在りし日
「申し訳ございません。我が娘では、
そう言って頭を下げる男の姿を、セィドリックは冷めた表情で見つめていた。そこには一月も満たない前に、「我が娘を、セィドリック様の後を継げる聖女にしたいと思っております」と言って、頭を下げてきた時の意気込みはどこにもない。
辺境討伐で成りあがった武家が、大貴族の一員になるのを狙ったのだろう。だがその野心も、どこかに置き忘れてきたらしい。娘はと言うと、父親の後ろで肩を小刻みに震わせながら、セィドリックに対して、床を舐めんばかりに頭を下げている。
才能は並みの娘よりはあるし、見かけも美人と呼んでもいいだろう。だがセィドリックの求めているものを、この娘は備えていなかった。それが何かと問えば己自身だ。
父親に従い、そしてセィドリックに従えば、聖女と呼ばれる存在になれると思い込んでいただけだ。だがなぜ聖女になるのか、それ以前に自分が何者なのかを、己に問うた事はあるのだろうか?
その震える背中を見ながら、セィドリックはそんな事を考えた。いや、それを問える者を育てられると思った自分が、そもそも間違っていたのだ。
「ならばそう言う事だな」
セィドリックはそう親子に告げると、応接室の長椅子から立ち上がって玄関へ足を向けた。屋敷の長い廊下に並ぶ使用人たちが、セィドリックへ一斉に頭を下げる。それを見たセィドリックの心はさらに白けた。
娘の専任執事である自分は、本来なら単なる同僚だ。だがこの点に関しては、そうさせなかった自分にも問題があるのかもしれない。彼らについて言えば、自分の事を望んで招いた訳ではないのだから。
屋敷の外に出たセィドリックは照り付ける太陽と、そこにある青空を見つめた。
「セィドリック様、馬車の手配を――」
「不要だ。それに私は先ほど首になったところだよ」
侍従長に片手を振って見せると、セィドリックはよく手入れされた庭を抜けて通りへと出た。そこは貴族の私邸が並ぶ地区で、昼下がりのこの時間には人通りはおろか、馬車の姿すらない。
セィドリックは、黒い執事服の上着を脱いで腕に巻くと、大きく伸びをした。さてどこへ行こうか、そんな事を考えていると道の横に馬車が一台、所在なげに止まっているのが見える。
それを見たセィドリックは、小さく首を傾げて見せた。自分の事を疎ましく思うものは、この世に山ほどいる。だがそれらの者が使うには古く、あまりにも質素な馬車だ。興味をもったセィドリックは、その馬車へ歩み寄った。見ると初老、いや、だいぶ年老いた執事姿の男性が、馬車の下を覗きこんでいる。
「何かお困りごとですか?」
そう声を掛けると、老人は膝の埃を払って立ち上がった。
「車軸がずれてしまったらしく、油をさして調整しようとしていたところです」
「私の方で見てみましょう」
卑下する訳でなく、それでいて飾らない男性の態度に好感をもったセイドリックは、男性に上着を預けると、馬車の下を覗き込んだ。
車輪のずれを抑える板が割れて欠けてしまっている。これではまっすぐ走ることは難しいし、角を曲がるときは盛大な軋み音を立てることになる。だが古く見えても十分に手入れはされていたらしく、その欠け方は不自然だ。
「上着を渡してもらえませんか?」
男性は僅かに当惑した顔をしてみせたが、セィドリックは男性に手を差し出して、自分が預けていた上着を受け取った。地面においてあった油にそれを浸すと、車軸の横、板が欠けたところへ巻き付ける。
「よろしいのですか!」
男性の慌てた声が聞こえたが、セィドリックはそれを無視すると、上着をしっかりと結びつけた。
「応急処置ですが、どこかの工場に見せるまでは、持つと思います」
「ありがとうございます」
男性はセィドリックに丁寧に頭を下げた。
「私は公爵令嬢の執事をしております、ハウエルと申します。よろしければ、お名前を教えて頂けませんでしょうか?」
「名乗るほどの者では――」
そう口にしてから、セィドリックは真っ白な白髪頭の男性をまじまじと見つめた。
「もしかして、先の聖魔大戦であれを封印した、ハウエル殿ですか?」
そう声を上げたセィドリックに対して、ハウエルと名乗った老人は苦笑いを浮かべて見せた。
