国鉄と言う安全弁
らんた
国鉄と言う安全弁
このコロナ禍で失ってしまったことがよくわかる。
鉄道貨物需要である。目先の便利さによってトラック需要にシフトしたがトラック需要も激務でドライバー自体が激減。そう、鉄道貨物に切り替えることが出来なくなってきたのである。
鉄道各社の深刻な赤字は「貨物需要」の無さを浮き彫りにした。
もし「あの時」国鉄を民営化せず再建できたら。
それどころか当時の国鉄は虎の子を持っていたのである。鉄道通信網。当時はまだ固定電話網でしか活用できないと思っていた。しかし、国鉄の通信網は無線もあったのである。そう、携帯電話であった。JR各社はかの「ジェイフォン」を生み出し世界初のカメラ付き携帯電話を世に出した。国鉄民営化から一二年後の一九九九年である。もし、国鉄を民営化せずジェイフォンの利益を手にしたら。おそらくは国鉄の赤字は解消されたのではないか?それどころかジェイフォンショップを駅の横に置いてテナント料を稼ぐことまで出来たのではないか?
それだけではない。ICカード「スイカ」を一本化したら。今頃の日本はキャッシュレス社会だったのではないか? 自動改札機どころか本当は日本はキャッシュレス社会の先頭を走っていたのである。スイカの原型はもうバブル期には出来ていた。つまり国鉄民営化だから成し遂げられたものではない。国鉄のままでもおそらくスイカはあったであろう。つまりICカード事業でも国鉄は十分に食えたはずなのである。
当たり前のことを言うが好景気に民間の雇用を増やし、不景気に公務員の雇用を増やすのが鉄則である。しかし、我々日本人はこの鉄則を九十年代に行わなかったのである。ゆえにロスジェネという問題を引き起こしたのである。
無人駅なんて需要が無いから無人駅になったとまだ言い張るであろうか。需要と言うのは作るのである。それが公営企業体の鉄則である。特別養護老人ホームなんて二百人待ちがざらのご時世、八十年代から地方の駅直結で老人ホームを作っていたら。国鉄と言うのは民業圧迫を禁止されていたが当時の福祉は民業ではない。よってこれだけでも客数増が見込めたはずである。福祉だけでない、図書館という社会教育施設も私立図書館と言う形で作れたはずである。
逆に純粋な民業である百貨店やエキナカ事業は小売店との客の奪い合いとなる。こんなことに手を出すべきではなかった。おかげで既存デパートは閉店ラッシュになった。
見る目もなかった。国鉄債務最大の原因は東北新幹線と上越新幹線である。もちろん建設費込みで。実は東海道新幹線開通後に貨物新幹線が失敗しており、もし東北新幹線や上越新幹線に新幹線貨物コンテナが走らせることが出来たらと言う人がいる。しかし、今JR北海道が必死に開発しているようにパレット型積み込み新幹線、つまり「荷物新幹線」なら当時の技術でも十分可能だったのである。郵便の速達便を大宮~新潟ノンストップコースで作っていたら。これだけでも国鉄は生き延びることが出来たのではないだろうか。さすがに大宮~東京間は本数が多すぎて荷物新幹線を走らせる筋がないだろうけど。つまり放漫経営だった。別の意味で。別に鉄道貨物需要は減ってなどいない。要はトラック輸送に負けない「何か」を持っていれば国鉄債務など解消できたのである。
産業輸送も出来た。当時の半導体は「産業のコメ」とも言われていた。あまりにも軽いので航空輸送までしており、臨空工業地帯まで出来ていた。しかし所詮は航空機。鉄道の大量輸送には負ける。そこに新幹線のスピードを付加したら? そう、当時のお偉いさんはそんなことも考えられなかったのである。
ノンストップ荷物新幹線というアイデアも生み出せなかった。
無人駅の有人化は「ボッチ・コミュ障・陰キャ」にとって最高の楽園である。そう、社会的に居場所が無い人間にとって社会的居場所を与え、社会的に安定させるという極めて重要な雇用が失ってしまったのだ。
