幕間:龍虎名冊

四針神手・金四缼

 金四缼が今よりも若かった頃、中原には共志会の他に素文真率いる武天道ぶてんどうという組織があった。彼は素文真の盟友として武天道に身を置いていたのだが、殺傷と陰謀、恩讐の渦巻く生活に倦んで一切から足を引くことを決意した——それが今から二十年前だ。打ち捨てられていた山小屋を直し、ひっそりとした森の暮らしを送っていた金四缼だったが、ひょんなことから素懐忠と知り合い、江湖の争乱のただ中へと引きずり出されることになる。それはまさしく十年前の、天曜日月教が正道陣営に大打撃を与えたあの戦乱だった。岳伯都が失踪し、武天道は壊滅し、共志会やその他の勢力までもが崩壊しかけていたその真っ只中に金四缼は放り込まれたのである。しかし、あれほど忌み嫌っていた江湖だというのに、どういうわけか素懐忠を手伝って四散した英雄たちを集め、共志会を再興させ、敖東海を退けるのは苦ではなかった。以来、彼は素懐忠の後ろについて彼を支え続けている。父親が認めた相手ということもあって素懐忠は大いに信頼を寄せてくれたし、金四缼としてもまんざらではなかった――ただひとつ、この青年が己が目と正気を疑いたくなるほど清廉で、何もせずとも常に後光が差しているように見えることを除けば。


 燕南帰が一人で常家荘に戻ってきたのは、彼と素懐忠が辰煌台に向けて出発してから三日目の早朝だった。素懐忠は辰煌台に登る際、燕南帰に山道の入り口で二日待つように告げ、それでも誰も下りてこなければ即刻常家荘に向かうよう言っていた。彼はそれに従って日が暮れてから辰煌台を離れ、常家荘への道を夜通し歩いてきたのだった。

 ややくたびれた様子の燕南帰から素懐忠が辰煌台に登ったきり姿を消したと聞いた面々は驚きの声で答えたが、同時に頭の片隅では「やはりか」と誰もが思っていた。素懐忠を呼びつけた敖小鯉が何者であるにしろ、始めからまっとうな招待ではなかったのだ。

「今度こそ、本当に辰煌台に乗り込まねばならないようだ」

 素文真が抑揚に欠ける声でそう言ったとき、金四缼は「俺が行く」と答える自分の声を聞いた。自分が何を言ったのかに思い至るよりも先に皆の視線が一斉に向けられ、緩慢に周囲を見回してから金四缼はようやくはっとした。

「その……何だ、俺が行っても、別に問題はないだろう?」

 金四缼は慌てて言い直した。

「金先生には、できればここにいてもらいたいのですが」

 知廃生は言葉を濁し、扇子を軽くあおぎながら居並ぶ面々を素早く見回した。その目が最初に留まったのは欧陽丙だ。

「……仕方ない」

 欧陽丙は首をすくめて応じた。

「俺も行く!」

 知廃生が頷く間にも、ここぞとばかりに飛雕が腕を上げて振り回す。

「お前がどうしようと構わねえが、まずは偵察からだろう。派手なことはできねえぞ」

 汪頑笑が口を挟むと、飛雕は「分かってるよ」と口を尖らせた。

「ときに汪殿、我々としては神出鬼没の傲世会の棟梁のお力添えも期待したいところなのですが」

 すかさず親子に割って入ったのはなんと素文真だった。汪頑笑は途端にぎょろりと目を剥き、

「うちの倅で十分だろう」

 と反論する。

 素文真は無言で首を横に振ると、汪頑笑をじっと見据えて言った。

「今回は物陰に潜んでの行動が要となります。欧陽大侠が隠れ蓑になってくれるとはいえ、熟練の者がいないことには難航するでしょう。……それに、もし奴らが懐忠を餌に私をおびき寄せようとしているのであれば私は表立って行動しない方がいい。お前もだぞ、四缼、あれほど懐忠と一緒にいる姿を見せているのだから奴らに狙われてもおかしくない」

「……たしかに、それもそうだな」

 目を瞬かせながら金四缼は答えた。金四缼は素父子ほど大局を見極めることに長けているわけではないが、それでも普段ならこの程度のことはすぐ気付く。素懐忠が行方知れずということに心が焦り、一番あり得る可能性をすっかり見落としていた。

 落ち着け、金四缼。こいつらは皆聡い。これしきで動揺しているようでは怪しまれるぞ。金四缼は胸中で早口に言い聞かたが、二言目には——なぜかというかやはりというか——「では、私とお前で彼らの後ろを守るというのはどうだ」と言っていた。

 要するに彼もまた、素懐忠のまとう純白の光に惚けてしまった一人だったのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

反魂転生・江湖にようこそ 故水小辰 @kotako

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