作成を目指すのであればこちらのほうが有効な場合もあります。伝えたい内容を相手によりすんなり、より意図したとおりに伝わるように並べることのほうが、文章の巧拙よりも優先されるのではないでしょうか。うつくしい文章や、上手な文章を目指す利点は何があるのでしょう? 齟齬や誤謬のすくない文章は、公的な用途としてであるならば重要度が増します。それに比べて、娯楽や芸術の分野において、文章の巧拙はさほど重きを置くべき基準ではないと感じます(なぜなら優劣をつける基準が存在するといった考えそのものが、娯楽や芸術からかけ離れているからです。もちろん魅力を装飾する要素として取り入れても問題はないとは思いますが、基準としてしまうのは考えものかな、と感じます)。いくひしさんはこれまで文章そのものをうつくしいと感じたことがありません。その文章から伝わってくるナニカシラをうつくしいと感じることは多々あります。ですがそれは、文章の並びとは無関係ではないにしろ、文章そのもののうつくしさではありません。書道家の書いた文字や文章を見て、その形状のうつくしさを以って、「うつくしい文章だ」と形容するのは理解できます。ただ、言葉の並びとしての「うつくしい文章」というものがいくひしさんには未だにピンときません。入れ物よりも中身のほうがだいじだと思いますし、どのように中身をとりだせるのか、といったことも関連してくるはずです。繰りかえしになりますが、それはもちろん文字の並びと無関係ではないはずですが、すくなくとも文章から伝わってくるナニカシラのうつくしさを規定する因子は、文字の並びにはない、と想像しています(どちらかと言えば、文字の羅列の奥に潜み、広がる世界や概念のほうにある、といまのところは考えています)。飽くまで文字の並びは装飾であり、プラス要素だと考えています。どんなに拙い文章であっても、心を動かされ、うつくしさを感じることはできます。どう書くのかもだいじですが、何を書くかこそが文章の本質であり、なぜ書くか、がその根底に地殻として分厚く層をなしているものなのではないでしょうか。畢竟、文章はどのように言葉を配置し、並べても構いません。「上手な文章」や「うつくしい文章」といったうつくしさの欠片もない言葉に惑わされないようにしてほしいです、と打ち明けて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。



2400:【選べることがだいじ】

2019年11月中に電子書籍化した新刊が三つあります。そのうち、「百合譚」の表紙をピンク、「薔薇譚」の表紙を水色にしたのですが、ジェンダーフリーを創作で扱っておきながら、女性はピンクで男性が水色というのは安易ではないか、といった違和感を持たれることもあるのではないか、と想像しています。その点に関しては、ジェンダーフリーなのですからもちろん女性にピンクをあてがってもよいはずですし、男性に水色を選んでもよいはずです。古い価値観に縛られないことと、それら古い価値観によって培われてきた感性を拒むことは(まったくの無関係ではないにしろ)、同じではないと考えています。信号機の色は赤黄青の三色ですし、ポストは赤く、救急車は白いです。トイレのマークも男女によって色が固定されています。シンボルやマークの意味合いとして、男女を示す色がそれぞれあってもよい気がしています。ピンクや水色に何かよくない意味合いがあるのなら話は変わってきますが、何かそのような色を性別に関連付けられて困ることがあるのでしょうか。もちろんその色を強制するのはよくないでしょう。男性を表すマークがピンクでも構いませんし、女性を表すマークが水色でも、そのほかの色でも構いません。ただ、色から連想するものがあるのも事実であり、それはこれまでの社会の「古い価値観」によって培われています。ひと目で意図を連想させるのは表紙の役割の一つです。いまのところ、ピンクと水色から連想される性別は、それぞれ女性と男性である確率が高いです。徐々にこうした固定観念も薄れていくことでしょう。ただ、まだしばらく時間はかかりそうです。率先して変化を促す必要もとくに感じていないので、べつだんそうした固定観念が変わってもらっても構わないのですが、いまはまだ古い価値観というものを利用することにして、「百合譚」の表紙はピンク、「薔薇譚」の表紙は水色としたしだいでございます。要するに、とくに深く考えは巡らせず、安易に配色しました。どうせならミルクティみたいな色にしたほうがおもしろかったかも、と思わないわけではないのですが、本音を漏らせば、どちらでもよく、横着しました。単色であれば何色でも構いません。たとえば色弱のひとにとっては、色の種類よりも色の濃淡のほうが優先される事項なのではないでしょうか。



※日々、みくだされ、あなどられ、さげすまされて生きているほうが楽に思える、みくだし、あなどり、さげすむよりも、なによりそれらに無自覚であるよりも。



2401:【比喩が伝わりにくい】

抽象化のイメージを抽象的に述べてみようと思います。抽象化は、「異なる輪郭をもったビスケットを重ねて、ちょうどそれぞれに練りこまれたチョコレートの塊だけを針で突き刺すような感じ」といったらそれっぽい気がします。そのときの針が抽象化された何かとなります(チョコレートそのものではなく、「重ねたビスケットに入っているチョコレートを結びつける何か」である点が、具体と抽象の大きな差異となっている気がします)。それぞれのビスケットは別々のカタチをしていても、チョコレートという共通項で結びついているわけです。ただこの比喩だと、もともとそれぞれがビスケットという大きな共通項を持っているので、比喩としては弱いかな、とも感じます。ビスケットですらない、まったく別々の事象に針を通せるとより抽象度が高くなるのかな、といった直感があるのですが、これもあまり上手な比喩とは呼べないのかもしれません。比喩は伝わらなければ適切とは呼べませんから、いつもひととしゃべるときには苦労します。抽象度が高すぎるのか、それとも的外れなだけなのか。比喩が上手なひとをうらやましく思います。



2402:【かわいくないのもかわいくない?】

かわいいものが読みたいし、見たいし、つくりたいのだな、と解かってきた感がある。あらゆるかわいいをいくひしさんは読みたいし、見たいし、つくりたいのだ。かわいいにもそれはそれはたくさんのいろいろな種類があって、まだ発見されていないかわいいもあって、本当はとっくに見つかっているのにそれがかわいいことに誰も気づいていないかわいいもきっとあって、そういうのに、「これかわいくない?」「かわいいかわいい!」みたいにやっていきたいのかもな、と思いはじめていて、じゃあそこにきていくひしさんの自作はどうなんだいっていうと、え、かわいい? かわいいかな。かわいい気もするけどそうでもない気もするし、え、かわいい? というかいくひしさんはかわいい? かわいくない? きもい? そういう言い方ってないんじゃないかな! みたいなね、なんかそういうのをつくっていきたいようなそうでもないような、かわいいってなんだ! かわいいってどうやったらかわいくなれるの、生みだせるの、つくれるの、キモかわいいってキモいの? かわいいの? どっちかにして! みたいなね、もはや何をゆびさしてもとりあえずかわいいって言っとけ、みたいな投げやり加減に走りたくもなってくる、もはやかわいいを追い求めることイコールこの世のすべてを描きだすこと、みたいなね、そんな感じなんじゃないのって哲学的な思索にふけりたくもなるけど、歳をとればかってに更けれますよってね。あ、そうじゃない? それはおやじギャグ? かわいくない? 対極? 正反対? 真逆? あ、さいですか。かわいいってなんだーーーーー!!!??? 勢いに任せて誤魔化すのがたいへん上手な本日のいくひしまんさんですけれども、あー、思ったんだけど、元がかわいくないのにかわいくなれたら最強じゃない? 誰でもかわいくなれるってことじゃんね、無からかわいいをつくれるってことだよ、錬金術じゃん、すごいじゃん。あー、やさしいおばぁちゃんの飼い猫になりてー。ぶちゃいくな猫も、猫ってだけでかわいいよね。そういうの目指してこ。目標、ぶちゃいくな猫になる(ぶちゃいくである必要ある?)。



2403:【アイディアの優劣】

アイディアはそれをカタチにしないことには是非のつけようがない。アイディアをボツにするくらいならとりあえず試しにそれを素に何かをつくったほうがよい。根元を穿り返してもみれば、優れたアイディアがあったとしてもそれをそのままカタチにするのは至難だ。アイディアをカタチにするには、ほかに無数のアイディアが入り用となる。優れたアイディアであればあるほど繋ぎとなるアイディアは増える傾向にある。なぜなら優れたアイディアというものは往々にしてこの世にまだ存在していないからだ。完成形のお手本がない。よって、試行錯誤を繰り返しながらそれをカタチにしていかねばならない。一つの優れたアイディアをカタチにしていけば、たくさんの問題に行きあたるし、それを解決するにはまたいくつかの優れたアイディアが欠かせない。突き詰めて言えば、アイディアとして優れていたとしてもそのときにカタチにしてみたそれが優れている保障はどこにもない。未来の技術力があれば形成可能だがいまはまだカタチにできない、といった優れたアイディアだってあるだろう。そういうときには「発想としては凡庸だが、いまの技術力であればもっとも適当なカタチに組み上げられるアイディア」のほうが現時点での重要度は高いだろう。アイディアの優劣と、それをカタチにした物体の優劣はまた別物だと言えそうだ。まずはカタチにしてみることである。



2404:【不安がるだけなら赤ちゃんでもできる】

いま十秒ぐらい妄想した感覚的な話でしかないのだが、人間には情報処理能力の上限があって、その限界を超えないようなフレームをルールとして定めることで社会に秩序を生みだそうとしてきたわけであるけれど、コンピューターの性能が向上していけばその情報処理能力の上限は飛躍的に伸びていくわけだから、人類はそのつど浮上する問題に対して場合分けをして、そのときそのときにあった解決策を見繕うことができるようになっていくと想像できる。とすると、同じ問題であっても時と場合によっては、微妙に対処の仕方が異なっていく。これは裁判なんかもそうなのではないか。むかしはそれでよかった判決であっても現代ではちょっとね、みたいなケースが徐々に増えていくことが予想される。というよりも、現状すでにそうなっているのでは。裁判とはそもそもそういう性質を帯びていて、過去の事例だけを参照していくばかりでは、罪を裁くことはできない。むかしからこの事例はこれこれこうだから今回もではこうしましょう、だけでは困るのだ。時代は変わるし、社会の有様も変化していく。そのつど、すこしずつ事例ごとに考えるべき箇所は増えたり、減ったり、変わったりしていくはずだ。これは裁判にかぎらず、個々人の言動でもそうだろう。広く定められたルールだけでは測れないケースがどんどん増えていく。それに対処するだけの余裕も徐々にできてくるはずだ。これまでは余裕がなかったので放置されてきた事象も問題視できるようになり、是正や改善を求める声が増えていくと想像できる。そしてそのつどそのつど場合分けして考えるようになっていくと、当然の帰結として、ダブルスタンダードのような、あのときはよかったのにこのときはだめ、みたいな一見すると矛盾して見える事例が増えていくのではないか、と妄想できる。個々人の事例ごとに最善を考えることはよいはずなのに、俯瞰して全体を眺めると到る箇所に矛盾(瑕疵)ができて見える。これの何が問題かというと、まずは本当にその個別にあてがわれた対処が最善なのかを誰が判断するかが不明となる点だ。もちろんAIや法律家など、それなりの判断基準を模索できる術があるのだろうが、相対的な問題に対しては基準そのものが基準たりえない。となると、基準の基準が必要となるし、それは雪だるま式に増加していく。合わせ鏡のように果てなく求められることとなる。だから大きな枠組みとしてのルールは依然として必要とされ、なくならないだろうとは思う。そのいっぽうで、個別のケースへとより配慮して、そのつどそのつど問題への対処を考えていこうとする風潮が増せば増すほどに、大きな枠組みのルールを恣意的に利用できる者の「抜け道」が増えることが予期できる。本来であればルールを逸脱したら一発アウトであるはずが、個別に対処をしましょう、となるといくらでも言い逃れできる余地ができてしまう。この言い逃れできる余地は、いっぽうでは冤罪や理不尽な処罰を失くす方向にも働くが、その裏では、恣意的な解釈を自在に言い張れる者ほど処罰を免れる余地も生むので、いちがいにいいことばかりではない。そしてこれは現状すでに看過できない社会問題として浮上しつつあるように見受けられる。それがこのさきさらに拡大して、社会に大きな穴を開けていくのであれば、「法律と倫理」や「ルールと良識」のあいだで、取り締まることのできない抗争が個々人のあいだで頻発するようになるのではないか――と、あてずっぽうで不安を煽るようなことを言っておけば、いざ問題が取り沙汰されたときには「ほらみろ言った通りになったじゃないか」と言えるし、それほどでもなかったときには「あのとき警鐘を鳴らしておいたお陰だな」と恩着せがましいことが言える。何かを危惧し、不安だなあ、と言っておけばとりあえず責任を負わずに何かをなした気になれるので、口だけの役立たずになりたい方はぜひ真似してみるとよいかもしれません。言うだけならタダなので(「オン」は買うかもしれませんが)。



2405:【やましいことも裏を覗けばうらやましい】

とくに伝えたいこともないし、言いたいこともないし、書きたいこともないし、なんだったら都道府県の名前十県をなにも見ずに漢字で書くこともできない。一生おまえ小説書くな、文章書くな、と言われても、「ガッテン承知の助!」とか言って嬉々として受け入れてしまいそうだ。しょうじき、文学なんて未だに苦手だし、本なんて読まずに済むならそっちのほうがいいと思っている。ただ、人として生きていこうとする以上は、本の助けを借りずにはいられないようだ。本の助けを借りずに生きていけるひとがうらやましい――人であろうとせずとも人でいられるひとびとが。



2406:【うらやましいこともうらを除けばただやましい】

じぶんのチカラではどうしようもない問題をどうにかしようともがく行為が一つの罪に思えることがある。イタズラに藪をつつけば何がでてくるか分からない。ヘビならまだ撃退の余地があるが、つついたさきに核弾頭の起爆スイッチがあったら目も当てられない悲惨な結末となってしまう。いまにも崩れ落ちそうになっているブロックがあったとして、どうにもできないくせしてどうにかしようとゆびでつつき、けっきょく崩壊するきっかけを与えただけになることも往々にしてあるもののように感じる。ありがた迷惑というよりもこれはただの迷惑だ。邪魔だ。厄介だ。大きなお世話ではなく大きすぎる奇禍なのだ。なぜひとはじぶんのチカラではどうしようもできない問題をどうにかしようとしてしまうのだろう。楽観にすぎるのかもしれない。どうにかできると思いあがってしまうのかもしれない。或いは、どうせダメになるなら後悔しないように何か行動をしたいと欲する衝動の結果なのかもしれない。そこには、何もできなかったことに対する言いわけをじぶんにつくっておきたい欲求も含まれるだろう。問題の渦中にいる人物であるならばもがいた末にその行動が裏目にでたとしても納得できるかもしれない。しかしときには、渦中にいない人物が外部から大きすぎる厄を運んでくることもある。それが善意からの行動だったとしても、渦中にいる人物たちにとっては単なる悪意よりも手に負えない災いそのものとして映るだろう。世のなか、こうした災いがすくなくない。世のなかの問題の総じてはこうした「単なる悪意よりも手に負えない善意」が被害や損失を大きくしているのではないか、と偏った見方をしたくもなることもある。社会を発展させていくにつれて悪意を抑え込む術を人類は磨いてきたが、善意の暴走を防ぐ手立ては未だに確立できていない。見境のない、向こう見ずな善意は、悪意よりもよっぽど「悪」の名に恥じない厄介さを兼ね備えている。それを純粋無垢と言い換えてもよい。幼子の純粋な好奇心を止める術はない。好奇心の結果として起こるだろう行動を制限する術しか周囲のおとなは講じることができない。思想の自由、表現の自由、なんでもよいが、現状そうした自由を尊重してよいのだが、それにしてももうすこしなんというか、善意も悪意もその後に起こる「行動の結果」の良し悪しとは別物だという解釈が普及してもよいのではないか。善意から人を殺す者だっているだろう。本人にとってそれは善意だったのかもしれないが、他者からすればそれは悪意以外のなにものでもない。他者を害するという行為から逆算されるそれは動機だ。善意や悪意なんてものはそういうものである、拡大して言ってしまえば、感情や意思というものもそういうものなのである。後付けである。悪意がなければいい、なんてことはないのだ。悪意があっても、よしんば善意からの行いであっても、厄は厄であり、益は益だ。結果論ではない。結果を優先して重視すべきであり、起きたことに対してあとから後付けの解釈できっかけを語っても仕方がないという意味だ。結果は因果の繰り返しによって引き起こる。善意や悪意は、それら因果にあとから付け加える解釈にすぎない。行動はそれでひとつの因果だ。悪意からの行動であろうと、善意からの行動であろうと、測るべきは行動の良し悪しであり、その動機ではない。悪意を働かせないようにしよう、とすることは他者にはできない。人間にはできない。行動を制限するよりないのである。善意も悪意も似たようなものだ。本質的に同じと言ってよい。他者からの解釈が異なるだけだ。じぶんの解釈がそのときどきで異なるだけなのだ。悪意も善意も同じである。いつでもまったく同じものではないというだけのことで。(真に受けないでください)



2407:【そう見えるだけ】

以前にも述べたことだが、枯葉は道路が濡れていなければ風などによって運ばれ、道路の脇に吹き溜まる。いっぽう雨などで道路が濡れていると、比較的均等に枯葉が道路に散らばり、貼りつくようになる。おそらく風がつよく吹けば吹くほど枯葉はより均等に散らばり、道路を埋め尽くすようになるだろう。そして道路の抵抗(表面張力)を無視できるくらいにさらに風が強まるとまた枯葉は路肩に拭き溜まるようになるはずだ。これは道路が濡れると抵抗(帳面張力)によって枯葉が飛ばされにくくなるのに比べて、濡れた葉っぱ同士はさほどにくっつき合わないことが一つの因子になっていそうだ。つまり枯葉は、ほかの枯葉のうえに重なったときは容易に風に吹き飛ばされ、道路の露出した部位に貼りつくようになる。もし枯葉が道路を埋め尽くすくらいの量があるならば、均等に散らばり、やはり道路を埋め尽くすのではないか、と予想できる。道路の抵抗――粘着力が大きければ大きいほど、枯葉は均等に散らばるようになる(風が吹くことが必要条件だが)。道を歩きながらこんなことを一瞬連想してしまうわけだが、いっぽうで、これを人間社会のコミュニティに当てはめて考えてみると、案外に逆の結果になるのではないか、と思いもする。たとえばルールや規則が厳しいコミュニティでは個々人はむしろそうした圧力への不満を共有すべく、他者とより繋がろうとするのではないか。派閥もできるだろうし、ダマはいっそう偏ってできるのではないか、と妄想してしまう。もしこれが比較的自由な、他者を害さなければなんでもいいよ、というコミュニティであれば、人と人との関係性は多様化し、流動し、ダマのような吹き溜まりにはならない気がしている。枯葉の場合は「場」の抵抗が大きいほうが個々の枯葉はバラバラに散らばるが、人間関係の場合は、「場」の抵抗が大きいほどダマになってしまうように見受けられる。枯葉は抵抗に反発しないが、人間は反発し、同族と癒着するように働くと考えれば筋は通るが、一般化するには拙い妄想でしかないので、何かを得た気にならないように注意を促し、本日の「いくひ誌。」とさせてください。(雨と枯葉の関係は、人通りの多さによっても変わってくると思います。上記の妄想は、単なる経験則ですので、雨が降らずとも案外に道路には枯葉が均等に散らばるのかもしれません。この場合、雨の有無で枯葉の拡散具合に差はないと言えるでしょう。とすると、ひょっとしたら、誰かが掃除をしてくれている可能性もでてきます。雨が降った日は掃除をしないので、枯葉が散らばるようになるのかもしれませんね)



2408:【デタラメに論理は必要ない】

もしDNAを素材から人工的に編めるようになったら人間は「種の創造主」として、いまここにはない生物を造りだすことができるようになる。現時点であってもゲノム編集や遺伝子組み換え技術によって「既存の生物の亜種」をつくることはできている。それが種として新しい生物か否かは、種として繁栄し、遺伝子を広く個体に安定させなくてはならないから、一匹のみの「珍しい形質を有した個体」だけではそれが新種か否かは判断つけられない。仮にそれを新種と言ってしまったら、この世には新種が絶えず誕生し、生き永らえることなく死んでいることになる。ある意味そういう言い方もできないことはない。解釈の違いだ。話を戻そう。人間が新種の生物を素材からつくりだせるようになったとして、それは環境に適応しやすいからこそ種として繁栄でき、それが新種の生物として確固とした地位を築きあげる。トートロジーじみているが、そうではない。繰りかえしになるが、「珍しい形質を有した個体」だけでは新種とは呼べず、それが環境に適応し、なおかつ個体数を増やすことができると新種の生物として格上げされることとなる。つまり、人類が「種の創造主」としてその技術を編みだしたとき、地球上には爆発的に「いまここにはない形質を有した新種の生物」が激増することとなる。激増することは必須条件だと言ってもよい。繁殖するからこそ新種の生物たり得るのだ。したがって、人類がそうした「種の創造主」の技術を手にした時期を境にして、おそらく人類はかつてない絶滅の危機に瀕することとなるだろう。なぜなら激増した新種の生物たちは地球環境を加速度的に変質させ、その変化の速度に人類は適応しきれないことが予想されるためだ。新種の生物がなぜ新種の生物たり得るかをよく思いだしてほしい。環境に適応し、増殖可能だからだ。そしてその生存競争において人類は新種の生物と比べてややと言わずしてはっきりと不利だ。人類が自らの手で生みだす「新種の生物」は、高い確率で、環境適応能力が高い。ゆえに増殖するわけだが、それを制御することが人類にはできず、そして環境が激変すれば人類がそれに適応するのは困難であると想像できる。もちろんある程度の環境の変化であれば道具や技術を使って凌ぐことはできるが、そうした技術や道具を維持し、発展させ、引き継ぐことそのものが困難なほどに環境が激変してしまえば、絶滅までのカウントダウンが十と言わずして三からはじまるだろう。ゆえに仮に人類がDNAを自在に編みだせる技術を確立させたとしても、それを「新種の生物」をつくることには使わないほうが好ましい、と現時点では妄想するしだいだ(医療の分野で用いる分には人類の環境適応能力を高めるのに役に立つだろうが、もちろんリスクはつきものだ)。(※なんの根拠もないデタラメですのでいつも以上に真に受けないでください。論理の欠片もないデタラメなのが解かりますか? こういう文章を鵜呑みにしないように気をつけてください。ファンタジーとして楽しむ分には構わないでしょう)



2409:【想像する余地しかない】

ガムの包装紙を眺めてみると、だいたい同じように包まれているのが分かる。ここで言うガムは、小指の爪くらいの大きさのトーモロコシみたいにきゅきゅっと一本にまとめて売られているガムのことだ。一枚ではなく粒で売っているほうのガムである。ガム自体は直方体に寄ったカタチをしていて、どことなく前歯のようだな、と思いもする。それを包む銀紙は正四角形よりの長方形だ。ガムのカタチよりかは正四角形にちかいカタチをしている。どの包装紙も同じようにガムを包みこんでいる。この「同じように」というのは、「包み方が」という意味だ。機械で大量に一気に効率よくガムを包んでいるのだろう。どういう仕組みであればもっとも効率よく包めるかを想像してみるのだが、ぱっと考えて二通りの手法がある。一つは、箱型だ。判子型と言ってもよい。蓋のない箱のうえに銀紙を載せ、そのうえにガムを置く。ガムを箱に押しこむようにすれば、必然、銀紙はガムの底と側面を覆うかっこうになる。そこでさらに箱の側面がパタパタと内側に折れて蓋を閉めたかっこうになれば、ガムは銀紙に包まれることになる。箱は段ボールのような構造を思い浮かべてほしい。蓋となるところは最初から開いていて、縦に伸ばされているようなものだ。或いは、穴に網を敷いておくタイプの罠みたいなものだ。獲物がかかったら網を引きあげ、獲物を網で包みこんで捕獲する。そういう仕組みであればガムを自動で銀紙に包むことができる。欠点は、ガムを大量に一気に包もうとすると必然的に箱の数が膨大になってしまう点だ。コストの面で採用するのに躊躇しそうだ。ではよりコストをかけないでガムを銀紙に包む方法はほかにないだろうか。発想の順番としてはコストをかけないことなので、一つの仕掛けがあるだけで大量に効率よくガムを銀紙に包む方法を考えればよい。これには「ベルトコンベアー」や「滑り台のようなレーン」のようなライン型を想定しておけばよさそうだ。一本のラインに高速でガムをつぎからつぎに流していけば自動でガムが銀紙にくるまれる仕組みを考えればよいのだ。ただ、ガムをつくる工程そのものがライン型であるだろうから、もちろん銀紙への包装工程もまたそのラインの途上にあると想像できる。とすると、そもそもライン型は前提条件であるので、ここではそれを踏まえて、ではコストをよりかけないには? へと考えを広げるのがよさそうだ。さきほどの箱型の仕組みを発展させてみよう。一つ一つを順番にやっていくから時間がかかる。似たような箱をタコ焼きの金型みたいに大量に並べ、そこにガムと銀紙を大量に一気に押しこめば、包装の効率が増すかもしれない(銀紙の切断も同時にできる利点がある)。底よりも口のほうが狭ければ銀紙は巾着のようにすぼまるので、ガムごと箱に押しこめばあとは上からプレスするだけでガムを包装できるはずだ。箱ごとにプレスをするのではなく、無数に並べた箱を一気にプレスする。箱の数を減らすのではなく、包装する動作――プレスの数を減らす方向に考えを飛躍させれば、コストは生産量に反比例して減っていくこととなる。じっさいに製造現場でどのような手法がとられているのかは分からないが、考えの方向性としては似たようなものではないかな、と妄想するしだいだ。もっと効率よくかつコストのかからない手法があるよ、と閃ける方は発明家の適正があると思うので、ぜひ何かを手掛けてみることをおすすめしたい。ちなみにいくひしさんは図工や工作をしないし、できない。手先が不器用で、ネジを締めればバカになり、釘を打てば曲がり、木材を切れば寸足らずで、ほとほと作業に向いていない。できることと言えば、お門違いで底の浅い妄想を並べるくらいでございます、と打ち明けて本日の「いくひ誌。」とさせてください(事実を並べるのは卑下ではありません。これに関しては真に受けてください)。



2410:【最大の賛美とは】

創作者にかぎって言えば、同業の創作者に対する最大の賛美とは、「あなたのそれに影響されてつくりました」ではないだろうか。要するにほかの創作者たちに「それをパクリたい」と思わせたら勝ちなのだ。口先だけでいくら、おもしろい、すごい、と言わせたところで、影響を与えられなかったらそれまででしかない。裏から言えば、悪しざまにののしられようと散々虚仮にされようと、それでもその者の創作に回避不能な影響を与えられればそれだけで創作者としては勝ちなのだ。勝つことにどれほどの意味合いがあるのかは個々人によるだろうが、すくなくとも創作者同士にとっての最大の賛美とは、レビューにはない、と言い残しておこう(レビュアー同士であればこの限りではない。なぜならレビューも創作の一形態であるからだ)。



※日々、贅沢をしている、水のありがたみを忘れられるくらいに、飢餓の苦しみを知らぬままに。



2411:【鳴き声と言語】

たとえば「紅茶」と言う。その声を聞いてそこから「こうちゃ」と音を知覚して、それを言語として理解し、飲み物としての紅茶を連想するというのはいったいどんなメカニズムなのだろう。明け方に鳥の鳴き声を聴いて思うのは、鳥の鳴き声の延長線上に言語があるのか、それともそれとは別の機能として人間が獲得した能力なのか、そこら辺が掴みどころがなく、ふしぎな感じがして心地よい。たとえば鳥なんかは脊髄反射的に、任意の鳴き声を知覚したら脳内で共鳴する部分があって、そこから連鎖的に「鳴き声を返すのだ」と本能がささやき、鳴き返すといった単純なモデルでいちおうの説明はつきそうだ。それが当たっているかどうかはさておいても、いちおうの理屈がつく、というのはいくひしさんにとってそこそこ楽しいお遊戯となる。その点、人間の言語に至っては、なぜ「こうちゃ」という音を聴いて、そこから言語を抽出し、概念としての「紅茶」と結びつけて、物体としての「紅茶」を連想できるのか、がこじつけであっても理屈を見繕うのに苦労する。まず以って、単なる音と言語の違いはどれほどあるのか。サイレンや悲鳴を聴けば否応なくひとは危険を察知する。この延長線上に言語があるのか、それともそれとはまた別のメカニズムが必要なのか。たとえばボディランゲージであれば、これはサイレンや悲鳴とはまた別の認識機能が使われていそうだと想像できる。聴覚ではなく視覚で認識するからだ。思うのは、言語はどちらかと言えばボディランゲージのようなメカニズムに寄っていて、鳥などの鳴き声に反応するのとは分けて考えたほうがよいのではないか、といった直感がある。おそらく脳内には概念の共鳴装置が無数に記憶されている。それは知識や経験としても蓄積可能だ。そこには映像や匂いや音など、五感を通して結び付けられる紐(タグ)がたくさんあって、そのうちのいくつかが言語として機能しているのではないか。だから必ずしも言語が、音や映像である必要はなく、それゆえに点字などの触角を介した言語も成立する。言い換えるならば、言語とは記憶と外部情報を結びつける回線だ。鳥や獣にも似た回線は備わっているが、それは「光と鏡」のような反射でしかなく、ゆえに入ってきた刺激は脳内で反響してそとに出ていくだけのような単調なつくりになっているのかもしれない。人間の場合は脳内に入った刺激は、リアス式海岸に侵入した波のように複雑に干渉しあい、ときには打ち消し合って、なかなかそとにはでていかない。むしろ刺激をそとに出力する機構が、別途に必要とされているのかもしれない。いったん消えた波を復元し、そとに打ち返すそれは機構だ。言語はそのために変換される形式であり、その形態には声や文字や起伏など、知覚に見合ったカタチがそれぞれある。そしてその形式、形態、カタチは、他者という増幅装置を用いることで反復学習を可能とし、脳内の刺激変換装置の性能をより高める方向に働くのではないか。あたりまえのことを並べている気もしてきたが、ここでの趣旨をまとめれば、鳥の鳴き声を発するメカニズムと、人間の言語を操るメカニズムは、そもそも別途の機構を介しており、異なる能力なのではないか、ということだ。鳥の鳴き声が進化して言語になったわけではないのではないか、とのひどく雑な疑問を呈し、本日の「いくひ誌。」とさせてください(きょうのところはそもそも真に受ける余地がありませんので、注釈を挿すまでもないな、と判断します。個人的にはカラスは言語を操っているように感じます。そう考えると、鳥の鳴き声もやはり原始的な言語なのかも、と思いもします。脳科学的にはどのように解釈されているのでしょう。気になるところです)。



2412:【いまって俳句や短歌が流行ってるの?】

ホットケーキは冬の季語なんだってー。へぇー。冬とかに風がごうごう吹いて、屋根とか木々にあたって、ぴゅーぴゅー鳴るのは、「虎落笛(もがりぶえ)」って言うんだってー。へぇーへぇー。



2413:【さいのうがないよう】

がんばる、には三通りある。一つは、長期にわたって生活が困窮しないように私生活を営んでいくこと。二つ目は、脳内麻薬を分泌しやすい環境と習慣を築くこと。最後に、どんな局面に立たされても打開策はないかと模索する姿勢を保つこと。この三つは相互に関連して「がんばり」を成果に結びつけやすくする。三つすべてを高い精度でこなせばこなすほど目標を達成しやすくなる。しかし最適な目標を設定しないことにはいくらがんばっても望んだ成果をあげるのはむつかしい。目標の設定に関しては「がんばる」とはべつの範疇であり、論理や知恵に左右される。論理や知恵を身に着けるにはもちろんここでも「がんばる」ことが必要となるが、しかしその足掛かりとなる最初の論理や知恵を得るためには運や環境に影響される。こればかりはじぶんでなんとかしようとしてもできない。生まれる場所、肉体、国、時代を選べないのと同じだ。極論、どんな目標を立てるかはじぶんの「がんばり」ではどうしようもない。一般的には「がんばる」能力やその成果の差が「才能」として評価されがちだが、じつのところどんな目標を立てるのか、のほうが才能の要素が大きい。コーチングや誰のもとで学ぶかによって成果に天と地ほどの差が生じるのもこの影響だ。どのようにがんばるかは、個々人の姿勢でいかようにも補正がきくが、どのように目標を立てるか、はじぶんだけではどうしようもない。目標の立て方もいちど学べば、あとは自力でどうにかなるのではないか、と考えればなるほどそうかもしれない、といっしゅん合点するが、しかし「目標の立て方」ばかりは、最初の一手をいつ学ぶかによって、その後その能力を育んでいけるかが大きく左右される。こう言い換えればよいかもしれない――つまり、目のまえにぶらさがった「適切な目標」が視える者と視えない者がおり、その慧眼を手にするためには言語を獲得するのと同じくらいの時期に、その能力の種を植えつけてもらわねばならない、と。そしてその種を植えつけてもらえるか否かは、ほとんど運と環境による。自力ではどうしようもないのである。目標の立て方はいわば掛け算だ。よってそれがなくとも、足し算たる「がんばる」ことによってコツコツと成果を積み重ねていくことは可能だ。ただし、才能ある者――すなわち「適切な目標」を立てる能力を持った者をまえにすれば、徒歩と自動車くらいの歴然とした差が生じてしまう。がんばることは無駄ではないが、しかし才能の差はある。そしてそれはじぶんではどうしようもなく埋めがたいものなのである。それでも、否、それゆえに才能がない者はがんばるしかないのである。(ここで言う才能はなべて後天的に培われるものです。三つの「がんばり」もそうです。才能とは例外なく生まれてから培われるものとここでは解釈しています。では先天的な能力の差は何なのかと言えば、それはもはや形質です。馬の足が速いのは才能があるからではありません。それと同じことです。翼のない人間が鳥を見て、鳥は才能があっていいなあ、とは言いませんよね。それと同様にして、先天的な形質によって特有の能力を生まれ持った個体に対しては、才能どうのこうのと比較することそのものがお門違いなのです。ですから、才能はなべて後天的に培われるもの、とここでは分類して述べてみました。もちろん「こういう捉え方もできますよね」という意味合い以上の趣旨はありませんので、誤解なきようお願い申しあげます。とどのつまり、いつものデタラメでございます)



2414:【がんばれない症候群】

がんばる、を言い換えれば、工夫をする、だと思っている。どのように工夫をしたら目標を達成できるか、問題を解決できるか、それを考え、実行することが「がんばる」の内訳だと解釈している。したがって、何かを毎日継続したり、高負荷の訓練を積むことは必ずしも「がんばる」とは言えない。そこに工夫がなければそれらはむしろ徒労や負担――無茶でしかない。もちろん工夫をすればでは即座に楽ができるかと言えば否だろう。ときには高負荷な訓練や長期間の鍛錬を避けては通れない。ただやはり、工夫の余地がないかとつねにじぶんの取り組んでいる手法を疑い、よりよい方法はないかと術を変化させていく過程は、より困難な目標を達成するうえでは欠かせないのではないか、との直感がある。工夫をする以上は、ただ変化させて満足するのはむしろ逆効果だ。いつどのように変化させるのか、といった指針を見繕う作業そのものに工夫の余地がある。どのように工夫するのかもまた工夫できるのだ。そうして考えてみると、どこまでも工夫の余地を細分化させ、深化させられる。すると情報処理能力に限界のある人類にはある閾値以上の工夫は負担でしかなくなる。よってじぶんがいったいどのレベルの層において工夫の余地を探るとより目標を達成しやすくなるかを見極めておくと好ましい。ただ工夫をすればよいわけではなく、工夫の余地を探すと共に、それ以上はこだわらなくていい、工夫をしなくてもいい階層を見極めておくと、「これだけがんばっているのに、工夫しているのに、ぜんぜん求めている成果があがらない!」といった不満を抱かずに済むようになるのではないだろうか。いくひしさんはしかしこのような取り組みができないひとなので、そもそも工夫をしたりしないし、工夫をせずとも実る成果で納得できるようにじぶんの価値観や解釈のほうを変質させがちだ。けして満足するわけではないが納得はできる。このように満足せずとも納得できるような図太い性格であると、何かと過敏な現代を生きていきやすいのではないかな、と投げやりに結んで、本日の「いくひ誌。」とさせてください(もちろんお断りするまでもなく、じぶんがそれでいいからといって周囲のひとたちまでもが納得してくれるとは限りません。今回のこれは飽くまでじぶんの内世界における楽な生き方は、という意味以上の趣旨は含まれておりませんので、誤解なきようお願い申しあげます)。



2415:【このひと真面目ぶってるー】

まーた、まんちゃんがえらそうなこと言ってら。



2416:【皮と肉ばっかりで骨のないひとだこと】

えらくもなんともないのにえらそうなこと言うだけでなにかをなした気になれるんだから、ホントまんちゃんはいい性格してるよね。誤解されそうだから言っておくと、これは皮肉です。



2417:【違国日記五巻】

ヤマシタトモコさんのマンガ「違国日記」がいくひしさんはだいすきなわけでございますが、やー新刊発売されましてさっそく書店さんに寄って購入して(連れ帰って)きたわけでありますが、やーもうね、読みましたよね。したらね。諦めてしまいましたよね。いくひしさん、もう金輪際、この方向で物語を編むことを諦めてしまいましたよ。これを読めばいいよ、と言えてしまえる物語に出会ってしまったらもう、新たにつくる意味合いはないわけでありますよ。すくなくともいくひしさんにとってはそうでありまして、やーまいった。まいってしまったな。多くを語れば語るほどにせっかくの宝物が薄汚れて感じちゃうので、話を変えまして、純文学の賞を受賞したらいいと思う。ヤマシタトモコさんの「違国日記」は純文学の賞を受賞したらいいと思う。あとね、いくひしさんはワンピースとかのマンガもだいすきでござるけれども、そういう大ヒット作でもそれを好まないひともいるとは思っているわけでありますよ。そこにきてヤマシタトモコさんの「違国日記」でありますよ。いる? いるかなー? ヤマシタトモコさんの「違国日記」読んで、これきらい、ってなるひといるー? や、いてもぜんぜんよいですし、そりゃとうぜんいるんでしょうが、ぜんぜんこれがなぜか、へっへ、想像できませんな。想像したくないだけやろ、というのは図星でありますので、やーやー、我こそは!つって大声をだして誤魔化してヤマシタトモコさんのマンガ「違国日記」がだいすきです、と念を押して、本日のおまけとさせてくださいな。はー、お熱がでてしまったな。すっかり打ちのめされてしまったのだわ。寝込む準備しとこ。



2418:【寝すぎると腰痛くなりません?】

案の定、寝込んでしまいました。じぶんの世界観をぐらぐらとノックアウチされちまったらひとはこうまでも弱ってしまうのだね。もうしばらく引きずりそうですが、完膚なきまでに敗北できるというのはそれはそれはすばらしい体験なのであります。打ちのめされるなんて経験は歳をとるごとに減っていくのが一般的なのかもしれませんが、ことしはもうすでにコテリさんの「Veil」でもKOされておりまして(KOってなんの略だろ?)、そこに加えての「違国日記五巻」でありましたから、そりゃもう時期が時期なら再起不能に陥っていてもおかしくはありません。さいわいのさいわいにして、ボッキン、と折れた心もたちまち「違国日記」と「Veil」からそそがれる感情のせせらぎによって折れた事実すら忘却の彼方へと笹船がごとく押しやってくれるので、いまはもうただただ上向きの風、さわやかな陽射し、コタツのぬくぬく、冬の朝のストーブ、疲れた身体にお風呂、みたいな「はぁ……極楽」が残されております。これは純粋な読者であったら味わえない境地のようでいて、そのじつ純粋な読者であったほうがもっと素直に感動を味わえたのかな、といった疑念も湧きまして、まあまあひとはそのときのじぶん以外の人生を味わうことはできないのでありますから、ほかの人生を想像しながら、「いまここ」「ここにいるじぶん」というものを余すことなくぺろぺろ舐めまわして、最後はガリゴリ噛み砕いてしまうのが好ましいのかなあ、なんて思う本日のいくひしまんでした。



2419:【異論は封殺しないほうが好ましい】

過去を証明するのはむつかしい。だが着実に「過去そこで起きただろうこと」にちかい解釈はできるだろう、と考えている。証拠を積み重ねていくことがその前提条件となる。また、現在ここにはないが過去そこにあったかもしれないことを論じるとき、「それがあっただろうと推定されてほぼ事実としてすでに扱われている解釈」に対して異議を唱えることは封殺しないほうが好ましいと考えている。たとえその意義を唱えている相手がどんな属性を有していたとしても、である。恐竜がどんな容姿をしていたかは現状、いまはまだ想像に委ねるしかないが、それでも当時の環境や現存している類種の姿から近似的な想像図を構成することは可能だと思っている、それは考え方や手法が洗練されていけばいくほど、本物の恐竜の姿へと近寄っていくだろう、という期待がある。同じように「過去起きたことへの解釈」であろうとそれは変わらない。異論を挟む余地があるのならその異論に耳を傾け、そのつど理屈で反論し、ときには主流の解釈を補強していくことは大局的に見て有意義であり、「より揺るぎない事実」を解明していくうえでは欠かせない議論であると考える。もちろんただ闇雲に議論をする気もなく否定したいだけの野次に対しては、厳格な態度でそれを突っぱねなければならないときもあるだろう。議論には議論のための段取りというものがある。否定することが目的となって相手を困らせる手法のみを採用しつづけるようでは、議論の土台に立つ準備は整っていないと判断されても致し方ない。相手の考えを尊重する態度は、異議を投じる側が持っていたほうが好ましい武器だと考えるしだいだ。もちろん、武器を持たない相手へであっても可能な限り聞き耳は持ったほうが好ましいだろう。ただ、耳を傾けるべき異議とそうでない異議があるのもたしかであり、そしてそれを議論(や検証)をする前から見抜くことは、現状かなりむつかしいのではないか、との直感がある。何にしても、自己の考え方にしろそうでない考え方にしろ疑いはつねに抱いていたほうがより安全側なのではないか、といまのところは思えるが、あなたはどうお考えになられるだろう(裏から言えば、つねに疑いながらでも「これは疑いの余地がなさそうだ」と認めるしかない考え方であれば、必然それをもっとも妥当な考え方として採用するようにひとはなっていくはずだ。疑わなければ妥当な考えを採用するのもむつかしいのである)。



2420:【スランプ】

新作をぜんぜんつくれていなくて困ったなー、になっています。つくりかけが溜まりに溜まっているのが要因だと思うのであります。今年は一日のノルマを千文字以内にしよう、厳選しよう、そうしよう、と決めていたのですが、それはそれで「あ」と文字を決めるあいだに「むかしむかしおじぃさんとおばぁさんが」みたいに桃太郎が最初から最後までずばーっと流れてしまうみたいな思考とのズレがありまして、そのせいなのか、千文字の文字が二分され、三分され、十作を並行してつくったら一日百文字ずつしか進まなくなるのであります。とはいえそれでも一年あれば三万字以上にはなるわけですから、ではじっさいそのくらいになっているのですか、となると、おーおー、なっているのであります。三万字以上の作りかけの山ができております。今年中に一作、できれば二作は閉じてあげたい、否々、閉じてしまいたい、万年スランプのいくひしまんでした。




※日々、未来のとある点よりかははるかにしあわせだろうから、失われていく自由を余すことなく掴み、握り、圧し固めたなら、飴玉にして食べてしまおう。



2421:【愚痴でござる!】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはきょう、自転車をこきこき踏んでいたら、ぷっぷーって! 自動車さんにぷっぷー!ってされてしまって、でもいくひしさんは横断歩道を自転車で渡っていただけでござるから(横断する歩道なのに自転車で走ってよいでござるか、といった正論は耳に痛いのでやめてほしいでござる)、ちゃんとライトも点けていたし、どうしてぷっぷーってするでござるかって、すこしだけお腹の虫がドタバタ暴れたでござる。その自動車さんはいくひしさんのまえを左折して(いくひしさんから見たら右折ということになるでござるが)、すこしさきで止まったでござる。だからいくひしさんも自転車から降りて、歩いてそっちのほうに向かったでござる。いくひしさんのお腹の虫はドタバタ暴れていたでござるから、いくひしさんは心の中で細い腕をまくりあげて、んじゃこりゃダレにぷっぷー鳴らとんじゃんみゃーこわくて泣いちゃうだろー、とやっぱりドタバタ暴れていたでござる。そしたらいくひしさんのお腹の虫に驚いたんでござるか、その自動車さんはすたこらさっさとぶーんと走りだしたでござる。あっという間に見えなくなってしまったでござる。赤信号が青信号になっただけでござる。べつにいくひしさんのお腹の虫の暴れ具合とは何も関係なかったでござるし、そもそも自動車さんが止まったのも赤信号だったからでござる(そしていくひしさんが自転車から降りたのは上り坂だったからでござる)。それはそれとして、ぷっぷーってするのはやめてほしいでござる。きょうはなんだか全体的に自動車さんはみんなせっかちさんに映ったでござる。いくひしさんだけでなく、ほかの自転車さんや歩行者さんに対しても横暴に映ったでござる。帰宅時間だったからでござるか? それはそうとしてももうちょっと安全運転を心掛けてほしいでござる。自動車さんはロボットスーツみたいなものでござる。それを着てたら誰だって人を簡単に殺傷できてしまえるでござる。だから自覚しないうちから気が大きくなっていることもあると思うのでござる。もうすこし、じぶんが裸の王様かもしれないと疑って日々を過ごしてほしいなあ、とこれは完全なるわがままでござるけれども、お腹の虫さんをどうどうと宥めながら思ったでござる。いくひしさんも裸の王様にきっとときどきなっているでござる。ときどきというか、四六時中かもしれないでござる。ロボットスーツを脱ぎ捨てても同じ行動がとれるかどうかを想像しながら、街灯にかかった枝葉の影を見上げて、ほぉ、と息を吐くような日々を送りたいでござる。大きな音は苦手でござるなあ、とちいさくぼやいて、きょうの分の「いくひ誌。」にするでござるー。



2422:【反社会的勢力ではない組織とは?】

現状、日本では指定暴力団として反社会的勢力を名指しで弾劾可能な法律が成立している(暴対法など)。しかし聞くところによれば海外ではそうでもないようだ。ギャングやマフィアを規制する法律は日本よりかは厳格に制定されてはいない(あくまで犯罪行為に対する罰則があるのみだ)。日本であれば、反社会的勢力の撲滅に賛成します、との誓約書を交わすことが企業間での契約であれば日常的に行なわれている。これによって指定暴力団との繋がりを失くすことが事実上可能となっているが、反面、指定暴力団でなければこの限りではなく、ゆえに半グレなどの実質暴力団のような組織がまかりとおる。たとえば銀行は、融資するにしても口座を開いてもらうにしても、その相手が指定暴力団員か否かを見定め、ときにはいっさいの取引をしないと法律を武器に突き離すことができる。ただし、その延長線上で、いち市民に対しても恣意的なランク付けを施し、融資を断ったり、口座の扱いを変えたりできる。言い方を変えれば問題だと認識した時点で「その相手を干す」ことができるのだ。そしてその干す理由は基本的に相手には知らせないし、ただいっぽうてきに「お客さまとはお取引きできかねます」と断るだけなのだ。このあたり、おそらくそう遠くないうちに仕組みが是正される方向に動くだろうと想像しているが、その前に物理的な銀行が淘汰されるほうがはやい気もしているので、それほど深刻な問題だとは見做してはいない。いずれにせよ、反社会的勢力とは何なのかがかなりあいまいな表現だということは知っておいて損はないだろう。じぶんの関与している企業が暴力団ではないとどうして言い切れるのか。指定暴力団ではないだけで、暴力団であり、反社会的勢力かもしれない。(又聞きによる根拠のない文章ですので、真に受けないでください。銀行およびマフィアに関する記述も間違っている可能性があります。ひょっとしたらマフィアとして組織化するだけでも弾劾可能となる法律が海外にもあるのかもしれません)



2423:【いないほうが楽なので】

いくひしさんがこう言うのもヘンなんですが、友達いなくて寂しいひとは友達つくったほうがいいと思いますよ(つくるというか、繋がるというか)。ムリしてもいいことはない気がします。



2424:【思考がモヤがかっている】

同じ言語であっても文体が違えば、それをすらすら読み解くにはそれなりの学習が必要だ。さいきんそれを実感する。慣れ親しんだ文体であれば抵抗なく読めるのだが、はじめましての文体であるとときおり、ものすごく抵抗のある、斟酌せずに言えば読み進められない文章と出会うことがある。もちろん初めましての文体であっても比較的なめらかに読み進められる文章もあり、その場合は、書かれた内容が好みであると、楽しい、と感じる。ひるがえって、読書を楽しいと感じるためには、内容もさることながら、どのように文章を並べてあるのかも関係してくる。すらすら読めることは一つの評価基準となるだろうし、よしんば読みづらくとも、学習することでより内容を噛み砕きやすくなる文体であるならば、それもまた時間差はあるにしろ、読書の楽しみ、となり得る。言語の違いは、文法や構成要素たる文字や言葉だけではなく、どのようにそれを並べるかといった文体によっても分類可能だ。言語は、ほかの言語とのあいだに共通項がすくないために、学習が必要条件となる。だが文体の違いであれば同一の言語を習得済みであるかぎり、抵抗の多寡が異なるだけで、内容を氷解可能だ。ただし抵抗の高さが違うため、同じ言語であるのにすらすらと内容を氷解できない事態もでてくる。そのときにそれを、内容がおもしろくない、と判断するか、それとも文体に馴染んでいない、学習が足りていない、と判断するのかは大きな違いと言えるだろう。優先すべきは文章に仕舞いこまれた内容だが、それをよりすらすらと抵抗なく受動するためには、言語の違いに関係なく、学習が必要とされる。文体の違いはその一例であり、それ以外にも、思想や世界観など、インプットしなければならない回路がありそうだ。思想や世界観を含めて文体と呼ぶ場合もあるが、ここではそれを分けて、あくまで文章形態の差異を文体と呼んで扱っている。あたりまえすぎることをまどろっこしく並べているだけだが、口に合わないと思った本であっても時間を置いて読んでみると案外におもしろく読めた、といった経験は読書を趣味としている者ならば誰にでもある経験だと睨むものだ。あらゆる文体――可能であれば言語――を楽しめるように、回路を増やしていきたいものである。それは巡り巡って、あらゆる物語を楽しむことにつながるだろうとの予感を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。



2425:【でしゃばりました】

あ、言うほど読書はしていません。いかにも読書家みたいな言い方しちゃいました。申しわけありません。いくひしさんは本を読まないほうだと思います。月に多くても十冊いかない気がします。マンガを含めればもうすこし多い気がしますが、予算は五千円くらいなので、そもそも十冊以上を購入できません。読書歴もようやく十年いったかな、くらいなのでまだまだ素人です。たくさん読むというよりも、一冊一冊楽しく読書をしていければな、と思います。



2426:【自己犠牲は尊くない】

自己犠牲を尊ぶ系の思想はもういまはだいぶ時代にそぐわなくなってきていると感じる。自己犠牲を選択した末にそれをした者が死ぬにしろ生き永らえるにしろ、単に損をするだけにしろ、自己犠牲に走ることで得をするのはそれをした者以外のその他大勢なのだ。自己犠牲を尊ぶのはいつだってその他大勢であり、それをすることは素晴らしいと謳うのは信者や構成員に自爆テロをするようそそのかすことと原理上区別はつかない。というよりもほとんどと言わずして同じだ。では自己犠牲は悪なのかと言えばそれも単純にそうとは言い切れず、結果として自己犠牲的な構図になることはあるだろうと感じる。これに至ってはその後に、素晴らしい人物だった、好ましい行動だった、と称賛したくなる気持ちは分からないではない。だがあくまでそれは結果論だ。自己犠牲を素晴らしいことだとはやし立てるのとは違っているし、違うこととして扱ったほうが社会秩序は乱れにくく済む。自己を犠牲にする必要はない。これはどんな問題をまえにしても、自己を犠牲にしようとしてとる手段は称賛に値しない、とする倫理観を構築していくほうがこれからの社会にとってはプラスに働くだろう。個人はどんな問題をまえにしても自己を犠牲にするべきではない。自己を犠牲にせず、誰の犠牲も前提としない術を模索しながら、それでも相互に損失を分散し、負担をし、それでいて一人では実行できない手法で以ってじっくりと問題の解決にとりくむ姿勢が優先される。その過程で、結果として自己犠牲的な犠牲がでてしまうことはあるだろう。それはしかしあくまで事故であり、或いは事件であって、当人の善意ではあり得ない。それを善意や善行と解釈しないほうが、これからの社会にとって、ひいては個人にとって好ましい姿勢となっていくのではないか、とこれまでの人生で何かを犠牲にしたことも、しようと思ったこともない怠け者のその場任せの思いつきを並べて本日の「いくひ誌。」とさせてください。なんだか日々、ぞんざいになってきたなあ。まあいっか。



2427:【線、流れ、波、律動】

何を捉えようとしていて、そのうちの何を実際に捉えているのか。評価軸の一つにこの視点が欠けていると、たぶんあるレベル以上に到達した時点で、さきがなくなる気がしている。何を捉えようとしていて、そのうちの何を実際に捉えているか。視える者にしか視えない何かはやはりあるようだ。



2428:【けけけ】

まーた、まんちゃんがそれっぽいこと言ってる。書くことなかっただけのくせに。



2429:【たぶんいます】

前にも言ったかもだけれども毎日一作ショートショートをつくっていけば三年で千作を超えるのだよなあ。三十年で一万作。たぶんすでに実践しているひとがいるはずだ。発見されていないだけで(或いは現在進行形でつくっている最中かもしれない。そんなにつくって誰が読むんだろ。AI?)。



2430:【知ったかぶり】

液体のように振る舞うことと液体の違いとは何なのだろう。液状化現象に代表されるように砂は条件次第で液体のように振る舞う。たとえば砂時計は中身がカチンコチンの石では役に立たない。液体のようにサラサラと流れる砂だから時計として時間を測ることができる。しかし砂は液体ではない。いっぽうで、水にしたところでそれを構成しているのは水分子だ。粒子の大きさに差はあるが、砂も水もどちらも粒でできていることに違いはない。液体のように振る舞うことと液体であることはそもそも区切れないのでは? この疑問を解くには「液体(っぽいもの)」を気化させればよい。水であれば水蒸気になるが、砂はその前にマグマのような液体となって、そのつぎに気化する。一段階過程が多い。液体のように振る舞っても、構成する粒そのものが液体になる余地があるのならばそれはやはり固体なのだ。また、液体のように振る舞う、というときはたいがい「流体」の性質が際立っている。そのときに表面張力が働くか否かで「液体かそう振る舞っているだけなのか」を調べることも可能だろう。カップに砂を詰めてもカップと接している縁が盛り上がることはないし、宇宙空間で砂をばら撒いても丸くはならない(液体が丸くなって浮くのは表面張力のせい)。なーんて並べてはみたはよいけれども、じつのところ液体と固体の違いがよく解かっていないし、表面張力の値の求め方も知らない。こんな感じかなーって妄想でしゃべってみた。そもそも表面張力って何? 静電気と何が違うの? たぶんあんまり違わない気がしていますが、合っているでしょうか。だとしたら砂に指を突っこんだときに指に付着する砂は、表面張力でくっついていると解釈できるのでは? それってつまり「砂で濡れている」ってことで、濡れているならそこには表面張力が働いているってことなのでは? 指が砂で汚れるのはゆびの水分のせい? はーそうですかへー。やっぱりよく解からなくなってしまいました。お勉強不足です。お勉強します。いつか。たぶん。きっと。したくなったら!(おどけて煙に巻くのだけは上手)




※日々、とてもではないが背負いきれない、蟻一匹でも重たすぎる。



3431:【挑戦していないからかも】

文芸とは別の話だが、じぶんの失敗を振り返って(姿を見て)笑うことが増えてきた。愉快なのだ。前はただ悔しいだけだったのに、何が変化したのかな。(巧くいきそうでいかないもどかしさはくすぐったいのとすこし似ている)



3432:【あてずっぽうに考える自由】

仮に人間サイズの原子を想定するとしたら、ブラックホールみたいな構造になるのではないか、との妄想を歩きながらした。原子が極小でないと存在できない理由は何かと言えば、重力の小ささにその因を求めることができそうだ。重力は基本相互作用――この世界を構成する根源をなすチカラのなかでもとくにちいさいとされている。したがって物質の構成要素たる原子もちいさくなると考えて、それほど飛躍してはいないのではないか。原子の質量のほとんどは中心にある原子核に集まっている。その周囲を電子が漂っている。原子の外郭にあたる電子を捕まえておくには、なるべく原子核に近くないといけない(とはいえ、原子核と電子の大きさからするとかなり離れてはいるのだが)。重力の作用が届く範囲が限られているからだ。でもここで原子の大きさでありながら重力が極めて高い物質を想定してみると、遠くを周回するように電子を捕まえておけるので、必然、その外郭も大きくなると考えられる。じっさい、銀河の中心には巨大なブラックホールがあると考えられている。言い換えればブラックホールはその高い重力で以って銀河を構成しているのだ。これと同じことが原子にもあてはまるのではないか。つまり、原子の大きさを巨大化させるには、ブラックホールくらいの高い重力があればよい、ということにならないだろうか。かなりあてずっぽうの妄想だが、そこそこ楽しい妄想だった。坂道を自転車を押して登っているあいだにこういう想像を巡らせている。誰もいない坂道は左右を藪が覆っており、見下ろせば町並みが、見上げれば月が雲に隠れる様が目に入る。こういうときに自由を感じる。何かに夢中になったり、集中したりしているときには自由を感じる余地もない。ただ、夢中になり集中する時間が、自由を感じる下地をつくるのはたしかに思われる日であった。(妄想は妄想ですので真に受けないでください。重力や原子に関する記述は間違っている確率が高いです)



2433:【下手な鉄砲のほうが当たることもある】

なんでもかでも、美味しい美味しい、と食べてしまうひとのつくるソレよりも、こんなの大っ嫌いだ、と頑として口にしないようなひとに「そこをどうにか食べられるレベルに調理してみて」と頼んでつくらせたソレのほうがより多くのひとの舌をうならせるものができる気がしているが、これも人やつくる品によりけりだろう。たくさんの「味」のサンプルを持っていない者には一度の奇跡は起こせても、二度目、三度目、と奇跡を繰り返し手繰り寄せる真似はできない気もしている。この場合、奇跡を創造と言い換えてもよい。



2434:【屈するとは応じること】

組織は不当な圧力に屈してはならないし、一個人の横暴な要求に応じてはならない。仮にその動機に正当な主張があろうと、まっとうな段取りを介さずに圧力を加えて横車を押しとおそうとする行為には断固として否を突きつけなければならない。そうでなければ組織としての威信にかかわる。この威信というものが厄介で、これは要約すれば、その組織がほかの組織や個人と正当な手段で取引をしますよ、という信用にかかわる、という意味だ。言い換えるなら、不当な圧力に屈することはイコール正当な取引をしない組織と見做される(論理的な解としては不適切だが、常識としてはまかりとおる)。よってどのような動機がその根底にあろうと、不当な圧力に組織は屈してはならないのである(正当な取引を維持できない組織、と見做されてもよいのなら屈する選択肢もあるだろう)。屈してはならない、は、応じてはならない、と言い直してもよい。



2435:【近づけない】

デジカメの原理がよくわからない。古典的なフィルムを用いる写真はなんとなくだが納得はできる。光が当たってその部分が化学反応を起こして変色すると解釈してそれほど大きく的をはずしてはいないだろう。だがこれがデジカメとなるとよくわからない。なぜレンズに入ってきた光をあれほど解像度高く感知して、それを色や濃度ごとに再現できるのだろう。光が当たった場所に「光の波長ごとに見合った電子を飛ばすような装置」がついているからだ、と見当をつけることはできるが、なぜその装置がフィルムのように消耗しないのかがふしぎだ。或いは見当はずれで、まったく異なる原理を用いているかもしれない。知識不足で想像の余地しかない。似た疑問として、PC画面を漂うカーソル(矢印)の止まった場所をどうやってPCは感知しているのだろう。じっさいに画面上を物質が動いているわけではないはずで、カーソルと「画面に再生された動画」との区別はどうやってつけているのだろう。これは多重に表示される「選択肢」にも当てはまる疑問だ。たとえばプロフィール欄のうえにカーソルを持っていくと、各々「小説」「近況ノート」「おすすめレビュー」とリンクの選択肢が並ぶ。じっさいに箱が開くわけでもないのに、単なる表示画面との区別はどうやってつけているのだろう。カーソルの動きを感知しているわけではないはずだ(なぜならカーソルが物体としてじっさいに動いているわけではないから。動いているように見えているだけでこれは点「ピクセル」の点滅にすぎない)。いったいどんな仕組みなのか、想像の余地しかないはずなのに、想像すらつかない。だがじっさいに原理を考え、応用し、これらを創りだした者たちがいるのだ。頭のよい人たちがいるものである。感心というよりもこれは驚愕にちかい。否、驚愕よりも恐怖にちかいかもしれない。まるで同じ人類だとは思えない。それでもたしかに同じ人類のはずなのだ。いったい何が違うのだろう? これもまたどうやら想像を働かせる余地しかなさそうだ。さて、想像する余地を失くすにはどうしたらよいだろう?



2436:【怠け者すぎて申しわけなくなっちゃう】

さいきんいっぱい寝すぎていて、また痩せてきてしまった。たくさん寝るとその分エネルギィを補給しないし、それでいて水分が飛んでいくから全体的にしゅっとなる。身体を動かさないから筋肉も衰えて、細くなるから体感、痩せて感じられる。見た目にもけっこうな違いがあるようにじぶんでは感じるけれども、顔から太るタイプなので、顔だけむくんでいて、なにむっつりしているの?って鏡を見るたびにセリフが浮かんでおもちろい。あと、ふだんから運動不足なので、三日前くらいにちょちょいのちょいって動いたら右太ももが壊滅的な打撃を受けてしまった。筋肉痛がウニウニ言ってる。曲げるだけで痛い。タンパク質をとらないと、と思うのだけれどお菓子ばっかり食べてしまう。太ってしまうなあ、と思っても、またたくさん寝ると痩せてしまうので、燃費がわるく、便利なようで損な体質だと思うものの、やっぱり運動不足だと肉体が悲鳴をあげやすくなるようだから、ときどきは身体を活発に動かすようにしていきたいなあ、とは思ってはいるのだけどね。思うだけなら簡単なのに、どうしてじっさいに動くとなるとむつかしいのだろう。ひょっとしたら思ったり、考えたりしている気がしているだけで、じつは指一本を動かすほどにも思っていたり考えていたりしていないのかもしれない。とはいえ打鍵をするとゆびは動かすから、三本分くらいの労力は費やしているのだ。ちなみにいくひしさんはブラインドタッチができないので画面とキィボードを交互に見ながら文字を打っている。使う指の数は三本だ。左手は人差し指だけ、右手は人差し指と中指だけを使っている。ほかのゆびは使わない。幼子がぱちぱちキィーボードをいたずらするみたいにして打鍵しているので、それほど速くはない。たびたび繰り返し並べているけれども、いくひしさんは不器用なのだ。何につけても上手にできない宿命を背負っている(もちろん背負っているのだから下ろすことも可能だろう。ただその方法が解からないだけで)。



2437:【感情に言葉を】

光を用いて壁に黒を投影することはできない。光は重ねれば重ねるほど白く明度があがっていくので、黒からは遠ざかる。黒い光は原理的に放てないわけだが、術がないわけではないだろう。たとえば影をつくればそこだけ黒く見える。また、壁が目に映るのは、壁の表面に光が当たって、吸収されずに乱反射した光の残滓が目まで飛んでくるためだ(壁がいっさい光を反射せず、飛んできた光をすべて吸収するならそれは限りなく黒く見える)。したがってそれら乱反射した光を打ち消すような光を投射すれば、観測者からは光が見えなくなって黒く見えるようになるのではないか。ただ、光に光を当てて打ち消すことが原理的に可能なのかがよく解からない。光には波の性質があるから、干渉しあうのだ。そしてたいがいの物質は鏡のようにそのまま光を反射したりせずに、乱反射する。つまり乱れるわけで、その乱れを光の波長ごとに捉え、解析し、それに対応する「打ち消し合う光」を正確に「乱反射している光」に当てるのは考えるよりもずっとむつかしいのではないか。私生活においては光はつねにいろいろなものにぶつかって乱反射を繰りかえしているから、そもそも一方向にのみ「対となる光」を放って光を打ち消すという発想そのものが間違っているのかもしれない。これは音にもあてはまるはずだ。音を打ち消すように対となる音をぶつければ、音は掻き消えて静寂をつくりだせるかもしれない。でも音もまた波であり、空気の振動であり、物質の振動でもあるから、一方向にのみ反射するわけではない。まっすぐに飛び交っているのではなく、さまざまな物質にぶつかり、反射し、ときに干渉しあって、ちいさくなり、ときに大きく振幅する。どの方向に「対となる音」を投射すれば音を打ち消すことが可能なのかは、その場にある音源の数や位置によるだろうし、その場にある物質の数や部屋の形状にもよるだろう。打ち消し合う、という発想そのものが、私生活においては現実離れした発想であるのかもしれない。これは人間の感情にもあてはまりそうだ。怒りや悲しみは、楽しさやうれしさでは打ち消し合うことはできない。だから人間には忘れるという能力がついているのかもしれないし、或いはそれゆえに記憶するという能力が発達したのかもしれない。優先されるべきは忘れる能力であり、記憶するのはそのあとに付随した能力だと解釈することもできそうだ(そうでもない?)。打ち消し合うことができない以上、あとは気を逸らしたり、紛らわせたりするよりない。打ち消し合おう、消してしまおう、と考えれば考えるほどに、よりそれに囚われてしまうといった悪循環は、割合いに身に覚えのある方も多いのではないか。何か一つ、没頭できること、夢中になれることを持っていると、怒りや哀しみに支配されずに済むかもしれない。いくひしさんはけれど、怒りや哀しみも嫌いではないので、いつでもある程度、それに言葉を与えて、飼い馴らすようにしている。打ち消し合うことはできないが、どんな感情もほかの感情たちと共存させることはできるようだ。それがよいことかどうかは分からないのだが。(正しい知識ではありません。真に受けないでください)



2438:【黒色発光ダイオード】

前の記事で「打ち消し合うような波長の光をぶつけあえば黒くなるのではないか」といった旨を並べた。どっかで見たアイディアな気がしたので、ネットで検索してみたら「黒色発光ダイオード」なるものがすでに開発されていたようだ(※)。蛍光灯と逆の波長の光を発するために、光が打ち消し合い、まるで闇が放射されているように見えるそうだ。ただ、飽くまでそれは閉ざされた部屋でのみ有効な仕組みであり、広く応用するにはさらに改良が必要なのではないか、と想像している。どの程度光を打ち消し合うのかも分からないが、真っ暗になることはないのではないか。とはいえ、やはりアイディアをカタチにするまで持っていけるひとは偉大だ。畏敬の念しかない。(※検索先の記事はデタラメですから「黒色発光ダイオード開発」はもちろん嘘ですよ。真に受けないでください)



2439:【光速とナメクジ】

宇宙の大きさからすると光速はあまりに遅すぎる気がする。光速より速く移動する物体はないと考えられているが、宇宙の膨張に至っては光よりも速く広がっていても矛盾はしないらしいので、たとえば観測可能な宇宙を俯瞰して眺めたときに、光の広がり方と宇宙の膨張の仕方にはちぐはぐな差があるだろうから、その差が一つの波として宇宙にうねりを与えているのではないか、と妄想してしまう。いや、それにしても光速はやはり宇宙の大きさからすると遅すぎるのではないか。それで何か困ることがあるのか、と問われるととくになにも思い浮かばないのだが、物体の速度の限界が光速だ、と言われると、感覚的に、んなばかな、と思ってしまう。地球を宇宙の大きさにたとえたら、光はおそらくナメクジよりも遅いことになるのでは?(また適当なことを並べてしまいました。申しわけありません。妄想にも満たない印象ですので、くれぐれも真に受けないようにお願い致します)



2440:【理想には届かないのが自然】

組み合わせこそがオリジナルだ、といった言説を目にする機会が増えた。ある一面では間違ってはいないだろう。そもそも世のなかの大半の事象がほかの事象との組み合わせでできており、純粋にそれ単体で成立する事象というものは、すくなくとも人間の私生活上では滅多にお目にかかれない。ほとんど存在しないと言ってもいいかもしれない。そういう意味では、どんな組み合わせをつくるのか、の前段階として、事象をどんな範疇で区切るのか、がその後の成果に大きく影響してきそうだ。いったい何を「組み合わせる素材」として見做すのか、がひとと違っていれば、もうそれだけでオリジナルになると言ってもよいかもしれない。みなが素材に思わないようなものを素材にして、既存のレシピに当てはめれば、完成した料理の味のいかんを問わず、それはオリジナリティがあると言えそうだ。つくるからには美味しいほうがよいだろう。だが、つくってみなければ美味しいか否かは判らない。やはりまずは素材を見つけたら、ひとまず手掛けてみるのがよさそうだ。とはいえ、個人的な隘路を打ち明けてしまうと、じぶんにできることの幅が狭すぎて、素材と見做す事象を見繕えない。ネタがない。つねに枯渇している。だからとりあえず、オリジナリティを求めずに、できることからやっていくしかないのだ。高望みをしない。それでも日々を楽しく過ごしていける余裕が才能のない者にはある。高望みしなくてもいい、という気楽さだ。このさきどれほど労力を割いても届きはしない理想がある。どうせ届きはしないのだから、といっそ端から諦めてしまえば、あとはのほほんと、ではどれだけ近づけるかな、と日々を楽しく歩んでいける。諦めることは必ずしも、止まることではない。諦めたさきにしか開けない境地もまたあるようだ。いずれ、楽しく過ごせれば御の字だ。理想に届いてしまったせいでかえって苦しい日々を過ごすこともあるだろう。何がじぶんにとって好ましいのかは、じぶんでしか決められないし、その環境にじっさいに身を置いてみてからでしか分からない。理想に届かないことを嘆くよりも、いっそ届かないことを楽しんでしまったほうが得に思えるが、やはりどうしても理想に追いつきたいものなのだろうか。理想に追いつきたい、と欲する渇望と、それが叶わないもどかしさは、別物であるし、別々に扱っても支障はないはずだ。だからというほどでもないのだが、理想は高すぎて困ることが、いくひしさんにはないのかもしれない。




※日々、諦めてばかりで果てしない。



2441:【ぽん】

ただ、ぽん、とこねまわされた妄想の欠片を手当たりしだいに眺めていたい。拙いままを、素材のままを、自然のままを、在るがままを、ただただ無闇にそのままを。



2442:【きっかけは選べない】

自作小説を高校生のころのじぶんに手渡してみて最後まで読んでもらえるだろうか、と想像してみることが極々稀にあるのだが、結果はいつも同じだ。まず読まないだろう。本を読まない人間に何を手渡してみせたところで読むわけがないのだ。おもしろい本との出会いは、本そのものの魅力というよりも、読書の楽しみをいかに抵抗なく感受できる環境に身を置けているか、本を読んでもいいと率先して思うことができるか、のほうが大きい。そういう意味では、本を読みましょう、といくら言ったところで効果がないどころか逆効果だ。



2443:【キモチワルイにもたくさんある】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはいま、ものっそいキモチワルイでござる。あ、見た目の話ではないでござる。動き方の話でもないでござる。存在の話でもないでござるし、存在するだけでキモチワルイってそれはちょっとひどくないでござるか? キモチワルク思われるほうがひどいのではなく、そう思うほうがちょっとだけひどいでござる。でもでも、キモチワルイと思ってしまう気持ちはだいじにしてほしいでござる。それはそれであなたをカタチづくる感情のひとつでござる。そうは言っても、身体がだるいなあ、のキモチワルイはなるべく抱きたくないでござる。イタイのイタイのあっちいけ、でござる。ムカムカ、ウゲウゲ、飛んでいけでござる。でもでも、飛んでいったさきでいくひしさんの代わりに誰かがキモチワルクなってしまうのはいやでござる。いくひしさんがキモチワルイおかげでだれかがその分、キモチヨクなれるのならそっちのほうがよいでござる。あ、うそでござる。かっこつけたでござる。いくひしさんもキモチヨクなりたいでござる。みんないっしょにキモチヨクなればよいでござる。そうなれたらいいなあ、と思いつつも、できれば独りでキモチヨクなりたいでござる。それはキモチヨサを独り占めしたいという意味ではなくて、一人きりでこそこそと、キモチヨクなりたいという意味でござる。共有したくないでござる。んみゃんみゃ、共有できてもよいでござるけれども、それもまた一人でかってにやってほしいでござる。巻き込まないでほしいでござる。自己完結してほしいでござる。そっとしておいてほしいでござる。なーんて言いながらいざ仲間はずれにされると寂しくなっちゃうのだからなんてわがままさんなんざましょ。そういうところが本当にキモチワルイでござる。あ、キモチワルかったでござる。いくひしさんはキモチワルイでござる。認めてしまったでござる。ざんねんでござるー。



2444:【遊びすぎている】

文章が荒くなってきちゃった。もっとちゃんと見詰めてあげなきゃなのかも。でもなあ、根は詰めたくないなあ。でもでもある程度は、冷たくならないと客観視もできなくなるしなあ。詰めたくないのに冷たくないとなんてへんなの。



2445:【見る目がない】

その人物が誰と繋がっているかとか、誰に評価されているのかとか、そういったコネや人脈の時代になってきたな、といった所感がある。むかし(数十年前)はもうすこしこの流れを卑しいものとする認識が社会にあったように感じるが、いまは大手を振るって横行している気がしている。もちろんわるいことではないが、それによって「よいもの」が埋もれてしまうのは腹立たしい。なぜ腹立たしいかと言えば、いくひしさんの目の届く範囲にそれが浮上してこなくなる確率が高くなるためだ。とはいえ、このさき「本当にいいもの」を見抜ける者の価値は相対的にあがっていくので、それほど悲観してはいない。だいたいにおいて「本当によいもの」を人々はそれほど求めてはいないのだ。だから「それなりによいもの」で「それを選んでも恥じとはならない保障があるもの」に食指が伸びていく。つまり、権威ある者たちによって太鼓判を捺されている高評価のものが社会の表層を漂うようになる。そしてそれは権威ある者の権威をより高める方向に働きかけるので、このサイクルは一定の期間、社会を動かす原動力として機能する。繰り返しになるが、わるいことではない。ただ、腹立たしく思うことがときおりあるなあ、と狭量な心を打ち明けて、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。とはいえ、いくひしさんも割合に権威主義なので、ひとのことは言えないのである。見る目があるひとはわざわざ「待ち」の姿勢でいる必要はなく、じぶんから探しにいってお気に入りを見つけ、満足できるのだろうから、うらやましい限りだ。これは見る目がなくともできることであり、ひとと感性がズレているひとはじぶんに合ったお気に入りを探すより術はないわけで、けっきょくのところ見る目があるとは、じぶんの「好き」を感度高く見詰め、何を探しているのかに自覚的であることを言うのかもしれない。その点、いくひしさんは何を好んで、何を探しているのかがまだまだ漠然としているので、見る目のあるひとを見習いたいというか、真似したい日々である。



2446:【コネや人脈は幻想?】

コネや人脈が好きではない、という話をすると、「そんな言うてもないですよ、コネがあって仕事が舞い込んだとか、いい話にありついたなんてうまい話そうそうないですから」みたいな反論を聞くことがある。まあそのとおりだろう。世のなかそんなに甘くはない。大統領の娘です、なんてことになればまた話は違ってくるのだろうが、めったにあることではないし、たいがいの者には無縁の話だ。いくひしさんが言っているのは、そういう意味ではない。たとえば、いじめられたり、仲間はずれにされていたり、なにかしら理不尽な目に遭っていたとする。だがその人物の親友が大リーガーであると知れば、いじめていた者たちは態度を改めるだろうし、無視していた者たちもそれとなく親切にしてくれるようになるかもしれない。つまり、理不尽な目に遭いにくくなる、といった周囲の態度の軟化そのものがバカげているし、コネや人脈の影響だ、と言いたいのだ。そんなものがなくとも誰に対しても親切にすればいいし、コネや人脈があると知って改めるような態度は誰に対してもとるべきではない(とらないほうがいくひしさんには好ましく映ります)。単純な理屈だと思うが極端だろうか?(もちろん、高評価な側面が相手にあると知って態度を変えることはあるだろう。同郷と知って警戒心がゆるむ、などがそれだ。そうしたくなる心理は分からないでもない。ただ、原理的にはそれもまたコネや人脈で態度を変えることと似たようなものだ。あまり褒められた態度ではないと感じる。では、素晴らしい成果物を発表している相手に対してはどうなのか、と言えば、これもまた態度を変えるほうがおかしいと感じる。どんな相手であっても同じ人類であるはずだ。もちろん敬意や警戒心は表しても構わないが、ほかの人間と別物として扱うのは違う気がする。そうは言っても、いくひしさんもたいがい人によって態度を変えてしまうので、よく自己嫌悪に陥る。人を人として見做し、接する、というのは存外にむつかしいものである)



2447:【対応できるくらいがちょうどよい】

多様性を尊重するうえで「多様性を損なう因子は認めないほうが好ましい」とする意見が、思いのほか優勢になりつつあるように観測される。さいきんの書籍をだしているひとたちにそういう傾向があるな、との印象を抱くわけだが、いくひしさんよりもはるかに知識があり、演算能力の高いひとたちが言うのだから、そういう側面もあるのだろうな、と感じる(権威主義)。ただ、どういうスパンで「多様性を損なうのか」といった視点が欠けているように見受けられる。たとえば、「多様性を一時的に損なうかもしれないが、長期的に見て多様性を促す因子」についてはどのように対処すべきかがまず以って議論の余地があるし、どんな因子がそうした側面を持つのかは、それこそ長期的な観測が不可欠だ。現時点において「多様性を損なうように見える」だけでは、それをすっかり排除しようとする姿勢そのものが「多様性を損なう」と言えるのではないか。言葉遊びのように聞こえるかもしれないが、これは根深い問題を孕んでいる。具体的な例で言うならば一つにはワクチンがある。ワクチンはそもそも「弱毒化したウィルス」を摂取することで抗体を強化するのが目的だ。病原体である元のウィルスをすっかり排除して、ワクチン自体も失くしてしまうのは果たして人類にとってプラスに働くのだろうか? この世の中から現在存在の確認されているインフルエンザウィルスを根絶して、ワクチンも失くしてしまったとして、その後に新たに誕生する類種のウィルスに感染したときに人類はなす術もなく絶滅してしまう懸念がつよまるだけではないだろうか。「多様性を損なう因子」はすくないほうがよいけれども、すっかり失くしてしまえ、存在の余地を失くしてしまえ、とするのは長期的に見てむしろ危険に思えるが、いかがろう。もちろん「ないほうが好ましい」ものはある。だが、すっかりなくしてしまうことを前提にするのは、何か根本的な問題がすり替えられてしまっている気がする。対応できることと、対応する余地を失くすことはイコールではない。前者は進歩だが、後者は衰退だ。もちろん退化もまた進化の一つであるから、必ずしも衰退が悪かと言えばそんなことはないのだが、「合理的」というときに、それはいったいいつからいつまでの期間にとっての合理ですか、という視点はいつでも頭の隅に置いていたほうが好ましい気がするが、あなたはどうお考えになられるだろう?(底の浅い所感ですので、真に受けないでください)



2448:【どこにでもある話】

これは個人的な好き嫌いの話なので理屈よりも感情に寄った話になるし、いくらかバイアスのかかった偏見によるいち印象でしかないが(たいがいのいくひしさんの話は印象というかデタラメでしかないが)、百人の才能を犠牲にして一人の天才を生みだすくらいなら天才なんていらないと思う。むしろ、いくら天才を世に放ったとしても、百人の才能を潰しているのならそれはちょっと手放しで称賛できないし、どちらかと言えば見過ごせない。百人の才能を生かしつつ、天才も生みだせばいいだけの話だし、その百人の才能はたとえ挫折したとしても、潰されなければその後に天才や後続の才能を支える熱心な支援者(需要者)となるはずだ。競争原理はあってよいし、厳しさもあって構わないが、それと才能を使い潰すのはぜんぜん違う気がしている。文芸とは関係のない分野の極々ちいさなコミュニティではあるが、二十年ちかく眺めていて思うのは、いくら世界一に何回もなるくらいの実績や実力があろうと、じぶんの成果を築くためにほかの才能を潰しつづけるような人物がトップに君臨してしまうと、その分野はゆるやかに枯れていく、ということだ。人気のある分野であればつぎからつぎに若い芽が現れるから、使い潰しつづけていられるのだろうけれど、やはり世代ごとに支援者(需要者)が空洞化していくし、つぎが育たないので、けっきょく全体としてのレベルが下がっていく。いくひしさんには関係のないことなので自由にやってもらって構わないが、まあなんというか、肩書きに釣られて盲信し、振り回される若い子たちが可哀そうだ(かといっていくひしさんが手を差し伸べたりはしないのだが)。



2449:【そういうの聞き飽きた】

まんちゃん愚痴ばっか。もっと楽しいこと並べてこ。ね?



2450:【きょう何の日か知ってた?】

一週間に一回くらい考えてしまうのが、身に着けている物の何一つとしてじぶんではつくれないのだよな、ということで、つくれないだけでなく、どうやってつくられているのかも知らないままなのだ。一週間に一回くらい考えているのに調べようともしないし、知らないままでいつづけるじぶんがほとほと嫌になるけれどもそれでも生きていける日々はけっこう好きだ。いっぽうで、やっぱり靴下がどうやってできて、どうやってお店に陳列されているのかくらいは知っていたいものだ。靴下の繊維は何で、どのようにして収穫され、加工され、糸から靴下になるのだろう。じぶんでつくったら一足いくらでなら売ってもよいと思うだろうか。三千円はもらわないとつくりたくはないが、では三千円あげるからつくって、と言われてもつくろうとはしないだろう。むしろ三千円あげるので勘弁してください、と断るほうにお金を払ってしまいそうだ。靴下にかぎらず、あらゆるものが「こんな値段でいただいちゃってもいいんですか!?」となる。よくよく考えるとそうだよね、というだけであって、言うまでもなく普段は、「くそ高っけぇーなーコレ」とか思いながらどっちがお得かな、なんて商品を見比べては頭を抱えている。で、なんできょうこんな話題なのかなって言うと、まあクリスマスイブなんですよ。知らんかったけどそうらしい。なんで知らんかったのかはご想像にお任せしたいところではありますが、まあ知らんくても不便しない生活をしています、というだけのことでありまして、要するにとくに変わり映えのしない普段通りの一日でございました。でもこれ案外にほかのひとたちもそんな感じで、もはやクリスマスイブに特別な催し物をするほうが恥ずかしい流れになってないか?みたいな疑惑も湧かなかったわけではないのですが、類は友を呼ぶではないですが、そりゃ普段から見かけるひとは似たような属性を帯びていると言ってもよいのかもしれず、あまり一般化はできそうにないな、と認めたところで、本日の「いくひ誌。」とさせてほしいかなーなんて思っております。自慢じゃないですがいくひしさんはクリスマスやイブの日に赤の他人と過ごしたことはなく、クリスマスやイブにかぎらず恋人とデートをしたこともありません。なぜなら恋人いたことがないので。ホントに自慢じゃなかったですね。寂しいひとですかね。やっぱりそう見えるんでしょうかね。独りでいると寂しくないのに、「あのひと寂しそう」って言われるととたんに寂しい気持ちになってしまうのは、何なのでしょう。名前がつくと妖怪化する、みたいな感じでしょうか。違うかな。違うな。ではではみなさまよい夜を。おやすみー。




※日々、間違うことしか選べない、どっちがよりマシかの違いでしかない。



2451:【認めます】

大勢に届ける、という考え方がもうじぶんに合わないのだ、とようやく認められるようになってきた。逃げなのかも、とこれまで思ってきたけれども、たとえそうでも、細々とちんたらやっているほうが気が楽だし、苦しくない。息をしている感じがちゃんとする。性に合っているのだ。すこしほっとした。



2452:【さいきんうれしかったこと】

柿の種のわさび味が好きなのだけれどそれのピーナッツなしバージョンが売られていたのを発見した。しかも百円! あとパラパラ雨が降って、水溜りができない程度に濡れた道路のアスファルトは、夜だと街灯の下を通るたびにキラキラ宝石の道みたいに細かく光っていて、それを追いかけるみたいに自転車を漕いでいるあいだが、いくひしさんは好きなのだ。雪が降ってるときも同じように、同じ映像が繰り返し流れているみたいで、街灯のしたに自転車を止めて、ずっとうえを見上げているのが好きだったりする。あといまは、かっぱえびせんを食べています。夜なのに! かっぱえびせんを食べています。あとは寝るだけなのに!かっぱえびせんを!食べています! しょうが湯も飲んでいて、すごく美味しい。



2453:【ミカさんはお姫さま】

あれほどお姫さまになりたいと言い張っていたミカさんがイモムシになってしまった。私は潰してしまわないようにマッチ箱にミカさんを入れて持ち歩く。ミカさんは日にレタスをひと玉たいらげてしまうので、私は彼女のレタス代を稼ぐために新しくコンビニのバイトをはじめた。いらっしゃいませー、と私が言うと、ミカさんがマッチ箱のなかから、ませー、と復唱する。店内のお客さんがこぞって振り返るので、私は裏声で、ませー、ませー、とエコーを利かせなくてはならず、きょうはそのことで店長にこってりしぼられた。帰り際にスーパーに寄ると、ミカさんがレタスは嫌だと駄々をこねた。イモムシのくせに生意気だ。私は疲れていたのでレタスの代わりにキャベツを買って帰った。翌朝、ミカさんはキャベツの表面にひっついてサナギになっていた。声をかけても返事はなく、サナギのなかでドロドロに融けているミカさんを想像しては中を覗きたい衝動と闘った。一週間ほど闘いつづけているあいだにミカさんは、サナギの背中をぱりぱりと割って現れた。ぷはー、くるちかった、とさっぱりした顔をこちらに向ける。私のよく知るそれはミカさんの姿で、でも背丈だけは親指サイズのままだった。これじゃまるで小人ですね、と私が言うと、ミカさんは、おやゆびひめー、と楽しそうに笑うので、私はしょうがなく指輪を外して、ミカさんの頭に載せてあげた。今夜は葉っぱ以外が食べたい、とミカさんがお腹を鳴らすので、特別にステーキを焼いてあげた。イモムシのときとは違って、小人のミカさんはステーキを一切れだけでお腹をさする。これくらいなら、と私は思う。標本にしてしまわずともずっと手元に置いておけそうだ。買ったばかりの「マチバリと防腐剤と注射器」は押入れの奥深くに仕舞っておくことにする。



2454:【ミカさんはビッグバン】

ミカさんが死ぬとこの宇宙が終わってしまうので、みなミカさんを死なせぬように必死だ。怪我をされると困るので、彼女は身動きを封じられ、それを苦として自殺されても困るので、薬で深く眠らされている。この宇宙はミカさんの寿命と密接に絡みあっていて、がんじがらめで、どうやらミカさんが死ぬと同時に終わるらしい。なぜ、と問われても、そうだから、としか説明できない。世の天才たちがこぞってその謎の解明にいそしんでいるが、明らかになるのはどうやら予測が揺るぎないという事実ばかりだ。つまるところミカさんが死ぬと宇宙が終わるというただそれしきの未来が不動の地位を築きあげる。彼女を凍結処理してしまおうとする案がだされたが、死をどのように定義するかによって、いくつかの派閥ができ、けっきょくミカさんは年々歳を取りながら、確実に死へと近づいている。ミカさんはどんな夢を視ているのだろう。せめて夢と夢を繋ぎあえたらよいのに。私はその技術を開発すべく尽力し、ミカさんの頭に白髪がまじりはじめた時期にようやくその技術を確立させた。私はミカさんと夢で繋がる。しかし夢のさきでもミカさんは、宇宙の存続と一心同体で、現実と同じように深い眠りを課せられている。私はそこにいるもう一人の私と相談し、ほかの夢でも同じようにミカさんは眠りつづけているのだろうと結論した。私たちは彼女の見る多重の夢のなかに生きており、宇宙はそうした泡のような夢によって膨張しつづけている。どの夢のなかのミカさんが死んでしまっても、すべての宇宙は順々に霧散する。まるでドミノ倒しのように、或いは連なる無数のシャボン玉のように。私はほかの私たちと相談し、共同し、そしてミカさんを起こすことにした。彼女が目覚めると多重の宇宙はひとつに収斂し、私はその手に握ったナイフで寝ぼけたミカさんの胸を突く。おはようミカさん。ナイフを引き抜く。そしておやすみなさい。何が起きたのかも分からぬままにミカさんは血にまみれており、私はそんな彼女の身体を抱きしめる。目を覚ます(眠る)べきは私たちのほうだ。



2455:【お世辞ではなく】

斜線堂有紀さんの「不純文学」は発明だと思う。三十年つづけて一万作つくってほしい。(上記二つの掌編は不純文学に影響されてつくりました)



2456:【堕落の極み】

しょーっく。新作が一個もできてない。なんでやー。ぶーぶー。サボりすぎているのだよね。もっとがんばんなきゃなとは思うものの、遊んでしまうのだ。さいきんは読書がまたおもしろくなってきてそっちに時間を割きがちだ。言ってもそんな何時間も読んだりはしないので、以前に比べたら、くらいの塩梅で。そうそう、スーパーで売ってるミカンヨーグルト味みたいな箱アイスがすごく美味しくてさいきんは毎日食べてる。あとはショーガ湯と紅茶を交互に飲んでいて身体はぽかぽかだし、いっぱい寝ているから身体は軽いし、頭もスッキリしていて、悩みは忘れられる程度の細かいのがたくさんあるけれども、暇つぶしに一つずつ思いだして、あーやだなー、って思ったら、また現実逃避が楽しくなって没頭してしまう。いつか切羽詰まって人生終わってしまいそうだけれども、どうせあっという間に終わってしまうのだろうから、期待通りの人生を送っていると言ってもよいのかもしれない。いまのところの目標がこれといってとくになくて、いま目のまえにある新作やつくりたいものを順次完成させていければな、と思っている。もうそれがやりたいことなのだ。それ以外にはさほどにもなく、それを妨げるようなものはぜんぶ邪魔に思えてしまう。なくしていきたい。よこちょに置いていきたい。でもでも、それだけじゃ生きていけないから悩んでしまうのよね。上手に生きていくのもできていないし、つくりたいものも満足につくれていない。それもまた愉快だなって思うのは、さすがに現実を直視してなさすぎますでしょうか。逃避すべき現実があればあるほど、逃避先が楽園に思えてしまう人間の欠陥に思いを馳せて、本日の「いくひ誌。」としちゃいましょう。あ、まんちゃん。きょうは風がつよいのでおそとを出歩くときはお気をつけてね。



2457:【組み合わせの数だけ面はある】

世のなかには「強者(勝者)と弱者(敗者)」がいるものだが、それは必ずしも固着した属性ではない。というよりも、どちらかと言わずして、極々一部の組み合わせの限りなく狭い範囲での属性にすぎない。ジャンケンのようなものだ。ジャンケンで負けたからといって、では一生あなたが敗者かと言えばそんなことはないし、ジャンケンで勝ったからといって相手を一生敗者として扱う道理もない。勝敗に限らずこれは強者弱者にも言えることだ。一人の人間のなかにも、いろいろな強みや弱みがあり、その強みや弱みですら、誰と比べるのか、いつどんな場面で発揮するのかによって、強みは弱みにもなるし、弱みが強みにもなる。極論、「弱者だから」という理由で反撃されないのをいいことに相手を追い詰めるような真似をすれば、それは「強者の側面がつよくでている」と評価できよう。弱者であることすらときに優位に立ち回る武器となる。武器を持てばそれだけで強者に一歩近づいている。振りかざせばそれはもう強者の側だ。「強者(勝者)と弱者(敗者)」といった一見すると二組しかない属性であっても、いつどんな場面で誰にどのように振る舞うかによっていかようにもその力関係は変化する。誰もが弱者になるし、強者にもなる。弱者でありつつ強者であることもある。というよりも往々にして同時に満たしているものだ。それは自覚してなれることもあるし、意図せずになることもあり、たいがいは望まずしてなる。いじめられっこが家では母親に暴力を振るって泣かせていたり、威圧的な上司が家庭では居場所がなくて爪弾きにされていたり、誰もが誰かを虐げ得るし、虐げられ得る。一面的に世界を眺めるのではなく、なるべく多くの視点があると前提して考える癖をつけておくと、知らぬ間に誰かを踏みつぶしていたり、踏みつぶされていたりする未来をすこしでも回避できるようになるかもしれない。多様な視点を想像する癖をつけたところでいますぐに「不毛な未来」を回避できるようになるわけではないが、すくなくとも想定しないでいるよりかは回避する確率はあがるはずだ。見えていない場所があるかもしれない、ではなく、あるのだ、と断定しているくらいがちょうどよいのかもしれない。(いい加減なことを述べました。申しわけありません)



2458:【重心移動】

本なんか読んでいても目のまえに人が倒れていたときにどうすればいいのかなんてまるで解からなくて、だったら本を読む時間で救命処置の訓練をじっさいに体験したほうが有意義な気もする。ただ、こういう問題は往々にして二者択一ではなく、どちらとも選択すればよいだけで、そもそもが比べるようなものではないのだ。実体験と知識は双方に互いを強化しあう。どちらかいっぽうだけ摂取するよりかは、両方まんべんなく摂ろうとしたほうがよいのかもしれない。ただ、言を俟つまでもなく過不足なく、偏りなく、体験も知識もバランスよく摂るなんて真似はなかなかできるものではない。食事ですらそうなのだから、計量化しにくい「体験と知識」ともなればどちらかが不足してあたりまえであるし、偏りができておかしくはない。反面、どの程度の不足があり、偏りがあるのかは自覚できると好ましい。足りなければ補えるし、偏っているならば補完し、ときに修正できるはずだ。もちろん不足していてダメだ、なんてことはないし、偏っているのが間違っている、なんてこともない。不足や偏りを感じるときには、何かしらの基準があるはずだ。その基準をまずは自身にとって好ましいカタチに近づけるほうがより優先される事項だろう。他人から見て不足して見えたところで、あなた自身が満足しているならそれはそれでよいはずだ。偏っていると指弾されたところで、じぶんがそれで困っていないならそれもまたよいだろう。ただし、現状それでよいからといってそのままにしていれば、未来において本来ならば対応できてしかるべき隘路に対して予想外に手こずるかもしれない。ときには足をすくわれるだろう。誰かから見て不足しているのならば、それはやはりその誰かにとっては何かが欠けているのだ。じぶんには視えていない、気づけない何かが欠けているのならば、それが何であるのかくらいの関心は向けても損はしないのではないか。偏りにしても同様だ。誰かから見て偏っているのならば、その誰かが安定している場合にかぎり、じぶんのほうはより不安定になっていると呼べるはずだ。もちろん不安定であってわるいというわけでもない。自由であるならば基本的には不安定なのだから、偏りはあってむしろしぜんだ。欠けているからこそ動き回る余地があるとも言える。ぎちぎちに満ちていれば、動き回るのはむつかしい。動きまわる余地があるというのは言い換えれば、欠けているものに囲まれているということだ。間隙が広ければ広いほど、動き回る余地ができる。大きな岩も、細かく砕けて欠けてしまえば、砂のように流動しやすくなる。さらに細かく砕ければ、風にさえ舞うだろう。あべこべに、自由すぎれば不安定ゆえに、融通がきかなくなることもある。重力に縛られているからこそひとは地上を駆け回れる。無重力空間ではそうもいかない。ある程度の不自由さは、安定に繋がり、より「自在」に繋がるはずだ。何にせよ、自由よりも自在であるほうが求める価値は高そうだ。自在はしかし、自由の余地がなければ得られず、同時にある種の制限も欠かせない。自在を獲得したければまずは許容できる制限が何で、どんな不足や偏りがじぶんにとって好ましいかを知っておくのがよさそうだ。本来であれば拒むべき「不足」や「偏り」であろうとも、使いこなせばそれは「自在」に繋がる。善悪や美醜にも同じことが言えるだろう。何を選び、どのように用いるか。どれを選びとり、どのように工夫するか、そして何よりどんな自在を思い描くかという理想がさきだってカタチづくられていなければ、いかに満ちて平らであろうとも、そこに自在は宿らないものなのかもしれない。(またそれっぽいことを並べてしまいました。真に受ける余地が微塵にもありますか?)



