白い恋人

朝吹

白い恋人

 わたしと先生はこっそり唇を重ねた。先生は「立場上も教育上もよくないけれど、まあいいか」とわたしの求めに応じてくれた。

 廊下の隅に立てかけてあった臙脂の大きな校旗をマントのように片腕で伸ばして、その裏に隠れて、先生はわたしの唇に軽く触れてきた。

「もう女性に触れる日はないかも知れないから」

 言い訳のように先生は今の不品行を自分に納得させていた。永遠のお別れのようでわたしは嫌だった。

 徴兵された先生は明日、戦場に行ってしまうのだ。横須賀港まで行き、指定された輸送船に乗るそうだ。第三次世界大戦が終わった記憶も新しいのに、第四次世界大戦がぼくが生きている間にまた起こるなんて想わなかったよと先生は心から愕いていた。

「今晩は桜木町で教職員組合が壮行会の席をもうけてくれるんだ」

 世界情勢を反映して軍事教練が義務付けられていたご時世とはいえ学校の先生にまで出兵命令が届くようになるなんて。

「校庭の小手毬の花がきれいだね」

 そう云って、結びなおす必要もないネクタイを結びなおすと先生はわたしの頭に手をおいた。じゃあね。元気で。

「先生、先生」

 わたしは先生にまだ云いたいことがあったけれど、無事の生還を願う言葉など重いだけだろう。だからわたしはさっき先生と重なっていた唇を指先で押さえてみせた。

「先生、慣れてるんだ。意外」

「心外な」

 先生は眼を丸くした。

「君だって都内の男子校に彼氏がいるんでしょう。ぼくにだって恋人の一人や二人は過去にいますよそりゃ」

「そんな草っぽい顔をしておいて」

「草食系も動物でオスです」

「岸壁の母みたいに港で復員を待つ人が沢山増えそう。わたしも丘の上から先生の帰りを待っておこうかな」

「あれは舞鶴港。古いことを云う」

 先生はもう一度、「ありがとう。元気で」と云って、わたしから去っていった。

 白衣を着て先生はわたしの前に現われた。理科の専任教師だった。

「修士号まで持っているのに、女子高の教師なの」

「研究室の助手だけでは食べていけないんだよ」

 空襲を受けた横浜の街は全体の一割が焼け野原になっており、学校も自主登校になっていた。みんなは休んだが、わたしは毎日時間割どおりに登校していた。先生がいる限り、空爆も殺気だった地下鉄の混雑も、時折空を掠めていく国軍の戦闘機の物々しさも、わたしが学校に行く足を止める障害にはならなかった。

「今日も君だけですか」

 がっかりしたように先生は準備していた実験道具を片付けた。

「二人きりだから、先生、何か特別なことをみせて下さい」

「先生は魔法使いじゃないんだよ」

 蒸留フラスコの底を熱しているアルコールランプの焔を真剣な眼をして見つめている眼鏡をかけた先生の横顔。水蒸気が凝縮管を曇らせて、わきに置いたビーカーを水玉模様に変えていた。

 その日の授業の終わり、魔法を見せる代わりに先生はわたしに小さな硝子のプリズムをくれた。業者の持ってきた見本だから本当は渡せないんだけれど、秘密だよ。

 三角柱の小さな硝子。太陽光がとおり抜けると無色の光が色鮮やかに分光していく。硝子の柱は先生の手からわたしの掌に移された。

「実は、徴兵されたんだ」

 よれよれの白衣も、適当な眼鏡も、量販店でとりあえず揃えたような地味なスーツも、散髪しても少し経つとすぐにばさっとなってくる髪型も、今日で見納めだと知って、動揺のあまりわたしは口走ったのだ。

 廊下は走ってはいけない規則だが、その時は走った。先生、待って。先生は振り返った。



 君は憶えていないだろう。君は高校生で、ぼくは君の同級生だった。

「掃除当番だよ」

「忘れてた」

 すでに帰り支度は万端で、忘れたふりをして教室から出て行こうとしていた君は明るい声でぼくに頼んだ。

「代わりにやっといて。お願い」

「駄目だよ。ぼくだってこの後、予備校があるんだ」

「映画を観に行きたいの。この次の掃除当番はわたしが交替するから」

 どうせ都内の男子校にいる彼と待ち合わせをしているのだ。ぼくは意地でも行かせたくなかった。結局、窓からむなしく君の背中を見送る羽目になると知りながら。

 君は憶えてはいないだろう。あの日、隣国からミサイルが撃ち込まれた。飛翔体といつも云っていたあれだ。緊急アラートが鳴り響いてから数分後のことだった。近くの港に落ちるはずだった弾道ミサイルは何故か軌道がずれて、ぼくたちの高校に墜落してきた。君はずっと後悔していたけれど、安心してくれ、骨も残さず一瞬でぼくは消えたから。

 泣かないで。

 学校の跡地に花を供えに来た君の肩に傘から雨の雫が落ちていた。その時のぼくがどうなっていたのかは説明し難いが、魂になっていたのだろう。焼け跡に漂っていたぼくは、慰霊の行事のあいだ君がぼくの為にひどく泣いているのを見て、未練を残しながらもなんとなく満たされて消滅していったのだ。

