第3話 暫くご無沙汰が続いてたけど信じてた

 思い返してみれば、朧気ながらも違和感を感じ始めたのは、幸せな生活も3年半が経とうかという頃だったかな。



 例えば、いつものように1週間頑張り抜いた週末。


「ね、朱遠しゅおんさん」

「うん〜? どうしたのぉ?」



 僕らは晩御飯を食べ終わって、どっちもシャワーも浴び終わって、漫然とテレビを流しながらソファーに並んで座って、まったりとした時間を過ごしていた。


 僕らは2人ともあんまり体力がなくて、家でダラダラしてる時間をこそ愛してる。

 だからこそ、この何をするわけでもない無為な時間は、僕ら2人の共通の癒やしの時間と言って差し支えないわけだ。


 隣に座って僕の肩に頭を預けてくれている僕の彼女、朱遠さんこと華姫朱遠はなひめしゅおんさんの身体からは、大人の色気と共に芳しい香りが漂ってくる。

 毛先に赤色を入れた腰まで伸びた朱遠さんの髪は、その長さの通り、たっぷりと匂いを蓄えてくれているみたいだ。


 基本的に同じシャンプーやらボディーソープを使ってるはずなのに、この違いはどこからくるんだろうか? なんて、いろんなマンガやらなんやらで使い古されたセリフが浮かぶ。


 そんな幸せの噛み締め時にも関わらず、僕はこの平穏を壊してしまうかもしれない提案をしようとしている。

 とはいえ、まぁ、今日のご機嫌なら怒ったりされることはないだろう。




「あの......さ。今日、久しぶりに、シません?」





 なんのことはない。

 同棲中のアラサーの彼氏彼女で、結婚まで視野に入れてる2人がする、ごくごく自然な夜の営みのお誘い。


 だけど最近の朱遠さんはちょっと素っ気ない気がして、そもそもあんまり誘えないし、誘っても躱されることばかり。


 さっきの言葉の通り、すっかりご無沙汰で久しぶり。

 最後にサセてもらったのは、もういつだったろうか?


 ......そういえば前のクリスマスもさせてもらえなかったな......。


 僕らは職業柄、イベント時期でも忙しいし、特に年末年始周辺のバタバタ感はものすごい。

 ただ、そのことをわかっていても流石に......。


 もう4月だし、少なくともこの3ヶ月か4ヶ月はシてない。

 その前の記憶もないし、実際はそれ以上。


 これまでにも1ヶ月くらいご無沙汰してたくらいのことはあったけど、ここまで長い間ご無沙汰なのは初だ。


 同年代の友達とかは結婚し始めたりしてるし、彼らに聞いてみても、この頻度は結構レアっぽい。

 もちろん、いろんなパートナー関係があるだろうし、無理にシなきゃいけないってものじゃないから、他の家庭と比べてどうって言うことはできないんだけどさぁ。


 それにしても頻度、低すぎない?

 恥ずかしながら性欲モリモリな僕からしたら、何か隠してたり、普通じゃない状態にあるんじゃないかって気持ちになることもあるくらい。


 あんまりにもいつも断られるおかげで、ここしばらくは僕からお誘いさせてもらうことも全然なかったくらいだ。



 とはいえ、浮気とかはほとんど疑ってない。


 なんだかんだ、付き合い始めたばかりの頃から行為には後ろ向きな感じだったし、サセてくれるときには僕のリクエストをかなりの割合で聞いてくれるし、クリスマスとかだって行為こそなかったけど、ずっと2人で寄り添って過ごしたし。

 そもそも朱遠さんは浮気とかそういう不義理なことをエグいほど嫌ってて、僕以外の男とは2人きりで出かけたりしないとか、自分自身への制約もかなり厳密にしようとしてくれてるし。


 僕が大学3回生で研究室に配属されて朱遠さんと出会ってから既に5年半くらい経ってるわけで、彼女の為人もかなり知ってる方だと思う。


 ただ......今さっき、「ほとんど・・・・疑ってない」っていう言い方をしたのは、不安がないわけじゃないから。


 朱遠さんの年齢は僕の3つ上で、もう2年も前から別の大学で助教として教鞭を執っている。

 少し前までは同じ研究室の学生として、文字通り四六時中一緒に研究室で生活していたのに、今となっては夜のひとときしか一緒にはいられない。


 僕も今年から博士3年目で修了が掛かった大事な時期だし、朱遠さんの方も今の所属先が任期5年の職位で、その後のことも考えて永年雇用パーマネントを勝ち取るためには3年目の今、特に頑張らないといけない。


 業績的にも朱遠さんはかなり優秀で、年齢差を差し引いても、僕は今はかなり負けてしまっている。

 そういういくつもの部分で劣等感を感じてしまったりすることもあるから、払拭するためにもしっかりがんばらないと。


 ってな事情もあって、僕らは2人とも研究室に泊まり込みで帰ってこないなんてことも珍しくはない。


 そんなのは修士の頃から変わらない、日本の若手の研究職として当たり前の日常だってことは、頭ではわかってるんだけど。

 だけど、その帰ってこない間に何が起きてるのかわからない不安は、どうしても拭いきれない部分がある。


 しかも、さらに悪いことに、2年前から朱遠さんが所属している七紫ななし大学の研究室のボスである淡井あわい先生は、僕らの分野の中でもずば抜けてセクハラが激しいおじさん教授という属性で有名ときてる。