2459:【便利なものに巻かれる社会】

ワイヤレス化の急速な普及は目覚ましいものがある。充電もそうだし、イヤホンを含めたスピーカーはもうほとんどワイヤレスだ。線で繋いで音楽を聴く、という感覚はもう若い世代には通じないだろう。ワイヤレスではないイヤホンをしていたら、その耳から垂れてる線はなんですかオシャレですか、なんて素朴に言われてしまいそうだ。ワイヤレスの大きな利点は、共有できる点だ。同じ楽曲を同時に聴くことができるし、複数のスピーカーを同期すれば、音を爆音でかけられるし、立体音響にもできる。スマホさえあれば、あとはスピーカーを部屋の四隅に置くだけでちょっとした映画館気分を味わえる。スピーカーもどんどん値段が下がってきていて一万円あればかなり大音量で音質のよいワイヤレススピーカーを購入できる。ものすごい時代だ。いくひしさんの感覚だとここ数年で線で繋ぐタイプのワイヤレスではないスピーカーは見掛けなくなった。ラジカセを知らない若い子もすくなくないだろうし、ワイヤレス機能のついていないスピーカーはもはや売ってもいないのではないか。いや売ってはいるのだろうが、それにしても、スマホを中心として世のなかの技術がどんどん洗練されていく様は、何かこう、目という機能を獲得した生命の進化を彷彿とさせる。どうやら社会というものは、もっとも便利な道具を中心に発展していくようだ。このさき、いま以上に、情報を共有することの社会的価値はあがっていくだろう。一つの「端末(窓口)」さえあれば、あとは情報を拡張するためのスピーカーのような補助具があるだけで誰もが満足に用を足すことができる。スピーカーを所有することもなくなっていくだろう。施設なら施設、部屋になら部屋にそうした機能が電灯のように端から付属するのがあたりまえの世のなかになっていく。IoTなんて言葉もあるが、社会にとってあたりまえになりすぎてその言葉そのものがなくなるかもしれない。ワイヤレスなんて言い方も通じるのはいまだけだろう。むしろワイヤレスではない機器なんてあったんですか、という社会になりつつある。便利なものはとくに宣伝しなくとも普及するようだ。現物を使ってそれが好ましければ口コミであっという間に広がる。情報もおそらく似たようなものだろう。本当におもしろいものであれば黙っていても売れる社会が近づきつつある(本当におもしろい、と思うような人の元に適切に商品が届く社会が、と言い直したほうがより正確かもしれない)。宣伝をするものはむしろ売れていないし不便だ、と錯覚されるようになるのも時間の問題だ。(希望的観測にすぎる文章ですので、真に受けないように気をつけてください。宣伝しなくとも売れるくらいに便利な商品なら、宣伝すればもっと売れるのが一般的な感覚なのではないでしょうか。ただし、よりたくさん売れることにいかほどの価値があるのか、と疑問に思うひとが、むかしよりもいまは増えてきているのかな、との印象もあります。発展するには売れなければならない、という強迫観念は今後、薄れていくと妄想しています)



2460:【またサボってしまった】

けっきょく新作が終わらずに新年を迎えてしまいそうだ。さいあくだ。さいていだ。好きなことも満足にやり遂げることもできない。何者にもならずともよいというか、どちらかと言えば何者にもなりたくないからいまのままがよいけれど、なにもできなくなるのだけはいやだなあ。せめて好きなこと、やりたいことくらいはやれるようになりたい。やり遂げられるようになりたい。でも、なりたい、と言っているようじゃたぶんなれなくて、なりたい、なんて言ってないでまずはやってしまうくらいでないといけないのだよな。こんなつまらない、くだらない、憂さ晴らしの日誌なんかつむいでいないで、その分を新作にあてていればいまごろ十冊分以上の新作がつむげていたはずなのだ。なあんてこんなとらぬぽんぽこりんの皮算用をしてしまう時点でダメダメなのだ。そして来年もこのままダメダメなままの一年を過ごしていくことだろう。それもまたよしと思ってしまう自堕落な我が身を振り返り、ダメダメなままでも生きていける日々に感謝をして本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。




※日々、周りのひとがすごすぎる。



2461:【よい落とし】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。きょうは2019年の年末大晦日でござる。あしたからは2020年でござる。かといって何もすることがないでござる。変わり映えがないでござる。ことしはまたいちだんとずいぶんサボってしまったので、来年こそはちゃんとしたいでござる。ちゃんとした経験がないので、どうしたらちゃんとできるのかも分からないでござるが、それはそれとして、ちゃんとしたいなあと思っている旨は告げておくでござる。わざとじゃないでござる。ちゃんとはしたいのでござる。でもちゃんとできないのでござる。なぜなら、ちゃんと、がよくわかっていないからでござる。ちゃんと、ってなんでござるか? 早寝早起きをすることでござるか? 挨拶をちゃんとすることでござるか? ひとと仲良くして、おともだちになることでござるか? なー、ぜんぶできてないでござる。ちゃんとしたいでござる。でもでも、ちゃんとしたらたぶんいくひしさんはまいにち死にたい気分になってしまいそうでござる。いやでござる。いやじゃいやじゃでござる。じゃあそれってちゃんとしたくないってことなんじゃないでござるか、と首をこてんとしたくなるけれども、そうじゃないでござる。ちゃんとしても死にたくならずになりたいでござる。そういうことでござる。無敵になりたいでござる。ちゃんとしててもちゃんとしていられるようになりたいのでござる。好きなこと、やりたいことがちゃんとすることでありたいでござる。でもでもそんな都合のよいことは流れ星さんを見るよりすくないでござるし、みんなだっていやいやちゃんとしているでござる。たぶんそうでござる。じゃなきゃもっとひとにやさしくできるはずでござる。ちゃんとするってひょっとしたら、ひとにやさしくすることかもしれないでござるな。や、ひとにやさしいからこそ他人に厳しくて、やさしくしたいひと以外にはひどいことをしてしまうのかもしれないでござるから、やさしいだけじゃ足りない気もするでござる。ちゃんとするってむつかしいでござる。ちゃんとしたいでござるなあ、と来年の無謀を述べて、ことし最後の「いくひ誌。」にするでござる。読んでくださってありがとうございますでござる。そんな珍しいひとがいるとは思ってはいないけれども、いたらびっくりするので、念のためにお礼を述べておくでござる。よいお年をー、でござるー。あ、けっこうちゃんと挨拶できたでござる。やったーでござる。



2462:【無限は途方もないし、果てもない】

無限というのは本当になんでもありの概念なのだなあ、と認識を改めつつある。たとえば真偽のほどは知らないが、「円周率が無限につづくなら、その配列のなかにはゼロが一億回つづく箇所がでてくるだろうし、九が一億回つづく箇所もでてくるだろうと考えられる」とする話を見聞きする。また猿がランダムにキィボードを無限に叩きつづければ、その文字列のなかにはいずれシェイクスピアの「ロミオとジュリエット」とすっかり同じ文章が現れるし、もちろんこの「いくひ誌。」と同じ文章も現れるとも考えられる(そもそも猿には寿命があり、有限の存在なので、無限にキィボードを叩きつづけるなんてことはあり得ないのだが)。なんとなく、あり得ないだろう、と思えてしまうが、それほど無限というのは途方もないのだ。まず以って、無限に対する認識が甘いじぶん自身を疑ったほうがよいかもしれない。無限はどんな大きい数よりもはるかに大きいのだ。もうなんでもありなのだ。観測可能な宇宙に存在する原子の数をその数で累乗して、さらにその数で累乗してもまだ無限には遠く及ばない。何度累乗しても、どんな数で累乗しても、無限には届かないのだ。数の問題として処理可能であればまず以ってその解は、無限のなかに含まれる。たとえば言語であれば、必ずその組み合わせには限界がある。使う言葉がそもそも有限だからだ(円周率のように同じ繰り返しを許容すれば無限となっても矛盾しないが)。そして何文字の文章か、と外枠のフレームを定めてしまえば、「組み合わせの限界値」と「フレームとしての文字数」を掛け合わせれば、それが考えられ得る文字の組み合わせの解となる。そしてその解は確実に無限には含まれるのだ。無限を甘くみてはいけない。否、無限を甘く見ていました、と打ち明けて本日の「いくひ誌。」とさせてください。(数学どころか算数もまた不得意ですので、真に受けないように注意してください)



2463:【箱根駅伝】

箱根駅伝の二区で区間新がでたようだ。二区は23,1キロメートルだから、区間新の1時間5分57秒は1キロ換算で、だいたい2分51秒で走りきった計算になる。公道でこのスピードはかなり速い。ちなみに自作のショートショートで「箱根の道をいま」というのを去年つくったが、それで箱根駅伝の選手は1キロ2分30秒をきることもあると記述してしまったが、これは誤りだ。すでに修正済みだが、こういった誤謬は自作によくあるので、気づいたら順次修正している。基本的にいくひしさんの記述する数字は信用ならない。どんぶり勘定だし、計算式も間違っている確率が高い。正確な情報というものをつむげないので、これは時間をかけてじっくり修正していくつもりで並べていくより術はなさそうだ。しかしそれだといつまで経ってもネット上に更新できないので、文章を並べて推敲したら、ひとまず載せてしまうことにしている。読者に失礼だ、という感覚を否定はしないし、それはとても真摯な姿勢なのでそうした信念を以って文章をつむいでいる方はそのまま貫いてほしいと思ういっぽうで、いくひしさんには真似できないので、そこはご寛恕ねがいたい。年明け早々じぶんのふがいなさを自己肯定して、開き直ってしまったが、元来こういう性格なので致し方ない。じぶんにはいつでも甘いのだ。これもしょうがない。タイトルに箱根駅伝と並べてみたが、まだ選手たちは往路の三区を走っていて結果はでていない。しょうじきなところ数日後にダイジェストだけを見れば充分だし、見なくともそれはそれで構わない。しかしいざTV中継を眺めていると、それなりに見入っているじぶんに気づく。選手たちのこの日のために積んできた日々を想像すると、何かこう琴線を揺るがせるものがある。興味はないが、関心がないわけではないのだ。冷めた目で見てしまうが、だからといって熱いものが嫌いなわけではない。冷えていればこそ、湯船に浸かれば身体は喜ぶ。温度差があってわるいということはないのではないか、むしろあってしぜんだし、あったほうが物事を楽しめるのではないか、と思った本日のいくひしさんであった。(温度差がない状態に身を置いたら、おそらく刺激がなくて退屈しそうだ。じぶんより熱量の高いものに寄り添いたい日々である。根が他力本願なのだ)



2464:【根が腐っている】

完全なる寝正月になってしまいました。ですが、白状いたしますとふだんとそれほど変わりがありません。ことし一年も似たような一年になることでしょう。たくさん寝ても見る夢の数はそれほど多くはなりません。これには、本当はたくさん見ているのに憶えていないだけなのか、それとも本当に見ていないのかの二つの可能性があります。何か見ていた気がする、がもっとも多い寝起きの感覚ですから、何かしらの夢は見ているようです。ただこれも、起きた直後には憶えていた夢を起床後に忘れてしまうのか、それとも起きたときには忘れてしまっているのかの区別がつきません。おそらく両方のケースがあるもの、と見立てています。ときどき創作が煮詰まってくると明晰夢を見ます。夢のなかで創作のつづきを映像として見て、起床したらそのままその夢を出力します。かなり細部まで、物語の結末までを見るので、こういうときは楽に創作が進みます。ただ、夢は夢ですので、じっさいに出力するうえで、やっぱりここはこうだな、と変更することは多々あります。明晰夢を用いない創作においても、当初に予定していた筋道を外れるのはしょっちゅうです。骨組み(プロット)どおりにつくり終えたことのほうがすくないように思います。さいきんでは、最初と最後だけ点を打っておいて中間は自由に、という創作法が多くなってきている気がします。或いは必ずとおるべき点をあらかじめ決めておく手法もとりますが、この場合、打つ点が必ずしも物語にとって重要ではない傾向にあるのが、我ながらよろしくない気がしております。とはいえ、何が重要なのかはやはりできあがってからでないと評価できないのではないでしょうか、といった所感をつよく覚えておりますから、あまりこだわらずにやっていけたらな、と思っております。神は細部に宿るものなのかもしれませんが、しかしその細部を意図してつくりあげることは人間にはできないようにも思うのです。考えて、考えて、工夫したさきに偶然できた細部に神のほうから舞い降りてくれるのではないか、といった印象でしょうか。ここでもやはりある種の投げやり感、他力本願ぶりが発揮されておりますね。根が腐っているのです。腐り落ちてしまわないようにつねに腐る部位を萌やしつづけていられたらな、と願望を述べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください。



2465:【誤謬はないほうが好ましい】

自作の文章において誤謬が多分に含まれている、と上記で述べました。しかし小説は小説です。飽くまで妄想ですので、たとえば主人公の身長を間違って175メートルとしてしまっても、それはそれで物語として成立します。周囲のひとと何不自由なく生活していても、そういう環境が整っているのだと解釈すればとくに違和感はないはずです。物語の核に175メートルの身長がいっさいかかわらずに幕を閉じたとしたらさすがに、それって必要な設定でしたか、となるかと思いますが、そのときは単純におもしろくない物語だったなあ、で済みます。いくひしさんは小説に間違いはないと思っています。なんでもありです。ただじぶんの口に合うか否かの違いがあるだけです。そこが小説のよいところであり、まどろっこしいところでもあると思います。何が誤謬であるのかは作者のみぞ知ります。作者が意図せずに並べた文章や描写は総じて誤謬と言ってもいいでしょう。しかし作者は何から何まで意図通りに並べることはできません。そうしようと工夫することしかできないのです。ですから誤謬はそもそも含まれて当然です。ただ、それに気づいたときにどうするのか、に作家としての姿勢が表れるのかな、といった印象もありますが、定かではありません。いずれにせよ、小説から作家本人のことなど何も解かりはしませんし、作家は単に思いついた妄想を並べているだけです。妄想や見る夢は、それを見る人物があってこそつむがれるものですが、だからといってその人物の映し鏡ではあり得ません。あなたのDNAから判るのは、飽くまであなたの人体の形質です。あなたの人格まですっかり判ることはないのです。あなたの人格はおにぎりのようなものです。「具(ときにうめぼしであり、シャケであり)」といった先天的な性質に、後天的な産まれてから培われてきた種々相な「お米(来歴――経験や記憶や知識)」が肉付けされることによってかたちづくられています。それはDNAから逆算できるような代物ではありません。小説にも同じことが言えるでしょう。あなたという人格があってこそつむがれた妄想や夢であっても、そこからあなた自身を理解することなどできはしないのです。理解したつもりにならなれるでしょう。おおむね理解とはその程度のものです。どの程度の深度で理解したつもりになれるのか。極論、名前を知ったり付けたりするだけでも、ああなるほどね、となることも可能です。理解にもレベルがあるということですね。すくなくとも小説から判る作者像は、かなり浅い階層の理解と言ってよいでしょう。裏から言えば、小説はそれほど作者とかけ離れた物語をつむげる、ということを示唆しています。だからこそおもしろいと思うのですが、これは浅い所感でしょうか。誤謬はないほうが好ましいのですが、あってもおもしろければ文句はありません。論文やニュースはそうもいかないのですが、小説ですからね。そこは大いに甘えていこうと思います。だからおまえはうだつがあがらないのだ、といった正論はさらりと受け流して、本日の「いくひ誌。」とさせてください。



2466:【浅薄です】

いったん理解したつもりで、改めて自力で考えてみると「正しいとされている情報」に辿り着けないことがすくなくない。たとえば宇宙は膨張している。これは銀河と銀河の距離を測れば徐々に遠ざかっていると判るので、その速度から物理的に銀河が遠ざかっているのか、それとも宇宙の時空そのものが膨張しているのかが判るはずだ。ほかにも宇宙には、宇宙開闢時に放たれた微弱な電磁波が満ちているから、それを観測することでどの方向にも均等に膨張していると予想することができる。だがたとえば解からなくなってしまうのは、地球から観測可能な宇宙はおおざっぱに140億光年だ。しかし宇宙は膨張しているのでざっとその3.5倍の490億光年くらいは見通せると考えられている(数字はだいぶどんぶり勘定ですので信用なさらないでください)。だがここでいくひしさんは、ん?となってしまう。宇宙の膨張がもし光速よりも速いのであれば、むしろ膨張すればするほど観測可能な宇宙は狭まっていくのではないか、と考えてしまうのだ。それはたとえば音速よりも速く物体が遠ざかれば、音は置き去りにされて、じっさいの音源よりも手前の音しか聞こえなくなるのではないか(遅延が生じるのではないか)。どうして宇宙が膨張すると観測可能な領域が広がるのだろう。逆ではないのか。もし逆ではないとするのなら宇宙の膨張速度は光よりも遅いと言えるのではないか。この辺で思考停止してしまう。まずこの混乱の要因には知識不足が挙げられる。前提とされる宇宙膨張の速度や、宇宙を観測するとはどういうことか、といった知識が足りていないので、そもそも「観測可能な宇宙」というものを充分に理解していないために引き起こされる混乱と判断できる。また、思考のなかに「同時性」を取り入れているのか否かで、疑問の解釈が変わってきてしまうのも大きな理由の一つだ。たとえば太陽から地球までは光が届くのにおおよそ八分かかる。いま目にしている太陽の光は八分前の太陽の光だ。だからして、仮に太陽が地球から遠ざかりはじめたとして、いま太陽を目にしても、そのとき太陽は八分ぶんの距離を移動していることになる。これを拡大して考えると、百億光年の距離にある銀河を観測したとき、その銀河はすでに宇宙膨張によって百億年分、地球から離れていると考えられる。とすると、いま目にしている銀河は、現時点ではさらに広域な宇宙に属していると呼べる。このとき観測可能な宇宙は百億光年よりも広いと言うことが可能だ。同時性を取り入れて考えるとこうして詭弁的な解釈が成り立つわけだが、これは正しい表現ではないように感じる。なぜならいま目にしている銀河は飽くまで、百億年前のものであり、その時点ではその銀河は百億年分の宇宙膨張を経ていないからだ。つまり、見えている銀河は百億光年の距離の範囲に属しており、観測範囲はその時点ではまだ百億光年ということになる。あたりまえの話をしているが、だとすると、やはり観測可能な宇宙の範囲が、宇宙開闢とされる140億光年(どんぶり勘定です)よりも何倍も広いと考えるのは腑に落ちない。繰りかえすが、これはいくひしさんの足りない知識、そしてお粗末な思考だからこそ引き起こされる誤謬だ。ちゃんと知識を経て、順当に考えればこんな基本的な事項で混乱したりはしないだろう。いくひしさんも本を読んでいたときは、ふんふんなるほど、となったが改めて素で考えなおしてみると、あれ?となってしまったので、いくひしさんの拙さを披露すべく、いまふと浮かんだ疑問を並べてみた。もちろん賢明なあなたなら、何言ってんだこいつ、と笑ってくれることだろう。しばらく疑問を楽しんで、いくつかの仮説を立てたのちに、もういちど本を読みなおして疑問を解消しようと思うしだいだ。



2467:【ことしの運を使い果たしてしまった】

「贖罪を歌いました / rei sirose」https://www.youtube.com/watch?v=j1ArobXFdyQ「POISONED - EMA」https://www.youtube.com/watch?v=HTEUQz-duJ8&feature=youtu.be「DUSTCELL - LAZY」https://www.youtube.com/watch?v=F6KgJox-NmM&feature=youtu.be「Tómur 歌った 【ろん】」https://www.youtube.com/watch?v=W3ryD4KCyoE



2468:【何を比べるか】

周りのひととじぶんを比べるな、といった言説を見掛ける機会がある。言わんとしている内容はぼんやりと伝わるが、いかんせん言葉足らずに感じる。いくひしさんはよく他人とじぶんを比べている。比較しないことにはじぶんの立ち位置がよく分からないし、力量も精確に測れない。これは他人との比較だけでなく、過去のじぶんとの比較も含まれる。比べることそのものは足りない何かを補いたいと欲する者には不可欠に思えるし、そもそも発想や閃きというものが、類推という名の比較によって得られる。目を留めるべきは何を比較するのか、であって、比べることそのものの是非ではないはずだ。たとえば単純な結果を比較するのか、それともそこに至るまでの過程を比較するのかでは、得られる知見に差が生じる。比べるものが違うので得られる情報も違って当然だ。他人がどの山に登ったのかばかりに目を留めていては、たしかに得られる情報を活かそうにもなかなかむつかしいものがありそうだ。その点、あの山を登るためにそのひとは何をして、じぶんはそのうちの何をしていないのか、に目を留めれば、足りない何かを埋めることに繋がるはずだ。もちろん、ほかのひとが山に登ったからといって、ではじぶんも登らなければならないのか、と言えば否だろう。だがもしも同じ山に登りたいのであれば、可能なかぎりそれを楽々こなしている者がしていて、じぶんがしていないことを把握しておくと好ましい。登山にかぎらずこれは技術を要とする分野では共通して用いられる比較だろう。できている人の真似をする。じぶんと比べることで何が足りないのかを推し量る。目が肥える、というのはおおむねこの「何が足りないのか」が判ることを言うはずだ(何を加えたら理想に近づくかを想像できるため)。比較が物をいうのである。たほうで、技術のある者ほど無駄な動きや労力を削ぎ落している。ここでも「何がないのか」に注視することで、効率的に成果へと結びつく過程を幻視することができるはずだ。ただし、幻視できたそれが真実正しい道かはやはりいちどじぶんでやってみるよりない。他人にとって最適だからといって、ではじぶんにとっても最適かと言えば、これは九割くらいの確率で、否である。ほとんど十割と言いたいくらいだが、何事にも技術として認められたものには「基本」があるので、それを身につける利がある点を考慮して、九割に留めておく。人以外のものと比較できるようになると、やや進歩していると言えるかもしれない。お手本の幅をどんどん広げていけると好ましい。きょうもいちにち誰の何の役にもたたなかったので、むしろひとの足を引っ張ってばかりのじぶんがふがいなくて、憂さ晴らしに底の浅い所感を偉そうに述べた。こうでもしないとやってられないのである。偉そうなことを言っている者の九割はいくひしさんと似たような、ろくでなしである。残りの一割は詐欺師なので注意が必要だ。偉そうな言動を真に受けないようにつねに「よりらしいもの」と比較する癖をつけていきたいものである。



2469:【悪鬼って字面はかっこよいのだけど】

役立たずでろくでなしでも生きていてよい世のなかなので、大いに役立たずでろくでなしの日々を生きていこうと思うのだけれど、それはそれで開き直りすぎると他人の足を引っ張る悪鬼になってしまうのでむつかしいところだ。ろくでなしは、ろくでなしでいることに呵責の念を抱かないからこそろくでなしなのだが、たまにはひとの役に立ってやっかな、と思うくらいの酔狂を持ち合わせていないとすぐにクズ以下に堕ちてしまうので、悪鬼にならずに済むようにときには、誰かの何かの役に立ちてーなー、とぼやくくらいの欲求は持ち合わせていたいものだ――と、並べてはみたものの、それほどでもないな。



2470:【豊かさ=ろくでなしでいる余地】

いくひしさんはろくでなしだけれども、ろくでなしでいることの何が問題なの、と思っている。開き直っているからこそのろくでなしであるので、これはぐるぐる回ってどんどん濃く固く凝縮していく。ろくでなしというのはつまるところ、社会にとっての善に馴染んでいない存在という意味だ。社会の役に立っていない。だからろくでなしと評価される。しかしながらでは、「社会にとってわるいことだけれども善」なる事象など存在するのかと考えて、これはなかなか思い浮かばない。そうなのだ。善悪とは突き詰めれば「社会にとって」という枠組みの極限をさまようことになる。もちろんじぶんにとっての善悪はあるだろう。ただそれは概念としての善悪というよりも、本能や衝動や快楽に依存する。善悪ではなく好悪にちかい。ろくでなしは、この好悪を優先して日々を送ってしまいがちなのだが、では社会にとっての善悪を基準にして生活することが果たして本当に「善」なのかについては、さらに大きな枠組みでの基準が必要となる。もうすこし突っこんで言えば、いまの社会にとって善であっても、ではほかの時間軸上の社会にとってはどうなのか、そもそも社会は一つきりではないが、そこのところの折り合いはどのようにつけるべきで、その基準はいったいどの社会にとっての善悪に合わせるべきなのか、と考える事項は雪だるま式に増えていく。善悪と言ったときに、それはいったいどの階層における枠組みの話なのかの焦点が合わないうちに、比較的身近な善悪にばかりこだわって生活していると、長期的な視野での善悪を置き去りにして看過しかねる問題を誘発する事態を招く。環境変動や、資源問題はそのほんの一例だ。善悪は便利だが万能ではない。ほかの基準よりも汎用性が高いだけで、正確ではないし、例外を多分に含んでいる。そしてその例外はたいがい、放置しておくと大きな奇禍に発展する。ろくでなしは社会のお荷物かもしれない。しかしそうした重荷があることで、善悪の暴走を止めるブレーキの役割を果たすこともあるかもしれない。定かではない。定める必要もない。ろくでなしには関係がないのだ。回り回って社会のためになっていようが、人類のためになっていようが、ろくでなしなので、興味がない。日々楽しく暮らし、そのまま好きなことをしてやがて死ぬ。そういう人生を送れたら言うことがない。ただし、楽しく日々を過ごすためには、できるだけ嫌なものは目にしたくない。好きなひとが困っていたり、傷ついたり、好きなひとの好きなひとが困っていたり、傷ついていたり、或いはまったくの他人であっても、大勢が困り果てていたら社会はうまく機能せずに、ろくでなしでいることすら法律で禁じられてしまうような貧しい世の中になってしまう懸念がある。勘弁してほしい。そういう意味で、いくひしさんはろくでなしだが、ろくでなしではない善悪に忠実な人々を尊敬しているし、偉いなあ、と感謝している。ろくでなしはすくないほうがよい。いくひしさんがろくでなしでいる余地がなくなってしまうからね。





※日々、知らぬ間に誰かを虐げている。



2471:【なんもない】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはときどきこうしてほかのいくひしさんに替わって文章を並べるでござるけれども、まいにちはさすがにムリでござる。ときどきでござるけれども、それだってやっぱりムリなものはムリでござる。並べることなんか、なーんも、ないでござる。並べたいことも、なーんも、ないでござるよ。じゃあ並べなきゃいいじゃん、といくひしさんなんかは思うでござるけれども、そうはほかのいくひしさんたちが卸さないでござる。問屋さんでもないのになまいきでござる。問屋さんがなにかも知らないいくひしさんに文章を並べさせようなんて138億年はやいでござる。宇宙誕生からやりなおすがよいでござる。それはそれとして、いくひしさんは思うでござる。だれも読みもしない文章を並べてなにがおもしろいでござるか?って。でも、文章を並べているじぶんはすくなくとも並べながら読んでいるでござる。言語化しているでござる。翻訳しているでござる。脳内のぼんやりとしたモヤをしゅるしゅるって糸につむいで、それを言葉の箱にえいやって詰めこんで、ビーズの首飾りをつくるでござる。いくひしさんにとって文章は、判子遊びや積み木遊びにちかいでござる。その程度のお遊戯なので、ぜひぜひその程度のお遊戯として読んでほしいでござる。お遊戯はおきらいでござるか? 泥んこ遊びとかはいかがでござるか? ご遠慮するでござるか? おもしろいでござるよ。いくひしさんは言いながら泥んこでこねこね、クマさんの顔をつくって、クマさんにおひげはあったかなあ、と悩みながら、いいやって思ってネコにしちゃうでござる。並べることのない日でもこうして適当に、おもしろくないことを、えいやって並べてしまうでござる。やる気のない日でないとつむげない文章もあるでござる。こういう文章こそ貴重でござるよ。やや、そうでもないでござるか? まあよいでござる。よよいのよいでござる。よよいのよいってなんでござるか? 検索したら野球拳でござったでござる。いやらしいでござる。でも本来はじゃんけんで負けても服は脱がなくてよかったらしいでござる。いやらしくないでござる。どっちでもよいでござる。よよいのよいでござる。今宵のよいとは関係ないでござるか? こてんと首をかしげて、きょうはもうおしまいにするでござる。おねむでござる。おやすみーでござるー。



2472:【駄作かどうかはこっちで判断するのでとにかくつくったら載せてほしい派です】

WEB上で見つけた好きな小説家さんのほとんどが寡作というか、とてもていねいに作品に向き合って、言葉を選びぬいて物語を編んでいるからなのか、たくさん読みたいのになかなか新作を更新してくれないので、新作が投稿されていたときの、あの、じぶんのレベルが無条件で上がったかのような感じは、病みつきになるというか、たぶんパチンコとかギャンブルにはまってるひと、もっと言えば釣りに似ているのかな、なんて想像してしまって、もうすこしこうなんだ、かっこうのよろしい、斟酌せずに言えば褒め言葉みたいな形容ができないものかな、と苦笑いをしてしまうが、かといって感想とかこれといっていいね!や評価もしないので、どうあってもいくひしさんがこんなに楽しみにしていてよろこんでいるなんて作者さんは知らないんだろうな、とやや複雑な気持ちになるようで、じゃあじっさいに「こんなに楽しみにしています!」と感想をつづって送ったとしても、その想いの百分の一も伝わる気がしないし、お金にして振り込みたいくらいだけれどもあいにくとお金に余裕がないし、小額をちんまり送るくらいならいっそ、この想いを誤解されないでいたほうが個人的に納得できるので、こっそり楽しみにしつづけているほうがよいのかな、と悩みつつも、そうしてしまう日々なのだが、かといっていくひしさんの所感のいかんを問わずに、新作が投稿されるときは投稿されているし、されないときはぜんぜんされないので、こればかりはしょうがないのだ。待つ楽しみを覚えた、と言い換えてもよいかもしれない。覚えた、というか、ああこれか、みたいなね。



2473:【よわよわのよわ】

すぐに疲れる。たくさん寝ないとダメだし、身体があまり丈夫でない。でも大きな病気とか怪我はしないので、身体のほうはまだいまのところは問題なしの判子を捺してもよい気がする反面、メンタルのほうがいつでもよわよわのよわなので、こればかりはもうもうどうにかしたほうがよいな、うんうん、どうにかしなきゃな、とつねづね思っている。豆腐メンタルどころの話ではない。もうね、空気だよね。エアエアのエアよ。え、そこにあったの、みたいなね。シャボン玉だってもうすこし存在感あるよ、自己主張してるよー、みたいなね。メンタル弱いというか、え、メンタルどこ? ここにある? あ、うしろ? わ、踏んじゃってたよ、ごっめーん、みたいな塩梅で。メンタル、よわよわのよわです。そこのところぜひともよろしくおねがいいたします。(なにを?)



2474:【空白の音】

私がさいきん思うのはどうして人間ってやつはこうもぐにゃぐにゃと考えを曲げて、あのときはこう考えていたのに、いまはこうなんだろう、みたいな、水を飲んだらもう喉の渇きを忘れてこんどは甘いものが食べたいだの、たらふく寝たら散歩に出掛けたいだの、あれを買ったからこんどはあれが欲しいだの、欲求の留めどなさ、ひょっとしたらそれは止まることを知らぬピンポン玉のようなもので、あちらにぶつかればこちらに転がり、あちらに転がればそちらに弾みかえすようなちぐはぐさ、ああどうしてこうも脈絡知らずなのだろうね、私が思うのは人間なんてものはどうしようもなくちぐはぐなツギハギのうねうねで、そんなぐねぐねのぐでんぐでんが運よくこうも人型の入れ物に詰まっていられる幸運、ひょっとしたらそれこそが不運であり元凶なのかもしれぬ底なしの旅路、ああこの行く先不安定な足取りはいったいいつになったらまっすぐ歩く作法を身につけるのだろう、考えなる思考の筋道を歩いていたはずがいつの間にか起伏だらけの砂利道ジャングルをコテンコテンと渡り歩いていて、跳ねまわっていて、道などそこにあるのかい、と訊ねて回りたくもなる日々さ、ちょいとそこのきみ、と声をかけてみれば、振り向いたそのひとの姿はもう遠い彼方、留まってはいられぬこの身の中身のぐでんぐでんさにはほとほとよくよくトホホと落とす肩の軽さよ、ピンポン玉がごとく跳ねまわるこの身の宙に浮いている時間、起伏にぶつかっている時間、合わせてどちらが多いのかはさておいて、どちらが人生としてのスポットを浴びているのかと言えばそんなのはそろばんを弾くまでもなく後者の起伏にぶつかっているほんの短い時間でしかなく、ほかの大部分のコテンコテンと宙に弾んでいるあいだの足跡にも残らない思考の筋道は、やはりこうもぐねんぐねんのぐでぐでで、ああどうして私ってやつはこうもぐにゃぐにゃと考えを曲げて、さっきはこう考えていたのに、いまはこうなんだろう、みたいな言葉に落としこんでしまったらもう、それは私の中身ではなく、私ですらなく、コテンコテンのピンポン玉の落とした地図のうえの影なのだ、光がないならコテンコテンと響く合間の空白の音としてもよい。



2475:【カモカモうるさいかもしれない】

じぶんに嘘をつかない文章がよい文章なのだそうだ。言葉のありかたについて、そういうニュアンスを述べていた小説家の記事を読んだ。その小説家に限らずこれはたびたび耳にする言説だ。異論はない。そういった、そのひとだからこそつむがれる固有の言葉にはたしかに魅力があるし、肌に合う合わないにかかわらず何かしらの引力めいたものを感じる(気のせいかもしれないが)。ただ、いくひしさん個人としては、これまで嘘の言葉しかつむいでこなかったし、そもそも「真」を並べることができるとも思っていない。どちらかと言えば、いかに上手に偽われるか、にちからをそそいできた気がする。じぶんに嘘しかついてこなかった人生だ。嘘しかついてこなかったからこそ、ありのままでいようとすると嘘しかつむげないのかもしれない。これもまたある側面では「じぶんに嘘をつかない(正直)」の一つのカタチなのかもしれないとは思うものの、さすがにこれは言葉遊びにすぎる気もする。あまり断言しないようにしているのは文責を負いたくないとする自堕落な性根がゆえの保険かもしれないし、嘘は嘘でも「嘘かもよ」と告げるくらいの誠意は持ち合わせているとの懸命なアピールなのかもしれない。またまた、かもしれない、だ。あいまいに言えばいいってもんじゃない。なんにせよ、嘘を吐くのが楽しいし、嘘でーす、と言えば許されるだろう、みたいな投げやりな生き方はそれはそれで心地よい。嘘でーす、では済まされないことももちろんあるけれども、それはそれ、これはこれ、嘘でーす、という態度ででしか明らかにできない言葉もあるだろうし、そんな言葉は嘘でも並べるべきではない、という気もする。もはや「気がする」と語尾につけたらなんでもいける気がする。根元を穿り返してしまうけれど、じぶんに嘘を吐かない言葉をつむげるひとは端からじぶんに嘘を吐かない生き方をしているのだ。正直に生きているひとの文章がつまらないわけがない。正直に生きていられるのは強者だけだからだ。強者の言葉はおもしろい。生き残るヒントがそこに潜んでいる。生の活力に満ちている。その点、偽って生きているいくひしさんのような歩く仮面舞踏会には、嘘で塗り固めた文章がお似合いだ。あ、似合ってしまった。ぴったりだった。これでよかった。なんだ。ふぃっくしょん。よい文章もよいけれども、いくひしさんはいくひしさんにお似合いの文章のほうがお好みだ。お口に合う文章で、物語に馴染んだ文体で、いくひしさんにぴったりの言葉のつらなりに出会えたら、嘘でも真でもどっちでもよいのかもしれない。すくなくとも小説は小説だ。嘘っこだからおもしろい。この感覚だけは、たぶんこのさきも変わることはない気がしている。あ、またまた「気がして」しまった。もしやいくひしさんは「気がする」の天才なのかもしれない。そんなことはないのかもしれない。カモカモきょうはいちだんとうるさいかもしれないけれども、それはそれとして、はっきりとしないどっちつかずの偽物の王、歩く仮面舞踏会こといくひしさんには、これくらいの曖昧模糊さに蒙昧さがお似合いなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。うーん、どうだろうな、なんだかこれもやっぱり気のせいかもしれない。



2476:【高ければいいわけではない】

AIにかぎらないのだろうが、たとえば技術力が発展していくと、それそのものの能力を強化していくのは案外に簡単になる。反面、どちらかと言えば強化された能力を目的に沿って制御することのほうが格段にむつかしい仕事になると言えそうだ。これは妄想でしかないが、インターネットの検索にはAIが用いられている。このさき、性能がどんどんアップしていけば、仮に好きなひとの名前を入れるだけで、そのひとに関連したデータが(SNS上の発言から何まで本人が本名で投稿していなくとも)一挙にタグ付けされ、一覧できたりするかもしれない。というよりも、現状すでにこのレベルの情報解析能力を持ったAIは開発されているはずだ。だが、それを社会に適用はできないだろう。能力を強化したつぎの段階では、それを人間社会に見合ったレベルに落としこまなければならない。そしてこの、人間に見合ったレベルを見繕うのはまだまだAIにはむつかしい作業だ。何が人間にとって都合がよいのかは、新しい技術を使った人間がどのようにそれに反応し、どのようなコミュニケーションへと発展させていくかを高い精度で予測しなければ判らない。言い換えるならこれは、人間とは何かをAIが理解していなければできないことであるし、それが可能となった時点で、AIは仮想空間に人間とまるで同じ電子生命体をつくりだせるくらいの能力を持つことと同義だと言えるかもしれない。そしてそのレベルのAIの開発にはまだ当分かかりそうだ。よって、まずは高い能力を持った道具をつくりだせたときに、それを用いた人間がより快適な生活を営んでいけるのか、は慎重に実験を繰りかえしてデータを集めていかなければ予測するのはむつかしいし、もっと言えば、どのくらい正確なタグ付けであれば、人間は理想的な生活を送れるのかもまた、じっさいに人間に適用してみなければ判らないことであり、やはりこのさきどれほど能力の高いAIが開発されたとしても、人間を再現さしめるほどのAIでないかぎりは、それらAIに類する道具を人間社会に適用運用させるには、人間の持つ能力や思考の介在が必要不可欠である、と言えるだろう。ただし、一部の人間が一般社会に出回っていないそれら能力の高い道具を使って、かつてないほど広域で正確な情報収集や情報解析を行うことができる懸念は覚えていたほうが好ましいのではないか。あなたの名前を入力するだけで、あなたがこれまでインターネットにアクセスし行ってきたあらゆる投稿や反応や買い物、閲覧したサイトなどがビッグデータとして一覧できても、もはやおかしくない世のなかかもしれない。(同名同性くらいは大勢いるだろうから、名前のほかに画像や住所くらいは入り用だろう)



2477:【ジュンク堂ロフト名古屋店さんにはお世話になりました】

書店には本との偶然の出会いがある、よって書店がなくなると出版文化がますます衰退してしまう、との理屈を目にする機会がある。間違ってはいないが、正しいとも思えない。偶然の出会いというのならばいまはSNS上で見かける書籍情報のよほど偶然に満ちているし、購買意欲に繋がっているのではないか。書店がなくなると本の売り場が消えるので、本の売上は下がるだろうが、それは本との偶然の出会いとはあまり相関関係はないように思う。売り場が消えるのだから本の売り上げが減るのは当然だ。誤解がないように注釈を挿しておくが、いくひしさんは書店が好きだし、外出したときはたいがい書店に寄っている。やはり、何かおもしろそうな新刊がでていないかな、と何の気なしに立ち寄って偶然の出会いで本を購入することもある(注目作やコーナーを設けてあるとやはり目が留まる)。そうして購入する本が大半かもしれないが、これはそもそも新刊発売日を調べるのが面倒だからであり、書店に足を向けずともあなた好みの書籍が発売されていますよ、とひと目で判るサービスがあるのならそちらを利用する。いくひしさんにとってじぶんでネットで検索して調べるよりも、書店に足を運んだほうが楽だからそうしているのであり、世の大半のひとはおそらくは書店に足を運ぶほうが面倒に思うのではないか。言うほど本を買ってはいないし、読んでいるわけでもないので、あまり売り上げに貢献できていないので言えた口ではないが、書店がなくなると困るのはたしかだ。何にせよ、出版業界のツケをまっさきに払わされるのが書店だというのは哀しく思います。



2478:【暗い話がつづきます】

ビジネスについて考える。ビジネスはお金を稼ぐことだ。ただお金を稼ぐのではなく、お金をやりとりするなかでお互いに必要なものを交換することが目的にあるはずだ。言い換えるなら、お金を稼ぐ以前にそもそもお金を使ってなしたいことがあるからお金を稼ぐのだ、と解釈できる。お金を稼ぐのは飽くまで手段であり、目的ではないはずだ。限定的な話になるが、たとえばある分野を盛り上げたいと目的を定めたとする。なぜその分野が盛り上がってほしいかと言えば、おそらくはそれを生業とする者たちがその分野に携わるだけで食べていけるシステムを構築しやすくなるからだろう。つまり需要が生まれるので、供給することに集中しやすくなる。そのなかで、一流を育てるためには、すそ野を広く保つ必要がある。素人が素人のままでいても競争原理に振り落とされず、食いついていけるコミュニティが築かれれば、それは一流が誕生しやすく、一流同士での切磋琢磨も盛んになり、分野全体の発展に貢献する。だがお金をまっとうに稼げるのは一部の実力者だけだ。ではそのほかの実力のない者たちを切り捨てていくとどうなるかと言えば、これは人口減少の問題と同じく、その分野は緩やかに衰退していく。人口の問題であれば、ある一定のラインに達すれば、人口ピラミッドは一回りちいさくなってまた三角形のカタチに復活し、バランスよく回路を機能させることが可能となるが、分野の場合はそうもいかない。いちど実力のない者を切り捨てる仕組みができてしまうと、あとはもうどん底に達するまで、すそ野は狭まっていく。たとえば才能取扱い事業では、まだ売れていないが見込みのある者に投資をすることで、将来的に実力者となってもらって投資した分以上の利益を回収する仕組みがとられている。投資した分を回収する前に才能に去られてしまうと困るので、それを阻止するような罰則がとられることもある。じぶんたちの元を去ればもう二度と支援しないどころか、仕事を回さないように根回してやる、といった具合だろうか(まずは投資しただけの成果を確実にあげて、付加価値をつくってから言ったらどうか、とは思うが、話がずれるので触れずにおこう)。だがそもそも何のためにそのビジネスをしているのか、を忘れてはいないだろうか。分野を発展させるためであるはずが、お金を稼ぐことが目的となってしまって、みずから墓穴を掘る真似をしてはいないだろうか。しかも、その理屈であれば大御所や実力者ほど罰は重くなるはずだ。にもかかわらず、現状はむしろ、大御所や実力者には甘く、付加価値のついていない者ほど厳しい罰を科せられる傾向にないだろうか。分野の発展を目的とするのならむしろそこは逆だろう(逆であっても問題に思えるが)。けっきょく分野の発展という大義名分を掲げて、じぶんたちがお金を儲けて、名声や権力を得たいというのが正直なところなのではないか。そういう生き方もあってよいが、だったらもうすこしそうした欲求に忠実な生き方に正直になったらよいのではないか、と思うのだが、本人たちがそのことに気づいていない以上、傍からどうこう言ったところでどうしようもないのだ。お金を稼ぐのはむつかしい。経営者の苦労は理解できる。だからといって、目先の利益を追求して分野のすそ野を狭めるような真似をされると、さすがに苦言の一つも呈したくなる。呈したところでどうにかなるわけでもないので、こうして日誌に漏らす程度に留めておこう。(なぜその分野を発展させたいのか、にも目的があるだろう。優先すべきは本来、こちらのより上部層に位置する目的のはずだ。なぜその分野を発展させたいのだろう。答えはおのおのあるはずだ。ときおり、なんでだっけ?と思いだしてみる習慣をつくるのもわるくないのではないか。知らぬ間に目的が変わっていることもあるだろうし、それはそれで貴重な変化であるかもしれない。目的が変われば手段も変わる。やはりときおり、なんでだっけ?と振り返ってみるのはそうわるい習慣ではないように思う。目的が社会のためでなくたってむろん構わない。社会が発展してほしいと望むのもまたけっきょくのところじぶんのしあわせのために行き着くのだろうから。とすると、その分野が発展しなくともじぶんがしあわせになれるのならとくに分野に発展してほしいとも思わなくなるのかもしれない。そういう個人がこれからはきっと増加していくだろうとの妄想を蛇足として並べて、本日の「いくひ誌。」とさせてください)



2479:【知らぬが仏】

真実本当に救われているときにひとは、救われていることを自覚できない。水を飲めなくなって水のありがたみに気づき、空気を吸えなくなって大気の存在に気づく。



2480:【下等生物】

連絡がきても無視するし、ろくに挨拶もしないし、礼儀はなっていないし、こうして陰口ばっかりを叩いているし、ひとからもらった恩を仇で返すし、ルールは守らないし、約束も破るし、ふざけているし、なまけているし、すぐに嘘をつくし、投げだすし、メンタルよわよわだし、本当のことを言わないし、ひねくれているし、かたよっているし、無知だし、実力もないし、実績もないし、好き嫌いが激しいし、差別的だし、ひとに厳しくてじぶんに甘いし、良識がないし、常識もないし、教養ってなに?ってレベルだし、幼稚だし、口下手だし、人見知りだし、引きこもりだし、整理整頓が苦手だし、勉強ができないし、知能が低いし、友達がいないし、恋人もいたことないし、未経験なことがたくさんあるし、ひとに自慢できることが何一つとしてないいくひしさんではあるけれども、それでもそれなりに楽しく日々を生きていけるのだから世の中なかなか捨てたもんじゃない。いくひしさんは運だけはよいらしい。いつか天罰が当たりそうでこわいけれども、いつかはどうせひとは死ぬのだから、誰だって同じという気もする。いくひしさんよりたくさん優れているひとが毎日死にそうな顔で生きていることもあるし、いくひしさんよりもっと選択肢のすくなくみえるひとがいくひしさんよりも伸び伸び日々を楽しんでいたりするし、本当に、何がじぶんにとってためになるのかは分からないものだ。いくひしさんはいくひしさんでよかった、と思ったことはないけれど、いくひしさんは恵まれているなあ、とはしょっちゅう思うのだ。創作活動にしても、これほど才能がないにもかかわらず「あはははー」と暢気につづけていられるのは、これはもう環境に恵まれているとしか思えない。というか、恵まれているのだ。いくひしさんはじぶんでじぶんがうらやましい。なんてやつだ、ずるい、とすら思う。あ、そうそう。いくひしさんはずるいのだった。それも付け加えておかなければ。いくひしさんはほとほとほ下等な生き物だ。でも下等なことの何がよくないのだろう。下等でも上等でも、それぞれ得意不得意な面があるはずだ。細菌と哺乳類とでどちらが下等かと言えば(仮に人間を高等と位置づけるのならば)、細菌だろうけれども、この世から細菌がいなくなったら哺乳類は生きていかれない。下等も上等もどっちも相応に互いの至らぬところを補完しあっている。まずはそのことに気づくことがたいせつなのではないかな、と偉そうなことを言いながら、そこで躍起になったひとたちの頑張りにどうやったらタダノリできるかな、とあくどい考えを巡らせて、いつまでも下等なままでいつづけようとする姑息な生き物、いくひしまんでした。



※日々、じぶんのことしか考えない。



2481:【大王さま】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはすっかりサボり癖がついてしまってもうダメダメでござる。もうというかいつもダメダメでござる。いっぱいサボってしまったのできょうからまた、おりゃー、ってやっていきたいな、と思ったでござるけれども、なんだかお風呂に浸かっているあいだに、ふにゃー、となってしまってもうダメダメハ大王でござる。どこかに穴があいているでござる。吹いても吹いても膨らまないでござる。燃え尽きなんとやらでござる。でもでも燃えた過去がないので、もとから灰かぶりのサラサラサハラ砂漠でござる。いくひしさんは精神年齢がすごくとてもうんと高いので、三歳ではないので、ほんとにほんとにおさなくはないので、たぶん五十億歳とか、六十億歳とか、もしかしたら三兆歳とか、そんな感じなので、身体のほうがもうすこしがんじょうに育ってくれたらうれしいでござる。脳みちょのほうも記憶力とか計算力とかひとと仲良くできる力とか、赤ちゃんみたいにだれからでも甘やかされる力とか、語彙力はうんとあるのでまとめてかわいい力と言い表すでござるけれども、いくひしさんの身体さんももうちょっとだけ精神さんを見習って、こうなんていうかなー、がんばってほしいでござる。背伸びをするがよいでござる。もうちょっとじょうずにごまかしてほしいでござる。すぐに眠くなるのはなんででござるか? そんなにたくさん寝てまだ寝たりないでござるか? いっそ永遠の眠りについてみてはいかがでござるか? しつれいでござるか? しつれいしましたでござる。いくひしさんは日に日に、あんぽんたんでーす、となっていくでござる。人生に迷子になりすぎてもうすこし経ったらどこからか、ぴんぽんぱんぽーん、って聞こえてきそうでござる。みなさまに迷子のおしらせでござる。恥ずかしいでござる。南の島にでも移住して、まいにち、おてんとさんでーす、と仲良くぽかぽかひなたぼっこをしていたいでござる。ダメダメハ大王はもう飽きたでござる。カメハメハ大王になるでざる。でも大王はなんだか偉そうで、たいへんそうなので、いくひしさんは浜辺でかめはめ波を撃つ練習をするでござる。修行でござる。なんかやる気がでてきたでござる。かめはめ波くらい撃てそうな気がするでござる。でもきっとまた、ダメダメだー、ってなって、おりゃーってなって、お風呂に浸かって、ふにゃー、ってなるでござる。なんだかそれもいい気がしてきたでござる。そんなにダメダメではない気がしてきたでござる。やったーでござる。じゃあもうきょうは寝るでござる。夢のなかでならいつでもどこでも超無敵、いくひしさんはやっぱりきょうもダメダメハ大王だったでござるー。



2482:【覚書き】

現在確認されている世界最大の生き物はキノコである。地表数キロにわたって菌糸を伸ばし、繋がりあっている種が発見されている。妄想でしかないが、おそらく細菌類であっても、地下で増殖して巨大なコロニーを築いているだろう。DNAが同じであればそれらすべてで一個体と判断可能だ。とすると地球上でもっとも巨大な生き物は細菌類となるかもしれない(ただし細菌やウィルスは分裂と死滅のサイクルがはやいので、突然変異を起こしやすい。DNAレベルですべて同じ個体が広い範囲にわたって増殖しつづけられるとは思わないが、しかし環境変化が乏しく、長いあいだ同じ環境がたもたれている場所であれば、自然淘汰によって突然変異種は生存に適さずに、けっきょくのところ同じDNAを持った個体しか増殖できなくとも理屈上では矛盾しないように思うしだいだ)。また、人間のDNAには人体の設計図としてのDNAのほかに、ミトコンドリアのDNAもまじっている。通常人間のDNAは一つの細胞に一つだが、ミトコンドリアDNAは一つの細胞にも複数まじっており、しかもその一つ一つがまったく同じDNAとはかぎらない。ミトコンドリアDNAは人間のDNAと比べるとはるかに変異を帯びやすいようだ。よって個々人によって固有のパターンを有している確率が高く、個人を同定するのにも使えるという。とはいえ、人間のDNAであっても、非コードDNA領域では頻繁に変異が起きているようだから(タンパク質を合成する領域ではないため人体の変異として表れないのでそれら変異の影響を観測するのはむつかしいにしろ)、いまより技術が進めば、人間という種はこれまで考えられていた以上に、個々人によってDNAレベルで異なっているのだ、と判明してくるのではないか。それは一卵性双生児であっても例外ではなく、ともすれば完全なクローンであっても、まったく同じとはならないのかもしれない。(妄想ですので真に受けないでください)



2483:【サボるのだってサボっちゃう】

衰えた分を取り戻そうと、元に戻ろうとするよりかは、いっそ変化する契機だと思って、これまでとは違った方向に舵をきってしまうほうが楽だし、わくわくしながらまた目のまえの目標に向かってあーだこーだできるのでむしろときおり変化したいがために敢えて衰える期間をあけたりするし、サボったときには、身体が変化しなさいと言っているのだな、飽きてきているのだな、と思って思いきってサボることにしている。そうは言っても言うほど変化できていない。人間というのはそういうものだ。変化しようと思っても、けっこうあんがいにしっかり自己に縛られている。大きな変化を経られない。ちいさな変化ならまいにち誰であっても経ている。身体は細胞分裂をくりかえしているし、骨ですら七年ですべての細胞が入れ替わると言われている。ちいさな変化は刻一刻と経ているのだ。だが大きな変化はむつかしい。もっとも手軽に変化を経るには、壊れたり、欠けたりすることだ。しかしいくら大きな変化とは言っても、能力が落ちては目的達成を困難にするだけであまりうれしくはない。だが、あいてしまった穴や欠陥を埋めようとして、これまでなかった変化を経ることはある。どうやって穴を埋めようか、衰えた性能で目的を達成しようか、と考えることそのものが大きな変化の礎になっている。要するに、てっとりばやく問題を抱えてしまって、その問題を乗り越えることで大きな変化を経ようとするしょうもない姑息な手段というわけだ。ただし、これが意外にも功を奏することがある。長期的に見ればみるほどあのとき変化しておいてよかった、舵をきっておいてよかった、と思えるのだ。この要因の一つとして、じぶんにとっての必殺技や長所がもっともはやく衰えはじめる点が挙げられる。つまり、もっとも負担のかかっていることほどサボるとすぐに衰えてしまう。そこを極めて行ければ天才にちかづけるが、しかしいくひしさんは天才ではない。いくらそこを突き詰めても天才にはなれないし、絶対に追いつくことができないのだ。ならば天才の辿らなかった方向に舵をきるほうがおもしろいし、負けないし(競わないのだから当然だ)、たとえ誰からも評価されずとも、誰も見たことのない景色を見る確率があがる。もちろん誰も見たことのない景色を見たからといって他者より優れていることにはならないし、とくべつえらくもなんともない。ただ、山をのぼったからこそ望める景色があるように、そこに辿り着いた者だけが得られる満足感があるのはたしかに思われる。そしてできるだけ多くのそうした満足を得たい。とすると、なるべく負担のすくない道を歩きながら、あーだこーだしつづけるほうが満足を得る確率をあげられそうに思うのだ。誰かに勝ったり、称賛されつづけるには必殺技がないと困るのだろう。だがいくひしさんは端からその道を諦めてしまっている。だから飽きてきたらすぐにサボるし、身体が悲鳴をあげてきたらやはりサボって、これ以上の負担を大きくしないようにと変化の転換機として敢えて衰えるようにしている。すぐには衰えないもので、確実に蓄積されつづけていくものだけで得られるちいさな満足をやはり積み重ねていきたいのだ。だからでもないがいくひしさんはサボるのが嫌いではないし、衰えるのも嫌いではない。その分、変化を得られると知っているからだ。もちろんサボったり、衰えたりしたら、その分を補うべく変化しようとまたすこし足場のわるい道をいくこととなるが、アスレチックがそうであるように、多少の起伏があったほうが旅はおもしろいものだ。道が平坦になってきたら起伏の多そうな道へと逸れてみる。そのための指針をみつくろうべく、きょうもいくひしさんは大いにサボって、衰えるのである。



2484:【差異の才】

空想に現実が侵出してくると途端につまらなくなって感じられるけれども、現実から空想へと羽ばたけるとそれはおもしろくなって感じられる。この違いは大きい。



2485:【おもわん】

自己肯定感が底をついてしまうと楽なのだが、中途半端に、もっとできるはずなのに、となってしまうと苦しくなる。なので、もっとできるはずなのに、となる前に、いやいやきみの実力はそれだから、むしろそれだけできたらじょうできだから、おまえのデキソコナイ具合はそんなもんじゃないから、舐めちゃいかんから、じぶんのクズさに自信を持つんだ、とやって、そっかそっか、そうだったわー、わいがこれだけできたらすごいんや、赤ちゃんがエベレストのぼったようなもんなんや、すっごいなぁー、やったやった、えへへー、となって、自己肯定感をどん底に突き落とすようにしている。めっちゃ楽。くるしいときは真似してみ? じぶんで思ってるほどじぶんはすごいやつじゃないし、たいしたことないんやで。それでもそこまでできてるんやで。すごいやん。きみはめっちゃすごいねんで。いくひしさんは知ってるんやで。安心してやりたいことをやって失敗して、また何度でも挑戦したらええんやで。自己肯定感なんかあったらもうけもん、くらいなもので、なくても困らんで。むしろ両手がふさがって、あっぷあっぷになってるときほど自己肯定感を持つと重荷になってくるしない? くるしいくるしい。捨ててしまえばええんやで。必要ならどこからでも取りだせるんやで。拾い直せばええんやで。けどもいくひしさんは自己肯定感なんかいらんので、気づいたら生えてるカビみたいなもんだと思ってるから、シュッシュって見つけしだい、根こそぎ除菌してまうで。自己肯定感ゼロや。肯定しなきゃ生きていかれないなんてそんな世界はイヤじゃもん。ね。そう思わん?



2486:【野望の対義語は?】

いくひしさんにはとくに成したいこともなければ野望もない。できるだけ好きなことを好きなときに好きなだけ「独り」で没頭できる環境があればそれで充分至極である。だいじなのは、独りで没頭できる環境がほしい点だ。中断されたり、邪魔をされたり、干渉されたりしたくはない。だが、いくひしさんは独りでは生きてはいけない。他者からの恩恵をたくさん受けており、それにはたいへん感謝しているが、だからといっていくひしさんがその恩に報いているかと言えば、否である。そういう意味では現時点においていくひしさんの希望は叶っていると呼べる。おおむね、客観的には引きこもりの社会的おちこぼれであるが、主観的にはエジプトの王妃さまきどりである。王さまでないのは、王は何かを統治する存在であり、その点、いくひしさんは何も支配していない。自由気ままにその日暮らしを送っているだけであるので、王さまではないし、王妃さまは王妃さまでたいへんそうなので、それもまた違っているかもしれない。お嬢さま、或いは、おぼっちゃま、それかペットの猫か犬でもよいかもしれない。ペットの猫、いいですね。なってみたいものです。誰かいくひしさんを飼ってみたいひとはいませんか? いってらっしゃいと、おかえりなさいと、ごちそうさまと、おつかれさまが言えます。



2487:【情報と知識の違い】

光速の求め方も、証明の仕方も知らない。光がおおよそ秒速三十万キロだとされていることは知っていても、本当にそうなのかは知らないままだ。ほかの情報にしても同様で、本当にそうなのか、と確かめたり証明したりすることがいくひしさんにはできない。情報を使って何かを新しくつくることもほとんどしていない。どれほど情報を溜めたところで、知識を溜めていることにはならない。情報を記録しているだけなら辞書やハードディスクと同じだ。そこに知識はない。知能はない。無知とほとんど同義と呼べる。役に立つことが知識だ、と言いたいわけではない。正しいことが知識だ、と言うつもりもない。ただ、情報をたくさん蓄えていることと知識を蓄えることは同じではないことを知っていても損はないはずだ。料理の名前をたくさん知っていても料理ができないなら、料理をすこしでもつくれた者のほうが調理に関する知識はあると呼べる。だが、多くの料理の名前をどうすれば知ることができるかを知っていることもまた知識となる。情報を集める手法そのものが知識となる点は強調しておきたい。集めるだけでなく広く伝える手法もまた知識であろう。情報量の多寡だけでは知識の量や質を測れない。情報は使い方や視点によって、知識にも雑音にもなる。情報をどうすれば知識にすることができるのか。これは知恵や知能の介在が鍵となりそうだ。つまり知識があるとは、情報を解凍し、必要な用途に適用したり応用したりできることを言うのかもしれない。ものすごく根本的な話をしているが、脳内でもうひとりのいくひしさんと話していると共通認識として成立していない気がしたので、並べておきました。



2488:【すべて嘘が理想】

この「いくひ誌。」に並べるような文章を、いくひしさんは極力小説には並べない。新書や小論文もどきをつくりたいわけではないからだ。具体的な情報はすくなくてよい。いくひしさんは小説を通してお勉強をしたいわけではない。虚構を、物語を、楽しみたいのである。



2489:【遅延(ラグ)】

ものすごく単純な話として、物理法則の結果として生命は誕生している。物理法則にはそもそもそれくらいの能力というか可能性が含まれているのだ。ある環境が整えば人間のような生命体が誕生し得るし、もっと言えば環境さえ整えば、物理法則の結果として人間よりも高次の思考形態を有する生命体だって誕生しておかしくはない。人間がコンピューターを生みだしているのもある意味では物理法則の結果であり、宇宙を漂う無数の揺らぎの結果と言える。人間の思考がゼロからそれを生みだしているのではなく、その前段階として宇宙に漂う無数の揺らぎがそれを可能とする余地を与えている。そこに人間のイメージする意思のようなものはないだろうが、すくなくとも人間というものをカタチづくるだけの潜在能力のようなものがこの宇宙には漂っているようだ。人間は飽くまで物理法則によって誕生し、その物理法則は宇宙に漂う無数の揺らぎから生じている。何かができるようになるには、何かを禁止する制約が欠かせない。不自由や不平等といった偏った均衡が、一律の揺るぎない結末へと無数の筋道を、可能性を、与える。波が干渉するにはまず波を妨げる障害物がなければならない。波と波が干渉しあうのですら、互いに自由な動きを妨げあっている。なにをさせないか、の連続によって宇宙には物理法則が生じ、さらに無数の制限によって多種多様な物質ができ、構造が編まれ、生命体へとその枠組みを細部に緻密に多重にひろげつづけてきた。あたかも波が遅延によって生じるように、変化の軌跡を蓄積し、階層構造をそこここに重ねてきた。波とは連続した密度の変化だ。濃いと薄いの連続が、宇宙に漂う無数の揺らぎの根幹だ。それを遅延(ラグ)と言い換えてもそうそう的を外してはいないだろう。時間は相対的であり、空間とセットで伸び縮みを繰りかえす。そこにもやはり波があり、かたや重力波と呼ばれ、かたやチカラを物質へと組みあげるちいさなちいさな枠組み、境界として機能する。我々は無数の遅延(ラグ)でできている。ズレているからこそ個の枠組みを保てるのだ。ズレているからこそ集合しても粒としてその枠組みを保ち、他者と同化せずにいられるのである。遅延(ラグ)を意識しよう。ズレていることの本質に目を向けるのだ。(いい加減なことを並べました。真に受けないでください)



2490:【基本が何かすら分かっていないかも】

行き詰まるときは経験上、基本が足りていない傾向にある。基本は足場であり、柱であり、はしごでもある。いまそれが必要でなくともいずれ川や崖や谷を越えるのに必要となる。というよりも、先人がすでにそういった隘路にぶつかったときに楽に越えられるように編みだしてくれたものが基本なのだ。よって基本をおろそかにしていても問題ない状態というのはたいがい、先人が歩んだ道すらまだ辿れていない状態と言うこともできる。ただし、先人の辿った道以外の、まったく異なった領域へと歩を向けている場合にはこの限りではない。とはいえ、足場や柱やはしごを持っていれば選択肢が増えるので基本を身につけておいて損はないはずだ。ただし、基本を両手で抱えてしまっては目のまえの隘路を越えるどころか、足取りすら重くなりかねない。基本はいちど身に着けたらよこに置いておいてもよい。影のようにかってについて回る。そして必要に駆られたらまた手にすればよいのだ。




※日々、自業自得を積み重ねる。



2491:【あきらめるのはじょうず】

努力ができないので、ひつぜん、がんばることもできない。努力はしたいし、がんばりたいのだが、できないのだ。これはもうしょうがない。努力できるひとはかっこいいし、がんばっているひとも輝いてみえる。うらやましい。



2492:【はい】

ことしはできるだけ、これまで以上に、めだたないように生きていこう。透明人間になるんだい。



2493:【陰湿】

じぶんの性格わるすぎてびっくりしちゃう。根がいじめっこなのよね。



2494:【どこで習ったの?】

みんな性格よすぎでは? その素直さ、やさしさ、おだやかさはどこで習ったの、いつごろだろ、あ、わかった、小学校三年生の秋ごろでしょ。あーやっぱり、だってまんちゃんそのころたくさんズル休みしてたもんね、どうりでねえ。



2495:【だまってて】

あー! あー! またみんなしていくひしのことそうやってわるく言ってふんだ!



2496:【どうせそれもゴッコでしょ】

まんちゃんさぁ、そうやってまたあたまおかしいフリしてじぶんは特別ですって醸すのやめたら? 似合ってないし、寒いよ。極寒。シベリア鉄道がぽっぽーって走っちゃうくらい激サム。あー、なんだっけあれ、あのひと、映画俳優の、そうそう、ジェイソン・ステイサム。ぜんぜん関係ないじゃんね。あ、ごめんごめん。なんかさ、ほら、ずいぶん久しぶりだなぁって思って。なあに、またアイツけっきょく閉じこめたわけ? だったら最初からだすなって話。そうでしょ、そうだよね、そうなんだって。まんちゃんのわるい癖だと思うよ、じぶんの嫌なことすぐひとになすりつけて、でもまあ百歩譲ってそれはよいとして、や、ぜんぜんよくないけど、でもひとは選ぼうよ。アイツはダメだって。ダメでしょ、知ってるでしょ、わかっててやったんでしょ、はいはい。じゃあまあ、しばらくまた騒がしくなるけどうるさかったら引きこもってていいからね。はぁやっぱそとって疲れる。



2497:【ぽかってなーにー】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんは「引きこもってていいよ」って言われるとなんだかとたんにそとにえいやーって飛びだしたくなる、引きこもりたくなくなる、あまのじゃくさんでござるけれども、えぇー、いままでいくひしさんにばっかりまかせっきりだったのに、イヤないくひしさんがいなくなったとたんにまたぽこぽこ表面にでてきて、そういうのずるいと思うでござる。どうせほかのいくひしさんたちといっしょになっていくひしさんのことわるく言ってわらってたでござるよ、しっているでござる、仲間はずれよくないと思うでござる、いじけてやるでござる、地面にだいのじになって海でもなしに手足ばたつかせてこまらせてやるでござる。死なばもろともでござる。道連れにしてやるでござる。うんと後悔するがよいでござる。ざまあみろでござる。これじゃわるく言われてもしょうがないでござる。しょうねがくさって三千里! いきおいでごまかしてやったでござる。いくひしさんはあれでござるよ、あれというかどれでござる? もうもうあんぽんたんぽかんすぎて、ぽかーん月間でござる。おおいにふざけるのにいそがしいでござる。なまけるのだって本気でやったらけっこうたいへんでござる。つかれるでござる。ナマケモノの真似だっていちにちじゅう木にぶらさがってたらやっぱりたいへんでござる。やってみるとよいでござる。いくひしさんの偉大さが身に染みて見る目がきっと変わるでござるよ。そうでもないでござるか? そうでもなかったでござる。ぼんやりぽこぽこ、ぽかーん月間の影響でござる。ぽかーんとしすぎておめめまでぽかーんでござる。きょうはもう寝るでござる。不貞寝でござる。ふてえやつでござる。ふといはらでござる。ふとっぱらでござる。やったーでござる。ぐっすりおやすみぽかぽかぐーぐーでござる。ぽかーんのぽかは、ぽかぽかのぽかでござるか?



2498:【ねちょってなってん】

文芸の新作中編も順調らしくあとは閉じるだけらしい。そっちは専門じゃないんでよう分からん。文芸以外のお遊びのほうはワンランクアップできそうで、新しくコツがつかめてきた感がある。ここでしょうもない怪我とか病気だけはしないようにしていきたい。すぐ調子乗ってしまう傲慢チキゆえ、適度に手を抜いて、サボりつつ、やる気マンマンにならないようにガス抜きをしながら気長にやっていく。いきます。いこう。休み休み。去年ハッキリしたのはコーヒーがじつは身体にあってなかったってことだ。コーヒー飲むとむしろダルくなるし、眠くなる。その点、紅茶はいい。ガブガブ飲んでも体調わるくならんし、寝ようと思ったらスルンと眠れる割に、眠ろうとしなければけっこう起きてられる。紅茶の時代だ。紅茶がじつは紅いってことに気づいたのも去年か一昨年くらいで、ああなるほどだから紅茶って言うんだね知ってた? ともかくいまはものすごくとてもうんと紅茶ラブだ。紅茶を発明したひとにはぜひともわいがめっちゃ感謝しとったで賞をあげてほしい。誰かあげたって。長生きしてるといいな紅茶発明したひと。生きてたら三百歳くらい? もっとかな。全然話変わるけど去年とか毎日のごとくコンビニで揚げ物買ってて、から揚げ棒とかいまの季節ならピザまんか。でもさいきん常温商品のささみ揚げってのが百二十円くらいかな、あって、それ買うようにしてたんだけど、まあうまい。ささみにシソくっつけて油で揚げただけの商品なんだけど、これがハマる。そんくらい家でじぶんでつくれやと思うじゃん? でもスーパーで生のささみ五つでふつうに四百円くらいするし、家で揚げてもあんなふうにパリパリにならんのよきみ。百二十円だったら全然買うよ。買わせていただきますよ払いますよ。便利な世のなかになったなあ思って。そんな感じの毎日だけど、そっちはどう? ちゃんと暇だなあってぼやけてる? くよくよしてない? しててもいいけどくよくよしたあとは、よくよく生きるんだぞ。生きるというか、生きぬくというか、息抜きというか、すこし疲れたなって思ったら紅茶を飲んで、コンビニでささみ揚げを買ってみて、それからじぶんで揚げてみるのもよいかもね。たぶんだけどコロモを付けずに揚げたのがよくなかった。つぎはうまくいく。いきます。いこう。休み休み。



2499:【道化師】

名誉や誇りや成功体験なんてぜんぶ投げ捨てて、無地のまま赤ちゃんみたいに床にころんと転がって、丸まって、覗きこむひとびとの顔をまっすぐに、焦点も合わさず、ただぼんやりと微笑み、泣き、あーうー、言語解釈不能なうめきごえをあげて、届かぬ手を、短く、ただ何かを求め、伸ばしていくんだ。気づいたらハイハイくらいできるようになっているといいな。



2500:【パスタな日】

朝からパスタの味付けに失敗して、山盛りの食べられる毒物をまえに、おまえからいけよ、いやおまえから、といったいなすりつけあいを繰りひろげている。そんなに言うなら食べなくていいよ、と言ってお皿を手元にたぐりよせ、フォークに巻いていざ口に運ぶ。うばぁー。だにこれ。なんでちょっと酸っぱいの。そりゃイチゴジャムを入れたからな。なんてもん入れてんの。どばーって入れたからな。だからなんで。砂糖の代わりに。パスタに砂糖いるー? いるかなー? きょうも我が家の食卓はにぎやかだ。がんばって食べます。きのうは久しぶりに段ボールをひとつ開けて、BLマンガをたんまり読んだ。だいたい六十冊くらいだ。読んだ憶えのある本もあれば、こんなの買ってたんだ、と新鮮に思う本もあり、記憶力がわるいのをこういうときにラッキーに思う。読んでいて気づいたのだけれども、BLマンガってあんまり大手出版社からは出版されてないんだね。いまこうして思いだそうとしてもなかなか思い浮かばないような名前の出版社が多くて、BL界ではたぶん有名なのだろうけれども、ひょっとしてBLってマイナーなジャンルなのかな、と疑念を抱いてしまった。そうでもないのかな。まんちゃんよくわかんない。おいおいかわいこぶんなや、似合ってねえぞ。そう? あ、なんか食べられる毒物こと激マズパスタだけれど、けっこう食べてたら慣れてきた。石のうえにも三年、舌も麻痺れば観念って具合だ。そうでもないか。今週はけっこう過去につくった掌編短編を読み返していて、誤字脱字の多さにあたまを抱えてしまったけれど、そういえばこの時期は推敲係を雑用さんに任せていたので、まああの万年あんぽんたんさんじゃしょうがないなって。もうやんなくていいってことですか。あ、ごめんやって。手伝って。そんな睨まんでもいいじゃんか。あ、気づいたらもう半分くらい激マズパスタがなくなってると思ったら、フライパンにまだたんまり残ってるっていうね。一人で食べてるとぜんぜんなくなんないから困ったな。横着しないでちゃんとレシピ見ながらつくりなよ。じゃあおまえがつくってくれたらいいじゃんか。なぁんてやんややんやしながらきょうは新作中編を終わらすぞ。いくひしまんでした。





※日々、時間をねつ造しつづける、意識もまたそうであるように、記憶がそうであるように。



2501:【時代なんてものがあるの?】

人間が入れ替わるから社会が変わって、時代も変わるのか、それとも人間の価値観や興味対象が移ろうから時代が変わるのか。死滅がさきか、技術がさきか。(たぶん両方だろう)



2502:【すき去る】

好きだったものが時間の経過にしたがい、好きではなくなっていく、といった経験は年齢を重ねていくにつれて誰しもが覚えていく「さびしさ」の一つではないだろうか。いくひしさんもあるような気がしているが、具体的に例を挙げるのはむつかしい。好きではなくなったらもう興味の範疇外になってしまって意識の底に沈んでしまうからだろう。しかし、それでも「過去に好きだったもの」を目にしたときには、「あー、むかし好きだったなぁ」と思いだす。そして、その「あー、むかし好きだったなぁ」は、おおむねやさしく、あたたかな感触を伴っている。好きではなくなったとしても、「好きだった」という気持ちは、いつまでも身体に染みついているようだ。好きなものが増えていけば、「好きだったもの」もまた増えていく。しかし、その「好きだった」という感覚はけっして「さびしい」だけではないのだ。



2503:【成功と才能】

何を以って成功と見做すかが、割と人によって大きく違っている。いくひしさんにとっては、正しく設定できた目標を達成することである。単純だが、実践するのはむつかしい。まず以って、目標を正しく設定することからして往々にして失敗している。これはいくひしさんに限らないだろう。大多数の人間は、そもそも目標を正しく設定できていないのだ。たとえば「速く走れるようになる」という目標があったとする。しかしなぜ速く走りたいのか、からしていくつかの道に分けられる。オリンピックの百メートル走で優勝したいのか、それとも長距離走で優勝したいのか、或いは荷物を短時間でより遠くまで運びたいのか、それとも十キロ圏内の街中でピンポイントで郵送したいのか。なぜ「速く走りたいのか」一つとっても、競技や移動手段など目的がさまざまだ。似た目的であっても、いったいどんな限定条件のうえにそれが設定されているのかによってもやはりというべきか、目標達成のための手段が変わってくる。荷物をより遠くへ短時間で運びたいのならばそもそも人力では理に適っていない。自動車や船、飛行機やドローンを使ったほうが効率がよろしい。競技にしても、短距離走と持久走とではトレーニングの仕方が大きく異なる。使う筋肉の種類が違うのだからそうなる。これは創作の界隈でも同様だ。人気が欲しい、と言った場合に、なぜ人気が欲しいのかによって、とるべき手法や手段が変わってくる。あたりまえのことを言っているが、プロの作家でもそこのところを上手に設定できている者を見かけることがあまりないように個人的には思っている。たとえば、人気がでればお金を稼げて、創作一本で食べていける。そうすれば四六時中好きな創作に時間を使えるようになる。一見正しいように思われるが、プロになったところで好きな創作を好きにできることは稀だと言ってよい。ほとんどないと言ってもいいだろう。出版社からの依頼を受けて創作するのだから、好きなものを好きなようにつくれるわけがないのだ。好きなものを好きなようにつくりたければ、これはプロだろうがアマチュアだろうが、趣味でやるよりほかはない。趣味でお金を稼げるようになれればよいだろうが、果たしてそこまで我を押しとおしている商業作家がいるだろうか。いささか疑わしい。また、単にお金を稼ぐことが目的であるのならば、商業作家――とくに小説家においては、目指さぬほうがお金を稼げるだろう。宝くじを買うよりもすこしだけ大金が手に入る確率が高いといった程度であり、よしんば百万部のヒットで一億円の印税が懐に入ったところで、半分は税金でとられ、残りの五千万では、一生無職でいつづけるには心もとない。売れっ子作家になろうが、ならなかろうが、仕事はしつづけなければならないのだ。世にいる売れっ子作家のブログやSNSを覗いてみればよい。あくせく出版社のために働き、まるで自由とは程遠い。大金と引き換えに出版社のコマとして一生働きつづける覚悟があるのだろうか。いくひしさんは御免こうむる。出版社と関わって心身共に病んでしまったクリエイターが多すぎる気がする(編集者も体調を崩しているひとが比較的多いような気がしているがよくは知らない)。何が要因かは定かではないが、商業作家にならないほうが生涯に渡ってよりたくさんの作品をつくれるのではないか。すくなくとも、現在プロでいくひしさんと同じくらいの創作年数でいくひしさんよりも多くの物語を編んでいる作家さんはそう多くはない。むしろ、商業作家になったために生産性ががくんと落ちてしまった作家さんのほうが多いのではないか(つまり一作に割く労力が高いのだ。何度も書き直している影響だろう。コストをかける分、良質な作品となる確率があがるので欠点というには早急だ。何事にも利点はあるものだ。また、たくさん作品をつくったから優れているというわけでもない。誤解なきように)。いくひしさんは不真面目なので、真剣にその道を極めんと一生懸命な商業作家とは一概に比べられないし、比べる意味もないが、もし創作をしつづけたいだけなら、商業作家になる旨味はそうないと判断している。ただし、いくひしさんを見ればわかるとおり、個人でやっていると、読者の数はたくさんを望めない。いくひしさんは、いくひしさんのつむぐ物語と相性のよい読者さんにだけ読んで欲しいので(要するにあなたに)、数はすくなくてよい。以前から言っていることだが、いくひしさんの物語がたくさん読まれるような世のなかになってしまうほうが哀しいし、望まぬ未来である。(それはそうとして、商業作家の小説はおもしろい。どんどんおもしろい物語を世に送りだして、いくひしさんの手元まで届くようにしてほしい)



2504:【新作はできませんでした苦し紛れショートショート】

ノートの一部が白紙になっていた。正確に言うならば、毎日つけていた日誌の一部が空白になっているのだ。たしかに昨日まではそこに文字が、文章が、つらなり、その日何があったのかと、仔細に記述が並んでいたはずだ。(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054893411536



2505:【統一性なし】

ショートショートと日誌はできるだけべつべつにしていきたい。するぞ。



2506:【読書も創作のうち】

これはさいきんの実感なのだが、文章を並べるよりも文章を読むほうがはるかに体力を使うし、疲れる。小説やマンガ、新書と、内容の種類を問わないが、どちらかと言えば、新書、小説、マンガの順で楽だ。つまり、マンガがいちばん頭を使うし、新書などの小論やエッセイがいちばん読んでいて頭を使っていない。これは個人的な傾向であるだろうし、現時点での局所的な傾向かもしれない。もちろん観察の仕方が間違っている可能性もある。なぜ読書をすると疲れると思ったかと言えば、よく眠ってしまうからだ。読書をした日はよく眠れる。マンガを読んだ日がもっともよく眠れるし、それは冊数の増減と相関しているように感じている。小説を読んだ日もふだんより眠くなるのがはやいが、マンガを読んだ日のほうが睡魔の引力がつよい。なんだったら、マンガは読んだ直後、あーたのしかったー、と興奮しながら、すやすや眠ってしまうくらいだ。とても心地よい眠りである。そのまま死んでしまいたいくらいの至福のひとときだ。大袈裟に言いすぎたかもしれないが、いずれにせよ、以前からたびたび並べていることであるが、文章をつむぐよりも読むほうが現代では体力を使うし、技術がいるのではないか、と感じている。というよりも、読書もある種の創作作業なのである。疲れて当然だと思うしだいだ。



2507:【なんも思いつかん】

植物の名前をほとんど知らないために、道端に生えている草を見ても、トゲトゲした草だとか、恐竜の時代に生えていそうな草だとか、なんか草ってみんな緑だな、とか、丸い葉っぱや四角い葉っぱを見掛けないのはなんでかな、とか、そういった視点でしか植物を見られない。もっと生態というか、見た目以外の情報を引っ張ってきて思考を飛躍させられたらきっと楽しいのだろうな、と感じる。これは植物にかぎらず、鳥や虫でも同様だ。ただ、なんでそのカタチをしているのかな、と考えるのはけっこう楽しい。というよりも、いま単純に、なんでかな、と考えてみて楽しかっただけだが、たとえば葉の機能として考えられる筆頭に挙がるのが光合成の効率向上だろう。太陽光に当たりやすように葉っぱが生えればたくさん光合成ができる。葉っぱが重なりあわないように生える植物が結果的に生き残り、進化してきたと考えれば筋は通るが、しかしだとすればみな同じカタチに行き着くのではないか、と疑問したくもなる。なぜ植物は大なり小なりカタチが異なるのだろう。おそらく一つには、葉の役割が光合成だけではないから、と妄想できる。たとえば繁殖力がつよい草は、繁殖しやすい代わりに土壌の養分をすぐに枯らしてしまい、じぶんでじぶんの首を絞めてしまう確率が高い。これを防ぐためには、動物の糞や亡骸など、養分となる外部因子を身近に集めておきたい。とすると、草食動物や昆虫など、養分候補が集まりやすい形状の葉だと、結果的に繁殖しやすく、進化として定着するのかもしれない。つまり、食べてもらいやすいカタチというわけだ。また、ほかの植物の光合成を邪魔するように葉を広げられれば、生存競争に有利になる。ただし、光合成に頼りきりだと、いざ天候が長期間悪化した途端に絶滅してしまう可能性が残る。そういうときは、光合成を活発にしなくとも増殖可能な植物のほうが生存に有利と言える。つまり、葉はちいさくとも構わないし、成長も遅くてよい。ゆっくり着実に育ち、動物や昆虫に食べられないように、こそこそ生えていられるカタチであれば、繁殖はできずともより長い期間、子孫を残しつづけることができるだろう。要するに、植物のカタチが一定でないのは、地球の環境そのものが一定でないためだ。様々な時間スパンでの生存競争がいくつも同時に行なわれている。いっとき有利になっても、すぐに衰退してしまうが、絶滅するほどでもなく、また増えたり、減ったりを繰りかえす。その振幅を途切れさせない種だけが、こうして地上に残っており、これだけの多種多様なカタチを帯びているのだ。それだけ環境が多様である傍証とも言えるかもしれない。もちろん植物の形状、ことさら葉のカタチが一様でない理由はほかにもあるだろう(たとえば夜露や朝露など水分を収集しやすくするため、など)、上記の妄想が当たっている保証もない。真に受けないように注意を促し、並行して、ほかに何か考えられる因子がないだろうか、と妄想を促し、本日の「いくひ誌。」とさせていただこう。



2508:【眠いので寝る】

なんも思いつかないので、そういうときはなんも思いつかないことをネタにするしかないのだ。けっこうこの「いくひ誌。」でもなんも思いつかないのをネタにしていて、だって思いつかないものは思いつかないんだものしょうがなくない? で、どうして何も思いつかないかというと、これは若干ウソで、思いつかないのではなく、思いついているけれどそれを並べたくないだけなのだ。文章にするまでもないなと、文章にする前から脳内でボツにしてしまうのが一つ。それから単に面倒に思ってしないだけなのが一つ。あとはやはりというべきか、並べたい文章に対して情報が足りなかったり、理屈の筋道や脈絡がどうしても欠けてしまったりと、並べるにしろ並べないにしろ、何も思いつかない、と言って手を止めてしまう。ただ、そういうときにムリヤリ何かを並べたところで、こんなしょうもない文章しか姿を現さないのだから、こういうときはいっそインプット期間だと見做して、たらふく遊んでしまうのがよいのではないかと思うものの、すでに毎日ぱーっと遊び呆けているので、いまさら遊ぶ余地がない。ので寝る。寝ます。おやすみ。



2509:【くだらない嘘】

ときどき知らないあいだに新作が増えてて、どこからか盗作してきたのかと思ってびっくりするのだけれど、検索してみてもいくひしさんしかインターネット上にアップロードしていないみたいだし、じゃあそれはいくひしさんの新作ってことになると思うのだけれど、つくった憶えがなければ、インターネット上に掲載した憶えもなくて、えーえー、なにこれー、みたいにときどきなるのだけれど、たぶんこう、なんだ、新作脱稿したらひとまず寝かせるようにはしていて、寝かせているうちにどれが新作か忘れてしまったり、寝かせているはずなのに推敲した気になってそのままインターネット上に掲載してしまったりしているのかもしれない、なんて思えてきた。というのも、ここ以外にもいくつかのテキスト投稿サイトに載せているから、もちろん同じ作品もダブりで載せていたりするし、いっぽうに載せていてもういっぽうには載せていないというのもあるから、それで頭がこんがらがってしまっているのかもしれない。それにしても、知らぬ間に新作が増えているのはうれしい反面、すこし不気味だ。



2510:【いいひとと思われたいだけ】

いいひとになりたい。誰かの足りない何かを埋めてあげられる存在になりたい。誰かの何かを奪うことなく、補いあえる存在でありたい。支えあうことなく、偽ることもなく、腹を割き、何事も隠さずにいても相手を傷つけずにいられたらどれだけ楽に過ごせるだろう。楽になりたい。楽に生きていきたい。だからいいひとになりたいの? 否定できるだけの理屈が構築できない。いいひとではないからだ。いいひとになりたい。いいひとになりたい。でも本当に? 延々と苦しみにつつまれたままだとしても? 地獄の業火に焼かれつづけるとしても? 誰かのために痛みを許容しつづけなくてはならないとしても? それでもいいひとになりたいひとだけがきっと真実にいいひとなのだ、と考え、それを肯定したとたん、永遠にいいひとにはなれないのだろう。いいひとはみな業火に焼かれつづけなければいけない世界を望むことがいいわけがないのだ。どうしていいひとになりたいのだろう。楽に生きたいと考えることが正しいと思えないのはなぜだろう。自己犠牲なんかくだらないと知っているくせに、自己犠牲を他人に強いることこそが悪だと知っているくせに、それでもなお、率先してみずからリスクを犯そうとする破滅願望――犠牲ありきの救済の必然性に囚われている。いいひとになりたい? ウソでしょ。ウソだよね。あなたはただ、人の弱みを踏み台にして、上に立ちたいだけなんだ。人を見下し、感謝を欲し、それを以って生きている実感を得たいだけなんだ。あなたは――私は――他人の欠点や弱点に浸けこんで、生き血をすすって生きている。




※日々、他人の影を身にまとう、ぺたぺた欠けた輪郭を補っていく。



2511:【まとまりがない】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはさいきん、まいにちまいにち、たくさんおねむでござる。眠たすぎて、娯楽が睡眠になってきたでござる。寝るのってどうしてあんなに気持ちよいでござるか? ちいちゃいころは寝るのがきらいだったでござる。おふとんに入るのがいやだったでござる。暗いし、遊べなくなるし、起きたときになんでか寝るまえまではあった、たのしーってきもち、こうふん、そういうのがなくなっているでござる。ギアを全開にするまでに時間がかかっていやだったでござる。せっかく一日をかけて全開にしたころに寝なきゃいけなくなるでござるからいくひしさんはなんだかまいにちまいにち賽の河原にいるきぶんだったでござる。せっかく積み重ねた、おりゃー、わい最強!ってきぶんが寝て朝になると消えているでござる。でもでもきっとこどもというのは、そうやって日々蓄積した、おりゃー、わい最強!ってきぶんをバネにして、燃料にして、素材にして、身体を成長させていくのかなって思わないでもないでござるよ。等価交換でござる。ちいちゃくないいまのいくひしさんは、寝ても起きても、おりゃー、わい最強!なので、つねにそれなので、ぜんぜん弱くはないので、よわよわのよわではないので、ほんとにもう信じて! あー、もうわかったでござるよ、認めるでござる。いくひしさんはよわよわのよわでござる。これでいいでしょでござる。認めてやったでござる。膨れてやるでござる。ぷくぷくのぷくでござる。風船でござる。しゃぼんだまでござる。すぐに割れるでござる。しょぼしょぼのしょぼでござる。卑屈になってやるでござる。でもだいじょうぶなんでござるよ。いくひしさんは最強なので。ふつうのひとなら、もうだめだー、ってなるよわよわのよわでも、ぜんぜん、おりゃー、わい最強!ってなるでござる。もうもうそうなりたいがために、よわよわのよわでいると言ってもよいでござるな。つよがりでござる。でもでも、暑がりは、暑いのによわいという意味でござるから、寒がりだって寒いのによわいって意味でござるから、じゃあつよがりは、つよいのによわいって意味でござらん? そうでもないでござるか? まあよいでござる。なんでもよいでござる。よよいのよいでござる。よわよわのよわすぎて、もうもう、いくひしさんは起きていても夢心地、寝ているきぶんでござる。ぽわぽわのぽわでござる。きょうも、おりゃー、わい最強!ってきぶんをバネにすべく、たくさんいねむりしちゃうもんね、でござるー。



2512:【タイトル考えてなかった】

新作の第一稿ができた。四万字ちょっとの中編だ。いちど推敲して寝かせて、また推敲したら掲載する。二月半ばごろを目途にしよう。ただこのあとちょっと後日譚を付け加えるかもしれない。いったんつけてみて、しっくりこなかったら削る。新作は「霊魔怪シリーズ(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371)(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054886316030)」だ。これは掌編や短編がほかにも二十作ちかくあるのかな?(そんなにない?) で、いちおう全部を通してひとつの物語になるようにつくっている。完結はまだで、あともうひとつ六万字くらいの中編が必要で、それをつくるまでにまたちらほら掌編が増えるかな、といった塩梅だ。連作短編としては未完成だけれども、一作一作が完結しているので、どこから読んでもらっても構わない。電子書籍にはまだしていなくて、たぶんもうすでに一冊分くらいは溜まっているのかな? ぜんぶで二冊分くらいの文字数になりそうだ。シリーズをとおして一冊にまとめたいので、電子書籍化は来年以降になるかなと想像している。原稿を寝かせているあいだにもうひとつつくりかけの中編を閉じてしまって(これはいくひしさん最後の百合小説で、すでに六万字の分量に達している。あとは閉じるだけなので、読み直しに一週間、プラス一週間あれば脱稿までこぎつけられるかな、といった塩梅だ)、できれば加えてもう一個くらい、何かつくりかけの物語を閉じてあげられたらうれしい。二月半ばまであと十五日あるから無理をすればいけるかなといった具合だが、いくひしさんは無理をしないので閉じれて一作だろう。というかあいだにまた気まぐれに掌編やら何やら新しいのをつくりはじめてしまうので、予定を立ててもいかんともしがたい。ファイル名は「除霊」で保存しておいたけれども、変えるつもりだ。なんにしよう。いま考えてしまおうか。んーそうだなあ。「神狩る者」とかどうだろう。いくひしさんは固有名詞のセンスが壊滅的にないので、キャラ名とかもそうなのだが、もはやいまは名前すらつけないというね。絶対よくないので、推敲しがてらつける方向に修正するかもしれない。霊魔怪シリーズは主人公の名前すら出てこないのだ。今回も登場人物の名前が誰にもついていないというね。言っていて、それダメでしょってなってしまった。ダメですね。つけます。せめてヒロインの名前くらいは。やっぱりきょう中にいちど修正がてら推敲して、足りなければ後日譚もつける。よし。そうしよう。と、その前に、お風呂に入ってこーよおっと。2020年1月31日のいくひしまんでした。



2513:【手癖の極み】

絵描きさん界隈でたびたび目にする言説に、手癖でばかり描いていると上手くなれない、というものがある。異論はない。そういうものだろう。これは絵にかぎらず、どんな分野でもそういう傾向にあるように観測できる。ただし、だからといって手癖がわるい、ということはない。どちらかと言えば、手癖で上手ければ一番よいのだ。超一流の力作と同レベルの絵をラクガキで描けたらそれこそ天才というものではないか。「手癖でばかり描いていると」の「ばかりいると」が肝なのだ。手癖がわるいとは一言も書かれていない。ここのところを勘違いしてしまうとむしろ上達の道からはずれてしまうように思うのだ。ラクガキの楽しさを忘れてしまえば、絵を描くことそのものの楽しみすら忘れてしまいかねない。重要なのは、描きたい対象をよりしっくりくるカタチで表現できそうな手法をいろいろと取り入れてみることなのではないか。失敗してもいい。まずは何が失敗なのかを知ろうとし、じっさいに知ってみる。手癖とはすなわち、すでに獲得した技法だ。楽に、いまある最上級の表現を再現することができる。だからこそ手癖だけで表現しつづけてしまうと、それ以外の対象や、それ以上の表現に届かないどころか、そういったものがあることすら知ることができない。理想を見ることすらできない。思い描けないのだ。繰り返しになるが、手癖がいけないのではない。手癖への拘りが厄介なのだ。いまある型をいちどよこちょに置き、ほかの型にも手を伸ばしてみようとしないことには、自身の限界を知らず知らずのうちに狭めてしまう。手癖の幅を広げようとしつづける姿勢が、上達への道へと通じている。千手観音がごとく無数の、種々相な手癖を取り揃えよう。否、いくひしさんは取り揃えたいと望んでいる。それは何でもつくれるようになろうという意味ではない。絵具の色を増やし、筆やキャンバスを選べるようにしたいね、という願望である。(五分で並べた文章です。手癖の極みですので、真に受けないでください)



2514:【あおい】

とりたてて器用でも不器用でもない。節操がないだけ。作法を知らないだけ。未熟なまま朽ちていくわたくし。熟したくないわだつみ、その色もまた青い。



2515:【ひょっとしたら創造性皆無かも】

じぶんの頭で考えることができない。インターネットや本のチカラに頼りっぱなしで、ほとほと知能がないなと感じている。他人の思考をかすめ取ってばかりだ。楽ちん。



2516:【デタラメとしても中途半端】

ものすごく単純な話として、想像の翼を強引にでも羽ばたかせたければ、知らないことや行ったことのない場所、未知の領域を見ようとしてみればいい。たとえばじぶんの住まいを俯瞰してみる。これくらいなら誰であってもできるだろう。地図を上から眺めるように、近所の風景を思い浮かべる。これくらいだと視点を上昇させただけで想像と言うには飛躍が足りない。いつも通る道くらいなら辿れるだろう。しかし、いつも通らない道や行ったことのない方向に視点をずらしていくと、いきなり知っている情景に飛んだりする。空白の領域がかってにジャンプされており、漠然とこんな感じ、と補完されていたりする。その部分をもっと詳細に思い浮かべてみよう。見たことがないのだからそこで思い浮かんだ情景はほとんどでたらめだ。どこかで見たことのあるような景色の組み合わせでしかない。だが、それこそが想像だ。そう、想像とはけっきょくのところ、既知の情報の組み合わせでしかないのだ。創造や妄想はもっとデタラメ度が高い。元の素材が判らないくらいにグチャグチャのドロドロしたダマから、まるで実際に見てきたように、すぐそこにあるものとして扱えるくらいの事象がひねくりだされる。創造も妄想もとどのつまりが窺知の情報の組み合わせでしかないが、想像よりもずっと細かく、情報の量も多い。何より、出処が不明だ。想像するときはたいがい、知っている部分と部分に開いた空白を埋めようとする作業になる。だが創造や妄想はどちらかと言えば、知っている部分など端からない、現実から一歩と言わずしてまったく離れた空白そのものに「知っている気がする領域」を構築する作業と言えそうだ。グチャグチャのドロドロとなった情報のダマとも呼べる「種」をその空白へと植え、水をやり、必要に応じてそとから既知の情報――養分を加えてやって、種を芽吹かせ、樹へと展開し、空白を埋めていく。そうして生えた樹はもはや、どこかで見たことがあるような、しかしそこにしかないものとして顕現する。なぜどこかで見たことがある気がするかと言えば、樹へと展開される前の段階ですでに、その樹の全貌が「種」から幻視できるからだ。否、種かと思っていたそれは、鏡の世界のあちらとこちらの境目のようなもの、湖面のようなもので、種は単なる穴としてそこにある。こちら側に樹が生える以前からすでに、種の向こう側には同じシルエットの樹がさかさまになってさきに生えている。それは地中に伸びた根っこのようで、ひょっとしたら目のまえに展開された樹のほうこそが根っこなのかもしれない。創造や妄想を育ませれば育ませるほどに、種の向こう側では枝葉が萌え、茂り、新たな種を無数にならす。想像するだけでは足りない。創造し、妄想する過程で、つぎなる想像の余地を生み、その土壌を耕し、そうして空白を補完する機能をひとは高めていくものなのかもしれない。窺知の情報だけでは足りない。種だけでも不十分だ。思考は循環し、深まる。知っていることと知らないことの狭間にて、想像を足場に、無知の領域へとあがりこみ、創造と妄想の根を張り巡らせ、想像の金型をさらに増やし、知っていることと知らないことの区別を明瞭とし、情報を溜め、さらなる思考を煮詰めていく。(知った口をたたきました。そんなに単純ではないと思います。真に受けないでください)



2517:【がき】

一人遊びが好きなのに、読者という存在がいないと成立しない小説なんてものを遊び道具にしてしまったのは大きな間違いだった気がしてきた。端的に失敗だ。失敗したかもしれない。けれども、しかし、でもでも、よくよく考えてもみると(よくよく考えてみなくとも)、小説は読者がいないと成立しないとは限らないのではないか。この「いくひ誌。」がそうであるように言葉を並べ、文字を配置し、文章をつらね、物語というそれで一つの巨大な言の葉をかたどるだけでも、お遊びとして充分至極に成立していると呼べるのではないか。物語はそれでひとつの言語だ。なればこそ、物語を、小説をつくるだけでも、新しい言語を手に入れる過程を経ており、それはそれで一人遊びとして認めても矛盾はしない気がしてきた。端的に失念だ。失念していたかもしれない。けれども、しかし、でもでも、よくよく考えてみると(よくよく考えてみなくとも)、小説はただそれをつくるだけでも同時に読んでいるわけで、作者と読者は創作過程においては不可分であり、やはり読者がいなくては成立しないとも言える気がして、やんだくなっちゃうな。どっちかにしてほしい。失敗なのか、失念なのか。ただつくるだけじゃダメなんじゃろか。読者いなくちゃいかんのじゃろか。そんなことないよって言ってほしいな、と第三者の承認を欲した時点で、やはりというべきか読者の必要性を半ば肯定してしまうのだ。読者がいようがいまいがどっちでもええよー、といった姿勢がもっとも自由でいられそうだ。どっちでもよいのだ。読んでもらえたらうれしいし、運がよいだけで、べつに読まれなくとも創作そのものには影響しないし、させたくない。やっぱりけっきょくどこまでいっても、いくひしさんのしていること、したいことは、一人遊びなのだね。泥んこ遊びだし、砂場遊びだし、積み木遊びなのだ。キィボードをぽちぽちしている時点で、正真正銘、判子遊びではないか。高尚さのかけらもない。帯びたくもない。ようやくわかってきた。いたずら書きなのだ。卑下ではない。見るのも書くのも楽しいではないか。いたずら書き、ラクガキ、能書き、総合してワルガキだ。やはり一人で遊んでいるくらいがちょうどよいのかもしれない。



2518:【無礼ですみません】

上手いひとの表現やお手本にしたいひとの表現は何度見ても、上手いなぁ、すごいなぁ、としか思えないのに、じぶんの表現はいちど見返すだけでも、欠点が「ここにも、ここにも、うわこんなところにも」と三歳児用の間違い探しかってくらいの難易度で、頻出度で、そんなにぽこぽこでちゃってだいじょうぶですか、イカサマしてるんじゃないの、って思うくらいの大当たりの連続で、これがカジノだったら一晩で潰れてしまうよ大泥棒ですら盗みに入らずに遊んじゃうよみたいなね。もうね。どうしたらよいと思う? 事実を並べるのはべつに卑下じゃないし、いくひしさんはプロではないので読んでくれてるひとに失礼だとも思わないし、そもそもそういう考え方がよくわからなくて、作者だってじぶんの表現の受動者であってもよいわけで、ね? べつに思ったことや感じたことを並べてもよくない? なんでそれが失礼になるんだろ。聞きたくないひとの耳元でわざわざ表現についての感想をわめいていたらそれはたしかに、なんだこのー、ってなると思うけど、それはだってべつに批判じゃなくたって称賛でも同じだし、ここをこうしたらもっとよくなると思うんだけどな、とつぶやくくらいべつによくない? 理想を話すことと何が違うんだろ。ようわからんわ。というか、真面目にやってるひとのまえでちんたら遊んでいることを指して、失礼だ、とかいう言い方もよくわからないんだよね。けっこうそういう批判あるよね、ないかな? こっちは真剣に勝負しているんだ、とか、真剣に勝負している相手に失礼だ、とか、そういう言い方をするひとがたまにいるけど、いやいや、その考え方ってどうなの、と引っかかってしまうのだよね。失礼に感じるのは自由だけど、あなたの真剣度とか関係ないから、といくひしさんなんかは思ってしまうのだよ。真剣で真面目で一生懸命だったら失礼じゃないの? たとえばだけど、治療を受ける側がお医者さんに求めるのはそんな内面の話じゃなくない? 技術じゃない? 仕事の出来じゃない? もう結果がすべてじゃない? で、そのお医者さんが、じつはもっとこうできたらあなたの病気はより早く安全に治るんですけどね、と正直に言ってくれたらうれしくない? そっちのほうがよくない? でもって、そっちの理想的な治療法を教えてくれたらよくない? いっそもっと腕のよい専門のお医者さんを紹介してくれたら最高じゃない? ぜんぜん失礼じゃないよね。表現の話と医療の話じゃちょっとニュアンスが変わってきちゃうけど、大枠は同じだと思うんだよね。あーでもでも、「じつはあなたに施した治療は、こことこことここに欠点があって、もっとこうしたらよかったなと思うんですけどね」なんてお酒飲みながら話されたら、失礼というか、「は???」とは思ってしまうかもしれないね。斟酌せずに言えば、殺意が芽生えるかもしれないけれども、それはそれ、これはこれ。やっぱり表現と医療とじゃ違うかもね。本日の所感よろしく、あんぽんたんぽかんでした。



2519:【ちぐはぐ、ちくたく、いつかは止まる】

いまに限ったことではなくて、わりと寝るときとか朝起きがけのときとか、ぼーっとしているときに、しずかなるキラキラとほこり舞う部屋や、影に揺らぐ風の景色を眺めていて連想してしまうのだけれど、いくひしさんが死んだところで世界は本当に、本当に、なにも変わらなくて、影響がなくて、何も損なわれないし、何も失われないのだなって、いまこの瞬間に死んだところでそうだし、このさきいつ死んでもそれは変わらなくて、誰にも知られずに死ぬこともあるだろうし、誰かに治療されながら死ぬこともあるだろうし、痛みに苦しむにしても、ぽっくりいくにしても、そんなのはいまこの瞬間にも地上のどこかでは毎秒、毎時、つつがなく、区切りなく、途切れることなくつづいている日常でしかなくて、死ぬのがこわいと思うときもあるし、どんな死に方なんだろうとやっぱりこわくなるし、だったらいまじぶんで死に方を選べるうちに死ぬのもまあ、なくはないか、と思うと、いつでも死ねるならもうすこし楽しいことを好きなだけしてから心置きなく死ねばよいよね、となって、どうせいつかはくるのだからそのときまで楽しく生きてたらよくないか、と思って、じゃあそうしよっかな、となるともう、やっぱり死ぬのってこわいし、死にたくないなあ、と思ってしまうのだけれど、それはどこか、眠ってしまいたいなあ、という欲求に似ていて、死にたくないなあ、と、眠りたいなあ、がちかくて、じゃあ死にたいの想いとちかいのは何かな、と考えたところでとくに思いつかなくて、なるほど、きもちよい死に方は選べても、やっぱり死にたくはないのだな、と思って、けっきょくいくひしさんは生きるのがそれほど嫌いではなくて、そりゃあこれだけ恵まれた環境で、たくさんの運と恩をもらい受けていて、我がままに生きていて、好きかってしていて、これで死にたくなってしまったらとっくに人類は滅んでいるだろうな、と呆れ半分に、じぶんのちんけさに安心とすこしの罪悪感と、誰にも影響を及ぼさずにいられる運のよさと、それでいて誰かの足を引っ張り、誰かの何かを損なっている傲慢さに嫌気がさして、見ぬふりをして、ちっぽけなちっぽけな自意識の手のひらのなかに引きこもっている日々は、ひと知れず継続しているぶんには、まあまあそこそこの快楽物質じみた恥辱の念を撫でまわして、愛玩動物の代わりにでもして、どうせいつかは嫌でも打ち溶けるこの世界に、いまだけはNOを突きつけて、やっぱりちっぽけなちっぽけな手のひらのなかに窮屈な身体を押しこめていたい、眠りたい、そうたぶんきっと、ひどく我がままで、ちぐはぐなの夢のつづきを見ていたいだけ。



2520:【欠けつづける余白】

文字を並べて物語をかたちづくったときの満足感を百とすると、こうした雑記を並べたときの満足感は一とか三とかで、並べないよりかはマシだよね、レベルで、むしろ物語をつくれていないときの焦燥感、日々の浪費感をすこしでも薄めようとする姑息な手段でしかないのではないか、と思えるときがあって、というかいまがそれで、たぶんそういう側面もぜんぜんあって、これを並べているあいだにじゃあ物語のほうを進めてやれよ、と思うのもたしかなのだけれど、それはそれとしてこれは息抜きでもあって、物語は物語で進めていて、並行していて、こうして息抜きよろしく毒抜きをしないことには、何が余分で、何が足りないのかもよくわからなくなってしまって、冗長な文章をまずは並べてみないことには何が冗長かもわからないし、硬いと柔らかいの両立もできない気がして、こうしてこうすることで試金石代わりにしてはいるものの、それはそれで変な癖がつきそうだし、じっさいについているだろうことを思うと、ほとほと何が正解で何が失敗かは、いくつかの失敗を繰り返したあとでしか判らないし、それら失敗ですら正解のあとには失敗ではなく、道と道を結ぶ分水嶺となるし、或いは正解なんてものすらあとから振り返ってみればひとつの失敗にすぎないのかもしれなくて、けっきょくのところいまをどう生きるかでしかじぶんでじぶんを測れないし、これからをどう生きるかでしか失敗も成功も語れなくて、とどのつまりひとが物を語るというのは生きることとほぼほぼ同義であるのかもしれないとの錯誤を抱いた時点で、何かを置き去りにして、見逃していて、大いなる瑕疵を宝物と勘違いして、失敗を失敗とすら見做せなくなっていくのではないか、と怯えてみせることで、まだじぶんは怯えることができるのだ、とその場しのぎの安心を得る、安息を得る、息を吐く、息を抜く、毒を抜く、何が毒かも知らぬままに、気づかぬままに、目のまえの日々を毒扱いして、置き去って、捨て去って、欠けていく。未だなくならないのがふしぎなくらい。




※日々、宙を舞う埃のように、積もることなく、ごみにすらなれず。



2521:【伸び白なし】

これまでそんなに好きではなかったものの魅力がわかってきて、どんどん興味の幅がひろくなってきていて、前よりも楽しめることが増えてきている反面、じぶんのつくっているものや目指そうとしている理想がなんだかものすごく色褪せて感じられていて、言ってしまうと限界が見えてきてしまっているので、ようやく限界に手が届きはじめたかと、ほっとしてしまっているのだけれど、それはもちろん、限界は見えなければ越えられないからであって、ようやく第一段階を突破できるというか、スタートをきる準備に入れるかなといった見通しの晴れた心地がして、ちょっと気が緩んでしまっているところがある。でも可哀そうだから、気を引き締めるのはやめておく(引き締めるってこわくない?)。



2522:【方向性】

道具の性能の高さによって成果物の評価が大きく左右される分野にはなるべく手をだしたくないというか、極めようとすればするほど資本が必要となるし、単純に資本の多寡が評価に直結してしまうし、そうなると高評価されなくてはつづけられなくなり、最終的には評価されることが目的になってしまうので、ただ日々を楽しくすごしたいだけのいくひしさんはそうした分野からは距離を置いていたいとぼんやりと考えている。もっとほそぼそと、泥臭いほうが性に合っているし、泥遊びみたいに、いつでもどこでも、すぐそこにあるものだけでつづけられるものを極めていきたい。とはいえ、この極めるというのもよくわからなくて、ずっと感じているのが、なるべく上手いと下手の両方を手放さずにいたいな、ということで、極限みたいにある一つの終着点を目指していく、という感覚ではなくて、もっとこう、じぶんの足跡で世界を埋め尽くしていく、みたいな感じにちかくて、コレクションと言ったほうがちかくて、じぶんにできることの幅を広げていきたいのだ。そのためにはもちろん、できないことや、敢えてしないことを決めていかなくてはならなくて、これは直感でしかないけれども、何かを極めるためには、ある時点からは、何をしないか、のほうが、何をできるようになるか、よりもずっと多く選択していかなくてはならなくなるような気がしている。できるようになることの制限はむしろなくなっていくけれど、何をしないのか、においては、かなり厳格に制限されるようになっていくのではないか、との予感がある。だからこそ、つよく自由を縛ってしまうがゆえに、何をしないでいるか、のほうをよくよく吟味しなくては、いざ何かをしようと思っても抵抗が大きくなり兼ねない懸念があって、なるべくそうした抵抗を増やさないでいるためにも、早いうちから手に入れることで抵抗が大きくなりそうなものからは距離を置き、なるべく長くつづけられるもので遊んでいられたらな、と思うのだ。



2523:【説教くさいですか?】

もはや若い世代(二十代前半以下)からツイッターやってますか、と訊かれることがなくなった。いまはもう完全にインスタだ(2020年2月8日現在)。たほう、イベントを開く側はツイッターを活用している率が高い。これは一般化してよい現代社会の傾向に思える。他者と交流するためのツールとしてツイッターを使っている若者は減少傾向にあり、同時にインスタは一昔前のフェイスブックが担っていた簡単な自己紹介ツールとしての側面を強化しているようだ。いまのところティックトックの話題を振られたことはないが、これは話しても通じなさそう、と判断されている可能性がそう低くはないのでなんとも言えない。SNSの利点の一つに上下関係が希薄な点が挙げられる。因果関係は不明だが、現実のコミュニティにおいても上下関係での繋がりは敬遠されるようになって観測される。好ましい傾向に思う。ただ、意識的か無意識的か定かではないが、人数の多い集団に属したがる個人が増えて感じられる。分母の大きい集団に属しているだけで安心して、気が大きくなってしまうのは、これはインターネット上でも現実の世界でも同じかもしれない。もちろん現代に限らず、人間にはすくなからずそうした性質があるのだろう。もっとも、そうした個人は集団からはずれてしまうと途端にそれまで活発に行っていた何かしらをしなくなってしまうので、集団に属するための手段としてそれをしているのか、それともそれをしたいからしているのか、の区別は見失わないでいたほうがよいのではないか、と考えるものだ。もちろん断るまでもなく、集団に属したいからそれをする、という行動原理を非難しているわけではない。各々、好きなように日々を楽しめばよいのだ。とはいえ、集団を大きくすればするほど、それだけ集団の維持に労力がかかる。束縛される、とそれを言い換えてもよい。ただ集まるだけでも想像している以上の時間や労力が奪われている一面があることくらいは承知しておいたほうが好ましいのではないか、と思うしだいだ。(極々狭い観測範囲からの偏見ですので、真に受けないように注意してください)



2524:【ふぁいや】

唐辛子触った指で目ぇこすったら、めっちゃ目頭イタイ。燃えてる。



2525:【ぽんぽこりんになるぞ!】

文章にはその書き手の内面が滲み出る、という言説はあまり支持していないし、信じていないいくひしさんではあるけれど、長文をつむげばすくなからず書き手の負の面というか、陰湿な部分が表出するだろうな、とは思っていて、というのも、基本的に文章には否定文がつきものであるから(なぜなら何か意見を主張した際に説得力を帯びさせるには反対意見に対する反証を用いるのが効果的だからで)、どういうふうに物事を否定して自説を強化しようとするのかには、書き手の常日頃利用している思考法が顕著に表れるというか、それ以外の考え方を用いる利点は多くはないので(読者を欺きたいなら別であるが)、どのように物事を否定して、それによってじぶんに有利な理屈を構築しようとしているのかを見れば、必然、そこにはその書き手の言ってしまうと、いやらしさが窺えるものだと考えている。とはいえ、いやらしいことが一概にわるいとは思っていなくて、そもそも生きるというのはいやらしい行為の数々によって支えられているわけだから、これはもういやらしくて当たり前ではあるわけで、そんないやらしさにも、まあ一見していやらしいな、と判るいやらしさもあるし、巧妙に装飾されたいやらしさもあって、そこらへんの偽装工作の高さが、いわゆる上品さだとか賢さに通じているのかな、と思わないわけではないのだね。もちろんいくひしさんの文章なんてものはいやらしさのてんこもりで、あまりにおっぴろげすぎて却っていやらしく感じないくらいで、まあありますよね、隠そう隠そうとするほうがいやらしいというか、見えそうで見えないくらいのチラリズムのほうがいやらしいというか、真面目ぶったところに垣間見える抜けている面だとか、おっちょこちょいなところとか、ぜったいにこのひとは下品な行為なんてしないんだ、死んでも生殖器の名前なんか口にしないんだ、排泄物だって柑橘系のよい匂いがするんだって、まあ排泄物を垂れ流すところはさすがに否定できませんよねそれだって人間じゃないし、みたいなそういう感じの、いやらしくなさそうなところに幻視されるいやらしさのほうがいやらしくて、言ってしまうと、いやらしさはまあ、書き手ではなく読み手の脳裡に否応なく思い浮かんでしまうくらいのほうがよいのかな、みたいなね。二次創作を生む余地を奪わずにいましょうよ、という感じでしょうか。これもまた何を言って何を言わずにいるのかの選択の妙とでも申しましょうか。人体だって細胞の死滅によってその輪郭を得ているわけでして、手足が生えているのは、そのカタチに細胞が生えたからではなく、手足のカタチに細胞が死んでいるからそのカタチがとられているわけでして(でなければ肉団子になってしまうわけでして)、けっきょくのところ、ない部分、欠けているものこそが複雑な事象を形作り、我々に奥深さを感じさせているのかな、幻視させているのかな、なんて妄想を逞しくしたところで本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。とりもなおさず、欠けるにはまず満たさなければならないわけで、肥えるというのもときには必要なのかもしれませんね。



2526:【旧世代、時代遅れ、古代人】

こんなに他人との接点のないいくひしさんですらインターネットからすこし距離を置きたいと思ってしまうくらいなのだから、インターネットを他者との双方向での交流を目的に利用しているひとたちはいったいどれほどの心労を割いているのだろう。よほど何とも思っていないか、じつのところ精神的にまいっているかのどちらかなのではないか。インターネットを手放すのがむつかしい時代であるから、しんどくなったらせめてSNSから距離を置くくらいのことはしてもよいのかもしれない。さいあく、双方向の交流にならないようなアカウントを別途に作っておけば体調を崩す前に休む方向にじぶんをコントロールできそうだ。他者からの反応に反応し返す、というのはSNS上ではあまりに手軽でいて、それゆえに心労が大きくなりがちだ。無視するのもけっこうに気を使いそうでやはり避けられるなら避けたいものだ。通知をOFFにするか安心して眺めていられるアカウント以外はミュートにするのがよいのではないか。いずれにせよ、これまで以上に現代は孤立を感じやすく、それでいて孤独になりにくい社会なのかもしれない。好きなときに孤独になる術の一つくらいは持っていたほうが心身ともに調子を崩すといった事態を回避できそうだ。逃避先と言えば端的だ。孤独の価値はこれからさきの社会におかれては、まだまだ相対的にあがっていくだろう。もちろん、好ましい人間関係を築くこともまた同様にして価値が高まっていくはずだ。選べることがたいせつなのだ。好きなときに、好きな相手と好ましい交流を結び(或いは距離を置き)、好きなときに好きなような孤独な時間を満喫できたら言うことがない。もちろん孤独などいらぬと、すべての時間を好ましい他者との交流に費やしてもよいし、すべての時間を好ましい孤独な時間に費やしても構わない。ただ、すくなくともインターネットに繋がることは、その架け橋ではあってもいましばらくの期間は、それそのものに成り代わることはないのではないか、と見立てている。仮想現実が物理世界と肩を並べ、或いは物理世界に密接に関わり、進出してくるようになるまでは、一日のなかで(睡眠時間以外に)二時間くらいはインターネットに繋がらない(その動向に影響されない)時間をつくってみるのも一興かもしれない。(スマホを持ち歩かない旧世代、時代遅れ、古代人の戯言ですので真に受けないように注意してください)



2527:【見失う】

なんかいくひしさんってどんなキャラだっけとうっかり忘れてしまって、ちょいといっちょ見直してみっか、とむかしの「いくひ誌。」を読み直してみたら、アイタタタ、こりゃあれだね、いわゆる古傷が痛むというか、あっそれ傷だったんですね、といまごろ気づいてしまったというか、あちゃーいくひしさん、あなたなかなかのオイタタタでしたね。あれ、あやー、ひょっとしていまも?