 君を想う時、いつも雪が降っている。ぼくたちのいた校舎の中庭には小手毬の花が咲いていて、君がよく枝を揺らして白い花びらを散らしていた。

 君のせいじゃない。ぼくはもう死んでいたけれど、あの日、慰霊碑の前で雨に濡れている君に駈け寄って抱きしめたかったんだ、本当に。

 「先生」

 だからすぐに分かった。ぼくの前に現われた君はまさしく君で、ぼくが死んだ七年後にきみも空襲で死んでいた。第三次世界大戦の武力紛争を終わらせる講和条約締結直前のことだった。ちょうど七年の差を空けて、生まれ変わったぼくたちはまた学校で顔を合わせた。少し奇妙な気持ちだった。ぼくは先生で、君はぼくの受け持ちの生徒になっていたのだから。

「先生」

 廊下を走ってきた君は、「許さない」とぼくに抱きついてきた。



 横須賀から出航した輸送船の中は混んでいた。不要な私語は禁じられていたが、徴兵された男たちは打ちのめされた顔をして、暗い気分を幾分かでもごまかすために昨日までの身の上を語り合っていた。はっきり知らされてはいなかったが、おそらく呉か佐世保でまた新兵を拾って、大陸に行くのだろう。中には最終的に送り込まれるであろう東欧がどこを指すのかすら知らない無学な人間もいた。

「東欧という呼称は間違いで、あの辺りは中欧と呼ぶべきだ」

「さすがは先生。女子高の教師から一転して入隊か。そりゃ気の毒に。天国から地獄だな」

 商社から引っ張られてきた元ラガーマンに同情されたが、ぼくの心はそう悲愴なものでもなかった。

 小鹿のように君が廊下を走ってくる。ぼくは先生らしい威厳をみせて注意した。

「廊下は走らない」

「戦争に行くなんて、許さない」

 かなりの勢いで君はとびついてきた。ぼくはよろけた。

「動員法がある限り、行くか行かないかは国が決めることだから」

「ずっと待ってる。先生のことを好きでいる」

「都内の男子校に彼がいるのにかい」

「先生が戻ってきたら捨てるからいい」

 そりゃひどい。まるで君と同級生だった頃のかつての冴えないぼくみたい。

 校内の時計が下校時刻を告げていた。

「まあ行ってくるよ。御国の盾となり武人として男子の本懐を遂げてきます」

「先生が戦死したらわたしも死ぬ。すぐに後を追って死ぬ。どうせこの戦争でいつ死ぬかも分からないんだから」

 聴いたところによると現地では徴兵された二人に一人が毎日死んでいるらしい。前回の第三次世界大戦で衛星が破壊し尽くされた上に核の使用で大型兵器が枯渇し、貴金属も底をついたため、下級兵士が大量投入されるような前線であればあるほど旧時代の泥くさい戦に戻って消耗的な銃撃戦をやっているそうだ。

 君は死んではいけない。君は後の世に生きなくてはならない。この国土と君たちを護るために先生は戦場に行くんだ。

 教師としてはそう告げるべきだった。ぼくは違うことを云った。

「後を追ってくれるのは嬉しいが、そんなにすぐに死んだら、ぼくたちはまた同級生になるのだろう。そうなったら君は掃除当番をぼくに押し付けて、ぼくのことなど見向きもしないだろう」

「先生、口づけして」

「それでも構わない。また同級生であっても、この次こそぼくは君が都内の男子校の彼の許に行くことを絶対に止めてみせよう」

「先生」

 すぐ近くに校旗があった。臙脂色のそれを掴むと、ぼくは雛を翼で包むようにして君を隠し、その陰で君の唇に少しだけ触れた。さすがに出征を控えているせいか、寂しいような、哀しいような、好きな子に触れて有頂天という気持ちにはならなかった。残念だったが、想い出にはなった。輸送船で運ばれている間も、戦地の夜も、幾度もその時のことを甘く想い返すほどには。

「横浜が酷くやられたらしい」

 負傷した眉間を衛生兵に治療してもらい、鉄兜をかぶり直した。眼鏡の片方のレンズはひびが入ったままだ。異国の空は雲がずっと低いところに流れている。太陽が地上の残骸を熱く焦がしていた。立ち歩いている兵士の影が墓標のようだ。誰もが無言で、誰もが泥まみれで疲れ切っていた。

「艦砲射撃を受けて、横浜駅や港に近いあたりは黒焦げの真っ平になってしまったそうだ」

 戦時逓信省から派遣されてきた通信士がそう云っている。破損した装甲車の陰に座り込み、ぼくは重たい機銃を杖の代わりにして仮眠におちた。



 先生、うちの父の実家は四国の寺で周囲は山だらけ。第四次でも第三次でもない、はるか大昔の第二次世界大戦中の話になりますが、その険しい山脈をまだ暗いうちから出兵していった我が子の無事を祈るために沢山の人たちが夜通し歩いて山を越えてお寺に来たそうです。山の稜線が白くなる夜明けになってお堂の外を見ると、毎日のように徴兵された息子の武運を祈るために徹夜でやってくる人たちの行列が、まるで小さなお地蔵さんを並べたように遠くの山までずっと繋がっているのが寺から見えていたといいます。

