第5話

 こじんまりとした部屋にはもうエージェントはいない。おそらく彼女とは二度と会うこともないだろう。そんな気が高木にはしている。しかし整った、いい顔の女だったな。それにしても最後の、「そのうち」、あれはどういう意味なのだろうか。このあと、転生しない人間のその後について、何か説明をしに、別のものがやってくるのだろうか。しかし転生しない人間、というのはこのあといったいどうするのだろうか。勢い転生しないと宣言したのだが、そう決めたら決めたで今後に関する様々な不安が溢れ出てくる。いや、もしかすると俺も先ほどの彼女と同じく、異世界と転生者を繋ぐような、そういったエージェントの仕事に就くのかもしれない。それはそれで案外面白みがあるのではないか。あるいはこの部屋、施設、とでもいうのだろうか、ここ自体を管理するような仕事があるのかもしれない。それは前々世の、高木が高木トオノと呼ばれ毎日客先常駐のSEとしてただひたすら、上から降ってくる経緯不明の曖昧な要求を実装する毎日よりも、幾分か特別な、そして意味のある仕事になるやもしれない。なるほどそう考えるとこれから先にも幾らかは希望が持てるというものだ。

 ふっ。と、部屋の明かりが一瞬、弱くなる。ほんの一瞬の出来事。それと同じくして、高木自身の意識もふわっ。断絶する。おや、いまのは何だ。高木も最初は気にも留めなかったのだが、だんだんと奇妙な気持ちになる。何なのだ今の感じは。随分長いことこの部屋に、いや廊下を歩いているときにだって、一度だってなかったことなのだが。


 一体どれくらい待てば次の指示がくるのだろうか。何せこの部屋には時計がなく、魂だけとなった今では時間の目安となるような一切の生理的感覚や欲求がないのだ。高木は何となく不安になり、立ち上がり、そわそわと部屋の中を歩き回る。ふっ。まただ。また部屋の明かりが弱くなる。断絶だ。はて、俺は今、一体なにを考えていたのかな。ええと。上手く思い出せないな。録画に失敗したVHSテープのように何も浮かんでこない。なんだったかな。そうだ。明かり。部屋の。弱くなって。いやだなあ。暗いのは。誰かいないのかな。誰か。誰か? 俺は誰を待っているのだ。考えが上手くまとまらない。部屋の明かりが先ほどよりも弱くなる。何だ。俺は何か、何かを待っているはずなのだが……。俺? 俺は一体誰なのだ? 何故ここにいるのだ? ええと、確か、女。そうだ。あいつがいて、それで、俺は……。俺は? 高木だ。SEの。取るに足らない、語るべきところのない、高木だ。そうだ。それが嫌で、俺はここにいるのだ。明かりだ。ますます弱くなっている。明かりに比例して、意識も、魂も。まさか、「そのうち」というのは。このまま、俺そのものが消えてなくなるということか。冗談ではない! そんなつもりで転生しないと言ったのではない! まずいぞ、このままでは。なんとか外に出なければ。

 そこで高木は初めて気づく。エージェントの彼女が出ていったはずの扉。今となってはただの、壁に描かれただけの絵になっているではないか! そんな。まさか。本当に。あっ。また部屋の明かりが。何だ、何だ。上手く考えがまとまらない。まさか。このまま俺は死ぬのか。いや既に死んでいるのだ。つまりこれは俺自身の、本当の消滅。転生しない、というのはそういうことなのか。そんな。こんなところで終わってたまるか。高木は扉の絵が描かれた壁に向かって何度も体当たりする。大声を出して助けを呼ぶ。しかし壁はびくともしない、助けがくる気配はない。そもそも壁の向こうに、高木が歩いたような廊下がまだあるのだろうか。体当たりすれども、まるで壁の向こう、空間なんて始めからないかのような反響音だ。もしかすると、この部屋自体が既にあの、ずらりと扉の並ぶ廊下から、輪廻の円環から切り離され、どこか虚空を彷徨っているのではないか。一体あとどれくらい、この部屋の明かりはどれくらい持つのだ。これが消えたら、俺はどうなるのだ。高木はもう半乱狂になって、手当たり次第に四方の壁にぶつかり、叩き、大声を出す。椅子を掴んで壁をぶん殴ろうとするも、先ほどまで座っていた椅子も、求人資料を広げていた机もただの絵になっているではないか。なんということだ。あっ。また部屋の明かりが。だんだんと間隔が狭まっているような気がする。実存の断絶だ。それに伴って高木の身体も、いやこれは意識だけのものなのだが、段々とうまく動かなくなってくる。頭が、ぼんやりとしてくる。意識が、実存が、俺自身が、空気中へと発散していく。まずいぞ、俺は消えかかっているのか。クソ。畜生。何も、何もできず。何者にもなれず、消えるのか、俺は。そんなのは嫌だ。助けて。神様。もう何が何だか分からず、高木は四方の壁に、天井に、床に向かってとにかく体当たりを繰り返す。何度も凄い勢いでぶつかって痛んでくるはずの肩の感覚がない。肉体がないからなのか、既に高木自身の消滅が始まっているのか、高木には判断がつかない。それでも、なおぶち当たり続ける。何度も。何度も。意思の続く限りだ。これは逃亡への意思なのだ。変わり映えのしない人生からの、輪廻からの逃亡だ。俺は逃げるぞ。こんなところから。あらゆる機構から。序列から。階層から。部屋の明かりはますますに暗くなっていく。


