第4話

 やはりこじんまりとした部屋に男が、高木トウノが、一人でいる。部屋には高木のほかに、椅子が二脚、テーブルが一脚、そして片隅に嘘くせえ、パリッとしたグリーンの、プラスチックみてぇな観葉植物がひとつ、ぽつねんと置かれているのだ。この部屋に時計はない。テーブルの上には何も置かれていない。高木は、ただただぼんやりと天井を見つめて微動だにしない。


 前回の面談からどのくらい経ったのだろうか。一時間か、一週間か、一年か。人の一生分か、それ以上か。高木はぼんやりと前世、いや今となっては前々世の、しがない客先常駐システムエンジニアであったころの記憶を思い出す。毎日同じ電車に乗り、同じ職場へ行き、同じ画面に向かい、同じ面子の、何だか意味があるのかないのか、よくわからないような会議に参加し、夜遅くまで作業をし、家に帰り、僅かな時間、スマホで同じような異世界転生モノの漫画をブラウジングして、眠る。あの頃も就業中はこう、随分と時間の経過がのろく感じられたものだが、それでも昼になれば腹が減るし夕方を過ぎる頃には若いころにはなかったような、明らかな体力の衰えを感じることができた。行き帰りの僅かな時間にも街路樹の葉は黄色く染まり落ちていく。そしてまた同じような新緑。その繰り返し。変わらないように見えても季節は確実に移ろい、その分だけ俺は歳をとっていったのだ。それがどうだ。今となっては時間の経過を感じさせるものはこの部屋に何一つ存在しない。水を遣るものもいないというのに観葉植物は凍えた時間の中にいる。高木はもう食べることも眠ることも必要としなくなっている。肉体を持たない生活というのが、こうも味気ないものだとは思わなかった。

 あれから、一度、高木は部屋の外へ出ようと試みた。部屋の扉はあっけなく開いた。部屋の外はそれはそれは長い直線の廊下であった。右にも、左にも向けて続く廊下、その両側に同じような見た目の扉が並んでいる。高木がいた部屋の扉もまた、それらと同様、なるほど判別がつかない。高木は一瞬あっけにとられ、とりあえず自身の出てきた部屋の扉を左手に、真っすぐその廊下を直進した。し続けた。どこまでも、どこまでも。ひたすらに歩いた。しかしどうだ、行けども行けども同じ景色だ同じ扉だ同じ廊下なのだ。果てがない。ぞっとする。どこまでいっても等間隔に並んだ同じ扉。高木はふと立ち止まり、そのうちの一つのドアノブを、試しにゆっくりと回す。鍵がかかっている。開かない。ノックをしてみる。返事はない。扉に耳をつける。何も聞こえない。いや、幽かに、何者かが談笑するような声が聞こえるような、そんな気がする。これはもしや、もしかすると、この扉一つ一つの向こうでは、俺と同じように、いずれかの理由で各々の世界を離れた求職者たちが、彼らのエージェントと、次の異世界転生へ向けて面談をしているのかもしれないし、余りに代わり映えしない景色に錯乱した高木が、そのような妄想を抱き、それゆえに聴こえてきた幻聴だったのかもしれない。扉は開かない。どの扉も。どの部屋も。高木は半狂乱になる。走る。喚く。そして手当たり次第に扉を叩く。ドアノブをひねる。ノック・ノック。もしもし? 俺は、俺はどこへいけばいいですか? 自分やれます、もっと人生やれます。すいません、もう人生のどこを切ってもしょっぺぇ金太郎飴みてぇな、詰まらない、退屈な、ただ徒に、何の意味もようなことに自分の持ち時間を費やすような暮らしではない、本当に世の中に、世界に、誰かに、なにか、なんでもいい、ほんのちょっとでも、価値だとか、生きている意味をもたらすような、そういった熱い大事業に己の存在を賭けたいんです。別に剣とか、魔法とか、勇者とかでなくても良いんです。俺に、俺の存在全てを賭けて、何か、何か意味を見出させるような、そんな人生。『この人生以上に、硬貨な死を』! ……おい、誰か聞いてないのか、エージェント、あの女。顔のいい、軽薄な。アンタ、見てるんだろ?! なあ、頼むよ! 俺は、俺はここにいるぞ! 


