くしカツ

湖ノ上茶屋(コノウエサヤ)

第1話 区民になりたい。


 都民になるのなら、区民になりたかった。

 それがどうしてかうまく説明できないけれど、都民の中でも市民より区民の方が位が高いような気がしたからだと思う。

 東京。

 それは日本のてっぺん。

 どうせそこにいくのなら、少しでも上に行きたかった。

 とはいえ現実は甘くない。

 本当のてっぺんは貴族の世界みたいで、普通の人間は立ち入ることしか許されない。街を歩いてもいいのだ。いいけど、住まわせてはもらえない。

 関係者以外立ち入り禁止の建物が乱立する、入場無料の美術館みたいだ。コンクリートジャングルをご自由にご覧くださいっていうやつ。

 まぁ、全くもって住まわせてもらえないわけでもない。ギリギリ払えるかもって値段の部屋はちょっと広いカプセルホテルみたいってだけだ。

 本当のてっぺんは無理だから諦めたとして、それでも私は区民になりたかった。

 区民と市民って、漢字を変えたら苦しんだり死んだりする。死ぬくらいだったら苦しみたい、なんてヘンテコな思考がグルグル回る。いや、いっそ苦しまずにポックリと、なんて思ったりもするけれど、死民より苦民のほうが幸せそうな気がする。

 って、何を考えているんだろう。

 ちょっとバカバカしいかも。こんなおバカ、東京は受け入れてくれるだろうか。

 

 就職を機に東京に潜入することになった私は、とにかく区民になろうとした。会社への通勤が楽な場所。そして、区民になれる場所。私の頭の中の東京みたいな、キラキラした場所は家賃でもって門前払いだけれど、私が産まれて育ったみたいな、普通の場所はおいでおいでってしてた。

 よし、ここだ。ここなら私を受け入れてくれるって思った場所を口に出してみたら、お姉ちゃんが唇を尖らせた。

「いや、武蔵境あたりがいいんじゃない?」

 武蔵境って武蔵野市じゃん?

 市民じゃん?

 やだよ。

「マジ、あの辺暮らしやすいってば」

 そういうお姉ちゃんは武蔵小金井に住んでいる。

 かわいい妹を近くに置いておきたいのだか、はたまた都合よく使うために近くに招喚しようとしているのかは分からない。

「内見付き合ってあげるからさ、とりあえず見てみなよ」

 トントン拍子で市民への道が開かれた。断るのは面倒臭いからって、お姉ちゃんのいうことを聞いてやる。

 内見の前の日はお姉ちゃんの家に転がり込んで、宅配ピザを勝手に頼んでやった。お姉ちゃんのお金で食べたピザはすごく美味しかった。


 少しご機嫌ななめのお姉ちゃんに連れられて、不動産屋さんに行った。金魚のフンみたいにひっついて、3件のお家を見せてもらう。

 まだ区内のお家の内見をしたことがなかった。だから、比べることなんてできないんだけれど、魅力的な部屋ばかり見せられる。

 一人暮らしをするのに広くはないけど狭くもなくて、駅まで歩いて10分くらい。家賃は貰えるだろうお給料から払える限界値。街中に高低差はほとんどなくて歩きやすいし、お店が充実していて、雰囲気がよかった。

 不動産屋さんが運転してくれている車から街を見ていると、時々東京らしくないおじちゃんやおばちゃんがトコトコ歩いている。でも、街行くみんなはほとんどきれいめっていうか。うまく言えないけれど、東京らしい、選ばれし者感をかもしだしていた。

「ここはたぶん、今日押さえないと取られちゃいます」と最後の物件に入る前、小声で言われた。他のお部屋よりほんの少し駅近で、いちばんきれいな部屋だった。リフォーム? リノベーション? なんだか分からないけれど、リノなんとかしたてらしくて、IHのキッチンがピカピカしていた。

 あぁ、いいなぁって思った。

 別に料理上手じゃないし、キッチンにこだわりなんてなかったけど、ピカピカの設備ってなんかいい。建物が古いから新築じゃないけど、パッと見た目には新築だ。

 トイレは新品の温水洗浄便座つき。温水洗浄便座って、どうせつけられちゃうなら新品がいい。いくらクリーニングされるとしても、新品の方が嬉しい。

 間取りというか、ところどころの段差に平成というより昭和が残っているのが、少しだけ不満かもしれない。

「ここにしちゃえ! ここがいいよ! 三鷹寄りだし」

 お姉ちゃんが肘でツンツンしてくる。

 不動産屋さんは目で「よろしくお願いします」って言っていた。

 3件の中から選ぶとしたら、確かにここだ。

 でも、決めてしまったら区民への夢が絶たれる。

 市民より区民がいいなぁ。

 私はまだ、うまく言葉にできない、ふわふわとした意地を捨てきれずにいた。


 お姉ちゃんが「ここで決めます」とか言い出して、私が住む部屋を探してるっていうのに、私は蚊帳の外で話が進んだ。早く区内の物件を見なきゃ。それで「こっちにするから」って言ってやる! とひとり気合を入れた。

 入れたんだけど――。

「あら、お姉ちゃんとこに近いなら安心ね」

 なんてお母さんが言い出した。

 本人を蚊帳の外に追いやったまま、トントンとキャベツでも切るように物事が決まっていく。気づいた頃には千切りキャベツがもりもりになっていて、そこに私っていうトンカツをドーンと乗せて「へいおまち」とでも言われているような、変な感覚。まな板の上の鯉というか、なんというか。皿の上のトンカツって感じ。

 家を借りるってなると、保証人がどうとか色々あって、自分一人じゃどうにもできなかった。いや、たぶんできるんだ。本当はできる。私がそれを面倒くさがってやらなかっただけで。

 急いで区内の物件をこっそり2件見させてもらったけど、キッチンの調理台がギンギラギンでなみなみしていたり、お風呂とトイレが一緒だったりしてときめかなかった。

 もしかしたら、区民になることよりあのキッチンの方が魅力的なのかもしれないと、ふと思う。


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