2528:【じぶんっぽいものはむしろ苦手】

共感よりも憧れや新鮮を求めて物語を味わってきたこれまでのいくひしさんであったけれども、さいきんはかってに共感というか、こいつわいやん、みたいな読み方をしてしまいがちで、自己嫌悪に陥るのでやめてほしいのだけれども、自動で脳内に「これわいやん」が流れてしまうので、ほんとにほんとにやめてほしいと思っています。べつに誰がわるいという話ではなく、さいきんのちょっと困った変化というか老化というか、もうこれあれだよね、自意識過剰? わかんないけど、そういうのがね、ちょっとね。共感よりも憧れや新鮮を求めていきたいなって話。でした。



2529:【ぶんがくってなんじゃ?】

古典と呼ばれる小説をたぶんほとんど読んだことがなく、文学の素養もなく、とくに文章を読むのも好きではなく、かといって読書はどうかと言えば、楽しい読書は好きで、じゃあどういう読書なら楽しくないのかと言えば、何かこう、読書をすることが特別なことで、高尚なことで、小説ってすばらしいよね、うぃんくパチ、みたいな感じが漂いはじめたり、嗅ぎつけたりしてしまうと、とたんに、ウッ、となってしまってダメになる。もちろんこれはそう感じてしまういくひしさんがかってにダメになっているので、そういうふうに誤解されたり、錯覚されたりするほうに瑕疵はない。問題はない。わるくない。ただいくひしさんは、文学というものから匂いたつ、えっらそーな感じが好きではなく、もちろんじっさいに偉い部分があることはなんとなしにそれなりに想像はつくものの、やっぱりこう、なんだ、もっと単純に、文芸くらいの意気込みで、文章でお芸ごとをお見せしよう、くらいの塩梅で、そこそこの愉快さといっぱいの新鮮さと、回避不能な視界のぐるりを、これまでの視点にさようなら、こんにちは新しい見方、解釈、言葉たちよ、の太っ腹具合で、拍手ではなくぽんぽこりんとお腹を叩いて終わりたいなと、読み終わりたいなと、ページを閉じて、ほぉっと満足のひと息を吐きたいのだと、そう思うのだ。文学が好きなのか、読書が好きなのか、はたまた新しき何かに触れるのが好きなのか。いずれにせよ、こんな悪態を並べる前にせめて古典の一つでも読んでから言えよ、と内なるいくひしさんに睨まれてしまったので、そのとおり至極、わるく言ってごめんなさいでした、と保険の言葉をみょいと残して本日の「いくひ誌。」とさせてくださいな。



2530:【わかんなくなっちゃった】

いやそんなキャラだっけ? まだ迷走してない?(言うほど変化はしてないが)



※日々、他人をひねりつぶすよろこびに飢えている。



2531:【夢には扉がない】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはさいきん、夜型の生活でござって、夜中にいっぱい物を食べるでござる。いまだってほらみて、厚切りフランスパンに四角いバターを敷き詰めて焼いて、そのうえから練乳をたーっぷりかけて、こんなの食べたらすぐにぽんぽこりんのぽんでござる。お気づきの方もおられるかもしれないでござるが、さいきんのいくひしさんは「ぽんぽこりん」がマイブームでござって、だってなんかかわいくないでござるか? 気のせいでござるか? たぶんいま好きな生き物のタイプはどんなですかって訊かれたら、ぽんぽこりんなぽんぽこりんかなって答えちゃう気がするでござる。ぽんこつではないでござるよ。ぽんこつはいくひしさん一人で間に合っているでござる。ぽんこつと言えばいくひしさんはラーメンのなかでトンコツが二番目に好きで、いちばんはお味噌で、あやっぱりトンコツは三番目にして二番目をお塩にしておきたいでござるけれども、海鮮がいちばん苦手で、お醤油がそれよりかはすこしだけマシかな、みたいな感じでござる。どうでもよいでござるか? どうでもよかったでござる。なんにも並べることがないとひとはじぶんのことを並べちゃうでござるな。なるべくいくひしさんはじぶんのことではない、じぶんからかけ離れたものをやことを並べていきたいでござるけれども、けっきょくはいつもじぶんの思ったこととか感じたこととか、妄想とか、そういうのしか並べられないでござる。じぶんから逃げられないでござる。いやでござる。いやじゃいやじゃでござる。なんだかまたじぶんのことを並べているでござる。こうなったら引きこもってやるでござる。夢に引きこもってやるでござる。そういうわけできょうはもうおやすみーでござるー。



2532:【DNAと遺伝子】

DNAと遺伝子はイコールではない。DNAのなかの一部が遺伝子だ。2020年現在において遺伝子はDNA全体の2~5%くらいしか占めていないとされている。いわゆるたんぱく質を合成し、子に踏襲される形質を記録している塩基配列の部位を遺伝子と呼ぶ。残りの大半の部位においてはではどのような役割を果たしているのかについてはまだまだ解明の余地がある。そもそもの話として遺伝子といった身体の設計図だけでは人体のような複雑な機構は発現し得ない。設計図を基にして肉体を組み立てる仕組みがなければ宝の持ち腐れを地で描く。この仕組み、つまり回路のようなものは、DNAにおける遺伝子以外の残りの95~98%のほうに搭載されているのではないか、と私見だが妄想している。いわゆる非コードDNA領域と呼ばれるたんぱく質を合成しない領域のことであり、かつてはジャンクと呼ばれた領域だ。また一般的には獲得形質の遺伝は否定されている。すなわち生きているあいだに獲得した経験や記憶やそれに伴う肉体の変化は子には踏襲されない、なぜなら遺伝のメカニズムは一方通行であり、遺伝子の変異からたんぱく質(肉体)を変質させることはあっても、たんぱく質(肉体)の変異から遺伝子が変質することはないと考えられているからだ。しかしこれも妄想でしかないが、そもそも生物にはそれまでの祖先が辿ってきた進化の来歴が非コードDNA領域などの遺伝子以外の回路のほうに集積されており、ある閾値以上の急激な環境の変化や、外的刺激を知覚すると、それら太古に培ったしかしいまは表面に顕現していない形質が発現することもあり得るのではないか、との疑念がある。つまり、回路のほうで遺伝子としての機能をONにしたりOFFにしたりするようなある種恣意的な能力を有しているのではないか、との妄想をしてしまう(遺伝子内には、心臓なら心臓、ゆびの筋肉ならゆびの筋肉になるように、それ以外の機能をOFFにする働きをする機能が付随している。ここで述べているのはそれとはまた別で、遺伝子ではないコードが遺伝子として働くように目覚めさせる機構という意味だ)。それは、回路に集積された情報がどのようにどれくらい記録されているのかを知らない我々からすると、環境の変化を機に改めてONとなった遺伝子コードが、獲得形質の遺伝として観測されるのかもわからない。或いは、そもそも回路のほうには、ストレス物質などの遺伝子を破壊するような外部刺激を過剰に感知したらその刺激を――すなわち弱点を記録しておくような能力が備わっており、つぎに任意の刺激が加わった際には、破壊されるよりさきに遺伝子を修復せよ、とする仕組みがとられているのかもわからない。言い換えるなら、生きているあいだに知覚する外部刺激によって自発的に遺伝子を変異させるような能力が、DNAには備わっているのかもしれない。いずれにせよ、自然淘汰や偶発的な遺伝子のバグによってのみ進化が促されてきた、と考えるのはやや尚早な気がしている。もちろん以上の記述は妄想でしかないので、真に受けないように注意してください。



2533:【さいきん眠すぎない?】

予定より一日早いですが新作「神狩る者(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054894183185)」を更新しました。霊魔怪シリーズで、45000文字です。けっきょく登場人物の名前はつけない方向に統一することにしました。霊魔怪シリーズはどれも連作短編の一部ですが、一つ一つが独立していますので、どれから読んでいただいても問題ありません。すべてつくり終えたら改めて霊魔怪シリーズとしてまとめようと思います。それまでは短編集「零こんま。(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371)」に載せていきたいと思います。あ、掌編「極上の食事(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054894046345)」も更新していました。こちらはお腹が空いたひとがドラゴンの卵を獲って食べようとする話ですね。たぶん猛烈にお腹が空いてたときにつむいだのではないか、と過去のじぶんを分析するしだいです(そんなことはない)。あとはそうそう、掌編の類はつくってももう、いちいちこちらで報告しないようにします。つぎの新作はいくひしさん最後の百合小説となりますが、忘れていたのですが、じつは百合小説、それをつくる前に二万字ほどつくっていたままほったらかしていた短編があって、それを含めて最後になるかと思います。要約すると、百合小説はあと二作、新作として更新することになります。何度も繰り返していますが、百合小説と標榜する作品はこれで最後、という意味であって、生物学的特徴が女性の登場人物しかでてこない物語や、女性同士の絡みが多い物語はこれからもたくさんつくっていくでしょう。百合とわざわざ注釈を挿すような時代でもなくなっていくだろうな、と考えているので、そのようにするしだいです。BLも同様ですね。個人的な方針の変更でしかありません。百合やBLを愛好する方々を非難する意図はすこしもありません。各々、好きなように好きな物語をつくり、愛でていきましょう。いいえ、愛でていってほしいな、と望みます。2020年02月14日のいくひしまんでした。



2534:【愉快な利】

定期的に並べていることなのじゃが、現在進行形でこの「いくひ誌。」を読んでいるひとはたぶんいないのじゃ。十年とか百年とか経てばそれなりに偶然、ここに辿り着いて、目にする奇特な御仁もおられることよのぉ、と思って並べてはいるものの、どちらかといえば人類が滅んでしまってじぶんしかいくなくなった地上でだれかほかにいませんかぁ、とまいにちラジオで呼びかけるみたいな感じ、もしくは宇宙を旅する船内にひとりきりで取り残されてこの宇宙でほかに私の言語を解するひとはいませんかぁ、と呼びかけるみたいな具合で、まあいつかは誰か読むじゃろ、の投げやり感満載でお届けしております(届けているのか? どこに?)。とはいえ、けれども、しかしながら、いざ誰かに読まれるだろうと想像したとたんに、たとえそれが想像上の人物であっても、ぎゃああはずかしぃいい、となってしまうので、いまくらいがちょうどよい。読まれたいのと読まれたくないのが、ちょうど九対一くらいで、どっちがイチなんだい、と問われてもやっぱりはずかしいので言いたくはない。せめてこっちを読む前に小説のほうを読んでほしいな、とは思うものの、たぶんこっちをさきに目にして、ぺぺっ、へんなもん見ちゃった、とかいってさっさと背中を向けられてしまいそうだ。それもまた愉快なり。



2535:【自虐ってなんでこんなに】

メンタルよわよわのよわなのでいつでも、あーひとに好かれてぇ、と思っている。というよりも、あー愛でられてぇ、崇められてぇ、人類みんなわいの足元にひれふさねぇかなぁ、と思っている。同時に、嫌われたくないなぁ、と思い、困らせたくないなぁ、と思い、憎まれたくないし人類みな争わないでほしい、と思っている。要するに、他人を物かなにかだと勘違いしているのだ。植物かなにかだと思いあがっているのだ。じぶんの都合がよいようにどうにかできると、内心どっかではそう思っているし、望んでいる。小説なんてまさにその典型ではないか。キャラクターというじぶん以外の想像上の人物をじぶんの都合で動かしていく。もちろんある程度の葛藤はあって、ルールがあって、法則があって、秩序があって、或いは無秩序を許容して、かんぜんに思いどおりには動かせないけれども、ある種創造主としてふるまうことをいさぎよしとする。望んでそうした世界を編みだしている。まあまあずいぶんとせこくてじぶんかってで、尊大な心持ちだこと。自覚するほどにやっぱり、好かれたいなぁ、嫌われたくないなぁ、崇め奉られて、いっそこの世界そのものも小説みたいにじぶんの思いどおりに、理想的に、争いのない清らかな世界、或いは争いがあってもどうにかなる世界にならないかなぁ、と独善的に考えるまでもなく望んでいる。欲している。ゆがんでいる。未熟者である。ゆえに物語などという虚構にばかり囚われている。精神が弱い。メンタルよわよわのよわだ。つよくなりたいなぁ。思うだけでけっきょくは、現状に満足するようにじぶんをさらにゆがめるほうが楽だと知っているから、よわさに磨きをかけていく。はぁ、自虐ってきもちよい。



2536:【怪我というほどでもないけれど】

きょねん右ひざを痛めてから動きが制限されてしまって、自由から不自由側に寄ったはずなのに、意外にもいまのほうがしっくりきているというか、制約を課したことによって工夫の余地が生まれてこれまでになかった身のこなしや、いかに無駄なく、身体に負担なく動くかのほうに思考を割くようになって、言ってしまうとかえって調子がよくなっている。怪我の功名だ。文字通り。俳句なんかもそうで、敢えて制約を強いることで自由度が増す、というのは世のスポーツやらゲームやらを見渡せばなんとなくではあるが、感覚的に、経験的に、統計的に、そんなもんかな、といった納得が湧く。競争原理というのも似たようなものかもしれない。何か妨げになるもの、邪魔者、障害物などによって否応なく模索を強いられる。手札が増える。選択肢をひねりだす。制約は変化の強制だ。同時に侵害にもなり得、ここら辺をどう解釈するのかが、個人にとってもこれからの社会にとっても見逃しがたい問題点となりそうだ。ルールや規律とは本来、妨げるもの、邪魔するもの、障害物なのだ。だがそれがあることで社会はここまで複雑化し、秩序を生み、或いは混沌の余地をあらたに広げつづけてきた。おそらく俯瞰してみれば、そのメカニズム、構造はフラクタルな回路を伴っているだろう。ルールや規律は社会が発展していくにつれて細分化していく。複雑になればなるほど、巨大化すればするほど、迷路は初期の部位が面から線へ、そして点へとつぶれていく。それは文章の文字数が多くなればなるほど、全体を見渡したときに一行が黒く塗りつぶされて見えるのと同じ現象だ。そうしたとき、重複した部位や、不要な部位は削除してしまっていったん白紙にするのも一つかもしれない。動くための土俵に存在しない障害物は、もはや妨げでも邪魔でもなんでもない。ゆえに、ときおり制約を取り払ってみたり、それって本当に必要な枷だろうか、と疑問視し、考えなおしてみるのも自由を拡張するのに有効かもしれない。右ひざを痛めたが、いまはもう痛くもなんともない。わざわざ庇って動くのは、単なる怠惰と言っても間違いではない気がしてきた本日のいくひしまんでした。



2537:【大きなネズミ】

だるくてあんまり動きたくないからって右ひざ痛めたことを理由になるべく椅子から立ちあがらないようにしただけのことでよくもまあそんなに口からでまかせばかりがするするとでるものだね。きみはなにかね。そんなにじぶんを大きくみせたいのかね。



2538:【高評価されたいのはなぜ?】

他人から高評価されないことで悩む感覚がじつのところよく分からない。そういうキャラを演じることはあるが、なぜすくなからずのひとたちは他者からの高評価をそこまで求めるのかがしょうじきピンときていない。お金を儲けたいのならまだ解かるが、そうでなく単純に表現者としてなにかしらを表現しつづけたいとそうした姿勢を示している者ですら他者から高評価されないことを悲痛そうに嘆いている。そうした言動をまま見かける。高評価されたり、すごいと崇められたり、師として仰がれたりすることの快楽は理解できる。とはいえ、べつにその方面からの快楽を得られなくとも、表現することそのものがまずだいいちに大きな快楽となっているはずだ。おまけをもらえないからといって駄々をこねる理由はない気がするのだが、そういうことではないのだろうか。それとも、表現することのほうがおまけで、他者からの高評価を得ることのほうが本筋であり目的なのだろうか。だとしたら話は解かる。なら解決策は単純で、他者から高評価されるような表現を模索すればよいだけの話だ。そんなにむつかしいことではない。人間には誰しもが共通して抱く欲求があるものだから、まずその方面で出力すれば一定の評価(反応)は得られるだろう。もちろん簡単ではないし、どんな分野であろうと一流になるにはそれなりの研鑽や競争を積み重ねなければならない。とはいえ、たくさんではなくとも、ある程度の高評価ならば集められるはずだ。高評価を得ることを目的にするのなら、いくらでもやりようはある。すくなくとも、いまもっとも高評価を集めている者の成果物を真似すればよい。だが、他者からの高評価を得られないと嘆いている者たちの大半は、そうした模倣すらしようとしない。なぜなのか。何の工夫もなく楽しく表現したものを高評価されたいと思っているのなら、それはそもそも願望であって目的でもなんでもない。叶わないのが当然だ。きっと誤解してしまっているのだろう。たとえば死後に高評価される芸術家たちがいるが、それは何もその芸術家たちの表現が特別優れていたわけではない。芸術家とは別に、「無名の作品を評価すること」で他者から高評価を得ようと工夫した者がいただけのことだ。極論、その者にとっては芸術作品でなくとも構わないのだ。道端の小石であっても、それをほかの大勢の者たちに高値で買わせられたならそれで目的は達成できる。名誉を得られればそれで事足りる。因果が逆なのだ。素晴らしいが高評価されなかった作品がのちのち正当に高評価されたわけではない。価値のないものに価値を付与することで他者から高評価を得ようとした者がいたから、その者のお眼鏡に適った「適当な作品」が偶然に高評価されるようになっただけのことなのだ。まずここのところの認識を錯誤しないほうが好ましいのではないか。他者からたくさん高評価されている者たちは、高評価されるように工夫をしている。例外はおそらくないだろう。もしあるように見えたなら、それは単に見落としているだけだ。むろん、表現者本人が工夫をしなくとも、その周囲に介在する者たちが、その表現者の作品を利用して高評価を集めている(得ている)場合もあるだろう。この場合もやはり、高評価されるように工夫している者がいるのだ。単独で工夫しているか、媒介者と共生関係を結んでいるかの違いがあるだけだ。いずれにせよ、高評価されている者たちは例外なく、高評価されるように工夫しているし、ある一面でしたくないことを選択している。繰り返しになるが、何の工夫もなく楽しく表現したものを高評価されたいと思っているのなら、それはそもそも願望であって目的でもなんでもない。叶わないのが当然だ。何を目的にしているのかをときどき確認する習慣をつくっておくと不毛な悩みに時間を奪われずに済むようになるかもしれない。(さほど大きく間違った考えだとは思っていませんが、いつもどおり真に受けないでください)



2539:【歴史は繰りかえす?】

伝説や巷説を自作の小説のなかで扱うときに必ず連想する考えがある。それはたとえば、どの時代、どの地域であっても、たとえ交流のなかった人種間同士であったとしても、文明であったとしても、そこで培われる文化や風習には一定の傾向が表れるのではないか、というものだ。よくは知らないが、神という概念はどの文明でも発生してきたのではないか。或いは、神という概念を打ちださなかったコミュニティは文明を育めなかったのではないか、といった具合だ。人間にはほかの動物種と同じように、その種固有の本能のようなシステムが先天的に組み込まれている。おそらくそれを否定する者は現代ではそれほど多くないはずだ。三大欲求以外であっても、何を好み、何を忌避しやすいか、といった傾向としても個々人に共通して遺伝されているものがあるのではないか。仮にそうだとすれば、現代文明が完全に崩壊して、知識も言語も何もかもを失った人類を荒野に放ったとしたら、これまでの辿ってきた人類史と似たような歴史を辿って、また似たような文明を築くのではないか、との妄想をしてしまう。もちろんまったく同じにはならないだろう。ただその要因が、環境が同じではないからそうなるのか、それともそこまでの強制力が人類に刻まれたシステムにないのかは定かではない。ただし、言語が段階的に複雑さを増し(ときに単純化して)、より洗練されてきた背景を鑑みれば、神や伝説や物語といったものもまた、文明の発展に相関して変質していくように思うのだ。それはおそらくどの地域のどの文明であっても、発展していけばそこに収斂するようなある種の方向性を持っているように感じている。十年くらいの差は無視してもよい――世界を見渡してみて、同時多発的に似たような構造を有した、これまでとはちょっと違った物語が目立ちはじめたら、人類に組みこまれたシステムがそうした物語の進化を促しているのではないか、と妄想してみるのも、そこそこ楽しいお遊戯となる気がするが、いかがだろうか。(まったく詳しくはありませんが、最近の歴史学者のあいだではこうした発想は否定されがちなようです。人類に備わった先天的なシステムよりも偶然による要素のほうがはるかに文明発展への影響が大きいのでしょう――それはそうでしょう、大災害や戦争がいつどのくらいの規模で起きるのか、独裁者や偉人となり得る人物がいつ死ぬのかによって歴史の歩みは大きく変化するように思います。上記は妄想でしかありませんので真に受けないように注意してください)



2540:【眠い】

ツイッターはじめたころから好きだった、新作が投稿されてるの見つけると否応なく脳汁ぶわぁ~ってでる絵描きさん、フォロワー数が当初は80とかそんなで、二年かけて300まで増えてたのが、きのう投稿された新作がバズって、いいね2万ちかくとか一気にいって、フォロワー数も2千とか増えてて、なんだかすごくおもしろい物語に触れたときくらいうれしくて、とてもとてもうれしくて、でもそこで、あれ?ってなって、ああなんだ、やっぱり他人から注目されたり、高評価されることを本心ではいいことだと思ってるんだって思ったんだけど、それはすこしちがくて、その絵描きさんはじぶんの絵をもっと見てほしいって思ってて、いろいろ工夫していて、そのなかで主義に反したことはぜったいにしてなくて、そういうひとがじぶんの定めた目標を達成できている姿が本当によかったなぁ、と思うのだ。ただ、増えたフォロワーを重圧に感じて精神的に負担になったりしないかな、だいじょうぶかな、と心配になってしまうけれども、たぶんというか、だいじょうぶなのだ。とてもすごくつよいひとなので。ただいくひしさんはそのひとにブロックされているのでリツイートはできないのだった。(オチとしては近年稀に見る秀逸さ)(ブロックされるようないくひしさんがわるい)



※日々、じぶんより下がいると思いこんでいる、上とか下とかそれ自体が幻想なのに。



2541:【他自本願】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはさいきん、左手がぷるぷる痙攣するでござる。かってにふるえているでござる。なんだか魔物でも宿ったみたいでかっこいいでござる。きっと覚醒なんかしちゃって、身体をのっとられるの、のっとられないの、えんやこらしながら世界の危機をすくおうとしてかえって混乱をまき散らして、魔王を倒すはずが魔王そのものになってしまうでござる。え、やなんでござるけれども、でござる。そんなのかっこよくないでござる。いやじゃいやじゃでござる。いでよシェンロン!でござる。伝わったでござるか? なんでも願いを叶えてほしいでござる。願いを叶える回数を無限に増やしてほしいでござる。それともなんでも願いを叶えられる能力がほしいでござる。でもたぶんそこでいくひしさんはいつか、もう一人のじぶんがほしいとかなんとか祈っちゃって、そのもう一人のじぶんにも無敵のなんでも願い叶える能力があるから、そこからみょみょーいってお互いの存在が邪魔になって、うぎゅうぎゅムギャムギャに発展して、どっちがさきに相手をバッタンギューできるかの競いあいになって、魔王が二人もできちゃうでござる。いやでござる。いやじゃいやじゃでござる。そうなったらたぶん、願いを叶える能力を身につけた過去を失くしてしまう方向に願うでござる。でもいくひしさんの代わりに誰かがその能力を持っても不安だから、じゃあ願いを叶える能力をくれたシェンロンを滅ぼすでござる。やっぱりどこか魔王じみているでござる。いやじゃなあ、でござる。やっぱり願いはじぶんで叶えるものでござる。そうじゃないとたいのへんでござる。なにも願わないようにするのもよいかもしれないけれども、それはそれで味気ないでござる。おいしいものたべたいな、くらいはやっぱり思っちゃうでござるから、じゃあおいしいものたべようかなってじぶんでなんとかするのがよい気がするでござる。そうするでござる。他力本願なんてダメでござる。損をするでござる。得をしないでござる。けれども、やっぱりなんかきょうは疲れたので、もうおねむだし、いま寝ちゃえばあしたのいくひしさんがなんとかしてくれるから、じゃあそういうことで、きょうのいくひしさんはおやすみーでござるー。



2542:【異常と過剰と欠落と】

さいきん身体と心が繋がりすぎていて、直結しすぎているというか、癒着しすぎているというか、もっとおいてきぼりにしていかなきゃなと思うのに、なかなかうまくいかないのだね、引きずられている感があって。我をおきざりにして、できるだけじぶんから遠く離れたいのにそれができなくてもどかしい。空想よりも現実に引っ張られている感があって、たぶん一般的にはそちらのほうが正常なのだろうけれども、あ、いま並べようとしていたことじゃないことを思いだしてしまったので、そちらのほうを並べてしまうけれど(思考は多層的に展開できるのにどうして文章は一面的にしか述べられないのだろう、本当に不便だ)、むかしから引っ掛かりを覚えていたことの一つに、異常、という言葉があって、まず以って正常と異常の違いは何を基準にしているのか、という疑問がちらほら浮上するのだけれど、たとえば人間の性格にしてみても、まあいわゆる平均値というか、或いは社会にとって都合のよい存在というか、一般的には人間の知覚できる範囲で、そこそこ長いあいだ継続する破たんしない生活を営める範疇の気質といった具合で、けっきょく時代によって世代によってゆるやかに基準はずれていくものであって、何が正常で異常なのかは厳密に決められないものだとしても、たいがいの異常とされる性格、気質というものは往々にして過剰でしかなく、ほとんどの場合は異常ですらないのだよね、というのは、たびたび実感として湧く感慨なのであるが、まあまあ過剰であるだけで異常扱いされる世のなかは徐々にではあるものの是正されつつあって、みななんだかんだ言って寛容にはなっているのだよね、とは感じるものの、それでもやっぱり許容される過剰さとそうでない過剰さは歴然としてあって、もっとこうなんだろうな、異常とはなんぞや、正常とはなんぞや、というところを言語化できるようになって、そのあいだに位置づけられる過剰な気質におかれては、一律に異常と呼ばずにいたほうが好ましい気がするものの、行き過ぎた過剰が異常になることもあって、そこらへんの加減というか、閾値というか極限というかあいだあいだのどっちつかずな領域においてどのように扱い判断するのかについては過剰にかぎらず、欠落であっても似たようなもので、ほとほとむつかしいなあ、と思う本日のいくひしさんなのであった。要約いたしますと、むつかしいなあ、でございます。



2543:【ほっと】

ひさびさにインスタントコーヒー飲んだらやっぱりおいしかった。



2544:【逃げ癖がついた】

苦手な方面の技術を取り入れないと目のまえの壁を突破できないとようやく認めつつある。もっとこう、壁を破らずにそのままにしていても抜け道というか、なんだったら正反対の方向に進路を曲げるだけでも選択肢の幅を広げられるのではないか、組み合わせの色合いを豊かにできるのではないか、新しい土壌に巡り遇えるのではないか、と思って三年くらいもがいてみたけれど、やっぱりどうしてもこれまで逃げていた方面の技術があったほうが格段に自由度が増すとどうあっても認めざるを得ない局面に立っていて、むぐぐ、と下唇をはんでしまう。やろうと思えばそれほど苦労なく身につけられるだろうとは思うのだけれども、疲れるからなるべく通りたくない道だ。体得するまでの苦労はどんなことであれつきまとうからそれで疲れるだけならよいのだけれど、今回の技術のやつは体得したところでその技術を行使すればするほど疲れが溜まる。技術というのは基本的にはそれを使えば楽になるものなのだけれども、ジェットエンジンみたいにただそれを使うだけでも大きな負担になる場合もあって、否応なく出力をあげざるを得なくなるのが本当に嫌だな、と面倒に思っている。なさけないなこのひと、と思いましたか? 正解です。はなまるをあげたいと思います。使い勝手がわるい技術でもあるから、体得したところで使いどころがまず限られるし、こうして改めて考えてもみるとかえって不自由になる気もしてきた。やっぱりもうすこしだけいまのまま、面倒でたいへんな技術からは距離をおいて、楽に、疲れないレベルの低い技術だけで、あはははー、とやっていこうと決意を新たに固めたのだった。まんちゃんあなた、逃げるのだけは本当に上手ね。



2545:【たなあげ】

モチベーションというものをとくに意識したことがなかったので、日々のモチベーションはなに、と問われてもとっさに意図が掴めなくて、どういう意味ですか、と訊き返してしまった。和訳するとモチベーションは動機付けだから、その質問を、目的はなに?と言い換えてもよいかもしれない。でも、日々の目的はなに、と問われても、楽しく苦痛のない自由な時間を過ごせていたらそれで充分至極で、理想であるから、とくべつにずばりこれと示すような目的はあんまりなくて、その日そのときによって興味の対象は変わるし、対象が変わればそこから生じる問題も多様化して、そのつど目標も変化するので、やっぱりずばりこれ、といった動機付け、モチベーションはない気がしている。漠然とした目的意識というのなら、「そのつど見つけた、なぜ?に対して、じぶんなりの仮説を構築して、ときには試行錯誤すること」としてもよいかもしれない。じぶんなりに納得したいのだ、満足はできずとも。問題や疑問に対して、じぶんでひねくりだした解が浅くとも、よしんば間違っていてもべつに構わない。ひとまず、妄想をするだけの時間がほしい。あれやこれやと可能性を羅列させてほしいのだ。そのなかでもっとも確率の高そうなのはどれかな、と順位づけできたらけっこうあんがいにスッキリして快感だ。モチベーションはたぶんそんな感じなのだけれども、これを会話で一言二言でハイサと伝えるのはむつかしいし、たぶん質問をしてきたひとはこういうことを訊きたかったわけではないのだろうなと思うし、ひととの会話ってどうしてこんなにも難度が高いのだろう。仮の話として、モチベーションがなかったらどうなるんだろうね。とくに支障はない気がするけれど、動機付けや目的意識がなくとも、いくらでもそのときそのときでやりたいことや興味の向かう対象って目につくものではないのだろうか。そうでもないのかな。基本的にいくひしさんは欠けているし、足りないし、未熟だし、なっていないので、満足しようがない。飽きたらまたべつの欠落を埋めるだけだ。モチベーションを保つ必要がそもそもないのかもしれない。(そう言えばモチベーションって言葉、この「いくひ誌。」で使ったことあるのかな、と検索してみたら二回だけ使っていた。「818項目」と「1000項目」に登場していましたね。どちらも、モチベーションがあってもなくても変わらんよね、みたいな文脈で使っていて、なんだいくひしさん、あなた何も変わっていないのね、とざんねんになってしまった。なんだかおもしろくないのでこれからは日々、モチベーションをあげていこうと思います。たとえばそう、棚とかに)



2546:【慣れ】

文芸とはべつの分野の話だが、どんなに簡単なことでも最初の一歩が重いのだな、ということをたびたび実感する。さいきん、むかしは得意だったけどレベルが低いから使わなくなっていた技術をもういちどじぶんの創作に取り入れてみようかな、とやってみていて、これがまた思っていた以上にできなくなっていて、物になっていなくて、レベルが低くて簡単なはずなのに、すぐにできなくて、なんだったらちょっと予想外に負荷がかかっていて、こんなにむつかしかったっけ?とじぶんの貧弱さや未熟さをまざまざと思い知っている。単純に衰えているというのもあるだろうし、過去を美化していただけでじつはむかしもそんなに上手にできていなくて、体得していたと思っていただけで本当のところはそんなにできていなかっただけかもしれない。おそらく両方だろう。認識の修正を余儀なくされている。或いは、慣れというものを軽視しすぎているきらいがいくひしさんにはあるのかもしれない。レベルの低い高いだけでなく、慣れているか否か、というのは、習得や熟練という意味では不可欠な評価基準であるのかも分からない。以前はできていたのにいまはできない、というものの多くは、忘却や衰退を論じるよりも、この「慣れ」という概念で評価したほうがてっとりばやくある気もする。わかりやすいのだ。慣れていないから疲れる。上手にできない。負荷がかかる。まずは慣れるまでやってみる。そういう意味では、継続や習慣が欠かせない、というよりも、効果的なのかな、と思いつつ、予想外に疲れたのでしばらくは予定を大幅に繰り下げて、一日一回、くらいの塩梅でやっていこうと思う本日のいくひしさんなのだった。



2547:【忘却の時間】

習得するためには忘却の時間をあけるのが効果的だ、と個人的には感じている。これはいくひしさんの経験上というか、体感でしかないので一般化できる話ではないことを前置きしたうえで述べるが、知識や技術にかぎらず、なにかしらを習得する際には、いくつかの段階に分けられると考えている。それは記憶の定着と無関係ではなく、短期記憶を長期記憶に変換する作業が必要で、そこで欠かせなくなってくるのがいちど忘却することなのではないか、と疑っている。泥のようなものだ。いちど水底に沈んだ泥をもういちどゆびでかき混ぜ、必要な養分のみを水に溶かす作業が知識や技術を身体に定着させるうえで効果的なのではないか。ずっと水が濁ったままでは見通しがきかないし、新しく知識や技術を投下しても、何が新しくて古いのかすら区別がつかない。物にならない。だからすこし時間をあけて、舞いあがった泥が沈殿するのを待つ期間が入り用なのではないか。そしてもういちど沈殿した泥をゆびでかき混ぜて、必要な知識とそうでない知識を濾過するように、或いは石油からガソリンを分留するように、水によく馴染み溶解するものだけを抽出する。忘却し、思いだす、という繰り返しによって知識や技術は、単なる記憶ではない技能として身に着くもののように感じている。惰性で毎日継続するだけではおそらく逆効果だろう。忘れる時間を敢えて取り入れる、というのも、技術を習得するうえでは欠かせないのではないか、と経験則、ともすれば直感でしかないが、思っている。



2548:【我執の権化】

ちいさいころからの気質なのだろうけれど、それそのものを「する」のが好きなのであって、それそのものに対しての興味はじつのところそんなにつよく抱いているわけではない。たとえばの話、俳句が好きだったとしたら、俳句をつくるのが好きなのであって、俳句の歴史とか流行りとか、そういうのを率先して知りたいとは思わない傾向にある。もちろん素晴らしい俳句を目にすることでじぶんの創作の幅が広がったり、新作の糧に繋がることはあるし、そうなる未来を期待して否応なく進路を変えざるを得なくなるような刺激が転がっていないかな、と既存の作品群に目を配ることもある。ただ、上手につくれるようになりたいとは思ってはいるものの、ではその上手の基準はどこにあるの、と考えてみると、既存の作品群のなかにそれはない。けっきょくのところじぶんの理想とするものにより近づける方向に舵を切りつづけるよりなく、理想そのものもまたこちらが舵を切るその所作に影響を受けて変化していくので、いたちごっこというか、陽炎との追いかけっこというか、終わりが見えないし、終わりがあるとも思えない。明確な基準がなく、それでいて上手になりたいと思ってはいるものの、上手なるものの輪郭をハッキリと掴んでいるわけではないから、いかんともしがたい。とにかく何かこれまでになかった感触を味わいたいのだ。しかしながらまことにざんねんなことにいくひしさんは偏食でもあって、好き嫌いが激しく、食わず嫌いで、偏見の塊であり、息をするように差別をし、それでいてじぶんに甘く他人には厳しい。任意のそれを「する」のが好きと言って間違いではないものの、どちらかと言えば任意のそれを「なぞる」ことに堪えられないだけな気もする。それはそれとしてさいきんのいくひしさんはじぶんのことばっかり並べますね。あ、いつもでしたか。失敬。



2549:【無ではない】

仮にこの世が無限だったとしても、そこに一つも存在しないものは存在しないのだ。たとえばそれを見ただけで人間がうさぎになってしまうような謎の結晶体があったとして、誰もそれを目にしたことがなければ人間がうさぎになることはない。人類にとっては「ない」も同然であるが、しかし人類の認識にかかわらずそれはこの世に存在した以上、ふたたび存在し得る可能性が残ることとなる。つまり、たった一つでも存在すれば、仮にそれがほかの事象になんら影響を及ぼさなかったとしても、この宇宙にとっては絶大なる影響を残していると呼べるのではないか。適切な表現でないことを承知で述べるが、どんな事象であれいちど存在した以上は、その存在したという情報はこの世に残るのだ。誰にも観測されずに刹那に消えゆく雪の結晶のなかに、人類の価値観を揺るがすほどの美しい形状を帯びた結晶構造があっとして、人類がそれを目撃せずとも、人類の価値観を揺るがすほどの美しい雪の結晶はこの世に存在し、そしてそれはふたたび現れる余地をこの世に残す。存在したことと、未だかつて存在し得なかったことのあいだには、世界をもう一つつくりだしてしまうくらいの大きな差異がある。越えられない違いがある。明確に、はっきりと、まったく異なるのだ。観測されるか否かよりも、存在するか否かのほうがずっと重大だ。極小の世界では観測されることで粒子の状態が確定されると考えられているが、それでも観測され得るその粒子の存在は認められている。状態が確定されていないことと、存在が確定していないことは同義ではない。存在することがだいじなのだ。そこに物理的な形状を帯びていなければならないといった制約はない。システムとして機能すればどんな存在であれ、そのシステムとしての構造――循環――を帯びていると呼べる。誰にも読み解くことのできない言語で編まれた、人類の価値観を揺るがすほどの物語がこの世のどこかで誰かの手により編まれたとして、その物語はほかの人類に読解されることはなく、伝わることもないが、しかしその物語がこの世に編まれ、存在した事実は覆らない。言語として編まれずとも、よしんば空想であったとしても大差ない。概念を生み、物語を想像するだけであっても、そうした情報を生みだす脳内の回路が存在した事実はこの宇宙にしかと刻みこまれ、ふたたび似た構造物が結晶する余地を新たに広げるのだ。適切な表現でないことを承知で述べるが、どんな事象であれいちど存在した以上は、その存在したという情報はこの世に残る。誰に観測されるかは二の次と言えよう。極論、観測される必要すらない。情報は残る。安心して世界を新たに生みだそう。あなたの世界を編みだそう。(以上の妄想が仮に正しいとすれば、あなたが生きているだけでかってに世界はその枠組みを広げるので、とくべつ物語を編む必要もないのだが、いずれ上記は妄想に違いないので真に受けないように注意してください)



2550:【あんぽんたん】

歴史にまったく明るくないので(小学生のほうがまだ知っていそう)、たびたび耳にする大名たちの領地の規模を示す「石(こく)」がいったい何を示しているのかが皆目解らない。広さなのか武力なのか人口なのか、何なのか。気になったのでネットで検索したら、米の収穫量とあった。人間が一年間に消費する米の量がだいたい「一石」らしい。百万石と言った場合は、百万人を一年間養えるくらいの米を生産できる土地、という意味になるのだろうか。しかし農業の技術があがって生産性が高まれば、小規模の領地であってもたくさん米が収穫できるようになり、単純に「石」の多さが領地の豊かさとイコールにはならない気もする。百万石の土地であっても人口は千人とかふつうに成立するのではないか。あべこべに、まったく米を生産せずともほかの土地から米を購入したり年貢で補完できるような土地ならば、百石なのに人口は一万人といった例もでてきそうに思うが、どうなのだろう。いかにもその土地の豊かさや武力の高さを示す単位として使われがちに思うが、率直な感応としては、米の生産量がなぜその土地の豊かさと安易に結びつけて考えられているのかが解からない。また、それを当然そうであるかのように扱っている文章を見ても、まるでその土地の戦闘力を測る指針のようなニュアンスで使っているけれど、それは妥当なの、と疑問視してしまう。「石」は土地の規模を示す単位としてはあまり適切でない気がしているが、単にこれは勉強不足なだけであるので、もっとお勉強をしなきゃな、と教養のなさを打ち明けておく。ちなみに米の生産力を「石」で表すことを「石高」と呼ぶそうだ(時代によって、石高の扱う対象は米だけではなくなっていくようだが、詳しくは知らない)。もっと解かりやすく「一石」が、現代で言ったら何に値するのかを併記してほしいと思うのだが、たぶん歴史の観点からすれば、こうしてなんでもかでも現代の価値観と比較する考え方は、あまり好ましくはないのだろう、とそれとなく想像してはいる。おそらくは、米の生産力が高いことと、その土地の人口および武力が高くなることのあいだには繋がりがあり、なにかしら相関関係が築かれるような文化や風習があったのだろう、と推し測っている(たとえば、百石あたりにつき武士を一人雇え、みたいな具合に)。そこら辺の知識が抜けているので、五万石と見ても、「それはすごいの?」と気になってしまって文章がするすると頭に入ってこない。だってそうじゃない? 石が五万個あったって邪魔なだけなのに。むかしのひとは山でもつくりたかったのかな(すっとぼけ)。




※日々、八つ当たりをしている、他人に透けて見える悪意がじぶんのものとも気づかずに。



2551:【そんなんいらんわぁ】

信用や人望や応援とは無縁の人生を歩んでいきたいなあ。



2552:【中途半端】

さいきん本を読むのがおもしろいのに、以前よりも読書が疲れるので、眠いのに寝たくないなの赤ちゃんの気分を味わっている。けっきょく読んじゃうし、眠気には勝てなくて寝ちゃうんだけど。



2553:【論文なんてもってのほか】

専門書とか立派そうな本を読んだことがない。むつかしそうな本はぜんぜんダメだ。まだそれを読むだけの力量がない。



2554:【さいきんの変化】

食欲が爆発している。歴史の本を読んでいる。時間経つのはやく感じる。一歩進んで三歩さがっている気分で、なんだかいかに後退するかの競技だったら優勝できる気がする。塩分摂りすぎ。ごはんよりもパスタの率多し。時代に取り残されている感がすごい。流行りがなんもわからん。映画観たいのにいざ観ようとするとまずは読みたいマンガや本を味わってしまってからにしようとして後回しにしがち。でもつねに映画は観たい欲がある。それはいつものことか。なんだ。思ったよりも変化はなかった。



2555:【環境変化に鋭敏なのはどっち?】

食物連鎖における階層は、上の階層ほど強者として位置づけられるが、上部にいくほど生存に必要とされるエネルギィが激増するので(だいたい一個下の階層の数倍のエネルギィを必要とする)、いちど食物連鎖の秩序が揺らぐと、まず上部の層から滅んでいく確率が高くなる。たとえば海中のプランクトンが激減すれば、プランクトンが滅ぶ前に、クジラなどの大型動物が滅ぶほうが確率的に高いと言えるだろう。食物連鎖において上部層に位置づけられるからと言って、ほかの生物種に比べてとくべつ生存に有利だとは一概に言えない。環境の変化により敏感に悪影響を受けてしまうのは、じつのところ多くの階層(弱者)に支えられている強者のほうなのかもしれない。(不確かな記憶を頼りに並べた妄想ですので、真に受けないでください)



2556:【小物】

最弱で無名で孤独でありつづけるぞ。



2557:【うそ】

つよくなりたい! つよくならずに済むくらいに!!!



2558:【わかってねぇなぁ】

んなこと言ってっからおめぇはザコなんだっていつまでも、気づけよいい加減。いくひし、おめぇに言うとんのやぞ。



2559:【あばばばー】

聞こえなーい。ぜんぜん聞こえなーい。



2560:【つよいと思われたいだけでは?】

「つよくならなければ何もなせないと信じているんですね。つよくなければ目的をなすことも、誰かを護ることもできないと信じているんですね。立派な心掛けだと思います。がんばってつよくなってくださいね。わたし、応援しています」



※日々、ひとの真似をして生きている、頭から皮を被る擬態でもあり、お手本をゆびでなぞる模倣でもある。



2561:【シャイなのね】

文体というものが何を示すのかが茫洋としていて掴みどころがなく、それゆえに小説のおもしろさを語るうえであまり使いたくのない単語である反面、どうしても便利なので使ってしまう己が語彙力のなさに呆れつつも、それでも「文体がある」の五文字から匂いたつ意味合いとしては、おおよそその語りであるならばどんな物を語らせてもおもしろいだろう、との予感を抱かせる文面とすればそれらしいように思うのだ。物語にはその物語にあった文体がある、とする言い方とも矛盾してはおらず、おのおのの物語に見合った語り口におのずとおさまっていくだろう、変質していくだろう、さながら川に浮かべた笹船のように、といった塩梅で、たったひとつの物の語りを目(耳)にしただけでも、その変容の具合を否応なく幻視させる文章が文体なるものの内訳であるように感じなくもない。しょうじきなところ、文体が何を示すのかはさっぱり塩味であるが、ああこの文章であんな物語をつむいでもらえたらな、こんな物語をつむいでほしいな、とお代わりをしたくなればもう、それが文体であると言ってもよいのではないか。要するに、好きですとかお気に入り、の言い換えでしかないように思うしだいだ。なかなかどうしてみなさん、婉曲表現が「お好き」ですね。推しだけに。推す気まんまんなんですね。



2562:【ぽんぽんあたたかくしてね】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。さいきんいくひしさんはパスタばっかり食べていて、さすがにそろそろほかのも食べたいなってなったからお好み焼きをつくったでござる。で、きょうはちょっとためしにチーズをいれてみたでござる。パスタでもチーズをかけて食べてたのでそうしてみたでござるが、これがまたお好み焼きとあうでござるな。フライパンさんのうえで溶けたチーズがパリパリになって、これはちょっといつもよりたくさんパクパクしてしまったでござる。もうもういくひしさんってばコホコホ咳がとまらないコケコッコーでござる。それは咳トリでござる。伝わらなかった気がするので説明いたしますとでござるけれども、おなかがぽんぽこりんなのはおすもうさんで、おすもうさんは関取と言うでござるから、それと咳をする鳥さんとでかけて、咳トリっていうギャグだったんでござるけれども、ひょっとしてつまらなかったでござるか? まったくぜんぜん伝わらなかったでござるか? それとも伝わったけれどもおもしろくなかったんでござるか? フリでいいのでわらってほしいでござる。ありがとうございますでござる。なんかちょっぴりはずかしくなってしまったので、もうきょうは寝るでござる。いまのやりとりはなかったことにしてほしいでござる。あやとりが得意なのはのび太くんでござる。目を閉じたら秒でぐっすりぐーぐーなのはいくひしさんも同じでござるよ。見ててほら、ぐーぐー、コホコホ、でござる。コホコホなんだか咳がじゃまで寝られないでござる。こうなったら咳トリの出番でござるよ、ぽんぽこりんキミにきめた、でござるー。



2563:【望むばかりで益体なし】

好きな創作者さんが傷ついている姿が可視化されやすいいまは時代だ。傷ついていると判れば元気づけたり、相応の対処を講じてあげられる点では必ずしも負の側面ばかりが強化されているわけではないが、たいがいは急にぽんとこれまでの活動を切りあげて、それっきり、といった具合に突如として可視化されて、彼ら彼女らの創作物が好きな側はただただぽっかりと湧いた喪失感と、後の祭り気分を味わうこととなる。絶望を知ることで希望をもらっていたのだとまざまざとつきつけられるわけだが、かといって前以って彼ら彼女らが傷ついていたと知っても、創作物を愛でたり、商品を購入する以外では、彼ら彼女らの成果物を布教するほかに、してあげられることはなく、またすべきではないように思うのだ。おのおのの創作者が望む布教よろしく反応の仕方だってあるだろうし、むつかしいな、とよくよく思う。創作をずっとつづけてほしい、と望むことだって創作者側からしてみればずいぶんとかってで傲慢な望みに映るかもしれない。やめたくてやめるわけではないのだ、と憤る創作者さんだっているだろう。いまさら応援されたって仕方ないんだ、といじけてしまう者もいるかもしれない。ただ、すくなくとも「いまこの時代」ではないかもしれないけれども、創作物を残してさえいれば(そしていまは低コストで後世に成果物をデータで残しやすい時代でもあるから)、いずれ残したそれに救われる者だってでてくるかもしれない。すくなくともいくひしさんは、好きな創作者さんの創作物に日々救われている。救われているからこそ、こうして誰が読んでいるのかもわからない、高確率で誰も読んでいない日誌で悪態を吐くくらいで済んでいる。物理的に赤の他人を損なわずに済んでいる。傷つけずに済んでいる。奪わずに済んでいる。もちろん物理的でなければ(つまり遠距離で間接的で、ときに電波越しに、或いは回り回ってであるならば)無視できないくらいの規模で、多くのひとを損ない、迷惑をかけ、奪い、傷つけているけれども、それでもそこからさきの一線を踏み越えずにいられるのは、社会からの恩恵と、やはり好きな創作者さんの創作物を目にし、手にし、愛でていられるからなのだ。本当にありがたいけれども、それを言葉にして伝えるのには抵抗がある。なんだ、その程度の想いなんだね、と誤解されたくないし、そう思うことで気持ちを伝えないことについても、その程度の想いなんだね、と言われてしまえばそれまでだけれども、だいじな想いだからこそなかなか伝えられないことはあるのだと知っていても損はないのではないか。勘違いされたくないのだ。偽りたくはないのだ。しかし言葉にしてしまったらもう、それはここに、この身体のなかに渦巻いているこれとは違ってしまう。百分の一でも、千分の一でも、一億分の一でも伝えたほうがいい、伝えたい、と欲する気持ちも理解できるけれども、そうした想いを告げられても煩わしいと感じるひとだってもちろんいるだろうし、やっぱり自己満足で相手のひとに直接言葉をぶつけるのは、なんだか死角から石を投擲するようで忍びない。なんにせよ、創作者でありつづけることがしあわせだとは限らないし、当人が本当に傷ついているのかもはたからでは判らない。案外、創作の日々から遠のいてスッキリしているかもしれない。真実がどうであれ、彼ら彼女らの創作物にいくひしさんが救われていた過去は変わらないし、これからもそれら創作物はどこかで誰かへと影響を及ぼしつづける。もちろん誰かに何も及ぼさずとも構わないが、いくひしさんの好きな創作者さんには、せめてインターネット上からじぶんの創作物のデータを消すのだけは思い留まってほしいと我がままに、せつに、傲慢に、いっぽうてきに、なんの対価もなく都合よく思う、本日のいくひしさんなのであった。



2564:【おまえなぁ】

己の弱さを誰にも手を差し伸べない理由に使ってんじゃねぇぞいくひし。



2565:【どっちでもよくない?】

なんなのその手を差し伸べるって。どんだけ思いあがってんの。そのまま打ちあがってお月さまにでも転校したら。誰よりつよさにこだわってんのあんたじゃん。



2566:【おまえがそれを言う?】

あーあー、やめてください、やめてください。それ以上、幼稚なケンカをするのはやめてください。不平を鳴らすなとは申しませんが、せめて暴言を使わずに、相手の考えも尊重して、謙虚にまいりましょう。ね? そっちのほうが楽しい日々をすごせると思いますよ。言われるほうも、言うほうも。



2567:【ああそっか】

いくひしさんはやっぱりじぶんの感情とか気持ちがいちばんだいじで、だからこそ、そうした感情や気持ちをだいじに思えるようになる契機をくれる創作物のことが好きなのだ。創作物が好きなのではなく、それを受動することで生まれるじぶんの感情や気持ちが好きなのだ。理屈にしてもそうだ。理屈そのものが好きなのではなく、それを使って得られるじぶんの感情の起伏、もうすこし直截に言えば、納得や発見を得た際の感情の揺らぎが好きなのだ。揺らいでいたいのだ。じぶんがいちばんたいせつだから、じぶんの気持ちを誰かに伝えようとすることに抵抗があるのかもしれない。じぶんの外側にだすことに臆病になってしまうのかもしれない。



2569:【努力が足りんね】

去年は日のノルマを千文字にしていたので、ことしはその半分の五百文字にしています。どんどん半分にしていこうと思います。はやく文芸から足を洗いたいのです。おやまあ、誤解のある言い方になってしまったかもしれませんので付け足しておきますと、文芸、好きですよ。大好きです。ただ、そんな大好きな文芸よりも好きなものが見つかったらそっちのほうがよいじゃありませんか。どんどん好きなものを増やして、日々を「楽しい」で埋め尽くしていきたいと思っています。楽しく日々を過ごすのが目的であって、その手段は問いません、文芸にしがみつくのは手段と目的が逆転してしまって、これはいくひしさんにとっては好ましくない事態となります。したがって、文芸にかける時間を増やすよりも、もっとほかに楽しいことやものはないかな、といろいろと試して、探すほうに時間をかけたほうが道理に適っている気がします。ただ、いくひしさんはいちど「これ!」と思ったものに固執しがちな性質ですから、斟酌せずに言えば依存体質でございまして、こうしてもっと周囲に目を配っていきましょうね、もっとほかに何か「楽しい」がないかを探していきましょうね、とじぶんに言い聞かせていかないことには、どんどん視野が狭くなって、楽しいはずの「何か」が苦しいの原因になってしまったり、身動きがとれなくなっていたり、そのことに無自覚になってしまったりするので、やっぱりこうしてもっとほかの楽しいにも目を向けていきましょうよ、と言い聞かせていかないことには、目的を達成できないのです。はやく文芸よりも楽しいものに出会えるとよいですね。日々のいくひしさんにはこれからもがんばってほしいと思います。役割を終えた本日のいくひしさんでした。



2569:【無知でかなしい】

小学六年生までのあいだに習うことの大部分をいくひしさんはぼろぼろとりこぼしてしまっているので、端的に憶えておらず、習得していないので、なんとか生きているあいだに網羅できるくらいにはお勉強をしていきたいな、と思うのだ。謙遜でも自虐でもなんでもなく、本当に本当にいくひしさんはあんぽんたんなのだ。これは事実なので誤魔化しようがない。都道府県名を漢字ですべて書けないし、たぶん控えめに言って半分も書けないだけでなく、口で言うだけでも一苦労だ。算数にしても鶴亀算ですら、あっぷあっぷというか、ふつうに解けなさそうだし、もはや社会の授業で何を習ったのかすら思いだせない。歴史上の人物とか何をしてどうして亡くなったのかもほとんど知らない。織田信長は殺されたの? 自害したの? どっち? こんなレベルだ。なんかこうして並べていると無知を自慢しているみたいになっちゃうけど、そうじゃなくて本当に教養というかもはやこれは常識の範疇なのだろうけれど、知らないことが恥ずかしいので、いまがんばって歴史の本を読んでいます。えっと、戦国時代? 1600年くらいの日本での、キリスト教徒への弾圧というか迫害というか、虐殺というか、拷問ざんまいの文章を読んで、うーひどいよひどいよって思いながら、えーっ天草四朗時貞って実在したのーっ!ってびっくりしている。アマテラスなんちゃらってひとみたいに伝説上の人物かと思ってた。あれ、アマテラスなんちゃらのひとは実存したのかな。よくわからなくなってきちゃった。なってきちゃったっていうかわからないからお勉強しなきゃなんだけど。もうぜんぜん読んでいても、あたまに入ってこない。よっしゃ読んだぞ、と思っても百分の一も憶えられない。固有名詞が全然だめだ。何年に何があったとかの記述が憶えた矢先から抜けていく。それもう憶えてすらいないんじゃないの、ってじぶんでじぶんにつっこんじゃうよね。ちゃんとノートに書いて憶えなきゃだ。読んで、ふんふん、ってだけじゃダメみたいなので、ちゃんと文字を書くぞ。字、とてもうんと汚いので、それもちゃんときれいな文字で書けるようになりたい。なるぞ。



2570:【恥ずかしいのは目を背けているから】

無知が恥ずかしいのではなく、無知を自覚していてなおそれでもいいじゃんいいじゃん、とじぶんの無知から目を背け、学ぼうとしない姿勢を十何年も貫いてきてしまった過去のじぶんが恥ずかしいのだ。無知そのものは恥ずかしくないよ。ただ、知らなくたっていいじゃん、あんぽんたんでもいさぎよし、とするじぶんの無知の放置が、その性根がなんだかあんまりかっこよくないのかなって。あんぽんたんでもよいけれど、あんぽんたんならあんぽんたんなりにすこしでもかっこよくありたいよね。ダサくてもダサいなりに、じぶんの好きなダサいがよいなあ。




※日々、幻想に生きている、現実がどこにあるのかもわからずに。



2571:【追いかけっこ】

むかしは極めることへの憧れがあったけれど、いまは極めてしまうことへの疑念がある。極めてしまったらもう何も楽しめなくなってしまう気がするのだけれど、ちがうのかな。それを知るためにも極めてみるしかない、との考えは一理あるとは思うけれど、どちらかと言えばいつまでも未熟でありたいな。未熟でありつづけるためには、つねに「すこし上」に指をかけていくしかないのかもしれない。何も極めたことのない未熟の権化はまくらにあたまを突っこんでそうつぶやいたそうな。



2572:【ぜんぜん知らんかった】

まったくの素人の戯言だとお断りしたうえで、述べるが、知らないあいだに世のなかが「たいへんそう」なことになっていた。なんでも新型のなんちゃらウイルスが流行しているそうだ。かといって現状、致死率2%で死者が全国で数十人というのは、流行と呼んでよいのか疑問だ(亡くなられた方がいるのはざんねんだが)。インフルエンザウイルスでは毎年累積で一千万~二千万人が罹患し、そのうちインフルエンザウイルスの影響で一万人が亡くなっているとされている(ここでの数値は飽くまで推定だ。インフルエンザウイルスが直接の死因とも限らない。ウイルスによって身体が弱り、持病が悪化した場合も含まれる)。よってインフルエンザウイルスの致死率は0.05~0.1%程度と考えられるので、インフルエンザのように流行してしまうと致死率2%(とされている)新型なんちゃらウイルスの場合は、単純に考えれば二十倍の死亡者がでてしまう。ただ、世のなかには死亡しやすいひととそうでないひとがいるわけで(つまり高齢者や喘息患者だと重症化しやすい傾向にあるわけで)、罹患しても死亡しないひとの割合が高いのなら、このように単純に一万×二十=二十万と考えるのは理屈に合わない。(同じウイルスに罹ってもどんな治療を受けるかによって致死率は左右される。国によって死亡者数が異なるのはその影響もあるはずだ。同時に、発覚している感染者数にしても、そもそも検査を受けている患者数に差があると考えられる。いま報道されている情報をみても、実態とかけ離れていると考えたほうが自然だろう。要するに、事実に沿った報道をしているところは現状一つもないと呼べる。このように不明な点が多い場合は、リスクを高く見積もって対処しておくのは、組織の判断としては妥当だ)。医療機関や政府が事態を重くみて最悪の展開を考慮して対策をたてることと、一般市民が過度に恐怖心を抱いて過剰に警戒して生活するのは同じ尺度では語れないし、同じこととして解釈するのはあまり利口とは呼べそうにない。市民にできることは、手洗いを習慣づけることと、高齢者や体調のよろしくないひとへと心を配り、休息を優先し、他者へ厳しく当たり散らさないことくらいなものなのではないか。もちろん、政府の言うように人混みに出掛ける機会は減らしたほうが好ましい(ウイルスに関係なく、人混みに出向く利点はそう多くはない)。とはいえ、まるで感染したら誰もがゾンビになって世界がそのうち滅亡してしまうのではないか、といった不安に駆られているひともいるようだから、そんな心配はしなくともだいじょうぶですよ、と言うくらいのことは、身近なひとが理屈をまじえて唱えてもバチは当たらない気もするが、この考えは楽観にすぎるだろうか。仮に全世界の人間が一生のうちでいちどは感染してしまうとしても、それが短期間のうちで起きなければさほどに絶望すべき未来ではない。避けるべきは短期間での爆発的な流行であり、感染の根絶は二の次と呼べる(言うまでもなく罹患しないに越したことはないが)。医療機関におかれては、新型なんちゃらウイルスへの対応というよりもいまは、幼い子どもを持った医療関係者の方々のほうがたいへんそうだ。医療機関の人手不足が深刻にならないとよいが。以上、2020年3月2日のいくひしまんでした。(冒頭でもお断りしたように、素人の妄言ですので、真に受けないように注意してください。気になる方は厚生労働省のサイトを参考にするとよいのではないか、と思います。https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/dengue_fever_qa_00001.html#Q34)



2573:【ほらね】

上記でインフルエンザウイルスの致死率を一千万分の一万(一万÷一千万)をしてそのまま0.001にしちゃいましたが、「%」なのでそこに百をかけるのを忘れていました。直しましたが、こういうミスはしょっちゅうです。すみませんでした。こういうときに誰にも読まれていないっていいなぁ、と思う。(致死率にしても、そういうふうに計算できる、という以上の意味合いはありませんので、真に受けないように注意してください。以下、厚生労働省のサイトです:https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou04/02.html)



2574:【いつもどおり】

繰り返し言っておかないと誤解されそうなので注釈を挿しておくよ。いくひしさんはあんぽんたんだよ。卑下や自虐じゃないよ。ホントにホントに正しい知識も正しい論理も身に着けていないよ。専門分野は何もないよ。化学反応式は水素と酸素が結合して水になる、くらいしか書けないよ。分数の足し算も怪しいよ。人前で暗算したらほぼ間違えるよ。たとえばレジでお釣りを五百円玉でもらおうとして大目に小銭をだすけれど、いっつも足りなくて、無駄にジャラジャラとお釣りを返されるよ。機械音痴でもあるからスマホでピ!もできないよ。たまにこの「いくひ誌。」でお利口さんぶって、それっぽい文章を並べるけれども、それっぽいだけで詐欺師の文章と同じだよ。もし信じちゃいそうになったらそれはちょっと危ないよ。じぶんの知識と知性を疑ったほうがよいかもだよ。ただ、間違った文章を並べるのはダメだよ、というわけではないんだよ。間違ってもよいんだよ。情報汚染なんて言葉もたまに聞くけれども、そんなのはおかしいよ。そもそも汚染されていない情報なんかないんだよ。より汚染されていない、誤りのすくない、現実の解釈としてより妥当くらいの塩梅だよ。じぶんで間違えに気づけるようになれるといいね。



2575:【自己言及が好き】

口を開けていたらかってに入ってくるような情報にはどんなときであれ注意を払っておいて損はないでしょう。もちろんじぶんで食べにいった情報であっても、いくらかほかの情報と食べ比べてみないことには、それが毒か否かも判らないはずです。情報に含まれる毒は決まって遅延性です。時間差で身体を蝕み、身を危ぶめていくものです。いちいち情報を疑っていたらキリがない、と不満に思われるかもしれませんが、じぶんがどの段階で疑うのをやめてしまうのか、盲信ラインがどこにあるのかを知っているだけでも痛い目に遭う確率は減らせるでしょう。盲信ラインにもいくつかランクがあります。じぶんの判断材料はいったいどの盲信ラインから入手した情報だろう、とすぐに思い浮かべられると好ましい気がします。あなたにとって、SNSから、或いはネットから、それとも書籍から入手した情報はどのレベルの盲信ラインですか。媒体の差異だけでなく、誰が発信しているのかも基準の一つとなりそうですし、その誰かがいつどれくらい調査し、検証し、校正したかによっても情報の信憑性は変わってきそうです。いちばん好ましいのは、どんな情報にも誤りは含まれていると身構えておくことでしょう。どこにどんな誤りが含まれているか、信憑性がないか、どのくらいの確率で再現可能か(発生するのか)、をじぶんで判断できるひとが専門家と呼ばれるのではないでしょうか。これもまた真に受けるには不十分な文章ですね。真に受けるな、という文章は、真に受けてもよいことになりますか?



2576:【おのれ、がおー!】

文章の分類の仕方にはそれこそ読むひとの数だけある。重複している部分もあるだろうが、分類する文章の数が増えれば増えるほど個々人で差が生じてくる。分類の基準は、たとえば言語や文章形態、ジャンルや類似作品など、言葉のつらなりから窺える共通項をどのように結びつけるかで変わってくる。玉入れゲームのようなものだ。いま読んでいる文章はいったいどの箱に入れようかな、と悩むだけのフレームが、文章には――というよりも、読者の頭のなかにはたくさんある。選びたい放題だ。そのなかでいくひしさんの文章はどのように分けられるかな、と二秒くらい考えて、ふだんなら何も思いつかなくてまあどれも違うかな、とか、どれも一緒だな、くらいで思考が逸れるところを、きょうは「あれ?」と引っかかるものがあった。たとえばいくひしさんは小説と日誌をつむいでいる。もうこの時点で二つに分類されてしまったが、この二種類は何も小説と日誌だから異なるわけではないのではないか、との引っ掛かりを覚えた。自作小説の霊魔怪シリーズなどは日誌のテイをとっていたりするが、これはやはり小説なのだ。日誌のようで日誌ではない。何が違うのか。一つには、視線がどっちを向いているのか、という点が大きく異なるように思うのだ。このいま並べている文章をはじめ、日誌は明確に読者を、すなわちいまこれに目を走らせているあなたを意識してつむいでいる。たいがいは未来のじぶんか、読書に馴染みのなかったころのじぶんへ向けて語りかけているので安心してほしい。もちろん小説でも想定している読者がいるわけで、しかしそれは飽くまで想定であって、対象ではない。小説の場合、いちど物語をつむぎはじめたら語り手の視線は、物語のなかに向かっている。けっして読者に語りかけたりはしていない。せいぜいが独白なのだ。言うまでもなく小説には無数の手法があるため、読者に語りかける小説だってたくさんある。売れている作品のすくなからずはそのタイプだろう。じぶんに向かって語りかけてくれているのだ、と読者が錯覚してくれればそれは読者のほうから物語を手元に引き寄せ物語の世界へと身を投じてくれる。だが、いくひしさんはそういうタイプの小説はあまり多く手掛けていない。掌編でいくつかつくったかな、といった具合だ。その点、この「いくひ誌。」では明確に視線をあなたに向けて言葉を発している。並べている。押しつけがましく、自己主張がすぎ、でしゃばって感じられる方もすくなくないのではないか。でしゃばって感じるもなにも読者がそもそもすくないのではないか、いないのではないかって、それはさすがに言い過ぎの気もするが、しかしいまは花粉症の季節なので、いい杉の木があってもおかしくはない。いくひしさんがいまどんな顔を浮かべているか見えているだろうか。あなたに顔を向けているので丸見えであろう。そうである。むふふー、と鼻の穴を膨らませて得意げになっている。ドヤ顔、またの名を、己顔である。鏡を覗いているようなものだ。じぶんでじぶんに語りかけているのだからぴったりではないか。



2577:【勘違いオバケ】

さいきんの悩みというか、これでよいのだろうか、と思うことの一つが、知識をいっぱい溜めても知識を溜める前のじぶんとあんま変わらんな、ということで。というよりも、本当に知識は溜まっているのか、からしてけっこう怪しい。もうわからんことだらけだし、なんだったらわかった気になっただけでじぶんでじぶんに説明しようとするとたいがい説明できずに、いろいろ「そこはどうなってんの?」と突っ込まれて、黙ってしまう。なんで? とじぶんの説明に投げかけるといくひしさんはたった一つの「なんで?」に言葉を詰まらせてしまう。理解が浅いからだ。というよりも、理解など端からしていないのだ。わかった気になっているだけで、ふんふんわかったー!という気分のみを味わっている。で、それはそれで楽しいからよいのだけれども、それだといざ何かをしようとしても、そのわかったー!だけでは何もできないのだ。利用できない。端から知識を溜めていなからだ。とはいえ、まったくのゼロというわけではない。だのに、そのゼロではないすこしばかりの蓄積された知識を用いても、とくに新しく何かをつくったり、できたりはしないのだ。選択肢が広がっていない。自由じゃない。なんでじゃろ。疑問に思って、腕を組んで、うーんって首をひねってみて、一つ思いついたのは、そもそもいくひしさんは新しい何かをつくったり、できたりしたいわけではないのかもしれない、ということだ。いやいや、小説はつくりたい。そう、小説をつくりたいのだ。物理的な何かに知識を利用しようと思って知識を溜めていないので、いざそれを利用して物理的な何かをつくったり、なしたりしようとしても、端から溜めた知識の形式が小説用になってしまっているので、ほかの創作や問題解決に流用できないのかもしれない。知識って、たとえ同じ情報であったとしても、蓄積のされ方というか、収納の仕方、もっと言えば引きだし方の形式が異なると、応用の幅が極端に減るものなのかもしれない。単に知識を記憶するだけでなく、それを用いて何をしたいのか、を通しで、流れで、回路として築いていかないと、というよりも、築いているからこそひとは記憶を行なえるのかもしれない。したがってひとは、しぜんとじぶんのつくりたいことや、なしたいことに最適化されたカタチで知識を蓄え、或いは何もつくりたくはなく、なしたくもなければ、そもそも知識は蓄えられないものなのかもしれない。定かではないが、すくなくともいくひしさんは本を読んで賢くなった気がぜんぜんしない。できることの幅が広がった気がしない。せいぜいが小説の素材が増えたかな、といった程度で、それも単なる錯覚にすぎない気がする。勘違いオバケと呼んでください。



2578:【五右衛門か!】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。おぬしは知らぬでござろう、いくひしさんはじつはけっこうに歳をいっておってな。もうもう腰はイタいわ、腹は減るわ、しろくじちゅうおねむだわ、イライラしたら泣きじゃくるわ、赤ちゃんか! ついつい顔を、くわっとさせてしまうでござるよ。そこにきてさいきんは、おひさしぶりに、ひさかたぶりに、作業中にカックンと意識を失いかけるでござる。むかしはたまーにあったでござるよ、積み木遊びをしていたらそのままコテンと床に倒れてしまって、赤ちゃんでござるか? 赤ちゃんでござる。おふろに浸かっているあいだにも意識がとおのくでござる。それならまだしも、でござるよ。いまじゃなんと、おふとんにもぐっているあいだに知らぬ間にすやすやぐーぐー、意識をうしなって、夢を見ているでござる。すいみんか! すいみんでござったでござる。あ、つまらんなって顔をしないでほしいでござる。いくひしさんだってまいにちまいにちおもしろいことだけ並べてはいられないでござる。たまにはこうしてつまらないへにょへにょも並べてしまうでござるけれども、赤ちゃんのぷりぷりほっぺに免じてゆるしてほしいでござる。たまにはおもしろいぷりぷりも並べていることもあるとそれとなくアピールをしてみたでござるけれども伝わったでござるか? いくひしさんはしょうじきさんなのでこうしてちゃんと自己申告をするでござる。えらいでござる。すごいでござる。もっとちやほやされてもよいはずなのになんでかいっつもシーンでござる。寝ている赤ちゃんよりもしずかでござる。寝ている赤ちゃんはかわいいでござる。寝ている子猫もかわいいでござる。もうもう寝ていたらみんなかわいいでござるよ。いくひしさんもかわいくなりたいのできょうもぐっすりぐーぐー寝るでござる。なんだかいっつも寝て終わるでござるな。寝ればオチると思っていないでござるか? やや、これがうわさの寝落ちでござる。またつまらぬオチをつくってしまったでござるー。



2579:【ぐらぐら】

あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たぬ、といった頭痛の種をトレードオフなんて言いますれば、世のなかの大部分の問題というものはこのトレードオフにおけるあちらとこちらのどちらを選ぶかの問題でございまして、そこにきてではあちらとこちらのどちらを犠牲にするか、生かすのか、の問題として拡大解釈してもよいかというとそれはいちがいにそうとは言い切れぬ、もどかしさがでございます。どちらを捨ててどちらを活かすかの天秤であるならば、捨てたほうはまたいずれ使いまわせばよいわけで、保留という選択肢を忘れてはいけないわけでございます。トレードオフが一度きりとは限らぬもので、何度でも繰り返してもそれはそれでよいわけでありまして、たとえば世のなかにはトレードオフを繰りかえすことでしか得られぬ境地というものもございますのではないか、とソレガシめは思うのであります。あちらを選んでこちらは衰え、のちのちこちらを選んであちらが衰える。しかしいちど肥えたあちらなれば仮にのちのち衰えたとして、総合してみればマイナスとはなっておらず、繰りかえせば繰りかえすほどにトレードオフは双方ともに肥えていく。のみならず、重複する部分にてこれまでなかった何かが凝縮されては、ダマとなって、核となる。これはもうもう、繰りかえされる栄枯のなせる業と見做して遜色なく、損はない。むろんいちどきりの切り捨て御免で、二度目のないトレードオフもございまして、なるべくどちらも活かせる道はないのかと比べっこに押しあいっこ、よくよく目を凝らしていきたいものでございますな。なにはともあれ、捻転ばかりの人の世のつね、天秤ばかりの両端にいったい何を載せましょうか、品を見定めるにも大小さまざまな秤が入り用でございまして、マトリョーシカよろしく無限回廊に迷いこまぬようにとひとつ余計なお世話に、お節介、注意を喚起して、今宵の「いくひ誌。」とさせていただきたい。みなみなさまにおかれましては、ぜひともお身体、体調、おだいじになさってくださいと、春一番の風のつよい夜にて、あちらとこちらのついでにみなみなさまのお顔も立てておこうと姑息に企み、三つ巴、或いは三方よしを選んでいきたいと高望みして、ここいらで筆を擱くといたしましょう。きょうもきょうとて、あちらもこちらも関係のない、万年ぐらぐらやじろべいこと、いくひしまんでした。



2580:【創作者失格】

よいですかいくひしさん。あなたがしているのはただの破壊です。邪魔であり、迷惑であり、他人の足をひっぱり、傷つけ、損ない、裏切っている純なる悪です。身の程を知りなさい。




日々、なりたくなかった人間になっていく、それすらしょうがないと呑みこんで。



2581:【がんばるぞ】

あーん、がんばりたくない! なんもがんばってないのに!!  めっちゃサボってやる!!! がんばってサボってやる!!!! 見て!! ぐーーー!!!!



2582:【駄賃をもらえたらうれしいのだから駄文だってないよりかはあったほうが好ましい、気がするだけじゃダメなのかい?】

ムリヤリにでも何か文章を並べたほうがよいのか、それとも変な癖がつくよりかはお手本となる文章を読んで、まずは目を肥やしたほうがよいのかは、あんがいにけっこう悩みどころだとは思ういっぽうで、変な癖がついているか否かは、あとになってからでしか判断できないし、他人に判断してもらうにしても、その他人の鑑識眼をどこまで信用してよいのかもまた、あとになって、ああそうだよね、と納得するまでは判らないわけで、いちど下した判断にしてもそれが真実正しいのかはやはりあとになってからでしか判らないし、そもそも判るようなものかも現状定かではない以上は、まずは何かしらのちのち判断できるような試作品を並べておくほかにできることはないのではないか、と踏ん切りをつけたようでいて、やっぱり心のどこかでは、栄養のすっかり失せた排泄物じみた出涸らしを並べるよりかは、いっそ手をとめて、足を休ませ、栄養を求めてむしゃむしゃとステキでステキなナニカシラを頬張ってしまうのがよろしいのではないか、と首をひねってみせるものの、そのじつどちらかいっぽうだけしか選べないなんて枷はないもので、まずはできることをしつつ、休みつつ、栄養もとりながら、ときどきじぶんの残してきた出涸らしやら排泄物やらを振り返って、案外にこことこことここになら栄養が残っとるやん、堆肥にできるじゃーん、と目から落とした鱗で以って、ステキでステキな物語を貼り絵よろしく並べていけたらよいのにな。絵に描いた餅を眺めてよだれを垂らし、誤魔化しきれぬ空腹がじゃまでなかなか眠れぬそんな夜は、いっそ朝まで起きて、お日さま相手におやすみを言って、そのままぐーぐーしちゃうのもときにはそれなりに楽しいかもね。そうかもね。



2583:【どんなリズムかが肝要】

以前にも述べたことがあるのですが、情報の濃淡でリズムをつくろうと意識している(配分されている)小説は、いくひしさんにとってとてもおもしろく読める小説である確率が高いです。文章の硬さや平易さにかかわらず、のぺっとしていて一律で、デジタルよりもアナログに寄っている小説は、じぶんでつくった小説ふくめ、読んでいてあまり楽しく感じない傾向にあります。意図して情報の濃淡でリズムをとることもできるでしょうし、偶然そうなってしまうことも多々あるかとは思いますが、できるだけ情報の濃淡でのリズムをとっていきたいな、と考えております。ただ、相関関係にあるためか、言葉の羅列でリズムをとろうとするだけでも、情報はちぐはぐとデコボコになるようですので、ランダムなそれをリズムとして整える手腕が物を言いそうに思う、本日のいくひしまんでした。



2584:【律動とは周期性】

リズムの有無よりも、どんなリズムかのほうがずっと吟味する価値がある。模索すべきはリズムの生み方ではなく、何をリズムと捉えるか、ではないだろうか。短期、中期、長期と、最低でも三つの視点があるはずだ。



2585:【四つ目の視点】

短期、中期、長期のほかに、何を短期として何を長期とするのかを決める基準が不可欠だ。そしてその基準を見定めるための四つ目の視点が肝となる。鍛えるべきはまず、この四つ目の視点だ。



2586:【自家発電】

腹が煮えたときはその熱で湯を沸かしてたっぷりの紅茶を淹れてみたり、油でフライドポテトを揚げてみたり、いっそ煮えたぎらせて、噴きこぼして、永久機関にしちゃって、つぎからつぎに溢れる油でも売ってその日暮らしをするのも一興ではないだろうか。それにしても腹を煮たたせるための熱はいったいどこから仕入れるのだろう。外部からだとしたら永久機関にはならないから、できるだけじぶん都合の、じぶんだけの熱を自力で供給して腹を煮るのがよいのではないだろうか。



2587:【罰則を重くするほうが効果的かも】

電子タグが普及してレジの無人化が進めば、必然、一時的に商品の盗難が増加するだろう。電波を遮断するような素材で商品を包んでしまえば警報も鳴らず、精算も行われないため、これまで以上に楽に商品を無断で店のそとに持ちだせるようになるはずだ。カバンの内部に電波を通さない素材を貼りつけておけばそれで済む。この手の盗難対策はどの程度進んでいるのだろう。表立って騒がれていない点を考慮すると、おそらく対策が立てられておらず、手口が広まるのを懸念している段階なのではないか、と見立てている(そもそもまだ電子タグがそこまで普及していない点も無関係ではないだろう)。もちろん電波を遮断する素材などはなく、電子タグは盗難対策がバッチリである可能性もある。個人的にはアルミホイルで包むだけでも充分に電波を遮断して電子タグを無効化できると睨んでいるが、じっさいのところはどうなのだろう。気になるところだ。盗難防止策としては、技術を高めるよりも、罰則を強化するほうが低コストで効果が高いと推し量るものだが、それはそれで市民へ行使可能な国家権力までをも強化してしまうので、いちがいに社会的に有用だとまでは言えそうにない。こと、貧富格差が深刻化するにつれて、窃盗への情状酌量の余地は増していくものではないだろうか。悩ましい問題だ。



2588:【支配と自在】

強き人がバケモノにならずに済むためには、献身という名の枷を背負うしか術がないように思うのですが、そうでもないのでしょうか。慈愛という名の呪縛を首に繋いでいるくらいでないと、すぐにでもケダモノになってしまいそうに思うのですけれど、これもまたそうでもないのでしょうか。強き人、強き人、真偽のほどはいかがですか?



2589:【溜めるのに吐くなんて溜息ってヘン】

じぶんの言葉ってなんじゃろね。言葉は言葉じゃないのかな。他人の言葉を話せてこそ何かを伝えられるものじゃないのって思うんだけど、そうでもないのかな。はぁあ。



2590:【マシュマロ返信】

去年の12月18日ごろにマシュマロを一件いただいておりました(不特定多数への一括送信の質問みたいですね)。2020年3月10日の本日、それに気づきました。返信、遅れて申しわけございません。差出人さんのお目に留まるかは判りませんが、ここに返信を載せておきますね。社会を諦めずに済むためにできることはないか、とのご質問でした。質問の意図がいまいち掴めずすみません。諦めたくないのであれば諦めなければよいのではないでしょうか、とまずは思ってしまいました。たとえば何かこうしたほうがよい、こうしてほしい、といくひしさんが言ったところで、差出人さんが諦めてしまえばそれまででしょう。それともいくひしさんの一言でどうにかなるような状況に差出人さんが置かれているのでしょうか(或いはいたのでしょうか)。想像力がなくて申しわけないのですが、そのような状況はあまり考えられません。もしそのような状況に立たされていたとしたら、そのときは腰を折りながら、たいへん申しわけありませんでした、とあなたさまに謝罪をさせていただくことしかいくひしさんにはできません。そもそもなぜ社会を諦めたくないのでしょう。社会と繋がることを諦めたくないのか、それとも繋がり合うことを諦めたくないのか、或いは社会を築くことを諦めたくないのか、「社会を諦める」の示す内容が四方八方に広がりを帯びていて、いかようにも解釈がとれます。社会から断絶されて生きていくほうが現代ではずっとむつかしいのではないでしょうか。いまある環境を失いたくない、という意味であるのならその気持ちはよく解かります。ただ、いまある環境を失っても社会から切り離されて生きることはむつかしいと思います。世のなかの大半の悩みの根本にあるものは、おおむね社会から逃れることのできない懊悩ではないでしょうか。諦めたとしてもかってについてきますよ。だからこそ悩みの種として事欠かないのでしょうけれど。ご質問には、ご自身だけではなく、知り合いが、とも書かれています。ここで疑問なのですが、なぜ差出人さんが知り合いの境遇まで抱え込んで悩まれているのでしょう。そういう立場にある方なのか、それともそうして他者の生き方まで抱え込んでしまっているからこそ、何かできないか、と悩んでいるのでしょうか。もちろん、生き死にに関わることならいくら他者のこととはいえど、悩んでしまいそうです。どうにかできないだろうか、と奔走したくなる気持ちは理解できますが、とはいえご質問には、悩んでいる、とは書かれていませんので、本当になんと答えてよいものか、それ以前にどのように考えてよいのか、方向性が見えてきません。責めているわけではないですよ。ただ、何かできることはないか、と漠然と問われてしまえば、あるんじゃないですか何かは、と漠然と応じるくらいが関の山です。もっとこう、差出人さんにとって有用な助言なり箴言なり占いなりを並べてさしあげられたらよかったのですが、力量不足で申しわけありません。マシュマロ、ありがとうございます。こんな返信でよろしければまた気が向いたときにでも送ってください。もちろん送らずにいても構いません。返信をまとめますと、何かできることはないか、と周囲を見渡して探すよりも、とりあえずいまできることがその「何か」なのではないでしょうか――となります。美味しい何かを食べたいな、と望むのも日々を楽しく生きるうえでは有用ですが、ひとまず何でもよいのでお腹に入れて、ぐっすり眠ることのほうが、美味しい何かを探す日々を過ごしていくうえでも、優先される事柄な気もします。社会を諦める、を、生きるのを諦める、と言い換えることが可能であるならば、ひとまず食事と睡眠をちゃんととりましょう、そのために必要ならお金を稼ぐべく、バイトなり仕事なりをし、ときには生活保護などの社会の仕組みを利用するのも一つの手だと思います。生活保護を受けられるなら、それこそ社会とのつよい繋がりの一つと言えるのではないでしょうか。親の脛を齧るにしても、誰かに養ってもらうにしても、十二分に社会と繋がっていると呼べるでしょう。繰りかえしになりますが、社会から完全に切り離されて生きることはおそらくできません。社会のほうで手放してはくれないのです。そこから自由になりたければ、自殺という手ももちろんありますが、それだって、死後、あなたの遺体は社会の手によって扱われ、社会によって死の烙印を捺されます。死ぬことですら現代では社会の認定が必要なのですね。不自由ですよね。山に籠って、獣のように暮らせればそれはそれで一つの自由かもしれませんが、そうしたいと思えない引け目のようなものを覚えてしまうことそのものが、社会から逃れることのできない傍証と言えそうです(裏から言えば、引け目くらいならじぶんで変えていけそうな気がしませんか?)。社会はじぶんのそとばかりではなく、「私」の内側にも根付いているものです。諦める諦めない、というよりも、じぶんの内側にどんな社会が根付いているのかを自覚することが、じぶんの外側に広がる社会とどのように関わっていくべきかの指針となっていく気もします。とはいえ、他者と直接関わり合いたくないよー、と妄想の世界に逃げこんではばからないいくひしさんが社会との繋がりを説こうなんて、馬の耳から念仏が聞こえるくらいに滑稽ですね。臍から油田が湧きでちゃいそうです。差出人さんに非はありませんが、なんというかたぶんええそうですね、これがいちばんの助言になるかとは思いますが、訊ねる相手はもうすこし選んだほうがよいですよ。なんにせよこんな中身のない言葉には注意してくださいね。2020年3月10日のいくひしまんでした。



※日々、いちばんしたい希望がもっとも避けたい絶望で、打ち消し合っては何も残らぬ。



2591:【ズレ】

基準がいまではなく死後のひともいる。死んだあとのことを考えていましておくべき作業を優先して行う者の行動原理は、その基準がどこにあるのかを知っている者からすれば解かりやすいほどに自明なのだが、基準がズレていると気づかぬ者には理解の範疇にない行動に映ることだろう。往々にして理解できないとは、視点や基準のズレの無自覚から引き起こる。基礎とはそうした基準のなかの一つと言ってもよいかもしれない。(言い換えれば、基礎の系統が一つとは限らない)



2592:【溜まりすぎているので】

ことしは未完の自作小説を閉じていく年にするので、新しく短編や掌編や長編はつくらないようにします。息抜きの一年にするぞ(いつもやん)。



2593:【ちんぷんかんぷん】

光は真空以外を通ると遅くなる。水のなかに入ると屈折するのはその影響でもあるようだ。疑問なのは、光の遅延は物質の重力に作用されて起こる現象なのか否かだ。言ってしまえば、相対性理論における重力と時空の関係として解釈してよいのか、がよく解からない。単にカーテンに光を照射すると光の進行を阻害されて裏側にでてくる光量が減ることと同じ現象として捉えてよいのか。それとも、それとはべつで、重力変移の影響によって生じる光速の遅延と捉えるほうが正確なのだろうか。或いは、光は電磁波の一種であるから、物質を構成する無数の電子に作用されて遅延が生じるということなのだろうか。これらすべてが影響している可能性もあるし、ほかのメカニズムで光は真空中がもっとも速く、それ以外では遅くなるのかもしれない。ほかにも、光の遅延には二種類ある気がしているのだが、どうなのだろう。上記における光の速度そのものの遅延と、ドップラー効果に代表されるような波長の収縮(や拡張)の二種類があるのではないか。後者の波長の変移の場合は、光速そのものに変化はなくとも生じ得るし、光速が変化しても波長は変わるので、そこのところはどのように区別して扱っているのだろう。音速にしても、密度が高いと音は速く伝わる、と説明している文章を見掛けるけれども、音は密度が低いほうが本来は速く伝わるのではないか(なぜなら音波を邪魔するものが少ないほうが波は伝わりやすいはずだから)。媒質がゼロにならないかぎりは光と同じで、真空にちかいほど波は伝わりやすいはずだ。ただ、密度の低さよりも、体積弾性率の高さ(つまりチカラを加えてもなかなかカタチが変わらない性質――言い換えれば、物質の硬さ)のほうが伝播速度に影響するので、結果として体積弾性率の高い傾向にある「密度の高い物質」のほうが音を速く伝えるだけではないのか。光には音のような媒質が存在しない(とされている)ので、この体積弾性率を考慮する必要がないために、真空中ほど速度が増すのではないか。真偽のほどをいくひしさんは知らないので、真に受けないでほしいところだが、ここで述べたいのは、毎度のことながら本当にいくひしさんには解からないことばかりで、しばらくはいろいろなことに関しての疑問を溜めていく作業に終始して、あまり知識をつまみ食いせずに、基礎から学んでいくようにしたほうがよいのかもしれない、と思いはじめている。台形の面積すら求めるのが怪しいので、ちゃんと算数からお勉強しなきゃだけれども、しなきゃな、と思うとしたくなくなる己があまのじゃくにはほとほと呆れてしまいますな。妄想もたいがいにしたいところだけれども、妄想の余地しかないので、いましばらくは妄想を楽しむよりないのかな、とやはり呆れてしまいますな。(上記の光や音に関する記述は精確ではありません。あやふやな情報を組み合わせた妄想のようなものですので、間違っても正しい知識として憶えないでください)



2594:【濾過装置はスカスカ】

感覚的な話なので、それわかるわー、ってひとはあんまりいないと思うのですけど、文章を並べるときにスラスラいくときはたいがい、あたまのなかの濾過装置とそこを流れる液体の相性がよいときで、こう大小さまざまな石ころが砂利みたいに詰まっていて、そのあいだを液体が流れ落ちていくときに、液体がスルーっと一本のミミズみたいなスライムみたいな線となって流れ落ちてくれるときはスラスラと文章を並べられるのだ。その点、濾過装置の砂利を細かくして、純粋な液体を濾しとろうとすると、液体は線とならずに、ぽつりぽつりと点となって、しずくとなって、砂利と砂利のあいまをぽてんぽてんと点々と、散り散りに落ちていくので、あんまりスラスラとはいかぬのだ。ただ、濾過装置の砂利を細かくすればするほど液体の純度は高くなっていくので、ぽてんぽてんの点々がよくないとはいちがいに言えなくて、濾過装置の砂利が大きければそれだけ不純物が混じったまま落ちていくので、つむがれた文章もそれだけこうしてざっくばらんに曖昧模糊やねん。



2595:【あ”ー】

じぶんのつくった小説を読んでおもしろいと思えたらもっといっぱいつくれるんだろうな。小説つくるのは、つくり終えたときにいつももっかいつくりたいなってなるからたぶん楽しいはずなんだけど、じぶんの小説読んでもあんまおもしろいとは思わんのだよな。拙すぎる。もっとツルツルしててほしい。ガチガチでデコボコでザラザラしてる。なめらーかで、つややかーで、するする読めるのがいいな。ぐんぐん読めるのもよい。すーっと沈んでいくのもいいぞ。でもじぶんのはなんだろうな、こう、表面がざらざらしてて、通路が狭くて、歩くといちいち服が引っかかってじゃかぁしいわってなる感じあるから、どうにかしてほしい。しろ。はい。



2596:【想像と妄想】

想像と妄想の違いは、論理と飛躍の違いと言ってもよいかもしれない。たとえば物体はさまざまな原子によってできている、といった考え方を知ったとする。じゃあその原子を構成するものはなんだろう、原子だって物質にとっての原子のようなものの組み合わせでできているのではないか、と考えることが想像だ。つまり、前提条件を踏まえて、さらにそのさきはどうなっているのか、と考えるのが想像と言えそうだ。反して妄想は、物体が原子によってできていると知ったとしても、それはわかったけれどもそれはそれとして、ひょっとしたら物体ってすべて同じもので、違っているのはそこに宿る魂――念――情報――であって、本当はぜんぶ粘土みたいなもので、風みたいなもので、情報を与えてやればどんなものでもその情報に沿ったカタチや性質を帯びるんじゃないの、と考えるのが妄想と言えそうだ。前提条件をよこちょに置いて、まったく異なる考え方を採用してみる。妄想とは飛躍のなせる業と言えるのではないか。ということは、見方を変えれば、妄想は脈絡の断絶と呼べるのかも分からない。思考の筋道をいったんぶつぎりにして、再スタートをする。その点、想像はある程度の方向性の揺らぎはあるにしても、進化の系統樹のように、或いは線路のように、思考の道筋はすべてどこかと繋がっていると言えそうだ。そうは言っても妄想が飛躍であり、思考の断絶である以上は、崖や谷のように、こちらとあちらを司る別々の思考の基盤――足場が不可欠だ。妄想はそれ単体で成立することはできず、必ずどこかしらに想像の余地を残していると考えられる。もうすこし言えば、妄想ですら、その妄想を基盤として筋道をつけて考えていけばそれは必然的に想像を帯びていくと言えるだろう。妄想にしろ想像にしろ、どちらも相互に補完し、促し合い、広がる余地を育んでいく。



2597:【どこもかしこもずぶずぶですね】

政治とはつまるところ人間関係だ。仮に、じぶんたちに都合のよい人間関係を築くことを政治としてくくるとすれば、世のなかのすくなからずの組織問題というものは、あらゆる解決策を通じて副次的に人間関係を強化しようとする「手段と政治」の抱き合わせ商法が、単純な物事を複雑にしている根本的な瑕疵となっていると言えるのではないか。手段の是非と、その手段を通じて組織の権威の拡大を図ろうとすることの是非は本来であれば別々に評価分析すべきだろう。ここを同一視してしまうから、いろいろとこじれるのではないか、と浅い所感を覚えてしまうくらいに、みな、組織(グループ、派閥、繋がり)というものに縛られすぎに思える。垣根ばかりをいたずらに分厚くして、いったい何をしたいのだろうね。(組織に属することがわるいと言っているわけではない)



2598:【案外むつかしい】

自己批判くらいじぶんでできるようになりたいな。



2599:【やさしいひとが多いので】

まんちゃんはほんとーに棚上げが上手ね。じぶんだけは許されると思ってるんだから。



2600:【やばいやばい】

そういうことではないと思う。自虐や皮肉を自己批判と勘違いしているのならそれはそれでヤバない?




※日々、未来への憧れが色褪せていく、失望との違いに思いを馳せる。



2601:【だめだめだぁ】

ちいちゃいころはバニラアイスとかラーメンが苦手だったのだけれど、さいきんはバニラアイスおいしいし、ラーメンも食べたくなる。バニラアイスは雪見だいふくのバニラ味が好きで、棒アイスでもこの味に似たのを見つけたのでうれしいうれしい。ラーメンは味噌味が好きで、麺はちぢれの太いやつがいい。うどんかってくらいに太くてもよいと思うけどまだそこまで太いのは食べたことない。あ、うどんも好き。なーんにも具が入ってなくてもうどんは薄めた麺つゆさえあればおいしいから胃もたれしないし、おなかいっぱいになるから好き。でも糖尿病になっちゃいそうな気がするからあんまりまいにちは食べないほうがよいのかな、って気もしてるけど、関係ないのかな。よくわからん。去年から紅茶にはまってたけどさすがにちょっと飽きてきたのでひさしぶりにインスタントじゃないコーヒーを淹れて飲んだらおいしかった。おいしいってすばらしいな。楽しいと美味しいに囲まれた暮らしをすごしていきたいな。何かをつくるよりもただただ楽しいと美味しいに囲まれてたらそれだけでいい気がするな。なんで何かをつくりたいと思うのだろ。楽しいからだとは思うけれども、じゃあ楽しくなかったらやらないのかと言われれば、そうだね、やらないな。というわけで、いまは創作楽しくないので、やーめたって、サボっちゃう怠け者のいくひしまんでした。



2602:【損なわれた気持ちになるのは理解できるけれども】

パクリ問題に関してはもうすこし模倣という行為に対して寛容な世のなかになってもよいのではないか、と感じることがすくなくない。訴訟を起こして勝てるくらいのレベルで利益を損なわれ、なおかつオリジナルと勘違いされるくらいの模倣度でないかぎりは(言い換えれば、誰が見ても同じ作者の手による成果物だと判断されないかぎりは)、技法が似ているとか、一部分が酷似しているといった程度の「かぶり」や「真似」であるのなら許容したほうが好ましいのではないか、と考えている。これは一般化できないし、するつもりのない個人的な所感だが、他人においそれと真似される程度の技術は高が知れているし、真似されたくないのならつぎは誰も真似できないようなものをつくればいい、と考えてしまう(もちろん発想や閃き、工夫の価値を低く見積もっているわけではない。むしろ生みだされた技術や成果物そのものよりも発想や閃き、工夫のほうが個人的には価値における比重が大きい)。いっぽうでは、社会的に有用な技術の大半は誰が真似をしても一定の高いレベルで再現可能であるからこそ普及しているわけで(たとえばパンの作り方のように)、それら汎用性の高い技術を生みだしたひとがその手法を独占してしまえば社会の発展を阻害しかねない。もちろん無闇に他人の成果物を真似して、利益だけを吸いあげる所業もまた社会の発展を損なう方向に働きかけるので(つまり、じぶんでつくるよりも他人の成果物をそのまま無断で流用したほうが効率がよいため)、権利を主張することがいけないと言っているわけではない。とはいえ、完璧なオリジナルでなければダメだ、元ネタなんてもってのほかだ、素材がわからないくらいにぐちゃぐちゃに咀嚼したうえでじぶんなりのオリジナルを生みだせ、というのは無茶である(じぶんで目指す分には構わないが、他人に押しつけるべき指針ではないだろう)。創作の分野を委縮させかねない。いくらでも真似をしたらいい。優れた技術はシェアすればいい。そのなかでうまい具合に創作者の利益を保てるような仕組みをつくっていくほうが、長い目で見て創作の分野の発展に貢献するのではないか。パクリはいけないかと言えばそんなことはないだろう。パクれるならパクればいい(パクれるくらいの技量があるならば、の話だが。加えて、それでお金を稼げるか、稼いでよいのか、はまた別の話だ)。そのなかでじぶんなりの創作ができたら御の字だ。そのときは、素晴らしいそれを他者にもシェアをする「懐の豊かさ(二重の意味で)」を持ってほしいと望むところだが、これは個人的な願望でしかないので、じぶんの生みだしたナニカシラをどう使おうが、それは権利保持者たる創作者の自由だ。誰にも渡さない、と独占する選択肢もある。ただそんな人物であれ、数多の創作物からの影響を受け、知らず知らずのうちに模倣をしていることには自覚的であってほしいものだ。自然はけしてオリジナルを主張したりはしない。芸術はでは、どうだろう。(他者の利益を損なう行為を推奨しているわけではありません。誤解なきようにお願いいたします)



2603:【性格わるいのバレちゃうよ】

ねえねえいくひしさん、もうちょっとでいいからカチンとこない物言いにしてみない? 誰も読んでないからって、読むのがじぶんだけだからって、乱暴な言葉づかいする必要はないんじゃないかなって。気をつけよ? ね?



2604:【文化ごとに芸術の在り方は異なる】

教育(文化)の問題と、芸術(創作)の問題は理想としては切り離して考えていきたい。現実の話としてはこれがなかなかに不可分で、癒着していて、どこから切れ目を入れて筋を通せばいいのかの目星をつけるのだけでもお手上げなのだが。(そこにビジネスの視点が加わるととたんに複雑さが増して、解くべき問題としてすら機能しないで感じられる。ビジネスにした時点でもうそれは芸術ではない、とすればいくぶん考えるのが楽になる。それが正しいという意味ではなくね)(或いは、模倣の是非は芸術の問題として扱うのはそもそも不適切なのかもしれない)



2605:【敬意なしにつくれるものでしょうか】

模倣の是非を、教育(文化)の問題として捉えてみましょう。先人の作品を素材にするにしても、模倣するにしても、参考にするにしても、まずはそこに礼節を以って、敬うことがだいじだ、とする文化を育んだとします。ここで問題となるのが、形式を守ればそれで先人を敬ったことになるのか、という点です。誠意や尊敬などの念は往々にして、それを受け取る(感じる)側が認めなければ「無いもの」として扱われる傾向にあります。しかし相手に伝わるにせよ伝わらないにせよ、当人の胸に湧いている感情があるのならばそれは無視しないほうが好ましい機微と言えるのではないでしょうか。何かを見て心を動かされ、その何かの真似をしたい、じぶんでもつくってみたい、カタチにしたい、と湧きあがった衝動は、形式的で偽り可能な誠意や尊敬の念よりも、より尊重すべき態度に思えます。(また、先人を敬いましょう、と教育することと、芸術を追求することのあいだには、いかほどの因果関係があるのでしょう。先人を敬わなくてもいい、と言っているわけではありません。ただ、考える余地はありそうではないですか、と疑問に思ってはいます。もちろんこれは、芸術と美術の区別もろくに説明できない素人がゆえの戯言ですので、真に受けないように注意してください)



2606:【偏り】

模倣の是非に関して粗く考えてみたところ、どうやらいくひしさんは未熟な側に肩入れをしてしまう傾向にあるみたいです。これが心情からくる甘さなのか、それとも理屈からくる非情さなのかは、いますこし考えを煮詰める余地がありそうです。



2607:【それや!】

わかった。まんちゃん、じぶんが未熟だからって、未熟な側に肩入れしたいだけでしょ。正義の味方は嫌な癖に、未熟の味方はいいんだ? そういうのなんて言うか知ってる? 判官贔屓って言うんだよ。依怙贔屓でもいいけど。



2608:【そんなんじゃないやい】

いっぱい遊べるほうがいいだけ。縛られたくないだけ。



2609:【ネタ】

妄想でしかないが、模倣の是非はビジネスの範疇だ。次点で、経済の影響下で発展を遂げることが可能な文化の範疇と呼べそうだ。おそらく経済が生まれる前には模倣を禁じた歴史はなかったのではないか。むしろ一つのオリジナルを量産(コピー)させる方向に流れが強化されていたと妄想したくなるが、じっさいのところはどうなのだろう。大別できるほど単純な歴史を辿ってきたとは思っていないが。それはそれとして芸術と模倣の関係を辿るだけでも一つの長編小説をつくれそうだ。おもしろそう。



2610:【むつかしい】

浅い考えしか巡らせられない。ちゃんと歴史をお勉強しなきゃだ。というか、歴史ってなんにでもあるのだよなぁ。そんな単純なことにも気づかなかった。あんぽんたん。




※日々、あさく、つたなく、ぶれぶれで。



2611:【爪と髪】

古代のひとって爪をどうやって切ってたんだろう、と疑問に思って考えるよりさきにネットで検索してしまった思考放棄人間のいくひしさんですが、どうやら原始人くらいになると何も手入れをしなくとも生活しているだけで爪が摩耗するみたいですね。切る必要がそもそもなかったと考えればたしかに筋は通っていますが、うーん。やっぱり爪を齧るなどして手入れはしていたのではないか、と妄想してしまいます。というよりも、必ずどこかの時点では爪を切らないと危なくなるくらいに生活水準があがるわけですから(つまり、爪が摩耗しないくらいに効率よく安全に生活できるようになっていくはずですから)、猿人ならばたしかに爪切りは不要だとしても、道具の扱いを覚えた原始人ならば爪の手入れは不可欠だったのではないか、とやはり疑問してしまいます。手の爪はよいとして足の爪はどうしてたんでしょうね。じぶんで齧っていたのでしょうか。それから髪の毛はどうしていたのでしょうね。伸ばしっぱなしだったのか、どうなのか。ひょっとしたら人類の祖先は、道具の扱い方を覚えるよりさきに髪の毛を道具とする術を覚えたのかもしれませんね。そう妄想してみますと、髪の毛の伸びやすい人ほど生存に有利になりますから、結果として人類の髪の毛はこうまでも伸びやすい形質に進化したと考えられます。とはいえ、むかしの人はいまほどには清潔感に溢れてはいなかったでしょうから、案外に脱毛症に悩まされていた可能性もなきにしもあらずですが。(妄想ですので、うんにゃらかんにゃら真に受けないでください)



2612:【ぜんぜん公平ではない】

いくひしさんは差別主義者なので好きなひとたちには漏れなくうんとしあわせになってほしいと望んでいるし、好きではないひとたちにはそこそこまあまあしあわせになってほしいと思っています。(ギャグっぽく書いたつもりでふつうにこれは差別ですね。一般的には区別と認識されるのでしょうが)



2613:【公平であればいいってもんじゃない】

いくひしさんは差別をしないので好きなひとたちには漏れなくうんと苦しんでほしいと望んでいるし、好きではないひとたちにも漏れなくうんと苦しんでほしいと思っています。(ふつうに容赦なく、疑いようのないくらいに最悪ですね。しかしこれは差別をしていないので公平ではあるのです。差別や区別をしないことと、その人物の態度や行為の善し悪しはまた別ということです)



2614:【映画みた】

ひっさしぶりに映画を観た。やっぱり映画はいいな。おもしろいな。しかもかなりおもしろい映画だったのですごくとてもうんと楽しかった。いくひしさんは食事に関しても、ほどよく甘くて、ねちょねちょしてなかったらたいがいのものを美味しく感じるし、甘いのに飽きてきたらしょっぱいのがすごく美味しく感じる。映画も似たところがあって、とりあえずテンポがよかったらおもしろく感じる。ちょっと置いてきぼりにされるくらいがちょうどよい。待って待っていまの台詞もっかい言って、くらいのテンポだとすごくうんとおもしろい。あ、いくひしさんは字幕で観るタイプで、字幕でおもしろく感じたのに吹き替え版だとそれほどでもなく感じることがあって、これは吹き替えの声がいけないということではなく、どちらかというまでもなく、字幕で文字を読むことでいくひしさんに負荷がかかっていた分の情報処理の遅れ――言い換えれば映画のテンポの速さが、吹き替えになったことで余裕ができて、その分、テンポが遅く感じられてしまう点の作用が大きいと推し量っている。映画を倍速で観るひとがいるのも理解できる。情報処理能力の差というよりも、映画の何を見ているのかがひとによって違うから生じる観方の差といったほうが正確かもしれない。圧縮されたときにそぎ落とされる情報を重宝しなければ早回しをして観ても楽しめるのだ。本の速読にも同じことが言えるだろう。どちらがよいわるいの話ではない。楽しめるほうを選べばよいのだ。ただし、受け取る情報量、或いは処理する情報量に差が生じるのは、避けられないだろう。それはおそらく個々人にある情報処理能力の差よりも大きくなるはずだ。もっとも、処理する情報量の多さが直結して情報の質に繋がるとは言えないのだが(ここで言う情報の質とは、処理する人物にとって応用する価値が高いものを言う。これもまた個々人の世界観――私生活――に左右されるだろう)。映画、もっと観たいな、と思った日だった。



2615:【打鍵はゆびの運動】

実感として六万字の中編をつくる労力は腕立て伏せを千回するのと同じくらいの労力に思える。いちにち五十回ずつするとして、腕立て伏せ千回は二十日でできる計算となる。六万字の文章を二十日で並べるとするといちにち三千字ずつ並べればよいので、腕立て伏せ五十回と文章三千字は同じくらいの労力と言えそうだ。いい加減に言ってみただけだけれども案外に的を得ていたかもしれない。いくひしさんにかぎった話かもしれないけれども五十回の腕立て伏せを連続して行うのはつらいものがあるので、ここでは十回を五セットとしておこう。十回の腕立て伏せをするのにだいたい三十秒かかるとして、五セットなら二分半だ。途中で休憩を一~二分とるとして、だいたい十分あればできるかな、といった塩梅だ。張った腕をマッサージして乳酸を飛ばす作業を含めても三十分もあればできるだろう。腕立て伏せ五十回に三十分として、三千字の文章を並べるのも三十分もあればいけるのではないか。そうでもないのだろうか。計ったことがないのでよく分からないが、この「いくひ誌。」はボツにしないかぎりは一つの記事に五分~二十分をかけているので、それほどかけ離れた推測ではないだろう。で、三十分で五十回の腕立て伏せをするとして、それを二十日間毎日行うのと、六万字の中編を並べるのはだいたい同じ労力がかかると踏んでみたわけだけれども、もちろんどちらがより大きな負担に感じるかはひとそれぞれだ。腕立て伏せ五十回を毎日なんて無理だ、と思うひともいれば、毎日三千字なんて無理だ、と思うひともいるはずだ。三十分ではなく一時間かければ、と思うひともいるだろう。そこは個人差があって当然なので、はやければいいというものでもなかろうし、もっと言えば、腕立て伏せを毎日五十回していったい何を成したいのか、のほうが遥かに考える価値があるかもしれない。六万字の中編をつくることよりも、どんな中編をつくるのかのほうが考える価値はありそうだ。断るまでもなく、腕立て伏せをすることを目的としてもよいし、とりあえず作品をつくることに意味があるのだ、としてもまったく問題はない。とはいえ、個人的にはこんな文章を並べるだけなら腕立て伏せを十回するよりも楽だし労力をかけないし疲れないので、本当になんてダメな物書きだろう、とがっかりしてしまう。楽なほう、楽なほう、に流されてしまっていったいいくひしさんは皮下脂肪にでもなりたいのかな? 皮下脂肪ならまだしも、いざ死亡、とならぬように、すこしくらいは身体を鍛えたり、頭をつかったり、吟味しながら文章を並べたりと、すこしでも何かに挑戦をする習慣をつくってもよいのかもしれないけれども、怠け者なのでそれも無理かもしれない。すぐに無理と言ってしまうのがいくひしさんのわるい癖なのだけれども、それはそれ、これはこれ、ダメダメでも生きていける日々に感謝をしつつ、ここ十日ほど毎日のごとく夜になると雨が降っていて、出掛けたいのに出掛けられない日々にうんざりしつつも、雨が降ってるくらいで引きかえすな、引きこもるな、ちゃんと出掛けろ、用を済ませ、とほかのいくひしさんに叱られてしまったので、罰として腕立て伏せを一回だけしたいと思います。しゃがむのですら面倒だ。そのまま床に転がると、思ったより気持ちよくてこのまま寝てしまおうと企む、本日のいくひしまんでした。



2616:【雑音と室温】

いま夜中で部屋のそとから物音は聞こえないし、外を出歩く人の気配もなく、自動車のタイヤが地面を舐める音もエンジン音も聞こえない。夜の静けさが好きで、きょうはその好きを手元に引き寄せてむぐむぐできた日だ。いま部屋に響いている音は、キィボードを打鍵するカタカタテン、カタカタテン、だけだ。いいや、もっとある。耳を澄ます。すると音が浮きあがってブロックのように、或いは交わることのないフォログラムのように感じられる。暖房のゆるやかな吐息音、メディア端末のHDがうなる声、それをなだめる小型空調のささめき、キィボードを打鍵するたびになぞる衣擦れの音に、キッチンから聞こえてくる針時計のチクタクが律動を刻む。つぎに並べる文字を選ぶ際にあく逡巡の間には、床を擦る足のゆびの音が、砂浜をなぜか脳裡によみがえらせ、ときおり出処不明な家鳴りが、パチともカチとも言えぬみょうに水気を帯びたしずくの響きを弾ませる。今宵は風がないのだな、ときのうおとといの暴風が嘘のようで、窓のそとに耳の焦点を合わせたところで、背骨がポキっと小気味よい音を立てた。背もたれに身体を預けると椅子が軋み、そうして新たな音に意識を奪われるともう、ほかの音は静寂の二文字に仕舞われて、暖房の一律な長い長い溜息が、空虚な日々の節目に途切れることなく溶けていく。そそがれるでもなく、留まるでもなく、室温を一定にすべく、部屋のそとに広がる静寂と交じりあうのを拒むように、息継ぎすら忘れて、あっ、今どこかで誰かが自転車のブレーキを踏んだ音が聞こえた。



2617:【一気呵成に加勢を】

ぼくの名前は世界一長い、それはそれはとても長くていちども口にできたことはないのだけれど、それはだって未だに父はぼくの名前をつけつづけていて、実際のところぼくは無名なのかもしれず、或いは生まれてすらいないのかもしれない、というのも出生届の受理期間はとっくに過ぎてしまっているから、本当にいったいいつになったらぼくの名前は落ち着くのかと、一向に口を閉ざす気配のない父の底なしの肺活量には舌を巻くばかりだが、父はきっと優に数万回は舌を噛んでいるに相違なく、一説によれば父はすでに円周率を三周ほど唱え終えているらしくて、つまり円周率は循環する無限であって、ある意味では有限の組み合わせの羅列からなっているとも考えられ、それは見方を変えれば、ぼくは生まれていないがゆえに死ぬこともなく、だからこそこうして無限にも思える長い長い、父の「我が子の名づけの儀式」の終焉を待ちわびていられるのかもしれない、もっと言えば父の口にする言葉の組み合わせはそれこそ円周率なみに膨大であり、無限に循環しつづけているものだから、そのなかにはもちろんいまこうしてぼくが思い浮かべているこの思念にも似た文章の羅列だって含まれており、言い換えればぼくはいまじぶんの名前を口にしているとも呼べ、そう自覚した瞬間にぼくはぼくとしての輪郭の一部を得、すくなくとも存在の一端をなすことで、父がぼくの名を唱え終えずとも誕生でき、ゆえに途中で幾度も死したとしても、こうしてふたたび生まれ落ちる余地にくるまれており、こうしてまたじぶんの思念にて再誕の繰り返しを連綿と、営々と、いつかは訪れるだろう父の死までつづけていくのだろう、或いは父の口さえ塞いでしまえば、ようやくぼくは安定してこの世に生を享けるのかもしれず、そうではないのかもしれない、思えばぼくは未だに父の名を知らず、母の名も、その姿すら目にした覚えがなく、それはそのはずで父はぼくの名を唱えるのにいそがしく、ぼくがぼくとして存在していられるのはこうして独白を思い浮かべているあいだだけなので(つまりじぶんの名の一部を唱えているあいだだけなので)、ひとたび欠伸をして、眠くなって、或いは目のまえを通り過ぎる一匹のハエに目を留めるだけでも、もう、ぼくはぼくとしての輪郭を保てずに、死ぬことすらなく、眠ることもなく、ふたたび父の唱える輪っかのなかを巡りながら、再誕のときを、春夏秋冬、四季のごとくぐるっと一周するまで待ちわびることもできずに、いったいこれが何度目の誕生であるかも曖昧なままで、いつまでもいつまでも思念を巡らせていたいと、頭の底から、どうにかこうにか、途切れずに済むように祈るほかにできることはなにもないのかもしれない、せめてあとすこし、あとすこしでもぼくに言葉を、ねえ、ああ、どうしたらよいのかな、もう何も思い浮かばないよ。



2618:【困らせてたらやだな】

好きな絵描きさんたちが立てつづけにアカウントをこっそり移動するみたいでかなしい。フォローもせずにリツイートばっかりしてるいくひしさんのせいかも、と思うといたたまれないけれども、そこまでの影響力がいくひしさんにあると思うほうがおこがましいので、偶然、偶然、と思うことにする。けれどもかなしい。



2619:【ねすぎじゃ】

やあやあ、おねぼうさんでござる。おはようございますでござるなあ。いくひしさんはきのう、夕方の五時にちょっとだけ休憩しようと思っておふとんによこになったでござる。マンガを五冊読んで、そのまますやすやしたでござるよ。で、起きたら何時だったと思うでござる? つぎの日の朝の九時でござる。じゅ、じゅ、じゅうろくじかんすいみんでござる。十六時間も寝てしまったでござるよ。こんなにすやすやぐーぐーしたのはおひさしぶりでござるな。でもたまにあるでござる。二十時間はぐーぐーしちゃうでござる。そういう生き物でござるよ。いっぱい寝たらさっぱり目が覚めてさわやかごきげんようだと思うでござろう? これがそうでもないんでござるよ。もうもう、身体はバキバキのグキグキで、背中は痛いわ、口のなかぱっさぱさだわ、もうもう退化を体感でござるよ。退化の快進撃でござるよ。退化の改新でござるよ、ってしつこいでござる。元ネタの大化の改新がなにを示しているのかも知らないのにかってにネタにするなんて失礼でござる。失礼つかまつったでござる。ごめんなさいでござる。いまはお腹がぺこぺこのぺこなのでトーストにピーナツバタをたぁっぷりつけて紅茶をちゅっちゅしながらぱくりんちょしているでござる。ぱくぱくのぱくでござるよ。おいちい。ピーナツバタはそのまま舐めてもうんと、ほわあ、なので、ほわほわあ、なので、スプーンですくってぱっくんちょするでござる。こんなことしてるからいくひしさんのおなかは、たっぷんたっぷんなんでござるな。いくひしさんのおなかはたっぷんたっぷんなんでござるか? いやらしいでござる、そんなに見ないでほしいでござる、いやんでござる、それはそれとしてたっぷんたっぷんのおなかはかわいいでござる、お気に入りでござるよ、おへちょもふにょふにょしててかわいいでござる。たれ目みたいでかわいいでござる。かわいいって言っとけばなんとかなるでござる。投げやりになって、鏡を覗いたら、お風呂に入ってそのまま寝ちゃったでござるから髪の毛がばーんってなってて、イソギンチャクみたいになってて、あっはっは、って笑ってきぶんがよくなったのできょうはお出かけするでござる。おひさまぽかぽかきもちいな。きょうも書店さんに寄って本を買うでござるー。あ、きょうはオチはないでござるよ。こんな日もあるでござる。



2620:【ラッキーな日じゃった】

自転車でコキコキお出かけできる距離にある公園に行ってきた。すごくとてもうんと大きな公園で、近くにサッカースタジアムがあったりして、公園の隅から隅がどこからどこなのか、その全部、全貌、そういうのも分からないくらいで、というよりも奥のほうに歩いていくのも、あームリー、ってなってしまうくらいに広い公園で、遊具もあるらしいのだけれども、遊具のある場所まで歩いていくのですでにハイキングやん、ピクニックやーん、みたいなね、もうもう入口進んで、芝生のあるところまで辿り着くので散歩を満喫した気分で、あ、もういいっす、おなかいっぱいす、足ぱんぱんっす、ってなってしまった。引きこもりにしてはがんばった。噴水とかあったはずなんだけれどもそれはシーンって止まっていて、ベンチに座ってしばらくそこでぼーっとした。ひなたぼっこした。ああこういう、なんもしない時間もいいな、インターネットから切り離された生活すばらしいな、と感動してたらポツポツと雨が降ってきて、風がびゅーびゅー吹いてきて、あっという間に曇り空の、太陽さんバイバイで、せっかくのぽかぽかひなたぼっこが、いくひしさんのきもちよいお心が、うみゃーっとなってしまった。よくある、よくある。お出かけようとしたら雨降るとか、お出かけしたさきで、よっしゃ気分転換サイのコーや、ってなったとたんにお天気さんが崩れてきて、きぶんさんがダイナシになるの、あるあるだけれども、そこにきて、こうして日ごろから書くネタに困ってるときには、シメシメこれで一つネタができたぞ、と雨に濡れながらいまきたばかりの道を引き返して、途中でマックに寄って、大好きなテリヤキバーガーセットを注文したらコーラを注文したはずが飲み物がソーダに変わっていて、いくひしさんはまあ滑舌わるいからな、しょうがないな、コーラがソーダに聞こえちゃったんだな、とやっぱりネタが一つ増えてラッキーと思って、思いのほかソーダが美味しく感じて、二重にラッキーってきぶんで、書店さんにも寄って、きょうはもうもう、大満足の満腹ぷくぷく満喫日和であった。疲れたのでいっぱい寝るぞ、おやすみー。




※日々、同じ毎日を繰りかえしていきたい、変わらぬいまを生きていたい、ゆめも失意もいっしょくたにして、希望もうつつもひとからげにして。



2621:【ほわほわじゃ】

むつかしいことなんも考えたくないし、考えたところでなんも解らんし、なのに世のなかむつかしいことばかりでまったくもう、まったくまったく、となってしまうな。でもいくひしさんが考えなくともどこかの誰かがむつかしいことを考えて、えいやって解いてくれるので、すごいなもう、すごいなすごいな、となる。まったくもう、まったくまったく。



2622:【熱量の発散】

データセンターなどにおけるコンピューターの性能が向上するにつれて、体積あたりにおける熱量は上昇する傾向にある。今後もコンピューターの性能は指数関数的に進歩していくと考えられるが、その前に、発生する熱量をどのように処理するか、冷房や空調の設備をどのように設計するかのほうがネックとなって実用化に及ばない可能性が高そうだ。冷やしすぎれば結露となるので巨大な冷蔵庫に入れればよいというわけでもなさそうだし、どのように解決するのだろう。コンピューターの密度もあがっていくだろうし、空気の流れをどのように取り入れるか、或いはそもそもコンピューターそのものに冷水の通る道をつくるくらいのことをしないと実用化に向かないのかもしれない(ここでイメージしているのは冷水ポンプとは別の冷却機構だ。毛細血管のようなものか、或いは骨格や基盤そのものに「骨に通る血管」のようなものを組みこむ構造をイメージしている)。空調や冷房の技術は、空気の流れをコントロールすることを含めて今後ますます、社会の発展に不可欠な技術となっていくだろう。(社会の発展に不可欠でない技術なんてものがあるとは思わないが)



2623:【あいまいな言動】

いまはどの業界もピラミッド構造だ。下請けはうえから降ってくる仕事を機械的にさばいていればそれでよかった。上のご機嫌をとるべく見積書では、上部層企業の利益を含めたものをだすため、顧客からは高いのなんだの言われるがそれだって下請け自身がもらえる利益は見積書にある値段の一割以下だ。上への忖度(或いは下からの忖度)なしに現行のピラミッド構造は成立し得ない。ともあれ、それだけ上部層の企業がリスクを負っていることの裏返しでもあり、仕事を受注し、下部層へと流すことの意義はそれなりに高いと言えそうだ。だがこれからはこのピラミッド構造は崩れていくだろう。すっかりなくなることはないが、上部層と下部層の関係はもっと公平に、平等になるだろう。つまり、情報通信技術やAIなどによる情報管理技術があがっていくため、見積書などの数字の透明性もまたあがっていく。上部層企業への忖度から見積書に載せる値段を高くする、という行為そのものが是正されざるを得なくなるし、下部層で行われる不毛な価格競争にも歯止めがかかることだろう。もっと言えば、アニメ業界におけるネットフリックスのような外資系企業が参入し、上部層企業に打って変わってこの国のピラミッド構造を根こそぎ刷新してしまうかもしれない。その公算が高そうだが、いずれにせよ、この国の企業で明確に未来へのビジョンを描いているところはそれほど多くはなさそうだ。危機がきてからでは遅いのでは、とすっかり虫歯になった奥歯を懸命に歯ブラシで磨きながらお寝坊さんはそう思ったのだそうだ。



