第10話

その瞬間、

ビッグ・オランは左手を顔の前に出し、防御した。だが、何もかもが、遅い。

「ギャァ!」

 ビッグ・オランの左腕が、みどりの剣によって見事に切り裂いたのである。

だが、切り裂いたが切り落とすことは出来なかった。

 「あぁ・・・」

 苦痛にゆがむビッグ・オラン。

 「やった!」

 ワン!

 ニャオー!

 「甘い・・・!」

 祖父、条太郎は冷静だった。

 ビッグ・オランは、

 「甘いのう・・・まだ、甘い。娘、また会おう」

 といい、まだ明け切れていない闇の中に消えて行った。

 「追うな!」

 条太郎は、敵を追おうとするみどりを止めた。 

「まあ、いい。みどり、よくやった」

 武藤条太郎は満足そうだった。

 刀根尚子警部補は二人の闘いを見ていた警官にビッグ・オランを取り囲むよう指示していたが、警官たちはビッグ・オランの馬鹿でかさにおびえていて、彼を遠巻きにしていただけだった。

 「お前・・・」

 ビッグ・オランは消え去る前に、龍作を一瞥し睨み付けた。

 「ふっ・・・」

 九鬼龍作は笑みを浮かべたが、無言だった。

 「また、会おう」

 と、言い放った。

 数秒の静寂があった。まだ、深淵の闇は完全にあけていない。誰もが深い吐息を吐いた。この静寂を破る最初の口火を切ったのは、刀根尚子警部補だった。

 「みどりさん、凄いわね。よく頑張ったわね」

 みどりは笑顔を浮かべ、頷いた。ビビがやって来たのに気付いて、彼女は抱き上げた。

 「ありがとうね、ビビちゃん」

 ランは口から短剣を外している。口の辺りは、血で真っ赤になっていた。


 真田の家の成り立ち・・・というより、武藤家の生い立ちを言わなければならない。

 真田昌幸は七歳で甲斐武田に人質として甲斐に入った。この時、武藤三郎羽左衛門尉の養子となり、武田親類衆の武藤氏を継いで武藤喜兵衛尉昌行と名乗った。馴染みは余りないが、真田幸村の親といえば、すぐに思い浮かべることが出来るだろう。昌幸、三枝昌貞と曽根昌世の三人が信玄の両目として活躍した。昌幸は震源の近習として仕え、多くのことを学んだに違いない。

 織田信長が明智光秀に殺された時、織田の勢力は分裂状態で、おまけに信濃は内紛状態になっていた。その時に、昌幸はすぐに行動に出なかった。北条が上野に侵入してきたが、昌幸は沼田城を落とし、岩櫃城の守り、今度は上杉景勝が北信濃に進行すると、昌幸は上杉に降り、その十四日後には北条に降ります。

 そして、今度は北条を裏切り、徳川家康につく、といつた目まぐるしく変わる状況です。何としても、自分の領土を守りたかったに違いない。

 ところで、さっきも言ったように昌幸が人質に入ったのは七歳ですが、永禄年間に信玄の母方、大井氏の氏族である武藤氏の養子となります。

 この武藤条太郎の家系は、それを引き継いているようだ。

 この後(現在まで・・・)いろいろとあったようだが、とにかくこの武藤家は、末端の家系として、この地で生き延びて来た。その精神も・・・である。

 《この稿は、ろひもと理穂氏の論文を資料として参考させていただきました》

 

 武藤三郎羽左衛門尉は生真面目な人柄だったのだろう。愛妾を抱くにも、その人柄などを考慮した。それは・・・信州人独特の気質によるといっていい。

 武藤という名は、坂上村の他にもいくつかの家が残ったのかも知れないが、この条太郎の家は間違いのない直系の家系として残った。

 そして、この武藤の家は残り、今日まで続いて来た。だが、みどりの母郁子・・・武藤条太郎の娘郁子の婿選びは失敗したことになる。

 ある時、郁子は中谷光紀を父条太郎の前に連れて来た。真田家とも武藤家とも全く縁のない普通の家柄だった。郁子は、

 「私、この人と一緒になります」

 と、宣告した。

 娘郁子の性格は気性が強く、決してその時の感情に流されるような性格ではなかった。何でも幼い頃から自分の意志を通した。

 「お前・・・」

 条太郎は言葉を失った。

 父条太郎は、反対はしなかったのだが・・・

 代々続いたこの武藤の家の存続に言い知れぬ不安と恐怖を抱いてしまったのである。もちろん、この時点で、その不安と恐怖が何なのか分かるはずがない。

 武藤条太郎は目の前の背の高い男を見つめている。

 (この男は・・・似ている・・・)

 昌幸さまの再来ではないのか・・・ふっと、条太郎は考えてしまう。孫のみどりはまだ九歳・・・いや十歳になっている。

 「あの時代なら・・・」

 武藤条太郎は、こんなことを考えてしまう。

 

