雪女
飯田太朗
雪女
女の肌はひんやりと冷たかった。指は細く、肌も白く、髪は艶やかで背中まで伸びていた。男たちは女のことを羨望の目で見つめた。女は、そうした男たちや、時に女でさえも、その冷たい肌で包んで殺して行った。それが女の仕事だった。
女は、森に住んでいた。その森は南に広大な河が流れていて、北には巨大な山が聳えていた。山と河に挟まれたこの森は、木々が豊かに生い茂り生き物もたくさん住んでいた。人々はこの森の恩恵なしには生きていけなかった。
そしてこの森は、同時に西の人間が東へ向かう際の通り道の一つにも数えられていた。森のいのちをもらうもの、森を通り抜けるもの。森で人と自然が交わっていた。女はそんな森の中に暮らしていた。
女は冬が好きだった。女の白い肌には冬がよく似合った。しかし一方で、寒いのは嫌いだった。女はぬくもりが好きだった。これはいつの記憶だか分からないが、まだ幼い女は、母親だか父親だか、とにかく親の手に抱かれて甘えていた。その時掌で撫でた、あのじんとした人肌のぬくもりが、女は堪らず好きだった。冬が好きなのは、寒さがそうしたぬくもりをより際立たせてくれるからだった。女は冬が好きだった。
代わりに春が嫌いだった。春は訳もなく不安になるから嫌いだった。また、森のものたちが自分一人を置いて元気になるのも嫌だった。女はまだ冬の静かな気分の中なのに、草花はすくすく育ち、蛇や蜥蜴は嬉しそうに冬眠から目覚めてくる。わたしはまだ動かないでいたい。わたしはまだ眠っていたい。女のそんな気持ちを無視して彼らは盛んに活動し始める。女は春になるとずーっとそんな恨めしそうな目をして辺りを見ていた。暗い木陰の、まだ雪が残っているあたりで、膝を抱えて座り込んでいることが多かった。融け残った氷のように、小さく小さく縮こまっていた。
そして女は、実は男が好きだった。
臭くて汚い爺は嫌いだったが、若くていい男は好きだった。精悍な体つきにきりっとした顔立ちの男が好きだった。それはちょうど、木こりをしている男に見られる特徴だった。斧を振るたくましい腕に、寒い時も暑い時も黙々と木を倒すむっとした顔付き。森の中に木こりの木を切る音が木霊すると、あら、いい男が来たのかしらなんて、ふらふらと出かけていくのが常だった。女は耳が良かった。
そんな女が恋をした。これは、ある女の恋物語である。
その日、森の奥にある山から、吹雪がやってきた。
女は早いうちからその音を聞きつけていたから分かっていたのだが、木こりたちはそうではなかったようだ。木こりたちは舟に乗ってやってきた。里から女のいる森に来るには、この大きな河を渡るより他なかった。
女は河原にある洞窟の中からじっと、河を渡る舟を見ていた。
舟には男が三人乗っていた。渡し守が一人。そして木こりが二人。木こりの内一人は呑気に煙草なんてふかしていた。もう一人は若く、たくましい腕が遠目にもまぶしかった。渡し守だけは天候の変化に気がついているらしく、心配そうに空を見上げてはため息をついていた。女の目は自然と、たくましい腕をした若い木こりにくぎ付けになった。
その男は何を思っているのか、暗い川底を熱心に見つめ、時折顎を掻いていた。髭もまだ綺麗に生え揃わない十七、八の青年で、横顔が凛々しかった。斧を担ぐ腕は太くて立派だった。そんな腕や、ぼろ蓑からから飛び出たたくましい脚に、女は好奇心にも似た感情を抱いていた。煙草をふかした爺の方は蓑をかぶった鼠のようだった。女はこちらの方にはさして興味を抱かなかった。そして若い男のきりっとした顔がこちらの方を向くたびに、女は見つかっちゃいないかと岩陰に身を潜めた。やがて舟が岸に着いた。
女は、舟を降りた木こりたちが森に入っていくのを見届けると岩陰から姿を現した。そして北風が強く冷たいのを肌で感じ、小さく笑うと、二人の木こりについて行った。舟に残った渡し守は相変わらず不安そうに空を見つめていた。女は、渡し守に見つからぬよう森へと入った。森は暗く淀んでいた。
木こりたちは当たり前のように木に登って枝を払い、それらを一まとめにして束を作ると、それを背負ってまた別の木へと向かって行った。いつか聞いた話だと、あれを薪か何かにして町で売るらしい。女は木々の間を縫って二人を追跡し、その様子を遠くから見ていた。思った通り、若い木こりの腕は斧を振る時丸太のように太くなっていた。女はその真面目な顔つきと、たくましい腕に心を躍らせていた。
やがて、山から雲が降りてきた。
女は袖から出した手でそれを感じると、また笑った。木こりたちはようやく天気の変動に気付いたのか、腰に手を当て空を仰いだ。鉛のような曇天だった。
「……冷えたのぅ」
年寄りがそう言うのが聞こえた。すると若者が答えた。
「そろそろ、いい具合でしょうかね」
「少ない気もするが……まぁ、いいだろう」
森で欲をかくといいことがない。年寄りはそう言って元来た道を引き返し始めた。若者は年寄りの背負っていた束を一つ、「持ちますよ」と担いだ。年寄りはありがとうと礼を言い、近くにあった木の実を摘んでかじった。枝がパシンと空を弾いた。
空に雲が立ち込め、大粒の雪がぼたぼたと降り始めた。最初のうち、森の葉や枝が雪に触れてパサパサと音を立てていたが、すぐに静かになった。雪はいつの間にか積り、木こりたちの足を絡め取っていた。その間も、女は静かに追跡していた。