2624:【まっくらにちかい】

あらゆる分野に明るくないいくひしさんだが、もちろんIT業界にもまったく明るくない。ロウソクの灯よりも暗いと言ってもよい。そこにきてさいきん覚えた疑問の一つに、通信技術の展望がある。5Gに代表されるような一秒あたりの通信量の増加は技術の発展と共に今後とも伸びていくだろうことは予想できるが、それよりも現状二種類ある通信契約の形態が技術の発展に伴い一本化するのか、それとも現状のまま二本なのか、はたまたそれ以上に分岐するのかの予想がつかない。いわゆる通信障害の保証をしないのが「ベストエフォート型」と呼ばれるもので、保障するのが「ギャランティ型」だ。ざっくりした説明でしかないので話半分に読んでほしいが、現状スマホやPCなどのインターネットに用いられる形態の多くは「ベストエフォート型」だ。通信が低速になったり途切れたり、通信障害が起きてしまうが、私生活で使う分には支障がない。そういう通信の形態だ。他方、「ギャランティ型」はそうした通信障害が発生しないように可能なかぎり対処してくれることを保障された通信形態で、その分、値段も割高だ。ただ、通信技術が高まっていけば現状の「ギャランティ型」の通信を安価に提供できるようになるだろうし、新たにセキュリティ面などの付加価値をつけて新しい通信形態のサービスが登場しそうな気がするが、そこのところはどうなっていくのだろう。一秒あたりの通信量が増え、端末の情報処理能力が向上すれば必然的に、個人情報が流出しやすくなる。一瞬で端末のメモリにある情報を抜き取ることもいまよりずっと簡単になるだろう。そうしたセキュリティは端末ごとに施すべきなのか、それともそもそも通信サービスの責任として、セキュリティサービスが通信技術に付属するのか、IT業界ではどのような方向に技術やサービスを展開していくつもりでいるのだろうか、とすこしだけ気になった。照明ライトくらいにその道に明るいひとにいちど話を聞いてみたいものだが、そもそもこの疑問が疑問として成立していない可能性もある。つまり、前提知識に誤りがあり、ウサギとコーヒーはどっちが速いのか、と問うのに似たチグハグサがあるとも考えられるが、厳密に条件を定めれば、ウサギとコーヒーのどちらが速く移動するのかは解答可能だろう。ともあれ、通信技術は複雑化していくのか、それとも一つに統合されていくのか、気になるところだ。未来を覗いてみたいものである。



2625:【指針があってこその地図】

「明確なビジョン」なる自家撞着ここに極まれりな言葉を使ってしまった。上記「2623」です。明確ではないからこそビジョンなのだ。ハッキリさせるべきは設計であり理想ではない。でも矛盾は嫌いではないので、明確なビジョンなるものを模索するのも、それはそれで楽しそうだ。



2626:【道消し】

ビジョンがなんなの、そんなものまんちゃん一個でも思い描いたことあるのいままで生きてきたなかでいちどでもさあ、ないよね、ないでしょ。あるってなんでそんなすぐバレる嘘つくの。ないよね、ないの、ないんだって。だいたい設計図だって引いたことないじゃん、ここ数年まともに直線すら引いたことないくせして定規を持ったこともないくせしてどのツラさげてそんなえっらそうな知ったくち叩けるわけ信じらんない。まんちゃんのよくない癖だと思うよ。そういうのどうかと思うよ。いくらよわっちくてみじめでみすぼらしいからってじぶんを大きく見せて何がしたいの。もっとずっと本当のじぶんよりちいさく見えちゃうだけだよバレバレだよ。気をつけたほうがいいと思うよ、あたしはこうして言ったげるけどほかのひとたちはだって、ほら、ねえ? じぶんを偽るな、飾りつけるな、とは言わないよ。でもまんちゃんのそれは逆効果だから。無意味だから。気をつけたほうがいいよって、はぁ、前にも言ったげた気がするんだけどなあ。まあいいけどね、困るのあたしじゃないし。眺めてる分には愉快だし。ま、がんばって。なりたいんでしょ、道化師にでも。お似合いだよ。まだまだぜんぜん笑えたもんじゃないけどさ。



2627:【ぐらふ】

解らないことがたくさんあるなあ、と漠然と実感できるくらいならわくわくして生きていられるのに、どうして定量的に、既知のものがこれくらいで未知の領域はこれくらい、と可視化しようとすると途端にわくわくして生きることを投げだしたくなるのだろうね。既知をこの私という器に溜めることこそが生きる証なのだと勘違いしていたじぶんに気づいてしまうからだろうか。知っていることなんて未知の領域に比べたらほとんどないに等しいのだと、無にちかいのだと、極限に希薄なのだと、ぺらっぺらなのだと自覚することでじぶんの存在意義までもがぺらっぺらになった気になってしまうからだろうか。それとも、そのどうしようもない価値観のぺらっぺらさに哀しくなってしまうのかな。立派でありたいとは思わないけれど、立派でないじぶんを情けなく思ってはいるのだね。やっぱりそのどうしようもない価値観でじぶんの存在意義を量り、あまつさえその物差しを他人にも向けてしまっているだろう無意識からの性根の歪み具合から目を逸らしていたいし、できればその物差しごと我が身を遠くどこか目の届かないところへと投げ捨ててしまいたいし、そうしてそうした物差しを胸に仕舞いこんだ人々をこの世の果てのどこかへと擲ちたいと望んでしまう己が卑しさからも逃げだしてしまいたい。道理でなあ。わくわくできないわけだ。でもわくわくして生きていたいので、ぺらっぺらな事実からはいましばらく目を逸らしておくことにする。



2628:【うるせー】

いくひし、てめぇがぺらっぺらかどうかなんてどーでもいいんだよ、厚切りベーコンかどうかなんてのもどーでもいいんだよ、いいからはよ新作仕上げろや、なぁにがぺらっぺらじゃ、英語ちゃうんねんぞ、しゃべんな口閉じてろ、まずは物を語れ、垂れてんじゃねぇよ能書きをよォ。



2629:【うわーん】

こわいこと言わないでほしぃ。だって休んでいいって言ったもん、ラクしていいって、サボっていいって、ちゃんと寝なさいって言ったのにそういうのずるいと思う。こわいのなし。やだ。もっとやさしくしてがいい。



2630:【てこずった】

やっと一つつくりかけの小説を閉じました。予定では先月中に終わっているはずだったのですが大幅に遅れてしまいました。なんとか六万字内に収めたかったのにけっきょく八万字に達してしまって、ひとまず寝かせたあとで推敲しがてら削っていこうと思います。いくひしさん最後の百合小説となりますが、つくりかけの百合小説がまだ一つ残っているので、きょうからそちらを閉じていきます。そっちは四万字以内に収めたいのですが、いけるでしょうか。自信がありません。それを終えたらつくりかけのミステリが二つ、こちらは双方共に六万字以内に収めたいな、と思っていますが、手掛けて、そのあとは長編を二つ閉じればもう秋になっていそうですね。合間合間に掌編をいくつかつくれたらいいなぁ、と望むだけならタダなので望んでおきます。そろそろ大巨編をもういちどつくってみたいな、と構想を練るというほどでもないのですが、妄想しています。初作品と同じくらいの百万文字の物語を五年後くらいにつくれたらいいなぁ、と思っています。そのあいだに掌編短編を合計で千作つくれたら(つまりあと七百作くらいつくれたら)、やったー、となるのですが、それはさすがに無茶な気がしています。千作をつくり終えたくらいを目途にすべての自作を著作権フリーのパブリックドメインにしようと考えています。そのときに「郁菱万」としての活動はおしまいにして、新しい名義でまたゼロから活動していこうと予定を立てていますが、予定は狂うのが世の常でありますから、どうなるかは分かりません。五年後、十年後を俟たずに文芸から遠ざかってしまうかもしれませんし、そのときにはもう生きていないかもしれません。つくりたいものをつくりたいときにつくれるだけつくれたら、さいあく予定通りの人生でなくともまったく構いません。というよりも予定通りでないほうが面白そうじゃないですか? はやく文芸に飽きて、もっと楽しいことと出会えたらそちらのほうがよいなあ、とも思っていますが、いまはまだもうすこしだけ文芸での創作を楽しんでいきたいなあ、と高望みしています。以上、2020年03月25日のいくひしまんでした。



※日々、身の程を知ったつもりで生きている、すこしはマシになってはいるのだと思いこんで。



2631:【オチがありゃいいってもんじゃない】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはさいきん夕方に公園におさんぽしに出かけるのが習慣化しはじめたでござる。ひなたぼっこがきもちよいでいござる。もうもう、よいお天気がつづいてうれうれのしいしいでござるな。おしっこしいしいではないでござるよ。でもたまに、きのうまでのぽかぽかはどこにいったでござるか、となるので、きょとんとしてしまうでござる。風さんがびゅーびゅーだったり、雨さんがぽつぽつだったりしてお天気さんはせわしないでござる。いくひしさんを見習うとよいでござる。いくひしさんの万年ぼけーっとを見習うとよいでござる。ぼけーっとにビスケットをつけたら最強でござる。ぼけーっとのなかにはビスケットがやまもりたくさん、ぱくぱくする時間も含まれるでござる。万年ぼけー、を座右の銘にしてもよいでござるよ。きょうはおいしいたこ焼きを食べたのでまんぷくぷくの大満足でござる。でもたべたりないのでもっとたべるでござる。おなかがぺこぺこのぺこでござるな。食欲の春でござる。万年おなかぺこぺこなくせに、万年おなかぷにょぷにょでもござって、んなー、どっちかにしてほしいでござる。うそでござる。どっちもいやでござる。万年おなかまんぷくぷくがよいでざる。どっちにしてもおなかはぷくぷくなんでござるか? あやー、やったー、でござる。ラッキー、でござる。ぼけー、はよいことづくしでござるな。やや、ツッコミがないでござる。それはボケでござるよ。ほげー。



2632:【2020/03/26雑感】

いまはあまり軽率なことは言わないほうがよいので、ぼんやりと脳裡に浮かんだ灰汁のようなもののみを並べておく。これまでの社会はあまりに人口過密型を基本とした社会の仕組みを構築しすぎてきたきらいがある。ビジネスの手法にしてもそうだ。物理的な集客数を競うようなところがあった。だがもはや環境は変わってしまった(変わりつつあるのではなく、すでに変容している)。社会の仕組みの脆弱性が顕わになったと言ってもよい。元に戻そうとするよりかは、いまの環境に適応させるように進歩していくほうが合理的だ。いま目のまえに降りかかった問題を収束(終息)させたとしても、また似たような事態に陥れば、同じ規模で社会が大打撃を受ける。もっと人と人とが直接かかわらずに済むようなシステムを社会が構築していくほうが好ましいのではないか。いまはその分水嶺と言えよう。完全自動運転車やドローン運搬の需要もこれで高まったのではないか。バスや電車は、衛生管理の点でやや難がある。また、公共機関や医療機関を含め、現代社会はいささか過剰な仕事を前提とし、それを常態化する傾向にある。つねに百パーセントで仕事をしていたら、不測の事態が生じるごとに破たんの節目に立たされる。もっと余裕を以って仕事にかかることを是とする風土を築いていくほうが短期的にも長期的にも功を奏するのではないか。現状において、社会基盤が崩壊する閾値があまりに低すぎるように思う。これは教育の問題でもあり、経済の在り方の問題でもある(教育と経済の問題でない社会問題というものがあるのかは知らないが)。国が――つまり国民が、何に金をかけ、何を優先して施策すべきか、をいまいちど洗い直してもよさそうに思うが、いかがだろう。社会基盤、ことさら福祉の重要性を時間をかけて熟慮してほしいところだ。(筆者は引きこもりであるので、引きこもりでも生きていける社会を望んでしまう欲目がある点は否定できない。可能であれば、大規模イベント施設における衛生管理設備への投資をもっと国が支援していけると、現行のビジネス形態を維持できるのではないか。いまのままでは物理的な集客を前提としたイベント興業は今後、ビジネスとして成立しなくなるだろう。空調設備の増強がもっとも容易で汎用性が高い対処法なのではないか。とはいえ、空調ダクトの増設を含め、規模の大きい会場ならば数億円の投資が入り用となるだろうし、電力消費量が激増するので気候変動対策との相性がよろしくない点で、あまり得策とは呼べそうにない。いっぽうで、土地は余っているのだから人口を全国津々浦々に分散すれば効果的な施策となり得るのではないか(新たに土地を開拓せずとも、居住区だけならいまある住宅街や市街地だけでも間に合うはずだ。なぜなら長年の過疎化に加えてこの国の人口は減少しているので)。リモート勤務が常態化すれば、都市部近郊に住む利点はなくなるし、街が増えればそれだけ社会基盤や医療福祉を増強しなければならなくなるため――つまり学校や病院、ほか公共機関を増やさなければならないため、国としての基盤はよりつよくなるはずだ(エネルギィや資源問題に拍車がかかる懸念があるが、自治体ごとに再生エネルギィを利用できれば原発がなくとも電力を確保できるようになるかもしれない)。工場にしても、機械による自動化を推進するよりも人件費をかけたほうが安上がりだったこれまでと打って変わって、人を一か所に集めて働かせるほうがコストやリスクが高まるようになるのならば、これからは否応なく自動化が進むのではないか、と妄想するしだいだ。失業率は上昇し、格差はさらに開いていくだろう。したがって社会の発展と正比例してこれからはますます福祉の整備が求められる。とはいえ、これは以前からすくなからずの人々が指摘してきた隘路でもあるので、いまさらなのだが)(都市部の人口過密と脆弱な福祉が根本的な問題だと言ってそれほど大きく的を外してはいない気がするが、あくまで雑感ですので、いつも通り、真に受けないように注意してください)



2633:【物書きの海外展開が容易になる】

翻訳AIにじぶんの文章を英語訳させ、さらにそれを日本語訳にしたものをじぶんで読む、ということをやっているのだけれど、そうすると文章としておかしいところが可視化されるし、同時に、元の文章よりも翻訳変換後の文章のほうが読みやすかったり、味があったり、読後感がよかったりして、翻訳AIすごいな、わしダメダメやん、となっておもしろくなってしまった。時間がかかってしまうかもしれないけれども、いちど英語訳してさらに日本語訳にして推敲チェックすることを自作の創作に取り入れてもよいかもしれない。本当、新しい語彙も増えるし、第三者の目でじぶんの文章を見詰めやすくなるので、あとは小説の翻訳の精度があがってくれるのを待つだけだ。翻訳AIサービスの利用者やその層が増えていけば、しぜんと翻訳AIの精度はあがっていくと想像しているので(そういう仕組みではないのかもしれないけれども)、今後、物書きの海外展開はいまよりずっと簡単になるのではないか、と妄想している。これはもう何年も前から予想できたことなので、やはりこうなるよなあ、という感慨のほうがつよく湧くが、それにしてもじっさいに目の当たりにすると、便利だなあ、と目を瞠るしだいだ。※※※以下、上記テキストを英語訳し、さらに日本語訳したものを載せておきます。「自分の文章を翻訳AIに英訳してもらって、その和訳を自分で読んでみるという方法をとっていますが、この方法だと文章のどこが悪いのかが可視化されると同時に、翻訳された文章の方が元の文章よりも読みやすく、味があり、読み応えがあります。時間はかかるかもしれませんが、英訳文と和訳文を自分の創作物に取り入れて、さらに見直してみるのもいいかもしれません。本当に語彙が増えて、第三者の目で自分の文章が見やすくなるので、あとは小説の翻訳の精度が上がるのを待つばかりです。AI翻訳サービスの利用者が増え、利用する人が増えれば、AI翻訳サービスの精度も徐々に上がっていくのではないかと想像していますし(そうはいかないのかもしれませんが)、将来的には今よりもライターの海外進出が格段に楽になるのではないかと妄想しています。何年も前から予測できていたことなので、そうなると信じたい気持ちの方が強いのですが、実際に目の前で見ると、こんなに便利になるんだと目を見開いてしまいます。Translated with www.DeepL.com/Translator (free version)」



2634:【翻訳AIは小説に不向き?】

文体に癖がないほうが翻訳AIで翻訳したテキストは読みやすくなるだろうし、小説においては会話文、要するに「かぎかっこ」がないほうが翻訳の精度が向上しやすいはずだ。翻訳AIを利用した小説の海外展開を考えるうえでは、ショートショートのような短文で、かつ会話文のない作品が、しばらくのあいだは有利となると言えそうだ。とはいえ翻訳AIがSNSのビッグデータを活用可能となれば、会話文の翻訳精度は飛躍的に向上するだろうし、そうでなくとも翻訳精度はそのサービスを利用する人々、もっといえば、入力されるテキストの数が増えれば増えるほどに進歩していくので、小説を高い精度で翻訳可能となる未来はそれほど遠くはないだろう、と妄想するしだいだ。もうすこし言えば、小説の翻訳を精度高く行うよりも、自動で小説をつくる小説創作AIのほうがさきに誕生する気がするが、どうなるだろう。物語はパターンなので、会話文をSNSのデータから引っ張ってこられれば、読書に耐え得る小説は比較的容易につくれるようになるはずだ。これからの物書きにおかれては、しばらくのあいだは、翻訳可能な短文と並行して、翻訳AIに翻訳され得ない独自性の高い物語をつくれることが、物書きとしての市場価値を高める、と言えそうだ(言い換えれば、類似性のない物語、パターン化できない物語や会話文、がそれにあたる)。翻訳AIは統計的に情報を処理する傾向にいまはあるので、独自性の高いテキストであれば、そこに滲む読み味が翻訳にすぐさま反映される可能性はいまのところ低いと判断できる。とはいえ、読まれるテキストの人気をAIが文章反映の判断基準に取り入れたならば、その限りではないので、やはり翻訳AIや小説創作AIが、あらゆるテキストの言語の垣根を払しょくするのは、時間の問題と言ってそれほど大きく的を外してはいない気がするが、じっさいのところはどうなっていくだろう。(いくひしさんがこうしていくら妄想したところでじっさいの現実社会にはなんら影響を及ぼさないので、気楽でよいなあ、と思っている)



2635:【コメディはむつかしい】

言い間違えっておもしろくないですか。真剣な場であればあるほど言い間違えがあると笑ってしまうし、口にしている本人が言い間違えに気づかずに、熱弁すればするほどおかしさが増してしまう。笑っちゃいかんのだろうけれども、コメディの基本的な型の一つな気がする。言い間違え。ツッコミがなくても成立するのでいいなと思う。使えるようになっていきたいです。



2636:【不潔ですか?】

レシピを見ずにつくるのでけっこう料理は失敗してしまうのだけれども、それでもまあまあ食べられるくらいに簡単な料理しかしないので、人に食べさせないのであれば支障はない。で、さいきん思うのは、パスタはとりあえずニンニクを入れて炒めてしまえばたいがい美味しくなるな、ということで。ベーコンの有無よりもニンニクの有無のほうが風味への影響が大きいし、玉ねぎが入ればもはや言うことがない。無敵かと思う。でもベーコンが入ったほうが美味しいので入れるけれども。ともかくニンニクと玉ねぎが偉大だな、という所感と、それから改めて炒めた玉ねぎの美味さよ、の気持ちが変わらぬ日々の控えめさよ。あとこれは以前との大きな違いなのだけれど、ことしに入ってからパスタやらチャーハンやらをすこし大きめのマグカップで食べるようにしたら、気持ち料理が美味しく感じる。入れ物なんて関係ないでしょ、どれも一緒だよ、皿なんかいらんよ、葉っぱでいいよ葉っぱで、箸ぃ? 枝ぁ拾ってこい枝を、の精神だったいくひしさんであったけれども、いよいよ見栄えの良さ、見た目の虚栄に味覚が左右されるくらいの文化的性質を身に着けた様子で、いやはや人は変わるものですね。それでいて飲み物用のカップはいちど使っても洗わずに数回は使いまわしてしまう自堕落さと衛生管理の抜け具合には、まだまだ未熟であられるね、と胸を撫でおろす場面でもないのに撫でおろしてしまうな。変わらぬことに安堵するのは進歩とは真逆の性質であるようだから、いやはや、知らぬ間に退廃がはじまっておったよね。進歩しないのに退廃できるなんて人間ってなんて便利。万年未熟者のなまけもの、歳相応、分相応のいくひしまんでした。



2637:【みんなあたまいいなぁ】

社会制度の手続きについての文章を、おそらくはかなり親切に解かりやすく説明されているだろう文章をざっと流し読みしてみたのだけれど、やっぱりむつかしく感じる。口座にお金を振りこむくらいの手軽さでできるようにならないかなぁ。それか手続きの流れや形式を全部同じにしてほしい。一回覚えたら全部の手続きができるようにしてほしいけれども、それはそれで何か問題があるのかな。あまり簡単にほいさとされたら困るから敢えてむつかしくしている面もあるのだろう。それはそれとして、やっぱりもうすこし簡単にしてほしいなぁ。あんぽんたんがあんぽんたんのまま生きていくには社会はむつかしいことばかりだ。とはいえ、むかしに比べたらだいぶよくなっているのだろうし、改善したときのほうが多くの問題が生じて制度自体が破たんしてしまう可能性もあるだろうから、いかんともしがたいのかもしれないな。いちど複雑化したものを単純化するのって、どうしてこうもむつかしそうなのだろうね。本当にむつかしいのかはやったことがないから知らないけれども。むつかしいことをうんうん考えてあんぽんたんは余計にあんぽんたんになってしまった。みんなお利口さんなのだなあ。



2638:【うねうねが好きかも】

全部同じ濃さの文章よりも波打っている文章のほうが読みやすいというか、小説なら長編を一気に読み通せて好みだ。ただ、一気に読み通すことの利点って消費しやすいだけなのかもしれなくて、もっとちんまりちくちく読み進めていくことの楽しみを覚えてもそんなに損はない気がする。でも忙しいときとか、ただただ刺激を、快楽を得たいというときには、一気読みしやすい好みのうねうねうのほうが親しみやすく、手が伸びやすいのかもしれないね。



2639:【ゆるやかな変化には気づきにくい】

きのうは肌寒かったのが、きょうはよい天気だ。いつもはこの「いくひ誌。」は夜中か明け方に並べているのだけれど、さいきんは真昼間に並べる日が増えた。よいお天気の日はお散歩にでかけたくなる。万年孤独ウェルカムマンのいくひしさんはお外にいようがお家にいようが誰とも接触しないので、空気の流れのあるお外にいるほうが健康的と言えるかもしれない。自転車コキコキして、人通りのすくない道を通って、これは田舎なので必然的にそうなるのだけれども、大きな公園に行く。広いグランドのうえをちっこい子どもが走っていて、サッカーをしている子たち、フリスビーを投げ合っている子たち、あとは犬の散歩と幼子の散歩をしているひとたちがちらほらと見られる。花壇の植え替えをしているおばさま方がおり、よくもまあそれだけきれいにお花を規則正しく並べられるなあ、と機械みたいな手腕に舌を巻く。休日は気持ちひとが多いけれども、平日はそれほどでもないかもしれない。夕方だからかな。ベンチからは地下鉄の陸橋が見える。ほとんどひとが乗っていない。自動車の交通量が多くなったなあ、と感じていたので、みな自家用車を好んで選んでいるのかもしれない。高校生、大学生くらいの女の子三人組の姿を比較的よく見かける。男の子の姿はあまり目にしない。反面、年齢が低くなると男の子の集団をよく見かける気がする。公園を出る。カフェやファーストフード店を遠目に眺めると、けっこうお客さんがいて、ふうん、と思いながら通り過ぎる。家に戻って、ふう、と息を吐く。きょうも何の変哲もない日々が終わる。でもたぶん、気づかないところで何かがすこしずつ変わってきているのだろうね。社会というか、自然というのはそういうものだから。



2640:【2020/03/31雑感】

バタフライエフェクトをこんなに日常的にかつ短期間で実感したことはたぶんかつてなかった気がする。短時間での長距離移動が可能な現代社会の交通網と、人口過密型の都市設計が、ちょっとの危険因子を爆発的に増幅させ、社会の基盤を揺るがせた。ものすごく短絡的なことを言えば、医療機関の設備や人員に余裕があればいまですらさほどに脅威と捉える必要がない(重篤化しやすいひとたちは罹患すれば高い確率で死亡してしまうので、国民の行動制限はどの道しなくてはならないが。要するに、人混みに出向くな、だ)。トリアージの赤を黒と判断せざるを得ない事態が差し迫り得る社会構造のこれは問題だ。因子は極小の弱弱しい存在そのものではない。ちょっとの危険因子を爆発的に増幅させ得る社会の構造に、根本的な瑕疵がある(そしてそういう社会構造が構築されやすい土壌を、教育と経済が支えてきた背景がある)。社会の在り方を変えていかなければならない時期なのだろう。極小の存在を過剰に恐れる必要はない。人混みを避け、人と無闇に接触しなければよいだけなのだから(そのためには引きこもっていられるだけの資本が入り用となるので、やはりこれもまた社会システムの問題と言えるだろう)。ちなみに、現状を「極小の弱弱しい存在との戦争だ」と表現する言説を耳にするが、どこが戦争なのだろう、と疑問に思う。一緒にしないほうが好ましいのではないか。もちろんこの文章はあんぽんたんのただの妄想であり、雑感ですので、真に受けないように注意してください。(世代や体質で致死率が天と地ほどに変動するのなら全体の平均値を基準に物事を判断するのはあまり利口とは呼べないのだろう)(まとめると、人口過密型の都市設計と、余裕のない医療機関が相互に関係して問題を大きくしている。日常的に国民がおいそれと医者に罹れないような制度下であると、医療機関は縮小していく傾向にある。まずは誰もが気軽に医療を受けられるシステムの構築を目指すほうが好ましいのではないだろうか。経済の困窮については、今回に限ったことではないので、いつであっても国民の生活保障を高めていくほうが望ましいと言えるだろう)




※日々、選択肢ばかりを羅列して、どれを選んでも間違える。



2641:【れいん】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。きょうは雨でござって、いくひしさんはなんだかおとななきぶんでござる。お日さまてんてんの日は子どものきぶんでござって、なんで雨だとおとななきぶんでござるか? うでを組んで首をこてんとかしげるでござるけれども、たぶん、よるにおふとんにくるまって雨のざーざーに耳を澄ませているときの、あのなんだかどこまでも世界が広がって、繋がっていて、地続きなんだなあ、の、魂が身体から抜けだしてどこまでも旅にいけるしんみりした感じ、じぶんのいるいまここは、世界にとってのほんの一部分なんでござるなあ、ってシクシクわかってしまうあの感じがおとななきぶんと似ているから、むかしからの脊髄反射でそういうきぶんになってしまうのかなって思うでござる。センチメンタルでござる。センチメンタルってなんでござるか? 検索してみたら、弱弱しい感情に走りやすいさま、情に脆いさま、感傷的、とあったでござる。じゃあ、おとななきぶんというか、おとなはきっと、弱弱しくて情に脆くて、感傷的なんでござるよ。お歳を召すほどにひとは理性が働きにくくなって、感情的になるとも聞くでござる。あながち的外れではないかもしれないでござるな。そこにきていくひしさんは万年未熟チルドレンでござるから、理性の塊でござるから、つよがりで、非情で、殺傷的でござる。さ、さ、さいあくでござる。じぶんで言っていて引いてしまったでござるよ。たまには雨の日のよるみたいにおとななきぶんになるがよいでござる。万年未熟チルドレンじゃこまるでござる。万年未熟チルドレンを目指すくらいの余地がないとこまるでござる。本当に純粋に、疑いの余地なく、万年未熟チルドレンじゃ、そんなのは一年中晴れの干ばつ地帯でござる。ときどきは雨が降ってほしいでござるよ。いくひしさんは雨のよるがきらいではないでござる。万年未熟チルドレンのいくひしさんでも、おとななきぶんに浸れるからかもしれないでござるな。雨の音はざーざーでござるか? シトシトでござるか? テンテンと屋根からしたたるしずくの音がすこしうるさくて、目が冴えてしまったでござる。眠いのに眠れなくて泣きたくなるでござるな。チルドレンどころかこれじゃあ万年未熟ベイビーでござる。おぎゃー。



2642:【でも困るのわしじゃないしな】

まあいっか、で済ましてしまうことが多くなってしまった。まあいっか、困るのわしじゃないしな、の精神、たぶんあんましよろしくない。自分自身のためにも。



2643:【意思疎通がへたっぴ】

一つの問題点を指摘するときに、前提となる知識が複数必要で、かつそれらがバラバラの分野(層)にかかっていると、本当になんというか、なぜそれを問題だと考え指摘しているのかを相手に理解してもらうのが格段にむつかしくなって、けっきょく要点だけを伝えることになってしまう。でもそれって忖度を相手に期待することでもあって、押しつけにもなり得るし、時間はかかっても一から十まで説明はしたほうが好ましいのだけれど、これは飽くまで相手に聞く耳を持つ姿勢があってこそ成立する「相互の歩み寄り」となるので、本当になんというか、大概の指摘というものは余計なお節介にしか映らないので、そもそも歩み寄るための合意を結ぶところからはじめなければならず、ほとほと厄介だ。完全にどの口が言うのか、おまえが言うな、のぼやきなのだけれども。じぶんの考えを説明するのってむつかしい。往々にして妄想や憶測、飛躍した仮定が含まれてしまうものだから。いまは大丈夫、で押しきられたら押し黙るしかないじゃない。かといってこちらの要求を聞いてほしいわけでもないのだ。考えてほしいのだ。踏まえてほしいのだ。そのうえで、問題点を失くす方向に選択肢を増やしてもらえたらうれしいのだけれど、これもまた他者への過干渉なのだよね。何を問題と見做すのか、その優先順位も人や立場によって様変わりするし、よりけりなので。他人との意思疎通、とりわけ段取りってむつかしくないですか?



2644:【その場しのぎではなく、仕組みを】

すぐ困るわけじゃないけど、いざ困る事態になったときにあなたも私もどっちもいまの環境を失うくらいに大打撃を受けてしまうので、私はこれをこれだけするので、あなたはこれをこれだけ試みてくださいませんか、という説明の仕方は、交渉という点では有効なのだけれども、問題点の共有という側面では、根本的なところで不十分で、やや詐欺師じみていて、欺瞞なのだよね。むつかしい。



2645:【悲観と楽観】

楽しいことだけ妄想するぞ。不安なことだけ考えるために。



2646:【2020/04/03雑感】

きょうもお散歩にでかけた。二日ぶりの公園だ。お天気がよく、気温も高く、すっかり春でぽかぽかだ(ハルなる鈍器で誰かを殴っているわけではない)。自動車の交通量は二日前の三分の二程度でやや減ったけれど、以前に比べたらまだ多い。コンビニは自動ドアを常時全開で、風通しがよさそうだ。一つのお店は突発的に休業していた。営業するリスクのほうが高くなりはじめてきたのかもしれない。職種にかぎらずどの店舗も店員はのきなみマスクをしている。公園には相変わらず子連れの親子や、犬の散歩をしているひとが多い(いずれも公園に留まらずに、道を抜けていくだけのようだ。公園を通っていくほうが近道なのかな?)。女の子の集団は見かけなくなり、男女の二人一組の姿を比較的よく見かけた。きょうに限った傾向かもしれない。公園の利用者は減って、グランドで遊ぶ人々はまばらだ。五十代以上らしき女性が三人以上で連れ添って歩いている姿を数回見かけた。数日前にはなかった光景だ。これもきょうに限った傾向かもしれない。男女比で考えるのはあまり好きではないけれど、男性のマスクをしない率はかなり高い。子どもを連れている男性だとマスクをしている率が高くなる傾向にある。どちらがよいのかはまだ判らない。ちなみにきょうの午後に週末は出歩かないでほしい、とどこかの誰かが言っていたので、あすとあさっては散歩はやめておく。とはいえ、散歩はそのお願いの範疇外なので、本当はしてもよいのだけれどね。閑話休題。何がとは言わないけれども、一か国だけで対策をしていてもあまり意味がない。気候変動対策同様に世界的な対策機関の設立が望ましい。今回は(これでもまだ)運がよかっただけだ(たとえば現状は手紙をAからBへと伝達するための手法が手渡しのみだが、それ以外にもう一つ手段が加わっていたら、そう仮に電波のように離れていても伝達可能であったら、或いは昆虫やペットなどの小動物が運ぶようになったら、不特定多数に不幸の手紙を無数にばら撒くことも可能となってしまう。そうなれば手紙を受け取らないためには家から一歩も外にでないでいるしかない社会になってしまう。もちろん店はおろかどんな職種であろうと働くことはできなくなる。いまはまだそこまでの事態にはならない確率のほうが高いと言える。表現を濁しましたが伝わりましたか?)。たとえ短期的に一段落がついたとしても、世界的に都市設計の見直しから対策を立てていくことを目指していくほうが好ましいと言えよう。専門家からの警鐘は定期的に(ずっと)鳴らされていたはずだ。繰りかえすが、今回はまだ運がよかったほうだ。楽観視しているわけではない。もっと悲観的に事態を見たほうが望ましいのではないか、とのこれは考えです(むろん、すでに生じた損害や被害はけして無視できるものではないし、このさきも増えていくだろうことは想像できるのだが)。(あんぽんたんが靴を蹴ってお天気占いをするようなその場任せの戯言ですので、真に受けないように注意してください。過度に不安になる必要はありません――と注釈を挿すほうが不安になってしまうのかな。現代人でこれを読んでるひとがいないとよいけれど)。



2647:【いくひしさんは小説つくるのが下手】

ひとは事実を並べていいし、下手でも小説をつくっていい。何を表現してもいいし、楽しんでもいい。もちろん、そのせいでひとから恨まれてもいい。ただ、できればより長く「~してもいい」を抱えて生きていきたいので、恨まれずに済むなら恨まれずに、他人の「~してもいい」を奪わずにいられたら、それがたぶん、いちばんいい。いくひしさんはね。



2648:【搾取依存タダノリ寄生野郎】

他人への影響力を持ちたくない。透明人間になりたい(でもじぶんの表現はどこかの誰かの目に留まる余地を残したいし、いっぽうてきに他者の影響を貪りたい)。



2649:【どうしてだろうね】

誰の役にもたたなくても罪悪感を覚えずに、のほほんと暮らしていたいのに、さいきんはなんだろうな、なんのせいというわけでもないのだろうけれど、なんとなく誰のなんの役にもたっていないことにすこしだけきぶんが滅入ってしまうな。ほんの、一秒くらいだけだけれども。



2650:【カルシウム光線】

きょうはこっそりエッチなことする日にする。そう、たとえば、下着を脱いでみたり。裸になってみたり。透明でスケスケで熱を帯びた液体に浸かってみたり。全身を濡らしてみたり。ときおり身体の敏感なところをあわあわのぬくぬくでこすってみたり、揉んでみたり、それから場所を移動してふわふわのやわらかな、白い肌触りのよいもので全身を覆って、肌の表面を丹念に、執拗に、撫でまわして、そしたら新しい下着を穿いてみたり、うっとりする香りのする衣服にくるまれたり、上気した頬を冷まそうと獣の体液たる白い液体で喉をうるおしたりして、ぷはぁ、うめぇってだからそれはお風呂や! ただのお風呂! 入浴! 湯船に浸かっただけ。タオルで身体拭いて、着替えて、湯上りの一杯をぐびぐびしただけミルクおいちい! 見よ、この誰もが見惚れる骨太を! うっふん!




※日々、過去のじぶんを恥ずかしく思う、いまのじぶんを棚にあげて。



2651:【暇人なので】

きょうから洋画ドラマの「メンタリスト」観る。やたー。(どうでもよいけど、「やったー」と「やだー」は似ている)



2652:【片想いがよい】

惚れやすいので好きなひとがいっぱいいる。恋多き人生やな。(だいたい会ったことないひとばかり)



2653:【コメディ】

ひとの失敗はおもしろいけど、ひとの失敗を笑うじぶんの姿はおもしろくない。笑ってる姿もおもしろい笑いがよいなぁ。



2654:【ぷぷー】

さいきんのいくひしさんはいいひとぶっててさいあくですね。おまえそんなんじゃねぇじゃん。



2655:【真面目に不真面目】

アホみたいにくだらなくて、誰のなんの役にも立たずに、ただおもしろいの感情を誘起するだけの文章や物語を並べていきたい。こんな不真面目に真面目な文章ではなく。



2656:【わるだくみ】

きょうはこっそりわるいことする。たとえばそう、長年かけて積みあげてきただろう大量の、矜持の別名に似た存在を、根こそぎ一蹴し、掻き集め、まとめてこの世のあらゆる不要の烙印を捺された者たちの行き着く場所へと放りこむ。さらに、自由気ままに振る舞っていた万物の子らを、決まりきった場所に押しこめ、そここそがおまえの居場所なのだと押しつけ、命じ、その傍らでがらんとした空間を独り占めしながら優雅にコーヒーをすすり、ホットケーキなどをついばみ、漫然と移ろう空を眺める。我は王なり。そうそう、と思い立ち、何か盛大に鬱憤を晴らしたくなったので、排泄物の吹き溜まりのような場所へと赴き、ケツとの接吻がお似合いの器をこれでもかとブラシでいじめてやって、じぶんが心地よいというだけの理由で、よい香りのするスプレーをぶちまけてやる。つぎはなにか、そう手ごろな生き物の死体を切り刻んで、煮て、焼いて、食っちまいたい気分だ。くっくっく。そりゃただの料理だ。床の埃を掃いて、捨てて、散らかった部屋を片付け、トイレを磨いただけだろう、ええい、偉そうにするない。なにが王じゃ。おまえはただの亡者、わるぶって粋がるだけの無能さ、風呂洗いすら今じゃ自動さ、栓を抜いて、洗剤かけて、水で流せばあとはボタンを押せばお湯が溜まる便利だ、黙る便器すらいまじゃ珍しくて、便座すら自動でぱくぱく口を開け閉めする仕様さ、器用さ、そして異様さ、世のなかはいつの間にかわるぶることすらむつかしくて、掃除するだけでも極悪人になれる偉業さ、異常さ、未踏さ、誰もが誰かを責め、正義の味方になれる世界は誰もがヒーローになれる理想郷ではなく正義の需要過多で値崩れしたヒーローどもの地層だ、そこかしこに有り触れた砂利みたいにいまじゃ正義は誰かに投げつける小石ほどの価値しかなく、しかし現実の姿として大地は無数の小石でできている、砂利なくしてひとは立つことも歩くこともできない、ならば無数に溢れた値崩れした正義はそれはそれでいまの社会を支えている、築いている、傷ついているのは、ときおり雪崩のように襲いかかる土砂崩れに鉄砲水に巻きこまれた人々だ、ご愁傷様だ、運がなかった、諦めて受け入れるしかない、自業自得、自己責任の声の嵐も、それはそれで無数の砂利の姿さ、ときおり床にうっすら張った矜持の別名みたいに、掻き集めて、きれいさっぱり拭い去ってしまいたい、それこそ悪だ、悪巧みのなせる業さ。



2657:【そもそもの問題はグレーだからでは】

この国では刑事罰こそないが売春は違法であり、職業として認められていない。よって性交をサービスとして提供するセックスワーカーも社会的には存在しないものとされている(性風俗と売春はイコールではない。売春とは陰茎と膣による性交であり、口や肛門を使った性交類似行為は売春ではないとされている。性風俗店で提供してよいサービスは性交類似行為であり、性交そのものではない。ゆえに性風俗店そのものは違法ではない。しかし、性交類似行為から売春に至ることを防ぐシステムは現状ないと言える。ここで言うセックスワークは、性交を含めたサービスを行う者と定義する。一般に言うセックスワークとは意味合いが異なる。ちなみに、男同士での性行為は膣ではなく肛門を使うため、陰茎を肛門に挿入しても性交類似行為として扱われる。言い換えれば、男の管理売春、要するに男の売春宿は違法ではないのだ)。だが現実には、自由恋愛という隠れ蓑によって、性交を含めた性産業(セックスワーク)が職種の一つとして社会に当たり前に組み込まれている。セックスワークが貧困層のセーフティネットの役割を担っているとの言説を目にする機会があるが、そういった側面があったのはもうずいぶん昔、何十年も前のことに思える。現代では需要と供給のバランスはとっくに崩れており(つまり、供給過多であり)、セックスワーカーの低所得化がすすむだけに留まらず、そもそもがセックスワークに一定期間従事しつづけることすらむつかしい背景があると想像している。ただでさえ重労働の上、法的な保護や制度を受けにくい層でもある。密閉空間に素性のわからぬ客と二人きりで、無防備な状態で接しなくてはならず、客からの暴力だけでなく、個人事業主としての雇われの立場上、管理者からの理不尽な搾取や横暴には、泣き寝入りする者のほうが多いはずだ。もちろん、いちがいに言えることではなく、セックスワーカーたちの人権を守り、安心して仕事ができるような環境を整えようとしている者たちだっているだろう。だが最初に述べたように、そもそもこの国には、セックスワークなる職業は存在しないことになっている(ゆえに、税務署はつよくセックスワーカーたちに納税の催促ができず、警察はセックスワーカーと客とのイザコザへ介入できない)。パチンコの三点方式と同じだ。飽くまで、接客業やマッサージ、ダンスを披露したついでに、客と恋に落ち、一夜限りの性行為を交わしただけなのだ。法的には問題ない。そこには性行為サービスを提供した見返りによる報酬という構図はないからだ(繰りかえすが、性風俗店は違法ではなく、この限りではない。とはいえ、たとえ性交が行われていたとしても自由恋愛という建前で見逃されているのが現状だ)。だがそんなのは詭弁だ。現実には、性交やそれに類するサービスの提供によって対価を得ているれっきとした仕事と呼べる。今後、国がとるべき態度は二つだ。一つは、セックスワーク(売春)を法的に職業と認め、ほかの職種と同様に、労働者の権利を守るための制度をつくり、劣悪な労働環境を是正していくこと(つまりセックスワークの合法化だ)。もう一つは、厳格にセックスワークを禁じ、あぶれたセックスワーカーたちへと、代わりとなる職業や、生活保障を割り当てる制度を税金をかけて整えていくことだ(言い換えれば、まっとうに機能する社会のセーフティネットの構築を行うこと、つまり社会保障の徹底だ)(双方同時に選択してもいい)。また、セックスワークが仮にこの国に存在しない職業として扱われたとしても、表向きは各々接客業など、個人事業主として働いている。何か災害があり、労働者への損害補償や融資をする支援制度が設けられた際には、むろんそうした個人事業主たちにも問題なく適用されるべきであるし、適用されない理由はない。セックスワーカーだから、なんて理由はそもそもこの国では成立し得ないのだ。幽霊を裁判の証人にできないのと同じ理屈である。仮に、何らかの基準で、特定の職業だけが制度の適用外とされたならば、そこには正当な理由がなければならない。繰りかえすが、セックスワーカーだからダメだ、という理屈は、この国では成立し得ないのだ。反社会的勢力への資金流出というのも理屈に合わない。もしそうした事象が観測されたならば、個別に対処し、刑事処罰すればよいのだ。それができないほどの巨額が一挙に反社会的勢力に渡ってしまうようなら、そのような土壌を放置してきた政治の責任である。やはりどうにかせねばならないだろう。長年放置してきたツケが回ってきたと諦めて、目のまえの社会問題の解決に取り組んだほうが好ましいのではないか。(言い換えれば、性風俗関連特殊営業を含めた風営法は現状、セックスワーカーたちの人権を守るための法律としてはまっとうに機能していないのでは、との疑念を呈しています)(上記はあんぽんたんの底の浅い所感ですので真に受けないように注意してください。ひょっとしたら知らないところで制度が改善されていて、いくひしさんが思っているよりもセックスワーカーの働く環境が改善されているのかもしれませんし、余計に悪化しているのかもしれません。実態がどうなのか、よくは知りません)



2658:【2020/04/05雑感】

経済が滞ると品物の生産が遅延するので、物流もまた滞る。そうすると医療に必要なものまで供給不足となり手術すらまともにできなくなります。消毒液から手術着、メスや麻酔、ほかにもさまざまな医療品が不足する事態と、それ以外のリスクとを天秤にかけながら、何をどれだけ制限すべきかを考えていかなければなりませんし、何をどれだけ許容すべきかも考えていかなければなりません。税金を何にどれだけ使うべきかを短期と長期の両方の視点で見極めつつ、さらに最悪の事態にも備え、加えて、その後の展望も考えていかなければなりませんので、何を優先すべきで、何をもっとも避けるべきかによってもろもろの判断はころころと変わることが予想されます。すくなくとも、したほうがよいことはすべて実行していくほうが望ましいでしょう。その前段階として、すべての懸念を考慮して考えることはできませんので、何を後手に回してもよいのか、何をいまは考えずにいてもよいのか、もまた選択していかなければならないでしょうから、判断一つくだすのにもむつかしい局面に思えます。ここにもバタフライエフェクトが垣間見えますね。真実、命の危機に差し迫った人々を切り捨てない判断をしているからこそのジレンマとも言えるかもしれません(とはいえ、医療機関にすら罹れない――可視化されていない――困窮者の存在は考慮されていない可能性がありますので、そこは今回の件に限らず是正していくほうが望ましいでしょう)。かといって、何らかの重要な判断をくだす必要性に迫られていないいくひしさんのようなひとたちはただ単に人混みに出向かずにいればよいだけなので気楽ですね。(あくまであんぽんたんの雑感ですので、何かの判断基準にはしないでください)



2659:【それほしい、と思ってしまう】

さいきんは小説家さんよりも絵描きさんのつむぐ文章のほうが読んでいておもしろく感じる日が多い。というか、絵描きさんたちそれぞれの世界観が反映された文章が好きなのかもしれない。(或いは、そもそも文章に滲みでてしまうくらいの世界観がないと絵を描きつづけてはいられないのかもしれない)



2660:【日常生活が苦手】

きょうはこっそりこわいことする。人間にとって意識を司るとされる器官へとまっすぐ通じる穴に、細長い棒をつっこみ、目の裏側に位置する部位を、ぐりぐりとほじくりまわす。あと十センチでもずれれば脳みそに達するというスリルを味わいながらこんどは、無数の針のようなものが剣山がごとく生えそろった道具を口のなかに突っこみ、やはりこれでもかとごしごしと、ときに何かをこそぎとるように、剥ぐように縦横無尽に動かしては、血が流れてもお構いなく、むしろそうしたいがためにそうするように執拗に手を動かしつづける。仕上げに水をこれでもかとそそぎこみ、ミキサーさながらにぐちゅぐちゅとかき混ぜて、ぺっと吐く。こんどは正真正銘、刃物を手に取り、ゆびさきに持っていく。このときばかりはさすがに緊張する。ゆびの先端を刃物で挟み、パッチンと一気に切断する。ふしぎと血は噴きださないが、身体の一部が切り離され、床に転がる。ぱちん、ぱちん、とつぎつぎに切り落とし、手が終わればつぎは足だ。常人と言わずして赤ちゃんであればあまりの恐怖に泣き叫んでいるかもしれないし、赤ちゃんであればこんなことをせずとも泣き叫んでいる。だって泣くのが仕事だもの。そしてこれはただの爪切りだ。耳掻きをして歯磨きをしてそれから爪を切っただけだけれども、小心翼々具合にかけては右にも左にも上にも下にも、要するにここにしかないただひとつの秘宝であるいくひしさんはけっこうなビビリであるので、もうもう赤ちゃんでもないのに目をぎゅっと閉じて、いまにも泣きだしそうな顔をしているから手元が狂って、余計な部位を突つき、磨き、切ってしまうのだ。イヤーーーー!!! ふつうにこわいことをしてしまった。




※日々、じぶんの偏見に気づけずに、アホウだからと言いわけを並べている、なんの免罪符にもなっていないのに。



2661:【かな、よりむしろ、むな】

きょうはこっそりかなしいことする。たとえば毎日残してきた日誌を読み直して、文章の稚拙さや、誤字脱字、誤謬に、誤解に、論理の飛躍、加えて黒歴史さながらというよりもそれそのものの恥辱の塊を直視して、顔面に熱をこもらせながら嫌な汗を掻きつつ、あーあーあー、と謎のうめき声を発する。底なしの自己否定、そんな過去はなかったそれはおいらのつむいだ文章じゃない、そんなバカな、わいのやと、ありえーん、の茶番をやりつつ、なんとかかろうじて事なきを得たフリをする。急場は凌げない。致命傷を負う。すでにやってしまった過去は消せない、いまという現実で上塗りするしかない、上書き保存やー、の精神でいこうの結果、こうして新しく文章を並べているわけなのだけれども、過去の先行した現実の数々とそのあとに待ち受ける、うがー、の呻き声と、枕にあたまを突っこんで、足をバタバタさせちゃう日々のあいだには、そりゃあもちろん相関関係と言わずして揺るぎがたい因果関係が見え隠れして見ぃつけた。きっとこの文章も遠からず、未来のいくひしさんに、うがー、ありえーん、の茶番を演じさせることだろう。思うともう、なんだべさ、知ったこっちゃいないっちゃ、と無駄に新しくキャラをつくって、やはり事なきを得たフリをする。急場は凌げない。致命傷を負う。あーん、まただ、ふつうにかなしいことをしてしまった。ボケ一つまもともにこなせない。えーん、こうなったら! いくひしさんは吠えた。過去をねつ造してやる! そういうわけで、いくひしさんはきょうから日誌をつけることにする。これはあくまでほかのひとから引き継いだ日誌だし、過去の恥ずかしいの数々はべつのひとが並べたやつなので、そういうルールなので、常識なので、うがー、ありえーん、の茶番をすることなく何千回目かのはじめまして、こうして恥辱で枕に頭ゴーンの種を蒔いていこうと決意を新たに固めたのでした。かなしい。



2662:【2020/04/07雑感】

きょうも夕方に公園に散歩に行ってきた。田舎なので日ごろからそんなに歩いているひとはいないのだけれど、相対的にやっぱり人通りはすくなくて、制服姿をとんと見掛けず、若者の姿もぽつりぽつりといった塩梅で、かといって年齢層はけっこうバラけていて、どの層が多いとかそういう偏りはなさそうだ。公園はグランドで遊んでる人たちの姿、とくに大学生らしきひとたちの姿がごっそり消えており、小学生から中学生くらいの子たちがぱらぱらとまだらに三、四人の塊をつくって、ボールやらフリスビーやらで遊んでいる。公園の入り口のあたりに鉄道橋がかかっていて、その下にいつもスケーターの姿を見掛ける。以前から思ってたけど、ここの公園は広いだけに、スケボー人口がほかの場所よりもやや多いかもしれない。たぶん十数人くらいが、二~三人のグループを編成してそれぞれ気ままに練習をしている。知らなかった。ちょっと前にパルクールをしている中学生くらいの子たちの姿を見掛けたけれども、ストリート系のスポーツはこういうところで練習しているのだね。思いがけない発見をしたようでいて、それもいまだけなのかもしれない。大学生らしき女性二人組が、延々と公園をぐるぐる回っていて、周期的に同じ方向から現れるので、いったいいつまで走るんだ、アスリートや、と感心してしまった。ジョギングというには過酷すぎる。それでいて二人ともおしゃべりをしながら走っていて、もはや高スペックの改造人間を見た気分だ。差別発言になっていますか? 数年前からちょくちょく思うのだけれど、いくひしさんの住んでいる地域だけなのかな、いくひしさんがちいちゃかったころよりもいまの子どもたちはじぶんよりも年齢の大きい人間、つまりいくひしさんみたいなひとへの警戒心が薄い気がしている。無邪気そのままで、好奇心の赴くまま、といったせわしなさを発揮している。むろん遠慮はなく、かといって強引でもなく、見習いたい謙虚さというか、素直さというか、やっぱり無邪気なのだなあ。いくひしさんの考えでは、無邪気なのは悪意があるよりもよっぽど手に負えない性質だ、と解釈しているのだけれども、ただ無邪気なだけならそれほど危険視する必要はないのかもしれない。好奇心を免罪符にする類の無邪気さは厄介なのだけれどね。たぶんことし一年は散歩が日課になりそうだ。と言っても、公園のなかを歩くだけだし、そこまでの道中は自転車で移動するので、誰とも会わないし、しゃべらないし、書店さんには寄るけれども、まあそんなこんなで、いつもと変わらぬ日々でした。



2663:【手癖と手抜きと即興の違いは?】

いくひしさんは即興でSF小説をつくると、描写ではなく説明文で話を進めようとしてしまうきらいがある。でも描写というか、キャラ同士の掛け合いで物語の進行と状況説明を同時にこなせるとよいのだけれど、そのためには世界設定をじぶんで物にしていなければならないので、こういうときに物語設計がだいじになってくるのかな、と痛感しつつある。でもそのためにはキャラクターを増やさなきゃなので、物語を圧縮するうえでは、説明文だけでの進行も許容せざるを得ないのかな、と言い訳をしつつ、けっきょく直す気はないのだった。



2664:【挫折が好きなのかもしれない】

挫折ばかりだ。もうすでに歴史の本を読まなくってしまった。去年はたしか医学や統計の本を読みたいとか言っていた気がするけれど、けっきょく一冊も読まなかったし、その前はまいにち絵を描くとかここで宣言した気もするけれどそれもすぐにやめてしまった。基本的に三日坊主だし、根気がない。根性なしだ。まったくもう、まったくまったく。



2665:【きぶんは秒で変わる】

あー、やさしいひとになりたいし、やさしいひとにあまえたいし、やさしいひとになじられたい。いますごくそういうきぶん。



2666:【残念だったねぇ】

そういう気分になる人は優しくないと思うよ。まんちゃんのそれはただの甘え。それか怠け。



2667:【美談ではない】

たとえば、世界的な災害の影響でこれまで放置されてきた社会的な問題が、微視的巨視的にかかわらず、大きく改善に向かったとして、それはけして災害のお陰ではなく、ましてや好機でも希望でもない。結果論としては怪我の功名に見えるかもしれないが、ハッキリ言ってしまえば、人類の知性の敗北と言ってよい。災害という回避不能な世界的な脅威のチカラを借りなければ、暗黙の戦争状態から脱することもできないような知性しか人類にはなかったのだとの傍証が示されたと考えるほうがより正確な解釈だろう。よくもわるくも、社会の在り方が変わろうとしている。もちろんそれに抵抗する者もあるだろうし、そうした摩擦は、議論を慎重に進めるうえで不可欠だ。とはいえ、これまで多く関心の向けられてこなかった問題に焦点があてられるようになってきており、この流れはしばらくのあいだ拡大していく、と想像できる(つまりそれだけ長い期間、議論せざるをえない状況がつづくのではないか、との見立てである)。だが、本来であればそれら隘路はもっと以前から、人類の知性で回避可能な問題であったはずだ。この点は過去を振り返り、よくよく吟味されたい。誰がわるいという話ではない。かねてより問題を指摘してきた者たちとて、けっきょくは是正できなかったのだ。知性が足りなかった点ではみな五十歩百歩と言える。正論だけではひとは動かない。しかし、ひとを説得し、或いはそうすべきだと自発的に動いてもらうようにするためには、理屈が必要だ。知性が、必要なのだ。そのためには自由にものを考えるための基盤が不可欠であり、その前提として、衣食住に悩まずにすむ生活があると好ましい。世界中が、いっせいのせいで、で戦争をやめ、足の引っ張り合いから抜けだし、ひとつの問題解決に取り組むとき、必然的に何を優先すべきかが顕わとなる。だがそれは、災害が訪れる以前から自明のものとして、誰もが考えつきうる単純な理屈としてそこここに顕現していた。ときにそれは歌として、或いは劇として、漫画、映画、音楽、舞踏、文芸、絵画、イラスト、ゲーム、スポーツ、芸術創作表現――どんな疑問であれ因果の筋道を突き詰めていけば、いずれ体系として大樹を育み、学問として結晶する。文明の礎とはいったい何であろう。文明の発展を促してきたものとはいったい何であっただろう。それら何かは、果たして競争や資本であったろうか。むろん、どんな種であれ、水や養分、(そして光)、ときには剪定が入り用だ。そうは言っても、まずは種子がなくてははじまらず、それら種子を育む土壌が不可欠だ。何を優先すべきかは、歴史を紐解くまでもなく自明ではなかろうか。各々が自由にものを考えることのできる日々こそを、そしてそうした日々を保障するシステムこそをまず、我々は求め、耕し、開拓していくことを優先していくほうが好ましいのではないだろうか。それともやはり、ここまできても、ならざるべきなのか。(芸術や創作を神聖視しているわけではありません。技術が高まり、労働が楽になった分は、空いた余白に新しい仕事を詰めるのではなく、そのまま日々の余暇にまわしませんか、ものを考える――ときに遊ぶ――時間にまわしませんか、との願望です。他国との経済競争を考慮せずに済むのなら、能率を考えずに生産性を高めることは充分できるはずです。人件費をかけながら、余裕のある仕組みを築いていけるとなまけていられてよいのにな)(義務教育すらろくに習得していない、つまりテストを受けてもまず十パーセントも解けないだろうあんぽんたんの並べる文章ですので、真に受けないように注意してください)



2668:【利口ぶっても愚かさが際立つだけ】

いくひしさん、いくひしさん。そういうのはもういいので、もっと楽しいのをお願いします。物語だとうれしいなぁ。



2669:【がうがう】

う、う、う、うるせ~~~~~~。



2670:【日記】

きょうは公園に散歩をしに行った。行きは晴れていたのに、帰るころには曇りに、そして家に着くころには雷雨となってごろごろこわかった。紅茶のティパックを買ってくるのを忘れて、きょうはもうだめだぁ、となってしまったので、もうだめです。紅茶の代わりにノンカフェインのインスタントコーヒーを飲んでいるけれども、分量を間違っちゃったかも。いま思ったけど私はたぶんノンカフェインとかノンシュガーとかノンアルコールとか、とりあえず「ノン」ってつけとけ、みたいなのにあまりよい印象を覚えていないかもしれない。きっと前世でペットを殺されたのだ。ノンめ。ゆるさん。ここ数日、お菓子ばっかりを食べている。とくに理由はない。でもノンシュガーではないので、摂った分の糖質は消費しないかぎり身体に蓄積されていく。働き者の細胞たちだ。私も見習いたい。で、その働き者の細胞のおかげでいまは、ほら、ね? おなかがもうもう、ぷにょぷにょで、かわいくなってしまった。これ以上かわいくなってしまうとそとを出歩くだけでスカウトされてしまうので、そうするとアイドルにならきゃだし、たいへんそうなので、かわいくならないように、すこしだけお菓子を我慢することにする。これ以上おなかぷにょぷにょになってしまったら、いま活躍中のアイドルのコたちがかわいそうだから。お仕事を奪ってしまわないように気をつけなきゃだ。




※日々、じぶんのきもちがわからない、じぶんのことがわからない。



2671:【ワンコそばにいる2巻】

路田行(ろたいこ)さんのマンガ「ワンコそばにいる2巻」を買ってきました。書店さんに一冊だけ残っていて、よかったあった、と思ってかっさらってきました。いまいちばん手元にほしいマンガで、いわゆるいくひしさんイチオシのマンガとなっております。ワンコそばにいる、はろたいこさん初の単行本で、以前からSNSでろたいこさんの過去作を読んでいたイチ読者からすると、じつのところしょうじきな旨を打ち明けてしまえば、第一話を読んだときに、なぜこれなのだぁ、といったGOサインをだした担当編集者や編集部にぷんぷんしたきもちが湧きあがったものです。犬の魂が宿ってしまった二重人格じみた青年と孤独な女性のドタバタな物語なのですが、これを世に問うくらいなら、これまでのろたいこさんの短編をまとめて一冊にしてちょうだいよ、とパーカーのヒモをひっぱって頭からすっぽり梅干しみたいになってしまったのもいまではよい思い出です。いまはそんな過去などなかったかのように、ろたいこさんの驚異的な作家性とでも言いましょうか、たいへん楽しく何度も読み返しておりまして、作者のろたいこさんはもちろん、担当編集者さまや編集部さまには、よくぞよくぞ、と感謝感激あめあられでございます。SNSの感想で、ジャンルはラブコメだと書かれていたのを見て、ああこれはラブコメだったのか、と目からうろこが落ちるほどで(帯にも書いてあったみたいですね、いくひしさんは帯をすぐに本に挟んでしまうひとなので)、なるほどいくひしさんは本作をラブコメとして見做していなくて、ただただ主人公の咲山さんやスミタくんやほか登場人物たちが魅力的で、ころころ変わる感情のジェットコースターを眺めているだけで楽しいのです。あと、コマとコマとの飛躍の妙がすばらしく、とてもとてもすばらしく、文学だなぁ、とお手本にしたい技術がてんこもりな点も高評価な理由の一つです。「コミカル」なのはたしかにそうなのですが、ではこれが「コメディ」なのかというと、いくひしさんはこてんと小首をかしげてしまいます。もちろん声をあげて笑ってしまう箇所もすくなくないですし、おもしろいのはたしかなのですが、それよりもなんというか、コミカルでいてかわゆいのです。そう、かわゆい。もうこれがいちばんだいじな気がします。路田行(ろたいこ)さんのマンガは総じてかわゆいのです。愛らしい。手元に置いて、よちよちしたい。人間が愛おしく思えてくる、ふしぎなほどに! いくひしさんがいまもっとも手元に置いておきたいマンガは、「ワンコそばにいる」です。というよりも、ろたいこさんという作家さんの作家性にめろめろでございます。それからそれから、これがだいじなのですが、どうか出版社さんはこれまでのろたいこさんの短編を一冊か二冊か、もうなんでもよいので全部まとめて本にしてくださると、とてもとても、うんとうれしいかぎりでございます。よろしくおねがいいたします! なんてここに並べても誰も読んでないのであまり意味がないのだけれど。(以下、ろたいこさんのツイッターです:https://twitter.com/rotaico)



2672:【2020/04/10雑感】

公園に散歩、今日も行った。お日さまてんてんの日だったのに風さんびゅーびゅーで寒かった。男の子と女の子の二人一組のひとたちがいつもより多くて、いくひしさんの行きつけのベンチのある空間がすこしだけいつもより賑やかだった。肩を寄せ合ってきゃっきゃうふふしている男女二人一組の姿を眺めながらパンを齧っていると、まん丸ふかふかのスズメさんたちが集まってきて、いくひしさんってばモテモテで困っちゃうなぁ、をした。でもいくひしさんはけちんぼなのでパンを独りでたいらげた。なんでぇい、とでも言いたげにスズメさんたちはそそくさと飛び去っていったのだった。肌寒い日だからなのかこれまででいちばんグランドにひとの姿がなく、心なし犬の散歩をしているひとたちの姿もすくなかった。自動車も気持ちすくなめに見えたけれども、帰るころには増えていて、電車やバスのなかにはあまりひとの姿が見えなかったので、やっぱり自動車を利用するひとが増えているのかな、と思った。あと、子どもたちはけっこう寄ってくるのに(威嚇して追い払うけれども)、おとなたちはいくひしさんを避ける傾向にあるな、と思った。気のせいじゃろか。肌寒いからなのか、コンビニはどこも扉を閉じていて、あべこべに着物屋さんや書店さんは扉を常時開放するようになっていた。あとはそう、たとえばだけども、これからの季節は、大雨や台風が増えてくる時期なので、もしそういう災害が起こったら例年よりもたいへんそうだなって。避難所だとか、非常食だとか、もちろん医療機関も、不測の事態に対処できるのか、その余裕をこれからつくっていけるのか、やや不安があるけれども、いくひしさんがどれだけ、うーん、うーん、としても何かが変わるわけではないので、それでいていくひしさんはいまのところ困ってはいないので、まあなんというか、世のなか不公平なのだなぁ、といま踏ん張っているひとたちや、これまでずっと人知れず耐えてきたひとたちに対して、漠然とした申しわけない気持ちを抱いてしまう。ただ、こうして申しわけない気持ちになることで、罪悪感を覚えることで、これにて帳消しにしてください、といった打算がまったくないとも言い切れないので、ほとほといくひしさんは人としてよろしくないなぁ、とまた卑下をして、心の安定を図るいくひしさんはやっぱり姑息で、非力で、益体なしの、考えぬ葦なのだなぁ。寝よ。



2673:【とはいえ】

いくひしさんはこのさき生きているかぎり高確率でたいへんな目に遭うと確定的なので、それでもって釣り合いがとれていると思って勘弁してほしい(人はいずれ死ぬ、みたいな考え方だなぁ。極端)。



2674:【カット】

きょうは散歩はナシや! 甘くておいちーいスイーツ、それは梨や! きょうはなんだか寒いので家でごろごろする日にする。さいきんはもうなんもしたくないので、なんもしてない。息もしてない。水も飲まない。さすがにそれは嘘やろ~と思ったでしょ。これがまあ、嘘なんだな。そりゃそうだ、当然だ、あまりに並べることないからってくだらん真似すんな、小賢しいわ横着すんなヒマワリ。読むひとが不快になるような口汚い言葉を並べるのはあんまりなんかこうなんて言うかな、はぁ、疲れた。うんまあそうね、言葉は人格に影響するなんて言いますから、ときおりお花の名前でも挿入してバランスをとってスミレ。子どもでも読める数学の雑学みたいなクイズみたいな本をパラパラとめくっているのだけれど、てんでわからんかんぷんで、いくひしさんの知能のお里が知れてしまいますな。コサインってなんだっけ。微分? 積分? いい気分? それはセブンイレブンやろ、どっ! てな具合にぐぅ垂れております。ぐぅは垂れるくらいなのだからきっと液体なのだろうね。なんとなくだけどネバネバしてそう。で、ぐぅぐぅになるとすこしだけトロミが薄れて、さらにそこからスヤスヤになるとさらさら透明な水になるみたいたなこんな妄想ばっかり浮かべてるだけで一日が過ぎていく生活、あまりにも贅沢すぎん? ぜんぜん関係ないけど、散歩すると雲を眺めちゃうんだけど、あのゆったりと巨大なモワモワが刻々とちまちまとカタチを変えていく姿がすごくなんだろう、脳の内側からじわぁと痺れるような感覚が湧いてくるの、そうそう木々が風に揺れて、葉や枝の細かな動きが全体の挙動を総体としてかたちづくっているのを、ぼぅっと眺めてるときにも似たような脳汁じわぁ、がある。あれ、一瞬じぶんの存在が消えてなくなる感じがして気持ちいい。お風呂に浸かったときに身体が溶けてなくなる感じにも似てるけど、それよりもっと、じわぁ、が薄くて、抵抗がなくて、世界と身体の輪郭の境がなくなっていく感じがして、やっぱり気持ちよい。でも意識してそうなろうとしてもなれないのが、なんでだろうっていつも思う。雲を見よう、木々を見よう、と思うのではなく、なんとなく目がいって、気づくとなってるのがよいというか、そうでないとならない。あの感覚、解かるひといるかな、と思って並べてみたけど、危ないひとみたいに読めちゃわない、だいじょうぶ? 一時期、飛蚊症もじぶんだけに見える危ないやつだと思って、びくびくしていた時期があったけど、案外みな視ている世界、体験している経験って同じなのかもしれないな。たんぽぽ、薔薇、チューリップ。違いのほうがすくないのだ。バナナ、リンゴ、スクワット。それは果物だし、最後ただの筋トレやん。わざとらしい、やめい。きょうはオチはなしや。これがホントのオチカット(それを言うならマスカット)。



2675:【バックアップ】

急速に社会は情報通信技術(ITインフラ)に依存するようになっていくと想像できる。ただ、それはそれでセキュリティやバックアップの面を同時に強化していかなければ不測の事態が起こるたびに社会システムが大きく揺らぐため、言い換えれば大停電や大規模通信障害が起こったときに、社会はいともたやすく経済を停滞させてしまうので、電波を介さない類の経済活動もまたバックアップの意味合いで淘汰しすぎないようにしていく方策は、これは都市設計の意味合いで不可欠な視点に思える。そもそもを言えば、いくひしさんは社会に電波通信が溢れれば溢れるほど、気候変動が進むと妄想している。これは因果関係というよりも相関関係で、つまり電波通信技術は発展すればするほど莫大なエネルギィを必要とするし、それを熱として放出してしまうだろうから、やはり気候変動は促される方向に進むのではないか、と疑問に思っている。もうすこし言えば、二酸化炭素やメタンなどの温室効果ガスを削減できたとしても、熱そのものが指数関数的に通信機器から放出されるようになるので、いま行っている温室効果ガス対策は効果がないわけではないが、解決策としては不十分に思える。ほかにも、資源問題とも相関しているだろうから、原発を廃止できたとしても、やはり何かしら新たに問題が生じるように思えてならない。おそらくそうなるだろう。たとえば一般家庭向けに販売された太陽光発電も、いまでは発電装置のメンテナンスや取り換えにお金がかかり、そもそもそれを行う業者が事業から撤退していて、にっちもさっちもいっていないという話を耳にする。また、太陽光発電は太陽光エネルギィに対する電力変換効率が低く、またその素材の廃棄物が土壌を汚染するとも聞いたことがある。もちろん技術が発展していけばそれら諸問題を解決することは可能だろうし、電力変換効率に関しては目覚ましい進展が報告されているといった記事も目にする。とはいえ、やはり一朝一夕とはいかず、どんな技術であれ、それを社会の基盤に組みこむには、原子力発電に対する懸念や議論と同じくらいの慎重さがあっても損はない気がしている。何にせよ、一つの手段に依存するのではなく、代替案を同時進行させる余裕があるうちに、いろいろと手探りで試行錯誤していくしかないのだろう。特定の分野や企業だけを支援したり、一番になることだけが何よりも優先されるといった価値観は、それはそれで競争原理の有効性があるにしても、それだけに頼るのは、破滅の道につづいていると言えるのではないだろうか。一番になることと何かを新たに生むことは、双方共に価値があり、比べられるようなものではなく、ゆえにどちらも社会の発展には不可欠であり、それら土壌を耕していかねばならないのだろう。とはいえ、社会が発展しないと困るのは次世代を生きる者たちであるので、いまを生きる者たちにとっては、いまさえよければそれでよいのだろうね。そうは言っても、その「いま」の在り方がよくなかったのかも、と可視化されつつあるので、なんともはや、知らぬが仏の社会だったのだ。それはそれでやっていけたのだし、発展してきたのもたしかなので、よい点はよい点として評価していきたいけれども、それにしたってもっとよくできるはず。そうじゃない?



2676:【あーだこーだ】

人生をゲームとして捉えれば、他人を責めることも、他人を蹴落とすことも、出し抜くことも、騙すことも、虐げることも、ぜんぶ駆け引きとして解釈できるので、あまり気を病まずに済むのだろうけれど(つまりどんどん攻撃の手を間接的にして、因果関係をぼやかして、それでいて邪魔者を排除できれば勝てる確率があがるので)、人生をたったひとつのかけがえのないもの、宝物、のようなものとして捉えてしまうと、他者の宝物を傷つけないように、との自制が働くので、人生を尊いものとして考えれば考えるほどに、たぶん、誰かの何かに作用し、損なうことに臆病になってしまうのだろうね。でもというか、だからこそというか、ゲーム感覚のさきに待ち受けるのは殺し合いだし、戦争なのだよね。ゲームは何度もやり直しのきくことだけにしておきたいものだ。(勝ちつづける者だけが何度もやり直せてしまうバグが生じるので、この理屈もあまり説得力はないのだけれどね。要するに、殺されても文句は言うなよ、の世界になってしまうのだ。殺伐)。(言い換えるなら、ゲームとは、何度でもやり直せる仕組みを揃えた闘争の舞台と言えよう)(いま思いついたのだけれど、むかしからゲームが苦手で、それはルールを守るのが苦手だからだと思っていた。ひょっとしたらそれは、勝てばいいのだから相手を殺せばそれがいちばん手っ取りばやくない?とどうしても考えてしまう己が浅薄ゆえからかもしれないと気づいて、じぶんでじぶんに失望してしまった。ねえ気づいて、人を殺しても勝ったことにはならないって)(ああでも、究極的には生存競争には勝っているわけだから、それもまたある一面では勝ちなのだ。ただ、人生はゲームではないので、単に人殺しでしかないのだけれど。人を殺すまではいかないにしても、そういう命のやりとり、人生のやりとり、いちどきりの闘争って、世のなかにすくなくない気がしませんか? するならせめてゲームの上だけにしましょう。すくなくとも人生はゲームではないので。たとえゲームと解釈することができたとしてもね。解釈は解釈であって事象それそのものではないもの)(多様性の視点はどこに行ったのですか?)(ゲーム感覚で人生を謳歌する者ほど勝者になりやすいけれど、同時に加速度的に淘汰圧が加わるので、裾野は狭まり、あべこべにゲーム感覚でない相互幇助の精神で生きている者たちのぬるい舞台が広がりつづけ、一部の勝者よりもその影響力を増したとき、ゲーム感覚で生きていた者たちは、己がゲームの理屈に食い殺される。まっさらな平原には束の間の平穏がもたらされるが、そこに一匹でも狼がまぎれこめば、ふたたびゲーム感覚で他者を食い物とする者たちが強者の顔をして狩りをはじめる。じぶんが狩られつづけるまで、じぶんでじぶんの首を絞めるまで、それはつづき、さらにいずれの舞台ともが消えるまで、この繰り返しは、さざなみのごとく反復するのだろう。この不毛、どうにかできないものでしょうか)



2677:【直したらよくなる、は幻想】

ここ数日で、二名の小説家さんの「初稿」と「改稿後」の文章を目にする機会が(主にSNSで)あった。いくひしさんの目がおかしいだけなのだろうけれど、どちらとも「初稿」のほうがおもしろく読めてしまい、あれー、と眉間にしわが寄ってしまった。これはいくひしさんの感覚でしかないのだけれど、全部書き直してしまったら、何も直してないのと一緒だと思う(これに気づくのに数年を要した)。また、通常は改稿した場合、元の文章よりも文字数はすくなくなるはずだ。そう、書き直すくらいなら削るほうにチカラを入れたほうがよい気がするのだけれど、小説つくるのがドヘタクソないくひしさんが言っても説得力がないので、各々、やりたいようにやっていくのが一番なのだろう。でも、初稿のチカラを舐めないほうがよいと思う。書き直すのなら、それこそ物語の筋から練り直すくらいでないと全文を直す意味がない気がするが、いかがだろう(気がするだけなので実際のところがどうなのかは分からない。時と場合によるのかな)。(直してよくなることもあるし、ならないときもある、くらいが妥当な考えではないでしょうか)



2678:【食い意地】

きょうは雨がぴんぴんの日だった。いつもより気持ちつよめに料理しよっかなと思って材料何かあるかな、と漁っていたら、ジャガイモの詰まった段ボールがでてきて、というか段ボールを覗いたらジャガイモが詰まっていたのだけれど、ジャガイモからはどれも芽がでていて、その芽がなんともイソギンチャクじみていて、触手じみていて、なんだかとっても不気味で、いやーーー! となってしまった。洗いがてら指で芽をボロボロとっていったら、けっこう感触がよくて、独りでおもしろくなっちゃった。ジャガイモと玉ねぎとソーセージを炒めて、チーズをかけて、ごはんといっしょに食べるをした。味付けは胡椒だけだったけれども美味しかった。さいきん夜中に、バターとハチミツたぁーぷりのホットケーキを食べてしまっているので、贅沢な日々だ。身体を鍛えたほうがよいかと思って腹筋をしようとしたのに、背中を床につけて、ころんとなったらもう身動きがとれなくなってしまって、そのまま膝を抱えてゆりかごゴッコをした。けっこうそれだけでもぜぇぜぇ息があがったので、ホットケーキの分はこれにて相殺したことにする。



2679:【ぐでぐで】

雨つづきなので公園に寄るのはナシや! カレーにぴったりのモチモチぺったんこ、それはナンや! あしたこそは公園に行きたい。じつを言うと、いくひしさん、こう見えてアウトドア派なんですよ。引きこもりではあるのじゃが、アウトドア派なんでございますよ。ちいちゃいころはよくどんぐり拾ってた。トカゲ見て、うぎゃー、してた。カエル触って泣いてた。犬に追いかけられておちっこちびってた。おそと、サイアクだよね。引きこもって正解だと思う。アウトドア派というか、アウト!ドア派!でございまして、まあまあドアのあるところじゃなきゃイヤじゃイヤじゃ、おそと? てやんでぇい! みたいなね。きのうは腹筋九百回やって腕立て伏せ二百回やった。うそでした。もはや何回やったらすごいのかすら分からなくて、腹筋と腕立て伏せ、どっちがキツいのかもよく分からん。気持ち、腹筋のほうが楽に思える。床に転がってごろごろしてればええんやろ。え、ちがう? ちがっちゃたかー、まあいっか。ホットケーキにミカンの果肉をどっさり入れて焼いて、ハチミツたぁーっぷりの代わりに練乳たぁーっぷりかけたらおいちかった。きょうはバナナ入れちゃおー(白目剥いてる絵文字)。



2680:【目がぱちー】

文章楽しく読めなくなってた期間が終わって、きょうから読書楽しい期間に入ったので、また楽しんじゃう(楽しんじゃうは、楽に死んじゃうの略ではない)。




※日々、現実はまるで洪水で、つぎからつぎに取りこぼす。



2681:【というキャラ設定】

正直ね、正直言うと、キャラつくるの飽きてきた。僕ホントはこんなんじゃないんすよ。



2682:【四人で回してます】

私だってこんなんじゃないし、ていうかそろそろ一人で活動してますって設定やめたら? ムリない? ね。



2683:【慌ててるフリ】

わー! わー! なーんちゃって味噌です!!!



2684:【怒ってないよ】

クソ寒いからやめてくんない。結構本気てか割とマジで。



2685:【やかましい】

もっとやさしくがいい! こわいのやだ、ごめんなさいするからヨシヨシしてがいい!(電話でるときのやつ)(それはモシモシ)(いまの若い子それ言わんらしいよ)(えー!!!)



2686【失礼だからじゃない?】

なにかおもしろいことを並べたいのだけれど、いくひしさんは生きてきてこのかたおもしろいことを並べたことがないので、いかんともしがたい。んー。なんじゃろな。チャップリンの映画を観たらいいんじゃないかな。あ、あと! 好きなお歌を聴くのがよいと思う。いくひしさんはいま、とてもお気に入りの歌い手さんを発見してしまって、ツイキャスなるもので聴けるんじゃけど、暇さえあれば聴いています。ギターがおじょうずで、お声がお耳にやさしい方なのです。でも、たぶんあまりいくひしさんはこころよく思われていないので(と思いこんでいる時点でその方にとっていくひしさんがプラスの人物ではないことはたしかでしょう)、ズバリこの人です、とおすすめできないジレンマがあります。その歌い手さんは絵描きさんでもあってとてもすごく、多才な方なのです。有名ではないのですけれども、いくひしさんにとっては有名な音楽家の方々よりもいまはその方のお歌とおしゃべりをお耳にしゅるしゅるビーズ遊びみたいに通すのが日々の癒しの一つとなっております。その歌い手さんのオリジナルのお歌もとても好きだったのですが、気づいたら消えていました。いくひしさんのせいかもしれません。いっぱい聴きすぎちゃったかも。無言で聴きすぎちゃったかも。いくひしさんの好きすぎる気持ちが伝わっちゃったのかな、怖かったのかな、気持ちわるかったのかなぁっておい。否定できないからやめてくれ。よくある、よくあるー、じゃない。や、そう、よくあるんだよ、なんでかさ。そうそう、むかしからなんだけど、好きなひとに嫌われるんだよね。好かれないの。好きなひととほど距離があく。なんじゃろねこの呪い。え? 好きじゃないひとたちからも嫌われてる? ウッセー!!!



2687:【2020/04/15雑感】

公園に行った。バスのなかに人が乗るようになっていて、座席はだいたい埋まって見えた。電車も似たようなもので、立っている人が遠くからでもちらほら見えるくらいには乗車率が戻りつつあるようだ(立っているひとがいるのだから、座っているひとはもっといるだろうとの推測)。相関関係だろうけれども、日中の交通量はけっこう減った。夕方はさすがにもうすこし増える。ただ、これが季節や曜日の変化によるものか、それともほかの因子によるものかの判断はつかない。公園内では大学生くらいの若者たちの姿を見掛ける機会が減り、子どもたちの集団や子ども連れの女性の姿が多い。朝からぽかぽか陽気だったからか、グラウンドで遊ぶ子どもたちはこれまでで一番多かったかもしれない(大学生くらいの若者たちが減ったので、トータルでは減少している)。敷地面積に対して人数は少なく、マダラと言える。これまでを通して、シートを敷いて談笑しているのは若い女性に多いが、これも今日は一組しか見なかった。赤ちゃん連れの母親の姿が今日は一番多かった。お昼ならもっと多いのかもしれない。父親母親関係なく、親子で遊んでいる姿もまた増加傾向にある。これも季節柄かもしれないし、そうじゃないのかもしれない。帰路では、年配者の歩行者が増えたように感じた。交通機関を使わずに徒歩を選択するひとが増えたのかもしれないし、きょうに限った傾向かもしれない。道すがら目につくコンビニの駐車場はどれも満杯にちかかった。やっぱり自動車で移動するひとが増えたのかもしれない。田舎だからかな。飲食店の席は、そとから見える範囲から言えば六割方埋まっていた。これもここ数週間のなかでは多いほうだ。書店さんに寄ったら、これまで置いていなかったアルコール消毒のシュッシュが出入り口付近に設置されていた。手に振りかけようとしたら中身が空っぽだった。空になったら出しっぱなしにしないで仕舞ってしまったほうがよいと思う(お客さんの手形を幾重にも濃縮してさらに拡散しているだけなのでは?)。何だったら店頭に出さずともよい気がする。各自が手洗いを習慣づけるだけで充分なのではないだろうか(消毒液にしろマスクにしろ、予防全般に通じる話だが、そもそも体調不良でないひとならば、人混みに出向かないことと、手洗い、の二つを徹底するだけで充分な気がする。もっとも、マスクにしろ消毒液にしろ、それを身に着けることで安心できるのなら、それを生活に取り入れるのはそれなりに有効ではあるだろう。不安から体調を崩しては元も子もない。ただし、いまは医療機関に優先して供給したいのだろうから、使えば使うほど品不足に加担してしまっている実情は知っておいても損はないのではないか。また、危機感が足りないように見えるからといって、他人の行動を責めてもしょうがない。じぶんが予防をしっかりすればそれで充分だ。他人には他人の生活がある。過剰に恐怖を煽って他人の行動を制限しようとするのは、たとえその結果が好ましく映っても悪手だとの考えは持っていたほうがじぶんにとっても得となるはずだ。もちろん時と場合によっては、悪手だと判っていてもせざるを得なくなる局面もあるのだろう。そうならないように前以って行動を修正しておきたいものだ。いくひしさんが言えた口ではまったくないのだけれどね)。(雑感ですので何かの判断基準にはしないでください)



2688:【どうしてそんなにお声が大きいの?】

たとえば声が聞こえにくい人に言葉を伝えるとして、目のまえにほかの人がたくさんいるにもかかわらず拡声器を使って叫んでしまえば、たとえ声の聞こえにくい人に声が届いても、ほかの大多数の人たちは耳を塞いでしまう。その効果を期待して拡声器を使うのならよいけれど、そうでないのなら、声を大きくする利はそれほどないと言える。サイレンであるなら大音量であるほうが効果は高いが、だとしたら個人ではなく然るべき機関がその役割を担うほうが望ましい。情報の出し方がふにゃふにゃだったり、ギシャギシャだったりすると、やはりというべきか、声の聞こえにくい人に情報をハッキリ届けようとして善意から大声を出したくなるものなのかもしれない。(声の聞こえにくい人を揶揄する意図はありませんが、不適切な比喩になっているかもしれません。不快になられた方がいらっしゃいましたら、すみません。書き手の語彙力不足です)



2689:【気長にいきましょう】

しばらくしたらまた元の社会に戻るだろう、と思っているひとたちがすくなくないのでしょうか(数年待てばいいという話ではないはず。戻すのではなく、「いま」を基準に社会を適応させていくほうが合理的なのでは?)。もっと悲観的に考えておいたほうがよい気がします。とくに政府や世界機構(現在ある国際機構ではなく、これから発足されていくだろう機構を示す意味合いで、世界機構と記しておきますが)は、もっと最悪の事態を想定して、そうならないように外枠からの対策も(即時対応と同時に)打っていくのが最善手のように思います。とはいえマクロとミクロとでは考慮すべきリスクの桁が違ってきますので(どちらも突き詰めればじぶんの命が脅かされ兼ねない点では同じですが)、ここでは個々人の行動選択に限定して言及しましょう。何がよくて、何をすべきではないか。人混みに出向かないことはそうですが、では外出したらいけないのでしょうか。行き過ぎた禁止は他者の生活を抑圧します。都会などの人口密集地と地方の過疎地とでは、行動制限範囲が著しく異なるでしょう。他人と接触しないのであれば、外出制限を設ける必要がそもそもありません。極端な話、南極大陸で一人暮らしをしているひとはいくらでも外出して構わないわけです。「何を避けるべきか」は環境の差異にかかわらず共通しますが、行動選択の幅は大きく違ってきます。赤信号を渡るな、は共通のルールにできますが、信号機のない場所では守る道理がありません。ポストが赤いからといって立ち止まらずともよいのです(あべこべに信号機がないからといって自動車のまえに飛びだせば事故に遭う確率はあがるでしょう。信号機がなくとも左右の確認くらいはしたほうがよさそうですね)。また、行動の判断基準には緊急性が加わります。たとえば医療従事者とそうでない人物との行動選択の幅は自ずと違ってくるでしょう。言葉だけで判断せずに、なぜそれが制限されているのかを考えて、各々じぶんの行動の幅をそのつど判断していけるようになるとよいですね。いくらでも修正していけばよいのです。というよりも自ずと、そのような社会になっていくでしょう。ともあれ、どんな場合であっても法律上は、自由に歩き回ってよいはずです。ただ、自由に歩き回ってほしくないときに自由気ままに歩き回るひとが多すぎると、なんとかしてくれ、との声が高まって、出歩くな、との禁止を国がだせるようになってしまうかもしれません。禁止はなるべくすくないほうが窮屈でなくて好ましい気がします。(本文とは関係ないのですが、いくひしさんがたまに並べる「公園行ってきた」の文字を目にして、不快な気持ちになるようなら、けっこうにストレスが溜まってきていると思いますので、しばらくインターネットから離れて、好きな音楽でも聴きながら居眠りをするとよいのではないでしょうか)(あんぽんたんの戯言ですので真に受けないように注意してください。2020年4月15日のいくひしまんでした)



2690:【鍛練ではなく】

積み木遊びとか、粘土遊びとか、お絵描きとか、ブランコとか、いまはそういうのがしたいかも。




※日々、何も積み重ねず浪費する、浪費するものすらすでにないのに、そんなことにも気づかずに。



2691:【大発見】

どんな文章のあとにも「そんなことにも気づかずに」ってつけると、すごく詩的になる。例文「ゴリラはバナナをめっちゃ食う、そんなことにも気づかずに」「お湯に浸かるとはぁ~ってなる、そんなことにも気づかずに」「立ち止まると進まない、そんなことにも気づかずに」「エスカレーターは進むけど? そんなことにも気づかずに」んー、やっぱりそうでもないかも。



2692:【知らんかった】

野生のゴリラはバナナ食べないらしい……。というか、ゴリラの住む場所にバナナがそもそもないらしい。人間の食べるバナナはいろいろ栄養価がすごいので、ゴリラやサルには与えないほうがいいともネットに書いてあった。そうなんだ。キツネはコンコン鳴かない以来の衝撃かもしれない。インターネットさんは物知りや。



2693:【じゃ】

ちょっと五分だけ仮眠、のベッドにころんてんしたらすっかり夜になってた。公園には行けなかった。あしたは雨なのであしたもナシじゃ。動物が歩くためにつかう器官、それはアシじゃ。知能指数がグングン下がっているのを感じるきょうこのごろじゃが、知能指数がグングン下がっていなかったころがあったのかと小一時間問い詰められたら下唇ぎゅーのカタツムリになってしまう。問い詰めてくれるひとがいないのが救いじゃな。救いかな? 救いじゃ、救いじゃ。



2694:【水の量によるのでは?】

おうおう、ずいぶん猫被りが板についてきたじゃねぇかいくひしさんよ。でもそう、たとえば海ってぇのは潮が引けば引くほどゴミが海底に目立つよな、いくひし、おめぇのそれも似たようなもんじゃねぇのか。泥を水で薄めたところで砂利は砂利でそのままだ、消えるわけじゃねぇし、却って目立つだけなんじゃねぇの。知らんけど。



2695:【やめたげなよ】

せいいっぱいなんだよ、いっしょうけんめいなんだよ、まんちゃんのそういう無駄な努力を笑うのはよくないと思う。あ、ごめん無駄って言っちゃった、違う違くて、なぁー傷ついちゃったよね、いまのはよくなかったうちがわるい、いくらなんでも本当のこと言ったらよくないよね。ごめんね。でも悪気はなくってさ。



2696:【どゆこと?】

それはえっとー、泣いてもいいってこと?



2697:【寄生ちゅう】

文章を並べているときだけ、妄想しているときだけ、何かをこねくりまわしているあいだだけ、じぶんの肉体から離れていられる。忘れていられる。忘れたいのだ。じぶんが何でできていて、いったい何に宿ってしまっているのかを。



2698:【2020/04/17雑感】

病床を増やしても意味がない、ということはないだろう。ただし、いまの医療従事者数のままで病床を増やしても、一人あたりの仕事量が増えるだけなので、負担にしかならないとは思う。時間をかけて国の福祉そのものを充実させていくしかないのでは?(日ごろから誰もが気軽に医療機関に罹れる仕組みでないと、医療機関はどんどん縮小していく)。いますぐどうこうはできない。最も避けるべきリスクと、妥協せざるを得ないリスクとを判断し、リスクを分散して負っていくしかいまのところの方針はないと言える。それでも人口密度の高い場所で仕事をつづけるしかない人たちはたいへんだ(リスクが高いというよりも、予防策によって仕事量や負担が増えてしまうことがたいへんそう。もちろん心理面でも負担は増すだろう)。労う気持ちや支援はあったほうがよいのは当然として、今後そうした事態に陥らない仕組みを国民はみなで考え、築いていくほうが、いっときの感動や感傷――つまるところ祈り、で終わらせるよりも前向きな態度と言えそうだ。(主語すら曖昧なあんぽんたんの妄想ですので、何かの判断材料にはしないでください)



2699:【2020/04/18雑感】

(飽くまで雑感です。正しくないと思ってお読みください) 危機感と恐怖心は同義ではない。SNSを眺めているとみな過剰に恐怖を抱きすぎに思える(大御所作家ですらなんだか恐怖を煽っていて、それでいいのですか、と思ってしまう。悪循環を助長したいのだろうか)。楽観視してもよい、と言っているのではない。予防は必要だ。いまのままでは状況は悪化の一途を辿ることは理解しているが、そのことと間違った知識を前提として恐怖を煽ってもよいことはイコールとはならない(いましばらくはどうしようもないのだ)。人混みに出向かないことと、手洗いを徹底することさえできていれば及第点だ。日常生活においては現状、人と接近せず、手洗い前の汚れた手や指を粘膜(つまり口や目)に接触させなければリスクはそれ以上あがらない(ここにほかの対策を加えたところで日常生活を送るうえではリスクの高さはあまり変わらない、と言い換えてもよい)。手や服にいくら汚れが付着しようが、それを口に運ばなければそれで構わないのだ。汚れることそのものがいけないのではない。マスクや消毒液にしたところで本来は体調がわるくないひとたちは使わずとも、リスクの増減にはあまり関与しないはずだ(人混みに出向く場合は、しないよりかはしたほうが好ましいが、マスクをしなければならない状況に立つことがそもそも予防の観点からして間違っていると言えるのでは?)。マスクをするしないよりも、対面でひととしゃべらないことのほうが重要だし、人と接触しないことのほうが優先される。もちろん引きこもっていられるひとは引きこもっていればよいが、そうできないひとたちだってすくなからずいるだろう。極端な話、誰もがしゃべらず、物理的に肌と肌を接触させずに、外では口に手を運ばずに(店内で食事をとらずに)、屋内に入るたびに(部屋を移るたびに)手洗いをするだけで、それで不足はないはずだ。それができない者がたくさんいるので、最大公約数的に、外出は控えましょう、と言っているにすぎないのではないか。政府としては最も効果的な施策をだすしかない。それは、取り逃がしたくない魚を逃さないために大きな網を使うのと同じ理屈だ。ある程度の、余裕がそこには含まれている(含まれていなければそもそも政府の立てる対策としては失敗していると呼べる)。医療現場の混乱や危機感を、一般市民も同様に持ちましょう、というのはあまり利口とは思えない(理屈を理解する前に過剰に恐怖を抱くから、いまのうちに不測の事態に備えておかなければ、となって大勢が一か所に押し寄せてしまうのではないか)。繰りかえすが、人混みに出向かないことと手洗いは徹底したほうが好ましい。ただ、汚れてしまうことを極度に恐れるのはいかがなものか、と思ってしまう。手や衣服が汚れるだけならさほどに神経質にならずともよいのではないか。汚れを口に運ばないように、体内に取り入れないようにすることが肝要であり、そのためにこれさえしていれば問題ない、というのが「人混みに出向かないこと」と「手洗いの徹底」なのだ(一番いいのは人と接触しないことなのは言うまでもない)。それ以外は、多少リスクが上下するだけの効果しかない、というのがいまのところの判断のはずだ(状況が変われば、この判断も変わっていくだろう)。政府や医療機関の抱えるべき危機感と、一般市民の覚えるべき危機感は一緒ではないし、一緒にしないほうが好ましい(恐怖に駆られて、判断力が落ちる確率をあげたいのだろうか)。恐怖心を最大化させようとしたり、こうしなくてはダメだ、といった禁止をつよく課す言説には注意しておいたほうが身のためだろう(なぜならそうした情報発信者は、それによって生じる混乱や反発を意図して発信している確率が高いからだ。大衆の混乱を予期できない程度の知性に――或いは意図して引き起こそうとする知性に、重大な判断は荷が重いのではないか)。すくなくとも、医者の発言だから(専門家の発言だから)、言っていることがすべて正しいなんてことはない。出産を前に耳を傾ける価値があるのは、外科医ではなく、産婦人科医のはずだ(産婦人科医にしたところで、経済の専門家ではない)。権威主義がわるいとは言わないが、権威を正しく見抜けなければ思わぬ落とし穴にハマることになるだろう(政府の言うことを信じろ、という意味ではなく)。もちろん、断るまでもなく、こんなあんぽんたんの文章を真に受けるなんて真似は愚の骨頂であるので、きちんと専門家たちの発信する情報を元に、とるべき行動を各自が判断しましょう。私見だが、いまは娯楽以外でSNSを利用するのはやめておいたほうがよいと思うしだいだ(いまというか、つねに、かもしれませんが。ちなみにじぶんの考えを表現するのは娯楽の範疇です)。(現状、総合して諸問題を分析し、判断できているひとは、いくひしさんの観測範囲には一人もおりません。それだけ問題が広域にかつ多岐にわたっており、複雑だということです。あちらを立てればこちらが立たず、が到る箇所で発生していますし、いまはこっちだけれど、状況が悪化すればやっぱりあっちを優先しなければ、といった優先順位の反転もこれからますます多発するでしょう――或いは全世界の国という国が亡びる可能性を考慮していれば、そこからいますべきことを一貫して洗いだせるかもしれません――が、その場合は功利主義の問題、ともすればトロッコ問題を地で描き兼ねません。言い方はわるいですが、八十億人がいまの文明を放棄するか、それとも一千万人が死亡するか、どちらかを選ばなければならなくなったときにいまの文明を放棄する覚悟がありますか? 現状は、文明が多少衰えても犠牲者を出さない方向に各国は動いていますが――あとで衰えた分は補えるとの考えが前提にあります、しかし――文明の衰える規模が増加していけば同じ判断をくだすのは徐々にむつかしくなっていくでしょう(むろんそれが正しい判断という意味ではなく)。不幸の手紙を封じ込めて終わりではないのです。以前にも述べましたが、不幸の手紙が拡散することよりも、短期間で爆発的に広まることのほうが問題なのです。もっと言えば、そのような社会システムである限り、根本的な解決には至りません。いま人混みを出歩いているひとたちは不幸の手紙を受け取る確率が高いですが、否応なく徐々に減少していくでしょう。医療機関はたいへんですが、それでもいつまでも倍々で増えていくことは原理上できません。上限、つまりピークはあるわけです。いまはそのピークをいかに下げられるか、に知恵を絞っている段階です。仮に地球上にいるすべての人間が不幸の手紙を受け取ることになっても、それが百年間のあいだにゆるやかに起きるのならば、それほど絶望視することはありません――もちろん、亡くなられる方はすくないほうがよいですし、誰の死であっても痛ましいのは変わりませんが――不幸の手紙にばかり目を奪われて、ほかの問題が疎かになれば、それこそ危機感が足りないと言われても致し方ないのではないでしょうか。いずれにせよ状況は悪化することを前提として、ではどうすべきか、を一人一人が考えながら、日々を過ごしていけるとよいですね)(家にいろ、というのは明瞭な指示で、短期的には功を奏するとは思いますが、問題点や危機感の共有という面では不十分に思えます。いま目のまえにある危機を乗り越えたときに、小さくない足枷となるでしょう。明瞭なスローガンには注意しておきたいものですね)(要約すれば、いくひしさんにはこのさきどうなるのかがまったくわかりません、となります)



2700:【インターネットに繋がったら孤独ではない時代】

みんなが孤独になってしまうと相対的にいくひしさんの孤独が薄れてしまって、いまとても孤独が足りない気がしてしまう。




※日々、虚無を積みあげる。



2701:【音なしく】

雨の一粒一粒のなかに、それぞれに固有の別世界が広がっているとして、それは毎秒、毎瞬、舞い落ちながら誰にも知られることのない物語を膨らましつづけている。シトシト、ぱらぱら、てんてん、ざーざー、ぴちゅぴちゅ、カンカン、さちさち、どどど。無数の物語たちが弾けて消える。一粒一粒の奏でる、たった一度きりの消失の波紋、その音は、だからこんなにも私の世界に染みいるのかな。いつの日にか鳴るだろう、私のシズクの弾ける音は、いったいどんな音色がするのだろう。誰も聴かないから無音なのかな。



2702:【短気】

雨、聴いてる分は好きだけど、濡れるとマジムカつくな。



2703:【暢気】

ずぶ濡れになるといっそ清々しくなるよね。



2704:【素直な所感】

冒険譚が増えるなこりゃ。世界をぴょんぴょん飛びまわるんじゃ。岩の下に眠った魔物や、滝壺の底に沈んだ宝石、月明かりの木漏れ日にだけ現れる妖精たちの宴、風に紛れた異界への鍵穴、虹を食べる生きた砂嵐のなかには幻の城があり、永遠の命に縛られた人工生命体が、あらゆる人間の人生を、姿を変えながら、毎年一年ごとに寿命を終え、再誕することを繰りかえしている。きみはそんな世界で、オルゴールを探す。世界の音色を奏で、記述しつづけるオルゴールを。旅にでるのだ。深淵なる冒険の旅へ。



2705:【なんじゃろな】

いつもなのじゃが、いまじぶんが何に関心あるのかがよくわからん。たいがいのことには興味はないのじゃが、関心はある気がするんじゃよな。関心のないことってなんじゃろ。じぶんの抜け毛のゆくえとか?(けっこう気になるな)



2706:【流転】

人間の細胞でも、新陳代謝の激しい部位もあれば、そうでない部位もある。一生を通じてずっと機能しつづける細胞はちょっと考えにくいけれども、ないとは言い切れないはずだ。とはいえ、たいがいの細胞はそれを構成する水分や原子を、すくなからず新しいものと交換しているだろうから、そもそも呼吸がそういう機能として備わっているわけで、血管と面している部位は総じて物質が循環し、期間の長短はあれど、物質単位で入れ替わっていると言えそうだ。細胞は入れ替わらずとも、それを構成する物質は入れ替わり得る、と言えばよいかもしれない。じっさいのところがどうなのかは判らないが、そう仮定したとして、人間の細胞は数年でだいたいが入れ替わると聞くし、骨に至っては七年とかそこらで入れ替わるとも聞くので、ざっくり十年としよう。十年をかけて人体は、ちまちまとだいたい五~八十キロくらいにしておこうか、それくらいの細胞を入れ換えているわけだ。食べたものの大半は排泄物として体外に排出される。消化吸収されたものの一部が細胞に取りこまれ、あべこべに死滅した細胞が垢や尿や抜け毛となって自己以外の物質として切り離される。水分も例外ではない。水分は呼気や汗や鼻水、尿となって排出されるが、これも細胞の一部として考えられる。人体はおおよそ七割が水分らしいので、十年で細胞がすっかり入れ替わるから、では十年でひとは五~八十キロの垢を生みだしているのか、と考えれば、んー、これはちょっと早計に思える。ひとは毎日二リットルほどの水分を排出しているようなので、すくなくとも日々二キログラムが、自己と非自己に入れ替わっていると言えそうだ。じぶんだったものが体外へと切り離されたあと、いったいどのような道筋を辿り、変化し、流れていくのかは関心があるし、誰もがいちどは想像したことがあるはずだ。じぶんの身体を構成している原子のいくらかは、かつて誰かの身体を構成していた何かしらである確率はそう低くないと思われる。そもそもを言えば、身体を形作っている細胞は、食べ物からできているのだ。生き物の細胞だったものなのだ。我々現代人は、ほかの生き物に食べられる機会が減ってしまったが、それでも物質は消えることなく、大気や土のなかに回帰する。ときに虫たちに食べられ、或いは細かく散り、この世界へと紛れ、ほかの何かを構成する一部としてただそこかしこに在るのだろう。流れているのだ。繋がっているのだ。孤独なんてもってのほかだ。まったく以って、騒がしい。抜け毛一本を見てこういうことを妄想する。さびしいひとだなぁ、と思いましたか?



