鴨羽の煙管
葉霜雁景
愛煙家の備忘録
この煙管は
故人は亡くなる直前まで、異様なほど煙草を喫していたらしく、遺族はたいへん気味悪がったそうだ。首を吊った時ですら、手に煙管を握っていたらしい。さらに、まだ老いていないのに物忘れが激しくなり、
私にこれらの話を聞かせたのは、骨董市で鴨羽の煙管を売り出していた商人だった。遺族がさっさと手放したがり、売り飛ばすよう依頼されたと言っていた。
彼は誠実な商人で、前の持ち主の悲劇を、包み隠さず買い手に語っていた。何も知らずに煙管を買った相手が、本当に死んでしまうことがあっては心苦しいと。それじゃあ、話を知ってもなお買った客が死ぬのは気にならないのか聞くと、それは自業自得でしょうと苦笑していた。
鴨羽の煙管は美しい、見事な延べ煙管である。光を当てると暗い緑が覗く胴、鈍く輝く銀の吸い口と
このように美しい品のため、私が見つける前にも、数人の目に留まっていたと聞く。けれど皆、商人の話に臆して、買うのを諦めていたのだった。
私は愛煙家であり、加えて物好きでもあったので、ぜひ欲しいとしきりに言った。商人は、私が重度の物好きだと見抜いたのだろう、そんならお売りいたしましょうと言って、私に煙管を差し出した。
いわくつきの煙管を手に入れた私は、譲り受けた古い一軒家に帰宅して煙管を磨き、
たった一回吸い込んだだけで、煙は私の身体隅々まで入り込み、心臓と脳を包み込む。
奇妙なことに、煙草の香りも変わっていた。花、いや香木の方が近いだろうか、ともかく品のある香りが満ちている。気付けば私は何度も煙を吐き、安寧の沼へ緩やかに落ちていた。
あまりの心地よさに微睡んでいると、不意に、私の前に人影が現れた。私は夢心地に
現れたのは女である。緑の黒髪をきっちり結い上げ、
「どちら様ですか。ああ、もしや、鴨羽の煙管に憑いている魔性ですか」
自分の口が、煙だけでなく言葉も吐いている。身も心もすっかり支配されていた私には、自分の挙動が他人事のように感じられた。けれど不思議なことに、記憶は曇り一つなく鮮明に保たれている。
女は何も答えない。ただ微笑んでいる。何を思っての笑みなのか、全くもって分からない。ただ、煙に溺れる私を見て微笑んでいる。
女の笑みを眺め続けていると、幾星霜という途方もない時を過ごしているような気分に
今、自分がどうなっているのか。分からないうちに、私は眠っていたらしかった。目を覚ました時、煙管の火は消えていて、女の姿も消えていた。ただ、嗅ぎなれた煙草の匂いが
しばらく呆けていた私だったが、後ろから恐怖に急襲され、びくりと背筋を伸ばした。恐怖、恐怖だ、あの女への恐怖。私の心身に麻酔のごとく行き渡った陶酔は瞬く間に霧散し、冷たい怖気が吹き荒れている。
話に聞いた、煙管に憑く魔性と思わしき女。あの女には暗闇や深淵といった、生き物に付与された絶対の恐怖と同じものがあった。私の、人間の奥底に残る、動物的な直感が働き始めている。あの女は恐ろしい。あの女は恐ろしい!
