肝試し

「小麦についてはこの倍の量をお願いします」


「倍ですか? 前回と同じ量を用意したつもりでおりましたが……」


 もみ手をしながらも、当惑した表情で答えた店の主人に対して、セドリックは首を横に振って見せた。


「どこかのガキが、去年よりはるかに食べる様になりましたからね。もっとも食べた栄養は頭や身長ではなく、ぷよぷよしたお腹にだけいっているようです」


「まあ、お嬢様も成長期ということではないでしょうか?」


「成長期?」


 セドリックの表情が変わったのを見て、店の主人は自分の不用意な発言を心から後悔した。思わず手の動きも止まってしまう。


「あのガキには成長などという言葉は、全く当てはまりませんね。単にこの世にある貴重な食べ物を、ただ浪費しているだけです。あえて成長しているとすれば、ぷよぷよした腹の中にある胃袋だけでしょう」


「はあ」


「できれば腹に穴を開けて、胃袋をぞうきん絞りにしてやりたいところです。そうすれば無駄に食べる量も減り、少しは世に与える害悪も減るというものです」


「そう言うものでしょうか?」


 そう答えた主人の愛想笑いは、かなりひきつっている。


「そう言うものです。あのガキに関して私に間違いなどありません。それはさておき、倍の量の確保は大変でしょうから、追加分については色を付けさせていただきます」


「はい。毎度ありがとうございます」


 店主が頭を下げた先、セドリックの背後では街の女性達が、一目その姿を見ようと押しかけていた。





「お嬢様、昼間にだいぶ汗をかかれたようなので、汗染みにならないよう、早めにこちらにお召替えをお願いします」


 侍従のアイネスは、日没間際の黄色い光が差し込む部屋で、退屈そうに足をぶらぶらさせている少女に声をかけた。


「今日はどちらの寝間着にいたしましょうか?」


 そう言うと、アイネスは無言の少女に向かって、ニ着のパジャマを差し出した。アイネスの左手には水色の水玉のパジャマが、右手にはピンクで、かわいいリボンがついたパジャマが掲げられている。


 少女は白いワンピースの胸元を手でパタパタと扇ぐと、うんざりした表情で、フンと鼻を鳴らして見せた。


「アイネス、着替えはいらないのです。日が落ちてもまだまだ熱いのです。暑くて昼寝もできなかったぐらいなのです。これを脱いで裸で寝るのです。その方がまだましなのです」


「お嬢様、その様なはしたないことをされますと、私がセドリック様に怒られてしまいます」


「セドリック? あれは関係ないのです。いるともっと暑苦しくなるだけなのです。うん!?」


 少女はそこまで告げると、不意にアイネスに向かって小首を傾げて見せた。


「お嬢様、どうかされましたか?」


 怪訝そうな顔をして辺りを見回す少女に、アイネスは問いかけた。


「とっても暑いのを抜きにすれば、今日はとっても平和だったのです。もしかして、奴はやっと首を自覚したのですか?」


「首!? 誰の事ですか?」


「もちろんあの嫌み男セドリックなのです。やったのです! とうとう、とうとうあの男が、私の目の前から消えたのです!」


「もうお嬢様、一体何を言っているんですか。そんなことは絶対にありえません!」


 万歳をして部屋中を飛び跳ねる少女に、アイネスが声をかけた。


「違うのですか!?」


「セドリック様は街まで買い付けに行かれて、不在なだけです。戻ってこられるのは明日の昼頃ではないでしょうか? それまでは私がしっかりとお嬢様のお世話をするよう、セドリック様から言付かっております」


「戻ってくるのですか!? 戻ってなど来なくていいのです!」


「でもお嬢様、セドリック様が戻ってこられないと、お食事が出せません」


「何事なのです!」


「いつもは秋口まで持つはずなのですが、今年はもう食糧庫がほとんど空なんです。それでセドリック様が、街まで買い出しに行かれました」


「誰がそんなに食べたのです! 分かったのです。きっとセドリックが一杯食べたのです。逆さづりにして、食べたものを吐き出させるのです!」


 少女は天井に向かって拳を突き出しつつ、セドリックに対する文句を言い始めたが、アイネスの冷たい視線に気が付くとそこで言葉を止めた。


「まあいいのです。食べ物を運んでくるまでは、首にしないでおいてやるのです。それよりも暑すぎなのです。マルセルにかき氷を持ってくるように言うのです。食事はすべてかき氷でいいのです」


