過日の英雄、倀鬼に転ず(二)

 講堂の奥には白い垂れ幕がかけられ、中央にはふたつ並んだ棺の前に祭壇が用意されている。ひとつは掘り返されたものでもうひとつは真新しく、祭壇の手前には張正鵠が立っていた。ぎこちなく拱手した張正鵠に拱手の礼を返すと、簫九珠は真っ先に弔いの言葉を口にした。

「……次世代の英雄たちに揃ってご足労いただいたというのに、申し訳ないことだ」

 張正鵠は独り言のように呟くと、棺のひとつを指でなぞった。二人が近寄って中を覗くと、そこには副掌門の衣服をまとった林信君が寝かされている。その顔は綺麗に整えられ、最期の数日の鬱々とした空気も大部分が消えていた。

「何があったのか、お話を伺ってもよろしいですか」

 簫九珠が尋ねると、張正鵠はため息とともに頷いた。

「あのとき、奴らは競技場に残った毒虫を回収し、私と林師侄に弟子たちを戻して良いと告げた。そこで師侄が行きかけたのだが、奴らはそこを襲ったのだ――藍蝶蝶は毒を塗った匕首を隠し持っていて、それで師侄を殺した。反撃しようとしたら、今度はもう一人が私を襲った。幸いにも彼の短刀には毒は塗られておらず、また扱いも未熟だったゆえ軽傷で済んだ。だが……奴らは逃げ、師侄は死んでしまった。全て私が不甲斐ないばかりに……」

 言葉は嘆息となって消え、張正鵠はうなだれてかぶりを振る。それでも張正鵠は林信君の遺体を検分したいという簫九珠を止めはしなかった。簫九珠と飛雕は遺体の衣をはだけさせ、致命傷となった傷を露わにした――さらに飛雕が右手の小指側に残った細長い切り傷を見つけた。どちらの傷も鋭利な刃物によるもので、かつ傷口の周囲がどす黒く変色しているあたり、林信君を殺した匕首には本当に毒が塗ってあったらしい。

「念のため、掌門の傷も見せていただいてよろしいですか」

 飛雕が林信君の衣を整える間に、簫九珠は張正鵠に尋ねた。

「もちろんだ」

 張正鵠は快く答えると、左腕の袖をまくり上げた。包帯の下から現れた傷は塞がってこそいなかったが、こちらも鋭利な刃物で付けられたものだ。林信君のものとは反対に、張正鵠の傷口は縁が赤く腫れており、毒が塗られた様子もない。簫九珠は腕を触って傷の深さを確かめると、張正鵠に失礼を詫びて傷口を覆い直した。



***



 岳伯都がうつらうつらしていると、建物の外がふいに騒がしくなった。扉に頭を押しつけて物音に耳をすませれば、どうやら朝方出ていった者が戻ったらしい。

「聞き耳を立てたところでどうにもならないぞ」

「うわっ!」

 扉の外からわざと耳元に話しかけられ、岳伯都は驚いて飛びすさった。跳ねる鼓動を押さえながら扉に戻ると、また外から「何だ」とぶっきらぼうな声がする。それは李宣のものだった――どうやら今夜の見張り番は彼のようだ。

 岳伯都は呼吸を落ち着けると李宣に言った。

「ちょっと気になっただけだ」

「そうか? 堂々たる虎王拳が今更何を気にする必要がある?」

 李宣は皮肉たっぷりに言い返す。岳伯都はむっとしたものの、それはおくびにも出さずに答えた。

「それはまあ、いろんなことが。ここはどこなのかとか、いつ出られるのかとか、みんな僕をどうするつもりなんだろうとか」

「悠長なことだな。岳伯都の姿だから皆が手加減するとでも思ったのか?」

「……それから、なんであなたがそんなに冷たいのかとか」

 冷たくせせら笑う李宣に、岳伯都はついに苛立ちを覚えた。思えば、最初に会ったときから李宣には謂れもないのに嫌われ続けてきた。たしかに彼は本物の岳伯都ではなかったが、それにしてもここまで敵意を向けられることはないはずだ。

