第28話 無かったことにしよう!
それから一か月ほど経っただろうか。一時はICUに入るほどの騒ぎとなったわけであるが、運よく術後の合併症もなく、私の回復が早かったというのもあり、晴れて退院の運びとなった。様々な傷の抜歯も終わった今一番やりたいこと。それは、ゆっくりと風呂に入ることである。
退院日、大輝は会社を休んで私のことを迎えに来てくれた。重い荷物を持ってくれて、様々な手続きを済ませてくれた彼には本当に頭が上がらない。しかも、彼と私は、私が知っているような良好な関係にはないというのに。
駐車場で、大輝が後部座席の扉を開けてくれた。その段になってふいに胸騒ぎがしたのだ。――あんな事故、防ぎようが無かった。急に割り込んできたトラックのシルエットが、今でもリアルに思い起こされる。安全運転を心がけていれば、スピードを出していなければ。そんな後悔が一つもなくたって、事故に巻き込まれることはあり得るのだ。
「……せっかく運転して来てくれたのにごめん、私やっぱり電車で帰りたい、かも」
大輝は一瞬不思議そうな顔をした後、納得したように分かった、と答えた。
私は一人で帰る、大輝も一人で車で帰ってくれといったのに、彼はわざわざ私に付き添ってくれた。後でまた車を取りに戻る気だろうか。電車の中でも私たちは終始無言だった。大輝が全く目を合わせてくれないのはなぜか。彼が腹を立てるようなことは、とても限られている。この世界における自動車事故の同乗者は、田辺先輩。私は、田辺先輩とどこへ。――情報は少ないけれど、なんとなく、この世界における私は田辺先輩と不倫旅行にでも行こうとしていたのではないかと勘繰る。過去が変われば、私の行動も変わり得る。それは、今までの体験からもよく理解している。共学を出た経験と、作家として恋愛小説を書く経験が悪魔合体して、少しだけ未練が残っていた昔の恋愛を蒸し返そうと考えてしまう、というのはあり得ない話でもない。
大輝に従って帰り着いた家は、懐かしの「我が家」、つまり私が大輝と結婚した際に一緒に住むことになったアパートの一室だった。しかし、大きく違っている点があった――それは、部屋に私の荷物がほぼなかったことである。代わりにそこにあったのは、積み上げられた段ボール。それが意味しているものは、おそらく。
呆然としている私を余所に、大輝は「車を取って戻ってくる」と家を出て行ってしまった。
荷解きをしながら、私は何かこの世界における生活のヒントとなるものはないだろうかと考えていた。――あえて確認する。私は今、「共学の中学に進み、恋人として大輝を選び、そして小説家である」人生を歩もうとしているんだよね。そして、どうやらこのルートをたどると、私はなんらかの理由(十中八九田辺先輩との不倫)で大輝と婚姻後に仲違いをし、家を追い出されかけたところで事故に遭う、と。もう、離婚届は出されているのだろうか? まだ提出されていないのだとしたら、それはさっさと回収した方が良いのでは? もしかして、これ結構急ぐ必要あるやつ? ……いや、そんなことをしている暇があったら、さっさと役所に行って不受理届を出しておいた方が早い気がしてきたぞ。私は、私の荷物をガサゴソと漁りながら頭を抱え、区役所のホームーページを見ては不受理届の出し方を調べようとしていた。しかし、そもそもすでに離婚が成立していたらこの悪あがきも意味をなさないのである。
積み上げられていた段ボールも含め、一通り部屋や荷物を捜索し、出てきたのはかつての作品のプロットや服飾品ばかり。プロットは……確かにこの世界を小説家として生き抜くには必要なものなのだけれど、今欲しいものではない、といった気持ちである。そうこうしているうちに、大輝が再び帰ってきてしまった。
「ただいま。――こ、これは」
段ボールを一度すべてひっくり返してしまったことにドン引きしているようである。
「……ごめん、ちょっと探し物をしていて」
「何?」
「……」
お気に入りのアクセサリーだとか、友人からの手紙だとか、適当なことを言えば良いのは分かっていた。しかし、嘘をつくと、更に嘘を重ねることになる。これまでに散々過去を書き換えてきた私は、自分の行動のつじつま合わせのために小さな嘘をたくさんついてきた。なんだか、そういうのがとても疲れてしまったのだ。別に、疚しいことをしているわけじゃないのに、どうして私が。
こっちが押し黙ってしまったからだろうか、大輝はふいに言葉を発した。
「ねえ、遥香」
「……」
「遥香ってさ。事故で、記憶がいろいろ欠けているんだよね?」
「……」
「じゃあさ、この数か月。この間に、俺と遥香との間に何が起こったのか、遥香自身が一体何をしたのか、忘れちゃっているんだよね」
忘れた、というと厳密には嘘になるけれど、私は肯定の意味で少し視線を下に逸らした。
「じゃあ、それでいいよ、もう」
大輝の表情を窺うと、そこにあったのは怒りか、あきらめか、やるせなさなのか。――あるいは、赦しなのか。
「他人に怒りの感情を抱き続けるのは、疲れるんだ」
彼はその場にしゃがみこみ、自身の仕事用のバッグを開いた。そこから取り出したのは、緑色の紙――それを、粉々に破いたのだった。次に、自身の書斎に姿を消したかと思いきや、封筒を手に私の目の前に戻ってきた。それをそのまま、私の目の前で破く。はらはらと落ちるその破片を、私は手に取ってみた。封筒の中に入っていたのは、何らかの写真だろうか。そのうちのいくつかを見ると、田辺先輩の姿だとか、私の後ろ姿だとかが写されている。どこの写真だろう? 屋内ではなさそうだ。
「……本当に忘れてるんだね」
「写真を見せられたから察しは付いたけど」
「お察しのとおり、遥香の不倫の証拠だよ。これをもって、僕らは別れる予定だった。……だけど、全部忘れてしまった遥香を責めても、もうしょうがないんだ」
大輝の瞳は、まるで何も映っていないかのように真っ黒だった。
「無かったことにする。だから、またやり直そう」
ハルカA to E, G and H まんごーぷりん(旧:まご) @kyokaku
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