優しい妬心

朝吹

優しい妬心

 今日、ピアスを買った。

「初デートでサイゼリヤ、4℃」が世事に通じていない男のやることとして揶揄されて久しい。逆ばりパターンまであって、あえてサイゼリヤと4℃を敢行して女の反応を見る男もいるというややこしさだ。ネタだろうけれど。

 変な反発心を起こしてピアスは4℃のものにしてやった。百貨店にもある店なのだ、羞じることはない。彼からの同棲記念の贈り物。


 会社の書庫で彼にはじめて逢った。結婚する相手は初対面で分かるというが、そんな感じだった。年下の彼の左手には結婚指輪があった。

「ぼくは時間がかかるから」

 私の顔をろくに見ないまま場所を譲ってくれた彼は妻帯者だった。妻は結婚した直後、不審者に襲われて重傷を負い植物人間となっていた。書庫での初対面。そこから彼と私が付き合うまでにさらに二年経った。

 まだ若い彼が老人のような風情で鶏肉を選んでいるのを目撃した時に、私は覚悟を決めた。長女の私は世話やきなのだ。

「何を作るの。それならあれとあれが要るし、あれもある方がいい。家にある?」

 そんなかたちで彼の家に上がり込み、きったない台所を猛烈な速度でピカピカにして平行しながら料理して、湯気のたつ夕食を彼の前において「じゃあ帰るね」とさっさと外に出た。この部屋はしばらく通い詰めて大掃除をしないと駄目だ。

 その私の頭に、真上から何かが落ちてきた。手を髪にやっても足許を見ても、何もなかった。また何か落ちてきた。一瞬だけ脳天に触れて雪のようにふっと消えてしまう。

「妻から恨まれているのかな」

 私は冬の空を見上げた。真っ赤な夕焼け空だった。不倫する者は地獄に行くらしい。


 私は彼の妻に逢いに行った。当然ながら植物人間の患者は特別な病棟で二十四時間体制の看護を受けており面会は出来なかった。顔を見て云いたいことがあったのに。

 あなたにはもう何も出来ないのよ。だから彼のことは私に任せて。

 彼と私は同棲をはじめた。まだ籍が動いていないので事実婚だったが、植物人間の妻はそんなに長生きしないと暗に医者からも云われていたので、それまでの間と想えばなんの不服も私にはなかった。


 罪人を固定し、頭の上に雫をぽたぽたと垂らして発狂させる拷問がどこかの国にあったはずだ。

 それは彼の家に行った日から続いていた。私の頭頂に、ぽん、ぽん、と何かが落ちてくる。ちょうどポップコーンのような軽さの何かだ。痛くもなんともないが、ひたすらうざい。

 私はこれを植物人間の彼の妻の仕業と信じて疑わなかった。24時間絶え間なく一定の間隔で何かが頭の上に落ちてくる。ちょうど脈拍のような間隔なのだ。あの妻、幽体離脱でもして私の頭に息を吹きかけているんじゃないだろうか。眠っているあの女のバイタルサインが止まれば、この所業は止まるのだろうか。

 名前を呼ばれて受付に行った。刑事たちが逮捕状をもって私を待っていた。


 私の恋人と若い女が歩いている。浮気する者の弱点は、彼らも誰にも見られたくないということだ。ここには監視カメラもない。彼と女が笑っている。

 不倫した者は地獄に行くのだ。浮気された側も地獄の想いを味わうのだから、これで公平だろう。わたしは若い女を滅多打ちにしたが後悔はない。

 ただ、新妻に不貞をはたらかれていたことも知らないで病院に通い、植物人間の妻を見舞って虚しい毎日を送っているであろう若い女の夫のことだけは気が掛かりだった。

 私は転職し、彼のいる会社に入った。書庫で逢った時すぐに彼だと分かった。内心の辛さを億尾にも出さずに働いている健気な彼をずっと見ていた。私にも想いがけない成り行きだった。最初から彼を狙っていたわけではない。

 今となっては分かる。

 きっと不貞した女も同じことを云うだろう。最初から不倫を求めていたわけではない。どうしようもなく慕わしさの止まらない恋はあるのだと。

 だから、なに。

 踏みとどまれば誰も不幸にはならなかった。あなたも私も。


 待ってるから。彼は云った。

 出所してきたらまた一緒に暮らそう。今度は入籍しよう。いろいろ失ってしまったから、もう何も怖くないよ。そう云って情けなさそうに彼は笑った。

 私が逮捕されたことでいちばん可哀そうなのは彼だ。もとはといえば当時の私の彼と彼の妻が浮気したのが悪いのだ。

 ネットでも云いたい放題いわれて、彼は退職にも追い込まれた。週刊誌の記事も酷かった。『恋人の浮気相手を撲殺未遂。その後は被害者の夫の内縁の妻におさまっていた悪女』。

 冷え切った冬の空。雪が降り出しそうだ。


 面会を終えた男は刑務所から出ると灰色の空を見上げて笑った。あの時、道に倒れていた俺の妻に最後の致命傷を与えたのは俺なんだけど、誰にもばれてない。


 刑務所は寒かった。子どもの頃に戻って明日の遠足の夢をみながら、こたつに入って眠りたい。

 それは病院にいる植物人間の妻も同じ気持ちなのだろう。

 私の頭の上に返事のかわりに、雪じゃなくてポップコーンが降り積もった。

 


[了]

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優しい妬心 朝吹 @asabuki

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