鈴虫は鳴いている
朝吹
鈴虫は鳴いている
ぼくが怖いものはレインコートだ。土砂降りの雨であっても台風が来ても雨合羽だけは手に取らない。
雨が降ると、濃い色のレインコートを着た人影が視界の端に現れる。足許はスニーカーとジーンズだ。顔は見えない。傘もない。フードを深く被って俯き加減にそこに立っている。
レインコートを着た人物は雨が降ると現れて、雨が止むと消えている。なぜか血の匂いがしてくる。雨に湿った古い血のかび臭い匂いだ。記憶の底で秋の鈴虫が澄んだ音色を立てている。
「それはいつ頃から見えますか」
心療内科の医師はぼくの答えを電子カルテに打ち込んだ。画面の方を見てこちらを見ない。何処のクリニックに行っても初診で受ける質問は同じだ。
夏の終わりからですか。
医者は発想を転換しましょうとぼくに告げた。害がないのだから雨の日に幻覚が見えるくらいのことは気にしないで気楽に暮らすのも手ですよ。
お前は誰なのだ。
ある日勇気を振り絞って、ぼくのほうからレインコートの男に近づいて行った。するとどうだろう。
「血しぶきが飛んでくる気がするだろう!」
そう叫んでレインコート男はコートの前をぱっと左右に開いた。中は空だった。
後の記憶はない。雨の中、道に倒れているところを発見されて救急病院に運ばれたらしいが、まるで憶えていない。
「とくに異常はないようです」
搬送された先の病院で検査を受けたが脳にも異常なしということで帰された。
大変だったなと同じゼミの小菅が大学の食堂で椅子を並べてきた。小菅とは高校から一緒なのだ。
「私見だが、レインコートではなくて雨に何かのトラウマがあるんじゃないか」
ぼくは今にも降り出しそうな雲行きの窓の外をみた。うどんをすすって小菅は云った。鈴虫の鳴き声が聴こえるな。
浅瀬の川が流れている。澄んだせせらぎだ。京都の高瀬川が電気屋のテレビに映っている。両岸には柳が揺れている。
「鶴見結城くん」
どちらを取っても苗字みたいな名だとよく云われるのだ。鶴見と呼んでも結城と呼んでもぼくだ。高校の同級生の汐留桜子が立っていた。大学は違うがよく会っている。ぼくは手許の端末で天気を確認した。予報に雨はなく、レーダーにも雨雲はない。よし。
「桜子、暇なら今から上野の方に遊びに行かない?」
元々ぼくは軽薄で、女の子と遊ぶのが好きで、深く悩むことは嫌いなのだ。
汐留桜子は高校の頃は眼鏡をかけていたが、卒業後はコンタクトに変えて髪もふわっとさせて五割増しに可愛くなっていた。八歳年上の彼氏がいるが、高校の同級生と遊びに行くくらいのことでは文句を云わないと云って、ぼくと一緒にバスに乗った。
「桜子の彼は優しいんだね」
「わたしに甘々。一応いま伝えたら、楽しんで来て下さいだって。わたしのことをまだ汐留さんと呼んでるのよ」
「なんだそりゃ、他人じゃないか」
「一緒に旅行にも行ってるわよ。鶴見くんは病院の前で何してたの」
小菅もそうだが、多感な高校時代を一緒に過ごした同級生は身内のようなものだ。心療内科にかかっていると伝えると、武道を習っている桜子は「それより道場にでも行って身体を動かすほうがいい」と真面目な顔で応えた。
旧岩崎邸庭園でお茶をして、上野公園のボートに乗った。根津の隠れ家的なビストロで夕食をすませ、地下鉄の駅まで桜子を送った。午後七時。これなら彼氏も遅すぎると気を揉むこともないだろう。ちょっと彼女をお借りしましたよ、そういう気持ちで改札の向こうに消えていく桜子に手をふった。次の土曜日、その彼氏に待ち伏せされるとは想わなかった。天気予報は晴れだった。
「鶴見くん。結城くん」
桜子の恋人は奇態な風体をしていた。コスプレが趣味なのだろうか。
「君を待っていたんだ。鶴見くん」
ぼくを待つのは構わないがその恰好はよせよ。桜子の恋人は絣の着物に白足袋で下駄を履き、ぼさぼさの髪に老人が被るようなお釜帽をかぶっていた。これに小道具のトランクを持たせたら映画の中の金田一耕助だ。
「何かご用ですか。桜子がなにか」
「汐留さん」
訂正された。
「汐留桜子さんが、何かぼくのことを云っていましたか」
「わたしの名は日本橋
日本橋八洲彦は大真面目な顔をしてぼくを見詰めていた。某若手俳優に似ている。芝居じみた恰好だが好奇の眼を跳ね返すだけの落ち着きがある。鼻筋が通っていて男前だ。
「申し遅れたが、わたしはこういう者だ」
袂から和紙で出来た名刺入れを取り出すと、日本橋八洲彦はぼくに紙片を寄こしてきた。
私立探偵。
顔を上げると、日本橋は「歩きながら話そう」とすでに歩き出していた。
『雨合羽をはおった男がいる。どこかで逢ったことがあるような気がする。お嬢さんがぼくの後ろに隠れた。雨合羽の男は横溝正史の小説に出てきそうな言葉を叫んでいる。
血しぶきが飛んでくる気がするだろう!
