公爵令嬢とその専属執事の日常
ハシモト
デザート
「セドリックさん」
料理人のマルセルから声を掛けられた男性は、読んでいた薄い本を執事服の胸元にしまうと、料理人の方を振り返った。その端麗な顔には朗らかな笑みが浮かんでいる。
だがその黒い瞳に見つめられた料理人は、思わず生唾をごくりと飲み込んだ。
「お嬢様が……」
「あの食い意地がはったガキが何か?」
顔に浮かべた笑顔はそのままに、男はマルセルに言葉を返した。その台詞を聞いたマルセルの背中に、夏なのに冷たい汗が流れていく。
「は、はい。私のところまでいらっしゃいました」
「なるほど。私に頼んでも無駄だとは分かる程度の知能を精一杯に使って、マルセルさんに何かよからぬ依頼をしたということですね」
「そ、そうですね。プリンを食べたいとおっしゃられました」
「プリン?」
「はい」
「夕食の時間は、とっくに終わったと思うのですが?」
「デザートが足りぬとおっしゃいまして」
「デザート? 確か本日の夕食にはメロンがあったと思うのですが、あのガキはどれが主食で、どれがデザートかの区別もつかないということですかね?」
「どうやら、プリンがないのがお気に召さなかったようです」
「はて? 私としては趣向を変えて、プリンをメロンに変えたと思っていたのですが、違うのですか?」
「実は夕刻前に、お嬢様がお腹が減ったとおっしゃられまして、氷室で冷やしておいたプリンをすべて食べられてしまいました。それでメロンに差し替えさせて頂きました」
「マルセルさん。私が用事で出かけている間に、あのガキは勝手に氷室に侵入して、プリンを全部食べくさった。そのあげくにマルセルさんのところまで出向いて、さらにプリンを持ってこいとほざいた、と言う理解であっていますでしょうか?」
「はい。事実関係としてはあっているかと思います。これから作るとなりますと、焼いて冷やす時間が……」
「マルセルさん、分かりました。少しお待ちください」
男性は傍らの書類机から紙を一枚取り出すと、さらさらと何かを書き込んだ。それをマルセルへと渡す。
「セドリックさん、こ、これは!」
それを読んだマルセルが驚きの声を上げた。
「量を含めて、そこに書いてある通りでお願いします」
「本当に大丈夫なのですか?」
「はい。問題ありません」
そう答えると、男性は立ち上がって、僅かについた執事服のしわを伸ばした。
「あのガキごときが、このような要求をするのは10年、いや100年は早い事を教えてやりましょう」
そうマルセルに告げて、颯爽と使用人控え室を出て行く。
「ワハハハハ!」
マルセルは廊下から響いてくる高笑いに、全身に鳥肌が立つのを覚えた。
「お前など呼んでいないのです! それに勝手に人の部屋に入って来ないのです!」
部屋の主は、扉を開けて入ってきた執事服姿の男性に、そう声をあげた。丸い顔を不満そうに、さらに丸く膨らませて見せる。
「お嬢様、私はとっても残念な事に、あなたの専属執事なので、この部屋に入らないといけないのですよ。正直なところ、あなたが吸った空気と同じ空気を吸うと、いろいろな能力が落ちて嫌なのですけどね」
「それはこちらも同じなのです。お前が吸った空気を吸うと、その嫌味がうつるのです。ちょうど良かったのです。首にしてやるから、さっさとここを出て行くのです!」
真っ白な絹の部屋着を着た少女はそう告げると、男性に対して部屋の扉を指さした。
「お嬢様ごときが、私に指示するなどあり得ません。この世の
「一体何の理なのです!」
「自然の摂理ですよ。そんなことより、今頃プリンが食べたいですって?」
「ど、どうしてそれを! おのれマルセル、あれほど言うなと言ったのに、お前に告げ口したのですね」
「何を言っているのです。その様な場合は、私に報告するよう依頼してあるのですよ。あなたのわがままを制御するのは、残念ながら私の仕事のごく一部なのです」
「こちらの依頼はどうなるのです!」
「この屋敷の者がお嬢様と私の依頼のどちらを優先するかは、太陽が東から昇るのと同じぐらい自明な事です」
「お、おのれセドリック。今日という今日は許さないのです!」
「許さないと言えば、私がここを離れている間に氷室に賊が入ったみたいですね」
「ぞ、賊なのですか?」
「どうやらその賊は、当家の大事なプリンを全部食べるという、とても許しがたい所業を為したようです」
「ゆ、許せないのです……」
「早速捕まえて、当家の私的制裁権に基づき、厳正な処罰を下してやらねばなりません」
セドリックに黒い瞳で見つめられた少女が、少しやばいという顔をしながら、目を遠くへ泳がせた。
「先ずは両手の爪を全部剥がしてやります。一枚づつ、ゆっくりとです」
「そ、それは痛そうなのです」