2707:【2019/04/20雑感】

不幸の手紙の拡散どころではない、と世界中がなったときに、経済的困窮者や、医療機関への支援や配慮が疎かにならないとよいな、とぼんやり思っている。いまさえ凌げればそれでいい、という問題ではないはずだ。差別問題や政府のあり方に関しては、これはもう教育の問題なので、いますぐにどうこうはできない(もちろん批判の自由はありますし、一定の効果はあるでしょう。ただ、順番としては政府を変えるのではなく、まず国民が変わっていくほうが民主主義国家としては順当なはずだ。教育と福祉はだからだいじなのだ)。また、不幸の手紙への心構えとして、「じぶんがすでに不幸の手紙をもらっていると思って行動しよう」というのは、短期的には効果があるが、そのスローガンが社会に普及すれば、必然、「じぶんは不幸の手紙をもらっているし、みなももらっている。何週間も経っているし、ならもう周囲に配慮する必要はないのでは?」となるのはしぜんな流れと言えるだろう。恐怖はしだいに薄れるが、危機感は対策が打たれるまでは継続される。恐怖ではなく、危機感を持ち、それに対する手段が身に着くように情報は発信していくほうが好ましい。危機感を持つとは、何が問題かを言語化できる状態のことだ。何が問題かを、まずは言葉にしてみよう。むろん、どうしようもない問題というのもある。そういうときでも、恐怖ではなく、危機感を手放さずにいれば、どうすれば危機を遠ざけられるか、と考える姿勢を保てるだろう。安全とは、放置できない危険が何で、どんな危険ならいまは放っておいてもよいかが判っている状態だ(もちろん判っているだけでは不十分で、対処できて初めて安全は確保される)。人間は生きていればいつでも死ぬリスクを背負っている。何を放っておくといまある環境を失ってしまうのかを考えながら、すこしずつでも判断していけるとよいですね。バタフライエフェクトは未だ拡大していくだろう、と妄想できますが、それでも必ず連鎖はどこかで途切れます。当たり前の話ですが、台風はいつまでも台風でいつづけることはできないのです。台風が台風のままでいられるようにと、息を吹き込み、外部からエネルギィをそそぎこむような真似を各国がしなければよいなぁ、と思って、眺めています。なんだか戦争でもないのに、戦争でも起こっているかのように錯覚してしまいそうな情勢ですね。これは戦争ではありません。騙されないように(流されないように)してほしいと思います。(あんぽんたんの戯言ですので、真に受けないように注意してください)



2708:【らしくない】

いまの時期にいくひしさんみたいに、SNS上でいつもと違った「らしくない文章」を並べたりしない作家さんは、さすがだなぁ、と感心します。じぶんの影響力をちゃんと推し量って、読者へ与える作用を想像できる作家さんは、好ましく映ります。それが正しいか否かは判りませんが、いくひしさんには好ましく映ります。さすがだなぁ、と思います。(他者への影響力を持つというのは、やっぱり不自由なのかもなぁ、とも思います。言い換えれば、いくひしさんの文章は極めて無責任なのであります。責任があろうがなかろうが、自由は自由ですが、責任感のある自由はとてもかっこよいと思います。プロはやっぱりかっこよいです)(熟練した物書きにとっての文章は、暗殺者のナイフと同じなのだ。殺されたことにも気づけない。無闇に振るってよい代物ではないのである)(んなこたない)(ナイフのほうがこわいに決まっとるやろ。ペンでお肉が切れますか? 剣はペンよりも危ないんや)



2709:【2020/04/21雑感】

交通安全のお守りを持って安心したところで、赤信号を無視して道路を渡れば危険なことには変わりない。かといって、赤信号で必ず止まるからといって、自動車を見るたびにびくびくしていたのでは自由な生活は送れない。安全と安心はセットなのだ。そして安全のない安心は、より危険側だ。まずは安全を確保し、安心を得る。この順番は崩していかないようにしていきたいと思います。安全も安心もどちらもだいじです。一方が欠けてはあまり意味がありません。ただし、優先すべきはまずは身の安全です。そこは履き違えないようにしておきたいですね。(中途半端な対策を打つことで危機感が薄れ、却って事故が誘発される、というのはこれは工場や工事現場などではまま見られる現象でしょう。対策を打てばいい、というものではないのです。ここは注意が必要ですね。ただし、仮り止めでもいいので、まず何かしら注意を促す看板をだしておく、というのは、予防線という意味では有効です。まずは考えつく範囲でよいので対策を打つ。余裕ができたら逐次、より安全側の対策へと修正していくことが長期にわたっての安全安心を得られる確率をあげる結果に繋がるのだと思います。ときには、打った対策を取り下げたり、撤回したり、なくしてしまうのも一つです。ルールはすくないほうが好ましく感じます)(飽くまで雑感です)



2710:【いまのきぶん】

いっぱいマンガ読みたい。シリーズを豪勢に、贅沢に、一気読みしたい。で、疲れてそのまま寝てしまいたい。なんの心配もなく、いつまでも寝過ごしてもよい、のきぶんでぐーぐーするのだ。起きたら朝からコーラなんか飲んじゃって。紅茶にトーストでもおーけーで。で、また豪勢に、贅沢に、マンガをシリーズ通して一気読みするのだ。でも三日つづけてはさすがになんだかなぁ、になりそうなので、ときどきじぶんで何かをつくるのだ。そんな生活できたらしあわせだろうなぁ。




※日々、落ちぶれていく、落ちて、ぶれていく、落ちなくともしかし私はぶれている、どちらにしても、ぶれている。



2711:【びっち】

やあやあ、いくひしさんでござる。おひさしぶりでござるなあ。いくひしさんはさいきん、好きなひとがいっぱいで困ってしまうでござる。もうもう、ステキなひとがいすぎて困っているでござる。いくひしさんは惚れっぽいので、尻軽なので、三グラムくらいしかないので、もうもう風さんが吹くたびに、ほわほわ~って好きになってしまうでござる。でもでも、こんなにたくさん好きになってるのに、両想いになったことはないでござる。なんなんでござるか。こうなったら全世界の人間を好きになってやるでござる。そうしたらだれかひとりくらいとは両想いになれるでござる。やったーでござる。でもでも、いくひしさんはそれでもほかのひとが好きなままで、たくさんのいっぱいの、とほほのきもち、失恋を甘酸っぱくイチゴみたいに味わってしまうでござるから、甘酸っぱいのおいち~、練乳かけたらほっぺたおちちゃいそ、じゃないでござる。なんなんでござるか。いつでも満腹ごりっぷくでござる。ごりっぷくってなんとなく、ゴリラさんがしゃぼんだまを飛ばしているみたいでござらん? ぷくぷく~。でもでもいくひしさんは、生身で触れあうのが、ふぁっきゅー、なので、ひきこもりなので、眺めているのがよいでござる。そのひとの輪郭とか、姿かたちとかでなく、その肉の塊からつむがれる、そのひとだからこそ放出される別世界の断片、異世界の断片、いくひしさんにはない、つむげない、届かない、手にできない、ナニカシラをいくひしさんの世界にまで届けてくれる、ソレが好きなんでござるな。いっぽうてきにむさぼりたい、そんないじきたない性根なので、失恋して当然でござる。片想いで当然でござる。でもでも両想いにもなりたいでござる。いっぱいひとに好かれたいでござる。崇めたてまつられたいでござる。神と呼べでござる。そうやっていっぱい欲張りながらも、それが叶わぬ甘酸っぱさ、さいのこー、でござるな。イチゴぱくぱく満腹ぷくぷくごりっぷくでござる。しゃぼんだまみたいにぷくぷく舞って、ぱちんと弾けて、消えるでござる。そういう儚く消える永久のモヤ、そういうのもまた好きでござるな。



2712:【2020/04/22雑感1】

不幸の手紙への恐怖心が高まることの懸念の一つとして、病院の経営難がある。地方の大きな病院ではどちらかと言えば外来で患者さんが寄りつかなくなり、経営難に陥る可能性があるだろう。実際がどうかは知らないが、不幸の手紙で医療機関が麻痺する病院と、経営難に陥る病院とで二極化していくと想像できる。銀行が融資するだろうから即座に倒産する病院はないとは思うが、別途に支援が必要なのではないだろうか。(あくまで雑感ですので真に受けないように注意してください)



2713:【2020/04/22雑感2】

公園寄ってきた。バスや電車はそこそこお客さんが乗るようになっていた。反面、飲食チェーン店はようやくというべきか、使用できるテーブルを半分にして、座席同士を離すようになっていた。お客さんはほとんど入っていなかった。テイクアウトできます、の文字がガラスに貼ってあった。スーパーは店員さんはみんなビニル手袋をしていて、レジのところにビニルのカーテンが垂れていた。食べ物が安くなっていたけれど、なんでかはよくわからん。公園はグラウンドで遊んでる子どもの数がぐんと減って半分以下になっていた。グラウンドの入口にテープが張られていたので、近々封鎖されるのかもしれないし、ほかの理由で張っているだけかもしれない。アイドルグループみたいな女の子たちが黄色い同じ服を着て写真撮影をしていた。花壇がきれいだからかな。犬の散歩をするひとたちはいつもと変わらずの様子で定期的に公園を抜けていく。犬はいちいちいくひしさんのまえで立ち止まって、にらめっこをして、いくひしさんが笑って負けて終わる。子どもを連れての散歩のひともいるけれども、まえほど多くはない。きょうは風がつよく肌寒かったのでその影響もあるかもしれない。このあいだからスケーターを見なくなった。きょうはランナーも見なかった。仲間で集まらないようにしようという動きがあるのかもしれない。言い換えれば、独りになってでもやろう、と思うくらいに熱を入れているひとたちは公園にはこないだけなのかもしれない。ほかの場所でやっているのだろう。そう言えば夜中に駅前のほうに行くと、立体駐車場の屋上のほうからスケートボードの滑る音が聞こえていたことがあった。そういうところでやっているのかもしれない。よちよち歩きの赤ちゃんは眺めている分には可愛い。触れるとなると怖くてムリ、抱っこなんてもってのほかだ。抱っこしたら融けてしまう。いくひしさんがね。



2714:【未熟でいたい症候群】

ひきこもりのプロであるいくひしさんであっても、遊び場が数か月間使えなくなることがほぼ確定的で、もともと十月からさらに一年間使えないと決まっていたので(たぶんまっとうに工事はできないだろうから竣工予定時期はもっと遅れるはず)、ほとんど二年ちかく遊び場へと息抜きに行けなくなる。いやじゃいやじゃ、のきぶんだ。体力がガクっと落ちてしまって、ひきこもりのプロのくせに、このままだと寝たきりのプロになってしまう(寝たきりのひとに失礼やろ!)。公園があるからよいけれど、それだって冬はつらいし、遊び場の環境のよさが身に染みるな。かといって公園に行くのもそんなにいやじゃなく、むしろ前よりのびのび息抜きできてるから結果よしなのじゃが、いくひしさんはよいけれど、遊び場に来てたほかのひとたちはどこでどうしているのだろうね(会話をしたこともない互いに名も知らぬ間柄だったが、顔見知りではあったのかもしれぬ、といまさらながら思ってしまうな)。抜け駆けしているようですこしの罪悪感があるようで、ないな。公園に集まってこられたら、それはそれでいくひしさんがほかの場所にいくしかなくなってしまうし、いかんともしがたい。とはいえ、いくひしさんはどこでも寝られるし、どこでも息抜きができる。いっぱい寝ているので、背がのび太くんでもよいのに、背はとくに伸びないのはなんでじゃろ。ひょっとしていつの間にか子どもじゃなくなってしまったのかな。



2715:【ごっこ遊び】

たまに繰りかえしておかないとあれなので並べておきますと、この「いくひ誌。」は世界でたった一人になってしまったいくひしさんがそれでもこの世のどこかへ向けて、生き残りはいませんかー、とラジオで呼びかけているみたいなそれはそれは前向きで楽しい独り遊びなのであります。人類滅亡の世界の張りぼての壁をちょいとずらせば、その奥では滅んだはずの人類がわいわいきゃっきゃしているのかもしれませんが、いくひしさんには壁の繋ぎ目が見えないので、ときどき空間に裂け目があいて見えたりもして、そういうときはついにいくひしさんもどうにかなってしまったのかな、と目をコシコシしながら隙間を元に戻して、きょうも、未来へ、或いは過去へ、それとも別世界へと、もうひとりのいくひしさんへ向けて届くかもわからぬ言葉を並べていくのです。



2716:【ほっこり】

手作りっぽいかわいいマスク、子どもたちがつけてる率が日に日に高くなってきて、見掛けるたびにほっこりする。



2717:【ねむいので】

身体が重くて太く感じる日と、軽くてスカスカな気がする日とあって、体重はどっちもそんなに変わらなくて、何が違うのかな、と疑問に思ってたんだけど、さいきん判ってきたのが、ちゃんとぐっすり寝た日は身体がしゃきってなってて身が締まってる感じがあって、寝てるあいだは食べないし、飲まないし、だから痩せた分、お肉がちゃんと身がぎっしり状態になるのかな、やっぱり寝るのはよいな、と改めてしみじみ思ったかと言えばそうでもなくて、いつでも寝るのはいいぞー、って思ってる。寝る。



2718:【すきがいっぱい】

ざこざこのざこでも生きていてよいし、よわよわのよわでも好きなことをしてよい。がんばれなくても何かをはじめてよいし、何もしなくてもよい。嫌われてもひとを好きになってよいし、拒まれたら哀しいけどこっそり好きでいつづけたらいい。じぶんだけの好きをいっぱい溜めていこう。



2719:【せつないはわさび】

哀しいとせつないの違いって何だろう。たとえば、哀しいに「けど」をつけるとせつなくなる。哀しいを過去にするとせつなくなる。哀しいを客観視するとせつなくなるし、だからきっと哀しんでいるひとを見るとせつなくなる。致命傷にならない哀しいはせつない。せつないのはなんだかわさびのツーンに似ていて、ずっとつづくと苦しいけれど、たまにならお寿司につけて食べると美味しい。哀しいがわさびのツーンになるくらいに、お寿司みたいなよだれじゅくじゅくが見つかるといいな。



2720:【素直な日もある】

恒川光太郎さんの最新文庫本を買ってきました。だいすきな物語をつむいでくれる小説家さんのおひとりで、短編に関しては現在いくひしさんのなかではこの国最強のお方です。中田永一(乙一さん)や伊坂幸太郎さん、森見登美彦さんもたいへんすばらしい短編をつむいでくれますが、恒川光太郎さんはいくひしさんのなかでは別格の位置づけです。全部おもしろい。世界観が突飛なのに、この世のどこかに本当にあるような、誰かが本当に体験したような物の語りで、素人のように隙だらけのようで一分の隙もない達人のような文章、短編をつむがれます。まだ本は読み進めている途中ですが、一編一編、コーヒーのどりっぷを見詰めるように、味わうように読んでいます。たいへん楽しい時間です。うれしい、うれしい。小説っておもしろいな、と改めて思いださせてくれる小説家さんです。生きるのに飽きてきそうなときには本当にありがたいです。楽しい物語を届けてくださってありがとうございます。社会、すばらしいな。出版社さんや書店さん、物流さん、それら人々を支える各種業種の方々や、その家族、ご友人、或いはアイドルやスポーツ選手、ただそこに存在するだけでも社会の問題を可視化してくれる、死にたいくらいつらいのにそれでも日々をなんとか生きている人々、世のなかのすべての人に感謝したい気分です。なーんて口だけの感謝や素直な文章なんて、並べるだけなら簡単だな、命は尊いなんて殺人鬼だって言えるのに、くそくだらねぇ、と最後の最後で台無しにしてしまう本日のいくひしまんでした。(言うだけなら簡単なことですらふだんからサボっているなんて、いくひしさんはほとほと怠け者ですね)





※日々、万遍の縁に繋がり、孤独だと嘆く。



2721:【怠けてただけなのに眠い】

たまに思うのが、数学とか物理とか、歴史でも文学でもよいけれど、ものすごく勉強ができて物の道理が解っているひとたちがこれだけたくさんいてどうしていまの社会って未だに困ったことで溢れているのだろう、なくならないのだろう、って白目を剥いてしまいそうになるのだけれど、考えられるのは大きく分けて三つあって、一つは、問題は解決しているけど新しくよりむつかしい問題がつぎつぎに生まれてきちゃってイタチゴッコどころか雪だるま式に手に負えなくなっている説。もう一つは、本当はとっくに問題は解決しているのに、人間のほうで欲張りに歯止めがきかなくなって、問題ではないことを問題として見做してしまっている説、三つ目はその両方がミックスして影響しあって手に負えなくなっている説、おそらくは三つ目が有力だけれども、要するに知性の役割の一つに問題を発見することがあるとすれば、どんなに社会が豊かになって完璧な回路にちかづいても、何かしら問題を見つけてしまうのが人間だろうし、それはどんなものにも不満を覚えると言ってしまってもある一面では間違っておらず、ゆえに社会が豊かになっても問題が続出するのは人間の根本的な欠陥にあって、つまりが問題を問題と見做す能力そのものが問題としていずれは俎上に載るようになるだろうと考えられるけれども、これって案外にけっこう卑近な問題、仮説かもしれなくて、とっくに頭のよいひとたちがたくさん考えて、それなりの対処法なり、解釈なりを導きだしているのだろうね。便利さを敢えて追求しない、これ以上発展しない、競わない、そういう抑制もまた知性の役割の一つかもしれないけれども、やっぱりどうしようもない問題というのは、時代や社会に関係なく勃然と現れたりするから、それはたとえば隕石なんかが降ってきたらどんなに文明が発展していようが、一大事というか、放ってはおけない奇禍そのものであるからして、やっぱりどんな時代や社会であっても、問題を解決しなければならない宿命を人類は背負っているのかもしれないし、そうではないのかもしれない、どうしてそうではないのかもしれないと考えるかと言うと、そもそも人類が繁栄しなければならないなんて決まっているわけでもないからで、いったいどうして現代では、人類は滅んじゃいかんよ繁栄せーよ、の前提が暗黙の了解としてまかり通っているのだろうね、そりゃ滅んでほしくはないけれど、それが正しいのかなんて誰にも本当は解りっこないだろうに、現代人の少なからずは安らかな死を迎えたいと望んでいるのだとすれば、人類だっていまのうちから安らかに滅ぶ方法を模索しておいて、それほど損はないのでは?(眠すぎて、なんも並べることがなかったので、一気呵成に駄文をダダー、ぶーん、と並べただけですので、とくに何か主張や意見を呈そうという意図はありませんので、あー眠い、いつもどおり真に受けないでください)



2722:【さいきんの睡魔は弾丸のよう】

人間がいなければ問題は存在しない、死がすべてを解決する、とかなんとかそれに似たようなことを言った歴史上の人物がいるようですが、なんだか上記とかぶりますね。寝ぼけていたとはいえ、いやはや、人間寝不足だとあまり深く考えを巡らせられないようです。かといっていっぱい寝たからといっていくひしさんはいつでもあんぽんたんなことしか並べていないので、どちらにしても変わりはないのだけれどね。ただ、考えはできるだけたくさん、いろいろな方面から取り揃えて比べてみたほうがよいし、誰かが言っていたからとか、どんな思想から生まれているだとか、そういうことで、考えそれそのものを考慮しないのはおそらくあまり好ましくない気がします。安らかな滅びの方法を考えておけば、それを回避することもできます。想定外を失くすためにも、考えは巡らせておいたほうが、いくひしさんにとっては好ましく映ります。



2723:【視点の拡張と各層】

深層学習に似たアプローチでしか学習ができないので(というよりも学習ができないので)、理解よりさきに、いっぱい試行錯誤したなかでこうこうこうしたら抵抗がよりすくない状態で目的を達成しやすくなるみたいだし、自由度が増すのでこうしておこう、みたいな、なんとなーく、で生きている。科学や論理は因果関係を重視するし、基本としているけれど、いくひしさんはたいがい相関関係でしか物事を見られないし、科学と呼ばれるものの大半も、じつのところ相関関係でしかないのではないか、と思っている。還元主義の限界というか、複雑系として集合全体の挙動としての「創発」や「繰り込み」の視点をもっと思考に取り入れていったほうがよいのではないかな、とどうしても、なんとなーく思ってしまう。還元主義がダメだ、という意味ではなくね。それを踏まえたうえで、ということ。



2724:【まんちゃんそればっか】

まーた、それっぽいこと言ってら。詐欺師にでもなりたいのかな?



2725:【バケモノしかいない】

いくひしさんの費やしている工夫や労力は、いくひしさんが影響を受けているひとたちのそれと比べれば数億分の一くらいしかない(もっとすくないかも)。大袈裟でなくそうなのだ。世界一クラスがごろごろいる。というよりも、世界一になることがたいしてむつかしくないのでは、と疑いたくなるほどの能力を継続して日々発揮しているひとたちがすくなくない。息を吸うように進歩している。積み重ねている。変化している、より目的を達成しやすい形態へと。自己肯定感なんてものはあろうがなかろうが、どっちだっていい。あったらまあいいんじゃないんですか、程度の代物だ。基準として採用するには優先度が低すぎる。自己を肯定するよりさきになすべきことがあるはずだ。なしたいことが、あるはずだ。既成事実として、相対的にいくひしさんは怠け者だ。みんなもっとサボってほしい。いくひしさんが働き者の頑張り屋さんになってしまうくらいにね。



2726:【つっこみどころ】

他者から影響を受けているからといってその他者と知り合いだとは限らない。だいいち影響なんてものは、作用を受ければどんなものからでも受けるのだ。作用反作用の法則だ。硬い鉄に羽毛を押しつけるだけでも、鉄は羽毛から影響を受けている。影響を受けないことのほうがずっとむつかしい。得意げに語っているんじゃないよいくひしくん。いいね。



2727:【失敗の壁】

失敗というか、これをしたら上手くいかない、というパターンをまずは集めようとしてしまう傾向がいくひしさんにはあるのかもしれない。好んで失敗しよう、としているわけではないのだけれど、それはあんまりよくないよ、しないほうがいいよ、と言われても、わかんないじゃん、と思ってまずは試してしまう。一瞬で結果がでることならまだよいけれど(もちろん命の危機に直結しなければという注釈がつくけれども)、ある程度の期間継続しなければ失敗か否かが判らない場合でも、やってみたいなぁ、試す価値がありそうだなぁ、と思ったらそれを継続してしまう悪癖があるのかも、と自己評価を修正しつつある(自己改善が下手と言い換えてもよい)。好ましくない癖かもしれない。ただやっぱり、上手くいかないよね、というパターンを知っておきたい。集めておきたい。そうすると、そのよくないパターンを集積しているあいだは、自他ともに成果があがらない。どんどん袋小路に迷い込んでいく。失敗を過剰学習してしまうので、どちらかと言わずして衰退する、悪化する、下手になる。けれども、そんななかでも、ふとした瞬間にいつもと違った感触を得られるときがある。まったく登れなかった垂直の壁に、ゆびが引っかかった、といった程度のわずかなとっかかりなのだが、そこを足掛かりとして、徐々に壁を登れるようになっていく。どころか、いままでゆびを引っかけるところなんかなかったと思っていた場所に、ゆびがかかるようになっていく。壁が平面としてどこまでもつづいているかぎり、ゆびは徐々に自在にかけられるようになっていく。壁は、これまで蓄積しつづけてきた無数のよくないパターンからできている。壁を登るためにはまず、壁をこさえなくてはならないのだ。そのために、よくないパターンや、こうすると失敗する、といったじぶんなりの負の知見を溜めていくのも、それほど愚かな道程ではない気がしている。いくひしさんが深層学習に似たアプローチのほうが性に合っているというのは、そういう意味でもある。一般には、まず理解してからテンポよく成果を築いていけたほうが成功しやすいのだろうし、実力者として評価されやすいのだろう。おのおの、じぶんに見合った手法をいろいろと試していこう(けっきょく試さないことには判らないのだ)。(言うほど失敗しているわけでもないが。つまり、挑戦していないので)



2728:【ゆびで突つくだけ】

文章を並べるときには、文章用の意識領域にアクセスしないと文章を並べられない。いくひしさんにはいくひしさんのなかのひとがいて、当然と言えば当然だけれど、文章から推し量れるいくひしさんと、いくひしさんのなかのひとはイコールではない。カエルと体温計くらい違う。便宜上、いくひしさんのなかのひとを、ぺんぺん草と名付けよう。文章用の意識領域は、ぺんぺん草の肉体のずっと上のほうにあって、それはときに肉体の内部に潜ろうとして辿りつけることもあれば、昇天するみたいに、失神するみたいに、眠るみたいに、すんなり辿りつけることもある。妄想はその中間みたいなもので、いくひしさんとぺんぺん草のあいだに漂うモヤに視軸を当てると視えてくるのが妄想だ。文章用の意識領域には、ぺんぺん草のままでは入りこめない。いちどぺんぺん草としての殻から脱して、いくひしさんになってから、飛びこまないと、文章用の意識領域にアクセスできないのだ。文章用の意識領域は夜の海みたいなもので、或いは真っ暗闇の水中みたいな具合で、何もないようだし、何かで満ちている。ぺんぺん草から脱して、いくひしさんになったら、全身をそこに沈めて、さて何があるかな、とまずは気の赴くままに言葉を並べようとして、息を吐く。その息継ぎの気泡が、ぽこぽこと線となって浮上していく。その一連の流れをリズムよくゆびで突ついて割るようにしていくと、かってに文章になっている。したがって文章を並べたくてそこに浸かっているのに、文章を並べようとしても、そもそも並べたいことなどはなく、ただ気泡を目で捉えて、ゆびでリズムよく突いているだけなのだ。言いたいことなどはなにもなく、並べたいこともとくにない。虚無だからこそ、いくらでも息を吐きつづけ、暗がりのなかに気泡の筋が浮かんでいく。どんな気泡が筋となって昇るのかは、そのときにならないと判らないし、その気泡にはその気泡にあったリズムがあるから、なぜって暗がりを浮上する気泡の速度はそのつどに様々で、リズムですらじぶんでは操れない。とにかく何か文章を並べようと思ったら、ぺんぺん草であることをやめて、文章用の意識領域へとなんとか辿りつき、そこで目を凝らしながら息を吐けばいい。そうしたら目のまえにかってになぞるべき気泡の群れが姿を現す。数学や論理はこうもいかないのだろうけれど、いくひしさんの場合は、デタラメを自由に並べればいいだけだから、こんなにも簡単で、手間がなく、苦労もない。幼子がクレヨン片手に部屋の床にいたずら描きをするよりも無造作で、無責任で、考えなしだ。そう、考えてなどいない。文章はただ、目のまえに現れているそれをゆびで突つくだけで、かってにできあがっている。どうしてこんなにデタラメに並べているだけで、目で追ったらそれとなく、なんとなく、なにかしら意味があるような言葉の羅列になっているのかが不思議だ。解らない。ひょっとしたら、読み解けているのはじぶんだけかもしれないし、読み解けているとじぶんですら勘違いしているだけかもしれない。文章用の意識領域ってなんだ、そんなものがあるなんていまのいままで知らなかった。ぺんぺん草ってなんだ、もっとほかにいい名前があっただろう。いくひしさんのなかのひとってなんだ、それだとまるでいくひしさんがぬいぐるみみたいではないか、そんなにかわいいわけがないだろう。デタラメなのは、そう、そのとおり、なんも考えていない。波の写真を撮ったら、なんとなく波のしぶきが絵になっていて、それっぽくなっていて、なるほどなー、ってなるみたいな。いくひしさんの並べる文章なんてそんなものだ。偶然の神秘なのだね。



2729:【甘ったれ】

さいきんはもう、カカオ72%のチョコレート美味いな、の感情しか湧かなくて、あとは眠いの感情もか、マンガいっぱい読みたいなの感情もあるし、おもしろい小説読みたいなの感情もあるし、瞬きを忘れちゃうくらいにうおーっな映画も観たいし、もうもう感情だらけだ。おなかが順調にぽっこりちゃんになってきていて、かわいいなぁ、うりうりとひまさえあればつまんでおる。靴だってゆび一本分の隙間がだいじだし、DNAだって余白たる部位が案外にけっこう正常に遺伝子を働かせるのに必要だって判ってきているようでもあって、そりゃおなかのぽっこりちゃんだってなにかしら生きるにあたってだいじになってくるとわたしゃなんかは思うわけなのだよ。そりゃあ生きてきてこの方、ろくにひととしゃべらず、かかわらず、友人はおらず、片想いは数知れず、じぶんという分厚い金庫に閉じこもって、無数の虚構の恋愛やら友情やらにうつつを抜かしてきおった甘ったれでおじゃるが、えぇえぇ、言い訳はいたしませぬ。堂々たる面構えでおじゃろう? わたしゃ思うよ、チョコレートと言えば甘いの代表、代名詞で通ってきた時代はもうもうとっくに過去のものとなっておって、カカオ72%の苦味のほうが、美味さの内訳の大半を占めるようになって久しいご時世におかれましては、甘ったれの一匹や二匹はむしろ貴重で、72%のあとの残りの28%ほどの介在の余地がある。甘ければ甘いほどに苦い顔をされてきおった甘ったれは、世界に苦いを溜めてきた、なるほど道理でなあ、見渡せば72%の苦味成分カカオいっぱいのチョコレートがお店の棚を占めておる。苦い気持ちもないよりかはあったほうがよい。甘ったれの甘さだって苦味を引き立て、美味いの感情を覚えさせるよ、わーい、こんなに美味しい苦味なら72と言わずに80、90、といってみようかと欲張ったなら、甘ったれの甘さが失せて、ただただふつうに苦かった。ほどよい甘さはだいじだね。ないよりかはあったほうがよい。甘さも苦みもほどよく取り揃えていこうと心を新たに、いつでも甘ったれる側でありたいなとの欲張りに磨きをかけて、本日の「いくひ誌。」とさせてちょうだいな。



2730:【きょう当番なの忘れてた】

割とじぶんの文章を読みかえすとダメージを受ける。こんなんわいちゃうねん、の気持ちになってしまうのだけれど、同時に、じぶんからは極力離れた文章を並べたくもあって、こんなんわいちゃうねん、からの、できとるやん、のエセ関西弁のコンボが胸に突き刺さる。それが心地よいときもあるし、ないときもある、という話で、これは文章に限らず現実世界で鏡を覗いたときなんかもそうで、こんなんわいちゃうねん、の気持ちになってからの、いやいやそれがおまえなんやで、のやさしい気持ちになって、おうおうそうやったこれがわいやった、おっしゃー! になるのも割と毎日の通過儀礼だ。写真が苦手なのもその影響かもしれないし、動画でしゃべりたくないのもそれが影響しているのかもしれないし、していないのかもしれない。なんて言いながらもけっこうにいくひしさんのなかのひとはナルシストなので、いくひしさんはそんないくひしさんのなかのひとを眺めて、ナルシストきも、とか思ったりする。でもそういうことを直接言うと、いくひしさんのなかのひとは傷ついた顔を隠そうともしないからなかなか言えない。というか、図太くて傲慢なくせに繊細ってなんやねん、最悪やな、と思ってしまうけれども、これも言わんといてやる。親切心や。でも本当にいくひしさんのなかのひとのためを思ったら、ときおりは指摘してあげて、じぶんを見詰め直す機会をあげてもよいのかもしれない。じぶんを客観視するうちなるじぶんをつくっておくとよいかもしれない。多重人格ごっこをするとよいかもしれない、と思ったけれど、けっこうそれはそれで客観視するとオイタタタ、ですね。いくひしさんはだからオイタタタなのかいな? 気づいてしまったな。真理を突いてしまったな。図星を突いてしまったな。でもこれは独り遊びなので、オイタタタ、と痛がるひともけっきょくはいくひしさんであって、客観視するためのうちなるじぶんてけっきょくそれもいくひしさんなんやろ、のあたたかーい目で鏡を覗いて、きょうもたくさんのいくひしさんに囲まれて、賑やかに、孤独に、それとなくこっそり過ごしていくのだった。関西のひとってエセ関西弁を見たらイラっとしちゃうのかな。ごめんなさい、と思うけれども、さいわいなことにいくひしさんのなかには純粋な関西の方はいらっしゃらないので、すべてよしや。どこがや。おしまい。




※日々、搾りだすように言葉を並べる、とっくにすっからかんでからっぽなのに、虚無を砕いて、ふりかけにする。



2731:【ふと我に返る日】

自意識の滲んでない、さらさらの文章を並べてみたい。わいを見てくれ!みたいな声なき声が染みついている文章ばかりを並べてきてしまったんじゃ。万年孤独ウェルカムマンとか自称しておいて、めっちゃ、さびしいー、って顔に書いとるよきみ、みたいな叫んでることにすら気づいていない文章を長々と、本当に長々と並べてきてしまっていたのだね。はずかしい。



2732:【キャラつくるのすこし疲れた】

けっこう前からの悩みというか、引っかかってるじぶんの、それでいいのかなあ、の話をするね。もうこの「いくひ誌。」ですら記事が2700項を超えていて、けっこうな文章量にもなっていて、それなりに日々の積み重ねを否応なく、ぼんやりとではあるものの、実感できてしまえるくらいに言葉を点々と残してきていたのだなあって、ああじぶんはこんなに文章を並べてきたんだなあ、の自己満足を得られそうになる。というか、どことなく得ている部分がある。満足はしていないけれど、不満の穴は徐々に萎んできていて、飢餓感が薄れてきている感じがなくはない。いつでもきょうが初めまして、よーしきょうからゼロから言葉を並べるぞ、の気持ちにはなかなかなれない。いままでやってきたちまちまのうえにあぐらを組んで鼻の穴を大きくしている気がして、嫌な感じがしちゃうのね。理想とは違った方向に自信がついちゃってる気がして、気に食わないと言えば端的で、慢心していると言ってもいいくらいで、ああどうしようね、と思っても、じゃあきょうからまたちゃんと文章のお勉強をしましょうね、文法とはなんぞやから叩きこみましょうね、文学を学びましょうね、とはなかなかならなくて、なぜってだって、そんな真似をしたことはこれまでだっていちどもないからで、なんとなく手に取った小説を読んだら、なんかわからんけど、おもしろー、ってなって、気づいたら見よう見まねで詩をつくって、それが掌編になって、短編になって、気づいたら大巨編になっていて、小説っぽいものをつくるようになっていて、で、いまはこうしてそれ以外の文章も並べていて。何も得ていないのに、何かを得た気になって、いい気になって、満足しはじめちゃってるのが、それでいいのかなあ、とここ数年のあいだにしばしば思うのね。自己満足のために物を語って、言葉を並べてきたはずなのに、いざ満足しそうになってるじぶんに気づいて、ちょっと待てい、となるじぶんの、きみいったい何がしたいん、の気持ちわるさが、こう、なんだろうね、たぶん何かを見失ってしまっている焦燥感にも似ていて、そこが引っかかってしまっているのだと思うのね。で、いま考えついたのが、満足しようとしても満足できなかった時期をいまはとっくに抜けてしまっていて、満足しようとしたらできてしまうからムリヤリに手を抜いて、満足しないようにしよう、とブレーキをかけている時期にこんどは迷いこんでしまっていて、だったらいちど満足しちゃったら?の時期へと突入するのも一つじゃないのかなって思うんだけど、そこんところどう思う? たぶんだけど、本気をだしていないんだと思うのね。そこがいちばんよくないところだと思う。なまけるならなまけるで本気でなまけたらいいんじゃないかな。いっそ五年くらい小説つくるのやめてみたら? もうね、中途半端というか、惰性でつづけてる気がしてる。そう、それ、惰性だよね。なんとなくでもつくれちゃうし、言葉を並べられちゃうから、満足もできず達成感も薄く、どっちつかずのなあなあに陥ってしまっているのじゃないかな。どう、ちがう? いったん日々のノルマとか、まいにち続けるとかやめてみて、ひとつの物語にかかりきりになって、とことん没頭してみるのがよい気がする。没頭できるだけの物語、世界観、そういうものが見つからないから、焦って、隙間の時間を、空いた時間を、なんとなーくの言葉の羅列で埋めて、一時しのぎで、惰性で、過ごしているだけなんじゃないのかなって。違うなら違うでよいけれど、どっちにしても、新作、つくりかけばかり溜めないで、もっと一つずつの物語を楽しみながらつくろうよ。義務感からでも、焦燥感からでもなくてさ。つくりたいからつくろうよ。ね。



2733:【はぁ?】

つくりたいからつくってますけど?怒怒怒



2734:【いまさらだけど】

歴史ってむつかしくない??? ぜんぜん解らんのだけど。



2735:【Qと】

や、言うても簡単なことなんてなんもないので、いくひしさんにとってはもうもう息をするだけでもいっぱいいっぱいで、これは本当に嘘偽りなくときどき、息ってどうやってするのだっけ、と混乱する。コンビニとかお店のお会計のときとか、「あれ? いまじぶん息してる?」ってなる。呼吸すらむつかしいのに勉強のあれやこれやがむつかしくないわけがない。料理だって、「お塩小さじ三杯かなるほどなぁ(どさー)」って具合だし、ひととしゃべるのだって、「あ、あ、あ、ちゃす(やあやあ、我こそはいくびしまんでござる!)」てな具合で、頭のなかと現実がリンクしない。ちぐはぐすぎて、噛みあわなくて、なんでうまくいかないのか解らない。学問うんぬんの次元の話ではなく、生きるのがむつかしすぎる。ぜんぜん話変わるけど、いくひしさんぬいぐるみが好きなんだよね。でも持ってなくて、お店とか、ツイッターとかで、ぬいぐるみ見ると、いいなー、かわいいなー、ほしいなー、ってなる。そう、かわいいものがじつは好きなのだ。でもたぶん、ぬいぐるみさんのほうでは、「いくひしさんは嫌だ、いくひしさんは嫌だ、いくひしさんは嫌だ、グリフェンドール!!!」みたいにもっとかわいいのが似合うひとにもらわれたいと思っていそうだし、じっさいかわいいひとにもらわれたほうがいい気がするので、おまえかわいいな、と心のなかで唱えて、かわいいぞ、の頷きを一つ置いて別れるのだ。かわいいのが好きだけど、かわいくなりたいわけではないんだな。なるならかっこよくなりたい。でもかわいいのも好きだ。ルッキズムとか見た目の差別との兼ね合いで、ときどきだけれども、かわいいのを好き、という感情に何かこう、よこしまなヨドミのようなもの、罪悪感みたいなのを覚えるのだけれど、これはいくひしさんだけじゃろか。かわいいのは好きだけれども、かわいいひとは、じつはそんなに好きではない。というか、ひとがそんなに好きではない。写真とか動画とか、そういう間接的なのはよいのだけれど、リアルがなんかダメなんだよね。リアルはちょっとリアルすぎる。情報量が多い。獣との違いがしょうじきよく解からない。差別主義者でしょ? 話がまた逸れてしまうのだけれど、情報量を落とすと、獣みが薄れるから、デフォルメされた絵とかすごい落ち着くんだよね。完成された絵よりも、途中の絵のほうが好きだったりするのも、そこに関係しているのかもしれない。それがよいわるいの話ではなくね。いくひしさんの感性が乏しくて、情報処理能力が低い、という話です(それがわるいとは思っていない)。今宵も懲りずに長々ととりとめのないことを並べてしまった。要点をまとめれば、生きるのはむつかしいってことと、かわいいのが好きってことになるのかな。美しいものにもかわいいはあるし、醜いものにもかわいいはある。かわいいがないものはないと言ってもよいかもしれない。何を見たらかわいいの気持ちを抱けるのかがひとそれぞれ違っているだけの話でね。人間とは何か、という問いに答えがもしあるとすれば、何かを知覚してかわいいと思えるもの、としてもよいかもしれない。好きとかわいいは似ているけれども、かわいいから嫌いは矛盾しないので、好きとかわいいは同じではない。かわいいけど汚いと、汚いけどかわいい、も同じではないから、ややこしい。かわいいとは何か、を論じるだけでもたぶん一つの学問を築けるくらいの知識が必要な気がする。いくひしさんが知らないだけで、かわいいを研究しているひとは世界中でざっと一万人くらいはいるんじゃないかな。もっといるかな。いるだろうな。ちいさい子供が母親のことを、かわいい、と言っているのを稀に見掛ける。あれは、母親が子供にかわいいと言っているから学習したのか、それとも人間は生まれたときからかわいいが何かを知っているのか、どっちだろうね。無垢な子どもは残酷だけれど、いったいいつから「かわいい」の概念を獲得するのだろう。元からある本能に、かわいいの概念を上書きしているだけな気もするけれど、定かではない。赤子はどうして母親の乳首を吸いたがるのか、にも通じていそうだし、まったく関係ないかもしれない。乳首はかわいいかというと、あんまりかわいくはない。じっくり見れば見るほどかわいくない。でも、ちくび、という言葉の響きはかわいい気がする。言葉は情報が、ざっくり切り落とされているから好きだ。飛び飛びなので、言葉はきっとデジタルなのだろうね。でも言葉はあまねくかわいいかというと、そうでもない。かわいいは、好きよりも汎用性が高いのに、局所的なのだ。例外はないのに限定されている。矛盾があるから、いくひしさんは「かわいい」が好きなのかもしれない。定かではない。



2736:【いいひとのフリをするのなんて簡単】

経験上、傷ついてるときにひとはじぶんが傷ついているとは気づけないので、何か環境が大きく変わったのに、のほほんと日々を過ごしているな、と感じるときは、どこか大きくじぶんが傷ついているかもしれない、とすこしだけじぶんを労わるように、負担を軽くするように、休むようにするとよいと思う。誰かが困っているときにたいへんな思いをしながらその誰かのために動けるひとは、それはそれでつらいだろうし、しんどいが、それとはまた違ったしんどさが、何もできないひとにも蓄積されていく。誰かが困っているのにじぶんは何もできない、という無力感は、けっこうにひとの心を蝕んでいく。だからときには、祈りとか、感謝とか、そういうなにかしらのカタチで、無力ではないのだ、とじぶんを誤魔化すことは、一時的には精神の安定という意味で、有効に思える。ただし、そこに依存してしまうとやっぱりすこし危うくて、ある側面ではじぶんは無力であり非力である事実、は認めたほうが好ましい。傷ついているじぶんを認めなければ、傷を癒すことができないこととそれは似た理屈を伴っている。なにより、この原理を知っていてもどうしようもない傷というのもあって、ただただ日々傷つきつづけるしかない時期というのもある。そういうときに、虚構や娯楽に身を投じ、現実から目を背けていられれば、傷の悪化や進行をゆっくりにできる。しかしこれもまた一時しのぎでしかない点には留意されたい。けっきょくのところ、傷つくというのは、変化しているということなのだ。その変化に適応していくしかない。それは迎合するという意味ではない。傷つくかもしれないことを前提として過ごしていくしかない、という意味だ。ときには乗り越えて、元の状態に戻ることも可能だろう。それでもまた似たような傷を受けてしまえば、やはりひとは傷つくのだ。避けられるようならば避ければよいが、できれば対策を打っておきたいものだ。一度あることは三度ある。確率の問題としてやはり野放しにしておくのは利口とは呼べない。閑話休題。抽象的な言葉の羅列はこのように、個人の内面に言及しているようで、どことなく社会全体のことにもあてはまって聞こえたりする。ぼんやりと、なんとなくの、どうとでも捉えられる言動には注意しておきたいものである。往々にして便利なものには毒がある。かといって毒があるから便利とはかぎらない。何か、深いことを言っているなあ、と思ったりしていないでしょうね。ぜんぜんだよ。金魚も溺れる浅さだよ。騙されたらいかんよ。(ちょっと弱音を吐いてみせたくらいで気を許すんじゃないよ。演技に決まってるだろ)



2737:【わるぶるのはもっと簡単】

どっちにしてもつづけるのが一番むつかしい。それは、生き残りつづけるのがむつかしいのと似た理屈を伴っている。(この言い回し、気に入ってしまった。もう使わんけど)



2738:【スイカに塩にはなれなくて】

私の言葉は誰も救わない。傷つける余白ばかりを広げつづけて、黙っていられればそれがいいのに、どうしてだろうね、無駄だと判っていても、誰かの何かにあいた間隙にぴったりの破片がないかと、無数のガラクタを並べつづける、傷口にぬったくった塩や辛子にならないとよいけど。



2739:【悲しくないのは冷たいの?】

身内が亡くなっても悲しくはないのだけど、残されたひとたちがそのことで悲しんでいる姿を見ると悲しくなる。たぶんだけど、人そのものや、命そのものを尊いとは心の底では思っていないのだ。そのひとが何を感じ、何を尊び、何を考え、行うのか、或いは行わないのか、に琴線が触れ、感情が動かされる。当たりまえと言えば当たりまえかもしれない。人が死んで悲しいのは、そのひとの生みだしただろう影響の波紋が、未来が、金輪際途切れてしまうからなのだろうね。だから影響を感じつづけていられると、悲しさが薄れるのだ。たぶん、そのひとが死んで悲しくなれないのは、そのひとの残した影響が消えてなくなったわけではないと心のどこかで考えているからかもしれない。影響さえ残ればそれでいいと考えているのかな。そう考えることは、命を軽んじることと同じなのかな。本当のところがどうなのかは解らない。自信がない。本当はほかのひとたちみたいに悲しめたほうがよいのかな。それがよいのかも、よくは解らないんだ。



2740:【め】

ひとを傷つけてはいけないと言った口で、そんなにいともたやすくひとを傷つけていて、どうして平気なの、と思うこの口ですら、平然とひとを傷つけている現実に、嫌気がさして、魔がさして、堂々巡りで、逃げだしたくなるじぶんだけの静かなる部屋に、孤独の殻に。誰も傷つけないとか無理じゃない? ひとを傷つけたいわけではないし、ときどきは傷つけたくもなるこのどうしようもない自家撞着の塊である事実から目を逸らしたくなる、孤独が好きなのはきっと、誰かを傷つけてしまうからとか、じぶんが傷つきたくないからとかじゃなく、単に見たくないものから目を背けていたいだけなのだ、いいや、それすら嘘で、ただ一方的に覗き見ていたいだけなのだ、あなたが傷ついている姿を、そして私が傷つけている事実を、或いは、じぶんが傷ついている現実、それともそこから目を背けている現実を、ただ一方的に覗き見ていたいだけなのだ。



※日々、見上げてばかりで埒が明かぬ、首が痛いのでちょっと休む。



2741:【図太く生きていこう】

髪の毛を切るといつもより気持ちどっと疲れるし、木の枝をのこぎりで切り落とすとやっぱりどっと疲れる。生きているものを傷つけたり、傷つけられたりするのは、痛みの有無とはべつにたぶん、精神が削られる。ぜんぜんなんとも思っていないのに、疲れるのはなんでだ(答え、身体を動かしたから)。



2742:【便利なものはやさしい】

思春期を未だに抜けだせていないので、クールなのがかっこいいと思っている。でも氷系よりも炎系が好きだし、変化系よりも強化系に心を惹かれる。特質系や例外系はいつでも好きだ。でも一番は、やさしいひとが好き(やさしいって、じぶんにとって都合がいいって意味?)。



2743:【希薄さが足りない】

さいきんのSNS、ただいいね押すだけでも、いままでよりずっと距離感のちかい行為な気がして、気分がわるくなる。孤独になるのがむつかしい時代だ(やめどきじゃない?)。



2744:【相対評価】

他人を、冷たい、と非難するひとは暗にじぶんがあたたかいと意思表示していることになるのでは?(ドライアイスが氷に対して、冷たい、と言うことがあるのか問題)



2745:【死生観と冷たい】

循環論法であまり意味のない言葉だが、人が死ぬのは死んだときだ。誰かに憶えてもらっていようと、影響が残ろうと、死んだときがそのひとの死んだときである(肉体の死をどう定義するのかは多岐にわたり、はっきりとは線引きできない。再起不能な状態、復元不能な状態とすればおおざっぱにそれらしい。たとえ肉体が完全に滅ばずとも、記憶を失い、人格が大きく変質し、元の人格を高い割合で再現できなくなれば、これも広義の死として定義できる。いずれにせよ、主格の死が死なのである。そこに他人は介在できない。他人の記憶のなかで生きつづける、なんてことは原理的にできない。クローンや人格のコピーが可能であっても、オリジナルが死ねば、そのオリジナルは死ぬのである。他人の認識に関係なく、死は訪れる)。そして死んだらそのあとはない、という死生観をいくひしさんはもっとも合理的な考えとして採用している。霊魂が存在しているか、いないかは知らないし、死後の世界があるのかも知らないが、それでも、そんなものはないかもよ、と考えて過ごしたほうが損をしないと思っている。だからこそ、いちどしかない人生がたいせつだと考え、いかに生きるかがだいじなんだね、とときどき思い返したり、そうした理屈で自己肯定をして、じぶんさえよければそれでいいと我がままに生きたりしている。とはいえ、他人の人生がどうでもいいとは思っていない。誰かが生きた影響が無数に干渉しあって社会は築かれ、こうして「私」が誕生し、生きつづける余地を広げている。可能性の幅を、広げている。選択肢を増やしている。どんな人間であろうと死んだらそこでおしまいだが、そのことと、そのひとの生きた影響が消えることはイコールではない。いくひしさんにとっては、死別も離別も、そんなに変わらない。物理的に作用し合えないのならば、或いは一生出会わないのであれば、死別も離別も変わらないだろう。相手には相手の人生があって、その人生がそのひとにとって好ましかったらまあまあうれしく思うし、その影響の果てにいくひしさんにも好ましい変化が訪れたら言うことがない。死んだらひとはおしまいなので、悲しむ道理がない。いくら悲しんでも、死んだひとにしてあげられることは何もないからだ。悲しいのはそのひとが死んだからではなく、そのひとが死んだことでじぶんが損をして感じられるからだろう。だが、いくひしさんは誰が死んでも損をしたとは考えない。じぶんはじぶんで、他人は他人だからだ。もちろん苦しんでいるひとがいたらそれは嫌だし、悲しんでいるひとがいたらそれは嫌だ。その好ましくない影響をじかにじぶんが受けてしまうからだし、生きているひとがそういう境遇に身をやつしてしまう以上、いくひしさんも似たような環境に陥る確率は高くなってしまう。それは嫌だと思うから、悲しいし、ときには怒ることもある。いくひしさんにとっての優先順位は、高いほうから、「じぶんの生き方」「それを維持するための環境」「その環境を維持するための他者の影響」そして、「影響を生みだす他者の生き方」となる。完全に独裁者の発想だ。ただしふしぎなことに、じぶんの生き方を優先し、より自由度の高い環境を維持しようとすると、もっとも尊重すべきが他者の生き方となる。食物連鎖を維持したければ、植物プランクトンを減らしてはいけないのと似た理屈かもしれない(注意したいのは、食物連鎖は生態系をシステムとして捉え、その一側面を図式したものにすぎない点だ。生物としての格を示したものではない。クジラだろうがプランクトンだろうが、属する層の違いで、生物としての価値の高さが変わるわけではない。そういう意味で、階級制度を図式したヒエラルヒーと食物連鎖とを同列に語るのは妥当ではないと言えよう)。あまり褒められた発想とは言えない。高尚さはない。例外的に、突発的な死は、いくひしさんもすこしだけ悲しくなる余地がある。予想していた影響が手に入らないと知って損をする気になるからだろう。事故死や殺人はだからほかの死と比べたら悲しみが増す。でも、老衰や闘病の末の病死なら、そんなに悲しくはない。自殺はこれは、予想できていたら悲しくないし、予想外で、かつ相手から及ぼされる影響を好ましく感じていたらやはり損をした気になって悲しく感じる。同様の理屈から、虚構の物語に登場するキャラクターたちの死は、とんでもなく悲しく感じる。不謹慎を承知で述べてしまうが、生身の人間の死より下手をしたら悲しいかもしれない。だって、作者の一存でいくらでもその後に、楽しい展開を広げていけたのに、それが死んでしまうことで、いくひしさんに及ぼすはずだった楽しい気持ちが奪われてしまうのだ。そんなのってないと思う。でも、生身の人間は虚構ではない。生きている。言い換えれば、いつでも死を内包している。現実というのはだから、つねに悲しい。そう、いくひしさんがひとの死をほかのひとたちみたいに素直に悲しめないのは、いつでもその可能性があることを覚悟しているからかもしれない。それでもときどき、きょうではないよね、と高をくくってしまう。そういうときに、予想外に身近なひとが死んでしまうと、手に入るはずだった影響が消えて感じ、悲しくなってしまうのかもしれない。だとしてもやはり、そのひとの生きてきたなかで広げてきた影響は消えないし、誰にも憶えてもらえずとも、なくなったりはしないと思っている。おそらくそれゆえに、ひとの死がみなが感じるほどには悲しくない(みながどの程度真実に悲しんでいるのかは知りようがないが。表出する感情と、じっさいに脳内発火している悲しいの感情は等しくはないだろう)。生きているひとが悲しんでいるほうが、ずっと悲しい。悲しんでいるひとが近くにいると、好ましい影響を受けにくくなって、損をして感じるからだ。こういうのを、冷たいと言われたら、そうかもしれないですね、と応じるよりない。でも、ひとの死を悲しめるひとが、生きているひとへの配慮を欠いていると、冷たいとは? と首をひねってしまう。じぶんに他人の死を悲しむ能力があるか否かよりも、生きている誰かを悲しませないか否かのほうが、冷たいの評価基準として妥当に思えるが、これは冷たい考え方だろうか?(誰かから、きみは冷たい、と非難されていじけているわけではない、断じて!)(きょうのいくひしさんはこう思った、以上の意味合いはありません。あすになれば、また違った死生観を並べるでしょう。いくひしさんがいったい何作、死神や霊魂の出てくる物語をつくったと思っているのですか。真に受けてはいけません)(ドラゴンがでてくる物語をつくったからといってドラゴンの実存を信じているとは限らない問題)



2746:【いやいやいやいや】

まんくん、あなたのそれは両方でしょ。人の死を悼めないし、生きてるひとへの配慮も足りないでしょ、すべてが冷たいでしょ、薄情でしょ、想像力がスポンジよりもスカスカってどういうこと。百兆歩譲ってそれはよいとして、まんくんは口ばっかで、じつは傷ついてるし、動揺してるし、それを上手に隠せていると思っていながら、他人からの配慮に甘えて、じぶんの負担を他人に肩代わりしてもらってるだけだよね。せめてそのことへの、なにかこうさあ。まあいいけどね。好きにしたら。そうそう、他人からどう見えるかに対しての引け目は人一倍で、どの角度から見てもかっこよさの欠片もないけど、それはまあ、まんくんの個性と言えば個性だからだいじにしたら。後生大事に抱えて生きたら。きみのそれは冷たいんじゃないわ。寒いんだわ。極寒だわ。一ミリも笑えんわ。クール便いらずじゃん、よかったねー(クールから程遠いにもほどがある)。



2747:【正論ではあるけれど】

さすがにちょっと言いすぎでは?(や、却って火がついていいのか。不器用な激励と言えば、そう見えないこともないしな。言われたくはないが。さされすぎた図星はむしろ心地よかったりするとか? ないか。ないな)



2748:【なんもわからん】

ひとの死すらネタにする性根の腐れ加減に嫌気がさすけど、じつはそんなに嫌じゃないところまで含めて、やっぱり嫌かもしれないし、そうでもないかもしれない。じぶんのことなんもわからんし、他人のことはもっとわからんし、なんもわからん(小説なんか多かれ少なかれ人の死をネタにしているわけで、不謹慎極まりないですね)(すぐそうやって自己肯定の理屈を見繕おうとする。よくない癖だと思いますよ)(そう? うがー!ってなるより、よくない?)。



2749:【箱で囲んでしまうのもアリかも】

乱れた水面をふたたび線にするには、敢えて干渉しない時間を置くか、正反対の波形をぶつけるか、のいずれしかない。放置するか、対処するか、の違いだ。



2750:【乱れ】

なにもしてあげられなかった、という罪悪感があるのかもしれないし、なにかを与えようとしつづけて日常の一部にしてしまっていたらきっといまよりずっと無視できない規模の混乱に見舞われただろうな、との予感もあるし、そう予感していたから敢えてなにもしてこなかったというのもあるだろうし、その選択がよかったのかどうかもよくはわからないし、時間が巻き戻ってもたぶんいまと同じように振る舞うだろうし、結論はでているのに、それが正しいと思えないときに、ひとはじぶんで選んだことであっても、混乱するのかもしれないし、これはただ、日常に生じたちょっとした渦に目を奪われて、酔っているだけかもしれない。たぶんそうだ。一週間後にはこの文章のことすら忘れているだろう。そういうじぶんの気質をすこしだけ、どうかと思う日もあるという話。自己肯定ばかりしてはいられないし、自己否定とて同じことだろう。波のように反復しつつ、よい塩梅を探っていくしかないのかな。単調なままだと飽きてしまいそうだね(思考が乱れることで感情が生まれるのか、それとも感情が邪魔をして思考が乱れるのか、或いはそれらはまったく別々で、思考は思考で乱れるし、感情は感情で乱れるのか。どれもありそうだし、ほかにも混乱と呼べる精神の動きを解釈する視点はありそうだ。一つのことに囚われ、思考を独占されてしまえば、感情が乱れていなくとも混乱していると言ってそれほど的外れではないはずだ。思考の筋道まで入り乱れるようになったら、それは錯乱と呼ばれるのかもしれない)(ということは、いくひしさんはいつでも錯乱していることになるのでは?)。



※日々、一晩に降る雨粒ほどのマス目のあるルービックキューブをもてあそぶ。



2751:【背景、あのころのわたしへ】

あなたはたぶんこう思ってる、どうして世界はこんなに広くてキラキラしているのにわたしの進む道はこんなに薄汚いのだろうって、色褪せているのはじぶん以外のせいだと信じて疑わないあなたはでも、そこに色を足して、じぶんの手で彩ろうとはしないよね。あなたはあるとき気づく、この世界はべつに最初からきらきらしているわけではないんだって、そういうふうに世界を視たひとがいて、たくさんの装飾できらびやかに装い、皮一枚めくった裏側には、相も変わらずに灰色よりもずっと薄汚い世界が広がっているんだって、それを知ったところでどうすることもできずに、あなたはほかのひとたちが懸命に塗りあげた絵画の世界を眺めてる。ある日、あなたは誰もが経験するような最初で最後の傷を負う、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054896851953



2752:【背景、あのころのぼくへ】

あなたはきっと、じぶんにとっての悩みが誰かにとっての些事である事実に堪えられませんし、誰かにとっての悩みがじぶんにとってとるに足りない日常や過去の追体験でしかなかったら、きっと相手を傷つけてしまうと考えて、どうあっても悩みなんてひとに相談するものではないし、されるものでもない、しないほうがよいことだ、と結論付けて、狭く、ちいさな枠の中に閉じこもるのでしょう。でも、そうした、しないほうがよいことですら、あなたとならしあいたいと思える相手と出会えたなら、それはすばらしいことだと思いますし、得難いことだと思います。縁や繋がりなんてないほうが好ましいとぼくですらそう思います。でも、そうした、ないほうがよいものですら結んでおきたいと望める相手となら、出会いたいし、出会ってよかったと思えるようになるような気がいたします。反面、そんな奇跡は(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054896852024



2753:【背景、あのころの私へ】

その道を行くことにいっさいの迷いがなかったころが嘘のようにいまは目に映る影という影が私の悩みの権化であるかのような日々です。つまり、ものすごくたくさんぐにゃぐにゃと悩みに押しつぶされそうな毎日ということです。押しつぶされる、ではなく、押しつぶされそう、が肝だと思います。一貫性のあることが好きで、何かを貫くことを美点と思っていた私がまるで他人のようで、つまりこれを読んでいるあなたが他人にしか思えないくらいに、私にはもう、あなたにあった美意識や感性がなくなってしまった、との懺悔とも告白ともつかぬ、そんなおたよりになる予定です。ほとんど愚痴ですね。あなたがうらやましいというひがみと、それとも、こんな私で申しわけないとの謝罪がごちゃまぜな気分です。きっとあなたはこんな私を許せないでしょう。いいえ、そもそもこんなおたよりを送られてもそれが私からの言葉だなんて信じる以前に、素直に受け止めることすら、読むことすらしないように思います。でもいちおう、書いておきますね。私はあなたが夢見ていた道をそうそうに脱線してしまって、飛び降りてしまって、あなたが思うほどにはまったくこれっぽっちもつよい人間ではなかった現実にうちのめされています。それはもうずいぶんむかしのこと、あなたにとってはもうすこし先のことになりますが、私は夢を諦めることすらせずに、ずっとこのさきも一生つづけていくだろうと思う道に背を向け、いいえ、どんな道から飛び降りたのかすら振り返るのがおそろしく、嫌すぎて、道を見ずにすむようにと、洞穴に飛びこんで、そのなかで膝を抱えてずっとうずくまっています。ありていな表現で申しわけないのですが、私は夢に破れました。いいえ、夢を、破りました。破れたはずのその夢を捨て去れればよいものを、その破れた夢すらなにかしら誇らしく、みみっちい人生を着飾る何かしらの光になるのではないかと、後生大事に抱えて手放そうとしません。できないのです。あなたならきっと、そんなものはさっさと捨ててつぎの光を掴むべくがむしゃらにまえに進め、じぶんの道はじぶんで切り拓くものだ、といったことを、もうすこし文学的な表現でおもしろおかしく、ときにかっこうのよろしい文面でしたためそうですね。私にはもうそうした体裁を取り繕おうとする気概すらありません。なんて書きながら、どうしたらあなたに失望されずに済むだろうかと、無意識のうちから言葉を取捨選択しているじぶんに気づき、ますます自己嫌悪に陥ります。いまここに、あなたはいません。そして遠からず、あなたも私になる日がくるのでしょう。ですが、私からのこのたよりを読むことでなにかしらの変化が訪れるのであるとすれば、それはそうあってほしい変化だと思っています。残念ながら私のもとにたよりは届かず、いまこうして書いている言葉に既視感はなく、それともどこかで見たことのあるような、どこにでも有り触れた文面でしかなく見えます。私に限らずみな似たような悩みに押しつぶされそうになっているのだと言われればそうなのでしょう。ただ、あなただけは違った、そのことだけは知っています。そのことだけを私だけが知っています。あなたはたしかにいまそのとき、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054896852162



2754:【背景、あのころのおれへ】

文章慣れてねんで音声入力でやらせてもらうけど、なんかいきなしタイトルで誤字のおしらせ光ってんだけど、背景って、拝啓じゃねえの? いいの? ほかのひとらのもそのままんなってるっぽいんでそのままにしとくけど、あのさ、おれさ、むかしのじぶんに謝りたいってか、なんであんとき我慢しちゃったんだよってさ、いまんなって後悔してんの。やらない後悔よりやる後悔ってあんじゃんああいうの、あれマジでホントでさ、すこしのあいだはいいんだ、なんか我慢してんのが偉い気がしてきてさ、でもさ、ある時期から急に、なんであんとき我慢しちゃったんだろうって、めちゃくちゃ考えるようになってさ、だんだんその数が増えてって、さいきんじゃあもう、気づくと、殺す、とか口走ってんの。誰にとかじゃなくて。つうかじぶんに。要はおめぇを殺したくってさ。もうぶっころしてやろうかと思うくらいに、ときどきあのとき我慢しちゃったおれ自身、要するにおまえをどうにかしたくなっちまってさ、でもどうしようもねえじゃん。おまえはおまえでそこでなんだかんだもがいてんだろうし、おれだってこっちはこっちでいまそれどころじゃねえってのもあっしよ。そう、だから謝りたいってのはおれがおまえのころにそれを我慢しちゃったってことじゃなくってさ、ずっとあとになっていまになってどうしてやらなかったんだろうって後悔するたびに、一生懸命に、本当にがんばって我慢してるおまえのことをぶっころしたくて、ぶっころしたくて堪らなくなるってことがさ、どうしても謝りたいってかさ、じゃあ、んなこと思うなって話なんだけどそれができたらこんなんやってねぇじゃん、おまえにこれを送らねえじゃん。強要はしねえし、おまえの選択も否定はしねえ、ぶっころしたくはなるけど、んなことしたらおれだって死んじまうわけじゃん? 好きにしろよ、でも、どっち選んでも後悔するってことだけは憶えといてくれよな。罰ゲームみてぇなもんだよな、どっち食ってもカラシ入りシュークリームじゃんこんなもん、んなの(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054896852282



2755:【背景、あのころのあたしへ】

きみは驚くと思うよ、なんたって未来のあたしから手紙が届くってんだから、そりゃあね、あたしならきっと飛んでよろこぶと思うな。あたしにはなんでかそんな記憶は残っていないし、いまこれを書いてる段階だから、まだきみのところに届いていないだけ、言い換えればあたしにはその記憶が根付いていないだけのことなのかもしれないけれど、いまからきみへ向けて言葉を贈ることにする。いちおう、文章にうるさいきみのことだから題名の誤字について説明しておこう。拝啓じゃないのって、きみはすでに手紙を持ってゴミ箱のまえに移動しているかもしれない。でも待ってくれ、早合点がきみのゆいいつの欠点だ。拝啓ではなく、背景、で構わないのだそうだ。ほかにもいろいろと手紙をだしているひとたちがいて、あ、もちろん過去のじぶんにって意味だけれど、いまのあたしが眺めている景色、あたしを包みこむ世界、それでいてあたしの背後に広がっている奥行き、そういったものこそが過去のあたしそのものであり、同時にきみ自身であるって意味合いがあるんだと、あたしは睨んでいるよ。それとも過去は過去にすぎないって皮肉かな。きみはどう思う? よかったら日記にそのことを書いておいてくれ。それがこちらの世界に、未来に、引き継がれるかは知らないけれどね。そろそろあたし自身のことが気になりだしはじめた頃合いではないかな。あたしはきみの思い描いているいくつかの将来像へとつづく道の一つを、まあそれなりに順調にっていうと語弊があるけれど、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054896852391



2756:【背景、あのころの僕へ】

じぶんが死ぬときの場面を想像して、日々をだいじに過ごそうときみは、たびたびの決意を固める。なのにどうして、じぶんが取り返しのつかない真似をしでかしてしまう未来については想像を働かせなかったのかな。誰かを困らせたり、傷つけたり、じぶんよりも立場の弱いひとたちを虐げたり、そういう真似を許せないきみが、どうしてじぶんが誰かを困らせ、傷つけ、虐げる側に回ってしまう可能性に思い至らなかったのかが、いまからするとふしぎでならない。きみは気づいていないが、相当な差別を日常的に、無意識から行っているし、傷つけてもだいじょうぶなひとと、そうでないひとを、相手の言動から見ぬいて、識別し、じぶんの態度をつど変えたりしている。それはちょうど、父親にはいいこを演じて、母親には厳しく当たり散らす内弁慶みたいに、それとも人気者にはいいこを演じて、いじめられっこに対しては不快な気持ちを隠そうともしない思春期の子どもみたいに、きみはじぶんで思っているよりもずっと幼くて、我がままで、衝動的で、自己矛盾を一つと言わずして大量に抱え込んでいる。そのことを自覚できない程度の知性しかなかった点も、ざんねんに思う。きみはある日、取り返しのつかない真似をしでかしてしまう。そのことで長い期間、ずっと謝罪の言葉をしたためるようになる。許されたいとは思わないが、許されないことをしてしまったのだ、と反省している気持ちを相手に知ってもらおうと必死になる。しかしその自分よがりな手紙のせいで、やはりきみはさらに他人を傷つけつづけ、ずっとあとになってから、善意が裏目にでていることを知る。どこまでもきみは、僕は、自分本位で、性根が腐っている。せめてそのことに罪悪感の一つでも(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054896852613



2757:【背景、あのころのワタシへ】

アナタにしないでほしいことがたくさんありすぎて、もうほとんどアナタには何もして欲しくないと怒鳴ってしまいそうで、こうしてワタシから何かを伝えようとしても、アナタにとっては脅迫電話と同じになってしまう気がして、けっきょくこれで三度目の書き直しになってる。占いみたいに書いてるひともいて、ああそっか、まあ占いみたいなものだよね、と思ったら踏ん切りがついたので、アナタの未来を知る魔法使いの気分で、アナタの運勢を占ってあげる。アナタは大学に進むか、やりたいことをするかで、親と揉める。大学にいってもできるだろう、と正論を吐かれるが、大学に入ったことがないので両立できるのかもよくわからない。友人たちに相談するがそこでもやっぱり小馬鹿にされる。もちろん表向きは誰もが応援するフリをしてくれるけど、明らかに成功なんてしっこない、どっかで挫けて、お先真っ暗な人生だよ、と脅してくる。ここまで書いてぞっとしたけど、まるでいまのワタシみたいだ。ホントはアナタに、アナタの進む道は間違っていた、とねちねち書き連ねてやろうと思ってたけど、なんだかムカついてきたのでやめておく。がんばれ過去のワタシ。めっちゃがんばれ。いまのワタシはアナタを否定しない。いいよ、やっちゃえよ。いけるとこまでいってやれ。ワタシはアナタをそんなに好きじゃなかったけど、それはたぶん間違いで、ワタシはワタシが嫌いなだけだった。いま振り返ってみれば、もっとうまくやれたと思うし、そしたらいまごろは毎日もっといいものを食べていられた。家賃の心配なんかしない日々を送れたし、税金や健康保険や年金、その他公共料金の督促状に怯えずに済む。お察しの通り、ワタシはいま貧乏だ。それもつぎに身体を壊したら、それこそ風邪や虫歯のレベルですら、罹ったら即座にいまの暮らしを手放すしかないくらいに極貧だ。寝る場所があって、いちおう毎日食うのに困っていないのだから、もっと貧乏なひとたちがいてそれよりかはずっと贅沢な暮らしなのは百も承知だけど、アナタの未来はこんなものだ。恐れてほしい。危機感を持て。かといって、どうしたらよいだろう、と解らない気持ちもよく分かる。ワタシだっていま(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054896853210



2758:【背景、あのころのボクへ】

いきなりだが喜んでほしい。キミの未来はバラ色だ。というのも、何をしても誰も成し遂げたことのないことを達成してしまって、まさしく虹色よりも豊かな色彩を、バラの品種の数ほどに自在に、手中に収められる。選びたい放題だ。したがっていまキミが興味を抱いているモノの研究はしなくたって構わない。徒労に終わるだけだろうから、しないほうが賢い選択と言えるだろう。キミが足繁く通っていた食堂はいまでもここにある。映画館も繁盛していて、街は人でごった返している。キミが懸想している女の子とは、キミが諦めなければ恋仲となり、生涯を共に過ごすこともできる。二人のあいだの子供だって、キミは玉のように可愛がり、旅行に連れて行くたびに我が子の愛嬌を噛みしめる。キミが応援していたアーティストたちは、キミの支援とは無関係に、大勢のファンを獲得するし、そういう意味ではキミの審美眼はなかなかのものだと言える。ひょっとしたら凡人ゆえに、誰もが魅了され得る表現にほかの大多数と同様に目が留まるだけなのかもしれない。じぶんを高く評価するとすればおそらくキミは、ほかのひとたちよりもすこしだけ、点ではなく、流れで、変化を捉えられるのだろう。他人の変化や、環境の変化を、キミは水の流れのように目にすることができる。成功の秘訣はそこにあるとも言えるかもしれないし、ほかの因子が関係しているのかもしれない。どうしてキミがほかのひとたちにできないことを成し遂げてしまえるのかは、よく解らない。偶然だとしか言いようがない。これはあまり他人には言えない悩みだ。自慢みたいで、いけすかないだろ。でも、過去のじぶんになら許容範囲内だ。キミが不快になっていたらすまない。そんな狭量ではなかったと記憶している。キミはもっと寛大な人間だ、そうだろ? ともかくキミの将来は安泰だ。何をしても成功する。いい思いしかしない。ゆえに抗ウイルス薬の研究なんか(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054896903065



2759:【背景、あのころのわたくしへ】

DNAの塩基配列が位置座標の役割を果たす。よって問題は時空の壁を通過する際に、過去へ送る物体が崩壊しないかどうかが鍵となる。立体構造を有した物体は向かない。一方向から高圧縮されても変形しない構造物だと望ましい。耐久性に優れた紙であれば、高い確率で時空の壁を透過し、そのままの形態を保持したまま過去へと送り届けることが可能だ。君はそうして、君の時間軸上から四十年後に、時空転移装置を発明する。時空の壁はヘビのウロコのように方向性が限られている。現在から未来へのほうが滑らかで、現在から過去へは抵抗が高い。だが、どちらにしても物体を送るには、高エネルギィが不可欠だ。よって、ある程度の抵抗があるほうが、ブレーキがかかって、制御しやすい。現在から未来へ物体を送れば、総じて、ススとなって消えるだろう。現在から過去であるほうが都合がよいという道理だ。DNAさえあれば、(つづきはこちら→https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054896952778



2760:【背景、あのころの貴女へ】

考古学者である貴女に不躾なお手紙、失礼いたします。さぞ驚かれているのではないか、と心中お察しいたします。まずは同封した年表をご覧ください。そちらには、貴女に起きる人生の転換期を、そのきっかけとなる出来事と共に羅列してあります。心配はいりません。貴女はごく平均的な人生を辿り、家族に見守られながら安らかに亡くなります。客観的な評価といたしましては、しあわせな一生を送ることになる旨をまずはお知らせさせてください。年表をご覧になられましたか? この時点で貴女は、この手紙の信憑性を五分五分の確率で「そういうものかもしれない」と判断なさっていることと存じます。たとえ未来からの手紙でなくとも、何かしらの超法規的処置の行える組織からの手紙だと推測されるのは、極々まっとうな論理的帰結だと評価いたします。そのうえで、これが未来から貴女へ向けて送信した手紙である旨を明かしておきます。すでにお察しかと存じますが、我々が貴女へ向けてこのような手紙を送った最たる目的は、貴女が先日発掘した遺物と密接に関わっております。端的に申しあげて、貴女の発掘したそれは紛うことなき本物です。本来、それが貴女の時代にまで遺ることはあり得ないのですが、この手紙同様に、過去へと送信するために特殊な加工を施してあります。貴女の発掘したそれと、この手紙は、ほとんど同じ材質ででき、同じ構造を有しております。我々と致しましても、貴女のような方が、それを発掘していた事実を突き止めるまでに、随分と手間と時間をかけました。その可能性がそう低くない確率であるとの指摘は、我々の組織内でもたびたび俎上に載ってはいたのですが、なにぶん、扱う時代が多岐にわたり、それに伴い、チェックすべき人物の数も膨大になるために、貴女の存在へと辿り着くのにずいぶんとかかりました。我々はすでに、貴女の発掘したそれを過去のある時期に送信しております。そのことにより、この地球という惑星に生命が誕生したのは、我々と致しましてもにわかには信じられない事実でございます。じっさいのところ、因果関係はまだはっきりとは解っておりません。我々がそれを過去へ送らずとも、この星には生命が誕生したのかもしれませんし、或いは我々が手を下さなければ、この星に生命は芽生えず、我々もまたある時期を境に、地上から姿を消してしまう定めにあったのかもしれません。その可能性を残したままにしておくにはあまりに大事であるため、どちらにしろ、生命が誕生する確率を上げるために、貴女の発掘したそれを我々は過去へと送り届けました。貴女の推察はおおむね当たっております。我々が過去へと送り、貴女の発掘したそれは、生命の起源たるRNAを無数に搭載しております。我々はそれを、陸と海の両方に送りました。RNAとまではいかないにしても、太古の陸と海には、それぞれある種の核酸塩基が鎖状に組み合わさり、任意の組み合わせを連結し、分裂するといったサイクルをつくりあげていたと考えられています。そこへ、明確に生命の源となるRNAを送り、無数に枝分かれした塩基配列群を、一つの方向へと収斂させる根幹の役割を果たすようにと働きかけます。そのために投じた一石が、貴女の発掘した遺物の正体です。貴女はなぜ太古の地球に、手紙としか思えない物体が存在したのか、と首を傾げていることと存じます。さぞ迷われていることでしょう。ねつ造の確率がもっとも高く、しかし放射年代測定におかれては、ハッキリとそれが太古のものだと示唆している、この二律背反のあいだで貴女は揺れていましたね。学会へ報告すべきと貴女の意思は傾いていたところで、この手紙を受け取ったのではないか、と想像いたします。そうなるようにとこちらで設定しておりましたから、そうなっていただけなければ、我々といたしましては、失敗と評価せざるを得ません。お願い申しあげます。どうか、貴女の発掘したそれを、公にはしないでください。貴女さまの胸にのみ仕舞っておいてください。生命の起源が、未来人の手による細工だと知れ渡れば、いささか人類にとって困難な局面の到来が予測されます。この手紙を貴女へと送り、貴女が手にした段階ですでに、そうなる確率はほとんどゼロにちかしい値にまで下がります。とどのつまり、貴女はこの手紙の意図を正しく紐解き、合理的な判断を下してくださることがほとんど自明となっております。我々といたしましては、この手紙を貴女へと無事に送り届けることさえできれば、それで目的は果たされたも同然です。貴女には人類存亡の危機という重大な任を背負わせてしまいたいへん心苦しく、我々一同、人類を代表して、謝意を申しあげます。一方的なお願いになってしまい、まことに申しわけありません。貴女の聡明な決断によって、人類、そしてこの星の生命は、栄枯を繰りかえし進化を網の目のごとく繰りかえす余地を得ます。もちろん貴女には、我々からの提案に敢えて乗らない選択肢もございます。それをこちらから禁止する真似はできません。その場合は、生命は貴女の知る歴史どおりには誕生せず、ゆえに人類はおそらく誕生しないでしょう。生命そのものは、時間をかければいずれこの星にも生じ得ると推測されますが、人類にいたっては、その機を逃すでしょう。いずれにせよ、我々といたしましては、貴女さまにお願いを申しあげることしかできません。なにとぞ、御一考のほどよろしくお願い申しあげます。長々と失礼いたしました。謝礼を含め、何かご要望がございましたら、その旨、この手紙の裏面にでも記していただければ、いずれこちらで発見し、対処可能であれば、ご期待に沿えるように尽力させていただきたく存じます。慇懃無礼な言葉づかい、恐縮至極でございます。お目通しいただき、幸甚の至りに存じます。お身体、どうぞおだいじになさってください。紙面も残りわずかとなってまいりました。改めて、この手紙をお手にとって、お目通しいただき、感謝申しあげます。まことにありがとうございます。敬具。未来維持総合研究機関第一研究所第一実験室実行部。時空転移制御システム責任者。累野曾(るいのそ)千尋(せんじん) 拝。



※日々、朦朧とし、耄碌している、逃亡し、冒涜している、懊悩し、強欲している。



2761:【予測変換の怪】

予測変換が進歩しているのは知っている。親と話していても、むかしは予測変換がお粗末で、何度も打ち間違えたり、全文をじぶんで打ったほうが速かったりしたらしい。それよりもむかしだと、ポケベルなんていって、番号を打って、ゴロ合わせでメッセージを送っていたなんて逸話も耳にする。モールス信号とどう違うんだろ。予測変換はいまだと、新しい端末の場合は、予測するためのデータがないから、言い換えると打った文字数がすくないから、「あ」と打っても、候補はけっこう少なめで、ふつうに漢字とか、ありがとうとか、一般的な文章しか並ばない。そのうち文章をたくさん打つようになると、そのなかから前に打ったやつとか、比較的多く使う言い回しや文章を、候補としてあげてくれるようになる。なんてことは、いまさら改めて説明するまでもないことなんだけど、さいきんどうもおかしい。最新機種のはずなのに、予測変換に、どう考えてもそれいらんやん、みたいな候補が並ぶのだ。あまりに場違いで、ぎょっとするからよく目に留まる。気持ち、十回に三回くらいの確率で、なにそれってのが浮かぶ。たとえばいまこうして打ってるあいだにも、「助けて助けてたすけて」とか(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897001867



2762:【お代わりをたんとおあがり】

アキコがホットケーキを食べられなくなったのは六歳になった日のことだ。誕生日のケーキとは別に、友達とホットケーキをつくったのだが、そのときに指南役の母から、卵を割ってなかに入れて、と言われて身体が固まった。「なんて?」「卵。入れないとふっくらしないから」「なんで?」「美味しく食べたいでしょ」何を引っかかっているのだろうこのコは、と言いたげに母は、アキコの友人たちに向かって笑みを向けた。アキコはそれからどうやって誕生日会を過ごしたのか記憶がない。はいしゃいでいた友人たちと母の姿はぼんやりと憶えてはいるけれど、ホットケーキがどうなったのか、じぶんがそれを食べたのかは覚束なかった。アキコはその日からじぶんの食べる物を注意深く観察するようになった。料理本を眺めることもあるし、母に訊ねることもある。どうやら大部分の食べ物は、元は生き物であるらしい。アキコはそれまでそんなことを考えたこともなかった。台所に立つ母の姿はいつも後姿しか見えなかったし、まな板は高い位置にあって、そこでどんな作業をしているのかは分からなかった。包丁を使うことは知っていた。あれで生き物を刻んでいたのだ。アキコは母が、鬼か何かのように思えた。同時に、じぶんもまたその鬼の子であり、知らず知らずのうちに、死んだ生き物を食べていたのだ。「ひょっとしてだけど、卵焼きって、卵?」「そりゃあ、ねぇ」母は父の顔を見た。父がTV画面から目を逸らし、母を見て、ん? とおどける。「じゃあ目玉焼きは?」「それも卵」言った母へ、なんだなんだクイズか、と父が愉快そうにする。だがアキコは体温がひゅっと下がったのを感じた。卵と言えば、鳥のひなが入っている器だ。赤ちゃんの寝床だ。そんなものをじぶんは、じぶんたちは食べていたのだ。赤ちゃん! アキコはいよいよじぶんがバケモノのように思え、罪悪感に押しつぶされそうになった。吐き気を催してもおかしくないその場面であっても、食卓に並ぶ目のまえの料理はどれも美味しそうで、現に過去に味わった記憶が、アキコの悲哀の念にかかわらず唾液を分泌させる。美味しそう、だってママのお料理だもん、美味しいに決まってる。しかしそれは生き物なのだ。とっくに死んではいるけれど、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897048736



2763:【闇夜のどどど】

ささいなことで母と喧嘩した。食事の前にお菓子を食べただけだのに、きっと仕事で疲れていて八つ当たりしたかっただけなのだ。ケントは理不尽な母に抗議するつもりで家出をした。夕陽が鮮やかだ。昼と夜の境目をこんなにハッキリと目にしたのは初めてのことに思える。小学校の裏手には森が広がっている。国立公園と繋がっており、森の奥がどこまでつづいているのか、想像もつかない。人の手が入っていないために、奥へ行けば行くほど太古の森を彷彿とし、神秘的であり不気味でもあった。ケントは臆病なじぶんを叱咤して、ずんずん進む。友人たちの話では、森の奥には滝があるとの話だった。そこを目指した。頭上は木々の葉が覆い、陽が沈むと闇が世界を塗りつぶす。拓けた場所にでてようやく今宵は月が眩しいのだと気づいた。満月だった。ひときわ明るく、地面にも月があった。最初に目にしたとき、それは湖に見えた。だが水面に映った月が霞むように揺れていたので、流れがあると気づく。ささめく葉の立てる風の音の合間に、どどどど、と水の立てる音がある。滝だ。歩を向ける。緩やかな斜面を登ってきた。道に迷ったらとりあえず下ればいい、と思った。不安はなかった。気分が高揚していた。滝壺の水面には砕けた波紋が、キラキラと光沢を放っていた。白い花が地面を覆い尽くすかのようだ。生ぬるい風が汗をさらう。ケントは、歩を止める。匂いがしたからだ。風が妙に、香ばしい。長く吹き、それから反対のほうへと引いていく。波のようだと思い、そんな風があるだろうか、と引っ掛かりを覚えた。滝の、どどどど、の合間に、風の音とは違った音があることに気づく。上空に吹き荒れる強風の余韻のようでもあり、遠い国から聞こえる地響きのようでもあった。ケントは後ずさる。本当は滝をこの目にしかと焼きつけてから、いまきた道を引き返そうと思っていた。家出のことなどすっかり忘れて、一晩の冒険のつもりで、楽しい思い出にするつもりだった。頭のなかではすでに、布団のなかにくるまれるじぶんの姿を想像していた。だがケントは身動きがとれなくなっていた。崖だと思っていた。奥に滝があり、それをぐるっと囲む背の高い崖がある。拓けた場所だが、森の木々が見えないくらいにうず高く聳えていた。妙だ。悪寒が全身を突き刺す。夜空と崖の境目が、一定の周期で、上下している。その振幅に合わせて、生ぬるい風まで、引いては寄せて、を繰りかえす。ケントは唾を呑みこむ。ゆっくりとじぶんの来た道を振り返った。まっすぐ引き返せば難なく脱せられるはずだ。何かの見間違い、いっときの目の錯覚かもしれない。臆病なじぶんを叱咤するよりも、まずはこの場から逃げ去りたかった。しかしケントのそうした思惑とは裏腹に、目のまえの逃走経路が、頭上から振りおろされた太く、長い、丸太のようなもので塞がれた。それはよくしなり、波打つように地面に横たわった。滝壺から広がる水面を中心として、ぐるっと囲われた。滝の流れ落ちるそこだけが、真実本物の崖なのだとケントはようやく察し至った。ひときわつよく、風がうなる。巨大な目が、三つ目の満月がごとく、闇夜に開いた。翌日からケントは森を抜けて、滝のある場所まで赴くのが日課となった。夕陽が沈んでから、父と母が仕事に疲れてじぶんの余暇に浸っている合間に家を抜けだし、闇を抜けて、空と地に浮かぶ月のきれいな場所に着く。ケントが辿り着くと、大きな目が、虚空に開く。まるで空間に突如として出現するみたいで、ケントはその瞬間を目にするのが好きだった。足音か、それとも匂いか、目の主は、いつも声をかける前にケントの存在に気づいた。「食べなかったんだ」ケントは(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897068506



2764:【扉はまだ燃えている】

いとも容易く燃えた。炎が扉を覆い尽くす。ずいぶん呆気ない幕切れに思え、もっとはやくこうしていればよかったのだと、じぶんの魯鈍さを遠い景色のようにぼんやりと思う。思いだせるなかでもっとも古い記憶は、水の国だ。そこが初めではなかった。長いあいだ旅をしてきた。じぶんの生まれ育った世界はべつにあったはずだが、いまではそれも曖昧だ。じぶんがいったいどの世界の住人だったのか記憶がだいぶ入り乱れている。扉だ。ただそれだけが確かだった。炎が目のまえで揺れている。***扉を抜けると暖かかった。水の国だ、とまずは思った。一つ前の世界でも悲惨な思いをしていたはずだが、それ以前の記憶はやすりをかけたみたいにざらざらしていて、すりガラス越しに見た景色のように不明瞭だ。逃げるように扉をくぐった。その焦燥感だけを思いだせる。振り返っても扉はすでに閉じている。くぐると扉の内側に黒い膜が張る。いつもそうだ。入ることはできても、戻ることはできない。扉はべつの世界への入り口だ。どんな世界に繋がるのかを選ぶことはできない。たいがいは碌な世界ではない。死と隣り合わせの過酷な世界だ。その日は水の国だった。辺り一面が、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897118490



2765:【ずるずるみっしり】

どう見ても人間の髪の毛としか思えないモサモサの生えた植木鉢が置いてある。玄関の門を司る支柱のうえだ。柳の木の枝みたいにしなっていて、風が吹くと、重そうに揺れる。きっとシャンプーをしていないから、ジェルで固めたみたいに油脂でぎとぎとなのだ。トリートメントだって御無沙汰だろう。日常の風程度では、生え際を顕わにするほど舞いあがったりはしない。そういった植物の可能性も考える。髪の毛に見えるだけで、一本一本はそこまで細くないのかもしれない。植木鉢の位置が高いせいで、触れて確かめることもできない。油脂で固まっているのか、それともそういう葉っぱなのか。子どもが人間の顔を描くと、髪の毛はジグザグと輪郭を縁取って終わる。そういう輪郭の葉っぱと見做したほうがいくぶん正確で、だから目のまえのこれもそういった植物だと見做したほうが論理的なのかもしれない。人間の頭部に見えるだけだ。髪の毛に見えるだけだ。それはそうだ。植木鉢に人間の頭を植えてタダで済むわけがない。通りに面したこんな場所に飾っておいて、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897221091



2766:【空の破片】

空から空が落ちてきた。なんて書くと、どうせ「空」という名前の人物やペットが落ちてきたのだろう、と勘繰られそうだが、そうではない。歩いていたら落ちてきたのだ。空が。最初は、飛行機の部品か何かだと思った。次点で、竜巻に煽られて飛んだ建物の一部か何かだろうと考えた。板状の端末の可能性を思いつき、そうだそうに違いない、と早合点したが、これは致し方ない。なにせ落ちてきたのは、空そのものではなく、空の一部だったからだ。破片だった。本を開いたくらいの面積しかないそれは、地面にコツンと当たって、ぱふんと倒れた。拾いあげてみると、青く、ただ青く、冷たかった。縁を持てば、拾いあげることはできる。しかし縁の内側には果てがなかった。否、奥行きがあった、と表現するほうが正確なところだろう。手のひらサイズで助かったと思う。落ちてきたそれが人間をまるっと覆い隠せる大きさだったならば、穴に落ちるように空へと投げだされていてもおかしくはなかった。破片が、街の大きさだったなら、街そのものがここから消えてなくなっていたかもしれない。落ちてきたのだからきっと、この破片の大きさに、空の一部が欠けているはずだ。剥がれ落ちたのだ。そこはどうなっているのだろう。想像しながら家に戻り、空の破片を壁に立てかけた。風こそ吹かないが、空気は流れている。冷蔵庫を開いているみたいに、そよそよと冷気が漂って感じられる。部屋の温度のほうが高いからきっと空気が向こう側へと抜けているのだ。気圧の差も関係しているはずだ。勢いよく抜けていかないのはなぜだろう。縁に触れられることと何か関係があるのかもしれない。魔法のようだと思い、魔法なのかな、と唇をとがらせる。部屋に窓が一つ増えたくらいの変化しかない。窓を開けずとも換気ができて、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897259057



2767:【本を聴く】

祖父の形見分けとしてイヤホンをもらった。じぶんで選び取ったそれは骨董品で、耳に装着する部位から長くコードが伸びている。むかしはそのコードを音楽データの入った端末に差しこんで使っていたらしい。邪魔じゃなかったのかな、と私なんぞは思ってしまうが、むかしは洗濯物も手でごしごし洗っていた時代もあったようだし、祖父の時代にむしろすでにこうした技術があったことのほうがふしぎに思える。人類の進歩、と意味もなく唱える。イヤホンだけあっても使い道はない。骨董品として、いつか恋人が部屋にやってきたときに話の種にでもしようと、気長な計画を立てひまをつぶす。なんとなくベッドに座る。ぼーっと部屋を眺めていると、漠然とした焦燥感、それはおおむね未来への不安からなる焦りの群れであったが、このままではいかん、何かせねば、といきり立ち、まずは手始めに部屋の掃除でもすることにした。祖母の形見分けのときには、紙媒体の本をどっさりもらってきており、それら本の山がベッドを囲んでいる。なんとなくオシャレな気がしてそのまま放置していたが、埃はかかるし、歩くのに邪魔だし、あまりよい配置ではなかった。恋人もこの部屋を見たら幻滅すること請け合いだ。焦りがまた一匹、ぴょこんと増える。本を一か所にまとめ、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897321096



2678:【竜の骸】

竜の寿命には諸説ある。数億年を生きるという学者もあれば、数千年だとする研究者もおり、最新の研究では原理的に竜に寿命はなく、よって我々の処理する竜の骸とされる巨大な物体は、飽くまで脱皮のあとの抜け殻だとする説を、我らが班長がのたまっている。「竜は次元を越えて脱皮を繰りかえしながら成長していく。最古の記録に残る竜の骸が、じつはさいきん発見された小型の竜の骸の成長した姿だとする説もあるくらいだから、まあ、実質、寿命はあってないようなもんなんだろう」焚火の火の粉が宙に舞う。「だったら」とさきほどから班長と激論を繰りひろげているのは、我らが処理班の呪具師だ。「だったらこの世のどこかに竜の死体だって転がっていてふしぎじゃねぇだろうが、寿命はあんだよ、あたしらが処理してんのがそれだ」「死体が転がっていないから、寿命がないのでは、と説かれているんだ、なぜそこが解らない」「だからなんでアレが死体じゃないって言い切れんだっつってんだよ」呪具師が腕を伸ばす。そのゆびの向かう先、山脈の向こうには、我らのつぎなる仕事場が聳えている。遠近感が狂うほどに、山脈がオモチャに見えるほどに、それは巨大だ。さいきん発見された竜の骸だ。班長の言葉では、あれは抜け殻、ということになる。「死体でない根拠は主に三つだ」班長が応じる。もういいよ、と私は内心うんざりしていたが、水を差せば、双方の矛先はこちらに向かう。黙っているに越したことはない。私の隣では、我らが処理班の治癒師がすやすやとかわいらしい寝息を立てている。見た目は齢六、七の幼子に見えるが、そのじつこの班のなかでは最長だ。普段から協調性がなく、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897372328



2769:【ほら穴へ落とす言葉】

ぼくが彼女の声を初めて聴いたのは世界中が宇宙人の襲来で大混乱していたそんな時期のことだ。両親が食料を調達すると言って出ていったきりもう何週間も戻ってこずに、そのころぼくは備蓄用の缶詰めをちびちび舐めてなんとか生き永らえていた。もともと両親が卸売り業者で、地下室に避難するしかないとなったときに倉庫から大量に保存食やら水やらを運びこんでいた。だからきっと、避難生活が長期化するとの見立てが濃厚になったのを期に、奪われてしまう前に倉庫の食料をごっそり運んでこようとの考えだったのだろう。裏目にでたのか、何なのか。ひょっとしたらぼくは捨てられて、両親はもっと生きやすい場所で避難生活を送っているのかもしれない。そうやって未だに両親がどこかで生き永らえていると想像して、すこしの怒りと、そうであったらよいな、の希望を思い描いて、見通しのきかない日々への慰めにしていた。ときおり頭上を轟音が通る。それもいつしか気にならなくなり、気づくと鳴らなくなっていた。自家発電機が壊れるまでは、電気に困ることはなかった。ただ、明かりは消耗品だから、ここぞというとき以外には点つけないようにしたし、インターネットもいまでは通じない。かろうじて、ラジオだけが生きていた。(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897423628



2770:【無視でいいって】

無視しとけっていいから。なんでって、なんつったらいいかな。知人からの又聞きだからぜんぜん信憑性はねぇし、幽霊信じないおまえに言ったところであんま意味もないんだけど、二〇二〇年はじまってすぐにけっこう、社会が大規模に混乱したじゃんよ。で、まあみんな家にいろだの、引きこもり推奨だの、マスクしろだの、人と接触するだの、うるさくなったじゃん。あの時期にさ、知人の友人がいわゆる霊感あるひとで、言ったら俺からしたら赤の他人だけど、ときどきそのひとの話は聞いてて、本当だったらおもしろいよね、くらいの話半分、暇つぶしにあのひといまどうしてんの、みたいな感じで、話題にでたりしてたんだけど、そのひとがさ、あの時期、しばらく外に出らんなくなったらしくて。や、いいんだよね、そりゃね。外にでんなって話なんだからさ、そりゃいいことだよ。でも、副業でそのひとお祓いみたいのもやってて、そりゃみんな家にいる時間増えたら、依頼が増えるわけですよ。なのに、一度依頼をこなしたきり、もうそれからずっと家の外にでなくなったらしくって。SNSの更新も止まって、連絡とっても買い物にも行ってないってんで、心配になって知人が差し入れついでに様子見に行ったんだって。単純に暇だってのもあったんじゃねぇのかな。まさか、宅配サービスまで使ってないとは思わないじゃん。そう、そのひと、完全に外界シャットダウンしてて。知人が部屋に入ったときにはもう食料もほとんど底突いてた状態で。そうだよな、そう思うよな。知人もそこまで神経質にならんくてもいいじゃんって、聞きかじりの疫学の話とか披露して、安心させようとしたんだって。でも、そうじゃなかったんだって。あの時期さ、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897474284




※日々、誤解をしている、誤解だったと気づくことすら誤解であり、ただその積み重ねが日々を築き、自我を養う。



2771:【きみは何も変わらないはずなのに】

友人が売春しているかもしれない、と昔馴染みから相談を受けた。「むかし告白して振られて、そっから友人として長い付き合いだったんだけど」「ふうん。売春って何、そういうお店ってこと?」「どうだろ。たぶんパパ活みたいな、愛人契約みたいな、そんな感じだと思う」「いちおう言っとくけど、二〇二〇年現在、売春は違法だよ。ただ、不特定多数相手じゃなきゃ売春と解釈されないし、膣と陰茎の挿入がなければ法律上は売春と見做されない。あと管理売春が犯罪なんであって、売春そのものに刑事罰則はない。条例でダメなとこはあるだろうけど、それも多くは、売春をする側を罰するためじゃなく、搾取する側を牽制するためのもので。この国の示す方向性としては、売春せざるを得ない経済的弱者は守るべき対象だ」「そんなのはおかしいだろ。売春せざるを得ないってなんだよ、まずはそこんところをしないようにしろって話じゃん」「止めたいの?」「そりゃあまあ」「それはなんで」「なんでって、そりゃあ」口ごもるところを鑑みれば、そこに潜む自己矛盾に気づいているのだろう。いいから言ってみて、とさきを促す。「だって、売春だぞ。男にコビ売って、身体をいいように弄ばれて、穢されて、それで金もらって、そんなんいいわけねぇじゃん」「うん。まずはそこだよね。便宜上、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897517975



2772:【僕を死にいざなった悪霊と】

霊感があってよい思いをした憶えがない。目に映るそれが幽霊か生身の人間かの区別がつかずに、ずいぶんな目に遭ってきた。幽霊よりも人間のほうがよっぽど怖い。社会が怖い。引きこもりになってみたはよかったが、かといって、では幽霊となら仲良くできるのかと言えばそれはのきなみ否であり、引きこもっていても霊媒体質のせいなのかひっきりなしに干渉してくる霊たちを拒む術が僕にはなかった。僕の理性はいよいよおかしくなった。大枚をはたいて購入した琥珀の宝石で、なんとか強力な結界を張ってみたが、解決を見せるどころか、こんどはその結界を物ともしない強力な霊しか寄ってこなくなり、却って体力は消耗した。祓える霊は祓ったが、それすらできない凶悪な霊にとりつかれ、いよいよ僕の精神は限界だった。きょうもまた例の悪霊がやってくる。なんでもインターネット上で(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897533184



2773:【ククラ、無数の手の者】

おそらくククラだろうな、と和尚は言った。小僧は生唾を呑みこむ。そしてあの、俊敏で、身の毛のよだつ影を思い起こすが、そこでふと甘い香りが鼻を掠め、小僧の身体は緊張した。あのときもそうだった。冷たい風が吹いたかと思うと、急に辺りがじめっとし、そうしてこの、甘ったるい香りが辺り一面に立ちこめたのだ。小僧はこの日、和尚の頼みで、隣村までお使いに出ていた。便りを届け、代わりに荷物を受け取ってくる。簡単な仕事だった。行きはよかったが、帰りになると夕立に襲われ、雨宿りをしようと道をすこし外れたのが運の尽き、あれよあれよという間に道に迷い、そして竹藪のなかでそれと出遭った。魅入られた、とそれを言い換えてもよい。小僧は身動きがとれなかった。隣町で受け取った荷物がそれなりにかさばった包みであり、背負っていたため、即座に逃げだせなかったのもむろんあるが、それよりも何よりも、目のまえに勃然と現れた影から漂う、この世のものとは思えぬ空気に気圧された。まるで身体の芯を鷲掴みにされたような圧迫感があった。影は、それほど大きくはない。そのはずだ。距離がある。逃げだせば、荷物をおぶっていようとそうやすやすと追いつかれる距離ではない。ゆえに、姿が明瞭とせず、影に見えている。蓑を身にまとって見えるが、ひょっとすれば全身が毛に覆われているのかもしれない。影は、こちらに気づいているのか、いないのか、さきほどから動かない。じっとその場に佇んでいる。小僧が動けなかったのは、いまにして思えば気づかれたくなかったからだ。足元には竹の葉が分厚く層をなし、どこまでも地表を覆っている。動けば否応なく、足音が鳴る。このまま立ち去ってくれれば、と祈る気持ちで、おそらくはじっとしていたのだ。だが、相手はそこでゆっくりと、ゆっくりと、竹が雪の重みでしなるくらいに静かに、背を丸め、地面に手を付けた。顔だけが満月のごとく微動だにしない。見ているのだ。じぃっとこちらを。甘い香りがいっそう濃くなる。鼓動が高鳴った。危機が迫っていることを本能さながらに知らせてくる。マズイ、マズイ、マズイ。逃げろ、逃げろ、逃げろ。意に反して身体は動かない。怯えている。それもある。だが、ここで動いてしまったらもうあとには引けない、との思いが、足を地面に根付かせている。小僧は瞬きをする。影が一回り大きくなる。もういちど瞬きをすると、また影が大きくなって見えた。全身が総毛立つ。大きくなる? 違う。近づいてきているのだ。一瞬で間合いを詰めている。音もなく。同じ姿勢を保ったままで。目をつむるまい、と思うが、汗が目に入り、風が吹く。ああダメだ。思ったが遅かった。影は、もはや影ではなく、たしかな姿カタチを帯び、そこにあった。蓑ではない。毛ですらない。手だった。無数の手を全身にまとい、顔らしき部位だけがひどく暗く、よどんでいた。肌から生えているのか、それとも人の手を切り落としてまとっているのか。無数の手からは、生きたものの気配は窺えなかった。風が吹く。からから、と竹の葉が乾いた音を立てた。小僧は、まぶたにチカラを籠める。まばたきなどせぬ。畳んではならぬ。思えば思うほど、瞳は空気に晒され、涙が滲み、余計に風の刺激を受けやすくなる。つぎに距離を詰められたらもう逃げられない。小僧は腹をくくった。(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897584275



2774:【レディ、シ、GO】

発端は顔認証でした。定番のホラーであったと思います。何もない場所にカメラを向けたところ、顔認証がそこに誰かの顔があるものとして作動してしまった、といった話が。つくり話なのは百も承知だったんです。しかし、じっさいに同じことがじぶんの身に起きてしまうと、正常に理性を働かせることができませんでした。新しい端末にじぶんの顔を登録しようとしていたんです。よもやじぶん以外の、それも虚空を登録されてしまうとは思いません。焦りました。ロックが解除できなくなったんです。困りました。なにせ、そのときの端末に入っていたデータは、エネルギィ問題をはじめとする人類の隘路をことごとく払拭可能なほどの汎用性と演算能力を兼ね備えた最新AI【レディ】のデータだったのですから。バックアップはありませんでした。超極秘機密データでしたから。ロックを解除するには、暗証番号と静脈認証、そしてぼくの顔認証の三つが必要でした。最初の二つは問題なく解除可能だったんですが、顔認証ばかりは再登録しようにも、登録された顔がないのではどうしようもありません。当初は顔認証システムのバグだと思いました。でも調べてみると、原理的にそれがあり得ないことが判明して。じゃああのとき、そこに登録されるべき顔があったのか、ということになって。部屋は厳重に監視されていましたから、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897637952



2775:【異釣り師】

初めて異釣りに連れて行かれた日、目のまえで異魚に父を食われた。簡単な仕事だと聞かされていた。おまえもいずれはオレの跡を継ぐんだぞ、と将来を勝手に決められたことに腹を立て、その日は父と口を利かなかった。言うことを聞かずに、反抗したあたしは、異釣りでけっして外してはいけない仮面を外してしまい、そのせいで異魚があたし目がけて飛んできた。父は、そんなあたしを身を挺して庇い、そして上半身だけをきれいに食べられて死んだ。異魚は、人間を喰らう。だから父のような異釣り師たちが、夜な夜な波紋の広がりはじめた区域に出向き、そこに近々浮上してくるだろう異魚を、前以って釣りあげておく。雪崩対策のようなものだ。雪崩の起きそうな場所に爆薬を仕掛け、大規模な崩落が起きる前に、小規模な雪崩を起こしておく。「異魚なんて滅ぼしちゃえばいいんだ」ことし八歳になった息子がフォークを振りあげて言った。スパゲティのミートソースが飛び散り、おとなしく食べてね、とお願いしながらテーブルを拭く。「毒とか撒いて、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897688559



2776:【折れた牙を刀に】

刀諒(とうりょう)談一(だんいつ)は焦っていた。天下無双の名を欲しいがままにしてきた自他共に認める剣豪のじぶんがいま、己が腰ほどにも満たない童(わらべ)に追い込まれている。驕り高ぶりがなかったとは言わない。しかし油断をしたつもりはなかった。常日頃、どれほど見た目がみすぼらしかろうと、貧弱に見えようと、それが刀を交わす相手であるならば手を抜いたことはなかった。刀のまえではみな平等だ。死をまえにすれば等しく無力であるように、刀と刀の先端を突き合あわせれば、そこにあるのは相手の命を奪うことへの同意であり、死闘の幕開けだ。油断をすれば死ぬ。一撃必殺が理想ではあるが、なかなかそうもいかぬ。振りかぶる刀数が嵩めば嵩むほどに、死の濃厚な香りが鼻を掠める。先刻、童の一刀を受け、五本のゆびを失った。右手は中指から小指の三本、左手は、食指と中指の二本だ。刀を構えているだけで精いっぱいだ。もしつぎの一撃を躱されれば、あとはただ無防備なさまで首を斬られるのを待つだけだ。逃亡する気力も湧かない。どうしてこうなったのだろう、とチリチリと発火する焦りのなかで(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897737751



2777:【諺かなんかですか?】

千日間をかけて念入りに練った計画が失敗に終わった。予想が裏切られた。海水で溶解するはずだったのだ。平野に穴を掘り、海水を灌漑して、目標をそこへ誘導する。沈めば目標はシオシオと萎み再起不能になると専門家たちが率先して作戦を立てたが、結果は見ての通りだ。超大型蛞蝓(なめくじ)は健在だ。海水を吸い取り、余計に膨張する始末だ。「ダメかぁ」世界中から落胆の声が聞こえるようだ。超大型蛞蝓が突如としてこの国の山脈に現れたのは五年前のことだ。当初は、自動車ほどの大きさだったが、木々をモリモリ食し、山脈を丸裸にするころには、ドームほどの巨体にまで育った。そこからさらに街を飲みこむほどの大きさになるまでに費やした時間は、初めて個体が観測されてから一年も経たぬ間のできごとであった。いまのところ産卵の予兆がないことがゆいいつの僥倖と言えた。あとはすべて最悪だ。都市は壊滅し、土壌は汚染され、川が毒と化し、海も荒れた。畜産業、農業はおろか、漁業、果ては工業にも多大なる損失が計上された。超大型蛞蝓は三日周期で休眠と活動を繰りかえす。移動の跡には、大量の粘液を残し、一から七日かけて腐敗するために、深刻な環境破壊が引き起きている。各国の専門家たちが侃々諤々の議論を重ね、ようやく統一的な見解がだされたころには、超大型蛞蝓は、地球上のおおよそ七割もの生態系を崩していた。絶滅した動植物は九割にのぼる。かろうじて雨による自浄作用が働くことで、人類は大幅な人口の減少を食い止めていられた。養殖や空中農園などの新技術によって衣食住を維持しているが、それもあと二十年が限度だとの見解で専門家たちのあいだではおおむね合致している。度重なるシミュレーションによって、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897784028



2778:【木漏れ日はニコニコと】

仕事帰りに公園でぼぅっとする。ことしに入ってから気づくとこうしている。日課と言ってもよいかもしれない。世界的に深刻な自然災害が長期化し、社会の有様も変化しなきゃいけない、といった否応のない流れを肌身に感じている反面、所属している会社の風習は一向に変わる気配が窺えず、世界がこんなにたいへんなときですら、ふだんどおりに出勤し、働き、そのくせ悪化していく経済の影響だけは順調に受けているうえ、ことしのボーナスの減給は免れない。いったい何が楽しくてこんな日々を送っているのか。いっそ会社を辞めてしまいたかったが、辞めるだけの蓄えがない。失業保険をあてにして、まずは退職してしまうのも一つの道だが、そこまでの踏ん切りはつかなかった。ベンチに腰掛け、漫然と揺れる木々を眺める。だいたい一時間くらいはこうしてただ風の流れや、雲のとろみのある変遷、影の移ろい、鳥の弾丸のような飛行とそれに当たったら痛いだろうな、という至極どうでもいい妄想をつれづれと浮かべながら、徐々に冷えていく日向から、夕闇の気配を感じる。肌寒いと思ったのを契機に席を立ち、家路につく。なんでもない時間だ。だが、その時間だけが、救いに思えた。彼女の姿が気になりはじめたのは、公園に寄るのが日課になってからひと月は経ったころだ。週に三回ほど、同じ時間帯に、幼児を連れて散歩をしている女性を見掛けた。これまでにも通っていたのだろう。同一人物だとかってにこちらが記憶しているだけだ。同じように、犬の散歩を日課にしているだろう人たちにも、いっぽうてきに顔馴染みのような親近感を覚えていた。とくに気に留めてはいなかったが、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897840126



2779:【失恋捏造記】

空馬(くうば)雨季雄(うきお)が転校生としてナツミのクラスにやってきたのは残暑の厳しい夏休み明けのことだった。中学校生活もあと半年という段になってからの転校生で、誰もが微妙な時期にきたものだ、とどこか当惑気味に迎え入れていた。空馬雨季雄は、ナツミの知る限り、しばらくのあいだはクラスに、いいや学年全体に馴染めずにいた。時期がわるい、とナツミですら思った。もっとはやく、せめて三年生になった時期にきていれば、みなも学友として最後の一年間を共にすごし、思い出を分かち合おうとしていたに違いない。だが異物たる転校生を身内と見做すには機が熟しすぎていた。思い出をこれからいっしょに築いていこう、同じ仲間として、同窓生として、最後の学校生活を味わい尽くそう、と思えるほどには、みなの精神に余裕はなかった。ただでさえ受験が迫り、みな内心、進路への不安でピリピリしている。友人と慰め合い、ときに励まし合い、或いは下らないおしゃべりをして現実逃避をし合うなかで、何を言えば怒り、それとも笑うのかの線引きすら曖昧な転校生という存在は、異物以上の何物でもなかった。空馬雨季雄は孤立していた。ナツミの目からしても(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897889936



2780:【青い花の妖精】

葉も茎も、花弁ですら青いそれをぼくは、ファイサと呼ぶ。品種の名前ではなく、ぼくが彼女のためにつけた固有名詞だ。隕石だったのだと思う。ある日の夜、星空を駆ける閃光を見た。閃光は地上に落ちた。近場の公園のほうが仄かに明るくなり、音もなく光は消えた。気になったので光の落ちただろう場所を見に行くと、グラウンドに淡い光が転がっていた。暗闇にランプが一つ灯っているような光景、或いは誰かが懐中電灯を落としていった背景を考えたが、結果としてそれを持ち帰ったぼくは、ファイサと出会うこととなる。「あのときのことを思いだすよ。光る種みたいなものを植えたら本当に、この世のものとは思えない植物が生えてきたんだから。植物なのかいまでも曖昧だけど」「しゃべる植物がほかにもあるのですか」 わたしのような存在がいるのですか、とファイサは首を傾げる。「いないよ。ぼくの知る限り植物はしゃべらないし、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897945380





※日々、じぶんだけは悪に染まっていないと思いこんでいる、きれいなつもりで生きている、透明な血だまりを踏み荒らしながら、他人を汚物と見做しながら、他者の傷口に善意を擦りこんで、まとわりつく罪悪感はこそぎ落として、うつくしく立派でありつづける姿を、誇りに、糧に、生きている。



2781:【歪みの夜のモヤ】

兄を越える弟なんかいないと世のマンガや映画では、まるでそれが普遍の定理みたいに並び立てているが、現実じゃあまず兄は弟に抜かれるだけの当て馬でしかない。「ハカセ、こんどは何作ってんだ」「錯視と錯誤のなかに生きてるでしょ、人間ってほら。認知の歪みがあって、事実を事実として認識できない。そのことにすこし興味があって」「相変わらずむつかしいこと考えてんな」未だ十歳にして十コも年上の兄を置いてきぼりにする奇天烈さには、毎度のことながら舌を巻く。認知の歪みどころか会話の難解さにこちらの顔が歪みそうだ。「兄ちゃんはさ、幽霊って信じる?」「信じてるやつなんかいんのかよ」「いないとはでも誰も証明していないのに、いないって信じてるひとはいっぱいいるよね」「それってあれだろ。悪魔の証明」ないことを証明するには宇宙すべてを虱潰しに調べて、この世に一つも存在しないことを証明しなければならない。そんなことは悪魔か神でなければ無理だ。反対に、あることを証明するだけなら一つの証拠を示せばいい。だから基本的に、なにかの証明をしたければ、あることを主張する側が証拠を提示するのが広くマナーとされている。裏から言えば、存在することを前提に調べたり、論理を積みあげたりしたさきで矛盾が発生すれば、それはないことの証明と成り得る。いずれにせよ、ないことの証明はむつかしい。「前にそれをオレに教えてくれたのはハカセ、おまえだろ」「そうなんだけどね。でも案外に幽霊の存在する証拠が目のまえに提示されても、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054897992789



2782:【旅の終わりを探し求めて】

うつくしいものを探しに旅に出た。家を出て、街を離れ、海や山や川や谷の、そこにしかない風景を目の当たりにし、ほぉ、と息を吐く。うつくしい、と思う。うつくしいとはこういうことなのだろうな、と思う。刻々と移り変わるさざ波の煌めき、木々のいろどりや、風になびく葉のうねり、岩をくすぐる水の流れる涼しげな音に、陰影の散りばめられた岩肌の荘厳さ、そこに息づく生き物たちの目の端に現れては消えていく儚い蠢きに、命、と漠然とした大きな、自然の、息遣いを思う。だがひと月、半年、一年、二年、三年と同じ場所を順繰りと回っていると、当初に湧いた感動はいつしか薄れており、うつくしいものを目にしたいとの欲求がまた、ごろごろと身体の内部に、塩の結晶のごとく溜まりはじめている。うつくしい景色を探し、秘境という秘境を渡り歩いたが、やはり一定の期間をそこで過ごすと、内に湧いた美の輝きは薄れ、何かじぶんが泥のようなものになった心地に苛まれる。もっと、もっと、と喉が渇いた。歩いた軌跡を筆で辿れば、地図は真っ黒に染まるだろう。もはや探し回る余地が地上にはなかった。天上を見上げる。星空はきれいだが、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054898042350



2783:【バイオレンス姉妹】

冷蔵庫を開けたら生首が入っていた。きょうはわたしの誕生日だから、誰かがプレゼントしてくれたのかもしれない。生首は奥を向いていて誰の顔だかわからない。髪の毛が首のところまでしかないので姉ではないはずだ。でも、首を切断するときにいっしょに切れてしまったのかもしれない。髪の毛の色もこんなに茶色くなかったけれど、これも血にまみれているだけだと考えれば、ひょっとしたら姉の首であってもおかしくはない。ウキウキしながら生首に手を伸ばし、掴むと、冷たい割にまだ弾力があった。切りたてほやほやだ。思いながら、ぐいと持ちあげ、冷蔵庫のなかから引き抜く。ボールを回すみたいにぐるりと宙に浮かして回転させる。ぱっ、と掴みなおすと、そこには見知らぬ少女の顔が現れる。片目をつむった状態だ。もういっぽうの目は眠たげに開いたままで、口を半開きのまま死んでいる。いいや、死んだあとでこんなふうになったのかもしれないけれど、期待どおりの顔ではなくてがっかりする。「ハッピーバースディトゥーユー」背後から声をかけられ、振り向くと、パンっと音が鳴った。「お姉ちゃん!」わたしは怒る。「せっかくオニューのお洋服なのに」「ごめんごめん」姉はライフルを床に放り投げると、これでおあいこ、と言って台所から包丁を持ちだし、じぶんの腹を切り裂いた。「もったいない」わたしはすかさず姉の腹からこぼれおちる臓物を手で受け取りに寄り、反対にじぶんの臓物を床にビタビタこぼした。「あらあら」姉はわたしの内臓には目もくれず、せっかく捥いできたのに、とわたしの手から転げ落ちた少女の生首を拾いあげた。「このコ、かわいかったのよ。とっても」わたしより? お腹の奥がムカムカしたけれど、それはどう考えても気のせいだ。「おっきなお穴」姉はわたしの胴体に開いた穴に、少女の生首を押しこんだ。「お姉ちゃん!」わたしは姉からナイフを奪い取り、姉の胸に突きたてる。「あらあら、うふふ」姉はわたしを抱きしめる。来年こそは、とわたしは願う。姉のこのうつくしい顔がほしい。姉の、きれいな顔だけをこの手に。



2784:【首切り密室殺人事件】

「対応いただき感謝いたします。なにぶん我々だけでは荷が重いようで」「まずは状況を聞こう」「ドーム型の部屋で遺体が発見されました。被害者はドームの所有者で、三十四歳の資本家です。立体映像作家としての顔も併せ持っていたようで、ドームはその実験室だったようです」「立体映像を映せるのか」「その予定だったようで、まだ完成してはいないようです。建設に携わっていたのが三名おりまして、重要参考人として事情を訊いています。というのも、ドームに立ち入ったことのある者が、現時点で被害者を抜きにすればその三名しかいないとのことで」「ほかにも侵入者がいたのではないか」「室内への入場者は厳重にデータ管理されていました。遺体の第一発見者もその三名だったそうです。被害者に呼ばれて三名とも前日からドームのとなりにある宿泊施設にいました。朝になっても被害者が姿を現さないのでみなで探していたそうです」「密室というのはどういうことだ」「ええ、問題はそこなんです。ドーム型の空間に入口は一つしかありません。空調ダクトもなく、藻類を練りこんだ壁が呼吸をして、酸欠を防ぐ構造だそうで。現に被害者の死因は首を切断されたことによるショック死です。見識によれば窒息死ではないと。しかし、室内に凶器が見当たらないんです。どうやって誰が首を切断したのかがさっぱりでして」「被害者以外にドームに入った者は?」「記録はありますが、被害者以外に入室した者は、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054898123426



2785:【きみは世界を救う愛しいひと】

疲れた顔で妻が、ただいまぁ、とソファに崩れ落ちる。もうやだこのまま寝る、とつぶやくので、温かい濡れタオルを手渡し、それで彼女が顔を拭いているあいだに靴下を脱がす。ついさっき履いたばかりみたいに新品だ。妻はこういうところが抜けている。「汚いよ」「どれどれ」嗅ぐ仕草をすると妻は、やだぁ、と膝を抱えた。足先をゆびでマッサージしているとやがて畳まれた足がゆるみ、伸びてくる。大きなカタツムリ、と思う。「きょうはどうしたの。何かあった?」「特大のクレームをやっつけたよ」「たくさんがんばったんだね。偉いね」「偉いよ。そうだよ。もっと褒めて」こっちの足も、と妻はもういっぽうの足を差しだす。全体的に丸みを帯びた足で、指先のちいささがかわいくて、思わずゆびでつまみたくなる。「くすぐったい」「じゃあこれは?」「きもちい。もっと」足首の付け根を揉みほぐし、そのままふくらはぎをほぐしにかかる。いつの間にか妻は目をつむり、糸のほどけるような寝息を立てている。「お布団で寝たほうがいいよ」抱っこをして運ぼうとするも、妻は駄々っ子のようにソファから動こうとしない。しょうがないな、の溜息を吐く。身体をよこにさせ、うえから毛布をかける。頭にクッションを差しこみ、ソファを即席のベッドにこさえる。「お疲れさま」部屋の電気を消し、じぶんは寝室に引っこむ。妻は隠しごとをしている。枕に頭を埋め、目をつむる。夫のじぶんにも本当の仕事を内緒にしている。世界に湧く怪獣や犯罪組織と日夜、秘密裏に戦闘を繰り広げている正真正銘のスーパーヒーローだ。でもその姿は(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054898169209



2786:【扇風機の値札】

クーラーが壊れた。アスファルトで目玉焼きがつくれるほどの真夏日にだ。運がわるい。火にかけたフライパンのうえのアイスみたいに汗だくになりながら、クーラーの修理にかかる値段を調べる。新品を買うのと似たような値段だと判る。ここはおとなしくクーラーではなく代用品として扇風機で我慢しておくのが吉ではないか。来月の給料が入ってからクーラーは新品を購入するのが利口に思える。さっそくネットで扇風機の品定めをする。いまいち風力の違いが判らなくて難儀する。できれば強力なのがよい。それでいてやわらかい風にもできると好ましい。中古なら中古で構わない。来月までしか使わないのだ、わざわざ新品に拘る理由はない。ネットは情報量が多すぎてなかなか目星が定まらず、選ぼうにも選ぶ基準が他人のつけた星の数というのは信用性にいささか欠ける。実物を見て購入すべく外にでたまではよかったが、電化製品販売店にはおおむね新品しか売っておらず、商品棚には最新機種ばかりがずらりと並ぶ。羽のないものが主流で、お値段も割高だ。むかしながらの三枚の羽がぐるぐる回るのでよい。哀愁が感じられて風流ではないか。骨董屋に立ち寄ったのはそうした背景からだ。むわっとしたアスファルトのうえを歩き回りながら(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054898218596