 幾度、そうして壁に体当たりしたのだろうか。部屋はもう殆ど真っ暗と言っても差し支えないほどに暗い。いや、部屋そのものが消えかかっているともいえる。ここにあるのはもう高木トウノの魂でもなく、ただただ体当たりし続ける意思だけだ。その意思すらかすれて、壁にぶつかるような音が聞こえなくなりかけたころ、ついにその部屋の四方の壁がパタリと、外向きに倒れる。高木は体当たりの勢いそのまま、部屋の外へと倒れ込んだ。

 果たして、そこは虚空であった。どこまでも続く暗黒だけがある。いや、よくよく目を凝らせば天の川。小さく光る点のようなもの、星のようなものが高木の目には見て取れる。ここはいったいどこなのだ。あの光る星々はいったい。


 あの光る星の一つ一つが、貴方が生まれるべき異世界。


 と、何者かの意思が高木へと向けられる。高木は周囲を見回すが誰の姿もない。あるのはただ高木を視る意思だけだ。何者かの意思。あるいはこれはエージェントの、彼女の同類、もしくはそれよりも上の存在なのかもしれない。そのようなことを高木は思う。

「あの、それで、俺はいったいこれからどうすれば……」と高木はその意思に問いかける。


 貴方は、ここに来るべき存在ではない。


 ゆっくりと高木の手足が透けていく。その手足越しに周囲の闇が、星が見える。クソ。またこれか。どうしても俺を消したいのか。ふざけやがって。馬鹿にして。そうやって高みから俺を見ているつもりなのか。だったらそうだ、俺は逃げるぞ。こんなもの。あらゆるもの。そこから逃げて逃げて、どこまでも行ってやろう。行けるところまで。意思の続くところまで。高木は、その虚空のなかをひたすらに、走りだした。

 高木は何処までも何処までも何処までも虚空を走る。走り続ける。高木の周囲で星の光は大きくなったり、小さくなったり、近づいたり、遠ざかったりする。おお、あれはまさしく剣と魔法の世界。如何にもって感じの異世界。こっちの世界はなんだ、随分と未来を進んでいるのだな。おやっ、この世界にはもう誰もいない。無数に枝分かれして拡がり進み続ける世界のバリエーションたち。どこか、この光の何処かに、俺の求める人生があれば良かったのだけれど。しかし今となっては手遅れだ。光は決して高木を受け入れようとはしない。高木は走り続ける。その高木の周囲をつかず離れず、何者かの意思だけがじっと張り付いてきて、そして高木を視ているのだ。フン。あいつら、俺が消えるのを待っているんだな。あの意思の中には、彼女もいるのだろうか。あの端正な顔。能面の様に出来過ぎた顔。彼女は俺を見て笑っているのだろうか。あるいは俺が消えるのを見て悲しんでくれるのだろうか。うわっ。足が消えた。それでも高木の、逃走する意思はまだ消えない。もう高木にはSEだったころの記憶も、後悔も、何も残っていない。最後に残ったのはただただ、ここではない何処かへ、最果てを目指す意思だけだ。ただそれだけが今なお虚空を進み続ける。しかしなんだ、この虚空だ。果てなんてあるのか。だんたんと進みづらくなってきた。見えない壁があるみたいに苦しい。クソ。あれ、なんだっけな。なんだ。そうだ。逃走。それだ。それだけだ。果てへ。果てへ。俺は行くぞ。


 あっ。


 高木の手がなにものかに触れるのと、それまでぴったりと高木に張り付いてきた意思がこぞって、何処ぞへ消えるのとが同時に起きた。高木は我に返り、辺りを見渡す。あれほどまでに煌めいていた異世界の光は今は遠く後ろにある。高木の手は、何かに、触れている。それは天幕であった。僅かながら、高木が触れるのにあわせて柔らかく揺れているのが分かる。これが、この異世界ひっくるめた、すべての最果てなのか。高木は信じられないといった面持ちで、僅かに揺れるその最果てを撫でる。天幕は僅かに揺れている。その隙間からは薄っすらと、光が漏れ出ている。この先に。最果ての先が、この世界全ての「外」がある、ということか。


 高木さん。それを捲ってはいけない。


 端正な顔の女。あのエージェント。俺の代理人。その彼女の意思が、高木に懇願するのが感じられた。高木はあの部屋での出来事を思い出す。あの部屋でのことがもう何世紀も前のことの様に感じられる。そうかそうか。君も、この先のことは知らないのだな? 何でも分かっているような顔をしてた君でも、知らないことがまだあるのだな。しかしこれを捲ると、一体どうなるのか。もしかすると、この異世界すべてをひっくるめて、とんでもないことになるのかもしれない。あの馬鹿馬鹿しい輪廻の円環、その大破局。あるいは対消滅か。そんなことを引き起こす権利が、高木にあるのだろうか。そんなもの、誰にもない。俺にあるのは、今やただひとつの、逃亡の意思だけだ。となれば、やることは決まっている。高木は天幕を力強く掴む。彼女が、そして高木をここまで視つづけてきた意思たちが、ワッと、蜘蛛の子を散らすように虚空のあちこちへと散っていく。ふん。見てろよ。俺は行くぞ。この先へ。世界の外へ。

 

 高木が天幕を勢いよく引く。捲る、捲る、捲る。やがて隙間から徐々に光が溢れ出し


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未経験から異世界転生したら人生詰んだ件~転生エージェントサービス体験記 あの、初回面談時にはアマ ンギフトカードが貰えるって聞いたんですけど? ~ 惑星ソラリスのラストの、びしょびし... @c0de4

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