「もちろんですよ。その意地汚い罪を洗い流すべく、その手を酢を入れた器で洗ってやります。まあ、これがオードブル代わりですね」
「う、ううう……」
「どうしました? 気分がすぐれない様ですが?」
気のせいか、少女の顔色は少し青白く見える。
「なんでもないのです!」
「それでプリンがご所望でしたね?」
「気分が悪くなってきたのです。今日はなくても……」
「何をおっしゃいますか。食べたいんですよね。では私に勝ったら食べさせてあげます」
「お前に勝つのですか!」
「そうです。じゃんけんをして勝ったら、特別に食べさせてあげます」
「じゃんけんで勝てばいいのですね。やるのです。お前をギャフンと言わせてやるのです!」
「では、最初はグー、じゃんけんぽん!」
「私の勝ちですな。あなたごときが私に勝つのは、まだ一万年は早いということです」
セドリックの台詞に、少女がニヤリと笑って見せた。
「フフフ、お前は一回勝負とは言っていないのです。次をやるのです。勝つまでやるのです!」
「おや、少しは頭を使いましたね。でもそれを私が受ける義理はないですな」
「お前は一回だけとは言っていないのです!」
「分かりました。お嬢様が、珍しく空っぽな頭を使ったのに、雀の涙ぐらいの敬意は払ってあげましょう。ですが、残すのはなしですよ」
「何の問題もないのです。私のお腹はプリンで出来ているのです!」
「ぶよぶよですからね」
「余計なお世話なのです。では続きをするのです」
「では、301回目いきますよ」
「ちょっと待つのです。おかしいのです。どうしてこんなにやっているのに、全く勝てないのですか?」
そう言った少女の息は荒い。そして被っていたはずのナイトキャップは床に落ち、その下に隠れていた麻色の髪も、何度もかきむしったせいでぼさぼさだ。
「そんな事も分からないのですか?」
「絶対に何かのずるなのです!」
「違います。これは自然の摂理ですよ」
「そんな摂理などないのです!」
「続きをしますよ。最初はグー、じゃんけんぽん」
セドリックの差し出したグーに、少女がパーを差し出した。
「か、勝ったのです! セドリック、お前の負けなのです!」
少女が寝台の上で飛び跳ねながら、万歳をして見せる。
「おや、明日は西から太陽が昇るかもしれませんね」
その時だ。トン、トンと誰かが部屋の扉を叩く音がした。
「丁度いい時間ですね」
「何がいい時間なのです。そんなことより……」
扉が開いて、マルセルが顔を出した。そして侍女のアイネスが、小さなグラスが乗った銀の盆を持って、少女の前へと進み出る。
「お嬢様、プリンになります」
「おおお! プリンなのです」
少女はアイネスのところまで突撃すると、その盆の上のグラスとスプーンをひったくった。
「行儀作法もなにもあったものではないですね。まだ猿の方がよほどに作法を心得ています」
「敗北者は黙っているのです。なんなのですこれは? マルセル、これはいつものプリンとは違うのです」
「はい。とろとろプリンになります」
マルセルの言葉を聞き終わる前に、少女がスプーンを口へと運んだ。
「な、なんと! これはとっても、とっても美味しいのです!」
少女がその丸い顔ににんまりと笑みを浮かべた。それはまさに至福と言う表情だ。
「マルセル、すぐにおかわりを持ってくるのです」
「お嬢様、何をいっているのですか?」
「セドリック、お前には聞いていないのです!」
「それは味見分ですよ」
ゴロゴロゴロ
「な、なんなのです!?」
廊下の方から何かを運んでくる音が響いてきた。扉の向こうから顔を出した銀色の台車の上には、巨大な器が乗っており、その器には黄色い何かが一杯に詰まっている。
「こ、これは!」
「お嬢様、プリンに決まっています。それも分からない程度に脳が退化しましたか?」
「ちょ、ちょっと待つのです。この量はなんなのです」
「とろとろプリンです。では、残さずに食べてください」
「お腹が、お腹が痛くなってきたのです。今日はこれで……」
「アイネス、このわがまま放題のガキを椅子に押さえつけてください。今晩は特別に、私が食べるのを手伝ってやります」
「はい。セドリック様」
「お、お前達やめるのです!」
「お嬢様、申し訳ございません。セドリック様に逆らう訳には……」
侍女のアイネスが、申し訳なさそうに少女に告げた。だがその手は、しっかりと少女の体を押さえつけている。
「ではお嬢様、口を開けてください」
「セ、セドリック、鼻を、鼻をつままないのです」
「はい。まだまだいれますよ。ほら水のようなものです」
「も、もうプリンはいらないのです。一生いらないのです〜〜〜!」
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