マイ・フェア・レディ
「リズムに合わせてステップを踏みなさい。それでは単によたよたしているだけです!」
屋敷の練習場にセドリックの声が響いた。
「よたよたもするのです。どんだけダンスの練習をしないといけないのです。もう夜なのです。寝る時間なのです!」
少女はそう告げると、セドリックに向かって頬を膨らませて見せた。
「何を言うのです。昼間あれだけ昼寝をしたのです。もう一生寝る必要などありません」
「寝ること以上に重要なことなど、この世にはないのです。出来れば太陽を足腰たたないようにして、二度と昇ってこないようにしてやりたいぐらいなのです」
「馬鹿な事を言っていないで、ステップの練習を最初からです」
そう言うと、セドリックは楽師の指揮を務めていたマルセルに合図を送った。その音楽に合わせて、セドリックが少女の手を取る。
そしてステップを踏みながらくるりと回ると、目にもとまらぬ速さで打突を打ち込んだ。少女は必死に体を動かしてそれを避ける。だが背中から床を滑るように繰り出された足に引っかかると、少女の体は床の上へ仰向けに転がった。
「どう考えても、これはダンスではないのです!」
少女は床に転がったまま、腕を天井に向けて差し出すと抗議の声を上げた。
「いえ、間違いなくダンスです。そもそもダンスとは、主導権を取って、相手を
「絶対に違うのです!」
少女の叫びに、セドリックは頭を振って見せる。
「まったくステップを覚えられないとは、やはり頭の中身は鼠以下ですね。アイネス、このクソガキに手本を見せてあげなさい」
セドリックの呼びかけに、アイネスはエプロンを外し、セドリックの前へと進み出た。
「アイネス、やめるのです! これは青あざが出来る奴なのです!」
アイネスは少女の呼びかけに、笑みを浮かべて大丈夫と合図を送ると、セドリックに一礼してその手を取った。二人が音楽に合わせてステップを踏み始める。
そしてセドリックの繰り出す打突や蹴りを、華麗な動きで避けると、最後はセドリックが放った高速後ろ回し蹴りを完璧なバック転で躱す。音楽が終わると、二人は互いに後ろ脚を引いて、完璧な礼をして見せた。
パチパチパチパチ!
その見事な演技に、マルセルをはじめとした使用人たちから拍手が上がった。
「アイネス、いつの間に、こんな危険な存在になっていたのです?」
少女の呟きに、アイネスがはにかんで見せる。
「はい。お嬢様の侍女として恥ずかしくないよう、セドリック様に鍛えて頂きました」
「ちょっと待つのです。鍛えるべきところが絶対に間違っているのです!」
「女性の嗜みと言うものですよ。いつまでも床に寝ていないで、さっさと起きなさい」
ビュ――!
セドリックがそう告げた時だった。換気のために少し開けていた窓から、一陣の風が練習室の中へと吹き込んできた。その風はカーテンの裾を翻し、練習室の天井にある油灯をかき消す。
「セドリック様?」
慌てて窓を閉めようとしたアイネスが、当惑の声を上げた。
「どうした?」
「空が光っています」
その答えに、セドリックはアイネスの背後から空を見上げた。視線の先では、空いっぱいに広がった紫色の光のカーテンが、ゆらゆらと揺れながら動いていくのが見える。
「オーロラだ」
「オーロラですか?」
そう問いかけたアイネスに、セドリックが頷いて見せる。
「そうだ。普通はもっと北の方で見られるものだ。それがこんな南、それも空一杯に広がって見えるのはとても珍しい」
オーロラは紫から緑、さらに赤へと色を変えながら、空をゆっくりと横断していく。その光は美しいと言うより、どこか不気味にすら思える。
「珍しくはあるが、特に何か害がある訳ではない。それよりもダンスの続き――」
そう言いかけたところで、セドリックは半開きのドアを見つめた。
「逃げましたね」
その冷たい響きに、アイネスをはじめ、その場にいた使用人たちの顔が引きつる。
「私から逃げ出すとはいい度胸です。日が昇ったら、朝食抜きで特訓ですな」
そう告げると、セドリックは足早に練習室から出ていく。
「フハハハハハ!」
廊下から響いてきた高笑いに、アイネスとマルセルは、背中を冷たい汗が流れるのを感じながら、互いに顔を見合わせた。
深夜、屋敷のゴミ出し口の扉がゆっくりと開いた。そこから大きな袋を背負った、小さな影が這い出してくる。影は辺りをキョロキョロと見回すと、自分が出てきた扉を慎重に閉じた。
影はそのまま辺りを伺っていたが、何の動きもないことを確認すると森へ向かって歩き出す。だが荷物が重すぎるのか、その足取りは少しおぼつかない。
森の手前でずれ落ちそうになった荷物を地面に下ろすと、影は夜空をそっと見上げた。そこでは巨大な緑色のカーテンが、天空をゆっくりと横切ろうとしている。
「やっぱり、勘違いではないのです」
そう呟くと、背後の屋敷を振り返った。少女は手を前へ掲げると、屋敷をいとおしむ様に撫でる仕草をして見せる。やがてその手を下ろして深々とお辞儀をした。
「今までありがとうなのです。みんな、元気でいるのです」
そう告げて、小走りに森の中へ駆け込もうとした時だった。少女の行く手に黒い人影が現れた。
「ダンスの練習をサボって、どちらへ行かれるつもりなのですか?」
影が足元にいる少女へ問いかけた。
「セ、セドリック。こんな夜中に、どうしてこんなところにいるのです!?」
「それはこちらの台詞ですよ」
「た、旅へ行くことにしたのです!」
