第5話 あの切っ掛けまでは信じてた

 あの日、いつも通り研究室のパソコンに向かい、メーラーに溜まったメールを順番に開封していて見つけた1通のメール。

 <華姫さんと淡井先生の関係について>という、目的のよくわからない件名のメール。


 その送り主は鏡見かがみ先生だった。


 彼は朱遠しゅおんさんが所属する七紫ななし大学の淡井あわい研究室で淡井先生とともに小講座制の研究室を運営している優秀な方で、学会とかでも何度もお話させていただいたことがある。

 小講座っていうのは研究室の組織スタイルの一種で、ざっくりいうと1つの組織として教授を中心に准教授や助教の先生方を配置した研究室の運営形態。

 つまり彼、鏡見先生と朱遠さんは同じボスである淡井先生の部下的な立ち位置にいる人だ。


 そういう意味では人間関係的に近しいところにいる彼だけど、直接メールを賜ったことはほとんどない。

 共同研究とかもしたことないし、学会運営とかでも一緒の仕事をしたことがない。


 だから、彼からメールを受け取った時に感じたのは、ただただ「珍しいな」って気持ちだけだった。

 それゆえに、何の心の準備もできていないまま、そのメールを開いてしまった。

 件名をちゃんと見てればヤバい案件なのは想像できたはずなのに......。


 そこに書かれた内容の衝撃に、ざっと目を通しただけで僕の頭は思考を停止させてしまった。


 内容は端的には4つ。

 1つ。淡井教授が華姫朱遠はなひめしゅおん助教を脅して肉体関係を持っていることを知ってしまったこと。

 2つ。証拠を集める中で、淡井教授の他の女性関係の脅迫や問題が芋づる式に見つかってきていること。

 3つ。鏡見先生の奥さまも、淡井教授に脅されて肉体関係を持ってしまっていることがわかったこと。

 そして最後の4つ目。鏡見先生は淡井教授を追い込むために動くつもりであり、僕にも協力を仰ぎたいということ。



 とりわけ1つ目の意味を理解することができず......というか理解したくなくて、メールの文面の上で何度も目が滑ってしまう。

 しばらくディスプレイを睨みつけてようやく理解できたころ、今度はその内容以前に、鏡見先生に少し不信感を抱いた。


 淡井先生のことは自分も良く思っているわけではないけど、彼のことを容易に破滅させかねないこんな内容を、部外者である僕に、しかも形の残ってしまうメールにて送信してきてしまっていることに対して、あまりに浅慮ではないか、という感覚。


 メールの末尾には、この情報は極秘で頼むということが綴られてはいるものの、僕と鏡見先生はそこまで言うほど深い関係を築けているわけではない。

 にも関わらず、僕のことを信用し過ぎなんじゃないか。僕が裏切るとは思わなかったのか。誤って誰かが見たりしたら大問題になるのではないか。と僅かながらも疑義が生まれる。





 ............ただまぁ、ここに書かれてることが本当だとしたら......彼の奥さまが奪われているとしたら......それでもなおいつも通りの正常な精神で判断しろとは、なかなか言えない。

 それくらいひどい内容。


 しばらくそういうことをぼんやりと考えていたけど、徐々に冷静になるにつれて思考が戻ってくると、今は他人のことを気にして苛立っている場合じゃないことを思い出す。

 僕が真に憂慮すべきは朱遠さんの肉体関係問題の方に決まっているんだから。


 は? 朱遠さんが脅されて肉体関係を持ってる? 嘘だよな。嘘であってくれよな。は、ははは、そんなわけないじゃん。はははははははははは。


 頭の表面部分ではそんなふうに強がるフリをしてみたけど、当然何の意味もない。

 正直心当たりがあるだけに、ハートの深いところではなんとなくその情報を受け入れてる自分もいる。



 あぁ、やっぱり最近ご無沙汰だったのは、朱遠さん、別の男とヤってたから、僕に抱かれたくなかったんだろうな。

 鏡見先生からのメールにも『脅されて』とあるし、彼女のことだから自分から進んでそういうことをするようになったとは考えにくい。僕はそんな朱遠さんの性格を信じてる。


 まだ鏡見先生からのメールにある情報がホントかどうかは定かじゃないけど、こんな嘘をつくような人ではないと認識しているし、もし嘘だったときに鏡見先生が被る被害がでかすぎる。

