過日の英雄、倀鬼に転ず(一)

 簫九珠と飛雕は常家荘の門を出るなり、向こうからやってきた行商人と鉢合わせした。会釈してすれ違い、足早に去っていく二人を行商人はじっと見送っていたが、その姿が見えなくなるやいなや道の脇の林に素早く飛び込んだ。

 木々の間にしゃがむと行商人は被っていた笠を脱いだ。途端に、貧しい身なりとは裏腹に、まるで貴人のような艶やかな黒髪があふれ出す――男は袖の中から紐と櫛と小さな鏡を取り出すと、そのまま髪を結い始めた。慣れた手つきで前髪と鬢をまとめ、後頭部で丸く結い上げて出来栄えを確かめているその男はもちろん韓凌白だ。続いて着古した衣を脱ぎ捨てると、韓凌白は道袍についたしわを伸ばして整えた。

 藍蝶蝶と胡廉とは衡山で別れ、何仁力は辰煌台で療養中、岳伯都は捕まったままこの常家荘に軟禁されている。韓凌白は姿を様々に使い分けながら素文真たちの後をつけていたが、最後に常家荘の近くを歩いていた行商人を捕らえ、身ぐるみ剥いで彼に成り代わっていたのだ。敖小鯉が何を考えてあのような命令を下したのかは分からないが、とにかく岳伯都を助け出さないことには彼はどこにも行けない。韓凌白は素早く道を渡ると常家荘を囲む木々の一本に飛び乗って、家の様子を窺った。

「なんとも贅沢に暮らしていることだな」

 江湖や武林において、この常家荘の持ち主を知らない者はない。韓凌白は屋敷を見張り始めてすぐに、客ばかりが集っていて常家の者がほとんどいないことに気が付いた。吊り目がちな娘が一人、日常の仕事をこなすべく回廊を行ったり来たりしている以外はどれも衡山で見た顔だ。車椅子の男が一人で住んでいるだけの家だから、きっと使用人も少なくて済むのだろう。韓凌白は誰も見ていないことを確かめると別の木に飛び移り、今度は母屋の見える位置に陣取った。開け放たれた窓から見えているのは書斎だろうか、壁一面に設えられた本棚には書物や巻物、紙束が大量に押し込まれ、窓に面した文机も書物や書きかけの紙に埋もれている。筆記具を置く場所だけが辛うじて確保されているという有り様のこの机に背を向けるように車椅子の男がいるのが見えた――この常家荘の主、知廃生だ。

 韓凌白はじっと耳をそばだてた。知廃生の他にもう一人いるらしく、彼らが低い声で話しているのが辛うじて聞き取れる。知廃生が机の傍から動かないためにもう一人の顔は見えなかったが、知廃生が「秋水」と呼びかけ、親しげに言葉をかけている様子に韓凌白は目を丸くした。そういえば、「知廃生」という名は彼が敖東海によって重傷を負ってから自虐的に名乗り始めたものだ。この家の名前から考えても彼は元来常姓であり、また江湖で名を「秋水」という者は常秋水しかいない。韓凌白はこの意外な事実に少し目を丸くしたものの、すぐに注意を二人の会話に戻した。

 が、すぐに大声で悪態をつきたいほどの焦燥が彼を襲った。二人が話している内容は岳伯都の天曜日月教での立ち位置について、そして衡山派と天曜日月教の蜜月についてだったのだ。実際は張正鵠一人が密通しているだけというところまではまだたどり着いていないようだったが、ここまで来れば時間の問題でしかないだろう。

「ですが兄上、岳伯都が裏で細工ができるとはとても思えませんが。もとより武術以外は粗雑な男でしたが、今はその根性があるようにも見えません」

 常秋水は突き放すように言い切った。

「いや、もしかするとそれが狙いなのかもしれないぞ。我らを油断させるために、わざと間の抜けたふりをさせていたのだとしたら」

 知廃生がやんわり反論する。しかし、常秋水はそれすらも否定して

「芝居ができる性質とも思えません」

 と言い放つ。

「兄上は、あれが人を欺ける人間の態度だと本当にお思いなのですか?」

「思わない」

 知廃生はなおも言いつのる常秋水にぴしゃりと答えた。

「思わないが、とても人を欺けそうに見えないからこそ天曜日月教にとっては絶好の隠れ蓑だろう。奴らにとって、元の性格の岳伯都は何をしても言うことを聞かない暴れ犬だが、今の岳伯都は多少頭は鈍くても、誠意を見せて懐かせて、根気よく仕込めばそれなりの働きをしてくれる忠実な犬といったところではないかな」

 韓凌白は知廃生の言葉に敵ながら舌を巻き、同時にこれ以上岳伯都を捕らえられたままにしておけないと瞬時に悟った。ただの犬なら一度知った主人から離れることはないが、この犬は今や自分で善悪を考え、その判断に則って動くということをし始めている。実のところ、彼の一番の役割は正道陣営を動揺させ、天曜日月教の真の目的から目を逸らすための隠れ蓑だった。もちろん、その先にある究極の目的は天曜日月教の天下の実現だ――彼らとしても蘇った岳伯都が彼らに従うとは思えず、そのため敖東海も隠れ蓑として機能すれば良しとすると言っていたほどだった。だが、思わぬ手違いで岳伯都が隠れ蓑以上の働きをする手駒となった以上、彼らはこの駒を手放すわけにはいかないのだ。


 今夜だ。韓凌白は決断した。今夜、岳伯都を助け出して常家荘から辰煌台に連れて帰る。



***



 簫九珠と飛雕が衡山に着いたとき、衡山派の門には白い垂れ幕がかけられており、出てきた少女は腰に細く割いた白布を巻いていた。二人が驚いて尋ねると、何と林信君が天曜日月教の毒牙にかかったという。二人はさらに驚き、まずい時に来てしまったかと顔を見合わせた。

大哥兄貴、どうしよう?」

 飛雕は簫九珠に尋ねた――誰に対しても不遜な態度を崩さなかった彼だが、簫九珠とともに常家荘を出る直前、ついに汪頑笑に「せめて敬称ぐらいは使え」と叱られたのだ。そこで口論になりかけたところを簫九珠当人に仲裁され、仕方なく簫九珠を兄貴分と仰ぐことにしたが、これが意外とはまって聞こえるから不思議だ。

「では、張掌門と話をさせてもらえるか。何があったか詳しく聞きたい」

 簫九珠は飛雕ではなく、少女に向かって直接言った。少女は頷くと、二人を講堂へといざなった。

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