「封印? そのような世迷い事を言うものもいるのですね。もしかして、どちらかへ行かれるおつもりでしたでしょうか?」
「そうですね。どこかへは行くつもりでした」
「それでしたら、そちらまでお送りさせて頂けませんでしょうか? 王都に来るのはかなり久しぶりでして、道がよく分からなくて困っておりました」
ハウエルはそう告げると、ひたすら壁が続く道を見回して見せた。見た目にはそこにはただ壁があるようにしか見えない。だがそこには、明白な殺意を持つ存在が隠れていることを、セィドリックは見逃さなかった。
それの狙いはハウエルか、それとも自分なのか? 同行すればその答えはすぐに分かる。セィドリックはハウエルに頷いた。
「セィドリックと申します。遠慮なく同行させて頂きます」
「お嬢様!」
ハウエルが馬車へ向かって声を掛けた。そこに彼の主人が乗っているらしい。
「お客様に同行して頂きますが、よろしいでしょうか?」
「許すのです!」
聞こえてきたのは、まだ幼い子供の物としか思えない声だ。セィドリックは先の大戦の勇者にして、封印者であるハウエルがまだ生きていたこと、そしてそれが執事姿で王都にいることに面食らいつつ、ハウエルと共に御者台へ登った。
「ハイホー!」
ハウエルの掛け声と共に、全く人通りがない塀に囲まれた道を、馬車がゆっくりと進んでいく。
「ハウエル殿、あなたがどうしてここにいるかは分かりませんが、前後にいる者たちにはお気づきでしょうか? それに馬車の車軸も、決して偶然ではありません」
「そのようですね。正直、私の読みが甘かったとしか言えません。感謝することはあれ、まさかこのような事をしてくるとは、思ってもみませんでした」
「もちろんです。あなたには感謝すべき――」
「セィドリックさん、私にではありませんよ」
そう答えると、ハウエルはセィドリックに片手を上げて見せた。
「自分に都合のいい話しかしない者はよくいます。だがそれは相手の寛容さあってだと言う事まで、都合よく忘れている。今回はその都合のいい話を、都合のいいままに確定させるつもりの様ですね」
「どういう意味でしょうか?」
「ハウエル! とっても、とっても退屈なのです!」
「お嬢様、申し訳ございません。しばしご辛抱ください」
セィドリックは背後から聞こえた我儘に苛立った。元々子供は好きでは無いが、その声は妙に神経を逆撫でてくる。
「おい、ガキ。こちらは大人の大事な話をしているんだ。口を閉じていろ!」
セィドリックの言葉に、馬車ののぞき窓がバンと音を立てて開くと、麻色の髪に水色の目を持つ幼い少女が顔を出した。
「ガキ? それがお前の名前なのですか?」
「お前の事だ!」
「なななな、そう言うお前は何者なのです!」
「見れば分かるだろう。執事だ。もっともさっき首になったがな」
「フフフ、当たり前なのです。お前のような態度のでかい男は、首になって当然なのです!」
「おい、俺は口を閉じていろと言ったんだ? その口を縫い付けられたいのか?」
「ハウエルと話をしていたのはこっちなのです。首男、お前こそ口を閉じるのです!」
「どうやら、すぐに仲良くなられたようですな」
「どこが?」「どこがなのです!」
ハウエルは口元に笑みを浮かべると、馬車を止めて背後を振り返った。そして少女の水色の瞳をじっと見つめる。
「お嬢様、大変申し訳ございませんが、ハウエルは少し用事が出来たようです。セィドリック様と、しばしこちらでお待ち頂けませんでしょうか?」
「さっさと終わらせるのです。この嫌み男といると、嫌みがうつるのです」
「ちょっと待て、嫌み男とは俺の事か?」
「では、セィドリックさん。お嬢様のことをよろしくお願い致します」
「ハウエル殿、お手伝いします。あなた一人では――」
そう声を上げたセィドリックに対して、ハウエルが首を横に振って見せた。
「セィドリック殿、これはお嬢様専属執事の、私の仕事です。どうか手出し無用にてお願いします」
そう言うと、ハウエルは年齢を感じさせない動きで馬車を飛び降り、執事服の皴を直した。次の瞬間、馬車めがけて、巨大な炎の柱が何本も向かってくる。
