生きて、残る
鈴ノ木 鈴ノ子
いきて、のこる
癌が染み付いた身体が軋みを上げながらも頑張っている。痛みから体と精神を守るモルヒネがうまく作用しているようで、時よりうつらうつらしながら過ごしていた。
武蔵野中央病院に入院して半年を迎えた。心地よい春の入院で最後の筈が落葉を迎え、寒風が吹いて窓を叩いて冬の到来を知らせながら通り過ぎて行った。
ベッドテーブル上の小さな写真たてには懐かしい顔が並んでいた。
皆が…いや、若い方々にどんな服装であるかを説明しても分かるまいが旧日本軍の軍服姿であった。
真ん中に宮本軍医、左に永田陸軍中佐、右に吉澤海軍中佐、佐々木軍曹、所沢上等兵、そして私、高木沢義朝二等兵、懐かしい姿で歯を出し最高の笑顔を見せていた。
この小隊は寄せ集めの小隊であった。
私達は彷徨う水となり集まり、本流である部隊をひたすらに探し続けている。
大陸で砲撃に巻き込まれ、爆風によって私は意識を失った。目を覚ますと辺りは戦友たちの亡骸で溢れていた。昨日まで共に歩き、飯を喰い、戦い、励ましあったのに…、唯一生き残ってしまった私はこの復讐を果たすために他の部隊に合流すべく荒野を彷徨い歩いて彼らと出会ったのであった。すぐに気心が知れたのは全員が武蔵野の出身だったからであろう。
故郷の話には花が咲く、それが世の常と言えよう。
この写真は放棄された写真館にあったものを使い、全員で遺影として撮影したものだ。敵が迫っていることは明白でラジオからは壮烈なニュースが流れてきたのを今でも覚えている。永田陸軍中佐と吉澤海軍中佐は陸戦にとても詳しく、そして、その闘う様は見事であった。私達のこの寄せ集め小隊は移動するごとに避難する人々が1人、また1人、と加わりながら、地獄を死に物狂いで進んでいった。
終戦すら知らずに私達は孤立無縁の戦いを強いられていた。武器弾薬や食料は道々に転がる痛ましい同胞の兵隊や護るべき市民の亡骸から頂き、武装と飢えを辛うじて凌ぎ、夜ともなれば小集団と化していた私達に敵軍や暴徒が襲いかかってくるのを、戦える男達と武器を取って戦った。もはや生き地獄そのものであったとしか言えぬ。それは、現代人がどう想像しようにも想像できぬ、いや、想像を上回る悲惨と悲壮を極めたていた。
やがて敵軍の拡声器から終戦が知らされ、私達は武装を解除した。交渉をしたのは永田陸軍中佐と吉澤海軍中佐であった。宮本軍医、佐々木軍曹、所沢上等兵の5名は移送が決定したが、志願兵として戦っていた16歳の私は敵軍将校の配慮によって一般の収容所へと振り分けられることとなった。それを告げられた時に私は将校へと殴りかかり、周りにいた兵士に押さえつけられた。しばらくして呼ばれた永田中佐が現れると、私達を残して連中は部屋から出ていった。
「何をしとるか!」
永田中佐に殴られたのは初めてであった。呆然としている私の両肩を両手でバシンと叩くと力強く両肩を握られる。
「貴様には命令を遂行してもらわねばならん」
「私は・・・」
反論しようとしてさらに鉄拳が振り下ろされた。
「よいか、貴様は内地に帰り私達の家族に会うのだ。そして事の顛末を知らせておけ、この写真も必ず渡すのだぞ」
永田中佐は軍服の
「生きて、残るのだぞ。貴様はまだ若い」
「私は生き残ることなど・・・」
「違う、生きて、残るのだ。生き残るではない。しっかりとこの世に生きて、残るのだ」
永田中佐は立ち上がると姿勢を正した。その表情は驚くほどに穏やかだった。その姿に反射的に立ち上がり背筋を伸ばして敬礼を向けると、永田中佐もゆっくりと優雅な動作で敬礼を返した。
「頼む」
最後に短く言ったのち永田中佐は部屋を出て行った。
その後ろ姿は今でもはっきりと脳裏に刻まれて忘れることは永遠にないだろう。
劣悪な収容所生活ののち、私は武蔵野の母方の本家へと帰り着いた。だが当然、長居などできず、その足も冷まさぬうちに命令を遂行するため武蔵野各地を転々と歩いた。
遺書の刻まれた写真をご家族へとお渡しする度に、深々と私へ頭を下げてくる姿に居た堪れないほどに悔しくて辛くて、その場で土下座をしながら詫びて生き残ったことの許しを乞うたのだった。
精神的に疲弊し、最後に永田中佐の生家へと辿り着いた時であった、武蔵野の雑木林を背後に平屋作りの家の前に立ち、門柱を潜ろうとして後ろから何かに叩かれ、その場へ崩れ落ちて意識を失った。
「ここは・・・?」
目を開けて見慣れぬ天井を見ながらそう呟やく。
「あら、目を覚まされたようですね」
声の方向へ視線を向けると同い年くらいの若い女性がこちらへと微笑んでいる。どうやら私は畳の上に敷かれた布団に寝かされていた。
「うちの前で倒れていたんですよ」
彼女はそう言いながら笑った。