 ランに怪我はなかった。口に付着していたのは、闘った相手の血痕だった。

 ビビも闘った。みどりは小さい体のビビを、時には身を挺して、守り抜いた。

 「ビビちゃん、ありがとう。怪我・・・なかった?」

 みどりはビビを抱き上げ、泣いている。

 何処からか現れた祖父の武藤条太郎は、ほっとした表情をしている。

 「みどり、見事だったよ」

 といい、みどりは微笑みを浮かべる。

武藤条太郎は龍作に頭を下げた。

 「私より、みどりさんを褒めて下さい。この子だからこそ、やってのけることが出来たのです。それにしても、武藤に伝わる剣法・・・凄いですね」

 「みどり・・・」

 条太郎は孫娘を抱き締めた。

 この由緒ある武藤の家は、もうこの二人しかいないのである。

 「このまま終わらせわけにはいかない」

条太郎には、この気持ちが強い。それなら、

「この子に・・・婿を・・・」

それとも・・・養子を・・・

いろいろ考えるが、全てはみどり次第なのである。

「ふ、ふふっ・・・」

龍作は、そんな条太郎の気持ちを知ってか知らずか、みどりを優しく見つめ、みどりはビビと戯れ、祖父の気持ちなど我知らずの知らん顔をしている。

 

 さて、捕まえたこの者たちをどうするかである。

 刀根尚子警部補は龍作と眼を合わせた。

 「ビッグ・オランという奴には逃げられましたね?」

 「そうか・・・まあ、いいだろう。奴とは、また何処かで出会うかも知れないな」

「警察は・・・」

 「捕まえていた奴らを、これから連れて行きます」

 刀根尚子警部補に、龍作は頷いた。

 「そうだ」

「あの少女は・・・探せたの?」

 二年前にいなくなった少女の行方である。龍作の忠告で、警察が調べで、東南アジアのある国にいた。

「裕福な家庭に養女としていました。はい、ええ・・・ちゃんと説明して、日本に連れて来ます。怯えながら生活していたようで、警察官の日本語を聞いて、笑顔をみせたという連絡が入っています」

「やっぱり本当の両親の元にいるのが、一番いいんだろうな」

 「そうですね」

 刀根尚子警部補の眼はみどりを捉えている。

 あの時、御社から出て来たみどりの体は震えてはおらず、しっかりとした眼で刀根尚子警部補の指示通りに行動をした。

 「凄い・・・子ですね」

 「ああ」

 龍作も改めてみどりを見ている。みどりとビビの戯れを見て、ランも仲間に入っている。

「ふふ、あの子はビビがいなくても大丈夫だろう。しっかりとした子だ。条太郎さんは、武藤家の行く末が気掛かりだろう。跡取りは、もうあの子しかいないんだからな。みどりさんは、条太郎さんが思う以上にしっかりとしていて、まだ十歳の女の子だが、実に逞しい。心配ない。武藤家の血筋を引いている」

 「そうですね。私も、そう思います」

 「みどりさんがどんな跡取りを選ぶかだが、彼女のお母さんは確かに失敗したが、みどりさんは大丈夫だろう。とても十歳とは思えない」

 刀根尚子警部補は苦笑している。

 「どうだね、血はきれいに落ちたかね」

 「ええ・・・」

 ランの口周りは元のさらっとした毛並みに戻っていた。

 「ビビは・・・」

 龍作は濡れたタオルでビビの体の血をふき取った。

 「よし」

 ビビの爪はいたんではいなかった。引っ掻かれた男の顔は傷だらけで、見られたものではなかった。

大猿こと・・・ビッグ・オランには逃げられたけど、他の奴らは一人残らず捕まえた。雇われた者たちだから、ビッグ・オランの行方を問い詰めても何も知らない筈であった。

 「刀根尚子警部補、後は頼みます。ランは私が連れて帰りますから・・・」

 「ラン!」

 ワン

と一声鳴いた。

「よし、ビビ、行くか?」

 ニャー

 ビビは龍作の方を振り向く・・・。

のだが、まだ、ここを離れたくないようだ。

 ランはというと、ランもみどりの傍から離れようとはしない。

 「これから、どちらへ・・・?」

 「さあ、私にも分かりません。気の向くままに、この子たちと、この日本の国を隅々まで旅をするつもりです」

 武藤条太郎はそんな龍作に、

 「この子も、この先、剣の修行であちこちをまわります。どこかで会えば、気にかけてやってください」

 といい、笑みを浮かべた。

          〇

刀根尚子警部補は帰り際、

華のことはなにとへ 紫雲のことは紫雲のことは紫雲にとへ 一遍はしらす。


 「秋ゆりことは秋ゆりにとへ、突然の訪問者のことはその人にとへ、九鬼龍作は知らず・・・ですか・・・」

 こう言うと、彼女はにんまりと笑った。

 

一週間後

 警視庁の小原正治警視正のデスクの上には、リンゴが置かれていた。

 「何だ?」

 小原はリンゴを手に取った。よく見ると、鋭い何かで切り取られたのかえぐり取られていた。


           《了》

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九鬼龍作の冒険 生贄の少女 青 劉一郎 (あい ころいちろう) @colog

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