4枚目 興味
音楽室と書かれたその文字を何度も確認し、扉を恐る恐る開く。多数の椅子が並べられた部屋の中には、少年以外誰もいなかった。教室前方には黒いカバーをかけられたグランドピアノが置かれている。カバーは古びておりところどころ破れかけていたが、埃一つ見られなかった。
弾いてもいいだろうか。唐突にそんな考えが頭をもたげる。馬鹿げているとは思う。でも、弾いてみたいという衝動には勝てなかった。ずっしりと重みのある蓋を持ち上げると、規則的に鍵盤が並んでいる。白と黒の鍵盤は無機質だが、あたたかみがある。こちらから裏切ったりしない限り、ピアノは自分を受け入れてくれる。
弾き始めるとすぐに周りの景色が変わった。端正に構築された世界は美しい。低い天井をもろともせず、過不足のない音が高く立ち上っていく。朝から好奇と異質なものを排除する視線に晒され、ひとときも緊張が抜けなかった。でも、今は違う。完璧な世界は誰も拒まない。誰もが包まれ、同時に誰もが入ることを許されない。
余韻が消えると、少年は教会から音楽室へと連れ戻された。全体を見まわすと、雑然と並べられた椅子の一つに何かが置かれていることに気がつく。手に取ってめくると楽譜だった。ショパンだ。整った字でびっしりと書き込みがされていた。曲を自分のものにするために、いや、その世界の中で何にもとらわれず自由になるために。きっと寸暇を惜しんで練習しているのだろう。
罪悪感を抱かなかったと言えば嘘になる。だが、この楽譜の持ち主が何を考えながら弾いているのか、どんな人物なのかが気になって仕方なかった。
ページを繰っていると、扉が開かれた。入口に立つ少女の表情は影になっていて見えない。
「これ、君の?」
少女の返答は異常なほどに早かった。「違う」
この楽譜はきっと彼女のものだ。何となく、そんな気がした。
「さっきバッハ弾いてたの、あんた?」少年に近づきながらそう問うた少女の表情は固い。
外まで聞こえていたのか。そんな至極当然のことに気がつかなかったのは、やはり緊張の連続で疲弊していたからだろう。
少年が転校することになったのは父親の転勤によるところが大きいが、隣人からの嫌がらせを受け続けたのも理由の一つだ。防音に気を使っていたとはいえ、全ての人間が延々と繰り返される練習に寛容なわけではない。
はたと気がつく。少年が曲名を伝えたわけでもないのに、少女はその曲がバッハだと知っていた。やはり、彼女はピアノが好きなんだろう。
少年は楽譜を閉じ、少女に差し出した。「そう」
少女は少年をじっと見つめると、ぽつりと言った。「たぶん、二音だと思う」
「ニオン?」
首を傾げると、少女はなぜか相好を崩した。
「第二音楽室。授業は主にあっちでやってるの」
少年は少女の後に続いて廊下に出た。音楽室にいたときは気がつかなかったが、目が回りそうな騒がしさだ。そんな喧騒の中を、少女は胸に楽譜を抱えたまま堂々と突き進む。早足で彼女の横に並び、彼女の長くしなやかな右手を見つめる。
整った字をしたためる手。名も知らぬ少年に差し伸べられた手。少年の想像の中で、彼女がピアノに手をのせる。
「いつか君の音を聞いてみたいな」
少女は傍から見てもそれとわかるほど赤面する。「ピアノなんて、弾けないし」
少女の奏でるスケルツォは、彼女の表情のように豊かに色を変えるのだろうか。そして少年は思う。名も知らぬ彼女のことをもっと知りたい、と。
「今度、一緒に弾こう」
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