「そんなことをしたら、それこそセドリック様に怒られます! それにまたお腹を壊しますよ」


「アイネスは何か勘違いをしているのです。セドリックの主人は私なのです。そもそもこんなに暑いのはおかしいのです。かき氷を食べたら、夏に話をつけにいくのです」


 少女の言いたい放題のわがままに、アイネスの口から大きなため息が出た。


「夏は暑いに決まっています。それに私はかき氷など、ここに来るまでは、見たことも聞いたこともありませんでした」


 それは本当だ。田舎育ちのアイネスにしてみれば、プリンを始めマルセルが作る料理も、この屋敷の立派さも、全てが初めて見るものばかりだった。


 それにセドリックの様な完璧な男性など、この世に存在すること自体が未だに信じられない。もうこの世のどんな男性に会っても、決して心を動かされることが無いかと思うと、ある種の呪いにすら思える。


「アイネスはまじめすぎなのです。そんな服など着ていて暑くはないのですか?」


「この侍従服ですか?」


 少女の言葉に、アイネスは自分が着ている紺色の侍従服と白いエプロンを眺めた。


「そうなのです。それを脱いで、私と一緒に裸になるのです」


「そんなはしたないことは出来ません!」


「それはおかしいのです。そんな服を着て、かき氷無しに夏を耐えるなど不可能なのです。間違いなく溶けてしまうのです」


「暑いですが、我慢できないことはありません。それにかき氷がなくても、気持ちの持ち方で何とかなります。私が子供の頃は肝試しとかをして、とっても涼しいというか、もう背筋が凍る思いを――」 


「アイネス、その『肝試し』というのは何なのです」


 アイネスの独り言の途中で少女が声を上げた。さっきまでだらしなく舌を出すか、文句を言うだけだった少女の目が、好奇心に爛々と輝いている。


「肝試しですか? 夏の夜に村のはずれの丘にある一本杉まで行って、そこに名前を書いた紐を結んで帰ってくる、お参りみたいなものです。でも途中でお化けが出るので、それは背筋が凍るような思いをしました」


「アイネスの村にはお化けがいるのですか!」


 今や少女の目は真剣そのものだ。


「子供の頃は本当に信じていましたが、実は村の大人達がお化けの振りをして、子供達を脅かしていたんです。でも本当に怖くて、暑いのなんか忘れてブルブルと震えていました。夏になると、どうやってそれから逃げ出そうか、考えてばかり――」


「アイネス、決めたのです!」

 

「はい。どちらの色でしょうか?」


「パジャマはどうでもいいのです。その肝試しをするのです。絶対にするのです!」


「え、ええ―――――!」


 夕刻の僅かな光が差し込む部屋の中に、アイネスの素っ頓狂な悲鳴が響き渡った。





「お、お嬢様、足元にお気をつけください!」


 アイネスは夜半の森を躊躇なく進んでいく少女に、必死に声をかけた。


 わずかに差し込む月明りを除けば辺りは真っ暗だ。その中を、アイネスは前を行く少女が持つろうそくの明かりを必死に追いかけていた。


 前を行く少女には、夜の闇を恐れている様子は全くない。むしろいつものやる気の無さに比べると、遥かに軽快としか言えない動きをしている。


「アイネスは遅すぎなのです。これでは南の丘の上まで行って戻ってくると、朝になってしまうのです。嫌なら屋敷で待っていればいいのです」


「そ、そうはいきません。セドリック様から、お嬢様のことを頼まれています」


 そうは言ったものの、恐怖心で足が動かない。暗闇に得体のしれない何かが潜んでいて、自分を付け狙っている気がする。風が木々の枝を揺らす音も、アイネスの耳には亡者達のささやきに聞こえた。