女は途中までは二人の後を追うことにしていたが、天気の様子を見て、先回りすることにした。そして、一足先に河原に戻ってくると、再びあの岩陰に身を潜めて様子を見た。岩は冷たく、尖っていた。しかし河原には舟はおろか、渡し守さえいなかった。天候を見て帰ったのだろうと女は思った。雪のせいで対岸が見えない。水の流れる河以外の場所はもうとっくに真っ白になって、水面からは湯気が立ち上っていた。女は、これはもしかしたらもしかするな、と思った。
雪はどんどん強さを増して行き、やがて吹雪になった。女より遅れて河原に到着した木こりたちは、岸に誰もいないことに驚き、落胆すると、ひとしきり汚い言葉を吐き捨てた。そして諦めたのか、やがてため息をついて空を見上げた。吹雪はよりいっそうひどくなっていった。
「仕方がない。渡し守小屋に泊まろう」
老人がそう言った。河原には一軒の小屋があった。渡し守のために建てられた小屋で、河に半分突き出しているような建て方をされているからか、時折波に揺られて小さく軋むような小屋だった。二人はその小屋に近づいた。
「火鉢くらいあるといいんですけどね……」
青年がそう言って戸を開けた。「まぁ、何もないよりましさね」年寄りがそう言って後に続いた。二人は中に入ると、ばたんと戸を閉めた。それからむしろを降ろしたような音が中から聞こえてきた。
女はその様子を見届けた後、そっと小屋に近づいた。吹雪はますますひどくなっていった。視界は真っ白で、雪景色の底には墨汁のように黒い河が延々と流れていた。
女は戸板の隙間から小屋の中の様子を伺った。たくましい青年は蓑にくるまるようにして眠り、老人は煙草で一服していた。ひどい臭いの煙草だった。戸板の隙間から漂ってきた悪臭に、女は顔をしかめた。
やがて、老人が眠りについた。女はそっと戸を開けた。女に戸締りなど無意味だった。鼓膜の奥に響いていた吹雪の、産声にも似た唸りが、一瞬にして遠くなった。むしろがぺらりとめくれた。
女は、雪女だった。
吹雪の森に迷い込んだ人々を凍えさせるのが女の仕事だった。女にとって、それは男の一人晩酌にも近いものがあった。男にとっての晩酌は自分一人の楽しみだろう。女にとってのこの仕事も、一人であの恋しい肌のぬくもりに酔い痴れるという、密かで甘い楽しみだった。そしてもちろん、美味しいものは最後にとっておくのがいい。若い方の男はとても美味しそうだった。脚の肉、腕の肉、胸の肉、どれをとっても、女の目を楽しませた。となると、先に手を下すのは、もう決まっている。
女は静かに年老いた木こりの方に近づくと、妾や娼婦がするようにそっと、男の側に寝転がった。鼻先をあの煙草の臭いがくすぐる。女は顔をしかめながらも男に寄り添った。そして肘をついて体を起こすと、覆いかぶさるようにして唇を老人の顔に近づけ……手短にことを済ませた。最後にぎゅっと体を押し付け、そっと顎を撫でた時には、老人は冷たくなっていた。
女は清々した、という風に微笑むと起き上がった。長くて艶やかな髪を撫でて、さて、若い方はどうしようか、などと考えた。
視線を感じたのはその時だった。女はふと振り返った。そこで、目が合った。
若い木こりが、じっとこっちを見ている。
蓑の隙間から、腕で顔を隠しながら、男はじっとこちらを見ていた。その目はどこか淀んでいて、夢とうつつの間を行き来しているような目だった。女はそんな男の目をちょっと愛らしく思った。何だか小動物のようで、女の心を変にくすぐる目付きだった。
だから、近づいた。微笑みながら、慈しみながら。
「う……お前は……」
寒さに唇を震わせながら、若い木こりはつぶやいた。
「お前は……」
しかし女はその問いかけには答えず、代わりに先ほどあの老人にしたのと同じように、そっと若者の隣に寝転んだ。男の頬に優しい息を吐きかけながら、蓑の隙間、合わせの隙間からそっと手を入れた。女の細い指がでこぼことした腹に触れると、男はびくりと跳ね上がった。女の指先がじわりと融けた。女は、慌てて指を引っ込めた。代わりに、濡れた指で男の輪郭をそっと撫でた。木こりは短く声を上げた。
「かわいいのねぇ」女は思った。そして今度は、声に出して言った。
「何だか、殺すのが惜しくなっちゃったわ」
女がそう耳元でささやくと、男は震え上がった。男のその、いじめられた子犬のような追い詰められた表情が、女には堪らなく愛しく感じられた。やはり男は若いのに限る。
「お前もあの老人のようにしてやろうかと思ったけど……それはちょっとかわいそうだね」
女がそう言うと、男の目がはっきりと見開かれた。女は両手で男の顔を掴みよせると、くちづけせんばかりに自分の顔を近づけ、そしてこう訊ねた。
「お前、名前は」
すると男は紫色の唇を震わせ、こう答えた。
「み、巳之吉……」
よし。女は微笑んだ。名前を捕まえた。もうこの男は離さない。
「では巳之吉。今晩見たことは決して、決して誰にも言っちゃいけないよ。親兄弟はもちろんのこと、文字通り誰にも、だ。約束できるね」
