㉖回想(一)


 あれから途方もない時間を先生との鍛錬に費やした。ここには昼も夜もあるし、晴れの日も雨の日もあるが、季節はずっと秋のままであった。霧が晴れた日に向こうを見れば、赤と黄色に染まる山が見える。夜空を見上げれば射手座が見える。風はいつも、川沿いを吹き抜けるように涼しかった。


 わたしは昼の森でイノシシを仕留め、小屋の近くに持って帰った。この辺りには獣避けとして先生の尿が撒かれており、安心して解体作業に没頭できる。毛皮は服や毛布に、骨は肥料に、肉や内臓はわたしたちの身体の養分となった。レイフは妖精の姿になっていたため、木々の精気を吸って暮らし、食事は必要としていない。渡しても食べようとしないため、わたしはそれなりに腹が膨れるほど食べることができた。


 わたしは解体した肉を木に吊るし、真下で火を焚いて燻していた。服はところどころ擦り切れ、汗が滲んで臭くなっていたが、すぐに鼻が慣れてきた。


「そういえば先生」

 彼はわたしの後ろでイノシシの毛皮を洗っていた。上半身には何も着ず、そばかすで覆われた白い肌を惜しげもなく陽の下に晒している。


「先生とアルトリウスの関係について聞いても?」

「ああ。俺はそいつが率いたサルマタイ人の末裔だ。神官として夢を通してアルトリウスの一族を見守り、時が来たら干渉する。それが俺の役目だった」

 水洗いを終えた毛皮は、森の中で陰干しにされた。燻製肉もできあがったため火を消し、わたしたちは再び鍛錬を始めた。痛みも恐怖にはまだ慣れきっていないが、殴り合ううちにあらゆる苦痛が引っ繰り返り、気付けば頭の中が空になる。混乱の末に真っ白になるのではなく、透明になる。冴えるのではなく、無心になる。


 わたしの腕や脚はここに来る前よりもずっと太く硬くなり、剣で風を切る音も烈しくなった。


 はじめは何度も食らった先生の殴打にも動じなくなり、傷も見るからに減っていった。先生はタカやトンビを呼んでわたしを襲うよう命じたりもしたが、彼らももはや敵ではなかった。


 ところでここが女神の夢の世界であるために、わたしは度々彼女を見た。正しくはわたしが彼女に取り憑き、その過去を覗き見ていた。 

 更に正確なことを言えば、〈彼女〉ですらなかった。


 ルキウス・アルトリウス・カストゥスは名の通りオリーブ色の肌をしたローマ人の男であった。背丈はアカシアより少し高く、腕は太く、蚊の足のような毛に覆われていた。わたしは視覚と聴覚を除く全ての感覚を失い、彼らすらアルトリウスのものでしかなかった。取り憑いているときのわたしは、アルトリウスが見聞きするものしか共有できるものはないということである。即ち今のわたしは凍った川の上を這い蹲り、情けなく足を滑らせる無数の鉄のトカゲと甲冑を纏うウマの群れを見ることしかできなかった。


 手前のトカゲたちは馬上槍が握り、小札鎧を赤く染める。中には腸を砕かれ、立ち上がれなくなった者も少なくない。高く小まめに響く死の音が、トルコ石を砕いて牛乳に溶かした空の下、紅茶からそっと匙を引くスプーンのように墜落する陽光の如く落ちていく。


円錐状の兜に銀の竜のようなチュニック型の鎧。馬にも小札鎧を着せている彼らが、サルマタイ人に違いない。正確に言えば、ダキアやパンノニアで半定住生活を送っていたヤジギ族であろう。わたしは可能な限り彼らを具に観察した。ダヌヴェ人とよく似た白ネズミのような白皙。


 ローマ人とサルマタイ人の見分けは容易についた。色素の薄い肌や目の色、優れた体格──即ち我々ゲルマン人に近い見た目をしている人たちがサルマタイ人で、ずんぐりとした褐色ないしオリーブ色の肌の人間がローマ人である。


 前線にいたアルトリウスは踏んづけていたローマ兵の盾から降り、銀の光たちを見下ろした。奇妙なことに川の上にいる全てのローマ人が足元に盾を置いていた。血と死と勇が場を満たしていた点から一つの戦が終わった直後であることは察したが、いかなる策であったかは分からない。


「ああ、くそっ、降参だ。降参だっ」

 紙を破るような声がした。腰や首元に金の装飾を施した益荒男が銀の川の向こうからやってくる。老いを示すいくつもの皺が顔に刻まれていた中年であるが、眼光はアザミのように鋭かった。


「ヤジギ族の酋長、バナダスプス。汝の叡智に屈したり、ってな」

 バナダスプスと名乗る中年はアルトリウスの前で膝を折り白旗を上げた。アルトリウスは背中に差した馬上剣を抜きバナダスプスの首筋にやった。その場で首を取るつもりかと周りも俄かに騒がしくなったが、彼は銀の筋を当てたのみであった。


「我が朋らよ。お前たちが餓えや渇きから逃れんと鑓を取ったことを、当方はよく知っている。蒼く美しきドナウ川ダヌビウスの戦もまた、好ましいものであった」

 騎士を承認する王のように、彼はバナダスプスに対し面を上げるよう言った。


 おそらくアルトリウスはこれからサルマタイ人との絆を深め、今のわたしにまで繋がる縁を紡ぐのだろう。


 今のわたしはただの霊ゆえ、ここで糸の色を変えるなどできないが。

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