㉗回想(ニ)
再び過去へやってきたとき、アルトリウスは駐屯地の自室にあるオーク材の事務机と向き合っていた。机の上にはホルスロンドで見た蝋塗りの板が重なっていたり、羊皮紙でできた巻物が置かれている。アルトリウスは足を組んで報告書に目を通していた。先ほどサルマタイの言葉が難無く聞き取れたように、不得手なはずのラテン語もわたしは読むことができたことは実に奇妙でならなかった。
「よもや盾で氷を削ってくるとか思わねぇよ」
彼、ラダミストゥスはアルトリウスが知る数多のサルマタイ人の中で極めて親しく、最も生意気な男である。
亜麻色の髪を後ろで縛り、三つ編みでまとめて輪にしている。目は苔生した川のような瑞々しい碧である。
わたしはその見目に覚えがあった。あの赤黒い女神の機織り部屋で、織機の重しとしてぶら下がっていた生首。雪の隙間から萌出る草花のように白くも確かに血の通ったこの顔とは似ても似つかないが、まぎれもなく彼である。
「お前たちをブリタニアへ送ることになった」
「ほぅん。例の
「ローマ式の戦闘やラテン語等の教習の担当は」
「もちろん、お前だろ」
「ああ。狂犬どもの躾は骨が折れるだろうが、やりがいはありそうだ。丁度、隣に躾甲斐のあるやつがいるしな」
不思議なことに二人は文字通り以心伝心の関係にあった。片方が最後まで話す前に、その続きを見事に当ててしまうということである。わたしとアカシア、レイフもそれなりに高い密度で長い付き合いとなっている。しかし彼らの域に至るにはほど遠いことであろう。
アルトリウスの肩に無精髭が生えた顎が乗る。間近に迫った彼の目をアルトリウスは刹那見返したが、とっくに見慣れているせいかすぐに巻物に戻った。目は苔生した川のような瑞々しい碧で、野生のヘビのように鋭く、実のところもう少し見ていたいという誘惑に駆られたが今の身ではどうしようもない。
わたしは古代ローマに関して無知であったが、先生の授業や報告書の内容から今のアルトリウスらの状況を幾らか理解することができた。
先日凍結したダヌビウス(おそらくダヌヴェ人という名の由来)──ドナウ川で敗戦したサルマタイ人のうち六〇〇〇人が補助軍団としてローマ軍団に編成。遥か西にあるブリタニア属州──今の我が祖の郷に送られることとなった。アルトリウスは軍功のため
サルマタイ人部隊がアルトリウスの傘下についてから、ラダミストゥスは常に彼の側に立っていた。彼はアルトリウスから
「既に話していることだが、
アルトリウスは宛もなく飛び立ったハトのように、不意に声を漏らしていた。
アクインクムといえば今はブダペストと呼ばれる古代ローマの都市である。近くにはダキア人の他サルマタイが住んでおり、度々彼らの襲撃に見舞われてきた。彼らとの繋がりはそこで初めてできたのか。
「ボレナ──トリュフォンの母親がロクソラニ族(サルマタイ人の一派で、ヤジギ族より東に住んでいた)との戦いで結婚の要件を満たしたと言っていた」
サルマタイ人の女は、戦場で敵の首を三つ得ないと婿を得られないというものだ。遊牧の民の女は強い傾向にある。定住する者たちより人口が乏しいし、馬術や弓術は性差が出難いためであろうか。
「その話、なんかもう三回くらい聞いてっけど痴呆か? まあいいや」
「補助軍団に属し二〇年ほど働いた暁には、ローマ帝国の市民権が得られる話はしたな」
「ああ、そういやそんな話あったな。つまり己等はローマ帝国の国境に攻め入り戦を仕掛けることで、合法的に庇護を得られる立場になったわけだ」
「考えたものだな」
「酋長に言ってくれやぃ。あ、今は投獄されてっか」
一から十まで話さないせいでわたしには伝わらないところが少なからずあったが、敵に脅かされるヤジギ族らが狡猾な手段でローマ帝国の庇護下に一部だが入ったことは理解した。先生が語るところによれば、この戦で帝国が得たものは多くなかったという。
正面に回ってきたラダミストゥスは机に肘をつき、身を乗り出し、やにわに顔を寄せてきた。ヘビのように目を細くなる。夜空を貫く雷のような、鈍い黄金色の睫毛が揺れている。精悍な顔つきと生気に満ちた眼差しに、わたしは無い頭を引いていた。
「アンタも嬉しいだろう」
赤い舌がにわかに覗く。揺れるイチイのようである。
「他の奴から聞いたぞ。本来ならここで退役して机と向き合うだけの楽な世界に行けるってな。ハッ、素直じゃねえの」
アルトリウスは何も答えなかった。
しかしラダミストゥスのいたずらっぽい唇の歪みは、いかなる誤魔化しも無意味であると暗に伝えているようにも見える。
「俺たちとブリタニアに来てくれるんだろ、隊長サマ」
ホルスロンド王国記 水狗丸 @JuliusCinnabar
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