巳之吉は一瞬、訳が分からん、という顔をした。しかしそれでも、一生懸命に頷く彼の顔がかわいらしくて、女は動いた。着物がはらりと少し、肌蹴ていた。しかし女は構わず巳之吉に迫った。巳之吉の目は、ちらちらと肌蹴た着物の方に弾んでいた。死の淵においてさえ、そんな様子を見せる巳之吉が女には愛しく思えた。それから、こう脅した。
「今夜のことを誰かに話したら、わたしはお前を殺してしまうからね……いいね、巳之吉、今夜のことを、覚えておいで」
女の低い声に巳之吉はまた縮み上がった。そうして強張った巳之吉の唇に、女はそっと、くちづけをした。唇がすっと融けて、雫が巳之吉の顎を伝った。
それからしばらくして。
女は森を歩いていた。いつものように。しかし、いつもと違うところもあった。
その日、女は旅の格好をしていた。何ということはない。ただの気まぐれである。毎日が退屈で、ほんのちょっとした刺激を求めて、普段と違う格好をしてみたくなったのだ――と、いうのは自分への言い訳で、本当は別の理由があった。それは少し前のことだった。
以前ここを通りかかった旅の一行に、流行の旅衣装を着た綺麗な女性がいた。女はその女性をひどく羨ましがった。美しい模様の小袖を着ていて、連れの男二人にちやほやされていた。ふらりとわたしの森に入ってきたくせに、わたしより綺麗な格好をしやがって。女は小袖の女性も連れの男二人も許せなかった。だからいつものように夜が来て、旅人達が寒さに凍え出すと、静かに近づいて行った。
それからふっと息を吹きかけ、首筋を撫でてやると、小袖の女性に夢中だった男たちもみるみる凍っていき、やがて息絶えた。女は小袖の女性も同じようにして殺すと、追剥のふりをして衣装を奪った。小袖の模様はやはりかわいらしくて、女の心のどこか懐かしい部分をくすぐった。
女は奪った小袖を着ると、ぶらぶらと外に出た。それも選んで、木こりがやって来そうな場所を歩いた。かぶった笠で顔を隠し、形の良い枝を拾って杖にし、いかにも疲れ果てたという体で歩き回った。
女はずっと、あの男と出会うことを期待していた。先日見逃してやった、巳之吉とかいう木こりに。
巳之吉は、あの一件以来すっかり体調を崩して寝込んでいたらしかった。女はそれを風の噂で聞いた。茂作とかいう年老いた木こりは息絶えており、巳之吉は冷たくなった茂作の死体と一緒に渡し守小屋から発見された。巳之吉はどうやら、茂作が死んだことに驚きはしたようだったが、あの夜、女としたことだけは、やはり口にはしなかった。女はそのことをうれしく思った。だから、この後もかわいがってやることにした。あの木こりの近くにいたいと、女は微かに願った。
女はまず、どうやって巳之吉に近づくかを考えた。嫁になるのがいいと女は思った。別にあの男に恋していたわけではなかったが、今まで誰にも見られたことがなかった場面を見られた以上、巳之吉に責任を取ってもらいたいと言う思いはあった。
あの男を逃がしてなるものか。人を殺しているところを見られたのなんて、後にも先にも巳之吉だけにしたかった。女はそう自分に言い聞かせていた。
だから女は、ある種の貞操観念的なものと、証拠隠蔽的なものの入り混じった複雑な感情で巳之吉を探していた。巳之吉が体を悪くして寝込んでいると聞いてからは、念入りに作戦を練った。そして先ほどの、旅人の訪れという偶然の助けもあって、女は作戦を思いついた。旅中の女のふりをして男に近づく。木こりをやっている男なんてのは単純で、相手が美人ならすぐに食いつく。女は、自分に自信があった。だから、旅装束を着て、普段より厚く白粉を塗って、待っていた。旅の女なら巳之吉も口説きやすいだろう。何せ、その日の宿を探して歩いているようなものなのだから。後は巳之吉の復活を待つだけ。そう、待つだけ。待つだけなら毎年、やってきていることだった。女は毎年冬を待つ。冷たい季節を、雪の季節を。
しかしそのうち、巳之吉を待つことよりも、普段と違う格好をしてうろつくことに快感を覚え始めた。そしてそんな頃になって、ようやく巳之吉はやってきた。男と言うやつはどうしてこう機が悪いのだろうと、女は内心ため息をついた。しかし会いたい男に会えたのは、ひとまずうれしいことだった。女は巳之吉の前に出た。もっとも、いきなり藪から飛び出すだなんて野暮なことはせず、以前のように河原の岩で彼を見つけると、先回りをし、切株に腰かけて、後はひたすら待ち続けた。巳之吉はすぐに来た。
最初、彼は女を見つけて驚いたような顔をしていた。女は視界の端でそれを感じ取っていた。しかし女は微塵も動きはしなかった。ただのんびり、歩き疲れたかのように、木々のそよめきや風の音を聞いていた。北風はいい音色を響かせていた。
「あの、もし」
巳之吉のか細い声を、女は最初無視した。来た来た。しかしここで安易に振り返っては品位を損ねてしまう。私はそんな簡単な女じゃないのだ。
代わりに女は少し目線を落とした。胸元に。そして、男の次の言葉を待った。
「あの、もし」
再び巳之吉は話しかけてきた。女は胸中で小さく笑った。
「……はい」
女は意識してか細い声を出した。巳之吉の目が一瞬、大きくなるのが見て取れた。女はついつい笑ってしまった。しかしすかさず、顔を笠と手で隠した。少しの後、目だけをうっすら覗かせて、女は男を見つめた。しっとりとした目つきに、巳之吉は頬を紅く染めた。