国鉄を潰したのは単に組合つぶしだからと言われる。たぶんそうだろう。もっとも国鉄債務という名目があったのはデカい。そして民営化することが成長戦略だと勘違いさせたことも大きい。今のJR北海道・JR四国を見てるとどう見ても維持できそうにない。つまり民営化しようがどの道破滅していたのである。
お客様への態度とかサービス業のとしての基本うんぬんの話じゃない。日本はただでさえ「公」という空間の意味が分かってなかった民族である。国鉄という「公」を失ったのは大きい。「俺はお客様だ!」というモンスターカスタマーを生み出したのはいったい誰なのか? 客なら何やってもいいのか。そんなことも分かってなかったのである。
地方は一九六〇年代から衰退していたが林業とコラボするという方法も思いつけなかった。北欧ではパルプのゴミクズを木質ペレットにして木質バイオマス発電にしていたのに。つまり「自社発電」にして電気代を浮かすという事も出来なかった。水力発電や火力発電は「非常用電源」として持っていたのに、木質バイオマス発電所は持とうとしなかったのである。国鉄にとって本当のコストカットとは電気代のはずである。
それどころかエネルギーの地産地消となり非電化路線を電化することまで出来た。林業が現役バリバリの産業となっていた可能性が高い。
鉄道オタクは「通勤五方面作戦」も命取りだったぞって言うのかもしれない。しかし中央線、総武線、常磐線、京浜東北線、横須賀線いずれも黒字である。というよりも自治体の負担なしに建設したことが「モラルハザード」でありそれは国鉄の責任ではない。短期的には赤字だったかもしれないが長期的には黒字に化けた事業であり、それは「投資額」に過ぎない。それどころか埼京線も京葉線も建設した。京葉線はJRになってからの開業となったが。
地方では赤字が深刻化した一九八〇年代に今更レールバスが投入された。遅すぎると言わざるを得ない。しかもそれでもビッグサイズである。
本当は時刻表を気にせずとも乗れるミニサイズのレールバス一両編成を高頻度運転することが旅客の鍵である。
自転車持ち込み車両と言う発想も無かった。荷物車のように併結して自転車チャージ料金を取る。これだけでも大きかっただろう。移動範囲も格段に広がる。今更自転車トレインを走らせても意味はない。もう地方は過疎ではなく無人と言う次元に達しているからである。
航空機に客を奪われていたというのも事実である。だが大都市圏以外は空港アクセス路線を作って少しでも航空機に流れた客からお金を取るという発想も出来なかった。仙台空港アクセス線はかなり後に出来た路線である。今だにバスに客を取られている。空港アクセス線の利点はそれだけではない。快速を走らせて空港へ速達させるのだが快速停車駅は利便性が増す。つまり「通勤快速」としての役割もあるのである。マイカー需要を奪えたのである。
さて、そんな国鉄が残っていたらどうなっていただろうか。小説形式でIFを書こうと思う。
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「結局俺も国鉄だよ」
「俺も俺も」
俺の名は赤城圭人。東京文化大学に一浪して入った。笑わないでくれ。当時の東京文化は偏差値が五八もあった。友人の名は茂木進次郎。一九九八年末の光景だった。
「にしても山一に拓銀に日債銀と潰れるなんてな」
「俺たちが大学三年や四年の事か」
「でも俺は何も取り柄が無い、かといって高校に求人じゃ体力無い俺たちじゃ一年で首って言う求人ばっかりだったよ。なんとか進学校に言ってよかったな」
そう、いくら東京文化と言えども当時は進学校でないと入れなかったのだ。
「周り、みんな国鉄や郵便局らしいぜ」