 このハラスメントに厳しい世の中でそんな人がまだ残っていることに驚きを禁じ得ないけど、残念ながらこの業界ではそういう部分が消し去れていない旧態依然とした方々が一部残っている。


 もちろん、良識ある、というか最低限の常識を持っていらっしゃるほとんどの先生がたは、むしろハラスメントにならないように様々なことに気を張っておられて、逆に本来あるべき通常の厳しめの教育をするのにも気を遣うほど。

 ごくごくほんの一部の人だけが、問題児だというだけなのだ。


 そんなレアケースのハズなのに、残念ながら朱遠さんのところのボスはその一部に属してしまってる。

 先生は僕らの分野の中でも、大学内でも政治力が強くて、このご時世にまだ元気ハツラツらしい。研究的にも、性欲的にも。


 懸念事項はそれだけじゃない。

 大学の研究室なんだから、20歳そこそこの性欲を持て余した若いオス共が溢れているのは確定的に明らか。


 朱遠さんは見ての通り、切れ長の涼し気な目元も、ぷっくりとした艷やかな唇も、きれいに整えられて先が軽く巻かれた長い髪も、高すぎず低すぎない身長も、適度に膨らんだ胸部も、大きめのお尻も、そのどこを取り上げても女性としての魅力に溢れていると言える。彼氏の贔屓目抜きでも。


 そんな魅力的な女性が、立場の弱い任期つき助教で、どうしてもストレスが溜まってしまう状況に放り込まれている。


 何もないと信じてはいるけど、帰ってこない日とかはどうしても嫌な考えが頭を過ぎってしまうのも、仕方がないとは思いませんか?


 え? イヤらしいマンガの読みすぎ? ......まぁそうかもしれませんね。




 それと、これは懸念事項......というわけじゃないけど、さっきも言った通り僕の性欲は人並み以上っぽい。


 そんな僕が、もしかしたら半年近くもお預けを食らわされたとあっては、何かしらの方法で発散しなければならないのは、自明の理というやつだ。そうだよね?


 とは言え、僕は浮気だけは絶対にしたくない。

 サレた側の痛みの強烈さを知っていて、それでもヤるやつは精神的な殺人者だと思うし。


 だから、なんとかして自分で慰めるしか無いわけなんだけど......。


 朱遠さんは自分で自分を慰めた経験もほとんどないらしくて、ソウイウビデオとかも一切見ない。

 それもあって、極力表情や態度には出さないようにしてくれてるみたいだけど、僕が3次元の女優さんが出演してるビデオを見ることも良くは思ってないみたい。


 ただし、2次元であれば快く許してくるっていう状況なわけ。

 そうなったらもう、エッティなマンガを読み漁るしか無いわけじゃないですか。


 そしたら必然、大量に検索に引っかかってくるわけですよ。

 今の僕の状況、すなわち、「年上の彼女」がいて「その人の立場は強くない」状態で「周りには男がたくさん」いて「自分は常には見張っておけない」関係で「自分との行為の数はかなり少ない」っていうそんなシチュエーションのお話が。


 ドンピシャの設定の作り物語を見てしまうと、僕と朱遠さんは寝取られNTRの神様に愛されたスペックのカップルだ、としか思えなくなってくるわけですよ。

 なんで世の中こんなにも寝取られとか浮気の物語が溢れてるんだ......くそぅ。




 ............とまぁ、これが僕が「ほとんど・・・・浮気を疑っていない」と濁して言う理由。




 ちなみに僕は寝取られモノが死ぬほど嫌いだ。

 でも勝手に目に入ってきてしまうくらいにはその業界には溢れるほど大量にある。


 えぇ、エロマンガの読みすぎですよ。その通りです。

 けど、朱遠さんの現状を考えると、不安で仕方なくなっちゃうわけ。しょーがないじゃんね?


 幸いにして、先方にはそのヤバい教授だけじゃなく、准教授の先生もいらっしゃる。

 そちらの先生は鏡見かがみという名前の男性教員で、まだ30代後半の若手ながらもかなりの人格者で優秀な研究者だと有名な方なので、彼が目を光らせてくれてるならほんの少し安心もできるというもの。


 いやまぁそうでなかったとしても、アダルティなマンガとかみたいに、「権力を盾に......」とか「弱みを握って......」とか、そういうのが起こるかもだなんてことは、ほとんど・・・・思ってないし、朱遠さんのことを信じてるんだけどさ。


 朱遠さんは凄くしっかりしてて何でもはっきり言うタイプだし、さっき言ったように貞操観念強固だし、僕一筋だってことを常日頃言葉でも行動でも示してくれてるしね。

 万が一困った状況になったら、僕を信頼して相談してくれるはず。僕はそう信じてる。


 でもさぁ。何度も言うけど、不安なのは不安なんだよね。

 僕自身、この人生ですでに2回浮気されて振られた経験があるからか、余計にそういうことに敏感になってる部分はあるのかも。





 さて、僕からの夜のお誘いへの朱遠さんの返事を待つこの一瞬で、いろんなことを思い出してしまったけど、そろそろ何か返ってくる頃だ。

 朱遠さんは僕の肩に載せてた頭を上げて、顔をこちらに向けて、数秒間じっと僕の目を見つめてから、しょんぼりした表情で口を開く。



「うーん。そーだなぁ............。えっと、ごめんね、椿岐つばき。私、今週も結構疲れちゃってて、ちょっとしんどいかなぁって............。チューで我慢できない?」




 残念..................ってか、やっぱりちょっと怪しくね......?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る