2枚目 止まない雨

 とうに夜半を過ぎたものの、雨が止む気配は一向にない。ところどころ街灯で照らされた暗い坂道の上からは、水が轟々と流れてくる。タイトスカートをはいた女が細いヒールで上るには、あまりにも心もとなかった。

 このところ、タイムカードを記録した後に残業をするのが日常になっていた。残業規制のために、今月もこの一週間は残業がゼロの扱いになっている。基準を超えないように調整されているため、人が増えることもない。むしろ、人の減りに反比例して仕事は増える一方だ。「こんなの正気でいられるわけがない」

 独り呟いて肩にかけたビジネスバッグを握り直した瞬間、つるりと足がすべった。手にしていた傘が宙を舞い、黒い空から無数の水滴が降り注ぐ。固いアスファルトにしたたかに尻を打ちけた。立ち上がろうとすると、左足で何かを踏みつけてバランスを崩す。嫌な破壊音が雨音に混ざった。四つん這いのまま手探りで引き寄せると、手の中でスマートフォンが沈黙している。画面を親指でなぞると、これまでにはなかった凹凸が感じられた。

 ふと、姉への返信を忘れていたことを思い出す。田舎に住む母や姉は、都会へ出た女を案じ、事あるごとに連絡してくるのだ。「私は大丈夫なのに」物言わぬ端末をアスファルトに叩きつける。


 どれほどの時間が経ったのだろう。気づけば膝を抱えて車道に座り込んでいた。グレーの安物のスーツは上下ともにじっとりと濡れ、髪の毛は頬に貼りついていた。

「こんなはずじゃなかったのに」

 ハハッと無理矢理笑ってみせると、目頭が熱くなる。冷たい頬に熱い涙が滑り落ちた。街灯で照らされた水たまりには、雨に打たれ化粧が流れたみじめな女が映っている。

「あなた、きれいよ」彼女の口が動く。

「そんなわけない」

「私はずっとあなたのそばにいる。だから知っている。あなたのすべてを」

 彼女は目を細め、女は眉をひそめる。「あなたは誰」

「私はあなた」

 雨は女の頭を、肩を、そして心を濡らし続ける。

「朝なんて、来なければいいのに」女がそう言うと彼女は目を閉じた。


 家に帰れば朝になり、朝日とともに死んだように起き上がる。紙のように白い顔に化粧を施し、左前の着物の代わりにスーツを身にまとう。痛む足首に湿布を貼ってヒールに押し込み、終わらない地獄に身を投じる。理由などない。ずっとそうしてきたからだ。これまでも、そしてきっと、これからも。

「未来を描いた地図なんて、破り捨ててしまえばいい」


 雨は一層激しさを増していた。降りしきる雨の中、濡れた瞼を持ち上げる。波紋が広がり波打つ水面の中で彼女は密やかに笑った。「明日なんて、捨ててしまえばいい」

 濡れそぼった下着が絡みつき、女の身体は冷えていく。「どうにでもなれ」

 女は手ずから靴を脱ぎ、それを側溝へと投げ捨てる。破れたストッキングはそのままに、裸足でアスファルトを踏みしめる。足の裏を突き刺す石と足首の熱が、これまで意識の外にあった地面の存在を突き付ける。

 濁流に呑まれたハイヒールはすぐに見えなくなった。化粧が洗い流された今、水滴が滴る女の顔は晴れやかだった。足元に落ちたスマートフォンを拾い上げる。割れた液晶をそっと撫で、女は坂道を降り始めた。

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