柳が揺れている。竹細工の籠の中には鈴虫。川にかかる木橋の対岸に眼を向けると、黒紋付を身につけた大勢の人が行き過ぎていくところだ。霧雨が降っている。あれは葬列だ。
耳もとで誰かが囁いた。雨合羽の男の声だ。
「今生の恨み必ずや晴らさでか」
いよいよ横溝正史じみてきた。これに旧家と怪文書と老婆が出てきたら決まりではないだろうか。まさに金田一耕助が絣の着物に下駄履き姿でいつ現れてもおかしくない。雨合羽の男が懐から包丁を取り出した。
ぼくはついに叫んだ。夢ならさめてくれ。』
本当に叫びたい。夢ならさめてくれ。
ぼくの前で印刷した文章を読み下した日本橋八洲彦は「憶えていますか」とぼくに訊いた。憶えてる。それは高校の頃、文芸部だった桜子がクラスの中でリレー小説をやろうと云って、桜子の「レインコート」という単語に続けてぼくが寄稿したものだ。あまりにも趣味に偏りすぎて後続が誰も続きを書けなくなり、それきりそこで途切れたのだ。横溝正史は映画作品を観たきりだが、あの土着的な世界観にぼくは痺れていた。
「汐留さんは君の文章を保存していました。彼女も横溝正史の愛読者だったからです」
そうですか。そうでしょうね。
「この作文はクラスの全員が眼にしています。そこに鍵がある」
そんな雑文が。
「鶴見くん。結城くん。鶴見結城くん」
私立探偵日本橋八洲彦はぼくの肘をとって椅子から立たせた。
「外は秋晴れだよ」
仕事用に時間単位で安く借りられるビジネスホテルの一室にぼくたちはいた。
「神田に蕎麦でも喰いに行こうか」
窓際から日本橋八洲彦は振り返った。獣医が傷ついた動物に向けるような、沁みとおるような優しい眼をしていた。
ぼくと汐留桜子は日本橋八洲彦の指示で都内某所の柳の木の下に立っていた。晴天続きだったがようやく本格的に秋雨前線がやって来た。
「あの柳の木、江戸時代の浮世絵にも出てくるそうよ。往時の風流を伝えるために歴史的景観の保存目的で区が植え替えているらしいの」
こんな貧相くさい柳で往時を偲ぶことは難しい。その頃の川は埋められて暗渠となり、小川は車の行きかう道路の下だ。
歩道脇はタクシーの待機所になっているのか黒塗りのタクシーが並んでいた。
柳並木の下から土の匂いがしている。湿った土の放つ鄙びた匂いが鼻孔をさす。古い血の匂いに似ていた。秋の虫が鳴いている。
雨雲に陰る街は夜明けのように暗かった。水たまりを蹴散らして誰かが走って来る。下駄履きに絣の着物。ぼさぼさの髪。とんびというのか袖なしの外套をひるがえしている。
「八洲彦さん」
桜子が日本橋八洲彦の名を呼んだ。こちらは日本橋ではなく、下の名を呼ぶんだな。
「汐留さん、鶴見くん」日本橋が叫んだ。
横の通りから、誰かがぼくたちに向かって走ってきた。レインコートを着ている。
「鶴見結城。この恨み晴らさでおくべきか」
ぎらつく刃物が見えた。桜子が小さく気合を吐いた。傘を投げ出した桜子のスカートから足が高く上がる。
「桜子!」
桜子に蹴り上げられた男の腕から出刃包丁がすっ飛んでいった。駈けつけた日本橋八洲彦がレインコートを取り押さえた。
「小菅」
フードから現れたのは小菅だった。
ぼくは小菅に恨まれていた。高校生の頃からずっとだ。ぼくはただ女の子と喋ったりデートをしていただけなのだが、小菅からすればそれは妬ましい限りだったらしい。憎悪するほどに。
いつの間にかぼくは小菅にとって不倶戴天の敵になってしまっていた。くたばれアルファオスというわけだ。
「包丁を持っているのだから傘をささずレインコートなのは当然でしょう」
レインコートの中身が無人に見えたのはなぜだろう。日本橋八洲彦はそれに答えた。
「鶴見くん、君は人よりも暗示にかかりやすいのです。君は作文の中に雨合羽の中身を描写していなかった。だから無人と認識したのです。小菅のように、関係妄想といって嫉妬相手に執着する人間は、妬ましい人の書いたものと自身を重ねてしまうのです。鈴虫の音色など都心では聴こえない。しかし小菅には聴こえていた。毎日小菅が云うものだから、君にも聴こえるようになった。君も作文の中を辿るようにして小菅の洗脳にかかっていた。作文の中では主人公の傍には女性がいて、柳の木があり雨が降っている。そこを雨合羽姿の男に襲われるのです。道具立てが揃えば小菅はその通りに動くとみて今日呼び出したのです。想っていたよりも躊躇なく小菅が犯行を実行に移したので慌てました」
「あの時、八洲彦さんはわたしのことを咄嗟に桜子って呼んだ」
「そうですね」
日本橋八洲彦は少し照れ臭そうだった。そろそろぼくは消えるべきだろう。
桜子と日本橋八洲彦が雨上がりの日本橋を渡って行く。都会では音がうるさいので、銀座の老舗に頼んで下駄の歯には地面との接地面にゴムを貼っているそうだ。
ぼくは二人の後ろ姿を見送った。
その恰好はやはり金田一耕助を狙っているのかどうか、日本橋八洲彦に訊き忘れた。
[了]
鈴虫は鳴いている 朝吹 @asabuki
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