「……もし、いかがされましたかな」
巳之吉が束の間自分に見惚れていたことを女は見逃さない。
「あの、わたくし、旅のものでして」
「お、おなごがお一人で旅ですか」
「いえ、わたくし、先日親を亡くしまして……」それから女は、少し目を伏せ、努めて明るく振舞うとこう言った。「これから江戸の親類のところをたずねて、奉公口を探してもらうつもりなのです」これも考えておいた口実だった。
「ああ、それで……」
巳之吉はどうやら納得したらしかった。女はそっと胸を撫で下ろす。
それから女は、先を続けた。
「しかし歩いている途中疲れてしまったので、こうして休んでいたのです」
言った後に、女はしまった、と思った。聞かれてもいないことをしゃべってしまった。しかも休む場を催促しているようにも聞こえる。これはさすがにあざとかったか。女は内心後悔した。それでも顔にだけは出さないよう、恥ずかしがるふりをして笠で顔を覆い隠していた。内心、冷や汗が止まらなかった。
しかし巳之吉は意外にも「それはお困りでしょう」と言った。女は安堵の意味も込めて微笑んだ。巳之吉の顔がまた赤くなった。
「も、もし、その、よかったら……」
「はい」
しめたか。女はそう思った。
「その、よかったら一緒に歩きませんか。これから帰るところです。おなごが一人で歩くのよりは、心強い」
「あら」
「そ、それに何より、後少し行くと河があるんです……ふ、舟に乗るから、あまり歩かずに済みます。景色も、いいんです」
女は一瞬、ちょっと迷っているような顔をしてみせた。すると巳之吉の顔は分かり易く不安げになり、女は「相変わらずかわいいのねぇ」なんて心の奥で思った。それから少し間を溜めて、女は言った。
「それでは、ご一緒致しましょう」
わたくし、雪子と申します。女がそう深々と頭を下げると、巳之吉は謝り、遅ればせながら既に知っている自己紹介をした。女は少し顔を上げ、巳之吉の頭を見て満足した。よしよし、これでいい。嘘偽りのない笑顔が女の頬に浮かんでいた。
道中、二人はいろんなことを話した。家族のこと、故郷のこと。女は、ある程度嘘を交えつつ巳之吉と談笑した。嘘は得意だった。それに、仮に見破られていたとしても巳之吉なら見逃してくれる気がしていた。だから女は思うがままにしゃべった。家族や親せきの話は、自分の理想を話していた。随分と昔にいた家族のことなんかも思い出しながらしゃべった。巳之吉は面白そうに聞いてくれた。
やがて、巳之吉が自分に惹かれ始めていることに女は気づいた。その目、その頬、その態度が、すべてを物語っていた。女が少し体を開けば巳之吉は恥ずかしそうにし、女が少し目線を上向きにすると、巳之吉は魂をとられたような顔になった。
やがて、巳之吉が言った。気恥ずかしそうに、それでも、勇気を振る絞った風に。
「もう約束した人はいますか」
女は微笑みながら答えた。
「そんな人はいません」
女の方も、聞き返してやることにした。恥ずかしそうにしている巳之吉をじっと見つめて、女はこう、言ってやった。
「もうお嫁さんをお持ちですか、それとも言いかわした人がありますか」
「養うのは寡婦の母親ひとりきりだけれど……」巳之吉はいつの間にか打ち解けた口調になっていた。女はその口調にも微かな喜びを感じた。「自分はまだ若いので、別に『お嫁』のことは考えたことがない」
そうかそうか。女は、満足げに微笑んだ。そしてちょっと俯くと、再び男の方を見上げた。諺にもあるように、気があれば目は口ほどに物を言う。巳之吉が自分のことを好きになっていると、女は確信を持っていた。同時に、自身の胸の高鳴りにも女は気づいていた。男の目線が女に注がれる時、全身をえもいわれぬ不思議な快感が走り抜けていくことに、女は気づいてしまった。
「だめだめ」女は思った。「こういう時こそ、冷静にいないと。流されるようじゃ、だめ」
それから二人は、黙って歩いた。不思議と気まずくなく、温かい雰囲気の沈黙だった。やがて舟で河を渡り、岸に着き、しばらく歩いていくと、巳之吉の家が見えてきた。この頃になると一歩進むたびにジリジリした気持ちになっていた女は、藁ぶき屋根の目の前で巳之吉が足を止めたのを見て胸が高鳴った。巳之吉がこちらを振り返った。
「あ、あの、もしその、よかったらですけど」
急にまた改まった口調になっているものだから、女は笠の下から緊張を溜めた目で巳之吉を見つめた。巳之吉はその目に、またも頬を一瞬、紅く染めると、こう続けた。
「うちで、しばらく休んでいってください」
巳之吉はそう言い放った後、真剣な、どこか堅苦しい表情になった。女はそんな巳之吉の顔を見て、きっと女にそんなことを言ったのは初めてだったのだな、と微笑ましく思った。笑みが漏れてしまうのを堪え切れなくて、女はそっと、笠で顔を隠した。照れているように見えればこっちのものだ、などと打算しながら、女は巳之吉の胸の内に想いを寄せていた。ここではいったい、どんな態度がふさわしいのだろうか。
やがて女が、俯くようにして頷くと、巳之吉はたいそう喜んで女を家に招き入れた。暗い民家の中には白髪だらけの婆が住んでおり、なるほど、目元の辺りは巳之吉とよく似ていた。婆は巳之吉の母だと言った。この瞬間、女は気を引き締めた。勝負はここからだ。巳之吉に気に入られるのも大事だが、この老婆に気に入られるのはもっと大事だ。
