3枚目 秘密
校舎北側に位置する階段を下りている途中で気がついた。昼休みにグランドピアノを借りて練習していたが、音楽室に楽譜を置いてきてしまったらしい。取りに戻るのは放課後でもいいか、と一瞬考えるも、誰かに見られることもあり得る以上、今戻る方が賢明だろう。
音楽室へ近づくにつれ、ピアノの音が聞こえてきた。一体誰が弾いているのだろう。合唱コンクールでもこんな風に鳴らす人はいなかったはずだ。
平均律クラヴィーア曲集第一巻第一曲プレリュード。上手い、なんて一言では表せないレベルだ。こんな田舎の、何でもない中学校には不釣り合いなほど整っていて奥行きがある。
人は大いなる力の前で無力だという。奇跡のように精巧な演奏は、崇高な自然そのものであり、少女を打ちのめした。しかし、そんなどす黒い感情をものともせず、澄んだ水のように音は流れる。
ここは教会だろうか。決して煽情的な演奏ではないのに、ふと懺悔し泣きたくなった。
音が止んだ。少女は息を整えて扉を開く。まだあどけなさを残した少年は、少女の置き忘れた楽譜をめくっていた。闖入者に顔を上げた少年は首を傾げる。「これ、君の?」
「違う」反射的にそう答えていた。
穢れを知らない、真っ白な彼の前で恥ずかしかったのだ。書き込みだらけの古い楽譜も、彼の演奏に聞き惚れたことも、一瞬とはいえ彼の演奏と自分を比べて浅ましくも嫉妬したことも。
「さっきバッハ弾いてたの、あんた?」
真剣に聞いていたわけではないのだ、と遠回しに伝えてみる。少年は楽譜を少女に手渡し「そう」と笑う。小さな白い花弁が開くように遠慮がちな笑い方だった。落ち着いて少年を眺めてみると、彼が着ていたのは中学校指定の詰襟ではなく、深緑のブレザーだった。
「たぶん、二音だと思う」
「ニオン?」
訝しげに問い返す少年は中学生らしい、と思った。彼のことを神童か何かと思っていたのだろうか、私は。
「第二音楽室。授業は主にあっちでやってるの」
少年を促し廊下に出る。並んで歩き始めると、彼が口を開いた。「いつか君の音を聞いてみたいな」
彼の視線は少女の手に釘付けになっている。一気に頬が熱くなり、楽譜と手を体の後ろに回した。「ピアノなんて、弾けないし」
少女の嘘はきっと見破られているのだろう。少年は笑う。
「今度、一緒に弾こう」
白い大きな花弁が開いた。
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