ハウエルが白い手袋をした手を小さく掲げると、炎の柱は火の粉になって辺りへ散らばった。それが今度は炎の猟犬に変わり、四方へと走り去っていく。壁の影から男たちの悲鳴が上がり、炎に包まれて転げ回る姿も見えた。
「流石は――」
そうセィドリックが呟いたところで、ハウエルが急に膝をつく。その体に、何本もの矢が突き刺さった
「水霊の守り手よ、我が盾となれ!」
セィドリックの唱えた呪文に、空を飛ぶ全ての矢が、時が凍りついたみたいに動きを止めた。そして手を前へと差し出す。
「暗き影よ、我に仇なすものの魂を食らえ!」
そこから黒い影が地面へと落ちると、そのまま走り去っていく。同時に辺りからは悲鳴も、もだえ苦しむ声も、その全てが消え去った。
「ハウエル! しっかりするのです!」
その静寂の中を、少女の叫び声が響き渡った。セィドリックが駆け寄ると、少女は着ている白いドレスを真っ赤に染めながら、必死にハウエルから流れる血を止めようとしている。
「どけ! 回復呪文を――」
「セィドリック殿。これは怪我ではありません。もともともう私の体は持たないのです」
薄く目を開けたハウエルが、セィドリックに答えた。
「お嬢様、ハウエルの我ままで、このような事に巻き込んでしまって――」
「何を言うのです。ハウエルの奥さんのお墓にお花を供えに行くのは、当たり前なのです。出来れば、生きているうちにハウエルと一緒に会いたかったのです。そしていっぱい、いっぱい甘えたかったのです!」
「はい。彼女にあなたを紹介したかった――」
そう呟くと、ハウエルはセィドリックの方へ視線を向けた。
「セィドリック殿。実は私の我がままはもう一つあるのです」
「なんでしょうか?」
「あなたにお嬢様の事をお願いしたいのです。あなたなら、お嬢様の良き相手として、安心してお世話をお願いできます。どうか――」
だがハウエルがその続きを口にする間もなく、目から光が消えていく。
「ハウエル、また奥さんのお墓に一緒に行くのです。もっと花を、山ほど花を供えるのです!」
「お嬢様、ハウエルは……あなたのお側にいられて……」
「ハウエル!」
セィドリックはハウエルの顔に手を伸ばすと、まぶたをそっと閉じた。だがその手が固まる。少女の体から、言葉に出来ない程の強大な力が溢れ、辺りを闇に包んでいく。それは世界から日の光すら奪おうとしていた。
「お前は――」
「が、我慢するのです。私には大事な人たちがいるのです。それにハウエルが悲しむのです。だから、だから、耐えるのです!」
そう少女が叫んだ瞬間、辺りを包んでいた闇が消え去り、昼過ぎの日差しが世界へと戻ってくる。セイドリックはシャッツの胸ポケットからハンカチを取り出すと、それで少女の顔についた血を拭った。
「嫌み男……」
「俺の名前は嫌み男ではない。セィドリックだ」
「セィ、セィ。舌をかむのです。セドリックでいいのです」
「どっちでもいい。それよりも奥方の墓の場所を教えろ。彼をそこに眠らせる」
少女がセィドリックに頷いた。
「それとガキ。俺は今からお前の執事だ。だから俺がいいという時以外は泣くな」
「なななな!」
「ハウエル殿を、笑顔で奥方の所へ送ってやれ」
丘の上を吹く風に、輪から僅かにはみ出た草が揺れている。その先には王都の城壁と、大小さまざまな塔を備えた王宮の姿も見えた。
「お嬢様、私のも出来ました!」
「アイネス、それも一緒に供えるのです」
アイネスは少女に頷くと、白詰め草で作った花輪を苔むした墓石へ備えた。その横にはアイネスが作ったものより小さく、不格好な花輪が供えられている。だがアイネスはそれがどれだけ心を込めて編まれたものなのか、よく分かっていた。
「花など供えるより、あれを吹き飛ばしてやった方が、よほどに供養になると思いますがね」
セドリックはそう告げると、日差しを受けて白く輝く王宮を指さした。
「
「それに何です?」
「今日は、笑顔になる日なのです。お前が私にそう言ったのです。だから主人としてお前に命じるのです。そんな苦虫をかみつぶした顔などしないで、笑うのです」
そう告げると、少女はその顔に満面の笑みを浮かべて見せた。
「ハウエルと奥さんに、私たちの笑顔を見せるのです」
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