巳之吉の母が温かい食べ物を用意してきた。女は、努めて立派にふるまった。古き良き時代を知る老婆に見られても恥ずかしくないよう、自分の一挙手一投足に神経を集中させた。確かに最初の内は辛いが、いつかは慣れるだろうと女はそう見積もった。やがて巳之吉の母の方も女の気品に酔いしれ、江戸へ行くのを延ばしてしばらくここに留まってみてはどうか、と説き伏せ始めた。最初の内こそ躊躇うふりをしていた女は、やがて仕方ない、という風に頷いた。巳之吉もその母も、飛び上がらんばかりに喜んだ。女はその様子を見てしめしめ、と思った。これで、何の遠慮もなしに巳之吉のそばにいられる。
女の隣で、巳之吉は心底嬉しそうに、頬を紅潮させていた。まだまだこれからだ、と女は思っていた。
そういうわけから、当然ながら、女は結局、江戸へは全然行かずに、そのまま「お嫁」として、この家にとどまった。
女としてはしめしめといったところだった。いいお嫁をやり、巳之吉の帰りを待ち、老いぼれた義母の相手をしていれば日は過ぎて行った。苦痛はなかった。畑仕事も思ったより楽しかった。何より、この家にはぬくもりがあった。女がずっと求め続け、焦がれていたあのぬくもりが。それは決して、人肌のぬくもりとは似ていなかったが、それでも心の芯から温まるようなそんなぬくもりだった。胸からほっと息の漏れるような温かさだった。
女が巳之吉のところに嫁いで五年ほど経ったある日、義母は死んだ。怪我や病ではなく、ある朝、突然起きられないと言い始め、そのまま床に臥せってしまった。医者は老衰だろうと言った。先は長くないだろうから孝行してやれ、と。女はその忠告に従い、巳之吉と二人、母に孝行し続けた。
しかし義母は、臨終の床で巳之吉のことはそこそこに、女のことを褒めそやした。女は涙で頬を濡らしながら……この涙は、本当に溢れ出て来たのだ……巳之吉のことをしっかりと頼まれた。当の本人は、涙と鼻水で顔をべとべとにしていた。女は、それを手ぬぐいで拭きながらこう思った。
これでこの人はわたしのもの。これからは、この人と二人きり。
ご近所付き合いもうまくやっていた。女は近所の人気者だった。お雪ちゃんがここに来てからもう随分になるけど、変わらず綺麗ねぇ。近所ではそんな評判が立っていた。もちろん女の耳にも届いていたし、また女はそれが誇らしかった。綺麗な肌。白い肌。まるで歳をとらない。女は、そんな噂を聞き流すふりをして内心舞い上がっていた。誰だってそんな風に噂されたらうれしいものだ。
しかし、問題はあった。
それは巳之吉とのことだった。巳之吉との夫婦仲に、重大すぎるほどの亀裂を生じ得る問題。それは女の肌の問題だった。それも夜の肌の問題だった。
最愛の夫である巳之吉。その巳之吉に抱きしめられる時、あるいは巳之吉に触れられる時、女の体は、雪のようにしとしとと融けだすのだった。
それは文字通りの融解だった。雪が融けて消えるように、女の肌が融けて体が縮んでしまうのだった。女は、あの夜のことを思い出していた。肌がしっとりと濡れだして、じわじわと融けてしまうのだ。
初めて出会ったあの夜。女の指先が巳之吉のたくましい腹に触れると、やはりしっとりと、融け始めた。女はそれを記憶していた。今、こうして巳之吉に抱かれると、やはり融け出す。腕が、肩が、胸が、体が、じわじわと、融けてしまう。
自分から人に触れる時はそんな心配などなかった。事実、女は巳之吉と出会うまでの間、寒さで身動きの取れなくなった人に触れることで殺してきたのだ。女の肌は冷たかった。女の肌はぬくもりを奪った。しかし巳之吉だけが特別だった。巳之吉だけが、女を融かすことができた。女に熱を与えることができたのだ。
女は悩んだ。今まで自分の体に起きたことのない現象に戸惑った。思わず拒んでしまう。すると、巳之吉は少し悲しそうな顔になる。女はその顔が嫌だった。巳之吉にそんな顔はさせたくなかった。それに融けること自体はそれほど嫌じゃなかった。女は自分の体が融かされる時、頭が、胸が、えも言われぬ不思議な感覚に包まれていくことを知っていた。それはある種の安心感にも近い感情だった。巳之吉の腕の中にいる時、女の命は間違いなく風にさらされた蝋燭のようなものだったが、それでもそのたなびく炎の中に、不思議な魅力を感じているのも事実だった。
しかし女は自分の体が完全に融けてなくなる前にその行為をやめなければならなかった。だから、女の気持ちはいつも点睛を欠いたままだった。しかし巳之吉は満足しているようだった。いつだって男の方が先に満足する。そんな不満を女は抱いた。点睛を欠いたまま、女は子供を産んだ。二人、五人、七人と、ついには十人も子供を産んだ。みんな色の白い、綺麗な子ばかりだった。村人たちはまた噂していた。お雪は生まれつき自分たちとは違う、不思議な人だ。農家の女は、たいてい早く老けるものであるが、お雪は十人の子供の母となったのちでさえ、初めて村に来た時のようにみずみずしく見える。
