公主は純白公子がお好き

 岳伯都は何事かと首をかしげた。胡廉が黙るよう韓凌白をたしなめたが、韓凌白が取り繕う前に李宣が口を開いてしまった。

「素懐忠がどうかしたのか? まさかお前たち……⁉」

「違います! 私たちは何もしてませんよ……今のところはまだ……」

 胡廉は勢いよく答えたが、続く言葉は困り果てたように消えてしまう。

「でもこのままだと間違いなく何かしてしまいます。凌白兄、これはさすがにまずいですよ。江湖や武林の全員にとってまずいことになる」

「まずいことって、素さんが一体どうしたの?」

 岳伯都が尋ねると、胡廉ため息とともに李宣をちらりと見てから白状した。

「小鯉公主が、素懐忠をご自分の住まいに閉じ込めてしまったんです」


 胡廉によれば、事は二日前にさかのぼる——その日、蠱毒の件で突きつけられた約束を果たすべく辰煌台を訪れた素懐忠は、敖小鯉その人によって直々に迎えられた。果敢にも出された茶を飲み、彼女の大慈に丁重に礼を述べ、敖小鯉の要件を尋ねた素懐忠だったが、彼こそが彼女の要件だったのである。

 もちろん、敖小鯉が何気なく振るった袖から放たれた箭に気付かない素懐忠ではなかった。しかしやんぬるかな、二人は小ぶりな円卓を挟んだのみという至近距離で向かい合っていたのだ。そんな距離感では箭を避ける隙などあるはずもなく、素懐忠は箭に塗られた眠り薬によってあえなく囚われの身となった。そして今は敖小鯉の住まいにて丁重に扱われているという――


「ちょっと待って。そんなことしなくても、お茶に薬を仕込めば良かったんじゃないの?」

 岳伯都が手を挙げて胡廉を遮った。すでに困り果てた様子の胡廉は苛々と天井を見上げたが、すぐに顔を戻して

「敵陣のど真ん中に一人で乗り込んで出された茶が安全だなんて誰も思わないでしょう。だからあえて茶には何も仕込まなかったんですよ、あの人は」

 と答えた。

「随分と知ったように言うのだな」

 李宣が首を傾げると、ついに胡廉は拳を振って叫んだ。

「そりゃ小鯉公主から直々に聞かされて知っているからですよ! しかもあの人、私に素懐忠の面倒を見させているんです!」

 胡廉はわっと声を上げて韓凌白に泣きついた――どうやら彼はこのことを訴えたいあまり、韓凌白と岳伯都の帰還を聞きつけるやいなやすっ飛んできたらしい。

「しかもこのことは私と公主だけの秘密にしろとも言われたんです。特に教主には絶対に漏らすなと……でも私、こんなのにはとてもじゃないけど耐えられなくて、もう凌白兄が帰ってきてくれて本当に助かりましたよ!」

「待て。公主から秘密にしろと言われたのなら、このことは我らにも話すべきではないだろう。何故」

「何故なら公主は素懐忠をいたく気に入られたからです。彼を敖家に迎えて辰煌台の次の当主にするべく秘密裏に計画を立て、実行されたくらいにはご執心です」

 たしなめようとした韓凌白はしかし、胡廉の言葉によって遮られた。そしてこの一言で韓凌白はぎょっと目を見開き、口を数回ぱくぱくさせてからようやく尋ねた。

「まさか……まさか、教主もご存知でないのか? 大切な娘の一大事だというのに?」

「ええ。それに公主が藍蝶蝶に解毒を命じ、引き換えに素懐忠を辰煌台に来させるよう私に交渉させたことも教主はご存知ないようなんです。ばれるのは時間の問題でしょうけど、それにしたって……」

 胡廉はため息とともに空いた椅子に滑り込み、勝手に茶を注いで一気に飲み干した。そしてすぐさま次の一杯を注ぎ、まるで自棄酒でもあおるかのように二杯目も喉を鳴らして飲み干す。

 一方の李宣は胡廉たちの話をじっと聞いていたが、ついに怪訝そうに問いかけた。

「その敖小鯉公主というのは一体何者なんだ? この前は敖東海の娘だとか敖東海に次ぐ権力者だとか言っていたが、かしらの作戦を勝手に曲げられるほどの女なのか? そもそも敖東海に子どもがいるなんて話は聞いたことがないが」

 韓凌白と胡廉は顔を見合わせると、李宣に向き直って答えた。

「小鯉公主は教主の令嬢にして唯一のお子だ。奥方が出産で亡くなられたために、教主と我ら四人でお育てしてきた」

「とは言っても私たちは勉学や武功の訓練を任されているだけで、お世話はほとんど教主がしておられるんですけどね。教主の方針で、公主は辰煌台を出たこともなければ教徒以外の人間に会ったことがほとんどないんです。江湖や武林のことも、全て聞いて知っているだけで」

 胡廉はここで言葉を切ると、声をひそめて続きを言った。

「おまけに、辰煌台なんていう狭い空間で蝶よ花よと育てられたもんだから、我ばかり強くなられてですねえ……いわゆる公主病というやつなんです、ここだけの話。たまったもんじゃないですよ」

 李宣はあいまいに頷いて茶を一口すすった。つまり敖小鯉は素懐忠が気に入ったあまり勝手に父親の作戦に勝手に背いたらしい。

「だが、一体いつ素懐忠と会う機会があったんだ?」

 淡い翡翠色の揺れる液体を見つめ、李宣がぽつりと呟く。胡廉と韓凌白もそれが引っかかっているらしく、二人して眉間にしわを寄せていた。岳伯都も一緒になって記憶をたどってみたが、それらしき光景が思い浮かぶことはなかった。そもそも彼女が敖小鯉だと知ったのも、衡山を下りて辰煌台に戻ろうとしていたときのことなのだ――

「あ、そういえば」

 岳伯都の脳裏にある光景が閃いた――彼が敖東海たちと共に辰煌台に戻ろうとしていたまさにそのとき、素懐忠が彼らの前に姿を現したではないか!

 そのことを言うと、韓凌白たちは驚き呆れたように顔を見合わせた。素懐忠が突然現れて交渉をし、次いで正邪入り乱れての戦いが始まり、胡廉に連れられて真っ先に辰煌台まで退散するまでのあの短い時間で、敖小鯉はすっかり素懐忠に惚れ込んでしまったのだ。

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