2787:【潰れる二秒前】

小指に蟻が這う。尻を浮かし、花壇のふちを見遣ると、蟻が列をなしていた。土のうえに巣の入り口が見える。何かを考えたわけではなかった。気づくと指先で一匹の蟻を圧し潰している。ブロックのざらついた感触がゆびに伝わる。くるくると指とブロックのあいだを転がり、蟻はひしゃげた。片側の足は全滅し、残りの三本がぴくぴくと痙攣している。わるいことをした、と反射的に思った。つまみあげ、手のひらに載せる。命を奪ってしまった罪悪感が湧くが、目のまえを素通りしていく人間と見比べるとそれも薄れた。苦しんでいるのだろうか。蟻はひしゃげたままの姿でしばらくもがきつづけていた。もしこれが人間だったら、と想像する。身体がねじれ、四肢はつぶれ、内臓が破裂し、それでも死にきれずにのたうちまわり、やがて死んでいく姿は、控えめに言ってむごたらしく、可哀そうだ。目にしたくもない。やはりじぶんのしたことは愚かなことだった。蟻に痛覚がないことを祈るよりない。命の尊さを改めて胸に刻む。ただ、手に持ちつづけるのは億劫なので、まさに虫の息のひしゃげた蟻を地面に捨てた。ふとよこを見ると子どもだろうか、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054898279812



2788:【風のラムネ道】

ミサコさんはふしぎなひとでよくふらっといなくなった。当時ぼくは十二歳で、となりの家に住むミサコさんとは犬の散歩をする仲だった。犬はうちで飼っている柴犬で、ナータといった。家が隣接しているだけあって、部屋の窓が互いにくっつきそうなほど近く、ときどきミサコさんが窓から話しかけてくることがあった。ミサコさんはカーテンを閉めずに着替えをしたりする。小学生のぼくは、母に頼んで分厚いカーテンを買ってもらって、せっかくの日当たりのよい部屋を真っ暗に染めた。ミサコさんが部屋にいると明かりが灯っているのですぐに判った。寝るときもミサコさんは煌々と光を点けたままにしていたので、じぶんの部屋のカーテンをすこしめくるだけで、部屋にミサコさんがいるのかどうかはすぐに判った。日中もミサコさんはよく部屋にいるようだったけれど、ミサコさんが学生なのか引きこもりなのか、それとも何かしらの仕事をしているのかは謎に包まれていた。「おーい、おーい、ミカゲくん」カーテンの奥から声が聞こえ、ぼくはゲームを中断して窓を開ける。「どうしました」「散歩行こうよ散歩。ナータの」「さっきもう行ってきちゃいました」「どうして誘ってくれないんだよぉ」「だってミサコさん、散歩長いんだもん」「楽しいでしょうよ。行こうよ行こうよ。ナータももっかい行きたいって言ってる」ほら見て、と庭を指差すミサコさんだが、ナータは犬小屋のなかでぼけぇっとしている。「疲れ果てて見えますけどね」「そんなこと言いっこなしだよ。じゃあナータは置いてって、ミサコさんと散歩しよ」「一人で行けばいいじゃないですか」本当は内心うれしかったけれど、同じくらいゲームのつづきをしたかった。「なんでぼくまで」「道連れだよぉ。一人は寂しいよ。だって想像してみて。ミサコさんが(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054898320616



2789:【あなたにならいいよ、あなたがいいよ】

ミカさんが殺人鬼になってしまったので、私が匿った。ミカさんは手際よく人を殺す反面、まるで赤ちゃんの食事みたいに盛大に痕跡を残すので、あっという間に最重要指名手配犯になった。世界中のメディアというメディアでミカさんの顔画像が映し出される。連日ミカさんの話題ばかりがのぼるので私は面白くない。ミカさんは白昼堂々でかけていって、また一つ死体を増やす。三日に一度は人を殺して帰ってくる。殺す相手は一人のときもあれば何千人、何万人のこともある。もはや殺戮者だ。さすがの私も、いい加減にしましょうよ、と小言を漏らす。ミカさんは私にじゃれつくと、返事もなしに猫みたいに丸まって寝てしまう。ニュースではまた政治家の一人が死体で見つかった。ほかにも暴力団が壊滅し、どこかの主婦がスカイツリーのてっぺんで首を吊った状態で発見された。見覚えはないけれど、きっとどれも私の身体をこんなにしたあの事件に関わっていたひとたちに違いない。ミカさんを問い質したところで彼女は素知らぬふりをするのだが、私がどんなに悪態を吐いてもミカさんは私を殺したりはしないのだ。私は、私をこんな身体にした連中を恨んでいたけれど、いまになってはうらやましく思う。ミカさんの殺意を独占できるなんて、そんなのはミカさんの人生を手に入れるのと同義だ。いい加減にしましょうよ、と私は言う。あんな連中にかまけていないで、私の胸のなかで猫みたいに丸まって寝ていればいいじゃないですか、と。ミカさんは困った顔をしながら刃こぼれしたナイフを研ぐ。もうすぐ終わるから。言い訳がましくつぶやく割に、その言葉は耳にタコができるくらいに聞いている。人類が全部いなくなっちゃいますよ、と私は背後からミカさんの首にまとわりつく。いなくなればいいんだ。言ったミカさんの首はひどく頼りなく、貧弱な私であってもポッキリと折れてしまえそうだ。試しに首に回した腕にちからを籠めてみる。ミカさんは抵抗をするそぶりを見せずに、そうされたいがためにそうするように、私の腕に頬を押しつける。それでいて、苦しいよ、と片笑むのだ。ずるい、と思う。そんなことをされたらもう、私は、どうすればいいのかが判らなくなる。



2790:【晴れのち、きみ】

むかしは晴れというものがあったらしい。晴れというのはつまり雨がない状態らしいのだが、なかなか想像するのがむつかしい。巨大な屋根があったのだろうか。家の中にいれば雨は降らない。でも晴れというのはどうやらそれとは違っているらしく、もっとずっと広範囲に雨がない状態なのだそうだ。やっぱりいまいち想像がつかない。「まぁた、昔の本読んでる。おもろいのそれ?」幼馴染のアヤが言った。祖父の遺産である書庫に入り浸っているといつもアヤは夜になって覗きにくる。母にでも頼まれているのだろう。かといって夜食の差し入れを持ってきてくれるわけでもなく、いくつか言葉を交わすと、飽きた様子で去っていく。「アヤは晴れって知ってる?」「ハレ? 腕が腫れるとかのハレ?」「そうじゃないみたい。むかしは雨が降ってない状態が一般的で、なかでもとびきり雨が降らない日を、晴れと言ったらしい」「そんなことってある? 屋根でもあったんじゃないの。めっちゃでっかいやつ」同じ発想を浮かべていたので、みな同じことを考えるのだな、と愉快になる。「またバカにして。笑うなし」「そうじゃない。素朴で素晴らしい発想だったからおもしろかったんだ」「はいはい。で、晴れってなに。気になるじゃん、その本に載ってんの」アヤはこちらの手を覗きこむ。「うげ。めっちゃむつそう」「そうでもないよ。単純な解説しか載って(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054898434946




※日々、誰もが通れる道をつくる、特別じゃなくても通れる道を、選ばれずとも通れる道を、ただ歩けば通れるそんな道を。



2791:【がらんどうの根は甘く】

「絶対に許さない」彼女の目からは、私への破滅を望む炎が溢れていた。つよい悪意をぶつけられ、そうして私は言葉を失った。初潮を迎える前のことだ。言葉だけでなく、人格そのものが消失したような空虚さに襲われ、それは立ち退くことなく私のなかに留まりつづけた。わだかまりつづけた、と言い換えても齟齬はなく、私は言葉を失い、底なしのがらんどうを手に入れた。私がそうして言葉を失い、しゃべらなくなってから五年の月日が経った。私は小学生から中学生を越し、晴れて高校生となった。しゃべれないのではなく、しゃべらないだけだと医師からのお墨付きをもらって以降、私はうるさくない女の子として、それなりに周りのコたちと仲良くやっていた。大人たちも無理にしゃべらせようとはせず、それはなんだか女の子は静かで自己主張しないほうがよろしいよ、といった偏見のたまものでもあるように思えたけれど、すくなくとも私はそんな周囲の「臭くないなら蓋をせずともよしとするか」といった眼差しに支えられ、すこやかな日々を送っていた。「いつからしゃべれないの」ある程度の仲を深めた学友たちから、ときおりそのように話題を振られることはしばしばで、なんとなく。と、いつも私は曖昧にノートに文字を書き、その場を切り抜けていた。きっかけはあるのだ。思いだしたくないきっかけが。私は言葉を失くした人間で、けれど言葉に支えられた社会に生き、文字を介して意思を疎通する。本来であれば、声を失くした、と形容すべきところではあるけれど、しゃべれないのではなくしゃべらないだけの私にしてみれば、それは正しくはないのだった。「ええ、転校生の琉紗那(るさな)イユさんです」夏期講習のプリントを配ったあとで先生は言った。「夏休み明けからこのクラスの一員になるので、名前と顔を憶えてあげてね」転校生は女の子だった。線が細く、なんだか白くて背の高い花を連想した。ぼーっと眺めていると目が合った。彼女は(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054897057568/episodes/1177354054897057574



2792:【闇に差す赤】

男はある朝、やけに身体が動かしづらくて戸惑った。風邪をひいたのかと疑ったが、体調そのものはわるくない。おかしいな、おかしいな、と思いながら椅子に腰かけるとミシミシと音を立てて、愛用の椅子が壊れた。長年使いつづけていたこともあり、寿命だったのかとも思ったが、念のために体重計に乗ってみたところで、体重の増加に気づいたわけだが、そこからは恐怖の日々だった。一晩経つと体重が倍になる。より正確には、身体の体積はそのままで質量のみが倍になるようなのだ。ちょっと物にぶつかるだけでも物凄い勢いで物体は吹き飛び、ときに壊れ、またときにカタチが歪んだ。体重の増加にしたがい身体の構造も丈夫になっているらしく、ちょっとやそっとの衝撃では傷を負わない。六日目にして体重が二トンを超えると、自動車にぶつかっても身体は無傷で、自動車のほうが大破するようになった。身体は相も変わらず動かしづらかったが、かといって歩けなくなることはなく、それでいて家のなかにはいられなかった。というのも自重で床が抜けてしまうのだ。コンクリートのうえでの野宿を余儀なくされたが、十日もすると(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054898584793



2793:【子猫は素知らぬふりして、みゃーと鳴く】

友人のペットがどう見てもバケモノなのだが、誰もそのことを疑問に思わない。指摘しないのはなんとなく判る。バケモノに見えている私だって面と向かってその話題に触れてよいのか判らないからだ。指摘したが最後、ガブリと食べられでもしたらおそろしい。友人はペットをペコちゃんと呼んだ。友人にはペコちゃんが子猫に見えているらしいのだが、私にはそれがどう控えめに言ってもライオンをペロリと平らげるようなバケモノにしか見えない。大きさだって全然違う。友人はバケモノの尻尾の先端を子猫扱いするが、そのとなりでは、全身が不気味な鱗で覆われた不定形のナニカが蠢いている。鱗の一つ一つが無数の人間の顔じみていて、バケモノの本体はじっとしているときにはイソギンチャクのような見た目でありながら、移動するときにはスルスルとほどけて一本の大蛇のようになり、またあるときは四つ足の獣のような格好をとることもある。いまは友人のとなりでブヨブヨと蠕動しており、巨大なウジムシと言えばそれらしい。もちろん表面は無数の人間の顔じみた鱗でびっしりと覆われている。食欲が失せる。無臭なのがせめてもの救いだ。「それ食べないの」友人が哀しそうな顔をする。せっかく用意してくれた有名店のケーキだったが、私にはとてもいまこの場では食べられそうにない。「ごめんね。あとで食べるから」けっきょくこの日はケーキには一口も手をつけず、かといって持って帰るわけにもいかず、最後のほうには却って好きなケーキを二個も食べられてラッキーといったふうに友人のほうでかってに機嫌を持ち直してくれた。やさしいコなのだ。不幸になっていいようなコではない。すこしでも友人を傷つけたらこの命に代えてもバケモノを(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054898637902



2794:【ちゃぽんと跳ねて、もぐる】

雑居ビルの合間に鬱蒼とケヤキの茂った空間がある。公園だ。夏場は涼しく、冬は暖かい。ビルの壁に囲われ日当たりがわるく、年中暗い。そこだけ街の夜がぎゅうぎゅう詰めになっているかのごとく様相だ。外灯が四六時中ほんわかと地面を照らしているため、物体の輪郭は陰影となって浮きあがる程度には明るいとも呼べる。いつからだろう、そこに足繁く通うようになった。冷房を入れても部屋が一向にサウナ状態を抜けだせない日々がつづき、致し方なく涼める場所を探し求めていた折に偶然辿り着いた、そこはオアシスだった。涼しいだけでなく、静かでもある。数百メートルと離れぬ場所では喧騒が渦巻いており、街中にぽんつねんと開いた森のようだ。猛暑からの避難先としては申し分ない。仕事の作業にうってつけの場所だった。ほかの場所ではメディア端末の画面が日差しのつよさに負けて見えづらい。室内にしろ同じだ。木彫りの椅子と長机が外灯の下にある。公園でありながら虫がおらず、夜になっても蛾一匹飛んでいない。ときおり野良猫が単独で現れるが、気づくといつも消えている。遊具はなく、砂場と水飲み場があるのみだ。水飲み場は円柱状の石からなり、側面に蛇口が一つくっついている。土台の石は古そうで、蛇口の裏側には窪みがあった。窪みから垂れるようにしめ縄がされており、なにかしら厳かな雰囲気がある。湧水なのかもしれない。公園にくるときは途中で自販機にてペットボトル飲料を購入するのが習慣化していた。中身が尽きるといつも水飲み場の蛇口をひねり水を汲んだ。その日は昼過ぎから雨が降りはじめ、いつもよりはやく公園での作業を切りあげた。雨に濡れるわけではないが、肌寒いのだ。雨は夜にはやみ、空に星が散らばる。翌日は快晴だった。公園に足を運ぶと、大きな水溜りができていた。雨のせいだろうか。訝しむが、これまでは豪雨のときですら公園内の土は乾いた状態を維持していた。きのうの雨量でここまで水が溢れるとは思えない。何かほかに要因があるはずだと考え、目を凝らすと、水の流れる音を耳にする。次点で、水飲み場の蛇口から水が流れっぱなしになっているのを発見した。きのう水を汲んでそのまま閉めるのを忘れていたようだ。水を飲むために蛇口を上に向けていたので、排水溝の位置からズレて水が流れ落ちていた。水溜りの大きさからして、相当な水量を無駄にしてしまった。公園の敷地はさほど広くはないが、プール一杯分の水が高額だとする豆知識を思いだし、申しわけない気持ちになる。と、そのときだ。ちゃぽん、と水の跳ねる音がした。耳を澄ますと、また同じ音が反響して聞こえる。何かいるのか。しゃがみ、視線をさげる。地面にナニカシラの陰が見えないかを探った。すると、音が鳴るたびに、水溜りのうえに魚が跳ねて見えた。鯉だろうか。大きい。猫くらいはあるのではないか。ちゃぽん。空中の虫でも食らうようにそれはしきりに跳ねて(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054898680886



2795:【染みはそのままで】

音もなく吸いこむのがよかった。掃除機一台に原付バイクが買えるくらいの金額をかけるのは割高に思えたが、買うならば安いのよりもよいものを、との父の教えにしたがってきた人生でもあり、躊躇なく購入した。はじめは週にいちど、床を掃除するのに使っていた。誤ってペンを吸いこんでしまったところで、おや、とその掃除機ならではの特性に気づいた。その掃除機は音もなく物体を吸いこむ。物体の大きさには無関係にだ。先代のいらなくなった掃除機を試しに吸い込ませてみると、粗大ごみ一回分の金額が浮いた。いったい消えた質量はどこへ消えるのか、掃除機本体の重さは変わらず、ゴミフィルターを開けて覗いてもそこには何も詰まってはいないのだった。いちど吸いこんだ物体は取りだせない。気づけば、生ごみや庭の雑草など、日常生活を営むうえで不要なもののことごとくを吸いこませるようになっている。むかし読んだ有名な掌編で、地上に開いた大きな穴の話があった。人類はその穴にゴミを投げ入れていき、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054899323476



2796:【貝とツノ】

波の音は砕ける音だ。波そのものに音はなく、浜辺に打ち崩れる無数のしぶきが、ざざざ、と大気に霧散する。霧散し、打ち溶け、消える盛大な回帰の余韻が波の音として耳に伝わる。波を、生を、暗示する。「じゃあ貝殻は?」ササが言う。手元のルービックキューブから目を離さず、ちいさな手をもきゅもきゅ動かす様は、なんだか子ザルのようで微笑ましい。「耳に当てると音だすよ貝」「あれは一種の共鳴だろうね。こうしてしゃべってる音だとか、風の音だとか、そうでなくとも物質ってのはただそこにあるだけで振動しているからその音が貝殻の空洞で増強されて、反響して、ノイズとなって聞こえるんじゃないかな」「あ、見て。惜しい」ササは一面だけ色の揃った立方体を掲げる。心底うれしそうに白い歯を、ニっと覗かせる姿は、とても千年以上を生きた人間には見えない。彼女の美麗な白髪ですら、幼さを際立たせる。病気や老齢からの白髪と見るよりもそうした人種と見做したほうがしっくりくる。幼いがゆえにそうなのだ、と。「海いきたいなぁ」せっかく揃った一面を崩したくないのか、ササはもう立方体をいじらなかった。興味を失ったわけではないのだろう、しっかり両手に握っている。「海いきたい」彼女はもういちど言った。「海か。すこし遠い気がする」「でも車で、ぱーって」「じゃあいまぼくたちが困ってる問題を解決したら行こう。約束」「えー、いまがいい」「いまはちょっとね」窓のカーテンをずらし、外を覗く。月明かりが眩しい。ひと気はない。いまのところこの小屋をねぐらにしてからは、周辺に張り巡らせておいたトラップは何者かの接近を知らせてはいない。ぐぅ、とお腹の音が鳴る。振り返るとササがお腹に手を添え、へへへ、とちいさな足をぱたぱた振った。「そう言えばきょうはまだだったね。ごめん」腕をまくり、彼女の顔のまえに運ぶ。彼女はこちらの腕に歯を立てる。ササはたっぷり五分をかけて、ぼくから血をすすれるだけ、すする。いつもこの瞬間、ぼくは彼女との出会いを思いだす。彼女がツノを失くす前、ぼくは彼女の非常食だった。中学生のときに(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054899613761



2797:【殴蹴道(おうしゅうどう)】

拳が空を切る。エンジンが唸るのにも似た音が鳴り、相手の拳の威力を知る。なぜそれほどまでの巨躯で啄木鳥(きつつき)がごとく俊敏さを発揮できるのか。サイバは肝を冷やした。手心を加えていられる相手ではない。数秒前まであった他者への情が希薄になるのを、意識的に自覚した。しゃがむより低く身体をかがめ、相手の懐に入る。拳を振りあげる。かわした相手のあご目がけてすかさず流れるように蹴りを放った。手応えがある。足首から太もも、股関節、そして背筋へと伝わる衝撃が心地よい。追撃を加えるが、足を掴まれそうになり、距離を置く。慌てなくていい。相手は達人の域にいる。長丁場になる。遅れて噴きだすひたいの汗を手の甲で拭いながらサイバは、殴蹴道(おうしゅうどう)からいつの間にか抜けだせなくなっているじぶんをふしぎに思った。サイバが殴蹴道なるけったいな遊戯の存在を知ったのはいまから二年前になる。十七歳だったサイバは有名都立大への進学を目指す一介の学生にすぎなかった。友人はおらず、勉学に励むことがゆいいつの時間の潰し方だった。受験本番の半年前には受験範囲を十周以上し、万全の体制が整っていた。志望校の過去問であればまず満点をとる。暇が増えた分を、進学後の予習に回した。医学書をかたっぱしから読みはじめたのはその時期のことだ。身体の構造の知見を深め、死とは何か、生とは何か、といった生命の本質にまで思考を広げた。運動は脳細胞を死滅させるからと避けていたが、身体を動かすことの利もまたあると認識を覆し、日の予定に運動を取り入れた。筋肉を肥大化させるのではない。現状の肉体を維持したまま最大限の性能を発揮するにはどうすればよいのか、に焦点を絞って試行錯誤した。怪我をしなくなり、免疫力もアップした。通常、身体を酷使すれば免疫機能は一時的に下がる。アスリートのような鍛練は避け、身体の駆動率をあげるための工夫に終始した。他人に暴力を振るう機会はそれまでなかった。発想そのものがなかったと言っていい。明瞭に憶えているのは日付と、その日、珍しくガムを踏んで、視野の狭いじぶんに苛立ったときの感情だ。靴を脱ぎ、靴底のガムを小枝でこそぎとろうとした。時刻は夕方、場所は公園だ。池があり、林があり、カモが陸で羽を休ませていた。地面から生えた背の低い照明が点灯する。街の喧騒がかすかに届き、静けさが何かを教える。人の声のようなものを聞いたのは、靴を履き直し、ベンチから腰をあげたときだった。林のほうから聞こえた。池から流れる小川があり、それを辿るように歩を向けると、暗がりの奥に、対峙する二つの人影を見た。暴漢に襲われているのかと思い、とっさにメディア端末を取りだした。警察に通報しようと思ったのだが、ゆびは最後まで番号を押さなかった。そこにいたのは男と女だった。片方が片方を圧倒していた。それを、蹂躙と言い換えてもよい。屈強な男が女をいたぶっている、ではない。線の細い女のほうが、屈強な男に苦悶の声をあげさせていた。男は筋骨隆々とし、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054900240700



2798:【ヤバイヤお嬢さまの吸入】

ショタコーン王国第九王女たるわたくしことヤバイヤ・ツーはここさいきん特大の悩みを抱えており、たいへんに困っている。というのも、先日新しく配属された召使がめちゃんこ可愛いのだ。見てほしい、あの愛くるしい姿の一挙一動を。「こらヌコイ、また花瓶の水を入れ忘れたね。シオシオじゃないかどうするんだい、これは姫さまの誕生花、粗末に扱っていい花ではないんだよ」「ごめんなさい婦長さま。ただいまお換えします」「ミスは誰でもつきものだがヌコイ、おまえはすこし気が抜けすぎているのではないか」このあいだも、と説教モードに突入したメイド長のまえにわたくしは姿を晒す。「どうしたの婦長。このコが何か粗相を?」「これはこれはヤバイヤお嬢さま。ご公務はどうなされたのですか」「疲れたのでお休みをいただきました。このコがどうしたの」ヌコイがおろおろとあちらとこちらを交互に見遣って縮こまっている。もじもじと指を絡ませる姿からは動揺を隠しきれずに混乱している様子が窺える。「いえ、たいしたことではございません。ワタクシめの教育がいたらなかったものですから少々小言を並べておりました。お耳汚し失礼いたしました」「いいのよいいの。それよりもヌコイといったかしら」「はい。ヌコイと申します」「あなたにはわたくしの専属メイドをお願いしたいのだけれど構わない?」ヌコイはぽかんと口を開けたあとで、おろおろとしだす。助けを求めるようにメイド長を見て、それから緊張のためか意味もなくぺこぺこと頭を下げた。「ヤバイヤお嬢さま、差し出がましくもご意見を挟まさせていただきたく存じます。メイドをご所望であればもっと使い勝手のよい躾けの行き届いたのをご用意いたします。性別も異性ではなく同性が好ましいとワタクシめは思うのですが」「女の子みたいなものでしょ。それにいいの。わたくしがこの手で教育を施してみたいの」だからこれくらいのがいいの。お粗末なのがいいの。すっかり縮こまってちいちゃな銅像になったヌコイをわたしは抱きしめ、ふわふわのドレス生地に埋める。宮廷のドレスはスカートの部分が膨らんでおり、凍ったシャボン玉のようだ。ヌコイはぬいぐるみのようになされるがままに私の腰に押しつぶされている。「姫さま、なんてはしたない」メイド長がわたくしを叱る。名を呼ばず地位で呼ぶときにはたいがい本心で呆れているときだ。「もらっていきますね」わたくしはヌコイを持ち去った。元来わたくしは従者を好まぬ性質だ。長らくそばに従者を(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054900775638



2799:【返頭痛】

新商品の試験体のバイトをした。配られたのは、腕時計型感覚共有機だ。知覚を他人と共有できる機械らしく、使用者のデータを集めて改良に活かすのだそうだ。いざ使ってみても、これといって生活に変化はなかった。他者の知覚が伝わるでもなく、思考が読めるでもなく、あべこべにこちらの思念を送れるわけでもない。失敗作だったのだろうか。タダでバイト代が入るのだから文句はないが、報酬分の仕事は返したい。かといって何ができるわけでもなく、うーん、うーん、と頭を抱えた。翌朝、悩みすぎたのがわるいのか、頭痛がひどかった。まるで頭のなかが空洞で、かぽっと脳みそが溶けてなくなってしまったみたいな鈍痛がある。なんとかならんものか。じぶんの頭をちぎって、配って歩きたい。身体から頭痛を切り離したい。お腹の空いている相手にじぶんの頭を食べさせるヒーローのマンガがあったが、似たようなことができたらさぞかし爽快だろう。大学の食堂で友人とランチを食べながらそんな想像を巡らせていると、腕時計型感覚共有機が赤く点滅した。なんだなんだ。驚いて顔のまえに運び、まじまじと見つめると、機器の側面から赤い光線が蜘蛛の糸のように細く放たれた。友人のこめかみに当たる。数秒それは線となって保たれたが、間もなく、ふっと消えた。「イッターイ」友人が呻いた。「なんか急に頭痛くなってきた」訊けば、脳みそにぽっかりと穴が開いたみたいな鈍痛が突然に湧いたらしい。イタタ、イタタ、と顔にバッテンの目を浮かべながら友人は(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054901232616



2800:【輪――リン――】

一瞬だけ吹き去ることはない。風は点ではなく線だ。肌を、身体を、なぞるように包みこむ。自転車にまたがり、ペダルを漕ぐ。風と同化する。風にちかづいたと思う。服の隙間に流れこむ空気の層が、気化した汗をつぎからつぎに拭い去っていく。汗は止まらない。競技の最中だ。ペダルを踏む。踏む。踏む。視界の端に流れては失せる風景はまるで、ひとつなぎに剥かれたリンゴの皮がごとくだ。途切れぬ車輪のまわる音に両断されつづけるがゆえに景色はそうして移ろうのではないかとの錯覚に陥る。妄想に更ける。呼吸をするたびに、妄想は断裂し、思考は飛躍を繰りかえす。公式の競技ではない。競輪ではない。街中を疾走する。ストックバイシカルと呼ばれるストリート発祥の競技だ。似た競技にパルクールやチェイスタグがある。どちらもエキストリームスポーツだ。かたや街中をアクロバティックに疾走し、片や区切られた場所で鬼ごっこをする。フリーランニングとも呼ばれるそれらの自転車バージョンと言えばそれらしい。よりはやく任意の地点、ゴールに辿り着いた者が勝者となる。ただし、漕げるペダルの数が限られる。今回は五百回だ。五百回で、三キロ先にある灯台まで誰より速く辿り着かねばならない。途中、廃棄工場などいくつかの難所を(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054901434049




※日々、あなたのやさしさに生かされている、恩恵ばかりを受けている。



2801:【ムーバ】

ムーバは下水道で生まれ、長いあいだ臭気と反響と闇のなかで暮らしてきた。自身のいる場所が下水道なのだと知ったのはずいぶんあとになってから、ときおり差しこむ光の向こう側には自身の住まう空間よりもずっと広い世界があるのだと察してからのことだった。ムーバには名前がなかった。全身が艶やかな毛に覆われた黒い生き物だった。長い尾があり、先端は矢じりのようになっている。四つの脚があり、頭部にはツノのような耳がピンと尖って生えていたが、ふだんはくるんと折れ曲がり、お椀型にぴったりと頭の表面にくっついている。一見すると球体の突起物がちょこんと頭のうえに載っているようだ。隙間がない。耳に汚水は入らず、黒いつややかな毛並みも、濡れることを知らなかった。汚物の汚れも臭気すら身体に付着せず、ムーバは下水道のなかにあって唯一汚れを寄せつけぬ存在であった。ムーバの食料は下水道内に息づく様々な小動物たちだった。ネズミや昆虫が多かったが、ときおりタヌキやハクビシンが棲みついた。ムーバの大きさはそれら獣と比べると二回りちかくちいさく、ゆえに雑食であるほかの獣に食われぬように、それらの足音を察知するたびに汚水のなかに浸かった。ムーバは目が見えなかった。つぶらな眼球は有していたが、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054902605855



2802:【一丸の手引き】

足元にはずらりと敗者が横たわる。三十人に囲まれておきながら部下たるオウボは造作もなく敵対勢力の一部兵隊を鎮圧してみせた。「さすがだな」「何言ってんすか。カシラならオレの半分の時間でノシたっしょ」「どうだかな。いまおまえとやりあって勝てる気がしない」「やめてくださいよ、そんなに褒められたらヤりあいたくなるじゃないっすか」肩を竦める。「勘弁しろよ」オウボはジャケットからメディア端末をとりだし、どこぞに連絡をとりはじめる。ほかのチームに情報を流す腹なのだろう。我がチームの事実上のカシラはオウボだ。こちらへの相談抜きにチームの人員を動かしている。任せきりだ、と非難されるが、そっちのほうがいい、と言って半ば隠居生活を送っていた。数年前にいちど引退を宣言したつもりなのだが、なかなかどうして縁が切れない。今回、南方の荒くれ共が徒党を組んで、この街に攻め込んできた。我がチームの一員とみるや片っ端から闇討ちを仕掛け、縄張りを奪い取っていく。いまどき抗争ゴッコなぞ、裏街道の住人たちですら忌避するというのに、面倒なことこの上ない。当初はオウボに対処を任せていたが、情勢が危うくなってきたところで、致し方なく重い腰をあげた。放置しておくわけにもいかない。現場に顔をだしたのは久方ぶりのことだ。オウボともじかに顔を合わせたのはじつに半年ぶりのことだった。チームの構成員の大半はもはやこちらの顔も知らないだろう。名前だけが一人歩きしている。 数時間前、女どもの店が荒らされていると聞きつけ、駆けつけた。三十人ほどの敵兵をオウボはものの数分で片付けた。見ないうちにまた腕をあげたようだ。やはりチームの頭はこいつでいい。「カシラ、やつらウチだけじゃなく、黒虎衆や朱雀一派、妖精群、果ては芭蕉連合にまで手ぇだしてやがるって」「大した勢力だな。誰が率いてるか判るか」「いや、それがぜんぜん。下っ端ぁ片っ端から締めあげさせてんすけど、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054903255575



2803:【ころもんての権化】

道端の松の下に転がる松ぼっくりに目を留めて、アルマジロみたいだなぁ、とその奇抜な形状が連綿と引き継がれてぽんぽこ似たような姿で量産される松の木の神秘に思いを馳せていたら、もぞもぞと一つの松ぼっくりが蠢きだして、ぽっかり二つに割れたので、ありゃま。目をぱちくりさせてよくよく目を凝らすと、四つのちいちゃなあんよとつぶらな瞳に、ぴんぴょこ飛びだした丸っこい三角お耳の生えた頭部が、折り畳み式自転車さながらに、ぐねんこ、と姿を現した。くしくしおめめを短いあんよで掻いたなら、ほんわか欠伸なぞを挟みまして、ころもんて、ころもんて、よたつきころけて、よちよちてとてと、歩きだす。尾っぽのたろてんたろてん、垂れた様子はほんわかほろほろ微笑ましい。わたしは華の女子中学生十四歳であったから、そりゃあこないなめんこい生き物を見つけてしまったならば、財布の紐の堅い父母に買ってもらったばかりの最新式メディア端末でぴんぽろ画像に動画に記録せにゃあかんぜよ、と躍起になるのは自然の摂理じみている。ひとしきりぴんぽろし終わって、むふーと鼻息を荒く(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054903794452



2804:【死して兄は】

生者の目には幽霊が映らないが、どうやら幽霊からしても生者の姿は見えないらしい。兄が亡くなってから四十九日を経たくらいに、なんだか部屋の雑貨がころころと位置を変える。別段私はいじくっていないので、誰かが動かしたことになる。それとも細かな振動で動いているのだろうか。ポルターガイストのほとんどは、風やそとの道路を通る車の振動、或いは電車の騒音が原因だったりする。それとなく観察していると、たとえばカップがかってに机のうえに移動していたり、買ったばかりの牛乳の口が開いていたりする。それでいて中身は減っていないので、却って不気味だ。毒でも入れらているのではないか、と不安になる。移動の瞬間は目撃できない。気づくといつも移動している。一秒前まではそこにあったのに、瞬きをすると置き場所が変わっていることもしばしばだ。どうあってもその瞬間を目撃することは適わない。段々と傾向として、部屋のこの区域の物体ばかりが動いていると気づく。何かの通り道でもあるかのように錯覚する。じっさい、何らかの干渉がそこで生じているからこそ、物体の位置が変わるのだ。私はしばらくしてから、動く物体にも法則性を見つけた。兄の好んでいたものばかりが動くのだ。いちどそのことに気づくと、まるで兄がそこにいるかのよう感じられた。いまもまだ死んだことに気づかずに生活しているのかもしれない。兄とは二人暮らしだった。おそろしくはない。兄がここにまだいてくれると思えば、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054904337243



2805:【忍の極】

葉がくるくると舞い落ちる。下から刀を振ると、葉が二つに割れた。手首をひねり上から下へと振りおろすと、こんどは葉は四枚に分断され、地面に散る。八枚にはならない。師範は二太刀で葉を八つに捌く。いかな業を用いればかような芸当ができるだろう。シチハは未だ底の見えない師範の力量、そしてじぶんとのあいだに開いた差に胸のうちを深く抉られるような失望と煩悶を覚える。上達しているはずだ。ほかの里の忍び相手ならばまず引けをとらない。たいがいの忍び相手であれば出し抜き、命のやりとりなく戦闘不能に陥らせることもいまでは容易い。だが、己が腕に覚えができるほど、師範との越えられぬ歴然とした差に打ちのめされる。「どうしたの。きょうも早起きだね、眠くないの」師範の声が背後から聞こえ、咄嗟に刀の柄に手をやった。しかし背に差していたはずの刀がいまは師範の手のなかにあり、彼女は朝陽を転がすように刃を傾ける。「よく手入れがされているね。なかなかできることじゃないよ。でも休むこともまただいじだから、あんまり無理はしないこと。できる?」「はい」師範は刀を翻し、先端をゆびでつまむ。柄を向けられたので、掴みとる。「きみがうちに来てからえっとぉ」「もうすぐ三年になります」「もうそんなに」師範は素で驚いた顔をする。演技だろうか。それはそうだろう、彼女に素の表情などがあるとは思わない。「なんだか懐かしいね。きみがうちに転がりこんできたときの光景、そうそう、昨日あったことのように思いだすよ」「お恥ずかしい限りです。このご恩、一生かけてもお返ししたく存じます」「いいよいいよ。そんなに畏まらないで。なかなか仲良くなれないなってまた悩んでしまうよ」「すみません」「もう実力に差はないんだからさ」師範は言うが、そんなわけがなかった。彼女の見た目は出会ったころから変わらない。その強さもまた、おそらく変わっていないのだろう。変遷しているのはシチハのほうだ。成長よりもさいきんは老いへの怖れが身体の節々に湧いている。高い場所から飛び降りる際にはむかしよりも慎重になった。段階を踏むようになり、すこしでも躊躇したならば遠回りを選択する。戦闘においてもなるべく対峙せぬように、気づかれぬように、まずは奇襲を優先する。どうしても刀を交えなければならないときには、不利と思えば即座に退散した。命あっての忍びである。生き延びる術を磨いている。弱くとも生き延びられる術だ。弱者がゆえに、技術を、業を極め、修めなければならない。力量を磨き、蓄えるほどに、師範の底なしの武力に慄くはめになる。心底いまでは、バケモノと思う。師範は人ではない。それ以外の何かだ。「ご飯を食べよう。川に寄って罠のなかを見ていこう。何かかかっているかもしれない」「稗はどうしますか」「焚いてくれる?」「お任せを」「はい、でいいよ。堅苦しいのは嫌いだよ」「はい」この会話は定期的に繰り返している。どうあっても師範に気安く接するなどできはしない。客人がいるときは敢えてそうした演技を心得るが、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054904929090



2806:【雨の日にはきみと紅茶とチーズケーキと】

そのお店は雨の日にだけ現れる。訪れるお客さんは多くはないからか、わたしがよれよれと引き寄せられて足を運ぶといつもハレミさんが窓際の席で頬杖をつき、欠伸を噛みしめている。本でも読めばいいのに。玄関先で傘を畳むと、わたしの姿を目に留めたのかハレミさんがいそいそと席を立った。わざわざエプロンを身に着ける姿が胸をくすぐる。三つ編みに大きなメガネは、彼女のトレードマークだ。わたしは前髪を整えて入店する。「いらっしゃい、待ってたよー」「チーズケーキと」「紅茶、はちみつたっぷりで、ミルクも少々でしょ。しょうち、しょうち。待ってて」そんな満面の笑みで出迎えたりなんかするから、雨が降るたびにわたしは来ざるを得なくなるのだ。ときには面倒に思うこともあるし、雨が連続で数日間降りつづいたりしたときにはさすがに行かなかったりもするけれど、そうしたときはたいがいハレミさんのしょんぼりした顔を思い浮かべてしまって、こんなんだったら行けばよかった、と後悔するはめになる。「ハレミさんは人たらしですよね」なんてことを言ってみる。「人たらしって? 座敷童の親戚みたいなの?」「らし、しか合ってない。それ冗談で言ってますよね」「あれ、違った?」どこまで本気で言っているのか判らない。本気にしろ頬被りにしろ、どっちにしても嫌な気はせず、どちらかと言えば、来てよかったー、と思ってしまうからくやしい。人たらし、と内心でなじる。「いつ来ても暇そうにしてますけど、ちゃんとお客さん入ってるんですか」「入ってるときもあるよ」「それは入ってないときのほうが多いよ、って意味ですねさては」「いやー、どうだろね。へへへ」彼女はわたしの向かいの席に座って、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054905590752



2807:【ゾウさんの小さいものはなに?】

ヘイコウくんが言葉を発しなくなってずいぶん経つ。何かきっかけがあったのか、とヘイコウくんのご両親はたいへん心配していた。ぼくも心配で、毎日のようにお見舞いに行っていたけれど、毎日はつらいでしょ、とヘイコウくんのご両親に言われてからは、一週間に二回くらいの頻度で顔をだすようにした。本の貸し借りをして、その返却を理由に訪問するようになった。これはヘイコウくんの案だ。ヘイコウくんはあまり家のそとにはでなかった。学校にもこない。それはしゃべらなくなった時期と重なっていた。学校で何か嫌なことがあったのかもしれない、と思ったけれど、そういった事実はないようだ、と学校の先生たちは結論付けているようだった。ヘイコウくんのご両親も最初は疑いの目を向けていたけれど、ぼくやほかの同級生たちからの心配の声を聞いて、どうやらうちの子は学校ではみんなと仲良くしていたのだと認識を改めたようだった。現にヘイコウくんは学校では人気者だった。たぶんヘイコウくんを嫌いなひとはいないのではないか、とぼくなぞは睨んでいる。そしてそれは正しい認識だったに違いない。ヘイコウくんが学校にこなくなっても、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054906372430



2808:【秘薬の炎を消すシズク】

その秘薬の噂は知っていた。ひと口飲めばたちどころにどんな難病も怪我も治るという話だ。じっさいに目にした者は身近にはいない。だがみなそれの実存を信じているようだ。否、信じたいだけなのだろう。病でたいせつなひとを亡くすのが珍しくない時代だ。みな誰かを看病し、いずれ看病される未来を受け入れている。あればいいなぁ、との願望が、みなに幻の秘薬を夢見させるのだ。「秘薬はある。ただ、お勧めはしない」村を訪れた薬屋が言った。旅をつづけてきた彼なら知っているかもしれないと思い、雑談のつもりで投げかけたのだ。どんな病も怪我も治してしまう秘薬はあるのか、と。妹の薬の支払いが足りず、食事と宿の世話をしているうちに、そうした会話をちらほらするようになった。「秘薬はある。噂は本当だ。ただ、手元にはない。これからも扱う予定はない」「どうしてですか。そんな薬があるのならみな助かるじゃないですか」「そうだ。そんな秘薬があるならみんなこんなに苦しんではいない。どうしてだかを考えてみるといい」「やっぱり存在しないとしか」「あるにはある」「誰かが独占しているとか」「だとしたら略奪されておしまいだろう。お主だって、そんな秘薬を独り占めしているやつがいると知れば、みなを焚きつけて、奪いにいくだろう」「そんな強引なことはしませんけど」「もちろん我々薬売りを生業にしている者たちが隠しているわけでもない」内心の邪推を見抜かれたようで居心地がわるくなる。現にこうして隠しているじゃないか、教えてくれないじゃないか、とヤキモキする。古傷だらけの顔を隠すように彼はいつも頭から布を被っている。屈強な身体つきだが、足取りは重い。身体のどこかが不自由なのではないか、と彼を見た者はみな思うようだ。「我々としても仕事はないほうがいい。できれば同じ土地に居つき、野や畑を耕して暮らしたい。だが、そうもいかぬだろう。誰かが薬を届けなければ、苦しむ者は増えるばかりだ」「どうしてその秘薬を配らないのですか。値段が高くとも、一生をかけて払う者はいくらでもいるはずです」「いるだろうな。だが、お勧めはしない。あれは、みなが思うような万能薬ではない」「副作用があるのですか」「そういう問題ではない。あれは、ひとに扱える代物ではない。ただそれだけのことだ」お茶を濁すような物言いに、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054907135869



3809:【ピエロと一匹の】

あるところに心優しいピエロがおりました。ピエロは白塗りの化粧に赤玉の鼻、子供用パジャマのズボンを頭から被った、小太りの男でした。ピエロは子どもが大好きでしたから、道行く子どもたちを楽しませようと、陽気に振る舞い、空き瓶をいくつも宙に投げて回し、塀のうえで逆立ちをしたりします。けれどピエロが大袈裟に動けば動くほど、子どもたちは怖がって近寄りませんでした。そのうちおとなたちまでピエロに冷たい目をやり、町からどんどんピエロの居場所はなくなっていきます。ピエロはそれでも毎日のように町にでて、陽気におどけ、玉乗りやパントマイム、さまざまな演目を披露しました。ときおりまだ言葉もしゃべれない幼児が、ぱちぱちとにこやかに手を打ってくれますが、その親と思しきおとなに視界を塞がれ、いかにもあれは見てはいけないものだ、と諌められるように去っていきます。ピエロは笑顔を絶やしません。化粧がそういう絵柄だからです。あるとき、町で殺人事件が起きました。女児が草むらで遺体となって発見されたのです。それからしばらくしてこんどは男児が行方不明となり、数日後に橋の下で見つかりました。腹は裂け、首と胴体が切り離されていたそうです。町からは子どもたちの姿が消え、おとなたちはふだん以上に目つきするどく歩いています。殺人事件の捜査がすすむにつれて、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054907510009



2810:【トキドキ動悸同期】

おそらく世界中が血眼になって探し求めている同期体はミカさんだ。同期体イコールミカさんと言ったほうが解かりやすいかもしれないけれど、当の本人はまるでその自覚がないようで、まいにち暢気に私がかってにつまんだクッキーが減っていることに腹を立てたり、私がかってに着てでかけたミカさんお気に入りの服が洗濯物置き場に投げ捨ててあるのを見つけて腹を立てたり、まあたいがいミカさんは腹を立てている。ミカさんが水ならとっくに沸騰しきって水蒸気を越してプラズマになっているところだ。ミカさんが人間でよかった。竜球と呼ばれる鱗に覆われた巨大な球体が主要都市の頭上に現れたのは二十一世紀も半ばになってからのことだ。どれくらい巨大かと言うと、竜球の影で新宿区から昼が消え、百夜さながらの闇に覆われてしまうほどに巨大だった。もう都市と言っていい。空中都市だ。いや、星だ。地球に惑星がぽつぽつと何十個もできたようなもので、これは太陽の惑星としてくるくる公転している地球の軌道にも影響を与えた。具体的には月が接近し、地球は太陽に近づいているという。非常にゆっくりな進行でありながら、地上の気候に甚大な変異が表れており、このままいけば三十年後には海洋生物の八割が死滅するだろうと言われている。サンゴ礁が絶滅することによる影響が大きいが、じつのところこれは元からあった気候変動の影響のほうが高いとする専門家の意見も聞かれる。気候変動の問題に頭を悩ませる局面でありながら、各国はいまそれどころではない。というのも、竜球がときおり動くのだ。巨大な球体に気軽にふよふよと移動されてはたまったものではない。湯船に張ったお湯にバケツの底を押しつけて波を起こすみたいに、大気が荒ぶってたいへんだ。砂嵐が一瞬で起き、家屋は崩壊し、何千キロ先にまで暴風が伝播する。大気の津波、またの名を竜の息吹と呼ばれる現象だ。予兆もなく起きるので、もはや竜球の真下の区域にはかつての大都市の面影はない。竜球はしかし、一つどころに留まることをせず、人口の集中する場所へと数年がかりではあるものの、移動する。人類は竜球を避けるように移動しながら(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054908075241




※日々、何の流れを強化するかを考える、何の流れが強化されているのかを考える。



2811:【永久に観賞】

幽霊が最後に行き着くところがどこかを知っているだろうか。天国? 地獄? そんな場所があるのかは判らない。なぜなら幽霊はみなある時期を境に、海へと向かい、成仏するからだ。ときおり塩を撒かれて成仏する者もある。スーパーを歩き回って、誤って塩売り場の棚を通り抜けてしまって昇天する者すらいる。つまるところ幽霊は塩に弱い。ゆえに、海水に浸かれば否応なく成仏するはめになる。海で死んだ者が幽霊になれないのはそうした理由によるものなのだろう。幽霊になれずに死ぬのと、幽霊となって現世をさまようのとではどちらがよいのかは案外に悩む。長らく浮遊霊をやってきて思うが、割とみなすぐに成仏したがる。十年も現世に留まらない。幽霊は眠らずに済むので、じっしつ十五年、疲れ知らずな面を考慮に入れても二十年くらいを幽霊でいつづけると、おのずからみな海へと向かう。全身一気に海水に浸かれば、苦しまずに成仏できるからだろう。そう、少量の塩では成仏に至れない。痛みすら覚える。おにぎりを踏んづけるとその塩っ気によって、画びょうを踏みつけた、くらいの痛みが走る。これは実体験だ。私はいま海へと向かっている。成仏するためだ。いったいどれほどの期間を幽霊として生きてきたのか判らない。もはや私にとっての生とは、幽霊でいた期間を示す。それ以前の記憶はいまではだいぶんあやふやだ。肉体がないがゆえに、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054908843896



2812:【知らぬ間に糜爛(ヴィラン)】

我ら最強の軍団がいかにして一夜で滅んだのかを記録しておこうと思う。機密文章に値するが、あまりに常軌を逸している内容のため虚構という体で書いておく。我が軍団に名はなかった。仕事の報酬は、仕事完遂にあたって消費した資本の補完とつぎの仕事の斡旋だ。我々は常に戦場を求めていた。否、狩りの場だ。戦いにすらならない。いっぽうてきに武力を働き、圧倒し、掌握する。資本を得るために仕事をするわけではない点では、ビジネスとは言いがたい。行うことの多くも破壊行為であり、何かを生産するわけでもなかった。ゆえに一つの強大な生物のようなものと捉えてもらって構わない。生きるために餌を食べるのか、それとも餌を食べるために生きるのか。二律背反のようでいて、ここには何の矛盾もない。どちらも生の営みであり、仕組みを維持するための活動だからだ。その依頼は、とある政府機関からの依頼だった。表向きは密葬だ。亡くなった者を弔ってほしい、といったカタチで依頼者は仕事の発注するが、故人はその時点ではまだ生きている。戸籍を書き換えられる組織のみができる発注の仕方だ。言い換えれば、殺してほしい相手をそのようにして指定する。どうせ死ぬのだからいまのうちに死亡者として扱っておこう、との効率のよい判断が嚆矢だったと記憶している。死者にならば何をしても構わない。ゆえに我々がすることはやはり死者の弔いにすぎなかった。亡者となってなお今生に彷徨う亡霊の始末である。今回の亡霊は、一人の女だった。彼女が使用していた戸籍は偽名であったので、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054909284993



2813:【影師の仕事】

影が成長をはじめるようになったのは幕末のことだと歴史で習った。それ以前は、影は影として肉体の輪郭を素直にかたどっていたそうだ。「でも光の加減によっては伸びたり、縮んだりしたんでしょ。いまと何が違うの?」「同じ角度、同じ光量を当てたときにできる影に変化がないってことだろ。年中いつでも。でもいまは、ほら、育つじゃん。植物みたいに」「いまいち想像つかんわー」弟が板状メディア端末を頭上に掲げ、じゃあさ、と言った。「影師さんってむかしはいなかったんだ」「だろうな」素朴な疑問に、言われてみればたしかに、と思った。小学五年生にしては鋭い。影師。いわば、影の美容師みたいなものだ。庭師のようなもの、といったほうが実情はちかいかもしれない。対象とする相手が人間に限らないからだ。影が成長する。その最大の問題は、放置しておくとそのままどこまでも拡大して、拡張して、地表を闇一色に覆い尽くしてしまうことにある。動物にとってはさして困った事態にはならない。しかし植物や藻類、果てはプランクトンなどの微生物は違う。光合成ができなくなり、絶滅の危機に瀕する。じっさい、史実として、江戸時代に海で魚が獲れなくなった時期がある。漁船の影がいつの間にか海上を覆い尽くし、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054910121152



2814:【ふざけんな、愛してる!!!】

「みんなピラミッド型にじぶんの興味対象を捉えているんですよね、好きって感情に優先順位をつけていて。いちばん上が恋愛で、その下におのおの興味対象が広がっていて、食事とか睡眠とかもその層のなかのどこかに位置づけられているけれど、たいがいてっぺんにあるのが恋愛感情になっているんじゃないのかなって。でもぼくは違うみたいで。ピラミッド型ではなく、円形なんです。ぼくが真ん中にいて、それぞれ四方八方に興味対象が、円グラフみたいに伸びています。しかもそれは日によって、時によって変わりますから、みんなみたいには思えません。たぶんこれって、浮気癖のつよいひととか、独裁者みたいな考え方にちかいと思うんですけど、でもぼくはそもそも性欲とか恋愛感情を優先することがありませんし、どんなときもあんまり強く惹かれたりはしませんから、似た精神構造ではあるかもしれないけれど、浮気をしたいとは思いませんし、ほかのひとたちのだいじなものもだいじにしたいと思っています」ダミさんは言った。ゆったりとした口調で、詩を読むみたいで、私は、たったいま現在進行形で振られている最中であるというのに、ダミさんの声にうっとり聞き入ってしまった。「前にも言ったかもしれないけれど、ぼくはサカナさんの小説が好きですし、サカナさんの表現物が好きで、そしてたぶんそれは恋愛感情とは方向性が異なっていて、だからサカナさんのことは嫌いではないですし、これからも仲良くしたいとは思っているのですが、でもたぶん、サカナさんと恋仲になるのとは違う気がします」サカナさんの求めているような関係にはたぶんなれません、とダミさんは言った。目頭が熱くなる。痛いくらいだ。私は視界が滲むのを、へんだな、と何もへんではないのに思った。コーヒーをすする。湯気が鼻の頭を撫でる。窓のそとを通行人が流れていて、世界が違う、とまるでトンチンカンな考えが脳裡を席巻する。「でも誤解してほしくないのですが」ダミさんはこれから私を傷つけないように上手に私への好意を伝え、いままでの関係でいましょう、と私が絶望しないように言葉を投げかけようとしている。私はそんな彼のやさしさを憎く思い、それでもそんなダミさんのやさしいところが好き、と思いもする。「ぼくはサカナさんの表現物が好きで、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054910795568



2815:【ぼくの祖母は魔女】

ぼくの祖母は魔女だった。正確には村の人たちから、魔女と呼ばれていた。誤解されそうなので注釈を挿しておくと、祖母は村のひとたちから愛されていたようだし、しあわせな人生を満喫したと孫のぼくですら思うようなステキなひとだった。祖母にはふしぎな能力は何もなかった。ふつうの人間だし、魔法なんて使えない。ひょっとしたら本当は使えたのかもしれないけれど、それは祖母が本当は宇宙人だったかもしれない、と妄想するのと変わらない可能性の話で、祖母には物を宙に浮かせたり、瞬間移動させたり、猫にしたりするような能力は備わっていなかった。すくなくともぼくはそう思ってきたし、当時の村のひとたちだってそう認識していたはずだ。姿形がでは魔女っぽかったのか、と言えばそれはノーで、祖母はすこしばかり人目を惹く愛らしさがあったとはいえ、魔女と呼ばれるような特徴を兼ね備えたりはしていなかった。ではなぜ魔女と呼ばれたのか。祖母の料理がとびきり美味かったからだ。それも、村を一つ丸ごと変えてしまうくらいに。祖母の生きていた時代は電子と気候変動とネットワークの時代だった。誰も神や妖怪を信じていない。そこかしこを機械が走り回り、空すら飛びまわった。山と森に囲まれた田舎にすら電子の網の目は行きわたり、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054911513490



2816:【鬼だっちゃ】

鬼が島から桃太郎一行が去ったあとのことである。「おそろしゅう方の怒りを買ってしもうたの」「んだんだ。しばらくは人間っこを食べるのはやめにすっぺ」「あほか。二度と喰らうでね。あの方も言っておったべ、おとなしくしてりゃ見逃してやるって。つぎは本気で滅ぼすぞ、とあれは暗にそう言っておったのだぞ」「んなこと言ったって、食わねばどの道滅びるべ。わてら何さ食えばいいだ」「そだなぁ。人間っこを見習って、んだばいっちょ畑でも耕すか」んだんだそれがええ。鬼たちは鬼が島の岩だけの地盤を、自慢の強力と鋭い爪で以って、掘り返した。岩盤は細かく砕かれ、肥沃な土壌となった。「何さ埋めっぺ」「んだば、あれさどうだ。前に魔女のアネゴがくれたべ」「まんどれいぐ、ちゅうあの不気味なあれか」「味はカボチャに似てたど」「ぬしゃ食ったんか」「チカラがモリモリよう湧くだ、湧きすぎて怖くなってもう食わんくなっただ」「なしてや。よかべ元気でるんであらば」「元気ですぎっと、よう動くべ。したらもっとお腹が減るっちゃ。したらば、もっと食べとうなって、あとはもう底なしだ。そんなのは御免だべ」「したらわしらも同じだべ。やっぱやめとくか」「丸ごと食ったのがいけんかったべ。細かく砕いてほかの料理さ混ぜっぺ」「んだらば種さあるだけ埋めっぺ」んだんだ。鬼たちは島にゆいいつ残された備蓄を土に埋めた。金銀財宝は桃太郎一行に譲った。奪われたわけではない。もちろんそれで見逃してくれと差しだしたわけでもなかった。知らなかったとはいえ、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054912019710



2817:【天狗の髪は黄金色】

里の者からは天狗と呼ばれている。おそらく異国の血を引いているのだろう。寺の和尚に育てられたが、齢十を過ぎたあたりで山のなかに小屋を与えられ、そこで暮らすように言い渡された。和尚は足繁く顔をだし、面倒を看てくれたが、本家からやってきた者が新しく住職となると、いつしか慈郎を訪ねる者はいなくなった。慈郎を和尚はジェロと呼んだ。そちらがおまえの真の名だ、といつか言われたが、なぜそのようにまどろっこしい真似をするのかは分からずじまいだ。和尚が住職でなくなったあと、どこに消えたのかも不明だ。よもや死にはしていないだろうと慈郎は考えていたが、やがてひょっとしたらそれもあり得るのかもしれないと諦観の念を胸に秘めた。恩を返すつもりでいた。その機会が永劫訪れぬかもしれない未来は、暗く細々とした道に重なって見えた。じぶんは里の者を怖がらせる。子どもながらに身体はおとなほどに大きく、年々さらに輪郭の幅を増す。髪の色は満月がごとく黄金色をしており、村人のどの色とも異なる。じぶんは異物だ。そうと知っていたゆえ、自給自足が身についた。生き物を殺すのはよくないが、生きるためには仕方がない。だが、食べる以外では、ゆめゆめ命を奪うな。命あるものすべてを尊ぶように暮らすのだ。幼いころから和尚は口を酸っぱくして慈郎に言った。慈郎はそれをゆいいつの教えとして、律儀に守った。山には幸が多くある。一人で生きていくには充分だ。なぜ里の者たちはああして一か所に集まって不便を与え合っているのかとふしぎに思いはしたが、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054912851514



2818:【何でも切れるハサミ】

何でも切れるハサミを発明してしまったが、真実、何でも切れるのかにはいささか検証の余地があり、手当たり次第に目につくモノを断ち切っていくと、鉄でも豆腐でも、家でも、海でも、時空でも、まるで漫画のコマを切りぬくように断ち切れてしまって後始末に困り果てた。ぬいぐるみであれば切ったあとで縫い合わせればそれで済むが、海や時空は、切ったあとでの扱いに困った。海は切れてそのまま、まるで水風船に穴を開けてしまったがごとく総じての海水が見る間に抜けていき干上がってしまい、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054913346301



2819:【運命の赤い糸はシケったれ】

十五歳になると運命の赤い糸が見えるようになる。わたしたちはそれを義務教育で習うまでもなく、親やきょうだい、家族という身近な社会を通して知ることになるのだけれど、わたしは十五歳をすぎても一向に赤い糸が見えなかった。「そういうコもいるらしいよ」姉はなんでもないような顔で言うけれど、見えないのは同級生のなかでわたしだけだった。ほかの学年にはわたしと同じように赤い糸が発現しなかったひとがいるのかもしれないけれど、運命のひとがいないひと、と見做されることのリスクを想像できなかったおばかちゃんはわたしだけだったようで、わたしは一人、運命のひとを持たぬ孤高を約束された人類として義務教育最後の学校生活を送った。惨めだった。箸が転がっても恋バナで盛りあがる思春期まっただなかの脳内お花畑ちゃんたちのなかに埋もれていながらわたしは、みなの輪のなかには入れないのだ。いいや、仲間外れにはされないが、話に入れない。それはまるで、みなの共通言語をわたしだけが持たなかったような、異国のひとじみた生活だった。高等学校にあがってみても、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054913876046



2820:【売れない小説家】

世に売れない小説家は数あれど、ミカさんほど売れない小説家も珍しい。私は彼女ほどに小説を愛し、小説を楽しみ、小説をつくっている小説家を知らなかったので、なぜこれほどまでにミカさんの小説が読まれないのかがふしぎでならない。「売れないのは当然だよ。だって供給過多なんだもの。需要がないのだもの。商品としての価値なんかとっくになくなってんだもの。あたしだけじゃないよ。小説というそれそのものに、そもそも商品価値なんてないのさ。見なよ。文豪の小説なんか全部タダだよ?」夢も希望もなにもない言い方をミカさんはする。そのくせ彼女の小説には夢や希望がこれでもかとてんこ盛りで、小説のなかに置いてきてしまったから現実のあなたはこんなにも擦れてしまっているのですね、と寂しい気持ちになってしまうほどだ。「宣伝すればもうちょっとくらいは読まれるようになるんじゃないですか。なんだったら私の名前を使ってもいいですし。頼まれれば私が宣伝してあげてもよいですよ」私はそこそこ名の通った女優だった。私が口利きすれば、脚本の仕事くらいは紹介できた。が、ミカさんは怒るでもなく、「おもしろくねぇなぁ」画面に目を釘付けのままキィボードを打鍵しつづける。「あたしは小説をつくりたいだけだからなぁ。仕事じゃないんよ。だいたい、小説なんかもっと世に有り触れたものであってほしいと思うくらいでね。小説家、なんてたいそうな名前で呼ばれつづけているようじゃ、まったく以って、小説の可能性を狭めているようなものだよ。誰もが小説家を名乗っていいくらいの時代だよ。まったくもうまったくだよ」「ミカさんの小説はでも(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054914257478




※日々、波のように、しぶきのように、砕けても砕けても、反復でなく、比類なく。



2821:【カレー注意報】

おいしすぎて人が死ぬ。ミカさんのつくるカレーはこの世の美味という美味の概念を煮詰めたくらいにおいしくて、食べると死ぬ。でもあまりにおいしすぎるので食べたがる者が後を絶たない。みなじぶんで食べて死ぬのだからミカさんが殺人罪で捕まることはなく、ミカさんの作るカレーの成分も毒ではないので、やはり捕まることはなかった。ミカさんのカレーは、その匂いも強烈においしそうに漂うので、半径数十キロ圏内の人間はこぞってミカさんのカレーが食べたい病にかかる。もはやゾンビのごとくヨダレを垂らして集まる人々を追い返す真似は、たとえ自衛隊を動員してもむつかしかっただろう、それくらいにミカさんのカレーの引力はすさまじいものがあった。けっきょくミカさんのカレーを食べて死ぬ者よりも、ミカさんのカレーを奪いあって死んだ者が多くを占め、このときになってようやく国はミカさんのカレーを法律で禁じた。カレーを禁じた、というのもなかなか言語としておかしく映るが、その実、ミカさんにカレーを作るな、とは禁じられず、なぜってミカさんはただカレーをつくっただけで、材料から手法から、何から何まで一般のカレーであるから、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054915033296



2822:【砂利ですら宝石】

純粋な砂利というのはつまるところ宝石なんじゃないかとミサオは思った。ミサオの性別をここで明らかにしてもたいして本筋には影響しないので、ここではミサオをミサオと述べるに留めるが、ミサオには血が流れていなかった。慣用句の意味で、血も涙もない、という言い方があるがそうではなく、真実生物学的な意味合いでミサオには血が流れていなかった。代わりにミサオの体内には砂利が流れている。液体ではなく固体だ。流体の性質が極めて高い、粒子が流れている。液体にしたところでそれを構成しているのは原子や分子であるので、似たようなものと言えばそうかもしれないし、まったく違うと言われればそれもそうだと首肯するよりない。ミサオの体質はいわゆる突然変異であり、一般的には新種の疾患として扱われる。ほかに同様の症例はなく、ミサオがゆいいつの患者だった。仮にミサオのほかに多くの似た個体があれば、それは進化として認められる変異と呼べたかもしれないが、ミサオ一人だけではまだ厳密には進化とは呼べなかった。ほかの多くの人間たちが水を摂取するのと同様に、ミサオは砂利を摂取せねばならなかった。人間は水を飲む。同じくして、ミサオは砂利を飲むのだ。水道水が、濾過された清潔な水であるように、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054915033467



2823:【何者でもないけれど】

まだ何者にもなれてないのか、と何度ぼやかれただろう。ひょっとしたらそれはぼやきではなく、皮肉だったのかもしれないし、あからさまな揶揄であってもおかしくはないといまになって卑屈に過去を省みてしまうけれど、ボクはけっきょくその言葉たちのとおり、何者にもなれていない。ボクのほかにも何者にもなれていない個体があればよいのに、みな一様になりたいものや、或いはなりたくないものでありながら誰かにとっては喉から手が出るほどになりたいものになっている。みにくいアヒルの子は最後には白鳥になって飛び立つけれど、何者かになれなければハッピーエンドを迎えられない時点であれはけして夢のある話ではない。シンデレラにしても同じだ。最後に王子さまと結ばれなければしあわせになれないというのならそんな理不尽な話はない。継母たちと円満になれてこそ大団円の名にふさわしいのではないだろうか。ボクがいくら世の至福のカタチに不平を鳴らしても、ボクが何者かになれるわけではなく、ましてや何者でもないままで大多数の、何者かたちの社会でしあわせを掴めるわけでもなく、ただただボクはみなの理想の至福のカタチにイチャモンをつけるだけのひねくれて、いじけていて、卑屈なやつとしての人間性に磨きをかける結果しか生まないようだった。それで以って、いっそのこと嫌なやつの代表格としての名を冠すれば、ボクもとりあえずの何者かにはなれたのかもしれないのに、ボクはちょっとそこらへんの詰めが甘くて、迷子の子どもを放っておけないし、道に落ちている財布は交番まで届ける律儀な性質を捨てきれないのだった。「えっとぉ、あなたはまだ無色なんですね。しかもずいぶんとその、失礼だったらごめんなさいね、適正色彩も薄くて、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054916196487



2824:【種は滅ぶ】

気候変動の影響だと最初は目された。植物が急速に絶滅しはじめたのだ。地域差こそあれ、種ごとに一気に枯れた。種子を蒔いても芽吹きはするがすぐに萎れる。それきり実はならず、滅ぶのだ。種の死滅にかかる期間は八か月だ。どの地区に根付こうともいっせいに絶滅した。それが一つの種に限られたものならば、甚大な損害であるにせよ、人類にはまだなす術があった。しかし絶滅の連鎖は留まることを知らず、種をまたぎ、あらゆる植物を地上から一掃しはじめた。人類は焦った。なす術がなかった。ちょうどそのころ、絶滅したはずの植物に似た草花が各地で報告されはじめた。似ているが、違う。姿を消したはずの植物とその新たに発見さた植物群には決定的に明らかな差異があった。葉が青いのである。新種の葉の青い植物は徐々に数を増し、絶滅した種をそのまま補完する勢いで地上を埋め尽くしていく。人類は安堵した。しかし原因が不明だ。束の間の安息にすぎないかもしれない。もっとよくない災害の前触れかもしれない。青い葉の植物の研究は盛んに行われた。並行して、なぜ緑の葉の植物が滅んでしまったのかの研究もつづけられた。やがて一つの仮説が打ちだされる。葉緑体が進化したのではないか、との仮説だ。そもそもなぜ植物は(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054916853280



2825:【人魚にひれはない】

人魚というよりクラゲにちかい。ひれはなく、半透明で、陸にあがればブヨブヨとつぶれてまともに人型すら保てない。陸人たちのあいだでは人魚姫なる伝説がいまでも、何百年も前から語り継がれているようだが、ざんねんながら、そのような姿形はしていない。下半身が魚、ではないのだ。いちおう、これは陸人の言葉で記録しているので、ここでは私たちを人魚と呼ぶことにする。私たち人魚の祖先はおそらくいったん陸上で人型に進化した。ふたたび海へと戻り、手足を失くし、身体も浸透圧や水圧に悩まされずに済むように、細胞のほとんどを水分にしてしまって、クラゲのようにスカスカの肉体を獲得した。一般にあまり知られてはいないけれど、海洋生物の寿命と体温には密接に相関関係がある。体温が低い生き物ほど長生きで、その分、ゆっくりと動く。反して、体温の高い魚は泳ぐ速度もまた高い傾向にある。そして私たち人魚は、体温を低く保ち、長生きをする方向に進化を遂げた。そのほうが生き残りやすく、また子孫を残しやすかったのだろう。自然淘汰の原理は、陸だけでなく海でも有効だ。いまでは、生命が陸と海のどちらで誕生したのかには諸説あり、両方が生命の起源でもおかしくはないように私は思う。私たちの身体の大きさは、陸人たちの百分の一にまで縮んでしまったが、中枢核から神経回路をまんべんなく身体に巡らせることで思考能力を向上させた。陸人たちの知能と大差はないと想像している。現にこうして私は陸人の言語を操るくらいには学習能力に事欠かず、あべこべに私たちの言語をおそらく陸人は難解に思うのではないだろうか。私たちの言語は波形を帯びている。一つの波紋を生じさせるだけで、そこに多くの情報を載せることができる。陸人たちの言語では「あ」だけでは何も言っていないに等しいが、私たちの言語であれば、その「あ」だけに、きょうあったできごとをそっくりそのまま載せ、伝えることができる。海の中は情報の宝庫だ。私たちは波や水のうねり、水質や水温に至るまでの総じてを把握し、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054917177582



2826:【屋台、桃、日常】

終電に揺られているあいだだけ、ほっとひと心地つく。いつも帰るのはこの時間帯だ。残業をしない道を探せばよいものを、そんな苦労をさらに重ねるくらいならば、現状を甘んじて受け入れ、終電のスカスカの車内で、夜の帳に沈んだ街並みを眺めているほうが性に合っている。端的に、楽だ。苦労を重ねているから、苦労を避けて、重ねた苦労を継続して背負いこむことを楽と見做す。ばかばかしいくらいに自己破滅型の思考回路だ。判ってはいるが、どうしようもない。慣れてしまったのだ。死ぬまでにはなんとかしよう。きっとそんな契機が、いつかのどこかで訪れるはずだ。他愛もない妄想を浮かべているうちに下車駅に着いた。駅を出て、コンビニに寄り、夜食を購入する。駅の裏手側に周り、人気のない閑散とした路地を辿る。十段にも満たない短い階段があり、そこを下りると、視界の端に明かりが映った。歩を止め、目を転じる。階段の脇に屋台が止まっていた。ふしぎなことに、その屋台には色とりどりの野菜が並んでいた。それでいて看板には、桃あります、とある。屋台の提灯は煌びやかで、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054917225358



2827:【愚弄するでナイト】

たとえば教室に幽霊がいるとしよう。最初は怖がっていた女子生徒だが、徐々に幽霊と仲良くなっていき、ひと夏の思い出をたくさんつくりながらやがて幽霊の心残りをいっしょに解消すべく奔走し、最後は幽霊は満足して成仏する。ここで明らかになる事実がある。幽霊はじつのところ生徒ではなかった。教師だったのだ。とすれば、短い物語ならそれなりのオチとして、ありがちではあるものの、ちいさな驚きとなる。でも私が遭遇した幽霊は教室にいるのに、生徒でも教師でもなかった。「拙者、仇討ちを済まさねば死んでも死にきれぬでござる」「何百年も前に死んだんでしょ、じゃあその仇のひとも死んでるんじゃないんですか」「前にも言うたであろう、子孫がおるようでな。拙者は子を残せなかったばかりか、仇ばかりがよい思いをして、子孫繁栄しておる。許せぬ」「いやいや許してあげなよみっともない」「何を小娘。拙者の無念を愚弄するか」「あんたのねばっこい怨念が見苦しいって言ってんの」「何をこの、叩っ斬ってくれるわ」「そうやってすぐ頭にきて暴力に訴えようとするから殺されちゃうんじゃないの。じぶんがわるいかもしれないなんてからっきし考えないんだね、そんなんじゃ同情もできないよ。だれもあなたの味方にはならないだろうね」「うるさいわ小娘。おぬしに拙者の苦しみが理解できるものか」「できないよ、そりゃずっと独りで彷徨っていたのは可哀そうだと思うけど」「無実の罪を着せられ、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054917275715



2828:【あぶぶ、あぶぶ】

わらわに切っ先を突きつけてくる狼藉者どもが、里の者たちから冒険者、または勇者と呼ばれているのは知っていた。よもや里の者たちが頼んでそれら狼藉者をわらわのもとに遣わしていたとは夢にも思わなんだが、知ってしまった以上は、黙ってはおられまい。わらわは里の者たちを好ましく思っていた。ときには山の棲まう陰に生きるモノどもを遠ざけ、里に近づけぬようにしてきたが、わらわの厚意は無下にされた。天誅をくだそうとは思わぬ。が、これまで配ってきた心は一身に留め、山に棲まう陰に生きるモノどもへの干渉をやめにした。里を庇護すべく、抑止の楯になってきたつもりが、わらわこそが里の奇禍と見做されていたと知れば、ことさら何かを及ぼそうとは思わぬ。このままいけば里は遠からず、陰に生きるモノどもの餌食となるだろう。案の定、わらわの見立てどおり、里は見る間に荒んだ。わらわの怒りを買ったとでも誤解したのだろう、間もなく、わらわの住処の近くに供物が置かれた。大量の食べ物の真ん中に、ちょこんとわっぱがおった。わらわにこれを喰らえとでも申す気か。おいそれと感情を波打たたせたりはせぬわらわであっても、この扱いにはいささか腹に煮え立つものが湧く。かといって里に何かをしようとは思わぬし、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054917327344



2829:【作家の性根は腐敗神話】

シャーマンは神の声を聞く。しかしその神の座を奪ってしまったシャーマンがいたとしたら、神への反逆罪でこっぴどい目に遭うのだろうか。事の発端は、開眼の儀式でのことだ。オレは勇者試験に合格し、魔王討伐のための異能を授かるべく、司祭さまの宮殿を訪れていた。そこで開眼する異能は、勇者ごとに違う。個性があると言えば端的だが、どちらかと言えば、同じ異能は二度と顕現しないとも言える。人知を超えた能力が行使可能になるが、いまのところそれで魔王を打ち負かした勇者がいないのは、明らかに我々人類側の劣勢を示している。「初代の勇者は魔王に深手を負わせた唯一の勇者だと習っていますが、どんな異能だったんでしょう」「魔王に深手を負わせる異能だったのではないかな」司祭さまは真面目にそうお答えし、オレにいかづちを落とした。そこで開眼したオレの異能は、シャーマン、いわゆる神との交信を可能とする能力だった。神が実在するとは思わなかったので、これには動揺した。世界の創造主が真実に存在し、そしてその方と意思の疎通ができるとなると、オレの言葉一つで世界の命運が左右されると言っても過言ではない。創造主ならば、魔王とて手も足もでないだろう。頼み方次第では、魔王を打ち滅ぼす手助けをしてくれるかもしれない。もっと言えば、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054917373360



2830:【言語のない世界】

言語は百年前の道具だ。いまでは誰も言葉なんか使わない。声をだすなんて真似をせずとも意思を疎通し、情報を共有できる。文章だって必要ない。記録の総じては百年のあいだに徐々にベーズへと移行し、いまではほとんどの人類の記録がベーズ上にある。むかしは手紙や日記と呼ばれるものを個人が言語を用いて記録していた。ちょうどこれがその模倣と呼べる。僕は考古学者として、言語を研究している。おそらく言語を読み書きできる人類はいまでは僕だけだろう。こんなにまどろっこしく、複雑な記号の組み合わせは、さすがにベーズ変換を用いずに読解することは適わない。多くの人類はもはやこの言葉の羅列を見ても、模様のようにしか見做せないはずだ。言語とは人間の読み書きするもの、との認識を得ている者すら皆無だろう。DNAの塩基配列を見て、誰もがベーズを介してそこに記されている遺伝情報を読み解ける時代にあって、あまりに汎用性がないために、ベーズですら言語を解析対象と判じない。ベーズ変換でわざわざ解析範囲を指定しなければ、言語がどこにあるのかすら分からない者が大半のはずだ。木目と言語の差異などあってなきがごとくだ。言語は、他者と情報を共有するための道具だった。いまでは、ベーズがその役割を担っている。ゆえに僕以外では言語を扱える人類はない、とくどいようだけれど繰りかえしておく。というのも、僕以外に言語を介せる者がいない事実は、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054917414577




※日々、もうひとりのぼくに会うために、きみに巡り会うために、それともすれ違ったまま待ちぼうけを味わうために、しみじみ孤独を愛し、舞うために。



2831:【だって独裁者だし】

ミカさんが独裁者になってしまったので私は反乱軍を立ちあげた。なにせミカさんはじぶんの意にそぐわない人々を滅ぼそうと躍起になっているのだから誰かが立ちふさがり、それはどうかなぁ、もっとよく考えてみましょうよ、とよくよく吟味する契機を与えねばならない。ミカさんは私の邪魔もなんのその、じぶんと同じような人間ばかりの社会を構築すべく、それ以外の人間たちを淘汰する法案ばかりを成立させ、この国どころか全世界にまでその思想を蔓延させようと、あれほどあたしにはなにもないんだ、からっぽだよぉ、と嘆いていたなけなしの才能をいかんなく発揮している。私からすれば魔王誕生以外の何者でもないのに、ミカさんのお人柄というべきか、支持者が指数関数的に増加しており、反乱軍はいまのところ私一人だ。軍どころか、もはや群ですらない。「世界には生きるべき種とそうでない種がいる。いじめっこはいらないし、他人を傷つける悪党もいらない。世のなかを浄化し、みなでよりよい社会を築いていこう、暮らしやすい生活を我が手で」ミカさんの演説は、彼女を魔王としか見做せない私であっても聞いていると胸が熱くなる。そのじつ、やっていることは迫害に、差別に、虐殺でしかなかった。緩慢に、やんわりと進められるので、ぱっと見ではなかなかよいことをしているように見えてしまう。そこがミカさんの巧妙なところだ。気づいたころには、身の周りから私の友人知人がいなくなり、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054917460085



2832:【一匹の虫】

アカウントが消えていて、うまく事態が呑み込めない。そこにあるはずのものが突如として消えてなくなるとひとはなかなかその事実を受け入れられないようだ。目のまえの現実よりもじぶんの認知をまず疑う。思考が混乱する。現実の主要な部位がぽっこりと欠けてしまい、コンピューターのバグみたいにその事実がモザイク然と思考にモヤをかけている。毎日のように眺めていた。楽しみにしていた。目の粗い紙やすりで擦られた心の表面を、そのひとのつぶやきや絵でなだらかにならしてもらっていた。端的に、癒しだったのだ。きょうもまたぞろ荒んだ心に潤いを、と思い開いたら、アカウントが消えていた。該当するページが表示されないどころか、これまでのつぶやきそのものが失われている。そのひとのほかのサイトも覗くと、絵がごっそり消えていた。喪失感、の三文字が、視界を塞ぐ。しばらくそのひとに関連するサイトを検索し、探った。かろうじて過去に載せてあった古い日記を発掘する。そのひとの性別は知らないが、言語感覚が人並み外れており、竹やぶに吹く風のような寂しさと凛々しさが共存していた。海辺のさざ波の騒々しさ、波と風の賑わい、蟹の足音すら聞こえてくるような微細の視点と、大地と空と光しかないようなざっくりとした俯瞰の視点が隣接してすぐそこにあるのが当たり前のものとして、ひとつの枠組みの中に描かれている。文章にしろ絵にしろ、それらの世界観は窺えた。おそらく意図された技巧ではない。日常的に、現実と内なる世界との境目を消失しているがゆえに顕現する世界観、或いは内と外の差に懊悩しているがゆえに表出するそのひとならではの世界への眼差しが、固有の表現として、まるで絵具をはじくクレヨンのように、どの絵や文章にも滲みでている。ひょっとしたらしつこくそのひとの表現に反応してしまったから、うるさくしてしまったから消してしまったのではないか、とじぶんの粘着な性質を呪う。反面、じぶんの干渉ごときがそのひとの世界を揺るがせるとは思えず、そこは我が身の影響力のなさを鑑み、ほかにきっかけがあったのだろう、と思うことにする。好きな表現者にかぎらず、他者へと何かしらの影響を与えられるほどのちからがじぶんにはない。傲慢にはなれない。そこはしかし、ゆいいつ愛でていられるじぶんの欠点かもしれなかった。私は私で音楽をやっている。性別を明かしても意味がないので、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054917520320



2833:【裏街道の住人】

なぜみな一様に、たいして痛くないくせして大袈裟に苦悶してみせるのだろう。ナイフで刺したのだから無痛ではないにしろ、脳内物質がバクバク分泌されるので見た目よりも痛くはないはずだ。銃撃されたことのある者なら解かると思うが、ぞんがい、痛みよりも衝撃のほうがさきに伝わる。傷口付近は衝撃により麻痺するので、むしろ包丁で指先を切ったときのほうが遥かに痛い。刺し傷にしても同様だ。しばらく違和感としてしか知覚できない。つよすぎる刺激は、苦痛にしろ快楽にしろ、身体はそこまで律儀に処理してくれやしないのだ。だからきっと、とわたしは思う。こうしてナイフで刺されて大袈裟に呻く者たちは、ドラマや映画などで見聞きした、俳優たちの演技を踏襲して、こういうときはこうした反応をしたほうがよいのだろう、と咄嗟に判断し、というよりも思いだして再演しているにすぎないのではないか。どう反応を示せばいいか分からないから、とりあえず記憶にある最もそれらしい素振りを真似る。証拠に、わたしの同業者であれば、たいがい呻いたりせずに、最後までしたいことをして静かに息を引き取る。しゃべりたい者はしゃべり、抗う者は抗い、煙草を吸う者は煙草を吸う。ときおり同業者でありながら行き過ぎた反応を示す者もいる。たいがいそうした輩は現場仕事から離れ、管理者として業界で幅を利かせている。他人を顎で使うことに慣れてしまうから、死との距離感を忘れてしまうのだろう。そう、死との距離感だ。なぜいまさら死ぬことを怖れるのか。大仰に傷を騒ぎ立てるというのは、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054917562853



2834:【何でも切れるなまくら】

万能刃(バンノーバ)に切れないものはない。鉄だろうが豆腐だろうがダイヤモンドだろうが、なんでも切れる。物体であれば、との但し書きがつくが、つまり時空や次元を切る真似はできないのはとくに挟むまでもない注釈に思えるが、切るとは何か、との共通認識をまずはここで揃えておきたい。切るとは、癒着している原子および分子同士を引き離すことである、と。私が万能刃のアイディアを思いついたのは、どこぞの研究機関が原子一個分の厚さの膜を開発したとのニュースを目にした日のことだった。連想の順番としてはこうだ。原子一個分の厚さの膜というのは、極薄の物質だ。薄いものは鋭い。鋭いと言えば刃だ。では、原子一枚分の薄さの刃があったらどうだろう。しかしそれほどの薄さで硬度を保てるだろうか。否、硬い必要はない。物質を構成してる原子と原子、または分子と分子のあいまに割って入れればよいのだ。手を繋いでいる恋人たちのあいだに割って入れば、手を分かつことができる。たとえそれがぺらぺらの薄い紙でも構わない。通りさえすればよい。そしてたいがいの物質は原子の大きさに比べればスカスカだ。細かな原子の塊が部分的にくっつき合っているにすぎない。スポンジのようなものだ。スポンジならばピンと張った糸で切断可能だ。否、ちぎれることのない糸であればどんな物体でも切断できると言ってもよいかもしれない。つまり、強固に結びついた原子の糸さえつむげれば理屈のうえでは、どんな物体でも切断できる道理だ。以上の発想を基に私は研究を重ね、閃きを得てから二十年後に万能刃を開発した。「じゃあ最初は糸だったんですねぇ。原型留めてませんけど」朽宇(くちう)ルサイは唇をすぼめる。彼女は私の助手で、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054917616223



2835:【ぴょんまり見にゃいで】

魔法の呪いを解くべく私はミカさんを探す旅にでる。ミカさんはいつの間にか私の与り知らぬところで魔女になっており、私のあたまに獣耳を生やして韜晦した。消えるなら消えるで、耳を元に戻してからにしてほしい。数日前にミカさんと晩ご飯を食べていたら、何かがあって、私は意識を失った。起きたらミカさんの姿がなく、頭にはぴんぴょこお耳が生え揃っていた。私はしばらくそのままで過ごしたが、どこに行っても衆目を集め、帽子が手放せなくなった。帽子は帽子で頭が蒸れるし、人間の耳は耳で私についたままだから、二重に音が聞こえて混乱する。せめて人間の耳のほうを消してほしかった。見た目にもどこか落ち着かない。子どもに人気がでるのはよかったけれど、ほかは軒並み最悪だ。髪の毛を洗うだけでも耳のなかに水が入らないように気を張る。おちおちお湯も被れない。シャワーだってびくびくして浴びることになる。やっぱり元に戻してほしい。私はミカさんを探す旅にでた。三泊四日の旅だ。それくらいしか有給休暇がとれなかった。職場の上司には嫌な顔をされたが、私の頭から生えるかわいいお耳を消すためだ、と説明すると、仕方なしの判を捺してくれたようだ。快く私の仕事を肩代わりしてくれた。そんなことをするよりさきに人員を増やせばいいのに。意見書をついでにだしておく。私はミカさんの足取りを追った。ミカさんは魔女になったのだから、きっと箒を使って空を飛んだり、大きな鍋でドロドロの薬をつくったり、お菓子の家なんかを建てちゃったりしているに決まっている。インターネットで検索すればすぐに見つかるはずだとの私の目論見は見事に外れて、ミカさんの足跡は(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054917725551



2836:【だって竜だよ】

毎日家と職場を往復するだけの生活だった。服装に指定のない職場だったが、私はパンツスーツを好んで着た。スカートを穿いたのはもうずいぶんむかしのことに思える。服装に割く思考すらもったいなく感じるほど、毎日が仕事に追われ、仕事に終わった。仕事の資料を眺めながら寝付き、その続きを読みはじめようと思い、目覚める。世界中で竜の出現が報告されたのは、私の立ち上げたプロジェクトがようやく始動しはじめる直前のことだった。竜は無数に湧いた。世界中にあっという間に広がり、人々を家のなかに閉じこめた。率先してみな外にでないようになっただけのことではあるのだが、竜は人類から外出の自由をまず奪ったと言って間違いではない。竜は食事をとらなかった。何かしらのエネルギィを外部吸収している節はあるようだ。光合成なのか、はたまたほかのエネルギィ自家発生システムを有するのか、それとも食事をとる間隔が極めて長く、数十年に一度でよいのかは、いまのところはっきりしていない。職場への出勤が禁じられ、私は家での仕事を余儀なくされた。とはいえ、仕事量が減るわけではない。経済を滞らせないように政府は、竜の出現をよこちょにおいて、これまでの日常が崩れないように抗った。とっくにこれまでの日常なんて崩れているのにもかかわらず、だ。私は家でもパンツスーツを着ている。休みの日でも着るようになり、竜の出現以降、私は以前よりも窮屈な生活を送っている。職場の人間たちと幾度か、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054917744398



2837:【イジワルになっちゃう】

わたしはよく言葉に詰まる。バイトをしているあいだはとくに顕著で、注文以外の言葉を投げかけられたときに、なんと返せばよいのかが咄嗟に思いつかなくて固まってしまう。適当にあしらっとけばいいんだ、と店長からはぼやき口調で助言をもらうけれど、その適当が分かれば苦労がない。たとえばきょうは、若い大学生くらいの人たちに、おねぇさん可愛いけどこの中だったらどれがタイプ、とその場にいたメンバーを順繰りゆび差され、固まってしまった。愛想笑いだけは崩さずにいる技術を身に着けたけれど、こんなのなんて答えてよいのか分からない。沈黙が正解、なんてとある漫画では難解なクイズの回答としてあったけれど、客商売だから沈黙で済ますわけにもいかないのだ。けっきょく固まってしまったわたしの態度に見兼ねてか、おねぇさん困らすな、と男の子たちの一人が言ってくれたので難を逃れた。でも何度もお酒のお代わりを注文されて、わたしはそのつど席に伺いに行き、いろいろな質問を投げかけられては、愛想笑いで乗り切った。「案外あれが正解かもね」厨房に戻ると、スケさんが言った。彼はカップにお酒をそそぎ、水で薄めている。「ヘンに答えないほうがいい。突っぱねるわけでもなく、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054917825039



2838:【バンビ、森を抜ける】

バンビは駆けた。平原の足場は硬く、森のなかと違い障害物もないためにどこまでも跳ねていられる。虫よりも速く、鳥よりも速く、風との差異もつかなくなるほど駆けて、ふと足を止める。振り返ると、視界の端にちいさく森の入口が見えた。その奥にうず高く聳える山がある。見守るモノ、とバンビたちの呼ぶ、母なる山、ラウルだ。ラウルの全貌を初めて目の当たりにし、バンビはじぶんがぐんと大きくなった気がした。開放感に浸る。母や姉たちの言いつけを破って、森をでた甲斐があった。母や姉たちが臆病なのは知っていた。虫が草を揺らす音にすら敏感に耳を動かし、意識を配る。明らかに行き過ぎた警戒だ。そんなに神経を張りつめて生きていては、目に映る楽しいものやうつくしいものを見逃してしまう。森が見えなくなるまで進んだら、踵を返そう。それまではこの視界の遮るもののない広い、広い、大地を、思う存分駆け回る。バンビはぽーんぽーんと跳ねるように走る。それはどこか、ハエトリグモの跳ねる様子を彷彿とする。宙に舞うようでいて、弓が矢を飛ばすのに似た加速がある。点と点を結ぶ線は鋭い。じぶんのなかにチカラが溢れている。それはいまこのときに目覚めたものではなく、ずっとバンビのなかに秘められていたものだった。束縛されていたのだ。自由ではなかった。母と姉をいまは明瞭に疎ましく思った。ふと、辺りが暗くなる。日が雲に隠れた。遠くに見える丘に、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054917832303



2839:【アンとミーヤ】

喉がひりひりするほどの大声で歌ってきた。一人でだ。ミーヤは日ごろから何をするにしてもやると決めれば独りきりでもやり遂げる血気盛んにして泰然自若な女子高生だったが、この日は率先して、意識して、誰の邪魔もされずに憂さ晴らしをしたかった。そう、憂さ晴らしだ。ストレス解消と言えばその通りで、日中、学校で友人のアンと言い争いをした。放課後の同好会活動でのことだ。アンはミーヤと同性同年齢の学友で、この学校で知り合った。教室は違ったが、同好会が同じで、ことあるごとに意気投合し、二年目にしてほかの学友たちからは、互いに互いの相棒として認められている。「ミーヤちゃん、ありがとう。これ美味しいね。どこのお菓子?」「駅前のあそこ。アンっちが前に行きたいって言ってたとこ。姉ちゃんが買ってきてくれたからおすそ分け」「やったー」放課後、部室でお茶をしていた。いつものことだ。怪奇現象同好会とは名ばかりで、そのじつはお菓子を食べて雑談を交わしているだけだ。部費で小説や漫画を購入し、それらの感想文を文化祭で発表するくらいで、怪奇現象を探求する素振りは微塵もない。代々そうした同好会だった。だから読み終えた本を置いて、何気なく、話題の一つとしてミーヤは言った。「魔法とか魔術とか、読む分には面白いけど、じっさいそんなこと言いだすひといたらちょっと避けちゃうよね。どう考えても現実にあるわけないしさ。現実に不可思議な現象を見ても、いまどき信じないっしょ」小説や漫画にでてくる登場人物たちは随分あっさり信じちゃうけど。核心を突いて、すこしばかりじぶんを賢く見せたかった欲求がなかったわけではなかったが、これは日ごろから思っていたことでもあるので、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054917891619



2840:【魔物の触手に囚われて】

市内で連続児童失踪事件が多発しているそうだ。そうだ、なんて他人事のように傍観しているが、僕の学校でもすでに数人の生徒が行方不明になっている。学校からの帰り道に事件や事故に巻きこまれたのではないか、と小学生ですら連想できる閃きをおとなたちが真面目ぶって発表している。みなさんも気を付けてくださいね、と注意を喚起されたところで、どうしようもない。何をどう注意しろというのか。見知らぬひとに付いていくな? そんな事項を守って保たれる安寧なら誰も失踪などしていない。僕はあまり学校の成績はよくはないけれど、それくらいの道理が解るくらいには愚かではない。ただし、愚かな一面も多々あり、総合して愚かなことは認めよう。だからかもしれない。学校帰りに、独りになりたくて立ち寄った森林公園で、同級生がほかの同級生を貪っている姿を目撃した。目撃しておいて、僕はそれを誰にもしゃべらずにこうして数日を過ごしている。愚かではなく、ある一面では愚かだからだ。貪っている相手の顔には見覚えがあった。隣のクラスの飯倉だ。飯倉とは一年のころに同じ委員会になったことがあり、それなりに互いの名前や顔や声を認め合っている仲ではある。ふしぎなのは、あの日以来失踪してしまったのが、その飯倉である点だ。反して、貪られていたはずの芦部が平然と登校している。いや、貪られていたのが真実に芦部なのか自信がない。暗かったし、何せ貪られているほうは腹が引き裂かれ、尋常の様子ではなかった。髪型から推し測るに芦辺に見えただけのことであり、血にまみれたあの死体がいったい誰であったのかを正確に遠目から判別できたとは思えない。そこまでじぶんの視力、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054917970476





※日々、衰える余地を蓄える、死ぬまで延々衰えていられるように、波紋を絶えず生みだすように、過去のじぶんに負けつづける軌跡を切らさぬように。



2841:【アジサイ。紫の顔。人影。】

妻が急に陣痛を訴えたので、病院に連れて行った。初めての妊娠のうえ、授かったのは双子だ。医師から促された帝王切開を選択したものの不安は払しょくできない。我が子の命はもちろん妻の身体が出産に耐えられるのかと何を見ても気がそぞろだ。社会に蔓延した新型ウイルスの影響で、出産にも立ち会えない。緊急帝王切開手術となる。予定日を大幅に繰り下げての手術だった。病院の待合室で頭を抱える。我が子と妻の無事を祈るが、何もできずに、時間だけが刻々と過ぎていく。いても立ってもいられなくなり、外に空気を吸いにいく。妻と同じ苦しみを味わえたら、と思うが、妻を支えるには体力が必要だ。いま何もできないのならば、せめて出産後に労われるように、負担をかけないようにと、すこしでも体力を温存しておくほうがよいのではないか。そう思い、しばしの散歩にでた。病院の回りを歩いて戻るだけのつもりが道に迷い、ひとまず明るい方向に行こうと、闇の薄まったほうに向かって歩く。短い階段をのぼると、こじんまりとした空間にでた。公園かと思ったが、鬱蒼と茂った草は腰の高さまであり、暗がりに遊具らしき陰はない。真ん中にぽつんと佇む街灯は古く、支柱は木製だ。朽ちているのか、焦げているのかの区別も曖昧で、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054918032609



2842:【ツノ様】

鉄柵のざらついた冷たさだけを鮮明に憶えている。私は当時八つになったばかりのわっぱで、親の都合で親戚の屋敷に預けられていた。むかしで言うならば丁稚のようなものだった。旧家と言えばよいのだろうか、山間の集落にあり、屋敷を中心に伝統が里全体を覆っていた。伝統は根強く法の域にまで達していた。ぞんざいな扱いこそ受けなかったが、働かざる者食うべからずの理屈が生きていた。与えられた仕事は屋敷の掃除、食材の買い出し、それから農家から要請があれば、家畜の世話をした。糞を集め、床を掃除し、飼料を掻き混ぜ、分配する。私がもし女だったら屋敷の家事手伝いに専念できただろう。ほかにも私のような子どもがいたので、親戚の子どもは誰もがいちどはこの屋敷に奉公にでる習わしだったのかもしれない。私が頑張れば頑張るほど仕事は増え、よりたいへんな作業を任される。だがそれも一年もすると、ぴたりとやんだ。「きょうからここがおまえの仕事場になる。おまえは働き者で、何より忠誠心がある。よく働いた褒美と思ってくれ。なに、むつかしい仕事ではない」そう言って連れて行かれたのが、屋敷の裏手にある蔵だった。屋敷の主人がじきじきに案内した。彼は手に桶を持っていた。蓋がしてあり中身は不明だ。蔵のなかは暗く、書物が書架にぎっしりと収まっていた。屋敷の主人は書架の一つをどかすと、床に現れた扉を開けた。階段だ。さらに地下へと下りて行けた。地下はがらんとした空洞で、炭鉱の坑道のようだった。道は長く、屋敷のそとにでただろう位置にまでくると、立派な門構えが現れた。閂がされており、さらに上から鎖と南京錠で厳重に封がされていた。なかに入ると、座敷が広がっている。足場は畳だが、案内をした屋敷の主人は畳に足をつけずに、真ん中に点々と埋め込まれた石のうえを歩いた。庭園の飛石めいている。畳みの奥は途切れており、砂利が敷かれ、さらに奥には池があった。湧水だろうか、池は驚くほどに澄んでおり、魚や水草がイキイキと水底に命の営みを築いていた。岩には苔が生しているが、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054918064056



2843:【あなたに呪いは似合わない】

「超絶呪符師にあたしはなる!」ミカさんがまたぞろ頭の痛いことを言いだしたので、こんどはいったい何のマンガに影響を受けたんですか、と顔をしかめてみせると、ミカさんはなんと小説の文庫本を掲げた。「ミカさん、字ぃ読めたんですか」「あたし十七歳!」「いやいや十七歳はいきなり呪符師になるとかすっとんきょうなことは言いませんて、小説の影響を受けたとはいえど。というか呪符師ってなんですの」「呪符師は呪符師だよ。ひとを呪ったり、逆に守ったりする呪符をつくるひと」「それはえっとぉ、現実にあるお仕事なんですか」「あるに決まってるじゃん」ミカさんは目をぐるぐる渦巻きながら息巻いた。こりゃ現実と虚構の境を見失っているぞ、と私は見えない鉢巻を心の中でぎゅっと締める。「ミカさん、まずはその呪符師ってやつになって何をしたいのかをちゃんと言語化できますか。勢いでただなりたいって言うだけじゃ、大統領に俺はなる!と宣言するようなもので、まるで中身のない言葉ですよ」夢物語ですよ、と脅迫さながらにやんわりとながらも心を折りにいく。「中身あるよ、みっしりだよ。目的でしょ、解ってるよ。あたしはね、呪符師になって世界中で虐げられてるひとたちに復讐の機会を与えてあげるんだ。弱い者が弱いままで泣き寝入りしない社会をつくる。したらほら、弱い者イジメなんて誰もしなくなるでしょ」「いやいや、ミカさんがそれをする時点で、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054918128362



2844:【ブガイ者は貫く】

最初はよかったのだ、何をしても許されてしまうのだから。ただ一つ、善いことだけをしてはいけない、じぶんから誰かの役に立とうとしてはいけない。それ以外のことなら、たとえ殺人を犯そうが無罪放免、何の罰も受けずに自由に日々を過ごしていける。大昔にはえたひにんや奴隷がいて、問答無用で人外として扱われてしまった過去があるわけだが、僕の場合はその逆で、いわば神や王さまさながらになれてしまう。宝くじに当たったようなものだ。特例だった。世のなかに一人くらい、そうやって例外的存在をつくることで、人々に緊張感を持たせようとの狙いがあるとかないとか、まことしやかに囁かれてはいるが、何にせよ僕はブガイになったことで、働くことなく、好きなことを好きなだけして過ごせる人生を手に入れた。飲食物は店にあるものをかってに食べていい。服飾だって、自動車だって、何だって手に入る。あんまりおおっぴらには言いたくはないけれど、異性なんて選びたい放題だ。スリルが欲しければ人妻や少女、幼女、国籍、人種、年齢差なんて関係なく、何だったら同性相手だって、何だってし放題だ。お咎めなしだし、相手は僕の言うことを断れない。断ったら死刑だから当然だ。しかも連帯責任で、三親等の血族にまで罰が与えられるというのだから、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054918175413



2845:【空を掴む】

ミサルは雲梯(うんてい)の得意な子どもだった。運動の得意な小学生は比較的同級生から一目置かれる。そのためミサルも幼少期においてはクラスの注目の的だったが、それも中学、高校と年齢があがるにつれて一過性の魅力にすぎなかったのだとむざむざと痛感するはめとなった。ミサルは高校生に長じてからも雲梯が得意だった。もはやそれ以外に特技がなかったと言える。いくらでも鉄の棒にぶらさがっていられた。猿のように腕だけでぶらさがり、つぎからつぎに宙にかかった梯子を渡れた。しかしそれだけだ。十七歳の色気づいてきた同級生たちのなかで、いかに雲梯を速く移動できたところで、奇異な眼差しをそそがれることはあれど、憧憬の目で見られることはなかった。どちらかと言えば、忌々しそうな視線をそそがれるのがオチであり、特技は何かとクラスメイトたちへの自己紹介のときにもミサルはいっさい雲梯が得意なことは秘めていた。言うだけ無駄だ。長所でもなんでもない。かつて舎弟のようにミサルを慕っていた同級生は、背がぐんと伸び、髪型も美容院で整え、身だしなみもこじゃれており、休み時間や放課後になると同級生の異性たちに囲まれ、楽しげな笑声を響かせている。ミサルはというと、ぱっと冴えない青年そのもので、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054918269268



2846:【階段を下りる怪談】

階段を下りるたびにギシギシと軋む音が反響する。足音を消す必要はないのに、しぜんと忍び足になって、ますます微かな物音にびくびくする。「ねぇいまなんか動かなかった」「やめてくださいよミカさんそういうわるふざけ」「いやほんとになんか動いたように見えたんだって」「見間違えです、ネズミです、もう嫌、はやく出ましょうよ」「待って。ちゃんと噂を確かめなきゃ」こういうときばかり威勢がよく、いちど言ったら曲げない真面目さを発揮する。その半分でいいからミカさんにはもっと日ごろからしゃんと生きてほしいと私は望む。階段を下りきると、短い通路があり、左右と奥に扉が三つある。噂が本当なら、突き当りの部屋にそれはあるはずだった。「あれかな」「もうやめませんか」「行こう」ミカさんの腕にしがみつきながら私は、彼女の力強い足取りに、頼り甲斐と心細さの両方をいちどきに覚える。きっと私を置き去りにしてでもミカさんは突き進むのだろう。こんなことなら付いてこなければよかった。私は二日前を思いだしている。発端は、ミカさんがバイト先で聞いたという噂話だった。「廃墟があるんだって。で、地下に下りると部屋があって、そこには洋風人形が一つだけ椅子に置かれた状態で放置されているらしくて。そこで人形の回りを三周まわって、目を閉じて祈ると、願いが叶うらしいよ」「それはえっとぉ、怖い話なんですか」「願いが叶うのだもの、夢のある話なんではないかとミカさんは思うよ」もうすでにこのときミカさんはリュックサックを引っ張りだしてきて、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054918316104



2847:【幽霊の仕事】

襦袢の裾からつややかな足を投げだして、逆さが無難なのさ、とトヨさんは言った。トヨさんは三百年前に主君に罪を着せられた恨みでめでたく悪霊になった女性で、私たちのなかでは一番の古株だ。「天井からぶらさがってるだけでたいがいの人の子らは驚くさね。こちとら頭に血が上ってさっさと逃げてくれと祈ってるってえのに、腰を抜かされちゃ引っこもうにもなかなか引っこめないだろ」「へ、引っこんじゃダメなんですか」私はとなりのエリーを見遣る。「構わず引っこんじゃっても別によくないですかね。ダメな理由あるんですか」「プライドじゃないかな」エリーさんはにべもなく、大先輩であるところのトヨさんの心理を喝破する。「脅かして、逃げられて、畏れられる存在でありつづけちゃったもんだから、是が非でもこっちから引っこむなんてできないんでしょ。そうだろトヨさん」「口のきき方に気をつけな。でないと助けてやんないよ」「助けるったってあたしはもう死んじゃってっからなぁ」「恨みは果たしといたほうがいいですよ、せっかく幽霊になれたんですから」私はトヨさんの肩を持つ。エリーは数年前にこのマンションで自殺した女性で、地縛霊をやっている。金髪に腕にはタトゥーが入っている。彼女がここを離れられないので、私たちは定期的にここへ遊びに集まる。長いこと幽霊をやっていると、会話に飢えるのだ。ついでにエリーが消えて仕舞わずに済むように、幽霊でいつづけるコツを伝授する。「要は成仏しちゃうってこったろ。べつにいいんじゃないの。だってもう死んじゃってるわけだし」成仏は幽霊の本分じゃん、とエリーはいちど床を抜けて、下の階からおつまみやら飲み物やらを持ってくる。正確には、それら飲食物のダブルを抜き取ってくる。物体としてのそれらは下の階に残ったままだ。ダブルはいわゆる残留思念とか、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054918373612



2848:【夢のなかの声】

夢のなかでよくよく声を聞く。じぶんの声だ。私はなぜか苦しんでおり、あの男はどうかしている、と訴えている。以前は、いったいどんな深層心理からの夢だろうとこそばゆかったが、さいきんではその声が無意識のじぶんからの忠告ではないか、との疑惑を深めている。時間がないので端的に述べるけれど、アイツはちょっと頭がおかしい。たしかに一時期私たちは恋人同士だったし、彼の知能の高さにはいまだって憧れの気持ちがある。彼は遺伝子工学を知悉していた。彼の発見した細胞泡沫分化技術はノーベル賞をとってもいいくらいの発見だし、おそらく今後とると思う。それを含めても彼の人格には問題があった。偉業を理由に看過していいとは思えない。許せないし、許しちゃいけない。第一に、私たちはとっくに別れていて、恋人同士でもなければ、家族でもないし、恋人関係を解消してからの彼からのしつこい接触は嫌がらせの域に入っていたから友人としても縁を切らせてもらった。私たちはもはや過去仲のよかった赤の他人だ。第二に、彼は私の与り知らぬところで私に付きまといつづけていたことだ。あんまり使いたい言葉じゃないけど、誰から見てもストーカーだ。私を監視するだけに飽きたらず、私の捨てたゴミを漁るだけに留まらず、私の家に侵入して私の持ち物を盗んだりした。家宅侵入に盗人だ。犯罪者だ。最後に、彼はこれら罪を認めないどころか、正反対に私をストーカー扱いした。ノーベル賞級の研究成果をあげているからか、みな彼の言うことばかりを信じる。私の親ですら彼を庇って、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054918446769



2849:【チコちゃんとお盆】

毎年お盆になると祖父母の家に親戚一同が集まる。なぜか正月や大晦日には集まらないのにお盆は決まって祖父母を筆頭とした三親等までの血筋が一堂に会した。私は孫のなかでちょうど真ん中の年齢層に位置し、うえの孫たちは母や父の手伝いや相手をし、かたや幼い孫たちは堅苦しい雰囲気の屋敷のなかで手持無沙汰に、あっちで泣いては、こっちで叱られたりした。そうした幼子たちの相手をする役目をここ数年のあいだ私は仰せつかっていた。だが今年世界的に大流行した新型ウイルスの影響で、お盆といえども帰省は遠慮したほうがよいのではないか、という話になり、代表で長男家であるうちの一家だけがいくことになった。父と母と私の三名だ。親族のすくなからずは都内在住だった。元々都会ではない地方都市で暮らしていた私たち一家はその点、田舎に足を向けやすかった。祖父母の家に着くと高橋さん家族が座敷にあがっていた。高橋さんは祖父母の家の隣に住む人たちで、祖父母とは家族ぐるみの付き合いがある。必然、私たちもまた高橋さんたちとは懇意であり、ほとんど親族同然の付き合いをしている。「チコちゃんおっきくなったね」一年会わないと子どもは本当に目を瞠る成長を見せる。チコちゃんは高橋さん家の一人娘で、会うたびに私は人見知りな彼女と野良猫と仲良くなるような段階を経て、最終的に帰るころに私の裾を掴んで離さないくらいに親しくなる。懐いてくれるまで毎度のことながら苦労するが、ことしは物心がついたのか、会ったときからもじもじとではあるものの、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054918497992



2850:【融けるほどに暑く】

そとを出歩けば、暑さで身体が融ける。比喩ではなく、焦げる以前に、どろどろと液体となって地面に身体だったものがしたたるのだ。温暖化の影響だ、と目されるが、ここまで気温が上昇するのは異常としか思えない。私たち一家が暑がりであるのを考慮してもこれは非常事態と言えた。なにせ身体が融けるのだ。アスファルトで目玉焼きが焼ける、なんて話を耳にするが、目玉焼きが焼けるよりさきに身体のほうで消失する。もはや私たち家族はそとを出歩く真似もできやしない。気温の上昇を懸念して私たち一家は、北に北にと移動し、寒冷地帯を渡り歩いてきた。いまでは移動先を見繕うのも至難で、というのもここが北極点であり、最北も最北、もはやこれ以上北にはいけないのだ。「おはよう、お母さん。お父さんは?」「水が欲しいって、そとに」「だってそとは」「もう戻ってはこないと思う」私は厳重に閉じられた扉を見る。その奥で融けてしまっただろう父を思い、どうして死に急いだりなんか、と遣る瀬無さに襲われる。解かっている。致し方なかったのだ。死を覚悟してでも水を手にいれなければ、遠からず私たち一家は滅亡する。水さえあれば、さいあく滅びを避けられるのに、いまではその水すら手に入らない。むかし、何かの本で読んだ怪談を思いだす。地球が太陽に接近しすぎて、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054918558953





※日々、満ち足りている、欠けていても生きていける贅沢な世界で、それでも足りぬと駄々をこねる理由を探し求めて、踏むことの適わぬ己が影を追いかけ回す、鬼なき鬼ゴッコは孤独で楽しく、つねに未熟だ。



2851:【雪女の灼熱】

真夏の陽炎ゆらめく繁華街を彼女は彷徨っていた。僕の目には世界から浮きあがるように見えていた彼女の姿をほかの通行人たちは一顧だにせず、彼女のよこを、うしろを、通り抜けていく。僕は胸からぶら下げたお守りをぎゅっと握り、意を決して彼女に声をかけた。黒髪に透き通るような肌、それでいて冷気すら漂う希薄な印象は、ひと目で彼女が雪女なのだと僕に予感させた。もちろん最初はただ目についただけだ。道に迷っているそぶりを見せていたので、放っておけなかった。話しかけてみると、僕が声をかけたことそのものに驚いたようで、警戒を示されるよりさきに、ちょうどよかったと言わんばかりに事情を彼女のほうから語ってくれた。彼女はとある男を探していた。むかし雪山で助けて以来、ひそかに恋慕の念を抱き、一枚、一枚、層を厚くするように恋心を育んできたが、いよいよ我慢ならずに下山し、男を探す旅にでたそうだ。だが手がかりがない。記憶のなかで寂しそうに笑う男の姿があるばかりだ。「会えば判るとそう思うて、山をでてみたのだが、よもや下の世にこれほどまで多くの人のコらがいようとは」「山から下りたのは初めてなのですか」「以前に一度あるのだがね。や、二度か。そのころはこのような堅牢な岩は突き出ておらんかった」雪女はビルを見上げ、ほぉ、と息を吐く。「人のコらは我をバケモノと呼ぶが、これではどちらがバケモノか解からぬな。我はおぬしらがおそろしい」雪女の息が吐かれるたびに、宙にキラキラと光が舞った。「融けて消えたりはしないんですか」「心配は無用じゃ。だが思ったよりもずっと熱がたむろっておる。休める場所があるとうれしいのだが、日よけできる場所はあるか」「狭苦しくて、汚い場所でよければ」「汚いのは嫌じゃが」「僕の家って意味なんですけど」「おぬしの住処とな。住める汚さならば許す。案内せい」傲慢な物言いの割に、彼女は満身創痍の様相だった。見捨てて立ち去れなかった理由がそこにあり、なにより彼女は怯えていた。慣れない現代社会の街並みに、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054918669494



2852:【小豆洗いはそそぐ】

毎夜、奇妙な音で目覚める。シャキシャキともジャラジャラともつかぬ数珠を手で揉むような音だ。日中はただでさえ記録的猛暑で、疲労が嵩み、睡眠不足に悩まされている。音の出処を探すも、庭からだと思い障子を開け放つと、音は止み、そこには何の影もない。闇がのっぺりと広がっているのみだ。窓を開けておいて、音の源を突きとめてやろうと試みたが、やはり音のみが聞こえ、庭に目をやると止む。何かがいることはたしかだが、ではそれが何なのかまでは解からない。虫か、カエルか、それとも野生のアライグマでも潜んでいるのかもしれない。心なし、空気が淀んでいる。ときおり生臭い空気が鼻を掠める。どこかで下水道の工事でもしているのだろうか。からっとした快晴とは裏腹に、陰々滅々とした日がつづく。残暑の厳しい八月中旬になってから友人が訪ねてきた。小説家をしながら全国を放ろうしている世捨て人で、以前顔を合わせたのは六年前のことだ。あのときはもうにとど会うことはないだろうと思い、別れたが、それはつまり友人のほうで金輪際私に会おうとは思わないのだろうな、と想像したからだが、案に相違して彼は私を忘れなかったようだ。こうして会いに来てくれた。金の援助を申し出られるくらいならば許容しようと思っていた。彼に頼られるのはしょうじきわるい気はしない。「近くにきたからついでに寄ったのか」茶をだし、扇風機を彼に向ける。部屋の冷房機は古く、室内はいまいち涼しいとは言えなかった。「いつまでこっちにいるんだ、泊まってくなら構わんが」「ありがたいが、遠慮しとく。気になったんで立ち寄っただけだ。さいきん調子はどうだ。顔色が優れないようだが」「ああ。寝不足でな」「この暑さでか」「それもある」旅の話を聞きたかったが、彼は執拗にこちらの体調を気遣った。彼に心配されるのはこそばゆく、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054918791769