その笑顔はとても美しく思わず見惚れてしまった私に彼女は居住まいを正すと畳の上へと美しい顔を擦り付けんばかりに下げた。
「父をお連れくださり、ありがとうございました」
慌てて起き上がると彼女の手元にあの写真があった。中身を読んだのだろう、袖や胸元、そして畳の上が少しばかり濡れているのが目に入った。
「頭を上げてください、私は・・・」
「なにも仰らないでください。貴方はきちんと父を連れ帰ってきてくださいました。もう、それだけで十分すぎるほどなのです」
顔を上げた彼女が私の言葉を止めるようにそう言い、優しい面影で微笑んでくれる。父親の消息をずっと気にかけていたに違いない。
「大分、お疲れのようですから、暫くお休みください」
そう言い残して彼女は首を下げると部屋を出ていく、それを見送り起き上がった体が再び力を失って倒れ込むと同時に、どこからかともなく啜り泣く声が聞こえてきたのだった。
それから数日間、私は高い高熱を出して床に伏せった。積もり積もった疲れがついに溢れ出たのだろう。体が溶けるのではないかと感じるほどに熱にうなされ、生死の境を彷徨い何度か峠に差し掛かるのだが、その度に絞った手拭いが額を気持ちよく冷やして峠を越えたのであった。解熱するまでにかなり痩せてしまったこともあり、彼女の勧めもあって暫くご厄介になることとなった。
彼女、永田中佐の娘は
「1人で必死に生きてきましたから」
少し歩けるまでに回復した私と夕暮れ時の武蔵野の雑木林を歩きながら陸子さんはぽつりとそういった。木々が風に揺れて騒めき、虫の鳴き声と共に聞こえてくると、物悲しさがより一層際立ち、まるで陸子さんの想いに同調しているかのようである。
その言葉にはまごう事なき言魂が宿っていた。
「ですから、お気になさらず、いつまでも居てくださって結構ですからね」
そう笑う陸子さんに私はかける言葉が見つからなかった。
回復には時間がかかり好意に甘えさせて頂き、やがて畑を耕すのを手伝いながら体力を整えてゆくと、近所の紹介で進駐軍の自動車を整備する工場へと就職することができた。2年3年と修行を重ねるように整備を学び、4年目を過ぎた頃に退職をすると耕していない畑の土地をお借りして、私は小さな部品工場を始めた。時代は高度経済成長へと突き進んでいく前段階であったが部品工場には注文があれやこれやと飛んで舞い込んできた。その忙しさに見かねた陸子さんが手伝いに来てくれるようになると、男女の関係も進展してゆくのはある意味で当たり前のことであった。一つ屋根の下で過ごしていたことも距離を縮める速度を早めていった。私が恩人の娘になんてことをと漏らすと、では、もっと幸せにしてくださいね。と笑いながら言ってくれる陸子さんと愛し愛されながら結婚への道を共に歩んだ。
会社も国内外でトップクラスの精密加工部品を扱う有名企業へと成長を遂げていく、ある程度、従業員も多くなってきた頃に私は社訓を掲げることにした。
あの永田中佐からの「生きて、残る」を掲げたのだった。
人が、会社が、技術が、生きて、残る。
この言葉は単純に見えるようで、とても、意味深いことに気がついたからだ。仕事と家庭ばかりを追いかけていた私は社訓を掲げると同時に再びあの写真を目にするようになった。
そして、彼らのやりたかったことを事業化することを考えついた。宮本軍医の手術道具と薬がもっとあればを元に医療分野を、実家が川漁師であった吉澤海軍中佐の破損しにくい舟や網を元に漁業分野を、木地師であった佐々木軍曹の機械化を元に林業分野を、学校の先生でもあった所沢上等兵の教育の発展を元に教育分野を、とそれぞれの抱いていた夢を叶えるべくこの地で邁進した。
彼らの思いが、生きて、残るように。
だが、残念ながら永田中佐のやりたかったことは知り得ていない。それなら。せめてもと、陸子さんと2人の子供達や孫たちに不憫なく、そして愛情あふれる家庭を営むように心掛けたのだった。
だが、そろそろ体が限界のようである。
写真立てに手を伸ばして引き寄せると、裏蓋が外れ写真が布団の上へとヒラヒラと舞って裏面を向けて落ちた。
そこには達筆な字が綴られ、締めくくりにこうあった。
『陸子、必ず幸せになりなさい、父さんの一番の願いです』
どうやら、生きて、残ることは全てできたようである。
最後の1人、私の願いは、戦のない世の中を、生きて、残る。
平和こそ尊い。
平和とはなにか。
それは日常を過ごす事だ。
ささやかな日常を。
生きて、残る 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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