「マジか」
「でも郵政三種なんて簡易保険のノルマがあるんだろ、嫌だよあんなとこ」
「でも国鉄だってエヌフォン行だったら」
そう、国鉄債務はエヌフォンの稼ぎで返済しているのであった。エヌフォンは国鉄という特殊法人の子会社である。電電公社や専売公社はアメリカの要望により民営化されたが国鉄は生き残ったのだ。ただし子会社のエヌフォンはもちろん株式会社である。特例で返済目的で営利事業として携帯電話を扱う会社だ。カメラ付き携帯電話にメール機能が売りだ。
国鉄の採用試験は他の公務員試験と異なっていた。地理や駅名の比重が高く数的推理や判断推理が無い。その代わり旅行代理に関する試験が問われる。みどりの窓口業務があるからだ。しかしそこが文系にとってよかった。もちろん技術職は別の専門試験が出る。
「岸田は?」
「あいつは日本農業だって」
日本農業株式会社。ウルグアイラウンドで農協も民営化が決まった。その代わり農作物のセーフガードが発動できる半官半民の会社だ。耕作放棄地を農地に戻す。現代の屯田兵とも言われている。
「公営企業無かったら、俺たちフリーターだな」
「ああ、フリーターだと思うとぞっとするぜ」
国鉄は荷物新幹線事業も持っていた。荷物新幹線無かったら即死だろう。
◆◇◆◇
こうして俺は一九九九年三月卒業した。
研修を終えて配属された場所は長野県の元無人駅である。朝七時に改札を有人化する。朝のラッシュが終わると暇……になるのではなくトイレ掃除、草むしりを行いながら改札業務もこなしていく。昼休みは午前十一時とちょっと早い。正午になると再び業務に着く。
屋根は太陽光パネルに覆われていた。緊急時にこの駅舎は地域の人に電気を使うことになる。
自転車専用車も到着する。チャージ料金は貴重な稼ぎだ。駅舎の隣のエヌフォンショップにも人が結構来ている。
(よかった、俺商売なんて出来そうにない。エヌフォンに行かなくてよかった)
一人駅長の定時は四時である。しかし一時間強制的に残業命令が出る。ゆえに上がるのは夕方五時だ。どうしてもダメなときは四時なのだが。
「お、組合から来てるな」
封筒の中には組合の機関誌があった。
そう、国鉄は組合の力が強かった。ゆえに従業員にやさしい。いざとなったらストも辞さない。国鉄のおかげで派遣業法成立も阻止できた。この日本と言う国に派遣社員と言う奴隷を生み出すことを阻止したのである。
ストも毎年のお約束で会った。国鉄労働組合がいたおかげで社会党も元気だ。
(正社員って、幸せだなあ)
五時になると駅横の福祉施設の勤務を終えて帰る人、勤務施設にこれから勤務する人で夕方のラッシュが始まる。学校帰りの高校生も多い。そして六時には無人改札になる。火曜日と水曜日はパートの人が来る。事実上の副駅長だ。改札時間外でも簡易ICカード読み取り機が置いてあるので安心だ。
やがて三年目の時に住宅を買った。三十年ローンだが国鉄職員つまりいくら現業と言えども公務員と言う信用は高くローンはすんなり通った。
見合い文化は残っていた。僕たちはこうして当たり前の生活を手にした。就職、結婚。
地域の農地は日本農業の従業員が必死に働いている。もっとも彼らも九時-五時勤務だ。しかも準公務員。給料もそれなりだ。
「公務員って、幸せ!」
俺たちは第三次ベビーブームを起こした。
が、そんな幸せな日々は長く続かなかった。
『エヌフォン長野出向に命ずる』
辞令にはそう書いてあった。
「まあ、ケータイショップなんて給料の安い若者の仕事だよ。給料の高いジジイが行ってもしょうがないしね。それに、俺たち、機械弱いんで。何……数年で戻るよ。それまで我慢だな」
それは試練の通告であった。
国鉄職員は曲がりなりにも公務員。しかしエヌフォンは違う。株式会社で商売なのだ。