女はうれしかった。だが同時に、その噂の陰にあるくすぶりにも気づいていた。それは決して噂への不満や、村人たちからの妬みや嫉みからくる嫌がらせの類ではない。女自身の、煮え切らない想いだった。後少し、というところでやめねばならぬだ。巳之吉や子供たちとの生活は幸せそのものだった。だが何かが足りなかった。その何かが、米粒ほどの何かが、頭の中で芯のように残って女を悩ませた。女は笑いの絶えない生活を送っていたが、それでも満たされていなかった。
しかし、問題は女自身と言うよりも、むしろ巳之吉にあった……少なくとも、女の方ではそう思っていた。女の側では、もう融けてもいいつもりだった。むしろ巳之吉が、巳之吉という男が、それに値するかと言う問題だった。このわたしが、身を融かしていい相手であるかどうか。恥ずかしい話、女は十人も子供を産んだ今になってさえ、巳之吉のことをそういう風に見ていた。男として素晴らしいか、夫として素晴らしいか、父として素晴らしいか。そうしたさまざまな観点から巳之吉を見ていた。
そして何より、大事な観点が一つ、あった。
あの夜の約束を、巳之吉が覚えているかどうか。
初めて出会ったあの夜。初めて約束を交わしたあの夜。
いいね、巳之吉。覚えておいで。
女が発したあの言葉を、巳之吉は覚えているかどうか。それは、巳之吉が女のことをいかに大事に思っているかという問いに等しかった。確かに、雪女として会ったあの時と、お雪として、妻として顔を合わせている今とは違う。巳之吉にとってその二つは明らかに違う存在であり、雪女との約束を妻との約束としてしまうのは少し無理がある。
しかし、女は信じていた。
例え、本質的なところを隠しているとはいえ、これほど長く付き合い、これほどの子供を産み、これほど深く愛した仲なら、きっと、わたしの正体にもきっと、気付いていると……。きっと、雪女の自分も、妻としての自分も、変わらず愛してくれていると。
しかしその思いにもどこか陰はあった。女がこうして正体を隠している限り、心から愛し合ったことにはならない。一番の本質を隠している以上は、巳之吉が本当の自分を愛しているとは言えない。雪女の自分を見せてからこその愛なのだ。
女はその愛を欲した。しかし正体をばらすのはご法度だった。あの約束は女の方にも有効で、女はいつ何時も巳之吉が口を割ったりしないか、監視しておく義務があった。もし仮に、巳之吉が約束を破れば、女はこの男を――今となってはよき夫であるこの男を――すぐにとり殺さねばならなかった。それは法のようなもので、女を縛る魔力があった。
しかし、女には巳之吉に対する情が生まれていた。
最初はただ、巳之吉にことの次第を見られたから口封じのために交わした約束だった。女は約束が自分をも縛ることを知っていた。約束を交わした以上はこの男に付きまとわねばならないことも知っていた。しかしそれでもいいと思った。巳之吉はいい男だし、この人のそばにいられる分には損はないなと思っていた。別にこの男に飽きてしまえば、すぐにでも殺してしまえばいいだなんて思っていた時期もあった。
しかし、巳之吉は誠実だった。孤独な女に対して心を尽くしてくれる男だった。事実、今の今まで女との約束は守られていたし、家庭面でも巳之吉はとてもよき夫だった。もはや女には、例え約束を破られたとしても巳之吉の命を奪うのは、不可能だった。しかし法がそれを許さない。巳之吉を殺さず、破約の罪を逃れる方法。それは、他でもない、約束の発端である女が消えることだった。女が死ねばすべて解決した。しかし女は消えたくなかった。当然である。女は今や妻であり、母であり、巳之吉を愛する一人の女だった。誰だって愛する人との離別は嫌だ。
だから女も、もちろん巳之吉に口を割って欲しくなかった。巳之吉と離れることも、二人の血を混ぜた子供たちと離れることも、そして自分が消えることも女は心底嫌だった。我儘な要求だとは分かっていた。だから女は、自分を責めた。
しかし一方で、初めて会ったあの夜のことを覚えているかどうか、巳之吉の口に語らせることで確認したいという思いもどこかにあった。目の前にいる男が、女との初めてを覚えているかどうかと言うのは、女にとってとても重要なことだった。そして困ったことに、男と言うのは、時々その初めての日のことを忘れてしまったかのような顔をするのだ。
約束は巳之吉が「雪女」という単語を口にした途端破られる。そのたった一言が、女と巳之吉を分かつ壁だった。そしてその壁は他でもない、女自身を表す言葉だった。女は自分が作った壁が疎ましかった。しかしその壁を越えてみたいという欲求も確かにあった。こうした二つの相反する信念と思い込みとが、女をしばらく苦しめていた。
しかしそんな女の葛藤をよそに、巳之吉は決してあの夜のことを話さなかった。
それは果たして、自分との約束を守ってくれているのか。それとももう、昔のことだからと忘れてしまったのか。もし、忘れられていたら……あの夜のことを巳之吉が忘れてしまっているのだとしたら……女の心がざわめき出す。
巳之吉の沈黙が女の心に鬼を呼んだ。巳之吉は忘れてしまっているのか、それとも覚えているからしゃべらないのか。女は後者だと信じていた。信じていたし、疑っているわけではなかったのだけれど、何か、目に見える証拠が欲しかった。