「お、お嬢様。どうか、アイネスを置いていかないでください!」


 耐えきれなくなった、アイネスの口から叫び声が上がった。それにさっきから、辺りで枝の折れる様な音もする。お化けは居なくても、何か獣でも潜んでいるかもしれない。


「仕方がないのです。ちょっとだけ待ってやるのです」


 前を行く少女の足が止まった。アイネスは必死の思いで、明かりを頼りに少女の元へと歩み寄った。


「お、お嬢様。もう少し慎重に――」


「アイネスは怖がりすぎなのです」


 少女がアイネスの方を振り返った。


「キャアアア――――――!」「ギュア――――!」


 少女の顔を見たアイネスの口から、甲高い悲鳴が上がった。そこには白い顔に黄色く光る眼を持つ、何かに呪われたとしか思えない顔が浮かんでいる。


「お化けぇええ!」


 アイネスは目の前に浮かんだ邪悪な存在に向かって、必死に腕を伸ばした。


「ア、アイネス……い、息が出来ないのです……」


 聞きなれた声に、アイネスは手の力を緩めた。目の前には頭に鉢巻を巻いて、そこに二本の蝋燭を刺した少女の顔が見える。よく見ると、ろうそくの黄色い明かりが、その顔を照らし出しているだけだ。


 しかしながらその顔は青白くも見える。アイネスはそこで初めて、自分が少女の首を思いっきり絞めつけていることに気が付いた。


「お、お嬢様! も、申し訳ございません!」


「ゲホゲホ!」


 アイネスが手を放すや否や、少女の肺が空気を求めてせき込んだ。せき込む少女の頭の上で、二本の蝋燭の明かりがゆらゆらと揺れている。


「どうしてそんなところに蠟燭をつけているんですか!?」


「両手で持つより楽ちんなのです。それに紐もなくさないのです。それよりもアイネスの声は、いつからやたらと低くなったのですか?」


「えっ!?」


「さっき、もう一つ声が聞こえた様な――」


 そこまで口にしてから、少女は初めて何かを恐れる表情をした。


 パキ!


 アイネスの耳にも、何かの足音がはっきりと聞こえた。二人は顔を見合わせると、ゆっくりと背後を振り返る。木の幹の間を、白いふわふわとしたものが、見え隠れしながらこちらへと近づいてくるのが見えた。


「お、お化けなのです!」「キャアアア――――――!」


 アイネスは一目散にそこから駆け出した。


「アイネス、待つのです。置いてかないのです!」


「キャアアアア――――――!」


 アイネスの耳には、背後から必死に呼びかける少女の声も聞こえていない。白い何かから逃げるために、丘の頂上へと続く道を、脇目も振らずに走り続けていた。





「お帰りなさい」


 マルセルは勝手口を開けると、その前に止まった馬車に声をかけた。


「遅くなりました」


 セドリックはランタンを手に、ひらりと御者台から降り立つと、わずかに皴になった執事服の裾を伸ばした。


「帰りは明日かと思っていましたが――」


「そのつもりだったのですが、虫の知らせですかね。悪い予感がしたので、早めに戻ってきました」


「虫の知らせですか?」


「はい。それはそうと、あのガキはおとなしくしていましたか?」


「それが――」


 セドリックはマルセルが言いよどむのを見て、少し怪訝そうな顔をした。


「そう言えば、アイネスの姿も見えないようですが? 私がいない隙に、あのガキが何かよからぬことでも企みましたか?」


「企むというほどのことではないのですが……」


「マルセルさん、あのガキはアイネスを連れて、一体どこに行ったのでしょうか?」


「肝試しをすると言って、南の丘まで出かけていかれました」


「肝試しですか?」


「は、はい」


「なるほど。どうやらあのガキは、恐怖というものの本質を、まだ理解出来ていないようですね」


 そう言うと、セドリックは少し首を傾げて見せた。


「仕方がありません。皆に集合をかけてください。確か古い代々の執事服がしまってあったはずです。それも出すように伝えてください」


「あの、セドリックさん。一体何を?」


「あのガキに真の恐怖とは何か、私が教えてやることにしましょう」


 セドリックはマルセルにそう告げると、往復の疲れを感じさせない足取りで、広間に向かって歩いていく。


「フハハハハハ!」


 中から響いてくる高笑いに、マルセルは暑さなど忘れて、背筋が凍る思いをしていた。





「キャアアア――――――!」


「ま、待つのです。ここはもう頂上に近いのです。この先は崖なのです!」


 ひたすらに逃げ続けていたアイネスの裾を、少女が必死に引っ張った。


「えっ!」


 やっと我に返ったアイネスが辺りを見回すと、丘の上にある大きな杉の木が、月明りに照らされているのが見える。少女の言うとおり、その先にあるのは断崖絶壁だ。


「フハハハハハ――」


 だが背後からは風にのって、何者かの声が響いてくる。今度は間違いなく空耳などではない。アイネスは目の前にいる、麻色の髪をぼさぼさにした少女を腕に抱いた。


「お嬢様、アイネスがこの身にかえても、必ずお守りいたします!」


「ア、アイネス。苦しいのです。胸に顔が埋まって息が出来ないのです! これではお化けに会う前に死んでしまうのです!」


「息ぐらい、ご自分で何とかしてください!」


「む、無理なのです。く、苦しいのです!」


 バギ、バキ、バキ!