見えない何かに急き立てられ、私は煙管を箱にしまい、物置の奥へ封じた。これは、手に取ってはいけないものだ。これ以上、誰の手にも渡ってはいけないものだ。
魔性を閉じ込めた後も、蒸し焼かれるような憂いに汗が止まらない。落ち着きたくて、これまで使っていた煙管で煙草を吹かしたが、とてつもなく
不味い煙を吐きながら、私は自室に戻り、壁に背を預けてずるずると座り込んだ。極楽の煙を味わった体に、下界の煙が毒となって蓄積されていく。力が抜け、私を形作る肉と骨が、重みを増したように思われた。
火を消して、横になる。住み慣れた我が六畳間が、牢屋のように見えた。いや、この世界そのものが牢屋、監獄なのだ。こんな所に住んでいるのだから、天界の極彩色を見れば気が狂うに決まっている。私はもう狂っているのだ。頭も目も、心も焼かれてしまったのだ。
終わりだ、何もかもお
私は震えた。震えながら、胎児のように身を屈めた。逃げたい、逃げたい。ここではないどこかへ逃げたい。誰か助けてくれ、助けてくれ。ここから私を出してくれ――。
~~~
気付くと、私は夢の中にいた。月夜の湖畔に立っている。ほんの少し霧が出た、肌寒い湖畔だった。私を覆い尽くした恐慌は、鳴りを潜めて消え去っている。
ふらふら前方へ歩いて行くと、鳥の声が聞こえてきた。ぐわぐわと鳴く鴨の声。さらに近づくと、陸に上がっている鴨や、湖上に浮いている鴨の姿が見えてきた。
鴨たちが集まっている場所には、ベンチが一つ。そこに、髪を解いた女が座っている。月光を受けた緑の黒髪が、
女は、自由に過ごす鴨たちをぼんやり眺めていたが、ゆっくり私の方を見た。黒々とした目に射貫かれると、体が動かなくなってしまった。私はただ、突っ立って女を見るしかなくなった。
「かわいそうに。たくさんのことを一度に考えては、頭が壊れてしまいますよ」
涼やかで密やかな声が、医薬のように私の中へ溶けていく。女は眉根を寄せて、憐れむような顔をしていた。
「あなたたちは、ずっと張り詰めている。いつも何かを考え続けている。だから、
するりと立ち上がった女は、慈愛めいた言葉を
女は煙管を持っている。鴨羽の煙管だ。女が私の首に、ひたりと煙管を当てると、ごろりと頭が落ちた。体は動かず突っ立ったまま、頭は女の腕に抱かれている。
煙管は鎌で、雁首は鎌首だったのだと、私は当たり前のように悟った。
「何も考えず、私を見ていればいい。そうすれば、あなたたちは容易く極楽へ行けるのです」
私の頭を、白い氷の手が撫でる。ひんやりとした手が、私の頭に沸き起こる様々な念を吸い取り、払ってくれている。私はすっかり身を、頭を任せていた。この空間は、ただ安らぎで満たされている。
しばらくすると、景色が明るくなり始めていた。湖は大きな蓮池に変わり、気品ある芳香が匂い立つ。空は
「こちらにいらっしゃい。ここで自由に暮らしなさい。あなたは私を求めたでしょう。心の奥底が、解放を求めていたのでしょう」
女が慈愛を謳うのと、鴨たちが再び鳴き始めるのを、私は静かに聴いていた。清澄で心地よい朝の音色だった。私の心は今まさに浄化され、この極楽に招かれている。
誰にともなく礼を言おうとしたら、ガアという音になった。鴨の声だ。私も鴨になっていた。亡くなった高名な文人も、それ以前の持ち主たちも、女と煙管に首を落とされて、鴨になったのだろう。
女は私を地に降ろし、ふんわりと微笑を浮かべた。
「こちらにいらっしゃい。ここで自由に暮らしなさい」
女の謳う声が響く。
~~~
現に戻ると、私は物置から、大切に煙管を取り出した。私はこれを求めている。私はあの女と、鴨たちが暮らす極楽を求めている。
狂気に陥りつつあることは、いや、既に陥っていると分かっていた。けれど、この一欠けらの理性すら、あの女の温情でもたらされたもののように思える。
私は痴呆になる前に、書き記すことにした。鴨羽の煙管のこと、これに取り憑く魔性のこと、一度吸えば、魔性が作った偽の極楽へ導かれること。私はもう戻れないが、新たにこの煙管を入手する物好きが現れたのなら、どうか思い留まってくれと願うばかりである。
戻れない、そう、戻れないのだ。陶酔する私の傍らに、全ては幻で偽りだと、魔性の罠だと叫ぶ私もいるのに、逆らえないのだ。私は囚われてしまった。阿呆になってしまった。何も考えなくていい鴨になって、魔性が支配する偽りの楽土にいたい。そう思ってやまないのだ。いつか、あの女が本性を現し、鴨となった私の喉元に食らいつくのだとしても。
私はこれから、鴨羽の煙管を手放さず、ずっと煙草を
煙草を吸う。煙を吐く。深い深い安寧の、
鴨羽の煙管 葉霜雁景 @skhb-3725
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