「僕の何が気に食わないのかとか。韓凌白たちの意見に従えば文句を言うし、僕が自分で考えて動いても文句を言うし、そっちこそ何がしたいんだ?」

「お前がどれだけ岳伯都の姿で岳伯都の技を使っても、やっていることはあいつの足元にも及ばないからだ!」

 李宣はつられたように怒鳴り返した。

「口を開けば頓珍漢なことしか言わないし、いつも縮こまって臆病風に吹かれて、連中の言うことを聞かないと何一つできないなんて、そんな愚か者は岳伯都ではない!」

 これには岳伯都は言い返せなかった。答えがないのを見て取ると、李宣は乾いた笑いを漏らして追い打ちをかける。

「十年前にあいつがいなくなって、私がどれだけ探し回ったと思う。探す場所がなくなるまで探しても見つからなくて、そうしたらお前が現れた……始めは淡い期待こそ抱いたが、やはりお前はあいつではない。お前はただ、天曜日月教の連中とつるんであいつの品位を貶めているだけだ」

 李宣は容赦なく言い放った。岳伯都はそれにも答えられなかった――頭の芯が痺れたようにぼうっとなっている。たしかに彼は、度胸も野心も自信も持ち合わせていなかった。龍虎比武杯を戦う中で多少はついてきたとはいえ、韓凌白たちがいないとどうにもならないのは事実だ。蠱毒の一件では自分なりに正しいと思うことをしたものの、結局は事態をかき回しただけで、こうしてどこかも分からない家に軟禁される羽目になってしまった。

「……でも、君たちは誰も僕を助けてくれないじゃないか」

 岳伯都が李宣に言い返せたのはこれだけだった。

「どういうことだ」

 挑発するように李宣が言う。岳伯都は息を吸って吐くと、慎重に言葉を選んで話し出した。

「たしかに僕は本物の岳伯都ではないし、韓凌白たちも悪党だ。敖東海の名前を出せば何をしても良いと思っているし、それで人が死ぬことを何とも思わない。それでも君たちみたいに言いたい放題言うんじゃなくて、曲がりなりにも助けてくれる。……多分、四人とも根は真っ当なんだと思う。信条とか考え方はかなり違うけど邪険にされることもないし、励ましてくれるし、それって打算があってのことでも根が真っ当じゃないとできないから、」

 李宣は黙って聞いていた。岳伯都が言葉を切っても鼻で笑うこともなく、じっと彼の言葉に耳を傾けているのが気配で分かる。岳伯都は唾を飲み込むと、続きを言おうと口を開いた。

「だから――」

「感動的だな」

 岳伯都の言葉は窓の外からの声に遮られた。岳伯都が勢いよく振り向くと、窓の外に韓凌白の顔が見える。

「凌白さん! 来てくれたんですね!」

 途端に岳伯都は安堵の声を上げた。彫り物の向こうで韓凌白は手を構えて引くと「脇に下がれ」と言い、気合いとともに窓を吹き飛ばした。

「おい! 何をしている!」

 李宣が扉の向こうで叫ぶ。次の瞬間、李宣は扉を吹き飛ばして部屋に乗り込んできた。李宣と韓凌白の視線が合い、途端に二人は険悪な目つきで睨み合う。

「お前、何のつもりだ」

「岳伯都は我らの身内だ。お前たちに手出しはさせぬ」

 唸るように問うた李宣に冷ややかに答えると、韓凌白は窓枠から部屋に入ってきた。李宣はそれを見るや筆を取り出して岳伯都の背中の急所に押し当てた。

「これ以上岳伯都を貶めるような真似はこの峨嵋筆が許さないぞ。今すぐ去れ、邪教徒め!」

 どういうわけか上ずった声で李宣は言った。韓凌白は整った顔に美しいとは言えない笑みを浮かべ、残酷にも李宣に言い返す。

「貶める、か。だがお前もこいつの話を聞いていたのだろう? こいつは自分のことを何と言った。残念だろうが、こいつが自ら『本物の岳伯都ではない』と認めた言葉に嘘はないぞ。こいつは岳伯都の肉体に入れられた別人だ。お前の慕っていた岳伯都はとうの昔に死んでいる」

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