心はそこに

 クラスメイトや祖父の死といったきっかけを経て、私は信じるために心霊スポットへ赴いた。結果、"見えないものは存在しない"とは言い切れぬ価値観を手に入れたわけだが、その後はぱったりと、そうしたものへ触れる機会が減っていった。目的が達成されたとき特有の、安堵感や喪失感がそうさせたのかもしれない。


 そして、見えないものから一旦距離をおいた私は、また別のものを追いかけるようになっていた。それは音楽である。

 音楽とは不思議なもので、楽器の演奏という物理的なプロセスを伴わないと成立しないのに、完成するハーモニー自体は色も形もなく、もちろん目にも見えない。にもかかわらず、楽曲にはそれぞれ違ったビジュアルが内包されており、聴いた者は己の感性によってその隠れた情報を受信し、脳裏に様々な光景を浮かべることができる。

 この特性は、霊魂の類とはまた異なったベクトルの話かもしれない。しかし私は『友よ北の空へ』の一件にて感じた情緒があった手前、これらが実は、密接に関わっているのではないかと考え始めた。

 そこで双方の共通点を炙り出したところ、最終的に「想いや思念といったものが介在している」という結論になった。そう、私が次に確かめたいと願ったのは"心"だった。


 私は音楽活動を通じて、心という曖昧なものについて探った。

 まずは作り手として、もし世界の誰かに自分の作品が届いた際に、「その人にとって何らかの糧となりますように」「その人生が少しでも豊かなものになりますように」……と前向きな想いを込めて制作を行った。受け手としては、「この人が何を伝えようとしているのか、どんな想いが背景にあってこの作品が生まれたのか、できる限りたくさん汲み取れますように」……と注意しながら享受した。


 そのようなことを繰り返しているうち、気づけば私の作品群は累計で100万回以上再生されていた。そして、その有り難さを噛み締めていたある日のことである。私の元へ、一通のメールが届いた。

 そこには「前々から○○さんの作品が好きで、是非こういう曲を作ってほしい」といった旨の依頼内容が書かれており、私は小躍りしながら依頼を受けて、一生懸命に達成した。


 この縁をきっかけに、その人とは頻繁にやり取りするようになった。そうして数十万字以上の文通を交わし、いつしか惹かれ合った私たちは結ばれる運びとなるのだが……重要なのはそのあとである。本人に改めて聞いてみたら、そもそも私の作品が好きだった理由は、その背景に前向きな"心"を感じたからだと判明したのだ。私は想いが、心が本当に繋がっていたのだという事実に大変驚くと同時に、強い喜びを覚えた。


 ところが人生、山あり谷ありとはよく言ったもので。運命の悪戯か、その人は若くして脳腫瘍を患っていた。私はその事実を真摯に受け止め、何があっても向き合う覚悟で交際を続けた。腫瘍とは、つまるところガンだ。しかもその人は病巣の位置が悪いらしく、迂闊に手術をするわけにもいかないようで、医者は悪化するまでは経過観察するしかないというし、私は正直、途方に暮れながら光を求めていたと思う。


 闇のなかで、その人がどうやったら助かるかを考えた。たとえ助からないにしろ、なんとか少しでも良い方向に進むことはできないのか。精一杯考えた。

 すると、普通だったらまず眼中に入らないであろう、意外な方向に視野がひらけていった。その先に佇んでいたのは、神仏であった。

 ……あらぬ誤解を招くのは本意ではないため、予め断っておくが、私はあくまでも無宗教だ。ただ目に見えないものに関しては、これまでの経緯があった故、人よりも信じている気持ちが強いというだけである。ともあれ、神や仏も霊魂と同じように、見えない存在であるのは間違いなかろう。ならば別段、いると仮定しても差し支えはない――そう思い至った次第である。


 というわけで、私はその人と一緒に複数の神社にお参りし、「病気がよくなりますように」とお願いして回った。いわゆる神頼みというやつだ。無論、傍らでは「もし手術になったらあの先生に」とか、「ラジウムの治療もありか?」とか、現実的に調査も進めていたのだが――とりあえず結末から書くと、数ヶ月後に脳腫瘍は消えた。MRIで確認したら、無くなっていたのだ。

 いやいや、さすがに出来過ぎでは? と思って念入りに医者に調べてもらったが、やはり無くなっていた。それまでに具体的に行動したことといえば、本当に神社へお参りしたくらいだったのに……もっとも、楽しい! 嬉しい! といった感情が多くなるよう我々も日頃から努力はしていたのだが、さすがに消滅までいくなどとは予想していなかったし、医者も不思議がる始末だった。私は「はぁ~~~」と歓喜に脱力した。あの時の感情は生涯、忘れられないだろう。


 こうして、私が神仏に興味を持つ流れとなったのは当然の成り行きか。

 以降、私は色んな神社へ足を運んだり、関連書籍を読んだりしながら、現在に至っている。無宗教だが信仰心はある……そのように表すのが的確だと思う。


 さて、最後にとある湖の神社に訪れた時のことを書き記す。私は腫瘍消滅のお礼を言って手を合わせた後、周囲の絶景に魅了されながら、ふと「撮影したいなぁと」思ってスマホを取り出した。

 ここで一つ、注意点がある。神社という場所は、カメラが禁止されている可能性がある。そして、この場合でいう禁止とは"人による禁止"のことではなく、"神仏(とりわけ眷属)による禁止"のことを指している。詳しくは割愛するが、仮に人が許可していたとしても、見えないもの側が禁止しているケースもある、という意味である。

 この時の神社は人が許可しているのは確認済みだった。だが神仏の意向はわかり兼ねたため、私は美しい湖に向かって、心の声でこう尋ねてみたのだ。


(恐れ入ります。この素晴らしい景色を撮ってもよろしいでしょうか。もしよろしければ、私でもわかるような合図を――)


 すると、信じられない現象が起こった。まったくの無風で静謐のなかにあった湖の水面が、突如「ざあっ」とさざなみを立てて、反応を示したのだ。人によっては「だから?」で終わる話かもしれないが……私にとっては、それが決定的な出来事となった。もはや見えないもの、"心"が存在していることに、疑いの余地はなくなっていた。

 それからというもの、私は自分が得た大切な気持ちを世の中にお裾分けするため、細々と執筆活動をしている。本作も、その一環である。





■余談


 神社に行ったとき、何か不思議な体験をしたらラッキーです(ちゃんとした聖域になっている場合に限りますが)。私も祈っている間に風がびゅおーっ! とすごい勢いで吹いてきたり、青くて綺麗な、かわいい鳥さんが近寄ってきたり……と他にもいくつか面白いエピソードがあるんですが、それらはいずれも、私たちが生きていることに対する歓迎の印なのです。根拠は……あなたの信じるもの次第ですが、少なくとも私は、私やあなたという存在を心から祝福しております。生まれてきてくださって、本当にありがとうございました。そしてこのお話を読んでくださり、深く感謝を申し上げます。



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