分かりやすく言えば、女はあの夜のことを話してほしかったし、話してほしくなかった。話してもらえれば、それはあの夜のことをしっかり覚えていているということになる。女にとってこれほど嬉しいことはない。しかしその「あの夜の出来事」には、「誰にも話さない」という約束がしっかりと含まれているのだ。女は例えどんなに矛盾した約束であれ、一度自分とした約束なら守ってほしかった。特に巳之吉という、特別な男に対してはその思いが強かった。だから女は話してほしかったし、話してほしくなかった。いっそ巳之吉の心の中が見えて、せめてあの約束を覚えているかどうかだけさえ調べることができたら、と願う日々が続いた。
そんな葛藤が巳之吉への信頼にも影響し、女は、いつまで経っても巳之吉を受け入れきれずにいた。こんな不安を抱いたまま融けたくはない。融けるなら、自分の全てを融かしてほしい。
巳之吉に触れて融け出す肌を見て女は思った。自分はいったいいつになったら巳之吉を受け入れきれるのだろう。いつまでこうして濡れた肌にため息を吹きかけるのだろう、と。
そして、一番下の子が大きくなったある夜。女が悩みを抱えてからもう十年近くが経っていた。
この頃になると、女はある結論に達していた。つまり、女にとって一番大事なことは、約束云々ではなくこの生活そのものである、と。例えわずかな不満や、疑念や心残りがあるからと言って、巳之吉との幸せな日々を手放すのは馬鹿げている、と。
女はあの問題についてはもう考えないようにしていた。しかし、昼間感情を押さえている分夜はいっそう心が騒がしくなった。暗闇が女の心を逆撫でするのだ。そしてそんな時は、行燈の灯りで針仕事をしていると心が落ち着いた。女は、寝る前にそうした仕事をするのが日課になった。巳之吉はただぼんやりとその様子を眺めてから寝ることが多かった。木こりの仕事で鍛えられた体は歳をとっても衰えなかった。巳之吉は初めて出会った頃より確かに老けてはいたが、それでも強くたくましく、そして魅力的だった。
その夜、女はいつものように針仕事をして、心を落ち着けていた。一針縫うごとに、女の心の奥底に何かが根ざして行った。それは既に幾重もの層になり、女の心に織物を作っていた。女は落ち着いていた。ただ黙々と布に針を突き立てていた。
巳之吉はいつになくじっくりと女のことを見つめていて、女は何度も裾や髪をいじった。この歳になって何を今更、と思いはしたが、女は今も巳之吉のまっすぐな目に弱かった。それにその夜は何だか変で、巳之吉のあの視線はどこか、あの夜の盗み見るような目線に似ている気がして、女は駄目だった。それでも女は黙々と仕事をしていた。行燈の揺れる灯の影で、巳之吉は薄っぺらな布団の上に横になり、優しく微笑んでいた。
「……なぁ、お雪」
巳之吉はいきなり女の膝に手を置くと、話しかけてきた。着物越しに伝わる体温がじわりと女の肌を融かした。女はか細い返事をしたが、外を吹き荒れる嵐のせいで消されてしまった。季節は冬。外は吹雪だった。
巳之吉は構わず続けた。
「おまえがそうやって、あかりを顔に受けて針仕事をしているのを見ると、わしがまだ十八の若者だったじぶんに出会った、不思議な出来事を思い出すよ。わしはそのとき、今のおまえのように、きれいで色の白い人を見たんだが、ほんとにその女は、おまえにそっくりだよ」
思わぬ時の襲来に、女は震えた。いきなりに、突然に、あの話になったからだ。しかも女は、とっくの昔にもうその話は忘れることにしていたのだ。十年前、あれだけ悩んだ問いかけの答えが、今目の前に湧き出ようとしていた。
女は震えた。ぶるぶる震えた。しかし巳之吉には悟られぬよう、必死に全身に力をこめて隠していた。隙間風が時折、鼓膜をくすぐった。
この時、女の中に火が灯った。それはすなわち、巳之吉の心に残っているのは、雪女なのか、それとも今のわたしなのか、という問題だった。この問題は女の心の奥底でくすぶっていた、あの葛藤を再燃させた。気づけば、不思議な力によって、女は口を開いていた。それは本来なら決して、発してはいけない言葉だったが、抗えぬ魅力が女の心を占領していた。
そしてついに、その禁断の言葉は口から漏れ出た。それは巳之吉を試す言葉だった。
「……その人のことを、話してくださいな。どんな人だったの」
すると巳之吉は答えた。言葉の影など疑いもせず、ただ純粋に、彼は答えた。
「夢にもうつつにも、おまえのように美しい女を見たのは、その時きりだよ。最初、その人は茂作と言う爺さんの方に寄り添っていたんだ。わしはどうしてか嫉妬してね。あの綺麗な人がわしの隣に来てくれればいいのに、なんて、そんなことを願ったものだ。色の白い女でね……今でも思うんだ。あの女は、わしの見た幻だったのか、それとも……」
あの約束が頭をかすめたのだろうか。巳之吉は一瞬、ここで躊躇うように目を泳がせた。すかさず女は訊いた。
「それとも」
この時ふと、巳之吉は女の方を見て来た。それは懐かしい瞳だった。まるであの夜、蓑に隠れ、こそこそとこちらを覗き見ているような、そんなかわいらしい目だった。女は、巳之吉のこんな目も好きだった。
この時女は思った。わたしは何を遠慮していたのだろう。本当は分かり切っていたのだ。巳之吉がこうしていつか口を割ってしまうだろうと言うこと。いつか突然別れが来て、それを受け入れるしかなくなるだろうと言うこと。でも、女はそれが嫌だった。だから――ああ、だから、わたしは巳之吉が信用できない、という体を装って、いつまでもいつまでも、大切な本心を捧げずに……何と愚かなことだろう。