こうしてケータイショップに配属になった。客の罵声、理不尽な要求、どんどん変わっていく携帯の機能。特に未払いの客に対する電波停止を食らった客はあまりにもひどかった。
一年、二年、三年……。
いつまでも変わらない。そんな時衝撃なニュースを見た。
スマートフォン。この新しい端末に日本の電気メーカーは全く応対出来なかった。エヌフォンは親会社が国営である。よって国内メーカーの端末を売るのが普通である。しかしこの国内メーカーが全く太刀打ちできない。そして襲って来たリーマンショック。もし日本農業が雇用してなければ就職氷河期の到来だっただろう。もう国鉄は雇用する能力など無かった。日本農業は単に農業の維持だけでなく日本食を輸出していた。気が付けば日本は農業大国になっていた。食料自給率は百パーセントを超えていた。
そんな時に辞令が降りた。
なんと別の駅に移動になったのだ。もちろん元無人駅の一人駅長業務だ。
「よく耐えたな。このエヌフォン業務で辞める奴が多いからな……それとノルマにもよく耐えた」
(そりゃそうだ。自分の身分が公務員で無かったらとっくに辞めてるよ)
こうして自分は国鉄職員に戻った。
東日本大震災が起き、応援部隊として被災地に駆けつけた。国鉄三陸線復興に尽力した。
それでも公務員という使命と安定で乗り切る。気が付けば中堅社員となっていた。
子どもはだいぶ大きくなった。
カエルの子はカエルなんだなって思う。社会科以外出来ない。まるで取り柄が無い。とてもじゃないが民間で通用する人間には見えない。何をやってもダメだ。自分の少年時代を見てるようだ。
「ねえ、君は将来どうする?」
「お父さんのように国鉄職員になる!」
「どうして?」
「だって大好きな鉄道に囲まれて仕事出来るんだもん」
嬉しそうに話す我が子。
「それに」
「それに?」
「安定してるし」
(ああ、やっぱりこの子はうちの子だな)
「お父さん、うれしい」
「何でお父さん泣いてるの?」
「なんでもない」
「国鉄職員、がんばろうな」
「お礼に寝台列車一緒に乗ろうか」
「すげえ! どこに行く寝台!?」
「青森!」
そう、新幹線開通のためもう北斗星は廃止されていた。それでも公共性の観点から寝台特急も寝台快速も残っていた。青森までは。
「上野までは寝台快速で行くぞ。もちろん寝台券でな!」
「やった~!」
「B寝台だけど我慢しろよな」
国鉄でなかったら深夜夜行の快速なんて全廃されていた。劣悪で安い高速バスに対抗するべく国鉄が生み出した深夜快速は隅々まで運行されていた。
深夜は貨物が頻繁に行きかう。特に目立つのが日本食料の貨物コンテナだ。荷物新幹線の重要荷主でもある。おかげで札幌から大宮までたったの一日で農作物が運べるのである。昔は船で三日かかったのだ。日本食料はトラック運転手の過酷な労働環境を無くすためあえて鉄道で輸送する。このことが功を奏し特定地方交通線の廃止を免れているのだ。
駅前には特養が目立つ。特養の待機解消と国鉄利用客増を同時に成し遂げた者である。おかげで病院も介護老人保健施設も保育園も駅前にある。おかげで3大都市圏への人口の流入を防ぐことにも成功した。
こごちよいジョイント音が眠りに誘う。目覚めれば、そこはもう東京都内。翌日は都内で遊びそしてまた夕方に寝台電車に乗る。そして予約した寝台電車に連結した食堂車で夕食を取るのだ。
「おいしいかい?」
「うん!」
夕食が終わるとシャワーカードでシャワーを浴びる。こんな贅沢な旅、航空機じゃ出来ない。
翌日、青森駅にやって来た。
「すげえ! 本当に例の演歌の歌詞の通りだ」
「だろ?」
「夕方には新幹線に乗って長野に帰るからな」
ちょっと足を延ばして弘前に。弘前城なども見た。青森県立高校などが駅前に移転している。そうやって公共交通の維持をしているのだ。これを青森モデルという。今後自分が勤務している長野でもプロジェクトが開始される。なので、弘前までは首都圏も顔真っ青の通勤ラッシュであった。