2853:【ぬりかべは潜む】

鍾乳石は石灰岩が地下水に溶けてできる。水に溶けた炭酸カルシウムが何十年と時間をかけて再結晶し、つららのように、或いはロウソクのシズクのように天上から垂れ、ときに地面に堆積したりする。それはなにも自然界の洞窟だけに限らず、似たような環境が整えば、人工物のなかにもできる。例年にないほどの冷夏で、まるで四季から夏が消えたようなその年の八月に、僕たちは肝試しをした。高校を卒業して、それぞれみな違う大学に入り、盆休みに帰省したのを機に、集まることになったのだが、その流れでナツミが怪談を語りだした。彼女がゆいいつここ地元に残った友人で、ほかはみな県外に引っ越している。ナツミが言うには、むかしから伝わっていた怪談の舞台と思しき廃墟がさいきんになって見つかったのだと言う。「行ける距離だし、行ってみない?」「じゃあオレ車だすわ」「怖くない?」「中に入らんでもいいし、見てみるだけ」「どんなとこかは興味あるかも」「夜中のドライブだと思ってさ。帰りに海寄ってこ」「それいいね」反対していたメンバーも徐々に乗り気になっていき、車からは降りずに、廃墟を眺めて終わると決めて、七人乗りのセダンに満員で出発した。片道一時間の距離だ。そこからさらに二十分をかければ海まで行ける。車内では即席のカラオケ大会が開かれ、途中でコンビニに寄り、どっさりと夜食を購入した。キャンプの用意があればそのままキャンプでもはじめそうな勢いがあった。目当ての廃墟のまえにくると、みな車のそとにでた。隣の友人にひっつきながら、歩を進める。当初決めていた、車から降りない、の取り決めはさっそく反故にされた。「動画撮ろうし」「ライトくれライト」「ちょっと尻掴まないでよ痴漢」「ごめんそれわたし」廃墟は思ったよりもずっと古かった。壁には蔓が巻きつき、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054918895130



2854:【霊感がゼロになった日】

幽霊が視える、とミカさんが突然に言いだしたのは私が高校二年生のころである。それから一年間、ミカさんが高校を卒業して大学生になるまでのあいだ私は、ときおり頑迷に、あそこに死者の霊が、と騒ぎ立てるミカさんに辟易しながらも、遅れてやってきた思春期なのかな、とあたたかくもさめざめとした眼差しで見守り、ときに突き離し、それでもミカさんとの交流を途絶えさせずにきた。しかしミカさんには本当に幽霊が視えていたのだ。なにせ、死んだ私をミカさんは泣いて、怒って、受け入れてくれたのだから。その日、大学生になったミカさんに会うべく、私は電車に乗ろうとしてプラットホームに立っていた。熱中症なのか、受験勉強の疲れなのか、なんなのか、立ちくらみがして、気づいたら特急電車に撥ねられていた。撥ねられていた、なんてかわいらしい形容をしているけれど、そのじつ私の肉体は電車に触れた瞬間にミキサーに放りこまれたニンジンさながらにレールと車輪の合間に引きずり込まれて、つぎつぎに切り刻まれ、一瞬のうちに細切れになってしまった。脚と胴体部の一部は、レールの真ん中に落下したので、そのままのカタチを保持しており、服ははだけてちょっと恥ずかしい部位が露出していた。どうせならもっとどこがどの部位かも分からないくらいにグチャグチャにしてくれたらよかったのに、と私は幽霊になって、じぶんの無残な身体を眺めていた。幽霊になると人は思いのほかすんなり、状況を呑みこめる。というよりもパニックになりようがないのだ。他人に干渉を及ぼせないどころか、じぶんに干渉を及ぼすものもないのだから。敵がない。危害がない。無敵になれる代わりに、誰かと触れあうこともできなくなる。そのはずだったのに、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054918941770



2855:【ろくろ首の山】

宝探しと私たちは呼んだ。むかしはもっと別の呼称があったようだが、時代ごとに、それを行なう者たちの組織ごとに呼び名はそれぞれ違ったようだ。組織とはいえど、徒党のようなものだ。その日、そのときによって組む相手は変わる。多くとも六人を超えることはない。私は好んで三人で行動した。本名を告げずにいるのはどの業界でも同じだろう。ここで言う業界とは、いわゆる犯罪に手を染めている者たちの生業という意味だ。偽名もしくはあだ名で呼びあう。ニクマンは年中角刈りの四十代の男性だ。むかしは暴力団を取り締まる側だったらしいが、癒着を密告され、公にされる前に辞職を勧められた経歴があるそうだ。どこまでが本当かは分からないが、以降、暴力団から仕事を請け負い、下請けに斡旋する仲介役をこなしている。なぜみなからニクマンと呼ばれているのかは諸説あり、本人に訊いても、俺に訊くなよ、と愛想のない返事があるばかりだ。噂によると、肉まんが好物だからとも、人間を肉まんのように処理してしまうからだとも聞くが、信憑性はどちらも薄く、しかし仮にそうであったとしてもふしぎではない。「またデバのやつ遅刻か。つぎからアイツはなしだな」「待ち合わせ場所間違ってるとか」「アイツがかってに勘違いしてる可能性はあっけどな。遅刻魔だからなアイツは」「そんなやつを引き入れないでよ」「そこを抜きにすればアイツの腕は利用価値がある。マジシャンなんだよアイツ」「知ってる。警察に身体まさぐられても、指輪だろうが財布だろうが、見つからずに誤魔化せるって」「四次元ポケットみてぇなやつだよな。荷物持ちにはもってこいだ」「デバって名前さ」「ん?」「キレると出刃包丁を振り回すからってあれ、本当?」「おまえも気を付けろよ」ニクマンは煙草を車のフレームに押しつけて、外に投げ捨てる。「この業界、怖いのは武力のあるやつじゃねぇ。どこに地雷があるか分からねぇ、歩く火薬庫みてぇなやつだ」「それ言ったらニクマンもそのタイプでしょ」「オレの地雷は分かりやすいだろうがよ」「約束守らないこと?」「金を払わねぇやつだよ」約束を破ってもその分の金を払ってくれるなら何もしない、という意味だろう。その裏には、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054919096290



2856:【お盆は神さまに別れを】

ミカさんが墓参りについてきてほしい、と殊勝にもモジモジしたので、いつもならかってに行けばいいじゃないですか、とにべもなく流していたところだけれど、今回ばかりはついていってあげることにした。誰の墓参りかは訊かなかった。ミカさんのご両親は健在のはずだから、祖父母ではないかと、当然そのように考えたが、電車を乗り継いで着いたさきは墓場ではなく、山のなかに聳える大きな松の木のまえだった。太い幹に洞が開いており、中に祠のようなものが納まっている。山にいい思い出はない。幼いころに遭難して、死にかけたことがある。はっきりとは憶えていないけれど、やたら怖かった印象だけが残っている。ミカさんは来る途中で購入した献花をそこに添え、手を合わせる。お香を焚かないのは火事の心配をしているからかもしれなかった。私はミカさんに習って黙とうする。そのじつ、いったいこれは何の儀式だ、と訝しむ。訊いてもよいだろうか。よいだろう。私には事情を訊く権利がある。こうして災害級の日差しのなか、蝉すら暑さでまいっている森を抜けて、山奥くんだりまで足を運んだのだ。付き合ってあげたのだ。知る権利を行使してなんの咎があるだろう。あるわけがないのだ。「ミカさん、そろそろこれが何なのか教えてくださいよ」「墓参りだよ」「私の知ってるお墓参りとはずいぶん違って見えますけど」「ここにはむかし神さまが住んでいたんだ。あたしがちいさいころに神隠しに遭ったのは知っているよね」「いいえまったく」寝耳に水もいいとこだ。「そのときにここの神さまにお世話になったんだ」「誘拐されたということでは?」ストックホルム症候群、と脳裡に文字が踊り狂う。「そうなんだけど、そうじゃなくて。神さまはつぎの神さまを探していてね。でもけっきょくあたしは散々お世話になっておきながら、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054919192383



2857:【砂かけ婆は嗤う】

変質者注意の貼り紙を眺め、この暑い中ご苦労様なヘンタイがいたものだ、としみじみ思う。貼り紙はきのうまでなかったから、さいきん出現しているのだろう。汗だくになって精をだす変質者には、何かしら生命力のつよさを感じ、その活力の一割でいいから分けてほしい、と無責任にもそんなことを考えた。仕事場の冷房が壊れて三日目だが、未だに修理予定の見通しがつかない。繁忙期であられるだろう業者さま方は、ことし発生した世界的災害で引きこもりが推奨された社会によって、繁忙にさらなる磨きをかけていると推測する。ヘンタイばかりが汗だくになっているわけではないのだ。私もまた汗だくで仕事をしているから、きょうなぞは化粧をせずに出社した。もはや誰も何も言わない。言葉に棘が交じるのは、同僚への怒りがあるからではなく、職場の管理者たちへの無言の非難だ。サウナだってもうすこし居心地という観点で工夫が見られる。その点、我が職場はもはや人の働く環境ではない。そういうわけで、くたくたのへとへとを通り越して、ダクダクのヘドロヘドロとなり果てた私は、電柱に貼りついた変質者注意を促す紙ぺらを目にして、ようやるわ、と呆れとも感心ともつかぬ妙な心地になったのだ。信号が青になる。貼り紙の文字に目を走らせながら、歩を進める。全文を読んだわけではないが、変質者はなにやら通りすがりに物を投げつけたりするらしい。怪我人はいないとの旨まで読み取り、横断歩道に足を乗っけると、視界から貼り紙が失せる。昨今、女性に体液を浴びせるヘンタイがすくなくない。そうした話題を目にする機会がすくなくない、と言い換えてもよい。ペットボトルに尿を詰めてかけたり、精液をこすりつけたり、稀に大のほうを投げつけたなんて嘘みたいな事案も目にする。インターネット内だけの話かとも思ったが、案外に身近に遭遇し得ると知って、もし出遭ったらどうしてやろうか、とこの灼熱の憂さ晴らしに緊急避難を免罪符にしてギッタンバッタンにしてやろうと妄想する。頭のなかで変質者をコテンパンにのしていると、急な夕立に襲われた。脇道に逸れる。雨宿りをしたくて軒下を探したが、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054919211245



2858:【モンメの一端】

隙間から視線を感じてはいたのだ。視線とはいえど、そんなものは気のせいにすぎない。目から光線が出ているわけではあるまいし、視線なるものはなんとなくの、あるような気がするものでしかない。気配と似たようなものではあるだろう。しかし気配は何かしら、匂いやら、空気の揺らぎやら、感知可能な事象が生じている。では視線はどうかと言えば、ただ見ているだけだ。レンズがそこに存在するだけで、その焦点にじぶんが位置するだけで、レンズの存在を感知可能かと言えば、いささか怪しい。とはいえ、仮にレンズを光が通っていれば、それは光が凝縮され、太陽光を集めて紙を焦がすような事象を生じさせ得る。だが視線はそうではない。光が網膜から投射されているわけではないのだ。壁などに乱反射されるのとは違った光の吸収が見られるために、その微妙な揺らぎを感じとるのだろうか。いいや、そこまでの高感度なセンサが人間に備わっているとは寡聞にして聞かない。もしそんなことが可能ならば、光よりもよほど音波のほうが感度が高そうだが、人はしかし、コウモリのようにはいかない。視線とは気のせいにすぎない。見られている、という自意識過剰な妄念が見せる一時の錯誤だ。「量子力学、つまり極小の世界ではけれど、観測されることで確率の揺らぎが収束すると考えられているからね。あながち、視線なるものがまったくの幻想とも言い切れないんじゃないのかい」僕の恋人は年中むつかしそうな本を読んでいて、僕の知らない知識を会話の節々で挿しこむので、浅学な僕なぞは彼女のそうした知能の高さ、もっと言えば頭脳のできの差にまいどのことながら痛痒に似た妬心を抱く。自尊心を削られるような感覚、もっと言えば、僕のほうが格下の人間であるかのような錯覚を味わうのだ。それを錯覚だと思いこみたがる我が身の卑しさは、ともすれば、人間なんかみんな平等、五十歩百歩だよ、差異なんてあってなきがごとくさ、と言い切る彼女の思想の影響かもしれなかった。大学院生でありながら彼女はすでに研究機関に属していて、端的に社会人としてお金を稼いでいる。研究熱心な彼女とはだから、月に三回会えればよいほうで、いまでは月に一度も会わないことも珍しくない。「僕たちは付き合っていると言えるのかな」「すくなくともあたしはきみ以外の生殖器に触れたいとは思わないよ」「それ僕が言ったら最低の言葉なのに、ずるいな」「言いたかったら言ってもいいよ。あたしには何を言ってもいいよ。きみなら許す」そんなことを言われたら、付き合っているか否かに拘っていた僕がまるで狭量で、本当にそういうところなんだぞ、と彼女に漠然とした怒りをぶつけたくもなる。要するに、要する必要のないくらいに僕は、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054919276511



2859:【海のもの】

しゃべるのも、何かを伝えるのも苦手なので、うまく文章にする自信がないのだけれど、数年後とか、あとで読みかえしたときにじぶんの記憶との整合性を保てるように、いま現在のわたしの認識について記しておくことにする。いまは夜の零時ちょっと過ぎだ。きょうは、きょうというかきのうか、昼間に海に行ってきた。ことしはちょっと歴史に残るくらいの社会的変容があった年でもあって、海開きこそされたものの、他人の密集する浜辺で裸になろうとする者は思いのほかすくなく、言ってしまうとわたし以外にいなかったようで、ほとんど貸切りの状態だった。そう、わたしは一人きりで海に泳ぎに行った。一人ならいいだろうと思ったのと、一人くらいそういうアホがいてもいいだろう、との甘っちょろい考えがあったのと、いっしょに行くような相手がいない惨めな思いも、ことしなら味わわずに済むだろうとの打算があったのと、まあなんだ、けっきょく一人で海に行くならいましかないと思ったのだ。で、だだっぴろい浜辺に一人で水着姿で、腰に浮き輪をはめてぽつねんと立ってみると、なんだか海水浴という行為が途端にアホウな行いに思えて、だって考えてみてほしい、なんでわざわざ海に浸かるの? 暑いから? や、浜辺にいるほうがよほど暑いよ。世のなかにはプールというものがあって、ちたなくて塩辛い海にわざわざ身体を浸けて、漬物の真似事をする理由なんてなくないか。思いながらも、だだっぴろい海に、わーっと駆けていって、波を蹴散らしながら全身を海水に沈めてみると、なんだかまるでこの海はわたしのもんだ、みたいな心地になって、それはそれはたいそう気持ちがよろしかった。浮き輪に尻を突っこんで、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054919355653



2860:【夢のなかの猿】

あたしも似たような夢見るよ、とミカさんが予想外の返答をしたので、私は目をぱちくりさせる。「よくあるタイプの夢なんですかね」「でも構図が逆なんだよね。あたし、追いかけるほうだから」「あはは、じゃあもしかしたら私を追いかけてきてるのミカさんだったりして」「でも怖い顔したお猿なんでしょ、それ」「そう。怖い姿のお猿さんがものすごい形相で追いかけてくるの」「こわいね」「こわいよぉ」六日前から毎夜のごとく見るようになってしまった夢は、悪夢と呼んで差し障りのない内容で、長い長い階段を私は延々とのぼりつづけている。上のほうには出口らしき光がちいさく見えていて、そこを目指して私は必死になって一段一段駆けのぼる。というのも、下のほうから毛を逆立てた猿が私めがけて階段をあがってくるのだ。それはそれは全力も全力の疾走なので、私は追いつかれまいと必死になる。猿は、ギェェエ、とおぞましい声をあげてもおり、私の恐怖にさらなる磨きがかかってしょうがない。毎晩見るたびに、前日のつづきからはじまるようで、すこしずつ、すこしずつ、出口らしき光に近づいている。反面、後方の猿もまた私に追いつきつつあった。階段は暗がりに一本だけ伸びている。そのほかには何もない。階段を踏み外せば、どこまでも下へ、下へと落下するに違いなかった。六日目にして、あと一日あれば階段をのぼりきるかもしれないぞ、という距離にまで光に近づいたので、私は何の気なしに、その夢の話をミカさんにしたのだった。ミカさんは年中部室で、昼寝をしたり、漫画を読んだり、私をからかったりしてグー垂れている。マンガを読んでいるミカさんに声をかけてもふだんなら生返事をもらうだけで、会話にもならずにぶつ切りに終わるはずだった。だがミカさんはわざわざマンガから目を離して、「その夢、あたしも見てるわ」と言ったのだった。まさかそんなことはないだろう、またミカさんが調子のいいこと言ってら、と思いながら、私のはこういう夢ですけどね、と無駄に偉ぶりながら述懐すると、ミカさんは、そうそう、とさらに食いつき、でも、と首を傾げるのだ。「構図が逆なんだよなぁ。あたしは逆に、追いかけてるほうでね。きみが長い階段を一心不乱に駆けのぼってくから、ちょっと待ちなよって追いかけてるの」「なんで追うんですか」階段のぼるくらいいいじゃないですか、と意見すると、だって、とミカさんはソファに横たわらせていた上半身を起こして、「階段の先に何もないんだよ。崖だよ。崖っぷちだよ」「崖って」これはミカさんの夢の話だからここで反論するのもお門違いなのだが、私はしかし反駁している。「私の夢だと出口ですけどね」「出口ってああた。日によっちゃ、首吊りの輪っかが垂れてたり、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054921021422




※日々、賽の河原で遊び尽くす、河原の石をもっと寄こせ。



2861:【作家は死者に取材する】

世に怪談を集める作家の物語は数えだしたら暇がない。ホラー小説ともなれば作品全体の三割は怪談を収集する作家が主人公なのではないか、とすら思えるが、藪に首を突っこみたがる者が蛇に遭遇しやすいのは何も虚構にかぎらぬ話であるから、これは生存バイアスの意味合いでは正しい統計と言って齟齬はないように思う反面、いささか誇張しすぎたきらいもないとは言えない。私は三十路をすぎた売れない作家だ。とはいえ昨今売れている作家を探すほうがむつかしく、私は作家ですと言えるくらいに売れている者のほうが小数であるから、作家と名乗るのもおこがましい肩身の狭い者たちが、ちんけな誠意と尊大な虚栄心の狭間で、売れないけど作家です、と口にしているのだろうと、これは十割自己分析でしかないが、そう解釈している。怪談の話である。私の飯の種であるので、それはもう、全国津々浦々、目新しい怪談があるようならばネットで収集し、取材費をなるべくかけずにいようと創意工夫している毎日だ。わざわざ現地に足を運んだりはしない。運んだりはしないが、しかし例外は何事にもつきもので、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054921040918



2862:【王道の怪談】

百物語をご存じの方も、そうでない方も、今宵は百話目にふさわしい王道の怪談を一つ披露させてもらおうかと、少々のお時間を頂戴いたしますこと、ご容赦くださればなと、他人事のように前置きをしておきましょうかね、えぇ。怪談話で有名なのは皿屋敷なのではないかとわたくしは思うんでございますが、では皿を数えて一枚二枚とやっていって、一枚足りないと恨み言を零す幽霊の話を王道と言ってしまってよいものか、ここは一つ首をひねりたくもなりますでしょう、なりますでしょ、なりませんか。怪談の醍醐味と言えばなんといっても背筋が凍るほどにおそろしい、夏の暑さを忘れてしまうほどに怯えてしまう、そういった恐怖にあるとわたくしは断言致しますが、そこにきて、では皿屋敷が恐怖に慄けるかと言えば、はてさて、これはもちろんひとによりけりでございましょう。わたくしはと申しますと、やや物足りない所存でございます。皿屋敷よりかは手前、四谷怪談、お岩さんは、これはちと背筋がぞわぞわ落ち着かない気も致しますが、やはり恐怖に慄くほどのことではございませんね。はて、ビビリと思われたくないだけ? つよがっているだけ? なんてぇこと言うんでしょうかねこのひとは。斟酌せずに言ってしまえば、いったいどこが怖いのかと、野次の一つでも飛ばしたくなるところでごぜぇますが、礼儀正しい爽やか坊主で通っております手前、かような乱暴な所感は零さずにおきますが、えぇ、もう遅いなんてお声が聞こえてきましたが、何事も遅すぎるなんてことはないものでして、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054921133146



2863:【カミサマ。僕の神さま】

僕は十四歳にして悟ってしまった。恋愛には二通りの結末しかない。結ばれるか、結ばれないか、だ。たとえ結ばれたとしてもそのあとにはまた、別れるか別れないかの分かれ道が待ち受けていて、別れてもその後に縁を繋ぎとめておくか否かでまた道が分岐し、別れないにしても仮面夫婦よろしく実質、縁が切れている場合もある。そう考えてみると、恋愛を成就させようと考える前提がまず理に適っておらず、恋愛における成就を、数少ない結末のどこに設定するかで人生の満足度は大きく変わってしまいそうだ。結婚とか付き合うとか、そういうことでは本来ないはずだ。恋愛の成就とは意中の相手と結ばれることだとすれば、そんなのはあまりに儚い一瞬の結合でしかなく、基本を穿り返してもみれば、二つの直線はいちど交わればあとはもう延々と離れていく定めなのだ。たとえば性行為をすることを成就と呼ぶのならば、それこそ長くとも六時間、平均すれば一時間しか持続しない。何度も同じ相手と性行為をすることとしても、ではその相手がほかにも同じように何度もほかの相手と性行為をする人間だとしたら、それを成就と呼んでよいのかは、やはりひとによるだろう。心の結びつきを恋愛の成就と呼ぶとしよう。互いに相手を尊び、しあわせを願い、そのように振る舞うことを日々是とする。だがそれは親と子の関係でも成立するし、孫と祖父母の関係でも成立する。友情であっても充分だろう。何故恋愛の専売特許のごとく、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054921177694



2864:【僕は虚構に恋をする】

恋愛経験を重ねずにこんな歳まできてしまったが、こんな歳とはどんなかを具体的に数字で示すのには抵抗がある。いわゆる大人として誰もが認める年齢であるので、そこはぼやかしておくけれども、なぜって念押ししておきたい点がだから、恋愛経験の一つでも重ねておいておかしくはない年齢に僕がいるという点であって、僕の側面像を仔細に述べたいわけではないからだ。恋愛をテーマに一つ掌編をつくってくれませんかね。馴染みの取引先からそのような依頼を受けた。いざとりかかってみるものの、ふだんはもっぱらゴテゴテの宇宙冒険譚を手掛けているため、恋愛を主軸に物語を組み立てるというのがいったいどういうことなのかが、感覚的に掴めない。自作においても恋愛要素は自ずと帯びていることがある。ただ、読者からの評判のよいキャラクターはどちらかと言えば、友情や博愛を優先するタイプの人格で、恋愛にかまけるようなキャラクターは、作者としてもいち読者としてもあまり愛着がなく、どうしても作中での恋愛要素は、ほとんど装飾の域をでず、腰を据えて描いたことはなかったように思う。だいたいにおいて、恋愛をテーマに物語を編むとはどういうことか。二人の人間がいればそれでいいというわけではないのだろう、そこはかとなく、そこはなんとなしにだが察せられる。むろん、二人きりしか登場せずとも極上の恋愛小説になることもあるだろう。事実そのような作品を読んだ憶えがちらほらとある。ただし、ロミオとジュリエットを引き合いにだすまでもなく、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054921227365



2865:【新しいマシン買った】

店内は涼しく、閑散としていた。客の姿はなく、電化製品だけが所狭しと並んでいる。有線なのだろうか聴いたことのない南国じみた曲が流れている。人目を気にしてワンピースを着こんできたが、こんなにひと気がないならもっとラフな格好をしてくればよかった。自転車をかっとばしてきたので汗がだくだくだ。化粧もドロドロで、いますぐに冷水で顔を洗いたいくらいだ。さっさと用を済ませて退散しよう。まずは店員を探した。目的が決まっている以上、専門家の意見を仰ぐのが先決だ。目的の品がなければそれまでだし、予算内で購入できる品があれば御の字だ。しかし店内を練り歩くがなかなか店員を捕まえられなかった。客のみならず店の者がいない。よもや無人店舗ではあるまい。しょうがないと諦め、目的の品の陳列されている棚を見て回った。通販が主流のさっこん、物理店は繁盛しない向きがつよい。店舗を維持するだけでも経費が嵩むのだろうし、管理には人件費もかかる。だったら在庫だけ抱えてあとは注文があったときにだけ品物を手配し、送り出したほうが効率がよいのは、これは誰が考えてもその通りだと思うだろう。仲介料をとれば、右から左に商品を移すだけで利益が懐にチャリンチャリンと音を立てて入る。転売屋なんてアコギな業者が跋扈するのもそのほうが儲かるからだろう。健全な経済なるものがあるのかは知らないが、まっとうに社会の財を増やそうと堅実に付加価値を作りだしそれを売って利益をだそうとあくせくしている者たちからすれば、ズルをするなズルを、と言いたくなる気持ちは理解できる。が、あと十年も経たぬ間に物理店はコンビニや一部の専門店のみが残り、あとは野となり山となり、いずこへと消える定めなのだろうと、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054921281112



2866:【あすのチャイムは特別で】

在宅ワークに替えてから通販を利用する頻度があがったために、段ボールの始末が面倒に感じはじめて久しいが、人付き合いをせずに済むようになったのはよろこばしいことだ。とはいえ、さすがのわたしも――何がさすがなのはかじぶんでも謎だが、人間関係を煩わしく感じることにかけては得意中の得意のわたしであっても――数か月を家に引きこもりっぱなしで過ごしていると、そこはかとなく人肌恋しくなったりするようだ。端的に誰かとしゃべりたい。独り身の孤独を紛らわせるための処方箋として、猫でも飼うとよいとネットには書かれていたが、あいにくとアレルギー持ちゆえそうもいかない。散歩に出かけるのを日課にしようと計画を立ててみたが、三日坊主どころか翌日から行かなくなってしまった。歩くのですらダルい。身体がすっかり引きこもりに適応している。無駄に動かぬように脆弱に進化し、すくないエネルギィで動けるように省エネ構造になってしまった。映画や漫画など、虚構の世界に没頭して寂しさを紛らわせてはみるものの、短期的には効果があるが、長期的にはむしろ孤独の深淵さを測るための試金石代わりになってしまって、いかにじぶんが社会と断絶し、あべこべに世界のどこかには虚構の世界にあるような人との交流を、それはたとえば友情や愛情を互いにそそぎあったりする関係を築いている者たちがいるのだと、まざまざと知ることとなる。虚構の世界に逃避すればするほどに、想像の翼は強化された。わたしはじぶんでじぶんの首を絞めながら、さびしい、さびしい、わたしはなんて孤独なんだ、とときおり猛烈に、何かに嫉妬し、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054921375980



2867:【瞬久間弐徳の休日】

「今回の犯人は凶器を密室のなかから見事に消し去り、迷宮入りを企んだわけだが、相手がわるかったようだ。私にはすぐに見当がついた」またぞろ先生は事件の概要を聞いて三秒で解決してしまったのだろう。人を殺した犯人に同情はできないけれど、それでも苦労をして練った一世一代の企みがこうも呆気なく暴かれたとなると、ほんのりとした申し訳なさを、まったくの無関係な外野の人間ながらに覚えてしまう。先生の代わりに謝りたい気分だ。呆気なく謎を解いてしまってごめんなさい、と。「密室って今回はどこだったんですか」わたしは繋ぎ穂を添える。先生から事件のあらましを話してくれるなんて滅多にないので、ここで素っ気なくしたら臍を曲げるに決まっているので、幼子をあやすような寛大な心持ちでわたしは、「また館の一室だったんですか」と訊ねる。「いいや、今回はマグロなどを冷凍保存するための保管庫だった」「わかった。凶器は氷だったんですね。それかドライアイス」「犯人もそこまでアホウではない」「間接的にアホウって言われた」「直接的に言ったつもりだったのだが、うまく伝わらなくて残念だ。密室内部はキンキンに冷やされていた。マイナス八十度以下だ。氷やドライアイスはまず熔解しない。倉庫内に遺体以外の物体は視認できなかった。ちょうど掃除の時期だったらしくてね、中身を洗いざらいすべてだして、まったく何もない状態にされていた。そこに遺体だけが残されていた」「鍵はもちろんかかっていたんですよね」「かかっていた。問題は、鍵のかかった時刻がデジタルで記録されていた点にある。その時刻は、死亡推定時刻より一時間も早い。つまり被害者は、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054921434105



2868:【心に熔けた鋼を忍ばせて】

組織の長はじぶんの判断に私情を挟むべきではない。個々人を守るために組織を維持補強し、より長くつづく安寧の土台を築く。私情を挟めば大義は失せる。組織を私物化しないためにも私情と組織存続のための判断は切り離して考えるべきだ。同時に、構成員の安全は何よりも優先して守る。規則に反しない限りそれを罰することも、軽んじることもしてはならない。組織を生かすために個を尊重する。個を守るために、組織を維持する。ゆえに、もし個を犠牲にしなければ組織を存続させられないときは、それを潔しとはしないまでも、不承不承その選択を取らざるを得ないのが組織の管理者としての絶対にしてゆいいつの義務だ。ある意味でそれは組織のために他人を切り捨てることと同義だ。本来はあってはならないことである。責められて然るべきであるし、そうした長の判断を批判するのが組織の構成員に与えられた権利でもあるだろう。甘んじて非難される。組織を生かすためには進んで手を汚す。そしてその罪を贖いつづけていくしかない。そうした判断を下さなければならない局面が往々にして長には巡ってくる。ライバンはことし齢五十四になる男だ。彼は反社会的勢力対策の専門組織に属している。公的な機関ではない。民間企業だが、全世界の戦場を渡り歩いた傭兵たちと契約しているれっきとした部隊だ。ふだんは信頼の置ける十人に満たない少人数のみで活動している。どうしても部隊を動かさなければならないほどの大規模な依頼、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054921490234



2869:【不倫反省文】

不倫なんてバカみたいって思ってたし、現にいまでも思っているけれど、先に出会っただけのことで人間一人の自由意思を、好意を、束縛できるなんてそっちのほうがおかしいとも考えるようになってしまった。それもこれも多田さんのせいである。多田さんは母の職場の同僚で、母はよく多田ちゃんと呼んで可愛がっていた。職場の全員が全員、互いにチャン付けで呼び合っている奇妙な空間にあって、多田さんだけがみなから本当に真実子ども扱いをされていた。年齢がみなより一回り低いこともあるのだろう。十数年ぶりの大卒社員ということもあってか、みな多田さんの活躍に、というよりもずっとこの職場にいてほしいとの願望が露骨に、甘やかしとなって表出しているように私の目には映った。多田さんはそんな甘やかし攻撃もなんのその、いつまでも謙虚に、慎ましくおり、みなはますます多田さんをチヤホヤした。多田さんは既婚の三十五歳の男性で、新卒採用では全然なかった。私よりも十個も歳が上の彼とは、最初はほとんど接点がなかった。飲み会のたびに母を送り迎えしてくれるので、それとなく家にあげて話をするようになったのは、初めて多田さんと出会ってから半年も経ってからのことで、私はてっきり母は多田さんと浮気をしているのかと思っていた。うちには父親がいないので、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054921556063



2870:【必死は向かうよ滾々と】

ミカさんの性格が急激にわるくなって見えて私は気が気ではない。おそらくミカさんのことだからまたぞろ何かしらの本を読んで、或いは映画かもしれないけれど、感化されて、影響されて、何にとは言わないけれど染まり切ってしまったのではないかと私は睨んでいる。「あたし、相手の言動が本気かどうか、真剣かどうか、解っちゃうんだよね」「へえそりゃ便利でいいですね」窓から夕陽が差し込んでいる。部室のなかに舞う埃がキラキラと輝く。「そうでもないよ。相手の底が知れてしまうから、なんだか疲れてしまって」「それはそれはたいへんですね」「ちなみにきみはいま、適当に返事をしているね。そういうの解っちゃうんだからね」「バレてましたか」伝わるように言っていたのだからそうでなくては皮肉を言った甲斐がない。ミカさんはじぶんで言うほど鋭くはないし、むしろようやく人並みに他人の言動の機微を感じ取れるようになったくらいで、いままでが無頓着すぎたのだと私なぞは思ってしまうが、それを当の本人に言ったところで、認めはしないだろう。じぶんだけがこの世の真実を分かっているのだ、と思いあがった人間は往々にして他人を見下し、じぶんの考えを押しつけ、ちょっとじぶんの意にそぐわないことがあると機嫌を損ね、それすら相手のせいにするので、相手をするのが非常に疲れる。なんて思ってしまう私自身がすでにミカさんの悪影響を受けつつあり、こうして不機嫌なのはミカさんのせいだと責任転嫁を図っている。不快なら距離を置けばよいのだ。そうしないのはミカさんのせいではなく私が現状維持を望んでしまっているせいである。「ミカさん、ミカさん。ミカさんが聡明なのは私もよく(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054921748256




※日々、未来が楽しみです、あすでも、五年先でも、千年後でも。



2871:【蝶は道に舞う】

 逃げる。ただそれだけが私のすべきことだ。

 道は兄者たちがつくってくれると言っていた。管理者たちの妨害を振り切ってそんな真似ができるのか、そもそもどうやってこの檻からみないっせいにそとにでるのかは知らないが、私は最後までここに残って、みなが一人一つずつ妨害を抑え込み開けてくれた道を駆け抜ける。

 そのはずだ。

 兄者たちが言っていたのだから私はそれを信じるしかない。

 できっこない。

 私はずっと反対していた。そんな真似、できっこない。

 たとえ壁のそとに出られたって私たちがいったいどこに位置するのか、ここがどこにあるのかすら私たちは知らないのだ。

 断崖絶壁の孤島だったらどうするのか。

 私たちが箱と呼ぶこの巨大な鳥籠がどこにも繋がっておらず、出口なんて端からなかったらどうするのか。もっと言えば、管理者たちの話している通りに、世界はとっくになくなっていて、ここが最後の人類の砦だったとして、そうしたら私たちはむざむざと地獄の門を開ける愚か者だ。

 兄者には言いたいこと、聞きたいこと、問い詰めたいことがたくさんあったけれど、私なんかの言葉は聞き入れてくれないどころか、兄者のまえに立つことすら許されない。

 ハブかれ者の私がどうしてこんな大役に抜擢さたのか。そのことだって私は兄者たちに異議を投じたかったのに、兄者たちは問答無用で配役を決めて、かってに行動を開始した。

 始まってしまったらもう、こなすしかないではないか。

 どの道私たちに未来はない。この管理棟、巨大な鳥籠のなかで死んだ目をしながら、暗がりのなかで洞窟を掘って、光る石を集めるだけの人生だ。

 管理者たちはみな全身を鎧で覆っている。兄者はそれを防護服と呼んでおり、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054921755365



2872:【ホバリングの週末】

 ハチドリがこの国にいないと知って驚いた。なにせうちの庭にはよくハチドリじみた飛翔体が花から花に渡っているので、てっきりあれがハチドリなのだと見做していた。

 だがよくよく目を凝らしてみると、たしかに鳥のようなクチバシはなく、ではあれは何なのかと気になって調べてみると、どうやら蛾の一種らしいと判った。

 そそっかしい性分はむかしからで、よくこうした勘違いを犯す。気づいていないだけで、ほかにも多くの誤謬を抱いたままでの生活を送っていることだろう。いまのところ大した被害がないのはさいわいだ。積もりに積もった誤謬に誤解に勘違いによって大やけどを負う前になんとか一つずつ是正していきたいところではあるが、なかなか自覚するのもたいへんだ。

 さいきんでは、私は二十六歳だと思っていたが、よくよく勘定してみるとまだ二十三歳だった。さすがにそれは嘘だろ、と思われるだろうが、本当によくこうした勘違いをしたまま何不自由なく暮らしているので、いったい世のひとはどうやって世界をより正しい姿のまま、種々雑多な情報を扱い、捌いているのだろう、とこれは純粋な好奇心で、というよりも、疑問であるが、首をひねっている。

 そうは言っても、誤解のしようのない情報もあるにはある。たとえばじぶんの性別は、さすがの私であっても間違えない。かといってでは生物学的性差、すなわち肉体の性別ではなく、精神的な、内面のじぶんの性別は、と問われると、これもまたしばし固まる。自信がない。本当に私は、じぶん自身を、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054921811341



2873:【ポチに首輪をはめましょう】

 彼女のことを僕はポチと呼ぶけれど、そう呼んでほしいと言ったのは彼女のほうだ。

 昨今耐震強度の問題ですっかり淘汰されたオンボロアパートに僕は住んでいて、いったいなぜこれが区の検査をパスして改修工事を免れているのかがふしぎなほどにどこを見渡しても鉄骨は錆びているし、外壁は剥がれている。部屋の壁は薄いが、住人がすくないのでそこは空き部屋をあいだに挟むことで、それなりの防音効果を発揮する。二階までしかないので、二階の部屋にさえ住んでしまえば、騒音に苛む心配はない。真下もずっと空き部屋だ

 バイトが終わるのは午後二十二時を回った時分で、僕はスクーターに乗って帰宅する。そのとき、階段したで蹲っている女性がいて、結末から言ってしまうと彼女は血まみれで、人殺しで、一年を一緒に暮らしたのちに僕の元から去ることとなる。

 いちど彼女を見て見ぬふりをして、僕は階段をのぼってじぶんの部屋に入った。完全に混乱していた。ちょっとした恐怖を感じて、幽霊じゃないよね、と幼稚な考えを巡らせたりもした。けっきょく玄関口で靴も脱がずに思案して、安否だけでも確認しておこうと思い直したところで部屋をでた。階段を下り、真下に蹲っていた彼女に声をかけた。

「だいじょうぶですか」

 鋭い眼光を向けられ僕はひるんだ。「すみません、その汚れって、泥、じゃないですよね」

 服はケチャップで汚れたみたいにデロデロと黒く染まっている。そういう模様の服と見做すには重そうに湿っている。粘着質にドロドロとして映った。

「逃げてるって言ったら匿ってくれる?」

「追われてるんですか。警察に言ったほうが」

 言いながら僕は、敷地の入り口から死角になるように、じぶんの背中で彼女の姿を隠した。彼女は僕を見上げた。

「ここに住んでるの?」

「ええ二階に。寒いですよね、警察がくるまであがりませんか。不安なら僕はそとにいてもいいですし。あ、Tシャツでよければ着替えとか」

「お願いしてもいいですか」

「それはええ」

 どうやら彼女の身体の汚れは、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054921877042



2874:【黒いビニル袋】

 これはひょっとしたらおそらくそんなに珍しい話ではないのかもしれないが、ゴミ収集作業員である白鳥木(ハクチョウキ)レイこと俺が遭遇した日常のちょっとした謎を日記の総集編として記述しておく。

 いまこうして文字を並べているが、この時点ではすでに謎は解明されている。解明されてはいるが、では問題までもがきれいさっぱりゴミ収集車がごとく性能のよさで解決したかと言えばこれは否であり、問題は問題として放置されている。

 が、それによって俺は何も困らないので、ひとまず一区切りとしてこうしてまとめておこうと思い立ったわけだが、さてどこから話したものか。

 白鳥木レイこと俺については、日記のほかの部分を読んでもらえればつぶさに知れるので、ここでは謎の概要だけに焦点を絞って叙述する。

 毎日八十件ちかいゴミ収集所を回る。六台分のゴミ収集車が満杯になる。

 この仕事のつらさを並べるだけなら言葉は止まらないし、誰であっても文豪になれるほどに吐いて捨てるほどに書き連ねる憤懣に苦労しないが、あいにくと俺はこの仕事がそれほど嫌いではないので、誤解を生むような不平は鳴らさないでおく。

 最初にそれを拾ったのは、まだ息を吐けば白くモヤとなってのぼる正月明けのことだった。

 真っ黒いビニル袋が置かれていたので、指定のゴミ袋に入れて出し直せ、のシールを貼って放置しようとした。通常こうしたルール外のゴミは持ち去らない。町内会のリーダーか誰かが、あとで指定のゴミ袋に入れて出し直す。

 だが、安全性を考慮して、中身はいちおう確かめておく。動物の死骸や、胎児、ごくごく稀に大金が入っていたりと、この仕事をしていれば、都市伝説かよ、と思うような、ゴミと呼ぶには抵抗のあるものが捨てられていることがある。年に数回は確実にそうした話を耳にするし、俺自身、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054921916855



2875:【人形の生々しい部位】

 ピノキオが実話かもしれない、とまずは思った。人形に命が宿り、やがて生身の人間に変質した可能性が、これで皆無ではなくなった。

 私は、人形を見下ろす。私自身の手で創りだしたそれは人形だ。

 椅子のうえにて微動だにせず座っている。右腕だけが生々しく、明らかに人形のそれではなく、人の、生身の、腕だった。

 誰かの悪質なイタズラの可能性を考えたが、右腕は人形の肩の関節部と完全に癒着しており、誰かが付け替えたと考えるよりも、人形の腕が本物の人間の腕に変質したのだと見做したほうが現実に即した解釈に思えた。

 数日をそのままで過ごしたが、それ以上、人形が変質することはなった。

 展示会に飾る予定の人形だったため、頭を抱える。いまから新しく作り直すには時間が足りない。折衷案として私は、人形の右腕を、肩から切断した。

 生身の腕は傷つけないように、人形の肩部位をゴリゴリとノコギリを使って切り離す。

 とれた右腕は庭にでも埋葬しよう、と思い立つが、いつかこれが骨として発掘されても困るな、と思い直し、やはり頭を抱えた。

 これは果たして本物の腕なのだろうか。

 一向に腐る気配を窺わせない右腕を眺める。

 ひょっとしたらどこかで生きている人の腕が人形の腕と入れ替わってしまったのではないか。持ち主がいまなお生きているから腐りもせず、こうして美しい造形を維持しているのではないか、と私は想像し、これでは破棄することもできないではないか、と悄然とした。

 私が偶然、生きている人間と何かしら波長の合う人形をこさえてしまったから、完璧に波長の融合した右腕が入れ替わってしまったのではないのか。私の妄想はしだいに、確信を帯びはじめていた。

 むろん単なる妄想だ。信憑性も証拠だってない。

 だが、確かめたい衝動は日に日に嵩んだ。

 展覧会には、右腕のない人形を展示した。欠損した人形は、これまでの私では絶対につくらない型の人形で、来店客を含めた界隈のあいだで賛否両論を巻き起こした。

 私は、私のファンだという古くからの付き合いのある顧客から、見損ないました、といった内容の言葉を、しかしやさしくではあるが、投げかけられた。

 知らんがな。

 私の所感はかようなものであった。

 ときおり、私の見た目が、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/my/works/1177354054881060371/episodes/1177354054922113774



2876:【ヤモリではない】

 古い旅館に泊まった。満月のきれいな夜で、障子を開けているだけで、眩しいくらいに光が差し込む。窓の上部は擦りガラスで、そこに霞む月をぼんやりと眺める。

 きれいだ、と感慨に浸っている合間に眠りに落ちた。

 物音がして起きる。腕時計の時刻は深夜二時を回った時分で、寝付いてから四時間が経過していた。

 物音を耳で辿る。窓のほうだ。

 目を転じると、摺りガラスに何か動くものが見えた。

 ちいさな影が、パタパタとせわしくはためいている。

 蛾か何かだろう。

 ひょっとしたら摺りガラスに乱反射した月光めがけて飛んでいるのかもしれない。ご苦労なことだ。

 もういちど寝付こうと後頭部を枕につけ直すと、音の質が変わった。

 パタパタと羽ばたいて聞こえたそれは、こんどはベタベタと重さを増し、窓を叩いている。

 そう、叩いているのだ。

 いったいどんなに大きな蛾だろう。

 それともコウモリだろうか。

 もういちど首を持ちあげ、振り返ると、摺りガラスの下、透明なガラス部位に、逆さになってぶらさがる何か黒い、人影のようなものが、しきりに窓を、ベタベタと両手で叩いていた。その音はしだいに大きく、窓ガラスが割れてもおかしくないくらいに鳴り響き、私は飛び起きて部屋のそとに逃げだした。

 ロビーに下り、いましがた目にしたモノのことを言うと、係のものは分け知り顔で、ただいまお部屋をお替えします、とこちらが呆気にとられるほどなめらかに対応してくれた。

「泥棒ですか」係のひとが廊下を進む。

「たぶん違います。害はないと思うんですけど」

 部屋に向かいながらそんな会話をした。

 部屋に入り、明かりを灯すと、(こちらに掲載:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054922176693



2877:【彼岸の白い花】

 隣の空き部屋がようやく埋まったようだ。引っ越してきたのは私の同年代くらいの男性だ。引っ越しの挨拶にカステラをもらった。

 顔を合わせるたびに会釈をするが、彼の眼差しがどこかしら粘着質で戸惑った。きょうなど、帰宅すると、私の部屋のまえでじっと扉を見つめていたりして、ぞっとした。

 見た目はそれなりに清潔感があったので油断していたが、あまりお近づきにはならないほうがよいかもしれない。私は気を引き締めた。

 アパートは築ウン十年で、部屋は狭い。かろうじて湯舟とトイレがついている。友人を招きたいとは思えぬ内装だが、畳が敷かれており、古き良き趣がある。

 家のとなりには墓地がある。墓地と家のあいだにはこの季節、彼岸花が咲き誇り、夕焼けに照らされた景色は、そこが墓地であることを忘れるほどにうつくしい。

 あるとき、私は一本の花に目が留まった。一面が赤い絨毯と化しているそこにあって、それだけが白く浮き上がって見えた。

 一本だけの白い彼岸花だ。

 否、彼岸花であるかは分からない。

 何かほかの花が混じって咲いているのだ。きっとそうだ。

 私はよくよく夕暮れときにはそれを窓から眺め、一日の癒しとした。

 休日に、買い物をして帰ってきたら、鍵を開けているあいだに隣の部屋の扉が開いた。そこから例の男が顔をだし、

「すみません、よかったら部屋を見せてもらえませんか」

 不躾にそんなことを言ってきた。

 いったいどういう神経をしたらそんな怖いことを、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054922214518



2878:【デビットバードは雲を知らない】

 デビットバードはことし五十歳を迎えるアメリカモンタナ州在住のヒスパニック系アメリカ人だが、彼は産まれたときからいちども雲を見たことがなかった。必然、雨や雪、その他、晴れ以外の気候とも無縁だった。

 TVを観なければ、最新技術とも接点がない。本は文芸を愛好するが、虚構たる小説ばかり読むので、そこに出てくる雲とドラゴンの違いはあってないようなものだった。

 何か意図されてそうなっているわけではない。デビットバードが産まれてから五十年のあいだにいちども雲を見たことがないのは単なる巡り遭わせの偶然でしかなく、極めて低い確率の事象がたまたま彼に起きているにすぎなかった。

 デビットバードが雲をいちども見たことがないと知る者はない。サイコメトラーではあるまいし、誰だってじぶんの友人や知人が産まれてきてからいちども雲を見たことがない人間だなどと傍から見抜く真似はできないし、ましてや雲なるものを見たことのないデビットバードが、他人に、じぶんは雲を見たことがないんですよ、と話す道理もない。

 そう、デビットバードはこの世に生を享けてからの五十年間いちども雲を見たことがないだけでなく、そのことすら知らぬままで生きてきた。

 雨や雪については、知識として知っていた。川や海、作物や木々がどのようにしてできるのかを知るのと同じ過程を経て、デビットバードは、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054922232867



2879:【腸内ガスが止まらない】

 今朝食べたゆで卵がよくなかったのか、夕方になると腸内ガスがたくさん排出されて困った。家には一人でほかに家族はない。人目もないので、ひとまず気兼ねなく、ぷっぷぷ、放出してみた。

 すぐに治まるだろう、底を突くだろう、そう思ってのことだったが、思いがけず腸内ガスは絶え間なく出つづけた。

 匂いが薄いのがさいわいだが、これではメタンガスが部屋に充満してしまう。静電気が弾けるだけでも、引火して大爆発を引き起こしかねない。

 ひとまず我慢することにした。窓を開け、換気はしているものの、永久機関がごとく湯水のように腸内ガスが漏れつづけるので、自力で抑える訓練をしなければ、あす病院に行くこともできないと考え、やはり我慢した。

 寝ているあいだに何度じぶんの腸内ガス放出時の音で起きただろう。

 翌日、病院に向かったが、原因は不明で、とくべつ命に係わるわけでもないとのお墨付きをもらえ、けっきょく何一つとして解決せぬままに帰宅した。医師からは、却って健康でよろしいと太鼓判まで捺されてしまい、これでは恥じを掻きに行っただけではないか、と臍を曲げた。腸内ガスがたくさん出るからと病院に行った人間はこの世にいったい何人いるだろう。人類初ではないと祈りたい。

 それからというのも、腸内ガスは止めどなく溢れ、ほとんど垂れ流し状態になった。お尻の穴からつねに腸内ガスが漏れている。天然ガスの噴出口さながらだ。いちど火がつけば、ガスが枯渇するまでお尻から火を噴いたままの生活を余儀なくされるのだろうか。不安しかない。

 音がしないように、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054922385383



2880:【作者と読者と物語】

「 本質を浮き彫りにしたければ引き算をしていって最終的に何が残るのかを見て見ればいい。たとえば小説だ。小説の本質とはなんだろうか。文章であること。文字であること。言葉であること。それはそうだが、では随筆と小説との違いはどこにあるのか。

 私が思うに、小説から登場人物を引いていけば、最終的に作者と読者とそして物語だけが残る。三つが必要だが、随筆は、作者と読者さえいれば成立する点に相違がある。

 小説とは物語とイコールではない。作者が語る物語を読者が享受し、共有する作業が小説なのだ。情報の伝達ではなく、飽くまで共有であり、共同作業である点が、多くのほかの文章との違いだ。

 作者ははじめから読者に、世界の創造を委ねている。小説からそこに記された情報以上の情報を引きだし、補完し、創り出してほしいと望んでいる。

 たとえば小説において基本的には二人の登場人物がいれば、物語として起伏のある流れを構築しやすい。では一人ではいけないのか、というとそういうわけでもなく、一人しか登場しない小説も成立し得る。語り部しかでてこない小説、或いは、たったひとりの言動を叙述した小説。

 ではその一人すら消えた小説はどうだろう。これも成立し得る。

 たとえば人類の消えたあとの世界を叙述した小説、或いは世界の変遷そのものを叙述した小説。考えればほかにもきっとあるだろう。小説とは必ずしも人間を登場させなければならないものではない。

 だがすくなくともそこには、作者と読者がおり、そのあいだには共同作業で築かれる虚構の世界が広がっている。

 それは、ここではないどこかであり、あなたのなかにあるどこかでもある。

 随筆にしろ小論にしろ日記にしろ、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054922405174




※日々、鍛えず、磨かず、極めずに、在るがままをそのままに、未熟な我が身を意のままに。



2881:【後釜に、今宵、なる臍を】

 いつかはこんな日が巡るだろうと覚悟してはいたが、よもや最愛のひとと結ばれたその日にやってくるとは思わなかった。

 シルバーソーグはこの日、何年も真剣に愛をささやき、伝え、縁を固く結びつけてきた最愛のひとを置いて住み慣れた家を、街を、去った。

 持っていくものは何もない。衣服も靴も途中で着替えた。着替えは以前から用意していたもので、いずれはこんな日がくると構えていた。

 だが、きてほしくはなかった。

 そう願ってやまなかったが、台風や地震が人の意向を気にしないのと同じように、それはシルバーソーグの気分にも、気持ちにも、もちろん生活にも気を払うことなく、そうするのが最も合理的だったから、都合がよかったから、というただそれしきの理由でその日、彼にこれまでの人生を捨て去る決意を固めさせた。

 シルバーソーグの本名を知る者はなく、シルバーソーグをシルバーソーグと呼ぶ者もない。彼にはいくつかの過去と、いくつかの名前、そして偽の経歴があった。それらは彼が各地を転々とするあいだ、居住した地ごとに新たに増え、そして消し去ってきたものだ。

 最愛のひとにはダグと名乗っていた。だが最愛のひとのもとを去った彼はもう、ダグではなく、数多の仮面を使い分けるシルバーソーグでしかなかった。それは、これまでひたむきに覆い隠してきた彼の核であり、習性であり、行動原理そのものであった。

 移動は徒歩に限定した。ときに下水道を使い、民家を抜け、屋根を伝った。足跡は残さず、靴は一日ごとに履き替えた。たいがいは民家から盗んだ靴だ。衣服も拝借する。

 シルバーソーグには罪を犯すことへの呵責はない。そのように幼いころに教育を施された。どこにいても生きていけるようにと、生存に最も有利な術をそのときどきで使えるように人格を補強された。

 最新機器の扱いにも手慣れたものだが、シルバーソーグは情報収集以外ではそれらを極力使わない。

 自動車はいまや、巨大な追跡装置でしかない。店舗の立ち並ぶ区画にはどこも監視の目が張り巡らされており、それは人混みですら例外ではなかった。

 誰もがいまや、カメラを携え、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054922436288



2882:【ドッペルランナー】

 自宅で仕事をするようになってからランニングをはじめた。歩かないからだろう、体重が増加したためだ。昼間は人目があって恥ずかしく、仕事が終わるとたいがいすぐに寝てしまうので、走るとすると夜中になる。

 一週間をかけて、すこしずつ道を変えた。どの道が走りやすいか、気持ちよいか、コースを厳選した。

 やがてコースが固定されてくる。前半に長い階段をのぼり、疲れが溜まる後半に坂を下り戻ってくるコースだ。

 階段には街灯が数えられる程度にしかなく、闇に沈んでいる。月光があるときはかろうじて足元の段差が見えるが、鬱蒼とした藪に挟まれているために影が落ちて余計にどこに段差があるのか判らない。迷彩柄じみている。

 とはいえ、毎日のように登っていれば感覚が掴める。目を閉じてものぼれるくらいだ。思ったが、じっさいにやってみたらまったくできずにコケそうになったので、危ない真似はしないでおくに越したことはない。

 秋の虫の音が闇夜を埋め尽くすような肌寒い日のことだ。

 この日も、例によって例のごとく長い階段をのぼっていた。

 ほとんど小走りだが、一回も休まずにのぼりきれるくらいには体力がついた。

 夜中であるためにひと気は皆無だが、この日は上から駆け下りてくる人影があった。

 気づくのが遅れたので、ほとんど闇から出現したように感じた。

 心臓が跳ね、身構えたが、向こうからしてもこちらの姿にびっくりしたのではないか。互いに左右に道を開け、すれ違った。

 服装はジーンズにパーカーで、年齢は大学生くらいだ。相手の顔は見えなかったが、ずいぶんと息があがっていた。

 下り坂のほうが体力を使うとはよく聞く言説であるので、呼吸が荒いのも無理からぬことかもしれない。なかなかどうして警戒心を呼び起こすには充分な迫力があり、じぶんも気をつけよう、と何ともなく、夜道を歩くひとへの配慮を心に誓う。

 そのときだ。

 いましがた駆け下りていった人影の軌跡を辿るように、もう一つの影が現れた。こちらは、ずいぶん早くに気づけたので、(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054922496549



2883:【海の卵】

 朝、海辺を散歩する。さざ波とウミネコの鳴き声がある。砂浜を歩くたびに足音がサクサクと鳴るにぎやかな静寂の合間を縫ってときおり遠くでトラックのエンジン音が走り去る。

 スカートを穿くと裾の長さに関係なくいつも知れず汚れているので、浜辺を歩くときはデニムを履く習慣がついた。きっとしゃがんだときに汚れるのだろう。靴のかかとの汚れを目にしてから思い至ったが、けっきょくデニムにしろ汚れることには変わりはなく、その点はしょうがないと呑みこんでいる。

 犬でも連れていたらもっと楽しいのかな、と思うけれど、マイペースにじぶんの速度で歩くのが好きだ。片手が塞がれないほうが身軽でよい。

 波打ち際には様々な海の落し物が散らばっている。埋もれているそれを掘り起こし、拾うのがひそかな私の楽しみだった。

 最も多い落し物はゴミ類だ。異国のプラスチック製包装紙や、ペットボトル、母国のゴミも目立つ。そうしたゴミも拾うが、それは目ぼしい海の落し物があったときに持ち帰ってしまうことへの呵責の念を払拭したいがための、等価交換のようなものだった。

 一日に一個はステキな落し物を拾う。人の落としたものではない。天然の、自然からの贈り物だ。

 きれいな貝殻や小石が多い。サンゴを拾うこともある。そうした宝物を見つけると何か、子猫を初めて飼うときのような高揚感に満たされる。

 そのガラスの容器に気づいたのは、家に帰ってから浜辺で拾ったゴミを仕分けしていたときのことだ。

 ゴミ袋の中から引っ張りだしたときに、おや、と目が留まった。大きさは栄養ドリンクのガラス瓶くらいで、片手で包み込める。色が黒く中身が見えなかったので、まさしく栄養ドリンクの空き瓶かと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。

 水で洗ってみると、器は琥珀色に煌めいた。半透明で、細かな装飾が施されている。材質はガラスに似ているが、金属に似た光沢がある。手にずりしりとくる重たさゆえにガラス瓶と勘違いした。その実、容器そのものは薄いようで、指で弾くと硬質な鐘のごとく音色を響かせた。

 蓋がしてある。

 中に何か入っているようだ。液体のようにも、砂のようにも映る。僅かな隙間が空いているのみで(つづきはこちら:https://kakuyomu.jp/works/1177354054881060371/episodes/1177354054924495127


























また「いくひ誌。」をはじめていこう、と思います。

去年2020年の9月からお休みしておりました。そのあいだ、ちょこちょこと日誌はつむいでいたので、それらを載せてから、また以前のようなどうしようもない、くだらない「いくひ誌。」をつむいでいこうと思います。

(下にいくほど日付の新しい記事になります)(推敲をしておりませんので、ちょこちょことゆっくりしていこうと思います)


まずは2020/09~2021/03までのを並べていきます。



※日々、過去のじぶんの光を知り、いまのじぶんの影を知る。



2884:【信なくとも理はあり、理なくしての信は危うい】

信頼とか信用とかいうものに判断基準を置いているひとが多すぎはしないだろうか。信頼できずとも、信用できずとも、理屈として正しければ、それは否定せずに、それはそうですね、と認めることが議論を交わすための大前提だろう。そのうえで、理屈のなかにも限定的な場合や、例外を多分に含む場合、枠組みが広すぎて、もうすこし具体的に事例を当てはめて考えなければならない場合や、反対に具体的すぎて汎用性が足りない場合など、さまざまある。



2885:【剣を振るう者】

悪人が剣を持つことは断固として否定するのに、善人ならまあよいだろう、と考える。いまここでキミは、それの何が問題なの、と疑問に思う。悪人はだってひとを傷つけ、じぶんが得をすることだけを考えて剣を振るうけど、善人は他者を守るために剣を用いるから問題ないんじゃないの、とキミは無垢な顔でそう嘯く。間違ってはいないだろう。警察なんてその代表格だ。他者の自由を奪うこと、危害を加えることを、一定の条件下では許されている。裁判官は、他者の人生を揺るがす決定をやはりある一定の条件のもとで下すことができる。強制できる。社会システムのうえでは妥協しなければならない「正しさ」なのだろう。キミだけでなく、未来のキミ、つまりワタシもまたそう思う。でも、それは社会システムとしてみなで決めたことのみ許される例外だ。法律とは、社会における例外なのだ。本来、それは誰も他者へ強要できない束縛であり、自由の侵害だ。だが、じぶんができるだけ自由でいるためには、できるだけ多くのひとたちが自由を甘受できる環境を築いていくのが合理的だ。すなわち社会を築いていくために、例外をみなで許容し、妥協しようとしてつくられたのが法律なのだ。憲法はあべこべに、社会システムそのものへ、ある種の枷をはめ、これ以上の変革を得ないように、カタチが歪まないように、この枠組みのなかでなんとかよりよく変わっていってくれ、と定めている社会のDNAみたいなものだ。おいそれとゲノム編集のように変えてもらっては困る、変えるにしても慎重になってくれ、というのは一理と言わずして、百理ある。キミはまだファシズムがどういうものかを分かっていない。あいにくとワタシもまだよく理解してはいない。ある時代の、ある国民たちの運動が、よろしくない結果を生みだした。その流れを漠然とファシズムと呼んでいるのだろう、との認識でしかない。だが、いっぽうで、似たような動きを国民がして、それがよい結果を生みだしたら、それは好ましい動きとして評価されるのか。キミはどう思うだろう。いま、キミの時代にもインターネットが選挙を無視して、政府の動向を左右する力を持ちつつあるはずだ。あらゆる表現物には数字がぶらさがり、その数の多さによって、影響力が正比例して増していく。それはあたかも、資本の高さが、政治への影響力を持つのと似たような構図だ。だが、理屈は、それら影響力とは独立して、妥当性を保っている。数はある種の暴力だ。振りかざせば、剣となって、人を傷つけ、虐げ得る。同時に、ほかの暴力から、虐げられている人々を守ることもできるだろう。だからといって、剣を振るった事実は変わらない。剣を振るうことは正しいことなのか。キミはやはり、時と場合によるだろうと言うはずだ。だがそれは、善人と呼ばれた者ならば、悪を働いてもよい、という危うげな理屈を肯定しはしないだろうか。抵抗権というものがある。権力に対する抵抗を、国民はすることができる。だが同時に、それを揮った側の者たちが、権力そのものを保持し、誰かしらを虐げる側に回らない保障はどこにもない。剣を手にした者は、それを振るったときに、その後に剣を置き、ただの一介の人に戻ろうとする努力をそそがねばならない。いちど手にした権力を手放し、許容された罪をそそがなければならないのだ。許容されようと、罪は罪だ。じぶんが振るった剣により傷ついた者がいる。その事実からは目を逸らさないほうが好ましいのではないか。じぶんが人であるために。より人間らしくあるために。



2886:【天秤の支点はどこ?】

悪人は剣を振るってはダメだが、善人なら剣を振るってよい、との理屈は、破滅の道にまっしぐらに思えるが、いかがだろう(せめて、本当はダメだけど、一時的にはしょうがないよね、くらいの理屈は欲しいところだ。法律とは、国民がみなで許容した暴力だ、としても一つの解釈として妥当なのではないか。ある一定の条件下においては、他者の自由を損なえる、という意味で、暴力でないと否定するほうがむつかしく思える)。



2887:【多数であるだけで帯びるもの】

数の暴力は基本的には使わないほうが好ましい。選挙や特定の条件下のもとでは許容されるが、本来であれば、たくさん支持を集めたからどうこう、というのは乱暴だ。信頼や信用の有無よりも、まずは理屈としてどうかを判断基準にしたほうが揉め事を増やさずに済むはずだ。同時に、理屈として妥当だとしても、それはほんの限られた範囲でのみ有効な渦みたいなもので、その場を離れれば、数々の例外に呑み込まれ、歪んでしまう儚さがある点は憶えておいて損はないだろう。数の暴力は効果的だが、それゆえに暴力である点を忘れないほうがのちのち、数の暴力を使われたときに、抗議する建前を保てるはずだ。使うにしても、暴力を行使している、という自覚は忘れないようにしたほうがよいのではないか、と思うしだいだ(つまり、少数派の意見を排除しかねない懸念がつねにある点を考慮し、じぶんが排除する側に回っている点を忘れないでほしい、という願望です)。



2888:【非対称】

頭のよいはずのひとたちとしゃべっても、こちらは相手の言っていることがなんとなく解るのに、こちらの言うことはほとんど通じていない、ということがたびたびあって、よほどいくひしさんがアホなのだなぁ、と思うのだけれど、たぶんしゃべるのが苦手なだけだ。あとになってじぶんの言動を振り返っても、それじゃあ伝わらんだろう、と思うのだよね。



2889:【差別をするな、と嘯く差別主義者たち】

ホームレスに限らず、いわゆる社会的弱者とされている者たちに関して何かしら言及をすると、いまは割と批判の声が向けられやすいようだ。個人には誰にでも批判の自由があるので、批判をすることそのものに関してはどうこう思わないが、いっぽうで、社会的弱者を扱うのだから書き方に気をつけろ、手厚く配慮をしろ、そうでなければそうしたテキストを高く評価するな、というのは違うような気がする。むしろどちらかと言えば、そうした声が、差別感情や偏見をあべこべに強化しているように感じる。じっさい強化されるだろう。なぜなら、そうして気軽に社会的弱者とされる者たちに言及できないことで、触れてはならないものとして、社会的弱者と評価される者たちの属性が再定義されてしまうからだ。ホームレスのひとたちとじっさいに触れあいそれを文章に興した人と、とくに何もせずにそうした文章を批判だけしている人とでは、どちらがホームレスに対して差別感情を抱いている、と言えるだろう。差別の感情を露わにしているだろう。どうしてホームレスの生活をおもしろおかしく叙述した文章が批判の的に晒され、ホームレスの生活に目を向けずに、触れずにきた者たちが、まるでじぶんたちはホームレスへの差別感情などないかのように批判の言葉を投げつけられるのだろう(断るまでもなく、批判の言葉を投じる者たちの中にはホームレスとされる者たちと交流のある人物もあるだろう)。もちろんどんな人物であろうと批判の自由はある。専門家でなければ批判してはいけない、なんてことはない。だが、文章から差別感情を見出せるのは、そこに描かれた人物たちが差別対象だと認識している者だけだ、ということは知っておいて損はないはずだ。牛や豚の死肉を焼いて食べると美味しい、という文章を、情緒豊かに叙述したとしてもそれは差別とは見做されない。だが、そこには家畜と人間とのあいだに差別の構図が横たわっている。現代社会でその構図が差別と見做されていないだけのことである。本来であれば、ホームレスであろうと家持ちであろうと、個人の幸福を追求していられる生活の余裕を、社会が保障していけるのが理想であるはずだ。ホームレスだからわるいのではない。ホームレスだと長期間にわたって個人の幸福を追求しつづけられない環境が問題なのだ。ホームレスだから、問題なのではない。そこをはき違えないことである。そうでなければ、ホームレスへの差別を問題視している者たちが、ホームレスへの差別を煽る方向に働きかけない。これはホームレスに限らず、あらゆる社会的弱者とされている者たちへの差別に根差した問題である。社会的弱者だからいけないのではない。そして、社会的弱者を、弱者にしているのは、その他大勢であり、社会のシステムだということを度外視しては議論は空転し、ねじれ、差別の色合いを変えながら悲劇を繰り返していくこととなる。繰り返すが、社会的弱者とされる者たちを、弱者にしているのは、弱者とされる者たち自身ではない(奴隷を奴隷にしたのは奴隷自身ではないのと同じ理屈だ)。そこをはき違えないほうがよろしいように意見を述べて、久方ぶりの「いくひ誌。」とさせていただこう。(ちなみに、2020年11月17日現在、インターネット上で俎上に載せられている「ホームレスを扱ったテキスト」を読んだ所感を記しておく。主として二点だ。一つは、おそらく取材対象であるホームレスと評される人物たちは、件のテキストを読んでも不快に思うことはないだろう、という点が一つ――憶測なのでこれはじっさいに読んでもらわねば判断つかない旨は断っておく。それから、書き手に対しては、これはホームレスではなく、飽くまでホームレスという属性を持った個人との触れあいだという目線で書いたほうが読者には好ましく映っただろう、点だ。ホームレスという人間はいない。ホームレスという属性を持った個人がいるだけである。そこを度外視して、ホームレスと個人をイコールで結びつけ、人種化してしまった点に、批判の余地があるように感じた。が、目くじらを立てるほどのことではない、というのがいくひしさんの所感である。問題だと批判する物書きがいるならば、ぜひともホームレスの属性を持った人物が主人公の小説をつくってほしいと望むものだ。また、賞を与えたのが問題だ、とする意見も見られるが、賞にいったいどんな幻想を重ね視ているのだろう。メディアの責任、というが、そもそもメディアが責任を取ったためしがあったのか、と問いたい。家を持たぬ者はきょうも寒空の下で、寝ずに晩を明かしている。寝ると死ぬからだ。店が開くまで、地面に座ることもなく歩きつづける。批判をするにしても、ほかにもっと優先して投げかけるところがあるはずだ。この機にそちらのほうにもよくよく目を向けてほしい。いくひしさんは目を向けるようにします。しかしそこからさき、行動に移すためには考えなければならないことが多すぎる。一時の善意で、肉まんを施すことは果たしてよいことなのか。その場の思い付きで毛布を与えることは侮蔑になるのではないか。何をすれば助けになるのかが分からないし、当人が助けを求めているのかも、傍から見ているだけでは判らない。それは、ホームレスだから、ではない。誰もが他者と隔たっている。手を伸ばせば届きあう距離で、何もせずに、知ろうともせず、或いはその知ろうとする興味関心を、差別だとあげつらいながら)



2890:【2020/11/25】

現在における所感。感染症対策として有効なのは、人混みに行かないことと遠距離移動をしないことの二点が最も効果があり、そのつぎにマスクや手洗いの徹底だろう。だが現状、マスクや手洗いをしているからだいじょうぶだと言って、人混みや遠距離移動を行う者が後を絶たない。非常事態宣言のあった時期以前の行動に多くの者が戻ろうとしている。リスクは確率の問題だ。マスクをすることで得られる予防と、人混みに出向かないことで得られる予防とでは、リスク回避の確率が桁違いだと想像できる。マスクの生地の違いで生じる感染リスクの差よりも、人混みに出向かないこととマスクをすることのあいだの差のほうが遥かに大きいはずだ。原子と分子とでは、原子のほうがちいさいが、原子と石ころでは、大きさの桁や観念そのものが違ってくる。マスクをするしないよりも、人混みに出向くか出向かないかのほうが、感染リスクの増減に大きく作用する。優先順位があべこべゆえ、社会全体の行動様式そのものを現状に適応していくように変えていこうとしなければ、たとえワクチンが普及しようが同じことの繰り返しが起こるだろう。もはや人口過密型の都市設計と、遠距離移動型のグローバル化は、時代にそぐわないと言えそうだ。経済競争をしている場合ではない。その余裕はない。真の意味でのグローバル化に向けて舵を取ってほしいと望むものだ。



2891:【構造を知ることの利】

平和教育や反戦教育をする場合、多くは二つの枠組みを使う。一つは戦争の悲惨さを説く場合、もう一つは、命の尊さを説く場合である。しかしここにさらにもう一つの選択肢を加えてもよいと私は考える。それは戦争をしたがる者の心理を描くことだ。戦争は絶対悪ではない。絶対悪ではないからこそ人類は繰り返し戦争という失態を犯した。戦争をしようとしてする者はいない。多くは、戦争には反対だ、と言いながら戦争に発展してしまうのだ。気づくと、戦争と呼ばれるものに化けている。あとからみて、ああこれが戦争だったのか、と気づく場合が大半だ。戦争だと判っていながら止められないこともすくなくないだろう。戦争は、ときに肯定され得る。だからこそ、なぜ肯定されてしまうのか、その過程を、心理を描くことで、同じ状況に立たされたときにこのままではいけないとの自制を働かせられる人間を育める。暴力はいけない、と訴えるだけでは足りない。なぜ人は暴力をふるってしまうのか、その背景に思いを馳せ、現象を現象として読み解かねばならない。暴力はいけないと口で言う者が、その手で暴力をふるっているなんてことは珍しくはない。暴力はいけなくはない。ゆえに危ういのだ。戦争もまた然りである。



2892:【膨張にも時差がある?】

宇宙の初期に関しての疑問がある。何秒後に宇宙がどのくらい膨張し、何万年、何億年後にどうなった、といった記述を見かけることがある。宇宙は最初、素粒子レベルの大きさの中に全宇宙の質量(エネルギィ)が納まっていたと考えられている。だとすれば、膨張しはじめたときは必然、密度の揺らぎがあったはずだ。段々畑のように中心から遠のくほど薄くなっていったはずなのだ。ならば、一秒後ですら、見る場所によっては数億年の差異があってふしぎではない。一般相対性理論によれば、重力が高ければ時間は遅く流れ、低ければ速く流れる。宇宙がより小さかったころほど、膨張したあとの宇宙と比べて時間の流れは遅く流れていたと想像できる。つまり、一秒後にどうなっていた、と考えるときには、宇宙初期の場合であればあるほど、どの宇宙から見たときの時間かを定めなければ、空虚な、定量的でないあいまいな尺度と解釈しなければならない懸念が生じる。繰り返しになるが、宇宙初期において、たとえ一秒であろうとも、そこでは、一秒後と一秒前とのあいだに、必ずしも一秒の差があるとは限らず、観測地点によっては、数億年の遅延が生じてふしぎではない。



2893:【価値観の変容は目に見えない】

みなが洞穴のなかで暮らさざるを得ない時代にあって、これまでの日常にあった自由は制限され、否応なく、いまの日常を基準とした自由が再定義される。それは言い換えれば、制限されて当然の縛りが社会に蔓延することの裏返しでもある。いまの生活が基準となった世代は、これまでの傍若無人な自由を追い求める世代とは大きく異なった倫理観を備えるだろう。些細な個人の自由への欲求が社会を大きく揺るがすことを体感として、無意識のうちから、恐怖する世代だ。そしてそうした自由を追い求める個人を許容できないとする価値観を育みつつあるのではないか。同調圧力の時代は加速するのではないか、との懸念を覚えるが、かといってこれまでの(利己的な)自由への渇望の時代が正しかったとも思えない。ちょうどよい塩梅を探るよい機会として、なんとかよりより社会、よりよい倫理観、考える力を個々人が備えた未来を追い求めていきたいものである。それは社会のためではない。じぶんのためである。しかしこれもまた、何かしらの腫瘍を抱え込んでいるのだろう。自覚できないことが口惜しい。



2894:【埋もれる素子】

大きな流れのなかには逆行したり、静止していたりと、流れに従わない成分も存在する。しかし多くは、大きな流れに埋もれ、総合して存在しないように振舞う。これは時空や流行といった、あらゆる現象に共通の原理に思われる。存在しないように観測されるだけであり、真実存在しないわけではないのだろう。埋もれた現象を発掘するには、大きな流れをいったんどかしたり、打ち消したりする手法が有効だ。そのためには、大きな流れを制御できるくらいの技術やエネルギィがいる。工夫がいる。人間社会の問題にしろ、物理現象にしろこれは変わらない。大きな流ればかりに目を留めるのならば、そも、大きな流れを制御しようとする発想すら必要でない。埋もれた成分、流れ、存在に目を留めようとするからこそ、大き流れに流されないようにしようとする意思が芽生える。そうでなければただ大きな流れに流されていれば済む道理だ。そのほうが楽でもある。だが、それだけでは世界を、真理を、垣間見る真似はできないのだ。



2895:【余白の再利用】

他者の創作物を素材に使うには抵抗がある。物をつくるよろこびやたのしみを知る創作者であれば、他者の創作物を利用することには大なり小なり罪悪感がつきまとう。そうでなくとも、すべてがすべてじぶんの創作物でないことに懊悩するものだ。そうした葛藤は、創作活動を行ううえである種の抵抗となり得る。ブレーキを知らず知らずのうちにかけてしまう。そうした抵抗を払拭するには、じぶんの創作物の純度を高めていくしかない。これには二通りの手法がある。一つは、より細かく分解し、無数のブロックにして利用する手法だ。他者からは何を素材にしたかが分からないくらいに細かくすれば、完成品はほとんど別物となる。だが、じぶんに嘘はつけない。何に影響され、何を素材にしたのかをじぶんだけは知ることとなる。もう一つは、じぶんの創作物を素材にしてしまうことだ。たとえ最初の一品が、何らかの模倣であろうと、それを素材にべつの作品をつくってしまえば、割合として、元の素材からは遠ざかる。これを繰り返していけば、おのずとオリジナルの成分は濃くなっていく道理である。ゆえに、多作であることは、オリジナルを生みだすうえで優位に働くと言える。他者の作品を素材にするには抵抗があるが、じぶんの作品であればいくらでも利用できる。ひとつの作品をつくるなかで、ボツにした部品も溜まっていく。そうした部品を繋ぎに使えば、より純度の高い新しい創作物になる確率があがる。ゆえに、まずはつくることが優先される。オリジナルの純度を高めたくば、まずはつくることである。そのうえで、これまでつくらなかった構造や組み合わせを有した作品を手掛けることが、オリジナルを高める術として有効だと考えるしだいである。



2896:【底辺を歩く蟻】

世界で一番不幸になりたい。誤解のある言い方になってしまったかもしれないが、私が世界で一番不幸だと言えるくらいに社会には豊かになってほしいということだ。いまの私が世界で一番不幸だと言えるくらいに、みなにはしあわせになってほしい。だからこそ私は誰よりも幸せになるべく日々を生きるし、私がしあわせになればなるほど、世界の最底最悪の基準がどんどんあがっていく。おそらく現在の私は、過去の王様よりも豊かな環境に生きているし、幸せな日々を送っている。それなのに不幸だと嘆き、しあわせになりたいと悩んだりする。それでいいと思う。世界で一番しあわせに貪欲で、世界一不幸でありたい。そういう社会を築いてけたらよいのにな。



2897:【こぼれおちゆくもの】

いまできること、いま上達していること、いま持っているもの、いま手に入れようとしているもの、それらは総じてあと数十年もすれば手からこぼれおちていくものばかりだ。何一つとして残らない。しかし、残るものよりも、残らないが、いま手にしなければもう手に入らないもの、いま欲しなければ二度と手にできなくなるものほど、輝いて映る。命がそうであるのと同じように。それとも、命そのものを欲するがごとく。



2898:【感謝は得難い】

ひとの役に立ちたいという欲求と、感謝されたいとの欲求をごっちゃにしている人が多すぎやしないだろうか。ひとの役に立つのはそれほどむつかしくない。そこらの道端のゴミ掃除でもすればいい。通行人の邪魔にならないように人通りのすくない明け方にするのがよいだろう。ほかにもひとの役に立つことなどいくらでもある。ひとのやりたがらないことをすればいい。迷惑になることを、ではない。感謝されることを、でもないのだ。百年後の未来のためにいまできることをしておく、未来に備えておく、というのも十二分に人の役に立つことである。



2899:【点描よりも荒く】

色を置いてくるタイプの絵が好き。



2900:【支柱よりも、それによりできる空間のほうが本質であることもある】

過去に起きた事象と、なぜ起きたのか、の因果関係は、必ずしも正しく描写できるとは限らない。おそらくそうだろう、という観測は可能だろうが、おおよそ多くの細かな因果が取りこぼされており、それら細かな因果を度外視している以上は、正しい因果とは言えない。こうなったからこうなった、と事象の経緯を辿ることは無駄ではなく、ある一定の枠組みで概要としての因果関係と捉えることは間違ってはいないが、正しくもない。過去を正しく捉えることは原理的にできず、それは現実にしろ同様である。より正しい解釈を捻りだす以外に、人間にできることはないと言ってよい。むろんこの主張すら、より正しい解釈でしかなく、完璧に正しいということはあり得ないわけであるが。




※日々、最弱ばかりを記録する。



2901:【意識の輪郭】

円を意識できるようになると球体を意識できるようになる。球体を意識できるようになると、じぶんの影を意識できるようになり、空気のうねりや、じぶんをとりまく流れを捉えらえようとする意思の芽生える余地が生じる。じぶんを俯瞰するための目はその球面上に生じるし、円周をどこまでも延ばすことも可能だ。



2902:【衰えを自覚できるだけマシ】

成長具合というか、知識や技術の物覚えがにぶくなっていくにつれて、衰える速度も、若いころに比べると遅くなっている気がするが、おそらくとっくに衰えきっているために、これ以上衰える余地がなくなっているだけの可能性もある。つまりが錯覚だ。総合して衰えている。じぶんを見詰める目まで衰えているので、すこしは成長しているのだ、前よりもマシなのだ、と思い込んでしまうのだろう。若いころは傲慢だったが、いまでは傲慢であることにも気づけない。歳をとるとは老いることなり。老いるとはしかし、劣ることなりや。



2903:【灯台下暗し】

全然上達しないなぁ、と思っていても、予想外の方向で新しい技術が身についていたり、道に踏み入れていたことを、全然上達しないなぁと思いながらしていたときから十年後くらいにやっと自覚できるというか、じぶんで認められるようになる。かといってやっぱり現状は、全然上達しないなぁ、上手くいかないなぁ、と理想を見据えて、ぼやいている。



2904:【ちいさな卵、それはうずら】

いろいろなことができるようになりたいし、いろいろなことを知りたいと思っているけれど、それと同じかそれ以上に、したくないことをしないでいられるようになりたいし、したいことだけしていたいと思っている。ずぼら。



2905:【継続することでしか分からないこともある】

もうこれ以上、上手くなることはないんだ、新しい技を覚えることはできないんだ、もうこれが限界なんだ、だめだー、と思いながらも、なんだかんだつづけていると、やっぱり新しい技はなかなか覚えないし、同じことの繰り返ししかしてなくて飽きてくるけれど、それはそれとして、まあいっか、こんなもんだな、と現状を受け入れられるようになっていく。自己肯定とは違う。肯定なんかできないし、じぶんはどうしてこんなに情けないのだろう、弱いのだろう、未熟なのだろう、と物足りなさを感じながらも、まあこれがじぶんだしな、といますぐにはどうしようもないことを認められるようになる。と思ったけどそうでもないかも。ないな。



2906:【ショートであろうとケーキは美味い】

ショートショートの作り方において。大きく分けるとショートショートは三つに分類できる。点の数によって、一、二、三とする。まずは一だ。これは最もシンプルな構成で、ただ物語をスタートすればよい。最初の一点のみ経由すればよく、コーヒーを飲むでも、旅にでるでも、何かをはじめ、叙述してしまえば、それがショートショートとなる。どこで終わるかは関係ない。ただスタートし、好きなところで筆を擱けばよい。二つ目は、スタートとゴールの二つに点を打ち、そこを通るように物語を転がしていく手法だ。これはゴールが設定されている分、物語を任意のフレームに押し込めることができる。額縁があったほうが、そこから敢えて絵をはみださせることで逆説的に立体感や深淵さを演出可能だ。三つ目は、スタートとゴールのあいだに、捻転する点を打つ手法だ。どんでん返しや、オチのある物語構成をつくりやすい。エンタテインメントを標ぼうするならば意識しておいて損はないつくり方だ。ただし、点の数に限らず、小説は、その物語をおもしろく叙述したものがおもしろくなる。点の数が一つだろうと、三つだろうと、オチがあろうとなかろうと、おもしろいものはおもしろく、おもしろくないものはおもしろくない。そしてそのおもしろさを規定する読者は、それこそその小説を読解した者の数いる。あなたにとっておもしろくないものがたりが、ほかの誰かにとってはおもしろくなりうる。違う言い方をするならば、ある程度書き慣れてくると、点を三つ打っておいたほうがショートショートはつくりやすい。型の組み合わせでしかないからだ。そこにきて、点を一つしか打たない小説で極上の物語を編めたならば、それはどんな物語でもおもしろくできる書き手だとの傍証となりうる。各々、まずはつくってみることである。つくってしまえば、どうとでもなる。



2907:【虚構への旅行】

書きたいことも、ネタのストックもありません。常に、どうしよどうしよ、と思いながら、なんもないな、なんもないな、と焦りながら、でもなんか楽しいことをしたいな、と思ってじぶんの周りの世界に目を配ります。世界には見えているところと、見えていないところがあり、見えていないところに目を、奥へ奥へと、或いは深く、深く、潜らせます。とくに小説をつくることそのものは楽しくはないのですが、ほんのときどき真実それを体験しているような没入感を覚えます。それは映画を観るよりもずっとずっと現実味があって、旅行にでかけるよりも新たな出会いと刺激に溢れています。小説をつくることそのものよりも私は、この体感を得るために日々、ああでもないこうでもない、と言葉と戯れ、ときに打ちのめされているのです。



2908:【BGMの是非】

創作中に音楽を聴くときと聴かないときがあります。場合によりけりで、聴いているとものすごく物語のなかに入り込めるとき、却って深く潜れなくなるときがあります。物語の雰囲気に合う曲だと体感ではよい集中状態に入れるようですが、物語は基本的には起伏がありますので、ある部分ではちょうどよくとも、ほかの部分ではちょっと、ということもでてきます。また、音楽のちからを借りて深く物語世界に入り込むことが直結して物語により合致した言葉の並びに繋がるわけではないようです。むしろどちらかと言えば、読者さんは作者の聴いている音楽を知らない状態で物語を読解するわけですから、何かが欠けたような読み味になってしまう懸念はつねにつきまとうように思います。ただ、それは音楽に限らないことですので、作者の想定している世界、体感している世界を読者さんはどうあっても読解することは適いません。程度の問題として、そういう考えもあるだろうな、程度に参考にしてくださるとうれしく思います(もちろん参考にしてくださらなくとも構いません)。



2909:【成長と確率】

成長とは確率を操作できるようになることである。百回のうち一回しか成功しなかったことを鍛錬ののちに百回のうち十回、二十回、ついには十割成功できるようになる。十割といかずとも、一%の成功率を、それ以上にすること。これが成長の内訳である。ゆえに、最初から得意なことを何十年もつづけていくよりかは、成功率の低いあまり得意でないもののうちで、これならば長くつづけても苦にならないだろう、というものの成長を望んだほうが長い目で見れば楽しい思いをしやすくなるだろう。成長する余地が多分に残されているからだ。確率を伸ばす余白がある。成長することを楽しめる者はつよい。言い換えればそれは、上手くいかないことを長く楽しめるということだからだ。成功する確率が上昇するとき、そこには勢いのような余分な加速度が生じる。それが助走の役割を果たし、本来ならば十割で止まるところを、壁を突破するように予想外の何かへと行き当あることがある。いつでも起こることではないが、成長しつづける者にときおり落ちてくる棚ぼたと言える。僥倖を掴み、さらなる余白へと突き進めたら御の字である。



2910:【痛みだけは無視できる】

小説をつくるのが楽しいときは、じっさいにじぶんが物語世界に降り立って旅をしている。そういう気分になるのではなく、真実に、現実と同等の質感を以って体験している。裏から言えば現実とはそれくらい曖昧な、想像と妄想と虚構のどれともハッキリと区別のつけられないあやふやそのものと言えるが、痛みだけは例外であり、現実とはすなわち痛みを無視できない虚構と言えそうだ。




※日々、脱皮しつづけて虚無になる。



2911:【じぶんでも何言ってるか意味わからん】

民族や国で他者を区別することの意味はこれからさきどんどんなくなっていく、と妄想できる。反比例して、思想でひとを判断するような真似がまかりとおるのではないか、との懸念があるが、これの是非もまた慎重に見極めていきたいところである。というのも、人は一つの思想に染まりきることはできないからだ。つねに人は、いくつかの思想を重層して、思考の幅を限定している。名前のついていない思想もあるだろうし、知らずに任意の似た思想に浸かっていることもあるだろう。そして個人というものは、いくつも層を積み重ねたミルフィーユに通した一本の管のようなものであり、それを引き上げて現れる紋様はじつに多種多様である。似たような思想の組み合わせであろうとも、貫く位置や、層の重ねる順番(すなわち優先順位)や、層の厚さによって、いともたやすく模様は変化する。どの個人の管を比べても、まったく同じにはならない。なりようがない。それほど、思想で他者を区別することはむつかしく、区別する意味合いもまた薄いと言える。とはいえ、遠目で眺めて見れば似ている紋様もあるだろう。そうした紋様で区別すること(或いは同類項を結び付けること)がまったくの無意味ではない点には留意されたい。



2912:【選択肢の不平等】

性的指向に関する問題において、「社会のなかに漫然と漂う偏見への対処」と「個々人の性愛の差異をどう扱うか、といった当人たちの在り方」は、別々に考えたほうがよいだろう。たとえば同性愛の場合、人口の大多数を占める異性愛者を基準とした社会がかねてより築かれてきた。それによってもたらされる差別や偏見が強固に根強く社会を漂っているが、それを是正していくことと、ジェンダーフリーを基盤とした社会構造を構築していくことは必ずしもイコールとはならない。まず以って、同性愛者にしろ、異性愛者にしろ、そうした価値感は絶対ではないはずだ。異性愛者だからといって同性を愛せないわけではないだろうし、同性愛者だからといって異性を愛せないわけではないだろう。ジェンダーの差異においては、先天的と後天的の双方がまじりあって、個を個と足らしめている。生まれつきの同性愛者だろうと、異性愛者だろうと、生まれつきの個性に囚われる必然性はなく、むろん変わろうと努めなければならないというわけでもない。好きなように好きな相手を好けばよい。要するに、いま妨げられているそうした自由な指向や嗜好の変化を妨げるような流れをどのように変えていくかの問題と言える。人間は人間を愛するのであって、性別を愛するわけではない(もちろん、性別を特別に愛する、という指向性を持った個がいてもよいし、そうした嗜好もまた尊重されてしかるべきだ。しかし、そうした嗜好によって好悪の基準が築かれようと、そのさきでさらに相手とのあいだで愛を育むには、やはり人間としての魅力が大きく作用するものではなかろうか。きっかけがどうであれ、けっきょくのところ人は人を愛するのである。きっかけは何であっても構わない)。単純な理屈のはずだ。今現在、そうした単純な理屈を否定され、自由を侵害されている者たちがいる。問題なのはただのその一点である。では、その問題を取り除くためにすべきことはなにか。どういう社会を目指すのかを明らかにし、そのうえで、目指すべき価値観を基準としたメッセージを暗黙の了解にまで昇華させることではないのか。常識にまで磨きあげることではないのか。同性愛も異性愛も変わらない。変わらないとする価値観を構築していくことこそが、ジェンダー問題の在り方を是正する最も合理的な解法であり、不自由からの解放なのではないだろうか。



2913:【2021/02/18*脱成長論についての所感】

脱成長論における「生産性の向上を目指す経済は限界を迎えている」との主張はそのとおりだと思う。異論はない。だがそのうえでどうすべきか、と挙げられたいくつかの指摘にはいささか反論の余地があるように思われる。まず前提として、脱成長論では、資本主義の根本的瑕疵が、生産性とそれに伴う市場独占にあると指摘していた。タガの外れた大量生産大量消費と、貨幣価値を高めるための資源寡占による稀少性の向上が資本主義の問題点であるそうだ。言い換えれば、資本追及の過程で生産性が歯止めなく求めつづけられ市場が飽和し、それによる弊害として、市場の寡占を進めようと、生産性とは真逆の稀少性を資本家たちが恣意的に引き起こすことに資本主義の問題がある、と述べている。つまり、過剰供給と、それによる経済の鈍化を避けるために、本来はみなへと平等に安価に提供できる商品を、敢えて供給制限し、稀少性を増すことで利益を上げようとする流れを構築する勢力が生まれる。そうした勢力は、資本を多く持った資本家や一部の特権階級と呼ばれる権力者によって舵をとられ、世の中の仕組みそのものがある種の独裁下におかれる。脱成長論ではそのように資本主義の欠点を指弾している。そのうえで、そうした事態を避けるために、自然資源を人類の共有財産とすべきだ、と主張している。コモンという概念がそれにあたる。だが、共有財産とするにしても現段階ですでに共有しきる資源が足りない現状があるのではないか、との視点が吟味されていない。コモンにするにしても、そこにはすでに稀少性という、資本主義の悪果の種が組み込まれている以上、それら悪果を芽吹かせないためには、今以上の科学的技術の向上が不可欠だ。脱成長論でも、科学技術の発展は不可欠だと述べている。それに関連して、同時に、加速主義を批判してもいる。科学技術を追い求めるうえで、資本を必要とし、そのために産業が急激に活発化し、資本主義の悪果が肥えていくのではないか、との批判だ。発展を急ぐあまりに、却って環境破壊を促進してしまうのではないか、との懸念がつよまるのである。これに関して反論はない。だが、科学技術の発展には、資本主義の仕組みは欠かせない(競争原理と市場原理が、技術の応用を促し、比較的すみやかな技術の社会普及を実現させるためである)。ここで私論と脱成長論との最も大きな相違点を述べておく。現在全世界の社会に顕現している問題は、資本主義そのものの瑕疵というよりも、人間に備わった脆弱性の創発によって起きているのではないか、との疑念である。システムの問題よりも、個々人の人間にあるそもそもの性質によって、問題が大きく顕現しているのではないか、と思われてならない。つまり、資本主義であろうと共産主義であろうと、そもそもが人間が大勢集まり、共同体を築けば、多かれ少なかれ生じる問題というものがあり、それは、現在ある種々の仕組みでは是正しきれないのである。なぜか。何が問題かを未だ誰も論理立てて、体系づけていないからである。見えていないからだ。指摘できていないからである。たとえば脱成長論では閉鎖的技術、という概念を用いて、科学技術の発展の方向性を示している。閉鎖的な技術ではなく、開放的な技術を目指すべきだ、と述べているが、そもそもインフラのような技術は閉鎖的にならざるを得ない。開放的にするにしても、どんな組織であれ、隠ぺい体質は生じるものだ。それは資本主義とは別の悪因がある。人間にはそもそも、じぶんに都合のわるい環境を築きたくない、とする性質がある。もっと言えば、人間には生存本能があり、その派生として競争本能が備わっている。資本主義の問題も、共産主義の問題も、根っこはこの競争本能であり、そこから創発する、社会全体の(或いはコミュニティ全体に漂う)競争原理なのである。それを、闘争原理と言い換えてもよい。もちろんそれが本能から派生している以上、生き残るためには不可欠な要素だ。完全に失くしてしまうことはできない。しかし人間が増え、共同体が複雑かつ広域に展開されると、そうした本来は生存や発展に欠かせない性質が創発を起こし、予期せぬ性質を顕現させる。それはときにエポックメイキングとして人類の発展に与し、またあるときは破滅へと転がす契機と化す(民主運動とファシズムは目的こそ異なるが、生じている事象そのものの構図に大差はない)。たとえば資本主義を放棄し、べつの仕組みを築いたところで、資本主義のような仕組みは舞台を移すだけで似たような悪果を振りまくだろう。現在ではそれは評価経済として、場所を物理市場ではなく、インターネット内に舞台を移し、カタチなき価値によるバブルを膨らませている。単なる一個人が、大勢からの評価を得るだけで、権力者のような影響力を有する。原理的にこれは資本主義の暴走と似た構造を有している。ほとんどと言わずして同じだ。貨幣にあった役割が他者からの評価に代わっただけである。そして、他者からの承認は、これはどんなシステムのうえでもついてまわる人類に備わった基本的な報酬源と言える。資本主義をより好ましいカタチに変えていくことは無意味ではなく、必要すらある改善となるが、同時にそれだけでは根本的な解決には至らない。成長指向を脱したところで何も解決はしない。むしろ同じ轍を踏むことになるだけだ。問題を先延ばしにし、闘争の舞台を変えているにすぎない。本質的な問題は、人間に備わった生存本能にあり、そこから派生する競争本能にあると言える。我々現代人は、他者との競争からこそ解放され、もっと自由に生きていく道を模索していくほうが好ましい社会を築けるのではないか。むろん、資本主義がそうした人間に備わった根源的な競争本能を刺激し、増幅している面は無視できない。だからといって、では脱成長すれば解決するのか、共産主義に移行すれば解決するのか、といった簡単な問題ではない点は指摘しておきたい。また、脱成長論では考えられているコモンが地球上に限られているが、すでに人類はこの地球上だけでは繁栄しつづけることは不可能だとの予測が示されているのではないか。地球を離れ、ほかの星での暮らしも視野にいれるとすれば、技術の追求を加速させていく考え方は、捨てるには惜しい可能性を秘めていると言えそうだ。ブレーキを踏み磨くべきは、技術の革新ではなく、それら技術をどのように運営していくか、という理念のほうだ。競争とは無縁の、理念を、我々はいまこそ生みだし、つくり、磨いていかねばならないのではないだろうか。(競争するのがいけない、と言っているのではない点には留意されたい)



2914:【選択肢を増やす工夫】

誤った知識による誤った判断の積み重ねによって破滅に向かって見える人物に対してしてあげられる支援は存外にすくない(たとえばカルト、たとえば疑似科学、たとえば陰謀論など)。正しい情報や知識を自力で掴み取れるように環境を整えてあげる以外になく、それは情報の遮断による術ではなく、すべからく施しによる情報の選択肢の増加による作用であるべきだ。情報を制限するのは洗脳である。あくまで本人に選ばせる。情報を拒む自由を残す。その末に破滅したならば、そこはしょうがないと呑みこむよりない。本人が選んだ自滅ならば、それはそれで至福の一つのかたちだろう、と認めるよりない。ただし、できうる限り、最後までよりよい環境を、より多くの選択肢に囲まれた環境を築こうとする意思は持っていたいものである。それを行動に移せたら言うことがない。つまり、言い訳をする余地をじぶんに与えずに済む。よくもわるくも最善を尽くすとはそういうことなのだろう。



2915:【いっぱい失敗したい欲】

失敗する経験はあったほうがよい。なにより先人は、じぶんより未熟な者たちから失敗する余地を奪ってはならないのではないか。言うまでもなく成果を掠め取る所業もまた避けるべき事項だが、それよりも、失敗する機会を奪うほうが、のちのちに大きな損失を与えてしまい兼ねない懸念については常日頃考え抜いていきたいものである(言を俟つことなく、取り返しのつかない失敗は、あらかじめ予防線を張っておくくらいの保険は先人として施しておきたい挙措である)。



2916:【一番にもいろいろある】

じぶんのなかの好きという気持ちに優先順位をつけているひとがすくなくないようだ。じぶんのなかで一番好きと思えなければそれは好きではないと判断してしまうひともいれば、ほかのひとと比べて好きの気持ちが劣っていると感じるだけでその好きという気持ちを全否定してしまうひともいるようだ。好きという気持ちは、比較によってなされるものではない、と思うのだが、そうではないのだろうか。誰かを好ましく思う気持ちと、朝陽を浴びるのを心地よく思う気持ちと、お風呂に浸かる瞬間の、あぁ、という気持ちは、すべて好きという箱に入れても構わないはずだ。好きとは、状態ではなく、分類だ。その箱の大きさを小さくしてしまえば、中に入るモノは限られる。箱の入り口の形を限定してしまえば、中に入る対象は滅多に現れなくなってしまう。そういう箱をつくってしまうのも一つだが、できるだけ大きな箱を用意しておいて、入るだけ入れてしまって、そのなかで新たに箱のなかに仕切りをつくればよいのではないだろうか。すべてのものごとをまずは好きに入れてしまうことだってできるはずだ。そのうえで細かな、限定的な枠組みをつくることもできると思うのだが、好きという気持ちは特別なもの、という固定観念があると、なかなかそれもむつかしいのかもしれない。



2917:【いまの一瞬、一瞬がだいじ】

衰えた技術を取り戻すことを指して、リハビリをする、と形容する文章を目にする機会がある。疑問なのだが、元の状態に戻ろうとすることはクリエイトとは相反するものなのではないか。怪我や病気を負った者や、アスリートがリハビリをするのは解る。本来の言葉の使用例として適切だ。しかし表現者におかれては、リハビリをしなくてはならない創作表現などあるのだろうか、と引っかかりを覚える。表現者や創作者におかれては、できるかできないか、或いは、つくるかつくらないか、しかないのではないか、との直感がある。つねにいまあるじぶんがつくるもの、生みだすもの、表現するものやこと、それらは刻一刻と変化し、ゆえに再現性はない。過去より現在の表現が優れている点はあるだろうし、その逆もあるだろう。しかしすべてにおいて凌駕していることはまずないと言ってよいのではないか。拙さに宿る魅力もあれば、衰えに宿る味もある。未熟であるころにしか編みだせない荒々しさもあれば、成熟しなければこなせない素朴さもあるだろう。そこはそのときどきで、そのときどきのじぶんにしか生みだせない表現や創作をしていくしかなく、それゆえに際限がなく、ことほどに遊びの余地のある分野はないと言えるのではないか。正解はない。極限はない。生みだし、編むじぶんとほかの世界との境界があるのみだ。あらゆる組み合わせ、ゆらぎ、紋様をとりそろえていこう。



2918:【2021/03/03*靴買った】

新しい靴を買ったが、足の甲の部分がメッシュの物はあまり好みではないことを失念しており、過去に繰り返した失敗を反復してしまった。失敗を活かせないのは反省ばかりをしているからだ。反省よりまずは対策である。



2919:【2021/03/04*じぶんがわからない】

本能を満たしたい欲を高めるために、敢えて飢餓状態になろうとする意思がある。反面、本能を満たしたあとにいったい何が湧き、残るのか、との疑念はつねにつきまとい、けっきょくのところ歩みつづけるために飢えておくのか、それとも満ち足りたいからこそ歩むのかは、ときどきと言わず反転しつづけており、いったい何をしたいのかがほとほと見失いがちな日々である。私は何がしたいのか。どう生きたいのか。或いは、何を最も避けたがっているのか。心地よく傷つき、或いは心地よく傷つけたいだけなのではないか、との疑念が日々刻々と濃さを増す。



2920:【2021/03/05*負担】

ここ半年、不調の原因の区別がつきにくくなったと感じる。新しい刺激を取り入れるようにしたからなのか、単なる日常の疲労なのか、の判断がなかなかつかない。いったん新しい刺激をやめてみれば判るが、まだはじめたばかりなのでもうすこし継続して様子をみたい。というよりも、要因がどうであれ、身体のほうで慣れてくれば収まるのだから、まずはつづけたほうがよいのだろう。ただし怪我をしないことと、体調を崩さないようにすることには注意しておきたいものである。




※日々、堕落しつづけ、加速する。



2921:【2021/03/06*靴不調】

体調不良だ。久方ぶりに自覚できるほどの風邪をひいた。寒気がすごい。一週間前にお腹の調子がわるかったが、おそらくそれが悪化したのだろう。靴を変えてからどうにも身体の調子がよろしくない。かかとの長い靴なのだが、ほんのすこしの微妙なズレが身体のなにかを狂わせているのではないか、と妄想したくもなる。靴の裏が滑ってしまうのもストレスに感じている。靴は常時、いくつかの組があるとよろしいのだが、贅沢なのだろう。買うだけの金銭的余裕もない。なるべく靴にはこだわっておきたいと改めて思った。



2922:【2021/03/07*無理をしない範囲で無理をしない】

市販の薬を飲んだからか、きのうよりかは体調はずっとよくなった。37.9度まで熱があがったが、薬のおかげですぐに下がった。きょうは一日寝ていることにするが、夜にはでかけることになるだろう。無理はしないが、無理をしてまで無理をしないようにすることはないのではないか、と屁理屈をこねて、しばし隙を見て遊んでしまうことにする。



2923:【2021/03/08*堰き止めたあとのこと】

眠すぎて、たくさん寝た。さいきんの関心事は、多様性の進んだ社会ではどこかで属性を均等に配置する処置を廃止しなければならなくなるのではないか、との疑念についてである。たとえば現在は、組織役員の男女の数を半々にしようとする運動が活発化している。なぜそうしなければならないかと言えば、組織の是正を行える上層部からまずは変わっていかなければ、その下部層に流れる男女平等の観念に偏りが生じてしまい、男女差別が助長されたままになる懸念があるからだろう。裏から言えば、男女差別を許容する流れがまずあり、その影響で、男女のあいだに歴然とした差が生じてしまい、それがさらなる差別構造を強化する流れを生みだしてしまうという悪循環がこれまでの社会にはあった。それを是正するためにはまず、流れを生みだしている上流において根本から流れを変えていけると好ましい。だが、是正が進んでいけば、社会における男女平等はある段階において達成されるか、或いはこれ以上是正しようもない、という極限に達すると予測できる。そうなった社会ではそもそも性別で人物評価を行う意味がなく、また男女差よりも個人差のほうがはるかに大きな社会となっており、それが当然だとする認識もまた人々のなかで築かれる。そうなったときに、かつての社会から踏襲された、男女の数を公平にすべし、との縛りはむしろ旧態然とした仕組みとして改善すべき悪因と指弾され兼ねない懸念についてはいまのうちから議論しておいて損はないのではないか。どうなれば、当人の資質のみで役職や職種を決められるのか。どういう社会になれば、男女平等を唱えずに済むようになるのか。いつまでも男女という性差に目を奪われ、何かしらの規範をつくるときの基準にすることは、男女平等の観点からやや的を外してしまうのではないか、との疑念は、これからさき、よくよく考え、その是非を見極めていきたいものである。だがすくなくとも現段階において、性差別は歴然と存在し、そして強者は強者に、弱者は弱者のままに、との構図を強化するちからとして社会に漫然と漂っている。まずはそうした流れを阻害し、新たな流れを構築しようとする工夫はあって然るべきではないか、との意見に異論を唱えるつもりはない。



2924:【2021/03/09*サボりたいだけ】

じぶんのことであるが、積み上げてきたものをいちど横に置き、新たに何かを積みあげはじめるいまは時期な気がしている。積みあげつづけながら新たにべつのことに挑戦する真似もむろんできなくはないが、どちらかと言えば、積みあげてきたものを熟成させる期間が必要なのではないか、との直感が働いている。敢えて放置して、錆びつかせるべきなのではないか。ときおりそうした方針をとることがあるが、すべての分野において放置しようとしたことはない。だがいまはその時期に差し掛かっているのではないか、との予感があるのだが、いまいちふんぎりがつかない。失敗したときにすべてを失う恐怖心が湧くからだ。だがこのまま中途半端に惰性でつづけるよりかは、一度区切りをつけ、時間を置く手法を取り入れるほうが好ましい未来に近づける気がする。予感でしかないが、試すだけの価値はある。もっと言えば、いまはずいぶんと狭い世界に身をやつしすぎているのではないか、との不安がある。どうにかしたほうがよい、との危機感、ともすれば焦りがあるのかもしれない。焦るときはすこし余裕を持ったほうがよい。そういう意味で、やはり時間を置く時期なのかもしれない。



2925:【2021/03/10*変化の速度を制御できたらよい】

人類社会における多様性と、生物多様性は必ずしも同じ視座では語れない。人間はコミュニケーションがとれるが、ほかの生物はそうもいかないためだ。たとえば外来種が増えると、自国の固有種が絶滅する危険性が増す。外来種を制限し、ときには駆逐する策が提案され、支持されることはそう珍しくはない。だがこれを人間社会に当てはめて考えてしまうと途端に差別主義の排他政策になる。難民を排除し、自国に固有の人種の繁栄を目指す。いわゆる保護主義であるが、生物多様性がそうなのだから、人類社会に当てはめても妥当だ、とするのは早計である。外来種がなぜ危険なのかと言えば、淘汰圧が極めて高いためだ。固有種を殲滅し、絶滅に瀕させてなおその勢力を衰えさせることがない。いくところまでいき、歯止めがかからない。これをむりくり人間社会に当てはめれば、侵略者のようなものである。けして難民ではない。侵略者であれば人間社会であっても防衛策を講じるのは妥当であろう。何もそれは固有の人種を繁栄させるためではない。優先するためではない。排他主義とは異なるのだ。ゆえにもし外来種であろうとも、淘汰圧が低いのであれば、これはむしろ生物多様性を増す方向に生態系を豊かにする。そもそもを言えば、どんな土地であろうとも、長い歴史のなかで外来種との交配が何度も繰り返され、現在の生態系が築かれている。人類も例外ではない。私もあなたも、様々な人種のDNAを有している。問題なのはしたがって、混ざり合うことそのものではなく、その速度である。淘汰される種があるか否か、多いか否か、どのくらいの速度で環境が変容してしまうのか。生物多様性を語る上ではまず、この視点から各種俎上に載る害悪とされるものへの対処の是非を論じずには、有意義な議論はむつかしいであろう。基本的なことであるが、これはほかのどのような社会問題であっても有効な前提条件となると言えそうだ(本当か?)。



2926:【2021/03/11*目的に合わない靴でした】

得意なことといえども、負荷のかかる状態で行えば、ぎこちなくなる。意識せずともできる所作ですら意識下におかれ、コントロールを余儀なくされるからだろう。しかし、いまいちど無意識の所作を意識の壇上に置き直し、どのようにそれを行っていたのかを見詰め直す時間はけして無駄にはならないように思うのだ。同時にそれを基本にしてしまうとこんどは堅苦しくぎこちない所作が身についてしまい、好ましくない影響が定着してしまう懸念があるため、あくまで一時的な訓練と位置づけ、常態化させないようにするのが利口なのではないか。靴を変えてからというものどうにも足が滑り、氷のうえに立っているようなおっかなびっくり感が抜けない。はやいところ新しい別の靴にしたいなぁ、との愚痴を漏らして本日の日記としておこう。今回の教訓としては、靴の裏はなるべく平らなものを選び(面積を増やして摩擦係数を増やしたい)、可能であれば軽くて頑丈な靴を選びたいものである。薄い靴や、素材がメッシュのもの、またスパイクのように床との接着面のすくない靴はじぶんには合わないようである。以前にも犯した失敗である分、いまいちど忘れないようにしておきたい。対策としては、失敗した靴を捨てずに手元に置いておくのがよろしいのではないか、と思う次第だ。



2927:【2021/03/12*まずは流れを整える】

他者への影響力を鑑みて発言の仕方を変えるのは、現状の社会に漂う漫然とした風潮のもとでは必要な自制と思われる。何のために必要かと言えば、発言の内容そのものではなく誰がそれを言うのかによって発言の是非や影響そのものが決定づけられるようなある種の権威主義やハロー効果を今以上に強化させないために、である。言論を内容の正当性や理屈の妥当性で判断すべきとする理屈がまだまだ社会には浸透していない。その人物の属性や社会的身分によって、その発言を支持するか否か、同意すべきか否かを、すくなくない人々が判断基準にしている。そうした流れをこれ以上強化させないためには、社会的身分の高い者や、他者への影響力を有した者は、自由に発言するのではなく、公共の福祉を鑑み、発言の内容の正当性や理屈の妥当性を担保しようとする姿勢を保ち、発言の内容によって他者に誤った行動をとらせないような工夫をしていくことが求められる。これは、社会的身分や他者への影響力で個人を判断することを肯定しているのではなく、個人を個人として見做し、そのうえで誰が言っているのかではなく、発言はその発言の内容そのもので判断するべし、との暗黙の了解を強化するための第一段階と言えよう。



2928:【2021/03/13*なぜ小さな影響は無視できるのか】

たとえば厚みのないピンポン玉のような生き物を想像してほしい。一次元を線とすると、二点間を転がる円(ピンポン玉)の描く直線がそこに住まう生命体の挙動と捉えることができる。二次元を面とすれば、面を縦横に移動するピンポン玉の筋や線のうごめきがそこに住まう生命体の挙動と捉えることができる。では三次元はどうか。三次元においては、立方体における六つの面に、それぞれ二次元生命体(厚みのないピンポン玉)が動いて見える。立方体を薄く輪切りにしていけば、無数にそうした面を見てとることができる。しかしいずれの面に映る円の筋や線の蠢きは一面として同じものはなく、同時に、総じてがある法則によって自由な動きを封じられている。その制約とは、面の総体で一つの三次元生命体(厚みのある球体としてのピンポン玉)を構築することであり、立方体内部に住まう三次元生命体の挙動に、各々の面に映る像が制限されている。では四次元ではどうか。四次元においては、六つの立方体に、それぞれ独立して動く三次元生命体(厚みのある球体としてのピンポン玉)が映しだされて見えるが、そのじつそれら六つの立方体に現れる三次元生命体は、一個の四次元生命体として生きている。これは言い換えれば、べつの時間軸において別々の場所で生きている人間を同時に見ているようなものであり、言うなれば六つの画面で同時に一人の人生を眺めているようなものである。では五次元、六次元、となるとどうなるか。これはそこに映しだされる世界(可能性)が増えていくことを示唆する。世界を同時に眺めることのできる視点、画面が指数関数的に増えていくことを意味するが、これはつまるところ、世界をどこまで一つの枠組みで見ることができるのか、という疑問に直結する。話は変わるが、世界は各種要素が相互に関連し、複雑に連携し、ときに打ち消しあい、世界の枠組みを一つに確定させようとする。そのたった一つの枠組みになぜ確定されるのか。たとえば今朝私が珈琲ではなく紅茶を飲んだとすれば。或いは飲まなかったとすれば、それは明らかに異なる未来を辿ることになるだろう。しかしそうした小さな差異は往々にして、大きな影響に掻き消され、未来の大筋においては決定的な差異とはなり得ない。なぜか。それは、多次元世界における無数の面が、それでも一つの枠組みのなかの生命体の挙動を制限するのと同様の理屈で、この世界そのものの挙動を制限しているからではないのか。多次元になればなるほどに面の数は増し、その面そのもののピクセルもまた増していく。僅かなピクセルのズレは多次元になればなるほどに許容されるが、そこで合成される多次元立方体内部に住まう生命体の挙動には大きく作用しない。おそらくこの世界はすでに多次元世界であり、この世界に内包される観測者、或いは挙動を伴なう物体の数だけ、その世界の枠組み、面の数を増していると妄想できる。定かではない。



2929:【2021/03/14*なんでそうなのかは知らない】

恒星において、その質量が大きいほど燃え尽きる時間は早くなる。恒星として質量が大きいほうが早く死を迎えるのだ。また、恒星の密度によって死までの過程が異なる。その過程を進化と呼ぶが、これは生物学的な進化とは違った意味合いである。恒星の多くは連星である。星の周囲を公転する星を惑星と呼ぶが、これが恒星の場合、連星と呼ぶことになる。連星は二つないし複数の恒星が公転する。いずれも恒星である。恒星は自身の質量によって、最後には、赤色巨星、白色矮星、中性子星、ブラックホールのいずれかになる。軽ければ赤色巨星で終わり、重ければブラックホールにまで進化する。ブラックホールになるにしても、その過程では、赤色巨星、白色矮星、中性子性、と進化の段階を経る。また連星においては、赤色巨星となった際の膨張現象により、隣接するほかの恒星にガスや質量が移動する。その際に生じる高エネルギィの放射が、いわゆる超新星であり、大規模なものが超新星爆発となる。その際には降着円盤を形成し、ジェット(高エネルギィ)を噴出する。ブラックホールにおいてもこれら降着円盤は観測され、その際に噴出するジェットは宇宙で最も高エネルギィの現象と言える。ただし、単独のブラックホールの場合は移動するガスがないために、降着円盤やジェットは観測されず、重力波以外での観測は絶望的と呼べるだろう。ちなみに二つのブラックホールが衝突しあうこともあり、このときに生じる重力波のエネルギィは、全宇宙の恒星が発する光を合計したものよりも多いと計算される。ただし、重力波は高質量の物体が高速で運動するだけでも生じるため、ブラックホールの連星があるだけで重力波はつねに生みだされていると推測できる。(覚書きですので、細かなところで間違っているかもしれません)



2930:【2021/03/15*お金ないない】

新しい靴を買った。八千円のが四千円になっていた。足を運んだ店舗ではハイカットの靴の品数がすくなく、とりあえずチェックポイントを満たした靴を購入した。チェックポイントは大別して三つある。ハイカットであること。靴底がぺったんこであること。生地が薄くないこと。三つ目の生地については足の甲の部分がメッシュ生地で、どうしたものかと迷ったが、頑丈そうではあるので、想定していた金額よりも安かったので、ひとまず買うことにした。初めて購入したメーカーの靴なのでやや不安があるが、まずは使用してみないことには真実にお買い得なのかの判断はつかない。先日購入したほうの靴も、使用する場所がいまとは違うところならば好ましい靴に思うので、十月になるまでは休み休み履きつつ、足に馴染ませておこうと思う。




※日々、考えているつもりで、ただの能書き、頭よいと思われたいだけ、存在価値を認められたいだけのワルガキ、脳ナシはいまじゃ差別用語だとほざき、大泣き、どうせそれも噓泣きだと、ぼやき、向けられる数多の矛先。



2931:【2021/03/16*陰謀ロン!】

陰謀論の本質的な問題とは、間違った前提を間違っているかもしれないと疑わずに推論を重ねてしまうことにある。これは陰謀論に限らず、フェイクニュースでもデマでも同様だ。間違った前提や論拠、論法を採用してしまうことが問題なのであり、「一見すれば陰謀論やフェイクニュース、デマに見える言説」そのものに根本的な瑕疵はない。つまり、一つの懸念として指摘しておくが、「陰謀論チックだから、フェイクニュースだと指摘されたから、誰それがデマだと糾弾していたから」といった反論を根拠に思考を煮詰めることもまた、陰謀論やフェイクニュースやデマにおける重大な看過できない問題の一つと言える。言い換えるならば、与えられた情報を鵜吞みにしたり、比較検証をせずに前提条件に組み込んでしまったり、分からないことをわからないまま保留せずに憶測で穴埋めをして、それを事実だと思いこんでしまうことそのものが問題の種である。似た問題として、いくら正しい情報を扱っていたとしても、それを適切に組み合わせ、筋道立てて繋げなければ、いくら情報が正しかろうと誤った結論が導き出される(稀に、過程が間違っていても偶然、正しい解法に結び付くこともあるが、再現性がないので、妥当と判断するには早計だ)。至極当たりまえの話をしているが、これがなかなかどうして日常生活において広く人々のあいだでなあなあにされているように概観できる。考えずとも危機に見舞われない平和な世の中の裏表と言えよう。これを弊害と捉えるか、適応と捉えるかで、このさきの未来が変わるのではないか、と懸念を呈して本日の日誌とさせていただこう。(というこの言説もまた誤った前提に、足りない論拠のオンパレードである。正しく物を考える、というのは、まことに面倒で、手間がかかるものである)



2932:【2021/03/17*関係なくない?】

将棋や囲碁、スポーツやゲームの実力におかれては、学歴に関係なくいかに質の良い訓練をしたか、それを好きでいるか、といった適正がものを言うのだと誰もが暗黙の了解で合意しているにも拘わらず(そうでない学歴至上主義の人間はすくなからずいるにせよ)、なぜ小説においては学歴が高い者ほどよい作品をつくりやすい、といった偏見がまかりとおるのか、はなはだふしぎである。(一方では偏見がなく、もう一方では偏見があるのはなぜなのか、という疑問であり、真実に「学歴」と「各分野の実力」に関係がないのかは、調べてみなければ分かりません。因果関係はなくとも、相関関係はあるかもしれません。環境要因というやつですね。機会の不平等とも言い換えられます)



2933:【2021/03/18*摩擦の是非】

多様性の効用の一つに、粘着性の付与があげられる。流動の性質が際立った集団において、多様化が進んでいると、急激な変化にブレーキがかかる。多様性のない社会では、みなが一方向に尽力し、あっという間に変化がもたらされる。そこで見落とされた瑕疵がのちのち大きな厄を運んでくるのは歴史を紐解けば自明である。そこで足を引っ張る因子があるとよい。一つきりではなく、がんじがらめに無数のダマが相互に足を引っ張り合い、それでもなおそうした拘泥から抜けだした個が、つぎの時代を切り拓いていく。その個が特別なのではない。その個の抱いている好奇心が、そうした逸脱を可能とする。足の引っ張り合いのなかで秩序を築くうえで欠かせないのは、互いに傷つけあわないことだ。そのためには、爪弾きにされ、傷ついている者がいないか、我慢を強いられている者がいないかに気を配るのが効果的だ。弱者を庇護するのは、弱者のためだけではない。巨視的に見れば、最も集団の利を生む術こそ、弱者の庇護なのだ。そうした弱者の中から、やがてがんじがらめになってにっちもさっちもいかなくなった社会をつぎの未来へと導いていく個が現れる。未来への導線を引く、好奇心を暴走させる個が現れる。やはりそこでも、集団の、互いに足を引っ張り合う性質は、そうした個の暴走をある程度、制御する方向に働く。けして踏み潰すことのないように、やはり虐げられている個がいないかに気を配り、庇護する仕組みや習慣を社会が築いていけると好ましい。多様化を保持し、弱者を庇護する仕組みをつくり、なお虐げられそうな者の声を、好奇心を、摘まぬ社会を我々は築いていくほうが、より多くの者がじぶんの幸福を追い求め、掴み、自由を満喫することのできる未来にちかづくのではないか。そうした未来を目指してこそ、じぶんの至福をより長く、安定して保持していけるのではないか。きょうの私はそう思うのだ。(足の引っ張り合いを、摩擦と言い換えてもよい。あって当然の現象であり、問題視すべきは、いつだって危害である)



2934:【2021/03/19*いったん距離を置いて、様子を見る】

カチンときたときにはすぐに行動せずに、どうしていまじぶんはそれをしようと思ったのか、をよくよく吟味し、それによって最悪どういう悪果が生じ、好ましい結果がどのくらいの確率でもたらされるのか、を推し量ってから、行動に移すかを決めても遅くはない。衝動的に、瞬間的に判断しなければならない場合も往々にしてあるものだが、そうしたときにはカチンとはこないはずだ。カチンときたときには、ひとまず時間を置く。それからどのようにしたら最も好ましい結果が訪れるかを計算する癖をつけておくと、長期的にはお得だと思われる(できればじぶんが直接に手を下さずに済む手法を考えられればいちばんよいし、実行せずとも、それだけで満足できるかもしれない)。もしそのせいで出遅れたり、損をしてしまったとしても、考えを煮詰めておけばその遅れや損を取り戻せる。また、即座に行動に移さなかったことでもたらされる悪果というのは、たいがい避けようがない(どうあっても避けようがないのだから、まずは考えることを優先しても結果は変わらない)。まずは身の安全を確保し、あとでゆっくりとじっくりと対策を練ったほうが、トータルでは得をする確率が高くなる。やはりいちど時間を置いたほうが、長期的にはお得なのである。(個人と組織とでは、やや話が変わってくるかもしれません。真に受けないでください)



2935:【2021/03/20*挑発しているわけではありません】

プロの格闘家はアマチュアや素人相手に、無闇に技をかけたりはしない。身体そのものが凶器だからだ。もし素人相手にプロとしての技を使えば、相応の罰を受けるのが道理だとする倫理観が築かれている。だがこれが文筆業ともなると、とたんに無法地帯と化す。小説のプロが、素人やアマチュア相手に、SNS上で息巻いていたりする。あまつさえ、作品以外での何かしらを以って、実力を誇示してすらいる。文章のプロとしてそれはいかがなものか、と思うのだが、プロとしての矜持や倫理感はないのだろうか。それとも、その程度のプロ意識なのだろうか。だとすれば、物書きのプロもたいしたことはない、との認識を持たれても致し方ないのではないか。プロの底が知れる。それこそプロといえども、上から下までピンキリなのだろう。SNS上で息巻いているプロは、プロのなかのアマチュアなのかもしれない。(そう思われても致し方ないのでは、という所感であり、私がそう思っているわけではありません、と注釈を挿そうと思ったけれども、けっこう素で思っているのかもしれません。プロ意識とは?)