 果たしてどのくらい永いあいだ、その廊下を歩いたのだろうか。漸く、一つの扉がほんの少しだけ開いているのを見つける。高木は狂喜して駆け寄り、扉を開ける。こじんまりとした部屋。二脚の椅子と一脚のテーブル。部屋の隅に、嘘くせえグリーンの観葉植物。まさか、そんなこと。高木は唖然として、次に部屋のなかをうろうろと歩く。確かに廊下は真っすぐだったはずなのだ。それをここまで真っすぐに、引き返さずに歩いてきたはずなのだ。高木はテーブルの天板に目を落とす。それを指でなぞる。小さな、引っかき傷。これは覚えている。ここは、あの。最初の。面談を受けた部屋なのか。自分でも気づかぬうちに、俺は元来た道を戻っていたのだろうか。あるいはもしかすると、果てしない直線に見えたあの廊下自体が輪を描くようになっていて、俺は遂に一周し、始まりの位置までやってきた、ということなのだろうか。輪っか。円環。輪廻のみち。もしかすると、今まで素通りしてきた扉のどれかに、俺が行くべき、本当に意味のある人生、意味のある異世界があったのかもしれない。しかしいずれの扉も固く閉ざされていたのだ。永い旅を終えた高木は、椅子に深く腰掛け、天井を仰ぎ、ぷふーっと長く息を吐く。そのまま動かなくなった。

 そうして再び、永い時間が過ぎた。


 どれくらい時間が過ぎたのか見当もつかない。あんまりそうして長い間天井をぼんやりと見ていたものだから、その部屋の扉を開けて彼女がが再び現れて、高木を見、「あらら」と声を発しても、それが現実の出来事なのか、単なる妄想なのか、暫く判別がつかなかった。


 *


 テーブルの上に広げられた求人資料を高木は捲り、さっと目を通し、脇に除ける。次も捲り、目を通し、脇へ。いやぁ今日の求人さんも、ええとこのモンがぎょうさん来とりますわ。左から、哺乳類、哺乳類、哺乳類、ひとつ飛ばして、哺乳類。求人資料を捲れど捲れど、動物の求人ばかりなのだ。哺乳類であるだけまだマシ、ということなのかもしれない、高木は思う。

「前回からちょっと期間が空いちゃいましたからねえ。空白期間が、ネックに」とエージェント。

「ここはまあ、キャリアの空白を埋める意味でも、繋ぎの意味でも、一旦は手頃な動物へでも転生して頂いて、そこからまた再チャレンジするのもありかとは思いますが……」

 再チャレンジ? 何に? 人間にか。人間と言ってもあれだろう。またどうということのない人生なのだろう。そうなのだろうなあ。それをあと何遍か繰り返せば、もう少し、上の生き方なんかが見えてくるのだろうか。例えば人間の、その先とかが。

「あっ、でも、これなんて人間の生ですね、モデルケース例も。高木さんにぴったりじゃないですか?」

 彼女が一枚の求人資料を手に取り、テーブルの一番上へ、高木に見えるようにして置く。ああ、よくよく見慣れた世界。想定される人生のモデルケース例、システムエンジニア職。経験者優遇。なるほどなるほど、あれか。あれなんだな。確かに、俺にはあの世界が、あの人生が、性に合っているのかもしれないな。いつまでも夢みたいなことを言わず、高望みせず、自身の器で出来ることを、地道に、毎日、いつまでも……しかし、いつまでだ? いつまでやればいいのだ。クソ。畜生。

「……嫌だ……」

「えっ?」

「……もう、自分が、何者でもない、何者にもなれない。そんなことの確認が、毎日毎日、何十年と続く、そういうのが……嫌なんです」

 高木は、そのような塊をぼうっと吐き出し、そのまま黙って下を向く。エージェントはニコニコと、そしていささかは困ったような表情を浮かべる。

「とはいえ、これ以上、間が空いてしまうと……高木さんが積み上げてきたこれまでのキャリア的にも……」

「キャリア、ですか……」

 キャリア。ご経歴。そんなものを積み重ねて、俺は一体どこへ行くというのだ。死後、こんなにも永く以前の生の記憶を、後悔を、抱き続けたまま、あんまり長く、あの廊下をひとり歩き続けたせいだろうか。高木は今やありとあらゆる全てを倦んでいた。