帰りは新幹線。これでもかと荷物新幹線の車両とすれ違う。本当、荷物新幹線が無かったら国鉄は破産していた。
翌日も有給だ。有給完全消化が義務とされている国鉄職員の特権である。もちろん旅行も特別割引価格だ。
業務に戻るとやるべきことがあった。
『二十四時間スト決行』のポスターを掲示板に貼る。
ストが決行されるとエヌフォンショップごと業務が停止する。ゆえにエヌフォンショップにはバイトすらいない。非正規雇用の拡大すら組合の力で抑えているのだ。もちろん通話などのインフラはストが決行されても通常のサービスが維持される。
客からたまに罵声が来る。「何がストだ! それでも客商売か!」と。すると決まって言う事がある。
「うちらは客商売じゃないんで。国鉄は、公営インフラです」
ストの理由は賃上げなどではない。スト権ストでもない。国鉄直営の福祉施設の介護福祉士と看護職の賃上げ及び日勤・準夜勤・夜勤の固定と非正規雇用の禁止である。いかに介護や看護のブラック労働を無くさせるかが焦点であった。経営側は組合側の要求をのんだ。
自分達は労働者と言う弱者である。だから生活を守るには連帯するしかない。そんな当たり前のことを国鉄は維持したのだ。文字通り、国鉄は安全弁であった。後に政府は介護保険点数の大幅引き上げを行った。組合と言うのは「俺が、俺が」と言った瞬間負けである。いかに他者の痛みを知って他者の生活を守るかが勝利の秘訣なのである。ゆえに社会主義だ、共産主義だなどと言うのは論外なのである。
組合が健全な活動をしていたおかげで日本はデフレに陥ることを防いだ。本当に公営企業様様である。
その後格安スマホ事業者の登場でエヌフォンは窮地に立たされる。それでも携帯キャリアの一角である。携帯キャリアの儲けは大きい。なにせ三社しかないのである。後に四社となるのだが。
俺たちは「昭和」の古き良き光景を残したんだよな。
そんな時支社に呼び出された。
「君はたしか東京文化大学卒業と同時に図書館司書資格を持っていたのだね?」
「はい」
「君の持っている社会教育主事任用資格も法改正で任用資格枠が外れて社会教育士資格になることも知ってるね」
「はい」
「ではこれが新しい辞令だ、受け取ってくれるね?」
そこには国鉄の資金で作られた鉄道教育財団への出向が命じられていた。しかも一般事務でも現業でもない。社会教育士専門職である。それもその館の公民館長であった。
「君は社会教育専門職になってもらう。社会教育の専門職にもなってもらう」
「国鉄は高卒ではなく大卒を積極的に採用した意味、分かってるよね。社会教育士は高卒じゃ事実上取れない資格だからね」
「それと君はもう管理職だから組合は外れてもらうよ」
そう、管理職はもう組合に入れない。それが国鉄上層部の組合の力を削ぐ作戦なのだ。
「承知しました」
こうして俺は駅直結の公民館で業務をこなしている。公民館の主力は調理教育である。新しい元無人駅の活用法である。地産地消の促進にもなる。
今日も俺は無能でありながらこうして必死に生きている。
出向命令はやがて転籍となった。
「そっか、俺の人生は社会教育士だったのか」
社会教育士とは公民館主事の事である。といっても実質は社会教育計画を立ててあとは場所貸する社会教育の専門職の事である。なお国鉄は私立図書館に関する財団も持っており駅に隣接する形の図書館も建設している。したがって社会教育専門職である図書館司書への移動も期待できる。どうも彼の大学進学は決して無駄じゃ無かったようだ。
国鉄と言う安全弁 らんた @lantan2024
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