信心と覚悟は外目に見えぬ

 李宣は怒りを静めるように息を吸って吐いた。しかし、岳伯都には背中に押しつけられた筆が隠しようもないほど震えているのがよく分かった。何も言い返さないあたり、李宣も覚悟はしていたのだろう——だが、それを面と向かって告げられたときにすんなり受け入れられるかどうかは別問題だ。

「だが、ひとつ言わせてもらうと、この別人を岳伯都として仕立て上げたのは我らだ。別人だ、偽物だと言って貶すばかりのお前には、こいつに武功を仕込み、立ち居振る舞いを教え、武林や江湖でも通用するよう鍛え上げる覚悟があるのか? ないのであれば黙っていろ。お前にこいつをとやかく言う権利はない」

 韓凌白がそう言うと、ついに李宣の手から力が抜けた。岳伯都の背中に押し当てられていた力が消え、筆が落ちてカタンと音を立てる。

「行くぞ、岳伯都」

 韓凌白は淡々と言うと、残された窓枠に軽々と足を乗せた。

「何をしている。早くしないと連中が集まるぞ」

 動かない岳伯都を韓凌白が急かす。すでにこの部屋に向かって足音が近づいており、李宣は唇を噛んだまま動かない。岳伯都は思い出したように頷くと、韓凌白に続いて窓枠から外に出た。

「何事です、李宣?」

 下の地面を踏んだ瞬間、鋭い声が聞こえてくる。韓凌白はぎょっと目を見開くと岳伯都の肩を押し、自らも走りながら一言「走れ!」と叫んだ。つられて走り出した岳伯都の背中から「待ちなさい!」と呼ぶ声が聞こえてくる――韓凌白は舌打ちすると、急に立ち止まって岳伯都に先に行くよう促し、自らは剣指を作って顔の前に掲げた。雷とともに硬鞭が現れ、韓凌白はそれを取り上げて追手に突っ込んでいく。振り返った岳伯都は、雪月影と韓凌白が激しく打ち合っている光景に思わず足を止めた。

 二人は一度、龍虎比武杯で顔を合わせている。結果は雪月影の圧勝で、その苦い思い出があるせいか韓凌白はいつもより及び腰になっているように見えた。岳伯都は引き返すと二人の間に割って入り、掌を出して雪月影を突き飛ばした。雪月影は建物まで一直線に飛ばされて壁に激突するかと思われたが、なんと壁を両足で蹴って再び飛びかかってきた。雪月影が杖を一振りするごとに冷たい風が吹きすさび、どうにか距離を取っても次の瞬間には目と鼻の先まで迫っている。その動きは尋常でなく素早い上に捉えどころが全くなく、岳伯都は彼女が刀を抜いていないことを感謝せずにいられなかった。

 だが、二人が雪月影に手こずれば手こずるほど他の追手が接近する。岳伯都が雪月影に何度目かの攻撃を当てて退かせた隙に韓凌白は左手を捻って払子を取り出すと、右手の霹靂鞭と交差させ、声高に唱えた。

「五雷震坤!」

 言い終わると同時に韓凌白は硬鞭と払子を振り抜いた。刹那、放たれた白い光の玉が炸裂し、爆発音とともに四方に閃光が飛び散る。

「行くぞ!」

 目もくらむほどの光の渦と耳に残る轟音の余韻の中、韓凌白はがむしゃらに叫んで岳伯都の襟首をひっ掴んだ。どうにか逃れた二人が後ろを見やると、空の一点に黒い煙がもうもうと立ち上っていた。

 岳伯都は耳鳴りを払うように頭を振った。韓凌白はしょぼついた目を何度も瞬かせ、おまけに耳を押さえたり引っ張ったりしている。岳伯都が尋ねると、韓凌白は「大丈夫だ」と答えてようやく瞬きをやめた。

「……こけおどしの術とはいえ、さすがに堪えるな」

 韓凌白は独り言つと、岳伯都に向き直って言った。

「だがこれで連中は撒けた。辰煌台に戻って次の手を考えるぞ」

「待て!」

 突然、背後から二人を呼び止める声がした。振り向いた岳伯都たちの目に映ったのは、髷の先からつま先まで煤で真っ黒になった李宣の姿だ。

 岳伯都と韓凌白は反射的に構えをとった。しかし李宣は空の両手をひらひらと振って、戦う気がないことを二人に示す。

「二人とも待ってくれ。今からどこに行くんだ?」

 軽く咳込みながら李宣が問う。岳伯都と韓凌白は顔を見合わせたのちに、辰煌台だと答えた。

「なら……なら、私も、連れていってはくれないか。お前たちが本当にこいつを真っ当に扱っているのか確かめてやる」

 思いもよらぬ言葉に、二人は口を開けたまま李宣をぽかんと見つめることしかできなかった。



***



 ようやく辰煌台に帰ってきた岳伯都と韓凌白を迎えたのは教徒たちの一軍だった。山腹の広場は一瞬暖かい歓声に包まれたものの、二人が連れている李宣の姿を見るなり驚愕と弾糾の声が取って代わる。韓凌白は手ぶりひとつで皆を黙らせると、李宣の部屋を用意するよう言いつけた。

「彼は平和な意志のもと辰煌台にやって来た、いわば友だ。接待をぬかったらこの玄洞子が容赦せぬぞ」

 不服そうに、しかし逆らうこともできずにぞろぞろと散っていく教徒たちを李宣は蟻の行列でも見るかのような目つきで眺めていた。現在正道に名を知られている天曜日月教の教徒と言えば韓凌白たちを除けば欧陽丙しかいないが、その欧陽丙が天曜日月教の教徒であることよりも南宮赫を追い回していることの方で知られているために、韓凌白、藍蝶蝶、何仁力、胡廉の四人が教徒の顔だと言っても過言ではないのだ。ここに集った教徒たちの中には刀剣を背負っている者もいることはいるが、大半は見るからに無害そうな老若男女だ。彼らが皆敖東海の信奉者なのだと思うと李宣は驚きを禁じ得なかったが、ぐっとこらえて沈黙を守った。便宜上だとしても韓凌白に「友」と言われた手前、下手に騒ぎ立てるのはかえって悪手だったからだ。

 

 韓凌白は李宣と岳伯都を連れて茅葺屋根の家に入ると、手ずから茶を淹れ、茶請けも出して李宣を歓待すると告げた。しかし、三人の間には当然の如く気まずい沈黙が流れ、茶請けをかじり、咀嚼し、飲み込み、茶を啜る音だけが食卓を占領する。それを破ったのは慌ただしく飛び込んできた胡廉だった。

「……あなた、正気なんですか」

 胡廉は重苦しい食卓を見回し、最後に李宣を見据えて言った。

「もちろん正気だ」

 李宣が固い声で返す。胡廉は困惑とも迷惑ともつかない表情で頷いたが、思い出したように韓凌白の脇に駆け寄った。

 胡廉は身を屈めて韓凌白に耳打ちする。小声で相槌を打ちながら聞いていた韓凌白だったが、次の瞬間、驚きのあまり大声で「素懐忠だと⁉」と叫んでしまった。

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