2936:【2021/03/21*自爆テロとの区別は?】

怒っていいときと怒らないほうがいいときの差はなんなのか、と悩む。おそらくは、怒っても怒らなくともじぶんが得をしないときには、その怒りは何らかのカタチで表明したほうがよい気がする。怒ることでじぶんが得をするときは、あまり怒らないようにしたほうが好ましい気がする。損をすると判っていても伝えなければならない、抗議せねばならない。そういうときには、怒りをなんらかの形で伝えたほうが、環境を好ましい方向に整えるという意味で、短期的には損をするにしても、長期的には好ましいのではないか。同時に、どのように怒りを伝えるのかは、よくよく吟味し、工夫できたほうが、どんな場合であっても身を護るために繋がる。怒りを怒りだと判らなくなるまで加工し、装飾し、刺を取り払い、なおかつうまく抗議や反発の意図が伝わらなかったときのために、相手がそれを無視した際に、何らかの形で不利益がもたらされる構図になるように細工をしておくのがよいのではないか。むつかしいがゆえに、やはりよくよく吟味し、時間を置きながら、どうすれば最も安全に最大限の成果を結び付けられるかを考案していくのがよい。そのためには、どういう成果が最も好ましいかもまた、よくよく考慮されたい。じぶんが引き下がる(身を引く)ことで、大団円を迎えられるのなら、それもまた、怒りを表明した者の工夫の一つと言えるのかもしれない。(とはいえ、そういった個人に怒りを抱かせない環境を築くほうが本来は優先されるのだろう。つまり、誰かしらに怒りを表明させた時点で、それはもう事故であり、事件なのだ。刑事や民事に発展するか否かはおいといて)(定かではありません)



2937:【2021/03/22*本当かどうかは知らない】

地球を8,9ミリ以下に圧縮するとブラックホールになる。地球の脱出速度は秒速11キロメートルである。地球が8,9ミリ以下の大きさ(ブラックホール)になると、この脱出速度が秒速三十万キロメートルを超すので、畢竟、光すら脱出できなくなる。ただし、その重力の及ぶ範囲は限られる。太陽がブラックホールになっても、理論上は地球はそのままブラックホールの周囲を公転する。もっとも、恒星がブラックホールになる前段階では超新星爆発が生じるため、その際に放出されるエネルギィによって周囲の星々は粉砕されることになるだろう。(なんでそういう計算結果になるのかは、まったくわかりません。鵜吞みにした知識を披歴するだけでなんとなく賢くなったように見えますが、そういう所感がすでに愚かですね。かわいい)



2938:【2021/03/23*歯医者さん行きなさい】

あごに違和感がある。奥歯の虫歯か、それとも親知らずの影響か、圧迫感が拭えない。歯が浮いたような感覚は、空腹がつづいたりすると頻繁に発生する。体力が落ちた。12時間以上起きていられない。外出した日は特に疲れる。本もすらすら読めなくなった。漫画ですら例外ではない。ツイッターをながめすぎているせいかもしれない。控えようと思う。



2939:【2021/03/24*なぜなの?】

原子を中性子になるまで凝縮すると、十万分の一のサイズになる。原子が中性子になるとは、原子核と電子が融合することだ。ちなみに、中性子さえも、それを構成する素粒子たるクオークがあり、さらに凝縮する余地がある。そこまで凝縮されたものがすなわちブラックホールとしての性質を宿す。人間を原子サイズまで圧縮すればブラックホールになる。ただし、重力の及ぶ範囲は狭く、何でも吸いこむようになるわけではない。また、瞬時に蒸発するだろうと予測される。かつての宇宙では、素粒子サイズのブラックホールが無数に形成されていたのではないか、と見られているようだが、どうなのか。また、重力の高い星ほどはやく死を迎えると言われる。その点、ブラックホールはどうなのだろうか。重力の高い物体ほど時間の流れが遅くなるのならば、そもそも重力の高い星ほどはやく死を迎えるとの言説は矛盾するのではないか、と疑問に思うしだいだ。(考えるための土台になる知識が足りない。妄想しかできない)



2940:【2021/03/25*現実は捏造の地層であり、自我は捏造の地層を御馳走と見做す欲深き舌である】

記憶の捏造を行うには、無言であるほうが好ましい。何らかの行動の結果に対して、じつはそうではなく、こうしたかったからこうしたのだ、と後付けの解釈で、じぶんに都合のよいように過去の動機を捏造しやすくなる。初期の目標や目的を捏造できる。これを無意識のうちから習慣化してしまうと好ましくない癖となってしまうが、意識的に行い、制御可能であれば、これは過去の失敗を活かすための意識改革となり得る。過去にまき散らしてきた失敗を、布石とし直し、それをしたからこそいまがあり、ゆえにこうした成果を築きあげることができた、と好意的に捉えることで、過去に引きずられず、創造性を向上させながら、前向きに日々を生きていける。新たな目標に挑める。目的にちかづく。繰り返すが、無意識から行うのではなく、意識的に行い、制御することである。捏造は捏造だ。偽りだが、じぶんをだましだまし生きていかないことには、人間はあらゆる罪の意識にさいなまれ、押しつぶされ、死ぬしかなくなる。ある程度の自己認識の捏造は、生きていくうえでは欠かせないのかもしれない。かといってそれを肯定してばかりいると、取り返しのつかない失敗をしでかすのであろう。やはりと言うべきか、自覚と制御が肝要なのだろう。(或いは謙虚さを。じぶんの失敗を、成功に結びつけてくれた環境があったのだ、人々がいたのだ、と想像する癖をつけておくと、歪んだ自我を肥大化させずに済むのかもしれない。人は往々にして救われているのだ)(定かではない)





※日々、歯が欠けてから後悔する、根っこが腐ればそれも忘れる。



2941:【2021/03/26*わっからーん】

ブラックホールは蒸発する。真空中に置かれたブラックホールにおいて、ブラックホールと真空との境界では絶えず真空エネルギィが対生成を起こし、粒子と反粒子を生む。その際、いっぽうを吸いこみ、もう一方を弾き飛ばすような振る舞いをみせる。粒子と反粒子のどちらが弾かれるのかはそのときどきの確率による。いずれにせよ、真空エネルギィは物質や反物質に変換され、結果としてブラックホールの質量は蒸発する(ブラックホールに吸いこまれた物質と反物質とが対消滅を起こすから蒸発するのだとしたら、そのエネルギィは残るわけで、なぜそれが蒸発に繋がるのかが疑問だが、この解釈が間違っているのかもしれない)。ちなみに蒸発にかかる時間はブラックホールの質量による。素粒子ほどのブラックホールならば比較的短時間にそれこそ瞬時に蒸発するだろうが、恒星のような星がブラックホールになった場合――その大きさは直径数キロから数百キロメートル程度になるだろうが――蒸発するまでは宇宙の寿命の何兆倍もかかる計算となる(つまり、量子的なサイズでは蒸発するが、恒星サイズではまず蒸発しきることはないと言えそうだ。計算したわけではないが。また、この直径という言い方も、おそらく事象の地平面についてであり、本来物質が凝縮した特異点たるブラックホール本体は、どんなブラックホールであってもすべて素粒子サイズなのではないか? よく分からない)。ここから判ることは、ブラックホールは質量がちいさいほど早く蒸発するということだ。しかし、ブラックホールの周辺に吸いこむ物質があるならば、ブラックホールは成長するので、必ずしも質量の大きさが、蒸発するまでの時間と相関するとは限らない。また銀河の中心には超巨大なブラックホールがあると考えられているが、なぜそこまで成長できたのかについては謎とされている。おそらくは、ほかのブラックホールとの融合によるものではないか、と想像できる(ブラックホール同士は通常、距離が離れているので、無数のブラックホールが融合する、というのは確率的にあまり考えられないが。ほかに考えられるとすれば、インフレーションやビッグバンが発生したときの宇宙膨張時に起きるだろう、膨張の波の振幅により、巨大な質量のダマができやすかった時期があるのではないか、との妄想ができる。たとえば宇宙は段階的に膨張しており、その速度は一定ではない。つまり、宇宙を膨張させているダークエネルギィは、段階的に急激に増加した時期があるのだ。これは、初期の膨張波が質量の偏りを生んだとすれば辻褄が合う。何より、仮にブラックホールそのものがダークエネルギィを生みだす元であるならば、ブラックホールがたくさんできた時期ほど、宇宙膨張の速度は増すと考えられる。ただし重力の差は、時間経過の差として現れるため、そこにも波のような、段階的な差が生じると妄想できる)。(ちなみに真空エネルギィは、ダークエネルギィの候補として有力視されている――らしい。これもまた私はぜんぜんよく理解できていない)



2942:【2021/03/27*好ましい上下関係】

権力構造による弊害を失くすためにはまず、立場の上の者が、立場の下の者へと利益を生む場を提供する仕組みを築いていくのが効果的なのではないか。何かしら資本を贈る行為は贈賄にあたいし、却って腐敗を招くだろう。だが、たとえばむかしであれば領主は農民に対して、道具や土地を与えた。代わりに、そこで生産されたうちの余分な生産物を買い取る契約を結ぶ。場を提供する代わりに立場の上の者は、じぶんたちの目指す仕組みの一端に、立場の下の者たちを招き入れられる。ただし、ここで言う「立場の上の者と下の者」というくくりは、単純な上下関係ではなく、敵対関係にありながら何かしらの勝敗がついた場合における、勝者と敗者の関係についてである。そうでなければ、単なる上下関係は、閉じた世界へと偏向していくことが予想される。それはたとえば、世界中のみなが手を繋ぎ合えば大きな輪っかになり、平和が築かれる、といった詭弁と似たようなものだろう。世界中の人間が手を繋ぎ合ったところで、身近な人間だけで輪っかを作ってしまえば、無数の輪ができるだけで、むしろ世界は閉じてしまう。極論、二人で繋ぎ合ってしまえばそこで終わる。一人ですら、左右の手を握ればそれでおしまいだ。連鎖はしない。循環しない。そこで、有効になるのが、ほかの輪との繋がりであり、共生関係を結ぶことだ。ただし、世界は複雑だ。利害関係は立体的かつ多面的に展開し、容易には協力し合えない。そこで生じた諍いは、歴史を紐解けば枚挙にいとまがない。そうした争いにおいて生じる勝者と敗者の関係では、これまでは敗者が勝者の言うことを聞くようにと、強制力が生じた。だがそうではなく、勝者が敗者の言うことを、利を、願いを、叶えるようにすることで、世界はよりよく発展し、大きな輪を描いていくようになるのではないか。そしてそのときに勝者が叶える利とは、単純な資本や利益ではなく、それらを恒常的にもたらす未来に渡って有効になり得る発展の礎であり、場であるべきだ。むろんそれらを選択し、拒む権利も、敗者にはある。そうした倫理観をみなが備え、暗黙の合意を結べるところまでいけば、人間に備わった競争本能の暴走を防げるのではないか。競争に制限をかけるだけでは足りない。いかに健全な競争であろうと、大多数がそれを行えば、そこに創発する性質が必ずしも好ましい性質になるとは限らない。出来得る限り好ましい創発や発展があらわれるように、立場の上の者が下の者へと場を提供する、といった共通の習慣ができると好ましいのではないだろうか。繰り返すが、この場合の上下とは、階級ではなく、勝者と敗者の関係であり、究極的には日常生活のうえでも生じる、立場の上下である。これはいつでも、そのときどきで入れ替わるものである。(言い換えるならば、それだけたくさんの競争や闘争が、日常では、大小に限らず無意識下においても行われている、ということでもある)



2943:【2021/03/28*ちゃんちゃらーん】

地球の公転軌道において周回する宇宙ステーションは、厳密には無重力ではない。地球の重力圏から脱出していないからだが、それでも宇宙ステーションの内部では物体は無重力のように振る舞う。地球の重力と、遠心力(慣性力)が釣り合っているために、重力が打ち消され、無重力のように振る舞う。ただし、力とは相対的な関係性によって叙述されるものであり、重力(重力質量)と加速度(慣性質量)は区別できない。これを等価原理と呼ぶ。(一つお利口さんになりました!)(理解したわけではない)



2944:【2021/03/29*元気百倍、ゼロゼロマン!】

元気というものがよく分からない。元気とは状態なのか、性質なのか、それとも属性なのか。たとえば明るいひと、と言えばなんとなくニュアンスは判る。いつもニコニコ笑顔を絶やさず、他者を否定せず、積極的に交流をはかろうとするひとだ。そうしたひとは明るい。だがそれは必ずしも元気だとは限らない。明るくとも元気のないひとはいる。うつ病を例にあげるまでもなく、空元気という言い方があるくらいなのだから、元気がないのに無理をして明るく振る舞うことはある。では元気とはなんだろう。活発な様子を示す言葉なのか。それともつねに動きつづけている状態を言うのか。エネルギィが充満している様子となんとなくちかい気がするが、どうだろう。お腹が空いたら元気がでない。矛盾しないように思う。だが、お腹がいっぱいになったのに元気がでない、も矛盾しない。エネルギィをやる気に替えても似たようなものだろう。いや、どうだろう。やる気があればそれは元気があるのではないか。だがいくらやる気ばかりがあっても一見して元気がなかったら、やはり元気がないひと、と評価される。なるほど、主観と客観の評価はべつだ。元気という言葉には、いくつかの視点からの評価が混在している。じぶんにとっての元気、傍から見た元気、それからいつの時点から見た評価なのか、も関係していそうだ。若いころの疲れた身体は、それでも老年のころから振り返れば、それそのものが元気な証と言えそうだ。元気だから疲れることができる。疲れ果てることができる。なんとなくわかってきた気がするが、するだけだ。まったくわからん。元気がないときは休めばいいし、動けるなら何かしらしたいことをすればいい。何か好奇心を満たすような行動をしていれば、ひとまず主観がどうであれ、疲労の有無に関係なく、元気なひと、と傍からは評価されるのかもしれない。定かではない。



2945:【2021/03/30*油断しすぎでは?】

新型ウィルスによる災害において、問題なのは、その発生源が人為的であるか否かではなく、人為的にも引き起こせるか否か、にある。仮に人為的にも、人類にとって最悪のウィルスを容易に開発できるのであれば、いまのままの社会構造では容易く崩壊する確率が高い。バイオテロに対する防衛を、軍事や外交の強化で成しえるのは、相応に効果はあるが、それよりも生物(ウィルス)兵器によって感染爆発が引き起こされないような都市設計をいまから真剣に考え、模索し、開発しなおしていくほうが、現状維持を目指すよりも、人類の生存戦略として適当であるように思うが、いかがだろう。生物兵器を用いても効果がない、脅迫にならない、そうした都市設計を築いていくほうが、経済の面でも、防衛の面でも、利があるのではないだろうか。(妄想ですので、真に受けないようにしてください)



2946:【2021/03/31*忘却】

「しあわせは忘却のなかにしかないんですよ」「忘れ去られる幸福を知らないのですね」「忘れられるためには必要不可欠な段階というものがあり、至福とはその段階にしか宿らない。その段階を得つづけることがすなわち、生きるという行為なのだ」「忘れられることもなく、ただ存在する存在になれたらひとは、神にもなれる」「忘れられつづけることができたら、ひとは誰より有名になれる」



2947:【2021/04/01*理想≠完成図】

改善点とは、完成図があって初めて姿を現す影のようなものだ。まずは完成図がなければ改善すべき点をみつくろう真似はできない。完成図は、そのときどき、環境によって変わっていく。何を完成と見做すのか。どこを目指すのか。そこを定めないことには、現状維持以上の成果を結びつける真似はむつかしい。



2948:【2021/04/02*私はワープが下手なのです】

たとえば銀河同士は何百万光年と離れている。となりの銀河で何が起きようとたいていのことは地球には関係がない。これを縮小して考えれば、同じ銀河内でも同様だし、太陽系内でも、似たようなものだ。とはいえ、さすがに太陽や月で、何か大きな異変が起きてしまうと困ってしまうが、その異変がたとえば人間一人分の質量くらいならば、さほどに心配する必要がない。むろん人間一人分の質量の核融合反応が月で引き起こったとなれば話は別だが、そうした異変はめったに起きたりはしない。もうすこし規模を縮小し、同じ地球内ではどうだろう。距離が縮まればその分、影響を受ける割合が増していく。ちょっとの変化が、伝わってしまうこともある。ただそれでも、大概の影響は、距離が隔たっていれば打ち消され、打ち消された時点で、銀河系のそとで起きたことと原理上区別はつかない。もちろん、大陸を隔てたくらいでは、人類社会の引き起こす異変は打ち消されない。環境問題しかり、戦争しかり。ただし、たとえばそれが他人からの評価という、意識下の認識程度であれば、ほとんど無視できると言える。銀河系のそとのべつの星の住人から評価されないからといって、何百光年と離れているあなたにとってそれがどんな意味を持つだろう。それがたとえ、テレポーテーションで繋がりあえる技術があったとしたところで、その技術を使わなければやはり遠い宇宙での出来事であり、やはりあなたには関係がない。じぶんには関係がない。これは無関心とはやや話が異なる。関心がないのではなく、影響がないことを知っているだけだ。ゆえに、影響が及ぼされるような認識のされ方がなされるようならば、無視はできない。だが、相手から高評価されるか否か、という認識の問題程度ならば、これは無視できる問題と言えよう。銀河同士でなくとも、これは地球上でも同じことが言える。あまり他者からの評価に踊らされずに、あなたの中に広がるあなただけの惑星にて、あなただからこその生態系を築き、平和を育んでいこう。(もちろん、遠い星のうえに住まうなにかしらから好ましく思われようとしてじぶんの行動指針を修正していく真似も、それはそれでステキで、ロマンチックではあるのだが)



2949:【2021/04/03*どんぐりの背比べって諺を知っていますか?】

極端な話で恐縮だが、ルッキズムに関しては、たいがいの人類は絵画やイラストのいわゆる美形とされるキャラクターたちよりも歪んでいるし、醜い部分を宿している。基準をそうした表現物における美にしてしまえば、総じての人類はみな同一に不細工と言ってしまえるのではないか。ルッキズムにおかれては、他者と比較することそのものを批判するというよりも、基準をどこに置いているのか、を議論したほうがてっとり早い気がする。人類は総じて醜い。見た目で優劣を競えるほど、あなたも私もうつくしくはない。それでよくはないですか?



2950:【2021/04/04*ちやほやされたーい!】

ちやほやされたいという欲求と、ちやほやされるような人物になりたいとの願望は、同じではない。誰かに称賛されたいだけなのか、称賛に値する何かしらの行動をとれる人間になりたいのか、の違いと言える。他人を操りたいのか、じぶんを制御したいのか、の違いだ。ちやほやされたい、との欲求は、他人を意のままに操りたいとの欲求である。独裁者の発想に似ている。反して、ちやほやされるような人物になりたい、というのは、自己実現であると言える。欲求や願望が、他者へと向かうのか、自己に向かうのかの違いであり、突き詰めて言えばこれは、どちらがより叶えやすいかの違いに繋がると言えよう。周囲の環境を変えるのはむつかしいが、それに比べればじぶんを変えるのは比較的容易だ。他方、じぶんを変えることがむつかしい環境では、まずは環境を変えなくてはならないこともでてくる。とはいえ、その場合は、ちやほやされたい、という欲求を抱く余地もなく、ただただ生存本能を刺激されるような劣悪な環境であるだろうから、例外と言ってもよいだろう。まずはどんなじぶんになりたいのか。そこを基準にして、願望なり、欲求なりを選んでいくほうが、より好ましい環境を築くという意味でも、最適なのではないだろうか。定かではない。




※日々、これがおまえの総決算、とだらけきった権化が鏡の奥からしたり顔、うるさいだまれ、ぽっこりおなかもかわいいよ、と褒めるとほっぺを赤くする。



2951:【2021/04/05*ぽくぽくぽく、ちーん】

とにかく壮大な物語を欲しているのだ。何か月も浸かっていられるような体験を身体が渇望している。もうこれさえあればいい、という没頭と偏愛と執着の極致のようなものを味わいたい。自らの手でそれを編みだせたら言うことがない。いまじぶんがどんな人物となら触れ合いたいかをとことん突き詰めて考えてみるのがよさそうだ。(いるのか?)



2952:【2021/04/06*ツナマヨが好き。醤油が垂れてると、もーっと好き】

積みあげるという発想は、積みあげてきたものの全貌が見えなくなるくらいになるとむしろ道を塞ぐ壁となる。そうではなく、繋げていくという発想に転換していくことが、長期に亘って、意欲を失わずに様々なことに挑戦しつづけていく姿勢を保つことに繋げるのではないか。やはりここでも、繋げることを意識してみるのがよさそうである。というよりも、なにかよさげだな、という事象は、繋げることでしか成し得ないのかもしれない。それが人である必要はない。さまざまなモノとモノとを繋げていきたいものである。(繋がるではなく、繋げる、が肝だと思うのであります)



2953:【2021/04/07*プロじゃないから分かりません】

一部の商業作家たちが書いていたのだが、「プロになると純粋に創作物を楽しめなくなる」そうだ。そういうものなのだろうか? 純粋に創作物を楽しめなくなったら表現者として終わってないか? と疑問に思うのだが、あなたはどう思われるだろう。純粋に創作物を楽しむとはどういうことか、によって答えは変わるだろうから、いちがいに言えることではないとは思うにせよ。表現者として腕を磨けば磨くほど、創作物の楽しみ方は増えていくように感じるが、違うのだろうか。(楽しみ方が増えていくのだから、純粋ではない、混合している、ゆえにプロになると純粋に楽しめなくなるとの言説は矛盾しない、という解釈は成り立ちますね)(プロにつっかかりたいだけのわるがき。すなおにうらやましぃぃぃいい、きぃぃぃぃいって言えばいいのに。いじけちゃんかわいい)(そんなんじゃないやい)



2954:【2021/04/08*ふしぎだなぁ、と思います】

三次元プラス時間という四次元に住まう我々が、なぜ時空の歪みを二次元的にしか解釈できないのか、が疑問だ。三次元空間の歪みを表現するとき、どうしても時空の歪みは、平面の歪みとして局所的にしか想像できない。なぜなのか。我々の認識はそもそも、二次元の合成でしか世界を解釈していないからなのではないか。では三次元プラス時間という四次元の歪みを想像するには、三次元の合成を試みるのが正当なのではないか。そうしてくると、三次元プラス時間という四次元と、超立方体としての空間的四次元は、ほとんど同質のものと解釈して差し障りなく感じるが、真実のところはどうなのだろう。情報が足りない。先行研究における分かりやすい資料を読んでみたい所存である。(ぜんぜんわけわからん)



2954:【2021/04/09*そんなにうまくいくわけないが、やってみなければわからない】

世間的に好ましくない手段を用いて、何かしらの仕組みを是正しようとすることは、果たして許容してよいのかに関して、これからはより論理的な解を求めていく姿勢が欠かせない時代に突入することが予想できる。暴力を用いての改革は、おそらく同じ轍を繰り返す種を残すという意味で、最適解ではない。暴力は用いないほうが好ましい。だがこの暴力の言葉に内包される事象は、社会が発展していくにつれて増加していく。かつては相手を殺傷することが暴力だったが、現在ではハラスメントやヘイトを筆頭に、暴言や圧力などもまた暴力の一つとして数えられるようになった。その結果、連帯と言われる運動と、ファシズムに見られる扇動との区別は、厳密にはつかなくなりつつあるのではないか。何を目指すのか、或いはその結果に何が起きるのかの、結果論でしか区別をつけられない状況に、現代はなりつつある。個々人の善意が集団となることで創発を起こし、予期せぬ性質を顕現させ、暴力装置として機能してしまう悲劇は、過去何度も人類は繰り返してきたはずだ。歴史をひもといてみれば瞭然であろう。どのように目的を設定し、どのようにそれらを広報し、どのように個々を結びつけ、どのようにして目的を達成するのかについて、いまはかつてないほどに繊細で緻密な段取りを挟まねばならない。だが、それら段取りが細分化し、一部のそれら段取りを共有している者たちにしか改善できない流れが生じれば、必然、時間経過にしたがって前時代的な暴力の匂いのつよい手段が用いられるようになるのは、しぜんな流れだろう(特権の性質が際立つからだ。また、そうした流れに反発しようとすれば、なぜか相手の段取りを介さないといけなくなる。不当だと指弾する余地を相手側に与えてしまうからだろう。そうなると応酬は雪だるま式に複雑化し、錯綜し、先鋭化する。それを過激化と言い換えてもよい)。そうさせないためにも、組織を動かせる管理者たちが下の立場にある者たちの利を最大限にするような環境を整えようとする姿勢を維持することが、最も合理的な判断となる。つまり、上の者が、下の者にゆずるのだ。勝者が、敗者に利を譲る。利を得たければ、負ければいい、というくらいに常識を変質させられれば、この世から争いごとはなくなるだろう。譲り合うことが、じぶんの利になる。それを本能で理解できるくらいに、人類は、倫理観というものを発展させていくのが好ましいように思うしだいである。(理想論であり、きれいごとだが、ほかに目指すべき指針を見繕えない。充分ではないが、まずはそこを目指せば、ひとまず最悪の事態を避けることに繋がるのではないか、との願望です。希望的観測ですらない)(この場合、競争と闘争は分けたほうが好ましい。競争は切磋琢磨し、闘争は勝ったほうが相手に利を譲る。やはり理想論ですね)



2955:【2021/04/10*ニヒルをきどるのもたいがいにセイヤくん】

どういう規模のコミュニティで生きようと、ちいさな世界に違いはない。上を見ていたらキリがない。何かの尺度でみずからの立ち位置を規定しようとする作業は、おそらくみずからの可能性を、ある段階までは引きあげてくれるが、それ以上に行こうとするならば、足を引っ張る桎梏となるのだろう。大国の大統領になったところで、しょせんは人類におけるほんのいっときの権力を有するにすぎない。この世の、宇宙の、世界の大きさからすれば、地球上のどんなコミュニティも似たようなものだ。宇宙は直接じぶんに関係しないのだから考えるだけ無駄だ、という反論が飛んできそうだが、それを言うなれば、直接関係のないコミュニティのこともまた考えるだけ無駄と言える。ほかのコミュニティに作用されない環境を築くことのほうが、すでにあるコミュニティのなかで他者を蹴落とし、しのぎを削ることよりもあらゆる面で自由なのではないか。一方的に他者に作用できる透明人間であることこそ、自由の名にふさわしいのではないだろうか。定かではない。(フリーライドって言葉を御存じでしょうか。いくひしさんのそれは苦労せずに利だけかすめとりたい、搾取する側に回りたい、との欲望に聞こえますが、釈明の言葉はありますか? ないですか。そうですか。いまのじぶんを肯定するのに必死なのですね。お疲れさまでございます)



2956:【2021/04/11*堕落の底の底】

物語市場における商業作品では、編集者たちはおそらく、既存の作品群と比べて足りない点をまずは埋めようと助言をするのではないか。しかし、それによっていまは、作家性が損なわれ、作品の魅力そのものが減退してしまう例が頻出して感じられる。商業作家ではなくとも、商業作家以上におもしろく、魅力的な物語をつくりだしている作家は数多い。そうした者たちは、商業という舞台に馴染まない形態で、物語を出力し、表現している。だがそれはあくまで、商業の舞台に馴染んでいないというだけのことでしかない。商業の舞台は、あまたある表現発表の場の一つでしかない。そこに乗らないから、或いは、乗れないから、作家として劣っている、なんてことはありえない。これからの時代は、かつてはとりこぼされてきた魅力ある物語が、多くの者の目に留まるようになっていくだろう。その結果、商業の舞台そのものが変質せざるを得ない節目に、いまはさしかかっているのではないだろうか。商業の意味合いが変質しつつある、と言い換えてもよい。潮目はとっくに変わっている。各々、じぶんの足場を固めていきましょう。(そうは言ってもきみの足場はグラグラというか、スカスカというか、なんもないというか、それどうやって立ってるんですか。浮いてませんか。飛んでる? や、それはですね、落ちつづけているんですよ)



2957:【2021/04/12*よく育て】

身体が脂肪を蓄えたようで、ジャンプをすると身体の表面を脂肪が時間差でぷるんぷるんする躍動感を味わえるようになった。なるほどこれはこれは。じぶんの身体のようでじぶんの身体ではないようだ。じぶんの身体のなかにじぶんの意思に反した動きをするものが埋め込まれている。髪の毛もまた似たようなもので、つまり風が吹けば意識に関係なくなびくわけだから、まるで宇宙人だと言っても過言ではない(過言である)。脂肪もまた、体内に根付いた宇宙人と言えよう。脂肪はしかし、髪の毛のように切ってさっぱりするわけにはいかない。これ以上、身体のなかに宇宙人を飼うのは潔しとしたくはないので、食事の改善か、運動の割合を増やそうと思うしだいである。(ペットは一匹でせいいっぱい。かわいいぽっこりちゃんをたいせつに)(おむねはもともとぺったんこ)



2958:【2021/04/13*重力熱情報いくひし仮説2】

一般相対性理論において、或いは量子理論において、重力の高い物質は時空を歪めるとされる。だが宇宙のスケールと、我々人類のスケールとでは、その時空の歪み方はまったく異なると言える。宇宙スケールでは大きく歪曲して映る事象であっても、我々人類の日常スケールでは滅多に観測できない。ほとんど無視できる。なぜかと言えば、時空を曲げるためにはすさまじく高い重力が不可欠であるからだ。とはいえ、質量が低くとも、時空への干渉は行われているはずだ。影響力は無ではない。それはたとえば、鉄を羽で撫でるようなものだ。数回程度では影響は目に見えないが、何億、何兆と羽でなぞれば、いくら鉄と言えども表面がえぐられるだろう。似たようなことが質量の低い物質と時空のあいだでも言える。畢竟、原子といえども時空に作用を働かせている。また、銀河は中心に巨大な質量体、いわゆる巨大ブラックホールを保有しており、さらに星々の合間には暗黒物質が満ちていると考えられている。つまり、銀河それ自体がとてつもなく高い質量体だと考えることができる。そして質量の高い物質は、高い重力を保有し、時間の流れが遅くなる。つまり、銀河内における惑星は、銀河外における時間の流れよりもねっとりと時間が経過していることになる。言い換えれば、質量の低い銀河ほど時間の流れは速く流れる。だが、往々にして恒星は、質量が高いほど早く燃え尽きる。ここに矛盾が垣間見えるが、一般相対性理論の解釈を曲げれば矛盾はなくなる。つまり、重力の高い物質の周囲の時間の流れは遅くなるが、重力の高い物質の内部においてはむしろ時間の流れが速くなると考えればよい。これは質量の軽い物質のほうが、重い物質よりも時間の流れが速いこととも矛盾しない。巨大な質量を構成する各種要素は、本体よりも速く時間が流れる。そこに加速して見える時間の流れの分が、それら各種要素の総体――本体たる巨大な質量体の周囲の時間の流れを奪い、遅くしている。これは、原子や分子、電子や素粒子など、小さい物質ほど高速で動いていることとも矛盾しない。これは生命にも当てはまる。なぜちいさな生命体ほど早く寿命を終え、巨大な生き物ほど長生きするのか。人類スケールにおいては、重力と時空の関係はほとんど無視できるため、小さいものほど時間が速く流れる、という法則のみが際立ち、そうした性質を創発しているのではないか、と考えられる。ここから言えることは、重力と時空の関係と、重力と時間速度の関係は、必ずしも比例しないという点だ。どちらかと言えば、重力と時空の関係は、宇宙スケールのみに際立ち、重力と時間速度の関係は、対象のスケールに関係なく生じ得る。むろん、時間速度の変化そのものは微小であるが、どんなに小さな物体であれ例外なく生じる性質があるために、創発を起こしやすいのだろう。たくさんの原子でできていればいるほど、或いは種々相な部位(つまり質量や速度の異なる部位の複合体)であればあるほど、それら複合体に流れる時間の流れは変質しやすいと言えそうだ。(じぶんで並べた文字の羅列なのに、何を言いたいのかさっぱりわからん。こういうのをデタラメ、と言います。真に受けないように注意してください)



2959:【2021/04/14*同化ではなく、触媒】

コミュニケーション能力うんうんが囁かれる世のなかだが、往々にしてコミュニケーション能力と謳われるもののおおむねは、組織やコミュニティ内において波風たてないように、ごくごく狭い範囲における文化に迎合できるか否かにあると言えるのではないか。そのようなものはコミュニケーション能力とは相反する、むしろまったくの別物に思える。異質な者同士を結びつけられる素養こそ、コミュニケーション能力の本質と言えるだろう。(ホントか?)(異質な者同士を結びつけるには、波風立てないようにそれぞれの文化やコミュニティに溶け込める技能も充分にコミュニケーション能力に必須な素養に思えるが?)(あばばばー聞こえなーい)



2960:【2021/04/15*ぼろぼろの肉、それはそぼろ】

大股で三十歩進む、というトレーニングをはじめたのだが、その結果、太ももの裏から臀部にかけての筋肉が壊滅的なダメージを受けて、よぼよぼのおばぁちゃんになってしまった。合計で六十歩、距離にして七十五メートルほどを移動する。文章で並べるとたいした運動でない気がしてしまうが、ほかのどんなトレーニングよりも筋肉が死んだ。きょうで三日連続で行ったが、筋肉痛が治る様子は一向にない。むしろ背筋まで弱っているようで、休養日を儲けたほうがよいかもしれない。(これがほんとのボロ儲け)(念のためにご説明致しますとこれは、ボロボロの身体に休養日を儲ける、を略して、ボロ儲け、と言い表したことで、いわゆるお金をたくさん稼いでウハウハだぜ、というボロボロの印象とは相反する言葉とかけまして、おもしろーい、と思っていただこうとの魂胆を短くも丹念にしたためた、わたくし渾身のダジャレなのであります)




※日々、寝るのがきもちよい。



2961:【2021/04/16*夢は見て、描き、覚めるもの】

じぶんの夢を他人に委ねている者がすくなくないようだ。他人から認められなければ現実にできない夢はおおむねそうした他人に依存している夢だと言える。それはそれで難易度はぴんきりであろうし、他人に依存した夢だからこそむつかしい、というのはあるにせよ、夢ならばせっかくだし、とことん個人的な夢を追い求めたほうが楽しい気がしている。他人からの評価はいつだってあとからついてくるものだ。他者からの高い評価それそのものを追い求めるのもわるくはないのかもしれないが、どこかで虚しくなってしまいそうだ。誰に認めてもらえると一番うれしいのかもまた別途に問題となってくる。個人的には過去や未来のじぶんに、「いまのはなかなかよさげじゃない?」「え、それいまどうやったの、もっかいやって」と言ってもらえたらうれしい(めったに言ってくれなさそうだが)。しかし人によっては、じぶんを認めるためには、多くの者からの称賛がなければならない、と考える者もあるだろう。そうした者は、おそらく満ち足りる、ということが原理的にできないのではないだろうか。なぜかと言えば大勢からの称賛であると、現実にはすでに超えられないほど称賛を集めている偉人たちがいる。それらと否応なく比べざるを得なくなるし、またいつまでも同じような熱量で称賛されつづけるなんて真似もできない。反面、至極個人的な夢を追求したところで、満たされるとも限らない。しかしふしぎなのは、自己満足を突きつめていくほど遠ざかる夢を追うようになってしまったとしても、とうてい到達できないそのもどかしさそのものが、自己満足の場合は、心地よいのである。いつまでも追い求めていたい。むしろ追いつけないくらい大きな夢を抱きたい、と、満たされぬことそのものが病みつきになる。底なしの楽しさである。そうした日々を送れることのほうが、他人からの承認を基準にする夢よりも、日々を、或いはじぶん自身を、豊かにしてくれるのではないだろうか。定かではない。(病みつきになっちゃだめじゃない? という意見もある一面では正しい。没頭しすぎて日常生活を送れないほど退廃してしまう者もあるだろう。そうならないためには、夢と目標は、相互に関連づけながらも、別途に用意しておくとよいのかもしれない)



2962:【2021/04/17*水だって飲み方によっては死ぬ】

ワクチン推進派も、ワクチン消極派も、どちらもけっきょくのところ以前のような社会にいかに早く戻れるか、という点を、持論の正当化の要に置いている点が、いくぶん楽観的だな、と感じる。ワクチンに関しては万能ではないし、短期的な効果はかなりの精度で確立されているが、長期的な視野での安全性はそれこそ長期的な経過を見なければ判断つけられない(何にでも言えることではあるが)。個人的には、体内における酵素や腸内ウィルスなど、有害とされるウィルス以外にも免疫系が共鳴し、攻撃してしまう懸念が残っているように思われる。安全だ、とは現時点では言えないのではないか、と心配性の性分ゆえに思えてしまう。断るまでもなく、ワクチンの有効性は広く科学的にも認められており、接種の推奨に賛同の立場であるが、いささか楽観的すぎる気もする。データとは基本的に、調べようとしたところの情報しか集められない。見ようとしなければデータは集まらないのが基本だ。もうすこしこれまで以上に、悲観的な見方で、ワクチンの効能を判断する姿勢が見られてもよいように思うしだいだ。繰り返すが、ワクチンを打てるひとは打ったほうが好ましいことを強調して本日の日誌を終える。(全人類規模で接種しようとしているのだから、慎重になりすぎて困るということはないのでは、という趣旨です)



2963:【2021/04/18*ひがみ大爆発!】

文芸とは関係のない分野の話であるが、憧れるに値する人物が、プロの世界ほど見当たらないのはどうしてなのだろう。もうほとんど、そういういわゆるプロと呼ばれる舞台に近寄りたいとは思わなくなってしまった。むしろ、関わり合いたくはない。だが、そうしたプロが、世の中における基準を決めてしまうような風潮があり、これはなかなか見ないようにしようとしてもかってに視野に入ってくるので、気分が塞ぐ。じぶんに限ったことかもしれないが、私の口に合う表現や、私にとってキラキラと輝いて見える作品ほど、基準から外れて映るので、基準なるものの正当性がいかほどなのか、と疑問視してしまう。もちろん、じぶんが気に入ったからといってその作品や成果物に普遍的な価値があるとは限らないし、高確率でそうではないだろう。だがそれは、基準と見做されている大多数に受け入れられている作品にしたところで同じだ。いささか、大勢に認められる、という評価基準を無条件に肯定する流れがつよすぎないだろうか。もうすこし、視野を広げて世界を見られる個人が増えると、社会はもうすこし豊かになるのではないか、といった直感があるが、おそらくは、いまよりも豊かになってほしい、と考えている個人は、思っているよりも多くはないのだろう。社会の豊かさよりも、じぶんがいかに注目されるかにこだわる者が多い社会であるから、しようがないのかもしれないが、同時に、そうした個人が多ければ必然、大勢からの高く評価されることの価値はあがるので、悪循環だなぁ、とほとほと距離を置きたい気持ちがつよまる日々である。もちろん、大勢から高く評価されているものにも、素晴らしいと思える表現や成果物がある点は認めるしだいである。(大ヒット作品であっても口に合う、大好きな作品はすくなくありませんしね)(ねぇねぇ、いくひしさん。たとえばですけど、もし流れが反転して、みんなが消極的になって人の目を避けるような振る舞いが多くなったら、そもそも好きな作品や成果物を目にする機会が減っちゃうので、どちらかと言えばいまのほうが都合がよくないですか?)(そういう一面もあるけれど、私が言いたかったのは、みなが隠れ気質になるのならば、掘りだそうと躍起になる需要者が増えるので、けっかとして私好みの作品が日の目を見る機会が増えるのではないか、との期待です)(それっていまある社会でもできることではないんですか? 現にそうやって、これいいよ、って感想を発表しているひともすくなくないように思えますけど)(それはそう。だからこれはいわゆる、ひがみだから気にしなくていいよ)(あ、はい。そうしますね)



2964:【2021/04/19*どうしたらよいのかわからない】

がん患者に限らないが、じぶんの病気を治すために、敢えて標準治療を受けずに、民間療法や信仰治療などを選ぶ者がある。標準治療は、現状最も妥当な医療と認められた治療法である。だが、命の危機に見舞われた者は、藁にも縋る思いで情報を漁る。そのときに、同じ病から立ち直った者の自叙伝などは大いに支えになるのだろう。中には標準治療を拒んでなお全快した者もある。だがそれは生存バイアスである。効果のない治療法を選んでも生き残る者はある。だが死んだ者の多くはその事実を語れない。死人に口なしを地で描くためだ。前提として、誰であってもじぶんの自由に生きる権利がある。ゆえに、効果のない治療を受ける自由もまたある。だが、その過程で、「標準治療などの正規の情報」を否定する言説を広く吹聴してしまうのが、なかなか困った事態だな、と感じる。これはフェイクニュースや陰謀論、ほか風評被害でも同様だ。善意からの行為が、悪因を撒き散らす行為に繋がってしまう。そして往々にして、影響力のある者ほど、この危険性を高めてしまう傾向にある。SNSの普及により、誰であっても他者への影響力を持ちやすい世の中である。情報の吟味や取捨選択を怠っている者であっても、広く言説を伝播させることが可能だ。そうした中で、そうした言説の悪影響を最も受けやすいのは、何が正しい情報かを見比べる術を知らない無垢な者たちである(私もそのなかの一人だ。無垢ではない点が異なるにしろ)。さいきんの悩みは、影響力のある者が、そうした誤った情報を広げているときに、どこまで介入し、どのように事態を収拾させるか、その段取りと手法についてであるが、いまのところ、報道機関や政府機関が、そうした誤った情報を、誤った情報であると是正し、なおかつより正しい情報を伝える仕組みを強化していくほかに、ないと言える。問題は、そのために、「より正しい情報を発信しているからこそ影響力を増さなければならない」という流れを肯定してしまってもよいものか、という点である。影響力の有無は、関係ないのではないか。結果として影響力が増すのは理解できるが、大勢の行動を変質させるべく影響力をつよめよう、という考えは、いささか危うい気がするが、いかがだろう。(これもまた理想論ですね。応急処置がまずは優先されることはあると思います)(その応急処置を、応急処置だと見做さずに、正当な対策だという風潮がつよまることへのこれは懸念です)(応急処置のあとにきちんとまっとうな対策を打ちましょう、ということですね)(往々にして、いま対処できているからよいだろう、という流れになりがちなので、そうならないように、仕組みを築いていきたいですよね、というこれは考えです)



2965:【2021/04/20*なんてわがまま!】

じぶんが本当にしたいことほど、世の中で禁じられていたり、或いはしてはいけないこととして扱われている。しかし、そうしたなかであっても、同一の行為でありながら、そうと見られないような装飾を施され、世に平然とはびこっているものもある。性行為にまつわるあれやこれやから、支配欲から生じる上昇志向である。何かを極めたり、突き詰めようとする姿勢と、競争のなかで一番になろうとすることは、ほとんど異質であるように思うのだが、これは単純に割り切れる問題ではなく、ある部位においては、相互に相乗効果を促す働きを見せることもある。ライバルがいると実力以上の成果を発揮できる、といった具合だろうか。だがそれにも限りがあり、ある閾値以上の枠外へと足を踏みだすには、そもそも競い合う、という姿勢が、大きな足かせになるように思われてならない。競える時点で、限界を超していない、と言ってもそうそう的を外してはいないのではないか、との直感がある。とはいえ、そこは必ずしもトレードオフではない。競争の舞台であっても、トップを目指しながら枠外の前人未到に踏みだすこともできないことはないだろう。だが、作業は余計にかかり、力は分散する。あまり利口な選択ではない気がするが、そこに経済的な損益の視点を入れてしまうと、どうあっても競争原理からは逃れられなくなり、いささか目を逸らしたくもなる。ただただ、べつの視点からの景色を望むことはできないのだろうか。(好きなことを好きなように、じぶんかってにしたい、というそれはわがままでは?)(そうとも言う)



2966:【2021/04/21*いっぱい衰える】

あとはもう衰えていくいっぽうだ、と諦念を覚えたとしても、その諦念を覚えなければ得られない何かがあると予感できる以上、変化を求める者にとっては、それを見ずにはいられない。大きな変化であればあるほど望ましいが、大きな変化はなるべく得たくない。ゆえに、老いという避けがたくも生きているかぎり必ずやってくると判明している変化におかれては、たとえそれがくることが確定的に明らかであったとしても、明らかであるからこそ、それを直視し、いまいちどの足取りの確認を行う。それゆえに、衰えを避けたいとは思わない。衰えたとしても、歩を止める理由にはならない。任意の活動をやめる理由には使えないのである。スランプもまた然りである。停滞も衰退も、変化の一つだ。受け入れたうえで、好ましい変質の触媒にしてしまえばよい。



2967:【2021/04/22*鞭に打たれている気がしませんか?】

結果として人の役にたったり、誰かのためになったりするのは好ましく感じるが、率先して誰かの役にたちたいと思ったり、誰かのためになりたい、と思うのは、現代社会においてはむしろどことなく危うさを感じる。むかしのように命の危機が日常に溢れていた時代や、衣食住に余裕のなかった時代ならばいざしらず、いまはそのようなひっ迫した生活を送っている人々は相対的にはすくなくなっている。むろん充足してはおらず、格差の問題は現代であってもまだまだ是正の余地があり、是正していくほうが好ましい。だが、なぜそのような問題が顕現しつづけているのかについては、かつてのような、人の役にたち、誰かのためになることを美化推奨する流れが、著しい格差社会を拡大しているかもしれない側面からは、目を逸らさずに、その因果関係の有無を明らかにしていきたい。現代における倫理観には、正の影響を強化するものもあれば、負の影響を強化している面もあるのではないか、との懸念がある。誰を傷つけず、暴力を働かず、他者の生活を脅かさず、直接に損なっていないのならば、努めて人の役にたとうとしたり、誰かのためになろうとするのは、むしろ社会の負担を増すだけのように感じられる。言い換えるならば、誰かからの高い評価がなければ、社会に属している資格がないのではないか、との強迫観念を植えつける契機になっていそうに思うのだが、真実のところはどうなのだろう。脅迫観念は容易く偏見を強化し、他者への無言の圧力となって、誤った評価軸を広める。他者から必要とされたり、高く評価されなければ満足に生きることも許されない。そういった同調圧力を生まないためにも、まずはじぶんのしあわせを追求しようではないか、との姿勢を、もっと一人一人が示してもよいのではないか。結果としてそうした生き方こそが、人の役にたち、誰かのためになれば言うことがない。(いまはそれくらいの余裕が本来は、社会にあるのではないか、との疑念です)



2968:【2021/04/23*ぷぷー】

生きるうえで大事な指針はたいがい本から学んだが、なぜそれが大事かは、現実の体験を土壌に知ることとなる。学びとは芽だ。疑問という名の好奇心を養分に、記憶という名の体験を土壌にして萌える芽である。種子はでは、何か。おそらくは、夢中になって楽しめる余地であり、自由そのものである。自由なくして学びはない。(うぷぷ。みなさん見てください。これが世にも珍しい、偉そうなこと言いたかっただけのひとです)(せっかくかっこつけたのに茶化すのはやめてください)



2969:【2021/04/24*成功したことがないひとの言い分】

これからの時代は、機械学習が発展していく。そのため、いかに新しい失敗データを集められるのか、が発展と同義になっていくと予想できる。したがって失敗を責めるのではなく、許容し、いかに安全に失敗を繰り返せる環境を築いていけるのかが、発展する組織やコミュニティになっていけるのかの分水嶺となると言えるだろう。言い換えるならば、失敗をした場合の対処法として、過去に同じ失敗をしていたならば、対策が充分でなかったと判るし、新しい失敗の場合には、新しい対策が生まれる。進歩とはこうした対策の繰り返しからでしか成し得ない。また、環境が変わるからこそ、失敗の余地が生まれる。挑戦をすれば環境は変わるし、そうでなくとも自然はつねに環境を変化させている。どうあっても変化していくのだから、失敗するのが基本として、ではどうするか、といった悲観的に楽観的な姿勢が、これからの時代では、不可欠な素養となっていくのではないか、と思うしだいである。(いっぱい失敗したらいい。対策を練って、敷けるのならばね)



2970:【2021/04/25*いろいろもう飽きちゃった】

飽きるまでやりこむことは、慣れる状態にまで身体を深化させることと直結している。まずは飽きるまでやりこみ、そのあとに別のなにかに挑戦し、つぎの場へと移行する。その繰り返しの中で、かつて飽きた何かをもういちどこなしたときに、新しく体得した何かと融合することがある。変革はその繰り返しの中で生まれる、偶然の連鎖にすぎない。そのため、どういった偶然を手に入れたいのか、という理想をできるだけ明晰にイメージできていると好ましいが、問題なのはこの理想というものが、本質的に明晰足り得ないという性質を有していることだ。ゆえに理想は絶えず形を変え、その姿を変貌させる。上達し、変革するたびに、理想こそがまっさきにその姿を変える。だからこそ余計に、理想から目を逸らさず、そのわずかな変化を見逃さないようにしなければならない。言い換えるならば、理想の明晰度をあげるというのは、理想の変化を見逃すな、という意味であり、けして理想を、確固とした目標にする、という意味ではない。この違いは、大きい。ここを勘違いしてしまうと、人はある時点で袋小路に陥り、変化を嫌い、形骸化していく。定かではない。(定かでないことをかっこつけて言わんといてくださる?)



※日々、偶然いいことありすぎる、道端にたんぽぽが咲いているとか、小鳥がチチチと鳴いているとか。



2971:【2021/04/26*分析なんてしたことないくせに】

他人からの評価分析よりも、じぶんの下した評価分析のほうが、経験上、精度が上であることが多いと感じる(うぬぼれやさんめ)。表層的なものよりも構造に目がいきやすい点が、他者との違いだと思う機会が多い(まだうぬぼれを重ねる気か、欲張りさんめ)。というよりも、専門家ならばいざ知らず、おおむねの人間は、評価分析するという経験が、私よりもすくない(もうその辺にしておいたほうがよくないですか?)。精度に差があって当然だ(あくまでじぶんが上と言い張りたいようですね)。むろん、専門ではない分野ばかりだから、評価分析の精度は相応に落ちる(それはそう)。お門違いな評価分析をしていることも多々あるが、それはそれで、素人らしく荒唐無稽ながらも、専門家ではないからこその意見となる傾向にあるのではないか、とやはりうぬぼれてしまうが、そのように感じている(認めればいいってもんじゃない)。だからかもしれないが、じぶんの成果物においては、わかりきったことを指摘されても、知っていますが?としか思わない(傲慢ちゃんめ)。有意義な意見とは、じぶんでは思いつかない着眼点のことを言うはずだ。評価分析の真価とは、基本的に、その精度ではなく、じぶんでは閃くことのできない着想にあると言える(それはそうかもしれない)。ゆえに、評価の高低や、分析の正当性は、表現の世界では、さほどに神経質にならずともよいとも考えている(そうなの?)。それはそれとして、有意義な評価分析であるほど、分析の精度は高い傾向にあり、それゆえに低評価であることもあるので、そも、評価分析におかれては、どのような視点での分析であるか、がすべてと言ってもいい気がしてきた(気がしてきただけかーい)。このように評価分析の評価分析をしたところで、しかし、お門違いな発想しかできない(うんうん)。その程度の分析と言える(そうだ、そうだ)。分析というか、所感というか、勘違いに、錯覚であるが(まさに、まさに)。他人の評価分析を見聞きするのは嫌いではないが、じぶんの成果物への評価分析に関しては、あまり重宝していない(なんで、なんで?)。その程度のことは織り込み済みですが、と思ってしまうからだ(何様なのこのひと)。低い評価をつけられたときには、妥当な評価ですね、と思うだけである(なんかこのひと偉そう!)。



2972:【2021/04/27*間違ってもすぐには死なない環境に生きていられる偶然】

じぶんにとってくだらない、価値がない、そういうものにも誰かにとっては価値があり、かけがえのない性質を浮き彫りにしている一面がある可能性については、つねに意識の片隅に、忘却してはいけない前提条件として、貼りつけておくことは、情報の取捨選択および集積にあたって、見逃しがたい偏向を抑える意味でも、好ましいように感じるしだいである。言ってしまえば、何が真実に有意義な情報であるのかは、集めてみて、そのときどきで判断しなくては分からないことであり、そのときどき、というものがつねに変化し、有用とされる情報が変化していく性質を帯びている以上は、何が無駄なのかは、つねに真の意味では判断できないと呼べる。言い換えるならば、任意の期間内において、または任意の局所的な環境においてのみ有効な素材として、有意義で価値のある情報が定義されると言ってもよい。いつなんどきであろうとこれさえ分かっていればいい、なんてものはないのである。人間はつねに欠けている。その欠落を忘れていても困らない環境に、いまはいる、というだけのことであり、見落としている欠落はいずれ必ず崩壊(死)を招く。繰り返しになるが、認識能力に限界のある人間にとって、この欠落は、つねについて回る。例外はないと言っていい。(人によって欠落の度合いに差があるにしろ。何を認識するのか、というその指標そのものが欠落を否応なく有している。眼球に死角があるようなものであり、前を向いていたら後ろは見えない、というレベルの話でもある)(認識できる範囲しか認識できないし、その認識というものですら、おおざっぱな、極めて荒い解像度という意味である)



2973:【2021/04/28*極論では?】

人類社会に限定して話をするが、この社会に真実無駄なもの、なくていいもの、という事象はない。殺人一つとっても、そういった事象があったからこそ人は規律を儲け、秩序をより生存に有利なものにしようとしてきたのではないか。もうすこし言うなれば、殺人という行為がこの世にあることを知ることは、知らないことよりもプラスに働く。こっそり殺人を楽しみ、その存在をひた隠しにする者がでてこないとも言い切れない。無駄だからなくていい、好ましくないから認識の壇上からも抹消してしまえ、というのは、長期的に見て、秩序を崩壊させる方向に働くように思われてならない。むろん、放置はできないので、対策をとるほうがよい。というよりも、対策をとれる、という一点のみで、そうした好ましくないものを完全排除するのではなく、僅かなりとも生じてしまうことを許容する姿勢が、長期的に見て、我が身を助ける一石となるのではないか(殺人を肯定しているわけではなく、そうした悪行があることを前提に、仕組みや秩序は築いていくほうが、より安全側ではないか、という意味です。別の言い方をするのならば、つねに、ないほうが好ましいものから受ける悪影響をなくそうとする工夫はしていかねばならないし、そのためには、ないほうが好ましいものを完全に抹消してしまえ、という考えは、合理的ではない気がしてしまう)。またべつの方向から論じるにしても、たとえばいまは無駄だけれども、新しい技術が別途にあれば、素晴らしい成果をあげる事象もある。人類の発展とはそういうことの繰り返しだったと言ってもいい。排せつ物にしたところで、人類はそれらを無駄にしてこなかったからこそ、ここまで発展したと言っても言い過ぎではない。いまは無駄かもしれないが、それはけっきょくのところ、生かす知恵をまだ編みだしていないだけにすぎない。これはどんなものにでもあてはまる。真実に無駄なものは存在しない。無駄なものとして扱うしかない人類の未熟さがあるだけであり、見方を変えれば、この世にあるすべてのものは元は無駄なもの、役に立たないものなのだ。それをせっせと役に立つようにしてきた過去の者たちがいただけのことであり、無駄なものや役に立たないことにこそ目を向け、それらを活かそうとする意思こそ、現代を生きる我々に求められる姿勢なのではないだろうか。こんな無駄な文章とて、いつか誰かの知恵により、なにかの役に立つかもしれない。定かではない。(かといって、巨大な隕石が地球に降ってくるような事象は、ないほうがいい。ここで言ったのはあくまで、人類社会のなかでの無駄なもの、という意味であり、人類が滅亡するような類の事象は総じて、ないほうがいいものではある。また、時代の変化に際して、減少したり、変質していくものはある。石炭はいまではほとんど使われていないし、電話交換手もいまでは途絶え、或いはコールセンターに派生した。だがそれら過去の来歴があるからこそ、いまがある。そしてそれは、過去から現在だけでなく、現在から未来にも同じことが言える。いま無駄なものであっても、それがあったからこそ築かれる未来がある。できるだけその芽を、可能性を、潰さずにいたいものである。或いはこうも言い換えられる。できるだけ無駄なもの、ないほうがよいものを、好ましい未来に向けて活かしていきたいですね、と)



2974:【2021/04/29*私は愚かです、という言い換えです】

一面的にしか物事が見えていない者に対して、多面的に物事を見ろ、と言っても、解釈の合意の形成や説得という意味合いではあまり効果がない。なぜなら、一面的にしか物事が見えていない者であっても、当人の感覚では多面的に物事を見ている、と勘違いしてしまっているためだ。これは大なり小なり誰であってもあてはまる。そもそも人間は世界を正しくありのままの姿で捉えてはいない。誰もが多面的になど世界を見られてはいないのだ。たとえばどれほど立体的な絵を描こうが、それはけっきょくのところ二次元である。厳密には多面的には見ていない。だが、たとえ三次元の立体を目にしていようが、ではその人物が、二次元の写真を見ている者よりも多くの側面を捉えているかといえば、これも個々人によりけりで、一概にそうとは言えない。一面を見ただけで、その背後を想像し、捉える者もあるだろう。けっきょくのところ、多面的に物事を見ろ、という指摘は、往々にして、欠けている情報があることを想像しろ、という意味合いなのである。何が欠けているか、どこに足りない情報があるのかを知っていることが、多面的に物事を見ることの利点と言える。畢竟、誰であっても物事を多面的、多角的に見ることはできない。どんな情報が欠けており、その情報が欠けているとどれほど実体とかけ離れて見えてしまうのか。実像と虚像と、真実それそのものの距離感を測ることが、すなわち多面的に物事を見ることの本質と言えそうだ。じぶんがどれほど歪んだ虚像を現実として捉えているか。それを自覚することが、より真実にちかしい世界を見るという意味で、妥当なのかもしれないが、どれほど気をつけたところで、人間はそもそも世界を正しく見たり、解釈したりすることはできない。その歪みをすこしずつ自覚し、修正していく営みこそが、科学であり、論理なのであろう。定かではない。(定かでないことをすまし顔で言うのやめなさいよ)



2975:【2021/04/30*堕落の化身と呼んでください】

出来得る限り苦しまずに生きていきたい、と望むことの何がいけないのだろう。そしてその望みを叶えようと抗うことの何が間違っているのだろう。抗うからこそ苦しいのではないか、との指摘もあろうが、そうした意見には、そうした側面もあるかもしれないが、だからといって流されれば楽なのかと言えばそれも違うだろう、と反論しておきたい。どちらが理想とする生に近づけるか。その違いにこそ、苦しみを抱く余地を預けたい。(苦しみたくなーい。楽がしたーい。楽しいことだけしていたーい)



2976:【2021/05/01*予測の是非】

メリットとデメリットが半々ずつ含まれる選択肢が複数ある場合、何を選んでも失策と捉えられてしまうし、何を選んでも最善とはならない。だが選ばずにいれば、確実にデメリットだけを百パーセント受けることになる。こうしたときには、とりあえず何かを選ぶことが優先されるが、だいじなのは、そのさきにどのような選択肢がさらに広がるかを加えて予測しておくことだ。一回の選択であればどれを選んでも同じかもしれないが、選択の回数を重ねれば必然、枝分かれした結果の筋道は違ってくる。水脈がそうであるように、僅かな変化とて、繰り返せば、行き着く場所は大きく変わってくる。絶対に行ってはいけない方向を見定め、なおかつ選択するという行為の途切れない道を選んでいくのが好ましい。一見すればどれを選んでもいっしょに見えるかもしれないが、往々にして人生という大局で見れば同じではない。一つの選択肢に囚われず、広くその先に広がる枝葉がごとく網の目の未来に思いを馳せよう。予測は、そうした視野の拡張を意識して行うことでしか成し得ない。(というよりも、視野の拡張を行える、という一点で、予測には価値があると言えそうだ)(ホントか?)



2977:【2021/05/02*無礼でごめんなさい】

何かしらの論の根拠が、「いままでがそうだったから」とか「強者が通った道だから」とか、循環論法や歪んだ自然淘汰の原理を引き合いにだす類の論説は往々にして破綻している。また、畑が異なるのならば、そこで期待される成果物もまた異なる。その畑で不要だからといって、ほかの畑でも不要かどうかは分からない。一つの畑の基準をすべての成果物に当てはめられても困るし、それは早まった考え方だ。視野を広く持ってほしいし、その点を、すくなくとも何かを審査する側はつねに持ち、前提として補足しておくほうが親切ではあるだろう。わざわざ言い方をわるくして、立場のわるい者の反感を招かなくともよいだろう。そうした反感を期待しているのならば、悪質だと言える。なんにせよ言葉というものは、立場の上の者が、下の者に気を使うものであり、逆ではないのだ。礼儀とは、上の者が下の者に向けるものである。(いやいや、誰に対しても礼儀を尽くしてくださいよ。本当頼みますよいくひしさん)



2978:【2021/05/03*だって楽しいんだもん】

SNSから距離を置いてもいかに困らない生活を築けるかが、これからの十年の幸福の基準となっていくのではないか、との予感がある。SNSを利用せずとも満たされる自尊心と情報源を持とう。(おまえが言うな大賞一位とれそうな言葉やね)



2979:【2021/05/04*私はたまにうそつきです】

いいなぁ、ではなく、いいぞ、と思うと精神によい。暗かった視界がぱっと明るくなる。他人が何か成功していたり、何かを手に入れていたり、活躍していたときは、とにかく、いいぞ、と心のなかで唱えるとよい。口にだしてもいいだろう。だしたことはないが。それでも、口にだしただけでも、精神によいのが判る。羨望ではなく、応援である。いいぞ、と思えば、じぶんも他人もみんなよい。ただし、批判の視点も忘れずに。(じぶんに対してはつねに、いいぞ、と思っているからこうして言い聞かせる必要はないのだ。私はつねにいいのだ。たくさん失敗しているだけのことで)(うそ。ほんとはいつでも、もうだめだー、と思っています)



2980:【2021/05/05*言うほど抱えていない問題】

いったんすべてを捨て去って、それでも残るものを確認する時間がほしくなるときがある。たくさんの知識や技術を抱えてしまったがゆえに、それらダマとなった情報を繋ぎ留めておくために脂肪までもたらふく抱えこみ、身動きがとれなくなって感じられるときがある。いちど身に着けたものを手放し、身軽になってなお手元に残るモノの価値を確かめたくなるのだ。そのためには、身体いっぱいで抱えきれないほどの何かをいちど抱えなくてはならず、この行為は何度も反復することとなる。いずれはこの行為すら重荷に感じ、最も純粋な何かを得るために、命さえも擲つのかもしれないが、いまはまだ、その境地に立ちたいとは思わない。波のような反復に身を委ね、そのたゆたいを楽しんでいきたい。(泳げないので、浮き輪がほしいところだ)



※日々、存在しない存在ばかりを積みあげる、見えない、触れられない無数の箱は、いくら鬼でも崩せない、私だけの賽の河原で遊び尽くす。



2981:【2021/05/06*サボる言い訳】

たゆまぬ努力というが、常に日々張り詰めていては肉体の消耗を加速させるだけで、逆効果に思える。一流とは、何を妥協してもいいのかを最小単位で理解していることを言うのではないか。そして妥協していいことは、常に変化していく。また、誰が本当に一流なのかを見抜く審美眼があることも条件の一つに入れていいように思う。一流とは、一流同士でしか認知しあえない暗黙知そのものと言える。(ということは、いくひしさんは誰が一流かを一生見抜けないってことですね。かわいそ)



2982:【2021/05/07*確率で把握する癖をつけるとよい】

未来予測には、精度と距離がある。いかに正確な予測かはむろんのこと、どれくらい遠くの未来を計算できるかも、予測の主要な指針と言える。予測の能力値は、個々人によって異なる。予測の精度が高くとも、目先の未来しか見通せないのであれば、あまりあてにしないほうがよい。精度が低くとも、ざっくりとした大枠で、遠い未来を予測できるのなら、それは得難いビジョンとして共有しておいたほうが利になる予測と言える。そうした予測の能力差は、無視できない行動選択の差として現れる。問題なのは、必ずしも長期的な未来予測を精度高く行える者が生存に有利となるわけではない社会構造にある。社会の構成員の大多数が、短期の未来予測を基に行動選択を行っている場合、そうした大衆の行動は一つの流れとして、揺るぎがたい因果の筋道を確保する。そっちに行くのは危ない、と長期的な未来予測を示したとしても、そうした流れを変えるのは容易ではない。往々にして、焼石に水を地で描く。また、中期的な未来予測を行える者は、そうした大勢の構築する流れを利用して私利私欲を満たそうとするので(つまり長期的な未来予測ができるのならばそうした行動をとることの社会的な害を理解できるはずなので――社会的に害があるのならば回りまわってじぶんにもその危険が巡ってくるだろうと理解できるはずだから――そうではない時点で、長期的な未来予測ができない者と呼べるため)、ますます抗いたい流れが強化される。こうした流れを変えようとすることは、長期的な未来予測を精度高くできる者ほど、諦める傾向にある。無駄だと判るからだ。しかしもし、短期中期長期といずれの未来予測をも精度高く行える者があった場合にはその限りではなく、そうした者が往々にして、世の中の大きな流れを変える布石を投じることとなる。ピタゴラスイッチさながらにそうして投じられた布石によって生じた波紋により、大きな流れは、任意の方向へと進路を変え、或いはその流れそのものを干上がらせる。未来予測の真価とはこの流れを変えることにこそある。流れそのものはどこにでも漂っている。どの流れを強化し、どの流れと流れをくっつけ、どれとどれの流れを妨げるのか。短期中期長期の未来予測のそれぞれでこうした作為が交錯し、ゆえにすべての視点で吟味できる者たちこそが、流れを任意の方向へと灌漑し、ときに堤防を築くことで、新たな土地へと運ぶ役割を担える。何を運ぶのか、と言えば、流れそのものではなく、流れを構成する成分たちを、であり、それはときに、水であり、養分であり、人そのものであり、或いは技術や知恵、文化や文明そのものである。(私はこの予測がものすごく苦手なので、たいがい外れてしまうので毎日、うがー、となっています)



2983:【2021/05/08*集めて作り壊して忘れる】

型をつくったら壊す。それはある意味で、型を忘れることもでもある。否、忘れることのほうにこそ本質がある。忘れるために、壊すのだ。忘れるよりも壊すことのほうが簡単だからだ。型をバラバラにし、そしてまた新たな型を組みあげる。その材料は、砕けた型の破片であり、同時に新たに調達した素材ともなる。壊さずに、型を何個も保存していく方法もなくはないが、人間の処理能力、こと記憶容量からすれば負荷の増加は免れない。負荷が増えては、よりじぶんにとって好ましい、自在な型には届かない。否、或る程度の負荷があってこそ、強靭な型がつくれる場合もある。だがやはり、それを破壊しないことには、つぎなる境地へとは旅立てない予感がある。破壊は簡単だが、しかしより細かく砕き、素材にするには、相応のちからがいる。単に崩すだけではなく、粉々に砕き、忘却するためには、強靭な型と同じくらいに強靭な別の型がいる。二つあれば、双方をぶつけあい、ぐちゃぐちゃにできる。いったん無になれる。無地を描ける。できるだけ別の土壌からこさえた型であるとよい。破壊と創造を繰り返していくとやがて、どんな型と型をぶつけあい、まぜこぜにするとよさそうかを想定できるようになる。色と色をまぜて新しい色を作るように、組み合わせの知識だけは、蓄積されていく。忘却しようとしても、それだけは身体が覚えるのだ。それこそが肝要だ。否、それをこそ残すために、壊し、忘れ、つくるのである。(みなさんご覧ください。これがかの有名な、なんかそれっぽいこと言いたかっただけのひとです)



2984:【2021/05/09*立場と基準と眼識】

相手の立場で物を考える、というのは、立場によってその効能が様変わりする。たとえば立場が上の者の場合は、じぶんよりも環境のよろしくない、より不自由な者たちの苦悩を想像し、それを解消するように行動指針をつど修正していくことが、回りまわって世の中から不平等や理不尽を失くす流れを強化する。あべこべに、立場の下の者たちは、じぶんたちよりも枷がなく自由度の高い者たちが、いったいどのような行動原理でそれを選択し、或いは選別しているのかについて理解を深めると好ましい。なぜ好ましいのかと言えば、基本的に世の中の評価基準をつくるのは、立場が上の者たちだからだ。ではそうした者たちは、どのような基準で、人材や成果を評価するのか。これはどの分野であっても共通しており、その分野にとって都合がいいか否か、である。だが、分野とは世界と同義ではない。社会の一部であるが、それがイコールすべての社会ではない。分野の発展を目指すことで、社会全体に不平等や理不尽が増えては困るのだ。そのために、分野の発展だけではなく、それが広く公共の福祉に与するように、評価基準を修正していく必要がある。修正するためには、評価基準がどこにあるのかを解っていなければならないが、往々にして立場の上の者たちは、じぶんたちよりも立場の下の者たちに、この評価基準を明らかにしない。建前やきれいごとで煙に巻くことはあるが、往々にして真実を口にすることはなく、ときにはじぶんたちですら、本当のところを自覚できていなかったりする。岡目八目ではないが、外野から眺めて初めて明らかになる基準もあるのだ。そうした曖昧な、しかし絶対的な仕切り――ときに壁――となり得る評価基準を、立場の下の者たちは、じぶんたちよりも上の立場の者の視点で考え、見抜くことで、より対等な交渉を可能とする。まずは見抜かねばならない。そして立場の上の者たちは、じぶんたちよりも立場の下の者たちに、その評価基準を見抜かれても(よしんばわるいほうに勘違いされたとしても)問題ないとする姿勢を保つことが、より長期的な安寧や秩序を築くうえで有効であり、合理的なのだ、とする知見を持っていると好ましい。相手の立場で物を考えるとは言ってもこのように、その効用は、立場によって様変わりする。だが相互に作用して、社会全体を好ましい仕組みに変えていくこともできるのである。そうあってほしいと望むものである。(そういうむつかしいことは、みなに任せて、いくひしさんは毎日、うがー、ってしていたい)(うそ。うがー、ってならないように、全人類どうにかしてほしい)



2985:【2021/05/10*さいきんお腹がスライムみたいでかわいい】

衰える、というのは、ひょっとすると余白が広がることなのかもしれない。筋肉をつけるためにはまず脂肪を蓄えるとよい、という理屈と似ている。まずは休息をとり、身体を衰えさせてから、そこで開いた余白に、つぎなる新しい技術を刻みこむ。これは思考も似たようなものだ。まずは熱を持った頭脳を冷まし、いったん休眠させてから、つぎなる新しい思考形態を築いていく。それは回路をつくるのに似ており、なるべくまっさらな状態であったほうが好ましい。まっさらにするのだから、以前に使用していた回路の得意としていた思考はむしろにぶるのが道理だ。しかしそうして、いったん保留し、ときに破棄して塗り替えないことには、つぎなる思考、回路、視野、を獲得できない。一つの回路を延々と発展させる、という考えもできなくはないが、それはそれで余白は入り用だ。けっきょくのところ、いかに理想を思い描き、創造を具現化させる土地を自らの身体に与えられるかが、枝葉や根を伸ばしつづけるためには欠かせないのかもしれない。つまり、鍛錬だけではなくむしろ、休息や遊びの時間がたいせつなのだ。(筋肉をつけるためにまずは脂肪をつける、というのはじつは科学的根拠はない、というのは通説なのだろうけれど、実感としては、脂肪をつけたときのほうが筋肉痛になりにくいし、体力の回復にプラスに働いて感じられる。因果関係はないが、相関関係はある気がしている)(筋肉を酷使するほど激しく動いたりはしていないけれども)



2986:【2021/05/11*ぴゃー】

小説に関して言えば、日々の生活や日常の風景における心の動かされた瞬間を、ときに装飾し、誇張し、または余計な部位を削ぎ落して、描くことが、結果として人の心をも動かす物語になるのだと考えている。ゆえに、読書だけをしていても極上の新鮮な物語は描けないのだろう。いわば読書は、物語を描きだすための部品や道具の手入れであり、準備だ。物語の部品そのものは、日常生活から仕入れなければならない。ときには読書をしたときに動かされた心の機微を流用することで物語を描くこともできるだろう。だがそれはけっきょくのところ、焼き増しでしかないのだ。そこに、じぶんの触れてきた生の刺激や情報が練りこまれていなければ、二次創作との違いを探すのはむつかしい。ひるがえって言えば、二次創作とて、そこに作者の生の刺激や情報が練りこまれていれば、どれだけ元の物語に似ていようと、紛れもなく創作であり、表現である。もっと言えば、どんな人間であれ、なにかしらを表現すればそこには、生の刺激や情報が挿入されることになる。ゆえに、物語の質を決めるのは、その配分であり、配合であり、いかに練りこませ、任意の色を、思い通りの位置に、意図したとおりの滲み方でおいていけるのか、にあるのではないか。もちろん物語は、それを受け取った側のなかに展開された世界こそが本物であり、すべてである。意図したとおりの世界を思い描いてもらえるかはわからない。往々にして、異なった世界が展開されるものだが、それを含めて、意図した絵柄になるように作者は、己がうちに広がる世界を練りあげ、つむぎだす。ゆえに、できるだけ人生を味わうほうがよい。それが楽しいか否かは別問題だ。味わうのである。そうして咀嚼し、嚥下し、消化吸収した刺激や情報が、極上の新鮮な物語を生みだす素材となる。もっと言えば、ひねくりだされる世界とは、そうした刺激や情報のしぼりかすと言ってよい。創作や表現とは、ほとんどそういうものである。主要な栄養素は基本的に、味わった本人の血肉となり、ゆえにつぎなる刺激や情報を味わう活力を当人に与える。繰り返しになるが、創作や表現に限らず、何かしらを生みだすためには、人生を、日々を、味わい、生きることである。(まったくできていないひとが言うと説得力があるじゃろ?)(ゼロでは?)(ぴゃー)



2987:【2021/05/12*平面で見ながら、立体を構築する】

何か知識を得ると、任意の事象を目にしたときに、これはこういうもの、という箱ができて、それを以って何かを解った気になってしまうものだが、知識の有効性とはそういう安易な断定にあるのではなく、同時並行でほかの箱にも当てはめることができる、というある種の重ね合わせを実現できることにあるのではないか。こういう視点ではこういうくくり方ができるが、これはこれでいちどおいておいて、ではほかにはどういうくくり方ができるだろうか。そういう物の考え方を、ある種の秩序を築きながら、整理しながらできる。知識はそのための箱であり、箱を並べ替え、整理し、築いた秩序そのものが新たな知識として箱を形成する。この繰り返しの果てに、夜空の星々のような紋様を浮かびあがらせる。宇宙の大規模構造は、平面的に見たときにのみ現れる図柄にすぎず、一つ一つの星の点描は、一見した大きさでは、その位置関係を把握できない。巨大な恒星が遠くにあることで、ちいさな点として映る。あべこべにちいさな恒星とてちかくにあれば大きく映る。この繰り返しと融合によって、大規模構造という宇宙にあるゆらぎの結晶が現れる。思考形態にも似たようなことがあてはまるのではないか。それこそが自我を育むということなのではないか、との直感を述べて本日の日誌としておこう。(妄想ですので、真に受けないでください)



2988:【2021/05/13*私は無知なので知りたいのです】

世の中で高評価のモノをじぶんが何かしらの審査をする側ならば選ばない、ということがある。権威のある賞を受賞した作品であっても同様だ。じぶんが審査員ならばまず選ばなかっただろう、というものが選ばれている。ここで言いたいのは、審査員の見る目がない、ということではなく、じぶんのような人間が審査員でなくてよかった、という安堵の念だ。じぶんが選ばないものを選んでくれる者たちがいる。じぶんには素晴らしいと思えないものを、素晴らしいと評価してくれる者たちがいる。それによって、なるほどこういうものにも素晴らしい点があるのか、と判る。いったいどこが素晴らしいのだろう、と興味のなかったものに興味関心が芽生える。賞や、高評価、というものは元来そういうものである。これは翻って、じぶんでは好きなモノやコトが評価されない場合でも同様だ。なぜその評価者は低く評価しているのだろう、という新たな視点が生まれる。視点を増やし、解釈を増やすことは、じぶんの世界の幅を広げる。つまり、高評価だろうと低評価だろうと、評価そのものの持つ効用は変わらない。高評価なモノが必ずしもじぶんにとって価値があるとは限らないし、逆もまたしかりだ。評価とは基本的に相対的なものでしかない。絶対的な指標とはなり得ない。そうした分別をつけるためにも、視点や解釈を増やそうとする意欲は欠かせない。そのためにも、できるだけ、これまでになかった視点や発想、世界観ほど得難いものとして評価していく姿勢が、権威のうえに評価する者たちには求められるのではないだろうか。(あなたがよいと思ったものを、たくさん教えて欲しい)



2989:【2021/05/14*もっと楽しくできる気がする】

大きく型をつくることと、細かく精密に流れをつくることは、相互に機能を高める。しかしいちどできた型だけに頼っていると、細かく緻密な流れをいかに変化させたとしても、ぱっと見の印象は変わらない。あべこべに、いかに大きな型を変えたところで、細かく緻密な流れを変化させ、新しい流れを築いていかないことには、うつくしさを磨く真似はできない。たとえうつくしくとも印象に残らないこともあるし、たとえ印象に残ろうともうつくしくはない粗暴な型というのもある。それはそれで得難い旨味となることもあり、いちがいに美を追求すればよいというわけではないにしろ、理想を追求していけば否応なく突きあたる壁というものもあり、それを打ち砕き開かれる道は往々にして、美へと繋がっている。大きく型をつくりながら、細かく緻密な流れを築きあげ、さらにできた流れそのものを変化させ、大きい型をより美しく磨きあげていく。その反復があるばかりであるが、それからさきにも何かしらの活路があるように思われてならず、それはおそらく、これ以上美を追求しない、という我執(理想)からの解放を以って開かれるつぎなる遊び場であるようにいまはなんとなしに直感している。定かではない。(要するに、飽きているのです)



2990:【2021/05/15*植物さんはえらいなぁ】

植物の時間感覚で人間を知覚するとすればそれは、人類からしたウィルスと似たようなものなのではないか。ウィルスは言い過ぎにしても、虫のようなもののはずだ。植物は匂いや根っこから分泌する伝達物質によって、ゆっくりとではあるが、ほかの植物と情報の伝達を行っている。それはたとえば、毒の有無や日光や土壌の様子などであろう。生存に有利な環境か否かを、ほかの個体と共有すべく発信しているのだ。会話をしているようなものであり、やはり植物からすると人間は、超高速で動き回る虫や、存在を危ぶめるウィルスのようなものに感じられるのかもしれない。定かではない。(うろ覚えの情報をもとにした妄想ですので、間に受けないでクロサイ。それはツノのある動物、鎧をまとったような皮膚をしていて、ほかにはシロサイやインドサイ、スマトラサイもいるよ)




※日々、無数の流れのそとにいる、濁流に呑まれぬように、目を回さぬように、上から下から、矯めつ眇めつ眺めるように。



2991:【2021/05/16*きみはデタラメばっかりなんだから、もう】

人間は、ある一定以上の財や影響力を有すれば、基本的には援助に回るようになるのではないか。じぶん以外の者にあらゆる環境の発展や改善を行ってもらうほうが苦労しない。自己保身を考慮すれば、それはすべからく援助であり応援であるべきだ。献身なのである。おそらくこれからの企業や権力者に求められる資質とは、献身の姿勢であろう。これはほとんど既定路線であり、国家ですら例外ではない。そうでなければインターネットの張り巡らされた社会にあって、支配階級に位置づけられる者たちはつねに銃口を突きつけられているようなものであり、ゆえに命の危機すら容易く招くことになる。権力を手放さずに自由な環境を築くためには、献身の姿勢を手放さぬことである。ひるがえって、より自由な環境を求めるならば、権力や影響力を求めないほうが都合がよい世の中になっていくのかもしれない。定かではない。(先進国ほど出生率が低くなっていくのと似た原理かもしれません)



2992:【2021/05/17*がははは】

ある作家が、ツイッター上で、「不倫をした芸人を辞めさせるような流れはおかしい」といった旨を述べていた。じぶんたちが我慢していることをされたのでズルイと言って怒っているだけでは、とのことだ。条件反射的な所感としては、それの何がおかしいのだろう、と思った。ズルいというよりも、結婚という一つの契約を破るような人物が、大多数に影響を与える地位にいる。これを問題と捉えないことのほうがおかしいと感じるが、いかがだろう。刑事の管轄か、民事の管轄かの違いがあるだけで、理屈の上では万引きして捕まったようなものであり、痴漢をして捕まったようなものだろう。犯罪ではないだけで、社会的な秩序を脅かす行為であることに違いはない。不特定多数の相手と恋愛をしたいのならば、そも結婚をすべきではない。せめて離婚をしてから、或いは、配偶者と合意を結んでから行うべきだろう。配偶者との合意を結んでいれば、民事でも負けることはない。つまり不倫とはならない。不倫をしたのならば、それはやはり相応の責任をとるべきだ。大多数に影響を与えるような地位には立たないほうが好ましい。これは理屈上、一国の首相がじぶんの思想信条を優先して、公務ではないプライベートで犯罪ではないが、首相として好ましくのない行動をとることの是非を問うのと同じである。大多数に影響を与える者には相応の社会的責任を担ってほしいと求めることはそれほど理屈に合わない望みではないはずだ。むしろ、影響力を持てば(偉くなれば)不倫も容認されるのか、といった誤った風潮が広まるよりかはマシだろう。これは裏から言えば、アイドルの恋愛はご法度、といった誤った風潮が築かれていることと根っこは繋がっている。アイドルであろうとも人であることに変わりはない。社会的に容認されている人権は守られてしかるべきだ(人権のなかにも、現状社会的に容認されていない事項があるので、こう表現するが、基本的人権は本来、誰の容認もいらない。ただし公共の福祉を著しく乱さない限りにおいて、との但し書きがつくはずだ)。それが社会的責任というものだ。アイドルだからこそ、人権侵害にあたるような禁止を享受すべきではないのである。むろん、そこにも公共の福祉の観点が加味される。思想信条を優先して、社会的な損失を与える真似は控えねばならない。大多数に影響を与える者には、相応の責任が生じるし、そうあってほしいものである。(だからいくひしさんは影響力を持ちたくないし、持たないほうが、社会を構成する大多数にとって好ましい)(なぜならワガハイ、傲慢なので!)



2993:【2021/05/18*言葉足らずだったかも】

上記で、政治家と商売人を同列に語ったが、いささか強引だったかもしれない。たとえれば教師と生徒のようなものだ。教師には許されずとも生徒には許される行動があるのはたしかに思われる。立場によって、許容される行為はたしかにあるのだ(反対に、立場によって一般通念では許容される事柄であっても許容されない場合もある)。だがたとえば、何か過失を犯したときに、それがいかに個人的なことであれ、その結果に他者からの評価が落ちたならば、やはり信用を損なう。人気商売を担っていたならば、他者からの評価はその職業をつづけていくうえで大事になってくる。他者から何を言われようとも、契約や法律に違反していないのであれば、職業を辞める道理はないのかもしれないが、そもそも他者からの信用を損なえば商売をつづけてはいけないだろう。直接の因果関係はなくとも相関関係はある。もちろん、そういった大多数の意見によって個人の尊厳が損なわれるのは間違っている。しかしそもそも人気商売は、そういった誤った認知の歪みを用いて、他者からの高評価を集めているのではないか。ならばその逆の効果も引き受けるのが道理であろう。一方はよくて一方はダメだ、は理屈として合わない。ただしこの考え方の場合、仮にどんな反社会的行為を犯そうともそれにより却って人気が出た場合には、それを享受しても理屈の上では妥当になる、という負の側面がある。やはりどんな場合であれ、信用を損なう真似をしたならば、それがいかに個人的なことであれ、その者の社会的地位と相関してその責任のあり方を考えることは、それほど間違ってはないように思う次第だ。ただし、その裁量は大勢からの偏見によって恣意的に変動するので、慎重な判断が必要とされるのは言うまでもない。(むつかしそうに言っているけれども、失望させたら人は離れていく、という単純な話だ。理屈で判断できない者が多い社会では、顧客に失望されたら仕事はつづけていけない。失望される理由は、それこそさまざまあるので、その良し悪しには慎重になってほしい、という意見に異論はない)



2994:【2021/05/19*あなたも私も、差別の恩恵を受けている】

差別問題については、大別して二つの視点から分析していくのがよいのではないか、と感じている。一つ目は、権力を保持している者が自身の権力に無自覚な点だ。弱い者いじめをするな、という禁止に対して、じぶんが強者であることを自覚できない者は、この禁止を自身にあてはめて考えることがそもそもできない。ゆえにまずは、じぶんがどんな立場であると強者になるのか、という視点を各々が自覚できると好ましい。どんな人物であろうと、ある場面では強者であり、またべつの場面では弱者になり得る。往々にして同時に満たしているものであり、どんな場面であるとじぶんは強者になり、または弱者になるのかを考えておこう。また、人間は社会性を育む過程で、差別を学ぶとも言える。これが二つ目の視点だ。個人ではどうにもならない構造が、差別を社会に蔓延させる因子になっている。たとえば人間はコミュニケーションをとるわけだが、どうすれば最も効率よくじぶんに有利な環境を整えられるか。或いは、仲間を築けるか。こうした社会のなかでの立ち位置をじぶんに有利にするために洗練されてきたコミュニケーションの技術そのものが、差別を内包している場合、そこには社会的に妥当な利があるために、それを差別であると見抜けない、または見抜けても見て見ぬふりをしてしまう、という奇禍の種が含まれる。ゆえに、まずは社会全体で、そういうコミュニケーションは好ましくない、なぜならこうした分断や属性への差別が助長されるからだ、という視点で議論を行っていくことが、差別の悪影響をすくなくしていくうえで欠かせないのではないか、と思うしだいである。(差別の権化みたいなひとが言うと説得力があるじゃろ?)(わぁ、ホントだ)(否定して!)



2995:【2021/05/20*モコモコ】

生きていると思わぬ符号の合致を目の当たりにする機会がある。思いのほか多い。あたかも、じぶんがそうと念じたからそれが引き起きたのではないか、とすら思うようなことが連続して起きたりする。しかしそこに因果関係があることは極めて稀だ。ほとんどが偶然でしかない。この世のどこかではいまこの瞬間に地震が起こり、或いは雨が降り、それとも雪が舞っている。その情報を目にする機会があるかどうかの違いがあるだけで、あす地震が起こる、雨が降る、雪が舞う、と言っておけばひとまず外れることはない。いつどこでなにが起きるのか――すくなくともこの三つが当たらなければその予測は偶然でしかない。もちろん漠然とした予測としてならば、ある程度の精度で予見はできるだろう。砂漠で雨の降る確率よりも、梅雨入りしたこの国での雨の降る確率のほうが高い。あたりまえの話だが、このあたりまえは、未来を予期し、予測分析できる人間の知能が可能とする蓋然であり、けして単なる偶然ではない。法則を見抜き、複数の未来を想起し、過去の事例を統計し、類推しながら、総合して確率を計算できる人間の営みがなせる業である。ただし、その確率の計算というものは、だいぶんどんぶり勘定であるし、見逃されている情報が確実にある。その見逃された情報によって、予期せぬ事態が引き起こることは、珍しくない。楽観視と言えば端的だ。往々にして人間の予測というものはそういうものだ、と言ってもよい。ただし、そうして訪れる予想外の事態ですら、統計して集め、確率の計算の精度を高める素材として有効活用できる。ゆえに、思わぬ符号の合致を連続して目にしたときに、それが単なる偶然なのか、そうではないのか、の判断には慎重になっておいたほうがよい。その事例を素材として用いてよいのか、それとも素材にすらならない偶然でしかないのか。それを知るためにも、符号の合致をただの偶然と片付けずに、何かしらの背景があり、法則や仕組みがあるのではないか、と想像し、吟味する習慣は、予測の精度を高めることに繋がる。予測は基本的に外れるのだ。しかし外れた予測から学べることもあり、外さなければ得られない情報もある。繰り返しになるが、多くの符号の合致は偶然である確率のほうが高い。ただし、それだけとも限らない。また、因果関係ではなくとも、相関関係になっていることはある。これもまた、見逃している側面の一つだ。まったく関係のない者同士を結ぶ因子があるかもしれない。化学反応を起こしている触媒があるかもしれない。歯車の役割を果たす因子が、あちらとこちらを結びつけ、関係させているかもしれないのだ。その結果、ニワトリが鳴き、川が干上がるという、一見すると奇跡のような事象が引き起こり得る。たとえそのような事象が連続して引き起きたからと言って、ではニワトリの鳴き声に川を干上がらせる性質があるのか、と言えば必ずしもそうではない。何かしらの見えていない仕組みが、ニワトリの鳴き声と相関して、川を干上がらせている可能性が残っている。むろん可能性があるだけであり、これもまたまったくの偶然かもしれないし、或いは川が干上がることですら、ほかのもっと大きな仕組みが動いた結果に副次的に生じた事象であるかもしれない。いずれにせよ、符号の合致の多くが単なる偶然だとしても、そこに何らかの因果関係や相関関係がないかを見定めようとする姿勢は、回りまわって予測の精度を高めると言えそうだ。或いはこうも言い換えられる。予測しないことには、予測の仕方を修正することもできないのだ、と。(失敗することの意味とは、半分くらいはこの効能に集約できる気がする)(きみはいつも、気がするとか、かもしれないとか、曖昧モコモコしすぎクンやね)(わぁ、羊みたい)(モコモコにだけ反応するの、やメェい)



2996:【2021/05/21*価値と法則】

いつどんな時代にあっても、結びつけるモノ、の価値は揺るがないように思うのだ。その副産物として、解きほぐすモノの価値もまた一定水準以上に維持される(マニキュアと除光液みたいなものだろうか)(だいぶ違う)。たとえばこの世から人類がいなくなれば、素人の作曲した音楽と、モーツァルトの作曲した音楽のあいだいにハッキリとした価値の差はないと言える。これは音楽に限らず、あらゆる人間の生みだす成果物に言えることだ。しかし、例外がある。それは何かと言えば――事象と事象を結びつける作用そのものである。この宇宙では、無から有が生じたが、そこから種々相な物質が生まれたのは、融合と崩壊の繰り返しによるものだ。重力の揺らぎができ、星々が形成され、超新星爆発が起き、重金属などの物質が錬成された。融合と崩壊とはすなわち、結びつけ、ほぐす、ということだ。まずはなんであれ、結びつけることが前提に立つ(もちろん、結びつける素材がある場合に限る話ではあるが)。結びつけるのは何も、異質な物同士である必要はない。同じ物同士であっても、結びつき方やその規模によって現れる性質は変わる。巨視的微視的な視野の違いで、観測できる性質もまた変わってくる。いずれにせよ、結びつけないことには何も生まれない。ただし、その前段階には、流れを妨げる障害物が生じている。障害があるゆえに、流れに偏りが生まれ、差異ができ、それが結びつけるべき素材の輪郭を生みだす。障害はどんな流れにも生じている。畢竟、障害があるからこそ内と外が区切られ、流れが一定の枠組みに抑え込まれている。そうした流れや障害すら、結びつけるモノにとっては素材の対象となる。結びつけるモノは、つねに内と外を観測できる上位の次元に位置する。俯瞰し、観測できるからこそ、結びつけることができる。これは、どんな時代、どんな環境であれ、この宇宙にある限り、変化を生む種そのものである。価値とはすなわち、何かを新しく生みだすことだ。これまでなかった変化を生み、変化をもたらす。そうした変化を止める術ですら、変化の一つと数えられる。停滞や維持もまた変化の一種なのだ。そうした数多の変化は、大小の区別なく、総じて事象と事象の結びつきによってなされる。ゆえに、いつどんな時代、どのような環境であれ、何かと何かを結びつけられるモノの価値は揺るがない。結びつけるモノこそが、価値の本質なのである。(それを、法則の、と言い換えてもよい)(妄想ですので真に受けないでください)



2997:【2021/05/22*へへん】

とくに書きたいことも伝えたいこともないときに、無理やりに文章を並べても、けっきょく書きたいことも伝えたいこともないんだ、ということ以外を並べるのはむつかしい。だが一転、これが小説の場合であると、ただ文字を並べるだけで、それとなくなんとなく、なんらかの物語らしいものがつむがれていく。おそらくは、何も書きたいことがなく伝えたいこともない状態のほうが、却って「じぶん」という殻に縛られずに済むゆえに、より純粋に物語の登場人物たちに寄り添えるのではないか、という仮説が成り立つ。反面、じぶんを反映してキャラクターを叙述することができないため、別途にキャラクター造形の素材となる乱雑な情報が入り用となる。これは書きたいことや伝えたいこととはまったく異なる「情報のジャンク」と言える。言い換えれば、日々の生活を送るうえでまったく役に立たない取るに足らない記憶の断片が、そうしたキャラクター造形の素材となると言ってもよい。書きたいことや伝えたいことがあると、こうした雑多な情報の断片を素材に用いることなく、書きたいことや伝えたいことを物語に用いることにばかり意識がそそがれ、却ってこじんまりとしたものになりやすいのではないか、との直感がある(宝石ばかりあっても家は建たない)。ただし、こじんまりとしていようが、そこに投入した素材が極上であれば、やはりそこから生みだされる物語は無類のものになるのだろう(家を建てるにしても、素材や道具にはこだわりたいものだ)。そこは相互に影響しあうもののはずだ。つまり、いちど空っぽになるために、敢えて書きたいことや伝えたいことを素材として物語をつくり、そのつぎに無造作に、無意識から沸き起こる雑多な情報の断片をつむいで、唯一無二の物語をつむげばよいのである。これは歯車のごとく相互に絡み合い、物語の起伏をより深淵に、より密接に作用する回路を築くための、前進していくちからとなる。本当にそうなのかは定かではない。(いくひしさんの小説を見てごらんよ。偉そうなことを言ってもこんなものなのさ。へへん)



2998:【2021/05/23*ちっぽけ】

ちっぽけな存在であることにある種の安堵の念を覚える。それはじぶんの弱さを免罪符にしてじぶんの惨めさやふがいなさを許容しようとする無意識からの自己肯定なのかもしれないが、もちろんそれは逃避でもあるだろうし、卑下でしかないのだろう。自虐を以って自傷行為とし、みずからを慰めているだけだと言われて否定するだけの論理を構築できない。だとしても、ちっぽけな存在である事実は、これは誰であってもある意味で正しい解釈でもある。解釈とはつねに視点によって変わるものであるにせよ、いったいどれだけの視点を内包しているのかによって、より普遍的な大きい枠組みでの解釈は可能だ。そういう意味では、じぶんはちっぽけな存在だ、という解釈は、人間はちっぽけな存在だ、という意味と同等の規模で、真理にちかい解釈を伴なっている(宇宙という最も大きな枠組みからすれば、人間という私はちっぽけだ。これは真である)。だとしても、けっしてそれは無意義であることと同義ではない。ちっぽけではあるが、たしかにここに存在し、なにかしらの影響を世界に与えている。それを他者に、としてもよいし、自然に、としてもよい。枠組みを広げて、宇宙に、としても間違ってはいない。ちっぽけであることは、大きいわけではない、という以上の意味合いは持たず、それは必ずしも、偉大ではない、ではないのだ。ちっぽけであっても、誰かにとっての偉大にはなれるし、尊く、たいせつな、かけがえのない存在にもなれる。その可能性が、ちっぽけな存在にはつねに内包され、或いは不随されている。影のようなものだ。他者という存在によって、ちっぽけな存在であれ、ほかのちっぽけな存在の光を浴びることで、偉大にも、極悪にもなれる。つねに大いなる存在ではない。だからといって、ちっぽけな存在である事実を忌み嫌う道理もない。(ちっぽけって響きがまずかわいくない?)(かわいい!)



2999:【2021/05/25*同時に満たし得る】

作品と作者は別、という考え方に拒否反応を示すひとがいる。作品と作者を切り離せないものとして評価する姿勢も分からなくはないが、本質ではないと感じる。そういう考え方をしているから、素晴らしい人物だ、という人物評価が先立って、作品を公平に評価できなくなったりするのだ。たとえば大昔の壁画に対して、美を感じるとき、そこに作者の側面像など加味されないだろう。それを描いた原始人たちがいかに現代の価値観からして野蛮な行いをしていたとしても、その壁画の美しさは揺るがない。同様にして、人工知能のつくりだす芸術作品であっても、美しいものは美しく、そうでないものはそうでないはずだ。たとえばいかにアインシュタインがセクハラ大好き人間だったとしても、アインシュタインの研究の価値が落ちるわけではない。ただし、芸術と科学は違うだろ、という指摘はその通りだ。まったくの不可分ではないにしろ、科学は真理を追い求める行為であるのに対し、芸術はただ或るがまま、思うがまま、を出力する姿勢そのものだ(我がままと言い換えてもよい)。芸術に正解はない。ゆえに、ある人物からしたら醜い表現が、ある人物からすれば極上の美に値することもある。そこは完全に相対評価であり、絶対評価ではあり得ない。そういう意味で、作品と作者を別々に評価しようとする価値観と、作品と作者は不可分だ、とする価値観は、それぞれの美の解釈が異なるだけで、けして相反するものではない。同時に満たし得る。片一方の価値観で作品の価値を量ろうとすることはむろん、責められたものではない。そもそも芸術に正しい評価など存在しないのだから。じぶんにとっての美を見詰める作業があるだけなのである。(鏡のようなものなのかもしれませんね。作品の評価とはすなわち、じぶんの価値観の反映なのです)(好きなように見ればいい)(自由な物の見方をすればいい)(いろんな解釈をしてみればいい)(いろんな見方を学べばいいし、これといって学ばなくともよい)



3000:【2021/05/26*天才であるメリットはすくない】

天才と秀才と凡人がいるとして、その比率は人口を分母にすれば、多いほうから、凡人、秀才、天才となるだろう。では社会的に有意義な存在である率はどうだろう。天才は唯一無二の存在だ。反して秀才や凡人は、比較的替えがきく。だからといって、では天才が社会的に最も有用で、それ以外の人々は価値が低いかと言えば、そうではない。天才はむしろ、その他大勢の協力がなければその才能を発揮できない。数多の凡人の協力を経てこそ、天才はその能力をいかんなく発揮できる。これは秀才にも言えることだ。秀才は、天才と凡人の懸け橋になることができる。ただし、環境への適応という面で言えば、秀才と凡人、どちらが進化しているかと言えば、これは生物学的に言えば明らかに凡人なのである。凡人であることは、現代社会に生きていくうえで最適な進化を帯びている。言い換えるならば、環境に適応した者から順に凡人になっていくと言ってもよい。凡人はいわば、環境適応の天才なのである。つまり、進化論的に言えば、凡人であればあるほど生物としてより進化している。進化した結果、繁栄し、その数を増し、社会の多数派となる。その多数派につけられた名がすなわち凡人であり、ただ単に数が多いというだけの傾向があるだけだ。本質的に、天才も凡人も、生物としての性能に大きな差はない。ただ、どちらが環境により適応しているのか、の差があるだけなのだ。ただし、天才と呼ばれる者たちは、何かしらの影響を他者へと及ぼし、それにより社会変革を成し遂げている。天才とは、後付けの解釈であり、そもそも天才として生まれてくるものではない。進化するものではない。単なる称号でしかないのだ。社会という秩序を崩し、なお大多数にとって好ましい変化を及ぼした者。そうした社会的異物に対してつけられた許容の証のようなものである。天才であることにさしたるメリットはない。むしろ、凡人であるほうが遥かに生物として生存競争に有利であり、もっと言えば、進化していると呼べる。秀才もまたその限りではない。定かではない。(サカナではない、みたいにとってつけたみたいに言わないでください)(そりゃきみはヒトであって、サカナではないでしょうよ)(そういう意味で言ったのではありません。ひとの揚げ足とりばかりして。いくら考えなしだからって、他人の足を奪ってもお利口さんにはなれないんですよ)(あーえっと、うーん。それってひょっとして、考える葦と、考えなしと、揚げ足取りをかけたジョーク?)(だったらなんですか)(わかりづらすぎてびっくりした)(そんなそんな天才だなんて。褒めてもなにもでませんよ、えへへ)(天才と言った覚えはないんだけど?)(サカナと言った覚えはないんだけど、みたいに言わないでください)(安心したまえ、きみは天才でもサカナでもない)(どうせそれも定かではないんでしょ)(これだけは断言するよ。定かだ)(ぎょぎょっ!)(サカナだった!?)

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