 闇の中から、間違いなく何かがこちらに向かってくる音がする。アイネスは少女の体をさらにしっかりと抱きしめた。不意に白い塊が、木の幹の間からアイネス達の方へ飛び出してくる。


「ギュア!」


「お、お嬢様。かくなる上は、アイネスがお嬢様を抱いて崖から――」


「アイネス、ちょ、ちょっと待つのです!」


「待てません!」


「モフモフなのです!」


「モフモフ?」


 少女の言葉にアイネスは顔を上げた。視線の先には凶悪な黄色い目に、まるで巨大なのこぎりのような鋭い歯を持つ、巨大な白い毛玉がいる。


 それを見たアイネスの口から、のため息がでた。


「モフモフだったのですね……」


「ギュア~~~!」


 猫っぽい鳴き声を上げて寄ってこようとする白い毛玉に対して、アイネスは右手の人差し指を突き出した。


「モフモフ、勝手についてくるとは何事です!」


 アイネスの剣幕に、モフモフが後ろへ下がる。モフモフは巨大な体を縮める様にすると、赤い舌をしょんぼりと垂らした。


「どれだけびっくりしたことか――」


「アイネス、ちょっと待つのです!」


「今度は何です!」


「笑い声が聞こえたのです。モフモフは人の笑い声を上げたりはしないのです」


 少女の言葉に、アイネスは再び辺りを見回した。


 ザワザワザワ――


 風が木々の枝を揺らす中に、何かの気配が感じられる。


「お、お嬢様!」


「こ、今度こそお化けなのです!」


「ギュア~~~?」


 モフモフが二人に当惑の声を上げた。アイネスはモフモフの中に隠れようかとも考えたが、モフモフでもお化けには勝てない。アイネスは少女を腕に抱いたまま、背後へ下がった。


 カラ、カラ、カラ


 足元で何かが落ちていく音がする。恐る恐る後ろを見ると、そこにあるのは切り立った崖と、その下にある漆黒の闇だ。


「フハハハハハハハハ!」「フハハハハハハハハ!」「フハハハハハハハハ!」


 周りの木々の間から、高らかな笑い声が何重にも聞こえてくる。そして何者かが二人と一匹の前に飛び出してきた。


「ギャアアアア――――――――!」


 少女の口から、これ以上はない悲鳴が響き渡った。


「こ、この世の終わりなのです!」


 はそう叫ぶと、少女がアイネスの腕から逃れて、丘の下へ向かって一目散に逃げていく。


「お嬢様!」


 それを追いかけようとした、アイネスの足が宙をさまよった。


『あ、いけない……』


 体が背後の闇へと落ちていく。だが誰かの腕によって抱きかかえられると、崖の上へと引き上げられた。視線の先では、黒く美しい瞳がアイネスの顔をのぞき込んでいる。


「アイネス、気をつけたまえ」


「はい。セドリック様」


「クソガキめ、これで終わりだと思うなよ。ここからが本番だ」


「セドリック様が一杯!?」


 アイネスの口から驚きの声が上がった。周りを見ると、何人もの執事が、丘を駆け下りる少女の後を追いかけていく。


「フハハハハハハハハ!」「フハハハハハハハハ!」「フハハハハハハハハ!」


「セドリックが、セドリックが一杯なのです! もう肝試しは絶対に、絶対にやらないのです~~やらない~~やらない~~やらないのです〜〜!」


 アイネスの耳に、少女のあげる叫び声が、何重もの木霊になって聞こえてくる。アイネスはそれを聞きながら、月明りを浴びて自分を抱きかかえるセドリックの胸に、そっと顔を寄せた。


「お嬢様、来年も是非にやらせて頂きます」

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