第27話 ハルカF ~共学出身、大輝と結婚して小説家となった私~
全身の痛みと、尋常じゃない喉の渇きの中意識を取り戻し、自身が存在することに涙を流す。この世界の幕開けはそんな異常な様子で、私を取り囲む医療従事者たちが騒がしくなる。
とにかく知りたいのは、大輝が生きているかどうか。問題は、私自身、かなり身体の自由が利かない状況であるということだった。大きな事故に巻き込まれるという運命自体は変わらなかったのか。様々な機械に管で繋がれており、意識はあるものの、自分自身でトイレひとつ行けず、頭では様々なことを理解しているというのに、それを十分に表現できるほど、口もきけない状況だった。それどころか、変な悪寒と、無限に続く吐き気で、何も考える気すら起きなかった。
この世界の私は、大輝を選んだ。つまり彼は私の夫となっているはず。――仮に彼が私の家族であるなら、今頃「奥様の意識が戻りました」等と連絡が行き、病院に飛んでくるはずである。それまで信じて待つしかない。私は再び、目を閉じるのであった。
朦朧とした意識の中で度々目覚めては眠るを繰り返し、どのくらいの時間が経ったのかも分からなくなった。明確に「目が覚めた」と感じたときに見た景色は、最初に見た病室とどこか違う印象を抱いたので、おそらく眠っている間にICUから一般病棟に移送されたのだろうと察する。ICUデビューか。三十路にもなって、まだまだ初めて体験することがあるのだな、と思ったりした。
初めての来客があったのは、私が目を覚ました翌日、土曜日の昼下がりだった。命の危機を脱したものの、まだ自分で起き上がることすらできない私に会いに来る人間なんて、限られている。
大輝だった。――作戦成功! 私は自分の運の良さと判断力と度胸に感謝をする。この世界線において、私は大輝を巻き込むことなく事故に遭うことができた(?)らしい。私の喜びに反し、大輝は大変やつれた様子で、髪もボサボサ、少し無精髭すらも伸びていた。彼を案内してくれた看護師に一礼をすると、私に対しては何も言わずにゆらりと近づいてくる。その濁った瞳には何も映っていないかのように見えた。この人、私が死にかけたらこんなにしおれてしまうのか。よしよし大丈夫だからな、私はこのとおり、もうすぐ回復するんだから。私は大輝を元気づけるつもりで、彼の名前を呼ぼうとしたが声がうまく出ず、点滴の繋がれていない方の腕を彼に向かって伸ばした。
大輝の、男性としてはとても細い指に触れた瞬間、おそらくほぼ反射的に手を払いのけられた。どゆこと? 私の怪訝な表情を察したのか、大輝は気まずそうな顔をしてごめんと呟き、私の手を握った。――でも私は彼の顔に一瞬映った嫌悪の表情を見逃さなかった。え、どゆこと。
さて、大輝という男は今までに何度も述べたとおり、大変穏やかな人間なのである。普段からイライラしている様子を見たことがなく、私が家事をサボりまくっても、飲食店で自分だけ料理が忘れられていても、後ろから来た人間に追い抜き際に突き飛ばされても嫌な顔ひとつしないのだが、彼にもどうやら腹が立つことは存在するらしい。それは、
・浮気
・痛いこと、怖いこと(叩かれるなど)
・実家で買っている猫をいじめられること
の三つだと明かされたのは、結婚直前のことであった。
猫をいじめる自分はあんまり想像がつかない。そうすると、私は浮気をしたか、大輝に何かしらのDVを働いたかのどちらかということになるのだが……それはそれで想像がつかない。
入院期間中、大輝は基本的に毎日終業後に会いに来てくれた。しかし、余計な言葉は交わさない、必要最低限の挨拶と物品の供給だけして帰っていく、そういう見舞いスタイルだった。彼の表情にはもう、嫌悪の色は浮かばない。諦め、気まずさ、そしてどこかもどかしそうな思いを滲ませ、彼は彼のルーティーンをこなす。そんな彼に、軽々しく声をかけることはできなかった。
そんなある日、主治医より呼び出しがあって、私は看護師に車いすを押されて診察室に向かうこととなった。
「……それでは、まずはあなたの名前を教えてください」
「中……有馬、遥香です」
たぶん、これで合っている。数年来、少しずつ慣れてきた「有馬」という名字。あれ、でも中村という名字もペンネームとしては間違っていないのか。
「はい。それでは生年月日をお願いします」
「平成1桁◎月○日」
「ご家族の名前はいかがでしょうか」
「夫と一緒に暮らしていまして……有馬大輝」
私は、私が作り出した世界を反芻する。
「はい、ありがとうございます。……おおむね、問題なさそうですが」
大輝よりも一回り年上と思しき医師は、少し考え込む様子を見せる。
「事故当日について、どの程度覚えているかお伺いしても」
「……」
はい、とはただちに答えることができなかった。私が過去を変える選択をしたことで、事故の状況はかなり変わってしまっているから。本来、大輝と私が乗っていた車が多重玉突き事故に巻き込まれたはずなのに、この世界において、どうやら大輝はぴんぴんしている。しかし、私がなんらかの事故に巻き込まれたことには違いがない。そして問題なのが、私は一切車の運転ができないはず、ということだった。
「……有馬さん。大丈夫ですね」
「は、はい」
医師の念押しに負け、私は小さく頷いた。
「事故の直前、貴方は何をしていましたか」
「……車に乗っていたはずです」
「そうですね。誰と、何人で?」
「えっ……と」
思わず天を仰ぐ。大輝がいないとしたら、私以外に誰か運転のできる人間が居ることになる。誰?
「承知しました。大丈夫ですよ。では、貴方はどこへ行こうとしていたか、それは覚えていらっしゃいますか」
「……」
「……覚えていませんよねぇ」
医師は少し困ったように笑い、何やらカルテに入力し始めた。「意識・見当識正常。事故前後の記憶障害あり。経過観察中。」とでも書かれているのだろうか。そういうんじゃないんだけどな。
同乗者の死亡を告げられたのは、入院して一週間ほどが過ぎたころだった。そろそろ嫌な予感がしてくるぞ、と思っていたが、案の定その「同乗者」とやらは田辺先輩で。――私が小説家になると、人が死ぬんか? 「田辺さんという男性が運転されていたこと、覚えていませんかね」と問われたところで、覚えていないもんは覚えていないと答えるしかない。しかし、田辺先輩のことは知っている、という妙ちきりんな状況である。
そもそもどうして田辺先輩と私が同じ車に乗っていたのだろうか。この世界において私は大輝を選んだはずで、そこから田辺先輩となんら繋がりを持つことはないはずなのに。
自身の人生が書き換わった際に一番苦労するのは、現状把握である。自身の今の社会的立場。周囲の人間の様子。誰が私の味方で、誰が私の敵か。――そして、誰が生きていて、誰が死んでいるのか。
これまでの経験においてその辺り、結構運に任せて少しずつ情報を集めてきたが、今更になってそのことを後悔する。どうせ毎回混乱するのだから、予めある程度セオリーを決めておくべきだった。
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