第2話 市民になった。


 結局、武蔵境に決まった。

 本当に決まった。

 ふわふわとした意地は、ふわふわとしているからか折れていない。同棲とか結婚とかするってなって引っ越す時まで、じっくりじっくり育てることにする。

 近くに住んでるし、とお姉ちゃんが引っ越しを手伝ってくれて、引っ越し祝いだとテレビを買ってくれた。

 至れり尽くせりって感じがして、ここにして正解だったんだと現金な心がスキップする。

「マイ、NHK来たらちゃんと払うんだよ」

 お姉ちゃんはそう言って笑う。

 あぁ、テレビ買ってもらわなきゃ良かったかも、なんて少し後悔して、「子ども産むとEテレに命救われるらしいから、今のうちにNHKに投資しとけ」とかいうマジなトーンの助言に震えた。


 新生活が幕を開けてすぐ、慣れないことの連続で心がポキポキ音を立てた。見透かしたようにピンポーンってお姉ちゃんが食べ物片手に押しかけてきた。

「ほれ、食え食え」って餌付けされてたら、つーって涙が溢れてきたりして、「あぁ、本当にここにしてよかった」と心の底から思う。

 心が弱った時、いちばん頼りになるのはずーっとお姉ちゃんだった。お母さんも頼りになる。お父さんも頼りになる。だけど、やっぱりお姉ちゃんがいちばんだ。歳が近いからだろうか。なんだか不思議と、余計なことを考えずに心の扉を開ける気がする。

「ありがと、お姉ちゃん」

「気にするでない、武蔵仲間よ」


 お姉ちゃんが私を近くに引き寄せた理由がわかったのは、6月のある金曜日のことだった。

 深夜、ベロベロに酔っ払ったお姉ちゃんが訪ねてきたのだ。なにか良くないことが起きて、やけ酒でもして、かわいい妹に慰められたくなったのかと思ったけれど、そんなことはなかった。

「三鷹までしか電車なかった。あはは」ってゆらゆらしながら笑っていた。

 ルービックキューブの面が揃うみたいに、カチャッて音が鳴った気がする。お姉ちゃんが考えていたことが、はっきり脳みそに映り込んだ気がする。この人、終点を三鷹にできるように、私をここに住まわせたんだって気がする。

 はぁ、と聞こえるようにため息をついて、コップに水を注いで出した。

 お姉ちゃんはへろへろっと机に突っ伏して、「ありがとー」とか言いながらお酒を飲むみたいに水を飲んだ。

「幸せー」と言う吐息は本当に幸せそうで、だからあんまり悪酔いしてるっていう気はしなかった。

「なに? 終電なかったからってだけ? なんかあった?」

 一応、聞いてみる。

「んー? かわいい妹に会いたい気分でさ?」

「へぇ」

「よかった。マイがここに住んでくれて」

「なんで?」

「だって。なんか寂しかったんだもん。マイが近くにいてくれて嬉しい」

「なにそれ。飲み過ぎだよ。遅いからタクシー呼ぶね」

「えぇ、いくらタクシーでもさぁ、ベロベロな美女を深夜に放り出せないでしょう? 泊めてぇ、マイさまぁ」

「まったくもう」

 別に、区民だっていいと思うんだ。違う、区民の方がベロベロな時、転がり込みやすい気がするんだ。だけど、そう単純なことじゃない。

 二駅隣っていう、遠すぎず近すぎない。そんな場所が、実家を飛び出した女二人には、なんとなく心地いい距離感だった。

 心がポキッて折れそうな時、ちょっとした寄り道だしってテンションで会えたり、家に帰るつもりで電車に乗ったけど自分の駅まで辿り着けるやつに乗り損なって、だけどどうにかできちゃう距離感。

 

 あれ、私なんか得してるっけ?

 いや、得してるや。お姉ちゃんがふらーって顔見せてくれるんだから、それだけで。


 区民になりたい。

 いつの日か、23区っていう美術館の年パスが欲しい。

 でも、今はこのままでいい。

 このままがいい。

 私はまだ、大人ぶっているだけで子供だ。

 近くにお姉ちゃんがいるってだけで、すごくホッとするんだもの。


「マイ、吉祥寺いこ!」

「いーよー」

 待ち合わせは電車の中。お姉ちゃんが乗った電車に、後から私が乗り込む。

 今日は一緒に洋服を買いに行く予定だ。

 いつか、結婚したり、引っ越しちゃったらできないことを、今思いっきり楽しんでやる。

 

 市民の「し」は、幸せの「し」だ。

 メンチカツに齧り付いて唇をテカテカに光らせるお姉ちゃんを見て、そう思う。


 私もがぶり、メンチカツに齧り付いた。

 そして、幸せをギュッと噛み締めた。

 

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くしカツ 湖ノ上茶屋(コノウエサヤ) @konoue_saya

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