「ちなみに、その、キャリア、というか、これって、いつまで続くんですかね?」

「これ、といいますと」

「その、これ、転生、輪廻、とでも言えばいいんでしょうか……」

 ふふふっ。これまでのやりとりで初めて、彼女が声を上げて笑う。

「や、まあ、こればっかりは。どこで終わり、というのは特にないですねえ」

「つまり、この先も、ずっと、何度も……?」

 彼女は静かに頷く。

「そうやって転生を繰り返す中で、御自身のキャリアを積み上げていく、とまあ、そういう感じよね、皆さん」

「……ちなみにその、どれくらい積み上げると、どうなるか、みたいなのってあるんですかね?」

「まあ一概には言えないんですが」と言いつつ、彼女の指が端末のキイの上を滑る。

「そうですね……高木さんの場合ですと、あと二、三回、前世、いや失礼、前々世のような人生をですね、まあ概ね寿命まで全うしますと……そう、次のキャリアといいますか、ステージといいますか。そういったものが視野に入ってくる、といったところでしょうか」

「ステージ、といいますと」

「うーん……例えばですけど、そうですね……上場企業の事業部長とか。エグゼクティブ層みたいなのが、見えてきますね」

 事業部長か。あと二回も、三回も、人生を繰り返すのか。本来であれば転生し、そしてヒトの言葉を覚える頃には、前世の記憶なんてものはすべて、綺麗さっぱり忘れ、文字通り生まれ変わったように生きることができるはずなのだ。しかし哀れ、一つの生、享年93秒、を跨いでなお、前々世の記憶と悔恨を抱いたまま、永い間、輪廻の廊下を独り彷徨い続けた高木だ。もう、すっかり十分、ありとあらゆる全てに飽き飽きとしていた。もう十分だ、十分だろう。何がキャリアだ、転生だ。俺はもう降りるぞ。辞めてやる。高木は最早後先を考えるような気力も余力もない。ヤケクソになっている。しかしそんな高木の手を、エージェントの細く、ひんやりとした指がそっと包む。

「大丈夫ですよ……この先、まだまだ長いんですから。あせらず、一緒に頑張りましょう、ね?」

 前々世を含めて、随分長い間、こんな風に、誰かに手を握られることなんてなかった。そのために高木がどぎまぎとして、勢い、「はい、私は転生します」と言ってもおかしくはなかった。生前ならまずそうしただろう。しかし今の高木には余りに無意味で、そして余りに遅すぎた。高木はもう、高鳴る心臓の拍動などという肉の感覚とは随分とご無沙汰だった。胸にあるのはあの廊下で反芻し続けた後悔だけだ。俺の人生。人生。高木は、ただ静かに手を引いて、膝の上に置く。

 *

 

「それで、どうされます? こちらの、システムエンジニア。転生されますか?」

 高木は答えない。じっと黙る。もういいだろう。俺は降りるぞ。降りるぞぉ。

「その」

「その?」

「その、転生しない、というのは、ありですか?」

「ええ。できますよ」

 偉くあっさりとした返答。「えっ」と、高木は思わず顔を上げ、彼女の顔を見る。初めて会った時から変わらない、柔らかい、端正な、欠けたところ一つない、微笑み。

「あんまり、おすすめはしないのですが、やっぱりそういう方も一定数はいらっしゃいますので」

「あっ、そうなんですね、なんだ、そっか」

 なるほどなるほど、高木は一人頷く。なんだ、そうなのか。だったら早く言えばよかったな。

「辞められますか? 転生」とエージェント。

「そう、ですね……えっと、まあ」そういって、高木はゆっくりと頷く。

 

 そうですか。


 ぴしり。室内のが一気に冷え、空気がひび割れたように張り詰める。高木は、目の前の彼女の顔を見る。吃驚する。固まる。端正な顔からは表情という表情、感情という感情、その全てが消え失せている。能面そのもののような、いや、もっと得体のしれない、何か別の存在に変身してしまったかのようだ。それは、怒っているとか、あるいは悲しんでいるとか、そういうものではない。無。空。ヴォイド。何もない。ただただ顔が、そこにあり、そしてそのおもてにも、裏にも、奥にも、何もないのだ。

 驚き、硬直している高木を余所に、エージェントは手早く資料を纏め、端末を畳む。

「では、私はこれで」

そして席を立つ。

「あ、あの」

彼女は返事をせず、高木のほうを振り向く。

「その、それで、俺はこのあと、どうすればいいんですかね?」

彼女は、ああ、とだけ言うと、

「このまま、この部屋でお待ちいただけば、そのうち」

「そのうち?」高木が聞き返す。

 女は、もうニコリ微笑むだけだ。そうして部屋を出る。半ば呆然とした高木だけが部屋に残される。

扉が閉じられる。

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