本当はただ愛してもらえばそれでよかったのだ。体が融けるとか、巳之吉が約束を覚えているだとか、そんなことは些末な話だったのだ。別れがいつ来るとも知らないのに、ただのひと時も心から愛し合えた瞬間がないだなんて、わたしは何と不幸な女だったのだろう。何と不孝な妻だったのだろう。
女は自分の愚かさがおかしくなった。まるで哀れな猿を見ているようだった。だから笑った。心から笑った。しかし顔だけは優しく、子供たちに接する時のように、愛しい人を包むように、そっと、微笑んだ。
すると巳之吉は、安心したように口を開いた。――それとほぼ同時に、女は縫物を投げ捨てた。巳之吉が告げてしまった。
「……それとも、あれが雪女だったのか、わしには分からんのだが……」
女は突然立ち上がると、巳之吉に覆いかぶさるようにして顔を近づけた。そして、行燈の灯りを受け微かに煌めく巳之吉の目を見つめると、山奥で唸る吹雪のような低い声でこう言った。
「ああ、その女こそ、わたし――わたし――わたし、この、お雪だったのです」
巳之吉が目を見開いた。女は言った。
「あの時わたしは、もしこの夜のことを話せばあなたを殺すと、確かにそう言いました。今夜のことを覚えておいで。わたしは確かに、そう言いました」
巳之吉は黙って女のことを見ていた。その姿はまるで物言わぬ地蔵のようだった。だから女は巳之吉に触れた。頬に、そして顎に触れた。そして触れた途端、指先がじわりと融け出し、女の指と、巳之吉の顎を舐めた。
女は愛してと言いたかった。しかし、その前にいろいろとしなければならないことがあった。女と巳之吉を縛る法は未だ健在だ。こちらの方を何とかしないといけない。そうでないと、女は巳之吉をとり殺さねばならない。
だから女は、襖の向こうをすっと指差し、こう続けた。
「今でも、もし、あの子たちがいなければ、迷わずとり殺してしまうのですが……まだ幼くかわいいあの子たちから父親を奪うわけにはいきません」
それは女が最後に並べた精一杯の言い訳だった。決して巳之吉に向けて発せられた嘘ではなかった。誰とも分からぬ、強いて言うなら、女を縛る法に向かって述べた言い訳に近いものだった。自分の方には約束を履行する意思はあった。しかし止むに止まれぬ事情があった。そんなことを、女は言ったつもりだった。
一方そんな言葉を吐いてすぐ、自分のこの発言が巳之吉を傷つけていやしないかと女は心底心配になった。心配は腕を指を動かした。女はそっと、巳之吉の掌を掴んだ。そしてそれを自らの頬に当て、なぞるように自分の手を添えると、長い黒髪を垂らしてこう続けた。母としても一言、言い置いて行きたいことがあった。
「この上は――この上は、あの子たちのことを、どうかよろしくお願いいたします。もし、あなたが子供たちにとやかく言われるようなことがあれば、わたしもそれ相応のことをいたしますので、お覚悟を」
それから女は、しっとりと濡れた頬を巳之吉に近づけた。やがて、先ほど巳之吉が話したように、いつか年老いた木こりの隣に寄り添ったように、夫の隣に身を横たえた。巳之吉の方もひょいと頭をもたげ、いつの間にか、女に覆いかぶさるような格好を取っていた。
その時の、巳之吉の目。
女を安堵させるような、優しい目付きだった。「……ああ、分かったよ」静かにそう言った巳之吉に、女は、ああ、ようやく言いたいことが言えると喜んだ。
女は、そっと唇を開いた。そしてそうしている間にも、女の体はじわじわと融け出していた。
「あなたは約束を破りました。わたしはいなくならねばなりません。最後に一つ、あなたに一つ、お願いがあります」
「……なんだい」
巳之吉はまっすぐ女を見つめていた。女は再び巳之吉の頬に触れるとこう続けた。
「融けるまで……」
しかしその先は吹雪にかき消された。巳之吉が首を傾げたので、女は再び告げた。
「……融けるまで、愛してください」
巳之吉がそっと笑ったのを、女は見逃さなかった。女はその笑顔に包まれた瞬間、ずっと求めていた何かを見つけた気がした。そしてそれは、女の掌にあった。胸板にそっと添えられた掌。その中で確かに脈打つのは、他でもない巳之吉のぬくもりだった。
そっと巳之吉の唇が触れて来た。指が絡みつき、大きくて温かな手が女のことを優しく撫でた。女は、巳之吉の肌に触れて思った。温かい。わたしは、このぬくもりが好き。女の意識があったのは、それまでだった――。
夜中。いつの間にか眠りに落ちていた巳之吉が目を覚ますと、何故か体が水をかぶったように濡れていた。本来なら、寒さで凍えているような状態だったが、何故か巳之吉の体は湯に浸かったように温かかった。
そしてそばにいたはずのお雪はどこにも見当たらず、代わりにさっきまで横になっていた布団が、しっとりと濡れていた。巳之吉がそっとその布団を撫でると、遠くの方で吹雪が低く唸った。
――脚色 飯田太朗――
雪女 飯田太朗 @taroIda
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます