5枚目 恋愛学振

 実験室の扉がするりと開く。金木犀の香る外気とは違い、季節の色のない、人工的な風が吹き込んでくる。

 でも、先輩の声を聞くと、いつも春のような気持ちになる。名前を呼ばれただけで私の体温は少し上がり、胸がとくんと動いた。

 手に持っていたガラス器具をその場に置くと、半開状態のガラス窓を引っ張って閉める。さも熱心に実験をしていたように真面目な表情を作ると、先輩に向きなおる。

 フードのついた白いスウェットに身を包んだ先輩は、へらりと笑って頭をかいた。

「ダメだった」

 先輩はため息をついて目を伏せる。長いまつげが色白の顔に影を落としている。


 先輩と出会ったのは一年前だ。

 私の通う大学は国内有数の国立大なので、全国各地から学生が集まってくる。先輩もその一人で、地元の大学を卒業した後、修士課程からこの大学にやってきた。当時学部四年生だった私は、先輩と同じタイミングで研究室に配属されたため、「俺は修士一年だけど研究室一年目なんだ」と話しかけられたことを今でもよく覚えている。

 先輩は優秀だった。教員たちも皆、一目置いていたように思う。

 豊富な知識に満足することなく常に勉強し続け、教員や他の学生との議論も理路整然としたものだった。そして何よりも昼夜休日を問わず実験する、熱意と体力を兼ねそろえていた。分野にもよるが、実験系は実験量がものを言う世界だ。ほとんどの実験が無駄になる。でも実験しなければ結果は出ない。

 そんな先輩のことだから、当然D進、すなわち博士後期課程に進学するものだと思っていた。実際、他の修士二年の先輩たちが就職活動に勤しんでいても、先輩は動く気配を見せなかった。だから、六月になって急に面接を受け始めたときは驚いた。それと同時に、私はひどく悲しかった。

「DC1が取れなかったら就職しようと思う」

 博士課程の学生に向け、国から生活費と研究費が与えられる制度がある。ただ、希望者全員というわけではなく、これまでの実績や研究の展望などを書いた申請書をもとに審査される。

「でも、仮に通らなくてもD進することはできますよね、そりゃ通るに越したことはないですけど」

 私の身勝手な反抗に、先輩は悲しそうに笑った。学部でも修士でも奨学金を借りていたため、これ以上は増やしたくないのだという。

「奨学金なんて、借金のお洒落な言い方にすぎないからね」

 吐き捨てるように言った先輩の姿を、私は忘れられないでいる。


「D進するの?」

 そう問うた先輩の目を直視することはできなかった。無理やり明るく振る舞っているのがわかったからだ。

「いいえ」

「もったいない。研究、好きでしょ?」

 冗談なのか、本気なのかはわからなかった。いや、悔しさややり切れなさを隠したかっただけかもしれない。

 じきに十月になる。私は他の修士一年の同期と同様、就職活動をするつもりだった。企業説明会はおろか、すでに本選考の受付が始まっているところもある。

 学生時代、どのようなことに最も力を入れて取り組みましたか?

 エントリーシートのそんな質問に対し、なんと答えればよいのだろう。研究以外何も浮かばなかった。でも、研究だけはどうしても書きたくなかった。

「実験も頑張っているし、現時点でそれだけ成果があれば十分すぎるくらいだよ」

 この人は何もわかっていない。

 夜遅くまで実験をするのは、あなたの姿を一秒でも長く見ていたいからだ。

 研究について意見交換をするのは、あなたと話したいからだ。

 論文を書いたのは、あなたに認めてもらいたかったからだ。

 先輩の実験を手伝ったのは、あなたの隣に自分の名前を載せたかったからだ。先輩に成果を上げてもらい、来年も研究室に残ってほしかったからだ。

 そこに、科学の深淵を覗きたい、という探求心などかけらも存在しない。あるのは、不純な動機だけだ。

「でも、まあ、これで良かったのかもしれないな」

 先輩は「彼女がいるんだ」と照れたように静かに笑った。

 全身の血の巡りが止まったようだった。右手で左手をつかむと、氷のように冷たかった。

 先輩は手を伸ばせば届くほどの距離にいる。でも、届かない。

「学生のままじゃ待たせることになるし」

 息の仕方をようやく思い出し、肺の空気を押し出すように口を開く。

「……彼女さんの親御さんも、その方が安心でしょうね」

「俺、彼女の親からよく思われてないからなあ。プータローだって」

 諦めたように笑う先輩に、私はどう返せば良いのだろう。一緒に笑い飛ばしてほしいのだろうか。それとも寄り添って同情してほしいのだろうか。研究室の後輩として、どうするのがベストなのだろう。

 初めからわかっていた。私はあくまでも研究室の後輩でしかないのだと。

 だから、すべてこれで良かったのだ。「先輩」

 だからどうか、私の方は向かないで。愚かで惨めな私の方を向かないで。

 律儀で優しくてどうしようもなく馬鹿な先輩は、私を見て首を傾げる。私は震える唇の端を持ち上げた。

「ご内定、おめでとうございます」

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手のひらの葉っぱ 藍﨑藍 @ravenclaw

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