 名誉毀損だとか、自分のボスを貶めて、この分野で引き続きやっていけるのか、とか。

 だから、本当のことである可能性は十分見込んでおいたほうが良いだろうと思う。



 そう思って、仮にこの話が本当だったとしたら自分はこれからどうするのか、ってことを考えてみる。


 ............本当だったとしても、身体の関係を持ったことへの怒りを朱遠さんに向けるってことは、多分ないと思う。

 当然、理由によりはするんだけども。


 むしろ、守れなかった、繋ぎ止められなかった、気づけなかった自分に腹がたつ部分の方が大きいんじゃないかな。


 ただ、理由がなんであれ、全部を許して元通り、って思考には、至らないだろうことも想像に難くない。


 脅されてたとして、そのことを僕には相談してくれなかった。つまりは信じてくれてなかったってこと。

 僕は彼女にとって信頼できる人間じゃなかったってことになる。


 それは、これまで僕らが積み重ねてきた日々を否定するのと同義じゃないだろうか。


 自分はそこにあると思ってた信頼関係が、実はなかった。

 そんな悲しいことが事実だったとして、今までのような関係を続けられるとは、僕には思えない。



 そもそも一体、どういう材料で脅されたのか。


 ............って、いやいや、まだ事実と決まったわけじゃないじゃないか。

 それなのにいつの間にか「実際にそれ・・があった」っていう体で考えるのは早計だよな。



 それほど親しくない先生からの文面情報を信じて、よくわからない可能性だけで疑うんじゃなく、一番大事な朱遠さんのことを信じるべきだよな。


 とりあえず、まずは帰ってから、ちょっと探りをいれてみようか。

 信じるための疑いだ。それくらいは許されるでしょ。



*****



 鏡見先生からのメールを受けた日の晩。

 その日は僕も朱遠さんも業務が長引くことなく、20時には一緒の食卓につけた。


 僕のほうが早く帰ってきてたから、今日の料理当番は僕が担った。

 作ったのは、朱遠さんの大好物のステーキ。


 普段大人っぽい魅力に溢れてるのに、好きなものは意外と子どもっぽいのも、朱遠さんの魅力だよなぁとか、どうでもいいことに頭を専有させる。

 余計なことを考えてしまわないように。


「わぁ! おいしそぉー! いただきまぁ〜す♡」

「はい、いただきます」



 ハムハムと本当に美味しそうにステーキを貪って、「おいひ〜♡」とか言いながらリスみたいに頬張る朱遠さんの姿はいつもと変わらない。

 なんならいつも以上に可愛く見える。


 しばらく無言でむしゃむしゃと食べ続けていた僕らだったけど、8割くらいまで勢いよく食べたところで朱遠さんが口を開いた。


「でも何で今日はステーキなの? 豪華で嬉しいけど、何か良いことでもあったのー?」



 かなりいい肉を使ったからか、何か普段とは違うことを察したらしい。

 けど、「良いこと」か......。狙い通りだけど、何も気づかないんだなぁ。


 いや、やっぱり朱遠さんには疚しいところは何もないからこういう反応をしてくれるのかな? そうだといいな......。


「いいや? スーパーで見てたら肉が美味しそうだったからさ」

「ふぅ〜ん。そうなんだぁ。とっても美味しいよ! いつもありがとうね♡ 大好きだよ♡」



 うん、やっぱ可愛い。僕の朱遠さんは最高だわ。

 僕は事実が明らかになるまで朱遠さんを信じていよう。仮にダメだったとしたら、そのときはまぁ............しゃーないわな。






 僕が新たにした決意は、実際言葉の通り「事実が明らかになるまで」で打ち切られることになる。

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