「ふうん」

 わたしは君の話を片耳で聴き流しながらビーカーを洗っていた。同じ大学からやって来た教育実習生が廊下から理科室を覗いてわたしに声をかけた。

「もうすぐ職員会議」

「はい」

 慌ててわたしは洗い終えたビーカーを滅菌函に仕舞った。

「手伝ってくれてありがとう。ええと」

 この子、誰だっけ。この草食系っぽい眼鏡の男子生徒。まあいいや。わたしはただの教育実習生で、今月にはその実習も終わるのだ。

 男子生徒を追い出して、理科室に鍵をかけた。

 高校生の男子にしては変な子だった。「こんどは四歳差で、君が年上か」と呟いたり、「想い出してもらえる方法はないものか」「また都内に彼氏がいるのかよ、くそっ」と謎の独り言が多いのだ。

 窓の外には雪が降っていた。

 日誌を書き終えたわたしは傘をさして校門を出た。実習先がこの高校に決まった時、わたしは憂うつだった。丘の上から港が見える。この景色が嫌いだった。夕闇の中に汽笛を鳴らして出航する船がある。この光景がなぜか怖い。理由は分からないが胸が詰まって心が押しつぶされそうになる。

 わたしの前を黒い傘をさした学生服が歩いていた。例のあの変わった男子生徒だ。まだ帰ってなかったのか。そういえば君は君で委員会があると云っていた。

 冷え込む大気に雪が舞っている。細かい雪だ。小手毬の花のよう。あの小さな白い花びらを散らすのがわたしは好きだった。

 「掃除当番だよ」

 わたしは坂道の上で立ち止まった。教室の窓から中庭にいるわたしを君が見ている。燃え上がって無くなってしまったわたしたちの母校。君が厳しい顔つきでわたしを引き止めていた。その声を憶えている。もっと強く引き止めて欲しい。わたしを男の子と映画に行かせたくないのなら、立ち塞がってでも止めてみて。だからあの日、わざと掃除当番を忘れたふりをしたの。

 徴兵されたんだ。停泊中のあの船に乗って明日になったら戦場に行く。同じ君の声がそう云っている。わたしの掌に何かが触れた。冷たい雪のひとひら。ひんやりとした硝子の三角柱をなぜ想い出すのだろう。あれは先生からもらったものだ。港に向かって坂道を降りていく君の背中を雪が白く染めていく。

「先生」

 わたしの口から想わぬ言葉が出ていた。わたしは空っぽの手のひらに虹を握りしめていた。白い光を通すと虹色に変わって出てきたあの硝子。前を歩いていた君がわたしの声に振り返る。長い坂道の上と下にわたしたちは立っていた。夕闇に暮れていく港に雲間から最後の夕陽が筋状に差し込んで照らしている。わたしはもう一度呼んだ。

「先生。待って」

 小手毬、昔は鈴掛といったんだ。バラ科だよ。

 理科の先生になった君が教えてくれた。

 傘を投げ出して雪の中にわたしは走った。はるか昔に先生を追いかけて同じことをしたようだ。わたしの頭はどうかしてしまったのかも。でも止まらなかった。だってあれは君だ。そして先生だ。白衣も着ていないし年下の男子高生だし、きっと憶えてないだろうけれど。でも。

 小手毬の花と透明な硝子から零れ落ちる透き通った色。まっすぐに先生に続いている。

 わたしは臙脂色の校旗の裏で先生と近くなった時のことも、掃除当番を押し付けた時の無念そうな君の顔から見てとれたわたしへの告白も、はっきりと想い出せる。

 二つの大きな戦争を挟んでいた。君は先生になり、わたしも先生になっていた。 

 先生、わたしです。

 先生は手から傘を降ろして坂道の下で待っていた。黒縁の眼鏡と少し首を傾ける癖が昔のままだ。降りしきる雪の一つ一つが過ぎていった時間であっても、わたしには君が見えている。

「先生」

 わたしたちは同時にお互いをその名で呼んだ。

 坂道から落ちるようにして飛び込んでいったわたしを先生は胸に抱きとめた。先生はよろめいた。懐かしい眼をして先生はわたしを見つめた。わたしも君を見上げた。

 ぶつかった勢いで先生の眼鏡がずれていた。先生は眼鏡を片手でなおした。そして地面においていた傘を拾い上げた。先生は、男物の傘の下にわたしを入れた。校旗で包まれたあの時のようにわたしは先生の胸にいた。わたしは走ったせいで息を切らしていた。

「先生」

「今は君が先生だけど、まあいいか」

 わたしを片腕で抱いた先生は、「廊下じゃないから、走っても怒らないよ」と小手毬の花びらのような雪の中でわたしにそう囁いた。



[了]

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白い恋人 朝吹 @asabuki

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