「旅をしてどうするんです?」
「せ、世間と言うものを少し見てくるのです!」
セドリックは少女に対して頭を振ると、その水色の瞳をじっと見つめた。
「違いますね。あなたの創造主、いや半身に会いにいかれるつもりなのでしょう?」
「なななな、なにを言っているのです!」
セドリックの台詞に、少女が慌てた声を上げた。
「あれは啓示なのでしょう?」
セドリックが空を覆うオーロラを指さした。
「セドリック、お前は頭が良すぎるのです。だから苦労するのです」
そう告げると、少女は大きくため息をついて見せた。
「あなたにそんな事を言われるとは、とっても心外ですね」
「これは冗談でも嫌みでもないのです。本当の事なのです」
少女はいつもと違う真剣な表情を浮かべると、オーロラの光を見上げた。
「お前の言う通りなのです。あれが気が付いたのです。なので自分でやるつもりなのです。それを止められるのは私だけなのです」
「どうしてそこまでするのです? あなたにとって、この世界とは滅ぼすべきものではないのですか?」
セドリックの台詞に、少女が不思議そうな顔をする。
「あいつの意図など知ったことではないのです。ここには私の大事なものがあるのです。それを守るのは当たり前の事なのです」
「それなら私はあなたの専属執事です。あなたが地獄へ行こうが、神に文句を言いに行こうが、どこへでもお供します」
そう告げたセドリックに対して、少女がきっぱりと首を横に振った。
「セドリック、はっきり言って足手まといなのです。ついて来たら首なのです。お前はここにいる者たちを、私の大事な家族を守るのです。それがお前の仕事なのです」
それを聞いたセドリックが、少女へ向かって両手を上げて見せる。
「分かりました。ですがすぐに帰ってきてください。ダンスの練習の続きが残っています」
「分かったのです。でもあれは絶対にダンスではないのです」
そう言って苦笑いをすると、少女は森の奥へと姿を消した。
「一緒にいかれないのですか?」
セドリックの背後から声が上がった。そこには大きな荷物を担いだ、アイネスとマルセルが当惑した表情で立っている。
「待つ。あの子の帰りをここで待つ。私達に出来るのは、彼女が帰ってきたときに、笑顔で迎えてやる事だけだ」
そう告げると、セドリックは空に光るオーロラを忌々し気に見つめた。
次の日の夜、その日も現れたオーロラを振り払うかの様に、夜空に沢山の流れ星が現れた。光の滝とでも言うべき数が、空を埋め尽くして流れていく。
「お嬢様が無事に帰ってきます様に!」
アイネスは数多の流れ星に向かって祈った。セドリックは身じろぎもせず、ただ空を見つめ続けている。やがて流れる星に空が昼より明るく輝きそれが消え去ると、星の瞬き一つない真っ黒な空が頭上に広がった。
人々が呆然と空を見上げる中、まるで流れるのを忘れていたみたいに、小さな流れ星が一つ空から落ちてきた。
それを見たセドリックは屋敷を飛び出すと、落ちてくる光に向かって全力で駆け出す。アイネスやマルセルをはじめ、他の使用人たちもそれに続いた。
その光は屋敷の前の原っぱにポトリと落ちると、淡い光を辺りに振りまいて消える。次の瞬間、空を覆っていた闇が晴れ、夜空に星の瞬きが戻ってきた。
セドリック達が光の消えた場所に駆けつけると、麻色の髪を持つ幼い少女が、草の上に体を丸めて横たわっている。その小さな体をセドリックはそっと、そして愛おしそうに抱きしめた。
「お帰りなさい、
その声に反応したのか、少女の目がゆっくりと開いた。水色の目がセドリックを、次に少女を見守る人々を見つめる。
「お前は誰なのです?」
少女の口から言葉が漏れた。
「あなたの専属執事です」
「執事とはなんなのです?」
「あなたの世話をするものです」
「なんの世話をするのです」
「ダンスを教えます」
「ダンスとはなんなのです?」
「分かった。面倒だから、いったん口を閉じろ」
「面倒とはなんなのです?」
「口を閉じろといったんだ。またとろとろプリンを飲ませるぞ!」
「とろとろプリンとはなんなのです?」
二人は謎な会話を続けながらも、手を繋いで屋敷に向かって歩いていく。アイネスはその後ろ姿をじっと見つめた。でも二人の姿がぼんやりと歪んでいく。それはマルセルをはじめ、他の使用人たちと同様に、その目をとめどなく流れる涙のせいだった。
麻色の髪をふわふわとなびかせながら、水色の目をした少女は、足元の青い球をじっと見つめていた。その顔は少し物憂げに見える。
やがて小さな光がいくつも現れると、少女の周りをゆっくりと回り始めた。
「主よ、滅ぼすのではなかったのですか?」
「あれの我がままにしておいてもよろしいのですか?」
光たちは次々と少女に問いかける。
「あれが我に押し付けてきたのだ」
少女の台詞に、光たちは動きを止めた。
「命じた仕事をさぼっていた間の記憶を、我に押し付けてきたのだ」
そう告げると、少女はその物憂げな表情に僅かに笑みを浮かべて見せる。
「あれがさぼりたくなったのも、少しは分かる気もする。ならば――」
少女は足元に浮かんでいた青い球を、おもむろに手の上へと乗せた。
「我もしばし、これを眺めて見ることにしよう」
《完》
公爵令嬢とその専属執事の日常 ハシモト @Hashimoto33
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